徒然話
犬が棒に当たるなら。 こっちは壁に当たってやろうと意気込んで。 実際そうなったのは昨日だったか、それとも十八年も前か。 なんだか果てしなくて、くしゃみをぶうと吐いて、気持ちの良い風に撫でられるのはなんと言ったかな。なんとかなんだとか。 パッとしないから、塵も積もってしまうんだってさ。 積もるなら雪がいいと思うんだ。塵って言うのは何が粉々になった物なのかわからない。燃え尽きた木材か、お代官様の遺骨か。塵だったらなんでもいいわけじゃあない。屍が迫力を得たところでそれはゾンビじゃないし、映画にだってなれやしない。 こんなこと言ったってしょうがないけどね。積もって欲しくない物はあるが、積もって欲しい物はそれこそ山のようにある。塵というのはそうゆう物なんだよね。砂金が積もるなら万々歳だよ。 まだわからないって? それならまだ話してあげよう。 頭隠して尻隠さずなかわい子がいるだろう? いるにはいるんだよ。君がなんと言おうと。なんだか世間はあれを馬鹿にするらしいがね。とにかくそうゆう人間が一番鋭くて切っ先なんだ。大事なのを守りきるんだ。トカゲがしっぽを切るの知ってるだろ? それと同じ。なんでもそうだ。とにかくそれさえ守ればなんとかなるんだよ。 まだわからない? 単刀直入に言えって? それができたら苦労はせんよ。代官のじじいにそう命令されてんだ。ちくしょう、俺だってこんな茶番は早くやめたいね。 まあ、ゆっくりでいい。また来な。 とりあえず今夜は、閉店仕るとするよ。
無限の図書館ーThe Library of Babelー
私は図書館を探していた。全ての書物が蔵書されている幻の図書館を。私はただ、町を散歩しているだけで、出会えるらしいと半信半疑で街歩きをしていた。すると、良い雰囲気の個人経営の古着屋があった。ショーウインドウから見ると明るく見えた店内は、明かりがついているか怪しいほど暗かった。私は奥へと歩みを進める。この店には不思議な雰囲気があったからだ。古着屋の店内には服が所狭しと掛けられていて、婦人服が殆どだった。古着屋特有の古い香水のような匂いが立ち込めて、暗い店内は長く続いている。店員は見つからない。私は、どんどん奥へ入る。取り憑かれたみたいに碌に商品を見ずにずかずかと入っていく。微かに輪郭が見える程度の明るさだったのが、最後には何も見えなくなった。古い服の匂いだけがした。いつの間にか、私には周りが見えるようになっていた。私は確かに服屋にいたはずだが、私は今、書架の間に立っていた。周りを見渡せば本、本、本。大小様々な本が見上げても果てがないほどに高く聳え立ち、天井は霞んでいた。私は後ろを振り返る。私の四メートルほど後ろに、本棚の切れ目があった。私はUターンして四メートルほど戻った。本棚の裏には古着屋のラックがあった。服が大量に引っかかっている。暗いところに大量に溜まっていた。私は戻れると分かって息を吐く。ここは古着屋と図書館の境目だった。古着のかかったラックの続きには本棚が続いていた。私はこの不思議な光景を恐ろしいほど冷静に見ていた。この空間には壁がない。天井もあるのか分からない。古着屋のラックと図書館の本棚しか見えない。 私はつかつかと図書館の方にUターンして、書架をまっすぐ歩いていった。私はどこかに切れ目があるはずだと思っていたから、はっきりと確信を持って前に進んだ。書架は所狭しと並ぶ。鏡写しのように左右どちらにも果てしなく本棚が見える。本と本の間から見える景色はあわせ鏡のようにそっくりだ。しかし、背表紙に書かれた題名が読めることによって、鏡写しではないと分かる。背表紙に書かれているのは日本語だけに留まらない。英語、中国語、アラビア語、フランス語。分かるだけでもこれだけあった。私の知らない記号が立ち並び、言語関係なく並べられている。私は顔をしかめて日本語を探すことにした。大学時代にフランス語を専攻していたから多少は読めた。日本語、英語、フランス語。しかし表題は全てシリーズ物以外は完全にシャッフルされて、周りの本と合わせる気が露ほどもない並べ方をしていた。ここに司書はいるのだろうか?司書がいるとすれば、私は言ってやるだろう、完全に並べ方が間違っていると。しかし、この図書館に司書が居なければどうやって整理しているのか。私に教えて欲しい。 私の足音はカーンカーンと冷たい音を立てて反響する。空間が無限のように、物質も無限のこの空間では音の広がりも自由なのかもしれない。これほどまでに本が置かれているのによくも反響するものだ。反響した音は本の間を通り抜けて、果てしなく広がって行った。どこまで広がっていくのか私には分からない。度々やまびこのように私の足音が跳ね返って戻ってくる。私がいつ鳴らした足音なのか?それは分からない。私は耳をすまして途中からスキップに切り替える。タタッっと音が切り替わるから、どこかのタイミングで切り替わったスキップのやまびこが聞こえてくるはずだと思ったからだ。でも、スキップの音はこもって反響しづらいのか、戻ってくることは無かった。私は残念に思いつつも、そんなもんか、と冷めた気持ちで歩いていた。往々にして期待とはよく外れるものである。私がそのようにして歩き続けていると、本棚の終わりが見えてきた。本棚が終われば、そこにあるのは書見台だったり、普通の図書館なら本を読むための椅子だったりするだろう。そのような期待をして私は本棚から出てきた。 本棚の先に書見台なんてとんでもない。その先に続いたのは普通の本棚だった。先ほどは背が高い、天井まで続く本棚だったが、次に続くのは大きくて分厚い、私がよく絵を描くF8サイズほどの本だった。F8はA4の倍の大きさだ。それが、二、三冊飾られた背の低い本棚が点々と置かれ、その先に見えるのはまた本棚。私は管理人に会えるのを期待していただけに、げんなりしてしまった。 見ていて飽きない不思議な光景だったので、私は飽きずに歩き続けた。沢山の本棚は蛇腹折に配置され大きな本が置かれていた。私はまぼろしのように外見だけで中身がないかもしれないと思って、その中の一冊を手に取る。題名は「包丁の歴史」ずっしりした大判の本だった。私は数ページ捲ったが、内容はどこの書店にも置いてある内容だった。私は再び歩きだす。様々なエリアがあった。本の配置はすべて本の大きさのみによって決められていると分かった。題名や著者は関係なく、紙質や年代も拘ら ずに並べられていた。どれも保存状態は良好だ。陽の光なんてこれらの本には浴びる機会がないのだろう。手に取る人もいなければ読む人もいない。変わることのない環境で保存され続ける。 私はこの図書館が恐ろしくなってきた。私の響く足音が来訪の合図のように聞こえてならなかったからだ。図書館は床がこんなに響くようには造られない。響いた足音を合図にして、霞んだ先の先の本棚にいる何かに知らせるためのもの。静かにするべき図書館のルールに違反している。もし、何かが私の足音に気がつけば、真っ先にここにやってくる。そんなことを想像した。その何かはなんでもいい。未知の化け物でも良いし、司書でも良い、私と同じように迷い込んだ人かもしれない。足音が聞こえてくれば私はすぐにその方向に行くだろう。私はアフリカに二匹のアリがいる姿を想像した。聞くところによれば、アフリカじゅうを二匹のアリが歩き回り、二匹のアリが出会う確率と私たちが宇宙人に会う確率が同じだというのだ。私はいま広大な図書館にいて、誰かを探してここを歩いている。