“Y”

10 件の小説
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“Y”

喫茶店を巡りながらエッセイを書いてます。 文字をこねくり回して言葉にしてますので、宜しくお願い致します!

また明日

「渋谷を拠点にする!」と決めた時。その当時は今よりも少し「喫煙者」に対して寛容で、「喫煙」のフォルダ分けもなく、「電子のみ」の文言も今よりもあまり目にかけることはなかった。 「煙草と言う煙草は試してみる」スタイルなのは昔からで、パイプ・葉巻・煙管・手巻きなども一度は通ってきた。そのどれもが、私の中で「紙タバコ」を超える付き合いになる事はなかったが、今でも時折、「そう言えば」と懐かしい友人に会う感覚で嗜む。一通り、その時間を楽しんだ後は、やっぱりいつもの紙タバコに戻るのだ。それは「電子」も一緒である。電子が流行り始めた当初、目新しさもあって、当時は先にネットで登録やら、予約やらをして購入すると云う、色んな面倒臭さはあったが、新しく発足されたアイドルの初ライブくらいのワクワクがあった。 初めてiQOSに触れた日。やはり最先端で、神々しく私の目の前に現れる。角が取れた四角。「ボタンを押す」は当時、優に二十歳を超えていた私でも震える程にテンションが上がったのを覚えている。銘柄はマルボロ。なんだか、最先端なのに老舗。新しいと古いの共存がより未来感があった。 そんなワクワクと興奮は1箱までで、その後は手入れや充電、制限など、簡易では無いものをとても煩わしく感じてしまい、やっぱりいつもの紙タバコに戻ってきた。「新しい」に感化される事は好きだ。だから、電子を否定するつもりもないし、紙でも銘柄が好きだからと云って「喫煙者」を続けている訳ではない。好きな煙草はもちろんある。憧れも。だけど、何かに拘りがある訳でも、プライドがある訳でもない。私は「煙草のある空間や時間に価値がある」と思っている。ただ、私にとって「新しい電子煙草を気に入る」まで届かなかっただけだ。特段深い理由や意味なんてない。とは言え、あった方が便利なのは事実である。気に入りはしないが、必要なものとなる。「電子も持っているが出来る事なら紙派」の誕生である。ただ、今まで無かった拘りが出来た。少し、大人になった気がした。 現在、「電子なら席で吸える」お店が少しずつ増えてきた。増えたと云うよりも、「喫煙可能」の形が変わったと言った方が早いだろう。ただ、私は今も尚、紙煙草を主軸に考えるし、smokesとしても「紙煙草が咳で吸える喫茶店」がコンセプトであり、モットーだ。時代錯誤かもしれない。時代を受け入れない堅物や、老害とされる感覚なのかもしれない。それでも、私が拘るのは「嫌な経験」をしていないからかもしれない。今でもそうだが、もっと心無い言葉や、「喫煙」の言葉だけで非国民とする輩に絡まれても良い気もする。煙に傷付いた人たちの傷も癒せない。口では「すみません」と言えるが、私自身が煙で傷付かない限りは考えが変わる事もないだろう。嗜好品は否定や拒絶されるものでは無いと思っているのもある。比較はされるし、する。それは協議みたいなものになるが 「私の好きなコレはこんなに素晴らしいのだよ!!」と筋肉を存分に使い、呼吸を荒く、汗をかく。その姿はとても感銘を受けないか?それに、お節介の輪が出来るのは、悪い事では無いと思う。悪口は選べないが、好きは選べる。 話は変わるが、このシャルマン。数年通い続けているが、変わらない。変わらないのに、新しくなっている事も多くある。店員さんの髪色、客層、お店の空気。時たま、他で遊びたくなって他にも行ったりするが、私はここに戻って来る。安心だけじゃない何かがあるのだろう。でも、多分、この先もここに足を運ぶのだ。私にとって、今の煙草とシャルマンは同じである。大事に長く。そして、いつか来る新しいをまた、堪能して、また更に通い続けるのだ。

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俺ぁ、分かんねーからよぉ

個人的に好きな街TOP3に入る浅草。そこには時代は残り、時代が入り込み、そして時代を追い越す。浅草の何が良いんですか?と問われると、やはり「時代」が残っているのが一番だろう。浅草は、建物がやはり低い。低くて、堅い。「てやんでいべらぼうめぇ」と言うよりも、「俺ぁ、分かんねーからよぉ」の方が似合う。そのなんだかハニかんだ照れ笑いがとてつもなく愛おしい。否定はせず、自己を下げる。下げるからと言って品が消える訳でもなく、「変わらない」「変われない」や「変わりたくない」のではなく「変えようがない」のが、また私の目の緊張感を緩ませる。頑固とは言えないが、とにかく堅い。その部分が一番好きだ。 変えようがない彼に沢山の人が世話を焼く。新しいものを数え切れないほどに渡されてしまうのだ。周りのお節介が、彼の魅力を更に引き立たせる。流行りを入れれば、どこか独特で乗り切れず、古いかと言われると、そう云う時間の概念ではない。ナチュラルに見てくれが良いものではなくなる。なんだか、遠巻きで見ていると、彼は「なんだこれ。分かんねーな。」と。そして、少し置いて「ありがとよ」と言って受け入れる。気に入ってるのだ。物が良いとか悪いとかではなく、ただ「貰った恩義」が嬉しいのだ。お節介した側も、最初は「違うんじゃない?」と自身をも疑う細めた目で見ていたが、今にも「へへん」と聞こえてきそうな程に鼻高々に嬉しそう。露骨に喜んでいる。 それを見ていた世話を焼きたいやつらも、こんなに喜んでくれるなら、もっと喜ばせたいと自分の良いと思うものを「これでもか!!!!」と彼が溺れそうな程に分け与える。彼は嫌がることはしない。ただ、彼には信念もあるらしい。「らしい」のは、誰にも分からないからだ。彼はおしゃべりじゃない。それは所か、言葉を発することすらもあまりしない。たまに表情を変える程度だ。それは周りを思ってのことなんだろうなぁと、私は想像している。それと同様にたまに勘違いをされて、嫌なことも言われたり、責められている所を目にしたこともある。庇おうとする「良いんだよ」と言う彼に少し腹が立つこともある。ただ、彼はいつも誰かを受け入れる。その器の大きさは、計り知れない。 ある日、いつもの様に彼の元へ行くと何かが違う。先日、今まで渡された物をぎゅうぎゅうに抱きしめて、それを自分の一部にし、新しい自分を作り出したらしい。それについては誰も言及も追求もしない。何故なら、彼は何も教えてくれないからだ。ただ、先日までの頂き物を大事に大事にこぼさないように丁寧にぎゅうぎゅうと仕舞い込んでいたらしい。「らしい」のオンパレードにもどかしくもなる。もっと早く教えて欲しかったよぉ。とはいえ、新しい彼も、やはり愛おしい。好きになったら負けなんだなぁ。受け入れることしかできない。そして、また今日もまた、沢山のお節介が彼に押し寄せる姿を遠巻きに見ている。 私はやっぱり、彼が好きで好きでたまらない。これが俺だと決めつけてくれるなと言っている様な気がするが、明言されたことはないから分からない。彼はおしゃべりじゃない。少し聞きたい気もするが、そんなん野暮だろう。不器用で憎めない、そんな彼だけど、良い距離感のまま付き合っていきたいとも思っている。 新しくなったはずの彼は、今日も「分かんねーからよぉ」と顔を赤らめている。 時代は残り、時代が入り込み、そして時代を追い越す。そんな浅草が私はやっぱり好きだし、今日も確りと足を運んでいる。

