べるきす

9 件の小説

べるきす

文芸短編小説をメインにアップしております。 なにかを感じ取っていただける作品を目指して^_^ もしかしたら対象年齢少し高めで、ライトではないかと思いますが、ご興味をお持ちいただけましたら幸いです☺️ 名刺がわりの作品としては「変愛」を。 もしご興味いただけましたら、少々長いですが「This Land is Your Land」を読んでいただければ幸いです。

二文字と五文字の狭間で

「ボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボ」  いきなり「ボ」を連発してしまった……。いつものように学校が終わって帰ろうとした時に由美子ちゃんに呼び出されて来てみたら、突然「つき合ってください」などと言われてしまったもんだから、動揺を通り越して自分を指さしながら「ボク?」の「ク」が出なくなってしまったのだ。いやいや、言ったつもりになってるだけで、実際には声には出ていなかったのかもしれない。  落ち着け、落ち着け。今の「ボ」の字は261文字。うん、大丈夫。ボクは言葉に鋭敏なのだ。誰かが喋った時に、何文字言ったかをすぐに数えることが出来るという最強の必殺技を持っている。どうだ、すごいだろう。大丈夫、ボクは冷静だ。  由美子ちゃんはクラスカーストの上位で、男子にも人気がある。アイドルなんて実際に見たことないからわからないけど、少なくとも地下アイドルなんていうわけのわからないものにはヒケを取るでもないと思うし、第一、アイドルなんて裏の皮は酷いとかいう話だってある。しかもこっちはカーストの底辺とはいわないまでも、そこそこそれなりの位置でしかない。生徒会長でもないしどこかの御曹司でもなけりゃスポーツマンでもない。性格も含めて平々凡々。おまけにこのまま歳を取れば、どんどん底辺に近づいてしまうに決まっているんだ。 ……あ、いや、そんなこと誰がわかるんだ? 勉強のできるヤツ、金持ってる家のヤツ、スポーツの出来るヤツとかいるけど、それはそれとして、そもそもクラスカーストなんて存在していないじゃないか。あんなのはマスコミが面白おかしく興味をひきたいがためにデッチ上げた作り話。うむぅ、実際にはあるのかもしれないけど、そんなものは遠い世界の出来事で少なくともボクの周りには存在してない。今はともかくだけど、この先どうなるかなんて、ボクだってわからないじゃないか。そうだ、もっともっと未来の可能性は広いはずなんだ。ボクの将来はこの先、海のように広い! ぐうううう……のおおお! さすがに自分のウツワくらいきちんと認識しなきゃいけないだろう。でも、海まではいかないかも知れないが湖くらいはあるはずだ。……しかしなんで今月のお題は湖なんだ。そういうツッコミを入れすぎてしまうとボクの立場が危うくなりそうなのでこの位でやめておくが、あれ? そもそもお題ってなんのことだ。まぁ、いい。ともかく、ウミとミズウミって二文字と五文字の違いだけなのに、なんでこんなに印象が違うんだろうか。あ……ぐわっ! ミズウミは四文字ではないか! ボクの必殺技がこんな簡単なところでミスしてしまうなんて余程動揺しているとみえる。ぐわああ、そういえば冒頭の「ボ」も実は262文字だった! なんたることだ! 由美子ちゃんに9文字を言われただけなのに、ボクの必殺技が役立たずになるようではこの先思いやられるではないか!  こんな調子じゃダメだ。もし由美子ちゃんと付き合うことになったら、由美子ちゃんが笑うたび、泣くたび、傷つけるたびにボクは動揺して、やっぱり必殺技を失敗してしまうに違いない。「ありがとう」なんて、何万文字にも感じてしまうかも知れないじゃないか。す……す……す……好き、なんて言われたら、うわぁ、絶対ダメだ。ボクにはこれしか必殺技がないというのに、それでいいのか? 嫌われちゃうぞ! でも、由美子ちゃんの笑った顔って、とんでもなく可愛いんだよな。ぬうう、いやいや、すでにもうダメかもしれない……。こんなことじゃ、もしうまく行っても、「そんな人だとは思わなかった」ってすぐにフラれっちゃう!  よしっ、ここまで読んでくれたのなら、前半の掴みはイケたのだろう。うん。よしよし。しかし小説でも序盤でなにかオオッと感じても、これからって時に終わっちゃうものが多いんだよな。そこからの掘り下げが大切なのだ。大喜利ならそれでいいんだろうけども、小説はそれじゃいけない。ましてや「ボ」を連ねただけの出だしにヒケを取るとは言わずもがな……って、ボクは一体誰に向かって喋ってるんだろう。とにかく冷静になるんだ。落ち着け、落ち着け!  こういう時は知識をゆっくりと整理するに限る。うむ。湖って実は、海にも負けず劣らず広いことをボクは知っているぞ。世界最大の湖なんてのは知らないけども、日本は霞ケ浦ってのが最大で、子供の頃に行った時は向こう岸も見えなかったくらいなんだぜ。なに? 日本最大は琵琶湖だって? 仕方ないじゃないか、行ったことないんだから。まぁ、その霞ケ浦より大きいのがあるってことは、それはもうバカでかいってことなんだ。よしよし、ボクは冷静だぞ。  考えろ、考えろ、考えろ! もしここで「はい」という二文字を言ったらどうなるんだろう。ボクと由美子ちゃんが付き合って、その先は……。  セ……セックス?  あ、いやいや。キミも同じことを思ったって? ううん、そんなよくわからない未来はやめておこう。ネットのエロ動画は見ているけど、実際あんなことをしたら女の子に嫌われちゃうって誰かが言ってたっけ。しかし、じゃあどうしたらいいんだろう。……あ、いや、よくわからない遠い将来のことは一旦横に置いておくに限る。そうだ、その位、冷静でないといけないぞ。  このまま付き合ったら、えっと……手をつなぐ? うわっ、由美子ちゃんと手を繋ぐのか! だめだ。それだけで体が熱くなってきた。で、喫茶店とか行って、って、喫茶店ってコーヒー高いんだよな。どうやってお金を用意したらいいんだろう。ボクは常識を良く知っているぞ、そういう時は男がお金を払うんだからな。そうか! 携帯を親に内緒でこっそり解約して、浮いた分でコーヒーを払えばいいのか。あ、ダメだ。携帯を解約したら由美子ちゃんと電話できなくなっちゃう。バイトしなきゃいけないのかな。学校で止められてるしな。うーん、それでもバイトしてるのって、やっぱり彼女いるヤツばっかりだから、そういうことなんだろうか。でも、勉強する時間が減って成績落としてるヤツが多いし。ただでさえ良くないのに、今以上に学力が落ちたら、ボクは大変だ。由美子ちゃんにも嫌われちゃうかも知れないじゃないか。ダメだ、ダメだ、ダメだ。  前途多難ではないか!  よくよく考えて返事をしなきゃいけないぞ。 ……考えてみればおかしいではないか。なんでこんなボクに由美子ちゃんともあろう女性が「つき合ってください」なんて言ってきたんだろうか。よく考えろ、よくよく考えてみろ。確かにボクの必殺技は強力だが、昔友達に言った時は、一度目はただ気持ち悪がられて、二度目はバカにされただけで、それ以来口に出したことはないんだ。これが三度目の正直ってヤツか? いやいや、由美子ちゃんにボクの必殺技は披露してないぞ。じゃあ、なんでだ?  モテないヤツに、ウソで告白して、それを後で笑いのネタにするというのがあるらしい。引っかからないぜ!……と思いたいが、引っかかるのも不思議じゃないだろう。だって、あの由美子ちゃんなんだぞ。……って、キミはどうも由美子ちゃんを誤解しているかもしれないが、別にカーストがどうとか、顔がどうとか、そういう見てくれだけでビビっているわけじゃないんだ。あ、そうか、ボクはビビっていたのか。うん、まぁ、ビビっているな、確かに。まぁ、それはそれとしてだ。由美子ちゃんはクラスの男連中に人気があるわけだが、ボクはそれだからビビってるんじゃなくて、遠くから眺めてただけなんだけど、男子も女子も、見てくれのいいヤツもそうでない人も分け隔てなく同じように接しているし、掃除当番になった女の子がデートだっていう時に交代してくれてたのも見たことがある。そういう性格の良さそうなところも大きくて、……そう、ボクだっていいなぁと前々から思っていたのだ。そんな由美子ちゃんがまさかイジメっぽい罠を仕掛けるわけないじゃないか……と思いたいが、そんなに彼女を知ってるわけじゃない……。ぐう、なんでだろう?  とにもかくにも、この場を「はい」の二文字か「ごめんなさい」の五文字、どちらにするか……決めねばならない。「はい」と言ったら、バラ色の未来が待っているかもしれないし、いやいや、やっぱりモテそうもない男をからかっているだけで笑いモノになるという流れかもしれない。必殺技だって二度と出せなくなっちゃうかもしれない……それはまぁいいか、役に立ちそうもないし。「ごめんなさい」って言っておけば何事も起きないだろうけど、この先、こんな幸運を手にすることもないのかもしれない。いくら未来は海のように……いや、湖のように広がっていたとしても、その先っちょが今なのかもしれないじゃないか。  くそっ、もう、ボクには決められないよ。だめだ。「はい」か「ごめんなさい」かを、ぜひともキミに決めてほしいんだ。こういう時他人に任せるって、ボクのことをバカにしたかい? でもさ、どうにも決めかねるときに誰かを頼るって、そんなに悪いことかい? わかってるよ、あくまでキミの話は参考程度で、最後はボクが決めるから安心してくれ。 ……キミは今、簡単に「はい」って決めただろう? まるでインターネットのアンケートにでも答えるかのように。あるいは、ネット上の人生相談に答えるかのように。もっと真剣に、友達から相談されているかのように考えてほしいんだよ。ああ、「どっちでもいいじゃん」なんて言わないでくれ。これはボクにとっても重大な岐路であると同時に、キミの人生にとっても大事なポイントなんだよ。もしキミがボクと同じ状況になった時、どうするかをキミに聞いているんだ。こんなことは起きない? 待て待て待て。キミは自分の可能性を捨てようというのか? ボクの未来が海の……いや、湖のように広がっているとはいえ、キミの未来だって湖のように広がっているんじゃないか。キミ自身がどう答えるか、ぜひ真剣に答えてほしいんだよ。ボクの未来がこれから決まるように、キミの未来も今この瞬間に決まると言っていい。素敵な未来が待ってるかもしれないし、あるいはイジメのネタにされるかもしれない。たとえ少しの間は上手く行ったとしても、すぐにフラれっちゃうかもしれない。それでも突き進むのか、あるいは逃げるのか。  この先どうなったかは、必ず伝えよう。自分のことのように考えて、ぜひとも答えてくれ。ん、なんだって? この話ももう残り少ないじゃないかって? 結末を書いてないじゃないかって? 大丈夫。今の答えが、きっとキミの将来に起こる出来事の答えだからさ、どうか頼むよ。

