たけみや もとこ

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たけみや もとこ

たけみや もとこです。2000〜5000字くらいの読み切りを中心に載せていきます。ジャンルは何でもありです!

飛行機少女

 葉焼けを起こした黄色い草むらに、ペットボトルを放り投げ、飲み干したばかりのコーラの甘ったるい味を、舌の上で転がした。  僕は木陰、  銀色のベンチ、  濡れたTシャツ、  オールシーズンの半ズボン、  丘の下に捨ててきたランドセル、  とっくみあうカマキリとショウリョウバッタ、  そのすべてである。  スニーカーの五メートル先、裸のペットボトルがある。  ねこじゃらしの群れのなか。  手を使うのは禁止。  立ち上がる。ふくらはぎに花穂がこすれる。大きな椎の木の陰を抜け、お日さまの下を走る。丘はあまり高くない。運動神経のいい子が駆け足で登ってきたら、すぐに頂点のこのベンチにまで手が届いてしまう。  敵は敏捷だった。  僕も急いだのだが、間に合わなかった。  すこーん!  元コーラ、内容量五百ミリリットル、今は身ぐるみ剥がれて空っぽになったペットボトルは、白いシナモロールのサンダルに蹴られ、宛てもなく高々と舞い上がった。透明なボディを日差しが貫き、緑の丘の下へ転がしていった。 「勝った」  満足げに額の汗を拭う少女は、同級生だ。 「拾ってこいよ」 「ポイ捨てしたの、あんたでしょ」  どの木に隠れ、息を殺して、見上げていたのだろう。わが一挙手一投足を。  ただコーラを飲み、ベンチと一体化し、目は閉じたり開けたり。剥がしたラベルをもてあそび、「ゆううつな午後だ」とか退屈しのぎにもならないことを、風に任せて呟いていた。意思のない行ないばかりできたら幸せな人生、おかしな願いをこめ、ペットボトルを遠くへ投げた。その回転を目で追い、もし気が向いたら涼しいベンチを立って豪快なゴールキックをしよう、先月のワールドカップ・ドイツ大会で大活躍したイタリアのGKブッフォンみたいに、と考えていたら、最高速度に達した君が、丘を駆けあがってきた。反応が遅れシュートを決められた。世界が驚くスーパーゴール。三百六十度に開かれた、大自然の枠のなかへと吸いこまれていったのだ。 「またむづかしいこと考えてるね!」  ランドセルを野に放置するような、放課後友達と遊びもせず人気のない公園で暇をつぶしているような、ジーコジャパンに憧れて入ったサッカークラブをたった三日でやめてしまうような、ぐちゃぐちゃの小学五年生の頭が考えることだ。むづかしく、ないに決まっている。最近は、この人の前だと言いたいことが一つも言えず、考えなくていいことをたくさん考えてしまう病気。そっとしておいてくれたらたぶん治る、でも会えたからにはどこにも行かないでほしい。僕は、恥ずかしいやつだ。  答えがないので、彼女はしゅんと目を伏せた。いつも怒っているのに、声が高いのに、腕っ節ならそこいらの男子にはそうそう負けないだろうに、あなたは、うまく人と話せなかったと感じた時、不思議なほど落ちこむ。お下げの色が、日焼け対策を怠らないまっ白な肌のつやが、褪めていく。気まずさが目に見えるようで、居たたまれない。  ごめん。  口を衝いて出た言葉は、向うが言おうと決めていた台詞と同じだったのかもしれず、明るい瞳が揺れていた。 「聴いちゃった」 「今日のこと?」 「うん」 「笑っただろ」 「笑えなかった」 「そう……」  それ以上の返事が僕にはできなかった。でも何か尋ねられなければ、僕が語るべき話は全くなくなってしまうのだった。  カラスが鳴いて横切る空に、ぽっかり浮かぶ昼間の月。  工業高校の終業チャイムがかすかに響く。  汗と諦めの匂いがする沈黙。  登校日の時間割は午前中だけだったのに、二人はとても疲れていた。  八月六日の平和学習、今年は原子爆弾が落ちてくるアニメ。毎年見慣れた、予算が少ない実写映画よりもずっと恐ろしい画の連続で、去年までやれ演技がオーバーだの演出が寒いだのと通ぶって批評していた悪がきたちが、青ざめた顔をしてスクリーンに見入っていた。でも視聴学習が終り、感想文を書く時間になると、みんなもう午後何をして遊ぶかの話でひそひそと盛り上がっていた。僕だってそう、悪がきの前では悪がき、先生の前では優等生、他人に化けることがアイデンティティーの、痩せたこうもりなのだ。僕を最初にこうもり呼ばわりしたのは母だった。スーパーの安価な服売り場で、九百円の黒いメンズシャツを買ってきて、息子に着せた。サイズは大人のM、百四十五センチのモヤシに引っ掛けても似合わないのはわかっていたのに、落ちた肩、余った袖を見て笑い、「栄養失調のこうもりね」。母は非常に口が悪い。悪いところは、それくらい。  夏休みに入り、真っ黒に日に焼けて、モヤシっぽさはずいぶんなくなってきたけれど、線の細さ、力の弱さ、それに何より、都合のいい姿に化けて難を逃れようとする小賢しさはそのままで、だからこそ二週間ぶりの学校もつつがなく終りを迎えるのであろうと信じていた。もとよりヒーローという気質ではない。むろん悪がきとも、優等生とも異なる。言うなれば演技派、事なかれ主義、空気、大勢に影響を与えない能力にかけては右に出る者はいない、貧相な少年だったのだ。  大きくなってから、人に叱られたことがあっただろうか。人を泣かせたことが、困らせたことが。通知表は親に見せられる程度、運動神経は十人並。大人に目を付けられないように生きる術を、周りより少し早く身に着けることができた子供。こういうのは頭がいいとは言わない、要領がいいと言う。小五にしては上出来、これからも自分の不注意によって傷ついたり、人を傷つけたりしなければ、僕は意思のない幸せな人生を満喫できていたはずだ。すべてが今日変わった。僕はもう、こうもりではない。 「顔、赤い」 「ほんと?」  頬を撫でてみたが、それで自分の顔色がわかるわけもない。頭が鈍っている。 「充分、冷やしたと思ったんだけどな。……かお」  あたま、と言わなかったのは、ちっぽけな意地。  シャツはキティでサンダルはシナモンって、なんだか徹底していなくて好きだ。淡い水色の生地が風にはためく時、僕の視界は前髪に遮られる。伸ばし続けてシュンスケみたいになれたらいいと思っていた。そうなるには、髪質があまりにストレート過ぎた。ひたすら邪魔くさい、きのこ。 「叩いた? 殴った? 蹴った? ねえ」 「叩いて、殴って、叩かれて、殴られて、蹴られて、でも蹴り返さなかったよ」  どうして、そんなうきうきした目で、僕を見るのだ。  負けいぬは独りで公園にいた。体じゅうの血がたぎり、何をしても頭が同じ場面を見直させた。やり直せるとは思えない、だから次は、復讐だ。ダメだよねえ憎しみの連鎖は――アニメを見せ終った先生が自分の台詞に歯を浮かせてしまい決まりの悪そうな顔。臆病な僕の手足は震えてやまぬ。帰りの会の机の下で、下駄箱で、煙草屋の前で、公園の丘のベンチで。君がペットボトルを空へ向けて蹴った瞬間、嘘のようにおさまった。 「泣いたのが、まずかったかなあ」  綿雲に手が届きそうだ。あんなに高い青のなかに。  泣いたのはまずかった、涙が枯れるのに時間がかかってしまった、でも思いを抑えつけ、なかったことにするよりよかった。その後、丘に迎えが来た。  あるいは、初めから君は見ていたのかもしれない。教室でむりやり止めた涙の残りを、木陰のベンチではしたなくぼろぼろと流していたところ。放り投げたペットボトルのサインに気づき、勢いよく走りだしたのかもしれない。  なんのために。 「まあ、かないっこないよね。あんたなんかじゃ」  髪をかき上げ、さばさばしたオンナのまねをしている。 「勝てる?」 「あたしムリ、あいつ。野蛮人だもん」  関わるだけむだなのよ、と尖った口。  リコーダーケースがはみ出したブラウンのランドセルを、校門を出る時見かけた気がした。声をかける余裕など、その時はなかった。あれから三、四時間は経っている。おうちに帰り、肩の荷を下ろし、お母さんの作ってくれたオムライスを食べて、テレビを見て、クーラーの効いた部屋でうたた寝でもしたかな。ぱちりと目が開いた。のんびり欠伸をしてからふと、隣のクラスのセンセーショナルな事件を思い出す。あのこうもり、帰り道を逸れて公園へ入っていった。ぜんぜん上手に飛べてなかったの。  的外れな想像だったとすぐ判明する。これから二人でゆくあてもないのに、君は僕を待たせ、丘の下の林に消える。ブラウンのランドセルを背負い、ふうふう息を切らして戻ってくる。 「置きっ放しは怖い。怖くない?」 「うん」  怖くなれたらと願っていた。一生背負わなくていい代物だとも思った。 「あっち側に、あんたのはあるよね」  林とは反対側の斜面を、君は指差す。 「また走って、取ってきてあげようか」  むき出しの白い歯。 「どうして……」  先が聴こえない。僕の頭は囁かない。次に何という言葉を繋げればよいか。訊きたいことが多過ぎて、回線が混みあっている。  泣き虫小僧に構う、おうちに帰らなかった、どこか楽しそうな、心配してはくれない、いつものように怒らない、いつになくやさしい、ワケ。 「ひこうき雲だよ」  つま先に目を逃がしていたので、君が今度はどこを見てほしいのか、一瞬わからなかった。顔を上げると、僕の胸を指していた。  汗と水道水に濡れた黒いTシャツ。右の肩口から左の脇腹の辺りにかけて、乱暴に走る一筋の白い線。 「チョーク、うまく、落ちなくて……」  声が急に割れてきた。喉が話すのを嫌がっていた。  うなずきもせぬ少女。  蝉の声が大きくなる。  太陽が皮膚と髪を焼く。 「何が悪いの」  冷たくて爽やかな視線は、僕より三センチ上から降ってくる。 「力が強い人に泣かされて、自分のせいぎを守りぬいて、何が悪いの?」  僕は知りたい。強い、強い君の声を、そんなにも震わせる人の正体。臆病な僕の手足に似ていた。  ねこじゃらし村の戦いで、ショウリョウバッタはカマキリに敗れた。黒光りするアリたちが、食べ残されたなきがらの一部を、せっせと巣へと運んでいった。 「ばかげているよ。かっこよかったよ、きっと。命をばかにするやつに、人を蹴落として平気なやつに、負けたらかなしいよ」  青い高い空があること、うきうきした君の目が教えてくれたのに、僕がいくら目でうながしても、今君の目は地面を離さない。  死骸、  勝ち、  負け、  祈り、  怒り、  爆弾。  許せないことを言われたから。 「鍵っ子だけどさ、今日はね、お母さんもお父さんも、夕飯前には仕事終って帰ってくる。変な心配されたくなくて、学校の水道でも、公園の水飲み場でも、手が赤くなるまでこすり洗いした。なんでかな、蛇口から水が出ている間は、あんまり涙が出ないんだ」  僕の声は冷静にものを読み上げようと努めている。自分を気遣う少女の心が、これ以上揺れ動かないようにするため。 「ぜんぜん落ちなかった。それに、チョークの線がもし消えたからって、僕の体は消えてなくならない。暗くなる前に帰ろうよ。お腹もすいたし!」  強がって喋っているくせに、腹に力が入らない。お昼は何も食べていない。自販機で買ったコーラ一本を、気休めに飲んだ。登下校中の飲食物購入厳禁、学校の定めたルールをためらいなく破ってしまった。愉快だった。  チョークのひこうき雲、の先をゆく飛行機は、僕を傷つけたあいつだと信じかけていた。この傷が水に流され、雲のように消えたとしても、あいつはいつも学校にいるだろう。たまになら仲良くできるかも、それでも、いつの日かまた、こんなあらそいが起きるのかもしれない。そんなふうに作った未来は、ゆううつな午後、そのものだから。  僕は君を飛行機にしよう。服に染みついたチョークの跡を、ひこうき雲と名づけてくれた、あなたの空を見上げて歩こう。 (……なんてな)  空に茜が差しはじめる。だんだん言葉がいらなくなる。学校のない日も肌身離さず持ち歩いているというソプラノリコーダーで、君はたどたどしい「パフ」を吹く。簡単なところはせっかちに、難しいところはかたつむり。サイケデリックな演奏を背に、僕は小さな丘を下る。拾い上げた黒いランドセルにはかすり傷が少し。四年半も大切に扱っておいて、今日一日の気まぐれで放り捨てるなんて、かわいそうなことをした。シュートされたペットボトルは、朝咲き終えたツユクサの上に落ちていた。  ふもとからくいと見上げると、君はまだパフを吹いていた。  名前すら今は思い出せない。十年以上も昔の話だ。今もしあの公園に行ってみたら、小さな丘は見上げるまでもない低さで、銀色のベンチを見下ろす椎の木も、たいしたことない大きさに感じるかもしれない。でもあそこに立つと、洗っても落ちないひこうき雲を抱えた少年が、リコーダーに夢中になっていた少女が、手が届きそうなほど近くに見えてくることだろう。あの日からいろいろなことが変わった。でも、虫の世界へ向けられたあの子のいくつかの言葉と、胸を横切るチョークの色だけは、いつまでも忘れずにいたいと願っている。もう二度と、こうもり人間に戻らないように。弱った人に優しい言葉をかけられる、詩人になれるように。