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きっと私は大丈夫

新宿駅から歌舞伎町に向かって、徒歩10分…いや、15分。絵に描いたようなネオン街を抜けた先に、いつまでもその出立ちの変わらないコーヒーショップクールが見える。用事と云う用事が無いと来ないが、その数少ない機会の多くにその席を使う。 私は思い出の記憶を重ね合わせることが上手な人間で、何故か時折、嫌なことが重なると、「ほら、やっぱり」とまるでノストラダムスの大予言を信じていたあの頃の世間様の様に色々な事を合算して考え、振る舞い、嬉々として民に言い広める。店側にとっても、友人にとっても迷惑極まりない。それなのに、逆の立場であれば「何言ってねん」で済ませてしまったりもする。簡単な話、すぐに「ここではOOOと昔、喧嘩したからなぁ」とか「こう云う日は気を付けなければ!!!!」と「自己決定の速さ」と「信じて止まない頑固さ」が自分の熱量がバロメーターをぶっ壊わして、戦々恐々とするとこがある。 とは言え、私はこう言う迷信めいた話は嫌いではない。ただ「自己決定」までの早さと、それを信じて止まなくなってしまう頑固さは、生きる世界がネットだけの人生だったとしたなら、恐らく、何人もの人を傷付けていたであろう。本当に迷惑なやつである。大迷惑。普段からそうと云う訳ではないが、なんか取り敢えず、答えを出さないと嫌な性格なのだ。 話は戻るが、その「自己決定の速さ」と「信じて止まない頑固さ」が「場所」にタグづけされることによって、「嫌なことがあった場所」にはなるべく行かない様に筋肉に伝達するので、そのお店に極端に足を運ばなくなる。今日もそうだ。いつもここに来ると…なんて言って懸念していた。ただ、「いつもの記憶」を「その時の単色な感情」によって、いつもの頑固さは失われ、足を前に進めた。 店に入り、真ん中の席へ。火を付けた頃、携帯が鳴る。「やっぱりね」と言う言葉は脳の引き出しの一番手前に準備しておいた。そうなると気分はまるで卑弥呼様の如く、大雨を的中させようと自分も他人もまるで、自分の手駒の様に動かそうとしてしまう。本当に迷惑な脳である。本当に書いている自分も既に嫌気と疲れが見える。 視界がぼやける。 ただ、今日は「いつもとは違う」。なんだか久し振りだからか土地柄か、落ち着かない。その落ち着かない分、「律しよう」とするので少しずつ焦点があっていく。少しずつ考える。考えたら考えた分だけ道筋が出来上がる。もう少し深く、もう少しだけ深く。考えたら考えた分だけ、解像度が上がる。上がった解像度は俯瞰的に、遠くで、距離をあけて見ることができる。深くなんて考えなくて良い。近いからこそ見えない部分が見えてくる。奥行きなんて考えなくて良い。もっと平面だって良い。ただ、遠くから全体を見る。そのまま目を瞑りかけるが、そこまでは行かない。確りと見る。考えない。見れば見るだけ解析される。解析されたもの。それが現実であり、それが本当である。こぼさないように、こぼれないようにすくい上げる。すくい上げたものだけが手に残る。その感覚で良いのだろう。空に逃げる煙を追い越すように息を吐く。どうしようもない、どうしようもできない。だから、私は決め付けることで自分を守っていたのかもしれない。 多分、きっと、そんなに大きい問題では無い。大きくしていたのは自分だ。近過ぎた分、大きく見えていたのだろう。きっと私は大丈夫。頼りない店内の暗さも相まってなのか、見えるビルの寂しそうな背中を見て「こっちから見えることもあるか」とこぼす。偽善者に見えるだろうか、それとも一過性の感情に覆われて見えるのだろうか。空っぽのグラスはまた、溢れ返すことはあるのだろうか。ただ、今の私にはどうでも良い。考えない。考えなくて良い。その見える景色を十二分に堪能するだけで、きっと私は、それだけで良いのだ。グラスから聞こえる、氷の滑る音を頼ることも、私には大事なことだったのだ。 ーーーーー コーヒーショップ クール JR各線 新宿駅徒歩10分 西武線 新宿駅徒歩3分 定休日無し 8:00〜6:00

