まる

18 件の小説
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まる

学生です。 思いついたのを文章化しているので、内容は浅いです。 マイペースに投稿するつもりなので、よろしくお願いします!

#3

夏から秋が過ぎ、冬が来た。私は凍えながら、あの屋上に続く階段へ、毎日通っていた。 「明日から冬休みだね。」 口から白い息を吐く先輩の横顔、冷えで赤くなっている指先。私は先輩の虜になっていた。 「はい、もうすっかり寒いですね。」 小さく頷いて、先輩から目を逸らした。少しだけ、ほんの少しだけ先輩に近寄ってみた。先輩は私の肩を抱いて、体を密着させた。 「卒業までもう少し。」 「卒業か…。」 まるで考えていなかった現実を突きつけられ、私は先輩の肩に寄りかかり、前を見据えた。 「離れるのは嫌?」 先輩は意地悪く微笑んで、逸らす私の顔を覗き込んできた。先輩の温かい手が、私の頬を撫でる。脳みそがとろけてしまいそうだ、と思いながら首を縦に振った。 先輩は笑って手を離した。少しばかり名残惜しかったが、私は顔を上げて先輩の顔を見た。 いつも何を見て、考えているのか分からない先輩は、いつものようにただ真っ直ぐ前を見据えている。 私と先輩は、毎日こうして学校が閉まる時間まで話をしている。 そして冬休みが始まり、三月がくる。 桜はまだ咲いていなかったが、陽気な陽射しが差し込む。 先輩は立派な卒業式を終え、いつもの場所で、とだけ言い、去って行った。 式が終わり、生徒達が帰って静かになった校舎の屋上に続く階段。 そこに、先輩はいた。 「卒業…おめでとうございます。」 私は精一杯の笑顔をして見せた。そのつもりだった。私の意思とは反して、涙は勝手に流れていた。それでも口角だけは必死に上げた。 「酷い顔だよ、ぐちゃぐちゃだ。」 先輩は私の頬を伝う涙を拭い、抱きしめる。 「これでお別れなんですか?」 私も先輩の背中に腕を回し、キツく抱きしめる。 「卒業したからってお別れではなくない?もし良かったらだけどさ?明日さ、一緒に出掛けない?」 電話番号を書いたメモ用紙を渡され、それを固く握りしめる。先輩は微笑んで、私の頭を撫でる。 「行く、絶対に行きます。」 その日の先輩は、私を家まで送ってくれた。先輩との下校はまるで夢の様で、フワフワとした感覚であった。 夜八時、私は家の廊下に設置されている固定電話と、睨めっこをしていた。 憎たらしい、すました顔をしている。私は、今にも心臓の袋がはち切れてしまいそうだというのに。何度も深呼吸を繰り返すが、心音は一向に収まる気配を見せない。 黒の受話にを固く握り、耳元に寄せる。先輩の電話番号に番号を合わせ、着信音が耳に入る。 十秒、先輩は電話に出ない。 内心、どうして早く出てくれないのかと、文句を言う。そんな事を思っている間、ようやく着信音が消えた。 「はい、寺嶋です。」 いつもの先輩の声が耳に入り、私は変に声が上擦った。 「あの、牧場です。」 明日の約束事をした。午前九時、上野駅前集合。明日は喫茶店に行く約束をした。先輩と計画を立てていると、自然と胸が躍り、早く明日が来ないかと、事ある事に思っていた。 翌朝、私は珍しく目覚まし時計よりも先に、目を覚ました。 お気に入りのチョコレート色のワンピース、自分にはまだ早かったかもしれないが、母が誕生日にくれた紅い口紅。 気恥しながらも、今の私は多分誰よりも可愛い。そう錯覚して、上野駅まで急いだ。 先輩は既に待っていた。流れる様な線の体躯に、スラックスがとても良く映えている。アナログな腕時計を見る彼、もう少しだけ待っていたい気もしたが、先輩に悪いので、駆けて向かった。 「おはよう、牧場さん。」 彼は私を一通り眺めると、口角を上げて口元を綻ばせた。いつもキツく結んだ唇が緩む。 「その服、とても可愛いよ。牧場さんにとても良く似合っている。」 行き場を無くした彼の手が、あわあわとさ迷っている。 「ありがとうございます、早く行きましょう。私、昨日からずっと楽しみにしていたんですから。」 彼の手を取り、彼の隣を歩く。 私と彼の足取りは軽く、目的の喫茶店へと向かったのだ。 先輩のお気に入りの喫茶店は、アンティーク調で、暖かい雰囲気の店だった。 「猫だ。」 カウンター席を自由に渡る白猫は、私達を見て小さく鳴いた。白猫が鳴いて、店主が私達を見る。会釈をして微笑む。 「マスターの飼い猫、ムルって言うんだよ。」 先輩はムルの顎を撫でて、目を細めた。 ムルは嬉しそうにグルグル鳴いて、先輩の細い腕にしっぽを擦った。 「何にする?」 先輩はメニュー表を取り、私に渡す。 メニュー表を眺めている、先輩はずっと私の事を見ている。視線が私を突き刺す。 「レモネードで。」 「マスター。コーヒーとレモネード一つ。」 店主は頷いて、厨房へ消えた。 ムルも店主の後を追い、厨房の奥の自室へ帰って行った。先輩はムルの背中が見えなくなるまで見つめ、私に視線を戻した。 「先輩?」 私の顔を凝視する先輩を不思議に思い、私は首を傾げた。先輩は少し不満そうに目を細める。 「休みの日くらい下の名前で呼んでほしい。」 見た目と相反する先輩の幼げな性格。私は先輩のそういうところが好きだ。 「博さん?」 「うん、なぁに?」 先輩は満足そうに頬を綻ばせ、上目遣いで私を見つめる。頬肘を着いて、目を細めた。まるで猫のような、したたかな雰囲気を持つ先輩に、より一層の好意を寄せていた。 「コーヒーと、レモネードです。お熱いのでお気を付けて。」 マスターは相変わらずの無表情で、飲み物を机の上に置く。厨房の奥で、ムルの鳴き声が聞こえた。マスターはムルの元へ行ってしまった。 「お砂糖どうします?」 「欲しい。」 角砂糖の入った瓶を渡す。先輩は小さくお礼を言って、受け取った。 一つ二つ三つ、四つ。私は五つ目を入れようとする先輩の手を止めた。 「入れ過ぎです。」 先輩は不服そうに五つ目を、瓶の中に戻した。 「甘いのがお好きなんですか?」 「うん。」 彼を愛おしく思う気持ちが強まり、表情筋が緩むのを必死に堪える。 「どうしてカフェオレはしなかったんですか?」 「だって、ブラック飲めないなんて。君に格好がつかない。」 格好をつけて無表情を貫いているが、私は知っている。耳まで真っ赤にしているところを。私は先輩が恥ずかしがっているところを初めて見た。 「十分かっこいいですよ。」 先輩は固まったまま、動かなくなった。 「ありがとう。」 彼は笑っていた。背景に桜が散っているかの様な幻想が見えた。心の底から嬉しそうに、儚げに笑う彼に、私の心は奪われていた。 夕方、彼はまた家まで送ってくれた。 「仕事が始まるんだ、もう前みたいには会えなくなる。」 先輩の言葉に、私は固まった。魔王に心臓をわしずかみにされた、そんな感覚だった。 「そうですか…、頑張ってください。」 まだ頭が動かない。私はこんな無愛想な言葉しか出てこない己に、酷く腹が立った。 「やだ。」 「え、」 先輩は私を強く抱きしめる。 「僕は嫌だよ。」 先輩の声が耳元でする。 「僕は君と離れるのが嫌だよ。」 声が震えている、あの博さんが泣いているのか。 「勝手に離さないで下さい。私、博さんから離れる気ないですからね。」 私は背伸びをして、彼にキスをした。 「泣かないで、ね?」 彼の濡れた頬を優しく撫でて、笑う。 「うん。じゃあ、また。」 先輩は私の腰から手を離すと、手を振った。私は先輩が見えなくなるまで、ずっとずっと背中を見ていた。

