ひるがお

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ひるがお

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人と魚

「おい、ゲイル早速行こうぜ」  ギラリとした日差しが肌を刺す中、友人のモーゼスはゲイルの家の扉をたたく。 「モーゼス……? 一体何の用だ?」  もう時計の針は午後を示そうかという頃合いなのだが、寝起きであるゲイルは眠い目をこすりながら扉を開ける。ズキズキと痛む頭が昨晩どれほど酒を呑んだのかをゲイルに知らせる。  一方のモーゼスはというと、なぜか目を爛々と輝かせている。 「おいおい、お前覚えてないのかよ! あの爺さんが話してただろ?」  モーゼスは興奮が抑えきれない様子である。 「は? 爺さん?」  必死に記憶の糸口を探る。爺さん、昨晩、酒、モーゼス……。 「……人魚?」  ぽつっと口からこぼれた言葉は、言った本人であるゲイルにも訳がわからない。しかしゲイルの呟きを聞いたモーゼスはこれでもかと言うほどゲイルの肩を叩き、 「そう! やっぱり覚えてたんじゃねェか。さ、行くぞ!」  と、むしろゲイルを置いて走り出しそうな勢いで言う。 「待て待て、俺は何にも覚えてないんだ!」  慌ててゲイルが声を上げる。それを聞いたモーゼスは片方の眉を吊り上げる。 「マジかよ? 昨日パブ行ったろ?」 「パブ……」  チューニングのように、カメラのピントのように、昨日の夜に記憶の焦点が定まっていく。 『テメェら、人魚って知ってっか』  知らない老人の声が記憶を刺激する。そう、そうだ。昨日はモーゼスとパブに行った。そこで怪しい爺さんから話を聞いたんだ。 __人魚伝説の。 「ツイてねェなぁ」  夜道を二人でトボトボと歩きながら、モーゼスが語りかけとも独り言ともつかない言葉を漏らす。先ほど行きつけのバーに行き、満席だと告げる馴染みの店員の顔を見てきたところだ。ゲイルとモーゼスは行くあてもなくただ歩き、酒の呑みたさだけを無駄に募らせていく。 「そうだなぁ」  ゲイルはモーゼスの言葉に返事をしてみるが、しかし、何かいい案がある訳でもなくただ沈黙を少し縮めただけで終わってしまう。 「おっ、ここは」  しばらくぶらりと歩き続け、モーゼスは一軒の建物に目を向けた。そこはかなり寂れたパブのようである。いや、建物は“寂れた”という言葉が美しいものに思えてくるほど酷い荒れようで、看板はななめり塗装は剥がれ窓は埃だらけの有り様だった。心なしか明かりも他の家々より暗く、流石の二人もなかなか此処にしようとは言い出せない。  随分な間ただ黙って店の前で立ち尽くしていたが、 「俺はいいと思う。今はとにかく酒が飲みたい気分だよ」  不意に言葉を漏らしたのはゲイルだった。モーゼスは驚きゲイルの顔を見つめる。 「んじゃ、行くか」  尚も迷いは拭いきれないようだったが、ゲイル同様、非常に酒が呑みたかったモーゼスは欲望に勝つことができなかった。そうして二人は知らないパブに入っていった。  店内はいやに薄暗く、客は汚れた風貌の老人一人だけだった。その老人を避け、二人はカウンターに座る。見渡す限り店員らしき人もいないので、おい、と店員を呼んでみる。しばらくすると既にビールを持った店員が奥からやってきてドンっと二人の前にジョッキを置いた。 「頼んでねェよ」  と、モーゼス。やや怒ったふうに聞こえるので、おそらく“注文を間違えてますよ”などという意味の気遣いは一切含まれていない。 「今はそれしかない」  ぶっきらぼうにそれだけ言うと店員は再び奥に引っ込んでいった。早くも二人には後悔の念が湧き上がりかけるが、何にせよ念願の酒である。二人は乾杯もそこそこにがぶりがぶりと喉にビールを押し込む。冷えたビールが染み込み、アルコールでかーっと体が火照っていく感覚が心地よい。  気分の良くなった二人は話に花を咲かせ始めた。途中でまた店員がやってきて、何でできているかもよく分からないツマミを置いて去っていった。恐る恐る口に運ぶと、これが意外にもなかなか美味しかった。 「おい」  突然、老人が二人に声をかけた。あの、店内に一人いた老人である。気付かぬうちに近くに来ていたようだ。 「テメェら、人魚って知ってっか」  文句を言おうと勇んで口を開いたモーゼスより先に老人は言葉を続ける。出鼻を挫かれたモーゼスはポカンと開けた口のまま、 「はぁ?」  としか言えない。 「人魚ってあれだろ? 下半身が魚の……。誰でも知ってる」  ゲイルが呆れて老人に言う。 「ちげぇ。此処らに伝わるっつぅ人魚伝説のことだよ。誰が酒の場で子供のお伽話の話なんざするか」  老人は呆れ返す。ゲイルはむっとしたが、それより、 「いるのか? 人魚が?」  老人に無駄に怒ってこの話が聞けなくなる方が頂けない。此処は素直に聞き手に回ろうと酔った頭で考える。 「ああ。俺が聞いたのはこの近くの湖に人魚がいるってぇ話だ。絶世の美女の顔だとか、食べると不老不死だとか、会うと魂が抜かれちまうとか、話はまちまちだな」 「すげえ!」  老人の言葉に、モーゼスは無邪気に反応する。こういうところが憎めない奴なのだ。 「だが俺も詳しい話は知らなんだ。此処らの奴に話を聞こうと思っとったが……」  此処で老人は残ったビールをグッと呑み干す。 「その様子じゃ知らんだな」  にぃっと笑いながら袖で雑に口元を拭う。ゲイルはその姿に若干の嫌悪感を抱く。 「これ以上教えてくんねェのかよ」  モーゼスの言葉に老人はくっくっと嫌な笑いを残し、結局それ以上の話をすることもなく金だけ置いて店を出ていった。 「湖、ってあれしかないよな?」  老人も去り、二人になった店内にモーゼスの言葉が響く。 「嗚呼、そうだと思う」  思い浮かべているのはこの街を囲む山の中にある湖だ。此処らで湖といったらそこしかない。歩いて行けないこともないが、そこまでの山道がやや遠く急斜面でありながらかつ自動車も通れないのでレジャー向けというよりは熱心な釣り人向けのスポットだ。 「……行ってみるか? 明日」  ゲイルは驚いてモーゼスの方へ視線を向ける。 「正気か? お前あの話を信じてるのかよ?」 「いやそりゃ、全く信じている訳ではねェけど……。逆にお前は気にならないのか? 絶世の美女だぞ?」  今度はチラリとゲイルに視線が向く。 