赤木
18 件の小説祓い屋のお仕事 7
「……め、…さめ」 誰かが名を呼ぶ。まだ重い目を開けると、黒髪黒瞳の美人がこちらを覗き込んでいた。しかし、声は低く男の物。 「射雨」 「……ぅん?…。」 寝起きで声が掠れている。座ったまま寝ていたので身体のあちこちに違和感が残る。淡い茶髪の後頭部は寝癖がついている。 「着きましたよ。」 「……ん?……何処に?」 八染はやれやれと言った表情で答える。 「忘れたんですか?…仕事ですよ。」 寝惚けた頭がやっと冴えてきて、射雨はようやく頭の整理がついた。 「…あぁ、そうだった。」 片目を指で擦りながら窓の外をちらりと見る。車はまだ走行中で知らない街並みが流れている。2人の住む県の隣県は温泉が有名で、観光地として知られている。射雨自身も幼い頃に祖父母に連れられて観光旅行に来たことがあった。 「もう少し走ったところに宿を取ってます。しかし、よく寝てましたね。頬に跡が着いてます。」 八染が微笑み、射雨の左頬を右手で軽く撫でる。 「…寄せよ。部活終わりで疲れてたんだから仕方ないだろう?」 射雨は八染の手を振り払うと不貞腐れてしまった。 「そうでしたね。忘れてました。」 八染は笑う。 「…で?依頼の内容は?」 射雨がそう聞くと八染は変わらぬ顔で答える。 「それは食事の際に、依頼主から直接聞かせてもらいますよ。私もあまり詳しくは知らないんです。」 「…なんだそれ。体良く呼び出されたのか?」 「…さぁ?」と八染は曖昧な返答をする。彼の顔は変わらずの笑顔だった。 程なくして、車はあるホテルの前で停車した。扉を運転手が開いた。 「…ここ、泊まったことある。」 射雨がボソッと呟く。 「そうなんですか?良かったですね、知っているホテルの方が安心感とかあるでしょう。」 八染が言う。横では運転手の初老の男性がスーツケースを中へ運んでいた。 「…あ、手伝いますよ。」 射雨が手伝おうとすると、運転手はさわやかに笑って「結構ですよ、射雨様。」と答えられた。 (名前言ったっけ)と思う射雨に八染が「行きましょう」と促す。 「…あ、あぁ。」 射雨は運転手に軽く会釈して八染に着いてホテルへ入った。 ホテルは射雨の昔の記憶とあまり変わらず懐かしい雰囲気のままであった。八染がチェックインの手続きを終え、部屋に向かう。到着した部屋は、射雨の記憶よりも広い洋室であった。ベッドが2つ。向かいの壁にはテレビが付いていた。男2人だけなら十分広い部屋だった。 「割と急な案件だったので、この部屋しか取れなかったです。」 「申し訳ない」と言う八染。 「…いや、俺は別に十分だし…。」 「あぁ。いや、それもあるんですが、寝室が同じなので分けられたら良かったと思っていたのですが。」 八染の言葉に内心(なるほど?)と思う射雨。 「…そんなに気を使う必要ないぞ?」 射雨がそう言うと八染は笑って「そうですね」と答えた。 「では、遠慮なく。」 八染はそう言って窓側のベッドに寝転がる。(割と子供じみたことをするんだなぁ)と思いつつ、射雨はもう1つのベッドに座る。 「…ベッドって良いですよね。ふかふかで気持ちいいです。」 寝転んだ八染がそう言う。着物の裾から足がちらりと見える。ごろごろとベッドに寝転がるので八染の着物がわずかにはだけている。 「…おい、着物が皺になるぞ。…それに、はだけてる。」 「…何処見てるんですか。変態ですか?」 悪戯っぽく笑う八染に射雨はムッとして言う。 「…親切心で言っているんだ。」 「ふふ、知ってますよ。」と言って八染が体を起こす。彼の黒髪は寝転んでも寝癖がつかずさらさらで真っ直ぐであった。 「誰かと同じ部屋に泊まることなんて殆どないので、なんだか楽しいです。」 八染は座ってまた笑って言う。 「もう真っ暗ですね。」と窓の外を見て八染が言う。 (家族と旅行に行ったことないのか?)と思う射雨。 暗くて何も映らない窓の外を眺める八染の姿が射雨には何故か一瞬寂しそうに見えた気がした。 「射雨、遅いですが21時半頃に夕食だそうですよ。」 八染が急に振り向いてそう言う。 「…?だそうです、って誰に聞いたんだよ。」 「ほら」と指さす先には窓。その外に丸い紙が張り付いていた。 「21時半 外でお待ち下さい。夕食会場へ案内致します。」 そう書かれていた。恐らく同じ祓い屋の物。 「…依頼主か」 「そうですね。…この辺りは鯛飯が美味しいらしいですよ。出るか分かりませんけど、楽しみにしておきましょう。」 八染の言葉に射雨は軽く頷く。 約束の21時半。ホテルの外で待っていると着物を着た男性がやってきた。依頼主だ。
祓い屋のお仕事 6
タンっと軽快な音を立てて矢が的を射る。淡い茶髪の柔らかな髪がそよ風に揺れた。深緑の瞳をした美青年はふぅーっと息を吐いて自身を落ち着かせた。大学で弓道部に所属する射雨 緋色(いさめ ひいろ)は弓の名手であった。彼が矢を放ち終わると後ろから控えめな拍手が聞こえた。 「流石ですねぇ。」 声は低く、男の声。さも当然だろうという感じであった。声の主は黒髪黒瞳の和装美人。着物は男物だったが黙っていれば女性と言われてもおかしくない程だった。彼は八染 綴(やぞめ せつ)。射雨の同業者。妖祓いを生業とする祓い屋であり、射雨家の資金援助をしてくれている。(条件付きで) 八染の声を追って顔を見るなり、射雨は彼の手を掴んで外へ連れ出した。人気のないところで射雨は彼を問い詰める。 「なんで此処にいるんだ!学生じゃないだろう?!」 射雨の顔はどこかげんなりしていた。対して、八染はニコニコで上機嫌だった。 「暇だったので、つい。お上手でしたよ?」 「そうじゃない…!」 八染の調子に狂わされ射雨は顔を手で覆う。 「まぁ、本当は依頼がありまして」と八染が懐から一通の手紙を取り出す。真っ白な封筒には「八染家当主様」と達筆な字で書かれてあった。 「呼んでくれれば向かうのに、なんで大学まで来るんだ…。」 封筒を見て、八染に文句を言う射雨。 「いやぁ、大学は出ていないのでどんな物なのか興味が湧きまして。楽しそうですね。でも、」 にっこにこの八染。先程より疲れた顔の射雨は軽いため息をつく。 「でも、なんだよ?」 「弓道部でファンクラブって初めて見ましたよ。」 「貴方、モテるんですね」と八染が言う。 射雨も確かにと思ってしまった。