アベノケイスケ

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アベノケイスケ

小説はジャンル問わず好きです。趣味は雑多系の猫好きリリッカー(=・ω・`)

38

 ミレイがアリンを拾ったのは、中学校を卒業した数日後のことで、外を気晴らしになんとなく散歩していた時に見つけた。アリンは電柱の疎らな間隔に並ぶ道路沿いの畦道でか弱く叢に身を踞らせていた。ミレイはふと足を止めてその叢に近寄ってみた。掠れた緑に隠れるアリンになる猫は遠目でもそれが生き物だということが分かった。アリンは動きこそはしなかったが、目立つ真っ黒な毛を生やしていた。アリンは黒猫だった。片目がなく、酷く痩せていた。その姿を見た時、ミレイはまるで自分みたいな猫だと思った。ミレイはしゃがみ込んでその猫の姿をじっと眺める。ミレイには猫がまだ死んでいないことが分かっていて、何故猫が生きているのが分かったかというと猫は尻尾を風ではなく自分の力で揺れ振れさせていたからだった。猫は鳴き声を出せるような気力さえ無いようで、にあっ、と紙も動かせないような小さな息混じりの声を不安定に出すだけだった。そして草や枯れ葉や乾いた土に塗れて目を細めて手足を脱力させて寝転んでいる。  ミレイはその見た目以上に軽く小さな身体に手を触れて、そっと抱き上げた。本当にとても軽く、骨でも抱えているんじゃないかとも思えるような痩せ方だった。ミレイは猫としばしその場で見つめ合い、畦道に吹く風とそれにより微かに揺れる猫の体毛やピアノ線のような髭を眺めて人気の一切無い叢の中に立ち尽くしていた。  ミレイはアリンが父にばれないように、といっても父は既に以前からほぼ家には居ない状況なのだけど、それでもいつ帰ってくるかは分からないため、アパートに持ち帰ると自分の部屋の小さな物入れの箱の中でひっそりと飼い始めた。餌を与えると、アリンは容姿に似つかぬくらいにそれらを食べた。アリンに与える餌は大体決まって牛乳か小魚かまたはミレイの食べ残した惣菜類などだったが、アリンは選り好みすることなく全てに手をつけて貪った。その様子を見る度にミレイは、よっぽどお腹が空いていたんだろうと愛しそうに食べ物に在り付く姿をまじまじと眺めた。そしてアリンは果たして元々は誰か飼い主がいて、その人に飼われていたペットだったんだろうか、それとも元から草道を這歩いていた野良猫であったんだろうかというような事をミレイはふと考えた。ミレイにはアリンは何故か親猫から逸れた姿に見えてならなかったが、それが何故か根拠は持てずにいた。  アリンは雄にも見えたし、雌にも見えたが雌だった。股には雄の生殖器が無くそれは去勢されたからというものでは無いだろうとミレイは彼女を観察して思った。アリンはとても気まぐれな性格らしく、ミレイにとても懐くように近づき、本を読んでいたりなどするときに頬を擦り寄らせたり喉を鳴らしたりする事もあるかと思えば、全く飼い主に興味を持たずといった様子で何か声をかけてあやしても一日中無反応という様子を見せる事もあった。そしてご飯にしても、雨の日はよく食べるのに、晴れの日はあまり食べなかった。ミレイはアリンには何か彼女なりの独特な感性というか、ルーティンのようなものがあるんだろうかと不思議そうに気色の変わる彼女の行動を見やって思っていた。ミレイはまるで自分が彼女の親にでもなったみたいな気分を覚えた。  そしてミレイはそんな風にアリンの世話を並行しながら、自身の就職先を探した。ミレイが求人先に電話をしたり職場員募集の広告のチラシなどを部屋に広げて読み見ていると、アリンは何をしてるの?と言わんばかりにどこか不思議目そうな目つきでミレイを傾げ首で見つめた。 「私は今、仕事を探してるのよ。自分がこの家を出て行ってからお金をもらって暮らしていくための、ね」  ミレイはそんな風に話しかけて、アリンの耳や首や横頬を撫でた。いいわよね、あなた達みたいな猫はとアリンの喉元をほぐし掻いてやる。 「だって、人間みたいに仕事とか、お金とか、家とか、何にも必要ないんだから。それにくだらない人間関係とか、嫌な恋愛感情とか性差別とかエゴイズムとか主義思想とか誰かが死んだ哀しいニュースとか殺人事件とか戦争とか、そんなの知らん顔で生きていけるんだものね。ねえ?そうでしょ?」  それに、ママが家を出て行ってしまう哀しさとかパパから受ける暴力の苦痛とかも無くってさ。そう言ってアリンの目を見るも、彼女はにゃあん、と何気なく素朴な鳴き声を返すだけで当然そうなのです、私は貴方のような入り組んでこの上なく複雑な人生に於ける悩み事などは一切聞き耳立て耳に受け入れないのですといった人語を話すわけもなく、彼女なりの猫の生活にいつもの如く徹しているだけだった。 「でも、もしかしたらあなたにも、何か独特の悩みとかあったりするのかしら?猫の猫に対する猫らしい猫ならではの猫的な悩み悔やみ事が、とかね。あなたにしか分からない辛くて苦しい事もあるのかもね。ねえアリン?」  そのミレイの言葉に、アリンはやはりにゃー、と暢気そのままの柔らかい軟調な鳴き声を部屋に小さく響かせてミレイの掌に頬を乗せて脱力するだけだった。  そんなアリンの様子がおかしくなったのは、ミレイの仕事先が見つかった日の午後からだった。ミレイが就職先の印刷業会社からの採用の電話を受理した数時間後、アリンは昼に食べた餌を吐き戻したり、不自然な痙攣を起こしたりした。ミレイはその度に彼女の身体をさすったり、暖めた布類で包んであげたりした。しかし容態は悪化していくばかりだった。ミレイは、アリンは病気なんじゃないかと思い、いつの日か動物病院に連れて行ってみようと考えたが、その後すぐにアリンは死んでしまった。畦道で見つけて飼い始めて、一ヶ月と数日が経った夕方近くだった。アリンの亡骸は一時は餌やりなどで肥えていた顔や腹部が見つけた時と同じように痩せ細り、黒い燃え殻の炭のようになった手足や尻尾が温度を失くして項垂れているみたいに思えた。  そしてアリンの死に気づいた時、非常かもしれないけどミレイはあまり哀しまなかったし、泣かなかった。それは決して哀しくないわけではなかったのだが、泣いたとしてもそれはわざとらしいものになるに他ならなかったため、ミレイは自然な自分の中の感情に身をまかせ委ねて、彼女なりの追悼を行なった。しかしミレイは確かにアリンのことを愛していたし、とても大切に育てていた。涙がこぼれないのは、アリンがいつかこの世界から去り行くだろうということを心の中のどこかに推測していたせいかも知れないし、アリンの死は本当の彼女の死ではないとそんな風なことを感じていたからかも知れないとミレイは彼女の死体を眺めて思った。  それからミレイが家を出ていくまでそのアリンの世生を経った部屋には、彼女の吐き出したミルクや魚の未消化の肉身や胃液に溶けかけた惣菜の欠片の匂いの染み浸った床から微かにのぼる独特な酸っぱい刺激が立ち篭めていて、ミレイはそれを鼻に覚える度に、あのアリンが亡骸と化した瞬間の光景をそれなりに鮮明に思い起こせるような気がした。  ーそんな事をミレイは今、就職先の職場と社員住宅のある街へと向かい上り走る電車の車両に乗っている最中に思い出して考えていた。アリンは今頃、ちゃんと天国に行くことが出来て、幸せに暮らしているのだろうか。そこには彼女の母猫がいたりして、家族間の育みきれなかった愛情を更生させていたりするんだろうか。そんな風にミレイは車窓から眺められる青く澄んだ白い雲が車両と逆方向に動き去っていく空を眺めて思った。そしてもしも自分が死んだら、私は天国に行けるんだろうか?それとも地獄に落ちていってしまうんだろうか?もしも地獄に落ちるとしたなら、私の罪は何になるんだろう、そんな思考意義の宛てのない推察をミレイはこの電車が向かう不安や希望や見えない未来の形を隠らせた自分の知らない初めての街を目指す胸元の緊張を昂らせながら、訪れることのない眠気に目を瞑りながら巡らせて席の背凭れに寄り掛かっていた。           *  ミレイが初体験を済ませたのは、仕事を始めてから一年くらいが経った日で、相手の男はそれなりに頼りになる彼女よりも五歳程年上の先輩だった。二人でどっか昼ご飯でも行かない?ととある休日に誘われたのをきっかけに一緒に出掛けることになり、流れで何となくラブホテルへと泊まることになった。  彼とはその後も二回ほど社員寮でセックスに至り、それからは何となく個人的な会話が少なくなり、やがて彼は職場を辞めてどこか遠い街へと引っ越して行った。 それは決して喧嘩によって二人の仲が悪くなったりであるとかは無く、本当にただ何となくの時間の経過による自然な結果ということに過ぎなかった。二人の互いに向けた恋愛みたいな意識がいつの間にか徐々に少しずつ薄れていっただけに他ならなかった。  彼はごく普通の男で、それは容姿だけに限らず、私分の服装や声質や背丈に至るまで目に映る全てが平均的なものだった。男はなかなかに優しい性格で、ミレイは作業中に都度分からないことを教えてもらったり、仕事を彼の手を借りて手伝ってもらったりしていて、自然と彼に対しての心内の許諾を覚えているのに気付いていた。そのため男からデートに誘われたときは、表には出さずとも嬉しさを感じて、恋を経験するチャンスに乗ることにしたのだった。  ミレイと彼のセックスは、非常にノーマルなプレイであり、男による愉しませる前戯や彼の喘ぎ方、反応、動きといったセックスのやり方はやはりどれもが一般的なものといえた。しかしミレイにとってはそれが初めての経験であり、普通であるといったことなどはどうでも良かった。行為を始めてから数十分程で、ミレイと彼は絶頂を迎えて、二人はそのまま疲労に身を任せてベッドに倒れ込んだ。何はともあれ、愉しいセックスだったし、ミレイは初めて覚えた絶頂に鼓動を高鳴らせて、男の横で息を震わせていた。  男が眠った後、ミレイはなぜ自分は今こんな事をしたのだろうとふと疑問を思い浮かべた。なんであんなにこれまで人生の中で忌み嫌っていた性行為、それは妊娠という子どもが産まれる為の生理現象につながるものであり、ミレイが耳にしたり言葉として目にする度に吐き気や頭痛を催したりしていたものであったはずなのに、自分はその行為に何の抵抗もなく従い至ったんだろう。ミレイはもしかしたら私は頭がおかしくなってしまったのかも知れないと考えた。自分の中の張り詰めたたがが外れて、ある種自暴自棄な産物の欲求をかつて敵だった性欲に躊躇いなく向けて発散させて、自己の存在意義を捨ててしまおうとしたのかも知れない。だけどそれはやがてそうではないとミレイは再度考えを改めた。セックスを始める前に男に対して感じた感情は確かに嘘ではない真正な恋愛のものだったし、彼との行為中に覚えた快感はどれもが本来の生物的な条件反射のものだった。その時ミレイは自分の意識が初めて性欲という本能に触れたことを実感した。  その後日もミレイは何度か人気のない時間の社員寮の中で、あの彼との内側に生まれた快感を再現しようと一人で自慰行為に馳せ参じたりしたのだが、いずれの時にしてもそれなりの快感は得られても、あの時のような絶頂の気持ちよさ、ましてやそれ以上の快感を再現に至らしめることは出来ずに終わった。なんとか彼の顔を思い浮かべてみても、やはり無理だった。  ミレイはその数ヶ月後に、街を歩く最中にナンパを受けた。この世界のどこに自分のような女を誘おうなんていう物好きな男がいるのだろうかとかつての恋人の平凡的な、かの先輩男子を他所にミレイは声を掛けてきた相手の男達の顔を見渡した。男は痩せ細ったのと中肉中背のと肥満体質なのといった容姿の三人組で、彼らは街の大学生らしく、同級生でミレイの二つほど年上という事だった。  どこに行くの?とミレイが尋ねると中背のヤンキー気質な男がもちろん決まってるだろ、とラブホテルの名前を口にした。わかった、いいわよとミレイは素っ気なく彼らの誘いに乗って日没の中ホテルへと向かった。  ホテルに着くと早速ミレイは裸になり、三人とプレイを始めた。窓の外はすっかり夜で、部屋の照明が変に色っぽく月の灯りを飲み込んでいた。最初にミレイが相手をしたのは痩せ細った男で、彼は眼鏡をつけたままミレイに正常位で挿入した。ああっと情けない声で喘ぎ、痩せ細りは絶頂して精液の溜まったコンドームの先を見下ろして眼鏡を外した。汗がミレイの臍辺りに落ちて、生温い冷たさを覚えた。二人目には肥満体質の男がミレイの腰部を掴んで、バックの体勢をつくった。肥満の男は早漏なのか、ものの数分でイく、と叫び洩らして挿入部から抜き出した皮の厚い陰茎から飛び出る白濁をミレイの尻の上に垂らした。そうやって二人との行為を終えたもののミレイの息はなぜかそれほど荒がってはおらず、不思議と彼女の中にはそれほどの快感が生まれずにいたままだった。  最後の中背の男はミレイに騎乗位になるように言って、彼女の身体を自分の股間の上に直立させた。そのまま腰を動かしていくと、ミレイは三人の中で一番まともに快感を手に得はじめていることに気づき、熱を覚えた。ふとミレイが中背の男から横に目をやると、肥満の男が二人の好意にカメラを向けて撮影しているのが目に入った。彼はおそらくこの行為の映像をどこかに売り渡すつもりなのだろう。しかしミレイは何とも思わずに、その事をどうでも良くという風にただ中背男とのセックスに集中し、天井を見上げて仰いだり、男にキスをしたりした。そして絶頂が近付いた時に中背男が突然ミレイの首元に手を掛けた。一度やってみたかったんだと中背男は笑って両手に力を込める。おい、それは流石に不味いんじゃないかと肥満と痩せ細りが声を掛けるとうるせえ、と中背男は二人を喘ぎ交じりに圧した。するとミレイはやめて、と中背男に叫び、驚いた彼が首元の腕力を緩め弱めた時にその掌を振り払って挿入部から立ち上がり、ベッドに放ってあった自分の服を掴み抱えるとおい、と叫ぶ中背男や後の二人を尻目に部屋を飛び出して、ホテルの出口へと駆け走った。男がミレイの首を絞めて笑った瞬間、彼女の脳内には確かにはっきりとあの父親の嗜虐的な表情が浮かび上がっていたのだった。ミレイははあはあと息を切らしながら流石に行為の疲労と走りによる脱力に負けて、ラブホテル横のネオンの光る路地の一画で息を落ち着けながらしゃがみ込んだ。空を見上げると、星があまり見えず、月が嫌に白くぼやけて濁っていた。  そんな事があってからミレイはそれからまた数週間程後に、突然に母に会いに行こうと思い立った。それが何故なのかははっきりとはミレイ自身にさえも分かり得なかったが、ふと仕事中に今母はどこでどんな風に暮らしているんだろうと気になったのだった。そのせいか日の仕事帰りにはミレイはここ数年程気にも留めていなかった母の行方を、初めて自主的に意識したのだった。自分は何でまで母の事をそれほどに気に掛けなかったのだろうか、ミレイは思ったがきっと母は自分を見捨てた存在であり、父という猟奇生物の元に放り込んだ既に家族ではない人なんだという子どもながらの彼女に対する反抗をなんとなく拭い切れずにいた所以だろうとやがて納得した。しかしどれだけ自分を見捨てた恨みがあろうと、今や母だけが自分の唯一の実の家族、そして親と呼べる存在なんだとそう思うと、やはりミレイは母の事が愛おしくて会いたくて堪らなくなったのだった。その日からミレイは仕事の合間を縫って母の名も無き行方を探した。  それと今母だけが今現在ミレイの唯一人の家族、親であると言ったのは理由があり、それはミレイの父が交通事故で死亡したからだった。父はレンタカーで県外にドライブに出かける途中で、逆方向に暴走してくるタクシーと衝突したらしかった。しかしミレイは当然、と言うのも不道徳かも知れないが、涙を流すことはなかった。それはアリンが死んだ時と同じ感情からではなくまた別のもので、ようやく終わったという父の呪縛からの解放による蟠りの晴れが彼女にそんな姿勢を生ませたのだった。ミレイは父の葬式には行かずいつも通り仕事をしていた。  話は戻りミレイは母の行方を捜査し、ある一軒の病院に辿り着いた。それはミレイの今暮らす街からそれほど遠くはない地方の中に建てられているメンタルヘルスケアのクリニックだと判明した。ミレイは探し始めになんとなく、母はもしかすると精神病院のようなところに入っているんじゃないかと焦点を当てた。それは娘ならではの勘だったかもしれないし、単なる偶然の閃きが降り注いだものによることかも知れなかったけど、とにかく母の居場所を掴む事ができた。そしてミレイは母がまた名も知らぬ街でひっそりと苗字を変えてどこか小さな小売店で働きながら暮らしているというわけじゃなくて本当によかった、と自分と母との数年振りの巡り合わせの運命の繋がりを喜んだ。ミレイは電話帳に載っているメンタルヘルス系の病院や施設に片端から電話を掛けて、母の名前を告げてそこに居るかの確認を何日か掛けて続けたのだが、その手が功を成してミレイは家族に再会できる切符を手に取るに漕ぎ着けたのだった。  ミレイはある後日の休みに母との面会希望の種をクリニックに尋ね、その施設への訪問を決行した。バスと電車で二時間程度で到着したその町は確かに地方の雰囲気があって、商業施設や層型のマンション等は殆ど見当たらない地域だった。ミレイは駅を降りてタクシーを拾い、目的のクリニックへ向かった。  クリニックに着くと、ミレイは名前を告げて面会時間と患者の確認手続を終えて、従業員に案内されて母のいる部屋へと胸を振るわせながら歩き向かった。施設の空気は、周囲に広がる地域の山相を感じさせない、スタイリッシュなもののように思えた。  廊下を渡り、こちらですと従業員に手指示をされるままにミレイは灰色のドアを息を呑みながら開けた。音を立ててドアが開くと、そこには窓が幾つかと簡素な折り畳み式のテーブルとパイプ椅子が何個か用意されただけの質素で無機質な部屋が広がっていた。そしてその椅子の一つに、ミレイの母の姿があった。ママ?とミレイが発した声に反応して、母は彼女の方を振り返る。 「ママ?ママなのね、本当に、ママなのね?」  ミレイは思わず感極まって、唐突に母のもとへ駆け出して彼女の身体に触れた。母のミレイを見るその顔は、虚で魂が抜けたようなものになっていた。 「ねえ、元気してた?元気なの?ねえ大丈夫だった?いままで何してたの」  そんな怒涛のミレイの再会熱による立て続けの問い掛けに母は虚な顔つきを変えることなく、あの、と小さく声を出した。何?ママとミレイは顔を綻ばせながら言う。 「…あの、失礼ですが、あなたは一体どちら様でしょうか」  その母の言葉を聞き、え、とミレイは思わず絶句する。彼女が何を言ったのかが理解ができずに、ミレイは母の顔を覗き込んで動揺した。 「何言ってんの、ママ、私だよ、ミレイよ。私がママに会いにきたんだよ、今日まさにさ、ねえママって」 「…すみませんが、私にあなたのような娘がいた覚えは」  ありません、と母がそう告げた時、ミレイの中の再会による歓喜は途轍もない悲哀へと暴落した。満面の微笑みが崩れて、泣き顔に変わるとなんで?なんでそんなこと言うの、ママ、ねえママってばとミレイは何度も母の身体を強く揺らす。 「本当に覚えてないの?ねえ嘘でしょ?なんで?なんで忘れちゃったの!?ねえ、なんでなの!?ママってばっ」  気付けばそのミレイの声は酷く掠れていて、涙に埋もれていた。ひっく、と耐えきれずに泣き始めて床に膝を落とすミレイの手に両手を添えて、母はごめんなさいね、とただそれだけ一言を答えてそれ以上何も言わなかった。本当に、本当に少しも覚えてないの?ミレイがそう聞いて再び母の顔を見つめると、母はやはり申し訳なそうに首を縦に振って頷いた。  取り込みの途中申し訳ないですが、そろそろお時間です、と後ろに立つ従業人がミレイに声を掛けて部屋から出るように指示をした。ミレイはもう少しだけ、ママに触らせてくださいと無理を強いて従業員に泣きながら頼んだ。分かりました、ではもう一分だけと従業員は了承し、ひっく、えっぐと嗚咽混じりの泣き声を詰まらせるミレイとその母らしき存在が触れ合う光景を同情するように眺めた。  ミレイが従業員に後に話を聞いてみると、母はここを尋ねた時からあのような状態だったのだという。母はクリニックを訪ねた時にはもう既になんの目的できたのかすら忘れてしまっていたようで、身寄りの情報など聞き出す事が困難だったと従業員は話した。そして何よりの問題点が、彼女はあまり食事を摂らないことで、自分から何かを食べようとはしないらしかった。しかし彼女が唯一口にしたのが塩焼の鯖で、母は鯖を固形物で、しかしそれ以外は飲み物のような状態にして食べていたのだという。ミレイが、ママは鯖の塩焼が大好きだったんですと従業員に言うと、従業員はなるほど、そういうことかと頷いた。ミレイはたまに鯖を買ってきては母に焼いて食べさせていたりしていて、それを思い出すと急に再び涙が溢れ出てしまいそうになった。泣いてもいいよ、と従業員が優しくミレイの肩を撫でる。大丈夫です、とミレイは顔を澄ませて答える。そして母のいた部屋の方向から視線を逸らした。 「電話で、竹田さんの娘さんだって君が言っていたのは、本当だったんだね」 「はい、本当にそうなんです」 「それにしても、すごい偶然だね。急に家を出ていってしまったわけでしょ?竹田さん、君のお母さんは。それなのに、こんな風に再開できるなんて」  従業員のその言葉に、ミレイははい、と答えることができずに寂しく俯いた。 「…私はてっきり、あの時のママにもう一度出会えるのだとばかりに思っていました」  だけど、とミレイは床を力なく見つめる。 「だけど、今のあの人は、私が好きだったママじゃないんです。だってそうでしょう?あの人は、もう私を全く覚えてないんだから」  そう言うと、ミレイは我慢していた涙腺が再び崩壊しそうになり、手の裾で目頭を抑えて強く擦った。 「…竹田さんは、私には家族などという人とかは居ないんです、とはっきり言ってたんだけど、一応検査してみたら、どうも嘘っぽかったんだ。竹田さんは、何かのショックで記憶障害に陥ってしまっていたらしくてね。それもかなり重度の」  もう二度と、ママの記憶は戻りそうにないんですか?とミレイは従業員に尋ねる。 「できなくはないけど、今のところ、回復の見込みはあまり期待できなそうなんだ。完全に戻すとなると、何年掛かるか…。実の家族、娘さんの君が顔を見せてあの反応だからね。よほど大変なストレスがあったんじゃないかな」  そう言った従業員に、ミレイは父親の家庭内暴力の事を打ち明けて話した。そしてその父すら今はこの世には存在しない事も。従業員はそれを聞いて、そうなんだ、それは大変だったねと酷く同情する視線でミレイを労った。 「君の辛さや苦労は残念だけど、僕には分からない。だけど、竹田さんみたいな患者さんが、ここには何人もいるんだよね。皆んな、何かを失ったような顔をしてる。自分の中の魂みたいな何かが」  その魂がもしかしたら、君の存在、君の記憶だったのかもしれない、と従業員は呟いた。 「…わざわざ足を運んできてくれたのに本当に申し訳なかった。ごめんなさい」 「あなたが謝る事じゃないんです。だから気にしないでください」  ミレイがそう言い終える前に涙を床に落とすと、従業員はミレイの背中に優しく手を添えた。 「…もう一回、泣いてもいいですか」  そう言ったミレイに、従業員が静かに頷くと、ミレイはとめどなく溢れる涙に顔を溺れさせた。  クリニックから帰る時、ありがとうございましたと挨拶をするミレイに、またいつでも来ていいからね、と先程の従業員が穏やかな顔つきで手を振りながら見送ってくれていた。だけどミレイは二度とここには来ることはないだろうと心に留めていた。それは母のことが嫌いになった訳ではなく、自分が自分らしくこれから先を生きていくには、今や虚な抜け殻となった母の姿は、それを拒み押し留めようとする存在になりそうだったからである。ミレイは瞬く間に世から消え去ってしまった両親に自分なりの決別の薪を焚べて、新たな自らの向かい先の路へと繰り出すべく炎を燃やし始めた。  そしてミレイは帰り道に、せっかくならばと地域のある一角の森の中を散策して行くことにした。それは母の事を忘れる為の気晴らしを兼ねての彼女なりの思いつきの方法だった。ミレイは足の赴くままに、目の前にある森の中へと入っていく。空は午後の暖かく柔らかな白い明かりが漂っていて、木々の隙間からその光を垣間見せていた。森には木や雑草だけでなく、知らない花や植物が幾つもの群生を成して生い茂っている。虫や小鳥の羽音もどこからか聞こえては響き渡った。森の匂いがこの上なく優しく、澄み切った風に乗って歩き続けるミレイの身体に寄り掛かる。  しばらく歩いてミレイは一休みにと小さな湖の流れる河口の近くの平岩に腰を下ろした。湖の細波が水面の煌めく光粒と重なって儚く揺れている。それからミレイはふと、もう一つの母の事を忘れるのに効果的な方法を思いつき、人気が周囲にないのを確認するとそれを実行してみることにした。ミレイはワンピースの内側のショーツの中に片手を忍ばせると、人差し指と中指の二本で、陰部の割れ目を静かに撫で始めた。軟らかい突起や飛騨を刺激する。そしてもう片方の掌を胸元に入れて、乳首の先端やその周りを不規則に揉み掴みして弄び、うねり回す。それを繰り返していくうちに脳は意識を薄れさせ、体は熱に火照らされていき、ミレイは言い表しようのない高揚感を覚えた。次第に陰部の割れ目が濡れ始めて、乳首が硬くなっていく。そして二本の指を割れ目の中に挿れて指先を動かして段々とその動きを荒くしていくと、指先は身体の内部から溢れる暖かい液体に塗れていった。あっ、とミレイは刹那的な声で喘ぎ、身体を僅かに震わせて息を吐いた。身体の熱は微かに引いていき、ミレイの中には一時の高揚感が生んだもの寂しい落ち着きと母の母乳を吸った時のほんの小さな記憶が呼び起こされ、蘇っていた。しかし不思議と再び母に会いたいという感情は姿を消していた。ミレイはその時、自分のいる湖畔や森の木陰といった物達が織り成す膨大な自然というものの存在と自分の身体が繋がり、一体化したような気分になり、この上ない心地良さを肌身に覆わせて味わった。そして自分は今生きているんだ、と湖の真上の、木々の頂点が視界に入らないゆっくりと夕暮れに近付いていく白い空を見上げ眺めて、自身に確かめるように言い聞かせた。       *   *   *  今日もミレイは引っ越し先のアパートで、ケンイチとこれで幾度目かも知らず覚えの激しいセックスに馳せ参じていた。アパートの狭い一室の固いダブルベッドがぎしぎしと荒っぽく軋む。はあはあと息を切らしながら腰を揺れ振るわせ、汗を飛び散らすケンイチに対して、ミレイは肉食の猛獣に今に捕獲され、逃げ惑うべく抵抗の悲鳴を上げる兎のような喘ぎ声を繰り返している。ああっ出る、とケンイチが叫ぶと、ミレイはそれを合図に身体の熱で水分を失い乾燥した口を開けた。その瞬間にケンイチは股穴から抜き出した硬直した陰茎を手に掴み、それをミレイの口に押し詰めた。途端にミレイの舌や口内や上下の唇は彼のペニスの先端から溢れ出る白濁によって汚れ塗れていった。ミレイはしばらくそれを舐めやり、ケンイチの過呼吸が治るのを待った。やがてケンイチは脱力したように長い息を吐くと、ミレイの横に倒れて寝転んだ。そして二人が向き合うと、一分間足らずほどの舌を絡み付かせ合うキスをした。ミレイの口内に溜まる精液が、コンデンスミルクのように互いの舌と唇に塗りたくられ、腥い精液と二人の涎や汗の匂いが混じり合った空気が、狭いアパートの部屋中に、濡れたベッドの真上に立ち篭めていった。 「それ、何聴いてるんだ?」  全裸のままで何かの用意をしているケンイチが、背後でレコードを掛け流していてマルボロを吸っているショーツだけを履いたミレイに尋ねる。 「シスター・ロゼッタサープっていうブルース歌手の、This Trainって曲。ママが好きでよく聴いてたの」  ミレイがそう言うと、ケンイチはブルースか、と少し残念そうに呟いた。 「俺、ブルースってあまり好きじゃないんだよな。暗くてさ、聴いてるだけで気分が落ち込んでくるし」 「でもこれはそんなに暗くないと思うけど。あんまりブルースっぽくもないし」  ミレイはそう答えて煙草の先端の灰を灰皿に落とすと、それよりあんたさっきから何やってんの?とケンイチに言う。 「…もしかして、またドラッグ?」 「いつものやつだよ、いつもの」  ケンイチはそう言って半ば呆れた目つきを向けるミレイに構わず、タオルに乱用薬物の粉末の溶けた水を染み込ませた。 「あんた、そればれたら私達終わりなんだからね。言っとくけど」 「何言ってんだ、俺らなんてとっくに終わってんだろうが」  今更知ったことじゃねえよ、とケンイチはそう言うなり手に掴んだタオルを顔の前に広げると、肺一杯の空気を一気に吐き出すように息を吐いて、それからタオルを顔に覆い被せると同時に思いきりに息を吸った。するとケンイチの鼻腔や呼吸部に薬物の香りが纏わり付き吸い込まれていき、彼ははぁーっとまた息を大きく吐いた。その目つきは一瞬で危険な快楽に溺れ始めた色を見せていた。 「ミレイもやってみねえか?一回ぐらいさ。すっげえキマるぞ、これ」 「私はそういうのやらない主義なの」  ミレイが素っ気なく断ると、何が主義だよ、とケンイチはもう一度それを吸い込む。そして同じようにはあーあ、とこれより無いくらいの気持ちよさという反応でトリップした。 「お前もそんなつまんねえ人間性なんてさっさと卒業した方がいいぞ」  そう言うとケンイチは、急にミレイの方を振り返り、彼女の顔に再度溶液に浸らせたタオルを押し付けようとした。 「ちょっ、何してんの、やめてっ」  ミレイは煙草を灰皿に投げ捨てて、ケンイチのタオルを掴む手を避ける。私はやらないって言ってんでしょ、とケンイチの腕を思い切りに叩き払う。何だよ、とケンイチは薬物の効能に高揚したまま、呂律の怪しい口調で舌打ちする。 「やるんならいつもみたいに一人で勝手にやってなさいよ」 「分かってねえなあ、お前は。一人でやるより二人、二人でやるより三人四人、十人ってさパーティーみたいにやんのがいちばん気持ちいいに決まってんだろ」  ケンイチはそう言ってまたタオルを吸い込む。ほら、世界が変わってるぞ、とケンイチは目線を上向きにしてどこか虚に泳がせ、部屋中を眺めた。今の彼にはきっと七メートルもある揚羽蝶や、全身が寒天ゼリーでできたクマノミの大群でも視えているのだろうとミレイはそんなケンイチの姿をため息混じりに一瞥して、レコードから流れる歌声を聴き耳にもう一本マルボロを取り出して火をつけて吸った。  ある日、ミレイとケンイチはとあるカジノ・バー、というのはもちろん賭博を行う違法のカジノ・バーであり、そこに二人で向かっていた。というのはミレイは一人でアパートに残っていると言ったのだけど、お前にも俺のポーカーの腕を見せてやるから、いい経験だと思ってついて来いと半ば強制的にケンイチに連れ出されての事で、ミレイは一切好反応を示さなかった。 「それに、今日は仕事もないんだろ?だったら尚更暇つぶしにいいじゃねえか」 「本当に、あんたと居ると退屈しないでいいわね」  そうミレイがあからさまな皮肉を言うと、ケンイチはそれに気づいたかどうか分からない温度でそうだろ、と笑いながら答えた。  二人が路地へと踏み入る手前の信号機で青になるのを待っている時、なあ、とケンイチが口にする。 「お前って、神とか信じてんのか?」 「何でそんなこと急に聞くのよ」  ミレイが言うと、いやなんとなくだけど、とケンイチは首元を掻いて答える。 「…私は、神様ってのはいると思ってる」  ミレイが言うと、ケンイチはそうなのか?と意外そうに反応する。 「だって、ブライアン・ウィルソンが歌ってるくらいだし」 「ブライアンって、ビーチボーイズのブライアンか?」  そう、とミレイは青になった横断歩道を歩き出しながら答える。 「彼がGod Only Knows、"神のみぞ知る"なんて歌ってたら、そりゃ信じるしかないわよ」  ミレイはそう言って、ビーチボーイズの神のみぞ知るの冒頭を鼻歌交じりに歌う。そんな曲あんのか、とケンイチはあまり興味なさそうに言う。 「名曲よ、ペット・サウンズに入ってるやつ。家にあるでしょ」 「俺はいつもサーフィン・サファリぐらいしか聴いてないからな」  あんたもう音楽好きなんて言わない方がいいわよ、とミレイが言うとケンイチは俺はどっちかっつうとクラシック派だから別にいいんだと答えにならない返事をした。 「それに、ジョン・レノンだって居ると思ってるはずだし」 「ジョン・レノンもか」  そう呟くとケンイチはどこか納得したような顔で地面を歩く靴を見下ろした。 「でも、私は神なんて信じてないわよ」  ミレイが言うと、どういうことだ?とケンイチが尋ねる。 「居るとは思うけど、神は信じない。神が誰かにとってのいい存在だなんてのは、信じないの。だって、もし神がいい存在なら、私こんな酷い人生送ってないと思うもん」  ミレイが言うと、まあ、そうかも知れねえなとケンイチが頭を掻いて呟く。確かに、俺もそう思う、と。  そんな会話をしている最中、気づけば二人は目的のカジノ・バーの手前まで来ていて、階段を降りた先の地下通路の先のバーのドアの前でケンイチは、紅毛のリスは子どもを産まない、とそんな合言葉を口にして、開いたドアの中にミレイと共に入っていった。  その日のポーカー・ゲームは散々な有様だった。というのは、ゲームの終盤に、ケンイチがある顔に傷があるスキンヘッドの男に殴りかかろうとしたからだった。原因はスキンヘッド男の如何様で、男はケンイチがフルハウスでその勝負を勝ち上がるはずだったのを誰にも見えぬ様にすり替えたカードによって、ローヤルストレイト・フラッシュを決めて、ケンイチやその他参加者からのチップや賭け金を奪い去ろうとしたからであった。それにすぐさま気づいたケンイチはおい、と帰ろうとする男を呼び止める。なんだ?と訝しげる男にケンイチは如何様はねえだろと怒声を浴びせて、彼の持つ金を奪い取ろうとする。何しやがんだと男は叫び返し、ケンイチの胸ぐらを掴む。その途端にバー全体がしんと静まり返り、ケンイチは男に殴り掛かろうと拳を振り上げた。やめろ、と周りの参加者達が二人の身体を羽交締めにしようとして、ゲーム台やカウンターの上の皿や酒の入ったグラスが落下し、飛び散って割れる。気付けばバーの中は惨劇の様な状態になっており、今にも全員で乱闘が巻き起こりそうな雰囲気だった。ミレイは左右前後に飛び交う罵声や投物を躱し避けて、なんとかバーの出入り口に向かう。そして阿鼻叫喚となったカジノ・バーから聴こえる轟音の騒ぎを後にして、まだ明るいその通りから逃げ出した。  ミレイはそして不意な気分転換、と言うよりは殆ど予定を決めていたようにある場所を目指した。それは街の何個か隣の駅から歩いて数分の場所にある大型の図書館だった。ミレイはそんな所があるのをつい最近になって知り、いつか暇を縫っては、そこで一人本でも読んでケンイチとの生活の喧騒を少しでも忘れ去ろうと思ったのだった。今頃だって彼はきっと騒ぎに熱中し、自分を血眼で探しにくることもないだろうとミレイはそんな風に考えて、最寄りの地下鉄駅の入り口に向かった。  目的の駅に到着し、ミレイは早速その図書館を訪れた。図書館は隣に聳える美術専攻の大学と敷地を共有して建設されていて、館内の窓からはお洒落な外観の校舎や自然豊かな大学の敷地の風景を一望することができた。ミレイは本棚から気になった本を二、三冊ほど取り出し借りて、空いている席についてそれを読み始めた。一冊は吉本ばななという作家のキッチンという作品で、それは作者の名前が面白く個性的であるのが興味を示させていたからだけど、一冊はフランツ・カフカという海外作家の変身という作品で、もう一冊は初めて名前を知った作家の短編集の作品だった。ミレイはそれらを一読し、気付けば夕暮れ時になっていた。  三冊ともどれも面白い作品ではあったが、ミレイが特に気に入っていたのは、最後に読んだ名も知らぬ作家の短編作品のものだった。ミレイは他の作品を買って家に帰り読もうかとも思ったが、何故かこの図書館に不思議な魅力を覚えてどうせならまたここに来て読もうと心に決めてその日は図書館を後にした。  それから数日が経ち、いつものようにミレイがかの作家の本を手に取って同じ席に座ってそれを読んでいると、館内に中にある一人の男が入ってきたのが目に入った。彼はここの学生のような雰囲気があり、どこか物腰の柔らかそうな、それこそケンイチとは対極にあるような面持ちの人物に見てとれた。ミレイは少しの間彼をそうやって観察していたが、彼が近づいてきて目線が合いそうになると、思わず視線を本に落として顔を逸らした。  しばらくして彼が目の前に立ち止まると、彼はミレイの座る前方に立ち止まってミレイの方を見やった。あの、と彼はミレイに声を掛ける。はい、何ですか?とミレイが答え、しばらく何とはない挨拶を終えた後で、彼はよかったら、ここで一緒に座って同じ席で読んでもいいですか?とミレイに尋ねた。 「はい、別にいいですけど」  ミレイはそう彼を不思議がりながらも答えて、ほっとしたような彼が本棚に本を選びにいく様子を眺めて、ミレイはまた自分の読む本に目線を移して、ページを巡った。しかし彼女の頭の中には彼の姿が立ちはだかっていて、本の内容は殆ど脳内には記憶されずにただ文章の羅列がミレイの前を流れ過ぎていった。

