青を待つ

赤信号を見上げながら、私は小さくため息をした。 冷たい夜風が、マフラーの隙間から首元を抜けていく。 仕事で失敗したわけじゃない。 誰かと喧嘩をしたわけでもない。 ただなんとなく 自分が世界に取り残されて透明人間になってしまったかのような 寂しさが胸の奥におもりのように溜まっていた。 「……長いな」 いつもより長く感じる赤信号。 周りの人たちはスマホを眺めたり、足早に通り過ぎたりしている。 みんなには帰る場所があって、明日への明るい未来が見えているように思えて。 がんばらなきゃと思うほど足がすくんで動けなくなる。 進めと言われているような気がして けど、どこへ進めばいいのか分からない。 その時ふと隣に立った見知らぬおばあさんが、ぽつりと言った。 「焦らなくてもいいのよ」 驚いて顔を向けると、おばあさんは私を見て微笑んでいたわけではなく ただじっと、目の前の赤い光を見つめていた。 独り言だったのかもしれない。 あるいは、私と同じように立ち止まっている誰かに、そっと届くように呟いたのかもしれない。 その言葉が、冷え切った心にじんわりと染み込んでいくのが分かった。 進めないのは、自分がだめだからじゃない。 今はただ、次に進むためのエネルギーを蓄える大切な「赤」の時間なのだ。 じっと待つことだって、立派な準備なのだと誰かに許されたような気がした。 カチリと音がして目の前の世界に鮮やかな青が灯る。 「……よし」 私は小さく声に出して一歩を踏み出した。

愛されるのも愛すのも怖くて

人を愛するって、どうしてこんなに難しいんだろう。 好きになればなるほど不安になる。 相手の何気ない一言が気になったり、 返信が少し遅いだけで胸が苦しくなったり、 昨日まで当たり前だった優しさが、 今日はどこか遠く感じたりする。 本当は信じたい。 疑いたいわけじゃない。 束縛したいわけでもない。 ただ、失うことが怖いだけなんだ。 自分が思っているほど、 相手は自分を必要としていないんじゃないか。 自分がいない時間も、 何も変わらず笑っているんじゃないか。 そんなことを考えている自分が嫌になる。 愛するということは、 自分の心の一部を誰かに預けることなのかもしれない。 だからこそ、相手の言葉ひとつで救われるし、 相手の態度ひとつで壊れそうにもなる。 不思議なことに、 大切な人ができると幸せが増える一方で、 怖いものまで増えてしまう。 嫌われること。 忘れられること。 飽きられること。 自分より大切な誰かができること。 好きという感情の裏側には、 いつだって失う恐怖が隠れている。 だけど、愛されることだって簡単じゃない。 優しくされると申し訳なくなる。 大切にされると、その期待に応えなきゃと思ってしまう。 こんな自分でいいのだろうか。 もっと魅力的な人間だったら。 もっと余裕のある人間だったら。 もっと相手を幸せにできる人間だったら。 そんなふうに考えてしまう。 誰かに愛されたいと願っていたはずなのに、 いざ愛情を向けられると、 その愛情を受け取ることさえ怖くなる。 いつか終わってしまうくらいなら、 最初から期待しない方が楽なんじゃないか。 そんな臆病な考えが頭をよぎる。 でも、本当は分かっている。 愛されるために完璧になる必要なんてないことも、 誰かを愛するために自分を犠牲にする必要なんてないことも。 頭では分かっているのに、 心だけがどうしても追いついてくれない。 人間は勝手な生き物だ。 寂しいときにはそばにいてほしいと願うくせに、 近づかれすぎると自分の居場所を探してしまう。 愛してほしいと願うくせに、 愛されることに慣れていない。 離れたくないと伝えたいくせに、 重いと思われるのが怖くて言葉を飲み込む。 そして、何でもない顔をして、 ひとりになった夜に後悔する。 もっと素直になればよかった。 もっと好きだと伝えればよかった。 もっと一緒にいたいと言えばよかった。 いつからだろう。 愛情を伝えることよりも、 嫌われない方法を考えるようになったのは。 本当は、恋愛に駆け引きなんていらないのかもしれない。 会いたいなら会いたいと言えばいい。 寂しいなら寂しいと言えばいい。 好きなら好きだと伝えればいい。 それなのに、たったそれだけのことが、 どうしてこんなにも難しいんだろう。 きっと誰もが、 自分の愛し方が正しいのか分からないまま、 誰かを大切にしようとしている。 不器用な愛情をぶつけて、 すれ違って、傷つけて、傷ついて。 それでもまた誰かを好きになる。 愛されるのも愛すのも辛くて、 もう誰も好きになりたくないと思う夜がある。 それでも心のどこかでは、 自分のことを何も飾らずに愛してくれる人を探している。 強がらなくてもいい人。 無理して笑わなくてもいい人。 何かを証明しなくても、 ただ隣にいることを喜んでくれる人。 そんな人と出会えたら、 きっと愛することも、愛されることも、 今より少しだけ怖くなくなるのだろうか。 でも、ひとつ忘れたくないことがある。 誰かを幸せにするために、 自分が不幸になってしまったら意味がない。 誰かに愛されるために、 自分を嫌いになってしまったら意味がない。 恋愛は、自分をなくしてまで続けるものじゃない。 相手を大切にするのと同じくらい、 自分の心も大切にしていい。 寂しいときは寂しいと言っていい。 不安なときは不安だと伝えていい。 弱いところを見せたからといって、 愛する資格がなくなるわけじゃない。 完璧じゃない二人が、 完璧じゃないまま一緒にいる。 それが本当の愛情なのかもしれない。 愛されるのも愛すのも辛くて、 何度も心を閉ざしたくなった。 それでも、もう一度だけ信じてみたい。 誰かを好きになることを。 誰かに好きだと言われることを。 そして、そんな自分自身のことも。 愛することに疲れた人が、次に必要なのは、もっと誰かを愛する努力じゃない。 自分も愛されていい人間なんだと、心から信じられる日なのかもしれない。

