旭川黒介

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旭川黒介

小説はジャンル問わず好きです。趣味は雑多系の猫好きリリッカー(=・ω・`)☆

みかげ

君を殺したのは世界だってことわかってるよ ブリキの鳥が啼き声をあげるから 夜になったらキッチンの前で 君の好きだった料理をつくるんだ 僕がかけているレコードは ロボトメイヤの泪を流して 君がマフラーを被るところを 憶(おも)いださせてくれる ラララ、、、 君が死んだのは哀しすぎるからだって 知ってたよ ユベルの血が色取るTVの話し癖 旭がのぼる時間がくる前に 君の探していたネコを拾ってくるよ 僕がかけているレコードは ロボトメイヤの泪を流して 君がマフラーを被るところを 憶(おも)いださせてくれる☆ ラララ、、、 青い果実が紅く稔(みの)る時 すべての哀しみと儚さはそこで生まれる 吐きだした想い出の一部が何かを語っても そこに見られるのは君の姿と形だけさ うたたねの中に眠る刃 サンクテュワリは210番 亜夢とリータは一等星になる トカゲの尻尾がつくる銀河で 月に咲く花、風になる鳥 月に咲く花、風になる鳥、、、

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みかげ

第八章

 目を覚ました時、猫の彼はどこかの見知らぬ場所に保護されていた。そこは、あのカワウソのおばさんとおじさんのいる、今彼が暮らしている家ではなくて、それとは全く別な、ある種病院のようにも見える孤児施設だった。そこには、彼の他にもまた数十人の親を幼くして亡くしている身である孤児達が集まっていて、彼らは決まってどこかその表情や佇まいに虚めいたものが感じられて、半ば生気を失ったような空気感のある子ども達がほとんどであった。  猫の彼は、孤児施設の一室で目を覚ましたときに、まずその場所があのカワウソの夫婦の家ではないことにすぐに気づいて、眠気混じりに部屋の中を歩いた。部屋は全くもって無機質で、ベッドやテレビやテーブルや照明器具といった、生活する上での必要最低限な家具や用具以上のものは設けられておらず、それはまさに、孤児施設というよりは刑務所のような景色であると述べても合っているような気がしたのだった。だけれど、申し訳程度ではあるけれど、部屋の片隅に、見たこともない変な形をしたぬいぐるみや玩具(おもちゃ)などが幾つか仕舞われている玩具箱が置かれていて、それだけがこの至って無機質な部屋の空気を少しばかり愉しげなものに彩っているように思われるのかも知れないけれども、けれどもやはり、無機質な部屋の持つ疎外感や空虚感に相反した場違いなものにしか思えずに、それらの玩具はただの不気味なものに変化してしまっているに他ならなかった。  猫の彼は取り敢えず部屋を出て、誰か施設の人を見つけて、ここがどこなのか、とか、自分はどうしてこんな場所に連れてこられたのか、とか、カワウソのおばさんとおじさんは今どこに居るのか、とかそういうまず先に聞いておかなくてはならないだろう色んなことを聞こうと思った。部屋を出ると、やはり部屋と同じで無機質な色と空気と、その冷たさを含みもった長く青白くそれに薄暗さの覆われた通路が伸びていて、猫の彼はその通路をまだ微かに身体や頭に残る眠気の残骸の重みによろけそうになりながらも何とか歩き出していった。そして猫の彼はその通路の壁にある、まるで貼り付けられたシールのようにしか見えない、曇り気味の外の景色の映る硝子窓や、天井にこれもまた機械的でもって貼り付けられているような感じの、白く温度感の感ぜられない細長い蛍光灯が等間隔に並行して二列に設置されているそれらの物達が織り成す光景を薄めに見やりながら、その無言の重苦しい静かな虚ろ哀しさに押しつぶされそうになりそうに思えて、胸に手を当てたりして、呼吸を慎重に吐き出しながら足を進めた。しかしそうやってどれだけ歩いても、音もなく迫る不安感は拭えないのだった。  通路を渡っていって、曲がり角のあたりにたどり着いたときに、右から一人の人影が現れるのが見えた。それは白衣を着たここの施設員か医者のような容姿のハクビシンの男で、灰色のメガネをかけていて、胸ポケットに二色式のボールペンとメモ用紙を挟んでいた。ハクビシンの男は猫の彼の目の前を、ただ無感情に、抑揚のない姿で通り過ぎようとしていったが、猫の彼はすぐに男に声を掛けて男を引き止めた。 「あの、すみません」  猫の彼が尋ねると、ハクビシンの男は、ぴたりと立ち止まった。それから、首を機械的に動かすと、至って無表情のままで、猫の彼の顔を振り向いた。そこにはやはり、温度というものは見当たらず、熱を持たない冷たさだけを感じさせた。それを感じた猫の彼は、不意に自身の身体に、不気味さによる緊張感を覚えた。ハクビシンの男は、何か用事があっておそらくは歩いていたのだろうけど、それを呼び止められたからといって何か面倒臭さや焦りのような様子をみせず、そのために感情の無い苛立ちや怒りというものを元来から身に付けていない冷たい人形のようであり、それがより一層男の不気味さを際立たせていた。そしてその佇まいや容姿が、この施設内の通路や貼り付けられたような格子窓や蛍光灯と無機質的な点において融合を成しているように思えてならず、猫の彼はしばらく言葉が出せないまま男を見つめていた。 「何か用かね?」  ハクビシンの男は眉ひとつ、瞬きひとつ動かすことなく、口元だけを無駄のないように動かして言った。猫の彼はそんな男の佇まいに不気味さ故に圧迫されながらも、なんとか質問を尋ねた。 「あの、ここは、一体どこなんですか?」 「ここは、見ての通りの孤児院施設だよ。それ以外には何も説明はいらないと思うけれどね」  ハクビシンの男はやはりそれだけの必要最低限の答えを返すと、僅かな動作も見せずに、次の質問を待っているように視線をまっすぐに猫の彼へと向けていた。 「どうして、僕はここにいるんですか?」  猫の彼が尋ねると、ハクビシンの男は、少しの間黙っていたが、やがて、口元を動かして答えた。 「それは、君が家を無くした子どもだからだ。私は、ある野原で意識を失って痣だらけで倒れている子どもが見つかったという報告を受けて、すぐに現場へと駆けつけた。そして、報告通りの倒れて眠っている君を見つけた。そしてすぐに保護をして、救助班の者達とこの施設、もとい施設に併設されている病院に運び込んだんだ。それから私や他の者達で、君の身元を調べた。君は、かつて幼い頃にーーといっても、今もまだ幼いだろうけどーー両親を亡くしているそうだな。『本当の』親を。それで、カワウソの夫婦の暮らす家に養子に引き取られて、しばらくはそこで暮らしていた。そんなある時、何者かに連れ去られて、野原で彼らに暴行を加えられて、意識を失っていたというわけだろう。どうだ、間違っているか?」 「いいえ、その通りです」  猫の彼はそう答えながら、男の言う通りのあの若者達の自分に加えてきた暴行の一部始終の記憶を呼び起こしていた。それから彼は、男の発言にひとつ取っ掛かりがあるのに気付いて、あの、とまた質問を新たに尋ねた。 「いま言った、僕が家を無くした子ども、っていうのは一体どういう意味なんですか?」 「どういう意味って、その通りだよ。今、君は家がない子どもだ、っていうことだ」  ハクビシンの男は、当然のことだろうという風に至って冷静を保ったままで平然と述べた。猫の彼は動揺を隠せずに表情を歪める。 「えっ、だって、僕にはおばさんとおじさんが居るし、おばさん達の家だってあるはずじゃ……」 「いや、その夫婦方は、今はもういないんだ。いや、正しくは、この場所にはいない、と言った方が合っているだろうな。だから、彼らはもうあの家には住んでいないんだ」 「えっ、それはどういうことですか?」 「君のその養親の夫婦方は、新しく制定された法律によって、国外に隔離されてしまったんだ」  ハクビシンの男は同じ口調で淡々とその事実を述べて、同じように猫の彼を眺めた。猫の彼はその事実を聞いて、しばらくは理解に及ぶために考えを整えながら男の顔を見据えていたが、やがてその男の言葉の意味を読解すると、文字通りに膝から崩れ落ちるように落胆して、冷たい通路の床に膝と手をついて愕然としたのだった。  猫の彼がやってきた、否施設員に連れてこられたのは、施設の子ども達の過ごしているレクリエーションルームだった。とはいえレクリエーションルームとは名ばかりの、その空間は無駄に面積が広く、その広い面積の分だけ、活気のない子ども達の醸し出す気だるいような、どこか明後日を見たまま帰ってきそうもない虚ろめく視界の暮夜けや、何もかもに諦観を覚え始める寸前のような表情の一群といった、目にするだけでもこちらの方に吹き込んできそうなそれら物事に対する無関心やら無抵抗な彼らに備わっていたはずの生き物の本能を唾棄したどんよりした嫌な風が、部屋一帯に漂い、また立ち篭めているような気がしてならなかった。それらは、壁や天井だけではなく、生気のない彼ら子ども達のきている衣服ーー彼らは皆んな、一同に水色の、患者服のような衣服を着ていて、胸元には何かの管理する番号の記されたプレートバッジを付けていたーーや、灰色と白の中間くらいの色のソファや、備え付けのキッチンや駄々広い円状のテーブルや、テレビやスタンドライトの内側まで満ちているように思えて、猫の彼はとても気分が落ち込んだ。そしてそれは、単にこの生気の失われた部屋に案内されたからに限らずに、もちろん、あのさっきのハクビシンの医者風の男(もしかすれば、本当に医者なのかもしれないけれど)に告げられた、衝撃の事実その概要的説明を聞いたということにも、随して大きな要因があるといえるのだった。  猫の彼は、ハクビシンの男からその話を聞いて、図らず放心状態に陥った。男の話によると、猫の彼の現在の父母にあたるカワウソの夫婦は、とある新たな制度の定めによって、国外のどこか見知らぬ場所へと隔離されてしまったということらしかった。その為に、猫の彼の両親もとい彼ら夫婦の、それは当然猫の彼の現在の居住宅でもあって、三人で暮らしていた家は理不尽にも強制的に差し押さえられ、国家の手に渡り、無念にも追い出されてしまったカワウソ夫婦のおじさんとおばさんは、恐らくはきっと悲哀に咽び明かし、泣き崩れながら、自分たちの幸せを築いていた居場所を惜しみながら、途方に暮れる思いを抱いていたに違いなく猫の彼には察せられた。そしてもしもそうならば、おじさんとおばさんは、何も家を無くしたことだけに後悔を覚えて、泣き崩れていることではないだろう、と猫の彼は思った。彼らはきっと、家と共に、自分というただ一人の大切な愛らしい子どもを失ってしまう事に、居場所の差し押さえよりも遥かに勝る遣り場の無い哀しみを同時に感じてやまないだろうと猫の彼は半ば放心状態になりながらも考え込んで、それがさらに自身の虚弱への陥れの追撃になることを知りながらもその考えを取り払うことができずにいたのだった。だけれども、それなら何故にして、猫の彼のたった二人のかけがえの無いカワウソの老夫婦達は、強制的に居場所を奪い取られ、それどころか別の地へと隔離されなければならないのだろうか、そして、その一方で一体なんで僕自身はこんな奇妙で不可解な薄暗い空気の重苦しい場所に連行されてきたのだろうか、とそんな二つの、猫の彼にとっては今時点ではとてつもなく大きな問題の疑を、猫の彼は上手く声の出せなくなった自分の口を動かして、なんとかハクビシンの男に尋ねた。男は相変わらずそんな猫の彼の帯だ足しく哀れな動揺を何ら気にかける様子もなく、ただ機械的に、冷徹気味な表情で説明を続けた。 「ーーつまりは、こういう訳だ。君の養親さんである、そのカワウソの老夫婦は、新たについ数週間前に制定されたーーその間、君は眠っていたからそのことを知らないのは無理もない。むしろ、知らないのが当然というべきだーー、国家の制度、『鼬(いたち)科及(および)齧歯類動生物隔離拘束法』なるものによって、君の住んでいる家、それからこの本圀の土地から、追放されてしまったんだ。それはなぜかというと、この鼬科及〜拘束法というものは、結するところ君の親のカワウソ夫婦や、また名前の通りにイタチ類の物達や、その他齧歯類の住民達が、近いうちに国内中に発生するであろう可能性の有される、何らかの空中標遊菌類物質により、その感染を受けて発狂、または凶暴化に至るかも知れないという危険性の予測を立てた国家政府が、それらの危険対象に当たるイタチやカワウソ達を拘束して、国内から追い払って、監禁するというものになっているからだ。それが果たして、他に生物の存在しない離れた孤島であるか、それともこの施設みたいな牢獄の要塞であるかは、私には検討はつかないがな」  猫の彼はその男の説明を聞き続けるうちに、徐々に自分の頭の内側が破裂しそうになるほどに血管や皮膚や筋肉が膨張を始めて、痛むのを感じた。もちろんそれは彼の架空被害現象によるもので、実際にそういった異常は彼の身体には起こってはいなかった。猫の彼の息が、次第に荒々しくなり、苦痛の熱を帯び始めている。それと同時に、耳に入ってきているはずの、目の前に立つハクビシンの男の話し声も、段々と暮夜けて、朦朧とし、言葉の輪郭が遠ざかっていくように感じた。 「ーーそしてその結果、残念なことに、君の両親は事実上カワウソであり、それは歴とした紛れもない誰の目に見ても明らかである為に、国内の孤島か海を隔てた向こうの要塞かの何処かに連行されてしまったというわけだ。それから、残された君は、怪我による意識の衰弱もあって、その治療検査を兼ねて、孤児としての身分が証明されたことから、この児童生活保護施設に送られてきた、ということになる。もちろん、この施設も国家政府が建立を設けたものだが、幸いなことに君はネコ科の生物であるから、両親方のように連行されて、国外追放に至らしめられるに及ばなかった、というわけになるんだ」  猫の彼は、そこまでハクビシンの男が説明を済ませ終える頃には、すでに半分意識を失いかけており、ようやく立ちあがろうとしたのだけれども、再び姿勢を崩して、床に倒れ込んだ。それを見かねたハクビシンの男は、ようやく出番といった感じで猫の彼の身体を抱き起こし上げると、いつのまにか胸元に下げ掛けていた聴診器で猫の彼の心臓音を確かめると、よし、おい、二八〇番をもってこい、と通路の奥側の影になっている場所で何かの作業をしていた別の施設員の者に声をかけた。すると施設員が飛んできて、ハクビシンの男の言う通りに袋入りの錠剤のようなものをポケットから取り出して猫の彼に飲み込ませると、ボールペンで用紙に何かをチェックして、他のポケットから取り出した、ハクビシンの男が言っていた、二八〇番と記された長方形のバッジプレートを、猫の彼の衣服の胸元に取り付けた。よし、これで大丈夫だろう、とハクビシンの男は施設員に頷きかけると、この子を連れて行ってくれ、と猫の彼の身体を施設員に預けて、変わらず淡々とした何事も起こっていなかったという風な面持ちで再び通路の奥へと歩き去って行った。