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 ミレイが冬休みを明けて、小学校の卒業が近づく頃のある日、一人の見知らぬ男がアパートを訪ねてきた。その男は名前を名乗らず、黒い丸のサングラスに上下を紫の豹柄のシャツとパンツで統一していて嫌味なネックレスや指輪をつけていた。はーいとインターフォンにミレイは読んでいた本を閉じて玄関に向かいドアを開ける。かの右のような男がいかにも自然そうな振る舞いで立っていた。 「あの、どちら様ですか?」  ミレイがそう尋ねると、男は君、ここの子かい?と顔付きに似合わぬ幾分穏やかな口調で言う。そうですけど、とミレイは答える。 「何の用ですか?」 「今ここに君のお父さんっている?」  男はそう言った途端に、僅かにその穏やかな顔や口調の中に緊張を走らせたように見えた。ミレイもそれを少なからず感じ取り、彼はきっとおそらくは只の一般社会に暮らすような、父の友人等ではないだろうと勘付いた。それは男の服装からもみて取れることではあるが、それよりも彼の内側に視える心胸に和やかならぬものを感じたからでもあった。社会の明るみを外れたような雰囲気や空気感である。男が腰を曲げて彼の顔がミレイに近付いた時、彼の顔の節々に見当たる傷痣が、彼が只者ではないことを明らかにしていた。 「父は、いません」 「そうなんだ、どこかに出掛けてるの?」  はい、とミレイは答えて、男が帰るのを待った。しかし男はうーんと少し悩んでから、じゃあさ、と更に続けた。 「どこに行ったかとか、分かる?」 「分かりません」 「たとえば、お父さんがよく行きそうな店とか、さ何でもいいんだけど」  割としつこい男にミレイは知りません、とただ一点を張った。 「お父さんは、よく出掛けるの?」 「はい、そうですね。ほとんど家には居ないです」 「じゃあ、なんとなくでいいから、お父さんが行きそうな場所とか、教えてくれる?」  そんな会話をするうちに、段々と男の顔に確かに苛立ちが見え始めて、それとなく不味さを感じたミレイはえっと、と取り敢えず父の出掛け先の心当たりを適当に答えた。 「そうですね、酒を呑んだ喰ったり、若いそれか若づくりしてる偏執的な馬鹿女達と裸になって遊ぶような所とか、そんな所にいるんじゃないですかね?あ、あとはギャンブルができる店、とか」  ミレイが言うと、男はその口調や言葉選びに少し圧倒されたのか、君っていくつなの?と尋ねた。十二歳で小学六年生、今年の春から中学生になりますとミレイは丁寧に答えた。そうなんだ、と男は気を取り直すように咳払いをすると、顔付きをまた穏やかなものに戻した。 「…えっと、じゃあそうだな、その酒とか女とかギャンブルのある、どっかの店の名前ひとつくらい分からないかな?」  男はこのままでは帰れないと言った雰囲気を全面に出して、頼むからなんでもいいから答えてくれと言わんばかりの表情を懇願するようにミレイに向けた。 「申し訳ないですけど、知らないですね」 「本当に知らない?」 「本当に知らないです」 「なんでそんなに知らないの」 「だってあの人に興味ないから」  あくまでミレイが本音でそう突き通すと、さすがの男もその勢い態度に負けたのか、うーん、それじゃ困ったなあ、と顔を残念そうに顰めて頭を掻きむしった。これじゃあ仕事になんねぇんだよなぁとまた苛立ったように声を漏らすと、徐に舌打ちをした。 「あ、でも」  ミレイがそう呟くと、男がミレイを見やる。どうしたのと尋ねる男を無視して、ミレイは父のよくいる部屋に走って行った。そして父の服の入った箱から何かを探り出すように手を入れて漁ると、中から一枚のレシートが皺でくしゃくしゃになっていたが見つけられた。それを持って男のいる玄関へ戻る。 「この店だったら、知ってるかもしれないです」  そう言ってミレイは男にそのレシートを手渡した。そこには、「うれない果実」というどうやら風俗か何かだろう店名が記されていた。 「そこの店になら、もしかしたらいるのかも」 「うれない果実、か…」  男はそう言ってよし、と納得したように頷くと、ありがとうお嬢ちゃんとミレイの頭を撫でると、レシートをポケットに仕舞い入れて早速と帰るように後ろを向いた。 「あの、ちょっと待って」  ミレイは気付けばそんな風に男を呼び止めていた。男がミレイを振り返る。何?お嬢ちゃんと男が不思議そうに尋ねる。 「まだ、あなたのこと、誰かわかってないんですけど」  ミレイはそう言って、一体誰なんですか?あなたはと男の正体を尋ねた。男は悪いけど、それは説明できないんだわ、とミレイの質問を振り切って再び帰ろうとした。それに、急いでるから時間ないし、と。 「でも、いきなり人の家を訪ねてきて、何の自己紹介もしないで用だけ済ませて帰るなんて、人としてどうかと思うんですけど」  ミレイのその言葉に、男は流石にかちんと来たのか、ミレイを振り向くと、お嬢ちゃんなかなかいい度胸してるねと声を少しだけ凄ませた。ミレイは常に父の圧力に慣れている為、初対面の人への多少なりの怖さはあったが、あまり怖気付きはしなかった。 「細かくなくていいので、簡単に教えてもらえないですか?あなたが誰なのかを」 「わかった、いいよ。そこまで言うんなら。だけど、先に言っておくぞ。俺は、君が知っていいような存在の仕事人の男じゃないって事をね」 それでもいいかい、と男が聞いてミレイははい、お願いしますときっぱり答えた。すると男は俺はね、と落ち着いた口調で答えた。 「俺はね、闇業者なんだ。君も、多分わかってるだろ?もちろん、映画とかドラマに出てくるようなもんじゃない、本物の闇業者だよ」  男がそう決して自慢気ではない話し方でミレイに言うと、やっぱりとミレイは自分の勘の正しさに頷く。 「でも、なんでそんな人が父に用があるんですか?」  ミレイは、本当はそれについても薄々知ってるはずなのに、何故か男を前にした途端に好奇心が湧いて、彼の口から直接その理由を聞きたくなり男に尋ねていた。 「まあそれなんだけど、もしかしてお嬢ちゃんも分かってるかもしれないけどね、君のお父さんは借金をしてるんだよ。ほら、このレシートのなんとか果実っていう店に行ったり、酒を飲んだりギャンブルをしたりと、まあ典型的な金遣いの荒い男ってわけで、とにかく金を使いまくってるんだよね。それで、彼にはいま金がない。だから彼は俺たちの所の金融会社から金を借りてる。それで、その金の受け取りをするために、俺がここに回収係としてはるばるやってきたってわけ」  男がそこまで言い終えると、それじゃもういいかな、と面倒そうにミレイを見やる。ミレイは思わず、もし父が見つかんなかったり、金を返せなくなったらどうするんですか?と聞いてみた。 「………」  男はその質問に、何やらとても答えられそうにはないというように沈黙を作った。それだけ、教えてもらってもいいですか?とミレイは真剣な眼差しで男に尋ねる。 「…わかった。君には敵わねぇや。だけど、それを聞いても、俺に何かの恨みとか憎しみを持ったりしないと、約束してくれる?」  男が言うと、ミレイは黙ったまま頷いた。それじゃあ言うけど、と男はやたらと言い辛そうに重々しく口を開いた。 「…多分、その時は申し訳ないけど、君が売られることになると思う」 「売られる?それってどういう事ですか」 「言った通りの意味だよ。君が、君の身体が商品や誰かの物として売られるんだ」 「どこに、誰に、どんな目的で売られるんですか?」  ミレイはもう歯止めが効かないといった風に次々に男に問い投げかけ続ける。 「例えば、それこそ君のお父さんが通ってるような類の店や、まあそれの大体が風俗なんだけど、そういう店に買われたりね。君みたいな可愛くて若い子だったら、それなりの金額で売れるとは思うから、きっとそのやり方になる場合が可能性としては高いと思うよね」 「私みたいなのが、そんな所に買われて、何か意味があるんですか?」 「まあ、そうだな……君にはまだ少し分からないかもしれないけど、いや、分かってるかな。世の中にはさ、君のような年頃の子に興味を持つ大人が沢山居るんだよ。それは決して人目を憚って暮らしてるような人に限らずに、平然とスーツや正装や仕事着を着て、街を歩いている人たちの中にもね。そしてその大半が俺みたいに男で、そいつらは基本的に君みたいな子を性的な扱いの対象として見てることが多いんだ。こんな事、知りたくなかっただろ?」 「別に、今更どうでもいいです。それで、続けてください」 「それで、そいつらは君みたいな可愛い若い子と一緒に遊びたい、デートしたい、色んな事をやりたいって日頃から思い続けている。それがその人たちにとっては日ごろの疲れを癒す趣味にさえなってる。だけど、彼らはそんな事を口にも出さないし、ましてや人前でなんかはそんな素振りを一切見せないんだ。何でだか分かる?それが犯罪だからだよ。君にも分かるだろ?未成年やましてや中学生にもなってさえいない子どもにそんな目的で手を出すなんて、まともじゃないからね。まあ、こんな仕事してる俺が言うのも何だけど」  男はそういってふう、と喋り疲れたのかため息を付くと、煙草吸ってもいいかい?とミレイに尋ねる。どうぞ、とミレイは答える。男は胸ポケットから取り出したマルボロを吸い始めた。あ、それとミレイが男の手元を見て言う。 「ん、何?」 「それ、ママが吸ってたやつと同じなんです」  ミレイがそう言うと、男はそうなの?と煙を吐いて言う。 「私の家、ママが出て行ったんです。一年くらい前に」  ミレイが言うと、まあそうだろうね、と男は開き放しの玄関の中を覗き込んで答える。君のお父さんのこと見れば分かるよ。 「私も、一本吸っていいですか?」 「え、これ?」  はい、とミレイが男を見る。男は少し動揺したが、まあいいけど、とミレイにマルボロ一本を渡すと、口に挟んだそれにライターで火をつけた。ありがとうございます、とミレイは言って煙を少し咳き込みながら吐いた。 「…君も中々やさぐれてんだね」  その男の言葉に、ミレイは頷いて、特に何も答えなかった。そしてまた煙を吐く。 「この匂い嗅ぐと、ママのいた頃を思い出すんです。ママの髪の毛の匂いとか、服の匂いとか色々」  そう言ってマルボロを吸い続けるミレイを横目に、君も色々大変なんだねと男は同情する言い方で煙を吐く。 「そういえば、急いでるんじゃなかったんですか?大丈夫なんですか、こんなとこで煙草なんか吸ってて」 「君が引き留めたんだろ。話を聞かせてくれってさ。第一、その煙草だって俺のだし。一体何なんだ君は」  男はそう言って、ただ黙々と煙を蒸すミレイにもはや遠慮の必要性を感じなくなったように、ふっ、まあいいさ、と灰を床に落とした。 「別に、急いでなんかないさ。ただ、さっさと帰りたい気分だっただけなんだ。でも、君と話してたら何だか、退屈しなそうだからもうちょっと居てもいいかなって思っただけ」 「じゃあ、話の続きを聞いてもいいですか?」 「いいよ、えーっと、どこまで話したっけかな……そうそう、それで、世の中にはそんな君みたいな子を性的に扱いたがる男がやたらに居るんだ。目に見えずともね。ここまでは話したよね?」 「はい」 「それで、君のお父さんの話に戻るけど、もし君のお父さんが彼の多額の借金を返せなくなった場合、君はそのいわゆる奴らみたいな変態の行く店に売られてしまうんだ。そう、彼らの性欲の発散の対象としてね。そこではどんなことが行われるのか、君には分かる?」 「大体わかります」 「じゃあ、もう話さなくてもいいね」 「いえ、せっかくだから聞きたいです」 「本当に聞きたい?」  その男の訝しがる口調に、聞かせてください、とミレイははっきりと答える。煙草の煙が大きく吐き出る。 「…まあ、言うまででもないんだけど、君みたいな子を裸にして、とにかく、好きなようにやるんだよね。分かりやすいのだと普通にあそこを中に挿れてヤったり、または口とかに突っ込んで出したり、それからもうちょっと行くと殴ったりだとか蹴ったりだとかね…まあ殆どが鬼畜な犯罪紛いの事ばっかりなんだ。どう、聞いてて吐き気してこない?」 「すごく気持ち悪いです」  ミレイは少し聞いた事を後悔したが、それでも平常を崩す事なく、顔色を変えずに煙草を吸い続けた。煙がアパートの屋根越しの空へと散乱して消え混じっていく。 「…このさいだから言っちゃうけど、俺はそんな子ども達を何人も見てきたんだ。っていうのは、それが俺の一つの仕事だったからなんだけど」 「そうなんですか?」 「うん。君みたいに、借金の片がつかない人間の子どもを攫っては、そんな風に闇営業の風俗店に売り渡したり、非人権的な労働力の奴隷として名も知らない場所に売り渡されたり、もっと酷い時には新鮮な臓器提供物として売られたりね。……でも、君の場合はそこまではならないだろうけど」 「……」  ミレイは流石に戦慄して、燃え殻になった煙草を階段下に放り投げて、最後の煙を吐き出した。 「それで、どうなるんですか私は」 「なんとか、お父さんから金は取り返すつもりだけど、まあまず無理だろうね。中々の金額だし」 「じゃあ私を連れてくの?」  そうミレイが聞いた時、男は思いの外の答えを返した。彼は、いや、そうはならない。と言った。 「俺は、たった今決めた。君みたいな子をそんな風に売り出すのは、もうごめんだ。俺だってやりたくてやってたわけじゃない。なんて言っても君は信じてくれないだろうけどさ」 「信じるわよ」 「だって、こんな見た目してる奴が、君に正直に話をするわけがないだろ?」 「あなたは違うわ」  ミレイはそう言い切ると、男の顔をじっと覗き込んだ。 「だってあなた、ちっとも悪い人に見えないんだもん」  そのミレイの言葉に、男は何を思ったのかふっと胸の中の蟠りの糸紐が切り離れたように呟くと、確かにそうかもな、と空を仰いだ。 「…俺はこの仕事を最後に、もう闇業者はやめるよ。二度とこんなことはやらない。やってられない」  男はそう言うと、吸い殻をミレイと同じく階段の向こうへと投げ捨てて、最後の煙を吐き出した。それがいいわよ、とミレイは微笑んで男を見やった。 「よし、じゃあ俺はこれからこの店に行って、君のお父さんを探す。だけど、もし彼から借金を取り戻せなくても、君をどこかへ売り飛ばしたりはしない」 「そんなことできるの?」  ああ、と男は満面の吹っ切れたような笑顔で答えて、俺がなんとかする、と続けた。なんとかやってやるさ。 「でも何で急にそんなこと決めたの?」 「君と話してたら、なんだか馬鹿らしくなってきちゃってさ。自分の事が。何で君みたいな何の罪もない子どもを痛い目に合わせなくちゃいけないのか、ってね」  男はそう言って、それにと付け加える。 「俺は、君がこの先どんな大人になっていくのか気になったんだ。君がどんな人生を送って、どんな人間に成長していくのか」 「……あなたって本当に闇業者?」  ミレイが可笑しそうに言うと、いや、もしかしたら全部俺の勘違いで、夢だったのかもな、と男は笑い飛ばすように言った。 「とにかく、君はこれからもちゃんと生きていける。だから、ちゃんと生きていけよ。分かったな」 「分かってるわよ、そんなこと」  ミレイはそう言って、男と見つめ合うと、ひとしきり静かに笑った。 「じゃあ、そう言うことだから、俺はもう帰るよ。邪魔したな、お嬢ちゃん」 「私はお嬢ちゃんじゃないわ」  ミレイがそう言うと、じゃあ誰なの?と男が振り返る。 「私はロックンロール・ガールよ。ジョーン・ジェットにもデボラ・ハリーにもジャニス・ジョプリンにも誰にも負けないような、ね。覚えておいて」  それを聞いた男は君って逞しいな、と感心するような視線をミレイに送ると、じゃあなと手を大きく振って、階段を降りてアパートを去って行った。ミレイはその様子を彼が見えなくなるまで見届けて、ふうっと息を吐くと、家の中に入って玄関を閉めた。  そしてその後、彼が再びミレイの前に姿を現すことはなかった。           *  小学校を父も母も共に居ない卒業式で終わりを迎え、ミレイは中学校に進学した。上履き外履きや制服等学校生活の用具一式や給食費やクラス活動費は、街役所から支給された援護金で賄い、ミレイは父の資財に頼らずに学校生活を送った。父は相変わらず飲んだくれ賭け遊び堕落色事の中に身を投げてほとんどやはり家には帰ってこないし居なかった。日時問わずアパートの部屋にはミレイ一人で生活しているような物だった。出て行った母も一切戻る気配がなく、ミレイは最早彼女の存在を忘れていた。いや、忘れようとしていた。その為にまずはと母の残して行った私物品を片端から捨ててしまおうかと思ったが、やはり心の何処かでは母に対する残留の望み、それは彼女はいつかきっと戻って来てくれるのではないかという幻想みたくきっと叶わぬだろう思いであり、その拭いきれない悔いをひたすらに反芻させて、育ちが消えないようにせざるを得なくなっていた。だから今でも、母が家を去ってから二年と少しが経っても、アパートの部屋には母の化粧品やギターが置いてあるままだった。  ミレイはいつか学校から家に帰り、父がいない事に見向きもせずに母の私物のまとめた部屋に入ると、何の気無しに一本のアコースティックギターを手に取った。一弦と六限がないそのギターは、色褪せた木材質のボディと相まってどこか情けなく、ひ弱な印象を与えた。だけどミレイはそんなことは気に留めないで、無意識にそのボディの穴の空いた部分とボディから伸び出ているネックの真ん中あたりのフレットに両手をそれぞれ置き、ギターをしばらく眺めた。そのギターにはどこか母の温もりのようなものがあるようにもミレイには思えたが、定かではない。もしかすれば窓からちょうどギターの背中に射し当たる夕陽の熱がそれを生み出しているに過ぎないのだろう、そのようにも捉えられた。  ミレイはそしてフレットの方の手を握り込み、ネックを弦ごと掴むと、もう片方の空洞前の手を一気に振りおろした。すると二本足りない弦達は振動し、奇妙で不自然な音が奏でられ部屋中に鳴り渡った。その響きは不思議に、不協和音であるにも関わらず、耳障りではなかった。奇妙で不自然な音の並び、ハーモニーではあったが、その中にどこか自然な物があるようにも聴こえた。ミレイはもう一度、フレットの手を握り直してみる。指を四本の弦にそれぞれしっかりと置き固定して、力み過ぎないようにする。何故か指には弦の圧する痛みや重みはなく、軽い四つの直線の感触だけがあった。ミレイはそしてもう一度空洞の前で片手を動かしてギターを奏でる。すると今度はさっきよりも比較的安定的な、平穏で調和の取れた音が鳴った。それは音階でいうところのラから半音ならずとも上擦り、高音の少し強い音で、三秒ほど残響した。ミレイはその音を聞いた途端、いつか母が弾いてくれていた、彼女の演奏する曲を思い出した。それが誰の何と言う曲かは思い出せず分からなかったが、多分日本のアーティストだったような気がしてミレイはそのアーティストの名前をその音を弾き続けながら、夕間暮れの刻迫る街のアパートの一室の窓際の味気ない薄汚れた木造の床の上で思い出すように身体を揺らした。  結局夜になってもアーティストの名前は思い出せなかったが、ミレイは手の痛みでギターをやめて自室で本を読んでいた。晩御飯のスーパーの安売りの惣菜弁当を半分くらい残して、眠気が訪れるまで読書を進める。しばらくして眠くなり、母の部屋になんとなく入って彼女の聞いていたCDを漁った。彼女は殆どのCDを売ってしまっていて残っているのは数枚だけだったが、その中に一枚だけ、青空という曲名の記されたものを見つけた。ミレイは寝る前にこれだけ聴いてみようとラジカセにそれを掛けて再生した。これだ、とミレイはその曲を耳にしながら、あの夕方に自分が母のギターで弾いた初めての音を思い出す。ブラウン管、カッコつけた騎兵隊、青い空の真下で、そんな歌詞をCDは歌っていた。  中学校でミレイには嫌いなものが一つと、好きなものが三つあった。嫌いなものは保健の授業で、好きなものは休み時間と美術の授業と午後の部活動だった。  ミレイは保健の授業の中で性教育の範囲に入ると、いつも体調を崩した。酷い時には吐き気がしたり、頭痛がしたりしてそういう時は保健室で休養を取ったり、または早退をしたりした。しかし運動や身体の健康、生活環境についての授業に対してはそんなことは少しもなく、性教育の科目が終えるとミレイは体調を崩すことは殆どなくなった。  しかし場所は中学校であり、クラスメイトやその他の男子生徒達は皆そういった所謂思春期特有の好奇心というやつで、彼らは決まってそんな性の類の授業や休み時間になると、やれ男のあそこがどうだの女のあそこがどうだの、擦ると何が出るだのこの行為の名前はなんだのとそんな話題でけたたましく笑い叫び盛り上がっていた。ミレイはそんな会話を耳にする度に、教室から出て行っては図書室や他の空いている教室で本を読んだり絵を描きたりしていた。全くなんで男子達ってのはあんな風に下品な話題や言葉が好きで、何か耳にするとすぐにそれに飛びつかみ乗るんだろうとミレイは日頃呆れていた。本当に男って馬鹿ばっかり。  そして性に関する系統の語録の中でもミレイが特に忌み嫌っていたのは、妊娠という言葉だった。その単語だけは特筆的にミレイにとって悪魔の記号のように感じられた。それが何故かは分からなかったが、いや、きっとその理由は理解ってはいるのだろうが、無意識下のうちに脳や心の中で避けているのかも知れない。ミレイは妊娠に関するニュースや会話を耳にする度に吐き気を催して、時には僅かばかり嘔吐した。動物にも人間にも関わらず、生物が生物を産むという行為その光景や文章の羅列が異常で悪しき物事に思えた。生物学上当たり前のことだとは知っているものの、嫌悪感に苛まれて仕方なかった。ミレイはそして何で人は人を産んで育て、その人がまた新しい人間生命を産もうとするのか、その意味を探り解ろうとするのに苦悩した。なんで?周りにはこんなにも多くの人間が人々が生物が存在して果たして生きて暮らし過ごしているのか?友達は友達をつくるのか?駅から駅へまたは家から家へと飛び交っているのか。それを考える度にいつしか頭に痛みを覚えると、ミレイはある時その思考を片っ端から文字や異様な色合いの図形や幾何学模様に変換してキャンバスノートに描き殴った。出来上がったのは何でもなく、誰が見ても荒唐無稽な落書きの他にならない塗り潰しの絵で、それを描き終えるとミレイはふう、と息を吐いて身体の寒気を落ち着けた。そんな時、未来は自分はもしかすると病気なのではないかとさえ思ったが、それ以上気にはしなかった。  それから他には、ある日はいつものように馬鹿な男子生徒達がクラスで下品合戦で盛り上がり、ある男子が体操着の中の腹部の辺りに運動ボールを入れて、妊娠ごっこなんていうのを馬鹿丸出しの調子で何人かで騒ぎつかせて遊び出しているのを一目入れると、ミレイはすぐさま教室を飛び出して図書室に逃げ込み、借りていた本やそれから江戸川乱歩の少年探偵団シリーズを一人読み耽って過ごしたりした。  ミレイは美術に及んでは授業も好きだったが、それよりも部活動の方が好きだった。何故なら授業の場合は片付け含め一時間弱と余り長尺とは言えず作品づくりに没頭するには彼女にとってはとても短く思えてしようがなく、こと部活動となると放課後いっぱいは愚か、顧問の許諾によって下校時間間際までなら活動を続けていていてもいいという話になり、思うがままに自身の創作に入り浸ることができるからだった。  ミレイが描き続けていたのは主に抽象画で、写実的なものや精密な筆感のものは殆どなかった。ミレイにはいずれの絵を書くにしても、これといったテーマを決めることはなく、ただその時々の日替わりの環境から受けるニュアンスやシンパシーやインスピレーションを彼女なりのアティチュードに落とし込み、気の赴くままに筆やペンを動かした。それはある時はりんごの食べかけの、血を流したような紅い何かであったり、複雑な何色かの線画を何箇所かで区切ってそれぞれを気分気ままに貼り付けてコラージュしたような統一感の皆無なものであったりして、描き上げた後にはミレイは表せない爽快感を覚えてその作品を見返すのだが、やはり自分自身でもそれが何かを理解するのは困難、いや無謀だった。  ある時、ミレイがいつもの調子で絵を描いていると、顧問の先生が近づいてきて作品を覗き込み、ミレイは本当いつも難解な絵を描くなあ、と褒めているのかどうか曖昧な口調で呟やいた。ミレイは少しの間返事をせずに絵を描き続けていたが、しばらくしても顧問が絵を見つめているのに気がつくと、先生と顧問に声を掛けた。 「私に描けるのは、こんな絵ばかりなんです。それってもしかして、駄目なことなんでしょうか?」  ミレイはそんな風に顧問に問い掛けた。それは特に意図はなく、ただ自然と彼女の中から湧き出た質問に過ぎなかった。ミレイは返答を期待してはいなかったが、顧問はいや、そんなことはないと静かに言った。 「君には、君にしか描けない絵がある。宇宙が今現在も無数に限りなく広がり膨張を続け、数えきれない星や銀河が誕生し続けているようにね」 「先生は、私の絵が好きですか?」  ミレイが言うと顧問は少し言葉を止めて、そうだなとまた静かに答えた。 「少なくとも、私は好きだな」 「それは、私が家庭内暴力や虐待を受けている非愛想的な問題児だからですか?」  ミレイは言ってしまってから、自分は一体何を言っているんだと口を噤んだ。しかし顧問はいや、そんな事はないと静かに強く答えた。そんな事は決してないと顧問は言い残して、美術室を出て行った。ミレイはその日も、他の部員達が全員残らず帰った後また顧問が戻ってくるまで絵を描き続けた。  ミレイは中学三年生の秋、あるバンドのライブを観に行った。時刻は夕暮れ、街外れの地下のライブ・バーで、店の名前はMUSIC MOONというものだった。キャパシティとしては百人以上は入れるだろうという広さであり、それに倣うようにすでに会場内は男女混合の観客達で満杯になっていた。ミレイはチケットを購入してドリンクカウンターでジンジャーエールを注文してそれを手に持って人混みの中に掻き分け入り込んでいき、なるべく前面の観賞場所を確保する。ライブ開演の三十分弱程の時間だったが、観客達は今か今かとそのスタートが切られるのを待ち構える表情を溢れさせて、わいわいがやがやと騒がしく盛り上がっていた。彼らの体に身につける腕や首や手首のアクセサリーがじゃらじゃらと音を立てる。ジュースやアルコールの混合する匂いが人の波の熱気と共に会場内中に立ち篭める。ミレイはその匂いがどこか嫌いではなかった。  やがてステージが暗転し、観客達の拍手が散ら補らと疎らながらに飛び交いだす。暗転から照明の全開に移り煌輝と化したステージ上には当にメンバーたちが立ち尽くしスタンバイをしており、それが視界に映り出された瞬間、観客たちは歓喜や熱狂の嵐を巻き起こした。黄色い声援が渦を巻いて、まだ曲すら始まっていないというのに、会場は圧巻の湧き立ちを醸し溢れさせていた。そんなに人気があるバンドなんだろうかとミレイは今ひとつその彼らの熱量に上手く馴染み溶け込めないままに大人しく落ち着き払って共にステージを眺める。バンドのメンバーは三人で、ギター、ベース、ドラム共に女子でガールズバンドだった。ギターそしてボーカルの彼女がこんばんは、サンセット・ラベンダーズですと素っ気なくバンドを紹介すると、ドラムの合図でいきなり曲が始まった。シンバルやハイハットやバスドラムやスネアドラムやタムやエレキギターやエレクトリックベースの演奏がごちゃまぜになって一つの洪水になって音響の狂乱を生み出して発散させた。観客達の歓声がそれに重なって、更に会場の音楽は轟音と化す。  本格的に演奏が始まり、ミレイは前後左右に振り乱れ暴れ回る観客達の身体の振動に揺れ揉まれながらもステージ上の圧倒的なパフォーマンスを目に焼き付けて自分なりに体験した。そこでは三人のまるで飼い慣らされない野良猫や野良犬が路地裏のような無秩序な鉄柵のない通り道で互いに自由に噛み付き合いの喧嘩をやり始めているような光景が繰り広げられていた。音の喧嘩だった。若しくは演奏という名の殴り合いともいえよう。ギターとベースとドラムのストリートファイト。  ボーカルギターの彼女が使用していたのはキャデラックピンクのグレッチで、それはもはや誰かを撲殺するかの如く巨大なハンマーにさえ思えてTAMAのドラムの強靭な重い低い鉄の錘の盾がそれを防ぎ返すように繰り返し打音を立て響かせている。もう一人のメンバーの弾くヴァイオリンベースはその中でも大人しく物静かそうに見えて、彼女がギターとドラムの二人の仲介をある種の新たな音の影で支え、だけどしかしそれだけに徹さずに彼女もまた二人の中に確固たる演奏の意思を突き当てて表明しているみたいに感じられた。ミレイはそんな攻防が接戦に続行されゆく中、彼女達の楽曲の内側にはやたらに夕暮れや夕焼けといった言葉が入っていているのが聴き取れて耳に貼ついた。それはきっと彼女達の各々の楽曲にそれぞれのテーマとして沈む陽の感傷的な懐古さがテーマと似て含まれているからだろうとミレイは思った。それはこのライブのステージングに重ね乗せられている照明の色合いも深く関係しているからかもしれないと哀嬌なオレンジ色に光る器具に目を仰がせる。  ミレイは九曲目か十曲名のときに演奏された、このライブではある一曲のみのカバーを耳にして、自分の胸が強く共鳴して震動しているのを覚えた。それはビートルズのストロベリーフィールズ・フォーエバーで、唯一の洋楽であり彼女達のアレンジソングだった。構成としてはキーは原曲と同じであり、テンポはよりスローなバラードチックになっていて、歌詞は日本語だった。ビートルズのメロディに日本語の独特な発音の階段が建てられていく、その複雑な演奏がミレイの胸中に上手く表せないもの哀しさだけど確かに暖かい優しい包み込むような掌の温度の伴った風となって吹き渡り旋回していった。そのカバーが終わった後、ボーカルの彼女はありがとうと一礼してから、この曲は自分が彼らの洋楽の中で一番好きな曲です。だから演奏させてもらいましたと説明を照れ臭そうに付け加えて、少しだけ顔を綻ばせた。その綻んだ瞬間、彼女とミレイの視線が合った。ミレイはその時自分の胸ぐらを、はっきりと彼女に掴み上げられた気がした。そして、自分が何をするべきなのか、今後どこへ向かうべきなのか、その答えへと導いてくれる羅針盤を彼女の声言葉そしてバンド全身の演奏楽曲から思い切りに投げ渡されまたは打ち突きつけられたような感覚に陥ってしばらく動けなかった。しかしミレイの身体の中に住まう鎖の外れた猛獣とも言えるその感情は、既に外界へと飛び出そうとしてならない振舞となり静かに燃え叫んでいた。       *   *   *  中学校生活が終わって、ミレイは就職先の印刷業会社を見つけて内定を受けて、ついに家を出る準備を決意した。母のギターをケースに入れ持って、貴重品を仕舞ったバッグと共に肩に掛ける。アパートの玄関口を出ようとするとおい、と父がミレイに呼び掛けた。 「どこ行くんだ?」  その父の声にミレイは何も答えずにただ黙々と靴を履き、ドアを開けた。おい、と父がミレイの肩を掴む。 「触らないでっ」  ミレイが大声で父の手を振り払い、振り向くことなく背中で威嚇する。息が上がっていた。 「…出ていくなんて、ふざけんなよ。んな甘ったれたこと抜かしてんじゃねえぞ」  その父の言葉にねえパパ、とミレイは落ち着いた声で言う。 「私が小学校六年生の時、闇金の男が来たの。色々と彼とは話したわ。パパが裏でこそこそやってるやましい事を沢山ね。アンタが借金立て込んでるの、知ってんだから。今でもそうなんでしょ?」  なんだって?と父は動揺するように言う。 「私もうほんとうんざりなのよ。この家も、ここでの生活暮らしもそしてアンタの顔も。生まれた時から、ね」  だから、さようなら、パパとミレイはなんとか声を振るわせながらも静かにそう言い残す。そして、父の方を一切振り返ることなく、開けた玄関のドアを抜けて外へ出る。その途端、背後に気配を感じて、ミレイは身体を反射的に横に逸らす。見れば父がミレイを殴るべく拳を振り翳してきていた。 「…ねえ、パパ」  父は何も言わずにしかめ面でミレイを見つめる。 「上手くなったでしょ?攻撃躱すの」  ミレイはそれだけ口にすると、颯爽とした足取りでアパートの階段を降りて行った。勝手にしろ、という父の声も今までの彼のどんな言葉よりも力無く、情けないものに聞こえた。そして彼がミレイを追ってくることはなく、ばたんと玄関のドアが背後で大きく閉じた音が鳴った。  さようなら、クソ野郎、そして腐った世界。ミレイは背中のギターと肩に掛けたバッグのそれなりな重みを軽やかな足並みに交わらせて、晴れ渡り澄み切った空を片方が潰れて蒼く腫れた瞳を合わせた眼差しで眺め見渡してふう、と冷たい溜め息を吐き出して、魔物の巣穴と劣悪な監獄に別れを告げて路地へと踏み出した。

