また明日

「渋谷を拠点にする!」と決めた時。その当時は今よりも少し「喫煙者」に対して寛容で、「喫煙」のフォルダ分けもなく、「電子のみ」の文言も今よりもあまり目にかけることはなかった。 「煙草と言う煙草は試してみる」スタイルなのは昔からで、パイプ・葉巻・煙管・手巻きなども一度は通ってきた。そのどれもが、私の中で「紙タバコ」を超える付き合いになる事はなかったが、今でも時折、「そう言えば」と懐かしい友人に会う感覚で嗜む。一通り、その時間を楽しんだ後は、やっぱりいつもの紙タバコに戻るのだ。それは「電子」も一緒である。電子が流行り始めた当初、目新しさもあって、当時は先にネットで登録やら、予約やらをして購入すると云う、色んな面倒臭さはあったが、新しく発足されたアイドルの初ライブくらいのワクワクがあった。 初めてiQOSに触れた日。やはり最先端で、神々しく私の目の前に現れる。角が取れた四角。「ボタンを押す」は当時、優に二十歳を超えていた私でも震える程にテンションが上がったのを覚えている。銘柄はマルボロ。なんだか、最先端なのに老舗。新しいと古いの共存がより未来感があった。 そんなワクワクと興奮は1箱までで、その後は手入れや充電、制限など、簡易では無いものをとても煩わしく感じてしまい、やっぱりいつもの紙タバコに戻ってきた。「新しい」に感化される事は好きだ。だから、電子を否定するつもりもないし、紙でも銘柄が好きだからと云って「喫煙者」を続けている訳ではない。好きな煙草はもちろんある。憧れも。だけど、何かに拘りがある訳でも、プライドがある訳でもない。私は「煙草のある空間や時間に価値がある」と思っている。ただ、私にとって「新しい電子煙草を気に入る」まで届かなかっただけだ。特段深い理由や意味なんてない。とは言え、あった方が便利なのは事実である。気に入りはしないが、必要なものとなる。「電子も持っているが出来る事なら紙派」の誕生である。ただ、今まで無かった拘りが出来た。少し、大人になった気がした。 現在、「電子なら席で吸える」お店が少しずつ増えてきた。増えたと云うよりも、「喫煙可能」の形が変わったと言った方が早いだろう。ただ、私は今も尚、紙煙草を主軸に考えるし、smokesとしても「紙煙草が咳で吸える喫茶店」がコンセプトであり、モットーだ。時代錯誤かもしれない。時代を受け入れない堅物や、老害とされる感覚なのかもしれない。それでも、私が拘るのは「嫌な経験」をしていないからかもしれない。今でもそうだが、もっと心無い言葉や、「喫煙」の言葉だけで非国民とする輩に絡まれても良い気もする。煙に傷付いた人たちの傷も癒せない。口では「すみません」と言えるが、私自身が煙で傷付かない限りは考えが変わる事もないだろう。嗜好品は否定や拒絶されるものでは無いと思っているのもある。比較はされるし、する。それは協議みたいなものになるが 「私の好きなコレはこんなに素晴らしいのだよ!!」と筋肉を存分に使い、呼吸を荒く、汗をかく。その姿はとても感銘を受けないか?それに、お節介の輪が出来るのは、悪い事では無いと思う。悪口は選べないが、好きは選べる。 話は変わるが、このシャルマン。数年通い続けているが、変わらない。変わらないのに、新しくなっている事も多くある。店員さんの髪色、客層、お店の空気。時たま、他で遊びたくなって他にも行ったりするが、私はここに戻って来る。安心だけじゃない何かがあるのだろう。でも、多分、この先もここに足を運ぶのだ。私にとって、今の煙草とシャルマンは同じである。大事に長く。そして、いつか来る新しいをまた、堪能して、また更に通い続けるのだ。
“Y”
“Y”
喫茶店を巡りながらエッセイを書いてます。 文字をこねくり回して言葉にしてますので、宜しくお願い致します!