アズマ
22 件の小説お年玉ウォーズ
私にとってお正月は戦争だ。なぜなら、親族が家に集まるこの時期に、どれだけお年玉をもらえるかが非常に大事になってくるからだ。その金額次第で、買えるオモチャや人形も変わるし、今年一年の過ごし方が決まってしまうと言っても過言ではない。 家の大広間では朝から集まった親戚たちが、宴会を行っていた。皆がお酒で顔を赤らめ、テーブルにたくさん並べられた料理を口にしている。家族のことや仕事の愚痴を楽しそうに話していたが、私にとっては少しも興味がなかった。そろそろお年玉の話題になっても良いはずだ。私はお餅を食べながら、大人たちの一挙手一投足を注意深く見ていた。いよいよ負けられない戦いが始まる。 「そうだ。美香ちゃんにお年玉をあげないとな」 そう言ったのは、テーブルの向かいに座る俊郎おじさんだった。私はその言葉に心と体を臨戦態勢にする。 「あらやだ、毎年悪いわね、俊郎さん」 お母さんが申し訳なさそうな表情で言う。しかし、お母さんも心の中では、ほくそ笑んでいるはずだ。娘のお年玉の金額がどのくらいかで、今年一年のお小遣いの金額にも影響してくるのだから。 「いやいや、良いんだよ。俺は美香ちゃんにお年玉をあげるために、この一年仕事を頑張ってきたからね」 俊郎おじさんは四十歳を過ぎていたが、まだ結婚していなかった。しかも倹約家であるため、貯金をたくさん持っており、お年玉の金額もかなり期待できる。 「わあい。おじさん、ありがとう」 私は無邪気な笑みを顔に貼り付けて、俊郎おじさんの元に走る。 「はい、どうぞ」 俊郎おじさんからポチ袋を受け取る。目をこらすと、うっすら五千円札が入っているのが分かった。その瞬間、心の中で大きなガッツポーズをする。 「おじさん、ありがとう。これで本をいっぱい買うよ」 私は笑顔のまま、そう言った。実際は本なんて買うはずないが、こう言っておけば大人たちは金額を上げようとするのを知っている。もうこの時点で、来年のお正月のための布石を打っておかなければいけないのだ。 「美香ちゃんはえらいねえ。小学生なのに本を買おうなんて。おじさんは感心しちゃうなあ」 俊郎おじさんは優しい表情で、何度もうなずく。完全にだまされている俊郎おじさんがあまりに滑稽で、思わず吹き出しそうになってしまうが、私は必死にこらえる。 「じゃあ、おばさんもあげようかしら」 そう言ったのは和子おばさんだ。私は和子おばさんからポチ袋を受け取る。中身はどうやら千円のようだった。 「おばさん、ありがとう」 私は和子おばさんにも、同じように子供らしい笑顔を向ける。少額ではあるが、私にとっては千円も貴重だ。来年も継続してお年玉をもらうためにも、金額の大小にかかわらず、誰に対しても愛嬌を振りまいておかないければいけない。 「じゃあ、おじさんからはこれをあげようかな」 浩介おじさんがにやにやと嫌らしい笑みをしながら私に近づいてくる。 「おじさんからはこれだ」 浩介おじさんが鞄から出したのは、手のひら大のボールだった。 「お年玉だけに、玉、なんちって」 がはははははは。浩介おじさんは下品な笑い声をあげる。私はボールを受け取り、「ありがとう」と、できるだけ感情を押し殺した声で言う。私は金輪際この人に愛嬌を振りまくのは止めようと心に決めた。 「やあ、遅れてすまなかったね」 しわがれ声で部屋に入ってきたのは、定春おじいちゃんだ。その姿を見て、自分の心臓の音が大きくなるのが分かる。今日一番の大物だ。私はお母さんの方を向く。ぴたりと目が合い、私たちはうなずき合う。お母さんも同じことを思っているようだ。 「おじいちゃあん」 私は定春おじいちゃんの方へと駆け出し、おじいさんの左足に抱きつく。 「おお、美香ちゃんか。