終わる夏

僕の心が熱く光るのに なにか名前をつけるとしたら それはきっと恋という。 花火みたいな笑顔に恋をした僕。 澄んだ心に恋をした僕。 期待して手を伸ばしてしまう僕。 暑い夏の日に笑う君は 太陽よりも花火よりも輝いていた。 だけどなんだか寂しくて だけどなんだか苦しかった。 心の中がぷちぷち音がして 時間が経つほど 僕の心がもろくなって 今にも崩れ落ちそうだった。 僕の心の光が時々途切れるのに なにか名前をつけるとしたら それはきっと失恋という。 恋をしている君に恋をした僕。 自ら叶わない恋に手を伸ばした僕。 わかっていても少し悲しくて わかっていても少し期待してる。 時間が経つほど 僕の心が熱く熱くなって どんどん焼けてって 今にもチリになってしまいそうだった。 暑い夏日々が僕の心の熱さを紛らわす。 降り注ぐ太陽の光が 今は何だかとても辛かった。 掴みたくても掴めない恋。 忘れたくても忘れられない恋。 どんなに必死に手を伸ばしても ずっとずっとずっと 届かないのは知ってるから。 本気になるほど僕の心の中の穴は 大きなって苦しくなって辛くなる。 寂しいと苦しいと辛いは ずっとずっとずっと 僕の心の中を走りまわって そんなどこにもいかない哀しみの置き場を ずっと探してる気がした。 もうすぐ終わる夏と一緒に とっくの前に終わっている僕の恋は 眩しくて輝いていて 暑くて熱かった。 あとがき 表紙の花は「向日葵」です。 花言葉は「あなただけを見つめる」「光輝」などがあるそうです。 ちなみに、紫色のには「悲哀」。 つまり、切ない、悲しいという意味もあるそうです。 私は「向日葵に紫色もある」ということの方が驚きでしたが…。 調べていると、「すごく紫」というわけではなく、 紫がかった濃い赤のような色をしているそうです。 今回はNoveleeを初めてちょうど2年。 少しでも成長してたら嬉しいです。 ここ最近アイデアがなくなりつつあります。 ですが投稿は続けていこうと思います。 私なりに頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。 では、また。