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飛行機少女

ヒメジョオン

 九州、熊本、菊池川。  月が大きな夜の水面。  橋を渡る車の影が、蠟燭の火のように揺らめき、消える。  土手一面に咲く白い花は、月明かりと道端の街灯さえあれば、闇の中でも目立った。いくつか摘んで帰ろうとして、岸辺へ下る急な坂の途中で、足を滑らせた。四、五メートル下の河原まで無様に転がり落ちて、止まった。石にぶつけ、痛みの余り振り上げた細腕は、痺れ、袖は、破れ、指を、ほどくと、泥と、手折ったばかりの、夜露に濡れた茎、葉、花びらがみな、涙の上にぱらぱら降りかかった。  ヒメジョオンの散る、幽かな星空。  水の面の鏡の道、その下には何もないようで、魚たちは知っている。冷たい水の流れる速さ。深みに潜むあまたの岩場。向う岸まで歩いていけそうな、凪いだ水面の抱える秘密。  睫毛が捕らえた、一枚の細長い花びらを抜き、しげしげと眺めた。白が、白だけの、白であるか、確かめたかったのだ。街灯とも、町の明かりとも離れた川の畔では、たとえ雲がなかろうと、星が瞬こうと、月が丸かろうと、細微な色までは認めようがなかった。そんなことはわかっていて、死んだように見つめていた。 「雑草じゃねえか」 「雑草よ」 「外来種だ」 「野放しにすべきじゃない」 「だから花束を作れるほど、集めてきたってわけかい」 「見て。花の色。薄紫でしょ。これは空気がきれいな場所で咲いた証拠なの。近い場所でも紫色になるのと、ならないのがあって」 「選んで摘んでくれたんだな。おまえのことだから」  忘れがたい記憶は、頭の中にない。いつも宙に浮かび、人を監視し、今を見えなくさせる。昔交わした言葉が視界に散らばって。心がそれらを読み上げる。声や、顔や、身振りや、体温が、蘇って苦しい。花の色はまだ見えない。携帯電話の光で照らそうとして、やめた。草叢で蛙が鳴きだした。川のたゆまず流れる音は、近くに寄れば寄るほど、優しく響くものだった。  向う岸の土手の彼方から来る風は、菊池川の清い水をふんだんに巻き上げてから届くのか、夏至を過ぎた今日も、涼しかった。仰向けに寝転んだ石ころの絨毯は、寝心地がよろしいとはとても言えなかったが、満足していた。耳朶が熱い。首の裏に垂れてきたものが、冷めずにぬるぬるしている。さっきまで額に浮いていた汗が髪の根元へ引きこまれ、自分で見えないけれども、蒼白な肌。重たい、瞼。気持ちが、悪いようで好い。吐き気と眠気が妙な塩梅で混在する、せつない夢。頭からの出血は、体によくないらしい。  暗い、狭い、土手の道は、物騒で誰も通りたがらない。目の上にただ、月がある。太陽みたいに、眩し過ぎなくて、ほっとする。見つかりたくない。触れられたくない。  思いつきの夜の散歩は、思いつきの夜のドライブの延長線。玉名駅に車を置いて、時間を忘れて歩いた。日付が変わる。家々が眠る。陸橋の電燈が消える。ふくらはぎを伸ばす。真黒な田圃を見下ろした。用水路。虫の声。草の香り。背中の汗。思い出す一年。ここは、この川は、あいつと。  孤独な夜。  二〇一七年七月七日のような、花束を作るつもりだった。  急勾配の土手だ。しっかり手を握っていてくれなかったら、昼間に行ったあの日でさえ、悲鳴をあげて落ちたはず。落ちるべくして、落ちたいように、今夜は黙って落ちた。  後部座席に積んだヒメジョオンの束を、貧乏草の山と貶しつつ、三文文士の俺に相応しい、と彼は自嘲した。周りを散々こけにした後で、自分を最大に腐すのが、彼の癖だった。咆え終ったら、無意識の上目遣いで、話し相手の顔色を窺うのだ。あの情けない男は唯一言、慰めの言葉を貰うために、世のどの生き物より愛しいはずの、我が身を切って、そして彼を肯定する甘い言葉を、少なくとも十は、額に汗して並べ立てるのが、彼の友人を務める者の宿命だった。詩人という人種の定義は、いまだにわからない。わからないが、彼はまごうことなき詩人で、不自由な言葉の中にしか自由に生きられない、現実に何を書こうが、残そうが、卑小にも偉大にも成り得ない、ただ彼である、いついつまでも彼である、というだけの、かわいそうな人だった。信じていたのは言葉だけ。視野が狭いと笑うか、世界のどこへでも胸を張って連れて行ける、骨のある自我を持っていると感嘆するか。とどのつまり周りの人々が、彼を勝手に大きいだの、小さいだのと評して気持ちよくなっていたわけで、人間の大きさは肉体以外の尺度でどうしても決めつけようがない。  もしも、肉体が消滅したら。  河原で頭を打って死ぬ女。眠たい失血死。死ぬ前も後も、誰かに見つかっては面白くない。だから、夜は、明けなかった。風化する体。石ころの仲間。白い胸骨を犬ころが咥えていき、猫にあげた。奇異な友情の育まれるきっかけになった。痺れた頭で今から生きていくのと、どっちが世のためになる。犬猫のことを考えるのは、近くや遠くで、野良か愛玩かの犬猫が、無心に呼びあっているせい。そういう生死に憧れた。  青い軽。助手席に乗せてもらうのは初めてだった。その日、二人だけだった。足に伝わる震動が、いつもより直接的な気がして、ヒールが薄いサンダルを履いていたので、余計に素足に響いた。夜通しレポートに取り組んだ後に臨んだゼミを切り抜け、頭が痛い手足も重い昼飯前にうちへ帰ろう、決意が顔に出ていたはずなのに。一言目でもう心は揺らぎ、二言目を聞いた段には、肘まで捲った開襟シャツの背中を追い、車に乗っていた。同じ形の服を何着も持っている、でも色は白か黒の二色しかない。照りつける日差しが跳ねていく、その日は真っ白な生地だった。  彼の地元へ行くのだ。  熊本市内から電車が通っている、自分の車も持っている。それでいて大学の傍の賃貸に住んでいるのは、どうしたわけなのか。詩人には城が必要だ、という説明だけでは足りない(それは彼自身の希望だ)。希望が通る家庭がなければならない。車の購入費も、維持費も、アパートの家賃も、詩人は一銭も払ったことがないらしい。悪びれもせずけらけらと笑っていた。家がお金持ちなのだ。  冷房の効きが悪く、車内は蒸し風呂だった。窓を開けた。前だけだったのが、最終的には後部座席も含めて全開にした。踊り狂う髪。「何も見えん」唸る詩人。女より長い髪の男。結びもしないで、野放し。それが文学的なスタイルだそうだ。見るに見かねて、特に邪魔そうな一束を掴んで首の後ろに流そうとすると、触るな、と怒鳴られた。運転を代わってあげた。  新幹線の橋が頭上に見えてくる。山と田園の緑をめぐるように、大きく曲がって建っている。空が青い。入道雲が、道路の先を塞いでいるような気がしてくる。そのためではなかったけれど、隣の席に道を尋ねた。ほとんどずっとまっすぐ。ぶっきらぼうな声で嬉しくなった。わけがわからなかった。  知らない曲ばかり流れ続けていた。  ペダルに足が届かなくて、運転席を前にずらした。  踏切がやけに長かった。  不思議なことに道のりは短く、エンジンを切った車の中は、静かで苦しい。 「お疲れ様」  実家にスーツを取りに帰る、ついでにドライブしないか、という話だった。日本文学研究室の仲間は就職活動を続けていて、ゼミに顔を出した四年生は二人。誰より早く内定が取れたのはよかったけれど、まだやつれている周りの空気を読むのが、最近はしんどいと思いはじめていた。向かいの席の長髪の男には、労働意欲が欠如していた。三月、四月、五月、六月、本を読んで詩を書いて、懸賞に出して、落選して、古いレコードや写真を集めて遊んでいたそうだ。過去三年間と変わらぬ暮らし。彼の生涯の大半を占める営みかもしれなかった。それが急にスーツなど必要になったということは、多分、卒業してマジメに働かなければ資金援助を打ち切る旨を、親に通告されでもしたのだろう。スーツを実家から引き上げるのは、一種のパフォーマンス。 「みんな忙しいから」  彼の言葉には無駄がなかった。みんな忙しいから、暇なおまえを誘うんだ、とは言わない。一緒に行きたいんだ、とも。  土手の上に停まる、青い車。  名前しか知らなかった川。岸辺に下りて見ると、もっときれい。水が生き生きとつやめいていた。梅雨時に溢れかけたり、濁ったりすることもあるけれど、夏は本当にいいものだぜ、目を糸のように細めて教えてくれた。しばらくして、彼は家に車を置きに行ったので、暑い河原に独り、残された。  水飛沫。  鏡の道を跳ねていく小石。  手に染みついたままのぬくもり。  蝉時雨。  とんぼ。  ポケットに、余りのヘアゴム。  背の高い花。  薄紫色の花びら。  いいよ、働かなくても、あなたには貧乏が、貧乏の中に健気に咲く花が、似合うのです。  ばかな夢。  帰ってきて、彼は出来立てのヒメジョオンの花束に顔をうずめ、アオクセエと言って笑って、ドギマギしたこの目を見上げてくれる。 「武蔵野に行くのさ」  一分前に受け取った言葉の喜びに、まだ胸を震わせていた時、さらりと投げかけられた。  彼は運転席に座っていた。お姉さんの鏡台から拝借してきたという、飾り気のない黒いヘアゴムで、長い髪を後ろで一つに束ねていた。  卒業後は、当座の生活費だけを持ち、単身上京する。幼い頃に読んだ国木田独歩の随筆の風景が忘れられない。そこに身を置けば自分は真の詩人になる。感性が愈々完成し、眠っていた文才が花開く。  愛らしい、青くさい、子供の主張だ。  今より白い、若い女の顔が、そこにあっただろう。  彼は人間に惚れたのではない。言葉に惚れている。でも、人間に告白した。直後、好きな言葉の話を。  車は走る。幸せな顔と、戸惑いの顔が、夕暮れの街の上に重なり、フロントガラスに映りこむ。  そして、暮らした。詩人の部屋で。心に違和を覚えたまま。  正体にいつ気づいたか、わからない。初めから知っていたのかもしれない。帰り道のドライブではもう、悟っていたかもしれない。半年とちょっとしたら、二人は離れ離れになる。それが何だと言うのか。武蔵野から熊本に、熊本から武蔵野に、手紙が飛ぶだろう。たまの休みに、ゆっくり会おう。それでは駄目なのか。  詩人は時々猫だった。膝の上で気持ちよさそうに寝る、彼の短く切った黒髪を撫でた。窓から西日が去りかけていた。まだ夕飯の支度をしていないのに。  冬が過ぎたら、離れられなくなる。  どこにいても。  耳をつねると、言葉でもない不平を発しながら目を覚ました。冷たい頬を両手で挟み、顔を向けさせた。 「別れましょう」  部屋を埋めつくす埃っぽい本の山に、眠り薬だと言って一晩中流しているノイズまみれのクラシックに、嫌気がさしたから、と言った。怒られると思った。でないと、ここを出られないような気がして。  ただ泣いていた。  声も上げない。無駄な言葉は使わない。色を失い、頬に雫を伝わせて、必死に何か考えている。 「それだけか」  瞼が引き攣れそうだった。堪えきれず、背を向け、台所に立った。  一人分の夕飯を作ってから、部屋を出た。  詩人は信じていなかったかも、冷ややかな嘘を暴きたかったかもしれない。でも、追撃しなかった。もしされたとして、上手に答えられたかどうか、自信がない。  あなたは、あなたを欲する人より、あなた自身を欲しているのではないか。詩人が愛すべき詩、詩人が、彼を生かすために作るべき詩とは、詩人自身の歌だ。あなたはそれをわかっている。自分が詩人であり続けるためにすべきことを、わかっている。だから武蔵野に行く。何も間違っていない。  しかし、このばか女は、自分より永遠に愛され、優先されていくものがある男と付き合うのが、つらくなったのです。  武蔵野にも川はあるでしょうか。蛙の鳴く川があるでしょうか。鏡のように張る水を、人が穏やかに眺める夜は、あるでしょうか。あいつの今の生活に、そんな余裕はあるでしょうか。  菊池川に浮かんでいたら、海の神様の大いなるいたずらで、武蔵野の川に流れこめないものか。  ミレーの『オフィーリア』みたいに。  夏目漱石の『草枕』の文庫本と合わせ、あいつが押しつけてきた画集。返しそびれて、今も二冊とも持っている。  流れてきた死体を見て、何て言うだろう。  もう泣かないだろうね。  詩人は詩人らしく、血を流して水を汚したら絵画としての価値はゼロだとか、自信満々に喚くのだ。 「じゃあやめとくよ」  月が笑う。星が笑う。犬猫も笑う。顔を彩るヒメジョオンの花びらも、涙も。  空は動いていた。色を変えはじめた。  夜が明けたら、また会いたくなる。  どこにいても。

