武蔵野幻想

武蔵野幻想
〈「霧にむせぶ……」という都を訪れた、名もなき旅人の朝。パブの窓辺に「Closed」の札が立て掛けてある。石畳を走る新聞配達の少年の心は、彼の帽子ほどくたびれてはいない。玄関ポーチの庇の陰に止めてある、黒くてつやつやしたバイク。フレームには「Condor」というロゴが白抜きされている。山高帽の青年が飛び乗る瞬間だった。歳の割には高価な乗り物。アルバイトでローンを返している途中の学生だったかもしれない。〉  代名詞の霧をその朝はどこかへ追いやった、快晴のロンドン。季節は冬だろうか。新聞配達の少年は、首にマフラーを巻いている。コンドル・サイクルズの青年は、トレンチコートを羽織っている。  二人は「英国」という頁に貼りつけられた、一枚の写真の登場人物だ。  東京と埼玉に跨る武蔵野というところに、古写真蒐集家の男が暮らしていた。仕事は別にあったが、生きがいと呼べるものではなかった。まだ若いのに、この世の暮らしに飽き飽きし、骨董屋の店主をやるとか、人里離れた山に引き籠るとか、そんなことばかり考えていた。  男は、時代に取り残されることを望んでいた。三度の飯より芸術を好んだ。散策中の空想を愛した。それだけなら他人に迷惑はかからない。呪文のように噴き出る屁理屈が、男の評判を悪くした。奇人、変人、化石、天狗、オカルト、詩人。常識人の場合、数少ない友人の場合、呼び名は人によっていろいろだった。わずかな理解者を捕まえては、彼は次のようなことをのたまった。君、知ってるか、この時代に生きるということは、極めて悪い意味で獣に立ち返ること、弱い者を切り捨てること、繊細な感受性、特異なる知性、世にまま在る才能という才能をはみ出し者として抹殺した上で、肥溜めの中で臭いの弱さを競い合うこと。何より悪質なのは、人々がこれら総ての理不尽を暗黙のうちに認め、狭苦しい島国をよりいっそう狭苦しくして、生きていること、だよ。根拠は、俺の肌。
たけみや もとこ
たけみや もとこ
たけみや もとこです。2000〜5000字くらいの読み切りを中心に載せていきます。ジャンルは何でもありです!