つばめ
34 件の小説つばめ
活字中毒 お酒と煙草が好きな成人済。 食えねえ文章ばっか書いてます。 素敵な人だけふぉろすることにしました。おべっか使えないんで。好きなひとにベタベタくっつきます。 オタクじゃないけどオタクみたいな話し方してしまう病。あとこころの病持ち。夜になると黒くなります。気に障ったらごめんね。悪気はないからタチ悪いね。悪いようにはしないんで よろしゅうお願いしやす Novelee:: 2024.08.22-
桜
きみと夜桜を見に行きました。あれは1年前、きみが突然「写真を撮りにいきたい」と言ったから。 きみはそのフォルムに見合わないクソ高い一眼レフを持っていました。それで撮るモデルは大抵わたしでした。たまに知り合いから頼まれて撮るとき、きみはいつも「ちゃんと撮らなきゃ」と焦っていました。わたしを撮る時はいつも「もうちょっとシュッとした顔してよ」なんてひどく曖昧な指示をするくらいなのに。そのカメラを使って撮る時、わたしは大抵傍にいました。きみが映すそのカメラは、わたしが買ってあげたものでした。 きみと夜桜を見に行きました。あれは1年前、雨上がりの透き通った夜空に凛と舞う桜吹雪。わたしは目を奪われました。 数種類の桜がその公園には植えてありました。中でもきみのお気に入りは八重桜でした。大きなその根に集った人間たちを、樹齢数百年の桜はどのように見ているのでしょう。それを言うときみは「馬鹿だな、桜を綺麗と思う人間はみんな綺麗に決まってる」と、また無言のままフィルター越しに桜を見上げてシャッターを切るのでした。 あれから1年が経ちました。わたしの隣にいるのは、きみではありませんでした。わたしを捨てたきみが、「あいつから捨てられたんだ」と言っていることは知っていました。 きっとお互いがお互いを捨てたのです。もうじゅうぶんすぎるほどの恋でした。終わりの頃はもう恋ですらなかったのかも知れません。 あれから1年が経ちました。わたしの隣の彼が買ってくれた梅ヶ枝餅を食べながら、きみと通ったあの道を、隣の彼と通りました。 何故か、涙が溢れて止まりませんでした。隣の彼は驚いたようにわたしを見て、ハンカチを差し出してくれました。きっときみだったらこんなハンカチなんか持ち歩かないんだろうな、そう思うとこんどは笑えてきました。自分が弱くて惨めで可哀想で大嫌いだと思いました。そんな歌詞の歌があったような気がします。 今年もまたあの八重桜の根にひとは集います。樹齢数百年の桜はわたしを覚えているでしょうか。わたしと、あなたにフォーカスを当てながらシャッターを切る彼を、きっと覚えていないだろうな。じゃなきゃ数百年なんて生きてらんねえわ。 屋台でヨーヨー釣りをしていた子供らがはしゃぐ声がします。まるで1年前と同じなのに、どうしてわたしは今、チンケな隣の彼と一緒にいるのでしょうか。 きっと去年と同じように感じる桜吹雪も、去年のものではないのです。花は散ります。毎年散ります。そして毎年咲き、舞い散るまでのその儚い命の一生の中に、見たひとのこころを細やかに映し出すのです。 きみのカメラは今頃きみと一緒にいるのでしょうか。 そればかり気になって、ブロックした連絡先を指で辿ります。 「完全に消去しますか?」 画面に浮かぶ文字の背景は、桜。あの日きみが撮った、桜とその根に佇むわたし。 「なんでかなあ。ずっと哀しいんだ。ぽっかり胸に穴が空いたようで」 隣の彼に言うでもなく、口が勝手に動きました。勝手に声が出ました。 「心臓が悲鳴をあげるんだ。急にギューッとなってわたしは白黒の砂嵐の中にたったひとりぶち込まれたみたいになる」 こんな明るい夜桜の中、わたしは独り。きみは、ひとり? ひとつ、ふたつ、桜が舞います。その小さな一生の中に、見たわたしのこころを、細やかに映し出すのならば。 「きみがいいんだ」 わたしの世界に色をつけてくれ。じゃなきゃこんな桜も灰と同じ。きみが今すぐここへ来て、わたしをぎゅっと抱きしめて、「大丈夫だよ」って、その声で。 わたしはまた泣きました。大きな声で泣きました。ヨーヨー釣りの子供らが不審な目付きでわたしを眺めます。でもそれだってどうでもいいのです。 「きみがいいんだ」 泣き喚くわたしを、この八重桜はどう見るでしょう。きみがフォーカスを当てながら笑います。 「馬鹿だな」 ああ、生まれ変わってもあなたに逢いたい。 その数百年の記憶を辿った先に、この桜の小さな偶然の歓びの芽吹きがあるのですね。ずっとずっと生きて分かることを、桜はひとつだけ教えてくれました。 あれは1年前。きみと通った思い出の道を、わたしは今、たったひとりで歩いています。
BELL 14. Rock N Roll 2
「きみ、才能あるね」 そうして音楽教師は葵生のギターをつついて、葵生に自分のギターのコードの指を見せる。葵生が褒められたのを、自分が褒められたように嬉しい、と言わんばかりに、翠里が手を叩いて喜んだ。感じ飽きたこの感情は、優越というより、憂鬱だった。 「なんて名前の才能ですか」 横柄に葵生が尋ねる。教師はうざったそうに、普通じゃないってこと、と短く答えた。 金だけ貰えりゃなんでもいいと思っているのだろう。お前に才能が解るほどの才能なんてないくせに。 大型ショッピングモールの6階で、見た瞬間、翠里が動けなくなったからというだけで与えてもらった、楽器屋の、無駄にクソ高いアコースティックギター。それは、60年代気取りの髪型の、見た目だけの音楽教師によく似合う、上っ面だけの、中身のない、あぶれ者のお前のギターとは違うんだよ---そう教師を嘲笑いしなだった。 キュイイイイィィィ、と甲高い音が鳴った。 教師の持ってきた、ギブソンのレスポールだった。 「きみ、才能あるね!」 翠里に向かって笑いかける教師のその態度が、自分のそれとはまったく違ったのを、葵生は感じた。翠里はおじおじしながら、教師の言う通りコードを鳴らした。そして、特徴的なそのオリジナルのソロフレーズも。 運指の的確さ、弦を揺らす指の器用さ、飲み込みの速さ、上達の速さが、葵生の全てを打ち負かした。すごい、葵生は思った。自分と翠里は決定的に違う。時が経てば経つほど、翠里は冪乗でギターの腕をめきめきと上げていく。 アコースティックギターの繊細な音色は、翠里には聴こえなかっただけだ。葵生は瞬時に理解した。 みんなやればできる?できないやつはやってないだけ?脳の造りが違う?凡人も天才も、そもそも凡人とは?天才とは?そうでないなら、自分はどうしてこれが理解できない??? 「電源コードを無理矢理引き抜かない!!」 いつものように暴れ出した翠里を教師が叱った。翠里はレスポールをぶん回して教師を追いやり、それを折った。 「いいぞ翠里!!」 もっとやれ! そんな自分の反社的な心の声を体現するかのように、翠里は嬉々として教師の持ってきたレスポールのボディを投げ、アンプを壊し、エフェクターをぐちゃぐちゃにし、火をつけ、ナヨナヨ男教師を殴りまくった。 葵生はただ笑うだけだった。 次の教師はもっと人間のできたのが良い。葵生は思った。 ---翠里に負けないような奴。 そんな人間いないんだろうけど。
受け継がれゆくもの
