まき
23 件の小説月影ノ誓 十六
第四節 赫月 【百合丸の試練】 赫月の光の下で、それが動いた。 縁喰の無数の顔──否、声が、ひとつ、またひとつと重なっていく。 「兄様……」 その声に、百合丸の体がピクリと震える。 ──それは、聞き覚えのある少女の声だった。 「柚花……」 名前が、無意識に口から漏れた。 影の中から現れたのは、確かに彼が知る少女──幼い頃の妹の姿だった。 だが、その目は、どこか虚ろで、表情はまるで生者のものではなかった。 「なんで……来なかったの? 兄様、助けてくれるって、言ったのに……」 「やめろ……やめろ、俺は──!」 百合丸の額に汗が滲む。 後ずさるその足は、地を踏んでも感触がないようだった。 燈が思わず手を伸ばしかけるが、影がそれを遮る。 ──これは、幻だ。 だが、幻とはいえ、縁喰の放つ記憶の残滓は、生々しい痛みとともに百合丸を呑み込んでいく。 村が焼かれたあの日。 火の海の中、妹の柚花を背にして百合丸は任務を遂行した。 ──忍びである以上、感情に縛られるな。 ──任務こそが生きる証。 ──迷う者は、死ぬ。 そう教えられてきた。そう生きてきた。 「……助けたかったさ。でも、あの日……俺が選んだのは……任務だった」 呟くような声に、柚花の幻影は微笑む。だが、それは決して優しい微笑みではなかった。 「そう……じゃあ、兄様は、あたしを殺したのね?」 「……っ!」 百合丸の視界が歪む。手の中で握られた香薬玉が、かすかに震えている。いつでも投げられる。けれど──動けなかった。 過去の後悔が、足枷になっていた。 「百合丸!」 葵の声が飛ぶ。だが、彼のいる場所からでは、その影を超えて辿り着くことができない。 燈が必死に声を届けようと叫ぶ。 「違うよ百合丸っ! その声は……柚花の言葉じゃない!」 百合丸の肩が、微かに揺れる。 「それは、あの鬼がお前を壊すために作った幻だ!」 ──それでも。 柚花の幻影が、もう一歩、彼に近づく。 「兄様……苦しかったの?」 「……ああ、苦しかった。今も……毎晩、夢に見るよ」 百合丸はようやく、真正面からその幻影を見据えた。 その目に、いつもの飄々とした色はなかった。あるのはただ、喪ったものを抱き続ける兄としての覚悟。 「でもな──俺は、今ここにいる。守るために、生きてるんだ。俺を信じてくれる仲間もいる。だったら……」 彼は香薬玉を構える。 「過去に、殺されてたまるかよっ!」 地を蹴った瞬間、煙が爆ぜた。同時に百合丸は、幻影の中心に踏み込んだ。 その手にある小さな短刀が、深紅の影を裂く。 「俺の妹は……あんな顔で、俺を責めたりしねぇ……!」 ──影が、砕けた。 柚花の幻影が、ふわりと崩れ、霧のように散っていく。 月明かりの中、それは静かに昇華した。 葵が駆け寄る。 「……戻ったな。百合丸」 「……ああ。ちょっと、嫌な夢を見てただけさ」 百合丸は微笑むが、その目には涙が一筋、流れていた。 葵はそれを何も言わず、黙って受け入れた。 燈もそっと彼の傍に寄り添い、小さく囁く。 「良かった……戻ってきてくれて」 「……戻るさ。俺がいないと、皆困るだろ?」 その言葉に、葵も燈も頷いた。 縁喰が生み出す幻影は、次なる標的へと、静かに触手を伸ばそうとしていた。
月影ノ誓 十五
第四節 赫月 【赫月の夜と鬼の胎動】 戦の痕が残る山中に、静寂が戻っていた。 だが、それは終わりの静けさではなかった。 雨は、いつの間にか止んでいた。 空に、赤く滲むような月が昇っていた。 赫(あか)き月。血の色にも似たそれは、不気味なほどに地を照らしている。 「……何か、変だな」 百合丸が空を仰ぎ、呟く。 赤い月の光が照らす中、地面に倒れる蓮真の呼吸は浅く、動くたびに傷口から溢れる血が衣を濡らしていく。 葵はその傍にしゃがみ込み、手でしっかりと彼の傷を押さえていた。 「燈、蓮真を頼む。……すぐに何とかする」 葵の声は沈着だったが、瞳の奥には明らかな焦りが宿っていた。 燈は強く頷き、懸命に蓮真の手を握る。 ──そのとき。 大地が、かすかに鳴いた。 百合丸が眉をひそめる。 否、音ではない。 気配だった。 だがそれは、鬼気とも、気とも違う。 ただ、強い──圧倒的に、強い。存在するだけで精神を圧迫するような、理屈では説明のつかない異質さだった。 空気が淀む。風が止む。草木がざわめく。 まるで空間そのものが恐れているかのように。 