顔立ちの整った射雨には知らぬ間にファンクラブが出来ていて、うちわを持った女子生徒がよく見学に来る。中学・高校とそれが普通だったので射雨はわりと慣れていたが、確かに言われてみれば見ない気がした。 「…まぁな。」 「認めるんですね。」 「…」 「…部活、終わるの何時頃ですか?」 「え、あぁ、19時くらいだけど…?」 「では、それまで待ちます。練習頑張って下さい。」 八染はそう言うが、射雨は少し嫌だった。 「なんでだよ。」と射雨は突っ込む。 「終わり次第、妖怪退治の為に隣県まで行きます。車も宿も用意してますから。」 「は?…俺の予定は?」 八染は軽く笑って困惑している射雨に言う。 「何も無いでしょ?土日の予定くらい把握してます。」 「…なんで知ってるんだよ。」 「八染の情報収集の力舐めないでくださいね。」 妖しげに笑う八染に、少しゾッとする射雨であった。 部活終わりの19時。道具を片付け、校門外に出ると八染ともう1人、車の運転手のような初老の男性が車の横に立っていた。黒塗りのいかにもな車で常に綺麗にしているのが普通だろうと言わんばかりにピカピカだった。 「行きましょうか。」と八染。 初老の男性がドアを開けてくれたので、射雨は少し申し訳なさのようなものを感じながら乗り込んだ。やはり初老の男性は運転手のようだ。車がゆっくり発進し、道路を走り出した。 「少しかかりますから、寝ていていいですよ。」 八染の言葉に「平気」と返し、携帯を取り出す。一応心配性の母に「友人の家にこの休み泊まる」とメッセージと「よろしく」のスタンプを送って携帯をポケットにしまった。一定のリズムで揺れる車に心地良さを感じる射雨。 射雨の記憶は、車が高速道路に乗ったところで途絶えていた。
祓い屋のお仕事 5
緑の色をした水は生暖かく、体にまとわりついて来て気持ち悪いものであった。射雨が池の中心に近づくと岸から八染が声をかける。 「どうですー?何かありますかー?」 大きな声で言う八染に射雨は内心イラッとしながらも見えない水の中を探った。深いはずの水の中にざらりとした石の質感の物があった。長方形で、まるで棺のような大きさであった。 「石で出来た棺?のようなものがある!」 射雨がそう声をあげると同時に水の中から無数の手が現れ、射雨の手や足、首までもを掴んだ。ぐいと引っ張る無数の手は下へ下へと射雨を持っていこうとする。 「…っ!?」 (溺れてしまう…!!)と射雨は思い、必死でもがくが多勢に無勢。ごぼっと射雨の口から空気の泡が出る。射雨の頭が完全に水に浸かってしまった時、何かが射雨の胴を持ち上げた。底から上がってきていた手達をぶちぶちと引きちぎって射雨を水から出したのは、獣の姿をした紫苑であった。 「…っ守ってくれるんじゃなかったのか?!」 げほげほと咳をしながら言う射雨を八染のいる岸へと降ろした紫苑は獣の姿のまま、舌打ちをする。 「死んでおらんのからせぇふだ、せーふ。」 「…っこの、酒バカ妖怪め!」 ぜーぜーと肩で呼吸をする射雨と見下すように睨む紫苑の間で八染が「まぁまぁ」と仲裁をする。 「…石の棺ですか。人が近づくと引き込まれてしまうようですね。」 顎に手をあてて考える八染。射雨はやっと呼吸が落ち着いたようだ。しかし、池の水を少し飲んでしまって気持ち悪そうにしている。 「…石の棺、ですか。人が近づくと引き込まれてしまうようですね。…紫苑」 八染が名を呼ぶ。 「何だ」 獣の姿の紫苑が八染を見る。八染は、少し目を細めて池の方を見て言う。 「壊してしまえ」 「承知」と返事をして紫苑がびゅんと飛ぶ。強い風を感じたかと思うと、池の中心部に紫苑が飛び込む。水飛沫が柱を作り、どんという音が鳴る。一瞬の間の事だった。水飛沫の間から石の破片のようなものが見えた。その破片は光に反射してキラキラとひかる。しかし、その破片も瞬く間に消えてしまう。 紫苑が八染のそばに飛び戻る。水飛沫が収まると池は元の静けさを取り戻していた。中心部、石の棺があったところに影が上がってくる。ひとつ、ふたつとそれは増えてゆく。 「…人、影か?」 射雨が呟くと、紫苑の頭を撫でていた八染が反応する。 「当たり、ですね。あの大きな体の妖、力をつけてからやってくる祓い屋を引き摺り込んで貯めていたのでしょう。備蓄かも知れませんね。あの無数の手もあの妖の手伝いでもしていたのでしょう。主人を失って守る棺も無くなれば、祓う必要も無い。」 と、笑って言う八染。 対象的に引き攣る顔の射雨は、池から上がる人影を見ていた。 「…生きていればいいですね。…射雨、もう1度行ってきて下さい。」 にっこり笑う八染は「あなたもですよ」と紫苑に向かって言う。 紫苑と射雨が嫌々ながらも、浮いてくる人を岸へと引き上げる。皆不思議な事に元気であった。 「…無事で何よりです、皆さん。」 にこりと笑みを浮かべた八染。しかし、引き上げられた祓い屋数名はきつく睨むか、なんとも言えぬ表情をしていた。そのうちの1人が声をあげる。 「……我らを助けてどうするつもりだ。礼など言うつもりは無いぞ!」 「…。」 八染の表情は変わらない。ただ短く「そうですか」と言う。 「…では、気をつけてお帰り下さい。私は帰ります。」 「行きますよ、紫苑。」 人の姿に戻った紫苑が背を向けて歩き出す八染について行く。数秒、こちらを見つめて。 その時祓い屋のひとりが言った。 「厭らしい廃家め」と。 その言葉を皮切りに、他の祓い屋もひそひそと言い始める。 「穢らわしい」「体を男に売っていると聞く」「我らも食われてしまうかもしれんぞ」「気持ちの悪い」 八染の歩みがぴたりと止まり、少し後ろを向いて言う。 「……貴方達に私は高すぎる。早く帰りなさい。私の式が言う事を聞かなくなる前に。」 顔は見えなかったものの、凄みがある声であった。 「…射雨はどうしますか?今日の礼でもしようかと思ったのですが。」 「…行くに決まってる。こんな濡れた服で電車に乗れるか。」 ムッとした顔で、八染に言う。少し歩いて、振り返る。少し祓い屋数人を睨んで八染に着いていった。 八染家の屋敷に着くと、八染の式である桜が玄関の扉を開ける。 「お帰りなさい。主様、射雨様…?どうしてそんなに濡れているんです?」 桜は黒い瞳に困惑の色を宿している。 「桜、風呂の用意を。他の妖にも手伝って貰って食事の用意もお願いします。」 