寸志

25 件の小説
Profile picture

寸志

はじめまして

シャッター音

婚約なんて、俺には関係ない話だと思っていた。 親同士が決めたこと。 好きでもない人と結婚するなんて、少し面倒なくらいにしか思っていなかった。 相手は一つ年上。 初めて会った日、彼女は人懐っこい笑顔で俺を見た。 俺は軽く会釈をしただけ。 それが、俺たちの始まりだった。 「ねぇ、この海、すごく綺麗じゃない?」 ある日、彼女が旅行雑誌を持ってきた。 ページいっぱいに広がる青い海を指差して、嬉しそうに笑う。 「婚約する前に、一緒に行こうよ。」 俺は雑誌を一瞥して答えた。 「別に興味ない。」 「そっか。」 彼女は少しだけ寂しそうに笑って、雑誌を閉じた。 それでも数日後には、 「今度は灯台を見に行きたいな。」 「ひまわり畑って、一面黄色なんだって。」 「夜景も好きなんだよね。」 そう言って、何枚もの写真を見せてくれた。 そのたびに俺は、 「また今度。」 「時間があったら。」 そう言って、全部断った。 一緒に暮らしているうちに、少しずつ彼女の存在が当たり前になっていった。 朝、「おはよう」と笑う声。 帰れば「おかえり」と迎えてくれる人。 料理をしながら鼻歌を歌う姿。 何気ない毎日が、いつの間にか心地よくなっていた。 気づいた頃には、俺は彼女を目で追っていた。 婚約なんてどうでもいいと思っていたはずなのに。 気づけば、その日が待ち遠しくなっていた。 今度は俺から海へ誘おう。 そう決めていた婚約の前日。 朝起きると、家は静かだった。 テーブルの上には朝食もなく、玄関には彼女の靴もなかった。 荷物も、ほとんどなくなっていた。 それから何年経っただろう。 俺は結局、あの日の理由を知らない。 探そうとも思った。 でも、どこを探せばいいのかも分からなかった。 引っ越しの準備をしていたある日。 押し入れの奥から、あのカメラが出てきた。 現像されていた写真を一枚ずつめくる。 青い海。 白い灯台。 夕焼けに染まる砂浜。 ひまわり畑。 どれも、あの頃彼女が「一緒に行きたい」と話していた景色だった。 写真の裏には、小さな字で書かれていた。 『いつか、一緒に見たかったね。』 その一言が、何年も経った今になって胸に刺さる。 あの時、「行こう」と答えていたら。 何か変わっていたのだろうか。 俺はカメラを持って、海へ向かった。 写真と同じように、どこまでも青い海が広がっている。 波の音だけが静かに響いていた。 君が見せたかった景色は、本当に綺麗だった。 もっと早く来ればよかった。 君と一緒に見ればよかった。 そう思っても、もう遅い。 風が静かに吹き抜ける。 その瞬間、不思議と隣に誰かが立ったような気がした。 「ほら、綺麗でしょ?」 あの日と変わらない笑顔で笑う君が、そこにいる気がした。 思わず隣を見る。 もちろん、誰もいない。 それでも俺は、小さく笑った。 「ああ。本当に綺麗だ。」 カメラを構え、静かにシャッターを切る。 写真には海しか写っていなかった。 それでも俺にはあの日、隣で笑っていた君が今も変わらず隣にいるような気がした。

2
0

電車

仕事帰りに久しぶりに電車に乗った。そういえば、学生時代も友人とよく電車に乗っていたが、よく覚えていない。 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。 あの時間は、たしかに特別だったということだ。 一緒に電車に乗ったこと。 一緒に学校をサボったこと。 放課後、コンビニでアイスを買って、くだらない話をしながら歩いたこと。 あの頃の俺たちは、今思えばずいぶん軽かった。 理由もなく笑って、理由もなく遠回りをして、理由もなく一緒にいた。 それがずっと続くような気がしていた。 彼女が転校すると聞いたのは、何気ない放課後だった。 「引っ越すことになったんだ」 そう言った声は、驚くほど普通だった。 俺は冗談だと思った。 でも彼女は笑わなかった。 最後の日も、いつも通りだった。 電車に乗って、窓際に並んで座って、いつものように同じ時間を過ごした。 一緒に乗った電車での彼女の横顔が、彼女を最後に見た瞬間だったかもしれない。 窓の外を見ていたその横顔は、やけに静かで、やけに遠かった。 呼び止めることもできないまま、ただその横顔を見ていた。 駅に着いて、彼女は立ち上がる。 「じゃあね」 それだけだった。 俺は何も言えなかった。 言葉はあったはずなのに、喉の奥で全部つかえて出てこなかった。 彼女は、そのまま人の流れに紛れていった。 それから、彼女はいなくなった。 連絡先も、声も、記憶の中の輪郭も、少しずつ薄れていった。 それでも、不思議と残っているものがある。 夕焼けの色。 電車の揺れ。 あれは初恋だったのだろうか。 それともただの、少し長い寄り道だったのだろうか。 今でも分からない。 電車がホームに滑り込む。 俺は窓に映る自分を見て、小さく息を吐いた。 「懐かしいな」 誰に言うでもなく呟いて、俺は扉が開くのを待った。

