アナ.

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アナ.

伝えたい思いがあります。 沢山の方々に届きますように。

二十七、家族

 十二月、師走に入ると街はとても忙しく、この大きな商店街は特に賑やかに浮き足立っていた。それぞれの店頭には大小様々なクリスマスツリーが飾られ、華やかにその照明をチカチカと光らせている。それよりも更に目立つのは『SALE』という赤い大きな文字だった。その周りには少なからず人集りが出来ていて、それぞれに活気付いていた。  私は昨日、一つの決断をした。それは航平さんに私の写真集の出版を承諾するという事だった。私にとって、それはとても大きな決断だった。悩みに悩んで決断をした。その間、彼も航平さんも、誰も私にその話しを持ち掛けては来なかったし、私もまた誰にも相談する事は無かった。  以前の私であれば直ぐに誰かに意見を求めていただろう。だが今の私は違った。自分で決断を出さねばならない事が何であるのかが分かっていた。それは後悔した時に誰かを責める事がないように、ちゃんと自責を負う為に、だった。今朝、彼の店の開店準備を手伝い、その合間にメールを打った。夕方の商店街の賑わい等は、今の私には全く他人事だった。何故ならこの決断が自分にとって正しいものであるのかどうなのかに、私の心はまだ不安を捨て切れずにいたからだ。けれどももうグダグダと悩み続けるのも嫌だった。  いつの間にか彼の店の前にいた。私は自転車を停め、扉の前で大きく深呼吸をした。敢えて意識して口角を上げ笑顔を作った。 「ただいま。」  カウンターに立つ彼と直ぐに目が合う。彼はいつもの優しい笑顔で「おかえり」と出迎えてくれた。店は然程混んではいなかった。彼に上に居るから、とだけ告げ、私は二階に上がりキッチンに立った。  上着を脱ぐのも億劫な程、私は急いで料理に取り掛かった。料理に没頭する事で無心になれた。私は敢えて時間に追われる時の様に動きに無駄がないよう、両手を働かせながら頭の中をその思考でいっぱいにした。そうやって、私は下拵えを一気に終わらせた。  ふっと力が抜けると、きちんと料理をするという事には歓びがある、と改めて思う。ちゃんと手間を惜しまず手を掛けて作ると美味しさも増し見栄えも良くなる。誰かの為に作るのならその歓びは更に倍増する。私は美味しいと微笑む彼の顔を思い浮かべ嬉しくなった。  店に降りようと鉄製の階段に一歩足を乗せると同時に、階下の喧騒が耳に入ってくる。店はいつの間にかかなり混んでいる様だ。私は屈み込み、店内を窺いながら階段を降りた。店の中央の数台のテーブルは、ほぼ満席だ。彼はカウンターで直ぐ私に気付き、手元の書類を一箇所にまとめ私を迎えた。 「構わず続けてね。」 と私は自分のハイスツールに腰掛け彼に微笑んだ。だが彼はそれには応えず私の目を見つめた。一呼吸置き、彼は口を開いた。 「ゆり。」 何だかいつもの彼とは違う。 「どうしたの?」 私は改めて背筋を伸ばし、身体もちゃんと彼の方へ向けた。 「ゆり、航平さんの写真集の出版の件、承諾したんだね。」 そう言う彼の声には雲が掛かっている様に思える。私の心は急に不安という重い空気にぐっと押された。彼は写真集の出版に反対なのか…。私はその思いを飲み込み笑顔を作った。 「いけなかったかな…?」 私の作り笑顔の裏の不安を直ぐに見取った彼は、慌てて首を横に振った。 「違う、違うよ。ゆりが決めた事に反対はしていない。むしろ嬉しいよ。ただ…。」 彼はここで口を噤んだ。私の顔を見つめたまま言葉を失くした彼の顔を、私は黙って見つめ返した。 「ゆり。」 「何?」 「今すぐ結婚しよう。」 私は彼の言葉を一度聞いただけでは飲み込めずにいた。ただただ彼を見つめていた。彼は私から視線を外し、前を見つめ話しを続けた。 「ゆり? ゆりの写真集が出版されたら、ゆりはね、何て言ったらいいのかな…。ゆりの顔が世間に知れてしまう。だから少しでもゆりを守りたい。ここでゆりを守りたいんだ。ゆり、今すぐ結婚しよう。結婚してここで一緒に住もう。」 彼は最後の言葉は私を見つめ言った。 私は「はい」と即答出来なかった。彼が私を想ってくれているのはよく分かる。でも…結婚って相手を想い遣ってするものなの? そう聞き返しそうになった。私が口を開きそうになった丁度その時、目の前にお客が来、数冊の本を差し出した。私達は慌てて接客に集中した。  店は慌ただしく、そのまま彼には何も応えず今日が終わろうとしている。私の心の中は悶々としていた。店の棚を整理しているうちに最後のお客が店を出た。  私は彼の顔を見ずにいた。いつもなら今日の店内の様子を話したりしながら片付けをするのだが、私は黙々と片付けに集中していた。そんな私の様子に彼が気付かない訳がなかった。  こんな時に限って片付けは直ぐに終わってしまう。私は最後に商店街に出ていた電光看板を取り入れ、入り口の鍵を掛けた。その時、突然後ろから彼に抱き締められた。決して背の低い私ではないが、それでも抱き締められると私の身体は彼のそれにすっぽりと包まれる。彼の左腕は私の胸に食い込むかの様に強かった。彼はそのまま言った。 「ゆり、無理に結婚しなくてもいいんだ。ゆりが無理なく気持ち良く居てくれる事が大切なんだ。」 私は胸に拡がる思いを彼にぶつけた。 「そうじゃなくて…。そうじゃなくて、隆也は私の為に結婚するの? 私を守る為に結婚するの? そういう気持ちが一番なら私…。」 彼が私からふっと離れたので、私はここで口を噤んだ。彼はくるりと私の正面に回り、私の顔を見つめた。 「ゆり、さっきの結婚しようって言ったのは忘れて。」 私はその言葉に俯いてしまった。彼はそんな私の前に屈み込み、私の顔を見つめた。 「ゆり、結婚して欲しい。」 「え?」 「どうしてもゆりに側に居て欲しい。今直ぐにでも一緒に暮らしたい。どうしてもゆりに側に居て欲しいんだ。」  その夜、私は自宅に帰らず彼の元に泊まった。母の事が気にはなったが、連絡は入れなかった。着信があっても出る気はなかったのだが、母からの連絡もまた、一度も無かった。  翌る日、店の開店準備が終わった時点で私は携帯電話を手にひとり、二階へ上がった。昨夜彼とじっくり話した事を両親に伝えようと思ったからだ。  私はもう、自宅に戻る気はなかった。一度は帰宅して、両親の許可を貰った方がいいと言う彼を説得し決めた事を、両親に伝えるつもりで携帯の母のボタンを押した。  ワンコールで母が出た。私が口を開くよりも先に、 「隆也君の所でしょ?」 と母が言った。私は慌てて連絡をしなかった事を謝った。 「お母さん、連絡しなくてごめんね。あのねお母さん、私…」 ここまで言った時、母が私の話しを遮る様に言った。 「もうここに戻らなくていいわよ。」 「えっ?」 予想だにしない母の言葉に頭の中が一瞬真っ白になった。だがそんな私を他所に母は続けた。 「ゆり? よく聞いてね。お母さん、お父さんもね、夕べ連絡が無かった事を怒ってるんじゃないの。ゆり、聞いてね。何れは貴女が戻らない日が来ると、お父さんもお母さんも分かっていたのよ。今のゆりは二重生活をしているのと同じ。お父さんとお母さんは、自宅から隆也君の所と藍さんの職場とを往き来している貴女の事を、とても、本当にとても案じているの。お父さんとお母さんはね、もう貴女は隆也君の側に居るべきだと思っているの。隆也君の所で寝起きして、隆也君の生活を手伝ってあげなさい。隆也君はね、ゆりを必要としているの。そしてゆり、貴女こそ隆也君を必要としているんじゃないの? もう、隆也君の側に居なさい。しっかり手伝ってあげなさい。」 と母は一気に話し切った。 「お母さん…。」 目の奥がジンと熱くなる。 「お母さん…。」 「分かってる。ゆり、貴女の事はちゃんと分かってるから。」 「お母さん…。」  私は嗚咽を抑える事が出来なくなった。母の声が私を包む様に暖かく心を熱くする。急に思い出した。幼い頃に自分が母の手を握り、母を見上げ呼んでいる姿を。いつもそうやって母を呼んでいた。今の自分に子供の私が重なる。ずっと呼べば応えてくれる母を、改めて尊い存在に感じた。 「ゆり、本当にどうしようもない子だわ。帰って来ないでいいとは言ったけど、一度はちゃんと帰って来てお父さんに挨拶しなさいよ!」 と言うその声は、さっきとはまるで違う。いつもと何ら変わりの無い母の声だった。私は急に可笑しくなってしまった。 「お母さん。」 と笑った。笑いながらまた涙が出てきた。 「お母さん、ありがとう。」 「きゃあきゃあウルサイのが居なくなるから犬でも飼おうかしら…。」 と母は呟く様に言った。

