絵空こそら
76 件の小説海鳴り
曇天が海を覆っていた。海育ちでない僕でもわかる。もうすぐ嵐が来るのだ。 でも僕は砂浜に座り込んだまま動けなかった。「かあさん」を置いていくわけにはいかない。僕はかあさんを抱きかかえたまま、荒れる波をぼんやり見つめていた。 「何してんの?」 空模様に似つかわしくない声が上から降ってきて、僕はゆっくり空を仰いだ。背の高い男が覗き込み、僕の顔に影を落とした。僕が何も言わないでいると、彼はかあさんに気づいたようで、 「それ、宝物かなんかか?」 ときいた。 そのことに僕はびっくりしたが、やはり黙っていた。 男は不思議そうな顔で僕を見下ろした。雨が降ってきて、彼の影に入っていない場所が湿っていく。僕と目を合わせたまま、彼は少し笑った。 「いい場所知ってる。濡れると嫌だろ」 彼は顔を上げると、背を向けて歩いていく。僕はおもむろに立ち上がって、グレーから黒に変色し始めた砂浜を歩き出した。 男の後をついていくと、鬱蒼とした森の中に入った。草の背が高く、雨に濡れた土の匂いが鼻をつく。簡素なサンダルと足の間に水分の増した泥が流れていった。 少し視界の開けた場所に、山小屋風のテントがあった。 「今は使ってないから」 男が入り口にかけてあった布を捲ると、中は薄暗く、汚れたフリスビーや座布団、トランプが散らばっていた。 僕はその小屋の中にかあさんをそっと押し込めた。「また来るからね」と胸の内で呟く。 その様子を男は黙って見ていた。 雨はずいぶん強くなり、ざばざばという音が耳の近くに聞こえる。雨粒に叩かれるたび、背の高い草がその身を跳ねさせた。男はひとつくしゃみをした。 「風邪ひきそう。そろそろ行こうぜ」 彼はそう言い、踵を返す。僕は小屋の入り口に、すでに濡れそぼった布をかけると、その場所を後にした。 男を再び目にしたのは、学校の屋上だった。 次の日は打って変わったような快晴で、男は青空のもと、つまらなさそうにパンを齧っていた。僕は教室から理科室へ移動するところで、廊下の窓からその姿を発見した。 昨日の印象からすると、和気あいあいと食卓を囲む仲間がいそうな気がしたので、孤独に飯を食っていることに違和感があった。 「夜振」 クラスメイトが僕を呼ぶ。転校してきてから、何かと世話を焼いてくれている奴だ。 「何見てんの?ってああ、あの人」 彼は少し蔑むような目をした。 「あんま関わらんほうがいいぜ」 放課後森へ赴くと、昨日とは違う、土が蒸されたような匂いが充満していた。生乾きの布を上げると、かあさんは濡れずにちゃんとそこにいた。眩しい陽光が彼女のフリルに降り注いでいる。 僕は習慣で声をかける。 「ただいま」 かあさんは、トルソーだ。デザイナー志望だった母が家を空けがちだったので、いつも作り終わった衣装をかけておく顔も腕も足もない人形に、かあさんと名前を付けた。母はシングルマザーだった。デザイナーの夢を諦めて、必死に家計をやりくりしていた。疲れて寝ているのを起こすのは、こどもながらに気が引けたので、僕はかあさんにばかり話しかけていた。だから母と話した記憶があまりない。 ある時、母は家に帰らなくなった。僕はかあさんの華美な裾を握って数日を待った。親戚から電話がかかってきて、母が帰ってこないことを話すと、知らない大人が家を訪ねてきた。 今は遠い親戚の家にいる。彼らは優しい。膜を張ったような距離感で、腫物に触るように僕に接する。衣食住を保証してもらっている彼らには、感謝している。だから、迷惑をかけたくはない。ほとんど荷物のない僕が唯一連れていた胴体だけの人形を、気味悪がっても無理はない。それを勝手に捨てられても、僕は彼らを憎めない。 帰り道であの男を見かけた。昨日よりも少し遠い砂浜に腰かけて、ぼーっと海を見ている。僕は近づいていき、その後ろに立った。砂を踏む音に気付いた男は振り返ると、笑顔を浮かべた。 「なんで、宝物だと思ったの」 そう聞いていた。 男は「えっ」と言って首を捻ると、 「大事そうにしてたから?」 と言いさらに首を傾けた。 「こわく」 「ん?」 「こわくなかった?」 「なんで」 「首のない人形を抱えてる人間がいたらふつう近寄らない」 男はじっと僕の目を見て、噴き出した。 「言い方によるよな。確かにそう聞くと怖いけど、昨日のお前は怖いってより、途方に暮れてる感じだったよ」 男は朗らかだ。ますます僕はわからなくなる。なぜこの男は学校でいつも一人なのだろうと、窓から見える彼の背中を眺めつつ思う。 海で会うと、世間話をする。今日は波があれだとか、濡れてない場所に座ったと思ったのに気づいたらズボンが濡れていたとか、今日の夜は蒸しそうだとか、そんなことばかりだ。男は僕に干渉しようとしない。名前さえも言わない。ならばなぜあの時声をかけたんだと僕も聞かないからわからない。何もきかないでいると男は漠然とした時間を堪えるみたいに波に目をやる。僕の足元ではただ、砂が鳴る。 「また見てんのかよ」 学級委員の西岡が呆れた声を出す。 「あの人に興味があんの?やめとけって」 「なんで」 西岡は声を潜めて、困ったように、でも少し優越感の滲んだ声で言う。 「“これ”だから」 彼は掌を反らして、頬の傍に近づけるポーズをした。 「去年問題起こしたらしいよ。相手は転校したっぽい」 西岡の唇に張り付いた笑いを見ながら、僕はふと思い出したように聞いていた。 「……雨の日にさ」 「ん?」 「雨の日に、首のない人形もった人が帰り道の浜辺に座ってたら、お前、どうする」 彼はその場面を想像して鳥肌が立ったのか、自分の肩をさすった。 「ばっかお前、いきなり怖え話すんなよ。おれホラー苦手なんだよ」 「その人が僕だったら、どうする」 「は」 西岡の表情が引き攣る。僕はすこし笑った。 「冗談だよ」 暗い雲が空を覆っている。荒れた天気になるとわかっていながら、海に足を向ける。