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自己中

「今の私はどうですか?」そんな事を聞くのは少し歳の離れた後輩。正直、とっても興味がない。興味はない…。言葉に濁り無く言える。とは言え、答えないと場が終わりそうにない。無視は禁じ手だ。聞き逃したとするならば、きっとボルテージを上げてもう一回、いや、攻撃性を増した状態でリスタートとなる。こうなったら、何を答えても、きっと夕飯には帰れない。私は昨日、カレーを多めに作った。豚肉を大きく切り、食べ応えのある物にして、この幸福をもう一度と言わんばかりに少し控えめにし、今日まで持ち越した。3日目のカレーは少し危ないし、その時にはそれこそ興味を持っているか甚だ疑問である。違う。そんな場合じゃない。 まず、一回冷静になろう。「今の私はどうか」。知らん。髪切った?いや、会うのが久し振り過ぎて、最早記憶にない。綺麗になった?いや、そこを聞かれているのであれば、もう少し早く、出会った時に触れて欲しいであろう。タイミングを逃し過ぎたから今なのか?出会い頭で既に「なんか今日じゃなかったな」って気分を払拭する為に、カフェに行く早さが尋常じゃなかった気もする。だとしたら、もっと機嫌が悪くても良さそうだ。悪いのに良さそうとはこれ如何に。やってる場合じゃない。タイムリミットは迫り来る。なんの歌だっけ。迫り来るタイムリミット。笑ボ(Berryz工房の笑っちゃおうよBOYFRIEND)だ。あれもこれもとチョイスノンノンガンバットカントシッラーンデー。違う。もう家に帰ってyoutubeを見漁りたい。ハロオタとしてのレベリングには多少自信があるので、シチュエーションに合う楽曲探し(歌詞探し)がすごく好きである。思わず、ニヤけると 「分かりました?」 すまん。全然考えてなかった。ベリオタ発揮して、今、頭の中で図書室待機していた。ガシャガシャの音。ガンダムみたいとキャッキャしてた。なんだ。何がこうも君を掻き立てるんだ?全然関係ないが、最近はOCHANORMAにハマっている。運命かもチャチャチャちゃーん。きららちゃん良かったね。大好きなThis is 運命感のある曲貰って良かったね。レコ大最優秀新人賞も貰えるかな。べりとオチャってなんだか、とってもポップでキュートで既視感があって好き。数年後にはトムとジェリーみたいな事になってるかな。ワクワクすっぞ。オラ。ワクワクすっぞ! 「ヒント聞きたいですか?」 もう、ずっとふざけていたい。そして、そのまま帰りたい。そのまま帰って寝たい。違う。カレーを食べるんだ!カレーを食べながらyoutubeかDVD見るんだ。カレーと言ったら、モーニング娘。なのに。夕飯がモーニングとはこれ如何に。違う。もうお前も私の中の私も勘弁してくれ。最早、興味が無いを通り越して怒りさえ覚えている。 「ヒントはー!シルエットです!」 もう、本当超どうでもいい。愛の弾丸しか出てこない。なんとも言えないPVに唸ったことしか覚えてない。当時のベリの迷走が今、一つの道標になるなど、私は微塵も思っていなかったよ。ありがとう!千奈美に梨沙子推しでした!どんどん化粧が濃くなって、髪色も安定しないアイドルが好きでした!!!!!好き過ぎて、顔が若干似たもんね。好きなものに似るって本当よ。だって、ずっと見てるんだもん。しょうがないよね!イエーイ! 「正解はー♡」 ピンチはチャンスってか。突如として光が見えた。往年の菅谷梨沙子や。終了終了言われてたけど、引退間近に引くほど綺麗になってて、推してて良かったと改めて実感したもん!!!!最後のツアー・PV、美し過ぎて、私もなんだか美少女だったもん。好きなものに似るって本当よ。だって、ずっと見てるんだもん。しょうがないよ。しょうがない。 「2キロ痩せたんですよ!!!!!結構、シルエット変わってません?」 おーお願い、お願い、お願い、ねーーーーーーーー!

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ひと休み

「喫煙者」を10年以上やっていると、謂わば馴「染みの店」と云うのがいくつかある。その中の一つがカフェmocoだ。ここでも色々な思い出がある。とは言え、思い出が濃い、深い色ばかりかと言えばそうではない。最初の頃は若さも相まって、用がある時にフラッと、時に待ち合わせの時間を潰したりと「ありふれた場所」として。そこから、年齢が上がるにつれ、店内の雰囲気や空間が「良いよ」と肩を撫で、足に根を張る様に身体の筋肉が解れていく感覚が心地良くなり「休憩出来る場所」として。そこから時間が経ち、禁煙ブームや受動喫煙防止条例の影響もあって「出先でタバコを吸う」難易度が上がったここ数年では「安心できる場所」として、自由に利用してきた。「自由」はとても有意義で多様性のある広義なもので、考えない稚拙さ、枠組みの窮屈さ、先の見えないもの恐ろしさを感じていたが、膨大さからくる可能性、広大さから来る選択、寛大さから来る安堵など、私はそんな「自由」を少しずつ、ここで学んだ気がする。長年のツレの様な、育ての親の様な、なんとも言えないが、とても良いやつだ。 今日だって、欠伸(あくび)をし、腹を伸ばし、また欠伸をし、書きたいと思ったら書き、聞きたいと思えば流れるBGMに耳を傾け、空間に身を委ねる。何度も目を閉じては開け、また欠伸をする。実家よりも実家である。本当の(本当の?)実家には何年も帰っていないが、ここには数ヶ月に一度。長くても一年に一度は足を運ぶ。たまに、ちょっと怠いなぁと思いながらも、用事のあった場所から歩幅を伸ばしてでも向かい、「やっぱりここは良いなぁ」なんて気持ちでソファに座る。飯も美味い。大好きな大きいホットドッグはやっぱりテンションが上がるし、普段食べないポテトチップスにも手を伸ばす。出されるパスタの入れ物も、飲み物のカップも、目にする度「昔からこれやなぁ」と昔に懐かしみ美しむ。 ここ最近は嫌なことが続いた。全部自分が招いたものだが、全部自分が悪いのかと云うとそうでは無いと思いたいが、自責の念や自信の無さから言い切れない。ただただ、煮え切らない。煮え切って消してしまいたいが、量が多くて熱も足りず、中々無くならない。自分の甘さでとろみも付いて焦げて残ってしまう可能性もある。いや、恐らく焦げ付くだろう。あの頃は帰って来ないが、未来に託すには不安が付き纏う。結局、自分のせいだからと言い聞かせるしかないが、自尊心が首を縦に降らせない。優しさを受け入れるにも、ちょっと難しい。そんな状態で状況で情報だ。 ただ、そんな私でもここは受け入れてくれる。思考を止めるかのようにクリスマスキャロルやゴスペルほーりなーいが流れる。考え過ぎなのか。それとも一回休めと云うことなのか。私は目を瞑る。少し時間が過ぎて、今度は鈴の音がポップでキュートな音楽が。心地良いドラムの音も相まって、少し楽しくなってきた。聞こえる声もソウルフルだが押し付けない。来た時よりも少し元気になっているのを感じた。「そうでなくちゃ」。いつの間にかカップの中の珈琲もなくなっていた。大きい欠伸がまた一つ。最後に溶けた氷をひと啜り、壮大なBGMと共に火を灯す。徐々に煙が立ち込め、短くなっていくそれを見る。大きな深呼吸と共に、小さなお皿に押し込めて火を消す。 今日、ここに足を運んだのは自然なことだったのだ。行ってきます。と思わず。優しい声で「いってらっしゃい」と聞こえた気がする。少し早い、また来年。を背中に、重い腰を上げることにする。いつもより少し遠回りして家に帰ろうと思った。

