アベノケイスケ
92 件の小説25
ユウヤは早速O公園の東街通りに出て、探し出した電話BOXの中に入ると、一枚のテレフォンクラブの広告に記された電話番号に電話を発信した。わくわく桃飛沫、022-XXXX-◇◇◇◇と受話器の番号を押し打つ。発信音が狭いBOX内に鳴り響き、ユウヤは興奮して荒げる呼吸を落ち着ける。ガラス越しに街の人々が出かけて歩いていく様子を汗を垂らしながら見やる。真っ赤なジャケットに紺の丈の短いスカートを履いたハイヒールの茶髪のロングヘアの派手なメイクの女の片手に持つ鰐革のバッグや、眼鏡を掛けたサラリーマンの男の横を無邪気に走って駆け抜けていくランドセルを背負った子供達を見やる。しばらくして、ユウヤの受話器の元に受信が繋がる。もしもし、と相手の声が聞こえる。若い男の声だった。 「こちら、わくわく桃飛沫です。何かご用件でしょうか?」 「もしもし、あの、紹介して欲しい子がいるんですけど」 受話器を握る手に汗を感じながらユウヤは言う。 「この、金髪の畑中ハヅキっていう子を頼みたくて」 「分かりました。デリバリーをご所望ですか?」 あはい、そうですね、とユウヤはぎこちない息混じりの声で答える。 「送り先の場所はご自宅ですか、それともどの辺りを希望ですか?」 えっと、とユウヤはガラス越しの街並みに目線を向ける。真っ先に目に入ったのは、字体の崩れた店名のオシャレブランドの雰囲気のある服屋のシャッターの閉じた建物だった。そうですね、O公園の東街通りの入り口辺りでお願いします、とユウヤは言い、かしこまりました、少々お待ちください、と電話先の男が答え、では失礼します、と電話を切り会話を終了させる。 しばらくして、電話で指定した場所にタクシーが停まる。降りてきたのは、一言でいえばモデルのような若い女だった。見た目は二十代前半くらいで、ユウヤとそう歳は遠くないように感じる。白いクリーム色のブレザーを着て、ダークチェリーの丈の短いスカートとフェラガモの黒いローファーを履き、手首や指や首元や耳によく知らないブランド物のアクセサリー飾品を装っていた。肌は光るほど白く、ブリーチの完璧に仕上げた金髪のポニーテールを髪型にセットしている。メイクは濃目で、ブラッシュアップされた人形の顔のようにも見えた。彼女はユウヤが電話にて頼んだ、ヘルス嬢の畑中ハヅキだった。もちろん源氏名だろうが、ユウヤはなんとなくその名前が気に入った。わくわく桃飛沫とは、おもにテレフォンクラブを経営する風俗店らしいのだけど、そのほかにブルセラショップやソープ、現に目の前のヘルス嬢のハヅキといった風俗嬢達を配員するデリバリーヘルス等の多種な職種をまとめるその界隈では大手の企業らしかった。 ハヅキはタクシーの運転手にツケといて、と手で指示を仰ぐと、颯爽と去る車両を見送るなり、その場でコンパクトミラーを取り出して、メイクの確認を始めた。ねえ、とユウヤは彼女に声を掛ける。ハヅキは一瞬周りを左右に見回し、ユウヤに気づくと、まるで何も見ていないかのように無視して再び鏡を覗き込んだ。 「ねえ、ちょっと」 ユウヤが近づこうとすると、はあー、とハヅキは大きく溜め息を吐き、コンパクトミラーを気怠そうに仕舞った。ポニーテールを掻き上げ、首元を毟った。 「聞こえてるっつーの。うざったい」 そう言うと、ハヅキはユウヤの顔を睨みつけるようにしながら、彼の元へ近づいて行く。ドルチェ&ガッバーナのライトブルーの匂いが強く香り、ユウヤの鼻腔を突いた。アンタ?電話してきた客って。ハヅキは重く圧を掛けるような声で言う。 「え、えっと、そうだけど」 「……はあー」 ハヅキはユウヤの全身を一通り見終えると、またもや大きく息を吐いた。な、何?とユウヤが言うと、なんでなの、とハヅキは視線をよそに逸らして言う。 「なんでこんな奴なのか、って言ってんの」 「こんな奴って?」 そうユウヤが尋ねるも、ハヅキはそれすら答えるのが面倒なのか、まあいいや、とユウヤを一蹴するように眺め、ほら、と掌をユウヤの前に突き出した。 「え?」 「料金よ、先払いだから、私」 言っとくけど、払えないとか言わないでよね、とハヅキは脅すように続ける。もしそんなこと垂れたら金玉握り潰すから。 「あ、そ、そっか、……いくら?」 五万、と素っ気なく呟いて、ハヅキはユウヤから手渡された五万円分の紙幣をぶん取り、すぐさま金額を指で数える。そんな彼女の様子を見て、ユウヤはずいぶんと気の強い女だな、と思った。ユウヤの経験相手は今のところミレイしかおらず、ハヅキを目の前にして、少し怖気付いていた。しかしながら、大人しく甘えたがりなミレイとは真反対な彼女に、ユウヤは新たな刺激を求めようとする興奮を感じているのも事実だった。 「アンタ名前はなんて言うの」 「えっ」 「名前よ、名前」 ユウヤは自分の名前を答える。ハヅキが金額を数え終えてポケットに仕舞う間際に言う。 「勘違いしないで、イくときに叫ぶ名前聞いただけだから」 その彼女の返答に、ユウヤは思わずどきりとした。ツンデレの彼女がもし自分にできたら、こんな感じなのだろうか、と胸を高鳴らせる。 「で、どうすんの?ここでやんの?」 そのはハヅキの言葉に我に返り、あ、えっと、ここじゃなくて、とユウヤは戸惑いながら言う。 「じゃあ早くさっさと案内して」 わかった、とユウヤはハヅキの前に立ち、彼女を目的地へと案内する。 ユウヤはハヅキを連れて東街通りを抜けて住宅街の見下ろせる土手道へと出ると、その土手から彼女と共に川原へと降りる。 「ずいぶん遠くまで来たわね、一体何する気?」 ここまでわざわざ嬢を連れてくる自分も自分だが、ちゃんと着いて来てくれる彼女も彼女だ、とユウヤは勝手ながらに思った。 「ここ、河原じゃない、こんな所でどうするの」 「そうなんだけど…こっちに来てくれる?」 少し訝しがるハヅキの視線をよそに、ユウヤは彼女を土手から繋がる橋の下の橋桁と橋脚の影の重なる雑草と小石の茂り敷かれた場所に誘導する。 「ここでいいの?」 ハヅキが橋桁の下に立ち、うん、ありがと、とユウヤが言う。 「それで、何すんの?」 ハヅキの流石に不思議そうな目つきを受けて、実はそれなんだけど、とユウヤは少し言いづらそうに口篭もる。 「何もごもご言ってんの?さっさと教えてよ」 「その、ここでセックスして欲しいんだけど、僕と」 ユウヤがそう言うと、ハヅキは明らかに意表を突かれた顔つきになった。え、ここで? 「アンタ、本当にそれ言ってんの?」 「うん、……駄目、かな」 ハヅキはしばらく橋桁の裏側や河川に流れる濁った花弁を眺め回すと、別にいいけど、小さく答える。 「そりゃあまあ、こんな所に来たら、そうなるわよね」 それにアンタにはちゃんと金払ってもらってるし、客は客、こっちも仕事しないとね、とハヅキは何故か満更でもないような口調で言う。 「でも、ちょっと意外だったわ。アンタみたいなのが、青姦なんか興味あるなんて」 ハヅキにそう改めて言われると、ユウヤはそれはそれで恥ずかしい気にもなってきていた。そんなにはっきり言わないでよ、とも口にはできずに、あ、うん、まあとそれだけ言うしかできなかった。 「まあそれならそれでいいや。最近はおんなじ所ばっかで退屈気味だったからさ。偶にはこういう思い切った場所でもやんなきゃね、刺激中枢が腐っちゃうわよね」 ハヅキはそんなユウヤを肯定するつもりかどうかよく分からないことを言って、行為をする準備に取り掛かろうと背伸びをする。 「そういえば、アンタあれ持ってんの?」 「あれって何?」 ユウヤがぽつりと言うと、コンドームに決まってんでしょ、バカなの?とハヅキがユウヤを睨む。ご、ごめん、とユウヤは慌ててポケットから取り出した未開封の包装を取り出す。 「まあ、無きゃ無いで別に生でヤってあげても良いんだけどね」 「だ、駄目だよそんなの」 アンタが出すの忘れてたんじゃない、とハヅキはユウヤに声を上げる。ごめん、とユウヤが言うと、アンタもいつまでも謝ってばっかいるんじゃないっての、とハヅキは溜め息をつき、ほら、早くして、とユウヤにセックスの準備を促す。 「……あ、そっか」 ハヅキはそう言って何かを察したように両手をスカートの中に潜り込ませると、徐にショーツを脱ぎ始めた。静かに音を立てて、河川の流水と重なる。 「アンタのが勃たないと着けられないもんね」 ハヅキはそう言うと脱ぎ終えたショーツを石畳に放り捨て、スカートをたくし上げてユウヤに橋下の影と日向の僅かに陽射した腹部の臍と腰骨と毛の殆ど生えていない陰部を晒し見せた。ユウヤはそれを見やるや否や間も無いうちに自分の股間が反応するのを感じた。それは最も容易く、直ぐに硬直して、完全に起き立った。ユウヤは早速ズボンを下ろし、勃起したペニスにコンドームを着け始める。焦んなくて良いから、と何故かハヅキは優しさからか分からないがそんな風にユウヤを見つめる。 「さっさとして、早く済ませたいんだから」 ハヅキはそう言うと、ユウヤの着け終えたペニスをしかめ面で、怪訝そうに見る。 「それっぽっちしかないのに、私なんかとヤろうとしてるの?」 まあ良いけど、とハヅキは橋脚の方を向くと、ユウヤに背を向けて、尻部を突き出すような体勢をとった。バックでいいわよね?と言われ、ユウヤはあ、うん、とだけ答える。挿れるね、とペニスを手に掴み、ハヅキの膣穴に先端を滑り込ませる。んっ、という彼女の声が漏れるのが聞こえる。そのままゆっくりと腰を動かして、ユウヤは熱をその振動と共に高めようとハヅキの膣奥を突いた。前後にそれを行うたびに、彼女はあっ、あん、だめ、と喘ぎ声を繰り返す。 しばらくして、ユウヤの身体にはある心地よさが訪れた。それは海水浴の後の柔らかい陽射しの差す午後の扇風機を浴びて部屋で寝そべる時の感覚に似ていた。僅かに火照る身体をひやりと冷ます風。ユウヤは特に何か声を出すわけでもなく、ほどなくして射精した。あ、とそれだけが声に出て、ハヅキの膣穴から愛液に塗れたコンドームの先に白濁の溜まるペニスを抜き出す。もうイったの、早くない?とハヅキが物足りなそうな顔つきでユウヤを振り返る。まだ出るでしょ?とハヅキはもう一度ユウヤに挿入するように示しユウヤもそれに答えて、また彼女の中に入り込ませた。不思議と、まだ出せるような気がした。 「ねえ、せっかくだから、やっぱり生で挿れたらいいじゃん」 え、とハヅキの声にユウヤは戸惑う。駄目だよ、そんなの、とユウヤが動きを止める。 「外に出せばいいでしょ、早くゴム外して」 ユウヤは仕方なく、コンドームを取り外して、再度ハヅキとの行為を始める。彼女の言う通り、余計な物が無い分、より彼女の中の肉質と熱を感じることができて、直ぐに絶頂が近づいた。もうだめっ、とハヅキが言った瞬間にユウヤは慌ててペニスを抜き出し彼女の尻部に二度目の射精を済ませた。 「中に出しても良かったのに」 意気地無しね、とハヅキは馬鹿にするようにユウヤを見る。そんな事出来るわけないだろとユウヤは息を切らして言う。そのまま垂れたユウヤの陰茎部をハヅキは掴む。ほら、舐めたげるから、とユウヤにペニスを前反らせるように言う。そして彼女はまるで演技とは思わせない色気のある仕草でユウヤのフェラを終えると、んべっと咥えた物を離しすぐさま正気に返ったかのように川の方へと向かい、その流水でうがいを始めた。 「やっぱり、調子に乗るんじゃなかった」 ハヅキのその言葉に、僕のってそんな川より汚いの?と声には出さずに彼女に問いかけた。 ハヅキはショーツを履き終えると、ブレザーのポケットから取り出した煙草を喫い始める。 「私が中でいいって言ってんだから、出せば良かったのにさ」 ユウヤはだって子どもができちゃったらどうするんだよ、と川の流水を見やりながら言う。 「大丈夫だって、仕事柄ちゃんとピル飲んでるし」 そういう事じゃなくて、とユウヤは高校時代にクラスメイトが妊娠して退学する噂を耳にしながら昼食を食べている時の映像を思い浮かべる。いつかハヅキも本意せずそうなってしまうのではないかとユウヤは自分が言えることではないが気になった。 「余計なおせっかいよ、私がどうなったってアンタに関係ないでしょ」 そうだけど、とユウヤは彼女の顔を見やる。メイクのせいか、心なしにミレイよりも美人なのではとさえ思った。しかし、彼女とのセックスはミレイほどの熱を感じなかったなとも同時に感じた。 「モデルとかはやらないの?」 はあ?とハヅキはユウヤを睨む。馬鹿にしてんの?とユウヤはその声に怯む。 「そんな甘くないんだから、アンタは知らないと思うけど」 ハヅキはそう言うと大きく煙を吐き出して、それよりさ、とユウヤを横目で見る。その顔の怪我はなんなの?と吸い殻を指のように差す。 「友達と喧嘩したんだ」 「そんなにまでなるくらいの喧嘩する友達?」 「友達、というか恋敵なのかもしれないけど」 ずいぶん荒っぽい恋敵ね、とハヅキはあまり興味なさそうに言う。それにアンタ恋人居たんだ、と吸い殻を川に投げ捨てる。 「まあ、程々にしなさいよ、」 ハヅキがそう言ってユウヤの肩を叩いた瞬間、ユウヤは断末魔の声を残して崩れるようにその場にしゃがみ落ちた。
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案の定、ユウヤはその翌日ケンイチに殴られた。以前のように目を覚まして家を出て学校へ向かおうとする際に、ケンイチは物陰から飛び出して、ユウヤを思い切りに殴り飛ばした。ユウヤはもちろんその場に軽々と倒れる。おい、とケンイチがユウヤの襟首を強く掴み、彼の体を引きずり上げて立たせる。 「お前は一体何をやってるんだ?ああ?」 眩しい水色の空の下、ケンイチの怒凄(どす)の効いた重い冷たい声がユウヤの耳元に響く。何が、とユウヤは襟を掴まれ苦しそうな声で言う。 「また惚ける気かあ、てめえはっ」 そう怒声をあげて、ケンイチはユウヤの左頬を力一杯殴る。ぐごふぁっとユウヤが呻きを洩らして顔を項垂れる。下奥歯の歯茎から鮮血が流れて、口元に溢れる。鉄の匂いと味が舌先の味蕾に嫌な口当たりをもたらす。 「てめえ、何度言っても懲りねえやつだなあ、またミレイとヤったんだろ。なあ俺知ってるんだぜ、バレねえとでも思ったのか?ああ?アイツと抱き寝したんだろ、この前の約束はどうなってんだ」 ケンイチの怒りは止まらず、ユウヤは右頬も同じく強く殴打される。誰か、と助けを周りに求めようとしたが、不幸にも朝が早い為か周囲に人影は見当たらずにいた。ユウヤは涙ぐんで、ケンイチの顔を見やる。彼の顔は、以前にも増して恐ろしく、理性を失った目つきを見せていた。目元が吊り上がり鋭く、野生の獣そのものといえた。口元も歪んでおり、牙のように前歯を剥き出している。鼻息も酷く荒くて、ユウヤの口中に広がる血液を乾かすように吹きつける。 「お前、もしかして今度はケツやったんじゃねえだろうな」 「何、それ……」 「しらばっくれんな、お前の汚え腐れ棒でアイツのケツん穴に挿れやがったのかって聞いてんだ」 ケンイチの力は恐ろしく頑固で、以前よりも彼の手を襟元から離すのは難しく感じられ、ユウヤは絶望した。彼の手の締め付けがきつくなる。 「ケツに突っ込みでもやりやがったのか?どうなんだ、あ?」 「し、して…ないよ、……そんなことっ」 ユウヤが言うとケンイチは構わずにユウヤの身体を引っ張り、暗いじめっている路地の金網のフェンスに突き飛ばした。がしゃりん、と大きな金属音を立てて、フェンスは揺れ、ユウヤは背中を金網に擦りながらずり落ちる。健一はユウヤをもう一度起こし立たせ、顔面を殴りつける。ユウヤは鼻を触り、手のひらに鼻血がべとりとついた。 「俺はな、いいか、俺はな同じことをするのも言うのも嫌いなんだよ、大嫌いなんだ。だから、このまま前みたいにだらだらと喋ってお前を逃すつもりはねえんだ」 だから今日は覚悟しとけよ、とケンイチはユウヤの腹に蹴りを入れる。ぐふあっ、とユウヤが腕で腹を抱えて、地面にうつ伏せる。吐き気が急激に込み上げて、ユウヤは思い切りにその場に吐き戻した。朝に食べた物の未消化の吐瀉物が撒き散る。 どうやら今日ばかりは、ケンイチも能書をつらつらと述べ垂れるつもりも無いらしく、殴り掛かり襲ってくる事に一点を張る様子で、どうしよう、とユウヤは思わず嘔吐の気持ち悪さで全く回らない思考回路に頼って頭を悩ませた。逃げられないのか、このまま今日は逃げられないのだろうか。 ケンイチはすかさずその強固な拳を更に振り上げかざして、ユウヤの顎をアッパーカットの如く殴りつける。ユウヤは瞬時に空を見上げ、身体の何処からか血が火花のように吹き飛び散る。もはや声も出なかった。ユウヤの吐瀉と血が拳に浴び掛かるも、ケンイチは興奮して全く気にしないまま、ケンイチの腹をその拳で殴った。ユウヤがまた吐瀉を吐く。一番最初に出血した傷口が、早くも酸化し始めるように空中の風で固まり始めていた。 ユウヤは最早何が何だか全く見当もつかず、何もかもが理解できなくなっていた。何で今自分がここにいるのか、何で今自分は目の前の男に殴られているのか、何で空はこんなにも晴れているのか、何で空はこんなにも晴れているのに、水色と白と透明度で晴れきっているのに、自分の身体からは紅く黒く、鉄のような嫌な匂い、小学校の頃によく校庭の鉄棒で休み時間に遊んだ時の逆上がりや棒を軸に身体全体を使った前方向に勢いよく回転する運動を練習した為にその時両方の鉄棒を強く握っていた掌に残って風呂に入り終えるまで消えないあの金属特有の血生臭い匂いが今こうして自分の鼻を覆うようにつんざき漂っているのか、ユウヤにはその全てがいずれもが分からなかった。