わたしが産まれた時、シュンくんは10歳だった。シュンくんはおじいちゃんの再婚相手の連れ子だったから、シュンくんはわたしにとって叔父になる。 シュンくんはかっこよかった。ずっとバスケをしていて、背も高かったし、薄い癖毛なのがみんな好きで、そしてほんの、ほんのたまに笑った顔がものすごく可愛かった。中学の頃には既にファンクラブがあるくらいシュンくんは人気者だった。 わたしが4歳の時、わたしとシュンくんは出会った。年末、おじいちゃんのお葬式に行ったのがきっかけだった。 一目惚れだった。そうならざるを得ない魅力がシュンくんにはあった。幼心に、シュンくんのこころををこれでもかというくらい掴まえたいと思った。わたしはシュンくんの後ろをついてまわり、一緒に大声を出して遊んでもらった。 雪の降る昼、シュンくんのけばいお母さんが、うるさい子供はどこか遊びに行けばいいと怒鳴った。シュンくんのけばいお母さんがわたしたちをうざったがってるのは分かっていた。子どもが嫌いだったんだろう。おじいちゃんとは言え旦那が亡くなっているのにけばいお母さんは残されたお金をガッポリ貰えると言って笑っていた。コタツに入ってテレビを見ながら、シュンくんのけばいお母さんはシュンくんに5千円を渡した。 「よっしゃ、行くぞ」 シュンくんはしてやったりという顔でわたしを連れ出した。わたしはこころからとっても嬉しかった。 行った先は大きなゲームセンターだった。5千円を全部100円に両替して、シュンくんはまずわたしをマリオカートのアーケードゲームに誘ってくれた。うまくペダルを踏めない小さなわたしを笑いながら、「へたくそ」と言って笑うシュンくんにまた惚れた。シュンくんはクレーンゲームも得意だった。わたしが「あのぬいぐるみが欲しい」と言うと、2、3回で器用に取ってみせた。ありがとう、と言うとシュンくんはわたしの頭を撫でてくれた。シュンくんを独り占めしている。その事実が無性に嬉しかった。 それから毎年、年末にはおじいちゃんの家に行こうとわたしが言って聞かなかった。シュンくんに会えるなら、それで良かった。 月日は経ち、わたしは10歳になった。シュンくんはちょうど20歳だった。成人式の渋い袴がシュンくんの癖毛と相反していて可笑しかった。でもそれでもやっぱり、シュンくんはかっこよかった。女の子たちに写真を迫られても、シュンくんはバッサリ「要らね」と断った。そんなシュンくんは、袴姿のままわたしと、わたしだけとプリクラを撮ってくれた。もちろん「要らね」を強引に頼んで渋々、という感じだったけれど。 12歳の時、22歳のシュンくんにラブレターを渡した。シュンくんは笑ってその手紙を大切そうにしまってくれた。そしてわたしは駄々をこねてキスを迫った。1回だけ、お願い1回だけ、と切にお願いした。 その時の唇の味を、わたしは忘れられないだろう。不意に涙が溢れた。柔らかいシュンくんの口づけはもうこれは罪の粋だと思った。 「泣いてやんの」 ファーストキスだった。シュンくんはサラリとしていた顔だったけど、シュンくんは本当に良かったのだろうか、とふと思った。そう思うわたしのこころが、何故か軋んだ。 8年が経ち、わたしは20歳になった。シュンくんは30になっても、相変わらずかっこよかった。わたしの成人式に、シュンくんは車を出して迎えに来てくれた。 「ねえ、記念にプリ撮りいこうよ」 そう言ったわたしに、シュンくんは飄々として答えた。 「今年の6月結婚するからお前とはもう遊べない」 愕然とした。女の子と付き合っていることすら知らなかったから。 「…じゃああのキスは」 「キスなんて減るもんじゃねえだろ」 「ファーストキスだったんだよ」 「大事にとっとけ」 「彼女さんにわたしにキスしてくれたって言うよ」 「時効だろ。てかタチ悪い」 「ひどいよ!」 涙が止まらなかった。シュンくんに可愛いって言ってもらいたかったせっかくの晴れ着で、メイクもバッチリだったのに、わたしは着物と顔面が汚れるのも問わずぐしゃぐしゃに泣いた。シュンくんは面倒そうな顔をして、しかしちゃんと家まで送ってくれた。車中、わたしはびょおびょお泣いて、シュンくんはずっと黙っていた。 4歳からの初恋。実に16年間の片思い。こころが張り裂けそうに痛い。死んでしまおうかな、そうとも思った。 結局自分はずっと勘違いをしていたのだ。いつもシュンくんの特別な立ち位置にいると、悦に入っていた。ただそれを認めたくなかった。 シュンくんを射止めた相手の女の子はいったいどんな子なんだろう。だけど知りたくない。結婚式はするのだろうか。絶対行きたくない。シュンくんと誰かわたしじゃない女の子がしあわせそうにしているのなんて絶対見たくない。そんなの許せない。 わたしは引っ越すことにした。今通っている大学の近くに。お父さんとお母さんを説得して、仕送りしてもらうようにして、そしてこの間あるファストフード店でバイトも始めた。 この土地から遠く遠くへ離れよう。その感情だけがいっぱいだった。何も知らない。何も聞いてない。何も見てない。と。 そして大学を卒業し無事就職し、何年か経った頃、お母さんから、シュンくんが亡くなったと電話が入った。 信じられなかった。この世からシュンくんがいなくなったならなにが残るというのだろう。 気もそぞろに喪服に着替え、黒いパンプスを突っ掛け、魂が抜けたまま新幹線に乗り、おじいちゃんの家に向かった。 死因は、職場の工事現場で不慮の事故でとのことだった。棺桶の窓は閉まっていた。見せられるものじゃなかったらしい。シュンくんのけばかったお母さんは、昔よりずっと老けたおばあちゃんになっていて、小さくなった気がした。お線香を上げると、子供の声が聞こえた。 「ねえママ、あっちでりゅうちゃんと遊びたいよ」 それがシュンくんの子供だと、声でわかった。幼い頃のシュンくんと、同じ声だったから。 そしてその子供たちが、シュンくんの棺桶の周りで楽しそうに遊んでいるのだ。そして思った。そうやって、いのちは受け継がれてゆくのだと。 わたしとシュンくんが、おじいちゃんが死んだことを特に何も思わず遊びまわっていたように。誰が死んでも、新しい命はそんなこと分からないままに、自由に自分の人生を歩んでいくのだ。 「シュンくん」 棺桶に話しかける。 「いい人生だった?」 「わたしはシュンくんのことが大好きだったよ」 「シュンくんは遺したんだね」 自分のいのちの欠片を。 返事が来ないのが虚しくも悲しかった。そこでわたしは初めて自分が涙を落としていたことに気づいた。 「みいつけた!」 幼い頃のシュンくんに似た、癖毛で色白の男の子がキャッキャと笑いながら走っていく。そこにわたしは過去を想った。 「ありがとう。おやすみ」 わたしに生まれた恋も終わりだ。 飾られた花をひとつくすねて、お葬式に出ない旨をお母さんに伝えると、お母さんは少し黙って、「そうね」と言った。 「おかえり」 アパートに帰ると、付き合って3年の彼氏が待っていた。 水を入れたお気に入りのグラスにさっきくすねた水仙を引っ掛けて、彼にキスをした。しあわせだ。こころからそう思った。 そうやっていのちは繋がっていく。何千年も昔から、脈々と受け継がれてきたこの血に思いを馳せる。 開けたワインを3つのグラスに注いだ。小さいひとつは、水仙に。 そうだね、次は、わたしが残す番。またいつかシュンくんを思い出す時、その時は笑えるように。 「ね、結婚しようよ」 星がきれいだった。