途中で雨が降ってきて、制服のシャツに点々としみをつくった。 男はやはり砂浜に座っていた。黒々と渦を巻く波が、彼の足元に迫っている。ぼたぼたと雨粒が、砂に深い色の穴をあけている。 雨の音で気づかなかったのか、彼は僕が後ろに立った気配でようやく振り向いた。 「よく会うな」 僕は黙って彼を見下ろした。 「風邪ひくぞ。帰れよ」 彼は強い口調で言うが、表情は穏やかだった。彼の顔を雨が伝っていく。 男の隣に腰を下ろすと、彼はすこし驚いたようだった。 「僕はあんたの名前もしらない」 僕は呟いた。 「知りたいって言ったら、怖い」 「別に怖くはないけど」 男は曖昧に笑う。 「じゃあ好きっていったら」 彼の表情が温度をなくす。 「からかってるのか」 「僕はあなたのことが知りたい」 僕は彼の強い瞳から目を逸らさないよう、踏ん張った。波の飛沫が顔にかかる。雨とは違う細かい粒子。 彼は僕の目をじっと見ていたが、やがて諦めたように顔を逸らした。短い髪の間から、雨が顔を流れていく。 「ここは都会とは違うから、俺みたいなのに構うやつはつまはじきにされるぞ。お前こそ怖くないのか」 「言い方の問題だ」 彼は視線を戻した。睫毛の先で雨粒が揺れている。 「あなたといられるなら、怖くないよ」 僕は手を伸ばした。手の甲の上で、雨粒が跳ねる。彼の肩にそっと腕を回すと、濡れたシャツの奥から温度が伝わった。汗と雨と、海の混じった匂いがする。彼の微かに震える手が、僕の背中に触れた。 ごうごうと海鳴りが、浜に響いている。
eighth
「満月の次の日はお休みなんです」 ベランダ越しに、三角錐のカクテルグラスを載せたオクトさんの手が見える。月光を透かした琥珀色のアメールピコンと、氷が、くるくると渦を巻いては、掌に不思議な模様を躍らせた。 「変わった規則でしょう?」 グリーンカーテンの間から身を乗り出して、彼女が顔を覗かせた。 「実は、うちの社長が狼男なんです」 鳶色の癖毛がふわりと風に揺れる。同じ色の瞳が、黒縁眼鏡の奥で悪戯っぽく細められた。 「狼男?」 「そう。普段は堅物ですけど、満月の日だけ羽目を外すんですって。それで、定時退社、翌日休み。おまけに気風もよくなって、こうしてお酒もくれたりするんですよ」 「羽目を外すって……一体何をするんです?」 「さあ?野原を駆けまわって、遠吠えをするとか?わかりません。プライベートには干渉しない社風ですから」 グラスが傾けられて、三角錐の琥珀色が形を変え、彼女の口の中に吸い込まれていく。 「他にはどんな人が働いているんですか?」 「色々です。雪女とか、人魚とか、屏風覗きとか」 楽しそうに彼女は言う。どこまでが本当なのか、そもそもまったくの出鱈目なのかはわからない。彼女の話は、いつもどこか曖昧だ。 「それなら、オクトさんは?」 オクトさんはグラスの中身をぐっと飲み干すと、大きく息をしてこちらを見た。上気した顔が、月明かりに照らされて、ゆるりと解けた。 「当ててみてください」 オクトさんは半年前、隣の部屋に引っ越してきた。 挨拶には来なかったから、出勤時やごみを捨てに行くときなどにたまたま見かけて、外国から来た人なんだな、と思う程度だった。(後から知った話だが、彼女の出身は赤道近くにある島なのだそうだ) 満月の夜、僕にはなんとなく空を眺める癖がある。ベランダに出て、夜風を受けながらぼうっと月を眺める。スマートフォンやパソコン、ブルーライトから一時目を避難させる。すると、心に少し余裕ができる気がするのだ。たそがれていると茶化されるのが嫌だから、誰にも言ったことはないけど。 そこへ、 「いい天気ですね」 と声がしたのだった。 隣のベランダに続くパーテーションの隙間から、グラスを持った手がひょっこり覗いた。やはりその日も、アメールピコンが琥珀色に揺れていた。 グリーンカーテンの向こうで、オクトさんはにこにこと笑っていた。 「夜なのに、ですか」 彼女は不思議そうな顔をした。 「夜にお天気の話をしてはいけない?」 驚くほど流暢な日本語だった。 僕は空に視線を戻した。煌々としたまん丸の月以外は真っ暗で、星も雲も何も見えなかった。 「確かに、いい夜です」 「そうでしょう」 彼女は笑ってグラスを傾けた。 しばし、沈黙。風の音と遠くのクラクションだけが聞こえた。 「それ、切らないんですか?」 僕は隣家のグリーンカーテンを指さした。 そのグリーンカーテンの正体はゴーヤだ。もう既に引っ越した下の階の住人が残していったもので、一階の地面から、僕らの住まう三階のベランダまで好き勝手伸びている。二階の住人はいないし、四階はないし、僕のベランダは難を逃れているし、管理人は知らんぷりを決め込んでいる。だから、お隣さんが気にならなければ、それでいいのだが。 お隣さんは、 「切りませんよう」 と言った。 「ちょうど庇が欲しかったんです。それに、」 彼女はグラスを傾けた。 「麻酔もなしに切られるのは、可哀想だわ」 「メデューサ」 と、僕が言うと、オクトさんはグラスを傾けたまま、ぱちぱちと瞬きをした。 「その心は?」 「オクトさんと目が合うと、動けなくなる感じがする」 「なんですか、それ。告白ですか」 そうだ。告白だ。などと言えるはずもなく、僕は口ごもった。 オクトさんは口元に笑みを浮かべて、目を閉じた。 「近いものはあります」 「何かヒントは?」 鳶色の瞳が細められる。 「姉が七人います」 ある日、ベランダに出ると、琥珀色に輝く液体が、瓶の口から、下に流れ落ちていくところだった。 「何してるんですか」 慌ててパーテーションの向こうを覗いた。 オクトさんは両手にアメールピコンの瓶を持ち、階下に酒を撒いていた。取り乱した様子はなく、落ち着いた、ゆっくりした動作で、口元に笑みを浮かべている。 「やはり切ろうと思うんです。その為の餞別です」 グリーンカーテンのことを言っているのだろう。しかし、高価な酒を地面に撒くなんて。 