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 母はミレイが十一歳になる年に、突如として家を去っていった。置き手紙やさようならといった別れの挨拶や言葉などは何一つ残さないまま、ただ忽然と。ミレイは彼女が家を出ていく様子を見てはおらず、というのは母が家出をしたのはまだミレイと父が眠っている明け方のことだったからで、彼女は殆ど荷物を持ったり何か片付けをしたりと準備をすることなく、寝起きからすぐにバッグひとつを提げて家を出ていったため、母が物音を立てることはなく二人は彼女の異変に気付かず目が覚めぬまま、彼女をいつのまにか失ってしまっていたのだった。母がいなくなったことに気付いた朝に、父はミレイを叱咤して殴り母の姿を追って家を出て行った。父は夜遅くまで帰っては来ず、ミレイは一日中泣きじゃくっていた。  母が残していったのは、マルボロ・メンソールの吸いかけの箱と幾つかの化粧品と何着かの衣服と弦の切れたアコースティックギターくらいのものだった。母はギターを弾くのが趣味で、時たまにミレイの前でビーチボーイズやボブディランといったアーティストの曲を口遊みながら演奏を聴かせていた。ミレイはそれがなんの道具だか今ひとつ分かっていなかったが、なんとなく流れる楽しげな彼女の奏でるリズムや音に、自然と身体を揺らして聴き入っていた。 「ミレイが大きくなったら、このギターあげるから、好きなように弾いてね」  そう言っていつか笑った母を前に、ミレイはうん、となんとなく頷いた。  ミレイは母がいなくなって数日後、ある夢を見た。それは確かに夢で、実際ミレイが目にした物事や出来事ではなく実際に起こり得たものではなかったのだが、何故かその夢はこの上なく現実味を帯びていて、今まさに目の前で広がり映し出されているように感じる光景だった。その内容は、母がアパートから出ていくのをミレイが泣きながら追いかけていくというもので、夢から覚めた後は必ずミレイは目元の辺りを赤く泣き腫らしたようになっていた。ミレイはその夢をその日から何度か繰り返し見続けるようになった。  夢では最初、服を外行きの衣装に着替えた母が無言で部屋を出ていくところから始まる。父は居らず、アパートにはミレイと母の二人きりだった。母はいつも決まって黒いフォークロアのワンピースを着ていた。ママ、とミレイは声を掛ける。母からの返事はなく、彼女は心ここに在らずといった様子で廊下を歩いていく。ママ、とミレイは何度も呼ぶがやはり返事はない。気がつけば場面は母が靴を履くシーンわ飛ばして、アパートの階段を降りた外庭の映像に切り替わっていた。ママ!とミレイはとうとう大きな声で叫び、すると母はようやくミレイを振り返る。何?とでもいいたげな表情で、母はミレイを見つめる。どこに出掛けるの?とミレイが聞くと母はどこにも行かないわよ、ここ以外ならどこでもいいのと矛盾した意図の不明な言葉で答える。なんで、どうしてママは出て行くの?とミレイは続けて尋ねる。しかし、母はそれには何も答えずに、顔色ひとつ変えないまま、ミレイが答えを待って黙っていると再びアパート敷地の出口へとまた歩き出した。ねえ、とミレイはとうとう泣きそうな声で母の身体に抱き寄る。彼女の腕を両手で掴み頬に擦り寄せる。目から溢れた涙が母のワンピースの裾を濡らす。夢だからか温度や服の質感はなかった。そうしてミレイが嗚咽混じりに泣くのを続けていると、母は再び足を止めて敷地の出口すぐ側で立ち尽くし、少ししてミレイの顔を見下ろした。ミレイも涙ぐんで崩れた顔で母を見上げる。母はしゃがんでミレイの顔を覗き込むと、ごめんね、ミレイと力なく微笑んで言った。え、とミレイはその言葉を聞き取れてはいたが、母の顔がやけに白い陽射しの逆光に照らされて影になっているのを見て反応に戸惑った。 「なんで、出て行くの?」  ミレイがもう一度そう尋ね直しても、母はごめんね、ごめんね本当にと同じことを等間隔で繰り返すばかりだった。そして母はミレイの頭を少しだけ優しく撫でてその手で両頬を包むように挟むと、ふうと息を吐き出して、またさっきの無表情に戻って立ち上がった。そしてやはり同じ足取りでとうとうアパートの敷地を出ていってしまった。ママっ、とミレイは泣き叫ぶ。再び涙が吹きこぼれて、ミレイの顔中を洪水のようにした。ミレイは何度も何度も何度も繰り返して母の腕を引っ張って連れ戻そうとしたが、まるで力が入らず、気がつけばそのミレイの手は母の身体から離れていた。ミレイは力なくその場に膝を落とし、母の歩く姿と横顔を眺める。母の顔はとてもやつれていて、無気力な様子に見えた。身体は痩せ細っていて、歩く足にも力が余り使えていないように思えた。しかしそれでも母は歩くのをやめずに、先の見えない道を、アパートからずっとずっと遠くの方まで進み続けて行った。  その母はどこか、あのアパートの家から出て行きたいというよりは、もちろんそれもあるだろうけど、何かに吸い込まれるように魂の抜けた肉殻みたいに宛の見えない場所へと連れ去られようとしている姿にミレイには見えた。得体の知れない何かに、それはミレイには分からなかったけど。母はそんな風に生気のない人形のように虚ろめいた顔つきをとうとうこちらからは見えないように前に向けて、黒く胡麻の粒のような点になってぼやけた画面のせいで住宅街の路地とも道路ともつかぬ直線上の永遠の奥端に消えていった。母は無言として二度とこの場所には帰らないという断固な意思を底はなとなく感じさせる後ろ姿を最後まで貫き通して見えた。それでもやはりとミレイが声にならない叫びを母に投げ掛けたが最後に、その夢は終わり、白昼の幕を閉じた。  そしてその夢を見終えた翌日の朝、ミレイはいつも冷や汗と熱にうなされた後のような寝起きのものとは違う身体の気怠さを感じながら、重い瞼を半分開いてその目を擦りながら自分を起き覚まし、何ともいえない一日を始めるのだった。           *  そんなことをミレイは、ハートフル・アップルハウスの後輩従業施設員であるシーナに連れられた併設の林檎成育農林場に生い茂る十本程のりんごの朝陽に照らされた緑々とした葉の輝く太い幹の立つ草木の道を見上げる眺め渡しながら二人で歩いている中でふと思い出して考えていた。そしてまた立ち生えるりんごの木々に意識を戻して、それにしてもよくもまあこんなに立派になるまで育てたものだと感心する。この林檎の樹達と共に子ども達の心もきっと健やかに成長していったのだろうと思うと、ミレイは少し肌寒い外の中で胸が暖まった。  ここよ、今生えてんのはとシーナがミレイに見せるように一本の木の枝先に指をさす。そこには緑の中に真紅に光る確かな芳醇で丸いりんごの果実が実っていた。あ、本当だ。美味しそうですねとミレイはその幾つかの枝先に下がるりんごを見上げる。よかったら一個取って食べてみなよ、とシーナが言い、いいんですか?とミレイは聞き彼女が頷いた後でその自分の背丈で届きそうな枝に生えたりんごを一つもぎ取った。ミレイはしばらくそのりんごの感触や外観を掌にのみ込む。どう?綺麗でしょとシーナが嬉しそうにミレイに言い、はいとミレイは頷く。そのりんごはとてもつるつるとしていて、まるで本物を美化して脚色したレプリカのように煌びやかだった。造り物にさえ思えるその紅い球体は、ミレイの目にただ美しく映り込むと同時に、ミレイのある嫌な記憶を瞬時として思い起こせた。  母が家を出て行ってからというもの、父のミレイに対する虐待行為は然りと悪化して残酷になっていった。例えばそれは無理矢理に剥いだ衣服の中から顕になった四肢や背中や胸元や顔に吸っている最中の煙草の先端を押し付けて根性焼きのように火傷の跡を作らせたり、洗濯物のハンガーを変形させて凹みをつくり、ミレイの頭に被せて締め付けたり、トイレの内側に立て篭もり我慢できなくなったミレイに排泄物を漏洩させたり、果てにはミレイを全裸にして、アパートの外へと追い出し鍵を施錠して夜中じゅう階段上の狭いスペースで夜風に晒して震えさせて過ごさせたりといったような、とても年頃の少女に受け与えたるものとは口にできない物事ばかりだった。かのように父はまるで嗜虐至高マニアのように様々な方法でミレイを虐待した。そんな父の居住むアパートは、ミレイにとってまるで退廃した瓦礫のビルディングの一室か、若しくは魔物の棲家に思えた。冷え切ったリビング、凍りついたキッチンに囲まれた中で乱立する無造作な椅子やテーブル家具は怪物に見えた。スタンドライトでさえも、温床に生えたグロテスクな胞子の元凶の生物のように感じる。  そしてその数々の中でもミレイが特に記憶に鮮明だったものが、ある日口の内側中に台所の生塵を詰め込まれた事だった。シンクに溜められた腐敗寸前の果物や野菜の皮や魚の鱗や液体だか固体だか見分けもつかない限りの穀物類の粕が一体になって悪臭を漂い放つ塵の塊を父はミレイの口内一杯に押し込んだ。当然ミレイはその臭いや感触や喉への刺激や閉鎖感に耐え切れずに、思いきりにそれらを床に吐き散らばせて後から来る喉奥の胃液を嘔吐した。その時ミレイの目に映っていたのが、りんごの紅から焦茶色に変わった皮や芯だった。それはミレイの唾液や胃液と一緒に、見るに耐えない姿で床に転がり落ちていた。 「ねえ、ミレイちゃん?」  そのシーナの声に、はっとミレイは我に返って彼女を見やる。 「どうしたの?そんな難しい顔して」  何か悩んでんの?それかお腹痛い?と心配そうに尋ねてくるシーナにミレイは慌てて、いえ、何でもないんですと手や首を振った。そしてこれいただきますね、と手に掴み持ったりんごに目線を再び落とす。どうぞ、と和かに見つめるシーナを横にミレイはそのりんごを一口齧った。 「…美味しい」  口の中には瞬間的にりんごの果汁と香り風味とが広がり、やがて上品な甘さになって混ざり合った。皮と果肉の歯切れのいい食感が、更に食欲を増加させるようだった。 「美味しいでしょ、うちの名物」 「はい、美味しいです。本当に」  ミレイは答えて、その後も何度かシーナに見守られながらりんごを噛んで食べ続けた。するととっくにあの父から受けた虐待の事などすぐに忘れてしまえるかのように思えた。 「…ねえあんた、父親に虐められてんでしょ?」  シーナがミレイに言うと、ミレイはりんごを飲み込んで、食べる手を止めて彼女を振り向く。 「私もさ、何回かだけど母親に虐められてた事あるから、少しはあんたの気持ちわかるんだ。辛いよなあ、実の親とか家族に虐められるってさ」  そのシーナの言葉に、ミレイはそうだっとんですかとそれ以上何かを尋ねられるでもなく、ただ彼女の俯く顔を見つめた。 「うん、まあ今はもう会うこともなくなったし、ずいぶん幼い時のことだからね。母さんだって忘れてるかも知れないけど」  子どもは覚えてるに決まってるよね、とシーナが言うとミレイは頷く。まああんたならそんな話じゃ済まないのかも知れないけどね。とシーナはミレイの顔を見る。 「だからさ、もしなんか話したいこととかあったら、遠慮なく私に言ってよ。ここに居るうちは何でも聞くからさ」  そう優しく言って笑みを満たしたシーナを見つめ返して、ミレイはありがとうございますと微笑んで頷いた。さて、じゃあ皆んなの分も獲って行ってあげようとシーナは背中に収穫籠を掛け直して、ミレイちゃん、いいのあったらどんどんこん中に入れてってとミレイに指示を出した。はい、と最後のりんごの一口を齧るとミレイはシーナの後をつけて歩いた。  施設の中に戻り、シーナとミレイはキッチンへとりんごで一杯になった籠を持ち運び、ふうと二人で息をついて汗を拭った。あら、今日はたくさん獲れたわねと近づいてきたモモコが嬉しそうにそのりんごの山を見つめる。 「今日は大収穫だったわ、ミレイちゃんのおかげで」  ありがとう、とシーナとモモコに褒め挟まれたミレイは照れ恥ずかしさに居た堪れなくなって、顔を俯かせた。そのミレイの素直さにシーナとモモコはふふっと静かに笑った。  シーナが意気込んで包丁を片手にりんごの皮剥きや切り分けを進行させているのを背後に、ミレイはレクリエーションルームのように広くキッチンの前に設けられたリビングだろう部屋の空間にあるソファに腰を下ろして相変わらず元気に燥ぎ回る施設の子ども達を硝子戸から眺めてゆったりと過ごした。 「ミレイちゃんも、皆んなと遊んできたらどう?」  その様子を見たモモコが言うと、もう少し収穫の疲れを癒したら遊びます、とミレイは答える。まあ、とにかくゆっくり好きなようにしてていいからねとモモコは言うと落ち着いた足取りで事務室の方へと歩いて行った。 「ねえ、お姉ちゃん」  ミレイがその掛けられた声がする方向を見やると、そこには自分よりも二、三つほど幼い容姿の男の子がソファの横に立ってミレイを見ていた。何?とミレイは男の子に聞く。 「お姉ちゃんは、なんていう名前なの?」 「ミレイよ、竹田ミレイっていうの」  ミレイが答えると、じゃあお姉ちゃんのことはミーちゃんって呼んでいい?と男の子が言いミレイはいいわよ、ミーちゃんでと笑って答える。 「ねえ、ミーちゃんはさ」  男の子はそう言って、ミレイに更に近寄る。何?とミレイが尋ねると、絵描くの好き?と男の子は聞いてきた。 「あなたの名前はなんていうの?」  本棚の近くにあるスペースのテーブル前の椅子に座り、ミレイと男の子は二人で絵を描いていた。テーブルの上にはお菓子の詰められた木製の皿やクレヨンや水性ペンや鉛筆等の文房具が揃えられ散らばっていた。 「僕はサトルっていうの。実崎サトル」 「何歳なの?」  ミレイが聞くとサトルは十歳、と指を広げて答える。やっぱり、とミレイは自分より二つ歳下の彼を見て勘が当たった嬉しさに笑みを洩らす。 「サトル君は、いつからここに居るの?」 「生まれた時からだよ。生まれてすぐの時からずっとここに居るんだ」  ミレイはその彼の答えに、そうなのと思わず同情してしまうように言って、絵を描く手を止めた。 「パパとかママはいないの?」 「ううん、いるよ。だけど、もう会えないと思うんだ」 「どうして?」 「だってお母さんとお父さんは、僕を置いてどっかに行っちゃってそれから会ったことないんだもん」  そう呆気なく答えるサトルとは裏腹に、ミレイは軽い気持ちでそんな彼の傷を抉るようなことを聞いてしまったことに少し後悔して、ごめんねサトル君、と思わず謝る。いいの、別にもうとっくに気にしてないからとサトルは特に取り繕ったようでもなく素直な口調で紙からミレイに視線を移して答えた。 「だって、辛くないの?もうママたちと会えないなんて」 「いいんだ、だって僕のこと捨てるような人達と、また会いたいなんて思わないもん」  まあ、そうよねとミレイは残酷な生き様をわずか十歳にして背負う彼の姿を眺めて言う。 「でも、なんでサトル君のことを置いて行ったりしたのかしら」 「それは分かんないんだけどね、たぶん僕が邪魔だったんじゃないかな、って僕は思ってるよ」  そう答えたサトルの表情は、幼いその口調とは裏腹にしっかりとして大人びていたため、ミレイは思わず彼の態度に感心を覚えた。 「ねえ、サトル君はママとはパパのこと恨んでる?」  ミレイがそう聞くと、サトル君はしばらく無言でうーん、と悩みながら絵を描いていた。返事がないので不味かったかな、とミレイは少し彼を心配そうに横目で見ながら自分の絵を描き続けた。すると急にサトルは僕は、と声を出した。 「別に、恨んだりはしてないかな。二人とももう自分には関係ない人だし」  そう言ってミレイを見やることもなく絵を描き続けるサトルの姿を、ミレイは何も言えずにただもの悲しそうな目つきで眺めた。 「ミーちゃんはなんでここに来たの?」  サトルが水色のクレヨンを手に取って紙面に殴り描くように押しつけて動かす。見ると何か水辺のようなものを書いているようだった。 「まあ、なんとなく、かな」  ミレイがそう答えると、なんとなく?とサトルが不思議そうに言ってミレイを見る。 「ちょっと、私も色々とあるんだよね。パパとだけど、物心ついた時からさ」 「そうなんだ。だからミーちゃんも僕とか皆んなと同じ感じがするんだね」  サトルはそう言って子ども達が遊ぶ硝子戸の外を顔で示す。皆んな、ここにいる人達は、どこかおんなじ感じの雰囲気があるんだ、とサトルは静かに話す。 「それって、どういう雰囲気?」  ミレイが聞くと、サトルは消しゴムで鉛筆の線を消しながら上手く言えないんだけど、哀しくて嬉しそうな雰囲気だよと答える。 「皆んな、それぞれ哀しい気持ちをいつも持ってるんだけど、皆んなの前ではそれを見せないで、嬉しそうに楽しそうにしてるんだ。でもそれは嘘っぽい感じじゃなくて、なんていうか、自然とそんな風に見えるってことなんだけどね。皆んな同じような哀しいことがあるから、同じように気持ちを分かり合えるし、逆に楽しいことや幸せなことはなんでも話し合えるし感じ合える。だから、哀しくて嬉しい雰囲気があるんだ」  そのサトルの答えに、ミライは思わず胸を打たれた。こんな歳の子にそんなことを言われるなんて、と彼の顔を見つめる。 「だから、ミーちゃんもきっと、皆んなと同じなんだと思う。僕だってそうだし、モモお姉さんやシーちゃんだってそう。ミーちゃんと僕だって同じように笑い合えるし楽しみあえるし、泣きあったりできる。それってすごく幸せなことだと思わない?僕はそう思うな。自分と同じ気持ちを分かり合える人が周りにたくさんいるってことがさ」  サトルのその言葉にミレイは彼は本当に十歳なのだろうか?と思わず失礼な疑念を抱いてさえしまっていた。それほど彼の言葉は重く、自分の気持ちやそれを取り巻く物事の本質を鋭く指し示しているように聞こえた。 「サトル君ってさ、大人っぽいよね」 「え?なんで」 「だって、色んなこと知ってるから。今の話みたいに」  ミレイがそう言うと、サトルは気恥ずかしそうにそんなことないよ、と顔を俯かせて更に絵を描く紙に近づかせて絵を描く手を素速めていた。 「私、サトル君みたいな子、好きだな」  ミレイが頬杖をついてそう言うとサトルはミーちゃんってさ、とミレイの方を見ずに言う。何?とミレイが聞く。 「ミーちゃんみたいな人って、人たらし、っていうんだよね」  サトルのその言葉に、ミレイはなんだってこのーっとサトルの脇腹を指で小突いた。あはっとくすぐったそうにサトルは体をくねらせて笑う。本当に可愛い子だな、とミレイはそんな彼を見て思った。 「とにかくここは、とてもいい場所だよ。りんごだって美味しいし、あれ、ここの皆んなで育てたんだよ。ミーちゃんも貰ったんでしょ?」 「うん、とっても美味しかったわ」  ミレイはさっきのシーナさんと一緒に獲ったりんごの味を思い出す。言葉にできない優しい甘い味が今にも舌の記憶に蘇るようだった。 「シーちゃんも、モモお姉さんもすごく優しいんだ。いつもちゃんと僕達のこと見ててくれるし、いいことしたら褒めてくれるし、ダメな時は怒ってくれるし。僕、そんな大人って大事だと思うんだ」 「私もその通りだと思う。本当にそう思うわ」  ミレイはそう言ってサトル少しと見つめ合って、ふふっと笑うとボールペンを手に取って絵を描き進めた。サトルは結局、ミレイの父や家庭の事情については何も聞いてこなかったが、ミレイもわざわざ自分から話すことでもないだろうと、特に何かを話すことはなかった。 「ミーちゃんは何描いてるの?」  サトルが不思議そうにミレイの紙を覗き込む。見てみる?とミレイがサトルの前に紙を動かす。 「これは何?」 「今の私の気持ち」  サトルが指差した紙面全体に広がり描かれるドーナツの様に真ん中に空白の穴が開いた黒い輪円形の絵に、ミレイは手を加え進める。空白の部分に光る掌が伸びる絵を描いて、ミレイはキッチンから貰ってきた丸ごとのままのりんごをその掌の絵の上に乗せた。 「これで完成」  ミレイはどうかな?とサトルに絵を見せたが、サトルはなんだか僕にはよく分かんないなと素直に感想を述べた。そして、お姉ちゃんって不思議な人だねと何の悪意もない顔で言った。その言葉にミレイは特に悪い気分はせずむしろ自分の本当を認めてくれたような気がして、ありがととサトルに返した。サトルはまたその答えに不思議そうな顔をした。 「サトル君は何描いてんの?」 「僕はね、ちょっと待ってて」  そう言って仕上げの手を進めるサトルをミレイは和やかに見つめた。そして彼のような子には、ちゃんとした人生がこれから先に与えられるべきで、その人生の中でしっかりと育っていって欲しいと願った。その願いは果たして彼にとって重すぎるだろうか、いやそんなことはない。誰かに対してそう思うことは、決して悪いことではないんだ。 「できた!ミーお姉ちゃんみて」  サトルがそう言って目の前に広げた紙面の絵をどれどれ、とミレイは眺めた。そこに描かれていたのは、水色の紙面の下側一杯に広がる海か湖かから飛び跳ねる水中ゴーグルを付けたイルカのような動物に男の子が水着姿で楽しそうに乗って遊んでいる絵だった。これが僕ね、とサトルはそのイルカの上に乗る男の子の絵を指差す。その絵は上手いとか下手とかという言葉でいうには余りにも野暮が過ぎるような、彼の純粋性と子どもらしさを全霊に描かれていて、ミレイは思わずとても強い愛らしさと胸の暖かさを感じた。いい絵ね、とミレイは微笑みながらサトルに言った。でしょ?とサトルは嬉しそうに自分もその絵を見返して笑みを満たした。 「じゃあ、次はミーちゃんの顔も描いてみていい?」 「いいわよ、楽しみにしてるから」  そうミレイが言うと、サトルはまた新しい紙を取り出して、新たに手に取った文具で紙面に思い思いに色を載せて描き始めた。ミレイはその彼の姿をただただ微笑ましげに、彼女史上最も暖かいといえるような目つきで眺めていた。       *   *   *  モモコが外で遊んでいる子ども達に呼び集める声を掛けて、皆んなにそろそろ昼ご飯の時間にするよう伝えた。子ども達は一斉にがやがやと楽しそうな声や騒がしい足音を立てて、施設に入りリビングに集まって来た。横に長丸いテーブルの周りに十数個の椅子が並べられて、子ども達はそれぞれ自分用の食器を戸棚から取り出してきて用意した。  キッチンにはシーナが立っており、料理を始める準備をしていた。彼女はこの施設での調理担当の係らしく、地味なエプロンを着けてコンロの前に足を留めて煮物を入れる鍋を置いている。子ども達の中には、シーナの料理を手伝う子もいれば、他に何かを自分達で作ろうとしている子もいて、部屋の中はあっという間に賑やかになった。流しの前ではシーナを手伝う二、三人女の子や男の子達が、人参や玉葱やじゃが芋を手に取って包丁で皮を器用に剥いている。それはかなりの量だったけど彼らは苦もなく最も簡単というような様子でそれを淡々と続けていた。シーナは横のコンロで鍋に調味料や水を入れて何か煮込みの下拵えをしていた。他にも大きなフライパンがあり、そこでは肉を炒めている。  まな板等を置く空間では他の子達が付け合わせの副菜とかを作り出していて、その光景はとても家庭的で、子ども達は豊かで明るい表情でわいわいと料理を行っていた。それをみてミレイは私にも何か手伝えることない?と聞くと、じゃあ野菜とか切っててもらえる?と女の子がはいと包丁を手渡してきた。ミレイはありがととそれを受け取って皆んなに混じって昼時の料理に取り掛かった。  ミレイは本当のことを言えば、料理をしたことは殆どなかった。母が居なくなってからは食事は外食か買ったものばかりになっていて、自分の手で何かを作るといったことは皆無だった。しかしそんな慣れない事ながらもミレイは自分なりに皆んなと一緒に何かをこなしたいと思い、大量の葉菜や根菜を切り続けた。子ども達はその様子を見て、違うよとやり方を教えてくれたり、上手いねと褒めてくれたりした。ミレイはそんな皆んなを騒がしく思いながらも、かけがえの無い楽しみをどこか感じていた。  ミレイと横で作業をしていた子ども達が各々の小料理の皿をテーブルに運んでいく。テーブルには緑のサラダや簡単な副菜が並んだ。キッチンの奥からはシーナが作る料理の匂いがしてくる。それはどうやら肉じゃがやカレーや豚汁の匂いに感じられた。数分後に、皆んなできたよーとシーナと残りの子ども達が厚手の手袋に鍋やフライパンを持ってきてテーブルの上に乗せる。美味しそうと座る子ども達が声を立てた。  事務室から呼ばれたモモコが最後に席について、シーナとミレイと子ども達はいただきますをしてその数々の料理達を食べ始める。シーナが作っていたのは豚汁と、肉じゃがカレーというものらしく、肉じゃがの味とカレーの味が絶妙に合う不思議な美味しさがある料理だった。 ミレイはその子ども達が嬉しそうに好きなように料理を食べる姿を眺めて、やっぱり一人よりこうして皆んなで食べる方が何杯も美味しいんだなとご馳走を口にしながら思った。  ある程度に料理達が少なくなると、シーナが再びキッチンに立って収穫したばかりのりんごを切って取り分けて盛った皿をテーブルの隙間に持ってきた。子ども達はそのデザートをやはり美味しそうに他ならぬ顔で頬張る。ミレイも遠慮なしにそれを一口食べると、それは先程シーナと二人で外で取って食べたものとは違う甘みや、それ以上の優しい舌触りがあるように思えた。  昼ご飯を終えると子ども達は皿洗い等食器の片付けを済ませて、再び屋外に出ていったりまたは施設に残って本棚の本やトランプやオセロといった室内での遊びをするなど、皆んな各々の遊戯に馳せ参じた。ミレイはせっかくならと今度は外で皆んなと遊ぶことにした。それは鬼ごっこだったりかくれんぼだったり、サッカーのようなボール遊びだったりしたが、どれもが互いに屈託なく、子ども達はそれぞれの個性ある動きでそれらの運動を思いきりに楽しんでいた。ミレイも久々にいい汗をかいたような気がして、ひと休みする為に部屋に戻ると、気持ちのいい鼓動の昂りを感じていることに気付き、身体が心地良く熱を帯びていた。  その後も夕方になり、夜近くまでミレイは子ども達やシーナやモモコと色んな会話を交わし合った。それはそれぞれの楽しい事だったり、喜ばしい事だったり、時に少し寂しいような事だったりしたけど、どれもが話し合う度に自分が何かに満たされるような気分に浸れて、ミレイは自分が誰かにようやく認められた気がして嬉しさを溢れ滲ませていた。皆んなはよく笑ったり、泣いたり、怒ったりした。だけど全部結局は一つの楽しさに集結されて子ども達は疲れて横になったり、二人組で歌を歌ったりしていた。それを見るとこの場所にはきっと自然な人間らしい本当の生活や暮らしが全て詰まっているような気がミレイには強く感じた。  その様子を微笑ましげに見渡しながら、ミレイはあの、とモモコに声を掛けた。何、ミレイちゃんと聞くモモコにミレイはそろそろ帰りますと名残惜しそうに言った。 「あら、もう帰っちゃうの?もっとここに居ていいのに」 「いえ、もう十分皆んなと楽しく過ごして遊べたので、私はまた自分の家に帰ります」  どうして?とモモコは寂しそうにミレイを見つめる。その背後ではシーナが何か作業をしながら彼女もまた少し物悲しそうな顔でミレイを横目で見やっていた。 「私には帰るべき家があるし、皆んなとは違うんです。それはこの場所が退屈だからとかいうわけじゃなくて、なんというか、その…」  ミレイはそれ以上、モモコに何と話すべきか迷った。私は、この自分の身体と手であの父親に蹴りをつけなきゃいけないんだ、とミレイは想いを胸にしながらも、何故か上手くモモコに伝えることはできなかった。 「わかったわ」  そう言うモモコをミレイは見つめ返す。モモコはミレイの事情を彼女なりに察したからか、あなたの人生はあなたが決めるべきだもの、私がどうこう口を挟むことじゃないものねと言うと顔を俯かせて、またミレイに視線を戻した。 「来てくれてどうもありがとうね、ミレイちゃん」 「はい、こちらこそ今日はどうもありがとうございました」  またいつでも来ていいからね、とモモコはねえシーナさん、とシーナの方を振り返る。そうだよ、絶対また来なよとシーナはどこか寂しさを振り払うような空元気に見える笑顔でモモコに答えた。 「また来ます、モモコさん、シーナさん」  そして皆んな、またねと相変わらず自由に遊びを繰り広げる子ども達にミレイは微笑みの目で別れを告げた。  施設の玄関を出ると、外はもう既に冬間近の陽落ちで殆ど真っ暗だった。モモコがミレイを見送ってくれて、二人は名残惜しい挨拶を交わした。また来てね。また来ます。  ミレイがフェンスの出入り口を出ようとするとお姉ちゃん待って、と奥から声が聞こえて、振り返るとサトルが見えた。サトル君?どうしたのとミレイが言う。 「これ、ミーお姉ちゃんにあげる」  そう言ってサトルがミレイに手渡したのは、りんごとさっき彼が描いていたミレイの似顔絵だった。くれるの?とミレイが言うとサトルはうん、と頷いた。 「それをみて、また僕達の事を思い出してね」  そのサトルの言葉に、ミレイはわかった、いつまでも覚えてるわと笑って答えて彼のプレゼントを受け取った。あなた達いつの間にそんなに仲良くなったの?とモモコは二人の様子をこの上なく微笑ましそうに眺めていた。  ミレイはサトルにじゃあねと言い、そしてモモコにももう一度ありがとうございましたと挨拶を告げて手を振りながら見送る二人を背に秋冬の肌寒い風に息の白く濁る帰り道を歩き出してサトルに貰った自分の似顔絵の紙を折りたたんで胸ポケットにしまい込んだ。  アパートに帰ると、父がすぐにミレイの元に駆け寄って来て、いきなり横頬を殴り付けた。ミレイは腕に抱えたりんごを廊下に転がり落とす。 「どこ行ってたんだ、こんな時間まで」  ああ?と父は酷く不機嫌そうないつもの顔でミレイを見下ろす。パパには関係ないでしょとミレイは声を震わせる。なんだと、と父はミレイを蹴り付ける。もはやその慣れている痛みに、ミレイは何とも感じなくなっていた。 「関係ないかどうかは俺が決めるんだよ」  いいから早く答えろ、と父は更に声を凄ませる。しかしミレイは屈することはなく、彼の顔を睨み返して見上げた。なんだ?何か言いたいことがあるんならさっさと言えと父は声を荒げる。 「パパこそこんな時間までどこに行ってたの?」  ミレイがそう尋ねると、父は急に黙り込んだ。僅かに戸惑う様子が見える。黙ったって無駄よ、とミレイは言う。 「子どもだからって隠したって、分かってるんだから。アンタがどこを遊び歩いてるのかくらいの事なんて。ほんと気持ち悪い」  ミレイがそう言い捨てると、うるせえ、お前に関係ねえだろうがと父は次にミレイの頭を踏みつける。ミレイは廊下に顔を少し打って、息を荒げる父を再び見上げる。 「私、いつかアンタのこと殺してやるから。死んだって、絶対に呪い殺してやる。絶対に」 「はっ、やれるもんならやってみろ」  そう吐き捨てて何度かついでのようにミレイの頭や身体を何度か加えて蹴り殴ると父は気が済んだのか、廊下を戻ってリビングに行くとTVを点けて置っ放しの缶ビールを飲み始めた。ミレイはその彼の姿を毎回の如く極めて憎らしそうに一蹴すると、舌打ちと溜息を混じり合わせてりんごを拾い上げて自分の部屋に向かった。  部屋に入って明かりを点けて、ミレイは服を一枚脱ぐとラジオの電源を入れて貧相な敷布団だけが用意してある床に腰を下ろした。ラジオからは忌野清志郎が歌うモンキーズのデイドリーム・ビリーヴァーの日本語のカバー曲が流れていた。  ミレイはそして脱いだ服のポケットから取り出したサトルの描いてくれた自分の似顔絵の絵の紙を広げて、手に持ったりんごと一緒に眺めた。紙に描かれた似顔絵のミレイは、太陽の光に照らされて、緑の木々を背に真っ紅なりんごを手にして優しく笑っていた。それを見つめながらミレイはふとあの施設に居たモモコやシーナやサトルや子ども達皆んなの姿を思い浮かべた。 「…ミーお姉ちゃん、か」  ミレイはふとそう呟くと、ふふっと笑って手に掴んだりんごを一口かじった。

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 母がアパートから出て行った二日目後の夜方に父から相変わらずの最早日常とさえ言わずともといった殴打蹴打を受けた日から一年が経ち、ミレイは小学六年生になっていた。今日も変わらずに夜が明けて、ミレイは父がいつもの如く宛てもない女遊びやら飲み歩きやらパチンコやらにふらふら出掛けて行った後で、自分も気晴らしにと部屋の外へ散策に出掛けた。アパートの階段を降りると、秋の終わりから冬の始めにかけて流れ吹く独特の冷たくなり切らない温度のだけども肌寒い朝方の風がミレイの晴れた横頬を掠めた。天気は晴れていて、青くはないが雲の細々と散らばり浮く白い透き通った空が広がっていた。  ミレイはアパートの敷地を出て、左方向の住宅街の方角へと歩き出す。並木の落とす紅い枯葉を踏むと、焼きたてのパンを噛んだときのような音が鳴った。進んで行くうちに閑散とした今や雀や燕の巣作りの本拠地とさえ化したシャッター街が背後へ取り残されていき、数十メートル程で亡き商店達は視界から姿を消した。商店街を抜けると、幾らか一足が多く見えるようになり、車両交通の盛んな住宅街へと踏み入る。ミレイはいつもここを通り過ぎる度に、果たしてこの家々の中にはどんな人々が暮らし住んでいるんだろうと何気なく感じて思った。自分のように、理不尽で不公平な家庭内暴力なる意地汚い犯罪を受けている人が、一体どれくらいの確率でこの街、いや世界中には居るんだろう。若しくは家族のうち誰かが何かの喧嘩の理由に家出をして、孤独になった夫や妻、そして子どもや御年寄、そんな人は一体何人くらい居るのだろう。ミレイはそして今日も改めて自分がいかに父、それは血筋や遺伝的にこそ自らの実の父親と呼ばざるを得ないのだけど、その存在に人権や生存権を迫害、妨撃されながらもその魔の手から逃れる術なくなんとか息絶え絶えにあたりまえに過ぎ行く時間や時代の中で生きているのかという実感を覚え、残酷な現実を目の当たりに認識するのだった。それでまたその辛苦の深闇さに絶える事のない溜息を吐き出しながら足を動かしていた。  住宅街は大体いつも父が家に居ずに、というか基本的に父は平休日問わずに家に居座ることはないのだけど、そして自分が学校のない週末またはどうしても登校する気になれずにずる休みをして暇な余裕のある日にミレイが時間潰しの為に散歩のルーティンルートとして出掛け歩く定番の道のりだったが、今日はなんとなく同じ所を歩く気分にはなれず、ふと一つ別な通りに向かって散策をすることに決めた。因みに今日は土曜日だった。ミレイは三階建ての白とオレンジの煉瓦が市松模様の様に組み合わせられて建てられた居住家を右に曲がった細い路地に入っていった。狭い道だったが陽射しは良く当たっていて、影の暗さはほとんど無かった。そのまま道なりにただ目的も無くミレイはその細道を突き進んでいく。やがて左右の石垣やコンクリートの塀が無くなり、車一台分が通れる道に出る。近くには用水路の堀があり、濁った水が音を立てて空を反射して流れていた。  用水路の横をガードレール沿いに進んでいくと、何やら見覚えのない建物が視界に入ってきた。といってもこの道を歩くのは初めてなのだからそれは当たり前かもしれないが、それにつけてもこの近くを歩ったことは少なくともあるわけでその際には一度も目にした事がない建物だったため、ミレイは思わず足を止めてその外観を眺めた。建物は用水路沿いを抜けた先の緩やかな坂道を登った先にあるらしかった。早速その方向へと進み歩く。  坂道を登り、徐々に目的の建物が近づくにつれて、ミレイの耳に誰かの話し声が聞こえてくる。それは子どもたちの声だった。男女共々の子ども特有の甲高い笑い声や燥(はしゃ)ぐ声が騒がしく坂の周辺に響く。やがて建物の前に辿り着くと、そこには緑の草花のフェンスで囲われた、ミレイが通う小学校の校舎の三分の一程の大きさのクリーム色の施設が建てられており、その横には駐車場の他に広いグラウンドがあってそこで騒がしい声の正体である子どもたちの戯れる生活音が鳴り響いていた。ミレイはフェンスから思わずそのグラウンドの子どもたちの様子を眺める。幼い年頃の子ども達から、ミレイと同い年か少し上くらいの中学生のような男女まで、それなりに幅広い年代の子達が屈託なく一心になってボール遊びやら駆けっこやら鬼ごっこやらの屋外運動を童心そのままに楽しんでいた。その光景に、ミレイは瞬間一人胸を打たれた。なんて希望に満ちているんだろうと思った。今この場所で繰り広げられる景色は、どうしてかこんなにも闇の一片すらない暗い社会の喧騒を感じさせずに失き物として既に葬り去ったかのように燦々として煌めいて、輝いているのだろう。ミレイはそのグラウンドの子どもたちの騒がしい姿に、気付けば強い羨望を抱いていた。  ミレイは施設の出入り口を探して、裏に回り込んだ。施錠型の門などは見当たらず、代わりにカラーコーンとコーンバーが何個か無造作に並べられているだけだった。出入り口の横のフェンスに設置されたプラスチック看板を見ると、「林檎農作物育成場併設孤児院アップル・ハートフルハウス」と丸みのある字体で記されており、その周りには色や形や大小様々な手書きのりんごの絵が幾つか描かれていた。それはきっと、あの施設内で遊ぶ子どもたちが描いたものだろうとミレイは気付いた。そうか、ここは孤児院なのかとミレイは看板と建物を交互に見やる。フェンス内の建物の周辺には紅葉の木々や草花が群生していて、この場所では子ども達は皆んな緑に明るく自然と共に暮らしているんだろうと思い、その空気を吸おうと深呼吸をした。何かの花の香りがした。  そしてミレイはまたグラウンドの方から聞こえてくる子ども達の声を聞いて、思わず自分もその中に混じってみたいという感情を抱いているのを自覚していた。しかし果たして自分のような者が勝手にこんな所へ踏み入れて行ってしまっていいものなのだろうかと今ひとつその内地へ歩み出せないでいた。そんな風にどうしようもなく決めあぐねていると、突然建物内から施設員と思われる人が姿を前に現した。その施設員は見ると若い女でミレイの母よりも少し下のようにも見えたが、実際には三十五歳と母よりも五、六歳程歳上の人だった。  施設員の彼女は、手に落ち拡がる枯れ葉を掃除する用の箒と塵取箱を持っていて、ミレイの前に掃き掃除をしながら近づいてきた。するとミレイの立っているのに気が付いたのか、顔を上げると掃除の手を止めて、ミレイの姿を眺めた。あっとミレイは思わず声を洩らす。施設員は何も言わずに、不思議そうな顔つきでミレイを見つめている。 「あ、あの…」  ミレイが何から話すべきかと声を辿々しく詰まらせていると、その様子から何かを察したのか施設員はねえ、と腰を上げてミレイを見下ろした。 「あなた、もしかしてお父さんとお母さん居ない子?」  施設員が言うと、ミレイは否定も肯定もできずに、あっいや、それはそのと上手く言葉にできずに声を戸惑わせる。 「…わかった、とりあえず、中に入ったら?」  話はそれから聞くから、と施設員はミレイに微笑んで、彼女を施設の中へ入るように誘導した。ミレイもお邪魔します、となんとか小さく声に出して施設員の後をついて中へ入って行った。 「はい、どうぞ」  そう言って施設員は簡易コンロで沸かしたココアをミレイの座るテーブルの前に置いた。ありがとうございます、とミレイは案内された部屋を眺め渡しながら、施設員の彼女の片付けをする後ろ姿やココアのカップから立ち上る湯気を見つめた。しばらくして、片付けを終えた施設員がよいしょとミレイの前に同じココアのカップを持って座った。