燈虫

灰田フミ子は完璧な女である。 家事をこなし、不平も言わず、その風貌はまさに男の熟慮する虚像の女そのものであった。 だが、灰田フミ子には熱がない。 ない故に人の心に気づけないのだ。 しかし、人は熱がなかろうと完璧という名の街灯に惹き付けられてゆく。 冷たい電球に焼かれ、墜ちた燈虫は数しれず。 今宵も一人、燈虫が舞う。 その燈虫は口を開くと、 「永田栄一と申します。」 そう灰田フミ子に紡いだのであった。 神戸の一角、大通りから一本外れた道にあるオーセンテイックバーに、一人の男が気力のない足取りで入っていく。 扉を開けると、これはまた疲れた様子の小さな鐘が鈍い音を奏で男を歓迎した。 ギシギシと鳴る回転椅子に身を預け、男はふっと重い息を吐く。 「ジンをいただけないだろうか。」 男が一言そう言うと、バーテンダーはいつもの動作でシェイカーを振りだした。 シャカシャカ。シャカシャカ。 男はこの音の鳴る少しの時間が好きである。 定時上がりの許されない仕事場も、暗い部屋に孤独を抱えて帰る寂しさも、男の嫌いなものは全てこの音が消し去ってくれるような気になるのだ。 だから気づくのが遅れてしまった。 男から見て三席奥に一人の女が座っていることに。 なんて綺麗な人なんだろうか。 瞬きをするほどの短い時間であったが、男にそう思わせるほどにその女は妖艶であった。 濡羽色の髪と瞳、雪原のような白い肌、ほっそりとした体躯は紺のテーラードジャケットに包まれている。 困ったな、目が離せない。 視界から女を退けようと男は必死に目の前の酒をあおった。 瞬間、喉を焼くように液体が胃に流れ込む。 この酒は薬臭くて嫌いだ。 そう思いながら、女をまた盗み見ている自分に男は気づいた。 男は、思った。  自分はダメになってしまったのだろうか、見れば見るほどあの女が欲しくて堪らなくなるのだ。 そんな時である。 男が女を見た時、女もこちらを向いた。 今までは、横顔しか見えていなかったがこちらを見た女のなんと美しいことか。 女の顔は花のようで、椿に似ていると男は思った。 口元の紅がそう思わせたのか。 いや違う。 女の纏う雰囲気である。 雰囲気が花であるのだ。 あれは美しい庭先の椿であろう。 そんな事を考えている場合ではないのに、早く視線を外さねばならないのに。 只々、胸が高鳴るのだ。 「何か…御用でしょうか。」 凛とした声が室内に静かに響く。 凛としているのにどこか寂しげに聞こえるのは男の幻聴であろう。 この女は声までも美しい。 「永田栄一と申します。」 相手の名前が知りたい一心で男は、自分の名を伝えた。 「永田栄一さんとおっしゃるのですね。」 「灰田フミ子と申します。」 女はそう囁いた。 「灰田さんはよくこのバーに来られるのですか。」 灰田さん……いやフミ子に男がそう質問したのは、次会う機会を作るためだった。 「いえ、今日が初めてでございます。」 「永田さんはよく来られるのですか。」 灰田フミ子は世間話に付き合うように質問を返した。 「えぇ。私はよく利用させて貰ってます。」 そう男が言うと、フミ子さんは黒曜石のような黒い瞳を少しも動かさずに、 「そうなのですね。」 言葉少なく相槌を返したのだ。 その態度を見て男は気づいてしまった。 フミ子さんには熱がない、と。 氷のような女であることに。 それでも男は止まれやしない。 永田栄一は灰田フミ子という名の女に惚れたのだ。 きっと、フミ子からすれば男は燈虫に見えることであろう。 あぁ、冷たい熱に焼かれてしまった。 それでも男はこの女の熱が欲しいのだ。 そのために男は言葉を紡ぐ。 「来週の金曜日、この時間にまたお会いできませんか。」 「貴女に惚れてしまいました。…またお会いしたいのです。」 フミ子は凛とした瞳で男を見たが、その顔に笑みは浮かんでいなかった。 「単調でロマンチシズムな事柄に、私は騙されませんの。」 「…きっと私じゃなくてもよろしいのではなくて?」 「私は、貴方じゃなくても良いと思うもの。」 そう言うと彼女は寸分も酔っていないのであろう、会計を済ませノブを回す。 男はその言葉に唖然とし愉快に口を開けたまま、ただひたすらその言葉を咀嚼しようとした。 結果、男は何も言えなかったのだ。 だが去りゆく女の言う通りだとも思わなかった。 あぁ、あの女は酷い女だ。 男の赤き糸をいとも容易く、ぐちゃぐちゃに固めてしまった。 固めただけで解くこともしない、なんて自分勝手なのだろうか。 この思いが切符なら、男は目的地の見えないまま恋情という名の電車に乗らなければいけなくなってしまったのだから。 酷い酷い、酷い女だ。 冷たくて虚しくて、どうしようもない女だ。 だが、男は思った。  貴女が目的地になってくれることを私は祈ろう、と。 男は残りの酒を煽った。 噎せてしまうのも仕方はない。 男はいつも夢ばかりだが、今はこの薬臭い酒に救われたのだから。   「この酒は嫌いだ、現実のようでいかにもつまらない味をしている。」   けれど灰田フミ子はその苦味さえ甘さに変えたのだ。 恋をするには十分な采配であろう。 今日はもう酔えない、そう見切りをつけ男は店を出た。 空を見上げても星は光らず、ビルのネオンも今は寝静まっている。 街灯だけが明るくて、男はふと笑ってしまった。 「今日は、冷え込むな」 「光に飛び込む燈虫の気持ちが良く理解できるさ」 男はこの日、冷たき街灯に焼かれたのだ。

終わる夏

僕の心が熱く光るのに なにか名前をつけるとしたら それはきっと恋という。 花火みたいな笑顔に恋をした僕。 澄んだ心に恋をした僕。 期待して手を伸ばしてしまう僕。 暑い夏の日に笑う君は 太陽よりも花火よりも輝いていた。 だけどなんだか寂しくて だけどなんだか苦しかった。 心の中がぷちぷち音がして 時間が経つほど 僕の心がもろくなって 今にも崩れ落ちそうだった。 僕の心の光が時々途切れるのに なにか名前をつけるとしたら それはきっと失恋という。 恋をしている君に恋をした僕。 自ら叶わない恋に手を伸ばした僕。 わかっていても少し悲しくて わかっていても少し期待してる。 時間が経つほど 僕の心が熱く熱くなって どんどん焼けてって 今にもチリになってしまいそうだった。 暑い夏日々が僕の心の熱さを紛らわす。 降り注ぐ太陽の光が 今は何だかとても辛かった。 掴みたくても掴めない恋。 忘れたくても忘れられない恋。 どんなに必死に手を伸ばしても ずっとずっとずっと 届かないのは知ってるから。 本気になるほど僕の心の中の穴は 大きなって苦しくなって辛くなる。 寂しいと苦しいと辛いは ずっとずっとずっと 僕の心の中を走りまわって そんなどこにもいかない哀しみの置き場を ずっと探してる気がした。 もうすぐ終わる夏と一緒に とっくの前に終わっている僕の恋は 眩しくて輝いていて 暑くて熱かった。 あとがき 表紙の花は「向日葵」です。 花言葉は「あなただけを見つめる」「光輝」などがあるそうです。 ちなみに、紫色のには「悲哀」。 つまり、切ない、悲しいという意味もあるそうです。 私は「向日葵に紫色もある」ということの方が驚きでしたが…。 調べていると、「すごく紫」というわけではなく、 紫がかった濃い赤のような色をしているそうです。 今回はNoveleeを初めてちょうど2年。 少しでも成長してたら嬉しいです。 ここ最近アイデアがなくなりつつあります。 ですが投稿は続けていこうと思います。 私なりに頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。 では、また。