「勿体ない」 「そうかしら?邪魔者を成敗するためには、必要な経費だわ」 「酔ってるんですか?」 「ええ。斬られても平気なように」 「誰も斬りませんよ」 「本当に?」 「だって、斬る必要がない」 「当然です。その為に、足を洗ったんですから。ふふ、もともと、足なんてありませんでしたけど」 空になった瓶から、琥珀色の水滴がぽたりぽたりと垂れる。 「須佐さん、」 と、彼女は僕の名前を呼んだ。 「夢見心地で死ぬのは素敵でしたよ」 むかしむかし。ある村に八人の娘がいて、毎年一人ずつ、八つ頭の大蛇に食われていった。 最後の一人が食われる年に、とある青年がやって来て、八つの酒樽を用意させた。八つ頭の蛇はそれぞれの酒樽に頭を突っ込んで酒を飲んだ。青年は酔っぱらった八つの首を斬り落として大蛇を退治し、元来食われる予定だった娘と結ばれた。めでたしめでたし。 「仕返しするつもりなんてないわ。姉たちとさんざん、好き勝手、悪いことをしましたからね。その代わり後悔もしません。姉たちが食べていたご馳走を、私だけ食いっぱぐれてしまったけど、そんなこと気にならないくらい、あのお酒はおいしかったわ」 夜風に鳶色の髪が揺れている。月光に濡れたような瞳は微笑んでいる。瞳の色はその昔、赤色だった。 彼女はもう一本の瓶から、室外機の上に置いてあるグラスに酒を注いだ。そしてそれを僕に差し出す。 僕は盃を受け取った。三角錐の中の琥珀色が揺れる。 「僕が酔い潰れた後、仕返しをするつもりですか?」 「そんなことしないわ」 「どうでしょう。蛇は執念深いから」 「偏見です。それに、どうして未来のことなんて考えるんです?今日のお酒が美味しければ、明日死んでも、何も憂うことなんかないわ」 「まったく、懲りてないんだから」 「ええ、その通り。でもそれでいいんです」 彼女は自分のグラスにアメールピコンを注ぎ、高く持ち上げた。 「好い夜に」 「好き隣人に」 僕もグラスを掲げ、彼女のグラスと縁を合わせた。満月を透かした琥珀色の模様が、きらきらと揺れている。
龍を放す
窓の外に閃光が走った。 一拍遅れて凄まじい雷鳴が響き、重く垂れこめた雲からざばざばと大粒の雨が降ってくる。 歴史教師の延々読経を聞かされるような授業にうんざりしていたクラスメイトたちはこの気候変動をたいそう喜び、俄かに沸き立った。単調な教師の声、雨音に調子を得たクラスメイトの私語、雨音、雷鳴。僕はびかりびかり閃く稲妻を見るとはなしに見ながら、姉と鴇のことを思い出していた。 僕が14の時、姉は落雷により呆気なく他界した。バックトゥザフューチャーで主人公とデロリアンを未来へ無事帰らしめた1.21ジゴワットの電流は、一瞬にして姉を天国へ連れ去った。雷が人体に当たる確率はおよそ百万分の一だという。海外のすごい稲妻写真集が愛読書で、フランクリンを模した実験に日々勤しんでいた僕ではなく、天気のことそっちのけで恋に部活に青春を謳歌していた姉がなぜ見事当選してしまったのかはわからない。 鴇とは、通夜の後話した記憶がない。何せ、鴇と僕の会話は雷が合図だった。小学生の頃、彼は稲妻という気象の愛好家である僕を多分に面白がり、雷が鳴るとすっ飛んできて、「碧井、かみなりだぞ!」とただ言いに来るだけの遊びをしていた。ひどい時は授業中に雷が鳴り、二つ隣のクラスから僕の教室に走って来ては担任教師に抓み出されていた。 暗い空を稲妻が龍のように駆けていく。美しい龍。姉の命を奪った龍だ。小さい頃の愚かな僕は、あれを捕まえたくて必死だった。ふたつ隣のクラスの鴇も見ているだろうか。彼は二度と授業を抜け出して報告に来ることはないのだろう。もうそんな遊びをするような歳ではないし、なにより彼はそこまで不謹慎な人間ではないからだ。 放課後、教室を出てすぐ鴇に遭遇した。電気が点いていてなお暗い廊下に突っ立って、ぼんやり窓の外を見ている。 「やだ~トキ、黄昏ちゃってどうしたの~」 「こいつのことだ。どうせ飯のことしか考えてないでしょ」 というクラスメイトの野次に、鴇は苦笑しつつ「そーそー、腹減った!」などと返している。その視界の端で僕を見つけたのか、彼は一瞬真顔になった。僕は気づかなかったふりをして廊下を曲がり、階段を降りる。「碧井、」という声が追いかけてくる。 「何?」 僕は振り返った。呼び止められたのは初めてだ。 鴇は僕のいる踊り場まで下りてきて、幾分落ち着かない様子で 「その、元気?」 と聞いた。僕は頷く。 「元気だよ。そっちは?」 「うん、俺も元気……って、ハハ、なんか英語の授業みたいだな」 彼は少し笑ったが、僕が笑わないので、少し気まずそうにした。彼は咳払いを一つして本題に入った。 「お前、まだ“実験”してるだろ」 「してるけど」 間髪入れずに答えた。 「してるけど、何?」 彼は一瞬怯んだようだった。でもすぐに険しい顔になって、 「……どれだけ危ないかわかってるんだろ。なんで続けるんだよ」 僕はじっと鴇の目を見た。鴇も負けじと睨み返してきたが、やがて堪えきれなくなったように目を逸らした。 踵を返す。腕を掴まれる。僕はもう一度振り返って彼の胸倉を掴んだ。 「あのさあ、お前こそ、どれだけ危ないかわかってるのか?」 顔を見ずにそう言うと、息を呑む気配がした。 「あれっ、トキじゃ~ん!」 その時、彼の後ろから能天気な声が聞こえた。手を放し、階段を降りる。 「なにあいつ、絡まれたの?コワ~」 「トキどんまい!てか一緒帰ろ~」 「傘持ってきた?」 「トキ?大丈夫か~?」 数人の声が降ってくる。今度は「碧井」と呼ぶ声は追いかけて来なかった。 野放図な草原。真ん中に半身が裂けた樫の木がある。姉は最期の時ここにいたのだ。木の幹には姉が描いたと思しき相合傘がまだ残っている。 僕はその下にスクールバッグを置き、中から凧を取り出した。小学生のときに親に隠れて作った特別製だ。これなら雨に濡れても破れない。