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ヒメジョオン

武蔵野幻想

〈「霧にむせぶ……」という都を訪れた、名もなき旅人の朝。パブの窓辺に「Closed」の札が立て掛けてある。石畳を走る新聞配達の少年の心は、彼の帽子ほどくたびれてはいない。玄関ポーチの庇の陰に止めてある、黒くてつやつやしたバイク。フレームには「Condor」というロゴが白抜きされている。山高帽の青年が飛び乗る瞬間だった。歳の割には高価な乗り物。アルバイトでローンを返している途中の学生だったかもしれない。〉  代名詞の霧をその朝はどこかへ追いやった、快晴のロンドン。季節は冬だろうか。新聞配達の少年は、首にマフラーを巻いている。コンドル・サイクルズの青年は、トレンチコートを羽織っている。  二人は「英国」という頁に貼りつけられた、一枚の写真の登場人物だ。  東京と埼玉に跨る武蔵野というところに、古写真蒐集家の男が暮らしていた。仕事は別にあったが、生きがいと呼べるものではなかった。まだ若いのに、この世の暮らしに飽き飽きし、骨董屋の店主をやるとか、人里離れた山に引き籠るとか、そんなことばかり考えていた。  男は、時代に取り残されることを望んでいた。三度の飯より芸術を好んだ。散策中の空想を愛した。それだけなら他人に迷惑はかからない。呪文のように噴き出る屁理屈が、男の評判を悪くした。奇人、変人、化石、天狗、オカルト、詩人。常識人の場合、数少ない友人の場合、呼び名は人によっていろいろだった。わずかな理解者を捕まえては、彼は次のようなことをのたまった。君、知ってるか、この時代に生きるということは、極めて悪い意味で獣に立ち返ること、弱い者を切り捨てること、繊細な感受性、特異なる知性、世にまま在る才能という才能をはみ出し者として抹殺した上で、肥溜めの中で臭いの弱さを競い合うこと。何より悪質なのは、人々がこれら総ての理不尽を暗黙のうちに認め、狭苦しい島国をよりいっそう狭苦しくして、生きていること、だよ。根拠は、俺の肌。 〈落葉林の美。赤や黄に色づいた無数の木の葉が、凩に舞う。春が来れば、楢林の梢に若葉が萌え、緑陰を歩く旅人の肩に木漏れ日が落ちる。人家は林の裏に構え、苦雨凄風を避ける。不愛想で親切な人々の家。夕べの血潮が西の空を染め、麦畑は黄金色に光る。詩人国木田独歩をして「武蔵野を除いて日本にこのやうな処がどこにあるか」、「林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのやうに密接している処がどこにあるか」と言わしめた、奇蹟のような武蔵野の風景。独歩はこうも書いていた。「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当もなく歩くことによって始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつきしだいに右し左すれば随処に吾らを満足さするものがある」。〉  古写真蒐集家は武蔵野育ちではない。武蔵野の古写真を持っているわけでもない。彼は武蔵野を読んで育った。武蔵野の自然と生活を愛し続けた独歩の文章は勿論、独歩が随筆『武蔵野』で引用したツルゲーネフや、故郷ドイツの野山に瑞瑞しい生気を漲らせたヘルマン・ヘッセの小説を読み漁り、彼だけの、日本の原風景武蔵野の写真を、彼の頭の暗室にて、来る日も来る日も現像した。生まれついての厭世観、草花と語り合う暮らしへの憧れ。彼の望むすべてがそこにはあるはずだった。不幸は、この男が、彼自ら武蔵野を旅するその日まで、「武蔵野の今」を知らずにいようとしたことである。  原風景は破壊されていた。小川で大根を洗う農夫は、畦道に咲く女郎花は、茜の空を悠々翔ける山鳩はいずこ。林の奥に苔生した無縁仏が、なだらかな谷の底に、清水を湛え白雲を映す細い池があった武蔵野は、二十年来男の心象世界を支配してきた、明治の昔の遺物に過ぎず、せめて一つ面影を持ち帰らんと八方手を尽くせども、往く道は無情のアスファルト。目のない賽子のように無個性な家々を囲む、住人の不安を塗り潰した、青灰色のコンクリート塀。三鷹駅に程近い、独り者向けのアパートを、男は借りた。朝は不愉快な電子音で目覚め、冷凍食品を食べ、糞をして、ビルに籠り、働いて、酒を飲んで、満員電車に揺られて帰る。明日もまた繰り返す。明日も、明日の明日も。男は肩を落とし、日毎陰険になる。  夜なのになぜか電気を消せず、万年床に寝転んでいるとやりきれなくなってきて、クラシックのレコードをささやかなボリュームでかける日がある。生来流行り物が苦手な人間であった。男はクラシックをわかっているつもりも、古写真のよさを、文学や絵画の神髄を知っているつもりもない。そんな物は永久にわからないと思っている。男が確信していることが一つある。最近の物はわかり易くていけない。  この夜の男は、霧のないロンドンの朝に見入っている。一昨日古本屋で見つけた、名もなき旅行家の私家版写真集には、世界十数箇国を渡り歩いた目眩めく日々の記録が遺されている。粉を吹く本の頁を捲る。 「秘露」  崖の道に群れるラマ共が、遠い遠い過去から男を睨んでいる。男は困惑して辞書を引く。秘露はペルーと読むことを知る。さらに頁を捲る。雲海を貫く青い山の頂に敷き詰められた、古の石造の都市を訪れる。空中楼閣とはよく言ったものだと男は唸る。南米旅行は今でも当り前にはなっていない、彼の旅人はどうして「秘露」なぞ訪ねてみようと思ったのだろうと、答えの出ない心地よさに浸りながら考える。  男の目に映るロンドンは、ペルーは、からりと晴れたローマの夏は、チベットの尼僧のほほ笑みは、白黒の濃淡を超え、総天然色に彩られていく。十二分に見開いてから、今度は閉じると、牧草地の、赤煉瓦の、闇夜の、白昼の、馬車に繋がれた馬の首の、雨に濡れそぼった路肩の、匂いがする。鼻を鳴らすと寺院で正午の鐘が鳴る。硬い蹄鉄の音が響く。行ったこともない国を男は懐古できる。もうどこへでも行ける。ただ『武蔵野』の武蔵野にだけ、行けない。  自動巻の針は零時を指している。寝間着姿で男は時計を嵌めている。その不自然さに独りで笑う。まだ眠る気がないことを時計に教えてもらった気がしたのだ。シースルーバックから美しいムーブメントを覗く。精緻を極めた歯車の美は、男が左腕を振る限り生き続ける。男と共に歩き続ける。  文机に本を置き、男は部屋の鍵を取る。  早蒸し暑い六月の夜には、甚平の袖を吹き抜ける微かな風が有難い。目的のない散歩である。下駄がぶつかる涼しい音がする。一先ず駅を目指すことにする。彼の下駄と、甚平、腕時計は、学生時代に買った物だった。行き過ぎた骨董趣味を疑い、離れていった女がいた。風流だと笑ってくれた男もいた。それら総てが過ぎし日の写真だった。夢の中の原野に孤高に生きていた頃の。  北口までの道は五分と掛からない。すれ違う人々のほとんどが独りで、皆押し並べて俯いて歩いているのが気に掛かる。歩道の柵の外にはポツポツと街路樹があるが、如何にも今日この頃植えられた物という感じがして趣がない。 「山林に自由存す」  三鷹駅前の独歩の碑には、皮肉な一行が記されていた。小さな文学碑は矢張り、今日この頃植えられた樹々により包囲され、形ばかりの自然に、磔にされている。これを目にして誰が自由を感ずるというのだろう。道に迷うことを苦にしてはならないはずの武蔵野の一角で、男は立ち尽す。『武蔵野』への道を、武蔵野の道を、夢と現実との境を飛越え、独歩の箴言に従い、男は迷いなく闊歩してきたはずだった。迷いなく道を歩いてきたら、道に迷ってしまった。  冴えない目を男は擦った。煙たい空を振り仰ぎ、有史以前から惑星を照らす寒光を、両手で作った富士の形に切り取ろうとしたが、ベールを被った他の星座と同じように、よく見えなかった。  まだら雲が覆い被さる夜は、殻の内側から見た大きな卵を想起させ、男はこれから生まれるべき雛だった。しかし今は、殻を破って外へ出る前に、外の重みに押し潰されないように、棒切れのような腕を小さな空へ伸ばし、脂汗を垂らして支えている。蒸し暑さに拠らぬこの耐え難い閉塞感は、果たして俺一人を襲う物だろうか。男はふと考えた。今しがた通り過ぎていった俯きがちの人々、彼らが顔を上げられないわけも、俺に想像し得ないことではないのではないか。この空が重くて堪らないのは、空のせいとは思えない。  夜が白むまで彷徨しようと男は決心した。街が暁を迎えるまで。帰り道も、明日の仕事も忘れ、血染めの夕焼けとは正反対の、暁の寂しい青を、夢見て歩くことにした。武蔵野を見ないで武蔵野を求めていた時、自分が如何ほど生き生きとしていたかを思い返してみると、暁を見ないで暁を待つ時間が、少しは楽しくなる気がした。  三鷹駅の南側へ回り、線路沿いに吉祥寺の方へ少し行くと、玉川上水の遊歩道がある。この文学碑の周縁よりは、手垢の少ない自然が残してある。散歩するには丁度好い。その水路に身を投げた作家がいたことを最後に思い出して、男はすっかり目が冴えてしまった。

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武蔵野幻想

ぬかるみ修学旅行

 わたしの通う女子高は二年生の時に修学旅行にいくのだ。わたしは二年生だから晴れの修学旅行生なのだ。修学旅行は温泉旅行なのだ。とても楽しみにしていたのだ。  でもいざバスを降りると、外はなんだかぬかるんで、よどんで、ふくらんで、にがくて、なまぐさくて、面白いもの何もなく、かぐわしい湯の花の香りに満ちた草津温泉のような街を想像していたわたしたちは、大いに落胆したのだった。わたしたちが歩かされた街道は、道というよりぬかるみで、建物といったら幼児が粘土でてきとうに作ったストーンヘンジや、石舞台古墳的な代物ばかり。ただでさえ模糊としたあれらの遺跡から、太古の呪術の空気なり歴史の威厳なりを取り去った状態、徹頭徹尾がらくたである。気のきいた土産物屋も見当たらず、宿までの道だというそののたりくねった泥の坂を、延々歩かされたのだった。  でも落ちこんでばかりいるのもよくない。この街道はあまりにぬかるんでいるので、足を前に踏み出さずに立ち止まっていると、自分の重みでずるずると地面に靴が飲みこまれ、いつのまにかクラスメートの数が減っていたりする。それを知ったわたしたちは、内心ますます気落ちしながらも、なるべくリズミカルにスキップして移動することに決め、世間の期待通りの楽しげな修学旅行生を不本意ながらも演じているのだった。陰気なぬかるみの街はそれ自体が大きな一個の生きものであり、来るものを飲みこんで体の一部とすることを望んでいる。ふとそんな啓示があって辺りを見回すと、道理でさっきいなくなった女の子たちが、この街全体を覆っている濃霧(湯煙だとしたら、こんなにおいのする温泉は生者のものではない)や、黒いローファーの底にねちょねちょとガムみたいにからみつく地面や、ねずみ色の粘土の建物の中から、わたしを見ている気がするのだった。でもはっとした時には、もう姿がない。  ばっさり記憶が飛び、気がつくとわたしたちは、一学年まとめてとてつもなく手狭な女風呂に押しこめられていた。うちの学校に二年生が何人いるかは忘れたけど、少なくともこの浴場を埋め尽くせるくらいの人数はゆうに超えているはずだった。見渡す限りぎちぎちに女の肉が詰まっていて、どこに温泉があるかもわからない。足元に感じる温かいものは、わたしたちの肌から噴く汗で、もしかしたらどこにも温泉なんてないのかもしれない。でもみんなお湯があると思って我先にと湯船とおぼしき所に群がり、ゴツゴツと肘打ちしあって争っているのだ。全裸だらけの押しくらまんじゅう大会。ドアが壊れて出られなくなったサウナみたいな、蒸し暑さと絶望感。自分だけ座ってくつろごうとする奴など絶対に許さない空気があり、立ったままおしあい、へしあい、ののしりあい、恥知らずにもめている。  もし、はじめから温泉など一滴も湧いていなかったのが判明したとしても、誰も責任を取らないし、むしろ自分がいやな思いをした責任を誰かに取らせようと躍起になるのは目に見えている。わたしたちはそういう生きものなのだ。ここでの競争を生き抜いて卒業できたら、外の世界にはもう分別ある大人しかいない。だからうちの学校の先生たちはいつも、わたしたちを社会に出ても恥ずかしくない立派な大人に教育してやると息巻いて、鼻血出して、ヨダレ垂らしているのである。ただ、彼らが教室で抜き打ちで実施する服装・頭髪検査の時、可愛い女の子ほど時間をかけて舐め回すような目で精査される道義的な理由を、わたしたち子供はまだ教えられていない。  妖怪ぬっぺふほふに抱きつかれているような暑苦しさにもだえていると、わたしのすぐ近くで騒ぎが起こった。 「ごぼごぼごぼ。ちょっとやめてくださいよーお姉さんがた。ごぼごぼ……」  誰か溺れているようだ。この弾けるような桃色の肌の海にか、まだ見ぬ幻のお湯にかは不明だが。  ともかく、その高い声によって自然と人垣が少し崩れ、好奇心に操られたわたしはそちらへ身を滑り入れることができた。  なんだ、こんな近くに……。  わたしが落胆したのも無理はない。さっきまで歩いていたぬかるみの街だったら、頭のてっぺんまで沈んでしまうくらいの時間はがっかりしていたことと思う。というのも、わたしの周りを固めていた五、六人のアマゾネスたちをかき分けたら、檜の樋からこんこんと溢れ出る、木漏れ日色の湯の溜まり場が見えたからだ。そこにも女の脚が所狭しと突っこまれてはいたんだけど。  湯船に屹立する白い大腿の群れの間に、黒々としたおかっぱ頭が、誰かの手につむじを鷲掴みにされてお湯に押しこまれ、ごぼごぼと喘いでいた。 「何をやってるの」  はじめはすぐに助け起こそうと思ったが、下手に屈むとわたしも彼女と一緒に溺れてしまうため、まずは近くにある誰かの汗びっしょりのうなじに問いかけた。 「こいつ、一年坊主よ。修学旅行は二年生のものだって知ってるくせに、こっそりついてきたんだって」  逆立ちしたって坊主には見えないが、それはどうでもいい。わたしもにわかに腹が立ってきて、つい本音を漏らしてしまった。 「ただでさえ狭い修学旅行なのに、なんで一年おかっぱのお守りまでしなきゃいけないのよ……」 「きっと来年も参加して二倍楽しもうって魂胆よ」 「だから今年痛い目に遭わせて二度と顔を出せないようにしてやりましょう」 「そうよ、そうよ」 「やんややんや、やんややんや」  一呟いたら十同調が返ってきた。相当不満が溜まっているようだ。 「ざぶっ。まあそう固いこと言わずに。一人増えたくらい良いじゃないですか、お姉さまがた。あたくし決してお邪魔になりませんから、隅の方でおとなしくしていますから……」  揉み手して愛想笑いしながら難を逃れようとする、頬を真っ赤に上気させた小柄な一年生。なるほど、特に何も悪いことをしていなくても張り倒したくなるような、ふてぶてしい面構えをしている。近所にこういう顔の犬がいたっけ。  ぺしゃんこに潰れた彼女のおかっぱ頭を、肉壁から飛び出した一人の手がむんずと掴み、再び木漏れ日色のお湯に突っこんだ。有無を言わさぬ見事な手際。この子は確かに、わが校の修学旅行に二度と「顔を出せない」だろう。我ながら上手い言い回しを思いついたもんだとにやついていると、チャイムが鳴って給食の時間になった。  そんな、給食があるなんて小学校じゃあるまいし、第一今は修学旅行中だし……と根本的疑問が脳を駆け巡ったが、すぐに解決した。修学旅行先が小学校だったのだ。お風呂も狭いわけだ。  きつね色の揚げパンはないかと期待したが、わたしの一番の好物は既に来賓の市長や町医者に食べ尽くされた後で、空っぽの番重の底に溜まったきな粉も、校長子飼いのルンバが全部吸い上げてしまった。校長の奴、あとできな粉オレにでもして飲むつもりだろうか。みんな大人になっても揚げパンが好きなのは可愛いけど、あまりに横暴すぎる。職権濫用だ。  いよいよ絶望しかけたけれど、二番目の好物であるハンバーグを食べることができたので、わたしはこの旅行に満足した。ドラム缶くらい大きな灰色の肉塊が、よく焼けた線路の上に乗せてあり、自分の好きな分だけナイフとフォークで切り取って、焼き芋の新聞紙の要領で灰色の渋皮を剥いて食べるタイプのハンバーグだ。自分の食べる分を切り終えたら、残ったお肉を手で押して走らせて、次の駅の人に回すのだ。わたしは始発だったので、膝の高さ辺りのほかほかミディアムレアを存分に堪能することができた。これは来年も行かねば損だ。

