阿部野ケイスケ

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阿部野ケイスケ

小説はジャンル問わず好きです。趣味は雑多系の猫好きリリッカー(=・ω・`)

第五章

「それで、お前の名前はなんていうんだ?」  ハルキは、少女の目の前に差し出したメモ用紙と彼女の表情を見比べて尋ねる。少女は質問を受け取ると、手に取ったボールペンでゆっくりと奇しくもその身体に似つかわしいか細げな文体で、ルカ、と用紙に記入した。 「ルカ、か……」  その少女の記した名前の文字列をしばらく眺めてから、ハルキは小さく呟いた。そして、とてもいい名前だな、と彼は思った。  ハルキは今しがたにその暖炉に焚べるための薪を割る作業を終えたばかりのところで、家の中に戻ると、すぐさまに少女のもとへ向かい、椅子に腰掛けると、なあ、と質問をした。ハルキは少女に名前を尋ねたのだけど、少女はただ困惑するばかりに首を傾げたり、うろうろと何かを探すように周りを落ち着かなく見回したりするに留まり、やはり何か返事を返すような素振りは見せなかった。ハルキはそんな彼女の仕草をしばらく見つめてから、もしかしたら、と思った。もしかしたら、彼女は言葉を話すことができないのかもしれない、とハルキはほとんど確信に近い思いを浮かべた。何故なら、その少女の狼狽えかたは、口下手な人がどうやって返事を返すべきか迷っているという様子ではなく、声自体の発し方がわからない人間が、どんな手段で答えを渡そうと思案しているものの動きに見えてからだった。ハルキはそして、彼女と朝食を共にした時に感じ得ていた違和感の正体を、ようやく理解することができたような気分になった。  ハルキはちょっと待ってな、と言い残すと何か書けるものをとメモ用紙とボールペンを持ってきて、少女に手渡した。これに返事の言葉とか、言いたいことがあったら書いてくれればいいから、とハルキは告げて、再び少女に質問を繰り返した。 「年齢(とし)は幾つなんだ?」  すると、ルカ、という名前のその少女は次に、自分の名前の横に、十九歳、と数字で記入した。 「十九か。それじゃ、俺より三つ下だな」  ハルキはやっぱり、と頷いた。彼は少女ーールカを拾ってきた夜に彼女の容姿を確かめた時から、その年齢が十八か十九くらいで間違いないだろうと半ば確信していたため、その勘はまさしく当たっていたのだった。 「お前は、言葉が話せないのか?」  その質問には、ルカは何かを書き記すことなく、ただ静かに大きく頷いた。 「本当に話せないのか?少しも?」  ハルキが聞くと、ルカは再び二、三度頷きを見せる。そうか、とハルキは少しだけ申し訳なさそうに、わかった、と呟いた。 「それじゃあ、最後の質問、聞いてもいいか?」  ハルキが少し慎重に尋ねると、ルカは、こくり、と同じような温度で頷いた。 「……お前、ーールカは、昨日の夜、あの街ん中で倒れて眠ってただろ?」  ルカは昨夜の地震に降り掛かった、けれども恐らくは半ば身に覚えではないだろうその記憶を、彼女なりに思い出して、頷く。 「なんで、あんな場所で、倒れていたんだ?」  ハルキは、少し息を呑んで尋ねた。これが、一番彼にとっては重要で、昨夜中から強い関心に駆られていた質問だった。するとハルカは、束の間ボールペンで記す動きを止めて、しばらく紙面と向き合っていた。今度こそ彼女は、どうやって答えを書き記したものかを流石に考えあぐねている様子だった。ハルキはしかし決してそれを急かしたりはせずに、黙って静かに、ルカの書き文字の返事を待った。二人の隣横では、新たに薪を焚べた暖炉の中で、紅みや煌めきを増した炎が一層強く燃えて、ぱちぱちと優しくリビングを包む音を立てて彼らを見守っていた。 「……もし、どうしても、言いたくないってんなら、答えなくてもいいからな」  そん時は、首横に振ってくれ、とハルキは加えた。彼自身は、もちろんルカの昨夜の街の路中に寝転ぶ姿のその要因を知りたいところではあったけれど、それがどうしても彼女にとって説明し難いものであるなら、それを強い尋ねて聞き出すのは、ハルキにとっても本意ではなく、むしろ胸が痛むものに過ぎなかった。それを無理に聞いて、ルカ自身が精神を病調に陥れてしまったり、また、何かの後悔に耽るような事態になってしまうなら、それこそ、ルカを助けて家に保護したハルキの一連の行動がこの上なく無駄に成り果ててしまうことに他ならないからであった。そんな心構えを踏まえて、ハルキはもう一度、ルカに同じ質問を尋ねた。 「ルカはなんで、あんな場所で、倒れていたんだ?」  それから、また、やはりしばらくの沈黙の間があった。さっきと同じように、二人の見つめ合う間隔を、ぱちぱちと音を立てて燃える暖炉の炎が静かに、それでいてどこか頼りなげに埋めようとしている。 「…………」  するとルカは、急に何かを思い立ったように再びボールペンを手に掴むと、テーブル上の名前と年齢を書き記したメモ用紙を裏返しにして、何かを新しく無心に書き出し始めた。ハルキは、その彼女の様子を、黙ったまま、じっと眺める。しかし、ルカがその答えを書き終えるのに、そんなに時間は要さなかった。  ルカは、その書き終えたメモ用紙の返答を見せるべく、用紙を指先でハルキの方へと押しやった。ハルキはその用紙に視線を落として、その答えを目にするなり、用紙を掴み上げて、じっくりと瞳(め)つきを凝らした。  そこに書かれていたのは、こういう文章だった。 『追われていたの、ひどい奴等に』 「……その、ひどい奴等ってのは、一体どんな奴等なんだ?」  ハルキは気付けば思わず、そんな事をルカに尋ねていた。この際であるから、気になることは幾つか尋ねておきたいと思ったのだった。  ルカはそこで、再びまた沈黙を見せた。今度ばかりは、どうやって説明を付け加えるべきか、ひと回り悩んでいるように見えた。  そんな彼女の様子を見ていた時、ハルキはまた、あの今朝の半ば、悪夢と言っていいような夢の一様を思い出して、ーーまるで束の間のフラッシュバックみたいにーーその夢に出てきたルカの姿と、今目の前に座って大人しく、虫も殺さぬ和穏(おだ)やかな顔をしているルカの姿を投影、照らし合わせて、少しの間に見比べてみた。そしてそのことを、ルカに伝えた。 「俺、眠ってる時に変な夢見たんだけどさ、それに、お前の姿が出てきたんだ」  ハルキが言うと、ルカは彼の顔をじっと見る。 「そこだと、お前がさっき言った通り、お前は何者かに追いかけられて、切羽詰まったみたいに必死に逃げてたんだよな。まるでそれこそ、誰かにーー」  ハルキはそこで一度、言葉を途切らせた。 「ーー……誰かに、殺されかけてでもいるかのように」  ハルキはそう言ってしまった後で、呑み込まれかけている、と言い換えた方がよかっただろうか、とふと悔やんだが、ルカの方も、そのところはそれほど気にしてないばかりか、むしろそのハルキの言い方に納得すら覚えているような印象と態度を見せたのだった。 「それで、その、お前のことを、夢の中で追いかけてた奴等なんだけど」  ハルキはそう言うと、少しまた口篭もった。夢の中でルカを追いかけていた奴等の事をーーそれは確かに、言葉には一概に言い表すには幾らか難儀を要するような、抽象的な黒い影の靄がかったものとしか今は言い得られない姿のものに違いなかったーー一体なんと自分の口から説明すべきかを、一瞬、迷ったのだった。  しかし、ルカの方はルカの方で、やはりそのハルキの口から、どんな言葉が吐き出されるのかが気になっている様子だった。彼女は依然として、これの発する言葉を待っていて、彼の顔をいつまでも見つめて眺め続けている。 「……そうだな」  そんなルカの視線に耐えられなかったわけでも、その静かな無言の圧迫に負けたわけでもなかったけれど、ハルキはやはり、自分の見た通りに、正直にそのまま打ち明けて話すことにした。 「黒い、なんというか、影、みたいな奴等だった。そんな風に言われても、ルカはピンとこないかも知れないけど、俺からは、そんな感じにしか言えないんだ。そんでお前は、とにかく、そんな奴等に追いかけまわされていた、ってわけなんだ」  ハルキがそこまで一気に喋り終えると、ルカは相変わらずの落ち着きを払った表情で、ハルキの顔を小さく瞬きをしながら見ていた。彼女の顔には、ハルキのその話を不思議そうに聞いている節みたいなものが感じられてはいたけれど、だけどもどこかその不思議に対して、彼女なりの理解を示しているようにも、同じく感じられていたのだった。 「……どうだ、何か、当て嵌まってたりしたか?俺の話、って言うか、夢なんだけど」  ハルキが思わず言うと、ルカは頷いたり、首を振ったりはせずに、僅かに顔を俯かせて、何かを再び思い出すような表情や動作を見せた。ハルキは、しばらくその様子を見たあとで、ルカに真偽の示し合わせをするべく、何度か質問を繰り返した。 「まさかとは思うけど、そいつらは、影、とか、霧とか靄とかじゃあ、ないよな?」  ルカは、大きく頷く。 「じゃあ、やっぱり、そいつらは人間か?」  ルカはまた、大きくこくりと頷くと、その彼女でいうところの、恐らくは彼女の身にとって、畏怖の対象物であり、それ故に只者ではないであろう追手である人間の顔や姿を不意に思い出してしまったのか、苦虫を噛み潰したような表情を微かに見せた。 「……まあ、嫌だとは思うんだけどさ、もしよかったら、そいつらが誰なのか、どんな人間なのか、俺に教えてくれないか?」  ハルキはルカの引け目な様子に少しためらったのちに、落ち着いてゆっくりと、その質問をルカに尋ねた。しかし第一、今ここでハルキがルカのいかなる答えを聞いて受け取ったところで、彼が彼女に対してできることなど、たかが知れているに違いないのだけれど、それでもハルキは、せっかくこうして奇しくもルカという名前の彼女に出会って、その彼女を家に連れて来たからには、その彼女の、きっと哀しくて、後悔に満ちた過去の鬱屈とした感情やトラウマを共有して、僅かばかりであっても、ルカの手助けになれるような手立てを思案してあげたい、と彼女のどことなく危うげな、それに伴うように、刹那的な生気を含むように見える表情を眺めながら、思っていたのだった。  そして、今度は幾らか、その返事を文字に書き辛そうな様子を見せてから、ルカはメモ用紙の空いているところに答えを記した。  そこには、こう書かれていた。 『アグラーレルのやつら』  ハルキはその答えを見て、脳裏にひとつの、とある映像もしくは光景が浮かんでくるのを覚えた。それは、そこに映ったのは、いつかのテレビのニュース番組で観た、両耳を塞ぎたくなるような頻度でもってしつこいぐらいに毎日のように報道されている、ある海域を経た島国の国名と、そこに暮らし住み着いている人間達の、老若男女不特定多数の姿だった。アグラーレル、とハルキは胸の中でその名前を反芻させる。その島国の名前は、もといそこで暮らしている人間達というのは、今しがたに現代社会そして主に亜細亜(アジア)圏内諸国から成る世界の一端を、彼の想像しうる範疇(はんちゅう)を遥かに超えているだろう巨大な烈火や不穏の波渦、そして時に無慈悲な死者の増産的戦場の闇でもって取り囲み、否、呑み込んでいる、まさにその世界的な戦争とも呼べる情勢を語るうえで、真っ先に思い浮かぶであろう、それに最重要な固有名詞であるだろう、あの異国民を総称するものであるに相違なかった。  そこまで想像を一人巡らせたときに、ふと、ハルキは嫌な推察ーーというよりは、嫌な予感、と表現するのが合っているのかもしれないーーをその脳裏に思い浮かべてしまった。しかし、それを深く自問自答に至らせる前に、とりあえずは、ルカにもう少しさらに詳しい答えを聞き出すことにした。 「それで、その、アグラーレルの奴等が、お前を追っている理由ってのは、なんなんだ?ルカは知ってるのか?」  すると、ルカはこくり、と確信して頷くと、ハルキに新しいメモ用紙はないかと要請する動作を示して、彼にもう一枚の用紙を持って来させた。  ルカは今度は、じっくりとその答えを書き出している様子であり、何度かはじめに書いた言葉遣いの文字を二重線で消したりなんかして、ようやく答えを書き終えると、ハルキの前で広げてそれを見せやった。 『アグラーレルの奴等は、私の父さんと母さんを殺したの。私は、あいつらに迫害されていて、差別を受けていたんだけれど、ーー私の父さんは日本人で、母さんがアグラーレル人なんだ。つまり、私は日本とアグラーレルの混血人種っていうこと。それで、そういう混血の人間を忌み嫌うアグラーレルの奴等が、かく果てに両親を殺して、私のことを甚振(いたぶ)りはじめたってわけーーとうとう我慢できなくなって、この日本にーーっていっても、私が生まれたのはあっちの国(アグラーレル)だから、別になんの思い出ももちろんないんだけど、でも他に逃げられるような場所なんて思いつかなかったからーー逃げてきたっていうことなんだ。それで』  すると、ルカはもう一度用紙に向き直って、その続きを書き足した。 『道端で倒れていたら、あなたに助けられた、っていうわけ』 「…………」  ハルキは、そんなルカの長文の回答を静かに読みながら、しばらくなんと言葉にすべきか、じっくりと考えていた。その答えから察するに、ルカの今まで送ってきた人生、その実態というのは、言うまでもなく過酷なものであるに違いないのである。そんな彼女に、まだ出会って二日と経たない、況してや尤も親身でもない自分が、一体どんな言葉をかけられるのだというのだろう。  そんなハルキの様子を、ルカもまた、同じように静かにじっくりと眺めて、見つめていた。 「……ルカ」  ハルキは一度暖炉の方へと目をやると、深呼吸をして、彼女の名前を呼んだ。 「もし、よければだけどさ、しばらく、俺と一緒に」  それからルカの顔を向いて、言った。 「……この家に、二人で暮らしてみないか?」  そのハルキの答えを聞いた後で、ルカはやはり同じく隣横で煌々と暖かく燃える暖炉を一度見やると、ハルキの顔に視線を戻して、大きく、そしてまるで嬉しそうな笑みを含ませながら、首を頷かせた。  暖炉の中の炎は、ぱちぱちと優しい音を立てながら、その響きと温度で、リビングと二人の存在を抱擁していた。

