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 中学校生活が終わりに近づいた頃に、自宅の方から穏やかでない事態の空気が香ってきたのを嗅ぎつけて、ある朝ケンイチはかなり久々に自宅へと足を踏み入れた。すると事態は言葉を失うもので、両親の寝室で母が首吊り自殺をしていた。それは突然の出来事で、それまで一切の彼女の死を匂わせる様子など感じなかったのに、母は間違いなく首を縄紐に括り掛けて頭を項垂れ、乾き切った長い髪の毛と開いたままの口と瞼と瞳孔、唇から渇いた涎の跡を見るに耐えない姿で立ち竦ませていた。  ケンイチは流石に驚きを隠せずに、声の一つも発せないまま一体何が起こったのだろう、と取り敢えずこの狂荒とした状況を独り落ち着き冷静に考え理解してなんとか納得しようと試みたが、やはり厳しかった。ケンイチは母のその残酷さ極まる宙吊りの姿を全貌するなり即座に身体中から血の気が引き、堪えることのできない吐き気を催したのを覚えた。それはあの、小学生の終わり頃に自分の小遣いで購入し飼いはじめた愛すべき家族そのものといえたダックスフンドのサンディが憎き父に殺された日の生ぬるい空気の午後に覚えたあの強烈な吐き気と相違無かった。ケンイチはそして我慢できずにまた吐瀉物をその場に吐き溢した。それは思い切りに音を立ててベッド下に敷かれた高級なペルシア製糸品のカーペットの花と鳥の混じり合った模様の部分を汚して、粘液をその中に浸透させていった。只々嫌な匂いが部屋中には広がり、ケンイチはいつかにこの本能的な強い吐き気が治まるのを待ち続けながら、込み上げるもの吐き続けた。しばらくしてそれはようやく治まり、ケンイチは口中に胃酸液の苦味酸味が広がり干潮をつくっているのを感じながら、もう一度天井から吊り下がり浮かぶもはや微風では揺れさえしない程に硬直した母、それは紛れもなく実の母の姿で、その姿を直視した。先ほどのような吐き気こそしなかったものの、やはり驚きは収まらずにケンイチはしばらくそれからもその場に成す術なく蹲った。一瞬、この人間は自分の母ではなく、もしかすれば母に良く似ている何処か得体の知れない他県の地域からやってきた謎の人物なのではないかなどという愚かな偶考を張り巡らせたが、それは全く以って虚しい幻想に過ぎず、今の前で死んでいる彼女は確かにケンイチの母だった。母は廃物になったロボットですらしない固まった冷たい残酷な皺のある視線と表情を、見上げるケンイチに見下ろす形で向けていた。  現時点に家にはケンイチといつの間にか自殺を済ませた母の遺体二人だけが存在し、弟は学校それに父はいつも通り黒孔雀明聖学会の会行事に参加していて当然こんな残酷な状況を知る由もなかった。  その日の午後、夕暮れ入りの時ケンイチは現実逃避も兼ねて自分の今の家である離れた物置の中で体を震わせながら、部屋から持ち出してきたカセットプレーヤーで好きなクラシック楽曲とその他に何曲かのロックやダンス・ミュージックを聴き続けていた。全てが再生を終えても、また始めから掛け直し、何度も耳に流し入れた。それは夜になっても聴き続けるつもりで、例え夜が明けたとしても、自身のこの震えが止まるまで聴き続けるつもりだった。この耳慣れた音楽を聴いて、自身を安心させて、この直視し難い現実から少しでも意識を逸らして音楽によりその意識を掻き消すべくこのような行為を実行して繰り返していた。  やがて時刻は夜になり、習い事を終えた弟と父が殆ど同じタイミングで帰宅した。ケンイチはその様子を覗き見ることもなく、ただ物置の中で音楽を聴きながら、寝室に取り残された母の惨体を残したまま、彼らはどんな反応を果たしてするのだろうか、と冷汗を掻き、深呼吸しながら待ち続けた。自分が殺したとでも思われるのだろうか、だったらそれでも別にいいとケンイチは思った。もはやこの家での自分の存在意思や尊厳には興味は更々なく、冤罪で捕まったとしても何の未練もないとケンイチは胸に留めていた。明日なんか、永遠に来なければいいんだ。  しかし当然ケンイチに冤罪の容疑が掛かるわけもなく、母の死因は明らかな自殺によるものだと検察により事態は確証された。