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あの奇怪不気味極まりない病棟から逃げ出して早一年と数ヶ月後のある日、ケンイチは何ら荷物も持たずに地元を離れた街外れの通りに来ており、冷たい風の吹き始めるコンクリートのざらつく道路脇を一人歩き続けていた。というのは、この通りの先に在る建物に用事があった為だったが、その目的とはさも無謀にも思える事と周囲のまともな視線からは見えるだろうが、それは彼ケンイチにとってはどうだっていい一般論に過ぎず、今の彼にとっては今自分がこうしてそこへと向かって行く事こそが自らの一変一新に助手し、また今の彼の中に踞る未だ晴れぬ重い暗い過去過去の辛苦の生塊をいま一度打開し以前の自分らしい自分を取り戻すべくその第一歩として踏み出される唯一の手段であり役目だった。それはきっと大した理由も意味も、実はそこには含まれていないのかもしれない。だけどケンイチは、この胸中の曇暗を何とかしない限りはやはり自分は自分手間はなくなってしまうだろうとそんな理由なき理由、意味なき意味のためのただ自己の心の成りゆくままに動く意識、行動に身を委ねて足を止めずに突き進んだ。
ケンイチは病棟を抜け出してから、離れた街の一角の小じんまりとした格安のアパートを借りて生活を始めた。ケンイチは特に仕事などは専ら手にはしていなかったものの、彼の元に入ったそれなりの額の賠償金で生活費を賄っていた。その金額はかなりのもので、贅沢をしなければ一年弱はなんとか家計に回せるだろうといった感じの残高となっていた。賠償金とそのの出元は、ケンイチがあの忌まわしき病棟で被った致死傷事件の背表一部始終に紐付けられていた。ケンイチが当日コーンスープを口にした際に過呼吸、性急な動悸、その他酷い寒気など身体的被害に至ったのは、彼の口にしたコーンスープの中にあろうことか彼の息の根を止めるべくして混入されたとある毒薬が原因だった。果たして誰が一体それを彼に服用させるべく使用するに施したのか。その犯人は、ある一人の黒孔雀会の幹部の男だった。男はケンイチが当病棟に入院しているのを知り、特殊な方法で棟内に新規の医療従事者として潜り込みケンイチに毒を飲ませ彼を殺害する企てをして右のような犯行に躍り出た。男の目的は、ケンイチを始末することで、この先の彼による当教団の活動の阻害、妨悪行為を早い段階で処理する事だった。しかし男はそれに悔しくも失敗し、逮捕されて刑務所へと送檻された。事件を知った黒孔雀会はケンイチがあくまで当会の幹部だった者の息子であることを致し方なしに尊重し、それを表すべくケンイチに対して多額の賠償金を支払い、彼からの世間に対する教団内のあらゆる闇業務、取引行為等を口止めしそして彼に今後として関わられないようにという酌量として試みたのだった。ケンイチは藪から棒という風にその結果に甘んじて、すぐに事件の事など忘れて次なる自分の目的へと視界を拡げた。
というような様子で暮らしは楽ではないが、かと言えば然程徒労に暮れるようなものでもなく感じられ、ケンイチは彼なりに気ままにその居住地で日々を過ごした。とは言ってもただ呑気にのんびりと過ごしていた訳ではなく、彼の内にはある目的がかつて存在し、状況がひと段落したところで彼はふとそれを思い出して、自分がすべき衝動に駆られたのだった。その目的とは、ケンイチが自らこの手で、彼ら黒孔雀明聖会及びそれに連なる各教団を滅殺することだった。ケンイチはその目的と共に夜毎、あの自宅の寝室で無惨この上なく首を垂れて死んでいた母の直視無謀な姿に対するとてつもない後悔や、忌々しさを述べればきりがない人格終焉の権化の父親に向ける煉獄烈火の怒涛の憎悪を脳な胸や五臓六腑に思い起こさせていた。ケンイチはその感情を思い出し、すぐにまず今は最早整頓の満たない一律を保ったまま空き家となっているかつての荻野家の建宅を訪ねた。敷地内外には至る所に規制線が張られており、ケンイチはそれらを跨ぐ潜るなどして居住地内に侵入した。誰も警備などは一人もおらず、それはそうだろうとケンイチは気を留めずに家の中へと入った。
