好きだけど
"あ、この人と結婚したい。" まだキスも知らない、付き合ったことすらない高校生の私。 突発的にそう思いました。 図書室で一人。本を読んでいた時です。 本を読んで、こんなに作者に好意を持ったのは初めてのことでした。 乙一、浅田次郎、村上春樹、東野圭吾、伊坂幸太郎……色々な著者の本を読んできて、初めての感情でした。 私は作者買いで、気に入った作者さんの本を読んでいく傾向がありまして。 乙一さんはホラーの中に優しさや寂しさをブレンドしたような感じ。 浅田次郎さんは人情噺が最高。ノスタルジックとユーモアを兼ね備えたイメージ。 村上春樹さんは不思議な現実味を帯びた、現実に異世界を少し混ぜた感じ。 東野圭吾さんはミステリー初心者にもやさしく、ユーモアもあって人間味あふれる感じ。 伊坂幸太郎さんは非日常を味わえるエンターテイメントを提供しつつ、風刺や皮肉をすごくマイルド且つ上手く伝える方のイメージ。 こんな風に私の中で読んだ本から作者さんのイメージが出来上がってました。 憧れや尊敬はあるけれど、恋愛に近い感情は全く湧きませんでした。 その結婚したいと思わされた本はエッセイ集で、日々のなんでもないことをまとめられていました。 特に今でも覚えている内容で、結婚願望が湧いたお話があります。 作者が学生の頃。 放課後の教室で一人、パンを食べていると(この方はよく菓子パンを召し上がるのです)、クラスメイトが忘れ物か何かで取りに来ました。 少し話を交わしたあと、そのクラスメイトが教室を出て行かずに作者の近くに座っています。 作者は帰らないのかと聞くと、その子は 「だって、一人で食べるのさびしいじゃん」 と言って、作者が食べ終わるのを待っていてくれたのです。 このエピソードを読んだ時、さりげないやさしさに泣きそうになりました。 今、書き起こしてみると、「あれ? 惚れるのは待ってくれたクラスメイトの方じゃね??」とふと思った自分がいます。 でもあの頃の自分は、そのやさしさに心動かされた感受性すき………!!! となっておりました。 だいぶ昔に読んだので、色々間違っているかもしれません。 でも内容的にはこんな感じの話でした。 それから他のエピソードも読み、なんだか世間とズレた感覚をお持ちの方なんだなぁと。 書き方も言葉選びもセンスがあって。 それが自分の琴線に触れて。 まさにドンピシャでした。 それからその方の本を読み、一人あぁこの方と結婚したい……。 この方なら自分を理解してもらえる……なんて思った時期がありました。 とまぁ、その感情は著書を読んだ時のみに発動していた感情なのですが。 * * * それから何年か経ち、他の本もたくさん読み、その方のこともすっかり忘れていました。 たまたまどこかでその方のお名前を目にすることがありました。 どこかとはハッキリ覚えていないのですが、コンクールの選評か誌面の絵本の紹介でだったか…… 高校の時にそういえば好きだったなと思い返し、調べてみると今でもご活躍されており、ご結婚もされているようでした。 そしてまたあの頃読んだ本を久しぶりに読み返してみました。 あぁ、よかった。 やっぱり結婚しなくてよかった。 読み終わったあとにそう思いました。 まるで蛙化現象のようにあの頃の感情がスンっ! と消えてしまったのです。 自分が大人になってしまったのか、なんなのなんなのか…… それでもやっぱりあの方のファンには変わりないのを確信しました。 変わらず、言葉に心動かされるし、感受性が素敵だなぁと。 穂村弘さん。大好きです。 読んでいなかったエッセイ本があったので、この前読んでみました。 独特の感性。独特の表現。変わらず面白くて。 読んで声が出るほど笑いました。 隣にいた息子が引いていました。 また読もうと思います。 でもやっぱり結婚はいいかな。
燈虫
灰田フミ子は完璧な女である。 家事をこなし、不平も言わず、その風貌はまさに男の熟慮する虚像の女そのものであった。 だが、灰田フミ子には熱がない。 ない故に人の心に気づけないのだ。 しかし、人は熱がなかろうと完璧という名の街灯に惹き付けられてゆく。 冷たい電球に焼かれ、墜ちた燈虫は数しれず。 今宵も一人、燈虫が舞う。 その燈虫は口を開くと、 「永田栄一と申します。」 そう灰田フミ子に紡いだのであった。 神戸の一角、大通りから一本外れた道にあるオーセンテイックバーに、一人の男が気力のない足取りで入っていく。 扉を開けると、これはまた疲れた様子の小さな鐘が鈍い音を奏で男を歓迎した。 ギシギシと鳴る回転椅子に身を預け、男はふっと重い息を吐く。 「ジンをいただけないだろうか。」 男が一言そう言うと、バーテンダーはいつもの動作でシェイカーを振りだした。 シャカシャカ。シャカシャカ。 男はこの音の鳴る少しの時間が好きである。 定時上がりの許されない仕事場も、暗い部屋に孤独を抱えて帰る寂しさも、男の嫌いなものは全てこの音が消し去ってくれるような気になるのだ。 だから気づくのが遅れてしまった。 男から見て三席奥に一人の女が座っていることに。 なんて綺麗な人なんだろうか。 瞬きをするほどの短い時間であったが、男にそう思わせるほどにその女は妖艶であった。 濡羽色の髪と瞳、雪原のような白い肌、ほっそりとした体躯は紺のテーラードジャケットに包まれている。 困ったな、目が離せない。 視界から女を退けようと男は必死に目の前の酒をあおった。 瞬間、喉を焼くように液体が胃に流れ込む。 この酒は薬臭くて嫌いだ。 そう思いながら、女をまた盗み見ている自分に男は気づいた。 自分はダメになってしまったのだろうか、見れば見るほどあの女が欲しくて堪らなくなるのだ。 そんな時である。 男が女を見た時、女もこちらを向いた。 今までは、横顔しか見えていなかったがこちらを見た女のなんと美しいことか。 女の顔は花のようで、椿に似ていると男は思った。 口元の紅がそう思わせたのか。 いや違う。 女の纏う雰囲気である。 雰囲気が花であるのだ。 あれは美しい庭先の椿であろう。 そんな事を考えている場合ではないのに、早く視線を外さねばならないのに。 只々、胸が高鳴るのだ。 「何か…御用でしょうか。」 凛とした声が室内に静かに響く。 凛としているのにどこか寂しげに聞こえるのは男の幻聴であろう。 この女は声までも美しい。 「永田栄一と申します。」 相手の名前が知りたい一心で男は、自分の名を伝えた。 「永田栄一さんとおっしゃるのですね。」 「灰田フミ子と申します。」 女はそう囁いた。 「灰田さんはよくこのバーに来られるのですか。」 男がそう質問したのは、次会う機会を作るためだった。 「いえ、今日が初めてでございます。」 「永田さんはよく来られるのですか。」 灰田フミ子は世間話に付き合うように質問を返した。 「えぇ。私はよく利用させて貰ってます。」 そう男が言うと、フミ子は黒曜石のような黒い瞳を少しも動かさずに、 「そうなのですね。」 言葉少なく相槌を返したのだ。 その態度を見て男は気づいてしまった。 フミ子さんには熱がない、と。 氷のような女であることに。 それでも男は止まれやしない。 永田栄一は、灰田フミ子という名の女に惚れたのだ。 きっと、フミ子からすれば男は燈虫に見えることであろう。 あぁ、冷たい熱に焼かれてしまった。 それでも男はこの女の熱が欲しいのだ。 そのために男は言葉を紡ぐ。 「来週の金曜日、この時間にまたお会いできませんか。」 「貴女に惚れてしまいました。…またお会いしたいのです。」 フミ子は凛とした瞳で男を見たが、その顔に笑みは浮かんでいなかった。 「単調でロマンチシズムな事柄に、私は騙されませんの。」 「…きっと私じゃなくてもよろしいのではなくて?」 「私は、貴方じゃなくても良いと思うもの。」 そう言うと彼女は寸分も酔っていないのであろう、会計を済ませノブを回す。 男はその言葉に唖然とし愉快に口を開けたまま、ただひたすらその言葉を咀嚼しようとした。 結果、男は何も言えなかったのだ。 だが去りゆく女の言う通りだとも思わなかった。 あぁ、あの女は酷い女だ。 男の赤き糸をいとも容易く、ぐちゃぐちゃに固めてしまった。 固めただけで解くこともしない、なんて自分勝手なのだろうか。 この思いが切符なら、男は目的地の見えないまま恋情という名の電車に乗らなければいけなくなってしまったのだから。 酷い酷い、酷い女だ。 冷たくて虚しくて、どうしようもない女だ。 だが、男は思った。 貴女が目的地になってくれることを私は祈ろう、と。 男は残りの酒を煽った。 噎せてしまうのも仕方はない。 男はいつも夢ばかりだが、今はこの薬臭い酒に救われたのだから。 「この酒は嫌いだ、現実のようでいかにもつまらない味をしている。」 けれど灰田フミ子はその苦味さえ甘さに変えたのだ。 恋をするには十分な采配であろう。 今日はもう酔えない、そう見切りをつけ男は店を出た。 空を見上げても星は光らず、ビルのネオンも今は寝静まっている。 街灯だけが明るくて、男はふと笑ってしまった。 「今日は、冷え込むな」 「光に飛び込む燈虫の気持ちが良く理解できるさ」 男はこの日、冷たき街灯に焼かれたのだ。
忘却
月って、悲しいの。 人形が、泣くの。 声なんか無いのよ。 でも、泣くの。 途切れ途切れの言葉達。 放置してたのは、誰かしら。 古びた心に愛は欲しいわ。 忘れてくでしょ、あのコのお口。 黄色の髪に花は咲いたね。 咲いていたのは、忘れちゃったの。 わたしは、イケナイって思ったの。 でもね、やっぱりサヨナラしたわ。 好きなものは、何かしら。 何か好きだったのは、知ってるの。 離れていくのよ、ワタシから。 アナタもやっぱり離れていくわ。 王子様、王子様。 ワタシの王子様。 夜の音が、こわいのよ。 王子様、王子様。 ワタシの恋人。 悲しい人、カナしいヒト。 ワタシだけのサヨナラ。
君の『ヒロイン』になりたい
