西崎 静

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西崎 静

コツコツ書いていきたいと思っております。よろしくお願いします!成済

きみの幸せを枯らしてる

  ミス、アンダースタンド。  君を理解できるほど、ぼくの心は愛おしくも転がり落ちるだろう。暖房の隅にいるホコリ、ふわっと。瞬く間に、吸い込まれ、ぼくの靴下。君がかけた掃除機の音が、きこえる。   ミス、アンダーニーフ。  肌の透き通る、青い血管。うわぁっと声を上げて。夢をみた、淡いものだろう。ぼくの心をぶらさないで、目玉は浮く。ゴミ袋の位置を探って、弄ったベッドの下。ティッシュに包まれた、君が吐き出したカップ麺。だから、電子レンジでお湯なんて温めるなって。あぁ、木目に沿った恥が、ぱんつを汚した。   ミスター、アンダーストゥード。  家を出る前に、まとめられたゴミ袋。掃除機の変えなんて、ぼくのやることじゃない。かちんと割れる、ぼくのコップ。せっかく、瀬戸内ものだったのに。青い血管、白い肌、陶器はまだ先。冬季も、まだ先。暖房のホコリが、あわり、くわり、ふわり。何度目かの、年末の音。君の福袋は、きっと、ぼくの知る気もない、コスメのやま。あぁ、コスメなんて言葉、日本語じゃないって。   ミスター、アンダーニーフッド。  過去に縋るように、男なら変わるだろう。ぼくのせいにしないでくれ、上書き保存ができない。ショートカットキー、君に教えて。いつのまにか消えた白い線、キーボードのホコリ。また、暖房カチッと。いっそ、燃えてよ、そんなナイフを耳の鼓膜が受け止める。  まだ、枯らしてるって。 君のほしいものは、ゼクシィにはないのに。ゴミ袋にある、それ。まとめたのはきみ、出すのはぼく。見るのも、ぼく。見てしまうのも、ぼく。 ーー君を枯らすのも、ぼく。  ミス、アンダースタンド。 物分かりと、共に枯れる、ぼくら。

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きみの幸せを枯らしてる

重症筋無力症という病について

 指定難病十一、その響きはなんだかエヴァの区画を思い出した。  ーー階段から落ちた。  あれは桜も咲き始めた頃合いで、研究所に向かう途中だった。かたやに事務所の今期からの実装機器の相談兼ねて、バスに乗った。相変わらず、車を買う金なんてもんは、淡いビールの泡に変わるもの。ちっとも、自家用車なんて、地方だろうが都会だろうが気にしやしなかった。  ちょうど、研究所の無機質な薄暗いグレーの階段。そいつの下り坂、ゴムの縁が足先を掠めた。急に、足がもつれた。かくんって、酔った。おかしいな、昨日は飲んじゃいない。  そしたら、隣りにいたはずの黒縁メガネの定年退職前の親父さんが、あっ、って言った声が聞こえた。おれは、がたがた落ちた。びっくりした、でも、左腕を親父さんが片手にぶら下げて。おれは腰を打つ程度で済んだ。  そんなとき、親父さんはおれの顔を見て、はっとしていた。なんでも、おれの片目の瞼が、殴られたみたいに落ちていたらしい。ぎょっとして、脳梗塞だと言った。でも、おれはそんな歳じゃない。だから、呂律も脳も痛くなくて、断った。でも、親父さんは急いでおれをプリウスに引きずっていった。  研究所は、山の麓にあった。近場の病院は、遠い。親父さんは焦りながら、ずっと自分の病状を聞いていた。おれがあんまりにも救急車断ったもんだから、そんな調子だった。  おれが、断った理由。そいつは、単純だった。脳梗塞じゃない気がした。おれは見たことあったし、実際にそんな気配もしなかった。どちらかと言えば、まるでビタミン不足で痺れた感覚に近くて、それでいてなんの痛みもなかった。太ももの前の方の膝上だけがおかしかった。  それに、研究所に救急車がくるなんてこと、マスコミがくる。おれはそれを望んじゃいなかった。割を食うのは、おれだろうから、そう思った。危機とか無視した、お粗末な自己保身。最悪なセリフだった。  病院について、最初ただの内科に回された。なぜか耳鼻科にも回された。なんでも外耳炎やった去年の夏の経歴があって、ベル麻痺ってやつじゃないかって疑われた。親父さんは脳梗塞じゃないかって看護師さん相手に早く脳の方に回せって怒鳴っていたが、おれが止めた。情にあついエンジニア畑の研究員の人だ、三菱とかに多い。あの研究所でいつもは鬱陶しく感じる細かさや昭和気質はこんときばかりは、おれは助かっていた。  その後、やっと脳神経内科に回された。医者や看護師はやっぱり最初から脳梗塞は疑ってなかった。で、MRIと血液検査、あと脊髄液取る検査をやることになった。この時にはもう遅かったので、親父さんに戻ってくださいとお願いした。終始心配したような顔をして、電話くれと何度も。その目尻下がりに、後で菓子折り持ってかないとと、薄ら思って。おれは、事が大事な気がした。  実際、大事だったわけだった。それから、一週間ほど検査入院をした。最初、多発性硬化症ってやつじゃないかって言われ、違った。原因はわからない。おれはその間、右目の瞼が下がるのだけ感じていた。あとは、腕が少し上がりづらい程度だった。結局、おれにも仕事あるし、ガンとかもないから、退院した。本当は、調べるには一ヶ月くらい必要と言われたが、到底無理な話だ。おれは断って、ストレス性の神経の問題と診断された。  そこから、また現場戻って、やることやっていた。そして、その一か月後、おれは、洗濯物が干せなくなった。腕が上がらない、髪が洗えない、首が落ちる、まるでパーキソン病の人みたいに首を捻る。瞼が片方さがる、これは眼形下垂っていうらしい。そのうち、車待たせてる横断歩道、そいつが悪いからって走ろうとしたら、走れなかった。スキップができない、スマホをよく落とす、ものが斜視にみえた。おかしい、そう思った。でも、いよいよ体力的な問題だと、筋力不足だと思った。なにせ、太り気味だった。痩せようと努力しようか迷ってた頃だった。デスクワーク多くなって、ぷよぷよしていた。  だが、階段が上がるにも下がるにも、よく転ぶようになった。いよいよ、命の危険が現場でよぎった。恐ろしかった、何か変だった。瞼が下がるからサングラスをかけるようになって、歩くのもキツくなり怖いから傘を杖代わりに誤魔化した。  そして、梅雨の季節が近づき、おれは箸を落とした。もう、肉じゃがのじゃがいもが持てなくなった。  病院に戻った、そしたら、検査結果がでていた。前の検査入院したときのやつだ。結果出る前でに時間かかると言って断ったやつ。だが、担当医は回していた。そして、結果は出ていた。  抗アセチルコリン受容体抗体、陽性。  おれは、重症筋無力症と診断された。  自己免疫疾患の病らしい、おれも詳しくはいまだに覚えきれてない。ただ、筋肉と神経をつなげるところに自己免疫暴走が起きて、筋力低下を巻き起こすらしい。ただ、それだけだが、それだけが恐ろしかった。こいつはあらゆる筋肉の動きを止める。長く筋肉を使うとその分、抗体が出て、筋肉が停止する。そうなると階段から落ちるし、箸も持てなくなる、歩けなくもなるし、中には声が出なくなる人もいる。あらゆる筋肉、そして恐ろしいのは、こいつは肺近くの筋肉も止めることだった。つまり、死が待っている。グリーゼってやつになれば、呼吸の筋肉が止まる。  おれは、タバコを吸っていた。自他ともに認める愛煙家だ。検査した、病棟で検査したら、肺活量は七十パーセントを切っていた。危なかった、おれは即首にカテテール入れて、抗体を取る透析みたいな治療が始まった。  息苦しさなんて気が付かなかった、喫煙者はみんなそういうもんだろう。おれはゾッとした。カテテールは、内視鏡を首から入れられてる気分だった。痛いより、気持ち悪いが勝る。その夜は扁桃腺が腫れたみたいに痛くて、物が食べれなかった。  この病気は、治らないらしい。治療法はないってことだった。対処療法、ステロイド、カテテール、献血グロブリン点滴とか、そんなやつばっかだった。  動けないのは、つらい。動きたくても、動きすぎたら死が待ってる。人によって、活動量は左右するらしい。そりゃぁそうだ、体格も筋肉量も違うだろうに。幸い、担当医が熱心ないやつだった。筋電図も見て、教科書通りらしく、見せてくれて、一緒に笑った。担当医の上の先生は、この病気の人は薬が効くと動けると勘違いして、調子に乗るからと冗談いうタイプのおっさんだった。気楽にはなった、お守りをくれた看護師のおばさんもいた。お綺麗ですねって言い続けたら、くれた。実際、みんな綺麗だったからびっくりした。流石は医療系だった、肌がつるんとしている。だけど、首のカテテールしてると自分で髪洗えないから、洗髪してもらうのは恥ずかしかった。  そんなこんなで、おれはとりあえず歩けるようになったし、瞼はそんなに落ちなくなった。ただ、折りたたみの杖を持って歩かないと不安ではあった。ステロイドもきつい、なかなか副作用がひどい。ハイテンションやむくみ、体重増加。痩せなきゃなぁというおれに、はい、そうですねって明るく返してきたケアの男の子はちょっとイラッとしたが、爽やかさにやられた。  退院しても、変わりない日常ではないけれど、健常者のふりはできない。意外と、新しい視点になって、面白くはあった。障害者っていう括りにはまだなってない、いまは手帳貰うために待ってる。難病申請は、通った。不思議だ、税金の使い道が気になるようになった。申し訳なさ感じつつ、医療費がかかちゃ、税金払ってくれてる人らに悪いって、タバコと酒もやめた。周りは驚いていたが、わりと健康って理由だと自分は動けないのに、外聞ってやつだとやめられるんだなと思った。メンツってやつは、結構おれには大事だったらしかった。それはびっくりした、恥なんてないと思ってたから、自分もわりと面白みもダサいくもある大人になったものだとおもった。でも、その方がいいんだろう。  赤いあのよく人がつけてる札みたいなやつつけて、杖をつく。でも、わりとネットが言うような嫌な奴らにはあわなかった。職場も変わらず、今時テレワーク、おれの仕事は別に出勤しなくても構わないからなんの支障もなかった。親父さんには、退院してから、ちゃんと菓子折り渡した。親父さんは酒のつまみが良かったと言っていたが、甘いお菓子にした。前に孫が食べたがっていたと言っていたし、そろそろ会える時期かと思って、口実にもなるし、高めで日持ちするやつに。親父さんは、あほと言いながら、そんなもん買いに行くんなら、家にいろと言われた。だから、また太るって言ったら、腹つままれて、飯減らせって。仕方ない、日本はうまいもんが多い。また、海外移住ならわからんけど、そんな冗談言った。  結局、ネット見て考えたけど、ネットほど悲惨にならなかった。人手不足、キャリア、資金、貯蓄、結婚、家庭なんてもん色々よぎったけど、案外ふわっとした、日常に戻っていた。なんだか、軽い休暇みたいだった。おれが馬鹿なだけかもしれないが、ふわっとして、ぼっーとする世界が溢れていて、なんだか普通だった。  だから、同じ病気の人に会うのが勇気が出ないでいる。大変そうだなって、そんな軽い意見が出てしまう。たぶん、側から見たらおれもそうなんだろう。だが、おれがこんなんだし、もしかしたらおれと同じかもしれないけど。ああ、たぶん、生理の重さみたいなものに似てるんだろう、あれは誰とも分かち合えない痛みだ。母は軽かったが、従姉妹は違った。あんなもんだろう。  まぁ、そんなもんだから、おれは今日もぽけっーと生きてる。そんなんだから、何十年後かに治療法わかって、酒のつまみにできるだろうって。そこまで、生きるつもりでいるらしい、おれでした。   ああ、タバコ、吸いたいな、また。