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ドライ・マティーニと塩辛

 大山善助は今、孫娘の結婚式から帰ってきたばかりである。  大いに疲れた。長いあいだ車に揺られていたのもそうだが、なんといっても結婚式とそれに続く披露宴での身の置き場のなさに閉口したのだ。  結婚式は閑静な家屋の一室で、両家と仲人だけが出席し、三々九度、高砂や、と続く。家の前では、黒山とは言わぬまでも人々が障子の隙間から中をのぞき、新たな生活を始めようとする若き二人の恥じらう様を伺う。つと白無垢の嫁が顔をあげようものなら、器量がどうの、化粧がどうの、いやまあ綺麗だこと、と口々につぶやく。たとえ別嬪であろうとなかろうと芝居のせりふのように人々は同じ言葉を口にする。  一通りの式題が済むと、嫁側の母親が玄関に出る。本日はお集まりいただきましてありがとうございます。せっかくですのでお忙しいとは存じますが、どうか若い二人の門出をお祝いしてやってください。人々はやはり口々に、器量よし、綺麗だこと、とつぶやきながら敷居をまたぐ。  披露宴が始まれば、すっかり赤ら顔になった男がこれまた真っ赤になった婿に言う。 「どうやってモノにしたんだい、まったく。なにか手があるのなら教えてもらいたいもんだね」  下品な言葉さえもこの場では許される。婿は赤い顔をさらに赤くし、ひとこと「惚れたら押すしかありませんよ」などと言う。まったく、と男が呆れ顔をするのも決まりきった芝居のよう。あとは呑めや唄えの大騒ぎとなり、閉宴におめでとうと言い残し去っていく。  ……という印象を善助は持っていた。友人たちの結婚式、披露宴もそうであったし、妻の須真子との時も同様である。照れながら、みなさま、須真子さんをきっと幸せにしてみせます、とも言った。  息子の結婚式の時に、その印象は覆される羽目になったが、この孫娘の時ほどの驚愕を感じたわけではない。  孫娘の名は裕美子という。嫁に行けるかどうか、と内心ひやひやしていた。かなりのお転婆である。幼少の頃、近所の子供を殴って泣かしてしまったという事件は数知れず、大きくなればなったで派手な衣装に身を包み、女のくせに夜遅くまで飲んで明け方帰るということも多かったようだ。息子夫婦と同居しており、善助夫婦とは離れて暮らしているために会う機会は少ないものの、親戚縁者を通じて武勇伝じみた話は何度も伝わってきた。  出来の悪い子供ほどかわいいというが、孫ならなおさらである。はたして結婚などできるかと心配していたが、当の裕美子に言わせれば「みんなこんなだよ」ということで、めでたく本日の運びとあいなったわけである。  孫娘の友達、という男が車で結婚式会場まで運んでくれた。男のなりは筆舌に尽くしがたい。結婚式だというのに、化繊のシャツに綿パンツ。髪はボサボサで前に垂らしている。顔は真っ黒。裕美子の話ではテニスの友達ということだが、まさにその帰りにでも立ち寄ったんじゃないかという雰囲気である。出直して来いと口まで出掛かるが、そこはぐっとこらえ車に乗り込む。  車もひどい。まずもって車体が真っ赤で薄気味わるい。小さな車のためか振動もひどく、年老いた体には堪える。風がすうっと吹いただけでもガタガタと音がして安普請の家のよう。孫の結婚式ということで耐えに耐えるが、戦時中ではないのだからなにもここまで辛抱せずとも、と思うが……。不機嫌になる。  息子の結婚式の時にも見たウェディング・ドレスに再見し、やはり白無垢がいいと思うこそすれ口には出さず。須真子は気配を察し「おとうさん、時代は変わったんですね」と言わなくてもいいことを言うのだ。  ご大層に司会なるものまであるが、これがまた実にだらしない。  司会というものは型苦しい者をなごませ、なごみすぎた者をたしなめる役目を負う。しかし、なごませこそすれ、たしなめぬ。ひどいものである。  スピーチでのことだ。下手クソな歌をがなりたてる輩が大勢いるのは許そうが、定番ですがキスなどひとつ……、と言い、孫は顔を赤らめもせず言いなりになっていた。定番などと誰が決めたかと憤慨するも、拍手が起こり、息子夫婦の微笑む顔を見れば暗澹たる思いに沈む。息子の育て方を間違ったために、孫の教育さえロクにできない人間になってしまったかと反省する。裕美子や婿の通う会社の上司や同僚が出席しているというが、果たして恥ずかしくないのだろうか。  着替えをするとかで孫が引っ込んだ。再び現れる時、式場が真っ暗になり、停電かと思うも束の間、部屋中に光線が走る。まるで空襲かのようである。暗い空に敵機が来襲し、光る爆弾を落としていったあの当時のこと。厭な戦時中の体験を、たった数時間のうちに二度も思い出させるとはとますます不機嫌になる。これが我等熱望せし平和かと思えば思うほど無常の念にかられ、ついぞ忘れている方丈記の一節までが頭に浮かんで来そうである。  会場が突然明るくなり裕美子が登場する。高いところからビル掃除夫の籠みたいなものに乗り、ゆっくりと下に降りてくる。司会が「拍手をお願いします」などと言うが、ドサ周りの三文芝居にも満たぬ演目であり到底拍手などできた代物ではない。須真子は気配を察し、おとうさん、時代は変わったんですね、と言わなくてもいいことを再び言うのだ。  料理も出るが、食う気になどなれない。  歯が悪くなってしまったためだけではない。洋風の料理で、肉のギラギラしたものや、緑に濁った薄気味わるい酒が出る。手をつけるも恐ろしかった。ポタージュ・スープに口をつける程度である。結婚式には老若男女が出席するとはいえ、普通は年配に気を遣い合わせるものである。さらに不機嫌になる。  結婚式が終わり、披露宴へと続く。時間の都合で一時間ほど潰してくださいといわれる。もういい加減帰ろうかと思うも、孫娘が挨拶に来た。いや、挨拶などという代物ではない。 「おじいちゃん、凄かったでしょ、ねえ、披露宴にも来てよね」  喜ぶ顔には勝てず、しぶしぶ承知する。しかし、ひどい式なのに喜んでいるのが尚のこと気にくわぬ。  息子と話す。息子も今日の結婚式には納得いかぬらしい。過美であると言うが、おまえの時にわしが言ったセリフと同じだと笑えば「おとうさんも随分と物わかりがよくなりましたね」などとぬかす。そういうつもりで笑ったのではなく、嘲笑したのだがわかってもらえない。須真子は、おとうさんは無理をしているんですよ、などと息子に喋っている。あとで叱った。すいませんと殊勝に詫びる。やはり女はこうでなければと須真子の良さを再認識するも、それはそれでなにか可笑しなことである。  披露宴は、居酒屋を現代風に作りかえたような所で行われた。なんでも孫夫婦の行き着けの店であるという。つまみも出るが口に合わない。焼き鳥でもあればと思い、聞いてみたものの笑われる。ピーナッツの親玉みたいなものや、スパゲッティなどが出る。もちろん箸はつけない。  酒もなんだか訳のわからないものが出た。居酒屋の主人が勿体ぶるようにアルミの容器を二つくっつけて、上下にシャカシャカ振っている。手が滑って中の液体をぶち撒けはせぬかと落ち着かない。漏斗のようなグラスに出来上がった液体を注ぐ。赤だの黄色だの、色とりどりで気味が悪い。とうてい呑む気になどなれない。ウィスキーならあるというので、もらうことにした。  宴がたけなわになるにつれ、酔っぱらって伏せてしまう者や、だれかれ構わず言い掛かりをつける者、そして、服を脱ぎはじめる者まで登場した。裕美子が指をさしながら大口開けて笑っている。よくよく辺りを見回せば、善助たち夫婦のような年寄りは見当たらない。おとうさん、時代は変わったんですね、と須真子が言いそうな雰囲気を察し、こっそりと店を出た。  数日後、裕美子が旦那を連れて家にやって来た。新しく親族に加わった男をまじまじと眺める。結婚式や披露宴では周りのことに気が散ってしまい、男の顔すら覚えていなかった。だが覚えていない理由がわかりそうな顔だ。これといって取り柄のない顔である。眉が二つ、目が二つ、鼻がひとつに鼻の穴が二つ、口が一つに唇が上下に二つ。当たり前だが、それ以上なにも言えないような顔である。もっとも裕美子を貰おうなどという男だから、さして期待していたわけではなかったが。  ただ、健康そうなのはいい。  披露宴の話になる。服を脱ぐなどひどいもんだと言えば、裕美子は顔色ひとつ変えず、イケシャアシャアと「みんなあんなだよ」とぬかす。逆に婿は「お見苦しいところを見せてしまい、どうもスイマセン」と言う。なかなか見所がある。よくよく見れば目は切れ長で鋭く、それでいて奥に優しさが滲み出ている。唇はキリリとは言えぬが、ボテッとした野暮なところはない。好青年である。 「あの時出た酒はなんだい、気味のわるい色がついていたが……」 「ああ、カクテルっていうのよ、おじいちゃん。気にいった?」 「気にいるもなにも、恐くて手が出せんかったよ」 「もったいないわね、あれ、美味しいんだよ。そうだ、ねえ、リョウちゃん、おじいちゃんに作ってあげてよ。リョウちゃん、カクテル作るの、上手いじゃない」  リョウちゃんとは婿の名である。良平君という。人前で「リョウちゃん」とは恐れいったが、なによりもまたあの薄気味わるい酒の色を見るのは御免である。 「いや、気持ちはうれしいが、遠慮しとく」 「遠慮なんかしなくていいわよ」  裕美子はどこで日本語を習ったのだろう? 遠慮する、とは、イラナイ、という意味なのだ。 「それに家には日本酒しかないぞ」 「用意しますよ、買ってきます」  良平君が言う。鼻の穴が妙にふくらんでいる。不細工な男だ。  しばらくして良平君が帰ってきた。ラベルに横文字ばかり書かれた瓶を持っており、台所を貸してくださいという。須真子が手伝おうと行くが手に負えぬらしく引っ返して来た。  しばらくして良平君が緑色の液体が入ったグラスを手にやって来る。 「カクテル・グラスまでは気が回らなくて。あるものを使わせていただきました」 「ドライ・マティーニだ。おじいちゃん、これ、あたしイチバン好き」  飲む気になれず、そのままうっちゃっておく。  やがて、孫夫婦は帰っていった。  須真子が、おとうさん、これ、どうします、と言う。 「捨ててしまいなさい、そんなもの」 「しかしせっかく良平さんが作って下すったものですから……」 「むぅ……晩酌だ。塩辛を持ってこい!」  塩辛に箸をつけながら、ドライマティーニなるものを飲む。 「塩辛と一緒に呑むものなんですか。変じゃありませんか?」と言うも、聞く耳を持たずに箸を進める。酒には塩辛が定番である。塩辛の合わないものなど、酒ではない……。  あまりにもうるさく須真子が言うものだから依怙地になっていたのだ。塩辛ではなく、あの時のようにピーナッツの親玉やスパゲッティが似合うのは、言われるまでもなく知っている。塩辛に合わず、こんなものは酒ではない、と一言いってやりたかっただけなのだ。  ところが。  案外合うのである。  酒も、思ったほど不味くはない。いやむしろ何度も呑みたくなるものなのだ。今度良平君が来たら、また作ってもらおう、とつい言ってしまった。  おとうさん、時代は変わったんですね、と須真子がつぶやく。  善助は、須真子との結婚式が終わった後に、なんという破廉恥な式だと自分の親父から小言を言われたことを、今更ながら思い出していた。  庭の木々が風に揺れ、ざわっと音がした。空には三日月が光っている。 「おめでとう」  善助は、空になったグラスを掲げながらつぶやく。  グラスの端が、月の光で微かに輝いた。

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赤い繭

 真四角の小さなクリーム色のテーブルに、三センチほどの真赤な卵形の物体が置かれている。左右を見渡すが、部屋の中は魚眼レンズを通して眺めた風景のように変形し歪んでいる。視線を遠くに向けるにしたがって煙が渦巻くように曖昧になっていき、壁に掛けられたカレンダーの文字が宙を舞い、アナログの置き時計が溶けていく。断崖から落下していく景色のごとく色彩を急速に失っていく白と黒だけの世界に、たったひとつの真赤な物体は鮮烈な存在感を放っていた。  自分のアパートにいることは間違いない。クリーム色のテーブルでわかる。スチールで出来たテーブルの脚はかすかに浮いているように見えた。このような夢は、幼い頃から何度も見ている。またか、と思った。  テーブルに置かれた物体は、繭である。『オカイコサン』が怒ると、赤い繭を作るという。中では『オカイコサン』の神と、人間の姿をした神が交合い、昂ることでイザコザを忘れようとしている。触れてはいけない。取り返しがつかなくなってしまう。  この『オトギバナシ』を、だれから聞いたか思い出せない。ただわかっていることは、『アカイマユ』が私の先祖を没落させたということだ。祖父母は『狂人』というレッテルを貼られ、故郷を追われるようにして東京へ逃げてきた。母親は、未婚の母として私を産むとすぐ、自殺した。先祖のだれかが赤い繭に触ったとか……。  いきなり携帯のベルが静寂を切り裂くかのようにけたたましく鳴る。突然のことで肩が脈打つようにビクッと動いた。携帯の画面を見たが、名前の表示ではなく数字が並んでいる。誰だろう。電話に出ると途端に男と女の喘ぎ声が漏れてきた。すぐに喘ぎ声はやみ、女の声が聞こえてきた。 「どう、驚いた? アタシよ。アンタなんかと別れたって、不自由してないんだからね」  息を切らしながら言う。聞きおぼえのない声だ。 「もしもし、どなたでしょうか?」 「なに、とぼけてんのよッ」 「あのう、どちらにお掛けでしょうか?」 「知らんぷりしちゃって、トモミよ、トモミッ。忘れたとは言わさないわよ」  トモミなどという名前には心当たりがない。文句の一つでも言ってやろうと顔に近づけた時、再び喘ぎ声が始まった。肉の匂いまで嗅げそうなほどの荒い息遣いである。喉の奥からだろうか、常にヒュウヒュウという音も出ている。その不規則な呼吸にあわせ、シーツの擦れるかすかな音、やがて狂ったように舐め廻すような音、さらに強く腰を打ちつけているような音も次々と聞こえてきた。  二つの真赤な舌が異質な液体を混ぜ合うかのように絡みあう。てのひらにすっぽりとおさまるほどの乳房を両手でつかむ。そんなありきたりな行為のあと、一週間後に妻はふらりといなくなった。これも『アカイマユ』のタタリだ。しばらく聞いているうちに女の喘ぎ声は、別れた妻のと似ているように思えてきた。だが妻の名はユキコという。この声の主ではないのだろう。  電話の声は、まだ続いていた。ときおり「殺して、殺して」と、泣き声混じりの叫びが挟まる。急に息苦しくなって、私は激しく携帯を床に叩きつけた。画面が壊れ、破片が飛び散る。粉々に割れた破片は予想していなかったほどに勢いよく舞い上がり、壊された復讐を果たすかのように私をおそう。頬から、腕から、足の指から、血がしたたり落ちる。洋服が真赤に染まった。なぜか痛みは感じなかった。 『アカイマユ』が微かに動いている。注意して見なければわからないほど、微かに。手足をじたばたさせ、声までも張り上げねばならない我々とは雲泥の差である。我々は触れてもいけないし、直接眺めることさえ禁じられている。そんな高貴な存在なのだ。そして、運命を決めるのも、宿命を決めるのも、『アカイマユ』の中にいる二つの存在なのである。信じたくないことだが、我々にはなすすべがない。眼を閉じるだけだ。  雨の音が聞こえて来た。目を開けると、私は暗い路地裏に立っていた。激しい雨である。体中の血はいつの間にかきれいに洗い流されていた。地面の泥が軟体動物のようにうねる中、電柱の影で足を一本失った野良犬が頭を突っ込むようにしてゴミをあさっている。低い声で唸ると、体を左右に揺らしながら消えていった。消えて行ったちょうど反対側を見渡すと、塀にもたれるようにして男が立っている。私を見つけると、右手を差し出してきた。金をめぐんで欲しいようだ。ポケットを探って出てきた百円玉をてのひらの上に置く。手首から先が、ボロッと音を立てるように崩れた。男はそれきり動かなくなった。艶やかな色のカラスが舞い降り、ついばみはじめた。腹から、血だらけの臓物がはみだす。何羽ものカラスが集まってきた。振り返って見た時には男の姿は、あとかたもなくなった。カラスたちはバタバタと必要以上に音を立てつつ、そこには最初からなにもなかったかのように無表情な顔をしながら興味なさげに飛び去って行くのが見えた。  路地を抜けると大通りに出た。いつの間にか嘘のように雨はすっかりやんでおり、単色の絵の具で雑に描かれたような太陽と青空、そして雲が浮かんでいた。空を等分にわけるように突如として現れたビルには据え付けられた大きな時計があり、五時四十六分を示している。だれもいない。薄汚れたガードレールをへだてた車道には黒く淀んだ雨の跡があちらこちらに見えており一台の車も通っていない。ここはどこなのだろう。  アスファルトでできた通りをしばらく進むと、歩道の真中に学生服の少年が横たわっていた。黒いズボンの隙間から小さなペニスを空に向け、「逃げたい」と何度も叫びながらマスターベーションをしている。少年の方に歩み寄り、目を疑う。幼い頃の私とうりふたつである。とっさに名前を聞いた。それは私の名前だった。そうかこの少年は、夢の中の私なのだとすっかり納得した。 「ここは夢の中だね?」と少年に確認する。 「違うよ」  驚くほどはっきりと、少年は否定した。 「じゃあ、一体どこなんだい?」 「知るもんか。誰に聞いたってわかるはずないよ」  夕焼けがあたりを包みはじめ、空気の匂いが少しずつ軟体動物の這った後のように変化してきている。いつの間にか、辺りには人が溢れていた。サラリーマンやOLがほとんどである。全ての人は一糸まとわぬ姿で、私だけが服を着ている。帰宅途中だろうか、脇目もふらず、みなが一定の方向に歩いている。鳩が数羽、人々の足の隙間を縫うようにとつとつと歩いていた。そんな動く障害物には目もくれず、人々はただひたすら我が道を行くかのように顔を真っすぐ前に向けたまま進んでいる。鳩はまるで追われているかのように後ろを振り返ることなく逃げるが、決して飛び立とうとはしなかった。視線を遠くに向けると、まわりから頭をひとつもふたつも飛び出ているスカイツリーが見えた。 「ここは東京ですか?」と聞き廻るが、誰も相手にしてくれない。近寄ると慌てて逃げる者までいる。幼い女の子が私に指を差しながらなにかを言っていたが、そばにいた能でもはじまるんじゃないかというほどの濃厚な化粧をした母親とおぼしき女性に「見ては駄目」と小声で言われ、無理やりに手を引っ張られながら私の視界から消えて行った。  アスファルトの上に汚れた段ボールを敷き、腰を丸めるようにして老人が座っている。ところどころに染みのあるくすんだ黒い服を着て、鳩にポップコーンを投げている。近づくにつれ、すえた臭いが鼻を突き刺してきた。その臭いにくらくらとしそうになりながらも近づいていく。 「ここは東京ですよね?」  老人は手をとめ、私の方に顔を向けた。 「ほう、面白いことを」  老人が口を開けると、意識が遠のいてしまうような臭いが、私の鼻の中に入ってきた。腹の奥底にまで毒薬がしみ込んで来るような気がして顔をしかめながらも、続けて訊ねる。 「違うんですか? だって、あそこに見えるのはスカイツリーじゃないですか」 「もし東京だとしたらどうなる?」 「どうって?」 「自分がどこにいるか、なんぞ知ったとこで、どうにもならんじゃろ」  老人は、吐き捨てるように言った。 「おっしゃる意味が……よく、わからないんですが」 「この鳩。おぬしの見ておる鳩と、わしの見ておる鳩が同じと、誰が言い切れるか? 色や形、まったく別個に見えとるかも知れん。スカイツリー? それも同じこと。人が生きているのも同じこと。わかったかい、お若いの」  なにもわからなかった。わかったのは、この老人は頭がおかしいということだけだった。老人に背を向け、歩き出す。振り返ると老人の姿はなく、同じ位置に私そっくりの姿があった。鳩にポップコーンを投げている。コピーされた偽物なのだろうと思った。いや、コピーされたものが本物なのだろうか。だがこうして考えをめぐらすことになんの意味があるのだろう。私はどちらでも構わないと思った。  一歩足を踏み出したとき、風呂の水が排水溝に吸い込まれるように周りの景色はゆがみ、次の瞬間に私は再びクリーム色のテーブルの前にいた。『アカイマユ』はまだあった。指先で触る。変化はない。両手で包むように、握りしめた。指の間から、少しずつ真っ赤な液体が染み出て来る。やがてその粘性のある液体は手を包み込むようにとめどなく溢れ出てきて、見ているうちに自然と涙が出て来た。視界が涙でぼやけている。思わず目をつぶった。『トモミ』とはもしかしたら自分の母親の名前だったのではないかと記憶を手繰り寄せているうちに、なぜか腹の奥の底から笑いが込み上げてくる。笑いたい衝動が込み上げてくる。なにも面白いことなんてないはずなのに不思議で仕方がない。  再び目を開けるとテーブルに伏している自分に気づいた。ぬるっとした感覚を手に感じ眺める。まだ温かい血がべっとりとついていた。クリーム色のテーブルの上にもコーヒーカップを倒してしまった時のような茶色い跡がいくつもある。こちらは乾き切っているようだ。とっさに起き上がろうと足に力を込めたとき、ぬるぬるとした真っ赤な液体で足を取られる。きちんと立ち上がろうとしても無駄だった。ずるずるとぬかるみの中に足を取られるようにじたばたしているうちに、床に広がっている水たまりのような液体の中央から妻のユキコの消え入りそうな声が聞こえてきた。なにを言っているのだろう。詳しく聞き取れない。私はまばたきをしたあと、ゆっくりとテーブルの上や部屋の中を改めて眺める。そこは空虚でなにもなかった。

