獏

 夢を見た。  足の小指から頭の毛先に至るまで、全身のありとあらゆる細胞に動けと念じてみたが、まるで動かない。一向に動く気配のない身体が動いたのは、ちょうど諦めたその頃である。正しくは私が動いたのではなく、地面が動いた。そして地面だと思っていたそれは地面ではなかった。  振り落とされるように地面から引き剥がされた私の眼前に獏がいた。ただ、私の知っている獏と比べ、その図体は何倍にも大きかった。その無感情な眼球だけで人の背丈ほどあり、寝転んだ私の視界では全てを収めることはできなかった。私が寝ていたであろう背中の感触を思い返すと、煉瓦のように硬いものだった。全身のあちこちが軋み、関節が固まりきっていた。  私にとってこの状況は悪夢に近く、まさしく獏の出番なのだが、この獏を食べる獏など、想像もつかなかった。  私は動けぬまま獏に食べられた。口内もまた煉瓦のように硬かったが、喉は温かかった。生ぬるい唾液を浴び、弾力のある胃の中で何度か跳ね、最後には一点に留まった。ときどき揺れ、蒸した獏の呼吸が当たり、ほとんど音はない。私は獏の胃の中で深い眠りについた。

さあやるぞ、私!

やる気なんてないの やる しかないのよ やる気なんて待たないで そんな奴いないから やる気スイッチなんて探さないで そんなもの搭載されてないから やる しかないのよね やる しかないのだよ やる やる やる やりたくねえ!って叫びながら やる やる やる やる 誰の言葉でもいい 信じたい人の言葉を信じて さあやるぞ 私は やる

ただいま

 ここはどこだろう。最初に目に入ったのはビルを覆い尽くす緑。人気はなく荒れ果てていた。なんでこんなところにいるのか。わからない、世の中はわからないことばかりだ。  俺はある日突然病にかかった。植物化。体中から芽が生え蔦が絡み、花が咲く。最終的には物言わぬ木になってしまう。現代の医療では治せない、諦めなさいと言われた。絶望した。何もかも手につかなくなって、自暴自棄になった。その間にも親は必死に金に糸目をつけず治療法を探し、全国の医者に見せ、怪しい霊媒師にまで頼った。失敗だった。騙され、金も、家も、全てを奪われた。悲劇としか言いようがない。両親が最後に選んだのは、新技術、コールドスリープの被験体だった。タダという言葉に寄せられ、確立してもいない技術に全てをかけた。  とりあえず動かないことには始まらない。蔦が絡む体は動きにくいが動けないほどではない。屈伸をしたり、腕を回したり、動くことを確かめ歩き出した。壁にあった大きな穴から外に出る。やはり景色は緑一色。コンクリートは割れ、隙間からバカみたいに太い蔦や木の根が這いまわり、街を完全に飲み込んでいる。分かりきっていたことだが、触って本物だと認識すると、どうしようもなく不安になってくるものだ。何年経ったのか、両親たちはどうなったのか、この世界に何があったのか_____。何もわからないのだから尚更だ。  しばらく歩くと、甘い香りが漂ってくる。俺の腕にある忌々しい花と同じ匂い。草を掻き分け、大きな根を飛び越える。そこにあったのは大きな木、そして俺の腕にあるのと全く同じ花だった。頭の中に最悪の想像が浮かぶ。今まであった植物たちは人間の成れの果てだ。  俺は気づいたら走り出していた。こんなところにはいられない。吐き気を飲み込み、息を切らし、もつれそうな足を必死に動かす。  行き着いたのは最初に目覚めた施設だ。知らなければならない。世界がこうなった理由を。手がかりを探す。目についた部屋を開けると埃を被ったコンピューターが一台。震える手で電源ボタンを押すと画面が光る。奇跡的に補助電源が生きていたようだ。マウスを握り、動かす。映された真実は想像を絶する残酷さを孕んでいた。  最初は淡々と記録がされているだけだった。成功を確信しているようだった。だか、病は止められなかった。むしろ悪化していた。中盤、狂気が顔を出す。研究員の一人が俺と同じ病気を発症した。原因は俺。不完全な冷却システムは俺の細胞を変化させ、体から微細な胞子が放たれていた。換気システムにより驚異的な感染力でそれは世界中に拡散していった。人々の体から次々と芽が出て、蔦が絡ませ、花を咲かせて、最後には動かぬ大樹になった。  「俺のせいだ……」 画面に激しいノイズが走る。両親が最後に見つけた希望。それは人類を滅ぼす悪魔の苗床になってしまった。  植物たちが一斉に揺れる。さわさわと俺に囁きかける。 「おかえり。お父さん」 脳裏に響く、愛おしい声。俺の体から生まれたかわいい、かわいい子供達。  正体が分かれば、怯える必要などない。近くにある大きな大樹に向かう。優しく抱きしめると、優しい風が吹いてくる。足が根に変わる。手が、体が、自分の意思が緑と混ざり合っていくのを感じる。かつて大都会と言われた緑の海の中心で、俺は物言わぬ木になった。 「ただいま」

人生の答え合わせ

私は、どうやら死んだらしい。 飛び出した小学生をトラックから庇って死んだらしい。 『なんだかなぁ。』 雲の上の門の前でため息混じりに呟いた。 死ぬ時は思ってたよりあまりにもあっけなくて、 もうちょっと走馬灯とか見えると思ってたんだけど。 即死だったのか、痛みは全然感じなかった。 門をくぐると、すぐに身長より大きな机が待ち構えていた。 そこに座ってふんぞり返っていたのは、多分神様。 『今からおまえを振り分ける』 神様は言った。 『天国か地獄か、ということでしょうか?』 『そうだ。まず…今までの人生の講評を。』 人生の講評? 『人を助けた回数…一万二千二十二回』 『はぁ』 『人を不幸にした回数、六千七十六回』 『…。』 『続いて…えーと、恋愛のチャンスを逃した回数九十七回』 『ちょっと待てー!!!』 そんなにあったの!?

