おもち

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おもち

こちらでの寄り道は如何ですか?🍀🕊 ここに辿り着いてくれた貴方のお気に召すお話があれば幸いです✨ 短編小説サイトPrologueでも投稿しています📚

ひだまり。

「お疲れ~」  頭上から声が聞こえた。上を向くと、カラスが私の方を見てクイッと眉を上げている。 「お疲れ‼ 今日も素敵なパーティーだったね‼」 「そうね」  私たちヴィランが日の目を見るこの季節には、毎日のようにパーティーが開かれている。私がお仕えしているジャファー様曰く、表向きはパーティーだけど、実は人間からエナジーを奪うという裏の目的があるものらしいけど。まあでも、私はそんなことは関係なく、折角のパーティーを全力で楽しんでいる。 「ていうか、あのファシリエ? とかいう奴、いつになったらエナジーちゃんと集められるようになるのかしら。アタシ達がどれだけ一生懸命踊ろうが、アイツが仕事できないようじゃ堪ったもんじゃないわよ」 「あー‼ そっか! 確かにそうだねっ。でもさ、楽しいから別にいいんじゃない?」 「全く……、アンタはどこまでも楽観的ね。羨ましいわ」  そう言って首を振るカラスの髪が嫋やかに揺れる。 「ねぇ」  カラスの後ろから別の声が聞こえた。 「ん?」 「アンタって明日もだっけ? もし休みだったら明日だけリップ貸してくれない? ちょうど今日で切らしちゃって」  他のカラスがカラスに尋ねている。 「ああ、別に構わないわよ。ちょうど明日は休みなの。アタシのドレッサーから適当に使ってちょうだい」 「あっ、本当? ありがと、助かるわ」 「いえいえ。明日も頑張って」 「勿論よ。明日のエナジー集めは任せなさいな」  さっき毎日のようにパーティーがあると言ったけど、別に毎日踊りっぱなしのわけではない。パーティーに出るのは五羽だから、仲間でシフト制のように交代でやっている。そっか、明日はカラスも休みなのか……。 「ねぇ、アンタは明日はどうなの?」  カラスが私に尋ねる。 「えっ? 私も休みだけど……、何かあるの?」 「いや、何もないなら踊りの練習に付き合ってほしいなって思って」  そう言ってカラスは視線を逸らす。気が強いと思われがちなカラスだけど、意外と人にものを頼むときは遠慮がちな顔をする。 「無理なら別にいいんだけど……」  彼のこんな一面を知っている人は少ないんだろうなぁと思うと、勝手に印象付けられて怖がられるカラスのことを不憫にも思う。だけど、それと同じくらいにカラスと私の心の距離が近くなっていることが嬉しくもある。あっ、これはここだけの秘密ねっ。 「ううん‼ いいよ‼ 一緒に練習しよう!」  そう答えると、カラスの顔が一瞬パッと明るくなった。 「え、本当? じゃあ、明日のお昼にいつもの場所に来てちょうだい。アンタ、朝には弱いでしょう?」 「そうなんだよね~。お布団がどうしても離れてくれなくて……」 「はいはい。だからアンタはお昼から来て?」 「ん? カラスはお昼からじゃないの?」 「ええ、アタシは朝から行くつもりよ。頑張れるだけ頑張ってみたいの。……ああでも、だからといってアンタは無理して早起きしなくていいんだからね。ぐっすり眠って、元気いっぱいで来てちょうだい?」 「ふふふっ、ありがと! じゃあまた明日ね!」 「こちらこそ付き合ってくれてありがとね。また明日」  あの日からカラスは今まで以上に踊りもメイクも振る舞いも、何もかもを一生懸命に磨き上げている。パフォーマンスのレベルが格段に上がっていることなんて、この私でも一目で分かる。それまでも人一倍努力していたカラス。最近のパーティーで一際観客の目を引いているのは彼だ。本人がそれに気付いているのかどうかは分からないけれど、以前よりもずっと魅力が増している。それでもカラスは「まだまだよ」なんて言うんだから本当に凄い。 ✳︎⭐︎ 「今の踊りどうだった?」  カラスがこちらを振り返って尋ねる。 「すっっごく良かったよ‼ もうね、とにかく綺麗だしカッコいい‼」 「ふふふ、ありがと。でもね、アタシはまだやれるわ。そう信じてる」  そう言って沈んでいく夕日を見つめるカラスはふっと微笑む。自分自身に大きな自信を持って認めることができる人って、こんなにもキラキラしているんだ。 「だって、アタシの魅力はアタシにしかないものでしょう? それを輝かせられるのは自分だけだし、それをアタシが輝かせなくてどうすんのよってね。アタシはこれからのアタシが楽しみなのよ」 「……そっか。とっても素敵だね‼」  〝応援してる〟その言葉が何故か言えなかった。カラスが遠くに行っちゃうみたいで、何だか寂しくて、怖かった。置いてけぼりになるんじゃないかって。今の私じゃ……。 「私にしかないものって何だろ」 「え?」  いけない。私ったら声に出しちゃった。 「ううん‼ 何でもない、ただの独り言だよ‼」 「ふーん?」 「あっ、そうだ‼ 今度は私の踊りを見てよ‼」  気持ちを紛らわせるように私は誤魔化す。  音楽に合わせて羽を広げ、高く高く舞い上がる。くるっと体を回転させて、にこっと笑って……。 「あれ……?」  頬に冷たい感触があった。そしてそれは最初は静かに、次第に激しく、私の目から溢れて落ちていく。視界がぼやけて、カラスの顔もはっきりと見えない。 「あれれ、どうしたんだろ……。あっ、あれかな、目にゴミが入っちゃったのかな」  雑に目を擦って、笑ってみせる。いつも通りの私で、いつも通り笑いたかっただけなのに。できなかった。  そんな私をカラスはじっと見つめる。 「ほら、ここ。座んなさい」  自分の横をポンポンと叩きながら、静かに頷く。  そっかぁ……、やっぱりカラスは何でもお見通しか、なんて心の中で呟いて彼の隣に腰を下ろす。 「んで、どうしたの? アンタが泣くなんて珍しいじゃない」 「んー……、大したことじゃないんだよ?」  私は唇を嚙んで、プラプラと揺らす足に視線を落とす。カラスはそんな私の顔を覗き込んで、拗ねたような表情で口を開いた。 「この前、アタシの大したことない話を聞いてくれたのはどこの誰よ。今度はアタシの番じゃない」  そう言うカラスの表情は真剣だ。言っても……いいのかな。 「……私ね、踊るのが大好きなんだ。全身を使って表現するのって楽しくて、ワクワクするの。……だけどね、最近ちょっと怖いんだ。私だけ置いてけぼりなんじゃないかって。カラスたちはほんっとに綺麗で、動きがダイナミックで見ている人が息を吞むようなパフォーマンスをするし、海賊たちは最高にカッコよくてアクロバティックな動きができる。他の皆も自分にしかないものを持ってる。……私は? 私は何ができるの? 私にしかないものって何なの? 私には馬鹿みたいな元気と笑顔しかないんだよ」  そこまで言って、私はまた下を向いてしまう。 「なに馬鹿なこと言ってんのよ」  隣を見ると、呆れたような、だけど少し悲しそうな顔をしたカラスが私の目を真っ直ぐに見つめている。 「え?」 「煩いくらいの元気も、馬鹿みたいな笑顔も、全部アンタにしかないものじゃない。あの日のアタシが、アンタの底抜けの明るさにどれだけ救われたと思ってんのよ。それに、アンタの踊りには周りを巻き込む力がある。見ているだけで自然と笑顔になるような、元気をもらえるような感覚になるのよ。アタシたちは人間からエナジーを奪っている側なのに、アンタを見ているとそれが逆なんじゃないかとすら思えてくるんだから。アグラバーを照らす太陽のような眩しさと熱が、アンタにはあんのよ」  そう言ってふっと微笑むカラス。  こんなことを言ってもらえるなんて思わなかった。嬉しくて、とても嬉しくて、涙が溢れそうになる。 「そっか……、そうなんだ。これが私なんだもんね。うん、そうだ。……カラス、話聞いてくれてありがとう‼」  カラスの目を見て、全力の笑顔を見せる。するとカラスは目を細めて、 「うん。やっぱりアンタの笑顔は最強ね」  と小さく呟いた。 「よし! 私もカラスに負けないようにいっぱい練習するぞ~‼」 「ふっ、アタシに勝つなんて百年早いわよ」 「そんなことないもーん‼ 私だって頑張るんだからっ。……でもさ、一緒に頑張ろうね‼」  カラスの方を見て、にっと笑うと、カラスはふっと目を細めた。 「ええ、お互い頑張りましょ」  二人の笑い声だけが響く山を、橙色の光が静かに染めていく。  そう。ここは誰も知らない、二人だけの待ち合わせ場所。