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犬のように、飢えさせて

 LINEの文字をみた、酷くひどい男の名前が並ぶ。渇いた喉、それでも下唇の瘡蓋はぽちゃんとすら言わず。飲みかけの特茶とやら、おれの脂肪を燃やしてはくれないだろう。ああ、せめて、魂まで焚べてくれ。  おれの兄貴の子どもが、病気になった。まるまる太った顔の腫れ具合は、おれの知る人の顔じゃない。ステロイドが、痛々しい、カテーテル。兄貴の子どもは、首から管がぶらんしていた。  不幸だろう、金が必要だと言われた。都合のいい話をすれば、渡したくもなかった。自分は十年も昔に百万も、二百万も借りたというのに。そいつは、結局、おれのマイルドセブンにベットされて消えて。燻る、罪悪感。自己犠牲すら冷たさを帯びて、金を借りる時に思った情けなさは夢すら与えた。これでやり直そう、これで真っ当に。しわくちゃだらけの茶封筒、この時代じゃりそなの緑の封筒。青いラインに、おれの股間はうんともすんとも言わない。  最後に行った風俗は、おれより下の女の子で、萎えた。  兄貴が、インターフォンを鳴らす。返した金、数年に一度の連絡。仲は悪くない、だが、言葉の節にある無邪気な頃のあの夏休みはとうに過ぎ去って。虫かごの重さよりも、頭を掠める預金残高。金が、おれと兄貴の間に、貸し借りの関係を産んで、それはやがて繭から。ほつれた糸の先に、他人事のような上辺の言葉が並んだ。 "最近、どうだ?食えてるか、体調気をつけろよ" "ああ、最近は食えてるよ。こないだ、保険に入ったんだ。いいやつだ、事故っても、兄貴に入るさ" "……縁起でもないこというなよ。おまえも、もう家庭を持ってもいいころなんだ。落ち着いた、そうだ、例の、あの不動産屋で働いてた子、あれどうした?" "もう、二歳になる子がいるよ。人妻に手を出せって?兄貴も悪い大人になったな" その声を、おれはなぶく。 "ーーおまえほどじゃないよ" 中学二年の頃、兄貴の彼女とたった一つ。そう、たった一つ三ツ矢サイダーの味、そいつを味わったことがあった。胸の大きな子で、歳上のお姉さんは、えろかった。たったそれだけ、三ツ矢サイダーは青い春ですらない。ふかい、道玄坂のラブホ煌めくサンシャイン。そいつをおれは、ピンクと呼んだ。でも、兄貴は、もうすぐおれのお下がりになる自転車のヘルメット、それを凹ませていた。あれは、白くなかたって、おれの舌は言っていた。  たまに、思う。おれほど、兄貴を愛してるやつはいないだろうなんてこと。脳炎、その言葉がインフルの予選で聞こえた。ちくたく、ぴんぽん、インターフォン。壊れちゃいる音が、した。兄貴が額を擦り付けてる。緑のカーペット、俺のお気に入り。安売りしてたそいつは、トルコから来ていた。兄貴の子ども、金がいる。俺の手持ち無沙汰な財布は、いくらかあった。でも、来月の電気代なんだろう。渋る唇、冷えた肌がびっしょりと。兄貴は怒鳴って、顔を赤く。おれは、飄々として、口を尖らせ。  おれほど、家族思いのやつはいなかっただろうって、いまさらながら、あんたも思うだろう。  出せない懐をみせて、怒鳴られてやってる。恩を仇で返してやってる。おれは、いつまでも、たぶん、兄貴の言い訳になってやろうって思うだろう。毎月、三万のおれのばかさ。数百万借りた過去のおれとやらの屑の心。みじめに、おれは三万払うよ。くしゃっとしない札、出来たてほやほやのおれの働いた金。いつだって、俺はダメなやつだ。理不尽に感じて、子どもがいるからってと思う、儚さとヘドロ。べちょっと、兄貴の痰がおちる。そんな気はない、わかってる、でも緑のカーペットには落ちるだろう。そいつも、四ぱちで買ったばかなもんだ。  なんだか、なぜだか、おれは男に殴られて逃げられない女のような、女々しさがあった。それに、酔ってる。でも、三万だって、おれは叫ぶさ。  ーーもうすぐ、兄貴の子どもが死ぬっていうんなら。  ああ、犬のように、飢えさせて。 完

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犬のように、飢えさせて

愛と恋と、罪の違い

揺さぶる、まだロストしている。ひたすらに、肌の形は覚えているか。なめらか、少し乾燥して、緩む。びくんと身体が、のけぞる。気持ちいいだろう、そういう声がすれば、ぎゅっうっと全てが締まる感覚が駆け巡っていた。泣いた、君が泣くように、騙される方が悪いと、音を拾う。くちゅっと唇を落とした先に、悪きざまに君が、少しの悦びを笑みにして。うわぁお、そう呟けば、斜めがけに愛が萎れていった。 悪魔は、いつも、右側からやってくる。君はいつも左側から、俺にキスをするだろう。ちゅっと、言い訳じみた月並みの言葉が、上唇に乗る。少しの、喜びが、君に必要だよ。笑わせてくれるような裸を見せて、それを摘む。くりっと動かして、指は細くあろうと。俺のじくじくと疼く夢をはやく、はやく、砂漠まで。砂が降り注ぎながら、シーツは滑らかに。悪魔が、気持ちいいだろうと呟けば、俺の薬指は、ふやけて。あぁ、また、出した。 カーテンの隙間に、いる、俺の女神。シーツに包め、ドラムが止まらない。かけたラジオのノイズ、ツーフィートに合わせて、あぁと吐いた。少しの、楽しみが、君を満たすんだよ。ぐちゅっ、じゅっぽんと、抜けた音がした。添えた手のひら、舐めた舌先に滲む、道徳。穏やかに、三月が、なめた匂いと東京を運ぶ。いいね、そそるね、また、そんな口説き文句、ラインアップはプレイリストほど。揺れる尻のもっちり具合、俺の喉が上下。見せてくれ、あぁ滑り落ちる。響く水、それすら、淡い光の東京の一角。また、薬指が痛んでいた。 「っ叩いて」 「よろこんで」 少しの、感じかたに、俺も。熱く火照る、そのくっきりと残る手形。付き合い立てが、一番楽しい。あとは、テキーラ・サンライズ。喉越しすら焼けつく、甘い酒を飲み干して。誘い文句は、君の、それとも、俺のと。油断は許されないから、履歴は非通知。薬指に、帰りの鍵がちらつく。パネルを見つめながら、君が選ぶ。高いのにすればなんて言いかけたのは、はやく、はやくと。受け付けの女の子、俺と、君の、違いがバレる。ちりん、そう鳴るエレベーター。服を脱がせにきて、スカート中身に、じっとりと汗をかいた。 ほんの少しの喜びが、君に必要だよ。少しの、リトルプレジャー、いまはまだ。揺れるのは、なぜと聞けば。君は、とても、素敵なのと囁く。 ベッドサイドに、俺のスキン。肌も、赤く染まり始めて。外も、ぴりり、アラームが鳴る。赤く染まり始めた、窓の滲み。くちゅくちゅ、ぽたり、いいね、と夢がぱちんと覚めた。 「ぁあ、いじめて」 「あぁ、お望みなら」 悪魔は、そこね、待っている。携帯電話に残る、薬指の誓い。そっと、そいつを舐めとり、俺は笑みを浮かべる。ちゅっぱ、ちゅぱと、俺好みの音が刺激に。燻る中の熱さ、きゅっと締め付けられた。ロストして、フローして、また、くる。 「酷くして」 「少し、欲しい?」 優しく聞いたさきで、いやらしさが爆発。艶めかしさ、あたり散らして。 ーーああ、ずっと右側から、それはいる。