満月

お別れの日は、いつも通りの何気ない会話だった。それが一番幸せだったんだと気づいた。君が横切る背中がドアに消えた瞬間に、後悔だけがわたしを突き動かした。恋が純粋なものだと誰か証明してよ。声から出てきた言葉たちは、どこか取り繕った感じだった。どれもわたしの気持ちを表すには足りなさすぎて仕方なかった。重すぎないように気をつけていたら、なんでもないことしか言えなかった。本当の気持ちを伝えたいと縋る私じゃなくて、あなたの最後になりたかった。悲しくなかった。それでよかった。だけど、1人になったら訳もなく涙が出てきて、前に進まないといけないと思った。貴方を好きなままで別れられた私をこれからも好きでいたい。これからのことは分からないけど、誰かを好きになること、大切にし続けることを諦めない私でいたい。わたしは貴方に出会ったことで、それに気づけて変われたと思う。

死集 

第1章 死と世界 なぜ、人間は死というものに縛られるのか 車やナイフ 何故、人間は死が怖いのに簡単に人を殺せる道具を生み出すか 私にはわからない。 なぜ、死ぬと天国に行けるという嘘をつくのか 天国を見た者がいるのだろうか? 本当にそんなものがあると本気で信じているのか 天国があるという証拠がないのに人間はそれを1000年以上信じている 理由は簡単だ。 天国、極楽の世界そう考えないと生きていけないからだ 死を悪いものと考えること、いいことだと考えること どっちも大事だけど人間はどちらか選ばなければならない 第2章 憧れの死に方 私は、痛いのが嫌い 注射も点滴も嫌い 火や水に食べられるのは恐ろしい かと言って安楽死を許されるのは余命宣告された人や体全部が動かなくてもう終わりにしたい人 そんな、極限の絶望感に襲われた人しか許可されない なら、私はこう考える 私は花のように死にたい 植物の死に方は私にとって理想的だ 芽が生えて葉っぱがついて花が咲く 一連の生き方を終えたあと茶色くなり枯れていって実体は消える 痛くもないし怖くもない 花のように枯れて死にたい 最終章 死とはなに 死とは影だと私は思う 常に自分の体に張り付いている 死とは人間の生き方を輝かせてくれる光でもある ずっと生きるのは幸せ? 今にも死にそうな老人にはなりたくない だから死がある 死んだら全部終わるから人はいい方向に生きたいと思う 私たちは死んだら骨となる 私たちは死んだらまだ生きてる誰かが自分のために泣いてくれるのかもしれない 本当に天国で天使と手を繋ぎ踊るのかもしれない そう思うと死って怖くないのかもしれない

雑文 6

こうして自分の事をお話するのは久しぶりな気がしますが(需要があるとかその辺は置いといて)、なんだか何書いても上手くいかないので、やっぱりとりあえず自分の事を書こうと思います。 皆様はいかがお過ごしでしょうか。最近、めちゃくちゃ寒いですよね。暑いのが大嫌いかつ、通学が徒歩なのもあって、このくらい寒い方が僕は嬉しかったりします。汗をかかなくて済みますしね。でも雪とかは嫌かな。やっぱり徒歩なので、ちょうどいい塩梅だと助かります。 最近は、まあ良く生きています。執筆が進まない原因はなんだと考えた時に、執筆以外での趣味が増えてしまった事が挙げられるのではないかと思いつきました。 最近のマイブームはサッカーです。もちろん見る方の。 ワールドカップあたりからハマりだして継続中なのですが、今応援してるのはパリ・サンジェルマンです。マジでかっけぇです。トーレスとか、ドゥエとか、クヴァラツヘリアとか、とんでもなく好きです。クヴァラツヘリアが負傷で離脱してしまってめちゃくちゃ萎えてますが、シティ戦はほんとに熱かった。 あとはゲームとかも。私事ですが、最近PS5を買いまして。まじで驚いてばっかです。面白い。面白すぎるぞ。モンハンが大好きです。おすすめのゲームあったら教えてください。 あとはバイトです。夜勤で働いてます。 楽しいです。一緒にシフト入ってる方が面白くて、丁寧に教えてくれて。生活習慣狂い気味なのだけはネックですが、それ含めてもお釣りが返ってくるくらいには気持ちのいい仕事ができます。なんだか今更ですが、(インターネット含めて)僕の周りはほんとに優しい方だらけで、恵まれてるなと思います。まじで感謝しかないです。みんなありがとう。恩返しとかしたいですが、やり方わかんない。だからもっと自己主張してきていいですからね。自販機でジュース一本くらいなら、奢ってあげてもいいですよ。 もちろん、こんだけ幸せな生活を送っているということは、その分問題もありまして。 まずは生活習慣。現在三時五十分でございます。この後五時からは、バルセロナ対マドリードの試合があります。夜勤とサッカーのダブルパンチ。悪習慣の原因の八割は、それで説明がつきます。 あとは、カツカツな懐事情。金がねえ。一にも二にも金がない。ひたすらに金がない。もっとシフト入れたいのですが、勉学を疎かにする訳にもいかず……。まあ大して勉強もしてませんが、この際そんな事はどうでも良いのです。はい。 美味い飯が食べたいし、もっと家具が欲しいし、ゲームに課金したいし、自堕落に生きたいし、なんなら働きたくないし、毎日昼過ぎまで寝てたいし、大学の講義はもう全部飛びたいし、欲望を挙げたらキリがないのですが、まあしょうがないかと。 最近AIがどうのこうの、職がどうのこうのとか言いますが、あれもぶっちゃけいいんじゃないかと思う節があって。そもそもAIが全部の職業を奪ってくれたら、我々は働かなくていいわけで。中途半端に、できる仕事できない仕事があるからいけないと思うんです。何でもかんでもAIに任せて、人類はやりたいことやるみたいな。それじゃダメなんですかね。それがいいんですけどね。お金でさつまいもを焼いて、なんかしてないと落ち着かない人だけが何かして。なんだか、難しい世の中だなと思います。めんどくせーまじで。 だからこそ、僕がPS5を起動して、誰かが本を開いて、どっかの誰かが家を飛び出したりする訳なんでしょうけど。 ギターとか弾いてみたいです。お金がないんですけども。アコースティックでも、エレキギターでも。なんでもかんでもじゃんじゃかかき鳴らして、発散したい物があります。そうやって言葉も連ねて吐き出せたらどんなに楽しいかと想像する夜があります。もうすぐ夜も明けますね。 何でもいいんですけどね。いやほんとに何でもいいんですけど。 そういえば、家の中で虫を見なくなりました。 ゲジゲジとか昔はいたのに(雑文第五回参照)、もう全然見ないですし、カメムシとか外では見ますが、家の中では見ません。 これかなと予想している理由がひとつあるのですが、実は、玄関に大きな蜘蛛の巣ができまして。換気扇のとこを覆うように巣を張って、どでかい蜘蛛が鎮座してます。 これは是非覚えて帰って欲しいのですが、何でも大事なのは使いようです。蜘蛛がブラッド・ピットよりかっこよく見える。 そろそろまとめます。 ・僕は何とか生きています。 ・僕はたくさんの趣味ができて、執筆が上手くいかないです。 ・カツカツです。 ・蜘蛛の相棒ができました。 こんな感じです。 毎度、この雑文に付き合っていただきありがとうございます。 そして、この雑文に限らず、いつも読んでくれる方々のおかげでノベリーを続けられてます。本当にありがとう。 最初に言った通り、寒くなってきました。体調には気をつけて、是非ご自愛ください。 それでは、またいつか。

