山口夏人(やまぐちなつひと)
30 件の小説山口夏人(やまぐちなつひと)
好きな作品 「K君の昇天」梶井基次郎 「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」三島由紀夫 「狐媚記」澁澤龍彦 「阿修羅花伝」赤江瀑 「芽むしり仔撃ち」大江健三郎 「ぬばたまの」須永朝彦 「火星植物園」中井英夫 「半島を出よ」村上龍 「トビアス」山尾悠子 「獣の奏者」上橋菜穂子 「有頂天家族」森見登美彦 「宝石の国」市川春子 2005年6月11日生 ある文学賞に応募したけど、箸にも棒にもかからなかった作品を挙げてます。
泥の上に立つ 最終話
「あぁ…ごめんよ。サン、すまない。ごめん。ぁぁ、糞ッ。サン…」 僕がサンを殺した。自分が生きたいがために、愛する弟を殺したんだ。嘘をついた。そして廃ビルから遠く表の通りまで逃げて来た。弟から逃げるように。現実から逃れるように。頭の中でサンの呻く声が響いて離れない。 「ごめん、ごめんよ。僕が悪いんだ。すべて僕が悪い…」 雨は未だ降り止まない。泥と化した地面の感触が、切り落とされた足の指の傷口を優しく包んでいた。通りでは、路上生活者の子供たちが雨粒と戯れ無邪気にはしゃぎまわっていた。トタンの屋根の下で寄り集まっている子供たちもいる。屋根の下の子供たちは手に握った袋で鼻を覆うようにしては、白目を剥いて躰を震わせていた。シンナーだ。四五歳程度に見える子供も混ざって一緒に吸っている。彼等はきっと、大人になるころには躰を壊して動けなくなり、腐って蛆の湧く自身の肉体を強烈に意識しながら死んでいくのだろう。突き当りには死しか待っていない。あの子供たちはその事実を知っていながら、現実に目を閉ざしている。閉ざしながらも明日を生きようとしている。あの子供たちはどうして生きるんだ。雨にはしゃぐこの子供たちはどうして生きるんだ。僕はどうして生きるんだ。僕たちが一体何をしたと言うんだろう。この悪夢はいつから始まって、そしていつ終わってくれるんだ。きっと、終わることはない。僕は唇を強く噛んだ。雨を降らしている曇天を睨んだ。腹の底から、ありったけの憎悪を、本当の絶望を叫んだ。 「ああああああああぁぁぁぁぁぁぁ…」 僕に気付いた子供たちも一緒になって空へと叫ぶ。何かに届けと、強く思った。誰かに知れろと、切に願った。この永遠に続くと思われる曇り空を貫いて、遠く、希望とやらに届けと思った。声が枯れるまで僕は叫び続けた。子供たちが僕の必死さに気味悪がり遠ざかっても叫び続けた。叫んでいるうちに、僕の躰から見えない何かが抜けていくような気がした。息を吸い、そして喉を震わせると、胸にある何か、僕の躰の中に、確かに存在する何かが、解放されていく。 サンは僕を許さない。僕に殺されたことを恨んでいるだろう。でも、それでも… 「ああ、生きたい…」 雨が引いていき、雲の間から鋭い幾筋もの光が注がれた。建物と建物の間から物乞い達が続々と這い出てきた。肌の色が違う赤ちゃんを抱いた老婆や、両足の無い男性や、鼻や耳や唇を削がれた少年たちの群れに、楽器を持った盲人。僕たちはそれでも生きていた。そしてこれからも生きていく。何のために?僕は知らない。生きていて良い理由?僕は知らない。死んで良い理由?僕は知らない。この町に納得のいく答えを持っている人間なんていないだろう。僕は呟いた。 「卑怯な兄ちゃんでごめんな、サン」 僕は表通りから身を翻し、廃ビルまで戻る道を歩き始めた。胃が痙攣して中のものが逆流する感覚があった。僕は道端にスープを吐いた。すぐさま野良犬たちがゲロに群がった。その様子を見ていると、急に躰の痛みが戻ってきた。躰が空っぽだった。残っている方の手の平をじっとみつめ、何回も握っては開いてを繰り返した。服がぐっしょりと濡れていた。売春婦の出産を思い出した。生まれた赤ん坊も同じくぐっしょりと血に塗れながら濡れていた。僕は生まれ直したんだ。喉が蛙を轢き潰したような音を立てていた。涙が溢れた。まるで赤ん坊みたいじゃないか。自分がいま笑っているのか泣いているのか分からなかった。僕は泥の上に立っていた。僕は生きていた。
泥の上に立つ 3
「あいつ、ルマに馬鹿みたいな拷問して殺しかけたって。それで闇医者に掛かって余計なお金使ってさ、ホント馬鹿」 「ほんとほんと。私は最初からアイツのことやばい奴だと思ってた。ボスが路上の人間はみんな家族だ、なんて言って仲間にしたけど、アイツがここに現れたときのこと覚えてる?アイツ体中に痣あってさ、あの痣、子供をレイプしようとしてその父親に半殺しにされたんだって。噂だけど本当なんじゃないかな」 喉が渇いた。嗅ぎなれた野菜スープの香りの中に、血と脂の臭いが感じられた。女たちの会話する声が、頭の内側に反射し、長く余韻を残して消えてくれない。 「サンはまだそこの外廊下で座り込んだままなの」 「今日はもう動かないと思う。あの子にとって唯一血の繋がった家族だもの。あら、雨が降ってきたわ」 拷問を受けてから何があったのだろう。あれからどれほどの時間が経ったんだ。躰中が痛んだ。まるで痛みの塊になってしまったみたいだ。頭が重く、瞼を開く気が起きない。息を吸う度に拷問での傷口が熱く脈を打つ。 「ぁぁ…」 「ルマが起きたわ。どう…言って上げようかしら。やっぱり私には無理だわ。ねぇ、あなたが言ってあげてよ」 「やっぱり私の仕事になると思ってた。今日のスープ少し頂戴よ」 「ええ、それでも良いから」 誰かが近づいてきた気配があった。思わず顔をしかめたくなる強烈な香りが鼻を刺激した。売春婦の臭い、拾った異国の消臭剤を体に纏いつかせた酷い臭い。 「ルマ、私の言ってることが聞こえたら返事をして」 「きこ…える」 「あなた、あまり激しく動いちゃいけないのよ。その……あなた拷問で腕を失ったから、動くと出血するの」 その一言で僕は目を開けた。陽の暮れかけた暗い厨房の光景が視界に飛び込んできた。自分の顔をしゃがんでのぞき込んでいる女と目が合った。女の眼球が左右に震える。僕は視界に違和感を覚えた。左側が欠けている。左側が真っ暗だった。 「左側が見えないよ、ねぇ」 そう言うと女は表情を歪ませてその場から立ち上がり、もう一人の女と厨房の部屋から出て行ってしまった。首を持ち上げると、自分の体に毛布が掛かっていることを知った。それでも躰の芯から震えるほど寒かった。切ないぐらいに腹が減っていた。 「ううぅぅ」 呻き声がして厨房の入り口を見るとサンが立っていた。サンは背骨が奇妙に曲がっていた。サンの立ち姿を見ていると、空間ごと歪んでいくような思いがした。