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なぁ、あの雲めちゃくちゃ甘そうなんだけど。 頑張れば食べれるのかな? おい笑うなって。 そういえばさ、前も同じこと言ったよな。あの隣町の公園あんじゃん?覚えてる? そのベンチで空見上げながら、お前『雲ってのれんのかなー』って真剣な顔で言ってて。 は?覚えてねぇの?はー、なんだよ… でもまぁお前のそういうとこ割と好きなんだけどさ。 あ。じゃあさ、あれは覚えてる?たしか金曜日だったっけな… 屋上行ったら風バカ強くて、お前の髪グチャグチャになっててさ。俺が笑ったらお前拗ねた顔して、ワルツ踊ろとか言い出すの。 音楽なんて無かったのに。 変なステップで回って、フェンスにぶつかって… ほら私でも踊れるでしょってドヤ顔で言ってきたの覚えてる。あれ正直マジで楽しかったな てかさっきナースの人きてさ、今日は誰とお話ししてるんですかって聞いてくんの。俺、なんて答えたと思う? 違うわ笑 大事な人って答えたんだよ。そしたら困った顔して、何も言わずにカーテン閉めてった。 …おいなんか言えよ。そうやって黙ってんのずるいって笑 なんかやっぱ、病室いると時間止まった感じしない?機械の音聞きながらカーテン揺れてんの見てたら一瞬で一日終わるじゃん。 だから俺、ついお前に話しかけちゃう。今でも、そこに座ってるような気がして… でもまぁもしまた会えたら、今度はちゃんと音楽流してさ。 フェンスにぶつかんないようにゆっくり踊ろうよ

ふたりきりのよく似た世界の終わり【企画】

 君と私以外、誰もいない世界を夢見ていた。    大人になることは許されないことで、  私たち以外の関係性はまるで罪そのものだった。  二人を除いた何もかもを排除した世界──  それこそが楽園なのだと信じていた。 「みんないなくなっちゃった」  君は瓦礫の上に立ち、  遠い海岸線を見つめていた。 「これが世界の終わりの景色なのかな」  君は笑って私の方を向く。  色素の薄い瞳が太陽の光に反射して、  いつもと違う色合いをのぞかせていた。  私はしばし見惚れてから、遅れて言葉を返す。 「これが君の世界の終わり?」  朽ち果てたビル群。  水の中に沈む道路。  空を飛ぶ鳥たちはどこへゆくのだろう。  人の消えた世界で、笑う君を私が見ている。 「そうだね。概ねイメージ通りかな」  君は私の手を取ると、そっと手の甲に口付けを落とした。  慣れた仕草に、私はまるで昨日のことのように  二人で劇の真似事をした日のことを思い出す。  人気のない図書室の片隅で、  私は貴族の娘で、君は政敵の息子だったね。  一頻り遊んだら、疲れて二人一緒に寝ちゃってさ。  見回りの先生に起こされて  慌てて二人で帰ったのを今でも覚えている。  あの時、君と私は同じ夢を見ていたのかな。 「これが、私たちの、世界の終わりだよ」  君の声に意識が呼び戻される。  ここはもうあの図書室じゃない。  学校も家もなにもかも  置き去りにしてここにいる。 「じゃあここが楽園なんだね」  私たちは手を取り合って立っていた。  大人になっていたら  もしかしたらこの手は  別の人の手を握っていたかもしれない。  でも今は違う。  この世界の終点でなら、  私たちはきっと最後まで二人でいられる。  夢みたいな世界の終わりを二人で生きよう。  そうして私たちは、  世界の終わりを笑い飛ばした。

