かつらな

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かつらな

現役女子高生、17歳。 かすかな痛みと夢の残り香を言葉に変えて、生きている証を綴る。

透明なバスケットボール

夜の体育館は、世界から切り離されたみたいに静かだった。 風の音も、街のざわめきも届かない。 ただ、ボールが床を叩く音だけが響く。 ——ドン、ドン。 反響が広がって、胸の奥まで揺れる。 澪は息を吐きながら、ひとりでシュートを放った。 ボールがリングを擦り、軽い音を立てて落ちる。 「……くそ、外れたか。」 ボールを拾い上げ、またドリブル。 この場所に残るのは、もう“音”だけ。 チームメイトの声も、玲の笑い声も、全部過去になった。 ふと、壁際の時計に目をやる。 針は夜の九時を指している。 部活が終わってから、もう三時間が経っていた。 帰る理由が、最近はどんどんなくなっていく。 寮に帰っても誰もいない。 ここにいれば、何も考えなくて済む。 ——だから、今日も残っている。 シュートのリズムを繰り返していると、 不意に、風が吹き抜けた。 ……おかしい。窓は全部閉まっているはずだ。 「……?」 ボールを止め、息を潜める。 体育館の天井から、淡い光が差していた。 まるで月の光みたいに白い。 その光の下に、 人影が立っていた。 息が止まる。 時間も、音も、止まったように感じた。 腕まくりしたワイシャツ。 緩めたネクタイ。 笑うと左の口角が先に上がる——見間違えるはずがない。 「……玲?」 声が震えた。 呼んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。 その影はゆっくりと顔を上げ、 やわらかく微笑んだ。 「久しぶり、澪。」 その声は、風の中に溶けるように届いた。 澪の足が動かない。 頭では理解していた。 ——ありえない。あいつは、もうこの世にいない。 けれど、目の前の玲は確かに“そこにいた”。 月明かりを背に、透き通るような輪郭で立っていた。 澪は、手のひらの中のバスケットボールを強く握りしめた。 指先が震える。 光が波打つ。 そして、玲が一歩、こちらへ踏み出した。 「……まさか、お前——」 ——その瞬間、鈍い音が響いた。 ボールが床に転がる。 静寂が、再び世界を包み込んだ。 月が、淡く滲む。 澪の胸の奥で、過去がゆっくりと目を覚ました。 ─── チャイムの音が、どこか遠くに聞こえた。 眠気と重たい記憶のせいで、今日の空気はやけに鈍い。 黒板のチョークが走る音。プリントをめくる音。 全部、同じように薄く響いていた。 澪はノートを開いたまま、半分意識が飛んでいた。 昨日の夢──玲の姿が、頭から離れない。 (あれ、夢だよな。……いや、夢に決まってる。) 「おい、神楽。答え言ってみろ。」 「えっ……あ、すみません。」 立ち上がって焦って答えようとしたその瞬間、後ろから声がした。 「4だよ、4。答え4。」 息が止まる。 ……その声、聞き間違えるはずがない。 澪はゆっくりと後ろを振り返った。 そこにいたのは、腕まくりのワイシャツに緩んだネクタイ、 あの第1ボタンを外した姿の──玲。 黒板の光を反射するように白い肌が透けて、 窓の外の光が彼の輪郭を縁取っていた。 「……っ、れ、玲……?」 声に出した瞬間、前の席の男子が振り返る。 「神楽?なんか言った?」 「……い、いや。」 (幻覚……? いや、そんなわけ……) 玲はいたずらっぽく笑った。 「授業中、寝るなよなー。相変わらずだな、澪。」 その笑顔は、生きていた時と同じだった。 少しだけ首を傾げて、目尻を緩めるあの癖も。 澪は震える手でペンを握った。 「……幽霊が、授業妨害すんなよ。」 「はは、ひでぇ。せっかくヒント出してやってんのに。」 玲の笑い声が、澪の耳にだけ響いた。 誰も気づかない。誰も見えない。 けれど、確かにそこにいる。 ──チャイム。 授業が終わり、周りがざわつく。 澪はすぐに立ち上がり、教室を出ようとした。 だが、後ろから声が追いかけてきた。 「なぁ、澪。」 「……やめろ。話しかけんな。」 「ひどいなぁ。せっかくまた会えたのに。」 「また……?」 「俺さ、自分でもよくわかんねぇんだけど。気づいたらここにいて。  たぶん、まだ“終わってない”んだと思う。」 「終わってない……?」 「うん。澪とちゃんと話せてなかったから、かな。」 その言葉に、心臓が跳ねた。 見えない針が、ずっと止まってた時計を動かしたように。 「……あの時のこと、思い出したくない。」 「でも、思い出してほしい。  俺がここにいる意味、多分それだから。」 玲の声は優しかった。 その優しさが、いちばん苦しかった。 放課後。 体育館の窓から差す夕陽が、床を朱に染める。 バスケットボールの弾む音が響いていた。 澪は一人、コートに立っていた。 指先に感じるボールの感触が、やけに懐かしい。 「……来ると思った。」 背後から玲の声。 振り返ると、あの日と同じ姿。 腕まくりしたワイシャツから伸びた白い腕が、 太陽の残光で半透明に見えた。 「お前……まだバスケやってんのか?」 「当たり前だろ。お前に勝つまでは成仏できねぇ。」 「は?幽霊に負けたら一生ネタになるんだけど。」 「じゃあ負けんなよ。」 玲が笑う。 その笑いに、心の奥がざわめいた。 澪は無言でボールを投げた。 玲は受け取る。音が、確かに鳴った。 “ドンッ” その瞬間、世界が一瞬だけ息を吹き返したようだった。 二人はパスを繰り返した。 音も、空気も、いつかのまま。 ただ違うのは、夕陽の中で玲の体が少し透けていたこと。 ボールを返しながら、玲が呟く。 「……なあ澪。俺、生きてた時より今の方が、ちゃんとお前のこと見れてる気がする。」 「なんだよ、それ。」 「前はさ、お前の隣にいるのが嬉しすぎて、見失ってたんだと思う。」 澪は何も言わなかった。 ただ、最後のパスを強く投げた。 玲はそれを受け止め、笑った。 「やっぱお前、手加減しねぇな。」 「お前が勝つまで、成仏すんなよ。」 夕陽が沈む。 玲の姿が、光の中に滲んでいく。 「また明日、な?」 「……ああ。」 ——音が、静かに消えた。 澪は手のひらを見つめた。 そこには確かに、玲の“温度”が残っていた。 玲との再会から数日。 ボールが指先を離れ、リングに軽く当たって弾む。 体育館の空気は、夕焼けの色に染まっていた。 誰もいない放課後のコート。 澪は一人、シュートフォームを確かめるように何度も跳んでいた。 「……外すなよ、エース。」 背後から声がして、澪は振り返った。 いつの間にか、玲が立っていた。 緩めたネクタイ、腕まくりしたワイシャツ。 生前とまったく同じ姿。 「お前、相変わらず突然出てくるよな。」 「だって見てると楽しいんだもん。  今も、あの頃と同じ目してる。」 玲は笑う。 けれどその笑顔に、ほんの少し影が差していた。 澪がリングを見上げていると、 「勝負しよ。」と玲がボールを投げてきた。 「は?今から?」 「いいから早く。」 玲はいたずらっぽく笑う。 白い腕まくりのシャツ、軽やかなステップ。 遊びのはずなのに、本気だ。 ドリブルが床を叩くたび、音が響く。 玲のフェイントに澪が一瞬遅れる。 「おいズルいぞそれ!」 「へへっ、勝ちは勝ちだよ。」 ボールがリングを通過する音。 その瞬間だけ、時間が本当に戻った気がした。 バスケットボールが床に転がって、静かに止まった。 「……ふぅ。もう、限界。」 澪が汗を拭きながら息を吐く。 しばらくの沈黙。先に口を開いたのは玲だった。 「……澪、さ。」 玲が静かに言う。 「俺が死んだ日のこと、ちゃんと覚えてる?」 手の中のボールが止まる。 澪の呼吸が、わずかに乱れた。 「……あの日、か。」 「思い出してほしい。俺が“ここ”にいる理由、知ってほしい。」 玲の声が優しく響いた瞬間、 体育館の窓を雨が叩いた。 その音が、遠い記憶を呼び覚ます。 ⸻ 放課後の教室。 外は、今にも降り出しそうな空。 「澪くん♡ 一緒に帰ろう?」 「え〜ずるい!」「私も!」 「いや、私の方が先に誘ったんだけど!」 取り囲む女子たちの声に、澪は苦笑い。 「悪い、玲。部活先行ってて。」 「……あ、うん。」 玲はそのまま廊下に出る。 背中が少し震えていた。 (……まただ。) 教室の笑い声が遠ざかるたび、 胸の中の何かが軋んだ。 幼い日の約束が浮かぶ。 ——“ずっと一緒だよ” その言葉だけを信じて生きてきた。 けれど、澪はどんどん遠くへ行ってしまう。 誰かの笑顔に囲まれながら。 (俺は、どこにもいられないのか。) 階段の踊り場に座り込む。 手首の包帯の下から、薄く血が滲んでいた。 「玲?」 声がして顔を上げると、澪が立っていた。 「遅れてごめん……って、お前、泣いてんのか?」 「な、泣いてない。」 「嘘つけ、顔ぐしゃぐしゃだぞ。」 澪は心配そうに近づく。 「ほら、この教室空いてる。入ろうぜ。」 二人きりの教室。 雨が降り始める。 ガラスを叩く雨粒の音が、不思議と心に刺さった。 「さっきのやつら、ほんとめんどくさかったなー。」 澪の声が少しだけ軽い。 それが余計に、玲の胸を締めつけた。 「……澪。」 「ん?」 ——ガタッ。 気づけば、玲は澪を床に押し倒していた。 息が重なる距離。 澪の頬に、玲の涙が落ちた。 「おい……玲?」 「ばか。約束、忘れたのかよ。」 「え……?」 包帯がほどけ、赤い跡が見える。 澪の瞳が揺れた。 「え、玲…これ、、?」 「ごめん。正直に言う。」 玲は、震える声で言った。 「俺、澪のことが好きだ。  友達としてじゃなくて、恋愛として。  ずっとずっと……お前のことしか考えられない。  手首のこれも、止められなかった。  苦しくて、どうしようもなくて。」 沈黙。 雨音だけが響く。 「……ごめん、迷惑だよな。」 玲は立ち上がり、澪に手を差し出した。 「ごめん、忘れてくれ。」 その手を澪が掴み、 次の瞬間、力いっぱい抱きしめた。 「バカ。泣くなよ。」 「澪……?」 「お前の気持ちに、すぐ答えられねぇ。  でも今日、一緒に帰ろう。  お前のこと、ちゃんと知りたいから。」 玲の目が、ふっと和らいだ。 「……うん。」 ⸻ 雨は本降りになっていた。 傘の中、ふたりの肩が触れる。 「なぁ澪。」 「ん?」 「俺さ、今、めっちゃ幸せなんだ。」 「……は?なんでだよ。」 「だって、好きな人と帰ってるもん。」 澪は一瞬だけ黙って、空を見上げた。 それを見つめる玲の目は、確かに恋をしていた。 ——そして、 その瞬間、世界が砕けた。 ライト。 ブレーキ音。 タイヤの水しぶき。 「……澪!!」 玲が飛び出す。 その腕が、澪を突き飛ばした。 視界が真っ白になる。 何も聞こえなくなった。 ⸻ 「玲……っ!」 声を張り上げる澪の前で、 血の中に倒れた玲が微笑んだ。 「守れた……。よかった……。」 その手が、空を掴もうとして—— もう、動かなかった。 ⸻ 現在。 澪は体育館の床に膝をついていた。 涙がボールの表面に落ちる。 