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愛と恋と、罪の違い

穴ある阿呆と秋田の理論

「二度目の人生を歩めるなら、たぶん、私は穴のあるドーナッツになっているさーー」 友人のひょんな台詞を酒の席で飲み込んだ俺は、とかく、純粋に信じてしまった。 その馬鹿なドーナッツ理論を翳した男は、俺の友人だった。俺の友人の秋田は、都道府県と県庁所在地を並べたような男で、たまげた如く米の炊き方が上手い口の回る奴だった。 非常階段からの三段目、なんなくそいつを飛び越えて、秋田は一言。ごめんね、青年よ、私は生き急いでいるちょいワルおじさんなんだと言った。そのとき、初対面の俺という阿呆は、その友人になるかもしれない男の脛を蹴りあげて。そう、こう叫んだ。ーー口先から生まれてんのか、くそったれと。 とにかく、奴はそれはもうふざけた秋田だった。秋田という名前が動詞に様変わりするほど、秋田が秋田していた。 その台詞が、馬鹿正直にレモンサワーに飲まれたのは、曇り行き怪しい仕事終わりだった。俺は現場で監督業務の点検不足でどやされ、秋田は口が災いし仕事がおじゃんになった日だった。示し合わせたわけでも、待ち合わせもない。赤羽の暖簾をくぐれば、奴がレモンサワー片手に、ざまぁみやがれ、私が一番だと叫んでいた。暖簾を下げた。もう一回、あげた。まだ、秋田はレモンサワー片手に、椅子の上に乗り、大将に絡み酒をしている。俺はポケットの中の携帯電話の時間を見た。残念、電車はまだ来なかった。秋田が、俺を見つけて、にかっと笑う。不覚にも、おうと返事してしまった。俺という阿呆は、秋田の腕を振り払えずに、肩を組まれ、どんどん酒を注がれて。あぁ、感無量、むちっとした美人な店員の尻を見て、秋田と大喜びする秋田をやっていた。 秋田の秋田が、秋田を疲れ果てさせた頃、秋田は俺に向かって、レモンサワーの中身の話をし始めた。からんと、氷がそれを止めようとする。俺は絶望的な享楽主義の塊を心の中に、乱舞させていた。そう、俺は聞き返してしまっていた、なぁ、秋田、どんな話だって、馬鹿の一つ覚え。秋田の口角が上がり、やぁやぁやぁと口調が瞬く間に早くなる。まるで、恋に落ちた鼓動の早さに似て、それはもうべらべらと話し始めた。不思議と、居酒屋のしんみりとした音すら掻き消し、辺りはすっかり秋田の具合にやられていた。 「やぁやぁやぁ、いいかい?私ってやつはね、レモンサワーの中身をサランラップが入った戸棚だと思っているんだ。戸棚を開けるだろ?偶に、遭遇するかもしれないゴギブリくんを見て、感じてしまうんだ。悲鳴をあげて、誰か、神様、助けてくださいって」 相変わらず、右ストレートにわからなかった。俺は取り敢えず、口を唐揚げの中身にすげ替えて聞く。 「うーん、それは下痢してる時にトイレで、あぁ神のくそ野郎、今すぐ治せって喚いた後に、ごめんなさい、ごめんなさいと謝るみたいなもんか?」 何を口にしたかわからないが、レモンサワーにレモン汁と肉汁混じった、口の中が悲鳴を上げる。じゅわっと、木漏れ日カーテン。口の中に、唐揚げの脂濃さを流す、レモンサワーがきた。 「さては、きみぃ、痔持ちか」 「おまえは、老眼きてるけどな」 「あぁ、酷い言い草だ。私と君はこんなにも深く繋がりあって」 「マラリア海峡に、一緒にダイブしちまっただけだろ。腐れ縁って、酒にずるずる引き摺られるんだなぁ」 「うわっセンチメンタル、ハートに響く」 「ジュリアに響けよ、チェッカーズ」 「昭和か」 「それなら、沢田研二がいい」 「贅沢な奴め」 秋田は、ぐびぐびとペース早め。レモンサワーを高らかに飲み干しながら、俺をチラ見する。 「……それで、ゴギブリちゃんを見て、私はね。私は、戸棚を開けれなくなるんだ」 その秋田している秋田語を俺という阿保は、少し不安になって。ちゃかす唐揚げが、レモン汁を纏う。びしゃっとテカれば、秋田は目を細めて。指先に、箸が妙な焦りを産んでいた。 「でも、サランラップが戸棚にはあるんだろ」 そう聞けば、秋田は唸りながら、悩ましげに答える。目を細めて、老眼の皺寄せで、メニュー表眺めて。俺はふらふらと頭を揺らして、店員呼んで。また、秋田と共に、美人の尻を称えた。 「ねぇ、取ってよ。サランラップ」 秋田が美人に軽口言って、お盆で叩かれた後、そんなことを言った。俺はレモンサワーの空のジョッキから氷を取り出してやって。そのまま、秋田の手の中にじんわりと渡す。秋田は、嫌な顔した後、俺の手を握り返して、すりすり。びちゃびちゃの手の中に、うぇっと喉奥がハイボールを繰り返していた。 「なぁ、俺もゴキちゃんとは仲良くなれないんだ」 「知ってるよ。だって、学生の頃、私のアパートまで逃げてきたもんね。天井に、G様がって」 「なら、サランラップなんて取れるかよ。俺はキッチンにも入れねぇぞ」 「でも、残りもんとか冷蔵庫にしまわないと」 「いっそ、全部食っちまえよ。」 投げやりに言えば、手拭き。おしぼり追加と口にする、秋田が困ったように笑った。度肝が、ちょっと抜かれて。久しぶりに、なんか煙草が吸いたくなった。 「うーん、無理だね。私、少食になっちゃった。それにね、私ね」 秋田が辞めた煙草、俺もやめて。時が流れるにつれて、健康診断の文字は濁る。いつからか、俺は痔持ち、秋田は老眼。肺は互いに真っ黒。そして、年金がもう足場にうろちょろし始めて。 「二度目の人生を歩めるなら、たぶん、私は穴のあるドーナッツになっているさーー」 悪い夢を見た。夏目漱石なら、そんな粋なことを言ったかもしれない。月をまじまじと見つめた若い兄ちゃんのように、舌先手繰らせて。まぁ、あっぱれ、北国からどてら欲して、死ににいくようなもんだった。 「だからね、青年」 珍しく、謳い文句が右往左往して。ぱちんと、ぶら下がる居酒屋の提灯。暖簾は、大将の声を通しながら。 「ドーナッツをレモンサワーで流し込むなんてこと、阿保の君でもしないでよ」 穴のあるものを酒に塗れて、探す。 「馬鹿言うなよ、俺は穴は二つが好みだ」 ーー秋田が癌と知ったのは、その夜のことだった。今日も今日とて、サランラップの場所を俺はゴギブリ怖さに知らずにいる。