好きだけど

"あ、この人と結婚したい。" まだキスも知らない、付き合ったことすらない高校生の私。 突発的にそう思いました。 図書室で一人。本を読んでいた時です。 本を読んで、こんなに作者に好意を持ったのは初めてのことでした。 乙一、浅田次郎、村上春樹、東野圭吾、伊坂幸太郎……色々な著者の本を読んできて、初めての感情でした。 私は作者買いで、気に入った作者さんの本を読んでいく傾向がありまして。 乙一さんはホラーの中に優しさや寂しさをブレンドしたような感じ。 浅田次郎さんは人情噺が最高。ノスタルジックとユーモアを兼ね備えたイメージ。 村上春樹さんは不思議な現実味を帯びた、現実に異世界を少し混ぜた感じ。 東野圭吾さんはミステリー初心者にもやさしく、ユーモアもあって人間味あふれる感じ。 伊坂幸太郎さんは非日常を味わえるエンターテイメントを提供しつつ、風刺や皮肉をすごくマイルド且つ上手く伝える方のイメージ。 こんな風に私の中で読んだ本から作者さんのイメージが出来上がってました。 憧れや尊敬はあるけれど、恋愛に近い感情は全く湧きませんでした。 その結婚したいと思わされた本はエッセイ集で、日々のなんでもないことをまとめられていました。 特に今でも覚えている内容で、結婚願望が湧いたお話があります。 作者が学生の頃。 放課後の教室で一人、パンを食べていると(この方はよく菓子パンを召し上がるのです)、クラスメイトが忘れ物か何かで取りに来ました。 少し話を交わしたあと、そのクラスメイトが教室を出て行かずに作者の近くに座っています。 作者は帰らないのかと聞くと、その子は 「だって、一人で食べるのさびしいじゃん」 と言って、作者が食べ終わるのを待っていてくれたのです。 このエピソードを読んだ時、さりげないやさしさに泣きそうになりました。 今、書き起こしてみると、「あれ? 惚れるのは待ってくれたクラスメイトの方じゃね??」とふと思った自分がいます。 でもあの頃の自分は、そのやさしさに心動かされた感受性すき………!!! となっておりました。 だいぶ昔に読んだので、色々間違っているかもしれません。 でも内容的にはこんな感じの話でした。 それから他のエピソードも読み、なんだか世間とズレた感覚をお持ちの方なんだなぁと。 書き方も言葉選びもセンスがあって。 それが自分の琴線に触れて。 まさにドンピシャでした。 それからその方の本を読み、一人あぁこの方と結婚したい……。 この方なら自分を理解してもらえる……なんて思った時期がありました。 とまぁ、その感情は著書を読んだ時のみに発動していた感情なのですが。 * * * それから何年か経ち、他の本もたくさん読み、その方のこともすっかり忘れていました。 たまたまどこかでその方のお名前を目にすることがありました。 どこかとはハッキリ覚えていないのですが、コンクールの選評か誌面の絵本の紹介でだったか…… 高校の時にそういえば好きだったなと思い返し、調べてみると今でもご活躍されており、ご結婚もされているようでした。 そしてまたあの頃読んだ本を久しぶりに読み返してみました。 あぁ、よかった。 やっぱり結婚しなくてよかった。 読み終わったあとにそう思いました。 まるで蛙化現象のようにあの頃の感情がスンっ! と消えてしまったのです。 自分が大人になってしまったのか、なんなのなんなのか…… それでもやっぱりあの方のファンには変わりないのを確信しました。 変わらず、言葉に心動かされるし、感受性が素敵だなぁと。 穂村弘さん。大好きです。 読んでいなかったエッセイ本があったので、この前読んでみました。 独特の感性。独特の表現。変わらず面白くて。 読んで声が出るほど笑いました。 隣にいた息子が引いていました。 また読もうと思います。 でもやっぱり結婚はいいかな。

忘却

 月って、悲しいの。  人形が、泣くの。  声なんか無いのよ。  でも、泣くの。  途切れ途切れの言葉達。    放置してたのは、誰かしら。  古びた心に愛は欲しいわ。  忘れてくでしょ、あのコのお口。  黄色の髪に花は咲いたね。  咲いていたのは、忘れちゃったの。  わたしは、イケナイって思ったの。  でもね、やっぱりサヨナラしたわ。  好きなものは、何かしら。  何か好きだったのは、知ってるの。  離れていくのよ、ワタシから。  アナタもやっぱり離れていくわ。  王子様、王子様。  ワタシの王子様。  夜の音が、こわいのよ。  王子様、王子様。  ワタシの恋人。  悲しい人、カナしいヒト。  ワタシだけのサヨナラ。

【踊り子】

少女は踊るのが大好きでした。 舞踏会に出れば注目の的。 タップを踏む足音、ひらりと舞うスカートに 靡く髪の毛、全てが彼女を輝かせる装飾品であり スポットライトになるのです 彼女は家でも踊り続けます。 なぜって? それはダンスが好きなだけではございません 親からの罵声、兄妹からの嫌味 全てを誤魔化すためのタップ音なのです。

