かつらな

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かつらな

現役女子高生、17歳。 かすかな痛みと夢の残り香を言葉に変えて、生きている証を綴る。

煙草とあなた──煙草も、私も、あなたの大切。

「ねぇ、裕二、私あなたが好きよ。」 ヒリヒリと痛む私の右頬を、裕二は優しく撫でた。 「うん。」 私が殴られるようになったの、いつからだったっけ。 頬を撫でる裕二の目は私の目を優しく見ていた。 「お前がいい子でいれば、こんな事しないんだけどな。」 裕二の手は頭へ移動した。 「ごめんなさい、、。」 2人きりのアパートなのにすごく狭く感じた。 ───── 「は、初めまして、!裕二さん、、ですか、?」 出会い系サイトで出会った人とリアルで会うのは初めてのことだった。 「え、あ、はいそうですけど。」 優しそうな目。私を包み込むかのような笑顔。 いつもDMの世界だけだった空想の裕二さんがそのまま着色されたような人だった。 元々話していたというのもあり、すぐに打ち解けた。 趣味の話、好物の話、今までの話。 全部全部裕二さんとなら楽しかった。 裕二さんは、本当に優しかった。 初めて手を繋いだ夜のことを、今でも覚えている。 駅の階段を降りる時、さりげなく手を差し出してくれた。 あの瞬間だけで、世界の全てを信じられる気がした。 「お前は大事にするからな」 笑いながら言ったその声に、 私は一生分の幸せを感じていた。 でも——優しさって、こんなに静かに変わるんだね。 連絡が少し遅れただけで、声のトーンが変わった。 誰といたの、何をしてたの、なんで返信しなかったの、 それを問い詰める声が、だんだんと優しくなくなっていった。 「ごめんなさい」って言うたびに、 彼の表情が緩んでいくのが分かった。 謝ることが、安心を与えるみたいで。 そのうち、私の“ごめんなさい”が 彼を愛してる証拠みたいになっていった。 叩かれた夜も、抱きしめられた夜も、 どちらも同じくらい、あたたかかった。 部屋の中にはいつも煙草の匂いが漂っていて、 カーテンの隙間から入る外の光まで、 灰色に染まっていた。 裕二さんは時々、私を撫でながら言った。 「お前は俺のもんだ」 その言葉に、胸が痛いほど嬉しくなった。 優しさが怖いと感じたのは、 きっとこの頃からだったと思う。 ——彼の手が、愛と痛みを分けられなくなっていた。 あの夜も、煙草の灰が手の甲に落ちた。 痛いのに、笑ってしまった。 だって裕二が、楽しそうにしていたから。 「熱かった?」と聞かれて、 私は首を横に振る。 本当は熱いのに、痛いのに、 その痛みでしか“ここにいる”って実感できなかった。 裕二が笑うと、世界が少しだけ優しく見えた。 でもその優しさは、刃物みたいに薄かった。 触れるたびに、私の中を少しずつ削っていった。 ——好きって言葉を、私はどこで間違えたんだろう。 彼のいない朝は、呼吸ができなかった。 寝ても覚めても、彼の声が頭の中で響いていた。 「どこ行くの」「誰と話したの」「俺以外、見なくていい」 それを聞くたびに、私は安心していた。 だって“見られている”ってことは、 まだ、愛されているってことだから。 頬の痛みも、胸の痛みも、 どちらも「愛された証拠」になっていった。 裕二のタバコをくわえたまま、 火のついた先を見つめていると、 まるで心臓の鼓動みたいに見えた。 じわりと赤く灯って、やがて灰になる。 私たちの関係も、きっとそんな風に燃えていくんだろう。 なのに私は、灰になるその瞬間まで見届けたいと思っていた。 だって—— その灰の中に、確かに私の名前が混ざっている気がしたから。 友人に言われた。 「ねぇ、それ、愛じゃないよ。」 分かってた。 そんなこと、とうの昔に気づいてた。 でも「愛じゃない」と言われた瞬間、 心の中の何かがざらりと剥がれ落ちた。 夜、アパートを出た。 玄関のドアを閉める音が、 まるで自分の鼓動みたいに響いた。 カバンの中には財布とスマホと、 裕二の吸いかけの煙草が一本。 火をつけてみた。 苦かった。 でも、安心した。 「裕二の匂いだ」って思ってしまった。 新しい部屋の壁は白くて、静かで、 何も私のことを責めなかった。 でも、静かすぎた。 裕二の怒鳴り声も、 灰皿が倒れる音も、 どこにもなかった。 夜が深くなるほど、 胸の奥がざわざわと痛んだ。 「裕二、今、何してるんだろう。」 そう思った瞬間、 涙が喉に詰まって、呼吸が苦しくなった。 同じころ、裕二も部屋で煙草を吸っていた。 灰が落ちるたびに、 「……あいつのいない煙、苦ぇな」 と呟いた。 誰もいない部屋。 灰皿の隣に、私のピアスがひとつ転がっていた。 お互いに、お互いの“いなさ”が痛みになった。 愛が鎖みたいに、どこまでも繋がっていた。 ────── 結局、戻った。 私、あの部屋に。 裕二は何も言わなかった。 ただ、煙草を咥えたまま私を見た。 その目は、優しくて、冷たかった。 そして、また殴られた。 頬が焼けるみたいに熱いのに、 心の奥は、妙に静かだった。 「私、悪い子だったのかな。」 そう言うと、裕二はふっと笑った。 「……悪い子だな。」 その声が、嬉しかった。 私は気づいていた。 殴られたいから、 わざと悪い子になる自分に。 痛みの向こうにしか、 “私たち”はいられなかった。 煙草の煙が天井にゆらゆらと溶けていく。 その白が、まるで赦しみたいで。 「ねぇ、裕二。  これが、私たちの愛なんだね。」 裕二は何も言わず、 ただ私の髪を撫でた。 その指の温もりが、 痛みよりも先に消えていった。 そして、煙だけが、まだ二人の間に漂っていた。

