西崎 静
40 件の小説穴ある阿呆と秋田の理論
「二度目の人生を歩めるなら、たぶん、私は穴のあるドーナッツになっているさーー」 友人のひょんな台詞を酒の席で飲み込んだ俺は、とかく、純粋に信じてしまった。 その馬鹿なドーナッツ理論を翳した男は、俺の友人だった。俺の友人の秋田は、都道府県と県庁所在地を並べたような男で、たまげた如く米の炊き方が上手い口の回る奴だった。 非常階段からの三段目、なんなくそいつを飛び越えて、秋田は一言。ごめんね、青年よ、私は生き急いでいるちょいワルおじさんなんだと言った。そのとき、初対面の俺という阿呆は、その友人になるかもしれない男の脛を蹴りあげて。そう、こう叫んだ。ーー口先から生まれてんのか、くそったれと。 とにかく、奴はそれはもうふざけた秋田だった。秋田という名前が動詞に様変わりするほど、秋田が秋田していた。 その台詞が、馬鹿正直にレモンサワーに飲まれたのは、曇り行き怪しい仕事終わりだった。俺は現場で監督業務の点検不足でどやされ、秋田は口が災いし仕事がおじゃんになった日だった。示し合わせたわけでも、待ち合わせもない。赤羽の暖簾をくぐれば、奴がレモンサワー片手に、ざまぁみやがれ、私が一番だと叫んでいた。暖簾を下げた。もう一回、あげた。まだ、秋田はレモンサワー片手に、椅子の上に乗り、大将に絡み酒をしている。俺はポケットの中の携帯電話の時間を見た。残念、電車はまだ来なかった。秋田が、俺を見つけて、にかっと笑う。不覚にも、おうと返事してしまった。俺という阿呆は、秋田の腕を振り払えずに、肩を組まれ、どんどん酒を注がれて。あぁ、感無量、むちっとした美人な店員の尻を見て、秋田と大喜びする秋田をやっていた。 秋田の秋田が、秋田を疲れ果てさせた頃、秋田は俺に向かって、レモンサワーの中身の話をし始めた。からんと、氷がそれを止めようとする。俺は絶望的な享楽主義の塊を心の中に、乱舞させていた。そう、俺は聞き返してしまっていた、なぁ、秋田、どんな話だって、馬鹿の一つ覚え。秋田の口角が上がり、やぁやぁやぁと口調が瞬く間に早くなる。まるで、恋に落ちた鼓動の早さに似て、それはもうべらべらと話し始めた。不思議と、居酒屋のしんみりとした音すら掻き消し、辺りはすっかり秋田の具合にやられていた。 「やぁやぁやぁ、いいかい?私ってやつはね、レモンサワーの中身をサランラップが入った戸棚だと思っているんだ。戸棚を開けるだろ?偶に、遭遇するかもしれないゴギブリくんを見て、感じてしまうんだ。悲鳴をあげて、誰か、神様、助けてくださいって」 相変わらず、右ストレートにわからなかった。俺は取り敢えず、口を唐揚げの中身にすげ替えて聞く。 「うーん、それは下痢してる時にトイレで、あぁ神のくそ野郎、今すぐ治せって喚いた後に、ごめんなさい、ごめんなさいと謝るみたいなもんか?」 何を口にしたかわからないが、レモンサワーにレモン汁と肉汁混じった、口の中が悲鳴を上げる。じゅわっと、木漏れ日カーテン。口の中に、唐揚げの脂濃さを流す、レモンサワーがきた。 「さては、きみぃ、痔持ちか」 「おまえは、老眼きてるけどな」 「あぁ、酷い言い草だ。私と君はこんなにも深く繋がりあって」 「マラリア海峡に、一緒にダイブしちまっただけだろ。腐れ縁って、酒にずるずる引き摺られるんだなぁ」 「うわっセンチメンタル、ハートに響く」 「ジュリアに響けよ、チェッカーズ」 「昭和か」 「それなら、沢田研二がいい」 「贅沢な奴め」 秋田は、ぐびぐびとペース早め。レモンサワーを高らかに飲み干しながら、俺をチラ見する。 「……それで、ゴギブリちゃんを見て、私はね。私は、戸棚を開けれなくなるんだ」 その秋田している秋田語を俺という阿保は、少し不安になって。ちゃかす唐揚げが、レモン汁を纏う。びしゃっとテカれば、秋田は目を細めて。指先に、箸が妙な焦りを産んでいた。 「でも、サランラップが戸棚にはあるんだろ」 そう聞けば、秋田は唸りながら、悩ましげに答える。目を細めて、老眼の皺寄せで、メニュー表眺めて。俺はふらふらと頭を揺らして、店員呼んで。また、秋田と共に、美人の尻を称えた。 「ねぇ、取ってよ。サランラップ」 秋田が美人に軽口言って、お盆で叩かれた後、そんなことを言った。俺はレモンサワーの空のジョッキから氷を取り出してやって。そのまま、秋田の手の中にじんわりと渡す。秋田は、嫌な顔した後、俺の手を握り返して、すりすり。びちゃびちゃの手の中に、うぇっと喉奥がハイボールを繰り返していた。 「なぁ、俺もゴキちゃんとは仲良くなれないんだ」 「知ってるよ。だって、学生の頃、私のアパートまで逃げてきたもんね。天井に、G様がって」 「なら、サランラップなんて取れるかよ。俺はキッチンにも入れねぇぞ」 「でも、残りもんとか冷蔵庫にしまわないと」 「いっそ、全部食っちまえよ。」 投げやりに言えば、手拭き。おしぼり追加と口にする、秋田が困ったように笑った。度肝が、ちょっと抜かれて。久しぶりに、なんか煙草が吸いたくなった。 「うーん、無理だね。私、少食になっちゃった。それにね、私ね」 秋田が辞めた煙草、俺もやめて。時が流れるにつれて、健康診断の文字は濁る。いつからか、俺は痔持ち、秋田は老眼。肺は互いに真っ黒。そして、年金がもう足場にうろちょろし始めて。 「二度目の人生を歩めるなら、たぶん、私は穴のあるドーナッツになっているさーー」 悪い夢を見た。夏目漱石なら、そんな粋なことを言ったかもしれない。月をまじまじと見つめた若い兄ちゃんのように、舌先手繰らせて。まぁ、あっぱれ、北国からどてら欲して、死ににいくようなもんだった。 「だからね、青年」 珍しく、謳い文句が右往左往して。ぱちんと、ぶら下がる居酒屋の提灯。暖簾は、大将の声を通しながら。 「ドーナッツをレモンサワーで流し込むなんてこと、阿保の君でもしないでよ」 穴のあるものを酒に塗れて、探す。 「馬鹿言うなよ、俺は穴は二つが好みだ」 ーー秋田が癌と知ったのは、その夜のことだった。今日も今日とて、サランラップの場所を俺はゴギブリ怖さに知らずにいる。
故に、疫病神
三好の父親と、旅に出たのは、そういうことではなかったーー。 「お袋の世話なんか、到底無理だ」 「……それで、おれにやれって言うのかよ」 お袋の頭が弾け飛んだのは、中学に上がる前のことだった。夏も盛りにきては、渋く辿る。近頃じゃ、左足が痛んだ。思い起こせば、お袋は。言葉も憚られる、揺らぎが。繰り返し、眠気があって。そのまま、惑わされた心を傾けていた。 そう、最初は、単純だった。やれ、親戚誰それが亡くなったと嘘を吐いては、徘徊して。やたらと、電話を掛けてくる程度と。公務員だった親父はそいつを上手く受け入れられず、ひた隠し。水を差すことも言えぬまま、お袋は悪くなった。いつから、そんなに頭の中、しっちゃっかめっちゃにしたか。そのうち、おれの方が足首から崩れ落ちる気分を招いて。思春期のそれは、ダチすら呼べない家の中。冷蔵庫の中に積み重なった、味噌。とくに、兄貴の具合は雑巾を絞るように悪かった。 「なに言われてたか、知ってるだろ」 「みんな、お袋に言われてただろ」 罵られたとは、形作らなかった。それも、親父が棺桶に収まる前までか。具体的なことは、滲んだ汗ともに、降って。排水溝の底、へばりついた髪。そいつをシャワーのなか、眺める。静かに、頬が冷えてゆくのを感じた。 「とにかく、施設に」 「金はねぇよ、おれには」 「おまえは、独り身だろ」 「兄貴は、もう違うのか」 それは、批判ではなくて。渇いた口に、かさついたものが過去に。純粋な驚きと、わずかな嫌悪が燻っていた。多くを言えば、中流の家庭とやらは、普通ではなく。お袋が静かにイカれて、親父は煙草でその身を骨にし。おれというやつはくたばりかけてーー兄貴は、男を愛した。 「……なぁ、三好って覚えてるか」 くすりとも笑わずに、問い掛けられる。張りついた舌先は、歯を舐めて。胃の悪さが、鼻を抜けた。兄貴が言った、三好。中学の頃に、確かに三好という同級生がいた。そいつは細かい作業が好きな男で、よくボトルシップを作っていた。夏休み、家の中のことが進路に影響し始めた頃に。面談室の隣りにあった技術部で、三好はボトルシップを作って。ちょうど、帆を張って。微かに窓から溢れる風に、それをたなびかせては。おれは、その景色の後にある、面談室が。無性に、無駄に、思えるような。ひたすらに隠し通そうとした、家のこと。そう、その日は、お袋が初めて、おれに手を上げた日だった。三好はふっと笑いながら、ボトルシップを掲げる。とても、潮の風に思える一瞬が、忘れ難く。そんな日の景色が、じんじんと腫れた腕を。やがては、感じなくさせていた。 「ああ、技術部のやつだ」 「……あのな、一緒に暮らしてんだ、いま」 「三好と、あの三好と、なのか」 「なぁ、どうにか暮らしていけてるんだ。わかるだろ、こんなこと言いたくないけどな……おまえより生きづらいんだよ、ぜんぶ。だから、もう家族とか」 「家族とか、なんだよ」 「そういうことじゃ、おまえもお袋に苦労させられてーー」 「おれは、あんたにも、苦労したんだよ」 出た音は、ひゅっーと抜けていた。握りしめたなにかに、青い線が浮かぶ。はち切れんばかりで、酷くつまらなく思えた。整えられたモノクロに、センスのある姿が。そう、兄貴らしい生活水準。お袋に当てる金がある割には、一線も踏み込みたくはない。断言されたそれに、歯軋りがなかった。 「あのな、おれは違うんだよ。お袋とも、兄貴とも、何もかもが違うんだ……わかるかよ、そうじゃないってのに、そう思われるってことが。おれは、おれなんだよ」 仏壇まえ、おれは吐露した。手首の数珠は、肌に吸い付いて。ごめんと、心が折れ曲がりそうになる。兄貴は話すことすら、億劫にしては、ふらり。垂れた前髪、兄貴の喉仏の位置。見えるすべてが、無駄に思える。鼻に付く、線香が過ぎて。お袋の嫌いな、菊の匂い。兄貴が持ってきた花だった、それだけだった。それが物語っては、おれだけが木造の柱に縛り付けられて。あの身長の書かれた文字が、中学から止まっていた。 「ーーいまさら、もう、忘れろよ」 左の拳が、深く響いた。数珠がほろり、粒が兄貴の顎に掘られて。中指の関節が、ごつんと鳴った。歯軋りのような、鈍い音。倒れ込んで、壊れた障子が。穴があく、縁側の景色が入り込んで。仏壇の線香が、畳をじゅっと焼いた。 「おまえも、おれの所為っていうのか。おい、おれの所為だって言いたいのかよっ」 そう続けて、お袋の言葉を刻んだ。兄貴はじろりと、目玉まわして。菊の、苦い鼻を抜けるきつさ。盆の花を嫌う、お袋。よく仏壇を綺麗に拭いた、兄貴。盆の風景は、酷いもんだ。なにかを拭おうとする、それが兄貴のやり口。いつからか、それすらもせずに。いつからか、おれの番になっていた。 畳のうえ、体育座りで縮こまっている。兄貴は顎を抑えながら、ただ、泣くだけ。ぐずっと、鼻水を啜る。掠れた声が、喉を締めて。迂闊に、謝りも出来ない家のなか。こもって、こもって、ぼろり泣いている。それは、腑煮えくりかえそうになって。ひたひたと、汗が滲み始めていた。畳に、染みができ始める。 殴ったおれは、立ち尽くしたままだった。何もかもが、どうでもよくなるつもりだった。爪の間から、痛む。よく見れば、少し破がれかけた白い爪。このまま、線香から火が出てくれと願った。 