施設員は何も猫の彼に声を掛けることはなく、気分の悪そうな彼の手を連れて、どこかへと向かい歩き始めた。通路の途中で、猫の彼が吐きそうになると、施設員は途中にあるトイレへと彼を連れて入り、猫の彼に吐瀉物を吐き出させた。それはしばらく続いて、猫の彼は吐くものがなくなっても、何回か嗚咽を繰り返した。施設員は黙ったままでそれを見ていて、猫の彼が幾らか落ち着いたような表情を見せると、それを合図に彼の手を連れて再び通路へと戻り、ハクビシンの男が指定した行方の知れない部屋へと連れて行った。  レクリエーションルームには、何人かの子ども達が玩具箱から各々取り出してきた得体の知れない、部屋のせいなのかも知れないけれど不気味な形の玩具を手にして一人や二人組で遊んでいたり、他にはソファに座り込んでテレビの画面を眺めていたり、テーブルの前に座って何かの絵を静かに黙々と描いていたりと色々と物事に入り込んでいた。しかし、彼らに共通して見られる特徴としては、彼らは一様に、顔に生気というものが、完全にとは言わずまでも、半ばほど失われているように、はっきりと感じられない表情を浮かべて動作に浸っているということがいえた。子ども達は、皆んな揃ってこの部屋、果てには若しくはこの施設全体の得体の知れない闇のような、霧靄のような何かを失って、自身の存在する意味を欠落させてしまっているその虚無感とか淀めいた諦観心に取り囲まれた彼らの背後に潜んでいる音のない怪物のようなものがつくりだす重苦しい空気に心身をどこか毒されて、毒による哀れな被害を被っているように見えて仕方なく、その光景は手に負えなさのやり場もなく、痛々しいばかりだった。  猫の彼は子ども達の、部屋に新しく入ってきた自分のいる方を見るわけでもなく、かといえば他の遊んでいる子どもの誰かのことを見ているわけでもない、ただ虚ろで、温度のない無気力なその視線の薄気味悪さに表しようのない恐ろしさとそれによる身震いを覚えながらも、施設員に導かれるままに部屋の中央の方へと歩いていった。部屋の中央には、横長の巨大な楕円形のテーブルが設けられていて、卓上には、子ども達が描いたであろう読めない文字や何の動物か魚か分からない絵の落書きや、筆先の折れ曲がったペンや絵の具などが用意されて散らばっていて、食べかけの葡萄やリンゴといった果物が不気味なオブジェのように無秩序に置かれていたりした。ここで、しばらく皆んなと遊んで待っててね、と施設員はそう言うと、笑いかけるでもなく、憂う表情をつくるでもなく、ただ無表情に近い顔を部屋中に見渡すと、猫の彼の元を離れて、レクリエーションルームを束の間に去って行った。そして、友達もましてや知り合いすらいないーーそれは当たり前なのだけれどーー不気味な部屋に一人残されてしまった猫の彼は、とりあえず、近くにいた子ども達に挨拶をしてみることにした。しかし、子ども達は猫の彼を不思議そうに一目見やるだけで、誰一人として何か声を返すことはせずに、ただ無言のままで再び意義の感じられない遊びに戻って、それらに機械的に夢中に入り浸り始めるだけに終わってしまうに過ぎなかった。猫の彼はそんな今自身が置かれている状況に、半ば絶望していて、それは完全なものに近かった。自分はいつのまにかカワウソの大切なおばさんとおじさんという実の両親にも勝る家族を失ってしまい、気がつけばこんなおかしな所ーーそれはもう、目を開けているだけで気が狂い出してしまいそうで仕方がないようなーーに、連れて来られた理由も目的も不明瞭なまま、保護ならぬ「監禁」されてしまっているのだ。思わず、さっき施設員と歩いていた時のような吐き気を思い出してしまいそうで、猫の彼は口元を抑えた。それから目を瞑り、吐き気が収まるのをじっと待つ。閉じた瞳の裏には、自身が座っている周囲の、暗闇の空気が立ち篭める子ども達の無機質で機械的な遊びの物音が耳元を通じて抽象的図形のような映像として伝わってきて、猫の彼は、今、もしかすれば自分は、悪夢の中にいるのかも知れない、と思った。しかし、それは目を覚まして、もとの覚醒状態の世界に戻る手立てのない、かつての現実生活に帰ることの叶わない、永遠に彼自身の中で続いて流れていく悪夢なのであり、それは猫の彼にも、悲痛の苦ながら分かっていたことだった。そんな事を子ども達が周りに何人も居ながら、だけれども取り残された孤独感の内側で一人考え込んでいると、猫の彼はふと涙を頬に伝わせた。自分はきっと、恐らくもうおばさんとおじさんには会えないんだ。それに、あの家にも戻ることはできないし、前みたいな幸せだった、これ以上に何も欲しいものはないと言えるような愉しく幸福な生活、時間に帰ることもできないんだ。そう思うと、涙が止まず溢れ出す一方だった。しかし、その涙を気にかけてくれる者も、また声を彼に掛けてくれる者も、部屋には誰一人として存在せず、猫の彼はずっと孤独の中に明け暮れるばかりに終わったのだった。  しばらくして、再び施設員が戻ってきて、すっかり泣き腫らした顔の猫の彼に声を掛けると、彼を立ち上がらせて、ついてくるように指示をした。猫の彼は泣き疲れたように放心の目つきで施設員に頷くと、後をついてレクリエーションルームを出て行った。  レクリエーションルームの出口からの通路は、あの猫の彼が目を覚ました部屋からハクビシンの男に出会うまでのその通路よりも一層暗さを増しているような気がした。何故なら、今施設員と歩いているその通路は、外の景色の映る貼り付けられたような窓もなく、更に天井の蛍光灯さえも、もうすぐ切れかけのような点滅を繰り返していて、通路の全貌を見渡すのに大変困難なものだったからだ。その長い闇の中を、猫の彼は施設員と無言で歩いて行く。そんな中で、猫の彼はいつかの、意識を失ってこの施設に運び込まれる前に、あの自分の身を攫って閑散と拓けた広原に連れ招いた五人ばかりの若者の猫達の姿を記憶に思い出した。それと同時に、彼らのうちの誰かが言っていた言葉を思い起こす。こいつ(猫達のうちの仲間を指して)は、言葉が聞こえなかったり、うまく喋れなかったり、クスリなんかやってるガキどもの居る施設に暮らしてるんだ。と、そんな風なことを確か誰かが言っていたのではないだろうか。そして、猫の彼は思った。この施設も、その彼が言っていた場所と、もしかすれば同じなのではないかと。この場所も、言葉が聞こえず、又話せず、さらにはドラッグに耽っている子ども達が群集している暗澹(あんたん)の地なのではないか。その場所に、今しがた自分までもが連れて来られて、閉じ込められてしまったのではないだろうか。そんな事を何の得にもならずとも考えていると、猫の彼は何度覚えたか知れない寒気や震えを、強く感じた。そんな彼とは裏腹に、彼の目の前を施設員は淡々と通路をただ機械的に歩き進んでいく。何も言わないままで。通路には二人の足音が不気味に響き渡り、猫の彼は、一体どこまで行くつもりだろう、と果てしない恐怖の闇に取り囲まれながら、何とか歩を進めた。  すると突然、通路の途中で、向こう側から一人の誰かの姿が駆け走ってくる影が見え始めて、それは施設員と猫の彼の斜め向かいのところで転倒した。近くで立ち止まって見てみると、それは猫の彼と同じくらいか、それとも少しだけ幼いくらいの年齢の、同じく猫の女の子だった。彼女は頭に包帯を巻き付けていて、両腕には何かぬいぐるみのようなものを抱いている。服は猫の彼と同じものを着ていて、彼女もここの施設の子どもだと分かった。大丈夫?と猫の彼は声を掛けて、女の子の元に近寄った。女の子は、猫の彼の腕を取って立ちあがろうとするが、その拍子に腕に抱えていたぬいぐるみを落としてしまい、お願い取って、と猫の彼に頼んできた。猫の彼がそれを拾い上げて、女の子に手渡そうとすると、女の子は何故か急に大声で泣き始めたのだった。猫の彼が呆気に取られていると、女の子は、どうして、と何度か叫んでいた。どうしてどうしてどうして、どうしてなのっ?猫の彼は転んだ際の傷が酷いのだろうかと女の子の身体を手で診ようとすると、女の子は、触らないでっ、と猫の彼の手を振り払った。そしてまた更に泣き出して、どうして、と繰り返し始めた。 「どうしてなの?ママもパパもいなくなっちゃって、マリーちゃんだけがあたしのところにはいて、それでもだって、もうパンケーキも食べれないし、はちみつのジュースも飲めないし、貝殻のドレスも着れないし、ううん、そんなことじゃないの、あたしが泣いてるのは、そんなことじゃないの。聞いてくれる?ねえ、あたしの話聞いてくれる?お願い、優しくしないで、そんなに優しくされちゃったら、あたし、何のためにここにいるのか、わかんなくなっちゃうんだもん。何のために生きてるのか、もっとわかんなくなっちゃうんだもん!」  女の子はそう言って更にえーんえーん、と大声で泣き喚くばかりで、一向にその泣き声が収まりそうに思えなかったため、猫の彼は狼狽しながらも、施設員の姿を探した。しかし、施設員はいつの間にか姿を消していて、すっかり居なくなっていた。猫の彼はそしてそのまま頭に包帯を巻いたぬいぐるみを抱きしめていた通路の向こうの暗闇から駆け走ってきた女の子がいつまでも泣き喚き続けている声の反響する、悪夢の最中のような通路に彼女と二人で取り残されている状況を自覚すると、突如、自身の中に何か我慢のできない感情が生まれるのを感じた。それは強いもので、それに気づいた瞬間には猫の彼は既にその場から一目散に走り出していた。猫の彼は女の子を無視して、その得体の知れない感情のままに、蛍光灯の今にも消え滅びそうな光の照らす暗闇の通路を、ただ目先に向かって疾走していた。するとそのうちに、だんだんと意識は薄れてゆき、気がつけば猫の彼は、脳内に浸透し始める白い霧光と共にすっかり視界を失っていた。  そして実はそこから現在まで、猫の彼は意識を失った際の空白の記憶の一切を失っていた。現在というのは、彼が再び目を覚ました時のことで、その時というのは、まだ第一次世界大戦の始まる数年前の、ヨーロッパの某諸国のとある地域だった。しかし、目を覚ました猫の彼は、彼に取ってはまさしくつい先ほどまでの「悪夢」とでも呼ぶべき出来事について特に何ら再巡するような事はせずに、欠伸をして、目許を掻くと当てもなく自分の今存在するヨーロッパ地域の街並みの中を、何とは無しに歩き始めたのだった。  しかし、それでもやはり、猫の彼の中にはあの忌まわしき、それはカワウソの養親夫婦との辛い別れ、そして自分を集団侮辱した若者の猫達の記憶が離れずに張り付いており、その耐え難い苦痛の波が今も明確に思い出せるほどの力を持つように至っていて、猫の彼はその誰に打ち明けて理解してもらえるでもない只の彼自身のみにおける、極めて孤独な苦痛を胸に秘めながら、生きてゆくしかないのであり、猫の彼はそれを呑み込みながらも、時々痛む脳裏を川辺や街灯りの中で癒そうと試みながら眠りに就くのであった。          *  話は戻り、時代は『戦場』を駆け走る猫の彼の過酷な劣悪な環境下に至る。今、彼は誰に助けを求めるでもなく、尤も、助けを求められる者など居ない、ひたすらにその刻々悪化しゆく戦場の中を息を荒切れに力一杯に走っていた。周囲では血肉が飛び散り、散弾銃やら機関銃やら大砲やらが轟音を立てて、黒い鉄の殺人弾が頭上や人間達の真横を飛び交っていて、そのために被弾した人々は次々と無惨にも倒れ散ってゆき、辺りの地面には、腥(なまぐさ)い血液が真っ紅に垂れ流されて、倒れた人々の腹部から頭部からは見るに耐えないさまざまな臓物のそれらが剥き出しになって流出していた。それでもなお合戦は続いていき、それはとどまるところを知らず、ますます戦場は熱気を上げて、血みどろの風と共に咆哮を上げて、火花を振り乱し散らした。兵士たちの罵倒や雑言が喚き渦巻く。それらは最早声にはなっておらず、ただの悪霊の泣き声、死人の戯言、断末魔のようにしか聞こえ得なかった。空から降ってくる手榴弾、互いに両突きして二組の肉体に突き刺さる鋭い血で紅く染まったサーベルナイフ、制御の効かない巨大な鋼鉄の戦車、それに轢かれる兵士達、ばら撒かれる炎、燃え上がる火柱、形の無くなった草木や花や緑の丘地、それでも構わずに発射されるミサイル弾、振りまかれる毒ガス、かくの如く無秩序に非道に残虐に繰り返し放たれる殺人兵器や生物本能的殺傷意識の暴走のつくりあげる血と炎と瓦礫の嵐。猫の彼はそんな中を我を忘れて、僅かな出口を求めて走りながら、ただ考えた。僕が望んだのは、こんな世界じゃない。こんな、人種差別に溢れて、殺人に合法的許諾が解されて、血や肉が無駄に新しい地面を形成していく世界を、僕は決して望んではいないんだ!僕が求めているのは、何だ?僕が今求めているのは、果たして何だ?いや、それはもう分かっている。ずっとずっと前から僕は分かっていたはずだ。それは、それはあのおばさんとおじさんと、二人と家で暮らしていた時の、夕飯に美味しいご飯を食べた時に部屋の中で光って燃えていた、暖炉の優しい、暖かい、そして儚いーー人間や猫や植物や、すべての生物のように儚い炎を燃やしている、あの暖炉の景色だ。それが、僕がずっと求めているものだ。そうだ、間違いない。僕は必ず、それを見つけ出さなければいけない。そのために、こんな場所は一刻も早く抜け出さなくてはいけないし、こんな争いごとは、早く終わって無くなってしまわなければいけないんだ。だけれど、果たして誰がそんなことをできるというのか?わからない、今の僕にはその何もかもが分からないんだ。とにかく、僕は人種差別が嫌いだ。もちろん、今みたいに人がたくさん死んでいって、戦争が悪化していくのも、当たり前だけど嫌いだ。吐き気がする。だけど、僕はあの、子どもの時に与えられた、五人の猫達による差別的な暴虐行為が、とにかく苦痛で仕方がなかった。そしてこの前に起きた、ドイツとポーランドで起こった夜の差別主義のせいで生まれた虐殺事件がその僕自身の虐めの記憶を思い出させて、僕をこの上なく苦しめたんだ。だから、人種差別が嫌いなんだ。差別された人々が、差別を掲げる人々にーー彼らは同じ人間同士だというのにーー理由も足らずに虐殺される事実が、僕を精神的に殺して、死なせようとしてくるんだ。彼らは同じ人間なのではないか?人間同士が争い合って、一体何になるというのだろうか?僕は猫だから分からないのだろうか?いや、そうじゃない。そんなことは関係ないはずだ。僕だって、猫だけど、人間達と同じ、命を持った生物なんだから!急げ、急ぐんだ、あの暖炉が燃える、その場所が存在する部屋へ、そんな世界(ところ)へーー。  猫の彼がようやく戦場を潜り抜けて、その荒廃の地である国領域を出ようとした時に、彼の横に一人の人間、否、かつて人間だった見るも残酷な血に塗れて、焼け爛れた最早人の姿形などのそれではない肉塊が降り落ちてきて、猫の彼は思わず目を瞑った。そして、胸の中で合掌し、足を駈けながら祈りを込める。ごめん、もうすぐ、もうすぐ終わるから。何もかも、もうすぐ全てが終わるから、それまでーーお願いだから、それまで、待ってて欲しい。  猫の彼はそして、アグラーレル国港へと辿り着き、出港間際の二階建ての貨物船に飛び乗って、倉庫に身を潜めて『戦場』を後にしたのだった。