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ひだまり。

クリスマス前のサンタクロース。

 頬を撫でる風が冷たくなってくるこの時期。コスメ好きには堪らない季節だ。何故かって? クリスマスコフレというコスメの宝箱が世間に出回るからだ。  私はスキップしたくなる気持ちを抑えながら、近くの百貨店に向かう。私が狙うブランドの人気は凄まじい。だから正直なところ、売り切れて店舗には在庫がないかもしれない。予約はしたのだ。……したつもりだった。最後のボタンを押せておらず、予約ができていなかったなんて信じたくもない。そのことに気づいた時の私は一体どんな顔をしていただろう。きっと魂が抜けきっていたに違いない。だから今日が勝負なのだ。何としてでもお目当ての品を手に入れてみせる。 「うわっ、もうこんなに……」  百貨店に着いた私が目にしたのは、クリスマスコフレを求める人の長蛇の列だった。私自身もかなり早起きして来たのだが、まだまだ上がいたのか。 「売り切れないといいけど……」  内心ドキドキしながら、列に並ぶ。段々と近づいてくる運命の瞬間に胸が高鳴る。私の前に並ぶお姉さんが無事購入できたのを目にして、私の鼓動は一気に早くなった。遂にこの時が……! そう思った時だった。 「えー、申し訳ありませんが只今の方で最後でごさいます! ご好評いただきましてありがとうございました!」  え? 噓でしょ……? 私の思考が停止する。  最後の購入者であるお姉さんが申し訳なさそうな表情を浮かべて、コフレの入った紙袋を手にしている。いいなぁ、運が良いって羨ましい。……それにしても綺麗な人だな。女の私でさえも見惚れてしまうほどの美人だ。赤黒のリップが似合う凛とした、まさに大人の女性という感じ。腰辺りまで伸びる艶やかな髪は、揺れる度に人を魅了しているようにも感じる。高身長でスタイルも良いため、存在感も抜群だ。この人になら最後の一つを買われてもいいか……と思ってしまうほどである。  無い物はどうしたって無いのだ。私はとぼとぼと肩を落として、来た道を戻る。  人の少ない車両の端っこの席に座って小さくなる私。この日のために頑張ってきたのに……。あの日ちゃんと確認しておけば買えていたのに。全てに悔しくなってきて思わず涙が溢れそうになる。  ふと顔を上げると、向かいの席に見覚えのある姿が。 「あっ……」  最後の一つを買えた幸運の持ち主、あの綺麗なお姉さんだ。彼女も私に気づいたようでハッとした顔をしている。私は情けない自分を見られたくなくて、咄嗟に顔を背けた。彼女はそんな私を見て少し悩んだ素振りを見せる。そして何かを決心した後、私の隣に遠慮がちに腰を下ろした。 「あの……もし良ければなんだけど、このコフレ、貴女にあげるわ」  私の顔を覗いて、ふっと微笑むお姉さん。きっと私が余りにも絶望しているのを見かねて気を遣ってくれているのだ。 「いやいやっ、そんなの駄目ですよ! これはお姉さんのものですから、受け取れません。そもそも私がちゃんとしていれば、こんなことにはならなかったんですから。ほっんと……自業自得ですよ」  私はそう言って力なく笑う。  彼女はそんな私の目を真っ直ぐに見つめる。  ん? お姉さん……なのか? 何となくだけど、声が低かったような……。いやいや、そんなはずはないでしょ。男性にしては綺麗すぎる。 「ううん、貴女に譲らせてちょうだい? だって、そんなになるほど欲しかったんでしょう? 貴女に使ってもらえるほうが嬉しいわ。アタシはもう山ほどコスメなんて持ってるから気にしないで」  そう言って、私の両手に紙袋を持たせてくれる。 「気持ちはとても嬉しいのですが……」  私が紙袋を返そうとすると、 「んー、もうっ。アンタもなかなか頑固ねぇ。アタシがあげるって言ってんだから素直に喜んでくれていいのに。……じゃあ、アタシからのクリスマスプレゼントってことにしましょっ。それなら受け取ってくれるでしょう?」 「えっ、でも……」 「はいっ、もうお黙りっ。少し早いけど、メリークリスマス!」  紙袋を強引に私の手に握らせ、ふっと目を細めた彼女は颯爽と電車から降りていく。 「えっ、ちょっと待って……!」  私のその言葉と同時に電車のドアが閉まると、彼女は長い髪を風に靡かせながらドア越しにウインクする。優雅に手を振って去っていく彼女の後ろ姿は、どこか満足気で嬉しそうに見えた。 「えぇ……」  残された私の手には欲しくてやまなかった宝箱が。嬉しい……嬉しいのだけれど。きっと彼女も私と同じだったはずなのだ。無事購入できたとき、彼女がどれだけ嬉しそうな表情をしていたか私は知っている。クールな見た目からは想像できないくらい、瞳をキラキラさせていたのだから。きっと、自分へのクリスマスプレゼントだったのだ。  そんな大切なものを私に譲ってくれるなんて。 「……私、ありがとうって言えてないや」  またいつか、会えるだろうか。何故だか分からないけれど、どこかでまた会えるような気がするのが不思議だ。その時にはちゃんと目を見て「ありがとう」と伝えよう。彼女なら「何よ改まって」とか言って耳を赤くしそうだけど。  サンタクロースに頼み事なんて、もう何年もしていないけれど。今度は私が彼女にプレゼントを贈りたい。そんな素敵な時間が欲しい、なんてお願いしてもいいですか?  ほんの刹那だったのだけれど、どうにも彼女が気になって仕方がない。これが俗に言う一目惚れというやつなのだろうか。突然舞い降りてきた偶然の出逢い。どうか必然でありますようにと小さく願い、私は窓の外を眺めるのだった。 《サイドストーリー》 「ねぇ」 「……なによ」  姉がアタシにこうして声を掛けるときは大体決まっている。人遣いの荒い(特にアタシに対して)彼女のことだ。またパシられるに決まっている。 「前にアンタ、クリスマスコフレ予約したって言ってたわよね? それ、私にちょうだい」  ほら来た。今回はパシるというよりも強奪だな。 「は? あげるわけないでしょ。アタシが欲しくてアタシが予約したものを何であげなきゃならないのよ」 「店舗販売は明日からでしょ? アンタは直接行って買ってくればいいじゃない」 「そういう問題じゃないでしょうよ……」 「えー、ケチだなぁ……」  そう言って彼女は残念そうに眉を下げる。頬を膨らませて大袈裟に悲しみ、大きな目をぱちくりさせながらこちらの様子を伺ってくる。わざとだと分かっていても、そんな顔をされるとこちらとしては堪ったもんじゃないのよね……。 「あぁっ……もう。わかった、わかったわよ! アタシが買ってくればいいんでしょっ」  その言葉を聞いた彼女は、案の定さっきまでの悲しみの表情が嘘だったかのように、ぱぁっと表情を明るくする。 「ほんと⁉︎ わー、ありがとっ! 流石、私の弟ねっっ」 「はぁ……全くもうっ」  一体、何回この手に乗っているだろうか。……でもまぁ、嫌々言ってるアタシもそんな姉のことは嫌いじゃないんだけど。面倒なことになったけど、まぁいいわ。新調したコートを着れる良い機会だと思いましょっ。  早起きは苦ではないアタシからすれば、こういう開店前から並ぶということは大した負担ではない。 「よしっ、今日もイケてるじゃない」  魔法の言葉というと大層な感じに聞こえるかもしれないけど、鏡に映った自分にこうして声を掛けると気合いが入る気がして好きなのよね。自分が愛せない自分なんて、誰も愛してはくれないもの。 「ふわぁ……早いわねアンタ。一体どこに行くのよ?」  寝ぼけ眼を擦りながら、姉が階段を降りてくる。 「どこって……アンタが言ったんでしょ。アタシにコフレ買いに行けって」 「あぁ、そうだったわね。ふぁぁ、眠っ……」  全く、自分勝手にも程があるでしょう。あれだけアタシに言っておいて忘れるなんて、どんな神経してるのかしら。 「アンタ、それ以上デカくなってどうすんのよ。周りに怖がられるわよ」  ヒールブーツを履いたアタシに向かって言う彼女。 「あー、もうっ……! ピーチクパーチク煩いわねっ! アタシはこれが良いのっ。周りがどう思おうが知ったこっちゃないわっ」 「ふーん? まっ、良いんじゃない? アンタはそれが一番似合ってるし」 「貶すか褒めるかどっちなのよ……。ほんと忙しい人ね……」 「ふぁぁ……やっぱ眠いわ。私二度寝してくるから鍵閉めといてよ」 「はいはい、わかりましたよ。行ってきます」 「ん、気をつけて」    早朝から騒がしい姉も姉だけど、彼女に振り回されるのが日常と化してしまったアタシも大概ね。 「あら、もうこんなに……」  早めに来たつもりだったのだけど、皆んな頑張るのね。結構な長蛇の列に内心驚きながらも、最後尾まで歩いて行く。 「そろそろかしら……」  アタシの番が近づいてきた。あれ、この感じでいくとこのコフレ、アタシで終わりなんじゃない? 頭ひとつ分くらいアタシが抜けているお陰で、店舗に置いてある在庫が見えるんだけど……これは見えないほうが良かったかもしれない。運が良いといえばそうなんだけど、最後の一つを買うのって少し気まずいというか申し訳ないのよね……。 「えー、申し訳ありませんが只今の方で最後でごさいます! ご好評いただきましてありがとうございました!」  予想通り、コフレは丁度アタシで完売した。嬉しいんだけど複雑よね、この気持ち……。だって、ここにいる全員がこのコフレを求めて朝早くから並んでいたわけでしょう? 後ろに並ぶ人たちの気持ちを考えると居た堪れないわ。  ちらっと後ろを振り返ってみると、小柄な女の子が唇をキュッと噛んで目を伏せている。そうよね、自分の目の前で売り切れるなんて絶望でしかないわよね……。  一秒でも早くこの場を去ることが、アタシにできる一番の優しさね。……早く帰りましょっ。  アタシの後ろに並んでいた女の子の顔が頭から離れないけど……ううん、気持ちを切り替えるのよっアタシ。買えて良かったじゃない。一体何が不満っていうのよ。  悶々とした感情を抱えながら電車に乗ると、向かいの席に壁にもたれかかりながら座る女の子がいた。体調でも悪いのかしら……顔色が悪い……というか顔色が無いんだけど。目も虚だし……え、生きてんのかしらこの子。あ、こっち見た。あれ、この子……さっきの。あら、目逸らされちゃった。もしかして、コフレ買えなかったから落ち込んでるのかしら。あらまぁ……こんなになっちゃうほど欲しかったのね。魂抜けてるじゃない……。あー、どうする? 行く? 行くべき? あー、駄目。放っておけない。行きましょっ。 「あの……もし良ければなんだけど、このコフレ、貴女にあげるわ」  アタシのその言葉にぶんぶん首を振る彼女。そんな今にも泣きそうな顔で言われても説得力ないってのに。んー、どうしましょ。この感じだとどれだけ言っても受け取ってくれそうにないわね。あっ、そうだ。 「じゃあ、アタシからのクリスマスプレゼントってことにしましょっ。それなら受け取ってくれるでしょう?」  プレゼントを受け取らないほうが失礼よね? と言うと彼女の瞳が少し揺らぐ。だけど、それでも受け取ってくれそうにないから半ば強引に紙袋を握らせて電車を出てきちゃったけど……これで良かったのかしら。慌てた様子の彼女に、とりあえずウインクをして去って行ってみる。コフレが惜しくないと言えば嘘になるけど、女の子にあんな顔させたままにするのは性に合わないわ。まぁ、良いんじゃない? サンタクロースにでもなったと思えば素敵な出来事じゃないの。 「ただいま〜」 「おかえり〜、随分早かったわね。……って、えぇ? アンタ何しに行ったのよ。まさかドーナツ買って本来の目的忘れたんじゃないでしょうね」 「流石にそこまで阿保じゃないわよ」 「じゃあ何でよ」  帰ってきたアタシの荷物を見て、若干引いたような顔をする姉。 「アンタ、コフレ買いに行ったんでしょう? あっ、もしかして……目の前で売り切れたとか?」  ニヤニヤしながら聞いてくる彼女はどこか楽しそうだ。 「馬鹿言うんじゃないわよ。……んまぁ、そうね。サンタクロースになった、とでも言っておきましょうか」 「何それ、意味わかんない」 「わかんなくていーのっ」  彼女は教えてもらえないことに不服そうな表情を浮かべている。 「ふーん……まぁ、何でもいいけど。てか早くドーナツ食べよっ!」 「何言ってんの、アンタのじゃないわよ。全く、アタシからどんだけ狩り取ってくつもり? これは可愛い弟たちの分よ。ほーらっ、アンタたちこっち来なさいー?」 「ん〜、なになに? アニキなんか買ってきてくれたの?」 「ドーナツ買ってきたから食べなー? 全部二個ずつ買ってきたから取り合いなんてしなくていいぞっ。ゆっくり好きなだけ食べなさいなっ」 「マジで⁉︎ サンキュー、アニキ!」 「兄ちゃん、ありがとっ‼︎」 「どうしたしましてっ」  目を輝かせながら嬉しそうにドーナツを頬張る弟たちを見ていると、アタシも何だか嬉しくなっちゃう。 「アニキも食べなよっ! 何味がいい?」 「ん? いや、俺はいいよっ。アンタたちの為に買ってきたんだから」 「もー、アニキはいっつもそう言うよな。……えいっ!」  そう言っていきなりアタシの口にドーナツを押し付けてくるもんだから、口がチョコまみれになってしまった。 「やったなぁ〜? ……ん、なかなか美味いじゃん、このドーナツ。甘いのそこまで得意じゃないけど、これは結構好きかも」 「だろ? アニキ絶対好きだと思ったんだよ」 「兄ちゃんも食べなよ〜」  全く、うちの弟たちは誰に似たのかしら。ほんと優しいわね。後ろでずっと見てるこの女なら、一人で全部食べるわよ。 「どうもありがとっ。じゃあお言葉に甘えて……おっ、このイチゴのやつ美味そうじゃんか。これ貰うよ?」 「うんうん!」 「じゃあ私も……」 「さりげなく混ざろうとすんじゃないわよ。……何よ、その顔。あーもうっ、無駄に顔が良いのやめてちょうだい。……まぁ、いいわ。皆んなで食べましょっ」 「やったぁ〜! じゃあ、私このホワイトチョコのやつ貰おっかなっ」 「えっ、それ僕が食べたかったやつ……」 「えぇ、そうなの〜? この綺麗なお姉ちゃんに譲ってくれないかしら?」 「譲るわけないでしょ。大人気ないにも程があるわ。さぁさぁ、こんな我儘アネキは気にせず、アンタが食べなさいっ?」 「ちょっと! 我儘アネキはひどくない? ちょーっと遊んでるだけじゃないのっ」 「お遊びが過ぎるのよ」  わちゃわちゃがちゃがちゃ騒がしい我が家だけど、アタシはこの家族が大好き。あっ、待って。アタシあの紙袋に手袋入れたまま渡しちゃったわ。どうしましょ、あれそこそこ良い値段したお気に入りなのよね……。また会えるかしら……。名前くらい言い残して去れば良かったかも……なんて、そんなこと言ったって仕方ないわね。また会えることを願うしかないわっ。サンタさんっ、今年のクリスマスプレゼントはあの女の子ともう一度ばったり会う……とかどうかしら? 偶然が運命だったりしたら素敵よね。頼んだわよ、サンタさんっ。 《後日譚》 「ねぇ、アンタ」 「何よ、今忙しいんだけど」 「これ二個届いたわよ」 「え?」 「アンタ間違えて二個予約したんじゃない?」 「えっ、そういうこと?」 「てなわけで、良かったわね。一個あげるわっ」 「ありがとう! ……って、なんでアタシがお礼を言わないといけないのよ」 「まぁ、いいじゃない。結果オーライよっ」  パチンと派手にウインクをキメて部屋を出ていく姉。 「ほんとにもうっ……」  そうやって溜息を溢すアタシだけど、実はその口元は緩んでいる。 「ふふっ、ちょっと試してみましょっ」  ドレッサーを前に、心の中のアタシは子どもみたいにスキップしているのだった。