「……おれ、兄貴と縁を切らせてくれ」 やっと、出たことが、それでいた。がばっと顔を上げた、兄貴がいる。しばらく、鼻を擦りながら、考え込んで。それでも出た涙が、そう引っ込まないでいるようだった。おれは、それを上からただ、見下ろして。障子が明かりを入れては、丸い跡があった。 「他人だったら、よかったな」 兄貴が、そうやって応えていた。漠然と、おれに向かって、目合わせて。くすぶりそうな、菊の花粉がついて。数珠の紐が、はち切れる。そして、兄貴はひどく、寂しそうな顔しながら。 「おれとおまえ、すれ違いもしない他人だったらよかったよーー」 ずっと、おれでいるおれに、そう言った。 だから、三好の父親と旅に出たのは、そいうことではなかった。 バイク飛ばした、陸橋のうえ。 雲の雫が、はらはらと降りて。燦々としたものが、頬にあたる。二人乗りのそれは、些か青春を取り戻そうとして。迷いの時期に、あんまりにも良いものだった。 「随分と慣れてるな、きみ」 「大学以来ですよ、こんな行き当たりばったり」 「ぼくは、学生のときもしたことないよ」 「そいつは、損してますね」 「いいさ、いま、取り返してるもんだろ」 「はは、違いないですね」 兄貴と縁を切ってから、彷徨いぶらり。勤めていた事務所を介護を理由にやめて。お袋を引き取って、数ヶ月。やっぱり、しんどさは口先から溢れて。アパートの前の自動販売機。そこで、座り込んで飲んだ缶コーヒー。味はしない、叫びたいなにかに、蛾が死んだ。ばちっと蛍光灯に吸い込まれて、蛾。おれは、意気地なしの悪癖。デイサービスから、細々と、施設を紹介してもらって。それから、お袋とは会っていないままに。あれだけ、頻繁に病室のときは顔出した割に。捨てたような、それとも放たれた心が。そうやって、肩の力がなくなることが、恐ろしく。おれは、ぶらり、兄貴の様子を見に行く。声はかけなかった、三好と歩いている姿、遠目に。おれは、また、戻って。戻りかけた道の裏側が、萎む。進路指導室まえの、無駄の、無性に、そんなことが巡った。 そのときぐらい、だった。同じようにしていた、三好の父親に気付いて。体育祭で見たことのある、男。まったく、変わらずの顔立ち。目の下のほくろと、神経質な骨ばり。三好の父親は、町内会もよく参加していた。まだ、おれたちが触れあえる距離にいた頃の、祭り。鬼灯の袋抱えた、ポロシャツ。おれは、三好の父親を見知っていた。 「暑いから、アイス食べよう」 「この先に、道の駅がありますよ」 「え、なんだって」 「海が綺麗ですね」 「ああ、うん。アイス食べながら、見ようか」 バイクのエンジン音と、風の切る手前。好きな柔さが、くすぐられるように。腰あたりにある三好の父親の、手。むかしの祭りのとき、小さいながらに、大人の怖い手だと。それが今じゃ、しわくれて。折れそうな不安が、苛ついて、離されないで。ふつうの家族ってやつの触れ方。おれの家のなかじゃ、なかった。親父の不器用な冷蔵庫の、味噌。おかしくなったお袋が、買い込んだ味噌。丁寧に、仕舞い込んじまって。少しずつ、冷蔵庫のなかぐちゃぐちゃにならないよう、堰き止める。台所で見た、親父の煙草咥えた後ろ姿。夕飯のときには、味噌汁に、揚げ出しがあった。そいつが、そんなあどけなさがあって。唐突に、ヘルメット駆け抜けていった。 「そういや、あんたも、アイス配ってましたね」 「あぁ、よく覚えているね」 「おいしかったですよ、あれ」 三好のお袋さんが、育てていたミント。庭の近くを通ると、いつも子どもに手を振って。庭にある、小人の置物。まんまるなフォルムが、小憎たらしく。そこだけ、ふわっとしたバニラの匂いがした。そいつが、いつも、ミントが隠し味のアイス。草野球のあとに、与えられた味。みんなで食べて、サードベースの泥が膝に。おれは兄貴と並んで、食べて。泥だらけの日曜日にいる。そんな、大空の下だった筈でいた。 「ぼくの好物だったんだ。彼女、気を遣ってね」 耳元で聞こえた、惰性があった。あの奥さんが、そんな風に作っていたわけじゃないだろうに。過去にまとわりつくように、話す。あたる、生ぬるい風。髪が細く伸びて、ヘルメットからはみ出して。好物だった、そういう口調が、どこか。そう、どこかおれのハンドルを持ってくれなんて。 「あそこ、いいんじゃないか」 「端に停めますか」 ブレーキを足首で上げて、振り向きそうに。パーカーのなか、膨らむ空気。やがて萎みながら、ソフトクリームの旗が見える。ふっと笑う気配が、背後から。そうすれば、まだ好物だろうと思う心と、安堵が。放るような鈍いそれが、過去まで続いて。三好の父親を旅に誘ったのは、そんな悪どいつもりではないと言い聞かせられた。 「あぁ腰が伸びる、生き返るね」 「だから、車借りましょうって」 「そりゃ、きみバイク持ってるから」 「せめて、あんた免許ぐらい取ってくださいよ」 木材の手摺り、きらきらとした泡。海沿いに佇んで、叩きつけられた波。伸びた背中と、くしゃっと線になる。おれの知るポロシャツは、随分とアイロンがされたものだった。三好の父親が指差して、そのよれた袖口が。そうか、あの奥さんも、そうやって。なにかしら、暮らしのなかにある、小さなかけら。恋しく思う、それ。その団欒があったかもわからないと、わかりきって。ソフトクリームの文字だけが、滲んだわけじゃなかった。 「車、必要にならなかったから」 最後に会った兄貴と、同じ顔をする。寂しそうな目元に、ぞわっと胸騒いで。たまたまだった、挨拶した後の世間話の延長に。三好の父親のそれが妙に、そう、妙に申し訳なく感じて。一言、誘った旅に、互いになにかを。ささくれだった胸のうち、踏ん切る必要があった。 「今度、教習所行きますか」 「えぇ、やだよ。きみ、取るものもないだろ」 「大型取りたいんで、付き合いますから」 「若い子だらけのなか、受けるのはねぇ」 「おれだって、もうおじさんですよ」 「じゃぁ、ぼくはおじいちゃんじゃない」 「孫いても、わりかしおかしくはないでしょ」 すこし、しまったと思った。それでも、止まらぬ口下がり。かもめが、ひゅっと鳴く。おかしくない、そう言えば。その僅かな間だけ、目が合う。おれだけ、僅かに、下唇が震えた。 「きみ、チョコにしてよ。ぼく、バニラも食べたいから」 車へ向かう子どもが、チョコ味抱えて。歩いた一歩を若い親が、慌てて止める。その横を三好の父親は、ゆっくり通り過ぎていって。おれは、財布の小銭をじゃらっと。幾らあるか、数えるふりをした。数歩遅れて、進み出す靴裏。ざっと砂粒が入り込んで、少し重くなる。気遣う歩調か、おれを待つように歩く。それでいて、ついて来ないならと歩みを止めず。ただ、遅めのそれが、おれの小銭握る手の中。そう、汗がたっぷり出てしまっていた。 「……意地わりぃのよ、あんた」 そうでなければ、三好の父親と旅に出たのは、そういうことではなかったーー。 「みっちゃん、飲み過ぎちゃったみたいね」 愛媛の陸橋から、走り続けて高知のフェリー乗り場まで。その辺りまで来たころ、旅の行き先に迷って。三好の父親は、昔馴染みがいると、桂浜に近い浦戸へと。そう、国道の看板指して、おれのハンドルを切った。 「宿、遠くないの」 「いや、わりと近いですよ」 浦戸に着いた夕暮れ、深入りしそうな傾き。瓦屋根の黒さが、うずっと脹脛、萎ませた。三好の父親は暖簾がふらふらしている、民泊の隣りをまた指先ちらつかせて。そうして、着いた暗がりの暖簾。おれのなかで、萎む音が聞こえた。 「でも、運ぶの大変じゃないかしら」 暖簾の奥にいた人は、幸薄そうな線の細い女だった。あんまりにも、不健康そうな目の下が、瞼を。ただ、胸の大きさだけが、不釣り合いでいた。 「ふたりとも、泊まってらっしゃいよ」 「そこまでは、さすがに……」 「ねぇ、みっちゃんも、そう思うでしょ」 女将が揺らす、三好の父親。座敷で眠りこけて、肩口に置かれた指先。丁寧に整えられた、爪の切り口が。それが、やけに、焦燥を滾らせていく。三好の父親は、ぶるり身体縮こませながら。ひっそり、瞼をぴくぴくと、開けるふり。手を振りながら、髪が垂れた。 「ーーあぁ、きみは、帰りなよ」 簡潔の割に、鋭さがあるように思えて。酒の残り滓が、いまにも溢れ出しそうに。喉が焼ける、やつれが襲っていた。 「ぼく、重いし。ひとり部屋の方がいいよ……ああ、部屋代のことは気にしなくていいから。そうだね、ゆっくりしなさい」 口調は、あられもない。けれど、妙に澄んで繰り返される、言葉がある。くすぶりかけた、他人様の間柄に思えた。おれだけ、帰される口振りに。ふと、ほんの、瞬き程度に。兄貴が、むかし、子どもが口出すんじゃないと怒鳴られたこと、思い出して。親父にぶん殴られる、視界の端。その奥にあった、冷蔵庫の隙間。いくつも重なり合った、味噌だけが。兄貴がお袋について口にしなけりゃ、じんじんと熱く。おれだけ、口つぐむ癖になるしかない訳を。鼻の先から、ぼたっと。おれだけが、いつも割りを食うだけだった。 「んなら、お言葉に甘えさせて貰って」 このあと、やるんだろうなと、エアコン効いた畳の上。ひんやりと、また、猫いうぐらいに丸まった。三好の父親と女将の間を行き合う、おれまで。ぼんやり、坊主になるような、丸裸な恥の上乗りでいた。 「気をつけて、戻るんだよ」 細く、薄暗い目ん玉の線があった。そいつは捉えどころのないままに、おれにぶら下がる。女将の手先は、ひそかに橙色を織り交ぜて。柑橘の飛ばしたもんが、ふらふら。酔いどれたおれを追い抜いて、知らん顔した。 「そうやね、これ持ってらっしゃい。数の子、ようつけてあるけん。少し摘むと、ええから」 女将が、頭抑える素ぶり見せて。小鉢の数の子をひょいと、摘む。そいつが、手のひらほどのタッパーに詰められて。数の子、二日酔いに効くのかなんて、首傾げて立ち上がった。 「すんません、おぉうまそうだ」 そう言いながら、心底ほっとしたように。足進めた、斜め掛けのひとり道感じて。がらっと開けた、引き戸の先。見えた、砂浜はぼわっと暗いままにいた。 「あした、昼ごろ来てよ」 振り返れば、三好の父親は背を向ける。胎児のように掴んで、すがるように。一瞬、宿へ戻ること、躊躇しそうで。女将の襟元が、ずれてゆく気配を感じた。考えさせられるなんて、しゅるっと紐が解ける音が。長い夜の始まり、それが十二分にも、引き攣らせる。 「ーー楽しみだね」 どちらに向けたか、分からぬまま。 ーーおれだけ性懲りも無く、三好の父親と旅に出たのは、そういうことではなかった。 電話鳴って、寝転ぶ午前四時過ぎ。 宿の敷かれた布団、すこしぺたんとして。携帯が燻る、寝苦しさから頬焼けて。耳元当てた、それだけで髪がべたついた。 「ぁあ、もしもし」 「やっと、出た。ねぇ、いま、どこにいるの。なんで出ないのよ。何度も掛けたのに」 「わりぃ、酒呑んで寝てた」 「ひとり旅だからって、ハメはずしすぎ」 「……偶には、いいだろ」 ひとり旅ですらないなんて、怒鳴り散らしてやろうかと。なんの負い目もないはずが、そういうことではなく。ただ、入り込まれたくもない布団の隙間。肌寒さが、静かに幻肢痛を迎えていた。 「なに、怒ってんの」 「そうじゃねぇよ、そういうんじゃ」 「八つ当たりなら……それとも、おかあさんたちのこと」 「やめろよ、だから、おれたちのこと考えて」 「考えてないでしょ、考えたくもない癖に」 図星に、思えた。