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ぬかるみ修学旅行

じゅしんりょう

 飲みすぎた、と彼女は思っている。はやくベッドに横になりたいが、寝る前にやっておかないと後悔すること、たとえば化粧落としや歯磨き等を済ませてからでないといけないと考えつつ、冬眠から目覚めた直後の熊のように、のそのそと仄暗い部屋を動き回る。部屋は1Kである。節電のため、玄関灯は靴を脱いだ後は消灯し、リモコンで明るさを変えられる部屋の照明は、全灯させた場合の半分程度の明るさに保ってある。彼女は節電魔であると同時にテレビ魔であり、部屋にいる間はテレビをずっと点けている。テレビさえ点いていれば、多少の暗さは彼女は怖くない。  身も歯も手早く清めた。アフターケアもほどほどに済ませた。もうほんとうに寝るだけなのだ、と彼女は何か大仕事を成し遂げた気持ちでいた。飲み会は楽しかった。彼女は今年大学を卒業して社会人になったばかりだ。知り合いも友人もいない、右も左もわからない四月の新入社員。そのうち打ち解けるだろう、仕事も少しずつ任せてもらえるようになるだろうと信じながらも、まだ不安は多い。そうした不安を打ち明け合って慰め合う会を今日、大学時代の友人たちと開いたのだった。もちろん、会は大いに盛り上がった。明日は日曜日なので、二軒、三軒と景気よくハシゴし、うちに帰ってきたのは朝の三時だった。ベッドに寝転ぶことができた時には、時計の針は四時を回っていた。  寂しがり屋の彼女にはテレビを点けたまま寝る習慣があるが、その日はほんの少し、間違えてしまった。テレビを点けたまま寝る時には部屋の灯りも点けっ放しにしておかなくてはならないのに(そうでないと目に悪いと彼女は思っていたのである)、寝ぼけまなこで押した照明のリモコンのスイッチは「▽」ではなく「消灯」だった。「▽」を押して少し灯りを落とそうとしただけのつもりが、押し間違いで部屋を真っ暗にしてしまった。テレビだけが元気に闇の中で輝いていた。民放のCMが流れていた。いつも頭を左に向けて寝る彼女の視線の先、およそ三メートル離れたテレビ台の上に、ギラつく画面はある。暗い中でテレビを見ているので、目が冴えて眠れなくなってしまい彼女は困った。困ったと思いつつも、ベッドの下に置いたリモコンにもう一度手を伸ばすのは億劫だった。そのまましばらくテレビを見ていた。  高齢者向けの生命保険のCMが流れていた。音量を小さくしているので言葉はあまり耳に入ってこないが、日中から何度も放送されて見慣れているCMなので彼女は内容をほとんど暗記してしまっている。やたら明るい病室のベッドに寝る(寝るといっても、ベッドを半分起こしているので事実上座っている状態である)老人、ベッドの脇の小さな椅子には、その妻と思われる老婆。口を金魚のようにパクパクさせて何か楽しげに話している。六十五歳以上の方にお勧めの保険だということだけ、暗闇に包まれた部屋のベッドに寝る彼女には伝わった。彼女はまだ二十二歳だった。  長尺で、しかもつまらないCMが、内容を全く変えずに二本続くとなると、日頃どんなに優しい人でも苛々してくるものだが、彼女は眠気こそ帰宅当初より薄れていても、脳をアルコールで鈍らせた状態だったので、時間を置かずにふたたび始まった生命保険のCMを穏やかな心で受け入れることができた。そしてすぐに違和感を覚えた。  さっきより病室が暗い。節電魔の彼女の部屋と同じくらい暗い。色彩も薄れ、画面全体がセピア調になっている。ベッドの上の老人が老いすぎている。まるで朽木だ。目玉は消失して黒い洞になり、鞭打たれた痣のような奇妙な染みに覆われた焦げ茶の肌に、毛は一本もない。禿げ頭には頭蓋骨の形がくっきりと浮き出ている。椅子に腰かけた老婆も同様である。口は開けっ放しで、今にも骨が飛び出しそうな顎をカクカクと懸命に上下に動かしている。喋りたいのか、カスタネットを打つように楽しげに歯を打ち鳴らしたいのか、そのどちらかであるように見えるが、老人たちには歯も舌もない。BGMとナレーションは黒板を引っ掻くような悲惨な音楽に変更されている。ただ一つの救いと思われるのは、夫婦がとても幸せそうなことである。 〈二百二十五歳以上の方におすすめの保険です!〉  彼女はまばたきもせずに画面を見続けていた。チャンネルを替えることはできなかった。金縛りにあっていたわけではない。すべてのリモコンの置き場所であるベッドの下に、手を差し入れるのが怖くなっていたからだ。チャンネルを替えることも、テレビを消すことも、部屋に灯りを点けることもできずにいた。  老婆がこちらに手を差し延べてきた。彼女の二の腕にひたと触れた。テレビ画面から飛び出し、蔓植物のように三メートル以上は伸びたことになる。彼女は悲鳴も上げられず、老婆の指が触れている左腕にさっと布団を被せた。そうすれば見えない。見えないということは、存在しない。セピアの画面から目を逸らす。氷のように冷たい指の感触が布団の下に確かに残り続けているにもかかわらず、彼女は無理なことを考える。老婆の指に力は全く籠っていない。ただそっと触れているだけなので、彼女が勇気を出せば振り払うことは容易だったはずである。だが彼女はひたすら「見えない見えない」と頭の中で念じ続けることに夢中で、そのことに気づかなかった。  突然テレビが怒鳴った。寝る前の音量調節など無意味だった。 「あなたの、おきもちで!」  怒声を聴くや否や彼女は布団を跳ねのけてベッドの上に立った。何か恐ろしい危険が迫っていることを肌で感じた。二人の老人の病室はテレビから消えていた。画面は真っ暗だった。しかし彼女にはわかった。放送は休止されていない。本能的に天井を見上げた。  ベッドに鉛筆が落ちてきた。木製のベッドをあっさりと貫き、フローリングに突き刺さった。鉛筆といっても太さ十五センチ、長さ二メートルはある、槍のような鉛筆である。小学生の頃、点けっ放しのテレビのドキュメンタリー番組で見た(彼女の母もテレビを点けっ放しにする人だった)ドラキュラ伯爵のモデル、ヴラド・ツェペシュ公の処刑道具を彼女は頭の中で急速に思い出しながら次から次へと天井から落ちてくる鉛筆を死に物狂いでかわし続けた。彼女にはその鉛筆たちの正体がわかっていた。テレビが怒鳴り続けるからだ。 「あなたのおきもちで!」 「あなたのおきもちで!」 「あなたのおきもちで!」 「あなたのおきもちで!」  お気持ちの分だけで構わないと、つまり言われているのである。迫りくる無数の鉛筆の正体とは「受信料」である。彼女は受信料の滞納者としてテレビに認識されているのだ。おきもちで、というのはもちろんテレビなりの皮肉に違いない。毎日テレビを点けっ放しにしているにもかかわらず、彼女がいっこうに受信料を納める姿勢を見せないことに憤り、彼女を殺害しにきたのだ。  いやそれとも! ……と彼女はウサギのように跳ね回りながら考える。じゅしんりょうは、受信料ではなく「受診料」かもしれない。今まで流れていたのは生命保険のCMだった。彼女は自分が入っている国民健康保険のことを考えた。月に一回通っている耳鼻科でたかだか数百円の支払いを待ってもらったことがあっただろうかと考えた。しかしそれが何だというのだろう? ともかく彼女は「じゅしんりょう」たちによって串刺しの刑に処されかけているのだ。ベッドの上にはもう鉛筆の刺さっていない場所の方が少なくなってきた。……ベッドの上には?  天啓に導かれ、彼女は狂喜してベッドから飛び降りた。鉛筆型のじゅしんりょうはベッド以外の場所には落ちてこられないことに気づいたのだ。命を拾った喜びのあまり床で笑い転げる彼女の横で、罪のないベッドはじゅしんりょうたちの怒りのはけ口となり続け、ついには良く育った豆苗のような姿になってしまった。それを見て、トーミョートーミョー、と笑い転げているうちに、朝になっていた。  ベッドの下はもう怖くなかった。彼女はまずテレビの電源を切った。次に部屋の灯りを点けようとした。しかし何度ボタンを押しても点かなかった。蛍光灯が切れてしまったらしい。カーテンを開ければ光は入るが、夜には真っ暗だろう。彼女は仕方なく部屋をそのままにして外へ出た。蛍光灯を買うつもりだった。道中様々な事故や事件や災難に巻き込まれたせいもあり(それらはすべて、人一人の一生に一度あるかないかの重大な出来事だったが、二百二十五歳以上向けの保険CMを見たことがある上、じゅしんりょうたちの攻撃を受けたこともある彼女にとっては、大したことではなかった)、夕方十八時に彼女は自分の住むマンションに帰ってきた。エレベーターの八階で乗ってきた男とmake loveした。Make loveしながら彼女はミラーに映った禿げ頭の男の正体に気づいた。マンションの隣の一軒家に住んでいる独り身の資産家だ。資産家だが吝嗇なので結婚できたことがないという噂だった。彼女は気分が悪くなってきたのでもう帰ってもいいかと後ろで頑張る男に尋ねた。外は快晴だというのにスーツの上にレインコートを着た汗だくの彼は、不機嫌そうに、もういい、と言った。今日はあまり気分が乗らなかったようだ。彼女は彼とmake loveするのは今日が初めてではない気がした。前にmake loveしたのが八階だったかどうかは思い出せなかった。それが雨の日だったか晴れの日だったか、彼がレインコートを着ていたかどうかも思い出せなかった。だが彼女は行ったことがない彼の家の間取りを知っていた。彼女の頭が知っていると言っていた。知っていると言うくせにどんな間取りなのかと彼女が尋ねると彼女の頭は急に口ごもった。知ったかぶりをしたらしい。  二百二十五階の自分の部屋に戻ると、彼女はトーミョーベッドの隙間で蛇のように身をくねらせてぐっすり眠った。テレビは二度と見るまいと思った。