糸の先には鍵をくくりつけてある。 遠くで雷鳴がした。風雨がばらばらと全身を打つ。傘は途中で差すのをやめた。深く息をすると、草いきれと雨の混じった匂いがした。 手を伸ばし、凧を荒涼とした風にのせる。凧は不安定にぐらぐらと暴れ、やがて上昇した。重く暗い雲に向かって飛んでいく。 いきなり何かが身体にぶつかった。泥水を跳ね散らかしながら草地に転がる。それでも凧糸を放さないでいると、覆いかぶさって来た影は必死に僕の拳を開こうとする。放すものかと抵抗し、しばらく揉みくちゃになった。でも、間近にある鴇の顔があまりにも必死なものだから、急に笑えてきてしまって、僕は糸を手放した。自由の身となった凧が更に空高く上昇していく。僕は代わりに鴇の顎を掴んで口づけた。 捕まえた。 鴇は目を見開いていて、でも僕を押しのけようとはしなかった。唇を離すと、堰き止められていた息が漏れだす。彼の濡れた髪からぽたぽたと雫が降っては、肌を滑っていく。 「どうして来た?」 と、僕は聞いた。でも理由はわかっていた。 僕は姉が羨ましかった。ときどきしか起こらない気象なんかに頼らず、彼と話せる姉が。ロマンチックな悲劇によって、彼の永遠になった姉が。だから彼が来なくても構わなかった。でも、彼はそうしないだろうということもわかっていた。恋人とその弟、どちらも落雷で失ったら悲しいだろうから。 「……馬鹿野郎」 鴇は本気で怒っているような声を出した。 「答えになってないよ」 「お前は狡い、馬鹿野郎だ」 「よくわかってる」 「こんな手段使うな。言いたいことがあるなら、雷なんかに頼らないで言えよ」 僕は少し笑った。言えたらよかった。人気者の鴇。姉の恋人の鴇。僕から見た鴇がどんなに綺麗だったか。 「……姉さんが死んだって聞いた時、僕が一番最初に考えたことは何だったと思う?」 鴇は答えなかった。風と雨の音がいっそう烈しくなり、聞こえなかったのかもしれないと思った。 「もう雷が鳴っても鴇は来てくれないだろうってこと」 あの日。姉が亡くなる少し前。僕は鴇にキスをした。折り畳み傘が開かなくて苦戦していた彼は両手を傘の柄に掛けたまま呆然としていた。僕自身なぜ自分がそんなことをしでかしたのかまるで理解できず、居たたまれなくなって駆け去った。嫌われたと思った。もう稲妻を見ても僕に報告しに走ってくることはないかもしれない。でも、何事もなかったように来てくれるのかもしれない。そして後者の可能性は潰れた。姉が死んでしまったのだから。 「最初は鬱陶しかったけど、君が来てくれると嬉しかった。君と僕だけの接点があることが嬉しかった」 雲間に稲妻が閃く。龍の鳴き声がする。こんな気象、本当はとうの昔に飽きていた。でも、彼との繋がりを失いたくなくて、必死に興味があるふりをしていた。 「好きだよ、鴇」 これで本当におしまいのような気がした。わかっていた。いくら気を引いて、彼が気持ちに応えてくれたとしても、それは同情心に他ならない。 死のうとしたわけじゃない。でも、どうすればいいのかわからなかった。矛盾している。彼が欲しい。放っておいてほしい。見つけてほしい。助けてほしい。 鴇は長いこと黙っていた。そして身を正してから、 「碧井に謝らなきゃいけないことがある」 と言った。 「実幸さんが死んだのは俺のせいだ」 あの日、姉は鴇と待ち合わせをしていたらしいから、数ある要因のうちの一つではあるのかもしれない。でも、誰も雷があの樫の木を直撃するなんてわからなかった。姉だって馬鹿じゃない。木の下で雨を凌いでいたのだとしても、雷が鳴り続ければ、背の高いものから離れようとしたはずだ。おそらく、木に落雷したのは雷が発生した直後だったのだろう。 「鴇のせいじゃない」 「違う。俺のせいだ」 鴇は泣きそうな顔をしていた。泣いているのかもしれなかった。 「お前、実幸さんが俺の彼女だったって思ってるんだろう。そんな訳あるか?向こうは高校生、こっちは中学生だぞ。本気にするわけないだろ。幸さんは相談にのってくれてただけだ。どうしたら碧井と仲良くなれるかって」 僕は息を止めた。耳元で動悸がする。 「お前、中学に上がっても全然喋らなかっただろ。知り合ってから何年も経つのに、全然心開いてくれる感じもしなくて。そしたら実幸さん、「幸誠と友達になってくれるの?」とか言って張り切ってさ、「じゃあ、私と恋人ってことにして家に来なよ」って言ったんだ。年ごろなのにそんなことしていいのかって聞いたら、「部活一筋だから大丈夫」ってさ。まあ、お前に効果はなかったけど」 何度か姉と鴇が一緒に家に帰って来たことがあった。そして居間でゲームをして、僕も誘われたが、当然面白くなく、無言で自室に閉じこもっていた。 「俺の勘違いじゃなければ、碧井、キスしただろう。あの時、俺がどんな気持ちだったかわかるか。お前に向けてた感情は、友達に向けるべきものじゃなかったんだって気づかされて。待ち合わせ場所に行ったら、実幸さんに打ち明けるつもりだったんだ」 今度は本当に泣いていた。震える肩の上で雨粒が跳ねている。 「……なんだそれ」 泥に塗れた背を地面から剥がすようにして、僕は身を起こした。 「くだらない遊びにお前の姉さん巻き込んで、本当にごめん」 「違う」 「違くないよ」 「違う。違う」 話が本当なら、僕の所為ではないか。僕の頑なな態度が呼んだ事態ではないか。 「僕のせいだ」 「どうして」 もっと素直に話していればよかった。他人とは違う接点を失ったとしても、鴇と話せて嬉しいと伝えればよかった。失恋するとわかっていても、鴇に好きだと言えばよかった。姉さんを殺したのは僕だ。 それなのに、僕はこの男を離したくないのだ。 「わかってるのか。僕は本気で君が好きなんだ。僕に向けたその好意が、同情心だとか罪悪感だとかからくるものじゃないって、本当に言い切れるのか?姉さんに誓って、言えるのか?」 鴇は僕の目を見た。笑うと優しい感じのする目が、何か伝えたそうにして、濡れていた。 「好きだ」 手を伸ばして、背中を抱き寄せる。シャツ越しに触れた、水浸しの肌が、腕が、唇が、じわりと体温を滲ませた。鴇はもう一度そっと、「好きだ」と囁いた。僕は口づけで答える。涙と雨の味がする。重く垂れこめた雲の合間を、閃光の龍が駆け上がっていった。