やがて。 何かが這い出してくる。 赤黒い霧のような影。 それは人の形を模しているようで、模していない。 歪にねじれた肩。左右非対称の足。 顔のようなものが、何面も、折り重なるように浮かんでいた。 ──まるで、誰かの縁を喰らっては吐き出し、再構成したような形。 「これは、先ほどの鬼か?……形を、変えた?」 葵の背筋に、冷たいものが走る。 「しつこいねぇ〜」 そう言った百合丸の声には焦りが滲んでいた。 「鬼ではない。理を外れている……っ」 燈が苦しげに呻いた。 その存在は、鬼でありながら、鬼ではない。 魂の理、肉体の理、気の流れ ──すべてがぐちゃぐちゃだ。 蓮真がよく言っていた、『理に抗うものは、自壊する』と。 だが目の前の存在は、それすら無視していた。 理が効かない。 ──それが、この鬼の本質。 縁喰(えにしぐい)。 目の前の異形が、わずかに口を開いた──ように見えた。 次の瞬間、重く沈んだ声が、誰ともなく空気に混じって響く。 「……お母さん……どこ……?」 その声に、燈が息を呑む。 「え……?」 「……お前……じゃない……誰だ……おまえは……柚花……?」 百合丸の名が、異形の口から漏れる。 「なっ──」 百合丸が後ずさる。その目が、怯えたように見えた。 「なんだよ……あれ……まさか……!」 縁喰の身体から、次々と声が溢れ始める。 「兄様……どうして……置いていったの……?」 「ねぇ……あなたは、わたしを、見てるの……?」 「……逃げたのは、誰……?」 「葵……ずっと、痛かったのよ」 ──それは、四人に縁ある者たちの声。 過去の声。罪の声。絆の声。 その全てが、縁喰を通じて呼び起こされ、形を与えられていく。 赫月がその姿を赤く照らした。 まるで、断ち切ったはずの縁が、今また結ばれようとしているかのように。
月影ノ誓 十四
第三節 血霧 ──死んだ、はずだった。 鬼の身体は断片となり、葵の刃がその核を貫いた。 雨とともに降り注いだ灰色の残滓は、虚空に溶け、音もなく消え去っていった。 静寂。 耳が痛くなるほどの、奇妙な静けさ。 「終わった……か?」 誰ともなく呟いた声が、雨に紛れて掻き消える。 それは確かに、終わりのはずだった。 だが──燈が震える声を漏らす。 「……違う。まだ、いる……」 次の瞬間、空気が沈んだ。 重く、鈍く、沈む。地の底へ引き摺られるような圧。 森の暗がり、その奥から、異様な気配が這い寄ってくる。 「また、来る!」 蓮真の声と同時に、空がひしゃげるように裂けた。 雷鳴でも、風でもない。 まるでこの世界の縫い目が引き裂かれたかのような破裂音。 そこから這い出した何かが、姿を現す。 ──それは、鬼だった。 だが、それまでのどの鬼とも異なる。 皮膚は漆黒に染まり、触れた空気を歪ませる。 顔というべき部分には無数の目があり、ひとつひとつが異なる感情を浮かべている。 怒り、哀しみ、嘲笑、絶望……あらゆる感情の残骸が、そこに集まっていた。 「……これは……!」 葵が剣を構えるが、一歩踏み出すことすらできない。 足が、大地に縫いつけられたかのように動かないのだ。 その鬼は一歩、また一歩と近づく。 音はしない。だが、空間が軋むたびに気が削られる。 「これまでのと比べものにならねえ!」 百合丸が香薬玉を投げる。しかし、煙は広がる前に溶けた。 ──通じない。 その事実が、全員に伝わった。 すかさず蓮真が封印符を放つ。 「五芒星結界・展──」 声が届くより早く、鬼の腕が伸びた。 蓮真の身体が宙を舞う。 「うっーーーー!」 地面に叩きつけられ避ける間もなく、漆黒の腕が刃のように蓮真の腹を貫いた。 「蓮真っ!」 燈が駆け寄ろうとするが、葵がその腕を掴む。 「動くな、燈──!」 そして鬼の視線が──否、無数の目が、燈を捉えた。 刹那、その鬼の周囲が歪む。 目が──一斉に泣いた。 血のような涙を流しながら、鬼は呻くように口を開く。 「……器は、まだ、足りぬ……理を、超える者……まだ……」 その瞬間、燈の身体に痣が浮かび上がる。 「やめろっ!!」 葵が叫ぶ。 夜哭丸が抜かれ、一直線に斬撃が振るわれた。 鬼は避けなかった。 その代わり、ただ静かに、手を伸ばす。 その手が燈に届こうとした刹那、空が震えた。 「そこまでだ」 白銀の髪、深紅の瞳。闇の狭間から歩むように、影月が現れた。 鬼は影月に目を向ける──否、無数の目が、それを捉える。 