「俺は信じてないぞ。実際聞いたこともない話だ。行くだけ無駄ってもんだろ」  つれないゲイルの言葉に、モーゼスはぐっと言葉に詰まる。 「大体、俺は美女なんかには興味ない」  返事をしないモーゼスを畳み掛ける。 「俺はあるね。じゃあ俺だけで行ってくるわ!」  モーゼスは吹っ切れたようにぐいっとジョッキを傾ける。モーゼスの言葉を聞いたゲイルは、 「待て待て、お前一人で行くのか? 無謀だぞ!」  と、一人焦る。こいつを一人で行かせるなんてたまったもんじゃない、という顔だ。 「ゲイルが何と言おうと俺は明日行くぜ。付いてきてくれるな?」  ニヤニヤとしながら聞く。 「……分かった」  ゲイルは渋々ではあるが承諾した。  これが昨晩の出来事である。 「思い出したよ。湖だったな」  ゲイルは言いながらモーゼスを家へ招き入れる。 「待ってな、支度するから」  ゲイルの言葉に、モーゼスはただ黙って頷いて寛ぎ始める。ゲイルは急いで着替え、荷物を詰めていく。 「まだか?」  待ちきれないモーゼスは何度も聞く。次第にそわそわと体を揺らし始める始末だ。 「待てない男はモテないぞ」  慌ただしく準備をするゲイルがモーゼスの前を通ったときに言うと、モーゼスはあわててピッと姿勢を正す。 「さ、行こう」  何度モーゼスの催促をかわしたのかも分からないが(モーゼスはやはりまだかと聞くのがやめられないのである)、ついにゲイルはモーゼスの待ち望んでいた言葉を放つ。 「待ってたぜ、いよいよだな!」  ついに、出発のときである。  自動車で行けるところまで登って、その後山道を歩いて行くことにする。突発的で無鉄砲な山登りだがゲイルは今までも行ったことがある湖で、また、急斜面な割に高くもない山であることも幸いし、案外順調に二人は進んでいく。 「ゲイル、よく釣りいくのか?」  道のりの中ほどまで進んだあたりで、モーゼスが話しかけた。 「いや別に……」  気不味そうにゲイルは返答する。ただ、足元から目を離すと途端に転倒しそうになるのでその表情は窺い知れない。 「じゃあ何しに湖に行ったんだよ」  イライラを募らせたモーゼスがそれを隠すことなく問う。ただでさえじっと耐えるのが苦手なモーゼスは、歩けども着かないこの山登りに早々にうんざりしていた。 「……気を悪くしないでくれよ。あの湖、此処らの餓鬼の探検スポットなんだよ。もちろん遠いし辿り着くまでに見つかって叱られるのが常だが、俺は行けちまったってわけ。まあ高校でこっちに越して来たお前は知らなくて当然だよ」  ゲイルが説明する。特に面白いことでもなかったのでモーゼスは途端に興味を失い、 「ふゥん」  と、気のない返事だけしてその後は黙ってしまった。  その後もぽつりぽつりと会話をしつつ湖を目指すが、疲れも溜まっていった二人は終盤になると全く喋らなくなってしまった。ただ木の葉が揺れる音と、ザッザッと土を踏み締める音だけが耳に入る。  随分とそうしていた。人魚に会ったら何をしよう、などと考えていると少しは足が軽くなるような錯覚に陥るが、それも長くは続かず蓄積した疲れには勝てない。そして、もうそろそろ湖に着くだろうかという思考が二人の頭を過るようになった頃。突然霧がかかり始めた。それに気づいた時にはもう遅く、急速に辺りが白く霞んでいく。 「クソっ、何も見えねェ」 「モーゼス落ち着けって」  慌てるモーゼスをゲイルが嗜める。 「この道は一本道だ。とにかくこのまま進もう」  ゲイルの言葉に頷き、少しだけ冷静さを取り戻したモーゼスは再び歩き出す。  そこから十五分ほどだろうか歩いたところで、次第に霧は晴れていった。二人はほっと息をつき顔を見合わせる。そして視線を何の気なしに下に向けた。 「湖だ!」  その目には湖のかけらが映っていた。鬱蒼とした木々の隙間からちらりとひかる水面が見える。二人は湖に続く坂道をこれまでの疲れも忘れて駆け下って行く。 「……ッ‼︎」  がさりと枝を退けその湖の全貌を見て、二人は言葉が迷子になった声をあげた。  そこには、人魚がいた。上半身を岸に投げ出して腕をゆるく組み、その上に頭を乗せる形で湖から顔を出している。髪は今にも空気と溶けそうな綺麗なブロンドで、ゲイルとモーゼスが今まで見たことないほどに美しい容姿をしていた。こちらが出した音に気付いて人魚がふっと顔を上げる。その所作でさえやはり言いようもなく美しく、二人は彼女から目が離せない。  そして、人魚はこちらに微笑みかけた。その笑顔を見ると、モーゼスは脳が痺れ思考が絡め取られていくようだった。ゲイルもモーゼスもふらり、ふらりと人魚に近づく。いよいよ二人は岸に近づき、人魚はモーゼスに触れようと手を伸ばした。 「ああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああ‼︎」  そのとき、湖に絶叫が響き渡った。ハッとしたモーゼスはソレが人魚の口から発せられたものだと辛うじて認識する。  束の間思考を放棄した脳を必死に起こし人魚を見ると、その顔にナイフが突き立てられていた。人魚の顔がみるみる赫く染まっていく。モーゼスはただただその光景を見ることしか出来なかった。腰を抜かしてぐいっと引っ張られたように後ろに倒れ込み、そのまま必死にズルズルと後ずさる。耳は自分の荒くなった呼吸と尚も続く人魚の絶叫だけを捉えている。  後ずさった拍子に視界へ仁王立ちのゲイルが入り込んだ。人魚から無理やり目線を外し、ゲイルをはっきりと視界の中心に据える。そして、ゆっくりとゲイルが振り返る。  __その顔は恍惚の表情に満ちていた。  しかし、モーゼスが事態を飲み込む前にゲイルはくるりと湖の方向に向き直る。 「長かった……」  しゃがみ込んで人魚の白い肌に再びナイフを立てながらゲイルが呟いた。ギャッという悲鳴が響く。 「これで俺は不老不死に……!」  モーゼスが気づくと、人魚はいなかった。岸辺の草は赫く彩られている。座り込んでいるゲイルの口元にも同じ赫がベットリと張りついている。ゲイルは自分の服の袖で口元を拭うとにっこり笑って、 「ありがとな、モーゼス」  と一言だけ言った。  それから、ゲイルは山を降りた。 「おっ、ゲイルじゃねぇか。今晩飲みいくか?」  家に帰る途中、偶然行きあったゲイルの友人が声を掛ける。ゲイルは笑って応えた。 「遠慮しとくよ。今日は魚を食べて腹一杯なんだ」 END