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クリスマス前のサンタクロース。

とこしえの待宵影。

「ふわぁ……」  大きくあくびをしながら両腕を伸ばす。冷たい水で顔を洗い、ふかふかのタオルにうずまると雲の上にいるみたいで気持ちがいい。それから、ぼさぼさになった髪をブラシで整え、服を着替える。これが私の朝のルーティンだ。 「あっ、咲いてる!」  先日、庭で摘んできたときはまだ蕾だった花が見事に咲いている。 「へぇ~、こんな色をしてたのね」  小さくて可愛らしい花弁は雪のように真っ白だ。この城に飾ってあるのは薔薇などの派手な花ばかりだが、私はこういう控えめで可憐な花も嫌いではない。人間界で暮らしていたときは気にも留めなかった花たちであるが、こうして花開いた姿を目にすると久々の再会のように嬉しく思うものだ。 「折角だからヴィユノークにも見せてあげましょ。ふふっ、きっと喜んでくれるわ」  三人の中でも特に美しいものが好きな彼なら、興味を示してくれるに違いない。あまり見かけない花なら尚のことだ。 「ヴィユノーク、見て見て~! この花、綺麗でしょう?」  彼の部屋の扉を勢いよく開けると、彼の肩がビクッと跳ねた。 「えっ? ……あぁ、なんだ。ルナリアですか。ノックも無しに入ってくるなんて、貴女は度胸がありますねぇ、ふふふっ」  一瞬驚いたような表情をした彼だが、すぐにいつもの調子に戻り、穏やかな表情を浮かべる。 「あっ、ほんとだ……ごめんなさい」 「いえいえ、謝らないでくださいな。それより、私に何か急用でもあったのですか?」 「……あぁ、大したことじゃないんだけど、育てていた花が…………あれ?」 「どうしました?」  珍しく彼のシャツのボタンが開いている。ということは、私は彼の着替えの最中に入ってきてしまったのか。私は咄嗟に目を逸らした。これがアイビーやネローザならまだしも、ヴィユノークとなると話は別だ。常に雅やかな彼のこんな姿を見てしまっては……いや、見させてしまってはいけないような気がする。 「……ルナリア? 体調でも悪いのですか?」  心配して私の顔を覗き込んでくる彼の首元に、キラッと光るものが見えた。 「え、ヴィユノークってアクセサリーとか着けるんだ……」 「え?」  いけない、思わず口に出てしまった。彼は目を丸くしている。 「あっ、いや……」  焦る私を見て、ふっと笑う彼。 「私としたことが、ボタンを開けっ放しにするなんて……ふふっ、気が緩んでしまっているのですかね。図らずもお見苦しい姿を見せてしまいましたよ」  そう言いながらボタンを留めていく彼。怒ってはいなさそうな彼に、私は胸を撫でおろす。 「ネックレスとか着けるんだね。結構意外かも」 「あぁ……そうですね」 「誰かからの贈り物なの? 折角なら見えるように着ければいいのに……」  私の言葉に彼の瞳が小さく揺れる。 「……はぁ。もういいでしょう? 貴女の要件を聞きたいのですが」 「えっ? ……あぁ、えっ、と。そうそう、この花。私が育てている花が咲いたから、ヴィユノークにも見せてあげたいなぁ……なんて思ったんだけど……余計なお世話だったかな?」  いつもの彼とは明らかに違う、氷のように冷たい声に思わず言葉が詰まってしまう。 「あぁ、そうでしたか。余計なお世話なんかじゃないですよ、嬉しいです」 「それなら良いんだけど……」  何だろう。今日の彼はいつもと何か違うような。 「小さくて可愛らしい花ですね。……あれ、この花は…………ルナリア、この花は何という花ですか?」 「えっ? ……あぁ、この花は勿忘草っていう花だそうよ。えっと……確か白い花が持つ花言葉は〝私を忘れないで〟だったような。素敵な花よね」 「……そう、なんですね」  そう呟く彼の声は微かに震えているように聞こえた。きゅっとつぐまれた口はまるで、そうしていないと溢れ出てしまう言葉があるみたいで。 「……ヴィユノーク? 何かあった?」  そっと顔を覗き込もうとすると、彼は咄嗟に私を押しのけた。 「あっ……すみません」 「ねぇ、ほんとにどうしたの? 今日のヴィユノーク、何か変だよ」  我慢ならず、私はとうとう言ってしまった。  背を向けた彼の肩が上下に動き、ひとつ深い呼吸が聞こえる。すると、くるっとこちらを振り向き、〝いつもの彼〟がこう言った。 「ふふっ、私のどこが変なのです? ……ほーらっ、もうすぐ朝食の時間ですよ。私のことはいいから、早くお行きなさいな。ね?」    あれから数日が経った。私はというと、相変わらずヴィユノークへの違和感を抱いたままである。誰かと居るときは普通なのだ。だけど一人になった途端、ふと寂しそうな、今にも泣きそうな顔をする。こんな彼を見るのは初めてで、嫌でも彼のことばかり考えてしまう。声を掛けるべきなのか、そっとしておくべきなのかも解らない。彼が何もないふりをするなら、気付かないふりをするのが愛なのだろうとは思う。でもあの表情を見ると、彼にとってそれが最善だとはとても思えなかった。 「ねぇ……ちょっと訊きたいんだけど、最近のヴィユノーク何か変じゃない?」  廊下で話していたアイビーとネローザに尋ねてみる。 「変……かぁ。うーん……やっぱり君もそう思う?」 「俺も薄々だが感じていたんだよな……何かあったのか?」  どうやら二人も私と同じように感じていたみたいだ。 「何があったとかは知らないんだけど、何というか……とても悲しそうで。二人なら何か知っているかなって思ったんだけど……」  二人は記憶を辿るように目線を上げ、首を傾ける。 「あぁでも、毎年この時期になると一人で居ることが多いような……僕の思い違いでなければだけど」 「言われてみれば確かにそうだな。月の影響とかでもなさそうだし……何かあるのか?」  この時期になると……か。何だろう。思い当たるものも何もないが、そうなると私たちが原因というわけではなさそうだ。 「一度気になってどうしたのか訊いたことがあったんだが……お得意の笑顔ではぐらかされてしまったよ」  アイビーが首を振りながら息を零す。その話にネローザも、やっぱりなという顔だ。 「そっかぁ……うん、教えてくれてありがとう」    自室に戻るやいなや、私はベッドに倒れ込んだ。 「はぁ……どうしたらいいんだろ」  何があったのか訊くべきなのだろうか。そもそも、ヴァンパイアである二人にすら話していないことを、私ごときに話してくれるのだろうか。彼にはとてもお世話になっている。勿論、彼だけでなく他の二人にもだ。彼等が私に親切にしてくれるように、私も彼等にそうでありたい。でも、元々は人間で今も尚混血で不完全な私に、果たして彼等の話に向き合う資格はあるのだろうか。 「明日もう一度、ヴィユノークと話してみるか……」  とにかく、何かアクションを起こさなければ何も変わらない。まずは彼の目をちゃんと見て話してみよう。そう心に決め、私は夢の中へ堕ちていった。  明日も当たり前の朝が来ると、馬鹿みたいに信じ切って。   「ふわぁ……おはよ~……って、ん? 二人ともそんな顔してどうしたの?」  珍しく慌てた様子の二人。こんな早朝から息が上がっている。ランニング? いやいや、そんなわけないでしょ。だとすれば何? 色々なことが頭を駆け巡っていく。ふと目線を上げると、あのアイビーが私から目をすっと逸らし、俯いてしまった。 「え? 何……何があったの?」  只事ではないと悟った私は恐る恐る尋ねる。すると、ネローザが重い口を開いた。 「……実は、ヴィユノークが何処にも居ないんだ。あいつの荷物も何もかも此処にあるのに、あいつだけが……消えたんだ」 「え?」  今、ネローザは何て言ったの? 言葉が上手く処理できない。寝起きだからか、頭が正常に動いていないような気がする。 「昨夜最後に寝たのも、今朝最初に起きたのも僕だ。……ヴィユノークが動く気配はしなかった。あぁでも彼なら……彼なら、僕の目も掻い潜れるかもしれないね」  アイビーは寂しそうに、でもどこか愛おしそうに呟く。 「そんな……どうしよう。ヴィユノークが行きそうな場所に心当たりはある?」  何も言わず首を振る二人。 「そっ、か……」  私は小さく頷いて、目を泳がせた。 「……いやぁ、困ったな。あいつのこと、解っているようで解っていないからなぁ、俺」 「僕はとにかく、手当たり次第探してみるよ。……あぁでも、先にヴィユノークの部屋を見てみようかな。何か手掛かりがあるかもしれないし」 「ああ、頼む。俺も他の城の奴等に訊いてみるよ」  一見仲が良さそうにも見えないし、必要以上に関わりを持たない彼等ではあるが、やはり共に暮らしてきた大切な存在なのだ。誰一人として欠けてはいけない、大切な…… 「……よしっ。私もできることやってみるよ! ……大切な仲間、だもんね」  気を抜くと零れてしまいそうな涙を必死に堪え、私は明るく声を掛ける。  すると私のその言葉に、二人の表情が少しだけ解れたような気がした。    彼の様子がおかしくなったのはいつからだっただろう。何かきっかけがあるはず。 「うーん……あっ、ネックレス……確かあの日、ネックレスについて聞いたらあからさまに話を逸らされたんだ」  そうだ、普段アクセサリーなんて身に着けない彼だ。この私に装飾品なんて必要ないでしょう? なんて言うほど己の美しさを認知している彼が、あえて誰にも気付かれないような場所に身に着けるネックレス。きっと大切なものなのだ。何にも変えられないほど、思い入れのある特別な…… 「あっでも、あの花にも何かありそうだったよね……花の名前を聞いてくるほどだもん。勿忘草……〝私を忘れないで〟? そういえば花言葉を聞いたとき、一瞬だけど凄く切なそうな顔してた……」  〝誰か〟が居る? 彼にとって、忘れられない大切な誰かが…… 「あれ、ちょっと待って。あのネックレスって……となると、あの花も……」  親に手を引かれて歩いた幼い頃の記憶が、鮮明に蘇ってくる。 「……っ、もしかして」  私は部屋を飛び出した。何も持たず、長い廊下を必死に走る。 「ルナリア? そんなに急いで何処に行くんだ」  後ろからアイビーに呼び止められる。 「……わからない。だけど、そこに居るような気がするの」 「なら、俺たちもついていくよ。お前一人じゃ危ない」  すぐそばに居たネローザが言う。 「……ありがとう。でも大丈夫。私一人で行く。……そのほうがいいような気がするの。二人はここで待ってて?」  私の真剣な面持ちを見て、二人は互いに目を合わせる。 「うん、わかった。君がそう言うなら、僕らはここで待ってる」 「ただし一つだけ。くれぐれも気を付けるようにな」  そう言って二人はふっと優しく笑う。 「……ありがとう。じゃあ、行ってきます」    誰も居ない暗い夜を私は駆けていく。あのネックレスに見覚えがあったのは当然だ。私がまだ人間だった頃、家の近所に古びた城があった。その城の裏道は、私の家族のお馴染みの散歩コースだった。誰も住んでいないような城なのに、その側には沢山の白い勿忘草が咲き誇っていたことをやけに覚えている。その花たちはまるで、誰かが丁寧に世話をしているように見えた。 「おかーさん、見て見て! あそこにネックレスがあるよ!」  そう。その花壇の隣には、あのネックレスが飾られていたのだ。それはそれは大切そうに。そこには勿忘草も一緒に添えられていた。今思い返せば、飾っているというよりも供えているようだった。あの日見た光景が、あの日の彼が。噓でなければ、そこには確かに繋がりがあるはず。    城に着くと、あの頃と何も変わらない白い花々が咲いていた。そしてそこには、あのネックレスも。青白い月が冷たい光を落とす。  彼はきっと此処に居る。錆びて色が変わった扉を見つめ、私はそっと中に入った。   「あれ? どうして……貴女が此処に居るんです?」  思った通り、彼は此処に居た。城の屋根の上に一人腰掛ける彼は、いつも以上に儚く小さく見える。 「……こんな所で何してるの?」 「……何でもいいじゃないですか」  彼はこちらも見ず、吐き捨てるように言う。 「そんなこと言ったって、皆……心配してるんだよ?」 「心配……ですか。こんな私の為に心配なんて……ふふっ。でも私、今までもこうして此処に来ていたんですよ? 皆さんが起きる前には帰るようにしていましたが。……だけど、今日は何だか無理みたいです。離れたくない」  こんな私、なんて。彼からそんな言葉が出るとは思わなかった。笑みを浮かべながら呟く彼だが、その姿はどこか苦しそうに見えた。 「……この城はヴィユノークにとってどんな場所なの?」  そう訊くと、彼は下を向いて唇を嚙んだ。 「……あーあ、誰にも話す気はなかったのに……此処まで来た貴女が悪いんですからね」  静かに瞬きをした彼がこちらを向いた。そして、訥々と語るように話し始めた。 「幼い頃、今の城に来る前ですね。この城で暮らしていたんです。二人の姉と一緒に。ヴァンパイアですから明確な年齢はありませんが、二つ上と四つ上くらいの姉でした。まだまだ幼い私たちでしたが、今の私でも比べ物にならないくらい美しかった。笑顔が柔らかくて綺麗で……あぁ、きっと太陽はこんな風に輝いているんだろうなぁとさえ思うほどでした。そんな彼女たちには好きな花があったんです」  彼が私の目を見て小さく頷く。 「それは、そう。貴女が教えてくれた勿忘草です。外から帰って来る度に、私にその花で作った花束を贈ってくれました。そして私は、その花束たちをお気に入りの花瓶に飾っていました。もうすぐ次の花瓶を用意しないといけないなぁと思っていたんですけどね。……ですがそれ以上、花瓶が増えることはありませんでした」  月を見上げ、息を零す彼。 「……何があったの?」  顔がこわばる私を横目に、彼は口を開く。 「姉は二人共、亡くなりました。……殺されたんです、人間に。ちょうど五百年前の今日のことです」  私は何も言えなかった。どんな言葉でも彼を傷付けてしまいそうで怖かった。 「どうして人間に? ヴァンパイアは不死身ではないの? そう思いますよね。