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穴ある阿呆と秋田の理論

故に、疫病神

三好の父親と、旅に出たのは、そういうことではなかったーー。 「お袋の世話なんか、到底無理だ」 「……それで、おれにやれって言うのかよ」 お袋の頭が弾け飛んだのは、中学に上がる前のことだった。夏も盛りにきては、渋く辿る。近頃じゃ、左足が痛んだ。思い起こせば、お袋は。言葉も憚られる、揺らぎが。繰り返し、眠気があって。そのまま、惑わされた心を傾けていた。 そう、最初は、単純だった。やれ、親戚誰それが亡くなったと嘘を吐いては、徘徊して。やたらと、電話を掛けてくる程度と。公務員だった親父はそいつを上手く受け入れられず、ひた隠し。水を差すことも言えぬまま、お袋は悪くなった。いつから、そんなに頭の中、しっちゃっかめっちゃにしたか。そのうち、おれの方が足首から崩れ落ちる気分を招いて。思春期のそれは、ダチすら呼べない家の中。冷蔵庫の中に積み重なった、味噌。とくに、兄貴の具合は雑巾を絞るように悪かった。 「なに言われてたか、知ってるだろ」 「みんな、お袋に言われてただろ」 罵られたとは、形作らなかった。それも、親父が棺桶に収まる前までか。具体的なことは、滲んだ汗ともに、降って。排水溝の底、へばりついた髪。そいつをシャワーのなか、眺める。静かに、頬が冷えてゆくのを感じた。 「とにかく、施設に」 「金はねぇよ、おれには」 「おまえは、独り身だろ」 「兄貴は、もう違うのか」 それは、批判ではなくて。渇いた口に、かさついたものが過去に。純粋な驚きと、わずかな嫌悪が燻っていた。多くを言えば、中流の家庭とやらは、普通ではなく。お袋が静かにイカれて、親父は煙草でその身を骨にし。おれというやつはくたばりかけてーー兄貴は、男を愛した。 「……なぁ、三好って覚えてるか」 くすりとも笑わずに、問い掛けられる。張りついた舌先は、歯を舐めて。胃の悪さが、鼻を抜けた。兄貴が言った、三好。中学の頃に、確かに三好という同級生がいた。そいつは細かい作業が好きな男で、よくボトルシップを作っていた。夏休み、家の中のことが進路に影響し始めた頃に。面談室の隣りにあった技術部で、三好はボトルシップを作って。ちょうど、帆を張って。微かに窓から溢れる風に、それをたなびかせては。おれは、その景色の後にある、面談室が。無性に、無駄に、思えるような。ひたすらに隠し通そうとした、家のこと。そう、その日は、お袋が初めて、おれに手を上げた日だった。三好はふっと笑いながら、ボトルシップを掲げる。とても、潮の風に思える一瞬が、忘れ難く。そんな日の景色が、じんじんと腫れた腕を。やがては、感じなくさせていた。 「ああ、技術部のやつだ」 「……あのな、一緒に暮らしてんだ、いま」 「三好と、あの三好と、なのか」 「なぁ、どうにか暮らしていけてるんだ。わかるだろ、こんなこと言いたくないけどな……おまえより生きづらいんだよ、ぜんぶ。だから、もう家族とか」 「家族とか、なんだよ」 「そういうことじゃ、おまえもお袋に苦労させられてーー」 「おれは、あんたにも、苦労したんだよ」 出た音は、ひゅっーと抜けていた。握りしめたなにかに、青い線が浮かぶ。はち切れんばかりで、酷くつまらなく思えた。整えられたモノクロに、センスのある姿が。そう、兄貴らしい生活水準。お袋に当てる金がある割には、一線も踏み込みたくはない。断言されたそれに、歯軋りがなかった。 「あのな、おれは違うんだよ。お袋とも、兄貴とも、何もかもが違うんだ……わかるかよ、そうじゃないってのに、そう思われるってことが。おれは、おれなんだよ」 仏壇まえ、おれは吐露した。手首の数珠は、肌に吸い付いて。ごめんと、心が折れ曲がりそうになる。兄貴は話すことすら、億劫にしては、ふらり。垂れた前髪、兄貴の喉仏の位置。見えるすべてが、無駄に思える。鼻に付く、線香が過ぎて。お袋の嫌いな、菊の匂い。兄貴が持ってきた花だった、それだけだった。それが物語っては、おれだけが木造の柱に縛り付けられて。あの身長の書かれた文字が、中学から止まっていた。 「ーーいまさら、もう、忘れろよ」 左の拳が、深く響いた。数珠がほろり、粒が兄貴の顎に掘られて。中指の関節が、ごつんと鳴った。歯軋りのような、鈍い音。倒れ込んで、壊れた障子が。穴があく、縁側の景色が入り込んで。仏壇の線香が、畳をじゅっと焼いた。 「おまえも、おれの所為っていうのか。おい、おれの所為だって言いたいのかよっ」 そう続けて、お袋の言葉を刻んだ。兄貴はじろりと、目玉まわして。菊の、苦い鼻を抜けるきつさ。盆の花を嫌う、お袋。よく仏壇を綺麗に拭いた、兄貴。盆の風景は、酷いもんだ。なにかを拭おうとする、それが兄貴のやり口。いつからか、それすらもせずに。いつからか、おれの番になっていた。 畳のうえ、体育座りで縮こまっている。兄貴は顎を抑えながら、ただ、泣くだけ。ぐずっと、鼻水を啜る。掠れた声が、喉を締めて。迂闊に、謝りも出来ない家のなか。こもって、こもって、ぼろり泣いている。それは、腑煮えくりかえそうになって。ひたひたと、汗が滲み始めていた。畳に、染みができ始める。 殴ったおれは、立ち尽くしたままだった。何もかもが、どうでもよくなるつもりだった。爪の間から、痛む。よく見れば、少し破がれかけた白い爪。このまま、線香から火が出てくれと願った。 「……おれ、兄貴と縁を切らせてくれ」 やっと、出たことが、それでいた。がばっと顔を上げた、兄貴がいる。しばらく、鼻を擦りながら、考え込んで。それでも出た涙が、そう引っ込まないでいるようだった。おれは、それを上からただ、見下ろして。障子が明かりを入れては、丸い跡があった。 「他人だったら、よかったな」 兄貴が、そうやって応えていた。漠然と、おれに向かって、目合わせて。くすぶりそうな、菊の花粉がついて。数珠の紐が、はち切れる。そして、兄貴はひどく、寂しそうな顔しながら。 「おれとおまえ、すれ違いもしない他人だったらよかったよーー」 ずっと、おれでいるおれに、そう言った。 だから、三好の父親と旅に出たのは、そいうことではなかった。 バイク飛ばした、陸橋のうえ。 雲の雫が、はらはらと降りて。燦々としたものが、頬にあたる。二人乗りのそれは、些か青春を取り戻そうとして。迷いの時期に、あんまりにも良いものだった。 「随分と慣れてるな、きみ」 「大学以来ですよ、こんな行き当たりばったり」 「ぼくは、学生のときもしたことないよ」 「そいつは、損してますね」 「いいさ、いま、取り返してるもんだろ」 「はは、違いないですね」 兄貴と縁を切ってから、彷徨いぶらり。勤めていた事務所を介護を理由にやめて。お袋を引き取って、数ヶ月。やっぱり、しんどさは口先から溢れて。アパートの前の自動販売機。そこで、座り込んで飲んだ缶コーヒー。味はしない、叫びたいなにかに、蛾が死んだ。ばちっと蛍光灯に吸い込まれて、蛾。おれは、意気地なしの悪癖。デイサービスから、細々と、施設を紹介してもらって。それから、お袋とは会っていないままに。あれだけ、頻繁に病室のときは顔出した割に。捨てたような、それとも放たれた心が。そうやって、肩の力がなくなることが、恐ろしく。おれは、ぶらり、兄貴の様子を見に行く。声はかけなかった、三好と歩いている姿、遠目に。おれは、また、戻って。戻りかけた道の裏側が、萎む。進路指導室まえの、無駄の、無性に、そんなことが巡った。 そのときぐらい、だった。同じようにしていた、三好の父親に気付いて。体育祭で見たことのある、男。まったく、変わらずの顔立ち。目の下のほくろと、神経質な骨ばり。三好の父親は、町内会もよく参加していた。まだ、おれたちが触れあえる距離にいた頃の、祭り。鬼灯の袋抱えた、ポロシャツ。おれは、三好の父親を見知っていた。 「暑いから、アイス食べよう」 「この先に、道の駅がありますよ」 「え、なんだって」 「海が綺麗ですね」 「ああ、うん。アイス食べながら、見ようか」 バイクのエンジン音と、風の切る手前。好きな柔さが、くすぐられるように。腰あたりにある三好の父親の、手。むかしの祭りのとき、小さいながらに、大人の怖い手だと。それが今じゃ、しわくれて。折れそうな不安が、苛ついて、離されないで。ふつうの家族ってやつの触れ方。おれの家のなかじゃ、なかった。親父の不器用な冷蔵庫の、味噌。おかしくなったお袋が、買い込んだ味噌。丁寧に、仕舞い込んじまって。少しずつ、冷蔵庫のなかぐちゃぐちゃにならないよう、堰き止める。台所で見た、親父の煙草咥えた後ろ姿。夕飯のときには、味噌汁に、揚げ出しがあった。そいつが、そんなあどけなさがあって。唐突に、ヘルメット駆け抜けていった。 「そういや、あんたも、アイス配ってましたね」 「あぁ、よく覚えているね」 「おいしかったですよ、あれ」 三好のお袋さんが、育てていたミント。庭の近くを通ると、いつも子どもに手を振って。庭にある、小人の置物。まんまるなフォルムが、小憎たらしく。そこだけ、ふわっとしたバニラの匂いがした。そいつが、いつも、ミントが隠し味のアイス。草野球のあとに、与えられた味。みんなで食べて、サードベースの泥が膝に。おれは兄貴と並んで、食べて。泥だらけの日曜日にいる。そんな、大空の下だった筈でいた。 「ぼくの好物だったんだ。彼女、気を遣ってね」 耳元で聞こえた、惰性があった。あの奥さんが、そんな風に作っていたわけじゃないだろうに。過去にまとわりつくように、話す。あたる、生ぬるい風。髪が細く伸びて、ヘルメットからはみ出して。好物だった、そういう口調が、どこか。そう、どこかおれのハンドルを持ってくれなんて。 「あそこ、いいんじゃないか」 「端に停めますか」 ブレーキを足首で上げて、振り向きそうに。パーカーのなか、膨らむ空気。やがて萎みながら、ソフトクリームの旗が見える。ふっと笑う気配が、背後から。そうすれば、まだ好物だろうと思う心と、安堵が。放るような鈍いそれが、過去まで続いて。