見たところ、この部屋は応接間か、宿直室のようだった。この部屋を抜けた先の廊下のドアは、おそらく事務室のものだろうかとミレイはふと半開きのドアに目を向ける。 「お待たせお待たせ、やっと話せるわね」  施設員の彼女は、そう言ってココアを一口飲むと、熱そうに息を吐いてミレイを見た。 「あなたは、ここに何か用があってきたの?見たところ多分、ここの子じゃないと思うんだけど」 「…あ、そうです。私はここの人じゃなくて、散歩してたらなんだか気になって、ちょっと立ち止まって見てたんです」  ミレイはそれから、自分が施設のグラウンドで子ども達が楽しそうに遊んでいる様子を見ていた事や、施設の名前の看板を眺めてここが初めて訪れる建物だという事などを施設員に話した。すると施設員は、あなたもここに入ろうと思ってきたの?とミレイに聞いた。 「いえ、そうじゃないんですけど、ただ何となく、楽しそうだったので…」  楽しいところよ、ここはと施設員はそう言ってまたココアを一口飲んだ。 「ここは孤児院なの。看板見たなら知ってると思うけど、親の居ない子たちを無料で引き取ってるの。って言っても、いろんな街から預かってるわけじゃなくて、この街やまあ隣の街くらいまでの間で生まれた子達が十何人か暮らしてるだけなんだけどね」 「その子達は皆んな、親が居ないんですか?」 「そうよ、皆んなお父さんもお母さんもいないの。それに親戚の人達も自分の子どもがいるからって手一杯で、結局誰にも預けられずにこの場所に来た子達が居るのよ」  あなたもお父さんとお母さんがいないの?と施設員はミレイに尋ねる。えっと、とミレイは言葉を詰まらせながらも、ママはいません、だけど、パパはいます。と言いにくそうに答えた。するとその答えを聞いた施設員はそう、と顔を俯かせるミレイを見つめながら、その胸中を読んだかのように、もしかして、お父さんに何かされてるの?と尋ねた。ミレイははい、と頷く。パパは、私に虐待をしてくるんです、とミレイは話す。ママが家を出て行ってからは、更にそれが酷くなってと淡々と言葉にする。 「そうなの……それはまた、酷い話ね」  施設員はそう言うと、どうして答えたものか少し返す言葉に悩みを見せて天井を目で仰いだ。するとミレイはあの、と声にした。施設員の彼女はミレイを見る。 「……もしよかったら、今日一日だけ、ここで一緒に私も過ごしていいですか?」  ミレイがそう尋ねると、施設員はほっとしたような顔つきになって、もちろんいいわよ、と微笑んで答えた。いいんですか?とミレイが言うと、彼女は大きく頷く。あなたみたいな子を放っておける性分じゃないのよね私、と施設員は笑った。 「そういえば、あなたの名前聞いてなかったわね。教えてくれるかしら?」 「竹田ミレイっていいます」  ミレイが答えると、竹田、ミレイちゃんね、と施設員は名前を反芻させる。可愛くていい名前ね、と笑いかけると、ありがとうございますとミレイが恥ずかしそうに答える。 「私はモモコっていうの。よろしくね」  施設員はそう自己紹介をすると、さあ冷めないうちに飲んでとミレイに満杯のままのココアを勧めた。いただきます、とミレイはまだ湯気の冷めないココアを一口飲んだ。どう、美味しいでしょ?私の手作りなのとモモコが嬉しそうに頬杖をついて言い、はい、とミレイは顔を綻ばせてもう一口飲んだ。  モモコの話を聞くところによると、この施設は孤児院の他に林檎を育てる農作物の育成場が併設されていて、それが当施設の名前の由来になっているのだそうだった。窓から外を覗いてみると、子ども達の遊ぶグラウンドの横に、言われた通りに同じくらいに広い敷地の有する農場が見られた。確かにそこは何本かのりんごの木の生い茂る場所だった。 「あのりんごはね、ここの子達が育ててるのよ」  外を眺めるミレイに背後からモモコが言う。そうなんですか?と聞くとそうよ、と彼女は頷く。 「もちろん、難しい部分とか詳しいやり方とかは私達施設の人が教えてあげたりはするけどね、それはほんの基本的なことで、あとはほとんど全部子ども達に任せてるのよ。初めのうちこそそれは失敗だらけだったけどね、でもここの子ども達ったらどこか諦めるのが嫌いみたいで、ちゃんと育って収穫できるようになるまで続けるって言うの。私達が強制した訳じゃないのよ。だって元々は私達が育ててたものなんだからね。だけど私もその皆んなの意気込みに負けて、委ねることにしたのね。そうして手伝いながらも見守っていたら、なんてこと、皆んなが育てたりんごはちゃんと立派に育ったじゃないの。おかげで収穫したりんごはほとんど近くの果物屋さんやスーパーに売るようにまでなったわ。驚いたわよ、本当に。それで私達もその獲ったりんごを食べてみたら、やっぱりそれが美味しいのよ。甘くて、でも甘いだけじゃなくて、どこか人の手の温もりの込んだ優しい香りと酸味があって。私感動して泣いちゃったもの。ねえ、シーナさん?」  モモコがそう言って振り返るとええそうね、ともう一人のシーナというモモコより二、三つほど歳下の女の施設員が本類を片しながら答える。 「ここの子達は、本当にいい子なんだ。なんていうか、自主性とか決断力が半端じゃないもの。何か出来ないことがあったりすると、最後まで諦めないし、皆んなで最後までやろうとするしさ。それはりんごに限った話じゃなくて、何か絵を描いたり、私達と一緒にここの掃除とかご飯の準備をしたりする時とかも同じでね。おかげで私達、逆に皆んなのおかげで助かってるんだよ」  シーナはそう言って最後の一冊を本棚に仕舞い終えると、額の汗を拭いながら外で遊ぶ子どもたちを誇らしげに見渡した。 「よかったら、ミレイちゃんも後で獲ったりんご食べてみる?今が旬だから、甘くて美味しいわよ」  そう言うモモコにミレイはいいんですか、と答える。もちろんよ、ここに来たからにはまずうちのりんごを食べてもらわないことにはねえ、なんたって名物なんだから、とモモコは自慢げに笑いながら言った。 「ありがとうございます」 「いちいちお礼なんていいのよ、あなたも今日はうちの子なんだから。ねえ、シーナさん」 「そうよ、遠慮なんてのは邪魔な感情なんだから、堂々と寛いでいいのよ、堂々と」  じゃあ早速獲ってくるわね、とシーナがどうやらりんごを収穫すべく外に出て行こうとすると、あのとミレイが彼女を止めた。 「私も一緒に獲りにいっていいですか?」  そう言うミレイを見て、いいわよとシーナは元気よく答え、それじゃあ一緒に行こっかとミレイに農場のある方面の外に出る扉口に来るよう手招きして、外靴を履いて準備をした。 「獲ったら、私のプロの腕でしっかりと切り分けてあげるからね」 「楽しみにしてます」  そう言って外に出ようとした時に、ミレイ達を見送っているモモコを振り向き、モモコさん、とミレイは言った。何かしら?という表情でモモコがミレイを見る。 「ここって、本当に良いところですね」  そう言い残して微笑みながら農場へと飛び出していくミレイを眺めて、モモコはただ嬉しそうにふふっと笑いを溢して、さてと、と昼食の支度に取り掛かるべくキッチンへと立ち上がり足を運んだ。

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 ある日の夜、街の古築アパートの一室でミレイは怒鳴り散らす男の追網から逃避すべく、約四畳半程の寝室の暗い押し入れの中でその恐怖に荒がる息を殺して、襖と壁に身体の守りを乞い仕舞われた毛布や布団のぬるい暖かさを震える肌身に感じながらただ成す術なく蹲っていた。 「おいどこだ、隠れてねえで出てこい。ったく、うろちょろしやがって」  男は足音をどしどしと重くのし響かせながら、狭い廊下を苛立つ足取りでミレイの隠れる寝室へと近づいていく。 「どうせここにいるんだろ。なあ、わかってんだよ俺には」  男の足音と声が押し入れの襖越しに地肌に直接触れ届く。ミレイは遂に呼吸の高鳴りを押し殺すことができなくなり、その息の音はとうに男の耳へと丸聞こえになっていた。すると途端に襖が荒々しく開き、目の前には憤怒しているが冷徹さを欠かない悪魔のような顔つきの男の姿が現れた。男はすぐさまにミレイの腕を引っ張り、強制的に押し入れから連れ出す。泣きながら抵抗するミレイを他所に、男は部屋の明かりもつけずに寝室の真ん中で床に寝転ばせたミレイの身体を殴り付け始めた。男の手は硬く、ミレイの横頬や背中や頭部に強固に突き当たる。ミレイはそれらの痛みに堪え兼ねて、泣き声を更に張り上げた。やめて、パパお願い、ねえやめてっ、ミレイの声は涙と鼻水と唾液と冷や汗でぐしゃぐしゃ潰れていた。  男はそれでも暴行を止めることはなく、ひたすらに泣き叫ぶミレイを殴り続け、自分の中の溜まる鬱憤を晴らそうととにかく彼女を痛めつける事に身投した。そして男はとうとうミレイの腹を思い切りに蹴飛ばす。ぐへゔぁっとミレイが衝撃に耐えきれず、床の上に転がって反射的に腹に手をやり、顔を俯かせて腹這いになる。 「おまえのせいだっ、おまえのせいでアイツは出ていっちまったんだぞ」  ミレイが床に蹲り、苦しそうにげほげほと咳き込みを繰り返している光景に男は流石に殴り疲れたのかはあはあと肩で息をして立っている。 「だからおまえなんか産まれて来なきゃよかったのによ、まったく、アイツもアイツだ。こんなガキを産むなんて言いやがって、なに考えてたんだかまったく」  そう吐き捨てると男は再び興奮が戻ってきたように脚に力を込めてミレイの腹部を再度蹴り殴った。するとミレイは我慢できずにおええっと吐瀉物を目を瞑りながら目の前の床に吐き戻した。その液体が男の足先に濡れ付くと、なんだ汚臭えな、ふざけやがってとミレイの髪を鷲掴み上げて彼女の両頬に思い切りに往復で平手打ちをかました。ミレイの胃液が男の指にかかっていたが、男は気にする様子はなく、やはり興奮に身を任せて所々を紅く腫らしたミレイの顔をこの上なく憎々しげに、皺の寄った形相で睨みつけた。ミレイはもはや目など開けておらず、早くこの男のいる現実から眠りに就いて夢という非現実世界の中へと逃避したいと意識をなるべく自らの身体的疲労による眠気の方向へと向けるように念じていた。数々の殴打を受けた部分達がじわじわと痛み出し、悲鳴を上げている。  しばらく男はそうしてミレイを睨み続けていたが、ようやく気が済んだのか掴んだ髪を離すと床にうつ伏せになったミレイを振り返る素振りもなく呼吸を荒げたままでゆっくりと寝室を出て行った。ミレイは男が出ていった後でも目を開くことはなく、そのままの同じ姿勢で寝室のがらりとした空間の寒さを感じ、外に降り出した小雨の音を身体に生まれた痛みの悲鳴と共に耳へと流し入れ続けた。  十二年前、母親は十七歳でミレイを産んだ。父は十八で、彼は出産に反対したが、母に押し切られてミレイは産まれた。それが、父による家庭内暴力の始まりだった。  母は高校一年生の時に父に猛アタックを受けて、その熱量に負けて父と付き合うことになった。二人は常に仲が良く、喧嘩も殆どなかった。音楽や読書の趣味も大体合っていて、休みの日も一緒に互いの家で遊んだりした。  やがて二人はあるラブホテルで初体験を経たのだが、それがある種のターニングポイントでありある意味での悲劇の始まりだった。父は避妊具を忘れてきており、母も気分が高まっていたため、父にそのままの状態で挿入して行うことを許した。父もそれを聞いて気分が上がり、二人は意気揚々と隔てがない肉感の中で行為を楽しんだ。やがて父が射精をしそうになって母の膣口からそれを抜き出そうとした時、母の膣口が硬く狭まってしまっていた為になかなか抜け出せずにいて父は射精を我慢しようとしたのだが抜き取ろうとする際の摩擦の動きで絶頂に達してしまい、父は不本意にも母の膣内へと精液を流し入れてしまった。二人が性欲の熱を幾分か冷まして我に返った途端に、父と母は焦った。母は母で避妊剤を飲んではいなかったし、このままではやがて妊娠してしまうと慌てふためいた。  二人はホテルを出て喧嘩になった。お前があの時あそこをきつくし過ぎてたから、や、あんたが中々抜き出さないからでしょ、そもそもちゃんとコンドーム持ってきてればこんな事にならずに済んだんじゃないのと車道前の歩道真っ只中にも関わらず、二人はそうして小一時間ほど言い争いを続けた。しかし二人はふと言い合いに疲れて、どうする?と互いに顔を見合わせた。どうにか今からでも避妊をすることはできないのだろうか、とそんな事を無造作な横長ベンチに座り込んで今更ながらに考えた。  二人は取り敢えず婦人科の医者を訪ねた。医者に事情と経緯を話し終えると、医者はそれはかなり難しいですね、と二人の間の受精を取り消す案を諦念した。だけど駄目で元々と医者は母に中出し後の二日目までなら一応の効果があるというアフターピルを勧めて、処方箋を出した。その日は既に性交から一日半ほどが過ぎていたが、その話ならばまだ大丈夫だろうと父は鷹を括っていた。しかし医師はあくまで可能性の話ですのでたとえ妊娠に至ったとしても私どもでは責任を負えませんと難しい顔で二人に告げた。母はすぐにその避妊薬を飲み、父は彼女がどうにか妊娠に至らない事を願って普段の高校生活をその不安に押し潰されそうになりながらもなんとか過ごした。  しかし結果は二人にとっては虚しく残酷なもので、母は正真正銘に妊娠をしてしまっていた。妊娠検査キットが赤い縦線を示している。呆然とする母を横に父は頭を抱えた。どうすんだよ、俺らまだ高校生だぞと父は母を怒鳴る。元はと言えばあんたのせいでしょと母は父に言い返す。あんたがホテルなんか付き合わないなんて言い出さなきゃ、こんな事にはならなかったんだから、母は深く後悔の念の禍った溜め息と共に顔を両手で覆いやり、父は事態の不穏さに何も言えないままただ空を虚に眺めていた。少しして母は気持ちが落ち着いたのか、はたまた吹っ切れたのか、私決めたわ、と自分の妊娠済の生命の宿り在る腹部を見下ろし眺めて呟いた。どうするんだ?と父はおそらく堕すだろうなと母を微かに胸を震えさせながら見つめていた。だけど母の答えは全く反対のもので、彼女はこの子を産むわ、と言った。え、と父は仰天の顔を強張らせる。今なんて言った? 「だから言ったでしょ、私」  この子を産んで育てるわ。  それから早一年近くが経って母が高校年生の時、正確に言えばまともに過ごしていれば高校二年生の年頃に母は子どもを出産した。父は最初それこそ母がいよいよ出産を決行するという時になるその間際まで彼女の出産に反対を押し通そうとしていたのだったが、母は断固として産むという自分の意見主張を譲り渡さなかった。その意思の余りの強さに父はやがて折れてしまい、ああーわかったわかったはいはいなどと言って、もはやどうでも良くなったかのように頭を掻いたり煙草を幾本も気が触れたかのように吸い漁っていた。しかしそうしているうちにやがて父の方も何かの拍子に気が変わったのか、母の出産に対して前向きになり、彼女への接し方も幾らか温厚になっていった。それはおそらく彼は彼で自分が文字通り蒔いた種によって起きてしまった事なのだから、自分も腹を決めて彼女のパートナーとして彼女を尊重して支えていかなければならないんだと自分自身に心を銘じて、彼女の出産を応援、後押しした。そして彼女がいよいよ出産をする前日にはすっかり膨張した母の腹中の新たな生命の振動を掌に感じ取っては、なあこの子が生まれたらさ、色んなところにドライブしに行こうな、旅したりさ、大きくなったら海外とかでもいいな、なあ、名前は何がいいかな、花の名前とかどうだ?歌手とかミュージシャンの名前でもいいよな、そうだ、音楽なんかもたくさん聞かせて、教養をつけようぜ。本とかもいっぱい読ませてさ。俺らの持ってる本何冊もあるだろ?あれを全部読ませるんだとそんな事を父はどこか薄気味悪いとも捉えられる顔つきで母の顔と腹の膨らみを交互に見やって語った。母はその父の異常なまでの態度の変化に流石に不気味さを拭いきれなかったが、それでも尚彼が少しでも自分の意向である我が子の出産に前向きになってくれたことにある種安堵し、馬鹿ね、今そんなこと考えたって早すぎるでしょ?と笑いながら、父の手と一緒に自分の掌を腹に当てて二人で撫で合いながら早く明日の手術が始まらないかななんて風にその生命の誕生の神秘を全身で感じながら喜びを噛み締めていた。  当然、二人が子どもを出産した事を知った互いの両親は共に激怒した。そして二人はあえなく両方の実家を追放されてしまい、それならばと父と母も自分達の意見や素晴らしく新しい生命との出逢いを嬉々として迎え受け入れてくれないのならと互いの両親達と絶好を決断して、二人は高校も中退しそれぞれの実家を遠く離れた街外れの小さな古いアパートに部屋を借りて、そこで我が子と三人で暮らし始めることにした。二人はすぐに仕事を探して、父はなんとか外作業の就職に漕ぎ着け、母はスーパーのアルバイトに出掛けた。父が居ない日は母、母が居ない日は父と互いに交代制度でワークライフバランスを取ってなんとか慣れない育児生活に奮起して没頭していった。とはいえそこはやはり何といっても関係は男と女であり、基本的に仕事に行くのは父の方が圧倒的に日数を優っていたため、母は父が休みを取っている数日間だけ代わりに働きに出掛ける形となっていた。  子どもの名前はミレイに決められた。由来は特には無かったのだが、美しい子に育って欲しいという二人の願いを掛け合わせてその名前に自然と決まったのだった。  ミレイはとにかく不思議な子どもだった。生まれてすぐに泣き止んでからは、夜泣きや空腹を知らせる泣き声は殆ど出さずに、空腹になった時やオムツが濡れた時は何かを発することもなく、うーっという風に何かを訝しげるような声で唸るだけだった。その事を特に二人は気にすることもなく、ただそんな子どもなんだなという感じで何とは無しにミルクや離乳食や玩具をときには与えて費用を切り詰めた側から見れば貧乏な日常生活をなんとか楽しくやり過ごしていた。  そんな日常の中に異変、否亀裂が走ったのは、ある一つの出来事がきっかけだった。それはミレイが五歳の年長から六歳になり小学校に入ろうとする頃に、何故か突然父の顔を見て泣き出すようになったことだった。父はその急な変化ぶりに驚き、なんで今更とミレイのそんな反応が不思議でしかなかったが、なんとか彼女をどうにかしてあやし宥めることしか出来なかった。しかし父が幾らあやしても宥めても、ミレイは一向に泣き止まないのだった。たとえ泣き止んだとしてもそれは一時的なことで、ふと父の顔を見やった瞬間に、また突如として泣き出すのだった。しかしそれは父に限った話で、こと母がミレイに構ったり、ミレイの機嫌を取ろうとすると、途端にそれまで泣いていたのが全て嘘かのように泣き止むのだった。それは何日経っても、小学校に入ってからも同じだった。父が姿を見せると泣き出すし、母がミレイに相手をするとすっかりと泣き止んだ。何故かは父と母の二人にも全く分からなかったし、小児科の医師に尋ねてみても答えは出ないままだった。そんな様子でミレイと父と母の間には何か悶々とした蟠りが立ち込めはじめて、ある日突然父は母を殴った。殴られた母は頬を抑えて呆然とした。何故自分が殴られたのか、その時は母には分からず、また同様にその光景を目の当たりにしたミライにしても分からなかった。しかし殴っても何か理由を付け加えることなくそのまま何処か外へと出て行ってしまった父を他所目に、母は泣き止んだミレイを一目して僅かばかりに父の苛立った理由が分かるような気がした。おそらく父は、自分の時ばかりにミレイが泣き出しそれが自分が相手になる事を拒まれているように思えてならず、そのことが母との存在の差別化に彼の中で繋ぎ合わさってしまって彼はその事が癪に触って仕方なかったのではないのだろうか。彼はそれからも事あるごとに母を殴るようになり、遂にはそれを止めようとしたミレイにさえ殴りつけるようになった。お前のせいだぞ、と父はある日ミレイに向かって言った。あんたやめて、と涙声で言い掛ける母を他所に父はミレイの顔を睨みつけるように覗き込んだ。ミレイは父に対して何も言わなかった。何も言わない代わりに、殴られたその痛みによって泣き出した。泣くな、と父は怒鳴る。そしてまたミレイの片方の頬を殴る。やめて、やめて、と母はとうとう泣き崩れてしまい、父のミレイへと手を出すのを止めるべく彼の腕を掴んだ。すると急に我に返ったのか、父はぽつりとその行為をやめて、いきなりしおらしくなり、ごめんな、俺、なんか疲れてるみたいでさと魂が抜けたような表情になってミレイと母の泣き崩れる部屋を出て行った。大丈夫だった?と母はミレイの顔を撫でて泣きながら尋ねる。うん、とミレイは心ここに在らずといった様子に母の顔に視点を合わせることもなく、ただ何故自分が殴られたのか、そしてその原因となった自分の行動、父の顔を見てなんで泣いたりしていたんだろうというそんなまだ十歳にも満たない幼さの思考力の中でミレイは未熟な自身の心内の読み解きに無意識のうちに入り込んでいた。そしてそんなことも知らない母は父が家から出て行ったのを確認した後で、ミレイの身体をぎゅっと強く、それはとても強くだけどどこか暖かく、優しさや慈悲やこの世の全ての抱擁の愛情深さを含んだ掌や腕や頬摺の熱で包み込み抱きしめあげた。そしてごめんね、と母は力なく呟いた。それはおそらくはミレイに対しての言葉なのだろうが、どこか母が彼女自身に言い掛けているものにさえ聞こえて取れた。ミレイはいつの間にか泣き止んでいる自分がいることに気づいて、両頬のじんとする紅い腫れの痛みを感じながらも、その痛みと相反する母の温もりの意味を自分の中に共生させて母を抱き返していた。  やがて母がミレイを抱く強さを弱めると、ねえミレイ、と尋ねた。 「ミレイはなんで、パパのこと見て泣いたりしたの?」  それは凄く純粋な質問に他ならなかった。ねえなんで?と母はミレイに再び声を掛ける。するとミレイは少しだけ間を置いて、こういう風に答えた。だってあの人、怖いから、と。  そっか、とその答えを聞いた母はやはり父と同じように魂がどこかへ抜けて消えていったような表情になり、それは優しい微笑みにも似たものだったけど、同時に不気味さも併せ持つような顔となっていて、ミレイから腕を離して立ち上がると、台所の方へと歩き戻って行って、残っていた食器や皿洗いを何事もなく無言で始めた。ミレイはその母の姿を、しばらく何ということもなく夢中で眠気を覚えながら眺めていた。  その日から父は突然仕事を辞めると言い出して、母はなんとか説得したが、父は何も答えずに部屋に籠ると、数ヶ月間ほど一切ミレイ達の前に姿を現さなくなり、同様に口もひとつとして聞かなくなった。  仕方なく母は父に代わって新たに仕事を探して就職して生活費稼ぎを始めた。母は朝食の準備や洗濯物の片付けを済ませると午前から午後までの仕事に出掛けて行くようになり、ミレイは小学校に行っている以外の時間は、家に引き籠もっている得体の知れない父と二人きりの空間と化した自宅の中に過ごすようになった。そしてある日、部屋から突然何かに思いつき駆られたように飛び出してきた父は、素知らぬ顔で居間で落書きをして遊んでいるミレイを捕まえて、浴室まで連行し終えると、湯船の中にミレイを入れて湯冷め蓋をして閉じ込めると、何を勘違いしたのか、蓋の隙間から僅かに開いたシャワーヘッドひとつ分ばかり入る入り口を作って、冷水を流し入れた。当然ミレイは事の起こりに気が動転して、やめて、ここから出して、ねえパパお願いと湯船の中にくぐもる声で彼女の力ではとても持ち上げきれない蓋を叩きながら泣き叫んだ。父はなんの返答をすることもなく構わずに無言無表情でただ一心不乱にミレイのいる閉鎖した湯船の中に冷水を淡々と流し入れる行為を続けた。静かな物音一つしないアパートの一室の風呂部屋の中に、シャワーの水流の粒立った音が冷酷に響き渡った。言うまでもなくこれが、これから巻き起こる父によるミレイに対する地獄の権化の虐待生活の始まりだった。

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 あの奇怪不気味極まりない病棟から逃げ出して早一年と数ヶ月後のある日、ケンイチは何ら荷物も持たずに地元を離れた街外れの通りに来ており、冷たい風の吹き始めるコンクリートのざらつく道路脇を一人歩き続けていた。というのは、この通りの先に在る建物に用事があった為だったが、その目的とはさも無謀にも思える事と周囲のまともな視線からは見えるだろうが、それは彼ケンイチにとってはどうだっていい一般論に過ぎず、今の彼にとっては今自分がこうしてそこへと向かって行く事こそが自らの一変一新に助手し、また今の彼の中に踞る未だ晴れぬ重い暗い過去過去の辛苦の生塊をいま一度打開し以前の自分らしい自分を取り戻すべくその第一歩として踏み出される唯一の手段であり役目だった。それはきっと大した理由も意味も、実はそこには含まれていないのかもしれない。だけどケンイチは、この胸中の曇暗を何とかしない限りはやはり自分は自分手間はなくなってしまうだろうとそんな理由なき理由、意味なき意味のためのただ自己の心の成りゆくままに動く意識、行動に身を委ねて足を止めずに突き進んだ。  ケンイチは病棟を抜け出してから、離れた街の一角の小じんまりとした格安のアパートを借りて生活を始めた。ケンイチは特に仕事などは専ら手にはしていなかったものの、彼の元に入ったそれなりの額の賠償金で生活費を賄っていた。その金額はかなりのもので、贅沢をしなければ一年弱はなんとか家計に回せるだろうといった感じの残高となっていた。賠償金とそのの出元は、ケンイチがあの忌まわしき病棟で被った致死傷事件の背表一部始終に紐付けられていた。ケンイチが当日コーンスープを口にした際に過呼吸、性急な動悸、その他酷い寒気など身体的被害に至ったのは、彼の口にしたコーンスープの中にあろうことか彼の息の根を止めるべくして混入されたとある毒薬が原因だった。果たして誰が一体それを彼に服用させるべく使用するに施したのか。その犯人は、ある一人の黒孔雀会の幹部の男だった。男はケンイチが当病棟に入院しているのを知り、特殊な方法で棟内に新規の医療従事者として潜り込みケンイチに毒を飲ませ彼を殺害する企てをして右のような犯行に躍り出た。男の目的は、ケンイチを始末することで、この先の彼による当教団の活動の阻害、妨悪行為を早い段階で処理する事だった。しかし男はそれに悔しくも失敗し、逮捕されて刑務所へと送檻された。事件を知った黒孔雀会はケンイチがあくまで当会の幹部だった者の息子であることを致し方なしに尊重し、それを表すべくケンイチに対して多額の賠償金を支払い、彼からの世間に対する教団内のあらゆる闇業務、取引行為等を口止めしそして彼に今後として関わられないようにという酌量として試みたのだった。ケンイチは藪から棒という風にその結果に甘んじて、すぐに事件の事など忘れて次なる自分の目的へと視界を拡げた。  というような様子で暮らしは楽ではないが、かと言えば然程徒労に暮れるようなものでもなく感じられ、ケンイチは彼なりに気ままにその居住地で日々を過ごした。とは言ってもただ呑気にのんびりと過ごしていた訳ではなく、彼の内にはある目的がかつて存在し、状況がひと段落したところで彼はふとそれを思い出して、自分がすべき衝動に駆られたのだった。その目的とは、ケンイチが自らこの手で、彼ら黒孔雀明聖会及びそれに連なる各教団を滅殺することだった。ケンイチはその目的と共に夜毎、あの自宅の寝室で無惨この上なく首を垂れて死んでいた母の直視無謀な姿に対するとてつもない後悔や、忌々しさを述べればきりがない人格終焉の権化の父親に向ける煉獄烈火の怒涛の憎悪を脳な胸や五臓六腑に思い起こさせていた。ケンイチはその感情を思い出し、すぐにまず今は最早整頓の満たない一律を保ったまま空き家となっているかつての荻野家の建宅を訪ねた。敷地内外には至る所に規制線が張られており、ケンイチはそれらを跨ぐ潜るなどして居住地内に侵入した。誰も警備などは一人もおらず、それはそうだろうとケンイチは気を留めずに家の中へと入った。  ケンイチはそして父親の書斎に踏み入り、彼の所持していた黒孔雀明聖会に関連する凡ゆる資料やら書籍やらを片端から盗み出してアパートへと帰宅した。盗むと言っても、父は愚か見張りでさえ誰一人としてケンイチを監視するものは居らないのだから、何ら問題を気にする必要はなかった。  そうして帰宅するなりケンイチは即座にそれら黒孔雀会の活動理念に付随する物達を元手に徹底的に当教団についての概要や活動等を調べ上げていった。調査は一年もあれば余裕だった。ケンイチは遂に黒孔雀会の本領本拠地を特定し、その翌日に本拠地への乗り込みを実施することを決意した。  そして話は戻り、ケンイチは正に今現在その黒孔雀会の本拠地へと孤独に足を向ける最中というわけだった。教団の本拠地は、僅かにケンイチの住む街の居住通りから離れた山麓の入り口から連なる広くもない山道を登って行く先の閑静な丘の上に設け構えられており、その姿はまだ目にはしていないが、かなりの大きさを誇るものだと推測された。しかしケンイチがようやくその山麓に近づいて行こうにも、肝心の本拠地の建物は辺りに生い茂る林並木の壁に意図的に覆い隠されている様に全く以ってその全貌の一部すら確認できないという状況だった。その為ケンイチは、よっぽど厳重な整備が施されているらしいと、彼なりに事態を慎重に伺っていた。ケンイチは適当な量販店で買ったフレームとレンズの厚い瓶底の伊達眼鏡と、口元を隠すべく手にした輪郭にアンフィットなマスクを着けて、出来るだけの変装を装い、更に目的地の丘上へと向かった。  丘の上へと辿り着き、ふうと微かに重くなった足取りに息を吐く。辺りを見やると、確かに言われてみれば立派に正当な教会、若しくは何か国家秘密の被験体対象者に対する研究の行われていそうなアンモラルな出立ちの不気味な政府陰営の施設にさえ見て取れる薄気味悪い空気の漂わせる巨大な窓や扉の疎な大理石の建設物がその腰を森林丘内に確固として下ろしている他に、何ヶ所か同じ敷地内に幾つかの搬送物資保管倉庫や街灯、そして駐車番号や白線のはっきりとした駐車場が広々と停車する車両に見合わぬくらいの面積で視界を占領している光景がケンイチの目に留まった。ケンイチはよくこんな建物が街外れとはいえ仮にも住宅街を抜けた先にあるただ国内一片の山中にひっそりと埋め隠されているものだとその教会の存在感に息を呑んだ。  ケンイチは慌てずに、いつもの足取りで敷地内へと入って行く。入り口には「黒孔雀明聖会第一教会及本部指揮館」とくっきりとした石文字で彫銘された建造物が建っている。ケンイチは真っ直ぐに突き進んで、教会の入り口と思われる大きな両開きの格子玄関口へと向かう。流石のケンイチも今日ばかりは全身に緊張が走った。それが何処からともなく見張られているかもしれない監視カメラや監視員に下手に伝わらぬように用心し、彼は一心に足を進めた。  玄関口には、二人の恰幅の良い警備員と思われる男が左右扉を対象に並んで立っていた。彼らはケンイチを見やるなり、おい、そこの君止まりなさいと低く重く厳かな声を上げた。ケンイチは勿論怪しまれぬべくその場に足を止める。 「君、一体この場所に何の用かね」  警備員の男はケンイチの顔をじっと見つめる。それは明らかに彼を警戒している目つきだった。ケンイチはあの、とマスクを下ろさぬまま言った。 「僕、この黒孔雀明聖会に入信しようと思って来たんですけど」  ケンイチがそう言うと、二人の警備員は幾分か安堵したのか、なんだ、新規の入信希望者かと顔を微かに綻ばせた。 「そうです、だから、まずは一目その信教内容を見学なんてしたいなと思って」 「なるほど。君の言いたいことはよく分かった。我々は更なる当教会の繁栄と興行を願っている。君のような自ら入信入教入会を志す人間は我々にとっても非常に貴重な存在だ。決して蔑ろにはできない。我々は君を喜んで招待し、歓迎する」  警備員がそんな大層な勿体な戯言をそれらしく上機嫌に口上するのを見てケンイチは吐き気がしたが、咳で誤魔化した。じゃあ、中に案内してくれますかとケンイチが尋ねると、ああ是非見学していってくれ、と警備員は二人揃って互いに目配せて頷く。 「だけどしかし、いくら入信希望者だからとはいえ、軽々と入れるわけにはいかないんだ」  その警備員の言葉にえ、とケンイチは声を洩らす。どうしてですか?と少し焦って尋ねる。 「ここは見ての通り、当教団の本拠だ。当教団の教会は全国各地にその支部が設けられて在るものの、ここはそれら各教会を一括して管理を担う場所なんだ。分かるかな、だからつまりなんていうの、そんな大きな存在の場所には、ある種の特別な通過証が必要なんだ。悪いがね」  ケンイチはそう答える警備員に、じゃあ僕はここには入れないんですか、と聞くとその通過証が無い限りはね、だけどここじゃなくても、その支部のどれかからなら手持ち無しで入信契約や体験ができるんだ、と和かに返答した。  ケンイチは初めその各国の支部のいずれかへの潜入をも思案したが、しかしそれでは肝心の黒孔雀会の心臓部と言える本拠地の崩壊には直結せざらないのではないかと再び考えを巡らせて、やはりここはと本部への直接の乗り込みを決めたのだった。なら一体どうすれば、とケンイチは警備員を前に一瞬戸惑ったが、あっとふいに自分の衣服ポケットに一枚のカードのようなものが入れられているのを思い出し、それを手に取った。それは見るところ、黒孔雀明聖会特級役員証明書と記された、ケンイチの父が持っていた通過証だった。ケンイチはその時ふと自宅に忍び込んだ時にそれを父の部屋で見つけ、何かに使えるやもしれないと一応持ち帰ったのを思い出す。 「…もしかして、これの事ですか?」 「あっそうそう、これの事これの事。どれどれ、よく見せてくれ」  ケンイチはそれを警備員に手渡した直後にしまった、と体を強張らせた。何故ならその証明書の持ち主にはケンイチの父の名が印字されており、それが確認されると自分が当会の役員である父を半殺した犯人とばれてしまうからである。ケンイチは取り敢えず逃げようと警備員の様子を伺ったが、その懸念やするまでもなく警備員はよし、いいよ、とケンイチの顔を見て何か彼を咎める一切の尋問を行わなかった。え、とケンイチが拍子抜けにいいんですか、と間の抜けた口調で言うと、だって君この役員さんの息子さんでしょ?だったら尚更歓迎だよとやはり何一つ疑いを掛けることなく、ケンイチを本部教会の中に誘導した。一体どういうことだろうとケンイチは返された通過証を眺めながら自分を案内する警備員を不思議に見やる。そしてそのままケンイチは、受付窓口を抜けた先の一つの大広間に設置された教会の内部へと招き入れられた。  教会の中に入って見学者ということで席に着き、一段落したケンイチはふと先ほどのあっさりとした男の誘導について答えを出した。きっと彼は自分の父親と自分の間に起こった一連の事件を知らないのだと思った。きっとあの男はこの黒孔雀会全体の数有る役員の一人に過ぎない父のことなど指して明確にいち警備員として把握しておらず、ケンイチが当教団にとっての頭痛の種などとは考えもせずにただ役員の家族というだけでケンイチを当会に入信させることで当会の繁栄に自分が一役買ったなどと自己完結の満足を覚えているのだろう、とケンイチはそんな事を考え、それは逆に自分にとってはこの上ない好都合だとその有利さに浸り早速教団殲滅の第一歩に於ける潜入を果たし得たことを自覚し心を落ち着かせた。  しかし、それも時間の問題だろうともケンイチは考えており、いくらあの警備員が自分を知らなかったとしてもいずれここにいる限りは自分の存在が不願にも目立たされ、何者かの告発によって自分がケンイチだという事実の発覚に至らしめられられるかもしれないとケンイチはやはり刹那の安堵に甘んじずに、計画を最後まで遂行すべく、その意識を一人引き締めた。ここから動き起こす物事こそが本番であり、それによって自分のこの先が左右されるのだとケンイチは顔や目つきをあくまで真剣その模様に切り替えて牧師による講教が始まるのを息を呑み潜めて待った。  やがて教会内に福音とされた鐘が鳴り響き、信者たちはそれぞれ各々の席に着いた。若い男女、中年の男女、そして老いた男女が入り混じったまるで大学の講義のような形式で彼らは持ち場へと自分を配置した。彼らは皆んな教典のような書物を机の上に用意する。ケンイチはそんな光景を一人で教会の後方の一段上の場所から眺めていた。  それからまた少しして、教会には一人の男が入って来た。今日の講教を務める牧師だろうとケンイチは思った。彼は教壇の上に立って、手に持っていた信者たちと同じ教典を机上に広げる。