「……俺のせいだ。」 「違うよ。」 玲の声が、すぐそばで響いた。 「俺が、そうしたかったんだ。」 「……馬鹿。」 「お前もな。」 ふたりは少しだけ笑った。 でもその笑いは、胸を締めつけるほどに苦かった。 玲はゆっくり歩み寄り、澪の肩に手を置いた。 「もういいんだ。後悔するな。  俺は、今こうしてお前のそばにいる。」 澪は顔を上げた。 「……それでも、消えるなよ。」 「約束は破らないよ。だって——ずっと一緒だから。」 “カラン” ボールが転がる音が、静かな体育館に響く。 ふたりの影が、その音に重なる。 「俺の時間は、あの日の雨の中で止まったままだ。  でも……今なら、また動き出せる気がする。  お前が、ここにいるから。」 ⸻ 外では、夕立が静かに止んでいた。 雲の切れ間から差し込む光が、体育館の床に落ちる。 その光の中で—— 玲が、澪の手を握った。 澪よりも細く、白く、冷たく、角張った手。 その手首に残る傷跡は、今も薄く光を反射している。 玲の笑顔は、何かを堪えるようで、 それでいて——どうしようもなく優しかった。 ふたりの間に、言葉はもういらなかった。 沈黙だけが、確かな“鼓動”のようにそこにあった。 夕陽が沈む体育館。  木の床が、オレンジ色に光っていた。  澪はひとり、ゴムボールをゆっくり弾ませていた。  その音が、やけに心臓に近いところで響く。 「……っはぁ、やっぱ感覚鈍ってんな。」  汗を拭う間もなく、リングを見上げたそのとき。 「ドリブル、高すぎ。肘の角度も甘い。」  声がした。  耳の奥にずっと残っていた、懐かしい声。 「……やっぱ、出たな。」 「監督霊じゃなくて、相棒霊だろ。」  少し笑いながら、澪は空気に話しかけた。  周りの目には映らない。  澪はボールを軽く弾ませ、言った。 「ほら、キャッチ。」  誰もいないはずの空間で、ボールがふわりと止まった。  空気が歪み、壁に反射して戻ってくる。 「な? 俺、パスうまいだろ。」 「お前の悪霊スキル、成長してんじゃねぇか。」 「失礼な。スピリット・アシストだよ。」  ふたりは同時に笑った。  音だけが、ふたつ分の存在を証明していた。 ⸻  シュート練習に切り替える。  澪がボールを構えると、すぐに指示が飛ぶ。 「もうちょい肘を上げろ。肩の力抜け。」 「お前、死んでも口うるせぇな……」 「だって、生きてたときより真面目じゃん。」  シュート。リングをかすめて外れる。 「今のは95点。」 「いや外したんだけど。」 「でも、軌道は綺麗だった。」  その言葉が、妙に胸に刺さる。  “玲”はいつもそうだった。勝負相手であり、支えであり、  なにより——澪を一番近くで見てくれた人だった。  ボールを拾いに行こうとすると、風がふっと動く。  顔を上げた澪の前に、玲が立っていた。  白シャツに、腕まくり。第1ボタンは開けっ放し。  ゆるいネクタイ。  色白の頬に、汗のような光がにじんでいる。 「……玲。」 「何してんだよ。次のシュート、早く撃てよ。」  玲の笑顔は、生きていた頃とまったく同じだった。  それが余計に、痛かった。 ⸻ 「なぁ、玲。」 「ん?」 「なんで、お前……まだここにいんの?」  玲は少しだけ黙って、ボールを指先で回した。  その指は透けていて、リングの光が中を通り抜けていく。 「さぁ……俺も、よくわかんねぇ。  ただ、お前のそばにいたいんだ。理由なんて、いらない。」 「……ずりぃな、それ。」 「だろ?」  軽口を交わす声が、体育館に柔らかく響く。  けれどその空気の中で、澪の胸だけは妙に熱かった。  指先が震える。触れたい。でも触れられない。 「お前、手伸ばせば届くと思う?」 「……届かねぇよ。」 「だよな。俺もそう思う。」  玲は笑った。  でも、笑いながら泣いていた。  透明な雫が、床に落ちて消えた。 ⸻  練習はいつの間にか、遊びに変わっていた。  2人でフリースロー対決。  玲の幽霊ボール(?)が見事にリングを通り抜ける。 「なっ、お前ズルだろそれ!」 「いやいや、実体ないのに入れた俺の勝ちじゃね?」 「ルールどうなってんだよ!」 「死後ルールだ。」 「バカかお前。」  ふたりで笑い転げた。  体育館の空気が、夕焼けの色から夜の青に変わるまで、  ずっと声が響いていた。 ⸻  練習のあと、澪は床に座り込み、息を整える。  玲が隣に腰を下ろす。 「お前、体力落ちたな。」 「お前が毎晩出てくるから寝不足なんだよ。」 「へぇ、俺が原因か。悪くない。」  少し沈黙。  玲はそっと、自分の手を澪の手に重ねる。  冷たくて、でも確かに“そこにある”感触。  澪は目を閉じて、その手を握り返した。  互いの温度が交わる——そんな錯覚がした。 「玲。」 「ん?」 「お前がいなくなっても、俺、ちゃんとバスケ続けるから。」 「……嘘つけ。」 「ほんとだ。見てろよ。お前が好きだったあの場所まで、俺が行く。」  玲は一瞬、目を見開いたあと、ふっと笑った。 「じゃあ、約束だな。」 「おう。絶対だ。」  ふたりの影が、床に並んで伸びる。  重なった瞬間、玲の姿が少し揺らめいた。 「おい……玲?」 「大丈夫。まだ、消えないよ。」 「……そういう言い方やめろ。」 「じゃあ、“ここにいる”でいい?」 「……ああ。」 ⸻  夜風が吹いた。  玲の髪が揺れる。  澪はその姿を見つめながら、ゆっくりと呟いた。 「なぁ玲。お前がまたいなくなっても、俺、笑えるようになるかな。」 「なるさ。……お前は、そういうやつだ。」  玲の手が離れ、代わりにボールがころんと転がる。  音が、心臓に響いた。  澪はそれを拾い、もう一度ドリブルを始めた。  1、2、3——そのテンポの裏で、玲の声が重なる。 「腰落とせって。」 「はいはい。」 「笑えよ、澪。」  澪は、笑った。  涙の中で、確かに笑った。 ⸻ 体育館の中、ボールの音と笑い声が、 夜の風に吸い込まれていく。 それでも、ふたりの時間だけはまだ、終わらなかった。 体育館の天井のライトが、眩しいくらいに光っていた。 張りつめた空気が、肌を刺す。 鼓動の音がやけにうるさい。 ——高校最後の大会。 三年間の全部を、この40分に置いていく。 チームメイトの声が遠くで弾む。 観客席からはブラスバンドの音。 それなのに、俺の中は静かだった。 ⸻ 試合開始の笛が鳴った。 序盤、相手のプレッシャーが重い。 ディフェンスが硬すぎて、ドリブルすら重く感じる。 「神楽、パス!」 声に反応して渡すが、タイミングがズレる。 シュートも外れ、流れを掴めないまま第1クォーターが終わった。 ベンチに戻り、タオルを頭にかぶせる。 息が荒くて、呼吸がうまくできない。 「……っくそ。」 その時だった。 背後から聞き慣れた声が降ってきた。 「なぁ澪、  お前、やっぱバスケしてる時が一番いい顔してるわ。」 顔を上げる。 ——そこに、玲がいた。 笑ってた。 腕まくりのシャツに、緩んだネクタイ。 死んだ時のままの姿で。 「今それ言う?」 「だってさ、俺が死んだあと、お前ずっと無表情だったろ?」 玲は笑いながら、タオル越しに俺の頭を軽く叩いた。 「今日くらい、思いっきり笑っとけよ。」 心臓が痛いくらいに鳴った。 (……お前、なんで今なんだよ。) 笛が鳴る。 ⸻ 残り5分。スコアは68対70。 汗で視界がにじむ。 味方のパスがそれて、ボールが宙に浮く。 「澪、右だ!」 反射的に体が動いた。 掴んで走る。玲の幻が、横で一緒に走ってる。 「抜け!右抜け!今だ!」 「……ああ!!」 ジャンプ。 空気が重い。 ディフェンスの腕をすり抜け、ボールを放つ。 “シュパッ” リングを抜ける音。 歓声。 ベンチの声。 玲が笑っていた。 「やっぱお前、外さねぇな。」 「お前が横でうるさいから集中できねぇだけだ。」 「へぇ〜、口が悪くなったな、キャプテン。」 「……バカ。」 でもその声は、自然と笑ってた。 スコアは70対70。 追いついた。 ⸻ 残り10秒。 スコアは72対74。負けている。 ラストプレイ。 コート中央でボールを受け取る。 玲が横に立つ。 「ラストだ、澪。お前のバスケ、見せてやれ。」 一歩踏み込み、ドリブル。 ジャンプ。 空中で一瞬、玲の姿が重なった。 ——リングが遠い。 けど、今なら届く気がする。 “シュッ” ボールがリングに吸い込まれた。 ……が、ブザーが鳴る。 相手チーム、カウンター。 “バシュッ!!” ボールがネットを揺らす。 ——ブザー・ビーター。 試合終了。 75対77。敗北。 ⸻ 歓声が遠い。 仲間が泣いてる。 でも俺の視界は、玲だけを追っていた。 玲は静かに笑っていた。 「ナイスゲーム。お前らしかった。」 「……負けたのに?」 「勝ち負けじゃねぇよ。お前が笑ってた。それで十分だ。」 俺は、泣き笑いみたいな顔で笑った。 「……ありがとう。お前がいたからだ。」 玲は頷いた。 「へへ、知ってるよ。」 ——光が差し込む。 体育館の床が黄金色に染まる。 「なぁ、玲。」 「ん?」 「俺、もう泣かねぇから。」 「……それが一番、俺の望みだよ。」 玲は、やさしく笑った。 ブザーの余韻の中、 二人の影がコートの光に重なった。 ——それは確かに、最後まで一緒に戦った証だった。  歓声の中で、澪は静かに空を仰ぐ。  体育館の天井、光の奥に——玲の姿。  拍手していた。  声が聞こえた。  玲は笑っていた。 「俺、まだ“言ってないこと”があるからさ。  次にちゃんと伝える。そのときは、泣くなよ。」  澪は笑って、拳を握った。 「泣かねぇよ、バカ。」 「じゃあ、約束な。」  玲の姿が、光に包まれる。  でも消えない。  ただ、静かにその場に佇んでいた。 ⸻  観客が帰り、コートが静けさを取り戻す。  澪はボールを手に取り、ひとつドリブルをつく。 「……聞こえるか、玲。」  “タン、タン、タン” 「俺、まだお前に勝ってねぇぞ。」  返事はない。  でも、風の音の中に確かに聞こえた。  ——「やってみろよ、澪。」  その声に、澪は笑ってシュートを放つ。  ボールは綺麗な弧を描いて、静かにリングをくぐった。 その夜、よく覚えてねぇけど玲は消えた。 でも泣いた。すげぇ泣いたのは覚えてる。 春。 澪は卒業式の制服姿で、静かな体育館に立っていた。 リングの下に、古いバスケットボールが転がっている。 拾い上げると、太陽の光を透かして光った。 「……なぁ、玲。お前の言った通りだ。  俺、笑ってるよ。」 風が吹き抜けた。 “シュッ”と音がして、ボールが自然とリングに吸い込まれる。 澪は空を見上げ、目を細めた。 「……ナイスシュート、だろ?」 どこかで、玲の笑い声が聞こえた気がした。 透明な光がコートの上を滑り、 一瞬、玲のシルエットが浮かんだ。 ——「あぁ。最高のラストゲームだった。」 澪は、涙をこらえて笑った。 「また、どっかでバスケしような。」 “ドン” ボールが弾んだ音が、 春の空気の中で、澪の胸に響いた。 ——それが、“透明なバスケットボール”の最後の音だった。