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二十七、家族

二十六、手紙

 ベトベトと纏わり付く様な不快な汗に目が覚めた。何だこの暑さは…。陽射しが刺す様に眩しい。私は目を細め時計を見た。午後の一時…。 午後の一時‼︎ 私は慌てて飛び起きた! 夕べ、 「久しぶりに、ゆっくり休んだら?」 と気遣う彼に、折角だから早く起きて開店準備を手伝うと、告げたと言うのに…。仕事を辞めた途端、これ程寝過ごすとは…。私は我が身を呪った。  彼に連絡をしいそいそとリビングを覗くと、テーブルでカップのアイスクリームを頬張る母がジロリとこちらを睨んだ。 「八時には起きる。だって?」 と母は私に食べ掛けのアイスクリームのカップを差し出した。 「うん…。」 私は苦笑いを返しながら、ふと母の服を見た。そして、身体をぐっと横に曲げテーブルの下を覗き込んだ。やっぱり…。 「お母さん! また私の服を着てる! そのワンピ、私の でしょ?」 私は冷蔵庫のペットボトルの水をそのままぐびぐびと飲み、母の前に座り差し出されたアイスクリームのカップを奪い取った。 「まあまあ。」 と母は全く悪怯れた様子もなく笑っている。 「あのねぇ、それ着てもいいけど家着にしないでくれる?」 「後で買い物に行くから。」 私の苦情など痛くも痒くも無い母は、テレビのリモコンに手を伸ばした。私はわざと小さく溜め息を吐いた。母と言うよりはまるで質の悪い姉だ。…そう、姉の様だ。…今になって気付いた。母は私の母という役と姉という役の二役をしてくれている。この家でいつも楽しく笑っていられるのはそんな母のお陰だ。それが母の性格だと片付けて終える事かもしれないが、私は何故か今、それがとても嬉しかった。  私は母の顔を上目遣いで見つめ、言ってやった。 「その身長じゃワンピ、引き摺るんじゃないの?」 「何よ。お母さんよりちょっと高いくらいで。」 私は笑った。このやり取りがいいのだ。たわいの無いこのやり取りが温かいのだ。母は私の手の中のアイスクリームを奪い返した。  三日間の休息期間を終え、私は新しい生活を始動した。彼ともよく話し合い決めた新しい生活。その為に自転車も新調した。  朝のスタートは以前より二時間程遅い。一日の始まりは彼の店からだ。開店準備を手伝い、十二時半に藍さんの職場に入る。五時に終業し再び彼の店に戻る。その間の移動は全て自転車だ。  藍さんの仕事は元々腰掛けなので、簡単な作業だけを手伝う。私が夕方退社した後に人手が必要な時は何と蓮君が手伝う。蓮君自らどうしてもやってみたいと藍さんに申し出たのだ。  新しい生活はとても『濃い』ものだった。彼の店に毎日立つ事も勿論だが、藍さんの仕事も色々な人との出会いがあり、楽しかった。  その仕事のお客は主にアーティストの玉子達である。個展の催し会場を書面で案内し、場所が絞れると現地へ向かい、場合によってはアーティスト達の値段の交渉にも関わる。フライヤーの写真撮影を私と蓮君とで引き受ける事も度々あった。  催しが無事終われば「ありがとうございました」と深いお礼を頂く。そこには小さな出会いと別れ、そして再会があった。アーティスト達、個々の熱い思いをまるで自分の事の様に感じ親身になって話しを聞いた。  毎日は目まぐるしく過ぎていく。それは正に『充実』という言葉にまとめられる日々だった。  何の匂いだったか…。私は強く甘い香りに自転車のブレーキをゆっくりと掛けた。道路脇に立ち止まり、周りをくるり見渡してみた。直ぐ横の民家の垣根から顔を覗かせている、はっきりとした小さな小さなオレンジ色の花々。それは秋の深まりを告げる金木犀の花達だった。  彼の店と藍さんの職場との往復には少し距離があったが、真夏の暑さをやり過ごした今、私はこの距離を楽しんでいた。  私はいつも車通りの少ない裏路地を往復している。幼稚園児の送迎、小さな商店の店先等、毎日目に映る風景に季節という彩りが重なる。それらを見るのが楽しかった。  十月が終わるこの時期、夕方の空には様々な色や形の雲が重なり、その表情はとても豊かだ。私は時折そんな空を見上げながら、少し身震いをした。さっきまでの赤い空は何処へ消えたのか…。太陽がビルの谷間に姿を消すと、空気が急にひんやりと冷たくなる。影は長くなり、日々は短くなる。私は再び自転車を停め、その前籠からマフラーを引っ張り出し首にぐるぐると巻いた。そして自転車をスタートさせた。  楠の公園が見えてきた。もうすぐ商店街だ。何十羽といるであろう雀達の声が重なり合う。どれ位の数の巣があるのだろう。日が落ち切る直前、楠の上部は雀達の大合唱だ。私は微笑ましく思いながら細い路地を抜け、夕刻、より賑わう商店街に入った。  自転車を停め彼の店に入ると、無数の煌めく小さな温かい照明にほっとする。 「おかえり。」 「ただいま。」 カウンターの彼と笑顔で交わす。朝出る時は、 「行ってきます。」 「行ってらっしゃい。」 私達のやり取りは、これが当たり前になっていた。  私はカウンターの足下に置いてある大きな籠に、自分の荷物を入れた。と、その直ぐ側に、見慣れない段ボール箱を見つけた。既にガムテープがペロリ剥がされ開梱してある。私は箱の表面に貼られた伝票を見つめた。 「航平さん⁈」 思わず声をあげてしまった。彼が笑顔で答えた。 「見てご覧。」  開けた箱の一番上にあったのは便箋型の封筒だ。私は逸る気持ちを抑えながら、丁寧に封筒を開けた。写真が二枚。航平さんと藍さん二人の写真だ。  一枚は二人が頬を寄せた顔がアップの物、もう一枚は二人の全身が写った物だ。二人はタキシードとウエディングドレスを着ていて、溢れんばかりの笑顔には一つになった二人の心が語られている。私はとても嬉しくなり思わず笑った。  封筒の中には丁寧に四つ折りにされた便箋も入っていた。航平さんからの手紙だ。私はそれを手に取りゆっくりと開いた。 「親愛なるゆりちゃんへ」 私宛て? 彼の顔を見上げると、いつもの穏やかな顔で微笑んでいる。私は手元に視線を戻した。 「そちらで撮らせて貰っていた写真を、やっと一冊の本にまとめる事が出来たよ。同梱のバインダーに綴っている物を、そのまま出版したいと思っている。後はゆりちゃんにOKを貰うだけだ。このままの形でこの本を出せる事を願う。」  私は再び彼の顔を見上げた。 「私のOK?」 「みたいだね。」 と彼は上体を屈ませ手を伸ばし、段ボール箱の中から薄茶色をしたA4サイズのクラフト製のバインダーを取り出し私に手渡した。私はバインダーを両手で丁寧に受け取り、じっと見つめた。  彼の写真集。  そのクラフト製の表紙には、然程大きくない白い紙が貼られてあり明朝体でタイトルが打たれている。私はその黒い文字を人差し指でゆっくりと左右に撫でた。 『やさしい手』 そうあった。急に胸が熱くなる。私も幾度となく思った事がある。彼の手を優しい手だと。いつも「大丈夫?」と自分の事はさて置き周りを気遣う、よく働く大きな厚い手。その手を彼そのものだと。私はバインダーをカウンターの上に置きハイスツールに腰を掛け、その表紙を開いた。 …どういう事だろう…⁇  ページを捲れば捲る程、訳が分からない…。私はバインダーを食い入る様に見入った。全てのページを捲り終えた時には、私の顔は真っ赤に高揚していた。何故なら、そこに写っているのは私だったからだ。五十枚はあろうかという大小の写真の全ては私だった…。彼も写ってはいるが、その姿は背景の一部と同化し、そこに焦点は合っていない。  私はバインダーの背表紙をバン!と閉じ、カウンターの横に立つ彼に向き直った。 「これはどういう事?」 詰め寄る私に、彼はもう一枚の便箋を黙って手渡した。さっきと同じ便箋。航平さんからだ。 「ゆりちゃん、驚かせたね。そう、実は君を撮っていた。初めは隆也を撮っていたんだよ。隆也を追っ掛けていると、気付けばいつも君がファインダーの中に居るんだ。ファインダー越しに君を見るようになった。以前、君に言ったね。隆也に甘えていいんだって、教えてやってって。でも、君は言われなくても既にそれをしてくれていた。隆也が全く気負い無く君に心を委ねている姿を見て、感動したんだよ。誰にも決して甘えなかったあの隆也が、君には自分が片腕の無い障がい者であるという隔たりを全く取り払って接している姿にね。恋人だから? いや違う。ゆりちゃん、君だからだ。俺達はずっと、隆也に優しくしたい、何かをしてあげたい、と、そう思って接していた。『優しい手』を差し伸べたい、だなんて烏滸がましい事を思っていたんだ。でもそれは間違っていた。隆也の様な障がいを持つ人達は、ただ可哀想な人達という訳じゃない。障がいを持った時点で、それは個性になるんだ。なのにその個性に対して何かをしてあげたいだなんて烏滸がましい思いを持って隆也に接していた。それこそが隆也の心を遠ざけているとは分からずに。隆也が求めているのは『優しい手』じゃない。障がい者を気遣う優秀な手なんかじゃない。ゆりちゃん、君の様に、普通に素直な『やさしい手』なんだ。お互い普通に接し,お互い普通に助け合う。障がい者と健常者との隔たりなんかなく当たり前に。そんな手なんだ。ゆりちゃん、君は本当の意味での『やさしい手』を持ってる。」  右上がりの航平さんの大きな太い文字は、便箋の一面を全て黒く埋めていた。私はその便箋を一つ折り、カウンターの上に置いた。そしてバインダーを元にひっくり返し、その表紙をじっと見つめた。 『やさしい手』…。  私はそのクラフトの表紙に手を当て、今度は一枚一枚、ゆっくりとページを捲った。そこには彼を手伝う私が居た。本を受け取ったり接客を補助したり。どの私も全て笑顔だ。焦点の合っていない彼もまた、笑顔だった。  じっとバインダーを見ていてふと思った。ここに写る私達は家族の様だ。航平さんの言う、『隔たりのない』という事が、何となく分かったような気がする。そして父の言葉がそこに重なる。  私は暫く動けずにいた。 「ショックだった?」 彼は手元に広げた本から目を離さず私に尋ねた。私は黙っていた。 「ゆりが嫌なら出版しないって。」 私は黙って小さく頷いた。

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二十六、手紙

二十五、最後の日

「もう上がっていいよ。」 と彼に促され、私はカウンターを立った。二階に上がり、カメラと三脚をセットして、今日盛り付けるお皿を選んだ。  ランチョンマットをテーブルに敷き、その上にフォークを添え、私は料理に取り掛かった。オーブンのタイマーを回し、飴色玉葱の入ったフライパンにベーコンとマッシュルームを足して炒める。その間にささっと水切りしたレタスを切りお皿に盛り付けた。  ベーコンとマッシュルームに火が通った所で、ボールに割り入れておいた生卵を泡立て、強火にしたフライパンに流し入れるとジュッと卵に火が通る。私は手早く卵を形成しオムレツを完成させた。そしてそれを二つに分けた。途端オムレツの中からトロトロの半熟卵がゆっくり流れ出す。  急いで予め切らずにおいたレタスを敷いた皿にさっと半分のオムレツを乗せ、カメラに向かった。もうピント合わせに梃子摺る事は殆ど無い。私はシャッターを切った。一呼吸置いて、再びシャッターを切った。オーブンからはパンを焼く芳ばしい香りが漂ってくる。 「いい匂いだね。」  彼が上がって来た。後ろのオムレツは彼に任せ、私は小さ目のフライパンに胡麻を入れた。一口大に切ったレタスを大き目の皿に盛り付け、フライパンで火を掛けていた胡麻を炒ると、今度は胡麻の芳ばしい香りがキッチンに拡がる。私は炒った胡麻を粗く摺り、それを手製のドレッシングに入れレタスに掛けた。それから急いでテーブルに置いてカメラに収めた。 「ゆり、本当に手際が良くなったね! 無駄な動きが全く無い よ。」 「本当? 嬉しい! ありがとう!」 彼とテーブルを囲みながら、私は彼の褒め言葉に喜んだ。 「ん? このドレッシング、ゆりが?」 「そう。作ってみた。」 「胡麻の香りが良くってすごく美味しいよ!」 この日私は、本に載っているレシピを自分好みにアレンジするという、新たな楽しみを見付けた。  七月末日、私は最後の日を迎えた。短大を出、初めて勤めた会社を今日、退職する。一年と四ヶ月。正直、情け無い事に、私はこの会社で何かを成し遂げたとも、何か業績を残したとも言えなかった。就労という、初めての経験をさせて頂いた、ただそれだけだった。  この一週間は本当に早く過ぎてしまい、今日もまた猛スピードで一日が終わろうしている。周りは何ら変わらない。このオフィスの中での変化はただ一つ、私の荷物が無くなった事だけだった。二週間後には新入社員が来る。  私は時計を見た。もう直ぐ五時だ。私は慌てて最後のメール、お礼の言葉を各パソコンに送信した。胸の中に熱いものが自分でも意外な程急にぐっと込み上げて来る。私はそれを必死で抑える様に飲み込んだ。急に上司が私の名前を呼び立ち上がった。 「今日は皆で送別会をするわよ。」 私は全くその予定を聞いていなかったので、驚きポカンと口を開けてしまった。 「え?」 「え?、じゃないでしょ? さあ皆片付いてる?」 私は慌てて、 「ありがとうございます!」 と頭を下げた。そして、 「申し訳ありません。」 と小声で付け足した。  送別会。…就労をこなすという衣を脱いだ人達の笑顔はとても屈託がなかった。優しく陽気で朗らかで。  物事には必ず終わりが来る。終わり、すなわち別れだ。私は去る者としての一つの別れを目の前にし、必死で涙を堪えていた。皆が寂しいと何度も言うから。辞めるなと何度も言うから。別れが決まっているからこそ、そう言えるのだと分かっていても、初めて触れた衣を纏わない職場の人達の沢山の言葉に感無量だった。  私は皆より先にその席を後にした。