1
0

視線の先

好きな人のことは、気づけば目で追ってしまう。 教室でも、廊下でも、校庭でも。 私はいつも、自然と彼を見ていた。 だから、気づいていた。 彼が時々、誰かを探すように視線を動かしていることも。 でも、その視線の先にいる人が誰なのかは知らなかった。 知りたいような、知りたくないような。 そんな気持ちのまま、私はずっと彼を見ていた。 体育祭の日。 私は競技よりも、つい彼を探してしまう。 クラスの輪の中で笑っていたり、友達と話していたり。 そんな姿を見つけるたびに、少しだけ嬉しくなった。 「また見てるじゃん」 友達にそう言われて、慌てて視線を逸らす。 「見てないし」 そう答えたけれど、もちろん嘘だった。 その日、私はあることに気づいた。 彼も、誰かを見ている。 競技の合間。 昼休み。 クラス写真を撮る時。 ふとした瞬間に、彼の視線は同じ方向へ向いていた。 その先にいたのは、同じクラスの男子。 仲がいいんだな。 最初はそう思った。 でも、どこか違和感があった。 あの子が競技で活躍すると、彼は誰よりも嬉しそうだった。 あの子が友達に囲まれて笑っている時も、自然と目で追っていた。 私はずっと彼を見てきた。だから分かってしまうのだ。 あの視線は、ただの友達を見る目じゃない。 でも、そんな考えをすぐに打ち消した。 考えすぎだ、と。 それから数か月が過ぎた。 私は相変わらず彼が好きだった。 話すたびに嬉しくなって。 目が合うだけで少し期待して。 そんな毎日を繰り返していた。 ある日の放課後。 家に帰ってから、教室にノートを忘れたことに気づいた。 取りに戻ると、校舎はほとんど無人だった。 静かな廊下を歩いていると、聞き覚えのある声がした。 彼だった。 何気なく足を止める。 「ずっと言えなかったんだけどさ」 その声に、胸が高鳴った。 誰かに告白するんだ。 そう思った瞬間、心のどこかで覚悟した。 「俺、お前のことが好きなんだ」 廊下の角からそっと覗く。 その言葉の先にいたのは、 あの子だった。 頭が真っ白になった。 失恋した。 たぶん、そういうことなんだろう。 でも、不思議だった。 苦しいはずなのに。 泣きたいはずなのに。 胸に残ったのは、 「何も知らなかった」 という気持ちだった。 体育祭の日。 彼が誰かを目で追っていたこと。 あの子が活躍した時、誰よりも嬉しそうだったこと。 今なら全部分かる。 私はずっと彼を見ていた。 だから、彼のことなら何でも知っている気でいた。 でも違った。 本当に大切なことを、 私は何一つ知らなかった。 その時、ふと顔を上げる。 彼が、笑っていた。 私には向けられたことのない、 幸せそうな顔だった。 胸が少し痛んだ。 それでも。 その顔を見てしまったら、 嫌だなんて言えなかった。 私は静かに踵を返す。 窓の外では、夕日が校庭をオレンジ色に染めていた。 「好きだったな、」 誰にも聞こえない声でそう呟く。 君を見ていた時間は、 きっと無駄なんかじゃなかった。 たとえ、その視線の先にいたのが 私じゃなかったとしても。