「は、はい!今すぐに!」 桜はパタパタと走って行った。射雨達もそれに続いて家に入る。 「八染」 「…何です?」 射雨が一息ついてから言う。 「…もう少し言い返してもいいと思うぞ。」 「…?…あぁ、さっきのですか。良いんです。慣れてますから。」 射雨の言葉をひらりとかわす。 「あれくらいなら痛くも痒くもない。」 八染の平気そうな言い方に射雨は少しムッとする。 「……別に汚くないからな。お前。」 射雨が仏頂面でそう言うと、八染は一瞬きょとんとした顔をして、吹き出した。 「…ふっ。」 「っなんで笑うんだよ…!」 射雨が語気を強めて言う。 「いやぁ、すみません。こんなまっすぐ慰められるとは思わなくて…ふふっ。」 そう言う八染の顔はいつもの怪しい笑顔ではなく、年相応の笑顔で、射雨は初めて八染の素を見たような気がした。 「でも、ありがとうございます。」 と、八染は笑って射雨の言葉を受け取ったのだった。 風呂の用意が出来たというので、射雨が案内されるまま風呂に入ると八染が柴犬を抱えて入っていた。頭には札が貼られ、落ち込んでいるようだった。 「…お前、濡れてないだろ、なんで入ってる。」 射雨がそう言うと、八染が笑って答える。鎖骨の辺りに赤い金魚が泳ぐ。少し、動きが鈍いように見えた。 「うちの風呂広いですから、構わないでしょう?それに、紫苑も洗ってやらないと。」 そう言って柴犬を持ち上げる。されるがままの柴犬は紫苑だという。 「…縮んだ?随分可愛らしくなったな。」 射雨は、笑いを抑えながら言うが、声が震えている。 「…ええい、煩いわ!元の姿に戻ったら食ってやる!」 と、豪語する紫苑だが、その姿には説得力がない。 「可愛らしいでしょう。この札を貼ると妖力を抑えてしまうので、こんな愛くるしい姿になるんです。」 にっこり笑って、八染が言う。「愛くるしい言うな」と不機嫌な紫苑。 射雨は笑いを堪えながら湯船に浸かる。檜の風呂は良い香りがしていて、旅館にでも来たように思えた。 「いい湯でしょう?」と八染が問う。黒髪がしっとりと濡れて、艶やかになっている。頬や首、肩もほのかに赤い。色白な人であるため、赤くなるとわかりやすい。 「…ああ。温泉に入っているみたいだ。」 「ふふ、そうでしょう。温泉好きだった祖父が作らせたんです。」 耳に髪をかけながら笑う八染。男に興奮する趣味は射雨には無いが、どこか目のやり場に困ると思った。先程まで鎖骨の辺りをゆっくり旋回していた赤い金魚がするりと動き、下へ向かう。鎖骨から胸部の方へ行くが、そこから下は湯に隠れていて見えない。 「…そんなに私の体が気になります?」 「え!?…いや、違」 金魚を目で追っていたのが八染にバレてしまい、焦った射雨。この反応では肯定しているようなものであった。 「…貴方も“ご褒美”が欲しいんですか?」 八染が急に距離を詰める。 「いっ…らんっ!」 射雨は八染が近づいた分、遠ざかる。バシャリと湯が湯船から溢れる。八染がまた近づいて射雨に悪戯をしようとした時、痺れを切らした柴犬姿の紫苑が、「私は出る。離せ!」と暴れて湯船から飛び出た。八染はすっと射雨から離れる。 「それじゃあ、私も出ますかね。」 「貴方はごゆっくりどうぞ。」 そう言って八染は湯からあがった。 体を綺麗にして風呂を出る。用意されていた浴衣に袖を通して客間へ戻ると、食事が用意されてあった 。今日の礼だと言うので、射雨は有難く頂くことにした。 「射雨。貴方、お酒飲めますか?」 不意に八染が問う。 「強くはないが、一応。」 射雨が海老天を頬張りながら言うと、八染が缶ビールをふたつ取ってきた。 (そこは自分で持ってくるのか)と思いながらも、ひとつ受け取る。 「どうぞ」と差し出された缶ビールはよく冷えていた。 「缶ビール、お前に似合わないな。」と言う射雨に八染は少し目を見開く。 「貴方、私の事を妖か何かと勘違いしてません?」 飲んでいた缶ビールを机に置いて、八染が言う。 「私だって飲みますよ。たまには」 (偶には、なんだな)と射雨が思う。八染の横では人の姿に戻った紫苑が日本酒をラッパ飲みしている。 「今日の礼ですから、たくさん飲んで食べて下さい。」 八染がにこやかに笑ってそう言った。射雨は少し笑って「そうさせてもらうよ」と返答した。日にちを跨ぐ頃にようやく、八染家の客間は静かになった。 そして、酔いが回った紫苑に無理やり飲ませられた射雨は完全に酒に呑まれてしまい、八染家の車(運転手付き)で自宅へ送られたのであった。
祓い屋のお仕事 4
「…この池を泳げと?」 「ええ、そうですよ。」 八染はにっこり笑って射雨を見る。射雨は言葉を失う。くすんだ緑の水の中を泳ぐのはとても気が引ける。 「先程の気配探しの札は強い気配や大勢の気配を感じるとよく弾けるんです。なので、ちょっと潜ってきて下さい。」 両手を合わせて「ね?」と言う八染とは対象的に射雨は気分が悪くなっていった。八染の右手の甲には赤い金魚が尾をひらひらさせて居る。 「危険そうなら紫苑に助けさせますので、ご安心を。」と言う八染に背後の紫苑は驚いた表情をする。 「私は助けんぞ、我が主よ。そいつとは契約などしていないからな。」 いつの間にか人の姿に戻っていた紫苑は犬の面をしていて、その下の顔は見えずともキッと射雨を睨んでいた。 「まぁまぁ、そう言わず。…そうだ、良い酒を頂いたのです。それでどうです?」 八染が手を伸ばしてそっと紫苑の頭を撫でる。大きな身体の紫苑は主の手が届くように身を屈めた。 「…足らん。血も寄越せ。」 紫苑はそういうと八染の腕をぐいと引っ張る。彼が自分で傷をつけた手のひらに口を近づけて血を舐めとった。 「…っ少し、痛いですよ、紫苑。」 八染の眉間に軽く皺が寄り、目を僅かに細めた。 「帰ったら酒を渡せ。全く我が主は妖使いが荒い。」 ふんっと鼻を鳴らし、八染から離れる。彼の手のひらの傷は血が止まり、僅かに傷が薄くなっていた。 「おい、射雨の餓鬼。主の命だからな、護ってやろう。」 ふんぞり返ってそう言う紫苑に射雨は悪態を着きながらも礼を言う。 「…酒の為だろ。まぁ、いい」 「頼りにしてるよ」
祓い屋のお仕事 3