自転
あん時の気まずさったら、ない。 ギンガムの包装紙を飛び出し、ころころ転がるキャンディを追いかけて、勢い余って踏んづけた。上履きの裏の、バリっというかジャリっというか、砂を噛んだような後味の悪い音。 「わあ!可愛いキャンディ!食べたことのない味がする!」と珍しい海外旅行のお土産に沸いていた教室はお通夜のように静まった。そんな空気の中の謝罪の声はカスカスだった。 ともだちは笑いながら「いいよいいよ」と手を振って私を許した。 「あ、でも」 空の缶を私に向ける。 「さゆりちゃんの分、もうないや」 「ということがありまして、私は飴が苦手なのです」 いいつつ私は飴を噛む。 「すこぶる同意」 隣の彼も頷きつつ飴を舐めている。 「僕は子供のころ飴を喉に詰まらせて死にかけたことがあるよ」 「むごい」 「逆さづりにされて背中を叩かれて、ようやく口から飛び出していった。庭の草木の中に消えていったなあ」 「飴もそんな最期は本意じゃなかったでしょうに」 「こう考えよう。あの飴玉は庭の蟻のごはんになった。そうでも考えなければ浮かばれませんよ」 彼の口の中から飴玉が歯とぶつかるカコカコという音が聞こえる。私は多少塊が残ったまま飲み下してしまったので、口の中には甘い味だけが残っている。 「それにしても、なぜ球体なのでしょうね。楕円でもキャンディにはなるわけでしょう」 「それは転がるからですよ」 意味を図りかねて彼を見る。彼は舌で飴の位置を変えてから説明した。 「丸い形はひとりでに転がるでしょう。だからエネルギーをもっているわけです。僕はお腹のなかで飴玉が回る想像をして、一気に飲み込んで詰まらせました」 「なるほど」 私は小さい包みを開き、ピンク色の球体をごくりと飲み込んだ。 そして昔粉砕したキャンディのことを考えた。綺麗な、フラミンゴみたいな色の透き通った欠片。それらが集まり、丸くなって、私のお腹の中で回っている。ような気がした。 ああ、こんな味だったのか。
千々燦々
透明なポットが落ちる瞬間、世界がスローモーションに見えました。その刹那、私は現実よりもちょっと早く、ガラスの砕ける音を想像しました。ウインドチャイムが倒れたような音。果たしてポットは想像よりも騒々しい音を立て、あるものは大きい欠片、あるものは微小の欠片、あるものは千々に砕け、フローリングの上にその中身をこぼしました。とろりとした液体が、厚みを保ったまま床に広がってゆき、仕込んでいたレモンの輪切りは、打ち上げられた海藻のように、半を押したかのごとく点在しています。窓から差す朝日に照らされたその惨状は、いっそ美しくすらありました。 手を伸ばすと、 「触らないで」 と鋭い声がしました。 いつの間にか台所にタクミが入ってきていました。タクミはものも言わず、壁に背をもたせかけ、腕を組みながら、床に散らばったガラスとレモンをじっと見据えていました。寝起きだというのに、彼の目は冴え、ガラスの破片なんぞよりももっと鋭利でおそろしく、ひとつの温度も伝わってこないようでした。 タクミは壁にぶら下げてある小さな箒と塵取りを掴むと、床の上をさっと掃き、欠片を一つのゴミ袋にまとめました。そして、レモネードで毛先のべたついた箒と塵取りもゴミ箱に捨てると、雑巾を濡らして床を綺麗に拭きました。 一連の動作はまるで訓練されたように迅速で、一部の狂いもありませんでした。あっという間の出来事に呆けていた私は、やっとのことでお礼を言いました。 「怪我をされるほうが面倒だからです」 タクミは雑巾を無造作にゴミ箱へ放りながら言いました。 「早く仕事を探してきなさい。こんなものを作って遊んでいないで」 タクミは顔をこちらへ向けません。私は無意識に唇を噛みました。はい、と答えられたかどうか、それすらも覚えていません。 朝食を摂る気になれず、着替えてそのまま家を出ました。マンションの廊下は、空気が凍ったように冷えており、仄暗い朝の光が淡い陰影を作っていました。 外階段を降り、いつもの道を進みます。あと数時間もすれば、勤め人や学生や、犬を散歩させている人で賑わうこの通りは、今は冷厳な空気に沿うようにひっそりとしています。 通っている就職支援センターは当然まだ開いていません。私は途中で脇道に外れ、街の隅にある河川敷まで歩いて行きました。 粗い石混じりのコンクリートでできた階段を降り、途中で腰を下ろします。眼前に広がる川面は、あさぼらけの空をちらちらと反射させて光っています。 私は見るともなしに、川と、川向こうにある家家と、仄明るい空を見つめました。そうして、ぼうっとしながら、今し方零してしまったレモネードのことを思いました。 昨日、唐突に飲みたくなったのです。喉の奥につるりと滑り落ちる、冷たいレモネードが。その感触を思い浮かべ、私は無意識にごくりと唾を飲み込みました。 手からガラスのポットが離れていく瞬間、私の脳裏には走馬灯のように、前の職場での出来事が駆け抜けました。 私は昔から物覚えが悪く、人よりも仕事を覚えるのに時間がかかりました。それでも、なんとか同期についていこうと、片端からメモを取りました。小さなことから大きなことまで。それを後でまとめて、必死に自分の中に落とし込もうとしました。そうした努力が、タクミの目に留まったのでした。 タクミはエリートでした。同期の中でも群を抜いて優秀で、昇進も一番早かったのです。 「私は段取りが悪いから」 「人よりも仕事が遅いから」 私がそう言うと、タクミは 「でも自分なりに工夫して、時間内に終わらせているじゃないか。