アベノケイスケ

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アベノケイスケ

小説はジャンル問わず好きです。趣味は雑多系の猫好きリリッカー(=・ω・`)

2.月と怪獣とアリクイの姉弟

「そろそろ次の駅ですけど、どうしますか?」  ウィリーがまたもそう呼びかけて、ランドラの方を振り見やる。しかし、彼は今度も返事をすることがなかった。まるで、何かを考え込んでいるかのようにも見えた。形の見えない霧のようなものに、思い悩むような姿。ランドラは車窓の外に流れる、蛍とも発光源の不明な灯に照らされた冬の結晶の輝きともつかぬ白い煌めく放ちに視線をやっていた。  すると、ウィリーは再び進行先に目線を戻して、そろそろ、一息つきますかね、とハンドルを左向きに回して呟いた。アナウンスが、ルーイトンドリア、ルーイトンドリア、と車内にその声が響き渡り、ウィリーはランドラの返事を待たずに、次のそのルーイトンドリアなる駅にヴェルベット号の車両を停車させた。  車両から降りると、ウィリーはんんー、と背伸びをした。そして欠伸をすると、空から降りしきる雪の粒に顔を冷たがらせて、あくび混じりに頬を擦った。  そのルーイトンドリア駅は、煤けた白い石灰造の構造でできている建物で、緑の蔦草やら雑草やらが地面から伸び伸びとしている、一見すると怪しげなお化け屋敷にも見間違えるような風貌をしていた。改札口の上の壁には、木材質の振り子時計や、鳩や雀の彫刻が彫られている。  ランドラは、ふとそのどこか異様にも捉えられる駅の雰囲気を眺めると、あるひとつの想い出をふいに想い出していた。それは、いつか妻と二人で出かけた、海沿いの街の中にある通りの一角のカフェでの想い出であり、なんで今それを急に記憶に起こしたのか、ランドラは一瞬わからなかったのだけど、駅の中に入ると、その理由が分かった。ランドラは、どうぞ、こちらについて来てください、とウィリーに案内されるがままに彼の緩やかに揺れ動く尻尾を見つめながら出口に向かって歩き出した。  駅の構内は、スカンジナビア的な文様を持つスタイルで彩られており、それは、かつてのランドラとヒマワリが入店したカフェの様式と相重なっていた。それに構内の至る所には、コーヒー豆の木やカカオ豆の木がまるで原野のように鮮やかに生え立っており、今にも挽きたてのいい匂いが漂ってきそうでさえあった。  駅には事務室は見あたらず、どこまでも仄白く、触れ心地の良さそうな綺麗な滑らかな石の壁が、他の何をも介さず出口まで左右に続いていた。  そして出口が近づくにつれて、ランドラはもうひとつの記憶を呼び起こした。それは、娘の存在が明らかになった瞬間、つまりは妻の妊娠が発覚した瞬間の記憶だった。妊娠が発覚したのは、ついそのカフェをヒマワリと二人で出ていった後、家に帰り夜の夕飯やその他支度をしている際の昼過ぎのことだった。ヒマワリがあなた、子どもよ、と突如の嬉しさに顔を光らせてランドラに駆けてくる。ランドラも一瞬驚きに身体が固まったが、そうか、と彼女と同じように喜びを顔や体全体に表して、二人で手を繋ぎ抱き合って自分たちの子どもの生命の存在を祝福した。  娘はそして、その一年後に生まれランドラ達の家には、新たな愛しき"宝物"が芽を出したのだった。 「お客さん、ここは良いところですよ」  駅を出ると、ウィリーが少しだけ弱まった雪の下降にほっとしながら、空を見上げ渡してランドラに言った。空はやはり暗く、黒い夜が一面に立ち篭めもしくは充ちはびこっていた。 「……ここは、どこなんだ」  ランドラはそこでようやく、ウィリーにまともな口を聞いたといえよう。あ、お客さん喋れるんですね?とウィリーは馬鹿にするわけでもなくランドラに嬉しそうに言うと、ランドラは少し心外というような顔を彼に向けた。 「この街は、というより、ここはとある大きな国なんです。名前はこの駅と同じで、ルーイトンドリアってんですけど、とにかく、いろいろなものが住んでいて、暮らしているんですよ」 「いろいろ?」 「ええ、いろいろ、です。それはもう、言葉には表せないくらいのね。ねじまき式で動いている九官鳥や、身体中が飴細工で出来ているシャチやオットセイやら、紙粘土の急勾配になっている坂道や……とにかく、たくさんのそんなもの達がこの国にはいるんです。まあ、とにかく、自分で確かめるのが早いかと思いますので」  ウィリーはそう言うと、胸ポケットから何かをがさりと取り出すと、それをランドラの手に渡した。それは、小さなポーチのようなものだった。 「何だ、これは」 「お守りです。それを、ここにいる間は持っていてください」  ウィリーはそう告げると、にこり、と微笑みをランドラに向けた。ランドラはそれを不思議そうに手のひらに眺めると、優しく指で握りこんだ。 「これって、何かの役に立つのか?」 「いえ、それは分かりません。ですが、ひとつの心の拠り所にはなると思いますので、どうか取っておいてください」  それと、とウィリーは帽子の裏から、一つの小さな四角いものを取り出すと、ランドラに手渡した。 「これは何だ?」  ランドラが尋ねると、財布になります、とウィリーは答える。 「きっと、街を散策される際に、お腹の方も空くことと思いますので、その時にその財布を開いて、中身を使いたい分取り出しください」  ランドラはそのウィリーの言葉に、手に持った謎の財布を不可思議に見つめる。 「あ、でも、その財布は電車に戻る時には消えてしまいますので、この街でしか使えないようになっていますのでその点はご心配なく」  ウォリーはそんな風に意味深に言うと、では、私は車内でひと眠りしてますので、ごゆっくりとにこやかにランドラを見送ると、駅の方へと歩いていった。ランドラは、そんなどこか呑気とも言えるウィリーのぬいぐるみのような背中を見やりながら、どれだけ降り積もるも冷たさの感じない雪を他所に、お守りと財布とをズボンのポケットにしまうと視界の先に広がる丘の下の不可思議な街並みを目指して、頼りなく擦り減った靴底で純白の地面を踏みつけて歩き向かっていった。  街に出ると、まるでさっきが嘘みたいにすっかり雪は降り止んでいた。街の名前は、マインワークスという名前らしかった。白チョークで描かれた木造看板が入り口に建てつけられている。ランドラは地面に見たことのないような芝生の道があるのを確かめながら、開けた住居路を歩いていった。  家々の外装はさまざまだったが、煉瓦や木造、コンクリートといった造のほかに、所々では太い蔓草のような植物で構築されたものもあり、ランドラはそんな風変わりな居宅を目にすると、不思議に立ち止まって眺めるなどした。家と家の感覚の部分には普通に塀囲いや犬小屋、家庭菜園や物置などが見られるのだけど、中には水色に透き通った石碑に見られるものが建っていたりもした。その一つに目を向けてみると、「天よりも高く、生の志に限りは要らず」という誰かと知り得ない偉人の名言(めいごん)みたいな言葉が記されていたりして、ランドラはますますこの街の特徴が現時点で無軌道なものに思えて、今ひとつ理解しかねていた。  住宅路を抜けると、少し道の広くなった山地に出る。道端にはガーベラやチューリップが咲き誇っており、それらは特に変わった色彩であるということはなく、ランドラにも見慣れた葉や茎、花びらの一群に鮮やかに咲いていた。それらのいい香りが鼻をついて、あの雪は果たして、この街と別の空間でしか降らないんだろうかとランドラはこの世界の天候に違和感を覚えた。  そのまま山地に入り進んでいくと、左右に生えて緑一面の壁のようになった竹藪が、その他の草木をも除け抑えるように鬱蒼と茂っていた。しかしそれでも上空の太陽の明かりは眩しく、ランドラの身体を白く優しく射して包み込んでいた。竹藪の隙間からは、今にもタヌキやイタチといった野生の小動物が現れそうで、何度か目をやったりもしたが、現れたのは羽虫や少し変わった虫にも見える鳥などだけだった。  そんな竹藪も歩き続けること数十メートルで通り抜けようとしたとき、ランドラの目の前に、二つの物影が姿を現した。物影達はあぶないっ、と何かを手につかんだまま、ランドラの手前で足を止めようとしたが、勢い余ったままに、その速度で彼に衝突をくらわせた。ぐうわあっ、と物影達とランドラはその場に互いに尻を転がす。痛ててて、とランドラは腰部をさすりながら身体を起こすと、目の前に二人の人物の姿を確認した。それは、よく見ると子どものようで、幼くはあったが、彼の娘のようにまではいかないそれなりの年齢の容姿に捉えられた。彼等は同じく白いフードつきのワンピースのような衣装に黒いパンツ、蛇柄のブーツ、そして顔にはまるでアリクイの髑髏を模したみたいな仮面を被ってきた。彼等は手に持っていた弓具や手掴み鎌と思える道具を地面に落とした。それは、どう見ても何かを狩るための狩猟の用具に他ならなかった。ランドラは少しぎょっとして、もしや自分が獲物として狩られやしないだろうな、と身体をこわばらせて、いつでも逃げ出せる体勢をつくろうと立ち上がった。 「あー、痛かったあ」  そう呟いたのは、二人のうちの背の高い方だった。声は女質のもので、きっと十代半ばくらいの女の子だろうとランドラは思った。彼女は、ピンクのストレートヘアをフードから垂らしている。 「姉ちゃん、だから急ぎ過ぎなんだって」  もう一人の方が、弓具を抱え直して立ち上がる。そっちは声色は高いが男質のもので、おそらくはやはり同じく十代いくらかの男の子だろうと思えた。紺色の前髪が仮面の上からのぞいている。そして姉ちゃん、と呼んでいるところからすると、この二人は姉弟なんだろうとランドラは推察した。 「あ、どうも、この度はすみませんでした」  怪我はないですか?と姉の方が片手に掴み鎌を取ってランドラに話しかける。あ、え、ええ大丈夫です、とランドラは何とか落ち着きを取り戻して答える。 「うちの姉ちゃんがご迷惑をおかけしました。ほんと、おっちょこちょいなもんで」  弟の方が言うと、姉がこら、そりゃあんたも同じでしょーが、と鎌で彼の頭を小突くようにつかんだようそれを振り回した。嘘だって、と弟が慌ててそれをかわしながら言う。何なんだ、彼等は一体、とランドラはその奇妙な二人組のやり取りをただ観察した。 「……あの、君たちは、一体」 「あ、これはまた失礼を。ほら、あんた、ちゃんと説明しなさいよ」 「えー、姉ちゃんがすればいいでしょ」  何言ってんの、と姉が弟の背中をばしりと叩くと、分かったよ、と弟がランドラの前に一歩出てえっと、僕たちはですね、と自分達の正体について説明を始めた。 「僕たちは、この街の"特捜班部隊"の隊員なんです」 「特捜班部隊?」  ランドラが聞き返すと、はい、そうですと弟がきっぱり答える。なんなんだ?その部隊ってのは、ランドラがさらに尋ねる。 「ええーっと、ですね、話せば長くなりますけど…」  弟はそう言うと、まあ簡単に言えば、と姉の方をちらりと振り返ってこほん、と咳を一つつくとそれはですね、と声をあげた。 「この街を襲来の魔の手や獣の手から我々の守衛により保護し、奴らの侵略を阻止すべく結成された防衛部隊(ディフェンサーズ)になります!」  弟がそう自信満々にえへん、と言わんばかりに胸を張ると、何調子乗ってんのよ、と姉が仮面越しにでこぴんを弟にお見舞いした。 「えっと、魔の手、って、この街に何かやってくるのか?」 「そあですね、時々、ですけど、やってきます」  その姉の言葉は、冗談ぽさはつくり話的な軽薄な口調にはは感じられず、どこか真実味を帯びさせてやまない空気をまとっていて、ランドラもそれに引き込まれて、思わず喉をごくりと鳴らしていた。それはきっと、彼ら姉弟が奇妙異不可思議な服装や仮面、それに何に使うとも知らぬ武器を揃いに揃えて装備していた姿を目の当たりにしているからでもあるのだろう。ランドラはその武器は本物なのか?とそんな事を僅かな混乱のせいか尋ねていた。 「もちろん、本物ですよ」  姉がそう言うと、弟とともに掴んでいるそれぞれの武器を構えた。まさに今目の前に敵となる存在が現れたかのように。それを見てランドラは、なるほどな、と何故か納得していて、この二人の姉弟の存在が、まるで自分の過去の記憶に関連をなす者のようにいつの間にか感じてさえいた。決してそんなことはないはずなのに。 「その相手、敵の奴らは、いつ来るとか決まってるのか?」 「そりゃ、決まっていたら苦労しないですよ」  弟がきっぱり言う。あなたも知っているでしょ?といわんばかりに平然と。 「相手は、いつ何時、どんな"おかしな"瞬間に姿を見せるか、全くもって分かりやしないんですから。ね、姉ちゃん」 「まあ、そうね」  そんな会話をする二人の姿は、時々突っ掛かりあうものの、とても仲睦まじそうに思えた。 「だから、こうして常日頃からパトロールに励んでいるわけです」  そーいうわけです、と弟が姉にならって続ける。そうなのか、とランドラはもはやそれが単なるお伽話ではなく、この世界ではそんなかつての世界では全くもってあり得ない"突発的"事物が日常かつ現実として降り立つのが例えばここマインワークスの住民達にとってのドラマであり、ドキュメンティックに昇華される彼等の"リアル"として確かに感受するべき物語だと自分の中に飲み込んでいた。 