泥の上に立つ 1

泥の上に立つ 1
 主であるマフィアの車が行ってしまうと、僕らはいつものように、インド郊外のこの町の通りで、物乞いの仕事を始めた。現在の時刻は知らない。とにかく朝早くからだ。腕時計を巻いている者もちらほら見かけるが、あれは廃棄された故障品を拾って巻きつけているだけだ。所謂格好つけ。時間を気にする人間はこの町には存在しない。僕は合図を出した。すると、頭と躰に奇形を持っている弟のサンが、呻き声を上げて知的な障害をも持っている風に装い始めた。そして僕が、路上を行き交う人々に声を掛ける。  「助けてください。弟を助けてやってください。今日の分の食事だけでも弟に食わしてやりたいんです。誰かお願いします。弟が、弟が…」  毎日がこの繰り返しだ。これじゃあ、死んでるのと同じだな、いつか弟とそう笑い合ったのをふと思い出した。物乞いをして、飯を食って、糞をして、硬い寝床で朝を迎える。次の日も、物乞いをして、飯を食って、糞をして、硬い寝床で朝を迎える。きっとこれからもずっと同じだ。変わる可能性は?無いな。まず、大人になるまで生きてるかも分からない。死体から、死体になるまでのほんの一瞬。  通りを行く人々の中に、ときおり興味深げな視線を寄こす人間がいる。こちらを見ている人間のなかでも、靴を履いている者と、履いていない者がいる。僕らがターゲットに選ぶのは靴を履いている、金を持つ人間だ。僕たちに注目し、なおかつ、靴を履いている人間を見つけると、僕は急いでそばまで行って、その服の端を掴む。すると、多少の憐れみを僕たちに覚えた人間にもやはり差別意識があるのか、触られたことに嫌な顔をし、離してくれっ、と短く叫んで僕の手の中に金を握らせる。それが僕らの戦い方だ。絶対に成功するわけではなかったが、上手く金を取れると、サンと目立たない程度に拳と拳を合わせて喜びを分かち合うのだった。  「誰か、弟に今晩の分だけでも、食事を取らせてやりたいんです」僕はそう言いながら左右に視線を巡らせた。僕らと同じマフィアに管理されている物乞いの子供たちが等間隔に配置されている。僕の左にいるソナは、マフィアにおととい付けられた肩から肘までの裂傷が、未だに瑞々しく太陽の光を反射していた。  マフィアたちは、この町に一度持ち上がった開発計画の名残りである廃墟の二階建てビルを占拠し、一階の三部屋に物乞いの仕事をさせている子供たちを住まわせていた。今まで、僕たちのいる部屋の子供は誰一人としてマフィアから罰を受けたことがなかったから、おととい、マフィアの男に連れられて遅く帰ったソナがそれと分かる大けがを負っていたときは、僕らの部屋と他の部屋の子供たちを隔てる透明な壁が、音を立てて崩れたような気がした。  僕らも馬鹿じゃない。ソナへの罰と、ここ最近、食事の量が減ったことから考えて、マフィアたちは金に困っているのだ。その原因は分かっている。政府が警察による路上生活者やマフィアに対しての取り締まりを強化したことと、それに便乗して乗り込んできた黒人組織の勝手な振る舞いによる、薬物の高騰だ。マフィアたちは皆が薬物中毒者だ。悪事を働いてでも次に使う薬物を用意しなければ、中毒症状で死にそうになる。マフィアたちが使用しているのはヘロインで、スラムで流通している薬物のなかでも、タブー視されているが故に特に高価なそれは、日に日に値段が上がっていく。前までは余ったヘロインを僕たち子供に分けてくれることがあったが、今ではそんなことなくなった。馬鹿じゃない僕と弟は、どれだけ金を稼ごうと、いつか罰の対象になることは避けられない運命なのだと理解していた。それでも、一体どこへ逃げられるというのだろう。逃げてもマフィアに殺されるだけだ。死体から死体に変わるといっても、死んでいる死体よりかは、生きている死体のほうが楽しみがある。なにより死ぬのは怖い。少しでも長く生きていたかった。  「誰か、弟に…」  三人目から金を騙し取れ、四人目の獲物を探していたその時、この道の曲がり角に座っていた物乞いの子供が急いで立ち上がるのが見えた。子供は手足を振り回してこちらに走ってくる。何か喚いているようだ。  「うぅぅ」
山口夏人(やまぐちなつひと)
山口夏人(やまぐちなつひと)
好きな作品 「K君の昇天」梶井基次郎 「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」三島由紀夫 「狐媚記」澁澤龍彦 「阿修羅花伝」赤江瀑 「芽むしり仔撃ち」大江健三郎 「ぬばたまの」須永朝彦 「火星植物園」中井英夫 「半島を出よ」村上龍 「トビアス」山尾悠子 「獣の奏者」上橋菜穂子 「有頂天家族」森見登美彦 「宝石の国」市川春子 2005年6月11日生 ある文学賞に応募したけど、箸にも棒にもかからなかった作品を挙げてます。