教えられた通り漫然とこなすのではなく、自ら問題意識を持って、より良い結果を生むのは極論、仕事ができるのと同義ですよ」 と言いました。 私は嬉しかったのです。誰からも注目されているタクミが、私の頑張りを認めてくれたことが。私は俄然熱心に仕事に取り組むようになりました。それが一年前の話です。 半年前、異動によって新しい上司が赴任してきました。彼女は部下の仕事の方法を統一しようとしました。その方が進捗を把握しやすいからです。私は多くの同僚とは違う方法で仕事を進めていたので、彼らに合わせるのに時間を要しました。当然、成績は落ちてしまいます。どうして仕事が遅くなったのか、上司は私と面談をしました。上司はいつも正しかったのです。だから、私は私が正しくないことを認めざるを得ませんでした。 そうした問答が続くと、私は俄かに自信を失いました。私は無能です。他の人が普通に、正しく選択できることを、私は選べないようでした。 毎朝、仕事に行くのが辛かった。その頃すでに昇進して他部署に異動していたタクミは、「意見があるなら自分の言葉で、ちゃんと上司に説明しなさい」と言いました。言えるはずがありませんでした。なぜなら、上司が正しいからです。私は間違っているからです。そう、上司に教えられました。「私にとって正しい」は、大多数には通用しないのです。ああ、でも、間違いだらけのまま正しさのなかにいるのは、少々身に堪えました。 私はタクミに黙って退職願を提出しました。 辺りはすっかり暗くなっていました。 今日は結局就職支援センターに行きませんでした。町を散歩したり、図書館、カフェを巡ったりして、気づくと夜中になっていました。 家に帰ると、微かにトントントンと規則正しい音がきこえました。タクミがキッチンで料理をしているようです。私は、彼に気づかれないよう、そっと部屋に入りました。しかし、その時包丁の音が止み、廊下のドアが開くカチャリという音がきこえました。彼は私が帰って来たことに気づいたのでしょう。私は暗い部屋の中で息を潜めていました。少しするともう一度カチャリという音がし、再びキッチンの方から作業音がきこえました。 いつの間にか眠ってしまっていました。 そっと部屋の扉を開け、廊下を進んでリビングに入ります。そこはすでにカーテンが開かれ、薄い陽の光が差し込んでいました。テーブルの上にガラスのポットと、簡素なメモが置かれています。 『僕が先に部屋を出ることにしました。残った荷物は使うか処分するかしてください』 私は数分その文字を見ていました。ようやく目線を動かすと、透明なポットの側面にレモンの断面が張り付いているのが見えました。 私はのろのろとグラスを持ってきて、ポットの中身を注ぎました。とろりとした液体と、輪切りのレモンが落ちてきます。グラスに口をつけます。すると、先日想像していた通りの感触が、つるりと喉を滑っていきました。 「おいしい」 と私は呟きました。その賛美の言葉はしんしんと冷えた空気をごく僅かに揺らし、やがて消えていきました。 私はもう一度レモネードを飲み込みました。身体の中にそれが入ってくるのと引き換えに、目からぼろぼろと涙が出てゆきます。 タクミはいつも正しい。 でも、私は、もう一度彼に、味方になってほしかった。たとえ私が正しくなくても。 レモネードの所為で甘く爽やかな嗚咽を漏らしながら、私は泣きました。私はこれ以上、レモネードを飲めないでしょう。差し込んできた陽の光がレモンを透過し、ポットの下にできた影がきらきら光り、とても綺麗でした。
朧夜
茘枝が仕事を終えて自室の襖を開けると、ふわりと酒の匂いがした。 見れば、暗く狭い部屋の中に、ぽっかりと月光が落ちている。窓の簾はすべて上げられており、その向こうの靄がかった墨色の空と、朧げな月が覗いていた。 窓枠の上には徳利が置かれ、ちょうど白魚のような手が猪口を傾けているところだった。芳しい匂いの主を飲み干してしまうと、その手は鮮やかな紅紫の袖を振って口元を拭い、まだ紅を落としていない眦を茘枝に向けた。 「お疲れさん」 茘枝はその顔を見てすぐに相手が酔っていることを確信した。常に寄せられている眉根や、固く引き結ばれている口元は綻び、白粉の上からでもわかるほど頬が仄かに色づいている。 「悪い、すぐに片づけるから。それとも、あんたも飲む?」 しかしながら、潤んだ瞳の焦点は定まっており、言葉の発音もはっきりしている。酩酊しているわけではないとわかり、茘枝は首を横に振って襖を閉めた。すると、彼が珍しく「それなら話に付き合ってよ」などと言い出すので、今度は頷いて近くに座った。 同室の彼―躑躅は思い出したようにふっと笑い声を零すと、話し始める。 「あたしがあまり酒に強くないのは知ってるだろう。でも、今日の客はもっと酒に弱かったんだ。お堅い人で、こういう場所に来たのも初めてらしい。それで、どうにかこうにか緊張を解すために強い酒を頼んだんだな。一口呷ったら、忽ち潰れちまった!その様子ったら可笑しかったよ。しばらく介抱してたけど、もういいって番頭が言うもんで、酒だけ拝借して帰って来ちまった。客がみんなあの人みたいだったら、俺たちの仕事も楽なのにさ」 彼の本当に可笑しそうな笑い声を聞くと、茘枝は疲れた身体がゆっくりと解れていくような気持ちがした。躑躅は普段こんな風に笑わない。口元だけ、目元だけ、笑い声を零すことなんて滅多にない。それは自分にも当てはまることなのだが、彼が笑っていると、柄にもなく自分の口元まで緩みそうになる。 「茘、やっぱりあんたも飲むといいよ。強いけど美味しい酒だよ。あたしはこれ以上飲んだら悪酔いするからさ」 粧を落としてくる、と言い置いて、躑躅は部屋を出て行った。蹈鞴を踏むような足音は、酔いの所為ではない。彼は脚が悪い。それでも、人を頼らずに、背筋を伸ばして歩いている。 茘枝は窓辺に寄り、徳利を手に取った。その縁は酒で濡れ、仄かに月光を宿している。 一瞬、彼が酔い潰れていればよかったのに、と酷いことを思った。彼が正体を失っていたとして、触れる勇気などない。それでも、彼のいつになく饒舌な声、細められた瞳、ふわりと纏う香を想った。茘枝は徳利のまま酒を呷る。芳醇な香りが喉を滑っていき、やがてそれは、焼けつくような熱さで彼の胸を覆った。