「それに今日は、いや今日こそは、なんだかその奴らが姿を現しそうなんです」  姉はそう呟くと、雲行きがあやしいとでもいうように、空の曇りを確認するように人差し指を宙に立てて風向きを調べるようにした。 「ここ最近、見てないからね」  弟が頷くと、だからこそよ、と姉が掴み鎌を背中に背負い仕舞う。そして、ランドラの方を見やると、そういえば、と両手を合わせた。 「あなたの名前を聞いていませんでしたね。もしよかったら、伺ってもいいですか?」 「ランドラ、俺の名前はランドラだ」  ランドラが姉に答えると、姉はその名前を繰り返して、いい名前ですね、と素直な嘘っぽくない口調で和かに言った。ランドラは何かを返すことなく、少し照れくさそうにはにかんだ。 「君たちの名前を聞いてもいいかな?」 「私はアリア、そしてこっちの"暴れん坊"が」 「メノウだよ。僕の名前、よろしくね、です」  二人が自己紹介をして、よろしく、とランドラは姉と弟の顔を交互に眺める。とは言っても、骨格張った仮面のせいで、顔なんて見えるわけはないのだけど。 「じゃあ、そういうことなので、私たちはパトロールに戻ります」 「戻ります、です!」  アリアとメノウがそう気力いっぱいに宣すると、ランドラは竹藪の雑草達が、ふとざわざわと風になびき揺れるのを感じた。風は不思議と冷たくはなかった。 「うん、じゃあ、頑張ってくれ」  ランドラは二人にそう告げると、彼なりの笑顔で装備を抱えて意気揚々と去っていく彼等を手を振りながら見送った。 「また、会えたらいいですね」  そう言ったのはアリアの方で、その声は緑の一帯を突き抜けるように響いて、ランドラの胸に渡った。ランドラは特にそれに何かを言うこともなく、笑顔で頷いて再び進行する方向に視線を向けなおした。魔の手、獣の手、か。ランドラは竹藪を抜け出して、二人の話を思い返した。  なんだか、楽しげな姉弟だったな、とランドラは言い表すのは野暮にもみえる非現実的な好奇心が自分の心のうちにも顔を出すのを溢れる笑みで語った。何か、怪獣とかだろうか、と頭の中で数十メートルもある恐竜やまたは巨人を思い浮かべてみる。俺の目の前にも、現れたりするのだろうか、ランドラはSF系の昔に妻や娘と観た映画の作品とかをその怪獣と照らし合わせる。でも本当にいたら、怖いだろうなあ……。  山地から再び住宅地の風景に移り変わり、ランドラはもうしばし探索を続けることにした。まだまだ、この街には面白そうなことがありそうだと、そんな予感がしてならなかった。そして急に、空腹を覚えた。時計類は辺りには見当たらなかったが、きっともう昼時なんじゃないかとランドラはふと思った。そして住宅街に降りる坂道を下ると、どこかにあるだろうか何か飲食店を探した。           *  坂下の道は、商店街のようになっている通りで、さまざまな店が顔を出していた。プラモデル屋、塗装屋、豆腐屋、揚げ物屋、そして石炭屋というものまであった。もちろん、本屋や楽器屋もあり、ランドラは昼食のあとでちょっと寄ってみようと考えた。  そういうように、歩く先の通りはかのように、一体が建物で埋め尽くされていると言ってもいいようなものではあったが、それと同じく、自然の花々や緑の群集も負けじとその居住物の合間合間から存在感を露わにすべく、むき出しているのだった。通りの名前はヤドリギ通りといって、その名の通りヤドリギが各所に生え揃った景色が見られて、それらはどれもが空を突きさすべく青々と枝先を伸ばして主張をしていた。まるで丸い真珠の純白とした"光沢の玉"が、枝の分岐部に陽の光を透きとおり浴びてきらきらとしている。所々の木々には、シジュウカラやスズメのような小鳥達か、もしくはそれらの種によく似た鳥達が時たまに足を止めて、その白い玉を不思議そうに、または喜びめかしそうにくちばしで突き触れるなどして遊んでいるのが見られた。  その他にもたとえば、足元にはスズランやラベンダーといった夏の花植物から、ヒヤシンス、ムスカリ、ネモフィラという春の花まで、季節も取り取りといったような四季色豊かな自然物の集まりが広がっていて、どこか困惑とした、それでいて甘みのある優しい匂いが、ランドラの鼻元を掠めていたのだった。そしてランドラはふと歩きの速度を緩やかにさせるなかで、道端のスズラン達の風に揺れる姿の方から鈴のなる音が聴こえるように感じた。気のせいだろうか、ランドラはスズランの白く連なる趣のある球体の花弁を和やかに見つめた。  ランドラがヤドリギ通りの半ばあたりまで来るころになると、路地の地面には蝉の抜け殻が夏の残骸を散らばせるように転がっていた。それた気づいたのは、かがやきの芽、という名の宝石屋の前を通りかかった所だった。ランドラの靴が蝉の抜け殻を音を立てて踏みつぶしたとき、彼の頭にはその昔、娘を連れた近所の公園で夏に虫取りに出かけたのを想い出していた。それは暑い夏で、娘はランドラの疲れた様子に目もくれず、虫かごと捕獲網を持っては、周りの木々や草茂みに足を走らせた。そして娘がランドらの元に持ってきたのは、小さい蝉の抜け殻だった。ねえ、パパ何これ?と娘の手からその抜け殻を受け取ったランドラは、これは蝉の抜け殻だな、と娘に教える。抜け殻って何?と尋ねる娘に、蝉が脱皮して成長するときに身体からはがして離れさせるものさ、とランドラは答える。すると娘は、じゃあ、抜け殻は蝉が立派になった証なんだね、と娘は嬉しそうにその抜け殻を眺めながら言った。その彼女の顔つきは、純粋な慈悲に満ちていて、今でも忘れられない記憶のひとつでもあった。  そんなことを考えるうちに、ランドラはある一軒の建物を見つけて、その近くへ歩み寄っていった。それはなんということもない平凡なベーカリーショップで、それほど大きくはない工房と一体型になった店だった。屋根越しの煙突からは小麦や砂糖などの焼き上げられるいい香りが漂ってきて、ランドラはなんとなくパンが食べたくなり、よし、とそのベーカリーで昼食を買っていくことに決めた。  ベーカリーの中は、至って普通の内装だった。いらつましゃいませ、という若い女の声がして、振り向くと、その若い女の他に、いくらか歳の増した男女の姿が工房の中に見えた。きっと彼らは夫婦で、若い女はその間の実娘であり、この店は三人の家族親子で営んでいる店なんだろう、とランドラは思った。 「何に致しますか?」  店の中には、自分でパンを取って選ぶようなバイキング形式の商品棚やテーブルはなく、パンは全てカウンターのショーケースの中に積み上げて、種類ごとに分けられていた。あ、じゃあえっと、とランドラはそれらのパンを一式眺める。ショーケースの明かりに照らされたパン達は、朝焼けの陽射しに輝く黄金色の山脈のようにも見えて、とても美味しそうだった。工房の方からは、仲睦まじそうな夫婦の会話や作業音とともに、屋根から香ったのと同じか、それよりも遥かに濃度の高い小麦のこんがりとしたいい匂いがランドラの元に流れ込んできていた。  おすすめはどれですか?とレジに立つ彼女に尋ねると、彼女は全部です、と小さく笑いながら答えた。それはからかいではなく、本心のように聞こえた。そうだろうな、とランドラはその答えにさらに購買の迷いを深めさせた。 「でも、私が特に好きなのは、この塩ロールパンと、チーズエッグトーストですかね」  彼女がそう言って、ショーケースの中を示す。じゃあ、それ一個ずつくださいとランドラは注文して、彼女のそのおすすめの品を買うことに決めた。ありがとうございます、と彼女はとても嬉しそうに顔を綻ばせながら商品を袋に包んだ。 「この店は、もう結構長いんですか?」  ランドラが商品を受け取ってウィリーからもらった財布を開きながら彼女に尋ねる。財布に手を忍ばせると、不思議にも漆黒の空間の中から、パンの値段に丁度分の料金の紙幣が現れた。 「そうですね、もうかれこれ五百年になります」 「え、ご、五百年!?」  ランドラはその答えに思わず驚いて紙幣を落としそうになる。大丈夫ですか?と彼女があわててそれを受け取った。 「すみません、そんなに長いとは思わなかったから…」 「でも、この街の歴史に比べれば、大したことはないんですけどね」  彼女はそんな風に平然と話し続けるため、その五百年という年数は冗談ではないことがランドラには分かった。それにしては、店の風貌は年季の入りが見合っていないようにも感じたが、それ以上はあまり気にしないようにした。 「うちの親が、もしやりたいっていうんなら、店を継いでもいいよって言っているんですけど、私、実はやりたいことがあって」  彼女はどうやら医療学系の仕事に就きたいらしく、今もとなりの街の医療学校に通って学業に励んでいるらしい。その合間を縫って、この店の手伝いをしているのだそうだ。 「私、この店を継いだ方がいいと思いますか?」  突然のそんな彼女の問いかけに、ランドラは不意を突かれたように戸惑った。自分のような、赤の他人に聞くべきことではないとも思ったが、彼女はどうやら、そんな"赤の他人"の意見を聞きたがっているようにも見えた。 「何で、俺に聞くんですか?」 「あなたが、とても無関係の人のようには、思えないんです」  彼女はそういうと、無垢な目つきでランドラを見つめた。ランドラは当然戸惑いながらも、それは、となんとか返事を口にした。 「それは、あなたが決めることだと思います。この店は継ぐのも、医者になるのも。話を聞く限り、両親もあなたに任せるという旨みたいでしょうし」  ランドラがそう答えると、そうですか、と彼女はまるで迷いが晴れたみたいにすっきりとした清々しい表情つきを見せた。どうやら、彼女の選択が今しがた決定に近づいたようだった。 「ありがとうございます、お買い物のお邪魔をしてしまったみたいで」  そんなことは、とランドラは微笑む。じゃあ、これからも頑張ってください、と彼女とその奥に見える二人の、健気な両親の働く後ろ姿を眺めながら、出入りへと向かった。  お買い上げありがとうございました、と彼女の嬉々とした挨拶が聞こえる。ランドラは一礼をして、店の外へ出た。  ランドラは、近くの公園を見つけて、そこでおすすめのパンを味わった。焼きたての、とてもいい食感と香りが身体を刺激した。ランドラはその美味しさに小さな感動を覚えながら、正午過ぎの晴れ渡る穏やかにゆるりとした優しい空を見上げて駅からの歩き疲れをひとときに癒した。  ランドラはそういえば、あの彼女の決断を聞いていなかったな、とふと店での会話を想い出した。しかし、それもすぐに考えるのをやめた。彼女の決断は、彼女以外に左右されるべきことではないのだから。好きな道を選んでくれたら、それでいい。ましてや、家族でもない自分が意見するなど、もっともだし。そして、今すぐに決められるものではないだろうし、何も今すぐに決めなければいけないことでは恐らくないのだから。  ランドラは、もしも自分の娘は生きていてあの彼女くらいの歳になっていたら、一体どんな将来を想い描いたのだろうか、とそんなことを座り込むベンチの感触ととパンの暖かみのある味を噛み締めながら少し感傷的に思い浸って公園の雰囲気に身を委ねていた。  公園を出て再び商店街の通りに戻ると、どこからともなくランドラの耳元に奇妙な旋律が聴こえてきた。それは奇妙でありつつも、不思議に魅力的な音色だった。この上なく自然的で、不純物のかけらも感じさせないメロディだった。ランドラがその音色の演奏元を探るべく辺りを見渡すと、果たして一人の怪しげな人影がみあたった。その人影は、通りのある一角の、「新純松」という呉服屋の屋根の上に腰を据えていた。彼の手元には横長い笛が握られており、吹き口のところに唇を添えて優雅に呼吸をしては両手の指指で音階の穴を開け閉めしている。その姿は、どうにも呑気なものとしか言いようがなく、この極めて異端な空気の漂い感ずる街の中でさえも、より一層不自然な出立や物風をランドラに与えた。何より気になってやまなかったのは、彼が奇怪に尽きる施しを衣服や顔の装飾に至らせていたことだった。というのは、その男は色褪せた頂点の折れ曲がったとんがり帽を被り、煤けた焦茶色のマントを羽織って、赤紫色の上下にタイトに着こなしたスウェットとパンツを身につけており、さらに顔にはこれぞ道化師そのものといったピエロのメイクが塗りあてられていたのである。ランドラは思わずその彼の方を見上げて、しばらくその音色と異形異様の風貌に目線を釘付けていた。その姿やさながら、グリム童話のハーメルンの笛吹き男のように見え取れてならなかった。  男の奏でるその旋律は、春のようでもあり、夏のようでもあり、秋のようでも冬のようでもあり、まるで四季折々の風物詩やそれぞれの季語や旬の彩りを全て兼ね備えたといってもいいような、複雑な、それでいて聴き疲れのしないオーケストラの一節というようなものに聴こえた。それだけではなく、月や太陽や、朝の靄のぼやけや夜の星空のにじませや草木の揺れる音や水滴に反射する光といった、そんな自然という概念の一帯一群をその音の粒ひとつひとつに込められている気がした。そしてそれは変に力んだり考え込んだ挙句の末に音に変換しているのではなくて、それこそ"自然体"のままで、彼が見せる動作の節々が自然に溶け込み順応していて、それが当たり前のように彼の奏でる旋律に表れているものに感じたのだった。