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透明なバスケットボール

鈴は月に恋をする。

夜風が、カーテンを小さく揺らしていた。 春とはいえ、まだ夜は冷える。 桜ノ宮高等学校の寮、三階の角部屋。 悠月は布団の中で寝返りを打ちながら、ぼんやりと天井を見つめていた。 「……眠れないな。」 静かすぎる夜が、胸の奥を少しざわつかせる。 月がやけに明るい。 光が差し込むたび、部屋の中が白く滲んで見えた。 その時、窓の外で「カサッ」と音がした。 「……風か?」 起き上がってカーテンを開けると、 そこには黒猫がいた。 夜の闇と溶け合うような毛並み。 首には小さな銀の鈴。 音もなく、まっすぐ彼を見上げている。 「お前……どっから入ったんだよ。」 猫は答えるように、柔らかく鳴いた。 そして窓からするりと中へ入ってくる。 「ちょ、おい。ここ寮だぞ、ペット禁止なんだって……」 そう言いながらも、悠月はしゃがみ込み、手を差し出した。 猫はためらいもなく、その手に頭をすり寄せる。 毛並みが少し冷たくて、でもやわらかかった。 「……まぁ、一晩だけな。」 猫は彼のベッドの端で丸まり、 鈴をひとつ鳴らした。 静かな夜に、澄んだ音が響いた。 ——それが始まりだった。 ⸻ 朝。 窓から差し込む光で目を覚ますと、 隣に、見知らぬ少女が座っていた。 黒髪に、金を帯びた瞳。 白い肌に陽が透けて、どこか儚い。 そして頭には——小さな猫の耳。 「……え、」 現実が理解できない。 少女は無垢な笑みを浮かべていた。 「おはようございます。」 その声に、一瞬で血の気が引いた。 次の瞬間、顔が一気に熱くなる。 「な、なに、誰!? ちょ、待っ……えっ服!? 服!!?」 「ふく……?」 少女はきょとんとした顔で、自分の体を見下ろす。 朝の光の中、彼女の体はよく照らされていた。 「っっ、見んな見んな見んな!!!」 悠月は慌てて布団を引き上げて、顔を真っ赤にする。 少女は首をかしげて、 「寒いものなんですね。……これが、人間の“朝”ですか?」と呟いた。 「そ、そういう問題じゃねぇ!!」 「じゃあ、どういう……?」 「早く服着ろ!!!」 鈴が、カランと鳴った。 それは、まるで笑い声みたいに柔らかく響いた。 「……服、着た?」 鈴は満足げに頷きながら、悠月のワイシャツのボタンを上まで留めていた。 「いや、それ俺の……」 「とてもいい匂いがします。落ち着く。」 「……っ、勝手に嗅ぐな!!」 顔を真っ赤にしながらも、悠月はタオルで頭をかきむしった。 鈴はそんな彼の反応を面白そうに見つめている。 「ご主人、どこに行くんですか?」 「ご主人じゃない!……部活。朝練あるから。」 「ふーん。じゃあ、行ってらっしゃいませにゃん。」 鈴は、まだ人間の生活に慣れていないようで、 敬語と子猫みたいな語尾が混ざっている。 「お前は、絶対部屋から出るなよ。寮母さんに見つかったら終わりだからな。」 「はい、ご主人。」 胸の奥で鈴の音が小さく鳴ったような気がして、 悠月は一瞬、立ち止まった。 「……ったく、夢みたいなやつだな。」 そう呟きながら、寮を後にした。 ─── 朝練が終わるころ、悠月はすっかり疲れ果てていた。 息を整えながら教室に戻ると、 妙にざわついた空気が流れていた。 「ねぇ転校生来るって!」「この時期に?やばくない?」 そんな声が飛び交っている。 悠月はタオルで汗を拭きながら、椅子に腰を下ろした。 「ふーん、転校生ね……」 他人事のように呟いたが、 なぜか胸の奥がざわつく。 チャイムが鳴り、担任が教室に入ってきた。 「はいはい静かにー。今日はね、転校生を紹介します。」 ドアが開く。 教室中の視線が一点に集まる。 ——そして、悠月は固まった。 そこに立っていたのは、見覚えのある黒髪の少女。 制服の着方は少し不慣れで、 首元には昨日見た“銀の鈴”。 「初めまして。鈴です。」 一礼したあと、にこりと笑って言う。 「あ!!ご主人みーっけ!」 教室が一瞬でざわめいた。 「ご主人!?」「知り合い!?」 悠月の顔が一気に真っ赤になる。 「おま、な、なんでお前がここに──!?」 悠月の声が、教室中に響いた。 ざわついていた空気が、ぴたりと止まる。 制服を少し間違えて着た鈴、リボンは左右逆。 でも笑顔だけは完璧に輝いていた。 鈴は首をかしげ、あのときのように小さく鈴を鳴らした。 「だって、ご主人がいるところにいたいんだもん。」 教室の空気、再び爆発。 「え、今なんて?」「ペット?」 ——悠月、死亡。 「ち、違うっ! いや、その……!」 必死に手を振るも、火に油状態。 担任がにっこり笑いながら口を開く。 「へぇ〜“ご主人”ねぇ〜。仲良しなんだね〜。 じゃあ、悠月くん。彼女、転校初日で不安だろうし、しばらく面倒見てあげてね。」 (終わった……) 悠月は机に突っ伏して、心の中で絶叫した。 ⸻ 昼休み。 購買でパンを買う鈴が、完全に遠足テンション。 「ご主人〜!“あんこ”って何味ですか!?」 「……いや、それ“味”じゃなくて“中身”な。」 「にゃんと! じゃあ、これは“ジャム味”ですか!?」 「だから“味”じゃねぇって!!!」 クラス中、笑いが起きる。 男子「なんか可愛いな」「マジ猫っぽくね?」 女子「語尾ついてた今……」 悠月はため息をつきながらパンをかじる。 「頼むから、目立つことすんなって……」 ⸻ 午後の授業中。 鈴はノートを取るのも一苦労。 ペンを握るのに慣れていないようで、しょっちゅうインクを飛ばす。 「ご主人〜、これどうやって書くんですか……?」 「“にゃ”を付けるな、“にゃ”を……」 「にゃ?」 「……っ、もうやめろそれぇ!」 そのやり取りで笑いが起きるたび、悠月の赤面が進行していく。 だが次の瞬間、事件は起きた。 鈴がノートを落とした。 俺がそれを拾い、ひょこっと顔を上げたその瞬間—— 距離、ゼロ。 「大丈夫か?はい、ノート。」 その言葉と同時に—— ぴょこっ。 悠月の目の前で、鈴の黒い耳がふわっと現れた。 「うわああああっ!?!?耳ぇ!!!」 「やばいっ、出ちゃいましたぁぁぁ!!!」 彼女は慌てて髪を広げて隠すが、 焦れば焦るほど動きが大きくて、逆に目立つ。 「お、おい、それバレるって!!」 「無理です!戻ってくださーい!!耳さーん!!」 クラスの視線が集まる。 「……今、猫耳見えた?」 「……気のせいじゃね?」 悠月、反射的に立ち上がる。 「え、えーと! コスプレ!な、な?文化祭の練習だよ!なぁ鈴!!!」 「は、はい!文化祭ですにゃ!!!」 (なんで語尾つけるんだよ!!) その瞬間、教室中が笑いに包まれた。 “文化祭コンビ”として、その日から二人は妙に有名になった。 ⸻ 放課後。 「ご主人……怒ってますか……?」 「怒ってるっつーか……お前、耳の制御どうにかなんねぇの?」 「……嬉しいと、出ちゃうんです。」 小さな声でそう言う鈴。 その頬は、ほんのり赤い。 悠月は思わず視線を逸らした。 「……ったく。バカ猫。」 「でも、ご主人が助けてくれたから、嬉しかったんです。」 鈴の首元の鈴が、静かに鳴った。 「ご主人〜!今日のごはん、またお魚です!」 「また!?何日連続だよ!?人間界の栄養バランスどこ行った!」 朝の食卓。 桜ノ宮蒼凪高校の蒼凪寮(男子寮)・悠月の部屋。 二人暮らしが始まって、もう数日が経っていた。 鈴はちゃっかり部屋の一角に“猫コーナー”を作り、 クッションと毛布で城を築いている。 「ご主人もお魚食べたら健康になりますよ。」 「猫基準の健康やめろって。」 「にゃんと失礼な!」 「語尾もやめろぉ!」 朝から漫才。 ただ、不思議とそれが“日常”になっていた。 ⸻ 授業中、鈴は今日も奮闘中。 昨日、ノートに肉球の跡をつけて怒られた反省から、 今日は本気モード……のはずだった。 「……あ、鳥さん。」 「鈴、外見るな。集中しろ。」 「集中してます!耳が勝手に動いただけです!」 「動いてる時点でアウトだろ!」 周囲からくすくす笑い声。 「鈴ちゃん今日もかわいいね〜」 「ご主人って呼ばれてる人、顔真っ赤だよ」 悠月「……もう学校来るな」 鈴「嫌ですっ!」 お弁当の時間も平常運転。 鈴の弁当は、今日も猫型おにぎり。 「ふふん、今日の顔は“怒り猫”です!」 「俺の顔もそれになるわ……」 ⸻ 放課後、寮への帰り道。 西日が伸び、校舎の影が長くのびている。 鈴は少し足取りが重かった。 「ご主人……なんだか、体が……熱いです。」 「まーたふざけて……おい、顔赤いぞ?」 「うぅ……耳、出そうです……」 悠月が慌てて上着を被せた。 「バカ!こんなとこで出すな!」 「出したくて出してるんじゃ……ないですぅ……!」 鈴の声が震えていた。 歩きながら、首元の鈴が小さく鳴る。 その音がいつもより、苦しそうに響いた。 ⸻ 夜。 月が、雲の切れ間から顔を出した瞬間だった。 「……ご主人……月が、昇ってきた……」 鈴の声が細く揺れる。 体を丸め、息を荒くしてベッドに倒れ込む。 「おい、鈴!?どうした、どこが痛い!?」 「ちがうんです……戻っちゃう……っ」 その言葉と同時に、鈴の体が淡く光り始めた。 髪の隙間から黒い耳が覗き、 尻尾がシーツをかすめて消える。 「鈴!大丈夫か?おい、返事しろって!」 悠月がその手を掴む。 だが指の間から、白い光がこぼれ落ちていく。 「ご主人……」 涙に濡れた瞳で、彼女は笑った。 その声が途切れた瞬間、 鈴の姿はふっと消えた。 残ったのは、一匹の黒猫。 首元の“銀の鈴”が、月光に照らされていた。 ⸻ 悠月は膝をつき、猫をそっと抱き上げた。 小さな体がかすかに震えている。 「……どっちが、お前の“本当”なんだよ……」 答えは返らない。 ただ、猫の胸のあたりがほんのり光り、 “チリン”と音が鳴った。 まるで、心臓の音みたいに。 悠月はその小さな頭を撫でながら、 静かに呟いた。 「……大丈夫だ。  俺が、お前を守る。」 ───── 窓の外では、満月がゆっくりと夜を照らしていた。 朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。 鈴の声がしない朝は、こんなにも静かだったのかと、悠月は少しだけ驚いた。 ベッドの足元で、小さな黒猫が丸まって眠っている。 昨日まであんなに喋って、笑って、食べていた鈴が、 いまは“息づく静寂”そのものになっていた。 「……おはよう。」 悠月が声をかけると、黒猫はゆっくり顔を上げた。 その動きに合わせて、胸元の小さな鈴が“チリン”と鳴る。 その音がまるで返事のようで、悠月は小さく笑った。 「そうか、今日も元気か。……よかった。」 朝食を食べるのも一苦労だ。 鈴は相変わらず魚しか食べないし、食べたあとには悠月の膝に乗ってくる。 「お前、それ俺の新聞……どけって。……重い。」 「……。」 “チリン。” 「はいはい、どけないのね。わかったよ。」 