「……理に縛られぬものか」 影月は、目を細めた。 「それは契約の外にある存在……」 「お前は…………」 鬼は呻きながら、一歩、後退した。 「ほう、退くか……」 影月が薄く笑う。 「……興を、削がれただけだ……いずれ、また……」 そう呟く声を残し、鬼の姿は闇に溶けた──。 葵の構えた刀の切先が影月に向けられる。 「お前の目的は一体なんだ!何故我らを見張っている」 影月の目が燈をとらえた。 彼女の身体には痣がまだ微かに残っている。 「……その時は近い。それまでは抗うもよし、飲まれるもよし──選ぶのはお前たち自身だ」 そう言って、影月もまた、霧のように消えていった。 「倒せなかった……いや、戦いにすらなっていなかった」 葵は刀を鞘に収めた。 残されたのは、冷えきった空気と、噛み締めた歯の隙間から漏れる苦しげな声。 葵は蓮真の傍に膝をつき、その肩に手を置いた。 「蓮真……」 「蓮真っ、しっかりしてっ……!」 燈の声に蓮真はかすかに頷いたが、呼吸は浅く、意識は朦朧としていた。 「傷が深い、まずいな……」 百合丸が低く呟いたその時、蓮真の手が動いて葵の腕を掴んだ。 「私を……、此処に置いて行け……」 「何をーー!」 「そうだよ!蓮真を置いていくことなんてできないっ」 横たわる蓮真の身体の下から流れ出た血が、地面を濡らす。 「蓮真ーーーーっ」 燈の悲痛な叫びが夜の空に響いた。 風も止まり、雨も音を忘れたようだった。 ただ血の匂いだけが、ぬかるんだ土に静かに染みていく。
月影ノ誓 十三
第三章 第二節 凍鳴 天保六年・霜月(しもつき)。 四人は街道を北へと進む山中にいた。 木々の葉はほとんど散り果て、地を覆う枯れ葉を踏むたび、かさりと寂しい音が鳴った。 空はどんよりと曇り、雪虫がひとひら、風に乗って流れていく。 「……寒くなってきたな」 葵が口を開く。右腕の痣が、じんわりと熱を持ち始めていた。 「また反応してるのかい、あの腕」 百合丸が苦笑まじりに声をかけた。 「いや……違う。今回は、少し……遠い、けど濃い」 葵が前を見据える。目の奥に、見えぬ“気配”の流れを追っていた。 蓮真が歩を止め、風下に顔を向けた。 「鬼気……だ。結界が乱れている」 燈が小さく震えた。数珠を握りしめ、口を開く。 「……声が……重なってる。“誰かが 誰かを 呼んでる”……」 その瞬間、林の奥から、突如として冷たい風が吹き抜けた。 耳をつんざくような、“甲高い女の声”。 ──いや、それは女のものとは思えぬ、何重にも折り重なった“哀哭”のような悲鳴だった。 「構えろ!」 葵の声と同時に、黒き影が霧の中から現れた。 人とも獣ともつかぬ形──長い髪をひきずり、両腕が異様に伸びて地面を這っている。 その背中からは、何かが芽吹くように影の蔓が伸び、空を裂いていた。 「百合丸!」 「任せときな!」 百合丸が香薬玉を放る。爆ぜた煙が鬼の視界を一瞬遮るが──鬼はその中をすり抜け、燈へと一直線に迫る。 葵が右足で地を蹴った。刃が風を裂き、黒き夜哭丸が空中で光を放つ。 ──斬ッ! 鬼の腕が宙に飛び、地に叩きつけられた。だがその瞬間、切り離された腕からさらに影が伸び、燈を絡め取ろうとする。 「封印術──五芒の陣!」 蓮真が地に印を刻み、札を投げる。燈の周囲に光の結界が走り、影を焼いた。 「っ……! ありがと、蓮真!」 だが鬼は止まらない。影の蔓がさらに広がり、枯れ木を砕いて空を包む。 「くそっ……動きが速い!」 葵が再び飛び出す。だが鬼は斬撃をすり抜け、まるで液体のように姿を変えていく。 「この鬼……“実体”が定まってない……!」 蓮真の声に、燈が気づいたように目を見開く。 「……思いが、伝わってくる。“鬼になりたくない、人間でいたい”って……!」 燈の数珠が淡く光る。 「お願い……あなたの声を、聞かせて」 その瞬間、鬼の動きがふと止まった。 葵が剣を構える。その背に、燈の祈りの光が届く。 「今だ、葵!」 ──刹那、風が収まる。 葵が、右腕に宿る鬼の気配を一閃に集中させる。 「──斬る!」 夜哭丸が唸りを上げ、影の核を穿つように突き刺さった。 鬼の口が開かれ、何かを言いかけたように見えたが、そのまま光となって、崩れ落ちていく。 風が止み、しんとした静けさが戻った。
月影ノ誓 十二