長く短い祭
「夢みたい!」 ジェニファーは車に乗り込むなり、そう言ってベッドの上に身を投げた。その衝撃で、若干車が揺れる。 「すっげえ!水も出るし電気も点くよ!冷蔵庫もある。これで食料はしばらく持つね。Wi-Fiもとんでるっぽい……けど俺ら誰も電子機器持ってないな」 アランは忙しなく車内のあちこちを弄って回っている。彼がぱたぱたと走る度、やはり車はゆらゆら揺れる。 「ふうん……ここが僕たちの終の棲家というわけか」 フィルがドアの傍で丸眼鏡を押し上げ、車内をまじまじ眺めながら言うと、彼と手を繋いでいたアマンダが不思議そうに彼を見上げた。 「ついのすみかって?」 「新しい家ってこった」 彼女の質問に答えたのはフィルではなくて、リーダー格のルイーザだった。彼女はアマンダの頭にぽんと手を置いて、にっと笑った。 「おーい、乗るんならさっさとしろよ。早くしねえと置いてっちまうからな」 一番体格の良いロックが運転席で怒鳴る。 「だとよ。ほら進んだ進んだ」 ルイーザがフィルの背中を押すと、彼は鬱陶しそうにそのマッシュルームカットを揺らした。 「ジェニファー、カーテンを閉めろ。外から見えたら大変だからな」 「はあい」 ジェニファーが素直にカーテンを引き、ドアが閉まると、車内は一気に暗くなったが、アランが常夜灯を付けた。微かな光の中、皆一様に高揚した顔をしている。 「ロック、車を出してくれ。まずはなるべく遠くに行こう」 「了解」 ロックはすぐさまシフトレバーをドライブにし、車を出発させた。 「計画通り、514号線に沿って国境を越える」 「うん。運転は二時間ごとに交換だ。でもジェニファーは禁止」 「ええ~わたしだって運転できるのに」 「絶対駄目。みんな死んじゃう」 満場一致でうんうんと頷かれ、ジェニファーは釈然としない表情だ。 「その代わり、運転手のサポートと、見張りをすること。地図の読み方はわかるよな?」 「もちろんよ!任せて!」 ジェニファーは新しい役目を貰って、誇らしげに胸を張った。 「いよいよ俺ら、旅に出るんだ!わくわくするなあ!」 アランは前歯の抜けた口元を綻ばせた。 「そんな、まだ走り出して1㎞も過ぎてないのに」 フィルは皮肉な調子で言うが、その表情は朗らかだった。 「ねえ、わたしたちどこに行くの?」 「もちろん、どこまででも行くのさ」 アマンダの問いに、ルイーザは不敵に笑った。 フロントガラスに映るロックの顔も心なしか晴れやかに見える。車窓の前方には厚い雲を裂くように、燃える朝焼けが広がっていた。 Daily News 20XX.May.19 本日未明、X●孤児院で、全職員、児童36名が殺害される事件が起こった。6人の児童の行方がわからなくなっていることから、犯人に誘拐されたものとして捜査が進められている。また、近所の住宅からキャンピングカーの盗難があったことから、犯人はこれに乗って逃走したものとみられている。警察は車の特定を急いでいる。
海路
「母さん、父さん、さようなら」 そう静かに呟いた彼の長い睫毛の先から涙が海に還るのを、その小さな手が錨を繋いだ太い縄をナイフで一生懸命に切るのを、私は見ていた。 早く行こう、早く行こう。声を失くした私は彼に笑いかける。気が急いて、ボートを押す。彼はその上で涙を拭って、微笑んで見せた。 嵐が去ったあとの燃えるような朝焼け。空と瓜二つの水面を揺らして私たちは進む。彼は櫂を持ち、私は尾鰭を振って。 きっと海のもっと向こうに、一緒に暮らせる楽園があるのよ。私は歌う。声などなくても、彼には伝わる。 禁忌などと、誰が決めたの。私は身を乗り出して、ボートの上の彼を抱きしめた。その温もり。美しい命の形。 彼は讃美歌を歌った。波風ひとつ立たぬ水面に、彼の声だけが滑っていく。私は瞳を閉じて、その心地よさに耳を澄ました。 突然、彼は形を失った。温かな皮膚はもろもろと砕け、私の腕の中で泡になった。ふわふわと舞うしゃぼん玉は、遥か上空でぱちんと弾けた。 カランと音がして、ボートの床板にナイフが落ちた。静かな水面。讃美歌の残響。広い海の真ん中に、空のボートがひとつ、ゆらゆらと揺れている。
microscopic fireworks
デュモルチェライトの華火を見たことがあるか。 それはクォーツの尖角に沿って、放射線状に青い花を開き、得も言われぬ音を立てて瞬くのだった。 僕がそれを初めて見たのは、まほちゃんの部屋の中だった。 まほちゃんの本当の名前は新條瑠璃美という。“まほちゃん”というのは僕が勝手につけたあだ名だ。魔法使いみたいだから。“まほ”うつかいの“まほ”という訳。 彼女の家はマカロン屋さんで、僕の通っていたスイミングスクールの送迎バスがその近くの信号で止まると、その店舗兼住宅の様子がよく見えた。そのメルヘンな店の窓から溢れる光は暖かそうで、いつも女性客が楽しそうにマカロンを選んでいた。そしてその二階の丸窓には、何やら熱心に分厚い本を読んでいるまほちゃんの姿があった。 彼女は僕よりふたつ歳上だった。ゆえに学校で接点があるわけではなかったが、たまに帰り道で遭遇することがあった。彼女は鼻歌でも歌うような足取りで、栗色のツインテールと菫色のランドセルを揺らしていた。 ある時、帰途についていた僕は、遠く先を行く彼女の姿を認めた。彼女はいつものように颯爽と歩いてはおらず、絶えず道の脇にある枝葉を引っ張ったり、はたまた屈んで落ちているものを拾ったりしては、しきりに手に持った何かを覗き込んでいた。