とにかく、ランドラはその彼の音色がひと段落するまで、それは恐らく数十分は優に超えていただろう、他に人足や話し声の聞こえない通りの道中でひとり立ち止まって聴き入れていた。 「すみません」  ランドラは気付けばそんな風に男に声をかけていた。屋根の上の"道化師"の彼は、再び笛を吹く仕草をやめて、ランドラの方を振り向き、見下ろす。 「こんにちは」  ランドラはそう続けて、男の姿をよりまじまじと見つめた。それにしても、摩訶不思議な姿だな、とランドラはさらに強く思う。 「なんだい?」  すると男はマントを翻して姿を消したかと思うと、一瞬のうちにランドラの目の前にワープした。ランドラは思わず驚いて身体を微動する。 「僕になんか用かい?」  その男の顔は目の前で見ると、一見楽しげな雰囲気の中にある種の小さな闇が隠されているといった印象が受けとれた。彼は世間一般によく見るつくり笑顔のピエロのメイクを綺麗にこなしているが、その奥の目つきや口元は鋭利な感じがあった。ランドラは少し警戒する。 「あんたは、この街のミュージシャンなのか?」  ランドラはそう言ってから、いったい自分は何を言っているのだろう、とふと思った。それが、目の前の男に対して初対面に話す適切なものとは腑に落とせなかった。 「ミュージシャンだって?」  僕がかい?と男は不思議そうに首を傾げる。笛はどこかにしまったのか、手元には見当たらなかった。 「何でそう思うの?」 「だって、演奏していたから」  ランドラが言うと、男は何がおかしいのか、小さくふふふふっと笑い出した。 「まあ、ミュージシャンといえば聞こえはいいけどねー」 「というと?」 「言ってみれば、ただの放浪人だよ。風来坊、とも言うのかな?とにかく、何の当てもなくふらりふらふらと街や国や世界を旅して歩き回ってる、暇人さ」  男はそう言うと、君はなんていうんだ?とランドラに名前を尋ねる。ランドラが自己紹介をすると、ふーん、いい響きの名前だね、と男は頷いた。 「あんたの名前はなんていうんだ?」 「僕は、ツキカゲ。特に意味はないよ」  男はそう告げると、帽子をとって一礼した。髪の毛までもが、ピエロのそれに倣ったような形を成していた。 「ところで、君はどこから来たんだい?」  ツキカゲはランドラに尋ねる。ランドラは、この街じゃないところからだ、と答える。 「この街じゃないところってことは、隣町かどこかってこと?」 「いや、そうじゃなくて、なんていうのかな……別の世界から来た、っていうのが一番正しいと思う」  ランドラが言うと、別の世界、か、とツキカゲはその答えに少し違和感を感じた様子だったが、しばらくしてそうか、わかったよ、とそれ以上は特に深掘りはしなかった。 「あんたは、ここに住んでるんじゃないのか?」 「僕は、実を言うと月に"住んでいた"んだ」  ツキカゲはそう言うと、自分の生まれや出立に関して、わずかばかり話し始めた。彼は月、とはいってもランドラが想像するようなものではなく、白銀の月、という場所とのことで、そこはこの街と同じくらいかそれ以上に発達した現代的社会が確立されているのだという。しかし、その白銀の月はいまや見るも無惨とはいうもので、いつしか繰り広げられた銀河戦争により、荒廃の地と化してしまったということらしい。それで僕は新たに安住の地を求めて、この街、そして国に降り立ったというわけさ、とツキカゲは語った。 「だけど、さっきも言ったとおり、僕には家なんてないんだ。こうやって、笛を吹いては当てもなくあらゆる場所を渡り歩いている」  ツキカゲはするとばさり、とマントを広げたかと思うとどこからか先ほど手にしていた横笛を取り出して、再びあの屋根で奏でていたような旋律を演奏し始めた。それは、さっきランドラが耳にしたものとはまた別の色形に奏でられていて、だけど同じなのは、耳にしていると、おのずと心が豊かになり、落ち着いていくことだった。ランドラはふと目を瞑り、しばしその演奏に身体を委ねた。黒く広がる瞼の裏には、かつての自分が過去に経験した小さな幸せや大きな喜び、そして失敗や後悔、それに打ち勝つべく奮い立たせた克服心、そんな感情に限らずこの街の自然風景や異国情緒に溢れる街角やそこで繰り広げられる住人たちの明るく時に寂しげで切なげな会話や出会いと別れのセンチメンタリズムを広げてやがてはそれが一つの小さな世界となるように、ランドラの感性の内側に浸透していった。そしていつの間にか、ランドラの脳内にはまたもやいつか見た娘や妻との想い出がスポットライトの順に点灯を施行する景色であるかのように、かつての家族の幸せに満ちた記憶がよみがえっていた。 「……サクラリ」  ランドラは気付けばふとそう呟いていた。サクラリ、とはランドラの娘の名前だった。ランドラの片目からは、暖かい涙の粒が流れ頬をつたい落ちる。すると、いつの間にか演奏は止んでおり、目を開けるとツキカゲがランドラの方を眺めて、何かを思ったかのように微笑んだ。 「何か、想い出したみたいだね」  ツキカゲはそう言って、そのピエロのメイクにこの上なく似合う、いやそれ以上に親和性を含ませた笑顔をランドラに向けた。 「……いい演奏だった。ありがとう」  ランドラがそう言って涙を拭うと、ツキカゲは何も言わずにただ微笑んだまま、帽子を取らずに深くお辞儀をした。 「君も屋根にのぼるかい?」  ツキカゲの言葉にえ、とランドラは少し戸惑ったが、ツキカゲが屋根に今度はワープでなくそのままの動きで飛び乗るのを見やると、ランドラも横にある梯子を登って、彼のことを追って屋根の上を目指した。いい景色だよ、と屋根の円く平たい突起に座り込んだツキカゲが梯子を登るランドラと屋根からのその光景を交互に見ながら呟いた。 「じゃあ、ランドラには家族がいたんだね」  ツキカゲは目の前の広がる景色を一望しながら言う。ああ、とランドラも同じようにその景色を眺める。 「それを、僕の演奏で想い出したってわけか」 「まあ、そうだな」  でもそれは、本当に哀しいことなんだろうね、とランドラの過去の一連の話を耳に入れるとツキカゲは本心そうに呟く。 「あんたの笛には、そんな力もあるのか?」 「何が?」 「さっきみたいに、演奏を聴いた人の記憶を呼び起こさせるみたいな能力さ」  ランドラが尋ねると、ああ、それはたまたまだよ、とツキカゲは笑う。そんな力は今まであった試しがないからね。 「じゃあ何で、俺はあんな風になっていたんだ?」 「それはきっと、君がずっとその哀しい記憶や彼女たちとの幸せな時間を無意識のうちに胸の中にがんじがらめにしていて、それが僕の演奏と何らかの波長の妙が噛み合って、君の脳内で反応したからじゃないかな」  ツキカゲのそんな答えの心理はランドラには完璧に分かりはしなかったが、多分そういうことなんだろうな、と不思議にもそんな空想的な現象説理に自分を納得させた。 「ありがとうな、色々と想い出させてくれて」  ランドラがそう言うと、ツキカゲはどこか照れたように顔をふと俯かせて綻ばせた。 「この笛は、僕がこの街にはじめてきた日に落ちているのを見つけて、それを拾って持ち歩いているんだ」  ツキカゲはそう言うと顔を上げて、取り出した笛を眺める。とても大切な、宝物を見つめる顔つきだった。 「…ねえランドラ」 「何だ?」  振り向くランドラに、面白い話聞かないかい?とツキカゲが言う。 「せっかくだから聞かせてくれ」 「昔、この街に、ある宇宙人が現れた時があったんだ。とても、人間とは思えない姿をしていてね」 「宇宙人?」 「そう、宇宙外生命体と言ったほうが正しいのかもしれないけれど。まあとにかく、その宇宙人たちは、何かと暴れはじめたんだ。建物は次々に壊されていくし、逃げる住人たちを捕まえては捕らえて貪り喰ったり、木々や草花を蹴散らしては燃やしたり、見るに耐えない散々な有様と言ったらこの上ない程だったんだ」 「それの、どこが面白い話なんだ?」  ランドラが不審そうに言うと、ツキカゲはそれに答えることなく話を続けた。 「それで、そんな惨劇の中、一人の人影が立ち上がったんだ。彼は、手に一本の"武器"を持っていたんだ。それは、誰も見たことがないような色をしていて、見たことがないような"音"を出していた。彼はそれを片手に掴み、迫りくる宇宙人たちに立ち向かった。周囲には逃げ惑う人々、誰一人として立ち向かおうとする者はいなかった。みんな、恐怖に怯えきっていたからね。僕はその光景を物陰から見ていた。すると彼は、宇宙人たちに向かって、その武器をかざして、"音を出した"んだ。すると、宇宙人はたちまちぴたり、と動きを止めて、何かを急に思い出したように唸り声をあげると、喰い呑み込んだ人たちを吐き出して、気分が悪そうに身震いをすると、一瞬のうちに身体をどろどろとした液体状に溶かして、姿を消したんだ」  ツキカゲはそこまで言うと、どう、面白かった?とランドラに向かって言う。 「それは、本当の話なのか?」 「もちろん、本当の話だよ。君が信じればこそ、だけどね」  この街の、歴史に残る伝説さ、とツキカゲは言うと、屋根の上に立ち上がった。 「で、誰なんだ?その宇宙人から街を救った"英雄"は」  ランドラが尋ねると、ツキカゲは意味深にふふっ、と笑って屋根の一端に歩いて行き、ランドラを振り返った。 「また会おう、愛しの、麗しきランドラ君」  ツキカゲはそう言い残すと、マントに身を包んだかと思えば瞬く間に姿を消してどこかへとさってしまった。ランドラはその光景に今ひとつ実感を覚えられずに、なんなんだあの人は、と屋根に腰を下ろしたまま、でもなぜか、また会うことになるのかもしれないな、とそんなことをふと考えて、街並みの住居や自然の木々や山々の間から覗き輝く、午後の終わりへと近づく夕刻の宣告のような白く淡い橙に光射す色彩の直線の集まりをひとしきり眺めて、背伸びをしてこの後どこへ行こう、と思った。  その後しばらくどこへともなく歩くうちに、空は夜へと近づいていった。ランドラはその暗影に埋もれ沈んでしまう前の辺り一景の街並みや自然の帯形を目に映した。そこには、目を見張るようなー広地になった畑にはどう見ても"焼き芋"に他ならない物体が当然のように地面に埋まったり顔を出しているし、その近くの林をつくる木々はアメジストやトパやルビといった鉱石の成分でできているなどーいささかとは片付けられないこれまた新たに異様な光景があった。しかし、ランドラは最早そんな驚きはとうに薄れていた。この世界では、この風景が当たり前であり、日常なんだ。それでいいじゃないか、何も深く勘ぐることはない。ランドラは暗くなる前にどこか泊まれる宿でも探そうと、建物の群集するさらに別の山地を越えた先の街並みを目指して足を進めた。焼き芋の畑を通る際、焼き立てのとても香ばしくいい香りが彼の鼻をついてならなかったが、もしも誰かの所有地だったらいけないと、ランドラは少し残念そうにその横を無視して通り過ぎた。鉱石質の木々は、徐々に顔を這い出す月光に照らされはじめて、その煌めきを反射させていた。      *    *    *  ランドラが次の街の手前の丘の辺りまで来ると、何やら、背後からただならぬ空気を感じた。それは、"殺気"とも呼べるようなもので、ランドラはふと寒気を感じて、その場に立ちすくんだ。背中に、経験のない吹き風が当たる。ランドラはその不穏の存在に冷や汗を垂らしながら、ゆっくりと背後を恐るべくに振り向いた。するとそこには、林の木々をも乗りこえんばかりの巨きな体をした、怪物が立ちはだかっていた。それは恐竜のようでもあり、またはロボットのようでもある、いわば実体ある本物の"怪獣"だった。アニメや漫画で見るようなものとは比べ物にならぬくらいに、その威圧は凄まじかった。怪獣は顔や手足や胴の部分部分に陶器や、チタン製の破片を埋め込ませた構造をしており、それらが肉片の筋肉質と非常にミスマッチしていて、気味が悪いに他ならなかった。  怪獣はぐおおおおん、とランドラや街の建物や、自らの立つ鉱石の丘林の一帯を吹き消し飛ばすかのように轟く叫び吠える呻き声を響かせて、ランドラの方へとのしりのしりと近づいてきた。その目線は明らかに、ランドラの人影を捉えていた。ランドラは流石に声のひとつも出せずに、怯えきって身体を震えあがらせて、戦慄していた。彼の目に映るその巨体は、熊や獅子といった獰猛な肉食動物とは比べ物にならないほどの恐怖を見るものすべてに与えるには充分な迫力だった。当然、ランドラは反射的に身体を後退りさせる。来るな、という声が声にならずに、ランドラはただ茫然とその怪獣の異形混沌とした姿を見上げて足を震えさせる。  そして、ようやく怪獣は勢いを覚えたのか、急にもう一度雄叫びを上げると、歩いていた速度を加速させて、ランドラ及び街並みの方向へと舵を切るように駆け出してきた。ランドラはとうとう自らの生命の絶死の恐怖を実感して、怪獣と反対の方向へ力一杯に逃げ出した。全速力で疾走する。自分が、怪獣その脅威に捕らえられて喰い貪られる場面を想像する。呼吸はその恐怖と走行の過運動により混じり合い、荒がりが増強する。しかし、足を止めてはいけなかった。背後を少しと振り返ることなく、ランドラはひたすらに走り続けた。  