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じゅしんりょう

鏡の熱帯

 わたしは生来ズボラなたちで、賃貸アパートの風呂を掃除することなど住人の義務ではないと思っていました。ところが、もうまもなく引っ越しという頃になって、ともに大学を卒業する友人たちと最後の酒盛りを開いたところ、遅れてきた一人の男が「走ってきて汗だくだからシャワーを浴びたい」と図々しいことを言いだし、彼に風呂場を案内すれば扉が閉まったと思った瞬間に裸で飛び出してきて、「おい、お前、なんだ、なんだ、これ、これは……」。まだ一滴も飲んでいないのにワケのわからぬ喋りかたをする彼を、とりあえずなだめ、落ち着かせてからもう一度、何があったのか尋ねてみると、とにかくカビだらけなのだそうです。ここも、ここも、ここも、ここも、と彼は風呂場の天井や、壁や、床や、浴槽の陰などを指差しては「オエエ!」と嘔吐するような声を出しました。わたしが彼に「汚ねえ」と怒鳴ると、その声を聞きつけて、炬燵で鍋を囲んでいた三人の仲間たちもなんだなんだと寄り集まり、彼らは失礼にも四人揃って「オエエ!」と言いました。  こういう不名誉な事件があったお蔭で、わたしはアパートを引き払う際に、部屋を借りる前の綺麗な状態に戻しておく必要性を知りました。そうしないと多額の清掃費用を取られてしまうらしいのです。わたしは食器類の茶渋などを取るために買ってあった、塩素入の漂白剤を、風呂場に侵食しているカビというカビに吹きかけました。壁に満遍なく付着した、赤みがかった湯垢の上に、苔植物のようにびっしりと繁茂していた真っ黒なカビたちは、その後漂白剤の泡とともにスポンジでこそげ落とされ、風呂場は四年前のホワイトな状態に戻りました。その代わり、密閉された小部屋のなかにきつい塩素臭が立ちこめ、わたしは眩暈がしてきたので、急いで風呂場の扉とベランダの大窓を開け(ワンルームの安アパートに「脱衣場」などという中途半端な空間は存在しません)、換気を行ないました。それから、漂白剤の白い泡の残りをシャワーで洗い流し、二、三十分も換気を行なうと、わたしは窓と扉を閉め、浴槽にお湯を溜め、昼間からのんびり風呂に浸かりました。というのも、件の不名誉事件はこの前夜、金曜日の夜に起こったことで、わたしは毎週土曜日には何の予定も入れておらず(あと数日で大学を卒業し、隣県の商社で勤め人になってからは、どうなることやらわかりませんが)、昨日はかなり酔っていたのもあって、学友たちが帰った後は風呂に入るのも忘れて昼過ぎまでぐっすり眠っていたのです。目覚めてから、一風呂浴びる前に前夜のことを思い出し、二日酔いの頭痛を紛らわすためにもと、一念発起して大掃除を敢行したのでした。  夜中の二時から昼十二時過ぎまで、計十時間ほども眠っていたわたしは、肩まで温かなお湯に浸かり、疲れているけれどもよく冴えた目で、浴槽より高い位置に備え付けてある小さな洗面台を眺めていました。洗面台には、顔を映せる程度の大きさの鏡が付いています。  わたしはすぐに気がつきました。どこもかしこも綺麗にしたと思っていたのに、見逃していた部分があったのです。曇った鏡面にこびりついた白っぽい線状の水垢の上を、湯の雫がちろちろと伝い落ちていました。ああして鏡の表面に付いた水分を四年も拭かずに放置し続けた結果、鏡全体が白く濁り、顔を映しても肌の質感がわからないほど不鮮明になってしまったのです。どうしよう、さすがに漂白剤をぶっかけるのはまずいし、窓拭き用のスプレーでも買ってきて新聞紙で擦り上げようかしら?  しかし、わたしは疲れていました。二日酔いをした時はなぜかいつも右腕が重くなり、肘から下がずきずきと痛むのですが、今日はスポンジを持って風呂場を磨き続けた分余計に痛みがあり、しばらくお湯に浸けてそっとしておかなければ治らないように感じていたのです。寝過ぎたせいか体全体も重たく、たっぷり睡眠を取った頭だけが元気な状態でした。 (ここが重要な所なのです。わたしの頭ははっきりとし、目は冴えていました。)  わたしが鏡を眺めていると、鏡面に無数に走る白い水垢の線と、下に向かってゆっくり滑り落ちていく雫が接したり、交差したりする点が、やはり無数に存在するのがわかり、そうした点ができることで、また新たな水垢と雫の見かたが生まれ、わたしは鏡の上に無数の絵画を発見し得ることに思い至りました。子供が空に浮かぶ雲の形をいかようにも解釈し得るのと同じことです。わたしが初めに鏡の上に発見したアートは、実に単純で、丸餅とか鉛筆とかマシュマロとか、それこそ見る人によって何とでも言える単純な図形ばかりでしたが、じっと目を凝らしていると、もっと複雑な絵が見えてくるようになりました。そうした絵ほど眺めていて面白く、また眺めているうちにますます本物らしく見えてきて、点や線に乏しい所が視野の中で補完され、景色に様々な色が付いたり、人物がひとりでに動くようになったりし、わたしはすっかり生きた世界を覗き見ている気持ちでした。音や光の情報さえも鏡のおもてに氾濫し、気がついた時には、わたしは鏡のもたらす映像世界に没入していました。  闇を照らす篝火の隣に、鎧武者が立っています。黒い兜を被っていて顔はわかりません。口もとの辺りだけが少し開いていて、そこからのぞく唇は冷たく歪められています。あまり性格のいい武士ではないようです。鎧武者の前には馬の胴体が見えています。首から先は鏡の右端に見切れてしまっています。思うにここは野営地でしょう。人の心を失くした冷たい鎧武者は、これからこの馬に乗って戦場に出るのでしょうか。寺を焼き払うのでしょうか。あるいは、糧食を得るため村を襲い、鍬を持って反抗した百姓の首をかっ斬り、若い娘を慰みものにし、山に逃れてわずかに生き残った少年たちの、一生涯の怨嗟の対象となるのでしょうか。  視野を広くして鏡の左端にも目を向けると、馬の体はかき消え、鎧武者も篝火も失せ、全く別の点と線が結び合わされて、鏡を横切る長い包丁の刃が見えました。包丁の先には、亀の横顔がありました。亀は泣いています。首筋に包丁を突きつけられ、もう命がないことを悟り、頭を引っ込めることもなく、右目に諦めの涙を浮かべているのです。見切れたところで包丁を握っているのは、たぶん亀を買った料理人で、亀はどこか養魚池みたいなところで、食用として育てられたに違いありません。自分の運命を初めて悟ったのです。雄でしょうか。雌でしょうか。卵は産まれたのでしょうか。卵から孵ったばかりの子供たちも、いずれ自分と同じ運命をたどることを知っての、親の涙でしょうか。亀のつぶらな瞳から、大きな雫がこぼれ落ちました。  そして、わたしを最も戦慄させた光景が、最後に待っていました。  植生からして、そこは熱帯雨林のようでした。アマゾン川の岸辺のような景色です。しかし、樹木は地球のそれとは思えないほど高く伸び、川からの侵入者を迎え撃つようにぐねぐねと枝を湾曲させ、高い樹木の膝元に群生した植物の葉や茎は、生命力に満ちて毒々しいほどの緑色です。なかにはヤドクガエルの皮膚を連想させる、青や黄色の鮮やかな警告色を示すものもあります。さらには動物の血管そっくりな赤い蔓植物が、樹々の幹に幾本も絡みついて自らひくひくと脈動しているのです。  その恐ろしい樹林の隙間からは、今から約六千万年前、新生代古第三紀の暁新世の地球に生息していたという、体長十五メートルの史上最大の蛇、ティタノボアほどに巨大な、ムカデの化け物が顔を出していました。全身を赤黒い鎧で覆い、鞭のように触角をしならせ、二振りの刀からなる大顎を広げ、何かネバネバとした液体をおちょぼ口から滴らせています。この生き物がわたしの知るムカデと異なる所と言えば、コブラのように立ち上がれる所と、数えきれないほど生えている細い肢のうち、胸の辺りにある二本がやけに長く、カマキリの鎌のような形状をしていて、彼はそれで獲物を捕まえてから大顎へと運び、口中から分泌される粘液で柔らかく溶かしながら食べる所です。なぜわたしが、これほど詳細にこの怪物の捕食方法を説明できるのかというと、彼が食事中だからです。  熱帯雨林の岸に、ひっくり返ったボートが浮いていました。人間二人が乗るのがやっとという大きさの、貧相な木製のボートです。ボートの底には穴が空いていて、どうやら転覆した後ここに流れ着いたようです。  大ムカデは赤い樹木に寄りかかるように悠然と立ち、その乗員を食べている最中でした。一人めはもう腰まで飲みこまれ、どんな顔をしていたのかわかりません。性別さえわかりません。でもきっと泣き叫んだことでしょう。むしゃむしゃと大顎を動かしている間、大ムカデの鎌は、二匹目の餌を宙に拘束しています。それは襤褸を着た女で、口から鮮血を吐き、四肢と首をてんで別々の方向に折り曲げた不自然な姿勢のまま、辛うじて息をしていました。たまたま上向いた顔が、食われる仲間の死体を見る形になり、彼女は悲鳴を上げる気力もなく、澱んだ虚ろな眼で大ムカデを見上げていました。  彼女の眼に絶望を見た時、わたしにはやっとわかりました。これは錯視でも、幻覚でもなく、どこか別の世界で現実に起こっていることなのです。風呂場の曇った鏡がカメラとなり、スクリーンとなり、わたしにその映像を伝達しているのです。わたしはウェルズの『卵形の水晶球』を思い出しました。同時に、乱歩の『鏡地獄』、『押絵と旅する男』なども。わたしが今見ている景色は、火星ではなく、合わせ鏡の監獄でもなく、絵の中に生きる恋人たちでもありません。暁新世、あるいはそれより遥かに昔の、地球の一場面でしょうか、もしそうだとしたら、あの二人はどうしてそこにいるのでしょう? 人間が猿ですらなかった時代に? 彼らはわたしたち人類とは別の種族なのかもしれません。鏡の中のこの恐ろしい熱帯が、わたしが知るアマゾンの熱帯とは、似て非なる場所であるように。  大ムカデが一人めを食べ終り、大顎を上品にカチカチと打ち鳴らしました。大鎌に持ち上げられた彼女の瞳に、思い出したように恐怖の色が宿りました。それは「捕食される」という、わたしたちが遠い過去に置いてきたはずの、生物にとって最大の恐怖でした。  彼女の恐怖はわたしに伝染しました。それ以上見ていられなくなったわたしは、浴槽から立ち上がり、洗面器に掬ったお湯を掛け、スクリーンを鏡に戻したのです。  鏡の熱帯は消え去りました。わたしは鏡面に付着していた水垢を丹念に拭き取り、自分の顔が鮮明に映るようにしました。もう絵や映像が見えることはないでしょう。しかし、わたしは引っ越しが終るまで、この部屋の風呂を使わないことに決めました。  思えば、前の日の夜に電気ブランを飲み過ぎたのがいけなかったのかもしれません。十時間以上寝てもアルコールが抜けていなかった可能性があります。あるいは換気の時間が足りず、風呂場に残留していた塩素の臭いが、わたしの頭を鈍らせたのかもしれません。そもそも、あの日は疲れていたのです。目は冴えていても体がひどく。  鎧武者の歪んだ唇、調理される亀の涙、あの二つに関しては、幻だと信じ込むこともできなくはありません。よしんば、幻でなかったとしても、わたしは地球の歴史上に何度も起こっただろう些細な出来事の一部を、何かの拍子にちらりと覗き見ただけです。仕組みは不可解であっても、それはテレビのニュースを通じて外国の様子を知るようなことで、映る世界そのものに対して異物感は覚えません。  しかし、ムカデのような怪物に頭から食われることを悟った彼女の、あの怯えた眼、あれを思い出すたびに、わたしは鏡の熱帯がどこかに実在することを信ぜざるを得ないのです。  あそこで鏡にお湯を掛けず、彼女を助けようと手を延ばしたりしていたら、どうなったでしょう。