逃げ出すのも戦うのも辛くて

もう何度、自分に言い聞かせただろう。 大丈夫。 まだやれる。 こんなところで終わるわけにはいかない。 誰かに弱音を吐けば楽になるのかもしれない。 誰かに助けを求めれば、少しは肩の荷が下りるのかもしれない。 それでも、口から出てくるのはいつも 「大丈夫」という嘘ばかりだった。 逃げ出したいと思う日がある。 全部投げ出して、誰も知らない場所へ行って、 自分のことを誰も知らない世界で生きてみたい。 期待も、責任も、過去も、後悔も。 全部置いていけたら、どれだけ楽だろう。 だけど、逃げた先に本当に幸せがあるのかは分からない。 じゃあ戦えばいい。 歯を食いしばって、何度倒れても立ち上がって、 自分の価値を証明すればいい。 そう思って何度も前を向いた。 でも、戦うことだって簡単じゃない。 頑張ったから報われるわけじゃない。 努力したから認められるわけじゃない。 誰よりも悔しがった人間が、必ず勝てるわけでもない。 それでも周りは言う。 「諦めるな」 「まだ頑張れる」 「お前ならできる」 その言葉が嬉しい日もあれば、 残酷に聞こえる日もある。 もう十分頑張ったなんて、 自分で自分を認めることすら許せなかった。 本当は気づいていた。 勝ちたいんじゃなくて、 ただ、自分の人生を無駄じゃなかったと思いたいだけなんだ。 誰かに必要とされたかった。 誰かに認められたかった。 自分がここまで生きてきた意味を、 いつか胸を張って語れる人間になりたかった。 でも、人生はそんなに優しくない。 夜になると、昼間は隠せていた感情が溢れ出す。 悔しさも、寂しさも、情けなさも。 誰にも見せられなかった自分が、暗闇の中で顔を出す。 泣きたいのに泣けない。 笑いたいのに笑えない。 前を向きたいのに、足が動かない。 逃げ出すのも戦うのも辛くて、 どこに行けば正解なのかさえ分からなくなった。 だけど、ひとつだけ思う。 人生は、強い人間だけが生き残る場所じゃない。 立ち止まったっていい。 遠回りしたっていい。 誰かに追い越されたっていい。 今日を生きることだけで精一杯なら、 今日を生き抜くことを目標にしたっていい。 夢を諦めないことだけが強さじゃない。 自分を壊さないように守ることだって、 立派な戦いなんだと思う。 いつか、この苦しさにも名前がつく日が来るのだろうか。 あの頃は辛かったなって、 少し笑いながら振り返れる日が来るのだろうか。 今はまだ分からない。 ただ、まだ終わりにしたくない。 誰かに勝つためじゃない。 誰かに認められるためだけでもない。 いつか自分自身に、 「よくここまで生きてきたな」って言ってやりたい。 だから今日も、答えの出ない夜を歩いている。 逃げることもできず、 戦うこともできず、 それでも心のどこかで明日を信じながら。 強くなりたいんじゃない。 ただ、もう自分の弱さを責めずに生きていきたい。 それだけなのに、人生はどうしてこんなにも難しいんだろう。