大きくなったなあ」 おじいさんが私の頭をなでる。私はとびっきりの笑顔を見せる。 「おじいちゃん、会いたかったよ。来てくれてありがとう」 「はははは。美香ちゃんにそう言われたら、おじいさんも幸せだな」 おじいさんは皺だらけのの顔をほころばせる。 私にとって、おじいさんの幸せなどどうでも良かった。私にとってはおじいさんの年金からいくらのお金を搾り取ることができるか、それだけしか興味はなかった。 「早速だが、お年玉をあげようかな」 その言葉に私の心がときめく。思わずたれてしまった涎を慌てて拭き取る。 「今年はこれだ」 おじいさんが出したのは風呂敷に包まれた四角い物体だった。風呂敷の結び目をほどくと、そこにはたくさんの本があった。 「美香ちゃんは本が好きだって言ってたからね。たくさん買ってきたんだ。これが今年のお年玉だ。いくら美香ちゃんでも、これだけあれば今年で読み切れないんじゃないかな」 はっはっはっは。おじいさんが声をあげて笑った。 私は笑顔を保とうと努力するが、引きつってしまう。何てことだろう。金額を引き上げるために使ってきた「本好き」という武器が、ここで仇となってしまうなんて、思いもしなかった。ミッション失敗。その言葉が胸の中に浮かぶ。おじいさんに言った「ありがとう」という言葉と共に、魂まで出て行ってしまいそうだった。 私はまぶたを閉じて、心に誓う。これからは、正直に生きていこう。
埋もれた似顔絵
「整理できない女って終わってるよ」 恋人の祐一は、そんな捨て台詞を吐いて家を出た。 私は玄関に突っ立ったまま、しばらく呆然としていた。整理できない女って終わってる。頭の中で彼の言葉を繰り返す。時間を置いて、腹の底から怒りが湧いてきた。 寝坊して一時間の遅刻をしたのは悪いと思っている。部屋が汚くて遊園地のチケットがどこにいったのか分からないのもそうだ。しかし、だからと言って、人のことを終わってるなんて言うのはどうかしてるとしか思えない。 「掃除してキレイにして見返してやるんだから」 私は誰もいない玄関で一人叫んだ。 部屋は洋服や書類で溢れて、ほとんど床が見えなくなっていた。これは整理されていないと言われても仕方がないかもしれない。まあ、年末で忙しかったもんね。心の中で言い訳をする。 まずは至る所に積まれた本を押し入れに詰め込んでいく。ビジネス書や資格試験の参考書、図書館で借りた本などが次から次に出てくる。そういえば貸し出し期限が迫っているなと思い出す。 次にそこら中に置かれた洋服を仕舞っていく。よくここまで脱ぎ散らかしたなと、自分ながら感心してしまう。次第に床が見え始めた。私は思わずムフフと笑ってしまう。意外に早く片付くのではと甘い考えが浮かんだ。ピカピカの部屋にして、祐一に目に物見せてやる。 その時、洋服の山を片付けると、一枚の色紙が現れた。その色紙を見て、私は動きが止まる。そこには二人の似顔絵が描かれている。私と、祐一だ。しばらくそれを見つめていた。私の頭の中に、二年前の記憶が蘇る。 桜が咲く季節、満開の花が咲き乱れる上野公園で、私は祐一に告白された。好きだ。ずっと一緒にいたい。付き合ってほしい。シンプルで、けれども、心のこもった、暖かい告白だった。私はその告白に対して首を縦に振った。幸せだった。空も飛べるような気分だった。 「ねえ、祐ちゃん。似顔絵を描いてもらおうよ」 公園の隅で、白髪頭のおじいさんが似顔絵を描いていた。私はあまりに嬉しくて、この日の記念に何か形に残したいと思ったのだ。祐一はあまり乗り気ではなかったが、しぶしぶといった感じで承諾した。 私は色紙を手に取る。そういえばこれを描いてもらった後、私はこんなにポッチャリじゃないと怒ったのを思い出す。 私はじっと絵を見る。