何故ならユウヤは今にも意識を失いかけていた。このまま、この場に倒れて気絶し、もう二度と立ち直れないかもしれない、とさえ感じた。ここに倒れ、ケンイチの殴打を最後に、自分はこの路地裏で、後に風が強くなり雨が降りその雨が強く激しく降り続け、嵐が来て猫が鳴き声を上げて野良犬たちや鴉や住む場所のない老人たちが一斉に街から立ち去っても、自分はその雨をただ肌身で感じるだけで、それが冷たいかも熱いかもわからぬまま、目覚めることのない眠りについて、身体から溶け出した紅からやがて黒く酸化し、泥のように固まる血液と同化して、再び起き上がることのできぬようこのコンクリートの湿った黴の仄かに香る地面に締め付けられて、それっきりになるのではないかと感じた。しかしユウヤはそれを否定し拒む気力も無くなってしまっていた。自分は死ぬんだろうか?掌から力が抜けていく、いや既に力はなく、足からも脱力が見られて、ケンイチの手掴みなしでは起き上がれなくなっていた。 「おいおい、もうくたばってんのか?弱えな、弱えなあ、おい、そんなんで生きていけんのか?」 ケンイチは何の情けからなのか、拳を次に大して攻撃性の強くない右足首にぶつけた。ユウヤは足を崩して、膝を落とす。ケンイチの拳は素手でありながらも、メリケンサックのように強固だった。乾いた血が、カラーコーティングの塗装のように彼の拳に張り付いている。 「筋トレしろよ筋トレ、そんなんでミレイの遊び相手が務まると思ってんのか」 ユウヤは何も答えない。何も答えられなかった。もし無理矢理にでも答えようとすると、彼の口から出るのは胃酸で塗れイガイガとがさついた喉奥から強制的に送り出されてくる嘔吐物だけだろう。実際、息を吐こうとするが、空気と共に、胃液混じりの鼻水や涎が溢れてくる。 「そういやお前、あれ使ったのか?」 ケンイチに凄まれて、ユウヤは何とか声を発する。あれって?な、何のこと? 「あれだよ、あれに決まってんだろ、ほら前にお前に帰り際に渡した、袋のやつだよ」 ユウヤは微かな意識の残る中、必死にその彼の言う袋を思い出す。あっ、とあのケンイチに渡されたが、中身を確認するなり部屋の塵箱へと棄てた、薬物然るべき粉物の入った袋が思い浮かんだ。 「あ、……あれって、…や、薬物、のこと?」 「ドラッグって言え、それかヤクだ。なあ、それ使ったんだろ?なお使ってねえのか、どっちなんだなあおい」 つ、使ってるわけないだろ、とユウヤが言うと、何だと、ふざけんな、とケンイチがユウヤをフェンス横の塵箱に蹴り投げる。きゃあ、とその時、路地裏の出口で女の悲鳴が聞こえる。どうやら通行人が目撃したらしい。ああん、なんだこらあ、とケンイチが女に凄むと、女は直様何処かへ走り去っていった。待って、と言うユウヤの声は発音にならなかった。 「お前、あれ使ってよお、俺と喧嘩するんじゃなかったのか?ああ?あれ吸ってトんでよお、俺に対抗するんじゃなかったのか?え、お前筋力ねえんだからよ、そうでもしねえと俺と対等になんか戦えねえだろうが、俺からのプレゼントだったんだぜ、全く無駄にしやがって、俺の苦労が水の泡だ。まあいい、それならお前に片付ける手間が省けたってわけだ」 あれって、一体、なんなの?ユウヤが吐き気を堪えながら尋ねる。ケンイチは息を荒く切らしながらも、笑い声をあげて答える。 「ありゃあな、バナンなんとかっつー至上価値のあるドラッグの代物だ。数グラムで云万円するとかって話だ。凄えだろ?なんでそんな名前なのか、知らねえけどな。とにかくソイツはちょいと身体ん中に入れるだけで、自分の本来持つパワーの1.5、いやそれ以上、2倍以上の増幅を促すそうだ。体力だけじゃなくて、脳の思考回路や、視力や聴力さえもな。本当だぜ、今だって俺には何もかもが聞こえてるんだからな。いいか、何もかもだ。お前の小蝿みてえな息の音も、この路地ん中の隠れた野良犬や猫ん声も、空を飛ぶ風の音も、草木の揺れる音だってそうだ。全部が今聞こえているんだ。疑うか?ならお前もさっさとやってみるこったな。いいか、俺から言えんのはそれだけだ」 ユウヤはそのケンイチの話の中で、彼の言うバナンという薬物の名の由来が何か、分かったような気がした。彼の口からは、何故かバナナの甘い熟れた匂いが漂っているのだ。それはきっと彼がバナンというその薬物を乱用したからではないのか、つまりバナンはバナナが由来しているのだ、と今考えるべきではないだろう事をユウヤは解読してしまっていた。 「よし、そんなに自分でやるのが怖えんなら、俺が注射してやるよ。な、それがいいだろ、今度、持ってきてやるよ。そいつ一杯に詰め込んだ注射器をな。俺がな、俺が打ってやるよ、お前がそんなに打つ気がないんならなあ!」 ケンイチはそう叫んで、またユウヤを膝で腹蹴りした。しかしユウヤは吐瀉物を吐かなかった。既に彼の腹部の神経は麻痺していた。それか、吐く物ももうとっくに残っていないのかもしれない。ユウヤはすっかり声も出せなくなり、瞬きも痛みによって忘れ、その場に全身で項垂れた。 「…………………………………………………………………」 「だからよお、なあ、楽しみにしてろよ、今度会ったら、お前にも体験させてやる。奇跡みてえな体験をなあ、凄いぜ」 ケンイチはそう言い残して、ユウヤを一目も振り向かずに、路地を去っていった。そうだ、とケンイチが続ける。 「お前、こんなんで死ぬなよ、いいか、俺は殺人者になりてえわけじゃあねえんだ。分かったな、なあ」 ユウヤが悶えて、一言の返事もできずに狼狽えているも、ケンイチも痺れを切らしたのか、息を大きく鳴らすだけで、何も言わずに路地を出て行った。 空は相変わらず白く水のように透き通り、穏やかな風と優しい肌触りで今まさにここで起こった二人の男の残劇をいともせず見向くこともないかの如く拭い去るように、晴々しく広がっていた。 ユウヤはその後病院に行った。当然学校は休む事にした。バイト先にも早くに連絡して、昨日に続き休みを取った。熱がまだ下がらないのだと伝え、先輩にも口頭で話した。今から病院に行ってきます。もちろん、その理由は、風邪でも発熱でもなく、ある男の暴力による出血と怪我が全てなのだが。 診察を受けると、特にこれといった重症はなく、皮膚表面の傷や出血に関しては、痛み止めや塗薬で対応できるとのことでユウヤは入院などには至らずにすみ、安心した。しかし医師は、私がこんな事を言うのはお節介かもしれないけど、警察に相談した方がいいのではないですか?とユウヤに身を寄らせて、診察を終えた後に言ってきた。ユウヤは大丈夫です、気にしないでください。とだけ残して、早速と診察室を出て病院を後にした。すぐに薬局で処方箋をもらい、家へ帰る。 ユウヤは病院が嫌いだった。病院というのは、彼にとって虚無と空白と苦痛のものでしかなかった。置かれた観葉植物は呼吸を忘れ、輝きを失い死んでいるように見えるし、患者たちは心に苦痛や悲哀を抱えてただ不安に何かを待っているし、看護婦や医師達はどこか無機質な機械のように思えるし、テレビや雑誌のある本棚は嘘のように感じる。ユウヤは小学校の低学年の夏休みの頃に軽い熱中症で一度だけ入院したのだけど、その時にはすでに彼の病院に対する嫌悪感は確立していた。 医師から言われた、警察への相談の話を思い出す。確かに医師の言うとおり、本来ならば相談するのが良いのだろうが、ユウヤは果たして日々軽重様々な犯罪の処理対策対応に追われる警察官が、自分の身の回りに起こる他所からみればただの痴話喧嘩に過ぎない事柄に真面目に取り合ってくれるのか、それが今ひとつはっきりと信じられずにいた。 ユウヤは家に戻り、早速塗薬と痛み止めを飲むと、すぐにベランダへ出て、いちごへの水やりをやった。すると、いちごの花托は既に紅く実を付けており、収穫できるまでに成長した果実となっていた。ユウヤは体の痛みと相反する嬉しさを胸に、その果実の一粒を千切って掌に乗せて見つめた。ベランダへと吹く風が一層涼しくなり、ユウヤの傷に染みた。ユウヤはてそれを一口放って食べる。昨夜の他招き祭りで配られた物よりも甘みは少なく、熟れきらない青い酸味の棘が口中に広がったが、ユウヤはそれがとても愛おしく、暖かく感じた。目元が不意に緩み、涙腺が水分を生み出して、ユウヤは一粒の涙を落とした。それは頬を伝い、いちごのまだ果実の実らない花や葉に滴り落ちる。 ユウヤはその時、無意識にミレイのことを思い出した。彼女の身体を思い出す。あの廃屋のようにぼろぼろな外装と無機質な屋内のラブホテルで夜中、一晩を通して彼女と欲望や熱を確かめ合った時のこと、彼女の唇やその唾液が、彼女の股間部の肉感が皮膚感がユウヤの口にしたいちごの酸味と共に全身に広がるように思えた。 ユウヤはそして、ミレイに会おうと電話を掛けるわけでもまたこの前みたいに性欲発散の為にレンタルビデオ屋に向かうでもなく、家を飛び出して、彼はテレフォンクラブの広告が貼られている電話BOXを街に出て探した。
23
午後五時基十七時、夕峰山裏横に流れる夕峰川の河口傍の河原で、無事灯籠流しは開催された。ユウヤとミレイは暗目に見える人混みを掻き分けて河口付近へと出向き、トーチ形の灯篭が流され始めるのを横長の平たい岩に座り込んで待った。 河原の茂みには蒲公英と三つ葉その他雑草類が八割二割の振分で咲えている。石畳に停められたトラックの荷台に造られた紅白の櫓が神楽を奏でていて、その隣には三台程のシャンデリヤに似た照明を吊り下げているクレーン車が並んでいた。 灯籠流しの点灯が始まるまで、ユウヤとミレイは特に何かを話すこともなく、ただ目の前の早い日入りを経た、夕暮れから晩に変わる紺色の月の輝りと白い星散りばめく空とそれに従い闇を生み出す河口の表面を眺めた。ミレイが袋から朝方に買って残していたたこ焼きそばを夕飯代わりに食べ始める。食べる?とユウヤに言い、ユウヤも何口かもらった。 ユウヤはふと目の前の河口や夜空の風景に、あのゴッホの絵画、星月夜を思い出した。さっき美術館で観たゴッホの星月夜を写実化した様な景色が河川越しに広がる。水に溶けた絵の具の濃淡ようにぼやけた紺色が上空を広く染め広げている。当絵画作品の印象的なモチーフの黒い糸杉の代わりに、街の巨きな時計台が影に呑まれて聳えていた。 星月夜は、ゴッホが精神異常の末に耳を切り落とした事件の後に描かれた傑作というのは有名な話だが、耳を切り落としたゴッホは音を聞かずにどうやってあんな名絵画を描き続け、完成させたのだろうか。音のない風景は写真のように無機質で現実味がなく、作り物のようになってしまうはずなのに。ユウヤはそんなことを、冷めてソースの乾いた焼きそばの麺を噛みながら考えた。彼の生い立ちと当作品を、目の前の風景の外貌と比較、照合しながら灯籠が流されるのを待つ。 間も無く河川敷を足音や人影が埋め尽くし、灯籠流しの主体であるトーチ型の灯籠がまるで焔を模した光源となって、夕峰川河口に放流された。それらはそれぞれ色取りどりの彩りを見せて、虹色の蛍のように水面中に輝き、煌めいた。河川の静かだけど力強い細波が、灯籠達を川全体へと導く。灯篭には様々な果物の絵が描かれており、鮮やかに生き生きとしていた。 きれいだね、とミレイが横で呟き、そうだね、とユウヤもその光景を見つめながら答える。焼きそばを食べ終えて二人は体育座りになり、しばらく灯籠達の光の余韻に浸った。そして灯篭に込められた想いを思い浮かべようとしとみる。一般的な灯籠流しといえば、本来は盆の季節である夏に開かれるのだが、このY代市では、数十年前の春に大きな災害が起こり、多くの人々が犠牲となった出来事があった。それは奇しくもこの他招き祭りの開催日である三月二十二日の三日前であり、その為に夕峰山本山地に於ける他招き祭りと並行してこの夕峰川において灯籠流しが始祭されることとなった。災害の内容は、津波による大洪水が要因の街の半壊、そしてそれによる多くの人命の亡失でその葬いと成仏を願って当時のY代市自治体代表は特別に当行事の提案を挙げたのだった。 他招き祭りの由来は、自分の身体からほかの場所に存在する幸福や運気を招き寄せる為の祭事と云われていてそれは幸運に限らず、人望や恋愛といった人間関係に於いての成就も兼ねて信じられている行事であるのと同時に、惜しくも亡くなってしまった人々の魂を呼び起こし迎えるという意味も含まれ、命名されていた。 二人はそんな悲劇にも亡くなってしまった人々、それは生まれが遠くか近くかもわからない人ではあるかも知れないが、彼らの死際の瞬時の痛み苦しみや哀しみや辛さ、そして残された彼らの遺族の人達のえも言われぬ深い涙に思いを馳せて、一つ一つ丁寧な蛍火のように点灯する流れる灯籠を眺めて、気付けば無意識に感情をその光の群と溶け合わせていた。後方では、トラック上の櫓から、レクイエムに代わりこの儀式の雰囲気を募らせる古風でありながらも洋式チックな鎮魂曲を演奏者達が披露していた。 「ねえ、そういえばミレイ」 ユウヤがミレイを振り向いて言うと、何?と膝前に組んだ腕から顎を上げた彼女が見た。少し肌寒いのか、ミレイは袖裾を指で握り込み、指を隠していた。 「昨日、寝る前にホテルで言ってたことなんだけどさ、覚えてる?」 「え、なんのことだっけ」 ミレイが少し眠たそうな顔で目を擦りながら言う。灯籠の灯りが暖かく、ユウヤの眠気さえも誘うような微熱を感じさせた。ほら、僕に聞いてきたでしょ、とユウヤが続ける。 「なんで、女の人は子どもを産むのか、ってこと」 「え、あ、そうだっけ…」 ミレイは本当に覚えてないみたいに、頭を掻いた。昨日酔っ払ってたから、覚えてないや、と小さく笑う。 「僕、分かったんだ、自分の答え。多分だけど」 ユウヤはミレイの瞳に反射するトーチの光を見つめながら言う。 「でも、なんで今になってそんなこと言い出すの?」 ずっと考えてたの?とミレイが驚くように言い、うん、ちょっとね、とユウヤが恥ずかしげに答える。ほんとユウヤって考え事好きだよね。とミレイが可笑しそうに笑む。 「それで、ユウヤの答えはなんだったの?」 「実は、子どもの時、母さんが言ってたのを思い出したんだ」 ユウヤは昔、それは父が病死した半年程後に、母にふと聞いたことがある。なんで、母さんは僕のことを産もうと思ったの?それは、子どもながらの好奇心による、純粋な何ら深い意味の無い疑問であり、母もおそらくそれを知っていて、あら、なんで急にそんなこと聞くの?とユウヤを面白がって見向いた。別に、何となくとユウヤは少し質問の恥ずかしさを感じ、それを隠そうと目を俯かせる。そうねえ、と母はそしてそのユウヤの疑問に答えはじめた。 「母さんが言うには、僕を産んだのは、花を咲かせたかったからみたいなんだ」 「え、花?」 ミレイがひどく不思議そうな目つきでユウヤを見る。そう、とユウヤは真面目に答えて続けた。 「母さん、花が好きなんだ。僕が植物を好きになったのも、その影響なんだけどね、だから母さんは花言葉とかも色々知ってて、僕が生まれる時、マリーゴールドを思い浮かべたんだって」 マリーゴールド?なんで、とミレイが聞く。それは、花言葉に関係があるんだけど、ミレイ、マリーゴールドの花言葉知ってる?とユウヤが言うと、知らない、とミレイは首を振る。 「命の輝き、だって言ってた。生命の誕生を祝う花なんだって。マリーゴールドは、季節的には初夏から秋を越えて咲く花なんだけど、植え付けが始まるのは、春なんだって。僕が生まれたのも、ちょうど今頃くらいの、三月の半ばだったんだ。四月は花残り月で、三月は花見月って呼ばれてるんだけど、僕は花見月の子どもなんだとも言ってたっけ。母さんは難産じゃなかったけど、やっぱり出産は痛くて苦しかったみたい。悪阻や陣痛が永遠に感じたんだって。暗いトンネルの中を、とても重い疲れて痛みが走る身体で足を引き摺って歩いてるみたいに。破水して病院に運ばれて、いよいよ出産になったとき、母さんは思ったんだって。自分は今から花を咲かせるの、自分の身体の中から、大きな花を、ってね。僕を産む時の息みはまるで花の開花に向け繋ぐ発芽を誘う伊吹、腹下部から僕の身体がいよいよ出てくる最後の痛みは発芽その間際の幼葉が開いていく動きの様に、母は例えてたんだって」 「でも、本当にそんなこと考えていられたのかな」 ミレイが疑問層に尋ねて、うーんどうだろ、とユウヤも頭を掻いた。母さんの僕を相手にする冗談半分かも知れないけどね、と笑った。 「そして僕という花の子どもが芽吹いて、母さんは血に塗れた僕を遠目に見て、この子を大きな花に育てよう、と思ったんだって。それでその時に、マリーゴールドの花言葉を思い出したらしいよ」 「命の輝き、だっけ?」 そう、とユウヤは頷く。ミレイが袖から掌を出して、太腿を擦っていた。 「それが、母さんが僕を産んだ理由なんだって。どう?」 どうかな、この話の答え、とユウヤはミレイを見る。少しして、ミレイがふふっ、と笑う。 「どうしたの?」 「面白い人だな、って思って。そんなことを真面目に考えてるユウヤも、ユウヤのお母さんも」 やっぱり、親子って似るんだね。とミレイは僅かに揶揄いながらも、羨ましそうにユウヤを微笑んで見つめた。そうかな、とユウヤは真面目に打ち明けたことの照れ恥ずかしさを抑え静めるように目線を河川の方に向けて、ミレイの顔から視線を逸らした。 「でも、素敵だと思うよ。そんな家族ってさ」 ミレイがそう言って河川の灯篭に目を向けた時、流れるトーチの光は一斉に白い黄金色に輝きを放った。 灯籠流しが終わり、時刻は午後七時を過ぎた頃ユウヤとミレイはあの山中の細い道奥にある神社へ参拝に行くことにした。