4
0

プレイリスト

赤信号で車を止める。 仕事帰りの夜だった。 なんとなく流していたプレイリストから、懐かしいイントロが聞こえてくる。 息をのんだ。 聞き間違えるはずがない。 あの子が好きだった曲だ。 思わず助手席に目を向けるが、もちろん誰もいない。 分かっている。 それでも一瞬だけ、そこにあの子が座っている気がした。 窓に頬杖をついて外を眺めながら、退屈そうにリズムを取っている。 そんな姿が見えた気がして、私は小さく目を伏せた。 高校生の頃。 私たちは毎朝同じバスに乗っていた。 私は決まって窓側の席に座り、イヤホンで音楽を聴く。 数分後、停留所でバスが止まる。 乗り込んできたあの子は、私を見つけると当たり前のように隣へ座った。 「おはよ」 「おはよ」 短い挨拶を交わすと、あの子は私のイヤホンの片方を取って自分の耳につけ、勝手に曲を変える。 許可なんて聞かない。 私も何も言わない。 それがいつものことだったから。 「あ、またこの曲聴いてる。」 「好きなんだもん。」 私はその曲が特別好きだったわけじゃない。 それなのに、毎朝聞かされるものだから、いつの間にか歌詞まで覚えてしまった。 バスが揺れる。 朝日が窓から差し込む。 くだらない話をして、笑って、学校へ向かう。 あの頃は、それがずっと続くものだと思っていた。 曲がサビに入る。 私は現実に引き戻されるように前を見た。 フロントガラスの向こうで、信号が青に変わっていた。 車はゆっくりと走り出す。 スピーカーから流れる歌声は、あの頃と何も変わらない。 変わったのは私たちだけだ。 もう何年も前から、隣にあの子が座ることはない。 それなのに時々思ってしまう。 次の停留所で止まったら、 あの子が乗ってきて、 「好きなんだもん」 なんて言いながら、勝手に曲を変えるんじゃないかと。 そんなはずないのに。 曲が終わる。 車内に静寂が落ちた。 私はハンドルを握り直す。 それでも次の曲を再生することはできなかった。 あの子のいない助手席が、少しだけ寂しかった。

6
0

交換日記

大学生になった私は一人暮らしを始めることにした。 実家の片付けをしていると、押し入れの奥から一冊の交換日記を見つけた。 表紙の角は擦り切れ、丸い文字で私たちの名前が書かれている。 中学二年生の頃。 親友だったあの子と毎日交換していた日記だ。 ページをめくるたび、忘れていた時間が戻ってくる。 他愛ない話ばかりだった。 好きなアイドルのこと。 テストの愚痴。 放課後に食べたアイスのこと。 けれど、読み返しているうちに気づく。 日記の中の私は、いつもあの子の話ばかりしていた。 そして、あの子も。 最後のページまで来たとき、手が止まった。 卒業式の前日に書かれた文字。 「言いたいことがある。」 「でも、今はまだ秘密。」 その下は空白だった。 返事を書く前に、交換日記は終わってしまった。 それから間もなくして、あの子はいなくなった。 伝えられなかった言葉も、聞けなかった答えも、そのまま残して。 私は机の引き出しからペンを取り出した。 何年も空いた最後のページに、ゆっくりと文字を書く。 「私も言いたいことがあったよ。」 書き終えて、そっとページを閉じる。 返事が届くことはない。 もう会うこともできない。 それでも、不思議と涙は出なかった。 窓から差し込む夕日が、日記の表紙を照らしている。 あれは友情だったのか。 恋だったのか。 今となっては分からない。 ただ一つ分かるのは、 あの時間が、私の宝物だったということだけだった。