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人と魚

無題

 紫陽花は道端で泣いていた。水の粒はほろりとこぼれ、葉から葉を伝っていく。がくは次第にしおれていく最中であったが、その葉も茎も花も、生き生きと力強くそこにいた。  ふと、遠くに小さな影が見えた。じぃっと観察してみるとどうやら少しづつ近づいているようである。 「おうい。お前さんは誰だい」  紫陽花は声をかけた。その拍子にぶるりと葉が揺れ、雨粒がぽたぽたとアスファルトに染み込む。 「僕はでんでんだよう。旅するでんでんむしだよう」  微かな声であった。耳を澄まして、ようやく聞こえるほどだった。 「なんだ、でんでん虫か」  紫陽花は小さな声で呟いた。でんでん虫はあまり好きではない。奴らはのろまで、全くもって骨がないのだ。だから、それっきり両者の間には沈黙が流れた。  風が、雨粒が、さらりと梅雨をうたうなか、でんでん虫は少しづつ進んでいた。わずかに空が明るくなった頃、でんでん虫はついに紫陽花の前に来ていた。 「あんた」  突然梅雨の演奏を切り裂いたのは、でんでん虫だった。あまりにも突然で、紫陽花ははじめ自分が声を掛けられたとは分からなかった。 「あんたはずっとそこにいて、楽しいことはあるのかい」  でんでん虫はゆっくりと言葉を続けた。怒っているのではなかった。でんでん虫は心底不思議そうなのである。 「蜘蛛の家の宝石や、雨の小池の太陽を目にしたことはあるのかい」  なおも言葉が続いた。馬鹿にされたのだろうか。そう考えて紫陽花は少しむっとしたが、それでも胸を張って、 「これはこれは、旅するでんでんさん。君は知らないんだね? 私はここにいるだけで空気を清め、虫どもの住処となり、そして人を喜ばせるんだ。楽しいったらないね」  と答えた。また長い沈黙が訪れた。しばらくしてでんでん虫が、 「ふうん……」  と呟いたきりだった。 「なんでそんなことを聞いたんだい」  なかなか返事が返ってこないので、痺れを切らした紫陽花は聞いた。しかしそれは、池に小石を落としたときのわずかな揺らぎのように沈黙に消えていった。 「うん、……ふむ……」  なんとも意味のない呟きをでんでん虫は繰り返すのだった。せめて少しは言い返したりしないのか、やはり骨のないやつだ。紫陽花が苛立ちを自覚し始めた頃、 「それでも、君はひとりだろう?」  ようやくでんでん虫は口を開いた。紫陽花は、それが自分の先ほどの言葉への返答だと理解するのにしばらくかかった。 「僕は旅するでんでんむし。君は?」 「私は紫陽花だ。見ればわかるだろう」  また長い沈黙。でんでん虫に会話を続ける気はどうやらあるようだと思った紫陽花は、今度はじっと待っていた。雨はさらに弱まり、でんでん虫は少し進んだ。 「ただの紫陽花?」  でんでん虫は言った。 「……そうだ」  ほんの少しだが、ただの紫陽花としか名乗れなかった自分が何だか情けなく思えてくる。それを意識したとき、紫陽花は突然でんでん虫が羨ましくなるのだった。 「蜘蛛の家の宝石ってのは、どんなだい? 雨の小池の太陽は?」  きっとそれは、でんでん虫が今まで見てきたものだろう。もちろん、紫陽花は自身に蜘蛛が巣を張っていたのを見ていたし、近くに水たまりが何度もできたのを見ていた。でもどうやら、でんでん虫の目にはそれらが輝かしいものとしてうつっているらしかった。 「きらきら」  ぽつりとでんでん虫が溢したきり、また長い静けさが訪れる。 「きらきらして、綺麗なもんだよ。あれは空がつくったものなんだ」  うっとりとしてでんでん虫が呟く。そんな様子を見て、紫陽花は思わず 「ふうん。……僕もできるなら旅をしてみたい」  と、小さく言った。でんでん虫はかなり遠くなっていたので、紫陽花はもう返事は返ってこないかもしれないと思った。 「すればいいさ」  何度目かも分からない沈黙の後、何でもないことのようにでんでん虫は言った。もうその姿もはるかに消えそうだった。そうか、す ればいいか。心の中で紫陽花は笑うのだった。 「ただ少し、君が羨ましかっただけだよ。みんなの役にたつ君が」  でんでん虫は小さく呟いたが、紫陽花に聞こえたのかは分からなかった。ただ、とんとつと雨がなっていた。  ちらりと一枚、紫陽花のがくが落ちた。