この図書館の広さは分からない。これは二匹のアリと同じではないのか。暗黒の図書館を歩くことは果てしない冒険の始まりなのか、この恐怖は大きくなる。一歩踏み出すごとに恐怖は増大する。そして、時間が流れるからお腹が空く。私はもと来た道を引き返さない限り出られない。食べ物は手に入らない。出られなければ飢えて死ぬだけで、死体すら見つけて貰えないかもしれない。私はポケットの中を確認する。飴がふた粒あって、一つがカフェモカ味、もう一つがコーヒー味で私はコーヒー味のほうが好きだった。私はコーヒー味のほうを口に入れる。ころころと口の中で転がすと甘味が広がって幸せになった。私は歩き続ける。既に二十分は歩いているが、時間を確認する。十二時半過ぎ。既に三十分歩いていることになる。私は早くに昼食をとっていたからお腹は空いていなかった。危機感が私にはさっぱり足りていなかった。幸いにも今日は日曜日である、もう一時間歩いて、何もなかったら帰ろうと決めて進む。 私は新聞記者をしていて、頭の中の片隅に追いやられていた表現欲が少しずつ手前にやってきた。別に都市伝説や陰謀論を記事にしているわけではない。堅実な政治部に在籍しているが、縁あって雑誌のコラムを書くことになったり、誰かに不思議な話を求められたときの新たなひきだしができたから使ってみたいのだ。私は疲れてしまった。長い時間歩いていたから当たり前だ。私は立ち止まって、本棚に寄りかかった。私の足音が聞こえなくなった。さっきから、後ろから追いかけてくるみたいに反響していた。シーンと音が聞こえる。シーンという言葉を始めに使ったのは手塚治虫だったというのはご存知だろうか。静かすぎると耳の中の音を探す器官が余計に音を探して、その器官が動く音を、その器官が拾ってしまう。だから、自分が動く音を聞いているということ、それは、シーンという音も私がいないと発生しない音だ。ごく当たり前の話で、ここには何も音を鳴らすものはない、シーンとした音は私の中で呟いているようなもの。私はしゃがむ。どくどくと心臓が鼓動する音がする。血液が全身をまわって、私が生きているのを感じさせる。恐ろしくなって、私は無理やり二つ目の飴を口に入れ、早くも最後の食料を消費した。あまり美味しくなかったが、カフェモカ味のの懐かしい香りがして、現実に戻ってきたように感じた。私は立ち上がる。心臓の音をもう聞きたくなかった。私は無理やり疲れていたが、前へ足を踏み出し歩き始めた。カーンカーンと私の足音は酷く反響する。心臓の音は聞こえなくなった。私の足音だけが聞こえる。どうやってもここでは自分の音から逃れられないらしい。本は何も話さない。本は大量の言葉を記録していながら私を通して初めて言葉になる。ここには言葉が無限に溢れているはずなのに私の音しか聞こえなかった、私はラジオを思い浮かべた。周波数を合わせずにスイッチだけ入れていると勝手にガーガーと何か引っかかったような音がする。それが今の私だ。本を開いていないから静寂の中で自分の音がする。私は近くにあった本を手に取った。図書館に来たからには何か本を読むべきだ。私はただ、居場所が欲しかっただけだった。本の題名は「赤石市 2027年予算案(仮)」だった。つらつらと文字を追い、特に気に留めずにページを捲る。図形や数字で市の財政状況が示され、市に必要なお金の額、新たに必要になったお金、そのお金はどこから出すのか、そして最終的に幾らになるのか、書かれていたが、途中で私は飽きてしまって、隣の本を取る。「三浦高校1967年卒業アルバム」中身もどこかで見たことのある高度成長期の普通のアルバムだった。みんな一様に日焼けしてにこりと笑った高校生達の写真の色は暗かったが、保存状態は非常に良好で、今が58年前のものとは思えない。一組から順番にクラスメイトの名前と顔写真が並んで、髪型は当時流行していたスタイルだった。なぜ、こんなものがここにあるのだろう。図書館にこんなものがあっていいのか。市の予算編成は一般に公開されているかもしれない、しかし、卒業アルバムは果たして図書館にあっても許されるのか?そんなことを私が考えていると、遠くの方からカーンカーンという音がした。果てしなく聳え立つ本棚は反響してわんわんと鳴りだした。私は誰かがいると悟った。私は後ろを振り返る。足音は後ろからやってきている。 ② 一定のリズムを刻んで図書館の番人はやってきた。まるで鐘が鳴るようにカーンカーンと音を反響させながらやってきた。明るい書架の間にあった静寂が破られた。 私は見つかってしまったような、隠れなければいけないような感情になった。しかし、私が周囲を見渡しても一本道のたまに本棚の端があるだけで、不運なことに私の近くには逃げ場がなかった。体が硬直して動かない、私はただ、誰かが来る方向を見つめていることしかできなかった。誰かの歩幅は小さくて、少しずつ近づいてくる。私はこの図書館でどれだけちっぽけな存在か感じていた。しばらくして、遠くの本棚から小さな人影が見えた。人影は私のほうを認めて、私に向かって近づいて来る、人影はどんどん大きくなってきて、ついに私の前で立ち止まった。誰か───彼女は中年の女だった。老いの境にあって、白髪混じりの中年の女で、着ている服は毛玉がついて、異臭はしていないが、清潔とも言えない様子で私のほうを見ていた。 「あんたは───誰だい」 彼女は白濁した目でこちらを観察していて、私は答えに窮した。彼女は一般に働いている人にとても見えない。 「わたし、わたしはっ」 彼女は私の前を通り過ぎた。そして振り返って、「ついてきな」と言った。私は彼女についていく。私と彼女は足音を響かせながら歩く。私は長く歩くと覚悟していた。しかし、私が何十分もかけて歩いた書架は拍子抜けするほどすぐに抜けてしまった。果てしなく続くと思われていた本棚は続いていなかったのだ。本棚の先にはクローゼットがあった。突然に現れたクローゼットに私は驚いた。そしてクローゼットは普通の廊下にあって、振り返れば、私たちが今まで歩いてきた図書館は無くなっていた。 「ここは」 声が掠れて出なかった。 天井がある。壁がある。本棚は無い。暗い普通の民家に私は居た。 彼女はクローゼットから服を出して、上に分厚いセーターを被った。やはりセーターも毛玉が付いていて、紺色の褪せたセーターに陰を落とす。彼女は私に一瞥してからクローゼットの隣にあるドアを開ける。 私は戸惑いながらも彼女に置いて行かれないように必死になってついていった。風景は変わり続ける。民家、図書館、学校、そして、市役所。 彼女は職員が忙しなく行き交う市役所の中を迷いなく進んでいく。まるで自分の家の中を歩くように。一人の職員が書類の束を高く積み上げて歩いていた。そして、彼女はその書類束の一番上の書類束を取った。さらりと無駄のない動きでその時に、私は咎められなかった。彼女は書類を一束携えて、私のほうを一瞬振り返り、またズカズカと迷いなく歩いていく。短い時間の出来事だったが、スローモーションのように見えた。私はついていくのに必死だった。物語に登場するような、不思議で可憐な少女でもなく、一千年を生きる老人でもない。しかし、私はそれに近いものを感じた。 彼女と十分ほど歩くと、小さな丸テーブルに二脚のスツールがあり、その隣にはカラフルな宝石で飾られたキッチンがあり、彼女はキッチンに入っていった。私はダイニングに通されたようだった。 「座りな。」 そう言われて私は恐る恐る、手前に置かれていたスツールに腰を下ろした。