射雨 緋色(いさめ ひいろ)様 八染家本邸の近くにて妖の気配有り。詳しくは本邸にて 八染 綴(やぞめ せつ) 射雨の自室には短い手紙が置いてあった。切手は貼られておらず、八染の式が直々に持ってきたものだろう。 「…早速お呼びか。」 射雨はつぶやき、窓の方へ目をむける。窓から見える空模様は雲ひとつない快晴であり、蝉の大合唱が暑さを物語っていた。 八染家 本邸 「おや、遅かったですね。」 屋敷から出てきたのは、当主である八染綴本人であった。今日もあの妖しい笑みをしていた。 「これでも急いで来たんだ。…今日はあのお手伝いの子は居ないんだな。」 射雨の言葉に八染はくすりと笑って、 「気に入りました?あの子は桜と言うんです。良い子でしょう、貸しましょうか?」 八染はイタズラでもしているような顔で射雨を見る。 「…結構だ。」 「…大体、あんな若い子を雇うなんてどうかしてるんじゃないのか。」 射雨は、少し目を細めて彼を睨んだが、あまり効果はないようだ。 「あれは、人ではないですよ。安心なさい。」 八染の顔には笑みが増す。上手く騙せたらしく、上機嫌だ。 「な、なら早く教えろ!なんで騙すんだっ。」 射雨は眉間に皺を寄せて、更に睨みをきかせる。 「力のある貴方には、分かりずらかったようですね。彼女は元々人形ですから。普通の人にも見えるんです。」 と、笑う八染。 「…では、行きましょうか。ここから少し歩いた所です。内容は向かいながら話します。」 「…少し歩いた所にため池があるんです。人工的に作られた池です。そのため池には大きな妖が住み着いているようで。」 八染は表情を変えずに依頼内容を話し始めた。 そのため池には大きな体の妖が住み着いている。大きいだけで妖力は高くないため、危険視されていなかったが、ここ最近祓い屋見習いや独立したての者が度量だめしに封印まがいのことをして凶暴化。そして、同じ池に住まう妖をも喰って力をつけている。 「…力をつけたその妖は、祓い屋に恨みを持って襲っているらしいです。依頼してきた方も知り合いがその池へ封印しに行ってから行方不明になっています。」 「どうです?弓矢を使う射雨ならば簡単でしょう。」 八染は射雨をちらりと見て笑いかける。彼の左の頬で赤い金魚がくるりと旋回する。 「…強くないなら、俺要らないだろ…。」 八染は被せるように言う。 「私、水辺苦手なんですよね。」 「ほら、前に呪いを受けたことがあると言ったでしょう。あれですよ。」 八染は左腕を少し持ち上げる。暗い色の浴衣から見える肌は白く、そこには先程の赤い金魚が指先へと泳ぐ。 「私ね、高校生の頃、祓い屋の仕事に失敗したことがありまして。追いかけていた妖に反撃されたんです。身体は溶けて水になりました。遠いところにある池に流されてしまって、3日か4日、もしかすると1週間ほど水の姿でした。その頃には紫苑が仕えてくれていたので見つけてもらえて、今はこの通り人の姿です。」 八染はすぅっと金魚を右手でなぞる。左手首にいた金魚はくるりと手首を回って肘の方へ登っていく。 「…この金魚は、私が人の体へ戻る時迷い込んだようです。面白い身体でしょう?」 八染は顔をあげて射雨を見る。いつもの薄ら笑いだが、どこか憂いを帯びたように見える。 「…不可思議な身体だとは思う。じゃあ、水に触れると溶けてなくなるのか?」 「…いいえ、それは無いですよ。それでも恐ろしいのです。もう一度水になってしまった時、誰にも気づかれなかったら?…池ではなく、川に流れてしまって海に流れ着いてしまったら、誰にも見つけて貰えない。…それが恐ろしくて。」 「昔は好きでしたよ。川のせせらぎをきいて、眺めて、触れて。泳ぐのも好きでしたけれど、今はもう怖くて泳げません。」 「…そう、か」 八染が語る昔話に射雨は一言「そうか」と言うだけだった。それ以外、なんと声をかけるべきなのか彼には分からなかった。 「…あぁ、ほら見えました。あそこです。」 ふいに八染が指を指す。その先には広い池があった。くすんだ緑色の池であり、綺麗とは言えないその池には魚影の1つも見えない。池の淵には地蔵が2体たっている。 「…静かですね。」 「…そうだな。」 八染は袂から札を取り出す。 「…それは?」 射雨の問いに八染が答える。 「気配探しの札です。居なければ戻ってきます。」 八染が人差し指と中指の間に挟んだ札をひゅっと投げると、意思があるように池の中心部へ飛んだ。 「気配があればどうなる?」 札の行方を見て射雨が言う。 「気配の強い所で弾けます。」 八染の答えを聞いた途端、札はパンと音をたてて弾けた。札の破片は散り散りになって燃えていて、まるで花火のようだと射雨は思う。 「居るようです。紫苑。」 八染が名を呼ぶと彼の後ろへ犬の面をした男が音もなく現れた。 「起こして来なさい。」 八染の命に「承知」と返事をする紫苑。その体は人の姿から巨大な獣の姿へ変化した。黒い体毛に覆われた紫苑は紅い目を光らせて池へと飛ぶ。バシャンと音と水飛沫を立てて紫苑が飛び込むと暗い影が底の方から見えてくる。 巨大な体の魚のような妖であった。目は真っ黒で白目がなく、口は半開きでどこを見ているのか分からない。 「射雨、貴方なら簡単な的でしょう。」 八染は、ぽんと射雨の肩に手を置く。 「…そうだけど…。あんたの札で十分だろう?」 「八染の札は強いですが、水には弱い。だから呼んだんですよ、射雨。」 八染はにっこり笑っている。 「分かった。やるよ。」 にっこり八染は「お願いします」と言って射雨から離れる。 「…?どこ行くんだ?」 「囮にでもなろうかと」 あの笑顔のまま八染は言う。 「…なっ、八染!」 「ちゃんと射てくださいね。」 八染はそう言うと、袂から札を取り出す。ひゅっと投げると池の妖の周りを煽るようにくるくる回り八染の方へもどる。池の妖はそれを追いかけて八染の方へ近づいてゆく。 「貴方、強くなりたいのなら私の血をあげますよ。」 袂から短刀を取りだした八染は自身の左手に刃を刺した。白い手から流れた血は地面に真っ赤な花を咲かせる。 池の妖が八染に迫る。口を大きく開けて八染に噛み付こうとした時、横からビュンと矢が飛び妖の頭に直撃した。いつの間にか弓を構え、矢を放った射雨がいた。矢が刺さった所からサラサラと崩れ始める妖はそれでも八染に食らいつこうとした。が、八染の後ろにいた紫苑に薙ぎ倒された。 ドォンと倒れた池の妖は灰になって消えていった。 「お見事。」と言いながら八染が現れる。 