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第五章

第四章

 少女を拾って家に連れ帰ってきたその夜、ハルキは夢を見た。それはとても不思議で、今度は前に見たものよりも、より不可解な夢だった。  夢の中には、ハルキは登場せずに、彼の拾ってきた少女の姿だけが映っている。少女は、何かからひたすらに逃げるように走り続けていた。背後に迫り来る、何か、とてつもなく恐ろしいものの存在から。それが一体どういうもので、その正体がなんであるかは、夢の一部始終を描き辿ってみても、ハルキにはほとんど理解や推察することはできなかった。なぜなら、その少女が逃げ続けている対象である恐ろしい存在は、彼の夢の中では、ただの黒い霧靄、もしくは、大小姿形の様々な言葉ではどういう風にも表現をするのが難しいというべき黒い影達という姿や気配でしか登場し得ずにいたからであり、そこからその霧靄もとい影達の正体を、夢を遡って見破るのは非常に困難だった。然らば、夢は謎に包まれたまま、一向の答えを示すことなく、ハルキの目覚めとともに去っていったのであった。  ハルキは、重い目を開けて、その目を覚ました。眠りの残滓(ざんし)は深い眠気となって彼の頭を暮夜けさせて、大きな欠伸をさせた。リビングの窓の外に見える景色は、まだ仄かに薄暗さを含んでいて、夜明けの早朝の色彩を示すとともに、今のハルキの寝起きの暮夜けた意識のような、夜の残滓をまだ空に含んでいて、溶け混ざりきらない月夜と旭の明るみを徐々に照らし合わせていっているように眺められた。それから、昨夜にーー恐らくは、一晩中続いていたことだろうーー降り吹き荒んでいた吹雪は、いつの間にかすっかり止んでいて、晴れた景色は、新しい一日の幕開けを合図していた。  ハルキはようやく目をすっかり覚ますと、背伸びをしながら、ロッキンチェアを降りた。時計を確かめると、時刻はまだ朝の六時半だった。ハルキがいつも起きるのは七時頃であり、少し早いくらいの時間帯だった。ハルキは、隣横でまだ暖炉が燃えているのを確かめると、その炎の燃え具合を確かめた。山のように焚べた薪も、一晩のうちにほとんどが灰と化していて、あと数時間で全部燃え尽きてしまうだろうというように見えた。ハルキはとりあえず、ソファでまだ目を覚ましそうにない、穏やかな寝顔の少女の眠る姿を一目見やると、暖炉へ焚べる薪の準備や、それから今日の狩猟に取り掛かるべく、早速コートを羽織り、ライフルを背負って、外へと出掛けることにした。  屋外の温度は、相変わらずの肌寒さで、吐く息は白く、昨日よりも冷たさを増しているようにさえ思えた。ハルキはしかしそれでも今や慣れたその温度に身を包み、昨日の疲れと眠気がまだ幾らか残っている足取りで、雪の積もる山道へと登っていった。  今朝の山は、いつもよりも静かに感じられた。というのは、抽象的な意味でなく、具体的な意味で。普段なら、もう少し微風や、それによる葉揺れの音や、また森林中に住んでいる動物達の鳴き声や足音が聞こえてくるのであるけど、その何れもが、今朝に限ってはハルキの耳元に届くことはないように思えた。そして実際、そんな音達は山には訪れなかった。もう、既に彼等は冬眠に入ってしまったのだろうか、とハルキは思った。兎や栗鼠どころか、空を飛ぶ鳥の姿すら見えない。どうしようか、とハルキは背中に寂しげに鉄の冷たさを含むライフルの存在を感じながら、ひたすらに視線の先に歩みを進めていった。彼の地面の雪や枯れ草を踏む音だけが、今森の中には響いていた。  ハルキは、せめて、一、二匹くらいの、狸か狐でも居ないだろうか、と辺りを見まわした。それらのどっちかの毛皮さえあれば、セーターが寝巻きのひとつくらい作れるだろうと頭に狩り獲った狸や狐の姿を思い浮かべる。ハルキは、その毛皮製のセーターか寝巻きを、あの少女にプレゼントしてあげようと考えていた。そして、無意識にそんな提案を考えている自分に気付くと、ハルキは、何を柄にもないことを、と自分のアイデアを自嘲気味に小さく笑った。自分が、誰かに好かれる存在だとは、とても思えない。自分はそんな人間ではない。況してや、あんな可愛らしい少女に好意を持たれることなどは、間違っても有りはしないだろう。ハルキはそんな風に自身を評価すると、それでも、と息を吐き、山を進んだ。それでも、彼女を拾ってきたからには、俺は彼女のために何かをしてあげなければいけないんだ。ハルキはそんな彼自身の責任感に意識を向けて、再び閑散とした森林の奥地へと獲物の姿を探しに入り進んでいった。  それから小一時間ばかり、宛てのない獲物を探し続けていたハルキだったけれど、やがて全く生き物の気配が感じられず、半ば狩猟を諦めかけていたところで、今朝にみた、あの少女が何かから逃げ出している夢の光景を退屈しのぎに思い起こしていた。  夢の中では、同じく言うようにハルキが拾った少女が、何かの霧靄か影の形をした黒い存在から、必死に逃げ走っている。少女は、背後に迫るその影達に、初めてみるような驚嘆や畏怖の表情は見せずに、半ば淡々と、自分の足を駆け出すことだけに意識を向けるように、目の前を睨みつけていた。まるで、襲いかかってくる者達の正体を既に明らかに知っているかのように。少女の服装は、今彼女が身につけているような薄着のものと同じかどうかは判断できなかったけど、薄暮夜けに記憶を浮かべてみると、彼女は、もう少し厚手の衣服を身につけていたような気がした。しかし、それはハルキにとっては何ら気にするべきことではなく、彼が今気にすべきことは、その少女が逃げ続ける夢の意味するところが、果たしてどう言うものであるのか、そして、自分はこの時間帯に、山に潜む狸狐を探し当てて捕まえることができるのだろうか、という、その二点だった。だけど、少女の夢に於いては、ハルキにしてみれば他人事であり、推察の余地を遥かに越えていたために、当然その答えに辿り着くことなどは無理な事だと言えた。それからハルキは気を取り直して、夢の思い返しを停止すると、再び山中の狩猟のための探索に意識を集中させた。  それから更に小一時間ほど探索を進めたのだけれど、やはり一向に動物達の気配を見つけることはできずに、ハルキは仕方なく今朝方の狩猟を断念した。どうやら、もう既に動物達はそのほとんどが冬眠に入って、人間の踏み入られる範囲にない緑奥地へと姿身を隠してしまったようだった。しかし、ハルキはこんな不猟を経験するのは、当然初めてのことではないのだけど、今日ばかりは、いささか悔しさが募った。それは、言い述べることあの少女の存在が要因にあり、彼女に何か獲物を持って帰って、それから作る手芸品をプレゼントしたいと考えていたことや、また、彼女に自分の長年腕にしている過酷な仕事の一様を見せてあげたいというハルキの、いかにも男としての見栄らしい願望が、儚くも散り去っていってしまったからに他ならなかった。ハルキは、何を呟き言うでもなく、ただはあっ、と何度かばかり溜め息を繰り返して、とぼとぼと情けないような足取りで風のない山道を一人下っていった。  家に戻り、リビングに向かうと、少女は既に目を覚ましており、ソファの上にブランケットを手放し惜しそうに肩まで覆わせながら、一向に弱々しくなっている暖炉の炎に身を委ねて、ぼうっとようやく始めてはっきりとその目にする、彼女の知らない部屋を眺めまわしていた。 「なんだ、もう起きてたのか」  とはいっても、ハルキは時計を見て時間が既に、彼が家を出た頃から二時間ばかり過ぎていて、幾ら深く眠る少女出会っても、目を覚ますには丁度な頃合いといえた。ハルキはそれを確かめると、どれほどに自分が我を忘れて宛てもない一人仕事に没頭していたのかが窺えて、そんな自分にやれやれ、と呆れてライフルを片付けてコートを脱ぐと、大きく背伸びをした。 「何か、食べるか?」  ハルキが尋ねると、少女は少し戸惑った様子を見せたが、やがて小さく頷いた。 「だよな、そりゃ腹も減ってるよな。よし、それじゃあすぐに何か作るから、待ってろよ」  そう言うとハルキはすぐさまにキッチンへと向かった。  ハルキはそしていつものように、遅めの自分の朝食を作るとともに、家に連れ入れた少女のものも、一緒に準備をすることにした。ハルキは冷蔵庫から取り出した二匹の生魚を慣れた手つきですぐに捌き終えると、フライパンを火にかけて、二匹の魚を塩焼きにして焼き始めた。この魚は、サーモンのようでもあり、ツナのようでもある、近年の海で繁殖し始めた、今や大漁に捕獲されている魚だった。ハルキは肉を食べる時以外は、よくこの魚を塩焼きやバターソテーにして食べていた。 「よう、朝飯の魚なんだけど、今日は塩焼きでいいか?」  ハルキは焼き始めたのにも関わらず、リビングの少女の元に行って尋ねる。少女は、暖炉の上に飾ってあった、ロバと犬と猫と鶏のブレーメンの音楽隊の人形のうちの猫の人形をとって、眺めていた。 「それとも、バターソテーの方がいいか?」  再び問いかけると、少女はまるでどっちでもいい、というような表情と首の動きで、顔をハルキの方に向けた。ハルキには、その彼女が言葉を発することなく返事を見せたのが異様に不思議がって思えたが、特に何か更に尋ねることもなく、じゃあ塩焼きでいいな、とだけ言い残すと、またキッチンへと戻り、魚の調理に取り掛かった。  大体火が通り魚が焼けたところで、ハルキは昨日の残りの鍋に入った野菜スープを別皿に分けると、それらとパンを一切れずつ二人分のトレーに乗せて、リビングへと戻った。少女は人形で遊ぶのをやめて、少しだけ残る眠気に身を委ねるように、何をするでもなくただソファに寝そべっていた。 「ほら、朝飯できたぞ」  ハルキは二人分のトレーをテーブルの上に置いて、少女の意識を向けさせる。少女は声に反応すると、すぐにテーブルに用意された朝食に目をやった。そしてそこにある料理達をじっくり確かめるように両目を動かした。 「お前、きっとここしばらく何も食べてないんじゃないか?」  ハルキはそう言って、ロッキンチェアとは別の椅子に腰掛ける。二人分のスプーンとフォークを準備して、少女のその料理に目を輝かせる様子を見て、彼女の今にも腹の虫音を聞かせんばかりの動揺に気づくと、ハルキはどこかそんな彼女を哀れげにも、大して愛おしげにも感じるように眺めた。 「じゃあ、せっかくだから早く食べようぜ」  ハルキの合図に少女は大きく頷いて、早速二人は朝食に手をつけて食べ始めた。魚の塩焼きは脂が乗っていて、身が柔らかく、焼き加減や塩加減も丁度でハルキは我ながら上手く行った、とその食感を楽しんだ。それからパンやスープも同じく食べ進める。そしてふと少女の方を見やると、彼女もやはり彼と同じく、今までのーーどれくらいの時間なのかはわからないけれどーー空腹の苦しさを取り返すかのように、トレーの料理達を一心不乱に、だけれど慌てた様子はなく、どんどんと静かに、黙々と食べ進めていった。そしてその度に、少女の空腹が満たされていくようになるその様子を、彼女の失いかけた生気が息を吹き返す表情からハルキは読み取った。 「焼き魚、美味いか?」  そんな言葉にもはや返事をする暇もないといったように、彼を見やる隙も見せずに少女は淡々とそれでいて活気づいたように料理達を呑み込んでいった。ハルキはそんな彼女を、静かに微笑ましげに見つめた。  二人がスープを飲み終えて、料理皿が空になると、ハルキと少女は息をついて、しばらくそのまま食後の余韻に浸っていた。こと少女に至っては、まだ食べ足りなそうなのではないかとハルキは、もう少し食べるか?と問いかけたが、少女はもういらないという風に首を振った。  ハルキはそして料理皿を片付けながら、後ろ目に少女の姿を観察した。彼女は、今やすっかり元気を取り戻した様子で、ようやくになって生きる気力が回復したように見えられた。その証拠に、昨日までただ無気力に浸って、深い眠りに自意識をどこか無闇に、自制心なく半ば投げやりや身勝手に委ねていたような彼女の姿とは違って、今の彼女は、空腹を満たされた幸福感に溢れた暖かげな表情を浮かべていて、そしてそこにはどこか、かつての誰かとの幸せで暖かい時間を過ごした思い出に対する郷愁や懐古的な感情を抱いているような、生きる意思を思い出したようなものが確かめられて、健やかな姿となった少女がそこには存在していた。  ハルキはキッチンの片付けを終えると、リビングの奥の部屋へと行って、上下の羽毛造りの衣服を持ってきた。 「今日もきっと寒くなるだろうから、これに着替えてろ」  そういって手渡された衣服を受け取って、少女は少しの間窓の外を眺めた。 「俺はこれから、ちょっと外に用事に行ってくるから、その間ここで好きに過ごしていてな」  本とか読んでてもいいし、それからあと何か食べたいものあったら、勝手に食べてていいから、とハルキは言うと、コートと、今度はライフルは持たずに、薪割り用の鉄斧を担いで、玄関の方へと向いた。 「夜になったら、肉焼いてやるからな。愉しみにしてろよ」  ハルキがそう言って家を出ていくと、少女はその言葉にどこか違和感を覚えたように彼の外出の経路を目で見つめながら、貰った冬用の衣服に着替え始めた。