まるで意思疎通ができてるみたいに、 鈴は鳴くたび、ちゃんと答えてくれる気がした。 でも―― どれだけ返しても、言葉はもう、返ってこない。 そのことに気づくたび、胸の奥が少しだけ痛む。 けれど、不思議と孤独ではなかった。 鈴の存在が、部屋の空気をあたためてくれていたから。 夜。 窓辺で月を見上げる黒猫の瞳は、まるで夜空そのもののように澄んでいた。 (ご主人……今日も笑ってくれて、うれしかったです。) 鈴は喋れない。 でも、心の奥に積もる言葉たちは、月明かりの中で形を持たないまま震えていた。 (あの日から、私は“人間”に恋をしてしまった。  でも、本当の私は猫で……だから、あなたの隣にいられない。) 悠月の手が伸び、鈴の頭をそっと撫でた。 (あったかい……。この温度だけで、生きていける気がします。) 彼の指先が頬をかすめた瞬間、 胸元の鈴が“チリン”と鳴る。 「不思議だな……言葉がなくても、お前が何考えてるか分かる気がする。」 (だって、ご主人の声は、ちゃんと聞こえてるし、わかってるんですにゃ。) 「お前が猫に戻っても、やっぱりお前だよな。無口で、甘えん坊で、気づいたら勝手に膝に乗ってきて。」 (気づいてくれて、ありがとう。ご主人の隣が、私のいちばん安心できる場所ですにゃ。) 悠月は膝の上の黒猫を抱き上げた。 「……もし、もう一度人の姿に戻れるなら、ちゃんと話がしたいな。」 (私も、そう思ってました。次の月が欠ける夜に、きっと。) ⸻ 部屋の灯りを落とすと、 鈴の音が一度だけ響いた。 “チリン” それは、まるで「おやすみなさい」と言っているようで。 悠月は静かに目を閉じた。 その夜、夢の中で聞こえた鈴の声は、 確かに“人間の彼女”のものだった。 鈴が猫に戻ってからまた数日。 窓の外は、深い群青に染まっていた。 満ちていた月は少しだけ欠けて、光の輪郭が柔らかくなっている。 丑三つ時。 世界が息を潜める時間。 その静寂の中で、ひとつの音が響いた。 “チリン——” 耳に馴染んだ鈴の音。 けれど、その響きにはどこか懐かしい温度があった。 悠月ははっと目を覚ます。 薄暗い部屋の真ん中、月明かりに照らされた影があった。 黒い髪。 細い肩。 そして、優しく笑う人間の彼女。 「……ご主人。」 その声を聞いた瞬間、悠月の喉が詰まった。 言葉よりも先に、息が震えた。 「……鈴、なのか。」 「はい。ほんの少しだけ……月が欠けた夜にだけ、人の姿に戻れるんです。」 鈴は少し照れたように笑って、髪に触れた。 「人間の身体、もうすっかり忘れちゃいました。歩くのも、なんだか変な感じです。」 そう言ってバランスを崩し、悠月の胸に倒れ込む。 「わっ……!」 細い体がぶつかって、布団の端が揺れた。 鈴の髪が頬に触れ、甘い匂いがした。 「……あのね、ご主人。」 鈴が顔を上げた。 瞳は月と同じ色をしていた。 「猫になってからも、ずっと思ってたんです。  ご主人の声が聞こえるたび、胸が鳴るの。  それって、たぶん……“恋”っていうんですよね?」 悠月は息を飲んだ。 胸の奥が、鈴の鈴みたいに鳴る。 「……なんでそんなこと言うんだよ。」 「え?」 「そんな顔で言われたら、……もう、俺、どうすればいいんだよ。」 鈴は一瞬驚いたあと、ふわっと笑った。 「ご主人、顔が真っ赤です。」 「うるさい。」 月光が、二人の間をゆっくりと照らした。 沈黙。 けれど、その静けさの中でだけ、ちゃんと伝わる気がした。 悠月は小さく息を吐くと、鈴の頭に手を置いた。 「……なぁ、鈴。  もし、また猫に戻っても、ちゃんと戻ってこいよ。」 鈴は目を閉じ、頷いた。 「約束します。次の月が満ちる夜に、また必ず。」 “チリン。” 胸元の鈴が、柔らかく鳴った。 その音が途切れると同時に、 鈴の体が淡い光に包まれていく。 「……もう、時間みたい。」 「やめろよ、そんな顔すんな。」 「大丈夫。私は、ご主人の隣にいた記憶を忘れませんから。」 光の粒がひとつ、ふたつと舞い落ち、 その姿が黒猫へと戻っていく。 ——ただひとつ、涙の跡だけを残して。 悠月はそっと彼女を抱き上げ、耳元で呟いた。 「……おかえり、鈴。」 “チリン。” 小さな音が答えた。 窓の外では、欠けた月が、 ふたりの影をやさしく照らしていた。 ─── 朝のチャイムが鳴る。 いつもより早く席に着いていた悠月は、隣の席を見つめた。 ——そこにあったはずの、あの銀の鈴は見当たらない。 鈴が猫に戻ってから、鈴は学校に来ていない。 ……いや、“来ていない”というより、 “最初からいなかったことになっている”。 「なあ、ここって転校生の席じゃなかったっけ?」 悠月がぼそりと呟くと、 前の席の男子が振り返った。 「転校生? 誰それ? なんの話?」 「……冗談だよ。」 それ以上、何も言えなかった。 黒板の出席表にも、鈴の名前はなかった。 クラスLINEを遡っても、“転校生が来た”という話題すら消えている。 まるで、最初から存在しなかったように。 「桜ノ宮高校にそんな子、いたか?」と先生が笑う声が遠くで聞こえた。 その瞬間、背中に冷たいものが走る。 (……どうなってんだよ。) ノートをめくると、ページの隅にひとつだけ文字があった。 “りん” 小さく、震えるような字。 誰が書いたのかも分からない。 でも、そこからふわりと——鈴の音が聞こえた気がした。 “チリン。” 悠月は、無意識にノートを閉じた。 音はもう、聞こえない。 ⸻ 夕方。 寮に戻ると、部屋の窓際で黒猫が丸まっていた。 首元の銀の鈴が、微かに光っている。 「……ただいま、鈴。」 悠月は靴を脱ぎながら声をかけた。 猫の鈴は小さく顔を上げて、“チリン”と鳴いた。 その音だけで、心がほっとした。 誰も覚えていなくても、この子は確かにここにいる。 「学校さ、お前のこと聞いても、誰も覚えてねぇんだ。」 そう言いながら、悠月は彼女の毛並みを撫でた。 「転校生?って言ったら、“何それ”って。 お前がいたの、夢だったのかって思うくらい。」 “チリン。” 返事の代わりに、静かに鈴が鳴る。 「……でもさ。夢でもいいや。 お前がいたの、俺だけは覚えてるから。」 悠月の手の下で、鈴は小さく震えた。 光が少しだけ透けて見える。 (ご主人……どうか、悲しまないで。 私は消えても、あなたの笑顔は残るから。) 悠月は気づかない。 毛の先が、光の粒になって消えかけていることに。 「おやすみ、鈴。」 “チリン。” その音が部屋に響いたとき、 鈴の姿は月明かりに溶けていった。 ——残されたのは、温もりと銀の音だけ。 ─── 夜更け。 風も止まった寮の部屋に、鈴の音だけが響いていた。 “チリン──チリン” その音に導かれるように、悠月は目を覚ました。 カーテンの隙間から、白い月光が差し込んでいる。 「……鈴?」 目をこすり、視線を向けると、 窓辺に人影が立っていた。 月明かりの下で、黒髪が揺れる。 その姿は——人間の鈴。 「……鈴っ!」 慌てて駆け寄ると、彼女は振り返って微笑んだ。 「おはようございます、ご主人。  ……でも、もう“おはよう”は言えない時間ですにゃ。」 声が震えていた。 それでも、確かに“鈴”の声だった。 「どうして……戻れたんだ?」 「月が、私を呼んだんです。  もうすぐ、あちらへ帰らないといけません。」 「帰る……?どこに……?」 「……月の下です。 覚えてますかね、?あの夜、ご主人が拾ってくれた黒猫。  あれ、私なんです。」 悠月は息を呑んだ。 9歳の頃、車にひかれそうになった子猫を助けた記憶が蘇る。 「子猫のころ、車にひかれかけて……  それでも、ご主人が助けてくれた。  その時、思ったんです。  “この人を守りたい”って。」 鈴の手が悠月の頬に触れる。 その指先は少し透けていて、 月の光の中に溶けそうだった。 「でも、私は猫のままでは傍にいられませんでした。  だから死んでから、月にお願いしたんです。  “人の姿をください”って。  ご主人と同じ目線で笑えるようにって。」 「……そんなの、ずるいよ。」 悠月の声が、かすかに震えた。 「だって、それならずっと一緒にいようよ。  人として生きればいい。」 鈴は小さく首を振る。 「だめなんです。  月は優しいけど、同時にとても厳しい。  願いを叶えるかわりに、“仮の命”を貸すだけなんです。  本物の命じゃないから、  月が満ちるたびに、その命を返さなくちゃいけない。」 悠月の手が、鈴の腕を掴む。 けれど、その肌は指の間からこぼれるように光へと変わっていく。 「ご主人。」 「やめろ、その呼び方……もう“悠月”って呼べよ。」 「……ゆづき、さん。」 その一言が、涙のように胸を刺した。 「最後に……願ってもいいですか?」 「……なんでも。」 鈴は目を閉じて、ゆっくりと言った。 「生まれ変わっても、またあなたに拾われたい。  たとえ、名前を忘れても……  あなたの声を、もう一度聞きたいです。」 悠月の目から、涙がこぼれる。 鈴の指が、それをそっと拭った。 「だから、泣かないでください。  私の“恩返し”は、もう終わりですにゃ。」 その瞬間、鈴の胸元の鈴がひときわ強く光り、 静かに音を立てた。 “チリン──” 光が弾け、部屋の空気が柔らかく包み込む。 気づけば、鈴の姿はなかった。 窓の外、満月だけがやさしく微笑んでいた。 悠月はそっと窓を開け、 夜風に向かって呟いた。 「……また会おうな、鈴。」 “チリン。” どこか遠くで、確かに返事が聞こえた。 月があの夜のように光るころ、 悠月はもう社会人になっていた。 会社と家の往復。 夜のアパートは、ため息の音しかない。 机の端に、今もあの“鈴”を置いている。 音はもう鳴らない。 でも、どうしても捨てられなかった。 「……静かすぎるな。」 ため息をつきながら、 悠月はスーツのまま街を歩いた。 ふと、視線の先に灯りが見えた。 『PET SHOP ルナ・テール』 半分閉まりかけた看板に、月の絵。 (……ルナ、か。月。) なんとなく引き寄せられるように、 店の扉を押した。 ベルが鳴り、小さな声が重なる。 「チリン──」 悠月は息をのんだ。 ガラスケースの中、 真っ黒な猫がこちらを見ていた。 胸元には、小さな銀の鈴。 「この子、最近入ったばかりなんですよ。」 店員が言った。 「可愛いけど、すごく警戒心が強くて…… 誰が触っても威嚇するんです。」 悠月はしゃがみこみ、そっと手を伸ばした。 黒猫は――一瞬、目を細めた。 次の瞬間、 ケースの中から手に頭をすり寄せた。 「……えっ?」 店員が驚く。 「す、すごい……初めて懐いた……!」 悠月は笑っていた。 でも、胸の奥がぎゅっと熱い。 指の下で、猫の胸元の鈴が揺れる。 “チリン” その音が、懐かしすぎて、 涙がこぼれた。 「……ただいま、鈴。」 小さく呟いた声に、猫が小さく鳴いた。 「にゃ。」 夜の街を歩く悠月の肩には、 あの黒猫が静かに乗っていた。 その胸元の鈴は、 確かに、 あの夜の“チリン”と同じ音を鳴らしていた。