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#3

B

勇人が学校に来なかった。 学校に行くと、沢山の警察と保護者が集まっていて、俺は妙な胸騒ぎを覚えた。 担任の先生は、勇人が行方不明になったと言う。クラスメイト達がザワつき、授業は自習になり、先生達は職員会議を開いた。 俺は親友の身の安全を心から願いながら、不安な一日を過ごした。 その日の夜、勇人の家族が殺された、というニュース記事を読んだ。テレビでも、全国放送で報道されていた。 もしかしたら勇人も…。なんて、最悪な妄想を振り払って、俺は無理やり寝るため、布団に潜った。いくら目を瞑っても、なかなか寝付けない己に腹立たしい感情を覚えた。 勇人は俺の親友だ。アイツは本当に優しくて、温厚で。控えめな性格だけど、妙に正義感の強い奴だった。 「圭哉はさ、家族って何だと思う?」 勇人は時折、俺を見ているようで、その遠くを見ているような、悲しい目をする。俺とずっと一緒にいるのに、どこか寂しそうな表情をするアイツの目を見ていた。でも、たまに本当に楽しそうに笑うアイツもいる。俺はアイツに振り回されることが好きなんだ。 「無償の愛をくれる特別な人達かな。俺とお前みたいな!」 勇人は笑って、俺の肩を小突いた。勇人の肩に腕を回し、じゃれつく。俺とアイツの日常だ。こうしてアイツと笑って、たまに喧嘩して、二人の未来について熱く語り合う。 目が覚めた。時計を見ると、午前三時を回っていた。アイツはもう見つかっただろうか。どんな形でも良い、俺はアイツに会いたい。 スマホを触ると、眩しい光が目を刺す。ニュースサイトで、記事を見た。 一気に眠気は消え去り、俺は布団を剥いだ。パジャマのまま靴を履いて、家を飛び出す。 苦しいと叫ぶ肺を気合いでねじ伏せ、俺はアイツとの思い出の場所に走った。 もかしたら、アイツが待っているかもしれない。俺と勇人との関係は、そんなにヤワじゃないはずだ。切れ切れの息を正して、橋の下に近付く。 「はぁ、はぁ…。そうだよな。」 そこに、勇人の姿は無かった。 ジワジワと汗が、額を濡らす。 家に引き返しながら、俺は悔し涙を流していた。 五日後、勇人の顔写真がネットに出回っていた。俺は世間の理不尽さや、残酷さを呪った。 次の日、勇人が見つかったというニュースを見た。ボロボロで、痩せていて。病んだ顔をした勇人が映っていた。 近所の人達や、学校に通う生徒達は大騒ぎをしていた。 勇人は、両親を殺害した罪を告白した。 俺は、己の無力さを突きつけられ、酷く腹が立ったのを覚えている。 判決は懲役十年。 長い長い年月が経った。俺は一度たりとも、アイツの出所する日を、忘れたことはなかった。 アイツが居ない間、俺は色んなことを勉強した。高校を卒業して、大学も出て。車の免許も、出所後の仕事の探し方。 昔はアイツの方が頭は良かったけど、今は俺の方が賢いかも、なんて思った。 大阪刑務所の門の横に立つ。アイツが出てくるのを待っていると、なんだか胸がドキドキしてくる。 今にも泣き出しそうな男の声が聞こえた。俺は、急に胸を締め付けられた。 「お前…。」 門から出てきたのは、かつての親友だった。 「親友、迎えに来たよ。お帰り。」 俺は勇人の肩に腕を回して、力一杯に抱きしめた。冷たい、そう思った。途端に、涙が溢れてきた。 「おいおい、泣くなよ。」 勇人は嗚咽を漏らして泣いていた。 そう言う俺も泣いていた。 「車用意してるんだ、乗れよ。」 駐車場までの道のり、昔のように会話は弾まなかった。しかし、そんな空気も今では幸せだった。俺は、ずっと言おうと思っていた事を、言ってみることした。 「なぁ、一緒に暮らそう。」 俺は敢えて勇人の顔を見ずに、言ってみた。 「え…、でも。」 案の定、勇人は気まずそうに返答に困っていた。 「お前に家族ってのを教えてやる。なぁ、頼むよ。俺さ、もうお前と離れるの嫌なんだよ。」 自分の声が徐々に震えてくるのを感じた。随分と涙脆くなった。 「ありがとう。」 勇人はようやく笑って、返事をしてくれた。これからは、幸せな暮らしを送って欲しい。あわよくば、綺麗で優しい嫁さんを貰って、可愛い子供を授かって…。 一般的な幸せを味わってほしい。 俺は勇人の未来を守る為、固い決意を胸に、歩き出す。