5
0

左手

あの頃のことは、まだ昔と呼ぶには近すぎるはずなのに、どうしてこんなにも遠く感じるんだろう。 成人式のあとに開かれた同窓会。 久しぶりに集まった顔ぶれは、少し大人びていて、でも笑い方はあの頃のままだった。 懐かしさと居心地の悪さが混ざる中で、なんとなく視線を泳がせる。 その時、不意に止まった。 「久しぶり」 振り返ると、彼女がいた。 中学の頃と変わらない笑顔。少しだけ大人っぽくなっただけで、あの頃の彼女だった。 「変わらないね」 そう言うと、彼女は照れたように笑う。 「そっちこそ」 たったそれだけの会話なのに、心臓の音がやけにうるさい。 中学の頃、何度も目で追ってしまったあの人が、また目の前にいる。 少しして、二人きりで話す時間ができた。 周りの声が遠くなって、妙に静かになる。 「ねえ」 彼女が、少しだけ真面目な声で言った。 「中学の時さ、実は好きだったんだよね」 時間が止まった気がした。 「……え?」 「ほんとだよ、言えなかったけど」 軽く言うけど、その言葉はまっすぐ胸に落ちてくる。 あの頃、隣の席で笑ったこと。何気ない会話が嬉しかったこと。目が合うだけで、どうしていいか分からなかったこと。 ——もしかして、って思ったことはあった。 でも、確かめることなんてできなかった。 「俺も…」 言いかけて、ふと視線が下がる。 彼女の左手に光る指輪。 「あ、これ?」 気づいた彼女が、少し笑う。 「去年、結婚してさ」 一瞬、言葉が出なかった。 「……そっか」 やっとそれだけ言って、少し間を置く。 「結婚、早いね」 なるべく軽く言ったつもりだった。 すると彼女は、少しだけ困ったように笑う。 「そうかな。でも、タイミングだったのかも」 タイミング。 その一言が、やけに引っかかる。 恋はタイミングだって、よく言う。 たしかにそうなのかもしれない。 でも あの時の俺たちに足りなかったのは、 タイミングなんかじゃない。 ほんの少しの、勇気だった。 壊れるのが怖くて、確かめることもできなかった。 何も言わないまま、時間だけが過ぎていった。 「でもね」 彼女が、少しだけ柔らかい声で続ける。 「今でも思うんだよね」 「え?」 「もしあの時、言えてたら、何か変わってたのかなって」 その言葉に、胸が締めつけられる。 答えなんて、きっとどこにもない。 「……どうだろうな」 うまく笑えたかは分からない。 会場のざわめきが戻ってくる。誰かが彼女の名前を呼ぶ。 「行かなきゃ」 立ち上がる彼女の姿は、あの頃と何も変わらないのに、もう手の届かない場所にいる。 「またね」 軽く手を振る。 その手の指輪が、やけに目に残った。 帰り道、夜風が少し冷たい。 タイミングが悪かったんじゃない。 ただ、あの瞬間を—— 自分が、掴めなかっただけだ。 そう思うと、少し苦くて、でもどこか納得している自分がいる。 あの頃言えなかった気持ちも、 今こうして残っている後悔も、 きっと消えることはないだろう。

4
0

あの時、あの人のペン

部室のドアを開けた瞬間、少しだけ戸惑った。 中はもう、俺の知っている場所じゃなかった。 隅には段ボールが積まれていて、使われていない机や椅子が無造作に置かれている。 いつの間にか、ここは物置き場になっていたらしい。 去年まで、あんなに人がいたのに。 笑い声も、話し声も、全部ここにあったはずなのに。 「……そっか」 小さく呟いて、中に入る。 足元で、何かが軽く音を立てた。 視線を落とすと、見覚えのあるペンが転がっている。 その瞬間、思い出した。 去年の4月。 部活の見学で、この部室に来たのが最初だった。 ドアを開けたとき、 「どうぞ」と声をかけてくれたのが、先輩だった。 特別なことは何もなかった。 ただ、それだけ。 それだけなのに、やけに印象に残った。 結局、そのままこの部活に入った。 理由なんて、自分でも分かってた。 先輩は、優しい人だった。 誰に対しても同じ距離で、同じ笑い方をする。 だからこそ、勘違いしそうになる。 「これ手伝ってくれる?」 そう言われるたびに、少しだけ嬉しくて。 少しだけ、期待してしまう。 自分だけじゃないって、分かっているのに。 夏が来て、秋が来て。 一緒にいる時間は、思っていたよりずっと多かった。 でもその分だけ、 “あと一歩”が埋まらないことも、よく分かってしまった。 先輩の隣には、いつも同じ人がいた。 同級生で、同じ部活で。 自然に笑い合ってる、その距離。 たった一年。 それだけのはずなのに、どうしても越えられない距離に思えた。 入れる隙なんて、最初からなかった。 「付き合ってるらしいよ」 誰かのその一言で、全部がはっきりした。 やっぱりな、って思った。 分かってたはずなのに、 胸はちゃんと痛かった。 それでも、離れようとは思えなかった。 近くにいられるだけで、よかったから。 冬が来て、卒業の時期が近づく。 「おつかれさま」 「また明日」 そんな何でもないやり取りも、 少しずつ減っていった。 最後の日。 何か言わなきゃって思った。 でも、何も言えなかった。 「じゃあね」 いつもと同じように、先輩は軽く手を振る。 「……はい」 それだけしか返せなかった。 手の中のペンを、そっと見つめる。 結局、最後まで言えなかった。 言う理由も、タイミングも、何度もあったはずなのに。 でも、あと一歩踏み出したら、 今までの全部が壊れそうで。 それが怖くて、動けなかった。 ペンを、元あった場所に戻す。 それで全部終わりみたいに。 部室を出ると、外の空気は少しだけあたたかかった。 春は、また来る。 でも、あの人と過ごした春は、 もう二度と戻らない。 あと一歩のまま、 結局、何も変わらなかった。 それでも。 あの頃、もし言えていたら。 何か、変わっていたのかな。 あの距離が、 一番近かった気がしてしまうのが、 少しだけ悔しかった。