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第八章

第七章

 その猫は、今まさに荒れ狂う戦場地帯を一心不乱に駆け走っていた。『戦場』には、銃声や破裂音、悲鳴や罵倒が飛び交い、散々としていて、まさに見るに耐えない光景だった。一体、何でこんなことになってしまったのだろうか。猫はそんなことを悩み続けながら、ただその地を走った。猫は、もう二百年以上も生き続けている年齢の存在であり、その事実から、半ば超常生物のような、いや、最早ある種の神のような存在といってもいいのかも知れなかった。その猫は雄猫であったのだけど、故に、彼は西暦一九〇〇年には少なくとも出生していたわけであるため、当然世界がかの「第一次世界大戦」を勃発し、参戦する各国が戦力を拡大化させるまたそれに於ける革命などといった事態が巻き起こるその十年以上も以前から生きていたことには相違なかった。彼は、最早とうに自身の生まれた地も、自分を産んでくれた親の存在も、果てには自らの名前までも忘れてしまっていたのだ。だけれどもしかし、彼は先述した「第一次世界大戦」や、その後に起こる「第二次世界大戦」といった地球上のあくなき悲劇をその目で確かに受け止めていて、今でも尚、全ての映像をはっきりと記憶している、そんな現代では稀有なーーいや、唯一無二といってもいいだろうーー存在の一人だった。それも、ただ一匹の、名前もない猫である。  彼は、第一次世界大戦の発端となった「サラエボ事件」から、当戦争の終間際の年に起こったロシア革命(第二革命)までの全貌や、またその後に凝り情けもなく起場した第二次世界大戦に於ける同じく発端とされる、ドイツ国による「ポーランド侵攻」についてや、各国の血肉行き交う決死の絶命的な醜態の戦場の有り様や、そして、戦事の最終局面に当たる、今その猫の彼が主な居住地区域としているアジア大陸並びに日本、その日本にアメリカによって襲撃を嗾(けしか)けられた、B-29による東京大空襲や、果ての国内の歴史に於ける、生来きっての大惨劇である、広島への世界初の使用である原子力爆弾「リトル・ボーイ」の投下、さらには長崎へのこちらはプルトニウム型原子力爆弾「ファットマン」の投下による、日本の無条件克服もとい圧倒的惨敗、これ以上ないといって恐らく過言ではないであろう屈辱的な敗戦記録までのその一連について、全ての悲劇然なる記憶を彼の脳裏に焼き付けていたのだった。否、焼き付けられることを(残酷にも)已むなく託(ことづ)けられていたのであった。  彼は、それらの各「世界大戦」を、両事項とも同然と憎み、そんな事態が招かれたというその事実を今でも嫌悪し、忌み嫌い、また許すまじ忘れまじと並列して人類歴史的な最大の大罪という元に銘じてその胸の内に確かに秘めてはいるのであったけれども、そんな中でも、彼は後者にあたる「第二次世界大戦」の方を傾選的に怨恨し、より嫌厭していると自覚していた。何故ならば、そこには多様な要因が在するのだけれども、そのまず一つには、何で以前に第一次世界大戦という、間違えても必然的な戦争であった、だとか、単なる過去の誤(あやま)ちであった、といったりだとかそんな解釈では明らかに済まされることのない悲劇が世界各国に無惨にももたらされたというのに、その悪魔的な、狂荒的な、虚廃的な残劇の再現を、しかもさらに多くの国々の参戦をもってして「第二次」などと誰が得をするのやら、格好つけたような割振りの称号を付番された戦争が起こらなくてはいけなかったんだろう、という対する拒否権をまるで与えられることのなかった無慈悲に対する果てない憤りや、それから当戦争で使用されたという、アメリカ政府の軍事力により日本国に発射された「原子力爆弾」という名前の、それは口にするのも、また目にするのも悍(おぞ)ましい、悪魔の具現化とも呼べるような、人類に対する殺戮凶器が、何ということであろうか二度も爆撃に至らせられたという、果たして人間の和解とは、人間の良心とは何処へ、とでも皮肉をこれ見よがしに込めてその馬鹿らしいにも程があり、反吐を堪えるのもやっとだと言わんばかりな青尻の粋り立った猿どもの名の通り猿芝居に向けて言い放ってやりたくなるような事実に対する怒りの心頭や、といった物事や理由が挙列されるのだけれども、それとは別に、更に彼の当戦争に対する拒絶心を遥かに強めさせる事件がこの第二次には存在していて、その事件こそが彼を今でも、記憶の深淵の奥底から遠隔的に苦しめて、悲痛に縛り付けて、辱め続けているものであったからというのが、第一の悪の根源として確かにされていたからだった。そしてその事件というものこそが、あのアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツによる、ユダヤ人種迫害虐殺を総括せられる「クリスタル・ナハト(水晶の夜)」なのであった。  その事件、クリスタル・ナハトは、先の概要の説明の通りに、いわゆるユダヤ人に対する、酷く差別的な人種意識を持つ主義者(イスト)達による、徹底とした非道的な陵辱、甚振(じんしん)を与えたもうとする事件であり、多様に根源を成す世界の歴史の人種差別事件の中でも、かなり有名なところに位置するであろう迫害行為であることに間違いはない筈であるといえるだろう。そして、その水晶の夜事件と、早二百年生き続けた雄猫の彼との間に、一体何の関係があろうか、という話なのだけれども、それは果たして、彼の幼少期の頃の、遥か昔の過去の記憶に繋がりが含まれているのだった。  その彼、名もなき雄猫の若かりし頃、ーー生まれて十年と経たぬうちにーー彼は実親を両方とも亡くしてーーそれは、彼の記憶から哀しくも姿形の一様がすっかりと抜け去ってしまった、今の彼にとっては単なる、「親がかつていた」という外枠だけの存在である両親であるーー幼くして、遠くの街に暮らすカワウソの夫婦のもとへと養子に預けられたのであった。当然、語るまでもなく猫とカワウソとでは、生物としての種類が全く異なるものであるし、側から見れば、親を亡くして可哀想な貧しい身へと堕ちた宛てのない野良猫の子どもが、こちらは子どもを幼くして亡くした可哀想な、些か年老いたカワウソの老夫婦(彼らは数十年前に実子を病気で失っていた)に拾われたというだけの、同種の中で生まれる種族間の結託も、その暖かみも得られないような、お互いの生活やそれに於けるいろいろな私利私欲的な益得の為に形を成されたようないわゆる「仮面家族」という光景にしか映っていなかったのかも知れないし、実際、そうだったのであろうと感じられた。だけれどもしかし、幼き猫の彼は、その自分を拾ってくれた、否、迎え入れてくれた、と表すのが適切だろう、カワウソの老夫婦に、一切の疑心暗鬼や世間体からの束縛観念とその自己否定の自尊心の抑圧によって生まれる可能性のある病的に天邪鬼な態度を見せるようなことはなく、新しい家族ーーかつての自分を育ててくれていた、今は亡き、それでも大切な存在には生物学的観点からという理由のみならずに愛されていた、自分を愛してくれていたと確かに言い語れる二人の両親に代わってーーとして、彼らの家へ訪れて、素直に彼ら夫婦の暖かい挨拶や手招きに、愛らしい子どもとしての甘えや寂しがり屋の、孤独から解放された安堵感を委ねたのだった。言うまでもなく、カワウソの老夫婦達は、猫の彼を自分達の記憶の中の実子のように、また現在(いま)となってはそれ以上の愛情で受け入れて、新しい彼らの人生に彼を抱擁したのであり、そこに紛れもなく、嘘や偽りといったものは存在しなかった。  そんな出会いから、猫の彼とカワウソの老夫婦の、本来の血の繋がった家族愛にも時として勝るかのような幸せな生活は始まって日々が流れ過ぎてゆき、こんな幸せがいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも続いていけばいいのになあ。いや、きっとこの幸せに終わりなんていうものは訪れないはずだ。だって、今自分は、僕は、こんなにも幸せに満ち足りて、幸せの中に生きているんだから。終わりなんてあってはいけないんだ。ねえ、そうでしょ?お母さん?ええ、そうよ、終わりなんていうものはないわ。決してね。いつまでも続いていくのよ。ねえ?あなた?ああ、二人の言う通りだよ。僕も、そう思っているよ。そんな風に彼らはクリスマスや猫の彼の誕生日の夜などに笑い合って何一つ種科目の違いという壁の隔てのない幸福の団欒に永遠に暮らし続けられる確かな希望を満たしていたのだった。彼らの家のリビングには煉瓦造りの暖炉(ペチカ)があり、彼ら夜毎その暖かい優しい炎の前で暖をとりながら楽しい夕食を過ごしていた。  しかし、そんな幸せは突如として、束の間に残酷にも終わりを告げることとなったのだった。  ある日、猫の彼とカワウソの老夫婦の家の元に、四、五人の若者の雄猫達がやって来た。若者といっても、見るからにその彼らが良い歳であるのは間違いなく、そのために、ようゆくまだ十歳になったばかりの猫の彼の前には、彼らは幾分か屈強な、威圧感のある存在のように映るだろうに違いないのだった。「何かご用ですか?」と玄関先にいたカワウソのおばさんが不思議そうに尋ねると、いい歳をした猫の彼らの中から、「急に押しかけてすみません、ちょっと、御宅の息子さんに用事があって来たんです」とひと回り周囲の四人よりも背丈の小さい猫が言った。「あら、うちの子に用が?」とおばさんは更に問い聞く。「一体それは、どんなご用件でしょうか?」若者の猫達のうちの、割と背の高いやつが答える。「まあ、何で言えばいいのやら、とにかくここで説明を口で簡単に説明するのは難しいので、来てもらうのが取り敢えずは話が早いと思います。」「実は僕たちは、彼の古い古い、彼が生まれてすぐの頃からの友人なんです」メガネをかけた猫が言った。「あら、お友達でいらっしゃるの?」おばさんが言う。「ええ、そうなんです。まあ、とは言っても年齢はかなり離れてしまってはいますがね、でも、ちゃんとした付き合いがあったんですよ。しばらく会えていなかったですが」「そういうことです。僕たちは彼にーー息子さんに、とても大事な話があるんです。だからなるべく早く、息子さんを呼んできてもらっても、よろしいでしょうか?」「お願いします」残った二匹の猫達が、最後に交互に語った。「あら、そういうことだったのね。わかりましたわ。すぐにうちの子を呼んできますから、少し待っててくださいね」おばさんがそう言って、微笑みながら彼らの立つ玄関口を後にすると、若者猫の彼らは、どうもお手数ですみません、と愛想よく微笑みを浮かべて返した。「ミューちゃん(カワウソの老夫婦が名付けた、猫の彼の愛称)、お友達の方々がいらっしゃったわよ。ちょっときてくれないかしら?」その時、自分の部屋の中で本を読んでいたミューちゃんこと養子猫の彼は、ドア越しにおばさんの声を受け取って、返事をして一体何ごとか、と僅かながらに不可思議な思いを覚えたものの、すぐに部屋を出て、おばさんのいる元へと向かった。ミャーちゃんが顔を見せて、何?と尋ねるとおばさんは、あなたのお友達達のみんなが、ミャーちゃんに何か大事な用事があるって、と彼を『友達』の待つ玄関へと案内した。養子猫の彼は、その玄関先に立ち構えている若い見知らぬ猫達ーーそれは確かに、彼にとっては友達どころか知り合いですらない、赤の他人同然の猫の若者達であったーーを不思議そうに、また怪しげに、一通り恐る恐る容貌を見渡すと、そのうちの一人と目線が合って、どきり、と胸の中に不信感が浮き立つのを感じた。「この子が、うちのミャーちゃんですけれど」カワウソのおばさんはそう言って、養子の彼を若者達の前に連れ立てる。すると、若者達の中の背の低い猫が、にこり、ともにやりともつかぬーーそれはある種の不気味なーー笑顔を彼に向けた。「ちょっと、俺達と一緒に、来てもらいたいんだけど、いいかな?すぐ終わるからさ」その言葉に、猫の彼はやはり胸につかえるような不信感の鼓動の加速を冷や汗ながらに感じ取って、思わず首を振った。第一、見知らぬ奴らと、その用事の内容とやらが一体何なのかも知らないというのに、どこかさえも察しのつかない場所に同行しなければいけないというのか。しかし、若者達のうちの背の高い猫が、半ば強引に彼の腕を引くと、彼は抵抗虚しく玄関の外へと連れ出されてしまった。「そんなに恥ずかしがることないって。俺達も一緒なんだから」そんな様子をやはり同じく少し不思議に眺めていたカワウソのおばさんであったが、それでも若者達が何の邪気や悪気も一切に感じさせぬようなにこやかな笑顔をそちらに向けたまま、あくまで穏やかな動作で、本当の友達の中の如くにミャーちゃんの猫の彼を連れて行こうとしているのを見てからは、さほど大きな心配を抱くこともなく、それじゃあ、気をつけていってらっしゃいね、と彼らに微笑み返して、若者達とミャーちゃんを見送ったのだった。かくして、若者達にまんまと連れ出されてしまった、おばさんの養子猫の彼は、いやだ、早く家に帰してよ、とその腕や身体を締め抱えて離さない、屈強な若者の猫の強制的な連行により、抵抗不可な無力な泣き声を上げながら、その「彼と彼の家族の家」を後にせざるを得なかったのだった。  かくして猫の彼が連れて来られたその場所は、それもまた彼等若者達同様見覚えのない、樹木の乱立する空地の野原だった。若者達はそこに到着すると、一気に顔つきが変わったようになって、一本の針葉の樹木の前で並んで立ち止まった。それから、猫の彼の手を掴んでいた屈強な背の高い若者がその彼の身体を放り投げるように地面に突き放すと、ぺっ、と彼の顔に唾を吐きかけた。それを合図にか、他の四人の者達も、地面に寝転がるように苦痛と不安な表情を浮かべる猫の彼を取り囲むようにずらりと円を組んだ。「おい、お前、なんでこんなところに連れて来られたんだろって顔してるなあ?」背の低いリーダー的若者猫が前に出てきて、猫の彼の顔を見下ろす。「そうだよなあ、わかんねえよなあ。急にこんな辺鄙な場所に無理やり連れ出されることなんて、生きてるうち何回もないだろうからな」そう言って、じっ、とリーダー猫は猫の彼を睨みつけるように、また嗜虐的な笑みを含ませて、表情を崩した。「何でわかんねえんだよ」と後ろのやや血気盛ん気味な一人の猫が気に入らなそうに叫ぶ。「そいつは、俺達の事を、いままで馬鹿にしてきたんだろうが」「おい、落ち着け、まだ早いって」血気盛んの隣にいた猫がそれを宥める。血気盛んは、今にも猫の彼を蹴り飛ばそうとせんばかりの姿勢を堪えながら、「でも、俺頭に来てて我慢できねえんだって」と面白くなさそうに愚痴った。「今に、リーダーが始めの指示を出すから、それまで待ってなって」メガネの猫がそう言って、にやり、とその瞬間になるのを嫌らしい笑みで待っていた。「おい、お前ら少し静かにしろ」リーダーの猫が後ろの仲間達に注意して、声を上げる。それからまた猫の彼の方に目をやって「なあ、わからねえんだろ?だから、俺たちが今からここでそれをしかとお前に教えてやるわけだ。わかったな」と意気揚々を堪えるように笑んだまま言った。猫の彼は最早状況が飲み込めないうえに更に自身の身体中が変な吐き気や、恐怖から来る肌寒さに襲われるその感覚から逃れないのだけれどなんとかその震えを抑えようと、目を瞑って視界から目の前に群がる若者達を消し去ろうと試みた。「よし、覚悟はできたみてえだな。じゃあ、お前ら、早速やるぞ」「よっしゃあ、まずは俺からだ」「おい、俺にもやらせろ」「皆んなでとにかくやりゃあいいんだろ」「うひひっ」そんな風にリーダーの合図で周囲に控えていた仲間達はようやく身を乗り出して、あろうことか次々と地面に這いつくばっている猫の彼の身体を殴り、蹴り飛ばして、その小さな幼い姿形に暴行を加え始めた。「どうだ、痛えだろ」リーダーは特に何か殴打をしたりはしないが、猫の彼の痛みに耐えかねている表情をした顔を爪先でつねるように鷲掴んでいた。「なんだ、全然声出さねえじゃねえか」一人の猫が腹を蹴りながら言う。「痩せ我慢なんてしたって、意味ないんだぜ、気に入らねえ」一人の猫が腕や足を踏みにじる。「こんなことされても、何も言わねえでただじだばたしてるだけなのか?おめえは」猫の彼はそんな風に彼らに罵倒され、心当たりのない罪に対しての甚振りを受けながら、身体を気づけば痣だらけに、傷だらけに変化させていった。猫の彼はもう、二度と目を開けないことに決めた。少なくとも、今この彼らに暴行を受けている時には。「おい、それじゃあなんでお前がこんな事される目にあっているのか、俺が教えてやろう」リーダーの猫は、猫の彼の顔を鷲掴んでいた手を一度緩めながら、声を唸るようにして語り始めた。その時猫の彼の尻尾に誰かの足が踏み重なり、猫の彼は不意に悲鳴を小さく上げた。それを聞いた二、三匹ほどの若者達が笑い声を洩らした。「俺はな、お前のその身分が気に入らないんだ。お前がノコノコノウノウと暮らしている、その態度っていうやつがだ。お前みたいに、人並みの生活ができる奴なんてのは、今の世の中ほとんどいねえんだよ。それも、お前みたいに親二人とも失ってさ、それでもちゃんと新しい、里親ってのか?そういうのを見つけてよ、ちゃんとしたまともな生活に戻れるようなやつなんて、まあ俺は見たことはねえな。俺だけじゃねえぜ、こいつらだってそうだ」リーダーの猫はそこで、再び殴られ続ける猫の彼の顔を鷲掴む手に力を込めて、背後に立つ背の高い猫の方を顎で示した。「こいつなんかはよお、母親がヤクやって家をほっぽらかして出て行っちまったもんだから、金もねえし、住む場所も今やまともに暮らしてられねえって状態なんだ。わかるか?家があるのに家がないみてえな生活ってのが、お前には、よお、わかるか?わかるわけねえよなあ、それも、同じ猫じゃなくて、カワウソの爺さん婆さんの家なんかに転がり込んで、何の問題もなく楽しくチャラチャラとやって過ごしてやがるお前みたいなお気楽モンにはよ。そんでこいつは、ヤクやってまともじゃなくなった母親もそうだが、父親の方も借金抱えて気づいたら夜逃げ、トンズラってわけだ。哀れなやつなんだよ。こいつは、全く哀れで仕方ねえ」すると背の高いそのリーダーが言うに哀れな若者の猫は、それを聞いて再びその自分の哀しくて仕方がない過去、否、現在の自分の荒れ果てた生活を不意に思い出して実感が湧いてしまったのか、しかめ面を浮かばせて、胸に立ち篭める苦しさを紛らわそうとしてか、より猫の彼の身体を蹴る力を強く込めた。「それに、そん隣のメガネのやつは、もしかすればお前には至って真面目な、優等な学生かなんかに見えるかも知れねえけどなーーまあ、目え瞑ってるから優等生みてえかどうかはわかんねえだろうが、とにかくこいつは、生まれた時から孤児院で育ってきたやつなんだ。どう言うことかわかるか?こいつは、親に捨てられたんだよ。お前に食わせるようなメシとか服とか買う金はねえんだってな。そんで、赤ん坊の頃に親に捨てられちまったこいつは、そのまま故事の児童施設ん中に入って、今までに至るってわけだ。その施設ってのが、これまたひでぇところでよ。例えばそこにいるガキどもは、うまく言葉が喋れなかったり、耳が聞こえなかったり、暴れん坊で聞かず耳だったり、果てるところに行くと、クスリやってるやつまでなんかいやがるんだぜ。まあ、そいつの場合には、親の影響とかもあるかも知んねえけどな。まあとにかく、そんな風にこいつの育った施設ってのも、言わずとも最低な最悪な場所で、まともに生きるに生きられねえ環境だったっつーわけよ、って言っても、今もそこでこいつは哀れにも暮らしてるわけなんだけどよ。なあ、そうだろ?」リーダーの猫が声を掛けると、確かに一見メガネのせいか彼らの中でも一番まともに見える姿の猫は「ああ、その通りだよ。本当に俺はイカれちまってるんだ。その場所のせいでもあるが、俺を捨てた親のせいってのが、一番でかい理由だな。それは間違いないぜ。って、それにしても、リーダーも喋り過ぎなんだよ。いくらこいつに言ってやるからって、そこまでぶっちゃける必要なんかねえだろ」と少しリーダーに向けて苛立ったように声を上げて、二、三度その腹いせにやはり猫の彼の横頬を爪の立った手の先で殴った。「そんで、さらに言えば、他の二人の奴らも大体おんなじような感じだ」リーダーはそう言って背の高いのとメガネを掛けたのの他にいる残りの二人の猫を示すと、わざとらしく、その彼等二人を憐れむような表情をつくった。「そうだ、そうだ、その通りだ」「お前みたいなやつと、同じ猫なんて呼ばれたくはねえんだよ、この、何にも知らねえ、くたびれたガキが。調子に乗るなよ。少し、良い暮らしして、いいもん食ってからって。お前に何ができるってんだよ。小児愛性癖の大人に身体を売って、金儲けすることか?それとも、万引きして宝石でも盗むつもりか?」二人の若者達は、ひたすらにそんな罵倒と殴打を繰り返して、猫の彼の身体は見る見るうちに衰弱していき、疲弊して傷だらけになっていった。「おい、何とか言えよ、このガキっ、泣けよ、ほら、叫べよ、痛えとか何とかよお、こんなことされても、泣き真似はしたくねえってか?変にカッコつけるんじゃねえ。イライラすんなあ。痛えだろって、なあ?痛くねえのか?おい、返事しろよ、何とか言えよ何とかっ、言葉も喋れなくなったってか?おい!」ついにはその罵倒に混じって、リーダーも幼い猫の彼に手を出し始める。リーダーの攻撃は周りの皆んなよりもより強い力が込められていて、流石の猫の彼も我慢に耐えきれずに、苦痛の声を叫んだ。すると、若者達の間で笑い声が一斉に盛り上がる。更にそして暴行は加速して、ついに猫の彼の防衛本能に於ける堪忍袋の尾が切れると、猫の彼は束の間、うわあああ、と思い切りに声を上げたかと思えば、次の瞬間には、リーダーの足首に必死の形相で牙を鋭く噛み付かせていた。その牙は、リーダーの足首に深く刺さり込み、リーダーの足からは出血が始まった。「痛えっ、おい、何すんだよこのガキ!痛えじゃねえか、離せっ、離せって!」悶えるリーダーの足首から流れる真っ紅な血を啜り飲むかのように、幼い猫の彼はその毛並みに牙を食い込ませる。それを見た仲間達は、次々のリーダーの足と獰猛な獣の如く牙を剥く猫の彼の口元を引き剥がそうと、殴る蹴るをやめてその引き剥がしに奮闘した。すると圧倒的人数差で、猫の彼はリーダーの足首からその口元を引き離され、息を荒げ、血の混じった糸状の唾液を垂らしたまま、ただ一心に、思っても見なかった幼子の猫の反逆に目をひん剥いて驚愕している若者達の怯える姿を、そのうちの誰を見やるでもなく睨みつけて眺めやっていた。「くそっ、なんだよこいつ、変に尖った歯なんか持ってやがって。おい、とにかく今日は逃げんぞ」「リーダー、俺に掴まれ。運んでやっから」「あーあったく、これじゃバイ菌なんか入ったら大変だぜ」「おいガキ、少しやってやったからって、いい気になんじゃねえぞ。次会ったら覚えとけよ!」そんな風に若者達は口々にあれこれ言い合うと、さっきまでの強気な威勢やら殴る蹴るの血気は何処へやらといった撤退ぶりを見せながら、そそくさと怖気付いて、地面に涙や鼻水を垂らしながら口元を血に塗れさせながら横たわっている猫の彼から急足に遠ざかって行ったのだった。そんな取り残された幼き猫の彼は、決してあの若者達に対する抵抗による勝利などの喜びは感じるところになく、それどころか、この横たわる閑散とした見ず知らずの寂しげな樹木の少ない広原の物哀しさと時折吹き流れる風の冷たさ寒さに自身の恐怖心を重ね合わせて、力なく身体を震えて、何もかもから一人きりになってしまったような果てない恐ろしさに静かに宛てもなく身や心を溺れさせるばかりだった。今も、あのリーダーの足首に噛みついた時の牙や下の感触が、彼の口ものとにはリーダーの嫌な血の味と共に残っていた。それは、猫の彼を更に哀しくさせて、怖さに怯えさせるような存在であり、彼は再び抵抗虚しく、そんな静かな恐怖心の中に心身を貶められてしまったのだった。彼はそして、今、誰か自分のことを助けに来てくれはしないのかな、と淡い期待を胸に秘め抱いていた。それは、カワウソのおばさんであったり、もしくはカワウソのおじさんだったり、空を飛んでいく見知らぬ鳥だったりカラスだったりであるのだけれど、とにかくそういうように、自分の傷つけられた鈍痛の身体を嘆きながら、あのいつかの夜におばさんやおじさんと一緒に夕食を食べた時の暖かく燃えかがやく暖炉の優しさと愛の熱に満ちた光景を思い浮かべては、生温い涙を溢した。そしてようやく猫の彼は、少し身体を立ち上げようとしたところで、急激に訪れた睡魔により、不可抗力な眠りの中へと、重い瞼と共に落ちていったのだった。そしてその時の彼の目の前に写り残っていた景色は、儚く、どこか薄暗い澄んで晴れ渡っただけれども退廃的な、無機質な水色の空だった。