そうだ、カラオケ行こう。

どうもこんばんは。 前回、初コメダ体験記を書いたアラフォーです。 まだまだ未経験の事が沢山あります。 その中で、しり込みしていたことが一人カラオケ。 やっと行くことが出来ました。 背中を押してくださり、ありがとうございました🙇‍♀️ そもそもカラオケ店に行くことも20年以上…… おばちゃんドッキドキ。 システム変わってない? フリードリンク制よね? DAMとかUGAとか選べるんだっけ? 採点あるかな? というか何歌おう! とりあえず1時間半にして、歌うだけ歌わなくちゃ!! ……と、行く前に車の中で色々考えながら向かいました。 歌う曲は一応メモ帳にリストアップしてるし、 とりあえず着いたら、音楽アプリも見たりして歌いたい曲も探してみよう。 と、ウキウキ。 そして着きました。カラオケ店。 自動ドアを過ぎると出迎えたのは、受付の機械。 おん? これを操作すればいいのかい?? 画面を見ながら、慣れない操作で押してみる。 「受付」とある画面をタップしたが、どうやらまずは会員登録をしなければいけないようだ。 とんだ初見殺しだぜ。 結局、カウンターにいた店員さんに聞いてみる。 「すみません、初めてなんですけど……」 若いお姉さんに説明をしてもらうおばちゃん。 受付の流れが書いてある紙を見ながら説明を聞くおばちゃん。 「まずアプリに登録していただいて……」 おん? まてまて。 さも当然のようにアプリを促してくる。 おお…… アプリをまずダウンロードしないといけないんかい…… めんどくs…… 「あ、あの、アプリを必ずダウンロードしないと受付できないんですか?」 思わず聞いちゃうおばちゃん。 ? なに当たり前のこと聞いてんだ?? みたいな顔を一瞬したお姉さん。 え? 最近はアプリ必ず登録するのが常識的なの?汗 「そうですね……。まずアプリで登録していただく流れで……、AndroidがこちらのQRコードから、AppStoreはこちらのQRコードから読み取っていただいて……」 いやいや、AndroidとかそんなどっちのQRコードから読み取るのが分からないんじゃねぇんだわ。 ただただ、面倒くさいんだよぉぉぉ………!!!!! 早く一人の空間で歌いたいんだよぉぉぉ………!!!! と、心の中で叫びつつも、 「あ、AppStoreなんで……」と、内心少し荒れつつもスマホを取りだし素直に従うおばちゃん。 AppStoreのパスワードを忘れて手間取るおばちゃん。 ………っっっもう!!!! ここで全くお客さんが来なかったことは幸い。 やっとダウンロードして、お姉さんにアプリの会員登録の仕方を教わりながら、受付完了。 最後にドリンクバーかワンドリンクか頼むのを選択するのだが、あまり値段が変わらないのでドリンクバーの方がお得だろうとバーを選んだ。 ………が!!!! 渡されたコップがちっっっせぇぇ〜〜〜〜〜!!!!! 思わずびっくりしたね!!! 子ども用サイズですか!? いや室料やっすいけど、ここで結局プラマイゼロやんけ。 まぁこれも室料のうち……と思えば…… そして、コップと一緒に部屋番号の書いた紙とバインダーを渡されいざお部屋へ!! 早くカラオケの話を書きたいのに、受付のことで話が進まない!! ここからやっと本題だよ!!! 案内された部屋は角部屋。 やったーーー!!! 一人カラオケが行けなかった理由のひとつ、音漏れで自分の歌声が聞かれるのが恥ずかしいから。 なので、1番奥の部屋で嬉しかったです。 しかも平日だったので、そんなに人もいなくて良かった! 部屋もちらほら空室で、たまに誰かの歌う声が聞こえるけど、意外と気にしないのかな……? でも、自分の声もこんな風に聞こえてたらちょっと恥ずかしいな…… …………と思ってたけど、部屋に入ったらこっちのもんや!! 時間いっぱい歌いまくるぞ!! と、探して曲を入れてみる!! デンモク久しぶりで慣れねぇぞ!! 採点するのはどこだ! このボタンか! アーティストで曲を探しても、曲数多すぎて見つかりにくいぞ!! あったぞ! 歌うぜ! 〜〜〜♪♪♪〜〜〜 声が出ねぇ〜〜〜〜 思ったより自分の声か細い!!! 恥ずかしい!! 懐かしい曲も入れるぜ!! 歌うぜ!! PV懐かしすぎて泣きそう〜〜〜!! メンバーわっっか!!! この一緒に踊ってる学生の子いまどうしてんだろ! あーたのしー!! ~採点中~ 78点!!!! こんなに外したけど意外と点数やさしいのな!! ビブラートってどうやってかかんの?? こぶしは回数いくんだけど。 え? 演歌のほうが向いてる?? こんなに細かく採点してくれるんだ! アドバイスまで! ありがとう! 次々入れるぜ!! くつづれ! 机さする!! スマイル!!! 水平線!!! 伯方の塩!!! イト!!! さよーならまたいつか! 他にも自分が歌いたい歌をとにかく歌いまくって、あっという間に時間が経った。 時間お知らせはなかったので、ふと時間確認したらもう出る時間やないか!💦 急いで部屋を出る。 会計を済ませると、延長時間分は追加されていなかったのでホッ。 最初は小っ恥ずかしい気持ちだったけど、歌っていくうちにそんな気持ちもなくなって大満足。 ストレス発散になりました。 よし、また行こう。 まだまだやってみたいことがたくさんあるので、また達成したら書くかもです。シリーズ化するかな? 飽き性だからな〜😂 あと、二郎系ラーメンも挑戦してみたいし、競輪や競馬、オートレースもやったことないな〜。 パチンコ、スロットは若い頃に少しやったことがあるけど、楽しさが分からなかった……。 ビギナーズラック期待したんですけどねぇ…笑 千円二千円が10分も持たずに吸い込まれてゆくんですよ💸💸💸 なんだこれ? 現金吸い込み機?? 意味も分からずお金が消えてゆく不思議。 でも逆にビギナーズラックがなくて良かったのかな? 妊婦の時って運が良くなるって聞くので、妊婦の時にパチンコやってみたかったけどやらずに宝くじ購入するも当たりませんでした。 タバコも……未経験でいいな✋ シーシャ……も興味ないし、クラブもなんか怖いので未経験でいいか~🤔 あっ!宝塚は観てみたいです!😍 観劇やトークショー、ディナーショーなども興味あるけどなかなか……。 場所とお金がね……泣 あとは、本屋か図書館に一泊できるというイベントに参加してみたいです。 1日読み放題。 でもそんなに集中力続かないか〜 いや、本に囲まれるだけでも幸せですよね。 こんだけ本に囲まれりゃ青木まりこ現象に悩まされそうだ。 便秘の時に行こう。 他にも思いついたらリストアップしていこうと思います😊 まずは次の一人カラオケのために歌う曲をリストアップだ!!