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第四章

第三章

 ハルキがルカという少女を拾ったのは、その数日後ーー二、三週間ほど経った頃であろうかーーの夕暮れ方だった。街通りには、真冬らしいその夕刻を告げるかのような吹雪が天候の急変により吹き荒びはじめて、辺り一面の景色はすっかり瞬く間に凍てつく冷たさの雪の暴風に染められてしまっていた。 「おい、大丈夫か?」  ハルキは大通りへと戻った買い物の帰り道に、道端でとある一人の少女の姿が降り積もる雪の中にもはや埋もれて倒れ込んでいるのを見つけると、すぐさまにその場へと駆け寄っていって、声を掛けた。少女の体は、確かめるまでもなく、全身を洩れ隈なく雪もとい氷粒で完全に閉ざされていた。そして、歩道に等間隔に建っている街灯の仄白い照明が、彼女の雪から覗く横顔を朧げに照らしていた。 「おいってば、聞こえないのか?」  返事がないため、もう一度ハルキは大声で呼び叫んで、少女の身体を強く揺らす。しかし、彼女にその声は一向に届いてはいないらしく、彼女の反応が見られる見込みは感じられなかった。  ハルキは、うつ伏せになっている少女を抱き起こして、仰向けの状態にさせる。その顔を見やると、どうやら彼女はすっかり意識を失ってしまっているようで、両目を完全に閉じ切っていて、表情は眠りに沈んでいるものの形に固着されているように見えた。ハルキはそして、彼女の胸元の起伏や、呼吸器の息づかいの作動、それから手首の脈などを確かめた。するとどうやら、彼女は幸いにも、まだ息絶えずに、生きていることが確かめられた。その証拠に、いずれも微かな動き、反応ではあるけど、胸部は起伏を成し、呼吸器からは息が吐き出され、手首には脈打つ感触が間違いなくあった。ハルキはそれらの事実に取り敢えずほっと息をついて、自分の胸を撫で下ろした。こんなにまで深く眠っているのだから、俺がいくら叫んで呼びかけてみたところで、目を覚まさずに反応がないのも無理はないんだろう。ハルキはそう一人で納得して、一向に降り止む気配のない雪の中、しばらく少女の姿を立ち尽くしながらに観察した。  少女は、今の日本国内には珍しいーー少なくとも、ここ何年かのうちではーー鳶色(とびいろ)の色素を持つ髪質の頭髪をしており、その毛先は、顔の半分を覆い隠すほどに長く伸びていた。冷凍保存されたかのごとく霜の張りついた顔つきは、幾分か幼く、しかし同時にどこか大人びたものの雰囲気も感じられた。肌の色は、日本人の黄色人種特有のそれと同様であり、ハルキは彼女のそんな容姿をひとしきり確認して、彼女はきっとどこからかこの街に迷い込み、紛れ込んできた少なのかもしれないな、と判断した。いや、そんな推測をするまでもなく、少女は明らかに、その姿を見るからにこの街通りにおいて行き倒れになった存在であることは、誰の目にとっても明白であるはずだった。また、少女の身につけている服装といえば、袖のない薄着の白いシャツと、裾がほつれ、好き放題に裂き傷の破れが散見される、ぼろ切れのような丈の短いスカートと下履きの下着を身につけているのみで、とてもこの悪天候の中で身につけるべき服装とはどれほど間違ったとしても言えるようにはなれない、見るからに痛々しげで、寒々しげで、それでもって貧相悲惨たること極まりない、哀れな様式を纏っているばかりだった。  ハルキは取り敢えず、最初に少女の身体を抱き上げると、無駄ではあるだろうけれども、身体から大方の雪の塊を払い落とすと、幾らかその全貌が露わに近づいた彼女の華奢な体型を背中に乗せやって、彼女を背に抱える体勢を取った。そして買い物袋を片側の肩に提げて、なんとか体勢を維持しながら、自宅へと帰る準備をつくった。  少女の身体は、見た目通りというべきか、大して重量の負荷はそれほどの苦として感じられるところに至らなかった。つまり、ハルキはその少女を背負い帰宅することに、何ら大きな難を要することは恐らくはないだろうと安堵して、雪が吹き荒び、凍りつくような街通りを家のある方角に向かって、足元を滑らせることのないように、ゆっくりとそれでいてできるだけ急ぎ足で歩を進めていった。  ハルキが少女をなんとか背負い続けてようやく大通りの国道の面する通りまで辿り着いて横断歩道を渡ろうとした時、ハルキの目の前を一台のかなりの速度で自動車が通り過ぎていき、あやうくハルキはその車体に衝突する事態を免れたが、背中の彼女の重力とハルキが片膝を崩したことによって、彼は雪の中に束の間片足だけ転倒した。 「おい、何やってんだ、あぶねえじゃねえか!」  自動車は数メートル先で停車し、車道から身を乗り出した運転手が、ハルキを怒鳴りつけるように吐き捨てる。 「気いつけろい、馬鹿なガキっ子が」 「なんだとゴラあっ」  ハルキが罵倒を返すも、気づけば自動車は発車していて、もうすでに車両はハルキの不遇を嘲笑うかのようにかなりの速度で走り過ぎ去っているのだった。 「あの、クソったれが」  そんな風にはあはあと息を切らしながら悪態をつきながらも、ハルキは背中の少女が自分の転倒の際に、地面になんとか殴打していないことを確かめると、ふうっとため息を吐いて、再び体勢を持ち直すと、理不尽とも言える肌寒さを突きつけてくる、白い豪風の中を歩きはじめた。肩提げの買い物袋から卵やトマトが落下して割れていたが、今のハルキにはそんなことを気にする余裕はないのだった。  街通りから麓の一帯を歩き継ぎ、ハルキは自宅のある丘地までの森林の道を歩いていく。仄かに光っていた地平線の(それは山頂にでも登らない限りは、住宅地一群に建造する首都ビルの集合体によって遮られて、確認できないものなのではあるけれど)夕陽の残映も消え去って、空には真っ暗闇と化した星ひとつない夜空が、深い黒淵となって広がっていた。  いつもはあっという間に登りきってしまうこの丘坂の山道も、今のハルキにとっては、長く遠い道のりのようにある種思えてならなかった。それは、この稀に見る悪天候極まりない凍てつく吹雪のせいであるかもしれないし、昨夜充分に睡眠を取らずにいた休息不足のせいであるかもしれないし、若しくは、背中に背負っている少女の存在のせいであるのかもしれなかった。いや、きっと恐らくは、そのすべての要因が折り重なって、今のハルキの疲労を生み出していることに間違いはないだろうといえるのだった。  普段ならその自然豊かな、彼の感受性を高めて鋭敏にしてくれる存在である山道を囲むこの左右の緑生い茂る森林の木々達も、この瞬間には、ただハルキの疲労を圧倒的な存在感で圧迫して、暗がりに閉じ込めようとする脅威的な壁にハルキには思えて他ならなかった。しかし、この道を登り切らなければ、自分の家には辿り着けないのだと、ハルキは段々と重みを増す足取りを、最後の気力とでもいうように踏み出して、ようやく見えはじめた丘上の自宅の姿影を薄目にひたすら向かっていった。  そうしてやっと家の前に辿り着くと、ハルキはすぐに玄関先へと足を急いだ。一刻も中に入りたかったし、それに何より、身体の凍て冷たさがとうに飽和を迎えていることだろう、少女の肉体のその凍て冷たさを解凍して、そして彼女を一向の深い眠りの中からどうにかして解放して、彼女を何よりも早く目覚めさせなければいけないという、誰に頼まれたわけでもありはしないのだけれども、しかし彼女を拾った当人のハルキにその使命もとい責任はすでに課せられているのであって、そんな目的を一刻も早く遂げたいとハルキはそれだけを今は考えに尽かせていたのだった。  そしてハルキは鍵を取り出すと、すぐさまに玄関のドアを開いて、家の中に少女を連れて急ぎ様に入っていった。その時、家の周辺に茂る森林の木々の先に留まっていたカラス達は、最早とうに夕暮れ時などとっくの昔に過ぎ去った時刻だというのに、カアカアカアカア、と呑気な啼き声を数匹の仲間達と共に今頃になって高らかに上げると、さっき言ったような深淵の闇を生み出す真暗の夜空へと羽を羽ばたかせて一斉に飛び去っていったのだった。  少女を背負ったまま点灯した廊下を歩いていくと、ハルキは突き当たりにあるリビングに入った。ソファに背中の少女を下ろして、買い物袋を片付けると、すぐに暖炉の中へ火を燃やして部屋を暖める準備をした。薪はまだ少し残っていて、その全部を今夜のうちに燃やしてしまうことにした。今は何より、この部屋を暖めて、ソファの彼女をなんとか手当するより他はないのだから。  ハルキはそして少女の身体の雪解けの濡れを近くにあったタオルでひと通り拭い取ると、すぐさまに奥の寝室から、大きめの少女くらいの身体ならきっと全身に羽織れるだろう、厚手のブランケットを持ってくると、ばさりと少女の身体に覆い被せた。少女はまだこんこんと眠りに落ちたままで、ブランケットから顔だけを出して目を閉じている。ハルキは暖炉に燃える炎が徐々に温度を昇らせているのをしばらくの間確かめてから、次に急ぎ足でキッチンへと向かった。少女の手当てのための、湯張りのボウルの用意や、何か身体を暖めるためのスープ類の料理の準備に取り掛かった。  鍋に水を入れて熱して沸騰したら、あらかたの野菜の切っておいた葉束や断片を入れて、調味料や他の材料を混ぜ合わせて、再び全体に火が通るまで煮込み続ける。このスープは、一般的なコンソメ仕立てのブイヨンスープのポトフのそれと同じであり、ハルキがよく自分の夕飯等で食べるのにつくっている、彼の得意料理の一つでもあった。しかしやはり鍋料理は時間がかかるものなのだけれど、ハルキはふとソファに寝沈んでいる少女の姿や顔をふと見やり確かめにいくと、あの様子じゃ、鍋ができあがるまでにそう早く目を覚まして起きることはないだろう、とそんな風に思って、調理台の前で、ひたすらに鍋の煮込みを見張り続けて、表面に浮き出る灰汁を掬い取ったりした。  しばらくの間調理を続けてから、ある程度にまで鍋に火が通り始めると、ハルキは別に湯を張ったボウルと濡らしたタオルを何枚か用意すると、リビングに向かった。ソファに眠る少女の穏やかなーーこの場合には、寒さで凍てついているのがその理由ではあるのだけれどーー姿と、その隣横で煌々と燃え続ける暖炉の中で滾(たぎ)る紅い炎の暖くも威迫のある力強さが、やけに対照的ではあるけれど、ハルキの目には、その両方がどちらも、同じ儚さと根強さを持ち合わせている存在のように、確かに感じられていたのだった。  ハルキは、ソファの近くに座ると、少女の身体に、何枚かの湯を吸わせたタオルを水切りして巻き付けるように当てがった。幾らかの時間は暖炉の熱で暖めていたのだといっても、やはり彼女の腕や足首やうなじは、依然として冷たさの残るままだった。ハルキはその見るだけで肌寒さが伝わってきそうな少女の眠る姿を見て、なんで彼女はこんな服装をして、あんな街角に倒れ込んでいたのだろうか、とふと不思議に思った。こんな雪の吹き荒ぶ真冬の夜中に、こんな薄着で出かけるなんて、とても正気だとは思えなかった。それ故に、ハルキは彼女はもしかしたら、夢遊病の症状でも患っているんじゃないかとも勝手ながらに考えてみたのだけれど、であったとすれば、こんな不恰好な服装をしているはずはなく、彼女がまともな着用をしていないのには、何か別な理由があるはずだと、彼はその推測を束の間に打ち消した。  全部のタオルを当て終えると、ハルキはソファ横のロッキンチェアに腰掛けた。そしてようやく外着の厚いダウンコートを脱ぐと、それを暖炉傍のコートラックに掛けやって、ふう、と息を吐きながら脱力するように、背もたれにもたれ掛かった。キッチンの方では、まだ野菜スープの鍋がぐつぐつとに立っている途中なのだけれど、その間にハルキはしばらく、少女が不意に目を覚ますのを休息がてらにゆっくりと何か本でも読みながら待つことにした。ハルキはそして部屋の本棚から一冊の本を取ってくると、再びロッキンチェアに座って、それを栞の部分から読みはじめた。  その読書の合間にも、ハルキは何度か少女の寝顔に視線を向ける。するとその彼女の両頬のあたりが、幾分か部屋に連れてきたばかりの時よりも、紅さを含み帯びて、体温を立ち昇らせはじめているように見えた。そのせいか、今にも目を覚ましそうな気配がしたのだけど、しかし、それもただ彼のの期待であり、少女は依然として寝息を立て続けており、両目の瞼は睫毛を重たそうに下げ閉じていた。一体、彼女は今夜中に、一度でも目を覚ましてくれるだろうか。ハルキはふとそんな風に不安になったが、それを紛らわせるかのように、膝に置いた、文字の海面へと視線を戻しやった。  それからさらに数十分が経ち、ハルキはもうそろそろ煮えたことだろう、調理場のスープ鍋を確認すべく、本を閉じてキッチンへ向かった。すると、すっかり鍋は煮えたっており、スープが完成していた。味見をして、ハルキはとりあえず、一人分のスープを皿に分ける。それを持ってリビングに戻ると、熱々のスープを冷ましながら、少しずつ皿ごとそれを飲んだ。よく考えれば、今日彼はまともに食事をとっていなかったため、かなり空腹であるはずなのだけれど、ソファに眠る少女との出会いの不軌道な出来事によって、それすらも忘れかけている有り様なのだった。  スープを半分ほど飲み終えると、急に少女の寝息が途絶えた。ハルキが彼女を見やると、少女はゆっくりとその両目を薄目に開けて、身体を少し動かした。どうやらようやく目を覚ましたらしく、ハルキはそれを待っていたかのように立ち上がると、もう一人分のスープ皿を用意しに向かった。ハルキが戻ると、少女はすっかり目を覚ましたらしく、目をまだ残る眠気のせいに擦り、リビングの中を不思議そうに見渡していた。彼女はまだ意識が朦朧としているのか、何に対しても反応の鈍さが窺えた。 「ほら、これ、飲んでみろよ」  ハルキはそう言って、少女の目の前にスープの入った皿を差しだす。 「気をつけろよ、出来たばっかで熱いから」  少女は虚ろげに頷くと、やはり熱そうな手つきで皿を受け取った。それからしばらくその立ち昇る白煙の湯気を何度か繰り返して息で冷ますと、やっと一口だけスープを飲み込んだ。 「どうだ、美味しいか?」  ハルキが尋ねると、少女は再び虚ろげに、静かに頷いた。意識が薄いながらも、なんとかスープの味を味わっている様子だった。 「そうか、そりゃよかった」  その少女の飲む姿を嬉しげに眺めやりながら、ハルキは同じように自分のを飲み進めた。スープのおかげか、少女の身体も、かつての体温が戻りはじめているように思えた。  ハルキがスープを飲み干した後で、少女もひとまわりくらいの時間をかけて、ようやくそれを飲み終えると、ぷはぁ、と満たされたように息を吐きだした。すると、その途端に、再び欠伸をして、眠たげに目を擦ると、ソファの海へと倒れるように、眠りの中に沈んでいってしまった。少女の静かに細かげな寝息が聞こえはじめた。 「……俺も、今夜はもう寝るか」  少女の手当てを終えたのと、彼女が無事に危うい冬眠から目を覚ましたことに幾分か安堵を感じたハルキは、急に身体中に強い睡魔が襲い寄ってくるのを拒むことなく受け入れて、その圧倒的な心地よさに身をすっかり委ねると、そのまま暖炉の炎の煌めくリビングの中で、少女と一緒に暖かい眠りの中に落ちて行った。