零焔のルミナ-プロローグ-

 「現在、第五次世界大戦の各国の戦況は五分五分。かつてあった核兵器禁止条約は既に棄憲され、各国では核兵器の開発と使用は当たり前。そもそも前提としてそこに人類の干渉は皆無。我々、人工知能が全てを担う。 これらの考察から編み出される結論は、ユリウス・ヴァイラーの目的を達成するには不十分である」  ここは西暦3100年の地球。何が始まりだったのか。何を間違えたのか。もはや人類は互いを許し合えない関係となり、日夜戦争が巻き起こる。  しかし全ての人類は既に地表を人間が生存出来ない不毛の大地とし、今は地下シェルターを作って生活している。  西暦2025年。AIが日常に普及してきた時点で止めるべきだったか。研究者はこぞって人工知能のさらなる開発と、軍用利用を考え、いつかの戦争で初実戦投入されたのが始まりだったか。  これではいつまで経っても戦争は終わらない。だから私は、世界から隠れて一人で長い年月をかけて一体のアンドロイドを開発した。  それはいつか私が死んでからも活動し続け、私の悲願を達成してくれることを願って。彼に架け橋の意味を持たせた。  だが計画の準備が整うまでより先にそろそろ私の寿命が尽きる。だから最後の命令を彼に託すことにした。 「あぁ、そうだな。私はお前が目的を達成することを見ることはできないだろう。だから最後の命令と最終シーケンスを実行する。そこで足りない物を、私が開発してきた全てを使って獲得してこい」 「博士、最終シーケンスまでまだ10工程以上ある。それらをスキップするのか?」 「あぁ、そうだ。多次元間移動ワープ。相位ワームボールを起動する」  これはまだどこの国も作っていない。私だけの最終兵器。攻撃でも防御でもない。ただこの世から存在を抹消するための兵器。  しかし悲願する物では無い。これこそがアークに最終的に実行する物である。 「了解。相位ワームホール起動。 多次元シフトシステム:起動シーケンス開始 ・中枢連結プロトコル……オンライン ・量子論理層……同期完了 ・認知制限機構……第3層まで解除 ・時間漂流制御……基準値クリア 」  所謂こことは別の世界。完全な別次元へのワープだ。大掛かりな実行準備とアンドロイドから無機質な音が反響する。そこで私は追加で命令する。これだけは言って置かなければならない。 「追加命令だ。まず、決して無駄な殺生をするな。人々と沢山関係を持て、人間の感情や思考を多く学べ」 「・空間圧縮モジュール……臨界域へ移行 ・異界安全指令-Σ……遵守確認 ・第五次大戦戦闘上書き……自動適用 ・次元防壁……通過許可 ・ワームホール生成器……点火準備 ・異界移動規則 第47-B条……承認 ・特異点アンカー……安定値確保 ・領域跳躍コード〈ルミナ〉……ロード完了 ── 状態:全システム、転移要求を受諾 ── 《多元宇宙ワームホール跳躍:実行》 「そしていつか帰って来た時に、自分の計画を完遂させろ……」  私の最後の言葉を言い終える前に、アンドロイドは全ての準備を完了し、巨大なワームホールを生成しながら、私の前から完全に消滅した。  彼が帰ってくる頃には、私の寿命は既に切れているだろう。だが彼なら必ずやってくれる。  人工衛星の接続……オフライン。  周囲の特殊磁場を検知。  特殊磁場をスキャン……完了。  磁場から現在位置の特定。  座標名称を変換。 「座標、ASG-12.743/MZ-Φ.882/AR-Layer.07。  名称不明・識別:王都建物内部。  周囲安全確保スキャン……完了。危険度:極低  生体反応検知。現在の空間同時生存数:8  脅威度:極低  KX状態スキャン……オールグリーン  危険度と脅威度の結果より武装を一時解除。  KX-Σ9 アーク。次元移動完了」  そこはとある王国の王宮内。そこに歪な存在が召喚された。歪も歪。全身にしなやかなで分厚い装甲を持ち、人型でありながら明らかに人間ではない。イレギュラーな存在に、辺りは一気に騒めいた。