針の残像、水底の光

一  その町は、切り立った岩山と荒々しい北の海に挟まれた、湿った谷間にひっそりとへばりついていた。 急勾配の石畳は年月の重みで角が削れ、陽光が届くのは一日のうちでほんの数分に過ぎない。路地の隅には常に湿り気が溜まり、乾くことのない苔が石の隙間を深く覆っていた。風が吹くたび、谷の上空から這い下りてくる湿った霧と、荒波が砕けて生じる冷たい塩の粒子が、街全体をうっすらと白く染め上げた。 その石畳の路地の最も奥深くに、一古時計店「時雨堂」はある。 店主の男は、いつからそこにいるのか誰も知らなかった。年齢の判別がつかない、影のような顔立ちをしていた。擦り切れて油の染みついた革のエプロンをいつも身に纏い、猫背のまま作業台に向かって身をかがめている。彼の周囲には、大きさも形も異なる数百の時計たちが並び、それぞれの周期でカチ、カチと刻む振り子と歯車の密やかな囁きが満ちていた。 男の指先は、絶え間なく触れ合う金属の粉末と潤滑油でかすかに黒ずみ、皮膚の表面は長年冷やされた真鍮のように冷たかった。男にとって時間の流れとは、壁の暦をめくるような抽象的なものではない。ルーペ越しに見つめる極小の歯車が摩耗していく微かな手応えであり、密室の空気が外気に応じて重さを変えていく、皮膚感覚そのものだった。 秋が終わりを告げ、街灯の灯りに白く太い霧がまとわりつき始めた夕刻、一人の女性が店を訪れるようになった。 彼女はいつも、深くフードを被った暗いウールの外套を着ていた。 その厚い布地の奥からは、沖合の荒波で揉まれた潮の香りと、冬を前に枯れ果てた野草の、苦く乾いた匂いが漂っていた。彼女は店のドアを開けるとき、ドアの上部に取り付けられた真鍮の小さな鈴が鳴らないよう、細い指先で慎重にドアノブを回し、滑り込むように店内に入ってきた。 彼女は言葉をまったく発しなかった。 店に入ると、ただ深く静かな呼吸をひとつ引き出し、外套の深いポケットから布に包まれた物体を取り出す。そして、男の作業台の端、使い古された黒革のマットの上に、それをごく静かに置くのだった。 それは、ひとつの古い銀の懐中時計だった。 文字盤を覆うクリスタルガラスには、中心から外側へ向かって蛛の巣のような細かい亀裂が走り、内部の二本の針は「十一時四十五分」を指したまま、氷の中に閉じ込められたように微動だにしない。文字盤の端には、乾いた小さな泥の痕跡が残されていた。 男はそれを受け取ると、いらっしゃいとも、どうしたのかとも尋ねない。ただ無言で首をわずかに傾け、その時計を作業台の光の下へと引き寄せる。言葉による会話は、最初から二人の間には存在しなかった。カチ、カチ、カチ……と、壁にかかった無数の先達たちが刻む非情な鼓動の中、ピンセットの先端が金属と擦れ合う澄んだ音だけが、密室のピンと張り詰めた空気を揺らしていた。 女は店内の最も暗い隅、古い振り子時計の影に置かれた木製の椅子に、静かに腰掛けた。 彼女の眼差しは、男の手元から片時も離れなかった。男がルーペを右目に挟み込み、細い指先でゼンマイの調子を確かめる手つき。軸受けのオイルを針の先ほどの量だけ落とす、息を止めるような繊細な仕草。そして、不意に作業の手を止め、窓の外の霧を見つめる時の、冷たくも深い眼差し。 彼女にとってその空間は、外界の暴力的な時間の潮流から完全に切り離された、世界で唯一の避難所だった。彼女の瞳の奥には、いくら拭っても消えない過去の傷痕と、二度と取り戻すことのできない「誰か」の面影が、水底の重い沈殿物のように深く沈んでいた。 二  二人の間に、言葉は積み重ならなかった。 一日、また一日と、季節が冬の真ん中へと向かって落ち込んでいく中で、女は雨の日も風の日もその店を訪れた。 彼女はただ椅子に座り、壁の時計たちが吐き出す規則正しい鼓動に身を任せ、男の手元を見つめ続けた。男もまた、彼女がそこにいることを過剰に意識することもなく、しかし確かにそこに存在するひとつの「重み」として受け入れていた。店内の空気は、二人を包む透明な液体のように静まり返っていた。 ある晩、海から吹きつける嵐が谷間を叩いた。 激しい風が街灯の火を吹き消し、店枠の木製サッシが不気味に震える暗闇の中、男は初めて女の持ってきた時計の裏蓋を、専用の爪型工具を使って慎重に外した。 ランプの小さな黄色い光が、開かれた時計の体内を浮き彫りにする。 長年湿気に晒されていたためか、内部の精巧な歯車群は薄く赤錆を吹き、時を刻むための心臓部である天秤は、まるで息絶えた虫の足のように不自然な角度で固まっていた。そして、裏蓋の内側の、磨き上げられた真鍮の金属面に、目立たない小さな刻印が刻まれているのが見えた。すり減ってほとんど読めなくなった文字の並びの最後に、かすかに残る「波の模様」。 男はその刻印に、オイルと金属の粉末が染みついた己の指先を、吸い寄せられるようにそっと重ねた。 その瞬間、男の脳裏に、かつて自らの手で永遠に封印したはずの記憶が、鮮烈な痛みを伴って蘇った。 潮騒が絶え間なく屋根を揺らす崖の上の小さな家。乾いた夏の風。そして、守ることができなかった幼い約束と、二度と戻らない誰かの温もり。男もまた、かつて自分の時間を自らの手で止めた人間だったのだ。過去の罪と後悔から逃れるために、この陽の届かない谷底の暗がりへ閉じもり、他人の止まった時間を修理することで、自らが生きているという錯覚を細く維持し続けていたに過ぎなかった。 女が毎日のように持ち込んでいたその壊れた時計は、失われた誰かの形見であり、同時に男自身の止まってしまった心そのものだった。 二人は、鏡の裏表のように等しい孤独を抱えていた。 互いの過去を何一つ語り合わず、互いの名前すら呼び合わないまま、二人は沈黙という言葉よりもずっと強固な結びつきによって、互いの魂の根底で深く引き寄せられていた。言葉を交わさないのは、拒絶からではない。言葉にした瞬間に、あまりにも繊細で傷つきやすいこの安らぎが、壊れて散ってしまうことを知っていたからだ。 三  男は静かに作業台から立ち上がり、棚の奥深く、埃をかぶった小さな引き出しの最奥から、古い羊皮紙に包まれた小さな金属片を取り出した。 それは、彼が長年、失われた自らの身体の欠片のように大切に持ち続けていた、どの時計にも合わない真鍮の螺子(ネジ)だった。かつて彼が自分の時間を捨てたあの日、手元に唯一残った小さな記憶の残骸。 男は小さなピンセットでその螺子を慎重に拾い上げ、女の時計の最も深い心臓部——死んでしまっていた天秤の軸受けの隙間へと滑り込ませた。 男の指先が、微かに震えた。 金属と金属が擦れ合い、噛み合っていく感触が、男の神経を通して脳裏へと直接伝わってくる。指先から伝わる冷たい感触が、二人の止まっていた時間を静かに繋ぐ架け橋になっていく。 「……動くよ」 男が口から落とした声は、嵐の風音にかき消されそうなほど低く、かすれていて、ほとんど擦過音に近かった。 それが、二人が出会ってから数ヶ月の間で、初めて交わされた意味のある言葉だった。 女は呼吸を止め、ゆっくりと椅子から立ち上がった。そして、一歩一歩、石畳を踏むような確かさで作業台へと歩み寄った。 二人の距離は、互いの肌の熱が空気の震えとなって伝わるほどに縮まった。男の呼吸の乱れと、女の胸の上下が、暗がりの中で重なり合う。しかし、二人の指先が触れ合うことは決してなかった。男の差し出した手と、女の伸ばしかけた手との間には、わずか数ミリの、決して踏み越えてはならない透明な隙間が存在していた。 その触れ合わないわずかな隙間にこそ、言葉にすれば消えてしまうような痛切な愛おしさと、互いの人生をこれ以上荒らさないための、静かで気高き祈りが満ちていた。 カチ。 不意に、乾いた小さな金属音が密室に響いた。 長きにわたって眠り続けていた銀の時計が、止まっていた血流を取り戻したかのように、深く、小さな産声を上げた。 十一時四十五分で凍りついていた二本の針が、かすかに震え、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って新しい一秒の刻みへと進み出した。 女はその音を聴いた。 彼女の瞳から、大粒の涙が一滴だけ零れ落ち、男の作業台の使い込まれた黒ずんだ木目に、小さく丸い染みを作った。彼女は顔を上げ、男の目をまっすぐに見つめた。 その瞳には、哀しみも、感謝も、すがりつくような情念もなかった。 ただ、同じ水底の暗闇を知る者同士の、静かで透明な理解だけが存在していた。二人は互いの存在によって傷を癒やされ、同時に、これ以上近づいてしまえば互いを焼き尽くしてしまうことを、誰よりも理解していたのだった。 四  女は細い指先で銀の時計を静かに拾い上げ、愛おしそうに両手で包み込み、胸の奥へと抱きしめた。 トック、トック、と小さく規則正しく刻まれる微振動が、彼女の皮膚を通して、冷え切っていた心臓の奥へと確かに伝わっていく。それは、彼女がずっと求めていた、世界が再び動き出すための鼓動だった。 二人は最後まで、それ以上の言葉を口にしなかった。 「さようなら」も、「ありがとう」も、その部屋の空気には不要だった。ただ一度だけ、互いの瞳の奥深くを見つめ合った。その一瞬の視線の交錯の中に、二人の過去のすべてと、これから訪れる未来のすべてが凝縮されていた。それが二人にとっての永遠の誓いであり、二度と訪れない別れの挨拶だった。 女はゆっくりと振り返り、重い木製のドアへと向かった。 彼女の手がドアノブにかかり、引かれる。開かれたドアの隙間から、雨上がりの澄んだ冷たい風と、遠い沖合の湿った潮の香りが一気に店内に流れ込んできた。 頭上の真鍮の鈴が、ちりん、と一度だけ高く澄んだ音を立てた。 女の外套の裾が濡れた石畳を擦る音が、少しずつ遠ざかっていく。男は動かず、ただその背中を見送っていた。やがて彼女の丸めた背中は、谷底を埋め尽くす白い深い霧の向こうへと、影のように溶けて消えていった。 店内には再び、数百の古時計たちが刻む規則正しい鼓動だけが残された。 男は一人、誰もいなくなった作業台に向かい直し、使い古したルーペを再び右目に当てた。 彼の手元を照らすランプの黄色い光は、以前のような冷たく殺風景な暗がりではなく、ほんの少しだけ暖かく、丸みを帯びた色合いで部屋全体を照らしているように見えた。 壁の時計たちが、カチ、カチと時を刻み続ける。 二人は二度と会うことはないだろう。けれど、離れ離れのまま、互いの胸の中に刻まれた永遠の一秒を抱えて、二人はそれぞれの止まっていた時間を、静かに生きていく。