第三章:鬼哭ノ断章 第一節:器鳴(うつわなり) ──秋雨が、静かに地を濡らしていた。 木々の葉を打つ細かな滴が、まるで誰かの吐息のように、空から降り続けている。 一行は、北へ向かう街道を外れ、小高い山のふもとにある村──茂守(もしゅ)村へと足を踏み入れた。 「……妙だな。気配が、立ってない」 葵が立ち止まり、右腕を軽く押さえる。 鬼の気配を感じる“熱”が、この村の境では静まり返っていた。 「でも、昨日までは“ここで鬼を見た”って話があったんだろ?」 百合丸が眉をひそめる。 周囲は、まるで時間が止まったかのような静寂に包まれていた。 「これは……気配を抑えている? いや、空間が“重なって”いる……?」 蓮真が結界札を指に挟み、空間のひずみを見極めようとする。 「このあたり、何か……響いてる」 燈がふと呟いた。 彼女の手元の数珠がかすかに震えていた。 ──その瞬間、足元の地面から、何かが“滲み出す”ように現れた。 「来るぞッ──!」 葵の声と同時に、影が“立ち上がる”。 それは、炎に焼かれたように黒く爛れた身体。 人とも獣ともつかぬ形をし、顔の中央にはぽっかりと穴が開いていた。 その穴の奥から、無数の“声”がこだまする── 「おにいちゃん……」 「母上……」 「……あの人を、殺さないで……」 その声に、燈の顔色が変わる。 「これ……記憶、誰かの記憶を……!」 鬼は言葉を持たぬはずだった。 だがこの鬼は、確かに“語って”いた。 誰かの失われた声を、引きずりながら。 「気をつけろ……こいつ、記憶を喰ってる」 葵の言葉と同時に、鬼が動く。 その動きは、異様に滑らかだった──まるで、人の感情に反応しているかのように。 最初に狙われたのは、燈だった。 ──ザッ。 影が伸び、燈のすぐ足元を裂いたその時── 「危ねぇ!」 百合丸が体を投げ出し、燈を抱えて転がる。 その瞬間、鬼の身体が“変化”した。 ──白い、薄い着物。焔のように乱れた髪。 現れたのは、少女の姿だった。 「……柚花……?」 百合丸の瞳が揺れた。 鬼が喰らったのは、彼の記憶──妹・柚花の“最後の姿”。 「兄さん……どうして、あの時、手を離したの?」 幻か、現実か。 鬼が発した声は、確かに、柚花のそれだった。 「やめろ……っ」 百合丸が歯を食いしばる。 だが、手が震える──刃が握れない。 その時だった。 「百合丸、離れろ──」 低く、鋭い声が、霧の中を裂く。 次の瞬間──風が鳴った。 黒き刃が抜かれる音。 それは、夜を切り裂く“静の雷鳴”。 ──夜哭丸(やこくまる)が、うなった。 葵が跳ぶ。鬼の正面へと舞い、右腕に力を込める。 黒の刃と鬼の記憶が交差する一瞬、葵の瞳は、母・紫苑の面影を映した。 「……ここは、渡さない──!」 一閃。 刃が月光のごとく奔り、鬼の右肩から胴へと深々と刻み込まれた。 切っ先が通り過ぎた瞬間、鬼が悲鳴をあげる。 それは怒りでも怨嗟でもない──嘆きだった。 「……たすけて……」 葵の右腕がうずく。鬼気が、何かを訴えている。 「葵、もう一撃! 気が乱れてる!」 蓮真が叫び、祓符を放つ。鬼の足元に閃光が走り、動きが鈍る。 「見せてみろ……お前の“本当の顔”を!」 葵が駆ける。 ──鬼の顔が、瞬間、母の姿に揺らぐ。 だが葵は、剣を止めなかった。 「その声の主が誰であれ……俺は、斬る!」 夜哭丸が燃えるように黒く輝き、鬼の中心を貫いた。 閃光!! 空気が裂け、鬼の身体が一瞬、何かに変わる──無数の“影の断片”に。 それが周囲に飛び散ろうとしたその瞬間── 「散らせるかよ……!」 百合丸が腰から素早く香薬玉を投げた。 爆ぜた煙が、鬼の残滓の動きをわずかに鈍らせる。 「今だ、固定する!」 蓮真が結印を切り、術符を放つ。 「封印術・鎮陰符!」 断片の動きが一瞬止まり、空間が軋んだ。 「──仕留める!」 葵が跳ぶ。 夜哭丸が再び抜かれ、煙と札の狭間を裂いてひと振り── 断片となった鬼の“核”を貫く刃は、何も迷わず真っ直ぐだった。 「ギエェーーーーー!!」 悲痛な叫びを残し、鬼の気配は雨の中に消えたーー。 その後、すぐに口を開く者はいなかった。 ただ、燈がぽつりと呟く。 「……“器”……だって。声が……そう言ってた」 その刹那、頭の中に直接響く声があった。 『──器は、揃いつつある。残るは、理を破る者のみ』 空気が凍る。それは紛れもない影月の声であった。 蓮真が眉をひそめるが、あえて言葉を呑む。 それが何を意味するか、今はまだ誰にも分からない。 雨の中、誰かの記憶が、なおも余韻のように漂っていたーー。