空はもう既に白い星々の粒が夜空の闇暗さのおかげで一つ一つがはっきりと際立ち、痛いくらいに光っていた。こっちだよね、とミレイがユウヤに手を取られて歩く。二人は再びトイレ横の小さな神社へと続く細道の入り口へと来た。人影は殆どなく、それはきっと夜の黒さが影の輪郭をぼやかしているからかも知れないけど、足音も幾らか昼間に比べ減っている様に感じた。 二人は夕峰神社へと続く山道を歩く。左右には、提灯や行灯が主に紅と白の点灯を示して一定間隔で装飾されていた。それが二人の繋いだ手の甲や横顔の頬や足元の輪郭を疎に写した。 神社に着くと、二人の老夫婦が丁度参拝を終えたところで、老夫婦はユウヤとミレイの方を見ると、おや、こんな若い人が珍しいね、と話しかける。 「君たちも、お参りに来たのかい?」 「ええ、そうです」 そうか、と夫の方が提灯の明かりに照らされた微笑みを見せて、それはいいことだ、と妻の方を見る。なあ、母さん。ええ、そうですねえ。と妻の方も眼鏡を光らせて言う。 「私たちもこうやって、たまに来るんだけどね、こうして参拝をすると、なんだか心なしか暮らしがよくなるような気がするんだ。まあ、それ私の勝手な思いかも知れないけどね」 そう言って夫は白髪頭を撫でながら笑う。そんなことないと思います、と言ったのはミレイだった。 「参拝っていうのは、もちろん神様に自分の運命を委ねる、どこか行方の定まらないその場限りのことにも思えますけど、それだけじゃなくて、自分自身の中の神様、それは自分の確立した自己精神ともいえますけどその精神に自分の願いや想いを把握させて、それに向かい自らがその願い想いの達成に至れるようにする為の着火剤という風にも捉えられると思うんです」 ミレイがそう言い終えると、我に返ったように皆の顔を見回して、すみません、急に変なこと言っちゃって、と恥ずかしそうに顔を俯かせた。夫婦は馬鹿にするわけでもなく純粋に笑って、面白い人だね、と顔を見合わせた。 「君たちも、いつまでも仲良くするんだよ。私たちみたいにね」 老夫婦はそう言い残して、じゃあ私たちはこれで、と和かな笑みのまま神社を後にして、山道を戻っていった。どうしたのミレイ、とユウヤは彼女の顔を見る。急に話しだしてさ。 「わかんないけど、なんか喋りたくなっちゃって」 ごめん、気にしないで、とミレイは早足で鳥居を通り抜けて小さな祠のある神宮の前へと向かう。ユウヤも彼女の隣に立ち、二人は硬貨を賽銭箱へ投げ入れて、祈願した。ユウヤは今日二度目の祈願だったが、一度目と同じか、それ以上に祈りを続け、ミレイが顔を上げるのを待った。 「二度目の参拝って、意味あるのかな?」 ユウヤは山道の帰りで、ミレイにふと尋ねる。ほら、昼間も来ちゃったからさ、と神社を振り向く。まあ、別に問題ないんじゃない?とミレイはあっさりと言う。 「神様だって、多分そんなこと気にしてないよ」 「そうかなあ」 二人は撤収と片付けの始まる会場を後にして、そろそろ帰ろっか、と夕峰山の下山口へ向かった。どうせならさ、他の道から行ってみない?とミレイが言って、ユウヤは下山道半ばの左に外れた小道に入った。歩いていくと、道の途中で、ある物影が視界に入る。近づいてみるとそれは他招き祭りの創祭者、鷹縞竜司の銅像だった。 「なんで、こんな人通りの少なそうなところに建ってるんだろ」 ユウヤが何気なく言うと、恥ずかしがり屋だったんじゃない?とミレイが銅像を眺めて答える。 「だから、あまり人目のつかないところに建ててくれ、って頼んだんだと思う」 それは違うんじゃない、とユウヤは冗談を笑うように言ったが、案外本当かもしれないよ、とミレイは笑みながらも真面目な目つきで銅像を後にしながら言う。 山を降りると、祭りの音楽や屋台の明かりや人足は落ち着きを見せ、祭りは静かに終わりへと向かうような雰囲気が伺えられた。あー、楽しかったね、とミレイが背伸びをしながら言う。そうだね、とユウヤは片付けを着々と進めるかき氷屋の様子を人混みに眺めながら答える。 んー、とミレイが欠伸をして、今にも疲れ寝してしまいそうな顔を見せた。ユウヤは彼女の手を取って、コインロッカールームに置いてある荷物を持ち出して、駅までゆっくりと向かう。 「そうだ、ミレイ」 何?と眠そうな目つきでミレイが聞く。 「この前みたいに、負ぶってあげようか?」 ほら、背中に乗って、とユウヤはミレイに自分の背中に掴まるように示す。いいの?とミレイが言い、ユウヤが頷くと、ミレイはじゃあ失礼して、と腕を彼の肩に回した。 「ミレイ、ちょっと重くなった?」 ユウヤの声にミレイは彼の首を絞めた。ごめん、冗談だって、とユウヤが苦しそうに言うと、ミレイは笑って腕を離した。 ミレイを背負いながら、ユウヤは後方に遠去かっていく街の大通りの人影と屋台の微かな照明の灯りを眺めてそれらを噛み締めるように歩いた。ミレイの子どものような眠気から来る少し熱い体温を背中や腕や彼女の頬に感じて、ミレイと果たしていつまでこうやって、仲良く話したり何処かへ出かけたり待ち合わせて会ったりすることができるのだろうか、とそんなことをふと不安気に考えたが、しばらくして彼も眠気に襲われ、脳を疲れさせる思案はやめてミレイとただ帰路に着いてぐっすり眠ろうと自分に言い掛けて頭の力を抜いた。 きっとまたいつか、こうしてすぐに会えることだろう、ユウヤはそう自信と自覚を持って、ミレイを背負い上げる腕に力を入れて星達の煌めく夜空を見上げた。空は深夜の時刻帯に近入るにつれて、より広がる黒々しさと閃光みたいな星明りを強調しているように見えた。
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ミレイと山裏の隠れた茂み道を抜けて、山を下りると、閑静な住宅街のある通路に出た。ガードレールを飛び越える。人影は殆どなく、一台停車する車があるのと、犬を二匹首輪で躾して散歩する初老の女がカーブミラーの前を通って行くくらいだった。山の麓の道路に沿った並木の間から覗く湖に続く河口付近の河原に、クレーン車や荷搬送用トラックといった数台の車両と数人の現場作業の関係者と見れる者の姿やおそらく祭の役員の男女の姿がある。きっと今日の晩方に行われる、灯篭流しの準備や段取りの企てを確認し、作業に取り掛かっているのだろう。河口表面の波は、澄んだ青色をしている。 「ねえそれで、どこに行くつもりなの?」 「それは行ってから教えるから、とにかくついて来てよ。こっちよ」 そんな風に返答を受け流すミレイに戸惑いながらも、ユウヤは彼女の成すままの歩く方向に翻弄され後をついて行く。やがて住宅街を抜けて、今度は煉瓦造りが主な建設物で構築された通りに出た。それは店々が立ち並ぶアーケード街だったが、昨日行ったゲームセンターやレコードショップや本屋等の連ねる商店街チックな風貌とは一線を画し、別の世界のような雰囲気を創り上げていた。まるでイタリア北東部のアドリア海に浮かぶ海上都市のベネツィアの高級街にでも来たかのような、異国味を肌で覚える街並みが二人の前に広がってあった。 「ねえミレイ、ここはなんなの?」 「え、ユウヤもしかしてここも来たことないの?」 うん、はじめてだけど、とユウヤは横を通り過ぎる男女の服装を見やる。歳は三十代から四十代にかけて見られ、女はラトーレ製のベージュ色のリネン素材の丈長のワンピース、男はグレーに揃えたトリルビーと体型にぴっしりと合わせたスーツとパンツをカジュアル着こなしていた。両者とも、異国情緒溢れるセレブに見える。 「ミレイは来たことあるんだ?」 「ううん、私も実は初めて」 ええっ、とユウヤは彼女を向いて声を出す。さっきはまるで来たことあるような感じで僕に言ってたのに、と驚く。ごめん、思わせぶりで、ミレイが恥ずかしそうに弁解する。でも、なんでいきなりこんな所に?ユウヤが不思議に聞くとミレイは、ちょっと、行きたい店があってさ、と足を進ませ目線を通路の先に向けながら答える。 さらに二人でそんな見るからに高級そうなブティックや香水、オーデコロン専売店のようにリュクシーな店の立ち並ぶ通りを進んでいくと、目線の先には、少し変妙な、それでいて貫禄のある建物が臨んでいるのを目にした。あれがもしかして、ミレイの言っていた行きたい店とやらなのだろうか、とユウヤは再び疑問を抱く。そしてあれは果たして店なのだろうか?外観だけ見れば、それは全長百メートルは優に越えているだろう、金光に煌く何かのオブジェの様に受け取って思えた。ユウヤの通うN川美大とはまた違うモダンさが有り、近代チック且つ中世の風景を思わせる佇まいだった。もしかして行きたいところってあれのこと?ミレイはユウヤの声にうん、そう、と頷いて、特に他に何も答えずに建物へ突き進む。 建物の入り口へと到着すると、そこには二重に段なった広い階段が現れ、奥には警備員が立っていた。不審物を見逃すまいと監視する鋭強な目つきをしている。ミレイは然程臆することなく、その警備員の側へと近づいていき、入り口へと向かう。 「ねえ、ミレイ、大丈夫なの?」 「大丈夫って何が?」 こんな店、僕たちが入れる場所じゃないんじゃないの?ユウヤが警備員の凛とする立ち姿を恐る恐る見やりながら聞く。大丈夫だよ、私達怪しい人間じゃないんだからさ、ミレイはさらっと言う。 「だって、ここ、普通の百貨店だし」 そうなんだ、とユウヤはやはり半疑のままでミレイの後を付け、彼女の開けた頑丈そうな入り口扉の中へ続けて足を踏み入れる。警備員は一切二人に目線を凝らすことなく、只建物周辺の監視を続けていた、 店内は驚く程広く、普通の百貨店と括るにしては荘厳で神秘的な内装が施されている様に思えた。いらっしゃいませ、と二人に気づいた店内のスタッフが、笑顔で物腰柔らかく落ち着いた笑顔で出迎えた。ユウヤとミレイは会釈を返し、先を進む。一階は主に土産物売り場になっているのか、光を全反射する程綺麗なカウンターのショーケースに和菓子や見た事のない洋菓子など、多数様々な種類の高級菓子達が並べられている。ユウヤは値段を見て驚いたが、ミレイのどんどん歩む足にそれらを流し目で眺めるだけで、立ち止まることはできなかった。レジや商品ケースの前に居る販売員達は皆、男女共に一世紀昔のウェイトレスのような制服を纏っていた。 二人はそして、上の階へと向かうべくエスカレータに乗った。長いエスカレータで、半分ほど登った所で、ユウヤは一階の床場からかなりの高低差を感じた。店内に数人見えるセレブと思える客人達が、手駒人形のようだった。ミレイは、更に何度かエスカレータを上って行き、七階にある場所なんだけど、とユウヤを振り向いた。ユウヤなら詳しいかなって思って、と言う。僕が詳しいって何?と尋ねると、ミレイは何も返さずに、まあ、着いたらわかるよ、と意味深に呟き上奥の階を見上げた。 間も無くして、二人は七階に着いた。目的地のある方向へ二人は向かい、店の構造による曲線の通路を歩く。店内にはエスカレータの他に勿論エレベータや階段も設けられているが、階段は螺旋階段だった。店内に巻き付く金色の竜みたいに太く、屈強に曲円を描いている。七階には、エスカレータを降りた目の前にあるmujinaという名前のブティックや、アンティーク家具のインテリアショップ、アクセサリー一式が揃う店舗やコスメティックサロンの他、一体何処の誰が買うのか検討もつかないような奇妙奇天烈な骨董品を売っている店まであった。その骨董品にユウヤが目を惹きつけている時、店内のアナウンスが響いた。本日は、当店夕峰ヴァージニア・メトロポリタンにご来店頂き、誠に有難うございます、とお淑やかな女の声が喋る。どうぞ御ゆっくり、お買い物をお楽しみ下さいませ。アナウンスが終わると、店内の音楽はチャイコフスキーのバレエ奏曲くるみ割り人形から同じくバレエの白鳥の湖へと変わった。哀愁漂う管楽器の旋律が、天文台の様な半球形の天井に反響し、店内に広がる。この曲聴くと、ケンイチのこと思い出しちゃうんだよね、とミレイはユウヤに言ったわけではないが、なぜか話し口調でそう呟く。え?とユウヤは思わず耳を寄せる。 「ケンイチ?」 「あ、ううん、なんでもない。…ちょっとね」 ケンイチ、チャイコフスキー好きだからさ、とミレイはそれ以上の追問を嫌がるみたく目を床に逸らす。そっか、とユウヤも聞くのを止めた。 ここだよ、とミレイがエスカレーターからほぼ対極側にある場所で足を止める。ユウヤがそれを見やると、美術館?と声にする。そう、とミレイがユウヤを見る。ここに来たかったんだ、ユウヤと二人で。美術館の前には、案内人の若い男が白い手袋を嵌めて、二人を穏やかに眺めている。いらっしゃいませ、どうぞご覧になっていって下さい。男の手招きに導かれて、二人は館内に入っていく。美術館は、黒い石製の柱に挟まれ、隣には羽毛生地のファー製品を取り扱う動物革毛製服のブランドショップと、八階の「火星レストラン」なる店に続く螺旋階段に生えた竜の足を思わせる階段があった。ユウヤはそれらを気にしながらも、ミレイの後を進む。 美術絵画作品展というシンプルな命題の看板が建てられ、館内にはセルリアンブルーと群青色の間のような色彩のカーペットが全体に敷かれ、真っ白な大理石の左右前後に続く壁に、幾つもの著名な絵画作品が展示されていた。人足もそれなりに多く、しかしやはり美術館なだけ会話はほとんど聞こえず閑散と静けさが包装されていた。作品群の前一帯には、立ち入り厳禁のパーテーションが置かれている。 「来たかったのって、美術展のこと?」 「うん、そうよ。ほら、ユウヤ美術学校行ってるから、詳しいでしょ?」 ミレイは小声でユウヤに言う。ユウヤは確かにそうだけど、と少し館内の空気に緊張する。「だから、色々教えてもらおうと思って。手取り足取り、ね」 何それ、とユウヤはミレイに笑いを溢す。でも、誰でも入れるんだね、ちょっとびっくりした。とユウヤはミレイと絵画の前へ向かいながら言う。 「一ヶ月の期間限定で、一般公開してるらしくて、ユウヤと来るしかないなって決めたの」 テレビで宣伝見てたから知れたんだけどね、とダリのシュルレアリスム・チーズの前でミレイが言う。ユウヤが僕見てないな、と言うと確か、一回だけしか流れなかったんだよね、とミレイが答える。そんなことあるのかな、と疑問に持ちながらユウヤはそれより絵画の鑑賞に耽ることに心を向けた。僕、ダリなら燃えるキリンの方が好きだな、と呟くユウヤを見て何それ、キリンが燃えてるの?とミレイが不思議がって聞く。そうだけど、それは後ろの方に描かれてて、メインはターコイズ色の女の形の絵なんだと答えると、ふーん、変な絵なんだねとミレイはチーズの絵画に視線を戻す。 二人はそのままじっくりと他の絵画を見て回る。時刻は午後二時前、他招き祭り第二部の夜の灯籠流しが開催されるのは午後五時、十七時からであり、三時間程の猶予があった。ミレイはその暇潰しと芸術鑑賞の体験を兼ねて、ユウヤを当店展示会場に誘い連れてきた。ムンクの「叫び」やゴッホの「星月夜」といった非常に著名な絵画作品が並び、二人はまじまじとそれらを穴の開くように眺めた。ユウヤは勿論美大生ならではの視点で、作品の色合のタッチや絵具の質感、主観及び客観のメッセージの受け取り方の違いを考察する。ミレイは一体何を思って見ているんだろ、とユウヤはふと横のミレイを見たが、彼女は至って真顔でその胸中を探るのは難しかった。 先を進み、横長の作品であるヴィーナスの誕生や落穂拾いの前を過ぎて、二人はある絵画の前で立ち止まった。大きな理由があるわけではなかったが、ユウヤはその作品に一際惹きつけられていた。ミレイが、ユウヤ見たことあるの?と作品とユウヤを交互に見やる。 「うん、もう去年になるけど、学業内研修の一環でさ、別な美術館に行った時に見たことあるんだ」 その作品は、ラファエロ・サンティの一五◯八年の絵画「カーネーションの聖母」だった。何故か左右をセザンヌの「りんごとオレンジ」、マグリットの「リスニングルーム」といった果物を題材とした名画に囲まれていたが、それがより当人物画の作品を一層際立たせていた。ユウヤはふと作品解説のパネルを見やり読み進める。 要約すると当作品の概要と推測されるメッセージはそれぞれ、概要、作者ラファエロが一五◯七年から一五◯八年にかけて描いた作品であり、聖母マリアと幼子のイエスをテーマに描かれたものである。当作品は当時のルネサンス美術の中でも特異して浮立し、ラファエロの緻密な描写力によりその極致が示されている。聖母とイエスの優美な表情そして宗教と母という存在の象徴、キリストの受難を暗示するカーネーションという幾多の題材が組み込まれており、彼が短い生涯の中で信仰と美しい絵を見事結合させた作品となっていた。 作品の魅力解説、込められたメッセージの推測。時代背景として芸術、科学が繁栄しており人文主義思想の開花において人々のギリシャ・ローマ芸術に対する関心が強まり、人間的自然的なリアリズムと写実的透明感が追求される最中、ラファエロはこの作品を生み出した。当作品は様々な見解が問われるものの、大きな答えとして聖母マリアの手にするカーネーションにより母性、愛情を示唆されていると同時に加えカーネーションはキリストの受難と磔刑を暗示するという言伝から信仰そして苦悩を表していると解釈されている。主体として描かれているマリアと幼きイエスの間に於いて、聖母は優しく慈愛に満ちた顔つきでイエスを抱きしめており、イエスもその愛に感応する様に赤子ならではの天使とも象徴できる無垢純粋さの表情をマリアに向けている。それはつまり聖母マリアと幼子イエスの互いの愛の神聖さ、尊さを描き表しているといえるのだった。 