ケンイチはそして父親の書斎に踏み入り、彼の所持していた黒孔雀明聖会に関連する凡ゆる資料やら書籍やらを片端から盗み出してアパートへと帰宅した。盗むと言っても、父は愚か見張りでさえ誰一人としてケンイチを監視するものは居らないのだから、何ら問題を気にする必要はなかった。
そうして帰宅するなりケンイチは即座にそれら黒孔雀会の活動理念に付随する物達を元手に徹底的に当教団についての概要や活動等を調べ上げていった。調査は一年もあれば余裕だった。ケンイチは遂に黒孔雀会の本領本拠地を特定し、その翌日に本拠地への乗り込みを実施することを決意した。
そして話は戻り、ケンイチは正に今現在その黒孔雀会の本拠地へと孤独に足を向ける最中というわけだった。教団の本拠地は、僅かにケンイチの住む街の居住通りから離れた山麓の入り口から連なる広くもない山道を登って行く先の閑静な丘の上に設け構えられており、その姿はまだ目にはしていないが、かなりの大きさを誇るものだと推測された。しかしケンイチがようやくその山麓に近づいて行こうにも、肝心の本拠地の建物は辺りに生い茂る林並木の壁に意図的に覆い隠されている様に全く以ってその全貌の一部すら確認できないという状況だった。その為ケンイチは、よっぽど厳重な整備が施されているらしいと、彼なりに事態を慎重に伺っていた。ケンイチは適当な量販店で買ったフレームとレンズの厚い瓶底の伊達眼鏡と、口元を隠すべく手にした輪郭にアンフィットなマスクを着けて、出来るだけの変装を装い、更に目的地の丘上へと向かった。
丘の上へと辿り着き、ふうと微かに重くなった足取りに息を吐く。辺りを見やると、確かに言われてみれば立派に正当な教会、若しくは何か国家秘密の被験体対象者に対する研究の行われていそうなアンモラルな出立ちの不気味な政府陰営の施設にさえ見て取れる薄気味悪い空気の漂わせる巨大な窓や扉の疎な大理石の建設物がその腰を森林丘内に確固として下ろしている他に、何ヶ所か同じ敷地内に幾つかの搬送物資保管倉庫や街灯、そして駐車番号や白線のはっきりとした駐車場が広々と停車する車両に見合わぬくらいの面積で視界を占領している光景がケンイチの目に留まった。ケンイチはよくこんな建物が街外れとはいえ仮にも住宅街を抜けた先にあるただ国内一片の山中にひっそりと埋め隠されているものだとその教会の存在感に息を呑んだ。
ケンイチは慌てずに、いつもの足取りで敷地内へと入って行く。入り口には「黒孔雀明聖会第一教会及本部指揮館」とくっきりとした石文字で彫銘された建造物が建っている。ケンイチは真っ直ぐに突き進んで、教会の入り口と思われる大きな両開きの格子玄関口へと向かう。流石のケンイチも今日ばかりは全身に緊張が走った。それが何処からともなく見張られているかもしれない監視カメラや監視員に下手に伝わらぬように用心し、彼は一心に足を進めた。
玄関口には、二人の恰幅の良い警備員と思われる男が左右扉を対象に並んで立っていた。彼らはケンイチを見やるなり、おい、そこの君止まりなさいと低く重く厳かな声を上げた。ケンイチは勿論怪しまれぬべくその場に足を止める。
「君、一体この場所に何の用かね」
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カテゴリー: 恋愛・青春
投稿日時: 2025/11/6 11:24
最終編集日時: 2025/11/11 14:12
注意: この小説には性的または暴力的な表現が含まれています
アベノケイスケ
小説はジャンル問わず好きです。趣味は雑多系の猫好きリリッカー(=・ω・`)