BELL 13. Rock N Roll 1
---夏の終わり 「アタシにとってはそんな音、ノイズにすらなりゃしねえ!」 骨、器官、筋肉、その体全部が、きっと楽器なのだろう。 鼓膜が破れるほど大音量で激しくレスポールを掻き鳴らす翠里の姿は、とても言葉では言い表せないほどに、いみじくも、まるでスーパースターのように、かっこよかった。 「殴られた」 「だから殴った」 二人して仏頂面を構え、そして翠里が親父のビンタをくらう。いつものパターンだ。 自分は叱られるだけ。 だけ、と言っても、叱られること自体甚だ不愉快極まりないことなのだが。 だって自分は何も悪いことなどしていないから。 小3にして英検1級に合格した。国語の読解に非常に長けていた。数学の出来もまあまあだった。理科もよく出来た。社会は、少し頑張らなければならなかったが、そんなにたいして悪いわけじゃない。 旭葵生。中学一年。有名私立大学に付属している小中学校に、小学生の時から在籍していた。つまり、自分はいわゆる、エリートだった。 正直いえば自分自身もそれを鼻にかけていたし、自信も、プライドもそれなりにあった。だからこそ。 「葵生!」 ---だからこそこうやって、特別学級から笑顔で手を振る姉が、死ぬほど嫌いだった。 翠里は難聴だった。そしてほんの僅か、知的障害を持っていた。 「葵生!帰るぞ!」 授業中にも関わらずドアがバーン!と大きな音を立てて開く。 おおかた何か不都合なことがあって暴れて帰れと言われたのだろう。うんざりする素振りすら見せずにすみやかに葵生は荷物を片づけだす。 「旭、宿題は教科書56ページから63ページの和訳、単語帳の41ページから56ページ、熟語帳の16から18ページの暗記」 英語教師が温度のない声でいつものように淡々と述べる。葵生はサラサラとそれをメモにまとめる。 「早くしろよ!」翠里が吠えた。 「ありがとうございました」葵生は頭を下げ、 「畜生が」そして翠里は補聴器を外す。 一人で帰ればいいのに。付けてるふりをして外すくらいなら、補聴器なんて付けなければいいのに。そんな思いは何度口に出したところで変わらなかったから、もう諦めていた。艶のある大きな下げ鞄と大きなリュックにいっぱいの参考書。翠里はといえば、手ぶらである。やたら階段の多い学校を出て、車の少ない真昼、小さい自分のこの大きすぎるちぐはぐな荷物に、なんだかひどく惨めな気分になった。翠里は、どこかで拾った長い木の棒をバシバシと地面や壁に打ち付けながら、時折睨むように葵生を見てはまた前を向いて歩く。 勉強なんてみんなやればできる。できないやつはやってないだけ。脳の造りが違うなんて感じはしない。凡人も天才も、ただ、少し寄り道をしてしまった場所が、ただ、興味関心を惹かれるところが、ほんのちょっと違うだけ。そうでないなら、自分は自分以外の何をも理解できない。 理解できないことがあるのは嫌だから、そう思うことにしていた。でもその定義だと、自分は翠里を理解できないことになる。そのパラドクスが、少年時代の葵生の快調な思考を時折淑やかに侵す。 今思えばなんてことない学生の、どうにでもなる憂いのひとつである。 「ファミチキ買ってくる」 そう言い残してファミマに向かう翠里に、死ねばいいのに、と思いながら手を挙げた。 こんな地獄がいつまで続くのだろう。 蒸し暑い空の薄暗さが、自分のこころを映しているようだと葵生は思った。 翠里の持っていた長い木の棒で地面を一回叩いてみる。 ガリガリに研がれたそれは、葵生が一振りすれば、シナッと砕けてすぐ折れた。こんなもんか、鼻を鳴らして放り投げると、聞き慣れた嫌な声がした。 「お、ガリ勉眼鏡じゃねえか!」 その声は、隣の中学の悪ガキどもの声だった。 葵生の顔からさっと血の気が引いた。黒い学ランの男子たちが、葵生に向かってチリチリと、いい駒見つけた、というように走ってくる。 逃げる、そう思っておろした重い荷物を拾い集めたときには、葵生はすでに囲まれていた。 「おいおいガリ勉眼鏡くん」 じわじわと距離を詰めてくる男子たちに、眼鏡はしてない、と小さな声で反抗する。引き攣った葵生の頬をペチペチと叩くまで近寄った、髪と歯の黄色い悪ガキの一人が、「じゃあ姉貴の補聴器か?」と言って笑った。集団もばらばらに嘲笑った。 「なんの用かよ」 「生意気なんだよ!」 「その単語意味わかって使ってる?」 ガツン、後頭部に衝撃が走る。 クソ野郎、そう思った。 体育だけはどこをどう足掻いても3なんだ。 ガツンと、もう一発、目に喰らった。出来の良い自慢の頭は、もう正常に回ってくれたりはしない。 学歴主義に特化して都合のいい大人たちのくれる3という評価は、つまり、できないことを示していた。推薦という候補も考えて、学校の名前が飛ぶことしか考えていない、上辺だけの興味、関心、態度と、ペラペラのペーパーテストで成り立つその数字、3である。 自分が何か呻いていることはわかった。なんと呻いているのかは、分からなかったが。 聞こえてきた、ファミマのドアの開くときの、あののんびりしたメロディと、 「おっっっらあああああ!」 翠里の吠えるのが同時に聞こえた。 「殴られた」 「だから殴った」 バシン。父親のビンタで地面に転がる翠里は、中学生の男子たちを相手に、それも1対複数でも実は下らないほど、強かった。
BELL 12. over the rainbow5
ドアを開けると、相変わらず薄明るいそこには少し変化があった。 おおよその機器の位置は変わってこそいなかったが、ソファとテーブルは壁際に押しこんであり、中央が空いて閑散としていた。 カラオケ画面を映していた巨大なモニターの前には二つの段差があり、上にはギターとベースがそれぞれ二つずつ、左右に並んでいる。また、一番奥に、今までどこにあったのか、黒いドラムが置いてあった。 先程カラオケ部屋だったそこは、今やステージになっていた。 「来たな」 どこからともなく現れた葵生が、四人を一瞥して言った。 四人を一瞥して、ひよりに目を止めた。 葵生が、目を見開いて、絶句した。 バケットハットとサングラスを取った真っ白なひよりが、決して歓迎されているわけではないと分かるその沈黙を破って言った。 「西村、ひよりです」 そして二人はお互いを見つめたまま黙り込んだ。竜は息を止めて、ただその成り行きを祈りながら見守った。 双子は先ほどと同じように、各々荷物を放って葵生の側についた。 「竜チャンの妹だよ!」 「はい、握手握手!」 「オトモダチ!」 竜は思った。葵生はそういえば、重度のコミュ障だったはずだ。 ひよりは入り口でじっと立ち尽くし、浅い呼吸を繰り返している。その小さい生き物が、また声をあげた。次は竜に、「たすけて」と。 竜はひよりの肩を抱えながら、葵生を見て気まずそうに言った。 「あー、ひより。俺の妹。カラオケしにきた」 葵生は固まったものがゆっくり溶けていくように、その重い一歩を踏み出した。 「どこにもいく場所がないの」 葵生を捉えたままのひよりの目から、一粒の涙が頬を伝った。