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煙草とあなた──煙草も、私も、あなたの大切。

消えないで、青。

遠くに聞こえる波の音。静かに揺れるカーテン。繊細に部屋に入る朝の光。パンケーキの甘い香り。 「うん、今日も美味しくできた。」 そんな独り言を漏らし、一人食卓に着く。 鳥の鳴き声はまるでオルゴール。私しか聞いていないから、まるで私一人のために奏でられているみたい。 「おはよう、あお。」 「、、おはよう、ございます、。」 あおは床を見たまま私に挨拶をした。 あおとの出会いは数日前だった。 大学の帰り道。 その日は空が澄んでいて、歩いて帰ろうと思った。 青い空。透明な海。白い砂浜。 昼間なのに月ははっきりと出ていて、幻想的な空間が広がっていた、あの日。 道端に横たわる1人の少年を見つけた。 「え、、?」 私はいても立っても居られず、すぐに家に連れ返った。 私のベッドに横たわる彼は、苦しそうな表情をしていた。 顔色も悪いし、手足は冷えきっていた。 動かしても、話しかけても反応は無い。 とにかく彼の回復を待った。 何時間か経って、彼はようやく目が覚めた。 最初は恐怖心と驚きに満ち溢れたような目でこちらを見ていた。 ホットミルクをあげると、すぐに彼は私に心を開いた。 「お名前教えて?」 声をかけると、彼はゆっくりと口を開いた。 「僕は、あおっていいます。ホントは葵(あおい)だけど、あおって呼んで欲しい、、。いいですか、?」 あおは怯えるような目でこちらを見た。 大きな目には大量の涙が溜まっていた。 その水は零れることを知らず、表面張力のままそこにとどまった。 「うん。いいよ。あおは何歳?」 あおは、またもゆっくりと口を動かした。 「14、、です。」 あおは床を見た。 ずっと床を見ていた。 「おうちはどこ?」 そう問いた時、あおの目に溜まっていた涙が流れ落ちた。 綺麗で、まるで宝石のような涙だった。 「僕のこと、家に返しますよね、、。」 あおの怯えるような表情はさらに増した。 「帰さないでください、、。わがまま、ですよね、、。」 あおはこちらを見て真剣に訴えかけた。 「……わがままなんかじゃないよ。」 私は小さく笑って、あおの髪を撫でた。 「もう少しだけ、ここにいなよ。」 その一言に、あおの肩が小さく震えた。 私はあおを風呂場へと案内し、シャワーを浴びさせた。 しばらくして出てきたあおの髪を、タオルで軽く拭きながら、ドライヤーの風を当てる。 あおの肩は、かすかに震えていた。 それが冷えによるものなのか、涙のせいなのか、私には分からなかった。 「あお、大丈夫?」 声をかけた瞬間、あおは私にしがみついた。「おねーさん……僕、怖い……」 あおの涙が、服を通して私の肌に染みこんでいく。 それはまるで、あおの痛みがゆっくりと私の中に溶けていくようだった。 「僕、見ての通りアルビノで……親も、周りの人も、みんな僕を気持ち悪がる。こんなふうに優しくされたの、初めてです…。」 あおはそう言って、また静かに涙をこぼした。その涙は、悲しみというよりも――ようやく触れた温もりに、戸惑っているようだった。 あおの手首には、いくつもの赤い線が刻まれていた。 「……あ、見ちゃいましたよね。すみません、こんなもの……。」 あおは慌てて袖を引き、手首を隠した。 「いいの。大丈夫。」 私はできるだけ穏やかに言った。 「最近あったかくなってきたのに長袖だったから、日に当たっちゃいけないのかなって思ってたけど……それもあったのね。」 あおは、こくりと頷いた。 「僕の血、みんなと一緒なんです。ちゃんと赤いのに。 あおは手首を見つめながら、声を震わせた 「僕の血が赤いって、分かってるんです。でも、誰も信じてくれない。誰も僕を見てくれないのに、気持ち悪がる。もう……傷つけるのだって、癖になってて。」 白い肌の上に浮かぶかさぶたの赤が、あまりにも鮮やかで、それが痛々しいはずなのに――なぜか綺麗だと思ってしまった。 何となくで着せた私の白い半袖Tシャツは、あおには少しでかくてブカブカしていたけれど、 「おねーさんの服、いい匂い、。落ち着く。」 とあおはTシャツの布ごと、自分の体を抱きしめた。 その姿はまるで、世界にやっと触れた子供みたいだった。 時は今に戻る。 1秒を刻む針の音。 この家に来てから当たり前となった朝食を、あおは1口、また1口と次々に口に運んでいく。 「口の周りにはちみつついてるよ。」 そう教えると、あおはすこし照れたような困ったような顔をして口の周りを拭いた。 この幸せがいつまでも続きますように、そう思っていた。 ある日の大学からの帰り道、知らない男女から声をかけられた。 「アルビノの少年を探しています。防犯カメラに写ってるこの人、あなたですよね。」 それは、あおを家に連れ帰った日の写真だった。 「あ、、はあ、、。そうです、、。」 その人たちは途端に笑顔を見せた。 「そうですか、!!!今すぐお渡ししていただければ、警察には訴えません!!