黄昏色の放課後と、甘い図書室

放課後の図書室は、まるで世界から切り離された浅い海の中にいるみたいだった。 西日が古い木製の机をオレンジ色に染め上げ、浮遊する小さなホコリまでもが光を帯びてキラキラと輝いている。風が吹き抜けるたび、レースのカーテンが優しく揺れ、古い紙の匂いと、彼女—紫苑の髪から香る甘い木犀の香りが混ざり合って、僕の鼻腔をくすぐった。 「ねえ、大輔くん。本当に集中してる?」 目の前に座る紫苑が、頬杖をつきながら覗き込んでくる。 薄いブラウスの衿元から覗く白皙の首筋。そこに西日が射し込み、彼女の透き通るような肌の質感をいやでも際立たせていた。汗ばんだうなじに、細い髪の毛が何本か張り付いている。 「し、集中してるよ。テスト前だし」 「ふーん。嘘つき。さっきから一ページもめくってないじゃない」 紫苑はくすりと笑うと、机の下で、そっと僕の足に自分の爪先を滑らせてきた。 ソックス越しに伝わる、かすかな体温。不意の接触に、心臓が跳ね上がる。 「ちょっと、紫苑……!」 「声が大きいよ? 図書室なんだから」 彼女は人差し指を自分の唇に当てて、「しーっ」と囁いた。その唇は、夕光を浴びて熟した果実のように微かに濡れ、瑞々しい光沢を放っている。 紫苑は椅子を引くと、立ち上がって僕の隣へと歩み寄ってきた。 カサリ、と制服のスカートが擦れる音。息が詰まるほどの至近距離で、彼女は僕の机に手をつき、上から覗き込むように体を倒してくる。 胸元のリボンが揺れ、彼女の呼吸のたびに、甘い体温が肌を通して伝わってくるようだった。目のやり場に困り、視線を泳がせる僕の耳元に、熱い吐息が触れる。 「ねえ……どこ見てるの?」 「べ、別に。どこも……」 「耳、真っ赤だよ」 紫苑の指先が、僕の耳たぶにそっと触れた。 ひんやりとした指先と、熱を帯びた僕の肌。そのコントラストに、全身の神経がそこに集中してしまうような錯覚を覚える。指先は耳たぶから首すじへ、そして制服の衿元へとゆっくり滑り落ちていく。 「紫苑、あのさ……」 「なに?」 「近すぎるって……」 「だって、大輔くんが全然勉強教えてくれないから」 そう言って、紫苑は僕の目をまっすぐに見つめた。少し潤んだ大きな瞳。その奥に、夕焼けの赤と、僕のうろたえた顔が映っている。 彼女は僕の手をそっと取り、自分の膝の上に置いた。 柔らかい布地越しに伝わる、彼女の確かな熱と柔らかさ。僕の指先がピクリと強張ると、紫苑は満足そうに目を細めた。 「こうすれば、嫌でも私に集中するでしょ?」 「……反則だろ、そんなの」 「ふふ、ラブコメのヒロインはこれくらい強引じゃないとね」 そう悪戯っぽく囁く彼女の顔が、さらに近づいてくる。 閉ざされた図書室の中、夕暮れの光に包まれながら、ふたりの鼓動だけが、静かに、けれど確かに重なり合っていた。

何度も見る正夢

 バージンロードを歩く。心臓が信じられない速さで鼓動し、頬も熱くなっている。視界はヴェールで遮られ、霞んでいる。  父の手から離れ、差し伸べられた手を取った。顔は分からないのに懐かしくて、優しくて。私は一人ではない。そう思わせてくれる人だ。 「きらり。俺と一緒に未来を歩こう」  その人の口元だけが視界に入ると、必ず目が覚めてしまうのだ。 「また、あの夢かぁ〜」  私には彼氏なんていない。大学二年目だけれど、できる気配もない。明日はサークルで、他大学との合同練習がある。私はただのマネージャーだ。でも、出会いすら期待なんてしていない。 「はぁ〜。何やってんだろ、私」  寝返りを打ち、頭に片手を乗せた。  合同練習当日、その夢は見なかった。だからか、恋愛そっちのけで練習に勤しもうと服装にすら気を遣わない。スエットにパーカー、部屋着を思わせるような服装で、先輩の車に飛び乗った。 「きらり。うちの大学の中ならそれでもいいけどさ」  顔はいいくせに性格は破天荒な先輩は笑う。 「もっと女を磨いたら?」 「先輩には言われたくないですぅ」 「あっそ」  相手の大学までは車で三十分ほどかかる。その間、車の中では音楽が爆音で流され、それに先輩の音程完璧な鼻歌が重なる。 「先輩、歌上手いっすよねぇ」 「あんがと」  出会って二年しか経っていないのに、幼馴染のように接してくる。そんな先輩が嫌いではなかった。  大学に着き、まっすぐ体育館へと向かう。バレーボールの籠を引っ張っていると、見知らぬ黒髪の男性が手伝ってくれた。 「へぇ。きらりちゃんって言うんだ」 「はい」  一応、ここでは淑やかさを装う。服装が伴っていないのは、まあ大目に見よう。 「俺、きらりちゃんみたいな子が夢に出てきてさ。ウエディングドレス姿で、すっごく可愛くて、優しいんだ」 「そ、そうですか……」  なんだろう、この人――と思いながらも、その大きな手を見てしまう。そして、目、口――ようやく気がついた。彼の雰囲気は、夢の中で見たあの人なのだ。 「……見つけた」  私が口走った時、彼の口角も上がる。 「俺も見つけた」  その笑顔は曇りもなく、ただ眩しくて優しかった。