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第三章

第二章

 ハルキは翌日も、庭から周辺に広がる一帯が丘状の森林の中へと、いつものように狩猟へと出掛けた。今日の目的は、新しく毛皮のマフラーをつくる為の、良い素材になりそうな大きめの羽を持つ鳥なんかを獲りに行くことだった。今日も同じように、ハルキは猪革製のコートに、同じく猪革製のパンツ(こっちは子猪の生皮からつくったもの)と厚底の黒い冬用のブーツを履いて、ライフルを背中に山の中へと登っていった。空は昨晩の吹き荒れる吹雪の一様が、まるで嘘だったかのように晴れ渡っていて、雲ひとつなく白く、太陽の光を燦々と地上に差し込ませていた。そして今日も同じように、ハルキは猪革製のコートに、同じく猪革製のパンツ(こっちは子猪の生皮からつくったもの)と厚底の黒い冬用のブーツを履いて、ライフルを背中に山の中へと登っていった。空は昨晩の吹き荒れる吹雪の一様が、まるで嘘だったかのように晴れ渡っていて、雲ひとつなく白く、太陽の光を燦々と地上に差し込ませていた。  森の中に入ると、緑の茂る草木、枯れ果てた草木の枝先からは、今朝の陽光によって溶解した雪の産物である冷たい水滴が、ぽたりぽたりとあらゆる幹の元で落ち続けていた。それらは時々、その下を通るハルキの被るフードコートの頭上に落ちたりして、彼の着ている厚手の防寒具や背中の光沢を魅せるライフルの様式を静かに濡らしていくのだった。  山道の昨日よりも数十メートル程度の深い場所へ着くと、ハルキはコートのポケットから取り出した、小型の双眼鏡を目元に掲げて、レンズの中を覗いた。鬱蒼と茂る木先の合間から、空の様子を眺める。いつどこから、目当ての鳥達が姿を表しても見逃すことがなくて良いように、そしてその彼等が姿を現す兆候を一瞬たりとも見誤らないようにという、ハルキのこの数年で培われた野生的技量と心理推察が成せるべくして成せる行為だった。  その場所でしばらくそうやってほとんど同じ体制で、小さな双眼鏡の繊細なレンズから覗ける緑の隙間にある空一帯を観察していると、ハルキは瞬間、目を光らせた。彼の野生の勘が働いて、数秒後に右手の方から二、三匹ほどの鳥の群れが現れるのを悟った。そしてハルキは双眼鏡を急ぎ様にポケットに仕舞い戻すと、すぐに背中のライフルを構えて、その銃口を間もなく頭上を通過すると思われる数匹の鳥達の予測飛行地点に向けて、狙いを定めた。そして、その彼の予想通りに、三匹の鳥が羽を羽ばたかせて、彼の頭上に姿を表した。今だ!とハルキは胸で叫んで、迷いなく引き金を引いた。発射された火薬弾が、森の中で轟音を響かせる。そしてその刹那、銃弾の残響の中で、空からは一匹の鳥が体勢を崩して、彼の立つ付近へと落下していく。ハルキは続け様に、他の二匹の身体へも、銃弾を加えた。彼の射撃の命中率は、ほとんど百発百中だった。その成果に、二匹の鳥も、初めの一匹に続いて、木々の中へと墜落した。ハルキの構えるライフルは、今日も硝煙を立ち昇らせていた。  ハルキはすぐにその三匹の鳥達の元へと近寄っていくと、まず先に、彼等の羽に穴が貫通したり、また傷跡が残っていたりしないかなどを確かめた。何故なら、ハルキがこの鳥達の身体からマフラーをつくる際には、彼等の持つ巨きな白い羽が重要不可欠なのであり、その貴重な素材を傷つけるようなことは、マフラーづくりにおいては致命的とも思えることだった。 「やったぜ、思った通りの大収穫だ」  そう言ってハルキは早速その撃ち落とした白い羽の鳥達を一度に抱えると、大事そうに羽のあたりに力を込めぬように気をつけながら、山道を戻り歩いた。 「いやあー、ほんと今日あたりはなんか、鳥とかを狩るのに似合っている天気だと思ってたんだよな」  ハルキは上機嫌で浮き足立って、満足そうな笑みで雪道の丘を下っていく。すると、鳥とは別の、他の動物のものの気配が、斜め横方向のあたりからこちらに感じたのを覚えて、ハルキは思わずその方向を見やった。そこには足元から膝上くらいまでの雑草が茂っている群生が広がっていて、それらはやはり溶けかけた雪で白く埋められていた。果たしてそこに隠れていたのは、ーーとはいっても、距離的にみれば、ハルキの元からは、十メートルは離れているであろうという位置のあたりではあったのだけれどーー黒い毛の、一匹の見慣れぬ猫の姿だった。その猫は、ハルキが目をやってから数秒と経たずに、彼の方をふと見つめると、すぐにその姿を消し去るように森の奥へと這い歩いて行ってしまった。 「……なんなんだ?あの猫」  ハルキは少しの間その猫の姿が不思議に思われてその場に立ち尽くしていたが、やがて両手に抱えた獲物の鳥の存在を思い出すと、我に返って、素材の成形に取り掛かるべく自宅へと向かって急足に森の中を駆け降りていった。  家に帰ってからハルキはまず先に、朝食を食べることにした。というのも、鳥の狩猟に出掛けるために幾分かいつもよりも早起きをしていたため、この時間まで朝食を取れずにいたのだった。そして時刻は間もなく正午を迎えるその近くを示していた。  ハルキは冷蔵庫から牛乳パックを取り出して、グラスに注いで、それから何種類かの野菜のサラダを皿に盛り付けて、フライパンで幾らか焦げ目をつけたトースト、それとちょうど今日で残りがなくなる分の量の、以前に狩り獲った猪の肉で焼いてつくった赤身のステーキを一人前皿に移すと、それらをトレーの上に載せて、いつもの朝食を取る場所ーーといっても、いつも同じソファの上で食べることには変わりないのだけどーーに移動した。そしてトレーをテーブルの上に置くと、早速今日最初のテレビを点けた。画面では、相変わらず面白くも何ともない(少なくとも、ハルキにとっては)報道番組が垂れ流されていたのだけれど、ハルキは何も付けないトーストを手に取って一口齧りながら、そのいかなる異常事態にも凛として動ぜぬといった冷静沈着たる芝居の風体でいて人形のような無表情のニュースキャスターの男が報道を語るのを眺めた。 「ーー昨日に引き続いて、本日の政治情勢のコーナーです」 「ちっ、またかよ。ったく、コイツらも懲りねえこったな」  ハルキは今日も普段通りに、テレビ画面に悪態をつきにつきながら、口に放り込んだトーストと猪肉のステーキの断片をもちゃくちゃと咀嚼すると、冷えた牛乳を一口飲み、それらを喉に流し込んだ。 「兼ねてから、本国とアグラーレル大陸共和国間で繰り広げられている、謂わゆる『迫害行為及び虐殺事件』の更なる過激化が、今年に入ってからも見込まれる模様です。映像は、当事件の一部を撮影した先月末から今月初めにかけてのものとなっていてーー」 「ふんっ」  人間同士で虐殺行為、か。ハルキはそんなことを胸に呟きながら、半ば、いやまるっきり冷ややかに凍てつくような目つきで、その無惨な報道記事を述べ語り続けるキャスターから、事件の一端の記録を写した映像に変わるテレビ画面を眺めた。 「ーーこの作戦は、アグラリオットと呼ばれるものであり、先導者であるマルトノ・ロゾック氏が優に五十人近くもの日本人の人身捕獲、そしてほぼ同人数の計画的虐殺に成功したとの報告を挙げておりーー」 「だから、キョーミねえんだってさあ、そんなことはよおっ!」  ハルキはそう叫んだかと思えば、テーブルの上に、右手拳を憤って叩きつけた。すると、グラスに入っていた牛乳が少しだけ振動して、テーブルの上に溢れ散った。 「……ダメだ、ちょっくら気分転換でもしよう、っと」  そうして次のニュースに映像が移り変わる間際のところで、ハルキはテレビの画面を消して、リモコンをソファの手摺りに放り投げた。それならどうしてハルキは他の番組を見ないのかといえば、他局の公共電波放映のバラエティ番組を見たとしても、その愚劣さや品のなさ故に彼の神経を余計に逆撫ですることに他ならず、更に気分が悪くなること目に見えているからなのであった。それならばと、ニュースでも見れば、幾らかは世間的な知識も身について、いい気分転換になるのかと思い、ハルキは一日一度は報道番組に目を通すのだけれど、やはり具にも付かぬバラエティやらと同じことで、余計に気に触ること変わりないのであった。  ハルキは一通り卓上の料理達を平らげると、食後に腰を落ち着けることもなく即座に食器を片付けて、彼のいうところである、気分転換に取り掛かるべく、再び屋外へと出て行った。  道具置き場から、大型の刃渡りの鋸と、バールや小型の鋏などを手に抱えて持ち出すと、ハルキは家の裏にある解体小屋へと向かった。小屋の中に入ると、そこには、昨日の昼間に狩り獲ったばかりの、あの巨きな鹿の身体が横たわらせて、半ば放り置くように収納されていた。ハルキはまずそして、その鹿の身体を床に敷いたビニールシートの上に移動させるべく、手足をつかんで引き動かした。  鹿を移動させて、ハルキは色褪せた作業着用のつなぎ姿に着替えて、両手に黒いゴム手袋を嵌め込むと、すぐさまに鹿の巨体の解体作業に取り掛かり始めた。この狩った野生の獲物を自分の手で一から解体することが、彼にとっての何にも代えられることのない、まさに気分転換になっているのだった。  手につかんだ大型の鋸の刃先を、まず初めに鹿の首元に指定すると、ハルキは刃を前後に押し引きして、鹿の頭部と胴体を切断しにかかる。かなりの大作業ではあるけれど、刃が鹿の首の筋肉の中に滑り込んでいくのを手で感じる時に、ハルキは自分の仕事の実感を確かめることができて、気分が晴れやかになるのだった。ちなみに、この彼が使っている鋸は、とある金属器具の技師に特別に依頼して造ってもらったものであり、例えばこの鹿のように狩り獲った生物達を切断する際にも、血飛沫があまり飛び散らないような構造になっているため、ハルキが力一杯に解体を行なっても、それほど小屋中が血に塗れるということはなかった。  首を切断し終えると、次に胴体に移って、前後左右の手足の縄を解いて、それらをまた胴体から全て切断していき、文字通り四肢が分断された鹿の姿形にした。ハルキはすると鋸を置いて、次に小型の鋏を手に取ると、鹿の体毛の蓄えられた皮膚を、ある軌道線上に沿って器用な動きで切り裂いていった。それからその皮膚も全て切り取り終えると、鹿はあっという間にそれまで覆っていた皮膚が切除されて、真っ紅な筋肉質や血管の通った、肉塊が露になった姿に成り変わった。ハルキはそして、その肉塊と骨格を更に切り分ける作業へと入った。最初に、片手に持ったバールであらかたに骨のパーツを部位ごとに切断して、幾つかのまとまりに選り分ける。骨をそうして取り除くと、ほとんど最後の作業となる、肉塊の切り分けに取り掛かった。この肉塊こそが、ハルキの年月を暮らし過ごすための大事な食料となり、また栄養素となるのであった。そのため、ハルキはこの肉を切り取る作業にも慎重になった。ハルキはキッチンにある出刃包丁で真っ紅な肉塊をすっかり骨から切り取り分けていく。  そうしてようやく、鹿の身体を四肢と骨と肉塊に切り分け終えると、彼の解体作業は終わりになるのだった。ハルキはふうっ、と息を吐くと、道具の片付けに入って、そのあとで肉塊を血抜きする大きなバケツに入れ込んで、そして残った骨を水洗いすべく別のバケツに入れて、不要になった四肢や皮膚や尻尾を、廃棄するべくビニール袋に詰め込んでいった。それから一通り、床に散らばった肉片や血液を掃除すると、ハルキは小屋を出た。さっき獲ったばかりの三匹の鳥達の羽毛を使ったマフラーづくりは、明日にすることにした。  ハルキなその午後、数日ぶりに山を降りた麓に広がる街通りの一帯に出掛けていった。背中にはさっき解体したばかりの鹿の骨格がごろごろと詰め込まれている麻布袋を背負っていて、背中には骨特有のごつごつとした感触がことごとくに感じられたが、それもいつものことなので、ハルキは全く気になるところを見せなかった。この骨達は、これから向かう先で必要になる、彼のもう一つの仕事のある意味の商品でもあるのであった。  街並みの表通りから住宅街の入り組みを抜けて、少し人気の少なくなった、半ば未舗装未開拓の地であるといってもいいような野原びた空き地の閑静な通りに出ると、ハルキはその片隅に建築を構える、錆びついて崩れかけた途端屋根の一、軒の石造りの不恰好な薄暗い雰囲気の漂う小屋の方へと足を向けた。 「こんちわー、っと。爺さん、いるかあー?」  ハルキが鍵の掛かっていない横開戸を無造作に開け放って挨拶をすると、その声はがらんとした室内に響き渡り、跳ね返った。 「今日も骨持ってきたぞー。いないのかー?」  再び彼が二倍くらいの大声でもって呼び掛けたところで、やっと小屋の主の年老いた男が薄暗い屋内の向こう奥から姿を現して、少し気だるそうな足つきでハルキの元に近寄ってきた。 「おっ、なんだ、いるんじゃねえか」 「おおー、その声はハルキかあー」  老人はハルキの目の前までようやく辿り着くと、しわの酔った顔を綻ばせて、白髪の伸び切った頭を荒っぽく撫でつけた。 「あたりまえだろうが。俺以外に誰がこんなオンボロ小屋に来るかよ」 「相変わらずの憎まれ口だなあ、君ってやつはあ」  老人はそんなハルキのデリカシーのかけらもない発言に一切の動揺を見せることもなく、はははっともはや受け慣れたように掠れた声で笑うと、近くの腰掛け椅子に座り込んだ。 「それにしたって、相変わらずショボくれてんなあ。営業はできてんのか?」 「なあに、俺がこうやって立っていられるうちは、まだまだ商売中ってわけよ。まあ、あともう何年も生きられないだろうけどな。俺もずいぶん歳食ったし」  そうだろうな、とハルキは打ち放しの構造のまま、ほとんど手を加えられていないだろうその店の内部を見渡しながら、そしてその店主である老人の姿を一目眺めながら呟く。 「まあ、それはとにかくいいんだけどよ、それよりもさ、今日はほら、ハルキに見せたいものがあってさ」  そう言うと、店主の老人は再び奥の方へと姿を消して、少ししてから手に何かを掴んでハルキの元にやって来てそれを見せた。 「ほら、昨日できたばかりの新作だあ」 「爺さん、なんなんだこれ?」  ハルキはその、紐の通されたまるで雫のような形をした真っ白な骨の彫刻物を見やると、店主に尋ねる。 「これはな、いわゆるペンダントってやつだ」 「ペンダント?」  ハルキは彼からそれを受け取る。 「君にこのあいだ貰った猪の牙があっただろう。それが幾らか余ったんで、その残りでせっかくだからと思って作ってみたんだ。どうだ、なかなかいいだろう?」  そう言って自慢げな老人をよそに、ハルキはペンダントを首につけてみる。そして、なるほどな、と老人の言葉に頷いた。 「でも、一体なんだって、こんなのを思い立って作ったんだよ?」 「まあ、ただの暇つぶしなんだけれどな、どうせなら、いつも世話になってる、ハルキに何か作ってやろうって考えたわけさ」  老人はそう言って、ペンダントを吊り下げたハルキの立ち姿を微笑ましそうに眺めやった。 「ふん、柄にもねえことするじゃねえか。本当に暇で仕方ないみてえだな。最近は、ここら辺じゃまともな客もいねえだろ?」  老人はそれには特に何も答えずに、彼の商品兼趣味的な工芸品である、動物の骨製のアクセサリーや置物が飾られている室内を満足そうに眺め回した。 「だから、そいつは、ハルキにやるよ」 「いいのか?新作なんだから売ればいいのに」 「いいんだよ。最初から君にやるために作ったわけなんだからさ。それに、どうせこんなの、誰にも売れっこないだろうしなあ」  そんな自虐的な老人の言葉に、そりゃそうだな、とハルキは返して、二人は束の間笑った。 「それに、そのペンダント持ってると、いい出会いがあるかもしれないぞ」 「なんだよ、そのいい出会いってのは?」 「ハルキは、まだ、彼女とかいないだろ?」 「まあ、いないなあ」 「それを持ってれば、もしかしたら、いつか君の運命の相手と巡り会えるかもしれんぞ」  老人はそう言って、徐に真面目な顔をつくる。 「なんだ急に、変なものでも食ったか?それとも、余生はスピリチュアルごっこにでも馳せながら暮らすつもりか?」 「別に、そういうわけじゃないけどよ、ハルキにも、そういう人が現れればいいんじゃないかなあ、って思っただけさ」  老人が言って、ハルキは再び首元のペンダントを眺める。薄暗い室内ではあるけれど、骨骨しい白い光沢が、そこには映っていた。 「俺に、果たしてそんな奴が現れるもんかねえ」 「まあ、とにかく、祈ってるよ」  老人はそう言うと、再び腰掛けに座って、弱々しげにため息を吐いた。 「でも、爺さんも、今しばらく長生きしてくれや。じゃねえと、俺の獲物の骨をプレゼントする相手がいなくなっちまって、仕事のやりがいがねえからさ」  老人はまたしても、特に返事はせずに、意味ありげな顔を浮かべて、ハルキを見つめた。 「ってことで、これ、今日の分な」  ハルキが背中の麻布袋の中身の鹿の骨を室内の作業台の上に出し広げると、老人は一ヶ月分ほどの生活費の金銭を彼の手に手渡した。ハルキはそれを麻布袋に仕舞い込んだ。 「ま、とにかく、今日はもう帰るから。あんま無理すんなよ。それと、変なプレゼント、ありがとな」 「ああ、またよろしく頼むよ。ハルキ」  老人はそう言って、ハルキの振り返り際に手を振った。 「じゃあな、爺さん、くたばんじゃねえそ」  ハルキはそう言い残すと、空になった麻布袋を背中に垂らし掛けてから、老人の一人寂しげに居座るその石造りの店小屋を後にして、住宅街の通りの来た道のりを戻っていった。