竜は奇妙なデジャヴを感じた。 また、その言葉が、竜にさえ言わなかった、ひより自身の内に秘めた本音の言葉だということが、竜には解った。 「ひより」 葵生が小さく呟いた。そしてひよりの前に立った。 ひよりの涙は止まらなかった。しゃくりあげながら俯き、両手で顔を覆って、さめざめとひよりは泣いた。 竜は、日の光だけでなく、自分もまたひよりを縛っていた事実に、はっと今ここで向き合わざるを得なかった。 ーーーずっと考えないようにしていたのに。 ひどく焦燥しながら、竜はやるせなくから笑いをした。自分が一体何に笑っているのかわからなかった。 「春樹、夏樹」 泣きじゃくるひよりを見下ろし、空っぽに笑う竜を見上げ、葵生が淡白に言った。 「over the rainbow だな」 竜は葵生が何と言ったのか聞き取れなかった。英語だということは曖昧に分かった。 ひより、と葵生が語りかける。葵生はコミュ障だったはずだ。そこで思考の止まっている竜を後目に、泣きじゃくるひよりの頭をぽんぽんとたたいて、葵生が言った。 「泣くな」 あの、いつもの飄々とした口調で。 ひよりが、声を詰めて葵生を見上げる。葵生は、ぐしゃぐしゃとひよりの頭を掻き回した後、後ろを振り返った。そして壁に飾られているうちの一つのアコースティックギターを取り、ステージに向かった。 「俺ウクレレやるよ!」 「当たり前だ」 「せっかくのステージだし、照明つけようぜ!」 「あんまり強い光はひよチャンの目に悪いから、ほどほどにね!」 竜はこの部屋に入ってからずっと、自分がどういう状況にいるのか把握できなかった。感情というものをどこかに置き忘れてきたかのように、ただぼんやりとして、心の中で、ずっとひよりの名を呼んでいた。 助けて欲しいのは、竜も同じだった。くたびれたような笑いを顔に貼り付けて、「まあ座ってよ」と双子がステージと向き合わせたソファに、ひよりと共におずおずと沈み込み、二人はステージを見た。 春樹がパイプ椅子を二つ、白いバックライトのついたステージ中央に並べ、夏樹がどこからか、カホンを持ってきた。葵生を中心に、春樹は椅子、夏樹はカホンの上にと座った。 しばらく三人はとりどりにチューニングをして、竜とひよりに向き直った。 「出会いに感謝」 そんな言葉と程遠い場所にいそうな葵生がそう言った。 驚いた矢先、夏樹のカウントで三人は共に楽器を鳴らし、葵生が目を閉じた。 そして歌い出した。 Somewhere over the rainbow, way ups high There ’s a land that I heard of once in a lullaby… 葵生の歌声は、透き通るような、安心するような、それでいて儚く、優しい声だった。 夏樹のカホンのリズムに沿って、春樹のウクレレと葵生のギターは遊ぶように入り混じり、春樹と夏樹の明るくのびのある声が、時折その優しい歌声にハーモニーを入れた。双子が楽しそうに目を見合わせて、笑う。 Someday I’ll wish upon a star, and wake up where the clouds are far behind me… その綺麗な歌に、竜は感動した。歌詞はさっぱりわからなかったが、それでも、きれいな曲だと思った。 それは初めてひよりを見た時と同じ感情だった。 ーーーきれいだ。ただ、繊細できれいだった。 ひよりが、力なく涙を流す竜の手に、自分の手を重ねた。竜はその手を握り返し、お互いを見た。ふ、とくずおれるようにひよりが笑う。それで十分だった。 Birds fly over the rainbow , Why then , oh why can’t I ? ーーー I ? 演奏が終わった。 二人はパチパチとまばらに拍手をした。 葵生が目を開け、立ち上がる。双子は座ったまま、葵生のすることを眺めていた。 葵生は二人の前に降りてきて、言った。 「ここに住め」 わけが分からなかった。わけが分かった双子が、ポンと手を叩いて言った。 「「みど姉の部屋がある!」」 「ああ、だけど風呂がねえ」 葵生はミルクティー色の後ろ頭をポリポリとかいた。これは葵生の癖のようだった。 ひより、と葵生が座り込んだままのひよりを見据えて言った。 「一週間待てるか」 ひよりが口を開けたまま、ポカンとした表情を浮かべ、頷く。 シャワー室を買う。そう葵生が言った。 「竜と一緒に越してこい」 それは、この兄妹の朝の窓辺に差したひとすじの光のように、一片の影のかけらも無い、まっさらな言葉だった。 竜とひよりは、その手を強く握り合った。 葵生はもう一度、二人に言った。 「ここに住め」 それは命令だった。拒否すればできただろう。しかし竜は、もう戸惑わなかった。 「ありがとう。葵生、ハルも、ナツも」 そう言って竜はひよりを抱きしめ、初めて声をあげて泣いた。 双子が、やったね!と歓声を上げる。 「「毎日がパーティーだ!!」」 「うるさい」 竜は、自分がもうどうしても一人ぼっちになることがないことがただ分かった。 「竜」 静かに葵生が告げる。 「寝てないんだろ」 それは魔法のような言葉だった。 「寝ろ」 意識が遠のいていく。アパートで倒れたのとは違う、本能的なものだった。耳鳴りも、目の砂嵐も、クラクラするような感覚もない。ただ安らぎだけが、竜を包み込んで夢の世界へと誘った。 竜はソファに倒れ込み、その長い一日が終わっていくのを感じる間もなく、深い眠りについたのだった。
トワイライト
夕刻目が覚めて枕元のスツールに重ねられた本、数冊。そのカバーを見て嘲笑する。お洒落だろうと思って買った何年か前の幼い自分に向けての笑いである。内容はどれもはじめの数ページしか読んでないから分からない。ただ全て面白くなさそうな書き口だったのだけを覚えている。 要らないと 言ってしまえば それまでで。 「一句読めたじゃんよ」 この本も。あの彼も。 冷蔵庫を何気なく開けるとジャガイモが一つ転がっていた。生活感のないその中身に諦めのため息を吐く。 「金がねえ」 ぽつりと独りごちて、スマホでLINEを開く。連絡先、彼とのやりとりは一昨日の朝で終わっていた。一昨日会って、無様な別れ方をしてから、しばらく空白であった。 音声通話ボタンを押す。いつもと同じくきっちり5コールで出た彼は、今から行くことを伝えると、いつもと同じトーンで、待ってるよ、と答えた。 居場所がないな。にべもなくそう思った。 ジゴロ生活もここまで来れば快適さよりも面倒臭さという言葉の方が似合う。しかしだからと言って彼と付き合うとか結婚するとかそういった気持ちは湧かなかった。だから一昨日、彼のプロポーズを拒絶し、憤慨し、彼の捧げる指輪をはたき落としてこのアパートに帰ってきたのだ。 それほど怒る理由もなかったが、何故かあの時は怒りの感情が強く出た。お前だけはわたしを人間として扱わないから安心できたのに、と吐き捨てて、くだらない思い出のグラスを彼に投げ割った。 ---いてもいなくてもいい存在が欲しいんだよ。 ただひとつほんとうに申し訳ないと思ったのは去り際彼の感じた感情が恥であったのではないかということだ。