まるで涙越しに世界を眺めたときのようだった。眩暈がした。 「サン、腹が減った。スープを取ってくれ」 サンは駄目だという身振りをした。食事の順番は決まっていて、マフィアたちから優先して配給される。物乞いをしている子供は一番最後だ。マフィアたちの加減で、ときにスープが無くなり食べられないこともあった。躰の内側から、抑えられないほど強い怒りが湧き上がるのが自分でも分かった。 「なんで、どうして僕たちが最後なんだっ。辛い思いをするのはいつも僕たちだっていうのにっ」 僕は右手で地面を殴りつけた。しかし、返ってくるはずの硬い感触が無かった。それですべてを理解した。右肘から先が、見慣れたはずのそれが失われていた。腕を失った。片目を失った。足の指を失った。性器を失った。これまで得たことなんて一度もなくて、それなのに今あるものはどんどん失われていく。涙は出なかった。これで金が多く稼げるなら良いのかもしれない。そう思った。それがスラムに暮らす人間の、普通の考え方だ。死ぬよりはマシだ。マシだ。マシなんだ。マシなはずなんだ。けれど心配する弟に、そう言い切ってしまうことはできなかった。 外で男の叫ぶ声がした。 「おい誰かっ、俺の嫁が黒人にリンチされて死にかけてるんだっ、助けてくれお願いだっ」 男の叫び声に反応して、廃ビルのマフィアたちが外へと飛び出していく音が地響きのように聞こえた。 「何があったんだ」 「どこでされたっ」 「おいお前らっ、ある武器全部掻き集めろ、今すぐにっ」 男たちが再び建物に戻り部屋を物色する音が聞こえた。僕はゆっくりと立ち上がった。腹が減っていた。上手く躰を支えることができず左右によろめく。僕の躰であって、僕の躰じゃないみたいだ。歩くたびに右肘へ巻かれた包帯から血が滲んで、雫を結び床へと落ちる。サンが裾を掴んだが、僕はそれを乱暴に払いのけた。 野菜スープが入っている大鍋に手を掛けた。スープの表面には蠅の死骸が幾つも浮かんでいた。いつか見た、腐敗死体から溢れ出た体液にも蠅の死骸が浮いていたことを思い出した。尻を天に高く突き出したまま死んでいた、ヒジュラの死体だった。まだ僕は幼かった。マフィアの男に尋ねると、あれは野良の物乞いの子供たちに強姦されて、暴行の末に死んだのだと言った。 左腕に力を入れて大鍋を引き倒した。野菜スープが派手に床へと散らばる。サンが喉の奥で叫び声をあげた。僕は床へと大きく広がるスープを、砂や小石をも一緒に口へと掻きこんだ。呑み込むたびに躰の芯が温まっていった。失った分が戻ってくるような錯覚があった。こんなに食べたのは初めてだ。涙が溢れた。溢れた涙さえ、僕は一緒に飲み下した。生きている間でここまで気持ちの良い瞬間は初めてだった。 そのとき躰が吹き飛ばされた。 「痛いっ」 僕の躰をサンが上から押さえつけた。 「離せっ、腹が減ったんだっ、離してくれっ」 サンは激しく首を左右に振っていた。 「もう嫌だっ。もう全部嫌なんだよっ。死んでもいいから、腹一杯食いたいんだ。お願いだ、なぁ、サン」 サンはそれでも首を左右に振り続けた。頬に、冷たいものが流れ落ちた。僕の涙じゃなかった。 「うぅぅ」 「サン…」 「おい、誰が鍋をひっくり返したんだ」 躰の末端が体温を失った。入り口に視線を走らせると、そこにはマフィアの男の一人が立っていた。手には鉄パイプが握りしめられていた。殺される。そう咄嗟に思った。殺される。死ぬ。死にたい。いや死にたくない。なんだ、僕はどうされたい。なんだ。僕はなんだ。殺されたい。違う。いや、僕は。それは、どうして。生きたい。何も悪いことはしていない。いや、罪だ。なにが。誰か、助けて。なんだ。なんで。 僕の喉は、僕の意思とは無関係に言葉で震えていた。 「サンがやったっ。止めようとしたら吹き飛ばされたんだっ」 その瞬間、サンの頭部が砕け歪んだ。男の鉄パイプがサンの頭に食い込んで、徐々に沈みいくのが鮮明に、克明に見えた。恐ろしく長い時間だった。 サンは鼠の鳴き声のような音を出して床に転がった。足先が痙攣していた。口から泡を吹き、低く呻き続けていた。外の雨が一層激しさを増したのが分かった。男が鉄パイプを再び振り上げた。僕は痛む躰を引き摺って、厨房から逃げるように外へ飛び出た。雨と涙で前が歪んでいた。
泥の上に立つ 2
「どうして、金を回収せずに逃げたんだ」 僕らの部屋を管理しているマフィアの男が顔を近づけた。酷い口臭に束の間僕は息を止める。腕や足は鎖で拘束され、身動きが取れなかった。 「金は回収したんだ。でも、逃げる途中で警官に掴まった」 「っと、嘘はいけねぇ。他の奴らが言ってたぞ。ソナを抱えて逃げようとしたってな。なんでそんなことしたっ。金だけ持って逃げりゃ良かっただろっ」 男は硬い素材の靴で顎を蹴り上げた。視界が一瞬真っ白になる。景色は収縮と膨張を繰り返しながら、元の暗い倉庫へと徐々に戻った。脳が揺れたのか吐き気がこみ上がる。 「なんでソナを抱えて逃げようとした」 「ソナ、は、大切、な、…」絞るようにして声を出す自分を男はいきなり手で制止した。 「今回の損失分はどうやって取り戻そうなぁ。おい、お前、奇形の弟を世話する、身体障害者の兄、なんて設定どうだ。うわぁ、俺って天才だ」そう言葉を吐いて男は倉庫を出て行った。 一体どこが取られる。指か、手か、足か、腕か、脚か、耳か、鼻か、眼か、どこだ、どこが取られる。痛いのは嫌だ。躰全体が震えだし、歯が音を立てる。僕は大切な仲間であるソナを、警官に暴行されるような危険から逃がそうとしただけだ。それが、どうして。僕の何が悪いんだ。 いつか自分の番が来ると、覚悟はしていたつもりだった。覚悟がこんなにも簡単に覆るなんて。逃げたい、失いたくない、痛いのは嫌だっ。弟の顔が浮かんだ。ああ、サン、お前が舌を切られたときも逃げたかったんだろ。糞ッ。糞ッ。僕は、顔も知らない両親のことを思い浮かべた。お前らが…、お前らが僕らを産んだから、こんなに苦しいんだっ。唾を吐いた。世界を恨んだ。糞ッ。糞ッ。 「お待たせ、待ったか。ハハッ」 男が上機嫌に戻って来た。その手にはライターと、根元から緩やかに発して長く伸び、先端で鋭く結ばれた刃物が握られていた。僕はあれを知っている。一度、脱走した物乞いの子供を使って、教訓にと、拷問をさせられたことがある。そのとき僕が握っていたのがあれだ。男はマチェーテで空を鋭く切った。 「こいつも腹が減ってるところだったんだとよ。どこを切られたい。お前の口から言え」 男はマチェーテの側面で僕の頬を軽く叩いた。汗で湿った皮膚は粘っこい音を立てた。呼吸が早まる。血の味がする。 