そこまでを読み終えて、ユウヤは深呼吸を吐き出した。顔を解説パネルから上げる。 「えっと、つまりはどういうこと?」 ミレイが難解そうな表情で困った目つきをユウヤに向ける。うーん、僕にも詳しくは分からないかな、とユウヤは正直に答えてこめかみを掻いた。まあ、ようするに、とユウヤは腕を組む。 「この絵のテーマは、母と子の深い愛を描いてる、ってことなんだと思うよ、多分」 どうかな、とユウヤがミレイの方を見ると、彼女は、確かにそうかも知れないね、ともう一度絵画をじっくりと眺め回して、顎を指で撫でた後、そうだね、愛だ。と真剣な顔で作品を見やりながら大きく頷いた。 その後も他の著名な絵画作品達や、二人の知らない少々マニアックな玄人好みの展示品をゆっくりと見回り、気付けば時刻は十七時の三十分前を指していた。そろそろ行こっか、とミレイが美術館の出口付近の作品、マグリットの二つ目の作品「大家族」を二人で鑑賞し終えた時ユウヤに言った。そうだね、そろそろ始まる時間だとユウヤも頷いて返し二人は美術絵画作品展の会場を出た。 目玉が飛び出る様な値段の商品が並ぶ店舗達を通り抜け、二人は何も買い物をすることなく店を出た。楽しかったね、とミレイが笑みを向けながらユウヤに言う。そうだね、とユウヤはその彼女の笑顔を愛おしく感じて答える。異国感漂う街並の帰り路の上空には、黄金色の透き通って広がる夕入りの光景が広がっていた。鴉か鴎か区別のつかない鳥の影が鳴き声一つ上げずに飛び去って行く。 「ねえ、そういえばユウヤも絵とか描いてるんでしょ?」 「え、あうん、そうだけど」 「今度見せてね、ユウヤの絵も。見たいんだ私」 ミレイは嬉しそうにそう口にするが、でもとユウヤは街並を仰いだ。 「期待するほど面白い絵なんてないよ、植物とか、学校の課題とか、そんなのばっかりだから」 「それでもいいの、私はユウヤの描いた絵が見たいんだから」 何が描いてあってもね、とミレイはユウヤの腕を取る。その掌はやけに熱を持っていた。ユウヤは頬を夕陽のせいか紅らめる。 「わかった、じゃあさ今度遊びに来たら、見せるよ」 ユウヤが言うと、ほんと?楽しみにしてるね。とミレイは歩く足を更に嬉々と浮き立たせた。約束ね、とユウヤの顔を見る。うん、とユウヤは頷いた。 後ろを振り返ると、まだあの建物が聳えている。しかしユウヤは確かに現実にあの店へとミレイと入ったものの、それは幻で蜃気楼や夢の様なものだったのではないかと何故か自分でもそう思う理由を解さずに振り返り感じた。あの建物はいつか完全に消えてしまい、もう二度と今日の様に彼女と二人で来れることはできなくなるかも知れないという風にさえ考えた。するといきなりミレイがユウヤの腕を掴む掌に力を入れた。 「楽しみだね、灯籠流し」 ユウヤはそんなミレイの夕陽よりも明るい笑顔に余計な思考など忘れて、夜の祭りを待ち望みに向かおうと彼女を見て頷いた。心躍るミレイの足並みとユウヤは自分の身体に浴びせられる希望の様な陽射しを重ね合わせて、夕峰山の会場へと向かった。
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夕峰山本山地他招き祭りとは、現在から約百六十年程前、かつて伊達藩の領土であった現Y代市の存在する夕峰という地域で、当夕峰藩の藩主の鷹縞竜司が藩の自治体制のより向上にむけた盛興や繁栄をモットーに、彼を筆頭とした夕峰組の各地代表者を呼集して開催した祭りである。記念すべき第一回目が催されたのは、現在の有峰山本山とは僅かに離れた、広大な盆地だった。きっかけは、鷹縞がある日目にした出来事だった。彼は寝室で枕元に、白い鷹を見た、と語った。それは部屋の壁の半分ほどの大きさで、花瓶のように白磁の光沢を思わせる羽毛を纏わせる風貌をしていたという。そして鷹は、驚きに視線を向け続ける鷹縞を他所に、机上の読み書き物の隣に残っていた皿盛りの果物を啄み、一目散に部屋から飛び去っていったのだという。それを目撃した鷹縞は、すぐさまに布団から飛び起きて、その鷹の全貌を書写し、習字用紙に記録した。翌日、鷹縞は藩の者達を招集し、その昨夜の出来事について熱弁した。あの寝床に立った白い鷹こそが、我々夕峰藩の繁盛を成就たもうたる神の遣いなのだ。そうに違いない、そんな鷹縞の様子を皆は夢でも見たのではないかと半信半疑で聞いていたが、やがて鷹縞殿の言うことなら、と内の一人が頷き、彼に対する信用を皆に共有した。鷹縞は、祭りを開こうと宣言した。 第一回他招き祭りの原型ともいえる祭りは、鷹縞はじめ藩の者達と、踊り子の女達、そして囃子の演奏者という十数人の、それなりの人数で開かれた。まず初めに生まれたのは、実花豊栄節という祈祷演舞だった。唄は無く、踊り子の舞踊と、少数の楽器による囃子の演奏でそれは構成されて、単純な足踏みと演奏の響きによって行われた。鷹縞は白鷹の形を模した毛羽造りの人形を立てた木箱の前に、皿に盛った果物を準備する。最後の作業に、小さな焚火を人形に飛び火の無いように気を配り燃やして準備は完成する。そして手を合わせ膝をつき、踊りと音楽の中で祈祷した。あとの藩の者たちも、彼の後ろに並び、同じ姿勢で祈った。それが当祭りの始まりとは語られているものの、諸説はあるらしく、明確には至らないのだそう。そして年月は立ち、一八七一年八月二十九日の廃藩置県を以て夕峰藩は解散となったものの、その後も幾度か場所を変えては年々行われ続け、現在に繋がっているということだった。 「でも、鷹って果物とか食べるのかな?」 「えー、っとどうなんだろ」 ユウヤとミレイは、夕峰山の左山道奥に続く道の入り口の他招き祭りについての立看板の概要を読んで会話をしあった。 「でも、鷹って確か肉食じゃなかったっけ?」 「多分、ヴィーガンとかだったんじゃない?きっとその白い鷹はさ」 ユウヤにミレイが答えると、そうかなあ、とユウヤが冗談をあしらう様に言う。あ、馬鹿にしてるでしょ、とミレイが睨むと、してないよ、とユウヤは首を振る。まあでも、そんな言い伝えがあっても面白いんじゃない?とミレイは一人で頷いて納得していた。 ステージでは、再び次の演目が始まる。当祭の起源ともなった舞踊、実花豊栄節だった。今度踊るのは男達で、二人の女が左右に立ち、足鈴や手に持った鳴子を男達の踊りに合わせて鳴らす。唄は無く、掛け声と後方に先ほどと同じ楽器隊による演奏のみで繰り広げられた。すごいね、あんなに動いてるのに、ちっともずれてないよ。ミレイが踊り手達に感心して、憧景の視線を向ける。そりゃプロだからね、とユウヤが男達の腕脚首元額に噴き出る汗や彼らの激しく静かな振り翳される身体の端々の動線を眺めながら答える。初めての体験だが、伝統という言葉の素晴らしさをユウヤはそれとなく感じた。 やがて実花豊栄節は終わり、踊り手の男達や楽曲演奏一座や鈴を鳴らす女達は深くお辞儀をし、ステージを去った。会場中が拍手に包まれる。進行役員がステージ演舞に対する賛辞の言葉を送る間、私ちょっとトイレ行ってくるね、とミレイが言った。ユウヤは、僕もついて行くよ、迷子になったら大変だし。と彼女と共に向かうことにした。トイレは会場から右方向の山道入り口の手前にあった。ちょっと待ってて、と中に入っていくミレイを見届けて、ユウヤは彼女を待ちながら、辺りをふと眺め回した。次々と現れる人々によって、客層や客の雰囲気は、どんどん入れ替わり変化していった。こんなに人がいるんだなあ、とユウヤは当たり前ながら、そんなことを何となしにぼんやりと思った。 するとユウヤは、トイレの横に、細い小道があるのを見つけた。立てられた看板には、夕峰神社白鷹石祠行山道と記されている。ユウヤは気になり、ミレイがまだしばらく戻りそうにないのを確かめると、その道に入っていった。道は思ったよりも少しだけ長く、ミレイが戻るのに間に合うかな、と不安になったが、ここまで来たら、一目見てから引き返そうと早足で神社を目指した。道の左右は、行灯や提灯で飾り付けられ、灯は点いていないものの、日中陽の射光でそれらは透き通っていた。人影もちらほらと見られ、会場からは外れている道であったが、先が神社ということだけあり参拝客はそれなりに多かった。しかも、今日は祭りだし。 道を抜けて広地へと出ると、数人の参拝客と生い茂る草木の向こうに、大きいとは言えない鳥居と青緑に錆びれた白い神宮、それとその奥に乳白色の大理石の石祠があった。ユウヤは一目見回し、草木塗れの境内を確かめると、参拝を終えた客と入れ替わりに、神宮の前に近づいて立ち止まった。夕峰神社と大々的に命名されているその割には、当神社はとても小柄で、誰の視界にも目立たないであろう雰囲気に思えた。何故こんな場所に建てられたのだろう?ユウヤはそれが不思議だった。しかし、そんなことを考えている暇はなく、何を思ってかユウヤは急いで取り出した百円玉を賽銭箱へと投げ入れると、数秒手を合わせて二度目の礼拝をし参拝を済ませ、即座に山道を引き返してミレイの元へと向かった。 入り口へと出ると、ミレイが不貞腐れた顔で待っていた。ごめん、とユウヤは慌ててミレイを呼ぶ。ミレイがこっちを睨む。 「どこ行ってたの、すぐ戻るって言ったのに」 迷子になっちゃったらどうすんの?と声を少し荒げる。ごめん、とユウヤはそう言うしかなかった。でも、気になっちゃってさ。 「気になったって、この奥の神社のこと?」 「そう、看板見てからね。急足だけど、参拝もしてきたよ」 何でこんな目立たないところに神社があるんだろう、とユウヤが言うと、ミレイも落ち着いたのか、さあね、と同じく不思議そうに首を傾げた。それより、とミレイがユウヤを向く。 「私を放っぽって、一人で勝手に参拝に行くなんて、どういうことよ」 ミレイがそう拗ねた様な口調で顔を歪ませた。え、とユウヤが呟いく。 「せっかく二人で来てんだからさ、少しくらい待って、二人で行けばよかったじゃん」 あ、とユウヤはそれはそうか、と納得し、ごめん、と再び謝った。もういいよ、知らない、とミレイは顔を外方に向けた。 「一人でどこかしこでも歩けばいいじゃん」 ユウヤは頭を掻いて、困ったなあとミレイの膨れ顔を見る。わかった、また後で一緒に行こう、となるべく穏やかにミレイに言う。ね、どうかな?そうして少しすると、ミレイもそこまで本気じゃなかったのか、ユウヤの方を振り向くと、仕方ないわね、と息をついて、まあいいわよ、とユウヤの手を取った。 「まあ、仏の顔も何度やらなんて言葉もあるしね」 ミレイがそう言って歩き出すと、三度だよ、とユウヤが胸の中で呟く。でも、とユウヤはミレイに言う。彼女がこっちを見る。何? 「さっきのミレイの寂しくて拗ねた顔、結構可愛かったな」 そう言うと、はっ倒すよ、とミレイが拳をユウヤに向けた。ごめん、とユウヤが謝る。でもそのミレイの表情は、どこか嬉しさと照れを隠している睨み顔にも見えた。 二人で会場へと戻ると、先程までとの人々の顔や服装とはすっかり入れ替わり、見たことのない容姿の客達が詰め掛けていた。次に行われるのは、祈願奉祷の焔滾式だった。ステージ奥の木々の大きく捌けた広場で、キャンプファイアの木組みの柵のような建設物が用意されて、祭事関係者により、中央に火が点けられる。やがてその前に地味な色味の衣服を着た神主が現れ、大幣を振り翳し始める。それを囲む様に観客達は円状に、緑の木々を背後に立ち並ぶ。その光景を静かに見守っていた。走り回ろうとする子どもを親が宥めた。 炎は段々と大きくなり、ぱちぱちという音が散烈する。木組み台の下はコンクリートが張られているため、火花が飛んでも雑草に点火することはなかった。また、後方には消防隊が待機しており、万が一に備えた体制も整えられていた。以前に火事になりそうな瞬間が訪れたこともあったそうだが、消化活動がすぐさま行われ、万事には至らなかったそう。ある一定の人々からは、わざわざ燃やさなくてもいいのではないかとの提案もあったが、その他大勢の観光客や住民の声と、祭事を重んじる関係者達の意向により、徹底した防災管理により毎年この焔滾式は行われ続けている。数々の厄を葬り消し去る様に高く熱く燃え上がる炎はやがて落ち着けを見せ、高さを低減した。そして横から何やら大きな幾十人分もの量はあるだろう果物の入った網籠を、二人の男が持ち寄って木組み台の少し離れたところに置いた。中に盛られていたのは、主に苺と蜜柑だった。どちらも、春の時期に旬を迎える果物である。男達が捌け、祀り物として置かれた果物と共に、神主は最後の厄祓いと祈祷を行った。 やがて炎は消化され、神主が礼をしてその場を後にする。それでは皆さん、と司会が籠に盛った果物を客達に配るよう役員達に指示すると、客達にはその籠中の苺や蜜柑が一人二、三個ずつ手渡され、皆んなはそれを味わった。これにて、焔滾式を終式致します、と司会は言葉を締めた。ユウヤとミレイの手渡された苺と蜜柑を口にする。美味しいけど、普通の果物だね、とミレイが噛みながら呟く。そうだね、とユウヤもそれとなく答える。 「そういえばさ、去年は人員不足で中止って言ってたじゃん?」 「うん」 ユウヤが蜜柑の皮を剥くミレイに聞く。 「でも、何で人員不足なんかになったんだろ、こんなに今年は集まってるのに」 「んー、あんまり覚えてないんだけど、確か」 ミレイは蜜柑を一房の半分程を口に入れて答える。 「なんか、新型のウイルスの感染症のパンデミックだかなんだかで、それが原因じゃなかったかな、ごめん、あんまり記憶がなくてさ」 そう話すミレイに、そんなことあるのかなとユウヤはふと首を傾げた。テレビでそんな報道やっていただろうか、と不思議を問う。そんなことが僅か一年で収束して治められたのだろうか。 「まあ、でも今年はこうやってちゃんと開催できたんだか。いいじゃん」 ミレイはそんな風に考え込むユウヤの顔を拭き払うように最後の蜜柑を口にして、ユウヤを見た。多分、夢かなんかだったんだよ、とミレイは曖昧な答えを出す。そうかなあ、とユウヤは後片付けの進められる木組み台を見つめながら呟いたが、どうやらミレイも本当に知らないらしい為、気にするのを止めて引き続き祭りを楽しむことにした。そうだね、今年あって良かった。 しばらくして、ステージ横のスペースに、縦横2m半以上無いし3m近くはある正方形の銅に担ぎ棒と屋根をつけた大きな神輿が用意された。高さは天辺の像を加えて、4mはあった。屋根は唐破風で、やはり白い色の硬材で造られてる。天辺の鳳凰基宝珠の部分が、この祭の象徴、白鷹の剥製のようにリアルな模像になっており、真っ直ぐ前を見ている。金色の野筋先の四匹の鳥もまた、どれもが小型の白鷹の像になっていた。屋根紋は勿論夕峰山の名に基づく、夕陽と山の抽象的に両記して描かれた珍しい紋様になっている。かつての夕峰藩を代表する紋である。蕨手や吹き返しも立派に付造されており、それらは一部が銀でできていた。 升組は主に金だが、もう半分は白銀が組み込まれている。狛犬はなく、獅子の像が鎮座していた。唐戸や堂柱の造りも良かった。擬宝珠や勾欄の造りも頑丈そうだった。 やがて十数人の男達が現れて、彼らは神輿の下部に肩や腕手首を忍ばせ入れて、腰を屈めると神輿を固定するための台座から持ち上げようという姿勢になった。彼らは皆鉢巻に半被、半股引と真っ白い足袋を揃えて衣着している。丸刈りの坊主やスキンヘッド、中には短髪や長髪や眼鏡の男もちらほらと見られた。殆どがベテランの祭り男と言ったそれなりの年齢の者だったが、数人程、若い二、三十代の男も確かめられた。誰もが、憤りと感情の荒吹く幕開けを抑えているように真剣な静けさを含み醸し出している。 やがて火蓋が斬られたように、男達は神輿を最も簡単に勢いよく担ぎ上げ、その場に真白な神々しい金光沢の輝く白鷹の神輿を堂々と巨立させた。先導と見られる坊主頭の男がせぇーのっとこれまた大きな怒声で掛け声を煽り、他の前後左右の担ぎ者達を奮起させた。せいや、せいやっという重くどっしりとした男の低く響く太い掛け声と共に、神輿渡御が始められる。男達に担がれた神輿は、ステージの横を抜け、共謀危険指定動物の収容檻を脱走した像のように駆け走り、夕峰山中央公園入口と彫銘された建石の真隣を通りクヌギやポプラといった木々の名前の記された木製の看板に触れる枝の先端に生える緑葉を担ぎ棒の取手先が掠めて、そのまま直進して、登山口へと続く地面に石の少ない抜け道を目指して向かっていった。男達は足をもつれさせぬよう勢いよく引っ切り無しに掛け声や駆け足を繰り返し、土や小石を蹴り上げてそれぞれの募らせた感情を暴れ連ねていく。同時に男達の熱気がまるで陽炎に変化するかのように汗が蒸発するほどに見えた怒声の掛け合いが、周囲の木々を歪揺する感覚に思えた。 ユウヤとミレイ、そして観客達は只その光景に圧巻されるままに、勢いと迫力にすっかり魅せられて黙々と眺めていた。凄いね、あんなに全力でやり始めるなんて。ミレイは毎年の事なのだろうが、新鮮な反応で感心を示した。そうだね、とユウヤはそれだけ答えて頷く。やがて神輿は男達によって、麓に降りて夕峰山付近の市内の大通りを巡幸する予定だろう。ユウヤはミレイ、見に行く?と聞いたが、ううん、とミレイは首を振った。いいの?とユウヤが言うと、私実は今日もう一つ行きたいところがあるんだよね、と答える。行きたいところ?ここじゃなくて?ユウヤが不思議そうに尋ねるとミレイは、こっち来て、と神輿の運ばれていった方向と対極の木々の茂みにある道なき道に思える方向へとユウヤを連れて歩いた。どこに行くの?とユウヤが尋ねると、この先に、山から降りられる隠し坂道があるのよ、と目の先を向いたたまま振り返らずにミレイは見当らぬ山の下り坂を探して、ユウヤは茂みの彼方の青白い大空を眺めた。