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歯ぐきと歯

 電車は田畑の残る田舎道を、高く昇った太陽に照らされながら走っていた。時折、おわいのにおいを顔をしかめながら結城は大学へ戻ろうとしている。  結城は都内の大学で考古学を教えている。三時間ばかり電車に乗って行ったところで遺跡が発掘されたとのこと、生徒たちを連れて行く予定で、その下見のためにひとりでやってきている。話によれば、この遺跡は弥生時代のもので、貯蔵用の壺や煮炊き用の甕などや木製器具、甕棺などが出土したという。生徒たちと共に見学に行こうと考えていたが、いてもたってもいられず、とにかく行ってみることにした。  ところが、聞いていたような出土品はなく、目茶苦茶に荒らされたような跡しか残っていなかった。遺跡発掘現場として生徒たちに見せるにはあまりにも乱雑であり、かえって考古学に偏見をもたれるのではないかという程の有り様だった。われわれ若い研究者が調査を行えば、最新の機器を使いより正確に、そして文化財として後世に残せる形で発掘するのに、老人たちは昔ながらの方法で掘じくったり叩いたりでこれでは遺跡に傷をつけるだけだと腹立ちまぎれに思う。都会生まれだが、学生時代は考古学の遺跡調査などでどんな田舎町にも行ってきた。成果のあった帰りに田舎道のおわいのにおいを嗅げば、むしろ恍惚とした気分になれたのに、今日はそんな気にもなれないなどと考えながら、電車はただ車体をきしませながら進んでいる。  結城の乗った車内には、ほかにおばさん二人しかいない。他の車両を覗いても、ほぼ同じ状況である。ビルが見えたり時間がもっと遅かったりすれば混雑するのだろう。 「お隣の旦那さん、帰ってこないらしいわよ。どこに行ってるのか不思議じゃない。女でも作ってるのかしらね、イヒヒヒ」 「あら、いやあねえ。もしかしたら、新宿あたりで寝っころがってるかもしれないわよ、ワッハハ」  目の前のおばさん連中が口をでっかく開けて大声で怒鳴っている。ここらへんからも通勤している人間がいるのだろう、考えてみればたった三時間で東京に行けるのだから不思議はないなと考えながらも、やけにうるさいおばさん連中に腹を立てていた。 「なにあの人、こっちばかりジロジロと見て厭あねえ。あたしに気があるのかしら、エヘ」  小声で口を隠すようにしながら結城を指差して笑っている。まさか聞こえないと思っているのだろうか。小声とはいえ、聞こえないわけではない。なに言ってやがる、おまえらなんか見たって嬉しかないよ、そう思いながらも顔を赤らめ下を向いた。  すると二人のおばさんの足元で遊んでいるピンク色の物体が見えた。くの字型の物体で、その上方に小さく白い米粒の大きくしたようなものが乗っかっている。結城はしばらく、それが何なのか見当もつかなかった。  ……入れ歯だった。ほこりにまみれてはいるが、歯のわずかに汚れているところや、なまめかしい薄いピンク色の歯ぐきは、今までそれが口の中にあったことを証明するに足りるものだった。結城は思わず二人のおばさんの顔を伺った。目が合い、おばさんは再び結城のことを話題にした。 「変な人。こっちばかりジロジロと見て。変態じゃないの」  大きな口を開けた。その口にはたしかに歯があった。結城はまた視線を落とした。いやでも入れ歯が目に入ってしまう。笑っていいものだろうか、それとも拾得物として事務的に処理すればいいのだろうか、ニヤニヤすればまたおばさんに気味悪がられそうだし、ここで立って足元の入れ歯を手に取ってどうのこうのというと、これまたおばさんに変な顔をされそうで、結局下を向く。するとまた入れ歯が目に入る。 「イッヒッヒ」  ついに笑いが出てしまった。下を向いたまま、にやけた笑いをしている自分は、もっと変態に見られているだろうなと思いながらも、こらえきれず、もうどうなってもいいやって気になり、高らかに笑ってしまおうかとも思ったが、これではバカなおばさんと一緒になってしまうと思い、手で口を塞ぐようにして笑いをとめた。  しかし、いったいこの入れ歯は誰のものなんだろうと気になった。入れ歯を落としたのなら、すぐわかりそうなものに。ある女優さんがパーティーで差し歯を落としたのに気づきあわてて拾い、口にはめ、ニッと笑ってみせた、という話を思い出した。きっとそれを見た人は、どんな綺麗な女優だったとて幻滅したに違いない。  もしかしたら入れ歯作りの職人というものがいて、デパートの袋かなにかに入れて持っていく途中で落としたのではないかと考えてみたが、どう見てもこのなまめかしい色は最近まで口の中に入っていたものに違いない。ボケた老人が落としたまま電車を降りたのかとも思ったが、それにしてもそんな人間をひとりで電車に乗せるなんてありえないだろう。介護かなんかの人間が一緒に乗っているはずだから、気づくだろうに。  眠っていて、降りる駅が近づいてあわてて飛び降りたのだと考えた。きっとそうに違いない。寝ている間にポロッと入れ歯が落ちて、周りの人間もまさか、入れ歯が落ちましたよとは言いづらいので放っておいたのだろう。あわてて降りていくところを、じいさん、じいさん、落としものだよ、と言われて、ハッと気づいて扉に寄ったとたんプッシューッと閉じてしまい、アワアワとした口で過ぎゆく電車を見送る風景が目に浮かんだ。  よたよたとした足取りで駅員事務所に駆け込み、いやあ、実は落とし物をしてしまいましてね、と照れながら言う。 「何を落としたんですか、この紙にくわしく書いてください。バッグ等なら、中に入っているものも思い出せるだけで結構ですからできるだけ書いてください。ただ、貴重品等がなくなっていた場合には責任を負いかねますんで、御了承ねがいます」 「いや、あの。実は落としたものがですね」  老人がフガフガと言う。 「すみませんが、忙しいもので早く書いていただけますか」 「はあ」  空欄に落とし物を書くようになっている。バッグ等の中身も書けるよう、大きなスペースがとられていた。その下には、自分の名前と住所、そして落とした時間と場所、電車ならば、どこ行きで、急行か各駅かまで書く空欄があった。  申し訳ていどに、まず自分の名前を書き、時間や電車の種類を書き、そして、さらに小さな字で、入れ歯、と書いた。 「駅員さん、書いたのですが」 「そうですか、今見つかっても、すぐにお届けできるかどうかわかりませんので、今日のところは一旦お帰りください。見つかり次第、電話を入れされていただきます。お受け取りは、この駅ではなく、もっと上りの○○になると思いますが、ええと何を落としたんでしょう……い、入れ歯ですか?」 「はあ、ほんとにどうも相済まんことで」 「電車の中に、い、入れ歯を落としたんですか?」 「はあ、まったくもって相済まんこって」 「は、はあ、そうですか。それでは見つかりましたら、電話しますので」  事務的に駅員が言った。なぜだか知らないが、うつむき加減である。老人は、よろしくお願いしますと言い、事務所を出ていった。その時、背後で大きな笑い声が聞こえた。さっきの駅員の声だ。身の置き場をなくしたように、老人は駅をあとにした。  家に帰って家族に何と言おうか、そればかり考えていた。実は、入れ歯を落としちゃってね、アハハハ、とでも言おうか。それともむっつりした顔で、黙ったままにしていようか。  家族に逢うとすぐ、口もとが緩んでしまった。エヘヘヘと笑いながら、入れ歯がないために口がダラリと垂れ下がり、よだれを垂らしてしまう。じいちゃん、汚ねえな、と高校一年になる孫に言われ、慌てて手で口をおさえる。そして。  ジリジリと音をたてながら入れ歯が徐々に大きくなっていく。上だけだった入れ歯にいつの間にか下も出現し、パカパカ音をたてて上下運動を始める。歯ぐきはどす黒さを増し女の経血のような紫色に染まっていく。パカパカがバカバカに変わり、そしてバッカンバッカンになる。工事現場のボーリングのような大きな音をたてて上下に噛んでいる。私のほうに迫ってきた。  わずかに黄色がかった歯、特に尖った犬歯は好戦的であり、くすんだ紫色の歯ぐきはそれだけで攻撃的に見えた。足がすくんだ。全身に汗を感じた。私はいったいどうすればいいのだろうかと空を見上げた。空には黒いカラスが飛んでいた。クチバシに入れ歯をはめている。カーと鳴くたびに、カタカタと音がする。カラスまでが私めがけて突き進んでくる。原始時代、DNAに刻まれた逃げろ、という合図が無意識のうちに体の中をかけめぐり、震える両足を動かした。ガッタンガッタンと入れ歯が迫ってくる。とにかく走る。ここはどこだろうという意識すら働かない。街の真ん中でもあるようだし、森の中でもあるようだし、遊園地のようでもあり、また海の中でもあるようだ。とにかく逃げる。息がきれてきた。相変わらず巨大入れ歯と入れ歯カラスが追い掛けてくる。ガッタンガッタン、カーカー、カタカタ。音が聞こえるたびに、意識が遠のいていきそうになる。入れ歯カラスはどうやら諦めてくれたようだ。カーカー、カタカタという音が次第に消えていく。しかし入れ歯は諦めない。息が切れないのだ!  もうダメだ。入れ歯に喰われてしまう。前歯が私のYシャツに触れた。そしてガッタンと大きな音がすぐ背後に聞こえた。私のYシャツが噛みちぎられた。ここで入れ歯がシャレた言葉を言うならハードボイルドになるのに、となぜか思った。しかし入れ歯は喋らない。だいいち入れ歯じゃハードボイルドにはなりっこない。入れ歯はもてあそぶように私の服を噛み千切っていく。私はすっ裸になってしまった。尻丸出しで逃げている。私はすっかり観念した。入れ歯は私の腹に歯をたてた……。  私は汗をかいていた。夢をみていたようだ。それにしても入れ歯に追い掛けられるとは。しかし入れ歯は喰い千切った後、どうするのだろう?  アナウンスが入る。ちょうど降りる駅だ。私は慌てて席を立った。車内は多少、混雑していた。あのおばさん二人組の姿は見えなかった。降りる時、チラと入れ歯のあった辺りを見た。消えていたなら漫才のネタのようだと思ったが、入れ歯は相変わらず元の場所に、なまめかしい歯ぐきと白い歯をむきだしにしたまま、埃にまみれ足の間を遊んでいた。