そうして彼がようやくと鉱石の迷路を抜け出したとき、怪獣はやはりその"煌々と輝く"木々をその巨体により大破させて、その細く粉々の欠片を丘の上に散らばせて更にそれをいともせず巨きな足裏で踏みつぶしてはランドラをめがけて、奴もまた荒廃した鉱石林を脱していた。ランドラは既に恐怖心の焦りや走りによる体力の消耗から、ふと諦めそうになった。もう駄目だ、と足を止めてしまいそうになった。ほんのすぐ一寸後方には怪獣が迫って来ている。ランドラにごつごつした巨きな四本の岩のような指が伸びかかり彼を捕まえようとした瞬間、生え残っている木々の奥から、人影が飛び出した。ランドラはその姿を確かめる間もなく、目を瞑って頭上で起きる物音の衝撃に身を屈めた。ざくっ、という何かのめり込む音の後に彼が目を開けると、そこには、あの明るい昼方に竹林で出会ったアリクイの仮面の姉弟、アリアとメノウの姿があった。彼らは共にそれぞれの武器を怪獣に威嚇するように差し向けて体勢を固めて、そのうちのアリアは手につかんだ鎌の先端を怪獣の掌に突き刺していた。 「大丈夫?」  アリアがランドラを振り向いて言う。あ、ああ、とランドラは掠れた声で答える。アリアが鎌先を怪獣の掌の肉から抜き出すと、怪獣は出血の傷の痛みを僅かに感じたのか、苦しむような刹那の唸りを上げた。攻撃はしっかり効いているようだった。 「こっちだよ、早く」  メノウが三人の先頭に立って、街並みと逆方向へと走り出す指示をとる。その彼の目つきは、あの出会い始めの時とは明らかに違う、真剣な眼差しを宿していた。ランドラはメノウとアリアに挟まれた形で、彼らの誘導のもとに怪獣からの逃走を図った。 「ちゃんとついて来て、止まっちゃ駄目だよ」  メノウが冷静にかつ必死の物言いでランドラに言う。あれはなんなんだ?とランドラが尋ねると、怪獣よ、とアリアが答える。 「あなたにも、いつか話したような、"魔の手"がやってきたのよ」  アリアはそんな風に、さも当然と話し加えるが、ランドラはすでにそんな説明は耳に入れていなかった。彼は、ただ背後に迫る恐怖の権現から逃げ切るだけ、その死に物狂いな状況の念に駆られて足を走り飛ばすことのみに意識を向け集めた。三人はとにかく、怒号を撒き放つ慄きの魔の手から逃げ続けた。  少し開けた場所に辿り着く前に、足を止めた三人は怪獣と対峙した。正しくは、ランドラが道の途中で足を挫いてしまい、怪獣の手に捕獲されてしまったのだった。助けてくれ、とランドラは叫んだ。それは若しくは声にならなかったのかもしれない。アリアが何か、聞き取れないような呪文を唱えると、彼女の持つ鎌の先に鋭い火が灯った。アリアはそれを勢いよく怪獣の膝元に突き刺す。ぎゃがあぁ、と怪獣はおびただしく悲痛の声を張り上げる。怪獣の大きな"小僧"にそれは確かに減り込み、そこからは血のような液体が流れはじめた。そのアリアの背後では、メノウが同じく戦闘態勢に入って、背中から次々に抜き出す弓矢を怪獣の目元や腹部にその鉄の研刃をめがけて飛ばしあてる。幾らかは的を外したものの、数本が見事評的に命中し、敵は更に悶えて、地団駄をついには踏みはじめた。  そんな戦況の中、ランドラはふと脳内に、またもやサクラリが死に迫り至るその場面を思い起こしていた。ランドラの目の前には、あの娘を轢き逃げした悪しき富豪が嘲の笑みを浮かべて、こちらを見下している。ランドラが胸にしかと深く抱き込んだ娘は、助からないであろう虫の息をあげている。そして、富豪の乗った車は遠ざかっていき、とうとう娘はーー 「だめーっ!!」  ランドラはその声にはっとする。声を上げたのはアリアで、彼女とメノウはこの上なく必死の形相をしていた。ひたすらに武器で敵の体を攻め続ける。それらは徐々に肉体に傷を負わせていて、その点で見れば優勢にも思える場面であるはずだったが、それでもしかし、怪獣は何とか余る力で手に掴んだランドラを呑み込もうとしていた。ランドラは気付けば、怪獣の大蛇のような赤黒く伸びうねる舌を見上げていた。  もう駄目か、とランドラが目を瞑り諦めかけたその途端、周囲にふいに白い光が射し拡がるのが感じられた。その光はまるで蜃気楼を生み出すかのようにぼやけていて、霧の如くランドラやアリア達や怪獣の、そして彼らの立つ一体全てを包囲するように白い輝きを増加させた。それは空気中に漂流する気化した水滴を立体に直して、その一粒一粒に月の光を反射させたことによる産物にさえ思えた。  光はやがて辺りの丘地の景色やその下部の宅地街の姿形をも包み隠し、怪獣を囲むのは真っ白な不可思議な煌めきだけとなった。するとランドラの頭上からは、いつか聴いたことのある、奏でられる音楽が降り舞い流れてきた。それは彼の耳に吸い込まれ、彼は自然と身体の強張りを解いていた。恐怖心や焦燥心はつかの間に消えていた。  一方でランドラを掴んでいた怪獣は、アリアやメノウにくらった猛攻による傷を忘れたように呻き声をやめて、口をランドラから離して塞ぐと、一切の動きを止めた。と思えば、怪獣の身体は、少しずつ、辺り一面の白い光の海に溶け込むように、または浄化して混同してゆくように散り散りになって、粉塵の渦を巻いて消えていった。怪獣の手足がすっかり消えると、ランドラは地面にその身体を落下させた。怪獣の肉体に埋め込まれた様々な瓦礫の物質の破片は、塵と同化せずにからんからんと音を立てて草原に呆気なく落ち散らばった。 「大丈夫だった?」  アリアとメノウが心配そうにランドラの元へと駆け寄る。ああ、なんとか、とランドラは不思議に体力の回復した様子で答える。  怪獣が消え去ると、後には白い光の景色が依然と残り広がった。そして鳴り響いている音楽がその後もしばらく続いた。その二つの現象は、今この世界を全て包み、飲み込んでいるかのように思えるほどで、三人はその圧巻の景色の中心にかすかに覗きみえる、空中の黒い影を眺め上げた。それは、とても小さく、人影か何か鳥のものかも見分けがつかなかったが、分かったのは、この流れる音楽は、その謎の影から奏でられているということだった。ランドラは、その影の正体がただ一人わかっていた、のかもしれない。アリアとメノウも分かっているのだろうか。とにかく、その演奏の旋律は、あの呉服屋の屋根で出会ったツキカゲの奏でるものによく似ていた。曲のメロディーこそ異なるものの、旋律の持つ温度や優しさ、慈しみ、愛しさ、それにそれらが効くものに与える感情の揺れ動きが、かつてのツキカゲが奏でる横笛の創り出す音に他ならないように感じた。音楽は、白い光と一体化して、景色さえ生み出すようにも思えた。  ランドラやアリア達は、しばらくその新たな世界の始まりにも感ぜられる光景に、言葉もなく浸った。そして遂に音楽は美しく鳴り止んで、辺りの白い煌めきも徐々に薄れて、いつの間にか周りの景色は今は去りし怪獣に破壊し尽くされた丘上の林の木々や怪獣が抜け落とした欠片、それと黒いだけど星々の輝く夜空とそれに照らされる街の一帯の暮らしが幻影的な白霧の中から再び現れた。ランドラは姉弟二人に身体を預けながら、頭上に遥か昇る暗闇に光る満月に向かって旅立つ、ひとつのはっきりとした"人影"を目で追って、その姿が見えなくなるまで言葉もなく眺め続けた。  三人は丘を降りた街通りにある、小さなレストランに来ていた。そこはバイキング形式の店で、これまた様々な料理が立ち並んでいた。ランドラがかつての世界で見るような一般的なものから、特筆すると、イモリの壺焼きや亀の心臓といった、彼の目に見れば風変わりな料理も姿を連ねていて、ランドラはそれらを僅かな興味に見渡した。店内に人影はなく、客は彼ら三人だけのようだった。  三人が料理を取り終えてテーブルに着くと、アリアに続いていただきます、と声をかけてランドラ達は食事を口にした。アリアとメノウが骨格の仮面を外して、素顔を現す。彼らの顔は、いかにも普通に健気で朗らかな子どもらしい顔つきだった。アリアとメノウの元には、同じ好みなのか、シーザサラダとタンドリーチキンがなかなかの量でさらに盛りつけられていた。ランドラは、サンドイッチや魚のソテーをそれなりの数に取り分けていた。 「ねえ、あの怪獣って、もしかしてさ」  メノウがサラダを頬張りながらしゃべる。 「ちゃんと食べてから話しなさいよ」  アリアに言われて、メノウは飲み込むと話の続きをした。 「前に街の人達が言ってた、"英雄"が倒してくれたんじゃないかな?」  英雄?とランドラは思わず聞き返す。 「ずっと前のことだけど、この街に宇宙人がやってきた時があって、その時にその"英雄"は、あっという間にその宇宙人達を倒してくれたんだ。まだ、僕や姉ちゃんが小さい時の話だけど」  そうなのか?とランドラは横に座るアリアに尋ねる。そうね、とアリアはタンドリーを噛みちぎって言う。 「その、英雄ってのは、どんな人なんだ?」 「さっきここまで通ってくる時に、銅像があったでしょ?あれがその英雄の人だよ」  ランドラはその時に街の道端で、夜の住宅地に聳える像があったのを思い返した。どけどそれは、人の姿というより、抽象的なーまるで三日月のようなー姿のものに捉えられるように見えたのだった。 「だけど僕達、というか街の人達は、その人の姿をあまりよく覚えていないんだ。確かに、人の姿をしていたと思うけど。ねえ、姉ちゃん」 「そうね、確かその人、月から来たんだとか言ってて、お礼をする暇もなくすぐにどっかに飛んでいっちゃったのよね」  ランドラはそんな二人の会話に、やっぱり、と一人あの怪しげな謎の笛吹きの姿を思い浮かべていた。あの時、自分を助け救ってくれたのは、彼ではないのだろうか。  そしてその銅像の話に至ったとき、ランドラの頭にもう一つ、思い浮かんだものがあった。それは、その像の通りを歩く際に、ランドラが二人に何気ないことを問尋ねた場面だった。 「そういえば、君たちは親はいるのか?」  ランドラが聞くと、メノウがいたよ、昔はね、と答える。昔?とランドラが言う。 「うん、だけど、街にやってきた猛獣に裂き殺されちゃったんだ、父さんも母さんも」  アリアはそんな弟の話に、意識を向けまいとしているように見えた。ランドラはそのメノウの話を聞いたとき、なぜ二人が今、"このように"武器を担ぎ歩いて、悪霊退治なる類の活動を実行するに及んでいるか、その深い要因がはっきりと読み取れたような気がした。そしてからランドラはそれ以上彼の話に踏み入るようなことはやめて、そうだったのか、とだけ呟いて、哀しき過去をもつ二人の凛とした顔と佇まいに屈強とした心持を感じて足の歩をすすめた。 「……ねえランドラのお兄さん、どうかした?」  メノウがランドラを見て言う。いや、なんでもない、とランドラはそんな記憶を振りほどいて食事を再び始めると、同時に怪獣に命の危機を脅かされる中で呼び起こした娘の死の記憶を脳裏に浮かべていた。  自分は娘が死んで、自殺を図った。しかし目が覚めれば、奇妙な猫に連れ誘われて、今やこの不可思議な街に降り立っている。俺はこの街を出た後、一体どうすればいいんだろうか。やはり生きていくべきだろうか?今でも、死にたいという気持ちは完全には拭いきれない。だけど怪獣の手の中で、確かに俺は死の恐怖に慄き、殺されるのを拒んでいたはずなんだ。  俺は、どうすればーー 「でも、あなたが助かって、本当に良かった」  アリアが三人とも選んだスープを一口して、ランドラに言った。 「あのまま食べられちゃったら、どうしようかと思ったわ」  メノウも、頬張った顔で頷く。彼らはまるで自分から死に至らしめるというような思考など微塵も持ち合わせていないような微笑ましさを持ち合わせていて、ランドラはその雰囲気が今の自分には痛々しいほど明るく突き刺さっているのを実感した。ランドラの目には、思い気ままに食べ物を味わう彼らが、自分を招き入れてくれた家族のように見えていた。自分のことを一人の人間らしく生きる存在として認めてくれる、そんな家族のような二人の姿に。 「ランドラのお兄さん、もしよかったら、僕達のところに一緒に泊まっていかない?」  メノウが料理を食べ終えるとそう言って、ランドラの方を見やる。姉ちゃんもいいでしょ?とアリアに尋ねると、彼女ももちろんよ、と微笑んでランドラを同じく見やる。 「ありがとう」  ランドラは二人を交互に見る、 「だけど悪いけど、俺はすぐにこの街を出ようと思うんだ。だから、君たちは気を遣わずに、自分たちの場所でゆっくり休んでくれ」  ランドラがそう言って席を立つと、寂しげながらもアリア達もその彼の意思を汲み取って、分かった、じゃあ元気でね、と立ち去ろうとする俺の姿を見送った。ランドラは今少し彼らと団欒を共にしたかった気持ちもあったが、それでもどこか、自分はこの街にいるべきではなく、元来た場所へと戻り帰らねばならないような気がしていたのだった。 「また、会えたらいいね」  メノウがにかり、と笑っていう。とても子どもらしく、いい笑顔だった。 「お兄さん、これからも頑張ってね」  アリアも同じように、さすが姉弟といわんばかりによく似た笑顔でランドラを見つめた。 「二人とも、仲良くな」  そう言ってランドラは店を出た。歩きながら店内を振り向くと、二人はまだ手を振っていた。ランドラも手を振り返し、再び前を向き直ると、あのウィリーと名乗る異世界の住み人の如き猫の待つ駅へと向かった。