冬が来るたびに、テレビの向こうの気象予報士は「今シーズン一番の寒気」だの「今夜の初雪の可能性」だのを、どこか嬉しそうに語る。 街を行く人々はマフラーに顔を埋め、恋人たちは身を寄せ合い、世界はまるでイベントの始まりを待つように少しだけ浮き足立つ。 だけど、僕にとっての冬は、そんなロマンチックなものでは決してない。 冬は、僕にとって「君」という存在が、いよいよ看過できないほどに胸を支配し始める、ひどく残酷で、ひどく美しい季節だ。 最初に白状しておかなければならない。 これは、両想いになる未来なんて最初から用意されていない、完全な、救いようのない片思いの記録だ。 恋に落ちた瞬間を、ドラマのように鮮明に覚えているわけじゃない。気がついた時にはもう、手遅れだった。 天気予報で「明日は雪が降るでしょう」と言われたとき、僕が最初に思ったのは「傘を持っていこう」でも「防寒をしよう」でもなかった。 「君は、雪を見て喜ぶ人だったっけな」 それだけだった。 自分の生活や、自分の快適さなんてどうでもよくなってしまう。 自分の脳細胞の何割かが、完全に自分の意志とは関係なく、ひとりの人間のためだけに割かれてしまう。 それを人は恋と呼ぶのかもしれないけれど、僕にとっては、それはまるで質の悪い風邪の予兆のようだった。 一度引いてしまえば、自分の意志では熱を下げられない、あの不自由さに酷似している。 back numberの『ヒロイン』を聴いたとき、心臓を直接掴まれたような気がした。 「雪が綺麗と笑うのは君がいい。でも寒いねって嬉しそうなのも。」 というフレーズは、あまりにも綺麗で、そしてあまりにも僕たちの傲慢さを言い当てている。 片思いの何が苦しいかと言って、自分の世界がすべて「君」というフィルターを通してしか見えなくなってしまうことだ。 たとえば、夕暮れ時の空が信じられないくらい綺麗なグラデーションを描いていたとする。 普通の人間なら、スマホを取り出して写真を撮るか、ただ「綺麗だな」と感動して終わりだろう。 だけど、僕は違う。「この空を、君に見せたい」と思ってしまうのだ。 美味しいラーメン屋を見つければ「今度あいつを連れてきてあげたい」と思い、映画の予告編を観れば「あいつが好きそうなストーリーだな」と頭の中で勝手に君をキャスティングする。 僕が見るすべての景色、僕が聴くすべての音楽、僕が味わうすべての感情の先に、必ず君の幽霊が立っている。 君は僕の隣にいないのに。 僕がひとりで歩いている街の雑踏の中にも、ひとりで入ったカフェの窓際の席にも、君の残像がこびりついて離れない。 「綺麗だね」と君に言いたくて、でも言えなくて。 結局、僕は自分のスマホのカメラロールに、君に見せる予定のない景色の写真を溜め込んでいく。 何の意味もない、ただの自己満足の塊。 君というフィルターを通さなければ、僕はもう、世界を正しく美しいと認識することさえできなくなってしまったのだ。 世の中には「友達のままでいいから、一番近くにいたい」なんて殊勝なことを言う人がいる。 あれは嘘だ。少なくとも、僕にとっては綺麗な建前に過ぎない。 「何でも話せる親友」とか「困った時に真っ先に頼れる存在」とか、そういうポジションは一見すると特等席のように思える。 確かに、他の誰よりも君の笑顔を近くで見られるし、君の弱音を特等席で聴くことができる。 だけどその席は、君の「恋愛対象」というステージからは、最も遠く引き離された監獄でもある。 君が僕の前で、屈託のない笑顔を見せるたびに、僕の胸はすり減っていく。 なぜならその笑顔には、一切の「照れ」も「計算」も「恋の駆け引き」も含まれていないからだ。 完全に安心しきった、100%の「友達としての好意」。 それがどれほど僕を絶望させるか、君は知りもしないだろう。 一番きついのは、君が僕の目の前で、他の誰かの話をするときだ。 「最近、あの人がさ……」 そう言って、少しだけ瞳を潤ませたり、声を上ずらせたりする君を見る。 その瞬間、君の世界の「ヒロイン」の座に座っているのは、僕ではなく、僕の知らないどこかの誰かなのだと突きつけられる。 君が誰かを想って一喜一憂する姿を、僕は「良き相談相手」の仮面を被って見つめ続けなければならない。 「へえ、いいじゃん、頑張りなよ」 口から出る言葉は、1ミリの嘘偽りもない応援の形をしているけれど、僕の心の中は、ドロドロとした嫉妬と、情けなさで満たされている。 君の恋を応援する僕の優しさは、君に嫌われたくないという一心だけで保たれている、極めて我が儘で、脆いものだ。 もし僕がここで「そんな奴のこと、もう忘れなよ。僕じゃダメかな」と言えたなら、どれほど楽だろう。 だけど、言えない。 言った瞬間に、この「特等席」さえも奪われ、僕は君の世界から完全にサヨナラしなければならなくなることを、痛いほど理解しているからだ。 だから僕は今日も、世界一物分かりの良い友達のフリをして、君の隣で笑っている。 雪は、すべての汚れを白く覆い隠してくれる。 泥だらけのアスファルトも、放置されたゴミ箱も、雪が降ればすべてが均一に、美しく、純白の世界へと変わる。 だけど、僕の心の中にある君への想いは、そんなに綺麗なものじゃない。 もっと独占欲に塗れていて、泥臭くて、みっともないものだ。 『ヒロイン』の歌詞はこう続く。 「君の街に白い雪が降った時 君は誰に会いたくなるんだろう」 「雪が綺麗と笑うのは君がいい」 本当にその通りだと思う。 だけど、僕の本音はもっとその先にある。 君が誰の映画のヒロインであっても構わない、なんて、そんな聖人君子みたいなことは思えない。 君が他の誰かと幸せになるくらいなら、いっそその恋が上手くいかなければいいのにと、最低なことを願ってしまう夜がある。 君を泣かせるような男の元に行くくらいなら、僕が君を、僕の不器用な両手で抱きしめて、世界で一番甘やかしてあげたいと思ってしまう。 街のイルミネーションがどれだけ輝いていても、僕の隣にいる君の手を握ることができないのなら、そんな光は全部消えてしまえばいい。 世界中がどれだけ冬の美しさを讃えていても、君が僕を特別だと思ってくれないのなら、こんな季節は早く過ぎ去ってしまえばいい。 片思いとは、自分の無力さと、自分の醜さに、毎日直面させられる作業だ。 君の一言で天国に上り、君の既読スルーひとつで地獄に落ちる。 そんな感情のジェットコースターに振り回されている自分自身が、時々たまらなく嫌になる。 明日もきっと、世界は平然と回っていく。 君は僕の気持ちなんてこれっぽっちも気づかずに、「おはよう」と軽いトーンでLINEを送ってくるだろうし、僕はそれに、数分間泳がせてから、さも今気づいた風を装って「おはよ」と返すのだろう。 この片思いの結末がどうなるかは、最初から分かっている。 いつか君には本当に大切な人ができて、僕はその結婚式に呼ばれて、「本当におめでとう」と、人生で一番の大嘘をつきながら笑うのだ。 それ以外の結末なんて、今の僕には到底想像できない。 それでも。 もしも明日、本当に予報通りに雪が降るのだとしたら。 東京の、あの狭くて、冷たい空から、白い結晶がひらひらと舞い降りてくるのだとしたら。 僕はやっぱり、真っ先に君の顔を思い浮かべるのだろう。 「今、雪見てるかな」 「寒いって文句言ってるかな」 僕の世界が、どれだけ君一人のせいで不自由になろうとも、僕はきっと、この不自由さを愛している。 君を想うことでしか得られない、あの胸の奥がギュッと縮まるような痛みを、手放したくないと思ってしまっている。 君の物語の中で、僕がただの「背景のひとり」だとしても構わない。 せめて、君の歩む道の片隅に降る、ひとひらの雪のようでありたい。 君の手のひらに落ちて、触れた瞬間に消えてしまうような、それくらい儚くて、だけど確かにそこにいた証として。 今年もまた、僕の街に、冷たい、冷たい冬がやってくる。 君という名の、決して手に入らない、僕の美しい世界の冬が。
『復活の日』
宣教師は、今日も歩いていた。 聖書を抱え、街から街へ。 ホテル、旅館、飲食店、本屋。 人の集まる場所を見つけては、そこに一冊の聖書を置いていく。 彼には、目的があった。 天国への到達。 欲望も、肉体も、すべてを捨てて、真の姿に生まれ変わる。 復活の日を夢見ていた。 かつて、宣教師は天啓を受けた。 心地よい声が頭に響く。 やがてあなたは天国に行く…… そのために…… 広めるのです…… そして迷える羊たちを導きなさい…… さすれば天界への門が開かれるでしょう…… その瞬間、背後から衝撃音が聞こえた。 振り返ると、大量の聖書が山のように積まれていた。 さらに声が響く。 「一冊の聖書を配るたび、ヘブンポイントが一ポイント貯まります」 「ヘブンポイント……?」 「そうです。配布された者が信者になれば十ポイント。その信者が新たな信者を紹介すれば、さらに十ポイント」 「そして、100万ヘブンポイント。それが、天国への到達に必要なポイントです」 宣教師は、その声を静かに聴いていた。 これは神が与えた、私への試練だ。 それから、彼の布教活動の日々が始まった。 そして、ある日。 空から再び声が聞こえた。 「宣教師……」 「聞こえますか? 宣教師……」 宣教師は空を見上げた。 「あなたの頑張りを、ずっと見ていましたよ」 宣教師の顔がほころぶ。 「ああ……」 「ありがとうございます……」 天の声は続けた。 「あなたの現在のランクは、ブロンズです」 「……ん?」 「次はシルバーを目指しなさい」 「え?」 それからだった。 宣教師の布教活動は、さらに激しくなった。 全国各地を駆け回り、聖書を配った。 ホテルの客室。 旅館のロビー。 飲食店のテーブル。 本屋の片隅。 ついには街頭に立ち、大勢の人々に向かって聖書を配り始めた。 「聖書はいかがですか!」 一冊。 また一冊。 ポイントは、日に日に増えていった。 やがてポイントは10万を超えた。 そのとき、再び天の声が聞こえた。 「宣教師」 「ヘブンポイント、かなり貯まりましたね」 「少し使ってみませんか?」 宣教師は驚いた。 「使う?」 「ええ」 すると、空中に光が集まり、一枚のカタログが現れた。 そこには、さまざまな天界グッズが並んでいた。 どんな場所にでも一瞬で行ける。 “天使の羽” 人をダメにする極上の座り心地。 “雲のソファ” 困ったときに吹けば、一度だけ天使が助けてくれる。 “天使のラッパ” どんな疲れも即座に吹き飛ぶ。 “天界温泉の素” 宣教師は目を輝かせた。 「……天国にも、こんなものがあるのか」 ページをめくる。 そのとき、一つの商品が目に入った。 