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第七章

第六章

 その夜、ハルキとルカは夕食に、ハルキの獲ってきた鹿肉のステーキを食べることになった。なのだけれど、いつも通りにいい感じに焼けた肉塊に齧りつくハルキとは対照的に、ルカは一向に目の前の皿に盛り付けられた鹿肉のステーキに手をつけようとはしなかった。 「なんだよ、食わないのか?」  ルカが黙ったまま、不意義そうにステーキの乗った皿を眺めたり、また時々ハルキの旺盛な肉の咀嚼する様子をちらりと見やる動作をただ奇妙に感じながらーーとはいっても、彼女はその他に盛り付けられている野菜のサラダや以前に食べさせて貰ったコンソメ仕立てのスープ等には流石に手を付けてそれらを進んで食していたのではあるけれどもーーハルキは、自分の狩猟した肉を使った手料理が、もしかすれば彼女の興味に沿ぐわなかったのだろうか、と少し残念そうにそんなルカの佇まいに目を向けた。 「獲れたての鹿肉だぜ。新鮮だし、美味いぞ。なんてったって、街ん中で売られているヤツなんかとは全然違う、それこそ無添加無科学の自然そのままの味だからな。それに、俺の手づくりでもある」  しかし、そんな風に語ってみても、ルカはやはり一度として、その鹿肉の料理に指先ひとつでも触れようとはしなかったし、何なら、それどころか、その料理を訝しげにさえ見ているようで、どこか視界の外に敬遠したがっているような姿にも、彼女の態度は見受けられていたのだった。 「なんだよ、俺の料理が気に入らなかったってのか?」  ふん、とハルキが少し不機嫌そうに面白無さげに鼻を鳴らすと、ルカは誤解だというように首を横に大きく振った。 「じゃあ、なんで食わねえんだよ」  ハルキが食べる手を止めて、しばらくルカの反応を眺めて、彼女の表情を確かめていたのだけれども、ルカはそんな不思議そうなハルキを、やはり同じように不思議そうに、そして不可解そうに眺め返すばかりで、一向に何か答えを返す様子は見せることがなかったのだった。 「……わかったよ、そんなに食いたくねえんなら、俺に寄越せ」  ハルキがそういってルカの目の前の、彼女の分の夕飯の鹿肉の皿を自分の手元に引き寄せようとするのを、ルカは黙ったまま、他のサラダやスープをゆっくりと静かに食べ続けながら、大人しそうに見つめていた。 「せっかくの焼き立てだったのが、冷めちまうだろうが。あーあ、もったいないな、こんなに美味いってのに」  そう言っては、ハルキは自分の分のステーキをすっかり食べ終えたかと思う間際に、そのままルカの分のステーキにもかぶり付き始め、その肉塊の肉質と脂を愉しみ続けていた。 「それにしても、お前ってやつは、やっぱり変な人間だよな。今日の朝には、あんなに喜んで魚とかすごい食ってたってのにさ、鹿の肉は食べたくねえときやがる」  獣臭いからか?とハルキが尋ねてみたが、ルカは何も表情を変えずに、首を小さく振るだけで、ただ淡々と手元に残ったサラダの皿とスープの容器を空にすべく、黙々と細かい動きでそれらを食べ進めていった。  それからは、ハルキは特にそれ以上にルカに何かを質問を尋ねることはなく、二人はゆっくりとーー主にルカの方がーー閑静なリビングの食卓の中で、束の間の夕食を各々の佇まいでもって、愉しみながら、また恐らくはは感情に浸りながら、更けていく冬の景色と暖炉の熱灯りの囲いの中で過ごしていったのだった。  夕食を済ませた後、ハルキとルカの二人はーー誘いを入れたのは、ルカの方だったのだけれどーーソファに横並びになり、テレビの明かりへと目をやって、電灯を消したリビングの薄暗闇に光る画面の中に意識を向けた。暖炉の炎の紅い灯りだけが、部屋の唯一の照明的な役割を主に担っていた。  テレビで放映されていたのは、とあるウサギの男の子が主人公の、子ども向けのアニメーション作品だった。ルカによれば、かつてこの国内に逃げてくる以前の、彼女の生まれ故郷であるーーそれは今となっては、彼女にとって忌まわしい、憎恨を募るべく場所に成り果てているのかもしれないけれどーーアグラーレルで過ごした幼少期に、彼女が両親と一緒に観ていたという番組らしく、今もまだシリーズ放映が続いているのを知ったルカは、大変に嬉々としてハルキにすぐさま頼んで放映の時間にかかる番組を見せてくれるようにしてもらったのだった。一方でハルキはといえば、彼にとってはそのアニメはいかにも子どもっぽいもの然とのみにしか感じられず、故に観るのを幾らか拒み、それは果たして彼の覚えるところの気恥ずかしさからであったのだけれど、なんでそんなくだらない番組なんか観たいんだよ、と初めのうちこそルカに対抗したほどであった。なのだけれども、結局はルカの懇願とその一向に引けを取らない、彼女のまさに子どもっぽい部分である我儘さ所以の、強請り表情(がお)の圧迫感と気力に打ち負けて、ハルキは溜め息を吐きながらも、ったくわかったよ、とテレビのチャンネルをそのウサギのアニメーションの放送局へと合わせたのだった。  番組が始まると、ルカは少々座っているソファから身を乗り出し気味にして、画面に視線を投げる。誰がどう見ても楽しそうな様子であるその彼女の姿を見て、ハルキはさっき食べた鹿肉ステーキやらなんやらの消化作用における睡眠欲の誘い気に怠さを覚えてはいたものの、やはり彼女の少女らしげな純粋性を垣間見て、自分の狭い心が広くなる予感を感じていた。  アニメーションのタイトルは、『リリー・ラビット』というもので、主人公であるウサギの男の子のリリーが、毎週流れる各々の放送回の中で、さまざまな自身に降りかかる課題の解決や、出会う人々(ここでいう人々とは、いわゆる動物達のこと)との問題共有によるコミュニケーションを行なっていくことで、またそれにともなう旅路や課題解決の糸口を見つけ出すべく彼リリーが時に知らない場所であったりという不可解で故に危険な性(さが)を持つ冒険の一途を辿ってゆき、その中で新しい価値観や生き方を見出していって、自分自身を肯定して成長させていくといった、子ども向けのアニメ作品にしては、かなりメッセージ性の篭もった作品なのではあるけれども、然しながら、そういう作品でこそ社会という続き地ーーその地上世界において、かかる社会の来る未来の行方を担ってゆく最重要的な存在であるに相違ない、子ども達の心身に対してーーに降り立つ上での人間達の思想理念、明日を生くべく哲学それらのの形成に役立てると言えるのでもあり、それ故に、果たしてただの一子ども向けエンターテイメント作品として消化できる代物でないことも、ルカは無意識的に、無自覚的にその心底心理に溶け込ませて、浸透させていたのであった。  さて、今回の『リリー・ラビット』の物語は、新たに彼リリーの家庭で生まれた、妹のために、リリーがおつかいに出かけるという筋書きだった。リリーには、母親が一人と、三つ年下の弟のルミダがいて、かつては三人家族で暮らしていた。父親は数年前に高熱の病気で死んでしまい、そのためにリリーの母ウサギが彼と弟ルミダをシングルマザーとして育てて生活を営んでいるというわけであった。そんなリリーも今は十七歳になり、すっかり大人びた雰囲気を漂わせて佇む、立派な好青年のウサギに成長していた。そして数ヶ月前からアルバイトも始めていて、リリーは週に何日間かは、新聞配達やら牛乳配達やら、とにかく配達系のアルバイトに出かけて、母ウサギとルミダのための、少しばかりではあるかもしれないけども生活費をなんとか稼ごうと頑張って日々を過ごしていたのだった。  そんなある日、先述したように、リリーの元には、新たな生命が芽生えた。それはルミダよりもさらに二つ年下の、妹ウサギだった。彼女の名前はビビと名付けられ、生後数ヶ月と経つにつれて、リリーやルミダのはっきりとした焦げ茶色の羽毛とは少し変わって、仄かに白みのある耳先や尻尾を持った雌兎(めうさぎ)に成長したのであった。話はビビの生まれ当時に至り、当然のように、ビビが生まれたその日、母ウサギは出産による過酷な体力消費消耗の中でもそのビビの身体のかけがえのない愛おしさとが弱さを兼ねるまだ産毛すら生え揃ってはいない姿をこればかりと抱きしめ寄せて、感動に涙を溢れさせて、新たな出会いに喜びを押し隠すことなく開け放つように喜びという喜びを露わにしたのだった。そしてそれはリリーもルミダも同じで、彼らもいち兄弟の身として、母ウサギに引けを取らないといった面持ちや心構えでその妹の出産を祝いあげて、彼女がまだ母ウサギの胎内に宿っているままだった頃からまさにその生まれ姿を現した今の瞬間に至るまでの不安や期待や切望を全て吐き出した感涙を見せながら、母ウサギの抱きしめるビビの幼い赤子の身体を順番にその手のひらに肌身で感じて、各々の中にそれを一心同体化しようとするようにやはり同じように優しく抱き寄せて眺めやって過ごしたのであった。  そんなビビも、早いものでそれから三年が経ち、すっかり毛並みも生えそろい始め、まだ当然大人びてはいないものの、いずれ生物的に訪れるそのお淑やかさを予感させる眼差しや風貌を手に入れて、現在ではもはや一端の淡麗な少女の出立ちをしていた。  そんな妹ビビのために、リリーはある日にお使いへと出かけることになったのだった。それは母ウサギに、ビビのための需品一式を揃えて買ってきて欲しいという頼みを受けたからでもあったのだけれど、それとは確かに別に、彼リリーの中では、自分自身の力で何か、実妹であるビビのために贈り物をしてあげたいという強い考えが浮かんでいたからでもあった。リリーは母からの頼みの買い物のほかに、自分の貯めたアルバイト代でビビのためのプレゼントを買ってあげようと思って、意気揚々と贈与欲に駆られて、目的の店達のある、彼の住む家のある山を降りた先に広がる街中の通りへと走り出していった。そう、リリーは街の上の、大きな山中の丘地にある家に住んでいるウサギだった。  そして、リリーが街へと駆け走り下りて行くその姿の映像とともに、画面には『リリー・ラビット』というアニメーションのタイトルと、明るく、甘美的なそれでいてどこか物悲しさも同時に兼ね備えている、僅かに哀愁の漂い感じさせるオープニングの楽曲が流れ始めた。それはストリングスを主に使い、その音色を主旋律とした、オーケストラチックな音楽であるものの、ガットギターやパーカッションの音を含んでいるせいか、どこかにジャズテイストな音色を耳に届かせるものも伴っていたのだった。ハルキは、その映像を一心に真面目に見つめ続けているルカを横目に、子ども向け番組にしては、なかなかいい曲だな、と頬杖をつきながらも、半ば感心してその音楽と映像を彼女と一緒に眺めて、彼なりに愉しんでいた。  リリーは街へと降りると、まず最初に食料品を買いに青果店へと向かった。その成果店はリリーの行きつけの店で、店番をよくやっているカピバラのおじさんとは、母ウサギともども仲良しでいて、その日に採れたてのおすすめの野菜や果物や、旬の食材などをよく選んでもらって、たまに安く買わせてもらったりなどしている店だった。  リリーはそこで葡萄を一房と、りんごを四つと、それからトマトと玉ねぎを六個ずつ、キャベツを一玉買った。葡萄とりんごは、母ウサギにジュースやスムージーをつくってもらう為のもので、トマトと玉ねぎとキャベツの方は、サラダやスープ料理の具材に使うためのものだった。 「今日もたくさん買ってくれて、ありがとうな」 「うん、おじさんこそ、いつも美味しいもの売ってくれて、助かるよ」  そんなふうに微笑ましく挨拶を交わすと、リリーはカピバラのおじさんと別れて、青果店を後にした。ハルキは、そのシーンを観ていた時、ふと、脳内にあの、自分が時々動物の骨を持って行ってあげている、骨製の陶芸品をつくる老人の彼の姿を思い浮かべたのだけれど、すぐにただの偶然だろうな、と自分と彼リリーが似ているような感じがしたのをそれ以上は気に留めなかった。しかし、リリーが街を見下ろすほどの、山中の丘地に住んでいる、という設定だけは、アニメが始まって以降、ハルキの脳内に立ち留まって離れずにいたのだった。ハルキは何度かルカのそのテレビの光る画面に食い入るように眼差しを向けている、子ども然とした愛らしさに目を向けながらも、何かを話しかけることもなくリリー・ラビットを見続けた。  青果店の次にリリーが寄ったのは、ビビの衣服を買うための衣類店だった。そこの店番は、アライグマのおばさんが営んでいて、彼女は、ビビが生まれた時にも一番最初に挨拶や祝儀の贈り物を届けに来てくれたひとであり、かの如く心優しい、とても穏やかで情愛的な存在だった。 「あら、リリーちゃん、今日はどうしたの?」 「こんにちは、おばさん。母さんに頼まれて、ビビの新しい服を買いに来たんです。桃色のワンピースが欲しいみたいで」 「まあ、そうなの。相変わらず偉いわねえ。本当にすっかりお兄ちゃんになっちゃって。それで、ビビちゃんは、ずいぶん大きくなったのかしら?」  嬉しげに尋ねるアライグマのおばさんに、リリーはええ、おかげさまで、ちゃんと元気に育ってますよ、と微笑んで答える。 「それは良かったわ。これからも、新しい家族と仲良くね」  そんないつものように和やかな挨拶を交わした後で、リリーは母に頼まれた通りの、妹の背丈に合った桃色のワンピースを購入すると、アライグマのおばさんに、お邪魔しました、また来ます、と言って店を出た。気をつけてね、とおばさんが手を振って彼を見送った。  これにて、リリーが今日にお使いを依頼された需品は全て買い揃え終えたのだけれど、リリーはふと、まだいつもの昼食までには時間があるのを確認してから、せっかくだからと思い、少し遠出をしてみることに決めた。それは、彼の中に秘めたる生まれながらの冒険心的な欲求に駆られたものでもあるけれども、初めに言ったように、ビビに何か自分からもプレゼントをしたいと思い、そのプレゼントを遠出先で見つけたい、と考えたからであった。リリーはそして、街通りを離れた向こうの、半ば野原のようになった海沿いの通りを目指すことにした。その場所は実はリリーが一度も訪れた場所ではなかったのだけれど、その未知に対する好奇心が、彼を更に自発的にさせたのであった。  広野と海沿いの通りに出る少し前のところで、リリーはとある同じウサギの少女と出会した。彼女はチェリーといい、リリーの幼馴染の、黒い毛を持つウサギの子だった。 「あら、リリー、どこに行くの?」 「実は、ちょっとこの先の、野原に行くところなんだ」  リリーがそう言うと、何故かチェリーは少し不安げな表情を見せた。どうしたの?とリリーは尋ねる。 「ううん、別に、なんでもないけれど、ただ、なんか心配になって。この先って、結構変な、良くない噂とか聞くから。ほら、危険な感じがするっていうか」 「何言ってるんだよ、チェリー。君は少し心配しすぎだと思うな。僕はそんな噂、ちっともきい覚えないけれど」  リリーはそういうと、彼の持ち前である何事にも深い疑心を抱かないその性格から、楽天的に笑った。チェリーの顔はやはり曇り気味になる。 「そう、なら、いいんだけど。でも、私リリーのこと、心配なのよ。いっつもそうやって、危ない目に遭ってるでしょ?」 「そうかなあ?」 「そうよ、だから、行くのはいいんだけれどね。……とにかく、気をつけてね」  チェリーのその意味深げな表情を不思議そうに見つめて、リリーはうん、もちろんわかってるよ、とまた笑って、じゃあね、と手を振ると、去り際まで不安気な顔を戻すことのないチェリーと別れて、その場を後に見知らぬ新しい通りへと意気揚々と向かったのだった。  チェリーは果たして、何をあんなに不安に思っていたんだろう?とリリーはどこか彼女の反応に心残りを感じながらも、目的地へと歩き続ける。その場所には、ビビにプレゼントするにふさわしい、特別綺麗で珍しい花が咲いているというような噂をどこかで聞いたことがあったため、それが本当かを確かめるついでに、もしも本当であれば、その一輪か二輪を摘み取って持って帰ってあげたいとリリーは浮き足立たせていったのだった。  そこで番組は一旦CMに突入して、ハルキは一切の動作を見せぬままにそのCMでさえも待ち遠しく凝視しているルカの後ろ姿を見やりながら、トイレへと向かった。そのルカの姿は、もしかすれば、瞬きすらしていないのではないかと思うほどの食い入り気味なものに見えて、ハルキは女の子っていうものは本当に全く分からないもんだな、と思ってリビングを後にした。