「ゆび、手の指、手の指が良い」 「えっ、なんだって」 「だから、手の…」 言い終わらぬ内に、男がマチェーテを足へと振り下ろした。 「ぐぁっ」 「おい、意識失ってんじゃねぇよ。面白いのはこれからだろ」 痛みが意識を引き戻す。男が僕の髪を引っ掴み、視線を足へと固定した。足からは親指と人差し指が切り離され、中指の先が削られていた。血が止めどなく溢れ続けていた。男が黙ったままライターの火を点け傷口へと近づけた。 「熱いっ、あぁぁ、あつっ、ぃ」 手足に力を入れて暴れる。口中に汗か涙かの塩気が広がる。鎖が喧しく鳴るだけで、景色はこの場から少しも動かない。 「まぁ、安心しろ。殺しやしねぇよ。焼かないと傷口が腐るからな。腐ると余計に金が掛かる。闇医者も最近、治療費を上げやがった」 頭の中が暗転を繰り返し、耳に届く男の声も途切れ途切れだ。それでも、足先の痛みだけは鋭く感覚を保ち続けていた。 「あ、こらっ、舌噛むんじゃねぇよ。口開けろ」 男が足元に捨てられていた襤褸切れを口に突っ込んだ。喉が振動し続け、痛みを叫んでいる。痛みを叫んでいる僕が、そこにいる。そのとき突然、僕が、僕の躰を離れていく感覚があった。目の前の出来事が、まるで他人事のように感じられた。視界は確かに目の前の拷問を映していたが、なぜか痛みを感じない。僕は未だ叫び続けていた。しかし、叫んでいる感覚がなかった。 「チッ、うるせぇな。ちょっとは黙れ」 男が僕の腹を殴りつけた。痛みは無い。僕は男がすることを冷静に眺めていた。男が僕のズボンを下げ、縮んだ性器が露わになる。男は草の茎のようなものを取り出して、僕の尿道へとそれを差し込んだ。 「まぁ、これは人目につくもんじゃないからする必要もないんだけどよ、お前がしたことを考えたら当然だよな。これから損失分をお前の体で支払ってもらうけど、お前のちんこを切り取るのはさ、罪に対する償いだ」 僕はなぜか眠たくなってくるのを感じた。眠気が、僕の意識を包み込んで、奥の暗いどこかへと引きずりこもうとしている。やめろっ、離せっ。考えることができなくなっていく。どこか、暗い、暗い場所へと。
泥の上に立つ 1
主であるマフィアの車が行ってしまうと、僕らはいつものように、インド郊外のこの町の通りで、物乞いの仕事を始めた。現在の時刻は知らない。とにかく朝早くからだ。腕時計を巻いている者もちらほら見かけるが、あれは廃棄された故障品を拾って巻きつけているだけだ。所謂格好つけ。時間を気にする人間はこの町には存在しない。僕は合図を出した。すると、頭と躰に奇形を持っている弟のサンが、呻き声を上げて知的な障害をも持っている風に装い始めた。そして僕が、路上を行き交う人々に声を掛ける。 「助けてください。弟を助けてやってください。今日の分の食事だけでも弟に食わしてやりたいんです。誰かお願いします。弟が、弟が…」 毎日がこの繰り返しだ。これじゃあ、死んでるのと同じだな、いつか弟とそう笑い合ったのをふと思い出した。物乞いをして、飯を食って、糞をして、硬い寝床で朝を迎える。次の日も、物乞いをして、飯を食って、糞をして、硬い寝床で朝を迎える。きっとこれからもずっと同じだ。変わる可能性は?無いな。まず、大人になるまで生きてるかも分からない。死体から、死体になるまでのほんの一瞬。 通りを行く人々の中に、ときおり興味深げな視線を寄こす人間がいる。こちらを見ている人間のなかでも、靴を履いている者と、履いていない者がいる。僕らがターゲットに選ぶのは靴を履いている、金を持つ人間だ。僕たちに注目し、なおかつ、靴を履いている人間を見つけると、僕は急いでそばまで行って、その服の端を掴む。すると、多少の憐れみを僕たちに覚えた人間にもやはり差別意識があるのか、触られたことに嫌な顔をし、離してくれっ、と短く叫んで僕の手の中に金を握らせる。それが僕らの戦い方だ。絶対に成功するわけではなかったが、上手く金を取れると、サンと目立たない程度に拳と拳を合わせて喜びを分かち合うのだった。 「誰か、弟に今晩の分だけでも、食事を取らせてやりたいんです」僕はそう言いながら左右に視線を巡らせた。僕らと同じマフィアに管理されている物乞いの子供たちが等間隔に配置されている。僕の左にいるソナは、マフィアにおととい付けられた肩から肘までの裂傷が、未だに瑞々しく太陽の光を反射していた。 マフィアたちは、この町に一度持ち上がった開発計画の名残りである廃墟の二階建てビルを占拠し、一階の三部屋に物乞いの仕事をさせている子供たちを住まわせていた。今まで、僕たちのいる部屋の子供は誰一人としてマフィアから罰を受けたことがなかったから、おととい、マフィアの男に連れられて遅く帰ったソナがそれと分かる大けがを負っていたときは、僕らの部屋と他の部屋の子供たちを隔てる透明な壁が、音を立てて崩れたような気がした。 僕らも馬鹿じゃない。ソナへの罰と、ここ最近、食事の量が減ったことから考えて、マフィアたちは金に困っているのだ。その原因は分かっている。政府が警察による路上生活者やマフィアに対しての取り締まりを強化したことと、それに便乗して乗り込んできた黒人組織の勝手な振る舞いによる、薬物の高騰だ。マフィアたちは皆が薬物中毒者だ。悪事を働いてでも次に使う薬物を用意しなければ、中毒症状で死にそうになる。マフィアたちが使用しているのはヘロインで、スラムで流通している薬物のなかでも、タブー視されているが故に特に高価なそれは、日に日に値段が上がっていく。前までは余ったヘロインを僕たち子供に分けてくれることがあったが、今ではそんなことなくなった。馬鹿じゃない僕と弟は、どれだけ金を稼ごうと、いつか罰の対象になることは避けられない運命なのだと理解していた。それでも、一体どこへ逃げられるというのだろう。逃げてもマフィアに殺されるだけだ。死体から死体に変わるといっても、死んでいる死体よりかは、生きている死体のほうが楽しみがある。なにより死ぬのは怖い。少しでも長く生きていたかった。 「誰か、弟に…」 三人目から金を騙し取れ、四人目の獲物を探していたその時、この道の曲がり角に座っていた物乞いの子供が急いで立ち上がるのが見えた。子供は手足を振り回してこちらに走ってくる。何か喚いているようだ。 「うぅぅ」 サンが呻いた。サンは昔、マフィアの身勝手な拷問で舌を根元から深く切り取られて、言葉を話すことができない。 子供がどんどん近づいてくる。しかし子供の声は、何故だかいつもより多い人通りの喧噪に掻き消されてしまう。子供の言っていることが聞こえた手前の子供たちも続々と立ち上がってこちらに逃げてくる。 「まさか、警察か。そんなはずは。