「流石、射雨の当主ですね。」 「…ああいうのはやめてくれ。心臓に悪い。」 実際、射雨の心拍数は跳ね上がっている。苦虫を潰したような顔で言う射雨に八染は笑う。 「外さないでしょう?それに囮がいた方が楽です。」 ニコニコの八染に射雨は怒りを覚える。 「…だからって!自分の身体まで使うことないだろう?!もし、外していたら死んでしまうところだったんだ!」 声を荒らげて射雨は言う。彼にとって別に大切な家族と言う訳では無いが、こうも命を軽く扱う者は好きになれなかった。 「…もう少し、自分を大事にしたらどうだ。仕えてくれる式達もいるんだから。」 射雨は俯いて言う。 「……お節介ですね。」 八染の言葉にバッと顔を上げる。 「はぁ?誰かが囮をするとかっ…」 射雨が話すのをやめた。八染はいつもの薄ら笑いではなかった。笑ってはいたが、何かを思い出して想いを馳せるような笑みであった。射雨はどこか寂しげに感じた。 「貴方は、やっぱり先代に似ている。」 「…」 「同じことを先代、貴方のお父様にも言われましたよ。同じ瞳で、同じ顔で。そっくりです、驚くほど。」 「…俺は父ほど良い人ではないよ。」 射雨は、八染を見て言う。彼は笑っている。 「貴方も負けず劣らずですよ。…本当に惜しい人を亡くしました。」 「…」 「…」 少し暗い雰囲気を八染が破る。あの寂しそうな顔はいつもの薄ら笑いに変わっていた。 「さて、妖は祓えました。行方不明の方を探しましょうか。」 「恐らく、池の中ではないかと思います。」 「射雨、探してきてください。」 「…は?」 射雨は八染の言葉に驚く。 「…この池を泳げと?」
祓い屋のお仕事
真夏の昼下がりのこと。とある屋敷に来訪者があった。屋敷の主は八染 綴(やぞめ せつ)という名の青年である。八染という家は妖祓いを生業としていた家であったが恨みを持った妖に喰われたり、同業者に命を狙われたり、見える力を持つ子供に恵まれなかったりと様々な原因によって廃業。同業者からは凋落した祓い屋と言われていた所に産まれた現当主の八染綴には高い妖力と祓い屋としての素質があった。そして、21歳という若さにして家を復興させた人物である。 八染家のインターフォンを鳴らしたのは同業者の射雨 緋色(いさめ ひいろ)。彼もまた若いながらにして高い妖力を持つ祓い屋であった。 「はい」と返事をして玄関の扉を開くのは黒髪黒瞳の美少女。 「射雨様ですね?お待ちしておりました。どうぞ、中へ。」にこりと笑みを浮かべ少女は射雨を中へ促した。広い室内には人の気配が無い。普通の人ならば寂しい家と思うだろう。しかし、この屋敷には妖の気配がそこらじゅうにある。 (寂しいどころか賑やかなくらいだな) 射雨はそう思った。 「こちらです。」と開けられた先は広い和室で、黒髪の美しい顔立ちの人が座っていた。 その人は「どうぞ、座ってください」と射雨に着席を促す。声は低く、男と分かる。美しさの中にはどこか妖しい雰囲気があるその男は線が細く、黙っていれば女性のようだった。真っ直ぐに伸びた黒髪は肩にギリギリつかないくらいの長さで切りそろえられている。黒い瞳は心の内を見透かされそうになる。妖と言われても信じてしまいそうだった。対象的に射雨は淡い茶髪は猫っ毛でいつもどこかはねている。瞳は深緑で、顔立ちは黒髪黒目の男とは違った柔らかな美しさ、華やかさがあった。 「お久しぶりですね、射雨家の若様。」 その男、八染家当主の八染綴が言う。 「久しぶり、ですか?話すのは今日が初めてですよ。」射雨の言葉に八染は笑う。 「先代の葬儀でお見かけしました。もっとも、直ぐに追い出されてしまいましたけど。」 「…それは申し訳ない。母は貴方を、八染家を嫌っていましてね。」 「いえ、大して気にしてませんよ。嫌われるのは慣れていますから。」 八染は笑みを崩さない。その顔には、先程まで無かった金魚のような痣がある。 「…?何か、頬に…。」と言った瞬間、その痣は水の中を泳ぐように頬から首筋の方へ移動した。 「あぁ、これですか?昔にかけられた呪いの名残りですよ。害はないですから。」八染は、すっと指先で金魚をなぞる。 「…そうですか。しかし、目立ちますね、赤色なんて。」と射雨が軽く笑って言うと八染は少し目を見開いた。 「赤く見えますか。射雨様は高い妖力をお持ちのようだ。」 「…え」 「力が弱い者だと黒色に見えたり、影のようにしか見えないそうですよ。」 八染の表情は変わらない。妖艶な笑みをずっと浮かべている。 「その話は置いておくとして、本題に入りましょうか、射雨様?」 「…その呼び方はやめて下さい。」 「では、射雨と呼びましょう。堅苦しいのは無しにしましょうか。…同い年なんですから。」 「ね?」と八染が言う。こてんと軽く首を傾げる。 「…分かった。そうさせてもらう。」 射雨はため息をついて話し始めた。 「本題だが、」 「協力しないか」 「協力ですか?」 「実は財政難なんだ…。」 射雨は少し俯いて答える。 「あぁ、成程。それで資金援助をお願いしに?」 「そうだ。」 射雨が少し頭を上げる。八染はふっと笑って続けた。 「でも、そんな事、うちに言って良かったんですか?昔から射雨と八染は対立する家であるのに。」 射雨は言葉につまる。 「……それは知ってる。でも分家や親戚に頭を下げて回るのは母が嫌がるんだ。本家である者が何とかって言うもんだから、俺も正直参っていて…。」 「資金難の射雨家に母親に当主の権力を盗られた若当主ですか。潰そうと思えば簡単ですねぇ。」 八染が笑って言う。悪戯好きな子供のような瞳をして。 「…。」 言葉が出ない射雨に八染はパッと表情を変える。 「冗談です。しかし、援助するにも何かあるでしょう?」 「何か、か。……。」 恐らく八染の言う“何か”は貸してはやるがこちらのメリットとなるものを寄越せと言う事だろうと射雨は踏んだ。 「…射雨家専属の紙屋を紹介する。」 「それだけ?紙屋なら家にも居ます。」 射雨の提案はダメだったようで、間髪入れずに返された言葉に射雨は悩む。どうやらあまり良い案がないようだった。 「…では、こうしましょうか。」 八染が笑って言う。 「仕事を手伝っていただきます。私が呼んだら直ぐに飛んできなさい。」 「…手伝うだけでいいのか?」 もっと惨い提案をされると思っていた射雨にとっては拍子抜けであった。 