無題
このひとをいっとう しあわせ にしてください 他の誰よりも特別に扱って どんな時も一番に愛してください このひとを今よりしあわせにしてください 素直じゃないひとなんです ひねくれてるひとなんです 余裕がないひとで 冷たく思うかもしれません それでも このひとをいっとう しあわせ にしてください 不幸な人ではないんです ただ もっと愛されてしあわせになって欲しい そんなひとなんです 私はこのひとがしあわせそうにしてる時が いっとう すき なんです
利益
サックスの音に酔っている。 贅沢に空間が、色に染まる。 何色なのかは、言わないでおこうよ。 限定の表現は、苦手な方だ。 苦手なものは、避けるのが得。 受け止めたいのは、恋煩いだけ。 熱が下がれば、己れがわかる。 わかってしまえば、興醒め興醒め。 構造に少女は、侮蔑を含めて。 卵の中身に、驚いたのだが。 暫く経った、説教よりは。 夜は、赦しを告げたはずよね。 ピストル弾けば、女が泣いて。 ただただ泣いて場は濡れただけ。 気になったのは、湿度の高さで。 気がかりなのは、食事の時間。 揺れた眼には、理由もあって。 涙の違和感を気取られた予感。 甘えるテクが、つかえぬなれば。 カカシの男に接吻なんて。 チャンチャラ可笑しいのでございますよ。 唄うわ、ワタシ、月があるから。 照らす月は、ワタシの為なの。 子守唄は、好きなの、一人が。 翳の中には、愛がある事。 知ってほしいわ、利益が出るから。
『午前零時、存在しない駅で』
午前零時。 終電を逃した僕は、見知らぬ駅に迷い込んだ。 駅名標には、『忘却駅』と書かれている。 「ここは、人生で一度だけ過去をやり直せる駅です」 駅員は一枚の切符を差し出した。 「ただし、代償として最も大切な記憶を失います」 僕は迷わず切符を受け取った。 もう一度、妹に会いたかったから。 目を覚ますと、三年前の雨の日だった。 「お兄ちゃん、どうしたの?」 目の前には、亡くなったはずの妹、美咲がいた。 僕は美咲を抱きしめた。 「ごめん……あの日、ひどいことを言って」 「……もう怒ってないよ?」 美咲は笑った。 その笑顔を守るためなら、何だって失っていい。 僕は美咲を家へ連れて帰った。 三年後。 美咲は元気で暮らしていた。 けれど、僕は時々、胸に穴が空いたような気持ちになる。 ある夜、僕は再び忘却駅を訪れた。 「僕は何を失ったんですか?」 駅員は静かに答えた。 「妹さんとの思い出です」 僕は息を呑んだ。 「あなたは、彼女を救うために、彼女と過ごした記憶を代償にしたのです」 涙がこぼれた。 それでも、僕は後悔していなかった。 記憶がなくても、僕は美咲を大切にしている。 その理由が、今なら分かる気がした。 翌朝。 「お兄ちゃん、今日はどこに行くの?」 美咲が笑う。 「……二人で、思い出を作りに行こう」 「うん!」 僕たちは手を繋いで歩き出した。 過去は戻らない。 失った記憶も、きっと戻らない。 それでも。 僕たちには、これからの未来がある。 午前零時。 忘却駅の時計が、静かに動き始めた。
愛されるのも愛すのも怖くて
人を愛するって、どうしてこんなに難しいんだろう。 好きになればなるほど不安になる。 相手の何気ない一言が気になったり、 返信が少し遅いだけで胸が苦しくなったり、 昨日まで当たり前だった優しさが、 今日はどこか遠く感じたりする。 本当は信じたい。 疑いたいわけじゃない。 束縛したいわけでもない。 ただ、失うことが怖いだけなんだ。 自分が思っているほど、 相手は自分を必要としていないんじゃないか。 自分がいない時間も、 何も変わらず笑っているんじゃないか。 そんなことを考えている自分が嫌になる。 