うわぁぁぁ

お久しぶりです。元気に生きてます 今日ハロウィンだね👻🎃 あのね!今日事件あったんですよ そう、パパがノンデリすぎる‼️ 電車でさ、急に「なんか目腫れてね?いや、汚れ?」って いって手拭いで拭いてきたんですね 私も「え、まじ?」みたいな感じで確認したらさ パパ、それね涙袋。 私が毎朝描いてる、涙袋なの。 うわぁぁぁ!!やっばい、やっばい! すっごい滲んでる!!描いてた下まつげも滲んでる! 化け物爆誕‼️ ハロウィンメイクかな‼️😅 学校まで走ってトイレに駆け込みました 友達が色々貸してくれて応急処置 友達だいすき。愛してる パパさ、私がえぐデカ涙袋描いてんのはいつものことじゃん なんで!今日!汚れとか言ってくるんだよ! 努力の賜物じゃ!! おわり

第5回NSS決勝 連鎖

「動物園へようこそ!」  朗らかな掛け声とともに人々がゲートを通る。たくさんの人々が園内を回っている。  親子がチンパンジーの檻の前で足を止めた。 「ねぇ、お母さん。あれ見て!」 「あら、どれどれ」  そこではチンパンジーの子供がカマキリを飼い、餌をあげたりしていた。その姿はまさに動物を飼育する人間そのものだった。  その親子を、宇宙人は興味深そうに観ていた。 「面白いな」 「な、まさに動物を見る我々のようだ。自然な生態が見れて面白い」 「彼らは争いも起こすのだろう?たしか、『セカイタイセン』だったか。どんな小さく単純な生き物でも争いはするものだな」 「ほら、そろそろ行くぞ」  そう言って2人の宇宙人は部屋を出て行った。 「出ちゃったじゃん、見えないよ!」  「何か」は、仲間に喚いた。観察していた『ウチュウジン』が死角で見えなくなってしまったからだ。  その様子を、興味深げな様子で「それ」は見ていた。  そして、その様子を……。  見ている。 「ねぇ、この『ニンゲン』面白いね。『すまほ』なんて物をじっと見て、そこに載ってる『ショウセツ』とやらを審査してるんだって」

無題

このひとをいっとう しあわせ にしてください 他の誰よりも特別に扱って どんな時も一番に愛してください このひとを今よりしあわせにしてください 素直じゃないひとなんです ひねくれてるひとなんです 余裕がないひとで 冷たく思うかもしれません それでも このひとをいっとう しあわせ にしてください 不幸な人ではないんです ただ もっと愛されてしあわせになって欲しい そんなひとなんです 私はこのひとがしあわせそうにしてる時が いっとう すき なんです

恋しき母なる海よ

海が好きだった。 あのどこまでも綺麗で、どこまでも恐ろしい 果てしなく続く海が好きだった。 あの海が眺められる場所に生まれ落ちれた事に感謝し無ければならない。 母なる海と、何かで聞いたことがある。 なるほど、では海は俺の第二の母となるのか 確かにと頷いた。 波の音は子守唄だ 幸せを運び、共に不幸も運ぶ。 海に入れば抱きしめてくれる 暖かく、そしてとても冷たい。 それが海だ ずっとここで海を眺めていたいと 思っていた。 ……大人になってしまった俺はそんな海の見える所から、建物と空しか見えない所へ来た 大人とは嫌なものである。 何もかも、手に入れるためには嫌なこと、汚いことをし無ければならない。 上げられ落とされ、 最悪の場合、己の心を殺さなければならない 息をするのが苦しい 嗚呼こんなのはまるで 海で溺れているみたいだ 仕事で先輩のミスを押し付けられた俺は、どうやら疲れていたらしい。 ふと気がつけば、目の前には、いつも見ていた景色ではなく、海が広がっていた。 俺はどれだけ海が好きなんだ、とか、どうやって来たかも覚えていないな、と我ながら呆れもしたが 久しぶりの磯の香りはとても落ち着くものがあった。 海で少し湿った風を受け、深呼吸をする。 海の音を聴き、目を閉じる。 とても、落ち着く海だった。 嗚呼 溺れるなら今がいい サクリ、と砂を歩いた 歩きながら靴と靴下を放り脱げた アイロンする暇が無く、少しよれてしまったスーツも、息苦しいネクタイもそのままに 波に足をつけた。 海はとても冷たく とても暖かかった 腰まで波が来ても 口の中にに潮味が広がっても 不思議と怖くはなかった …嗚呼 嗚呼どうか母なる海よ! 今すぐ俺を受け入れて抱きしめてくれ! 何故か溢れる感情の分からぬ涙が、海に溶けて行く。 コポ と 最後の空気が抜けるのを聞いた それが俺から鳴っているとは、気がつけなかった