ぐさっと刺さる、ささくれ。よもや、口から訳知り顔のくそが飛び出しそうに。がんがんと鳴り響く、頭痛の種があった。 「あたしね、ほっとしちゃったーー」 旅に出るまえ、こいつと子どもの話をした。床の寝物語に過ぎない、それ。シーツに絡まる、細い毛がばらついて。別に籍を入れるつもりもなく、もう何年も惰性が渦巻いている。焦りが、ちらほら。ティファニーの雑誌が、ゴミ箱から恨めしそうに。 「だって、あんたと一緒になったら……だって、ほら、家族なんて。あんたと、あたしだけでどうにかなるって」 電話の向こう側の女には、帰る場所はなかった。親の心子知らず如く、親の再婚相手と揉めて。飛び出して、こんなおれの底なし沼に。やっぱり、泣き顔の横側からしか。そうやって、おれはこいつを抱き寄せられないとすら。 「縁切ったんじゃない、あんた」 どうにかして、腹立ちが湧き立つ。荷が苦しいだけの、重みのある、おれの底なし沼。冷や汗とぺたりとつく、携帯の画面があって。おまえと違って捨てるしかなかった、馬鹿げた引き戸が閉まっていった。 「切ってやろうか、おまえも」 息を呑む声が、聞こえた。はっと頭揺れて、障子に月がぶれて。急ぎ手先から、抱え直した携帯。芯から、熱く締め付け。ままならぬと、死んでやろうかと思えてしまった。 「もう呑みすぎた、寝るわ」 何かが聞こえて、それでも切って。なにかしらが、変わる気配が。夜も更けてくると、薄ら雲にある。しょぼくれた、波打ち際が近づいていた。 もう大概と、三好の父親と、旅に出たのは、そういうことではなかったーー。 明けた空を眺め、船を目で追う。 店に出向く、その裏道に。海が広々とする、階段の隅っこ。まぁ白いうなじと、日本髪の黒が映えて。ぷかっと、煙が淡い桃色に消えてゆく。煙草、指に挟んだ女将が泣いていた。 「……あら、お兄さん」 「どうも、女将さん」 ひょこっと顔を出して、それ以外はあまり見ずに。気まずさに潮風を舐めながら、煙草が沁みる。浮腫んだおれの瞼に、なにも見えなくするだろうと。不釣り合いな気遣いが、浮かんでいる。くすっと、おれも泣きそうだった。 「みっちゃんなら、まだ寝てるわ」 そっと奥の船を見つめて、女将は言う。解かれた口紅、欲がずれて。端の方から、侘しさがゆるり。肺から入り込む言葉、湿らせていた。 「ねぇ、迎えに来たのね」 黙って頷けば、うさはらすような涙袋だった。煙草の根元についた、赤。咥えてと、差し出された一本。おれは、躊躇う口から、卑屈。昨夜からの腹立ちは、肌触り良くなって。朝焼けに、酒焼けが喉を渇き切った。 「あんひと、一緒におったらいかんよ……きっと、頭おかしゅうなるけん」 今更と、過った言いわけ。あれが、おれの成れの果てならば、酷い頭痛も飲み込めて。女将の黒髪が、はらり落ちる。煙草摘んで、目の前咥えてやって。ふと、やもめにでも、波を耳に届けた。 「ーーそうなりゃ、産まれてきたんが間違いですよ」 まったくもって、酷い言い草でいた。頭ん中どうしようもなくなる、そいつの自業自得。そもそも、産まれてきたんが。酸っぱさが滲む、女将はボロボロ泣いて。おれはぷかっーと、人生吐き出した。 「んなら、やっちまいますか」 三好の父親と、旅に出たのは、そういうことではなかったーー。 故に、疫病神 完
色盲
私、西崎静は、色がわからない。 夜中に開けた、冷蔵庫。その光と、アルミ缶の重みだけが、視界のすべてだった。夜はいい、冷えるものがある。ぺたり、足の裏を合わせて、月を眺めた。ベランダへ、煙草吹かしてみれば、先は燃えている。それが、なんの情緒を示しているか。 世界とは、こうも残酷だ。 昔、絵を描いた。それは、好きなことの一つで、丸く丸く、ひたすらに丸を描きながら、渦巻いていた。ただ、その渦たちは、けして人好きするようなものではなかった。画材が、こちらを恨めしく見つめながら、告げた。私は、ひそかに、油を足す。そうして、べっとりと手のひらに、絵の具。項垂れて、過ちを認めなければならなかった。誰に言われた訳でもない、紛れもなく画材が、それを代わりに言った。 ネオンは、まだいい。 光を感じるだけ、マシだった。青々とした海や丘の上で、僅かな笑みを見つめるのは、酷く。好きな、そんな人のえくぼすら、淡く。ネオンの中の、それこそ入ったホテルの。そういった下の方が、よく映えていた。まるで、下心と卑しい様が露呈するように。醜い自分が、天井の鏡にいた気がした。 だが、良いことも、ある。 音だ、音だけが、救われる。敏感な、その僅かな擦れるノイズも、聞こえた。それには、ない筈の色があって。味もする、まるで、至福のように、揺れた。とくに、カセットテープが好きだった。鼓膜から、魂が震えた。多くの生きている感覚が、視界を広げて。朝焼けが、確かに、いきいきとした、赤に見えていた。 ジャズが、最も震えた。 初めて、ニーナ・シモンを聞いたとき。はくはくと、高鳴る音が、胸の内側でして。光った、なんにもないところから、溢れ出た。その日、瞳の色を知った。まさか、いつか、目の奥に映るものを見れるとは。そんな、戯言を噛み締めて、寝た。その日だけ、夜が怖かった。あんなにも、わかりやすかった世界が、何よりも。なによりも、怖かった。 わからない、伝えることは苦痛だ。 愛したなにもかもに、けして共感されない。ひとりぼっちの中身を、永遠と見続けている。それは、個性と、情熱になると言うが。果たして、はたして、非凡に恵まれたつもりになるのか。こんなにも、侘しいものを見つめて。受け入れろと、とうの昔にそれは侮辱だった。 認めるものか、受け入れるつもりもない。 ないものねだりをし続けている。それでいい、満足する必要もないだろう。私が決めたこと、だ。屈辱だ、慰めと共感が、腹立たせる。やがて収まり、時を重ねればと。巫山戯るな、大概にしてくれ。言葉が、ぼろぼろ溢れてしまう。急いで飲み込み、健常者以外へ。そう、私よりも大変ですねと、微笑んだ。 色のわからない感覚は、人それぞれだ。 色盲は、なにもかもが、分かち合えない。そもそも、同じ色盲同士でも、見てある世界が遠かった。雨が降る、その音が聞こえて。それをまたピンクだと言った、女がいた。私は、耐えられなかった。それは、雨粒が、ピンクだと知ったことじゃない。ピンクが、女の着ていた服と同じだと、伝えられたときだった。あえて、なにも言わなかった。言えなかった、それが間違いだとも、わからない。 悔しくて、怒り狂うつもりだった。 それでも、なんにも困らなかった。走れないわけでも、ものが食べれないわけでもない。鮮やかになるのかもわからない視界の中で、ひっそりと。そう、淡いものを見つめている。 聞いてくれ、私はわからないんだ。 なにがわからないか、わからない。その色を教えて欲しい、きっと同じじゃない。葉っぱと、信号が同じだと思えないように。 ーー私は、なに一つわからないでいる。
アンフェア・アフェア
「いま、きみの家の前にいるーー」 嘘を吐くように、砂が溢れていた。片手に収まりきらない、携帯電話。コールはワンス、指先にじっとりと汗が染み込んだ。耳元に、流れるように告げられる、ある男の言葉。飲み込めないまま、熱を発していた。なんど、同じことを繰り返すつもりかと、薄ら紅が浮き出る。それでも、かたんと、いう。 軽さのあるドア、白い塗料の上から聴こえてしまう。決して、開けるべきではない。手のひらを押し付けて、目の前にいる男のことを考える。酷く、揺れる意識が、はくはくと喜んで。じゃりっと、サンダルは外の気配を感じていた。 「なんで、いて」 開けてしまった、玄関に蛍光灯がちらつく。影のある前髪が、ぱらぱらと。外は僅かに寒く、それでいて男からは見知らぬ匂いがあった。距離は保たれて、ドアノブに掛けた手がある。目線が、ゆっくりと逢い始めてしまった。甘い心臓の、静かなる息の引き取りかたを知っていた。 「じゃ、なんで開けたんだ」 悪い夢を見ているように、リピートする。首を深く項垂れる、騙すことが得意な男。クラシックな装いが、カフスの擦れる音に合っていた。蛍光灯に似つかわしくない、カフスに映る、わたし。より惨めな目の奥と、色こけた表情があった。 「入れてほしい、少しだけ」 過去の情欲に、棺桶がなかった。そのままで、腐り落ちるはずのテンポが、鳴って。まとわりつく、外の気配。また、揺れる腰の具合に、密かにうんざりして欲しいと、願うばかり。下唇が、言い訳を探している。靴底にざらつく砂と、喉がきゅっと締まっていた。 「どうか、もう」 そう、言っていたのは、どちらだったのだろう。かつん、やけに響くクラシカルな靴音。一歩踏み込まれて、引き際を見失なう。ドアを閉めようと、扉を固く閉ざそうと、手を伸ばして。掛けられたドアノブの冷えた瞬間、男の前髪がはらり。前屈みに、私の首筋に右手を回してくる。片方の手は、確かに閉ざす筈のそれをやんわりと止めていた。やけに感じる、関節の軋み。熱い、甘く響いてゆく、むちっとする。 「すべて、上手くいくから」 懇願するように、それでいて震えのない声だった。かつんと、また一歩踏み込まれる。わざと、息を整えるふりをした。時間を稼げればよかった、少しでも楽になりたくて。やがて、首筋にあったものは、髪をかき分けて後ろへと回される。心が折れる音が、ぱきりといった。男は、目線を外さない。このひと時だけ、ひとり、酷い大人に思えていた。 「大丈夫だよ」 世迷言が、信じそうになる一歩手前。目の前の男が、いかに嫌なやつかわかる。男の胸を押し返して、間を取ろうとした。それをまるで傷ついたと言わんばかりに、目尻を上げている。舌が渇いた、引き寄せられて。まだ、そのまま、ドアが閉まろうとした。いつかの光景を繰り返している、そんな気が鈍痛と。 絡まる、いずれ絡まる指先が熱い。ついに軋んで閉まる、外との一線。蛍光灯は、意味がないまま、溺れていった。スーツが霞む、私のパーカーは重くなって。斜めがけに、口づけされた。いまだに、下唇をはむ癖がやめられないでいる。それが、言い訳を手探りにするわけと知らぬままに。深くぬまる、足がすくんだ。戻れない音が、ぱちぱちと。かちあった何かは、ボタンを外す仕草をした。 「あんた、どかしてる」 「とっくに、考え直してるよ」 この男と、寝たい。貪りたい、その身体の奥底まで。ひとたまりもなく、じくじくと言わんばかりに。きゅんっと、腹の下から来ている天国。真っ盛りの、砂が、また。淫売の匂いが、男からしていた。ピュールを混ぜた、ディオールの五番。頭の中に、小さな虫がいるようだった。 「でも、けして」 間をあけない、斜めがけから嗜む。上唇に理由があって、ひたすらに下唇はぴたりと張りついた。瞬きすら、その睫毛が長く。男の最も惹かれる、その骨ばった鎖骨が欲を。そう、掻き立てていた。 「ーーきみのことだけ、なんて」 深く、より抜け出せなくなるように。舌先から痺れるつもり、息が続かない。脳を齧る、見知らぬ虫。しゅるり、男のネクタイが、落ちた。そう見えて、見えてしまって、砂が靴底に。また、口づけされる、その先。指だけ冷たい、手のひらが唸る。熱い、もっと、その凍りついた視線で、善がりたかった。 「帰って、ほしい」 「違うでしょ、それは」 「ただ、背を向けるだけ」 「そうして欲しいって」 「これは、違う、駄目に」 「僕だけが、決めているとでも」 「いつも、それで良かったよ」 「きみは、そうなんだろう」 「震えて、怒鳴って、叩いて」 「いつまで、僕を惨めにするんだ」 スーツがよく似合う、その男。