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二十五、最後の日

二十四、怒り

 夏の真昼の太陽は頭上真上に達し、全く影を作ってはくれない。歩き出すと直ぐに身体中が汗ばんできたが、それでも私は彼と繋いだ手を離さなかった。濃く生い茂る緑に蝉達の声が熱く重なる。  今、私はとても嬉しかった。自然と笑みが溢れる。両親が彼を認めてくれた事は勿論なのだが、今日は他にも大きな収穫があった。それは父という人物を改めて知れた事だ。自家用車で出勤する父は、道が空いているからと、早朝に家を出、帰宅も遅い。いつからだろうか…。私は父と接する事が殆ど無くなっていた。  父の珈琲好きは以前から知ってはいたが、父が何かに凝る、というイメージが私には全くなかった。でも実はかなり凝り性なのだ。そして、彼を想う父の情深さもまた、私の胸を打った。私は父の言葉を思い出し、再び熱く込み上げてくるものをこの胸に感じていた。  突き刺す様な陽射しから逃げる様に人々が集まり、商店街はかなり賑わっていた。  店の軒先で商品を片付ける人々がチラホラ私達に気付く。掛かるその声は皆一様に明るく優しい。私は彼と手を繋いだまま頭を下げ会釈を繰り返した。 「何か…ごめんね。 気を遣わせているね。」 「全然大丈夫。寧ろ、皆さんと挨拶を交わせれるのが嬉しいもん。」 私は笑顔で返し、彼の手を更に深く強く握った。  週明け、私は空港からの送迎バスに乗っていた。今日は会社を辞めるまでには到底使い切れそうにない、使い切る気も無いが、 有給を取った。  藍さんは艶やかな笑顔でとても元気に手を振っていた。早朝の清らかな日差しとその笑顔が余りにも眩しくて、涙がじんわりと込み上げてくる。私は少し濡れた目の下を手の甲で拭い、空港ロビーのカフェで軽く朝食を取った。  滑走路に並ぶ巨大な飛行機を見るのは久しぶりだった。あんなにも大きな鉄の塊が空を飛ぶなんて…。空港で時間を潰したお陰で、出勤ラッシュは外せた。  私は久しぶりに平日のゆっくりとした朝の時間を味わっていた。ひとり気ままに文具店に立ち寄り、アルバムを衝動買いした。濃いブラウンのフェイクレザーのこのアルバムに、今までに撮った写真を整理しようと決めた私は、彼の店に行く予定を変更し、一度自宅に戻ってアルバムを完成させてから出直そうと、家路を急いだ。アルバムの仕上がりを頭に思い描くと自然と笑みが溢れ早足になる。  やっとマンションのエレベーターを降り廊下突き当たりの自宅に目をやると、玄関の扉が大きく開いているのが見える。  宅配か? それとも来客だろうか…? 私は廊下を歩きながら額の汗をハンカチで拭い、簡単に髪を整え玄関を覗き込んだ。 「ただいま…?」 私の声に大袈裟な程、驚いて見せたのは、同じマンションの住人である中年女性だった。 「あら! ゆりちゃん! 丁度いいわ! 話し聞かせて!」 女性のけたたましく大きな声に、私は眉を顰めた。 「この子、熱があって仕事休んだんです! 病院どうだった? 後で聞くからさっさと部屋で寝てなさい!」 と母が女性の後ろに立つ私の腕を引っ張り追い立てた。だが、女性は負けていない。 「ゆりちゃん、悲劇の主人公みたいな男性と付き合ってるんでしょ? 事故で家族を皆亡くして片腕になっちゃった…。」 この言葉に一気に事態を把握した私はカーッと頭が熱くなり、放っておいて!と言おうと口を大きく開けたのだが、母はそれを強く制し、 「早く部屋に行きなさい!」 と私の背中を押した。だが尚も引き下がらない女性は私に大声で言葉を浴びせた。 「ねぇ、一つだけ教えて。皆に聞いて来てって言われたのよ。彼氏の腕は本当に事故で無くなったの? 本当は先天性のものじゃあなくて? もしそうなら結婚した時、子供は作るの?」 私の心は瞬時に凍り付いた。言葉を無くし、助けを求め母を見た。母の肩は激しい憤りにガタガタと震えている。 「帰って下さい! 事故であってもそうで無くても、この子達は何も悪くない! この子達の事を噂話しで中傷したり卑下するなんて事は、私が断じて許しませんから!」 母は叫びながらまだ続けようとする女性を玄関から押し出した。扉の鍵を掛けた母は、取っ手を握ったままその場にへたり込んだ。 「お母さん…。」 「あなた達の事は、絶対にお母さんとお父さんが守るから! 部屋に入ってなさい!」 「ごめんなさい… お母さん… ごめんなさい…」  私は蚊の鳴く様な声でしゃがみ込んだままの母の背中に声を掛け、自分の部屋に戻った。  荷物を力無くボトッと床に落とし、ベッドの布団の中に潜り込んだ。母の心情を思うと声を出して泣くわけにはいかなかった。私は両手で口を塞ぎ、必死に声を抑えて泣いた。胸の奥から溢れ出る嗚咽に身体中が上下に震える。どうして私達がこんな苦しい思いをしなければならないのだ。彼の言葉が頭の中で繰り返される。 「歪んだ石の波紋。」 「ゆりに辛い思いをさせる。」 どうって事ないと思っていた。何て事ないのだの思っていた。なのに…なのに…。 彼は悪くない。彼は被害者だ。私達は誰も悪くない。この時初めて私の中に一つの感情が生まれた。それは加害者に対する「怒り」だった。  心と身体がカーッと燃える様に熱くなる。私は布団をパッと剥ぎ、そのまま玄関を飛び出した。加害者が許せない。絶対に許さない!  私は無我夢中で走った。彼の店に着いた頃には、涙なのか汗なのか、区別がつかない程全身ぐちゃぐちゃだった。  休み明けの午前中の本屋はお客が全く居らず、テーブルを拭いていた彼が驚いて私を見つめた。 「ゆり?」 私は答えずに彼に詰め寄った。 「加害者は今何処にいるの? 何してるの? 答えて! 何処で何をして生きているのか教えて! 教えてよ!」 私は彼の足下に泣き崩れた。彼は屈み込み私を抱き締めた。 「聞いてどうする?」 「私達の苦しみを教えてやるの!」 私は泣きながら叫んだ。 「何があった?」 「いいから居場所を教えて!」 「ゆり、聞いて欲しい。」 彼は私を抱き締めたまま続けた。 「事故の日、まだ二十歳過ぎだった加害者は、前日から夜通しトラックに乗って働いていた。その加害者には奥さんがいて、そのお腹には赤ちゃんがいた。奥さんと生まれてくる赤ちゃんの為に、無理を承知で必死に働いていた。二人の為に骨身を削って働いていた。その代償が、余りにも大きな代償が待っているなんて事は、誰にも分からなかったんだ。そして事故が起きた。加害者夫婦、二人は離れ離れになって僕らに謝罪し続けた。事故から数年経った家族の命日に、その年はかなり早くに墓地に着いたんだ。その時見た。家族の墓石の前に屈み込んで手を合わせる女性を。沢山のカサブランカを供えてた。母さん、カサブランカが大好きで、でも高価だからって、いつも一本しか買わなかった。それを沢山供えてた。毎年毎年、この女性だったんだって、加害者の奥さんなんだって、胸を打たれたのを覚えてる。」 私は相槌さえ打たず、彼の話しを俯き聞いていた。 「墓石の周りをくるくる歩いている男の子がひとりいて、直ぐにその子が二人の子供だって分かった。親子が会話を交わしているのも見えたんだよ。手話でね。二人の子供は生まれつき重度の聴覚障がい児だったんだ。僕はその時、祖父ちゃんに言った。あの子と友達になりたいって。直感で、あの子もある意味で被害者だって思ったんだ。障がいを持つ者同士、初めて友達が出来るって、初めて心を開けて話せるって思った。最初は難色を示していた祖父ちゃんだったけど、色々と調べてくれて分かった事もあった。加害者夫婦は僕ら家族の命を奪ってしまった自分達が子供を授かるのはいけないと、お腹の赤ちゃんを何度も殺めようとしたんだ。でも赤ちゃんは生命力が強く流れなかった。流れなかったけど、それがその子の聴覚障がいに影響したのかもしれないって。生まれたその子は「隆也」って名付けられた。加害者夫婦が一生事故を背負って生きていくと覚悟して、一時も、一瞬足りとも事故を忘れる事がない様にって。僕はその子に手紙を書いた。直ぐに母親から連絡が来た。かなり戸惑っている様だった。でも僕が何度も何度も手紙を書いたから返事が来るようになり、何れ会うようになった。同じ名前だからね、呼び方も決めてね。付き合いは今も続いてるよ。あ、ゆりも会っているんだよ。」 私はここで初めて顔を上げた。 「え?」 「ほら、ゆりが初めて二階に上がった日、聴覚障がい者の写真展があっただろ?」 「あ…」  急に頭の中が過去に戻る。自分でも驚く程鮮明に。あの人だ。彼が手話で店番を頼んでいた。私が帰る時も心配そうな顔でこっちを見ていた。あの時彼が手話を使える事に感心していたが、そういう事だったのか。  私は姿勢を正し、立ち上がった。彼も立ち上がり私の顔を覗き込んだ。コロコロ…と音がし、店の扉が開いた。お客だ。彼は一度私の頬に手を当て、入り口を振り返った。 「いらっしゃいませ。」 「すみません。ちょっと教えて下さい。」 お客の質問に彼が答えている隙に、私は店を出た。涙が再び流れ出す。ポロポロ、ポロポロ、どんどん激しさを増し流れ出す。誰かを恨む事が出来たら。その方がマシだ。何故、どうして恨む事すら出来ないのか。許せないと思っていた。加害者を、あれ程強く許さないと思っていたのに。被害者の悲しみはどうすればよいのか。私のこの怒りは、一体何処へぶつければよいのか。  何時しか私は楠の公園に来ていた。生い茂る枝葉に真っ黒な影がベンチを覆っている。私はそこに座りうな垂れ泣いた。もう激しく泣く力は尽きていた。涙と共に気力の全てを流し切った私は、何を見るでもなく、ただただそこに座っていた。頭の中には彼も父も母も…誰も何も無かった。心の中は無だった。だが、そんな私に声を掛ける者がいた。 「ニャア。」 ライだった。何時の間にか何処かしらかやって来、私の足元の正面に両前足をきっちり揃え、ちょこんと座っている。 「ニャア、ニャア。」 「ミルク? ライ、私、帰りたくないの。」 「ニャア、ニャア。」 「ダメよ。」 するとライは立ち上がり、ベンチにひゅるりと飛び乗ったかと思うと、何と私の太腿の上に座ったのだ! 「ライ? ええ?」 私はその重さに仰天した。 「痛! 痛た! ライ、見た目以上に重いじゃない! ちょっと降りて!」 が、ライは涼しい顔で尚も私の太腿の上に座ったまま、 「ニャア。」 と、何度も鳴いている。真夏の射す様な眩しい光の中に、ライのブルーの瞳の中の瞳孔は、日陰と言えども細く細く絞られていて、それは私の心の奥までをも見透かす様な大人の目だった。その目は窘める様に私に言った。 「さっさと店に戻りない。」 と。 「ライ、分かった。分かったよ。戻ろう。戻ってミルクを飲もう。」  ライは私の鼻を押さえ付ける様に数回舐め、軽やかに飛び降りた。ザラザラとした舌が少し痛くて、でも嬉しかった。  公園から商店街に入ると、ほっと息をつける程涼しかった。ライはチラチラと何度も私を振り返りながら前を歩いて行く。 「ライ、心配しなくてもいいよ。」 と言いながら、私は靴下屋の前で立ち止まった。朝はミュールを履いていたので素足だったが、家を飛び出した時はスニーカーだった。急に蒸れた素足の不快感に耐えられなくなった私は、ポケットの中を探った。小銭がある。私はライを探す様に辺りを見回したが、ライは既に私の足元に座っていた。 「すみません…。」 私は店先のワゴンの中から一足の靴下を手に取り、声を掛けながら店内に入って行った。 「はいはい、いらっしゃい。」 と腰の曲がった華奢なお婆さんが店の暖簾を潜り現れた。 「ん?」 お婆さんは私の顔を覗き込んだ。 「あら、あんた隆也君の!」 私はもうウンザリだった。だがお婆さんは私の気持ち等、知る筈も無く続ける。 「ちょっとあんたと話しがしたかったんだよ。」 と言いながら手を伸ばし、私から靴下を受け取った。 「え?」 私はお婆さんの顔を見た。 「これ、今すぐ履くんだろ? ここに掛けて履くといいよ。」  お婆さんは木製で二段の低い脚立を差し出してくれた。私はありがとうございます、と、タグの外された靴下を受け取り、脚立に腰掛け尋ねた。 「話しって何ですか?」 「それより先にあんたの顔をよく見せて。」 お婆さんは丸椅子に座り、ぐっと私に顔を近付けた。私はたじろき少し仰け反ってしまった。  うんうんと、満面の笑みで頷きながら、お婆さんは私から顔を離し話し出した。 「私はね、隆也君が大好きなんだよ。あんな優しい子はね、他にはいないよ。あの子はね、ずっと祖父さんを支えてきたんだ。あの祖父さんは頑固で偏屈でさ。隆也君を家族の形見だなんて言ったら可哀想だって何度も言ってるのに全く聞きやしない。そんな祖父さんをあの子は小さな心でずっと支えてきたんだよ。本当にいい子だよ。隆也君が選んだんだ。あんたもきっととても優しい娘だね。顔を見りゃ分かるよ。あんたにお願いがあるんだよ。あの子に、隆也君に人に甘えていいんだって事を教えてやって欲しいんだよ。ずっと祖父さんを支えてきたあの子にね。」  それは以前、航平さんにも言われた言葉だった。そして、父からも。 「あの、私…。」 私はまた泣き出していた。枯れた筈の涙が、彼を想う人の優しさに触れ、再び込み上げてきた。 「何かあったね? 話してごらん。」 私はさっき迄の経緯を全て話した。お婆さんは、そうかい、そうかい、と何度も頷きながら言った。 「昔からここに居る人達はいいんだよ。だけどね、新しいマンションが沢山建って、色んな人達が越して来たからね。いいかい? よく聞くんだよ。全てはあんたのここ次第だ。」 そう言いながらお婆さんは私の胸を、その小さな身体には似合わないゴツゴツと骨張った太い人差し指でツンと押した。 「心…ですか?」 「そうだよ。楽しい気持ちも悲しい気持ちも、あんたが自分で選んでるんだよ。全てはあんたの受け取り方次第なんだよ。運命は決まっていても、生き方は自分が選ぶんだ。馬鹿が何か言ってるって、笑い飛ばしてごらん。そうすりゃ何でもない事になるんだよ。」  私はじっとお婆さんの目を見つめ、こくりと頷いた。 「分かったら早く隆也君の所にお帰り。きっと物凄く心配してる筈だよ。」 とお婆さんは立ち上がり、私の肩をポンと叩いた。  見るとライはもう店先で待っている。私はライの元に駆け寄り、その小さな温かい頭を撫でた。そして振り返りお婆さんに深く一礼をし、踵を返した。 「ライ、ありがとう。」 声を掛けるとライは軽やかに、また私の前を歩き出した。 「運命は決まっていても、生き方は自分が選ぶ。」 私は頭の中で靴下屋のお婆さんの言葉を繰り返した。前方を軽やかな足取りで行くライを見ながら、ライのおばさんが言ってた、 「自分の気持ちに素直に。」 と言う言葉が重なる。  私は私だ。  ふと見ると、商店街の店先に青々とした葉付きの良いサニーレタスがカゴから溢れんばかりに盛られているのが目に入る。私はポケットの中の小銭を掌に広げてみた。足りる。私はそれを一盛り買った。料理をしよう。出来上がったら写真を撮ろう。心無い人達の言葉なんて忘れてしまおう。気持ちを強く持とう。  私は背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を向いた。もうすぐ彼の店、という所で急にライが走り出した。彼だ! 彼が店先に出て私を待ってくれている! 私は大きく手を振った。が、彼はそれには応えずツカツカと足早に私に歩み寄ったかと思うと、ぐっと私を引き寄せ強く抱き締めた。彼は私の肩に顔を埋めながら、 「どれだけ心配したと思ってるんだ。」 と、くぐもった声で言った。その声は泣いている様にも聞こえた。 「ごめんね…。」 彼の背中に手を回し、私は小さく答えた。  彼と手を繋ぎ店に入ると、蓮君がカウンターに立っていた。 「蓮、店番ありがとう。」 「いいんですけど、あんまり見せ付けないで欲しいなぁ…。」 そう呟きながら、蓮君はカウンターから出て一番手前のテーブルに座った。 「おお! ライ! ゆりと一緒だったのか!」 「あ! ライのミルク!」 私は慌てて二階に上がり、ライのミルクを用意した。ミルクを全く粗相する事なく綺麗に飲むライの前に、私は両膝を抱かえしゃがみ込んだ。ライは私の事などまるで眼中に無いかの様にペロペロとやっている。それでも私はライに話し掛けた。 「ライ、ありがとうね。」 それを聞いた蓮君が、 「ライに何をしてもらったの?」 とスツールに腰掛けたままズリズリ近寄ってきた。 「ライはね、私を助けてくれたの。さっき、私が落ち込んでたら迎えに来てくれて、一緒に帰ろうって言ってくれたの。」 私はミルクを飲み終え前足で目を細めながら気持ち良さそうに顔を洗うライを見つめたまま答えた。 「ライに助けられるなんて、ゆりって人間としてどうなの?」 蓮君もまた、ライを見つめたまま返してきた。 「ちょっとそれ、聞き捨てならないわね!」 私は蓮君の顔を睨んで文句を言ったが、蓮君はそれに動じる事無く言った。 「嘘だよ。ゆりは優しいんだよ。優しい人は心が強いんだ。辛い事があったって自分より他を優先する。それは強いからだ。ライはミルクを飲みたいって言っただけだろ? それでゆりは戻って来た。ライの為に、だろ?」 私は余りにも意外な蓮君の言葉に戸惑った。 「何言ってるのよ。私の事、よく知りもしないで。」 「分かるよ。ずっと見てたから。」 「え? 何時からずっと見てたのよ?」 「お前ホント、何も知らないんだな。」 「私が何を知らないの?」 「航平さんに直接聞けば?」 「航平さん? 航平さんに何を聞くの?」 蓮君は言葉を詰まらせた。 「年明けに帰って来るから、本人に聞けばいいじゃん。」 そう言い捨てるとテーブルの方へ向いてしまった。 「航平さん、帰ってくるの?」 蓮君の言葉はかなり気になったのだが、それよりも航平さんが帰って来るという事が何より私の心を高揚させた。私は自分で作り撮った料理の写真を、プロのカメラマンである航平さんに見て貰いたかったのだ。 「年明けのいつ頃?」 私は立ち上がってカウンターの彼に返事を求めた。 「藍さんの赤ちゃんが飛行機に乗れるようになったらって言ってたなぁ。」 彼は手を止め笑顔で答えた。 「そっかぁ…。年が明けたら…その頃は藍さん、ママになってるのかなぁ…。」 他人とは思えない藍さんの赤ちゃんの誕生に、私はワクワクした気持ちを抑えられなかった。 「航平さん、帰国したらここで蓮と個展をするらしいよ。」 「個展? 蓮君と?」 まだ記憶に新しい蓮君の個展を思い出すと期待感が高まる。私はカウンターから離れ、蓮君の隣のスツールを引っ張り出して座った。 「今度はどんな個展をするの?」 蓮君はテーブルに乗せたリュックサックの紐を解きながら答えた。 「まだ細かい所までは決まってないけど、航平さんと一緒だから多分シンプルなものになるだろうな。ゆりはあれから撮ってんの?」 「うん。料理を作って撮ってる。すっごく楽しい。」 「へえ〜。だったらゆりも個展をしたらいいんだよ。この店でしたら、ゆりならお金もかからないし。」 私は余りにも唐突な蓮君の言葉に驚いた。 「折角 一生懸命撮った写真だろ? 一人で眺めて自己満足してるだけなんて、勿体無いじゃん。個展をすると楽しみが倍増するよ。」 「そんな簡単に…。」 「やる気さえあれば簡単だよ。」 個展…。私はカウンターに戻り肘を着き、奥行きの深い店内を眺めた。暫く黙っていると彼が私の顔を覗き込んで言った。 「ゆり? 他人の言葉を無理に受け入れようとしなくていいんだよ。自分にしっくり来る言葉だけを取り入れたらいいよ。それより携帯の着信がすごいけど大丈夫?」 「あっ‼︎」私は慌ててカウンターの上に置きっ放しになっていた携帯を見た。 「お母さん!」 着信履歴には「母」と言う文字がずらり並んでいる。私は深く溜め息を吐いた。母に何と言って謝ればいいのか。自分の事情に母を巻き込み苦しめてしまった。  母だけではない。父もだ。そしてそれは、これからもずっと続くのだ。私は彼に母に電話をすると言って二階へ上がった。  商店街のアーケードの上に位置するベランダは、夏の陽射しで直視出来ない程に輝いている。私は改めて息を深く吸い込み母に電話を掛けた。電話に出た母は穏やかだった。 「お母さん、ごめんなさい。」 「謝る事なんて、一つも無い。」 そう優しく言ってくれた。その言葉に胸が熱くなり、花の奥がきゅんと痛くなる。涙が一筋二筋、ぽとぽとと流れ落ちていった。