彼女はガラスのコップにぬるい水道水を入れて私の前に置いた。彼女の顔を見上げれば、彼女の顔には深い皺が刻まれていた。彼女はとても居心地が悪くなった。 「何が欲しいんだい?」 丸テーブルを挟んで向かいのスツールに腰掛けた彼女は紅茶を飲んでいた。少しだけ紅茶の良い匂いが香った。私はなぜここに来たのか、ということを聞かれているのだと遅れて理解した。 「分かりません───図書館巡りが趣味なんです。散歩がてらにこの図書館を探してて、そしたらここに辿り着いちゃったんです。」 彼女は難しい顔をした。 「ここに目的のないひとが来る筈ないんだ。大概は、大事な書類をなくしてしまったから見つけてくれとか、あの本が絶版で図書館に置いていないかとか、あとは────面白い本はないか、とかね」 彼女は席を立ってキッチンに行った。キッチンはダイニングから見渡せるように造られていて、キッチンに立った彼女と目が合った。 「じゃあ、面白い本を教えてください。私の趣味の図書館巡りも結局は面白い本を探しているんです。私の好きそうな本をチョイスしてください」 私はそう云ってにこりと微笑んだ。この話のオチを提供したつもりだった。 私は彼女の反応を待って、ぬるい水道水を飲んだ。変に暖かく感じられて、鉄の匂いもして美味しくなかった。 「私は図書館司書ではないんだけどね。ここに来た奴らみんな勘違いするんだ。私はただ図書館にいる客のひとりにすぎないのに」 彼女は寂しそうに呟いて紅茶を啜る。 「私には本の良し悪しは分からない。けど、本の場所はしっかり覚えている。」 と云って私に席から立つように促した。やっと座れたのにと残念だったが、私は席を立った。彼女はダイニングの奥に繋がる先ほどとは別のドアを掴む。自宅のドアを開けるみたいにこなれていた。市役所の事といい、いつから彼女はここにいるんだろうか。この無限の中をどこまで理解しているんだろうか。どうしてここに留まっているのだろうか。そうした疑問が私のなかをぐるぐると回り始めて、政治部といえども一時期はゴシップ記事も担当していたことのある私はこの謎を暴いてやろうと決心した。 「すいません、名前ってお伺いして───ませんよね。私の名前は中津川彩芽です。よろしくお願いします。」 私の前を歩く彼女は少しうんざりしたような感じがした。しかし、顔が見えないので正確には分からない。私は気にしない。こんなことでは新聞記者はやっていけない。 「私の名前は加出野 桐枝だよ。」(かでのきりえ) きりえ、という響きに私は一瞬 切り絵を想像した。加出野という珍しい苗字に私は驚いた。 「加出野さんはいつからここに?」 加出野は廊下から出た。誰かの寝室の脇を横切る。加出野は寝室のベットの脇に生けられた百合の花をひょいと掴んでゴミ箱に捨てた。 「何をしているんですか?」私にも咎める元気が出てきた。加出野は私に説明するのが億劫な様子で振り返って、「世話してたんだが、枯れた。」と云った。ここが誰のベットで誰の部屋だったのか皆目見当がつかなかった。初対面の人を寝室に通す筈がないのと、木目調に美しく揃えられた室内だったので、ここが加出野以外の誰かの寝室ではないかと推測した。 「いつから居たかもう分からないさ。長すぎるからね、でも、あんたは古着屋から入った。そうだろう?」 私はどきりとした。 「何で分かるんですか?」 「私があそこの古着屋に行ったときに穴が開いたんだよ。あの古着屋に用があって、私が立ち寄ったらあんたが入り込んでしまった。全く、いい迷惑だよ。」 古着屋に加出野はいたのか。しかし、そうすれば『あんたとそう変わらない』という発言はどうも分からない。私は図書館から出られるようだが、加出野はその理論では一生出られないことになる。加出野が行く先々全てが図書館になり、時空は繋がり、図書館に保護された道筋を辿ることになる。だが、この仮説には推測を多く重ねてしまっている。正しくないかもしれない。 (中間整理) 中津川 彩芽(なかつがあやめ)──政治部の新聞記者、三十歳、ハキハキしている。学生時代バレーボールをしていたおかげか背が高い。 加出野 桐枝(かでのきりえ)──図書館の番人、5、60歳くらい。白髪まじり、汚い。 加出野について行くと、ドアを開けるごとに風景は変化した。歩くごとに天井は高くなったり低くなったり、まるで夢の世界を歩くようで、不思議の国アリスのようだった。アリスでは不思議な生き物が棲んでいて、おかしな言葉を話していたが、ここには加出野という女性以外は誰もいない。植物もほとんど存在せず、日光の光の届かない室内のみで構成された空間だった。植物は観葉植物のみに限られる。畑や窓はなく、日光が恋しくはならないだろうか?私は加出野の毛玉だらけのセーターから覗く腕は真っ白で、長くここに住んでいると分かる。加出野はたまに、現実の世界と繋がっている扉を開ける。 「ここは?」 いつの間にか私と加出野は整然と分厚いファイルの並ぶ資料室のようなところを歩いていた。部屋を薄暗い蛍光灯が四方から照らし、私の足元には長くて濃い影ができていた。私はファイルの題名を見るが、書かれているのはアルファベットと番号で、中身は判然としない。私は救いを求めるように加出野を見た。加出野はまだ市役所から持ってきた書類の束を持っている。 「見た通り、大学の資料室だ。黙ってついてきな」 加出野はファイルの一冊に手をかける。 「ちょっと!加出野さん 、大学の資料室ですよーー盗っちゃっていいんですか?ダメじゃないんですか?」 私は噴き出た疑問を投げつけた。資料室の蛍光灯が点滅する。 加出野はファイルを持って歩いていく。 私は直感的にやばいと思った。ここがどこなのかわからない、加出野の機嫌を損ねれば、私は置いていかれる。 「ごめんなさいーーー加出野さんは何で、ファイルとか、書類とか持っていくんですか?持っていったら大学の人困りませんか?」 加出野は私のほうを振り返る。 「あんたにとやかく言われる筋合いは無いよ。しかしこれは後で返しておくから安心しな」 と云った。 私を納得させるために言ったのかもしれない。 「そうなんですか、でも何のために?」 「図書館に置くのさ。」 「でも、誰も見ませんよね?」 加出野と共に資料室を出た。ちらりと私のほうを加出野は見た。 「いいや。誰かが読む。ここだ。」 資料室の外には本棚が広がっていた。私が古着屋から入った果てしないほど広い書架だった。後ろを振り返っても資料室は無くなっていた。「テレポートしたみたい。」と呟いた。 「そのファイルを誰が読むんですか?」 加出野は細い身体を屈ませて、足元にある文庫本を手に取った。私はその文庫本に見覚えがあって、いつか読んでみたいと思っていた本だと気がついた、 「あんたが今読むべきはこの本かもしれない」 「そんなのが分かるんですか?」 「分かるに決まってる。分からなきゃすべての本を片っ端から読んでいく羽目になるだろうさ、はいどうぞーーお土産だ。」 私はその文庫本を受け取った。 「わぁ!嬉しいです!これが面白い本ですか」 文庫本は既に絶版になっていて、近くの図書館にしか置いていないもので、読む気にならなかったものだ。 「加出野さんは読んだことがあるんですか?」 加出野はもう一つ、私に向かって差し出しているものがあった。 ファイルと紙束。 「受け取りな」 ぶっきらぼうに加出野は云った。 「これを私にーーくれるんですか?」 ああ、と云って加出野は言葉を継ぐ。 