鎖骨から見えた情のかけら、色がある。好きにしていいと言われたら、きっと元に戻れないほど。奥から抉って、甘えて、静かに熱を宿して。嫌だと懇願されるまで、男を虐めて捨てたいと願う。加虐が、喉の遥か下から、音を立てる。かつん、男が一歩引く。口から出ることは、後のこと考えて。やがて、わたしを責め立てて、惨めに。この世の負け犬、そう、そそり立つ。駄目に、涎が垂れてしまう、そんな色が見えて。ほんのり紅さす肌が、男の外れたボタンの隙間から。淡い欲と、掛け合いのない言葉。わたしは、あえて喘がずに、まるで傷ついたように。否定して、拒絶して、その表情を歪めて。あんたは、いま、犯しているんだよと囁いてしまいたい。あぁ、開けてしまうべきではなかった。可哀想に思えた、砂が太ももへ。倒れ込む、わたしたち。すでに、リビングの微かな灯りだけが、豆電球と揺れていた。 「ぁっ溢れてしまう、から」 「ぅっぁ、大丈夫だよ」 「っ触られると、あんたがぁ」 「ぁ可愛い、食べてしまいたい」 「殴って、ぁそれから」 「撫でて、すべて」 「噛んだ、食べてしまっんぁ」 「待ぁっ、味わっているんだ」 「最低な、ことをして」 誘惑された、その口調。惜しい、胸元を弄られる度に、思った。なんて、腹立たしいほど、美しいんだろう。男の色が、額滲む。汗がぽたっと、溢れてしまって。髪から、ふわっと、薫る。見知らぬ匂いと、見知った愚かさ。酷く、チープに思えた。 「そんな、きみが耐えられないんだよ」 なら、いったい、どれだけ借りがあるのか。情愛が、やがて老いてゆく。手首を噛まれ、背中を喰む、あんた。クラシカルな靴音、脱げる音がした。好き、頭の中にいる虫がぐじゅっという。あんたを隅々まで、犯したい。組み敷かれる度に、わたしの欲望が膨らむ。惨めに、健やかに、惨めになって、痛ましく。すべて、男がしでかした罪のように、なすりつけて。偶に、殴られた頬の右は、色付く。謝る、ひたすらに赦しを乞いながら。望んだのはわたし、許容してしまう馬鹿な男。なんて、可哀想で、ああ。 「ぜんぶ、きみの所為じゃないか」 そう言いながら、大丈夫だよと付け加えていた。爪が伸びている、その事に笑いそうになって。健気さ、意地汚さ、捨てきれない甘さで、わたしを貶めている。そのことに、こうやって離せないまま、熱を出して。側から見たら、男が死刑台に行く罪を抱えている。棺桶の中に、わたしたちは、まだ。 「すごく、いい」 だから、わたしたちは、まだ。 「ーーすごく、好みだよ」 破滅しているように、見せている。
ここは、地獄
たばこ、吸うまえ。鼻水が、ぼたっと垂れた。 ひとつ、吉住の姉さんが、歩いている。ざっざっ、くるぶしから老いてゆくように。スクーターの座席に腰掛けた、おれ。淡い電灯の、その田んぼ道の隙間。吉住の姉さんは、膝が擦りむけて。それ以外も、ぜんぶ、擦りむけたまま。イカ臭さが、ふわりワンピースに舞う。ーーおれは、ここが地獄だと、思った。 「あの子、もう幾つになったんかな」 保育園のまえ、通り過ぎた信号待ちだった。かちかちと、テールランプに乗せられて。軽く口を開いた、吉住の姉さんがいた。国道沿いに、大きな青い看板が県境を示す。このまま、病院を抜け出しても構わないと、思って。革のブレーキが、じっとりと手のひら。汗ばんだ先には、メーターの針が左に振り切って。かちかち、子どもの無垢な声が、聞こえていた。 「もう、あれは四歳ぐらいです」 「そう……そうなんだ、あっ転びそう」 物呼ばわりをする、浅ましいおれを赦してください。吉住の姉さんの、あの頃の腹の大きさを思い出すたびに。ぴきり、脳みそが音を立てながら、鎖骨を抉る。喉にへばりつく痰、それすら、卑しくないだろう。あれを吐き気がすると、あなたは思いたくはないなんて。縮こまりながら、水道の蛇口を捻る。吉住の姉さんの、背中に薄ら浮かんだ骨が、痩せた妊婦の腹と。そう、ちぐはぐに、とても見れたもんじゃーーあれは、まるで、戦争孤児のようだった。 「会いたいんですか、いまさら」 「あたしがっ、ねぇ、なによっ偽善者」 派手に転んだ、園児が見えた。吉住の姉さんは、助手席で暴れ出して。ばた、がつん、きゅっと、おれの頬と腕には数えきれない、引っ掻き傷。ちぢれた、そのみみずの成れの果ての苦痛が、ハンドルを揺らした。 「ごめんなさい、ごめん、運転中なのに」 「そう言うんなら、やらないでくださいよ」 「ごめん、ほんと、ごめんね……」 つま先から、あなたが居なくなるようでした。そんな台詞が、硝子に叩きつけられる関東平野。カルデラに沈めるように、赤土を踏めたなら。おれは、きっと、地雷すら愛せただろう。 いよいよ、謝り倒す吉住の姉さんが、爪を噛む。ぼろぼろ、おれの愛車の座席は粉まみれになって。車の後ろにある、小型の掃除機。おふくろから頂戴した、それ。吉住の姉さんを迎えに行く、口実になりつつある、それ。もう、おれの愛車は、あの日しか乗せないで。スクーターが、恋しかった。ひとりだけで、吹かせるエンジン。あの日に、吉住の姉さんを乗せられなかった、あのスクーターが酷く。酷く、手持ち無沙汰のたばこより、ただ。酷く、熱く、恋しくていた。 「ーーいまさら、会いたいんですか」 「ぐっげぷっ、は」 「あぁ、袋」 吐く、吉住の姉さんが映る。ミラー越しに、気付かずに、おれは舌を噛んだ。痛む舌を舐めながら、癒すように。袋は下だと、言い放つ。ぐしゃっと、コンビニ袋が悲鳴を上げていた。粘り気のある透明な、その液体がぼたっと落ちた。愛車の中に漂う、酸っぱい臭い。あの日にも、似たような重みがあった。空気に混ざる重みが、おれのハンドルを右にずらして。園児が、笑う。信号待ちは、ようやく青になって。関東平野、遠くに見えた山々に。畦道に逃げ込みたい、それすらも出来ない背骨が、疼いた。 「っはぁ、は、ねぇ」 「はい、なんです」 「なんで、まりこと別れたの」 吉住の姉さんに惚れていたら、良かった。ただひとりの女として、扱えれていれば。右往左往する、園児のように、まわる、まわる。わからないことばかり、だけれども、もし女として見ていたのなら。おれすら吐き気が沸き立つ、車内だった。 「家族に思えたから、です」 嘘偽りのない、真実でもない、そんなことが落ちていた。まりこに、弱い弟がいなければよかった。引き摺られても、抵抗できるほどに、意志のある男なら、よかった。ああ、と呟けば、吉住の姉さんが、今度は高笑い。げらげら、ぐずっ、またげらげら。スクーターと共に放った、まりこは、おれを恨んでいた。わたしの所為なのかって叫ぶ、茶髪が、公衆電話に見えた。別れを告げたのは、吉住の姉さんが入院している間だった。弱い弟が、絡まれた地元の奴らを振り払えていればなんて。一緒になってヤっちまったくせして、あの弱い弟は泣きじゃくって。そのまま死んじまえばと、世迷言。スクーターに詰まった、エンジンオイルが、言っていた。 「随分な出来た、はなし」 「どうして」 たばこを吸わして欲しいんだ、もう。求める手先がいじらしく、舞う。あの日のワンピースから、おれのシモも応えてくれなくなり。咥えた灰が、やがて肺を焼き尽くすことを。阿鼻に足を踏み入らせて、焚ける肌を食わせて。あの日、とぼとぼ歩いていたらの吉住の姉さん。淡い電灯に、蛾がばちんっと、ひらひら。スクーターに背を向けて、たばこをゆっくりと吸う。見えたワンピース、ぎょっとした目玉。急いで脱いだ、しゃかしゃかのパーカーを覚えている。警察なんて、呼びはしなかった。呼べもしないほどに、ずっとおれのスクーターを離さず。擦りむいた、膝が捲れていた。 「ねぇ、知ってるよね」 たばこ、すうまえ。鼻水が、ぼたっと落ちそうになる。斜め向かいの、吉住の家の娘さん。あの人が、田んぼ道にいたことが間違いだった。まりこの、あの弟はどうなったのかも知らず。のうのうと、生きている、その頃とこの頃。まりこの肩に顔を埋めて、吐きそうになった。切り出した別れに、その微かな臭いが駄目だった。あの日に嗅いだ、微かな柑橘の香料が、同じ。吉住の姉さんのものでも、おれのでもない、まりこの家の庭の、あの木と。吉住の姉さんの腫れて膨らんだ、頬を思い出した。 「みんな、わたしと家族だって」 いっとう、恐ろしく思えてしまった。いつからか、なによりも、逃げ出せないほどに。ずっと、吐けないなにかを飲み込んだ。 「あんたは、他人のまま」 ーーここは、地獄。
息移し
なみえ、まだ幼い頃から知る女がいた。 多くを語ることのない、その皺が刻まれた喉元。老婆とも言えぬ歳の女は、従兄弟の宗次郎のいい人であった。宗次郎は、わたしよりも十五離れた男で、仲はよくはなかった。だが、嫁入り道具の一つである、木彫りの化粧鏡をこさえる生業。その、家業柄において、先達として焦がれが、たしかに。はたと思うほど、たしかに。それは、わたしの意地らしい、その腹の底をくすぐっていた。 「お坊、そちらは通ってはいけませんよ」 平成の幾分かした頃、まだ世に蝉がよく聞こえていた名残りがあった。あの墓と、木陰と、蝉の音に、ちいさな朝顔。遠くに見える、淡海がぽつりと。ぽたり、わたしに聴こえてきていた。 「ぁあ、なみえさん」 「いけませんよ、なみえさんなど」 「でも、あなたは歳が上だ」 「女に、歳の話をするなど」 「でも、わたしは」 「いいですか、お坊。あなたは、大鳥の者と」 「なんども、あなたに言われているよ」 「なら、少しは宗次郎さんのように」 いつまでも、優しいなみえ。それが、その一言だけで、わたしを夢から醒めさせて。ゆるりと、なみえを別の生き物のように見せた。まるで、祖父母が孫を可愛いと思うのは、子の子であるからと言いたげな。母からの無償な愛とは違う、なにか。 「ふぅ、お坊。小腹でも」 幼い頃、手先など器用でもないわたしに、先代は溜息をこぼした。なにも、折檻されたわけでもなく。しきりに、淡海を越えた砂浜で、絵なぞ描きよる父へ向けるような。そんな目線が、芯の奥を掴んでいた。そんな時に、なみえは釜に残った米を揚げて、わたしに渡す。お坊、腹持ちがいいもんですから。その言葉が、残りもんにもと聞こえて、悔しいやら、心地いいやら。なみえの嫌いで懐かしい、優しさだった。 「いいよ、そういうのは。ねぇ、浜は綺麗なもんだろう」 早口にそう言えば、淡海の揺れを見つめて。松が、ふさっと香ばしく。そよいだ風が、なみえの影を向けさせた。 「そうですねぇ、でも、海はもっと綺麗ですよ」 「風情がないな、あなたは……いいんだ、淡いから、浜が映える」 「それじゃ、なにを見にきたのやら」 「きのう、夕立ちが酷かったろうに」 「だから、お坊、早う丘まで歩いてと」 「危なくはないよ、なみえ。きっと、海じゃないのだから」 「ふぅ、あなたは話がよく変わりますねぇ」 呆れたように、呟く。だが、わたしには、化粧鏡に細工するよりも、ずっと。それは、ずっといいもんだった。 「あっ、大きな鳥が」 飛躍して話す癖は、よく母がしていたものだった。先代の姪という生まれ、それでありながら絵描きの父と一緒になった。そこそこ貧しくもない、そんな暮らし。絵描きだが、父はぽんと買った土地が、当たって。それこそ、化粧鏡の生業は、父の投資もあって、苦境とやらも乗り越えられていた。