三秋 うらら

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三秋 うらら

箸の持ち方

名も無きスラム街に生まれ、父親の顔は知らない。 いつもママはボーイフレンドをころころと変えて、夜は安い酒の匂いと怒鳴り声が混ざっていた。 家を追い出す代わりにくれた小遣いじゃ何も買えなくて、俺は古着の袖に腕を丸めて、震えた体を抱きしめながら眠った。 そんなある日、ゴミ山の向こう側で、彼女に出会った。 同じスラムの子で、同じくらいの年齢なのに、どこか落ち着いた目をしていた。 彼女は、捨てられた弁当箱を拾ってきて、少し洗っては、まるで宝物みたいに扱っていた。 「お腹、すいてるでしょ。」 そう言って、彼女は温もりの残るコロッケパンを半分に割ってくれた。 初めて、誰かに“分けてもらった”食べ物だった。 でも、本当の「初めて」は、もっとあとに訪れる。 *** 冬になる前のある日、彼女は小さな布袋から、古びた箸を取り出した。 誰かのお下がりなのか、片方だけ色が剥げていた。 彼女は俺の手をそっと包み込んだ。 細い指が、俺の汚れた指に沿って、優しく形を作ってくれる。 親指はここ、人差し指はここ。ゆっくり、ゆっくり。 「できるよ。ほら、もっと力抜いて。」 彼女の声は静かだったけれど、どこか胸の奥に灯りがともるような温度をしていた。 俺の人生で、誰かが俺のことを「できる」と言ってくれたのは、その瞬間だけだった。 箸の先が、初めてちゃんと開いたり閉じたりした。 たったそれだけのことなのに、涙がこぼれそうになった。 *** 大人になった今、俺はスラムを出て働いている。 整った身なりの男が、今も汚れた路地裏を歩くたびに言う。 「お前からもらった初めての愛は、箸の持ち方だった。」 彼女は、少し照れた顔で笑う。 あの頃と同じ、静かな目で。 「こうやって、俺の小さな手に添えて、一生懸命、箸の持ち方を教えてくれた。  あれが俺の人生でいちばん最初の“ちゃんとした記憶”なんだ。」 彼女は言った。 「愛ってさ、たぶん大きくなくていいんだよ。  誰かの手を、ちょっとだけ温めるくらいで。」 その言葉を噛みしめるように、指先で箸を持ち直す。 今はもう、完璧に持てる。 あの日、小さな指を添えてくれた温度が、まだ俺の中で生きている。 そして思うのだ。 人生で最初にもらった愛が“箸の持ち方”なら、 これから先に続く愛は、きっともっと温かいものになる、と。

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空底(からそこ)の砂時計

埋まらない心がある 砂のように降りてくる幸福を 手のひらで受け止めても 指のあいだから、こぼれていく 好きなこともある 笑える日もある それなのに、 夜になると 胸の中が空洞になる 満たされた分だけ なぜか、寂しさが増える 光を浴びるたび 影の輪郭がくっきりするみたいに 怠けてるんじゃない 止まってるんじゃない ただ、まだ 呼吸のしかたを探しているだけ いつかこの砂が こぼれ落ちることを恐れずに 誰かの手のひらへと 静かに流れていけますように

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空底(からそこ)の砂時計

 彼女の部屋には、古い砂時計がひとつあった。  底が欠けている。  誰がどう見ても「壊れている」としか思えないそれを、彼女は大切に棚の上へ飾っていた。  砂は、落ち続けている。  止まることなく、流れ落ちて、下にたまることはない。  それなのに、彼女はその砂の流れを、毎晩じっと見つめていた。  「どうして、そんなもの見てるの?」と友人に聞かれたとき、彼女は少し笑って言った。  「うまく言えないけど、安心するの。落ちていくのに、なくならないから」  それはまるで、自分の心を見ているようだった。  仕事を休んでからの日々、時間だけが過ぎていった。  好きなものも、好きな人も、推しもいる。  画面の向こうには会いたい友達もいる。  なのに、どうしてか、心の底だけが埋まらない。  楽しいことをしたあとほど、帰り道が怖かった。  夜風が頬を撫でるたびに、胸の奥の“空洞”が音を立てて鳴る。  ――ほら、ここがまだ空いてるよ、と。  ある晩、彼女は思いついたように砂時計を手に取った。  欠けた底を、指先でそっとなぞる。  すると、ほんの少しだけ砂が指についた。  その砂は温かかった。  手のひらにひとつまみのぬくもりが残った。  「……ああ、そうか」  彼女はふと、気づいた。  この砂時計は、壊れているんじゃない。  流れ続けるために、空いているのだと。  満たされないのではなく、  溢れ出すように、どこかへ流れ続けているのだと。  その夜、彼女は静かに寝息を立てた。  眠る前に思ったのは、「明日は少し外に出よう」という小さな気持ちだった。  空底の砂時計は、相変わらず、今日も流れ続けている。  止まらない時間とともに、彼女の心もまた、少しずつ、どこかへ流れていく。