……確かに、ヴァンパイアは不死身の身ではあります。しかし、そんな私たちにも弱点というものは存在してしまうのですよ。貴女もご存知のように、太陽の光もその内のひとつです。だけど、意外とその他にもあるんです。例えば、銀とか……ね。当時の人間界は怪異に対して非常に敏感だった。それらの駆除が大々的に行われていたんです。……勿論、私たちもその対象でした。銀の鎧に銀の楯、それに銀の剣。銀の銃も彼等は持っていました。毎晩何処かの城が襲撃され、次々と仲間が死んでいきました」  彼が大きく息を吸う音が聞こえる。 「……ある夜のことです。いつものように、姉たちは外に花を摘みに出ていました。……でも、なかなか帰って来なくて。心配になった私は、様子を見に行こうと城の扉に手を掛けました。その時です、大きな音と共に扉が勢い良く開けられて……小さな私は部屋の隅に飛ばされてしまいました。目を凝らすと、そこには知らない男たちが立っていて。……っ、そして奴等の手には。……奴等の手には、愛する二人の姉が力なく抱かれていました。……っ、その手には血で染まったあの花もあった」  月明かりに照らされた彼の瞳が潤んでいる。 「……だけど彼女たちは生きていたんだ。生きていたのにっ……」  頬を一筋の涙が伝う。 「……どうやら死角になっていたみたいで、奴等は私の存在に気付いていなかったようでした。城の中を見回した男はまだ息のある姉たちに尋ねたんです、この城にはお前たちしか居ないのか……って。そしたらね、二人揃って言うんですよ……此処に住んでいるのは私たち二人だけだってっ……。その言葉を最期に姉たちは死にました。……男たちが去った後、私は急いで姉たちの元に寄り、必死に身体を揺すりました。死んだなんて信じられなかった……。だって、眠っているようにしか見えなかったんだっ……」  首元に手をやり、あのネックレスを私に見せる彼。 「……これは姉の形見です。もう一人の姉のものは下の花壇にあります。大好きな花たちと一緒に笑っていてほしくて……。だけどやっぱり離れられなくて、一つは私にと我儘を言ってしまいました」  彼はそう言って、寂しそうにネックレスを見つめる。 「……姉たちは私を守る為に噓をついた。私の為に……いや、私のせいで。そう、僕のせいで姉さんたちは死んだんだっ……。僕があの日、行かないでって言っていればっ……! 僕が守れていればっ……! こんな僕の為に、姉さんたちが死ぬ必要なんてなかったんだっ……」  彼の息が荒く、脆くなっていく。  此処に居るのは、あの日の彼だ。これは私に向けての言葉ではない。お姉さんたちに向けられた言葉だ。彼はずっと、ずっと……あの日からこうして自分を責め続けているんだ。気が遠くなるほどの年月が過ぎても、ひと時も忘れることはなかった。忘れられなかった。少しでも彼女たちを近くに感じていたくて、美しい彼女らを模倣するかのように振る舞った。そうすると傍に居られるような気がした。彼はきっと、この殻を被ることで自分を守ってきたんだ。 「……ねぇ、ルナリア。いっそのこと、私を侮辱してくださいよっ……。大切な人すら守れない、弱くて駄目な奴だってっ……! クズで最低な奴だって罵ってよっ、ねぇ……‼︎」  声を荒げる彼の身体は細かく震えている。  私は何も言えず、ただ彼の瞳を見つめることしかできない。 「……っ、あぁそうさっ! 言わないよね! 君はそんなこと……‼︎ お優しいもんねっ、君は僕と違って。言うはずない……そうだよ、解っているはずなのにっ……」  震える両手で顔を覆う彼。小さくて弱くて、脆い。触れると壊してしまうのではないかと思うほどに。 「……ヴィユノーク、貴方は優しいよ。強いよ。その日からずっと、こうしてお姉さんたちに会いに来ているんでしょう? あの花だって、貴方が居るから咲いているんだよ。そして貴方は、自分とちゃんと向き合ってる。それは、そんなに簡単なことじゃない。辛くて、苦しくて、痛みを伴うものだから。貴方がお姉さんたちを愛すように、お姉さんたちも貴方を愛している。きっとね。だから、そんな風に自分を傷付けるようなことは言わないで」  涙に濡れた瞳でこちらを見る彼。 「……ふふっ、そんなの噓ですよ。……私なんかのどこを愛してるっていうんですか。私のせいで死んだっていうのにっ……」  そう言ってまた俯いてしまった彼は肩を震わせる。彼の嗚咽が静かな夜に響き、そして吞まれていく。  私は思わず、彼を抱き寄せてしまった。 「……えっ?」  突然のことに目を丸くする彼。 「……っ、馬鹿。そんな悲しいこと言わないでよっ……。お姉さんたちはヴィユノークを愛していたから、貴方にだけでも生きていてほしかったから……噓をついたんでしょう? 守ったんでしょう? 貴方の愛するお姉さんたちが愛する人よ。それを噓だなんて言わないでっ……」  耳元でひゅっと息を吸う音が聞こえる。 「……っ、本当に優しいですね、貴女は。優しすぎますよっ……」  彼の身体にぎゅっと力が入るのが伝わってくる。 「……そうですね、愛する人を信じられないようじゃ姉たちに𠮟られてしまいます。……うん、そうだね。……ルナリア、本当にありが……って、えぇ? ふふっ、もうっ……やめてくださいよっ……ほーらっ、泣かないで?」  切なそうに笑う彼は、私の涙をそっと拭ってくれる。 「……っ、だってっ……」 「あーあー……もうっ。折角の可愛いお顔が台無しですよ? ……ほら、笑って?」  そう言う彼の瞳からも、涙が溢れてやまないっていうのに。ほんと、なんて愛しい人だろう。 「……ねぇ、ルナリア。愛って、何なんでしょうか?」 「え?」 「……いいや、何でもないです。……そろそろ、帰りましょうか。日が昇る前に出ないと、私たちは灰になってしまいますから」 「……うん、そうね。消えてしまうなんて、それは困るもの」  ふっと目を細め、微笑み合う私たち。そんな二人を照らす月明かりは、何だかいつもよりも温かく感じた。    太陽が昇るほんの少し前。私たちはいつもの城に着いた。それに気付いたアイビーとネローザは急いで駆けつけ、出迎えてくれたが、何も聞いてはこなかった。ただ、おかえりと。それだけ言って、変わらずいつものように接してくれた。 「ねぇ、ヴィユノーク。渡したいものがあるんだけど……」 「渡したいもの? 何でしょうか?」  差し出された彼の手に、一輪の花を乗せる。 「これって……」  驚いたような表情を浮かべる彼。 「うん、勿忘草……私が育てたものだから、あの場所に咲いていたものではないんだけどね。こうして押し花にすれば、ずっと綺麗なまま咲いていられるでしょう? 折角だから栞にしてみたんだけど……ヴィユノークって本とか読む人だった……?」  不安そうな私を見て、彼が頬を緩ませる。 「ふふっ、ルナリアってば本当に……。私は読書は好きですし、例えそうでなくとも、そんなこと貴女が気にする必要なんてないのに。……押し花ですか。こんなに素敵なものがあるんですね。とっても嬉しいです」  彼の声は心做しか潤んでいるように聞こえた。 「……貴女が居てくれて良かったです。本当にありがとう」  そう言って優しく笑う彼は、以前の彼でも、あの日の彼でもない。数え切れないほどの苦悩と共に、治りきらない疵を抱えながら必死に踠いて、ここまで歩いてきた彼だ。だけど私たちは、彼のことを全て解ることはできない。それは多分……いや、絶対に。何もかもを知る必要なんて、始めからないのだ。知らない部分があってもいいじゃないか。それを完全に理解することよりも、知ろうと歩み寄ることが大切なのだ。受け止めようと寄り添うことが。そして、自分の手を取ろうとしてくれる相手の気持ちに触れて、温もりを知るということも。 「……それが愛なんじゃないかな」  私は小さく呟く。 「ん? 何か言いました?」 「ううん、何にも。……そうだっ。ねぇヴィユノーク、今夜ちょっと付き合ってよ! もしかしたら流星群が見られるかも! ……夜なら人間界に出ても、少しくらい平気でしょう?」 「流星群……ですか。ふふっ、素敵な夜になりそうです。解りましたっ、一緒に行きましょうか」 「ふふっ、じゃあ決まりね! ……そうそう、流れ星に願いごとをすると叶うって知ってる? ……あぁでも、星が消える前に三回唱えないといけないんだけど。あれって結構難しいんだよね」 「そうなんですか? じゃあ、私が星さんたちに〝待って~〟って言ってあげましょうか?」 「もぉ……それじゃあ意味が無いの! 今日こそは絶対に成功させてやるんだからっ」 「ふふふっ。じゃあ私も、頑張ってみましょうかねぇ……」    そんな彼等の会話を、今宵も月は静かに聞いている。太陽が無ければ輝くことができない月。それを誰かは可哀想だと言うかもしれない。だけど私は、ささやかに光を落とす月が大好きだ。太陽のように眩しい光も熱も持っていないけれど、月だけが持つ温もりと美しさを私は知っている。それはきっと、此処に居る彼等も同じだろう。太陽という星に触れることを、この身は許してはくれない。だけど私たちは、月という星を知っている。それで十分なのだ。どう足搔いても知れないことを、無理に知ろうとは思わない。それもまた、愛というものだ。勿論、何かを大切に想うことも愛であろう。  ふと顔を上げる。するとそこには、丸くて大きな月が青く白く輝いて、広い黒の中に浮かんでいた。彼と二人、横に並んで空を見上げる。 「……今日も月が綺麗ですね」   ◆後書き  まずは、ここまで読んでくださった貴方様に感謝の花束を贈らせてください。本当にありがとう。読んでくれる人が居るということは、決して当たり前ではない。例え読者が貴方一人だけであっても、それで十分です。誰かに届くというただそれだけで、私は心の底から嬉しいですから。……さぁ、ここからはこの物語について。少しお話させてください。有名な言葉なのでお気付きの方もいらっしゃると思いますが、最後の台詞「月が綺麗ですね」は夏目漱石の言葉を借りています。「貴方を愛しています」という意味が隠されているこの言葉ですが、この物語においての解釈は読み手各々に委ねています。この言葉をルナリアが言ったのか、それともヴィユノークが言ったのか。それすらも明示していないのですから。密かにルナリアが彼に想いを寄せているでも良し。ヴィユノークが姉たちを想い続けているでも良し。何でも良しです。  ヴァンパイアを題材に物語を書くのは非常に難しいんです。なぜかというと、彼等の存在にはいわゆる伝説・言い伝えというものが背景にあって、いい加減に扱えるものではないからです。オリジナリティを出すにも、語り継がれてきたものを崩さないように節度のあるものにしなければなりません。ある程度の設定は守って、そこに自分の考えた設定をプラスしていく。簡単なことではありませんが、その作業も私は嫌いではないんですよ。とまぁ、そんな感じで今回も私なりの設定を加えてみました。ヴィユノークがかつて暮らしていた城に戻ったとき、ルナリアがその城に向かったとき、二人が城を後にするとき。そのどれもが、人間界の夜の出来事です。それじゃあヴィユノークが居ないことに三人が気付いたとき、人間界は早朝のはずだよね? あの城に居たヴィユノークが灰にならないのはどうして? そう思いますよね。真相はこうです。ヴァンパイアは自分の居る城には帳を下ろすことができるんです。闇に包まれた夜の帳を。人間界も夜である時間はその帳に気付くことはないでしょう。しかし、人間界で太陽が出ている間は外界との境界がはっきりと解ります。(迷い込んでくる人間は気が付かない境界ですが)城からある一定の距離、そこから一歩でも踏み出せばヴァンパイアは灰となって消えてしまうでしょう。ですから、彼等は日が昇る前に城を去ったんです。太陽が昇ってしまえば、ある意味監禁状態になってしまいますから。まぁ、翌晩を待っても良いのですが、そこにはそういった理由があったんです。流石の彼等も、世界中を闇に包むことはできませんからね。  ヴィユノークは五百年前に姉たちを亡くしたと言っていましたが、私的には彼等にそこまで明確な年齢設定はしていません。ヴィユノークが言う「幼い頃」は五歳くらいをイメージして書きました。だからといって、彼が今、五百五歳かと言われるとそうでもありません。あくまで五歳くらいというだけですので。ヴァンパイアは赤ん坊から成人の姿になるまでは成長しますが、それ以降の見た目の変化はさほど無いと考えています。また、生まれてから成人までの成長スピードも人間とは異なるだろうと思っています。だから彼等の年齢は明確には分からないんです。彼等に聞けば分かるかもしれませんが……とっくの昔に数えることを止めていそうですので、知るのはほぼ不可能なことでしょう。ただ、ざっくりとした個人的なイメージですと、アイビーは六百年ほど、ヴィユノークは五百年ほど、ネローザは四百年ほど。ヴァンパイアとして生きているような気がします。因みにルナリアはまだまだ新米ヴァンパイアですから、五年ほどのイメージです。  ヴィユノークがアイビーらの居る城に来た経緯についてですが、姉たちを亡くした後、独りぼっちだった彼をボスが自分の城に迎え入れてくれた……という設定を一応掲げております。どの作品にも未だに登場していないボスですが(笑) いつか登場していただけると嬉しいですね。  想像以上に喋ってしまいましたが、それくらいヴァンパイアの物語を書くのは楽しいということです。そしてまた、それらを読んでくれる人も楽しんでくれていれば幸いです。今作は過去作とはひと味違う、切なくて寂しい愛の物語となっております。美と狂気が共存するヴィユノークは、どこか危険で甘くて、まるで植物の蔓のように知らずのうちに相手に絡みつき、己から離れられなくするような性質を持っています。そんな彼の知らない一面、弱さのようなものを表現したつもりです。普段の彼からは想像できない彼を感じていただけていれば嬉しいです。今後、ヴァンパイアの物語を書くかは未定ですが、機会があれば書いてみたいなと思っています。  それでは。どうか良い夜をお過ごしくださいね。