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2.月と怪獣とアリクイの姉弟

1.はじまりの冬

「お客さん、今晩はやけに冷えますね」  その車掌の猫は、名前をウィリーといい、茶虎の雄猫だった。 「このごろは、まるで冬の舞台のなかで雪が揚々と舞いおどっているみたいですよ」  ウィリーはそう言って、小さな両手で中くらいの大きさの円いハンドルを右方向に回した。車体が右手に旋回して目の先の道を進んでいく。  ウィリーが運転するこのヴェルベット号なる車両は、まるで路面電車のようなつくりで出来ており、一向を暗闇に包まれる不思議な世界をまさに走行していた。 「………」  運転席の真後ろの後部座席に座る男は、ウィリーの言葉に返事をすることなく、ぶっきらぼうな気難しい表情(かお)つきをうかべて、車窓の外を眺めていた。彼は名前をランドラといい、二十七歳の人間で、地味な服装を身につけていた。 「今年は、いちだんと強い寒波の流れる季節になるそうですよ」  ウィリーは相変わらず、ランドラの断固たる無口の壁に気を落とすことなく、和やかな口調で彼に語りかけた。ランドラはしかし彼も相変わらずにそんな気軽な"運転手"を他所に、やはり何も答えることはなく、ただじっとかの通りに窓外に映るどこか幻想的とも云える夜空を見つめて眉ひとつ動かさないのだった。  ランドラはつい一昨日、強盗を働いたばかりだった。それも、ただの強盗ではなく、殺人を兼ねた強盗だった。犯行は彼の他にもう一人の男との二人で行われ、被害者はとある富豪の男と、その妻だった。ランドラは男を殺して、もう一人の仲間が妻に眠り薬を盛って、口元と身体を縛りつけて、部屋に閉じ込めた。  ランドラ達が富豪男の邸宅に強盗に押し入ったのは、当然、彼の財産等を盗み去る目的でのことだったが、それともうひとつ理由(わけ)があった。それは、男が自分の"実の愛娘"を奪い取った人物であったからだった。  ランドラには、かつて一人娘がいた。娘は五歳で、ランドラが二十歳の頃に結婚した女との間に、二十一歳を迎えた年に生まれた子どもだった。  ランドラは娘を溺愛しており、彼女こそ自らの人生における最大の宝物とばかりに妻と育んでいたのだが、ある日、そんな幸福な日常の中に突如に"不幸"は降り訪れた。ランドラの娘が、ある男によって殺されてしまったのである。そしてその男こそが、前記した富豪の男に当てはまるのである。  ランドラがいつものように妻と娘と外へと散歩に出かけていると、いきなり目の前に差しかかる曲がり角からいい匂いが漂った。それは、娘の大好きなパンケーキの香りだった。娘はその香りの漏れる場所に向かってランドラと妻の手を払い除けて走りだした。するとその瞬間、曲がり角から一台の車両が飛びだしてきた。危ない、とランドラが娘の身体を引きもどす猶予なく、娘が彼を振り向くときにはすでに彼女は車両に突進を受けて、その場に横転した。ランドラは娘の名前を叫びながら妻とともに彼女のもとに駆けだしていき、車両も異変を感じてその場に停車した。  車両から降りてきたのは、高そうな衣服をまとった男女で、何事かと辺りを見まわすなり、地面に倒れているランドラの娘を見やると、ちっ、と忌々しげな舌打ちを鳴らした。 「なんだ、急に飛びだしやがって。これだからガキは嫌なんだよ」  男はそう言って運転席に戻ろうとする。おい待て、とランドラは娘の身体を抱きあげながら、男に呼びかけた。男は何だ、とランドラを睨みつける。 「轢き逃げする気か、娘が気を失っているんだぞ」  ランドラが今にも泣きそうな声を上げると、男はふん、と鼻を鳴らして、だから何だ、とランドラを一瞥した。 「飛びだしてきたのはそのガキの方だろうが。え?何だそれとも、俺がわざと轢いたとでも言うのか?」  そんな加害者にも関わらず邪険さを一切隠すことなく堂々たる態度を貫き、女の方も同じように面倒臭そうなしかめ顔をしている。 「それはそうかもしれないが、せめて謝るとか何とか、それくらいはすべきじゃないのか?いくらあんたのせいじゃないにしても」  ランドラが半分涙声でそう言うと、男は悪いが、そんなのは俺の自尊心が許さないんでね、とやはりランドラを笑い飛ばすように何ひとつ悪びれることなく、余裕のある目つきで女に目配せをした。 「もしかしてお前は、俺のことを訴えるつもりか?別にいいぞ、それでも。だけどな、いいか、覚えておけ、俺はこの街でも有数な資産家なんだ。その伝手のお偉い方との繋がりはいくらでもあるんだ。だから、こんな"些細"な事なんて、ちょっと金を積めば揉み消せるのさ。お前がいくら警察を説得しようと、誰も俺を捕まえられやしないんだからな」  男はそう言い残すと、じゃあな、と言い残して、女と車内に戻るなり、すぐさまに何事もなかったかのように発進させて通りから去って行った。そのエンジン音が、まるでその場に残されたランドラや妻や、すでに生死を彷徨っている娘を嘲笑うように響き渡った。ランドラはひたすらに泣きじゃくり、妻も同じように顔を両手で覆いつくして、瞬く間の悲劇に哀しみ、涙に明け暮れた。  ランドラは、そんな歪んだ視界の中で、遠ざかってゆく男の車のナンバーを目に凝らして焼きつけて、絶対に許さない、と娘の温度の消えかけた身体を強く抱きしめながら、胸に刻み込んだ。  そして事故から数日後、ランドラは古くからの知り合いの友人と共に、娘を殺し逃げた男の家へと強盗に押し入る計画を企てた。友人には、何もかも全てをありのままに打ち明けた。娘が轢き逃げされたことや、すぐさま病院に搬送されたが死んでいたこと、そして今も家では妻が憂鬱に侵されて寝込んでいること。友人はそれを聞き終えるや否や、分かった、と一言返すと、すぐにやろう、とランドラの計画に手を合わせ、実行に賛同したのだった。  計画は予定通りに上手く事が運ばれて、ランドラ達は男の車のナンバープレートから割りだした情報を元手に彼の居住地を探し当てて、"脅し"用の凶器をいくつか手にして、男の豪邸に忍び込んだ。  塀を飛び越えて庭に降り立ち、リビングの中を覗いて、ランドラ達は男の姿を確かめる。男は妻とソファでワインを飲み交わしていた。いくぞ、とランドラは友人と視線で合図を交わす。ランドラがまず、リビングへと乗り込むべく、硝子戸をハンマーでかち割る。次に友人が拳銃を持ってリビングに押し入った。動くな、と男と女を威嚇する。 「金目のものを全部持ってこい、早くしろ、すぐにだ」  友人が大声で叫び、男が呼びだして駆けつけた使いの者達にも銃口を向けてて、撃つぞ、と脅しをかける。使いの者や妻は慌てふためいて、戸惑いを見せる。おい、と男が使いの者に怒鳴る。警察を呼べ、と彼はワインボトルを手につかみ上げた。身体を守るようにボトルを握り込む。  するとランドラは友人の横を過ぎて、手に忍ばせていたナイフで男の隙の空いた脇腹にそれを突き刺した。男が悲鳴を上げる。女を含め周りの人達は狼狽えて、暴れまわった。  おい、ランドラお前何してんだ、と友人はランドラに叫ぶ。ランドラは男の胸にナイフをもう一刺しして、彼にとどめをした。男は血を吐いて、その場に倒れた。  友人は計画にないランドラの行動に動転したが、すぐに女の方に駆け寄って、彼女を眠らせてその身柄を拘束した。使いの者達は逃げ去って行き、リビングにはランドラと友人と、死体となった男と眠った女が残った。高価なカーペットには、ワインのような血の跡が水溜まりをつくっていた。  ランドラと友人は部屋にある壺、時計といった飾り物や金目の物を盗みだして、豪邸を後にした。 「お前、何やってんだよ、殺さない約束なんじゃなかったのか?」  友人は車で逃げる途中にランドラに怒鳴った。ランドラは、しばらく呆然としていたが、ごめん、と一言だけ呟いた。 「……まあ、やっちまったのは仕方ねえ、とにかく、お前は車降りたらすぐにどっかに逃げろ。他の街でも、国でも、奥さんを連れて、人目のつかねえところに行け。分かったな?」  友人のその言葉に、ランドラはああ、と力なく頷く。ランドラは、自分が果たして何者なのか分からなくなっていた。 「……お客さん、まもなく次の駅に停りますけど、どうです?ちと休憩でもしていきますか?」  ウィリーがランドラを振り向いて尋ねる。目の前には白く外灯に光る駅のような建物が見え始めて、こちらに近づいてきていた。まもなく、ひまわり、ひまわり、と車内アナウンスが次駅の名前を反芻する。ランドラは、やはり返事をしなかった。 「そうですか、大丈夫ですか。なら、変なご心配を失礼致しました」  ウィリーはそう言うと、"ひまわり"駅へと停車する素振りもなく、そのまま走行を止めずに、ヴェルベット号で駅を通り過ぎた。  ランドラはふと、その通り過ぎたひまわり駅の流れ去っていく外装を見やりながら、ひまわり、か、ととても小さな声で呟いた。彼の脳内には、今はもう出会うことのできないだろう、妻の姿が思い浮かんでいた。  妻の名前は、ヒマワリという名前で、ランドラの初めての恋人だった。彼女とは出会って数ヶ月で結婚に至り、娘が生まれて、事件が起きるまで互いに何不自由なく家族愛に満ちて暮らしていた。しかし、ランドラが強盗殺人から戻ると、妻は彼の姿を一目見るなり、もう、あなたとはこれ以上暮らせない、と冷え切った顔つきで眺めやると、家から出て行ってしまった。それ以来、ランドラは彼女の行方を追うこともなく、"誰もいなくなった"廃屋のような家に取り残され、もしくは捨てられた人形のように項垂れて動くのやめた。娘だけでなく、妻も自分の元から去って行ってしまった。もう、何もする気力が起きなかった。ランドラは大量の睡眠薬を飲み込んで、眠りについた。きっと、明日の朝には死んでいることだろう。それでいいのだ、どうせ、逃げ続けたっていずれは警察に捕まるのだ。そして俺はきっと死刑になるだろう。ならばいっそのこと自分で終わらせたほうがいい。何もかも全部。冬の寒い夜のことだった。    そして目が覚めると、ランドラは見たことのない場所に立っていた。それは、どこかの駅の乗り場のようだった。しかし時刻表や時計といったものは見られず、三人掛けのベンチと、出発点たからのちず、と書かれた看板が掛けられた建物が一軒背後にあるだけだった。ランドラがその出来事に呆然としていると、左側から、一台の車両が向かってくるのを目にした。それは、路面電車のような形をした物だった。  車両がランドラの目の前に停車すると、停車音とドアの開く音が鳴って、中から一匹の猫が姿を見せた。猫は車掌の服を着ていて、お客さん、着きましたよ、どうぞお乗りください、とランドラに平然と呼びかけた。 「何だって、俺が、客?」  ランドラはそう言って、猫を眺める。ええ、ここから出発になりますので、と微笑んで車内へと誘導するように手を伸ばす。さ、どうぞ、とその謎の車掌猫に招かれるままに、ランドラは戸惑いが隠せないながらに、その得体の知れない車両の中へと乗り込んだ。ランドラが席に座ると、安全確認オーケー、間も無く、出発致しまーす、と車掌猫が合図を誰にでもなく仰いだ。 「出発しんこーう」  車掌猫はそう声高々に言うと、発車のメロディーと共に汽笛を鳴らして、ランドラを乗せた一両だけの車体を"たからのちず駅"から発車させた。