三好の父親を旅に誘ったのは、そんな悪どいつもりではないと言い聞かせられた。 「あぁ腰が伸びる、生き返るね」 「だから、車借りましょうって」 「そりゃ、きみバイク持ってるから」 「せめて、あんた免許ぐらい取ってくださいよ」 木材の手摺り、きらきらとした泡。海沿いに佇んで、叩きつけられた波。伸びた背中と、くしゃっと線になる。おれの知るポロシャツは、随分とアイロンがされたものだった。三好の父親が指差して、そのよれた袖口が。そうか、あの奥さんも、そうやって。なにかしら、暮らしのなかにある、小さなかけら。恋しく思う、それ。その団欒があったかもわからないと、わかりきって。ソフトクリームの文字だけが、滲んだわけじゃなかった。 「車、必要にならなかったから」 最後に会った兄貴と、同じ顔をする。寂しそうな目元に、ぞわっと胸騒いで。たまたまだった、挨拶した後の世間話の延長に。三好の父親のそれが妙に、そう、妙に申し訳なく感じて。一言、誘った旅に、互いになにかを。ささくれだった胸のうち、踏ん切る必要があった。 「今度、教習所行きますか」 「えぇ、やだよ。きみ、取るものもないだろ」 「大型取りたいんで、付き合いますから」 「若い子だらけのなか、受けるのはねぇ」 「おれだって、もうおじさんですよ」 「じゃぁ、ぼくはおじいちゃんじゃない」 「孫いても、わりかしおかしくはないでしょ」 すこし、しまったと思った。それでも、止まらぬ口下がり。かもめが、ひゅっと鳴く。おかしくない、そう言えば。その僅かな間だけ、目が合う。おれだけ、僅かに、下唇が震えた。 「きみ、チョコにしてよ。ぼく、バニラも食べたいから」 車へ向かう子どもが、チョコ味抱えて。歩いた一歩を若い親が、慌てて止める。その横を三好の父親は、ゆっくり通り過ぎていって。おれは、財布の小銭をじゃらっと。幾らあるか、数えるふりをした。数歩遅れて、進み出す靴裏。ざっと砂粒が入り込んで、少し重くなる。気遣う歩調か、おれを待つように歩く。それでいて、ついて来ないならと歩みを止めず。ただ、遅めのそれが、おれの小銭握る手の中。そう、汗がたっぷり出てしまっていた。 「……意地わりぃのよ、あんた」 そうでなければ、三好の父親と旅に出たのは、そういうことではなかったーー。 「みっちゃん、飲み過ぎちゃったみたいね」 愛媛の陸橋から、走り続けて高知のフェリー乗り場まで。その辺りまで来たころ、旅の行き先に迷って。三好の父親は、昔馴染みがいると、桂浜に近い浦戸へと。そう、国道の看板指して、おれのハンドルを切った。 「宿、遠くないの」 「いや、わりと近いですよ」 浦戸に着いた夕暮れ、深入りしそうな傾き。瓦屋根の黒さが、うずっと脹脛、萎ませた。三好の父親は暖簾がふらふらしている、民泊の隣りをまた指先ちらつかせて。そうして、着いた暗がりの暖簾。おれのなかで、萎む音が聞こえた。 「でも、運ぶの大変じゃないかしら」 暖簾の奥にいた人は、幸薄そうな線の細い女だった。あんまりにも、不健康そうな目の下が、瞼を。ただ、胸の大きさだけが、不釣り合いでいた。 「ふたりとも、泊まってらっしゃいよ」 「そこまでは、さすがに……」 「ねぇ、みっちゃんも、そう思うでしょ」 女将が揺らす、三好の父親。座敷で眠りこけて、肩口に置かれた指先。丁寧に整えられた、爪の切り口が。それが、やけに、焦燥を滾らせていく。三好の父親は、ぶるり身体縮こませながら。ひっそり、瞼をぴくぴくと、開けるふり。手を振りながら、髪が垂れた。 「ーーあぁ、きみは、帰りなよ」 簡潔の割に、鋭さがあるように思えて。酒の残り滓が、いまにも溢れ出しそうに。喉が焼ける、やつれが襲っていた。 「ぼく、重いし。ひとり部屋の方がいいよ……ああ、部屋代のことは気にしなくていいから。そうだね、ゆっくりしなさい」 口調は、あられもない。けれど、妙に澄んで繰り返される、言葉がある。くすぶりかけた、他人様の間柄に思えた。おれだけ、帰される口振りに。ふと、ほんの、瞬き程度に。兄貴が、むかし、子どもが口出すんじゃないと怒鳴られたこと、思い出して。親父にぶん殴られる、視界の端。その奥にあった、冷蔵庫の隙間。いくつも重なり合った、味噌だけが。兄貴がお袋について口にしなけりゃ、じんじんと熱く。おれだけ、口つぐむ癖になるしかない訳を。鼻の先から、ぼたっと。おれだけが、いつも割りを食うだけだった。 「んなら、お言葉に甘えさせて貰って」 このあと、やるんだろうなと、エアコン効いた畳の上。ひんやりと、また、猫いうぐらいに丸まった。三好の父親と女将の間を行き合う、おれまで。ぼんやり、坊主になるような、丸裸な恥の上乗りでいた。 「気をつけて、戻るんだよ」 細く、薄暗い目ん玉の線があった。そいつは捉えどころのないままに、おれにぶら下がる。女将の手先は、ひそかに橙色を織り交ぜて。柑橘の飛ばしたもんが、ふらふら。酔いどれたおれを追い抜いて、知らん顔した。 「そうやね、これ持ってらっしゃい。数の子、ようつけてあるけん。少し摘むと、ええから」 女将が、頭抑える素ぶり見せて。小鉢の数の子をひょいと、摘む。そいつが、手のひらほどのタッパーに詰められて。数の子、二日酔いに効くのかなんて、首傾げて立ち上がった。 「すんません、おぉうまそうだ」 そう言いながら、心底ほっとしたように。足進めた、斜め掛けのひとり道感じて。がらっと開けた、引き戸の先。見えた、砂浜はぼわっと暗いままにいた。 「あした、昼ごろ来てよ」 振り返れば、三好の父親は背を向ける。胎児のように掴んで、すがるように。一瞬、宿へ戻ること、躊躇しそうで。女将の襟元が、ずれてゆく気配を感じた。考えさせられるなんて、しゅるっと紐が解ける音が。長い夜の始まり、それが十二分にも、引き攣らせる。 「ーー楽しみだね」 どちらに向けたか、分からぬまま。 ーーおれだけ性懲りも無く、三好の父親と旅に出たのは、そういうことではなかった。 電話鳴って、寝転ぶ午前四時過ぎ。 宿の敷かれた布団、すこしぺたんとして。携帯が燻る、寝苦しさから頬焼けて。耳元当てた、それだけで髪がべたついた。 「ぁあ、もしもし」 「やっと、出た。ねぇ、いま、どこにいるの。なんで出ないのよ。何度も掛けたのに」 「わりぃ、酒呑んで寝てた」 「ひとり旅だからって、ハメはずしすぎ」 「……偶には、いいだろ」 ひとり旅ですらないなんて、怒鳴り散らしてやろうかと。なんの負い目もないはずが、そういうことではなく。ただ、入り込まれたくもない布団の隙間。肌寒さが、静かに幻肢痛を迎えていた。 「なに、怒ってんの」 「そうじゃねぇよ、そういうんじゃ」 「八つ当たりなら……それとも、おかあさんたちのこと」 「やめろよ、だから、おれたちのこと考えて」 「考えてないでしょ、考えたくもない癖に」 図星に、思えた。ぐさっと刺さる、ささくれ。よもや、口から訳知り顔のくそが飛び出しそうに。がんがんと鳴り響く、頭痛の種があった。 「あたしね、ほっとしちゃったーー」 旅に出るまえ、こいつと子どもの話をした。床の寝物語に過ぎない、それ。シーツに絡まる、細い毛がばらついて。別に籍を入れるつもりもなく、もう何年も惰性が渦巻いている。焦りが、ちらほら。ティファニーの雑誌が、ゴミ箱から恨めしそうに。 「だって、あんたと一緒になったら……だって、ほら、家族なんて。あんたと、あたしだけでどうにかなるって」 電話の向こう側の女には、帰る場所はなかった。親の心子知らず如く、親の再婚相手と揉めて。飛び出して、こんなおれの底なし沼に。やっぱり、泣き顔の横側からしか。そうやって、おれはこいつを抱き寄せられないとすら。 「縁切ったんじゃない、あんた」 どうにかして、腹立ちが湧き立つ。荷が苦しいだけの、重みのある、おれの底なし沼。冷や汗とぺたりとつく、携帯の画面があって。おまえと違って捨てるしかなかった、馬鹿げた引き戸が閉まっていった。 「切ってやろうか、おまえも」 息を呑む声が、聞こえた。はっと頭揺れて、障子に月がぶれて。急ぎ手先から、抱え直した携帯。芯から、熱く締め付け。ままならぬと、死んでやろうかと思えてしまった。 「もう呑みすぎた、寝るわ」 何かが聞こえて、それでも切って。なにかしらが、変わる気配が。夜も更けてくると、薄ら雲にある。しょぼくれた、波打ち際が近づいていた。 もう大概と、三好の父親と、旅に出たのは、そういうことではなかったーー。 明けた空を眺め、船を目で追う。 店に出向く、その裏道に。海が広々とする、階段の隅っこ。まぁ白いうなじと、日本髪の黒が映えて。ぷかっと、煙が淡い桃色に消えてゆく。煙草、指に挟んだ女将が泣いていた。 「……あら、お兄さん」 「どうも、女将さん」 ひょこっと顔を出して、それ以外はあまり見ずに。気まずさに潮風を舐めながら、煙草が沁みる。浮腫んだおれの瞼に、なにも見えなくするだろうと。不釣り合いな気遣いが、浮かんでいる。くすっと、おれも泣きそうだった。 「みっちゃんなら、まだ寝てるわ」 そっと奥の船を見つめて、女将は言う。解かれた口紅、欲がずれて。端の方から、侘しさがゆるり。肺から入り込む言葉、湿らせていた。 「ねぇ、迎えに来たのね」 黙って頷けば、うさはらすような涙袋だった。煙草の根元についた、赤。咥えてと、差し出された一本。おれは、躊躇う口から、卑屈。昨夜からの腹立ちは、肌触り良くなって。朝焼けに、酒焼けが喉を渇き切った。 「あんひと、一緒におったらいかんよ……きっと、頭おかしゅうなるけん」 今更と、過った言いわけ。あれが、おれの成れの果てならば、酷い頭痛も飲み込めて。女将の黒髪が、はらり落ちる。煙草摘んで、目の前咥えてやって。ふと、やもめにでも、波を耳に届けた。 「ーーそうなりゃ、産まれてきたんが間違いですよ」 まったくもって、酷い言い草でいた。頭ん中どうしようもなくなる、そいつの自業自得。そもそも、産まれてきたんが。酸っぱさが滲む、女将はボロボロ泣いて。おれはぷかっーと、人生吐き出した。  「んなら、やっちまいますか」 三好の父親と、旅に出たのは、そういうことではなかったーー。        故に、疫病神      完

