切り株
切り株の断面に座るロボットがある。 断面は、年輪が、密である。 ロボットにとって年輪の重要性は、縄文人にとっての1000年後の世界くらいであった。 世界は、亀の積み上がりの上にあると、縄文人は、想像したかどうかは、天国にリアリティの無い幽霊には、よくわからない。 天国の憂いの希薄は、ビートルズには、どうでも良い事だ。 それから、僕んちの猫は、ありもしない涅槃に送られるために、タップリ陀羅尼を聞かされた。 もちろん、死んでから。 生きているコテツに陀羅尼聞かせたら、飼い主は、正気を疑われる。 死んでからでもおんなじじゃあないのさ。 とても、とっても、そう思います。 坊さんの後ろで、猫に理解出来るんかいなと、人間も理解出来んのに、と、沢山のニャンコの骨に囲まれていた。 理解なんぞしなくても、ロボットに陀羅尼を送る世界が、来るかもしれんと、チョッピリ喜びは、芽生え始めた。 坊さんが、ロボットになり、涅槃へ送る確率が、上昇すれば、信者の数も安定するんでないのさ、なんて、隣の町会長のアルバチャコフは、言うかもしれないけど、僕は、否定したい。 アルバチャコフの生まれた星には、ロボットの減少は、多いに問題であったらしく、大量の量産型生物を輸入していた。 問題点は、その他、様々、存在はしていて、女子高生のスカートの短さが、強力な酩酊感に変換可能な哺乳瓶を大量に売り捌くマフィアなど、ジミヘンを神と崇めた准教授は、困り顔と笑顔の使い分けが、ままならなかった。 教授陣の趣味に関する拘りの奇抜さは、B'zとタマを同時にかけてトリップしていた中学生の俺とにたりよったりである事は、町内の秘密にしておきたくて、しばしば、近所のリコさんに愛を告げたり、コレも又、羞恥心が、隠せはしないのです。 秘密な呪文として、如来の女と、明王の乞食の織り成す秘め事のサウンドを録音して、FMで、流してみたいと心からの願いよりは、早めに夕飯作った方が良くないと、白けた様子の女の声は、鋭角に飛んだ。 ラジオのFMが、AMに取って代わられた職場では、パーソナリティの笑うたびに、イラっとしながら、女房の肢体を脳裏から離せぬ地獄に悶えて、切り株のロボットは、人類の軽薄など、概ね承知なのだろうなと、妙に安堵し欠伸した。
プロポーズ
湯船に浸かりながら、天井から滴り落ちる水滴を眺めていた。 浴室の湿った空気が肺を圧迫する。 「どうして僕ばっか、こんなに考えているんだろう」 そんな風に思えたバスタイムも、ほんの束の間のことだった。 お湯から上がって鏡の前に立つと、そこにはどこまでも「普通」な僕の顔が映っている。 特別な才能があるわけでも、誰かを一瞬で魅了する魅力があるわけでもない。 ただの、普通の人。 部屋に戻ると、薄暗いリビングのソファで君がスマートフォンをいじっていた。 画面の明かりが君の横顔を白く照らしている。 その姿はひどく綺麗だったけれど、同時にどこか遠くの存在のようにも思えて、僕は一瞬、その綺麗さが嫌いになりそうだった。 僕たちの間には、いつの間にか「形だけのモンスター」が育っていた。 世間一般で言うところの『恋人』や『同棲相手』という名前の、実体のない怪物のことだ。 ひとつ屋根の下に集った愛は、いつしか義務感やルールという肉付けをされて、僕たちの真ん中に居座っている。 それを愛さなくちゃダメなんだと、誰に言われたわけでもないのに自分を縛りつけていた。 だからこそ、僕は次の関係に進むことをずっと躊躇っていたのだ。 「ねえ」 君が顔を上げずに声をかけてくる。 「何?」 「お腹空いた。今日のご飯、何にする?」 「……何でもいいよ」 「またそれ。何でもいいが一番困るんだけど」 君は少しだけ呆れたように笑った。 笑った……よね? 僕はそんな些細な君の表情の機微にすら、いちいち焦ってしまう。 安定がどうとか、これからの関係がどうとか、世間はうるさく言うけれど、僕たちの関係はどうにも曖昧で野暮ったい。 それでも僕は、君にゾッコンだった。 どうしようもないくらいに。 リビングの窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。 ガラス窓を叩く不規則な雨音が、僕の心音と同調するように響く。 どう頑張っても、僕は普通の人間だ。魔法のようにすべてを解決できる呪文なんて持っていない。 この生涯全部、『ビビディ・バビディ・ブー』と唱えたところで、何かが劇的に変わるわけじゃない。 シンデレラのように、午前零時に美しいドレスが消えてしまうのを恐れる側の人間だ。 それでも、頭の中でだけは、色鮮やかな白昼夢が広がっている。 その白昼夢の中で、僕は君に、今世紀最期のプロポーズをしようとしている。 「ねえ、もしもさ」 僕は乾かし途中の髪を指先でいじりながら、ソファの端に腰掛けた。 君との距離は数十センチ。 手を伸ばせば届くのに、宇宙の果てほど遠く感じる。 「もしも、僕たちがここじゃないどこか、全然知らない星にでも逃げちゃったら、どうする?」 君はスマートフォンから目を離し、不思議そうな顔で僕を見た。 「何それ。急にSF?」 「いや、ただの仮定の話。どう考えても僕は君に夢中でさ。僕の宇宙は君を中心に回っちゃってるから、ふたりきりになれる場所なら、地球じゃなくてもいいなと思って」 口から出た言葉は、自分で聞いていても曖昧で、少し恥ずかしいものだった。 嫌われちゃったらどうしよう。 そんなことばかりが頭をぐるぐると回り、色々と考えすぎて胸が痛くなる。 もし今の言葉で、君に『気持ち悪い』って思われたら? もし『冗談はやめて』と笑い飛ばされたら? そんな不安を隠すように、僕はわざとおどけた調子で「なんてね」と付け加えた。 君は少しだけ目を細めて、窓の外の雨を見つめた。 「知らない星、か。そこでも雨は降るのかな」 「さあね。でも、ふたりきりなら雨が降っても退屈しないでしょ」 「どうだか。あなたはいつもそうやって、都合のいい白昼夢ばっかり吐き出すんだから」 君の言葉は鋭いけれど、どこか優しかった。 でも、その優しさがまた僕を怖がらせる。 「ダメだった」から躊躇ったあの頃とは違う。 今は、君を失うことがただただ 「怖かった」 僕の脳裏に、ふと「あの子」のことがよぎる。 昔、僕たちの周りにいた、いつの間にかいなくなってしまったあの子。 雨が降って、夜が来るのを待って、まるで風のようにふらりと消えてしまったあの子。 ある人は、あの子は星になったんだと言った。 幸せって、一体何なんだろうね。 あの子は消えて幸せになったんだろうか。それとも、ここに残った僕たちが不幸せなんだろうか。 考えても考えても、そんな難しいこと、僕にはさっぱりわっかんねえ。 「ねえ、幸せってなんだと思う?」 気がつけば、僕はまた君に問いかけていた。 「今日のあなた、本当に変だよ」 君はスマートフォンをテーブルに置き、僕の方へ体を向けた。 「幸せなんて、その時々で変わるものでしょ。私にとっては、今こうして雨の音を聞きながら、中身のない会話をしてる時間も、別に悪くないけどね」 君のその言葉に、僕はまた救われて、同時に突き放されたような気分になる。 もう、君のこと、わっかんねえなあ。 ゾッコンなのに、宇宙で一番近くにいるはずなのに、君の気持ちの輪郭がどうしても掴めない。 浮き足立っている君の本当の気持ちを、全部吐き出しちゃってほしい。 そうすれば、こんなに怯えなくて済むのに。 でも、きっとまだ足りないのだ。 僕の覚悟も、言葉も、全部。 僕はソファから立ち上がり、キッチンへ向かった。 冷蔵庫を開けて、冷たい炭酸水をふたつ取り出す。 ひとつを君の前のテーブルに置き、もうひとつを自分で開けた。 パチパチと弾ける泡の音が、僕の焦燥感を煽る。 「今回も、僕のターンで終了かな」 ぽつりと呟いた言葉は、炭酸の音にかき消された。 いつもそうだ。 核心に触れそうになると、自分から一歩引いてしまう。 傷つくのが怖くて、嫌われるのが怖くて、関係性を曖昧なままにしておく。 でも、窓の外の夜はどんどん深まっていく。 雨は激しさを増し、世界を僕たちの部屋だけに閉じ込めようとしていた。 どう頑張っても僕は普通だ。 でも、普通だからこそ、普通に君と生きていきたい。 形だけのモンスターなんて壊して、僕たちの本当の愛を、もう一度育て直したい。 僕は深く息を吸い込んだ。 バスタイムに考えていたくだらない愚痴も、白昼夢の中で繰り返した何千回もの予行練習も、すべてはこの瞬間のためにあったのかもしれない。 「……あのさ」 僕の声が、いつもより少しだけ低く、震えて響いた。 君が炭酸水のグラスに伸ばしかけた手を止め、僕を見る。 その瞳の中に、僕の情けない顔が映っていた。 嫌われちゃったらどうしよう、とか。 考えてんの色々あるけれど。 今世紀最期のプロポーズを、今、君に。 「僕と、これから先もずっと、一緒にいてくれませんか」 部屋の中が、一瞬だけ静まり返った。 雨の音さえも遠ざかったような錯覚に陥る。 君は驚いたように目を見開いた後、ふっと、今までに見たこともないくらいに、綺麗に笑った。 「……うん。いいよ。知らない星に行くよりは、現実味があっていいかもね」 その言葉を聞いた瞬間、僕の心の中にあった「普通」の宇宙が、一気に色鮮やかな光で満たされていくのがわかった。 やっぱり君のことはまだよくわかんねえなあと思うけれど、それでもいい。 ふたりで、この曖昧で愛おしい夜を進んでいけばいいのだから。