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ひと休み

「今どき」さんと「イマドキ」さん。

「今どき」さんと「イマドキ」さん。 人は時に「時代」に照準を合わせた感性で戦いたい時がある。その時、自分の感性をここぞと言わんばかりに放出するが、これは一種のギャンブルの様なものだとだと思っている。一か八かの勝負。 持っている情報が、「昔」が「今」を越える「腹を括って時間を止めた」状態、若しくは「今!今今今!と言わんばかりの鮮度の高さが高い」状態、のどちらかであれば、「NOW」が相手の懐に入り込み、身体中をシビれさせ、「イマドキ」メダルが溢れんばかり落ちてくる。ただ、その「NOW」が相手の懐に入れなかった場合、音数が少ないからこそ自由に全ての感情をメロディックに浴びせる事ができる「はぁ」の、諦めから来る活力なき一番ダメージの高い「はぁ。。」に精神を削られ「失敗」に蝕まれる結果となる。このギャンブルは「母親の揺るがない価値観を変える」と同じベクトルで難しい。母親ほど自分の「固定概念」を信じて止まない生き物はおらず、その「固定概念」は毎秒強くなり、その固定概念から形成される「価値観」はダイヤモンドより硬く、その強度の高い母親から放たれる嫌悪感ほど窮屈なものも無い。ただ、みんな「心の中に小さなオカン」を育っているのも事実で、みんな平等にオカンである。 (全然関係ないけど、後半の文章を読み直して、自給自足でお腹を抱えて笑うのを我慢して、喫茶店で二つの意味でカタカタしながらキーボードを打っている。)(天才かと思った。)(書き進めて、もっかい読んだけど、そこまでじゃなかった。はしゃいでごめん。)(そんなことはどうでも良くて、) 情報発信者として「今」や「昔」を使ったテーマは難し過ぎるし、ギャンブルである。しかも、「比較」や「当時(今)を慈しむ」とかそんなに深いテーマでは無い。「いまどき」が100来る。受ける側によって変化する「今どき」と「イマドキ」は、通常、空気感とともに、発言者の対応が大きく変わる。ただ、ここは一方的に情報を投げ、受け手の反応をすぐには受けない場所である。それがインターネット。ただ、今!私は今!大きい文字で「今」と「昔」を使った発言を言いたい(書きたい)。一か八か。私は普段、ギャンブルをしない。運に身を任せるよりもコツコツ動く方が好き派だからだ。ギャンブルが嫌いとか否定したいという訳ではなく、ナチュラルにジッとできないやつなんだと言う印象を持って欲しいの方が近い。前述した様に、要約すると普段はギャンブルをしないが嫌いでは無い。故にたまには運に身を任せたい。成功確率としては五分五分だろう。離れるか留まるかの二択だし。 ただ、みんなのオカンが束になって襲って来る可能性がある。みんなのオカンは時として、個から大きな群として成り上がり、大きいオカンになる。大きいオカンは怖い。幽霊やお化け、モンスターなどの切羽詰めて追い込んで行くタイプの恐怖では無く、自分の何かに気付かされ落ち込んだり、自分をもう一回問わなければないタイプの恐怖だ。後者はしんどい。自分の意見を「間違い」と見做し(みなし)、みんなの納得を買わなければならない。生まれてから今日までを振り返り、時間と労力を掛けて反省した様な態度で「新しい自分になりましたよ?」と言う顔をしなければならない。屈辱でもある。絶対に反省しないのに。裏で「何があかんのや?」と軽キレするのに。偽りの自分を作って、明日から嘘の笑顔を振り撒かき、「俺のこと誰も分かってくれない」と言う言葉を大きくして、反抗心を糧に悪行を働かなければならない。反抗期よ、もう一度…反抗期よ、もう一度と書くと、なんだかもう一回青春が出来そうな気がしてくるな。大人から愛を受け入れ「信じる心」を取り戻す機会も与えられそうである。オカンもなんだか泣いてくれる気がする。オカンも喜んでくれる気がする。言おう。言ってみよう。言って楽になってみよう。考えることよりも行動だ。みんなの心の目を真っ直ぐに見つめて、胸を張って言おう。 みんな。聞いて。聞いてください。私の発見です。言わないことよりも言ったら、言うことで、声にすることで、私、また変われる気がするから。みんなに聞いて欲しいの…あのね… 「私は今、このご時世に駅ビルで喫煙が出来る喫茶店にいます!」