そこに描かれた二人は、仲良さそうに、肩を寄せ合って笑顔を見せている。 埋もれていたのは、色紙だけじゃない。この想い出も、私の記憶の中に埋もれさせてしまっていた。 その時、テーブルの上の携帯電話が鳴る。画面を見ると、祐一から電話だった。 「もしもし」 私が言うと、彼は「ああ、うん」と、ためらいがちに話す。 「あの、さっきは、ちょっと言い過ぎた」 彼が深刻な口調で言う。 「悪かった。ごめん」 しばらくの沈黙の後、私は「まあ良いけど」と答える。 「え、ああ、そうか。うん」 彼が戸惑ったように言う。もしかしたら怒鳴られるとでも思っていたのだろうか。まあ、数分前の私なら怒鳴っていたかもしれない。 「ねえ、お願いがあるんだけど」 私の言葉に、「何?」と裏返った彼の声が聞こえる。 「一緒に私の部屋、掃除してよ」 また沈黙が続く。はは、と笑った後に、分かったよ、と優しい声がした。 三十分後にそっちに行くから、と彼は電話を切った。私は部屋を見回す。まあ、私のことを終わってるとか言ったんだもの。少しは掃除を手伝わせないとね。 私はふと、床に置かれた似顔絵に目がいく。そこに描かれた二人は、幸せそうに微笑んでいた。それを見て、私の胸が少しだけ温かくなった。
モンスター
「今日も良い天気だね」 隣を歩く、190センチオーバーの彼女が、こちらを見下しながら言ってきた。俺の膝くらいの太さはある両腕を前後にブラブラさせている。もしその腕に触れようものなら、たちまち骨が砕けるだろう。 「今日の朝、眼鏡が壊れたの。だからコンタクトレンズをつけてるんだけど、やっぱり慣れないものをつけると目が痛いね」 彼女が物を壊すのは日常茶飯事だ。水道の蛇口やドアノブなど、彼女の有り余る力により、触れる物みな壊れていく。俺の体が壊されるのも時間の問題だろう。 彼女とつきあい始めたのは一ヶ月前だ。彼女から付き合ってほしいと告白された。断れば命はないと判断した俺は、その告白を承諾してしまった。 その日から、毎週デートすることになり、その度に寿命が縮む思いだった。 「私、ペットショップに行ってみたいな」 彼女がアナコンダのようなどう猛な目を上空に向け、ぼそりとつぶやく。まさか食べるつもりだろうか。彼女が小動物を食らう姿を想像し、背筋が凍り付いた。 「最近、政治もだらしないよね。私が国会に乗り込もうかしら」 それだけはやめてくれ。こんな怪物が国会に乗り込んだら内閣総理大臣も卒倒するだろう。国会がたちまち血の海となってしまう。 「どろぼーーー」 俺と彼女が歩道橋を歩いていると、女性の叫び声が聞こえた。下をのぞくと漫画を数冊抱えた青年が、通りをこちらに向かって走ってきていた。 「ちょっと待ってて」 彼女が歩道橋の手摺りに乗り、下に飛び降りた。彼女は青年の前に着地する。青年は突然あらわれたマウンテンゴリラに驚愕していた。 彼女の右手が彼の顔面をつかみ、その体を持ち上げる。彼は必死に抵抗するが、彼女は顔色一つ変えていない。 そして、脇にあった乗用車に彼の体を軽々と投げつけた。ボンネットに打ち付けられた彼の体は人形のようにグニャリと崩れ落ちた。 周りの通行人は、誰もが顔に恐怖の色を浮かべていた。後から追ってきた店員も、その惨劇を見て震え上がっていた。 彼女が歩道橋をのぼり、こちらに歩いてくる。その姿は、かのシュワルツネッガーを彷彿とさせた。 「まさかこんな事件に巻き込まれるなんてね。万引きなんて怖いなあ」 俺は決意した。彼女には一生、逆らわないでおこう。
飛行機雲