あの瞬間はあの部屋を出ることしか考えていなかった。彼のために自分の貴重な時間を無駄にしたくなかった。時間が経てばとにかくあの部屋にうんざりするだろうと思った。それはただ不毛の一言に尽きた。 いつか気まぐれに昔彼と一緒に買った柊の苗、彼の花が咲いたのにわたしのには咲かなかった瞬間、わたしはこの将来を絶望するに足る人間だったのである。とにかくもう最初から最後までずっとこうなのだ。なるほど、らしいよ、と言って笑う些細すぎる言葉の裏に含まれるべき侮蔑という表情を、慎ましやかで賢く物静かで粋な生き方を好む彼はあまり表に出さない。 もっと狡猾だったら一緒になるほうを選択しただろうか? ない。ふたりの生活が始まればただ自分じゃない彼が口に出さない痛みを抱えるだけだ。そこから先はわたしの守備範囲じゃない。こちらにも向こうにも何の利益もない。死ねば終わりの話だ。 生きててごめんって誰に謝ってんだか。神様? そんなのいたらもう既に殺してる。これから彼との関係はどうなるんだろう。 だけど、そうしようと思えば何でもなかったかのように振る舞える。全てすっかり忘れてしまったかのように。きっと今日会う時はそうなる。そしてわたしは浅薄な冗談を撒き散らして多少の見えない壁とともに彼の特別な位置をまた勝ち得る。その自信がある。 ああ、全てが疑心に包まれていくようで頭が重い。 結局わたしは生まれもってのピエロなのだ。染みついた思考はたやすく元に戻りはしない。 「夢は叶うと思いますか」 彼に尋ねられた時、わたしはなんと答えただろう。 白々しいぜ? いや違う、あれだ。 「あなたがこころから望むなら」 言ってしまえばそれが最初のプロポーズだったのだろう。鈍感なふりをしてビッチな色を混ぜた。なんというか、道化になるしか取り柄がないのに、そんな自分を自分が嫌いなのである。 読むつもりもない本を装飾として置いている哀れなわたし。終わってるなと自分でも思う。まともって何だよ。普通って何だよ。幼稚園からやり直しなよ。残念、生まれもってのピエロなんだ。きみもそうだろ? なんて、ずっと思ってた。 「ね、ディナー奢ってくれない?」 彼の買ってくれたヒールを大事そうに鳴らして腕を組む。彼はくたびれた笑顔で首を傾げる。 助けて、って言えばいいだけなのに。 そろそろ幕を引く時なのに、求められている気がしてずっとステージ上で踊り狂っているから、周りが見えずに観客席がガラガラであることに気づかない。皮肉にも可笑しい芸達者な鬼の末路がこれである。笑って終いにしてくれる人すらいない。 遠くの雲は、その下の街の灯りを受けて、かすかに色づいている。 夜風をたっぷりはらんだ洗濯物の匂いがどこからか漂ってくる。 今日もまた新しい夕陽が沈む。わたしの笑顔は何点ですか。殺した神様は最期にわたしを一生の地獄に落としたんだろう。 世界から消された色は、意図的なのか、そうでないのか。 終幕のトワイライトがわたしには見えない。きっと、ずっと。
BELL 11. over the rainbow4
「おい、大丈夫か?」 「タクシー来るぞ!」 双子の声が、浅い意識の中で急にはっきりと聞こえた。耳鳴りは止んだようだ。視界も徐々に広くなっていく。 また倒れたのか---情けない。竜はそんな自分をこの上なく不甲斐なく思った。ひよりが、大丈夫? と心配そうに声をかけた。大丈夫、と呟いて竜はゆっくりと立ち上がる。ひよりの前で倒れたのは、出所してこの一年でこれが初めてかもしれない。ひよりは竜が倒れた後も、掴んでいたその手を握って離さなかった。 竜は、少年院にいるしばらくのうちに、やけによく倒れるようになっていた。過度の緊張や不安で、頭にまで血が回らなくなるのだ。 双子のどちらかが玄関のドアを開けた。日の光が眩しい、と竜は思った。そして、倒れ込むように竜にしがみついたひよりにハッとした。 「ひより!」 叫んでひよりの頭を抱え込む。強い光に、眩しい、と、ひよりがもがく。 「「どうした!?」」 双子は、いきなり大声を上げた竜と、異常にもがくひよりに驚いたように尋ねた。 ひよりは、と竜が言った。「目の色が薄くて、強い光を見るとすぐ網膜が焼けるんだ…」 事情がわかっているのかいないのか、お日さまって気持ちいいのにね、と、春樹がのんびりと言った。ドアを開けた方の夏樹は、何も言わずに外に出て行ってドアを閉めた。 竜の心が不安でざわめいた。とにかく今はひよりの身の安全を。でもどうすれば。家から出ないと、どこにも行けないのに。夜になるまで、ひよりは待てるだろうか。いや、きっと待てない。しかし今ひよりはきっと眠いはずだ。夜まで一度寝かせれば連れ出せるかもしれない--- 「ひよ、夜まで待とう」 なだめるように竜が言った。一回寝よう、と。 ひよりが竜を睨みつけて、嫌だ、と言った。 「じゃあどうやって外に出るの」 「ひよりは目を瞑って歩くよ」 「そんな…できないよ…」 「できる」 「できない」 「できる」 野暮ったく続く二人の会話を、「あ!」と春樹が遮った。 「ねえ、俺サングラス持ってるよ!」 春樹は自分のサコッシュの中をゴソゴソとまさぐった。そして赤いメガネ入れを取り出し、ひよりに渡した。 「それつけて、外、出よ!」 ひよりがメガネ入れから取り出したそれは、レンズ部分がやわらかなピンク色のグラデーションになっている、丸渕のサングラスだった。 「可愛い!」 ひよりが目を輝かせて喜んだ。 サングラスだけで果たしてひよりの目が守られるかと不安に思った竜だったが、ひよりは折れてくれそうにない。もうどうしようもないと思った。葵生のカラオケの部屋に、今から行くしかないのだ。 「ひより、何かあったらすぐ俺に言うんだよ」竜が念を押した。 「俺でもいいよ!」春樹が自分を指差して言った。 「ハル、ふざけないで」竜はジットリした目で春樹を見遣る。 「ふざけてない!」春樹が口を尖らせた。 ひよりはサングラスをつけた自分に、洗面所の鏡で、可愛い!と言いながら、角度を変えながら、ずっと見ていた。 「ビール飲んだけどシラフだよ!」 「頼むから大声出さないでくれ!」 頭に響く! 竜はイライラして言った。 すると春樹は急に真面目になって、竜をまっすぐ見た。今までにない燃えるような深い春樹の視線に、竜はたじろいだ。 「ひよチャンが心配なのは分かるけど、だからって俺に当たるなよ」 友達だろ。竜チャンはもうひとりぼっちじゃないんだから。と。 「それに、ひよチャンの事は本気で心配してるんだ」 春樹は竜を諭すように言った。そしてひよりに、こっちおいで、と笑顔で言葉をかけた。 春樹はいつも、夏樹よりものらりくらりといるようでいて、一番周囲に気を遣っているのだ。その明るさで隠してはいるが、取るべき状況判断の素早く冷静で、なおかつ正しいのはいつも春樹の方なのだろう。 「…そうだね、ごめん。俺、馬鹿だな…ありがとう」 竜は、ひよりのことだけで頭がいっぱいで、無責任にこの双子を呼んだことを忘れていた。俺はこんなに頼りない人間だったのか、と竜は自分を卑下した。助けてもらったのに、恩を仇で返すような言動ばかりをとってしまった。春樹の方がよっぽど頼り甲斐がある。自分なんて、自分の都合で喚いたり怒ったりしていただけだ。