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「今どき」さんと「イマドキ」さん。

今日と昨日まで

「当たり前」[名・形動] 《「当然 (とうぜん) 」の当て字「当前」を訓読みにして生まれた語》 1 そうあるべきこと。そうすべきこと。また、そのさま。「怒って―だ」 2 普通のこと。ありふれていること。また、そのさま。並み。ありきたり。「ごく―の人間」「―の出来」 参照・抜粋 https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%BD%93%E3%82%8A%E5%89%8D/ 「ディナーです」と言って右手で客人に料理を見せ、瞬間的に感覚や思想を察知させ品評されるお屋敷の主人に似ている「当たり前」と云う言葉。「大切」や「尊い」などの崇拝・崇高だと感じるワードを共有するに当たっても使われる。代用品としてよく登場するのが「絶対」だったり「必ず」と云った「永久保証」を約束された言葉だと思っていて、それにはとてつも無い信用が必要で器用で不器用な奴らである。見た目に伴わず、使用カロリー数がとっても高いのもそいつらのやり方だ。「絶対」と「必ず」は多くの場合達成されない。戦地に行く際に「必ず帰る」と言おうもんなら本体が戻ることは無いし、「絶対に迎えに行く」と言われても大抵迎えには来ない。とは言え、時たま遂行されることもあるが、その頃には色々と変更点が多くみられ、酷い時には邪魔者扱いされることだってある。そのくせ、「当たり前」はとても良いやつだ。ただ、「当たり前」は「永久保証」よりも「品質保証」に近い。それに「当たり前」は守備専門なので、先行で打たないのも魅力的である。「言ったからにはそれをありふれたものにしますよ」とか「貴方の思いや思考と同意義ですよ」なんて、少しお控え擦っているのも可愛い。それに意地や親切みたいなものが見えてとても愛おしく、そして、大きく背中を支えてくれる。 上野駅からすぐのところにあるギャラン。大人になった私は今でも悲しくなったり、寂しくなったりすると子どもに戻りにくる。今日は慰めてくれる友人と苦い経験をした私がそこにいる。自我を持って昭和を生きていない私にとって「これが昭和かぁ!」とタイムトリップした様な気分になれて好きやねんって事を覚えていてくれたのだろう。それに私は子供の頃からおばちゃんに連れて来てもらっていたし、大人になった今でもこの場所を利用している。少し古びた出立、何年も変わらずに出迎えてくれるギラギラしたホール、少し背の高いソファ、背の高いアイスコーヒー、昔はメロンソーダが好きだったなぁ。いつまでも変わらずに私を受け止めてくれる。「変わらないギャラン」は「変わった自分」をいつまでも子供の頃にさせる。ここで沢山の人生を見てきた。パンダを持った女の子、ブカブカの背広のおじさん、ロングのソバージュを掻き上げる女性たち、甘栗を袋いっぱいに持つおばさん、夏はこれよねと言って頭を抑える奥様方、一つのパフェを分け合うカップル、キャリーバッグを一生懸命持ち上げる外国人、嬉々として話をする友人、生クリームに喜びを隠せないスーツのおじさん、タバコの数を競う様に時間を共にした大好きなあの人…。ここが所謂、ダウンライトの落ち着いた喫茶店だったのなら入って来なかったであろう景色が、ここでは沢山目に入ってきた。店内のキラキラした照明がいつでも輝いてみえ、全ての人たちに輝きをもたらす。疲れてるであろう人たちもなんだか生き生きとしている様に感じる。 ごめんなぁ。わざわざ、ありがとう。 「ええねん。友達やん!」 思わず、天井を見上げるとオレンジの光が視界を埋め尽くす。 パンダ見れへんかったね 「次があるって」 甘栗そんなに買ってどうするん 「失敗は成功のもと」 ここ良い店でしょ? 「大丈夫。時間経ったら会えるよ」 また来たいね。 「考え過ぎないで!ね?」 次は二人でさ 「すみませーん。注文いいですか?」 『メロンソーダ』 『好きやろ?』 当たり前やん。 ありがとう。

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今日と昨日まで

探し物はなんでしたか?