「あぁ、紙屋は紹介してもらいますよ?…なんです、人質でも寄越せと言われると思いました?」 ぎくりとする射雨に、くすりと笑う八染。 「…いや、俺が手伝えばいいならそれで構わない。」 「良かった。では交渉成立という事で。」 と、八染が言った時、射雨の後ろの襖が勢いよく開いた。パンっと音を立てて開いた襖。そこには1人の大柄な男の姿があった。黒い髪に犬の面を着けた男で二メートル近くあるように見えた。男は射雨に一瞥向けて中へ入ってきた。 (妖だ)と射雨は直感でわかった。ポケットにある護符へ手が伸びた射雨に八染が諭すように言う。 「私の式です。大丈夫ですよ。」 「…そ、うか」 射雨の手がすっとポケットから離れた。式であれば彼が命を下すまで攻撃はしない。 「客人が驚いているでしょう?紫苑。」 紫苑(しおん)と呼ばれた大男は八染に近づく。しかし、距離感が近い。紫苑の頭を撫でながら言う八染。ぱっとその手を紫苑が掴み、ぐいっと自身の方へ引き寄せた。 「昨日の褒美を貰い損ねたのを思い出したのだ。」 「頂くぞ。」 そう言って紫苑の口と八染家の口が合わさる。 「…な。おい!何してる!」 と、射雨が止めに入るも聞く耳を持たない。 「…っふ」と八染の息が漏れる。八染が少し紫苑の体を押しのけようとすると紫苑が口を離す。唾液が糸を引いて名残惜しそうに切れた。 「ちっ」と紫苑が舌打ちをする。 「あとで与えますから、今は下がってなさい。」 八染がそう言うとドカドカと歩いて紫苑が部屋から出ていった。 「……。」 呆気にとられる射雨に、八染が口元を拭いながら言う。 「すみません、驚かせてしまって。あれは気が短いのです。お気になさらず。」 にこりと笑って八染が言う。 「いくら何でも、妖怪とああいう事はしてはいけないだろう。体に異変があったらどうするんだ…。」 射雨が険しい表情で言うど八染は少し目を見開いてからまた笑顔に戻る。 「今のところ異変などないですよ。それに力の強い者の血肉や体液は妖達にとってご馳走なんです。前までは血を与えていたんですが、唾液の方が手っ取り早くて。」 「……。」 射雨の顔は未だ険しく、八染を睨むように見ていた。 「でも、ご褒美を貰いに来るのは妖だけでは無いんですよ?」 ケラケラと笑う八染。射雨は困惑した。 「妖だけじゃないなら、何が、来るんだよ…。」 「人間ですよ。」 笑顔の八染に射雨の顔はさらに険しくなる。 「貴方も手伝ってくれた時に差し上げますよ。」 そう言って八染が射雨の横へ来る。すっと距離を詰めて、八染は人差し指で射雨の首から胸部、そして腹をつうっとなぞる。 「…っ要らん!」と射雨が八染の指を払い除ける。 「おや、他の方には好評なんですけどね。このお誘い。」 八染はやはりにこりと笑っている。 「断られたのは貴方と貴方のお父様だけですよ。」 「…父さんにもやったのか、これ」 射雨は少し青ざめた。でも断られていて良かったとよく分からない安心をした。 「…ええ、知りたいですか?」 「…結構だ。」 「いつか教えます。」 「結構だ!…帰る!」 射雨は飛び出すように部屋を出た。後ろで八染の言葉を耳に入れながら帰路に着いた。 「また手紙でも送ります。」 (ヤバい奴に協力を依頼した気がする。)と人が殆どいない電車に揺られながら思った射雨であった。
死にたがりの国
私の住む国は毎月3人が死ぬ権利を貰える。抽選で3人。この間は私の部下が1人選ばれた。嬉しすぎて顔を涙やら鼻水やらでぐしゃぐしゃにしていたほどだ。羨ましい。次の抽選は来週だ。選ばれるように私も仕事をしなければ。 ……また、抽選が外れた。毎日毎日薄暗い世界で日々死ぬために働いているというのに。 今回の抽選の1人には3歳の子供が選ばれた。どうして、あんな子供が選ばれるのだ。私は国に尽くしているのに。……考えていても仕方がない。次の抽選を待とう。 やった!ついに選ばれた!やっとだ。ここまで長かった。今まで頑張った甲斐があった!やっと、やっと死ねる…! …………。 ……。 今まで生きてきて、死ぬのか…?まだ結婚もしていない。あの本の続きも出ていないじゃないか…。まだ、まだ、やりたいことがある。待ってくれ、今は死ねない…!頼む…。 …嫌だ。…嫌だ…!嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ!死にたく、ない……死にたくな……………………… ……………… ………… …… 会社員の手記 終わり
ただ泡になりたい。
君が言った。 7月の終わり頃、陽の傾いた放課後のこと。 校舎ごとの管理をしているエアコンは少し前に切られて、外の暑さが涼しい室内にじわじわと染み込む。 「俺さ、死にたいんだよね」 にこやかな顔で何気なく君は言う。 ただの他愛のない話のように。 「…え」 なんで、と問いたかった脳と、言葉を上手く絞り出せなかった口が喧嘩をする。 生まれてからずっと一緒にいる僕の脳味噌は、これまでの連携を無くしたように働かなくなった。 買ったばかりの自由帳のような脳味噌を恨む。 目を見開いたままの僕を見かねたのか、君は笑みを増して話を続けた。 「なんかさ、このまま生きててもなんの意味もない気がするんだよなぁ。将来とか進路とかどうでもいいと言うか、なーんにもしたくないというか。」 頭の後ろに手を組んで話をする君は、普段と同じで、悩みなどないように見えた。 「……突然、だな。…なんかあったの?」 僕は、白紙の脳味噌をぐるぐるまわしてようやく言葉に出来た。 「んー?…うーん、まぁ、無いと言えば嘘になるけど?…1番の理由は、疲労?」 「……疲労って…」 首を傾げながら君は答えた。僕は少し呆れてしまう。 「疲れたんだよ。生きるの。このまま大人になってさ、安い給料で高いお金支払いながら社会の為とか、お国の為にとかに働いても正直楽しくないし。」 「だから、死にたい。」 君は得意げに言い放つ。批判的な考えで自己中ともとれるけれど、これも一つの意見だろう。 君は、「でも、」と続ける。 「死ねないんだよ、俺」 「……死ねない?」 僕が聞き返すと、 「そう!死ねないんだよ。」 君も僕も蒸し暑くなってきた教室で、会話をする。 外からは野球部やサッカー部の掛け声や先生の笛、吹奏楽部の楽器の音色が聞こえる。 