月影ノ誓 十一
第六節:契約の痕(けいやくのあと) ──薬が、切れていた。 胸の奥が焼けつくように痛む。冷や汗が背を這い、視界がかすむ。 だが百合丸は、誰にも悟らせぬように笑みを浮かべた。 「悪い。ちょっとーー」 焚き火の明かりも届かぬその場所で、百合丸は一人、膝をついていた。 ──妹の声が、聞こえる気がした。 「まさか、まだ生きていたとはな」 声がした。 影から現れたのは、清眼党の一人。白磁の仮面、空断刀の光。 「毒に侵された“器の欠片”──処分対象、百合丸」 静かな宣告。 「へぇ……やっぱ、バレてたか」 百合丸は笑った。だが、その声の奥には諦めも怒りもない。ただ静かだった。 「清眼党と、あいつら──俺がいた“裏”が繋がってたってのも、本当なんだな?」 仮面の下から返事はなかった。ただ一歩、清眼党の者が進み出る。 「巫女と“器”を焼いた作戦は、あの時点で必要と判断された」 「必要……? それで妹を焼いたってのか。巫女に“器の兆候”があると見たのは……お前らの判断だろ」 「……その少女にも、微弱な“鬼気”が確認されていた」 その言葉に、百合丸の表情が消えた。 「──柚花は、“器”だったのか?」 清眼党の者は黙していた。 沈黙。それが答えだった。 百合丸の身体に、紫紺の痣が浮かび上がる。鬼毒の発作。 「あの夜、俺は逃げた。いや、任務を全うしたつもりだった。だが──」 ──火の中、妹は微笑んでいた。 「“兄さん、ありがと”……ってな」 あの時、柚花は鬼気に呑まれかけていた。 それでも最後まで、兄を信じてくれた。 彼は、妹の鬼化を知りながら、殺せなかった。 その手を振りほどいて逃げた。 ──その手が、鬼毒を残した。 「清眼党のやり方は、ただ“斬る”だけだ。だがな……」 彼は腰の袋から、ひとつの小瓶を取り出した。中には、柚花の血から精製した解毒薬。 「……あの夜、俺は“情け”を選んだ。そしてこの毒と、生きていくことにしたんだ」 「処分する」 清眼党の者が刀を抜く。だが、その刃は振るわれなかった。 「──やめて」 背後から聞こえたのは、燈の声だった。 「百合丸さんは……鬼になんて、なってない。私は“声”が聞こえる。彼の中に、“叫び”がある……生きようとする声が」 清眼党の者は一瞬、動きを止めた。 その目に“揺らぎ”はない──はずだった。 だが次の瞬間、彼の腰の符札がわずかに震えた。 【共鳴──対象、鬼気の波動:安定】 彼の使う術具は、“鬼気”の乱れを感知し、自動記録する仕組みだった。 百合丸の気配は、毒の痕跡はあれど、不安定な暴走気とは無縁だった。 ──“殺すべきかどうか”を決めるのは、感情ではない。“理”だ。 そして今、術具は彼の“理”を揺らがせていた。 「……報告を上げる。対象、生存──猶予を与える」 その言葉を残し、清眼党の者は闇に紛れて姿を消した。 「……助かったな、俺」 百合丸が口元に皮肉な笑みを浮かべた。だが、その目は伏せられていた。 「どうして……逃げなかったんですか?」 燈の問いに、彼は静かに答えた。 「もう逃げるの、飽きたんだよ。……柚花の声を、また夢で聞いたんだ。“お兄ちゃん、まだ終わってないよ”ってな」 彼は小瓶を見つめる。 「……だったら、もう少し足掻いてみるかって、そう思っただけさ」 焚き火のそばで、葵と蓮真が湯を沸かしていた。 「おう、戻ったぞ。なんかあったか?」 百合丸が軽く手を振ると、葵が眉をひそめた。 「顔色が悪いな。大丈夫か?」 「……ま、薬がちと切れてただけさ」 湯気の中に静寂が降りる。しばらくして、百合丸は小さく呟いた。 「……なぁ、俺の話、聞いてくれるか?」 その言葉に、葵はすぐに頷いた。 「いつだって、そのつもりだ」 蓮真が黙って茶を差し出す。燈は、焚き火を見つめたまま、微かにうなずいた。 ──夜が、静かに更けていく。 だが、その静けさの奥には、確かに何かが芽吹いていた。 その夜、誰も気づかなかった。 宿の屋根の上、白銀の髪の者が、静かに彼らを見下ろしていた。 「“器”は揃いつつある」 影月は呟いた。 「残るは、“理を破る者”のみ」 ──夜は明けようとしていた。 だが、これから迎える朝は、静かなものではない。 それは、“選ばれなかった者たち”の物語が動き出す、運命の夜明けだった。
月影ノ誓 十