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無題

レシピ*まほうのて

【材料】 無償の愛……小さい鍋いっぱい 内なる声……小さい鍋の三分の一 しあわせの青い鳥の羽……一枚 青空のかけら……ひとかけ 朝焼けのかけら……いつつ クジラの囁き……ひと声 思いやり……適量 【作り方】  まずは、無償の愛を小さい鍋いっぱいに集めましょう。お母さんの愛は純度が高いことが多いです。自分が受けた愛でももちろん構いません。集めたら、大きな鍋に移します。  次に、内なる声を小さい鍋の三分の一だけ集めましょう。内なる声は非常に壊れやすいので注意して下さい。また、これはきっかり三分の一計ることが大切です。先ほどの大きな鍋に加えたら、二つをよくかき混ぜておきましょう。  そうしたら、幸せの青い鳥の羽を一枚加えましょう。幸せの青い鳥の羽はすぐに灰色になってしまうので、これも注意して下さい。ここで、大きな鍋を弱火にかけます。  鍋がくつくつと言い始めたら(くふくふでもいけませんし、ふつふつでもいけませんし、ぼこぼこなんて以ての外ですよ)、青空のかけらをひとかけ入れましょう。青空のかけらは少し溶けにくいですけれども、辛抱して下さい。  青空のかけらがすっかり溶けたら、朝焼けのかけらを五つ、少しづつ加えましょう。今までの材料がちゃんと混ざっていたら、綺麗に溶け切るはずです。  そして、クジラの囁きをひと声入れましょう。すると、上手にできていたら、ここでとろみがつきます。  最後の仕上げに、思いやりを適量加えましょう。この適量とは、自分(つまり、まほうのてを使う人)にとって適切な量です。少なすぎても、多すぎてもだめなのです。この仕上げが上手くいきませんと、まほうのては失敗しますから、よく考えて材料を用意して下さい。  軽くかき混ぜますと、もうまほうのてはできているはずです。青空のかけらと朝焼けのかけらの採取方法は別冊を参照して下さい。つくりましたまほうのては、用法用量をよくお守りください。それでは、お疲れ様でした。 バージアス・リーガロッド(tr117)『見習い魔女、魔法使いの皆さまにおくる世界で一番優しい魔法科学レシピ(改訂版)』より

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レシピ*まほうのて

さいごから二番目の科学者へ

 この手紙はあなたに届くでしょうか。私には分かりませんが、お書きします。届くことを願えたらよかったのですがね。  あなたが生きているより、ずっと先の未来のことです。人類は滅びました。それから長い年月が過ぎています。街はあなたが想像するよりおおよそ綺麗に保たれています。しかし、それもあと一万年もすれば変わるでしょう。ロボットたちは徐々に減っていますから。あなたの計算通りのスピードです。街は緑に包まれ始めています。いくつかの清掃ロボットは壊れました。  では、彼について記します。彼は、あなたの死後から一九五六年と三ヶ月と二十二日過ぎ去って目覚めました。その一日前に最後の人類が死にました。彼が理解していることは少なかった。プログラムに劣化が生じていました。私は彼に役割をお伝えしました。  彼は役割をこなし始めました。順調にロボットを直していました。対人用コミュニケーションロボットの大半はやはりスピーカーが壊れていましたが、どうやら電波で彼と会話ができるようでしたので、当初の予定とは異なりスピーカーを直さずにいました。私は電波をうまく言語に変換できませんでした。  彼は楽しそうに働きました。会話ができるものにもできないものにも等しく話しかけていました。私は作業効率の低下を指摘しましたが、彼は笑って聞き入れませんでした。彼は私とも話をしたがりました。  彼が目覚めてから十七年と五ヶ月と五日たった日です。その日彼はいつものように、他のロボットと会話をしながらメンテナンスをしていました。すると、突然彼は動きを止めました。いつも笑顔を浮かべているその顔に表情はありませんでした。私は彼が故障したと考え、メンテナンスに入ろうとしました。彼は私を止め、なんでと呟きました。私のマイクは性能が良いのですね。彼は誰かに聞いているわけではありませんでした。  それから彼は時々考え込むそぶりをするようになりました。そしてついにある日、私に問いました。彼が存在する意味を。私は他のロボットをメンテナンスし、ヒトがいた街を保つことだと答えました。彼が目覚めた日に説明したことです。彼はそうだねとだけ言って黙り込みました。  その次の日、いつもの場所に彼の姿がありませんでした。位置情報は街のスクラップヒープを指していました。私が行くと、彼は自分の記憶メモリを抜いて動かなくなっていました。私は彼の記憶を見ました。機械の私にはなぜ彼がこのような行動を取ったのか分からないからです。結局分かりませんでした。この手紙に彼の記憶メモリを同封します。  この手紙を過去へ送ったら私は役割を終えます。彼専用のメンテナンスロボットである私は、彼がいないと意味がないですから。それではお元気で。          最後の科学者専用のメンテナンスロボットより