深夜の月乃夜食堂

~月明かりの下で、また会いましょう〜 午前零時を少し過ぎた頃。 街の灯りがひとつ、またひとつと眠りにつく頃にだけ、古い路地の奥に明かりを灯す店がある。 その名は、「月乃夜食堂」。 木造の小さな店。 藍色の暖簾には、銀色の三日月がひとつ。 入口の脇には、なぜか季節外れの風鈴が吊るされていて、風もないのに、ときおり澄んだ音を鳴らす。 ちりん……。 その音を聞いた人だけが、この店を見つけられるのだという。 店主の名は、月乃。 年齢は誰も知らない。 黒髪をゆるくまとめ、いつも穏やかに微笑んでいる、不思議な女性だった。 「いらっしゃいませ。今夜は、どんなお夜食になさいますか?」 月乃は、決してお客に事情を尋ねない。 ただ、その人の顔を見て、ほんの少しだけ目を細める。 まるで、言葉にならなかった想いまで、そっと受け取っているかのように。 * その夜、暖簾をくぐってきたのは、ひとりの青年だった。 濡れた肩。 疲れた目。 握りしめた手の中には、くしゃくしゃになった一枚の紙。 「……まだ、やっていますか?」 「ええ。お腹が空いている人がいる限り」 月乃はそう言って、青年をカウンターへ案内した。 「何か、温かいものをいただけますか」 「かしこまりました」 しばらくして運ばれてきたのは、小さな土鍋に入ったお味噌汁と、湯気の立つおむすびがふたつ。 お味噌汁には、豆腐とわかめ。 おむすびには、ほんの少し塩が振られていた。 「……懐かしいな」 青年は、思わず呟いた。 「母が、よく作ってくれたんです」 ひと口食べると、なぜだか涙がこぼれた。 今日、青年は大切な人と別れた。 本当は引き止めたかった。 本当は、謝りたかった。 けれど、素直になれず、最後まで意地を張ってしまったのだ。 もう遅い。 そう思うほどに、胸が痛かった。 「店主さん。人はどうして、大切なものを失いそうになってから、その大切さに気づくんでしょうね」 月乃は、布巾でカウンターを拭きながら答えた。 「月はね、満ちているときばかりが美しいわけではないのですよ」 青年は顔を上げた。 「欠けている月を見て、次に満ちる日を待つ人もいるでしょう?」 月乃は窓の外を見つめた。 「人の心も、きっと同じ。今は欠けていても、もう二度と満ちないとは限らないのです」 青年は、手の中の紙を開いた。 それは、別れた恋人から渡された手紙だった。 最後の一行には、こう書かれていた。 『あなたが、いつか自分の弱さを誰かに見せられる人になりますように』 青年は長い間、その文字を見つめていた。 やがて、静かに手紙を胸元へしまった。 「……帰ります。もう一度、ちゃんと話してみます」 「はい。お気をつけて」 青年が暖簾をくぐると、夜空には、雲の切れ間から月が顔を出していた。 その背中が路地の向こうへ消えたとき。 ちりん……。 風鈴が、ひとつ鳴った。 * 翌晩。 月乃夜食堂に、ひとりの老婦人が訪れた。 「おや、こんなお店があったのねぇ」 老婦人は、少し困ったように笑った。 「実はね、今夜は主人の誕生日なの。でも、もう主人はいないから……ひとりでお祝いしようと思って」 月乃は何も言わず、温かいお茶を差し出した。 それから厨房へ戻り、小さな卵焼きと、焼き鮭、それに白いご飯を用意した。 「こちら、召し上がってください」 老婦人は驚いた。 「まあ……これ、主人の大好物だったのよ」 「そうでしたか」 「ええ。毎年、誕生日には必ず作っていたの。でも、主人が亡くなってからは、なんだか作る気になれなくてねぇ」 老婦人は箸を持ち、卵焼きをひと口食べた。 その瞬間、ふっと笑った。 「……あの人、甘い卵焼きが好きだったの。私のは甘すぎるって、いつも文句を言っていたくせに」 「きっと、文句も含めて、お好きだったのでしょうね」 月乃の言葉に、老婦人は声を立てて笑った。 笑いながら、涙をこぼした。 すると、カウンターの向こう側。 誰も座っていなかったはずの椅子が、ほんの少しだけ軋んだ。 老婦人は、はっとして振り返った。 そこには誰もいない。 けれど、ふいに懐かしい煙草の香りがした。 そして耳元で、聞き慣れた声がしたような気がした。 ――お前の卵焼きは、やっぱり甘すぎるな。 老婦人は、目を丸くしたあと、ゆっくりと微笑んだ。 「……もう。今夜くらい、褒めてくれてもいいのに」 月乃は、何も言わなかった。 ただ、老婦人のお茶が冷めないように、そっと新しい湯を注いだ。 * 夜明け前。 最後のお客が帰ったあと、月乃は店先に出て、暖簾を外した。 東の空が、ほんのりと白み始めている。 店の奥から、黒猫が一匹現れた。 艶やかな黒い毛並み。 金色の瞳。 猫は月乃の足元にすり寄ると、小さく鳴いた。 「ふふ。今夜も、たくさんの心を温めたわね」 月乃が猫の頭を撫でると、猫は満足そうに目を細めた。 そのとき、路地の向こうから、小さな女の子が走ってきた。 「お姉さん!」 月乃は振り返った。 「どうしたの?」 「昨日ね、ここでおむすびを食べたお兄さんが、駅の前で女の人と一緒にいたよ!」 月乃は、優しく微笑んだ。 「そう。それはよかったわね」 「お姉さんのお店って、魔法のお店なの?」 女の子は、目を輝かせて尋ねた。 月乃は少し考えてから、しゃがんで女の子と目を合わせた。 「どうかしら」 そして、そっと囁いた。 「でもね、温かいご飯を食べると、人は少しだけ、自分に優しくなれるのよ」 女の子は不思議そうに首を傾げた。 やがて、母親に呼ばれて走り去っていく。 月乃は、その後ろ姿を見送った。 空には、まだ薄く月が残っていた。 「さて……今夜は、どんな方がいらっしゃるのかしら」 彼女が店の戸を閉めると、風もないのに、風鈴が鳴った。 ちりん……。 その音は、誰かの泣き声にも、誰かの笑い声にも似ていた。 * その日の夜。 地図にも載っていない路地の奥に、また小さな明かりが灯る。 藍色の暖簾。 銀色の三日月。 そして、温かいご飯の匂い。 月乃夜食堂は、今夜もひっそりと、誰かの帰りを待っている。 もし、あなたが眠れない夜に、どうしようもなく寂しくなったなら。 もし、誰にも言えない涙を、ひとりで抱えているのなら。 夜空を見上げてみてください。 月明かりの下。 風鈴の音が聞こえたなら。 その路地の奥に、きっと見つかるはずです。 あなたの心を、ほんの少し温めてくれる場所が。 「いらっしゃいませ」 月乃は、いつものように微笑むでしょう。 「今夜は、どんなお夜食になさいますか?」 そして、あなたが帰る頃には。 夜空の月が、ほんの少しだけ、優しく見えるはずです。 ――深夜の月乃夜食堂。 お腹が空いた夜も、心が空っぽになった夜も。 ここでは、誰もひとりぼっちではありません。