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1.はじまりの冬

「概念的夜の末裔(Descendants of the Conceptual Night)」

躍り狂ってダンス夜明けがくるまで 辿り着けないまま今日もどこかで迷うだろう 針が雨粒と成って身体に突き刺さる そんなことばかりさ今この世の中は 不思議がって月から呑み込まれそうに なった経緯でさえ最も早くは云えないのに 晩から晩にかけて向かうのはそこまで 愉しいことではないのだと 自分に言い聞かせるのがやっとの末路であり きっとそこで君が見たものも 概念的と捉えられざるを得ない 全く以って無意味に等しいものに 違いないだろう! 躍り狂ってダンス夜明けがくるまで 息も吐けないまま来る日も俯き加減で 光が時には凶器で遂には闇と同化する それがどうしたっていうんだ? 僕は今日も生きている

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銀行強盗

 銀行に強盗がはいった。強盗は拳銃を取り出して手に握り、受付窓口の方へと向けた。手をあげろ、と大声で怒鳴る。 「お前らも全員手をあげろ。さもないと……」  そう言うなり強盗は客たちを一喝して銃口を天井へと向けて、一発弾丸を発砲した。これが本物の凶器であることと、やるときはためらいもなく撃つぞ、という周囲の人間たちに恐怖心を埋めつけるためだった。Bung!という轟音とともに、蛍光照明灯の真横に煙の残る穴が開く。きゃあああ、という銀行員や客たちの悲鳴が響き渡る。 「うるせえ、騒ぐんじゃねえ。いいから早く準備しろ」  強盗はそして、受付カウンターの上に大きな一〇キロは入るだろう、黒い鞄をどすん、と置いた。 「い、いくらをご所望ですか?」  身体を震わせて、顔中を恐怖に引き攣らせた銀行員が強盗に手をあげたまま尋ねる。この鞄に入る分だけいれろ、と強盗が鞄の空洞を示して銀行員に銃口を向けると、ひいいっ、と銀行員は再び戦慄して身体をのけぞらせた。 「言っとくが、下手な真似したら承知しねえからな」 「も、もちろんです、ひ、百万だろうと一千万だろうと一億だろうと、いくらでも、さ、差し上げますから」  銀行員がそう言ってほかの従業員に、金庫を開けてくれ、と指示を出すと、背後にいた数人の者たちは即座に収納金を取り出すべく、作業に取り掛かった。 「よしよし、それでいい。用が済んだら、俺はすぐに帰るからな」  強盗が満足げな顔でしばし鞄の中にこれでもかと札束の山が詰め込まれるのを眺めていると、後ろの銀行員の一人が、心なしか笑っている様な表情を見せていたように思えて、強盗はふとそれが気に掛かった。百に一つも、とても笑っていられる様な状況ではないだろうに、あいつはもしかして頭がおかしいのだろうか?強盗はそんな風に笑う銀行員を気味悪く、不審に抱きながらも、鞄の中にこれでもかと収められた大金を一目見ると、すぐさまジッパーを閉じた。 「これで、よろしいでしょうか?」  銀行員が恐る恐る尋ねて、身を縮こまらせると、よし、充分だと強盗は大変に顔を笑み崩れさして、その鞄を手に取るや否や、じゃあな、邪魔したなと声高々に歓喜の笑いを放ちながらその銀行を後にした。 「ふん、ずいぶんと簡単だったな。手応えがまるでねえくらいだ。それに、警察に通報する素振りもなかったし、きっとこのままどっかへ逃げ込んでしばらく大人しくしてりゃ、みすみす見つかることもありゃしねえだろう。さて、ひとまず街を出るか……」  強盗はそう呟くと、路上に不恰好に停めてある乗用車に乗り込んで、街を出るべく発進させた。  数日後、強盗犯は新たな居住地での食料品その他を買い出すべく、初めて降り立った地方のストアに出掛けていた。以前に着ていた衣服はすべて捨てて、髪型や喋り口調も変えた。これで、警察の追手が来ることはまずないだろう、と強盗犯は安堵しきってその店で買い物を済ませた。  強盗犯が店を出て車の方まで歩いて行く途中で、ちょっといいですか、と呼び掛ける声がした。振り返ると、そこには警官の姿があった。 「なんですか?」  強盗犯は流石にどきり、とした。その動揺が警官にはばれたのか、警官は何か確信を持った様な顔つきや態度を見せる。 「すみませんが、あなたの持っている紙幣を見せてもらってもいいですか?」  警官に言われ、強盗犯は仕方なく財布から紙幣を取り出して見せる。疑われているのだろうか?だが、ここで躊躇していては、ますます怪しまれてしまう。さっさと監視を払いのけて、こんな所はずらかろう。第一、俺には窃盗を働いた証拠など、何もないのだ。それにこんな紙幣一切れが、いったい何の手掛かりになろう。  警官はその紙幣を一目見ると、頷いて、トランシーバーに口をやって、犯人、発見しました、ただ今確保します、と報告するなり、すぐさまに強盗犯の腕を捻りあげて、手錠を掛けた。 「なんなんだ、一体、俺が何をしたっていうんだ」  強盗犯がまさかの事態に慌てふためいていると、警官はあのストアから通報があったんだよ、と強盗犯に言った。 「あんたの持っている紙幣が、偽札だっていう報告があったんだ。それで、この辺を巡回して交番に戻る時に、同僚から聞いてすぐに駆けつけたのさ」  近くに交番があったのだろうか、と強盗犯が不思議そうに辺りを見回すと、警官もそれに気づいたのか、にやり、として、交番はどこか知りたいか?と強盗犯に言った。 「あの、赤屋根の煉瓦の建物だよ。ちっとも交番に見えないだろう。何せ、近頃は強盗が多いからね。いかにもな風貌をしているままじゃ、変に警戒されてしまう。そこで、風変わりな交番をデザインしているってわけさ」  警官はそして、ともうひとつ付け加える。 「それに、あんたが入った銀行は、偽札を保管する銀行だったんだ」 「なんだって?」 「あんたも運が悪い。あの銀行は、あんたのような強盗を誘い込ませて、偽札を掴ませ、その使用報告があった際に駆けつけて偽札を持ってる強盗犯を確保するための施設なんだからね」 「そんな馬鹿な……」  強盗犯はそう力なくつぶやいて、ひどく残念そうに肩を落として項垂れた。そんな強盗犯の様子を他所に、警官は、詳しい話は署で聞こう、と赤屋根の煉瓦造りの、「三匹の子豚」に出てくる様な建物にしか見えないその交番に、強盗犯を連行して向かって行った。