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ホテルをチェックアウトして、ユウヤとミレイは外に出た。行こう、とミレイがユウヤの手を引く。朝特有の冷たく薄い霧靄の晴れ切らないぼやけた空気が二人の顔や手足や身体を包み込む。空は雲ひとつなく晴れており、出掛けるのにはうってつけの天気だった。祭りって十時からだっけ?とユウヤが聞きミレイは頷く。間に合うかな、とユウヤは言うとそんなに慌てなくたっていいよ。ゆっくり行こ、とミレイが歩きながら彼を振り向く。 祭り会場のある夕峰山は、ホテル街を抜けた先の大通りを右に曲がり、道なりに進んで行ったところに聳えている。Y代駅からでいうところの、北東の方角に位置している。ホテルを曲がると、手摺りの立った小さな階段に、一人の人影があるのを見つけた。それは長い髪の毛をし、ボロ切れの雑巾のような服を着て顔を腕に埋めさせて不恰好に横たわっておそらく眠っている中年過ぎの男だった。風貌から察するに、ホームレスだろうとユウヤはみた。階段の広いスペースに、ベッドや家壁代わりの段ボールが設けられていて、その付近には無造作に散らばった飲みかけのペットボトルや酒瓶、表紙の取れた本などが置かれていた。男は犬のような寝息を立てている。 「ねえ、あの人って家がないのかな」 「そうみたいだね」 ミレイは男について、特に気に掛けたそうな感じでもなく、単純に不思議がって一つの物事として捉えたようにユウヤに尋ねた。ああい人って、なんで住む所とか誰にも相談したりしないんだろ? 「それは、きっと色々あるんだよ」 そう、とユウヤは間も無く開店準備を始める軒並の飲食店達を見やりながら言う。 「色々って?」 「まあ、一口には言えないけど、例えばさ、ある事件を起こして、それはつまり殺人だったり強盗だったり、身や顔を隠して逃げなきゃいけなくなって、その人は誰も通らなそうな場所に寝泊まりするようになるっていうのを、どっかで聞いたことがあるんだ。全てがそうじゃないけど、時効で罪を免れようとしたい人とかさ」 「でも、なんでそんな辛い生き方するの?だって、捕まった方がちゃんとした部屋に入って暮らせるし、食べ物だって食べられるじゃん」 ミレイの疑問に、うーん、それは分からないなあ、とユウヤは首を傾ける。 「だってそうでしょ?いくら捕まるのが嫌だからって…」 「人それぞれ事情があるんだよ、きっと。僕やミレイには理解できない事情がさ」 うーん、そうなのかなあ、とミレイは今ひとつ納得できない表情で空を見上げた。 「じゃあ、あの人も、もしかしてそういう何か犯罪をやった人ってこと?」 「かもしれないね」 ユウヤとミレイは歩くたびに遠ざかる、そのホームレスの男のどこか淋しい寝相をただ街の一つの風景のように眺めながら足を進めた。 夕峰山の麓に続くY代区夕峰通りの道路や歩行者路では、既に交通規制の体制が整えられており、車両や歩行者の交通が取締られていた。白いヘルメットに警備服を着た男がホイッスルを鳴らしながら誘導棒を頻りに回して、観光客や一般通行者を誘導していた。すごい人だかりだね、やっぱり、とミレイが人混みに紛れながら言う。そうだね、とユウヤもなんとか雑踏に埋もれまいと答える。二人がいるのは、まだ会場からは数十メートル離れた通りだったが、人だかりはお構いなしに足音の波を引き起こして、人影による洪水を溢れさせていた。一般車両やバスやタクシーやトラックの走行音は速度を落としたために小さく、それよりも大きな人々の声や足音に搔き消されていった。クラクションが鳴り、その近くで人足が一瞬離れて消える。浴衣を着た男女や家族連れ等が皆それぞれ手に景品や食べ物といった屋台で購入した品を持って押し押されながら歩いている。 ユウヤとミレイは一旦人混みの通りを抜け出し、近くに見えるコインロッカールームに向かった。ここは主に観光者用の預品所になっているのだろうが、普段から利用する人もいるだろう。ユウヤは殆ど満杯になったコインロッカー群の中から何とか二人分の空箱を見つけて、荷物を仕舞い込む。 ユウヤはミレイに、少し待ってて、と言うとルームの奥にあった公衆電話に向かう。バイト先への急休の連絡をするためだった。もしもし、と掛けると、販売部長が電話に出た。ユウヤ君か、どうした?と聞いてくる。すみませんが、突如熱を出してしまいまして、申し訳ありませんが、出勤停止にしていただけますか?とユウヤは内心どきどきとしながら尋ねる。そうか、分かった、ゆっくり休んでな、と部長はあっさりと了承してくれた。ありがとうございますすみません、とユウヤは頭を下げる。それと 同じ販売コーナーの先輩にもお伝えください、ユウヤが付け加えると、ああ分かったよ、と部長は答えて、それじゃ気をつけて、と電話を切った。ミレイの元に戻ると、どうだった?と聞いてくる。なんとか、大丈夫だったよ。とユウヤが答えると、じゃあ、今日は思い切り楽しめるね、とミレイは笑みを満たして、嬉しそうにユウヤの手を取った。それじゃあ行こうか、迷子にならないようにしなきゃね。 夕峰山の麓の他招き祭り開催会場に繋がる山道の入り口に着くと、更に新たなる人ごみが溢れ返った。ユウヤはミレイの手を離さないようにこれでもかと言う人の波を勇敢なサーファーの如く掻き分けていった。ようやく人混みを抜けると、そこには山道入り口前にずらりと左右横に並ぶ様々な屋台が現れた。店装も色とりどりで、それぞれに大小混じる電球や電飾ライトが吊り掛けられており煌々としている。看板を見やると、焼き鳥やもんじゃ・お好み焼き、林檎飴やフライドポテトといった料理名がカラフルに目立っている。どの屋台も列ができて混み合っており、列を潜り抜けるのが困難だった。 「ミレイ、そういえばお腹空いてない?」 朝から何も食べてないでしょ、何か買って行く?ユウヤが列を避けながら言うと、そうだね、とミレイが頷く。あれにしよ、とミレイが指差したのは、たこ焼きそば、と書かれた屋台だった。その店だけが、提供に時間が掛かるからなのか、あまり列をつくって待つ人が見られなかった。いいね、早く買えそうとユウヤは二人でたこ焼きそばを買うことにした。 思いの外二人は早く購入を済ませることができ、買ったたこ焼きそばを手に取って会場の方向へと歩き向かった。熱々のソースいい香りが鼻をついて二人の腹部が鳴く。かなりの量が盛られていて、果たして一度に食べられるだろうかと少し心配になった。ついでに屋台通りの端角にあるアイス売り場の横で飲み物を買って、屋台前の人ごみを抜けて山道入り口を目指した。人混み終わりの所で、親と逸れた子どもの泣き声が聞こえたが、すぐに人の波音に消し去られていった。大丈夫かな、とユウヤは気にしたが、聞こえていないのか、ねえ、こっちだよとミレイはユウヤの手を引っ張った。あ、うんと彼女の後について行く。 会場へ続く山道入り口前には、主に白や紅を基調とした花々で飾り付けられた四本のポールで鳥居のようなものが設けられていた。誘導員が真ん中に立っており、パーテーションを挟んだ左右の出入り口を指示している。二人は右側の入り口から山道へと入り、他の観光、参加客の長蛇の後へ続いて、会場を目指す。舗装されきれていない土砂や小石を踏みつけながら、石板の階段を登る。数メートルほど登ると、会場のある広場の一段下の敷地に出て、二人はどこか座る場所を探した。あそこいいんじゃない、とミレイが向ける巨きなクヌギの根本に近付く。腰を下ろして二人は早速蛸焼きそばを食べる。蛸焼きではなく、ぶつ切りの蛸の身がそばと共に炒められているだけだったが、変わった食べ応えで美味しかった。 二人の周囲にも、かなりの人が立ち座り込み、それぞれ食事をしている。それほどではないが、いくつか食べ終えた容器や紙屑が地面に散らばっているのが見られた。なんでこんなところに捨てるんだろ?それくらい持ち帰ればいいじゃん、ミレイがそばを噛みながら申し立てる。これじゃ山がかわいそうだわ。 ユウヤはなんとか食べ終えられたものの、ミレイは半分ほど残したようだった。もうお腹一杯、と息を吐く。食べる?とユウヤは手渡されたが、僕も大丈夫、と断り、じゃ後で食べよ、とミレイは買い物袋に容器をしまった。立ち上がって、もうひと坂階段を登り、祭りの本拠地へ歩き出す。広場へと出ると、敷地幅が増えたからか、相変わらず人が多く賑わっているものの、麓ほどの混雑はなく、余裕を持って移動することができた。人々の歩く隙間から、横長に巨きなステージが見える。どうやらあれが祭りのメインステージらしい。時刻は十時二分前、壇上で役員や会場の設営スタッフが早々と準備を進めている。なんとか間に合ったね、とミレイが少し息を上げながら言う。ユウヤが楽しみだねと言うとうん、とミレイが笑んで頷いた。 間も無く十時を迎え、祭りの開始時間となると、ステージ前に歩っていた人々が足を止めて、壇上を眺める。一人の男がやって来て、マイクに電源が入っているのを確認すると、えー、と声を出して目の前の人々を見回した。今年度の祭りの司会らしかった。 「えー、皆さん、おはようございます。只今、一九XX年度、三月二十二日午前十時丁度を迎えたところですが、本日は快晴でお日柄も良く、この当祭りの開催に至るに実に素晴らしく絶好な天気となっております。会場に足を運んで下さった、遠方から遥々観光に来られた方々そして市内にお住まいの皆様、本当に本日は、誠に有難うございます」 司会の男はそう挨拶を話すと、続けて四、五分程祭りに関する歴史や祭りの起源と始まりの由来、街の名遺産としての会場への想い、そして自分の過去に行われた祭りのちょっとした思い出を段取りよく語って、次に祭りの実行委員会の責任者の委員長へと代わった。委員長は当祭りを開催するにあたっての注意事項や禁止・規制行為、そして加えて閉祭時までに行われる各イベントについてを業務的に話した。以上、私からのご説明とさせていただきます。それでは司会の松里さん、よろしくお願いします、と委員長が去った後、再び現れた先程の司会者がマイクの前に立った。 「えー、それではみなさん、大変長らくお待たせいたしました。以上で当祭に於ける口頭説明は終わりとなります。くれぐれも事故や災害に気をつけ、お怪我をなされる事のないように、今年度の第百八十五回、Y代市Y代区夕峰山本山地にて他招き祭りを充分にお楽しみ下さい。それではこれより、当祭りを開催いたします」 そう言い終えると、司会は頭を深々と下げて、マイク前から立ち去った。ステージ前の人々が一斉に拍手を送る。会場本拠地の全てを覆い尽くすように、そして刹那にそれは鳴り響き、やがて儚く沈静して山の木々へと吸収された。ではまず最初のステージは、他招き祭りのオープニングアクトとなる、他招き音頭となります。どうぞ皆様、一緒に手拍子を頂いてお楽しみ下さい。では、演者の方々に登場していただきます。と女の進行役員が語り、壇上には藁網の被り物を被った白地で仄かに桃色がかった着物女の踊り子が十数人現れて、各々の立ち位置に定立した。後ろには小太鼓や和太鼓、三味線や横笛などが用意され、演奏者の男達がそれらを手に取って演奏の準備に着いた。唄い手の中年の女がステージ端のマイクの前に立って、やあっ、と声を上げる。女の踊り子達は一斉に演舞を始める姿勢になり、どん、という和太鼓の重低音と共に、唄い手の女が他招き音頭の詩を唄い始める。後ろの男達が囃子の演奏を緩やかに、そして引き締められた切れのある音の節で鳴らし始める。横笛の男がソ♭の低音階を響かせる。 木々も照らされりゃ、翠鮮やかに、煌り映え映えと、そんな調子で音頭は始まり、目の前の幾数十かの人々が手拍子を始める。男達の演奏が日本の風情を感じさせる和心の演奏で、普段は喧騒な都会の忙しさを忘れさせ、その中に一変の懐古さをもたらした。それらを遠目に見やるユウヤやミレイの心を揺らし、身体に和楽器の伝統的な響きを伝え沁みさせた。踊り子達が手や足を自在に動かし、まるで人形のようにぴったりと全員が合わせているものの、それでもやはり彼女達の人間的な叙情さを憂いであどけない表情に乗せて、流れる血の暖かさを無自覚下に遠隔的に感じさせた。 「なんだか、いいね、こういう祭りって」 「でしょ?心が落ち着くよね」 嬉しそうに振り向いて言うミレイに頷きユウヤはそのステージをの喉の渇きも忘れて、ジュースを一口もすることなく、ただ心地よい時間経過と共に眺め続けた。胸に桜の花びらが優しく散るように、心が静かに躍っていた。
19
部屋の明かりを点け、消灯の暗闇が晴れると、空中の体液の匂いは徐々に少しずつ薄れていくようだった。時計を見やると、時刻は夜の八時を過ぎていた。二人はしばらく素裸でベットに腰掛けたままで、セックスの熱が治まるのを待つようにそれぞれ部屋の一点を眺め、ぼーっとしていた。ミレイの股間は乾きそうになりながらも、まだ彼女の潮や愛液で濡れていた。ユウヤの身体の熱は殆ど治まり、性器は勃立を落ち着かせて、半分ほどに萎えていた。二人の鼓動の波が、ベッドという砂浜の上に慣らされていく。 しばらく時間を経て、二人はレジ袋からそれぞれのコロッケとソーセージの惣菜パンを取り出して、昂奮の反動と喘ぎ疲れによる空腹を満たす。水分代わりのアルコール缶を喉に流しながら、部屋に聞こえ続けるラジオの放送に耳を傾けた。再び音楽のリクエストコーナーがやっていて、岡村靖幸が脳脊髄にべとつくように絡む甘く色っぽい声で彼の楽曲である「イケナイコトカイ」を歌っていた。 食べ終える頃には再びアルコールによる熱が二人の身体に伝わり、それは性的興奮によるものとは大きく違うが、事後である為、さっきの互いの行為の体温とその熱をどこか無意識に重ね合わせ類似して感じていた。ミレイは先に缶中の酒を空けると、チェックパンツのポケットから煙草のケースとライターを取り出して、ゆっくりとした動作で口元に寄せて点火して吸い始めた。物静かな表情で僅かに荒い息を宥めるように煙を吐く。銘柄はマルボロメンソールだった。空き缶を灰皿代わりにして、プルタブ穴に灰を落とす。ユウヤがその様子を、特に何を言うでもなく眺めていると、ミレイが振り向き、吸ってみる?と一本差し出した。うん、とユウヤは恐る恐るそれを手にし、ミレイに火をつけてもらい、人生初の煙草を吸った。すると主流煙が口内に広がり喉や鼻腔に一気に流れ込んで、ユウヤは思い切りにむせ返った。一気に吸い過ぎよ、とミレイが笑う。こうやって吸うのよ、とミレイが味わうペースを咳き込みながら見やり、ユウヤはそれを真似してもう一度口に含み、吸い続けた。 二人はそして夕方に観た映画について話し合った。互いの印象に残った、好きなシーンや気に入った台詞を打ち明け合う。しばらくそんな会話を続けて、ミレイが、あの映画の二人って、今の私たちに似てると思わない?と煙草を一服しユウヤに聞く。え、そうかな、とユウヤはまた少しむせながら咳混じりに返す。ユウヤはそう思わないの?とミレイが言い、ユウヤはなんとも返すことができずに、うーん、と少しの間悩んで、ごめん、ちょっとわからないかも、と素直に答えた。そっか、とミレイもそれ以上追問することなく、煙草の息を吐いた。だけど、とユウヤは初めて咳き込みなく煙を吐いて言った。だけど、昔似たような映画を見た事ならあるよ、と加えると、何の映画?とミレイが尋ねる。ユウヤは一九六七年に制作されたアメリカのクライム映画「俺たちに明日はない」を挙げた。私、知らないなあ、とミレイは煙草を吸い、それに出てくるボニーとクライドっていう強盗殺人の男女が、さっきの映画の黒介と雪に似てると思ったんだ、とユウヤが吸い殻を缶に押し付けて話す。そうなんだ、とミレイが少しだけ興味ありげに答える。 二人が煙草を吸い終えて、消えかけの体液と煙草の残り香が混じり合って空気に化す時、ユウヤ私さ、とミレイが最後の煙を吐き出しながら言った。こうやってセックスを終わらせる度に思うことがあるんだよね、と空き缶に吸殻を落とす。何?とユウヤが聞くと、女ってさ、なんで子どもを産むんだと思う?とユウヤの目を見て尋ねる。なんで子どもを産むかって?ユウヤが質問の意表をつかれた顔をすると、うん、そうとミレイが妙に真面目な顔つきで頷く。 「えー、なんでってそれは…」 なんでかなあ、とユウヤは頭を悩ませ、うーんと腕を組んで酔いが回り、朦朧としかける意識の中で、思考を巡らせた。ユウヤの答え聞かせてよ、私知りたいんだ、ユウヤの考え、とミレイが乗り気分で言うと、更にユウヤの思考は混乱し圧迫した。そんなこと言われてもなあ、と思わず床と天井を交互に眺める。ふと見たミレイの無邪気な顔が、質問の純粋さを物語っており、ユウヤはなんとか答えたいと思った。そして思いついたのが、世間体なんじゃないのかな?と言う答えだった。え、とミレイが呟く。 「そう、世間体。例えばお金を持っていればいるだけ、友達が多ければ多いだけその分周りからは幸せに見られたりするでしょ?それと同じ、いや似たようなものなんじゃないのかな。誰かと結婚して、子どもを産んで、周囲からの祝儀や賞賛の声を浴びたり貰ったりして、その中に幸せっていうのを見出す。そうすれば、子どもを産んだ当人達も社会に対して肩身狭く控えめな低姿勢を成さずに、堂々と生活し暮らしていける。社会に幸せな家族っていう定義として認められて、世間的地位を確立させてさ。どう、違うかな?」 ユウヤがそう言い終えると、ミレイはえー、とつまらなそうな声を出して、唇を尖らせた。 