第五節:炎の残響(えんのざんき) ──それは、焼ける音だった。 乾いた木の軋み、はぜる火の音、焼け落ちる家屋の悲鳴。そして、あの夜はまだ終わっていない。 「百合兄、いかないで──!」 少女の声が、煙の奥から響いていた。 ──けれど、振り返ることは許されなかった。 任務。それがすべてだった。 百合丸は、組織に育てられた“影”だった。 その存在は名もなく、感情もいらず、ただ命じられた対象を“処理”することが唯一の意味だった。 標的は、村の巫女。 「鬼に魅入られた」と報告された女。その巫女が“器”となる兆しを見せたと──清眼党とは異なる組織筋からの情報があった。 「鬼の器は拡がる」 ──それが、彼らの教えだった。 巫女を生かせば、村ごと“穢れる”。 それを防ぐには、証ごと焼き払うしかない。 命令は、「村ごと処理せよ」だった。 標的に情を持てば、処分されるのは任務者自身。 忍びに“迷い”は許されない。百合丸はその掟のもとに生きていた。 ──だが。 彼の妹・柚花(ゆずか)が、巫女とともにいた。 「この人は違う!鬼なんかじゃない……っ!」 小さな身体で巫女を庇うように立つ少女。その瞳は、恐怖ではなく、信じる強さで満ちていた。 ……兄のことも、信じていた。 だから、叫んだのだ。 「百合兄、行かないで……!」 だが、その言葉を振り払って、百合丸は飛び退いた。 既に火は放たれていた。指令通り、複数箇所から火薬を仕込み、逃げ場を絶つ配置だった。 ──撤退命令。 ──完遂印。 ──目撃者は、処理対象に含まれる。 妹の存在を報告すれば、百合丸自身が“処理対象”になりかねなかった。 彼は、忍びとして生きることを選んだ。 ……そのはずだった。 ──現在。 「……百合丸?」 焚き火の前で、燈が問いかける。彼の手が、止まっていた。 「悪い。ちと、煙が目にしみただけだよ」 軽く笑うその顔に、いつもの軽薄さはなかった。 「……俺にはな、誰かを救う資格なんてないんだよ。命令だった。それだけだ。そう思ってきた。そう言い聞かせてきた。でもな……」 焚き火の揺らめく炎に、その瞳が揺れる。 「最近、また近づいてきてるんだよ。あの夜の“匂い”が。……煙と、血と、“あの目”の気配が」 「“あの目”?」 葵が問うた。 「……火の中で、俺を見てた。“人”とは言えねぇ……けど、鬼とも違う……」 その時、遠くで風が止まったような気がした。 ──気配が、また一歩、近づいてきている。
月影ノ誓 九
第四節:幕間ノ兆(まくあいのきざし) ──月はまだ登っていない。 沈黙と冷気に包まれた山間の小道。草も木も息を潜め、夜の帳が静かに降りようとしていた。 だが、その静寂を踏みにじるように、複数の影が木立の間をすり抜けていく。 漆黒の羽織に、無機質な面をつけた者たち。 それは、清眼党(せいがんとう)の一団だった。 「……反応、あり。気配、微弱なれど、鬼性確認」 先頭をゆく男が呟いた。白磁の仮面の下で、感情は揺れない。まるで精密な機械のように、任務を告げる口調だった。 「対象、潜伏経路を移動中。周囲に人間の痕跡あり──」 その言葉に、数人の構成員が手にした“空断刀”を抜く。 鬼気に応じて刃がうっすらと淡い青光を放ち、空間に歪みを刻んだ。 風が止まった。 ──否、止まったように感じた。 それは“理の眼”が開かれた印だった。 常の理(ことわり)を断ち、不条理を是とする者を斬る、無慈悲な眼。 「処理開始。封刀陣、展開」 号令と同時に、彼らは足を止めた。 山の地に五芒の陣を敷き、次の瞬間、闇より“それ”が現れた。 赤黒く膨れた腕。片目だけが異様に肥大化した顔。 かつて人であったもの──今は、名もなき“鬼”と化した存在。 刃が交差する。だが、その瞬間──。 「……妙だな」 一人の構成員が呟いた。 鬼は抵抗らしい抵抗をせず、その場に崩れ落ちたのだ。 「鬼性、極端に薄い。これは……」 構成員たちの間に、微かに疑念が走る。 その疑念に応えるように、空気が一変した。 ──音もなく、空間が“揺れた”。 風ではない。地鳴りでもない。 それは、時間すら歪める“何か”の到来。 「……来たか」 森の奥より現れた影が一つ。 白銀の髪、紅の瞳、黒と白の狭間を歩む存在。 影月(えいげつ)であった。 清眼党の者たちが警戒の気を高める。 だが、影月は微動だにせず、ただ言葉を落とした。 「器(うつわ)は、揃いつつある。残るはひとつ」 「……何のことだ?」 