宣教師の手が止まった。 「……これは?」 そこに書かれていたのは、 “一日天国体験チケット” 『50万ヘブンポイント』 一日だけ、天国を自由に体験できる。 雲の上を歩き、天使と食事をし、源泉の天界温泉に入ることもできる。 宣教師は考えた。 100万ポイントには、まだ遠い。 その日まで、自分は生きていられるのだろうか。 宣教師は、しばらく画面を見つめた。 そして、笑った。 「一日だけでもいい」 「私は……天国へ行ってみたい」 その日から、宣教師はさらに激しく布教を続けた。 聖書を配る。 ポイントが増える。 また聖書を配る。 いつしか宣教師にとって、聖書を渡すことは祈りではなくなっていた。 ポイントを確認するための行為になっていた。 天界のポイント制度には、さまざまなキャンペーンが用意されていた。 「宣教師! 宣教師! 本日はポイント二倍デーですよ!」 「……二倍!?」 「はい! ただし、ゴールドランク以上の会員様が対象です!」 「…………」 「明日も頑張ってくださいね!」 また、別の日。 「宣教師! シニア応援キャンペーンを実施中です!」 「どう言うことでしょうか?」 「60歳以上の方に聖書を配ると、獲得ポイントが五倍になります!」 「ごばっ……五倍!?」 「ええ! 人生経験豊富な方々にも、天界の魅力をお伝えください!」 宣教師は、静かに空を見上げた。 「……神よ、これは布教なのでしょうか」 だが、そんな彼に天界から新たな提案が届いた。 「宣教師、聞こえますか?」 「アプリをダウンロードしませんか?」 「アプリ?」 「ええ。いちいち私に聞かなくても、現在のランクとポイントを確認できる便利なアプリです」 「な、なんと! そんな便利なものが!」 「しかも、初回登録時には10,000ヘブンポイントが付与されますよ」 「……!?」 宣教師は驚いた。 「それはすごい!」 「ええ。ただし、まだ試作段階です」 「そこで、あなたにモニターとして特別に与えましょう」 すると、宣教師のスマートフォンに通知が届いた。 『おめでとうございます! 初回特典10,000ヘブンポイントを追加しました!』 「おおおおお!」 宣教師はスマートフォンを握りしめた。 「神よ……ありがとうございます!」 宣教師は、静かにスマートフォンをしまった。 そのとき、再び天の声が響いた。 「宣教師、あなたにもう一つの使命を与えましょう」 「使命……ですか?」 「ええ。若者に聖書を配るのは、至難の業です」 「……確かに」 「そこで、このアプリを広めなさい」 「アプリを?」 「そうです。聖書とアプリ、並行して布教すれば、天界への道はさらに近づくでしょう」 「おお……!」 宣教師は、スマートフォンを見つめた。 「分かりました! この使命、必ず果たしてみせます!」 「なお、アプリを一人に紹介するごとに、100ポイントを進呈します」 「ひゃ、100ポイント!」 宣教師の目が輝いた。 聖書を一冊ずつ配るより、はるかに効率がいい。 しかも、紹介された人が新たな利用者を連れてくれば、自分が直接布教しなくてもポイントが増えていく。 「これなら……これなら、天国に行ける!」 その日から、宣教師はアプリの普及に力を注ぐようになった。 「天界公式アプリはいかがですか!」 「今なら新規登録で10,000ポイント!」 「お友達紹介で、さらにポイントが貯まります!」 通行人は首をかしげた。 「……何のアプリ?」 「天国に近づけるアプリです!」 「……怪しいな」 「怪しくありません! 天界公式です!」 それから、宣教師のポイントは日に日に増えていった。 聖書だけでは到底届かなかったポイントが、アプリの普及によって驚くべき速度で増え始めたのだ。 一人が登録し、その人がまた別の人を紹介する。 紹介された人が、さらに別の人を紹介する。 気がつけば、宣教師が直接会ったこともない人々が、次々とアプリに登録していた。 宣教師は、毎朝スマートフォンを確認するのが楽しみになっていた。 『新規登録者が増えました!』 『紹介ポイントが付与されました!』 『ランキングが更新されました!』 かつては、街を歩き、一冊ずつ聖書を配っていた。 それが今では、寝ている間にもポイントが増えていく。 「これが……新しい布教の形なのか!」 しかし、アプリは便利すぎた。 ポイントの確認も、ランクの確認も、信者の紹介も、すべてスマートフォン一つで済んでしまう。 わざわざ聖書を手に取る必要など、なかった。 アプリが普及すればするほど、聖書を手に取る者は少なくなっていった。 宣教師は頭を抱えた。 「……これは、困った」 ポイントは増えている。 だが、聖書は配れなくなっている。 「ポイントを貯めるだけではだめだ……」 宣教師は、目の前に積まれた聖書の山を見つめた。 天啓を受けたあの日、背後に現れた大量の聖書。 あれから、どれだけ配っただろう。 それでも、まだ山のように残っている。 「この聖書の山も、どうにかしなくては……」 宣教師は、深いため息をついた。 そのときだった。 「あっ、いました! 今話題の人!」 突然、背後から声がした。 振り返ると、テレビカメラを構えた一団が近づいてきた。 リポーターだった。 「各地で聖書を配っているそうですが、何か目的があるんですか?」 宣教師は静かに答えた。 「……ふっかつ、です」 「復活?」 「布教活動、略して布活」 宣教師は空を見上げた。 「いずれ私は天国へ到達する」 「真の意味での復活なのです」 リポーターは苦笑した。 「……はは」 その直後、リポーターはポケットに違和感を覚えた。 「ん?」 何かが入っている。 「……え?」 取り出したのは、一冊の聖書だった。 「聖書!? 聖書なんで!?」 遠くを歩いていた宣教師が、こちらを振り返る。 そして、ほんの少しだけ笑った。 「布活……成功だ」 宣教師は、また歩き出した。 その後、宣教師の布教能力は、自分でも知らないうちに熟達していた。 すれ違う人々に、鮮やかな手つきで聖書を差し出す。 立ち止まった人間を見つければ、ビラ配りの要領で素早く手渡す。 「はい、どうぞ!」 「えっ、ちょっ……!」 気づいたときには、もう次の通行人へと向かっていた。 聖書の山は、少しずつ減っていった。 その様子を、天界モニターから天使たちが静かに見つめていた。 天使たちは画面を凝視する。 「今のシーン、巻き戻してください!」 映像が巻き戻される。 画面の中では、宣教師が通行人とすれ違っていた。 一瞬。 ほんの一瞬だった。 宣教師は、通行人に気づかれないほどの速さで聖書を渡していた。 「……恐ろしく速い布教」 「私でなければ見逃してしまう……」 「これは本当に布教活動なのか……?」 一方、宣教師本人は浮かれていた。 アプリのおかげで、ポイントは順調に貯まっていく。 それに、この聖書。 わざわざお願いする必要はない。 とにかく渡してしまえばいいのだ。 受け取ってもらえるかどうかなど、気にする必要はない。 一冊渡せば、一ポイント。 それだけは確実なのだから。 宣教師は、次々と聖書を配っていった。 通行人に。 店の客に。 街を歩く人々に。 誰が受け取ったのか。 誰が読んでくれるのか。 そんなことは、もうどうでもよかった。 スマートフォンが鳴る。 『ヘブンポイントを獲得しました!』 宣教師は画面を確認し、満足げに微笑んだ。 「……よし」 かつて、彼は人々を救いたいと願っていた。 聖書が誰かの心の支えになればいい。 そう思っていた。 だが、いつしかその願いは消えていた。 残ったのは、ポイントを貯めることへの執着だけだった。 宣教師は、次の聖書を手に取った。 そして、また歩き出した。 そのときだった。 「宣教師、宣教師」 聞き覚えのある声が、頭の中に響いた。 「聞こえますか? 宣教師」 宣教師は足を止めた。 「……はい。聞こえております」 天の声は、いつになく真剣だった。 「最近、あなたの布教活動について、天界でも議論されていますよ」 「……議論?」 「ええ」 「あなたは、どうしたいのですか?」 「……どう、とは?」 「人々に聖書を読んでもらいたいのですか?」 「それとも、ポイントを貯めたいのですか?」 宣教師は口を開きかけた。 しかし、言葉が出てこなかった。 やがて、宣教師は声を絞り出した。 「そんな……」 「そもそも、あなたが言われたのですよ?」 「ポイントを貯めろと」 「聖書を配れ、アプリを広めろ、と……」 天界は静まり返った。 やがて、天の声が響いた。 「この愚か者!!」 「……!?」 「誰が、そんなことのために聖書を配れと言いましたか!」 「私たちは、人々を導きなさいと言ったのです!」 「ポイントを貯めることだけに夢中になり、肝心の人々を忘れてどうするのです!」 宣教師は困惑した。 「し、しかし……ヘブンポイントが……」 「ヘブンポイント! ヘブンポイント!」 「あなたはそればかりではありませんか!」 宣教師は、何も言えなかった。 天の声は、さらに続けた。 「罰として、今まで貯めたポイントは没収します!」 「もう一度、自分が何のために布教活動をしているのか、頭を冷やして考えなさい!」 「そ、そんな……!」 スマートフォンが鳴った。 『天界ポイントサービスからのお知らせ』 『規約違反に伴い、保有ヘブンポイントを全額没収いたしました』 『現在の保有ポイント:0 HP』 宣教師は、画面を見つめたまま立ち尽くした。 あれほど必死に貯めたポイント。 何年も歩き続け、聖書を配り、アプリを広めてきた。 そのすべてが、一瞬にして消えてしまった。 「そんな……」 「私は、間違っていたのか……?」 手の中には、一冊の聖書が残っていた。 「私の今までの努力は、一体……」 それから、宣教師は自分を見つめ直す旅に出た。 スマートフォンをしまい、聖書を一冊だけ抱えて、街を離れた。 人里離れた静かな場所で、彼は腰を下ろした。 そして、長い間開くことのなかった聖書を、ゆっくりと開いた。 一ページ。 また一ページ。 彼は、聖書を読み進めた。 そこに書かれている言葉を、何度も読み返した。 宣教師は、目を閉じた。 「……私は、何のために歩いていたのだろう」 ポイントを貯めること。 ランクを上げること。 天国に近づくこと。 いつしか、そればかりを考えていた。 