「にいちゃあん」 公園のベンチに座ってゲームをしていると、弟がこっちに向かって走ってくる。彼は俺より五つ下、走るのもまだヨタヨタとしている。 「どうした。何かあったか」 「あれ、見てよ」 弟が空を指さしたので見上げると、青空を横切るように一本の白い雲が見えた。 「あの白いまっすぐの雲は何?」 弟は首を傾げ、丸い瞳で俺を見つめる。 「ああ、あれは飛行機雲だ」 「飛行機雲?」 「そう、飛行機が雲を引き連れていて、その飛んでいったあとに雲を残していくんだ」 そう言ったものの、弟はキョトンとした顔をしていた。少し話が難しかったかもしれない。 「つまりだな、飛行機が空にお絵かきをしているんだ」 「お絵かき!」 弟の表情がパッと明るくなる。 「すごいね。お空にお絵かきなんて」 「ああ、そうだな」 「僕もやってみたいなあ。お空にお絵かき」 弟の無邪気な言葉に、俺は思わず微笑んでしまう。 「ああ、そうだな。やってみたいな」 俺と弟は一緒に空を見上げる。そして、青のキャンパスに引かれた飛行機雲を、いつまでもいつまでも眺めていた。
生首
僕のお父さんとお母さんは、お医者さんだ。大きな病院で働いていて、患者さんもたくさん受け持っていて忙しく、家に帰ってくるのはいつも遅かった。だから、家にはだいたい僕しかおらず、いつも一人っきりで遊んでいた。 ある日、僕は学校から帰ってきて、公園で遊んでいた。公園にはいっぱい鳩がいた。僕には得意技があるんだ。後ろから鳩にこっそり近づいて両手で捕まえるの。これができるのは学校でも僕だけだった。ただその日は、捕まえるだけというのも飽きてきて、捕まえた鳩の首を包丁で切っていったんだ。 五匹の鳩の首を切って、家に持ち帰って、それをテーブルの上に並べて、お父さんたちが帰ってくるまでじっと眺めていたの。 最初にお母さんが帰って来たんだけど、鳩の首を見た瞬間、その場に倒れたんだ。その後すぐお父さんが来たんだけど、お父さんも顔が真っ青になったんだ。 お父さんはお母さんを病院に運んだ後、僕にこう言ったんだ。 「いいか、動物の首は切っちゃいけないんだ。分かったか」 お父さんの強い言い方に、僕はこくりとうなずいた。どうやら僕はやってはいけないことをやってしまったみたいだ。 それから僕は中学、高校とお父さんの言うとおり真面目に勉強し、大学の医学部に入った。そこを卒業し、お父さんのいる病院で働くことになったんだ。 ある日、お父さんの仕事部屋を訪ねようとしたとき、少しだけドアが開いていて、中から会話が聞こえたんだ。 「また○○のせいだよ。あいつは××と組んでいるからどうしようもないんだ」 その名前は、病院で一緒に働くお医者さんの名前だった。他にも、何人かの名前があがり、悪口のようなものを言っている。 「あいつらさえ消えてくれればなあ」 お父さんがぽつりと言った。僕はすうっとその場から離れた。 「お父さん、見せたいものがあるんだ」 そう言ってお父さんを僕の家に招いた。僕は働き始めてから一人暮らしをしていたんだ。お父さんは快く承諾してくれた。 「見ててね」 家に入るやいなや、僕は奥の部屋につながるふすまを勢いよく開けた。そこには大きな透明のビンがずらっと並んでいた。ビンの中にはホルマリン漬けされた人間の生首が入っていた。 「ほら、お父さんが消えてほしいって言ってた人たちだよ」 そう言ったものの、お父さんは泡を吹いて倒れており、聞こえてないようだった。 僕は大きくため息をついた。どうやら僕はまた、やってはいけないことをやってしまったみたいだ。
長い夜のその前に