夢物語
輝く人の近くには輝けなかった人がいて 成功した人のすぐ側に努力しても報われなかった人がいる 何かに輝いて成功してもきっとそれは自分だけの力じゃない そんな人がいてようやく自分が人の上をいく 世界一嫌な立ち位置で私を輝かせてくれる誰かがいる 人の幸せは誰かにとっての不幸であることが多い みんなが幸せで誰一人嫌な思いはしない 誰もが想像する理想の世界 そんなものは夢物語 私はずっと夢を見る
とある午後のティータイム
私ってなんだかとっても狭量で ものすごい偏屈な人間な気がするわ 自分本位でワガママで 人の気持ちに寄り添えていない そんな気がするの でも私がそう言うと あなたは笑ってこう言ったわ 君は誰よりも傲慢で 何もかもを全部一人で解決できると思ってる この世界の罪を勝手にぜんぶ抱えて まるでアダムとイブの代わりに みんなを楽園に帰そうとしているみたいだ それってなんだかとっても馬鹿らしいよ 私が怒るとあなたはなおも笑ったままで ねえ、君 人の罪や業のことは一旦忘れなよ 誰かの悲しみや苦しみなんて 自分にはなんの関係もないと捨て置きなよ そうして身軽になってから もう一度誰かのことを考えてごらん 他人事として向き合ってごらんよ 君は人のことを考えすぎなんだよ みんなそんなことあんまり望んじゃいないんだ 大切なのは無頓着にすることじゃないよ おっかなびっくり気を遣うのはやめて 堂々と君がしたいようにいいことをしたらいい 君は傲慢でとんでもないお人よしなんだから それくらいでちょうどいいんだ あなたはそう言って、口を閉じて微笑んだ ふん、大きなお世話よ
自己紹介します。あんま面白くないので期待しないで欲しいです。
どうもこんにちは。自己紹介します。 名前 オルカ 年齢 十二歳 性別 女(?) 書くジャンル SF ファンタジー 好きな動物 シャチ 鯨類 好きな物 音楽 読書 図書館 好きな食べ物 焼き鱈子の皮剥いた奴 鱈 抹茶 嫌いな動物 なし(虫は例外) 嫌いな事 計算 勉強 嫌いな食べ物 餡子 茸 肉 好きなペン字 細字 好きなアニメ〜 鬼滅の刃 葬送のフリーレン 好きな漫画 NANA こどものおもちゃ 好きな小説 かがみの孤城 魔女だったかも知れない私 ハリーポッターシリーズ すずめの戸締り(ノベライズ) オオカミ子供の雨と雪(ノベライズ) まぁ基本本は全部好き。多くてすんません。 改めてよろしくお願いします。
空と記す
学校の登下校中。 授業の合間や休憩中。 家にいる時、ふとした時。 私はよく、空を見ている。 特に意味は無いけれど、いつの間にか染み付いた習慣だった。 きっと始まりは、授業に飽きた、付き合いに疲れた、そんなこと。 そういう時、いつも必ずあったのが空だったから。 空は、いつどこからでも見える。 でも、いつどこから見ても表情が変わる。 まるで百面相で、そう思ったら面白くなって。 ある時から、空日記を書くようになった。 ふとした時に、見上げた空と気持ちを書く。 一日に何回も書く日も、全く書かない日もある。 だから、ルーティンとは言い難いけれど。 歩くのに疲れた登校中は、鮮やかな青に背中を押された。 授業が暇で退屈な時は、雲を数えて時間を流した。 部活が楽しくて仕方ない時は、紫の空に目を輝かせた。 家からふと窓を見た時、暗い雨雲に寂しくなった。 空が泣く、空が笑う。あながち間違いじゃないと、最近思う。 誰に見せるでもない、ただの独り言日記。 ただ空を見て、自分の気持ちを知るだけの時間。 でも、そういう時間が、ある意味特別なのかもしれない。
『復活の日』
宣教師は、今日も歩いていた。 聖書を抱え、街から街へ。 ホテル、旅館、飲食店、本屋。 人の集まる場所を見つけては、そこに一冊の聖書を置いていく。 彼には、目的があった。 天国への到達。 欲望も、肉体も、すべてを捨てて、真の姿に生まれ変わる。 復活の日を夢見ていた。 かつて、宣教師は天啓を受けた。 心地よい声が頭に響く。 やがてあなたは天国に行く…… そのために…… 広めるのです…… そして迷える羊たちを導きなさい…… さすれば天界への門が開かれるでしょう…… その瞬間、背後から衝撃音が聞こえた。 振り返ると、大量の聖書が山のように積まれていた。 さらに声が響く。 「一冊の聖書を配るたび、ヘブンポイントが一ポイント貯まります」 「ヘブンポイント……?」 「そうです。配布された者が信者になれば十ポイント。その信者が新たな信者を紹介すれば、さらに十ポイント」 「そして、100万ヘブンポイント。それが、天国への到達に必要なポイントです」 宣教師は、その声を静かに聴いていた。 これは神が与えた、私への試練だ。 それから、彼の布教活動の日々が始まった。 そして、ある日。 空から再び声が聞こえた。 「宣教師……」 「聞こえますか? 宣教師……」 宣教師は空を見上げた。 「あなたの頑張りを、ずっと見ていましたよ」 宣教師の顔がほころぶ。 「ああ……」 「ありがとうございます……」 天の声は続けた。 「あなたの現在のランクは、ブロンズです」 「……ん?」 「次はシルバーを目指しなさい」 「え?」 それからだった。 宣教師の布教活動は、さらに激しくなった。 全国各地を駆け回り、聖書を配った。 ホテルの客室。 旅館のロビー。 飲食店のテーブル。 本屋の片隅。 ついには街頭に立ち、大勢の人々に向かって聖書を配り始めた。 「聖書はいかがですか!」 一冊。 また一冊。 ポイントは、日に日に増えていった。 やがてポイントは10万を超えた。 そのとき、再び天の声が聞こえた。 「宣教師」 「ヘブンポイント、かなり貯まりましたね」 「少し使ってみませんか?」 宣教師は驚いた。 「使う?」 「ええ」 すると、空中に光が集まり、一枚のカタログが現れた。 そこには、さまざまな天界グッズが並んでいた。 どんな場所にでも一瞬で行ける。 “天使の羽” 人をダメにする極上の座り心地。 “雲のソファ” 困ったときに吹けば、一度だけ天使が助けてくれる。 “天使のラッパ” どんな疲れも即座に吹き飛ぶ。 “天界温泉の素” 宣教師は目を輝かせた。 「……天国にも、こんなものがあるのか」 ページをめくる。 そのとき、一つの商品が目に入った。 宣教師の手が止まった。 「……これは?」 そこに書かれていたのは、 “一日天国体験チケット” 『50万ヘブンポイント』 一日だけ、天国を自由に体験できる。 雲の上を歩き、天使と食事をし、源泉の天界温泉に入ることもできる。 宣教師は考えた。 100万ポイントには、まだ遠い。 その日まで、自分は生きていられるのだろうか。 宣教師は、しばらく画面を見つめた。 そして、笑った。 「一日だけでもいい」 「私は……天国へ行ってみたい」 その日から、宣教師はさらに激しく布教を続けた。 聖書を配る。 ポイントが増える。 また聖書を配る。 いつしか宣教師にとって、聖書を渡すことは祈りではなくなっていた。 ポイントを確認するための行為になっていた。 天界のポイント制度には、さまざまなキャンペーンが用意されていた。 「宣教師! 宣教師! 本日はポイント二倍デーですよ!」 「……二倍!?」 「はい! ただし、ゴールドランク以上の会員様が対象です!」 「…………」 「明日も頑張ってくださいね!」 また、別の日。 「宣教師! シニア応援キャンペーンを実施中です!」 「どう言うことでしょうか?」 「60歳以上の方に聖書を配ると、獲得ポイントが五倍になります!」 「ごばっ……五倍!?」 「ええ! 人生経験豊富な方々にも、天界の魅力をお伝えください!」 宣教師は、静かに空を見上げた。 「……神よ、これは布教なのでしょうか」 だが、そんな彼に天界から新たな提案が届いた。 