『雨と僕の話』

窓の外は、世界を灰色に塗りつぶすような大雨だった。 ベランダのアルミ手すりを激しく叩く雨音が、容赦なくワンルームの室内に響き渡っている。 テレビの天気予報は「午後から晴れ間が広がるでしょう」とのんきに告げていたが、空はそんな気配を微塵も見せない。 予報外れの雨。 それはまるで、僕と君の関係の終わりのようだった。 君がいなくなってから、今日でちょうど三ヶ月が経つ。 部屋の空気はすっかり冷え切ってしまい、動かす者のいない空気清浄機だけが、静かに低い駆動音を立てている。 僕はベッドの端に腰掛け、ぼんやりと部屋を見渡した。 六畳一間の狭い空間。 かつては二人でいると少し手狭に感じて、それがどこか心地よかったはずの場所が、今は呆れるほど広く、そして寒々しく感じられる。 ふと視線を落とした先に、備え付けのクローゼットの隙間が見えた。 何気なく立ち上がり、扉を開けてみる。 中は僕の地味な色の服ばかりが並んでいるが、その一番奥、ハンガーの影にぽつんと取り残されたものがあった。 アイボリー色の、ざっくりと編まれたニットのカーディガン。 手を伸ばしてそれに触れると、心臓の奥がドクンと跳ねた。 君がよく着ていたお気に入りだ。 引き出しの奥ではなく、こんな分かりやすい場所に残していくなんて、君にしては珍しい。 ……いや、違うな。 君はわざと置いていったわけじゃない。 あまりに急いでこの部屋を出て行ったから、忘れてしまっただけだ。 僕がそうさせてしまったんだ。 カーディガンをそっと手に取り、顔を近づけてみる。 柔軟剤の甘い香りに混ざって、君の、あの固有の優しい匂いがかすかに鼻腔をくすぐった。 その瞬間、せきを切ったようにあの日の記憶が、激しい雨音とともに脳裏に蘇ってきた。 僕たちの関係がいつから狂い始めたのか、明確な引き金を引いた瞬間を特定するのは難しい。 ただ、今思えれば、それは日常のほんの小さな「掛け違い」の連続だった。 僕はいつも仕事の忙しさを理由に、君の言葉を後回しにしていた。 「うん、分かった」「また今度ね」「明日早いから、もう寝るよ」 そんな風に、君が勇気を出して差し出してくれていたかもしれない寂しさのサインを、僕はことごとく見落とし、あるいは見ない振りをしていた。 君はいつでも、僕の一歩後ろを歩くような控えめな人だった。 何か言いたそうな顔をして僕を見上げて、だけど僕がスマホに目を落としたままだと分かると、寂しそうに微笑んで「なんでもない」とつぶやく。 そんな君の優しさと遠慮に、僕は甘えきっていた。 僕が何もしなくても、君はいつまでもここにいて、僕を好きでいてくれる。 そんな愚かで傲慢な錯覚に囚われていたのだ。 あの日も、今日みたいな雨の日だった。 小さなことで口論になった。 本当に、今となっては何が原因だったかも思い出せないくらい、些細なことだ。 ゴミの出し方だったか、約束をドタキャンしたことだったか。 いつもなら「ごめんね」と先に折れてくれる君が、その日は違った。 じっと僕の目を見つめ、声を震わせながら言った。 「私のこと、本当に見てる?」 その問いに、僕はひどく苛立った。 仕事の疲れもあり、自分のプライドを守るために、冷酷な言葉を返してしまった。 「見てるよ。でも、そんなに四六時中、君のことばかり気にしてられないよ」 最悪の言葉だった。言った瞬間に後悔した。 けれど、引っ込みがつかなくなった僕は、それ以上言葉を重ねるのをやめ、フイと横を向いた。 君はしばらく黙っていた。部屋の中には、ただ外の雨音だけが大きく響いていた。 やがて、カサリと衣類が擦れる音がして、君がバッグを肩にかける気配がした。 「ねえ、本当にこれで終わりにするの?」 君の声は、泣き出しそうなほど震えていた。 僕はその時、君の顔を見ることができなかった。 もし見てしまったら、自分の間違いを認めなくてはならなくなる。傷つくのが怖くて、プライドが邪魔をして、僕はただ、壁の時計をじっと見つめ続けた。 「……バイバイ」 小さく響いたドアの閉まる音。 それが、僕たちの恋の、あっけない幕切れだった。 君が部屋を出て行った直後、僕はすぐに追いかけるべきだったのだ。 傘も持たずに飛び出していった君の後を、プライドなんてすべて捨てて、裸足のままでもいいから追いかけて、雨の中でその震える肩を強く抱きしめるべきだった。 そして、「行くな、僕が悪かった」と、喉がちぎれるほど叫べばよかったのだ。 だけど、僕は動かなかった。 『どうせすぐに頭を冷やして帰ってくるだろう』 そんな、どこまでも独りよがりな期待を抱きながら、ベッドに寝転んでスマホをいじっていた。 今思えば、本当に最低の男だった。 外の雨は激しさを増し、アスファルトを濃いグレーに染め上げていった。 あの時、君が流していた涙は、きっと雨のしずくに混ざって、僕にはどれが本物か分からなかっただろう。 ……いや、分かろうとしなかったのだ。 君が去ってからの三ヶ月間、僕の頭の中では、終わりのない「もしもの物語」が何度も、何度も再生されている。 もしあの時、僕がスマホを置いて、真っ直ぐに君の目を見ていたら。 もしあの時、君が「なんでもない」と言った瞬間に、「どうしたの?」と優しく問いかけていたら。 もし、あの最後の夜に、君を強く抱きしめて離さなかったら。 頭の中で、後悔のピースをどれだけ並べ替えてみても、現実は一ミリも動きはしない。 時計の針は前にしか進まないし、部屋の隅のカーディガンは、君がもうここには戻らないという事実を、冷徹に突きつけてくる。 君のいない部屋は、驚くほど静かだ。 二人でよく観た映画のDVD、一緒に選んだローテーブル、キッチンに並んだ二つのマグカップ。 そのどれもに君の面影が染み付いていて、視界に入るたびに胸の奥がチクリと、いや、ゴリゴリと音を立てて削られるように痛む。 僕は君に、一体何をしてあげられただろう。 君からもらったたくさんの温もりや、優しい笑顔に比べて、僕は君に寂しさと涙しか与えられなかったんじゃないだろうか。 そう思うと、胸が潰れそうになる。 僕はカーディガンをベッドの上に静かに置き、立ち上がって窓辺に向かった。 ガラス窓に額を押し当てると、ひんやりとした冷たさが肌に伝わってくる。 窓ガラスを伝い落ちる無数の雨粒が、まるで部屋の中から流れる僕の涙の代わりのように見えた。 君は今、どこで、誰と、どんな空を見上げているのだろう。 僕をこんなにも苦しめ、後悔の底に沈めるこの雨は、君のいる街にも降っているのだろうか。 もし降っているとしたら、君はあの日のことを思い出したりするのだろうか。 それとも、もう僕のことなんて綺麗さっぱり忘れて、新しい誰かの隣で、温かい傘に入っているのだろうか。 「幸せになってね」 そんな言葉が、世の中には溢れている。 失恋した人間が、過去の恋人に向けて送る定番の、綺麗なセリフ。 だけど、今の僕には、そんな綺麗事は口が裂けても言えない。 君が僕以外の誰かと幸せになる姿なんて、想像しただけで嫉妬と絶望で狂いそうになる。 かと言って、僕のせいで君が不幸になることも望んでいない。 要するに、僕はまだ、君の過去になる覚悟が全くできていないのだ。 君を失ったあの日から、僕の時間は完全に止まってしまった。 世間は、僕の知らないところで今日も慌ただしく動いていて、人々は雨傘を差しながら足早に通りを過ぎていく。 だけど、僕だけが、あの日の雨の音の中に置き去りにされたままだ。 暗闇の中で、激しい雨に打たれながら、動けずにいる。 ふと、スマートフォンの画面が明るくなった。 一瞬だけ、本当に一瞬だけ、君からの連絡ではないかと心臓が跳ね上がった。 しかし、画面に表示されたのは、友人からの他愛のない飲み会の誘いだった。 落胆とともに、ふっと自嘲気味な笑いが漏れる。 期待するだけ無駄なのに、僕はまだ、奇跡を信じようとしている。 どれだけの時間が経っただろう。 激しかった雨の音が、いつの間にか少しずつ小さくなっていることに気づいた。 窓の外を見ると、分厚い雲の隙間から、ほんの少しだけ、かすかな光が差し込み始めている。 アスファルトに反射する光が、眩しくきらめいた。 天気予報は、数時間遅れでようやく当たったらしい。 僕はベッドに戻り、君のカーディガンをもう一度見つめた。 このままこの部屋に置いておけば、僕はいつまでもこの雨の中から抜け出せないだろう。 君の匂いにすがりつき、もしもの物語を繰り返し、一生後悔の中で生きていくことになる。 それは、僕を真っ直ぐに愛してくれていた君への、最大の不誠実だ。 僕は意を決して、クローゼットから綺麗な紙袋を取り出した。 そして、君のカーディガンを丁寧に、シワにならないように畳んで、その中に入れた。 いつか、本当にいつか、君にこれを返す日が来るかもしれない。 あるいは、もう二度と会えずに、このまま処分することになるかもしれない。 だけど、今の僕にできるのは、これを目の届かない場所に片付けることだけだ。 紙袋をクローゼットの奥の棚へと収め、扉をしっかりと閉めた。 パタン、と音がして、僕の中の何かが一つ、区切られたような気がした。 まだ胸の痛みは消えない。 「行くな」と言えなかったあの夜の後悔は、これからも僕の心の底に澱(おり)のように残り続けるだろう。 雨が降るたびに、僕は君の声を、君の涙を、君の匂いを思い出すに違いない。 だけど、それでも、僕は生きていかなくちゃいけない。 玄関に向かい、スニーカーを履く。 ドアを開けると、雨上がりの独特の、土と水が混ざった少し冷たい空気が流れ込んできた。 空を見上げると、水色の青空が広がり始めていた。 僕は深く息を吸い込み、一歩、外へと足を踏み出した。 「さようなら」 もう君には届かない、そして二度と届いてはならない言葉を、僕は静まり返った心の中で、そっと呟いた。 僕の時間を目覚めさせるために。 そして、いつか本当に、君の幸せを願える男になるために。