深呼吸をすると、いきなりその教典を信者たちへの挨拶もなしに読み始めた。すると信者たちもそれに倣って各々席を立ち上がりだし、皆んなで合唱をするかのように牧師の音読を追って教典の文を復唱した。  ひとつに、我々は暴力的な自我を持ってはいけない。  ひとつに、我々は自己完結型の自我を明らかな他のものへの武器として扱ってはいけない。  ひとつに、我々は利己的な欲望により、罪を犯して鳥々の神聖なる翼羽を汚し傷つけてはいけない…  そんな調子の相も変わらず訳の分からない教文が彼らの口口から吐き出され教会にそれが立ち篭めていく様を健一はまったく馬鹿馬鹿しさこの上ないといった表情で、それよりも教会内の装飾具に目を向けて観察していた。  牧師の立つ教壇後ろの黒板の上の壁には、中央に黒い鳥の銅像がまるでイエス・キリストのように十字架の前で両羽を左右に広げて下を見おろしている形で出で立っており、その鳥の両隣をいちごとカーネーションの模造品が横長のリースみたく伸びて囲んでいて、それが天井や教会の壁一周を伝いに装飾していた。  やがて教典の音読が終わると、次に牧師そして並びに信者たちは教典を机上に開いたままで、各々目を瞑り、手を組んで祈祷を始めた。それが一分ほど続いて、牧師含め信者たち彼らはようやく席に座った。牧師はそしてやっとみなさん、今日も良くぞお集まりになって頂きました。と挨拶を穏やかな口調で述べた。  牧師はそして挨拶に続くように次々と信者たちの名前を点呼していった。それは学校の出席確認のそれだった。次々と信者たちが名前を呼ばれていく中で、牧師はケンイチを指名した。貴方は今日から入信を希望するお方ですね、名前を伺ってもよろしいでしょうか?と牧師が言い、ケンイチは咄嗟に、タテジです、と偽名を名乗った。 「タテジさん、良くぞいらっしゃいました」  皆さん、新入教される方が見えておられますと牧師がケンイチを示すと、信者たちが一斉にケンイチの方を見やり、拍手を喝采させた。ケンイチはその異様と捉えられる景色を見て、恐ろしいな、宗教ってのは、と胸の中で呟いた。  そんなある観点で滑稽とも言える風景を俯瞰しているケンイチの右斜め後方に、ある一人の男が座っていた。男はそんな只事ではなさそうな様子の面持ちのケンイチの目つきや表情を見て何かを読み取ったのか、なあと声を掛けた。ケンイチが男を振り返ると、彼は、もしかしてお前も俺と同じなんじゃないのか?と言った。 「何だって?」 「お前も、カルト教団の奴らに家族を殺されたんじゃないのか?」  その男の言葉に、ケンイチは内心どきりとした。それは本音を言えば少し事実とは違ったのだが、いずれにしてもケンイチがカルト教団の存在を母の自殺基父による洗脳という過去の理由により嫌っていたのは紛れもなかったため、話を彼に合わせるべく、ああそうだと答えた。その返答を聞くと男は安堵したのか、やっぱりそうか、と呟いた。 「なんで分かったんだ?」 「お前の目つきが俺と同じだったからさ」  男はそう言って、ケンイチと目を見つめ合わせた。 「あんたは一体誰なんだ?」  ケンイチが尋ねると、男は俺は岩柿ルイガっていう者だ、と静かに答える。彼は軽く紹介をするなり、自分の身元についてそれなりにケンイチに打ち明けた。聞くところによると、彼にはかつて数年前に妻と娘がいて家族仲睦まじく暮らしていたらしいのだが、ある日突然家に入り込んで来た名も知れぬとあるカルト教徒達によって妻娘の命を惜しくも奪われてしまったのだという。ルイガはこの上なく自らの人生において絶望落胆し、一人あてもなく発狂したのだそうだ。しかしやがてなんとか我を取り戻し、気がつけばその家族の仇であるカルト教団への深い執念の復讐を一刻も早く果たすべく、自らがその教団一連をその手で殲滅し潰圧する事を名目に現在に至るまで私立の反カルト教団テロリストとして孤独に活動を続けているのだそうだった。そしてその活動が功をなしルイガは家族を殺した教徒を教団諸共一人で滅殺したのだという。ケンイチはその話を聞いて、思わず言葉を失っていた。そんな人物が本当に実在するのかと、しかしルイガは確かにケンイチの目にその姿が映っていた。  「でもなんでそんなあんたが、こんな教会にいるんだ?もう復讐は終わったはずだろ」 「確かに俺は家族の仇を討った。しかしそれは国内外数ある教団組織一軍の一部を破壊したに過ぎず、俺はそれで終わらせるつもりはないんだ。その他に蔓延る、善良な奴等に被害をもたらし続けるカルト教団共を一つ残らずこの手で消し去りたいんだ」  だから俺は今この新たなるカルト教団の本拠地に潜入しているんだとルイガは語り、ケンイチもその静かな迫力に圧倒されて、それ以上彼に向ける言葉を噤んだ。 「…俺は、家族を失った、いやもっと言えば家族を俺の不注意で失ってしまった事への償いをしたいんだと思う。だからこんな無謀な馬鹿げた事をやっているのかも知れない」  お前から見ても俺ってやっぱり馬鹿なんだろうな、とルイガはそんな風に自虐を含めたものの達観した哀しい顔つきで溜め息混じりに言ったとき、ケンイチはそんなことないだろ、と呟いた。 「俺はいいと思うぜ。それが今のあんたにとっての望みなんだろうし、あんたがやるべき事なんだろうから」  ケンイチはそんな感じにそれは決して慰めるようでもなくただ自分の正直な感想をルイガに向けた。ルイガはそうか、とその言葉に嬉しそうでも嬉しくなさそうでもどっちとも取れない何とも言えない表情で前方の牧師の方を向き直った。そしてケンイチに、お前の名前を聞いてもいいか?と尋ねた。 「俺は荻野ケンイチだ」  そうか、とルイガは言った後、なあケンイチと声を掛ける。何だ、とケンイチが尋ねると、ルイガは俺と手を組まないかと真剣な口調で答えた。  ルイガの作戦はこうだった。まず手始めにケンイチが牧師の隙を狙って彼の意識を殴るか何かで一時的に失わさせる。そして次にルイガが持ち込んだある物質を含んだ小瓶を教会内に投げ捨てる。その物質は彼によると教会にいる作戦を阻むだろう信者たちの思考を混乱させるべくものらしい。しかしその物質が空中に浸透してやがて信者たちの体内に入り込み彼らの思考や行動を鈍化させるまでにはある程度猶予があるだろうし、その間に信者たちはケンイチ達に襲いかかってくると考えられた。最も彼ら黒孔雀会の教え信者たちは皆同じく非暴力、実力行使排外という理念主義を謳い掲げて、これに則って活動をしている訳だろうが、それが敵対するものに対しての反撃となると話は別になる筈だった。彼らはケンイチ達を神聖な教会を穢せ陥れる悪魔と見做し本能的使命的に衝動に駆られて襲ってくる事だろう。そしてその時がケンイチの力の張り所で、ケンイチの役目はとにかく暴徒化する彼らの攻撃を止める事だった。それは彼らが空中の物質によって思考停止するまでのその間だけでいい。それが済んだ後はルイガが教会それと本部内の重要を秘める機密関部を小型の乱弾銃で破壊して周る。ケンイチはそれを彼から一通り聞いた上で、分かったと頷いた。  ルイガはそしてタイミングがあると言い、自分の指示があるまで動き出すなとケンイチに命じる。ケンイチはそのことが正直あまり面白くなかったが、この場においては彼の方が手練であり、ここは素直に従った方が安全だと納得して彼の指示を待った。  ルイガが中々指示を出さぬままケンイチが講教を続ける教壇の牧師を見ていると、牧師はこちらの作戦に勘づく様子など微塵もなく、鳥という動物がいかに神聖な生物かという事をのんべんだらりと信者たちに説いていた。その牧師の顔がふと、ケンイチの中で父と重なる瞬間があった。その途端に、ケンイチはとてつもない苛立ちを覚えた。ケンイチは何故か初対面にも関わらず目の前の牧師がが急に憎らしくなり、怒りが沸き上がり無性に腹が立っていた。あの男や教団が母を殺したも同然なのだ、とケンイチは思う。そして父の不倫相手の女を思い出して、あの浮気の女秘書もきっと教団の役員か何かだったのだろう。と自分の中の感情が抑えきれなくなるのを感じる。ケンイチはそんな中で思わずじっとしていられずに立ち上がりたくなったが、ルイガとの計画を脳に過らせて、それを堪えた。あの牧師の目の前でフライドチキンに齧り付いてやりたくなった。  しばらくして、牧師が講教を説くのを辞めて、福音の鐘が鳴ると信者たちは席を立ち始める。どうやら休憩時間の様だった。牧師も机上の片付けを始める。ケンイチ、とルイガはケンイチを呼ぶ。振り返ると彼はやるぞ、とケンイチに向かって言い二人は頷き合った。  ケンイチはすぐさまに教壇の前へと降りて行き、片付けをしている牧師の目の前に立つ。牧師は少し驚いた顔を見せたが、やあタテジさん、どうでしたか?さっきの見学の程はと牧師が言い終える前にケンイチは牧師の腹を思いきりに殴っていた。ぐはっという苦声と共に、牧師はよろめき、机上に腹を抑えたまま上半身を乗せて悶える。もう一度殴りを入れると、牧師は意識を失った。牧師が気絶したのを確かめると、ケンイチは教会を出ようとする信者たちを後方に眺める。彼らは事態の異変に気づき、ケンイチを一斉に見つめていた。そして牧師が倒れているのを見ると、捕まえろ、と誰かが声を張り上げた。あいつを捕まえろ今すぐ。  ケンイチはそうして一斉に自分に襲い掛かろうとしてくる信者たちを出迎えて、その数およそ数十人はいたが、ケンイチは恐れをなす事なく何人でも掛かってきやがれと言わんばかりの出立で彼らに反撃の刄を向けた。  ケンイチが次々と自分の身体に組み掛かる信者たちを殴打や蹴打等で薙ぎ倒し、気絶させていく中で信者たちの山の中に姿を潜めていたルイガが手から何かを放物線状に投下すると、ケンイチ、息を止めろと叫んだ。何事かと信者たちはケンイチに矢継ぎ早に腕や足をしがらみ付かせてなんとか彼の抵抗を捻じ伏せようと奮起する中、空中に投げ出された微かに光る小瓶を見やった。それは間もなく地面へと叩きつけられ、音を鳴らして破片を辺りに弾け飛ばした。中からは薄い煙幕のような色の無い物体が百雲(もくもく)と昇り始め、やがてそれは教会中を広く覆って行った。信者たちはしかし構わずケンイチへの暴行を加える。ケンイチは指示の通りに息を止めたまま彼らを変わらずに迎え撃ち続けた。信者たちはその数こそ多いものの、誰一人としてケンイチの力に及ぶ者はおらず、瞬く間に床や机と椅子の隙間などに突き飛ばされていった。ケンイチは男女老若問わず、誰一人として手加減はしなかった。中には鼻血を出したり身体を挫傷する者もあったが、ケンイチはそれらの一切に構わなかった。かといって殺す必要はなく気絶させるだけでいいため、それなりに加減はしていた。信者たちは続々とケンイチに襲いかかり、続々と気絶してゆく。ケンイチは彼らに暴行で反撃する度に、自分の中で暴行による悦楽や快感を覚えているのに気がついた。誰か人を殴るたびに興奮物質が彼のの身体中に走り流れて、更なる興奮を呼び起こす。ケンイチはただ自分の本能に身を任せて信者たちを殴り続けた。  それから少しして、つい直前まで暴れていた信者たちがやがておかしな動きを見せ始めるようになった。どうやらルイガの使用した物質が効き始めたらしいとケンイチはルイガの方を見て思った。彼はガスマスクをつけており、ケンイチに床に伏せるように指示をした。ケンイチは異様な動きに身を馳せる信者たちの波を掻い潜り、人の少ない場所で床に伏せて、できるだけ空中の空気を吸わないように口元を塞いで呼吸をした。  信者たちはそしてついに狂ったようにそれぞれが明らかに正常ではない行動を始めた。ある者は頭を抱えて呻き声を出し、ある者は自分の服を引っ張り、そこにボールペンや鉛筆で突き刺し穴を開けたり、ある者は二人組になって片方が教会の壁からもぎ取った小さな鳥の模型を片方の者にまるでキャッチボールの如く投げ渡し、受け取った片方の者は何故か鳥の鳴き真似のような声を甲高く響かせ始めていた。まるで誰も彼もが幻覚を見始めているようだった。ケンイチはその光景を遠目に眺め、自分の気まで狂いそうになった。なんなんだ、一体なんだというんだ。  ルイガが投げたのは、実は黒孔雀会が闇市場で流通させているドラッグ、バナン01を改良した物だった。それは02と彼は呼んでおり、その効果は01に含まれるような使用した者の体力や感情を増幅させるものではなく、逆に脱力へと向かわせて、身体から力や思考力を抜け落とさせるものとなっている為、それを吸い込んだ信者たちは徐々に気力を失い、無意識に踊ったり理性の欠けた運動をするなりして意識を遠のかせていった。教会は混乱を充しており、ケンイチは思わず目を瞑った。こんなものを見続けていたら、自分まで自分が誰なのか分からなくなってしまいそうだった。ケンイチの耳には、色んな音が聞こえてきた。変な歌を歌う声、大声で河野鳥の鳴き声をノイズの如き劈かせる物から、まるで意味のない終始混沌の誰かと誰かの会話。ねえあなた絵を買ってきてくださらない?わたし絵が欲しくてたまらないのよ絵、絵、絵 声、声、声声が聞こえて仕方ない とにかくすごい、原始的なすごい絵。 それともこのすごい声はその絵の何か残酷な運命性を時として表現している? DJトニカクさんはあの映画についてどう思われますかな? 正直なところ、私はあまり気に入りませんな。冒頭の羊の頭のレプリカと、最後らへんのとこで出てくるシュークリームがとにかくイコールになっていない。とにかくこれじゃまるで坂の上を転がり続ける鼈甲ボタンでも眺めていたほうがとにかくまだマシだってわけですよ。とにかくね、とにかくとにかく…  ケンイチはそんな会話を聞きいて、とうとう耳を塞いだ。やめてくれ、と頭の中で叫ぶ。やがて頭上から声がする。ケンイチ、起きろと呼んだのはルイガだった。彼はケンイチの身体を起こして教会の外へと出る。見やると彼の手には小型の散弾銃が用意されていた。ケンイチは教会の扉を出る間際に微かに鼻元を掠める仄かに甘い匂いを確かめた。それはまるでバナナのようなだけど熟れ切らない果実のような匂いがしていた。  廊下だろう大きな通路にに出ると、建物内には警報がジリリリリと鳴り響いている。何処からともなく新たに数十人の人間たちが姿を現した。それは警備員や神父や牧師のような正装を身に付けた物や経理や事務業のスーツ姿の者など色々だった。あいつらを捕まえろと誰かが声を引き攣らせて叫ぶ。ケンイチはルイガと共に彼らからの逃走を図った。するとルイガはケンイチの背後に回り込み、小型の散弾銃をその人混みに向かって発砲し始めた。弾丸は人々の頭や四肢や急所に当たり、人々が血を流して倒れていく。ケンイチにはもはや何が何だか分からなくなっていた。何が起きている、ルイガは一体何をやっているんだ、分からない、分からないけどとにかく逃げるしかない。ケンイチはルイガに構わずに出口へと駆け走り一人向かった。ルイガは小型銃を両手に持っていた。片方を人々に、片方を天井や壁や窓ガラスに向けて散弾を繰り返している。ガラスや照明の割れ崩れる音が響いて、人々の倒れゆく悲鳴が立ち篭める。ケンイチはようやく出口に足を踏み入れて、扉を思い切りに突き放し開けた。  ケンイチが飛び出すと、出口前の警備員二人が何事かと唖然とした状況を飲み込めない顔で呆然と荒れ狂う本部の中を覗いて立ち尽くす。ケンイチは走り続けて、丘を急いで下りていく為に速度を上げた。  そして警備員二人は訳がわからぬまま、ケンイチを追いかけようと足を踏み出したが、束の間に背後から銃で撃たれてその場に倒れた。本部の内側からは、血液の匂いと悲痛の叫び声とあらゆる物が破壊される音が混じり合い、荒れ果てたメロディを奏でていた。ルイガの姿はもうすでにケンイチには見えないが、彼は再び他の教会の室内を次々と回り、破壊し続けていった。  ケンイチはその粉砕されゆく背後の黒孔雀明聖会本部の姿を見る暇もなく、ただ丘下の街通りを無我夢中で走り駆け抜けて疾風となった。やがて丘の上の悲鳴や破壊音は聞こえなくなっていった。       *   *   *  ケンイチ達が引き金を弾き点火させたあの黒孔雀明聖会本拠部の倒壊事件が起こった日から約二年後、十九歳になったケンイチの元には三つのニュースが飛び入ってきた。一つは彼の父の事、そして二つ目はケンイチの当事件の共謀犯である岩柿ルイガについての物事、そして最後はその二つのニュースから数週間後、そして二件の事象を繋ぐ鍵となっていた黒孔雀会が解散、全滅に至った事についてだった。  父の方について述べると、ケンイチの父は数日前にようやく退院を終えて、今は実の家から遠く離れた山地の奥のよう場所で静かに暮らしているらしい。ケンイチはそれを風の噂で耳に聞いたが、特に何かを思ったり感じたりすることはなかった。もはや彼に対しての恨み辛みもほんの塵の如く、身体から抜け落ちる毛にもならない程度のことに落ち着いていた。何故ならケンイチはすでに彼に対しての復讐を半殺しと彼の勤め先である黒孔雀会の本部を完膚なきまでに叩き潰し崩落させたことで完了しており、更に父にこの先何かを突き付けるような事は全く関心がなかった。ケンイチにはこれ以上父に関わる必要はなく、父を他人として現在は二度と会うことはないだろう絶縁の道を歩き出した。元より、実の父親を半殺しになるまで殴打し、見るも無惨な酷体に晒した時点で、絶縁となるのは自然な流れであっただろうとも言えるかもしれないのだけど。  二つ目は、かの私立反カルト教団撲滅テロリストの男である岩柿ルイガについての事。彼も同じく父の退院とほぼ同時期のほんの数日前、死亡した。それは自害などではなく、誰かの手によって殺されたのだった。それは昨日の朝晩のニュース特番として報道され、ケンイチの目にそのまま飛び込んできた。ニュースによると三十五歳無職男性ことルイガはある地方の過激派教団のアジトに潜入した所、狙撃銃か猟用銃で身体を何箇所か撃たれて流血しているところを死亡後およそ二日程後に地元民に発見されたのだという。彼を殺害した教団の犯人物達はグループで逃亡しており、警察が彼らの要確保の為捜査を続けているという事だった。この事件についてはケンイチは少しだけ哀しんだ。幾ら他人とはいえ、一度はその力を互いに合わせた中であり、彼も無謀ではあったが家族の仇を討つべく果敢にカルト達に立ち向かった勇猛な男で、その姿勢はケンイチの目にも人知れず表彰されるべきものに映っていたのだった。  そしてケンイチにとって一番のニュースは最後の、全国各地域の黒孔雀会が全滅根絶という運命に終えたことだった。それを知ったのは、ルイガの死亡から数ヶ月ほど後のことだった。そして当教団が殲滅に至った理由を知り、ケンイチは微かにその理由に興味を持った。教団が滅されたのは、犬神組なる謎の組織の介入があっての事らしく、ケンイチは何日かをその組織の調査にむけて費やしたが、一向に情報の断片を掴めずにいて、やがて調べるのをやめた。それから何日か経つと、やがて組織への興味も薄れていった。とにかくこれで晴れてケンイチの憎悪の根源である鳥は焼き殺され、いや犬に喰い殺されたと言う方がいいだろうか、何者かによってその身を滅ぼされたわけであった。  ケンイチはそうして黒孔雀会の崩壊撤収を耳にした朝、自分でも驚く程の清々しい気持ちで外の散策に出掛けることができて、自分は生きていてよかったのだという思情を実感することができた。ケンイチは気分上場に歩く中、ふと蒼天の空を仰ぎ見て、サンディ俺はやってやったよと天国にきっといるだろうサンディを思い浮かべて心の中で呟いた。  散策が終わりに近づいた時、ケンイチはふと背後に怪しげな気配を感じて、背後を振り返るなり攻撃する体勢をとった。背後には銃を持った男が立っており、彼は殺し屋か若しくはどこかの極道のような見た目をしていて、その顔つきは鋭く冷たかった。ケンイチは即座に男の銃を持つ腕を掴み捻り上げて、男の手から銃を発砲前に振り落とした。男はぐわあっと呻き声を上げて、ケンイチの前に膝を崩した。息を荒げてケンイチの顔を見上げる男に向かって、ケンイチは拾った銃の発砲口を突きつけた。男の表情が恐怖を含んだものに変わる。ケンイチはそれを睨みつけて、二度と俺の前に現れるなよ、と引き金に指をかけた。するとそれに気付いた男は慌てふためくように何処かは逃げ去って行った。なんだ意気地なし野郎が、とケンイチは男の後ろ姿を呆れがちに見やり、手に掴んだ銃を眺めると、近くの河川に放り捨てた。  夕刻が近づく頃、ケンイチの前には再び男が現れた。彼はまた別の人物で、営業社員のような出立ちをしていた。誰だあんたはとケンイチが尋ねると、男は自らを実島と名乗り、職業は精神安定薬剤製品の訪問販売だと語った。そんな奴が何の用だとケンイチが聞くと実島は見てましたよ、さっきのあなたの華麗な暴漢捌き、とケンイチの顔をにやりと眺めた。どうやら実島はケンイチと殺し屋的男の一連を見ていたらしい。 「さっきのあなたは確かに、怒り冷徹その他の沸き立つ感情に堂々とその身を委ねていた」 「何のことだ?あんたは一体何を言っている」  そうケンイチが言い終える間も無く、実島は気が付けばケンイチの腕に一本の注射器を刺していた。何すんだ、とケンイチが実島の身体を突き飛ばすと、彼はにたり顔を変えないままにケンイチを見上げた。 「そんなあなたのような人にこそ、私としてはこれを使って欲しいのです。これは正直に言ってしまえばある種のドラッグです。ですが世間一般に言うそれらとは一線を画します。私はこれを使用して、確かに自身のわずか半径三メートル以内にいきり立った透明の羽を持って苺の花を咥えている鳥がいるのをこの目で見たんです。鳥は聖なる焔に包まれ徐々に炭化していき炭化した灰がやがて墨になり、その躰を染めてゆくのです。鳥は金の卵をやがて産み落としました。それは単なる金銭に代替できる代物ではなく、もっと推敲な位置に在る真性な幸福をもたらすだろう具現物質なのです。成金暮らしや美男美女との恋愛というのは、現実感のある幸福とは言えません。ほら、こうすればたちまち即効で肉体への物理的な幸福を得ることができるのですよ」  ケンイチには実島が何を言っているのか分からずに苛立ってならなかったが、おそらく彼はあの滅びた筈の黒孔雀会の元教団員なのではないかと勘付き、彼を何発か殴った。するといつの間にか実島はその場に気絶して倒れ、声を発さなくなった。ケンイチはその姿を一瞥し、腕に刺さったままの注射器を抜き捨てて帰り道を歩き直した。  自宅前の最寄りの駅に着く地下鉄の通る駅の前の通りに差し掛かったとき、ケンイチの身に果てしない動悸と興奮が訪れた。それは秒毎に激しく、高まっていきケンイチの身体を病のように熱した。ケンイチはそれを感じて思わず近くの建物の物陰に身を潜めて、胸に手を押し当てて身体を落ち着かせようとする。急にどうしたんだとケンイチは突如の事に混乱する。しかし症状は悪化するばかりで、一向に落ち着く様子はなかった。ケンイチはおそらくあの実島とかいう男が注射したドラッグが原因だろうとその時やっと理解した。あの男は一体何者なのか、いやそんなことは今どうでもいい。早くこの変な感じをどうにかしないと…  するといきなりケンイチは吐き気を催した。近くにゴミ箱があるのを見つけてその中に顔を突っ込む。しかし、嘔吐が形だけ繰り返すばかりで吐瀉物は一切逆流しなかった。ケンイチはそして嘔吐の中で頭の中に音楽が流れ出すのを感じた。それはケンイチの嫌っていたモーツァルトのピアノソナタ第十一番だった。ケンイチはその自己的解釈の記憶の中の奏曲に苦痛を覚え、身体中の湿疹の痒みに悶えた。湿疹は鳥肌のような疣で成り立ち、ケンイチの肌中を埋め尽くす。ケンイチはしばらくその痒みと身体の熱に苦しみ、地面に項垂れた。何かのアレルギーか?そうじゃなかったらなんだ。この酷く恐ろしい感覚は。  それから少しして空の陽が沈み日没が終える頃、ケンイチの脳内に流れるモーツァルトの曲が急に停止し、ケンイチの湿疹や身体の熱は治まり、吐き気も落ち着いた。それどころか今度は途方もない快感がケンイチの身体を駆け巡り、彼の感情を昂らせた。しかしその感情に任せてこれと言って何かをする気力も体力も今の彼にはなく、ケンイチはその快感をただ自分の中の妄想や欲望の幻に無理矢理に消化して再びその興奮が収まるのを待った。ケンイチは半年前くらいに街内の一角の繁雑な風貌のビデオレンタル店でアルバイトを始めていて、それは面白くもつまらなくもない仕事だったが、その傍に趣味として酒や煙草ギャンブルや女遊びに入り耽るようになっていた。今彼の身に訪れるその興奮は、ケンイチが身を投じるロックのウィスキーグラスやセブンスター、違法賭博のカジノ・クラブでのポーカーゲーム、非合法のキャバクラや売春風俗店によって得た快感のそれとどこか類似していて、ケンイチはそれらの自分の渡り歩く趣味を脳内に光景として張り巡らせて、この欲求を発散させる宛てもない街通りを駆け走った。数十メートルほど走り切ると、やがて興奮は収まり、ケンイチは一人人気の殆どない路地裏で息を上げて過呼吸になっていた。その途端に身体中の疲れがどっと押し寄せて、ケンイチは帰宅すべく乗車する地下鉄線の駅へと向かい戻った。  駅口の階段を重い足取りで降りていき、改札口を抜けようとした時、ケンイチの前で一人の人影がどうやら手に抱えた大荷物を誤って床にばら撒き落として転倒したのが目に入った。その人影は若い女で、ケンイチと同い年くらいに見えた。ケンイチは大丈夫か、と彼女に近寄って彼女の落とした荷物、それは何冊かの書籍類で一冊ずつ拾っては彼女の持つ手提げ袋に仕舞い直すように彼女に手渡した。すみません、ありがとうございます、と礼を言いながら慌てふためいて顔を上げた彼女はどこかケンイチの自身の母親に似ている雰囲気の顔つきをしているように見えて、ケンイチはふと彼女の表情に視線を留めていた。 「……あの、どうかしましたか?」  そんなケンイチを不思議そうに見つめ返して言う彼女の左目には、白いガーゼの眼帯が巻かれていた。

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 中学校生活が終わりに近づいた頃に、自宅の方から穏やかでない事態の空気が香ってきたのを嗅ぎつけて、ある朝ケンイチはかなり久々に自宅へと足を踏み入れた。すると事態は言葉を失うもので、両親の寝室で母が首吊り自殺をしていた。それは突然の出来事で、それまで一切の彼女の死を匂わせる様子など感じなかったのに、母は間違いなく首を縄紐に括り掛けて頭を項垂れ、乾き切った長い髪の毛と開いたままの口と瞼と瞳孔、唇から渇いた涎の跡を見るに耐えない姿で立ち竦ませていた。  ケンイチは流石に驚きを隠せずに、声の一つも発せないまま一体何が起こったのだろう、と取り敢えずこの狂荒とした状況を独り落ち着き冷静に考え理解してなんとか納得しようと試みたが、やはり厳しかった。ケンイチは母のその残酷さ極まる宙吊りの姿を全貌するなり即座に身体中から血の気が引き、堪えることのできない吐き気を催したのを覚えた。それはあの、小学生の終わり頃に自分の小遣いで購入し飼いはじめた愛すべき家族そのものといえたダックスフンドのサンディが憎き父に殺された日の生ぬるい空気の午後に覚えたあの強烈な吐き気と相違無かった。ケンイチはそして我慢できずにまた吐瀉物をその場に吐き溢した。それは思い切りに音を立ててベッド下に敷かれた高級なペルシア製糸品のカーペットの花と鳥の混じり合った模様の部分を汚して、粘液をその中に浸透させていった。只々嫌な匂いが部屋中には広がり、ケンイチはいつかにこの本能的な強い吐き気が治まるのを待ち続けながら、込み上げるもの吐き続けた。しばらくしてそれはようやく治まり、ケンイチは口中に胃酸液の苦味酸味が広がり干潮をつくっているのを感じながら、もう一度天井から吊り下がり浮かぶもはや微風では揺れさえしない程に硬直した母、それは紛れもなく実の母の姿で、その姿を直視した。先ほどのような吐き気こそしなかったものの、やはり驚きは収まらずにケンイチはしばらくそれからもその場に成す術なく蹲った。一瞬、この人間は自分の母ではなく、もしかすれば母に良く似ている何処か得体の知れない他県の地域からやってきた謎の人物なのではないかなどという愚かな偶考を張り巡らせたが、それは全く以って虚しい幻想に過ぎず、今の前で死んでいる彼女は確かにケンイチの母だった。母は廃物になったロボットですらしない固まった冷たい残酷な皺のある視線と表情を、見上げるケンイチに見下ろす形で向けていた。  現時点に家にはケンイチといつの間にか自殺を済ませた母の遺体二人だけが存在し、弟は学校それに父はいつも通り黒孔雀明聖学会の会行事に参加していて当然こんな残酷な状況を知る由もなかった。  その日の午後、夕暮れ入りの時ケンイチは現実逃避も兼ねて自分の今の家である離れた物置の中で体を震わせながら、部屋から持ち出してきたカセットプレーヤーで好きなクラシック楽曲とその他に何曲かのロックやダンス・ミュージックを聴き続けていた。全てが再生を終えても、また始めから掛け直し、何度も耳に流し入れた。それは夜になっても聴き続けるつもりで、例え夜が明けたとしても、自身のこの震えが止まるまで聴き続けるつもりだった。この耳慣れた音楽を聴いて、自身を安心させて、この直視し難い現実から少しでも意識を逸らして音楽によりその意識を掻き消すべくこのような行為を実行して繰り返していた。  やがて時刻は夜になり、習い事を終えた弟と父が殆ど同じタイミングで帰宅した。ケンイチはその様子を覗き見ることもなく、ただ物置の中で音楽を聴きながら、寝室に取り残された母の惨体を残したまま、彼らはどんな反応を果たしてするのだろうか、と冷汗を掻き、深呼吸しながら待ち続けた。自分が殺したとでも思われるのだろうか、だったらそれでも別にいいとケンイチは思った。もはやこの家での自分の存在意思や尊厳には興味は更々なく、冤罪で捕まったとしても何の未練もないとケンイチは胸に留めていた。明日なんか、永遠に来なければいいんだ。  しかし当然ケンイチに冤罪の容疑が掛かるわけもなく、母の死因は明らかな自殺によるものだと検察により事態は確証された。そしてその後日、ケンイチは何故母があの日突然に自殺を決行したのか、その理由がなんとなく把握できた気がした。それは確実ではないかも知れないが、それ以外の理由が見当たらないこともまた事実だった。その理由とは、父の浮気、不倫である。というと、ケンイチは父の浮気やら不倫をたった今知り得たように聞こえるかも知れないが、実はケンイチは父の不貞については以前からそれとなく嗅ぎつけていて、いつかそれを種に父を甚振ってやろうと思っていたのだった。  父はおそらく一年程前から、自身の秘書と嘯いて、それはもしかしたら本当かも知れないけど、ある若い女を家に何度か呼び出していたことがあり、その日数は月毎に増えていっていた。ケンイチや弟も、その女と父が母に隠れて自宅内のどっかで密会を夜な夜な行っているのを知っており、ケンイチは相も変わらず惨めな野郎だと思って冷めた視線を向けていただけで済ませていた。しかしそれが仇となりまさかこんな事態になるとはケンイチは予想していなく、その日々を思い返す度に後悔の念に明け暮れた。母もおそらく同じ頃から父の不倫を周知していただろう。母は初めのうちこそそんな父と何処の馬の骨とも知れない嫌味な女とのあれこれを無視していたものの、とうとう苦痛に耐えきれなくなり、自分のこの家での存在意義が確続できなくなってついに自ら死に至る事を選んだのだろう。そして母が死んだ今こそがその時だと思ったケンイチは、母の葬儀が取り行われる予定日の一週間前にそれでも飽きもせず嫌味秘書女と父が密会している場に突撃して、父をあろうことか半殺しにした。父は部屋に割り入ってきたケンイチに動揺し、なんだ急に、と女と共に優雅な時間を邪魔された不機嫌さとケンイチが見るからに内心穏やかな様子でない空気を纏っているのに不穏さを感じ取って、ケンイチを睨み返した。今大事な話をしている、くだらない用なら帰れ、と父が口にした瞬間、ケンイチはあっという間に父の片頬を思いきりに殴った。父は眼鏡を落として歯が折れたのか、口から血を吐き出してそれが密会部屋のテーブルやソファやはたまた隣に座る秘書女の白シャツの胸元に飛び散った。女は突然の出来事に絶句し、声にならない悲鳴をあげていた。眼鏡を手に取り起き上がろうとする父に向かってケンイチはすかさず再び殴打を行なった。殴る度に父が何かを言おうとするが、構わずケンイチはひたすらに彼を嬲り続ける。ま、待てっというもはや掠れて小声にすらならない父の声に耳を貸さずケンイチは徐々に鼻血や内出血に塗れていく父をこれでもかと、とにかく自身の気が済むまで殴り続けた。時には殴るのではなく、花瓶や変妙な名もなき絵画の飾られた煉瓦の壁に掴んだ父の頭を押し付けて衝突させるのを反芻させたり、床に彼を足裏でもって踏み躙り、背中から尻部やら首元などをその骨ごと打ち砕くかのように蹴りつけ、殴打した。女はその様子を最早その目に信じられないような阿鼻叫喚の様の顔つきで、小便でも漏らしそうな全身の震えで眺めていた。この部屋から抜け出す力さえ抜けた腰と共に失っているようにも思えた。かのようにケンイチの中では父にはまだ愛犬を殺された怨みが依然と晴れずに残ったままであり、それが更なるユウヤの怒気を買い呼び起こし、増幅し滾らせて致命傷という形で父に降り掛かった。  やがてケンイチによる父の制裁は終わり、父はその場に仰向けになり項垂れた。部屋中に彼の血飛沫や吐瀉物、涎や汗の嫌な臭いが充満して、何とも言葉にし難いような光景が映し出されていた。ケンイチは息を切らして高鳴る鼓動と共に、血まみれになって意識を失う寸前の父を見やった。両拳や顔には彼の血が民族紋様みたく付着している。  父は何も言わなかった。というかすでに何か言葉を発する気力すら残し持っていないようだった。しかし手の指先は、微かにぴくりと痙攣している。死んではないようだとケンイチはその点だけに安堵し、鼻水を擦りながら部屋の出口に歩いていく。ケンイチが部屋から出ようとした瞬間、父は喉の潰れたような掠れ声でおい、待てとケンイチを呼び止めた。ケンイチは振り返らずに歩を止める。 「…おま、え、はお前、は、い、いっ一家の、……は、はじさ、はじ、っ恥晒し、だっ…」  お前は一家の恥晒しだ、と父はそれだけを言い残して、死にかけの虫の音のような息をはあはあと血の味混じりに吐き出している。ケンイチは何も言わずに部屋を出てドアを閉め終える瞬間に、お前が言うんじゃねえよ、と父と横で床に尻餅をつく引き攣った怯え顔の秘書女の淫売達に向かって吐き捨てるとドアを思い切りに閉めて、家を出て行った。弟はとっくに勉強が手につかなくなっており、母が亡くなった事実を未だ受け入れられないままに、部屋に引きこもって虚に座った回転式の丸椅子の上で身体を回転させていた。           *  数日後、父は搬送先の病院で治療を受けて入院を余儀なくしていおり、ケンイチはある精神病棟に入棟させられた。父の浮気相手である若い秘書女はケンイチによる狂気乱散な父を甚振るあの日の光景に恐れ慄いたのか、事件の後日すぐに荻野家を飛び出して逃げて消え去って行った。残された弟は、他県に住む同じく荻野家の親戚の家へと預けられた。  ケンイチは病棟に入ってすぐさまに取り調べ及び精神鑑定を受けた。それらの結果、ケンイチは正しく精神的に異常を来した謂わば精神的障害者と判断されて、警察所には連行されず、当病棟での治療検体として入院を強制された。ケンイチにとってはそれは全く有利なことだった。このまま我に任せて気狂いの振りを続ければ、いつか晴れて自由の身になれるだろうとケンイチは内心嬉々としていた。それに例え真正な精神異常でないことがばれても、ケンイチはまだ僅か十五歳と高校にすら入学していない年齢であり、少年法適用によって刑務所に放り込まれることはないだろうとその点でもしっかりと状況をその手に転がしていた。  しかしケンイチは当然、真正な精神異常者としての振る舞いを続けた。その方が何かと楽だし、下手なことを考えないで済む。ただ変な鳥の鳴き声や、壊れたラジオのようなピーピーガーガーというような喋り方を続ければいいだけの事なのだ。この上なく簡単なことだった。  また周りにはそんな者達ばかりで、ケンイチは彼らの世間からは一概に門の外という扱いを受けている俗に言うフリークスやパラノイア(偏執狂)達にたまに話しかけ、その人間離れした何の言語とも掴めぬ、または支離滅裂この上ないそれぞれの思い思いの思想や欲望、この病棟を抜け出してやりたい事などを一心不乱に思い思いに喋り散らかす彼らの異様で滑稽な姿を不謹慎に楽しんでいた。  