僕は窓にへばりつくようにして、黄金色に染まる街を眺めていた。太陽はすでに西の大地に沈んでいた。いつもは多くの人が賑わう大通りも、今は誰もいない。 長かった昼が終わろうとしていた。十二週間の昼の後は、十二週間の夜がやってくる。人間達は皆、長い長い眠りにつき、次の昼までのエネルギーをためるのだ。 ゴオオンと空気を震わす低い音が街中に響く。薄命時間の終わりを告げる、街で一番大きなタイムベルの音だ。続いて五回の鐘の音が鳴った。六点鐘だ。 三十分ごとに一つずつ増える鐘の音、八点鐘が鳴る時、太陽が残した光も完全に消えて夜が訪れる。六点鐘ということは、薄命時間が終わるまで一時間だ。 「こら、光一。寝る準備をしなさい」 振り向くと、部屋のドアの前にはパジャマ姿のお父さんが立っていた。お父さんが来ているパジャマは、この日のために買ったもので、濃い青色がお父さんに似合っていた。 「もうちょっとだけ、外を見ていたいの」 「のんびりしてたら真っ暗になるぞ」 「だって、この景色を次に見るのは十二週間後なんだよ。じっくり見させてよ」 僕の言葉にお父さんは、大きなため息をつく。 「しょうがないなあ。あと少しだけだぞ」 「ありがとう。お父さん」 僕はまた、視線を窓の外へと向ける。すると、いつの間にか隣にお父さんがいた。 「きれいな景色だなあ」 僕はお父さんの横顔に目をやる。お父さんの大きな瞳は、きらきらと輝いていた。 「うん。僕もそう思う」 しばらく沈黙が続いた後、お父さんは「知ってるか」と独り言みたいに呟いた。 「はるか昔の地球はな、昼は十二時間しかなかったんだぞ」 「十二時間?」 「ああ。そうだ。昼も夜も十二時間しかなかったんだ。毎日、昼と夜が交互に一回ずつやってくるんだ」 「うそだあ。そんなの信じられない。昼も夜もそんなに短いわけないよ」 「本当だって。その時代の人間は、一日一回睡眠をしていたんだ」 十二時間しか日が差さない世界、僕は想像してみようとするが、うまく思い浮かばなかった。昼はきっちり十二週間、それを疑うことなんて今までなかった。 「もし昼が十二時間しかないなら、遊ぶ暇もないよ。目が覚めたと思ったら、すぐに寝ないといけないもんね」 「んん。どうだろうな。まあでも、この夕暮れの景色を毎日見ることができると思うと、素敵じゃないかな」 僕はもう一度、窓の外を見る。夕焼け空に照らされて、燃えるような色をしている街並み、一生のうちに数えるほどしか味わえない光景だ。 「うん。それは、そうかもね」 毎日この景色を見る、それは幸せなことかもしれない。しかし、たまに見るからこそ、この感動がこみ上げるんじゃないかなとも思ったりする。 「じゃあ、先に寝室に行ってるからな」 お父さんは立ち上がり、部屋を出ていく。ドアが寂しげな音を立てて閉まった。 一人になったところで、僕はまた外の景色を見る。東の方から紺色の空がじわじわと広がっていた。今回はどんな夢を見るだろうか。僕の頭の中は、眠った後の世界のことでいっぱいだった。 静かな街に、再び鐘の音が鳴り響いた。きっちり七回、間もなく夜がやってくる。僕は暗くなり始めた空を見上げる。そのてっぺんには、小さな小さな一番星がきらめいていた。
庭にマグマができました。⑧
家への帰り道、人気はほとんどなかった。俺はずり下がるリュックサックを何度も持ち直す。その度に背中にずしりと重みが加わった。貸し出しの限度である十冊の本がリュックに入っている。ここに答えがあるとは思えなかったが、手ぶらで帰れば彼女に合わす顔がない。今日は徹夜で本をむさぼり読もう。寝不足で古本屋に行っても何の影響もないのだから。 「ただいま」 玄関のドアを開けて中に入った。 靴を脱いでいると、リビングの方から彼女が現れた。よろめきながらこちらに近づき、俺の前で崩れるようにしゃがみこんだ。 「マグマが、マグマが」 彼女が瞳をこちらに向ける。その目は涙で潤んでいた。 「マグマが……」 また彼女が声にならない声で言う。 嘘だろ。 背中のリュックが床にずり落ちた。彼女の脇を通り、庭へと駆けだした。 嘘だ。嘘だと言ってくれ。