愛するということは、 自分の心の一部を誰かに預けることなのかもしれない。 だからこそ、相手の言葉ひとつで救われるし、 相手の態度ひとつで壊れそうにもなる。 不思議なことに、 大切な人ができると幸せが増える一方で、 怖いものまで増えてしまう。 嫌われること。 忘れられること。 飽きられること。 自分より大切な誰かができること。 好きという感情の裏側には、 いつだって失う恐怖が隠れている。 だけど、愛されることだって簡単じゃない。 優しくされると申し訳なくなる。 大切にされると、その期待に応えなきゃと思ってしまう。 こんな自分でいいのだろうか。 もっと魅力的な人間だったら。 もっと余裕のある人間だったら。 もっと相手を幸せにできる人間だったら。 そんなふうに考えてしまう。 誰かに愛されたいと願っていたはずなのに、 いざ愛情を向けられると、 その愛情を受け取ることさえ怖くなる。 いつか終わってしまうくらいなら、 最初から期待しない方が楽なんじゃないか。 そんな臆病な考えが頭をよぎる。 でも、本当は分かっている。 愛されるために完璧になる必要なんてないことも、 誰かを愛するために自分を犠牲にする必要なんてないことも。 頭では分かっているのに、 心だけがどうしても追いついてくれない。 人間は勝手な生き物だ。 寂しいときにはそばにいてほしいと願うくせに、 近づかれすぎると自分の居場所を探してしまう。 愛してほしいと願うくせに、 愛されることに慣れていない。 離れたくないと伝えたいくせに、 重いと思われるのが怖くて言葉を飲み込む。 そして、何でもない顔をして、 ひとりになった夜に後悔する。 もっと素直になればよかった。 もっと好きだと伝えればよかった。 もっと一緒にいたいと言えばよかった。 いつからだろう。 愛情を伝えることよりも、 嫌われない方法を考えるようになったのは。 本当は、恋愛に駆け引きなんていらないのかもしれない。 会いたいなら会いたいと言えばいい。 寂しいなら寂しいと言えばいい。 好きなら好きだと伝えればいい。 それなのに、たったそれだけのことが、 どうしてこんなにも難しいんだろう。 きっと誰もが、 自分の愛し方が正しいのか分からないまま、 誰かを大切にしようとしている。 不器用な愛情をぶつけて、 すれ違って、傷つけて、傷ついて。 それでもまた誰かを好きになる。 愛されるのも愛すのも辛くて、 もう誰も好きになりたくないと思う夜がある。 それでも心のどこかでは、 自分のことを何も飾らずに愛してくれる人を探している。 強がらなくてもいい人。 無理して笑わなくてもいい人。 何かを証明しなくても、 ただ隣にいることを喜んでくれる人。 そんな人と出会えたら、 きっと愛することも、愛されることも、 今より少しだけ怖くなくなるのだろうか。 でも、ひとつ忘れたくないことがある。 誰かを幸せにするために、 自分が不幸になってしまったら意味がない。 誰かに愛されるために、 自分を嫌いになってしまったら意味がない。 恋愛は、自分をなくしてまで続けるものじゃない。 相手を大切にするのと同じくらい、 自分の心も大切にしていい。 寂しいときは寂しいと言っていい。 不安なときは不安だと伝えていい。 弱いところを見せたからといって、 愛する資格がなくなるわけじゃない。 完璧じゃない二人が、 完璧じゃないまま一緒にいる。 それが本当の愛情なのかもしれない。 愛されるのも愛すのも辛くて、 何度も心を閉ざしたくなった。 それでも、もう一度だけ信じてみたい。 誰かを好きになることを。 誰かに好きだと言われることを。 そして、そんな自分自身のことも。 愛することに疲れた人が、次に必要なのは、もっと誰かを愛する努力じゃない。 自分も愛されていい人間なんだと、心から信じられる日なのかもしれない。