仮面の下から鋭い声が飛ぶが、影月は答えず、夜気に溶けるように姿を消した。 残された清眼党の者たちは、その場に残る“影”の余韻に、ただ無言で刀を構えるしかなかった。 一方その頃、葵たち四人は、立ち寄った村の外れでひとときの休息をとっていた。 夜風が冷たくなるにつれ、焚き火の熱が心地よい。 「……なぁ、お前ら、最近気づいてるか?」 茶を啜りながら、百合丸がぽつりと呟く。 「気配が……似てきてるんだよ。あの夜の、火の匂いに」 葵が眉をひそめる。 「火……? どの夜だ」 百合丸はしばし口を閉ざした。 焚き火の揺らめく炎を見つめながら、ぽつりと続ける。 「昔、俺の生まれた村が──燃えたんだ」 沈黙。蓮真と燈も、手を止めて彼を見つめる。 「……どうしてかは、もう忘れちまった。でもな……あの時、煙の中にいた“もの”の気配が……最近、近づいてきてる気がするんだよ」 それは、冗談めかした彼の語り口とは異なり、どこか切実だった。 焚き火が小さく爆ぜた音だけが、しばし静寂の中を満たした──。 夜は、誰にも平等に降り注ぐ。 だが、その夜を通じて蠢く“理”は、決して平等ではない。 運命の糸はすでに引かれ、舞台の幕は次の場面を迎えようとしていた。 ──そして、百合丸の過去が再び、炎を上げる。
月影ノ誓 八
第三節:蓮真ノ追憶 夜営の火が落ちかけた頃、燈と百合丸は静かな寝息を立てていた。 蓮真は焚き火の残光を前に、ひとり座していた。 目を閉じる。 浮かぶのは、あの人の面影。 細く、白い指先で香を焚く姿。 柔らかな笑みで人々に花を渡し、子どもたちの手を取って舞うように歩く姿。 まるで、光のようだった――あの人は。 沙耶(さや)。 蓮真がかつて、命を賭して愛したひと。 出会いは、都の片隅。 祓い師として任を帯び、陰の気配を追う蓮真の前に、沙耶は現れた。 小さな社でひとり舞を捧げ、古びた木像に花を手向ける彼女の姿は、どこか神秘的で、美しかった。 ただの巫女かと問えば、彼女は首を横に振った。 「私には、祈るしかできないのです」 その声に、かすかな影を感じた。 だが蓮真は、それ以上を問わなかった。 祓い師である己が、光にすがるように彼女に惹かれていたのだから。 沙耶は、ときおり「鬼の夢」を見ると言った。 焔に包まれ、泣き叫ぶ者の記憶。 愛しい者を喰らう鬼の断末魔。 その夢に脅かされる夜、蓮真は香を焚き、彼女を腕に抱いた。 「鬼とは、恐ろしいだけのものではないのですね」 そう言った沙耶の声は、どこか遠く聞こえた。 蓮真はそのとき、すでに気づいていたのかもしれない。 彼女の中に眠る“なにか”に。 やがて、ふたりは結ばれた。 僧である己が、戒を破ることへの躊躇いはあった。 だが蓮真は、それを超えてでも沙耶と共に在りたかった。 「この傷……」 沙耶の指先が蓮真の右肩をなぞる。そこには、未だ完全には癒えていない傷跡があった。 「大したものではない、もう痛みは感じない。」 「……私は、一人が恐ろしいと感じたことなどなかった。貴方と出会うまでは……」 「心配ない。お前を一人にすることなどない」 その穏やかな日々は、永遠には続かなかったーー。 ある夜、沙耶は突然、目に見えぬ“影”に囚われた。 蓮真の術でも祓いきれぬ、深く、重い闇。 彼女の身体に鬼の痣が浮かび、その目に宿る光は、蓮真のことすら識別しなくなっていた。 「沙耶……お願いだ。戻ってくれ……!」 哀願する声が、虚空に吸われる。 彼女の唇からこぼれたのは、聞いたこともない鬼の言葉。 その声音が、蓮真の心を裂いた。 そして、あの日。 祓いの場にて、蓮真は術を構えた。 五芒星の中心に立つ沙耶。 彼女は何も言わなかった。ただ、静かに微笑んでいた。 それが――蓮真の記憶にある最後の沙耶の顔だった。 「我が魂、此処に留まらず――鎮まりの符となれ」 蓮真は、涙を隠しながら印を結んだ。 鬼と化した彼女を、完全なる“封”へと導くために。 それが唯一、彼女の魂を穢さずに終わらせる手段だった。 術の終わり、蓮真はひとり、崩れ落ちた。 胸の奥にぽっかりと空いたその穴は、今も埋まっていない。 「……あれが俺の、罪だ」 誰に語るでもなく、焚き火の揺らぎにそう呟く。 沙耶の存在は、蓮真の術に今も影を落としている。 どれだけの鬼を封じようとも、あの夜の痛みだけは薄れない。 だが――それでも蓮真は、歩む。 今や葵が、そして燈が、自分と同じ“選択の岐路”に立っている。 過去に囚われた者たちが、未来に一歩踏み出すために。 そのために蓮真は、術を振るうのだ。 静かに立ち上がり、夜空を仰ぐ。 星はどこまでも遠く、そして優しかった。 沙耶よ。 あの時、君が最後に浮かべた笑みは、赦しだったのか。 それとも、別れの覚悟だったのか。 いずれその答えにたどり着く日が来るのなら―― 俺は、その手で鬼を封じ続けよう。 光の名のもとに。