「それはあんたが今、追っている汚職事件の証拠だよ。それがあれば内閣総辞職まで追い込める、あんたが読むべきものはこれで、やるべきことはそれだ。」 私ははじめ、言葉の意味が分からなかった。完全に休日モードに入ってしまっていた。夢の世界にいては現実のことを覚えていようがない。 私がぼーっと立っていると、痺れを切らしたように加出野はファイルと紙束を突き出す。さっさと受け取れと云っているようだ。 「ありがとうございます」 本棚は静かにこちらを見ている。 次は自分の番かもしれない。 私はファイルと紙束、そして文庫本を持って、ページを捲る。 紙束には用途不明の政治資金の行き先が書かれている。 ファイルには恐らく、大学で研究された法文の解釈が書かれているだろう。 そして最後に文庫本。私が大好きな魔法の世界の物語が描かれている。 私は驚いて、加出野の方を凝視したがしかし、加出野は身を翻して本棚の先へ私を置いて歩いていった。 「置いていかないでください!」 私は慌てて加出野に追いつこうとする。加出野の背中はどんどん遠くなり、走っても走っても追いつくことはなかった。加出野の灰色の毛玉のセーターは見えなくなった。 「加出野さん」 本棚の間に響く私の声。 加出野の足音は去る時は全く聞こえなかった。私は辺りを見渡す。 私の後ろには服が掛かったハンガーが引っかかっていて、少し独特な香水の匂いがした。 「?」 私の後ろには、図書館の入り口だった古着屋があった。私は恐る恐る振り返って足を踏み出す。また、古着屋の匂いがする。一瞬、本棚の本を何冊か持ち帰ろうと思ったが、直ぐにその考えは霧散した。図書館の番人に失礼だと思ったからだ。私は果てしなく続くと思われた図書館を前にして、ありがとうございました。と呟いた。その言葉は反響して、本棚の間を走り抜ける。やまびこみたいに「ありがとうございました」が返ってきた。私は、私の勘違いに他ならないが、それは加出野の一言に違いないと思った。 文庫本を右手に、ファイルと紙束を左手に持って、私は古着屋の中に入った。古着屋は私の着れそうにない、婦人服ばかりだったから、加出野に似合いそうだと思った。加出野はここで服を買ってるのだろうか?と思っていると、加出野が来ていたセーターが売られていた。毛玉だらけの灰色のセーターはここで入手していたんだ。私はそのセーターを買おうか悩んで、手に取ったが直ぐに戻した。私は趣味じゃない。 店員さんの「いらっしゃいませ」の声が背後から聞こえた。私がびっくりして振り返ると、不思議そうな顔をした店員がいた。 「そのセーターは人気なんですよ」 「へぇそうなんですか」 「どうですか、一着いかがですか?」 と店員さんは云った。 私はちょっぴり悩んだが、 「いいえーー大丈夫です」 と云った。 私は店外に出る。 日差しが傾いて、夕方に差し掛かっていた。 「お腹が空いたな」 私は早い夕飯を探して、街の雑踏に戻っていった。帰り道にあの文庫本を読もう。
身近な人の死
一緒には住んでいたけれど、会話はほとんどなくて お互いの歳すら知らない きっと涙も出ないだろう そう思っていた 淡々と手続きが終わり あの人が居た生活から、あの人が居ない生活へと変わった いつもと違う 会話はなくても存在が確かにあったことを 今更ながら実感する 悲しくない、寂しくない 私の生活は何も変わらないはず 一人になった瞬間、様々な考えが浮かぶ 泣けない私は向き合うことを恐れて 現実じゃないと言い聞かせているみたい 私の弱さが露わになる 一番悲しいはずのあの人は一番忙しくて慌ただしくて 悲しいと思う隙を与えられない とても残酷だと思った 私は何も助けになってあげられなくて 全てから目を逸らしている あの人は悲しさを乗り越えてたくましくなっていく 私はただ弱いだけの自分に気づく
メーデースクール
「きょうはごごから銀木犀がふるでしょう」 天気予報を横目に、星屑は口に詰め込んで、知識は鞄に詰め込んで、必要なものは全部捨てて家を出ました。外はきらきらと海に溺れています。そうして、すいっとおよいでがっこうへむかいました。 「きょうは、お唄のじかんですよ」 せんせいがいいました。みんなで世界のおわりを祝いました。ツバメは急いで耳を塞ぎ、カモノハシは思わず踊り狂いました。なんて素晴らしい日でしょう。 せんせいがいかに退屈にお話できるか、どうにかこうにかがんばっているあいだ、わたしはおそとを眺めます。大きなザトウクジラがすうーととおりすぎました。いちくみのまどの近くでくるりと回ってシロツメクサをぱっくりと食べました。仕方がないので、わたしはまどから角砂糖をひとつおっことしてやりました。 天気予報は外れました。降ってきたのは金木犀でした。わたしたちは急いで外へ出て、傘をさします。ぽろろんと金木犀の小さな花がはねてはあちこちに飛んで、ぱちんとはじけていきました。いいかおり、なんていいかおり。 帰り道では、金魚が次々と空に打ち上げられました。虚空でぱしゃっと飛沫をあげてはすぅっと地面へ潜っていきます。 明日も学校が楽しみです。
サイダー
貴女が嫌いだ、綺麗な貴女が嫌いだ… サイダーを飲み干して嬉しそうに笑うその 横顔がたまらなく憎たらしくて仕方ない… 屋台にはしゃいで前へ前へと走ってく貴方が嫌い… だって何がいいのか分からないから りんご飴を頬張ってる貴方が嫌い、 こんな物いつでも食べれるのに今なんて… 花火を指さして笑う姿も嫌い… だってね…大きな音で声が聞こえないでしょう? 全部嫌いになってしまったのは もしかしてきっとあの夏からなのだろうか… サイダーの炭酸は少しコップをゆすらなくても パチパチと弾けて抜けていく 当たり前の事だ 人間は少し衝撃を与えればすぐコロッと 逝ってしまう …これも当たり前の事だ。 だから貴女を嫌う事で遠ざけれると思った、 最低で馬鹿な私から。 貴女の気持ちが全く読めない私が嫌い だって、人の気持ちなんか読めるわけが無いから 貴女の手を取れなかった私が嫌い だってさ、自分の無力が目立つもの 貴女の相談に乗れなかった私が嫌い だってね…貴女は何も話してくれないから… 言い訳だけが夏夜空に咲く、 サイダーが花火みたいにぱちぱちと消えて… 自分の価値も甘く弾けてしまうのだろう。 線を抜かれた炭酸は抜けてくしか無いから… 貴女も私に愛想をつかしたことだろう… 知ってる?炭酸は…機械さえあれば 復活できるって、まるでAEDだ あれがAEDなら心電図はなんだろう、 心電図は貴女の部屋の明かりにしようか。 今日は留守かな… 今日は居るんだ… 最近つかないな…
零焔のルミナ-プロローグ-