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とこしえの待宵影。

妖花の誘い。(いざない)

 とある街にひっそりと佇む小さな花屋がある。しかし、これがまた奇妙な花屋なのだ。店には様々な花があるにも関わらず、出てくる客は皆揃って、見事な白い薔薇の花束を抱えているのだ。全ての客がそう要望したとは考えにくい。とすると何故? 意味がわからない。要望通りの花束を作ってもらえず、不満げな表情を浮かべる客を目にすることも少なくない。それなのに店の評判は最高なのである。しかも、どの口コミも「美しい赤い薔薇をありがとうございます」という内容なのだ。これは一体どういうことなのだろう。何とも不思議な店がこの街にあるのだと、巷では密かに噂になっていた。噂を聞きつけ好奇心から訪ねる者、何も知らず単純に花を求めて訪ねる者など、様々な客が今日も店を出入りしていた。 「彼女に贈る花束をつくっていただきたいのですが」  一人の男が声を掛ける。 「ご自宅用ですか? それともプレゼント用ですか?」 「え? ……いやぁ、実はですね。今夜プロポーズしようと思っているんですよ」  恋人に贈ると言っているのだからプレゼント用に決まっているだろうに。的外れのような、掴みどころがないような店主は、非常に美しい顔立ちの中性的な男だった。ゆるく結われた長い髪はまるで絹糸のように綺麗である。彼は当然のように白い薔薇を花束に仕上げていく。本数を数えるやけに甘ったるい彼の声は、十七で止まった。 「お待たせ致しました」  白い薔薇を目にした男はむっと顔をしかめた。 「いやいや、違うでしょ。プロポーズといえば赤い薔薇の花束に決まってるじゃないですか」 「ええ。それなら尚更、これがぴったりです」  そう告げる彼は柔らかい笑みを浮かべている。 「そんなわけないでしょう! 赤い薔薇で作り直してください」  男は腹を立てて、思わず声を荒げた。 「それは致しかねます。お代は結構ですから、ね?」  しかし、全く悪びれる様子もなく、むしろ自分が正しいのだと毅然とした態度である。  そういう問題ではないのだと怒りを滲ませながら男が言うも彼の主張は変わらず、結局渋々とその白い薔薇の花束を手に店を後にするしかなかった。  人通りの少ない夜道。街頭に照らされると余計に、薔薇の白が目立つ。 「しかし綺麗な真っ白だよなぁ。ここまで白いのは初めてだ」  男はまじまじと薔薇を見つめる。 「だけど、何だか物足りないような。白って何だかなぁ……」  視線を戻すと、男の前を二人の男女が歩いていた。 「は?」  甘い雰囲気の彼らであるが、女の方は今から会う約束をしていた彼女だったのだ。今宵、一生を共にすることを誓い合う……はずだった。自分の思い上がりに過ぎなかったというのか? いやいや、そんなのおかしいだろう。どうして、どうして?  男は激昂した。それはもう、我を忘れるほどに。  太陽が顔を覗かせる頃、テレビが話し始める。どうやら昨夜、とある街で殺人事件が起きたらしい。現場に駆け付けた警官曰く、女の遺体の手には何故か折れた白い薔薇が握らされており、辺りは血の海だったそうだ。そしてその横には、地面に膝をついて赤黒い薔薇の花束を恍惚とした表情で眺める男がいたのだそう。  また……か。近頃、似たような事件ばかり起こる。 「不思議なものですねぇ……」  ショーケースの中で咲き乱れる白い薔薇たちを横目に、私はふっと微笑んだ。 「おや?」  店の扉に掛けられたベルが音を鳴らす。そこには小さな手で扉を押す少女がいた。 「これはこれは、可愛らしいお客様ですね。いらっしゃいませ」  甘くて深い香りに包まれた空間に、少女は少し驚いている様子だ。 「……お母さんのお見舞いに持っていくお花が欲しいの」  少女が小さな声で呟く。私は膝を曲げて少女と目線を合わせ、その小さくて柔い手をそっと握りながら静かに口角を上げた。 「それなら私が、美しい花束をご用意しましょう。少々お待ちくださいね」 「何故、殺したのですか?」  警官が尋ねる。すると、男はふっと笑った。 「赤い薔薇って美しいですよね。そう思いませんか? 僕はもうね、この花束を家に飾れる日が楽しみで仕方がないんですよ」 《薔薇が持つ花言葉について》 十七本の薔薇  「絶望的な愛」 折れた白い薔薇 「純潔を失い、死を望む」 黒赤色の薔薇  「死ぬまで憎みます」「憎悪」「恨み」

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妖花の誘い。(いざない)