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第六章

第五章

「それで、お前の名前はなんていうんだ?」  ハルキは、少女の目の前に差し出したメモ用紙と彼女の表情を見比べて尋ねる。少女は質問を受け取ると、手に取ったボールペンでゆっくりと奇しくもその身体に似つかわしいか細げな文体で、ルカ、と用紙に記入した。 「ルカ、か……」  その少女の記した名前の文字列をしばらく眺めてから、ハルキは小さく呟いた。そして、とてもいい名前だな、と彼は思った。  ハルキは今しがたにその暖炉に焚べるための薪を割る作業を終えたばかりのところで、家の中に戻ると、すぐさまに少女のもとへ向かい、椅子に腰掛けると、なあ、と質問をした。ハルキは少女に名前を尋ねたのだけど、少女はただ困惑するばかりに首を傾げたり、うろうろと何かを探すように周りを落ち着かなく見回したりするに留まり、やはり何か返事を返すような素振りは見せなかった。ハルキはそんな彼女の仕草をしばらく見つめてから、もしかしたら、と思った。もしかしたら、彼女は言葉を話すことができないのかもしれない、とハルキはほとんど確信に近い思いを浮かべた。何故なら、その少女の狼狽えかたは、口下手な人がどうやって返事を返すべきか迷っているという様子ではなく、声自体の発し方がわからない人間が、どんな手段で答えを渡そうと思案しているものの動きに見えてからだった。ハルキはそして、彼女と朝食を共にした時に感じ得ていた違和感の正体を、ようやく理解することができたような気分になった。  ハルキはちょっと待ってな、と言い残すと何か書けるものをとメモ用紙とボールペンを持ってきて、少女に手渡した。これに返事の言葉とか、言いたいことがあったら書いてくれればいいから、とハルキは告げて、再び少女に質問を繰り返した。 「年齢(とし)は幾つなんだ?」  すると、ルカ、という名前のその少女は次に、自分の名前の横に、十九歳、と数字で記入した。 「十九か。それじゃ、俺より三つ下だな」  ハルキはやっぱり、と頷いた。彼は少女ーールカを拾ってきた夜に彼女の容姿を確かめた時から、その年齢が十八か十九くらいで間違いないだろうと半ば確信していたため、その勘はまさしく当たっていたのだった。 「お前は、言葉が話せないのか?」  その質問には、ルカは何かを書き記すことなく、ただ静かに大きく頷いた。 「本当に話せないのか?少しも?」  ハルキが聞くと、ルカは再び二、三度頷きを見せる。そうか、とハルキは少しだけ申し訳なさそうに、わかった、と呟いた。 「それじゃあ、最後の質問、聞いてもいいか?」  ハルキが少し慎重に尋ねると、ルカは、こくり、と同じような温度で頷いた。 「……お前、ーールカは、昨日の夜、あの街ん中で倒れて眠ってただろ?」  ルカは昨夜の地震に降り掛かった、けれども恐らくは半ば身に覚えではないだろうその記憶を、彼女なりに思い出して、頷く。 「なんで、あんな場所で、倒れていたんだ?」  ハルキは、少し息を呑んで尋ねた。これが、一番彼にとっては重要で、昨夜中から強い関心に駆られていた質問だった。するとハルカは、束の間ボールペンで記す動きを止めて、しばらく紙面と向き合っていた。今度こそ彼女は、どうやって答えを書き記したものかを流石に考えあぐねている様子だった。ハルキはしかし決してそれを急かしたりはせずに、黙って静かに、ルカの書き文字の返事を待った。二人の隣横では、新たに薪を焚べた暖炉の中で、紅みや煌めきを増した炎が一層強く燃えて、ぱちぱちと優しくリビングを包む音を立てて彼らを見守っていた。 「……もし、どうしても、言いたくないってんなら、答えなくてもいいからな」  そん時は、首横に振ってくれ、とハルキは加えた。彼自身は、もちろんルカの昨夜の街の路中に寝転ぶ姿のその要因を知りたいところではあったけれど、それがどうしても彼女にとって説明し難いものであるなら、それを強い尋ねて聞き出すのは、ハルキにとっても本意ではなく、むしろ胸が痛むものに過ぎなかった。それを無理に聞いて、ルカ自身が精神を病調に陥れてしまったり、また、何かの後悔に耽るような事態になってしまうなら、それこそ、ルカを助けて家に保護したハルキの一連の行動がこの上なく無駄に成り果ててしまうことに他ならないからであった。そんな心構えを踏まえて、ハルキはもう一度、ルカに同じ質問を尋ねた。 「ルカはなんで、あんな場所で、倒れていたんだ?」  それから、また、やはりしばらくの沈黙の間があった。さっきと同じように、二人の見つめ合う間隔を、ぱちぱちと音を立てて燃える暖炉の炎が静かに、それでいてどこか頼りなげに埋めようとしている。 「…………」  するとルカは、急に何かを思い立ったように再びボールペンを手に掴むと、テーブル上の名前と年齢を書き記したメモ用紙を裏返しにして、何かを新しく無心に書き出し始めた。ハルキは、その彼女の様子を、黙ったまま、じっと眺める。しかし、ルカがその答えを書き終えるのに、そんなに時間は要さなかった。  ルカは、その書き終えたメモ用紙の返答を見せるべく、用紙を指先でハルキの方へと押しやった。ハルキはその用紙に視線を落として、その答えを目にするなり、用紙を掴み上げて、じっくりと瞳(め)つきを凝らした。  そこに書かれていたのは、こういう文章だった。 『追われていたの、ひどい奴等に』 「……その、ひどい奴等ってのは、一体どんな奴等なんだ?」  ハルキは気付けば思わず、そんな事をルカに尋ねていた。この際であるから、気になることは幾つか尋ねておきたいと思ったのだった。  ルカはそこで、再びまた沈黙を見せた。今度ばかりは、どうやって説明を付け加えるべきか、ひと回り悩んでいるように見えた。  そんな彼女の様子を見ていた時、ハルキはまた、あの今朝の半ば、悪夢と言っていいような夢の一様を思い出して、ーーまるで束の間のフラッシュバックみたいにーーその夢に出てきたルカの姿と、今目の前に座って大人しく、虫も殺さぬ和穏(おだ)やかな顔をしているルカの姿を投影、照らし合わせて、少しの間に見比べてみた。そしてそのことを、ルカに伝えた。 「俺、眠ってる時に変な夢見たんだけどさ、それに、お前の姿が出てきたんだ」  ハルキが言うと、ルカは彼の顔をじっと見る。 「そこだと、お前がさっき言った通り、お前は何者かに追いかけられて、切羽詰まったみたいに必死に逃げてたんだよな。まるでそれこそ、誰かにーー」  ハルキはそこで一度、言葉を途切らせた。 「ーー……誰かに、殺されかけてでもいるかのように」  ハルキはそう言ってしまった後で、呑み込まれかけている、と言い換えた方がよかっただろうか、とふと悔やんだが、ルカの方も、そのところはそれほど気にしてないばかりか、むしろそのハルキの言い方に納得すら覚えているような印象と態度を見せたのだった。 「それで、その、お前のことを、夢の中で追いかけてた奴等なんだけど」  ハルキはそう言うと、少しまた口篭もった。夢の中でルカを追いかけていた奴等の事をーーそれは確かに、言葉には一概に言い表すには幾らか難儀を要するような、抽象的な黒い影の靄がかったものとしか今は言い得られない姿のものに違いなかったーー一体なんと自分の口から説明すべきかを、一瞬、迷ったのだった。  しかし、ルカの方はルカの方で、やはりそのハルキの口から、どんな言葉が吐き出されるのかが気になっている様子だった。彼女は依然として、これの発する言葉を待っていて、彼の顔をいつまでも見つめて眺め続けている。 「……そうだな」  そんなルカの視線に耐えられなかったわけでも、その静かな無言の圧迫に負けたわけでもなかったけれど、ハルキはやはり、自分の見た通りに、正直にそのまま打ち明けて話すことにした。 「黒い、なんというか、影、みたいな奴等だった。そんな風に言われても、ルカはピンとこないかも知れないけど、俺からは、そんな感じにしか言えないんだ。そんでお前は、とにかく、そんな奴等に追いかけまわされていた、ってわけなんだ」  ハルキがそこまで一気に喋り終えると、ルカは相変わらずの落ち着きを払った表情で、ハルキの顔を小さく瞬きをしながら見ていた。彼女の顔には、ハルキのその話を不思議そうに聞いている節みたいなものが感じられてはいたけれど、だけどもどこかその不思議に対して、彼女なりの理解を示しているようにも、同じく感じられていたのだった。 「……どうだ、何か、当て嵌まってたりしたか?俺の話、って言うか、夢なんだけど」  ハルキが思わず言うと、ルカは頷いたり、首を振ったりはせずに、僅かに顔を俯かせて、何かを再び思い出すような表情や動作を見せた。ハルキは、しばらくその様子を見たあとで、ルカに真偽の示し合わせをするべく、何度か質問を繰り返した。 「まさかとは思うけど、そいつらは、影、とか、霧とか靄とかじゃあ、ないよな?」  ルカは、大きく頷く。 「じゃあ、やっぱり、そいつらは人間か?」  ルカはまた、大きくこくりと頷くと、その彼女でいうところの、恐らくは彼女の身にとって、畏怖の対象物であり、それ故に只者ではないであろう追手である人間の顔や姿を不意に思い出してしまったのか、苦虫を噛み潰したような表情を微かに見せた。 「……まあ、嫌だとは思うんだけどさ、もしよかったら、そいつらが誰なのか、どんな人間なのか、俺に教えてくれないか?」  ハルキはルカの引け目な様子に少しためらったのちに、落ち着いてゆっくりと、その質問をルカに尋ねた。しかし第一、今ここでハルキがルカのいかなる答えを聞いて受け取ったところで、彼が彼女に対してできることなど、たかが知れているに違いないのだけれど、それでもハルキは、せっかくこうして奇しくもルカという名前の彼女に出会って、その彼女を家に連れて来たからには、その彼女の、きっと哀しくて、後悔に満ちた過去の鬱屈とした感情やトラウマを共有して、僅かばかりであっても、ルカの手助けになれるような手立てを思案してあげたい、と彼女のどことなく危うげな、それに伴うように、刹那的な生気を含むように見える表情を眺めながら、思っていたのだった。  そして、今度は幾らか、その返事を文字に書き辛そうな様子を見せてから、ルカはメモ用紙の空いているところに答えを記した。  そこには、こう書かれていた。 『アグラーレルのやつら』  ハルキはその答えを見て、脳裏にひとつの、とある映像もしくは光景が浮かんでくるのを覚えた。それは、そこに映ったのは、いつかのテレビのニュース番組で観た、両耳を塞ぎたくなるような頻度でもってしつこいぐらいに毎日のように報道されている、ある海域を経た島国の国名と、そこに暮らし住み着いている人間達の、老若男女不特定多数の姿だった。アグラーレル、とハルキは胸の中でその名前を反芻させる。その島国の名前は、もといそこで暮らしている人間達というのは、今しがたに現代社会そして主に亜細亜(アジア)圏内諸国から成る世界の一端を、彼の想像しうる範疇(はんちゅう)を遥かに超えているだろう巨大な烈火や不穏の波渦、そして時に無慈悲な死者の増産的戦場の闇でもって取り囲み、否、呑み込んでいる、まさにその世界的な戦争とも呼べる情勢を語るうえで、真っ先に思い浮かぶであろう、それに最重要な固有名詞であるだろう、あの異国民を総称するものであるに相違なかった。  そこまで想像を一人巡らせたときに、ふと、ハルキは嫌な推察ーーというよりは、嫌な予感、と表現するのが合っているのかもしれないーーをその脳裏に思い浮かべてしまった。しかし、それを深く自問自答に至らせる前に、とりあえずは、ルカにもう少しさらに詳しい答えを聞き出すことにした。 「それで、その、アグラーレルの奴等が、お前を追っている理由ってのは、なんなんだ?ルカは知ってるのか?」  すると、ルカはこくり、と確信して頷くと、ハルキに新しいメモ用紙はないかと要請する動作を示して、彼にもう一枚の用紙を持って来させた。  ルカは今度は、じっくりとその答えを書き出している様子であり、何度かはじめに書いた言葉遣いの文字を二重線で消したりなんかして、ようやく答えを書き終えると、ハルキの前で広げてそれを見せやった。 『アグラーレルの奴等は、私の父さんと母さんを殺したの。私は、あいつらに迫害されていて、差別を受けていたんだけれど、ーー私の父さんは日本人で、母さんがアグラーレル人なんだ。つまり、私は日本とアグラーレルの混血人種っていうこと。それで、そういう混血の人間を忌み嫌うアグラーレルの奴等が、かく果てに両親を殺して、私のことを甚振(いたぶ)りはじめたってわけーーとうとう我慢できなくなって、この日本にーーっていっても、私が生まれたのはあっちの国(アグラーレル)だから、別になんの思い出ももちろんないんだけど、でも他に逃げられるような場所なんて思いつかなかったからーー逃げてきたっていうことなんだ。それで』  すると、ルカはもう一度用紙に向き直って、その続きを書き足した。 『道端で倒れていたら、あなたに助けられた、っていうわけ』 「…………」  ハルキは、そんなルカの長文の回答を静かに読みながら、しばらくなんと言葉にすべきか、じっくりと考えていた。その答えから察するに、ルカの今まで送ってきた人生、その実態というのは、言うまでもなく過酷なものであるに違いないのである。そんな彼女に、まだ出会って二日と経たない、況してや尤も親身でもない自分が、一体どんな言葉をかけられるのだというのだろう。  そんなハルキの様子を、ルカもまた、同じように静かにじっくりと眺めて、見つめていた。 「……ルカ」  ハルキは一度暖炉の方へと目をやると、深呼吸をして、彼女の名前を呼んだ。 「もし、よければだけどさ、しばらく、俺と一緒に」  それからルカの顔を向いて、言った。 「……この家に、二人で暮らしてみないか?」  そのハルキの答えを聞いた後で、ルカはやはり同じく隣横で煌々と暖かく燃える暖炉を一度見やると、ハルキの顔に視線を戻して、大きく、そしてまるで嬉しそうな笑みを含ませながら、首を頷かせた。  暖炉の中の炎は、ぱちぱちと優しい音を立てながら、その響きと温度で、リビングと二人の存在を抱擁していた。

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第五章

第四章

 少女を拾って家に連れ帰ってきたその夜、ハルキは夢を見た。それはとても不思議で、今度は前に見たものよりも、より不可解な夢だった。  夢の中には、ハルキは登場せずに、彼の拾ってきた少女の姿だけが映っている。少女は、何かからひたすらに逃げるように走り続けていた。背後に迫り来る、何か、とてつもなく恐ろしいものの存在から。それが一体どういうもので、その正体がなんであるかは、夢の一部始終を描き辿ってみても、ハルキにはほとんど理解や推察することはできなかった。なぜなら、その少女が逃げ続けている対象である恐ろしい存在は、彼の夢の中では、ただの黒い霧靄、もしくは、大小姿形の様々な言葉ではどういう風にも表現をするのが難しいというべき黒い影達という姿や気配でしか登場し得ずにいたからであり、そこからその霧靄もとい影達の正体を、夢を遡って見破るのは非常に困難だった。然らば、夢は謎に包まれたまま、一向の答えを示すことなく、ハルキの目覚めとともに去っていったのであった。  ハルキは、重い目を開けて、その目を覚ました。眠りの残滓(ざんし)は深い眠気となって彼の頭を暮夜けさせて、大きな欠伸をさせた。リビングの窓の外に見える景色は、まだ仄かに薄暗さを含んでいて、夜明けの早朝の色彩を示すとともに、今のハルキの寝起きの暮夜けた意識のような、夜の残滓をまだ空に含んでいて、溶け混ざりきらない月夜と旭の明るみを徐々に照らし合わせていっているように眺められた。それから、昨夜にーー恐らくは、一晩中続いていたことだろうーー降り吹き荒んでいた吹雪は、いつの間にかすっかり止んでいて、晴れた景色は、新しい一日の幕開けを合図していた。  ハルキはようやく目をすっかり覚ますと、背伸びをしながら、ロッキンチェアを降りた。時計を確かめると、時刻はまだ朝の六時半だった。ハルキがいつも起きるのは七時頃であり、少し早いくらいの時間帯だった。ハルキは、隣横でまだ暖炉が燃えているのを確かめると、その炎の燃え具合を確かめた。山のように焚べた薪も、一晩のうちにほとんどが灰と化していて、あと数時間で全部燃え尽きてしまうだろうというように見えた。ハルキはとりあえず、ソファでまだ目を覚ましそうにない、穏やかな寝顔の少女の眠る姿を一目見やると、暖炉へ焚べる薪の準備や、それから今日の狩猟に取り掛かるべく、早速コートを羽織り、ライフルを背負って、外へと出掛けることにした。  屋外の温度は、相変わらずの肌寒さで、吐く息は白く、昨日よりも冷たさを増しているようにさえ思えた。ハルキはしかしそれでも今や慣れたその温度に身を包み、昨日の疲れと眠気がまだ幾らか残っている足取りで、雪の積もる山道へと登っていった。  今朝の山は、いつもよりも静かに感じられた。というのは、抽象的な意味でなく、具体的な意味で。普段なら、もう少し微風や、それによる葉揺れの音や、また森林中に住んでいる動物達の鳴き声や足音が聞こえてくるのであるけど、その何れもが、今朝に限ってはハルキの耳元に届くことはないように思えた。そして実際、そんな音達は山には訪れなかった。もう、既に彼等は冬眠に入ってしまったのだろうか、とハルキは思った。兎や栗鼠どころか、空を飛ぶ鳥の姿すら見えない。どうしようか、とハルキは背中に寂しげに鉄の冷たさを含むライフルの存在を感じながら、ひたすらに視線の先に歩みを進めていった。彼の地面の雪や枯れ草を踏む音だけが、今森の中には響いていた。  ハルキは、せめて、一、二匹くらいの、狸か狐でも居ないだろうか、と辺りを見まわした。それらのどっちかの毛皮さえあれば、セーターが寝巻きのひとつくらい作れるだろうと頭に狩り獲った狸や狐の姿を思い浮かべる。ハルキは、その毛皮製のセーターか寝巻きを、あの少女にプレゼントしてあげようと考えていた。そして、無意識にそんな提案を考えている自分に気付くと、ハルキは、何を柄にもないことを、と自分のアイデアを自嘲気味に小さく笑った。自分が、誰かに好かれる存在だとは、とても思えない。自分はそんな人間ではない。況してや、あんな可愛らしい少女に好意を持たれることなどは、間違っても有りはしないだろう。ハルキはそんな風に自身を評価すると、それでも、と息を吐き、山を進んだ。それでも、彼女を拾ってきたからには、俺は彼女のために何かをしてあげなければいけないんだ。ハルキはそんな彼自身の責任感に意識を向けて、再び閑散とした森林の奥地へと獲物の姿を探しに入り進んでいった。  それから小一時間ばかり、宛てのない獲物を探し続けていたハルキだったけれど、やがて全く生き物の気配が感じられず、半ば狩猟を諦めかけていたところで、今朝にみた、あの少女が何かから逃げ出している夢の光景を退屈しのぎに思い起こしていた。  夢の中では、同じく言うようにハルキが拾った少女が、何かの霧靄か影の形をした黒い存在から、必死に逃げ走っている。少女は、背後に迫るその影達に、初めてみるような驚嘆や畏怖の表情は見せずに、半ば淡々と、自分の足を駆け出すことだけに意識を向けるように、目の前を睨みつけていた。まるで、襲いかかってくる者達の正体を既に明らかに知っているかのように。少女の服装は、今彼女が身につけているような薄着のものと同じかどうかは判断できなかったけど、薄暮夜けに記憶を浮かべてみると、彼女は、もう少し厚手の衣服を身につけていたような気がした。しかし、それはハルキにとっては何ら気にするべきことではなく、彼が今気にすべきことは、その少女が逃げ続ける夢の意味するところが、果たしてどう言うものであるのか、そして、自分はこの時間帯に、山に潜む狸狐を探し当てて捕まえることができるのだろうか、という、その二点だった。だけど、少女の夢に於いては、ハルキにしてみれば他人事であり、推察の余地を遥かに越えていたために、当然その答えに辿り着くことなどは無理な事だと言えた。それからハルキは気を取り直して、夢の思い返しを停止すると、再び山中の狩猟のための探索に意識を集中させた。  それから更に小一時間ほど探索を進めたのだけれど、やはり一向に動物達の気配を見つけることはできずに、ハルキは仕方なく今朝方の狩猟を断念した。どうやら、もう既に動物達はそのほとんどが冬眠に入って、人間の踏み入られる範囲にない緑奥地へと姿身を隠してしまったようだった。しかし、ハルキはこんな不猟を経験するのは、当然初めてのことではないのだけど、今日ばかりは、いささか悔しさが募った。それは、言い述べることあの少女の存在が要因にあり、彼女に何か獲物を持って帰って、それから作る手芸品をプレゼントしたいと考えていたことや、また、彼女に自分の長年腕にしている過酷な仕事の一様を見せてあげたいというハルキの、いかにも男としての見栄らしい願望が、儚くも散り去っていってしまったからに他ならなかった。ハルキは、何を呟き言うでもなく、ただはあっ、と何度かばかり溜め息を繰り返して、とぼとぼと情けないような足取りで風のない山道を一人下っていった。  家に戻り、リビングに向かうと、少女は既に目を覚ましており、ソファの上にブランケットを手放し惜しそうに肩まで覆わせながら、一向に弱々しくなっている暖炉の炎に身を委ねて、ぼうっとようやく始めてはっきりとその目にする、彼女の知らない部屋を眺めまわしていた。 「なんだ、もう起きてたのか」  とはいっても、ハルキは時計を見て時間が既に、彼が家を出た頃から二時間ばかり過ぎていて、幾ら深く眠る少女出会っても、目を覚ますには丁度な頃合いといえた。ハルキはそれを確かめると、どれほどに自分が我を忘れて宛てもない一人仕事に没頭していたのかが窺えて、そんな自分にやれやれ、と呆れてライフルを片付けてコートを脱ぐと、大きく背伸びをした。 「何か、食べるか?」  ハルキが尋ねると、少女は少し戸惑った様子を見せたが、やがて小さく頷いた。 「だよな、そりゃ腹も減ってるよな。よし、それじゃあすぐに何か作るから、待ってろよ」  そう言うとハルキはすぐさまにキッチンへと向かった。  ハルキはそしていつものように、遅めの自分の朝食を作るとともに、家に連れ入れた少女のものも、一緒に準備をすることにした。ハルキは冷蔵庫から取り出した二匹の生魚を慣れた手つきですぐに捌き終えると、フライパンを火にかけて、二匹の魚を塩焼きにして焼き始めた。この魚は、サーモンのようでもあり、ツナのようでもある、近年の海で繁殖し始めた、今や大漁に捕獲されている魚だった。ハルキは肉を食べる時以外は、よくこの魚を塩焼きやバターソテーにして食べていた。 「よう、朝飯の魚なんだけど、今日は塩焼きでいいか?」  ハルキは焼き始めたのにも関わらず、リビングの少女の元に行って尋ねる。少女は、暖炉の上に飾ってあった、ロバと犬と猫と鶏のブレーメンの音楽隊の人形のうちの猫の人形をとって、眺めていた。 「それとも、バターソテーの方がいいか?」  再び問いかけると、少女はまるでどっちでもいい、というような表情と首の動きで、顔をハルキの方に向けた。ハルキには、その彼女が言葉を発することなく返事を見せたのが異様に不思議がって思えたが、特に何か更に尋ねることもなく、じゃあ塩焼きでいいな、とだけ言い残すと、またキッチンへと戻り、魚の調理に取り掛かった。  大体火が通り魚が焼けたところで、ハルキは昨日の残りの鍋に入った野菜スープを別皿に分けると、それらとパンを一切れずつ二人分のトレーに乗せて、リビングへと戻った。少女は人形で遊ぶのをやめて、少しだけ残る眠気に身を委ねるように、何をするでもなくただソファに寝そべっていた。 「ほら、朝飯できたぞ」  ハルキは二人分のトレーをテーブルの上に置いて、少女の意識を向けさせる。少女は声に反応すると、すぐにテーブルに用意された朝食に目をやった。そしてそこにある料理達をじっくり確かめるように両目を動かした。 「お前、きっとここしばらく何も食べてないんじゃないか?」  ハルキはそう言って、ロッキンチェアとは別の椅子に腰掛ける。二人分のスプーンとフォークを準備して、少女のその料理に目を輝かせる様子を見て、彼女の今にも腹の虫音を聞かせんばかりの動揺に気づくと、ハルキはどこかそんな彼女を哀れげにも、大して愛おしげにも感じるように眺めた。 「じゃあ、せっかくだから早く食べようぜ」  ハルキの合図に少女は大きく頷いて、早速二人は朝食に手をつけて食べ始めた。魚の塩焼きは脂が乗っていて、身が柔らかく、焼き加減や塩加減も丁度でハルキは我ながら上手く行った、とその食感を楽しんだ。それからパンやスープも同じく食べ進める。そしてふと少女の方を見やると、彼女もやはり彼と同じく、今までのーーどれくらいの時間なのかはわからないけれどーー空腹の苦しさを取り返すかのように、トレーの料理達を一心不乱に、だけれど慌てた様子はなく、どんどんと静かに、黙々と食べ進めていった。そしてその度に、少女の空腹が満たされていくようになるその様子を、彼女の失いかけた生気が息を吹き返す表情からハルキは読み取った。 「焼き魚、美味いか?」  そんな言葉にもはや返事をする暇もないといったように、彼を見やる隙も見せずに少女は淡々とそれでいて活気づいたように料理達を呑み込んでいった。ハルキはそんな彼女を、静かに微笑ましげに見つめた。  二人がスープを飲み終えて、料理皿が空になると、ハルキと少女は息をついて、しばらくそのまま食後の余韻に浸っていた。こと少女に至っては、まだ食べ足りなそうなのではないかとハルキは、もう少し食べるか?と問いかけたが、少女はもういらないという風に首を振った。  ハルキはそして料理皿を片付けながら、後ろ目に少女の姿を観察した。彼女は、今やすっかり元気を取り戻した様子で、ようやくになって生きる気力が回復したように見えられた。その証拠に、昨日までただ無気力に浸って、深い眠りに自意識をどこか無闇に、自制心なく半ば投げやりや身勝手に委ねていたような彼女の姿とは違って、今の彼女は、空腹を満たされた幸福感に溢れた暖かげな表情を浮かべていて、そしてそこにはどこか、かつての誰かとの幸せで暖かい時間を過ごした思い出に対する郷愁や懐古的な感情を抱いているような、生きる意思を思い出したようなものが確かめられて、健やかな姿となった少女がそこには存在していた。  ハルキはキッチンの片付けを終えると、リビングの奥の部屋へと行って、上下の羽毛造りの衣服を持ってきた。 「今日もきっと寒くなるだろうから、これに着替えてろ」  そういって手渡された衣服を受け取って、少女は少しの間窓の外を眺めた。 「俺はこれから、ちょっと外に用事に行ってくるから、その間ここで好きに過ごしていてな」  本とか読んでてもいいし、それからあと何か食べたいものあったら、勝手に食べてていいから、とハルキは言うと、コートと、今度はライフルは持たずに、薪割り用の鉄斧を担いで、玄関の方へと向いた。 「夜になったら、肉焼いてやるからな。愉しみにしてろよ」  ハルキがそう言って家を出ていくと、少女はその言葉にどこか違和感を覚えたように彼の外出の経路を目で見つめながら、貰った冬用の衣服に着替え始めた。