例えばケンイチが気に入っていたあるフリークスは、その名をハイトと呼ばれている二十歳の男で、病棟患者番号五○三で管理されていた人間だった。彼はとにかく話し言葉の折々に、必ず下品で乱暴な言葉遣いを入れるのだった。それは単なる口癖ではなく、彼はきっとそれが好きなんだと捉えられるようにやたらとケンイチやその他の患者達と話す時にもその口調を繰り返した。そういう点で見れば、彼は病棟の中でも割りかし軽症な比較的世間における被害が少ない人物といえた。ケンイチはハイトと一日一時間ほど会話をする。従業員達の昼休憩を兼ねた患者達のリハビリそしてレクリエーションと題して毎日行われる時間帯に、ケンイチとハイトはレクリエーションルームで質素な患者服のまま話をした。 「なあ、ハイトは好きなやつとか居ないのか?」 「え、好きなやつだって?畜生めが、あ、いや僕にはさ、そのなんていうか、陰菌田虫の阿保。そういう、誰かを好きになるなんてこと、あんまりよくわかんなくてさ。首絞めハロウィン、乱交パーティっ!ケンイチは、好きなやつとかいるのか?」  そうだな、とケンイチはちらりとルームの入り口のドアの前で昼食のコーヒーとマフィンを運ぶある一人の女の方を向いた。まあ、アイツとかかなとケンイチはハイトに彼女を見せやる。 「え、アイツってもしかして、くたばれ馬鹿面っ、彼女のことか?」  ああそうだ、とケンイチは女の方を見て頷く。その女は名前をアリサといって、この世に吸血鬼がいると信じて止まない、パラノイア障害天性症の少女だった。歳はケンイチと同い年か少し上の十六から十八歳の間に見える容姿だった。 「彼女のどこが好きなんだ?噛み千切りインポデンツ」 「そうだな、まあ、どこがってよりかは、単にアイツが若い女だからかなあ、ほら、他にあまり居ないだろ?ここには若い女なんてさ」  ケンイチはそれらしくハイトに向かって、自分がアリサの裸体を夜毎妄想し高めて、その映像をオカズにオナニーをしていることや、彼女に毎日気が狂ったように愛を込めた手紙を送っていることを話し、ハイトはそれをすっかり信じ切ったようだった。 「なあ、せっかくならアイツも呼ぼうぜ。な、いいだろ」 「え、えっで、でも…」  いいから、その方が楽しいだろとケンイチは女慣れしてないだろうハイトのおどおどしさをよそにおーい、とアリサを自分達のテーブルに招いた。アリサはケンイチ達に気がつくと、特に何の顔つきも浮かべずに、不思議そうに近づいてきた。 「私に何か用?」  アリサはそばかすの残ったあどけない表情で手に持ったトレーを二人のテーブルの上に置く。彼女はいやに大人びていて、ハイトは自分が彼女より年上にも関わらずに身を縮こまらせていた。 「こいつハイトってんだけど、お前のことを紹介してやろうって思ってさ」  アリサはそんなケンイチのことをきょとんと一体何事と思い一目見たが、なるほど、とアリサは何やら面白そうなことが起きてると事態を彼女なりに察して、ケンイチの横に座るなり恋人らしく振る舞い始めた。 「…そうよ、私はケンイチと付き合ってるの。アリサっていうわ。番号は四○一、よろしくねハイト」  そういってハイトに手を出すアリサを、ケンイチは止めた。おい、他の男にに触るんじゃない、ハイトまでお前の虜になったらどうすんだ。あらごめんなさいと手を引っ込めるアリサに、ハイトは動揺した。 「あの、それでふたりは本当に付き合ってるの?クソ垂れビッチ」  バイトがそう言うと、アリサとケンイチは互いに見つめ合い、仲良く肩を抱き合った。恋人同士特有の、満面の笑みを浮かべて。 「そうよ、私と彼は毎晩、逆さ十字架のある私の棲家で、この世の真理と吸血鬼第八七七二世マドルォーア様についての関係、そしてマドルォーア様の復活の儀式について深く深くそれは深く語り合ってるの…」  ねえケンイチ、とアリサはケンイチに目配せする。ああ、そうだなとケンイチはそんな彼女の立ち振る舞いがもはや面倒で仕方がなかったが、休憩もあと少しで終わりだと時計を見やりながらその後もハイトを揶揄うべく幾つかの架空の恋人同士によるトークを披露した。こいつ、いくら手紙をやっても、一回と読みやしないんだぜ、とケンイチはアリサに言い、アンタの字って、中々どうして癖が強くて、読めないんだからとアリサはコーヒーを飲む。こいつ恥ずかしがり屋だからな、とケンイチはそんな話を真面目に相槌を打ちながら聞き留めるハイトがいつの間にか可愛くて仕方がなくなり、ついにはハイトとも腕を組み合った。アンタって、男でもいけるんだっけ?とアリサはふざけるように笑ったが、ケンイチはああそうだ、とバイトを見て笑った。ハイトはそんなケンイチを失笑した目つきで見やり、僕は遠慮するよとケンイチの腕を引き剥がした。  時間になり昼休憩とレクリエーションが終わり、各々の患者達がそれぞれの治療兼療養室に向かい戻る頃、ねえ、とアリサはケンイチに声を掛けた。なんだアリサ、とケンイチが尋ねると、大人っぽくどこか悪魔味を帯びた表情でアリサは、今夜空いてる?とケンイチに囁いた。  アリサがケンイチを誘ったのは、彼とセックスをする為だった。時は夜、ケンイチは療養室を離れた人気の無いある一角の部屋で、それはアリサの療養室だった、ケンイチとアリサは一夜を共にした。アリサによればそれはセックスなどという低俗極まれりな物ではなく、かの吸血鬼マドルォーアを現世に再臨させるべく儀式の一環として実施される神聖な交尾ということらしかったが、ケンイチにはどうでも良かった。ケンイチはアリサに連れられ彼女の悪趣味以外に捉えられない、数々の吸血鬼に纏わる金属の異形の用具やオカルト雑誌やその類の新聞記事、吸血鬼の正装を模したデザインの衣服等々一見すると寒気がして仕方がないインテリアの中にある、カーテンで仕切られた怪しげなダークチェリーのベッドの上で互いに衣服を脱ぎ捨て、キスや愛撫を繰り返しながら性交を始めた。ケンイチにとってのセックスは、人生で二度目の経験で、初めは十四歳の頃にクラスの早熟な女子と交わしたものだったが、なにしろ二人とも慣れておらず勝手が分からない為に射精もせずに早くに終わってしまった。しかし今夜のアリサとのそれは、前の経験もあってより濃厚で本格的な行為に馳せ参じていられるようにケンイチには思えた。やがて絶頂が近づくと、アリサは変な言葉を発し始めた。それは多分喘ぎのような物なのだろうが、訳の分からない呪文のような感じで、おお我らが神聖なる吸血鬼一族の歴世よ、今ここにその魂を宿り訪れられんことを祈りなどと声をあげては、体を揺らす。ケンイチはそしてうあっという声と共に射精をすべく体勢に入ると、アリサはいきなり彼の身体に噛みついた。その痛みと共にケンイチは射清する。ケンイチがアリサを殴り飛ばすと、何処か満足そうなアリサは床に転がったまま、ケンイチの顔をにやりと眺めていた。何すんだとケンイチが怒鳴ると、最後の仕上げがまだなのよ、と気づけばアリサは片手にアイスピックのような刃物を持っていて、起き上がるとケンイチの方にそれを向けた。さあ、アンタの血を頂戴、とアリサが笑みながら向かってくるのを見て戦慄したケンイチは即座に彼女の療養室を抜け出して走った。なんてやつだ、とんでもねえ変態に付き合っちまった。  次の日から、ケンイチはアリサに付き纏われるようになった。ねえ、ケンイチ今夜は空いてないの?早く終わらせなきゃ、マドルォーア卿が復活できないじゃない、と彼女はケンイチに擦り寄る。知らねえよ、そんなの勝手に一人でやっとけとケンイチが突き放しても、アリサはアンタが誘ってきたんじゃないの、恋人とか言ってさ、それなのになんて冷たいの?私は諦めないわ、アンタがその血を分けてくれるまで、ね。アリサはそんな風にやはり悪魔的不気味に尽きる笑顔でケンイチを一目眺め回すと、どこかへ消えて行った。不味いな、とケンイチは溜め息を深く吐いた。とんでもない奴と関わっちまった。どうしたの?溜め息なんか吐いてとハイトがケンイチに尋ねる。 「やっぱりあの彼女、とんでもないのだったんだろ?只今脳髄爆破を検証、放映しております、僕の勘が当たったんだよ」  うるさいな、今黙ってろよとケンイチはハイトを邪険にする。何だよ、とハイトが面白くなさそうに水を飲む。 「今、俺はどうやってこの病棟を抜け出すか、それを考えている」  ケンイチがそう言うと、そりゃあ無理だよ、とハイトがあっけらかんと言う。え、それはどういうことだ?ケンイチがびくりとして尋ねる。 「だって、ここはもう社会復帰がほとんど無理と言ってもいいくらいの奴らが収監されてる所なんだから。治療を受けてるっていっても、ここで暴れ出さないようにする為だけの安定剤を打たれてるだけで、乳首切断ゲーム素晴らしい、実際は完治も検討されてないし、社会にとっては僕達をここに閉じ込めて生活させるのが目的なんだから。僕達はあれ?言ってなかったっけ。君や僕達は、一生ここで暮らすんだよ、ボケナス」  何だと?とケンイチが思わず声を荒げる。 「だって、お前はここにいるけど、何か犯罪をした訳じゃないだろ?」  ケンイチがそう言うと、ハイトは僕も実は一度だけやっちゃったんだ、と少し照れながら言う。やったって何をだ、とケンイチが言うと、ハイトは恥ずかしそうに自分の凶暴な犯罪歴を打ち明ける。それは相当な物事で、ケンイチは言葉を失った。 「でもまあ、そんな僕らでもここにいれば生きていけるんだし、喉奥破壊イラマドリル今となっては何の苦もないけどね。アリサだって、今は大人しくしてるんだろうし」  ケンイチはそれを聞いて、やはりここから一刻も早く脱出せねば、と決心した。こんな奴らとこの先一生を共にするだなんて、たまったもんじゃない。特に、ここには自分につきまとうアリサとかいう気狂い女が待ち構えているんだ。  ケンイチはその日から周りの患者達と関わるのをやめて、ひたすらに病棟からの脱出を思案した。しかし一向に良い考えは浮かばず、ケンイチは頭を抱えた。ここは内外共に厳重なセキュリティが組まれ、ケンイチ一人の力での脱出は不可能に思えた。いやだ、早く出してくれ、俺をここから出してくれ。  そんな考え事にすっかり疲れて時刻は夕食の頃を迎える。ケンイチの元にはいつも通りの治療薬の錠剤と小麦やその他炭水化物の固形物やサラダ、そして飲み物にコーンスープが用意された。ケンイチはとにかくそれらを食べて、ひとまず落ち着くことにした。  だが、ケンイチが食事を進める中、急に彼の体には異変が起こった。ケンイチは突然コーンスープを飲む手を震わせて、口の中身を吹き出した。スプーンを落として、椅子から崩れ落ちる。胸に動悸が走り、呼吸が苦しくなる。息ができなくなった。かはかはっという掠れた音が鳴る。汗が吹き出して、瞳孔が開きケンイチは床に項垂れる。  俺は死ぬのか?こんなところで、俺は死んでしまうのか?薄れゆく意識の中で、ケンイチはそんなことを考えた。俺は、こんなところで死ぬべき人間じゃない、こんな場所で絶命して偏屈な死に至るのは、嫌だ。そんなことを発声できない口の動きでもがもがと言葉にしようとする。  その様子を見た医療従事者がどうしたんですか、とケンイチの身体を起こす。ケンイチはすぐさまに病棟を抜けた隣の緊急処置室へと運ばれる。ケンイチはそして様々な治療が施された。最新呼吸器の作動使用、特殊な心臓マッサージ、それらの作業が功をなしてか、ケンイチは一時は気を失いかけていたものの、なんとか一命を取り留めた。事の至った原因は分からなかったが、ケンイチはとりあえず自分がまだ生きている事に安堵し、戻った意識からまた眠りへと就いた。  ケンイチは目を覚ますと、見覚えのない病室に横たわっていた。周りを見やると、ベッドの横には一人の中年の医療従事の男が座っている。ようやく目が覚めたか、と男はケンイチを見て素っ気なく静かに言う。 「ここは、何処なんだ?一体ここは何処なんだよ」  ケンイチが男に声を上げると、君の墓場だよ、と彼は冷たい口調で言った。なんだって?ケンイチが言う。 「ここは、君のような危険分子達が収容される、新型のハザドミュータンツ・プリズン(災害異形遺伝子収容所)なんだ。君達はここで我々の手によってその力を封じ込められて、大人しく暮らしていく運命なんだ。何故かって?それは君のような人間が社会にのうのうと蔓延ってしまっていては、この世の未来御先真っ暗まっしぐらだからね。だから私達はここで君のような特異的な悪魔遺伝子を持つ異常者達を観察、研究して報告書やら資料やらをつくっているんだ」  男はそう言うと、それじゃ私はここでとケンイチの居る病室を出て行こうとした。おい待て、とケンイチは彼を呼び止める。男は気怠そうな目つきでケンイチを振り返る。 「じゃあ、なんで俺がそんな気狂い共のいるようなところにとじこめられなきゃならねえんだよ。おかしいだろうが、俺は至ってまともな人間だぞ」 「君がまともな人間?はっ、笑い話もいいところだ。いいかい、君は自分の父親を殺しかけた。それも、根拠のない理由を自信満々に掲げてね、違うかい?自分のやったことを振り返ってみればわかることだ」  男のその言葉にすっかり血が滾ったケンイチは馬鹿野郎、と部屋中に振動が響き渡る声で叫んだ。 「アイツのせいで母さんは死んだんだ。アイツとその連れのきったねえ淫売の阿保面豚性病菌の女のせいでな。俺はそれを成敗してやっただけだ」 「ほらまたそんな汚い言葉を使う。それではあのハイトとか言う男と同じだ。彼も危険人物だからね。君は一遇にも命が助かったんだ。それを喜びに大人しく眠っていなさい。そんなことばかり考えていると、また疲れてしまうよ」  ケンイチはそんなあくまで冷静さを崩さぬ男の態度にいよいよ腑が煮え繰り返ったのか、ぬわあっとベッドから思い切りに跳ね起き上がると、ベッドの横にあるスタンドライトを両手で掴み上げた。何だ、何をする、と男が驚いたようにケンイチを凝視する。何をしようとしているんだ、君は、とケンイチに近づく。 「俺は誰の研究材料にもならねえし、誰の飼い犬にもならねえ。俺はただ自分の正しいと思った自由の為に、こんなところで死ぬわけにはいかねえんだ。分かったか馬鹿面が」  ケンイチはそう吐き捨てると、握りしめたスタンドライトで病室の窓ガラスを砕き破り、窓枠から飛び降りる体勢をつくった。 「よせ、やめなさいっ」 「あばよ、変畜燐ども」  ケンイチはそして、その窓枠から地上三階ほどもある病室を飛び降りた。

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 ある日の夕方の日没前、ケンイチは荻野家の広い庭地に特設されたバスケットゴールにシュート練習を兼ねてのボール遊びをしていた。空は暗と明橙のグラデーションが曖昧な層になっていて、その中を行く鴉や鴎たちもどこか羽を重そうに広げて、気怠そうな鳴き声をあげていた。  およそ百三十回目のゴールシュートが惜しくも網を掠って、ボールが草茂みに弾んで転げていった時、玄関の方からケンイチ、夕飯の時間だから戻って来なさいと母のケンイチを誘い呼ぶ声が聞こえた。ケンイチは特に返事をせずに、茂みのボールを家裏の物置に放り投げて片付けると玄関に向かい家の中へと入った。  モスブラウンの漆喰壁で造られた廊下は長く広く、毎日その景色を眺めてリビングやその他の部屋に向かう為歩いていくのが、ケンイチには億劫になっていた。なんで金を持った人間ってのは、すぐに大型のロビーやマンションみたいな一戸建てを買い上げて住み出すようになるんだろう。家なんて、風呂とトイレと六畳か八畳一間、それと二人くらい入れるスペースのキッチンがあれば充分に暮らしていけるのにとケンイチはいつもそんなことを考えては、靴を着脱しながら溜め息を吐いていた。全く嫌なのは、自分の親がその類の人間であることだった。  ケンイチは手を洗うと、すぐにリビングへと向かう。リビングに入るとひと先目につくのは、縦長のアンティーク趣味の木造テーブルとその色調に合わせた風体の何脚かの椅子を越えた向かいの壁にある、黒い孔雀の絵画だった。ケンイチはもはや何も思わなくなった。かつては、なんでこの家にはこんな変な絵画が飾られているんだろなんて思い、それが何か気味の悪い当家の思想を暗示しているのをまるで全て察したようにケンイチはその絵を反射的本能的に毛嫌いしていたものだったのが、今やそれも見慣れた一つのインテリアに過ぎず、幾ら考え込んでも仕方のないことだった。そしてその気味の悪い思想という表現は粗方間違ってはおらず、それどころかまさにそういう言葉が合致している真当な物に思えた。  ケンイチは視線をただ自分の歩く先にだけ向けて、極めて規則的に繰り返す日常に他ならぬ動きで、数ある椅子の一つに座った。テーブルの上には既に沢山の大皿の料理が用意されている。手前からビーフストロガノフ用の具材、イベリコ豚のステーキ、オマール海老のオリーブオイル仕立てのソテー、ラクレットチーズのソースのかかったシーザーサラダ等、非常に豪華な食卓風景といえた。テーブルの中央にある年季の入った燭台がそれらを暖かく高貴な蝋燭の火で照らす。ケンイチはまた牛肉と豚肉の料理か、とそれら目の前の肉料理を眺めて、心の中で落胆を覚える。ケンイチはこの毎晩と振る舞われる数々の品物に、既に飽き飽きしていた。荻野家の食卓には一切の鶏肉料理が並ぶことはなかった。  少しして父が、新聞紙と眼鏡の度数調整を小文字用にセットした取り外し型レンズを持ってケンイチの左斜め前に座り込んだ。父は頭髪が薄く、小さな丸眼鏡の奥には、目蓋の重いいつも眠そうな目つきが控えている低身長でも高身長でもない平均的と言える体つきで、何年か前まで独自の護身術教室の講師を勤めていた四十五を今年で迎える男だった。ケンイチはそんな父の姿を訝しげに一蹴し、すぐに視線を手元に逸らす。父は新聞を広げて読んでいた。  しばらくして、料理着を脱いだ母と自室での勉強を終えた弟がリビングに入って来る。それぞれケンイチと父の隣に座ると、荻野家の四人は手を合わせて食事の儀礼を行なった。片方の握った手を片方の掌で覆い目を十秒ほど瞑るというもので、この儀礼はケンイチが物心ついた時にはとっくに強要され、行われているものだった。そうして儀礼が終えると、四人はいただきますと言って各々丁度良い時刻の夕飯に手を伸ばした。  静かに食器にそれぞれの手が伸ばされる中で、ケンイチはつまらなそうにイベリコ豚のポークステーキに手を伸ばした。皿に一片を取り分けると、仕方なさそうにフォークで刺して口に運んだ。噛み応えのない食感と胸焼けする程の脂が口の中を占める。ケンイチはそんな中今日も、鶏肉の料理が食べたいのにな、と思っていた。もう豚や牛や魚やそんなのはいいから、とにかく鶏肉が食べたい。というか、食べてみたい、と思った。ケンイチは生まれてこの方鶏肉を食べたことが一度もなかった、というのは過言で、実は何度か弟や両親に隠れて他所の店で買い食いしていたことがあったのだが、いつかの日に学校の同級生に告発されて厳重な処罰を受けて以来、なんとなく食べ辛くなってしまっていた。自宅内では勿論、学校内ですら禁止されている鶏肉の食事をケンイチはある種カリギュラチックな面もありつつ、望んでいた。そしてまた早くまた鶏肉が食べたいな、と思い続けるに至った。食べたい、とは言っても何でも良くはなく、それは例えばローストターキーや合鴨のステーキ等ではなく、唐揚げやフライドチキンや焼き鳥といった、この家では貧相な物と捉えられている料理達に、ケンイチは憧れた。いつか食べたフライドチキンのチェーン店の股肉の味が忘れられなかった。 「どうだトモヒロ、中学校の入学試験の勉強の調子は」  父が弟に目をやって聞くと、弟はうん、順調だよ、とコンソメスープを飲みながら答える。そうか、それは良かったと父はビーフストロガノフの具材を乗せたバゲットを一口運んだ。 「ケンイチ」  父がケンイチを見るなりそんな風に言う。なんだよ、とケンイチはバゲットをスープに入れて浸したり出したりしている手を止める。 「そう言うふうにふざけないで、もっと綺麗に食べなさい」  そんな父の叱責を受けて、ケンイチはちっ、とあからさまな舌打ちを起こした。ナイフやフォークを空いた皿に転がして、面白く無さそうにバゲットをくちゃくちゃと音を立てて咀嚼する。 「親に向かって舌打ちなんてするじゃない」  父がそういってケンイチを一目睨むと、母もそれに倣ってそうよ、そんな態度社会じゃ通用しないのよ、と生意気で反抗的なケンイチを何故か不憫そうに見やって言う。少しはトモヒロを見習いなさいと母はもう無くなりそうなポークステーキの皿を退ける。はいはい、とケンイチは両親の言葉を気に入らない様子で受け流す。横目で見た弟は、あいも変わらずに馬鹿真面目な礼儀正しさでナイフとフォークを綺麗に使い分けながら、小学生とは思えないおとしやかさで食事を続けている。ったく、そんなことして何の役に立つんだか、とケンイチはこの毎晩訪れる悪い空気に身を覆われて、今夜も自宅内でありながら肩身の狭い食事を淡々と早く終えるべく味を楽しむ暇も見せずにただ口に放り込み詰めて次々飲み込んでいった。  そんなある意味で苦痛の夕飯を終えたケンイチはすぐに自分の部屋へと戻った。父はまだリビングに残り、新聞と食後の紅茶を一人静かに嗜んでいる。ケンイチはそれがどうも苛立たしくてならなかった。それが彼がリビングに残りたくない一つの理由ではあったが、それとはもう一つの大きな要因が、ケンイチを食事以外のリビングに居座る時間の経過を敬遠させていた。それは、食事の時間以外に父が部屋で常時掛け流している音楽だった。  父は朝、昼、晩の食事以外の時間には、決まって常に音楽を部屋に流し続けていた。クラシック音楽だった。父はクラシック音楽が好きで、それが一番の精神統一に繋がっているのだと断定していた。特に彼が好きなのは、モーツァルトとシューベルトだった。それ以外の音楽家の曲も掛けられてはいたが、主に流れているのはその二方の楽曲が大多数だった。それが、ケンイチが食事以外の時間にリビングを利用しない、最大の理由だった。何故かというと、ケンイチはそういったクラシック音楽が嫌いだったからである。といってもそれには語弊があり、ケンイチはクラシック自体は嫌いではなく、それどころか好きな系統の音楽だった。しかし、中でも受け付けないものがあった。それは正に父の静聴しているモーツァルトとシューベルトの作品群だった。彼らの中でも一聴できるものがあるにはあるのだけど、彼らのほとんどの作品が、ケンイチには受けつけなかった。というのは、ケンイチは彼らの曲を耳にすると、体に異変を起こすからである。それはかなりのもので、例えばモーツァルトの曲であるアイネ・クライネ・ナハトムジークなんかを聴くと、耳が瞬時に痛みを訴えるし、同じくモーツァルトのピアノソナタ第十一番なんかを聴けば、腕や脚中にまるで湿疹のような痒みを伴う鳥肌が一斉にして浮き立つのである。そして何よりケンイチが嫌っていたものが、シューベルトの代表作である魔王だった。ケンイチはかつて小学校の頃、音楽の授業のグループ合唱で課題曲に魔王を選んで歌ったことがあった。しかしその時、クラスメイトの中で唯一ケンイチだけが途端に吐き気を催し、体調不良を訴えて保健室に運ばれたのだった。それからというもの、ケンイチは自宅やその他外に出かけた際に魔王を耳にすると、嫌な胸焼けや吐き気を覚えるようになった。何故かは自身にも全くとして分からなかったし、今でもなお分からない。もしかすると、あの魔王や息子や父の胸底にのしかかり重く響く中音域や高音域や低音域の歌声が入り交じるテノールやらバリトンやらバスの用いられた当曲の恐怖というテーマのその音が、ケンイチの耳に酷く不快な潜在的な何かを呼び起こす力を持ち得ているからなのかもしれない、とケンイチは最近になって考察した。  それとケンイチは、自分がそんな風にモーツァルトとシューベルトを嫌うのは、きっと父を憎んでいることからの、彼と同じ音楽作品など聴いていられるかという様な天邪鬼や反抗心から来ている症状、もしくは病気なのではないかとも考えたことがあったが、すぐにそれは全く無意味な考察だと結論付けるとこができた。何故ならケンイチはそもそも父と同じくクラシック全般が好きだったし、嫌いなのはモーツァルトとシューベルトの作品達に限ってのことであり、それに一番苦手な魔王だって、父への人間的抵抗感を確固する前の時代に耳にして不快さを覚えたという経験がある訳で、どちらの理由さえも父への反発によって二人の楽曲に生理的嫌悪を発症させたという結論には至らないことだったからだ。よって父の存在のせいでケンイチが二人の作品を聴けないという説は完全ではないかも知れないが殆どの割合で否定、不成立、因果の解消に繋げ至らしめた。  だけどそれにしてもケンイチの嫌う父の好きなクラシック音楽と、ケンイチが本能的に忌み嫌うクラシックがそんなにも偶然奇妙に重なるものなのだろうか、とケンイチ自体も不思議でしょうがない様に考えたのだけど、すぐにそれは時間の無駄だと思考を停止させた。その答えは、いくら待ってもいくら年月が経っても分かりやしないのだから。  因みにケンイチの気に入っているクラシック音楽家も居て、それはチャイコフスキーだった。その次に好きなのはブラームスだったが、それよりも圧倒的に前者の作品をケンイチは愛聴していた。どのくらい愛聴していたかというと、ケンイチの自室には応客用の部屋にあるグランドピアノとは別に、それよりも一回りコンパクトな型体のピアノがあり、そのピアノで白鳥の湖を聴覚で旋律を記憶して自力で弾ける様になったくらいの気に入り具合だった。ケンイチは今夜もその部屋にあるピアノでいつもの如くチャイコフスキーの白鳥の湖の一節やブラームスのハンガリー舞曲を半分を原曲通りに弾いて半分を思うがままに弾いて、気が済んだ所で一気に両手を離して、部屋の明かりをつけたままベッドに倒れ込んで「明日なんか来なきゃいいのに」と呟いて目を瞑った。           *  ケンイチは小学校六年生の時、それは折れた電柱が自宅沿いの住宅路から撤去された夏に、近くのペットショップに犬を買いに行った。犬種はダックスフンドで、黒い毛色の主な体に、顔や手足の先や首元にベージュのラインが入っている犬だった。値段は大体三万円前後ほどで、それは血統付きの犬にしてはずいぶんと破格な額値といえたのだが、その理由は当のダックスフンドは売れ残りの末の売り切り処分という扱いを受けていたことにあった。  ケンイチはそのダックスフンドを殆ど一目惚れの様な形で購入した。ダックスフンドはペットショップのケースからケンイチのことを何故か不思議に愛くるしい視線と表情で見つめていたみたいに思えた。その目つきはどこか変に切な気で、ケンイチの心を掴んで離さなかった。ケンイチはそんな犬の様子に惑わされたのと、値段が圧倒的で自分の手持ちの小遣いもそれないにあって充分に買える金額だったため、即座にダックスを当日に購入した。  家に帰る途中で腕に抱いて持ち上げてみると、ダックスは若々しさがあまりない感じがして、常にどこか眠そうだった。もしかすると、もう歳なのかもしれないな、とケンイチは犬の少し気怠そうな姿勢を見て思った。それがきっと今日まで売れ残った要因の一つでもあるのだろう。ペットを希望する人は皆、若くて可愛らしげのある方を選ぶ。しかしケンイチは元々から犬が好きだったのもあって、それほど犬種や犬の年齢にこだわりはなく、犬なら大体どんなものでも可愛がることができた。  ケンイチはそのダックスフンドの犬に、サンディという名前を付けた。犬は雄だったが、その名前が相応しくて良く合っていると感じたので、この呼び名に決定した。名前を付けた途端に、サンディへの愛着が急激に湧き上がった。  ケンイチはサンディを毎日散歩に連れてゆき、彼の好きな餌をしっかりと与えて、彼を来る日も可愛がった。遊び相手にもなった。サンディはボール遊びがとにかく好きで、ケンイチは学校帰りだろうと彼に構いホール遊びを繰り返した。少しいつも疲れ気味なケンイチと対照的にサンディは毎度の如く元気に駆け走っていた。まるでその姿は彼の歳を感じさせることなく、ボールを受け噛み咥えると、即座にケンイチの元に戻ってまたすぐに投球を求めた。その行為日課や彼の舌を出したり尻尾を振ったりする愛嬌表現が堪らなくて、学校に特にこれといった仲のいい友達もいなかったケンイチは、サンディを唯一の心の拠り所にしていた。当時は暗く客観的に見てもやはり陰鬱気味で引きこもり予備軍とも言えたケンイチにとって、サンディは彼の良心であり生き甲斐と言っても過言ではなく、生きる希望そのものだった。だからケンイチはとにかくそんな宝物そのものである三万円という形ある金額などでは計れない彼の命をとにかく大切に尊重した。  しかしそのサンディが家にやってきてから約三ヶ月、サンディは刹那としてその命を絶った。正しくは、絶たれたといった方が合っている。彼は惨めに殺されていた。死体はまるで周囲に見せつけるかの様に裏庭のとにかく緑の草花の映える、日光の良く当たる日陰でない芝生に存在し、血液を腹部から溶けかけの絵の具のように流したまま転げ寝むっていた。彼は目を見開いたまま、ただそこに無機質に存在していた。動くことはなかった、それはそのはずに当たり前で彼は二度と動き出すといったことはあるわけがなかった何故なら彼は今そこで死んでいるから。  ケンイチはその彼の物置となった姿を見て一瞬、戦慄した。それは一瞬から一秒になって一分になって五分十分、ついには二十分ほどにもなって、ついにはその空間は誰にも操作の効かない固執に伴ったグロテスクな絵画のように成りあがった。ケンイチは当然何が合ったのか、サンディが死に至った一部始終を理解することができずに、とにかくその場に足を突っ伏した。空いた口が閉じずに、声も出ずにケンイチは突如に胃の部分から逆流を感じた。その勢いは強く、ケンイチは反射的に思わず口元を両手で押さえたが、激流と化した胃酸の液は彼の身体を刺激して彼の喉元から止めどなく溢れ出た。おええ、という嗚咽と共に胃液はケンイチの足元にびちゃりと流れ落ちる。その後も何度か強烈な嘔吐を繰り返して、雨漏りのように酸味の粒は舌先から垂れ続けた。靴は濡れて、足元の草花にも染み広がって行った。その液体はやがてはサンディの今や紅黒い泥のような曇血といずれ混じり合うのではないかとも考えられたが、そうはならないとすぐに分かった。何故ならそれら二つの液体はケンイチの生とサンディの死という相反する概念がそれをある種拒否に応じていたからだろう。ケンイチは吐き気が僅かばかりか収まり、ようやく自分の視点が目の前の彼の死体に定まりかけた時に、サンディの死を確信した。  ケンイチはサンディの死体には触れなかった。触りたくもなかったし、何よりもケンイチは彼の死を形状的にではなくて概念的に認めなくなかった。彼が例え個体として死んだとしても、ケンイチの中では今でも彼はしっかりと記憶に焼きついて生きているし、ケンイチの精神と共に暮らし続けているのだから、それがケンイチの全ての思いだった。  ケンイチはそして一度サンディの再生不能な硬直済みの塊りをやっと手に触れて、ゆっくりと庭に掘った土穴の中にその死体を埋めた。温度はなかった。冷たく血に塗れた毛や皮膚が手に張り付いて、嫌な気分になった。早くそれを手から外したかった。だけど疎かにはできずに、ケンイチは丁寧にサンディを裏庭のクヌギの樹の根元に埋葬した。涙は不思議と流れなかった。嘔吐物の嫌な匂いがただ所在なく二人のそれぞれの死を不確かな物にさせまいと漂遊した。  サンディを惨殺した犯人は父親だった。彼は果物用の小型ナイフでサンディの腹を刺したのだった。ケンイチにはすぐにそれがわかった。何故なら父親は犬を異常なまでに嫌っていたからだった。  その理由は父の所属する団体にあった。父はある宗教の団体組織に属していた。それは黒孔雀明聖学会という教団だった。この教団は、ケンイチの父の親しい友人の祖父によって約十数年前に発足され、始めこそそれは小さな規模の活動を細々行っていたのが、今や日本を代表する所謂カルト教団の一派に成り得ていた。父も友人に連られて、それこそ数年前まで専業していたそれなりに繁盛していた護身術教室を閉校、辞退し今や当組織のいち重役委員にまで上り詰めて教団を担っていた。何故父がそんな唐突に得体も知れないカルトに他ならない教団への入教を受け入れたのかといえば、それは父の行っていた護身術教室に関わりがあるといえた。  当教団は、全国津々浦々の地域に派閥を広げ各国においての県住民達のそれぞれの都市区で起こる事件事故その他におけは暴力行為の阻止抑制を遂げるべく活動している組織であり、その理念が父にとっては魅力的に思えたのだという。さすれば当教団はかつてその類の思考を広めるべく活動したマハトマ・ガンディーの運動の意義、又は彼の背景にあるヒンドゥー教の教えを基礎に立教され得たものに思えるかもしれないが、それは違いどちらかといえばキリスト教の聖書、礼拝といった物を様式として捉えその解釈を取り込んで完成に至った組織といえた。だが勿論キリスト教とは似て似つかぬ物であったのもまた事実だった。しかし、ケンイチはそれを気に入らなかった。この黒孔雀会が暴力撲滅という一見すれば世界の安泰や平和、それはつまり日本国外で今も尚続けられる紛争や戦争を我こそがと止めるべく世界を暴力という恐怖から救い出すべく活動する立派な信念のもとに団結された善良な存在という風に誰の目にも映るはずだけど、言うまでもなくそれらには裏があり、光あるところに影ありとは言ったものだった。  例えば、当教団は暴力撲滅と銘打ってはそれらの行為を抑制する効果のある安定薬と題して違法ドラッグを市場で売り捌いたり、そしてそれを種にホームレスの路上生活浮浪者や果てにはストレスを過度に抱える現代中高学生に流用したりと裏金を稼ぎ自分達の収入源にしていたのだった。当然教団の肥大化した後から長年の間、黒孔雀会は各国の警察から常時監視の目を向けられていた。つまり当組織は平和へと向けた任務遂行という表向きの名目の裏に入教した暴力の存在を嫌う家族一家や、はたまたかつて身内や親族に家庭内暴力等を行った過去の罪悪感が拭いきれずにどうにかその蟠りを晴らして楽になりたいという人間達を全て信者として迎えては先ほど言ったようなドラッグやそれらしい宣教文とかを羅列した聖書なるものをやはり高額で購入させて金儲けを行なっていたのだった。ケンイチは父にサンディを殺された時に父にその理由を尋ねたときに、その組織の存在をそして組織はこの荻野家をもとうに侵食しているのだという事実を知ったのだった。 「なんでサンディを殺したんだよ」  ケンイチはすぐに父に怒鳴った。彼は今怒りや憎悪に塗れていた。荒がる息をなんとか押さえつけていた。 「だから言っただろう、犬はこの家に持ち込んでは駄目なんだ」  父はあくまでも落ち着いたままで哲学的な字体の本を片手に眼鏡の奥のいつもは間抜けな垂れ気味の目つきを冷徹非道に光らせて、物静かな有無を一切耳に受け入れまいといった口調でケンイチの方を見ずに答えた。まるで感情の無いロボットみたいに。 「知らねえよそんなしょうもねえ事、あいつはもう生き返らねえんだぞ」 「仕方ないだろ、決まってる事なんだから」  父がサンディを殺したわけは、彼が犬だったというただ一点に尽きた。もしもサンディが犬でなく猿や雉や猫だったならば、どれほど凶暴だったとしても殺されることはなかっただろう。じゃあなんで犬がそんなに駄目なのかというと、父にとって犬を飼うという行為は、神を冒涜する意味を表すことだからだった。  父の属する黒孔雀会は、その名の通り孔雀基鳥を神様として崇め祀っている宗教だった。その為に鳥類を狩って食べると思われている犬やその他獣類は関与厳禁な天敵生物として区別されて扱われていた。そしてケンイチが犬を飼ったことを知った父は、彼の手が犬に無い隙を狙って、遂にサンディを殺害したということだった。 「でも、サンディが鳥なんか食べるわけねえだろうが」 「そんなことは分からないだろ。少しでもその可能性があるなら早めにやらなくちゃ駄目だからな。それともお前はあいつが鳥を絶対に食べないって確実に言い切れる根拠でもあるのか?」  そう言い捨てて再び読書に戻った父をこの上なく憎らしげに睨みつけたケンイチは、馬鹿馬鹿しくなってすぐに部屋へと引き篭もった。これ以上こんな奴と話をしていると頭が狂ってしまうとケンイチは思った。思えば、いつだって食卓には鶏肉を使用した料理が一度たりとも用意されたことはなく、それは父含め名も知らぬ組織の奴らにとっての荘厳なルールが当家には定められているからだとケンイチはその思想を鼻で嘲笑い、以来父とは一切口を聞くことはなくなった。      *    *    *  その日から当然、ケンイチの反抗的な態度は強くなった。