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第二章

第一章

 ハルキは今日も、一匹の鹿を撃ち殺した。その鹿は、全長が三メートルも越える程の巨きな鹿だった。ハルキは火薬弾の硝煙を吐くライフルを片手に、倒れたその巨体の身体に近寄っていく。そして、その鹿がすっかり仕留められていて、もう息もしていないのを確認し終えると、よし、と頷いて、ライフルを背中に背負った。火薬弾は間違いなく鹿の胸の辺りに命中していて、鹿の心臓部を貫通させて、その部分の毛が黒く焦げついていた。 「これで今月も、しばらくは食べる分に困らなそうでよかったぜ」  ハルキはそう呟いて、にかっと唇を微笑ませると、鹿の後ろ足を両手に掴んで、身体をずるずると引きずりながら、白く塗れた草木の生い茂る山道を降りていった。山にはすっかり雪が降り積もっていて、視界に見える一帯が、隈なく雪化粧を施していた。季節は今年も早いもので、とうに冬の真っ只中を迎えていた。  ハルキは白く冷たい息をはあはあと荒く吐き出しながら、黒い外履きのブーツを雪に埋もれさせながら、両手に掴む毛の群がった肉塊をやたらと重そうに、しかしそれ故に必死に引きずり続ける。今の時間こそ雪は吹雪いてはいないのものの、あと数時間には天気は急変して、今日いちばんの激しい吹雪になるだろうという気候報道を、朝のニュースは語っていた。ハルキは厚手の手づくりの猪革のコートを羽織りながらも、流石に外の凍て付くような冷え冷えとした空気には幾分か堪える様子だった。首筋は溶けた氷粒に濡れ、手袋をした手は悴(かじか)むように微震していた。だけれどそれでも、鹿を撃つ時にその震えをものともせずに確実に仕留め遂げたのは、彼の長きに渡る猟師の狩り業としての腕が今や紛れもない確かなものであるからこそだろうと言えた。 「それにしても、まだ冬眠にも入らないで、こんな風に呑気に歩きまわってる奴がいるとはな。まったく、野生の危機感知能力が聞いて呆れるよ。まあ、だけどそのおかげで、俺は暮らしに難せず助かってるってわけなんだけどな」  ハルキはそう言って、引きずっている鹿の虚ろな黒い無機質と化した両眼の不気味さと光沢を交えた風貌を眺めながら、雪化粧の森林を抜けた山道の丘下にある、自分の家が見えてくるところまで歩き進めると、幾らか足を早めて屋根一面に白い絵の具を固めたような白樺造りのその家を目指した。  ハルキの家は、一階建ての、白樺造りの木造建築の家だった。リビングを中心として、キッチンやバスルームやウォータークローゼットや寝室その他物置部屋が各々揃っており、それぞれが申し分ない広さの畳幅を有していた。というのも、ハルキは今現在までずっと一人暮らしの身であり、彼一人が日々暮らし営みを行う上では、十分過ぎるほどの間取りであるのだった。ハルキはこの家を、今は亡き父親から五年前に譲り受けて、それ以来家主として暮らし続けているのだった。  そんな自宅のある、森林のだいぶ広範囲に拓けた山地に辿り着くと、ハルキは一度引きずり続けた鹿の巨体を徐に地面へと下ろした。ライフルを背負っている分もあって、彼は幾らか肩の凝りを覚えた。何しろ、自分の身長の二倍近くは恐らくはあるだろうその鹿の身体は、流石に彼の男力でも一人で運ぶには負担が大きくなりざるを得なかった。 「さてと、こいつは一体どうしてやろうかな、っと……」  ハルキは深呼吸をしながら、今一度その鹿の息絶えた顔つきを眺めやる。すると、ハルキはその鹿の頭に異変を確かめた。その鹿は、片方の角だけが、先端を折れ欠かせていたのである。一体どうしたんだろう、とハルキは少しの間その欠損を不思議そうに観察していたが、多分山道のどっかの硬い岩か木の幹なんかにぶつけて折ったんだろう、と勝手に想像して納得すると、やがて鹿の元をふと離れて、物置小屋から、それなりに太さと長さのある頑丈な藁紐のロープを持ってきた。鹿の前後の手足を縛りつける為のものだった。ハルキはそして鹿の手足を手慣れた動作でしっかりと縛り結ぶと、もう一度身体に力を入れて、さっきと同じ器量で鹿の身体を、薪割り小屋の横に連なっている「解体小屋」に運び込んだ。ここでは、ハルキが狩り獲った獲物達を、その名の通り、解体する作業が行われていて、人によっては、吐き気を催すような匂いだったり、光景だったりが含有されているに他ならなかった。例えば、それは狩り獲られ、解体される間際の動物達の血肉の匂いであったり、散乱する真っ紅な血液や肉塊や皮膚が織り成すもので、少なくとも、この山を降りた麓にある「都会的市街」に暮らしている先進思考の人々が直視するには難儀不可この上ないような、野生的な偶像の極致とも言える光景などであり、他ならぬ、恐らく現在のこの社会に於いては稀にみる稀な、野生的青年であるハルキを置いてこのような現場を司ることは出来かねるだろうという説明が用せることだろう。  ハルキはそしてその自ら狩った獲物の解体作業が好きなのではあったのだけれど、流石に今しがたに猟を終えて間も空けずに解体に移るのは身体に堪える疲労が言わずともだろう、というわけで、彼は一旦鹿の身体を小屋の奥へと運び込み終えると、息を吐いて、少しばかり鹿の身体を眺めて、自分の今日の仕事の達成感を無事成し遂げた実感に浸ると、肩や腰元のコートに纏わりついた雪粉を払い落として、作業小屋を出て行った。  ブーツの底がすっかり埋まるほどに雪の降り積もった庭先を抜けて、ハルキはようやく家の中へと入った。玄関で雪塗れのブーツを脱いで、背中のライフルを靴棚に立てかけると、厚手の猪革のコートを脱衣して廊下にあるコートラックにそれを掛ける。廊下を渡ると突き当たりにあるのは、位置としてこの家の中心的な部屋になっている、その広さ二十畳程のリビングだった。ハルキはリビングのさらに壁際の中央部に設置されている煉瓦造りの暖炉に薪を焚べて取り出したマッチで火を点けると、その炎が暖炉内の暗闇に充満していく様子を確かめながら、暖炉前に置かれているソファの上に一度腰を掛けた。そしてふう、と息を吐くと、暖炉が暖まっていくのをしばらくの間眺めた。  やがて、暖炉の中に炎が満ちていき、薪を燃やす火がぱちぱちと音を立て始めてその色が紅く染まりだすのを見届けると、ハルキはすぐさまに腰を上げて、リビングと隔てなく直結しているキッチンへと向かった。ハルキはキッチンで、冷蔵庫から取り出した牛乳を温めてホットミルクをつくると、それを持って再びリビングへと戻る。そして、またソファに腰掛けると、ホットミルクの入ったカップを熱そうに湯気を息で冷ましながら、ゆっくりと一口飲んだ。  ハルキは、実を言えば、山奥へと動物を狩り獲りに出かけて冬眠間際の動物達を仕留めるのと同様に、いやある旨においては、それよりも、今のように、そんな決死の作業を終えた後でこの暖まった暖炉の前で、ソファの上に腰を据えて幾らか微睡(まどろ)んで、手づくりのホットミルクーー若しくは、ホットココアだったり、レモンティーだったりでもいいのだけれどーーを片手に、その煌々とした炎を眺めて小一時間にひと息を吐かせて、身体を委ねる時間と空間が、何より好きなのであった。それは夏であっても同様で、夏には、ハルキは同じく山の中にある硝子や水晶の如くに透き通った水面を持つ森林の湖に出掛けてひとしきり水遊びなどを愉しんだ後で、その自然の水質特有の水温の仄冷たさを纏った身体を、やはり同じように、この煉瓦の暖炉の前でソファに寝そべったりなどして、その優しく小さな火花の立てる音を聞きながら微睡みとともに束の間昼寝に馳せるといった日常も、珍しくはなく、それどころか彼の生活においては顕著だった。  ホットミルクを半分ほど飲み終えると、ハルキは暖炉に向かって右側にあるテレビの電源を点けた。テレビに映ったのは都局の報道番組で、背広を着たニュースキャスターが真面目な顔で報道を語っている。 「ーーそれでは、続いて、昨今の政治情勢についてです。昨年末から続いている、本国、そして本国と隣する列島大陸にて、約七十年ほど前にその建国が確認された、アグラーレル大陸共和国との軍事力的牽制が、一昨日の午後九時四十五分頃にアグラーレル国から発射された、無軌道弾による本国への挑発的行為により、さらなる白熱化、そして緊迫化に至り始めている現状が確認されました。アグラーレル国から発射されたのは、直径十メートル程度の筒状の火薬硝煙型爆弾の一種と見られ、落下地点から半径およそ五十メートルの範囲で爆散したとの報告が挙げられております。尚、その地域にお住まいだった住民の内、重体者が十八人、死傷者が三十四人という数値に昇っています。これは、言うまでもなく、かのアグラーレル国による、我が本国への歴然とした宣戦布告であり、本国の首相は、明日の朝にでも、当事件に対する臨時的記者会見を開くと宣言しています。また、一方でアグラーレル国の総理大臣は……」  ハルキはそこまで報道を聞き終えると、すぐに片手に持っていたリモコンでテレビ放映を消した。そして、残っているホットミルクを一気に飲み干すと、ふうっと息を吐いて、カップをテーブルに置いて、後頭部に腕を回してソファの上に仰向けになった。  全く、何が政治情勢だ、軍事力的牽制だ、火薬硝煙型爆弾だ、知らないってーの。くだらない。俺にとってそんなのは全く持って関係も興味もないというか、とにかく、俺の知ったことじゃないんだ。ハルキはそんな風に胸の中で吐き棄てて、けっ、と舌打ちを大きく鳴らした。今の俺に大事なのは、冬を越す為の食糧を狩り獲ることと、それから、この家で思い気ままに何事もなく暮らして過ごすこと、そして、夜には誰にも邪魔をされずにぐっすりすやすやと眠りに就くことだけなんだ。ハルキはキッチンの方の壁にある振り子時計を見やって、時刻を確認する。時刻はまだ午後の二時十五分を過ぎたところだった。ハルキは、束の間昼寝をすることにした。まだ夜の作業までは、だいぶ時間が空いているんだし、何より、さっきの鹿狩りと部屋の暖炉の熱気と今飲んだホットミルクで、俺の身体はすっかり暖まって、微睡み、眠気に誘われてしまっているのだから。ハルキはそして、その身体に訪れた睡眠欲に身を委ねて、一つ大口で欠伸をすると、両瞼を閉じて、午後の雪も吹雪かない、冬の山の静けさの空気の中で、一人眠りに沈んでいった。  ハルキは、その昼寝の夢の中で、とある不思議な夢を見た。その夢は、とある少女を街通りの道端で見つけて、それを彼が抱き抱えて、家に連れて帰るという夢だった。夢の中で彼は、その少女の身体を背中におぶってやり、真っ白な吹雪の吹き荒ぶ中を、荒がる息を吐き切らして、重たげな足取りで歩いていく。少女は一向に目を覚まさずに、脱力したまま、ただハルキの背中に華奢な身体を預けている。しかしその風貌までははっきりと確認することができず、夢の中での彼女は、あくまで少女という概念的存在として、幾分か靄(もや)がかった姿でそこに現れていたということに過ぎなかった。ハルキが家の前まで少女を連れてくると、夢はそこでフェイドアウトするように途切れ、ハルキは目を覚ました。随分とおかしな夢のように思えたのだが、ハルキはなぜか、それがに現実的なものに尽きる夢として受け入れることができずに、目が覚めてからもしばらくの間、その夢を何度か脳内に思い起こしたのだった。  時刻は午後六時を迎えて、外がすっかり冬の夜空に幕引かれて真っ暗になり、予報通りに雪の吹き荒ぶ天気と化すと、さっきまでになかった轟々とした雪の吹き荒れる音が屋外に鳴り響き、家の外壁や、窓や屋根を軋ませようとする激しい風が森全体を打ちつけているのだった。  ハルキは、玄関先から持ち出した仕事の相棒の、愛用のライフルを床に立てると、胡座をかいてそれを布で磨いた。何度かそうして磨きを加えるうちに、ライフルの鉄鉄しい黒光りの銃体は、その度に一層新たな輝きを生み出しているような気がして見えていた。 「アグラなんとかっていうどっかの見たこともない知らない辺鄙な国の変畜憐な火薬爆弾なんかよりも、この俺のライフルの方が、よっぽどかっこいいぜ」  ハルキはそしてそのライフル磨きを終えると、ふうっ、と部屋灯りの光を反射する銃口に息を吹きつけて、それを構えるポーズを、どこに射撃の焦点を合わせることもなく、一人でつくった。 「たとえ、どんな奴が襲ってきても、俺はこの銃で、自分の手ですぐに撃ち倒してやるんだ」  ハルキはそう呟いて、Bung、とライフルを撃つ真似をした。

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第一章

第零章

 クリスタルナハト(通称水晶の夜)とは、一九三八年十一月九日の夜から十日の未明の頃にかけてナチス政権下のドイツ各地で発生・勃発した反ユダヤ主義暴動、又ユダヤ人迫害事件の事である。当事件の概要としては、ユダヤ人の居住する地域であるシナゴーグ等の地が、次々と反ユダヤ主義暴徒の襲撃の的となり、放火や住民達への無差別的な暴力が繰り広げられ、振り掛けられたものとなっている。  暴力を主先導したのは、SA(突撃隊の事。正式名称はシュトゥルムアプタイルング)の隊員で、ナチス・ドイツの総統であるアドルフ・ヒトラーや彼の保護親衛部隊であるSS(シュッシュツタッフェル)はこの騒動を止めるに至らず、あくまで傍観者としての立場を貫いた。  事件の名称の由来としては、破壊された店舗等のショウウィンドウやショウケースといった硝子が、夜の月灯りに照らされて、水晶の如くに煌めいて輝いていた事が要因として挙げられている。  当事件の大きな原因としては、ナチスによるポーランド系ユダヤ人達の追放が確かにされている。一九三三年一月三十日、反ユダヤ主義をモットーに掲げるも、多数のドイツ国民からの支持を受けて、当時ドイツの主格的な一党となったナチス党の総統、党首であるアドルフ・ヒトラーがドイツ国首相に任命されたのち、ドイツ国内では、ドイツ系ユダヤ人の迫害が悪化している現状があったのだけれど、ポーランド人は比較的そんな彼らに追随する迫害に同様に晒される事はまだなかった。  事の発端は、ポーランド政府が一九三八年十月六日にすべてのポーランド旅券について、検査済みの認証印が必需であるとする新たな旅行法を布告したことにある。この旅行法によって、ドイツに在住するポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍が無効化されたのだった。しかし反ユダヤ主義の一国であったポーランドは、かような旅行法の産物となる、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人達の帰国を嫌悪していたのだった。  一方でそれらの思いとは逆に、ポーランド系ユダヤ人をポーランドへと送還させたがっていたドイツ政府は、このポーランド政府の決定事案に憤怒したのであった。その為にドイツ政府は、ポーランドの旅券法が発効されうる一九三八年年十月三十日よりも先手打法として、ポーランド系ユダヤ人を強制的にポーランドへ送り返してやろうという企みを抱いた。  そしてかの旅行法発行の当日、累計一万七千人にも募るポーランド系ユダヤ人の帰還移送が大型荷物車や列車等により実行されたが、車両達がポーランドの国境地帯に到着した際に、ポーランド国境警察はこの行為に対して、国境を封鎖してしまい、ユダヤ人の受け入れを断固拒否したのである。当時まだ旅券法が正式に発効されていないのにもか関わらず、ポーランド政府はまだ有効であった旅券を持つポーランド系ユダヤ人の受け入れを独断無法的に拒否したのであった。  このような事から、結果としてドイツ政府からもポーランド政府からも受け入れを拒否されてしまったユダヤ人達は、国境の無人地帯で住む家や食料も安住に携えるものがまるで存在しない状態となって放浪に至る事となり、成り得るところが、彼等はかつてなく窮乏した生活を余儀なく強制(しい)られる事となり、無居住地者や、酷い時には餓死者も大勢にわたり生まれたのだった。  そしてこの事件の直後に、更なる反ユダヤ主義暴動に拍車を掛ける事件が勃発したのであった。それが、記されるところのラート事件である。ラート事件とは、簡潔に述べるならば、ポーランド系ユダヤ人家庭の少年であり当事件の主謀者ヘルシェル・グリュンシュパンによる、ドイツ大使館の三等書記官であるエルンスト・フォム・ラートに二発の銃弾を撃ち込んで、その彼を殺害した一様の事件の事を指し示すものである。  この事件の報せを受けて、ナチス党内でもより狂信的な層の支持者達が早くも十一月八日に、新たなる反ユダヤ暴動を引き起こしたのであった。  そしてこの事件を受けて発生に至らしめられたのが、かの主題となっている、水晶の夜もとい「クリスタルナハト」というわけなのである。クリスタルナハトの暴動の際、ユダヤ人は当然のように、その身に殴打やなぶり蹴る等の暴力を当て振るわれて、侮辱され、追い詰められた。果てには運の悪いユダヤ人は、殺害にまで追いやられる程であった。他のユダヤ人がすぐ隣横で虐殺されているのを感じながら、「我が闘争」等の書文を強い読まされるユダヤ人の男、そしてあらゆる道端や住居内に押し入った暴徒達により強姦されてしまったユダヤ人女性達。このような誰がその目にどう眺めて凝らしてみても、残虐非道極まる行為、騒動に他ならない事件を目の当たりにしたユダヤ人達ではあったが、大多数の市民の反応としては名目上の目的等よりも、むしろそのような非道徳的な迫害や汚い方法に対して沈黙した否認という態度が一概に提示されていたのであった。そんな状況が嘆かわしくも続く一方で、中には大きな生命に於ける危険を冒してまでもユダヤ人を救助した者も、その良心若しくは使命感に駆られてか、やはり存在していたのだった。  何度も言うようではあるのだけれど、かような一連の騒動の、割ち砕かれて路上一面に散らばったショウウィンドウの破片が月灯りに照らされて、それらの破片が水晶のように輝いていた風景や実態を称して、当事件は「水晶の夜」もとい「クリスタルナハト」と呼ばれたのである。実際のところを記し述べれば、硝子以外にも、殺害されたユダヤ人のおびただしい量の鮮血や目にするのも悲痛で苦しく傷ましいような遺体、それから破壊された建造物の瓦礫といった物による散乱混然で、その事件現場は言葉に表すには相当に困難を要するまでに悲惨なものだったという。  また、この「水晶の夜」は、ラート射撃殺害事件を発端として自然発生した単なる不可抗力的な暴動ではなく、毅然のナチス党政権による「官製暴動」であったとされる説も存在するのであった。(つまり、反ユダヤ主義に於ける、ユダヤ人の迫害及び殺害を正当化する為の創り上げられた名目的な暴動であったという事である。)もし、この説が本当なのだとしたら、それは許されないどころの話ではないのではないだろうか。 「長々と述べたのだけれど、結局のところ僕が何が言いたいのかと言うと、こんな事件は二度と歴史の中で起こらないで欲しいと思うし、実際起こってはいけない事なんだろう。僕はそう痛々しいほどに感じているんだ」  その喋る猫はそう語ったのであった。