首が落ちる

椿、という花がある。 花言葉は気取らない優美さ、誇り。 花が散るときには丸ごと落ちる。 昔の武士の間ではその様子を『首が落ちる』とたとえられ、縁起が悪いとされた。 うっすらと雪の積もった石の歩道を、マフラーに顔半分を埋めて足早に歩く。 こんな日に散歩はさすがに寒かったな。 十分前の自分をうろんげに思いながら、空を見あげた。 今夜は積もりそうだな。 雪国に住んでいれば分かるかもしれないが、音もなくしんしんと降る雪は翌日になれば驚く程積もる。 ぽとり。 そんな音がした。 振り返ると、昔は立派であっただろう大きな廃屋。 その垣根一面に椿が咲き誇っていた。 さっきの音は椿の花が落ちた音だったのだろう。 冬の風物詩だな。 早く帰って熱燗でも飲もう。 そう思った時だった。 どすん。 今度は大きな音がした。 振り返る。 其処には── 人の顔があった。 首。青白く痩せこけた生首だった。 うぅ─── 突然、生首が呻き声を発し、垣根から車道の方に後ずさった。 それに呼応するように、咲いていた椿たちが歪み、次々と人の顔へと変わり始める。 垣根いっぱいに、生首が。 腰が抜けて、声が出なかった。 次の瞬間、その全てがぼとんぼとんと不快な音を立て一斉に落ち始めた。 「ひ…!」 服が汚れるのも構わず、車道を這いずって逃げようとして、 真横から、車のヘッドライトの光が飛び込んできた。