答えは、すぐには見つからなかった。 それでも彼は、聖書を読み続けた。 ポイントのためではなく。 誰かに褒められるためでもなく。 ただ、自分自身と向き合うために。 長い旅の中で、宣教師は少しずつ考えるようになった。 天国に行くことが、本当に目的だったのだろうか。 それとも、自分が誰かのためにできることを探していたのだろうか。 彼はまだ、答えを見つけてはいなかった。 だが、もう急ぐ必要はなかった。 スマートフォンが鳴ることもない。 ランクを確認する必要もない。 宣教師は聖書を閉じ、空を見上げた。 そして、再び歩き始めた。 やがて宣教師は、ある小さな町で一人の老人に出会った。 老人は、ボロボロになった聖書を抱えていた。 表紙は擦り切れ、ページの端は黄ばんでいる。 何度も読み返したのだろう。 老人は毎日、静かに神へ祈りを捧げていた。 その人生は、決して恵まれたものではなかった。 働いても報われず、苦労して築いたものを失い、晩年になっても豊かな暮らしとは縁がなかった。 それでも、老人は信仰を捨てなかった。 どんなに貧しくても、困っている人がいれば自分の分を分け与えた。 自分が苦しいときでさえ、誰かの幸せを願った。 そして、どんなに辛い出来事があっても、最後には必ず神に感謝した。 「今日も一日、生きることができました」 「ありがとうございます」 老人は、そう言って頭を下げた。 宣教師は、その姿を遠くから見つめていた。 なぜ、これほど報われない人生を送ってきた人間が、なおも感謝できるのだろう。 なぜ、自分の生活さえ苦しいのに、他人を優先できるのだろう。 そして、なぜ、この老人は見返りを求めないのだろう。 宣教師は、ふと自分の手を見た。 かつて、自分も聖書を抱えて歩いていた。 人々を助けたい。 迷える羊たちを導きたい。 そう願っていた。 だが、いつしか自分は、何かを得るために歩くようになっていた。 ポイント。 ランク。 天国への到達。 そのために、聖書を配っていた。 宣教師は、再び老人を見つめた。 そこにいたのは、特別な力を持つ人間でも、偉大な聖職者でもなかった。 ただ、信仰を胸に、懸命に生きている一人の老人だった。 それなのに。 宣教師には、その姿がまぶしく見えた。 老人の姿に、若き日の自分を見ていた。 宣教師は、老人のもとへ歩み寄った。 「あの……お願いがあります」 老人は顔を上げた。 「その聖書を、私にいただけませんか?」 老人は少し驚いたような顔をした。 だが、すぐに微笑み、快く聖書を差し出した。 「ええ、どうぞ」 宣教師は、両手でそれを受け取った。 そして、じっと見つめた。 表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。 ところどころページは破れ、長年の使用で文字が掠れ、読めなくなっている箇所さえあった。 一体、どれほど読み続けたのだろう。 どれほどの祈りを、この一冊に捧げてきたのだろう。 宣教師は、言葉を失った。 やがて彼は、カバンから新品の聖書を取り出した。 「……これを、どうぞ」 老人は新品の聖書を見つめた。 そして、静かに首を横に振った。 「私には、もう聖書は必要ありません」 宣教師は、驚いて老人を見つめた。 老人は、自分の胸にそっと手を当てた。 「大切なことは、すべて私の中にありますから」 宣教師は、何も言えなかった。 老人は穏やかな顔で続けた。 「この本には、たくさんのことを教えてもらいました」 「苦しいとき、どう生きればいいのか」 「誰かを憎みそうになったとき、どうすればいいのか」 「自分が何も持っていないときでさえ、誰かに与えられるものがあるということも」 老人は、擦り切れた聖書を見つめた。 「私は、この本から多くのものをいただきました」 「だから今度は、私が誰かに与える番なのです」 その言葉に、宣教師は胸を打たれた。 ずっと忘れていた、大切なことを思い出した。 「私は……なんと愚かだったのか……」 宣教師は、老人から受け取ったボロボロの聖書を、そっと胸に抱えた。 そして、自分の聖書を老人に差し出した。 「これは……私の人生です」 「どうか、受け取っていただきたい」 宣教師は、深く頭を下げた。 老人はしばらく聖書を見つめていた。 そして、穏やかな笑顔でそれを受け取った。 「ありがとうございます」 その瞬間だった。 天から、懐かしい声が響いた。 「宣教師……」 「ずっと見ていましたよ」 宣教師は、ゆっくりと空を見上げた。 「あなたは、真の布活を成し遂げましたね」 そのとき、宣教師のスマートフォンが鳴った。 『おめでとうございます!』 『100万ヘブンポイントを追加しました!』 宣教師は、画面を見つめたまま固まった。 「……ひゃ、100万?」 天の声は、優しく告げた。 「ええ。あなたが本当に大切なものを取り戻した、その証です」 宣教師は、スマートフォンを見つめた。 かつてなら、飛び上がって喜んでいただろう。 何度もポイントを確認し、ランクを調べ、天国への到達を夢見ただろう。 だが、今は違った。 宣教師は、静かにスマートフォンをポケットにしまった。 そして、老人に向き直った。 「……ありがとうございます」 老人は、不思議そうに首をかしげた。 「何か、いいことがあったのですか?」 宣教師は、微笑んだ。 「ええ」 「とても大切なことを、思い出しました」 天の声が響いた。 「それでは、天国へ行きましょう」 「宣教師、準備はいいですか?」 宣教師は、しばらく考え込んでいた。 「……宣教師?」 「どうしました?」 「念願の天国ですよ?」 宣教師は、静かに口を開いた。 「私には……まだまだ、やらねばならぬことがあります」 天の声は問いただした。 「……それは?」 宣教師は、顔を上げた。 「それは……」 「布活です!!」 宣教師の顔に、笑顔が広がった。 彼は、真っ直ぐ前を向いた。 そして、ボロボロの聖書を抱え、 新たなる道へと歩き出した。 END
獏
夢を見た。 足の小指から頭の毛先に至るまで、全身のありとあらゆる細胞に動けと念じてみたが、まるで動かない。一向に動く気配のない身体が動いたのは、ちょうど諦めたその頃である。正しくは私が動いたのではなく、地面が動いた。そして地面だと思っていたそれは地面ではなかった。 振り落とされるように地面から引き剥がされた私の眼前に獏がいた。ただ、私の知っている獏と比べ、その図体は何倍にも大きかった。その無感情な眼球だけで人の背丈ほどあり、寝転んだ私の視界では全てを収めることはできなかった。私が寝ていたであろう背中の感触を思い返すと、煉瓦のように硬いものだった。全身のあちこちが軋み、関節が固まりきっていた。 私にとってこの状況は悪夢に近く、まさしく獏の出番なのだが、この獏を食べる獏など、想像もつかなかった。 私は動けぬまま獏に食べられた。口内もまた煉瓦のように硬かったが、喉は温かかった。生ぬるい唾液を浴び、弾力のある胃の中で何度か跳ね、最後には一点に留まった。ときどき揺れ、蒸した獏の呼吸が当たり、ほとんど音はない。私は獏の胃の中で深い眠りについた。
雑文 6
こうして自分の事をお話するのは久しぶりな気がしますが(需要があるとかその辺は置いといて)、なんだか何書いても上手くいかないので、やっぱりとりあえず自分の事を書こうと思います。 皆様はいかがお過ごしでしょうか。最近、めちゃくちゃ寒いですよね。暑いのが大嫌いかつ、通学が徒歩なのもあって、このくらい寒い方が僕は嬉しかったりします。汗をかかなくて済みますしね。でも雪とかは嫌かな。やっぱり徒歩なので、ちょうどいい塩梅だと助かります。 最近は、まあ良く生きています。執筆が進まない原因はなんだと考えた時に、執筆以外での趣味が増えてしまった事が挙げられるのではないかと思いつきました。 最近のマイブームはサッカーです。もちろん見る方の。 ワールドカップあたりからハマりだして継続中なのですが、今応援してるのはパリ・サンジェルマンです。マジでかっけぇです。トーレスとか、ドゥエとか、クヴァラツヘリアとか、とんでもなく好きです。クヴァラツヘリアが負傷で離脱してしまってめちゃくちゃ萎えてますが、シティ戦はほんとに熱かった。 あとはゲームとかも。私事ですが、最近PS5を買いまして。まじで驚いてばっかです。面白い。面白すぎるぞ。モンハンが大好きです。おすすめのゲームあったら教えてください。 あとはバイトです。夜勤で働いてます。 楽しいです。一緒にシフト入ってる方が面白くて、丁寧に教えてくれて。生活習慣狂い気味なのだけはネックですが、それ含めてもお釣りが返ってくるくらいには気持ちのいい仕事ができます。なんだか今更ですが、(インターネット含めて)僕の周りはほんとに優しい方だらけで、恵まれてるなと思います。まじで感謝しかないです。みんなありがとう。恩返しとかしたいですが、やり方わかんない。だからもっと自己主張してきていいですからね。自販機でジュース一本くらいなら、奢ってあげてもいいですよ。 もちろん、こんだけ幸せな生活を送っているということは、その分問題もありまして。 まずは生活習慣。現在三時五十分でございます。この後五時からは、バルセロナ対マドリードの試合があります。夜勤とサッカーのダブルパンチ。悪習慣の原因の八割は、それで説明がつきます。 あとは、カツカツな懐事情。金がねえ。一にも二にも金がない。ひたすらに金がない。もっとシフト入れたいのですが、勉学を疎かにする訳にもいかず……。まあ大して勉強もしてませんが、この際そんな事はどうでも良いのです。はい。 美味い飯が食べたいし、もっと家具が欲しいし、ゲームに課金したいし、自堕落に生きたいし、なんなら働きたくないし、毎日昼過ぎまで寝てたいし、大学の講義はもう全部飛びたいし、欲望を挙げたらキリがないのですが、まあしょうがないかと。 最近AIがどうのこうの、職がどうのこうのとか言いますが、あれもぶっちゃけいいんじゃないかと思う節があって。そもそもAIが全部の職業を奪ってくれたら、我々は働かなくていいわけで。中途半端に、できる仕事できない仕事があるからいけないと思うんです。何でもかんでもAIに任せて、人類はやりたいことやるみたいな。それじゃダメなんですかね。それがいいんですけどね。