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故に、疫病神

色盲

私、西崎静は、色がわからない。 夜中に開けた、冷蔵庫。その光と、アルミ缶の重みだけが、視界のすべてだった。夜はいい、冷えるものがある。ぺたり、足の裏を合わせて、月を眺めた。ベランダへ、煙草吹かしてみれば、先は燃えている。それが、なんの情緒を示しているか。 世界とは、こうも残酷だ。 昔、絵を描いた。それは、好きなことの一つで、丸く丸く、ひたすらに丸を描きながら、渦巻いていた。ただ、その渦たちは、けして人好きするようなものではなかった。画材が、こちらを恨めしく見つめながら、告げた。私は、ひそかに、油を足す。そうして、べっとりと手のひらに、絵の具。項垂れて、過ちを認めなければならなかった。誰に言われた訳でもない、紛れもなく画材が、それを代わりに言った。 ネオンは、まだいい。 光を感じるだけ、マシだった。青々とした海や丘の上で、僅かな笑みを見つめるのは、酷く。好きな、そんな人のえくぼすら、淡く。ネオンの中の、それこそ入ったホテルの。そういった下の方が、よく映えていた。まるで、下心と卑しい様が露呈するように。醜い自分が、天井の鏡にいた気がした。 だが、良いことも、ある。 音だ、音だけが、救われる。敏感な、その僅かな擦れるノイズも、聞こえた。それには、ない筈の色があって。味もする、まるで、至福のように、揺れた。とくに、カセットテープが好きだった。鼓膜から、魂が震えた。多くの生きている感覚が、視界を広げて。朝焼けが、確かに、いきいきとした、赤に見えていた。 ジャズが、最も震えた。 初めて、ニーナ・シモンを聞いたとき。はくはくと、高鳴る音が、胸の内側でして。光った、なんにもないところから、溢れ出た。その日、瞳の色を知った。まさか、いつか、目の奥に映るものを見れるとは。そんな、戯言を噛み締めて、寝た。その日だけ、夜が怖かった。あんなにも、わかりやすかった世界が、何よりも。なによりも、怖かった。 わからない、伝えることは苦痛だ。 愛したなにもかもに、けして共感されない。ひとりぼっちの中身を、永遠と見続けている。それは、個性と、情熱になると言うが。果たして、はたして、非凡に恵まれたつもりになるのか。こんなにも、侘しいものを見つめて。受け入れろと、とうの昔にそれは侮辱だった。 認めるものか、受け入れるつもりもない。 ないものねだりをし続けている。それでいい、満足する必要もないだろう。私が決めたこと、だ。屈辱だ、慰めと共感が、腹立たせる。やがて収まり、時を重ねればと。巫山戯るな、大概にしてくれ。言葉が、ぼろぼろ溢れてしまう。急いで飲み込み、健常者以外へ。そう、私よりも大変ですねと、微笑んだ。 色のわからない感覚は、人それぞれだ。 色盲は、なにもかもが、分かち合えない。そもそも、同じ色盲同士でも、見てある世界が遠かった。雨が降る、その音が聞こえて。それをまたピンクだと言った、女がいた。私は、耐えられなかった。それは、雨粒が、ピンクだと知ったことじゃない。ピンクが、女の着ていた服と同じだと、伝えられたときだった。あえて、なにも言わなかった。言えなかった、それが間違いだとも、わからない。 悔しくて、怒り狂うつもりだった。 それでも、なんにも困らなかった。走れないわけでも、ものが食べれないわけでもない。鮮やかになるのかもわからない視界の中で、ひっそりと。そう、淡いものを見つめている。 聞いてくれ、私はわからないんだ。 なにがわからないか、わからない。その色を教えて欲しい、きっと同じじゃない。葉っぱと、信号が同じだと思えないように。 ーー私は、なに一つわからないでいる。