だってあいつらがこの路地はこないように買収したって、言って…」 呟いた瞬間、曲がり角から見慣れたカーキ色の制服が二人、口の端に不敵な笑みを浮かべて現れた。二人は凄い速度で向かってくる。 「警察だっ」 僕は急いでサンを立ち上がらせた。サンに自分たちの稼ぎと、隣のソナの稼ぎを握らせて、路地裏へ逃げるように叫んだ。サンが頷き歩いていくのを確かめると、僕は一人では動けないソナのもとへと近づいた。 「逃げるぞっ」僕が胴へ手を回すと、ソナは痛いと涙声で訴えた。我慢しろよ、そう声をかけて、僕はソナを無理に歩かせようとした。 「おい、止まれ」 背中が冷たくなった。顔を上げると、警官二人が僕とソナを取り囲んでいた。 「なんですか」 「しらばっくれるなよ。お前ら乞食だろ。騙し取った金、置いて行けよ」 「僕、何のことだか分かんないや」 背の高い方の警官が、そうかそうかと言いながら僕の右耳を掴んだ。そして、感触を楽しむように何回か揉んでから、とつぜん力一杯に持ち上げた。 「うぅぁぁああああ」 足が地面から離れていく。痛さのあまり喉から絶叫が漏れる。目の前の光景が点滅し、鼓動の音がうるさいほどに鳴っている。耳が熱い。暴れて警官の腹を殴るが、それでも手を離してはくれない。 「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ」 「ごめんなさいじゃねえよ。金を出せって言ってんだよ。おまえ刑務所にぶちこまれてぇのかっ」 腹に一発、拳が飛んできた。もう一人の警官が蹴りを浴びせかける。その度に身体が揺れて、耳の痛みが増していく。もう痛いのがどこなのか分からない。耳なのか腹なのか。ただ痛い。苦しい。辛い。 「お友達はすでに派手にやられてるなぁ。可哀そうだな。俺はそう思うよ。おい、あれ出せ」 もう一人の警官がポケットから煙草を取り出し火を点けて、僕の耳を掴む警官へとくわえさせた。男は真上を向き、煙草を口の端で挟んでもう片方の端から煙を吐き出す。燃えた煙草の先がどんどん灰と化していく。煙草の火の環が下っていくほどに耳の痛みが増していく。形状を残したまま男はフィルター近くまで煙草を吸い切った。 「落とすなよ」 男がくぐもった声でそう言うと、もう一人の警官が男の煙草を受け取り、それをソナの傷口に持っていった。 「何する気だっ、止めろっ、止めてくれっ、お願いだっ。僕の耳でもなんでもくれてやるからっ」 煙草の灰が落とされると、肉の焼ける音が聞こえた。 「熱いッ、ぁぁぁぁ、熱ぃ、ぅぅ………」 そのとき、右耳を掴んでいた手が離された 「チッ、何だよ、金あるじゃねえか」 僕は両手で右耳を押さえてその場にうずくまった。何が起きたんだ。朦朧と霞む意識の中で、懸命に持ち上げた視界に映ったのは、警官に金を渡すサンの姿だった。 警官が行ってしまうと、サンが僕へと駆け寄った。 「ううぅぅ」 「なんで金を渡したんだっ。俺のことなんか無視して行けば良かったんだ」 僕の言葉にサンは激しく首を振った。 警官に引っ張られて裂けた耳の付け根から、血が顎を伝い地面へと流れ落ちた。地面が酷く濡れていた。自分の衣服が濡れていることに気がついた。僕が失禁したのか。 「今日はもう帰ろう」 アジトまでの長い距離を僕らはゆっくりと歩き始めた。おんぶしたソナが僕の耳の傷をしきりに撫でていた。濡れた土が素足に纏い付き、いつまでも離れてくれなかった。
天使の骨 最終話
僕は手伝い初日から四日目の朝までを高熱でうなされ寝込んでいたのだそうだ。僕の看病をしてくれていた研究員兼医療スタッフの森山さんが教えてくれた。施設に着いて、叔父と話をして別れたあと、自分の部屋で横になった以降の記憶が全くなかった。うなされたらしいことすら覚えがなかった。 熱が引いてからはすぐに手伝いを始めた。滞在の予定は一週間だったので、つまりは三日間を無駄にしたのもあって、残りの時間は生物が映し出されているモニターを凝視し続けることに費やした。森山さんに、そんなに根を詰めたらまた熱を出すぞ。圧迫されるのは俺なんだ。と釘を刺されたが、当然に無視して画面を見つめた。やはり動く生物が観察していて面白かったが、動かない植物や鉱物、視覚的に認識できないものでも、その神秘に浪漫を感じて飽きることはなかった。 観察していて浮かんだいくつかの疑問を、残っている研究員の人たちに質問した。 「この目に見えない熊というのはどうやって捕まえたんですか」 「それはですね、この熊と何らかの関連性が認められたその地帯、空間ですね、をまるごと切り取るように採取して部屋に収容したんですよ。熊が付いてくるかは確実ではなかったのですが、奇妙な生き物たちです、特性も行動も人智を超えたところにあります。どれだけ考えたって無駄なので、大胆な決断が求められるのです。この事例は成功例ですよ」 他の人にはこんなことを聞いた。 「どうして海の人類の罪人が収容されているんですか」 「ううん、その話は厄介だから説明したかないんだがなぁ。まあ良い。一回しか説明しねぇぞ。海の人類を発見した俺らは、海の人類を研究したいがために、武力で脅したんだ。 武力でビビらせながら、海の人類側から何人かを引き渡す条件を無理に押し付け、海の人類の言語も解析して、俺ら優位な話し合いのもと協議を重ねた。海の人類は身内で揉めたあと、死刑制度がなく扱いに困っていた罪人を渡すことを決定した。そういうことさ。俺は反対してたんだがな…」 彼は話し終えると決まりの悪そうな顔をして足早に去ってしまった。 僕の中で何か言葉にならない衝動が膨れ上がっていく気がした。なんだろう、この気持ちは。今まで胸に浮かんだことがない、だから言葉にできない感情。叔父が帰ってくるまでに、僕はこの感情に最適な言葉を見つけておこう。そして、それを話そうと考えた。 僕は激しい甘さのコーヒーを喉に流し入れた。一週間ぶりの刺激だった。叔父さんの髭が出張中に一回り成長したような気がする。 「叔父さん、僕、小説を書こうと思うんです」 「はて、それはまたどうして」 叔父はデスクに肘をついて、自身の頭皮を指で小指から順に優しく弾いていた。愉快な音が部屋に響いていた。 「僕、この一週間、正確には熱でうなされてたから三日間だけど、研究所にいる生物たちを眺めていて、ふと彼等の生の流れ、とでも言うんでしょうか、そこに物語が存在することを理解したんです。この世界は物語で構成されている。そういう直感に打たれました」 僕が話している間、叔父は口元に微笑を浮かべていた。あまりにもおかしそうに笑うので、僕のことを馬鹿だと考えているんじゃないかと不安になった。 「やっぱり馬鹿らしいですか」 「いや、そうじゃない。君は優れた感覚を持っている。