たらたらと、子供みたいに、恥を晒すように。 力なく俯いた竜の肩を優しくポンと叩き、わかったならヨシ! と言って、春樹は、鏡の前から戻ってこないひよりの元へ行き、ひよりの手を取った。 夏樹の方が大人びていると思っていたが、しかし春樹がやはり兄であるのだ。そう感じた。 「そのサングラス、ひよチャンにあげる!」 廊下に戻りながら、俺より似合ってるもん、と春樹がひよりを褒めた。 褒められたひよりは、ありがとう、と嬉しそうにはにかみ、竜にどうかな、と訊いた。 「似合ってる…けど、いいの?」 何も返せるものないよ、と竜は言った。そんなの要らない、と春樹は笑い飛ばす。 「これ、なんて読むの?」 サングラスに刻みつけられたアルファベットに眉を顰め、ひよりが春樹に尋ねた。 「レイバンだよ! 俺だと思って大事にしてね」 クスクスとひよりは笑い、「ハルと思って大事にする!」と手をあげて宣誓した。 「おい、タクシー来たぞ!」 玄関の扉が開いて、夏樹の声がした。そして夏樹は、春樹のサングラスをしたひよりを見て、準備万端だな! と笑いかけた。 「メリーも一緒に行っていい?」 サングラスをしたままひよりが双子に尋ねた。 「「メリー?」」 双子の怪訝な顔に、「ひよりのお気に入りのぬいぐるみ」と答えたのは竜だった。ひよりに、上からの光を遮るためのブカブカのバケットハットを被せる。 「俺ら、メリーともお友達にならなきゃね!」 双子がケラケラと笑った。竜も笑った。 とってくる、と言ってひよりはリビングに戻り、ラベンダー色の、大きなクマのぬいぐるみを抱いて帰ってきた。 春樹と夏樹が、それぞれ「羊じゃないんだ!」「メリーよろしく!」とそのクマの両手を握った。ひよりが嬉しそうにはずんだ。 「じゃ、レッツゴー!」 春樹のその掛け声で、四人は外に出た。玄関に鍵をかけた後、竜はできるだけひよりを自分の日陰に置くようにして歩いた。春樹と夏樹も、それを気にかけていたようだった。 階段を降り、タクシーに乗車する。夏樹が助手席に座り、竜、ひより、春樹が後部座席に座った。 運転手はこの四人組を見て何とも奇妙そうな顔をしたが、深入りせずにすぐに仕事に集中し、「閉まるドアにご注意を」というや否や、思いきりアクセルを踏んだ。 ガタガタ揺れる荒れた車の中で、ひよりは、久しぶりに外に出て、何だかずいぶんと生き生きとしているように見えた。 「---そういえば」 道すがら、竜が突然、思い出したように春樹に訊いた。 「葵生になんて言ったの?」 竜にとってそれが何よりも気がかりだった。自分のことながら、何が、とは詳しくは言えなかったが、竜は葵生の反応を、ただひたすらに恐れていた。 そんな竜に春樹はあっけらかんと「今から行くって言ったよ!」と答えた。 「それだけ?」 「それだけ!」 「ひよりのことは?」 「言ってないよ!」 言う必要もないでしょ、と、窓の外を頬杖を着いて眺めながら春樹はひとりごちた。まあ確かにそうなんだけど…と、竜は心配の溜め息をついた。 「で、葵生は何て?」 「起きて待ってるって」 「そっか…」 あの葵生の事だ。自分たちを本当に「待って」いるのだろうか。自分たち以外の、呼ばれていないひよりの存在を、どう受け止めるだろうか。そういったものもまた、自分だけの杞憂なのだろうか。 すかさずひよりが二人の後を続ける。 「葵生って誰?」 それに夏樹が脅すように、「俺らのボスだよ」と言った。ひよりが口をつぐんだので、夏樹は、嘘、と笑ってみせる。 「いいヤツさ。きっとひよりも仲良くなれる」 「ひよチャン可愛いから100パー仲良くなれるな!」 揺れる車体は、どうにも不安げな竜を、また、期待でいっぱいのひよりを乗せたまま、路地裏への道の狭い入り口に着いた。 運転手が金額を述べ、竜は急いで財布を出した。しかしそれを抑えるかのように春樹が竜を退け、夏樹が財布から現金を出して払った。 「悪いよ。せめて幾らかでも」 竜がそう言うと二人は「俺らもちょっと上流の部類なんだよ」と悪戯っぽく笑った。 「「若い時だけのね」」 どういうことだ、と首を捻った竜の後ろで、ひよりがパタパタと路地裏に向かって走りだす。 「ひよチャン、待って!」 「そっちじゃねえぞ!」 慌ててひよりの後を追いながら、財布をしまった。 赤いコンバースを履いてブカブカのバケットハットを被り、サングラスをかけた青いワンピース、緑の上着のちんちくりんなひよりは、見るからに外の世界に興奮していた。 ---あの御伽噺の世界に自分が居るのだ。 ひよりの胸はその気持で溢れていっぱいいっぱいだった。 「こっちだよ!」 春樹と夏樹が手招きする。それに引かれるようにひよりが走って来る。竜の片手を掴み、もう一方には、ぬいぐるみを抱えて、ひよりは一歩一歩足を踏み入れながら、その心臓を高鳴らせた。 薄暗い路地を通り、錆びた螺旋階段を上って、3のドアを開け、廊下を渡った。白いインクで書かれた5という数字を前に、竜は大きく深呼吸をした。
金木犀
空の青は変わらない。海のそれも。音も。光も。たまに雨が降ったりするけれど、二十四時間きっちり周る世界はいつも、いつも通りだ。 海の見えるアパートのベランダで朝の一服を終え、寝室に戻ると、きみが僕の枕に自分の香水を振りかけていた。 「なにしてんの」 「虫よけ」 これから少し間が空くからと、きみは淡々と言った。オードリーヘプバーンの愛したシャネルの5番である。僕はその匂いがきつくて苦手だったが、きみにとってはお気に入りの香水だそうだ。 僕はきみとの去年の秋の旅でのアルバムを振り返っていた。笑顔のきみは陸に上がった淡水魚のように苦しそうで、金木犀を背にアンニュイな表情のきみは実に華やかである。 フレンチキスが苦手なきみは、僕の方に近づくと、頬に小さく唇を当てるだけのキスをして、僕を抱きしめた。 「ね、どこまでもきれいでクリーンな世界線ってあるのかな」 きみの温かい体温と柔らかい声が僕を溶かす。 「天国じゃない?」 朧げに答えた僕の耳元で、きみは笑った。 「一緒に首吊ろうか」 甘い声でクスクスと笑ってそう非現実的なことを言うのだ。きみにとっては非現実的ではないのかもしれないけれど。それめっちゃカオスだよね、と言うと、きみはするりと僕から解けた。 「生きたいから生きてるんじゃなくて、死ねないから生きてるんだよね」 そして伸びをしながら、下着の上に服を羽織る。傷だらけの躰だ。 昨夜きみは既にケロイドだらけの傷の上から、ズタズタに躰を切った。血が溢れるのを僕がタオルで止めている時、「もうどうでもいい」と吐き捨てて。 「わたしはあなたの言葉や態度で、これだけ傷ついたんだよ」 ---分からないだろうね。馬鹿馬鹿しくて笑えるわ。 そんなきみだから好きになる僕は世間からきっと頭がおかしいと思われているんだろう。でも違う。頭がおかしいのは世間のほうだ。 かの有名な画家サルバドール・ダリにとって、蟻は死の象徴だったそうだ。ロマンチストすぎやしないか、と僕は思う。だって、死ぬとか死なないとか、真っ白ふわふわのうさぎさんが震えているみたいで可愛いもんじゃないか。死んだ方が楽だと思えるほど壮絶で猟奇的な状況が存在する時だってあるのに。そういう佳境で育ってきた僕らを、誰が分かってくれるというのだろう。 とにかく最優先事項として、僕はきみを傷つけた償いをしないといけない。 さあ、行こうどこか遠くへ。残せるものだけ残しておこう。この蟻の世界の中で必要なものなんてそう多くない。君が描く幸せと僕が描く幸せが違ったってそれがなんというのだろう。そんな無邪気なきみが好きだ。 車に荷物を詰めて、最果てへの途につく。きみがその厚底で潰した枯葉が、粉々に散っていく。見上げた空高く、飛行機雲。金木犀の香り。エンジンを、ニュートラルからドライブへ。僕らの思い出はただ悲しくある。 帰ってきたら、またアルバムを作ろう。 「エッジイで素敵な、死への旅に乾杯」 きみがそう言った。 「それ、どんな雰囲気?」 「気取らないでよ」 秋、病床のモルヒネで僕らは行く。 なくしものを探しに。