足音
黄色い声は、悪魔のキミ 好きだよ、ずっと 壊れた世界で 待つのよ、ずっと 流し目ラインで あれは微かに 絶望に酔ってて あれは確かに 羨望が置かれて 夜が明けた地球を きりりと睨んで 古ぼけた苦痛を 他力と見捨てて ハンサムさんには お仕置き必要 寒暖差の庭 恋の日有料 労働の三権 養老乃瀧に 全くもってけしからん話 歩くの勝手無理からぬ習い よほどの事だわ あんな事やら 蚊ほどの脳だわ こんな事まで それは如何にも それらしい訳で ノリがどうにも 狂おしいラテで 言いたい事は、住んだらみやこ 塗りたい黒は、論より証拠 青い葡萄の森の中 幼な子の足音が囁くの トト様どーこ カカ様恋し 紅い鳥舞う森の中 足音はもう聞こえない トト様どーこ カカ様恋し
性格
説明が、苦手である。 月が出ていて、その下で、女が、笑う。 で、何で。 これが、苦手である。 冷める。 気持ちがね。 説明しちゃうとね。 で、何で。 これが、苦手である。 聞かないでっ。 そういう奴なのっ。
母の手
母の手は冷たかった。 思えば母が座っている姿を見たことがなかった。いつも朝早くから台所に立ち、包丁とまな板と音を奏でていたり、鍋とにらめっこしたりしていた。 天気がよければ畑や田んぼの世話をして、雨なら繕いものや家の掃除など。母はまさしくこまねずみのように何かしら動いていた。 子供の頃からそんな姿を見ていた私は、ある日母に趣味はなにかと聞いてみたことがあった。 そのとき草むしりをしていた母は、手を止め地面から目線を外し数秒考えた。そして、草むしりかなと答えて、また黙々と草むしりに集中した。 私は丸まったその背中を見ながら悲しくなった。母はいつも家族のために働いてばかりで、自分の好きなことはないのかしないのか。 母の手は赤紫蘇で染まったり、あかぎれで切れていたりしていた。爪は土のような汚れが詰まっていた。それでも私は母の手が好きだった。母は冷え性だから触れるとひんやりとするのだが、それも含めて好きだった。 最後に触れる母の手。動かなくなった重なった両手をなぞる。 細く、骨張っていて、いつものように冷たかった。
満ちてゆく
「人は、何かを手放す度に、満ちてゆく」 かつて私がまだ若く、何者かになろうと必死に都会を駆け抜けていた頃、ある大切な人が教えてくれた言葉だ。 あの頃の私は、その言葉の本当の意味をこれっぽっちも理解していなかった。 人生とは何かを掴み取り、積み上げていくことだと信じて疑わなかったからだ。 若さ、名声、富、他者からの承認。 それらを両手いっぱいに抱え込むことだけが、自分を「満たす」唯一の方法なのだと。 しかし、今の私にはよく分かる。 ベッドから見える四角い窓の外、ゆっくりと沈んでいく夕日が、静かな病室を穏やかな茜色に染めていた。 私の人生の、これが最後の夕暮れだった。 白く清潔なシーツの上に置かれた私の手は、すっかり細くなり、深く刻まれたしわがこれまでの長い年月を物語っている。 点滴の管が伝うその腕には、かつて世界を相手に戦おうとしていたような頃の力強さはもう残っていない。 「終わるんだな」 不思議と、恐怖や悲しみはなかった。 そこにあるのは、嵐のあとの海のような、どこまでも深く、静かな平穏だった。 この数ヶ月、私は文字通り「手放す」ことの連続だった。 自由に歩くことのできる足、思い通りに動く身体、社会的な繋がり、およびやがて訪れるであろう未来そのもの。 かつてあれほど執着し、失うことを恐れていたものたちが、一枚、また一枚と、秋の枯葉のように私の身体から剥がれ落ちていった。 