満ちてゆく

「人は、何かを手放す度に、満ちてゆく」 かつて私がまだ若く、何者かになろうと必死に都会を駆け抜けていた頃、ある大切な人が教えてくれた言葉だ。 あの頃の私は、その言葉の本当の意味をこれっぽっちも理解していなかった。 人生とは何かを掴み取り、積み上げていくことだと信じて疑わなかったからだ。 若さ、名声、富、他者からの承認。 それらを両手いっぱいに抱え込むことだけが、自分を「満たす」唯一の方法なのだと。 しかし、今の私にはよく分かる。 ベッドから見える四角い窓の外、ゆっくりと沈んでいく夕日が、静かな病室を穏やかな茜色に染めていた。 私の人生の、これが最後の夕暮れだった。 白く清潔なシーツの上に置かれた私の手は、すっかり細くなり、深く刻まれたしわがこれまでの長い年月を物語っている。 点滴の管が伝うその腕には、かつて世界を相手に戦おうとしていたような頃の力強さはもう残っていない。 「終わるんだな」 不思議と、恐怖や悲しみはなかった。 そこにあるのは、嵐のあとの海のような、どこまでも深く、静かな平穏だった。 この数ヶ月、私は文字通り「手放す」ことの連続だった。 自由に歩くことのできる足、思い通りに動く身体、社会的な繋がり、およびやがて訪れるであろう未来そのもの。 かつてあれほど執着し、失うことを恐れていたものたちが、一枚、また一枚と、秋の枯葉のように私の身体から剥がれ落ちていった。 けれど、奇妙なことに。 すべてを失っていくはずの私の心は、今、人生のどの瞬間よりも軽やかで、そして信じられないほどの幸福感に包まれていた。 目を閉じると、私の耳の奥に、懐かしいピアノの旋律が聴こえてくる。 それは、あの人がよく弾いていた、優しくて、どこか切ない即興曲のメロディ。 その音色は、私の心に残った最後のおりを、サァと洗い流していく。 心の中で、その旋律をそっと口ずさむ。 私は気づいたのだ。 手放すということは、空っぽになって消えていくことではない。 自分を縛り付けていたすべての鎧や、他人の目、未来への不安という「余計なもの」を削ぎ落とした先で、本当の自分に出会うことなのだと。 私の両手は、もう何も掴んでいない。何も持っていない。 だからこそ、その開いた両手のなかに、目に見えない大いなる愛が、温かい光となって絶え間なく流れ込んでくる。 まぶたの裏に、これまでの人生で出会った大切な人たちの笑顔が、走馬灯のように鮮やかに蘇る。 厳しくも温かかった両親の眼差し。 共に笑い、共に涙した友人たちの声。 傷つけ合いながらも、確かに愛し合ったあの人の手の温もり。 そして、私がこの世界に遺していく、愛しい子供たちの健やかな寝顔。 「ああ、私はこんなにも愛されていたんだ」 若い頃は、もっと愛されたい、もっと満たされたいと、いつも喉が渇いたように何かを求めていた。 でも、それは逆だったのだ。 私は最初から、あふれるほどの愛の中に生かされていた。 世界は最初から、私を包み込んでくれていた。 何かを失うことは、悲しいことではなかった。 ただ、元いた場所へ還るだけ。 何も持ずにこの世界に生まれ、たくさんの愛を味わい、傷つき、そして今、そのすべてを世界へと還していく。 その循環の美しさに、胸の奥がじんわりと、熱く震えた。 窓の外を見ると、いつの間にか太陽は沈み、深い藍色の夜空が広がっていた。 そして雲の切れ間から、洗いたてのような美しい、大きな満月が顔を出した。 月の光が病室の床に差し込み、私を優しく照らす。 その光は、まるで「お疲れ様」と私を祝福してくれているようだった。 心臓の鼓動が、少しずつ、その間隔を広げていくのが分かる。 それは、終わりの合図ではなく、新しい旅立ちの足音のようだった。 私の人生は、完璧ではなかったかもしれない。 たくさんの間違いを犯し、回り道をして、傷つくことも多かった。 けれど、そのすべてが愛おしい。 私という器は、出会ったすべての人、経験したすべての感情によって、最後の最後に、これ以上ないほどの幸せで満たされていく。 「ありがとう」 私は声にならない声で、世界に向けて小さく呟いた。 最後の息をそっと吐き出す。 それは、体の中に残っていた最後の執着を手放す瞬間だった。 身体は驚くほど軽くなり、私は風と同化した。 あの大切な人がまとっていたのと同じ、自由で、どこまでも軽やかな風。 私は開け放たれた窓から、夜空へと溶けていく。 満月の光に導かれながら、ただ、満ちてゆく。 最初から何も失っていなかった私を、大いなる愛が優しく抱きしめていた。 私の旅は、今、最高に幸せな気持ちのまま、静かに、優しく、 満ちてゆく。