「俺、死ぬ勇気が出ないんだよ。リストカット?だっけ?カッターとかで手首切るやつ。あれをしようと思ってさ、刃のところを手首に当てたら手が震えてきて、切れなかったんだよ。」 君は昨日楽しかったことがあったかのように出来事を伝えた。 「……そんな、元気に言う事じゃないだろ、それ」 「確かに」と笑う君に僕は絶句する。 「…死にたいなぁ。でも、痛いのとか、苦しいのとか嫌なんだよ。怖いもん。」 君は机にの上に顎を乗せて話す。口を開くと頭ががくがくしていた。痛かったのか、すぐに両腕を組んだ上に顎を乗せ変えた。 「薬を過剰摂取するやつ、おーばーどーず?なんか親にバレそうだし、刃物系は怖いし、首吊りは苦しそうだしさ。」 「……なんかない?苦しくなくて、簡単に逝けるような死に方」 「……………ないよ、ていうか、死なないでよ」 死なないでと言った僕に君は笑うだけだった。 じゃあ辞めるとか、わかったとも言わずに、ただ笑う君の顔は、どこか寂しそうにも見えた。 いつかふっと消えていきそうな気がして、僕は少し不安を感じた。 蝉の声が耳に届く。忙しない声が僕には死への恐怖に対する悲鳴や絶叫に、もう死にゆく蝉達の断末魔のように聞こえて恐ろしくおもった。多分、全部僕の妄想だ。 そう全て。
#終 狂っているのは世界らしい。
彼を傷つけた主犯、彼を否定した隣のクラスの担任、いじめを黙秘した校長。みんな殺した。高校などとうに辞めた。仕事?そんなの僕には必要ない。前と比べると同性愛にあまり批判は無くなったように思えるが、それでもまだ奴らのような者がいる。僕の次の目標は、僕らのような者にあたりの強い政治家。簡単ではないと思ったが、国会議事堂は、意外と簡単に潜入出来て、爆破するのも簡単だった。全員死んだかは分からないけれど、僕らを否定するアイツは死んだ。なんであれ死んだんだ。 あれだけ派手なことをしたら、さすがに身元が割れた。殺すのが好きでやった訳じゃない。彼のように傷ついて死を選んでしまう者がいなくなって欲しい。僕のような犯罪者が綴る言葉など響かないだろうけど。 最後に、彼や彼の両親にはなんの関係もない。これは僕が始めた物語だ。これ以上、彼らを追い回すのなら、化けてでも僕が殺しにいく。どうか、彼のような最期を迎える者がいなくなる事を祈る。 僕は、手紙を封筒に入れる。同じ物を大嫌いなテレビ局や、新聞社へ送った。彼と同じ所へなど逝けない。だけど、彼の幸せを願うことは許されるだろう。 天井から吊るされた縄の先は輪になっている。彼の苦しみを分かりたくて、同じ死に方を選んだ。輪に首を通して、椅子を蹴る。体重が首にかかり、締め付けられる。分かっていても苦しく、死が怖く思えてくる。彼はこんな思いだったのだろうか。守れなかった、彼の全てを。そんな後悔を抱き、僕は力尽きた。 奥村翔司の事件から、数ヶ月後。日本では、同性婚が認められる事が決まり、初の女性内閣総理大臣が誕生した。 あとがき ここまで読んでくださってありがとうございます。翔司と蓮の2人の話はどうでしたか?最後には、残念ながら2人とも亡くなってしまいます。彼らのような選択をしなければならないような社会を作って欲しくないです。同性婚や、同性愛者、LGBTQという言葉を最近よく聞くようになりました。 どう思うかは、人それぞれだと思いますが、どうか心の中だけに留めて置いて頂きたいです。 言葉は、時にナイフよりも殺傷能力を持ちます。優しい世界になって欲しいと私は思います。 それでは、ここで終わりです。 読んでくださって本当にありがとうございました。
#5嘆きと決意
翌朝起きると遅刻ギリギリだった。彼は僕が眠っている時に帰ったようで、部屋には僕一人だった。もう少し一緒にいたかったのだが仕方ない、と思い学校へ足を運んだ。僕ご学校に着いた時、彼はまだ来ていないようだった。いつもなら無理してでも来ているのに。 教室に入ってきた担任から、彼が亡くなったことを知らされた。 「………は?」 「……非常に残念なことですが、その、隣のクラスの佐々木君は、自宅で……」 僕は、立ち上がって、担任に詰め寄った。 「…………蓮は、今どこに……?」 「…え、あ、あぁ、隣町の市立病院に、」 それを聞いた瞬間僕は教室から走り出た。隣町へはそう遠くない。信号も無視して、何度か轢かれそうにもなったが、そんなことどうでもよかった。足を止めるな、走れと考えているのに、そんな考え5度は直ぐに白紙に戻される。 彼が死んだ?嘘に決まってる。嘘だ。病院に運ばれても、多分、恐らく眠っているだけで、少し待てば体を起こして、僕の名前を呼んでくれる。今の情けない顔を彼は少しだけ馬鹿にして、笑うはずだ。そうに違いない。 ……そうだ、よな? ……でも、もし、もしも、本当だったら?彼の体は冷たくなっていて、二度と僕をその瞳に映さなかったらどうしよう。永遠に彼は起きなかったら、僕は、絶対に僕を許せない。 走って走ってやっとの思いで僕は、病院に着いた。髪はボサボサになって、服も転んだ時に着いた土や泥で汚れている。軽い怪我もしていて、血が滲んだ所もあった。病院の看護師に聞いた。 彼は、安置所にいる、と。場所を聞いて、また走った。制止を振り切り、我を忘れて走った。彼が死んでいるなんて信じたくない。 薄暗く冷たい空気の安置所は、独特の恐怖が湧いてくる。警察が数名いて僕は、その場で取り押さえられた。 「……っ蓮は?!……蓮はどこにいるんだ?!」 「落ち着きなさい、君の名前は?、彼と、佐々木 蓮さんとの関係は?」 「………………奥村、奥村翔司。…蓮は、僕の恋人で……、どこに、いますか……、お願い、会わせて……!」 「……奥村、翔司君?」 「……はい、」 警察官は、僕の名前を聞いて、指示を出していた。何を言っていたかは耳に入ってこない。それどころじゃなかった。 「………」 僕が項垂れた頭をあげると、1人の女性がめに入った。彼によく似た風貌に同じ黒髪。彼の母だ。泣いている。けれど僕を見てその瞳を吊り上げた。 「……あの子に、男の恋人なんて、居ないわ……、ありえないっ…!」 彼の母は、そう叫びながら僕の所へ走る。そして僕に掴みかかる。 「…あなたのせいよっ…!あなたが、あの子を殺したのよっ!!……うぅっ、私の息子を、返してっ!」 「…僕じゃない!なんで、彼をそうやって追い詰めるんだ!