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A

五月一日。僕はこの日、逃避行をした。 大阪の夜の街は、悪い大人達が闊歩している。母さんに、西成区にだけは行くなと散々止められていたけど、僕はそこに逃げ込んだ。居酒屋に飲んだくれが、大声で笑っている。プルオーバーのパーカーのフードを目深に被り、暗闇に向かって一直線に進む。 公園や路地裏、人通りの少ない所にはホームレスが沢山いる。 僕は若干の恐怖と不安を覚え、目を逸らした。 あいりん地区に入り、宿を探した。 「二〇八号室です、ごゆっくり。」 流石は西成区と言ったところか、年齢確認も、身分証明書も要らないで宿に泊まることが出来た。 二階の一番奥の部屋の鍵を開けて、部屋に入った。ベッドに腰を掛け、サイドテーブルに鍵を放り投げた。 これからどうしようか、と悩みながら、テレビをつけた。聞き慣れた、関西電気保安協会のCMが、不安定な心に平穏をもたらす。いつの間にか安堵の笑いが漏れていた。 《松本結城君、三歳は未だに見つかっておらず、警察は捜査を進めています。》 誘拐犯は未だに見つかっていないらしい。物騒な世の中に悲観していると、不思議と涙が溢れた。まだ幼い子供がなぜ恐ろしい思いをしなくてはならないのか。 《続いて、今日の夕方に起こった事件です。大阪府東城区で一家殺人事件が発生しました。中村さん夫婦は激しい暴行を受けた後に、首を絞められて殺害されたことが判明しました。長男は発見されておらず、警察は懸命な捜索を続けています。》 僕はテレビを消した。恐ろしかったからだ。シャワーを浴びて、ベッドに潜った。柔軟剤の香りが、脳をとろけさせる。落ちる様な感覚で眠りについていた。 翌朝、僕はホテルを出た。 住みつける空き家は無いかと探す為だ。せっかく自由な逃避行が出来るのだ。出来るだけ長い間やりたいのが本音。 東住吉区に向かった。スマホで、空き家率の高い所を検索すると、ここが西成の次に多いらしい。駅から遠い、閑散とした場所が良い。静かに、平和に暮らしたい。電車に乗るお金も無いから、歩いた。散々歩いて、喉が酷く渇いた。 自販機を見つけると、吸い寄せられるようにして、水を買った。急いで蓋を回し、砂漠の様に乾燥した喉に、救いの水を流し込む。生き返った、そう声が漏れていた。 もう日が落ちてしまいそうな時に、空き家を見つけた。かなりボロボロではあったが、この際わがままは言ってはいられない。家に侵入すると、埃が舞って、カビ臭さが鼻を殴りつけてくる。 居間と思しき部屋には、毛布と小さなソファーが置いてあった。この日は、毛布に包まり、眠った。 目を瞑ると、嫌な記憶が出しゃばってくる。 「アンタはいつまで経ってもほんまに出来損ないなぁ、おかんに迷惑掛けるんちゃうで。早う死んだらええのに。」 「邪魔や、どっか行けや。自分がおるとイライラする。」 心無い言葉が、僕の頭を駆け巡る。 目頭が熱い、唇が震える。 僕は、誰にも聞こえないようにして、泣いた。久しぶりに泣いた気がする。 「大人になったらさ、ずっと一緒におらん?酒飲んで、バカやってさ。俺、めちゃくちゃ自分のこと大好きやん。」 親友の笑顔が、脳内を過ぎる。アイツ、今何してるのかな。マイペースなやつだから、意外と気にしてないかもな。 スッキリした僕は、泣き疲れた赤子が眠る様にして、目を瞑った。 不思議と、もう恐怖心は感じなかった。 アイツとの思い出の場所に行こう。 もしかしたら…。いや、それはないか。 いつもの場所に走った。朝から夕方まで待ってみたが、圭哉が来るはずもなく、ただただ時間だけが過ぎ去った。 またあの空き家に帰り、息を潜めた。 逃避行を始めて五日が経った。 僕は街に出ることが出来なくなった。 ほとんど何も食べないで、水だけの生活をしていたせいか、体も痩せこけてしまった。 拳の傷が化膿して、酷く腫れている。 ジンジンと痛む拳を握って、スマホのニュース記事を読んだ。 《東城区で起こった一家殺人事件、犯人は長男か?長男の中村勇人は未だ行方不明!》 微笑みが抑えられなくなっていた。 僕は暗い外に出てみることにした。もう怖いものは何も無い。 逃避行から一週間、僕は半ば諦めていた。 《殺人犯、中村勇人の顔写真!見つけ次第、即通報を!》 何とも惨めな顔写真が、ネットに出回っている。僕はそいつの顔を見て、笑ってやった。馬鹿な事をしたもんだ。 外は大雨が降っていた。ザアザアと槍の様な雨が、僕の頬をぶつ。 身体中の痣は青紫色になって、僕の体に刻まれている。 警察署に行った。迷子になった僕を、見つけてくれないからだ。 「親を殺しました。」 地裁の判決は、病院に入院した後、刑務所で十年の懲役になった。 精神的な傷を癒せと言われた。 僕は今後一生、殺人犯という悪名を背負い続ける。全国に殺人犯という悪名が馳せて回ってしまった。日本では僕、中村勇人の居場所はもう無い。 十年はあっという間だった。毎日毎日同じことを、繰り返す日々。 僕の心の傷は、一日たりとも癒えることはなかった。 「元気でな。」 看守に肩を叩かれた。僕は滲む瞳で空を見た。雲一つない、澄んだ綺麗な空だった。 これからどうしようか、そう悩んで門を潜った。 僕は人生一であろう衝撃を、全身に受けた。 「お前…。」 門の横に立っていたのは、アイツだった。 「親友、迎えに来たよ。お帰り。」 圭哉は僕の肩に腕を回し、力一杯抱きしめた。温かい、そう思った途端、涙が止まらなくなった。涙で前が見えない。 「おいおい、泣くなよ。」 そう言うアイツも泣いていた。 「車用意してるんだ、乗れよ。」 駐車場までの道のり、会話は弾むはずもなく、無言のまま道を歩いていた。 「なぁ、一緒に暮らそう。」 圭哉は真っ直ぐ前を見据えたまま、口を開いた。 「え…、でも。」 「お前に家族ってのを教えてやる。なぁ、頼むよ。俺さ、もうお前と離れるの嫌なんだよ。」 親友は徐々に震えた声で笑った。 「ありがとう。」 これから、本物の家族というのになれるような気がして、僕の胸は躍っていた。