わかっていますよね?ご自身が誘拐犯だってこと。」 女の人は、にっこりと笑った。 その笑顔はあまりに整っていて、まるで彫刻みたいだった。 「……あの子は、あなたのものではありませんから。」 彼女の言葉が、氷の粒みたいに胸に落ちた。 「……でも、あの子は帰りたがっていません。」 そう返すと、男の人が一歩こちらに近づいた。 「帰るかどうかを決めるのは、あの子ではありません。」 すれ違う言葉。 空気は静かなのに、心臓だけが激しく音を立てていた。 「連れ帰って、どうするおつもりですか。……彼、ご家庭のことについてすごく脅えていましたけど。」 女の人は笑った。 その笑い方が、妙に丁寧で、怖かった。 「怯える?あの子が? ……まあ、そうでしょうね。」 指先で自分の腕を撫でながら、彼女は穏やかに言う。 「“見られる”ことをやめたら、あの子は生きていけないんですよ。」 男の人がゆっくりと頷いた。 「そう。あの子の存在には“理由”がある。 生まれた瞬間から、“特別”として扱われるために生まれたんです。」 女の人はバッグの中から、何かのチラシを取り出した。 白い紙に、あおに似た少年の写真。 “奇跡の色素欠乏児——光に愛された少年” という文字が、印刷された笑顔の下にあった。 「ねえ、素敵でしょう?」 女の人の声が震えるほど嬉しそうだった。 「世の中の人が“あの子を綺麗だ”って思えるようにしてあげてるの。それって、愛でしょ?」 その瞬間、 背中の奥で、何かが凍りついた。 「あの子に何するんですか、!?」 目の前にいる2人は笑った。 「何って、何も痛いこととかはしないわよ。ただあの子が大勢の人に見られるだけ。」 「大勢の人に見られる、、?」 私は状況がまだ上手く掴めない。 でも、それによってあおが傷つくのに変わりはない。 「見世物小屋、、入れるってことですか。」 私は冷静に目の前の2人に聞いた。 「そんなに驚いた顔をして。なんなのかしら。私達はあの子の商品価値に気がついたのよ。気がつくまで貰っててくれてありがとう。とっとと返してちょうだい。」 怖かった。 あおがまた傷つくのが怖かった。 それより何より、あおと離れたくなかった。 「少し、時間をください。通報なりなんなりして頂いて大丈夫ですので。」 私は走って家に帰った。 「あお、ただいま。」 汗だくの私を見てあおが笑う。 「おねーさん変なの。そんなに急いでどうした…」 言い切る前にあおを抱きしめた。 「あお、あおはどうしたい?あの人たちの元へ帰りたい?」 あおは困惑の表情を見せた。 「帰る?あの人たちの元?なんで?どうして?いやだ、みんなに見られる?やだ、やだ、やだやだやだやだやだやだ…」 あおは泣き出した。小さな顔を流れる流星群は大粒だった。 「ねぇ、あお、深呼吸しよっか。吸って、吐いて。」 深呼吸をさせたあとも、変わらずあおは床を見ていた。 「ねえ、それ癖じゃないよね。」 あおの手首を指さす。 「あの人たち、それ知らないよね。あおのこと、息子じゃなくて商品としか見てないから。」 あおは自分の手首を見た。 「商品傷付ければ売れないと思ったんでしょ。それと共に、親にも見てもらえるかもしれない。」 あおはこっちを見た。 「ねぇ、おねーさん。僕はどうしたらいいのかな。」 私は少し黙った。 冷たい沈黙の中、次に口を開いたのはあおだった。 「おねーさん、このままだと逮捕されるよね。」 「私のことは考えなくていいのよ。」 あおの優しさは暖かくて柔らかいけど、いたかった。 「僕、おねーさんが好き。おねーさんに幸せになって欲しい。」 あおは私の手を握った。 「僕、あの人たちのところに帰る。」 私は目を見開いた。 「僕が傷つくのはわかってる。色んな人から色んな目で見られる。売られるかもしれないし、なにかの実験に使われることもあるかもしれない。」 私の目から生暖かいものが溢れ出す。 「初めてだった。普通に接して貰えたの。」 「あお…」 言葉を口に出そうとする度に、込み上げてくる何かがそれを遮る。 「今までありがとう。おねーさん。」 あおは、私を1人置いて玄関を飛び出した。 車の走り去る音がずっと聞こえていた。 海辺に出ると、風が頬を撫でた。 夕方の光はまだ柔らかく、波の白がゆっくりと溶けていく。 足跡のない砂浜を、私は裸足で歩いた。 あおの名前を呼ぶことも、もうできなかった。 呼べば、空のどこかに散ってしまいそうで。 潮の匂いが、胸の奥を締めつける。 あの子の髪も、きっとこんな匂いだった気がする。 空が群青に変わるころ、ひとすじの光が走った。 夜の境界を切り裂くような流れ星。 あおの涙も、きっと今あんなふうに空を旅している。 この世界のどこかで、まだ輝いている。 私は波打ち際にしゃがみ込み、小さくつぶやいた。 「ねえ、あお。  海って、こんなにも青いのにね。」 波がひとつ寄せて、私の手のひらをさらっていった。 その瞬間だけ、あおの声が聞こえた気がした。 ——「ありがとう、おねーさん。」 涙が、ひとつ、星になった。