「なんか、そんなこと言うって、ユウヤって冷たいんだね」 ミレイはそうガッカリしたように言って、床に目線を向けた。そんな風に思うんだ。ユウヤは慌てて、違うよ、急に教えてなんて言われたからさ、と自身の性格の誤解を招かざろうと言い訳を連ねた。だって、今言ったじゃん。形だけの幸せってことでしょ?結局ユウヤが言いたいのは、ミレイが言うと、ユウヤはごめん、と申し訳なさそうに項垂れた。それを見てミレイはごめんごめん、冗談だって、とわざとらしく笑った。雄也をそんな人だなんて思わないって、と宥める。本当?とユウヤが顔を上げる。本当よ、とミレイはユウヤの頬に指を触れる。こんなに優しそうな顔してるのに。 「そういうミレイは、どう思ってるの?」 ユウヤが逆に尋ねると、えー、とミレイは頬から指を離し、顎に手をやり考えるふりをすると、わかんないかな、私は、と笑った。なんだよそれ、とユウヤは難って拗ねる顔になる。 「だって、分からないから聞いてみたんだよ」 「男の僕なんかに分かるわけないでしょ。ミレイなら女なんだから、分かるんじゃないの?」 そう言うとミレイは、もしかすれば、子どもを産むときになったら、分かるのかもね、とそれを言ったら根も葉もない答えで質問を締めた。まあ確かに、それはそうかもしれないけど、とユウヤは納得のいかない声で言う。 「でも、多分ユウヤは言った通りなのかもしれないけどね」 え?とユウヤはミレイの顔を向く。ミレイは、髪を掻き上げて続けた。 「だって、分かりやすいじゃん。それが幸せって言われるんならさ。形に見えるんだからさ、子どもを産んだ時、親子でお出掛けする時とかだってそう。周りから全部形で見えるでしょ?実際ほとんどはそういう考えで結婚して妊娠して出産に駆けつける人だって多いんだと思う」 ミレイはそう言って、自分も結婚したらそんな事考えるようになっちゃうのかな、と不安そうに天井を仰いで未だ見ぬ未来を憂いた。ユウヤは慰める訳でもなく、ミレイはそんな事考えないと思うよ、となんとはなしに言った。本当?そうかな、とミレイはユウヤの顔を見る。だって、今幸せでしょ?とユウヤは根拠もなくそんなことを口にする。彼女には今もケンイチとの複雑な恋友関係が在るっていうのに。まずいと思ったが、ミレイは確かに、そうだね、とベランダの窓の方を見て優しく笑みながら答えた。こうして、ユウヤと出逢えてセックスだってできてるんだし、幸せかもね。ユウヤは僕も、とミレイの頸側の髪の毛に触れて言う。僕だって、ミレイと出逢えて幸せだよ。 そろそろ寝よっか、とミレイは欠伸をしながら言う。そうだね、とユウヤがそれなりに片付けを終えながら答える。砂嵐の混じるラジオを切って、ラックに置き戻す。ごめんね、変なこと聞いちゃって、とミレイは酔いが完全に回ったのか、言葉の最後をまともに聞き取れない口調で言い残しベッドに腕から倒れた。ユウヤも釣られるように眠気を感じているのを思い出して、大きな欠伸を真似して、部屋の電気を消すべく、入り口のドアの方に向かった。電気消すよ、とスイッチに指を触れるが、ミレイの返事はない。ユウヤは答えを待たずにスイッチを押して明かりを全て消した。 おやすみ、とベッドに入り、二人で横並びになって布団を被る。しばらくして、暗順応により開いた瞳孔で、ユウヤの視界が暗闇の部屋の中にはっきりと澄み渡りだした。濃い灰色の壁や床や天井の中に、黒いステンドグラスや天井の照明器具、ラックや入り口のドアやベランダの窓枠の輪郭が浮き出て、妙な安心感を覚える。ミレイの横顔をふと見ると、よほど疲れていたのか、ものの数分で彼女は既に就寝している様子だった。注ぎたてのスープを優しく冷ますような息で鼾を掻いている。ユウヤはそんな中、再びさっきのミレイの質問について考え、掘り返していた。何故人は人を産むのか。生物は生物を生むのか。何故女は子どもを産み落として母親という存在になるのか。本来出産というのは生物学的に、淡々とした観点からみるならば、自分達と同種の遺伝子を残すため、個体数をただ増殖する作業に過ぎない。そうして自らの一群一族を少しでもより多く生み出すことで、未来への血筋の存続、サバンナなどの野生地域におけるテリトリーを充分に確保して、快適に安静に過ごし暮らせるように遺伝子を残すのである。しかし、それはあくまで人間と動物というものの存在をそれぞれ違う生物としての定義として捉えた時に、果たして人間側にも同様に当て嵌めて断言できる事なのだろうか。人間の結婚と妊娠さえも、生物学的理論に基づいた単なる生殖本能の働きでしかないのだろうか。ユウヤはそうは思わなかった。勿論世間にはそのようないかにも元来の生物らしく、冷淡にただ自らの目的の遂行に基づく方法として結婚をし、子どもをつくり、特に愛情も持たずに形としての家族を周囲に振る舞う者だっていることだろう。それはある人は多額の契約金のためであったり、または権力の獲得のためであったりするかもしれない。子どもや結婚相手を利用して。だが人間には、恋愛感情や、友情といった本来の生物心理とは異なる熱を持つエモーショナルな実体が生まれながらに備えられている。ユウヤだってそうだし、ミレイだってユウヤの両親だってそうだろう。その存在のおかげで、子どもにとってはひどく恥ずかしいことだろうけど、親は誰しもが、いかなる愛を持ってして子どもを産むのである。それはきっとそうであってほしいというユウヤの望みでもあった。 話を戻して、結果的になぜ人は人を産み、人は産まれるのか、ユウヤは自分なりの答えを改めて考探したが、やはり答えは出ずに、気がつけば一時間近くが経っていた。一体自分は何を考えているのだろう、と脳内にパラドックスが発生しそうになっているのを感じて、ユウヤは考えるのをやめた。大きな欠伸が出て、襲いかかる眠気を覚える。もう寝よう。例えいま答えが出たとして、未来はぐっすりと寝ているのだから、伝えられないし、わざわざ起こすこともない。また明日だ、とユウヤはミレイの寝顔を一目見て、枕に頭を倒して瞼を瞑った。しかし眠りに意識を完全に委ねる前のほんの数秒の瞬間、ユウヤは、母はなんで僕を産んだんだろう、と無意識の内に不意に考えていた。 真夜中、ユウヤはふと目を覚ました。ミレイは当然一切の起きる気配を見せずに深く眠っている。時刻は午前三時近くを回っていた。尿意を感じて、トイレへ向かう。排尿を済ませると、眠気が少し覚めた頭と視界を半分ほど開き起こし、頭を掻きながら、月星の淡い光の差し込むベランダの方へと歩いていった。ミレイを起こさないように窓戸を開け、ベランダへと踏み出る。衣服は着ていないが、誰に見られることもないだろう。夜風が涼しく冷たい位に肌に当たり、通り抜けた。 空の星や月の明かりや街並みのネオンの線河を一辺見渡して、ユウヤが部屋に戻ろうと視線を振り向こうとした時、ベランダの空いた彼の横のスペースに、黒い影が立っているのを見つけた。それはユウヤと同じか数センチほど背の高い影で、鳥の形をしていた。種類は孔雀だと見られて、嘴に何か植物を咥えている。ユウヤは思わず声を出しそうになったが、寝起きのせいか発声に至らず、口元を抑える。孔雀は近づいては来なかった。ただ目の前に立ち尽くし、ユウヤの方を見ている。ユウヤは近寄ってみることにした。ゆっくりとそれなりに警戒して。孔雀の三歩ほど前で足を止めて、その濃い黒影の姿を眺めまわす。ベランダを飛び越すように開いた背中の羽は、薄く透き通り、背後の星明かりが羽毛に映し出されそうだった。手でその羽毛に触れようとすると、孔雀は威嚇した。ばっ、という羽の音が瞬き、ユウヤは手を引っ込める。怒ったのだろうか?しかし孔雀はユウヤに何かしら危害を加える様子も見せずに、ユウヤの瞳を嘴だけでなく鳥眼でも突き刺すようにじっと見つめた。すると孔雀は、口元を動かさずに、ユウヤに向かってある言葉を発した。 「近づきすぎると、壊れるよ」 それはユウヤに彼の耳に確かに音形として聞こえた。孔雀が喋った?なんで、鳥が喋るんだ?ユウヤは寝惚けながらも、そんな疑問を即座に抱えた。すると次に孔雀は手羽を広げ、空に向かい鳴き声をひとつ上げるとベランダから飛び上がり、夜星の続く空の彼方へ去っていってしまった。夜空の暗闇に溶けて、一瞬のうちにその姿は見えなくなった。ユウヤはしばらくその場に立ち尽くしたが、やがて蘇った残る眠気により火照る体温を実感して眠りに就くべく、瞼を閉じかけながら部屋へと歩き出した。 目が覚めると、ユウヤはベッドに俯せるように項垂れた姿勢で、布団の剥がれたシーツに顔頬を埋めていた。カーテンの開きっ放しなベランダから差し込む白い朝日に気付き、顔を上げる。ミレイは素裸の全身を露わにしたままで、布団を爪先まで蹴飛ばす形の寝相でよい深い眠りに耽っていた。ユウヤは重い身体を起こしてミレイに布団を掛けてやる。スースーと彼女の立てる寝息が手に触れてくすぐった。 ユウヤは洗面所に行き、軽く顔を洗いうがいを済ませた。時刻はまだ六時半前だった。今日はいよいよ祭りの当日だったが、出発の準備にはまだ早いだろう、ミレイを起こすこともない。急ぐ用事もないんだし、ユウヤは目を擦りながら、ベッドに腰掛け直す。昨日買った本の一冊を手に取って、ミライが起きるまでの間読書に浸ることにした。ミレイに勧められた、トーベヤンソン著作品シリーズの、ムーミン谷の彗星という本だった。ムーミンの暮らす一家にやって来たジャコウネズミが彗星による世界の滅亡を告げて、ムーミンとカンガルーのような友達スニフが天文台のあるおさびし山へと向かう。そんなストーリーと共に各間隔でページ毎に描かれた挿絵が描き手の温かさを感じさせた。ムーミンは子ども向けというイメージがあったが、読み進める内に、大人でも楽しめるという意味が理解できる気がした。それは当作品におそらく込められているだろうメッセージをユウヤが勝手に受け取っただけのことではあったものの。 一時間ほど経ち、うーん、というミレイの声が背後から聞こえる。本を閉じて振り向くと、体を起こし眠気混じりの虚ろな視線を壁に向けるミレイが見える。起きた?とユウヤは本を置いて時計を見る。七時十分を過ぎていた。ミレイは頭を掻きながら、おはよおーと寝惚けた声で欠伸混じりに口にする。ふあーあ、と布団から上裸を剥き出して大きく背伸びをする。いま何時?とユウヤに尋ね、まだ七時だよ、とユウヤは服を着替えながら答える。 「まだ時間あるから、もうちょっと寝たら」 ユウヤがそう言うとミレイは、でもお祭りい、とまだ眠たそうな声を出しながら、再びベッドに倒れ込んでしまった。数分して、二度寝に入ったようだった。ユウヤはそれを微笑ましげに見やり、もうちょっと寝かせてあげようと本の続きを開いて読み進めた。疲れが残ったままで祭りに行くのも大変だろう、せめて目が覚めるのを待ってからの方が祭りだってより楽しめるはずだ。ユウヤはそんなことを思いながら、そういえば、と昨夜の出来事を振り返る。記憶が正しければ、ベランダで大きな黒い孔雀と出会ったのだ。あれは夢だったのだろうか?ふとそんなことを考えたが、やがてどうでも良くなり、頭からそれらを振り落として、本のページに視線を戻した。 次にミレイが目を覚ましたのは午前八時半を過ぎて、準備を済ませてホテルを出発する頃には九時を迎えていた。
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ユウヤとミレイは商店街を抜けて、今夜泊まるべくホテルを探した。紅い空に浮かぶ、細い筆先から滴る橙色の絵の具に見立てられた飛行機雲の突き刺さる沈み陽がつくる夕暮れ時の淋しさが、街を包んで今にも消えようとしているように感じた。 少々塵芥の散乱が窺える通り路に出ると、そこはラブホテル街だった。フリーターのような髪を染めた若い男が何人かで歩いており、何やら喧嘩自慢のような会話をしている。下を俯いたまま何かを呟きながら手に持った文庫本を読んでいる眼鏡の陰気な暗い雰囲気の女が男のうちの一人にぶつかり、すみません、と何度も慌てて謝る。あん、なんだよ、と男は舌打ちすると女を一蹴し、仲間達と興味無さそうに何処かへ歩いていった。女は落とした本を拾うとまた同じようにぶつぶつと何かを言いながら元来た道を戻って行く。なんだか、ちょっと怖い通りだね、とミレイが言い、うん、とユウヤも頷く。駅前の大通りから離れたこのコンクリートに囲まれた裏道一帯は、治安が悪い場所らしい、とユウヤは一目見て捉えられた。ユウヤはラブホテルに来るのが人生で初めてであった為、こんな通りに足を踏み込むことは当然、まるきり免疫がなかった。ミレイが周りをきょろきょろと少し怖がるように見回して、ユウヤの肩を強く掴んだ。ユウヤはその手を優しく触れて、大丈夫ゆっくり行こ、と自身の恐怖を押し殺しながら路を歩いて行く。 更に奥の通りに入ると、そこには立ち並ぶホテル群が見え出した。もちろんビジネス業関係やカプセルホテルといった一般的なものも見られたが、それ以上に通りの少なくとも半数を、ラブホテルが占領していた。水族館を模したもの、おしゃれなナイトクラブ風な外観、ログハウス的なアティチュードのものなど、それらは各々様々な風貌だった。そして通りには、それらホテル群に挟まれて似つかわしくない出立のラーメンショップとピザのテイクアウトショップが二軒不自然に建っていた。ユウヤは思わず不思議に振り返る。一、二人の人影があった。ミレイは、ここはどう、と煉瓦造りのグリム童話に出てきそうな城型のホテルの前へ近づく。ユウヤも一緒に寄って料金表を確認すると、一名当休憩六千円、宿泊一万二千円と表記されていて、二人は息を呑んだ。こんなにするの?知らなかった、とミレイは所持金額を確認する。ユウヤも見てみるが、一万も残っていなかった。ミレイも同じで、どうしよう?とユウヤの顔を見る。仕方ないし、他に安いところ探そう、と再び二人は歩き出した。 進んでいくとやがてお洒落で大方綺麗な外装のホテル達は、少しずつ見窄らしさを垣間見せる外観の建物へと変わってゆく。それは同じラブホテルではあるものの、どこかランクが下がったような感じに見て取れて仕方なかった。しかし、二人合わせてわずか一万足らずという金欠さを考えれば、この一辺で泊まる場所を探す他無かった。二人の足取りは重くなっていた。その筈、街中を歩き回った疲労がこの日没の刻に溜まって至るのだろう。しかしそれとは反比例に、この後のセックスに向けた性の熱欲は更に昂っていくような感じがしていた。 二人は通りの殆ど終わり端と言っても良さそうな路の角で、一軒のホテルの前で立ち止まった。花まみれ、という名前らしいが、み、の部分が削失しており、立体文字の看板に凹凸ができていた。ここなら泊まれそうじゃない?ミレイと共に料金表を見てみると、休憩千五百円、宿泊三千円と記されており、十分に余裕を持って泊まれる金額が目に入った。随分安いんだね、とユウヤは言って、じゃあここにしよっか、とミレイに促すと、彼女も頷いて二人は早速中へと入っていった。隣のホテルとは距離がある場所にあり、道中にある駐車場のコンクリート塀や自販機には元々の色を埋め尽くすようにグラフィックアートが塗り潰し殴り描きされていた。どれもが汚い言葉ばかりだった。近くにある網製の塵箱に捨てられたカラースプレーの嫌な残臭が漂い、ユウヤの鼻に付着する。ユウヤは手ですぐにそれを振り払った。 ホテルの一階は、どうやら物置場になっているらしく、受付らしきものは見当たらなかった。二人は目の前の階段を登り二階へ向かう。二階へ上がると、ライトはついているものの薄暗く、がらんとした人影の一切感じられない部屋に着いた。ちょっとした古ぼけた三人掛ほどのソファがあり、その前方に受付であろうスペースが見られた。すみません、誰かいますか、とユウヤは受付の扉窓に近づいて声を掛ける。少し待つと、扉が開き、皺の入った腕が伸びて出てくる。はい、これ鍵ね、番号の部屋に入りな、と初老の女の声がする。窓にはカーテンが覆われている為、顔や姿は見えなかった。ユウヤはその鍵を受け取り、番号を確かめる。二◯三と記されており、恐らくもう一度階段を登ったところにある部屋だろうと思い、二人は更に上の階へと登った。 廊下を歩き、二◯三の部屋番号を探す。あった、とミレイが言い、ユウヤは部屋の鍵を開けた。ぎい、という軋む音が低くも甲高く響いた。不気味な雰囲気がどこか漂い、元は幽霊屋敷だったのではないかとさえ思わせる空気が建物内に蔓延っていた。果たして自分たち以外に客は居るのだろうか。靴を脱いで二人は中へと入る。部屋はそれなりに広く、特に汚れてはいなかったが、やはり通路同様暗い雰囲気があった。広さは八畳一間程で、入り口から見て北西の壁際にシーツの端が薄茶色にくすんだベッドがあった。四角い鳥籠の台座だけが切り取られ、それに布団やシーツを乗せただけの不恰好で無造作なつくりだった。部屋の明かりを点けて、二人は荷物を下ろして、ふう、と一旦息を落ち着け、ベッドに座った。部屋を見ると、壁は掠れたピンクに塗装されていて、模様などはこれといって見られなかった。テレビやステレオなどといったものはなく、小さな円台形の水色ステンドグラスと縦横70cm程の正方形のラック付きクローゼット、シャワー室にベランダと二人の座るダブルベッド、そして壁にエアコンと吊掛の時計があるだけだった。一応確かめると、ベッドの枕に埋もれていたコールボタンが見つかる。指で押し触れる部分がかなり錆び禿げていた。 じゃあ、私先入ってくるね、とミレイは言うと立ち上がり、シャワー室に向かった。しばらくしてシャワーを浴びる音が聞こえてくる。