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色盲

アンフェア・アフェア

「いま、きみの家の前にいるーー」 嘘を吐くように、砂が溢れていた。片手に収まりきらない、携帯電話。コールはワンス、指先にじっとりと汗が染み込んだ。耳元に、流れるように告げられる、ある男の言葉。飲み込めないまま、熱を発していた。なんど、同じことを繰り返すつもりかと、薄ら紅が浮き出る。それでも、かたんと、いう。 軽さのあるドア、白い塗料の上から聴こえてしまう。決して、開けるべきではない。手のひらを押し付けて、目の前にいる男のことを考える。酷く、揺れる意識が、はくはくと喜んで。じゃりっと、サンダルは外の気配を感じていた。 「なんで、いて」 開けてしまった、玄関に蛍光灯がちらつく。影のある前髪が、ぱらぱらと。外は僅かに寒く、それでいて男からは見知らぬ匂いがあった。距離は保たれて、ドアノブに掛けた手がある。目線が、ゆっくりと逢い始めてしまった。甘い心臓の、静かなる息の引き取りかたを知っていた。 「じゃ、なんで開けたんだ」 悪い夢を見ているように、リピートする。首を深く項垂れる、騙すことが得意な男。クラシックな装いが、カフスの擦れる音に合っていた。蛍光灯に似つかわしくない、カフスに映る、わたし。より惨めな目の奥と、色こけた表情があった。 「入れてほしい、少しだけ」 過去の情欲に、棺桶がなかった。そのままで、腐り落ちるはずのテンポが、鳴って。まとわりつく、外の気配。また、揺れる腰の具合に、密かにうんざりして欲しいと、願うばかり。下唇が、言い訳を探している。靴底にざらつく砂と、喉がきゅっと締まっていた。 「どうか、もう」 そう、言っていたのは、どちらだったのだろう。かつん、やけに響くクラシカルな靴音。一歩踏み込まれて、引き際を見失なう。ドアを閉めようと、扉を固く閉ざそうと、手を伸ばして。掛けられたドアノブの冷えた瞬間、男の前髪がはらり。前屈みに、私の首筋に右手を回してくる。片方の手は、確かに閉ざす筈のそれをやんわりと止めていた。やけに感じる、関節の軋み。熱い、甘く響いてゆく、むちっとする。 「すべて、上手くいくから」 懇願するように、それでいて震えのない声だった。かつんと、また一歩踏み込まれる。わざと、息を整えるふりをした。時間を稼げればよかった、少しでも楽になりたくて。やがて、首筋にあったものは、髪をかき分けて後ろへと回される。心が折れる音が、ぱきりといった。男は、目線を外さない。このひと時だけ、ひとり、酷い大人に思えていた。 「大丈夫だよ」 世迷言が、信じそうになる一歩手前。目の前の男が、いかに嫌なやつかわかる。男の胸を押し返して、間を取ろうとした。それをまるで傷ついたと言わんばかりに、目尻を上げている。舌が渇いた、引き寄せられて。まだ、そのまま、ドアが閉まろうとした。いつかの光景を繰り返している、そんな気が鈍痛と。 絡まる、いずれ絡まる指先が熱い。ついに軋んで閉まる、外との一線。蛍光灯は、意味がないまま、溺れていった。スーツが霞む、私のパーカーは重くなって。斜めがけに、口づけされた。いまだに、下唇をはむ癖がやめられないでいる。それが、言い訳を手探りにするわけと知らぬままに。深くぬまる、足がすくんだ。戻れない音が、ぱちぱちと。かちあった何かは、ボタンを外す仕草をした。 「あんた、どかしてる」 「とっくに、考え直してるよ」 この男と、寝たい。貪りたい、その身体の奥底まで。ひとたまりもなく、じくじくと言わんばかりに。きゅんっと、腹の下から来ている天国。真っ盛りの、砂が、また。淫売の匂いが、男からしていた。ピュールを混ぜた、ディオールの五番。頭の中に、小さな虫がいるようだった。 「でも、けして」 間をあけない、斜めがけから嗜む。上唇に理由があって、ひたすらに下唇はぴたりと張りついた。瞬きすら、その睫毛が長く。男の最も惹かれる、その骨ばった鎖骨が欲を。そう、掻き立てていた。 「ーーきみのことだけ、なんて」 深く、より抜け出せなくなるように。舌先から痺れるつもり、息が続かない。脳を齧る、見知らぬ虫。しゅるり、男のネクタイが、落ちた。そう見えて、見えてしまって、砂が靴底に。また、口づけされる、その先。指だけ冷たい、手のひらが唸る。熱い、もっと、その凍りついた視線で、善がりたかった。 「帰って、ほしい」 「違うでしょ、それは」 「ただ、背を向けるだけ」 「そうして欲しいって」 「これは、違う、駄目に」 「僕だけが、決めているとでも」 「いつも、それで良かったよ」 「きみは、そうなんだろう」 「震えて、怒鳴って、叩いて」 「いつまで、僕を惨めにするんだ」 スーツがよく似合う、その男。鎖骨から見えた情のかけら、色がある。好きにしていいと言われたら、きっと元に戻れないほど。奥から抉って、甘えて、静かに熱を宿して。嫌だと懇願されるまで、男を虐めて捨てたいと願う。加虐が、喉の遥か下から、音を立てる。かつん、男が一歩引く。口から出ることは、後のこと考えて。やがて、わたしを責め立てて、惨めに。この世の負け犬、そう、そそり立つ。駄目に、涎が垂れてしまう、そんな色が見えて。ほんのり紅さす肌が、男の外れたボタンの隙間から。淡い欲と、掛け合いのない言葉。わたしは、あえて喘がずに、まるで傷ついたように。否定して、拒絶して、その表情を歪めて。あんたは、いま、犯しているんだよと囁いてしまいたい。あぁ、開けてしまうべきではなかった。可哀想に思えた、砂が太ももへ。倒れ込む、わたしたち。すでに、リビングの微かな灯りだけが、豆電球と揺れていた。 「ぁっ溢れてしまう、から」 「ぅっぁ、大丈夫だよ」 「っ触られると、あんたがぁ」 「ぁ可愛い、食べてしまいたい」 「殴って、ぁそれから」 「撫でて、すべて」 「噛んだ、食べてしまっんぁ」 「待ぁっ、味わっているんだ」 「最低な、ことをして」 誘惑された、その口調。惜しい、胸元を弄られる度に、思った。なんて、腹立たしいほど、美しいんだろう。男の色が、額滲む。汗がぽたっと、溢れてしまって。髪から、ふわっと、薫る。見知らぬ匂いと、見知った愚かさ。酷く、チープに思えた。 「そんな、きみが耐えられないんだよ」 なら、いったい、どれだけ借りがあるのか。情愛が、やがて老いてゆく。手首を噛まれ、背中を喰む、あんた。クラシカルな靴音、脱げる音がした。好き、頭の中にいる虫がぐじゅっという。あんたを隅々まで、犯したい。組み敷かれる度に、わたしの欲望が膨らむ。惨めに、健やかに、惨めになって、痛ましく。すべて、男がしでかした罪のように、なすりつけて。偶に、殴られた頬の右は、色付く。謝る、ひたすらに赦しを乞いながら。望んだのはわたし、許容してしまう馬鹿な男。なんて、可哀想で、ああ。 「ぜんぶ、きみの所為じゃないか」 そう言いながら、大丈夫だよと付け加えていた。爪が伸びている、その事に笑いそうになって。健気さ、意地汚さ、捨てきれない甘さで、わたしを貶めている。そのことに、こうやって離せないまま、熱を出して。側から見たら、男が死刑台に行く罪を抱えている。棺桶の中に、わたしたちは、まだ。 「すごく、いい」 だから、わたしたちは、まだ。 「ーーすごく、好みだよ」 破滅しているように、見せている。

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アンフェア・アフェア

ここは、地獄

たばこ、吸うまえ。鼻水が、ぼたっと垂れた。 ひとつ、吉住の姉さんが、歩いている。ざっざっ、くるぶしから老いてゆくように。スクーターの座席に腰掛けた、おれ。淡い電灯の、その田んぼ道の隙間。吉住の姉さんは、膝が擦りむけて。それ以外も、ぜんぶ、擦りむけたまま。イカ臭さが、ふわりワンピースに舞う。ーーおれは、ここが地獄だと、思った。 「あの子、もう幾つになったんかな」 保育園のまえ、通り過ぎた信号待ちだった。かちかちと、テールランプに乗せられて。軽く口を開いた、吉住の姉さんがいた。国道沿いに、大きな青い看板が県境を示す。このまま、病院を抜け出しても構わないと、思って。革のブレーキが、じっとりと手のひら。汗ばんだ先には、メーターの針が左に振り切って。かちかち、子どもの無垢な声が、聞こえていた。 「もう、あれは四歳ぐらいです」 「そう……そうなんだ、あっ転びそう」 物呼ばわりをする、浅ましいおれを赦してください。吉住の姉さんの、あの頃の腹の大きさを思い出すたびに。ぴきり、脳みそが音を立てながら、鎖骨を抉る。喉にへばりつく痰、それすら、卑しくないだろう。あれを吐き気がすると、あなたは思いたくはないなんて。縮こまりながら、水道の蛇口を捻る。吉住の姉さんの、背中に薄ら浮かんだ骨が、痩せた妊婦の腹と。そう、ちぐはぐに、とても見れたもんじゃーーあれは、まるで、戦争孤児のようだった。 「会いたいんですか、いまさら」 「あたしがっ、ねぇ、なによっ偽善者」 派手に転んだ、園児が見えた。吉住の姉さんは、助手席で暴れ出して。ばた、がつん、きゅっと、おれの頬と腕には数えきれない、引っ掻き傷。ちぢれた、そのみみずの成れの果ての苦痛が、ハンドルを揺らした。 「ごめんなさい、ごめん、運転中なのに」 「そう言うんなら、やらないでくださいよ」 「ごめん、ほんと、ごめんね……」 つま先から、あなたが居なくなるようでした。そんな台詞が、硝子に叩きつけられる関東平野。カルデラに沈めるように、赤土を踏めたなら。おれは、きっと、地雷すら愛せただろう。 いよいよ、謝り倒す吉住の姉さんが、爪を噛む。ぼろぼろ、おれの愛車の座席は粉まみれになって。車の後ろにある、小型の掃除機。おふくろから頂戴した、それ。吉住の姉さんを迎えに行く、口実になりつつある、それ。もう、おれの愛車は、あの日しか乗せないで。スクーターが、恋しかった。ひとりだけで、吹かせるエンジン。あの日に、吉住の姉さんを乗せられなかった、あのスクーターが酷く。酷く、手持ち無沙汰のたばこより、ただ。酷く、熱く、恋しくていた。 「ーーいまさら、会いたいんですか」 「ぐっげぷっ、は」 「あぁ、袋」 吐く、吉住の姉さんが映る。ミラー越しに、気付かずに、おれは舌を噛んだ。痛む舌を舐めながら、癒すように。袋は下だと、言い放つ。ぐしゃっと、コンビニ袋が悲鳴を上げていた。粘り気のある透明な、その液体がぼたっと落ちた。愛車の中に漂う、酸っぱい臭い。あの日にも、似たような重みがあった。空気に混ざる重みが、おれのハンドルを右にずらして。園児が、笑う。信号待ちは、ようやく青になって。関東平野、遠くに見えた山々に。畦道に逃げ込みたい、それすらも出来ない背骨が、疼いた。 「っはぁ、は、ねぇ」 「はい、なんです」 「なんで、まりこと別れたの」 吉住の姉さんに惚れていたら、良かった。ただひとりの女として、扱えれていれば。右往左往する、園児のように、まわる、まわる。わからないことばかり、だけれども、もし女として見ていたのなら。おれすら吐き気が沸き立つ、車内だった。 「家族に思えたから、です」 嘘偽りのない、真実でもない、そんなことが落ちていた。まりこに、弱い弟がいなければよかった。引き摺られても、抵抗できるほどに、意志のある男なら、よかった。ああ、と呟けば、吉住の姉さんが、今度は高笑い。げらげら、ぐずっ、またげらげら。スクーターと共に放った、まりこは、おれを恨んでいた。わたしの所為なのかって叫ぶ、茶髪が、公衆電話に見えた。別れを告げたのは、吉住の姉さんが入院している間だった。弱い弟が、絡まれた地元の奴らを振り払えていればなんて。一緒になってヤっちまったくせして、あの弱い弟は泣きじゃくって。そのまま死んじまえばと、世迷言。スクーターに詰まった、エンジンオイルが、言っていた。 「随分な出来た、はなし」 「どうして」 たばこを吸わして欲しいんだ、もう。求める手先がいじらしく、舞う。あの日のワンピースから、おれのシモも応えてくれなくなり。咥えた灰が、やがて肺を焼き尽くすことを。阿鼻に足を踏み入らせて、焚ける肌を食わせて。あの日、とぼとぼ歩いていたらの吉住の姉さん。淡い電灯に、蛾がばちんっと、ひらひら。スクーターに背を向けて、たばこをゆっくりと吸う。見えたワンピース、ぎょっとした目玉。急いで脱いだ、しゃかしゃかのパーカーを覚えている。警察なんて、呼びはしなかった。呼べもしないほどに、ずっとおれのスクーターを離さず。擦りむいた、膝が捲れていた。 「ねぇ、知ってるよね」 たばこ、すうまえ。鼻水が、ぼたっと落ちそうになる。斜め向かいの、吉住の家の娘さん。あの人が、田んぼ道にいたことが間違いだった。まりこの、あの弟はどうなったのかも知らず。のうのうと、生きている、その頃とこの頃。まりこの肩に顔を埋めて、吐きそうになった。切り出した別れに、その微かな臭いが駄目だった。あの日に嗅いだ、微かな柑橘の香料が、同じ。吉住の姉さんのものでも、おれのでもない、まりこの家の庭の、あの木と。吉住の姉さんの腫れて膨らんだ、頬を思い出した。 「みんな、わたしと家族だって」 いっとう、恐ろしく思えてしまった。いつからか、なによりも、逃げ出せないほどに。ずっと、吐けないなにかを飲み込んだ。 「あんたは、他人のまま」 ーーここは、地獄。