「宣教師、聞こえますか?」 「アプリをダウンロードしませんか?」 「アプリ?」 「ええ。いちいち私に聞かなくても、現在のランクとポイントを確認できる便利なアプリです」 「な、なんと! そんな便利なものが!」 「しかも、初回登録時には10,000ヘブンポイントが付与されますよ」 「……!?」 宣教師は驚いた。 「それはすごい!」 「ええ。ただし、まだ試作段階です」 「そこで、あなたにモニターとして特別に与えましょう」 すると、宣教師のスマートフォンに通知が届いた。 『おめでとうございます! 初回特典10,000ヘブンポイントを追加しました!』 「おおおおお!」 宣教師はスマートフォンを握りしめた。 「神よ……ありがとうございます!」 宣教師は、静かにスマートフォンをしまった。 そのとき、再び天の声が響いた。 「宣教師、あなたにもう一つの使命を与えましょう」 「使命……ですか?」 「ええ。若者に聖書を配るのは、至難の業です」 「……確かに」 「そこで、このアプリを広めなさい」 「アプリを?」 「そうです。聖書とアプリ、並行して布教すれば、天界への道はさらに近づくでしょう」 「おお……!」 宣教師は、スマートフォンを見つめた。 「分かりました! この使命、必ず果たしてみせます!」 「なお、アプリを一人に紹介するごとに、100ポイントを進呈します」 「ひゃ、100ポイント!」 宣教師の目が輝いた。 聖書を一冊ずつ配るより、はるかに効率がいい。 しかも、紹介された人が新たな利用者を連れてくれば、自分が直接布教しなくてもポイントが増えていく。 「これなら……これなら、天国に行ける!」 その日から、宣教師はアプリの普及に力を注ぐようになった。 「天界公式アプリはいかがですか!」 「今なら新規登録で10,000ポイント!」 「お友達紹介で、さらにポイントが貯まります!」 通行人は首をかしげた。 「……何のアプリ?」 「天国に近づけるアプリです!」 「……怪しいな」 「怪しくありません! 天界公式です!」 それから、宣教師のポイントは日に日に増えていった。 聖書だけでは到底届かなかったポイントが、アプリの普及によって驚くべき速度で増え始めたのだ。 一人が登録し、その人がまた別の人を紹介する。 紹介された人が、さらに別の人を紹介する。 気がつけば、宣教師が直接会ったこともない人々が、次々とアプリに登録していた。 宣教師は、毎朝スマートフォンを確認するのが楽しみになっていた。 『新規登録者が増えました!』 『紹介ポイントが付与されました!』 『ランキングが更新されました!』 かつては、街を歩き、一冊ずつ聖書を配っていた。 それが今では、寝ている間にもポイントが増えていく。 「これが……新しい布教の形なのか!」 しかし、アプリは便利すぎた。 ポイントの確認も、ランクの確認も、信者の紹介も、すべてスマートフォン一つで済んでしまう。 わざわざ聖書を手に取る必要など、なかった。 アプリが普及すればするほど、聖書を手に取る者は少なくなっていった。 宣教師は頭を抱えた。 「……これは、困った」 ポイントは増えている。 だが、聖書は配れなくなっている。 「ポイントを貯めるだけではだめだ……」 宣教師は、目の前に積まれた聖書の山を見つめた。 天啓を受けたあの日、背後に現れた大量の聖書。 あれから、どれだけ配っただろう。 それでも、まだ山のように残っている。 「この聖書の山も、どうにかしなくては……」 宣教師は、深いため息をついた。 そのときだった。 「あっ、いました! 今話題の人!」 突然、背後から声がした。 振り返ると、テレビカメラを構えた一団が近づいてきた。 リポーターだった。 「各地で聖書を配っているそうですが、何か目的があるんですか?」 宣教師は静かに答えた。 「……ふっかつ、です」 「復活?」 「布教活動、略して布活」 宣教師は空を見上げた。 「いずれ私は天国へ到達する」 「真の意味での復活なのです」 リポーターは苦笑した。 「……はは」 その直後、リポーターはポケットに違和感を覚えた。 「ん?」 何かが入っている。 「……え?」 取り出したのは、一冊の聖書だった。 「聖書!? 聖書なんで!?」 遠くを歩いていた宣教師が、こちらを振り返る。 そして、ほんの少しだけ笑った。 「布活……成功だ」 宣教師は、また歩き出した。 その後、宣教師の布教能力は、自分でも知らないうちに熟達していた。 すれ違う人々に、鮮やかな手つきで聖書を差し出す。 立ち止まった人間を見つければ、ビラ配りの要領で素早く手渡す。 「はい、どうぞ!」 「えっ、ちょっ……!」 気づいたときには、もう次の通行人へと向かっていた。 聖書の山は、少しずつ減っていった。 その様子を、天界モニターから天使たちが静かに見つめていた。 天使たちは画面を凝視する。 「今のシーン、巻き戻してください!」 映像が巻き戻される。 画面の中では、宣教師が通行人とすれ違っていた。 一瞬。 ほんの一瞬だった。 宣教師は、通行人に気づかれないほどの速さで聖書を渡していた。 「……恐ろしく速い布教」 「私でなければ見逃してしまう……」 「これは本当に布教活動なのか……?」 一方、宣教師本人は浮かれていた。 アプリのおかげで、ポイントは順調に貯まっていく。 それに、この聖書。 わざわざお願いする必要はない。 とにかく渡してしまえばいいのだ。 受け取ってもらえるかどうかなど、気にする必要はない。 一冊渡せば、一ポイント。 それだけは確実なのだから。 宣教師は、次々と聖書を配っていった。 通行人に。 店の客に。 街を歩く人々に。 誰が受け取ったのか。 誰が読んでくれるのか。 そんなことは、もうどうでもよかった。 スマートフォンが鳴る。 『ヘブンポイントを獲得しました!』 宣教師は画面を確認し、満足げに微笑んだ。 「……よし」 かつて、彼は人々を救いたいと願っていた。 聖書が誰かの心の支えになればいい。 そう思っていた。 だが、いつしかその願いは消えていた。 残ったのは、ポイントを貯めることへの執着だけだった。 宣教師は、次の聖書を手に取った。 そして、また歩き出した。 そのときだった。 「宣教師、宣教師」 聞き覚えのある声が、頭の中に響いた。 「聞こえますか? 宣教師」 宣教師は足を止めた。 「……はい。聞こえております」 天の声は、いつになく真剣だった。 「最近、あなたの布教活動について、天界でも議論されていますよ」 「……議論?」 「ええ」 「あなたは、どうしたいのですか?」 「……どう、とは?」 「人々に聖書を読んでもらいたいのですか?」 「それとも、ポイントを貯めたいのですか?」 宣教師は口を開きかけた。 しかし、言葉が出てこなかった。 やがて、宣教師は声を絞り出した。 「そんな……」 「そもそも、あなたが言われたのですよ?」 「ポイントを貯めろと」 「聖書を配れ、アプリを広めろ、と……」 天界は静まり返った。 やがて、天の声が響いた。 「この愚か者!!」 「……!?」 「誰が、そんなことのために聖書を配れと言いましたか!」 「私たちは、人々を導きなさいと言ったのです!」 「ポイントを貯めることだけに夢中になり、肝心の人々を忘れてどうするのです!」 宣教師は困惑した。 「し、しかし……ヘブンポイントが……」 「ヘブンポイント! ヘブンポイント!」 「あなたはそればかりではありませんか!」 宣教師は、何も言えなかった。 天の声は、さらに続けた。 「罰として、今まで貯めたポイントは没収します!」 「もう一度、自分が何のために布教活動をしているのか、頭を冷やして考えなさい!」 「そ、そんな……!」 スマートフォンが鳴った。 『天界ポイントサービスからのお知らせ』 『規約違反に伴い、保有ヘブンポイントを全額没収いたしました』 『現在の保有ポイント:0 HP』 宣教師は、画面を見つめたまま立ち尽くした。 あれほど必死に貯めたポイント。 何年も歩き続け、聖書を配り、アプリを広めてきた。 そのすべてが、一瞬にして消えてしまった。 「そんな……」 「私は、間違っていたのか……?」 手の中には、一冊の聖書が残っていた。 「私の今までの努力は、一体……」 それから、宣教師は自分を見つめ直す旅に出た。 スマートフォンをしまい、聖書を一冊だけ抱えて、街を離れた。 人里離れた静かな場所で、彼は腰を下ろした。 そして、長い間開くことのなかった聖書を、ゆっくりと開いた。 一ページ。 また一ページ。 彼は、聖書を読み進めた。 