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第零章

 目を覚ました少女は、ソファの柔らかなのそ膨らみの上に身体をようやく起こして、早速ハルキの用意したスープに口をつけて、ゆっくりとそれを飲み込み始める。温め直されたスープは、新しい湯気が白く湧き上がっていて、少女の顔の前に小さな霧靄をつくった。少女はそのスープの熱を、か細く、まだ微かに震える呼吸遣いで冷ましながら、良い香りのする液体を彼女の喉の中に少しずつ流し入れた。少女は初めのうち、何度も覚ましたはずではあるのだけれど、やはりそらでもまだ冷めやらぬ液体の熱で火傷しそうになるのを察知したのか、舌先をスープの表面に浸して幾度も温度を自身で測っては数十回に分けて、それを半分程までようやく飲んだ。ハルキはその彼女のスープを飲み続ける姿を、静かに見守っていた。横では暖炉の火が途絶えるわけもなく燃え盛っており、パチパチパチパチとその終わりを知らぬかのように火起こしの時から変わらずと同じ音を立てて、部屋を紅く彩っているのだった。  ハルキは、目の前で少女が自分の手作りのそのスープを飲む姿を眺めて、やはりうっとりと、それはどこか放っては置けないような小動物を眺めるかのような目線にも似ているのだけれど、微笑ましげな彼自身の表情の綻びを隠せぬ身嗜みで以って彼女に胸の暖かみを覚えてはその喜優さとそして和穏やかさを暖炉の生み出す情景や景色光景と重ね合わせるのだった。少女は飲み始めの時から随分と時間が経つものの、相変わらず猫舌の如く息を細かく切るように急きながら手に持った皿の中の熱された液体を注意深く少量ずつ、又同じように熱々しげに飲み続けていた。けれどもしかし、その少女の表情付きには、どこか、そのスープの味を美味しそうに味わう嬉し気を含ませた模様が映って、輝いていた。彼女は間違いなく、自分のつくった、そのたかがスープといえども、歴とした気持ちの篭った一つの手料理を、しっかりと時間をかけて、丁寧に味わってくれてるのだろうな、とハルキはそんな風なことを、彼の目の前にブランケットを羽織ってソファの上に柔らか気に濡れた髪の毛を垂らして、重そうな瞼を開き、身体を自力で持ち立たせている、慣れぬ熱さの液状の滋養料理に対して時間をかけてでも最後までそれを深く味わい尽くそうとしてくれている、かつては捨て猫然としていた、今やこの部屋で暖炉の熱に野外にのさばる、若しくは蔓延ってならない冬の季節の凍える様な肌寒さ、身体を隅々まで差し痛めつけてこようとしている体にさえ思え感じさせる咎棘とした冷気、そしてこれは大袈裟ではあるかも知れ得ないけれど、現代社会を大きく黒く、そして暗く闇々しく渦巻いている人間達の辛苦の念恨、後悔、嫉妬、対人否定的な怠惰、優劣思想、愚鈍をひたすらに見下す慢心、偽善、無慈悲、理不尽な因果を受けて手に入れた虚無感とそれを更に増長しようとする冷笑的な風潮、我が先と欲望の赴くままに誰彼の波を押し除けて、ひたすらに利己夢想の哀れな実現に向かい、泥沼に取られ始めている足を苛立った動向で振り払おうと踠き試みて、周囲の穏やかな感情を時には当て付けに散り乱そうとする病んだ思考の救い様の無い持ち主達のつくり出す巨立した不生産的な非安心安堵に成り果てざるを得ない文化へと繋がるであろあ憎悪にも至る攻撃的それでいて都合よく何事にも無関心な自己精神保全に於いてはどんな他人に向ける迷惑や惨事も厭わないという絶望的な実態世相の一群一帯を、無知故に完全なる事象軌道として理解に結ぶまでとはいかないまでも、そんな息苦しい社会の成れ果ての逃げ場の無い内立の地上に宛たっても、世界全体の観点から見れば非常に非力で、生易しい心遣いを放棄し切ることさえも恐らくはできないであろうと思われる、けれども小さく優しく、きっと誰にとっても優しさと暖かい共感を忘れることはこの先も無いだろう、純粋無垢の権化、そしてその表れの姿形を確かに生まれ持っている、ただ一人の愛おしい名前も生まれ故郷の場所もその全ての素性を明らかにしていないまま今しがたの不可思議な少女を今夜に於いては、これ以上ないくらいに幸福気な胸持ちで成して見つめて、眺め続けているのだった。  話は少し変わり、ハルキの手づくりであるこのスープは、ブイヨンベースのコンソメ仕立てのものだった。これに生クリームなどを入れて混ぜ合わせれば、ホワイトシチューになるし、角切りにした野菜類やソーセージなんかを幾つか加えて火を通らせて煮込めば、ポトフにだって早替わりする。そのため、ハルキはこの、彼曰くスープ仕立ての料理全般に於いて万能的と云えるであろうスープを、そしてその調理方法の一通りの流れと料理本に印刷され記された手順の記載事項を気に入っていて、直近の内に何に使おうという訳でもない日であっても、よく暇つぶしや気分転換などを理由にしては、ここ数年間の変わらない生活の中での日常的につくっているのだった。  少女がスープを無事飲み終えた後で、ハルキは彼女にメモ書きの白い用紙とペンを手渡した。少女は何なんだろう、というような目付きでそれらを見つめる。  ハルキはかような様子の少女を見て、書記用具を渡したものの、もしかしたら彼女は、文字を書けないのではないだろうか、となぜかそんな懸念を感じたのだったけどーーそれは恐らく、道端で少女の手足が、まるで霜焼けの如くの凍冷たさを感じさせる風貌を思わせていたことからのハルキが感じた懸念なのかも知れなかったのだけれどーー、そんな杞憂虚しく、少女は多少拙いながらも、次々とハルキの質問に対する答えをその紙面に書き連ねていったのだった。 「君は何歳なの?」  まずハルキがそう尋ねると、少女はもらったメモ用紙に十五、という数字を記した。 「君の名前は何て言うの?」  次にそう尋ねると、少女は数字の横に、カタカナでルカ、と言う二文字の言葉を書いた。ルカか、とハルキはその名前を呟いて反芻する。そして、初めて聞いたのにも関わらず、どこか懐かしい感覚をその彼女の名前の響きに覚えて、いい名前だな、と思った。  ハルキはそして加えて、その少女の、ルカ、という名前を見た時に、なんで目先の彼女の姿にこの上なく良く似合っている名前なんだろう、と一人素直に思った。その名前の響きは、どうして目の前の今まさに僕自身の事を知ろうという仕草を見せているかのような目付きを弛ませている彼女の姿形、風貌、そしてそれらの織りなす雰囲気とこうも紛れもなく似合っているんだろう、と。そんな風な事を考えている内にも、少女ーールカは、煌々と横手に燃え盛り続ける暖炉の紅く高い炎の熱や、さっきに飲み干したばかりのスープの、咽喉や胸元を通り過ぎた事でその身体の芯に染み渡らせられたであろう熱による体温の上昇や冷え留められていた血流の再躍進の成果による、鳶色の髪の毛先の凍りつきが溶けかけていたりだとか、二つの目元を今まさにきっと長かったであろう眠りから覚めたばかりだというのに、再び部屋に漂い篭める熱による睡魔の誘惑に委ねそうになっている微かに重たげな様子に見せていたりだとか、そんな睡眠欲や熱達の彩りに呼応した横頬の火照りの紅みを含ませていたりだとかする表情を、不思議そうにあくまで今夜に至っては初対面その青年にあたる人物であるハルキに向かって眺めやっていたのだった。 「親はいないの?」  最後にハルキが尋ねると、ルカと名乗る少女はいる、とも、いない、ともつかぬ曖昧な顔つきを見せるだけで、何も言わなかった。紙にも答えを書く様子はない。言葉が話せないのだろうか、とハルキはルカと名乗る少女の更なる奇妙な出立ちの発見に、少し驚きの思いを抱いた。  ハルキはそして再び、卓上の紙面に彼女の手書きで記された、ルカという名前を眺めやる。するとハルキはその瞬間に、脳裏にかつての学生時代の過去の思い出を思い浮かべて、はっきりと映像的な記録とともに一時代の空気感を覚え起こしたのだった。そこに現れたのは、ユカという名前の彼の幼馴染である少女の姿と、そのユカという名前の少女の深く交友していた親友の様な存在の、ルミ、という少女の二人の姿だった。  ユカという幼馴染の少女が、ハルキの学生時代には居て、彼女はルミ、という女子友達とよく遊んでいた。ユカは、ハルキが学生時代にいちばん一緒に触れ合っていた瞬間が多かっただろう存在であったのだけれど、惜しくも彼女は二年生の夏に、交通事故で尊き命を失ってしまったのだった。当たり前のことだけれど、その事実は当時の、もとい今現在のハルキにとっても非常に後悔の念を晴らせない、残念に極まりない、彼の中の闇の一つを作り上げたといっても過言ではない事件の大きな欠片(ピース)になっているのだった。  そしてもう一人の少女であるルミは、どちらかと言えばユカに比べて、クラスの中でも高嶺の花的な存在であり、ハルキが会話を交わしたり、その他に於いてのスキンシップや日常生活の交流をすることはあまりなかった人物ではあったのだけれど、ハルキは別にそのような自分との置かれた立場の比較によって、彼女に対する何かの感情を持ち抱くような事は、特に無かったのだった。ルミは、ユカが亡くなった後も、その仲の良さから命日に限らず何度か彼女の墓参りに出掛けていた程だった。  話は戻って、ハルキは意識をそのかつての同い年の少女達との記憶から現実世界のルカと名乗る少女と部屋の暖炉の熱を共にして対面している場面に戻して、メモ用紙の名前をじっくりと見つめて、やっぱり、ユカとルミという二人の名前を足して組み合わせて割ったような名前だな、とハルキはルカという少女の名前のその文字列を目にして思った。  すると今再度、ルカと名乗る少女は、両目の瞼をうとうととさせ始めて、次第に我慢できないといった様子でついに首をコクリコクリとさせていたかと思うと、やがてついに眠りの中へと落ちていってしまった。手に持っていたペンが彼女の細く小さな手指の先から転がる。眠気覚ましに飲んだスープの熱と、多少の空腹が満たされたせいで、眠気がまた呼び起こされてやって来たのかな、とハルキはすっかり眠りに落ちて卓上に腕と頬を項垂らせる、ルカと名乗る少女の寝顔を見て思った。  ハルキがその夜にルカと名乗る少女と交わしたのは、かのようなごく簡単な、誰でも最初の身元確認で聞かれるだろうという種分の問い尋ねが初めての会話だった。尤も、彼女は束の間の起床時間を経て再び眠りに就く前のつい先程まで眠っていたわけなのだから、当たり前のことではあるのだけれども。そして、本当に、彼女は言葉が一言も話し交わせない身体なのだろうか、とハルキはやはりそれが奇妙でならないように感じて思った。それがなぜか、詳しい事は彼自身にも今すぐには分かり得ない事だったのだけれど、恐らくはきっと、ハルキのかつての人生の中で知り合ってきた人物の中に、言葉を交わし合えない人物というのが一人として存在せず、またそのような人物を生活の周囲に垣間見た記憶も一つとして彼の中に存在してない彼のそんな経験が、ルカと名乗る少女の先天性か後天性であるのかは判別し難いところではあるが、彼女のその欠落欠如的といえる無言の佇まいや仕草をどこか現実的なものと実感しきれない部分があり、それがハルキの内に、非現実で非日常の物事に対して抱く奇妙感を覚えさせているのではないんだろうか、と彼は自身をそう納得させた。しかし、ハルキは彼女が真実に言葉を話せないような存在の少女であったとしても、何ら問題や憂いを感じる必要はほとんどないのでは無いだろうかとも思ったのだった。そんな風に余計に彼女の欠如を挙げ連ねて勝手に憂いに浸るという事は、彼女を否定してしまう行為に過ぎないという気が、彼の中で浮かび立っていたからでもあった。  ハルキはそして、彼女をソファの上にそのままの体勢でなんとか移動させて、厚手の毛布を一、二枚新たに身体に掛けてあげた。ハルキはそれから卓上に残ったままの、自分と彼女が平らげた二人分のスープの入っていた食容器をトレーに乗せ直して、キッチンへと運んだ。  ハルキはキッチンでの作業を幾らか終えて、居間に戻り、夜の日課にしている暖炉前での読書に更け込む為の準備である、部屋の片付けを始めた。そして、ルカと名乗る少女の健やかな、今や寒さなど微塵も覚えていないというような寝顔と寝相を見やりながら、ハルキはふと考えた。彼女の、彼の質問に対する答えに於ける幾つかの感じ得た疑問についてだった。なんで、彼女には親が(彼女自身がいない、と断言したわけではないのだけれど、少なくとも今現在は恐らくは彼女自身の近くには居ないと思われる)居ないのだろうか、そして、なんで彼女はこの部屋で目を覚ました時に、なんの疑問を抱くことも無くーーそれはもしかすれば、眠気の残りによる、意識の幾分かの朦朧のせいなのかも知れなかったのだけどーー、そして僕に対して不審がる様子を見せる仕草や態度を取らなかったのだろうか。そんな思いが、ハルキの頭や胸の中に小さな渦を生む。しかし、それらのことについてもやっぱり、また彼女が目を覚ました時に、ゆっくりと時間をかけて尋ねればいいだけの事なんじゃないだろうか、とハルキは居間の片付けをし続けながら、暖炉の熱に暖かく照らされ続ける、その熱を柔らか気に伝え包み込んでいるであろうソファの毛質の海に潜り込むような姿で寝転び、眠りそべる彼女の、出会った時よりも明らかに遥かに健康さを取り戻しているそんな姿を再び振り返ってそう思ったのだった。そして、また目を覚ましたら、その時はスープだけじゃなくて、他の手づくりの料理もご馳走してあげようと、そんな風なことも考えて胸を高鳴らせたのだった。

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?RED MRU

 最高手口の咽喉鼻腔司祭空振員は誰某に似て居り〼が故に他人事の混み入りの産別具合を期して万全に傍若無人の全用途で持って上書きすべき底君に在る。一人残されたフォクシアは悲嘆明け暮れの意を唱えると共に、以下の様な呪文又は儒教連語を唱え始めた。 「魚に生まれし額の宇宙特装機に千差万別を凝らす。否、引手無しに氷の溶け向かい成る明光の侵害無機質の非常鳥籠虫は検体に取り買わず。富士流しの杯病院後輩無理率二言鉄火に配備を群れ促したまへ。さもなくばきつとこれらの不西口幻影的送迎の勝手玄関は喧騒を抱き、果ての暗中平を全てとして誤認するであろう。それはいくない。葉前と無価が獲る丈式山岳頂点に分輪する浮気だった情緒不安定状態の彼女、彼女は果てて彼であり、彼はまさに今このその私目。見られよ、決めよ、不滅の付随する機関銃捜査伐採取得権益を。日帰りの熊の瞳に宿借が映る。右手の指先の一本が喪失われて、後尾に一切の口出しを厳禁と定めたもうたる不思議合戦の内林地。肉酒御幸の守備撤回。議論の余地無し、複雑に意図し方に絡まり得た無業の州外舌根。來しものは含みを持って仮換える起毛となり獲るであろう。又、或いは若き人材の主体性を整えてからの再出発と致すところに落ち着くことになり得るであろうか?噺に野外気立って花咲かせの小坊主が然し乍ら併合する兄弟作の橋下の友に矢を射てみれば、姉妹然とした何時もの寝床の寝心地と云ったら、此の下ない。中程に見える〼るは、竜牙の鋭利立った騎乗戦場の委ねられし祝言。勇ましき気高い羊毛の何とまあ紅い事よ。紅羊の毛は、血色に塗れて、何時ときも復讐心とそれに追随する存念を忘るる事の亡き概ねに信仰を掲げては雄叫んで居る。無きしにも非ず、とはつまりはこのやうなことを言いあらはすのではなからうか。蓋し、亡者の唄のごとく、詩的世界は何時ぞやも執念のデストロガスラフィに侵食され、犯され始めて居る。そんな今し方で有るからこそ、立ち上がるのだ、炎炎紅熟の怪獣よ!」  次の瞬間、張ったりの如く忌々し気な犬の塊は血反吐を吐きに吐いて、その身を縮めては屈め篭らせた。其れ見よがしにと、フォクシアの最短的機動重点思考の末路美醜天啓白痴亞公の決心自害共和を年する傍縋らの潔癖人体が抗体する天使の刃針をその無下らな悪しき醜き一体に突き刺した。フォクシアは尚も更に又、唱えを持継続する。 「我が空港反旗の偈の背鰭に口蓋を経ては如何と判りを下す。べくして、來に隔たれし網街の圧路を穿刺に喰画する。信仰の深きことよ、それは何時ぞやに於いても、又、誰彼の行為に伴いなられた果てだという実態の有りしに於いても、恥ずかしがること可らず。許しを乞うのは典型的な人格は端的思考に繋がるだろうが、彼方に蔓延る現代市場は今も尚存続中。戦史万端に創と称された傷口の回向を祭り立てた不具合の常軌理念。立海に降り立つ惑う事なき遊技無邪智の暗牧。蘇年を配合した手袋の大御神の素手には握り込まれし優雅の美徳を心得よ。皆の衆よ。嗚呼、其れにしても、なんと言う嘆かわしい事よ!有の夕暮れに降り奉られし紅き毛の羊は今も尚、健在中で有ろうか。然るべくして、紅き毛の羊は樹に向かい、説き定される。時定の因果の口頭には唯言されずとも、否定的観念からみたそれは許諾するに値屈しない。測らずして認められし不届者は、破滅へと自ずと導かれるで在ろう。南出口の終点三界のユダの手紙には、以下のように綴られていた。ーー絵弦の彗星に宿られて居たかつての銀河の生まれ変わりとやらは、期しても開合を選らずに戦亡の行方を眩まして仕舞われた。故に、言語道断の静止画に就てはこの上なく奇怪の手立てで有るのだと、ここに記せよう。左様に、類を見ない裸のミルキィ・ウェーの強かな邪気、バックシートからの沿線寂高、ライラクウィントルトンの言葉通りの書籍作通路の著。此の参事公に寄り、直ぐられた太閤の黄濁は金の掛かられにしても一人としての虫の神にさえ得られる事は有り得ないと示して良いだろう。釘に刺された天気の夢、黒い額には白い朝陽を。紛れもない嘘、本当の愛の術、其れ等全てをあらはした果てには、きつと感情の完全体成る光の紅い魂が眠りからその目を覚まし得る事であろう。ーー嗚呼、レッド・ラムよ。何故、其処に眠る?何故、目を覚まさぬ?言葉は時として残忍で有るのだと、君は云って居た。事有ろうに、摩訶不思議な仔犬やら仔猫やらが痴話喧嘩を今宵も始めておる。やれやれ、と私は宥め紛いに餌をやったりもするのだが、一向に聞く耳を持たない。嗚呼、何ということだらう。レッド・ラムよ、何故、夢に迄観た情景のあらはれを今此処に示さぬ?然るべき時は来た。さあ、早くその目を覚ますのだ!」  フォクシアが叫ぶと、目の前の海辺には、一瞬の刻にして、紅い毛を持った羊の姿が現れる。その羊は、偽善的背教の智異現象の定めでも有るし、不動善飼の規律最外に於ける発達美衣学の山岳の頂きの王者の具現化と云うべき存在でも有ったのであった。貴様か、我を呼び出したもうたのは、と紅い毛の羊は云った。フォクシアは又、その紅い毛の羊を撃ち殺した。手には、血液が充満し、二種類の単語を示して居た。其処に記されて居た言葉は、RED RUMという文字列で有った。  レッド・ラム①月に到着したなら、温泉に浸かろう。きっと旅路の中での出来事によるものや、それでなくとも、日頃お感じになられているであろう疲れも幾分か癒やし、治し解けるかも知れませんよ。②火傷したなら、ウイスキー・ウォーターを飲みましょう。そうすればきっと、天使たちがお迎えに来てくれます。貴方は神様の生まれ変わりなのです。③子どもの落書きに、鳥や犬や兎や猫やその他大勢の動物の似顔絵を付け加えましょう。友達が火星虫となり、仲良く過ごして、又、遊びに来てくれるようになるでしょう。④☆○*・☆○*・☆○*・☆○*・☆○*・☆○*・☆○*・☆○*・!  ドミノ・アルヴァラーサが復活した。