2
2

天井の星

 結婚式の帰り道、ヒールの音がやけに響いた。  「来てくれてありがとう」  そう言って笑ったあなたは、昔と同じ目をしていた。  でも、その隣には私じゃない誰かが立っていた。  ちゃんと笑えたと思う。  拍手も、祝福の言葉も、全部ちゃんと。  それなのに、電車の窓に映る自分の顔は少しだけ疲れて見えた。  そのまま実家に帰ったのは、ただ静かな場所に行きたかったからだ。  久しぶりの自分の部屋。  ベッドに腰を下ろして、何気なく天井を見上げる。  小さな星型のシール。  眠れない夜に、二人で背伸びして貼った星。 「これで寂しくないね」  あのとき、どうしてあんなに嬉しかったのだろう。  指先で、一番近くの星の端をめくる。  ぺり、と小さな音。  ああ、と胸の奥で何かがほどけた。  あれは友情なんかじゃなかった。  あなたが他の子と話すたびにざわついたのも、  隣にいるだけで安心したのも、  名前をつけるのが怖かっただけだ。  星をひとつ、またひとつ剥がしていく。  天井は少しずつ白く戻っていく。  最後の一枚を手のひらに乗せて、そっと笑った。 「おめでとう」  今なら、心から言える気がする。  白い天井を見上げながら、  私は静かに目を閉じた。

8
0

窓の向こう

教室には、夕方の光だけが残っていた。 窓から差し込むオレンジ色が、机の上に長い影を落としている。 「……ごめん」 幼なじみは、目を伏せたままそう言った。 その一言で、全部わかった気がした。 私は少しだけ息を吸って、笑った。 ちゃんと、いつもの私でいるために。 「……行ってきなよ」 そう言ってから、少し間を置く。 「あの子、ずっと待ってるから」 幼なじみは驚いたように私を見て、 それから、何か言いかけてやめた。 最後に小さく頷いて、教室を出ていく。 扉が閉まった瞬間、 胸の奥が、音を立てて崩れた。 幼なじみのことを好きになったのは、 たぶん、ずっと前だ。 隣にいるのが当たり前すぎて、 失う想像なんて、したこともなかった。 だから私は、 その気持ちを友達に相談していた。 何気ない会話の中で増えていった違和感。 友達が話す、あの人のこと。 あの人が向ける、友達への視線。 気づいた時には、 もう、遅かった。 私は窓のそばに立って、校庭を見下ろす。 放課後の校庭に、友達がひとりで立っていた。 何もしていないのに、 ずっと待っているみたいな背中。 走る足音が聞こえる。 幼なじみが、校庭へ向かっていく。 三階の教室から、 私はその背中を見送った。 私の方が好きだったのに。 私の方が、あの人のことをよく知ってるのに。 私の方が——。 言葉にならなかった想いが、 胸の奥で、静かに溢れていく。 私は泣いた。 声を殺して、 誰にも気づかれないように。 校庭では、二人が並んで立っていた。 その距離が、もう戻らないものだとわかってしまう。 ……背中、押しちゃったよ。 窓を閉めると、校庭の声が遠ざかる。 教室には、夕焼けだけが残っていた。

6
0

クリスマスローズ

彼女の庭に、クリスマスローズが咲いていた。 冬の終わり、うつむくように。 幼なじみの彼女はいつも僕の隣にいた。 それが当たり前で口にしなくてもいいと思っていた。 彼女に婚約者ができたという報告を聞いたのはそれを知った朝だった。 花言葉は一つだけ。 「私を忘れないで」 伝える理由は、もうどこにもない。 そう思ったはずなのに、 気づかぬうちに、僕は彼女のもとへ走っていた。

1
0
クリスマスローズ