そのことを叔父として嬉しく思っているのが顔に出ただけだよ。君は君の考えを実行しなさい。若人の夢を馬鹿にする大人がいるのか?すくなくとも、今の君の目の前にはいないよ」 叔父は歯をむき出して笑った。 「ありがとうございます。それでなんですけど、この研究所のことを題材にして書いても良いですか」 この願いはダメ元だった。しかし小説の題材にしないではもったいないほど魅力に溢れている場所だ。叔父は長く沈黙していた。僕はさながら流れ星が流れるのを切実に待つ子供のような心持ちで叔父が次に口を開くのを待っていた。 「いいよ」 「え、いいんですか」 「うん、別に今回見聞きしたことをそのまま書いてくれたって構わない。でもそれだと小説じゃないのか」 「どうして良いのか教えてください」 「一つは、研究所はここだけじゃないということ。定期的に移動するんだ。研究所は世界中の至るところにある。なにせ僕たちを管理しているのは世界政府だ。世界を飛び回るのに苦労はないさ。二つは、君がこの研究所に対して無害であることが調査済みだからだ。君の性格的特徴、経験、履歴、あんまり言うと気分が悪くなることまでね。三つ目が、そんなこと誰も信じない、だ。聞くが、君はここに来る前にこの場所の話を耳にしていたら信じていたかい」 「いえ、たぶん絶対に信じていません」 叔父は深く頷いた。 「心赴くままに書きなさい」 僕はその一言で、より一層、小説を書く決意を固めた。一週間のことを書こう。熱を出していたあいだは想像で埋めよう。それが許されるのが小説だ。題名は…、そうだな、「天使の骨」にしよう。僕は、物語の始まる気配を感じた。
天使の骨 3
これは夢か。僕はひび割れた石廊の上に立っていた。周りを見渡すと無限に続く枯れた大地と、抜けるような青空があるだけだった。石廊はずっと先へ伸び、終着点らしき場所には黄色に輝く光球が見えた。僕は裸足だった。衣服も襤褸切れに変わっていた。喉が渇いていた。青空の青を構成している色彩の一つ一つが、石廊と大地を構成している小石や砂塵の一粒一粒が、全て同等の存在感を主張していた。目の奥が焼けるような熱を持っていた。僕は両目を手で覆い、その場にせくぐまった。あの光球は何だ。この石廊は何だ。青空や大地の存在がこうも激しいのは何なんだ。目の熱が痛みを伴い始めた。目蓋を手の平で強く擦った。痛みは少しずつ、だが確かに、その強度を増していく。あぁ、痛い…。僕は恐怖した。増幅していったさきの、最大の痛みに。目蓋に爪を立てた。そして何回も掻き毟った。傷から血が溢れた。爪の間に抉れた肉が詰まった。やがて目蓋は躰から千切れた。僕は両目が閉じられなくなった。そのとき、前方から風を感じた。柔らかく温かみのある流れだった。僕は顔を上げた。あれは…。 天使だ。天使が石廊をこちらに向かって歩いてきている。 「おはよう」 目の前の光の明るさに思わず僕は顔をそむけた。傍らに叔父が立っていた。自分の部屋じゃない。上体を起こそうとして、首に嵌められた鉄輪が喉に食い込み反射的に咳をした。身動きが取れない。手首や足首も固定されているようだ。僕は躰を無茶苦茶に動かした。 「まあまあ、そんな暴れるんじゃない。どれだけ抗おうと拘束は解けないよ。彼がそう言っている。それとこれから行われることを、君は逃れることができない。これもそう彼が言っているんだ」 叔父は焦点の定まらない不気味な表情で囁くように言った。 「叔父さん、これは一体どういうことなんですっ。説明してください」 「声を荒らげるんじゃないよ。君は何も心配する必要はない。と、言っても納得できないだろうから、質問をしなさい。それに答える」 「どうして僕は拘束されているんです」 「それは確実に受躰させられるようにだ」 「じゅたい、ってなんです」 「天使の骨を君に埋め込むのだよ」 「天使の骨?なんで、どうして」 叔父は僕の寝かされている鉄製の台へと近づいた。そして台に人差し指の爪を立てて一定の間隔で叩き始めた。そのリズムに合わせて叔父は歌うように喋ることを続けた。 「昨日の夜、君と離れたあとに僕は天使の骨が収容されている部屋へと一人で入った。呼ばれた気がしたんだ。僕は天使の骨に触れた。すると声が聞こえた。彼はこう言った」 叔父は彼が言ったという文言を口にしたが、それは日本語とはかけ離れた発音でなされ、僕には内容が理解できなかった。叔父は僕が寝かされている拘束台の周りをぐるぐる歩きだした。彼が言った文言がそれは素晴らしかったというようにそれを始まりから終わりまで幾度も呟いていた。表情は恍惚としていた。およそ人間の浮かべる表情ではなかった。 「彼とは誰なんです」 「彼かい。彼は僕たちのように固定した外観を持たないし、その存在が意味するところも実に多様だ。だから説明は難しい。あ、何だい」 叔父が急に立ち止まった。そして天井に向かって両手を差し出した。叔父は目蓋を固く閉じ、しきりに頷いていた。 「彼が教えてくれたよ。最も自身を表すのに的確な言葉をね」 「彼は一体」 「彼は自身を、物語、そう言った」 「物語…、叔父さん、僕はあなたの言っていることが何一つ理解できない」 「今理解する必要はないさ。それに真の理解など現象が進行している間は到れるわけがないのだからね。さて、そろそろ御託を並べるのは止めにして実行に移そう」 叔父は白衣のボタンを上から外していった。中に来ているシャツが露わになり、そのシャツがところどころ不自然に隆起しているのが見えた。叔父は白衣を脱ぐと床に投げ捨てた。叔父はシャツのボタンも上から外していった。 「それってまさか…」 「まだ受躰しきってないんだがね、天使の骨だよ」 叔父の腹部が僕の目に映った。叔父の腹部には、無数の骨が刺さっていた。常軌を逸した光景に思わず目を反らした。骨と骨のぶつかる乾いた音が部屋に響いていた。 「あなたはおかしいっ。一体どうしてっ」 僕は叫んだ。言葉を捨て、喉が痛むほどの音を発した。手足を力の限り暴れさせた。しかし冷水のように冷ややかな叔父の笑い声を聞いて、僕は助けが来ないことを嫌でも納得させられた。僕は深く沈黙するしかなかった。叔父の声が台の下方から聞こえた。うずくまったのだろうか。叔父は怒涛の早口で語り始めた。 「君が逃れられないのは、君が逃れられないと決まっているから。全ての出来事が、然り、であるのは、全ての出来事が初めから、然り、であると決められているからだ。僕は天使と一つになってそれを知った。天使というのは、世界の流れの一つを担う波が擬人化したものだ。天使が波の受肉体として現れた目的は、自然の摂理のままに一度弱まった物語の力を、再び現世に回復せんとするためだ。意味、などというものを求めてはいけない。意味は人間が現象を理解したつもりになるための道具に過ぎない。現象は意味に先行する。彼は、いや、僕は、君に僕の骨を分け与える。僕は自分の骨を、君以外の幾人かに譲渡する。君を含めた幾人かは、次の誰かに僕の骨を意識的か無意識的かによって譲渡する。僕の骨は世界各地に散らばり、やがて物語を起こす。物語は、世界の現体制を破壊するだろう」 そのとき叔父から目を逸らしていた自分の頬を、何かが羽搏き、生まれた風が撫でた。反射的に首を回した。天使が僕の顔を覗きこんで浮いていた。 「僕の右の翼の骨を君に譲渡する」 天使が顔を近づけ、そのよく熟れた赤い唇を、僕の唇へと重ねた。僕は抑え難い眠気に躰を預けた。
