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母がアパートから出て行った二日目後の夜方に父から相変わらずの最早日常とさえ言わずともといった殴打蹴打を受けた日から一年が経ち、ミレイは小学六年生になっていた。今日も変わらずに夜が明けて、ミレイは父がいつもの如く宛てもない女遊びやら飲み歩きやらパチンコやらにふらふら出掛けて行った後で、自分も気晴らしにと部屋の外へ散策に出掛けた。アパートの階段を降りると、秋の終わりから冬の始めにかけて流れ吹く独特の冷たくなり切らない温度のだけども肌寒い朝方の風がミレイの晴れた横頬を掠めた。天気は晴れていて、青くはないが雲の細々と散らばり浮く白い透き通った空が広がっていた。
ミレイはアパートの敷地を出て、左方向の住宅街の方角へと歩き出す。並木の落とす紅い枯葉を踏むと、焼きたてのパンを噛んだときのような音が鳴った。進んで行くうちに閑散とした今や雀や燕の巣作りの本拠地とさえ化したシャッター街が背後へ取り残されていき、数十メートル程で亡き商店達は視界から姿を消した。商店街を抜けると、幾らか一足が多く見えるようになり、車両交通の盛んな住宅街へと踏み入る。ミレイはいつもここを通り過ぎる度に、果たしてこの家々の中にはどんな人々が暮らし住んでいるんだろうと何気なく感じて思った。自分のように、理不尽で不公平な家庭内暴力なる意地汚い犯罪を受けている人が、一体どれくらいの確率でこの街、いや世界中には居るんだろう。若しくは家族のうち誰かが何かの喧嘩の理由に家出をして、孤独になった夫や妻、そして子どもや御年寄、そんな人は一体何人くらい居るのだろう。ミレイはそして今日も改めて自分がいかに父、それは血筋や遺伝的にこそ自らの実の父親と呼ばざるを得ないのだけど、その存在に人権や生存権を迫害、妨撃されながらもその魔の手から逃れる術なくなんとか息絶え絶えにあたりまえに過ぎ行く時間や時代の中で生きているのかという実感を覚え、残酷な現実を目の当たりに認識するのだった。それでまたその辛苦の深闇さに絶える事のない溜息を吐き出しながら足を動かしていた。
住宅街は大体いつも父が家に居ずに、というか基本的に父は平休日問わずに家に居座ることはないのだけど、そして自分が学校のない週末またはどうしても登校する気になれずにずる休みをして暇な余裕のある日にミレイが時間潰しの為に散歩のルーティンルートとして出掛け歩く定番の道のりだったが、今日はなんとなく同じ所を歩く気分にはなれず、ふと一つ別な通りに向かって散策をすることに決めた。因みに今日は土曜日だった。ミレイは三階建ての白とオレンジの煉瓦が市松模様の様に組み合わせられて建てられた居住家を右に曲がった細い路地に入っていった。狭い道だったが陽射しは良く当たっていて、影の暗さはほとんど無かった。そのまま道なりにただ目的も無くミレイはその細道を突き進んでいく。やがて左右の石垣やコンクリートの塀が無くなり、車一台分が通れる道に出る。近くには用水路の堀があり、濁った水が音を立てて空を反射して流れていた。
用水路の横をガードレール沿いに進んでいくと、何やら見覚えのない建物が視界に入ってきた。といってもこの道を歩くのは初めてなのだからそれは当たり前かもしれないが、それにつけてもこの近くを歩ったことは少なくともあるわけでその際には一度も目にした事がない建物だったため、ミレイは思わず足を止めてその外観を眺めた。建物は用水路沿いを抜けた先の緩やかな坂道を登った先にあるらしかった。早速その方向へと進み歩く。
坂道を登り、徐々に目的の建物が近づくにつれて、ミレイの耳に誰かの話し声が聞こえてくる。それは子どもたちの声だった。男女共々の子ども特有の甲高い笑い声や燥(はしゃ)ぐ声が騒がしく坂の周辺に響く。やがて建物の前に辿り着くと、そこには緑の草花のフェンスで囲われた、ミレイが通う小学校の校舎の三分の一程の大きさのクリーム色の施設が建てられており、その横には駐車場の他に広いグラウンドがあってそこで騒がしい声の正体である子どもたちの戯れる生活音が鳴り響いていた。ミレイはフェンスから思わずそのグラウンドの子どもたちの様子を眺める。幼い年頃の子ども達から、ミレイと同い年か少し上くらいの中学生のような男女まで、それなりに幅広い年代の子達が屈託なく一心になってボール遊びやら駆けっこやら鬼ごっこやらの屋外運動を童心そのままに楽しんでいた。その光景に、ミレイは瞬間一人胸を打たれた。なんて希望に満ちているんだろうと思った。今この場所で繰り広げられる景色は、どうしてかこんなにも闇の一片すらない暗い社会の喧騒を感じさせずに失き物として既に葬り去ったかのように燦々として煌めいて、輝いているのだろう。ミレイはそのグラウンドの子どもたちの騒がしい姿に、気付けば強い羨望を抱いていた。
ミレイは施設の出入り口を探して、裏に回り込んだ。施錠型の門などは見当たらず、代わりにカラーコーンとコーンバーが何個か無造作に並べられているだけだった。出入り口の横のフェンスに設置されたプラスチック看板を見ると、「林檎農作物育成場併設孤児院アップル・ハートフルハウス」と丸みのある字体で記されており、その周りには色や形や大小様々な手書きのりんごの絵が幾つか描かれていた。それはきっと、あの施設内で遊ぶ子どもたちが描いたものだろうとミレイは気付いた。そうか、ここは孤児院なのかとミレイは看板と建物を交互に見やる。フェンス内の建物の周辺には紅葉の木々や草花が群生していて、この場所では子ども達は皆んな緑に明るく自然と共に暮らしているんだろうと思い、その空気を吸おうと深呼吸をした。何かの花の香りがした。
そしてミレイはまたグラウンドの方から聞こえてくる子ども達の声を聞いて、思わず自分もその中に混じってみたいという感情を抱いているのを自覚していた。しかし果たして自分のような者が勝手にこんな所へ踏み入れて行ってしまっていいものなのだろうかと今ひとつその内地へ歩み出せないでいた。そんな風にどうしようもなく決めあぐねていると、突然建物内から施設員と思われる人が姿を前に現した。その施設員は見ると若い女でミレイの母よりも少し下のようにも見えたが、実際には三十五歳と母よりも五、六歳程歳上の人だった。
施設員の彼女は、手に落ち拡がる枯れ葉を掃除する用の箒と塵取箱を持っていて、ミレイの前に掃き掃除をしながら近づいてきた。するとミレイの立っているのに気が付いたのか、顔を上げると掃除の手を止めて、ミレイの姿を眺めた。あっとミレイは思わず声を洩らす。施設員は何も言わずに、不思議そうな顔つきでミレイを見つめている。
「あ、あの…」
ミレイが何から話すべきかと声を辿々しく詰まらせていると、その様子から何かを察したのか施設員はねえ、と腰を上げてミレイを見下ろした。
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カテゴリー: 恋愛・青春
投稿日時: 2025/11/13 14:22
最終編集日時: 2025/11/15 4:26
アベノケイスケ
小説はジャンル問わず好きです。趣味は雑多系の猫好きリリッカー(=・ω・`)