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#2

生まれつき大人しい性格で、いじめれっ子気質だった。神経質で、繊細で。私は、私自身が大嫌いだった。私は圧倒的弱者で、強者に踏み躙られる。 中学校に入学と同時に、社会の荒波を全身で受けた。 彼と出会ったのは、私が朝寝坊をして、遅刻しそうな時だった。下駄箱のロッカーを開けて、内履きを取ろうと思った時、私は妙な違和感に気が付いた。 外履きを脱いでいる途中で、下を見ながら下駄箱の中に手を突っ込んだ。 内履きが無いのだ。恐る恐る顔を上げて、中を覗いて見た。あるはずの内履きは、魔法で姿を消されたかの様に、姿をくらましていたのだ。 私は途方に暮れていた。始業を知らせるチャイムはもう直に鳴る。まずは何をするべきかと、必死に作戦を練っていた。 「大丈夫?」 突然、背後から声を掛けられ、私は振り返った。スラッと背の高い、色白な男子生徒が立っていた。制服のネクタイが緑色だった。ようやく、三年生だと気付いた。 「内履きが無くて…。」 私は震えて細い、精一杯の声を捻り出した。 三年生の男性は、私の胸に着いている名札を見て、納得したように、首を小さく縦に振った。 「一年生か、上履きは職員室に行けば貸してくれるよ。おいで。」 彼は優しく微笑んで、私について来いと手招きをした。先輩は、私の歩く速度に合わせて歩いてくれていた。中学校に入って、初めて優しくされた気がして、私の涙腺は決壊寸前だった。視界が歪み、唇が小さく痙攣をする。 「少しだけ待っていてね。」 先輩はいとも簡単に職員室に入り、一年生の学年主任を連れて来てくれた。 「牧場?どうかしたか?」 私は、唇が震えて上手く言葉が出せなかった。先輩や先生に申し訳なく思う度に、またまた涙は零れそうになってしまう。 「内履きが無くて困っていたんです。貸してあげて下さい。」 先輩は喋れない私に配慮をしてくれた。 先生は頷いて職員室に戻って行った。 先輩の顔をチラリと見ると、先輩はただ真っ直ぐ前を見つめて、先生を待っていた。少しして先生は、女子用の上履きを持って戻って来た。 「基本置いておくんだぞ。」 「私、置いていってます。さっき来たら無くなってたんです。」 私は涙を拭って、先生に訴えた。先生は首を傾げながら、担任の先生を呼んでくれた。 「寺嶋君、ありがとう。早く教室に戻りなさい。」 先輩は頷いた後、小さく微笑んで教室に行った。私は担任の先生に、上履きが消えてしまったことを話した。 放課後、私の上履きは発見された。 校舎裏のゴミ捨て場に、雑に放り投げられていた。私はあまりにも残酷な光景に、ただただその場に立ち尽くすしかなかった。この世界から消え去ってしまいたいと、何度も何度も思った。 それ以降、私物が消える事が増えた。上履きに始まり、体操着、鉛筆、教科書。 学校には、私の居場所がないような気がして、登校することが億劫になっていた。 ある日、私は放課後に屋上へ行く為の階段で座っていた。困り果てた私に、救いの手を差し伸べてくれた彼。また先輩に会いたい、と何度思ったことか。 廊下から足音が聞こえてきた。私は息を潜めて、懸命に気配を消した。 「あっ。」 バレたと思い、亀の様な動きで顔を上げた。そこには、この前の先輩が立っていた。 「先輩?」 先輩は階段をゆっくり登ってきて、隣に座った。洗濯に使う洗剤の香りが、ふんわりと漂う。夏の暑さか、緊張のせいか、汗がじんわりとシャツに滲む。 「この前の子だよね。靴、見つかった?」 私は震えた声で返事をして、お礼を言う。 「名前、なんて言うの?」 「牧場美穂です。」 「牧場さんか。俺ね、寺嶋博。」 この屋上の出会い以降、私と先輩の秘密の密会が始まった。