天使の骨 2
「こっちが明滅する蝶で、こっちが人間でいうところの脳波が確認された、つまりは生きている鉱物。そして最後が、天使の骨だ」 「天使の骨、ですか」 「あぁ、言葉の通り、天使の骨さ」 どうして天使の骨を観察するのか。そもそも、天使が存在するということなのか。そういった僕の疑問を透かして見たように叔父は説明を付け加えた。 「天使といってもね、身体的な特徴から便宜的にそう名付けられただけで、特別、宗教的な意味合いが名付けの意図にあるんじゃない。っと、当初は考えられていた。この生物が、面倒だから天使と呼ぶけど、最初に見つかったのは五年前だ。日本へと密入国しようとしていた船に、なぜか天使だけが乗っていた。警察から送られてきた天使は法則性があるらしい言葉のような音を発したが、世界のどの言語とも類似性がみられず解析はできなかった。我々は天使を保護し、マニュアルに則って実験を行った。でも今までに紹介した生物たちのような際立った能力は確認できず、翼の生えた人間でしかなかった。こう、パタパタっ、と飛ぶことも無かったし」 叔父は鳥が飛ぶような真似を両手で小さくした。そしてここで一度話を区切った。話をしている相手の僕が、自身の背後に位置していることにやっと気付いたように躰を扉の方向からこちらに向け直した。遅れた髭が振り向きの勢いを受けて左右に揺れた。 「そんな天使だがね、保護から一年後に急死したんだ。原因は不明だ。天使は光合成をすることが実験で分かって朝昼夕の三回、陽の光を浴びさせていたんだが、夕日を浴びている途中に突然意識を失い、そのまま生体反応をも失った。観察している対象が亡くなった場合、その観察は死後も継続される。どういった腐り方をするのか、だとかを記録するんだ」 叔父はそこまで話すと口を噤んでしまった。そして彼の内側で何かしら思案しているのだろうことが見て取れる難渋な表情を顔面に浮かべた。そして僕に言った。 「どうして僕はこうも天使について説明しているのかね」 「ええと、なんでだったかな、忘れました」 「まあ良い。なぜだか僕は、さらに天使についての説明を行わなければいけない気がする。ここで立ち話も疲れるだろう。私の部屋に来なさい、椅子がある。君はコーヒーは飲めるかね」 「コーヒーはミルクと砂糖を入れないと飲めません」 「偶然だな、私もそうだ。君とは仲良くなれそうだ。いや、この場所にいる連中は皆が大人ぶって…」 叔父は相当うっ憤が溜まっていたらしい。部屋まで移動するあいだ同僚の愚痴を吐き続けた。愚痴は湯水の如く溢れ出てきて、途中から生返事を返していた。しかしあんまりに多いものだから、部屋に着いて叔父が喋るのを止めたあとも、僕の躰には残る疲れがあった。これなら、扉の前で説明を聞いていた方がよっぽど楽だったかしれない。 叔父は上質な革張りの肘置きが付いた椅子に深く腰を沈みこませ、僕はこちらも革張りの、しかし肘置きの付いていない椅子に浅く座った。二人共、砂糖とミルクのふんだんに入った激しく甘いコーヒーを体に流し込み、一息ついた。本来窓がある位置に嵌められた液晶には夕方の映像が映し出されている。現実時間と連動しているのだそうだ。外部から見ると窓がなく、出入り口が一つだけの無機質なこの建物は、廊下や天井に液晶が掲げられ、内部は開放感があった。上部と研究員との妥協点なのだと、建物に入り、液晶について尋ねた僕に叔父は答えた。窓を穿てと声高に叫ぶ研究員と、それは無理だとつっぱねる上部との争いは、それはもう途轍もない熱狂ぶりだったと楽しそうに語った。「窓に対するあの時期の執着は、完全に研究に対する熱量を上回っていたよ。だけど思うに、人間がこうして阿呆なことをしているうちは、人工知能は人間に勝てはしないさ」叔父は本当とも嘘とも判断できない声音で小さくそう呟いたのだった 「じゃあ、改めて、天使の骨についての説明を行おう。天使は死んだ。僕たちはその死体を観察していた。観察しているなかで、天使の死体は徐々に自身の翼で自身の躰を包み始めた。やがて躰が完全に隠されると、次に急速な腐敗が進行した。翼の隙間から蛆や蠅が溢れた。そして一昨日だ。翼の羽が一気に抜け落ちて、骨組みだけの天使が現れた。その羽が抜け落ちた瞬間の映像がある。居合わせたのは古賀君だった」 叔父はキーボードを操作し、デスクトップに当時を記録した動画を流し始めた。古賀という女性は規則衣である白衣に身を包んだ眼鏡の女性で、映像の画角は入り口側斜め上から見下ろすかたちだった。 「どうして古賀さんは部屋の中にいるんですか」 「ええと、古賀君は当時天使を担当していたんだが、担当は日に三度、観察対象と生身での接触をするように決まっているんだ。なにせ奇妙な生き物たちだから、電子的な影響を及ぼすものがいるかも知れないだろ。だから直接目視でも確認するんだ。その結果、僕らにどのような危険があるかは分からないけど、それは、その、多額の給与であるとか、労災だとかの物質的かつ心理的な補償が…まあ、関係のない話だ。画面を見てくれ」 古賀さんは天使の周りを回り続けている。一回、二回、三回。四回目に差し掛かったその時、天使の羽が全て抜け落ちた。古賀さんが壁に背を接し身構える。天使の羽は床に触れるやいなや形が消滅している。まるで蒸発するようだ。 「これ羽はなんで…」 「まあ待ちたまえ、ここからが重要だ」 現れた天使の骨は微かに振動していた。揺れは少しずつ大きく緩やかになっていく。振り子運動が逆再生されるように。古賀さんは目の前の光景に束の間呆然としていたが、事態が呑み込めると出入り口へ慎重な足取りで向かった。出入り口につくと鍵を取り出し後ろ手で扉を開けた。そして一瞬天使の骨に背中を見せたその時だった。天使の翼を形作っていた骨の一部が勢いよく主体を離れ、古賀さんの背中に突き刺さったのだ。古賀さんはしかし部屋を出て扉の鍵を閉めてしまった。