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406号室

      一、  車が二台、やっとすれ違えるかという細い道に沿って、家が並んでいる。どこの庭も木々が生い茂り、薄暗い。雨を吸い込んだ木の葉が、枝を重そうに撓ませている。風が吹く。木々が揺れ、水滴が驟雨のように飛び散り、乾いたアスファルトに黒い跡を残した。  木々の隙間で、蜘蛛の巣に纏わりついた雫が、朝日に輝いている。主はいなかった。 「きのうの雨で、飛ばされてしまったのかもしれない。この蜘蛛のように、僕もどこかへ吹き飛ばしてくれたらいいのに」  正人は、歩みをとめ、水晶のように光る蜘蛛の巣に見入った。  幼い頃に父親を亡くしていた。しかもひとりっ子である。当然、母親の期待は大きかった。応えるように正人は中学受験し、有名私立大学の付属校に合格する。エスカレーター式に進学し、大学では経済を学ぶ。成績は常にトップクラス。 スポーツに関しても、高校時代、バスケ部の主将としてインターハイに出場。また生徒会の役員も、何度となく経験している。大学時代も、輝かしい実績とは言えないまでも、地元の3on3で名の知られた人物として活躍していた。  物心ついた時から父親がいないこと。正人は無意識的に、家を背負って立つ人物としての自覚を持っていた。その大局的に物事を見る姿勢はどのような場面においても、主たる立場に立たせてきた。だが決して、上から見下すということではない。他人に対する思いやりに長けていたといえる。事実、自ら希望することは一度としてなく、他からの推薦によってそのポジションについていた。  今から一ヵ月半ほど前、戦前に設立という、歴史ある証券会社に就職した。 「今日、来るはずじゃなかったっけ?」  入社早々、ミスをする。連絡の行き違いにより得意先との待ち合わせをすっぽかしてしまったのだ。事件の方は、先方に謝り解決した。新入社員なら必ず犯す失敗だ、ハシカのようなものだよ、と誰もが考えていた。上司に怒鳴られ、同僚から慰められ、二度と繰り返しません、と言えば許されただろう。  常に指揮を執る立場だった正人には、失敗という言葉の重みを必要以上に感じてしまうところがある。しかもこれまで失敗らしい失敗を経験してもいない。落ち込み、塞いでしまった。自然と、周囲との間に溝ができてしまう。気づいた時には、修復不可能なほどに拡がっていた。出社して、無言で働き、無言で退社する。毎日が、この繰り返しだ。いっそ転職すれば、とも思うが、思い切れない。  正人は自分を「半端者」だと感じてはいる。感じてはいるものの、 「父親がいないから、半端者だから、アイツは駄目なんだ」 そんな風に思われたくはないと思っていた。今まで正人を駆り立ててきた原動力は、このことだといえよう。  もし今、会社を辞めたら何と言われるか。片親だけじゃ子供は育てられないと、矛先は母親にも向けられるだろう。一流企業で一生懸命に働いている、と無邪気に喜んでいる母親を、絶対に悲しませることはできない。  笑顔で送りだし出迎える母親に、笑って応対する。毎日がせつなかった。  正人は再び、駅へ歩き出す。一軒だけ、細い道に不釣り合いともいえる八階建てのマンションがたっている。マンションの影になっている部分は、まだ乾いておらず、水溜まりが残っていた。前方から赤いスポーツカーが走ってくる。 「泥水を僕に浴びせてくれ。着替えたりしてたら、その分会社へ行く時間が遅くなる」  まるで子供のような願いだが、正人は本気そのものである。  車の排気音が、正人に近づいてくる。地響きを伴うような、スポーツカー特有の音だ。 「なにかのハズミでハンドルを切りそこねて、僕に向かってくるかもしれない」  アスファルトが焦げるような臭いがする。タイヤが地面を軋ませる音が聞こえる。正人の神経は、すべて車に向けられていた。  スポーツカーは嘲笑うかのように水溜まりの前で減速し、正人の脇をゆっくりと通りすぎて行く。実際には焦げるような臭いも、軋ませる音もないが、あまりに真剣に考えてしまったために、頭の中で作られた幻を感じていた。  マンションを見上げた。窓に、半纏を着た背の低い男の姿が見えた。        二、  健彦は推理小説の構想を練っていた。健彦という名はペンネームである。  二十代のうちに小説で生計をたてるべく家を飛び出し、東京へ出てきた。実家は、広大な農地を持った農家である。当然、勘当された。  三十歳間近で、やっと推理小説作家としての登竜門とも言える賞を取った。期待の新人と持て囃されたが、意気込んで書いた二作目の評判が悪かった。自分より後に出てきた人々が、詰まらない作品を垂れ流すように書き、次から次へと流行作家になっていくのを横目に見て、腹立たしく思った。アイツらのように、余力を残して書いた方がいいんだと考え、セーブしながら書き、雑誌社に持ち込むが、どこも相手にしてくれない。編集者の間では、もうアイツも終わりだ、という声さえ聞かれた。名前は当然に忘れ去られていった。  両親の死に目には逢えなかった。二人とも、亡くなってから、通知だけが来た。故郷へは帰れない。敗残者として戻るのは厭だった。  小さな広告代理店に勤めはじめ、妻をパートに出し、ひとり娘を育てている。  正人に再び転機が訪れた。相変わらず原稿を持ち込んでいたが、その一つが目に留まり、雑誌に掲載されることになる。流行作家としての忙しい日々が始まった。すでに六十歳が間近だった。  娘は嫁に行き、孫も誕生している。健彦夫妻は、郊外に引っ越した。娘夫婦と孫が訪れるのを楽しみに待つ、悠々自適な生活である。  ゆとりができた今、そろそろ原点にかえろうと思いはじめている。推理小説を志したのは、幼い頃に『モルグ街の殺人事件』を読んだのがきっかけである。犯人はチンパンジーだったが、動機のない殺人であり偶然の産物である。『殺意なき殺人』を仮題とし、犯人を動物ではなく人間にして、推理小説を書こうとしている。  窓を開けた。遠くの丘の上に朝日が昇っている。今日も徹夜になってしまった。  健彦は視線を下げた。真新しいスーツを着た背の高い若者がこちらを向いている。  慌てて目をそむけた。若者の目を表現するなら、空疎な形容詞を並べたてれば済みそうだ。見つめていると、自分までおかしくなって来そうである。  ゆっくりと視線を戻す。若者は駅の方へ向かって、緩慢に歩いていた。今の哀しみを乗り越えれば、きっと一回り大きくなれる、と若者の背中を見ながら、心の中で呟いた。  若者の横を、緑色のタクシーが通り過ぎる。マンションの前で止まった。  降りてきたのは、緑色のブレザーを着た運転手。ドアを閉め、太った体を揺すりながら、駅と反対側に歩き出した。しばらくして、後部ドアが開き、スラリとした女性が降りた。ドアを音をたてて閉め、今来た方向、つまり駅の方へと引き返して行った。  好奇心から、ずっと様子を眺めていたが、なにも起きない。雨が降り始めた。窓を閉め、カーテンをとじ、ふたたび机に向かうことにする。        三、  派出所に電話が入った。タクシーが道を塞いでおり、通行の邪魔になっているという。貞夫は電話を置くと、若い警官を連れ、現場に向かった。  貞夫は元刑事である。射撃も、推理も、聞き込みの腕も超一流であった。特に射撃に関しては、国体に出場するほどの腕前である。だが、取り調べに関して、甘い部分が出る。 「この犯人はきっと、やむにやまれぬ理由があったのだろう」と思ってしまう。取り調べ室に入る前は、心を鬼にして臨むのだが、犯人の顔を見た瞬間、仏に変身してしまう。貞夫さんは取り調べ室に来なくてもいいですから、と若手の刑事に言われることもしばしばだ。それでも、刑事としての力量は誰からも認められている。恐らく末は指揮する立場になるだろう、と誰からも見られてはいた。  コカイン密売ルートの捜査にあたった時、銃撃戦が起こり、同じ部署の刑事が殉職した。仲の良い友人でもあった。今思い返しても、悲しい出来事である。  しかもちょうどその前に子供が産まれたばかりだった。張り切っていたはいいが、それがもとで深追いをしてしまったところもある。通夜での若き妻の姿と、赤ん坊の泣き声がいまだに心の中に残っている。  なぜ刑事にとっては命というのはこんなにも軽いものなんだろう。そんなことを思わずにはいられなかった。同僚の刑事は死後、二階級特進をしただけだ。  捕らえてみると、犯人は元刑事であった。詳しいことは聞いていないが、些細な失敗で刑事を辞めさせられたらしい。その後、思うような職につけず、やむなくコカインの運び屋になったという。自分の仕事の虚しさを感じはじめたのは、この頃である。  派出所勤務にして下さい、と願い出た時は、お偉いさんたちから必死に説得された。だが、決心は変わらなかった。  赴任した時も、一騒動あった。ベッドタウンとはいえ、旧来の人々も大勢いる。田舎ならではということだが、どこから聞きつけたのか元敏腕刑事が来た、というニュースがすぐに拡まった。市民の身近な安全を守るために、刑事をやめて一警官になるなんて凄い、と褒め讃える声が大きかった。  鬼になるべきだが、成りきれない。菜食主義者のようだ、と自分のことを思っている。殺される動物を見たくなくて、目をそむけているだけだと。はがゆい。だが本心を言えば言う程、謙虚だと評判は高くなるばかりで、貞夫は苦笑するより仕方がなかった。  現場に到着した。鍵は中からロックされている。「とにかく移動しましょう」と連れてきた若手警官が言った。 「犯罪に巻き込まれた疑いもあるからな。本庁に連絡してから、対処を決めよう」  若手警官は「はっ」と敬礼をし、無線で連絡をしている。貞夫は、やっかいなことにならなければいいが、と思った。        四、  真司はタクシーを運転している。少々、気が立っていた。  勤務していた会社が倒産し、タクシーの運転手に転職した。始めは慣れないことで、方角さえ覚束なかったが、もう最近ではベテランの域に達している。運転手に誇りを持てるようにもなった。夢は個人タクシーの経営である。個人タクシーの権利を得るには、無事故・無違反を定められた年月、続けなければならない。酒も煙草も、好きだったパチンコもやめ、運転一筋にここまでやってきた。顔つきまで変わったという者もいる。楽しみは、出勤前、妻に作ってもらうけんちん汁である。そして、勤務を終え、帰宅した時の、「おかえりなさい」という一言であった。  真司に待望の一子が誕生した。諦めかけていただけに、喜びは一入であった。個人タクシーを必ずや、という気概さえ生じた。  だが、妻が育児に追われるようになり、朝のけんちん汁も、「おかえりなさい」の言葉もなくなり、夜は泣き声に起こされるという日々が続くようになった。子供のためだ、と我慢するが、楽しみを奪われ、いまいち仕事に精がでない。  今日、苛々しているのは、それだけではない。昨夜の勤務で、車内にゲロを吐かれ、シートを汚された。シートの清掃賃は、運転手の負担になっている。酔っぱらいなど乗車拒否すべきだが、タレ込まれでもしたら、個人タクシーの夢が吹き飛び、長年の苦労が水の泡になってしまう。汚れた車は使えないので、乗りなれた愛車ではなく、会社持ちのスペア・カーを使っている。クラッチやアクセルの具合が微妙に違い、運転しづらい。  後部座席に座った女性が、こんなご時世だというのに煙草を吹かしはじめた。昼間だというのに、酒のにおいもする。 「お客さん、このタクシーは禁煙ですよ。すいませんが……」 「あらッ、知らなかったわ。マッタク、乗る前に言ってよね。ひどいじゃないの。だいたい、その物の言い方はなによ、偉っそうに。タクシーの運転手って、どうしてこう横柄なのかしらね」 「はあ、すいません」と、感情を押し殺して、謝っておいた。長年の経験である。きっとこの客は何かトラブルがあって、苛立っているのだろう。触らぬ神に祟りなし、である。 「ちょっとオ、もっとスピード出ないの。遅れそうなのよ。わかる? 急いでんのよ。ト ロトロ走ってたら、間にあわないじゃない」 「ですがね、速度制限というものがありましてね」 「あんた、それでもタクシーの運転手なの。バカね」  自尊心が傷つけられた。お前になんかに、言われたくはない。 「降りてください」と言い、真司は車をとめた。 「乗車拒否するって言うのね。ダメよ。降りないわ。いずれにしろ、文句は言わなきゃ。ええと車の番号と運転手の名前は、と」  手帳を取り出し、タクシー番号と真司の氏名を書き写した。頭の中が真っ白になった。 「いいです、あなたが降りないというなら、私が降りますから」  ドアを開け、外に出た。真っ直ぐ歩き始める。後ろで扉が閉まる大きな音が聞こえた。        五、  雨が降っている。真司はいつの間にか、見知らぬ公園に来ていた。タクシー運転手であるのに見たことのない場所。つまり相当、遠くまできてしまったようだ。陽は暮れ、落ちかかっている。歩き通しだった。頭の中には、扉を力一杯に閉めたと思われる、大きな音しか残っていない。風景すら、抜け落ちている。ここまで、どのように歩いてきたのかも、覚えていない。  制服は雨に濡れ、泥だらけになり、緑色だったことさえ遠い昔のような気がした。公園のベンチに腰をかける。パンツの中まで、泥が入っている。生温かい泥の感触を、尻に感じる。シャツは雨と汗の区別がつかない程、びしょびしょに濡れていた。  夕日を見た。長年ドライバーをしてきたが、雨の日にも夕日は見えるのだ、ということを初めて知った。遠くに丘が見える。鬱蒼と茂る林は、雨を吸収する度しんしんという音を発しているようだ。公園のブランコが風に揺れ、ギイという錆び付いた音を出した。  その音で、一気に現実に引き戻された。真司は頭を抱える。もう、お仕舞いだ。個人タクシーという夢は、完全に消えた。これから妻と、生まれたばかりの子供を抱え、どうやって生活していけばいいんだろう。夢もなく、ただ車を運転するのか。いや、タクシー・ドライバーという職業さえ、もう出来なくなるかもしれない。きっと大騒ぎになっているだろう。噂が広がれば、雇ってくれる会社もなくなる。もう二度と職業というものに就けなくなる可能性だってある。  アイツハ車ヲ放ッポリ出シテ逃ゲタ男ダ。  いつまでも付きまとうだろう。妻は愛想をつかして、いなくなる。けんちん汁も食べられなくなる。ああ、そんなことはどうでもいいんだ。おれは一体どうしたらいいんだ。        六、  貞夫の連絡を受け、現場検証のため、刑事が数名、派遣されていた。近所での聞き込みを行っている。だが、朝早くのことで、目撃者は見つからず、捜査は難航していた。  刑事のもとに、本庁から連絡が入った。運転手は、タクシー会社の社長と共に、警視庁へ出頭したらしい。独りでは行けなかったようだ。刑事たちは引き揚げていった。現場には貞夫と、若い警官の二人が残った。運転手が車を引き取りに来るという。 「よかったですね。事件じゃなくて」 「だが、運転手にしてみれば、これからどうなるか」 「始末書で済んだようですよ」 「いや、社会的な制裁のことを言ってるんだが……」        七、  上手くいった。健彦は書きかけの構想を読み返し、机の上に置く。  カーテンを開けた。すでに外は暗くなっており、空一面、灰色の絨毯をしいたようである。雨は多少、小降りになっていた。  朝に見たタクシーの運転手が戻ってきていた。二人の警官が側にいる。一方の警官の目が奇妙だった。どんぐり眼というのだろうか。それ自体は愛嬌があるのだが、頬がこけているのである。さらに言うなら、逞しいガタイをしている。それが警官の制服を着ている。すべての取りあわせがアンバランスで、滑稽にさえ見えた。 「アッ」と、健彦はとっさに叫んだ。警官の一人も、同時に叫んだようだった。 「どうしてもっと、ちゃんと狙って殺してくれなかったんですか」  タクシーがバックした先に、人が歩いていた。わずかに体が当たったような音も聞こえた。しかし轢かれそうになった男の言葉が、これである。よく見ると、今朝健彦と目が会った真新しいスーツの若者だった。  警官の口がぶるぶると震えていた。なにかを言おうとして、声にならないようである。そして二三度、気持ちを整えるかのように首を振った後、叫んだ。 「突然、なにを言い出すんだ。馬鹿なことを言っちゃいかん。殺せだなんて」  カーテンを閉めた。 「突然、じゃないんだよな。いいことも、悪いことも、突然にはやって来ないもんだよ」  健彦はつぶやき、机に置いた構想を、破り捨てた。