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二十四、怒り

二十三、彼の決意 父の思い

 両親との約束の土曜日、私は実家の自室で予定よりも早くに目が覚めてしまった。早朝ではあるが、もうとっくに陽は登っている。夏の朝、爽やかな風が吹いてはいたが、輝く太陽は既に余りにも強く、私は東の窓を直視出来ず、開けたカーテンを再び閉じた。  はあ…。私は深く息を吐いた。私でもこれ程緊張するのだから彼の方は余程の事だろう。私は台所へ行き冷蔵庫の中を物色した。  サンドウィッチが作れそうだ。作るとなれば気分も上がってくる。卵を茹でながらベーコンと薄く切った玉葱を炒めていると、たちまち食欲をそそるいい香りがリビングの中に広がる。少し動いただけで身体が汗ばんできたが、私は構わず料理を続けた。  四人分の朝食。四人分を作るのは初めてだ。『四人家族』という言葉が頭に浮かぶ。私はただただそれが嬉しかった。出来上がったサンドウィッチとサラダを両親の分はお皿に盛った。丁度彼からメールが届いていた。朝食を持ってそっちへ行くと返し、私は着替え、家を出た。  両親はまだ寝ていた。道すがら鼓動がどんどん高鳴っていったが、私はなるべく大きく呼吸をし、それを落ち着かせようとゆっくり歩いた。商店街の店はまだ何処も開いていない。  私は初めて彼の店を訪れた日の事を思い出していた。あれから余りにも色々な事があり過ぎて、初めて彼と会った日の事がもう何年も前の事のように思える。  店の入り口が見えてきた。彼が私を見つけ、硝子の大きな扉を開けてくれた。 「ゆり、今日はとてもフェミニンだね! ワンピースだ!」 「うん、自分の両親に会うんだけど、こういう日だからきちんとした格好にした。」 私は両親に彼との事が真剣であると、どうしてもちゃんと伝えたかった。だからこその、この格好だった。 『勝手ながら、昼二時より営業します。』 扉に張り紙を貼り、朝食のサンドウィッチとサラダを食べた私達は店を後にした。彼も淡いブルーのカラーシャツにネクタイ、ベージュのチノパンに着替えていて、少しピリッとした表情だ。  彼のネクタイ姿を見るのは初めてだ。彼とふたりで外を歩くのもまた初めての事だった。まだ九時を過ぎたばかりだったので、開いている店は殆ど無く、店先の清掃をする人達がチラホラいるだけだ。  私はその人達の視線を感じた。声を掛けてくる人はいない。邪念を振り切る様に背筋を伸ばし、私は彼の腕に自分の腕を絡めた。堂々としていたい。と、急に彼が私の腕から自分の腕をするりと抜いた。だが直ぐにその手で彼が私の右手を探し当て、繋いだ。外で、人前で、指と指がしっくりと組み合わさる。それは本当に声に出して叫びたい程、嬉しい出来事だった。  家に着き、玄関のインターフォンを鳴らすと直ぐに母が出た。母の声は裏返っていた。  私は、入るよ、と声を掛け、玄関の扉を開けた。父が豆を挽いたのだろう。リビングから溢れ出て来た珈琲の香りが、玄関にも立ち込めている。  靴を脱いでいると母がやって来た。いつもと変わらない服装ではあるが、やはり緊張しているようだ。ドキドキしているのは自分だけではないんだと、私は少し安心した。  彼に挨拶をする母はさっきの裏声を引き摺っていて、全く聞き慣れない声で、 「リビングでお父さんが待ってるから。」 と手招きをした。母はリビングの扉を開ける時、小声で、 「お父さん、すごく緊張してるから。」 と自分の事を棚に上げ、苦笑いをした。  いよいよだ。私は大きく深呼吸をし、リビングの父に声を掛けた。 「お父さん、おはよう!…ございます…。」 私が小さな声で『ございます』を付け足してしまう程、父は背筋をピンと伸ばし、両膝の上に両握り拳を乗せ、険しい目付きでこちらを睨み付けながらソファに座っていた。これには母も驚いた様で、 「お父さん、緊張し過ぎなんだから。」 と慌てて取り繕った。父は母の言葉で我に返った様で、 「今、珈琲を淹れるから、そこに掛けなさい。」 と彼を促し、台所へと立ち上がった。 「失礼します。」 父に応えた彼が一番落ち着いている。  父が珈琲を淹れる後ろ姿を久しぶりに見る。  父はいつも一人の時に珈琲を飲む。お喋りな母や私がいると、その味を堪能出来ないらしい。早朝、飲む直前にミルで豆を挽き、ソファに腰掛け静かに味わう。  私には父の言う、その味や香りの違いはさっぱり分からなかったが、彼は違った。父が差し出した珈琲を丁寧に受け取り、 「頂きます。」 と一度頭を深く下げ、先ずは香りを、そして一口二口とゆっくり飲んだ所で父の顔を見た。 「これはキリマンジャロですか?」 彼の問いに父は目を丸くし、 「味が分かるのか?」 と逆に聞き返した。 「詳しくはないのですが、このフルーティーな酸味と香りは中煎りしたキリマンジャロかなと。」 彼の答えに父の緊張は何処かへ吹っ飛んで行った様で、急に饒舌になり話し出した。  父が身を乗り出して話すのを見るのは初めてかもしれない。私はそんな父を見ながら、事が上手く運びますようにと、願っていた。  そして、父の珈琲雑学を聞くのはとても面白かった。キリマンジャロは万能で、カフェオレやエスプレッソにもいいだとか、エメラルドマウンテンは全て手積みでその日のうちに処理がなされるだとか、豆の煎り方には八段階あるのだとか。果ては豆の成分やその医学的効能までを、私は母がそろそろ彼の事を聞きたいと、父の話しに割って入るまで、時間を忘れて聞き入っていた。 そこからは彼の生い立ちを父が聞き手に替わり、腕を組んで聞いていた。父は何度も頷きながら、時に眉間に皺を寄せ聞いていた。彼が今に至るまでの全てを語り切った所で、私達の間に沈黙が続いた。父や母にとってそれがどれ程重いものなのか、私には全く計りようが無く、この空気を変える言葉もまた出ては来なかった。  どうしよう…。  その時彼が改めて姿勢を正し、父と母を交互に見た。 「今日はお願いがあってこちらにお邪魔させて頂きました。」  その彼の意を決した様な口調に私は緊張感を覚え、横に座る彼を見つめた。 「聞こう。」 と、父は冷め切った残りの珈琲をゴクリと一口で飲み干し、姿勢を正し、彼を見据えた。母もまた背筋を伸ばし、揃えた両膝の上に両手を添えた。  彼は大きく息を吸い込みもう一度父と母を交互に見、強くはっきりとその言葉を発した。 「ゆりさんと結婚させて下さい。」  私は驚きを隠せなかった。私達の間で『結婚』という言葉が交わされた事は一度も無かったからだ。だが彼は真っ直ぐ父を見つめ、続けた。それは言葉のひとつひとつを丁寧にゆっくりと結んでいく作業の様だった。 「僕はずっと独りで居ようと思っていました。僕は独りで居る方が、楽でした。事故で多くのものを失った事が、独りの環境をより整えました。片腕は無くともその上での生活環境は整い、僕は今まで生きていく上での不自由は何も無いものだと思っていました。でも…。ゆりさんと出会って、接して、僕は自分が本当の意味で生きているという事を知りました。」  彼の声は涙を堪えるかの様に、震えていた。そんな彼の声を聞くのは初めてだった。 「僕はゆりさんと一緒に居ると、自分の心が動くのを感じます。嬉しかったり楽しかっり、辛かったり。恥ずかしい事ですが、僕はそういう感情を持たずに生きてきました。いえ、持っていないことにすら気付かずにいました。そんな僕にゆりさんは、感情を持って生きるという事を教えてくれました。僕はゆりさんと一緒に喜怒哀楽を感じなながら生きていきたい。そう強く願う様になり、願えば願う程、ゆりさんを自分の人生に巻き込んでもいいのだろうか、という疑問も大きくなっていきました。僕と居ると必ずゆりさんに辛い思いをさせてしまいます。そう分かっていても、それでも僕はゆりさんと一緒に生きていきたい。ゆりさんを誰にも譲りたくないという、自分勝手なわがままを叶えたい。もしゆりさんが全てを承知で僕と一緒に居てくれるのであれば、どうかゆりさんと結婚させて下さい。」  父は黙っていた。母もまた、下を向いていた。沈黙を破ったのは父だった。 「ゆり、涙を拭いて、お父さんの目を見て答えなさい。お前の気持ちはどうなんだ?」 「え…?」 私は自分が泣いている事に、やっと気付いた。慌てて涙を拭い、姿勢を正し、父に答えた。 「はい。私も同じ気持ちです。」 私は揺るぎない今の気持ちを、真っ直ぐに父に伝えた。 「分かった。」 父は大きく息を吸い、再び彼の目を見据え、続けた。 「但し、一つだけ条件がある。」 条件…? 私は急に不安に襲われ、父の顔を見つめた。 「隆也君、ハンディキャップを認めなさい。」 私は父が何を言わんとしているのかが、全く分からなかった。 「隆也君、申し訳ないが君の事を商店街のご近所の方々に教えてもらった。君の生い立ち、君のご近所の方々の評判は申し分ない。君は学生時代、成績も良く、利き腕が無くとも本屋を経営し、しっかりと自立している。何も出来なかったゆりも、君の影響でこの数ヶ月ですごく成長し、変わった。…だが、君は自分のハンディキャップを認めていない。分かるか? 何でも独りで出来る事が良いとは言えないんだ。家族になる以上、私達の間はバリアフリーでなければならない。だが、本当のバリアフリーとは、私達健常者が決めるものではない。君自身がハンディを認め、私達家族に甘んじる事に対して、負い目を持たない事だ。いいか? 本当のバリアフリーはな、君が、君の障がい者であるという壁を崩す事から始まるんだ。私達家族は君という新しい家族を持つ事に、大きな希望を持つ。もし、君という新しい家族が困っていれば、喜んで手を貸す。家族に甘んじる事を恥じるな。迷惑を掛けるなんて負い目を持つな。申し訳ないなんて、絶対に思うな。それが出来ないのなら、ゆりはやらん。」  私は父の言葉に溢れ出す涙を止める事が出来なかった。そして、私以上に肩を振るわせ大粒の涙を流す彼が横にいた。彼は嗚咽混じりの掠れた声で、父に何度も何度も頭を下げながら言った。 「ありがとうございます。ありがとうございます。」と。  開店の時間が近付き、私達は実家を後にした。父と母がエレベーターの扉が閉まるまで、笑顔で手を振り見送ってくれた。