ここ三年、拠点にしているのもあって渋谷に多く足を運ぶ。それこそ、一昔前で云うと所の「ギャル」と同じように飽きもせず、雨の日も風の日も、それこそ今の情勢になってからもよく足を運んでいる。三年よりももっと前の数年前。一度、渋谷が拠点だったことがあるが、その時よりも密度が濃い。それは恐らく、その時よりも今の方がこの「渋谷」を堪能しているからかもしれない。その当時はカフェでもどこでも、それこそカラオケ屋さんでも、多くのお金を使わずしてもタバコを吸いながら時間を潰せるところがそこら中に存在していた。だから、チェーン店で済んでいたのだろう。チェーン店が悪いとか格下だとかと云うことではなく、単純に何かを思い出すのにはありふれ過ぎている。マクドナルドでの思い出はあるが、どこのマクドナルドだっけ?となる様なものだ。喫煙者が追いやられる昨今。当時よりはお金も持っているのもあって、自分との利害が一致している場所に足繁く通う。私にとって渋谷にある「珈琲店トップ」がそうだ。「街」に対して「場所」が明確に鮮明に色付く。だからこそ、良いも悪いも酸いも甘いも鮮明に記憶される。ただ、厄介な事もある。それは上書き保存にはならず、フォルダ分けされて、自力ではゴミ箱に入れられず、徐々に後に追いやらねば、永久に目に付くという事だ。時たま、自我があるのかしら?と見間違う程に追いやっても前に来たりもするから厄介でもある。それだけ多く使って来たのだと思うが、時して残酷で「大事にしておきたかったのに」を奥底に仕舞い込んでしまうことも多くあるのだ。そうなると見つけ出すのは至難の技で「なんだったっけ?」と考えた時にはもういなくなっている事だってある。今日もそうだ。大事にしていた、大事だと思っていたあの時の出来事が思い出せない。フォルダを漁るが出てこず、かと云って、他のフォルダに手を出してみるが、そこにも見当たらない。 あの時の記憶 渋谷 トップ ない あの時の記憶 2人 渋谷 ない あの時の記憶 2人 珈琲店 ない 思い浮かぶ言葉を何通りにも検索するが出てこない。「もしかして?」の中に入ってみたが、追いやった記憶と目と目があっただけで勝負を挑んできた。戦っても戦っても削れない。Bに振り過ぎたハピナスなのか?お節介にも程がある。その脳の親切は時に人を傷付ける。 おいおい。2人いて、どっちも声に特徴があるってどう云うことやねん。高くて鼻に掛かる声と、低くて喉から出る声って0・100やぞ。そして、これが声量もデカい。退勤時間には3分早くないか?時間ピッタシに帰らないと10分か15分ぶんの給料入らないぞ!さっき、ちょっと怒られてたんやんな。思ったよ。裏でやれよって。その気まずさは客にも伝わってるぞって。ガムシロ入れな、レモンティは甘くならなんよ。キレな。そんなにキレな。入れたら甘くなるから。待て待て。その子は多分、今日出勤せんよ。2日無断欠勤は、恐らく飛んでるぞー。給料日後なら特に。不思議よね。給料日から2日は働いてるんだもんねぇ。でも、多分、飛ぶ準備だったんじゃなーい?日払い切ってるんでしょ?待ってー!ちょっと待ってー!昔の同僚の記憶は今必要ないよー!初日の5時間後に急にいなくなった彼はの記憶は、多分、今後も検索しないよー。声、やば。小さくしてても大きいってすごいな。腹筋強いんかな?そう言えば、仲良かった後輩はフィジーク出たんかな?フィジークがなんだかよく分かってないけど。今じゃないよー。あーーーーーーーーーーーーーー。 お腹空いてたことを思い出した。ただ、今日はお腹いっぱいだから、少し散歩して帰ろう。昔、通い詰めてたマクドナルドも歌広場も、この一年、色んな葛藤があったこの店のダウンライトが明る過ぎて目がいた…。………。もしかして、別の店舗かも? ・・・。・・・・・・・・・・。 なんで、ピースしたん?!?!あ。二人で来たのか。はぁーん。またフォルダの中身が増えてしまった。

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探し物はなんでしたか?

ちょっと待ってよ、アンジー

今日は所用で相模大野へ。大学時代に使っていた小田急線。なんか感傷にでも浸ったりするのかな?とワクワクもするが、当時の電車の記憶で行くと役2時間半掛かる通学の1時間40分ずっと乗りっぱなしだったこと、その1時間40分を睡眠に使っていたこと以外の記憶がない。大学時代にそれこそ所謂ロマンス♡や青春☆みたいなものも勿論あったが、その中に「小田急線」の文字は入っていない。ごめんよ。小田急線。小田急線だって、好きで入って来ない訳じゃない。私が入れてやれなかったのだ。あの頃の自分に言ってやりたい。全て大事に生きなさいと。ただ、今日の私は違う。必死に脳を回転させ、記憶の隅々までを必死になって探す。結果として何も出て来ず、過ぎゆく景色を背に電車にただ揺られていた。そう言えば、当時仲の良かった奴らの自分を含めた5人中3人が学校にほど近い寮だった。あと1人はどこだったか思い出せないが、毛頭、部活で私だけ、講義が終われば別校舎に移動だったし、部活のメンバーの多くが逆側の電車に乗るので、本当にマジで何もなかった。「悲しい」よりも先に何だか笑ってしまったが、それも人生かなと。 そんなこんなで相模大野駅。スケジュールよりも早目に到着し、向かうは「カフェ アンジー」。「相模大野スペース喫茶店」でググると、チェーン店が並ぶ中上の方にぱっと出てくる。「アンジー」。片仮名のたった4文字の羅列だが、自分の名前がよもや「ダニエル、通称ダン」になったかの様な気分に確かに心が踊った。相模大野駅南口から徒歩1分。目に飛び込んでくるのは喫茶店の看板よりも隣の建物の看板。一瞬、迷ったが心落ち着かせて、それこそ「ダン」だけにダンダンと看板に焦点を合わせていく。 「ちょっと待ってよ、アンジー」 やっぱりそんな台詞を言いたくなる店名にワクワクしながら入店。空いてる席に自由に座って良かったらしく、分からずにモジモジしている私を「新参者」と言わんばかりに「はぁ」と視線をそらし、奥に去っていく女性の真っ赤な口紅が印象的だった。ただ、その一瞬で一気に映画の世界に溶け込んだ様な気分になったのは恐らく、整理されてる訳でも、綺麗を売りにしている訳でもない店内の雰囲気もあってだろう。注文は自分からカウンターに行くと知ったのは、馴染みの客の行動を見ての事だった。いそいそと奥のカウンターへ行き、アイスコーヒーを注文。すぐ出て来たアイスコーヒーのドリンクグラスに取っ手が付いたものであるのも視界をセピアにする。 入って程なくした18:00。店内のBGMと店内の電気が消え、元々あったテーブルライトの明かりが強く感じる。外から聞こえる車の音が耳に入ってくる。こんなに車の速さをハッキリと感じたのは久し振りだ。それほど空想の世界に溶け込みきった少し後にノイズが聞こえ、しばらくするとジャパニーズジャズが流れ始める。時間の流れと音楽に身体を預けていると先程の女性と目が合った。「ハァイ!アンジー」と眉毛と目で会話を始めたい衝動と闘う私を尻目に彼女は後ろの席に座った。アンジーはアンジーでは無く、先程この店の流儀を背中で教えてくれた馴染み客の連れだった。 アンジー。空想が幻を生んで、君を連れ去ってしまうところだったよ。 何だか少しの寂しさと儚い夢の時間を噛み締めながら、テーブルから立ちトイレに行くと映画のフライヤーがそこら中にぎっしりと詰まっている。「なんだここに来る全ての思念が自分を乗っ取っていたのか」と、全米が立ち上がりポップコーンやらリンゴやらの食べかすが投げられてもおかしくない自己防衛本能から来る責任転嫁したところで席に帰りふと前を見ると誰も居ないはずの席に愚かなで図々しいやつがいる。現実世界に戻してくれたのは透明な卓上パーテーションだった。 ちょっと待ってよ、アンジー そして、さよならダン