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消えないで、青。

Bewitching Window

暗い部屋。布団の上で、また知らない幼い少年が押さえつけられている。 父の太い腕がその身体を逃さないように締め上げ、少年の口を押さえつける。 喉の奥から潰れた叫びが漏れるが、壁にぶつかってかき消された。 「泣くな。愛されてるんだ。分かるだろう?」 父の低い声と、衣擦れの音。 少年の目は涙で濡れ、ただ助けを乞うように司を見つめた。 司は目を逸らせなかった。 父の手の動き、少年の震える脚、布団を掴む白い指先。 何が行われているか、幼い頭でもはっきり分かってしまった。 やがて少年は動かなくなった。 痙攣のあと、ただ虚ろな瞳だけが残る。 父は鼻で笑い、その身体を床に転がした。 「やはり駄目か。所詮、金で買ったガキだ。」 使えないなあと言いながら先程まで玩具としていた少年の喉元に包丁の刃をたてる。 「来世はもっと頑丈になる事を祈ってるぜ。」 司が息を飲んだその時、父の目がこちらを向いた。 「次は……お前の番だ、司。」 背筋に氷のようなものが走る。 父はゆっくり近づき、震える司の顎を掴んだ。 血と汗で濡れた手が顔を撫で、体を押し倒す。 「逃げるな。これが“愛”なんだ。」 殺された少年の亡骸の横で、父は荒い息を吐きながら笑った。 「お前は違う。特別だ。……さすが俺の息子だな。」 ─── 小学4年になった転校初日。 「今日は誰とも仲良くしない」って心に決めていた。 でも教室のドアを開けた瞬間、まっすぐこちらを見て笑う声がした。 「やぁ、君が転校生?」 声の主は司。机に肘をつき、明るく微笑んでいる。 その笑顔は自然に見えるけど、どこか作られたようにぎこちない。 普通なら気づかない些細な違和感。でも健人には妙に引っかかった。 「……ああ、そうだけど」 短く答えると、司は「よかった!」と返して、隣の席をぽんと叩いた。 気づけば健人は座っていた。 「誰とも仲良くしない」って決めてたはずなのに。 司の声は不思議だった。軽いのに、なぜか心に残る。 ――後で知ることになる。 その声の奥にどれほどの闇が潜んでいたのかを。 引っ越して何年か経って、俺たちは中学生になった。 ある日の夕方。駅前の喧騒から一本入った細い路地に足を踏み入れたとき、健人は違和感を覚えた。 空気が淀んでいる。人の声も車の音も遠く、代わりに湿った壁に反響するような小さな呻き声だけが聞こえる。 「……?」 足を止め、耳を澄ませる。 確かに声がした。押し殺すような、怯えるような少年の声。 その瞬間、嫌な予感が全身を駆け抜けた。 健人は心臓を掴まれたような感覚のまま、声の方へと足を運ぶ。 路地の奥、外灯に照らされる影。 そこにいたのは司だった。 少年を壁に押し付け、その細い肩を力強く掴み、唇を奪っている。 少年の手が必死に逃げようともがくたびに、コンクリートに爪がこすれ、嫌な音を立てた。 「っ……司……!」 声をかけた瞬間、全身に血の気が引いた。 自分が叫んだのかどうかも分からない。 ただ体が勝手に走り出し、二人の間に割って入っていた。 少年は一目散に逃げ出した。靴音が乾いた路地に響いて遠ざかっていく。 残されたのは司だけ。 肩を上下させ、荒い息を吐きながら壁に背を預けている。 目が合った。 その目には、羞恥でも怒りでもなく、ただ諦めの色があった。 捕まった獣のような、いや──罪を背負った人間の目。 「……見たんだろ、健人。」 声は掠れ、震えていた。 隠そうともしない。 その瞬間、健人は悟った。 これから聞かされるのは、司の奥底にずっと封じ込められていた闇そのものだと。 健人は息を呑んだまま立ち尽くした。 路地裏の空気は重く淀み、わずかな外灯の明かりさえ濁って見える。 司は壁に背をつけたまま、乾いた笑いを漏らした。 「……俺さ、こういうこと……小さいころから、ずっと見てきたんだ。」 健人は言葉を失った。ただ「見てきた?」という問いが心の奥で木霊する。 司の声は途切れ途切れに、しかし止められない奔流のように続いた。 「いつも知らない少年が、布団に押さえつけられて……。泣いても、叫んでも、父さんはやめない。むしろ“これが愛だ”って笑いながら……使い捨てにして、いらなくなったら殺すんだ。包丁で。血が飛んで、床に広がって……」 そこで司の声が掠れた。 「……次はお前の番だ、って。俺も何度も……。」 その先の言葉は喉で詰まった。 けれど健人には充分すぎるほど伝わってしまった。司自身が被害者であり、その記憶が「愛」という言葉と結びついてしまったということが。 司はようやく健人を見上げた。 その瞳には、怒りも悲しみも通り越した諦めが滲んでいた。 「だから……俺は、少年を“綺麗だ”と思ってしまうんだ。おかしいだろ?頭では分かってるのに、身体の奥に染みついたものは消えなくて……」 一粒、また一粒と涙が頬を伝った。 声を荒げるでも、泣き叫ぶでもない。ただ静かに、我慢していた堰が壊れたかのように涙が零れ落ちた。 健人は拳を握りしめた。否定も説教も、今この瞬間に必要な言葉じゃない。 「……もう一人で背負うな。