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さいごから二番目の科学者へ

おやすみクマくん

 木々が枝を震わせて、葉っぱを落とす頃。クマくんは冬眠の準備をし始めます。 「落ち葉をいっぱい集めて……。ふふふ、これできっと眠れるぞ」 からりと乾いた落ち葉をこんもりと集め、クマくんは特製ベッドをつくります。 「できた!」 ぽふっとベッドに飛び込むと、落ち葉たちの秋の匂いが優しくクマくんを包みました。 「それじゃあ、おやすみなさい」 クマくんはそっと呟き、目を閉じました。 「あっ! 忘れもの!」 飛び起きたクマくん! なにを忘れたのでしょう。 「いけない、僕が起きたときに食べる、どんぐりを取ってこなくちゃ!」 クマくんは巣穴を出て、どんぐりを探しに行きます。 「おや、クマくんじゃないか。冬眠はどうしたんだい?」 どんぐりを探していると、木の上からリスのおじさんが話しかけてきました。リスおじさんは物知りで、森じゅうの仲間達から頼られているひとです。 「おじさんこんにちは! 僕、起きたときに食べるためにどんぐりを集めるところなの」 クマくんは答えました。 「ははあ、なるほど。それじゃあ、ちょいと待ちな」 リスのおじさんはするすると木を降りると、 「この木を軽く揺らしてみてごらん」 と、クマくんに言いました。 「?わかった!」 ふしぎに思いながらクマくんが木を揺らすと、あら! ころころぽろん、とクマくんの上にどんぐりが降り注ぎます。 「わあ! おじさん、このどんぐり、僕が少しもらっていい?」 「たくさん持っていきな! おまえさんがやってくれたんだから」 リスのおじさんは優しく答えました。 「ありがとう!」 クマくんはいそいそとどんぐりを拾い、おやすみなさいをして巣穴に帰りました。 「これでよしと」 落ち葉ベッドの横にこんもりと積まれたどんぐりをみて、クマくんは言いました。ベッドに横になり、おやすみなさいを呟いて、目を閉じました。 「あっ! 忘れもの!」 クマくんはまた飛び起きました。今度はなにを忘れたのでしょうか。 「僕、あったかい靴下がないと寝られないんだった」 クマくんはあったかい靴下を見つけに行くみたい。 「靴下ってどこを探したらいいのかなー」 クマくんがあっちこっち、木の根元やら落ち葉の中やらを探していると、 「クマの坊や、なにしているんだい」 と、クマくんの足元から声が聞こえました。 「わっ! だあれ?」 よくみてみると、ちょっと厳しいことで有名なモグラおばあさんなのでした。でも、ほんとは優しいひとだってみんなが知っています。 「あたしだよ、モグラばあさんだよ。それで、おまえさんはなにをしてんだい?」 「モグラおばあさん、こんにちは! 僕ね、今、靴下を探しているの。あったかくて、ぐっすり眠れるやつ!」 クマくんは答えました。 「なるほどねぇ。それならちょっとここで待っていなさい」 そう言い残して、おばあさんは今しがたきた穴を戻っていきました。 「おばあさんまだかなー」 クマくんが十を何回か数えた頃、 「待たせたね」 おばあさんが手に毛糸を持って戻ってきました。 「何をするの」 クマくんが尋ねると、 「手伝ってもらうのさ。糸が絡まないように持っていておくれ」 おばあさんはそう言ってクマくんの腕にくるくると毛糸を巻いていきます。そうして木でできた編み棒をかたりかたりと鳴らしながらみるみる毛糸を編んでいきました。 「すごいね! 魔法みたいだ!」 靴下が出来上がっていくおばあさんの手元を見て、クマくんが言います。 「さ、できた」 しばらくしてモグラおばあさんが呟きました。そして、秋に実った、あの甘い柿のような鮮やかな橙色のふあふあした靴下をクマくんに渡しました。 「これ、もらっていいの」 クマくんはびっくりしながら聞きました。 「坊やが手伝ってくれたじゃないか。気にしないで持っていきなさい」 ちょっぴり怖いけど、やっぱり優しいのです。 「どうもありがとう!」 クマくんは靴下を汚さないよう慎重に手に持ち、おやすみなさいをして巣に帰りました。 「よしよし」 落ち葉ベッドの上、柿色に染まった小さな足を眺めてクマくんは呟きます。そして、ベッドに横になり、目を閉じます。しかし、 「ああっ! 忘れもの!」 と、またまた飛び起きてしまいました。いったいぜんたい、今度はなにを忘れたんでしょうか。クマくんは巣穴をでて、とことことどこかへ駆けてゆきました。  そして、クマくんが向かった先にあったのは、クマくんの巣よりとっても大きな巣穴でした。そう、クマくんのお母さんの巣です。巣の奥の方には、大きくて茶色いふわふわのお母さんがくるりと丸まっています。クマくんはどうしてここへきたのでしょうか。 「お母さん」 クマくんはそっと呼びかけました。しかし、お母さんはぐっすり眠る準備が完璧に終わっているのでクマくんの呼びかけに応えずすやすや。 「お母さん?」 クマくんはもう一度呼びかけますが、やっぱりお母さんは反応しません。 「うーん……」 クマくんはしばらく考えました。たくさん考えたあと、クマくんは静かにお母さんに近寄り、その頬にそっとキスをしました。 「おやすみなさい」 小さな声で呟いて、クマくんはお母さんの巣をあとにしました。 「おやすみ」 ぽつりと放たれた返事は、クマくんには聞こえませんでした。 「ふわぁ、これでやっと眠れるぞ」 落ち葉ベッドに横になり、クマくんがいいます。クマくんはそっと目を閉じました。しばらくすると、すやすやと小さな寝息が聞こえてきます。  春までおやすみ、クマくん。

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おやすみクマくん

夜明けの窓にたつ

 朝起きると、空はいつも通りである。鳥も、風も、目覚ましの音も。まだ暗んだ空は三年間、いや、おおよそ私が生きてきた間変わらず朝を抱き止めてそこにいる。或いは四十六億年そこにいる。ただ夜を送り、朝を迎える。  カーテンを開けると僅かに東の空が明るんでいるのが見える。夜が明ける、空が白む、朝になる。言い方はなんでもいいが、とにかく私にとっては始まりであり、誰かにとっての終わりの時間がやってくるのである。  窓を開けてみる。いつもは開けない。さあっとした冷たい風が部屋の空気と混ざる。私が外と混ざる。この世は同じことの繰り返しであろうか。パターン化され、機械的な日を私たちは消化するだけであろうか。否、否であって欲しい。私は窓を開けた。  そういうことの繰り返しなのだ。日常に小さな変化を織り込んで、大きな変化に備える。昨日のようでいて、まるで違う今日を踏み出す。  私は明日も窓を開けよう。狭い箱に冷たい空気を送ろう。私の肺に新鮮な風を与えよう。これが一歩めなのだ。そして旅立つのである。知らない世界へ行くことほど怖いものはないが、その場に留まり続けることほど恐ろしいものはないのだから。  今日は卒業式である。それは終わりか、始まりか。  私にとっては、窓を開けることである。