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#2

#1

私は本来ならば、生きていてはいけない存在だった。しかしながら、彼との約束で私は、今の今まで生かされていた。 「もうすぐ…、あの人の所に行けるのね。」 白内障になり、もはや何も見えない目で、天井を見つめる。周りから、息子夫婦や孫たちの声が聞こえる。皆、わざわざ心配をして、集まってくれたのだ。 「きっと、父さんも待ってるよ。でも、もう少しゆっくりしていきな。」 このゴツゴツした手は、息子の正樹だろうか。手が震えている。 「もう、大丈夫。心残りはないよ。」 目を閉じると、光が消えた。目の前に暗闇が広がり、頭の中に過去の情報だけが駆け巡る。可愛い息子の正樹、気の利く嫁の理恵さん、目に入れても痛くない程愛した孫の奈緒。伴侶の正雄。ずっと恋焦がれていた博さん。 「あぁ、嬉しい。」 私はそれきり、目を覚まさなかった。 母さんが死んで、一週間が立った。胸にぽっかりと、穴が空いている感覚がある。 それでも、俺は長男で家長だから、いつまでもくよくよはしていられない。 「お義母さん。」 「大丈夫さ、今頃上で父さんと酒でも飲んでるよ。」 母さんを大切にしてくれた妻は、いつまで経っても思い出しては、涙をこぼす。 心優しい、良い妻を貰ったなと、感激していると、娘の奈緒が走ってくる。 まだまだ幼い娘は、祖母が死んだ事も理解出来ずに、笑っている。 今この時だけは、幼い子供が羨ましいと思った。 笑う娘を抱き上げ、家の中に入る。 今日は二人を励まそうと、遊園地に連れて行った。奈緒の楽しそうな姿に、俺と妻は助けられた。 今は両親を失ったが、俺たち夫婦には、こんなにも可愛い娘がいる。 俺は、この子が結婚して、孫の顔を見せてくれるまで絶対にくたばらないと、天に誓った。

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#1

夢枕

昔飼っていた犬が、近頃よく夢に出る。 特に害を与えてくる訳ではなく、逆に恩恵を授けてくれる訳でもなさそうだ。 俺は夢の中では、昔の姿になっている。恐らく小学生六年生位だと思う。 パピヨンのモカだ。白と栗色の毛がモフモフで、散歩に行けば皆が可愛いって言っていた。 モカは俺の相棒だった。心の友だった。 俺が中学に上がって、卒業と同時に、モカは眠る様にして亡くなった。 俺としては安らかに逝ってくれた分、良かったと思っていた。 モカからしたら、寂しかったのかもしれない。そうだよなぁ、独りだもんな。 昨日なんて、寂しそうに鼻を鳴らしていたしな。天国ってのは、そんなに何もない所なのだろうか。モカのやつ、もしかして仲間の犬達がいないのだろうか。 俺は部屋の掃除を始めた。モカは綺麗好きで、自分の掛け布団を自分で直したりしていた程だ。もしかしたら、夢の中で部屋を片付けろ、って説教していたのかもと思ってだ。 「うんうん、これでモカの奴も文句はないだろう。」 整理整頓され、綺麗になった部屋を見渡して、少しだけ溜め息が漏れた。 母さんは病気で死んで、父さんも行方不明。俺は一人でずっと暮らしてきた。 モカはまた夢に出てきた。今度は少し怒っていた風だった。吠えて、俺を見つめていた。 なんなんだ。もしかして、怒っているのかな。俺が散歩の時、たまにショートカットしてたの、バレていたのかな。それを怒っているのかも。 俺は要らない物を捨てた。ヨレヨレの服、壊れた家具。穴の空いた靴下。 これ全部、モカが悪戯した物だ。 俺がいちいち持ってるから、モカは成仏出来ないのかもしれない。 モカは昨日の夢より、ずっと怒って吠えていた。唸っていた。 俺を恨んでいるのかもしれない。 嫌いで嫌いで仕方がないんだ。 俺はドアノブに掛けたロープを、首に通した。そこで怖くなって、外した。 「少し寝てから行こうかな。」 俺はいつものように、ベッドに潜り込み、布団を掛けた。 夢の中でモカは俺に噛み付いてきた。滅多に怒らないで、噛み付いたことの無いモカがだ。 「ごめんて、もう止めるから。」 俺は生への執着を止めることにした。 ドアノブに通した紐を首に通す。 息が詰まった。苦しい、手が痙攣する。 「ワン!」 一瞬、モカの声が聞こえた。 「モカ…。」 もしかしたら、モカは俺が死のうとしていた事を察したのかもしれない。 そうだ。俺が死ぬ準備を進める度に、モカは怒っていた。モカは、俺に死んでほしくないのかもしれない。 もう、夢にモカは現れない。 これが、夢枕ってやつなのかもしれない。