ラジオが、じりじり言う子どもの頃。それは、日本の不況を蝉の死にざまとおなじ。床で羽が、じりりと言いながら、やがて果てる。そんなラジオと同じように、古臭い工芸の生業は、息を引き取っていった。そう、父が金を出した、大鳥の名のみ生き残って。 「お坊……大きいだけでは、飛べないんですよ」 淡海を飛んでゆく、その大きな鳥へ。指先伸ばしたわたしに、なみえは嗜めた。それは、母が絵描きの父へ向ける、悲しさであって。それは、母が、父へ、先代への金払いを頼むときのような。わたしは、丘に並ぶ、墓が重く見えた。多くの化粧鏡を細工した者たち。大鳥の名が、緑よりも色濃く、夏を繰り出していた。 「なみえ、もう少し背が伸びたら」 「ええ、なんでしょう、お坊」 「わたしが、海を連れてくるよ」 連れてゆくと、口が裂けても言えなかった。なみえという女が、いかに強い女か知っているせいか。けして、鳥籠の鳥のように、連れ出してやろうなんて真似。そんな、酷い仕打ちは出来なかった。だから、わたしは、海を連れて。いつか、潮風の気持ちのいい、写真でもいい。それこそ、父のように絵葉書でも書こう。もう、昭和じゃないのだからと、そう言い掛けて。 「ーーわたし、月もの来ないんです」 淡海の隅で、そのことが、墓石よりも。なみえのじりりと、枯れた声が、ぽたん。それは、言い掛けただけで、終わっていた。 その次の年の夏のこと、だった。 従兄弟の宗次郎は、土建屋の娘と祝言を挙げた。わたしは、披露宴で宗次郎がこさえた、化粧鏡を覗いて。その波打ち際のような、揺らぎのある細工を見た。台の方には、松の木々と、あの綺麗な砂浜があって。浜には、女の姿があった。わたしは、自然と、手を叩いていた。 あんまりにも、美しく。あんまりにも、惨いそれを指先伸ばして、触れ。手を叩く、それに釣られて、披露宴は沸き立つように。大鳥の名が、この先も続く幸を伝えていた。 あとで聞いたことだが、父からの融資は宗次郎が嫁を迎えたことにより、打ち切りとなった。なんでも、宗次郎の嫁の実家は、大鳥の化粧鏡を家具屋の商売を始めるに当たっての売り文句にするらしく。わたしの方は、今までの融資分がなくなり、暮らしはそこそこから、それなりに変わった。もとより、化粧鏡の生業に向いてないわたしは、海を渡ると決めて。ちょうど、中東の荒れ具合がまた悪化し始めていた。今のうちと、行けるところに行こうと思った。父は、金を出してくれるようで。わたしは、なにがなんでも、淡海から離れたかった。 「おめでとう、なみえーー」 あの日のなみえに、わたしはそう口にした。あのいかようにも、多くを、泣き言を語らぬ喉元へ。もう、女として、月ものが来なくなった、なみえに。そう、物知らぬ、口から息溢れた。 わたしは、浜に上がった、女を知っている。 冷たくなったそれに、わたしは必死に息を移した。だが、どれだけ、分け与えようとも、息は移されず。やがて、じりりと、肺が萎んだ。 その女は、翌年、宗次郎が細工した浜の女に。 ーーまるで、いきうつし、でいた。
ペンギンは崖から飛び降りる
※性的な描写が、あります。 ーー二日酔いで起きたら、トイレに知らん女がいた。 いやいや、そんな否定が入る前に。人間不思議なもの、裸族の女を見つけたときの反応は。まず、その胸とケツのデカさの確認から入る。これは本当に情けない話だけれども、ちんこがかぴついてない件から、途方もなく。徐々に、知らん女が自宅のトイレにいることが、怖くなった。あれと頭を捻る、身に覚えのない顔。恐ろしすぎるが、体格から勝てそうな気がする。なにより、もし無体を敷いたのが、おれであった場合に、どうにか有耶無耶にと。とんでもなく人でなしなことを考えていた。 なにせ、昨夜で頭はガンガンだった。 「あ、ああ、どうも」 「え、ああ、いえ」 ピンポーンと、玄関のチャイムが鳴る。待てと、挨拶された一瞬に。次には、玄関にチェーンすら掛けられてないことを知る。なんだこの、何もしていないと信じられないが故のパニック。勘違いが、破滅を呼びそうな無実に。昼過ぎの、カラスが鳴いていた。かっぁー、かっぁー。おれは、今すぐにでも、翼が欲しかった。 「あのぅ、出ないんですか」 「いや、たぶん勧誘とかだと」 「ああ、なるほど」 逆に、あんたの方は出ていいのかと喉から。きゅっと締まる、心臓。今日というより、返済日は来週で。生憎ともう、厄介なところとはおさらばしている。うちの玄関を叩く輩は、もう日蓮の勧誘だけだった。 「もうしかして、トイレ行きたいですか」 もしかして、あんたが新手の日蓮だったりします。そんな口が裂けても、言えない。なんせ、女の方にある玄関には、おれの護身用の木刀があった。勝ち目がない、どのパターンでも怖すぎる。待てと、おれは女を連れ込む余裕があったかと自問する。デリヘルか、デリヘルがここまで来るか。仲間内じゃ、少々ちびの上にふっくらした頬が、たこ焼きとまで言われる。幼い顔立ち、いい言い方だ。それに、昔バスケでやった足のせいか、ぴょこぴょこ小股の歩き。その割に、妙に短気のせいか、ペンギン扱いだ。可愛いとこぼす、女もいる。だが、ペンギンだった。イカしたペンギンになりたい、くそったれ。目の前の女が、痴漢冤罪の権化に見えていた。 「お話だけでも、死後硬直がなくなりますよ」 どんな、勧誘をしている。ドア越しに言う、台詞じゃない。ほらお陰か、女が裸族として、くすくす。よくその胸曝け出したままに、笑えるんだと。揺れる乳、少し茶色。いやいや、目線下に映せば、あまり剃られていない。そんな感想が、口からぽろりと出そうに。鎮まりたい心に、生憎調子の悪い、おれのムスコ。最近はうんともすんとも言わない、疲れがマラを通り越している。アルコールが、へにゃっと先っちょで微笑んでいた。 「代わりに出ましょうか、わたし」 「その前にトイレに行かせて欲しいです。はい」 おお、勇者よ、死んでしまうとは情けない。久しぶりに、そんな文言が床を伝った。勃てよ、おれのムスコ。裸族の女を見ても、ぴくりともしない。男の尊厳が、こう悲鳴を上げていた。これはコンビニで、毎日同じ店員と会うとき、あたかも連れがいますなんて。そんな振りから、二人分の飯を買うようなもんだ。ここに、独り身の尊厳がある、もう萎れそうだけれども。取り敢えず、安心できる便器に顔を突っ込みたかった。 「じゃ、あなたが入っている間に」 「そりゃぁ、どうも」 どん、どん、リズムよく。ああ、こういうときにNHKの集金ならいいのに。なんて、便器がちらつく、カップ麺の汁あとがあった。女はごそごそと、遠慮なく立ち上がって。全開のおれの聖域たる、白い場所。淡い、橙色の、その光が好きだった。 「あ、服借りますよ」 「え、ああ、洗ってんのは干して」 「あいらぶ、ニューヨーク」 「はぁ、はい」 「って書いてあるやつ、もらいます」 「はぁどうぞ、ええ」 いやいや、あんたの服はと言い掛けて。おれの胃がひっくりかえる、五秒前。愛しの便器が、囁く。指突っ込んで、いい場所、突いちゃいなよって。覗き込んだ、便器の底。端には、掃除し忘れた二日前の、おれの残り滓。こべりついたもん見て、指なくとも、吐きやすくなっていた。あれだ、久しぶりに拝んだまんこの掻き分けに、トイレットペーパーあったような。なんともいえない、虚しさと気持ち悪いと思いたくない、前屈み。強くなる、玄関の、裏拍。そう、叩かれた鈍い音は、裏拍を刻んでいた。洒落てんな、なんて思っちまっていた。 「……あのぅ、困るんですけど」 「ああ、出てくださいましたね。お話よろしいですか」 「いえ、よろしくないんです」 「そんなこと言わずに、見たとこ顔色が悪そうですね」 「ええ、実はここがどこか分からないんです」 「そういう時もありますよね、そういうときは」 「あのぅ、ここって都内ですか」 「うん、え、えーと」 「あ、電柱あった。ああ、板橋……」 不穏な会話が、聞こえて。それよりも、あの女、いまノーパンなのかと。おれの干してあるもん、着ているはず。でも、下はどうしたのだろう。確か、もじゃっと剃りきれていない、若さの。いやいや、そうなら、勧誘のやつは何をしている。ぐぇっと、まるでペンギンのように、唸る。どぼっと、昨日胃に流し込んだ、ちゃんぽんが出てきた。キクラゲが、そのまんま。ぐぇっと、また、おれの脳が揺れた。 「ていうことなんで、家に帰ります」 「え、ちょっと」 「え、家に帰らせてくれないんですか」 「ここ、あなたのご自宅じゃ」 「ないですね、あ、スマホやめてください」 もし、入り込んでいる女が、サイコパスなら。そう、勧誘のやつが、現在進行形でおれの命を拾っていることになる。けれども、もし、その、おれがやらかしていて、向こうもびびって。震えが、わかりたくない、辛い唐辛子の残骸が、喉から、鼻にむせ返った。息ができない、過呼吸かな、そんなひゅーっと抜けた音がした。 「ちょっ、がはっ。まじ、たすけて」 がたん、トイレットペーパー装填するもんを蹴っ飛ばした。ごたこだ、上の戸棚から、さらに積み上げられたトイレットペーパーが落ちてくる。ごちゃっと、頭に、ロールが取れた、紙だらけ。がちゃ、がちゃ、どん、そんな足音が、玄関から始まった。玄関からは、開けっぱなしのドアしか見えない。トイレの中身は、秘密の花園のまま。蝶番から、見えた、不安そうな二人の人間の顔。走馬灯にしては、ちんけだった。 「えっ大丈夫ですか、ちょ、じゃま」 「なんか、やばい音しましたよねっ」 「ねぇ、返事して。ねぇってば」 鼻に詰まる、嘔吐物。あれ、こんなにも吐くことは難しかったか。警察がうわついた、会話聞いて。焦った吐き掛け、おれは冷や汗だらだら。気管に入るだろう、そりゃぁ。女とちゃんと話をしていないのに、ナニについて、話さないと。こういうとき、もしそうだったら、やばい。弁護士、え、おれやったのかなんて、足の親指が紫になるのが、見えた。 「うわぁ、きたな」 「……まじ、おまえ」 まじ、おまえ。このひと言、すべて、起きてから叫びたいこと。ぐちゃぐちゃのトイレットペーパー、吐き掛けのおれ。涎かけの如く、涎がべっとりのシャツ。センター分けの前髪、その先が、嘔吐でぺかる。ちんこは、ぺからなかった。よもや、おとといの、ぱちんこ、まどか☆マギカもぺからなかった。玉は、転がされたけれども、ぺからず。おれを見て、女は言った。それに、気まずそうに目を逸らす、勧誘やろう。実は、こいつが一番いいやつな気がした。詐欺まがいの宗教でも、気が使えるようになるんなら、儲けもんだ。その瞬間だけ、おれはそれらに優しくなった気がした。 「大丈夫ですか、救急車とか」 「神通力とか、ないの、きみ」 「ごめなさい、ぼくは使えなくて」 「ああ、徳積んでないんですか」 「……まじ、おまえ」 空気読めないどころか、クラッシュさせていた。女は、あいらぶ、ニューヨーク。まさしく、宇宙人に見えて。ほら、むかし、イングリッシュマン・イン・ニューヨークなんて、乙な曲があったはず。他国の人間が、別に見えるのはわかる。でも、おれには、女が宇宙人だった。到底、おなじ人類に見えないでいる。ふと、はっとして。実は、おれが食われたんじゃないだろうかと、思わずケツをまさぐった。うずっともしない下半身に、安堵しつつも。吐ききれない、詰まりが、気道をくすぶっていた。 「なんか、大変なときにすみません」 「あぁそう」 しおらしく、謝られた。