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二十三、彼の決意 父の思い

二十二、新しい扉

 ある日、いつも通り仕事帰り彼の店に寄ると、藍さんが来ていた。私が店の扉を開けるとすぐに、 「ゆりちゃん!」 と大きく手を振り私を呼んだ。  藍さんは店のカウンターに一番近い席の椅子を寄せ、座っていた。その下にはライがお腹を出して藍さんの足にもたれ掛かる様に寝そべっている。どっちが妊婦だか分からない。私はライのぼってりとしたお腹を見て吹き出した。  藍さんはつるんとした肌を輝かせ、キラキラと笑っていた。私はカウンターの下に荷物を下ろし、藍さんに尋ねた。 「藍さん、航平さんとどうなりました?」 藍さんは待ってました!と言わんばかりに肩を竦め、満面の笑みでこっくりと首を縦に頷いた。 「じゃあ、航平さんと上手くいったんですね!」 「うん。ゆりちゃん、ありがとう。」 「良かった!」 私は藍さんに抱き付いた。藍さんも私の背中に両手を回した。 「でね、ゆりちゃん。悪いんだけど、返事を急かしに来た。」 「え? 返事?」 私はパッと藍さんから離れ、その顔を見つめた。 「うん。前に公園で話した、私の仕事を暫く引き継いでくれないかって話し。」 あ…。私は沈黙してしまった。すっかり忘れていたのだ…。 「ごめんね、ゆりちゃん。私、直ぐに日本を立ってスイスでこの子を産む事にしたの。」 藍さんは若干膨らんだかな、と見て取れるお腹をくるくると優しく撫でながら言った。  私はカウンターの彼を振り返った。彼は何?という顔をしたが、私は後で話すと笑顔を返しただけでそれには答えず、藍さんに向き直った。 「藍さん、お願いします。藍さんの仕事、引き継がせて下さい。」  私は即答した。今の私には確信があった。彼と一緒に生きて行く。彼と、この店をしながら一緒に生きて行くのだと。それに、ずっと料理をし、カメラと向き合う事で、自分に自信がついてきていた。料理をするという事も、写真を撮るという事も、自分の力で何かを作り出すという事だからだ。藍さんの様にフライヤーを手掛ける事も、今の私にはチャンスが貰えるのであれば、それに取り組んでみたいという意欲があった。 「ありがとう、ゆりちゃん!」 今度は藍さんの方が抱き付いてきた。 「早く決めないと飛行機、乗れなくなっちゃうから。」 私は藍さんから顔を離し、その輝く笑顔を見つめた。 「藍さん、良かった…。」 その後は言葉が出て来なかった。嬉しくて。改めて航平さんと藍さんが上手くいった事がとても、本当にとても嬉しくて、言葉が出ず、代わりに涙が溢れ出した。 「ゆりちゃん…、私、泣かせたら隆也君に怒られちゃうよ?」 「ごめんなさい。」  私は手の甲で涙を拭い、ぐちゃぐちゃの顔で笑った。足下のライが起き上がり、大きく伸びをした。そして私の前にちょこんと座り、私の顔を見上げ、ニャアとミルクを催促した。  藍さんの申し出を快諾してからの私の生活は大きく変わった。休み明け、私は早速今の職場に辞表を出した。初めての事で、緊張に手が震えた。その日の夕方、正式に辞表が受理されたと、直属の上司から言われた。三十代前半のその上司は、私に向かって、 「自分のやりたい事を見つけたのね。最近の貴女を見ていると分かる。飛ぶ鳥跡を濁さず! しっかり引き継ぎしなさい!」 とポンッと背中を押してくれた。  自分の事等は誰も見ていないとずっと思っていた私は、思わぬ言葉を贈って頂けた事を、驚きと同時にとても嬉しく感じていた。  後は藍さんの引き継ぎだった。仕事の帰り、藍さんの職場に立ち寄り、その後、彼の店に着く頃には夜の八時近くになっていた。 当然、料理を作って写真を撮る、という作業は出来なくなっていたが、私はこれからの自分に対する期待感に心が躍っていた。    バタバタと時間が過ぎ、気付けば何時しか彼と両親との顔合わせの前日を迎えていた。  私はこの日、早くに彼の店に来ていた。いつもの様に店に蓮君がやって来た。蓮君が扉を引くと、スッとライがそのお腹に似合わず尻尾をピンと高く伸ばし、しなやかに身体をくねらせ入って来る。  ライは尻尾をピンと立てたまま、カウンターに立つ彼と私の足下を八の字を描く様に足に添い歩き、いつもの場所、カウンターの横に座った。相変わらずのツンとした顔は、毛並みも綺麗でとても凛々しい。 「ゆり、珍しいじゃん! 今日は居るんだ!」 と私を見つけた蓮君が、カウンターに一番近いテーブルにリュックを置き、中を何やらゴソゴソと探しながら、 「隆也さんに見せようと、写真持って来たんだ! ゆりも見て!」 と満面の笑みで輪ゴムで束ねた数十枚の写真を取り出し、持ち上げて見せた。そして、テーブルにバラバラと無造作に写真を広げた。  それらはこの本屋とライを、あのピンホールカメラで撮ったものだった。  この店のインテリアは、どちらかと言えばクールだと思う。だが、蓮君の写真を見ると、とても愛らしいカラフルなインテリアになっている。それは蓮君ならではの、撮る者の拘りがあるからだった。  蓮君はこの店のあるがままを撮っているのではなかった。例えば本棚を撮る時は手前に気に入った表紙の本を立てていたり、鉄製の階段に積み重ねられた本の上には店の入り口に置いてあった小さなサボテンを乗せていたりと。そして名脇役にライがいる。写真の四隅の何処かしらにライがいる。寝そべっていたり、毛繕いをしていたり。蓮君の手作りピンホールカメラで撮った写真は、全てがふんわりと、柔らかく優しくカラフルにその世界を表現していた。 「何かすごく可愛いね。ウチの店じゃないみたいだ。」 彼が楽しそうに笑った。私はうんうんと頷きながら、変わった写真を見付け、 「これは?」 と、その一枚を引っ張り出した。 「ん?」 蓮君と彼が、私の取り出した写真を顔を揃えて覗き込んた。 「ああ、それだよ、ゆり。ピンホールカメラの前に、円い穴の空いた箱を着けただろ? それがそうだよ!」 と蓮君はニンマリと笑った。その写真は真っ黒なその四角いスペースの真ん中に、円く画が写っていた。まるで望遠鏡を覗き込んだみたいに、鉄製の階段の下から穴を通してライを覗き見している様だ。 「面白いね! あれがこんな風になるんだ!」 「うん、面白いね!」 彼も大きく頷いた。  私は蓮君の写真を一枚一枚手に取りながら思った。写真とは本当に面白い。撮る側のスタイルや思いがちゃんと反映されている。蓮君が撮ったこの店は、とてもカラフルで楽しい。見ていると優しく、そしてウキウキとした気持ちになる。  蓮君の様に自分の思う世界を演出して撮ったり、航平さんの様に、よりリアルに撮ったり。私は匂い立つ様に美味しそうな写真を撮りたいと思っている。間違いなく写真とは、撮る側によって創り出されていく物なのだ。  私は彼の顔を見た。彼の屈託のない笑顔を。ずっと笑っていて欲しい。明日は両親に会う。どうか彼のこの笑顔が曇る事がありませんようにと、私は切に願った。