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ここは、地獄

息移し

なみえ、まだ幼い頃から知る女がいた。 多くを語ることのない、その皺が刻まれた喉元。老婆とも言えぬ歳の女は、従兄弟の宗次郎のいい人であった。宗次郎は、わたしよりも十五離れた男で、仲はよくはなかった。だが、嫁入り道具の一つである、木彫りの化粧鏡をこさえる生業。その、家業柄において、先達として焦がれが、たしかに。はたと思うほど、たしかに。それは、わたしの意地らしい、その腹の底をくすぐっていた。 「お坊、そちらは通ってはいけませんよ」 平成の幾分かした頃、まだ世に蝉がよく聞こえていた名残りがあった。あの墓と、木陰と、蝉の音に、ちいさな朝顔。遠くに見える、淡海がぽつりと。ぽたり、わたしに聴こえてきていた。 「ぁあ、なみえさん」 「いけませんよ、なみえさんなど」 「でも、あなたは歳が上だ」 「女に、歳の話をするなど」 「でも、わたしは」 「いいですか、お坊。あなたは、大鳥の者と」 「なんども、あなたに言われているよ」 「なら、少しは宗次郎さんのように」 いつまでも、優しいなみえ。それが、その一言だけで、わたしを夢から醒めさせて。ゆるりと、なみえを別の生き物のように見せた。まるで、祖父母が孫を可愛いと思うのは、子の子であるからと言いたげな。母からの無償な愛とは違う、なにか。 「ふぅ、お坊。小腹でも」 幼い頃、手先など器用でもないわたしに、先代は溜息をこぼした。なにも、折檻されたわけでもなく。しきりに、淡海を越えた砂浜で、絵なぞ描きよる父へ向けるような。そんな目線が、芯の奥を掴んでいた。そんな時に、なみえは釜に残った米を揚げて、わたしに渡す。お坊、腹持ちがいいもんですから。その言葉が、残りもんにもと聞こえて、悔しいやら、心地いいやら。なみえの嫌いで懐かしい、優しさだった。 「いいよ、そういうのは。ねぇ、浜は綺麗なもんだろう」 早口にそう言えば、淡海の揺れを見つめて。松が、ふさっと香ばしく。そよいだ風が、なみえの影を向けさせた。 「そうですねぇ、でも、海はもっと綺麗ですよ」 「風情がないな、あなたは……いいんだ、淡いから、浜が映える」 「それじゃ、なにを見にきたのやら」 「きのう、夕立ちが酷かったろうに」 「だから、お坊、早う丘まで歩いてと」 「危なくはないよ、なみえ。きっと、海じゃないのだから」 「ふぅ、あなたは話がよく変わりますねぇ」 呆れたように、呟く。だが、わたしには、化粧鏡に細工するよりも、ずっと。それは、ずっといいもんだった。 「あっ、大きな鳥が」 飛躍して話す癖は、よく母がしていたものだった。先代の姪という生まれ、それでありながら絵描きの父と一緒になった。そこそこ貧しくもない、そんな暮らし。絵描きだが、父はぽんと買った土地が、当たって。それこそ、化粧鏡の生業は、父の投資もあって、苦境とやらも乗り越えられていた。ラジオが、じりじり言う子どもの頃。それは、日本の不況を蝉の死にざまとおなじ。床で羽が、じりりと言いながら、やがて果てる。そんなラジオと同じように、古臭い工芸の生業は、息を引き取っていった。そう、父が金を出した、大鳥の名のみ生き残って。 「お坊……大きいだけでは、飛べないんですよ」 淡海を飛んでゆく、その大きな鳥へ。指先伸ばしたわたしに、なみえは嗜めた。それは、母が絵描きの父へ向ける、悲しさであって。それは、母が、父へ、先代への金払いを頼むときのような。わたしは、丘に並ぶ、墓が重く見えた。多くの化粧鏡を細工した者たち。大鳥の名が、緑よりも色濃く、夏を繰り出していた。 「なみえ、もう少し背が伸びたら」 「ええ、なんでしょう、お坊」 「わたしが、海を連れてくるよ」 連れてゆくと、口が裂けても言えなかった。なみえという女が、いかに強い女か知っているせいか。けして、鳥籠の鳥のように、連れ出してやろうなんて真似。そんな、酷い仕打ちは出来なかった。だから、わたしは、海を連れて。いつか、潮風の気持ちのいい、写真でもいい。それこそ、父のように絵葉書でも書こう。もう、昭和じゃないのだからと、そう言い掛けて。 「ーーわたし、月もの来ないんです」 淡海の隅で、そのことが、墓石よりも。なみえのじりりと、枯れた声が、ぽたん。それは、言い掛けただけで、終わっていた。 その次の年の夏のこと、だった。 従兄弟の宗次郎は、土建屋の娘と祝言を挙げた。わたしは、披露宴で宗次郎がこさえた、化粧鏡を覗いて。その波打ち際のような、揺らぎのある細工を見た。台の方には、松の木々と、あの綺麗な砂浜があって。浜には、女の姿があった。わたしは、自然と、手を叩いていた。 あんまりにも、美しく。あんまりにも、惨いそれを指先伸ばして、触れ。手を叩く、それに釣られて、披露宴は沸き立つように。大鳥の名が、この先も続く幸を伝えていた。 あとで聞いたことだが、父からの融資は宗次郎が嫁を迎えたことにより、打ち切りとなった。なんでも、宗次郎の嫁の実家は、大鳥の化粧鏡を家具屋の商売を始めるに当たっての売り文句にするらしく。わたしの方は、今までの融資分がなくなり、暮らしはそこそこから、それなりに変わった。もとより、化粧鏡の生業に向いてないわたしは、海を渡ると決めて。ちょうど、中東の荒れ具合がまた悪化し始めていた。今のうちと、行けるところに行こうと思った。父は、金を出してくれるようで。わたしは、なにがなんでも、淡海から離れたかった。 「おめでとう、なみえーー」 あの日のなみえに、わたしはそう口にした。あのいかようにも、多くを、泣き言を語らぬ喉元へ。もう、女として、月ものが来なくなった、なみえに。そう、物知らぬ、口から息溢れた。 わたしは、浜に上がった、女を知っている。 冷たくなったそれに、わたしは必死に息を移した。だが、どれだけ、分け与えようとも、息は移されず。やがて、じりりと、肺が萎んだ。 その女は、翌年、宗次郎が細工した浜の女に。 ーーまるで、いきうつし、でいた。

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