そこに書かれている言葉を、何度も読み返した。 宣教師は、目を閉じた。 「……私は、何のために歩いていたのだろう」 ポイントを貯めること。 ランクを上げること。 天国に近づくこと。 いつしか、そればかりを考えていた。 答えは、すぐには見つからなかった。 それでも彼は、聖書を読み続けた。 ポイントのためではなく。 誰かに褒められるためでもなく。 ただ、自分自身と向き合うために。 長い旅の中で、宣教師は少しずつ考えるようになった。 天国に行くことが、本当に目的だったのだろうか。 それとも、自分が誰かのためにできることを探していたのだろうか。 彼はまだ、答えを見つけてはいなかった。 だが、もう急ぐ必要はなかった。 スマートフォンが鳴ることもない。 ランクを確認する必要もない。 宣教師は聖書を閉じ、空を見上げた。 そして、再び歩き始めた。 やがて宣教師は、ある小さな町で一人の老人に出会った。 老人は、ボロボロになった聖書を抱えていた。 表紙は擦り切れ、ページの端は黄ばんでいる。 何度も読み返したのだろう。 老人は毎日、静かに神へ祈りを捧げていた。 その人生は、決して恵まれたものではなかった。 働いても報われず、苦労して築いたものを失い、晩年になっても豊かな暮らしとは縁がなかった。 それでも、老人は信仰を捨てなかった。 どんなに貧しくても、困っている人がいれば自分の分を分け与えた。 自分が苦しいときでさえ、誰かの幸せを願った。 そして、どんなに辛い出来事があっても、最後には必ず神に感謝した。 「今日も一日、生きることができました」 「ありがとうございます」 老人は、そう言って頭を下げた。 宣教師は、その姿を遠くから見つめていた。 なぜ、これほど報われない人生を送ってきた人間が、なおも感謝できるのだろう。 なぜ、自分の生活さえ苦しいのに、他人を優先できるのだろう。 そして、なぜ、この老人は見返りを求めないのだろう。 宣教師は、ふと自分の手を見た。 かつて、自分も聖書を抱えて歩いていた。 人々を助けたい。 迷える羊たちを導きたい。 そう願っていた。 だが、いつしか自分は、何かを得るために歩くようになっていた。 ポイント。 ランク。 天国への到達。 そのために、聖書を配っていた。 宣教師は、再び老人を見つめた。 そこにいたのは、特別な力を持つ人間でも、偉大な聖職者でもなかった。 ただ、信仰を胸に、懸命に生きている一人の老人だった。 それなのに。 宣教師には、その姿がまぶしく見えた。 老人の姿に、若き日の自分を見ていた。 宣教師は、老人のもとへ歩み寄った。 「あの……お願いがあります」 老人は顔を上げた。 「その聖書を、私にいただけませんか?」 老人は少し驚いたような顔をした。 だが、すぐに微笑み、快く聖書を差し出した。 「ええ、どうぞ」 宣教師は、両手でそれを受け取った。 そして、じっと見つめた。 表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。 ところどころページは破れ、長年の使用で文字が掠れ、読めなくなっている箇所さえあった。 一体、どれほど読み続けたのだろう。 どれほどの祈りを、この一冊に捧げてきたのだろう。 宣教師は、言葉を失った。 やがて彼は、カバンから新品の聖書を取り出した。 「……これを、どうぞ」 老人は新品の聖書を見つめた。 そして、静かに首を横に振った。 「私には、もう聖書は必要ありません」 宣教師は、驚いて老人を見つめた。 老人は、自分の胸にそっと手を当てた。 「大切なことは、すべて私の中にありますから」 宣教師は、何も言えなかった。 老人は穏やかな顔で続けた。 「この本には、たくさんのことを教えてもらいました」 「苦しいとき、どう生きればいいのか」 「誰かを憎みそうになったとき、どうすればいいのか」 「自分が何も持っていないときでさえ、誰かに与えられるものがあるということも」 老人は、擦り切れた聖書を見つめた。 「私は、この本から多くのものをいただきました」 「だから今度は、私が誰かに与える番なのです」 その言葉に、宣教師は胸を打たれた。 ずっと忘れていた、大切なことを思い出した。 「私は……なんと愚かだったのか……」 宣教師は、老人から受け取ったボロボロの聖書を、そっと胸に抱えた。 そして、自分の聖書を老人に差し出した。 「これは……私の人生です」 「どうか、受け取っていただきたい」 宣教師は、深く頭を下げた。 老人はしばらく聖書を見つめていた。 そして、穏やかな笑顔でそれを受け取った。 「ありがとうございます」 その瞬間だった。 天から、懐かしい声が響いた。 「宣教師……」 「ずっと見ていましたよ」 宣教師は、ゆっくりと空を見上げた。 「あなたは、真の布活を成し遂げましたね」 そのとき、宣教師のスマートフォンが鳴った。 『おめでとうございます!』 『100万ヘブンポイントを追加しました!』 宣教師は、画面を見つめたまま固まった。 「……ひゃ、100万?」 天の声は、優しく告げた。 「ええ。あなたが本当に大切なものを取り戻した、その証です」 宣教師は、スマートフォンを見つめた。 かつてなら、飛び上がって喜んでいただろう。 何度もポイントを確認し、ランクを調べ、天国への到達を夢見ただろう。 だが、今は違った。 宣教師は、静かにスマートフォンをポケットにしまった。 そして、老人に向き直った。 「……ありがとうございます」 老人は、不思議そうに首をかしげた。 「何か、いいことがあったのですか?」 宣教師は、微笑んだ。 「ええ」 「とても大切なことを、思い出しました」 天の声が響いた。 「それでは、天国へ行きましょう」 「宣教師、準備はいいですか?」 宣教師は、しばらく考え込んでいた。 「……宣教師?」 「どうしました?」 「念願の天国ですよ?」 宣教師は、静かに口を開いた。 「私には……まだまだ、やらねばならぬことがあります」 天の声は問いただした。 「……それは?」 宣教師は、顔を上げた。 「それは……」 「布活です!!」 宣教師の顔に、笑顔が広がった。 彼は、真っ直ぐ前を向いた。 そして、ボロボロの聖書を抱え、 新たなる道へと歩き出した。 END
片思い
あなたは死んだ。 もう戻らない。 帰ってこない。 生きたあなたはここにはない。 あなたはどこまでも清く、透き通ってしまった。 天国はあるだろうか。 そこにあなたはいるだろうか。 僕はそこへ行けるだろうか。 先立った後のあなたの巣は空っぽで、 埋めるものなど何もない。 あなたは文字通りの風になってしまったんだ。 僕はあなたの存在などに期待はしなかった。 しなかったが。 あなたが不在の今、 世界は酷く寒い。 温度がない。 僕に持ち合わせがないからか? 分からないが、一つ確かなのは 僕の全てはあなたであり、あなたの全てが僕の全てだったことだ。 愛しいあなた。 僕の感情の全てを司った人。 僕はあなた以外を目に入れることがきっと出来てはいなかったのだ。 あぁ、嫌だ嫌だ。 あなたは絵になってしまったのだ。 僕は絵が大嫌いだ。 無駄に脳内を美しく着飾りどこまでも研ぎ澄ましたみたいな、 それを美徳とするような佇まいが嫌いだった。 しかしあなたが絵を好きと言ったので僕は何も言わなかった。 それどころか好きになろうとさえした。 そんな時にあなたは去った。 そしてあなたはあなたの好きな絵になった。 きっと聡明なあなたなら僕の思いに気づいていただろうに。 なんと残酷で美しい人なのだろう。 僕は空っぽで仕方がない。 部屋を見回した。 そこにはあなたの好物が八割と、 生活の気配と僕のものが一割ずつあった。 高価な酒、きつい煙草、本、絵、そして筆とノート。 それから服、香水、化粧品。 あなたはあなたの形のために金を全てを費やした。 僕にはあなたが無条件に美しく映っていたが。 まぁ、あなたには分からないだろう。 あぁ、部屋は空っぽなんだ。 改めてそう思わされた。 品々に思いなどない。 ただ合理的な美への追求とゴミがあるだけだ。 僕は動けなくなった。 動けない僕には埃一つでさえ集中しなくてもはっきりと見えた。 僕は化石のようだ。 死んだのはあなたなのに。 狡い人だ。 悪い人だ。 最低な人だ。 ただ世界を見る目は乾くばかり。 悲しみや寂しささえ僕は持つことを許されない。 恋は、愛は、信用は情は、罪なのか。 罪悪なんだろうか? 僕に扉はもう存在しない。 消え失せたんだ。 僕の部屋には羽が散り乱れただけだ。 ここは鳥籠で、揺籠だ。 築いた全て、意味が消えたのだ。 僕はどうしようもないんだ。 もう治らない。 治らない僕は、あるかなきかの天国に、 いるか否かわからぬ人を想って眠りにつく。 苦しみはない。 僕には苦しみさえも贅沢品のようだから。 過ぎゆく一切は無情だ。 時は僕を引っ張るだけにすぎない。 僕に地面はない。 僕には天もない。 僕はただ、骨というものになるだけだ。