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鏡の熱帯

深酒の夢

 深酒をした夜、私はいつも眠るのが怖い。  いったい何に怯えているのか、ようやくわかった。  私は夢の中の女に、それを教えてもらった。  昨夜、私は苛々して八畳の寝室を歩き回っていた。八畳も要らないからである。  ああ、誰だ、窓のカーテンを二重に閉めるのを忘れたやつは。  透かし見られたら、どうするんだ。  トイレ、水分補給、音楽鑑賞、色々試してみたが、どれも今本当にしたいこととは違う。  私は知っている。「おれは、ただ眠りたいのだ(安らかに、なんて言葉を付け加えようとするな!)」  縁起でもない……。  深酒。深い眠り。夢に入ると、どこまで降りても続く階段。下へ降りるのは気が進まないが、かといって上へ行く階段などをもし見つけた日には、発狂しそうな気がする。  冴えた目のままベッドに戻ると、いつの間にか分厚い本が枕元に置かれてある。  黒い布の表紙に「愛蔵版」とだけ、金文字で書かれてある。  これは、私の死後に出版される予定の本である。  だから、今読んではいけない。  私はそれを直観し、ベッドの上で独り震えている。  二時間前に浴びたばかりのシャワーをもう一度浴びるべく、私はシャワールームへと走る。しかし、やけに遠い。やはり、八畳も要らないのである。体が指人形のように小さくなってしまった気がする。何年かかるかわからない。  蒸し蒸しと、暑い。  全身の皮膚から汗が噴き出し、垂れ落ちるのを感じながら(それが無色透明であり、決して赤い血液などでないのを、目を閉じたまま祈りながら)永劫の時を駆け抜け、やっと辿り着いたシャワールームは眩いばかりの光に満ちている。若い半裸の女が独り、びちゃびちゃのタイルの上に生白い両膝をついて座っている。ウェーブのかかった黒い髪が、水に濡れて艶々輝いている。妖しいほど綺麗だが、今は褒めてやる気持ちになれない。  女の顔は髪に隠されず、はっきりとわかるのだが、それがかえって不快である。 「おれは、君を知っている。前にも会った」  我ながら、なんて気障な言い回しをするのだろう。 「眠れないの?」 「うん」 「だったら、わかるでしょう」 「わからない」 あれだけの時間を走ったのに、私の息は彼女に会った今少しも上がっていない。古時計の振り子のように、ゆっくり繰り返す。ゆっくり、次第に、穏やかに、重たげに、誰にもすぐには気づかれない故障へと向かって……。 心臓すら声を殺す静寂。 私が自分の家でこの人を見つけたという状況のはずなのに、そんな気は全くしないどころか、あべこべな不安を覚えている。  彼女は深い青の競泳水着を、弾力のありそうな白い肌にぺったり張り付かせている。輝くシャワールームは八畳を優に超える広さに拡張しているらしく、彼方には黄色い地平線のようなものが見える。あれから先は砂漠なのかもしれない。  放射状に彼女を囲む、無数の半透明の男たちの存在を私は知る。  顔のない男たちの影が、世界の中心に座す彼女の濡れた髪と肌に吸い寄せられ、みんな揃って一心不乱に、醜い手作業に励んでいる。 (彼らがいつか全精力を失ってここに倒れ臥す。折り重なり骨になって黄色い砂になる。砂漠が広がる。彼女は地球上を大移動して作物を喰い尽くすバッタの群れを突き動かす単純な食欲に近い強烈な引力を持った異次元の精神体。そんな妄想を信じこめれば、私は陰謀論者たちのような思考停止をして、ぐっすり眠れるだろうに)  しかし、この構図、どこかで見た。  ポルノの見過ぎだ。  いや、違う。現実とは、ポルノなのだ。  そう思えば。 「そう思えば、怖くなくなるのがわかるでしょう?」  彼女の囁きに、私は大いに惑わされ、身震いしたが、どうしても、彼らと同じことはできなかった。何故なら。 「きっとそれでも怖いままだからだ」 「何故」 「獣にも夜の憂鬱はあるだろう」 「深酒の夢は、ないわ」  水着の女はからからと笑う。 「あなたはとっくに狂ってるのよ。怖いならお酒をやめればいいのに、毎晩浴びるように飲んでしまうのはどうして? あなたは憂鬱が怖いの? 深酒をした後眠るのが怖いのは、憂鬱になるからなの?」 「夜は自分の憂鬱に会いに、階段を降りて行く時間だ」 「それが、怖い?」 「いや……」  私は目を伏せた。すると、目が開いた。  「昨夜、私は苛々して」から始まり、「目が開いた。」までが、昨夜の夢である。私が眠れずに苦しむ夢を、私は見ていたのである。  深酒の後の夢の世界で、私が何より恐れたのは、あの女だった。  カーテンの外、窓の向こうから、眠れぬ体を透かし見ようとする者。汗ばむ皮膚の下へ隙あらば這い入ってこようとする者。  つまり、夜そのものである。  シャワールームの男たちが必死に手作業をしていたのは、敢えて彼女に欲情することで、彼女への恐れを忘れようとしたからであるが、あれは音楽を聴いたり、水を飲んだり、放尿したりするのと同じくらいの効果しかもたらさない、虚しい行為だと思う。  「夜」との問答を誤魔化した私は、不思議なほど清冽な「朝」を迎え、昨日の「夜」が顔を借りていた、私の美しい妻の隣で、この記録を書いている。 「それで、解決したと思う?」 「うん」  違う。私に妻はいない。私はまだ、眠っている。

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深酒の夢

終生書生志望

 終生書生志望の青年がいた。ものを書きたい気持ち一つで生きてきたつもりだったが、それで生計を立てることはできていなかったし、この先できるとも思っていなかった。彼は人間ぎらいで、臆病で、卑屈で、引きこもりがちで、外出するとなると、青白い、今にも泣き出しそうないじけた面をして、飼い主に紐で叩かれることを予期した犬のように、目を伏せてふらふら往来を歩き、自尊心が強く、責任転嫁が得意で、悪いのはいつも世間だと嘯きながら、人の輪の中に生かされ、学問も労働もよくせず寝ているばかりなのに、「疲れた」という言葉が口癖だった。たとえ人間性が最低でも、言葉にさえ魅力があれば、何かの間違いで作品が世に出て評価されることもあったかもしれないが、彼の書く小説はここに載せて笑いものにするのも気の毒なほど凡庸で、痩せていて、作者自身のへどもど、くよくよ、しょげかえった生活態度がはっきりと表れていた。年々作家を目指す気は失せ、青年の夢は卑しく、救いようがないものへと変わっていった。曰く、「いつかは作家になりたい、という無邪気な夢を見続けられる身分で、いつまでもありたい」。  終生書生志望の男は、まだ若い。まだどの文学者の家にも転がり込んでいない。そもそも、書生を養うという習慣や、若い文士を弟子に取るステレオタイプの「文学者」という個性自体が、日本全土を見渡しても失われた時代に生きている。終生書生志望というのは、彼の自虐的な筆名だった。彼の書く小説といったら、「作家志望」と自称するのも憚られるほど浅はかで、中身がないものばかりだった。  書生志望の生活を覗いてみると、なるほど立派に怠惰である。文学者然とした所も幾つか見受けられる。この男は、決して学費の安くない大学に奨学金無しで通わせてもらい、講義にはあまり出席せず、かといってアルバイトもやらず、遠方に住む両親が毎月欠かさず送ってくれる仕送りだけで大飯を食らい、顔に見合わぬ上等な服を買い、髪を伸ばして似合わぬパーマをかけ、たまに女性に声を掛け、うまくいったら二、三カ月は大はしゃぎ、でも大抵は長く続かず大失恋、悲痛なる思いは原稿用紙に書き殴り、表情や景色を伴わない説明的な心理描写で埋め尽くされた、読む者皆赤面必至の恋愛掌編を書き上げ、これはこれでいいものだ、などと夜半に机の上で独り怪しく笑っている。彼は長編が書けない。背景が書けない。物語を作れない。現代で作家になろうと思うなら、これらは致命的欠点である。その他にも、彼には小説を書く上で足りない部分が多過ぎる。所謂感情爆発型の、似たり寄ったりの小品しか生み出せず、何の構想もないまますぐ一人称に走り、思いつくままに筆を滑らせまくり、これが「死ぬ気でものを書き飛ばす」ということだ、などと太宰や織田作にわが身を重ね、イヒヒと志賀直哉式に怪しく笑っている。よく笑うから、友達はいる。 「お前はすごいよ。いいものを書いてるよ。何年留年してもいいから、書き続けるんだぞ」 「いや、そんな、ボクにもボクなりの考えというものがあるからね」 「たとえば?」 「つまりだね、独り立ちさ。金を稼ぐということさ。多少才能があるからって、いつまでも文豪の真似事なんかしてられないよ、阿呆らしくってさ。出版社か、マスコミか、映画会社か、そういうボクの強みを活かせそうな場所に、もぐりこんでやろうかと思っている」  そんな勇気はない。大学の入学式以来スーツを着たことがない。ネクタイの締め方もインターネットで調べないと思い出せない。現在、二十四歳である。二留である。彼は酒に弱いが、たまに飲むと、いつもの筆滑り以上の勢いで「わが人生観」なるものについて喋りはじめる癖がある。その現象は友人たちには「カタリ」と呼ばれ、つまり語りと騙りを掛けているのだが、聴いている側としてはこんなに面白い話はないので、みんな第一に彼に飲ませたがる。狭苦しいおでん屋台で、パリッとしたスーツ姿の男たちに囲まれて、彼独りがアウトロー気取り、黒いデニムパンツの上に黒い革ジャン姿である。春夏秋冬、同じ格好である。 「それもいいかもしれんね。お前なら大丈夫だよ」 「そうだ。お前は大丈夫だ」 「大丈夫だ!」  赤提灯にあてられた真人間たちに合唱され、アウトローは顔を真っ赤にして震えている。沢山日本酒を飲んだせいだと思いこもうとしている。震える箸でつまんだダイコンを、スニーカーを脱いだ足の上に落とし、アツッと悲鳴を上げる。  書生志望にも、もうわかっているのだ。今は幸せかもしれない。けれども、一生こんな生活は続けられない。周りは皆就職し、顔つきが変わり、一人前の社会人として成熟していっている。 (で、俺はどうだい。二十歳をとうに過ぎて皺一つない童顔だ。さんざん苦労したつもりが、肌は脂でツルツルだ。君らはさっき乾燥肌で悩んでいると言い、目の周りに小皺ができた気がするなどとぼやいていたが、安心したまえ、それは歳相応の努力の勲章だ。あいつ、あの童顔、偽文士、まだ懲りずにやってやがる、と、みんなほんとうは心の中で、イヒヒと笑っているんじゃないか?)  男は椅子から降り、地面に落ちたダイコンを目で捜しながら、人知れず肩を落とす。彼の薄汚れたスニーカーを囲むように、ぴかぴかに磨き上げられた革靴が六つある。男は自分の邪推を嫌悪した。彼を囲む三人の男に、裏の顔などというものはなかった。たまに彼のことをからかいはしても、全員が彼の夢を笑顔で肯定してくれる、得難い友だった。だから苦しくて、申しわけなくて、男は時々、今のような被害妄想に囚われてしまうのだった。  そういう時に、やっと思う。ものを書き続けてさえいればいつか食えるようになる、という甘い見立ては、そろそろ忘れた方がいい。出版社、マスコミ、映画会社にもぐりこむ努力を、本気でした方がましだ。親はいつまでもお前の面倒を見てはくれない。お前が親の面倒を見なければならなくなる日が、じきに来る。わかっているだろう。  しかし、彼のひねくれ方には尋常ならざるものがある。 (俺はただ他人に養ってもらいながら、駄文を書いてのうのうと暮らしたいわけではない。欲しいのは、師だ。俺の文章の悪い所を直し、作家らしい作家に仕立て上げてくれる師が欲しい。軽薄短小な思想しか伝えられないあの文章には、われながら、もう懲り懲りなのだ。長い話が書きたい。長い話を書く、技量と度胸が足りない。誰かが少しのヒントをくれたら、何とかなる気がする。ところが、俺の周りに優れたもの書きは一人としていない。大学の同好会なんぞは読んで字の如く……だ。かつてはそこの会長まで務めたことがありながら、こんなことを言うのは心苦しいが、全員アマチュアくさい。俺と同程度か、俺より下手かだ。俺より才能がある人はいる。沢山、いる。でも何だか、活かしきれていないし、読んでいて、もっと賢くやれないものか、と毒づいてしまう。だけど、あいつらが俺より先に職業作家になったら、きっと刺し殺したくなるだろうな)  彼は、何様のつもりだろうか? (終生、書生志望様さ。孤独な執筆活動に疲れ果てた、文学の大先生の肩を揉み、鞄を持ち、靴を磨いて差し上げるのが、あたくしの夢でございます。感傷家、夢想家、しかし彼、詩人に非ず。笑えよ)  笑ってごまかしているのは、いつもあなただ。  冬の夜の路面に落ちたダイコンは、すぐに湯気を立てなくなり、指で拾ってもちっとも、熱くなかった。  