居留守しているときは、好き勝手やりやがる癖して。随分と、申し訳なさそうに、下をふく。そこには、ただ、青年がいるだけだった。 「背中摩りますよ、よろしければ」 「え、いや」 「あのぅ、指入れたほうがいいと思います」 「そうですね、えっと、どうしますか」 地獄だ、親切が呼ぶ阿鼻地獄。青年がなぜこんなにも、親切なのか。優しさが生まれる宗教、考えを改めた。傍迷惑、が、浮かぶ。 「吐けます、じぶんで」 「それ、ほんとですか」 ふたりして、きょとん。絡みつく、痰のご託。はくはくと息がし辛く、それでも、喋れる気苦労。ほんとうですか、噛み砕けない言葉だった。 「ひっ、は、吐けますって」 「お兄さんのご好意、受けたほうがいいですよぉ」 「鬱陶しいなんて、言われませんか」 「喧嘩売ってます、わたし、ノーパンなんですけど」 「え、ノーパン」 「あっ、えっち」 あれ、えっちしたんですか。思わず、丁寧語で聞き返そうとした。ぶるりと、寒気と、強烈な頭の隅のどんっとした、鈍い、痛い。そんな、こんなだ、眼球を抉りたくなっていた。トイレットペーパーが、頭から転がり落ちる、ころころと、まるでロードと、道と主を掛けた洒落れのように。勧誘の青年へと、手が伸びる。慈悲を与えましょう、そんな目をしていた。残念なことに、えっちしたんなら、いい夢が見れたはずと。げぼが、出そうに。 「濡れてるんですか、いま」 「シックスセンス、キてますか」 「シックスナインが、いいです」 苦しむ人を放りながら、えろいことが往来していた。二日酔いの恨めしが、目ん玉を飛び出ると。女がおれの腕を引き上げ、青年の指がぐるりと。歯茎に、嫌にしなやかなもんが、伝う。悲しいことに、喉にある青年の指。そいつは、ラッキーストライクの味がした。悔しいことに、うまい煙草で、いっそう。いっそう、吐き気が、ばちばち頭を捻っていた。 「はい、よしよし」 「そのまま、口開けて」 あ、これ、あれだ。そんなこと気が付けば、ふわっとした。ぐぇっと、出る。ペンギンみたいに、足がぱたついた。啄むように、指から吐いている。キクラゲが、また見えた。おれは、どれだけちゃんぽんを食べたんだと、思った。女が、腕と背中を摩る。青年は、甲斐甲斐しく。やっぱり、日蓮の新手の勧誘な気がしてきた。涙、ほろり。鼻水ぐすっと出て、しまいにはなんだか情けなく。みっともなく、ぐぇっとないた。潤う眼球に、あいらぶ、ニューヨークの文字。鼻がひくつく、青年の指はまだ成熟していなかった。 「ああ、吐けましたね」 「よかった、いちおう、心配したんですよ」 女のほうが、裏があるように聞こえる。不思議な話で、トイレットペーパーが、うようよ。おれは確かなことが言えて、震えた。少し、前屈みになる。独り身の哀しさ、構われるのはよくない。非常に、この場において、そいつは良くないことだった。 「ーーすみません、勃ちました」 どうしよう、たぶん、崖っぷちにいる。
誰かのサックスが聴こえない
「ーー右耳が、わからない」 十五の夜、だった。小さな頃に、水疱瘡を患ったことが、再発するなんて。医者は、気まずそうに、おれに言う。すまない、これは小児喘息が蘇るようなものだと。ずっと、潜伏していた微かな、そいつ。だから、そいつが、ある日、まだガキの右耳を奪っていた。 北向きの窓にいる。紫に光る、カラスがいた。雑音が、しゅるりと舌を巻いて。右耳に掛けられた、ヘッドホンがなにもない。なかった、ある筈のものがないことが、リアルになる。繊細なタッチだ、世界は反転しても人生は変わらない。おれに残ったのは、水疱瘡がつけた額の丸い痕。それに、ある筈のものがないという色合い深まった、外への窓だった。それも、たった少しもないほど、北向きと。 「わたし、色盲なの」 「奇遇だな、おれは右耳がイカれてる」 「脳みそは、無事かな」 「さぁ、それも見知らぬ誰が話しかけてくれてるから」 「ねぇ、わたしは脳みそあるって」 「少し黙ってくれよ、性悪」 精神疾患があるやつなんて、ごまんといる。なのに、釜開けば腫れものだ。いいじゃないか、憧れから目玉をくり抜いたって。昔から、カラスは紫に決まっている。擽る、あの医者の白衣に吐けばよかった。バス停にいる、いつだって逃げ道はそこしかない。乗せてくれないんだ、肌も黒くないと、弁解するけれど。白い肌のやつは、みんな殺しておけばよかった。あと、赤いものも、ぜんぶ。 暫くすれば、話しかけてきた女は、左側に座っていた。神聖なものは、大抵右だという。ヒンドゥー教では、右手は処女受胎。左側に座る女は、バビロンの女かもしれない。ああ、いつから宗教が、空から降ってくるだろう。おれは、病んでいる。そうじゃないなら、右耳の耳かきがやめられない理由を教えてくれよ。そんなことを言えば、寝室の北向き窓が、開いていた。母が押し付けた、ピアノがある。もう、おれは聴こえない。あれは、シナーマンだった。サンドマンが来ないままに、ずっと隠れたDマイナー。鍵盤は、あらかた沈んでいた。 「学校には、行くの」 「社会的信用が、必要だと思う」 「学ぶべきことはないの、きみは」 「そうは言ってないだろ、なんでヒステリックに解釈する」 「拡大解釈と言うの、それは」 「賢ぶるなよ、隣人」 「なら、愛する必要があるね」 ショットガンがあるなら、酒に溺れていた。オキシコドンがあるなら、自慰をしている。金があったなら、右耳を取り戻して。部屋に帰る、そこには母のピアノがあった。ぽろん、音階が違う。それがわからない、感覚が歪む。まるで、イアホンの線が片方抜けたように。巡礼の年が、好きだった。リストは、慈悲を与えてくれる。ニーナ・シモンは、ひたすらに首を括れと言った。 芸術から音楽までを通して、燃やす。身は焦げて、残るのは伊丹十三のようなギザだ。小指から、冷えてゆく。いや、小指だけひとりぼっちに熱をもたず。友達がいないんだ、ほんとうの。そんなお酢を飲み干しながら、おれはわからない。右耳が、わからない。なにかの音を拾っているつもりで。なんの、ある筈のものがない。椅子の陰が、北向きだからと嘘を吐いた。隣りに、悪魔がいた。 「ロックなら、誰を愛したの」 「それは質問か、尋問か」 「ミック・ジャガーか、それともシド・ヴィシャス」 「クイーンは、どうしたんだ」 「いい子ちゃんは、嫌い」 「フレディは、ホモだ」 「いまは、なんでもゲイっていうの」 「ところで、本当にレズか」 「やっぱり、ナンシーに期待して欲しいから」 「なら、消えろよ。もう、きえろ」 十五の夜、だった。ピアノは弾けた、楽譜は読めなかった。学がないから、リズムもない。スイングしたことは、デスクター・ゴードンに埋もれる。心臓を喉から、転がした。傷ついた、右耳がわからない。音がないことが、幸せに思えそうになる。耳がよかった、人よりも。左耳に、おちた奇跡。デクスター・ゴードンを愛していないと、見舞いの友人には言えなかった。サックスが、癒す、沁みたかけらがあった。 「愛しても、いいんじゃないかな」 「見知らぬ誰かが言うには、な」 「長く生きてるよ、もう長いこと」 「なおさら、信じられない」 「敵ばかりなの、目の前は」 「ああ、また拡大解釈している」 「きみにとっては、そうだね」 「これだから、嫌なんだ」 「女はって言うんだよ、知ってる」 「それこそ、体現している」 「人間の建設は、読んだの」 「いいや、岡潔のだろ」 「数は、ロマン」 「言ってろよ、身も蓋もない」 チーズケーキをコークと読んだ。デクスターの吹いた、木漏れ日がある。北向きの窓の向かいにある、隙間。撫でた指の腹に、刺さるサックス。ふた拍開いて、息をしよう。右耳の耳かきが、やめられない。ステンレス、丸み帯びて。掻き出したものは、なんにも。あるときから、シラミが棲みついている気がした。母のピアノが、鍵盤からやられて。調律師は、おれに言った。皺の寄せ方が、まるで医者のようだ。自分の話す言葉が、わかっていなかった。どういうことか、北向きに窓がある理由と共に。 「保険に入りたいと、思ってる」 「おれが、か」 「女に落ちぶれたくない、その心理と」 「真理だ、そして男は落ちぶれたくとも」 「もう、底にいる」 「……ああ」 「ドーナッツの中心は、綺麗過ぎるから」 「おれは、買っても食べないからな」 「好みじゃないの」 「いいや、好物だ。こないだ、悪玉コレステロールが出た」 「いま、十代だと思い込んでたの」 バス停に、点滅がある。ふたつ前まで、バスが来たらしい。最近じゃ、点滅する。信号待ち、列は気が遠くなるほど。左側に座るような女が、瞬きをしていた。 「見知らぬ誰か、だよな」 「親も、それに含めたがる人もいる」 「なんで、色盲なんだ」 「赤が嫌いなリアリストだから」 「いや、ロマンチストの筈だ」 「水疱瘡は、いつなったの」 「あれは……ちいさな」 「十五の夜は、尾崎も憐れむね」 「まさか、おれの話をしているつもり」 「もうすぐ、バスが来るよ」 「暗示なのか、右耳がーー」 十五の夜、だった。若さが呼んだ、独善。黙っていた、それが義理を果たすことだった。家族が壊れることは、いつも金が絡む。逃げた、その女を知っている。優しかった、嫁入りにしては物分かりのいい。水疱瘡の小さな子どもに、ギザを教え込む、性悪女。家族付き合いにしては、優しすぎただろう。黙っていた、それが正しい。おれは、騙された。いつだって、おれはいい奴として、騙された。なぜ、カラスが紫だと思って。 「ところで、聴こえたの」 「ーー右耳が、わからない」 見知らぬ誰かのサックスが、聴こえない。
白い啖呵の際
あの担架が落ちたとき、僕は覚悟したんですーー。 くすくすと笑い掛ける、僕の血の繋がらない姪でした。そこそこ名の知れた建築家が、晩年に残したやり掛け。ピロティから続く、中央の螺旋階段から、彼女が見えてしまいます。担架は、音を立てずに降り注ぐんです。 姪は、真部まゆみでした。 能書き垂れて、うろうろと。伸ばした爪の切り方すら、覚えきれぬままに。飯を食いながら、ふと布団剥げば、いい歳となって。丁寧に言葉包み込めるほど、奉公に出た年数も短く。僕という奴は、頭がよろしくないまま、和歌山の串本まで辿り着いてしまって。そこで、僕と同じ家紋を与えられた少女はーー。 少女は、僕の姪と言いました。それを告げられたのは、串本にある樫野崎灯台。純然たる白い宇津木石で建てられた、最初の洋式灯台。まるで大正が浮かぶように、それは陽射しを受け止めて。淡い色のワンピースを着た少女が、麦わら帽子を振り回しているような、錯覚。瞼の奥が深く感ぜられ、下を這う海は、薄く膜を張っていました。白い、啖呵の波打ち様。僕は、母の顔すら見覚えがないままに。 自然と、口から溢れました。許して欲しいと、僕はやはり頭が緩くなる大人であって。実際は、少女は制服でもワンピースでもなく。野暮ったい、男物のコートを羽織っておりました。間違いは、誰にでもあります。でも、少女は確かに真部まゆみであったんです。僕は、がたがたと歯形震わせて、恐れをなしました。 真部まゆみは、陶器のような肌を持った女でした。そして、その触り心地は至る程に冷たく。ひんやりと凍てつき、劈くように生ぬるい感触をしていました。唇はかさついて、膣の中だけはヌメるような、まるみ。真部まゆみには、残念ながら乳房はありませんでした。僕は、それだけが、あの女の欠点だとしています。