海路

「母さん、父さん、さようなら」  そう静かに呟いた彼の長い睫毛の先から涙が海に還るのを、その小さな手が錨を繋いだ太い縄をナイフで一生懸命に切るのを、私は見ていた。  早く行こう、早く行こう。声を失くした私は彼に笑いかける。気が急いて、ボートを押す。彼はその上で涙を拭って、微笑んで見せた。  嵐が去ったあとの燃えるような朝焼け。空と瓜二つの水面を揺らして私たちは進む。彼は櫂を持ち、私は尾鰭を振って。  きっと海のもっと向こうに、一緒に暮らせる楽園があるのよ。私は歌う。声などなくても、彼には伝わる。  禁忌などと、誰が決めたの。私は身を乗り出して、ボートの上の彼を抱きしめた。その温もり。美しい命の形。  彼は讃美歌を歌った。波風ひとつ立たぬ水面に、彼の声だけが滑っていく。私は瞳を閉じて、その心地よさに耳を澄ました。  突然、彼は形を失った。温かな皮膚はもろもろと砕け、私の腕の中で泡になった。ふわふわと舞うしゃぼん玉は、遥か上空でぱちんと弾けた。  カランと音がして、ボートの床板にナイフが落ちた。静かな水面。讃美歌の残響。広い海の真ん中に、空のボートがひとつ、ゆらゆらと揺れている。
絵空こそら
絵空こそら
よろしくお願いします。