けれど、奇妙なことに。 すべてを失っていくはずの私の心は、今、人生のどの瞬間よりも軽やかで、そして信じられないほどの幸福感に包まれていた。 目を閉じると、私の耳の奥に、懐かしいピアノの旋律が聴こえてくる。 それは、あの人がよく弾いていた、優しくて、どこか切ない即興曲のメロディ。 その音色は、私の心に残った最後のおりを、サァと洗い流していく。 心の中で、その旋律をそっと口ずさむ。 私は気づいたのだ。 手放すということは、空っぽになって消えていくことではない。 自分を縛り付けていたすべての鎧や、他人の目、未来への不安という「余計なもの」を削ぎ落とした先で、本当の自分に出会うことなのだと。 私の両手は、もう何も掴んでいない。何も持っていない。 だからこそ、その開いた両手のなかに、目に見えない大いなる愛が、温かい光となって絶え間なく流れ込んでくる。 まぶたの裏に、これまでの人生で出会った大切な人たちの笑顔が、走馬灯のように鮮やかに蘇る。 厳しくも温かかった両親の眼差し。 共に笑い、共に涙した友人たちの声。 傷つけ合いながらも、確かに愛し合ったあの人の手の温もり。 そして、私がこの世界に遺していく、愛しい子供たちの健やかな寝顔。 「ああ、私はこんなにも愛されていたんだ」 若い頃は、もっと愛されたい、もっと満たされたいと、いつも喉が渇いたように何かを求めていた。 でも、それは逆だったのだ。 私は最初から、あふれるほどの愛の中に生かされていた。 世界は最初から、私を包み込んでくれていた。 何かを失うことは、悲しいことではなかった。 ただ、元いた場所へ還るだけ。 何も持ずにこの世界に生まれ、たくさんの愛を味わい、傷つき、そして今、そのすべてを世界へと還していく。 その循環の美しさに、胸の奥がじんわりと、熱く震えた。 窓の外を見ると、いつの間にか太陽は沈み、深い藍色の夜空が広がっていた。 そして雲の切れ間から、洗いたてのような美しい、大きな満月が顔を出した。 月の光が病室の床に差し込み、私を優しく照らす。 その光は、まるで「お疲れ様」と私を祝福してくれているようだった。 心臓の鼓動が、少しずつ、その間隔を広げていくのが分かる。 それは、終わりの合図ではなく、新しい旅立ちの足音のようだった。 私の人生は、完璧ではなかったかもしれない。 たくさんの間違いを犯し、回り道をして、傷つくことも多かった。 けれど、そのすべてが愛おしい。 私という器は、出会ったすべての人、経験したすべての感情によって、最後の最後に、これ以上ないほどの幸せで満たされていく。 「ありがとう」 私は声にならない声で、世界に向けて小さく呟いた。 最後の息をそっと吐き出す。 それは、体の中に残っていた最後の執着を手放す瞬間だった。 身体は驚くほど軽くなり、私は風と同化した。 あの大切な人がまとっていたのと同じ、自由で、どこまでも軽やかな風。 私は開け放たれた窓から、夜空へと溶けていく。 満月の光に導かれながら、ただ、満ちてゆく。 最初から何も失っていなかった私を、大いなる愛が優しく抱きしめていた。 私の旅は、今、最高に幸せな気持ちのまま、静かに、優しく、 満ちてゆく。
『メランコリーキッチン』