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夢枕

桜と平盃

厳しい寒さを乗り越えた日本は、南から徐々に暖気が這い寄ってくる。 三寒四温の天気を繰り返し、やがて暖かい日が続くようになる。 桜は蕾を開き、全身を鳥肌の鎧が覆う程、狂気を感じる程に桜が咲き乱れている。 「先輩、お花見に行きませんか?」 大学のサークルの後輩が、俺に声を掛けた。同期に誘われ、半ば強引に入らされた、この水泳サークル。 怠惰な日々を送っている俺にとって、水泳サークルは体型維持をするに相応しいサークルなので、結構気に入っている。お陰様で、だらしのない生活をしても、腹は弛まない。逆に割れている。しかし、ことある事に集まって酒を飲むのは、あまり好かない。 「花見か…。」 集まって、賑やかに騒ぐことを苦手とする俺は、あまり乗り気ではなかった。 「先輩来てくれたら皆喜びます!」 俺は後輩の圧に押し負け、後日、花見に行くことになってしまった。 陽気が差す公園、木々は桃と白に覆われ、花弁が風に煽られ、儚く散っていく。 皆はすっかり酒に酔わされ、大声で笑っている。春の風物詩と言っても過言ではないだろう。 平盃に日本酒を注ぐ。並々注いだ酒を一気に仰いだ。喉に熱い酒が流れていくのを感じながら、更に酒を流し込む。 春の暖かな風が、俺の髪を撫でる。 少し伸びてきた前髪をウザったく感じた。 ヒラヒラと花弁が落ちてくる。静かに俺の盃の中に落ちる。酒が波打ち、桜に波紋が広がる。 「風流だねぇ。」 脈打つ心臓の鼓動が、頭に響く。 俺は桜が好きだ、雅で、可憐で。 うるさい喧騒は、もう耳に入らない。 俺は少しだけ微笑んだ。強い風に煽られた桜たちが、群れになって空を舞う。 例えようのない美しさに、俺はただ打ち震えていた。

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桜と平盃

可哀想な人ね

もしも、輪廻転生があるのだとしたら。 私はまた、貴方の元に行きたいの。 別にお金持ちや、有名人。凄い人のものになりたい訳じゃない。 間抜けで、馬鹿で、お人好しな貴方の傍にいたいのよ。 私は小さな頃に捨てられたの。酷い話よね。滝みたいに土砂降りの雨の中よ?酷く寒かったのを、今でもよくよく覚えているわ。前の飼い主は無責任な人だったの。まだ子猫の私を捨てたの。 公園のベンチの下で、震えながら泣いていたの。涙で前が見えなかった。お腹はペコペコだし、不安で仕方がなかった。 「うわぁ、猫だ。」 貴方はそう言って、優しく私を抱き上げたわね。ボロボロの私を。 家に連れ帰って、まず何をしたか覚えているかしら。シャワーよ。 貴方、間違えて冷水かけたの、まだ忘れていないわよ。あの時、貴方を引っ掻いたかしら。ごめんなさいね。 「ほら、ミルクだよ。」 シャワーで綺麗になった私に、ミルクをくれた。魚を解したご飯も美味しかった。 「お前はミルクみたいに綺麗な白だね。名前はどうしようか。」 下手なお世辞に私、呆れていたのよ。 「ベラ。良いね、可愛いよ。」 貴方の付けてくれた名前、気に入ってるの。ほら、呼んでよ。ベラって、何度も何度もね。どうしてよ、呼んでくれないなんて、寂しいじゃないの。 その後は一緒に、フカフカのお布団で一緒に寝たわね。キツく抱きしめるから、苦しかったわ。でも、不思議と嫌ではなかったの。 次の日、貴方は病院に連れて行ったわね。無理やりよ。私、怒っていたんだからね。でも、それは私の為なのよね。 ある日、貴方は深く落ち込んだ様子で、ただただテレビを見ていたね。 ガールフレンドに振られた、ベタな話。 この私がいるのに、他の女に夢中なんですもの。本当に腹が立つわ。 「彼女が生活苦しいって言うんだ。お金を渡したら連絡着かなくなってさ。」 お人好しで馬鹿な人。貴方はそうやって騙されて、裏で馬鹿にされて。 私を強く強く抱きしめて、泣くんだもの。 私が慰めてあげる、私の可愛いご主人だもの。 毎日毎日一緒に寝て、たまにお風呂に入らされて、一緒に散歩に行ってね。 毎日飽きない日々だった。 ある日、貴方は帰ってこなかった。 日が落ちて、暗くなる一方の部屋で、私は息を潜めていたの。貴方のベッドの下よ。ご主人の帰りをずっとずっと待っていたの。ドアが開いた。私はベッドから飛び出した。 貴方じゃなかった。 「ジェームズは事故で怪我をしたんだよ、入院するほどのね。あの間抜け、人を庇って車に轢かれたんだよ。しばらくは俺が面倒を見るから。」 貴方は一ヶ月と私を放置した。私、しばらく口を聞かなったのよね。 「はは、下手しちゃった。」 貴方は薄ら笑って帰ってきた。 私を不安にさせて心配させたこと、後悔させてやったわよね。 貴方、泣いてた。泣いて私を抱きしめた。貴方と一緒じゃないと、私眠れないの。 私ね、もう動けないの。目も見えない、でも、貴方が泣いているのは見えるの。泣かないでよ、私まで寂しくなる。 私の声、聞こえている?いつもみたいに頬をスリスリしてほしい。 私ね、ご主人に出会えて幸せだったのよ。毎日楽しくて、幸せで、温かくて。 だから、泣かないでほしいの。 笑って、また私を見つけてほしい。 そうしたら、またご主人とこうして過ごせるのかしら。 ご主人、大好きよ。ボロボロの私を大切にしてくれて、ありがとう。 貴方のベラは、生まれ変わって、また貴方の猫になりたい。 でも次は人間になりたいわ。そうしたら、お馬鹿で間抜けな貴方を支える女になるの。私が貴方を守るのよ。 素敵な気分ね、夢を見ているみたい。 貴方の膝の上で、私は安らかに眠れる。 そろそろ、さようならね。 チューリップが、狂おしいほど美しく咲いていた。春の暖かい風が、柔らかい髪を撫でる。 「ルージュ!」 愛する彼が、私の名を呼ぶ。 「あら、ジェームズ。服に糸くずが着いているわ。本当に、貴方は私が居ないとダメね。」 彼は照れくさそうに笑って、私に駆け寄った。 「僕が昔に飼っていた猫に似ている気がする。僕が世話をしている筈なのに、なぜか世話されている気になるんだ。美人な猫でね、まるで君みたいだ。」 「不思議ね。さぁ、デートに行きましょう。」 私は愛する貴方の手を取って、颯爽と道を歩くの。 今度こそ、貴方を幸せにしてみせる為に。