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左右の扉

 このまま眠れたらいいのになぁ……。  腕枕をしてもらいながら、私はこのところずっとそう思う。汗をかいた彼の肌の匂いがとても心地よい。  あと一時間くらいしたらいなくなってしまうが、仕方がないこととは諦めている。  好きになったのは私の方だ。  田舎から上京し、大学を卒業して入社一年目。入って最初の仕事で、発注書の桁を間違えるという決して小さくはないミスをした。頭の中が真っ白になってしまった私だったが、懸命になってリカバリをしてくれたのが、秋山武志。彼だった。  発注先に連絡し、作り直した発注書を持って、一緒に取引先まで出向いて頭を下げてくれた。 「よくあることだから。でも、気をつけてね」  部長にこっぴどく叱られた私を、陰で優しくなぐさめてくれもした。  やがて武志のアシスタントという形で業務につくようになり、仕事の段取りの良さや責任感の強さなどを見ていて、今までの私の周りにいた人とは違って『おとなの人』だなぁとずっと思っていた。  二カ月目ほど経った時、大きなコンペを勝ち抜き受注が決まる。準備期間もさほどなく、二人で毎晩遅くまで頭をひねり勝ち得た結果だった。どうやら会社としても勝てる見込みなどないと思っていた案件だったようである。二人で社長室に呼ばれ、直々に褒められたことを今のように覚えている。  受注が決まった後、武志からお祝いに誘われた。 「君の作った資料がとてもよく出来ていたからだよ」  本当はそんなことは、ない。もちろん私も色々と調べたりはしたが、資料の大枠は結果的に彼がほとんど考え、私は清書した程度である。 「……というように先を急ぐと面白さが半減する企画ですので、じっくりと聞いていただけると助かります!」  プレゼンの最中に緊張して、話し終わる前にパワーポイントの次のページをめくってしまった時、クライアントの笑いを取りながら進めてくれたのも彼だ。  入社三年目で営業成績もトップクラス。でも決して誰かを蹴落とそうとしたり、威張ったりすることもない。 「あーあ、あれで結婚していなければなぁ……」  同期の女の子たちからも、そんな溜息が聞こえていた。  一件目の居酒屋でひとしきり笑い……とはいっても、ずっと笑わされていたのは私だが……二件目のバーに誘われる。  小さなテーブルに向かい合わせで座っている時に武志が言った。  すでに彼も私も、お祝い気分で結構な量を飲んでいたように思う。 「これを受け取ってくれないかな?」  彼が差し出したのは小さなネックレスだった。  高価なものではないよと笑っていたが、そこまで安くないのはすぐにわかった。当時三年ほど付き合っていた彼は、同い年だが一浪しており、まだ学生ということもあってか、高価なアクセサリーなど一度も買ってもらったことはなかった。 「つけてもいいですか?」  私はなんの抵抗もなく、貰ったネックレスを首にかけた。  決して、高価なネックレスだったからではない。元カレと比較したつもりもない。 「実はおれね、若くして結婚しちゃってさ……。子供も出来てはいるんだけど、実はもう夫婦関係は終わっているんだよ……」  左手の薬指に嵌めた指輪をテーブルの上に置きながら彼がそう言った時、私の頭の中ではすでに元カレと、どう別れようか真剣に考え始めていた。  最初の頃は外で食事をしていたが、決して安月給ではないものの、家庭を持っている彼は自由に使えるお金がそんなにはない。それでも、武志との会話はいつも楽しかった。  昼食代を節約している武志の姿を見ていると、私としても、そのうちホテル代も勿体なく思うようになる。  不倫をしている人はまるで極悪人だというような扱いをされているのをニュースで見るたび、私の心は痛むと同時に、そんなことはないと言い聞かせる。愛が冷めてしまった夫婦生活を続けていくことほど、人生にとって不毛なことはないはずだ。 「今、離婚の協議中なんだよ」  奥さんと別れてほしいと言ったことはないのに、きちんと私に報告してくれる彼は、仕事をしている時と同じように誠実だと思った。  やがて私の部屋に来ることが多くなり、慣れない食事も作るようになる。  離婚協議中に不倫をしていたことが明らかになれば、慰謝料などの関係で都合が悪いらしい。それでも隠れるようにして関係を続けていた。会社でも、プライベートでも。  平日に二人で残業になっても楽しかったし、定時で二人とも上がって、別々の道から私の部屋で再会するのも楽しかった。  もちろん、休日は逢うことは出来ないけれども……。  そんな関係が一年くらい続いた時だ。 「妻と子供をどこにやった?!」  絶対に休日には連絡をしてこない武志が私の携帯に電話をかけてきた。出るなり、ものすごい剣幕で私に怒鳴り声をあげた。 「お前だろう!」 「ちょ、ちょっと待って。どういうこと?」  その日は昼まで寝ていて、起きた時には妻と子供の姿がなかったのだと言う。そしてテーブルの上に、私の名前入りで、妻と子供を誘拐したとの脅迫文が残されていたらしい。 「いや、ごめん……君の字じゃないな……でも、どうして?」  会社で住所を調べればわかるかもしれないが、誓ってもいい、私は武志の家を知らない。そこに興味を持ってしまってはいけないと思っていた。脅迫文なんて彼の家のテーブルに置けるわけがない。 「警察には電話するなと書いてあるんだ。ねぇ、どうしたらいいんだろう?」  慌てたり、うろたえたりするような姿を、今まで一度も見たことがなかった。電話口の向こうに、私の知らない武志がいるように思えた。 「もしかして、私のことが奥さんに知られちゃったんじゃないかしら? それでそんな手紙をわざと……」 「ええっ! まずいな……」  奥さんと別れて結婚するという言葉を、完全には信じていなかった。半々くらいかなと思っていたが、考えないようにしていたし、もしそれならそれでもいいかなと思うようにもなっていた。少しだけ、カマをかけてみたいと思ったのかもしれない。 「ああっ、ごめんね。変な電話をしちゃって……」  遠く離れた電話の先で、見たことがない武志の姿を想像した時、信じられない気持ちの方に少しだけ傾いた気がした。 「ううん、それじゃ」 「あ、待って! ちゃんと話し合いはしているんだ。興信所でも使って調べたんじゃないかと思うんだよ。くそっ」 「大丈夫よ、信じてるから」  私は電話を切った瞬間、少しだけ涙が出た。でも、まだ信じたいという気持ちがあった。  携帯のリダイヤルボタンをじっと見る。このボタンを押してしまったら真実というものが突きつけられ、今までの全てが終わってしまうのかもしれないようにも思えた。でも、押さなけれないけないような気もする。何度もボタンに触れてはためらう。 「えいっ!」  わざとらしく声にも出しながらボタンを押した。ワンコール。ツーコール……。そして三回目で切った。  切った途端に着信音が鳴り響く。 「誰だろう?」  アドレス帳には登録されていない電話で、画面に名前は出てこない。 「はい?」 「久しぶりだね、わかる?」  電話に出ると、どこかで聞き覚えのある声が耳に届いた。 「ええと……、どちらさまでしょうか」 「そっか、やっぱりもうわからないか……。和義だよ」 「か、和義って……? えっ、どうしてこの電話わかったの?!」  元カレだった。別れた時に番号も変え、連絡先も消している。  少しぞっとした。 「いいや、そんなことよりさ。キミが今付き合ってる男、不倫なんだよな? 奥さんと別れるとか言ってるけど、ウソだぞ」 「そ、そんなこと、あなたに関係ないでしょ!」  疑いかけているところをズバリと言われてしまったせいだろうか。思わず大きな声で怒鳴ってしまった。 「キミには、やっぱりボクがいいんだって。あんな不倫野郎、やめとけってば」 「あなたに彼のなにがわかるのよ」 「わかるよ。就職活動がわりに、あいつのことをずっと調べてたからな。ヤツのことは全部知ってるさ。今どこで、なにしているのかもな。あははは」  声に抑揚が感じられず淡々とした響きで、ひとかけらも感情が伝わってこない。不気味だった。特に、笑い声は突然無理やりに全身を羽交い絞めされるような恐怖感があった。 「不倫男の奥さんと子供さん、今、ボクと一緒にいるよ」 「えっ?! どういうこと?」 「だからさ、不倫野郎の奥さんと子供さん、ここに居るんだって」  相変わらず緩急のない声で話しかけられる言葉は、意味へと変換するまでに時間がかかってしまう。もちろん話し方だけではなく、言っている言葉の意味自体が頭の中でうまく像を結べなかったせいもある。  元カレと、彼の奥さんが一緒にいる……って? 子供も?  もしかして奥さんと私の元カレが知り合いだったとか? あるいは私たちの関係を知って、脅そうと思っているとか?  急に伝わってきた言葉の意味は、一気に昼のドラマのような陳腐なイメージを形作っていった。 「とはいえ向かいの部屋で寝ているけどね。ていうか、無理やり寝かせて縛ってあるんだけどさ。それに部屋って言っても、がらーんとしているけどね」  この男の言い方は、まるで円の中心からわざとそれるような感じがする。何を言いたいのかわからず、苛立たしくなる。そういえば付き合っている時もこんな感じだったかも知れない。ただ、ここまで酷くはなかった気もする……。  私はぐるぐると頭を巡らせながら、ようやく核心となる質問へとたどり着いた。 「奥さんと子供を誘拐したの?」 「そう」  さも当たり前だと言うような物言いでこの男は言った。 「なんで?」 「ボクがいる部屋は入り口から入って左側。奥さんたちの部屋は右側にあるんだよ」  私の質問を無視して、この男は延々と喋り続ける。 「今ボクの目の前には爆弾があるんだ。今から扉と連動させるんだよ。開けたらドカン。おっと、その前に奥さんところにも仕掛けないとな」 「爆弾?!」 「うんうん。大学でちゃんと勉強したからね。それぞれの部屋の中にいる人だけがちゃんとバラバラになる分量にしてあるんだ。すごいだろう」 「な、なにいってるのよ? ふざけないで!」 「ふざけてなんかいないさ。ほら、キミにはボクが一番いいって言っただろう? キミのことは全部わかってるし、もちろん不倫男のこともね」  また背筋が寒くなった。  ストーカー。  そんな言葉が私の頭をよぎった。……そういえば電話番号も知られている。 「さぁて、奥さんのところにある爆弾を二十五分後にセットしたよ。これで次は僕の部屋の扉と爆弾をセットしてっと。ほら、出来た。簡単だったね。すごいでしょう」  次の言葉を探していたが、頭が麻痺しているかのようでなにも見つからない。そんな私にこの男は言った。 「もしキミが不倫男とどうしても一緒になりたいっていうならば、このまま二十五分待っていればいいよ。ボクも奥さんも子供もドカン。邪魔者はいなくなるんだ。キミはボクに感謝するんだろうなぁ。でも、キミが思ってる通りなら、不倫野郎もボクに感謝するんだろうから、ちょっと複雑な気持ちだけどね」 「ちょ、ちょっと、本気なの? ねぇ、ちょっと、本当に何してるのよ?」 「なんだったらさ、不倫男に電話してみるといいかもよ。キミのことが一番好きなら、きっと助けに行かずに、二十五分だけ家でじっとしてるんだろうなぁ」 「ねぇ、ちょっと。ほんと、なに考えてるの?」 「キミにはさらに、もう一つ選ぶ道があるんだよ。右に奥さんがいるって不倫男に伝えること。この爆弾はね、真上にあるボタンをポンと押したらすぐにタイマーが止まるんだ」 「そしたら、奥さんと子供は助かるってこと?」 「いちばんハッピーな終わり方だよ。彼は奥さんの元へ、キミはボクの元へ帰るんだ。あははは。でもね、もしかしたらボクの爆弾は止まらないんだよなぁ。でもいいんだ。キミの心の中にずっと生き続けるんだ」  この男の言葉に、全身が総毛立つような気持になった。 「奥さんは左にいるって伝えたら、どうなると思う?」 「どう……って?」 「不倫男とボクがドカン。こっちの扉が開くと、奥さんの方のタイマーは止まるようになってるんだ。奥さんは助かるよ。……わかってるんだ。ボクはバカじゃないからね。キミのストーカーになっちゃってるって気づいてるんだよ。そんなボクはこの世界にいらないんだろうなぁって、わかってるんだ。ボクはバカじゃないからね。だから、不倫男とストーカー男、まとめてドカンってできるんだよ」 「ねぇ、それって本当なの? 冗談はやめてって」 「冗談だと思うなら、あと二十五分。……あ、もう二十分切ったな。じっと黙って待っていればいいんだよ」  二十分という具体的な数字を出され、時が迫っていると思うと急に心臓がドキドキしてきた。 「あ、そういえば場所はね……廃工場なんだけど、不倫男が駅まで行く途中にあるヤツって言ったら、すぐにわかるはずだよ。走れば十分ちょっとかな。キミは十分くらいは考える余裕があるってことだね。えらいね、ボク。じゃ、切るからね。来世では一緒になろうね」 「あ、ちょっと待って!」  電話は一方的に切れた。慌ててリダイヤルをしたが、電源を切られたようで繋がらない。  私はあの男の言った言葉をもう一回、ゆっくりと頭で整理してみた。  廃工場に入って右側の部屋には彼の奥さんと子供。左側には元カレ。  それぞれに爆弾が仕掛けられている。  右側の部屋に入れば、すぐに爆弾は止めることが出来る。彼は……奥さんを助けることになる。そして元カレは爆発して命を落とす。  左側の部屋に入れば、彼と元カレ両方とも爆弾に巻き込まれる。ただ、奥さんは生き残る。  そして、あと二十分このままじっと黙っていれば、奥さんと子供、そしてストーカーの彼も爆発して死ぬことになる。  私は……黙っていようかという思いが頭にまず浮かんだ。  武志さんにとって私は……残念だけども遊びの関係に違いない。奥さんと別れると言った言葉も、もうほとんど信用できないと思っている。  でも、その奥さんも子供もいなくなれば、私の方だけを本気で向いてくれるかも知れない。  奥さんと子供さえいなくなれば……。  決して突拍子もない考えではないとも思った。  しかも……恐ろしいストーカーの彼も一緒にこの世からいなくなってくれるというオマケもついている。  ……でも……。  やっぱり、それは出来ないと思った。  一生後悔する? 消えない罪を背負う?  そんなんじゃない。  もし武志さんが私だけを向いてくれるなら、後悔などするわけがない。罪なんてとっくに背負ってる……不倫だって世間からすればすでに立派な犯罪なんだろう。  ……それでも、武志さんに知らせなきゃいけないと思った。  慌てて携帯にかける。  ワンコール……。ツーコール……。  とても時間が長く感じる。  七つ……八つ……。  ……出た! 「休みの日は出られないって言っただろう!」  武志の声は苛立っているように感じた。休日に電話してきたことだけではない、と私は思った。 「落ち着いて聞いてね……」  私は元カレからの電話の内容を伝える。 「なんだって?!」  黙って聞いていた彼が、今までに聞いたことのないような声で叫んだ。 「ウソだろ?! え、いや、冗談だよな、それって?」 「わからない。でも、本当にそう言ってたの」 「ちょ、ちょっと行ってくる」  そう言って、彼は電話を切った。  ツー、ツーという音がいつまでも携帯から聞こえている。じっと携帯を耳に当てたまましゃがみ込んだ。  私は……彼が奥さんを助けに行かず、二人でじっと二十分待とうって言ってもらいたかったのかもしれない。そう思ったら、急に泣けてきた。  好きになった人のためなら、誰かが死んでもいいなんて……。そんな女になってしまったのか、という惨めな気分。  それだけじゃない。  助けに行くことを予想していたのは間違いないけども、やっぱりどこかで彼を信じたい気持ちが残っていた。  裏切られたんだという気持ち……。  私はそんな二つの心を持て余しながら、首にかけたネックレスを握る。涙が次から次へと溢れてきた。  再び電話が鳴る。彼からだ。 「いま着いたところだよ。確かに入って右と左に扉があって、両方とも閉まってる。両方の扉の中から時計の音が聞こえてるんだ!」  やはり元カレの言ったことは本当だったのだろうか。 「それで、妻のいるのは右なのか? 左なのか?」  彼が慌てふためいた声で私に聞いて来た。 「奥さんのいるのはね……」  しばらく考えた後、私は彼に一方の扉を告げる。  同時に、携帯電話の電源を切り、ネックレスを引きちぎってゴミ箱に投げ捨てた。