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第四章

第三章

 ハルキがルカという少女を拾ったのは、その数日後ーー二、三週間ほど経った頃であろうかーーの夕暮れ方だった。街通りには、真冬らしいその夕刻を告げるかのような吹雪が天候の急変により吹き荒びはじめて、辺り一面の景色はすっかり瞬く間に凍てつく冷たさの雪の暴風に染められてしまっていた。 「おい、大丈夫か?」  ハルキは大通りへと戻った買い物の帰り道に、道端でとある一人の少女の姿が降り積もる雪の中にもはや埋もれて倒れ込んでいるのを見つけると、すぐさまにその場へと駆け寄っていって、声を掛けた。少女の体は、確かめるまでもなく、全身を洩れ隈なく雪もとい氷粒で完全に閉ざされていた。そして、歩道に等間隔に建っている街灯の仄白い照明が、彼女の雪から覗く横顔を朧げに照らしていた。 「おいってば、聞こえないのか?」  返事がないため、もう一度ハルキは大声で呼び叫んで、少女の身体を強く揺らす。しかし、彼女にその声は一向に届いてはいないらしく、彼女の反応が見られる見込みは感じられなかった。  ハルキは、うつ伏せになっている少女を抱き起こして、仰向けの状態にさせる。その顔を見やると、どうやら彼女はすっかり意識を失ってしまっているようで、両目を完全に閉じ切っていて、表情は眠りに沈んでいるものの形に固着されているように見えた。ハルキはそして、彼女の胸元の起伏や、呼吸器の息づかいの作動、それから手首の脈などを確かめた。するとどうやら、彼女は幸いにも、まだ息絶えずに、生きていることが確かめられた。その証拠に、いずれも微かな動き、反応ではあるけど、胸部は起伏を成し、呼吸器からは息が吐き出され、手首には脈打つ感触が間違いなくあった。ハルキはそれらの事実に取り敢えずほっと息をついて、自分の胸を撫で下ろした。こんなにまで深く眠っているのだから、俺がいくら叫んで呼びかけてみたところで、目を覚まさずに反応がないのも無理はないんだろう。ハルキはそう一人で納得して、一向に降り止む気配のない雪の中、しばらく少女の姿を立ち尽くしながらに観察した。  少女は、今の日本国内には珍しいーー少なくとも、ここ何年かのうちではーー鳶色(とびいろ)の色素を持つ髪質の頭髪をしており、その毛先は、顔の半分を覆い隠すほどに長く伸びていた。冷凍保存されたかのごとく霜の張りついた顔つきは、幾分か幼く、しかし同時にどこか大人びたものの雰囲気も感じられた。肌の色は、日本人の黄色人種特有のそれと同様であり、ハルキは彼女のそんな容姿をひとしきり確認して、彼女はきっとどこからかこの街に迷い込み、紛れ込んできた少なのかもしれないな、と判断した。いや、そんな推測をするまでもなく、少女は明らかに、その姿を見るからにこの街通りにおいて行き倒れになった存在であることは、誰の目にとっても明白であるはずだった。また、少女の身につけている服装といえば、袖のない薄着の白いシャツと、裾がほつれ、好き放題に裂き傷の破れが散見される、ぼろ切れのような丈の短いスカートと下履きの下着を身につけているのみで、とてもこの悪天候の中で身につけるべき服装とはどれほど間違ったとしても言えるようにはなれない、見るからに痛々しげで、寒々しげで、それでもって貧相悲惨たること極まりない、哀れな様式を纏っているばかりだった。  ハルキは取り敢えず、最初に少女の身体を抱き上げると、無駄ではあるだろうけれども、身体から大方の雪の塊を払い落とすと、幾らかその全貌が露わに近づいた彼女の華奢な体型を背中に乗せやって、彼女を背に抱える体勢を取った。そして買い物袋を片側の肩に提げて、なんとか体勢を維持しながら、自宅へと帰る準備をつくった。  少女の身体は、見た目通りというべきか、大して重量の負荷はそれほどの苦として感じられるところに至らなかった。つまり、ハルキはその少女を背負い帰宅することに、何ら大きな難を要することは恐らくはないだろうと安堵して、雪が吹き荒び、凍りつくような街通りを家のある方角に向かって、足元を滑らせることのないように、ゆっくりとそれでいてできるだけ急ぎ足で歩を進めていった。  ハルキが少女をなんとか背負い続けてようやく大通りの国道の面する通りまで辿り着いて横断歩道を渡ろうとした時、ハルキの目の前を一台のかなりの速度で自動車が通り過ぎていき、あやうくハルキはその車体に衝突する事態を免れたが、背中の彼女の重力とハルキが片膝を崩したことによって、彼は雪の中に束の間片足だけ転倒した。 「おい、何やってんだ、あぶねえじゃねえか!」  自動車は数メートル先で停車し、車道から身を乗り出した運転手が、ハルキを怒鳴りつけるように吐き捨てる。 「気いつけろい、馬鹿なガキっ子が」 「なんだとゴラあっ」  ハルキが罵倒を返すも、気づけば自動車は発車していて、もうすでに車両はハルキの不遇を嘲笑うかのようにかなりの速度で走り過ぎ去っているのだった。 「あの、クソったれが」  そんな風にはあはあと息を切らしながら悪態をつきながらも、ハルキは背中の少女が自分の転倒の際に、地面になんとか殴打していないことを確かめると、ふうっとため息を吐いて、再び体勢を持ち直すと、理不尽とも言える肌寒さを突きつけてくる、白い豪風の中を歩きはじめた。肩提げの買い物袋から卵やトマトが落下して割れていたが、今のハルキにはそんなことを気にする余裕はないのだった。  街通りから麓の一帯を歩き継ぎ、ハルキは自宅のある丘地までの森林の道を歩いていく。仄かに光っていた地平線の(それは山頂にでも登らない限りは、住宅地一群に建造する首都ビルの集合体によって遮られて、確認できないものなのではあるけれど)夕陽の残映も消え去って、空には真っ暗闇と化した星ひとつない夜空が、深い黒淵となって広がっていた。  いつもはあっという間に登りきってしまうこの丘坂の山道も、今のハルキにとっては、長く遠い道のりのようにある種思えてならなかった。それは、この稀に見る悪天候極まりない凍てつく吹雪のせいであるかもしれないし、昨夜充分に睡眠を取らずにいた休息不足のせいであるかもしれないし、若しくは、背中に背負っている少女の存在のせいであるのかもしれなかった。いや、きっと恐らくは、そのすべての要因が折り重なって、今のハルキの疲労を生み出していることに間違いはないだろうといえるのだった。  普段ならその自然豊かな、彼の感受性を高めて鋭敏にしてくれる存在である山道を囲むこの左右の緑生い茂る森林の木々達も、この瞬間には、ただハルキの疲労を圧倒的な存在感で圧迫して、暗がりに閉じ込めようとする脅威的な壁にハルキには思えて他ならなかった。しかし、この道を登り切らなければ、自分の家には辿り着けないのだと、ハルキは段々と重みを増す足取りを、最後の気力とでもいうように踏み出して、ようやく見えはじめた丘上の自宅の姿影を薄目にひたすら向かっていった。  そうしてやっと家の前に辿り着くと、ハルキはすぐに玄関先へと足を急いだ。一刻も中に入りたかったし、それに何より、身体の凍て冷たさがとうに飽和を迎えていることだろう、少女の肉体のその凍て冷たさを解凍して、そして彼女を一向の深い眠りの中からどうにかして解放して、彼女を何よりも早く目覚めさせなければいけないという、誰に頼まれたわけでもありはしないのだけれども、しかし彼女を拾った当人のハルキにその使命もとい責任はすでに課せられているのであって、そんな目的を一刻も早く遂げたいとハルキはそれだけを今は考えに尽かせていたのだった。  そしてハルキは鍵を取り出すと、すぐさまに玄関のドアを開いて、家の中に少女を連れて急ぎ様に入っていった。その時、家の周辺に茂る森林の木々の先に留まっていたカラス達は、最早とうに夕暮れ時などとっくの昔に過ぎ去った時刻だというのに、カアカアカアカア、と呑気な啼き声を数匹の仲間達と共に今頃になって高らかに上げると、さっき言ったような深淵の闇を生み出す真暗の夜空へと羽を羽ばたかせて一斉に飛び去っていったのだった。  少女を背負ったまま点灯した廊下を歩いていくと、ハルキは突き当たりにあるリビングに入った。ソファに背中の少女を下ろして、買い物袋を片付けると、すぐに暖炉の中へ火を燃やして部屋を暖める準備をした。薪はまだ少し残っていて、その全部を今夜のうちに燃やしてしまうことにした。今は何より、この部屋を暖めて、ソファの彼女をなんとか手当するより他はないのだから。  ハルキはそして少女の身体の雪解けの濡れを近くにあったタオルでひと通り拭い取ると、すぐさまに奥の寝室から、大きめの少女くらいの身体ならきっと全身に羽織れるだろう、厚手のブランケットを持ってくると、ばさりと少女の身体に覆い被せた。少女はまだこんこんと眠りに落ちたままで、ブランケットから顔だけを出して目を閉じている。ハルキは暖炉に燃える炎が徐々に温度を昇らせているのをしばらくの間確かめてから、次に急ぎ足でキッチンへと向かった。少女の手当てのための、湯張りのボウルの用意や、何か身体を暖めるためのスープ類の料理の準備に取り掛かった。  鍋に水を入れて熱して沸騰したら、あらかたの野菜の切っておいた葉束や断片を入れて、調味料や他の材料を混ぜ合わせて、再び全体に火が通るまで煮込み続ける。このスープは、一般的なコンソメ仕立てのブイヨンスープのポトフのそれと同じであり、ハルキがよく自分の夕飯等で食べるのにつくっている、彼の得意料理の一つでもあった。しかしやはり鍋料理は時間がかかるものなのだけれど、ハルキはふとソファに寝沈んでいる少女の姿や顔をふと見やり確かめにいくと、あの様子じゃ、鍋ができあがるまでにそう早く目を覚まして起きることはないだろう、とそんな風に思って、調理台の前で、ひたすらに鍋の煮込みを見張り続けて、表面に浮き出る灰汁を掬い取ったりした。  しばらくの間調理を続けてから、ある程度にまで鍋に火が通り始めると、ハルキは別に湯を張ったボウルと濡らしたタオルを何枚か用意すると、リビングに向かった。ソファに眠る少女の穏やかなーーこの場合には、寒さで凍てついているのがその理由ではあるのだけれどーー姿と、その隣横で煌々と燃え続ける暖炉の中で滾(たぎ)る紅い炎の暖くも威迫のある力強さが、やけに対照的ではあるけれど、ハルキの目には、その両方がどちらも、同じ儚さと根強さを持ち合わせている存在のように、確かに感じられていたのだった。  ハルキは、ソファの近くに座ると、少女の身体に、何枚かの湯を吸わせたタオルを水切りして巻き付けるように当てがった。幾らかの時間は暖炉の熱で暖めていたのだといっても、やはり彼女の腕や足首やうなじは、依然として冷たさの残るままだった。ハルキはその見るだけで肌寒さが伝わってきそうな少女の眠る姿を見て、なんで彼女はこんな服装をして、あんな街角に倒れ込んでいたのだろうか、とふと不思議に思った。こんな雪の吹き荒ぶ真冬の夜中に、こんな薄着で出かけるなんて、とても正気だとは思えなかった。それ故に、ハルキは彼女はもしかしたら、夢遊病の症状でも患っているんじゃないかとも勝手ながらに考えてみたのだけれど、であったとすれば、こんな不恰好な服装をしているはずはなく、彼女がまともな着用をしていないのには、何か別な理由があるはずだと、彼はその推測を束の間に打ち消した。  全部のタオルを当て終えると、ハルキはソファ横のロッキンチェアに腰掛けた。そしてようやく外着の厚いダウンコートを脱ぐと、それを暖炉傍のコートラックに掛けやって、ふう、と息を吐きながら脱力するように、背もたれにもたれ掛かった。キッチンの方では、まだ野菜スープの鍋がぐつぐつとに立っている途中なのだけれど、その間にハルキはしばらく、少女が不意に目を覚ますのを休息がてらにゆっくりと何か本でも読みながら待つことにした。ハルキはそして部屋の本棚から一冊の本を取ってくると、再びロッキンチェアに座って、それを栞の部分から読みはじめた。  その読書の合間にも、ハルキは何度か少女の寝顔に視線を向ける。するとその彼女の両頬のあたりが、幾分か部屋に連れてきたばかりの時よりも、紅さを含み帯びて、体温を立ち昇らせはじめているように見えた。そのせいか、今にも目を覚ましそうな気配がしたのだけど、しかし、それもただ彼のの期待であり、少女は依然として寝息を立て続けており、両目の瞼は睫毛を重たそうに下げ閉じていた。一体、彼女は今夜中に、一度でも目を覚ましてくれるだろうか。ハルキはふとそんな風に不安になったが、それを紛らわせるかのように、膝に置いた、文字の海面へと視線を戻しやった。  それからさらに数十分が経ち、ハルキはもうそろそろ煮えたことだろう、調理場のスープ鍋を確認すべく、本を閉じてキッチンへ向かった。すると、すっかり鍋は煮えたっており、スープが完成していた。味見をして、ハルキはとりあえず、一人分のスープを皿に分ける。それを持ってリビングに戻ると、熱々のスープを冷ましながら、少しずつ皿ごとそれを飲んだ。よく考えれば、今日彼はまともに食事をとっていなかったため、かなり空腹であるはずなのだけれど、ソファに眠る少女との出会いの不軌道な出来事によって、それすらも忘れかけている有り様なのだった。  スープを半分ほど飲み終えると、急に少女の寝息が途絶えた。ハルキが彼女を見やると、少女はゆっくりとその両目を薄目に開けて、身体を少し動かした。どうやらようやく目を覚ましたらしく、ハルキはそれを待っていたかのように立ち上がると、もう一人分のスープ皿を用意しに向かった。ハルキが戻ると、少女はすっかり目を覚ましたらしく、目をまだ残る眠気のせいに擦り、リビングの中を不思議そうに見渡していた。彼女はまだ意識が朦朧としているのか、何に対しても反応の鈍さが窺えた。 「ほら、これ、飲んでみろよ」  ハルキはそう言って、少女の目の前にスープの入った皿を差しだす。 「気をつけろよ、出来たばっかで熱いから」  少女は虚ろげに頷くと、やはり熱そうな手つきで皿を受け取った。それからしばらくその立ち昇る白煙の湯気を何度か繰り返して息で冷ますと、やっと一口だけスープを飲み込んだ。 「どうだ、美味しいか?」  ハルキが尋ねると、少女は再び虚ろげに、静かに頷いた。意識が薄いながらも、なんとかスープの味を味わっている様子だった。 「そうか、そりゃよかった」  その少女の飲む姿を嬉しげに眺めやりながら、ハルキは同じように自分のを飲み進めた。スープのおかげか、少女の身体も、かつての体温が戻りはじめているように思えた。  ハルキがスープを飲み干した後で、少女もひとまわりくらいの時間をかけて、ようやくそれを飲み終えると、ぷはぁ、と満たされたように息を吐きだした。すると、その途端に、再び欠伸をして、眠たげに目を擦ると、ソファの海へと倒れるように、眠りの中に沈んでいってしまった。少女の静かに細かげな寝息が聞こえはじめた。 「……俺も、今夜はもう寝るか」  少女の手当てを終えたのと、彼女が無事に危うい冬眠から目を覚ましたことに幾分か安堵を感じたハルキは、急に身体中に強い睡魔が襲い寄ってくるのを拒むことなく受け入れて、その圧倒的な心地よさに身をすっかり委ねると、そのまま暖炉の炎の煌めくリビングの中で、少女と一緒に暖かい眠りの中に落ちて行った。