ユウヤはその間に胸の鼓動を高鳴らせ、その音を耳にしながら心待ちに部屋を眺めた。ラックの方をふと見やると、中に何か入っているのに気付く。小型の手のひらサイズのトランジスタラジオがあった。誰か、別の先客の忘れ物だろうか、ユウヤは興味本位に手に取って電源を入れてみる。すると初めのうち電波受信の準備音が幾秒か流れて、やがて放送局へと繋がった。こちらはDate Sun's、間も無く午後七時をお知らせします、と時刻アナウンスの音声が聞こえてくる。時報が鳴り終えると、明日の天気予報です、と若い女アナウンサーの声がして、天気予報のコーナーに移った。明日のY代市Y代区をはじめ中心部は、一日を通して快晴の模様ですが、正午から夜にかけて降水率がおおよそ10%程の見込みです。と話している。日本海側に狭範囲の高気圧が発生する様子ですが、基本的には明るい陽射しの差す一日となることでしょう。天気予報が終えると、続けて明日開催される他招き祭りについての告知情報が流れ始めた。日時や場所、交通規制等について話し出される。そういえば、とユウヤはそのニュースを耳にする間、今日は前夜祭があるという事を思い出した。バスルームの方を見ると、入浴音は止まり、ミレイが着替え始めている様子が伺えた。 しばらくして、下着姿のままで腕にタオルと衣服を挟んだミレイがバスルームから出てきた。おまたせ、とミレイは髪毛先や肌に僅かに水滴を拭き残したまま、ユウヤの前に近寄った。安っぽい洗剤の匂いが香る。ユウヤも早く入ってきたら、と促されて、ユウヤはバスルームに向かった。バスルームは思うほど狭くはなく、居心地は悪くなかった。シャワーを浴び、数分で下着のままの姿で部屋に戻る。ミレイがトランジスタラジオを片手に聴いていた。 「これ、ユウヤのやつ?」 「違うよ、前の誰かが置き忘れていったみたい」 ユウヤが言うと、ふーん、とミレイはそれだけ返答して、ラジオ放送を聴き続けた。ユウヤはそうだミレイ、と話しかける。何?とミレイが尋ね、ユウヤは今日前夜祭があったはずだけど、行かなくていいの?と聞く。ミレイは、今日はいいや、と首を振った。 「だって、それよりもユウヤとのセックスの方が楽しみだし」 ミレイはそう言うとトランジスタラジオを枕元に投げ出して、早速ユウヤにキスをした。ユウヤは少し戸惑いながらミレイの目を見つめる。ミレイは唇を離すと、じゃあ、そろそろしよっか、と色気と憂いを混じらせた目つきになって呟く。立ち上がると、部屋の点灯を消して、ベッド脇のステンドグラスのライトを全開にした。オレンジ色の発光がベッド全体に当たり、その上のシーツの皺やベッドの形状を露わした。 私、前戯はあまり好きじゃないんだけど、とミレイは言って、左腕を伸ばして掌をユウヤのトランクスの中に忍ばせた。ユウヤのペニスを掴み、擦り始める。でもやった方が気持ちいいよね、やっぱり、とミレイはユウヤにも自分の股間に触れるよう指示する。ユウヤは自分の股間に既に明らかな熱を感じながら、高まる心臓の音と共に、ミレイのショーツの中に手を入れた。立ったままでそれぞれの股間部に手を触れて、互いに性器を刺激し合う。あっ、とミレイが声を洩らす。彼女の膣口にユウヤの指先が滑り込んでいき、陰唇の飛騨が濡れる。ユウヤもまたミレイの手弄りで股間に刺激を感じる。ペニスが完全に勃起すると、ミレイが一旦擦るのをやめて、ユウヤに再びキスをした。舌の温度が深くなり、唇を離すと唾液が糸を引く。ユウヤがコンドームを付けようとすると、ミレイが私が付けてあげよっか?と言った。いいよ、とユウヤは自分で付けると、ミレイは少し残念そうな顔をした。ユウヤはミレイの眼帯を外し風呂上がりの露わになった左目の青痣に舌を触れた。ミレイはそれを否定せずに、ただ彼の舌先に舐め回されるままに目を瞑って口内の体液の温度を感じていた。くすぐったそうに顔を綻ばせて小さく呻く。 前戯を終えてミレイは目を閉じて、ショーツとブラジャーを脱衣すると、ベッドに脚を広げて倒れ込んだ。ユウヤ、来てとミレイは誘うように言う。ユウヤはミレイの上に覆い被さる様に彼女の背中に手を回した。何度も舌を入れて、キスを繰り返す。背中や首元の滲む汗を感じながら、互いの身体が一つに溶け込み始める。ミレイが身体を起こして四つん這いになると、ユウヤはミレイの背中に火傷跡のような痣があるのを見つけて、ねえ、ミレイこれどうしたの?と聞く。気にしないで、昔のやつだから、とミレイはユウヤの意識を痣から戻すべくユウヤを振り向いて腕を掴み、腰に当てるように誘導した。挿れて、とミレイが言い、ユウヤはペニスをミレイの膣口に挿入した。ミレイとユウヤが声を洩らす。いくよ、とユウヤが言うとミレイはうん、いいよと答え、ユウヤは腰を動かし始めた。ミレイも応えるように身体を揺らす。刺激が股間に集まっていき、身体は熱を更に帯びていった。体温が上がり、汗が溢れ出る。いいよ、いい感じそのまま、とミレイが喘ぎを堪えながら喋る。揺れる髪の毛が汗でユウヤの腕に絡みつく。ユウヤは徐々に腰をする速度を速めた。ミレイは我慢できずに喘ぎ始め、絶頂に近づく。だめ、とミレイがいきそうになるのを堪え、ユウヤも絶頂しそうになる所でペニスを抜き出して、ミレイと自分の呼吸が落ち着くのを待つ。次にミレイが再び仰向けになり、ユウヤはもう一度ミレイの中に挿入した。コンドームの密着しきらない先端の部分にゴム特有の質感を覚え、ユウヤは難痒さを感じた。ミレイがユウヤの肩に手を回して、再び腰を互いに動かし出す。ペニスの先端がミレイの膣奥に突き当たる。その度にミレイは大きく喘いだ。アパートの時よりも、気持ちよさそうに声を張り、快感を求めていた。 しばらくすると体勢を変え、今度はミレイがユウヤを押し倒すような形になった。ユウヤがミレイの乳房を弄び始め、ミレイは杭打ちのように腰を上下させた。すると枕に埋まったトランジスタラジオが音楽放送のコーナーを始めて、リクエスト曲を流した。曲はルースターズのロージーだった。スカ調のリズム・ビートを刻むギターの音色が耳に入り込む。ドラムやベースと重なって、ボーカルが歌い始める。ロージー、おしえてロージー、何が欲しい、教えてロージー、What do you wanna do?Please tell me rosie、エイトビートの拍に合わせて二人は腰を揺らし振り続ける。ロックンロールに酔いまくり、掌を組み合わせ、全部の指を絡み付かせる。すべてに激しくやりたがる、ユウヤの動きに、ミレイは身体を仰け反らせ、飛び跳ねる様に臀部を揺らす。いらいらばかりがお前を包み、ユウヤはその様子を見ながらミレイの脇や臍の穴を舐める。クスリに酔いしれる、口元を移動させて、次に彼女の頸筋や額に舌を伸ばしやり、流れる汗の塩味を味わう。週末になればダンスに夢中、そのままミレイの右耳にかかった髪の毛を退かし、現れたピアスごと耳たぶを舐めて、耳穴を掃除する様に舌を入れて触れ回す。場末のホールにいりびたり、左手でミレイの頸を撫でると、ミレイは変に甲高く喘ぐ。いかすヒロイン演じたあとは、ユウヤはミレイの口元から溢れ出る涎を舌先で救って、自分の唾と混ぜ合わせ彼女の口内に垂らし、ミレイはそれを呑み込む。つかれ知らずの男あさり、更に強く腰を動かすと、ミレイは以前のアパートでの夜の時の様に、パパ、お願い、やめて、と悶えながら叫ぶ。曲のギターソロが始まる、ミレイの身体はさっきよりも全然熱く、着火剤が点火したようにヒートして激震を加速した。カラッポ頭にレゲエ・ソング、ユウヤは僕はパパじゃないよ、と声を喘ぎの中に埋め、ミレイの身体を抱きしめる。明るい日射しをあびたがり、出して、とミレイは言って、ユウヤの身体強くを抱き返す。うつろに空を見つめて、ユウヤはその言葉に応える様に反応する股間の熱を体外に放出させるべく、自然な本能に神経と意識を委ね、あああっと声を上げて白い稲妻をいつもみたいに茎道を通り過ぎさせようと身体に力を張った。ただただ体ゆらす、いくよ、とユウヤが言うと、ミレイもいいよ、と息を切らしながら言葉にする。いくっ、とミレイが先に叫ぶと、ユウヤもそれに反応して、絶頂を迎えた。ミレイもほぼ同時に絶頂し、累積していた息をはあはあと体内の熱と共に何度も吐き出す。ユウヤはミレイの膣奥越しにコンドーム内に射精した。うっ、と股間部に幾度か振動が訪れ、やがてそれは快感に換わった。二人はその体位と姿勢のまま、少しの間ベッドに項垂れる。気付けばルースターズの曲は終わっていて、ラジオ放送はCMに変わっていた。 ユウヤとミレイの身体に、心地よく爽快な脱力感が漲って、激しい行為による熱が全て水抜きをした水道の水みたいに放出されていった。しばらくして、ミレイが起き上がり、ユウヤにねえ、起きて、と促す。ユウヤが身体を起こして、ミレイに触れる。こっちに足開いて、とミレイに言われるま間にユウヤはベッドの上を移動する。気がつけばミレイはユウヤを覆い隠すように彼の身体の上に乗り出して、ユウヤの精液の溜まったコンドームを外すと丸出しになったペニスに咥え付いた。そのまま口を上下に動かして、音を立ててしゃぶり始める。ユウヤもやって、とミレイが言い、彼も同じようにミレイの、自分の顔の真上にある彼女の性器を舐め始める。舌先をクリトリスや陰唇に伸ばし触れて、ミレイの垂れ出した愛液を味わう。次に指で膣口をこじ開けると、その内部に舌を入れて更に奥まで舐めていった。ユウヤは女性器を愛撫するのは初めてで何も分からなかったが、夢中で好きなように唇と舌を動かした。あん、とミレイが咥えたペニスを離して気持ち良さそうに小さく喘ぐ。二人はそのまま番いの体勢で、互いの性器を舐め合い続けた。 やがてミレイがフェラチオをやめ、ユウヤの顔から股を上げると、ユウヤに仰向けになるように言った。ユウヤは言われるままにベッドに仰向いて、暗い天井のぼんやりとした照明器具の輪郭を眺める。目、瞑って、とミレイに言われて瞼を閉じる。するとミレイはユウヤの陰茎を足先の指で挟みながら擦り始めた。あっ、とユウヤはまだ身体に残っていた快感を求める気力に引き寄せられて声を出す。まだ出そう?とミレイが色気のある声でペニスを擦る足先の動きを徐々に速めながら聞いてくる、ユウヤは答える言葉も無く、ただされるがままに股間の微かな熱を感じ、小さく喘いでいる。うっという声と共に、ユウヤの亀頭の先端から残っていた白濁が飛び出し流れる。先ほどよりも半分程度の量だったが、それはミレイの足指全てに塗れるように冷たく垂れた。ミレイは足の動きを止め、笑いと掠れと喘ぎの残りと息切れを合わせたような声を発する。ようやく本能と欲望を吐き出し放った二人を囲むステンドグラスの灯りの上空に、精液と愛液の混じったなんとも言い表しようのない匂いが漂い流れた。
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ごめん、自分で立てるから、とミレイが小さく呻き声を上げながら、ユウヤの腕を退けてゆっくり立ち上がる。どうしたの?その傷とユウヤが聞くと、何でもない、大丈夫とミレイは苦しそうな顔で答える。 「またケンイチに殴られたんでしょ?この前僕と会ったから」 僕のせいで殴られたんでしょ、とユウヤは言う。違う、とミレイは首を振る。いつもの事よ。 「だって、傷跡増えてるじゃん、前よりもさ」 ユウヤはふと彼女のこちらを見上げる顔を眺めた。今更ながら、彼女の顔には新しい傷痣が増えてることに気付く。彼女の目元のアイラインや頬のチークの下に、血の滲みのような青黒い痣が微かに覗き、顔のメイクはそれを隠すかのように上塗りされていた。ユウヤは悲声を上げそうになる。それから彼女の首元の頸や鎖骨の窪みと、雨後の筍のように次々と新たな傷が見つけられた。 「ごめん、僕のせいで、あの日僕が家に誘ったりしていなければ…」 「だからユウヤのせいじゃないって、私が勝手にユウヤん家に行ったんだから」 「でも、酷い傷だよ、…ごめん、本当にっ」 違うって言ってるでしょ!ミレイのその怒声にユウヤは思わず身体が強張り、足取りを崩した。周囲を歩く人々の視線が一瞬、二人の方へと向けられる。ざわざわと彼らの声は積乗して音量を増していくような感じがした。ユウヤは彼らの目線を気にして、ミレイの肩を持ち、少し離れた人影の減った建物裏の物陰へと移動した。触らないで、とミレイがユウヤの手を振り払う。彼女の顔や首筋には冷たい汗が浮き出ていた。 「ケンイチがやったんだろ?本当のこと言ってよ」 「だからそれが何よ、ユウヤに関係ないでしょ」 関係なくないって、とユウヤは思わず声を上げる。僕だって、少しはミレイのことわかってるはずなんだ、だから、僕に何でも言ってよ、もっと頼って、教えてよっ。ユウヤはそんな風に言葉を続けると、ミレイが弱まったように身体をビルの壁へもたれ掛けて、はあ、と力なく息を吐いた。 「…ねえ、ミレイ」 「何」 「やっぱり、ケンイチと別れた方がいいよ」 ユウヤは彼女の睨みにも似た目線を向けられ、少したじろいだが、意気込むとミレイに向かい言った。するとミレイはいきなり形相を変えて、もたれていた壁から身体を反り弾ませてユウヤの前に立った。 「ユウヤに私の気持ちなんて分かるわけないでしょっ!」 ミレイのその声は、ビルとビルの道路を挟んだ空間に反響して、近くにいた鳩数匹を飛び逃げさせた。通行人が驚いたように二人の方向を見やる。一体何があったんだろう?中にはイヤホンを外して聞き耳を立てる者もあった。 「……ごめん」 「………………」 その怒声を最後に、ミレイは体内に溜まっていた何かをこの際に吐き出し露爆し終えて渾沌した胸や頭がすっきりしたのか、その場に力なくへたり込んで、手で顔を覆うと、コンクリートの上に俯いて泣き出してしまった。手に持った荷物の買い物袋が音を立てて地面に落ちる。うっうう、と指の間や手の甲から溢れた涙がコンクリートを湿らせ、冷たい斑点模様をつくる。 「……ごめん、ミレイ、本当に、そんなつもりじゃなかったんだ」 ユウヤがミレイの元に膝を下ろして、彼女の背中を優しく摩ると、イヤホンを外した通行人は、興味を無くしたように再び前を歩き始めた。 ねえ、顔上げてよ、お願いだからさ、とユウヤは彼女の刺激にならないような囁き声でミレイを宥めた。こんなところで泣かないで、どっか他のところへ行こ、と続ける。ユウヤはそれは決して周囲の二人を見る物珍しげな視線を恥じている訳ではなく、本心でミレイの哀しみを和らげ、泣き止ませたいと思っての言葉だった。ミレイの嗚咽は徐々に弱まり低くなり、泣く仕草と連動した背中のひくついた揺れも、ユウヤの撫でる手の動きと共に落ち着きを次第に見せた。やがてミレイは顔から掌を外して、目元に残った乾きかけの涙を擦り拭って、顔を上げた。アイラインはすっかり流れ落ちてしまい、両頬のチークも掠れてぼやけてしまっていた。 彼女はそのメイクの崩れたどこか清々しい顔と眼差しで、空を眺めた後、ユウヤの顔の方へと目線を移した。ミレイの顔は確かにメイクが完全に崩れ、それらの残った色彩が斑のように顔の至る所へ乱雑な染みをつくっていたが、彼女の表情は、相変わらずにあどけない、愛らしい幼さを保ち、輝かせていた。 「……どう、落ち着いた?」 ユウヤが恐る恐る尋ねると、ミレイはうん、と小さく頷いた。ごめん、困らせちゃって。 「いいよ、気にしないで、僕が変なこと聞いたりするから」 ユウヤはそう言ってミレイの腕を取って、彼女を立ち上がらせた。じゃあ、歩こっか、とどこへでもなく見えるまっすぐな通りの先へと足を進める。ビルやマンション群の並列する向こう側へと大きく広がる空は、先程よりも濃暗な夕暮れ色を含ませ、映し出していた。時刻もそろそろ五時を迎える頃だろう。マンションの通りを抜けた所にある狭い草原公園の時計を見やると、短針と長針が間も無く午後五時を指し示そうとしていた。 「ねえ、ユウヤ」 「ん、何?」 誰もいない公園を通り過ぎた後の曲がり角で、腕を掴んだままミレイが言った。ユウヤの顔を見る。 「私、ちょっと変だったよね。っていうか、ちょっとじゃなくて、凄く変だったよね」 ユウヤは何も答えずに、ミレイの目を眺めた。乾いた涙の跡が夕陽の光で光沢する。 「…私、時々ああなるんだ。ユウヤの前だと初めてだと思うけど、あ、じゃないや、酔っ払った時も確かそうだったよね?ほら、家に泊めてもらった日、バーで飲んでてさ」 ユウヤはミレイとミッドナイト・ラグーンで二人酒を飲み合った夜を思い出す。それは朧にぼんやりではなく、はっきりと鮮明に彼の脳内に浮かび上がり映し出された。 「ユウヤもさ、覚えてるよね?」 「………」 ユウヤはやはり何も答えなかった。何と言ったらいいのか、全く見当もつかなかった。あ、覚えてない?もしかして、そっか。ミレイは何か諦めたように呟くと、ユウヤから視線を逸らす。そのまま公園を越えた先の住宅地の混じり入ったシャッターの多い商店街の入り口にあるカーブミラーの横を曲がり終えるまで、二人は無言のまま歩いた。カーブミラーを越した辺りで、ねえ、とミレイが再び話し掛けた。 「私、何だか泣きつかれちゃった。ずっと歩き回ったってのもあるかもしれないけど」 そう言うとミレイは、ユウヤの掴んでいた腕にぎゅっと両手を抱きつかせて、私、行きたいところあるんだ、ユウヤと、と言い出す。 「行きたいところって、何処?」 「ラブホテル」 ミレイはそう言って、ユウヤの顔をにやりと眺め回す。ユウヤは返答に困り、視線を彷徨かせる。 「ねえ、行こうよ、いいでしょ?ユウヤだって疲れたじゃん」 ほら、眠そうな顔してんじゃん、ゆっくり休みたいでしょ?