お金でさつまいもを焼いて、なんかしてないと落ち着かない人だけが何かして。なんだか、難しい世の中だなと思います。めんどくせーまじで。 だからこそ、僕がPS5を起動して、誰かが本を開いて、どっかの誰かが家を飛び出したりする訳なんでしょうけど。 ギターとか弾いてみたいです。お金がないんですけども。アコースティックでも、エレキギターでも。なんでもかんでもじゃんじゃかかき鳴らして、発散したい物があります。そうやって言葉も連ねて吐き出せたらどんなに楽しいかと想像する夜があります。もうすぐ夜も明けますね。 何でもいいんですけどね。いやほんとに何でもいいんですけど。 そういえば、家の中で虫を見なくなりました。 ゲジゲジとか昔はいたのに(雑文第五回参照)、もう全然見ないですし、カメムシとか外では見ますが、家の中では見ません。 これかなと予想している理由がひとつあるのですが、実は、玄関に大きな蜘蛛の巣ができまして。換気扇のとこを覆うように巣を張って、どでかい蜘蛛が鎮座してます。 これは是非覚えて帰って欲しいのですが、何でも大事なのは使いようです。蜘蛛がブラッド・ピットよりかっこよく見える。 そろそろまとめます。 ・僕は何とか生きています。 ・僕はたくさんの趣味ができて、執筆が上手くいかないです。 ・カツカツです。 ・蜘蛛の相棒ができました。 こんな感じです。 毎度、この雑文に付き合っていただきありがとうございます。 そして、この雑文に限らず、いつも読んでくれる方々のおかげでノベリーを続けられてます。本当にありがとう。 最初に言った通り、寒くなってきました。体調には気をつけて、是非ご自愛ください。 それでは、またいつか。
午前0時のハロウィン
街の灯りがひとつずつ、闇に溶けていく。 オレンジ色の月が笑い、 かぼちゃの瞳に火が灯る。 誰もいないはずの路地裏で、 小さな足音が夜を叩いた。 お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ。 そんな無邪気な呪文の裏側で、 忘れられた魔女が目を覚ます。 仮面の下に隠した涙も、 黒猫の背中に預けた秘密も、 今夜だけは、誰にも見つからない。 狼は月に恋をして、 幽霊は帰る場所を探している。 吸血鬼は永遠の孤独を噛みしめながら、 人間たちの笑い声を羨んでいた。 ねえ、知ってる? この世界でいちばん恐ろしい怪物は、 牙を持つものでも、 墓場から這い出すものでもない。 本当の自分を隠したまま、 誰かに愛されたいと願う、 僕ら自身なのかもしれない。 やがて時計が十二時を告げる。 魔法は解け、仮面は砕け、 夜の住人たちは闇へと帰る。 それでも、君が最後にくれた笑顔だけは、 どうしても魔法が解けなかった。 朝焼けが街を染める頃、 僕はひとり、空っぽの手を見つめる。 手のひらには、君がくれた小さな飴玉。 包み紙に書かれていたのは、 たったひとこと。 「また来年、ここで会おう。」
君がいなくなった夏を、僕はまだ知らない
人は、人生で何度くらい「あのときに戻りたい」と思うのだろう。テストで赤点を取ったとき。好きな人に振られたとき。大切な人と喧嘩したとき。それとも、もう二度と会えない人ができたとき。僕は、たぶん人より少しだけ多い。 高校三年生の夏。蝉の声がうるさくて、校舎の廊下にはワックスと汗の匂いが混ざっていた。窓の外では野球部が泥だらけになって走っていて、グラウンドの向こうには、入道雲が馬鹿みたいに大きく膨らんでいた。僕はその景色を、三年間で何百回も見てきた。なのに、あの日の景色だけは、今でもひどく鮮明に覚えている。 「ねえ、黒瀬くん。もし明日、世界が終わるとしたら、何する?」 放課後の教室。誰もいなくなった教室で、僕の隣の席に座った女子が言った。彼女は机に頬杖をついて、窓の外を眺めていた。肩まで伸びた黒髪が、夕方の風に揺れている。白いカーディガンの袖から、細い指が少しだけ覗いていた。名前は、七瀬紬。僕が三年間、まともに話せなかった女子だった。成績は学年上位。先生からの信頼も厚く、誰とでも話せるくせに、どこか人との間に見えない壁を作っている。笑うと目尻が少し下がる。けれど、彼女が心の底から笑っているところを見た人は、案外少ないのかもしれない。僕は彼女のことを、ずっと綺麗な人だと思っていた。それは顔立ちの話だけじゃない。彼女は、誰も見ていないところで落ちているプリントを拾った。廊下で困っている一年生がいれば、当たり前みたいに声をかけた。友達の冗談に笑いながら、ふとした瞬間に、誰にも見られていないような寂しい顔をした。僕はその顔を見るたびに、どうしようもなく気になった。けれど、話しかける勇気はなかった。僕は彼女にとって、ただのクラスメートだったから。 「世界が終わる? 寝るかな」 「つまんな」 「じゃあ、何て答えたら正解なんだよ」 「好きな人に会いに行く、とか?」 心臓が、変な音を立てた。彼女はこちらを向いて、悪戯っぽく笑った。 「黒瀬くん、好きな人いる?」 「……いない」 「今、絶対嘘ついた」 「なんでだよ」 「目が泳いだ」 「お前、心理学者か何か?」 「将来は探偵でもやろうかな」 彼女は笑った。僕はその笑顔を見て、思った。明日、世界が終わるなら、僕はきっと、七瀬に会いに行く。そして、世界が終わらない限り、そのことを彼女に伝えられないのだろう。そういう人間だった。臆病で、格好つけで、何かを失う前から失うことを恐れている。だから僕は、その日の帰り道も、彼女に何も言わなかった。 駅までの道は、夏の夕陽に焼かれていた。彼女は途中のコンビニに寄って、アイスを二本買った。一本を僕に差し出して、「今日のお礼」と言った。 「何のお礼?」 「話し相手になってくれたお礼」 「それ、僕が払う側じゃないの?」 「細かいこと気にすると老けるよ」 「まだ十七なんだけど」 「精神年齢の話」 そんなことを言って、彼女はまた笑った。駅前の横断歩道で、僕たちは別れた。彼女は右へ、僕は左へ。信号が青に変わる直前、彼女が振り返った。 「ねえ、黒瀬くん!」 「ん?」 「明日も、ここで話そうね!」 僕は片手を上げて答えた。「はいはい」。それが、彼女と交わした最後の約束になるなんて、あのときの僕は知らなかった。 翌日、七瀬紬は学校に来なかった。翌々日も、その次の日も。担任は「家庭の事情だ」とだけ説明した。クラスメートたちは最初こそ心配していたが、夏休みが近づくにつれて、彼女の不在を話題にすることもなくなった。人間は、案外簡単に誰かがいない日常に慣れてしまう。席が空いていることにも。名前が呼ばれないことにも。いつもそこにあった笑い声が、もう聞こえないことにも。僕だけが、慣れなかった。 毎朝、教室に入るたびに、彼女の席を見た。放課後には、あの日と同じ教室に残った。駅前の横断歩道では、彼女が歩いていった方向を何度も見た。馬鹿みたいだと思う。連絡先だって知っている。メッセージを送ればいい。電話をかければいい。家に行くことだって、住所を聞けばできるかもしれない。それなのに、僕は何もしなかった。迷惑だったらどうしよう。嫌われていたらどうしよう。そんなことばかり考えて、結局、何もできなかった。 七月二十日。終業式の日。僕は彼女の机の中に、一枚の紙が残されているのを見つけた。四つ折りにされた、ノートの切れ端。開くと、丸みのある文字で、こう書かれていた。 『黒瀬くんへ。もし私がいなくなっても、あんまり探さないでね。でも、もし本当に会いたくなったら、夏祭りの日に、あの場所へ来てください。きっと、まだ覚えていると思うから。七瀬紬』 あの場所。僕は何度もその文字を読み返した。そして、思い出した。六月の終わり、授業をサボった彼女と、学校の裏山にある古い展望台へ行ったことを。彼女はあの日、突然「海が見たい」と言った。この街に海はない。それでも彼女は、海が見たいと言った。僕たちは電車を乗り継ぎ、隣町の海まで行った。海岸に着いたのは夕方だった。彼女は靴を脱いで砂浜を歩き、波が足に触れるたびに声を上げて笑った。僕はその姿を見ながら、何も言えずにいた。 帰りの電車で、彼女は窓に映った自分の顔を見て、ぽつりと言った。「私ね、ずっとここから出たかったんだ」 「この街から?」 「うん。全部、嫌いなわけじゃないんだけどね。ここにいると、みんなが私のことを知ってる気がするの。昔の私も、今の私も、これからの私も」 「そんなの、誰も知らないだろ」 「そうかな」 彼女は窓の外を見つめた。「私も、自分のこと、よくわかんないのに」。そのとき、僕は彼女に何か言うべきだったのだと思う。大丈夫だとか、わからなくてもいいとか、僕だって自分のことなんてわからないとか。けれど僕は、黙っていた。そして彼女は笑って言った。「黒瀬くんは、いいよね」「何が?」「まだ、何にでもなれるから」。その言葉の意味を、僕はずっと理解できずにいた。 夏祭りは、八月の第一土曜日だった。僕はその日まで、彼女のことを考え続けた。勉強をしていても、ゲームをしていても、友達とくだらない話をしていても、ふとした瞬間に彼女の顔が浮かんだ。そして、夏祭りの日。僕は約束の場所へ向かった。 学校の裏山にある展望台。街を一望できる、小さな木造の建物。子どもの頃はよく遊びに来たが、高校生になってからはほとんど来なくなっていた。展望台の階段を上ると、そこに彼女がいた。白いワンピースを着て、手すりにもたれながら、遠くの花火を見ていた。夜空に大輪の花が咲く。遅れて、音が届く。彼女は振り返った。 「来てくれたんだ」 その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが崩れた。 「……何してたんだよ」 「花火、見てた」 「そうじゃなくて」 「うん」 「なんで学校来なかったんだよ」 彼女は答えなかった。僕は自分でも驚くほど、怒っていた。「みんな心配してた。先生だって、何も教えてくれないし。連絡しても返事しないし。何なんだよ、急にいなくなって」 「ごめんね」 「ごめんじゃなくてさ」 言葉が止まった。本当は、怒りたかったわけじゃない。寂しかった。会いたかった。どうして何も言ってくれなかったのか、知りたかった。でも、そんな言葉を口にするのは、ひどく恥ずかしかった。 