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透き通る夕暮れの約束

 放課後の帰り道、私はいつもより少し遠回りをした。空がやわらかい桃色に染まっていて、なんとなく、その光をもっと浴びていたかったのだ。  いつもの小さな公園を抜けると、ブランコに見知らぬ男の子が座っていた。年齢は私より少し下くらいだろうか。足は地面につかず、ゆっくり前後に揺れている。  ――夕陽の光に透けて見える、変わった子だな。  そんなことを思って通り過ぎようとしたら、彼がふいに言った。 「ねぇ、お姉ちゃん。君は、明日の色を知ってる?」  へんてこな質問に、私は思わず足を止めた。 「明日の……色?」 「うん。昨日は緑だった。今日は桃色。じゃあ、明日は何色だと思う?」  男の子は笑っていたが、その瞳は、夕暮れよりもずっと透明だった。 「そんなの、分からないよ」 「じゃあ、当ててみて。僕は、それを聞きたいんだ」  私は少し考えてから、ぽつりと言った。 「……水色。なんとなく」  すると男の子は、ほっとしたように息をついた。 「よかった。僕も同じだ。明日はきっと、水色だよ」  その言葉の意味も、彼が何者かも分からなかったけれど、なぜか胸の奥がやわらかく温かくなった。 「じゃあ、ありがとう。もう行くね」  男の子がブランコから降りた瞬間、あたりの風景がふっと揺れた気がした。次の瞬間には、もう姿がなかった。  私はしばらく呆然と立ち尽くして、それから家に帰った。  そして翌日。  朝、カーテンを開けた瞬間、思わず声が漏れた。  空いっぱいに広がるのは――ほんとうに、澄んだ水色だった。  どこまでも透明で、昨日より少しだけやさしい世界。  あの男の子の気配はもうどこにもないのに、空だけが、静かに、私たちの約束を覚えていた。

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目覚め

凛はリビングの床に倒れていた。 涙で頬が濡れ、心臓がまだ痛い。 母が台所に立っている。 驚いて振り向く。 「凛?どうしたの?」 凛は駆け寄り、しがみついた。 「ごめんなさい……  あんなこと言って、ごめんなさい……」 母は少し驚いたあと、静かに抱きしめ返した。 「言葉は間違えても、やり直せるよ。  謝れたなら、大丈夫」 凛は泣きながらうなずいた。 言葉は、人を傷つける。 でも、言い直すこともできる。 地獄より深い後悔も、 小さな「ごめんね」で、すこしだけ救われる。 光が、ゆっくり胸に差していった。

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地獄

気がつくと、灰色の空の下に立っていた。 風もなく、音もない世界。 ただひとつ、凛の後ろから声がした。 ――「死ね」 振り返ると、凛自身が立っていた。 泣きそうな顔で、あの日のまま。 「あなたが言った言葉だよ」 影が横に現れる。 「言葉は、放った人よりも、後から当たる“自分”の方を深く傷つける。  ここは、それを見る場所だ」 凛は震えながら、もうひとりの自分を見つめた。 その口が何度も、何度も同じ言葉を吐く。 ――「死ね」 ――「死ね」 ――「死ね」 耳を塞いでも止まらない。 心の奥の柔らかい場所を、冷たい針で刺されるようだった。 「……やめて……ごめんなさい……」 凛が膝をついたとき、影が問う。 「ここに留まりたい? それとも、戻りたい?」 凛は顔を上げた。 泣き腫らしても、瞳は濁っていない。 「……戻りたい。  謝りたい。  “死ね”じゃなくて、“生きて”って言いたい。  ちゃんと、お母さんと向き合いたい」 影は初めて微笑んだように見えた。 「なら、地獄はもう必要ない」 灰色の空にひとすじの光が走った。