だが、それ以上に、真部まゆみは、慈しみを火葬場にやってしまう女でした。 僕だけの姪は、真部まゆみでした。彼女という名の少女は、真部まゆみでした。くすくすと笑い掛ける、螺旋の階段。担架は、啖呵を切った僕が、持ち込んだもの。言ったんです、この遺作から灯台を見たいのなら、足場が必要だと。少女である筈の彼女は、首を縦に振りました。いいですね、それなら貴方が寄越してくださいなんて、洒落て。口紅は、僕の姪の父親が与えたものでした。果ては、見知らぬ男であると、僕は見知っているんです。 串本に辿り着いたとき、僕は愚かにも。そう、不遇にも一報を知らせました。家族は、よく思わなかったようで、その返事は来ませんでした。串本という本州最南端の、空気が切れぬような温かみは、潮風を呼んでいます。ぎらぎら、反射した際。僕の短気は、いずれ腹の虫すらも潰して。家族は、その一報を聞いていたか分かりません。 ずっと、雪が降るところにいたせいか。少女は、僕のコートの厚さを聞いてきます。分厚く、ざらついた生地。けして、羽毛で覆い尽くされたものでもなく。簡潔に縫われた、灰色は、よく海沿いに合っていました。 寒かったですか、そこは。ええ勿論です、だから串本まで参りました。貴方は、私のおじです。それは知って良かったことですか、それとも。ええ勿論、知っていいことです。そうですか、きみは僕の姪ですね。気に食わないようですが、いかがしますか。気に食わなくても、血が繋がらなくても、きみは僕の家紋を持ってますから。悪いのは、私の親ですよ。分かってますよ、悪いのは僕の兄弟です。 そのやり取りは、灯台がぼつり燈されるまで。続いた会話に、長い道のり。途中、心清い人らが助けた異国のお話が、流れていました。トルコは、遠いんです。そう、呟く少女は、僕の姪。でも、どうやっても、真部まゆみでした。少女が、真部まゆみというんでした。そして、忘れないように、みかんを一つ食らったんでした。 これは、数年前のことです。真部まゆみが、脱走したと聞いたのは。僕が、まだ寒いところにいる時でした。会いたがっていたそうです、まだ美しいと言われた、真部まゆみは僕に。どうして、そこまで、そんなにも、僕に会いたがっていたかは知りません。でも、叩かれた扉は開くことはなく。僕はつま先の先っぽから、首元までをゆっくりと。そうやって、布団を被りました。実に長い間、光もない部屋に、真部まゆみを恐れていんです。まさしく、禍い。どうにも出来ない、僕の家紋と同じ宿命でした。 そういったこともあって、奉公はやるべき時を見失ったまま。僕は、大人になってしまいました。真部まゆみは、僕をじわじわと弱らせていたんです。そもそも、僕にとって女とは、真部まゆみでした。真部まゆみは、かくも実在していました。陶器のような肌から、僕はゆるりと世の中を知りながら。理不尽ですか、それは僕も思ったことです。真部まゆみは、慈しみを火葬場にやってしまう女でした。その代わり、乳房なんぞない女であって、それが唯一、真部まゆみを女として魅せられない欠点だったんです。 真部まゆみでした、そう覚悟する前に。女とは、身近ではなくて。茶髪に、真っ赤な口紅、それに胸の張った、やわくてふわふわしたものだと思っていました。でも、今は、あんな、あんな見苦しくも美しくも、苦しくも、縋りつきたくなるような硝子玉を目玉にして。まだ、人形であったなら、僕も大手を振えました。でも、真部まゆみは拝殿の奥に置かれてある、御神体の女体に思えていました。それからは、見る仏全てが、背徳の愛欲。仏にすら赦しを乞いながら、勃ってしまう男になったんです。 僕の姪の父親は、どういう想いだったのか。口紅は、僕にとって真部まゆみの前でした。姪は、真部まゆみでした。くすくすと笑いかける、あの担架があります。あの螺旋の階段を駆け上がる途中、僕は姪を迎えに行っていたんです。彼女が串本を離れたいと、僕は僕が居た寒いところに戻る決心をつけて。それでも、真部まゆみが、僕の前に姿を表したような錯覚。りんりん、ちりん、電話がかかってきました。それも、一報を受け取らない家族からのもの。僕は、そこでようやっと、数年前に。その前に、真部まゆみがーー。 串本には、眩くも白い啖呵がありました。僕は、それを喉奥から嗚咽して。僕の姪は、あの灯台の丘の上。静かに、男物コートと口紅。分からないでいるんです、僕という頭のよろしくない男は。母の温かみを知らず、太陽は傾き続ける日々。幼い僕は、きっと手を伸ばしきれないまま。そうだというのに、僕の姪の父親は、僕の姪を見ていました。姪は、それをくすくすと笑いかけながら。担架があります、僕もそうやって少女を見上げていたんでしょうと。姪は、真部まゆみでした。それだけが、根拠でありたかったんです。 まだ、僕が寒いところに連れて来られる前の場所。そこは、真部まゆみといました。微笑みかけながら、僕にオムライスを作ります。とろっとした卵と、トマトの酸味。酸っぱい、それでも頬張れば、真部まゆみは僕の頭を撫でて。まだ、真部まゆみが僕の家紋を持っていた頃のこと。あの女の欠点は、僕にとって、憂鬱な硝子玉と一緒。もし、僕が女であれば、そのどろりとした卵をきっと、乳房のない女に投げつけられて。真部まゆみは、最初から、僕の頭をこじ開けなかった筈でした。 おじのあなた、それはとてもよろしくないことですよ。僕の兄弟は、僕を信じてはくれない。ええ、勿論そうでしょう。なぜ、きみは僕だけの姪なのに。信じてはいけないんでしょう、あなたは大叔母さまとも、血が繋がっていない。きみも、僕の兄弟も、ない。ええ、あなただけが、家紋の内側から外れているんでしょう。哀れですか、僕は。いいえ、私のおじですから。そうですか、ところで聞きましたかーー。 僕の姪の父親が、螺旋の階段から落ちていました。それはちょうど、真部まゆみが亡くなったと家族から、ちりんと電話鳴った頃でした。僕の姪の父親は、見ていたんです。それは、かつて僕が抱きかけた啖呵の波打ち際。少しずつ、僕の姪は離れたいと溢しながら。灯台は、ゆるりと海を照らして。少女は、気付く。そうして、僕があの建築家のやり掛けから、見えるように。彼女を助けるようにと、持ってきた担架。ぷつりと、糸が切れていました。螺旋階段の手摺りにあった、最後の糸。解けてしまったなら、仕方がないようです。僕はみかんを含みながら、彼女の抵抗を良しとしました。 だけれども、まさか、その決心の矛先が、僕にまで。そうとは知らず、分からなくなっていました。姪は、真部まゆみでした。だから、僕は御神体の女体に思えていました。それは、触れるつもりもない、吐き気すらあるもの。ぐるぐると胃が、臓物が揺れます。 ああ、真部まゆみは、僕を信じていました。少なくとも、誰よりも、僕だけを。少女の決心は、いよいよ洒落にならなくなっていました。家紋の内側は、みんな階段から落ちゆきます。そして、彼女は、僕にあの寒いところへと。でも、僕は串本に居たかった。そこは、かつて僕が真部まゆみに緩やかに、愛されていた故郷。海は、母の愛と言います。僕は、その景色を咀嚼して。でも、見てはいなかった。 慈しみを火葬場にやる。ちりちりと、燃えてゆく。それは、確かに僕の姪の父親。隅で見上げて、あの螺旋階段。上から、僕のやった担架が降り注ぐ。くすくすと笑いかける、僕の姪。やめましょう、きみにはもう必要ないから。そう言えば、少女は困ったように。ええ、でも、まだ、あなたが残っているから。僕は家紋の外側で、それでも家紋を持っている。彼女は、根絶やしにする。もし、僕が女であれば、事はよかったのかもしれず。ゆっくりと、物事の白いもの。啖呵、歯切れのいい言葉が並んで。それは際でした、世の中の際でした。 ならば、そこそこ名の知れた建築家が、晩年に残したやり掛け。ピロティから続く、中央の螺旋の階段。そこから、彼女が見えてしまいます。担架は、音を立てずに降り注ぐんです。姪は、真部まゆみでした。くすくすと笑い掛ける、僕の血の繋がらない姪でした。 あの担架が落ちたとき、僕は覚悟したんですーー。
【黑山羊文學】TORNADO
このお話は、性的な表現を含みます。 オトコの生き様は、イカサマ。オンナの死に様は、有り様。 ミネチカ・マリコは、そのどちらでもないカマだった。 「アンタが、新宿に来るなんてねぇ……」 僕がやったルージュは、昨年末の売れ残り。青葉台の化粧売り場は、オーガニックが主流。僕の昔のオンナがしていた、真似をする。ビジネスは、煙草の火種と似て。少しずつ、模っていけば、上手い具合に、僕の店になっていた。そんなところで、ギラめくサンシャイン。微かに香る、男物のベルガモットシャワーが、ひっそりと。マリコにやったものは、僕のお気に入りの売れ残りだった。 「やっぱり、いい色だなぁ」 「これね、アンタはセンスだけはイイわ」 「うん、だって、それはおまえの為に作ったからね」 「ふっ一杯も奢る気はないね、アンタには」 「あれ、つれないな」 「……オトコのアンタに言われたくないね」 マリコの鎖骨は、ラスピラズリよりも映えてしまう。薄ら青い線に、疼く指先。爪先から凍えるように、マリコのそいつに齧り付きたい浅ましき欲。だが、僕は無謀にも知っていた。そいつは、欲でも色のつかないもの。ああ、なぜ、僕はオトコだったんだろうか。そんな問いに、レッドフラッグ。好きな色は、赤。なんでも共有したがる、奉仕のイチモツがぶるり。マリコの鎖骨には、僕のルージュを溢すべきだった。 「で、今日はどうしたのよ」 「ちょっと、マリコに聞きたいことがあってさ」 「アタシにねぇ、いくら貸して欲しいワケ」 そう言えば、傾けていたグラス一つ。マリコの鎖骨のように、ゆるり溺れるような氷が回って。マリコのギラめくサンシャイン、そのネイルをきゅっと鳴らした。からん、ころん、浮ついたラインが、後ろの恋人たちがぽろり。そのクッキー、入れたいわ。いいよ、あげる。そんな言葉をバック、僕の熱りも。だが、聞きたいことは、よりディープに新宿を彷徨う。ああ、僕の最も嫌いな新宿ニ丁目の残骸へ。 「生憎、儲かってるよ」 「あら、残念」 「そういうところ、嫌われるぜ」 「そのさぶい口調も、言えてるけどね」 「辛辣さも変わらずか、いいね」 新宿ニ丁目、七十年代のテキサスなら、ここはメキシコ。楽園という名の魔窟に渦巻く、オトコよりも傲慢で、オンナよりも残酷な生きものの棲家。喰われたら最後、骨までしゃぶられるが運命。そいつは、オトコでも、オンナでも変わらない。カマが、無害だと誰が知る。この世で最もキケンな神の創造物でもない、カトリックのはみ出しもの。僕の愛おしい、ドラッククイーン。 「なぁマリコ、他意はないよ」 「前振りは、お粗末だって知らないのね。哀れよ、アンタ」 マリコと出会ったのも、ここの店。バーよりも薄暗いアイリッシュパブは、美味いものはサーモンフィッシュのプレート。意外にも山椒掛けられた、そいつはブラックビアによく合っていた。黒いビール、ラベルはどこのか。ちかちか照明に、色んな意味で高いヒール。踵が、ふわっと、僕のスーツを掠める。ピースだ、型はイタリア北部の斜めがけ。ネクタイは、それに合わせたイエロー。肌とかけた洒落れは、いくぶんかレイシストへの挑戦を体現していた。 「じゃぁ、遠慮なく」 「ええ、どうぞ、ジェントル」 「そいつは、どうかな」 あの日は、虚ろな負け犬じみて。