こんな短時間で消えてしまうなんてあんまりじゃないか。これから調べようという時に。なんで消えちまうんだよ。 俺はリビングを走り抜けて、庭に飛び出た。 息を切らして庭の真ん中を見つめる。そこには、マグマがあった。魔女が煮込んでいる鍋みたいなマグマだ。しかも大きさが先ほどとは違い、バスケットボール大のマグマに戻っている。 「マグマが、マグマがもどっだよぉ」 泣きじゃくる彼女がリビングから出てきた。 「ははは」 肩の力がふっと抜けた。良かった。自然と笑いがこみ上げてきた。 「よいしょお」 裸の彼女が、脚立からドラム缶の中に飛び込む。溢れたお湯が芝の上に跳ねる。 「湯加減はどう?」 そう聞くと、彼女はドラム缶から顔だけ出して、こちらを見る。 「最高だよ。さすがマグマの火力だ」 湯煙の中に彼女の気持ち良さそうな顔が見えた。俺は思わず笑みがこぼれ、「そりゃ良かった」と答えた。 「ドラム缶風呂に入れる日が来るなんて、生きてて良かったよ」 「あんたはおばあさんか」 「言ってすぐに用意してくれるなんて嬉しかった」 「ふうん。そっか」 「ありがとう」 火照った彼女の顔がこちらを向く。俺は恥ずかしくなり、視線をそらしてしまう。 「逆立ちの話、ちょっと妥協してもいいよ」 彼女の言葉に、俺は「本当に?」と返す。 「うん。町内一周で許してあげる」 そっちか。できれば裸の方を妥協して欲しかったのだが。けれども、一周分の腕力でいいならかなり楽かもしれない。 彼女はいつしか鼻歌を口ずさんでいた。頭を左右に揺らしてご機嫌そうだった。 「ねえねえ」 俺が声をかけると「ん?」と彼女が返す。 「そろそろ代わらない?」 俺の言葉に彼女はしばらく黒目を上に向けて考える表情をしたが、やがて首をぶるぶると左右に振る。 「もう少しだけ」 「はいはい。のぼせても知らないからな」 「はあい」 彼女は、はああっと気の抜けた声を出す。その表情は心の底から気持ち良いことを物語っている。 まあ、もう少し待ってもいいかな。こうやって彼女の幸せそうな顔が見られるのだから。俺はそんなことを思った。
手のひら返し友の会
俺は「手のひら返し友の会」に入会し、まる二年がたっていた。しかし、いまだに手のひらを返して誰かを裏切るなんてことができずに悩んでいた。 「佐伯、どうしたんだよ。しけた顔して」 振り向くと、そこには足立先輩がいた。先輩は俺よりも五年早く入会しており、この手のひら返し友の会のエース的存在だった。 「足立先輩、実は僕、この友の会に入ってから、ほとんど手のひらを返すことができてないんです。それで悩んでるんです」 「ははん。なるほどな。入ったばっかりの俺とそっくりだな」 先輩の言葉に、俺は思わず「えっ」と声が出る。 「俺も最初はなかなか上手くいかなくて、何度もやめようと思ったんだ。でもな、先輩達から激励を受けて何とかここまでやってきたんだ」 「そうだったんですね」 それは意外だった。優秀な足立先輩のことだから、入った頃から全て上手くいっていたと思っていた。 「お前も今は辛いかもしれないけどな、必ず結果が出るようになるさ。俺はお前のことを信じてるからな」 「ありがとうございます」 俺は先輩に向かって、深々と礼をする。嬉しかった。さっきまでの沈んだ気持ちが、一気に晴れ渡った。 「やあやあ、みんな。ご機嫌いかがかな」 そう言って、現れたのは、「手のひら返し友の会」の会長だった。ハゲ頭が蛍光灯の光でキラリと輝く。 「会長!」 足立先輩がそう言って、満面の笑みで会長に近づく。 「おお。足立君。調子はどうだい」 「絶好調ですよ、会長。そんなことより聞いてくださいよ。ここにいる佐伯が本当にどうしようもないんですよ」 「えっ」 俺は先輩のあまりの変わりように驚く。 