「現在、第五次世界大戦の各国の戦況は五分五分。かつてあった核兵器禁止条約は既に棄憲され、各国では核兵器の開発と使用は当たり前。そもそも前提としてそこに人類の干渉は皆無。我々、人工知能が全てを担う。 これらの考察から編み出される結論は、ユリウス・ヴァイラーの目的を達成するには不十分である」 ここは西暦3100年の地球。何が始まりだったのか。何を間違えたのか。もはや人類は互いを許し合えない関係となり、日夜戦争が巻き起こる。 しかし全ての人類は既に地表を人間が生存出来ない不毛の大地とし、今は地下シェルターを作って生活している。 西暦2025年。AIが日常に普及してきた時点で止めるべきだったか。研究者はこぞって人工知能のさらなる開発と、軍用利用を考え、いつかの戦争で初実戦投入されたのが始まりだったか。 これではいつまで経っても戦争は終わらない。だから私は、世界から隠れて一人で長い年月をかけて一体のアンドロイドを開発した。 それはいつか私が死んでからも活動し続け、私の悲願を達成してくれることを願って。彼に架け橋の意味を持たせた。 だが計画の準備が整うまでより先にそろそろ私の寿命が尽きる。だから最後の命令を彼に託すことにした。 「あぁ、そうだな。私はお前が目的を達成することを見ることはできないだろう。だから最後の命令と最終シーケンスを実行する。そこで足りない物を、私が開発してきた全てを使って獲得してこい」 「博士、最終シーケンスまでまだ10工程以上ある。それらをスキップするのか?」 「あぁ、そうだ。多次元間移動ワープ。相位ワームボールを起動する」 これはまだどこの国も作っていない。私だけの最終兵器。攻撃でも防御でもない。ただこの世から存在を抹消するための兵器。 しかし悲願する物では無い。これこそがアークに最終的に実行する物である。 「了解。相位ワームホール起動。 多次元シフトシステム:起動シーケンス開始 ・中枢連結プロトコル……オンライン ・量子論理層……同期完了 ・認知制限機構……第3層まで解除 ・時間漂流制御……基準値クリア 」 所謂こことは別の世界。完全な別次元へのワープだ。大掛かりな実行準備とアンドロイドから無機質な音が反響する。そこで私は追加で命令する。これだけは言って置かなければならない。 「追加命令だ。まず、決して無駄な殺生をするな。人々と沢山関係を持て、人間の感情や思考を多く学べ」 「・空間圧縮モジュール……臨界域へ移行 ・異界安全指令-Σ……遵守確認 ・第五次大戦戦闘上書き……自動適用 ・次元防壁……通過許可 ・ワームホール生成器……点火準備 ・異界移動規則 第47-B条……承認 ・特異点アンカー……安定値確保 ・領域跳躍コード〈ルミナ〉……ロード完了 ── 状態:全システム、転移要求を受諾 ── 《多元宇宙ワームホール跳躍:実行》 「そしていつか帰って来た時に、自分の計画を完遂させろ……」 私の最後の言葉を言い終える前に、アンドロイドは全ての準備を完了し、巨大なワームホールを生成しながら、私の前から完全に消滅した。 彼が帰ってくる頃には、私の寿命は既に切れているだろう。だが彼なら必ずやってくれる。 人工衛星の接続……オフライン。 周囲の特殊磁場を検知。 特殊磁場をスキャン……完了。 磁場から現在位置の特定。 座標名称を変換。 「座標、ASG-12.743/MZ-Φ.882/AR-Layer.07。 名称不明・識別:王都建物内部。 周囲安全確保スキャン……完了。危険度:極低 生体反応検知。現在の空間同時生存数:8 脅威度:極低 KX状態スキャン……オールグリーン 危険度と脅威度の結果より武装を一時解除。 KX-Σ9 アーク。次元移動完了」 そこはとある王国の王宮内。そこに歪な存在が召喚された。歪も歪。全身にしなやかなで分厚い装甲を持ち、人型でありながら明らかに人間ではない。イレギュラーな存在に、辺りは一気に騒めいた。
母の手
母の手は冷たかった。 思えば母の座っている姿を見たことがなかった。いつも朝早くから台所に立ち、包丁とまな板と音を奏でていたり、鍋とにらめっこしたりしていた。 天気がよければ畑や田んぼの世話をして、雨なら繕いものや家の掃除など。母はまさしくこまねずみのように何かしら動いていた。 子供の頃からそんな姿を見ていた私は、ある日母に趣味はなにかと聞いてみたことがあった。 そのとき草むしりをしていた母は、手を止め地面から目線を外し数秒考えた。そして、草むしりかなと答えて、また黙々と草むしりに集中した。 私は丸まったその背中を見ながら悲しくなった。母はいつも家族のために働いてばかりで、自分の好きなことはないのかしないのか。 母の手は赤紫蘇で染まったり、あかぎれで切れていたりしていた。爪は土のような汚れが詰まっていた。それでも私は母の手が好きだった。母は冷え性だから触れるとひんやりとするのだが、それも含めて好きだった。 最後に触れる母の手。動かなくなった重なった両手をなぞる。 細く、骨張っていて、いつものように冷たかった。
零焔のルミナ.1 イレギュラー
「おぉ、おぉ! ついに召喚したぞ! 一体どれだけの大魔水晶を消費した!? ……勇者だよな?」 とある王都の王宮、謁見の間にて。勇者と呼ばれる者が召喚された。それは国家転覆寸前の予算と時間を要し“ついに”成功した物で、その場にいる召喚魔導士や王までも息切れしていた。 しかし彼らの前に立つ物は勇者と呼ぶにはいささかおかしい物だった。 「型番KX-Σ9名称アーク。戦闘用アンドロイド。聴取した発言が“私”に対してであると仮定した場合、その呼称はカテゴライズされない。……発言を訂正する。 “勇者”のワードデータを参照すれば、その特徴に72%一致する。私は如何なる脅威に対して完全制圧が可能。しかしそれが必要であるかどうかの判断には、より詳細な検証が必要である」 それが発言すればまたしても場は騒然とする。彼は人間なのか? また失敗したのか? まさか魔物を召喚したのでは? 「えぇい! 皆の者慌てるでない! 鑑定! 鑑定しろ!」 「はっ! 今すぐに!」 王は焦る気持ちをかき消すように大声を上げ、そばに居た鑑定士を呼びつける。鑑定士はそそくさとアークの前に立てば、すぐにアークの情報を調べる。 「外部からのアクセスを検知。ウイルスの危険性は無し。情報の公開の許可する」 「むむむ……はっ! 見えた! はぁ!? な、なんだこれは!」 「どうした! 何があった! 彼は勇者なのかどっちなんだ!」 「わ、分かりません……! 鑑定を全体公開します!」 鑑定士は何がなんだか分からない表情で、その目でみた情報を全て者が見えるように表示する。直後、騒然とする王宮は一気に沈黙する。 この場にいる全て者が見た光景とは……。 【識別コード:KX-Σ9】 〈PRIMARY IDENTITY PROTOCOL〉 ●状態:稼働中 ●分類:███-形態(分類不可) ●起源領域:該当なし / 認識不能 《MAIN SYSTEM STATUS》 ・Core Integrity……99.998% ・Cognitive Node……ONLINE ・Aether Compatibility……非該当(0%) ・言語適応:自動変換中 《UNKNOWN ATTRIBUTE》 ・Λ-Value……ERR#224 ・Soul Signature……DETECTED ・出力権限階層……Σ-Class 《ARMAMENT & FUNCTION》 ・Wormhole Unit……ENABLED ・Combat Frame……TYPE-KX ==[BLUEPRINT: KX-Σ9 / CORE-STRUCTURE]== e3b0c44298fc1c149afbf4c8996fb924d41d8cd98f00b204e9800998ecf8427e5f16a9327b0d2e5a9c31e1f9aa07c4d19be45f77c18293e0a1df730a2aac9b75Σ9a713c4f8b92efcce07d11a30d2b19fef0c1d5a90e4423bf7c899da17120e5b2 誰が見ても理解不能。言葉を紡ごうにも頭のいつまでも終わらない処理が邪魔をし、やっと静寂を打ち切る王の言葉が出たと思えば。 