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This Land is Your Land

「間もなく目標ポイントに到達。攻撃体制に入ります」  息詰まるような狭いスペースの中で、おれのすぐ目の前、背中を向け座っている男の言葉がヘッドホン越しに聞こえてくる。 「リラックスしていけよ、バージン・ショットだからな」  下品な笑い声とともに、管制からの無線が聞こえた。  おれもつられて笑った。  ついこの間、おれも前座席で操縦桿を握りしめ、はやる気持ちを抑えながら雲の上を飛んでいた。はじめての攻撃演習だ。前夜は興奮してなかなか眠れなかったのを憶えてる。糞まみれのサバイバル訓練だって、これがあるから出来るようなもんだ。  グラマン Fー14A トムキャット。  ベトナム戦争後からもう三十年近く主力として活躍してきたという Ms. Tomcat はおれたちのアイドルだ。早く順番が廻ってこないかと誰もが待ってる Pussy Doll みたいなもんで、今日そのお相手ができたラッキーな人間が、おれの前に座っている男。こいつの前に幸運を手にした奴がおれというわけ。規則だと今おれの席に座っているのは教官と呼ばれる奴らだが、慣例で前回のパイロットがやることになっている。血の気の多い奴らを飼い馴らしておくには、適当に暴れさせておくのが一番ということなんだろう。  こいつは空母などの戦艦を護衛する目的で作られた二人乗り・ターボファン双発の戦闘機だ。20㎜機関砲に加え、中距離AIMー7スパロー、短距離AIMー9サイドワインダーを両翼に1門づつ、長距離AIMー54フェニックスを下部に4門、装備する。量産型としてはオーソドックスな戦闘機だが、もちろん、核装備もできる。おれのような下っ端じゃ詳しいことは教えてもらえないし、教えてもらったところで頭の悪いおれじゃ理解できないだろうが、機関砲での徹甲焼夷弾のような比較的チープなものから、最新の小型核弾頭を備えたミサイルまで積めるらしい。もっとも核なんて言葉に敏感な人間のいるところじゃ演習などできるはずはなく、戦争でも起きないかぎり関係ないことだ。 「いよいよなんで、緊張してきましたよ。小さい頃から映画とかで見てて、いつかやりたいなってずっと思ってたんです」  操縦桿の男が興奮した声で言う。こいつはそこそこの家庭に育ったんだろう。おれなんか小さい頃に映画なんて見たことがねえよ。テレビだってなかったくらいだ。  おれの両親は一日中酔っぱらってるハゲと夜中に出てって昼ぐらいに帰ってくる女。話してる時はいつも怒鳴り合っているという、まあ言ってみりゃよくある家庭だな。生え際にある大きな疵は、親父がお袋と喧嘩してる最中ぶん投げたウィスキー瓶の破片が刺さったんじゃないかと思う。まだアンヨも出来ないくらいの時だったらしく憶えていないがどうせそんなトコだろう。テレビなんてあったら真先にぶつけられてただろうよ。  ここにいるのは、特別な理由なんてありゃしない。軍隊ってのは面倒くせえ規則はあるけど、いいところだ。街中でピストルぶっ放したぐれえで監獄行きなのに、ミサイルまで撃てて、さらに金までもらえるんだからさ。もっとも、他に行くあてなんてなかったせいもあるけどな。ここか、監獄か、棺桶の中しかねえからさ。  窃盗、恐喝、薬……。Johnny と Dick っていう奴と連れ立って、人殺しと頭を使うこと以外はなんだってやった。ただあいつらと違うのは、おれだけ履歴書が真っ白だということ。おかげで、おれはヤンキースタジアムみたいなでっかい体育館でトレーニングしてるけど、 Johnny も Dick も汚え檻ん中でラジオ体操しかできねえ。逃げ足だけは早かったんだな。  キャンプの中じゃイジメなんてのは日常茶飯事で、新入りはまず通る道らしいが、このおれがタダで殴らせるわけはねえ。逆に殴ってやったらオカマみてえな声出して謝るから許してやった。で、まだここへ入ってそんなに時間は経ってないけど、みんなおれの顔色うかがってるってわけだ。もし天国ってとこが Bibble の中以外にあるなら、こんなとこじゃねえかってくらいにいいところだよ。  雲が切れ、マリンブルーの海が視界に広がる。この付近は小さな救命ボートすらない。休日以外はほぼ毎日、演習が行われる。今この国じゃ若い奴の自殺が流行ってるらしいけど、最も楽な方法を教えてやろう。ここらへんで泳ぐことだ。 「目標を視認。攻撃を開始します」  後部座席のおれが遅れて目標を見つけた。もっともレーダーにはずっと表示されているし、動くはずもないものだから、見つけて当然だけどな。  このなにもない岩みてえな島の名前を知ったのは、最初の爆撃を終えて仲間と話していた時のことだった。  ポイントE1265N0265でしかないこの島は、もはや舞うのは砂塵だけで、鳥の楽園だったとは考えにくいが、Bird Island と呼ばれているらしい。  それを聞いた時に『大草原の小さな家』を思い出してしまった。  おれがまだ犯罪とよばれるものに手を出しかけの幼い頃、ブラブラ歩いてたら昔プロレスのレフェリーだったとかいうバカでかい男に拉致されたことがある。本当は拉致なんかじゃなくて欲得がらみの慈善だったのだが、そいつは無口な男で何も言わずについてこいと言ってて、おまけにバカでかいもんだから逃げるのが恐くて、おれはこれから拷問でも受けるような気になっていた。ついて行ったら、同じ黒人のくせにデカイ家に住んでて、やっぱりデカイ奴だから小さい家じゃ住めないのかなんて思った。玄関をくぐってやっぱり大きな広間に通されたんだけど、ふわふわの絨毯でもちろん喰いかけの腐ったリンゴなんて落ちてなくて、真ん中にチャイナから取り寄せたとかいう黒いテーブルがあって、触ると冷んやりして気持ちがよくて、腰掛けろと言われて座ったソファーは地の果てまで沈んでいきそうに柔らかかった。しばらくするとメイドがデコレーションだらけのパフェを持ってきて、喰うもんだってのは理解できたけど、どこから喰っていいのか悩んでたら、メイドがお口に合わなければ替えますよなんて、今考えたら厭味だったんだけど、その時は気が動転してて、イイエ、なんて裏返った声で言って鼻で笑われた。メイドが部屋から出たのを見届けて片っ端から手掴みで喰ってたらまたメイドが入ってきて、慌てたおれはクリームだらけの手をソファーに擦りつけたんだけど見つかって、頭のてっぺんから出るような声で叱られ、そしたら例のバカでっかい男が入ってきて、ぶん殴られるかと思ったら、メイドを叱って、濡れたタオルを持ってくるよう言いつけてた。  その時に、生まれて初めて動いてるテレビの画面を見た。それが『大草原の小さな家』だった。主人公は『How do you do?』って笑ってて『Hey! What's fuckin' up? 』なんて口が裂けても言わないんだぜ。そういう言葉は知ってたけど、初めて使ってるのを聞いたよ。その白人の女の子がまたすげえ綺麗で、喋るたびに首をちょっと傾げるんだ。おれはこの時に、本気でレフェリーになろうかと思ったよ。前に座ってる、この白人の男には理解できないだろう。レスラーじゃなくてレフェリーになりたいと思う奴の気持ちなんてさ。  機体が侵入角度を変えた。急降下をはじめたのだ。目標は島の北部、今は爆弾で吹き飛んでしまい逆に窪んでいるが、あったであろう丘の頂上付近である。  白人の男が甘ったるい声で歌いはじめた。『This Land is Your Land』なんて言いやがる。おまけに、20㎜砲を撃つ時に『GAGAGAGAGAGAAAA~N!』なんて効果音までつけやがった。  会話はすべて管制に筒抜けだ。滅多なことは言えない。だが、耐えられなくなって冗談交じりに言ってやった。 「ヘイメン! お前はいつから fuckin' country singer になったんだよ?」 「ブルース・スプリングスティーンって知ってますよね。ほら、アメリカの新しい国家、ボーン・イン・ザ・USAを歌った人ですよ。彼がライブの時に必ず歌う歌なんです。私もカントリーは聞かないんですけど、これはいい歌でしょう?」  興奮した声で一気に男はまくしたてた。 「クールな歌とは言えねえな」  こいつの話を聞いていると、吐きそうになってくる。人種差別なんて言葉は死語になったけど、誰もが知ってるようにまだ生きている。だけど白人にだっていい奴はいるし黒人だって胸糞わるい奴もいる。そのくらいは、いくらバカなおれでも理解できるようになった。しかし、やっぱり超えられない壁みたいなものを感じる時がある。この男もおれも同じバカだが、こいつは白人でおれは黒人だ。それが今まで全く別の環境で生活してきた理由だ。この差はどうしようもなく大きい。  下手クソなサックスしか吹けない今の大統領から何代も前に、人民の人民による何とかと言って奴隷を開放した奴がいて、今じゃそいつの名前を出して平等だ平等だなんて騒いでるけどやっぱり胡散臭え。これは新入りから聞いた話だが、このニッポンって国には大昔に、人には上も下もないが実際はそんなことはあり得ない、っていうようなことを言った凄い奴がいたらしい。おれはショックを受けたね。本当にその通りだよ。歴史が違うんだろうな、おれの国とはさ。でも不思議だよ。そんな凄い奴がいた国なのに、島ひとつボコボコにされてんのに文句も言わねえなんてさ。おれの住んでたとこなんて、もし爆撃されたらプレジデントは泣いて喜ぶだろうけどグッとこらえて報復だ! とか言ってワクワクしながら乗り込んでいくよ。ほんとにミステリアスだよ、この国は。しかも、Bird Island なんだぜ。『大草原の小さな家』みてえな草原とかあって鳥が舞ってたようなとこなんだぜ。あ、でも誤解するなよ。自然を守ろうとか言ってるハチマキ野郎と一緒にするなよ。自然なんて吹き飛ばしてビル建てて会社が増えりゃおれみてえなバカでも仕事にありつけて毎晩エア・ジョーダンみてえなステーキ喰えてチップだとか言って颯爽と立ち去ってさ、そうなったらいいなって思ってるよ。ただあの『How do you do?』がなくなっちゃったら厭なだけなんだ、多分。……うーん、よくわかんねえな。 「どうでした? うまくいったと思うんですが」  前座席の男が自信に満ちた声で喋りかけてきた。  後部座席に座った人間は、チェックポイントが書かれた紙にAとかBとか評価をつけることになっている。おれは、奴の評価をほとんど満点にしてやった。もしまた湾岸戦争みたいなもんが起きれば、真先にコイツが行かされるだろう。 『センパーフェデュリス』  何語か知らねえが、海軍のモットーだ。大統領の命令があれば、どこにでも行かなければならない。しかも、雀の涙ほどのスペシャル・ペイしか貰えずに。あの程度の特別手当でいいだろう、なんて考えた奴から先に戦場へ向かわせた方がいいぜ、ホントに。 「ミサイルを撃ってみたかったですよ。ちょっと残念かな?」  イギリスのホークを改造したTー45ゴスホークで航空訓練を行った後、トムキャットで射撃訓練を行う。ミサイル演習はまだ先の話だ。生意気な奴だ。腹が立ってきた。日本に偉い奴がいた、という話をしたのは Cark っていう名で、日本の文化とか風習とか、なんかそんなもんに憧れてて、白人で、背はおれより少し低いだけで決してチビではないけど、気づいた時にはもうぶん殴ってた、っていうような痩せて貧相な男だが、その話を聞いて殴る気が起きなかった。それから、なんかっていうとおれに話しかけてくる。おれが殴らねえもんだから、周りもじっとしてるみてえだ。だが、今前にいる奴は、少なくとも一回はぶん殴ることになるだろう。 「あれってSR71スパイ偵察機ですよね。一度でいいから操縦してみたいですよ。マッハ3でしょ? 世界最速っていうじゃないですか」  着陸する直前に、待機している多くの機体の中から目敏く見つけて、前の男はまた余計なことを言った。一発殴っただけじゃ足りねえと思った。  着陸後、座席安全装置のロック、スロットルのオフ等を行い、エンジンを止める。キャノピーをわずかに開けると、新鮮な空気が閉ざされていたコックピット内に流れ込んでくる。前のフライトでもそうだったが、この瞬間、放心し何も考えられなくなる。タラップを降りていく時、はじめて安堵感がこみ上げてくる。この時の心地よさは他では味わえないだろう。温めて鼻から吸い込む麻薬のように、癖になりそうだ。  演習はこのあと機体の外まわりを点検し、クルーチーフに報告する。おれの書いた報告書を参考にデブリーフィングという、まあ感想コーナーみてえな簡単なのがあって終わるわけだが、おれはチーフに報告書を提出すれば完了。航空演習の日は神経を遣うこともあってか、終了後は通常訓練が免除されている。  