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銀行強盗

人魚

 ある日、その男は海へと出かけた。彼には恋人も家族もなく、ひとりだった。そんな彼にとっては人生とは仕事をこなして家に帰りたいして金の掛からぬ趣味にそれとなく更けこむぐらいのもので、何とはない、浮き沈みのない平凡な存在に過ぎなかった。  しかしいつしか男はその現状に不意に嫌気がさしてならず、自分の今までやらなかったことをやってみようと思い立った。彼は運動が得意ではなく、スポーツ等の類をまともにやったことがなかった。そのため、サッカーや野球といった球技はもとより、水泳に関しても、まるで駄目だった。全くの運動音痴である。だが何故か彼は今日になり、突如として海に出かけることに決めたのだった。それは、彼にとっての気晴らしの選択肢の一つだったからでもあるが、彼は幸い海の近くに暮らし住んでいた。そのため、いつでも海に来れるには来れる身だった。  男は海に到着し、さて、来たのはいいが、何をしよう、と目の前に広がる波地一帯を眺めながら思案した。前記の通り、男は全くの金槌(水泳音痴)である。しかし、せっかく来たからには、海というものを楽しんでみたい。男は、海の家から浮き輪を借りて身に付けると、さっそく海へと入った。俺は自他ともに認める金槌者だが、浮き輪さえ付けていれば、下手に暴れぬ限りは溺れることもないだろう、男はそんな安堵を胸にして、浮き輪の浮力を借りて水面に身体を委ねた。空は爽快に晴れていて、太陽の照光がひどく眩しかった。男は思わず目を瞑り、波の流れに身体を任せ預けたまま、全身の力を抜いてリラックスした。いい気持ちだった。日頃の仕事に明け暮れるその産物の疲労といったストレスが、少しずつ細波の耳障りの良い音とともに、清算されていくようだった。男はそのまま、気づけば眠りについてしまっていた。  ふと男が目を覚まして辺りを見回すと、そこはすでにかつての浜辺付近からはかなり遠く離れてしまっていて、視界には海の家やら砂浜やらは当然、微かにも確かめられなかった。男はいつの間にやら、人気のない沖へと流されてしまっていたのだ。  男はひどくパニックになり、海上にも関わらずに我を忘れて暴れた。助けてくれ、誰か、助けてくれ、そんな叫び交じりの悲鳴が人気のない海上に響き渡る。誰の耳にも届くこともなく。  男はすぐにあの浜辺へと戻ろうと考えて、浮き輪だけを頼りに全く身についていない水泳能力を駆使して、方角もわからないままに何処知れぬ安全地帯へと泳ぎ始めた。それは、犬掻きも同然で、とても前方へと進めるような代物ではなく、男のばたつく足は、ただ水面を蹴ってばしゃばしゃと情けない水飛沫を飛ばし散らすだけのものに至るのみだった。  そして神のいたずらか、男の身に付けていた浮き輪が突如ぷすり、という小さな音を立てて、みるみるうちに萎み縮んでいくではないか。浮き輪は空気を抜き放していって、ついには干からびたしわしわの布切れのようになって、男の身体が水中へと沈み落ちた。  男は事態が瞬時に飲み込めず、ひどく混乱し、狼狽した。まさに今、自分の命が紛失の危機に晒されているのである。助けてくれ、というようなさっきの悲鳴の叫びも、今や口元を開ければなだれ込む水の襲来によって、掻き消されてしまう。ごぼごぼ、と手足をもがき、男は身動きが取れずにただひたすらに苦しむ。本能的に、身体の全感覚が鋭敏になっていた。生命を維持しようとする極度の感覚が彼の身体に満ち渡ったとき、彼は自分の状況をはっきりと理解し、自分のこれまでの平凡な人生がいかに穏やかだったか、考えを改めた。そして男は、ああ、今になってみれば自分の人生も、それほど悪くはないものだったんだな、とある種俯瞰的に見ることができた。しかし、今がそうもいってはいられない境遇であるのも事実で、やはり生物は死にたくないもの、男はその絶体絶命な空間の中でも、ひたすらに生きようともがいた。  しかし次第に意識は薄れ、もう駄目か、と冷えゆく身体に己の生命力の限界をついに感じた男が身体から抜けゆく力の残骸を僅かに目を閉じかけると、不意に足元に感触を感じた。それは不思議なもので、何か泳いでいる魚の鰭が当たったものであるかのようにも思えたが、どうやらそうではないらしいことが分かった。その感触は徐々に鋭敏さを増して、気づけば男の全身を纏い包み込んでいた。一体何が起こったのかと男がその感触のある状態の方向を振り向いてみると、そこには一人の人魚の姿があった。それは、紛れもなく人魚だった。長髪の、瞳の大きくくっきりとした、美しい顔立ちの、女の人魚だった。彼女は、男の顔を見上げると、彼の元へと泳ぎ近づき、彼の体を抱擁した。すると、人魚は突如男の顔に自身の顔を近寄らせて、何のためらいもなく口づけをした。男は一瞬、何が起こったのか分からなかった。しかし、人魚との口づけの中で、次第に自分の失われかけていた生命力やら呼吸不可の圧迫が回復し、その身に戻っていくような感覚を取り返していくのを彼は実感した。そして人魚がしばらくの口づけを終えて、男の顔を眺めてにこり、とこの世のものとは思えない比類なき美しい微笑みを向けると、何処へともなく、青黒い深海の底へと泳ぎ姿を消し去っていった。  男はしばらく呆然と水中に浮かんでいて、その人魚の今はなき姿を記憶の中で反芻させていた。しかしふと我に返り、自分がまだ水中に漂ったままなのを思い出して、男は戻った生命力を頼りに、水面へと這い出るべく手足を再びばたつかせた。すると驚くべきことに、男はすいすいと泳ぎをこなして、いとも簡単に水面へと抜け出すことに成功した。するとそこは何故か、あの男が浮き輪を身に付けて海に潜ったスタート地点の浜辺であった。男はその急な展開に僅かばかり混乱しながらも、自分が助かったことに安堵し、息を吐いた。きっと、あの人魚が俺を助けてくれたに違いない。彼女はおそらく、この海に住まう女神か何かなのだろう。男は胸の中であの救世主である人魚にこの上ない感謝の礼を伝え、海辺を後にした。そしてもう二度と、海へ入るのはよそうと決心した。  しかしそれから数日が経つと、男はまたあの海に入った日に感じたような居ても立っても居られない気持ちを募らせた。それは、決して海にもう一度入りたいなどというものではなく、もう一眼だけ、あの美しき絶世の可憐さともいえる容姿を持つ人魚に会いたいという、欲望ただ一つだった。  あの、美しき鱗と尾鰭と、言葉に言い表せない微笑みと、肉質的な身体を持った彼女にまた出会いたい。そしてあわよくば、またあの時のように口づけを交わしたい。男の唇には今でもまだ彼女との口づけの感覚が消えずに残っていた。それは異様に生々しく、彼女が側に居る錯覚を思い起こさせた。  そんなことを考え続けた男の行動は早かった。もう一度、あの海へ行こう。そうすればきっと、また彼女に出会えることだろう。  そして男はまたもや懲りずに、あの人魚と出会った海に訪れて、浮き輪を再び同じように借りて海へと入っていった。そして、身体を当時のように水面に浮かべて、目を瞑り、ひたすらに身体が無意識にどこか遠方の行方の知れない沖へと流されていくのを待った。正直、自分からこんなことをするのは恐くて仕方がなかったが、それよりも彼の中に沸き立つ、人魚と出会いたいという欲望の方が遥かにその恐怖心に勝り、男はこのような行為に身を委ね任せていた。危険な欲望だった。  男はそしてそれなりに遠方への沖へと流されたのを目を開けて確認すると、驚くべきことに、自分から浮き輪を身体から取り外して、水中へとその身を投げ出した。前のように浮き輪が破裂するのを待ってもいいのだろうが、果たしていつになるか分かったものじゃない。なにぶん、一刻も早く彼女にお目に掛かりたいのだ。男はそのまま以前のように、水中で溺れ始めた。手足をもがき、ごぼごぼと声にならない声で口を開閉させ、薄れゆく生命意識の中で、人魚の彼女が現れるのを待った。また自分をあの時のように助けてくれるのではないかと、そんな希望を持って男は苦しんだ。しかしそれは全く淡い期待に終わり、男は彼女が現れる気配さえ見られずに、その意識を断ち、生命を絶った。男は、目を見開いたまま、笑顔とも苦顔ともつかぬ顔を水中に向けたまま、動かぬ手足を冷たい波に揺れるままになびかせて、背中を上向きに水面へと力なく浮上させていった。  男の身体が水面に浮き出てからしばらくして、水中の深底からは、あの美しき人魚が姿を現した。彼女は男の元へと近づき、その身体が一切微動せずにいるのを確かめると、にやり、と不敵にしかし可憐で無邪気な笑顔を浮かべると、男の亡骸を巨大な尾鰭で掴み抱えて、再び自分の住処のある深海へと潜り泳いでいった。 「……上手くいってよかったわ。これでまた、私のコレクションが増えたというものよ。それにしても、馬鹿な男ねえ。また懲りずにやって来て、おんなじ様に溺れているんだもの。まったく可笑しかったわ。でもまあ、それが私の作戦だったんだけどね。さてと、今回の"人形"はどんな感じで飾ろうかしら………」

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人魚

「ねえ、ちょっとこれ聴いて」  そう言って助手席の彼女はカーラジオのボリュームの摘みを回した。  僕は彼女とドライブに出掛けていた。 「この曲、覚えてる?」  カーラジオから流れてきたのは、こんな歌だった…。  戦争で死んだ人々  生まれてくる子ども達  猫が鳴いている  猫が鳴いている  生きてるのか、死んでるのか、どっちなんだ、はっきりしろ、聞こえてきた歌詞を僕はそんな風に口ずさんだ。 「懐かしいなあ、何だっけ、このバンド」  僕はそんな会話を彼女と交わしながら、車を少し加速させた。  今日は“彼”の墓参りの日だった。  一体、これで何回目になるんだろう。  道路沿いの草木が瑞々しく光っていて、空は澄み渡っていた。