オトコが着るような派手さもないサラリーマン装い。そいつを指差して笑って、ちびちび飲んでいたウィスキーは飲まれてゆく。かんっと高鳴った、ヒールと僕の心臓。そこには、ダビデがいた。僕は、ゴリアテにすら立候補するだろう、美学。ウィッグなんて気にならない、くびれどころかガタイがいい尻の造形。だが、一番は鎖骨から首にかけての、その直線だった。飢えた、飢えたオトコの欲と、オンナの色が混ざり合う。それすらも、僕の煙草は吹かしたまま、イチモツへ。煙は、やがてファンに繰り出されて。卑しい、新宿へと流れ着く。忘れたいことも、忘れさせぬままに。人生最初の鬱屈は、マリコのギラめくサンシャイン。その有り様に、目の奥を抉られていた。 「ーー殺したかな、僕の昔のオンナ」 「人聞き悪いこと言わないでよ、カノジョ事故でしょ」 僕の昔のオンナは、気狂いだった。ルージュを作り出す為に、自分の皮すら削ぎ落とすオンナ。まさしく、唇に乗せられた口説き文句を愛して。そのまま、悪魔から同情を掻っ攫うような、真っ赤な血塗れ。なんど、あのオンナは、僕の財布から盗みをはたらいたか。そいつで、コスメを買って、車を乗り回し、ついには空港前の料金所に突っ込んだ。アクセルは、よりよくイクために。ブレーキは、アダムの肋骨ごとネジを吹き飛ばして。あんなに、どうかしているオンナは、後にも先にも、カノジョだけ。一つ教訓を得たのは、決して芸術家と恋仲になるもんじゃないということだけだった。残った悲惨は、人生をより惨めにするだけ。死んだ、あのオンナは、今日も変わらず僕をを貶めている。 「おまえ、乗っていたんじゃないの」 「アレの車にって言いたいワケ」 「まぁ、そうだね。どうなんだ、マリコ」 「人殺し呼ばわりは癪ね、今じゃ」 「昔なら、良かったのかな」 「あら、そうね。昔なら喜んで、告白したでしょうよ」 「気は変わらないのか、もう」 聞いた噂だった。マリコと仲が良いとは言えなかった、僕の昔のオンナ。あいつは、どうにも、カマとやらを嫌って。オトコが、オンナみたいにするのなんて気持ち悪い。悪気もなく、そう言っていた。なんせ、あのオンナは、その美しさとやらを臓物から溢れた、グロテスクな趣味と言った。綺麗な、お優しいことばかり好むあのオンナは、決して公平な言葉を言いやしない。あのオンナは、まるでこの世の悪意を煮込んだ挙句に、勝手にくたばるオンナだった。綺麗事を愛するやつというのは、いつの世も、一番にあの酷い神に近いというのだから。こんなに、シニカルな様はない。 「アンタは、気付いてないみたいだけど」 そう、告げる。マリコの噂は、じゅわりと炭酸に溶けて。スパークリングを頼んだ僕の甘さ加減に、ゆらめいていた。 「もう、罪とやらを聞いてくれる人すらいないのよーー」 空港前に、あのオンナがいた理由。そいつは、噂で流れてゆきながら。僕の耳まで届くまで、きっと新宿を五周はしただろう。あいつをくたばれと祈っている奴らは、うじゃうじゃいた。なんせ、作ったブランドが酷評されれば、そいつのうちまで行って、火を放つようなオンナだった。僕だって、浮気を疑われて、何度もベッドを燃やされた。煙草は、便器にの中へ流されて。殺意が芽生えないことが、あの日々での摩訶不思議ことで。僕は、静かに、あのオンナが死んでくれることを願っていた。 「てっきり、アンタは清々していると思ってた」 「誤解も甚だしいな、それは」 「意外ね、引き摺ってるワケ」 「五年も前だとか、そういう話はよくないよ」 「年月にケチつける気はないわよ」 「別に……今更、なんてこともないからね」 瞼ぱちり、そんな音がする。マリコは戸惑った仕草で、カールした髪を。少し酒で濡れた指先、そいつが髪を潤わせて。解けてゆく、それが皺になるベッドシーツと重なる。脚組まれた、その隙間から見えるショーツ。そういうことは、酔わないといけない謎だった。褪せた、褪せていた、僕の創作的無責任な欲。滲んだアイリッシュパブ、そこに浸る大人。どれも、無責任な負け犬ども。 「なに、結婚でもするのーー」 まるで、過去でも精算したいクソ野郎のように、僕を見つめていた。それは正しいようで、惨めで。氷が溶けてゆく間隔に、鎖骨の荒々しい何かが弾ける。それも、偏見される側すら陥る、偏見な気がしていた。 「しないさ、僕は」 「違うの、ならごめんなさいね」 「いや、違わないかもしれないな」 「相変わらず、どっちつかずなオトコだわ」 噂は、あの日、マリコが運転席にいたというもの。見かけた連中は、二五六を飛ばしているオトコたち。その内の一人は、マリコが捨てたオトコだった。 「ーー僕は、おまえを抱けるワケにもいかないんだよ」 僕の昔のオンナも、そのチクリ屋のオトコも、皆んながみんな疑っていること。正直、オトコとオンナの友情すら認められない世の中なら。いや、真理として、認めるわけにはいかないならば、そいつは僕とマリコにも当て嵌まって。いくら、マリコのその出立ちに、そそられようとも、昂る余韻があろうとも。マリコの、その少しの髪の乱れから伺えるものが、見苦しく思える。その、著しく、萎えるであろう髭の剃り残しに。あのオンナが、密かにブチ切れていたこと、無視したあの日。僕は、マリコの努力が、イイと知っていた。 「アンタは、抱かれる度胸もないクセにね」 その台詞は、いろんな意味で痛みを帯びて。心臓が、ずしんと重くなる。きっと、僕というやつはオンナしか抱けないとたかを括るうえに。きっと、一生マリコのことを察する気遣いも出来ない。オトコとオンナよりも、分かり合えないものがあった。それが、気持ち悪いと思えない僕は、どうかしていた。あのオンナよりも、どうかしていた。 「そもそも、おまえついてるワケ」 「デリカシーって、その辺には売ってないようね」 「いいじゃないの、そいつはアリナシって言うだろ」 「タマだけのやつね、まぁ違うけどね」 「まだ、あるんだ」 「あんまり、ジロジロ見ないでくれる」 「セクシーだね、マリコは」 「世辞も増えないわね、アンタってやつは」 あのオンナはトチ狂っていたが、時々的も得ていた。だから、あの日の電話で、僕に。がちゃんっと切れるように、公衆電話から。今時珍しく、きっと僕の財布から盗んだものすら足りなくなって。その辺のやつから拝借した小銭で、ダイヤル回したんだろう。あのオンナなら、やりかねない。カノジョなら、平気でする。でも、その態度が、どうにも麻薬。抜け出せない、底なし沼がどろりと。オトコを駄目にするようなオンナ、でも地味な。イカれた、イカレきって、セックスすらキメてしまう。あのオンナを満たしているのは、僕だ。そう思うだけで、その日暮らしすら極上に思えていた。マリコが愛おしくステージに立つ、それを眺めても、生かれないぐらいには。 僕の昔のオンナが、言った。ぜんぶ、イカサマ。アンタの生き様、諸々全て、砕け散るほどにイカサマだからな。殺してやる、頭の先から骨の髄まで殺し尽くしてやるから。殺害予告が、身の毛がよだった。留守番電話から、リコールした後の叫び声。カノジョは、公衆電話ボックスに頭打ちつけながら言っていた。なんせ、新宿を五周もした噂は、おおよそほんとうのことばかり。僕は、すっかり新宿すらも出歩けない。あのオンナ、死んでも迷惑をなんて呟きながら、泣いている自分がいた。 「つくづく、傲慢なオトコよね」 「そういうもんじゃないか、自分ばかり」 「他人様はどうでもいいって」 「マリコ、なにを苛立って」 いきなりなんだろう、グラスが飛んできた。どうして、こうオンナの欠片、胸に秘めたやつは。そう、おんなじことに、同じように怒れるのか。胸元、詰め物もないすっからかん。そこから覗ける鎖骨からの、余命があった。 「ーーアタシは、ぜんぶアンタのためにっ」 だから、びしょ濡れにされた、僕は言うだろう。 「誰が頼んだって言うんだ……」 あのイカれたオンナが、死ぬまえに何をしようとしていたのか、知りたくもなかった。ただ、人生のタイミングと、その不幸の原因とやらがなんなのかを押し付けようと。カマ野郎の所為にできたら、首括りたくなる衝動も抑えられそうになる。まさか、マリコがなんて、自惚れた台詞は沼に沈む。スパークリングの炭酸に、乗せられたパンチライン。そいつが、物事を賤しくして、憔悴させていく。なんだ、甘えた坊やと一緒でも。クール装えるジェントルでもないだろう。僕は、モラトリアムに、イカれたオンナと恋仲になっただけ。ギャッツビーよりも、深く愛を語れる自信が、過去を語っていた。 「おまえ、殺す相手間違えたね」 仮にも、愛したオンナだった。地の果てまで気狂いだったけれど、あいつが飛ばしたアクセルと同じスピードで愛していた。カノジョが作り出したブランドは、僕が名付けて。完成品をちらちらと、僕がいいねって言えば。あいつは、それはもう嬉しそうに小走り。それが、好きだった。滅びるその日まで、そんなキザを降らすほどに。 「やっぱり、いい色だな」 「……ほんと、くたばればよかったのよ」 「それ、トルネードって名付けたワケだけど」 マリコが大事にしてつけてくれた、ルージュ。なら、なんて言おうかと。僕のイエロー、スーツはイタリア。伊達にキマって、顔が良ければマシだった。びしょ濡れの馬鹿は、いずれ誰かが息の根を止めてくれることを祈って。泣かないカマは、酷い面だった。 「実はマリコでも、あいつでもないよ」 答え合わせをした。英語でTORONTOという。猛烈に風の強い気柱、トルネード。名付けたのは、モデルがいたけれども。あのイカれたオンナが作ったルージュ、名付けたのは僕。だけれども、そいつが一番似合うマリコから考えたものでもなく。 「そのオンナ、付き合ってるんだよね」 だから、昔のオンナって言ったじゃないか。あの日、あいつが僕を殺すと喚いていたワケ。単純に、新しいオンナが出来たから。その、綺麗とか色っぽいとかでもない、ほんわかしたオンナ。家庭的な面しかない、だけれども度肝抜くほど冷淡な一面があって。やっぱり、どこかおかしい頭の具合。だが、そのオンナには、子どもがいて。そのオンナは、母親だった。それがオンナの顔をしながら、母親を気取る。母は強しなんて、よく言う。そのオンナは、イカれたオンナとの別れる方法。そいつをひっそり、耳元で囁いた。 アナタの為になんでもするような子に、あのオンナ殺させちゃえばいいじゃない。悪魔のひと言。気のいいマリコならきっと、僕を取るなんて言う。そのオンナが知らない筈の、マリコを知っている。喰われたのは、誰だったか。人を殺せちまうカマよりも、危険なものよりも、タチの悪いやつが、母親面したオンナの悪知恵。テクだけで、死にそうな本懐のろくでなしだった。 「ぜんぶイカサマよっアンタの生き様……諸々全て、砕け散るほどにイカサマだからなっ殺してやる、頭の先から骨の髄までっ殺し尽くしてやるっ」 呪詛のように、ほろ酔いでゆく。清算しにきたのは、過去じゃない。もう溶け切った氷のように、罪の意識も酒に濁されて。マリコは、ギラめくサンシャイン。世の中の理不尽煮込んだ、その表情が、一番出会った頃のような輝き。殺される覚悟は、もう決まった。後は、マリコがどうするのかだけ。 「ーーアンタが、こんなにしたんだっ」 オトコの生き様は、イカサマ。オンナの死に様は、有り様。僕の死に様は、無様に。ミネチカ・マリコは、そのどちらでもないカマだった。