彼女は手すりから離れ、僕の前に立った。「私ね、引っ越すんだ」 「……は?」 「夏休みが終わる前に。遠いところに」 「なんで」 「お父さんの仕事の都合」 「いつ戻ってくる?」 彼女は、少しだけ困った顔をした。「わからない」 「じゃあ、連絡先くらい交換しようよ。住所とかさ。別に、会えなくなるわけじゃないだろ」 「うん」 「だったら——」 「黒瀬くん」 彼女が僕の言葉を遮った。 「私、もうすぐ死ぬんだ」 花火の音が、遠くで響いた。何を言われたのか、わからなかった。冗談だと思った。冗談にしては、彼女の顔があまりにも静かだった。 「……何それ」 「病気なの。ずっと前から」 彼女は空を見上げた。「治る可能性もあるって言われたけど、難しいんだって。だから、引っ越すの。治療できる病院があるところに」。僕は何も言えなかった。 「みんなには、言わなかった。かわいそうって顔をされるのが嫌だったから。普通に話して、普通に笑って、普通に卒業したかった」 「……なんで」 「うん?」 「なんで、僕には言わなかったんだよ」 自分でも、最低な質問だと思った。彼女は少し考えてから、答えた。「黒瀬くんには、普通の私を覚えていてほしかったから」。僕は彼女を見つめた。 「何だよ、それ」 「それにね」 彼女は笑った。いつもの、目尻が少し下がる笑い方だった。 「黒瀬くんといると、病気のことを忘れられたんだよ」 僕は何もできなかった。抱きしめることも、泣くことも、怒ることもできなかった。ただ、彼女の顔を見ていた。彼女が今までどんな気持ちで毎日を過ごしてきたのか。どうして、ときどき寂しそうな顔をしていたのか。どうして、あんなにも未来の話を避けていたのか。どうして、海を見たいと言ったのか。全部が、遅すぎるほど遅く、つながっていった。 「……僕、何も知らなかった」 「うん」 「お前のこと、何も」 「うん」 「ずっと隣にいたのに」 彼女は、ゆっくりと首を振った。「隣にいてくれたよ」。そして、僕の手を取った。彼女の手は、思っていたよりもずっと冷たかった。 「ねえ、黒瀬くん。私、ひとつだけ後悔してることがあるんだ」 「……何?」 「好きな人に、好きって言えなかったこと」 時間が止まった気がした。遠くで、また花火が上がった。彼女は僕を見ていた。冗談を言うときの顔ではなかった。 「ずっと、好きだったんだよ」 僕は息を吸った。何か言わなければいけなかった。ずっと好きだった。僕も。僕も、ずっと。たった一言が、喉の奥で引っかかって出てこない。今まで、何度も言えたはずだった。放課後の教室でも、帰り道でも、海岸でも。どうして僕は、いつも何かが終わる直前まで、何も言えないのだろう。 「……僕も」 やっと、それだけ言えた。 「僕も、七瀬が好きだ」 彼女は目を丸くした。それから、子どもみたいに笑った。 「遅いよ」 「ごめん」 「ほんとに遅い」 「……うん」 「でも、うれしい」 彼女の目から、涙がこぼれた。僕も泣いていた。情けないくらい、涙が止まらなかった。僕たちは、しばらく手をつないでいた。恋人らしいことなんて、何ひとつしなかった。キスもしなかったし、永遠の約束もしなかった。ただ、花火が終わるまで、手をつないでいた。 帰り際、彼女が言った。「ねえ、明日、海に行こうよ」 「……海?」 「うん。もう一回、行きたい」 「いいよ」 「本当に?」 「当たり前だろ」 彼女は笑った。「じゃあ、明日の朝九時。駅前でね」 「遅刻すんなよ」 「それ、私のセリフ」 それが、僕たちの最初で最後のデートになるはずだった。 翌朝、僕は八時半に駅へ着いた。コンビニで飲み物を買い、改札の前で彼女を待った。九時になった。彼女は来なかった。九時十分。九時半。十時。何度もスマートフォンを確認した。メッセージを送った。電話もかけた。返事はなかった。昼になっても、夕方になっても。彼女は来なかった。 その日の夜、僕のスマートフォンに、知らない番号から電話がかかってきた。出ると、女性の声がした。「黒瀬くん、ですか?」七瀬の母親だった。僕はその後の言葉を、今でも正確には思い出せない。ただ、七瀬が昨夜、体調を崩して入院したこと。今朝、容体が急変したこと。そして、もう目を覚まさないかもしれないこと。それだけは覚えている。 病院へ向かう電車の中で、僕は何度も彼女にメッセージを送った。 『海、行こうって言っただろ』 『待ってるから』 『怒ってないから』 『お願いだから、返事して』 既読はつかなかった。 病室に入ると、彼女は眠っていた。白いシーツ。静かな機械の音。窓の向こうには、夏の終わりを告げるような薄い雲が流れていた。彼女の母親が、僕に椅子を勧めた。 「紬ね、あなたのことをよく話していたの」 僕は顔を上げた。 「学校で、こんなことがあったとか。黒瀬くんがこんなことを言ったとか。あなたの話をするときだけ、いつも楽しそうだった」 母親は少し笑った。「だから、会いに来てくれて、ありがとう」。僕は頭を下げた。何も言えなかった。彼女の手を握った。あの展望台で握った手より、ずっと冷たかった。 「……七瀬」 呼びかけても、返事はない。 「海、行こうって言ったじゃん」 声が震えた。 「約束しただろ」 彼女は眠ったままだった。 「……好きだよ」 初めて、誰にも聞かせないつもりで言った。 「ずっと、好きだった」 そのとき、彼女の指が、ほんのわずかに動いた気がした。僕は顔を上げた。 「七瀬?」 けれど、彼女は目を覚まさなかった。それが本当に彼女の意思だったのか、ただの反射だったのか、僕にはわからない。わからないままでいいと思った。彼女が最後まで僕の声を聞いてくれていたのだと、そう信じていたかった。 七瀬紬は、その三日後に亡くなった。十七歳だった。 葬儀には、クラスメートが何人も来た。泣いている人もいた。信じられないと繰り返す人もいた。僕は棺の前で、ただ立っていた。彼女の顔は、眠っているようだった。今にも目を開けて、「何その顔」と笑いそうだった。でも、彼女はもう笑わなかった。 僕は最後まで、彼女に言えなかったことを考えていた。好きだった。もっと話したかった。もっと一緒にいたかった。海に行きたかった。卒業式を一緒に迎えたかった。くだらないことで喧嘩したかった。彼女が二十歳になったら、どんな服を着て、どんな声で笑うのか知りたかった。いつか大人になって、あの夏のことを二人で笑いながら話したかった。そんな未来が、当たり前にあると思っていた。 いや、本当は、そんなことすら考えていなかったのかもしれない。僕は、明日が来ることを疑わなかった。だから、今日を大切にしなかった。 葬儀が終わったあと、七瀬の母親が僕を呼び止めた。「これ、紬から預かっていたものなの」。渡されたのは、小さな封筒だった。表には、僕の名前が書かれていた。 家に帰り、部屋の明かりもつけずに封筒を開いた。中には、便箋が三枚入っていた。 『黒瀬くんへ。この手紙を読んでいるということは、私はもう、あなたと話せなくなっているのかな。もしそうだったら、ごめんね。最後まで、言いたいことがたくさんあったのに、うまく伝えられなかった。 私は、黒瀬くんのことが好きです。 初めて話したのは、二年生の春だったよね。クラス替えのあと、私が教室を間違えて、あなたのクラスに入っちゃったとき。みんなが笑っている中で、黒瀬くんだけが「こっちじゃないよ」って教えてくれた。たったそれだけのことだったのに、私はずっと覚えていました。 黒瀬くんは、自分が思っているよりずっと優しい人です。自分では、何もできない人だと思っているかもしれないけど。私が落ち込んでいるとき、何も聞かずに隣にいてくれたこと。私が笑ったとき、つられて笑ってくれたこと。私が話し終わるまで、ちゃんと待っていてくれたこと。私は、そういうところが好きでした。 あなたは、私に何か特別なことをしてくれたわけじゃありません。でも、私にとっては、あなたと過ごした普通の日が、いちばん特別でした。授業がつまらなかったこと。先生の話が長かったこと。帰りに食べたアイスが、思ったよりおいしかったこと。海を見に行ったこと。あの展望台で花火を見たこと。全部、全部、忘れたくないです。 私は、もっと生きたかった。大学に行きたかった。知らない街を歩きたかった。大人になりたかった。黒瀬くんと、もっと一緒にいたかった。 だから、もしあなたが今、悲しんでくれているなら、ひとつだけお願いがあります。私が死んだことを、きれいな思い出にしすぎないでください。 私は、普通に悔しかったし、怖かったし、腹も立ちました。どうして私なんだろうって、何度も思いました。友達が進路の話をしているのを聞くと、羨ましくて仕方ありませんでした。みんなが当たり前みたいに未来の話をするたびに、私だけ別の世界にいる気がしました。 でも、黒瀬くんといると、少しだけ同じ世界に戻れました。あなたと話している間は、私も普通の高校生でいられたから。 だから、あなたには生きてほしいです。私の分まで、なんて言いません。そんなの、重すぎるから。ただ、あなた自身の人生を、ちゃんと生きてください。 好きな人ができたら、好きだって伝えてください。やりたいことがあるなら、失敗しても挑戦してください。行きたい場所があるなら、行ってください。会いたい人がいるなら、会いに行ってください。明日が来ることを、当たり前だと思わないでください。 それから。もし、いつか私のことを忘れてしまっても、私は怒りません。人は忘れる生き物だから。でも、もし夏の夜に花火を見て、少しだけ寂しくなったら、そのときは、私と一緒に見た花火のことを思い出してくれたらうれしいです。 私は、あなたと出会えて幸せでした。 ありがとう。 大好きです。 七瀬紬』 最後まで読んだあと、僕は便箋を胸に押し当てて泣いた。声を上げて泣いた。何もできなかった自分が嫌だった。彼女がいなくなった世界が嫌だった。彼女のいない明日が来ることが、どうしようもなく怖かった。 それでも、朝は来た。窓の外では蝉が鳴いていた。カーテンの隙間から光が差し込んでいた。世界は、何も変わらずに続いていた。それが、ひどく残酷に思えた。 九月。僕は学校へ戻った。彼女の席は、もうなかった。机も椅子も片づけられ、教室の後ろには新しい席替えの表が貼られていた。クラスメートたちは、少しずつ日常を取り戻していた。