俺が知ったからには、お前はもう一人じゃない。」 その声に、司は小さく嗚咽を漏らしながら、ゆっくりと顔を伏せた。 長い沈黙のあと、彼の呼吸はようやく落ち着きを取り戻す。 闇に囚われたまま、それでも確かに一歩、彼は外へ踏み出した。 司の声が途切れると、路地裏は静まり返った。 遠くを走る電車の音さえ、別の世界の出来事のように感じられた。 健人は、胸の奥に鉛を流し込まれたような重みを覚えながら、ただ司を見つめていた。 ――あまりにも重い。あまりにも理不尽だ。 怒鳴りたい気持ち、泣き出したい気持ち、司を抱きしめて守りたい気持ち。 全部がごちゃ混ぜになって喉に詰まり、声が出なかった。 司は、自嘲するように薄く笑った。 「……引いただろ。」 その笑みの裏で、またひとつ涙が頬を伝って落ちた。 健人は言葉を選んだ。吐き出すように、そして自分に言い聞かせるように。 「引くもんか。……お前が背負ってきたもんを、俺が簡単に裁けるわけないだろ。」 その瞬間、司の肩が小さく震えた。 誰かに否定されることを覚悟していたからこそ、肯定に近い響きが胸に刺さったのだろう。 沈黙が続いた。けれど、それは拒絶の沈黙ではなかった。 お互いの鼓動を聞き合うような、重くも確かな沈黙だった。 やがて司は小さく呟いた。 「……俺さ、教師になる。」 唐突すぎて健人は目を瞬いた。 「……教師?」 「愛を知る教育を広めたい。……俺は愛を知らない。だからこそ、必死に教えようと思えるんだ。」 司の声は震えていた。けれどその震えは、もう弱さだけではなかった。決意を含んだ震えだった。 健人は少しだけ笑った。 「矛盾だな。でも、悪くない矛盾だ。」 司がこちらを見た。その瞳には、確かに影がある。だがその奥に、今までになかった光が灯っていた。 路地裏の湿った空気の中で、健人は初めて思った。 ――こいつは、もう一度やり直せるかもしれない。 その日を境に、健人と司は互いの家を行き来するようになった。 他愛ない勉強や食事を共にするだけ。 だが、日が経つ程に司の影は濃くなり、抑えきれない衝動に飲み込まれていった。 「……やっぱりまだ怖いんだ、、。また、襲っちゃうんじゃないかって。」 頭が真っ白になった。どうすればいいかわからなかった。 気がついたら俺は司を抱きしめていた。 「ねえ、抑えられなくなったら俺のこと使ってよ。」 自分の口から出た言葉とは思えなかった。 お互いに困惑しながらする不慣れな行為。 1日、また1日と司は俺を求めるようになった。 繰り返される行為の中で、健人は気づいていった。 これは犠牲でも同情でもなく――司を拒めない自分の感情そのものだ、と。 触れるたびに胸の奥で膨らんでいく想い。 それはいつしか、司に向けられた確かな「好意」へと形を変えていった。 ⸻ ある夜、健人は初めて口にした。 「……ねえ、今夜は俺がしたい。」 司の瞳が大きく揺れた。 父の影が脳裏に蘇り、全身が凍りつく。 「やめろ……俺は……」 怯えに震える声。過去の記憶が彼を縛りつけていた。 けれど健人は首を振り、司の手を包み込むように握った。 「違う。痛くしない。怖くもしない。……俺は、お前を壊さない。」 その声に、司の体から徐々に力が抜けていった。 唇に触れた温かさは、暴力の冷たさとはまるで違った。 背中を撫でる指先は、支配ではなく慰めだった。 「……あぁ……」 司の喉から漏れた声は、あの頃とは全く違う快楽によるものだった。 父の手で刻まれた傷跡が、初めて優しさによって上書きされていく。 二人は肩を並べ、黙って夜明けを待った。 東の空に差し込むわずかな光は、二人の未来を照らすように淡く揺れていた。 ある日司から連絡が入った。 隼人が司の家にやって来た夜。 落ち着かない表情で眠る少年を診たあと、健人の胸に黒い疑念が芽生えた。 ――まさか、司はまた青少年に手を出すのではないか。 気づけば健人は司の胸倉を掴んでいた。 「ふざけるなよ……!お前、まだ同じことを繰り返すつもりか!」 司は驚きに目を見開き、すぐに首を横に振った。 「違う!もう俺は……あの頃のままじゃない!」 その声は震えていたが、かつての闇に呑まれた声ではなかった。 隼人を庇うように立ち塞がる姿に、健人ははっと息を呑んだ。 誤解だった。司はもう正気に戻っていた。 あの路地裏で涙を零した日から、彼は確かに変わっていたのだ。 ――もう、大丈夫だ。 健人は手を放ち、深く息を吐いた。 重く淀んでいた空気が少しずつ晴れていく。 マンションの地下駐車場。 ひんやりとした空気の中、健人はただ黙って立っていた。 視線の先では、司が黒いベンツに乗り込み、ゆっくりとエンジンをかける。 かつては闇に囚われたまま震えていた男が、今はまっすぐ前を見ていた。 その横顔に、健人は確かに成長を感じ取った。 ヘッドライトが白い光を放ち、闇を切り裂いていく。 車体が遠ざかっていくのを見つめながら、健人は胸の奥で小さく呟いた。 ――司、お前はもう大丈夫だ。 その言葉は声にはならなかった。 けれど確かな祈りのように、駐車場の静寂に溶けていった。 残されたのは健人ひとり。 冷たいコンクリートの床に立ち尽くしながらも、胸の奥には確かな温かさがあった。 司が変わった。その事実だけで、十分だった。