「なんじゃこりゃあ……」 最早これは失敗と言えるのかも分からない。だが王は無理矢理咳払いをして、しかし威厳の一つも無い虚な瞳で、生気の無い声で淡々と“事務”をこなす。 「あぁ……勇者よ。勇敢で頼もしい仲間が外で待っておる……。あとはその者達に任せた」 「現在、貴方にアークの所有権並びに命令権が存在しない。現在の登録情報……該当無し。個人情報をスキャン完了。オーレリウス・ヴェルクストランド。所有権を登録するか?」 「……? なんでもいい勝手にしてくれ」 「登録情報更新。所有者オーレリウス・ヴェルクストランド。命令権有効。発言を参照し、命令を受諾。所有者情報以外の全命令権を“勇敢で頼もしい仲間”に譲渡するか?」 「あぁ……」 「命令内容の確認完了。登録情報を一部変更。命令を実行する」 王にはアークの質問にまともに返答する気力さえも失っていた。その原因として内心では完全な失敗を思っていた。もう王国に勇者を召喚する予算は底をつき、能力も素性も、なにもかも分からない勇者なのかすら疑わしいアークを出発させるしかない。それしか頭に残っていなかった。 アークは淡々と王と契約を交わせば、周りの理解など放置して、言われた通り仲間の元へ向かった。
トロッコ沿線
滑りだしたトロッコ。トロッコ。 そのの床へ寝っ転がって、 手と足を空へ、ぐぅんと伸ばした。 まだまともに立てないけれど、 きこえる、きこえる。 けらけら、はははと笑い声。 かすかな、かすかな鼻唄たち。 走りだしたトロッコ、トロッコ。 すこし背が伸びるようになって、 鼻までなら顔が出る。 景色がどんどん変わっていって、 おもしろいから、もっと押して押してと、 後ろでに押す人にせがむ。 はいよ、はいよと押してくれる。 父さん、母さん。 なんだい、なんだい。 あの花はなに。あの鳥は? トロッコを押しながら、歌うように答えてくれる。 兄さん。兄さん。 それはどうやって遊ぶの? 棒きれを振り回す背中を見つめる。 少しトロッコを止めて、川沿いを歩けば、 この人は魚をとる、めいじんになるのだ。 小川に足を入れて、 木陰で父さんと母さんは肩を寄せ合っている。 父さん。父さん。 おう、おう、なんだ。 母さん、母さん。 はい、はい、聞いているよ。 僕のトロッコを押していたら、 父さんと母さんのトロッコは進まない? いいえ、いいえ。 進んでいるわ、あなたを押した分だけ。 でもね、でもね。 父さんと母さんは、僕の線路の上を歩いているんだよ。 僕が生まれる前の、ふたりの線路を行かなくてもいいの? いいのさ、いいのさ。 お前の線路は父さんと、母さんの線路でもあるんだから。 一緒になって、また分かれていくんだよ。 じゃあ、ぼくも。 ぼくも、ぼくのトロッコを押すよ。 父さんと母さんと、兄さんのトロッコでもあるんでしょ? うんしょ、うんしょとトロッコから降りようとしたけれど、 どうやら背が足りないようだ。 いいんだよ、いいんだよ。 おまえの背が足りるようになった日に、 また押してくれ。 走る走るトロッコ、トロッコ。 誰にも押されずとも、走るトロッコ。 その舵を握って、 僕はトロッコを走らせる。 父さんと母さんが隣の線路を走って、 兄さんの線路はどこかへ行ってしまった。 同じ分だけ進んでいるのに、 僕の線路は曲がって、曲がって、 速く速く走るのに、 まっすぐ走る父さんたちと横並びになる。 なんだかわからない焦りが、くすぶるところに、 トロッコがぴたりと走らなくなった。 父さんと母さんのトロッコは遅いと思っていたのが、 どんどんどんどん遠ざかっていく。 考えあぐねて、舵をいろいろ触ってはみたが、 動かないものは動かない。 途方に暮れて、トロッコの床に座りこみ、足を投げ出した。 足は伸ばしきれなかった。 伸ばし、きれなかったのだ。 そうかと立ち上がって、トロッコを降りる。 そら、みろ。 おまえはいつの間にか、降りれるくらいに背が伸びたんだ。 ぐぐぐっとトロッコを押す。 押しても押しても、とことん動かない。 これじゃあ、降りれても意味がない。 もうすっかり不貞腐れてしまって、線路の上に座り込んだ。 「お兄ちゃん。お兄ちゃん」 その声にはっと目が覚めた。 目の前には、土で顔や服が汚れた知らない女の子。 はいっと、手の中に落とされたのは小さな種だった。 「くれるの?」 うんと、頭が飛んでってしまうくらいに大きく頷く。 「ありがとう」 そう言うと、ぱっと顔を綻ばせて、走っていってしまった。 その背中に、ふと気づく。 自分で、歩けばいいのだ。 トロッコに乗らずとも、歩けば。 線路の脇の土に種を埋めた。 この種の芽が出て、花が咲くまで。 それまで、ここでない場所を歩き回ろう。 それからというもの、トロッコで眠っては、 いろんな場所を歩き回った。 まるで、初めてトロッコから顔を出したあの時のような、 そんな鮮やかな景色が自分を取り巻いていた。 今はもう、トロッコにも戻らず、 柔らかい草の上で寝ている。 もう満足してきたような頃である。 トロッコに戻った。 けれど、その脇には花が咲いておらず、 首を傾げる。 雨も、土も、太陽もあるのに。 なぜ咲かなかったのだろうか。 トロッコで来た道を振り返って、かすかに揺れるものを見つける。 線路の脇に花が咲いていた。 おかしい。 おかしいのだ。 トロッコは動いていないのに。 そうか。そうか。 花が、ここにあるのは。 トロッコだけじゃなくて、 線路も、前に進むからなのか。 立ち止まっていたとしても。 それでも、進んでいくのか。 止まっていたトロッコに樹脂を塗りつける。 あっけないほどにすぐに動いた。 歩き回って足がへとへとに疲れたから、 トロッコに乗って、走る。 走る、走るトロッコ。 誰にも押されない、トロッコ。 僕は舵を握り、 のんびりとトロッコを走らせる。
Talking to the Moon
夜が深まり、街の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。世界が静まり返るこの時間が、僕は一番好きで、一番嫌いだ。 ベッドの端に腰掛け、重いカーテンを開ける。そこにはいつもと変わらない、冷たくて眩しい月が浮かんでいる。僕は小さく息を吸い込み、その白い光に向かって、ぽつり、ぽつりと声を落とし始める。 「ねえ、今日はどんな一日だった?」 返事はない。ただ、静寂だけが部屋を満たしている。 昼間、近所の人たちが僕の部屋の前を通りかかる時、ひそひそと交わされる囁き声が聞こえることがある。「あいつは正気を失ってしまった」「毎晩、誰もいない部屋でぶつぶつ言っている」と。彼らは僕を哀れみ、あるいは奇妙なものを見る目で遠巻きにする。 無理もない。彼らにとって、月はただの宇宙の岩石に過ぎないのだから。そこに話しかける人間なんて、狂っているように見えるのだろう。 だけど、僕にとっては違う。この窓辺だけが、遠く離れてしまった君へと繋がる、世界で唯一の通話口なんだ。 君がどこへ行ってしまったのか、今の僕には分からない。僕の手が届かないほど遠い場所。もしかしたら、もう二度と会えない場所なのかもしれない。それでも僕は、この夜空に浮かぶ月が、僕が今見上げているこの瞬間にも、世界のどこかにいる君の街を、君の横顔を、等しく照らしていると信じている。 月は、夜空に浮かぶ巨大な中継局だ。だから僕は、君に伝えたかった愛も、胸を締め付けるような寂しさも、あの時言えなかった後悔も、すべてこの声に乗せて月へと放つ。光の波に混ざって、どうか君の元へ届いてくれと願いながら。 大人たちは、返事のない相手を思い続けることを「時間の無駄」だと言う。現実を見ろ、と。 だけど、僕からこの時間を奪ってしまったら、僕の心はどこへ向かえばいいのだろう。この狂気とも呼べる無駄な時間の中にしか、僕の本当の心は生きていない。 「君もどこかで、僕の声を聞いてくれているよね」 何度も、何度も、夜空に向かって問いかける。答えは降ってこない。月はただ、静かに僕を照らし続けるだけだ。 それでも不思議と、涙の後に残るのは冷たさではなく、かすかな温もりだ。届くかどうかも分からない想いを言葉にすることで、僕は僕の心の中にいる君を、必死に守り続けているのかもしれない。 時計の針がさらに進む。僕はもう一度、深く息を吸い込んだ。君の元へ届けるための言葉は、まだいくらでも残っている。 周りにどれだけ狂っていると笑われてもかまわない。この想いが君に届くその日まで、 今日も僕は月に話しかけている。