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鈴は月に恋をする。

煙草とあなた──煙草も、私も、あなたの大切。

「ねぇ、裕二、私あなたが好きよ。」 ヒリヒリと痛む私の右頬を、裕二は優しく撫でた。 「うん。」 私が殴られるようになったの、いつからだったっけ。 頬を撫でる裕二の目は私の目を優しく見ていた。 「お前がいい子でいれば、こんな事しないんだけどな。」 裕二の手は頭へ移動した。 「ごめんなさい、、。」 2人きりのアパートなのにすごく狭く感じた。 ───── 「は、初めまして、!裕二さん、、ですか、?」 出会い系サイトで出会った人とリアルで会うのは初めてのことだった。 「え、あ、はいそうですけど。」 優しそうな目。私を包み込むかのような笑顔。 いつもDMの世界だけだった空想の裕二さんがそのまま着色されたような人だった。 元々話していたというのもあり、すぐに打ち解けた。 趣味の話、好物の話、今までの話。 全部全部裕二さんとなら楽しかった。 裕二さんは、本当に優しかった。 初めて手を繋いだ夜のことを、今でも覚えている。 駅の階段を降りる時、さりげなく手を差し出してくれた。 あの瞬間だけで、世界の全てを信じられる気がした。 「お前は大事にするからな」 笑いながら言ったその声に、 私は一生分の幸せを感じていた。 でも——優しさって、こんなに静かに変わるんだね。 連絡が少し遅れただけで、声のトーンが変わった。 誰といたの、何をしてたの、なんで返信しなかったの、 それを問い詰める声が、だんだんと優しくなくなっていった。 「ごめんなさい」って言うたびに、 彼の表情が緩んでいくのが分かった。 謝ることが、安心を与えるみたいで。 そのうち、私の“ごめんなさい”が 彼を愛してる証拠みたいになっていった。 叩かれた夜も、抱きしめられた夜も、 どちらも同じくらい、あたたかかった。 部屋の中にはいつも煙草の匂いが漂っていて、 カーテンの隙間から入る外の光まで、 灰色に染まっていた。 裕二さんは時々、私を撫でながら言った。 「お前は俺のもんだ」 その言葉に、胸が痛いほど嬉しくなった。 優しさが怖いと感じたのは、 きっとこの頃からだったと思う。 ——彼の手が、愛と痛みを分けられなくなっていた。 あの夜も、煙草の灰が手の甲に落ちた。 痛いのに、笑ってしまった。 だって裕二が、楽しそうにしていたから。 「熱かった?」と聞かれて、 私は首を横に振る。 本当は熱いのに、痛いのに、 その痛みでしか“ここにいる”って実感できなかった。 裕二が笑うと、世界が少しだけ優しく見えた。 でもその優しさは、刃物みたいに薄かった。 触れるたびに、私の中を少しずつ削っていった。 ——好きって言葉を、私はどこで間違えたんだろう。 彼のいない朝は、呼吸ができなかった。 寝ても覚めても、彼の声が頭の中で響いていた。 「どこ行くの」「誰と話したの」「俺以外、見なくていい」 それを聞くたびに、私は安心していた。 だって“見られている”ってことは、 まだ、愛されているってことだから。 頬の痛みも、胸の痛みも、 どちらも「愛された証拠」になっていった。 裕二のタバコをくわえたまま、 火のついた先を見つめていると、 まるで心臓の鼓動みたいに見えた。 じわりと赤く灯って、やがて灰になる。 私たちの関係も、きっとそんな風に燃えていくんだろう。 なのに私は、灰になるその瞬間まで見届けたいと思っていた。 だって—— その灰の中に、確かに私の名前が混ざっている気がしたから。 友人に言われた。 「ねぇ、それ、愛じゃないよ。」 分かってた。 そんなこと、とうの昔に気づいてた。 でも「愛じゃない」と言われた瞬間、 心の中の何かがざらりと剥がれ落ちた。 夜、アパートを出た。 玄関のドアを閉める音が、 まるで自分の鼓動みたいに響いた。 カバンの中には財布とスマホと、 裕二の吸いかけの煙草が一本。 火をつけてみた。 苦かった。 でも、安心した。 「裕二の匂いだ」って思ってしまった。 新しい部屋の壁は白くて、静かで、 何も私のことを責めなかった。 でも、静かすぎた。 裕二の怒鳴り声も、 灰皿が倒れる音も、 どこにもなかった。 夜が深くなるほど、 胸の奥がざわざわと痛んだ。 「裕二、今、何してるんだろう。」 そう思った瞬間、 涙が喉に詰まって、呼吸が苦しくなった。 同じころ、裕二も部屋で煙草を吸っていた。 灰が落ちるたびに、 「……あいつのいない煙、苦ぇな」 と呟いた。 誰もいない部屋。 灰皿の隣に、私のピアスがひとつ転がっていた。 お互いに、お互いの“いなさ”が痛みになった。 愛が鎖みたいに、どこまでも繋がっていた。 ────── 結局、戻った。 私、あの部屋に。 裕二は何も言わなかった。 ただ、煙草を咥えたまま私を見た。 その目は、優しくて、冷たかった。 そして、また殴られた。 頬が焼けるみたいに熱いのに、 心の奥は、妙に静かだった。 「私、悪い子だったのかな。」 そう言うと、裕二はふっと笑った。 「……悪い子だな。」 その声が、嬉しかった。 私は気づいていた。 殴られたいから、 わざと悪い子になる自分に。 痛みの向こうにしか、 “私たち”はいられなかった。 煙草の煙が天井にゆらゆらと溶けていく。 その白が、まるで赦しみたいで。 「ねぇ、裕二。  これが、私たちの愛なんだね。」 裕二は何も言わず、 ただ私の髪を撫でた。 その指の温もりが、 痛みよりも先に消えていった。 そして、煙だけが、まだ二人の間に漂っていた。