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「囚人番号1724番、出獄。」 冷たい声と靴音が、石造りの廊下に響く。 鏡に映った自分は、ただの「抜け殻」だった。 高校を卒業することもなく、大学も失敗して、担任教師を刺して、刑務所に入った。 行くあてなんてどこにもない。ネグレクトだった両親は離婚して、それぞれ別の家庭を築き、「礼子なんて人は知らない」と言い張っていた。 私は、ただ一人の「余り物」だった。 私は本当に、何も持っていない。 ⸻ 元々ネグレクトで育った私に生きる希望はなかった。 卒業したら死のう。 そうやってずっと思ってた。 司は私に大学受験を勧めた。 私は彼を信じ、大学受験をすることにした。 あの時の空は、どこまでも灰色だった。 湿った空気が肌にまとわりついていた。 私は受験は失敗に終わった。 勉強に集中している間だけは、生きようと思えた。 受験が終わった今、私はただ教室の窓の外を見ていた。 そこに現れたのは司だった。 「とにかく生きろ。」 彼はそう言った。 生きる? 何のために? 希望も未来もないのに? 私の計画は完璧だった。 万が一飛び降りに失敗したとき用に家庭科室から包丁も持ち出した。 それなのに。 屋上に立つ私を止めに来た彼を、包丁で貫いた。 血が噴き出し、彼は倒れ、呻き、そして──死んだ。 「これで、楽になれる」 そう思ったはずだった。 なのに、残されたのは虚しさと、止まらない声。 「生きろ」 司の声は、今も耳の奥で響いている。 ─── 足は自然と繁華街へ向かった。 歌舞伎町の雑踏。眩しいネオンと人の笑い声。 でも私の胃袋には、何も入っていない。 身体は重く、視界は滲んで、気づけば歩道に倒れていた。 「大丈夫ですか?」 低く穏やかな声が耳に届く。 「放っといてよ」 そう言って睨んだ。 けれど、彼は迷わず私の腕を掴み、立たせてくれた。 「私は夕日賢治。警察官です。困っている人を放っておけないんです。」 その言葉が、私の中で何かを揺さぶった。 人は誰も、私を「放って」生きてきた。 だから「放っておけない」と言ったその人の声は、嘘みたいに優しかった。 ⸻ 気づけば、私は彼の家にいた。 温かいご飯が湯気を立てていた。味噌汁、白米。 最初は「罠だろ」と思って手をつけなかった。 でも一口食べた瞬間、涙が溢れた。 ああ、これが「幸せの味」なんだ、と。 やがて私は賢治と結婚し、娘を授かった。 名前は愛香。 あのとき賢治が「たくさんの愛を知って育ってほしい」と言って決めた。 私はその響きが好きで、何度も声に出して呼んだ。 「愛香」──呼ぶたびに、自分が母になった実感があった。 3人で食卓を囲むのが日常になった。 「いただきます」を言うのが最初は恥ずかしかった。 けれど愛香が小さな声で真似をするのを見て、私も少しずつ言えるようになった。 雨の日、3人で相合い傘をして歩いた。 休日にはスーパーで「どっちのアイス買う?」と笑い合った。 そんな何でもない日常が、私にとっては夢のようだった。 夜、愛香が眠った後、私はよく賢治の胸に顔を埋めて言った。 「幸せすぎて怖い」 賢治は笑って、私の髪を撫でた。 「大丈夫だよ。俺がいる」 私は信じた。 幸せは続くと、信じていた。 ⸻ けれど、少しずつ彼の様子は変わった。 帰りが遅い日が増えた。 書斎で資料を抱えて読み込み、私が近づくと慌てて閉じることもあった。 問いただしても「仕事だから」としか答えない。 不安が胸を掴んだ。 でも私は信じるしかなかった。信じなければ、また一人になってしまうから。 ⸻ その夜、賢治は帰ってこなかった。 愛香を寝かしつけ、私は窓辺に座って、いつもの足音を待った。 でも、何度夜が更けても扉は開かなかった。 電話が鳴った。 警察署からだった。 「夕日賢治さんが……」 声はそこで途切れたように聞こえた。耳鳴りが全てをかき消した。 世界が、音を立てて崩れた。 賢治は死んだ。 政治家の不祥事を掴み、抹消された。 ⸻ 賢治のいない日常。 3人の食卓は、2人分の空白を抱えるようになった。 愛香の笑い声は、私には刃にしか聞こえなかった。 「どうして賢治を奪った?」 「どうして幸せを壊した?」 答えのない問いが、私を苛んだ。 そして私は、愛香に手をあげるようになった。 叩くたびに、殴るたびに、心の奥で「やめろ」という声が響いた。 けれど止められなかった。 愛香の泣き声は、私に「失った幸せ」を突きつけてきたから。 私は母になれなかった。 ただ、闇の中でもがき続ける怪物になった。 ⸻ 「幸せすぎて怖い」──あの日の私の言葉は、予言だった。 幸せは長く続かない。 いや、最初から私には「幸せを守る力」なんてなかったのだ。 愛香が高校生になった今も、私はまだ闇の中にいる。 そしてその闇を、娘に押し付けてしまっている。 ごめんね。愛香。

