36

36
 母はミレイが十一歳になる年に、突如として家を去っていった。置き手紙やさようならといった別れの挨拶や言葉などは何一つ残さないまま、ただ忽然と。ミレイは彼女が家を出ていく様子を見てはおらず、というのは母が家出をしたのはまだミレイと父が眠っている明け方のことだったからで、彼女は殆ど荷物を持ったり何か片付けをしたりと準備をすることなく、寝起きからすぐにバッグひとつを提げて家を出ていったため、母が物音を立てることはなく二人は彼女の異変に気付かず目が覚めぬまま、彼女をいつのまにか失ってしまっていたのだった。母がいなくなったことに気付いた朝に、父はミレイを叱咤して殴り母の姿を追って家を出て行った。父は夜遅くまで帰っては来ず、ミレイは一日中泣きじゃくっていた。  母が残していったのは、マルボロ・メンソールの吸いかけの箱と幾つかの化粧品と何着かの衣服と弦の切れたアコースティックギターくらいのものだった。母はギターを弾くのが趣味で、時たまにミレイの前でビーチボーイズやボブディランといったアーティストの曲を口遊みながら演奏を聴かせていた。ミレイはそれがなんの道具だか今ひとつ分かっていなかったが、なんとなく流れる楽しげな彼女の奏でるリズムや音に、自然と身体を揺らして聴き入っていた。 「ミレイが大きくなったら、このギターあげるから、好きなように弾いてね」  そう言っていつか笑った母を前に、ミレイはうん、となんとなく頷いた。  ミレイは母がいなくなって数日後、ある夢を見た。それは確かに夢で、実際ミレイが目にした物事や出来事ではなく実際に起こり得たものではなかったのだが、何故かその夢はこの上なく現実味を帯びていて、今まさに目の前で広がり映し出されているように感じる光景だった。その内容は、母がアパートから出ていくのをミレイが泣きながら追いかけていくというもので、夢から覚めた後は必ずミレイは目元の辺りを赤く泣き腫らしたようになっていた。ミレイはその夢をその日から何度か繰り返し見続けるようになった。  夢では最初、服を外行きの衣装に着替えた母が無言で部屋を出ていくところから始まる。父は居らず、アパートにはミレイと母の二人きりだった。母はいつも決まって黒いフォークロアのワンピースを着ていた。ママ、とミレイは声を掛ける。母からの返事はなく、彼女は心ここに在らずといった様子で廊下を歩いていく。ママ、とミレイは何度も呼ぶがやはり返事はない。気がつけば場面は母が靴を履くシーンわ飛ばして、アパートの階段を降りた外庭の映像に切り替わっていた。ママ!とミレイはとうとう大きな声で叫び、すると母はようやくミレイを振り返る。何?とでもいいたげな表情で、母はミレイを見つめる。どこに出掛けるの?とミレイが聞くと母はどこにも行かないわよ、ここ以外ならどこでもいいのと矛盾した意図の不明な言葉で答える。なんで、どうしてママは出て行くの?とミレイは続けて尋ねる。しかし、母はそれには何も答えずに、顔色ひとつ変えないまま、ミレイが答えを待って黙っていると再びアパート敷地の出口へとまた歩き出した。ねえ、とミレイはとうとう泣きそうな声で母の身体に抱き寄る。彼女の腕を両手で掴み頬に擦り寄せる。目から溢れた涙が母のワンピースの裾を濡らす。夢だからか温度や服の質感はなかった。そうしてミレイが嗚咽混じりに泣くのを続けていると、母は再び足を止めて敷地の出口すぐ側で立ち尽くし、少ししてミレイの顔を見下ろした。ミレイも涙ぐんで崩れた顔で母を見上げる。母はしゃがんでミレイの顔を覗き込むと、ごめんね、ミレイと力なく微笑んで言った。え、とミレイはその言葉を聞き取れてはいたが、母の顔がやけに白い陽射しの逆光に照らされて影になっているのを見て反応に戸惑った。 「なんで、出て行くの?」  ミレイがもう一度そう尋ね直しても、母はごめんね、ごめんね本当にと同じことを等間隔で繰り返すばかりだった。そして母はミレイの頭を少しだけ優しく撫でてその手で両頬を包むように挟むと、ふうと息を吐き出して、またさっきの無表情に戻って立ち上がった。そしてやはり同じ足取りでとうとうアパートの敷地を出ていってしまった。ママっ、とミレイは泣き叫ぶ。再び涙が吹きこぼれて、ミレイの顔中を洪水のようにした。ミレイは何度も何度も何度も繰り返して母の腕を引っ張って連れ戻そうとしたが、まるで力が入らず、気がつけばそのミレイの手は母の身体から離れていた。ミレイは力なくその場に膝を落とし、母の歩く姿と横顔を眺める。母の顔はとてもやつれていて、無気力な様子に見えた。身体は痩せ細っていて、歩く足にも力が余り使えていないように思えた。しかしそれでも母は歩くのをやめずに、先の見えない道を、アパートからずっとずっと遠くの方まで進み続けて行った。  その母はどこか、あのアパートの家から出て行きたいというよりは、もちろんそれもあるだろうけど、何かに吸い込まれるように魂の抜けた肉殻みたいに宛の見えない場所へと連れ去られようとしている姿にミレイには見えた。得体の知れない何かに、それはミレイには分からなかったけど。母はそんな風に生気のない人形のように虚ろめいた顔つきをとうとうこちらからは見えないように前に向けて、黒く胡麻の粒のような点になってぼやけた画面のせいで住宅街の路地とも道路ともつかぬ直線上の永遠の奥端に消えていった。母は無言として二度とこの場所には帰らないという断固な意思を底はなとなく感じさせる後ろ姿を最後まで貫き通して見えた。それでもやはりとミレイが声にならない叫びを母に投げ掛けたが最後に、その夢は終わり、白昼の幕を閉じた。  そしてその夢を見終えた翌日の朝、ミレイはいつも冷や汗と熱にうなされた後のような寝起きのものとは違う身体の気怠さを感じながら、重い瞼を半分開いてその目を擦りながら自分を起き覚まし、何ともいえない一日を始めるのだった。
アベノケイスケ
アベノケイスケ
小説はジャンル問わず好きです。趣味は雑多系の猫好きリリッカー(=・ω・`)