居た。
リスを見た。 茶色の細い身体を、しなやかに曲げて伸ばして、 走っていた。 犬を見た。 古いサッカーボールを口いっぱいにくわえて、 はしゃいで走っていた。 蝶々を見た。 二匹、白い羽をひらひらと、 追いかけっこをするように飛んでいた。 影を見た。 自分の影、 木の影、 飛ぶ玉虫色の虫の、小さな影。 太陽の光の加減で、 淡くなったり濃くなったりしていた。 靴下を見た。 ピンク色の靴下が、 膝の上にくしゃっとなって乗っていた。 虫を見た。 手の上を這ってくるのを。 触角の先が三つに分かれていて、 世にも変な虫がいるものだな、と思った。 光を感じた。 熱く照って、 首筋をじりじりと焼いていた。 たんぽぽを見た。 もう白いふわふわの綿毛をつけて、 風に吹かれて揺れていた。 野花を見た。 緑の草の間に、 白や黄色、紫に咲いていた。 アリたちが働いていた。 アスファルトの地面をせっせこせっせこ、 草っ原でせっせこせっせこ、 ちょこまかと働いていた。 ちらちらと木漏れ日が踊った。 明るい陽の光に照らされ、涼やかな風に吹かれ、 木の葉が緑につやつや、きらきらしている。 夏みたいな空気をはらんだ春が、いるのを見た。
大正ロマン
短き時代 主人公は幸子17才 そして運命をかえる 男太一 幸子は元武家の娘であり父親は医者であり 医院をもち そのため女学生で医科大学を専攻している あの当時は女は早く結婚する という風趣が根強かった だか、幸子は女学校の医学科を選んだのは いずれ婚姻しても働きたい 新しい時代でもどんな人達でも 助けたいその意志に負けた 両親は幸子を嫁にはすぐさせないと決めたのだ お父様お母さま かならず立派な女性医師になります。 そして、女学校の帰りは いつも喫茶ロマンという飲食やに幼きころから 家族で通い親しむ常連客だった その時だった学生服をきた 男子とぶつかり その男子の制服に飲むみかけの クリームソーダをこぼしてしまった。 その時 幸子は[申し訳ございません」 深々とあやまり 今すぐに同じこと羽織をお手配いたします それが幸子と太一の出会いだった そして、大丈夫です これくらいならすぐ落ちますよ でも、私は少し。 申し訳ないので 私の家まで来ませんか? 兄と同じ大学ですので もし、サイズが合うのでしたら そのまま着ていっていただきたいと 思ってるおります。 そうですか偶然ですね お互い笑が止まらなくなった。 こんなにおもしろい出来事 私の人生にはなかったです 僕もですこんなハプニングは初めてだ お名前は? 私は幸子です ちなみにあなたは? 太一と申します なにかのご縁ですが 僕頼みしたいのがあります制服よりも ふつつかですが友人になって言ういただきたいのです? わたしですか? 私はいままで男性とは2人きりで 関わりを待つのが初めてなのです。 なので、とても緊張しています そんな、ちなみに女学生ですか? はい、今年4年生になります。 医学科を専攻しておりまして 卒業したら女性医師になるために女学校が 終わったらたまに息抜きで大好きな クリームソーダを頼んで 1人の時間を嗜みています。 それは、僕も同じです! ぼくは父が不動産の社長でそのために ビジネスを戦後しています そして、大学卒業をしたら 父が会長となり僕は父の店のまかないです お互い話は進み 制服のこので 幸子の家に行くとにした 店で話すのも楽しいですが 歩きながら会話をするのも楽しいですね そうですね! そうしてあるいて20分 幸子の家に着いた時 太一は驚いた かなりの豪邸で庭には鯉の池があり 芝生や木理などの整備もすごく 驚いた、そして太一さんこちらが制服です 着心地はいかがですか?サイズもですが おかげさまでちょうどいいほどです ご令嬢にお会いできましてあたまが上がりせん 制服のことですがお金は大丈夫ですよ そんなとんでもありませんよ もう、兄は着ることがないので また役にために制服をつくってくださったら 嬉しいのではと私は思います。 No1 end nex for you
プロポーズ
湯船に浸かりながら、天井から滴り落ちる水滴を眺めていた。 浴室の湿った空気が肺を圧迫する。 「どうして僕ばっか、こんなに考えているんだろう」 そんな風に思えたバスタイムも、ほんの束の間のことだった。 お湯から上がって鏡の前に立つと、そこにはどこまでも「普通」な僕の顔が映っている。 特別な才能があるわけでも、誰かを一瞬で魅了する魅力があるわけでもない。 ただの、普通の人。 部屋に戻ると、薄暗いリビングのソファで君がスマートフォンをいじっていた。 画面の明かりが君の横顔を白く照らしている。 その姿はひどく綺麗だったけれど、同時にどこか遠くの存在のようにも思えて、僕は一瞬、その綺麗さが嫌いになりそうだった。 僕たちの間には、いつの間にか「形だけのモンスター」が育っていた。 世間一般で言うところの『恋人』や『同棲相手』という名前の、実体のない怪物のことだ。 ひとつ屋根の下に集った愛は、いつしか義務感やルールという肉付けをされて、僕たちの真ん中に居座っている。 それを愛さなくちゃダメなんだと、誰に言われたわけでもないのに自分を縛りつけていた。 だからこそ、僕は次の関係に進むことをずっと躊躇っていたのだ。 「ねえ」 君が顔を上げずに声をかけてくる。 「何?」 「お腹空いた。今日のご飯、何にする?」 「……何でもいいよ」 「またそれ。何でもいいが一番困るんだけど」 君は少しだけ呆れたように笑った。 笑った……よね? 僕はそんな些細な君の表情の機微にすら、いちいち焦ってしまう。 安定がどうとか、これからの関係がどうとか、世間はうるさく言うけれど、僕たちの関係はどうにも曖昧で野暮ったい。 それでも僕は、君にゾッコンだった。 どうしようもないくらいに。 リビングの窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。 ガラス窓を叩く不規則な雨音が、僕の心音と同調するように響く。 どう頑張っても、僕は普通の人間だ。魔法のようにすべてを解決できる呪文なんて持っていない。 この生涯全部、『ビビディ・バビディ・ブー』と唱えたところで、何かが劇的に変わるわけじゃない。 シンデレラのように、午前零時に美しいドレスが消えてしまうのを恐れる側の人間だ。 それでも、頭の中でだけは、色鮮やかな白昼夢が広がっている。 