……誰も味方が、居なかったから!彼は、選べる道が、無かったんだ!…………僕は、…僕は、、、、どうすれば、良かったんだ……」 僕の心は、後悔と悲嘆でいっぱいだった。彼を見てはいないけれどこの状況ではもう、彼は本当に……。僕の目には涙が溜まり、前が見えなくなった。何もかも霞んで、消えていった。 僕が彼を見たのは、その後のことだった。 触れても大丈夫とは言われた。僕は、彼の姿を見るだけで辛かった。彼の首には縄の跡と引っ掻き傷があり、紫色に変色していた。首吊りだった。 「……………蓮、……苦しかっただろ、なぁ……、この道しか、残ってなかったんだろ…?」 僕の両目からは途切れることなく、涙が零れる。 「…………頑張ったなぁ、勇敢だよ、君は……」 彼の選んだ道を否定したくない。許されないとしても、僕は、彼を尊重したい。 「っ…うぅっ、…」 扉付近に居た警察官が声をかけてきた。 「……奥村君、少しいいかな…?」 その手には茶色の封筒。封は空いていた。 「……なんですか…?」 「……これ、君宛ての……」 差し出された封筒には、見慣れた彼の文字。 ︿ 奥村 翔司 様 ﹀ 僕は、中の便箋を取り出す。警察官は渡した後、扉の外へ戻っていった。 彼の遺した手紙には、少しの言葉と、ボールペンが滲んだ跡が数箇所あった。 「…………っはは、…この言葉なら、毎日聞いたよ…」 便箋には、こうあった。 「翔司へ ありがとう。そしてごめんなさい。 愛してるよ 蓮より」 僕は、泣いた。ありがとうも、ごめんなさいも聞き飽きるくらい口にしていた言葉だった。嬉しそうにありがとうと笑う彼も、泣きながら言う彼も、ごめんなさいと口にして震える君も、全部覚えてる。愛してるは、ほんの少し前にいっぱい聞いた。 「…………もしかして、愛してるって言って逝ったのか?」 そんなことを聞いたって今の彼は返事をしない。それがさらに虚しくなって、寂しかった。 彼の肌は、白くて滑らかだった。けれど柔らかくも、暖かくもない。僕は彼の唇にそっとくちづけをした。冷たかった。動きもしない。 「僕も、愛してる。…おやすみ、蓮」 彼がこんな寂しいところにいるのは気がひけたが、どうしようもなかった。彼の遺書は彼の母と僕に宛てた物、そして、その動機について書いた物があった。僕は、彼の遺書に目を通した。全て本当にあったことで、嘘はひとつもなかった。警察は、彼の無念を晴らすと豪語していたが、信じてもいいんだろうか。 翌日のニュースには、僕の学校が映った。校長や教頭など、管理職は懲戒免職や、数名の逮捕者が出た。虐めた奴らも警察に連行された。彼を虐め、追い込んだ者は裁かれた。彼の家にはマスコミが絶えず突撃し、それは僕の家も同じだった。しかし、素直に受け答えをしてもそいつらの記事は嘘で塗り固められた文字の羅列で、僕は吐き気がした。 彼の葬儀が終わり、数ヶ月後。僕は定期的に彼の家に足を運んだ。彼の家には未だにカメラを手に人が来ていた。記者やSNSで活動するような者も居た。ただ、この大きな事件に乗っかって、自身の名前を広げたいだけだろう。 僕はそれが許せない。そんな迷惑な奴らは野垂れ死にして、骸を世間に晒されてしまえばいいのに。 今日も彼の家の前にはたくさんの野次馬が垣根を作っていた。それの間をくぐり抜けて、インターホンを押す。 「……だから、答えることはありませんから……!」 彼の母が出る。酷く疲れた声で、怒っていた。 「佐々木さん、僕です。入れて貰えませんか?」 「……奥村君、ごめんなさい、今開けるわ…」 僕と分かると、彼の母は落ち着きを取り戻した。少しすると扉が少し空いた。野次馬はその隙間からでも家の中を撮影しようとする。 僕は、そんな汚い奴らに腹が立った。彼の母にこっそり耳打ちをした。 「……ホース借りても?…後、警察に連絡お願いします」 「………?…ええ、わかったわ…?」 彼の母が家の中へ戻る。僕は庭の蛇口をひねりホースから水を勢いよく出す。先を軽く潰すとさらに勢いを増したので、それを野次馬共に向けた。特にカメラを中心に。 「…………」 野次馬からは悲鳴やら罵声やら聞こえたが、僕はそれを無視した。 「……彼の家族をお前たちの給料の犠牲にするな」 それでも、変に根性のある野次馬は引き下がらない。そんなことをしていると警察がやってきて、奴らを連行していった。僕は表に出てきた彼の母と家に入った。 家の中は静かで、時間が止まっているようだった。彼は手の内に収まるほどになってしまった。写真の中の彼は屈託のない笑顔だった。 僕は、静かに手を合わせる。彼がどうか幸せにいられるように心で思いながら。 「…………奥村君、」 彼の母が僕に声をかけた。 「…どうしました。」 目を開けて、返答をする。 「…あの時は、酷いことを言ってごめんなさい。あの子を亡くして、いっぱいいっぱいで…」 「……分かってます。大丈夫ですよ。」 彼の母は、少しだけ表情を和らげる。 「……ありがとう。あの子、蓮も、あなたと出会えて幸せだったのね。遺した手紙で知ったの、あの子の本音。私、あの子の心を知ろうとしなかった。それが、更に苦しめていたのよ……。…………奥村君、これ、貰ってくれる?」 彼の母は、ネックレスを僕に差し出した。 細い銀のチェーンの先には、ロケットがついていた。 「……これは?」 「……あの子の遺骨をペンダントにしてもらった物よ。私より、あなたが持っていてくれたら、蓮も幸せと思って…」 僕は、それを1度手に取った。けれど、彼の母の手にペンダントをそっと戻した。 「…僕は、彼とどんな関係だろうと、血の繋がりはないです。だから、あなたが持っていてあげて下さい。……僕には相応しくない。」 「…………そう。」 彼の母は、一言つぶやき、ペンダントをそっと握る。 「……分かったわ。……でも、いつでも蓮に会いに来てあげてね。」 「もちろん、また来ますね。」 「……ええ。」 僕は彼の家を後にした。本当は受け取りたかった。でも、僕はこれから許されないことをする。彼をそばに置いては、彼を汚してしまう。 僕は、どんなに罪を裁かれても許さない。 彼はもう戻らないのに、奴らや奴らと同じ奴らはのうのうと生きている。 今からする事は、僕の為の復讐であり、彼が望んだ事では無い。数日後、僕は彼を虐めた憎い憎い奴らを殺す。