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Young Adult

Black Memory

闇に沈む。 眠りではない。夢でもない。 ただ、濃度の高すぎる闇が私の体を押し潰していく。 息をするたびに、鉄の匂いが喉を焼く。 過去の記憶が、押し寄せる波のように次々と形を持ちはじめた。 ⸻ 拳1個にも満たないパン一切れと緑色の液体。 それが「食事」だった。 兄弟12人が同じ机を囲み、黙ってそれを口に運ぶ。噛む音さえ許されなかった。 父の声が響く。 「駒は喋らなくていい。」 母の冷たい指先が、誰かの頭を机に叩きつける。鈍い音の直後も沈黙が走るばかりだった。 夜は習い事。ピアノ、ヴァイオリン、外国語、バレエ、剣道、水泳──10種類以上にも及んだ。 一つでも手を抜けば、手首に縄が巻かれ、暗い押し入れに閉じ込められた。 「未熟だな。そんなものではお父様とお母様の役に立たない。お前はまだ“商品”にもなれない。」 その声に、幼き頃の私の心臓は毎晩小さく縮んでいった。 ⸻ あの日、テレビの取材が入った。 「最高の教育者」である両親への取材。 しかし末っ子が「僕達は駒なんだ」と漏らしただけで、すべてが崩れた。 翌日から父と母は狂ったように私たちを殴った。 兄弟の顔から血が流れ、泣き声が闇に反響した。 数週間後、家に黒塗りの車が列を成した。 兄弟は一人、また一人と荷物のように運ばれていった。 金持ちに買われた者。戦地に送られた者。 笑いながら金を数える父。 無表情で書類に判を押す母。 最後に残った4人の兄弟たちと震えながら次の日が来なければいいのに、と願う日々が続いた。 「売れ残りはまとめて、兵士として戦地に送る。」 冷たい声が、耳の奥に今も残っている。 ⸻ その夜、扉を開けたのは若い男──司だった。 「この少年はいくつだ?」 父はにやりと笑い、「さあ、覚えてないな。」と言った。 「こいつは頭もいいし顔もいい。165万からだな。」 子供に値段をつける父の姿は、人間ではなかった。 床に叩きつけられる紙幣。 そして、私は買われた。 商品の一つとして。 だが司の眼差しは、父や母とは違った。 恐ろしくもあり、不信感に満ちてもいたが、どこかに微かな光を含んでいた。 私はそれに気づかないふりをした。 信じてしまえばまた裏切られる。そう思ったから。 ⸻ 今いる真っ暗な空間で、その声は問う。 「お前は何のために教師になった?」 私は震える唇を開いた。 「“ちゃんとした教育”を広めるためです。」 答えた瞬間、兄弟たちの叫びが頭を満たす。 殴る鈍い音。 泣き声。 助けを求めるも手を振り払う父母の影。 「愛を知る教育だ」──そう続けた。 だが言葉は自分に跳ね返る。 愛を知ったことがあるのか? 実の親から。母の笑顔は? 父の腕は? 何もない。 司は最期「俺だけじゃなく沢山の人から愛を知れ。そして、愛を教えられるような教師になれ。」と言った。 ⸻ 気づくと、机に向かっていた。 手の中にはペン。 白紙を埋める文字は震えながらも並んでいく。 教育実習で出会った生徒の顔。 「隼人先生」と呼ばれた瞬間の重み。 闇の声が囁く。 「お前はまだ愛の全てを知っていない。」 それでも私は答案用紙を閉じた。 合格通知を受け取ったのは、それから数ヶ月後。 「教員採用試験 合格」──その文字が視界に滲んだ。 頬を伝う涙は夢か現実か分からなかった。 だが私は知っていた。 愛を知らぬ者が「愛を教える教師」になろうとしているという皮肉を。 ⸻ 私の胸には未だ空白が残っている。 けれどその空白を抱えたまま、私は黒板に立つだろう。 愛を知らないからこそ、必死に愛を語ろうとする教師として。

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Black Memory

Moon Light

俺を見つめる少年の瞳は、すでに死を受け入れた者のそれだった。 黒く濁りきった瞳の奥には、光も、怒りも、悲しみさえもなかった。ただ「無」。 両親は嬉々として言う。 「この子、今日買っていただけないと、明日にはロシアの植民地へ送られる予定でしてね。」 その声が続いたが、途中から俺には聞こえなくなった。いや、耳を塞いだのは俺自身だ。 ――なぜ笑えるんだ。自分の子供を売る話をしながら。 俺の腹の底で熱いものが蠢いた。吐き気にも似た怒りだった。 「お金が無いから売らないと。それに私たち、ここらじゃ有名人でしょう?とっとと逃げるためにもお金が無いとねー。」 笑いながら平然と言い放つその顔を、俺は拳で叩き潰したい衝動に駆られた。 人間の感情が壊れている。 金に支配された化け物。 俺の目はその少年に釘付けだった。 ずっと同じ服ばかり着ているのか着疲れた服。 女子と勘違いしてもおかしくないほど長く伸びきっている髪。 細すぎる腕。骨ばかりが浮き出た身体。 その姿は「虐待」の二文字そのものだった。 「この子は兄弟の中でも抜群に頭が良かったんですよ〜!それにほら、顔も可愛いでしょ?ですので165万からとなっております♪」 値段を告げる声。 人に値段をつける。しかも、自分の子供に。 「黙れ。」 吐き捨てた俺の声は、自分でも驚くほど低かった。 俺は財布から札束を取り出すと、300万を床に叩きつけた。 その瞬間、両親は飢えたハイエナのように床に這いつくばり、金をかき集めた。 人間がここまで卑しく見えることがあるだろうか。俺は背筋に寒気を覚えた。 それでも、彼らはなお言った。 「ええと……追加で少し、上乗せしていただければ……」 「うるさい。黙れ。」 俺はもう彼らに背を向けていた。 少年の腕を掴み、素早く家を出た。 驚くほど細く、冷たかった。 早くこんな所から離れないと、、俺は思わず力を込めてしまった。 「……っ、申し訳ありません。力を緩めていただけますか?」 怯えた声。 その一言で我に返り、慌てて手を放した。 「ごめん……」 俺の声は、謝罪というより懺悔だった。 ――俺は救えるのか。いや、俺に救う資格などあるのか。 「君、名前は?」 そう問うと、少年は俯いたまま小さく呟いた。 「……私に、名前はありません。」 名が無い。 数字で呼ばれてきたと言う。 12人兄弟の8番目。 「8」。 それが彼の名前の代わりだった。 俺は息を呑んだ。 人を物のように扱うとはこういうことか。 「……今日から、お前の名前は隼人だ。」 少年の目が大きく見開かれた。だがその奥にあるのは喜びではなかった。 不信感。 「名付けられること」すら恐れているように見えた。 「……なぜ、その名前を?」 彼は震える声で問うた。 「なんとなく、だ。」 俺はそう答えたが、胸の奥に刺さる痛みがあった。 隼人――それは、俺の父の名前だった。 俺を幼い頃から壊し、弄び、愛の形を歪ませた男の名。 忘れてはならない呪いのような存在。 それでも俺は、この少年に同じ名前を与えた。 「父を忘れない」という、自分なりの誓いでもあった。 ――これが救いなのか、それとも新たな呪いなのか。 その答えを知るのは、まだずっと先のことだった。