塩のリング

 障子を透かして差し込む光は、いつもどこか濁っていた。  亡くなった祖母の家は、築五十年を超える木造の二階建てだった。廊下を歩けば床板が沈み、風が吹けば目に見えない隙間から、ヒュウヒュウと湿った音が漏れ聞こえてくる。  三十二歳になる真由は、離婚の手続きと引き換えに手に入れた幼い娘――紬(つむぎ)の小さな手を引き、この家に引っ越してきた。仕事に忙殺され、夫との冷え切った関係に終止符を打った真由にとって、ここは逃げ込むようにたどり着いた場所だった。 「ママ、ここ、おばあちゃんち?」 「そうよ。今日からここが、つむちゃんのお家だからね」  五歳の紬は、大きな瞳を輝かせて頷いた。紬は聞き分けのよい子だった。わがままを言わず、大人の顔色をよくうかがい、教えられたルールを几帳面に守る。  日々の忙しさに追われる真由にとって、その聞き分けのよさは救いではあったが、同時にどこか後ろめたさを感じずにはいられなかった。  引っ越しの荷解きが一段落した夕方、真由は台所の下から小さな小袋に入った粗塩を見つけた。  祖母の生前の記憶が、ふと蘇る。祖母は玄関や部屋の四隅に、欠かさず小皿に盛った白塩を置いていた。幼い真由が「これなあに?」と尋ねると、祖母は皺だらけの顔に、さらに深く皺を刻ませ、ひ孫に「悪いものが、入ってこないようにね」と囁いたものだった。  真由は迷信だと思いながらも、古い家の独特の冷気に背中を押されるようにして、小さじ二杯ほどの塩を玄関の三和土(たたき)の隅に盛った。 「ママ、なにしてるの?」  背後から紬がのぞき込んでいた。真由は屈み込み、紬の幼い肩を抱き寄せた。 「これはね、お塩よ。こうやって置いておくとね、外から『悪いもの』が入ってこないの。つむちゃんとママを守ってくれるおまじない」 「わるいもの?」 「そう。病気とか、嫌なこととか、ママたちをいじめるもの。そういうものが、ここから先に入ってこられないように、お塩で通せんぼするの」  紬は真面目な顔で玄関の白い固まりを見つめ、それから真由の顔を見上げて、力強く頷いた。 「わかった。お塩で、通せんぼね」  そしてそれが、すべての始まりだった。  数日後、家の中で奇妙な現象が目につくようになった。  最初は、台所のフローリングの上だった。調味料の棚からこぼれたのかと思ったが、そうではなかった。塩が、きれいな円を描くように撒かれていた。直径三十センチほどの小さな輪だった。その中央には、紬のお気に入りである赤いくまのぬいぐるみがちょこんと座っていた。 「つむちゃん、これどうしたの? お塩で遊んじゃダメでしょ」  真由が声をかけると、居間で絵本を開いていた紬が振り返り、誇らしげに微笑んだ。 「くまさんね、お外がこわいって言ったの。だから、お塩で囲んであげたの。これでわるいものが来ないでしょ?」  真由は一瞬、言葉に詰まった。叱る気も失せ、胸の奥に小さな温かさが広がるのを感じた。 「そう。くまさんを守ってあげたのね。でもね、お塩は食べるものだから、遊ぶのに使っちゃダメよ」  だが、紬の「守る」という行為は、それで終わらなかった。  次の日には、廊下の突き当たりに塩の輪ができていた。その次の日には、真由の寝室の入り口に。  塩の量は日ごとに増えていった。どこから持ち出すのか、台所の塩の容器はあっという間に底を突き、真由が買い足した大きな塩の袋も、いつの間にか角が切られて減っていた。  その頃から、真由の耳に得体の知れない音が届くようになった。  夜、静まり返った家の中で、みしり、と廊下が軋む。  それだけなら古い木造建築の「家鳴り」で済んだ。しかし、耳を澄ますと、その軋み音は塩の輪が描かれた廊下のあたりで止まり、そこから先へは進んでこないように思えるのだ。  シュッ、シュッと、塩の上を靴下で擦るような、かすかな摩擦音。  重い体を起こして廊下へ出ると、月光の中に白い塩の輪が浮かんでいる。そこには誰もいない。  ただ、近づいて息を呑んだ。  塩の輪の一部が、わずかに乱れていた。まるで、輪の内側から外へ向かって、小さな指でなぞり落としたかのように。 (気のせいだ……紬が昼間、触った後だろう)  そう自分に言い聞かせた。  だが、その夜の出来事が、真由の心を深く削り取ることになる。  夜中の二時を過ぎた頃、ふと目を覚ました真由は、隣の布団に紬がいないことに気づいた。  胸を嫌な予感がかすめ、薄暗い廊下へ出た。  廊下の暗がりの中、小さな背中がぽつんと座り込んでいた。紬だった。  紬は、昼間自分が描いた大きな塩の輪の前にしゃがみ込み、何もない輪の中心――暗闇に向かって、ぽつり、ぽつりと語りかけていた。 「ダメだよ。まだ出ちゃダメ」  鈴を転がすような優しい声だった。 「お外は危ないんだよ。ママが言ってたの。お塩の中にいればね、わるいものが来ないの。だから、ずっとここにいてね」  真由は凍りついた。 「つむぎ……?」  声をかけると、紬はゆっくりと振り向いた。その表情には何の陰りもなく、ただ母親への無邪気な親愛の情だけに満ちていた。 「あ、ママ。お起こしちゃった? 大丈夫だよ、ちゃんとお塩の中にいてもらってるからね」  真由は紬の華奢な身体を抱きしめたが、その体温は真夏の夜であるにもかかわらず、どこか冷たかった。  紬の「遊び」は、やがて家の外へと溢れ出していった。  休日の午後、庭で遊んでいた紬が、庭木の根元でうずくまっていた。  真由が縁側から覗くと、紬は地面に真っ白な塩で輪を描き、その中に一匹の大きなダンゴムシを閉じ込めていた。ダンゴムシは外に出ようと這い上がるが、白い塩の壁に触れるたびに身体を丸め、動かなくなる。 「つむちゃん、なにをしているの?」 「ダンゴムシさんをね、守ってあげてるの。鳥さんに食べられないように」  紬の顔は真剣そのものだった。 「でもね、つむちゃん。これじゃあダンゴムシさん、動けなくて可哀想だよ? お家に帰れなくなっちゃう」 「ううん、大丈夫だよ。ここがいちばん安全なんだもん。出ちゃダメなんだよ」  数日後には、近所の野良猫がターゲットになった。  紬は寝そべっている猫の周りに静かに塩を撒き、ぐるりと円を描いた。猫は逃げ出そうとしたが、撒かれた塩の匂いか、あるいは紬の執拗な視線に圧迫されたのか、ウーと低く唸りながら円の中で身を縮めていた。  さらに恐ろしい出来事は、近所の子供たちが庭に遊びに来たときに起きた。  同じ年格好の男の子と女の子が、紬と一緒に遊んでいた。真由が麦茶を運ぼうと庭に出たとき、妙な静けさに気づいた。  男の子が、庭の中央で泣き出しそうな顔をして立ち尽くしていた。その足元には、真っ白な塩で大きな円が描かれている。 「ちょっと、これ消してよ! 僕、お家に帰る!」 「ダメだよ」  紬は優しく、だが断固とした口調で言った。 「ゆうちゃんは今日、転んでお膝痛かったでしょ? それはね、『わるいもの』がゆうちゃんについてるからだよ。