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二十二、新しい扉

二十一、私の決意 私の撮り方

 私はひとり、ゆっくりと家路を進んでいた。蓮君が告白をした彼女はどうなったのだろう。きっとその娘は蓮君の事を本気で想っていた。でも諦めた。傷付くのが怖いから。中途半端な想いではなかったから。  …私は違う。私は彼を想いたい。周りの中傷なんかに負けたくない。  私は立ち止まり、くるりと踵を返した。彼に会いたい。彼の顔が見たい。何時しか私は駆け足になっていた。  商店街に入る時、誰かが私を中傷しているのかも…という思いが頭の中を過ぎりはしたが、私は歩調を緩めなかった。ライのおばさんが言っていた。自分の気持ちに正直に。  店に着いた時、私は肩で息をしていた。私は店の扉の前に立ち止まり、深呼吸をした。そして手櫛で髪をさっと整え扉を開けた。と同時に彼が扉を引いたので、私はバランスを崩し前のめりになり、慌てて彼の腕を掴んだ。彼はいつもの穏やかな優しい笑顔で支えてくれた。 「ゆり、蓮は? もう終わった?」 そう彼が言い終わる前に、私は彼の腕を掴んだまま言った。 「お願い。両親と会って。」 「う…うん。分かってるよ。」 「違うの。前は母に言われたからお願いしたの。でも違うの。今は私が会って欲しいの。だめ? 嫌?」 私は彼の目をじっと見つめた。彼はゆっくり手を上げ私の頬にその掌を当てた。 「ゆりがそう思うのなら。ゆりの気持ちに迷いがないのなら。」 「え?」 「今日、どうだった? 撮影、上手くいった?」 彼はその手を私の頬から離し、私の肩からバッグを取り上げカウンターに向かった。 「写真、撮らなかったの。」 「そうなんだ。」 彼は私のハイスツールを座り易いよう、手前に引いてくれた。 「ゆりには自分の気持ちに素直でいて欲しいんだ。蓮みたいに障がいのない健常者と会っている方がゆりは楽しいんじゃないかって、考えてた。ゆりのご両親に会う前に、ゆりの本当の気持ちを知りたかった。」  私は愕然とした。私が迷うから、彼を両親に会わせる事を迷ったから、結局それが彼に不安を抱かせる事になってしまったのだ。 「本当に会って欲しいの。いい?」 「ゆりを悩ませた。ゆり、ごめん。」 彼は悪くないのに。謝る必要等ないのに。私は彼の手を強く握り締めた。  両親との顔合わせの日取りが決まった事で、私は心置き無く毎日の様に彼の店に来ていた。あの土曜日以降、蓮君もほぼ毎日店に来ている。私の代わりにライと言うモデルを連れて。  ライはいつも店に入ると蓮君の傍から離れ、カウンターの横、入り口に近い方に座っていた。ぼてっとしたお腹以外はかなりクールなライだが、毛繕いをしている時は心地良く細めた目が何とも愛らしい。  ライは本当に賢くて、蓮君が呼べばぬっと立ち上がり、ゆっくり長い伸びをしてからスタスタと蓮君に着いて行く。直ぐに走って行かない所がライらしい。私はライを見ていて飽きなかった。 「ライは撮られているの、分かっているのかな?」  私はカウンターに肘を着き、鉄製の階段の上段に胡座をかく蓮君とライを見上げたまま彼に話し掛けた。彼は広げていた本を閉じ、私と同じ様に彼等を見上げた。 「うん、分かってるね。何かふたりは似た者同士だね。撮ってやってる。撮らせてやってる。ってね。」 彼も私も思わず笑った。  蓮君はいつも二眼のトイカメラを首から掛けている。じっと見ていると、蓮君はライの額に手を当て、多分、ここに居ろと指示している様だ。 ライは鉄製の階段に座ったまま、蓮君が降りて行くのを目で追っていたが、蓮君がテーブルを挟んで正面のもう一つの階段に上がり、自分と並行に当たる高さに座り胡座をかいたのを確認し、そのまま毛繕いを始めた。  蓮君はゴソゴソといつも背負っているアーミー柄のリュックの中から、何やら箱の様な物を取り出し、目の前に置いた。  私はハッと思い出した。きっとあの箱は航平さんが笑ったって言ってたピンホールカメラだ! 私は彼を振り返り、 「ちょっと蓮君の所に行ってくる!」 とハイスツールから降りた。何度上がっても慣れず、足を踏み外しそうで怖いと思う急な鉄製の階段を、私は手摺りをしっかり握り、蓮君を見上げ駆け上がった。 「蓮君、それ、ピンホールカメラでしょ?」 「ああ、そうだよ。」 「ちょっと見せてもらってもいい?」 「いいよ。」 と蓮君はカメラから手を引っ込めた。 「開けていい?」 「うん。」  その箱は、底が丁度掌と同じ大きさだった。見た事のある某老舗菓子店の缶だ。缶の蓋は簡単には開かなかったが、私は丁寧にそっと力を入れ蓋を取った。缶の中は真っ黒だった。よく見ると、黒い画用紙が缶の内側全面に、全くの隙間無く貼られている。そして二本の黒い棒があった。 「ここにフィルムを巻くの?」 「そう。」 と言いながら蓮君はリュックの中からフィルムを取り出した。私はフィルムを見つめた。 「何か長い…。」 「うん。120ミリフィルムだから。」 「120ミリフィルム?」 「そう。」 と言いながら、蓮君は再びリュックの中からゴソゴソと違うフィルムを取り出した。 「これが一番メジャーな35ミリフィルム。」 私は蓮君から手渡された二本のフィルムを見比べた。 「長さが全然違うね。」 「そりゃ35ミリと120ミリとじゃ大違いだよ。」 「どうしてこっちのフィルムを使うの?」 私は細長い120ミリフィルムを先に蓮君に返した。 「単純な事だよ。大きなフィルムに焼き付けた方が引き伸ばした時の粗が少ないだろ? だから、こんなピンホールカメラやトイカメラみたいに精密じゃないカメラにはこういう大きいフィルムを使うんだ。」 と、無愛想な蓮君はここでようやくにっこりと笑顔を見せた。 「なるほど…。」  私は35ミリフィルムも蓮君に返し、ピンホールカメラの蓋を手に取った。蓋の内側にも黒い画用紙が貼られていて、こちらは缶の密閉度を高める為、本体と重なる部分に黒いスポンジがぐるり一周貼られている。 「蓋の真ん中に穴があるだろ?」 私は蓋の中央をじっと見てみたが、何も無い。蓮君に言われ、光りにかざしてみてやっと極々小さな穴が見えた。 「こんな小さな穴で撮れるの?」 「そう。その穴がレンズ代わり。」 と言いながら、蓮君は今度はリュックの中からマイナスドライバー二本とセロテープを取り出した。そしてフィルムの蓋を引っ張り出し、缶の中の一本の棒を取り出し、代わりにセロテープで固定されたフィルムを入れた。取り出した棒の端には太短い釘の様な物が付いていて、それは蓋を閉めた缶の上下にセットされた。これでフィルムを固定したらしい。 蓮君は蓋の穴の部分に黒いテープを貼り、胡座をかく自身の目の前にピンホールカメラを置いた。対面したアイアンの階段には蓮君の指示通り、ライがちょこんと座っている。蓮君はドライバーで缶の上にちょっとだけ頭を出した釘の様な物と棒を一緒に同時にゆっくりと回した。フィルムを巻き上げているのだ。そして、そっと蓋のカバー代わりにしていた黒いテープを剥がした。そして三十秒…。  蓮君は再び蓋の穴に黒いテープを貼った。そしてまた、ドライバーでフィルムを巻く。数回それを繰り返した蓮君は、今度はリュックから五センチ角の底の抜けた箱を取り出した。箱は蓋の正面にセットされた。正面には大きな丸い穴が空いている。その穴から指を突っ込み、蓮君はまた黒いテープを剥がした。 「これは?」 「現像が出来たら見せてやるよ。」 と蓮君は得意げな顔で笑った。  同じ事を数回繰り返し、蓮君はフィルムを最後まで巻き上げた。 「ねえ、何人か人が階段を上り下りしてたけど…。カメラに写ってるんじゃないの?」 「ああ、動く物は写らないんだ。」 蓮君はカメラからフィルムを取り出しながら答えた。 「動く物は写らないの? 不思議…。」 「現像が終わったら見てよ。」 と蓮君は笑いながら立ち上がり、ライに向かって降りろと手で大きく合図を送った。ライはいつも通りマイペースに大きな欠伸をし、軽やかに階段を降りて行った。  私は彼のいるカウンターへ戻り、ピンホールカメラの事を話した。彼はいつも穏やかに私の話しを聞いてくれる。私は彼の優しい相槌が心地良く大好きだ。  いつの間にか私の足元に来ていたライがニャアと一言、高く細い声で鳴いた。 「ライ、なあに?」 見下ろすとライは姿勢良く両足を行儀良く揃え、ちょこんと座り私をじっと見つめている。 「ライ、喉が渇いたのね。待ってて。」 私もライの気持ちが少し分かるようになってきていた。 「ちょっとミルク取って来る。」 私は彼に声を掛け、奥の階段を上がった。そして冷蔵庫から取り出したミルクとライの為に用意しておいた小さな緑色のお皿を手に、階段を降りた。階段が後ニ、三段という辺りでふと店内を見ると、数組のお客達が階段を降りる私を見ている。私と目が合ったお客達は、さっと視線を元に戻した。 …「お嬢さん、あんたはちょっとした有名人なんだよ」… ライのおばさんの言葉が脳裏から離れずにいる。今まで全く気にならなかった他人の視線が…少し怖かった。  私はライの前に両膝を抱える様に屈み込んだ。やがてミルクを飲み終えたライは、前足で何度か顔を擦り立ち上がると、目の前の私の顔をじっと見つめた。そして膝を抱える私の手をペロペロと舐めた。ザラザラとした小さな舌が、 「気にしないで。」 と優しく慰めてくれている様だった。  週末の土曜日、私は久しぶりに彼の部屋で朝を迎えた。早い早い朝、彼はまだ布団の中だ。私はこの所彼の部屋でずっと料理の本を読んでいた。  昨日の夕方一人で買い物へ行き、食材を買い込んだ。スーパーのカゴを腕に掛け野菜売り場から見て回ったのだが、今まで母と行った時とは自分の気持ちが全く違う。野菜は色とりどりに輝いて見え、根菜をカゴに入れた時のずっしりとしたその重みが嬉しかったり、レシピにはないラディッシュ等を衝動買いしたりした。  キッチンの上にあるロフトで寝ている彼を起こさないように、私はシンクに昨日買った食材を並べた。今朝のメニューはトマトベースのパスタとサラダ、ベリーのヨーグルトジュースだ。  先ずはジュースからだ。私はミキサーに洗ったベリーとヨーグルト、蜂蜜をたっぷりと入れ蓋をし、それを冷蔵庫に入れた。  そしてパスタ作りに取り掛かった。料理をするのはとても楽しく私はすっかり夢中になっていた。母を見ている限り、これが毎日となるとこんなにも夢中になったりはしないのだろうけれど。今の私は本当に料理がとても楽しかったのだ。そして思いの外、朝食は早く出来上がってしまった。そこにタイミングよく彼が起きて来た。  彼はロフトの階段を降りながら、 「すごくいい匂いだね。」 とシンクの方を覗き込んだ。彼は出来立ての朝食を見つめ、 「撮ろうよ。」 と、にっこり笑った。 「え?」 「写真を撮ろうよ。」 「写真? これを?」 「うん。ゆりのカメラで。カメラ、こっちに置きっ放しだろ?」 突然の彼の提案に、最初はピンと来なかったのだが、暫くして私の心の中にも急に撮りたいという気持ちがワクワクと湧いて来た。 「冷めちゃうかも…。」 「大丈夫だよ。」  彼の笑顔に、私は急いでカメラを取り出した。重いカメラを持ち上げレンズカバーを外した。そして出来立ての料理の前に立ち、ファインダーを覗き込んだ。ピントを合わせているうちにどんどん腕が痛くなっていく。私は一度大きく息を吐いた。 「どうした?」 「腕が痛くて。」 「ちょっと待ってて。」 と彼は一メートル程の高さのアルミ製の脚立を持って来てくれた。長身の彼に合わせて造られたこのシンクと脚立は丁度高さが合った。私はカメラを脚立に預け、パスタにピントを合わせた。ボヤけた白い世界に色が付いていく。どんどん色がはっきりとしていく。 「あ…。」  私はレンズのダイヤルを止めた。余りにも被写体が近い…。今の私にはカメラを離してピントを合わせる事しか出来なかった。脚立を少し後ろに下げ、私は再びファインダーを覗き込んだ。  もう一度やり直しだ。暫くしてまたピントが合った! だがここで私はまた考え込んでしまった。パスタは大きくとても立体的にファインダーの中にある。そう、とても立体的に。故にその極一部だけにピントが合い、他は引き立て役のようにボヤける。それが良いのだが…。私が分からなくなったのは、このパスタの何処にピントを合わせれば良いのかだった。こんな所で悩むなんて…。  構図だ。私は頭の中に出来上がった写真をイメージしてみた。イメージが決まった所で再びファインダーの中のパスタの一部分にピントを合わせ、シャッターを押した。私はここで大きく深呼吸をし、 「ちょっと休憩。」 とソファに倒れ込んだ。 「続ける?」 「ううん。辞める。」 彼の問いに私は即答した。 たった一回シャッターを下ろしただけで、こんなにも疲れるなんて…。 「ゆり、そこに居て。」 と彼は冷蔵庫のミキサーを見つけ、回してくれた。 「パスタ、冷めてないかな?」 「大丈夫だよ。」 と言いながら、彼はジュースを注ぎ口を付けた。私は彼の顔色を窺った。 「美味しいね。酸味があって目が覚めるよ。」 と笑顔の彼はジュースを殆ど飲み干している。カップが空になる事がこれ程嬉しいなんて思いもしていなかった。そして彼はパスタに手を付けた。ジュースよりもこちらがメインだ。ちゃんと味見をしたというのに、私は緊張してその味をすっかり忘れていた。彼は大きく一口を食べ、ゆっくり味わい、 「美味しい!」 と笑顔で言ってくれた。 「どんな味?」 と私が間髪入れずに聞いたので、彼は大笑いをした。  それからは毎日のように、私は仕事帰りスーパーで買い物をし、彼の店へ行き料理を作り写真を撮る、という作業を繰り返した。  彼が早くに三脚を用意してくれたので、撮影はとても楽になった。三脚を使うと撮る時の手振れも殆ど無い。デジタルカメラと違って、撮った写真がこのアナログカメラでは直ぐに見れないので、私は失敗しないよう、慎重に慎重を重ね、シャッターを切った。フィルムと現像にお金が掛かってしまう為、同じシーンの撮り直しは三回までと決めた。なのでフィルムを全て撮り終わるまで数日を要した。  やっと撮り終えたフィルムを巻き上げる。スイッチ一つでカメラが自動で独特の音を立て巻き上げるのだが、巻き上がった手応えのある音がして、カメラにそれを知らせる印が出ていても、フィルムがちゃんと巻き上がっていなくて開けた時に光りが当たり、折角の写真が駄目になるのではないかと、私はいつもフィルムを取り出すのを躊躇う。えい!と、カメラを開けフィルムが巻き上がっているのを見る度、安堵した。私はその作業を繰り返す中で、ある事に気付いた。  それは、私の撮り方に『スタイル』が出来た事だ。何度も何度も撮り続ける中で、自分の好きな構図、撮り方といった『スタイル』が確立されていったのだ。撮るという作業がより楽に、より早く、更に楽しくなったのだった。  料理を高く盛り付け斜め上から撮る、というのが私のスタイルだ。  こうして私のカメラで撮ると、実際より一層立体的に、本当に美味しそうに見えるのだ。私はどんどん料理とカメラに没頭していった。