妖花の遊興。

 あれから一体、どれだけの月日が流れたのだろう。惑血という特別な血を持つ私は三人のヴァンパイアの食糧として捕らえられ、最悪なことに私自身も混血のヴァンパイアにさせられてしまった。彼等と私が暮らす城は特殊なベールで覆われており、人間界が昼である時間でも闇に包まれている。こちらには青白い大きな月が浮かんでいるだけだ。向こうで煌めく、あの温かくて優しい光が恋しい。触れてはいけないことは解っている。でも、懐かしくて寂しくて。少しくらいなら、と手を伸ばそうとしたその時。 「馬鹿っ! 何をしているのですか!」  伸ばしかけた腕を誰かに掴まれた。慌てて駆けつけてくれたのだろうか。緑のマントを大きく揺らす彼はそう、ヴィユノークだ。 「死にたいのですか、貴女は。」  冷たくも温かくもある彼の声が頭に響く。解っているよ、それくらい。だけど、誰のせいでこんなことになったと思っているの。言葉としてぶつけてやりたいのだが、この感情は頭をぐるぐる駆け巡るだけで形にならない。  そんな私の心を見透かしているはずなのに、彼は気づかないふりをして微笑む。 「此処は危ないですから。さぁ、帰りますよ。」  こちらとあちらの境界線は、我々ヴァンパイアにしか見えないようになっているのだが、「敢えて」そのようにしているのだろうと思う。知らずのうちに此方の世界に足を踏み入れている人間を眺めることが、彼等はどうも好きらしい。戸惑い怯える人間をわざとその状態で野放しにして、その様子を存分に楽しんでから喰らう。一度立ち入った人間は二度と帰ることはできない。私もそのうちの一人だ。殺されなかったのは私の身体に流れる血のお陰だが、この血のせいでこんなことになってしまった。ここから逃げる術はない。それ故に、彼等と生活を共にするしかないのだ。  純血でないといえど、私もヴァンパイアである。彼等ほどではないが、血を欲するようになってしまった。動物や人間に牙を立てることに抵抗がある私への配慮なのか、彼等は城に備蓄してある血液を私に分けてくれている。  コンコンコン。部屋の大きな扉が音を立てた。 「ルナリア、入るぞ。」  この城の空気感に呑まれないほどの、彼の圧倒的な風格には未だ慣れない。冷めた目でこちらを見下ろし、赤いマントを靡かせる。そして、彼は慣れた手つきでワイングラスに注ぎ、私に手渡す。 「……ありがとう。」  このグラス一杯で理性を保てることは有難いが、口に広がるこの味をどうも好きになれない。だから、この時間は正直苦痛なのだ。 「ねぇ、私って血を飲まなかったらどうなるの?」  ずっと気になっていたけれど、なかなか聞けずにいたことだ。 「まぁ、死にはしないさ。死ねないと言うほうが正しいような気はするが。酷い喉の渇きに一生苦しまされることになるだろうね。」 「まだこの味に慣れないのだろう? だから僕らも無理に飲めとは言わないが……君をヴァンパイアにした以上は、ね。」  ソファに寄りかかって話す彼。アイビーを含め彼等は、私をヴァンパイアにしたかったわけではない。永久的に私のこの血が欲しかったという、ただそれだけだ。その目的の為にヴァンパイアにする必要があっただけ。人間の頃と比べても血の味がそこまで落ちないことに加え不死身になれるなんて、彼等にとっては最高でしかない。 「あぁ、そうだ。ネローザが君を呼んでいたから、落ち着いたら行ってやってくれ。」  彼等に呼び出されるのは「食事」の時が殆どだ。私にとっての「食事」か、彼等にとっての「食事」かのどちらか。今の私を呼ぶということは後者だろう。 「わかった。」  空になったワイングラスを彼に渡し、私は部屋を後にした。  コンコンコン。扉を叩く音が長い廊下に響く。 「誰だ。」  低い声が扉の向こうから返ってきた。 「私よ、ルナリア。呼んでくれていたんでしょう?」 「あぁ、お前か。」  扉が開くと共に、薔薇の深い香りを乗せた空気が流れてくる。 「食事後すぐで悪いが、今日はどうも口が寂しくてな。」  悪戯に笑い、私に目をやるネローザ。  ベッドに座るように促されて、そこで彼を待っていたのだが、どうやら私はそのまま眠ってしまったらしい。目の前には拗ねたような表情を浮かべるネローザが居る。 「……ごめん、私寝ちゃった?」  寝ている間に吸ってくれたら痛くなかったのに、と冗談交じりに言うと彼は呆れたような顔をする。 「それだと面白くねぇだろ。寝てる奴になんか食欲湧かねぇし、痛がるお前に咬みつくのも悪くない。」  どこかで似たような台詞を聞いたことがあるような気がするが……まぁいい。これは寝てしまった私が悪い。  私の肩に手を置き、首筋に顔を近づける彼。 「ん、お前ここに来る前アイビーに会っていたか?」 「え? よくわかったね。」  驚いたような私を見て、彼は言う。 「あぁ。一見爽やかだが、スパイシーさもあるこの香りはあいつのだからな。」 「そういえば、ヴィユノークはあまり香りを纏っている印象はないような気がするな……」  彼等は匂いでも人を区別できるのだろうか。ふーん、と興味なさげな返事をした私が気に食わなかったのか、彼は私を押し倒し、覆い被さった。マントが光を反射して、彼の顔を青く染める。 「ふっ、今夜はゆっくり味わわせてもらおう。」  耳元を彼の息が擽る。首筋に走る鋭い痛みが、彼の晩餐の始まりを告げるのだった。  彼の食事を終え、風に当たろうと外に出る。相変わらず、暗くて冷たい夜だ。彼等は四六時中私を監視しているわけではない。ここから絶対に逃げられないことが解っているから、私の行動にはあまり干渉してこないのだ。しかし、私が想定外の行動をすると彼等も多少は焦るみたいだ。陽光に触れて塵になろうとしたあの時、普段顔色を変えることの少ないヴィユノークの瞳が揺らぐのを、私はこの目で見た。消えてやろうなんて気持ちは本気ではなかった。確かにこの生活が一生続くくらいなら死んだほうがマシだという思いもないわけではないが、私を必要としてくれる存在が居ることに心が満たされているような自分も居るのだ。  そんなことを考えながら月光に照らされた闇の中を歩いていると、背後から物音が聞こえた。  ガサッ。  誰だろう。三人がこんな場所に足を運ぶことはないはずだが。 「……誰?」  音のした方へ問いかけてみる。その声を聞いて木の陰から顔を覗かせたのは、一人の少女だった。 「いや、本当に誰なのよ。」  思わずツッコミみたいになってしまったが……この子は一体何者なのだろうか。仔猫のような可愛らしい顔立ちにふわふわパーマの柔らかい髪、華奢な身体。心なしか甘い香りもするような気がする。柔らかい空気を纏う女の子らしい少女だ。年齢は私よりもふたつほど下だろうか。 「私はソルといいます。あの……此処はどこなのでしょうか?」  迷い込んだ人間なのか、気の毒に。そうであるなら余計に、彼等が彼女の存在を知らないはずがないだろう。ここで私が彼女を帰すと、後々面倒なことになる。 「私はルナリアよ。可哀想に、道に迷ったのね。今夜は泊めてあげるわ。ついていらっしゃい。」  ここで出会したのが彼等なら、彼女は青ざめて逃げただろう。何故なら、彼等は一目で人外だということが解るからだ。混血の私は彼等と比べると、まだ人間味があるのだろう。何も疑う様子もなく私に感謝をする彼女を見ると、同情にも似た感情が浮かんだような気がした。 「おやおや、可愛らしいお嬢さんですね。どちら様です?」  大広間へ行くと、ヴィユノークが静かに微笑みを浮かべ佇んでいた。解っているのに訊くなんて、彼も意地の悪いことをするものだ。 「彼女迷い込んでしまったみたいなんだけど……どうする?」 「どうするかと訊くなんて、君は一体彼女がどうなると思っているんだ? 嫌な言い方をするねぇ。」  はっとして振り返ると、そこにはアイビーが嫌味たらしい表情で私を見ていた。 「お前、名は何というんだ?」  いつの間にかネローザも来ていたみたいだ。 「……ソルといいます。」 「あっ、あの。貴方たちは一体……」  ソルのその言葉に冷ややかに目を合わす彼等。ヴァンパイアにとって、人間はご馳走でしかない。彼女もきっとここで息絶えるのだろう。 「ねぇ、お嬢さん? さっきから思っていたのですが、貴女良い香りがしますねぇ。」  少し失礼しますよ、と告げ、ソルの首筋に牙を立てるヴィユノーク。 「ふふっ……やっぱり。貴女もそうなのでしょう? 惑血の持ち主です。」  赤く染まった口元を丁寧に舐め取り、口角を上げる彼。彼女に出会った時に香った甘さは、それ故のものだったのか。  何が起きているのか理解できず、ソルは動けない様子だ。 「……え? 何の話ですか。それよりも貴方達は何者ですか!」  あまりの恐怖で震えるソルだが、そんな彼女を気遣う様子もなく三人は笑う。 「いやぁ……運が良いねぇ、僕らは。千年に一人という者が二人も手に入るなんて。」 「ああ。まさかこんなことが起こるなんてな。」  アイビーとネローザも、信じ難い幸運に驚いているようだ。 「そうと判れば、ここで殺してしまうのは勿体ない……お嬢さんは運が良かったですね。空きの部屋は幾らでもありますから、特別に大きなお部屋をお貸ししますよ?」  自分が置かれている状況が吞み込めていないソルは、そのつぶらな瞳から涙を流すことしかできない。 「何も泣くことではないだろう? むしろ、喜ばなくちゃ。」 「自分の血に感謝するんだな。」  アイビーとネローザも彼女に笑みを向けるが、その瞳の奥は笑っていない。先程までは怯えていた彼女も、恐怖を通り越したような表情をしている。あの時の私のように、もう逃げられないことを悟ったのだろうか。 「それはそうと、良かったじゃないか。ルナリア。君の負担を減らすことができる。」  私に視線を移し、眉を上げるアイビー。 「え? あぁ……そっか。そうだね。」  惑血を持つ者が増えた分、彼等の食事に付き合うのは私とソルの当番制のようになり、毎日ではなくなるということか。となれば、彼女もいずれ「そう」なるのだろうか。 「……ねぇ、ソルも私と同じようにヴァンパイアにするの?」  彼女に聞こえないように、小声でアイビーに尋ねる。 「さぁ、どうだろうね?」  奥では、ヴィユノークが彼女を部屋まで案内しているのが見える。 「彼女も部屋から出られないの?」 「ああ、そうだよ。」  彼のその返事に、私は疑問が浮かんだ。監禁しなくても此処からはどうせ逃げられないのに、何故わざわざそんなことをするのだろう。 「どうして? そんなことをする必要はないはずでしょう?」  あまりに素直に心に浮かんだものだから、思わず訊いてしまった。彼の機嫌を損ねていないだろうか。恐る恐る目線を上げる。 「小鳥を鳥籠の中で愛でるのは当然だろう。何が気になる?」  不思議そうな顔をして言うアイビー。 「……いや、何でもない。」  彼等と暮らし始めて暫く経った今でも、彼等のことがよく解らない。心があるように感じることもあるが、それはやはり「彼等」としてのものであり人間とは通わない部分がある。その揺るがない事実が、相手に気味の悪い恐怖感を与えるのだ。  ソルが来てからというもの、アイビーも言っていたように私の彼等への食事の負担が格段に減った。てっきり一日おきくらいのペースになるのかと思っていたのだが、二日……いや三日私を訪ねてこないこともある。 「わっ。」  扉を開けると、丁度向こうから来たネローザとぶつかってしまった。 「ああ、悪い。見えてなかった。」  よろけた私を片手で支え、謝る彼。珍しいな、私の存在に気が付かないなんて。そんなことがあるのか。 「……ソルのところに行っていたの?」  彼から仄かに血の匂いがする。 「いやぁ、やっぱり人間は良いもんだ。穢れのない味が堪んねぇ。」  満足そうな笑みを浮かべる彼。彼女を手に入れられた快感が隠しきれていない様子だ。私に気付かなかったのは酔いが回っているからなのか、それとも浮ついているからなのか。  それにしても、幸せそうな顔をするものだ。この上ない悦に浸っている彼等を見ると、純粋な人間の血がどれほど美味しいのか良く解る。  以前よりも時間ができた私は、地下にある書庫に行くことが増えた。惑血について記されている書物も多くあり、何か得られる情報があるかもしれないと思ったのだ。遥か昔から重宝されてきた特別な血。彼等が一体何年生きていて、年数の価値観がどんなものなのかは知らないが、千年に一人の割合というものに巡り合えることは相当なことなのだろう。私への吸血が減っただけで、それ以外は以前の生活と何も変わらない。ただ、やけに上機嫌な彼等が少し、鼻につくだけだ。彼女の血の匂いを纏った彼等とすれ違う度に、吐き気がしそうになる。  コンコンコン。硬い扉で音が跳ねる。 「……どなたですか。」  微かに震える声が返ってきた。彼等の言動を考えると、こうなることは必然であったとも思われる。いや、彼女がそうなったのではない。彼等がそうしたのだ。こうなると解って、酷いことをしているのだ。 「ルナリアよ。少し良いかしら?」 「え? もっ、勿論です!」  慌てて扉を開けてくれたソルは、どこか安心したような嬉しそうな顔をしている。私も一応ヴァンパイアなのだと、彼等は伝えていないのだろうか。彼等が何を考えているのか解らないが、ここは黙っておいたほうが身の為だ。 「急にどうしたんですか?」  私の目を真っ直ぐ見つめ、尋ねる彼女。 「んー、貴女に話したいことがあって。」  そうは言っても特に用はなかったのだが、ソルは私のその言葉を聞いてはっと目を見開いた。 「……ルナリアさんもなんですよね?」 「え?」 「彼等の食事相手になっているのは。」  ああ、そうか。成程、彼女は私も自分と同じような目に遭っていると思っているのか。 「こんな日々が続くと思うと……私、もう耐えられないんです。あの狂気と欲に満ちた目で見られると、息ができなくて。」  一緒に逃げましょう、と真剣な面持ちのソル。  彼女は何も可笑しなことは言っていない。それなのに、私の胸に沸々と湧き上がるこの感情は何なのだろうか。 「ルナリアさん? 大丈夫ですか?」  心配そうに私の顔を覗き込んでくる。ああっ、もう。やめてくれ、そんな目で見ないでくれ。 「えっ?」  気が付いたときには、私はソルを押し倒していた。 「……あぁ、もう。本当に馬鹿よね、私も貴女も。」  意味が解らないとでもいうような彼女は、目を真ん丸にしている。 「……どういう意味ですか?」  戸惑いを誤魔化すかのように笑って、ソルは身体を起こそうとする。しかし、その身体はびくともしない。彼女の長くて綺麗な髪をそっとのけると、白くて柔い肌が露わになった。 「えっ、え? ちょっと待って、ルナリアさん。何するんですか!」  驚いたように慌てて言う彼女。 「うるさい。黙って。」  意外にもすっと刺さるものなのだと、牙を立ててみて初めて判った。彼女の首筋から溢れる赤が、部屋中を甘ったるい香りで包む。 「……嫌っ、やめてください!」  抵抗にもならない抵抗をする彼女の顔は真っ青である。 「へぇ……これがねぇ。」  この血が、彼等をあんな顔にさせていたのか。何故か無性に腹が立つ。  この頃にはもう、彼女の声は耳に届いていなかった。気が付いたときには、彼女の身体は冷たくなっていて、自分の口は真っ赤に染まっていた。ベッドの上で呆然とする。殺すつもりなんて、甚だ無かった。ただ少し気になっただけで……いや、本当にそうか? こんなこと認めたくはないが、寂しかったのではないか? 彼等が離れていくような気がして。 「あらあら、吸い尽くしてしまうとは。そんなにお腹が空いていたのですか?」  はっとして顔を上げると、そこには甘くて黒い表情をしたヴィユノークがこちらを見下ろしていた。この部屋に来る前に食事を終えている私への皮肉を溢す唇は、どこか嬉しそうだ。 「そっ……んなことないわよ。」 「へぇ。まぁ、何でも良いが。」  赤く染まった私を、興味深そうに眺めるアイビー。 「お前がまさか、こんなことをするとはなぁ?」  彼の青いマントが、今はこの部屋に良く映える。  彼等には全てがお見通しというわけか。面倒なことになってしまった。 「いやっ、別にそんなんじゃなくて。ね?」  ベッドから立ち上がろうとしたその瞬間。 「うっ……」  激しい眩暈に襲われ、私はそのまま気を失ってしまった。  吸血行為は初めて、ましてや惑血なんていう刺激の強い血には全く慣れていない彼女。酔いが回り過ぎたのだろう。 「ふふっ。焦っちゃって、必死になっちゃって……ルナリアは本当に馬鹿で可愛いですねぇ。」 「相変わらずお前、性格悪いよな。殺さずに取っておけば良いのに。ちょっと遊んでみよう、なんて言うものだから流石の俺も驚いたぞ?」 「ははっ、本当かい? 君も少しは考えていただろう?」 「アイビーはいつも、私達の一歩先を歩きますよね。尊敬しているのですよ?」 「それは僕を褒めているのか? ヴィユノーク。君の言葉はどうも難しいものでね。」 「褒めてねぇよ、馬鹿。……でもまぁ、こうなった以上はこれからもルナリアには頑張ってもらわないとだな?」 「勿論です。これからも、ずーっと逃がしませんよ? そもそも、当の本人に逃げる気がないのだと、今回ではっきり判りましたから。」 「ああ、そうだね。……ふっ、こんなに吞気に眠っちゃって。ルナリアは僕らの相手に、意外と向いていたんじゃないか?」 「ふふっ、本当ですね。」  そんな彼等の言葉が静かに舞う中、彼女は何も知らずに今宵も寝息を立てるのであった。 ◇後書き  彼等が纏う香りは、それぞれの名前にもなっている花の香りである。前作の登場人物紹介を読んでいただければ、名前の由来とその花が持つ花言葉が解るだろう。  ルナリアと同じ惑血を持つ彼女。ソルの名前は「太陽」を意味するラテン語から取っている。ヴィユノークが彼女のことを「お嬢さん」としか呼ばないのは、彼自身が太陽に対して強い嫌悪感のようでもある憧れと劣等感を抱いている為である。 ◇おまけ 《ヴァンパイアの睡眠について》 「ふわぁ……」  小さなあくびを溢す彼女。大きく身体を伸ばし、目を擦りながら窓の外を眺める。ルナリアの朝(窓の外は相変わらず闇で包まれているが)はこうして幕を開ける。ヴァンパイアは眠らなくても身体に支障をきたすことはないが、睡眠を趣味とする者もいる。例えば、ヴィユノークは早めに眠りにつくことが殆どだ。美しいものを好む彼曰く、美容の為だとか何とか。因みに、彼の一日は、自室にある鏡で自分の姿を確認することから始まる。普通の鏡には映らない彼等だが、この城にある殆どの鏡はヴァンパイア用の特殊なものなのだ。(以前、ルナリアに与えられていた部屋の鏡は人間用であった。)ネローザは自発的に睡眠をとることは少なく、暇を持て余している印象が強い。その為、することがなくて仕方なく寝るという感じが多いように思う。それに対してアイビーは基本的に眠らず、皆が寝静まった後に一人で書庫に行き、黙々と書物を読んで過ごす。冷静に物事を多角的から見ることができる彼は、他のヴァンパイアから尊敬されることが多いが、こういった日々の時間の積み重ねが彼をつくっているのかもしれない。 《アフターストーリー》  さあ、今日は何をして過ごそうか。ダーツやチェス等、彼等と娯楽を楽しむこともあるが、今日はそんな気分ではない。何やかんや言って、この生活を楽しんでしまっている自分がいることが厄介だが、どうしようもないのなら仕方がないと割り切ることも大切だ。  そうだ、今日は花畑に行こう。退屈そうにしている私を見かねた彼等が、花好きな私に、と与えてくれたのだ。この前植えたシロツメクサが、そろそろ花を咲かせているかもしれない。日光を浴びなければ植物は育つことが困難だが、そこは彼等が上手くやってくれているらしい。 「わぁ! 咲いてる!」  花畑いっぱいに広がる白の絨毯に、思わず子どものように心が躍ってしまう。 「シロツメクサといえば、作るしかないよね。」  その場にしゃがんで一人黙々と花冠を作っていると、後ろから声が聞こえた。 「今日も素敵な朝ですね、ルナリア。こんなところで何をしているのです?」  空に浮かぶ月と同じ白銀の髪が、ふわりと揺れる。 「おはよう、ヴィユノーク。シロツメクサが咲いてくれていたから、花冠を作っているの。」 「花冠……ですか。」  興味深そうに私の手元を見つめる彼。 「私にも教えていただけませんか? 一緒に作りましょう?」  私に向けられた彼の瞳は期待に輝いている。裏が存在しない純粋な言葉なのだろう。こんなに感情を表に出す彼を見ることは滅多にない。 「勿論よ。じゃあ、隣に座ってくれる?」  美しいものが好きなだけあって、流石である。一度説明しただけで簡単にやってのける彼の器用さには驚いた。あっという間に完成し、彼は嬉しそうに微笑む。 「はい、これは貴女に。教えてくれたお礼です。」  彼はそう言って、自分が作った花冠を私の頭に乗せてくれた。 「え、いいの?」 「じゃあ私も。付き合ってくれてありがとね。」  私は作った花冠を彼にお返しする。 「いいえ、こちらこそです。楽しい時間になりましたよ。」  そう言って彼は嬉しそうに頬を緩めた。  私達の手元には、丁度あと二つの花冠が残っている。 「折角ですから、他の二人にも贈りましょうか。」  その花冠を大切そうに両手に乗せる彼。互いに憎めない愛おしい存在なのだということが、彼のその柔らかい表情から伝わってくる。 「うん、そうだね。」 「ふふっ。それでは、帰りましょうか。」  彼が立ち上がると共に、緑のマントがふわりと翻る。花冠を被っているせいだろうか。いつにも増して美しい彼を、月光がささやかに照らした。 「二人共、ちょっと来て?」  城の廊下で話しているアイビーとネローザに声を掛ける。 「どうした、何かあったか?」 「珍しいねぇ、二人揃ってなんて。」  不思議そうな顔で、私とヴィユノークを見つめる彼等。 「はい、どうぞ。私達からのプレゼントです。」  ふふっと微笑むヴィユノークに花冠を頭に乗せられたネローザは、予想外とでもいう表情をしている。 「え、これは?」 「私と彼で作ったの。シロツメクサがたくさん咲いてくれたから。」 「良く似合っていますよ? 意外と可愛らしいものです。」  いつもの甘い嫌味を含んだ笑みを浮かべるヴィユノーク。 「うっ、うるせぇよ。」  本当は嬉しいくせに、ネローザも相変わらず素直でない。照れ隠しでしかないことが、面白いくらいに見え見えであるのに。 「ルナリア、僕にはないのかい?」  そんな私達を羨ましそうに見つめて尋ねるアイビー。 「ないわけないでしょう? 貴方には私から。」 「はいっ、どうぞ。」  私が届くように、かがんで頭を差し出してくれる彼。 「どうも。素敵な贈り物、感謝するよ。」  私の目線でふっと笑う彼の姿は少し新鮮である。 「ふふっ、どういたしまして。」  こんなもの要らないと言われるかもしれないと思っていた部分もあったから、喜んでもらえて良かった。 「やはりアイビーは流石ですね。何でも似合ってしまうのですから。この私でさえも、見惚れてしまいますよ。」  ヴィユノークのその言葉に、もう聞き飽きたというような顔をするアイビーだが、だからといって嫌ではなさそうだ。 「勿論、ネローザも素敵ですよ?」  わざと付け加えるかのように言って、彼のほうに目をやるヴィユノーク。全く、彼も懲りないものだ。 「はいはい、わかった。」  不愛想に返事をする彼は、絶対に目を合わせようとしない。 「ふふふっ、照れているのですか?」 「そっ、そんなわけねぇだろ!」 「……ちっ、もう戻るぞ。ルナリア、お前後で俺の部屋に来い。」  いじけた彼はそそくさと去ろうとする。こうなったのは私のせいとでも言うのだろうか。 「だーめ、彼女は私との先約があるのですから。ねぇ?」  ヴィユノークがこちらを向き、ゆっくりと瞬きをする。そんな約束、した覚えはないが。もう口を出すのも面倒だ。 「はぁ? 昨日もお前だっただろ。いい加減譲れよ。」 「ふふっ、嫌です。貴方には小さくて可愛い猫ちゃんがお似合いでは?」 「……お前なぁ。今日しつこいぞ?」  確かに今日の彼はいつも以上に上機嫌である。だから、こんなに執拗に絡んでくるのか。  アイビーはというと、そんな彼等のやり取りを面白がっているように見える。 「それなら間を取って、今日は僕が頂こうかな。いいね? ルナリア。」  頭に白い花を咲かせて、この人達は一体何をしているのだろう。その状況が何だか可笑しくて、つい笑みが零れてしまう。 「ふふっ、全くもう。」  永遠の命と引き換えに、犠牲にするものも多いヴァンパイア。そんな彼等にも、彼等なりの幸せがあるのだと思う。もしも、こんな風に何気ない瞬間を笑い合えることもそうなのであれば、その時間を共にすることを約束してみても良いのかな、なんて少し考えてしまう。終わらない夜が、終えたくない夜に変わる日を信じて。私達は今日もこの広い世界の何処かで、静かに煌めく月を見上げる。 ◇後書き  シロツメクサの花言葉には「私を想って」「幸運」「約束」「復讐」等色々なものがある。その中でも「復讐」という花言葉だけは異質である。何故そのような意味を含むのかは明確には判っていないのだが、前述した三つの花言葉が果たされなかったとき、気持ちが転じて復讐に向かうことからこの花言葉が付けられたとも言われている。