文化祭の準備が始まり、放課後には廊下が騒がしくなった。僕も手伝った。看板を作り、教室を飾りつけ、友達とくだらない話をした。ときどき笑った。ときどき、彼女のことを思い出して黙り込んだ。 時間が経てば、悲しみは薄くなるのだと思っていた。けれど、実際は違った。悲しみは消えるのではなく、少しずつ形を変えていく。胸の真ん中にあった大きな穴が、いつの間にか、小さな石のようになって残る。普段は気にならない。でも、何かの拍子に、その石に触れてしまう。夏の匂い。海の写真。白いカーディガン。誰かが「明日ね」と言う声。そのたびに、僕は思い出す。彼女がいたことを。彼女が、確かにこの世界で生きていたことを。 十月の文化祭。僕たちのクラスは、喫茶店をやった。僕は厨房を担当し、友達の佐伯は接客をしていた。佐伯は、七瀬と仲が良かった女子の一人だった。閉店後、僕たちは教室の隅で余ったジュースを飲んでいた。 「黒瀬」 「ん?」 「紬ってさ、あんたのこと好きだったんだよね」 僕は、持っていた紙コップを見つめた。 「……うん」 「そっか」 佐伯はそれ以上、何も聞かなかった。しばらくして、ぽつりと言った。 「私、あの子が病気だって知らなかった」 「僕も」 「もっと話しておけばよかったな」 彼女は笑った。けれど、その目は少し赤かった。 「私たちさ、毎日会ってたのにね」 「うん」 「明日も会えるって思ってたんだよね」 僕は頷いた。それから僕たちは、しばらく黙っていた。 文化祭の後夜祭では、校庭に生徒たちが集まった。音楽が流れ、誰かが叫び、誰かが笑っていた。僕は空を見上げた。花火はなかった。ただ、星がいくつか見えた。あの夏、七瀬は何を考えながら花火を見ていたのだろう。僕と同じように、終わらないでほしいと思っていたのだろうか。それとも、いつか来る別れを、どこかで受け入れていたのだろうか。わからない。もう、聞くことはできない。けれど、わからないことがあるからといって、彼女との時間が嘘になるわけじゃない。僕はそう思うことにした。 卒業まで、あと五か月。僕は初めて、自分の進路について真剣に考えた。大学に行くのか。何を学びたいのか。どんな大人になりたいのか。正直、まだ何もわからなかった。周りの友達は、次々に進路を決めていた。推薦入試に向けて勉強するやつ。就職先が決まったやつ。将来の夢を熱心に語るやつ。僕は、そのどれにもなれなかった。 でも、ある日、図書室で進路資料を読んでいたとき、ふと思い出した。七瀬が、あの電車の中で言った言葉。 『黒瀬くんは、いいよね。まだ、何にでもなれるから』 あのときの僕は、その言葉を無責任だと思った。誰だって、何にでもなれるわけじゃない。才能も、お金も、環境もある。未来なんて、努力だけでどうにかなるほど単純じゃない。今でも、それはそうだと思う。けれど、彼女には、その選択肢すらなかった。僕が当たり前のように持っていた時間を、彼女は欲しがっていた。 だったら僕は、どうするべきなのだろう。彼女の分まで生きる必要はない。彼女の夢を代わりに叶える必要もない。ただ、僕には僕の未来がある。何を選ぶかは、僕が決めていい。そのことに気づいたとき、僕は初めて、彼女の死を自分の人生と切り離して考えられた気がした。彼女がいなくなったから、僕は生きるのではない。彼女が生きていた世界で、僕も生きていく。それだけのことだった。 冬。受験勉強が本格的に始まり、教室には焦りが漂い始めた。僕は志望校を決め、毎日机に向かった。模試の成績は、決して良くなかった。それでも、以前よりは頑張れた。何かに夢中になっている間は、余計なことを考えずに済むからだ。 ある日、帰りの電車で、窓の外に雪が降っているのを見た。この街では珍しい、細かな雪だった。向かいの席では、小さな子どもが窓に手を当てていた。 「ママ、雪!」 「ほんとだね」 母親が笑って答えた。僕は、その光景を見て、なぜか涙が出そうになった。何でもないことだった。誰かが雪を見て、誰かが笑う。それだけのこと。でも、七瀬がいたら、きっと何か言っただろう。 『雪って、空から降ってくるくせに、すぐなくなるよね』 そんなくだらないことを言って、僕を困らせただろう。僕は窓に映る自分の顔を見て、少しだけ笑った。忘れたくないと思った。でも、忘れずにいることと、立ち止まり続けることは違う。僕は、彼女がいない世界で、少しずつ笑えるようになっていた。それが正しいことなのかは、わからなかった。ただ、彼女の手紙を読み返すたびに、思った。きっと、これでいいのだ。 卒業式の日。空は、よく晴れていた。体育館には、たくさんの花が飾られていた。卒業証書を受け取る友達の背中を見ながら、僕はずっと、彼女のことを考えていた。もし七瀬が生きていたら。どんな制服の着こなしをしていただろう。卒業証書を受け取るとき、緊張していただろうか。友達と写真を撮って、笑っていただろうか。大学へ進学していたのだろうか。どんな街で、どんな生活を送っていたのだろう。考えても、答えは出なかった。 式が終わると、校庭で写真を撮る人たちの輪ができた。僕も友達に呼ばれ、何枚か写真を撮った。そのあと、一人で教室に戻った。誰もいない教室。机も椅子も、いつもと同じように並んでいた。窓際の席に座り、外を見た。春の風が吹いていた。 僕は鞄から、七瀬の手紙を取り出した。何度も読み返して、少しだけ端が擦り切れている。最後のページには、彼女の名前が書かれていた。七瀬紬。僕はその文字を指でなぞった。 「……卒業したよ」 誰もいない教室で、そう言った。 「お前がいなくなってから、いろいろあった」 勉強を頑張ったこと。友達と喧嘩したこと。文化祭で失敗したこと。進路に悩んだこと。冬に雪が降ったこと。 「結構、楽しかったよ」 少しだけ、声が震えた。 「……お前にも、見せたかったな」 窓の外で、桜のつぼみが揺れていた。春が来る。僕たちが何もしなくても、季節は変わる。誰かがいなくなっても、時間は進む。それは残酷で、でも、きっと必要なことだった。 僕は手紙を封筒に戻し、鞄にしまった。そして、教室を出た。廊下の向こうから、友達の声が聞こえた。 「黒瀬ー! 早く来いよ!」 「今行く!」 僕は走った。階段を下り、昇降口を抜け、校庭へ向かった。春の風が、制服の裾を揺らした。校門の外には、いつもの街が広がっていた。コンビニも、駅も、信号も、何も変わっていなかった。僕は一度だけ、振り返った。三年間を過ごした校舎。たくさんの思い出が詰まった場所。そして、七瀬紬と出会った場所。 「……じゃあな」 小さく呟いて、僕は前を向いた。 それから数年が経った。僕は大学に進学し、新しい街で暮らし始めた。新しい友達ができた。好きな音楽が増えた。知らない場所へ旅行した。失敗もしたし、後悔もした。恋人ができたこともあった。別れたこともあった。七瀬のことを、毎日思い出すわけではなくなった。それでも、夏になると、彼女を思い出した。蝉の声。夕方の教室。コンビニのアイス。花火の音。あの夏のすべてが、僕の中に残っていた。 大学三年の夏、僕は久しぶりに故郷へ帰った。駅前の景色は少し変わっていた。昔の本屋がなくなり、新しいマンションが建っていた。コンビニはまだあった。僕はそこでアイスを二本買った。一本は自分のため。もう一本は、特に理由もなく買った。 袋を持って、駅前の横断歩道へ向かった。信号が赤だった。僕は立ち止まり、向こう側を見た。そこには、白いワンピースを着た女の子がいた。肩まで伸びた黒髪。風に揺れるスカート。こちらを向いて、誰かに手を振っている。もちろん、七瀬ではなかった。そんなことは、わかっていた。わかっているのに、心臓が一瞬だけ、あの夏に戻った。僕は苦笑した。そして、青になった信号を渡った。 その夜、僕は一人で展望台へ行った。街の明かりが、眼下に広がっていた。あの頃よりも、建物が増えていた。遠くには、新しい道路ができていた。僕は手すりにもたれ、夜空を見上げた。花火はなかった。星も、あまり見えなかった。それでも、夜風は気持ちよかった。 「なあ、七瀬」 僕は、誰もいない場所で話しかけた。 「僕さ、今でも、あのときのことを後悔してるよ」 もっと早く好きだと言えばよかった。もっと早く、彼女の話を聞けばよかった。もっと早く、会いに行けばよかった。いくら考えても、後悔はなくならない。たぶん、これからもなくならない。 「でもさ」 僕は、少しだけ笑った。 「お前と出会えてよかった」 それは、初めて彼女に伝えられた、心からの言葉だった。 あの夏、僕はひとつの恋を失った。でも、恋をしたことまで失ったわけじゃない。彼女がいたから知った気持ちがある。彼女がいなくなったから、気づけたこともある。それらは、悲しいことだけじゃなかった。僕は、彼女のことを美しい思い出に閉じ込めたくなかった。病気と闘いながら、未来を羨んで、悔しがって、笑っていた、一人の女の子。僕を好きになってくれた、一人の女の子。七瀬紬という人間が、確かに生きていた。その事実を、僕は忘れない。忘れないまま、前へ進んでいく。 いつか僕も、誰かのことを大切に思うだろう。その人と喧嘩をするかもしれない。くだらないことで笑うかもしれない。明日も会えると思って、何も言わずに別れるかもしれない。だから、そのときは、ちゃんと伝えようと思う。好きだということ。一緒にいられてうれしいということ。今日が楽しかったということ。そして、明日も会いたいということ。当たり前の言葉を、当たり前のうちに。 夜空を見上げていると、風が吹いた。夏の匂いがした。僕は目を閉じた。すると、不思議なことに、あの展望台で彼女が笑った顔が浮かんだ。 『ねえ、黒瀬くん。もし明日、世界が終わるとしたら、何する?』 あの質問に、今なら答えられる気がした。もし明日、世界が終わるとしたら。僕はきっと、大切な人に会いに行く。そして、伝えるだろう。会えてよかった、と。好きだ、と。ありがとう、と。それから、最後に。明日も会いたかった、と。 僕は、もう一度だけ夜空を見上げた。あの夏から、ずっと言えなかった言葉を、静かに口にした。 「……またな、七瀬」 返事はなかった。当然だ。それでも、僕は少しだけ、救われた気がした。 展望台を下りる。街の灯りの中へ戻っていく。明日は、きっと今日とは違う日になる。楽しいこともあるだろう。つらいこともあるだろう。また誰かを好きになって、また何かを失うかもしれない。それでも、僕は生きていく。彼女のためではなく、僕自身の人生を。 あの夏、僕は初めて知った。青春というものは、永遠に続く時間のことではない。永遠に続いてほしいと願ってしまうほど、短い時間のことなのだ。そして、人生には、二度と戻れない夏がある。 けれど、戻れないからこそ、あの夏は、今も僕の中で終わらない。 七瀬紬が笑った、あの夏は。僕が初めて恋をした、あの夏は。 君がいなくなった夏を、僕はまだ知らない。君がいた夏なら、今でも、こんなにはっきり覚えているのに。