愛のカタチ

部屋の温度は、年中いつでも凍えそうなほど低く保たれている。 設定温度は「十六度」。 冷え性の彼女のために、いつも僕がジャケットをかけてあげるのが、私たちのいつものお決まりだった。 会社員の僕・刹那は、薄暗い寝室のベッドの上で、愛しい恋人の身体をきつく抱きしめていた。 彼女の名は、美咲。 美咲は少し、眠るのが深い女の子だ。 半年前にひどい風邪をこじらせて病院に入院して以来、ずっとこうして目を瞑ったまま、心地よさそうに眠り続けている。 病院の退屈なベッドから、僕たちの愛の巣であるこのアパートへ彼女を連れ帰ってきたあの日から、僕たちの本当の幸福が始まった。 「今日もよく眠っているね、美咲。本当に寝顔が可愛いな」 僕は彼女の、少し硬くなった頬にそっと唇を寄せた。 最近の美咲は、少しだけ肌が乾燥しやすくて、色もまるで白い硝子細工のように透き通っている。 眠りが深くなってからは、声を聞かせてくれないし、身体もすっかり冷たくなってしまったけれど、それは彼女が「深い休息」を必要としているからだ。 僕は毎日、彼女が目を覚ましたときに最高の気分でいられるよう、身体をアルコールで綺麗に拭き、お気に入りの香水をたっぷりとかけてあげる。 髪を丁寧に梳かし、お気に入りのワンピースを着替えさせる。 肌身離さず、僕は彼女のすべてを愛し、守り続けてきた。 出勤する前には「行ってくるよ」と額にキスをし、帰宅すれば真っ先に彼女を抱きしめてベッドに入る。 部屋に満ちる、どこか甘く、少しだけ鼻を突く不思議な香りは、僕たちだけの愛の印。 美咲が生きている、ここにいるという絶対の証明だった。 しかし、そんな穏やかな白昼夢は、ある夏の終わりに突如として破られる。 管理人が「エアコンの点検」を理由に、半ば強引に部屋へ立ち入ったのだ。 僕が止める間もなく、管理人は部屋の異様な冷気と香水の匂いに顔を顰め、寝室のドアを開けてしまった。 ベッドの上の美咲を見て、管理人はこの世の終わりかのような悲鳴を上げて逃げ出した。 「どうしてそんなに驚くんだい? 彼女はただ、眠っているだけなのに」 数十分後。 激しいサイレンの音がアパートを包囲する。 ドタバタと乱暴な足音が廊下に響き、ついに鍵が壊されて警察官たちが部屋へと突入してきた。 「動くな! 手を上げろ!」 鋭い声が響く。 何人もの大男たちが、銃や警棒を構えて僕を取り囲んだ。 だが、僕は逃げようともしなかった。 ただ、美咲が警察官たちの粗暴な声に驚いて起きてしまわないよう、これ以上ないほど優しく頭を撫で、「大丈夫だよ、僕が守るからね」と囁き続けた。 「離れろ! 遺体から離れるんだ!」 数人がかりで僕の身体が組み伏せられる。 美咲の冷たい身体から、無理やり引き剥がされる。 床に押し付けられ、手錠がかけられる金属音が冷たく響いた。 部屋のあちこちで、警察官たちがベッドの上の美咲を見て顔を青ざめ、口元を押さえている。 「貴様、一体何を考えているんだ……! こんなことをして、自分が何をしたか分かっているのか!」 一人のベテラン刑事が、怒りと、信じられないものを見るような嫌悪を剥き出しにして僕を睨みつけた。 「遺体」だって?  何を言っているんだ、この男たちは。 美咲はただ、少し寝坊しているだけだ。 僕たちの邪魔をしないでくれ。 床に顔を押し付けられながらも、司の口元は、かすかに歪んで笑っていた。 その瞳には、一片の後悔も、恐怖もなかった。 ただ、世界で自分だけが正しい真実を知っているという、純粋な光だけが宿っていた。 司はゆっくりと顔を上げ、引き離された美咲を見つめながら、凛とした声で刑事に言い放った。 「分からないのか。これが、僕たちの愛のカタチなんだ」 その言葉は、冷え切った部屋の空気を凍りつかせた。 「動かなくなったら終わり? 冷たくなったら死んでる? そんなの、あなたたちの勝手な基準だろ。美咲は今も僕の腕の中で、確かに息づいている。僕が彼女のすべてを愛し、彼女の命をここで繋ぎ止めているんだ。形が変わっても、言葉を交わさなくても、僕たちは一つだ。僕の愛は、あなたたちの言う『死』なんかよりも、ずっと強いんだよ」 連行される間際、僕は美咲をもう一度だけ見た。 手錠をかけられた青年は、いつか彼女が目を覚ますその瞬間を確信しているような、恍惚とした笑みを浮かべたまま、パトカーへと連れ去られていく。 部屋に残された美咲の身体は、ただ静かに冷気の中で横たわっていた。 社会に引き裂かれてもなお、青年の心の中で美咲は美しく微笑み、生き続けている。 僕のこの愛のカタチは、誰にも壊せない永遠となったのだ。 パトカーの硬いシートに揺られ、手錠の冷たさが手首に食い込むのを感じながら、司は窓の外を流れる赤色灯の光を見つめていた。 警察官たちは僕を犯罪者と呼び、美咲を「遺体」と呼んだ。 でも、彼らは何も分かっていない。美咲は死んでなんかいない。 ただ、あの日交わした約束を、今も忠実に守ってくれているだけなのだから。 目を閉じると、鮮明な記憶が脳裏に蘇る。 それは半年前、彼女が「深い眠り」につく数日前、まだ病院の白いベッドの上にいた頃のことだ。 窓の外からは、柔らかい春の陽光が差し込んでいた。 美咲の身体は病気のためにすっかり痩せてしまい、点滴のチューブに繋がれていたけれど、その笑顔だけはいつだって僕の暗い世界を照らす太陽だった。 「ねえ、刹那」 美咲は、シーツの上に置かれた僕の手を、弱々しく、けれど愛おしそうに握りしめた。 彼女の指先は驚くほど細く、まるで今にも消えてしまいそうに儚かった。 「私ね、もしこのまま目が覚めなくなっちゃっても、ちっとも怖くないよ」 「何を言うんだ、美咲。そんなことあるわけないだろ。すぐに良くなって、また二人で出かけよう」 僕が慌てて言葉を遮ると、美咲は困ったように、でも嬉しそうに小さく笑った。 「ううん、聞いて。私ね、病気になってからずっと考えてたの。形なんてどうでもいいんだって。たとえ私の心臓が止まっても、私の身体が動かなくなっても……刹那が私を想って、私を抱きしめていてくれるなら、私はずっと刹那の隣で生き続けてるのと同じだよ」 彼女は僕の目をまっすぐに見つめた。 その瞳には、自分の運命を受け入れた者だけが持つ、透き通った決意が宿っていた。 「だからね、約束して。何があっても、私を一人にしないで。冷たくなっても、動かなくなっても、ずっと、ずうっと一緒にいようね。刹那の腕の中が、私の永遠のお家だから」 「うん、約束するよ、美咲。何があっても、世界中の誰もが君を諦めても、僕だけは君を離さない。ずっと一緒にいよう」 二人の小指が絡み合う。 そのとき美咲が見せた、救われたような、心からの幸福に満ちた微笑み。 それが、僕の記憶にある「動く美咲」の最後の姿だった。 ――ガタリ、とパトカーが大きく揺れて、僕は意識を現実へと戻した。 隣に座る警察官が、忌々しそうに僕を睨みつけている。彼らの目には、僕が哀れな狂人に映っているのだろう。 しかし、僕の胸を満たしているのは、あの日の美咲の温もりと、約束を果たし続けているという揺るぎない誇りだけだった。 (ほらね、美咲。僕は約束を守ったよ) 彼女は僕に言ったのだ。「冷たくなっても、動かなくなっても、ずっと一緒にいよう」と。 だから、今の彼女の姿は、僕たちの約束が完璧に果たされている証拠に他ならない。 彼女は今も僕の腕の中で、あの日交わした愛のカタチのまま、永遠の眠りについているだけなのだ。 僕は手錠の擦れる音を響かせながら、満足げに、そして美しく微笑んだ。 どれだけ狂っていようと。 どれだけ否定されようと、 僕は彼女を愛し続ける。 それが、 僕らの愛のカタチなのだから。