部屋に戻ってしばらくすると、 Cark がやってきた。例のニッポン大好き野郎だ。 「今日、航空訓練があったんです」 「ゴスホークだな」 「はいっ! ものすごい綺麗でした」  海や林、本土じゃ滅多に見られない尖った山などのことを話しながらビューティフルを連発し「なんでこんなところに基地なんて造ったんですかね、信じられませんよ」と言った。 「おい、おれは黙っておいてやるが、滅多なことを言うんじゃねえ」 「あ、はい。そうでした。気をつけます」  Cark はちょっと抜けたようなところがあるが、おれみたいにバカじゃない。うまく立ち回るコツのようなものを身につけている。バカな奴だと、いつまでも基地の批判ばかり続けてしまうだろう。決して従順なわけではないが、引き際は心得ている。それは計算してのことではなく、生まれもっての性格だろう。多少の生意気さは逆に可愛げがあるというものだ。 「基地の外に出てみたいんですが」 「まだ出たことないのか?」 「ええ、ちょっと恐くて」  おれは呆れた顔をしてみせた。「ボーイ! まだオムツは取れてないのかい?」  Cark は照れ臭そうに笑った。 「しょうがねえなあ。連れてってやるよ」  放っておいてもいいのだが、こいつを見てると手助けしてやりたくなってくる。また、妙なことをしでかしそうで、見守ってやらなけりゃならないという気にもなる。おれに弟はいないが、もしいたら同じようなことをするのではないかと思った。  そういえば基地内のボーリング場でもクラブでも見たことがない。いつも何をしてるのか聞いた。本を読んでいるという。おかしな奴だ。  事務所のノートに行き先と目的を書き外出許可証をもらうわけだが、いつも笑ってしまう。ズラリと並んだ行き先と目的は、筆跡こそ違うがすべて『Central Park Avenue 』と『Refreshment 』なのだ。  車を借りて、基地から出る。中央パーク・アヴェニューは基地の近くにある兵隊相手の繁華街で、もちろんドルが通用する。バー、キャバレーがほとんどだが、今の時間だと開いていない。レストラン、スーヴェニア・ショップが僅かに開いているだけだ。  Cark がスーヴェニア・ショップに入りたいと言いだした。土産なんて買ってどうするんだよ、と思ったが、他に開いてる店もないし取り敢えず入ることにする。  おれはこういう店に入ったことはない。変なワッペンとかキーホルダーとか買ったって邪魔になるだけだし、絵葉書なんて出す先もない。  ところが入って驚いた。土産物屋といえばキーホルダーと絵葉書だと思っていたが、それらは隅に押しやられていて、ほとんど Liquer Shop なのだ。しかも全て本土で出回っているようなものばかり。当たり前といえば確かにそうなのだが、兵隊がワッペン買ってもしょうがねえことくらい、店は知ってるというわけだな。  ウィスキーの種類の多さに感心していて Cark を見失った。見渡しても、あのひょろ長い身体は見つからなかった。店をぐるっと一周した。隅に置かれた絵葉書を、窮屈そうに背中を丸めて選んでいるヤツの姿があった。 「女にでも出すんかい?」  おれはからかうように、声色を変えて言った。 「ああ、駄目だなあ」 「なんだよ、なにがダメなんだよ」  Cark は後ろを振り返り、あ、いたんですか、と素っ頓狂な声を出した。絵葉書さがしに熱心で、おれに気づかなかったってわけか。 「いえ、ガイジン向けに作ったものばかりで、いい絵がないんですよ。見てくださいよ、これなんかヒドいものですよ」  目の細いエキゾチックな女が笑っている絵だった。 「どこか変なところあるか? お前の好きな日本ぽい絵じゃねえか」 「これは浮世絵っていうものを真似して書いてあるんですが、こんなにニコニコ笑ってたら台無しです。笑っているのか無表情なのかっていう境目に美しさがあるんです。それから、これも。富士山のつもりでしょうが、こんな極彩色じゃ美しくもなんともないんですよ。きっとアメリカン・コミックを真似たつもりでしょうがね」  そう言われてみると、いつも行くキャバレーの看板みたいな気がしてきた。  おれは視線を感じ振り返った。太った親父が怪訝そうな顔して、おれたちを見ていた。顔が合うと、ふっと視線を逸らせた。こういうところの人間だ。英語を知らないわけはない。 Cark の背中を押すようにしてすぐに店から出た。トラブルは避けるようにと、上からきつく言い含められている。  車の側に、数人の子供たちが立っていた。おれたちを見ると、全員が笑顔になった。日本人は表情がなく何を考えてるのか知れない、といつも仲間に聞かされていただけに奇妙な感じがした。  車に乗る。 Cark が民家へ行って話を聞いてみたいと言う。そんなことは外出許可を貰う時に書かなかったし、もし書いたら許可が下りないだろう。 「法規違反になるぞ」 「見つからなければ平気ですよ。ちゃんと帰ってきますし。一緒には……行くわけないですよね」  気弱そうなコイツのどこにそんなバイタリティーがあるんだろう。たしかにおれは法なんて知らんぷりで生きてきた人間だが、基地に入ってからは表立った行動は控えるようにしている。ここは圧迫されるような恐ろしさがある。なのに、今まで虫も殺したことがないような Cark がこんなことを言うのだ。いつかおかしなことをしでかすんじゃねえかとは思ってはいたが、まさかこのおれが片棒を担ぐとは思ってもみなかったよ。  さっきからずっと子供たちの笑顔が気になっている。まだ車の側に立ったままだ。おれは Cark に何と言って法規違反を止めさせるか迷っていた。結局言う言葉がみつからず話題を変えることにした。 「なあ、なんであの子供たちは、あんなに笑ってるんだ?」  Cark は車の窓から顔を出し、ふた言三言、子供たちと話した。日本語が少しは喋れるようだ。 「いろいろ貰えるからだそうです。でもどこの国でも可愛いですね、子供って。お菓子かなんか持ってませんか?」 「どうするんだ?」 「いえ、あげようかなと思いまして」  おれはキーを差し込み、エンジンをかけた。子供たちの顔を見ずに、一気にアクセルを踏み込み、発進する。  Cark は、他人に物を恵んでやる、という意味を理解していない幸福者だ。少なくともおれには出来ない。  後ろで子供たちのカン高い声が聞こえた。 「なんて言ってるんだ?」 「あ、いえ……」  Cark は口ごもった。どうせ『fuck you』とか『ass hole』とか、そういう類の言葉だったのだろう。 「どうしても行くのか?」 「ええ。私ひとりでも行くつもりです」 「おれは行くつもりはないし、止めるつもりもないが、ただ、問題だけは起こさないように気をつけろよ」  おれは車を人目をはばかるように停めた。 Cark は車から降りると、冗談ぽく敬礼し、背を向けた。その背中はあいつのものだと思えない程に颯爽としていた。おれは少し羨ましく思った。  基地へ車を走らせる。繁華街を抜ければ、すぐそこに基地のゲートがある。  このまま帰る気はしなかった。かといって Cark の後を追う気持ちもない。それではおれがあまりに惨めだ。  海沿いの道を、すべての窓を開け、ゆっくりと走る。潮風にも匂いがあるということにはじめて気がついた。基地の中では、感じたことさえなかった。  カモメの声が聞こえる。あまり美しい声とはいえない。だがその声も、戦闘機の轟音にかきけされた。うるさいと思ったのも、これがはじめのことだ。  おれはフル・ボリュームでFMをかける。おれの好きなラップが流れてきた。フル・ボリュームにしても、はっきりとは聞き取れない。窓を閉めたら、今度は耳が痛くなった。大きすぎるのだ。ボリュームを絞る。おれは何をやってるんだろう、とドサ周りサーカスの、しがないピエロみたいな自分に苛立った。  道端に一人、少年が立っていた。日本人はみな同じ顔に見えるがさっきスーヴェニア・ショップで出会った連中とは違うようである。  車を止めた。少年はおれの顔を見ると、さっきの子供たちと同じように笑顔を作った。だが、一人なので多少気後れしているように見える。  少年は恐る恐る、という感じで手を差し出し『give me』と言った。おれは再びエンジンをかけ、サイドブレーキを引いたまま思い切りアクセルを吹かした。排気音がうねりを上げて轟く。  おれの殺意に気づいたようだ。  少年が草むらの中へ逃げだしていく。サイドブレーキを下ろし車で追う。小枝が車体にぶつかるたび生ぬるい音をたてて折れる。フロントガラスに何本も擦った跡が描かれていく。おれは少年にぴったりと車体をくっつけ追走する。時々振り返る顔は恐怖で引き吊りもはや原型を留めていない。目が真赤に充血している。大声で叫びたいのだが声が出ないというように口をパクパク開ける。いいぞいいぞとおれは小さく呻く。おれの背中が徐々に汗ばんでいくことに気づく。暑さのせいだけではない。その汗は小さなコウモリが洞窟内を隙間なく埋めたみたいに肌に張りついている。その粒の一つひとつが丸い球形を保ったまま粘りつくように背中で増殖していく。顔面や掌、下半身にまで広がる。皮膚を喰いちぎって侵入したそいつに臓器の表面までびっしりと覆われてしまった気になる。喉が渇いてくる。少年の足がもつれるたびアクセルを緩める。少年はまた態勢を建て直し速度を取り戻す。アクセルをふたたび踏む。30㎝と距離を置かず車を走らせる。少年の服は枝に引きちぎられボロボロになっている。片方の靴はどこかで脱げたのかもうない。身体のあちこちから血が出ている。草むらからゴツゴツした岩場に地形が変わる。車体が上下に激しく揺れはじめる。おれはフロントガラスに思い切り頭を打ちつけた。額に手をあてる。べっとりと掌に血がついた。そのどす黒い血を見ていると意識がどこか別の場所へ飛んで行ってしまいそうな感覚にとらわれた。必死に踏み留まろうともがいた。するとおれの小さな頃から今までの場面が、現像されていくようにゆっくりと頭の中に浮かんできた。決してテレビや映画のように動きはしない。写真みたいに固定された像だ。何枚も何枚も浮かんでは消えていく。両親が喧嘩している時、物陰に隠れるようにひっそりと部屋の隅にうずくまっていたおれの姿。初めて自分の姿を鏡で見て疵を発見した時のおれの姿。万引きをして得意そうな顔をしているおれの姿。元レフェリーとかいうでかい男の隣で素っ裸にされて写真を撮られているおれの姿。その男から金貰って喜んでるおれの姿。ガムを噛みながらナイフを腰にぶら下げて暗い道を歩いているおれの姿。女を強姦しているおれの姿。クスリを売ってるおれの姿。クスリを吸ってるおれの姿。ボコボコにぶん殴ってるおれの姿。ボコボコにぶん殴られたおれの姿。仲間が捕まって一人ぼっちになってしまったおれの姿。海軍の面接で喋ってるおれの姿。入隊式でおとなしくしているおれの姿。新入りを蹴飛ばしてるおれの姿。はじめてのフライトで緊張しているおれの姿。 Cark をもの欲しそうな眼で見送ってるおれの姿。そして今。額から血を流しながら異国の少年を車で追いかけているおれの姿。いいことなんて何もない。たとえこの世に悪魔はいても、天使などいるはずのないことをこの少年も知るべきだ。ニコニコ笑いながら『give me』なんて言ってはいけないことを知るべきだ。恐怖に顔を引きつらせながらおれを見ろ。憎しみに満ちた眼でおれを見ろ。そうだ、それでいいんだ。もっと泣き叫べ。文句があるならもっともっと大きな声で言え。おれの耳に届くような声で怒鳴ってみろ。悪魔のような悲痛な声で叫んでみろ……。死ぬ時には過去のことが頭を駆けめぐるという話を聞いたことがある。おれはもうすぐ死ぬだろうと思った。  少年の足がもつれた。コマ送りのように、はっきりと、もつれる様子が見えた。左足が右側に大きく踏み出され、それに躓くように倒れた。ガクンと身体が前のめりに落ち、そして車に座っているおれの視界から消えた。おれはブレーキを踏んだ。数メートルほど走り車は停止した。塊を引きずっているような感覚とその衝撃を身体に感じた。  おれはドアを開け、少年を見た。ボロ雑巾のように地面に蹲っていた。  近づいてくるパトカーのサイレンが聞こえた。おれを捕まえにきただろうことはすぐに理解できた。その規則正しいサイレンのリズムに乗って、Woody Guthrie の 『This Land is Your Land』がおれの耳に聞こえてきた。  それはカーラジオから流れていたのか、おれの頭の中だけで鳴っていたのか、そしておれがあの時本当に精神錯乱状態にあったのかも含め、今となってはもはや知ることなどできない。おれはすぐに本土へ移送された。病室から見える木々が柔らかな日差しを浴び、いつしか芽吹きはじめていた。おれはしばらく眠ろうと思った。