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夜の狂想

 まだ夜中なのに目が覚めてしまった。全身の筋肉が冷たくこわばり、麻痺したように重くなり、表皮が乾ききった、ひどくグロッキーな心地に襲われたためだった。というと、冬場に毛布や加湿器の用意を忘れ、ソファの上などでだらしなく寝てしまった日の翌朝の後悔とさして変わらないような気がするが、僕の体験した「グロッキー」はそんなレベルではなかった。感覚を失った手足の爪が、いつの間にか真っ黒に壊死していて、ぽろぽろと剥がれ落ちていくのを呆然と見ているしかない雪山の寒さ。巨人に覆いかぶさられているように重たく痺れた体。鰯のみりん干しもかくやというほど、水分を奪い取られた皮膚。覚醒の瞬間、僕は自分の目があと何秒この世界を見ていられるか、真剣に考えたくらいだ。  でも僕は無事だった。その冷えや痺れや乾きは、僕の意識が夢の混沌から現実へ戻ると同時に、急速に肉体から失われていった。目覚めてから一分経つと、僕は早くも「グロッキー」のことを忘れかけていた。ただ、現世に生まれてからのすべての眠りで、今夜が一番ぞっとする気分だったということだけをはっきりと記憶していた。  その記憶をもいつかなくしてしまうかもしれないということが、僕にはますます恐ろしく、こうした問題の解決にうってつけの人物を今すぐ呼ぶことにした。その人はこんな時間にも来てくれる、というより、こんな時間にしか来てくれないことが多い人だった。  彼女は僕のかかりつけのデリヘル嬢で、僕の精神的なわだかまりも、肉体的なわだかまりも一緒くたにし、その柔らかい手で解きほぐしてくれる神業の持ち主だった。容易いことではない。人間には心が不調な時も、体が不調な時もあり、その二つは必ずしも連動するとは限らないからだ。しかし、優れた芸術的センスを持つ人は、精神を肉体的に、肉体を精神的に感じ取り、表現することができる。つまり、彼女は僕にとって医者であり、カウンセラーであり、芸術家であり、デリヘル嬢なのだった。  いつもと同じように、彼女は呼び鈴を鳴らさずに部屋の前から僕に電話し、僕はスマホの応答ボタンを押すと同時にドアを開けた。彼女は一声も発さずに室内へ滑りこんだ。黒い革のブーツを履いた足が両方玄関に入ったのを確認してから、僕がドアを閉め、音が響かないようにゆっくり鍵をかけた。集合住宅のしきたりだ。おもにおのれのプライバシーを守るために、デリバリーヘルスを利用する時はホテルの部屋も併せて借りる人が多いと聞くが、僕は身も心も彼女に委ねているので何一つ隠しごとをする気はない。 「やあ」 「こんばんは」  ただちにベッドで手術を受けた後、僕は今度こそ穏やかな眠りに落ちていこうとする自分の意識を叱りつけながら、彼女に先ほどのグロッキー体験を打ち明けた。 「危ないところだったわね」  と彼女はうなずいた。 「いろんなお客の話を聞いてきたけど、それと似たような話をしてくれた人は大抵、自分の心身をいじめる仕事や遊びに夢中になっていた。口では怖かったと言いながらも、それから特に気にも留めずに同じ楽しみを続けていた人は、みんな突然私を呼ばなくなった」  現世に生きている限り、この「癒し手」と一度出会ってしまえば、どんな男でも離れられなくなるのを僕は知っている。そう、彼らは死んだのだ。 「心配しないで、あなたは大丈夫よ。悲観的な人だもの」 「ひどい言われようだ」 「でも、本当よ。あなたって自分にとって悪いことは際限なく考えられるけど、よいことはすぐに頭の中から消してしまおうとするでしょう?」 「うん。……昔からずっと僕のこと悲観的って思ってた?」  彼女は眉間にわかりやすくしわを寄せた。 「ほら、今だって。揺り戻しが来るのが怖いのよ」 「揺り戻し?」 「大げさに言えば、『こんなに幸せな思いをしていたら、今にきっととんでもない災いが起こるんじゃないか』という漠然とした予感が、あなたの心にある。それが幸福の感受に歯止めをかけ、反対に今思い出したくないことばかりを考えさせる」 「本当に大げさだな。しかし、その通りかもしれない」 「わたしはね、悲観的な方が健康だって言いたいの。あなたが考える悪いことっていうのはつまり、いくら考えても仕方がないことでしょう。退屈しのぎに暗ーい自己問答なんぞやって遊んでいるだけで(※僕は図星を突かれて耳が痛かった)、心も体も決して多くの力を割いているわけじゃない。むしろ、自分にとって楽しいことや意義あること、創造性のある営みをしようと思考する時の方が、もちろん気分は上向くけど、人はつい心と体を酷使する……」  すっかり脱力してベッドの後ろの壁に背中を預けていた僕が、不意にがばっと起き上がって自分の鼻を指でつまみ、目を細めたので(くしゃみをこらえる時の癖なのだ)、クシャクシャの青いシーツの上に横座りして僕と向き合っていた彼女は、生白いふくらはぎが見え隠れしていた黒ワンピースの裾をそそくさと整え、手を洗いに行った。心身の膿を一斉に射出した後に訪れる、巨大な人類愛的法悦に浸っていたとはいえ、僕はふくらはぎが見えた瞬間も、彼女に劣情を抱かなかった。ただ、何だか神々しい白さだなと感じた。ダプネーが月桂樹に変身する瞬間を捉えた、ベルニーニのあの素晴らしい彫刻、未だ樹皮に覆い尽くされずにすらりと地へ向かって伸びた、右の脚のように。  誤解のないように言うと、僕は彼女に指一本とて自ら触れたことはないのだ。彼女がこの部屋で脱ぐのはコートやマフラーまでで、いたずらにべたべたと僕の指紋をあの人の持ち物や肌に付着させるのは禁止だった。それは、治療が必要な箇所のみに適切な処置を手早く施してもらう、患者と医者のドライな関係だった。 「くしゃみ出た? そろそろ服着なさい」 「うーん。シャワー浴びてないから、暖房つけてしのぐ」 「子供なんだから」 「君が帰るまで話していたいんだ。さっきの病気の話」  予約した六〇分コースはあと十五分残っていた。十分前になったら店から電話がかかってきて彼女は帰り支度を始めるので、実質的な残り時間は五分だ。  彼女はテレビドラマの探偵のように顎に左手をやり、八畳のワンルームの中をゆっくりと歩き回りはじめた。ヒールがなくても一七〇センチの僕と同じか少し高いくらいの身の丈だから、謎解きの舞台としては窮屈そうだった。真っ直ぐ伸びた背筋、骨ばった長い指、煌めく翠の爪、彫りの深い横顔に映る物憂げな影が、妖しく麗しかった。本当に美しい顔の持ち主は、見る角度によって少女にも少年にも、乙女にも青年にも、老婆にも老爺にも見えるものだ。性別の壁、年齢の壁、容易く乗り越えてしまう。あるいはそれは、注意して見さえすれば人間の顔すべてから読み取り可能な一種の人類史、種族としての進化の歴史なのかもしれない。美しい顔は自然に他人を惹きつけ観察を促すから、我々が相対的にその事実に気づきやすいのかもしれない。ともかく、僕はこの人の純粋な鑑賞者でありたいと願いつつ、自分の貧相な肉体が様々な角度から彼女の切れ長の目に見下ろされるのに密かな興奮を覚えてもいた。それで、少しでも余裕のある男に見られようと、腕組みをして気障ったらしいポーカーフェイスを作っていた。全裸で、ベッドに毛むくじゃらの脚を投げ出して。 「病気というか、いわば悪い兆しよね。あなたの体のその冷えや痺れや乾きは、体のどこか一か所から全身に広がっていかなかったかしら」 「そういや、ベッドに寝転ぶ時に腰が痛かった気がするな」  思い返してみれば、就寝時にやや気になっていた鈍い腰痛が、胸、肩、腕、脚などへじわじわ広がり、目覚めの一歩手前で突然先鋭化して全身へ転移した、そんな記憶だった。 「でも、その『兆し』は心臓や脳にまでは到達しなかったのよ。それが不幸中の幸い。もしその辺りにまで届いていたら、『兆し』は本当の病魔に変わって、あなたの命はなかったかも」  彼女がいやに確信めいた言いかたをするので、僕も勢いにのまれてうなずいた。 「摘出された尿路結石の拡大図を見たことはある? あの地獄の拷問器具みたいな針山が、あなたの腰から体中に運ばれていったのよ。その正体が疾病なのか、ストレスなのか、何かスピリチュアルな精神体なのか、悪夢の源泉なのかは知らないけれど、私の手はあなたの身中にその形の残滓を感じ取ってる」  彼女はベッドから離れた台所のシンクの前で立ち止まり、僕の下半身を両の掌で一撫でずつする真似をした。彼女の話は全くもってスピリチュアルな内容だったが、僕はそのちょっとした手つきを見ただけで、さっき癒してもらったはずの一物がひくりと脈打つのを感じた。パブロフの犬だ。 「でも目が覚めたら、全部の症状が嘘のようになくなってしまったんだ。あれは何だったんだろう」 「たぶん、体に由来するものじゃないからよ。肉体を食い潰すより先にあなたが起きてしまったので、もといた場所に戻っていったのね。夜寝る前に、何か気が狂いそうになるくらい、集中して考えていたことはなかった?」 「ああ……」  思い当たるふしがあった。 「原稿を書いていたんだ。同人誌の」 「あなた、文学おたくだったわね」 「おたくって言うな。でもあの腰痛はてっきり、いつものように背筋の曲がった不安定な姿勢で原稿を書いていたせいだと思ってた」 「普通の筋肉痛の裏に、そいつは潜んでたのよ。いい? 精神も、肉体と同じように消耗するの。働かせすぎるとパンクする。体につけが回ってくるのが厄介なの」 「わかった。気をつける」 「ところで、その労作とやら、私に見せてよ。死ぬほど暇な時に読むから、携帯に送ってほしい」  ちょうどそこで彼女のスマホの着信音が鳴った。いつもと同じ「メン・イン・ブラック」のテーマだった。黒服からかかってくる電話だからかとはじめは単純に解釈して笑っていたが、よくよく考えてみると、彼女はこの仕事をエイリアン退治と捉えているのかもしれない。複雑な気持ちになった。  とりあえず見送りのために僕はてきとうにパジャマを着、玄関の後ろでマフラーを巻いている君のためにドアを開けた。夜はもう白みかけ、どこかで新聞配達のバイクの音がしていた。 「じゃあまた呼んでね」 「うん、また」  普段通りの簡単な挨拶をして別れようとしたが、僕は凍てつく冬空の下、ベージュの分厚いメルトンコートを着た肩をすぼめて去っていく彼女に、思わず声をかけていた。前から気になっていたこと、あまり訊くべきではないことをいくつか。 「ねえ。本当はいくつなの」 「ハタチ」  もう外階段の一段目に足がかかっている。 「待って、もう一つだけ。本当は女なの、男なの」 「押し倒して裸にむいてみれば? それ以上質問するなら、延長扱いだけど」  振りむきざまに、できすぎた営業スマイル。八重歯が治っていて面白くない。豊かな黒髪を耳の後ろにかき上げてひざまずく姿が好きだったのに、いつからか明るい茶色に染めた髪をきちんとまとめてくるようになった。僕のリクエストと違うことばかり、あてつけみたいにこの人はやる。  当たり前だ。彼女は一人の人間であって、僕の神様じゃない。神様は奴隷と同じだ。人間の希望通りの性格しか持つことを許されない。 「裸にしたって何にもわからないよ。心と体は必ずしも一つじゃないって、君はいつも言うだろ」 「だったら、答えも一つじゃないかもしれない。バイバイ」  今日もまたかわされた。僕は朝から失礼なことばかり、大きな声で訊いてしまった。  大丈夫だ。金さえ払えば、彼女はふたたびここへ来てくれる。だが、どんなに大金を積まれても決して服は脱がない。胸も性器も当然見せない。柔らかな手指の技巧一つで客を虜にする謎のデリヘル嬢。彼女がいつからその設定で仕事をしているのか、店はどこにあるのか、お迎えに来るあの黒いBMWの運転手はなぜ何年経っても彼一人なのか、僕は知らない。過度な詮索は地雷客の特徴だから、いくら知りたくてたまらなくても、すかした顔をしていなくちゃいけない。結局僕は、プライドだけが大きく育った三十歳の素人童貞なのだ。いや、あの人の手マ○コしか経験していないんだから、ただの童貞か。純粋童貞……。  君の言う通りだ。僕は悪いことならば際限なく考えられる。  部屋に戻ってシャワーを浴び、下着を替えた後、僕は彼女の営業ラインアカウントに、昨夜書き上げた同人誌用の小説をPDFで送ることにした。読み返してみたら中々ひどい出来だったが、今更枝葉末節を繕ってもどうせ心は入れ替えられないから、誤字脱字のみ直して送信した。次会う時までに読んでくれてたら嬉しい、という自意識まみれの恥ずかしい一言を添えて。さて、午後のバイトまでもう一眠りしようか。  畜生。どんどん目が冴えてきた。  僕は今、人間対人間のまっとうな恋を、彼女とともに始められないものかと本気で悩んでいる。心身の力を消耗するのを承知しつつ、思考を止められなくなっている。悪い予感がする。だってこれは、どうどうめぐりの暗い自己問答ゲームじゃない。彼女は言った。「自分にとって楽しいことや意義あること、創造性のある営みをしようと思考する時の方が、もちろん気分は上向くけど、人はつい心と体を酷使する……」。  「ガチ恋」、それも確かに地雷客の一種だ。だが、僕は医者のあの人でも、カウンセラーのあの人でも、芸術家のあの人でも、デリヘル嬢のあの人でも、最早物足りなくなってしまったのだから仕方がない。彼女の素顔を知りたい。客には見せない、ありのままの姿を。  アポロンは月桂樹になったダプネーを見て何を思っただろう? おしゃれな葉っぱの王冠なんか作って、真に満足できただろうか? おぞましく悲しい結果しか招かないことがわかっていたとしても、彼女の樹皮を力ずくで引き剝がし、あのまぶしく美しかった白い脚を見たいと、ただの一度も願わなかっただろうか?   美しいから恋したのだ。他にどんな秘密があろうと、僕は構わない。あなたに会いたい。  胸を焦がす片思いに悩んで悩んで悩んだ先、気絶するような甘い眠りが僕を待っている。耳元で囁いている。  僕は今度こそ、あの兆しに身を亡ぼすかもしれない。