月影ノ誓 七
第二節:燈ノ記憶 ――天保三年、秋。 黒目村には、秋を告げる山霧が静かに降りていた。木々が黄金に染まり、風に乗って落葉が舞う。だが、その美しさの奥に、誰も知らぬ闇が息を潜めていた。 燈(あかり)はその頃、村の中でも「穢れの子」と呼ばれていた。理由は、彼女が生まれたとき、母の腹から洩れ出た黒い痣――鬼気の残滓のような印が、その小さな背に浮かんでいたからだ。 「鬼の子は災いを招く」 「見てみろ、あの目を――まるで人間じゃない」 言葉の刃は幼子にすら容赦なかった。子供たちと遊ぶことも禁じられ、母とふたり、村はずれの古屋にひっそりと暮らしていた。 けれど、燈の母――志津(しづ)は、決してその小さな命を責めなかった。 「おまえは、優しい子。お母は、ずっとおまえの味方よ」 その言葉だけが、燈の心を繋ぎ止めていた。 秋の終わり、村に異変が起きた。 里山に棲まうはずの獣が、次々と姿を消し、川の水が濁り始め、夜になると山から呻き声のようなものが響いた。村人たちは恐れ、庄屋――山守(やまもり)忠右衛門の屋敷に集まった。 「これは“穢れ”の兆だ……鬼が近い」 山守は、悩み抜いた末に一つの決断を下した。 ――“生贄”を捧げ、鬼の顕現を封じる。 それは、黒目村に古くから伝わる禁忌の儀式。神の名を騙り、穢れを“人”に背負わせることで災厄を遠ざけるという、最も忌まわしい手段だった。 選ばれたのは、燈の母だった。 「穢れの血を絶つことで、村は救われる」 誰も声を上げなかった。むしろ、それが当然とでも言わんばかりに頷いていた。 その夜。 燈は家で、母の帰りを待っていた。山守の屋敷に呼ばれたまま、まだ戻らない。嫌な胸騒ぎがして、風の冷たさが異様に身に染みた。 そして――空が、裂けた。 「おかあ……さん……?」 家の外に、禍々しい影が揺れていた。風が鳴き、鳥が飛び去り、空気が歪む。燈は走った。裸足のまま、夜道を駆けた。 屋敷の裏手、小さな祠の前。黒煙のような闇が渦を巻いていた。 その中心に――母の姿があった。 「おかあっ……!」 燈が叫ぶと、母がこちらを振り返った。けれど、その顔は静かだった。諦めでもなく、悲しみでもなく、ただ微笑んでいた。 「ごめんね、燈。どうか……生きて」 その瞬間、闇が彼女を包んだ。炎のように燃え上がる鬼の気が空を貫き、辺りが真っ赤に染まった。 燈は動けなかった。声も、涙も出なかった。ただ、心の奥に何かが焼きついた。 ――母の声。あの最期の言葉だけが、燈の魂に残った。 闇が明けたとき、村は静かだった。屋敷の祠は崩れ、山守の姿も消えていた。だが、燈は知っていた。 “あの闇”は、終わってなどいないーー。 母の命を犠牲にしてなお、村を襲った穢れは消えず、山守忠右衛門自身がその鬼気を引き受け、鬼と成り果てたのだと。 ――村を守るために、己が鬼となる。 それが、あの男の選んだ「答え」だったのだ。 それから三年。 燈は村を出て、宛てもなく彷徨った。鬼の声が絶えず聞こえた。山の中で飢え、谷に迷い込み、ただひとりで生きた。 その間、誰とも話さなかった。ただ、時折夢に出る母の声と、あの夜に現れた“もうひとりの男”の記憶だけが、燈を支えていた。 あの時、封印の印を掲げて闇に立ち向かっていた旅の僧がいた。冷たい目をしていたが、確かに、燈のことを見ていた。 彼の術がなければ、燈は母の後を追っていただろう。 そして、天保六年。 燈は、再び黒目村を訪れた。 今は誰もいない村の井戸の前――そこに、かつての“鬼の気”が微かに残っていた。 その時、井戸の向こうから現れたのが、桐原葵と蓮真だった。 「君は?」 「もしや、あの時の……?」 蓮真が小さく呟く。 三年の時を経て、再び繋がる因縁。過去の傷は、まだ癒えてはいない。だが、あのとき母が遺した言葉が、燈の胸に灯をともしていた。 ――生きて。 そう願われた命であるのなら、自分はもう一度、「鬼と向き合う」ことができるかもしれない。 葵と共に、蓮真と共に、あの闇の先へ――