深夜の月乃夜食堂
~月明かりの下で、また会いましょう〜 午前零時を少し過ぎた頃。 街の灯りがひとつ、またひとつと眠りにつく頃にだけ、古い路地の奥に明かりを灯す店がある。 その名は、「月乃夜食堂」。 木造の小さな店。 藍色の暖簾には、銀色の三日月がひとつ。 入口の脇には、なぜか季節外れの風鈴が吊るされていて、風もないのに、ときおり澄んだ音を鳴らす。 ちりん……。 その音を聞いた人だけが、この店を見つけられるのだという。 店主の名は、月乃。 年齢は誰も知らない。 黒髪をゆるくまとめ、いつも穏やかに微笑んでいる、不思議な女性だった。 「いらっしゃいませ。今夜は、どんなお夜食になさいますか?」 月乃は、決してお客に事情を尋ねない。 ただ、その人の顔を見て、ほんの少しだけ目を細める。 まるで、言葉にならなかった想いまで、そっと受け取っているかのように。 * その夜、暖簾をくぐってきたのは、ひとりの青年だった。 濡れた肩。 疲れた目。 握りしめた手の中には、くしゃくしゃになった一枚の紙。 「……まだ、やっていますか?」 「ええ。お腹が空いている人がいる限り」 月乃はそう言って、青年をカウンターへ案内した。 「何か、温かいものをいただけますか」 「かしこまりました」 しばらくして運ばれてきたのは、小さな土鍋に入ったお味噌汁と、湯気の立つおむすびがふたつ。 お味噌汁には、豆腐とわかめ。 おむすびには、ほんの少し塩が振られていた。 「……懐かしいな」 青年は、思わず呟いた。 「母が、よく作ってくれたんです」 ひと口食べると、なぜだか涙がこぼれた。 今日、青年は大切な人と別れた。 本当は引き止めたかった。 本当は、謝りたかった。 けれど、素直になれず、最後まで意地を張ってしまったのだ。 もう遅い。 そう思うほどに、胸が痛かった。 「店主さん。人はどうして、大切なものを失いそうになってから、その大切さに気づくんでしょうね」 月乃は、布巾でカウンターを拭きながら答えた。 「月はね、満ちているときばかりが美しいわけではないのですよ」 青年は顔を上げた。 「欠けている月を見て、次に満ちる日を待つ人もいるでしょう?」 月乃は窓の外を見つめた。 「人の心も、きっと同じ。今は欠けていても、もう二度と満ちないとは限らないのです」 青年は、手の中の紙を開いた。 それは、別れた恋人から渡された手紙だった。 最後の一行には、こう書かれていた。 『あなたが、いつか自分の弱さを誰かに見せられる人になりますように』 青年は長い間、その文字を見つめていた。 やがて、静かに手紙を胸元へしまった。 「……帰ります。もう一度、ちゃんと話してみます」 「はい。お気をつけて」 青年が暖簾をくぐると、夜空には、雲の切れ間から月が顔を出していた。 その背中が路地の向こうへ消えたとき。 ちりん……。 風鈴が、ひとつ鳴った。 * 翌晩。 月乃夜食堂に、ひとりの老婦人が訪れた。 「おや、こんなお店があったのねぇ」 老婦人は、少し困ったように笑った。 「実はね、今夜は主人の誕生日なの。でも、もう主人はいないから……ひとりでお祝いしようと思って」 月乃は何も言わず、温かいお茶を差し出した。 それから厨房へ戻り、小さな卵焼きと、焼き鮭、それに白いご飯を用意した。 「こちら、召し上がってください」 老婦人は驚いた。 「まあ……これ、主人の大好物だったのよ」 「そうでしたか」 「ええ。毎年、誕生日には必ず作っていたの。でも、主人が亡くなってからは、なんだか作る気になれなくてねぇ」 老婦人は箸を持ち、卵焼きをひと口食べた。 その瞬間、ふっと笑った。 「……あの人、甘い卵焼きが好きだったの。私のは甘すぎるって、いつも文句を言っていたくせに」 「きっと、文句も含めて、お好きだったのでしょうね」 月乃の言葉に、老婦人は声を立てて笑った。 笑いながら、涙をこぼした。 すると、カウンターの向こう側。 誰も座っていなかったはずの椅子が、ほんの少しだけ軋んだ。 老婦人は、はっとして振り返った。 そこには誰もいない。 けれど、ふいに懐かしい煙草の香りがした。 そして耳元で、聞き慣れた声がしたような気がした。 ――お前の卵焼きは、やっぱり甘すぎるな。 老婦人は、目を丸くしたあと、ゆっくりと微笑んだ。 「……もう。今夜くらい、褒めてくれてもいいのに」 月乃は、何も言わなかった。 ただ、老婦人のお茶が冷めないように、そっと新しい湯を注いだ。 * 夜明け前。 最後のお客が帰ったあと、月乃は店先に出て、暖簾を外した。 東の空が、ほんのりと白み始めている。 店の奥から、黒猫が一匹現れた。 艶やかな黒い毛並み。 金色の瞳。 猫は月乃の足元にすり寄ると、小さく鳴いた。 「ふふ。今夜も、たくさんの心を温めたわね」 月乃が猫の頭を撫でると、猫は満足そうに目を細めた。 そのとき、路地の向こうから、小さな女の子が走ってきた。 「お姉さん!」 月乃は振り返った。 「どうしたの?」 「昨日ね、ここでおむすびを食べたお兄さんが、駅の前で女の人と一緒にいたよ!」 月乃は、優しく微笑んだ。 「そう。それはよかったわね」 「お姉さんのお店って、魔法のお店なの?」 女の子は、目を輝かせて尋ねた。 月乃は少し考えてから、しゃがんで女の子と目を合わせた。 「どうかしら」 そして、そっと囁いた。 「でもね、温かいご飯を食べると、人は少しだけ、自分に優しくなれるのよ」 女の子は不思議そうに首を傾げた。 やがて、母親に呼ばれて走り去っていく。 月乃は、その後ろ姿を見送った。 空には、まだ薄く月が残っていた。 「さて……今夜は、どんな方がいらっしゃるのかしら」 彼女が店の戸を閉めると、風もないのに、風鈴が鳴った。 ちりん……。 その音は、誰かの泣き声にも、誰かの笑い声にも似ていた。 * その日の夜。 地図にも載っていない路地の奥に、また小さな明かりが灯る。 藍色の暖簾。 銀色の三日月。 そして、温かいご飯の匂い。 月乃夜食堂は、今夜もひっそりと、誰かの帰りを待っている。 もし、あなたが眠れない夜に、どうしようもなく寂しくなったなら。 もし、誰にも言えない涙を、ひとりで抱えているのなら。 夜空を見上げてみてください。 月明かりの下。 風鈴の音が聞こえたなら。 その路地の奥に、きっと見つかるはずです。 あなたの心を、ほんの少し温めてくれる場所が。 「いらっしゃいませ」 月乃は、いつものように微笑むでしょう。 「今夜は、どんなお夜食になさいますか?」 そして、あなたが帰る頃には。 夜空の月が、ほんの少しだけ、優しく見えるはずです。 ――深夜の月乃夜食堂。 お腹が空いた夜も、心が空っぽになった夜も。 ここでは、誰もひとりぼっちではありません。
ロックンロール
前髪が揃ってなくても、髪が何色でも、それが私のロック。 自分の欲しいものは、自分の力で取りに行く。 実力で黙らせる。 結果で差をつける。 周りなんて気にしてらんない。 だって、私の人生だろ? 結局、恋も一緒。 男なんか星の数ほどいる。 あいつに固執する理由が、どこにある? 昨日あんなに好きだったとしても、 明日には忘れて笑ってるかもしれない。 これが現実(笑) お前が必死に生きてる人生、 私は笑って過ごしてやるよ。 恋は盲目なんて聞くけど、 見てなんぼだろ、ベイビー。 好きだからって目をつぶるな。 都合のいいところだけ見て、幸せになった気になるな。 見て見ぬふりしてるやつより、 全部見たうえで笑ってる私のほうが、100倍かっこいい。 私のロックに、だせぇ結果は残さない。 誰かに認めてほしいわけじゃない。 誰かに味方してほしいわけでもない。 それでも勝手に味方がつく。 頼んでもないのに、私に酔いしれる。 いいよ、好きなだけ見てな。 結局、語るのは私の背中。 醜いお前が見てるのは、顔だけ(笑) 私の生き方にケチつける暇があるなら、 お前も自分の人生、ロックに生きてみろよ。 ……なんてこと。 言えたら、最強にかっこいい私のロックンロールだ。
最後の一駅
「ねえ、あと一駅だけ一緒に乗っていい?」 彼女はいつも降りる駅を通り過ぎて、窓の外を眺めた。僕らは付き合っていない。ただ同じクラスで、帰り道が途中まで同じ。それだけの関係だった。 「明日、転校するんだ」 突然の言葉に、返事ができなかった。「本当はさ、ずっと好きだったんだよね」彼女は笑った。泣きそうな顔で笑うから、僕はずるいと思った。 電車が次の駅に着く。彼女が立ち上がる前に、僕は初めてその手を握った。 「じゃあ、明日からは俺が会いに行く」 彼女は驚いて、それから小さくうなずいた。 電車のドアが閉まる。いつもなら別々になるはずの帰り道が、その日だけはどこまでも続いてほしかった。
利益
サックスの音に酔っている。 贅沢に空間が、色に染まる。 何色なのかは、言わないでおこうよ。 限定の表現は、苦手な方だ。 苦手なものは、避けるのが得。 受け止めたいのは、恋煩いだけ。 熱が下がれば、己れがわかる。 わかってしまえば、興醒め興醒め。 構造に少女は、侮蔑を含めて。 卵の中身に、驚いたのだが。 暫く経った、説教よりは。 夜は、赦しを告げたはずよね。 ピストル弾けば、女が泣いて。 ただただ泣いて場は濡れただけ。 気になったのは、湿度の高さで。 気がかりなのは、食事の時間。 揺れた眼には、理由もあって。 涙の違和感を気取られた予感。 甘えるテクが、つかえぬなれば。 カカシの男に接吻なんて。 チャンチャラ可笑しいのでございますよ。 唄うわ、ワタシ、月があるから。 照らす月は、ワタシの為なの。 子守唄は、好きなの、一人が。 翳の中には、愛がある事。 知ってほしいわ、利益が出るから。