教育に忠実な弟とは正反対に、どんどんと目に見えるようにやさぐれていき、学校も休みがちになった。それは中学校に入ってからも同じで、その学校は一般に宗教的な教養の得られる決してヒンドゥー教派とは言えないが、そのある信仰の部分を取り入れた礼拝や授業を日課とする学校だったが、当然ケンイチは全く真面目に学業や格行事に取り組むことはなくいつも適当に済ませていた。  ケンイチはそして父にサンディを殺された日の夜、父の書斎にある悪趣味な金箔で塗装されたボトルシップの模型を叩き割り、足で大きなガラスの破片をとにかく粉々にして破壊した。後にその行為は父にばれたが、父は置き物が死んでしまったな、とケンイチに聞こえるように呟いたきり特に何も言ってくることはなく、ケンイチも無言を貫いた。  ある日、ケンイチと弟に家庭教師が雇われた。雇ったのは父ではなく母で、母は教師を雇うことでケンイチを少しでも教養的にすべくそして弟がきたる試験に向けて更なる知識をつけて、某宗派中学校への特待生として入学を成せるようにという目的を持って二人にそういった手を伸べた。もちろん二人の態度は依然として真逆であり、弟は必死に勉強に励んで、ケンイチは程なくして教師の課題を放棄した。そんなケンイチの態度に痺れを切らした教師はいつか彼に向かって、君の父さんも苦労するわけだよ。だって弟君が真面目にやってることに甘えて、君は好き放題ばっかりやってまるで社会のことを分かってないんだからね。まあ分かるわけもないか。君みたいな弟にすら甘えを垂れてるようなガキにはさ。教師はそう言って弟の解答を進める姿とソファに寝転がり漫画を読むケンイチとを見比べてふっ、と嘲笑う息を吐いた。  次の瞬間気付けばケンイチは教師に殴りかかっていた。教師は抵抗して母を呼んだ。母はやめなさい、ケンイチとケンイチを叱咤した。何も言わないケンイチはひたすらに母が教師に謝罪を繰り返しているのを何も考えずに眺めていた。そこにはもはや怒りはなかった。そして同時にケンイチは若くして社会というものに対する冷観と呆れを覚えた。こんな大人がいる社会なんて、まともじゃないと。  家庭教師は数日後荻野家への専属を辞めたが、その前に父に言い残した。 「荻野さん、彼は悪魔の子ですよ。彼には悪霊が憑いている。すぐにでも除霊をしたほうがいい」  父はその教師の言葉を間に受けはしなかったものの、父が宗教信者であることからそういったスピリチュアル方面には幾分か理解があり、やらぬ後悔よりはやる後悔ということでケンイチは後日家に訪れた霊媒師によって除霊を強制された。しかし結果は当たり前に、ケンイチの身には何の効果も現れずに何の変化も訪れなかった。ケンイチはバーカ、と霊媒師の帰り際に霊媒師と師を見送る両親に向かって吐き放った。  しかし突如として、ケンイチは当荻野家において、本当の意味で悪魔の子になる出来事を起こした。ケンイチは中学二年生のある日、洗面所にいる母と自室で勉強をしている弟を殴った。何故かはケンイチ本人にも分からず、気が付けば目の前に顔を殴られてただ動揺する他ないといった母と弟の姿があった。ケンイチはその日も何かを思うことはなく、いつも通り自分の部屋に戻ってつまらない日々から意識を逸らすべく不貞寝をした。  やがて父がそれを知ったとき、父はケンイチをこそ殴りはしなかったが、ケンイチはそれ以降自宅から離れた物置に隔離された。理由は何も伝えられなかったが、ケンイチは物言わぬ理由の全てを分かっていた。本人なんだからそれはそうに決まっていたが、ケンイチは殴ったときは自分が無意識だったことも覚えている。そして母と弟を殴った理由について一人きりの埃や黴の匂いの微かに残る物置で考えた。理由は簡単で、ケンイチにとって、母や弟といった自身に残った今唯一の良心である二人が、あの憎たらしさの極みである父にこれ以上信教とは良く語る洗脳を受けるのが耐えられなかったからで、その洗脳に少しでも抵抗を加えるべく、ケンイチは二人の意識を父そして下らない宗教から背けるべく殴っていたのだった。だがその計画は虚しく、母と弟はいつも通りの父の元での暮らしを何事もなく続けているばかりだった。ケンイチはついに失望した。俺はもう、家族にさえ会えなくなってしまったのだろうか。本当の意味での"家族"に。  ケンイチはやがて不登校になり、それからは時々裏窓から庭に出て運動を暇つぶしにやったり、物置の中を掃除したり辺りに視界を押し潰すかの如く詰め込まれたがらくたの一帯を一つ一つ観察して適当な工作等をして遊んだ。意地でもあの荻野家の自宅、もはや今ではケンイチにとっての"屍の建物"とも呼べるその家には戻らないと決意した。もちろん食事は一日三食出口前に用意されて、それ以外は母や弟ともさえ関わりを絶った。  ケンイチは翌る日いつもみたく物置の整理整頓に励んでいる際に、ある一冊の分厚い本があるのを見つけた。それは所々のページが剥げ落ちていて、表紙も両側とも真っ黒く霞んでいたがなんとかタイトルは読むことができ、そこには黒孔雀明聖会第一聖書と記されていた。ケンイチはふと中身を開いてみる。するとページは全て色褪せているものの、しっかりと文章を読み進めることはできたので何となくケンイチはそれを読んだ。  内容は、孔雀の羽根を用いた人体精製術への理、精神安定剤の正当な使用効果、金銭と幸福の因果第一章等といった気色の悪さのあまりに目も当てられない事項が延々淡々と連ねられていて、ケンイチは目を顰めながらそれらの項目を飛ばした。次に目にしたのは、聖句と呼ばれる、当宗教の神の御示しや思し召しや加護を受けるべく信仰内容や礼拝方法について長々と書かれた文章の一覧で、ケンイチはそれを読んで一人戦慄した。    私たちは、いかなる時も、黒孔雀聖鳥神を愛し、信じ、そして永遠にその信念を受け取り自らの中に新和することを誓います。  私たちは、いかなる時も暴力、脅迫、実力行使その他他人を傷つける行動を一切取り止め、未来永劫その志を貫くことを誓います。  私たちは、皆、同じ人間であることを認め、人と人とは互いに常に平等であることを意識して各々自らの生きる道を歩んでいきます。  私たちは、各々が持ち合わせるすべての財産を黒孔雀聖鳥神のためにいかなるときも捧げることを誓います。私たち信者は、とにかく金を払います。金、金、金金金金、金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金 お前らは、俺らの教団のために金を出すただの馬車馬となれ。醜い種無しの馬だ。お前らはいつだってそれだけを考えればいい。うははは…こほん、おっと失礼。では気を取り直して…  私たちは、皆、狂ったオーケストラ。その楽団、楽員、さては、ちらほら、ささやかなえんそーう、みだり、に、して、は、なら、ない。よ、  わたしたちはパンクロックの伝道師。そうだ、ジョー・ストラマーもジョーイ・ラモーンもジョニー・サンダースもみんな、死んでしまったな。うん、非常に残念。生き残っているのは、まるで別人のような体型になってしまったジョン・ライドンくらい。だけど、当然だよね、うん。だってみんな人間なんだもの。はかなく、切なさ虚さを誇る、にんげんなんだから、らららららららららららららららららららららららららららららららららら  人間は時に愚かなものですわ。ホンマに、わてなんかは時々思いはることがあるんですがね、ニンゲーン、っちゅーもんは、非常に、これ非常に、ね。うん、意地汚くて、節操なくて、まあなんつーか基本的にわそんなみるものも見てられないって感じの生き物なのよん。ってわけで私はそんな最中、今日も今日とて買い物に行って参りますわ。たはは、何故かって、?何故なら、ね、何故ならそれはね、何故なら何故なら、家で妻が待って居りはるからですわ。そうでっせ、うん。ホントにね、大変ですわ色々と。まったくもってしかし。じゃわてしはここいらで失礼させていただきやんす。ジッポと紅茶のティーバックと青ネギを買ってこなねばならぬので。ほんじゃさいなら、  私たちは…………………………………  ケンイチは即座にそこまで読み終えて、本を閉じた。正気じゃないと思った。こんなものを聖書だと謳って信者を増やし、阿漕な金を巻き上げるなんて、中には生活が苦しくなり自殺に至る人もいるだろう。ケンイチは途端に酷く腹が立った。今すぐにでもこの教団を潰したいと思った。それはあの地獄の沙汰の権化のような父を追い込むことにも繋がるだろう。ケンイチはそんな事を考え、しかし今は仮にも一端の中学生という立場、下手に乗り込んだり攻めたりするのは無謀だろう。ケンイチはとにかく、自分が少なくともこの家を出ていける年齢に至るまで、その時をじっくりと父や教団への憎悪を熟れさせながらその時を待ち望む事を決めた。ケンイチはそして今日も積み重なった埃まみれの本で埋まった壊れたベッドの上に寝転がった。

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 ユウヤはショウタが入院した最初の土曜日に、彼の居る病院に見舞いに向かった。電車で家のある街から四十分程の区にあるその病院は、父が死んだあの場所より一回り小さな建物だった。受付にショウタの名前と自分が彼のクラスメイトであることを伝えると、病室を教えてもらったユウヤは彼の居る病室へ向かう。 「ショウタ君っ!」  半ば勢いで扉を開けると、ショウタは右足をギプスで覆い、介達牽引で吊るした姿でベッドに横たわっており、ユウヤに気がつくと驚いた顔で目を向けた。 「…なんだ、ユウヤ?来たのか」  息を微かに切らしながら近付くユウヤをひどく落ち着いた様子でショウタは見やる。来たのか、じゃないよとユウヤは声を上げた。 「大丈夫なの?怪我は」 「ああ、大丈夫も何も、右足以外はどこも何ともねえよ」  ショウタはそう言うと、吊るされた足を一目見やり、ユウヤを安心されるように小さく笑った。 「学校には戻って来れそうなの?」 「まあ、先生が言うには、七ヶ月も経てば前みたいに歩けるようになるだろうってさ」  こんな風に安静にしてればな、とショウタはユウヤが来てくれたことに心が幾分弾んだのかいつもより顔が綻んで見えた。 「それにしたって、何で急に骨折なんかしたの?」  事故とか?とユウヤが聞くと、まあな、とショウタは急に言い辛そうな口調になり、表情を曇らせた。病室にはショウタとユウヤ二人だけで、何故か引き攣った雰囲気が漂っていた。 「…本当のこと言ってよ、怒らないからさ」  ユウヤがそう言うと、お前には何も隠せないからな、とショウタは息を吐いて一連の出来事の経緯を打ち明けた。  話を聞けば、ショウタは夏休みが明けた数日後、道端で見つけた小型のベスパに無意識に乗って、鍵が付けっ放しだった為にそのまま勢いよく発進して、カーブを曲がるところで大きく横転したらしい。幸い頭には強い衝撃はなく、結果としては片方の足を骨折したに過ぎず、目立った外傷は生まないに至った。だがベスパは破損して、ショウタは親と共に持ち主に謝罪をし、弁償をしたと言う。骨折の傷は痛みを増して、ショウタは骨折外来が主な当病院に入院したということだった。 「それで、両親は見舞いに来たの?」 「来たよ。マイと一緒に、つい一昨日にな。親父は俺を平手で殴ったよ。この馬鹿が、って今までにないくらい顔を顰めさせて。母さんも悲しそうな顔してたな。一番泣きじゃくってたのはマイだった。兄ちゃん、死なないでって」  骨折くらいで死ぬわけないのにな、とショウタは笑ったが、ユウヤはそんな彼を睨みつけた。一瞬、彼を彼の父と同じように平手打ちしようと思ったが、すぐに手を引っ込めた。 「何言ってんだよ、心配するに決まってるだろ?馬鹿に決まってるよ、盗んだ乗り物で走り回って、怪我までするなんてさ。本当に馬鹿だよ」  そんな風に不意に声を荒げだしたユウヤに驚いたようにショウタは顔を唖然とさせた。 「本当に、心配したんだよ。重症を負ったんじゃないかって、不安だったんだからさ」  ユウヤが僅かに涙ぐむと、そんな大袈裟な、とショウタは呟く。大袈裟なんかじゃないよ、とユウヤはショウタを睨む。 「頭とか、もっと強く打ってたら意識が失くなったり、出血したりして脳の機能障害になることもあるんだからさ、仮死状態にでもなったら、もうこうやって会えないかもしれないんだよ?」  両親だって、凄く心配してるだろうしさとユウヤが言うと、そんな風には見えなかったけどな、あの人達とショウタは窓の方を向いて言う。 「何言ってんだよ、ショウタらしくないよ、何だか人がまるで変わっちゃったみたいにさ」  そう言って静かに泣くユウヤを見れないのは罪悪感からなのか、ショウタは窓に目を向けたままだった。  しばらくそのまま二人の間には沈黙が訪れ、時計の針だけが小さく音を立てていた。ユウヤが泣き止む頃に、ごめんな、とショウタは静かに口にした。 「…何だよ、今更」 「………」  ショウタはまた黙って、視線を下に向ける。 「何でこんなことしたの?」 「…逃げたかったのかもな。いや、逃げたかったんだ。生活や学校や何もかもから、な」  ショウタはそう言って、息を吐いた。逃げたかった?とユウヤが言うと、ああと彼は答える。 「俺は夏休みにローマの休日を観て、ヘップバーンに憧れたんだ。彼女の自由気ままさにな。俺は彼女みたいに、ヘップバーンみたいになりたかった。そんな風に思ってた矢先、道端であの映画に出てくるのと同じようなベスパがあったんだ。人のものだって分かってた。だけど、俺は気づいたらそれに乗っていて、知らないうちに事故ってたんだ。笑えるよな」  へっ、とショウタはそう言うと自嘲するかのように笑い、再び折れた右足を見る。 「早く言えば、自暴自棄になってたってとこかな。俺らしくもないって、今じゃ分かるんだ。お前が俺に言ってることも全部。でも遅かった、気がつけなかったんだ。…だから、いっそあのまま折れた足でベスパ盗んで、学校なんか辞めてどっか行っちまっても良かったんだけどな」  ショウタが言うと、駄目だよそんな事、とユウヤが寂しそうに言う。それを聞いてそうだな、ごめんとショウタはまた謝る。 「ちょっと魔が刺しただけなんだ、悪かった。心配かけて」 「本当だよ、まったくさあ。……ショウタの馬鹿」  ユウヤがそう言うと、ショウタは今日一番の声を出して笑った。するとその振動で体が揺れたのか、右足が動いていててっと痛がる声を洩らした。大丈夫?と聞くユウヤにああ、とショウタは笑顔を向けた。 「とにかく、早く治して戻って来てよ。約束だからね」 「ああ分かってる、約束だ」  ショウタはそう言い残して、じゃあまた来るからと病室を後にするユウヤを微笑ましく見送った。  病院からの言葉通り、入院ついでの停学を終えておよそ七ヶ月ほど経ち、三年生の春休み終わりでショウタは学校に復帰したが、退院して一日目は彼はまだ松葉杖を付いて登校した。クラスにショウタが入ると、騒ついていたクラスメイトたちは一気に彼を見やり、ひそひそ話をし始めた。彼らは奇異な視線をショウタに向ける。その中でも仲の良いクラスメイトでさえ怪訝そうな顔つきを彼に見せた。ショウタはそれらに一切気を留めることなく、普段通りに自分の席について、器用に杖を外すと授業の準備に取り掛かった。  ショウタ君、とユウヤはいつも通りに挨拶をし、おうとショウタも元気そうに返事をする。その日からユウヤもショウタと同等に徐々に敬遠されていった。いつかショウタはそんなユウヤを見て、いいのか?俺なんかと一緒にいて、とクラスメイトから煙たがられるユウヤに言ったが、全然気にしてないよ、とユウヤは嘘ではなく答えた。だって、ショウタ君が一番僕の好きな人だからさ、とユウヤが言うと、ショウタはその場で泣き出し、教科書でそれを隠した。ないてるの?とユウヤが言うと、泣いてねえよ、馬鹿、とショウタは笑いながら涙声で答えた。  中学三年生の、学校最後の夏休みの日曜日に、ユウヤとショウタはあるバンドのライブを観に行った。既に全国ツアーを回っているガールズロックバンド、サンセット・ラベンダーズのライブだった。地元のライブハウスのチケットは完売間近だったが、ショウタのおかげで何とか購入することができた。  楽しみだなユウヤ、そうだね、会場のライブハウスに向かう途中、二人はそんな会話をただただ交わした。会場の最寄りの駅を降りて、夕暮れ空の広がる道を歩く。夕陽はとても鮮やかで、一日の終わりと共に最高の夜へと成るであろう熱狂への導入を確かに示して、輝っていた。  会場に近づくにつれて、周りを歩く人々の足が増えていく。きっと皆、今日のライブを楽しみに観にきた人達だろうと分かる。それは彼等の服装や髪型から読み取れた。彼等は老若男女問わず様々な人間模様を描いており、金髪のロングヘアの若い男、シド・ヴィシャスのような真っピンクなスパイキーヘアスタイルの若い女、そしてラベンダーズのバンドTシャツを着てサングラスやチェーンネックレスを着けた共に五十代くらいの夫婦などが見られた。やっぱり凄い人だね、そうだな、といつも通りのラフな格好をしたユウヤとショウタはその公演前の光景に少し気圧されて思わず彼等を遠目にやるように人混みから離れるように歩いた。  サンセット・ラベンダーズはおよそ五年程前に結成されたガレージロック・ガールズバンドで、ギター、ベース、ドラムのシンプルな3ピースの三人のメンバーによる形態のアーティストだった。メンバーは三人ともまだ二十代半ばならずと若く、結成されたのも高校の文化祭という事もあり、十代からインディーズとして活動していたそうだった。  会場前に着き、二人はライブハウスが開場するのを待機する。いつの間にか日はすっかりと落ち、時刻は開演の四十分前だった。観客達も騒めき立って、入場して公演が始まるのを今か今かと待っている。公演の開始は午後七時からで、ショウタは何度も腕時計を見た。ブランド品の彼の時計の針が、白銀に光る。ユウヤは親からのプレゼントなのかな、と胸の中に言葉をしまいそれを眺める。  七時になり、開場するとスタッフの指示が聞こえなくなるほどに足音や声が充満して、人の海がユウヤ達を押し突いてライブハウスへと流れ込んでいった。ライブハウスは地下にあり、二人が通れるくらいの幅の階段を降りていく。辿り着いた会場は、既に煌々とした照明が焚かれていた。照明はまるであの会場に向かうときに二人で見た空に広がる夕陽の光の色彩そのものだった。サンセットというバンド名のコンセプトに則り、このような演出を施しているんだろうか、ユウヤはふと思った。  バンドメンバーの登場を待ち望む観客達の声や声に埋もれ、ユウヤ達は目の前の照明の当たらない暗いステージを眺める。まるで黒いカーテンでもそこだけに引かれているかのようにステージの中はほとんど闇のようになっていた。夕陽色のステージングライトでさえ、そこに全てが吸い込まれるようだ。  数十分が経ち、観客側の照明が消えて、ステージに人影が現れた。それは三人のメンバー達で、薄暗い影に身を包んだ姿が現れると、観客達は歓喜の拍手や悲鳴を上げた。三人がそれぞれの持ち場について楽器を手にすると、ステージ上のライトアップと共に、ジャーンというフェードインの演奏が鳴り響きだして、会場中が音の渦に巻き込まれる。1、2、3とボーカルギターの子が合図をして、遂に曲の演奏が始まる。挨拶はなく、三人のグルーヴが見事に表れたメロディで、ライブは始まった。オープニングはインストのジャムセッション曲で、ドラムとベースの低音の絡み合いがあった後にギターのストロークおよびカッティングの鋭いコードが掻き鳴らされる。それに再びベースとドラムが追随し、曲は走り進んでいく。ユウヤとショウタは気付けば彼女達に惹きつけられて、心臓にはドラムのエイトビートの重音による釘が刺され埋められている。音調は、EコードとAコードの反復のブルース進行を基調とした演奏のものだった。  数分後にジャムセッションは次の曲へと変わり、その曲は「猫が鳴いている」というラベンダーズのデビュー曲だった。結構毛だらけ猫灰だらけというサビ前のBメロの歌詞が癖になるとファンからは好評人気の一曲だった。ベースとドラムのブレイクが挟まれて、AからCのキーに転調するギターソロが始まる。ストロークとチョーキングを交えた演奏の後に、最後のサビをボーカルが歌う。  一曲目が終わり、ありがとうというそっけない挨拶と共に、ベースやギターがチューニングをする。観客達の拍手と共に、ユウヤ達もすっかり熱を覚えていた。ボーカルの彼女はあまりMCを挟まないタイプで、その口数の少ない佇まいが大人びたニヒルチックさを感じさせてカッコいいという評価もあった。  音合わせが終えると間髪入れずに二曲目が始まる。曲名は「ガソリンスタンド・ブルース」という、サイコビリー・スタイルの楽曲だった。Bmのブリッジミュートが耳や体に心地良く浸透する。照明も彼女達の演奏に合わせて、ミラーボールのように点滅したり、白や黒や紫や夕暮れ色とは違ったカクテリックなオレンジのカラーリングへと変化したりした。観客達もノリに乗ってほとんどダンスに近い動きなども見せ始めた。中には合いの手がわりのシャウトをする者も現れる。ユウヤとショウタはその会場の様子に圧巻されながらも、身体を自分たちなりに揺らして振れて、演奏の波に乗って音楽を最大限に吸収した。  曲の途中で、本来ならメロディに乗せて歌うはずの、生きてんのか死んでんのかはっきりしろ、という歌詞が彼女のボーカルの噛みつくようながなり声によって、捨て台詞のように響き渡った。彼女は何度かそれを繰り返して、観客達を精一杯に煽り、熱狂させる。ユウヤは曲がその言葉が頭から離れなかった。彼女達は曲の演奏が終盤に近づくにつれて、それぞれが思い思いに髪を振り払い、汗を撒き散らして飛び散らせる。ドラムは穴が空くのではないかと思うほどの重い轟を反響させ、ベースは低く唸るイギリス車のエンジンの如く音を飛行させて、ギターは相変わらずに狼やハイエナや野良犬の鳴き声を一斉に吠え揃えさせたみたいな歪みを叩き出して、シャウトするボーカルとともに共鳴して、今この場所の全ての音を掻っ攫っていくようだった。荒々しいストロークが鳴り響き、ドラムのシンバルとベースと激しいダウンピッキングが重なって、曲は束の間に終わっていった。ユウヤは拍手も忘れて、ただその目の前の観客達の影に飲み込まれようとするボーカルの彼女に、比喩だけど比喩でないみたいにロックンロールという病に罹患し侵蝕された心臓を掴まれていた。  その後も同じ温度で激しく衝動的で、だけど何処かノスタルジックで感傷的な彼女達の純粋で無邪気な演奏は続き、あっという間の二時間程で今夜のサンセット・ラベンダーズの公演は終わりを遂げた。曲目は新旧織り交ぜた全てで二十六曲が披露されて、客席は冷めやらぬ熱のスタンディングオベーションの大波に包まれた。ありがとうございました、という一言の挨拶と共に、三人のメンバーは去っていく。アンコールはなかった。ユウヤとショウタは周りの観客達が帰っていく中で、しばらくその場に立っていた。 「すごいライブだったな」 「うん、ショウタ君と一緒に来れてよかったよ」  そうだな、俺も一緒に来れてよかった、とショウタはすっかり完治した筈の右足の痛みの名残を感じたのか、足を上下に動かして、膝の音を鳴らした。どうしたの?とユウタが聞くと、別に、とショウタは答えた。  ライブ会場には観客達の汗と熱気が篭り、激動の音の衝突の余韻が残った。  卒業式の前日、ユウヤとショウタは二人の中学校生活最後の昼休みをいつものように屋上で過ごしていた。空はすっきり晴れ渡っており、春らしい白い雲やフェンス越しに見える緑葉の生い茂る枝木を浮かばせた瑞々しい水色の透明感のあるキャンバスが貼り付けられているみたいだった。ショウタはいつも内ポケットに常備しているハイライトを取り出して、いつものようにライターで火を点けてそれを吸った。唇の隙間から吐き出された副流煙は無音で灰を巻き込み、風に流されて上昇し消えていった。  昼食を食べ終えたユウヤは貯水タンクの側の出っ張りをベンチ代わりにして、家から持ってきたトランジスタラジオの放送を掛けながらショウタに借りていた「取り違えの罠」を読んでいる。ラジオからは、スティッフリトルフィンガーズのボブ・マーリーのカヴァー曲、JOHNNY WASが流れていた。レゲエ調のギターのリフが心地よく屋上に響いている。  もうすぐ、もう明日で俺達もいよいよ卒業だな、とショウタは煙を吐いて言った。そうだね、とユウヤはページを捲りながら答える。 「ユウヤはこの三年間、短かったって思う?それとも長かったって思う?」  ショウタはユウヤの方を見ずに、ずっとフェンス越しの空を見つめる。うーん、とユウヤは少しの間悩んで、分からないなあ、とそれだけ答えた。短くも思えるし、長くも思える、それしか言えないな。 「そうか、なるほどな」  ショウタ君はどうなの?と聞くと、俺は短かったなあ、と答える。煙を吐いて、校庭に視線を落とす。だから、もっと長くあって欲しかったって思うよ。 「それは何で?」  ユウヤが聞くと、それは分からない、とショウタは言う。ただ、これだけ言えるのは、とユウヤの方を見やる。 「俺はお前、ユウヤと出会えて本当によかった」  ユウヤはショウタの方を見なかった。彼を見ると、すぐ目の先にある彼との別れという逃れようのない現実が自分の身体の中に入り込んできて埋め尽くしてしまうみたく感じてならなからだった。 「…でも、もしかすれば、それともう一つ、俺は大人になること、大人ってのに近づく事を怖がってたのかもしれないな。だけど、俺もユウヤも、それから全ての奴は必ず子どもから大人に変わる。いやでも変わらなきゃいけないんだよな。いつかは、その日がやってくるんだからな」  ショウタのその言葉は、ユウヤに向けられたものというよりも、彼が自身に対して放ったように聞こえた。ユウヤの元に彼の吐いた煙が届く。嫌な匂いではなかった。 「なあユウヤ、なんで飛び降り自殺って、飛び降りるんだろうな」  ショウタの急な問いかけに、ユウヤはえっ、と思わず彼の方を振り向いた。どうしたの?急にとショウタを見つめる。 「俺だったら睡眠薬でオーバードーズとかだな。それか風呂場で剃刀で手首切って浸透圧死するとかな。他にやり方なんていくらでもあんのに、何で飛び降りる奴なんかいるんだろ」  ユウヤはショウタの言っている意味が分からなかった。何言ってんの?いきなり、と背筋がぞくりとする。ショウタがこの屋上から飛び降りでもするのだろうか、と思わず怖くなった。しかしそんな憂いとは裏腹に、ショウタはユウヤの隣に座り込んだ。 「…俺も、そんなこと考えたことがあったんだ。随分昔だけどな、虐められてた時の話だ」  ショウタはそう言って最後の煙を吐いて吸い殻を足で擦り潰す。 「ショウタ君、虐められてたの?」  ユウヤはそんな事一度も聞いたことがなかった為に、驚きを隠せなかった。まあな、わざわざ話すことでもないからな、とショウタは悟った表情で空を見上げた。ユウヤはそれ以上彼に何かを尋ねることはなく、おそらくショウタが喧嘩強いのは、その不特定な誰かの虐めを克服するための物、だったのかもしれない、と彼の何処か晴れやかな顔つきを見て思った。 「ユウヤ」  ショウタは空を見上げたまま、言った。何?とユウタが聞くと、彼は死ぬなよ、とそれは優しく穏やかな口調で声にした。 「お前が死んだら、お前の母さんはきっと死ぬよりも辛い哀しみに苛まれることになるだろうからさ」  ショウタはそう言うと、飲みかけの缶コーヒーを一気に飲み干した。床に置かれた空き缶が高く音を立てる。  ユウヤはきっと、あの病室で入院していた時ショウタは、見舞いに駆けつけてくれた両親に嬉しく思いつつも、こんな時だけ愛親面するなよ、という複雑な感情も彼の中に後ろめて存在したのだろうな、とショウタの落ち着いていて柔らかなそれでいて寂しさも同時に受け取らせる彼の横顔を眺めて思った。  卒業式から一週間後、晴れて第一希望校の試験に合格して入学が決まったショウタは、告別をすべくユウヤの家を訪ねた。ショウタは実家を離れて学生寮で暮らすための引越しをするということでその準備の為に、二人の遠距離になる前の最後の会話は、ほとんど時間が取れなかった。 「ユウヤ、俺がいなくてもちゃんとやれよ」 「ショウタ君こそ、ね」  そんないつもと相変わらぬ二人の様子を、それぞれの背後から親達が寂しそうに、だけど明るく眺めていた。両親の後ろではマイが、二人の様子をもどかし気に、離れ離れになるのを哀しむように見つめていた。彼女はしばらくの間、親戚の家へ預けられるということだった。  ショウタ君、ユウヤのことありがとうね、とユウヤの母は挨拶をして餞別の菓子土産を手渡した。これ良かったら、とそれを受け取ったショウタはありがとうございます、と深く頭を下げた。ユウヤはそれを静かに見つめた。  うちの馬鹿なショウタを、本当にありがとうございます、とショウタの父はユウヤとユウヤの母を交互に見やりながら言う。いえ、こちらこそとユウヤと母は頭を下げて礼をする。 「これからも、元気でね」  はい、またいつか遊びに来るので、その時はまたお願いします、ショウタはそう言って菓子箱を片手に持つと、ユウヤ、と名前を呼んだ。 「…色々あったけど、ありがとう。またな」 「うん、また会おうね」  そして二人は玄関の前で互いに抱きしめ合った。ユウヤの勘違いかもしれないが、ショウタの温かい涙の粒が、一つ肩にこぼれ落ちたような気がしたが、ユウヤは何も言わなかった。  僅かばかりの別れを言い終えて、ユウヤとショウタは手を触り合ってそれぞれの場所に帰っていった。ショウタを乗せた両親の車は、彼の寂しそうな後ろ姿を窓硝子に映して、名残惜しそうに帰路を辿って去って行った。  いなくなっちゃったわね、と母が彼の乗った車がエンジンと共に遠ざかるのを追眺しながらユウヤに言う。ユウヤは何も答えずに、ただ昼から夕方に移り変わる空の瞬きを捉えて翔太との別れの余韻以外に何も考えずに見慣れた玄関からの住宅路を見つめた。      *    *    *  ユウヤは虐めを受けていた。高校二年の夏に、少しだけ仲の良かった同級生が横暴な扱いをされていたのを見て、やめなよ、と虐めをする相手に対し彼らの手を払った。何だお前、と彼らはすると邪魔が入って面白くなくなったのか、舌打ちをすると教室から出てどこかに去っって行った。ありがとう、と友達はユウヤに抱きついて泣いた。ユウヤはとても気分が良く、自分もかつての助けになり頼っていたショウタのようになれた気がして、思い上がった。  しかし、それはある種の地獄の始まりでもあった。虐めをしていた集団は次にユウヤの事を標的にし、更なる虐めをユウヤに振り掛けるようになった。初めのうちは、様々な物が隠されたり、机や椅子を蹴るなどする言って幼稚なものに過ぎなかったのだが、ユウヤが然程気に留めていない事を知ると、それが苛立ち怒りを助長させたのか虐めは徐々に急速にエスカレートしていった。  その内容は一言に要約して語れるものではないが、特筆すれば喧嘩に強制連行され殴る蹴るを身体に与えられたり、煙草の吸い殻を灰皿代わりにした口内に詰め込まれたり、酷い時には朝登校するなり下駄箱やライターで部分ごとに黒く焦げ燃やされた上履きの中に気持ちの悪い、腹の裂かれたゴキブリやムカデや芋虫の死骸などが散乱され、そればかりかユウヤの持ち物備品に画鋲や針のように折り曲げたクリップ等が埋め差し込まれていたりという事が相次いで、ユウヤはその度に当然精神的に心を疲弊させて、やがて病んでいった。何度かその彼らの悪業に引っ掛かってしまい、ユウヤは時々出血する怪我などを負ったりもした。  クラスメイトはその様子を、何も話題にすることは愚かそんなユウヤの悲惨な光景を見ても一言の声も掛けずにただ自分達一人一人が外野の他人事といったように無視を決め込み、黙り込んだまま誰もがユウヤを見捨てていった。驚いたのは、あのユウヤが助けた友達でさえも、そんなクラスメイト達と同様にユウヤに声を掛けることはしなくなった。担当の教員もやはり同級生達の悪質な虐行為というものはいかに関与するのが面倒かというのを察知しているのか、当件を知らないはずがないものの騒動に加入することは避けられていた。だけどユウヤはそのクラスひいては校内の雰囲気に疑問や懇願を募ったのと共に、それもそうだろうなという納得の念さえ持ち始めていた。それは、きっと誰もがユウヤのように、虐めから助けたというせいで今度は自分が奴らの標的になってしまうのではないかとの恐怖が痛い程目に焼き付けられているからこその彼らなりの防衛本能なのだろうとユウヤは考えていたからだった。だから尚更、ユウヤは他人を巻き込みたくはなく、誰一人として助けを求める声を掛けられずに居たのだった。あの、自分が助けた唯一の友達でさえも。  ユウヤはその時に、味方が自分には一人も居ないのだという恐怖を痛感した。そして、同時に絶望が自身の身体の中に生まれたのを自覚した。それはユウヤの自尊心の暴落に直結して、彼の全身を精神的にも肉体的にも闇底に突き落とした。ユウヤは遂に人間不信になり、学校以外でも人影や誰かの姿を無意識の内に反射的に避けるようになった。学校では変わらず奴らの与えてくる行為により鉄槌や鋭刃の如く自身の中に重く深い痛みが打ち付けられてますます自分が何か分からなくなっていく。ある日ユウヤは色盲になったように視界が歪み、水中に分散し溶解してゆく非水性の異物の混濁みたく不快な現象が視覚を通して拡がるのを体験した。過去に受けた悪口や陰口や謂れの無い非難や誹謗中傷や罵詈雑言が取り止めのない図形となって脳内にフラッシュして点滅する。そしてそのまま教室を移動する際に廊下に倒れて保健室に運ばれた。目が覚めてユウヤはもう、何も感じなくなっていた。いつでも嘲け笑いながら自分の事を嬲り痛めつけ続ける奴らの顔が洗脳のように頭に浮かんで、それを消すにはもうこれしかない、と学校を変える時にユウヤは決意した。  生命力の輝きを失った光のない日々が続いて、季節は秋になりいつかの日曜日がやってくる。ユウヤは母が仕事に出掛けたのを確認すると、早速近所の大型スーパーに首を吊る用の縄紐とそれを固定するガムテープ、そしてそれに首をかける為に足を乗せる踏み台を買いに向かった。ユウヤはこの日自殺をする事を決めた。買い物を胸の高鳴り、鼓動の急加速と不謹慎なアドレナリンと共に済ませると、ユウヤは早速部屋に戻って準備に取り掛かった。服を吊り掛けるハンガーの掛かった壁から突き出る物干し竿にガムテープを粘着させて、首を入れるロープの輪っかを空中に設置するべく結目をつくり、それらを終えると、ベッドの隣に小さい踏み台を準備した。束の間にようやく用意は整い、あとは首を縄に通して、自殺を遂行するだけだとユウヤは無気力に意気込んだ。それもそのはずで、誰も好き好んで自分を殺す人なんていないだろうし、それは生物本来の習性に於いては、全くもって無意味でこの上なく馬鹿げた判断と言う他ない行為だと、ユウヤもそれをよく分かっていて、その上でやはり死に逃げるという結論を見出し至らせた。ユウヤは早速恐らく最後になるであろう部屋中の空気を肺一杯に吸い込んで、深呼吸をした。この上なく激震する心拍は収まる様子がなく、ユウヤの行動を後押ししているようにさえ思えた。ユウヤは窓の外を見る。どこかへと元気そうに駆けていく小学生だろう子どもたちの姿が見えた。ユウヤはその光景から目を逸らし首を振って、ただ脳内にはあの憎悪に塗れた虐めを与え続けてきた奴らの忌々しい姿だけを強く入念に思い浮かべた。ユウヤには彼らを殺す選択は無かった。殺したくなった事もあるが、それではまるで過剰防衛のようになり、自分だけが唯一人異常な殺人犯として扱われるのではないかと言う不安だけがユウヤを覆った。それよりも、自分がこうして無惨な死を遂げる事で、死後に奴らの非道行為を白日の元に晒し、奴らに対して世間からの批難の制裁を下して奴らにこの先も永遠に逃れられる事のない罪悪な過去を植え付ける事こそがユウヤは自分がすべき復讐だと考えた。  目を瞑り、前にあるだろう宙吊りの紐縄のロープに顔を近づける。踏み台の感触が段々と軽くなり、足を片方だけ外す。そして遂にユウヤは首をロープに通し終えて、もう一つの足を踏み台から蹴り離す体勢になる。  ごめん、さようなら母さん。  そう一言心に残すと、ユウヤはもう一つの足を踏み台から外した。その瞬間、円型のロープは勢いよくユウヤの首に引き寄せて彼の動脈を締め付けた。ユウヤは生存本能で出せることのない声を出そうとして息継ぎを求めて、顔や身体中から血の気が引いていく感覚に陥った。視界は既に何もかもが形を無くして、幻とさえ言えない不自然な色合いの霧靄に変化する。顔中の筋肉がロープを何とか引き剥がそうと膨張に応じるが、びくともしない。手の指を締め付ける紐縄に触れさせて、膝から脚から足先まで下半身をもがき触れ動かす。ユウヤは消えゆく意識の中でなぜか、死にたくない、と呟いていた。嫌だ、まだ死にたくないとユウヤはなんとか生命を維持しようと試みる。しかしそれはもう遅く、あとはただ死因の凶器となるロープにこの身を委ねて、ユウヤは死へと向かうのみだった。しかしその時ユウヤの脳裏には一瞬走馬灯のようなものが映り込んだ。それはあの屋上で煙草を吸い缶コーヒーを飲んでいた告別する前のショウタの姿だった。ショウタはその脳内で声に聞こえぬ声で確かに言った。  ユウヤ、死ぬなよ。  するとロープの固定していた物干し竿のガムテープが音を立てて剥がれ出して、結び目が甘かったのか、紐縄は締め付けを解かれて竿から外れた。ユウヤもそれに倣って、緩んだ首元のロープと共に床へと落下した。カーペットの音が鳴り、ユウヤはかはっかはっと嗚咽と吃音を繰り返して床をのたうち回り、部屋中の空気という空気を吸い込み、呼吸を取り戻そうとした。必死に深呼吸を繰り返して、目は真っ紅に腫れ上がり、涙が溢れていた。顔に血の気が戻って、心拍数も強く波打出した。数十秒が経過し、ユウヤはようやく身体の落ち着きを取り戻した。はあはあと呼吸が穏やかになっていき、胸の鼓動も静かに緩やかになっていく。ユウヤはそのまま全身に酷い疲労と汗を感じて、そのまま気付けば意識を失っていた。  目が覚めた時には時刻は午後になっていて、とっくに夕方だった。窓の外は暗くなり、夕陽が沈みかけている。ぼやけた視界から見えるのは、首から外れた縄紐と横転したままの踏み台だった。ユウヤは部屋越しの階段の下から聞こえる物音に耳を傾ける。どうやら母が既に帰ってきたらしく、彼女がフライパンを熱して何かの料理を炒める音が微かに響いていた。  ユウヤは頭を冴えさせると、すぐに我に返り状況を汲み取ったのちに片付けを始めた。母が下で優雅に料理を始めているということは、ユウヤが一命を取り留めて自殺未遂に終わった一連の出来事に気付いて居ないのだろうとユウヤはそのことにひとまず安堵して、踏み台をベッドの陰に押しやり、ロープやガムテープを塵箱に投げ捨てた。  片付けを終えると、ユウヤはしばらくその場でぼーっと明け暮れた。何も考える訳でもなく、ただ自分がまだ生きていることを肌の体温の熱で思い出す。座り込んだベッドは冷たく、シートは洗い立てのように乾いていた。ユウヤはふと、一枚のCDを取り出してプレーヤーに掛けて再生した。流れたのはビートルズのシーラヴズ・ユーという楽曲で、母が彼らの中で特に好きな曲だった。母は何故か秋になるとこの曲を再生して、鼻歌を歌っていた。それを思い出したわけでもないが、ユウヤはしばらくそのメロディーに身体を寄せ傾けて、窓の外から見える銀杏の木の存在に疲れを癒した。首には絞首による痛みがまだ少し残っていたが、あまり気にならなかった。  ユウヤはCDが次の曲を再生する時に、机の上に飾った金木犀の入った小瓶を手に取る。蓋を開けて匂いを嗅いでみると、懐かしくて暖かい秋の優しい香りが漂った。それは部屋中に広がっていくように強く匂い、ユウヤや部屋にある家具達が待っていた抱擁を与えるかのように空気に溶け込んで、風に色をつけていった。  CDのビートルズの全楽曲が終わりに向かう頃、下のリビングから、ユウヤ、ご飯出来たわよと母が階段を突き抜けるように大きくユウヤを呼ぶ声がした。わかった、とユウヤは同じ声で返事をすると再生する曲を停止して、首元の縄紐の跡が見えないようにタートルネックに着替えて部屋を飛び出して階段を降りていった。