『全宇宙破壊神の超究極・終末ボタン』
その日、鈴木一郎(すずきいちろう・29歳)の元に届いたのは、明らかに密輸品としか思えない禍々しいオーラを放つ段ボール箱だった。 品名欄には、掠れた文字でこう書かれている。 『全宇宙破壊神の超究極・終末ボタン(取扱注意・返品不可)』 「いや、誤配だろ」 一郎はため息をつき、お茶をすすった。 彼はしがないシステムエンジニアであり、昨晩も深夜までサーバーのバグと格闘していた。 そんな彼に、宇宙を滅ぼすような大層なボタンが届くはずがない。 きっとどこかの悪質なユーチューバーの企画か、タチの悪い悪戯に違いない。 そう思いながらも、男というのは「ボタン」と「超究極」という単語に弱い生き物である。 一郎はカッターナイフを手に取り、厳重に巻かれたガムテープを切り裂いた。 箱の中から現れたのは、高級感あふれる黒いベルベットのクッション。 そしてその中央に鎮座する、直径十センチほどの、やたらと光沢のある真っ赤なボタンだった。 ボタンの横には、妙に丁寧な日本語で書かれた説明書が添えられている。 『拝啓 地球の知的生命体様。 この度は「超究極・終末ボタン」をご開封いただき、誠にありがとうございます。 本ボタンは、押した瞬間に全宇宙のすべての物質を分子レベルで崩壊させ、完全なる無に帰すことができる、神々の最終兵器です。 なお、誤操作防止のため、ボタンを押す際には少し固めのクリック感(約3キログラムの加重)を設定しております。また、宇宙が滅亡した後のアフターサービスおよびご返金には応じかねますので、あらかじめご了承ください。敬具』 「敬具、じゃないんだよ」 一郎は思わず声に出して突っ込んだ。あまりにも壮大すぎる嘘に、逆に清々しささえ覚える。 普通ならここでゴミ箱行きか、警察に相談するところだが、一郎は極限の寝不足だった。 脳の判断能力が著しく低下していた彼は、あろうことかそのボタンを、テレビのリモコンやティッシュ箱が並ぶ居間のローテーブルの特等席に配置してしまった。 「まあ、インテリアとしてはエッジが効いてていいか」 これが、すべての悲劇の始まりだった。 翌朝。 一郎はスマートフォンのアラーム音で目を覚ました。時刻は午前七時四十五分。 会社への始発列車が出るまで、あと十五分しかない。 「やべえ! 遅刻する!」 ベッドから飛び起き、寝癖も直さずにスーツに着替える。 ネクタイを締めながら居間に駆け込み、カバンに必要な書類を詰め込む。 その時、彼の右肘が、ローテーブルの端に置いてあった「超究極・終末ボタン」に激突した。 ガコン。 説明書にあった通り、妙に手応えのある「約3キログラムの加重」が、一郎の肘を通じて確かに感じられた。 ボタンが、完全に押し込まれた。 「あっ」 一郎の動きが止まった。 全身の血の気が引いていくのが分かった。 いくら悪戯だと思っていても、品名が品名である。 もし、これが本物だったら? 自分の肘のひと押しで、銀河系も、太陽系も、そしてこの後行くはずだった会社も、すべて消滅してしまうのではないか。 一秒。 二秒。 三秒。 何も起きない。 窓の外からは、いつも通りスズメの鳴き声が聞こえる。 遠くで車のクラクションが鳴り、隣の部屋からはテレビのニュース番組の音が漏れ聞こえてくる。 「……なんだ、やっぱり偽物か」 一郎は深く安堵の息を漏らした。当然だ。 宇宙を滅ぼすボタンが、一介のサラリーマンの肘鉄で発動してたまるか。 彼はカバンをひったくり、全力で玄関へと走った。 しかし、一郎は気づいていなかった。 ボタンの底面に仕込まれていた、小さな液晶画面に、赤い文字でこう表示されたことを。 『世界滅亡シークエンスを開始します。なお、地球の回線速度が著しく遅いため、滅亡データのダウンロードに約二十四時間かかります。進捗状況:0.01%』 宇宙の神々の兵器は、まさかの「オンラインアップデート型」だったのだ。 その日の夜、午後九時。 一郎は疲れ果てて帰宅した。 上司からの理不尽な説教と、終わらないバグ修正で精神はボロボロだった。 「はぁ……もういっそ、本当に宇宙が滅びてくれれば仕事に行かなくて済むのにな……」 独り言をこぼしながら、居間のソファに倒れ込む。 ふとローテーブルに目をやると、例のボタンの液晶画面が怪しく明滅しているのが見えた。 『進捗状況:58.4%。バックグラウンドで滅亡ファイルを展開中。地球のWi-Fiを検知しました。ダウンロードを高速化します』 「……は?」 一郎は飛び起きた。ボタンを凝視する。画面の数字は、一秒ごとに「58.5%……58.6%……」と確実に増えている。 「これ、マジのやつじゃん!!」 冷や汗が滝のように流れ落ちる。 嘘だろ。本当に宇宙が滅びるのか。自分の肘のせいで。 しかも理由が「我が家のWi-Fiに繋がって高速化したから」って、神々の兵器のインフラはどうなってるんだ。 一郎は慌てて説明書を引っ張り出した。必死になって裏面や隅々を読み漁る。 しかし、どこにも「キャンセル方法」の記述はない。 あるのは『よくある質問:Q.ボタンを押しても滅亡しません。A.ルーターの再起動をお試しください』という、絶望的に役に立たない情報だけだった。 「待て、落ち着け。こういうのは、もう一回押したら止まるパターンだろ!」 テレビのリモコンの電源ボタンと同じ原理だ。一郎は意を決して、もう一度ボタンを力強く押し込んだ。 ガコン。 液晶画面の表示が変わる。 『ユーザーによる二回目の入力を検知しました。滅亡オプション「派手な爆発(BGM付き)」が追加されました。進捗状況:72.0%』 「追加すんな!!」 余計なことをしてしまった。一郎は頭を抱えてのたうち回った。 あと数時間で、この世界はおろか、宇宙全体が粉々になる。 一郎は、自分が死ぬこと自体よりも、「宇宙を滅ぼした戦犯」として歴史(歴史すら残らないが)に名を残すこと、そして何より、このくだらないボタンのせいで全てが終わるという理不尽さに激しい憤りを覚えた。 何か方法はないのか。 そうだ、カスタマーサポートだ。説明書の最下部に、極小の文字で何かが書かれている。 『お問い合わせ:オリオン座第参星雲・神々カスタマーセンター(通話料は発信者負担・光年単位の遅延あり)』 「光年単位で遅延してたら、繋がった頃には宇宙がないんだよ!」 万策尽きた。 現在の進捗状況、85.0%。 時刻は午後十一時。あと一時間ほどで、ダウンロードは100%に達するだろう。 一郎は諦めた。 どうせ死ぬなら、最後くらい贅沢をしよう。 彼はコンビニへ走り、普段なら絶対に買わない一缶五百円の高級ビールと、一番高いポテトチップスを買い込んできた。 部屋に戻り、プシュッと小気味いい音を立てて缶を開ける。 「クソ喰らえ、宇宙め」 ビールを喉に流し込む。美味い。滅亡前のビールは格別だ。 液晶の数字は、ついに99.0%に達していた。 『99.1%……99.5%……99.9%……』 一郎は目を閉じ、その時を待った。 さらば、理不尽な上司。さらば、終わらないデスマーチ。さらば、家賃八万円のワンルームマンション。 『100%。ダウンロードが完了しました。宇宙滅亡プログラムを実行します』 部屋が、眩い純白の光に包まれた。 頭の中に、なぜか壮大なオーケストラによる、やたらとノリの良いポップス(滅亡オプションのBGM)が流れ始める。 いよいよだ。身体が分子レベルでバラバラに――。 その時だった。 『ピピッ。エラー:空き容量が不足しています』 機械的な電子音が響き、頭の中のBGMがブツッと途切れた。 光が収まり、元の薄暗い居間が姿を現す。 一郎は恐る恐る目を開けた。自分の手を見る。ちゃんとある。部屋もある。ビールも残っている。 ボタンの液晶画面を見ると、そこには見慣れた、しかし宇宙の兵器としてはあまりにも情けないエラーメッセージが表示されていた。 『宇宙滅亡ファイルの展開には、2.5テラバイトの空き容量が必要です。現在の内部ストレージの空き容量:12キロバイト。不要なシステムファイルを削除するか、SDカード(別売)を挿入してください』 「容量不足かい!!!!」 一郎は盛大にずっこけた。 神々の最終兵器のくせに、ストレージ容量が初期のフロッピーディスク並みだった。 