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第14話「水際のラヴ・コール」

 われらがこの瀬鳥町もその季節は夏季に入り、早くもはや七月の上旬。青鴬高校には今年も、はれてプール開きの時期がやってきたのだった。俺と康二達のクラスは今、本日四時限目の、水泳の授業を行っている最中である。クラスの男女が各グループへと分かれて、それぞれで様々な水泳遊技の種目の実習を夏特有の肌を刺すような熱い陽射しに照らされながら、一人一人の生徒達が披露していた。今泳ぎを行なっているのは女子のグループで、プールの浴槽の中には、意気揚々と泳ぎや息継ぎに勤しんだり、その手の出番を待って立ち話をしているクラスメイトの女子達がワイワイとはしゃいでいるのが見渡せた。花菜も、順番待ちの列の中で、泳ぎに入る準備をしていた。水中用のスポーツウェアを着用した体育授業の担当教師が、ホイッスルを鳴らして女子達への合図指示を送りながら、手元に抱える評価ボードに採点の記入を行っていた。一方、プールサイドでは、そんな女子達の遊技が終わって次の順番が来るのを待っている、俺と康二含めクラスメイトの男子生徒達がダラダラと座ったり立ったりして、目の前を泳いでいる女子達の誰それがお前は好きなんだろ?とか、昨日TVでやってたあれ観たか?とか、そんな他愛もない、高校生らしい会話を各々喋り明かしている。そしてそれは、なるべく陽の当たらない(周りから見れば、文芸部という名の通りの、インドア的な、もしくはノンコミュ的なイメージにそぐわっている故の、調和的な行動にあるいは見えるのかもしれないけど)更衣室の直結する、屋根下の水捌けタイルの床の上に座りながら駄弁っている俺と康二もまた然りであり、俺と康二も時々声高な女子達のはしゃぎに目線を向けたりなんかしては、その合間にこれまた他愛ないにも程がある脈絡のない会話を時間潰しに喋りあっているのだった。 「……なあ、ヒロ」 「なんだよ?」  俺が尋ねると、康二はそう呟いた限り、チラリ、と女子達の並ぶプールの方向に目をやる。 「……彼女の水着姿が眺められるって、どんな気分なんだ?」 「え?」 「自分の彼女の水着姿が眺められるのって、どんな気分なのかって聞いてるんだ」  俺はその康二の、瞬く間のテンションの下がり落ち込み具合に、少し困惑して彼の顔を覗き込みながら言う。 「彼女の、って、何なんだよ」 「だから、ハナのことに決まってるだろって、そりゃお前」 「ハナがどうかしたのか?」 「お前、ハナの水着姿、やっぱりいいなあー、とかって思ってるんじゃないの?」 「はあ?」  俺はその康二の言葉に、何言ってんだ?と胸の中でツッコむ。 「だって、自分の彼女の水着姿なんて、そんな滅多に見られないもんだろ?だから、もしかしたら、ヒロもハナに見惚れてるんじゃないかなあ、って思ってさ」 「いや、別に、そんなことないけど……」  俺はそう答えて、ふと一度、プールに立つ花菜の姿を見やる。水泳の授業が始まって以来、花菜は欠席せずに毎時間出席を受けているため、彼女の水着姿は、当然何度か目にしていた。だけど、その花菜の姿に、何か思い感じるところがあるかと思えば、特に無い、というのが、俺の正直な感想だった。 「なんだよ、面白くないなあー」 「面白くないって、何なんだよ」 「彼女の水着姿を見て、何でお前はそんなに冷静なんだよ、まったく、あー、ムカつくなあ」  康二はそう言って、やれやれ、と言い気味に、俺の顔を横目で見る。 「何がムカつくんだよ」 「だって、俺はノリカとクラスが違うから、ノリカの水着姿を見れないんだぞ?この悔しさアンド屈辱っていったら、ヒロ、お前にわかるか?」 「ごめん、わからん」 「だろーな、あーあ、ヒロータス、お前もか」  康二はそんな風にシェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」の名台詞を真似て嘆くように(ふざけるように)俺に言うと、ジーザス、とでもいうかのように顔を手で覆って首を振った。 「コージは、そんなにノリカの水着が見たいのか?」 「当たり前だろ、俺が見れなくて、誰が見るんだよ」  康二のそんな熱気迫る宣言に、俺はいくら親友といえども、少しばかり引いてしまった。いや、本当いえば、かなり引いていた。康二、今のお前キモいぞ。 「わかった、わかったから落ち着け」 「……悪い、俺とした事が、少々慌て過ぎたみたいだな」 「少々とはいったもんだけどな」  俺は康二に言うと、プールに立つ花菜に、次の泳ぐ順番が回ってきたのをふと視界に確かめた。 「でも、お前はいいよな。なんてったって、ハナの水着姿がこうして悠々と眺められるんだからさー」 「悠々とって、だから別に、そんなわけでもないんだけど……」  そんな俺の言い分に耳も貸さずに、康二ははあーっ、と頬杖をついて、水色の入道雲の広がる青空を見つめて仰いでいる。 「それに俺は、ノリカの体操着すら一目も拝めないっていうのにさあ、全くよおっ!」 「だったら、別に、ノリカと海でもいけばいいんじゃないの?」  俺がそう提案すると、康二はチッチッチー、と指をメトロノーム然として俺の目の前で揺れ動かす。おい、水飛沫が肌に飛び散ったぞ、ノリカボーイ。 「わかってねえなあ、ヒロは」 「何がわかってねえなあ、なんだよ」 「市販で買った水着と、学校指定の、いわゆるスクール水着じゃあ、魅力が違うんだって。なんてゆーか、味わい?っていうのかな、そういう深みが根本的に違うっていうかさ……」 「……」  俺はそんな康二の、聞き耳に願ってもない、社会人が言っていたとしたらおそらくは一発アウトであろう性癖の暴露に、半ば呆れながらも、待ち時間の暇さに肖って、何も言わずに聞いていた。 「まったく、お前のノリカ狂いっぷりには呆れたもんだよ」 「何だよ、ヒロもいつかそうなるってのに」 「俺が?」 「お前も、もっとハナの魅力に気づいたら、俺のこと今日みたいに馬鹿にできなくなるんだから、今のその言葉、忘れんなよ」  康二はそう言いながら、ニヤリ、と俺の顔を見る。俺にはその康二の言葉に不気味な感じを否応に覚えたけど、同時に、康二の言っていることは、あながち間違いではないのかもしれない、と俺はそんなことを思い直した。  気づけば、プールのスタート地点には花菜が出番を受けて立っていた。そして俺はゴーグルを目元に装着して、すぐにも遊技に入る準備体制を取っている照りつける太陽の光を黒々しく反射させる水着姿の花菜に目線を向けた。  教員のホイッスルの合図ともに、横に並んでいる他の女子達と同じタイミングで、花菜は泳ぎ始める。すると花菜のその泳ぐ姿に、プール内の女子達はもとより、プールサイドに佇む、俺達含めて数人の男子達も、話を止めて思わず見惚れていた。そんな彼らの反応が示す通り、花菜の泳ぐ姿は、人目を惹きつけるものが、明らかにあった。まるで水泳選手のような、というのは違う気もするのだけど、何というか、水の流れと一体化して、泳ぐことを意識せずとも、自然と水圧の流動に身を委ねて、呼吸をするかのように水流と肉体を重ね合わせてプールの中を意気揚々と泳いでいるように、少なくとも俺のには映って見えるのだった。 「ほんと、ハナって泳ぐの上手いよな」  康二の感嘆に、俺はああそうだな、頷く。何故かその彼の言葉が、俺には嬉しかった。 「でも、ヒロはやっぱり本当に水泳が苦手だよな」 「仕方ないだろ、生まれつきなんだから」  俺は康二の指摘に、はあー、と幾らかわざと大きくため息を吐いて、頭を掻いた。わざわざ言われなくてもわかってるって。そう、康二のいう通り、俺は元来の水泳音痴で、泳ぐということに関しては、全くもって努力の報いを示せず、かくや先祖代々カナヅチだったのであろうか、とも言われるほどの有様であった。そしてその不本意的な先天性に付随するエピソードも幾つかあるのだけど、それらのことについては、次回あたりで話すことにしようと思う。 「そんなに怒るなよって、自分の彼女が泳ぎに飛び抜けてるったってさ」 「俺はお前に怒ってんだよ。それに、別にそんなに怒ってないし」  俺は一通り康二に対しお気持ち表明すると、ゴホン、と気を取り直すように咳払いを一つして、プールの方に視線と意識を戻した。 「それよりも、泳げるやつのことを観察していたほうがいいんじゃないのか?」 「ああ、そうだな。今日の水を得たハナを、ちゃんと見届けなきゃな」  そして俺と康二が再び花菜の(とはいっても、他の女子達の方にも時々視線は向けてはいたけれど)、水辺に産まれた生物のように泳ぐ姿を観察してると、驚くことが起こった。といううのは、花菜の泳ぎ姿を取り囲むように、魚達がその身体の側を花菜の動きに倣うように、水流の中に泳いでいる光景が見えたのだった。魚達は確かに、生きているものと思わせるような尾鰭や背鰭の使い方をしていて、ただ花菜の周りを、ここがどこかの海だとでもいうような様子で、自然に泳ぎ続けていた。しかし、康二や教員や、その為男女含めた全員の誰一人として、その異変になんらの反応を示すことはなく、ただ魚達が現れる以前と同じように、授業を続けているばかりだった。俺はしばらくその事実に目を見張っていたのだけれど、何事だろうと目を擦った。すると次の瞬間には、その魚達の一匹と形跡を残さぬまま、まるで初めから存在しなかったかのようにプール内の水中から姿を消してしまっていた。 「コージ」 「なんだ?」 「このプールに、魚なんで泳いでたっけか? 「何言ってんだ、ヒロ?」 「いや、今さ、そこの水の中で魚が泳いでるのが見えた気がしたから」 「この学校に魚なんているわけないだろ。鶏すら飼ってないってのに。まあ、もしいるとすれば、食堂の学食に出される料理に使われる前の魚の切り身くらいじゃないのか?」  康二はそんな風に揶揄うように俺に言うと、夏の暑さで頭がどうにかなったんじゃないか?とでもいうように俺の頭の横で指をくるくると回転させた。俺はその手を払いのけて、しかしながら、康二の言う通り、この学校の校内に、ましてやプールの中などという場所に、魚類なっていうのは存在するわけはないだろうな、と彼の反応に半ばならず殆ど納得していた。しかし確かに、俺は魚の泳ぐ姿をこの目で見たはずなのだけど。花菜がクロールやバタフライを繰り返す、その秀美の水を得た魚の如く水泳遊技の側近くで。もしかしたら、その魚達はーーこんなことを口にするまでもなく、胸に思う事さえも、人によっては馬鹿らしいことこの上なく感じる推察かもしれないけれどーー、幽霊になった魚達なんじゃないのだろうか、と俺は何故かそんな風に思ったのだった。それは、生きている魚がこの学校のプールの中でなんかに泳いでいる筈はないし、それだったら、他の生徒達や先生の誰かがわれ真っ先にと気付いて指をさす反応を示すだろうし、そしていちばんの理由としては、その魚達が、まるで同じく魚のような振る舞いで泳ぎを繰り返す花菜の身体の側近をほとんど貼り付けるように泳いでいたという事実が、俺にそう思わせたものがあった。俺はそんな、まさか、そんなバナナ!とでも言いたくなるような自分の考察を自分の中の俯瞰の第三者視点から見ても結局は苦笑いに終わらせたのだったけど、それでも、たとえ本当にあの魚達が幽霊だったのだとしても、何ら驚くべきことではないし、何度もその光景を思い返して、新たな考察をする必要はないよな、と一人頷いて納得した。それは、自分には花菜という、青鴬高校のプールラウンド・フィッシュ・ガール、もとい幽霊に深関する、非日常の化身ともいえる彼女との目に見えない繋がりがあるのだという、確かな現実が、俺にそう独り心地な解釈を与えたからかもしれなかった。  四時限目を終えて、俺は他のクラスメイト達とどこかへ行った康二を遠目に、今日も相変わらず伸び伸びとして、水泳の苦労など何も感じないという風な穏和然とした立ち振る舞いの花菜と並んで、教室に向かっていた。 「ハナって、本当に泳ぐの上手いよね」 「え、そんなことないよ。フツーだって」  花菜はそう答えて、水着入りのバッグを片手に小さく揺らす。その彼女の言葉には、嫌味のようなものは感じられず、花菜は本当に自分の遊技の実力が至って普通のものであるのだと思っているようだった。 「他の女子達からも、羨ましがられない?」 「うーん、まあ、前までは結構そういうこと言われることもあったけど、今はそこまで特に無いかな」  花菜は言って、髪の毛先を指で梳かす。 「ハナは、褒められて嬉しくないの?」 「もちろん嬉しいけどさ、なんていうか、あんまり褒められると、むしろ恥ずかしくなっちゃうっていうか、それよりもむしろ、自分たちのことを褒めてあげたりすればいいのになあ、って、僕は思うんだよね」  花菜はそう彼女の先天性の水泳遊技の才能に驕ることもなく俺に言うと、どこか恥ずかしそうに笑った。だけど俺は、彼女ならきっとそう答えるだろうと察せていたのだけど、それでも花菜の事を、もっと褒めてあげたいような気分になっていた。さっきの康二の言葉を借りるつもりではないが、花菜の事を、俺が褒めなくて、誰が褒めるんだ、と俺はそんな風に思い、またそれを自分自身に言い聞かせたのだった。 「じゃあ、ハナは、将来は水泳選手になろうとかは思ってないのか?」 「そんなこと、一度だって考えたこともないよ。別に、そういうの目指してないし」  花菜はそう言って首を振る。 「だけど、ハナくらいの運動神経だったら、それくらいはできると思うけどなあ」  俺が何の気なしにそう言うと、花菜は何か思ったのか、俺の顔を見た。 「ねえ、ヒロ」 「何?」 「じゃあ、ヒロはさ、小説家になろう、とか、思ったことはある?」 「え?……いや、別に、ないけど」 「それと一緒だよ。自分の得意なものと、自分がなりたい将来の姿っていうのは、結構違ってたりするものなんだよ」  その花菜の考えに、俺は、でも、花菜が水泳が得意なように、俺は別に文学系だとかが得意なわけじゃないんだけど、と思ったが、それもそうかもな、とだけ答えて、そんな俺の、俺と花菜の得意不得意に関しての意志は、胸の中に仕舞い込んだ。  そして俺は再度、授業中の花菜の泳ぐ姿勢を脳裏に思い浮かべた。花菜のあの水泳遊技を品やかに、それでいて優美にこなしていく姿勢は、可愛らしい、というよりは、どちらかといえば、綺麗だった、と言い表す方が似合っているのかも知れないな、と俺は授業中の彼女のプール一帯を泳ぎ回っていく姿を脳裏に思い浮かべながら、それと今横隣に立って歩いている制服姿の彼女を比較しながら、そう思ったのだった。  教室の前に差し掛かったときに突然、花菜はねえ、と俺を呼びかけた。 「ヒロ、よかったら僕と今度、二人で一緒に海に遊びに行かない?」 「えっ?」  その花菜の和かな表情から出された言葉に、俺は声を洩らした。花菜は夏の温度と陽射しから刺々しい暑さを取り宥めたようなまどろみのの微笑みを、俺の返答を待つ中で、こちらに向けていた。