首都高速の天使たち
もともと集団行動が嫌いだった。 本当の友達なんていなかった。同じクラスになれば慣れ合う程度の友達はできる。それでもひとりでも全く構わない。ひとりになることに抵抗はない。たとえ可哀想な奴と思われたとしたって、それが何だというのだ。 そんなわたしが最もうんざりする行事「修学旅行」がついに4日目、地元に帰るだけのバスに最後の1日を費やすので、5日間の修学旅行の中の、最終目的地を目指すバスにわたしたちは揺られていた。トイレも誰かと一緒、お風呂もみんなと一緒、寝るのも誰かと一緒、行動するにも誰かと一緒。ほとほと疲れ果てる4日間だった。自分にしてはよく耐えた方だと思う。 4日目、修学旅行の高速バスはかの夢の国ディズニーランドに向かっていた。わたしは窓側の席で、窓と、窓のカーテンとの間に頭を隠してぼんやり外を見ていた。 すると隣の通路側の席の山野がわたしの肩をこづいた。何だろうと思い頭をカーテンから出してみれば、山野はゲーム機を手ににやりと笑っていた。 「ねえ斎藤、一緒にゲームやろ」 どうやらリモコンが外れる式のゲーム機で、スマブラ対戦しよう、とのことだった。 「先生に怒られるよ」 「首都高乗ってんだから先生も立ち上がれないよ。イヤホンこれ。ワイヤレス。絶対見つかんないから」 「ぶっちゃけ超だるい」 「まあまあ1試合でも」 「しゃあないなあ」 結局山野の提案に乗ることにした。リモコンを手に取って、なおざりにカービィを選んだ。山野はわたしの知らない何だか羽の生えたよくわからんキャラクターを選んでいた。 早速ゲームが始まる。わたしも弟との付き合いでスマブラをすることがあるので、手際はそこそこいい具合だった。しかし山野はやたら強かった。 「飲み込んで自爆とか卑怯すぎるだろ」 「これ弟がよく使う手口」 「弟ひねくれてんな」 そんなことを言い合って笑った。山野は誰とでもフランクに話せるから、気が楽だったというのもあるかもしれない。あっという間に6試合目である。戦績は0対5。山野の圧勝だった。無駄に強い。 カービィ使いやすいけどさ、と山野が言う。 「翼があるものを縛れやしないよ」 そしてまた負けた。コントローラーがどうかしてるのかと思うほど山野は強かった。 「何でそんな強いわけ」 「授業中も一人で相手強さレベルマックスでやってるもん」 「はは、馬鹿じゃん。でも見つかったことないよね」 「わたしはスマブラの使いだから」 「いや意味わかんねーし」 そうこうしている間に首都高の時間は終わった。やべ、はやくしまわないと、と言って山野がリュックにゲーム機をつっこむ。 0対19。もはやチートである。 昼過ぎだった。夢の国に到着した。きゃあきゃあ騒ぐ女子も男子も、心の底からうぜえと思った。 そして最悪なことに、ディズニーランドは班行動と言われた。「ええ〜!」とリアクションする生徒たちの後ろで、説明する教師を恨んだ。 「うちの班はあと…斎藤か」 そんなうんざりした顔しなくていいのに。 ひとりでベンチで待ってるから好きなとこ行けば、というと班の女子は喜びの金切り声を出した。めっちゃ喜んでんじゃん。別に構いはしないけど。 山野は別の班で、それなりにみんなに合わせている。あんな器用なことができたらな、と羨ましく思った。 みんな買ったばかりのミニーちゃんの耳のカチューシャをつけて、飛ぶようにどこかへかけていった。わたしはその辺の日陰のベンチで、リュックを抱えてぼーっとしていた。あと少しで修学旅行も終わり。くだらない遊びみたいな工場見学も終わり。いつも誰かと一緒の不自由も、終わり。 はああああ、と長いため息を吐いた。そして同時に、山野はどうしているだろうか、と思った。ちゃっかり楽しんでいたりするのだろうか。また隣に来て、スマブラしようとは言ってくれないだろうか。 「…ないな」 白い雲。青い空。それだけじゃ飽き足らず、みんなはおもいおもいのアトラクションに乗って騒いでいる。自分もあんなだったらな。こんなに苦労しないのに。 こんにちは、と声をかけられたので、リュックから顔を上げる。すると清掃員の人がゴミを掃きながらわたしに笑顔を向けていた。こういう時は、あれだろう。 「何集めてるんですか」 「夢のかけらです」 さいですか。リュックに顔をもたげる。夢の国お決まりの応答。くだらねえ、とひとりごちた。 それから行儀悪くベンチに横たわり、わたしは寝ることにした。 「斎藤! お前! 起きろ!」 いつの間にか夜だった。起こしたのは担任の新田だった。あ、はよざいまぁすとあくびまじりに言うと、新田は咳込んで言った。 「班行動だと言っただろうが! もう帰りの時間だ! パレード終わったぞ!」 「どうでもいいっす」 「それより山野見てないか? 班からはぐれてどこにいるか分かんないんだよ!」 「知らねっす。寝てたんで」 そうか、と新田はいうと、とりあえずゲートを出てバスに戻れと指示したので、そうした。 夢の国には警察が来て、先生たちと夢の国職員総出動で山野を捜索している。班ではぐれたのがいつどの時だったのかも、わからないらしかった。 山野が今どこで何をしているのかも知らないけど、いいなあと思った。わたしもこんなふうに消えられたら。もともと山野が生きてこのバスに乗っていたというのも、今となっては信じていいやも分からないくらいだ。わたしたちはバスに乗ったまま、深夜まで駐車場で過ごした。 結局、山野は見つからなかった。 夢の国に何人かの教師を残し、早朝、わたしたちは山野不在のまま出発した。わたしの隣の席はぽっかり空いていた。 みんな寝ていたけれど、わたしは既に夢の国で寝ていたので、バスでは眠れなかった。バスはルート通り首都高速に乗った。 空が白む。水彩絵具でさっと拭いたような雲が綺麗だった。朝陽がのぼる、その時。 「斎藤、わたしは夢から永遠に覚めないことにしたよ。誰にも何にも縛られないで、自由でいたいって思ったんだ」 山野が隣の席にいた。 「山野!」 息を呑んだ。だって、翼が生えているのだ。 「どうしてこんな…!」 みんなを起こさないようにと自然と小声が出た。 「翼があるものを縛れやしないよ」 またそう言って、山野は溶けるように窓ガラスをすり抜けた。その先には、なんて美しい、朝陽に照らされた雲間に、人間じゃない何かとても美しいもの、天使たち。 何故か、涙が出た。溢れ出すと止まらなかった。窓を開けたら冷たい風がひゅう、と入ってきた。 天使、天使。わたしも連れ出して。この狭苦しくて息の出来ない空間から、空に連れ出して。わたしも、行きたい。 切に願った。 それでも天使たちは山野だけを連れて、高い青空の白く輝く朝陽にのぼっていく。わたしを置き去りに、首都高速の天使たち。残酷だ。しかし、美しかった。 それから山野はあるアトラクションの水底で発見された。なんと言うアトラクションかは、横文字が長くて聞きそびれた。 聞かなくてもいいと思った。だって山野は、天使になったんだから。それはわたしだけが知っている、山野の最期。 今でも白む空を見れば思い出す。山野と天使たちの美しい空の調べを。そしてわたしは歩き出す。いつでも本音は、胸の奥に。 いつか自分の背中にも翼が生える、そんな日を信じて。
