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 ある日の夕方の日没前、ケンイチは荻野家の広い庭地に特設されたバスケットゴールにシュート練習を兼ねてのボール遊びをしていた。空は暗と明橙のグラデーションが曖昧な層になっていて、その中を行く鴉や鴎たちもどこか羽を重そうに広げて、気怠そうな鳴き声をあげていた。  およそ百三十回目のゴールシュートが惜しくも網を掠って、ボールが草茂みに弾んで転げていった時、玄関の方からケンイチ、夕飯の時間だから戻って来なさいと母のケンイチを誘い呼ぶ声が聞こえた。ケンイチは特に返事をせずに、茂みのボールを家裏の物置に放り投げて片付けると玄関に向かい家の中へと入った。  モスブラウンの漆喰壁で造られた廊下は長く広く、毎日その景色を眺めてリビングやその他の部屋に向かう為歩いていくのが、ケンイチには億劫になっていた。なんで金を持った人間ってのは、すぐに大型のロビーやマンションみたいな一戸建てを買い上げて住み出すようになるんだろう。家なんて、風呂とトイレと六畳か八畳一間、それと二人くらい入れるスペースのキッチンがあれば充分に暮らしていけるのにとケンイチはいつもそんなことを考えては、靴を着脱しながら溜め息を吐いていた。全く嫌なのは、自分の親がその類の人間であることだった。  ケンイチは手を洗うと、すぐにリビングへと向かう。リビングに入るとひと先目につくのは、縦長のアンティーク趣味の木造テーブルとその色調に合わせた風体の何脚かの椅子を越えた向かいの壁にある、黒い孔雀の絵画だった。ケンイチはもはや何も思わなくなった。かつては、なんでこの家にはこんな変な絵画が飾られているんだろなんて思い、それが何か気味の悪い当家の思想を暗示しているのをまるで全て察したようにケンイチはその絵を反射的本能的に毛嫌いしていたものだったのが、今やそれも見慣れた一つのインテリアに過ぎず、幾ら考え込んでも仕方のないことだった。そしてその気味の悪い思想という表現は粗方間違ってはおらず、それどころかまさにそういう言葉が合致している真当な物に思えた。  ケンイチは視線をただ自分の歩く先にだけ向けて、極めて規則的に繰り返す日常に他ならぬ動きで、数ある椅子の一つに座った。テーブルの上には既に沢山の大皿の料理が用意されている。手前からビーフストロガノフ用の具材、イベリコ豚のステーキ、オマール海老のオリーブオイル仕立てのソテー、ラクレットチーズのソースのかかったシーザーサラダ等、非常に豪華な食卓風景といえた。テーブルの中央にある年季の入った燭台がそれらを暖かく高貴な蝋燭の火で照らす。ケンイチはまた牛肉と豚肉の料理か、とそれら目の前の肉料理を眺めて、心の中で落胆を覚える。ケンイチはこの毎晩と振る舞われる数々の品物に、既に飽き飽きしていた。荻野家の食卓には一切の鶏肉料理が並ぶことはなかった。  少しして父が、新聞紙と眼鏡の度数調整を小文字用にセットした取り外し型レンズを持ってケンイチの左斜め前に座り込んだ。父は頭髪が薄く、小さな丸眼鏡の奥には、目蓋の重いいつも眠そうな目つきが控えている低身長でも高身長でもない平均的と言える体つきで、何年か前まで独自の護身術教室の講師を勤めていた四十五を今年で迎える男だった。ケンイチはそんな父の姿を訝しげに一蹴し、すぐに視線を手元に逸らす。父は新聞を広げて読んでいた。  しばらくして、料理着を脱いだ母と自室での勉強を終えた弟がリビングに入って来る。それぞれケンイチと父の隣に座ると、荻野家の四人は手を合わせて食事の儀礼を行なった。片方の握った手を片方の掌で覆い目を十秒ほど瞑るというもので、この儀礼はケンイチが物心ついた時にはとっくに強要され、行われているものだった。そうして儀礼が終えると、四人はいただきますと言って各々丁度良い時刻の夕飯に手を伸ばした。  静かに食器にそれぞれの手が伸ばされる中で、ケンイチはつまらなそうにイベリコ豚のポークステーキに手を伸ばした。皿に一片を取り分けると、仕方なさそうにフォークで刺して口に運んだ。噛み応えのない食感と胸焼けする程の脂が口の中を占める。ケンイチはそんな中今日も、鶏肉の料理が食べたいのにな、と思っていた。もう豚や牛や魚やそんなのはいいから、とにかく鶏肉が食べたい。というか、食べてみたい、と思った。ケンイチは生まれてこの方鶏肉を食べたことが一度もなかった、というのは過言で、実は何度か弟や両親に隠れて他所の店で買い食いしていたことがあったのだが、いつかの日に学校の同級生に告発されて厳重な処罰を受けて以来、なんとなく食べ辛くなってしまっていた。自宅内では勿論、学校内ですら禁止されている鶏肉の食事をケンイチはある種カリギュラチックな面もありつつ、望んでいた。そしてまた早くまた鶏肉が食べたいな、と思い続けるに至った。食べたい、とは言っても何でも良くはなく、それは例えばローストターキーや合鴨のステーキ等ではなく、唐揚げやフライドチキンや焼き鳥といった、この家では貧相な物と捉えられている料理達に、ケンイチは憧れた。いつか食べたフライドチキンのチェーン店の股肉の味が忘れられなかった。 「どうだトモヒロ、中学校の入学試験の勉強の調子は」  父が弟に目をやって聞くと、弟はうん、順調だよ、とコンソメスープを飲みながら答える。そうか、それは良かったと父はビーフストロガノフの具材を乗せたバゲットを一口運んだ。
アベノケイスケ
アベノケイスケ
小説はジャンル問わず好きです。趣味は雑多系の猫好きリリッカー(=・ω・`)