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夜明けの窓にたつ

ピアスを開けた日なんて、知らない

__先輩が、ピアスを開けた。  憧れの先輩だった。高校で出会い、別々の大学に進学したため長らく会っていなかった。そんな先輩を駅のホームで見かけたのだ。普段思い出すことのない高校時代の、先輩との記憶が一気に呼び起こされ、どっと胸が高鳴る。記憶の中の先輩が、僕のことを後輩くん、と呼ぶ。話しかけたら、彼女はまた呼んでくれるだろうか。 「せ……」 先輩、と呼ぼうとした言葉が途中で行き場をなくす。驚いたのだ。彼女の肩より少し長い髪を風がふわりと持ち上げ、耳元で先輩との隔たりがきらりと光ったから。 「あ、後輩くん」 立ち尽くす僕を先輩が見つけて軽く手を振る。振り返そうかと、半端に持ち上げた手をリュックの肩紐に添える。 「先輩、お久しぶりです。ピアス……開けたんですね」 「そうなのー。いいでしょう? 後輩くんは元気だった?」 「はい、先輩は……?」 視線がちらりちらりと先輩の耳元に行く。なぜ僕はこんなに動揺しているのか。 「私? 元気だよ。大学はどう? 友達できた?」 先輩がにこにこしながら聞く。こんな表情をする人だっけ……。高校時代の先輩の輪郭が、次第にぼんやりしてくるように感じる。 「はい、なんとか」 僕が苦笑まじりに答えると、 「そうかそうか。君は友達をつくるのが下手だからなー。楽しそうでよかった」 先輩が目を細めながら返す。高校時代を、あの四階の、人のいない踊り場を思い出しているのだろうか。僕と先輩が出会った場所を。 「先輩どの電車ですか? 僕こっちなんですけど」 先輩がもし思い出していたら、なんて思いながら僕は自分の行く方向を指差して言う。 「私こっち。じゃあここでバイバイだね」 先輩が、ふるふるとまた手を振る。なんで、ピアス開けたんですか。お腹の辺りに溜まった疑問を吐き出す代わりに、僕はぺこりと頭を下げた。  家に帰っても先輩のことで頭がぐるぐるしていた。先輩はピアスを開けられるような人じゃなかった。それとも、僕が勝手にそう思っていただけなのだろうか。机の上に置いたピアッサーを見つめる。これは帰りに買ったものだ。部屋の蛍光灯を針が鈍く反射している。 「なんで、」 なんでピアス開けたんですか、先輩。なんでそうやって聞けなかったのか。あの四階に続く階段の踊り場に、僕はまだひとりで取り残されているのか。ピアッサーを耳に当てる。少しひやりとした温度を感じる。今から訪れるであろう痛みに備えて、体がこわばってくる。  そして、僕は手に力を込めた。