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可哀想な人ね

朝靄

季節は夏のど真ん中。小学校は夏休みに入り、井上春は怠惰な日常を歩んでいた。 毎朝六時になると、近所の公園で、ラジオ体操をやらないといけない。近所に住む友達や、上級生達が集まる。 たまに大人や、中学生も来る。高校生は来ない。 今日、僕は珍しく五時に目が覚めた。目覚まし時計よりも早くだ。いつも最後に公園に入る僕は、今日こそ一番乗りをしてやろうと、支度を急いだ。歯磨きをして、パジャマを脱ぎ捨てた。寝癖は残したまま。サンダルに足を突っ込んで、玄関の鍵を開ける。 「春、今日は早いんだねぇ。」 いつも早起きの婆ちゃんが、居間から声を掛けてきた。声と足音と、木の軋む音が、徐々に近付いてくる。 「うん、今日は早く目が覚めたから。一番乗りしてやるんだ。」 婆ちゃんは、細い目を少し見開いて笑った。 「それは行ってからのお楽しみだよ。」 腰を手で押えて、婆ちゃんは居間に戻って行った。 僕は、婆ちゃんの決めつけたような言葉に、ムッと腹を立てた。 「行ってきます!」 腹癒せに、大声で叫んでやった。婆ちゃんの笑い声が聞こえた。僕は玄関先で寝ている、ゴールデンレトリバーのハナを、少しだけ撫でて、公園まで走った。 夏とはいえ、午前五時の外は少しだけ肌寒く、霧が濃かった。 「はぁ、はぁ。やった、一番乗り。」 息を切らして、肩で息をしていた。 霧がかった公園は、少し神秘的で、特別感が僕の胸を感動させる。 ブランコの乗って、皆を待っていようと思い、歩き出した時だった。 「おはよう、今日は早いんだね。」 背の高い、黒髪の男の人が先に座っていた。まだ高校生くらいの男の人は、優しそうに笑っていた。 「お兄ちゃん誰?」 隣のブランコに座って、見たことの無いお兄さんに名前を聞いた。 「森谷辰樹、君のことは知ってるよ。」 え、と声に出して驚くと、辰樹君は可笑しそうに笑った。 「だって、一番最後に来てるから。皆に笑われているよね、春君。」 辰樹君は、僕の名前を知っていた。 僕は恥ずかしくて、何も言えないでいた。 「辰樹君は、いつも早くに来てるの?」 辰樹君を見ると、口だけで笑っていた。 「そうだよ、朝が好きだから。人はまだ寝ててさ、鳥達が鳴いていて。こんなに空気が澄んでいて、朝靄が何て言うの?こう、神秘的?で好きなんだよ。」 僕は辰樹君の話を聞いて、同感だと思った。辰樹君はまた笑っていた。今度は目も細めて。 「あ、六時だ。皆来るかな。」 僕はブランコから立ち上がって、周りをキョロキョロした。まだ霧が濃くて、周りがよく見えない。 「あ!由美ちゃんと大智君だ!」 僕はクラスメイトの二人の元へ走った。 「おはよ!今日は僕の方が早いんだ!」 二人の間を割って入った。二人は心底驚いた顔をして、僕を褒めてくれた。 「辰樹君って子がいたの、皆知ってる?」 二人は顔を見合せて、知らないと言った。こんな狭い町内で、二人が知らないと言う。僕は辰樹君を二人に会わせようと思い、二人を引っ張って、ブランコの所に行った。 辰樹君はどこにも居なかった。 「帰っちゃったのかな。」 少しガッカリした。辰樹君は何でも知っていて、優しい人だったから二人に会わせたかった。 六時になると、皆はいつも通りのラジオ体操をした後、カードにスタンプを押して貰って、各々が家に帰る。 もうその頃には、太陽はすっかり天に昇り、外気はいつもの夏に変わっていく。 僕は汗を地面に垂らしながら、家に帰った。玄関の引き戸を開けると、婆ちゃんが笑って立っていた。 「お帰り。どうだった?一番だったか?」 「違った。」 すっかり拗ねた僕は、そそくさとサンダルを脱いで、自分の部屋に引きこもった。しばらくすれば、母さんが朝食が出来たと呼びに来るからだ。 次の日、今日こそは、と四時半に目覚まし時計をセットして、無理やり起きた。 まだ外は薄暗かったが、恐怖心を振り払い、公園に走った。 「春君、おはよう。今日は昨日より早いんだね。」 やはり辰樹君は立っていた。 