ひと休み

ひと休み
「喫煙者」を10年以上やっていると、謂わば馴「染みの店」と云うのがいくつかある。その中の一つがカフェmocoだ。ここでも色々な思い出がある。とは言え、思い出が濃い、深い色ばかりかと言えばそうではない。最初の頃は若さも相まって、用がある時にフラッと、時に待ち合わせの時間を潰したりと「ありふれた場所」として。そこから、年齢が上がるにつれ、店内の雰囲気や空間が「良いよ」と肩を撫で、足に根を張る様に身体の筋肉が解れていく感覚が心地良くなり「休憩出来る場所」として。そこから時間が経ち、禁煙ブームや受動喫煙防止条例の影響もあって「出先でタバコを吸う」難易度が上がったここ数年では「安心できる場所」として、自由に利用してきた。「自由」はとても有意義で多様性のある広義なもので、考えない稚拙さ、枠組みの窮屈さ、先の見えないもの恐ろしさを感じていたが、膨大さからくる可能性、広大さから来る選択、寛大さから来る安堵など、私はそんな「自由」を少しずつ、ここで学んだ気がする。長年のツレの様な、育ての親の様な、なんとも言えないが、とても良いやつだ。 今日だって、欠伸(あくび)をし、腹を伸ばし、また欠伸をし、書きたいと思ったら書き、聞きたいと思えば流れるBGMに耳を傾け、空間に身を委ねる。何度も目を閉じては開け、また欠伸をする。実家よりも実家である。本当の(本当の?)実家には何年も帰っていないが、ここには数ヶ月に一度。長くても一年に一度は足を運ぶ。たまに、ちょっと怠いなぁと思いながらも、用事のあった場所から歩幅を伸ばしてでも向かい、「やっぱりここは良いなぁ」なんて気持ちでソファに座る。飯も美味い。大好きな大きいホットドッグはやっぱりテンションが上がるし、普段食べないポテトチップスにも手を伸ばす。出されるパスタの入れ物も、飲み物のカップも、目にする度「昔からこれやなぁ」と昔に懐かしみ美しむ。 ここ最近は嫌なことが続いた。全部自分が招いたものだが、全部自分が悪いのかと云うとそうでは無いと思いたいが、自責の念や自信の無さから言い切れない。ただただ、煮え切らない。煮え切って消してしまいたいが、量が多くて熱も足りず、中々無くならない。自分の甘さでとろみも付いて焦げて残ってしまう可能性もある。いや、恐らく焦げ付くだろう。あの頃は帰って来ないが、未来に託すには不安が付き纏う。結局、自分のせいだからと言い聞かせるしかないが、自尊心が首を縦に降らせない。優しさを受け入れるにも、ちょっと難しい。そんな状態で状況で情報だ。 ただ、そんな私でもここは受け入れてくれる。思考を止めるかのようにクリスマスキャロルやゴスペルほーりなーいが流れる。考え過ぎなのか。それとも一回休めと云うことなのか。私は目を瞑る。少し時間が過ぎて、今度は鈴の音がポップでキュートな音楽が。心地良いドラムの音も相まって、少し楽しくなってきた。聞こえる声もソウルフルだが押し付けない。来た時よりも少し元気になっているのを感じた。「そうでなくちゃ」。いつの間にかカップの中の珈琲もなくなっていた。大きい欠伸がまた一つ。最後に溶けた氷をひと啜り、壮大なBGMと共に火を灯す。徐々に煙が立ち込め、短くなっていくそれを見る。大きな深呼吸と共に、小さなお皿に押し込めて火を消す。
“Y”
“Y”
喫茶店を巡りながらエッセイを書いてます。 文字をこねくり回して言葉にしてますので、宜しくお願い致します!