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煙草とあなた──煙草も、私も、あなたの大切。

消えないで、青。

遠くに聞こえる波の音。静かに揺れるカーテン。繊細に部屋に入る朝の光。パンケーキの甘い香り。 「うん、今日も美味しくできた。」 そんな独り言を漏らし、一人食卓に着く。 鳥の鳴き声はまるでオルゴール。私しか聞いていないから、まるで私一人のために奏でられているみたい。 「おはよう、あお。」 「、、おはよう、ございます、。」 あおは床を見たまま私に挨拶をした。 あおとの出会いは数日前だった。 大学の帰り道。 その日は空が澄んでいて、歩いて帰ろうと思った。 青い空。透明な海。白い砂浜。 昼間なのに月ははっきりと出ていて、幻想的な空間が広がっていた、あの日。 道端に横たわる1人の少年を見つけた。 「え、、?」 私はいても立っても居られず、すぐに家に連れ返った。 私のベッドに横たわる彼は、苦しそうな表情をしていた。 顔色も悪いし、手足は冷えきっていた。 動かしても、話しかけても反応は無い。 とにかく彼の回復を待った。 何時間か経って、彼はようやく目が覚めた。 最初は恐怖心と驚きに満ち溢れたような目でこちらを見ていた。 ホットミルクをあげると、すぐに彼は私に心を開いた。 「お名前教えて?」 声をかけると、彼はゆっくりと口を開いた。 「僕は、あおっていいます。ホントは葵(あおい)だけど、あおって呼んで欲しい、、。いいですか、?」 あおは怯えるような目でこちらを見た。 大きな目には大量の涙が溜まっていた。 その水は零れることを知らず、表面張力のままそこにとどまった。 「うん。いいよ。あおは何歳?」 あおは、またもゆっくりと口を動かした。 「14、、です。」 あおは床を見た。 ずっと床を見ていた。 「おうちはどこ?」 そう問いた時、あおの目に溜まっていた涙が流れ落ちた。 綺麗で、まるで宝石のような涙だった。 「僕のこと、家に返しますよね、、。」 あおの怯えるような表情はさらに増した。 「帰さないでください、、。わがまま、ですよね、、。」 あおはこちらを見て真剣に訴えかけた。 「……わがままなんかじゃないよ。」 私は小さく笑って、あおの髪を撫でた。 「もう少しだけ、ここにいなよ。」 その一言に、あおの肩が小さく震えた。 私はあおを風呂場へと案内し、シャワーを浴びさせた。 しばらくして出てきたあおの髪を、タオルで軽く拭きながら、ドライヤーの風を当てる。 あおの肩は、かすかに震えていた。 それが冷えによるものなのか、涙のせいなのか、私には分からなかった。 「あお、大丈夫?」 声をかけた瞬間、あおは私にしがみついた。「おねーさん……僕、怖い……」 あおの涙が、服を通して私の肌に染みこんでいく。 それはまるで、あおの痛みがゆっくりと私の中に溶けていくようだった。 「僕、見ての通りアルビノで……親も、周りの人も、みんな僕を気持ち悪がる。こんなふうに優しくされたの、初めてです…。」 あおはそう言って、また静かに涙をこぼした。その涙は、悲しみというよりも――ようやく触れた温もりに、戸惑っているようだった。 あおの手首には、いくつもの赤い線が刻まれていた。 「……あ、見ちゃいましたよね。すみません、こんなもの……。」 あおは慌てて袖を引き、手首を隠した。 「いいの。大丈夫。」 私はできるだけ穏やかに言った。 「最近あったかくなってきたのに長袖だったから、日に当たっちゃいけないのかなって思ってたけど……それもあったのね。」 あおは、こくりと頷いた。 「僕の血、みんなと一緒なんです。ちゃんと赤いのに。 あおは手首を見つめながら、声を震わせた 「僕の血が赤いって、分かってるんです。でも、誰も信じてくれない。誰も僕を見てくれないのに、気持ち悪がる。もう……傷つけるのだって、癖になってて。」 白い肌の上に浮かぶかさぶたの赤が、あまりにも鮮やかで、それが痛々しいはずなのに――なぜか綺麗だと思ってしまった。 何となくで着せた私の白い半袖Tシャツは、あおには少しでかくてブカブカしていたけれど、 「おねーさんの服、いい匂い、。落ち着く。」 とあおはTシャツの布ごと、自分の体を抱きしめた。 その姿はまるで、世界にやっと触れた子供みたいだった。 時は今に戻る。 1秒を刻む針の音。 この家に来てから当たり前となった朝食を、あおは1口、また1口と次々に口に運んでいく。 「口の周りにはちみつついてるよ。」 そう教えると、あおはすこし照れたような困ったような顔をして口の周りを拭いた。 この幸せがいつまでも続きますように、そう思っていた。 ある日の大学からの帰り道、知らない男女から声をかけられた。 「アルビノの少年を探しています。防犯カメラに写ってるこの人、あなたですよね。」 それは、あおを家に連れ帰った日の写真だった。 「あ、、はあ、、。そうです、、。」 その人たちは途端に笑顔を見せた。 「そうですか、!!!今すぐお渡ししていただければ、警察には訴えません!!わかっていますよね?ご自身が誘拐犯だってこと。」 女の人は、にっこりと笑った。 その笑顔はあまりに整っていて、まるで彫刻みたいだった。 「……あの子は、あなたのものではありませんから。」 彼女の言葉が、氷の粒みたいに胸に落ちた。 「……でも、あの子は帰りたがっていません。」 そう返すと、男の人が一歩こちらに近づいた。 「帰るかどうかを決めるのは、あの子ではありません。」 すれ違う言葉。 空気は静かなのに、心臓だけが激しく音を立てていた。 「連れ帰って、どうするおつもりですか。……彼、ご家庭のことについてすごく脅えていましたけど。」 女の人は笑った。 その笑い方が、妙に丁寧で、怖かった。 「怯える?あの子が? ……まあ、そうでしょうね。」 指先で自分の腕を撫でながら、彼女は穏やかに言う。 「“見られる”ことをやめたら、あの子は生きていけないんですよ。」 男の人がゆっくりと頷いた。 「そう。あの子の存在には“理由”がある。 生まれた瞬間から、“特別”として扱われるために生まれたんです。」 女の人はバッグの中から、何かのチラシを取り出した。 白い紙に、あおに似た少年の写真。 “奇跡の色素欠乏児——光に愛された少年” という文字が、印刷された笑顔の下にあった。 「ねえ、素敵でしょう?」 女の人の声が震えるほど嬉しそうだった。 「世の中の人が“あの子を綺麗だ”って思えるようにしてあげてるの。それって、愛でしょ?」 その瞬間、 背中の奥で、何かが凍りついた。 「あの子に何するんですか、!?」 目の前にいる2人は笑った。 「何って、何も痛いこととかはしないわよ。ただあの子が大勢の人に見られるだけ。」 「大勢の人に見られる、、?」 私は状況がまだ上手く掴めない。 でも、それによってあおが傷つくのに変わりはない。 「見世物小屋、、入れるってことですか。」 私は冷静に目の前の2人に聞いた。 「そんなに驚いた顔をして。なんなのかしら。私達はあの子の商品価値に気がついたのよ。気がつくまで貰っててくれてありがとう。とっとと返してちょうだい。」 怖かった。 あおがまた傷つくのが怖かった。 それより何より、あおと離れたくなかった。 「少し、時間をください。通報なりなんなりして頂いて大丈夫ですので。」 私は走って家に帰った。 「あお、ただいま。」 汗だくの私を見てあおが笑う。 「おねーさん変なの。そんなに急いでどうした…」 言い切る前にあおを抱きしめた。 「あお、あおはどうしたい?あの人たちの元へ帰りたい?」 あおは困惑の表情を見せた。 「帰る?あの人たちの元?なんで?どうして?いやだ、みんなに見られる?やだ、やだ、やだやだやだやだやだやだ…」 あおは泣き出した。小さな顔を流れる流星群は大粒だった。 「ねぇ、あお、深呼吸しよっか。吸って、吐いて。」 深呼吸をさせたあとも、変わらずあおは床を見ていた。 「ねえ、それ癖じゃないよね。」 あおの手首を指さす。 「あの人たち、それ知らないよね。あおのこと、息子じゃなくて商品としか見てないから。」 あおは自分の手首を見た。 「商品傷付ければ売れないと思ったんでしょ。それと共に、親にも見てもらえるかもしれない。」 あおはこっちを見た。 「ねぇ、おねーさん。僕はどうしたらいいのかな。」 私は少し黙った。 冷たい沈黙の中、次に口を開いたのはあおだった。 「おねーさん、このままだと逮捕されるよね。」 「私のことは考えなくていいのよ。」 あおの優しさは暖かくて柔らかいけど、いたかった。 「僕、おねーさんが好き。おねーさんに幸せになって欲しい。」 あおは私の手を握った。 「僕、あの人たちのところに帰る。」 私は目を見開いた。 「僕が傷つくのはわかってる。色んな人から色んな目で見られる。売られるかもしれないし、なにかの実験に使われることもあるかもしれない。」 私の目から生暖かいものが溢れ出す。 「初めてだった。普通に接して貰えたの。」 「あお…」 言葉を口に出そうとする度に、込み上げてくる何かがそれを遮る。 「今までありがとう。おねーさん。」 あおは、私を1人置いて玄関を飛び出した。 車の走り去る音がずっと聞こえていた。 海辺に出ると、風が頬を撫でた。 夕方の光はまだ柔らかく、波の白がゆっくりと溶けていく。 足跡のない砂浜を、私は裸足で歩いた。 あおの名前を呼ぶことも、もうできなかった。 呼べば、空のどこかに散ってしまいそうで。 潮の匂いが、胸の奥を締めつける。 あの子の髪も、きっとこんな匂いだった気がする。 空が群青に変わるころ、ひとすじの光が走った。 夜の境界を切り裂くような流れ星。 あおの涙も、きっと今あんなふうに空を旅している。 この世界のどこかで、まだ輝いている。 私は波打ち際にしゃがみ込み、小さくつぶやいた。 「ねえ、あお。  海って、こんなにも青いのにね。」 波がひとつ寄せて、私の手のひらをさらっていった。 その瞬間だけ、あおの声が聞こえた気がした。 ——「ありがとう、おねーさん。」 涙が、ひとつ、星になった。

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消えないで、青。

Bewitching Window

暗い部屋。布団の上で、また知らない幼い少年が押さえつけられている。 父の太い腕がその身体を逃さないように締め上げ、少年の口を押さえつける。 喉の奥から潰れた叫びが漏れるが、壁にぶつかってかき消された。 「泣くな。愛されてるんだ。分かるだろう?」 父の低い声と、衣擦れの音。 少年の目は涙で濡れ、ただ助けを乞うように司を見つめた。 司は目を逸らせなかった。 父の手の動き、少年の震える脚、布団を掴む白い指先。 何が行われているか、幼い頭でもはっきり分かってしまった。 やがて少年は動かなくなった。 痙攣のあと、ただ虚ろな瞳だけが残る。 父は鼻で笑い、その身体を床に転がした。 「やはり駄目か。所詮、金で買ったガキだ。」 使えないなあと言いながら先程まで玩具としていた少年の喉元に包丁の刃をたてる。 「来世はもっと頑丈になる事を祈ってるぜ。」 司が息を飲んだその時、父の目がこちらを向いた。 「次は……お前の番だ、司。」 背筋に氷のようなものが走る。 父はゆっくり近づき、震える司の顎を掴んだ。 血と汗で濡れた手が顔を撫で、体を押し倒す。 「逃げるな。これが“愛”なんだ。」 殺された少年の亡骸の横で、父は荒い息を吐きながら笑った。 「お前は違う。特別だ。……さすが俺の息子だな。」 ─── 小学4年になった転校初日。 「今日は誰とも仲良くしない」って心に決めていた。 でも教室のドアを開けた瞬間、まっすぐこちらを見て笑う声がした。 「やぁ、君が転校生?」 声の主は司。机に肘をつき、明るく微笑んでいる。 その笑顔は自然に見えるけど、どこか作られたようにぎこちない。 普通なら気づかない些細な違和感。でも健人には妙に引っかかった。 「……ああ、そうだけど」 短く答えると、司は「よかった!」と返して、隣の席をぽんと叩いた。 気づけば健人は座っていた。 「誰とも仲良くしない」って決めてたはずなのに。 司の声は不思議だった。軽いのに、なぜか心に残る。 ――後で知ることになる。 その声の奥にどれほどの闇が潜んでいたのかを。 引っ越して何年か経って、俺たちは中学生になった。 ある日の夕方。駅前の喧騒から一本入った細い路地に足を踏み入れたとき、健人は違和感を覚えた。 空気が淀んでいる。人の声も車の音も遠く、代わりに湿った壁に反響するような小さな呻き声だけが聞こえる。 「……?」 足を止め、耳を澄ませる。 確かに声がした。押し殺すような、怯えるような少年の声。 その瞬間、嫌な予感が全身を駆け抜けた。 健人は心臓を掴まれたような感覚のまま、声の方へと足を運ぶ。 路地の奥、外灯に照らされる影。 そこにいたのは司だった。 少年を壁に押し付け、その細い肩を力強く掴み、唇を奪っている。 少年の手が必死に逃げようともがくたびに、コンクリートに爪がこすれ、嫌な音を立てた。 「っ……司……!」 声をかけた瞬間、全身に血の気が引いた。 自分が叫んだのかどうかも分からない。 ただ体が勝手に走り出し、二人の間に割って入っていた。 少年は一目散に逃げ出した。靴音が乾いた路地に響いて遠ざかっていく。 残されたのは司だけ。 肩を上下させ、荒い息を吐きながら壁に背を預けている。 目が合った。 その目には、羞恥でも怒りでもなく、ただ諦めの色があった。 捕まった獣のような、いや──罪を背負った人間の目。 「……見たんだろ、健人。」 声は掠れ、震えていた。 隠そうともしない。 その瞬間、健人は悟った。 これから聞かされるのは、司の奥底にずっと封じ込められていた闇そのものだと。 健人は息を呑んだまま立ち尽くした。 路地裏の空気は重く淀み、わずかな外灯の明かりさえ濁って見える。 司は壁に背をつけたまま、乾いた笑いを漏らした。 「……俺さ、こういうこと……小さいころから、ずっと見てきたんだ。」 健人は言葉を失った。ただ「見てきた?」という問いが心の奥で木霊する。 司の声は途切れ途切れに、しかし止められない奔流のように続いた。 「いつも知らない少年が、布団に押さえつけられて……。泣いても、叫んでも、父さんはやめない。むしろ“これが愛だ”って笑いながら……使い捨てにして、いらなくなったら殺すんだ。包丁で。血が飛んで、床に広がって……」 そこで司の声が掠れた。 「……次はお前の番だ、って。俺も何度も……。」 その先の言葉は喉で詰まった。 けれど健人には充分すぎるほど伝わってしまった。司自身が被害者であり、その記憶が「愛」という言葉と結びついてしまったということが。 司はようやく健人を見上げた。 その瞳には、怒りも悲しみも通り越した諦めが滲んでいた。 「だから……俺は、少年を“綺麗だ”と思ってしまうんだ。おかしいだろ?頭では分かってるのに、身体の奥に染みついたものは消えなくて……」 一粒、また一粒と涙が頬を伝った。 声を荒げるでも、泣き叫ぶでもない。ただ静かに、我慢していた堰が壊れたかのように涙が零れ落ちた。 健人は拳を握りしめた。否定も説教も、今この瞬間に必要な言葉じゃない。 「……もう一人で背負うな。俺が知ったからには、お前はもう一人じゃない。」 その声に、司は小さく嗚咽を漏らしながら、ゆっくりと顔を伏せた。 長い沈黙のあと、彼の呼吸はようやく落ち着きを取り戻す。 闇に囚われたまま、それでも確かに一歩、彼は外へ踏み出した。 司の声が途切れると、路地裏は静まり返った。 遠くを走る電車の音さえ、別の世界の出来事のように感じられた。 健人は、胸の奥に鉛を流し込まれたような重みを覚えながら、ただ司を見つめていた。 ――あまりにも重い。あまりにも理不尽だ。 怒鳴りたい気持ち、泣き出したい気持ち、司を抱きしめて守りたい気持ち。 全部がごちゃ混ぜになって喉に詰まり、声が出なかった。 司は、自嘲するように薄く笑った。 「……引いただろ。」 その笑みの裏で、またひとつ涙が頬を伝って落ちた。 健人は言葉を選んだ。吐き出すように、そして自分に言い聞かせるように。 「引くもんか。……お前が背負ってきたもんを、俺が簡単に裁けるわけないだろ。」 その瞬間、司の肩が小さく震えた。 誰かに否定されることを覚悟していたからこそ、肯定に近い響きが胸に刺さったのだろう。 沈黙が続いた。けれど、それは拒絶の沈黙ではなかった。 お互いの鼓動を聞き合うような、重くも確かな沈黙だった。 やがて司は小さく呟いた。 「……俺さ、教師になる。」 唐突すぎて健人は目を瞬いた。 「……教師?」 「愛を知る教育を広めたい。……俺は愛を知らない。だからこそ、必死に教えようと思えるんだ。」 司の声は震えていた。けれどその震えは、もう弱さだけではなかった。決意を含んだ震えだった。 健人は少しだけ笑った。 「矛盾だな。でも、悪くない矛盾だ。」 司がこちらを見た。その瞳には、確かに影がある。だがその奥に、今までになかった光が灯っていた。 路地裏の湿った空気の中で、健人は初めて思った。 ――こいつは、もう一度やり直せるかもしれない。 その日を境に、健人と司は互いの家を行き来するようになった。 他愛ない勉強や食事を共にするだけ。 だが、日が経つ程に司の影は濃くなり、抑えきれない衝動に飲み込まれていった。 「……やっぱりまだ怖いんだ、、。また、襲っちゃうんじゃないかって。」 頭が真っ白になった。どうすればいいかわからなかった。 気がついたら俺は司を抱きしめていた。 「ねえ、抑えられなくなったら俺のこと使ってよ。」 自分の口から出た言葉とは思えなかった。 お互いに困惑しながらする不慣れな行為。 1日、また1日と司は俺を求めるようになった。 繰り返される行為の中で、健人は気づいていった。 これは犠牲でも同情でもなく――司を拒めない自分の感情そのものだ、と。 触れるたびに胸の奥で膨らんでいく想い。 それはいつしか、司に向けられた確かな「好意」へと形を変えていった。 ⸻ ある夜、健人は初めて口にした。 「……ねえ、今夜は俺がしたい。」 司の瞳が大きく揺れた。 父の影が脳裏に蘇り、全身が凍りつく。 「やめろ……俺は……」 怯えに震える声。過去の記憶が彼を縛りつけていた。 けれど健人は首を振り、司の手を包み込むように握った。 「違う。痛くしない。怖くもしない。……俺は、お前を壊さない。」 その声に、司の体から徐々に力が抜けていった。 唇に触れた温かさは、暴力の冷たさとはまるで違った。 背中を撫でる指先は、支配ではなく慰めだった。 「……あぁ……」 司の喉から漏れた声は、あの頃とは全く違う快楽によるものだった。 父の手で刻まれた傷跡が、初めて優しさによって上書きされていく。 二人は肩を並べ、黙って夜明けを待った。 東の空に差し込むわずかな光は、二人の未来を照らすように淡く揺れていた。 ある日司から連絡が入った。 隼人が司の家にやって来た夜。 落ち着かない表情で眠る少年を診たあと、健人の胸に黒い疑念が芽生えた。 ――まさか、司はまた青少年に手を出すのではないか。 気づけば健人は司の胸倉を掴んでいた。 「ふざけるなよ……!お前、まだ同じことを繰り返すつもりか!」 司は驚きに目を見開き、すぐに首を横に振った。 「違う!もう俺は……あの頃のままじゃない!」 その声は震えていたが、かつての闇に呑まれた声ではなかった。 隼人を庇うように立ち塞がる姿に、健人ははっと息を呑んだ。 誤解だった。司はもう正気に戻っていた。 あの路地裏で涙を零した日から、彼は確かに変わっていたのだ。 ――もう、大丈夫だ。 健人は手を放ち、深く息を吐いた。 重く淀んでいた空気が少しずつ晴れていく。 マンションの地下駐車場。 ひんやりとした空気の中、健人はただ黙って立っていた。 視線の先では、司が黒いベンツに乗り込み、ゆっくりとエンジンをかける。 かつては闇に囚われたまま震えていた男が、今はまっすぐ前を見ていた。 その横顔に、健人は確かに成長を感じ取った。 ヘッドライトが白い光を放ち、闇を切り裂いていく。 車体が遠ざかっていくのを見つめながら、健人は胸の奥で小さく呟いた。 ――司、お前はもう大丈夫だ。 その言葉は声にはならなかった。 けれど確かな祈りのように、駐車場の静寂に溶けていった。 残されたのは健人ひとり。 冷たいコンクリートの床に立ち尽くしながらも、胸の奥には確かな温かさがあった。 司が変わった。その事実だけで、十分だった。