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落として、落ちないで

「どうか、私を地獄に落としてください」 少女は泣きながら言った。 名は凛。 その小さな声は、夜の冷たい空気にすっと溶けた。 目の前の影は、人でも神でもなかった。 ただ“呼ばれたから来た”という顔をしている。 「理由を聞こうか?」 「お母さんに……“死ね”って、言ってしまったんです。  言った瞬間、胸が痛くて。後悔して、息ができなくて……  だから、罰が欲しいんです。自分で自分を許せないから……」 影はまばたきもせず、淡々とうなずいた。 「では、落ちるといい」 足元が静かに抜け、凛の体が沈んだ。 叫ぶ暇もなく、世界が裏返り――

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透明の回廊

朝でも夜でもない、色のつかない時間があった。 その境目に、私はふと足を踏み入れてしまったらしい。 目の前に広がるのは、薄いガラスを何枚も重ねたような世界。 触れれば割れてしまいそうで、けれど風だけはすり抜けていく。 足元の道は、水の底のように、少し青く揺れていた。 歩くたびに、透明な音が「カラン」と鳴る。 私の影だけがついてこない。 代わりに、見たことのない光が、私の形をして寄り添ってきた。 「あなたは、何?」 問いかけると、光はふるふると震えた。 水面に落ちる雫みたいに、淡く、優しく。 ――わたしは、あなたが忘れてしまった気持ち。 声はなかったのに、意味だけが胸に触れた。 気づけば喉がきゅっと締まって、涙が一粒こぼれた。 透明な涙は、地面に触れる前に蒸発して消えた。 「どうして、今になって?」 ――呼ばれたから。 呼んだ覚えはないのに、光は迷いなく私の手を取った。 ひんやりしていて、だけど温かかった。 ゆっくりと歩く。 世界は、息をひそめるように静かだった。 遠くで、細い鐘の音がした気がする。 誰かが祝福するみたいな、優しい音色。 気がつくと、光は少しずつ薄くなっていった。 「行ってしまうの?」 ――もう大丈夫。  ここに来られたということは、あなたはまた、透き通ることを思い出した。 風が吹いた。 光はきらきらと舞い上がり、空に溶けるように消えた。 私はひとりになったけれど、寂しくなかった。 胸の奥に、透明な呼吸が宿っていたから。 次の瞬間、世界はゆっくりと色を取り戻していく。 空の青も、木々の緑も、見慣れているはずなのに、初めて見るみたいに澄んでいた。 私は一歩、前に進む。 透明な音はもう鳴らなかったけれど、代わりに心の中で静かに響いていた。 ――透き通るって、きっとこういうことだ。 そう思いながら、色づく世界へ戻っていった。

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マイクの向こうで、息をしている

 ──夜の街が、ノイズを吐いていた。  ネオンが光をこぼし、車がアスファルトを引き裂く。  ステージ裏、ひとりの女がマイクを握っていた。  名前は レイナ。  ステージネームは「Rey-Z(レイズ)」。  鋼みたいに強く、でも中身はガラス。そんなやつだった。  “この一曲で、全部燃やしてやる。”  彼女は、鏡の前で言葉を吐き捨てた。  リップは深紅。  震える手は、緊張ではなく、決意のサイン。  ビートが鳴る。  照明が落ち、歓声が割れる。  フードを脱いだレイナの髪が、汗とともに光を反射する。  「Yo──聴こえる? 私の鼓動が」  低く熱い声が、スピーカーを通して跳ねた。  リリックは刃物だった。  裏切り、孤独、夢、怒り、そして希望。  全部を、韻に詰めこんで叩きつける。  それは音楽じゃなかった。  命の残響だった。  かつて、彼女には仲間がいた。  クラブの隅でビートを打ってた少年、カイ。  2人で夢を描いた。  「世界を変える1曲」を。  でも──カイは、突然いなくなった。  夢を置いて、夜の街の闇に消えた。  それからレイナは、1人でラップを続けた。  誰のためでもない。  あの日、ステージに立てなかった彼のために。  最後のサビ。  喉が焼けても、声は止まらない。  客席の誰もが息を飲んだ。  彼女の声が、空気を震わせて、涙みたいに降っていた。  「……生きてるって、叫べ。   たとえ誰にも届かなくても──」  その瞬間、マイクが落ちた。  拍手も、歓声も、もう聴こえなかった。  レイナはステージに膝をつき、笑った。  「これで、やっと……終われるね」  照明が消える。  ビートが止まる。  ただ、静寂の中に、  一曲の命が残った。  数年後。  街の片隅で、誰かが彼女の音源を再生する。  古びたラップの中で、彼女の声が生きていた。  ──Yo, I’m still here. Don’t forget my sound.  (まだここにいる。私の音を忘れないで。)  その声に、誰かがまた、マイクを握る。  命は続いていく。  儚い一曲の、その先へ。