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Moon Light

Prologue

闇はいつだって静かに忍び寄る。 それは叫び声のように激しくもなければ、雷鳴のように唐突でもない。 気づけばそこにあり、肌にまとわりつき、息を詰まらせる。 この物語に登場する誰もが、闇の中でもがき続けていた。 救いを求め、差し伸べられた手を握ろうとしながらも、 その手は時に幻であり、時に鎖となる。 親の愛に縛られた少女。 正義を掲げながら潰された男。 名もなく売られた子供。 愛し方を知らないまま大人になった者。 彼らの道は交差し、ときにすれ違い、 やがてひとつの断片的な記憶として繋がっていく。 救済とは何か。愛とは何か。 その答えを誰も持たないまま、彼らは歩みを止められない。 これは、出口のない迷路の記録である。 そして、あなたが覗き込むその瞬間からも、 彼らの囁きは夜の深淵から響き続ける。

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Prologue

あの頃の赤

とにかく苦しかった。何がとも言えないが見えない物に押しつぶされるような感覚。息苦しくて、暑くて。本当に苦しかった。 言いようも無い気持ちに嫌気がさして、消えたくなった。誰にもバレないように消えることが出来るのなら、なんて素敵だろうとずっと思っていた。 I字のカミソリは当時の私には怖かった。消えたいのに死んでしまう気がした。T字のカミソリを手首に押し当て血が流れる生活を毎日続けていた。 「あ!またやってんじゃん!!」 同じクラスのルカがそう言った。 ルカの手首にも私と同様傷がある。 「ごめん。てかルカも一緒じゃん。」 そう言って手首を見せあって笑った。 2人は共依存という関係に近かった。 お互いが居ないと呼吸すらできないほどだった。 登校から下校まで片時も離れず、帰宅してからも眠る直前まで互いを求め合った。 起きて最初に確かめるのも、夜に最後に手放すのも、互いの存在だった。 ただ支え合うだけじゃない。愛して、欲して、互いに飢えていた。 ルカが私に縋ることで私は生きる意味を手に入れた。 私がルカに縋ることで、ルカは生きる意味を手に入れた。 それは承認欲求なんかじゃなく、むしろ互いをむさぼり合う愛に近かった。 互いが互いを欲するその強さこそが、二人をつなぎとめていた。 「人と人が支え合って人」そんなどこかの言葉をずっと信じてた。 ある日ルカから相談された。 「私、ユイトのこと好きなの。」 ユイトというのは私の幼なじみだった。 「そうなんだ!付き合えるといいね!」 彼女は黙った。 しばらくして口を開いた。 「私、ユイトと付き合えないなら死にたい。」 頭の中が真っ白になった。 唖然とする私にルカは抱きついてきた。 「ねぇ、私ユイトと付き合いたい。協力して。」 ルカのことを死なせたくなかった私は、ユイトの気持ちなんて考えもせず、ルカの気持ちだけに寄り添い、恋のキューピットとなった。 中学を卒業しても2人の恋は続いた。 ルカとユイトが付き合ってから、LINEの画面が更新されることはなかった。 ある日ルカからDMが来た。 「ユイトの愚痴を聞いて欲しい。」 毎日毎日ユイトとの日常が送られてきた。 ルカのこぼす愚痴は正直自慢にしか捉えることが出来なかった。 ある日を境に、体の話もしてくるようになった。 聞いているのが少しばかり苦しかった。 それと同時期あたり、ユイトからも連絡が来るようになった。 「ルカと体の相性が合わない。」 それを私に言われたところで、。という内容だった。 ある日ユイトは私に言った。 「俺、黒髪ロングで、胸がでかくて、むちむちしてるやつが好きなんだよ。」 黒髪ロング、胸がでかい、むちむち、、。 ルカとは正反対の言葉が並んだ。 ユイトは続けた。 「俺、ルカのことも好きなんだけど、俺のタイプに合う、ほんとにぴったり合う女がいるんだ。」 私はただ黙って話を聞いていた。 「正直、浮気になってもいいからそいつと付き合いたい。」 ユイトの口は止まらなかった。 「そのそいつって言うのはお前なんだけど」 「え?」 思考が止まった。 同時に私のスマホが鳴った。ルカからだった。 「ねー私ユイトと別れたーい」 いつもの愚痴が始まるときと同じ文言だった。 どうしたらいいか分からず、まずはユイトの方から話を聞くことにした。 「どうして自分の好みじゃない女の子と付き合うことにしたの?」 ユイトは少し黙った。 「それは、、。あの雰囲気、付き合わないとやばかっただろ。」 当時を思い出す。 私、ルカ、ユイトは所属している部活が一緒だった。 ルカの想いはすぐにみんなに知れ渡り、部一丸となってルカの想いを応援した。 その際ユイトのことなんて考えることもなかった。 「好きでもねぇ奴と付き合うってこういうことなんだよな。」 ユイトは今の自分の気持ちを正当化した。 次にルカの気持ちを聞いた。 「最近ユイトが裸の写真送れとかうるさくてさー笑」 ルカは幸せそうだった。 それと共に「ねぇ、私ユイトと別れたーい」といういつもの文言がいつも以上に刺さった。 毎日毎日愚痴を装った自慢にうんざりもしていた。 「ねぇ、そんなに別れたいなら別れちゃえば?」 私の指は止まらなかった。 ユイトに言われたこと、そしてルカの思い、全て全て整理してルカにぶつけた。 時刻は深夜3時を迎えていた。 「私もう死ぬから。」 ルカから送られてきたのは屋根の上にいる写真だった。 私は止めた。 「4時になったら死ぬ。」 ルカは聞かず、そのまま飛び降りた。 ルカは死ななかった。朝日はいつものように昇った。 朝日は昇ったが、私の胸の中の夜はそのままだった。 それでも私は今も、この文章を書きながらあの頃の私とルカに触れようとしている。 あの時の私を、あの時のルカを、もう一度抱きしめたくて。

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あの頃の赤