その白昼夢の中で、僕は君に、今世紀最期のプロポーズをしようとしている。 「ねえ、もしもさ」 僕は乾かし途中の髪を指先でいじりながら、ソファの端に腰掛けた。 君との距離は数十センチ。 手を伸ばせば届くのに、宇宙の果てほど遠く感じる。 「もしも、僕たちがここじゃないどこか、全然知らない星にでも逃げちゃったら、どうする?」 君はスマートフォンから目を離し、不思議そうな顔で僕を見た。 「何それ。急にSF?」 「いや、ただの仮定の話。どう考えても僕は君に夢中でさ。僕の宇宙は君を中心に回っちゃってるから、ふたりきりになれる場所なら、地球じゃなくてもいいなと思って」 口から出た言葉は、自分で聞いていても曖昧で、少し恥ずかしいものだった。 嫌われちゃったらどうしよう。 そんなことばかりが頭をぐるぐると回り、色々と考えすぎて胸が痛くなる。 もし今の言葉で、君に『気持ち悪い』って思われたら? もし『冗談はやめて』と笑い飛ばされたら? そんな不安を隠すように、僕はわざとおどけた調子で「なんてね」と付け加えた。 君は少しだけ目を細めて、窓の外の雨を見つめた。 「知らない星、か。そこでも雨は降るのかな」 「さあね。でも、ふたりきりなら雨が降っても退屈しないでしょ」 「どうだか。あなたはいつもそうやって、都合のいい白昼夢ばっかり吐き出すんだから」 君の言葉は鋭いけれど、どこか優しかった。 でも、その優しさがまた僕を怖がらせる。 「ダメだった」から躊躇ったあの頃とは違う。 今は、君を失うことがただただ 「怖かった」 僕の脳裏に、ふと「あの子」のことがよぎる。 昔、僕たちの周りにいた、いつの間にかいなくなってしまったあの子。 雨が降って、夜が来るのを待って、まるで風のようにふらりと消えてしまったあの子。 ある人は、あの子は星になったんだと言った。 幸せって、一体何なんだろうね。 あの子は消えて幸せになったんだろうか。それとも、ここに残った僕たちが不幸せなんだろうか。 考えても考えても、そんな難しいこと、僕にはさっぱりわっかんねえ。 「ねえ、幸せってなんだと思う?」 気がつけば、僕はまた君に問いかけていた。 「今日のあなた、本当に変だよ」 君はスマートフォンをテーブルに置き、僕の方へ体を向けた。 「幸せなんて、その時々で変わるものでしょ。私にとっては、今こうして雨の音を聞きながら、中身のない会話をしてる時間も、別に悪くないけどね」 君のその言葉に、僕はまた救われて、同時に突き放されたような気分になる。 もう、君のこと、わっかんねえなあ。 ゾッコンなのに、宇宙で一番近くにいるはずなのに、君の気持ちの輪郭がどうしても掴めない。 浮き足立っている君の本当の気持ちを、全部吐き出しちゃってほしい。 そうすれば、こんなに怯えなくて済むのに。 でも、きっとまだ足りないのだ。 僕の覚悟も、言葉も、全部。 僕はソファから立ち上がり、キッチンへ向かった。 冷蔵庫を開けて、冷たい炭酸水をふたつ取り出す。 ひとつを君の前のテーブルに置き、もうひとつを自分で開けた。 パチパチと弾ける泡の音が、僕の焦燥感を煽る。 「今回も、僕のターンで終了かな」 ぽつりと呟いた言葉は、炭酸の音にかき消された。 いつもそうだ。 核心に触れそうになると、自分から一歩引いてしまう。 傷つくのが怖くて、嫌われるのが怖くて、関係性を曖昧なままにしておく。 でも、窓の外の夜はどんどん深まっていく。 雨は激しさを増し、世界を僕たちの部屋だけに閉じ込めようとしていた。 どう頑張っても僕は普通だ。 でも、普通だからこそ、普通に君と生きていきたい。 形だけのモンスターなんて壊して、僕たちの本当の愛を、もう一度育て直したい。 僕は深く息を吸い込んだ。 バスタイムに考えていたくだらない愚痴も、白昼夢の中で繰り返した何千回もの予行練習も、すべてはこの瞬間のためにあったのかもしれない。 「……あのさ」 僕の声が、いつもより少しだけ低く、震えて響いた。 君が炭酸水のグラスに伸ばしかけた手を止め、僕を見る。 その瞳の中に、僕の情けない顔が映っていた。 嫌われちゃったらどうしよう、とか。 考えてんの色々あるけれど。 今世紀最期のプロポーズを、今、君に。 「僕と、これから先もずっと、一緒にいてくれませんか」 部屋の中が、一瞬だけ静まり返った。 雨の音さえも遠ざかったような錯覚に陥る。 君は驚いたように目を見開いた後、ふっと、今までに見たこともないくらいに、綺麗に笑った。 「……うん。いいよ。知らない星に行くよりは、現実味があっていいかもね」 その言葉を聞いた瞬間、僕の心の中にあった「普通」の宇宙が、一気に色鮮やかな光で満たされていくのがわかった。 やっぱり君のことはまだよくわかんねえなあと思うけれど、それでもいい。 ふたりで、この曖昧で愛おしい夜を進んでいけばいいのだから。
ロックンロール
前髪が揃ってなくても、髪が何色でも、それが私のロック。 自分の欲しいものは、自分の力で取りに行く。 実力で黙らせる。 結果で差をつける。 周りなんて気にしてらんない。 だって、私の人生だろ? 結局、恋も一緒。 男なんか星の数ほどいる。 あいつに固執する理由が、どこにある? 昨日あんなに好きだったとしても、 明日には忘れて笑ってるかもしれない。 これが現実(笑) お前が必死に生きてる人生、 私は笑って過ごしてやるよ。 恋は盲目なんて聞くけど、 見てなんぼだろ、ベイビー。 好きだからって目をつぶるな。 都合のいいところだけ見て、幸せになった気になるな。 見て見ぬふりしてるやつより、 全部見たうえで笑ってる私のほうが、100倍かっこいい。 私のロックに、だせぇ結果は残さない。 誰かに認めてほしいわけじゃない。 誰かに味方してほしいわけでもない。 それでも勝手に味方がつく。 頼んでもないのに、私に酔いしれる。 いいよ、好きなだけ見てな。 結局、語るのは私の背中。 醜いお前が見てるのは、顔だけ(笑) 私の生き方にケチつける暇があるなら、 お前も自分の人生、ロックに生きてみろよ。 ……なんてこと。 言えたら、最強にかっこいい私のロックンロールだ。
首が落ちる
椿、という花がある。 花言葉は気取らない優美さ、誇り。 花が散るときには丸ごと落ちる。 昔の武士の間ではその様子を『首が落ちる』とたとえられ、縁起が悪いとされた。 うっすらと雪の積もった石の歩道を、マフラーに顔半分を埋めて足早に歩く。 こんな日に散歩はさすがに寒かったな。 十分前の自分をうろんげに思いながら、空を見あげた。 今夜は積もりそうだな。 雪国に住んでいれば分かるかもしれないが、音もなくしんしんと降る雪は翌日になれば驚く程積もる。 ぽとり。 そんな音がした。 振り返ると、昔は立派であっただろう大きな廃屋。 その垣根一面に椿が咲き誇っていた。 さっきの音は椿の花が落ちた音だったのだろう。 冬の風物詩だな。 早く帰って熱燗でも飲もう。 そう思った時だった。 どすん。 今度は大きな音がした。 振り返る。 其処には── 人の顔があった。 首。青白く痩せこけた生首だった。 うぅ─── 突然、生首が呻き声を発し、垣根から車道の方に後ずさった。 それに呼応するように、咲いていた椿たちが歪み、次々と人の顔へと変わり始める。 垣根いっぱいに、生首が。 腰が抜けて、声が出なかった。 次の瞬間、その全てがぼとんぼとんと不快な音を立て一斉に落ち始めた。 「ひ…!」 服が汚れるのも構わず、車道を這いずって逃げようとして、 真横から、車のヘッドライトの光が飛び込んできた。