まな板の上で、完熟したトマトが潰れるような音を立てて切れていく。 夕暮れ時のキッチンは、いつも薄暗いオレンジ色に染まっていた。 西日が換気扇の隙間から差し込み、宙を舞うわずかな埃をきらきらと輝かせている。 俺――刹那は、お気に入りの色褪せたエプロンの紐を結び直し、フライパンにオリーブオイルを引いた。 小気味よい音を立てて弾けるにんにくの香りが、狭い2DKのアパートに広がっていく。 「ただいま」 玄関のドアが静かに開く音がした。 足音だけでそれが誰か分かる。少しだけ右足を引きずるような、疲労の滲む歩き方。 同棲を始めて3年になる恋人、環(たまき)の足音だ。 環はリビングに入ってくると、背負っていたリュックをソファに投げ出し、そのままキッチンにやってきた。 そして、俺の背中にそっと額を預けてくる。 「今日も疲れた」 「お疲れ様。もうすぐご飯できるから、手を洗ってきなよ」 「うん……。今日のメニューは何?」 「トマトとナスのパスタ。環の好きなやつ」 環は「わあ」と小さく声を漏らしたが、その声にはいつものような張りがなかった。 最近の彼女は、いつもどこか遠くを見ているような、透明な寂しさを纏っている。 俺はそれを、きっと仕事のストレスのせいだろうと自分に言い聞かせていた。 けれど、本当は気づいていた。 俺たち二人の間に、いつの間にか音もなく積もり始めた、冷たい砂のような違和感に。 食卓に並んだ二つの皿。湯気とともに立ち上るトマトソースの香りは、間違いなく美味しいはずのものだった。 しかし、俺たちの間に流れる空気は重く、冷めていた。 「美味しい」 環はフォークでパスタを巻きながら、小さく微笑んだ。その笑顔は綺麗だったけれど、どこか作り物のようでもあった。 俺は自分の皿を見つめたまま、喉の奥が引き締まるような感覚を覚える。 「ねえ、環」 「ん?」 「最近、なんかあった?」 「何かって?」 「いや、なんでもないならいいんだけど。ちょっと元気がないように見えたから」 環はフォークを動かす手を止め、しばらくトマトソースに染まったナスをじっと見つめていた。 そして、ぽつりと言った。 「私、ときどき分からなくなるの」 「何が?」 「自分がどこに向かっているのか、とか。刹那と一緒にいることの意味、とか」 心臓がどくり、と嫌な跳ね方をした。 俺はそれを冗談に変えることもできず、ただ黙って彼女の言葉の続きを待った。 けれど、環はそれ以上何も言わず、また静かにパスタを食べ始めた。 かつて、この家のキッチンも俺たちが座ってるこの食卓も、もっと騒がしかった。 二人で並んで立ち、どちらが上手にオムレツをひっくり返せるか競争したり、味見と称して出来立ての料理を口に放り込み合ったりしていた。 あの頃の環は、まるで太陽のように笑う人だった。 彼女が笑うだけで、この狭くて古いキッチンが、世界で一番特別な場所に思えたものだ。 それなのに、今の彼女の瞳には、かつての輝きが残っていない。 まるで、すべての感情をどこかに置き忘れてきてしまったかのように。 『あなたのせいで、私はこんなに寂しい』 環が言葉にしないメッセージが、部屋の隅々に張り付いているような気がして、俺は息が苦しくなった。 もしも俺の何かが彼女を傷つけているのだとしたら、それを言ってほしかった。 怒鳴ってくれてもいい、泣いてくれてもいい。 ただ、この静かな拒絶だけは、どう対処していいのか分からなかった。 翌日の夜、俺はいつもより少し気合を入れてキッチンに立った。 環の好きなチーズをふんだんに使ったグラタン。ホワイトソースから丁寧に手作りした。 彼女が一口食べて、あの眩しい笑顔を取り戻してくれるなら、どんな手間だって惜しくなかった。 オーブンの中でチーズが黄金色に焦げていくのを眺めながら、俺は祈るような気持ちでいた。 しかし、時計の針が午後9時を回り、10時を過ぎても、玄関のドアが開く気配はなかった。 スマートフォンに通知が届く。 『ごめん、今日遅くなるから、ご飯先に食べてて』 短いテキスト。絵文字もスタンプもない。 俺はスマートフォンの画面を消し、オーブンのスイッチを切った。 