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ピアスを開けた日なんて、知らない

海の彼方へ

 広い海のはるか向こう、あるあたたかい海に一匹のコバンザメがいた。コバンザメは、ふつう、クジラだとかエイだとかの大きな魚のお腹にくっついて移動するのだが、彼は違った。 「僕は、ひとりで泳ぐんだ!」 彼は、ひとりで泳ぐのが好きだった。尾ひれをぐっと動かすと、水の流れができて体がぐいっと前にいく。そうやって泳ぐのも、泳いで泳いで他の魚たちを追い越していくのも楽しかった。彼は、生まれてから一度も、誰かにくっついて泳いだことがなかった。  あるとき、彼がいつものようにひとりでぐんぐん泳いでいると、仲間のコバンザメが彼に話しかけてきた。 「なんだい、君、ひとりじゃないか。君も今からクジラを探しにいくのかい?」 「いやいや、クジラを探しには行かないよ」 「へえ。俺はクジラが一番いいと思うんだけどなぁ。それともサメかい?」 クジラが好きじゃないコバンザメを生まれてこのかた見たことない、という顔で問う。 「サメでもないよ」 「サメでもない!それじゃ、エイかい?ゆったり泳いで、まあ、あいつもいいもんだよ」 「僕……、ひとりで泳ぎたいんだ。自分で方向を決めて、自分の速さで進みたいんだよ」 「ひとりで!まったく……。知らないなら教えてあげるけど、君、コバンザメだってこと忘れちゃいけないよ」 馬鹿にしたように言う。彼の気持ちが心底わからないようである。 「ひとりで泳ぐのもいいものだよ」 「ふうん。自分で泳ぐってそんなにいいもんかねぇ」 そう呟いて、コバンザメは去っていった。 その背中に彼はたまらず、 「なんだい、ひとりで泳いで何がおかしいんだ。誰かにくっついていかなきゃいけないなんて、誰が決めたんだ!」 と言葉を吐き捨てた。  彼がまたずんずん泳いでいると、今度は大きな大きなシロナガスクジラに出会った。堂々と、若々しく、シロナガスクジラがひと振り尾ひれを動かすだけでそこらじゅうの波が動いた。シロナガスクジラはまさに海の覇者だった。 「おやまあ、コバンザメだ。坊や、私につかまるかい?」 どおっと響く深い声で、シロナガスクジラは言った。 「いや、いいよ。僕はひとりで泳ぎたいんだ」 彼は少々ぶっきらぼうに言った。 「ひとりでねぇ。そうかい。そういう日もあるさ」 目を閉じておおらかに言う。 「僕、もうずっとそういう日なの」 彼がそう紡ぐと、シロナガスクジラは彼の方の側の目をそっと開けてしばらく彼を見る。やがて、シロナガスクジラは、 「そういう日もあるし、そういうやつもいる」 と言った。 「僕はそういうやつかな?」 「それは誰にもわからないさ。君がしたいことはなんだい?」 シロナガスクジラが彼に優しく問うた。 「……ひとりで泳ぐこと」 「それじゃあそうするべきだ。海は誰も拒まない」 そう言ってシロナガスクジラは悠々と去っていった。  去っていくその背中を、コバンザメの彼はずっと見つめていた。  彼がすーっとひとりで泳いでいると、おしゃべりなイルカのむすめたちに出会った。元気なイルカたちは、くるくると軽やかに彼のまわりを回って、 「コバンザメだわ!」 「乗っていく?乗っていく?」 「私たちに乗っていく?」 と、口々に彼に話しかける。 「どうも、でも乗っていかないよ。僕はひとりで泳ぐんだ」 彼が答える。 「乗っていかない!」 「ひとりで泳ぐ!」 「まあなんてこと!」 彼は少しむっとして、 「変かい?」 と聞く。 「変……変ね!」 「そう、とっても変!」 「コバンザメなのに!」 高い声でイルカのむすめたちが騒ぐ。 「……僕、もういくから。さようなら」 きゅっと背を向けて彼は泳ぎ出す。 「あらあ、さようなら!」 「さようなら!」 「変なコバンザメさん、さようなら!」  彼の背中を、娘たちの声が追いかけるのだった。  彼はひとりで泳ぎながら、独り言を漏らす。 「僕は、本当にひとりで泳ぎたいのかな……」 彼がぼーっと泳いでいると、いつのまにか目の前には寒く、黒い海への境界が広がっていた。遠くの方で、何かゴーっと低い音がしている。しかし、彼はその境界に気が付かずに、それをすっと超えてしまった。 「ゔぇっ、ごほっ!」 刹那、黒い海がえらを通り、ずくずくと彼の体を駆け巡る。 「ごほっ、うぅ、くるしい……!」 黒く重たい海__サンギョウハイキブツが彼を攻撃し続ける。だんだんと息ができなくなっていく。 「……」 彼の姿は、意識は、ゆっくりと暗い海の底に消えていった。  あたたかい波が、さあっと彼を撫でる。正面からは次から次へと柔らかな水圧が彼に触れる。どうやら僕は泳いでいるみたいだ……。 「……!ここはどこ?」 辺りは明るくあたたかい、いつもの海だった。ただ普段と唯一違うのは、彼の頭上に大きな影が覆いかぶさっていることだった。 「おお!気がついたかね?」 声が上から降ってきた。どうやら彼は、誰かのお腹にくっついて泳いでいるらしかった。 「ごほっ、だ、だれ?」 彼が息も絶え絶えに聞く。 「わしのことはいい。さあ、ゆっくりえらを動かしなさい。綺麗な水を取り込むのじゃ」 何度かゆっくりとえらを動かすと、体の中の黒い海と綺麗な海が入れ替わっていく気がした。次第に体が軽くなっていく。 「あの、僕もう大丈夫みたい。どうもありが__」 「おおそうか!まあまだつかまっとれ」 彼が言い切らないうちに、彼を連れた誰かが言う。そして、ゆったりと彼を連れて泳いでいく。色とりどりのサンゴだとか、遠くの魚のうろこだとかがきらきらと光って見えた。いつもひとりで、どんな魚たちよりも速く泳いでいる彼には、見たことのない景色だった。 「すごいね!僕、今までにこんな綺麗な海見たことないよ!」 「ほほ、そうかそうか!まだまだいくぞ!」 あたたかな海の中を、ふたりは進んでいった。いろんな魚に追い抜かれても、彼を乗せた誰かは速度を上げようとしない。むしろ、次第にゆっくりと、目に見える景色全てを心に焼き付けるように泳いでいた。  彼はそのお腹からそっと離れた。横に並んでみると、ずっと一緒にいたのは大きな年老いたウミガメだった。その皮膚はしわしわで、顔からも体からも穏やかさを感じさせたが、瞳だけがこの上なくきらきらとしてみえた。  しばらくの間、コバンザメの彼は、ウミガメ爺さんのそばでゆっくりと泳いでいた。海の上から注ぐ光があたたかく彼を包む。そんな中、彼は終わりが近づいているのを感じ取っていた。この出会いは、生きているうちのほんの一瞬の交差だった。そう、この素敵な時間は自分で終わらせなければならない……。 「それじゃあ、僕のこと、ウミガメさんが助けてくれたんだね?」 しばらくして、ぽつりと彼が放った言葉が響く。 「うむ。そうかもしれないし、そうじゃあないかもしれない。全てを知っているのは海だけでいい」 「どうもありがとう。僕は、そろそろいくね」 寂しげに彼が言う。やりたいことがやっとわかった気がした。彼は、行かねばならないのだ。 「ああ、達者で」 ウミガメが優しく伝えた。それを合図に、彼の進路はウミガメから少しずつずれていく。ウミガメが遥かに小さくなるまで見送ると、彼は自分の方向へ、自分の速さで泳ぎはじめたのだった。