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わたしたちは、空。空は、海をかける。

 最終章 わたしたちは、空。       海は、空をかける。  それから五年の時が経った。  春の海沿い、風がやさしく吹いている。  かつて遥と歩いた道を、僕は今日もひとりで歩く。  でも――もう、「ひとり」ではない気がしていた。  僕は今、言葉を紡ぐ仕事をしている。  大学で詩や表現を学び、出版社で編集をしながら、自分でも詩集を出すようになった。  最初の詩集のタイトルは、彼女がくれた言葉だった。 『空と海の詩』  表紙には、あのとき遥がくれた小さな手帳の模写を描いた。  その本は、思いがけず多くの人の手に届き、「生きづらさ」を抱える読者たちから感想が届いた。  彼女が生きた時間と、言葉が、今も誰かを照らしている。  それが、僕の生きる理由だった。  久しぶりに、“空の丘”に登った。  ベンチは少し色褪せていたけれど、景色は何も変わっていなかった。  青い空。流れる雲。遠くに見える海。  僕はリュックから小さな瓶を取り出した。  中には、遥が亡くなったとき、彼女の母から託された“形見の砂”が入っている。 「遥、ここにまくよ」  そう言って、そっと瓶を開けた。  砂が風に乗って、空へ舞った。  その瞬間、不思議なことが起きた。  ふと、海から風が吹き上げて、空の雲がぐっと近づいた気がした。  まるで――彼女が、笑ったような気がした。 「ねえ、遥。君は“いなくなった”わけじゃないんだよな。僕の中に、空の中に、海の中に、ちゃんといる。だから今日も、こうして空を見ることができる」  僕は小さな声で、遥に伝えるように詩を口ずさんだ。  わたしたちは、空。  君が空になっても、言葉は残る。  海は、空をかける。  ゆっくり、確かに、何度でも――。  丘を下りるとき、僕は一通の手紙をポケットにしまった。  出版社の後輩が編集した、ある中学生の詩集。  その中に、一篇の詩があった。  空が近くに見える場所で、  風の中に、君の声を聞いた。  わたしは海になりたい。  空を映して、静かに語り続けたい。  作者の名前は、「風見遥」と記されていた。  偶然かもしれない。でも、そうじゃない気がした。  遥の名前が、遥の言葉が、誰かの中でまた芽吹いている。  ああ、そうか。  遥の願いは、詩のように波紋を描いて、誰かへと届いていく。  そしてその輪は、空と海のように、永遠に重なりあっていくのだ。  僕は、また書こうと思う。  あの空の下で生きた彼女のことを。  そして――  彼女と過ごした、たしかな季節のことを。  わたしたちは、空。  海は、空をかける。  どこまでも、つながっている。     あとがき  この物語は、「失われること」と「残ること」をめぐる、小さな祈りのような作品です。  誰かが生きた証は、いつか消えてしまうのか――  それとも、言葉や記憶の中に、そっと形を変えて息づいていくのか。  “遥”という少女は、実在の人物ではありません。  けれど、彼女のような存在は、きっと世界のどこかで今日も空を見上げているはずです。  孤独を抱えながら、誰かに届く言葉を探している。  その手を取れる誰かを、待っている。  読んでくださったあなたが、蓮のようにその手を取ってくれたなら。  そして空を見上げたときに、少しだけ優しい風を感じてくれたなら――  それが、この物語が生まれた意味だと思います。  本の中の「海」は、作者である僕自身でもあり、  読者であるあなたの心にも静かに重なるものでありますように。  最後に、この作品を最後まで読んでくださったあなたに、  心からの感謝と、ささやかな詩を贈ります。  空のように、  あなたの言葉が澄んでいますように。  海のように、  あなたの心が波立っても、  いつかまた静かに戻ってきますように。  そして、  あなたの大切な誰かと、  空でつながっていますように。  ありがとう。  また、どこかの空の下で。

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