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第三章

第二章

 ハルキは翌日も、庭から周辺に広がる一帯が丘状の森林の中へと、いつものように狩猟へと出掛けた。今日の目的は、新しく毛皮のマフラーをつくる為の、良い素材になりそうな大きめの羽を持つ鳥なんかを獲りに行くことだった。今日も同じように、ハルキは猪革製のコートに、同じく猪革製のパンツ(こっちは子猪の生皮からつくったもの)と厚底の黒い冬用のブーツを履いて、ライフルを背中に山の中へと登っていった。空は昨晩の吹き荒れる吹雪の一様が、まるで嘘だったかのように晴れ渡っていて、雲ひとつなく白く、太陽の光を燦々と地上に差し込ませていた。そして今日も同じように、ハルキは猪革製のコートに、同じく猪革製のパンツ(こっちは子猪の生皮からつくったもの)と厚底の黒い冬用のブーツを履いて、ライフルを背中に山の中へと登っていった。空は昨晩の吹き荒れる吹雪の一様が、まるで嘘だったかのように晴れ渡っていて、雲ひとつなく白く、太陽の光を燦々と地上に差し込ませていた。  森の中に入ると、緑の茂る草木、枯れ果てた草木の枝先からは、今朝の陽光によって溶解した雪の産物である冷たい水滴が、ぽたりぽたりとあらゆる幹の元で落ち続けていた。それらは時々、その下を通るハルキの被るフードコートの頭上に落ちたりして、彼の着ている厚手の防寒具や背中の光沢を魅せるライフルの様式を静かに濡らしていくのだった。  山道の昨日よりも数十メートル程度の深い場所へ着くと、ハルキはコートのポケットから取り出した、小型の双眼鏡を目元に掲げて、レンズの中を覗いた。鬱蒼と茂る木先の合間から、空の様子を眺める。いつどこから、目当ての鳥達が姿を表しても見逃すことがなくて良いように、そしてその彼等が姿を現す兆候を一瞬たりとも見誤らないようにという、ハルキのこの数年で培われた野生的技量と心理推察が成せるべくして成せる行為だった。  その場所でしばらくそうやってほとんど同じ体制で、小さな双眼鏡の繊細なレンズから覗ける緑の隙間にある空一帯を観察していると、ハルキは瞬間、目を光らせた。彼の野生の勘が働いて、数秒後に右手の方から二、三匹ほどの鳥の群れが現れるのを悟った。そしてハルキは双眼鏡を急ぎ様にポケットに仕舞い戻すと、すぐに背中のライフルを構えて、その銃口を間もなく頭上を通過すると思われる数匹の鳥達の予測飛行地点に向けて、狙いを定めた。そして、その彼の予想通りに、三匹の鳥が羽を羽ばたかせて、彼の頭上に姿を表した。今だ!とハルキは胸で叫んで、迷いなく引き金を引いた。発射された火薬弾が、森の中で轟音を響かせる。そしてその刹那、銃弾の残響の中で、空からは一匹の鳥が体勢を崩して、彼の立つ付近へと落下していく。ハルキは続け様に、他の二匹の身体へも、銃弾を加えた。彼の射撃の命中率は、ほとんど百発百中だった。その成果に、二匹の鳥も、初めの一匹に続いて、木々の中へと墜落した。ハルキの構えるライフルは、今日も硝煙を立ち昇らせていた。  ハルキはすぐにその三匹の鳥達の元へと近寄っていくと、まず先に、彼等の羽に穴が貫通したり、また傷跡が残っていたりしないかなどを確かめた。何故なら、ハルキがこの鳥達の身体からマフラーをつくる際には、彼等の持つ巨きな白い羽が重要不可欠なのであり、その貴重な素材を傷つけるようなことは、マフラーづくりにおいては致命的とも思えることだった。 「やったぜ、思った通りの大収穫だ」  そう言ってハルキは早速その撃ち落とした白い羽の鳥達を一度に抱えると、大事そうに羽のあたりに力を込めぬように気をつけながら、山道を戻り歩いた。 「いやあー、ほんと今日あたりはなんか、鳥とかを狩るのに似合っている天気だと思ってたんだよな」  ハルキは上機嫌で浮き足立って、満足そうな笑みで雪道の丘を下っていく。すると、鳥とは別の、他の動物のものの気配が、斜め横方向のあたりからこちらに感じたのを覚えて、ハルキは思わずその方向を見やった。そこには足元から膝上くらいまでの雑草が茂っている群生が広がっていて、それらはやはり溶けかけた雪で白く埋められていた。果たしてそこに隠れていたのは、ーーとはいっても、距離的にみれば、ハルキの元からは、十メートルは離れているであろうという位置のあたりではあったのだけれどーー黒い毛の、一匹の見慣れぬ猫の姿だった。その猫は、ハルキが目をやってから数秒と経たずに、彼の方をふと見つめると、すぐにその姿を消し去るように森の奥へと這い歩いて行ってしまった。 「……なんなんだ?あの猫」  ハルキは少しの間その猫の姿が不思議に思われてその場に立ち尽くしていたが、やがて両手に抱えた獲物の鳥の存在を思い出すと、我に返って、素材の成形に取り掛かるべく自宅へと向かって急足に森の中を駆け降りていった。  家に帰ってからハルキはまず先に、朝食を食べることにした。というのも、鳥の狩猟に出掛けるために幾分かいつもよりも早起きをしていたため、この時間まで朝食を取れずにいたのだった。そして時刻は間もなく正午を迎えるその近くを示していた。  ハルキは冷蔵庫から牛乳パックを取り出して、グラスに注いで、それから何種類かの野菜のサラダを皿に盛り付けて、フライパンで幾らか焦げ目をつけたトースト、それとちょうど今日で残りがなくなる分の量の、以前に狩り獲った猪の肉で焼いてつくった赤身のステーキを一人前皿に移すと、それらをトレーの上に載せて、いつもの朝食を取る場所ーーといっても、いつも同じソファの上で食べることには変わりないのだけどーーに移動した。そしてトレーをテーブルの上に置くと、早速今日最初のテレビを点けた。画面では、相変わらず面白くも何ともない(少なくとも、ハルキにとっては)報道番組が垂れ流されていたのだけれど、ハルキは何も付けないトーストを手に取って一口齧りながら、そのいかなる異常事態にも凛として動ぜぬといった冷静沈着たる芝居の風体でいて人形のような無表情のニュースキャスターの男が報道を語るのを眺めた。 「ーー昨日に引き続いて、本日の政治情勢のコーナーです」 「ちっ、またかよ。ったく、コイツらも懲りねえこったな」  ハルキは今日も普段通りに、テレビ画面に悪態をつきにつきながら、口に放り込んだトーストと猪肉のステーキの断片をもちゃくちゃと咀嚼すると、冷えた牛乳を一口飲み、それらを喉に流し込んだ。 「兼ねてから、本国とアグラーレル大陸共和国間で繰り広げられている、謂わゆる『迫害行為及び虐殺事件』の更なる過激化が、今年に入ってからも見込まれる模様です。映像は、当事件の一部を撮影した先月末から今月初めにかけてのものとなっていてーー」 「ふんっ」  人間同士で虐殺行為、か。ハルキはそんなことを胸に呟きながら、半ば、いやまるっきり冷ややかに凍てつくような目つきで、その無惨な報道記事を述べ語り続けるキャスターから、事件の一端の記録を写した映像に変わるテレビ画面を眺めた。 「ーーこの作戦は、アグラリオットと呼ばれるものであり、先導者であるマルトノ・ロゾック氏が優に五十人近くもの日本人の人身捕獲、そしてほぼ同人数の計画的虐殺に成功したとの報告を挙げておりーー」 「だから、キョーミねえんだってさあ、そんなことはよおっ!」  ハルキはそう叫んだかと思えば、テーブルの上に、右手拳を憤って叩きつけた。すると、グラスに入っていた牛乳が少しだけ振動して、テーブルの上に溢れ散った。 「……ダメだ、ちょっくら気分転換でもしよう、っと」  そうして次のニュースに映像が移り変わる間際のところで、ハルキはテレビの画面を消して、リモコンをソファの手摺りに放り投げた。それならどうしてハルキは他の番組を見ないのかといえば、他局の公共電波放映のバラエティ番組を見たとしても、その愚劣さや品のなさ故に彼の神経を余計に逆撫ですることに他ならず、更に気分が悪くなること目に見えているからなのであった。それならばと、ニュースでも見れば、幾らかは世間的な知識も身について、いい気分転換になるのかと思い、ハルキは一日一度は報道番組に目を通すのだけれど、やはり具にも付かぬバラエティやらと同じことで、余計に気に触ること変わりないのであった。  ハルキは一通り卓上の料理達を平らげると、食後に腰を落ち着けることもなく即座に食器を片付けて、彼のいうところである、気分転換に取り掛かるべく、再び屋外へと出て行った。  道具置き場から、大型の刃渡りの鋸と、バールや小型の鋏などを手に抱えて持ち出すと、ハルキは家の裏にある解体小屋へと向かった。小屋の中に入ると、そこには、昨日の昼間に狩り獲ったばかりの、あの巨きな鹿の身体が横たわらせて、半ば放り置くように収納されていた。ハルキはまずそして、その鹿の身体を床に敷いたビニールシートの上に移動させるべく、手足をつかんで引き動かした。  鹿を移動させて、ハルキは色褪せた作業着用のつなぎ姿に着替えて、両手に黒いゴム手袋を嵌め込むと、すぐさまに鹿の巨体の解体作業に取り掛かり始めた。この狩った野生の獲物を自分の手で一から解体することが、彼にとっての何にも代えられることのない、まさに気分転換になっているのだった。  手につかんだ大型の鋸の刃先を、まず初めに鹿の首元に指定すると、ハルキは刃を前後に押し引きして、鹿の頭部と胴体を切断しにかかる。かなりの大作業ではあるけれど、刃が鹿の首の筋肉の中に滑り込んでいくのを手で感じる時に、ハルキは自分の仕事の実感を確かめることができて、気分が晴れやかになるのだった。ちなみに、この彼が使っている鋸は、とある金属器具の技師に特別に依頼して造ってもらったものであり、例えばこの鹿のように狩り獲った生物達を切断する際にも、血飛沫があまり飛び散らないような構造になっているため、ハルキが力一杯に解体を行なっても、それほど小屋中が血に塗れるということはなかった。  首を切断し終えると、次に胴体に移って、前後左右の手足の縄を解いて、それらをまた胴体から全て切断していき、文字通り四肢が分断された鹿の姿形にした。ハルキはすると鋸を置いて、次に小型の鋏を手に取ると、鹿の体毛の蓄えられた皮膚を、ある軌道線上に沿って器用な動きで切り裂いていった。それからその皮膚も全て切り取り終えると、鹿はあっという間にそれまで覆っていた皮膚が切除されて、真っ紅な筋肉質や血管の通った、肉塊が露になった姿に成り変わった。ハルキはそして、その肉塊と骨格を更に切り分ける作業へと入った。最初に、片手に持ったバールであらかたに骨のパーツを部位ごとに切断して、幾つかのまとまりに選り分ける。骨をそうして取り除くと、ほとんど最後の作業となる、肉塊の切り分けに取り掛かった。この肉塊こそが、ハルキの年月を暮らし過ごすための大事な食料となり、また栄養素となるのであった。そのため、ハルキはこの肉を切り取る作業にも慎重になった。ハルキはキッチンにある出刃包丁で真っ紅な肉塊をすっかり骨から切り取り分けていく。  そうしてようやく、鹿の身体を四肢と骨と肉塊に切り分け終えると、彼の解体作業は終わりになるのだった。ハルキはふうっ、と息を吐くと、道具の片付けに入って、そのあとで肉塊を血抜きする大きなバケツに入れ込んで、そして残った骨を水洗いすべく別のバケツに入れて、不要になった四肢や皮膚や尻尾を、廃棄するべくビニール袋に詰め込んでいった。それから一通り、床に散らばった肉片や血液を掃除すると、ハルキは小屋を出た。さっき獲ったばかりの三匹の鳥達の羽毛を使ったマフラーづくりは、明日にすることにした。  ハルキなその午後、数日ぶりに山を降りた麓に広がる街通りの一帯に出掛けていった。背中にはさっき解体したばかりの鹿の骨格がごろごろと詰め込まれている麻布袋を背負っていて、背中には骨特有のごつごつとした感触がことごとくに感じられたが、それもいつものことなので、ハルキは全く気になるところを見せなかった。この骨達は、これから向かう先で必要になる、彼のもう一つの仕事のある意味の商品でもあるのであった。  街並みの表通りから住宅街の入り組みを抜けて、少し人気の少なくなった、半ば未舗装未開拓の地であるといってもいいような野原びた空き地の閑静な通りに出ると、ハルキはその片隅に建築を構える、錆びついて崩れかけた途端屋根の一、軒の石造りの不恰好な薄暗い雰囲気の漂う小屋の方へと足を向けた。 「こんちわー、っと。爺さん、いるかあー?」  ハルキが鍵の掛かっていない横開戸を無造作に開け放って挨拶をすると、その声はがらんとした室内に響き渡り、跳ね返った。 「今日も骨持ってきたぞー。いないのかー?」  再び彼が二倍くらいの大声でもって呼び掛けたところで、やっと小屋の主の年老いた男が薄暗い屋内の向こう奥から姿を現して、少し気だるそうな足つきでハルキの元に近寄ってきた。 「おっ、なんだ、いるんじゃねえか」 「おおー、その声はハルキかあー」  老人はハルキの目の前までようやく辿り着くと、しわの酔った顔を綻ばせて、白髪の伸び切った頭を荒っぽく撫でつけた。 「あたりまえだろうが。俺以外に誰がこんなオンボロ小屋に来るかよ」 「相変わらずの憎まれ口だなあ、君ってやつはあ」  老人はそんなハルキのデリカシーのかけらもない発言に一切の動揺を見せることもなく、はははっともはや受け慣れたように掠れた声で笑うと、近くの腰掛け椅子に座り込んだ。 「それにしたって、相変わらずショボくれてんなあ。営業はできてんのか?」 「なあに、俺がこうやって立っていられるうちは、まだまだ商売中ってわけよ。まあ、あともう何年も生きられないだろうけどな。俺もずいぶん歳食ったし」  そうだろうな、とハルキは打ち放しの構造のまま、ほとんど手を加えられていないだろうその店の内部を見渡しながら、そしてその店主である老人の姿を一目眺めながら呟く。 「まあ、それはとにかくいいんだけどよ、それよりもさ、今日はほら、ハルキに見せたいものがあってさ」  そう言うと、店主の老人は再び奥の方へと姿を消して、少ししてから手に何かを掴んでハルキの元にやって来てそれを見せた。 「ほら、昨日できたばかりの新作だあ」 「爺さん、なんなんだこれ?」  ハルキはその、紐の通されたまるで雫のような形をした真っ白な骨の彫刻物を見やると、店主に尋ねる。 「これはな、いわゆるペンダントってやつだ」 「ペンダント?」  ハルキは彼からそれを受け取る。 「君にこのあいだ貰った猪の牙があっただろう。それが幾らか余ったんで、その残りでせっかくだからと思って作ってみたんだ。どうだ、なかなかいいだろう?」  そう言って自慢げな老人をよそに、ハルキはペンダントを首につけてみる。そして、なるほどな、と老人の言葉に頷いた。 「でも、一体なんだって、こんなのを思い立って作ったんだよ?」 「まあ、ただの暇つぶしなんだけれどな、どうせなら、いつも世話になってる、ハルキに何か作ってやろうって考えたわけさ」  老人はそう言って、ペンダントを吊り下げたハルキの立ち姿を微笑ましそうに眺めやった。 「ふん、柄にもねえことするじゃねえか。本当に暇で仕方ないみてえだな。最近は、ここら辺じゃまともな客もいねえだろ?」  老人はそれには特に何も答えずに、彼の商品兼趣味的な工芸品である、動物の骨製のアクセサリーや置物が飾られている室内を満足そうに眺め回した。 「だから、そいつは、ハルキにやるよ」 「いいのか?新作なんだから売ればいいのに」 「いいんだよ。最初から君にやるために作ったわけなんだからさ。それに、どうせこんなの、誰にも売れっこないだろうしなあ」  そんな自虐的な老人の言葉に、そりゃそうだな、とハルキは返して、二人は束の間笑った。 「それに、そのペンダント持ってると、いい出会いがあるかもしれないぞ」 「なんだよ、そのいい出会いってのは?」 「ハルキは、まだ、彼女とかいないだろ?」 「まあ、いないなあ」 「それを持ってれば、もしかしたら、いつか君の運命の相手と巡り会えるかもしれんぞ」  老人はそう言って、徐に真面目な顔をつくる。 「なんだ急に、変なものでも食ったか?それとも、余生はスピリチュアルごっこにでも馳せながら暮らすつもりか?」 「別に、そういうわけじゃないけどよ、ハルキにも、そういう人が現れればいいんじゃないかなあ、って思っただけさ」  老人が言って、ハルキは再び首元のペンダントを眺める。薄暗い室内ではあるけれど、骨骨しい白い光沢が、そこには映っていた。 「俺に、果たしてそんな奴が現れるもんかねえ」 「まあ、とにかく、祈ってるよ」  老人はそう言うと、再び腰掛けに座って、弱々しげにため息を吐いた。 「でも、爺さんも、今しばらく長生きしてくれや。じゃねえと、俺の獲物の骨をプレゼントする相手がいなくなっちまって、仕事のやりがいがねえからさ」  老人はまたしても、特に返事はせずに、意味ありげな顔を浮かべて、ハルキを見つめた。 「ってことで、これ、今日の分な」  ハルキが背中の麻布袋の中身の鹿の骨を室内の作業台の上に出し広げると、老人は一ヶ月分ほどの生活費の金銭を彼の手に手渡した。ハルキはそれを麻布袋に仕舞い込んだ。 「ま、とにかく、今日はもう帰るから。あんま無理すんなよ。それと、変なプレゼント、ありがとな」 「ああ、またよろしく頼むよ。ハルキ」  老人はそう言って、ハルキの振り返り際に手を振った。 「じゃあな、爺さん、くたばんじゃねえそ」  ハルキはそう言い残すと、空になった麻布袋を背中に垂らし掛けてから、老人の一人寂しげに居座るその石造りの店小屋を後にして、住宅街の通りの来た道のりを戻っていった。