だから、ここから出ちゃダメなの。ここでお塩の中にいれば、もう痛いの飛んでいくよ」 「嫌だ! 出る!」  男の子が輪を踏み出そうとすると、紬は両手を広げて立ちふさがった。 「ダメ! 出たら死んじゃうよ! ママが言ったの、外は危ないんだって!」  男の子は恐怖のあまり大声を上げて泣き出した。真由は慌てて駆け寄り、男の子を輪の外へ引っ張り出した。 「紬、なんてことするの! お友達がいやがってるでしょ!」  真由は思わず声を荒らげ、足で地面の塩の輪を乱暴に踏み荒らした。白い粉が乱れて散った。  男の子は逃げるように家へ帰っていった。  真由は激しい動悸を抑えながら、紬に向き合った。叱りつけようとした。しかし、紬の顔を見た瞬間、真由の言葉は喉の奥で氷ついた。  紬は怒っていなかった。泣いてもいなかった。ただ、心の底から絶望したような、痛切な眼差しで、散らばった塩と真由を見つめていた。 「……ママ、どうして?」  ポロポロと、紬の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。 「どうして、出ちゃったの? ゆうちゃんを守ってあげたのに……わるいものが入ってきちゃうよ。ママのばか。ママを守ってあげようと思ったのに……」  その涙には、一片の悪意も混ざっていなかった。純粋な善意と、愛情。自分が正しいと信じて疑わない子供の無垢さが、そこにあった。  真由は自分の手が小さく震えていることに気づいた。真由が怯えていたのは、怪異などではない。娘の、この完璧で狂気的なまでの「優しさ」だった。  その夜、真由は祖母の遺品が押し込まれていた仏間の押入れを捜索した。  何かにすがりたかった。祖母がなぜあの盛り塩をしていたのか、この家に何か恐ろしい由来があるのではないか。怪異のせいであってほしかった。娘が狂っているのではなく、この家に取り憑く何かの仕業なのだと、誰かに思わせてほしかった。  押し入れの奥から見つかったのは、黒い革表紙の古い日記帳だった。祖母の筆跡で、びっしりと文字が埋め尽くされている。  真由は夢中でページをめくった。 『昭和五十二年 八月十日。今日も玄関に塩を置いた。あの子が外へ出たがる。外は恐ろしい。悪いものがたくさんいる。あの子を渡すわけにはいかない』 『昭和五十四年 十一月三日。また音が聞こえた。廊下の向こうから。塩を撒かねば。家じゅうを塩で満たさねば。あの子を部屋から出してはいけない。守るのだ。私が守るのだ』 『昭和五十八年 四月十六日。あの子が泣く。外へ行きたいと泣く。どうして分かってくれないのか。私がこんなに愛しているのに。外へ出れば死んでしまうのに』  真由の手から、日記帳が滑り落ちた。  そこに書かれていたのは、怨霊の記録でも、怪異の祟りでもなかった。  少なくとも、真由にはそう思えた。  そこにあったのは、娘を守ろうとするあまり、娘の世界を狭めていった、一人の女の記録だった。  怪異など、最初からいなかったのかもしれない。  この家に染みついていたのは、怨念ではなく、「愛ゆえの拘束」という呪いだった。  そして――真由は血の気が引くのを感じた。  紬に「悪いものが入ってこないように塩を置くのだ」と教えたのは、自分だ。  祖母から母へ、母から自分へ……そして自分から娘の紬へ。  自分自身が、その呪いの引き金を引いたのだ。紬の純粋な心は、真由が与えた「言葉」をそのまま吸い上げ、完璧な形で実行しているに過ぎない。  足音がした。  振り返ると、薄暗い仏間の入口に、紬が立っていた。  手には、ずっしりと重い塩の袋を抱えている。 「ママ」  紬は優しく微笑んだ。 「お仕事、お休みでしょ? お外に行っちゃダメだよ。ママ、ずっと泣いてたでしょ? パパのことや、お仕事のことで。お外には、ママをいじめる『わるいもの』がいっぱいいるの」 「紬……もう、やめなさい……」 「大丈夫だよ」  紬は手慣れた手つきで、袋から塩を掴み、床に撒き始めた。  白い粉が、さらさらと音を立てて真由の周りに落ちていく。 「つむちゃんが、ママを守ってあげる。ここにいれば、誰にもいじめられないよ。ずっと、ずっと、ここにいようね」  真由の足元に、真っ白な円が完成していく。  真由は立ち上がり、輪の外へ一歩踏み出そうとした。だが、足が動かない。  恐怖のせいだけではなかった。  紬が、泣いていたからだ。 「お願い、ママ、出ないで!」  紬はボロボロと涙を流しながら、必死の形相で真由の足元にすがりついた。 「出たらママがいなくなっちゃう! わるいものに殺されちゃう! お願いだからここにいて! いい子にしていて! ママ、わたしを一人にしないで!」  幼い娘の、悲痛な叫び。それは真由を愛しているからこその、魂の叫びだった。  真由はその手を振り払うことができなかった。  振り払えば、紬を傷つけてしまう。自分を守ろうとする幼い娘の愛情を、拒絶することになる。  それだけではなかった。紬の手を振り払ったあと、自分が何をすべきなのか、真由にはわからなかった。 「つむちゃん……ママは……」 「ママはいい子だよね? ここにいてくれるよね?」  紬の濡れた瞳が、真由をじっと見つめていた。  その瞳の中に映る自分は、まるで塩の輪の中に閉じ込められた、哀れな虫のように見えた。  翌朝。  初夏の陽光が、古い家々の屋根を照らし始めていた。  近所に住む中年女性が、買い出しのために真由の祖母の家の前を通りかかった。  通りに面した静かな家だった。何十年も前からそこにある、少し傾いた木造家屋。  女性はふと、玄関脇に目をやった。  古い木の引き戸の足元、三和土の端に、小さな白い固まりがあった。綺麗に三角錐に盛られた塩だ。 (ああ、あそこは昔から盛り塩をするお家だったわね……)  女性が通り過ぎようとしたその時、密閉された家の中から、かすかな声が聞こえてきた。  幼い女の子の声だった。 「お塩をあげるね」  楽しそうな、歌うような声。  少しの間のあと、また声が続いた。 「これで、もう大丈夫だよ」  女性はふと足を止め、胸に小さなざわめきを感じて、もう一度玄関のガラス戸を見た。  曇ったガラス越しには、家の中の様子はうかがえない。  だが、玄関の盛り塩のすぐ隣に、もう一つ、小さな円が描かれているのが見えた。  地面に撒かれた、真っ白な塩の輪。  その円の内側――白い粉が敷き詰められた床の上に、誰かが指でなぞり、もがいたような跡が、幾重にも、幾重にも残されていた。  まるで、中から必死に外へ出ようとして、ついに諦めたかのように。  女性は一瞬背筋に冷たいものが走るのを感じ、居心地が悪そうに目をそらした。気のせいだ、子供の悪戯だろうと、自分に言い聞かせて歩調を速めた。  背後で、パタパタと小さな足音が走り回る音、そして子供の無邪気な笑い声が、いつまでも響いていた。 〈了〉