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「なあユウヤ、オリジナル・ラヴの新曲聴いたか?」  一限目の現代文の授業が始まる前の朝のクラスメイト達がやたらに騒つかせて浮かれているこの時間、いつも通り元気のある声でショウタは本を読みながら机に置いたウォークマンを聴いているユウヤの肩を叩いた。 「なんだ、ショウタ君か。びっくりした」  何?とイヤホンを片方外して、ユウヤはショウタの方を振り返る。 「夜をぶっとばせ、って曲なんだけど、凄いカッコいいんだよ。ユウヤ知らない?」 「なんか、この前CMで流れてたやつ聴いたかもしれないけど、どんなのだっけ?」  ユウヤが聴いていたのは、ピチカート・ファイヴのオードリーヘップバーン・コンプレックスという曲が収録されたカセットテープだった。これだよ、今持ってるから、ちょっと聴いてみな、とショウタはユウヤのウォークマンの中身を取り出させて、持っていた彼のカセットテープに入れ替えて再生した。ユウヤはしばらくショウタとそれを聴き続けて、いい曲だね、と呟く。だろ?とショウタが嬉しそうに笑みを見せる。お前なら好きそうだって思ってたんだ。 「でもさ、この曲って、元々ピチカート・ファイヴの曲じゃなかったっけ」  そうだっけ?とショウタは首を傾げる。でも、こっちはこっちでカッコいいだろ、と片方のイヤホンを耳に入れて、ユウヤと並ぶようにして曲を聴いた。その曲はまるで高速道路をドライヴしている最中のような疾走感と、真夜中の輝く夜空のような爽快感が入り混じったようなメロディに聴こえた。 「ユウヤこそ、何聴いてんの」  これだよ、とユウヤは自分の持ってきたカセットを手渡す。オードリーヘップバーン?とショウタはその曲を知らないような顔でカセットを見つめた。 「貸してあげるから、後で聴いてみてよ」 「わかった、ありがとな」  夜にぶっとばせ、が終わりに近付くときに、ショウタはふと、ローマの休日って面白いのかな?と言った。俺、まだ観たことないんだけどさ、とユウヤを見る。うーん、あんまりよく覚えてないなあ、とユウヤはフェードアウトする曲を聴きながら答える。結構昔だったからね、でも、真実の口が出てくるシーンはちゃんと覚えてるよと言うと、ショウタは真実の口か、それは面白そうだな、と再生済みのカセットテープを取り出しながら答えた。  現代文が終わり、体育着に着替えてユウヤとショウタは二人で校庭へと向かう為の渡り廊下を歩っていた。体育を終えた一年生や、制服で教室を移動する三年生達とすれ違う。 「ユウヤって、好きな奴とかいないの?」  ショウタがユウタを見て尋ねる。え、なんで急にそんなこと聞くの?とユウヤは少し身構える。だって、気になるだろ?友達が誰のこと気になってるのかってさ。 「…別に、今はいない、かなあ」  本当か?とショウタはユウヤの顔を覗き込む。ほ、本当だって、とユウヤは辿々しく慌てて答える。そうか、それはちょっと残念だな、とショウタは少し寂し気な表情を見せる。なんでだよ、とユウヤは曲がり角を歩きながら言う。 「だって、もう二年生なのにさ、誰も好きな奴が居ないなんて、中学生として、おかしいと思うんだけどな、俺は」  ショウタはそんな今ひとつ意図の分からない事を天井を仰いで言う。そうかなあ、とユウヤは足を踏みだす床を見つめながら呟く。 「ショウタ君は誰が好きなの?」 「俺は、お前が好きな奴を発表してからじゃないと答えないよ」  なんだよそれ、ずるいなあとユウヤが言うと、ショウタは笑った。でも、居ないのに無理して好きになるのは違うんじゃないかなとユウヤが言うと、まあそれはそうだけど、とショウタはユウヤを認めつつでも、周りには既にそんな話ばかりする奴ばっか居るからさ、ユウヤだってもしかしたら誰かいるんじゃないかって思ったんだ、とユウヤを見て言う。 「だって、俺らくらいの歳なら、もうそういう事を覚えたって不思議じゃないだろ?むしろ当たり前だって言われそうなもんだけどな、恋とか性欲とかさ、言ってみれば異性に対する感情の芽生えってとこだ」  ショウタのその言葉に、ユウヤは少しだけ気恥ずかしくなって、ま、まあそうだけど、と申し訳程度の音量で答える。 「人間として、本能としてあるべき姿なんだからさ、それが。何も恥ずかしがることはないと思うぜ。ユウヤだってそういう本とか拾ったこと、あるだろ?」  ショウタがそう言って、ユウヤはふと周りにクラスメイトや女子が居ないか確認して、何?そういう本って、と聞いた。 「言わなくてもわかるだろ、エロ本だよ。ほら、ギャルとかモデルの裸写真が載ってるやつ」 「あーもうっ、分かってるよそんなはっきり言わなくたって」  ユウヤが掻き消すように言うと、お前が聞いてきたんだろ、と揶揄うようにショウタは笑った。でも、それが俺たち男子の中じゃやるべき事なんだ、とショウタは何故か自慢げにそう言い誇った。 「今日の放課後、久々に探しに行くか?」 「え、この前も行かなかったっけ」  もう一ヶ月くらい経つだろ?また新しいの落ちてるかもしれないからさ、とショウタは周りに人数の増えて来た昇降口で下駄箱を開けながら言う。それに、今日金曜日だしさ、お前も部活ないんだろ?とユウヤを見る。まあ、そうだけど、とユウヤは悪い気も然程感じないままに答えた。 「よし、じゃあ俺の家に来るついでって事で、昇降口に集まろうぜ」 「うん、分かった」  ユウヤが言うと、お前だって本当は見たいんだろ?とショウタが再び揶揄うようににやけ顔を向ける。ショウタ君だってそうでしょ?とユウヤが言い返すと、俺はそう言うの興味ないんだ、と真顔で答える。なんだよそれ、さっき言ってた矛盾してるじゃん、とユウヤが声を上げると、人間ったって、色々あるんだよ、とショウタは靴を履き終えて、笑いながら校庭に向かった。  校庭は昨日の雨がすっかり乾ききっていて、屋外運動をするにはうってつけの天気や地面のコンディションが整っていた。教員の合図で、クラスメイト達が二人一組で準備体操を始める。 「そういえば、ショウタ君ってなんで部活入らなかったの?運動得意なのにさ」  ショウタの腹筋運動を彼の足を押さえつけながらユウヤが尋ねると、ショウタは少しも息を切らすことなく、まあ、なんとなくなんだけど、と汗を数滴額に見せて答える。 「そもそも、運動が得意だからって、スポーツが好きだとは限らないだろ?」 「まあ、そうかもしれないけど、大会とかで活躍できそうなのになあ、って思ってさ」  俺、あんまりスポーツとかそう言う競技興味なくてさ、とショウタは十回目の腹筋が終わった所で、ユウヤと役割を代わる。ユウヤはあまり得意ではない筋力トレーニングを、ショウタに見守られながら始める。 「それにさ、俺妹が居るからさ、家で一人にして置けないんだ」  面倒見なきゃいけないからさ、とショウタがクラスメイト達を見やりながら言う。そういえば、小学生なんだっけ、マイちゃんってとユウヤは息を既に切らしながらも、重い上体をなんとか起こし続けて話す。 「今、ようやく六年生なんだけどな。まあ、前に比べりゃ、しっかりしてきてるとは思うよ。それでも、まだ一人じゃなあ」  母さんも親父も、またしばらく帰って来れねえみたいだからさ、とショウタは腹筋をなんとか終えたユウヤと共に、教員の前に集合を始めるクラスメイトにゆっくりとついて行く。 「そっか、それは大変に決まってるよね」 「でも、今じゃすっかりそんなことも気にならなくなっちまったけどな」  親が居ないくらい、とショウタは冗談まじりに言った後、あ、とユウヤを見て、ごめん、悪気はなかったんだ、と謝る。ううん、気にしないで、とユウヤは何事もなく答える。 「そう言うユウヤこそ、なんで部活入らなかったんだ?」 「だって、美術部がないからさ、運動部嫌だったし。それに、吹奏楽部は女子だらけでしょ?それも恥ずかしいっていうか」  ユウヤがそう言うと、何言ってんだよ、とショウタはユウヤの身体を指で突いて声を上げる。 「そういう所で、恋とか出合いとかが生まれるんだろって、俺は言ってるんだよ。お前の好きになるような人だって、居るかもしれないだろ?それに、運動部に入れば、俺みたいに喧嘩に強くなれるしさ」  ショウタはそう言って握力を込めた拳をユウヤに見せる。喧嘩に負けたくないだろ?と言われユウヤは、そもそも僕喧嘩になるようなことしないよ、と小さく笑う。 「それに、ショウタ君の喧嘩強さは生まれつきなんだからさ、僕に真似できるわけないでしょ?」  ユウヤがそう言うと、まあな、とショウタは、満面の笑みを浮かべて、満更でもなさそうにユウヤの方に腕を回して答えた。  その日の放課後は約束通り、ユウヤとショウタは昇降口に待ち合わせした。ごめん、ちょっと遅れるから先行っててと教室で言い残したショウタを後に、ユウヤは下駄箱の靴を履き替えて、出入り口のガラス戸越しに眺められる夏のまだ明るい白い夕暮れ前の空や、元気な声で散って行くクラスメイトの男女や、浮き足だったように初々しさを見せる学年別のカップルを見やりながら、ショウタの到着を待った。  悪い悪い、待たせたとショウタがユウヤに声を掛ける。何かあったの?とユウヤが聞くと、まあ、ちょっとな、とショウタは少し言い辛そうにしかめた顔で答える。 「ちょっと、呼び出しくらっちまってさ」 「呼び出しって、先生に?」  まあな、とショウタはどうでもいいように吐き捨てる口調でそう言うと、それじゃ早速いつものとこに行こうぜ、とユウヤの手を取って校門へと向かった。あ、うん、とユウヤもいつもの感じでショウタの後をついて行く。  ショウタはクラスの中でも、上位の成績を持つ生徒だった。全教科で常に高採点を獲り、殆どの授業でも率先した受け答えを行っていた。彼はそんな外見とは裏腹に真面目なクラスメイトだった、というのは、ショウタの服装は、常に髪を金に染めて、両耳にはピアスを開けて、屋上の昼休みではいつも煙草を片手にしていると言うような、世間が俗に想像し得る不良の姿像そのままのスタイルだったからである。その為、クラスの担任は愚か、他の学年の教員並びに生活指導の歳のいった初老の教員からは、常に監視の目を見張られて、時に強い注意を受けていた。しかし、ユウヤにはショウタがただの不良生徒だとは思えなかった。彼は誰か他人に対しての慈悲や優しさの気持ちが人一倍あり、情深さを持っていたからだった。それはクラスメイトにも伝わっており、入学して数日も経てば、何人もの友達を築いていた。ユウヤはある時教員から説教を受けたときの彼を目にした後で、おかしいよ、ショウタ君みたいなのがあんな風に言われるなんて、と一人憤り彼に理不尽の納得のいかなさを話したことがある。するとショウタは、仕方ないよ、だってアイツらは人を見かけだけでしか判断してないんだからさ、とどこか悟ったような口調で言った。 「世の中ってのは、容姿で決められることが多いんだろ。それが全てじゃなかったにせよ、ちょっと髪型が長くて不潔そうに見えるだけで、男のくせにとか、太っていてメイクが上手くできていないだけでアイツはきっと女のくせにモテないんだろうとか、不健康な生活をしてるに違いないだとか、そんな風に決めつけるように仕組まれてるんだ。何故ならそれは、自分は俺は私だけはそんな奴みたいにはならないように、ちゃんとした人にならなきゃ、って思って少し基準の容姿と違った奴等に見下しの目を向けて過ごすことで、自分の肯定感と優越感を持てるからなのさ。世の中には、それが幸せだって思ってる奴が、腐るほど居るんだよ。ユウヤも分かるだろ?」  そんなショウタの言葉を受けて、思わずうん、とユウヤも頷く。 「それは先生達にしたってそうだ。彼らが俺に指導をするのは、それが仕事だし、間違ったことじゃない。注意して然るべきだからな。だけど俺はその業務という皮に被せた裏に、何か個人的な八つ当たりみたいなのが透けて見えてならないんだ。確かに俺はこんな見た目だし、大人から見ればれっきとした悪ガキにしか見えねえだろうから、むかつくのは当たり前だとはおもうんだけどさ、ちゃんと勉強やってるし、授業だって欠かさずやってるしテストで点数だって獲ってる。それがたった一つ容姿がおかしなだけで全て否定されるなんておかしいだろ?そう思わねえか?だけどそれが現実だし、世の中に決められたルールって訳なんだ。いくら中身がちゃんとしてる奴だって、見た目が悪けりゃ弾かれて外される。野菜や果物と同じさ。逆に言えば美男美女みたいに見た目がよけりゃ、中身が悪く立って受け入れられてくって事なんだぜ。くだらない話さ。だけど俺はやっぱり納得できないんだ。先生達だって、そのことをしっかりと俺の為を思って教えてくれるのならいいのに、あの人達は、自分たちの個人的なストレスを、俺の格好が悪いのをいい口実にぶつけて来ようとしてるんだ。俺が良い点数を獲ってるってことも気に食わない理由の一つなんだろう。だけど俺は潰されるつもりはない。これから学校を卒業して、何年経ったとしてもな。それに」  ショウタはそこまで言い切って、ユウヤの方を煙草を一息吸ってから見やる。 「俺にはユウヤ、お前みたいな奴がいるから、押しつぶされずに済んでるんだよ」  ショウタがそう言って笑った時、ユウヤは彼と親友になって本当によかったと実感し、彼のようになりたいと強く思った。しかしユウヤには彼のような容姿を真似する勇気もなく、その事を彼に伝えると、そんなことは真似しなくたっていいんだよ、とショウタは言った。他人に左右されない、世間体に押しつぶされない心構えが有れば、それで充分なんだから、とショウタのそんな言葉を受けて、ユウヤは今でも何かある度にそれを思い返しては飛び越し禁止のロープを焼き尽くしてしまいそうな火を鎮めていた。  そんなショウタと、ユウヤは今日も何処に向かっているのかといえば、学校からひと通り越えた隣街の濁った水の流れる河川敷だった。そこは田園や田畑とも隣接しており、その反対側には小さな公園も設備されていて、小学校帰りの子ども達がよく数人で遊んでいた。今も男の子や女の子達が虫取りや飯事に勤しんでいる。  ユウヤとショウタが目を付けてやってきたのは、以前ここを暇つぶしに通りかかった時に数冊の隠してあった成人向け雑誌やAV広告のチラシの見つかったベンチや水飲み場のある河川敷の茂みだった。少し離れた所には、四、五本程の大きなコンクリートの土管もある。その中には無かったが、今日は果たしてどうだろうか。 「それじゃ、さっそく探すか。俺はこっちの方を探すから、ユウヤは土管の中とか周りとかを頼む」  ショウタがそう言って水飲み場やベンチのある方向へ歩き出して、ユウヤはわかった、と土管の方に足を向けた。ユウヤはふと、なぜ自分達はいい歳にもなってこんな事をしているのだろう、と時々思う事があった。近くの公園では子ども達が無邪気にはしゃいでいる中、それを母親達が見守っている中、自分達がやっていることといえば、大人達の捨てた汚い土に塗れたエロ本探し。しかしユウヤは嫌ではなく、むしろ楽しくて仕方がなかった。それはきっとショウタだって同じだろう。ある種、トレジャーハントのような宝探し的な期待感がそこには存在して、二人の思春期心を刺激して駆り立たせた。まだ成年にも達していない子どもの身である自分達が制限された性欲の対象を娯楽媒体に求める。そんな馬鹿げたでもこの空間だからこそ成せる真面目を取っ払った手っ取り早い遊びに入り浸る事こそが、ユウヤ達にとってはかけがえのない時間だといえるだろうし、ユウヤ達もまたそれをどこかで自覚していた。  そんな宝探しを始めてから数十分後、今日の収穫は恐らく皆無なのだろうかと諦め掛けたその時、ユウヤは土管の穴の一つに、暗がりに染まった手で触れると紙の質感のある物を見つけた。土管から出て夕陽に照らすと、それは明らかに成人向け雑誌だと確信した。やった、今日も見つかった、と息を吐き、ショウタくーん、と向こう側で草木に潜り込みながら探索を続けるショウタに呼び掛けた。彼はユウヤを振り向くなり、なんだ、見つけたかと大きな声で言うと、ユウヤのもとへ駆けてきた。  これ、とユウヤがショウタにそれを見せると、おお、良くやったなユウヤ、とショウタは嬉しそうな顔を向けた。後で家に帰ったら一緒に見ようぜ、とユウヤの肩を叩く。 「ショウタ君は、何か見つけられた?」  そう言うとショウタはなーんにも、と両手を残念そうに広げた。そっか、と少しがっかりしたようにユウヤが一冊の雑誌に目を落とすと、でもよ、もっといいの見つけたぜ、とショウタがニヤリとポケットを探る。ほらよ、とユウヤに手渡したのは、なんかの生き物の抜け殻だった。何、これとユウヤが聞くと、驚くなよ、とショウタは顔を澄ませる。 「それはツチノコの抜け殻だ」  ショウタのその言葉を受けて、ユウヤはしばらくその抜け殻を見つめて放心していたが、やがて両手で尻尾を掴んで広げてみると、カナヘビじゃん、とショウタの方を見向いた。 「なんだよ、ロマンがないな、ユウヤは」 「そんなしょうもない嘘の、なにがロマンだよ」  ごめんごめん、じゃ家行くぞ、と誤魔化すように笑うショウタを見て、まったく、とユウヤは微笑ましそうにその抜け殻を雑誌に挟んで彼の後を追った。           *  帰り路、ショウタはユウタに借りたピチカート・ファイヴのカセットを聴きながら、いい曲だな、これとユウタと二人で家へと向かう。通学路を歩き終え家に到着し、ユウヤはショウタの部屋に通学鞄を降ろした。部屋の明かりが付いて、ショウタの住む部屋の全貌が明らかになる。家具などは割としっかり揃えられており、散らかっているのは本やレコードやCDくらいだった。ユウヤはいつも通りに遠慮することなく、仲の良い友達の部屋でのいつものくつろぎ方を実践する。ショウタが飲み物持ってくる、とドアを開けると、そこには彼の妹のマイが立っていた。 「こんばんは、ユウヤ君」 「あ、マイちゃん、お邪魔してるよ」  マイは二つのジュースと何種類かのお菓子を乗せたトレーを持って、ユウヤに絵見ながら挨拶する。さっきユウヤ君の声がしたから、持ってきちゃった、とトレーをショウタの横を抜けて部屋の中に置いた。悪いなマイ、とショウタが彼女を見やった。ありがとう、とユウヤはトレーからジュースとお菓子を取る。 「ゆっくりしてっててね、どうせ今日も私とショウ兄ちゃんしかいないから」  そういうと、マイはベッドの上に放られている雑誌を見つけた。ユウヤたちが河川敷で拾った成人向け雑誌だった。ショウ兄ちゃん何あれ、と彼女が言うとショウタはお前には関係ないから、用が済んだらさっさと行け、とマイをあしらう。何よ、どうせまたこの前みたいな変な本でしょ。知ってるんだから、とマイはふんと鼻を鳴らして部屋を出ていった。やれやれ、とショウタはベッドの上の雑誌をユウヤの前に置いて、彼女には自分達がどう映ってるのだろうと不安になるユウヤを他所にショウタは早く見ようぜ、と呑気にページを開く。先に読んでて、と言うとステレオコンポのある方に向かった。横に収納されたレコードラックを漁る。ユウヤは早速その目の前の開かれた雑誌のページを眺めながら飲み物や食べ物を頬張る。最初はさほど興奮を覚えなかったが、読み進める毎に、各ページの年齢の異なるそれぞれのセクシャルなモデルの女達が目に飛び込み、ユウヤは気付けば食べる手を止めていた。 「どうだ?良い感じのやつか」  ブルー・チアーの同名の1stアルバムのレコードを再生してショウタがユウヤの前に座る。サマータイムブルースの歪んだギターが部屋に響きだす。 「この前のより、いい感じかも」  そうか、そりゃよかったとショウタは嬉しそうにベッドに腕をもたれ掛ける。宝探し成功ってわけだ、と彼はユウヤと共にページを見やりながら、我慢できなくなったらいつでもやっていいからな、とテーブル上のティッシュをユウヤに渡す。そんな事しないって、と慌てるユウヤをショウタは揶揄う様に笑った。俺もこの前のやつでも見ようかな、とショウタはベッドの下にある前に河原で見つけた別の卑猥な雑誌を横で読み始める。  ショウタの両親は、父母共に芸能界関係の仕事をしている人だった。父は某大手放送局の番組を手掛ける名プロデューサー、母は人気ファッション雑誌の編集長とモデルのスタイリストを兼業して勤めるキャリアウーマンであり、互いに共働きで多忙な身で滅多に家には帰らないそうだった。その為ショウタは妹の面倒を一人で見ていた。それを知ったユウヤが、ショウタ君の親って凄い人だったんだねと言うと、何も凄くねえよ、偉そうな肩書きがあるだけだってとショウタは少しぶっきらぼうに答えた。彼は何故か両親には反抗的な一面があるようだった。しかし流石芸能関係者の子どもというだけあって、ショウタの部屋基彼の家の敷地内外は各所が全体的に広く、上級感漂う雰囲気があった。それともう一つに、就職したい職業についての授業の時に、ユウヤはショウタに、ショウタ君はどんな仕事に就きたいの?と聞いたが、彼は別になんだっていいよ、親父みたいな仕事じゃなかったらさと授業に関心がないように答えた事があった。ユウヤは何故かふとそれを思い出し、ページを捲った時にあのさ、とショウタに話しかける。 「ショウタ君てさ、自分の職業を考える授業でお父さんみたいな仕事じゃなかったらいいって前に言ってたじゃん」 「ん、そうだっけ?」 「うん、それってさ、どういう意味だったの?」  なんで別の仕事がいいの?とユウヤが尋ねると、ショウタは雑誌から顔を上げてなんで今そんなこと聞くんだ、と言う。ユウヤは別に、なんとなく思い出してさ、と答える。 「まあ、簡単に言やぁ自分の子どもが出来たときにさ、俺とかマイみたいな思いをしてほしくないから、かな」  ショウタはそう言って、随分マイには苦労させてるからな、とドアの向こうにあることだろうマイの部屋を見透かすように見つめる。 「アイツも充分大きくなったとはいってもまだ中学校にすら行ってない歳だからな。親父達が落ち着いてこっちに帰るまで俺がまだまだ面倒見なきゃならないんだ」  だから、そんな仕事には就きたくないんだ、とショウタが切なそうに言い、ユウヤはそっか、確かにねと頷き、僕もとショウタを見る。 「僕の父さんも、帰り遅い日が多かったからさ、なんとなくだけど、ショウタ君の気持ち分かるんだ」  やっぱり寂しいよね、とユウヤが言うとまあ、そうだな、ショウタも素直に答える。 「でも、お前の方が辛いだろ?だってもう親父さんには会えないんだからさ」 「うん……まあそうだけど、居ないって事にそんなに違いはないでしょ?僕もショウタ君もさ」  ユウヤがそう言うとお前は本当にいい奴だよな、とショウタが顔を綻ばせる。そんなこと言わないでよ、恥ずかしいからとユウヤはショウタから目線を逸らす。そしてふと、あっと床に広がったレコードの一枚を目にする。それはポリスの2ndアルバムである「白いレガッタ」だった。ねえショウタ君、それちょっと掛けてくれない?とユウヤが頼むと、これか?とそのポリスのアルバムを手にしてステレオのブルー・チアーのレコードの再生を停止して入れ替える。針の固定される刹那の音の後に、一曲目の「孤独のメッセージ」が流れ出す。もう少し上げて、とユウヤが言うとショウタは音量を倍近くに上げる。 「ユウヤも好きなの?」 「この曲さ、父さんが一番好きでよく聴いてたんだ」  そう言ってユウヤはかつての想いに耽るように雑誌やジュースから意識を退けてポリスのレコードの音楽に浸り、目を瞑る。スティングの儚くだけど男の泥臭い吐息の強さを思い感じさせるボーカルが、切な気に楽曲を歌い上げてショウタ達の部屋にメロウな青暗いシックな空気をそしてユウヤの身体の中に言葉に表しきれない限りなく感情的な哀しさと記憶の暖かさを孕んだ熱を立ち篭めさせた。そうか、とショウタはそれに何かを続けて尋ねることもせず、ただステレオの前で、ポリスの三人が写ったモノクロのスタイリッシュなレコードジャケットを眺めながら、そのどこか愛おしく、どこかメランコリーな音の流れる河に静かに耳を傾けた。  夏休みに入り、ユウヤとショウタは学校の裏山を抜けた先の空き地のようになっている丘の茂みに作った秘密基地に出掛けた。その構造は子どもながらの簡易的なもので草原に立った大きな一本杉に横並びに適当な廃材置き場から持ってきたベニヤ板やら錆びた鉄板やらを幾十枚か重ねて組み立て、非常に単純で小さな屋根のない部屋みたいな壁に囲われたものだった。二人は時々この場所で、特に何か目的に勤しむ訳でもなく、ただ基地の付近を飛び交う羽虫や空を飛んでゆく飛行機や丘の下を歩いて行く人達の人間模様をゆったりと眺めたりしてくつろぐだけのそんな時間を過ごした。今日はやたらに蝉の鳴き声が響き渡る。ショウタはラジオから流れるトレンドの人気曲のヒットチャート放送を片耳に聴きながら、文庫本を読んでいる。 「それ、何の本読んでるの?」  ユウヤが新しく買った図鑑を読みながら、横のショウタの本に目を向ける。これか?とショウタが本のタイトルをユウタに見せる。 「ベルモア・マードックっていう作家の、取り違えの罠って小説だよ」  赤ちゃんの取り違えが故意に行われる事件をテーマにした本なんだ、とショウタが言うと、そうなんだ、とユウヤは少しその内容を不気味に思いながらも、興味を持った。 「なあ、ユウヤは将来何になりたいんだ?」 「うーん、特に仕事とかは決めてないなあ」 「それなら、夢とかは何かないのか?」  ショウタが聞くと、ユウヤはそうだなあ、と考えた挙句、植物の生い茂る家に住むことかな、と答える。 「お前は本当に植物が好きだよな」 「まあね、小学校の頃に、ほとんど全部覚えたから」  ユウヤは少し自慢げに言うと、ショウタはじゃあ、ここら辺に生えてんのも分かるの?と尋ね、大体ならね、とユウヤは足元の草花を見て、これはジニアだねと白い花を摘む。お前は本当に凄いよな、とショウタはユウヤに聞こえないように呟く。なんか言った?と聞くユウヤに別に何でもないよ、とショウタは空を仰いだ。  そうしてしばらく二人で何事もなく寝そべったり体を動かしたりしていると、おーい、と丘の下部から二人を呼ぶ声が聞こえてきた。見下ろしてみると、そこには三人程の男子の姿が立っているのが見えた。ユウヤには、彼らに僅かに見覚えがあった。確か、同じ中学の三年生のグループの先輩達だろう。一体何の用なんだろとユウヤが彼らを見つめていると、やがて彼らはおーい、聞こえてないのか、とにやにやとした顔つきでユウヤ達を挑発した。  ショウタ、誰?あの人達とユウヤはショウタに彼らがいるのを教える。ショウタが本を閉じて彼らを目にすると、ちっと舌打ちをして、面倒な奴らが来た、と苛立たしそうに丘を下り始めた。ちょっとショウタ君、とユウヤも慌てて彼の後を追う。  早くしろよ、と三人のうちのリーダーに思える背の高い男子が声をあげて、ショウタを目の前に呼んだ。何か用か?とショウタの声に、おいおい、先輩に向かってその喋り方はないだろ、とリーダーがショウタを笑いながら睨みつける。ショウタよりも一回り高身長だったが、ショウタはびくともせずに彼を睨み上げていた。 「ねえ、ショウタ君、誰なのこの人達」  ユウヤが潜め声で聞くと、ショウタは、ちょっと前に色々あった奴らだ、とユウヤに手短に伝える。ちょっと待ってろ、とショウタはユウヤを後ろの方へ下がらせる。 「この前は仲間が世話になったみたいだからな。今日はその礼でもしようと思ってよ」  そう言うとリーダーは左右の仲間の男子達を見る。二人もリーダーと同じく、見るからに不良の出立ちをしている。 「あれはお前が手え出して来たんだろうが。俺は悪くねえだろ」  話を聞く限り、どうやらショウタは一緒に遊んでいたある友達がリーダーの横の仲間達に喝上げされていたのを目にして、彼らを拳で成敗した事があり、その報復に彼らのリーダーが仕返しにやって来たと言うことらしいとユウヤは状況を飲み込んだ。 「話はそれだけか?今なら謝ればひと殴りで済ませてやってもいいぞ」  リーダーが嫌な笑みを浮かべてそう言うと、謝る訳ねえだろ、お前なんかにとショウタははっきりと彼の言葉を拒否した。そうか、なら覚悟はできてんだろうな、とリーダーは指の骨を鳴らして、殴る準備を始める。ごちゃごちゃ余計なことくっちゃべってねえで早くしろや、とショウタも喧嘩に応える姿勢をつくる。ユウヤは数十歩離れた後方から、息を呑んで彼ら殴り合いが開かれるのを眺めた。  喧嘩は呆気なく終わりを迎えた。結果は、ショウタの一人勝ちだった。リーダーがショウタの拳に即座に打ち倒された後、二人の仲間がこの野郎と力一杯にショウタに向かい掴み掛かったが、それも瞬く間に躱され、ショウタの前には無惨にも道路に仰向けやうつ伏せる三人の負け犬が息を切らして項垂れていた。 「くそっ、いつか覚えてろよ、この事は絶対忘れねえからな」  リーダーがそう言い垂れて悔しそうに半べそをかきながら立ち上がって去っていくと、仲間達も慌てて彼を追うように走っていった。全く、とショウタは達成感に浸るようでもなく、くだらなそうに溜め息を吐いた。 「ユウヤ、大丈夫か?」  ショウタの声に、うん、別に見てただけだからとユウヤは彼に駆け寄る。 「やっぱり強いね、凄いよ」  そのユウヤの賞賛に、ショウタは嬉しそうな様子も見せずに、少し息を切らして、昼過ぎの光の明度を穏やかに落とし始める太陽を見やりながら、ユウヤそろそろ帰るか、と珍しく疲れたように言い、ユウヤもあ、うんと頷いた。  夏休みが明けて、始業日の渡り廊下を移動している時にあの三人組が再びユウヤとショウタの前に現れた。ショウタはまたお前らか、懲りねえ野郎共だな、と下等生物を見るかのような目つきで三人を見る。リーダーは既に頭に血が昇っていて、今にも我慢ならない様子を滾らせていた。おい、この前はよくも恥かかせてくれたな、とリーダーは血相を変えて明らかな憤怒を見せている。 「今度はなんだ、また同じようにされてえってのか?」  ショウタが溜め息を吐きながら言い捨てると、リーダーが息を荒げながら、ふふっと嫌な笑みと笑い声を洩らした。残念だがそうはいかないと思うぜ、とショウタを睨む。何のことだ?とショウタが不気味そうな顔を見せる。 「お前、妹いるんだってな。小学校、あの山裏の丘のすぐ近くだろ」  リーダーが言うと、ショウタは顔色を変えた。何だって、と動揺を見せる。 「それに、お前の親、しばらく帰って来ないんだってな、だから妹ちゃんに何かあっても、早々ばれることはないだろうからな。下校の通学路だって、こいつらに確かめさせてる」  リーダーが嫌な声で笑うと、後ろの仲間達二人がそれに倣うように笑った。何だって、お前、マイに何する気だとショウタは声を上げた。落ち着け、まだ何も手は出してねえ、とリーダーはショウタをあしらい宥める。何でそんなこと知ってんだ、とリーダーに近づき睨み上げる。 「そんな事はどうでもいい、クラスの奴らから聞いただけだ」  リーダーはそう言うと幾らか余裕そうな顔つきを見せて、それでどうする、とユウヤに弱みを掴んだ嬉しそうな顔を向ける。 「お前に俺がここでどういう運命がいいか、選ばせてやる。一個はここで俺達にぼこぼこにされるか、一個は言わなくてもわかるだろ?」  ショウタはそれを聞いた瞬間、酷く悔しそうな顔を浮かべて、何も答えなかった。ショウタ君?とユウヤが不安そうに声を掛ける。よし、それじゃ答えは決まったみたいだな、とリーダーが満面の笑みでショウタを見下ろすと、やるぞお前ら、と後ろの二人組に動きを煽った。  ショウタがサンドバッグにされて渡り廊下に倒れ込む姿を後目に、三人は満足そうに笑いながら校舎内に帰っていった。ショウタ君、とユウヤは彼に駆け寄り、抱き起こす。大丈夫?と掛けるとああ、心配すんな、と顔を腫らせたショウタが咳き込みながら立ち上がる。 「ごめん、何もできなくて…」  ユウヤが言うと、いいんだよ、お前には関係ないんだから、とショウタは思い足取りでユウヤの肩に腕を回して歩き出す。周りでショウタが殴られる様子を見ていた生徒達は、誰一人助けを貸すことなく逃げ去ってしまった。 「それに、下手なことすると、マイが危ねえからな」  保健室へと向かう途中で、ユウヤはそんなショウタの姿を見て、何故か感動を覚えた。友達の為に体を張り、妹の為に負けることを厭わないその彼の姿は、とても穢れなく輝いていた。 「…最低な奴らだね、あの三人」 「ああ、みっともねえったらありゃしねえ」  ショウタはそのまま怪我の手当を受けて、次の時限を休んだ。  その後、あの三人が再びショウタ達の前に現れることはなかった。恐らくあの一件でショウタに勝ったことに満足し、クラスの仲間達にその戦勝歴の自慢でも垂れているのだろう。しかしそれはユウヤにはどうでも良かった。ユウヤは、改めてショウタの立ち振る舞いを称賛した。  そしてそれから数日後の九月下旬に、ショウタは何故か交通事故を起こした。彼は右足を骨折し、街外れの病院に入院した。

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