首が落ちる

椿、という花がある。 花言葉は気取らない優美さ、誇り。 花が散るときには丸ごと落ちる。 昔の武士の間ではその様子を『首が落ちる』とたとえられ、縁起が悪いとされた。 うっすらと雪の積もった石の歩道を、マフラーに顔半分を埋めて足早に歩く。 こんな日に散歩はさすがに寒かったな。 十分前の自分をうろんげに思いながら、空を見あげた。 今夜は積もりそうだな。 雪国に住んでいれば分かるかもしれないが、音もなくしんしんと降る雪は翌日になれば驚く程積もる。 ぽとり。 そんな音がした。 振り返ると、昔は立派であっただろう大きな廃屋。 その垣根一面に椿が咲き誇っていた。 さっきの音は椿の花が落ちた音だったのだろう。 冬の風物詩だな。 早く帰って熱燗でも飲もう。 そう思った時だった。 どすん。 今度は大きな音がした。 振り返る。 其処には── 人の顔があった。 首。青白く痩せこけた生首だった。 うぅ─── 突然、生首が呻き声を発し、垣根から車道の方に後ずさった。 それに呼応するように、咲いていた椿たちが歪み、次々と人の顔へと変わり始める。 垣根いっぱいに、生首が。 腰が抜けて、声が出なかった。 次の瞬間、その全てがぼとんぼとんと不快な音を立て一斉に落ち始めた。 「ひ…!」 服が汚れるのも構わず、車道を這いずって逃げようとして、 真横から、車のヘッドライトの光が飛び込んできた。

母の手

 母の手は冷たかった。  思えば母が座っている姿を見たことがなかった。いつも朝早くから台所に立ち、包丁とまな板と音を奏でていたり、鍋とにらめっこしたりしていた。  天気がよければ畑や田んぼの世話をして、雨なら繕いものや家の掃除など。母はまさしくこまねずみのように何かしら動いていた。  子供の頃からそんな姿を見ていた私は、ある日母に趣味はなにかと聞いてみたことがあった。  そのとき草むしりをしていた母は、手を止め地面から目線を外し数秒考えた。そして、草むしりかなと答えて、また黙々と草むしりに集中した。  私は丸まったその背中を見ながら悲しくなった。母はいつも家族のために働いてばかりで、自分の好きなことはないのかしないのか。  母の手は赤紫蘇で染まったり、あかぎれで切れていたりしていた。爪は土のような汚れが詰まっていた。それでも私は母の手が好きだった。母は冷え性だから触れるとひんやりとするのだが、それも含めて好きだった。  最後に触れる母の手。動かなくなった重なった両手をなぞる。  細く、骨張っていて、いつものように冷たかった。