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ちょっと待ってよ、アンジー

エッセイ smokes daydream

「好きなものはなんですか?」 昔、そう聞かれて即座に答えられる程の「好き」と今まで出会って来なかったのだと改めて気付かされた。文章面、少しネガティブな印象を受けるかもしれないが、そんな人生を掛けた様な話ではないし、例えるなら「あ。洗濯機の中に洗濯物入れっぱなしだったー!」程度のものである。とは言え返答に困っていると 「じゃぁ、趣味は?」 好きなものをパッと答えられ無い人間としてはその「趣味=好きなものでは?」と少し意地悪な思考に陥ってしまう。 もし、例えば私が「筋トレ」が好きだったとしたら、暇あれば「ダイエットしなきゃ」なんて思うことは無いだろうし、「アロマ」が好きであれば、恐らく1週間部屋の掃除をせず、深夜に唐突にゴミ袋を広げることもないだろう。こう云う時の頭の回転の早さには自分でも驚かされる。更には「逆に何が好きなの?」なんて質問返しをし、「へぇそうなんだ!それって、どれくらいの…」なんて気の利いたMCを気取る事でその場を凌ぐこともできる。時間はあっという間で、相手の話を一頻り(ひとしきり)聞き、満足そうな表情を見て、こちら側としてもやり切った感と変な達成感に気持ちを昂揚(こうよう)させコーヒーを飲み干す。最後に「何か見つかると良いね」と言われて、その高揚感は一気に消え失せた。 帰り道、そう言えばと学生時代から振り返る。「好きな事=部活」だったり、大人になってからも「好きな事=仕事」として成し遂げて来たので、もうこうなると「好きも趣味も仕事です!」と汗をかき、腕捲りをした健康的に日焼けした黒髪短髪の頼れると呼ぶに相応しい兄貴みたいな返ししか出来ない。平成を飛び越して、昭和を令和に持って来てしまっている。そして、「休みの日何してるの?」と聞かれ無くて良かった。とも思った。昔の私の三大困難質問が上記の3つであった。ただ、その時に改めて向き合ってみた。 20歳を迎えた月頃、一つ年上の先輩、小柳さんと久し振りに「会わないか?」と連絡が来た。小柳さんは風に吹かれたら消えてしまいそうな儚く頼りない細い眉毛と踵を器用に上手く使いながら大股で歩く。そんな彼と「成人のお祝い」と称した少々のお酒と、ただ久し振りに先輩と後輩と云う時間を楽しむだけの提案だった。久し振りの割には会話が弾み、何でもない話が続いたあと、小柳さんは「灰皿ある?」と聞いてきた。「ありますよー」と云って空き缶を差し出す。当時、小柳さんは友人の溜まり場だった私の部屋には当たり前にあると思っていたのだろう。「灰皿」と「空き缶」の区別すら付かない私に「灰皿じゃないやん」と少しキレの悪いツッコミの後に、セブンスターのBOXから一本タバコを取り出した。「あ。タバコや」とは思ったものの、家族総出で喫煙一家だった私は嫌悪感はなく、小柳さんのキャラクターも相まって、すんなりと受け入れた。 早い内に家を出てしまった実家の消えかかる記憶では母がマルメラ、おばちゃんがパーラメントのロング、おばあちゃんがパーラメント、おじいちゃんがラッキーストライクを愛好していた。私は、自営社長で市や県と連携して仕事をし、巷では有名人だったおじいちゃんに対して、絵に描いたようなおじいちゃんっ子そのもので、おじいちゃんの仕事に行く時も、休憩の合間でも何かに付けてひっつき回って歩いてた。それもあって、何だか「ラッキーストライク」や「タバコ」は私の中の「格好良いもの」の象徴になった。そして、それは鮮明ではないものの、今もどこか背景の片隅で他の物に重ねられる事無く、そこにいる。 時は戻り、小柳さん。小柳さんに対しては「格好良い」よりも「なんだか面倒見て貰った」に近い感覚で、今考えれば「気にかけてくれていた先輩」が一番しっくり。そんな小柳さんがセッタ。当時、セッタには所謂「やんちゃ」な人のイメージがあり、そこまで良い印象が無かった。セッタ。セッタ。セッタ。とは言え、吸い慣れている様に映ったその姿が当たり前にそこにあった。何故か、まるで誰かのお弁当の卵焼きを貰うデリカシーの無い感じで「僕も貰って良いですか?」と言った。「重いぞ?」なんて、やっぱり兄貴気質な小柳さんの憎めない返しを空に流し、一本手に取ってみる。マッチで火をつける、やっぱり小柳さんな小柳さんに火を借り、身体にすんなりと「ニコチン」を受け入れた。「うまいか」と聞く小柳さんにわかる訳ないやろと言いたい所だったが「先輩」小柳なので「良いですね」と返し、私はそのまま一本を吸いきった。そして、また何でも無い会話と少々のタバコを頂いたあと、小柳さんを送り、その足でコンビニでタバコを買った。それが私とタバコの馴れ初めであり、初めての「喫煙だった」と記憶している。私の人生はここからの記憶の方が割とハッキリと覚えている。この日から私の人生にはタバコが「思い出のそれ」だけではなく「自分の日常にあるもの」に変わった。小柳さんとのその後は私の引っ越しを機にいつしか無くなって行ったが、「喫煙者」としての私を作り上げた小柳さんが私の記憶から消えることは無い。 冒頭に戻るが、それでは今、「好きなものは?」と聞かれた時に「タバコ」としてみる。紙、電子、手巻き、煙管もパイプも葉巻も全て触りはしたが「没頭」や「熱愛」とはまた違い、「イキってるだけじゃないもん!」と云う小さいプライドと自尊心がそうさせないのか、「内縁の妻」を紹介する様な少し濁った返しになってしまう程度にピンとも来ない。