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真夜中のタンバリン

 僕はもう生きるのが嫌になっていた。とにかく、一刻も早く死んでしまいたいと思っていた。そして、この世の中から跡形もなく消え去ってしまいたいと、そんな風なことばかりを考える日々を過ごしていた。特にその思考が強くなるのは夜で、家に帰るなりまともな食事を摂ることもなく、かといって他に何かに没頭することも出来ずに、ただシャワーを適当に浴びて冷蔵庫の中に残っている適当なものを腹に落とし入れて真っ暗になった部屋で不貞寝するくらいの一連がここ数ヶ月間のルーティンと化していた。しかし布団に潜り込んでも、すぐに眠りにつけるわけではない。それから何時間も頭の中では決まって過去の失敗や嫌な記憶、悶々とした将来に対する黒い不安や恐怖を巡り渦巻いていて、それらがやっと疲労による瞼の重みで何とか消えていく頃に僕はようやく酷く気怠い身体を寝付かせることが出来るのだった。  僕がこのような状態に陥ってしまった理由には、主な要因として仕事が挙げられた。僕の働く職場では既に何人ものかつての知り合いでそれなりに仲良くしていた従業員達が次々と辞めてってしまったり、もしくは他の店舗、部署に異動を強いられていくという事態が立て続き、僕の周りには気づけばそんないわば自分の職場での支えとなっていた人の温もりが失われてしまっていたのだった。そして職場には嫌いな上司の罵詈雑言や戯事の叱咤が残され、自分の容量に見合わない無茶な仕事のノルマがどんどん積み重ねられて行き、遂には自分とそれほど大して仲の良くない新入りの従業員との二人で忙しさに互いに苛立ちの募るなか、自分の生活の為には、とそれでも何とか自分を奮い立たせて、僕は無理矢理に職場へと勤務を続けているという状態だった。  しかし、それもやはりとうとう限界に達してしまったらしく、僕はいつの間にか仕事を辞めてしまっていた。そして、鬱になっていた。次の新しい職場を探す気力もなく、ただ無気力に疲弊した重い身体を暗々とした部屋に横たわらせていた。僕はもう三十も手前に達している年齢で、今更転職の機会なんて訪れないだろう。この不景気な世の中だ。生きていても何の楽しみもない。すると何故か、僕はそれから自分を事あるごとに責めるようになった。何で仕事を辞めてしまったんだ、とか、何でもっと上手くやれなかったんだ、とかそんなどうしようもない後悔で自分を自身の針で突き刺し、痛めつけていた。嫌いな上司たちの言葉でさえも、悪い自分を正すための正当な啓発の物事に聞こえてくる。果たして悪いのは自分だけなのだろうか?僕はそんな風にも考えることが多々あったが、やがて疲れてそれもやめてしまった。  僕はそして、遂に明日にでも自殺を決行することを覚悟した。やるなら早いうちがいい、そう思った僕は次第に身体が熱くなってくるのを感じた。それは当然、生きる為に向けられた熱ではなく、これから死に向かう者の、重く嫌な匂いのどろどろと溶け出した腐食の物質が放つ湿っぽい温度であり、僕自身にも気持ち悪くなるのが肌で感ぜられた。どうやって死のうか、と僕は瞼が重くならないうちに考えた。そうだ、銃殺がいいかもしれない、と僕は思った。カート・コバーンのように、拳銃で己の頭蓋を撃ち抜くのだ。そうすれば、自分も多少なりにも無様な格好で死ぬことは避けられるだろう、とそんな何を根拠にしているのかも分からないような企てを脳裏によぎらせながら僕は自分に苦笑や嘲りを含ませた冷たい笑いを溢した。しかし、銃なんて簡単には手に入らないだろう、やっぱり飛び降りか首吊り辺りが無難だろうな、と僕は考えを改めて、そこから更に、飛び降りはきっと怖くてできないだろうから、首吊りにしようと選択肢を絞って、僕は明日の朝、首吊り自殺を決行することを決めた。  そうして考えが纏まり、ようやく今夜も瞼が重くなり眠りにつけようとした途端に、隣の部屋から、シャンシャン、という不可思議な響きの音が聞こえ、鳴り渡ってきた。僕は眠気で重い頭の中、それに耳を傾ける。その音は一向に鳴り止まず、次第に大きくなっていくようにも思えた。僕は何事だろうと思って身体を起こしたが、しかし眠気には勝てず、まあそのうちに収まるだろうなどと然程気にせずに再び布団に潜り込んで目を瞑った。しかし音はいつまでも僕の耳、そして暗くなったこの部屋に響き続けて鳴り止まなかった。遂に一時間が経過し、とうとう我慢が出来なくなった僕はなんだよ、と苛立って部屋を飛び出して、すぐさま隣の騒音の号室に向かった。  隣の号室には、灯りがこれでもかと点けに点けられており、消灯した部屋から飛び出した僕の目には眩しくて仕方がなかった。でも僕はあの騒音の正体を確かめないことには我慢がならず、おい、と夜ににつかわしくない怒鳴り声をあげて、明るい音のなる部屋に突入した。するとそこには、片手にタンバリンを掴み持ってそれを一心不乱にひたすら打ち鳴らし、陽気に踊っている女の姿があった。彼女は僕と同い年か、少し歳下に見えた。彼女は怒りに塗れる僕の姿を振り返って、タンバリンの打ち鳴らすのを止めて、きょとんと顔を不思議がるような表情に変えた。 「君か、さっきからシャンシャカシャンカと鳴らしてんのは」  僕がそう言うと、何のこと?と女はやはり不思議そうに僕を眺めて言った。 「何のこと?じゃないよ、何時だと思ってんの?夜中だよ、真、夜、中。あまりにもうるさいから止めさせにきたんだよ」  そう僕が言うと、女は何事もなかったかのように、再びタンバリンを勢いよくそしてリズミカルに打ち鳴らし始めた。おい、聞いてんのか、と僕は女のタンバリンに掴み掛かろうとした。しかし女はひらり、とそれを躱して、僕は体勢を崩してその場に横転した。 「……おい、ふざけるなよ、シャンシャンシャカシャカと」  僕がそう苛立ちを相変わらず隠さぬままに女を見上げると、彼女は違うわよ、と僕に言った。え?と思わず僕は呟く。 「シャンシャカ、じゃなくてよ。あなた」 「………?」 「ジャーン、バララララリーン、パンパカパンパンパアーン、よ」  女がそう言うと、僕の頭から苛立ちの熱は一瞬だけ、消え去った。何だって?何を言っているんだ、と僕は女に言う。 「だから、音がちがうって言ってるの。シャンシャカ、なんて、ちっとも楽しそうじゃないじゃない?」  女はそう言うとまたタンバリンを打ち鳴らし始めた。そして今度はタンバリンの真ん中と部分を叩き始めて、シャンシャカという音にタンタンタタタンという小刻みな反発音が混じり響き出した。 「………」  僕はその光景にすっかりさっきまでの怒りも忘れて、いつの間にか彼女のそのタンバリンを自由気ままに打ち狂う姿に見惚れていた。眠気もすっかり覚めて、身体が軽くなっていた。 「君は、一体誰なの?」  僕が言うと、女はそんなこと、どうだっていいじゃない、と身体を回転させてターンを決めたり、バレエダンサーのように空中を跳んで膝や肘や踵で器用にタンバリンを打ち鳴らして踊り続けた。 「そんなことより、あんたも私と一緒にこれ、やらない?」  え、と僕は彼女の声に放心して、しばらくぽかんとする。すると彼女はもう一個あるから、と僕に新しいタンバリンを手渡してきた。 「良かったら一緒に、演奏しようよ」  女の満面の笑み、自信に充ち溢れたその表情に、僕は惹き込まれていた。僕はそれを受け取って、彼女の前に立った。 「でも、僕踊れないけど」 「いいのよ、そんなこと、自由で、あとは楽しければね。ほら、こんな感じに」  女はそう言うと簡単なタンバリンの演奏を改めて始めた。それはとてもシンプルなものだったが、温かい音が反芻していた。プラチネラやヘッドの響音が心地良かった。 「ね、簡単でしょ?」  僕もそれを見ように真似して、同じように彼女に倣って手に持つタンバリンを打ち鳴らしてみる。すると次第に身体が熱を持ち始めて、僕は徐々にタンバリンを鳴らすことに夢中になっていた。 「そうそう、その調子よ」  いい感じよ、と女は笑って、僕の目の前でひたすらにタンバリンを打ち鳴らし続けた。僕もひたすらに彼女の前で音を生み出すそれを打ち鳴らし続けた。僕と女は、そのまま何分も、何十分も、何時間もただただ無我夢中になって、踊り続け、自由自在に演奏を響き渡らせた。僕はいつの間にか笑っていた。自分でも不思議なくらいに、笑っていた。僕って、まだこんな風に楽しめていられるんだ。その自身の光景が時には俯瞰的に見て馬鹿馬鹿しくもなったが、やがてそれもどうでも良くなった。今、僕自身を取り囲むのは職場のかつての嫌な上司の悪口や、重苦しい生命の危機に晒すようなノルマや先行きの不安な社会の渦巻く闇ではなく、同じように踊り狂っている目の前の彼女との子どものようにはしゃぎ回る夢の中のような爽快さ、心地良さなのだ。それに気づいた僕は既に、明日決行しようと思っていた自殺なんて、これっぽっちも脳裏に残さずに体外に捨て放り投げていた。なんてくだらない、仕様のない事に僕は、時間をこれほどまでに費やしてしまっていたんだろうか。  そして女は流石に踊り疲れたのだろうか、息を荒げながら汗をかきかき、それを腕で拭って、そろそろ休憩にしよ、とタンバリンを床に放り出して近くのソファに倒れ込んだ。僕もそんな彼女に真似して、彼女の横にぐったりと座り込んだ。  ちょっと、飲み物持ってくるね、と女は立ち上がると、部屋を出ていき、戻ってきた時には両手に何か飲み物の入ったグラスをつまみ持っていた。何それ、と僕が聞くと、彼女はにやり、と微笑んで僕の横に座った。 「私特製のカクテル・ブランデーよ。運動の熱冷ましに、良かったらどうぞ」  そう言って女はグラスを一本僕に手渡して、乾杯、と合図をした。僕はグラスを合わせて乾杯をして、彼女と一緒にその特製ブランデーとやらを一気に飲み干した。彼女がぷはー、と息を吐く。 「美味しいね、何入ってるの?これ」 「それはねー、……ひ、み、つ!」  僕がええー何でだよ、と言うが、女はふふっ、と笑うきり、何も教えてはくれなかった。そして、おわかりいる?と聞いてきて、僕はじゃあもう一杯お願い、とグラスを彼女に手渡した。分かった、と彼女は嬉しそうに部屋を出ていった。  すると急に酔いが回って来たのか、僕は次の瞬間、意識を失った。  目が覚めると、そこは自分の部屋だった。僕は眠い目を擦り、うーん、と身体を少し起こす。そして、カーテンから漏れる日差しに、昨夜の出来事を朧げながらに思い出す。確かに、自分は不思議なタンバリンを打ち鳴らす奇妙な女と、夜通し踊り明かし、彼女特製の酒飲料を飲んだのだ。その証拠に手にはマメができているし、酔いの覚めきらない仄かな熱も身体にまだ残っている。  僕はふと外に出て隣の部屋を覗き込んでみた。しかし、誰も住んでいる気配は無かった。やはり、ただの夢だったのだろうか、と僕は思う。あまりに現実的過ぎる、夢のひとつだったのだろうかと。  僕は一度部屋に戻り、片隅に投げ捨ててあったCDをふと、久々にプレイヤーに差し込んで再生した。身体が勝手に流れる音楽に合わせて揺れていた。頭の中には、昨夜の彼女のタンバリンを片手に踊り狂う姿がありありと、生々しく映っている。僕はCDの再生が終わると、すぐさまに着替えて、バッグを手に持った。そして、アパートの外へと出た。  僕は、今日からしばらく旅に出る事に決めた。そしてその先々で色々と自分自身を見つめ直して、それからまた自分のこの先に歩み行く人生について、ある種楽観的に悲観せずに考えようと胸に思い仕舞った。さて、どこへ行こう、と僕は浮き足立つ靴の爪先で光の当たる階段を降りて行った。

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真夜中のタンバリン

カインドフルネス

UCCひと口 優しい味が広がる 1969年生まれの ミルクコーヒーの味 カインドフルネス 笑いながらそれを飲む君に 幸福を祈る いつまでもそれを忘れないように 雨上がりの虹のように 人生は辛苦のあとに歓喜がある 蛙や紫陽花の鮮やかさが それを祝ってくれているから カインドフルネス 笑いながらそれを眺める君に 純粋な愛を送る いつまでもそれを失くさないように カインドフルネス 笑いながら涙を呑み込む君に 幸福を祈る いつまでもそれを忘れないように キャラメルの溶けた複雑な心地よさ かつての波雫が静かに融合する時 待ち望んだ態度は無意味なものになり得るけど そこにはきっと嬉しさだってあるだろう カインドフルネス 笑いながら夢を見る君を そっと包み込む いつの日もよく眠れるように

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限りなく紅いラプス

限りなく紅いラプスが目を覚まして言う もう二度とあの部屋には戻れないって 置き手紙残して彼女は僕に言った 「自分を殺せるのは自分だけなの」って 針を揺らすメトロノームじゃつまらない スピリタスひと口 走馬灯は何を映す? 聞こえないよ何も 音楽以外は何も 答えを教えてくれるのはきれいな紅い血だけ キャンドルライト照らすアンダルシアの絵画 嗅ぎ慣れない匂いが熱を呼び起こす 食べかけのピザは時の固執みたいに テーブルから垂れ下がり過去を閉じ込める 針を揺らすメトロノームじゃつまらない スピリタスひと口 走馬灯は何を映す? 聞こえないよ何も 音楽以外は何も 答えを教えてくれるのはきれいな紅い血だけ

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少年のユリイカ(とある生命的文学)

発狂した昼夜(ひるよる)の電子部品が うまく繋げないでいると 外からカモメの声がして 僕は突然外に飛び出したくなった 日頃の芝居に嫌気が差して 草木を掻きむしるなどして気を紛らわす 無邪気に踊るアークティック・ダンサー 心の闇に陽射しをくれるよ 見つけたよ僕は見つけたんだ 生命に言葉があるっていう事を 見つけたよ僕は見つけたんだ 生命に歌音(うたね)が聴こえるのを ギリシアの話が嘘かどうかなんて 僕には分からなかったけど 多分あの人が物語るには 遺された跡殿を歩いたのは本当だって 見つけたよ僕は見つけたんだ 生命に言葉があるっていう事を 見つけたよ僕は見つけたんだ 生命に歌音が聴こえるのを ムーンライト・ムジカ・シンドローム 吐き出す旋律に言葉は要らない メトロポリタン・ヴァージニア・ラビット 繰り返す戦慄に賛同は要らない 欲しくてたまらぬ夢ばかり 自分の前に蔓延って 死にたくなるほど幸せになって 死んで行きたい 十八(ろく)時になったら 部屋の隙間で不貞寝していいよ そんないい加減なルールの中で 僕は生きてるんだ

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