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夜の狂想

瀧廉太郎装備

 高校生の頃、文芸部に所属していた同級生が、「めがね」という詩を書いた。  ――めがねをしている世界はめまいがする。息がつまる。めがねを外して、ぼんやり涙ぐんだ世界は、やけに美しく見えた。  そんな感じの詩だった。  なぜいま、その詩を思い出したのかというと、わたしはいま、めがねを捜しながら泣いているからだ。  ――いやだよ、見えない、苦しい、焦らせないで、どうして。  コインランドリーの二十五キロのドラム式乾燥機で、全部乾くまでに四十分もかかった皺だらけの洗濯物の山。  ここ三週間ばかり毎日、食べては包みなおし食べては包みなおしと一枚三円するコンビニ各社の袋に臭い漏らさぬようぎゅっと封印してきたおびただしい数の弁当がらや、やる気のないドミノのように無秩序に床に並んだ空き缶とペットボトル。  部屋の汚さに比例してそこらに山積みになった、つまらない感傷。  どこにもわたしのめがねは見当たらない。  そもそも、いつだってわたしは涙を流さない泣き虫で、焦ったり、ほっとしたりですぐ心が「わーっ!」といっぱいいっぱいになり、それでもその波が目縁を越えてあふれ出すことは決して許さず、嘘くさいほど自然な微笑みを人々に振りまいて日々をやり過ごしてきたわけだが、どうやらそれはひとえに、外界と肉体を隔てる壁があるという安心感に支えられていた。それが透明だからこそ、自尊心も傷つかずにいられた。自転車の補助輪を外す勇気がなく、姉や父にからかわれていた幼少期の屈辱感を、わたしは執念深く覚えている。あれも透明だったらよかったのに。  めがねをかけるとわたしはわたしになれる。何者にも傷つけられない強いわたし。なら、めがねをかけていないわたしって何なんだろう?  何でもない。大人気ない泣き虫。この広いゴミ箱世界のあるじ。神はなぜ、この無気力無計画無頓着そのくせ人一倍繊細多感な人の子に、八畳もの領地を与えたもうたのか。  いまはそんなことを嘆いている場合じゃない。とにかく、めがねを見つけないと。  でも、わからない。なんでこんなに涙があふれてくるのか。裸眼視力0.1を切るわたし、めがねがなくては雑踏をまっすぐ歩くことすらおぼつかないわたし、人間らしく生活するすべを失って途方に暮れて泣いているのか、それとも。  それとも、めがねそのものとの別れを恐れて泣いているのか。  少なくとも、一つわかっていることがある。めがねを外して、にじみぼやけた視界、針が消えたサボテンと掛け時計、日付はなく赤ペンの丸いしるしだけ溶け残って不安をあおるカレンダー、鬼束ちひろが小山田浩子に変身していても気づかないA2ポスター、窓を突き射す鋭さを失ってむしろ部屋中に遍く広がって見えて苦しいオレンジ色の西日、こんな不条理な世界を「やけに美しく」思えることなんてない。わたしには。  わたしには、というのが一番大事で、悲しいところで、そこにあの詩の作者とわたしとの人間としての生きかた、性格の違いが表れているんだろう。でも、詩にいちいち「わたしには」だの、「個人の感想です」だの付けていたら、かえって誰の共感を呼ぶこともできなくなってしまうから、あの人が悪いわけでもない。  くどくどしいことを考えているうちは気がまぎれる。鼻につくにおいも、胸に巣喰っていた不安も一時なくなる。しかし、わたしいま、考え事をしていたな、と考えた途端、さらなる悪意をもって舞い戻る。詰まり気味の鼻でも嗅ぎ取れてしまう強烈な生ごみのにおい。刺身醤油、焼きそばソース、ごまドレッシング、カフェオレ、ビターチョコレート、梅干しの種、倒れた空き缶から零れて乾いた発泡酒、一つ一つはかつては食欲をそそる良い香りをもっていたはずなのに、混ざり合い、悠久の時間が流れ、床のそこここや縛られたビニール袋の内側から、むせかえるような屍臭を放つ。そして言うまでもなく、胸の不安はもっとひどい。  ――このまま一生めがねが見つからなかったら? 「大丈夫、大人なんだからなんとかできるでしょう」  とかいう気休めを呟こうとして、その台詞が余計に自分を傷つけていることに気がつく。大人なんだからなんとかできる? 「なんとか」に入る言葉が一つも思いつかず、誰かになんとかしてもらってきたばかりの人生だから、いまの役立たずがあるんでしょう。  不安が、自分自身を弱らせる黒い悪意が、胸を制圧し、やがて蝿の群れのように視野を覆い尽くす。こうして今日も何もできずに座りこんでしまう。部屋の中で唯一ごみやがらくたが散乱していない聖域、万年床をスノコで嵩上げした簡易ベッドの上に。何もできなかったどころか、生活的には退化した。めがねをなくし、見えるものも見えなくなって、よどんだ瞳の中に踊る鮮やかさは、手元に近づけたスマホの青白い画面だけ。  今日も返事は来ない。見てくれた形跡もない。わかっているのに何度も確かめて、傷ついて、また戻ってくる。  わたしにめがねをくれた人。 「一生裸眼でいるつもり? 車の免許も取れないよ」  そう言って街のジンズに連れて行ってくれたけど、彼女自身はめがねを作ったことがなく、車の免許も持っていなかった。わたしが晴れてめがねびとになり、普通自動車免許を取得し、無難な就職先を確保し、幾度の留年危機を乗り越えて大学を卒業し、いい気になって毎週のように彼女をドライブに連れ出すようになっても、自分はめがねも免許も車も欲しがらなかった。  彼女は陰気な趣味人だったわたしに社会性を獲得させることばかりに尽力し、自分のことは二の次で甲斐甲斐しく身の回りのお世話をし、三度の飯、毎日の洗濯、部屋の掃除、人間らしい生活のすべてを保障してやり、いざわたしが健康で文化的だが最低限度の優しさも持たない自己中ゴミ人間に成長すると、自分の役目は終わったとばかりにすっきりと泣きはらした顔で別れを告げに来た。ゴミ人間はその現実を受け入れられず、人一人分の生活区が撤去されてますます片付いた広い部屋にぽつんと取り残され、言いようのない寂しさのあまり、暴飲暴食、ゴミのお友達を怒涛の勢いで増やしまくり、このありさまだ。  生まれてから二十一年間、たとえ街路樹の緑が葉脈を塗りつぶして大気ににじみ出し、夜中見る信号機の赤黄青の光がぎざぎざと星形に伸び、教室の最前列で目を細めに細めなければ黒板の字が見えづらくなっても、「見えすぎたら怖いから(訳・この歳になって今更めがねを買いに行くのが恥ずかしい)」などというつまらぬ意地を張って頑なに視力を矯正しようとしなかったわたしが、二十二歳の誕生日にあの黒ぶちの丸めがね、彼女曰く「瀧廉太郎装備」をかけてみた途端、「世界はこんなにも美しかったか」なんて月並みな言葉を、胸の中でかみしめた。そして、こんなにも美しい世界をくれた人が、まるでジンズの手先みたいにわたしの背後へ回りこみ、めがね屋の鏡を一緒に覗きこんで「お似合いです」と言い、くしゃっと笑った。もちろん、わたしは思った。きれいな人だと。  出会って一年経とうという頃だった。付き合ってひと月も経っていなかった。もっと早くめがねをかけていれば、もっと早くこの顔を鮮明に見ることができただろうに。いや、この細部までの美しさを確かめるよりずっと前から、一年前同じ文学部文学科東アジア文学研究室に配属されて初めてあいさつを交わしたその日から、わたしは彼女にべろべろに惚れていた。彼女がきれいなことなど誰よりもよく知っていた。 「おれはなんて馬鹿だ」  別れてからの三か月、毎日かみしめ続けている言葉だ。  めがねをかけていないわたしの正体がわかった。やっぱり何でもない奴だった。外界との接触に怯えて縮こまっていた、ただの昔のわたしだ。瀧廉太郎装備は、わたしの美しく新しい世界の象徴であり、何より彼女と生きた二年間の証であった。それがもう見つからないかもしれない。それはもう、泣くしかないじゃありませんか。  自分の気持ちがやっとわかって、わたしは少しほっとした。またあの詩のことを思い出す余裕もできた。自分で洗ったことは一度もないシーツに寝そべり、天井を見つめて考えた。  ――めがねを外した世界が美しく見えた人もいる。めがねをかけて初めて美しさを知ったわたしもいる。人それぞれにその人だけの物語がある。それぞれの物語の味を凝縮した言葉が、詩として人をひきつける。  いや、わたしは瀧廉太郎じゃないし、文芸部員ですらなかったので、本当にてきとう言ってるだけなのだけど、そんな気がしないでもなかった。  考えていたら、泣き疲れていたのもあって眠ってしまった。断続的にいろんな夢を見た。  いつも強くて落ち着いていた、誰かを安心させる笑顔がとても上手だったあの子が、別れの日を除きただ一度だけ、わたしの前で涙を流した時があった。次の日何があったんだっけ? とにかく、彼女にとって大事な用が控えていた夜。このベッドに一緒に寝ていたら、もぞもぞと起き出してきて、目を閉じたまま「眠れないの」と幼な子のようなかすれ声を出した。デリカシーなく噴き出しそうになったわたしが、はっとして息を止めた。きつく閉じられた瞼が目と鼻の先で震え、清らかな涙があふれてきた。いつものようにおどけきれなかったみたいだった。震える背中を「だいじょうぶ、だいじょうぶよー」と慌てて慰めながら、これで合っているのか自信がなく、でも他にできることもなく、ひたすら抱きしめていた。そのあと彼女が安心して眠れたかどうか、肝心なそこが全然思い出せない。彼女が安心し、それを悟ったわたしも安心し、二人していつしか健やかに眠れた、そうだったらいいなと、夢の中で切に願った。  二人でどこかのカフェに行った日。彼女の言った素朴な言葉が、妙に面白かった。冗談が上手いというより、情緒を素直に言葉に乗せるのが上手い人だった。世間ではそういう人を「天然」ともいうらしいが、わたしはそうやって平気で他人を小馬鹿にするような人こそ、人間としてずれているのではと思う。ううん、もういいんだ、そんなことは。 「バタフライピーって、蝶のおしっこかと思ってた……」  次に見た夢は、もっと昔のできごとだった。わたしはまだ高校生で、進路指導室の前の廊下で椅子に座っていた。わたしの隣には、あの文芸部の同級生がいた。たぶん、受験シーズンを控えて担任との二者面談が行われていたんだろう。  筋金入りの帰宅部で、教室に居残って宿題をして帰る習慣があったわたしは、放課後わがクラスにぽつりぽつりと集まってくる文芸部員たちとしばしば言葉を交わすことがあった。部室を持たない彼らにとっては、放課後の空き教室が活動場所だった。年に何度か発行するという部誌が完成すると、各学年の教室に配布しにいくついでに、どなたかが「あの……」とはにかみながら読ませてくれたりもした。でも三年間、部員にならないかとは決して誘われず、学校外で遊んだり、世間話以上の会話をしたりすることもなかった。ものを書く人、この先もしかしたら書きそうな人と、そうでない人とでは、まとっている空気がどこか違うのだろう。新しいものを生み出す意欲、外圧をはねのける力、うまく言えないけど、わたしはそういうものとは今でも無縁で、ただそういうものにとりつかれた人のことは何だか見ていて好きだった。好きだよ、すごいね、もっと読ませて、なんて、言いたくても言えない性格だったから、卒業するまで彼らとの間には微妙な距離があった。 「大学、どこ行くの?」  沈黙がいやで何気なく訊いてみた。 「音大に行きたかった」  彼女はわたしの顔を見ていなかった。めがねもかけていなかった。落ち着かなさそうに冬服の袖を伸ばし、長くて重そうな黒髪を何度もかき上げ、時折目を細めて窓の外を見ていた。わたしもつられて見てみたけれど、ここは一階だし、先生たちの車がでんと並んで桜の枯葉が風に吹き飛ばされているだけの殺風景な駐車場だった。ますます沈黙が続いた。 「行けると思うよ。田浦さんなら」  何か言わなきゃと思いすぎて、くそてきとうなことを言ってしまった。放課後、薄暗い教室の隅でしかめ面をし、手書きの詩をぱたぱたパソコンに打ち出している姿しか知らなかったのに。 「うん……」  彼女はさらに目を細め、ついには埃っぽい長机に突っ伏してしまった。寝たわけじゃない。絶対寝てはいなかったけど、そうでもしないとわたしの不躾な視線と言葉に耐えられなかったのかもしれない。申し訳ないことをした。  その夢も終わり、さすがにもう起きるだろうと自分でも薄っすら思っていたら、全身真っ青なアシダカグモが掛け布団の上に不意に現れ、右手にぺたりと張り付いた。驚く余裕もなく、思いきり噛まれた。皮膚がねじれるような痛みが手の甲に走った。発狂して左手で叩きまくったら、ワンヒットごとにとんとん拍子に体が小さくなり、最後はそこらのハエトリグモレベルに縮んでぴょんぴょん逃げていった。あーよかった、と思ったところで今度こそ目がさめた。ぼやけきったかさかさの視界。天井を何かが這いまわっている気がする。目を凝らすと、あの青いアシダカグモがもとの巨躯のまま悠々歩いていた。しかし、枕元のめがねをかけると、彼は忽然と姿を消した。  めがねをかけることで見えなくなる命もあるのかもしれない。もっともらしいことを考えて独りうんうんとうなずいたところで、装備を見つけたのに気がついた。

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