古賀さんが出て行った部屋には、骨の一つが欠けた天使の骨格が静かに佇んでいた。 「見たかい」 「はい、見ました。古賀さんはこのあとどうなされたんですか」 「古賀君はこのあと、上司である僕に天使の異常を報告しにきた。そして映像を確認したらびっくり。古賀君の背中に天使の骨が突き刺さったじゃないか。古賀君も気づいていなかった。その場で古賀君の躰を検めた。だがね、そもそも白衣は破れていなかったし、背中に傷も確かめられなかったんだよ。映像では相当の速度で背中に衝突していた。さらに詳しく古賀君を様々なスキャンにかけるなどしたが、結局、天使の骨は見つからなかったんだ」 叔父はお手上げだという身振りをした。 「それは今も見つかってないんですか」 「ああそうだ。もう惨敗だよ、痕跡も無い。古賀君も隔離されてはいるが、ピンピンしている。いったいどこに行ったのやら」 僕はコーヒーを飲んだ。甘さで舌が痺れた。とんでもないときに研究所へ来てしまったようだ。天使の骨なるものが行方を晦ましてしまって、今もどこか分からないでいる。被害は出ていないらしいが、それは、今の時点で出ていないだけだ。 「僕、叔父さんたちが出張に行くあいだ、無事に手伝えるでしょうか。天使の骨がどこにいるか分からないとなると、怖いんですけど」 「手伝いといっても、モニター越しに対象を監視するだけだよ。なに、全員が出張するわけじゃない。異常があれば残った者が対応してくれる。研究所の手伝いという字面だと仰々しく思うだろうが、名ばかりさ。君は休暇とでも考えてくれ」 「はあ」 僕は曖昧に頷くことしかできなかった。 「じゃあもう遅いから、君は自分の部屋に戻りなさい。場所は覚えているね」 僕はもう二言三言叔父と言葉を交わしてから部屋を後にした。廊下の液晶には、人間がこれまで認識してきた夜という概念を平均したのだろうどこか既視感のある風景のが広がっていた。僕は液晶に触れてみた。無機的な感触が指に返ってきた。窓から見るこういった景色と、液晶で見るこういった景色の違いは、たぶん僕には判別できないのだろうと思った。偽物でも、人間の主観が本物だと思ったのなら、それは本物と変わらないんじゃないか。廊下の照明は昼間ここに着いたときより抑えられていた。ちょうど月明りぐらい。夜に囲まれ、月に似た光量に照らされていると、僕は世界の端っこに一人孤独でいるようだった。いくつか角を曲がり、やっと自分の部屋を見つけると、僕は夜の気配から逃れる気分で扉の内側へと滑りこんだ。 部屋の装いはシンプルで、寝台と机と椅子とタンスが一つずつ、扉から正面の壁には廊下と同じ液晶が掛けられていたので、僕は叔父に聞いていた操作方法でカーテンを引いた。カーテンも映像でしかなかったが、ないよりは落ち着いた。カーテンの端が風に扇がれ揺れていた。風は吹いていない。視覚と触覚のギャップに多少もどかしさを覚えた。僕は寝台に倒れ込んだ。 正直この研究所に来てから驚くことばかりで頭が疲れてしまった。僕の常識から大きく外れた超越的な生物たち。それも一匹や二匹の話ではなく、何匹も飼われているなんて。僕は夢を見ているのではないだろうか。引きこもりの生活の果てに、病的な世界へ閉じこもってしまったんじゃないか。そういう気がした。意識に暗幕が掛かった。目を開けていられないほどの睡魔に僕は従うことにした。これが夢か現かを確かめるのは明日でも良い。僕はもう一度だけ目を開けて、そしてまた閉じた。何かが羽搏き、生まれた風が頬に触れた気がした。
天使の骨 1
「こっちは透明になれる蝙蝠で、こっちは三本足のからす。こっちは三百年ほど前に僕らの祖先と道を違えて海中で独自の進化を遂げた人類の、彼等の国で罪を犯した個体。こっちが宇宙ゴミから宇宙ゴミへと移動していたところを捕らえられた無酸素状態でも生きられる不思議なカエルに、幼年期の少女にしか認識することができない大きな熊、となってはいるが、あいにく僕は幼年期の少女ではないからその姿を確認したわけじゃない。姿かたちは、精神的に安定している全国の少女たちの中からランダムで進出された者たちに口頭で説明してもらったものを総合したんだ。なにせ無知なる善良な少女たちだ。そこにいるものが本当に熊かは分からない。本当にそこにいるのかもね。そしてこっちが…」 固く閉じられた重々しい印象の扉を指さしながら説明を行い、軽い足取りで前を歩く男性は、僕の母の弟にあたる島ジョンソンさんだ。彼はその長身を白衣で包み、頭髪は綺麗に剃られ白人の血を思い起こさせる卵の殻のような清潔な頭皮を施設の廊下に等間隔に設置された模擬風景の明るみへと曝していた。彼の口回りに生え物理法則から脱却することに成功した立派な髭は、彼の背後からでも彼の躰の線を越えて左右から見えるほどだった。 大学受験に失敗し、脱線事故を起こして精神的に深い傷を負った僕は、今年の夏を一切自身の部屋から出ずに生きた。食事は三日目あたりから扉の前に置かれるようになったし、父のトンチンカンな説教は五日で止まった。引きこもりの生活をしているあいだ、僕は自身の部屋の天井が、いくつの視覚的錯覚を持っているか観察していた。天井の染みは時に夕日へ吠える獅子となり、時に水面を凝視するペンギンに変化した。数えたところ千二百十二種の様相を呈した。この結果から僕が学んだことは、自室の天井変化すること限りを知らず、である。天井はいかようにも変化する素晴らしきポテンシャルを秘めていた。ひと夏かけて辿り着いた真理はそれである。 その真理を三か月ぶりに対面した母に話すと、彼女はひどく狼狽し、少し考えたあとにこんなことを口にしたのだった。 「叔父さんが仕事を手伝ってくれる人探してるんだそうよ。気分転換に行ってみたら」 僕は承諾し、叔父の仕事場へと向かった。 叔父の仕事は、世界政府が秘密裏に飼育している特殊な生物の性質を技術的に応用できないか研究することだそうだ。そんな機密事項を簡単に話してしまって良いのか、そう仕事場へ向かう道中に電話で叔父に尋ねると、「それに関しては大丈夫だ、安心してくれ。それに、姉に泣きつかれて断れる弟はいないよ」と苦笑交じりに答えていた。母が泣いていたことを、この時に初めて知った。 電車をいくつか乗り換え、山中の無人駅に降り立ち、そこからバスに揺られること四時間ほど、目の前に海が広がる小村の、指定された家の扉を叩くと男性が一人でてきて、入江に導かれた。そこから手漕ぎの船で一時間海を行き、小島に着いたかと思うと、次はモーターボートで三十分波を割って進み、やっとのことで、そのコンクリート造の正方形をした孤島へ到着したのだった。