BELL 10. over the rainbow 3
双子の到着は早かった。それまでに、竜は濡らして温めたタオルでひよりの顔を拭き、ひよりの一張羅の青いワンピースの上に自分の緑の上着を着せ、投げられたハンバーガーの後片付けをし、汚れた床を拭き上げることしかできなかった。 外に車の止まる音、双子がドライバーにかける挨拶、ドアの閉まる音。雑巾を洗っていた竜の鼓動が、突然早鐘を打ち始める。 ---ひよりは果たして大丈夫だろうか。いつもだったら寝ている時間だ。それに、あの双子はひよりを見たら何と言うだろう。サーカスの見世物小屋みたいに、高い声をあげたりするんじゃないだろうか。そうだ。もしも自分の選択が間違いだとしたら--- 竜が冷や汗と、強くクラリと心臓に迫る猜疑心を抱いた瞬間、インターホンが鳴った。 部屋の角で縮こまっていたひよりが、息を呑む音がした。 「大丈夫」 そう思いたかった。 竜は廊下の擦りガラスのドアを開け、進み、ついで歪む視界のまま玄関の鍵を開けた。扉が開くのが、まるでスローモーションのように長く感じられた。 立っていたのは先程と変わらない装いの二人だった。 「これ、上がっていい感じ?」 「大丈夫か?何かあったんだろ」 二人が中を覗き込みながら、心配そうに小声で竜に言った。 不安が打ち解けないまま、竜は曖昧に「んー」と唸った。その後ろで、パタン、と廊下のドアが閉まる音がした。擦りガラス越しにひよりの影が映っている。双子が顔を見合わせた。 「妹なんだけど、」と竜は重い口調で切り出した。双子が各々竜を見る。 「ちょっと変わってるんだ。でも、普通の人と同じように接してほしい」 重い口調のまま疲れたように竜は言った。実際、疲れていた。明るい朝の街の喧騒が、やけにうるさく感じられた。 双子は、分かった、と頷いて上がり込んだ。二人ともが履いていたマーチンを揃えたところで、この双子にそんな教養があったのか、と頭の遠くで意外に思った。 廊下のドアの前に双子が立った時、少しだけ、そのドアが開いた。 「誰?」 震える声が尋ねた。ひよりだ。 「「こんにちは!」」 春樹と夏樹は、自分たちより小さいひよりを見上げるように、隙間の前にそれぞれしゃがんで明るく言った。 自分の時と同じだ、と竜は思った。この双子は、竜が思っていたよりずっと賢く、物分かりが良い。竜は一抹の双子へのだらしない偏見の申し訳なさを感じ、また、自分を恥じた。もうこの双子を馬鹿になんてしない。そう思った。 「俺ら、竜チャンの友達だよ!」 「こいつが春樹で、俺は夏樹。ハルとナツって呼んでいいぜ!」 そうやって双子は屈託なく笑ってみせた。ドアの隙間が広くなった。 ひよりは好奇心を抑えられないかのように、にわかに驚いたように言った。 「…どうしてどっちも同じ顔してるの?」 双子は、その真っ白なひよりの姿に驚いていないように言った。 「俺ら双子なんだ!」 「めちゃくちゃ最強に仲良しなんだぜ!」 そして、わはは、と二人で笑う。 双子にたいするひよりの緊張は解けかかったように見えた。 「ね、名前はなんていうの?」 「俺らもオトモダチになろうよ!」 双子が語りかけ、それぞれ右手を出した。ひよりはハッと息を呑み、身をすくめた。竜はひよりの隣に行き、大丈夫、というように手を握った。返事をするように、ひよりがキュッと竜の片手を握り返した。 「…ひより」 細い声でひよりは言い、竜の後ろに身を隠した。震えるその手は、竜の同じ手に強くしがみついたままだった。 「「ひよりチャン!」」 双子が声を揃えて、よろしくね、と微笑む。そして各々、所在無げに出したままの右手をぶらぶらと振った。 「ひよ、握手」 竜が促すと、ひよりは、もう片方の手をさも恐る恐るというふうに、少しだけ前に出した。双子がそれを優しく握り返す。 「これで俺らもオトモダチだね!」 「めちゃくちゃ可愛いオトモダチだ!」 二人はとても嬉しそうに顔を綻ばせた。 ひよりはこの二人に僅かに慣れてきたようだった。春樹を見て「ハル」、夏樹を見て「ナツ」と確認し、竜を見上げた。 双子は「そうそう」とひよりに笑顔を向け、立ち上がり、さて、と竜に向き直った。 「これからどうする?」 「俺ら帰った方がいい? いた方がいい?」 この双子はどこまでもお人好しなのだなと竜は思った。そして戸惑った。 これからどうするかなんて、考えてもいなかった。一応ひよりの癇癪はおさまったようだし、どうだろう、もう二人は帰っても大丈夫だろうか。 ---とりあえずタクシー代を出そう、そう思い、ひよりから手を離そうとした時だった。 「カラオケに行くの!」 ひよりが、驚くほど大きな声で言った。やっと掴んだ鳥籠の外への鍵を、絶対に掴んで離さない。その好奇心が、この双子を見て解き放たれたようだった。 ひよりは、狭くて暗い路地裏の、錆びた螺旋階段のあるビルの、三階のカラオケに行くのだと、勢いこんで双子に言った。 二人は、なるほど、というように竜を見つめた。竜は自分がシトリと青ざめていくのが分かった。 「どうしよう」 葵生は自分がひよりに全てを打ち明けたことを怒るだろうか。知り合ったばかりの竜と、なぜか何もかもを知っているひよりを拒絶するだろうか。それとも逆に、ひよりのその開きかかった窓を、自分は力づくで閉め込まねばならないのだろうか。そうすると、ひよりはまた、壊れてしまうのではないだろうか。 消えてしまいたい、とひたすら苦しく思った。しかしそんなこと叶うはずがない。少なくとも、ひよりが傍にいる間は。そのひよりは、いま目一杯、初めて自分の翼を広げて、自由という空へ飛び立とうとしているのだ。 「じゃ、行こっか!」 春樹がひよりにカラッとした笑顔を向けた。夏樹がスマホを弄りだす。え、と声をあげた自分が、ひどく考え疲れて辟易しているのを、双子は察したようだった。 「ちょいまち。今タクシー呼んでる」 「俺はあおチャン起こすよ」 「ちょっと待って、ほんとに?」 竜は目眩がした。ああ、俺は。ひよりは。葵生は。 「竜チャンは何も考えんな!」 「お前は頑張りすぎ!」 二人はどこか叱るように言った。そうだ。この双子はかなりの横着気質だと、一度そう思ったんだ---。 竜は視界がだんだん狭くなっていくのを感じた。耳鳴りがする。そしてその耳鳴りの先で、春樹の声がした。 「ああ、あおチャン、起きた?」 終わりだ。そう思った。 そしてまた、竜は床に倒れ込んだ。