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Bewitching Window

Young Adult

「囚人番号1724番、出獄。」 冷たい声と靴音が、石造りの廊下に響く。 鏡に映った自分は、ただの「抜け殻」だった。 高校を卒業することもなく、大学も失敗して、担任教師を刺して、刑務所に入った。 行くあてなんてどこにもない。ネグレクトだった両親は離婚して、それぞれ別の家庭を築き、「礼子なんて人は知らない」と言い張っていた。 私は、ただ一人の「余り物」だった。 私は本当に、何も持っていない。 ⸻ 元々ネグレクトで育った私に生きる希望はなかった。 卒業したら死のう。 そうやってずっと思ってた。 司は私に大学受験を勧めた。 私は彼を信じ、大学受験をすることにした。 あの時の空は、どこまでも灰色だった。 湿った空気が肌にまとわりついていた。 私は受験は失敗に終わった。 勉強に集中している間だけは、生きようと思えた。 受験が終わった今、私はただ教室の窓の外を見ていた。 そこに現れたのは司だった。 「とにかく生きろ。」 彼はそう言った。 生きる? 何のために? 希望も未来もないのに? 私の計画は完璧だった。 万が一飛び降りに失敗したとき用に家庭科室から包丁も持ち出した。 それなのに。 屋上に立つ私を止めに来た彼を、包丁で貫いた。 血が噴き出し、彼は倒れ、呻き、そして──死んだ。 「これで、楽になれる」 そう思ったはずだった。 なのに、残されたのは虚しさと、止まらない声。 「生きろ」 司の声は、今も耳の奥で響いている。 ─── 足は自然と繁華街へ向かった。 歌舞伎町の雑踏。眩しいネオンと人の笑い声。 でも私の胃袋には、何も入っていない。 身体は重く、視界は滲んで、気づけば歩道に倒れていた。 「大丈夫ですか?」 低く穏やかな声が耳に届く。 「放っといてよ」 そう言って睨んだ。 けれど、彼は迷わず私の腕を掴み、立たせてくれた。 「私は夕日賢治。警察官です。困っている人を放っておけないんです。」 その言葉が、私の中で何かを揺さぶった。 人は誰も、私を「放って」生きてきた。 だから「放っておけない」と言ったその人の声は、嘘みたいに優しかった。 ⸻ 気づけば、私は彼の家にいた。 温かいご飯が湯気を立てていた。味噌汁、白米。 最初は「罠だろ」と思って手をつけなかった。 でも一口食べた瞬間、涙が溢れた。 ああ、これが「幸せの味」なんだ、と。 やがて私は賢治と結婚し、娘を授かった。 名前は愛香。 あのとき賢治が「たくさんの愛を知って育ってほしい」と言って決めた。 私はその響きが好きで、何度も声に出して呼んだ。 「愛香」──呼ぶたびに、自分が母になった実感があった。 3人で食卓を囲むのが日常になった。 「いただきます」を言うのが最初は恥ずかしかった。 けれど愛香が小さな声で真似をするのを見て、私も少しずつ言えるようになった。 雨の日、3人で相合い傘をして歩いた。 休日にはスーパーで「どっちのアイス買う?」と笑い合った。 そんな何でもない日常が、私にとっては夢のようだった。 夜、愛香が眠った後、私はよく賢治の胸に顔を埋めて言った。 「幸せすぎて怖い」 賢治は笑って、私の髪を撫でた。 「大丈夫だよ。俺がいる」 私は信じた。 幸せは続くと、信じていた。 ⸻ けれど、少しずつ彼の様子は変わった。 帰りが遅い日が増えた。 書斎で資料を抱えて読み込み、私が近づくと慌てて閉じることもあった。 問いただしても「仕事だから」としか答えない。 不安が胸を掴んだ。 でも私は信じるしかなかった。信じなければ、また一人になってしまうから。 ⸻ その夜、賢治は帰ってこなかった。 愛香を寝かしつけ、私は窓辺に座って、いつもの足音を待った。 でも、何度夜が更けても扉は開かなかった。 電話が鳴った。 警察署からだった。 「夕日賢治さんが……」 声はそこで途切れたように聞こえた。耳鳴りが全てをかき消した。 世界が、音を立てて崩れた。 賢治は死んだ。 政治家の不祥事を掴み、抹消された。 ⸻ 賢治のいない日常。 3人の食卓は、2人分の空白を抱えるようになった。 愛香の笑い声は、私には刃にしか聞こえなかった。 「どうして賢治を奪った?」 「どうして幸せを壊した?」 答えのない問いが、私を苛んだ。 そして私は、愛香に手をあげるようになった。 叩くたびに、殴るたびに、心の奥で「やめろ」という声が響いた。 けれど止められなかった。 愛香の泣き声は、私に「失った幸せ」を突きつけてきたから。 私は母になれなかった。 ただ、闇の中でもがき続ける怪物になった。 ⸻ 「幸せすぎて怖い」──あの日の私の言葉は、予言だった。 幸せは長く続かない。 いや、最初から私には「幸せを守る力」なんてなかったのだ。 愛香が高校生になった今も、私はまだ闇の中にいる。 そしてその闇を、娘に押し付けてしまっている。 ごめんね。愛香。

