鏡の熱帯
わたしは生来ズボラなたちで、賃貸アパートの風呂を掃除することなど住人の義務ではないと思っていました。ところが、もうまもなく引っ越しという頃になって、ともに大学を卒業する友人たちと最後の酒盛りを開いたところ、遅れてきた一人の男が「走ってきて汗だくだからシャワーを浴びたい」と図々しいことを言いだし、彼に風呂場を案内すれば扉が閉まったと思った瞬間に裸で飛び出してきて、「おい、お前、なんだ、なんだ、これ、これは……」。まだ一滴も飲んでいないのにワケのわからぬ喋りかたをする彼を、とりあえずなだめ、落ち着かせてからもう一度、何があったのか尋ねてみると、とにかくカビだらけなのだそうです。ここも、ここも、ここも、ここも、と彼は風呂場の天井や、壁や、床や、浴槽の陰などを指差しては「オエエ!」と嘔吐するような声を出しました。わたしが彼に「汚ねえ」と怒鳴ると、その声を聞きつけて、炬燵で鍋を囲んでいた三人の仲間たちもなんだなんだと寄り集まり、彼らは失礼にも四人揃って「オエエ!」と言いました。
こういう不名誉な事件があったお蔭で、わたしはアパートを引き払う際に、部屋を借りる前の綺麗な状態に戻しておく必要性を知りました。そうしないと多額の清掃費用を取られてしまうらしいのです。わたしは食器類の茶渋などを取るために買ってあった、塩素入の漂白剤を、風呂場に侵食しているカビというカビに吹きかけました。壁に満遍なく付着した、赤みがかった湯垢の上に、苔植物のようにびっしりと繁茂していた真っ黒なカビたちは、その後漂白剤の泡とともにスポンジでこそげ落とされ、風呂場は四年前のホワイトな状態に戻りました。その代わり、密閉された小部屋のなかにきつい塩素臭が立ちこめ、わたしは眩暈がしてきたので、急いで風呂場の扉とベランダの大窓を開け(ワンルームの安アパートに「脱衣場」などという中途半端な空間は存在しません)、換気を行ないました。それから、漂白剤の白い泡の残りをシャワーで洗い流し、二、三十分も換気を行なうと、わたしは窓と扉を閉め、浴槽にお湯を溜め、昼間からのんびり風呂に浸かりました。というのも、件の不名誉事件はこの前夜、金曜日の夜に起こったことで、わたしは毎週土曜日には何の予定も入れておらず(あと数日で大学を卒業し、隣県の商社で勤め人になってからは、どうなることやらわかりませんが)、昨日はかなり酔っていたのもあって、学友たちが帰った後は風呂に入るのも忘れて昼過ぎまでぐっすり眠っていたのです。目覚めてから、一風呂浴びる前に前夜のことを思い出し、二日酔いの頭痛を紛らわすためにもと、一念発起して大掃除を敢行したのでした。
夜中の二時から昼十二時過ぎまで、計十時間ほども眠っていたわたしは、肩まで温かなお湯に浸かり、疲れているけれどもよく冴えた目で、浴槽より高い位置に備え付けてある小さな洗面台を眺めていました。洗面台には、顔を映せる程度の大きさの鏡が付いています。
わたしはすぐに気がつきました。どこもかしこも綺麗にしたと思っていたのに、見逃していた部分があったのです。曇った鏡面にこびりついた白っぽい線状の水垢の上を、湯の雫がちろちろと伝い落ちていました。ああして鏡の表面に付いた水分を四年も拭かずに放置し続けた結果、鏡全体が白く濁り、顔を映しても肌の質感がわからないほど不鮮明になってしまったのです。どうしよう、さすがに漂白剤をぶっかけるのはまずいし、窓拭き用のスプレーでも買ってきて新聞紙で擦り上げようかしら?
しかし、わたしは疲れていました。二日酔いをした時はなぜかいつも右腕が重くなり、肘から下がずきずきと痛むのですが、今日はスポンジを持って風呂場を磨き続けた分余計に痛みがあり、しばらくお湯に浸けてそっとしておかなければ治らないように感じていたのです。寝過ぎたせいか体全体も重たく、たっぷり睡眠を取った頭だけが元気な状態でした。
(ここが重要な所なのです。わたしの頭ははっきりとし、目は冴えていました。)
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カテゴリー: ホラー
投稿日時: 2024/8/22 13:47
最終編集日時: 2024/8/22 13:55
たけみや もとこ
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