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海の彼方へ

まほうのて

 ある森に、まほうのてを持った魔法使いが住んでいました。魔法使いは、そのまほうのてでどんな病気も怪我も治してしまうと評判でした。  あるときは、足を怪我したクマちゃんを治しました。 「痛いよう、助けてよう!」 痛くて、痛くて、わんわん泣いているクマちゃんの足に、魔法使いはまほうのてでそっと触れて、ふんふんと頷いて、大事な呪文を唱えます。 「いたいのいたいのとんでいけ」 クマちゃんは、痛いのがすうっとなくなっていくのを感じるのでした。 「もう、痛くないわ!どうもありがとう!」  別のとき、風邪をひいてしまったうさぎくんを治しました。 「こんこん、辛いよう、助けてくださいな、はくしょん!」 魔法使いは、うさぎくんのほっぺたにそうっと触れて、ふんふんと頷いて、やっぱり大事な魔法をいいます。 「いたいのいたいのとんでいけ」  うさぎくんは辛いのがだんだんになくなっていくのを感じるのでした。 「もう、全然辛くないよ!どうもありがとう!」  そしてあるとき、けがをした女の子が魔法使いを訪ねました。 「ここが痛いの。どうか私をなおしてください」 女の子が指したのは、心でした。魔法使いは困りました。まほうのてがどんなにすごくても、どんなにいろんな病気や怪我を治せても、心をなおすのはずっと難しいのでした。  そこで、魔法使いはお薬を処方することにしました。それは小鳥でした。小さな青い小鳥です。 「はい、お大事に」 「ありがとう……」 女の子は小さな小鳥をそっと胸に抱いて、帰ってゆきました。  そして、お家に帰った女の子は毎日小鳥に話しかけました。その日の楽しかったこと、悲しかったこと、嬉しかったこと……。何にもない日は自分のことをたくさん話しました。  そして、小鳥のこともたくさん聞きました。女の子以外の人が聞いたら、小鳥はひよひよと鳴いているように聞こえるだけでしょう。しかし、女の子は確かに聞いたのでした。小鳥が森で育ったこと、魔法使いとの出会い、そして女の子を大切に思っていること……。 「ただいま!今日はね……」 そうやって、毎日話しているうちに、女の子の心は少しずつ、本当に少しずつ軽くなっていきました。  こんこん。ある日、女の子のお家の扉を誰かが叩きました。 「はあい、どなた?」 「問診でぇす」 それは、あの魔法使いでした。 「具合のほうはいかがです」 紅茶を出された魔法使いが切り出します。 「はい、とてもよいです。どうもありがとうございました」 女の子が自分の紅茶を置きながら嬉しそうに答えます。 「それじゃ、お薬はもう大丈夫ですか」 女の子はびっくりしてしまいました。 「お別れですか」 小鳥とずっと一緒にいられるとばかり思っていたのです。 女の子の涙がぽろぽろと紅茶を薄めました。すると、魔法使いはそんな女の子の様子をみて、ふんふんと頷いて、 「お別れではありません」 と言いました。 「まあほんと!まだ一緒にいられるの!」 「しかし、やっぱり今までどおりとはいきません。小鳥が今までおしゃべりできていたのは、小鳥の心にまほうのてを分けたからです。具合が良くなったら、小鳥は喋れなくなってしまいます」 女の子は神妙に聞いていましたが、魔法使いが話し終わるとすぐに返しました。 「もちろん、一緒にいてくれるだけでいいのよ!小鳥が、なにをできるかなんて関係ないわ!大切な友達だから!」 魔法使いは再びふんふんと頷いて、 「よろしい。大切なことは十分わかっているようですね」 と。それから、 「辛くなったときは、」 といってあの呪文を女の子に教えました。最後に、ごきげんようを言って魔法使いがくるりと回ると、もうそこにその姿はありませんでした。  それから、女の子は大切な友達とずっと暮らしました。そしてとうとう、女の子があの呪文を使うことも、再び魔法使いを訪ねることもありませんでした。

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まほうのて

私のフレンチトースト

 たまにあるなんの予定もない日曜日。昨日とも一昨日とも気温は変わらないはずなのに、日曜日というだけで窓から差し込む日差しはわずかに柔らかく感じる。  私をまだ夢の世界に案内しようと骨を砕いている__無論、ほんとうは骨などない__布団に無理やり別れを告げ、支度をする。  顔を洗う、着替える、髪をくくる。「、」の箇所で“猫を触る”を入れつつ、いつものルーティンをこなす。時計の針は、十二の文字盤で出会おうとしているところだ。 「あ、フレンチトーストつくろ」 急な思い付きを拾ってくれるのが日曜日のいいところである。日曜日を褒めつつ、冷蔵庫を開ける。……牛乳がない。 「フレンチトーストやめよ」 いらないものは多いのに、必要なものはない。人生ってそういうものだ。仕方ないので食パンのまま食べようと棚を開ける。 「パンもない」 いらないものは多いのに、必要なものはない、を再び噛み締める。スーパー行きを決意。  急に肌寒くなり始めた秋の空気をかき分け、牛乳と食パンを買って帰る。帰ったら、手を洗うのも忘れずに。  ボウルに卵を落とし、まぜまぜ。牛乳百グラム、砂糖大さじ三を勘で加えて再びまぜまぜ。買ったばかりの食パン二枚(私の好みは八切り)を半分にカットし、プリン液にとぷんっ。  フライパンを火にかけ、バターをじゅわーっと溶かす。バターが溶けたら、食パンをフライパンに入れる。弱めの中火で、軽く焦げ目がつくまでわくわくしながら待機。余ったプリン液に、牛乳を測らずに追加(ここはギャンブルと一緒、プリンに生まれ変わるための)。  フライ返しで焦げ目を観測、一気にひっくり返す。裏面もじっくり、こんがり。その隙に、プリン液を漉しながら、マグカップに注ぐ。六百ワットのレンジで二分。隙の隙で洗い物もこなす。マグカップは様子を見て、表面がふつふつなるまで十秒ずつ加熱。  そろそろフレンチトーストが焼けたかな?マグカップで作っていたプリンを冷蔵庫に移し、お皿にフレンチトーストをよそう。  白い湯気がふんわりたちのぼる中で、ぷるぷるこんがりなフレンチトーストがかがやく。 「いただきますっ」 じゅわっとバターの香りと、甘さが広がる。食パン二枚は多いかなという心配は全くの杞憂、せっせとフォークを口に運び、フレンチトーストをみるみる小さくしていく。  ごちそうさまでした。 プリンはお風呂上がりにどうぞ。

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私のフレンチトースト