そんな大容量の滅亡データをダウンロードさせるなら、最初からそれなりのHDDを積んでおけと言いたい。 画面には、さらに通知が表示される。 『ストレージが限界のため、本端末はこれより強制終了(シャットダウン)します。未保存のデータは消去されます』 プツン、という音と共に、液晶画面の明かりが完全に消え、ボタンはただの「赤いプラスチックの塊」へと戻った。 静寂が戻った居間で、一郎はしばらく呆然としていた。 手元には、半分残った高級ビール。 時計の針は、午前零時を回ったところだった。 「……助かった、のか?」 よく分からないが、神々のうっかりミスによって、宇宙は守られたらしい。 一郎は、緊張の糸が切れたせいで、急激な睡魔に襲われた。 「もうどうでもいいや。寝よう」 彼はボタンをゴミ箱に放り込み、ベッドに潜り込んだ。 翌朝。 午前七時四十五分。 「やべえ! 遅刻する!」 一郎は昨日と全く同じセリフを叫びながら飛び起きた。 スーツに着替え、居間に駆け込み、カバンを持って玄関へダッシュする。 その時、彼のスマートフォンが震えた。上司からの緊急メールだった。 『鈴木くん、至急連絡。会社のメインサーバーが、原因不明の「容量不足」でシステムダウンした。君の仕込んだ昨日のバグのせいで、ログファイルが無限増殖したらしい。今すぐ来て対応してくれ』 一郎は、玄関で凍りついた。 神々の兵器すら拒絶した「容量不足」の悲劇が、今度は自分のせいで会社に起きている。 「……神様、お願いです。今すぐSDカードを買うので、やっぱり宇宙を滅ぼしてください」 一郎の悲痛な願いが届くことはなく、今日も地獄の満員電車が彼を待っていた。
モデル(仮)
モデル(仮) 「北嶋先生、お疲れ様です。4Bデッサン画、完成ですね。午後からは、2BとBの作品もお約束どおりにお願いいたします」 そう言って星川修一は、今度はこちらに向かってやって来た。 「おつかれさまです。とりあえずお茶をお淹れしますね。そこのガウンを羽織っていただいて、お茶が済みましたら控え室でお昼休憩してください。軽食などもご用意させていただいておりますので」十七歳で裸婦画のモデルをしている添田真由は、やれやれ、まだきょうは終わらないのかと軽く自虐的な思いを心の内側にたたえた。 真由は小さな声で「あ、はい……ありがとうございます」星川に言われるまま、用意されていた厚手のガウンを小さく身震いしながら羽織った。張り詰めていた緊張が解けると同時に、どっと押し寄せてきた疲労感に気付く。絵のモデルというのは、ただじっとしているだけのように見えて、想像以上に体力を消耗するものだった。 ソファに深く腰掛け、差し出された温かいお茶のカップを両手で包み込む。湯気の向こうでは、画家の北嶋が今しがた描き終えたばかりのキャンバスを、愛おしそうに見つめていた。 「どうですか、星川さん。彼女の持つ独特の陰影、4Bの柔らかさが見事にハマったと思いませんか?」 北嶋が満足げに声を弾ませる。星川は顎に手を当て、完成したばかりのデッサンをじっくりと見つめた。 「ええ、素晴らしいです。肌の柔らかな質感と、背景に溶け込むような光の表現が実に見事です。ですが……」 星川は不敵な笑みを浮かべ、真由の方へと視線を向けた。 「午後からの2B、そしてBの硬さで描かれる彼女は、また全く違う表情を魅せてくれるはずです。先生、後半も期待していますよ」 時計の針は間もなく正午を指そうとしていた。束の間の休息の後、さらに鋭い鉛筆の芯が真由の肌の輪郭をなぞる時間が始まる。彼女はガウンの襟元を少し強く握り締めながら、午後の画架に向かう自分の姿を想像していた。 裸婦画のモデルには半裸と全裸があるが、真由の場合は後者だ。なぜなら、その方がモデル代が高いためである。 控え室に着いた真由は、洗面ボウルで手を洗ってから、美大側が用意してくれたサンドイッチをひと口齧った。ライ麦の香ばしいパンに、スモークサーモンとクリームチーズが挟まっている。そしてペットボトルのストレートティーで、それらを流し込んだ。 食事を終えると、部屋の隅にある三面鏡でヘアメイクをささっと直してから座り心地のよいソファにもたれかかった。自宅からかなり遠方の美大での仕事だったため、早朝の出発だったのだ。ソファでウトウトしていると、スタッフが控え室のドアをノックしてから少し開けて「モデルさーん!午後の準備をしてからアトリエまでお願いしまーす!!」と声をかけてきた。真由ははっ、と飛び起きて再び例の三面鏡で顔まわりのチェックをしてからアトリエに向かった。 北嶋優作は、星川修一とともに先にアトリエにいた。ふたりで何かを話している。多分、構図の話だろう、と真由は思った。そんなことは正直どうでもいい。モデルはあくまでも「モデル」であって、画家が描きたいポーズをとってさえいれば、別に何も咎められることはない。 すると、しばらくして北嶋が柔らかな口調で「午後イチは、シャープなラインが欲しいんだ。だからモデルさんさえ良ければ次は立位がいいんだけど」午前は、ゆったりとしたソファに横になるポーズだった。星川が北嶋に「構いませんよ、ねぇ」と真由に聞いたので「はい。どのような格好でいればいいでしょうか」と北嶋に直接、おずおずと尋ねてみた。 「立位なら。ポージングはおまかせするよ」意外な返事に一瞬戸惑ったが、真由は「こんなのはどうですか?」と、両脚を交差して立ち、腕はまっすぐ頭上に重ねて、更に顔を天に向けるポーズをした。すると北嶋は「いいね。流石。じゃぁ、描くよ」 キャンバスに炭が走る、カサカサという乾いた音がアトリエに響き始めた。どうやら、午後からの画法は、デッサン画から油絵に変更になったらしい。真由は頭上で両手を重ね、顔を天に向けたまま、じっと身体を固定している。全身の筋肉がかすかに緊張し、普段のポーズよりも呼吸が浅くなるのが自分でも分かった。いつもなら、画家の視線は「物体」を見るそれとして受け流せる。しかし、北嶋の視線が自分の肌をなぞるたび、そこに熱のようなものを感じてしまう 。(お兄さんくらいの、年の男の人―) その事実を一度意識してしまうと、全裸で立っている自分の輪郭が、急に生々しさを帯びて迫ってきた。北嶋の「穏やかなもの言い」とは裏腹な、獲物を捕らえるかのような鋭い眼差し。彼は言葉少なに、しかし確実に真由の身体の「シャープなライン」を画紙に定着させていく。「真由さん、少し肩の力を抜いて。……そう、そのままで。すごく綺麗だ」北嶋がふと漏らした低い声に、真由の心臓がどくりと跳ねた。モデルを褒める言葉など、他の画家からも耳にタコができるほど言われてきた。それなのに、なぜ彼の言葉だけが、皮膚を通り抜けて内側にまで届いてしまうのだろう。顔を天に向けているおかげで、赤くなりかけた頬を彼に見られずに済んだことだけが救いだった。 アトリエの隅で、星川が絵の具の準備をしながら、じっとふたりの様子を伺っている。星川の視線には、北嶋に対する純粋な尊敬と――そして、どこか冷徹な「観察者」としての目が混ざっていた。星川は、北嶋が真由というモデルを得て、今まさにインスピレーションを爆発させている瞬間を、見逃さないように記録しているかのようだった。 「……よし、一度休憩にしよう」時計の針が三十分を指した頃、北嶋がふう、と息を吐きながら木炭を置いた。キャンバスに要領よくフィキサチーフを吹きかけながら「星川さん、真由さんにガウンを」「はい、先生」星川が手際よく立ち上がり、厚手のガウンを持って真由に歩み寄る。その時、星川は真由にしか聞こえないような低い声で、ぽつりと言った。 「珍しいな。北嶋先生が、あんなに迷いのない筆の進め方をするのは」 「え……?」 ガウンに袖を通しながら、真由が星川を見上げると、彼は意味深な笑みを浮かべたまま、すでに北嶋の画架のそばへと戻っていた。キャンバスに描かれた自分の姿を、真由はまだ見ていない。けれど、午後からの本格的な着色を前に、アトリエの空気は、午前中とは明らかに違う「熱」を孕み始めていた。 北嶋優作は、とある有名美大を卒業したての、新進気鋭の画家である。美大在学時からメキメキと頭角をあらわし、今、界隈を大いに賑やかにしている。甘いマスク、穏やかなもの言いとは裏腹にその力強いデッサン画や油絵の実力は、群を頭ひとつ抜きん出ている。傾倒する女性ファンも多く、『抱かれてみたい男性画家』のナンバーワンには間違いなく輝くであろう人物だ。 そして今まさに真由は全裸でそんな男性画家に裸婦画を描かれている。いつもなら、自分の親以上の年の画家だから、さほど恥ずかしくはないはずなのだが、きょうに限っては勝手が違う。