「全く成果は出さないし、愚痴ばっかりだし、才能もなければ、やる気もない。もう良いとこなしなんです」 「はっはっは。それはダメだな。やはりこの会を引っ張っていくのは足立君しかいないな」 「その通りです。私がこの友の会をさらに大きくして参ります」 そう言って、会長と足立先輩は二人で去っていった。 「ちくしょう」 二人の姿が見えなくなったところで、俺は叫ぶ。 「あんなに、あんなに、華麗な手のひら返しができるなんて、羨ましすぎる」 俺の目から、大粒の涙がこぼれる。 彼、佐伯が、見事な手のひら返しで会長達を出し抜き、友の会を手中におさめるのは、もう少し先の話だ。
庭にマグマができました。⑦
真っ暗な夜道、街頭と月明かりだけがやけにまぶしかった。そんな中、俺はドラム缶が乗った台車を押し、道を進んでいく。アスファルトの上を車輪がガタガタと音を立てる。通り過ぎる人たちが怪訝な目を向けてきたが、気にしないようにした。 店長の助言通りにネット検索すると、ある町工場がヒットした。そこは家のすぐ近所にあり、仕事帰りに寄ってみると、無料でドラム缶を譲ってくれた。しかも、ドラム缶風呂用の設置具まで作ってくれて、至れり尽くせりだった。正直に言って、最初は全く乗り気ではなかったが、ここまで上手くことが運んだのだから、彼女を喜ばすためにもドラム缶風呂をしてあげようという気になった。もしかしたらこれで彼女の機嫌が良くなり、逆立ちの件も大目に見てくれるかもしれない。そんな淡い希望が胸に浮かんだ。 「わああああぁぁぁん」 家の門をくぐると、庭の方から彼女の泣き叫ぶ声が聞こえた。どうしたんだ。俺は台車とドラム缶をほったらかして、庭へと駆け出した。 「どうしたの?」 庭には彼女が突っ立っていた。両目からは大粒の涙がボロボロとこぼれている。 「マグマが、小さくなって」 さっとマグマの方に視線をやった。俺はマグマの変わり果てた姿に言葉を失った。 直径五十センチはあったマグマが、いまや四十五センチほどの大きさになっているのだ。いわばバスケットボールがバレーボールになったような、とてつもない変化だ。 「何で? いったい何があったの」 「私がトイレに行ったら、その間に小さくなっていたの。マグマが、マグマが消えちゃうよぉ」 ああぁぁぁん。彼女がまた声を上げて泣き出す。 「ちょっと落ち着いて。ただ縮んだだけで消えるわけじゃないよ」 「本当に?」 彼女はヒクヒクとしゃっくり混じりに言った。 「うん。きっと元に戻る方法もあるから。とりあえず落ち着いて」 彼女は呼吸を整えてから、コクリと少女のようにうなずいた。 閉館間際の図書館は静かで、空調の音だけが響いていた。カウンターによぼよぼのおばあちゃんが一人いるのと、児童コーナーに本の背表紙をじっと見つめている子供が一人いるだけだった。 俺は地理学の本棚の前に立ち、分厚い本を取る。パラパラとめくったが、ページを埋め尽くすほどの文字にうんざりして、すぐに戻す。 マグマの大きさを戻す方法が図書館で見つかるとは思えなかった。庭にマグマができるなんて、かなりのレアケースだ。そんな都合良く本があるわけがない。 俺は難しい漢字が並ぶ本を眺めながら、今の状況を考えてみた。マグマが庭にできて、裸で逆立ちの約束なんかしてしまって、そしてドラム缶をもらいに行って帰ってきたらマグマが小さくなっていて、彼女が泣いていて、そして今また俺は彼女に振り回され図書館にいる。冷静になるととんでもない日々を過ごしている。 しかし、マグマによって彼女が生き生きしていたのも事実だった。あんなに一つのことに熱中する彼女の姿を見たのも久しぶりだった。その分、マグマが小さくなって彼女の泣き叫ぶ姿を見るのは心が痛かった。 