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恋変

 ぽつぽつと雨が振り始めていた。  みんなの間でも変わり者だと評判の彼に、私の方から付き合ってくださいと告白をした。  それは仲の良い友達数人と遊園地に行った帰り、ようやく二人きりになった駅でのことだ。 「君は恋をしたいと思っているだけなんだよ」  彼がそう言って、私の恋は終わった。  私は恋を終わらせようと思った。  やがて結婚が決まり、式の前日に彼に尋ねた。 「私のこと好き?」  彼は困ったような顔をして私から顔を逸らした。 「君は恋をしたいと思っているだけなんだよ」  彼がそう言って、私の恋は終わった。  私は恋を終わらせようと思った。  その後、立て続けに三人の子供が生まれる。私は育児で忙しくなり、彼は会社での地位も徐々に上がっていった。もともと少なかった夫婦の会話はさらに減ってしまった。  職場でもあまり話をすることはなく、同僚たちからは変わり者だと言われているらしい。  彼は仕事も忙しいというのに、私だけに子育てをさせることはなく、家のことも率先してやってくれる。ありがとうと言うが、素っ気ない返事しか返ってこない。  私たちは特に喧嘩をすることもなく、子供に振り回されながら日々の生活に追われていた。  三人の子供は、世界に名だたる企業とまではいわないまでも、それぞれに納得のいく就職をした。  もう、子育ては終わりでいいだろうと思う。 「私のこと好き?」  彼は困ったような顔をして私から顔を逸らした。 「君は恋をしたいと思っているだけなんだよ」  彼がそう言って、私の恋は終わった。  私は恋を終わらせようと思った。  彼は何度か倒れたが、もう病院には来なくていいと言われた。  三人の子供たち、そしてその連れ合いや子供たちが見守る中、自宅の布団の中で彼は言った。 「ありがとう」  私は彼に尋ねた。 「私のこと好き?」  彼は相変わらず困ったような顔をして私から顔を逸らし、言った。 「君は恋をしたいと思っているだけなんだよ」  私は彼に笑いながら言う。 「いつまでも変わらずにね。そして、ずっと変わることなく」  顔を逸らしたまま、彼は最後につぶやいた。 「それは無理だが、君が変わり者で本当に僕は良かったと思っている」  その時、家の外ではぽつぽつと雨が振り始めていた。 

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けいたくんと鳥の神様

 夕日が頂上にひっかかっていました。  けいたくんは、小学校の帰りです。家は山の向こうにあります。  いつものように山路を歩いていると、木陰からギャーギャーという声が聞こえました。そうっと枝をかきわけ、のぞいてみます。  ヘビが首を持ち上げて、先が二つに割れている真っ赤な舌をチロチロと出しています。  ヘビの向いている方を見ます。一羽のシジュウカラが、羽根を目一杯に広げています。声は、シジュウカラの鳴き声でした。  後ろに、巣がありました。赤ちゃんが五羽います。寄り添うように、じっと動きません。まるでひとつのかたまりのように見えます。巣が落ちてしまい、ヘビに狙われたのだ、と思いました。  とっさに小枝を拾いました。ヘビに向かっていきます。ヘビはとぐろを巻きながら見ています。けいたくんは「うわっ」と叫びました。驚いてヘビは逃げていきました。 「もう、へいきだよ」  赤ちゃんは震えています。恐かったよね、と言いながら、巣を木の上に乗せました。その場を立ち去ろうとした時、木の上から「ピィピィ」と鳴き声が聞こえました。 「よかった、よかった」  けいたくんは山を降りていきました。  家では、おかあさんが夕食のしたくをしていました。大好きなカレーの香りでいっぱいです。おとうさんは夕刊を読んでいました。 「ぼく、助けてあげたんだよ」 「えらいわ、いいことをしたわね」  おかあさんが喜んでくれました。 「けいたは鳥が好きね」 「うん、かわいいんだ。だけど、ぼくも鳥さんみたいに空が飛べるようになりたいなぁ」  おとうさんが新聞から顔を上げました。 「人間は空を飛んではいけないんだよ」 「どうして? ぼくも飛びたいんだ」 「神様がね、鳥は空を飛ぶように、人間は歩くように作ったんだよ。もし、みんなが飛んだら、お空が混雑しちゃうだろ」 「でも、お空は広いよ」 「広いお空は、鳥さんたちのものなんだ」 「まあまあ、おとうさん。けいたの夢を壊すようなことは言わないで」  おかあさんがカレー鍋をかきまわしながら言いました。おとうさんは少しの間、黙っていましたが、たった一言「もっと、よく考えてごらん」と言いました。  いいことをしたのに、おとうさんは喜んでくれません。空を飛んではいけない、とも言われてしまいました。けいたくんは、ベッドにもぐっても眠れません。  コツコツ、と音がします。部屋を見渡しました。なにも変わりがありません。  また、コツコツという音が聞こえました。窓の方から聞こえます。おそるおそる窓を開けます。なにもいません。  窓をしめようとした時、「けいたくん」という声がしました。よく見ると、窓の下にシジュウカラが一羽、飛んでいます。 「今日はありがとうございました」 「えっ、君が喋っているの?」 「助けていただいたシジュウカラです」  けいたくんはびっくりしました。 「ぜひ恩返しがしたいのです。ひとつだけ、どんなことでも希望を叶えてあげます。鳥の神様が、私に力を与えてくれたのです」  何にしようか考えました。でも「お空を飛びたい」ということしか思いつきません。 「お空を飛びたいんだけど、おとうさんに止められてるんだけど、だけど……」 「おやすい御用です。さあ、目をつぶって」 「でも、おとうさんが……」 「さあ、早くッ」  おそるおそる目をつぶりました。フウっと下から持ち上げられるような感じがします。 「下を見てください」  ゆっくりと目を開けました。 「あっ」と言って、また目を閉じます。 「だいじょうぶ、へいきです」  もう一度、ゆっくりと目を開けました。下には、けいたくんの家が見えます。 「すごいや、飛んでいるんだねっ」  上を向きました。するとどうでしょう。シジュウカラさんだけではなく、ヒバリさん、スズメさん、ハクチョウさんなど、たくさんの鳥がけいたくんを持ち上げていました。  しばらくして、カラスさんの大群が通りかかりました。 「いかがなさった?」と、一羽のカラスさんが尋ねました。 「私を助けてくれたんです」 「では、せっしゃも、お供いたしやしょう」  カラスさんが加わりました。 「けいたくん、どこか行ってみたいところはないですか?」 「うーん、ぼくは山の外には出たことがないから、わかんないや」 「じゃあ」とシジュウカラさんが言うと、さらに高く舞い上がりました。  急に寒くなってきました。下は、真っ白な大地が広がっています。 「ここはどこなの?」 「ロシアっていうのよ」  遠くから大きな鳥がやってきます。 「あっ、あれが鳥の神様?」 「違うわ。神様はもっともっと大きいのよ。あれはオオワシさん」 「オオワシって、君たちを食べちゃうんでしょ。だいじょうぶなの?」 「心配ごむよう。われら鳥の神様の御命令に従っている者」とカラスさんが言いました。  オオワシさんが近くまでやってきました。 「なにやってんの?」見た目と違って、軽薄そうな声を出しました。 「わたしを助けてくれたんです」 「じゃあ、いっちょ手伝うか」  オオワシさんが加わりました。  今度は暑くなりました。 「ここはどこなの」 「アフリカよ。ほら、ライオンさんやキリンさんが見えるでしょう」  向こうの空がピンク色に染まっています。 「あれはなに?」 「フラミンゴさんです」 「あっら~っ、ま~、いったいなにごとよ」 「助けてくれたんです」 「あっら~っ、そうなの。ま~」  フラミンゴさんが加わりました。  その後、インド、中国、オーストラリア、ブラジル、メキシコと飛んでいきました。鳥さんの数も、どんどん増えていきます。  大きなビルの立ち並ぶ街へ出ました。巨大な人形が見えます。 「あれはなに?」 「自由の女神です。アメリカまで来ました」  今度は畑が広がっている場所に来ました。 「今、どこにいるの?」 「ここもアメリカです」 「アメリカっていろんなところがあるんだ」  向こうに、何かの大群が見えました。 「今度の鳥さんは、どんなのかな?」  見たことのない鳥さんと出会うだけで、けいたくんは大喜びです。どんな鳥さんが加わってくれるか、わくわくしています。 「ええと……」シジュウカラさんが言いました。「あの大群は見たことがないな……、あっ、逃げなければ」  全速力で鳥たちは、元来た方角に飛んでいきます。なにが起きたのかわかりません。 「もっと、ゆっくり飛んでよ、恐いよ」 「黙っていてください」今までとは違い、怒ったような口調で言いました。 「なにがあったの? だいじょうぶなの?」 「龍巻です。お願いですから、静かにしていてください」  だんだんと龍巻が近付いてきた。一羽、二羽と群れから離れていく。けいたくんを持ち上げていなければ、鳥は逃げられるのだ。  とうとう、シジュウカラ一羽になってしまった。ヨロヨロとしか飛べない。  けいたの身が、ふうっと軽くなったかと思うと、ものすごい力で引っ張られた。シジュウカラは堪え切れなくなって、とうとう足を放してしまった。意識が遠のいていく。  シジュウカラは小さな枝の上で目を覚ました。どうやら龍巻は行ってしまったようだ。飛ぼうとした。羽根の付け根が、キリキリと痛む。血が流れていた。それでも、けいたくんのことを思いだし、痛む体をこらえ、さがすことにした。  木にぶらさがっていないか。池に落ちていないか。川で溺れていないか……。  けいたくんは見つからなかった。  草の陰をさがしている時、ヘビに出会い、食べられそうになってしまった。  シジュウカラはなんとか逃げられたが、恐くて体がぶるぶる震えている。夕日が落ちていく。残してきた赤ちゃんのことを思い出した。 「しょうがない」  シジュウカラはよろよろと、日本に向かって飛びはじめました。

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