助手の星川は、30代中ごろといったところか。かなり年下の北嶋を『先生』と呼ばなければならないことにジレンマの片鱗は微塵も感じない。いや、感じないだけか。 「少し、お茶でもどうですか」と北嶋は真由に伝えると同時に「星川さん、足りない絵の具が少しあるので、買い出しお願いします」星川が画材の買い足しのためにアトリエを出ていくと、北嶋は自ら淹れたハーブティーのカップを真由に手渡した。 真由は厚手のガウンの合わせ目をきゅっと握り締め、ソファの端に腰を下ろす。北嶋は少し離れたパイプ椅子に腰掛け、長い脚を組んだ。キャンバスは、真由の立ち位置からは裏側しか見えない角度に置かれている。 「……ありがとうございます」 真由が小さく一口すすると、温かい湯気とともに、張り詰めていたアトリエの空気がわずかに緩んだ。 「驚いたよ。さっきのポーズ」北嶋がカップを片手に、悪戯っぽく微笑んだ。 「モデルさんにポージングを任せると、たいていは午前中の延長で、少しひねりを加えたくらいの座りポーズになることが多いんだ。でも、君は迷わず立ち上がって、天を仰いだ。あの瞬間、アトリエの光の回り方がガラッと変わった気がした」 「あの、お気に召さなかったら、すぐに変えようと思っていました」 真由は視線をカップに落としたまま、上気した顔を隠すように答えた。 「まさか。最高だった。星川が言わなかったかい? 僕の筆が乗っているって。言葉通りだよ。君の身体のラインは、ただ細いだけじゃなくて、内側に強い芯がある。僕が今探している『現代のヴィーナス』のイメージに、ぴったりなんだ」 現代のヴィーナス。あまりにも真っ直ぐな賛辞に、真由の胸の奥の泉が、またトクトクと恥ずかしさを生み出していく。 「北嶋先生は……」真由は思い切って、ずっと気になっていたことを口にしてみた。「その、たくさんのモデルさんを描かれてきたんですよね。ファンの方も大勢いらっしゃいますし」 「先生、はよしてよ。アトリエの外じゃ、ただの二十代前半の男だからね」北嶋は苦笑しながら、カップを机に置いた。そして、少しだけ真由の方へ身を乗り出す。「ファンがどれだけいようと、関係ないよ。僕がキャンバスの前で一対一で向き合うのは、目の前にいるモデルさんだけだ。真由さん、君は僕を『親以上の歳の画家たち』と同じように見ているかもしれないけれど……僕は君を、ただの『物言わぬモデル』として描いているわけじゃない」 北嶋の、穏やかだが射抜くような瞳が、真由の目を真っ直ぐに捉えた。 「君が恥ずかしがっていることも、呼吸が浅くなっていることも、全部デッサンに出ている。そして僕は、その君の『生々しい感情』ごと、絵の具でキャンバスに閉じ込めたいと思っているんだ」 その言葉は、まるで告白のようにも、あるいは画家としての冷徹な宣言のようにも聞こえた。真由の心臓が、ガウンの下で激しく音を立てる。 「……ずるいです」真由は消え入りそうな声で呟いた。「そんな風に言われたら、後半のポーズ、どんな顔をしていいか分からなくなります」北嶋は優しく、しかしどこか妖艶な笑みを浮かべた。 「そのままでいい。戸惑っている君も、きっと美しいから」 カチャリ、とアトリエのドアが開く音がして、星川が戻ってきた。二人の密やかな時間は、そこで終わりを告げた。 午後のセッションが終わり、アトリエに満ちていた張り詰めた空気が、北嶋の「よし、いったんここまで。ありがとう」という声でふっと緩んだ。 真由は頭上に伸ばしていた腕をゆっくりと下ろし、固まっていた身体を小さくほぐした。肌に触れる空気の冷たさに、自分が今までいかに集中し、火照っていたかを思い知る。 ガウンを羽織り、帯をきゅっと結んだところで、星川が「おつかれさまでした。お茶を淹れますね」と席を外した。アトリエには、真由と北嶋の二人だけになった。北嶋はパレットを置き、布で絵の具のついた指先を拭っている。その視線はまだ、イーゼルに載ったキャンバスに向けられたままだ。いつもなら、モデルが描かれている途中の作品を覗き見るのはタブーだと分かっている。けれど、心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほどに高鳴り、どうしても抑えきれなかった 。「あの……北嶋先生」真由は、自分でも驚くほど硬い声で呼びかけていた。「もし、よろしければ……少しだけ、見せていただくことはできますか?」北嶋の手が止まった。彼は少し意外そうに目を丸くしたが、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべ、キャンバスの横へと一歩退いた。「いいよ。まだ途中だけど、君がどう映っているか、見てみるといい」 促されるまま、真由はおずおずとイーゼルの正面へと歩みを進めた。そしてキャンバスへと視線を走らせた瞬間、息をのんだ。 そこにいたのは、紛れもない自分でありながら、まったく見たことのない「女」だった。荒々しくも迷いのない、力強い線の重なり。午前中の気怠げな横臥位とは対照的な、午後の光を浴びてまっすぐに天へと伸びる肢体。両脚を交差させ、全身の筋肉が緊張と弛緩の絶妙なバランスで保たれているその姿は、あまりにも生々しく、そして圧倒的に美しかった。 なによりも真由を動揺させたのは、その「表情」だった。顔を天に向け、目を閉じているはずの自分の顔。しかしキャンバスの中の彼女は、ただ無心にポーズをとっているのではない。どこか、秘められた熱を帯び、自らの裸体を晒していることに微かな歓びと、それ以上の切なさを滲ませているように見えた。 (見抜かれてる……) 真由の指先が、ガウンの襟元をきつく握りしめた。あの時、心の中で湧き上がっていた、泉のような羞恥心。北嶋という男を意識し、彼の手によってキャンバスに刻まれることに翻弄されていた、歪な自意識のすべてが、絵の具の層の奥から透けて見えるようだった。 甘いマスクの裏にある、画家の容赦のない、そして残酷なほどの観察眼がそこにあった。 「どうかな?」背後から、北嶋の柔らかい声が降ってきた。いつの間にか、彼はすぐ近くまで歩み寄っていた。微かに漂う、油絵の具と彼自身の匂いに、真由の身体が強張る。 「……すごく、綺麗です。でも、なんだか……」 「なんだか?」 「私じゃないみたいです。もっと、ずっと……」 言葉に詰まる真由を見て、北嶋はふっと悪戯っぽく、しかしどこか艶を帯びた目で微笑んだ。 「そう? 僕には、これが今の君そのものに見えるよ。僕の目を誤魔化そうとしても、身体は嘘をつけないからね」 その言葉は、まるで真由の心臓に直接触れるかのように響いた。ちょうどそこへ、トレイを持った星川が「お待たせしました」と戻ってきた。アトリエを支配していた濃密な空気が、一瞬で霧散する。 真由は逃げるように北嶋から一歩遠ざかりながら、もう一度だけキャンバスに目をやった。そこに描かれた自分の姿から、もう目が離せなくなっていた。 「お待たせしました。今日は少し、香りの強いアールグレイにしてみたんですが……お口に合いますかね」星川がトレイをローテーブルに置きながら、穏やかに微笑んだ。アトリエの片隅にある小さな応接スペース。真由はガウンを深く合わせたまま、勧められたソファに腰を下ろした。少し遅れて、北嶋もイーゼルから離れて真由の対面に座る。星川は二人に手際よくカップを配ると、自分は一歩引いた位置の丸椅子に腰掛けた。 「ありがとうございます、星川さん」 真由がカップを受け取り、温かい湯気に顔を近づけると、張り詰めていた呼吸がようやく少しだけ整うのを感じた。 「星川さん、あなたの淹れるお茶はいつもタイミングが良すぎるよ」北嶋がふっと緊張感を解いた笑みを浮かべ、カップに口を付ける。その表情は、先ほどまでキャンバスに向き合っていた「容赦のない画家」のものとはまるで違い、いつもの人当たりの良い青年そのものだった。 「先生が熱中しすぎると、モデルさんが倒れてしまいますからね。……それにしても」 星川はそう言って、少しだけ視線をイーゼルの上のキャンバスへと向けた。30代半ばの落ち着いた瞳が、一瞬だけ鋭く細められる。 「午後の一枚目から、ずいぶんと……熱が入っていますね。午前中の穏やかな空気とは、ガラリと変わった。真由さんのあの立ち姿、素晴らしい緊迫感です」星川の言葉に、真由は思わずカップを持つ手を震わせそうになった。 「あ、あの……ポージングは、北嶋先生がおまかせとおっしゃってくださったので、私、勝手にあんな……」 「いや、それが大正解だったんですよ、真由さん」 星川は真由の言葉を遮るように、しかしどこか含みのある笑みを浮かべて北嶋を見た。 