部屋の中に充満する、甘く香ばしいホワイトソースの匂いが、急にひどく不快なものに思えてくる。 一人で食べるグラタンは、驚くほど味がしなかった。 ただ熱いだけの塊を胃に流し込んでいるような感覚だった。 夜中の1時。環が帰ってきた。 お酒の匂いはしなかった。ただ、酷く疲弊した顔をしていた。 「おかえり」 「……うん。起こしちゃった?」 「ううん、起きてた。グラタン、冷蔵庫に入ってるから。温める?」 「ありがとう。でも、お腹空いてないから、もう寝るね」 環は俺の顔を見ようともせず、寝室へ向かおうとした。 その横顔が通り過ぎる瞬間、俺の胸の中で、何かがぷつりと切れた。 「待ってよ、環」 声をかけると、環の肩がびくりと跳ねた。彼女はゆっくりと振り返る。 その目は、泣き腫らしたように少し赤かった。 「何が不満なんだよ」 口から出たのは、思っていたよりもずっと攻撃的な言葉だった。本当はそんなことを言いたいわけじゃなかったのに。 「ご飯を作って待ってる俺が悪いわけ? 何がそんなに気に入らないの? 言ってくれないと分からないよ!」 「……誰も悪いなんて言ってない」 環の声は、信じられないほど冷ややかだった。 「刹那はいつも優しいよ。美味しいご飯を作って、私の帰りを待っててくれる。本当に、完璧な恋人だと思う」 「じゃあ、なんで!」 「それが苦しいの!」 環が初めて、感情を爆発させるように声を荒げた。 「刹那がそうやって、何もかもを完璧にこなして、私のためにって笑っているのを見るのが、今の私には耐えられないの! 私が仕事でボロボロになって、何もかも嫌になって帰ってきても、この部屋はいつも綺麗で、美味しそうなご飯があって……。 自分がどれだけダメな人間か、突きつけられているみたいで、息ができないのよ!」 環の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。 俺は呆然と立ち尽くした。 彼女を喜ばせようと、彼女の帰る場所を守ろうと思ってやってきたことのすべてが、彼女を追い詰める凶器になっていたなんて、思いもしなかった。 「……私のこと、もう放っておいて。お願いだから」 環はそう言い残し、寝室に入ってドアを閉めた。カチャリ、と鍵の閉まる音が、静まり返った部屋に響いた。 キッチンに取り残された俺は、自分の両手を見つめた。 にんにくの匂いや、トマトの酸っぱい匂いが染み付いた、料理をするための手。この手で彼女を幸せにできると信じていた。 けれど、それは俺の独りよがりの傲慢だったのだろうか。 窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。 ガラス窓を叩く雨音が、俺の心に冷たく染み込んでいく。 翌朝、俺が目を覚ましたとき、環の姿はすでになかった。 クローゼットからは、彼女の服がいくつか消えていた。 書き置きが一つ、ダイニングテーブルの上に置かれていた。 『少し、頭を冷やします。勝手でごめんなさい』 それだけだった。 一人になったキッチンは、広すぎるように感じられた。 俺は仕事に行く気にもなれず、ソファに座り込んで、ただぼんやりと天井を眺めていた。 時折、冷蔵庫が「ブー」と低い音を立てて駆動する。 その音が、部屋の孤独をさらに際立たせた。 彼女がいなくなって初めて、俺は気づいた。 自分が作っていたのは、ただの「料理」ではなかった。 料理を通じて、彼女の心を繋ぎ止めようと必死になっていたのだ。 胃袋を掴めば、美味しいものを共有すれば、二人の関係は壊れないはずだと、安易に信じ込んでいた。 彼女の抱える本当の孤独や、仕事での挫折、そうした泥臭い部分に、俺はどれだけ踏み込んでいただろうか。 