今日も六時まで色んなことを話して、皆が来るのを待っていた。 今日こそ辰樹君を皆に会わせようと、その場から動かないで、二人を呼んだ。 「おはよう!この人が辰樹君だよ。」 驚いた顔をすると思っていたのに。二人は首を傾げて、僕を見ていた。 「どこにもいないよ?」 僕が振り返ると、辰樹君はもういなかった。辰樹君は恥ずかしがり屋なのかと思い、僕はラジオ体操をした。しっかりカードにスタンプを押してもらい、家に帰った。 「お帰り。今日こそ一番乗りだったか?」 意地悪く笑う婆ちゃんに、僕は事情を説明してみようと思った。婆ちゃんと手を繋いで、婆ちゃんの部屋に行った。 「やっぱりか。」 婆ちゃんは、辰樹君の何かを知っているらしい。僕は、婆ちゃんの硬い肩を揉みながら、耳を傾けた。 「辰樹君は婆ちゃんが子供の頃からいてね。どんなに早く行ってもいるんだよ。いつもカッターシャツとスラックスを着ていてね。優しい子だよ、ラジオ体操に来る子達を見守ってる。」 僕の見た辰樹君と、婆ちゃんの言う辰樹君は同じ見た目をしていた。 「辰樹君はね、婆ちゃんのお父さんと同じ歳の子だったんだよ。」 婆ちゃんは辰樹君について、ひいお爺ちゃんから聞いた話を、こと細やかに教えてくれた。 辰樹君は昔、ラジオ体操に行った日、川に落ちて亡くなったらしい。しばらく台風が続いていて、ようやく晴れた日の朝。霧が深くて、久しぶりの鳥達の鳴き声が響いていた日だった。 辰樹君は、皆に会えることが嬉しくて近道をしようと、川を跨いだ。しかし、運悪く足を滑らせ、川に転落。前日の台風で増水した川は、まだ子供だった辰樹君の足では届かなかった。辰樹君そのまま川に流されて、かなり下流で見つかった。辰樹君と仲の良かったひいお爺ちゃんは、この事をずっと覚えていたと言う。 翌朝、僕は辰樹君に会うため、早起きをして公園に走った。やはり辰樹君はいて、いつものように話をした。 不思議と恐怖心はない。 夏休み。井上春馬は、ラジオ体操の行われる公園へ走った。 「おはよう、春馬君。」 春馬は背の高い、優しげな青年の元へ駆け寄った。 「おはよう、辰樹君。」 六時になり、ラジオ体操が終わる頃、辰樹君はもう見えない。 春馬は不思議に思い、父の春に事情を説明した。父は懐かしそうに微笑むと、昔の話を話し始めた。

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朝靄

私の杖

愛する妻は、眠りにつくかの様に、安らかに目を閉じた。目を覚まして、私に微笑むことはもうない。 病院の一室で、妻は長い長い人生の終着点へと辿り着いたのだ。 私は庭から採って来た、桔梗で花束を作り、妻の枕元に添えた。妻が一番愛していた花だからだ。 昨日の妻が、最期に見たいと言っていたからだ。まさか見納めをする前に、向こうへ逝ってしまうとは思いもしなかった。私は案外あっさりと、この状況を飲み込み、医師にその後を託した。 しかし、妻との幸せ過ぎた思い出は、心にしっかりと刻まれている。私が最期を迎えるその時まで、忘れ去られる事はない。 妻の葬式中も、私はどこか上の空であった。もう妻がこの世にいないと、実感が沸かないのだ。今隣に妻がいる、そんな錯覚を起こすのだ。 夜、ふと目を覚まし、隣を見ると空白のみがあるばかり。私はそういう時、涙を流してしまう。別に悪い事では無い。涙を流せば、ストレスが軽減すると言われている。妻は、私にとってストレスだったのだろうか。いや、妻が私の隣からいなくなった事が、ストレスなのだろう。 ずっと二人で、座ってテレビを見たソファー。今となっては、無駄に大きなソファーに成り下がってしまったが。 私は一人、ソファーに座り、テレビをつけた。お笑い番組をやっていた。しかし、私の頭の中には、芸人の漫才が入ってこない。感情を一言で表すのならば、虚無と言えば当てはまるだろうか。 愛想の良く、よく気の利く妻は、もういない。静寂が、私の胸を締め付ける。 ホロり、と涙が頬を伝う。

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