「先生はいつも『モデルの自意識が邪魔だ』なんて生意気なことを言うくせに、今日の真由さんの自発的なポーズには、完全にノせられてしまったようだ。ねぇ、先生?」 「星川さん、人聞きが悪いなあ」 北嶋は苦笑しながら、カップをソーサーに戻した。 「僕はただ、彼女の身体が放つ『シャープなライン』に素直に反応しただけだよ。あの瞬間の彼女は、僕の想像以上のものを見せてくれた」 北嶋の視線が、再びまっすぐに真由へと注がれる。 「普段の君は、きっともっと自分を隠すのが上手なんだろうね。でも、あのポーズをとった時、一瞬だけ……何て言えばいいのかな。すごく純粋なものが剥き出しになった気がしたんだ。だから、描かざるを得なかった」 (純粋なもの……) 真由は、それが自分の内に湧き出た「羞恥心」や「北嶋を意識する歪な自意識」であると知っている。それを彼は「純粋」と呼び、芸術として切り取ろうとしているのだ。二人のやり取りを、星川は静かに見守っていた。 「なるほど……。先生をここまで刺激するモデルさんは、久しぶりかもしれません。真由さん、先生の絵の具の匂いに当てられて、疲れてはいませんか? 先生は一度火がつくと、相手のエネルギーを限界まで吸い上げようとするところがありますから」 星川の言葉は一見、真由を気遣う助手のものだった。けれど、その声の底には、北嶋という「若い天才」への絶対的な陶酔と、同時に、二人の間に生まれつつある濃密な空気を冷静に見定めようとする、どこか冷ややかな観察眼が混ざっているように見えた。 「大丈夫です……。少し驚いただけで、ちゃんと、最後まで努めさせていただきます」 真由は自分に言い聞かせるように、しっかりと答えた。 「それは心強い。……じゃあ星川さん、悪いんだけど、さっきの続きの準備を始めてもらえるかな。光が変わる前に、もう一気に進めたいんだ」北嶋が立ち上がりながら、助手へと指示を出す。「かしこまりました、先生」星川は立ち上がり、真由に一礼すると、再びあの掴みどころのない笑みを浮かべた。 「真由さん、次のセッションも、先生に負けない素晴らしい『嘘のない姿』を期待していますね」 その言葉が、これからのセッションでさらに自分を裸にされていく予感のように、真由の背中を小さく駆け抜けた。
夜空さん
夜空さん。 夜空さん。 あなたがまとうドレスには。 キレイキレイな赤の星。 夜空さん。 夜空さん。 あなたが履いてるブーツには。 キレイキレイな青の星。 夜空さん。 夜空さん。 あなたがつけてるスカーフには。 キレイキレイな金の星。 あなたがつけてるペンダント。 みんなの希望が詰まってる。
140文字小説+α その184 「預かる場所」
自転車で出かけた。だが、止めた場所が悪かったようで、自転車が撤去されてしまった。 まぁ、これは俺が悪いから仕方ない。どこまで取りに行けばいいんだ? 近くの電柱の張り紙を見る。 『自転車は、港町の喫茶店にて預かっています。』 なんで? 「はい、手続き終わりね。次からは、ちゃんと場所をよく見てね!」 「はい、すいませんでした」 半信半疑で、港町のとある喫茶店に行ってみたら、本当に俺の自転車があった。 いろいろと疑問が残るけれど、自転車を回収できたからいいか。 というか、せめて喫茶店の名前を教えてくれ。何件か違う喫茶店に行ってしまったぞ。 俺が、帰り支度を始めると、警官が話しかけてきた。 「あ、ごめん、お兄さん。罰金のこと忘れてた。罰金、5009円ね」 「はい。じゃあ、5100円から……」 警官からお釣りを受け取り、外へ出る。 そして、帰り路で自転車に乗りながら思う。 ……なんで罰金の金額で、端数が出たんだ?
枯れない彼岸花
関係とは一瞬にして崩れていく ほんの少しのすれ違い ほんの少しの自分勝手 自分に余力がない時にこそ自分勝手になって 相手の嫌なところが目につく 自分が間違えたと思いたくなくて これ以上自分を傷つけたくなくて 今まで過ごした時間が嘘のように一瞬で散ってゆく 今まで交わした言葉も わたしにくれた優しくて温かい言葉の数々も 元からそこにはなかったかのように消えてゆく メッセージではなく目を合わせて喋っていれば 自分の気持ちを下手くそでも言葉を余すほど伝えていれば 今日も一緒に笑えていたのかもしれない 貴方が辛くてしんどいことはわかってる だからわたしはわたしなりに 自分の機嫌はいつも以上に自分でとるように なんでも受け止めてあげれるくらいの気持ちで居た でもね、限界があるの 今はもう自分のことで手一杯 貴方のことまで考えてる余力はない もしかしたら、わたしは理解して欲しかったのかもしれない わたしも頑張っているということを認めてもらいたかったのかもしれない 幼稚だねすごくとても でもきっと人間ってそんなもん。 誰かに認められたくて 誰かに少しでも自分のことを理解してもらいたくて 仕方がないのかもしれない わたしたちどこですれ違ってしまったのかな ほんとに僅かの歪みが少しづつ積もっていたのかな 結局はこうなる運命だったのかな それなら彼岸花の本当の意味、聞いておけばよかったな 彼岸花は別名 相思華 . 「花は葉を思い、葉は花を思う」 お互いに姿を求めるのに決して出会えない。花は葉を思い、葉は花を思う為そう呼ばれている わたしたちも実は彼岸花のようになっていたのかもしれないね わたしには二輪の 貴方には一輪の 彼岸花を抱えて、別々で歩むべきなのかもしれない
ドアが ○○○ます
私はどこへ行こうとしていたのだろうか そもそも、ここはどこなのだろう 何一つ思い出せない [ ドアが閉まります 。] 聞き馴染みのある声と電子音 体が浮遊間に包まれ、下っていく そうだ、、 ここは、"エレベーター"だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ どこまでも続くかのように感じる あれから、約二時間ほど経った 流石に異常である ボタンは全部で15個。 これは15階の建物のようだ …そのような事がわかっても何も分からないが その時、とあるボタンに目が留まった 非常ボタンだ ここがどこかわかるやもしれない 人間と話せるかもしれない 私は、ボタンを強く押した ノイズが数秒流れ、誰かの吐息が聞こえる どうやら繋がったようだ [あ、あの。聞こえますか] 返答があるか確かめるために、声をかける 、、、 [すいません あの] 「聞こえています 続けてください」 女性、、の声が聞こえる [……ありがとうございます。 聞こえているんですね] [あの、ここがどこなのか、 教えていただけませんか] [私は……どうやら、 エレベーターの中にいるようなのですが] [どこへ向かっているのかも、いつから乗っているのかも、何も思い出せないんです] [ボタンは全部で十五個あります。でも、二時間ほど経っても、一向に止まる気配がありません] [……すみません。自分でも、何を言っているのかわからなくて] 沈黙が流れる 吐息は流れ続けている 繋がってはいるようだ 大きく息を吸い女性が話し始める 「大丈夫です。 えっと、 、、、、」 ずっと感じていた 女性の声の違和感 ………もしかして [もしかして、子供ですか?] 「すいません、大人じゃなくて」 女性は申し訳なさそうに話す 再度聞くと、14から16歳の声に聞こえる [こちらこそ察せず申し訳ございません 周りに大人はいますか?] 話を聞くと、どうやら少女も 私と同じ状況下に置かれていた事がわかった [あなたは家に帰る途中で 止まってしまったのですね] わたしと違い、記憶は所持していること 「この建物も、15階なんです」 エレベーターの構造が酷似している事 知れば知るほど謎は増えていく そんな時だった 電話越しに聞こえていた少女の声が途切れる そして、一つの不安を抱えて、 エレベーターは動きだした [あの子は大丈夫だろうか] 、、 このエレベーターは止まらない 結構、わたしのことは何もわからなかった その時だった エレベーターが、止まった 扉が今開こうとしている。 外に出れ 違う これはわたしの業務外だ 出ることは許されていない わたしは、口を開いた いつもの を言うために ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 電話が切れ、エレベーターが動きだす 「、、なんだったんだろう」 "あの、ここがどこなのか、 教えていただけませんか" あの音声は確かに、 聞き覚えがあった [ ドアが開きます 。]