綺麗な料理で、彼女のドロドロした感情に蓋をしようとしていただけではないのか。 「……バカだな、俺は」 俺は立ち上がり、キッチンへ向かった。 冷蔵庫を開けると、昨夜食べ残したグラタンが、ラップに包まれて冷たくなっていた。 俺はそれをレンジで温めることもせず、スプーンで一口すくって口に入れた。 冷え切った脂とホワイトソースが、舌の上で不快に固まる。 ひどく不味かった。 でも、これが今の俺たちの味なのだと思った。 温かくて美味しい思い出ばかりじゃない。冷え切って、固まって、喉を通らないような夜だって、確かに二人の時間の一部だったのだ。 夕暮れ。 俺は包丁を握った。 何を作るでもない。ただ、冷蔵庫に残っている余り物の野菜を、ひたすら細かく刻み始めた。 タマネギ、人参、セロリ。 トントントントン、と規則正しい音がキッチンに響く。 タマネギの成分が目に染みて、涙が溢れてきた。 これはタマネギのせいだ。そう自分に言い訳しながら、俺は泣き続けた。 彼女が戻ってくるかどうかは分からない。 けれど、もしもう一度、彼女がこのドアを開けてくれるなら。 その時は、完璧な料理なんていらない。焦げて不格好なトーストでも、インスタントのスープでもいい。 ただ、彼女の隣に座って、彼女の不格好な話を聞こう。彼女のメランコリーを、一緒に半分ずつ、不味そうに食べ合おう。 夕暮れが終わり、キッチンに本当の暗闇が訪れる。 俺は電気をつけないまま、静かにスープを煮込み始めた。 パチパチと爆ぜる火の粉のような寂しさを抱えながら、ただ、彼女の帰りを待つために。
逢引き
首は、女を見ていた。 赤みのさした目元に色気が、漂う女であった。 首は、女の両掌に挟まれている。 月明かりに照らされて首は白々闇に浮かぶ。 波の音が、女と首の鼓膜を揺らしている。 砂浜に座した女の肌を浜風が、サヤサヤなぶってゆく。 両肩に垂れた髪が、揺れている。 生き物のようであった。 『ククク』 女の上半身が、小刻みに震えた。 唇の間から、声が漏れていた。 悦びの響きが、混じっている。 轟と風が、鳴った。 『ガッ』 首が、口を開き、歯を突き立てていた。 女の右手首である。 鮮やかな血が、滴り、白砂を染めた。 『クカカカカカ』 女の哄笑が、辺りに響いた。 『お前を漸く、喰ろうてやれる、待った甲斐があったわい』 女は、首を胸に引き寄せ、ゾロリと右眼を舐め上げた。
独白
「その人のこと好きなの?」 友人にそう言われた時、私はすぐ答えることができなかった。 よく知らないけど 「好き」ってもっと、 綺麗で、 純粋で、 脆くて、 宝物みたいなものだと思っていた。 私が今抱いている感情は何だ?自問自答する。「好き」だとか、「恋」なんてものに当てはめるには程遠くないか? 私の中に渦巻いてるのは、 自分勝手な気持ちと、 独占欲の塊だ。 こんな悍ましい感情が、「好き」に繋がるなんて到底思えない。 でも間違いなく、この人に出会えたからこそ生まれた感情で。それを無かったことにはできないぐらいの言葉にできない心地よさがあって。 だから。 「苦しいぐらい、好き。」 きっと多分これが私の気持ちで、変えようのない事実だ。
冬が好き
みなさん冬ってお好きでしょうか? 私は大好きでございます。 寒くても着込めばなんとかなるのと、黒くてテカテカしたあいつが出てこないのが大きくて…。 何よりあの冬の懐かしい〜ようなもの寂しい〜ような空気と雰囲気が好きでして…夜に悲しい曲を聴いてたらめっちゃ震えてくるような感じが大好きなんですね…。 冬みたいな物語を書いてみたいなあと日頃から思っております。 皆さんは冬お好きですか? あと初詣でどんだけ夜遅くても怒られないの最高!!!!!!!