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第14話「水際のラヴ・コール」

 ルカは、ウォルト・ディズニーのアニメイション映画作品の「バンビ」がとても好きだった。一週間に一度、曜日こそは決まってはいないのだけど、時刻帯は大体において、ハルキと二人で夕飯を食べ済ませたほとんど夜の九時か十時の辺りに、彼女はハルキを誘い連れ添って、バンビを観る習慣を身に付けていた。彼女の中での、ある種のルールのようなものとも言えるほどだったが、別にそんな風にルカ自身が決めて無理して観ているわけには至らず、ただ単純に何度もその映像作品を彼女の中で、懐古的精神部に定期的に導入して、映し出されるレトロチックな彩に感応して、言葉では表現し切れない人間に遺伝的に組み込まれた郷愁やそれから信号されて派遣される、もしくは繋がっている様々で色取りどりな感情を幾夜と何度も確認するように、そして忘れることのないように、より更に豊かに成すべく、ある意味では貼り付けるように取り留めておきたかったためにというルカの心理深層に存在する、無意識の想馳(そうち)が生み出して彼女の胸に呼び掛ける誘惑が彼女の繰り返す日常化した作品観賞を誘発しているに過ぎなかった。今夜もハルキとルカは二人でテレビ前のソファに横隣に並び、仲良く座ると、テレビに映し出された「バンビ」を鑑賞する。ソファの柔らかく穏やかで和みのある羽毛質の布地の丘が、彼らの身体を優しく、そして暖かく抱擁する。  アンテナ付きのTVの、下側に設置されたビデオプレーヤーにいつものように、ディスク作品群を収納した部屋から持ってきた「バンビ」のDVDディスクを挿入して、古き良きアニメイションの映像作品を再生する。甘美な歌と共に、ウォルト・ディズニーという英式文字や、その他に携わっている本作品における映像制作・配給会社のロゴなどが一様に映し出されて、「BANBI」というタイトルのテーマと共に、挿入歌の音量が大きく響き渡り出して、ようやく物語の冒頭へ導入していき、見慣れたストーリーの開始へと繋がっていった。ハルキの横では、ルカがクッションを抱いて、目を見開いて、静かに呼吸をしながら視線先のTV画面に映し出されるアニメイションを、まるで見守るように眺めていた。  深い緑の森林の中をスクロールして映し出す映像、その中に生態系をつくって暮らしている可愛らしい動物達の、目覚めの朝のシーンが数秒ほど流されて、鳥の囀りが動物達の頭上、朝日の照らす光が森の深緑に差し込むのと同時に動物達の耳に届いて、重大な出来事を甲高い声音で伝える動物達の集い密するべくその出来事の原場に駆ける足音や他のみんなを呼び向かいさせる掛け声が木の幹の穴に住む長老のごとき出立の木の小枝に脚を掛けて留まっているフクロウの眠気を起こし覚まさせて、何事かを森中に知らせる。そこにはバンビの母親がお淑やかに身体を落ち着かせていて、その腹下にある、この森に宿し産み落とされた新たなる愛しき生命を優しく、その慈しみで暖めるかのように抱擁して、それを息を呑んで待ち見届ける動物達に依然として柔らかな面持ちを目配せていた。集まったアライグマや、ウサギや、ネズミや、モグラや小鳥の家族達が、次々と登場して集まってくる。そんな可愛らしい森中の動物達が、バンビの誕生を祝福して、バンビが立ち上がるのを見守っている。バンビが立ち上がるところで、少しいじわる気質なウサギの子どもが、揶揄うようにバンビのおぼつかないその足元で、小さな身体を彼の脚の隙間を旋り抜けるように走り回っていた。ウサギの子どもは母親のウサギに呼び止められて、再び母親鹿の元で眠りに就こうとするバンビの、彼が産まれてきたかつての母体の側に戻りゆく姿を後ろに見ながら、他の動物達とともに、広い森の深くの自分の住処へと飛び跳ねて去って行くのだった。  ハルキは、ルカとバンビを視聴するとき、いつも複雑な気分になった。彼の父親は、鹿や鳥などを狩り撃つ、猟師だったからであった。そのために、ハルキは父親の獲ってきた山の動物達の死体を、幾度となく目にしてきた。その光景はとてつもなく残酷なものとして、彼の瞳のうちに映った。しかしそれでも、ハルキは彼の父親のことを悪人だとは思わず、子ども心ながらに、父には父なりの倫理観や彼の生活の上に成り立っているであろう考え方がきっとあるんだろうな、とそんな風に思考を張り巡らせて、父親に向かって、非難の言葉や態度のそれを浴びせることはしなかった。例え、自分の家の中に運び込まれるのが、目を閉じて二度と戻ることのない意識を別の世界へと不意にも葬り去ってしまった、生する実感の無い肉体の温度の低下を待つだけに留まるのみの、可哀想で儚く哀しげな、無慈悲の死を人間によってもたらされた動物達の自然を包有して横たわる、この上なく刹那げな息の絶えた物質姿形であっても。そして、決してそれが引き金となる原因となったわけではないのだけれど、それから幾数年も月日年月が過ぎて、ハルキは動物達と共存する未来を願望の視線の先に抱き、そんなこの近代的社会に於いてはいささか無謀とも言えるかもしれない自身の主義を選んで、決意したのだった。その決意の一つの表れが、ハルキがこの街の丘上に存在して聳えるログハウスに移り住むことを決めた行動に大きく含まれているともいえた。  映画の中盤で、森に冬の季節が訪れて、動物達が冬を越すシーンが映り出される。あの少しいじわる気なウサギの子どもと、仲良く森の中でバンビは戯れて、微笑ましく遊び回っていた。そんな和やかなシーンがしばらく映し流される中で、バンビと物静かに冬を貫いて地面に生えた稚(わか)い新緑の草を食べ進めているバンビの母親が、森に駆けつけてきた猟師の人間達の乱弾する銃弾によって、一人手で森の奥に逃げ走っていったバンビの後方の、森の入り口の広い草原地で撃たれてしまうシーンが流れる。そのバンビの母親が撃たれるシーンで、ルカはいつも涙を流した。涙を流さない日もあったが、そういう日は珍しく、稀なことだった。飽きるほど観ているはずなのに、飽きることはなかった。それは、ルカにしても、ハルキにしても同じことだった。今夜もやはり、ルカはそのシーンを眺めてその目に映して、涙を横頬に流して伝い落とした。ハルキはそれを横目で見つめて、自分の頬が何かの微かな熱を帯びるのを感じる。母の失踪、喪失を純真な幼心に嘆き悲しんで、寒々しく吹き荒れる雪風の中に暖かさと冷たさを共存させる透き通った涙を流すバンビの元には、今その森林そして山々を威厳として司る巨きな角を持つ山の主の鹿が姿を現して、バンビをどこかへと導きつれて行くのだった。  その後に、バンビが成長した姿で登場して、同じく成長したいじわる気な様子があったかつてのウサギの子どもの彼と、春の訪れを愉しみながら、長老のフクロウに、生物的な恋という存在を教えられる。今ひとつその意味が分からず、それに気付かないバンビを他所にウサギや仲のいい動物達は、次々に恋の正体に気付き始める。そんな中でついにバンビは彼自身の恋を見つけるのだった。彼が恋をしたのは、冒頭でも登場した、彼と同い年くらいの、ファリーンという女の子の鹿だった。バンビとファリーンは無邪気だった頃とは違う、大人びた恋に落ちて、二人で彼らの美しさに溢れる春に思いを互いに寄せ馳せるのだった。しかし再び突如、暗雲の空が訪れて、狩猟に駆られる人間達が森に姿を現し始める。バンビやファリーンをはじめて、他の動物の親や子どもをはじめとする家族達や一匹で暮らす住民達は一目散に逃げ惑い、各々の隠れる住処や、森奥深くの人間の足の届かないであろう草茂みの地に小さな身体を隠すのだった。バンビは見失ったファリーンの姿を探し出すために、彼にとってしても深く広大な森の中を駆け巡る。やがてバンビは森の中で躓いてしまう。その元に駆けつけた山の主の鹿が彼を鼓舞して、立ち上がらせる。森は小さな赤みの火花からやがて大きく大きく燃え広がっていく炎の海に包まれてゆき、やがてとてつもない、それこそこの山全体を燃やし炎に埋め尽くす山火事に至らせるのだった。なんとか数々の棘の崩れて壊れゆく山中の険しい道々を山の鹿の主に先導を仰いで、バンビはその果てしなく燃えゆく山を抜け出して、麓に流れる河湖にたどり着いて、ファリーンや他の動物達と再会を無事に果たした。そして、赤々と、轟々と燃えゆく炎の海にすっかり包囲されて飲み込まれてしまった自分達の住処、深緑の世界をただ静かに眺めて、見つめ続けるのだった。  時間はあっという間に流れ過ぎて、ハルキとルカは、「バンビ」の最後のアニメイション・クライマックスを眺めて見守る。この一時間半程の映画作品のラストシーンを締め括るのは、バンビの子ども達が、彼の恋人であるファリーンの身体の側で目を覚ます感動的な自然の神秘を美しく描き出して際限なく表現された場面であった。ハルキはそしていつも、バンビとファリーンの間に生まれた双子の子鹿が、男の子と女の子である設定に、愛おしさを覚えていた。男の子二人だけでもなく、女の子二人だけでもない子ども達のその存在が、なぜハルキの胸に不思議な感情を抱かせたのかは彼自身にも今ひとつわからなかったが、特に彼自身もそのことについては深く考え込むことはしなかった。それは、どこか野暮なことのようにも思えたからでもあった。  エンディングに入る前の映画のラストのワンシーンで森林を抜けた崖の上に姿を現し映すバンビは、勇ましく成長していた。かつて愛くるしい子どもの、無邪気さと幼さを兼ね備えていたーーそれこそ、今は少しばかり大人びてはいるけど、横に座っている出会ったばかりの頃のルカのようなーー子鹿の王子だったバンビはきっと、今や森の王となって、その時に人間界からの脅威が及ぼされるやも知れない繊細な、そして広大で緑の輝きを満ち放っている動物達の一帯の世界を先導し、守り抜くべく使命を背負った存在となるのだろう。いや、そのような使命を背負い果たすべくべき存在になる筈に違いなかった。ハルキは、いつもこの展開を目にする度に、そのように思うのだった。  ハルキはそしてなぜか今夜に見ているバンビの例の双子の子鹿の出産シーンを眺めながら、脳内に一人のかつての友人の思い出を覚え浮かべていた。その友人は、ハルキの中高の学生時代の結構、いやほとんど唯一といってもいいほどに仲の良かった人物であり、名前はヤギサという男だった。彼とは、高校を卒業した後めっきり顔を合わせるような機会がなくなってしまい、年に一度会うかどうかの関係が続いていたのだけれど、ある日偶然、道を歩いていると、ハルキは彼と出くわす出来事に直面したのだった。その時に彼と話した時、彼はかなり以前に結婚していて、その当時に二人の双子の赤子を授かっていたという告白を世間話の中でハルキは彼から聞いたのだった。だけどしかし、ハルキの記憶はその場面で止まっており、ヤギサから双子が男男であるのか、女女であるのか、はたまた男女であるのか、そのいずれなのかを聞いた場面を記憶の続きに思い出す事ができなかった。しかし、確かにハルキは彼からその双子の性別を聞いた筈なのであり、それは間違いのない記憶として存在する確信があった。そして加えて、この話にはもう一つ不思議な部分があるのだった。それは、この話はヤギサに直接会った時に彼から聞いた報告によるものなのではなく、かつてハルキが体験した世界規模の戦争の二年目くらいの経過を期した頃に、彼から突然に電話が掛かってきて、その他愛ない通話の中で彼から受けた報告である、というもう一つの出来事を内包した記憶が、ハルキの脳内には存在するからだった。だけれど、そのどちらも、ハルキにとっては紛れもない実際の事実に起こったものであり、どっちが本当でどっちが嘘である、などということは判断に非常に困難で、決めかねる事であり、またそれらを考える事すら無意味なものと捉えられさえするのだった。二つの同内容の出来事が、二つのパラレルティックな平行線上の自立に於いて確かに両方とも存在していて、それがハルキの身体の内側に一つの記憶として存在している。ハルキはそんな風に考えたところで、別にどっちだっていいか、とそれ以上そのヤギサと彼のその双子の子どもについての話の真実に思考を巡らせるのをやめた。そしてハルキはふと思った。もしも、彼とその話をした、若しくは彼からその報告を受けたのが、戦時中の電話によるものなのだったとしたら、彼は、その戦時中の世界情勢のある一日の会話を最後に、ハルキの元からいつしか疎遠な存在へと成り変わり経てしまったのではないだろうか。それならば、ハルキには事の証明が幾らか納得できるような気がした。もしもそうなら、彼の双子の性別の男女否かの件についての結果を、彼が通話を何かしらの理由で途切れさせたことによりその答えがハルキの元に届かないままで現代に至っていることになり、ハルキは彼の双子のそれぞれの性別を知り得ないままであるのも、当然のことなのだと証明する事ができるのである。そしてハルキは、ヤギサとの最後の出会いが、実際の物質的な地平面線上のものによる顔合わせなのではなく、後者に語った電話通話の中での会話のやり取りによる、音声形式上のものであったのだろう、と一人TVの画面を、どこか心ここに在らずの様子に見つめながら考えて、思った。加えてふと、今、彼は一体どこで何をして、どんな風に暮らして生活を営んで、子ども達それから結婚相手と過ごしているのだろうか、とふとそんなことを思った。今、おそらく彼の子ども達は現在ともに三歳である筈だった。兄弟なのか、姉妹なのか、兄妹なのか、姉弟なのか、果たして知り得るところではないのだけれど。ついでに言えば、ハルキはそのヤギサの双子の子ども達に、バンビの映画に登場する双子の子鹿達に抱いているような感覚を同じような意味合いを持って共有して感じることは、不思議となかった。それが何故かは分からなかった。もしかすれば、実際にその双子の子ども達を目の当たりにしていないことから、名前や姿形の見ず知らずの子ども達に、どんな思いを想像の中で抱き持って、感情的に接すればいいのか、ハルキ自身が分からなかったからという実態の結果によるものなのかも知れなかった。とにかく、そんな思考探索の砂漠の束の間を経て、ハルキはバンビの放映が終わりを告げるべくエンドロールを流す画面へとTVが再び甘美な楽曲と共に流導しているそのアニメイションを見つめながら、ふとヤギサにもう一度会ってみたい、と思った。彼ににもう一度いつか会いたい。彼の顔をまた見てみたい。彼の声がまた聞いてみたい。そして、彼の婚約相手の人を、そして、彼の双子の子ども達のことを。それは朧げながらも、ハルキの切実な祈りごとに似た願いだった。しかし、果たしていつかまたヤギサその彼に再会することは出来るのだろうか、その願いは叶う日が来るのだろうか、とハルキはどこか不安さを滲ませながら、そんな憂いを同時に心に呼び起こした。だけれどハルキは、きっといつか会える、と一人心で頷いた。自分自身が自分の身体を持って、そして自身の精神を保ち続けていれば、この地球上、世界中のどこかで、きっと巡り会わせる事ができる筈だ、とそんな風に確信を、ルカと柔らかげなソファの上に、静かな夜の閑散としたリビングの部屋の音と一緒に、胸の内に抱き込んだのだった。  そうして二人が今夜の「バンビ」を無事に見終わった後、ルカはまだ眠れない、と云うような表情をしていた。ハルキは、彼女に読み聞かせをしてあげることにした。二人は浴室でそれぞれのシャワーを浴びて、束の間の入浴を済ませて、パジャマに着替えると、ハルキが一冊の読み聞かせ用の本を手に取って、その後ろを夜も更けて、あとはぐっすりと眠るだけで次の朝を迎えるだけだというのに、やけに気分の浮き立っている、両方の頬を綻ばせているルカが愉しげに歩き着いて行った。もしかしたら、今夜の夕飯に食べた、サーモンのバターソテーとそれに並ぶ料理達が、まだ彼女の腹部を満たしているのも、その彼女の機嫌を上場させている一つの要因なのかもしれないな、とそんな風に考えると、ハルキは今夜も気持ちと真心を込めて料理をつくってやはりよかったな、と喜びに感情を熱らせながら、煌めいた微笑みを携えるルカを背中に感じていた。  そしてその夜、ハルキは再びまた夢を見たのだった。

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