彼女が一向に進まないため、僕は彼女に追いついてしまった。僕は彼女のすぐ傍で立ち止まった。彼女は僕の視線に気づくと、顔を上げた。初めてその栗色の瞳と目が合った。 「覗いてみたい?」 まほちゃんは悪戯っぽく言った。僕はこくこくと頷いた。 「手を出して」 僕は言われた通りにした。彼女は手に持っていた葉っぱと親指くらいの大きさの筒を重ねて、僕の掌の上に置いた。僕は筒を覗き込み、あっと声を上げた。 黄緑の葉脈が、見たことのない緻密さで、くっきりと透けて見えた。筒は小さな顕微鏡だったのだ。 「よく見える」 彼女は僕の手から顕微鏡を取り上げ、それを目に当てて僕を見た。 「君のことも」 ある夏のこと。 僕は不貞腐れていた。 「ふてくされているね。顕微鏡で見なくてもわかる」 出会ってから一年経ったまほちゃんは、小生意気な口調で言った。 「だって、僕もお祭りに行きたかったんだよ」 僕は風邪を引いてしまい、友人たちと約束していた花火大会に行けなかったのだ。それが理由で喧嘩した。彼らは花火大会の日を境になんだか余所余所しくなった。この前は僕が居ない時に、教室で何か模型のようなものを組み立てていた。僕が近づいていくと、さっとそれを机の中に隠した。僕が何をしていたのか問いかけると、皆それぞれにアイコンタクトを取ってはぐらかした。いつも仲良くしている友達のうち、僕だけが仲間外れになったようで、無性に不愉快だった。 まほちゃんは顎に手を当てて、ふむ、と頷いた。 「では家で花火大会をしようか」 初めて訪れたまほちゃんの部屋は、まるで映画のセットみたいだった。クロゼット、机、ベッドなどの家具はすべてアンティーク調で整えられており、本棚に並んだ本も洋書ばかりだった。 彼女は例の大きな丸窓の傍にある猫足のガラスケースから何かを取り出し、僕に差し出した。 それは小指の先ほどしかない透明な石だった。正直、僕はがっかりした。魔法使いのようなまほちゃん。彼女が何か特別な魔法を使って、僕を花火大会のあの日に逆戻りさせてくれるかもしれないという期待をしていた。 「覗いてごらん」 彼女は愛用の小型顕微鏡を僕に手渡した。僕はほとんどうんざりした。彼女は出会った頃から少しも成長していない。少し物が大きく見えるだけなのに、まだ飽きずにこんなものを持ち歩いている。僕は半ば投げやりな気持ちでレンズを覗いた。 すると、目の前に青い閃光が走った。 「え?」 ぴきり、ぴきり、と音を立て、透明な石の中にヒビの様な、針のような、群青の線が走っていく。それはゆっくり放射線状に広がり、花の様な形になった。 僕は慌てて目をレンズから離し、肉眼で石を見た。確かに、透明なだけだと思っていた石には、ごく微小の青い模様があった。でも、それは決して動いてはいないはずだ。 もう一度レンズを覗く。するとまたぴきり、ぴきりと音がして、透明な空間に一本ずつ青い線が現れる。 「まほちゃん……!」 僕はその美しい光景がどこか空恐ろしく、でも、集まっていく青い閃光から目を離せないまま、彼女の名前を呼んだ。彼女は僕とそう変わらない年齢とは思えない程、大人びた声を出した。 「君は何もみえていないんだよ」 ようやくのことで顔を上げると、彼女は丸い窓枠に腰かけ、頬杖をついていた。 「もちろん私もね。世間一般の人が見ている景色だけ一緒に見て、そのサイズこそが普通で、それ以外は遮断しちゃう。だからたまに覗くんだよ。もっと小さな世界を。ううん、小さいからこそ、巨大な世界を。すると、少しだけ、見える景色が広がるんだ」 彼女の栗色の瞳は石のように静かで、きらきらと輝いていた。 翌日、教室に行くと友人たちが僕の席の周りに集まっていた。 机の上には出雲大社の立派な紙模型が置かれている。 「どうしたの?これ?」 と僕が問いかけると、 「隆史、ごめんな」 と、彼らは口々に謝った。 どうやら、その模型は、祭りの日に射的の景品で取ったものらしい。来られなかった僕へのお土産として、また、夏休み中に誕生日を迎える僕へのプレゼントとして、皆で僕に隠れて作っていたようなのだ。 「でもさ、間違ってたよ。一緒に作ればよかったんだよな。仲間外れにしてごめんな」 僕は手作り感満載の模型を眺めた。端的に言ったら下手くそだ。僕が一人で作ったほうが、きっと出来栄えはいいだろう。でも、僕はそのプレゼントが嬉しかった。僕のいないところで、僕のことを考えて、皆でせっせと作ってくれたものだ。決して意地悪をされていたわけではなかった。 それなのに、僕は自分の見方だけで決めつけて、友達を悪者にしようとした。でも、彼らの方向から僕を見てみると、全く違った景色が、そこにはあったのだ。瞼の裏に青い花火がちかちかと瞬いて、僕は自然と笑うことができた。 ほどなくしてまほちゃんは転校してしまった。彼女が住んでいたお店は、彼女のお父さんがオーナーを務める店の分店で、そこの経営を彼の部下に任せ、新しく拠点を海外に移すことになったらしい。あの大きな丸窓のある二階は、今では物置になっている。 まほちゃんと最後に会ったのはもう何年も前になるが、今でもあの時顕微鏡で覗いた景色が、ふっと目の裏に浮かぶことがある。それは視野狭窄に陥りそうなとき、どうしようもないことで誰かを責めてしまいそうなとき、親しい人を疑ってしまいそうなとき、決まってあの青い閃光が、華の形を成し、僕に笑いかけるのだ。「君は何もみえていないんだよ」と。 僕はその眩しさに何度も瞬きをする。まったく、まほちゃんの魔法にはかなわない。
なごり
君の声二日酔いになるほどききたかった このわけのわからなさ名前が欲しい チョコの包み紙伸ばして並べてまとめて捨てよ くすぶる朝焼け 生活感ありすぎの部屋に突如朝陽が転がりこんで、 所詮夜までの居候 放り損ねた銀紙 ちかちか反射して リフレイン 笑い声 きらきらと 酒量のなごり 手脚のあちこちに このだるさが君の愛であればいいのに