朧夜

 茘枝が仕事を終えて自室の襖を開けると、ふわりと酒の匂いがした。  見れば、暗く狭い部屋の中に、ぽっかりと月光が落ちている。窓の簾はすべて上げられており、その向こうの靄がかった墨色の空と、朧げな月が覗いていた。  窓枠の上には徳利が置かれ、ちょうど白魚のような手が猪口を傾けているところだった。芳しい匂いの主を飲み干してしまうと、その手は鮮やかな紅紫の袖を振って口元を拭い、まだ紅を落としていない眦を茘枝に向けた。 「お疲れさん」  茘枝はその顔を見てすぐに相手が酔っていることを確信した。常に寄せられている眉根や、固く引き結ばれている口元は綻び、白粉の上からでもわかるほど頬が仄かに色づいている。 「悪い、すぐに片づけるから。それとも、あんたも飲む?」  しかしながら、潤んだ瞳の焦点は定まっており、言葉の発音もはっきりしている。酩酊しているわけではないとわかり、茘枝は首を横に振って襖を閉めた。すると、彼が珍しく「それなら話に付き合ってよ」などと言い出すので、今度は頷いて近くに座った。  同室の彼―躑躅は思い出したようにふっと笑い声を零すと、話し始める。 「あたしがあまり酒に強くないのは知ってるだろう。でも、今日の客はもっと酒に弱かったんだ。お堅い人で、こういう場所に来たのも初めてらしい。それで、どうにかこうにか緊張を解すために強い酒を頼んだんだな。一口呷ったら、忽ち潰れちまった!その様子ったら可笑しかったよ。しばらく介抱してたけど、もういいって番頭が言うもんで、酒だけ拝借して帰って来ちまった。客がみんなあの人みたいだったら、俺たちの仕事も楽なのにさ」  彼の本当に可笑しそうな笑い声を聞くと、茘枝は疲れた身体がゆっくりと解れていくような気持ちがした。躑躅は普段こんな風に笑わない。口元だけ、目元だけ、笑い声を零すことなんて滅多にない。それは自分にも当てはまることなのだが、彼が笑っていると、柄にもなく自分の口元まで緩みそうになる。
絵空こそら
絵空こそら
よろしくお願いします。