私も早く休みたいなあ、と独り言なのか要求なのか今ひとつ曖昧な声を出してミレイは脚をふらつかせる。ユウヤは、じゃあ、ちょっと待ってて、寄って行きたい所あるから、とユウヤはミレイを商店街の入り曲がった路地に見えるドラッグストアの前に連れて、店内に向かった。入り口の前に栗鼠をモチーフにしたキャラクターのオブジェが建っている。コンドームを一箱購入して、外へ出る。お待たせ、と言うとミレイは何買ったの?と尋ねる。コンドームだよ、一応ね。ユウヤは箱をミレイに見せる。じゃあ、後で私がつけてあげるね、とミレイは可笑しそうに言う。 何か飲み物でも買ってこうか、とユウヤは隣横にあるコンビニに入る。私もとミレイもついて行き、アルコール飲料とホテルで食べる夕飯用の惣菜パンを二つずつ購入した。二人は店を出ると、商店街の出口へと向かった。 玩具売り場の閉まったシャッターの前を通りかかると、何やら座り込む小さな子どもと大人の人影が立っているのが見えた。子どもは幼く、声を篭らせて顔を腫らしたように紅くして泣いている。何か欲しいものを強請っているが、買わせてもらえないのだろうか。それは、側に居る大人が、子どもの母親だと確かめられてユウヤが思ったことだった。泣き疲れたのか、子どもはうう、と呻き声のように声を畝らせる。母親は、またそんな駄々を捏ねるのか、と半ば呆れたように彼女もまた疲れたような顔で子どもを眺めていた。お母さんもう帰るからね、着いて来ないんだったら、後は知らないから。そう言い残して母親が商店街を出ようとすると、やだ、と子どもが諦めたように母親の後を急いで追いついて行く。その様子を見て、全くもう、いつまで経ってもわがままなんだから、と溜め息をつきながらも、自分の息子を憎みきれないような表情で見やり、二人で手を繋いで商店街を出て行った。 「ねえ、あの子さ、さっきの私みたいじゃない?」 ミレイの言葉に、え?とユウヤが振り向き声を出す。ほら、私もあんなふうに駄々捏ねてたじゃない?映画館の近くで、ユウヤに向かってさ、泣きじゃくったりなんかしちゃって。 「そうだね、確かに子どもみたいだったなあ」 「私ね、時々思うんだけどね、あんな風に駄々を捏ねていられるのって、実は一番幸せなんじゃないのかな、って考えたりするんだよね。ほら、だってさ、今の私達みたいに大きくなったら、そんなことできないじゃない?」 大人なんだから、とミレイは歩くたびに近づく出口から見える夕陽を見つめて言う。確かにね、とユウヤも頷く。 「それは、きっと親にとっても、煩かったりするかもしれないけど、でも本当は嬉しい事だったりするんじゃないかな」 ミレイのその言葉は、親子という概念の核を突いているように思えて、ユウヤは僕もそう思うよ、と言った。彼女と同じように夕陽を眺める。 「そういえば、ユウヤはお母さん居るんだっけ?」 「ああ、うん、そうだけど」 そっかあ、とミレイはそれを聞いて、少し俯き、羨むような口調でいいなあ、と呟いた。私も、ママのこと好きだったな。と寂しさを含ませて続ける。 「でも、父さんは死んじゃったんだけどね」 「私は、パパなんかさっさと死ねばいいって、毎日思ってたわ」 ミレイはそんな物騒なことを言うと、急に笑い出した。どうしたの?とユウヤが尋ねると、ミレイはユウヤの方を見て、大事にしてあげてね、お母さんの事、いつまでも。と優しい表情で告げた。うん、そうだね、わかってる。ユウヤは商店街の出口から足を踏み出す瞬間に答えた。夕陽がものすごく眩しく、歩道に建った自転車置き場のバイクポートの遮光構造になっている天井が、まるでサングラス代わりのように下を歩く二人を夕陽の熱から遠ざけて見守った。
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アーケード出口の横断歩道を渡り、二人は人足の減った国道沿いの大通りを右方向に曲がり、一本目の路地に入った。路地と言っても、ちょっとした服屋や雑貨店の連なる横丁と呼べる様なそれなりに広い通りだった。ミレイとユウヤはその中でなんとなく見ず知らずの昼食場を探すことにした。 ユウヤがミレイの後をつけて行くと、手前から二人組の、ユウヤ達と同い歳位の女の子が歩いてくるのが見えた。近づく度に、会話が聞こえてくる。えー、飼うんだったらマングースの方が絶対いいでしょ、可愛いしさー、アナコンダなんてちっとも可愛くないじゃん。そんなことを口にしながら、一人の方がユウヤのすぐそばを通り過ぎた。飼いたいペットの話でもしているのだろうか、だとすれば、それにしてはやや凶暴な名前が挙列されてるなあ、とユウヤは彼女達の顔を見て思った。そして一人の長い髪の毛がユウヤの首筋に触れて、不意に香水の匂いが鼻元に漂った。カルトゥージアの甘い紅茶のような香りが掠めた。 「ねえ、ミレイは、香水とかはつけないの?」 「何、急に」 ミレイが不思議そうに聞き返す。ユウヤは、いやなんとなく、女の子は皆んな香水とか好きなんじゃないのかなと思って、ユウヤが何気なく言うと、私、付けたことないんだよね香水、とミレイが言う。なんで?とユウヤは彼女の顔を見やる。 「だって、なんかそれってカッコつけてるみたいじゃん?」 二人が目にしたのは、長い花壇の並列する道を区切るように、緑生い茂るパーテーションに囲まれて建っている煉瓦造りのパスタ専門店だった。ミレイが、ねえ、こことかどう?と店を指さして、ユウヤがいいんじゃない、入ろうよと賛同する。じゃ決まりね、とミレイが入店する。私、パスタ好きなんだよね、と空腹に舌舐めずりするような顔でユウヤの方を向いた。 いらっしゃいませ、という店員の声が響き、ユウヤとミレイはこちらへどうぞ、とテーブル席へと案内される。こちらメニューです。お決まりになりましたらお呼びください。若い男の店員がそう言ってメニュー表を二人の目の前に置いて去って行った。ユウヤは何にするの?どうしようかな、暫し悩んで、すみませんと店員を呼ぶ。はーい、という声と共にやってきた店員に、ユウヤはペスカトーレのスパゲティとアラビアータのペンネスープ、ミレイはジェノベーゼのカッペリーニとミネストローネをそれぞれ注文した。少々お待ちください、と店員が再び去った後、二人は空腹を他所にさっき歩き巡った店々について話した。どれも全部、全然個性の違う人がいて、なんか不思議だったよね。うん、面白かったね。そうね、本当に。 店内は、やはり昼時なのでかなりの人影があり、賑わっていた。客達の座喚き声や笑い話が店中に充満している。イタリアンレストランだというのに、店内のBGMには何故かトムキャットの、ふられ気分でROCK'N'ROLLが流されていた。ミレイは買い物袋達を手から足下へと下ろし、中身を確かめる。今日も色々買ったなあ、ユウヤの選んだ、スージークアトロの服を眺める。ユウヤ、見つけてくれてありがと。ミレイこそ、レコード譲ってくれたじゃん。だから私持ってるんだって、それ。ミレイが可笑そうに言う。それにしても、疲れたね。うん、もうお腹ぺっこぺこ、早く来ないかなあ。ミレイが壁紙を見回しながら、子どものように足をばたつかせている。ユウヤは水を一口飲んだ。十五分ほどで、二人の注文品が届く。お待たせしました、と店員はパスタ皿をテーブルの上へと置き、ごゆっくりどうぞ、と急足で去って行った。美味しそう、いただきます。ユウヤとミレイがそれぞれの料理を口に運ぶ。美味しい、ミレイがミネストローネを一口啜る。ユウヤはペスカトーレをもう一口頬張る。海鮮や唐辛子やトマトの酸味、そしてバジル仕立てのソースの匂いが卓上の上で混ざり絡み合い、二人の鼻腔や喉道を通り抜け、食欲を増進させた。 一通り食べ進めたところで、ユウヤがそういえば、とスープを飲み込んでミレイに尋ねた。 「他招き祭りの事教えてくれるって言ったよね、ほら、明日なんでしょ?」 「ああ、うん、そうだったねちょっと待って」 ミレイはそう口籠もりながら答えると、噛んでいたカッペリーニ麺を流し込んで飲み込むと、他招き祭りっていうのは、とユウヤに説明を始めた。 「さっきも言ったけど、毎年春の季節のこの時期になると、ここの街ら辺で開かれる祭りなの。駅から左に十分ぐらい歩いたところに夕峰山って山があるんだけど、その麓で神輿担ぎとか祈願奉納の焔滾式とか他招き音頭や実花豊栄節みたいな舞踏演芸がメインで行われたり、それと少し離れた街並みの通り一帯で、よくある祭りの屋台が建てられて男女年関係なく食べ歩きを楽しんだりしてるの。人も結構多いんだよ、当たり前だけど」 ミレイはそう言って、子どもたちもよく迷子になってるのを見かけるわ、と麺を一口食べる。そうなんだ、結構イベント色々あるねとユウヤは思わず興味を惹かれた。あ、あとそれと、とミレイは飲み込み終えるとすぐさまに話しを続けた。私が好きなのはその後の最後に始まる、灯籠流しなの、と水をごくりと飲む。 「灯籠流しって、あの川に灯りのついたのを流すやつだっけ?」 「そう、それそれ」 ミレイはそう言うと、でもこの祭は少し変わってて、と続ける。灯篭なんだけど、トーチみたいな形になってるの。トーチ?とユウヤが聞くとうん、とミレイが頷く。 「灯篭みたいな形じゃなくて、トーチの先端部分が棒から外れたようなデザインになってるんだけど、その上の炎の部分が、灯籠の灯りみたいに光出すの。不思議だよね、なんでそんな風な形になったのか、諸説あるみたいだけど」 そうなんだ、なんか不思議な祭りだね、とユウヤは言う。でしょ?結構面白いんだから。ミレイは今にもその祭事の様子を絵に描き始めたそうな程ウキウキとして残りのパスタを頬張った。ユウヤはふと、あのアーケードの祭りを告知するタペストリーに、第百五十八回という記載がされていたのを思い出す。ということは、母が生まれる百八年以上前からあるのか、とよくわからない年数の比較をして、ユウヤはその莫大な年月の経過に在ったであろう街の人々の歴史に思いを馳せ、食べる手を止めしんみりと一人その余韻と空気に浸った。 「明日、楽しみにしててね」 「うん、そうだね」 二人はそれから数分で料理を食べ終えると、ご馳走様でした、と荷物を持ちすぐにレジで会計を済ませると店を出た。店内の人が入れ替わっており、時刻は午後一時を過ぎていた。美味しかったね、とミレイの言葉に、ユウヤは路地の曲がり角のクローバーを見やりながら本当にね、と頷く。 映画でも観に行こっか、と提案したのはユウヤだった。アーケードと並行する国道沿いの大通りを歩きながらミレイに言う。ミレイがいいね、と頷いて、何か観たいのでもあるの、と続けとユウヤは、ううん、別にそういう訳じゃないけど、二人でせっかくならさ、観に行きたいなあなんてちょっと思っただけ。ミレイがそうだね、二人で観れば楽しいもんね、と肩上の髪先を風に揺らしながら言う。時間も夜までたっぷりあるし。 映画館があるのは、アーケード街から駅方面の東口へと向かうオフィス街の通りを十数分程歩き、四車両通行の巨きな交差点の頭上に設けられるペデストリアンデッキに登って歩行者信号機の無い階段を降りた、ビジネスホテルとY代市内のラジオ放送局、Date Sun'sに囲まれた場所だった。ペデストリアンデッキの真下に、シアター・マーヴィンという館名が大々的に視界に入る。出口前の通路では、ビジネス職の類系の衣服を着用したサラリーマンやOLが忙しそうに足音を鳴らしている。みんな忙しそうだね、とミレイが何気無く呟き、そうだね、とユウヤも何気なくそれに答える。彼らが横を過ぎる時に二人の身体に相対的に吹きつける風が、彼らの心のどこかに残る寂しさによる冷たさを含んでいるように思えた。都会的なニュアンスを持った風だ。 映画館の入り口は、ホテルのロビーに繋がるようなようなガラスの円形のパーテーション式の造りになっていた。自動ドアが回るように開き、二人は中へと入って行く。映画を見終わった若者の友達グループや、カップルや子連れの家族や親子が二人の方向へと時に会話をしながら、時に眠気を見せながら歩いてくる。パンフレットを落とした一人の父親が、走って外に出て行こうとする子どもを、拾い様に慌てて追いかける。 二人はスクリーン横の壁一面に貼られた映画のポスターを見やる。絶賛公開中、今年秋公開、今年冬公開等様々な時期を渡次ぐ作品達のジャケットが目に入った。従業員達がポップコーンやドリンクを忙しそうに補充、調理、そしてオーダー受取とこなしているフロントのフードカウンターの左隣に、発券機と共に今日の公開スケジュールの作品一覧を示したボードがある。あれ見にいこうよ、とそっちへ歩き出すミレイの後をユウヤは追った。土曜日夕入り前の映画館内の混雑を掻き分けて、二人は上映予定の作品を確認した。探偵推理モノや、アクション、海外のSFホラー等、テレビで一瞬しか見聞し得ていないタイトル群が読まれる。どれにしようかな、とユウヤが迷っていると、あ、これとか面白そうじゃない?とミレイが指差したのは、硝子の猫というタイトルの作品だった。日本の映画らしく、ちょうど十五分後の二時から上映開始という事だった。ユウヤもそれにしよ、と賛同する。じゃあ私チケット買ってくるね、とミレイが発券機に並ぶ二、三人の人影の後ろに向かう。ユウヤはその間にフードカウンターで飲み物だけでも買っておこうと、かなり並んでいるカウンター前の行列へと並んだ。次の方どうぞー、と従業員の声が後列まで聞こえてくる。自分の番が来てユウヤはコーラを頼んだ。お一つでよろしかったでしょうか?と聞かれ、ミレイも飲むだろうか、と少し悩んだが、二つでお願いします、と彼女の分も注文した。わずか一分ほどで二人分のコーラが受け渡された。両手にそれを持って、ユウヤはミレイの姿を探す。ユウヤ、こっちーとミレイはスクリーンの入り口で手を振っていた。 「コーラ買ったんだけど、飲む?」 「え、いいの?ありがと」 ミレイは片方のコーラを受け取ると、嬉しそうに一口吸い込みながら、スクリーンの中へと入っていった。早めに座っておこう、と二人で指定席番号を探す。大きな映写幕の前には、各々横方向に六列の段差に区切られた劇場席が聳える。二人は三段目の右端の二席に座った。今後の公開予定や既に公開済の作品予告が次々に数十個程映し流されていき、それが終わる頃には半分くらいだった劇場席が九割五分埋め尽くされた。作品上映の一分前、観客達の潜め声や足音は沈黙し、暗転する劇場内と共に全く静まり返った。 配給サークルの社名が映し出されて、上映が始まる。はあはあと息を吐きながら、暗闇の画面中から駆ける足音が聞こえる。少しずつ画面の中に明光が加わり、廃屋のような建物が映る。走っていたのは、一人の少年だった。誰かに追いかけられているんだろうか、ようやく足を止めると、そこの前は壁で、行き止まりだった。視点が振り向き、男が立っている。男が少年に襲い掛かろうとした瞬間、発砲音が響いた。少年が男を撃ったのだろう。そこで再び画面が暗転し、無音が続く。しばらくして大丈夫か、クロ、という別の男の声が聞こえる。うん、なんとか、と少年が答えた時に、映画のタイトルである、硝子の猫という文字が浮かび上がった。ミレイが横でコーラを一口飲む。 映画のあらすじとしては、主人公である十五歳のクロこと旭川黒介という少年が、養父の山野城という男と殺し屋業で生活を営み、そんな中同い年の謎の少女、八村雪と出会う。そして彼女と恋路の仲になり、あどけなくおぼつかない青春を送る。すると突如、城叔父さんが雇い主の組長に攫われてしまい、黒介と雪は彼を助けるべく、復讐に乗り込んでいく、というのが大まかなストーリーだった。観始めた時は、複雑な家庭環境に育ち暮らす少年少女のありきたりな葛藤劇と退廃的な恋愛ドラマを織り交ぜただけのような展開に思えたが、アクションも本格的であり、その迫力と勢いに呑まれ、かなり過激な演出もそれなりに多くあったが、楽しく観ることができたな、とユウヤは思った。主演の俳優も、名前の知らない人たちばかりではあったが、気になることはなかった。特に印象に残ったシーンは、黒介が雪の発砲を見守る場面だった。その間の取り方に、思わず画面に引き込まれた。演技にしても、妙にリアルで今現在この映像が当舞台で撮影されており、生中継を通じて映し出されているのを見ている感覚だった。もしくは動物園や水族館の様にガラスの飼育檻越しにまるでオペラ演劇の様に目の前で演技がなされている風にも思えた。ユウヤは誰かと映画館へ観に行くのは中学校以来だったが、当時の懐かしい気持ちをそれとなく取り戻していた。コーラの容器にはまだ中身が半分ほど残っている。ミレイは既に飲み干しており、映画幕に流れるエンドロールを少し眠そうに、静かに眺めていた。 エンドロールが終わり、周りの客達に同行して二人はスクリーンを出た。上映時間は二時間足らずで、時刻はまだ午後四時前だった。 「結構、面白かったね」 ミレイの言葉に、そうだね、とユウヤは呟くように答える。特に感想などは言い合わなかった。そんな事は後でまたゆっくり足を落ち着けた後ででもいいだろう、と二人は何という会話も無しに、映画館を出て、外の光を浴びた。時刻は午後四時、濃くなった通行人の影が夕暮れ時を知らせる。 「ねえ、明日祭りって事はさ、どっかに泊まるんだよね?」 「うん、そうだね、どこにとま…」 ミレイはそう言いかけて、痛っ、と突然体勢を崩した。マンホールの上に跪く。大丈夫?とユウヤは彼女の身体を支えて、手を取る。どうしたの?と言うとミレイは、ちょっと躓いちゃったみたい、と苦しそうな顔で答えた。ユウヤはふとミレイの足元に目をやると、彼女の裾から覗く左足首に、初めて目にする紅黒い痣があるのに気がついた。