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二十一、私の決意 私の撮り方

二十、恋の行方

  私達は…、ライを含む私達三人?は、公園へ戻っていた。ベンチに腰掛けながら、蓮君はブツブツ言っている。 「何で俺が独りで寂しいんだよ。」  ライは相変わらずのツンとした表情のまま、蓮君の足元から離れずにいる。 「お前、コロッケばっか食ってるからそんな腹になるんだよ!」  そんな蓮君の悪態にも、当然ライは全く動じない。私はベンチに座ったまま、膝に両肘を着き、ライの顔をじっと覗き込んだ。私はさっき、ライに助けられた気がした。きっとそうだ。ライは直感で瞬時に物事を判断し、悲痛を感じる私を助けた。  大勢の知らない人達が彼と私の事を噂している。良い事を言う人。悪い事を言う人。彼が言っていた、波紋。彼というひとつの石が興す波紋。彼はその中に私を巻き込みたくないと言っていた。  私は蓮君の横顔を見た。もし、蓮君の様な人と一緒に居れば、楽しいのかもしれない。知らない人達に中傷される事もなく、さっきライを見掛けた時の様に、何の躊躇いも無く何かに夢中になって手を繋いで走ったり。そう、普通に手を繋いで…。  今の私は弱い。ただただ弱い。だけど、それでもやっぱり私は彼を想う。私には彼しか想えない。  私は蓮君に話し掛けた。 「ねぇ、蓮君、好きな人はいないの?」 蓮君はライから目を離さずに答えた。 「好きなのかどうなのか、まだ分からない。」 「じゃあ、今までに好きになった人は?」 蓮君は直ぐには答えず、黙ったまま身体をベンチの背凭れに委ね、両掌を頭の後ろで組み、空を見上げた。 「幼馴染みの娘をずっと何年も想ってた。」 「何年も⁈ 意外!」 「何で意外なんだよ!」 蓮君は一度横目で私を睨んだが、直ぐに再び空を見上げた。 「幼馴染みでさ、いつも俺の側に居て、いつも笑ってたんだよ、ソイツ。高校二年の夏に告ったんだ。ずっと好きだったって。」 「で?」 「フラれた。」 「ええ?」 「フラれたんだよ!」 「ご、ごめん。」 私は慌てて蓮君から視線を外した。そして、私も空を見上げた。暫くして蓮君はライに話し掛ける様に言った。 「何でかな…。アイツ、いつも楽しそうにしてたのにな…。」 私は蓮君の顔を一度見、再び空を見上げ、彼の店に来ていた沢山の女の子達を思い出し、答えた。 「蓮君と居ると、不安になるのかもしれない。いつも自由で思いのまま動く蓮君が、ずっと自分の事を好きでいてくれるっていう、自信が無かったのかもしれない。」 それを聞いた蓮君は、急に立ち上がり、 「何でだよ! 何でそう思うんだよ!」 と私に向かって怒鳴った。私は驚いて蓮君の顔を見上げた。 「あ、ごめん。うん、今ゆりが言った事と全く同じ返事をされたんだ。」 「え?」 「ゆりが今、言ったのが、その娘の答え。だから付き合えないって。」 溜め息を吐きながら蓮君はベンチに座り直した。 「そう…。」  賢く優しいライがニァアと鳴いた。立ち上がり、数歩進み私達を振り返った。 「分かったよ。行こうか。」 私達はライを見送り、今日はこれで別れる事にした。

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二十、恋の行方

十九、撮る事 そして猫を追いかけて

 梅雨の中休みという土曜日の朝に、昨日までのベタつく湿度が嘘の様なサラリと爽やかで心地の良い冷たい風が優しく吹いている。早くに家を出、彼の店の開店準備だけを手伝い、私は蓮君との約束の公園に向かって歩いていた。 「カメラの勉強になるよ。楽しんでおいで。」 と言う彼の胸中は、全く分からなかった。悶々としながらも公園に着くと、駅周辺の喧騒とは掛け離れた静けさと、澄んだ空気と青々とした瑞々しい新緑に心が踊った。私は約束よりもかなり早い時間に公園に来ていた。ゆっくり歩きながら公園を一望してみると、誰もいない。  私は肩から下ろしたバッグをゆっくりベンチの上に置き、慎重にカメラを取り出した。黒く艶めくずっしりとした重みを両掌に感じると、ワクワクとした期待感が込み上げてくる。  私は辺りを見渡した。ふとベンチ後方の楠の黒い幹を見てみると、面白い形をしている。私はカメラのレンズカバーを外し、それをポケットに仕舞い、楠の幹を前にカメラを構えた。レンズを覗くと真っ白で何も見えない。私はレンズのダイヤルを慎重に、ゆっくりと回してみた。真っ白な世界は徐々に黒く色付き、かなりボヤけてはいるがそれが木の幹であると何となく分かる様になってきた。ある程度ダイヤルを回すと、今度はまた逆にボヤけていくという所を確認し、一先ず息を吐いた。まるで溜まっていた緊張の塊の様な大きな息が出る。呼吸をしていなかった様な苦しさから一旦身体を解放し、私は息を大きく吸い込み再びレンズを覗き、今後はまた別の、もう一つのダイヤルを更に回した。と直ぐにクリアに物凄くくっきりと楠の幹が見えた! ピントがぴったり合ったのだ! 途端、ガクッと私は両手にカメラを持ったまま、力尽きてしまった。両足をくの字に曲げ屈み込み、膝の上にカメラを乗せ、私は唸った。う…。重いカメラに両腕が怠く痛い…。折角ピントが合ったというのに…。暫く腕を休めた後、私は再び立ち上がった。さっきピントが合ったので、今度は逆にピントの合う場所に身体を動かした。すると直ぐに再びくっきりと幹が現れた! 目で見るよりもずっと拡大され、その黒く粗い表皮に乾いた亀裂が何本も見て取れる。 今だ! シャッターチャンスだ! 私はシャッターを押した。が、カメラは大きく下に揺れ動いてしまった…。はぁ…。私は肩を落とした。 もう一度やってみたが同じだった。私は航平さんの言葉を思い出した。そうだ。脇を締めて身体を安定させるのだった。だが、そうするとまたピントがズレてしまう。ただシャッターを下ろすだけなのに、たった…たったそれだけの事が出来ないなんて…。私はカメラを胸に抱き、項垂れた。 「何だ。もう辞めちゃうの?」  私はびっくりして声のした後ろへ振り返った。蓮君だった。 「蓮君? 何で? 早くない?」 私はうっすらと記憶に残る公園の柱時計を宙に探しながら言った。柱時計は公園の中央にあり、九時半を指している。 「うん、先に公園の子供達を撮ろうかと思って。」  言われて見渡せば公園には何時の間に来たのだろうか、数組の家族が奥の遊具で楽しそうに遊んでいる。私は蓮君の顔を見つめ尋ねた。 「どうやって撮るの?」 蓮君はキョトンとした顔で答えた。 「どうやってって、普通に。」 「普通に?」 「うん。どうやって撮るかなんて、考えた事ない。」 「え? 何で? どんな風に撮ろうとか、構図だとか、考えないの?」 蓮君は少し頭を斜めにし、ぽりぽりと掻きながら答えた。 「写真なんて、撮りたい時に好きな様に撮るんじゃないの? そんな事どうだっていいよ。ほら、カメラ貸して。」 と私から慎重にカメラを取り上げた。 「おお…、しっかり重いね。さっきのゆり、後ろから見てたら懸命に立とうとしてる生まれたての仔馬みたいにひょろひょろしてたよ。」 「…」 「慣れるまでは三脚を使ったら。」 とカメラを私の両手に戻した。 「三脚…。」 「何処のカメラ屋にもあるよ。カメラの底を見て。」 「底?」 「うん、ひっくり返して。」 私はカメラを落とさないよう気を付けながら、ゆっくりと逆さにしてみた。 「ほら、ここにヘソがあるじゃん。」 と蓮君が指差す所、カメラの長方形の底の真ん中ではなく、丁度レンズ部分に直径一センチ程の小さなネジ穴があった。 「そのヘソに、三脚を填めて固定するんだ。」 「へぇ…。トイカメラにもあるの?」 「あるんじゃない? 俺のトイの二眼レフにもあるよ。」 と言いながら、首から下げていたブラックバードフライをヒョイとひっくり返りし見せてくれた。倒れない様バランスを考慮してか、こちらは手元に最も近い場所に穴があった。 「本当。」 蓮君はくるりとカメラを戻し、 「ちょっと散歩しよう。この辺の事、教えてよ。」 と私の顔を見てにっこりと笑った。 「でも私、この辺の事、あまりよく知らない…。この公園を知ったのも最近だし。」 「そうなんだ。じゃあさ、一緒に散策しようよ。駅前商店街の規模がかなり大きいから、商店街の裏道も、きっと面白い物があるよ。」  蓮君の言葉に、そうかも、と頷きながら、私は藍さんに教えて貰ったドーナツ屋を思い出した。気分転換になるかもしれない。私は蓮君に、「うん。」と答えた。  今日は正に散策日和だった。六月の半ば、梅雨入りしているとは全く思えない、日差しが優しく風もなく穏やかで、日陰に入ると少し肌寒い位の日だった。 「なんか肌寒いな。」 ひょろっと細長い、その容姿にぴったりな言葉を蓮君は発した。 「うん。」 私は空を見上げ、小さく頷いた。決して濃いとは言えない澄んだ空の青は、何処までも遠く『永遠』を感じさせたが、そんな物は何処にも無いと、私は数ヶ月前に痛感した。人であれ、物であれ、必ず『その時』はやって来る。どれだけ拒み踠いても、必ず『その時』はやって来るのだ。 「ゆり、笑ってよ。」  不意に声を掛けられ、私はびっくりして振り返った。彼だと思った。そこに彼が居ると思ったのだ。けど、そこに居たのは蓮君だった。 「あ、ごめん。」 私は落胆の表情を出すまいと蓮君から目を逸らし、前方の細い路地を見つめた。 「あ…!」 私は思わず声を出した。 「ん?」 と蓮君も私の視線を辿り前方を見た。物凄く太った焦茶色に黒の縞模様の猫が、その路地の真ん中に立ち、堂々と全く臆する事なくこちらをじっと振り返っているのだ。お腹の出っ張りが地面に着いてしまいそうなその猫のツンと鋭い瞳と確実に私の目があった。猫は私達に話し掛ける様に尾っぽをひゅるりととてもしなやかに縦に高く動かした。私達は顔を見合わせた。 「アイツ、手招きしてるみたいだ。行ってみよう!」 と蓮君は歓喜の声で私の手を取り駆け出した。私も思わず我を忘れ、蓮君に手を握られたまま、つられる様に駆け出した。猫は路地を真っ直ぐ走り出し、直ぐ右の脇に消えた。 「あ…。」 私達は顔を見合わせ立ち止まった。 「おっ!」 蓮君はパッと私の手を放し、路地の前方を指差した。 「お前、ここの看板猫だな?」  路地の両脇に並ぶ古民家の中の一軒の前に大きな幟が立っていて、その縦に長い大きな白い布に黒く太いカタカナで「コロッケ1個50円」とある。幟は極々一般的な濃い茶の木製の、もう使われなくなったであろう古いダイニングチェアに、針金でしっかりと固定され、塗料の剥げ落ちた座面には、先程の猫が真っ直ぐ正面を向き、ツンとすまし座っている。蓮君は猫の前に屈み込み、その視線に目を合わせた。見知らぬ者が顔を近づけようと、猫は微動だにしない。蓮君は直ぐに顔を上げ、 「コロッケ食べよう! 一つ五十円だって。安いよ!」 と私を振り返った。私が笑顔でうん、と返すと、さっきまでダイニングチェアの上で全くピクリとも動かなかった猫が急に立ち上がり、幟の右横に位置する民家の腰窓よりやや高めの窓に備え付けてあった幅二十センチ程のカウンターに、ひゅるりと飛び乗った。猫は開け放たれたままの窓ののれん越しに、その容姿からは全く想像のつかない高く細い声で、家主に向かってニャアニャアと数回鳴いた。蓮君もその声が意外だったのか、私達は顔を見合わせ笑った。  程なく家主が出て来た。 「ライ、いい子ね。ありがとう。いらっしゃいませ! 幾つしましょう?」  のれんをサッと捲り、その端を落ちない様、洗濯バサミで横に固定したのは初老の女性だった。窓は店先と言うよりは台所の流しの上の窓の様で、Tシャツにエプロン姿のその女性は、水道の蛇口をくるりと壁に押しやり、接客するには邪魔な流しの上に身を乗せる様にして、私達の顔を交互に見た。 「俺二つ。ゆりは?」 「一つ頂きます。」 「じゃあ三つね。何? ライも食べるのね。」 猫は笑顔の女性の言葉を理解した様で、サッと立ち上がり、窓からしなやかに地面に降り立った。 「猫の名前、ライって言うんですか?」 身体を女性に向けたまま、蓮君は自身の両足の間に座り込む猫を見下ろし尋ねた。 「そう、雷。ライ。大雨の雷が凄い夜、ライはウチの玄関の前に座ってて。目がね、何か話し掛けてくる様な目がね、たまらなくて。私が一目惚れしたんだよ。」 女性は自身の働く手から目を離さずに話しを続けた。 「ライは面白いよ。人間の言葉が分かるんだよ。」 蓮君はライを見下ろしたまま答えた。 「やっぱり! さっき、コロッケ買おうって言ったら、おばさんを呼んだんです!」 女性は今後は私達を見て、大声で嬉しそうに笑った。 「でしょう! ライはとても賢くてとても優しいんだよ。さあ、揚がったよ! 熱いから気を付けて。」 と、フライ用の紙に包んだコロッケを、ゆっくり丁寧に手渡してくれた。慌ててバッグの中の財布を探す私に女性が言った。 「あれ? お嬢さん、もしかして本屋の隆也君の彼女じゃないの?」 私はびっくりして、バッグに手を突っ込んだまま顔を上げ女性を見た。 「え?」 「やっぱり!」 女性はニコニコ笑いながら続けた。 「あら。近くで見ると更に可愛いねぇ。隆也君のお祖父さん、隆也君の事、いつも心配してたんだよ。でもこんなに可愛らしい彼女が出来て、きっと天国で喜んでいるね。」 私は驚いて尋ねた。 「どうして私達の事、知ってるんですか?」 「お嬢さん、あんたらの事は、皆知ってるよ。私もあの商店街に店を出してるからね。古くからある商店街だ。皆、家族みたいにしてるからね。お嬢さん、あんたはちょっとした有名人なんだよ。」 「私が有名人?」 「そう。隆也君の彼女だからね。お嬢さん、よく聞いて。色んな人が色々な事を言うよ。でもね、大切なのは自分の気持ち。自分の気持ちに正直でいる事。誰が何を言っても負けちゃ駄目だよ。心を閉ざさないで欲しいんだよ。かつての隆也君みたいにならないで欲しいんだよ。」 「え…。」 私は瞬時に女性の言葉を理解する事が出来なかった。真っ先に頭の中に浮かんできたのは公園で話す航平さんの言葉だった。 「隆也は隆也なりに、ゆりちゃんを気遣っているんだよ。」 私が有名人? 私達の事は皆が知ってる? 私はショックだった。何か言葉を探そうとしたが、何処を探せばいいのかすら分からなかった。救いを求める様に蓮君の顔を見た。蓮君は既に私の顔を不安そうに見つめている。 「あらま、ライ!」 猫のライにコロッケをといつの間にか窓横の勝手口から出て来ていた女性が、蓮君の両足の間に座り込むその姿を見て、大声で笑った。 「お兄ちゃん、外国人みたいなカッコいい顔してるけど、ライはこの人が一人で寂しそうだから、暫く一緒にいるってさ。」