とは言え、タバコは好きだし、別れる気もない。それこそ「好き(ではあるけど、お前のことを好きなやつは沢山いて、お前のことをそこまで知らないから、心の底から好きと言っている人ほどではない)」と色々と付ける事で言葉にはできる。あの時の私はタバコが好きなことがあやふやだった。 解決しないといけないのは「好き」だけではないので、次には進める。「趣味はなんですか?」。来やがったな。昔の私は稚拙なクセに頑固で、故に淡白に物事を捉えていた。だから「趣味=好きなもの」として扱って居た。真面目ちゃんな私は「趣味」を確り調べてみる事にした。検索すると「専門としてではなく、楽しみとして愛好する事柄」と書いてある。好きがないといけないっぽい。好き。すき。スキ。やっぱり「好き」が必要なのか。私は、いつでも頭の中を言葉や記号がぐるぐるしている。上記で書き連ねた様な昔のことだったり、目の前に起きた全ての物事に対して、あーでもないこーでもないと思考を巡らせることは、とても楽しい。もし、「趣味」の「楽しみ」を抜き出すとしたら、考えることは何に縛られることもなく、自由に伸び伸びとやれる。「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」ばりの物語を終着地点の見えない、まるで初めて乗った鈍行電車の如く不安気に、時として特急快速の如く爽快に文字を並べ連ねたりと、脳の中にある自分のお気に入りBOXに仕舞い込むことは好きだし、よくやっている。それは自分一人だけの物にもできるし、「聞いて聞いて」と嬉々として友達を捕まえては発表会を開催したりもする。それは時に品評会となり、友人の「ここ最近の1番で賞」を頂けたりもするの。好きだぞ!考えること! 「考えることが好きで趣味ね?」 ここまで来たら、今まで「好き」が無かった期間分の「付け足し」 はもうちょっとしたい。三大苦手質問の最後に着目する。「休みの日は何してるの?」と云う、聞くカロリーと返すカロリーが同じだと思うなよ?!?!?と思わず吐き捨てたくなる質問。それを知った所で何になる?特にこの質問に関しては、お互いの得が見つからない。好きなものや趣味は共有し拡大出来る可能性や返しによっては好感度みたいなものを上げる効果があると思うが、「休みの日に何をしているか」なぞ、その時によるやろ!!!!と、今まで書いて来た落ち着きも豊かさも道端に置いて脳が荒ぶる。 さて本題だが「休みの日は何しているか」を過去の自分の行動から統計を取ってみる。が、私は社会人になってからは基本的にフリーランスに近い職業なので、まず、決まった休みは無い。「休みたい日ある?」のスタイルだ。なので、大々的に企画やイベントを打つか打たれるかしないと「いつでも良い」とまるで自分の人生に彩りがない様な返答しかできなかった。とは言え「休日」は、当たり前に渡される。「何を休んで良いか分からない」その自由過ぎる時間が苦手で、私はこれが苦行だった。今もそうである。ただ、私は職業柄、家でも多少仕事が出来る。所謂、「準備の日」として過ごすことで自由にある程度枠組みができる。とは言え、家での作業には限界がある。「休む」こと苦手だが、「サボる」ことは出来てしまう。なので、いつも喫茶店によく行っていた。まず、喫茶店特有の「2時間はいちゃいけない」暗黙のルールはダラダラする事に「惜しい」と云う気になる。そして、コーヒーは場所によって味が違うのもあって「自分のスイッチ、どーれ入れる?」と毎度、ルーレットができる。故に、毎回、私を律させるし、「指が動かなくなっても思考を止めることない紫煙」は私を毎度受け入れてくれる。この3原則が揃うことで、「自由過ぎて」に少しずつ枠組みができ、輪郭がはっきりしてくる。それに「日常から離れる」雰囲気に、自分のいる世界が切り替わる様なショートトリップ感が「なんだか良い日」を自給自足している気がして良かった。なので、欲しくもない自由過ぎる時間を持て余す事もない。そして、今では「休息」として私の日常に入ってくる事にもなった。 そう考えると私は「タバコが吸えてコーヒーを啜りながら、何かを考える空間や時間」が好きなのだ。とても好みになってきた。それにしっくり来る。そうすると急に愛おしく感じ始めた。そこからと云うもの、今まで愛せなかった「タバコが吸えてコーヒーを啜りながら、何かを考える空間や時間」を大事にする様になり、だから、今は三大困難質問にも胸を張って大声で言えるようになった。 「タバコが吸えてコーヒーを啜りながら、何かを考える空間や時間」 これが私の人生を彩り愛おしく大切なものだ。やっぱり、自分のことを文字として羅列できるのは嬉しい。自由が横行している時代だからこその恩恵だとも思う。それこそ、これを書いている今も喫茶店でタバコを片手にしている。「聞いて聞いてー」と言える人生はやはり良い物だ。だから、これを読むみなさまの力の抜けるその時間のお共に、眠れない夜、暇な電車の中、色んな時間に色んな場所で。それこそ、喫茶店の片隅でタバコを片手に、コーヒーを、紅茶を味わいながら、私の世界と愛おしいものたちを一緒に味わって頂きたいと思っておりますので、できる事なら末長く、ご支援、ご声援、ご支持、ご指導、ご鞭撻のほど、宜しくお願いします!

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エッセイ smokes daydream