或る空間的なエクスタシーへの過程 最終話
「ドラマやって無いやん。ホームレスが爆破テロやって、あーこわ」 テレビを見ていた母親が、いかにも恐ろしいといった風に体を震わせる真似をしながら僕へと言った。しかしその声音は落胆の感情の方がよっぽど大きいようだった。 「暇んなったし、晩御飯作ろかな。何があったっけ。そうや、東さんにコロッケ貰ったんや。それでええな、夏人?」 僕は適当に返事を返した。母がこういう質問の仕方をするときは、大抵、母の中で結論が決定した後であり、その決定を覆すことはできないので、適当に流すしかないのだ。それに、僕の興味は、携帯の画面に映し出された或る動画に集中していた。 母が怖いと言ったこのニュースは、昨日の夜に爆破があってから、すっかり世間の注目の的だ。渋谷のハロウィンに参加していた人間の撮影した映像や画像がネット上に載せられ、テレビでも同じ映像が流れている。しかし、テレビが絶対に放送に取り上げない映像があった。ネットではその映像が議論の中心に据えられているのに対し、テレビではそれに触れることはない。テレビはホームレスによる爆破テロだと報じていたが、ネットではおよそ真逆とも言える推測がなされていた。ネットとテレビの対立構造が出来上がっているのだ。 その映像というのは、警官の身体が爆発する瞬間を捉えたもので、撮影していたのは豆腐の角なる配信者の男だった。男は、逃走するときに一応録画をまわしていたのだと言う。彼が当時配信していた生放送の、ホームレスたちとの掛け合いのシーンなどと合わせて、警官が爆破テロを画策していたのではないかとの推測が生まれた。現在の混乱に便乗して、小規模なものから大規模なのまで、様々なテロを呼びかける投稿も増えた。何かが大きく動こうとしている。 電話が掛かって来た。 「山口、一緒に警察襲わんか」 相手は野田だった。野田は幼い頃、警官だった父親の暴力で妹を亡くしていた。 「お前、オトンと警官を重ねてるんやろ。相手はお前と関係の無い人間やで」 「うるさいわい、そんなん分かっとるわ。でもな、もう抑えられへんのや。他の奴らも来る言うとるから。今日の深夜、俺の家に集合。どうする」 その時、目の前にコロッケの乗った皿が音を立てて置かれた。 「お米は自分でよそいや」母が言った 「お前が選べ、山口」野田が電話を切った。
或る空間的なエクスタシーへの過程 5
「さあ、つづいて、今日はハロウィンということで渋谷の様子を見てみましょう」 ニュースキャスターの高島がそう言うと、高島の横に据えられた画面に上からの画角で映る渋谷が表示された。往来は人で満たされ、その熱狂が画面越しからでも伝わるようだ。 「いやぁー、やっぱりハロウィンの渋谷は毎年すごいですねぇ。皆川さんは渋谷のハロウィン行かれたことあります?」高島が出演者の高学歴アイドルに話題を振った。 「過去に一度だけ行ったんですけど、もうほんとに、これを見てもらえば分かる通りすごい人で。そのときは友達と行ったんですよ。でも、もう来年からは家で集まろっか、てことで」皆川はアイドルという職業からか、大きく身振り手振りを交えて喋った。 「あらそうですか。ほんとにすごい人だよね。皆川さんと同じ感想を抱いてる人がたくさんいるんじゃないかな。なのに毎年この人数だから。一体どこからこんなに人が集まるんだろう。四島さんはどうでしょう、渋谷のハロウィン」高島は次に精神科医でタレントの男に質問した。 「いやぁ、僕は元来こういった催しが苦手でしてねぇ。うん。否定してる訳じゃないんだけど、僕にはこんな元気というか、若さというべきか、持ってないですからね」四島は首を傾けながら喋る癖があった。 「僕も持ってないですよ、こんな元気。若者の皆さんには、若さを存分に使っていただきたいですね」 高島が次のコーナーへ進行させようとまとめの感想を口にした時、画面に映し出されたスクランブル交差点の映像が俄かに変化した。人々が或る地点から離れていく 「あれ、なんでしょう。急に皆さん動き出して。青い制服、ええと、警察の方たちでしょうか、その人たちを抑え込んでいる集団が、ええと、どうなってるんだ、これ」 スタジオの全員が困惑していると突然に画面が切り替わった。カメラの横でカンペが出された。 「ええと、ただいま何事かが起こっているようですので、正確な情報が入り次第、ご説明いたします。それでは、続いてのコーナーに行きましょう。今話題のデパ地下デザートにハロウィン限定のお菓子が登場!東京駅には宝さんが行ってくれています。宝さん、聞こえますか」 高島が呼びかけると、高くもなく低すぎることもない張りのある男性の声が聞こえ、それから画面上にこのニュース番組の名物アナウンサーである男性が、今回紹介されるスイーツを背に映し出された。青のスーツが皺もなく身体の線に沿って、女性受けする筋肉質な体格を目立たせていた。 「はい、こちら宝です。高島さん、今回のハロウィンはですね、デパ地下のお店の方々、相当気合が入っていますよ。いくつか回らせていただくんですが、最初はですね、こちら、サチノサトさんのかぼちゃのモンブラン。どうです。オレンジの色彩が目に鮮やかでしょう」宝がかぼちゃのモンブランを持ち上げカメラに近づけると、スタジオでは全員が感嘆の声を漏らした。モンブランと言えば栗のケーキでしょう。うわぁ、美味しそうだなぁ。宝さん嬉しそうだなぁ。スタジオの小言に宝は声を笑いが抑えられないといった様子で震わせて反応した。 「何なんですか皆さん、そりゃあね、こんなに美味しそうなスイーツ目の前にしたら誰だって嬉しくなりますよ。じゃあ、いただきます」宝は律儀にも店員に一礼してからスイーツを口に運んだ。 うわぁ、これねすっごい、そう宝がコメントしかけた時、急に画面が渋谷の映像に切り替わった。高島が画面の切り替わったことに反応するよりも早く、警察とそれを堰き止める人間たちの塊が一瞬浮き上がったかと思うと、塊の内部から巻き上がり膨張する炎が空へと伸びた。映像の衝撃にスタジオの全員が言葉を失った。いつも冷静な司会の高島さえ、画面を睨んでいるだけで言葉を紡げない。カメラの外から高島の名を呼ぶ声が音声に乗った。そしてようやく高島は自身の役目を思い出した。 「ええと、さきほど、渋谷スクランブル交差点で、ホームレスによるとされる爆破テロがありました。警察官が数名その爆発に巻き込まれたと見られます。一般の方の被害は現在報告されていません。繰り返します。渋谷スクランブル交差点で、ホームレスによるとされる爆破テロがありました。警察官が数名その爆発に巻き込まれたと見られています。一般の方の被害は現在報告されていません」