そしてその後日、ケンイチは何故母があの日突然に自殺を決行したのか、その理由がなんとなく把握できた気がした。それは確実ではないかも知れないが、それ以外の理由が見当たらないこともまた事実だった。その理由とは、父の浮気、不倫である。というと、ケンイチは父の浮気やら不倫をたった今知り得たように聞こえるかも知れないが、実はケンイチは父の不貞については以前からそれとなく嗅ぎつけていて、いつかそれを種に父を甚振ってやろうと思っていたのだった。  父はおそらく一年程前から、自身の秘書と嘯いて、それはもしかしたら本当かも知れないけど、ある若い女を家に何度か呼び出していたことがあり、その日数は月毎に増えていっていた。ケンイチや弟も、その女と父が母に隠れて自宅内のどっかで密会を夜な夜な行っているのを知っており、ケンイチは相も変わらず惨めな野郎だと思って冷めた視線を向けていただけで済ませていた。しかしそれが仇となりまさかこんな事態になるとはケンイチは予想していなく、その日々を思い返す度に後悔の念に明け暮れた。母もおそらく同じ頃から父の不倫を周知していただろう。母は初めのうちこそそんな父と何処の馬の骨とも知れない嫌味な女とのあれこれを無視していたものの、とうとう苦痛に耐えきれなくなり、自分のこの家での存在意義が確続できなくなってついに自ら死に至る事を選んだのだろう。そして母が死んだ今こそがその時だと思ったケンイチは、母の葬儀が取り行われる予定日の一週間前にそれでも飽きもせず嫌味秘書女と父が密会している場に突撃して、父をあろうことか半殺しにした。父は部屋に割り入ってきたケンイチに動揺し、なんだ急に、と女と共に優雅な時間を邪魔された不機嫌さとケンイチが見るからに内心穏やかな様子でない空気を纏っているのに不穏さを感じ取って、ケンイチを睨み返した。今大事な話をしている、くだらない用なら帰れ、と父が口にした瞬間、ケンイチはあっという間に父の片頬を思いきりに殴った。父は眼鏡を落として歯が折れたのか、口から血を吐き出してそれが密会部屋のテーブルやソファやはたまた隣に座る秘書女の白シャツの胸元に飛び散った。女は突然の出来事に絶句し、声にならない悲鳴をあげていた。眼鏡を手に取り起き上がろうとする父に向かってケンイチはすかさず再び殴打を行なった。殴る度に父が何かを言おうとするが、構わずケンイチはひたすらに彼を嬲り続ける。ま、待てっというもはや掠れて小声にすらならない父の声に耳を貸さずケンイチは徐々に鼻血や内出血に塗れていく父をこれでもかと、とにかく自身の気が済むまで殴り続けた。時には殴るのではなく、花瓶や変妙な名もなき絵画の飾られた煉瓦の壁に掴んだ父の頭を押し付けて衝突させるのを反芻させたり、床に彼を足裏でもって踏み躙り、背中から尻部やら首元などをその骨ごと打ち砕くかのように蹴りつけ、殴打した。女はその様子を最早その目に信じられないような阿鼻叫喚の様の顔つきで、小便でも漏らしそうな全身の震えで眺めていた。この部屋から抜け出す力さえ抜けた腰と共に失っているようにも思えた。かのようにケンイチの中では父にはまだ愛犬を殺された怨みが依然と晴れずに残ったままであり、それが更なるユウヤの怒気を買い呼び起こし、増幅し滾らせて致命傷という形で父に降り掛かった。  やがてケンイチによる父の制裁は終わり、父はその場に仰向けになり項垂れた。部屋中に彼の血飛沫や吐瀉物、涎や汗の嫌な臭いが充満して、何とも言葉にし難いような光景が映し出されていた。ケンイチは息を切らして高鳴る鼓動と共に、血まみれになって意識を失う寸前の父を見やった。両拳や顔には彼の血が民族紋様みたく付着している。  父は何も言わなかった。というかすでに何か言葉を発する気力すら残し持っていないようだった。しかし手の指先は、微かにぴくりと痙攣している。死んではないようだとケンイチはその点だけに安堵し、鼻水を擦りながら部屋の出口に歩いていく。ケンイチが部屋から出ようとした瞬間、父は喉の潰れたような掠れ声でおい、待てとケンイチを呼び止めた。ケンイチは振り返らずに歩を止める。 「…おま、え、はお前、は、い、いっ一家の、……は、はじさ、はじ、っ恥晒し、だっ…」
アベノケイスケ
アベノケイスケ
小説はジャンル問わず好きです。趣味は雑多系の猫好きリリッカー(=・ω・`)