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妖花の遊興。

太陽の下で。〜月映えの晩餐side story〜

 我々は知らない。  あの温もりも輝かしさも。  人間たちが希望の光とする太陽というものが、我々にとっては月なのだ。  陽光を浴びればこの身が滅ぶと本能的にわかる。 「ヴァンパイア」として抱える宿世だということは重々承知だ。  だが、もし我々の存在が消えるときが訪れるならば。  その眩い光の下で、踊るように散って逝きたい。

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太陽の下で。〜月映えの晩餐side story〜

月映えの晩餐。

 いつもと同じ道を歩いていたはずなのに。 「ここは何処……?」  いつの間にか全く知らないところに来てしまったみたいだ。気のせいだろうか、空気が重くのしかかってくる。辺りは静かで薄暗く、何とも不気味だ。冷たい風が吹き、私の背筋を凍らす。得体の知れない恐怖を感じ、一刻も早く戻らなければと思ったその時。  ガサッという物音と共に、何かが私の足にぶつかった。 「……え?」  目線を下にやると、そこにあったのは猫の死体だった。何かに襲われたのだろうか、牙のようなもので噛まれた跡がある。  とにかく、ここは何かが可笑しい。  恐る恐る目線を上げると、「何か」と目が合った。  その瞬間、身体を激しく壁に打ち付けられ、恐ろしいほどの力で押し付けられた。 「痛っ……」  首筋に鋭い痛みが走った。血色のない肌、白い髪、紅く染まった口元。ヴァンパイアだと気がついた時にはもう遅かった。息を荒げ、血を啜るその姿はまるで獣のようだ。恐怖からなのか貧血からなのか、段々と意識が遠のいていく。消え入るその瞬間、私の瞳に映ったのは、赤と緑のマントを揺らしながら迫り来る二人の姿であった。  見慣れない天井。異様な空気感。 「あ、起きた。」  聞き慣れない声。 「やっとかよ、待ちくたびれたんだけど。」 「まぁまぁ、そう焦らなくてもいいのでは? 時間はたっぷりありますから。」  私が横たわるベッドの横で、三人のヴァンパイアが言葉を交わす。辺りを見渡すと、西洋を感じさせるもので溢れている。ここは城の中だろうか?  「……あの、貴方たちは一体? どうして私は此処に?」  恐怖でどうにかなりそうだが、聞かないわけにもいかない。私のその言葉に、赤いマントを羽織った一人が口を開いた。 「まぁ……お察しの通り、僕らはヴァンパイアだ。アイビー、これが僕の名前。青いマントの彼はネローザ、緑のマントの彼はヴィユノーク。」  低くも柔らかい声で悠々と話す彼は三人の中でも位が高いのだろうか、圧力が格別だ。顔立ちも端正であり、その美貌には老若男女問わず堕ちるのだろうとさえ思う。 「名は何という。」 「……ルナリア。」  こんな得体の知れない者に名乗るなんて専ら御免だが、私に選択権は無いようだ。 「そうか。ルナリア、君の身体には惑血と呼ばれる千年に一人が持つ……それはそれは美味しい血が流れている。」 「昨夜、君に襲いかかったネローザの様子を見て確信したよ。」  彼の隣で少し目を泳がすネローザ。すらっとして上背のあるアイビーの横に並ぶと、かなり小柄で可愛らしく映る。しかし、三人の中では一番体格が良く、今も私に鋭い眼光を向けている。 「だからねぇ、僕らのご飯になってほしいんだよ。」 「大丈夫さ、殺すなんてそんな勿体無いことはしないから。死なない程度に僕らを潤してもらうだけだよ?」  アイビーが不適な笑みを浮かべ、私を見下ろす。 「……嫌だって言ったら?」  彼らの瞳から光がなくなるのがわかった。 「……そうだなぁ、どうしようか? ヴィユノーク、何か案はあるか?」  その言葉を聞き、視線を少し上げアイビーと目を合わす彼。そして自分の首筋をそっとなぞり、静かに微笑んだ。 「本当に意地悪ですねぇ、貴方という人は。嫌だと言われても関係ないのでしょう?」 そう告げる彼の声は、甘く危険な香りを感じさせた。一つ一つの所作が妙にしなやかな彼は、不思議な儚さを纏っている。 「ふふっ、よくお分かりで。」  アイビーは冷淡な笑みを浮かべる。 「……とまぁ、そんな感じで僕らが日替わりで君の血を頂くことになる。同日に三人分となると、流石に死んでしまうからね。」 「その代わり、君の生活は保障する。この部屋は自由に使ってもらっていいが……外出は禁止。いいね?」  その言葉に、私はただ頷くしかできなかった。 「いやぁ……しかし、ネローザがあんな風になるとは思いもしなかったなぁ?」 「うるさい、黙れ。」  アイビーと目も合わさず、愛想のない返事をするネローザ。 「何だよ。」  アイビーが彼のマントに触れた。 「ん? 乱れていたから直してあげただけだよ。」 「ふふふっ……相変わらずですねぇ、ネローザは。」  そんな言葉を二人から掛けられ、ネローザは少しいじけているように見える。 「それにしても、昨夜の貴女は本当に良い匂いでしたねぇ……私の番が来るのが待ちきれませんよ。」  私の方に目をやり、ヴィユノークがゆっくりと舌舐めずりをする。 「今日は誰の番だろうね……? まぁそれは、後ほどゆっくり……ダーツで決めるとしよう。」  アイビーの声と共に、三人が目配せをする。  この時改めて、自分がとんでもないものに囚われたのだと心底思った。  こうなってしまうと、逃げるという選択肢もないのではないかと思う。  とりあえず頭を冷やすために、窓の外を眺めることにしよう。 「え?」  心和むような綺麗な景色が見られるとは期待していなかったが、ここまでとは。  動物の死体がごろごろと転がっている庭。生き血であれば動物でも良いということは耳にしたことがあるが、こうして私を捕らえるということは、やはり人間の血が一番なのかもしれない。敵対せず争わず、ただ単純に「食事」ができればいい。だから、全く抵抗せずその身を捧げてくれる人間は、彼らにとって非常に都合が良く有難いのだ。  コンコンコン。部屋の扉が静かに音を立てた。誰か来たのであろう。 「……はい。」 「俺だ。入るぞ?」  この低くて圧のある声はネローザだ。入る前にわざわざ声を掛けるなんて、意外にも律儀なことに少し驚いた。生きる亡者とも呼ばれる彼らだが、心というものが一応あるのだろうか。 「どうぞ。」  大きな扉がゆっくりと開く。昼間は……いや、そもそも此処に昼なんて存在するのだろうか。あの時他の二人に絡まれていた様子とは一変し、今の彼は誰も寄せつけないような威厳ある雰囲気だ。 「……連日で悪いが、俺が勝ったものでね。」  どうやら今夜は、彼に捧げなければいけないみたいだ。 「そうですか。」  諦めにも聞こえる返事をする私に、彼はベッドに座るように促した。 「アイビーも言っていたように殺しはしない。そこは安心しろ。」  膝を折って私と目線を合わす彼の優しさに、少し恐怖さえ覚える。どんな顔をして彼を見つめればいいのかわからない。慄いた様子を見せればいいのだろうか、それとも従順になればいいのだろうか。変な緊張で身体が強張る。 「少し痛いかもしれないが……辛抱してくれ。」  そう言うと、彼は私の首筋に牙を立てた。 「……っ」  痛いというよりも熱い。咬まれたところがじんわりと熱を帯びていくのを感じる。昨夜とは打って変わった、あまりにも丁寧な吸血だ。できるだけ痛みを感じないようにと気を配ってくれているのが伝わってくる。 「……痛いか?」  そう言って瞳を覗き込んでくる彼の口元は赤い血で染まり、肩に添えられた手もひんやりと冷たい。部屋にある鏡も、私の姿しか映していない。  そう、彼は紛れもなく「ヴァンパイア」なのだ。 「……っ、はぁ。美味かった……」  五分強くらいだろうか、ずっとこの調子で彼は「食事」を終えた。そして、素っ気ない別れの言葉と小さなお礼を残して、彼は闇に消えていったのだった。  そっと首に触れてみると、咬まれたはずの傷が跡形も無く消えている。そういえば最後に彼は傷を舐めていたが、何か関係はあるのだろうか。そもそも人間ではないのだから、そういった特殊能力があっても不思議ではない。既に生き血を欲するという性質を持つ彼らだ。  ふと窓の外を眺めてみる。そこには見事な満月が、青白く冷たい光を放っていた。 「あれ……誰かいる。」  機能していない酷く古びた噴水の前で、月光を浴びながら緑のマントを揺らす彼の姿があった。その様は優雅に舞っているようにも、当てもなく彷徨っているようにも見える。  彼らは陽の光を目にしたことがなく、あの温もりも輝かしさも知らない。なんと悲しい宿世であろう。静かに明かりを落とすこの月だけが、彼らにとっての唯一の光なのだ。  ヴィユノークの動きが止まった。そして、どこか淋しげな瞳で月を見上げる。まるで彼の周りだけ時が止まっているみたいだ。白い光が彼の横顔をささやかに照らす。その光を掴もうとするかのように、片手を伸ばす彼。触れると消えてしまうのではないかと思うほどに、繊細で儚い。そんな彼の姿は、美しさと呼ぶ他ないとさえ感じるものであった。  私のために用意された部屋は、一人にしてはかなりの広さである。贅沢をしているようで気分が良いが、空白が多いこの部屋はどこか寂しくもある。此処には朝や昼という太陽が顔を出す時間は存在しないことが、ある程度過ごしてみてわかった。ひたすら闇に包まれた時間が流れている。それ故、一日という区切りが曖昧で、どこまでが今日でどこからが明日なのかがわからない。そもそも時間の流れが我々の世界と同じなのかも不明だ。ご丁寧に洋服や食事も用意されており、血を捧げることを除くと快適過ぎる生活だ。しかし心なしか、食事には鉄分の多い食材が使われているように感じる。やはり私は、彼らにとってただの食糧でしかないのだ。どれだけ質の良い血を得られるか、そこが大切なのだろう。  ドンッ。  何かが扉にぶつかる音で目が覚めた。向こうに「それ」が居るということが、黒い空気と共に流れてくる。しかし一向に動く気配がない。一体どうしたのだろうか。  恐る恐る扉を開けてみると、そこには蹲って荒い息をするヴィユノークの姿があった。声を掛けるべきかどうか迷っていると、彼が私の存在に気がついた。そして彼と目が合うや否や、私の身体は壁に打ち当てられた。目の前に彼が立ちはだかり、自分の両手が固定されているという状況を理解するのには時間がかかった。私の手首を掴む彼の手は細かく震えている。肩で息をしていて、かなり苦しそうだ。 「……っ、血を頂いても宜しいですか……?」  消え入りそうな声で尋ねる彼。飢餓状態なのだろうか。今にも倒れてしまいそうだ。ネローザといいヴィユノークといい、此方の了承を得てから吸血するということが何とも妙である。目の前にご馳走があるというのに、理性が働いている。彼らを救いたいわけでは決してない。ただこんな状態になっている者を見殺しにできるほど、私は悪になれなかった。  首筋から溢れる血を貪る彼の喉が動く。よほど渇いていたのだろう。何かに取り憑かれたかのような勢いだ。  ん? 何だこの甘ったるい香りは。気を抜くと意識が持っていかれそうな深い香りが鼻をつく。  かなり満たされたのであろう。彼は妖艶な笑みを浮かべ、怪しげに瞬きを落とす。その瞳はまるで、相手の心を全て見透かすかのようだ。 「……ふふっ、ご馳走様でした。」 「お身体は問題ないですか……?」  噛まれた部分が少し痺れていることに今気がついた。今までとは違う感覚に恐怖を感じた私は、彼の目を見つめることしかできない。 「……まだ。まだ、大丈夫そうですね。」  そう呟き、彼は部屋を出て行った。静かな微笑みと甘い痺れを残して。  鏡で傷跡を確認する。ネローザの時と同様に跡形も無く消えているが、内側から込み上げてくる痺れだけがあの時と違う。これは一体何なのだろうか。身体に馴染まない「何か」が流れ込んできたような感覚だ。  どれだけの時間が過ぎたのだろう。あれから凄まじい睡魔に襲われた私は、気絶するかのように眠ってしまったみたいだ。 「……ルナリアの様子はどうだった?」  扉の向こうから声が聞こえた。 「今のところは変化なし……ですねぇ。」 「……そうか。」  アイビーとヴィユノークだろうか、何か内密の話をしているようだ。  私のこの痺れは、彼らによってのものなのだろうか。 「……何を話しているんだ?」  この声はネローザだ。誰の足音もしなかったから、彼が此処に来たことに気づかなかった。 「……やぁ、ネローザ。いやぁ……あれについてだよ。」 「……まさか、もうあれをするのか?」  少し驚いた様子のネローザ。 「何事も早いうちが良いのですよ……面倒なことにならないうちが。」  ヴィユノークが静かに諭す。  あれ、とは一体何なのだろうか。彼らは頑なに口に出そうとしない。 「ふっ……楽しみだなぁ。」 「本当に心が躍りますよ……これで永遠に、ふふふっ……」 「……あぁ、そうだな。……ただお前ら、俺に伝えるの遅くないか?」 「……まぁ、そう拗ねるなって。だってお前に言ったら、もう少し遊ぼうぜとか言うだろう?」 「……それもそうだが。」 「ふふふっ……やっぱり。しかし、そんなところも愛らしくて好きですよ。」 「……お前ら一旦黙ってくれ。」  こんな時でもネローザは、相変わらず二人の愛故の戯れに泳がされているようだ。  ……それはさておき、私の身に何かが起こっているということは間違いなさそうである。しかし、そう気がつけても何の手の施しようもないということが本当に不快だ。  咬まれた直後と比べれば、かなり痺れも軽くなってきた。それでも、この気味の悪い不快感が苦痛で仕方がない。何というか、痛いのにそこがどこかわからないというような感覚だ。はっきりと捉えることができない不愉快なもどかしさ。どう足掻いても治まることはないということが直感的にわかる。 「……おっ、と……」  激しい眩暈に見舞われ、あの睡魔がまた襲ってくる。考えても仕方がないなら、取り敢えず一旦寝よう。  ベッドに向かおうとしたその時、部屋の扉が冷たい音を立てた。今までの順番で考えると、今夜はそう……アイビーだ。正直なことを言うと、私は三人の中で彼を最も恐れている。感情が読みにくく、いつも冷ややかな瞳をしているアイビーは「この世の者でない」ということを一番感じさせるのだ。その瞳に捉えられた時には、死を覚悟するほどである。  開けたくない。この扉を開けずにいられれば嬉しいのだが……残念ながらそうするわけにもいかないのだ。  目を瞑り、深く呼吸をする。そして、微かに震える手でドアノブを引いた。  冷たい視線を此方に落とす彼は、表情一つ変えずに佇んでいる。その瞳はまるで、この世の全ての闇を映しているかのようで、目を合わすだけで呑まれてしまいそうになるほどだ。背中に冷たい汗が伝う。  私の瞳をじっと見つめたまま何も言葉を発さず、ゆっくりと迫ってくる彼。圧倒的な風格に、私は後退りするしかできない。もう一歩下がればベッドというところまで詰められたその瞬間、彼の赤いマントが翻ると同時に目の前が真っ暗になった。  彼に押し倒されたのだと理解したのは、彼の顔が私の真ん前にあることに気がついた時だ。彼と目線が合うなんてことは、こういう状況以外には滅多にないからである。 「……えっ?」  私に覆い被さる彼は余裕の笑みを浮かべる。 「……ふふっ、まさか押し倒されるなんて思わなかったでしょ。」  四肢を完全に固定された私には、抵抗する術もない。人間には到底敵わない力で押さえつけられる。恐怖で声が思うように出ない。 「そんなに怖がらなくて大丈夫さ。……まぁ、その怯えた顔もなかなか悪くないが。食欲を掻き立てる。」  もう何をしても無駄であり、彼から逃げられないと悟った。 「……さぁ、僕のお食事タイムの始まりだ。」  顔を私の首筋に近づけ、匂いを嗅ぐアイビー。 「……っ、これは我慢できなくなるのもわかるなぁ……」  低い声が耳元で響く。驚いたような彼の瞳が、少し揺れたように見えた。 「……それでは、頂くとしよう……」  鋭い牙が深く刺さる。 「……痛っ。」  何だ、この激痛は。あまりの痛みに涙が溢れてくる。首筋に視線をやると、何箇所にも牙を立てられていることがわかった。  溢れ出る血を舐める彼と目が合う。 「……ふふっ、こうした方が沢山溢れてくるでしょ?」  口元の血を舌で拭う彼は残酷に笑う。 「……痛い。」 「痛い? そりゃそうだよ、咬んでいるんだから。」  震える声で伝えたが、彼には届かないみたいだ。どうしようもなく私を支配する恐怖に、涙が止まらない。 「……あぁ、もしかしてネローザは優しかった? へぇ……だから何? そんなの関係ないけど。」 「動いたら危ないよ……? じっとしてて。」  どれだけ時間が過ぎたのだろうか。段々と痛みは麻痺し、頭もふわふわとしてきた。そしてまた、あの痺れが強くなって襲ってくる。 「……っ、はぁ。」  流石の彼も、私の血には理性が多少効かなくなるみたいだ。 「いやぁ……こんなに美味しい血は初めてだよ。」  恍惚とした表情で指に付いた血を舐めながら、私を見下ろす。 「……っ、この痺れは一体……?」  私のその言葉を聞いて、彼は悪戯に微笑んだ。 「……気になる? 気になるよねぇ……聞き耳立てちゃうくらいには……」  狼狽える私を見て、眉を上げるアイビー。 「……それなら仕方ない。優しい僕が教えてあげよう。」 「何となく勘づいていたかもしれないけれど、ヴィユノークの時からあるものを君の体内に入れていたんだ。」 「……あるもの?」 「そう……吸血鬼化する液体さ。」  信じたくない言葉が耳に入った。そうなると、既に私は彼らと同じになってしまったのか? 「……しかし、完全にヴァンパイアにしてしまうと血が不味くなる。だから、半分。そう、半分だけ僕らと同じにしておこうと思って。」 「純血の僕らと比べると能力は劣るが、そこまで生き血を必要とせず永遠に生きられる。……そして有難いことに血の味もそこまで落ちることはない。」  満足そうな顔で私を見つめるアイビー。 「……困ったことに人間の命は短いですからねぇ。」  いつの間にか彼の隣にはヴィユノーク、そしてネローザも居る。 「永遠に俺たちの餌食というわけだな。」  ネローザが舐めるような視線を私に向ける。 「……私たちほどではありませんが、太陽光にも当たれなくなっています。……ということは、此処から出ることは貴女には不可能というわけです。」  口元を手で覆い微笑むヴィユノークも、好奇的な瞳で私を見つめている。  嘘であると信じたくて、部屋にある鏡を見てみる。しかし、そこには向こう側の景色がわかるほどに透けた私だけが映っていた。  あぁ、もう本当に逃れられないのだ。  そんな私の様子に、アイビーは静かに口角を上げた。 「……何とも喜ばしいことではないか、違うか? 僕らと君は永遠を共にするのだ。」  私はただ、温もりを失った頬に涙を伝わせることしかできない。 『さぁ、お嬢さん? 終わらない夜へようこそ……』  三人のその言葉と白く光る月が、私の夜を告げるのであった。 《登場人物》 ・ルナリア  至って平凡な少女だが、惑血と呼ばれる千年に一人の希少な血をもつ。惑血は味が非常に良く、栄養価も高い。ヴァンパイア曰く、酔いが回ったような気分になるほどの堪らなく甘い香りをしているとのこと。小柄で柔らかい空気を纏っているが、意外にも芯のある性格をしている。  ルナリアの花言葉には「儚い美しさ」「幻想」「魅惑」「正直」というものがある。  「ルナ」とはラテン語で「月」を意味する。ヴァンパイアにとって、月とは光をくれる唯一の自然物である。彼女はもしかすると、彼らを静かに照らすような存在であるのかもしれない。 ・アイビー  一見冷酷に見えるが、実は一番優しい。しかし、その優しさは温かくもどす黒くもある。感情が読みにくい。最年長で一番上背があり、すらっとした驚異のスタイルをもつ。周りをよく見ており、状況把握力と洞察力が異常に長けている。顔立ちが非常に端正であり、低くて柔らかい声をしている。一人称は「僕」。吸血の際には、相手を掌で転がす歪んだ言動が目立つ。  アイビーの花言葉には「永遠の愛」というものもあるが、「死んでも離れない」というものも存在する。 ・ネローザ  不愛想だが、常に相手を気遣う人間味のある性格をしている。最年少ということもあり、他の二人によく絡まれる弟のような可愛らしい一面もあるが、一人でいるときには几帳面で冷静な性格が垣間見える。小柄でありながらも体格が良く、幼さが残った顔立ちをしている。声は低くて圧力がある。一人称は「俺」。丁寧な吸血をすることが殆どであるが、飢餓状態で狂乱した彼は二人がかりでないと抑えられない。  イタリア語で「ネロ」は「黒」、「ローザ」は「薔薇」を意味する。黒い薔薇の花言葉には「永遠の愛」や「決して滅びることのない愛」というものもあるが、「貴方はあくまで私のもの」というものも存在する。 ・ヴィユノーク  独特の儚さと美しさを纏い、一つ一つの所作がしなやかで優雅。心を開くまで時間がかかるが、気を許した相手には誰よりも深く絡みつく。月夜に思い耽ることが多く、謎に包まれた存在である。曲線的な体型をしており、華奢である。相手を危険な甘さに誘う不思議な声をもち、誰に対しても敬語で話す。一人称は「私」。吸血の際には怪しげで妖艶な笑みを浮かべ、心を見透かすような瞳で相手を見下ろす。  「ヴィユノーク」とは、ロシア語で「朝顔」を意味する。朝顔の花言葉は「貴方に絡みつく」というもの。