すいません本当に

では、わたしが話す前に みなさま目を瞑ってください 宇宙が広がっています 海が広がっています 人が蔓延っています 目を開けてください これはペンですか? いいえそれはペンコです。 鏡を見てください 米がありますね これがなかなかいい味を出しています 奇遇ですね私もパンなんです こんばんらです おさようならでございます

好きだけど

"あ、この人と結婚したい。" まだキスも知らない、付き合ったことすらない高校生の私。 突発的にそう思いました。 図書室で一人。本を読んでいた時です。 本を読んで、こんなに作者に好意を持ったのは初めてのことでした。 乙一、浅田次郎、村上春樹、東野圭吾、伊坂幸太郎……色々な著者の本を読んできて、初めての感情でした。 私は作者買いで、気に入った作者さんの本を読んでいく傾向がありまして。 乙一さんはホラーの中に優しさや寂しさをブレンドしたような感じ。 浅田次郎さんは人情噺が最高。ノスタルジックとユーモアを兼ね備えたイメージ。 村上春樹さんは不思議な現実味を帯びた、現実に異世界を少し混ぜた感じ。 東野圭吾さんはミステリー初心者にもやさしく、ユーモアもあって人間味あふれる感じ。 伊坂幸太郎さんは非日常を味わえるエンターテイメントを提供しつつ、風刺や皮肉をすごくマイルド且つ上手く伝える方のイメージ。 こんな風に私の中で読んだ本から作者さんのイメージが出来上がってました。 憧れや尊敬はあるけれど、恋愛に近い感情は全く湧きませんでした。 その結婚したいと思わされた本はエッセイ集で、日々のなんでもないことをまとめられていました。 特に今でも覚えている内容で、結婚願望が湧いたお話があります。 作者が学生の頃。 放課後の教室で一人、パンを食べていると(この方はよく菓子パンを召し上がるのです)、クラスメイトが忘れ物か何かで取りに来ました。 少し話を交わしたあと、そのクラスメイトが教室を出て行かずに作者の近くに座っています。 作者は帰らないのかと聞くと、その子は 「だって、一人で食べるのさびしいじゃん」 と言って、作者が食べ終わるのを待っていてくれたのです。 このエピソードを読んだ時、さりげないやさしさに泣きそうになりました。 今、書き起こしてみると、「あれ? 惚れるのは待ってくれたクラスメイトの方じゃね??」とふと思った自分がいます。 でもあの頃の自分は、そのやさしさに心動かされた感受性すき………!!! となっておりました。 だいぶ昔に読んだので、色々間違っているかもしれません。 でも内容的にはこんな感じの話でした。 それから他のエピソードも読み、なんだか世間とズレた感覚をお持ちの方なんだなぁと。 書き方も言葉選びもセンスがあって。 それが自分の琴線に触れて。 まさにドンピシャでした。 それからその方の本を読み、一人あぁこの方と結婚したい……。 この方なら自分を理解してもらえる……なんて思った時期がありました。 とまぁ、その感情は著書を読んだ時のみに発動していた感情なのですが。 * * * それから何年か経ち、他の本もたくさん読み、その方のこともすっかり忘れていました。 たまたまどこかでその方のお名前を目にすることがありました。 どこかとはハッキリ覚えていないのですが、コンクールの選評か誌面の絵本の紹介でだったか…… 高校の時にそういえば好きだったなと思い返し、調べてみると今でもご活躍されており、ご結婚もされているようでした。 そしてまたあの頃読んだ本を久しぶりに読み返してみました。 あぁ、よかった。 やっぱり結婚しなくてよかった。 読み終わったあとにそう思いました。 まるで蛙化現象のようにあの頃の感情がスンっ! と消えてしまったのです。 自分が大人になってしまったのか、なんなのなんなのか…… それでもやっぱりあの方のファンには変わりないのを確信しました。 変わらず、言葉に心動かされるし、感受性が素敵だなぁと。 穂村弘さん。大好きです。 読んでいなかったエッセイ本があったので、この前読んでみました。 独特の感性。独特の表現。変わらず面白くて。 読んで声が出るほど笑いました。 隣にいた息子が引いていました。 また読もうと思います。 でもやっぱり結婚はいいかな。

憧れ

 僕の文章には、よく涅槃やら、陀羅尼やらが顔を出す。  これは、魔獣狩りという夢枕獏さんの小説の影響が、濃いのである。  空海をめぐる物語であるのだが、衝撃であった。  エロスとバイオレンスの容赦ない描写に奮えましたよ、中二の僕は。  その物語の中心に存在したのが、空海である。  圧倒的な天才。  魔術的魅力。  欲望の肯定。  脳にガツリと刻印されたのである。  空海になりたい。  魔獣狩りは、勿論フィクションだが、空海は実在した人間だ。  という事で、空海がもたらした密教を我流でやってみたのである。  様々な真言を片っ端から唱えまくった。  大日如来や不動明王など、『オン アビラウンケン バザラ ダト バン』  妖しさの満ちたサウンドに酔った。  空海は、虚空蔵菩薩の真言で覚醒したようなので、それも勿論やったよ。  やったんだけどさー。  全然天才になってない。  記憶力無いんだけど。  どういう事ー。  信じランなぁい。  アホみたぁい。  印は、組まなかった。  じっとするのが苦手なので。  座らなきゃ駄目なんだろうか。  下段蹴りじゃだめなのか。  まあ、悩みは、無くなったが。  元々、あんまり無いが。  大いに効果はあったとすべきか。  空海になり方を知っている方、おりませぬか。  おーい、おーい。  空海に憑かれた人間一匹、ここで悶々としとりますよー。  おーい。  

メモリ-夢-

夢を挫折してから、もう30代後半になってきた。 30代後半になって、ひたすら生きてきたけど、心に残っているのは、見えない将来の不安、過去の後悔で、いっぱいだ。 私の人生って、こんなものだったのかなって、不安ばっかりだ。 気を遣い過ぎて、全然、この先も中々、見えなくて、不安ばかりです。 今更、30代後半の私には、何ができるのだろうか?何がやりたいのかその答えがわかりません。 次の扉、開かれ日は、来るのだろうか?