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十九、撮る事 そして猫を追いかけて

十八、彼女の提案

 彼の気持ちも理解出来ず、蓮君の行動も理解出来ず、モヤモヤとしたまま私は先程藍さんに指定されたカフェに来ていた。遅い時間に会うのは胎教に悪いのでは?と聞いてみたが、藍さん曰く、 「全然大丈夫! 全然平気! 悪阻もないの!」 と頗る元気だ。藍さんはそのカフェには入らずに、外で待っていて欲しいと言っていた。  カフェは直ぐに見つかった。私は少し離れた所からカフェを見ていた。白を基調とした外観と窓から窺える内装は、とてもナチュラルで愛らしい。甘くなり過ぎず、あくまでナチュラルだ。外壁下には沢山の素焼き煉瓦のプランターが置かれていて、アイビー等の蔓ものが植えられている。  何時しか喧騒を包み込む様に夜が降りて来た。店内からの甘いスイーツの香りが鼻を擽る。よく見ると入り口の扉に掛かった木製の板に、「焼きドーナツ、テイクアウト出来ます」とある。絶対に買って帰ろう。仕事帰りの私のお腹はかなり空いていた。  それにしても藍さんは色々なお店をよく知っている。仕事柄、という訳ではなく、好きなのだろう。街を散策し、気になったお店があれば入ってみる。そう言った事が好きなのだ。私は藍さんが何時も言う様に、 「可愛いお店を見付けたから、直ぐに入ってみたの!」 なんて事は出来ない。私が藍さんの様な性格だったらもっと早くに彼の店を見つけ彼を知っていただろう。私の人生はもしかしたら損をしているのかもしれない。でも今だから、今の私だからこそ彼を好きになったのかもしれない。 「ゆりちゃん!」  高く通る明るい藍さんの声で私は我に返った。商店街の方を見ると、藍さんが大きく手を振りながら満面の笑みで近付いて来た。 「ゆりちゃん、会いたかった!」 「私もです!」 私達は顔を見合わせ笑った。 「ゆりちゃん、お腹空いてない? ドーナツご馳走するよ! いつもだったら中でお茶と一緒に食べるんだけど、今は甘い匂いが苦手で。ごめんね。ご馳走するね!」 私は慌てて首を横に振り、バッグから財布を出そうとしたのだが、藍さんは慣れた様子で、  「すみません! テイクアウトで。」 と言いながら白い大きな木製の扉を開けた。私は財布を出すのを諦め、直ぐに藍さんの後ろから扉を支えた。扉が丁度九十度の所で止まるのを確認した藍さんは直ぐ左手のカウンターの端に置いてある五個入りドーナツの袋を手に取り、 「レシート、結構です。」 そう言いながら、店員にドーナツと小銭を手渡した。 「私、払います!」 「いいの、いいの。今日は急に付き合って貰ってるんだから、これ位させて。」 と言いバッグに入れた私の手を押さえた。私は上目遣いに藍さんの顔を見、じゃあ、ご馳走になります。と、バッグから手を引っ込め、ぺこりと頭を下げた。 「飲み物はさっき買っておいたの。少し風がある所がいいなぁ。ゆりちゃん、向こうに公園があるの。そこに行こう。」 店を出た藍さんは、私がさっきまで蓮君といた公園の方を指差した。 「え? 公園って、あの大きな楠の?」 「そうそう。ベンチもあるし、ね!」 と藍さんはさっさと歩き出した。またあの公園に行くのか…。一日に同じ公園に二度も誘われるなんて。私はさっきの蓮君とのやり取りを思い出し、溜め息をついた。  公園には照明が沢山設置されており、これからの夜の闇と静けさを迎える不安をかき消す程、それらは白く明るく心強かった。  私はさっきと全く同じベンチの同じ場所に座っていた。 「藍さん、体型とか雰囲気とか、全く何も変わってないですね。」 藍さんはバッグから出したミルクティーのペットボトルを私に差し出し、にっこり笑った。 「そう見える? でも私自身はすごく変わったって思うの。」 私はボトルを受け取り、 「ありがとうございます。そうなんですか? 何処がどんな風に変わったんですか?」 と藍さんの顔を覗き込んだ。 「ハート。」 藍さんは自分のオレンジジュースを取り出し、ぎゅっとキャップを捻り、空を見上げる様にニ、三口含んでから続けた。 「何だかね。自分の事がとても特別に思えるの。私は一つの命を育ててるんだって思うと嬉しくなってワクワクするの。しょっちゅうお腹の中の赤ちゃんに向かって、私の所に来てくれてありがとう!って言ってる。最初はね、自分だけが不安の中に落とされたみたいで孤独な感じだったのね。でもね、病院でエコーを見せてもらったの!」 「エコー?」 「うん、お腹の中を超音波で調べられるの。それを画像で見れるんだけど、数センチの赤ちゃんが元気にちょこちょこ動いてるの!こんなに動くの?って言う位、元気にね。もうそんなのを見たら急に赤ちゃんが愛おしくなっちゃって。あ、いつもその画像、持ち歩いてるから、見て。」 そう言うとバッグからスケジュール帳を取り出し、カバーのポケットから十センチ角位の紙を一枚引っ張り出し見せてくれた。まるで嵐の様な黒い画像を私はじっと見つめた。 「よく見て、ほらここ。」 藍さんが指差した所をよく見てみると、確かにオタマジャクシの様な、勾玉の様な形をした物が写っている。小さな命にとって、藍さんのお腹の中はまだまだ広い水槽の様だ。 「可愛いでしょ。」 藍さんは印刷された赤ちゃんの頭らしい部分を人差し指で優しく撫で、元の場所に収めた。  私は微笑む藍さんの横顔を見つめた。くるりと円い瞳やピンク色の頬。アップにされた茶色い髪は、白い首筋にひらひら舞う花弁の様に零れ落ちている。綺麗だ。とても綺麗で艶やかだ。 ふと、私の中で、撮りたい、今の藍さんを撮って遺しておきたい、という衝動が起こった。初めて撮りたいと、欲した。初めて感じた思いだった。でも次の瞬間、脳裏に浮かんできたのは、藍さんをどんな風に撮りたいか?ではなかった。私の頭の中にはっきりと見えた物は、初めて見せてもらった航平さんの写真集だった。藍さんをモデルにしたあの写真集。そうだ。藍さんを一番綺麗に撮れるのは藍さんの事を一番愛している航平さんしかいない。私は初めての思いを胸の奥に閉まっておくことにした。 「藍さん、航平さんスイスに行っちゃいましたね。」 藍さんはピタリと動きを止めた様に見えたが、直ぐに笑顔で私の方を向いた。 「航平ね、出発の前日に、もう一度スイスに来る事を考えて欲しいって、言ってくれたの。いつも自分のしたい事をしてればいい、俺もそうするし、って言ってた航平が、側に居てくれって、何度も何度もね。…凄く嬉しかった。」 今度は空を見上げて藍さんは大きく伸びをした。 「でもねぇ、向こうで産む気も育てる気もないの。結局赤ちゃんの事は言ってない。この子のせいで航平がスイスを諦めるのは絶対嫌だもん。」 私はツンと伸ばした自身の足の爪先を見つめ、話した。 「航平さん、藍さんの事、俺の太陽だって言ってました。藍さんと一緒に居ると、普段気付かずに見落としている物に気付けるんだって。いつも明るくて、アイツは俺の太陽なんだって。航平さん、本当に藍さんの事を愛してるんですね。羨ましいなぁ…。」 私は藍さんの横顔に向き直った。 「藍さん…?」 私は慌てて藍さんの肩を抱いた。藍さんが急に大粒の涙をポロポロと流し出したからだ。 「昨日ね、隆也君に言われちゃった。自分勝手だって言われたの。だって迷惑掛けたくないじゃない。航平、こんなチャンスないって言ってたんだよ。でしょ?」 私は微かに震える藍さんの背中にそっと手を添えた。 「航平さんも同じ事、言ってましたよ。藍さんは今の仕事が好きだから、その邪魔をしたくないって。でももう一度、今の気持ちをきちんと伝えるって。伝わったんですよね? 航平さんの気持ち、藍さんに伝わったんですよね? 藍さん、大丈夫です! 絶対に大丈夫です!」  藍さんは目を真っ赤にして、でも屈託のない笑顔で、うん。と何度も何度も頷いた。私はほっとした。多分きっともう大丈夫。藍さんは航平さんに連絡を取るだろう。  少し落ち着いて涙を拭いた藍さんが、急に思い立った様に背筋を伸ばし、 「あ、そうだ! 実は今日、ゆりちゃんに話しがあったの!」 と、私の顔を見つめた。 「はい?」 私も改めて背筋を伸ばし、藍さんを見つめた。 「あのね、提案、なんて言い方は烏滸がましいんだけど。軽い気持ちで聞いて欲しいの。」 私は藍さんの顔を伺う様に、ゆっくりと頷いた。 「私、今の仕事は辞めないで、数年産休を取らせて貰う事になってるの。でね、その間、会社はアルバイトを雇うらしいの。それでね…。ゆりちゃんがもし、もしもよ? 今の仕事が自分に合ってないな、違うな、って思ってて、何れ辞めて隆也君のお店を手伝うっていう展望があるのなら、その前の数年、私の空きを埋めて貰えたらって思ったの。これは私のお願いでも希望でもないの。ひとつの選択肢って考えて欲しいの。今のゆりちゃんの仕事は、ゆりちゃんが苦労して手に入れたんだろうし、こんな時代だし。びっくりした? 突拍子もない事言っちゃってごめんね。でも、私の今の仕事、ゆりちゃんに向いている様な気がして。私が復帰するまでの間なんで、凄く勝手なんだけど。」  私はただただ藍さんの顔を見ているだけだった。 藍さんは慌てて、 「ごめんね。本当、突拍子なくて。でも、頭に入れておいて欲しいの。」  私は思わず目線を下に落としてしまった…。さっきの蓮君の言葉が頭に浮かぶ。蓮君は、彼に私と会う了承を得たと言っていた。彼は、私が蓮君と二人だけで会う事を認め、私が帰宅する時間まで蓮君に教えたのだ。今はもう、どんどん心の中の不安が膨らみ大きくなってきている。私は彼の事が分からなくなっていた。そんな私を見て、藍さんが慌てて何かを言おうとしたので、私は敢えて笑顔で答えた。 「違うんですよ。私…、私、隆也のお店で一緒に居させて貰えるのかな、って。」 それを聞いた藍さんは、キョトンとした顔で、 「当たり前でしょ?」 と、一言言った。  暫く言葉を返さずにいた私を、藍さんは横から覗き込む様にじっと見つめ、そして抱き締めた。 「ゆりちゃんがさっき私にくれた言葉、《大丈夫》って、とても嬉しかった。私、航平に赤ちゃんの事、伝えようと思えたの。その言葉、ゆりちゃんにも。ゆりちゃんも大丈夫だよ。絶対に大丈夫。」  抱き締められるというのは、優しさを何よりもダイレクトに強く感じれるものだと、その時私は実感していた。頬に触れる藍さんの髪からリンスの甘い花の香りがしていて、私は今の不安をゆっくりと消していってくれている、この香りにずっと包まれていたいと思っていた。

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十八、彼女の提案