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第二章

第一章

 ハルキは今日も、一匹の鹿を撃ち殺した。その鹿は、全長が三メートルも越える程の巨きな鹿だった。ハルキは火薬弾の硝煙を吐くライフルを片手に、倒れたその巨体の身体に近寄っていく。そして、その鹿がすっかり仕留められていて、もう息もしていないのを確認し終えると、よし、と頷いて、ライフルを背中に背負った。火薬弾は間違いなく鹿の胸の辺りに命中していて、鹿の心臓部を貫通させて、その部分の毛が黒く焦げついていた。 「これで今月も、しばらくは食べる分に困らなそうでよかったぜ」  ハルキはそう呟いて、にかっと唇を微笑ませると、鹿の後ろ足を両手に掴んで、身体をずるずると引きずりながら、白く塗れた草木の生い茂る山道を降りていった。山にはすっかり雪が降り積もっていて、視界に見える一帯が、隈なく雪化粧を施していた。季節は今年も早いもので、とうに冬の真っ只中を迎えていた。  ハルキは白く冷たい息をはあはあと荒く吐き出しながら、黒い外履きのブーツを雪に埋もれさせながら、両手に掴む毛の群がった肉塊をやたらと重そうに、しかしそれ故に必死に引きずり続ける。今の時間こそ雪は吹雪いてはいないのものの、あと数時間には天気は急変して、今日いちばんの激しい吹雪になるだろうという気候報道を、朝のニュースは語っていた。ハルキは厚手の手づくりの猪革のコートを羽織りながらも、流石に外の凍て付くような冷え冷えとした空気には幾分か堪える様子だった。首筋は溶けた氷粒に濡れ、手袋をした手は悴(かじか)むように微震していた。だけれどそれでも、鹿を撃つ時にその震えをものともせずに確実に仕留め遂げたのは、彼の長きに渡る猟師の狩り業としての腕が今や紛れもない確かなものであるからこそだろうと言えた。 「それにしても、まだ冬眠にも入らないで、こんな風に呑気に歩きまわってる奴がいるとはな。まったく、野生の危機感知能力が聞いて呆れるよ。まあ、だけどそのおかげで、俺は暮らしに難せず助かってるってわけなんだけどな」  ハルキはそう言って、引きずっている鹿の虚ろな黒い無機質と化した両眼の不気味さと光沢を交えた風貌を眺めながら、雪化粧の森林を抜けた山道の丘下にある、自分の家が見えてくるところまで歩き進めると、幾らか足を早めて屋根一面に白い絵の具を固めたような白樺造りのその家を目指した。  ハルキの家は、一階建ての、白樺造りの木造建築の家だった。リビングを中心として、キッチンやバスルームやウォータークローゼットや寝室その他物置部屋が各々揃っており、それぞれが申し分ない広さの畳幅を有していた。というのも、ハルキは今現在までずっと一人暮らしの身であり、彼一人が日々暮らし営みを行う上では、十分過ぎるほどの間取りであるのだった。ハルキはこの家を、今は亡き父親から五年前に譲り受けて、それ以来家主として暮らし続けているのだった。  そんな自宅のある、森林のだいぶ広範囲に拓けた山地に辿り着くと、ハルキは一度引きずり続けた鹿の巨体を徐に地面へと下ろした。ライフルを背負っている分もあって、彼は幾らか肩の凝りを覚えた。何しろ、自分の身長の二倍近くは恐らくはあるだろうその鹿の身体は、流石に彼の男力でも一人で運ぶには負担が大きくなりざるを得なかった。 「さてと、こいつは一体どうしてやろうかな、っと……」  ハルキは深呼吸をしながら、今一度その鹿の息絶えた顔つきを眺めやる。すると、ハルキはその鹿の頭に異変を確かめた。その鹿は、片方の角だけが、先端を折れ欠かせていたのである。一体どうしたんだろう、とハルキは少しの間その欠損を不思議そうに観察していたが、多分山道のどっかの硬い岩か木の幹なんかにぶつけて折ったんだろう、と勝手に想像して納得すると、やがて鹿の元をふと離れて、物置小屋から、それなりに太さと長さのある頑丈な藁紐のロープを持ってきた。鹿の前後の手足を縛りつける為のものだった。ハルキはそして鹿の手足を手慣れた動作でしっかりと縛り結ぶと、もう一度身体に力を入れて、さっきと同じ器量で鹿の身体を、薪割り小屋の横に連なっている「解体小屋」に運び込んだ。ここでは、ハルキが狩り獲った獲物達を、その名の通り、解体する作業が行われていて、人によっては、吐き気を催すような匂いだったり、光景だったりが含有されているに他ならなかった。例えば、それは狩り獲られ、解体される間際の動物達の血肉の匂いであったり、散乱する真っ紅な血液や肉塊や皮膚が織り成すもので、少なくとも、この山を降りた麓にある「都会的市街」に暮らしている先進思考の人々が直視するには難儀不可この上ないような、野生的な偶像の極致とも言える光景などであり、他ならぬ、恐らく現在のこの社会に於いては稀にみる稀な、野生的青年であるハルキを置いてこのような現場を司ることは出来かねるだろうという説明が用せることだろう。  ハルキはそしてその自ら狩った獲物の解体作業が好きなのではあったのだけれど、流石に今しがたに猟を終えて間も空けずに解体に移るのは身体に堪える疲労が言わずともだろう、というわけで、彼は一旦鹿の身体を小屋の奥へと運び込み終えると、息を吐いて、少しばかり鹿の身体を眺めて、自分の今日の仕事の達成感を無事成し遂げた実感に浸ると、肩や腰元のコートに纏わりついた雪粉を払い落として、作業小屋を出て行った。  ブーツの底がすっかり埋まるほどに雪の降り積もった庭先を抜けて、ハルキはようやく家の中へと入った。玄関で雪塗れのブーツを脱いで、背中のライフルを靴棚に立てかけると、厚手の猪革のコートを脱衣して廊下にあるコートラックにそれを掛ける。廊下を渡ると突き当たりにあるのは、位置としてこの家の中心的な部屋になっている、その広さ二十畳程のリビングだった。ハルキはリビングのさらに壁際の中央部に設置されている煉瓦造りの暖炉に薪を焚べて取り出したマッチで火を点けると、その炎が暖炉内の暗闇に充満していく様子を確かめながら、暖炉前に置かれているソファの上に一度腰を掛けた。そしてふう、と息を吐くと、暖炉が暖まっていくのをしばらくの間眺めた。  やがて、暖炉の中に炎が満ちていき、薪を燃やす火がぱちぱちと音を立て始めてその色が紅く染まりだすのを見届けると、ハルキはすぐさまに腰を上げて、リビングと隔てなく直結しているキッチンへと向かった。ハルキはキッチンで、冷蔵庫から取り出した牛乳を温めてホットミルクをつくると、それを持って再びリビングへと戻る。そして、またソファに腰掛けると、ホットミルクの入ったカップを熱そうに湯気を息で冷ましながら、ゆっくりと一口飲んだ。  ハルキは、実を言えば、山奥へと動物を狩り獲りに出かけて冬眠間際の動物達を仕留めるのと同様に、いやある旨においては、それよりも、今のように、そんな決死の作業を終えた後でこの暖まった暖炉の前で、ソファの上に腰を据えて幾らか微睡(まどろ)んで、手づくりのホットミルクーー若しくは、ホットココアだったり、レモンティーだったりでもいいのだけれどーーを片手に、その煌々とした炎を眺めて小一時間にひと息を吐かせて、身体を委ねる時間と空間が、何より好きなのであった。それは夏であっても同様で、夏には、ハルキは同じく山の中にある硝子や水晶の如くに透き通った水面を持つ森林の湖に出掛けてひとしきり水遊びなどを愉しんだ後で、その自然の水質特有の水温の仄冷たさを纏った身体を、やはり同じように、この煉瓦の暖炉の前でソファに寝そべったりなどして、その優しく小さな火花の立てる音を聞きながら微睡みとともに束の間昼寝に馳せるといった日常も、珍しくはなく、それどころか彼の生活においては顕著だった。  ホットミルクを半分ほど飲み終えると、ハルキは暖炉に向かって右側にあるテレビの電源を点けた。テレビに映ったのは都局の報道番組で、背広を着たニュースキャスターが真面目な顔で報道を語っている。 「ーーそれでは、続いて、昨今の政治情勢についてです。昨年末から続いている、本国、そして本国と隣する列島大陸にて、約七十年ほど前にその建国が確認された、アグラーレル大陸共和国との軍事力的牽制が、一昨日の午後九時四十五分頃にアグラーレル国から発射された、無軌道弾による本国への挑発的行為により、さらなる白熱化、そして緊迫化に至り始めている現状が確認されました。アグラーレル国から発射されたのは、直径十メートル程度の筒状の火薬硝煙型爆弾の一種と見られ、落下地点から半径およそ五十メートルの範囲で爆散したとの報告が挙げられております。尚、その地域にお住まいだった住民の内、重体者が十八人、死傷者が三十四人という数値に昇っています。これは、言うまでもなく、かのアグラーレル国による、我が本国への歴然とした宣戦布告であり、本国の首相は、明日の朝にでも、当事件に対する臨時的記者会見を開くと宣言しています。また、一方でアグラーレル国の総理大臣は……」  ハルキはそこまで報道を聞き終えると、すぐに片手に持っていたリモコンでテレビ放映を消した。そして、残っているホットミルクを一気に飲み干すと、ふうっと息を吐いて、カップをテーブルに置いて、後頭部に腕を回してソファの上に仰向けになった。  全く、何が政治情勢だ、軍事力的牽制だ、火薬硝煙型爆弾だ、知らないってーの。くだらない。俺にとってそんなのは全く持って関係も興味もないというか、とにかく、俺の知ったことじゃないんだ。ハルキはそんな風に胸の中で吐き棄てて、けっ、と舌打ちを大きく鳴らした。今の俺に大事なのは、冬を越す為の食糧を狩り獲ることと、それから、この家で思い気ままに何事もなく暮らして過ごすこと、そして、夜には誰にも邪魔をされずにぐっすりすやすやと眠りに就くことだけなんだ。ハルキはキッチンの方の壁にある振り子時計を見やって、時刻を確認する。時刻はまだ午後の二時十五分を過ぎたところだった。ハルキは、束の間昼寝をすることにした。まだ夜の作業までは、だいぶ時間が空いているんだし、何より、さっきの鹿狩りと部屋の暖炉の熱気と今飲んだホットミルクで、俺の身体はすっかり暖まって、微睡み、眠気に誘われてしまっているのだから。ハルキはそして、その身体に訪れた睡眠欲に身を委ねて、一つ大口で欠伸をすると、両瞼を閉じて、午後の雪も吹雪かない、冬の山の静けさの空気の中で、一人眠りに沈んでいった。  ハルキは、その昼寝の夢の中で、とある不思議な夢を見た。その夢は、とある少女を街通りの道端で見つけて、それを彼が抱き抱えて、家に連れて帰るという夢だった。夢の中で彼は、その少女の身体を背中におぶってやり、真っ白な吹雪の吹き荒ぶ中を、荒がる息を吐き切らして、重たげな足取りで歩いていく。少女は一向に目を覚まさずに、脱力したまま、ただハルキの背中に華奢な身体を預けている。しかしその風貌までははっきりと確認することができず、夢の中での彼女は、あくまで少女という概念的存在として、幾分か靄(もや)がかった姿でそこに現れていたということに過ぎなかった。ハルキが家の前まで少女を連れてくると、夢はそこでフェイドアウトするように途切れ、ハルキは目を覚ました。随分とおかしな夢のように思えたのだが、ハルキはなぜか、それがに現実的なものに尽きる夢として受け入れることができずに、目が覚めてからもしばらくの間、その夢を何度か脳内に思い起こしたのだった。  時刻は午後六時を迎えて、外がすっかり冬の夜空に幕引かれて真っ暗になり、予報通りに雪の吹き荒ぶ天気と化すと、さっきまでになかった轟々とした雪の吹き荒れる音が屋外に鳴り響き、家の外壁や、窓や屋根を軋ませようとする激しい風が森全体を打ちつけているのだった。  ハルキは、玄関先から持ち出した仕事の相棒の、愛用のライフルを床に立てると、胡座をかいてそれを布で磨いた。何度かそうして磨きを加えるうちに、ライフルの鉄鉄しい黒光りの銃体は、その度に一層新たな輝きを生み出しているような気がして見えていた。 「アグラなんとかっていうどっかの見たこともない知らない辺鄙な国の変畜憐な火薬爆弾なんかよりも、この俺のライフルの方が、よっぽどかっこいいぜ」  ハルキはそしてそのライフル磨きを終えると、ふうっ、と部屋灯りの光を反射する銃口に息を吹きつけて、それを構えるポーズを、どこに射撃の焦点を合わせることもなく、一人でつくった。 「たとえ、どんな奴が襲ってきても、俺はこの銃で、自分の手ですぐに撃ち倒してやるんだ」  ハルキはそう呟いて、Bung、とライフルを撃つ真似をした。

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第一章

第零章

 クリスタルナハト(通称水晶の夜)とは、一九三八年十一月九日の夜から十日の未明の頃にかけてナチス政権下のドイツ各地で発生・勃発した反ユダヤ主義暴動、又ユダヤ人迫害事件の事である。当事件の概要としては、ユダヤ人の居住する地域であるシナゴーグ等の地が、次々と反ユダヤ主義暴徒の襲撃の的となり、放火や住民達への無差別的な暴力が繰り広げられ、振り掛けられたものとなっている。  暴力を主先導したのは、SA(突撃隊の事。正式名称はシュトゥルムアプタイルング)の隊員で、ナチス・ドイツの総統であるアドルフ・ヒトラーや彼の保護親衛部隊であるSS(シュッシュツタッフェル)はこの騒動を止めるに至らず、あくまで傍観者としての立場を貫いた。  事件の名称の由来としては、破壊された店舗等のショウウィンドウやショウケースといった硝子が、夜の月灯りに照らされて、水晶の如くに煌めいて輝いていた事が要因として挙げられている。  当事件の大きな原因としては、ナチスによるポーランド系ユダヤ人達の追放が確かにされている。一九三三年一月三十日、反ユダヤ主義をモットーに掲げるも、多数のドイツ国民からの支持を受けて、当時ドイツの主格的な一党となったナチス党の総統、党首であるアドルフ・ヒトラーがドイツ国首相に任命されたのち、ドイツ国内では、ドイツ系ユダヤ人の迫害が悪化している現状があったのだけれど、ポーランド人は比較的そんな彼らに追随する迫害に同様に晒される事はまだなかった。  事の発端は、ポーランド政府が一九三八年十月六日にすべてのポーランド旅券について、検査済みの認証印が必需であるとする新たな旅行法を布告したことにある。この旅行法によって、ドイツに在住するポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍が無効化されたのだった。しかし反ユダヤ主義の一国であったポーランドは、かような旅行法の産物となる、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人達の帰国を嫌悪していたのだった。  一方でそれらの思いとは逆に、ポーランド系ユダヤ人をポーランドへと送還させたがっていたドイツ政府は、このポーランド政府の決定事案に憤怒したのであった。その為にドイツ政府は、ポーランドの旅券法が発効されうる一九三八年年十月三十日よりも先手打法として、ポーランド系ユダヤ人を強制的にポーランドへ送り返してやろうという企みを抱いた。  そしてかの旅行法発行の当日、累計一万七千人にも募るポーランド系ユダヤ人の帰還移送が大型荷物車や列車等により実行されたが、車両達がポーランドの国境地帯に到着した際に、ポーランド国境警察はこの行為に対して、国境を封鎖してしまい、ユダヤ人の受け入れを断固拒否したのである。当時まだ旅券法が正式に発効されていないのにもか関わらず、ポーランド政府はまだ有効であった旅券を持つポーランド系ユダヤ人の受け入れを独断無法的に拒否したのであった。  このような事から、結果としてドイツ政府からもポーランド政府からも受け入れを拒否されてしまったユダヤ人達は、国境の無人地帯で住む家や食料も安住に携えるものがまるで存在しない状態となって放浪に至る事となり、成り得るところが、彼等はかつてなく窮乏した生活を余儀なく強制(しい)られる事となり、無居住地者や、酷い時には餓死者も大勢にわたり生まれたのだった。  そしてこの事件の直後に、更なる反ユダヤ主義暴動に拍車を掛ける事件が勃発したのであった。それが、記されるところのラート事件である。ラート事件とは、簡潔に述べるならば、ポーランド系ユダヤ人家庭の少年であり当事件の主謀者ヘルシェル・グリュンシュパンによる、ドイツ大使館の三等書記官であるエルンスト・フォム・ラートに二発の銃弾を撃ち込んで、その彼を殺害した一様の事件の事を指し示すものである。  この事件の報せを受けて、ナチス党内でもより狂信的な層の支持者達が早くも十一月八日に、新たなる反ユダヤ暴動を引き起こしたのであった。  そしてこの事件を受けて発生に至らしめられたのが、かの主題となっている、水晶の夜もとい「クリスタルナハト」というわけなのである。クリスタルナハトの暴動の際、ユダヤ人は当然のように、その身に殴打やなぶり蹴る等の暴力を当て振るわれて、侮辱され、追い詰められた。果てには運の悪いユダヤ人は、殺害にまで追いやられる程であった。他のユダヤ人がすぐ隣横で虐殺されているのを感じながら、「我が闘争」等の書文を強い読まされるユダヤ人の男、そしてあらゆる道端や住居内に押し入った暴徒達により強姦されてしまったユダヤ人女性達。このような誰がその目にどう眺めて凝らしてみても、残虐非道極まる行為、騒動に他ならない事件を目の当たりにしたユダヤ人達ではあったが、大多数の市民の反応としては名目上の目的等よりも、むしろそのような非道徳的な迫害や汚い方法に対して沈黙した否認という態度が一概に提示されていたのであった。そんな状況が嘆かわしくも続く一方で、中には大きな生命に於ける危険を冒してまでもユダヤ人を救助した者も、その良心若しくは使命感に駆られてか、やはり存在していたのだった。  何度も言うようではあるのだけれど、かような一連の騒動の、割ち砕かれて路上一面に散らばったショウウィンドウの破片が月灯りに照らされて、それらの破片が水晶のように輝いていた風景や実態を称して、当事件は「水晶の夜」もとい「クリスタルナハト」と呼ばれたのである。実際のところを記し述べれば、硝子以外にも、殺害されたユダヤ人のおびただしい量の鮮血や目にするのも悲痛で苦しく傷ましいような遺体、それから破壊された建造物の瓦礫といった物による散乱混然で、その事件現場は言葉に表すには相当に困難を要するまでに悲惨なものだったという。  また、この「水晶の夜」は、ラート射撃殺害事件を発端として自然発生した単なる不可抗力的な暴動ではなく、毅然のナチス党政権による「官製暴動」であったとされる説も存在するのであった。(つまり、反ユダヤ主義に於ける、ユダヤ人の迫害及び殺害を正当化する為の創り上げられた名目的な暴動であったという事である。)もし、この説が本当なのだとしたら、それは許されないどころの話ではないのではないだろうか。 「長々と述べたのだけれど、結局のところ僕が何が言いたいのかと言うと、こんな事件は二度と歴史の中で起こらないで欲しいと思うし、実際起こってはいけない事なんだろう。僕はそう痛々しいほどに感じているんだ」  その喋る猫はそう語ったのであった。

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第零章