裏窓

「夜分遅く申し訳ございません。私、こういう者です」  いまだ慣れない手つきで松葉杖を突き、おぼつかない足取りで玄関まで歩いてドアを開けると、いかついスーツ姿の男が懐から出した革ケースの身分証と記章(バッジ)を提示した。 「またですか? 刑事さん」  全身から汗が滲み出る心地の中、俺は答えた。少し声が震えていたかもしれない。  つい一週間ほど前の、八月十七日の夜のことだ。隣のマンション――駐車場と公園を挟むので、約五、六十メートル離れているが――の一室で、住人の女性が殺害される事件があった。  警察の捜査が始まると、マンションの隣りに建つこのアパートに住む俺のところにも、すぐに聴き込みの刑事がやって来た。 「前に来た刑事さんにも言いましたけど、俺は何も見てないですよ」  心なしか声がうわずってしまう。  真夏の夜に起きた事件だ。犯行現場の部屋の窓は大きく開かれ、カーテンも掛かっていなかった。そのため、向かいのアパートの住人は犯人を目撃している可能性が高いと、特に念の入った聴き込みが行われているのだとか。俺のところも今回が二度目だ。 「何か思い出したことはありませんか? 些細なことでいいんです。あなた、あの晩もこの部屋にいたんですよね?」  と言いつつ、刑事は俺の足元に視線を下ろす。  俺は今、片足にギプスをしている。  ふた月ほど前、俺は交通事故に遭い右足を骨折した。現在は自宅療養中で、たしかに事件のあったあの日も一日中アパートにいた。 「え、ええ。部屋にいましたよ。でも、窓の外は見てないんですよ」  つい目が泳いでしまう。  だめだ。あのことだけはバラすわけにはいかない。  駆け出しカメラマンの俺は、仕事はおろか近所の買い物すら困難なこの状況下で、退屈しのぎに望遠レンズを装着したカメラを使い、隣のマンションを時折り覗き見していた。ちょうど真向かいの部屋には若い女が住んでいた。ほんの出来心だった。  あの夜のことを正直に話したら、覗き行為がバレてしまうのではないか。そんな強迫観念に駆られ、俺は事件について口をつぐむことにしたのだ。 「――なるほど。では失礼ですが、事件のあった日の夜、あなたが何をしていたのかを教えてもらえますか? いやいや、これはあくまでも形式的なもので、別にあなたを疑っているわけではありませんよ。その怪我ではあのマンションへ行き来するだけでもひと苦労でしょうし、ましてや殺人が行えるとは思えない」  刑事は胸ポケットの手帳とペンを取り出した。  本当のことは言えない。なんとか誤魔化さなくては。 「ええと、あの夜は……そう、映画。テレビで映画を見てました」  焦りの中で、俺の脳裏にある映画のワンシーンが浮かんだ。 「ほう、その映画のタイトルは覚えていますか?」 「たしか『裏窓』です。アルフレッド・ヒッチコックの」  五十年以上も昔の古い映画だ。滅多にテレビ放映などされないだろう。だが、そこを指摘されたとしても、映画マニアの友人から借りたDVDで見ていたとでも言えばいい。全く問題ない。  ところが俺の返答を聞くと、刑事は突然、眉根を寄せて鋭い目を俺に向けた。  何だ? 俺は何かマズいことを言ったのか?  そもそもこの刑事はなぜこんな遅い時間に俺のところへ来たんだ?  俺が怪我で外出できないことは、前の聴き込みで警察は把握しているのではないのか?  一日中家にいることが分かっているのなら、前みたいに昼間に来ればいいじゃないか。それなのになぜ?  その直後、俺はそれらの疑問の答えを全て、身をもって知ることになった。 「なあんだ。あなた、やはり見ていたんじゃないですか」  刑事はニヤリと薄笑いを浮かべると同時に、俺の首に力強い手を伸ばした。  襲いくる苦痛と、余計なことを口走ってしまった自分に対する激しい後悔のさなか、俺は思い出していた。  あの日、あの夜、カメラのファインダー越しに見た、映画『裏窓』のワンシーンを。  そして女に覆いかぶさる、いかついスーツ姿の男の背中を。 〈了〉

青を待つ

赤信号を見上げながら、私は小さくため息をした。 冷たい夜風が、マフラーの隙間から首元を抜けていく。 仕事で失敗したわけじゃない。 誰かと喧嘩をしたわけでもない。 ただなんとなく 自分が世界に取り残されて透明人間になってしまったかのような 寂しさが胸の奥におもりのように溜まっていた。 「……長いな」 いつもより長く感じる赤信号。 周りの人たちはスマホを眺めたり、足早に通り過ぎたりしている。 みんなには帰る場所があって、明日への明るい未来が見えているように思えて。 がんばらなきゃと思うほど足がすくんで動けなくなる。 進めと言われているような気がして けど、どこへ進めばいいのか分からない。 その時ふと隣に立った見知らぬおばあさんが、ぽつりと言った。 「焦らなくてもいいのよ」 驚いて顔を向けると、おばあさんは私を見て微笑んでいたわけではなく ただじっと、目の前の赤い光を見つめていた。 独り言だったのかもしれない。 あるいは、私と同じように立ち止まっている誰かに、そっと届くように呟いたのかもしれない。 その言葉が、冷え切った心にじんわりと染み込んでいくのが分かった。 進めないのは、自分がだめだからじゃない。 今はただ、次に進むためのエネルギーを蓄える大切な「赤」の時間なのだ。 じっと待つことだって、立派な準備なのだと誰かに許されたような気がした。 カチリと音がして目の前の世界に鮮やかな青が灯る。 「……よし」 私は小さく声に出して一歩を踏み出した。