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月映えの晩餐。

真夜中の太陽。

『出た出た 月が まるいまるい まんまるい 盆のような 月が』 誰もが耳にしたことがあるだろうその曲が似つかわしいのは、まさしく今日だ。 十五夜だからといって特別に何かをするような人間ではないのだが、暗い空で光を放つ見事な満月を目の当たりにすると、意外にも団子でも買って帰ろうかと思うものだ。 中秋の名月とも呼ばれる今宵の月が、まだ夏の香りが残っている生活に秋色を差してくれる気がする。 とっくに日付が変わった今、開いている店も限られるため近くのコンビニで月見団子を買う。 ぬるく締りのない店員の声と共に自動ドアを抜けると、まるで待っていてくれたかのように月が僕を照らす。 なんとなく、外灯の灯りを受けた白線の上にゆっくりと歩を進めながら家を目指す。 ふと振り返ると、何食わぬ顔で月が付いて来ていた。 なに子供みたいなことしてるの、とでも言うように。 有り難いことに、その白線は途切れることなく僕を家まで導いてくれた。 「ただいま。」 誰もいないことはわかっているが、この言葉を吐かないと帰ってきた気がしない。 「おかえり。」 返ってくるはずのない言葉。 「……え?」 月見団子を入れたビニール袋が手から離れ、床に落ちる。 柄にもないのだが、僕は幽霊とかそういった類のものが心底苦手だ。 時計の針が丑三つ時を指しているのを見たとき、僕の心臓がどれだけ跳ねたか想像できるだろうか。 ましてや、ソファに一匹のうさぎが腰掛けているなんて誰が想像できるだろうか。 「は?」 疲れているのかもしれない、近頃は残業続きだから。きっとそうだ。 ぎゅっと目を瞑り、もう一度ソファに目をやる。 うさぎの姿はない。胸を撫でおろしていると、自分の足に何か柔らかいものが触れた。 恐る恐る目を細めて視線を下にやると、真っ白な毛に包まれたうさぎが僕の足に抱きついていた。 しかし不思議なことに先程のような恐怖感はなく、むしろ純粋に可愛さに胸を打たれてしまった。 「……ど、どうしたの? 君は誰? どこから来たの?」 そう尋ねてみるが、うさぎは僕の足に顔を埋めたままだ。 いきなり質問攻めをし過ぎたかもしれないと反省していると、 「……もう嫌だ。もううんざりなんだ。月での暮らしなんて。」 今にも泣きだしそうな声でうさぎは呟いた。 窓の外の月を見ると、うさぎのように見えるあの模様が消えている。 もう驚く余裕も僕の心には無いみたいだ。幸いにも明日は休みだ。いや、もう今日か。まぁ、どっちでもいい。うさぎの相談に乗る夜も悪くないだろう。 「月はどんな場所なの?」 うさぎと目線を合わせて優しく聞いてみる。 「何もない。ただ僕が一人ポツンといるだけ。冷たくて、誰かと言葉を交わすこともないんだ。」 「十五夜とかいう人間が勝手に決めた今日みたいな日には、一日中餅をつかないといけない。重い杵を何度も何度も持ち上げるのってどれだけ辛いか知ってる?」 きっと今まで堪えていたのだろう。溢れるような言葉に僕は何も言えず、掛ける言葉も見つけられず、ただうさぎを見つめた。 「僕はあの猿と狐のように食べ物を見つけられなかった。頑張ったんだけどね。」 「空腹に苦しむ老人を見るのは胸が痛かったんだ。精一杯悩んだ結果、燃え盛る炎の中に飛び込んだけれど……それは正解だったの?」 「神様はそんな僕を哀れんで、月の中に甦らせてくれた。皆のお手本に、とね。」 「だけど月での生活は淋しくて、しんどくて。神様は僕を褒めてくれたんじゃなかったの?」 僕の知識不足のせいで、うさぎの話を十二分に理解することはできなかった。 だけど、目の前にいるうさぎがその小さい身体には余りにも大き過ぎるものを抱えているということは痛いほど伝わってきた。 「……そうだったんだ。だけどね、月に君は必要だと思うんだ。」 「もちろん無理にとは言わないし、こんな人間の言うことなんて信じられないかもしれない。それでも、満月を見るといつも思うんだ。うさぎいるかな、ってね。」 「こんな何もない僕でも、わざわざ団子を買って月を眺めて思い耽ようなんて思うくらい、思わせてくれるほどに君がいる月は美しいんだ。君がいるから、魅力的なんだよ。」 うさぎは驚いたように目を真ん丸にする。 「……そうなの? 僕のことなんて誰も見てくれていないと思っていたよ。」 「そんなことない、そんなこと絶対にあるもんか。少なくとも僕は見てる。これまでもこれからもずっと。」 「僕は好きだよ、君のことも月のことも。」 僕のその言葉を聞くと、うさぎはふっと微笑んで立ち上がった。 「僕、帰るよ。」 そう言ったうさぎの瞳には一切の揺らぎもなかった。 「うん。」 見送らせてもらってもいいかな、と聞こうとすると何かを思い出したようにうさぎが振り返った。 「ん? どうしたの?」 「……お団子。そのお団子、僕にくれない?」 床の上にそのままの月見団子を指差して僕に尋ねる。 「え?」 その僕の返事を聞いて、無理ならいいんだけど……と申し訳なさそうに付け加える。 「いやいやっ、少し驚いただけだよ。お団子、君にあげるよ。地球のお土産だね。」 こんな団子よりもきっと君がついた餅のほうが美味しいと思うけど、と思っているとそんな僕の気持ちを見透かしたのか、 「僕がついたお餅とどっちのほうが美味しいか勝負だね。」 と得意げな顔を僕に見せた。 「次は月からのお土産、持って来てよ。」 僕がふざけて言うと、ほっぺた落ちても知らないからね、とうさぎは悪戯に笑った。 「……じゃあ、そろそろ。」 「うん。気を付けて。」 小さな手で大事そうに団子を抱える姿を見ていると、巣立ってゆく子供を見送るのはこんな感じなのだろうかと思う。 「ありがとう。」 泣きそうな、だけど嬉しそうな。そんな音を残して、うさぎは帰っていった。 ほんの短い時間だったのだが、それなりに淋しいと思う自分がいることに少し可笑しくも嬉しくも感じる。 本当は夢だったのではないかと思い、窓の外を眺める。 そこには真夜中を照らす月がうさぎの影を映し、柔い笑みを浮かべていたのだった。 〜あとがき〜 月のうさぎの由来はインドの説教仏話「ジャータカ神話」の物語だと言われています。もし、興味がありましたら是非一度調べてみてください☆

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真夜中の太陽。

徒桜の待ち合わせ。

 桜の花びらが柔らかくひらひらと舞い落ちる。見上げると自分の背丈の何倍もある桜の木が立派に佇んでいた。ずっと変わらないその美しい姿を見るためだけに、僕は毎年この場所に立ち寄ってしまう。昔の僕にとっては嫌というほど馴染みのあったこの場所も、今ではこうして足を踏み入れても尚どこか遠く感じるのは何故だろうか。  僕の通っていた中学校には、とても大きな桜の木があった。たった一本ではあるが……いや、たった一本だからこその威厳と風格を持ち合わせる学校の主のような木。僕は桜の花が咲く時期にしか足を運ばなかったが、妙にその木を見たくなったのはちょうど中学校生活最後の夏が始まろうとしていたあの日だった。青々しい葉を茂らせ、風と一緒に夏の匂いを運んできてくれる。この時期の桜の木もいいな、なんて思っていると桜の木の陰から一人の少女が顔を覗かせた。 「……綺麗でしょ?」 彼女は僕に聞いた。 「えっ、あ、うん。綺麗だね。」 花が咲いていない桜の木を綺麗だと感じたことは今まで無かったものだから、少し戸惑ってしまった。歳は僕よりもふたつほど下だろうか。小柄でまあるい空気を纏う彼女は優しく微笑んだ。派手ではないが、端正な顔立ちをしている。 「どうしてここに来たの?」 と彼女は不思議そうに僕に聞いた。 「なんとなく……特に理由はないよ。」 少し冷たくなってしまったかもという僕の心配もよそに、そっかと返事をする彼女はどこか嬉しそうだった。 「僕は春樹。君、名前何ていうの? 何年生?」 会話が続かなくなるのも気まずくなってしまうと思い、これもまたなんとなく聞いてみた。 「よしのだよ~、えっと……一年生!」 よろしくと目を細める彼女は、思わず目を逸らしてしまうほど綺麗だった。  それから僕は毎日、昼休みや放課後など時間があれば桜の木に通うようになった。僕が来ることがわかっているのか、彼女はいつも僕より先にその場所にいて花が咲いたような笑顔で迎えてくれる。その日にあった出来事などのたわいもない話から誰にも言えないような悩みまで、色々なことを話す毎日は今まで平凡で退屈な生活を送ってきた僕にとってとても新鮮で楽しいものだった。不思議なことに、彼女といるとどこか気持ちが落ち着いて受験勉強で忙しなくしているときも、時間がゆっくり流れているようなそんな感覚になる。僕のつまらない話にも優しく笑って付き合ってくれる。彼女になら何でも話せるような気がした。桜の木の下で二人並んで座って話していると、毎回彼女の周りに小鳥が集まってくる。彼女が言うには、昔から動物に好かれるらしい。小鳥たちに話しかける彼女の姿を横目で見る。小鳥の言葉なんかわかりやしないのに、彼女の姿は小鳥たちと会話しているというのが正解な気がした。  季節は過ぎ、いつもの木も秋色の葉を身に纏い始めた頃。未だに僕らが顔を合わすのはこの桜の木の下だった。一度、彼女を遊びに誘ったことがあったのだけれど断られてしまった。連絡先を聞くと、スマホ持っていないんだよねと返されてしまう。人よりも入試が早く終わった僕は卒業までに少し余裕があったから、一度だけでも二人で出掛けてみたいと思っていたのだけどどうも無理な話みたいだ。彼女は僕とどこか距離を置いているような気がしたが、考えないようにしていた。 「もうすぐ卒業かぁ……三年間もあっという間だったよ。」 夕映えの空を見上げて呟く。 「そっか、春樹くんはもうすぐいなくなっちゃうんだね。」 あまりに名残惜しそうに言うものだから、少し空気がしんみりとしてしまった。 「まぁ、そんなに寂しがらないでよ。卒業しても時々会いに来るからさ。」 僕は横にいる彼女のほうに目をやり、笑いかける。 「……うん、ありがとう。」 彼女を少しでも元気づけようと思ったのだが、そう答える彼女の表情が嬉しさよりも悲しさの色が強かったのは僕の気のせいだろうか。  ずっとこの時間が続いてほしいと願っても、時間の流れは止まってはくれない。とうとう待ちに待ってもいない卒業というものが来てしまった。あれだけくぐってきた校門も、あれだけ歌ってきた校歌も今日で最後らしい。遺憾にも桜の花はまだ眠っていて、僕らの旅立ちを彩ってはくれないみたいだ。あっという間に卒業式が終わり、皆が最後の会話や写真撮影を楽しんでいるなか、僕は真っ先にあの桜の木に向かった。堪らなく君に会いたかった。どうしようもなく君が好きだった。今日を逃すともう二度と会えないような気がした。伝えたい想いも、聞きたい言葉も山ほどあるんだ。お願い、どうか……どうか、そこにいますように。僕は必死に走った。  息を切らしながら大きな桜の木を見上げる。辺りを見渡しても、そこに彼女の姿はない。悲しみに暮れていたその時だった。 「あれ、来てくれたんだ。」 大好きな声が後ろから聞こえたのは。安心したのか、嬉しいのか、それとも悲しいのか。僕の目から涙が溢れて止まらなかった。 「卒業おめでとう。」 背を向けたままの僕に彼女は言う。 「もしかしたら来てくれないかもって思っていたから、今すごく嬉しい。」 「ありがとね、春樹くん。」 その声があまりにも悲しくて。溢れる涙を拭って振り返ると、彼女は僕の目の前で優しく微笑んでいた。あれだけ伝えたいことがあったはずなのに、彼女を前にすると言葉が何も出てこない。すぐ近くにいるはずなのに、何故こんなに遠く感じるのだろう。言葉の代わりに涙が零れる。 「もう~、そんなに泣かないでよ。笑顔でさよならしたいんだけど?」 そんな僕を見かねてなのか、彼女は明るく振る舞う。 「……いてくれてよかった、もう会えないのかと思った。どこに隠れていたの? 見つけられなかったよ。」 僕の言葉を聞くと彼女は俯いてしまった。 「……ねぇ、これからも会えるよね?」 なんだろう、この嫌な胸騒ぎは。次に彼女から発せられる言葉が怖くて仕方がなかった。 「……ううん、もう会えないよ。今日でさよなら。」 それは一番聞きたくない言葉だった。 「えっ、なんで。僕、会いに来るよ?」 慌てて僕は言う。 「ごめんね、今まで会いに来てくれて嬉しかった。ありがとう。」 彼女の瞳は真っ直ぐ僕を捉えていた。 「……どうして、どうして君はいつも僕を遠ざけるの?」 「僕、君と仲良くなれて嬉しかったんだけどなぁ。君もそうならいいなと思っていたんだけどね。」 「そっか、今日でさよならか……もっと話しておけばよかったね。」 僕は青空を仰ぎ呟く。何かを話していないと心を保っていられなかった。もう会えないという事実を平然と受け止められるほど、僕は強くなかった。 「春樹くん。こっち来て?」 彼女が手招きをする。言われるがまま傍に行くと、彼女は僕の胸のコサージュを外し、その代わりに綺麗な桜の花を咲かせてくれた。 「えっ、これって……」 「うん、本物の桜だよ。私からの感謝の気持ち。」 「寂しくなったらこの花を見て私を思い出して? ……あっ、でもそれだと余計に寂しくなっちゃうか。」 そう言ってはにかむ彼女の笑顔は僕の心を照らしてくれた。それなら僕も笑って……『笑顔でさよなら』しないとね。 「……ほんとにありがとう。最後だから言っちゃうけど、君のことが好きだったんだ。出会えてよかった。これからもどうか元気で。」 その僕の言葉にどこか驚いた様子の彼女。 「えっ、そうだったの? じゃあ私たち……ううん、何でもない。春樹くんも元気でね。」 そう言って手を振る彼女は今までで一番綺麗だった。別れ際にもう一度顔が見たくて振り返ったが、そこに彼女の姿はなかった。  あれから何年もの月日が流れ、僕はすっかり大人になってしまった。桜の季節になる度、君を思い出す。ここに来れば君にまた会えるんじゃないかなんて、毎年懲りずに来てしまう僕は馬鹿なのかもしれない。彼女は一体何だったのだろう。何故、僕の前に現れたのだろう。彼女がくれたコサージュはあれから部屋に飾っているのだが、今でも変わらず桜の花は綺麗に咲き誇っている。 「わぁ!」 強い風が吹き、桜の花びらがはらはらと舞う。息を吞む美しさに見惚れていると、 「ありがとう。」 春の香りと共に懐かしい声がどこからか聞こえた。もしかしてと思って辺りを見渡したが、やっぱり誰もいない。 「こちらこそだよ。」 僕がそう呟くと、優しい風が吹いたような気がした。僕らの待ち合わせ場所である桜の木は、これから先も変わらずこの場所で四季折々の色を身に纏う。

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徒桜の待ち合わせ。

綺麗事。

夢はいつか叶う。 努力はいつか報われる。 こんな言葉が僕は嫌いだ。 余りにも綺麗事すぎる。 夢は叶わないものでもあるから夢であって、努力だって必ず結果がついてくるものではない。 でも、夢を叶えるための努力は決して無駄にはならないと僕はそう信じたい。 たとえその夢が叶わないものであったとしても、積み重ねてきた努力という時間と力はこれからの自分に絶対に繋がるのだと。 辛くて苦しい日もある。 逃げ出したい日もある。 涙が堪らなく溢れる日もある。 それでもなんとか必死に世界にしがみついてきた。 ここまでやれている自分を褒めてもいいのかな。 どれだけ打ちのめされて沈んでも、また立ち上がって前を向く。 当たり前かもしれないけれど、その普通が苦痛なときもある。 できない自分が嫌になって投げ出したくなったり、他人を羨んだりすることもある。 自分が自分を一番信じなくちゃいけないんでしょ? 僕ならできる大丈夫だよ、と。 これから自分が進む道はまだ靄がかかっていて、足を踏み出すのにはとても勇気がいる。 だけど、振り返ると今まで自分が歩んできた道がある。 平坦な道ばかりではない。 でこぼこ道や山のあるその道は、今までの自分の努力で歩んできたものであり、きっとこれから自分を支えてくれる。   努力は無駄ではないと信じている。 積み重ねてきた努力は僕の夢を実現させるための大きな支えになると。 ゆっくりでもいい。 しんどくなったら遠回りをしてもいい。 疲れたなら寄り道をしてもいい。 きっと大丈夫。 こうして僕は今日も〝綺麗事〟を信じて歩くんだ。

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綺麗事。