そう言えば、付き合いたての頃は彼女のわがままに振り回されてばかりだった。新種のタンポポが見たいと言う彼女のために河原を走り回ったり、タンポポになりたいという彼女のためにタンポポの着ぐるみを作ったり、色んなことをした。対して今はどうだろうか。倦怠期、とまではいかないまでも、彼女と付き合うことに慣れ、彼女のわがままも適当に受け流す毎日、もしかしたら今回のことは彼女をおざなりにし続けた自分への警告なのかもしれない。 よし、やるか。俺は頬を両手でたたいて気合を入れる。やるしかない。彼女のために、そして裸で逆立ちを避けるために。
巨大な足跡
俺は長い洞窟を慎重に、かつ足早に進んでいく。太陽の光も届かず真っ暗で、ランタンの明かりだけが頼りだ。 俺は興奮していた。それは、今、自分が、立ち入り禁止の場所にいるからだけではない。ずっと受け継がれてきた伝説、そう、この洞窟を抜けた先にいる巨人のことを想像するだけで胸が高鳴るのだ。 俺たち人間が洞穴で暮らし始めて何百年も経つ。小さい頃からそう聞かされてきたが、実際は分からない。天井からわずかに漏れる太陽光を頼りに生き、岩に生えた苔を食べて暮らす。それで何の不自由もない生活が続いていた。しかし、一つだけ俺には気になることがあった。それは、絶対に踏み入れてはいけないと言われてきた通路、その先に何があるのかということだ。大人たちはただ崩れそうで危険だから入ってはいけないと言っている。しかし、俺は、たまたま爺さんたちの噂話を聞いてしまったのだ。洞窟を抜けた先に、巨人がいることを。 入りくねっている道の先、ほのかに明るくなっていた。もしかして出口だろうか。俺は歩くペースを速める。 やがて洞窟が途切れ、そこで一気に視界が開けた。そこには背の高い草が一面に生えていた。岩場に生える植物とは桁違いの大きさだ。そして、見上げると、草の隙間から青空が見える。それは普段、岩の割れ目から見える空とは違い、どこまでも広がっているのだ。初めて見る外の世界に、俺の体は感動に包まれ、今にも叫び出しそうだった。 そこから俺は、草の間を縫うように進んでいった。ふと視線の先にあるものを発見した。それは足跡だ。足跡と言っても大きさがまるで違う。俺の背丈の十倍ほどの足跡だ。心臓がどくんと跳ねる。これが、巨人の足跡。やはり噂は本当だったのか。ここに来るまではワクワクしていたはずが、実際に巨人の痕跡を目にすると、足がすくんだ。 その時、地面が揺れ出した。地響きが少しずつ大きくなる。俺の体が硬直する。 目の前に、人間が現れた。姿形は人間だが、俺の何十倍の大きさもある。俺たちがいた洞窟にも入りきらないような大きさだ。 巨人だ。巨人は本当にいたんだ。感動をはるかに上まわる、恐怖が全身を支配していた。 急に巨人が立ち止まった。そして、その顔が俺の方を向く。ゆっくりしゃがみ込み、その大きな目が俺を捕らえた。 「ぎゃあああぁぁぁ」 腹の底から声が出た。俺はもつれる足を何とか動かし、洞窟の方へと走った。 ***** 「祐介、どうしたの。ずっとしゃがみこんで」 私は横で座ったきり動かなくなった息子に声をかける。じいっと一点を見つめている。 息子の祐介は三歳になり、公園に散歩に来るのが日課になっていた。 「ここに小さな人間がいたよ」 祐介は草むらを指さす。 「小さな人間?」 私の言葉に、彼はコクリとうなずく。 「うん。びゅうっと逃げていったけど」 「あらあら、きっと何かの見間違いよ」 祐介はむすっとした顔をする。 「ほら、もうご飯だから行くわよ」 私は祐介に手を差し出す。彼はしばらく草むらを見ていたが、やがて立ち上がり、ぎゅっと私の手を握る。家に帰る間も、祐介は何度も何度も草むらの方を振り返っていた。