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Young Adult

Black Memory

闇に沈む。 眠りではない。夢でもない。 ただ、濃度の高すぎる闇が私の体を押し潰していく。 息をするたびに、鉄の匂いが喉を焼く。 過去の記憶が、押し寄せる波のように次々と形を持ちはじめた。 ⸻ 拳1個にも満たないパン一切れと緑色の液体。 それが「食事」だった。 兄弟12人が同じ机を囲み、黙ってそれを口に運ぶ。噛む音さえ許されなかった。 父の声が響く。 「駒は喋らなくていい。」 母の冷たい指先が、誰かの頭を机に叩きつける。鈍い音の直後も沈黙が走るばかりだった。 夜は習い事。ピアノ、ヴァイオリン、外国語、バレエ、剣道、水泳──10種類以上にも及んだ。 一つでも手を抜けば、手首に縄が巻かれ、暗い押し入れに閉じ込められた。 「未熟だな。そんなものではお父様とお母様の役に立たない。お前はまだ“商品”にもなれない。」 その声に、幼き頃の私の心臓は毎晩小さく縮んでいった。 ⸻ あの日、テレビの取材が入った。 「最高の教育者」である両親への取材。 しかし末っ子が「僕達は駒なんだ」と漏らしただけで、すべてが崩れた。 翌日から父と母は狂ったように私たちを殴った。 兄弟の顔から血が流れ、泣き声が闇に反響した。 数週間後、家に黒塗りの車が列を成した。 兄弟は一人、また一人と荷物のように運ばれていった。 金持ちに買われた者。戦地に送られた者。 笑いながら金を数える父。 無表情で書類に判を押す母。 最後に残った4人の兄弟たちと震えながら次の日が来なければいいのに、と願う日々が続いた。 「売れ残りはまとめて、兵士として戦地に送る。」 冷たい声が、耳の奥に今も残っている。 ⸻ その夜、扉を開けたのは若い男──司だった。 「この少年はいくつだ?」 父はにやりと笑い、「さあ、覚えてないな。」と言った。 「こいつは頭もいいし顔もいい。165万からだな。」 子供に値段をつける父の姿は、人間ではなかった。 床に叩きつけられる紙幣。 そして、私は買われた。 商品の一つとして。 だが司の眼差しは、父や母とは違った。 恐ろしくもあり、不信感に満ちてもいたが、どこかに微かな光を含んでいた。 私はそれに気づかないふりをした。 信じてしまえばまた裏切られる。そう思ったから。 ⸻ 今いる真っ暗な空間で、その声は問う。 「お前は何のために教師になった?」 私は震える唇を開いた。 「“ちゃんとした教育”を広めるためです。」 答えた瞬間、兄弟たちの叫びが頭を満たす。 殴る鈍い音。 泣き声。 助けを求めるも手を振り払う父母の影。 「愛を知る教育だ」──そう続けた。 だが言葉は自分に跳ね返る。 愛を知ったことがあるのか? 実の親から。母の笑顔は? 父の腕は? 何もない。 司は最期「俺だけじゃなく沢山の人から愛を知れ。そして、愛を教えられるような教師になれ。」と言った。 ⸻ 気づくと、机に向かっていた。 手の中にはペン。 白紙を埋める文字は震えながらも並んでいく。 教育実習で出会った生徒の顔。 「隼人先生」と呼ばれた瞬間の重み。 闇の声が囁く。 「お前はまだ愛の全てを知っていない。」 それでも私は答案用紙を閉じた。 合格通知を受け取ったのは、それから数ヶ月後。 「教員採用試験 合格」──その文字が視界に滲んだ。 頬を伝う涙は夢か現実か分からなかった。 だが私は知っていた。 愛を知らぬ者が「愛を教える教師」になろうとしているという皮肉を。 ⸻ 私の胸には未だ空白が残っている。 けれどその空白を抱えたまま、私は黒板に立つだろう。 愛を知らないからこそ、必死に愛を語ろうとする教師として。

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Black Memory

Moon Light

俺を見つめる少年の瞳は、すでに死を受け入れた者のそれだった。 黒く濁りきった瞳の奥には、光も、怒りも、悲しみさえもなかった。ただ「無」。 両親は嬉々として言う。 「この子、今日買っていただけないと、明日にはロシアの植民地へ送られる予定でしてね。」 その声が続いたが、途中から俺には聞こえなくなった。いや、耳を塞いだのは俺自身だ。 ――なぜ笑えるんだ。自分の子供を売る話をしながら。 俺の腹の底で熱いものが蠢いた。吐き気にも似た怒りだった。 「お金が無いから売らないと。それに私たち、ここらじゃ有名人でしょう?とっとと逃げるためにもお金が無いとねー。」 笑いながら平然と言い放つその顔を、俺は拳で叩き潰したい衝動に駆られた。 人間の感情が壊れている。 金に支配された化け物。 俺の目はその少年に釘付けだった。 ずっと同じ服ばかり着ているのか着疲れた服。 女子と勘違いしてもおかしくないほど長く伸びきっている髪。 細すぎる腕。骨ばかりが浮き出た身体。 その姿は「虐待」の二文字そのものだった。 「この子は兄弟の中でも抜群に頭が良かったんですよ〜!それにほら、顔も可愛いでしょ?ですので165万からとなっております♪」 値段を告げる声。 人に値段をつける。しかも、自分の子供に。 「黙れ。」 吐き捨てた俺の声は、自分でも驚くほど低かった。 俺は財布から札束を取り出すと、300万を床に叩きつけた。 その瞬間、両親は飢えたハイエナのように床に這いつくばり、金をかき集めた。 人間がここまで卑しく見えることがあるだろうか。俺は背筋に寒気を覚えた。 それでも、彼らはなお言った。 「ええと……追加で少し、上乗せしていただければ……」 「うるさい。黙れ。」 俺はもう彼らに背を向けていた。 少年の腕を掴み、素早く家を出た。 驚くほど細く、冷たかった。 早くこんな所から離れないと、、俺は思わず力を込めてしまった。 「……っ、申し訳ありません。力を緩めていただけますか?」 怯えた声。 その一言で我に返り、慌てて手を放した。 「ごめん……」 俺の声は、謝罪というより懺悔だった。 ――俺は救えるのか。いや、俺に救う資格などあるのか。 「君、名前は?」 そう問うと、少年は俯いたまま小さく呟いた。 「……私に、名前はありません。」 名が無い。 数字で呼ばれてきたと言う。 12人兄弟の8番目。 「8」。 それが彼の名前の代わりだった。 俺は息を呑んだ。 人を物のように扱うとはこういうことか。 「……今日から、お前の名前は隼人だ。」 少年の目が大きく見開かれた。だがその奥にあるのは喜びではなかった。 不信感。 「名付けられること」すら恐れているように見えた。 「……なぜ、その名前を?」 彼は震える声で問うた。 「なんとなく、だ。」 俺はそう答えたが、胸の奥に刺さる痛みがあった。 隼人――それは、俺の父の名前だった。 俺を幼い頃から壊し、弄び、愛の形を歪ませた男の名。 忘れてはならない呪いのような存在。 それでも俺は、この少年に同じ名前を与えた。 「父を忘れない」という、自分なりの誓いでもあった。 ――これが救いなのか、それとも新たな呪いなのか。 その答えを知るのは、まだずっと先のことだった。

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Moon Light

Prologue

闇はいつだって静かに忍び寄る。 それは叫び声のように激しくもなければ、雷鳴のように唐突でもない。 気づけばそこにあり、肌にまとわりつき、息を詰まらせる。 この物語に登場する誰もが、闇の中でもがき続けていた。 救いを求め、差し伸べられた手を握ろうとしながらも、 その手は時に幻であり、時に鎖となる。 親の愛に縛られた少女。 正義を掲げながら潰された男。 名もなく売られた子供。 愛し方を知らないまま大人になった者。 彼らの道は交差し、ときにすれ違い、 やがてひとつの断片的な記憶として繋がっていく。 救済とは何か。愛とは何か。 その答えを誰も持たないまま、彼らは歩みを止められない。 これは、出口のない迷路の記録である。 そして、あなたが覗き込むその瞬間からも、 彼らの囁きは夜の深淵から響き続ける。

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Prologue

あの頃の赤

とにかく苦しかった。何がとも言えないが見えない物に押しつぶされるような感覚。息苦しくて、暑くて。本当に苦しかった。 言いようも無い気持ちに嫌気がさして、消えたくなった。誰にもバレないように消えることが出来るのなら、なんて素敵だろうとずっと思っていた。 I字のカミソリは当時の私には怖かった。消えたいのに死んでしまう気がした。T字のカミソリを手首に押し当て血が流れる生活を毎日続けていた。 「あ!またやってんじゃん!!」 同じクラスのルカがそう言った。 ルカの手首にも私と同様傷がある。 「ごめん。てかルカも一緒じゃん。」 そう言って手首を見せあって笑った。 2人は共依存という関係に近かった。 お互いが居ないと呼吸すらできないほどだった。 登校から下校まで片時も離れず、帰宅してからも眠る直前まで互いを求め合った。 起きて最初に確かめるのも、夜に最後に手放すのも、互いの存在だった。 ただ支え合うだけじゃない。愛して、欲して、互いに飢えていた。 ルカが私に縋ることで私は生きる意味を手に入れた。 私がルカに縋ることで、ルカは生きる意味を手に入れた。 それは承認欲求なんかじゃなく、むしろ互いをむさぼり合う愛に近かった。 互いが互いを欲するその強さこそが、二人をつなぎとめていた。 「人と人が支え合って人」そんなどこかの言葉をずっと信じてた。 ある日ルカから相談された。 「私、ユイトのこと好きなの。」 ユイトというのは私の幼なじみだった。 「そうなんだ!付き合えるといいね!」 彼女は黙った。 しばらくして口を開いた。 「私、ユイトと付き合えないなら死にたい。」 頭の中が真っ白になった。 唖然とする私にルカは抱きついてきた。 「ねぇ、私ユイトと付き合いたい。協力して。」 ルカのことを死なせたくなかった私は、ユイトの気持ちなんて考えもせず、ルカの気持ちだけに寄り添い、恋のキューピットとなった。 中学を卒業しても2人の恋は続いた。 ルカとユイトが付き合ってから、LINEの画面が更新されることはなかった。 ある日ルカからDMが来た。 「ユイトの愚痴を聞いて欲しい。」 毎日毎日ユイトとの日常が送られてきた。 ルカのこぼす愚痴は正直自慢にしか捉えることが出来なかった。 ある日を境に、体の話もしてくるようになった。 聞いているのが少しばかり苦しかった。 それと同時期あたり、ユイトからも連絡が来るようになった。 「ルカと体の相性が合わない。」 それを私に言われたところで、。という内容だった。 ある日ユイトは私に言った。 「俺、黒髪ロングで、胸がでかくて、むちむちしてるやつが好きなんだよ。」 黒髪ロング、胸がでかい、むちむち、、。 ルカとは正反対の言葉が並んだ。 ユイトは続けた。 「俺、ルカのことも好きなんだけど、俺のタイプに合う、ほんとにぴったり合う女がいるんだ。」 私はただ黙って話を聞いていた。 「正直、浮気になってもいいからそいつと付き合いたい。」 ユイトの口は止まらなかった。 「そのそいつって言うのはお前なんだけど」 「え?」 思考が止まった。 同時に私のスマホが鳴った。ルカからだった。 「ねー私ユイトと別れたーい」 いつもの愚痴が始まるときと同じ文言だった。 どうしたらいいか分からず、まずはユイトの方から話を聞くことにした。 「どうして自分の好みじゃない女の子と付き合うことにしたの?」 ユイトは少し黙った。 「それは、、。あの雰囲気、付き合わないとやばかっただろ。」 当時を思い出す。 私、ルカ、ユイトは所属している部活が一緒だった。 ルカの想いはすぐにみんなに知れ渡り、部一丸となってルカの想いを応援した。 その際ユイトのことなんて考えることもなかった。 「好きでもねぇ奴と付き合うってこういうことなんだよな。」 ユイトは今の自分の気持ちを正当化した。 次にルカの気持ちを聞いた。 「最近ユイトが裸の写真送れとかうるさくてさー笑」 ルカは幸せそうだった。 それと共に「ねぇ、私ユイトと別れたーい」といういつもの文言がいつも以上に刺さった。 毎日毎日愚痴を装った自慢にうんざりもしていた。 「ねぇ、そんなに別れたいなら別れちゃえば?」 私の指は止まらなかった。 ユイトに言われたこと、そしてルカの思い、全て全て整理してルカにぶつけた。 時刻は深夜3時を迎えていた。 「私もう死ぬから。」 ルカから送られてきたのは屋根の上にいる写真だった。 私は止めた。 「4時になったら死ぬ。」 ルカは聞かず、そのまま飛び降りた。 ルカは死ななかった。朝日はいつものように昇った。 朝日は昇ったが、私の胸の中の夜はそのままだった。 それでも私は今も、この文章を書きながらあの頃の私とルカに触れようとしている。 あの時の私を、あの時のルカを、もう一度抱きしめたくて。

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あの頃の赤