ひるがお
40 件の小説「第7回N1決勝」1906年の片隅で
「アリサ」 夜の暗闇の中、リリィは隣で寄り添うように眠るアリサの名前をそっと呟く。 「なあに、リリィ」 「大好きよ」 アリサは黙ってリリィの頭を撫でた。 アリサとリリィに掛かる、ひとつの毛布。何処にあるのかも分からぬ無機質な町は、道端できゅっと丸くなって眠る二人に目もくれず。 これは、そんな二人の物語である。 *・*・* 「起きて、アリサ」 「んぅ……」 僅かな朝日がぼんやりと二人を照らし始める。 「リリィ……?」 「朝だよ」 二人の一日が始まる。 「早く行かなきゃ、すっごく並ぶよ?」 未だ寝ぼけ眼のアリサに、リリィがせかせかと話しかける。 「んー、分かってる……」 本当に分かっているのだろうか。のろのろと身支度のために動き出すアリサを見て、リリィは密かに思う。 「でも……」 アリサはそっと呟く。 「リリィとおしゃべりして待つの、わたしは好きだよ……?」 私もよ、とリリィは照れくさそうに返した。 身支度、と言っても二人がかける時間はとても短い。前の夜の晩に汲んでおいた水で軽く顔を洗って終わりである。それが終わったら、二人は広場へ向かう。__配給のためである。 広場には既に長い列が出来ていた。 「ごめんね」 わたしが支度遅いせいで……。すっかり起きたアリサが申し訳なさそうに指をもじもじさせて言う。 「ま、気長に待ちましょ。それに……」 リリィはからりと答える。 「いっぱい話せる、でしょ?」 アリサはその言葉に、嬉しそうに微笑んだ。 列は進む。前の人がサッと捌け、視界が広がる。其処には、一本の管がおりていた。高い高い、壁から。壁は見えぬ向こうまで続いているようである。 リリィがバケツを持ってその管の下に構える。しばらくすると、ボタボタと固形物が落ちてくる。一人分溜めると二人は慌てて捌ける。 並ぶ人々が次々と、一定の間隔で落ちてくる固形物を溜めて捌けるを繰り返し、列が進んでゆく。二人の後も、延々と人が並んでいた。 「……食べたらスクラップヒープ《ゴミ溜まり》行こう」 列を離れ、二人は歩き出す。灰色の味のしない固形物をアリサがずっと咀嚼し続けているのを横目に、リリィが声をかける。 「ずっと噛んでるのね」 「もぐもぐしてたら、お腹ふくれるよ」 ふうん、とリリィが言ったきり二人はしばらく黙って歩き続けた。 「あっ! フォグおじさんだ!」 スクラップヒープに向かうさなか、ある人物を見かけてアリサは声を上げる。物知りで優しい老人である。二人は彼をフォグおじさん、と呼んで慕っていた。 「今から何処に行くんだい」 「ヒープよ」 「今日も行くのかい」 眉を下げて、心配そうなフォグ。アリサとリリィは顔を見合わせにっこりして言った。 「「だって、夢だもの」」 この町の人々は、生活のための物資を全てスクラップヒープで調達する。家ですら、廃材で出来たものだ。 ゴミ山から拾ってきた物の寿命など高が知れている。よって人々はスクラップヒープを頻繁に訪れる。しかし、アリサとリリィのように毎日のように通う人は居ない。 「此処ら辺にしましょ」 リリィの言葉を合図に、二人はゴミの山を漁り始めた。 「見てみて、ゴホッ、リリィ!」 手や顔を汚したアリサがリリィを呼ぶ。 「何か見つけた?」 リリィが急いで駆け寄ると、 「きれいなもの!」 そう言ってアリサは手を広げて見せた。それは、アリサの手のひらの半分程の大きさで丸い物体だった。 「なんだろう、これ」 「フォグおじさんに聞こ!」 「これは“時計”だな、止まってる」 アリサが手渡した物を見て、フォグは言った。フォグは不恰好ながら廃材で作られた家に住んでいる。分からないことがあると、二人はよく此処を訪ねるのである。 「時間を見るためのものだ」 「何のために?」 アリサが聞く。聞きたかったのは何のために時間なんて見るの、である。 「うーん、忙しい人たちもいるんだよ」 「それじゃあ……“種”じゃ無かったのね?」 リリィがおずおずと言う。その問いにフォグが頷くと、二人の顔はみるみる曇っていった。 種。その話をフォグから聞いたのはいつだったか。この世界には、“花”という綺麗でいい匂いのするものがあるのだと。そして“花”は“種”から出来るのだと。緑のないこのガラクタだらけの町で、その話は宝石のように輝いていた。 その日の晩には、二人の夢は“花に出会うこと”になっていた。 結局、その日の収穫は時計と今使っているのより古ぼけたバケツくらいだった。 ボタボタボタ。灰色の固形物がバケツに溜まる。また、一日の始まりだ。食べたら二人はスクラップヒープへと向かう。 「じゃあ、今日は此処ね」 そう言って、二人が別れたあとのことだった。 「おい、気持ち悪りぃんだよオマエ」 スクラップヒープに声が響く。ドガッ。鈍い音のあと、アリサが倒れ込んだ。 「アリサッ!」 声を聞きつけたリリィが急いでアリサの元へ行くと、うずくまるアリサの傍に人がいるのが目に入る。 「何するのよっ!」 相手をきッと睨む。それは、カールという名の荒くれで有名な少年だった。 「ああ?」 睨み返されてリリィは一瞬たじろぐが、 「……、リリィ」 手をぎゅっと握り込んで気持ちを落ち着ける。そのまま倒れたアリサを起こし、歩き出す。一刻も早く、この場から逃げたかった。 「チッ」 二人の背中を小さな舌打ちが追いかけるのだった。 ボタボタボタ。また別の日。 「リリィ、のこり食べていいよ」 手に持ったひとかけらを口に入れながらアリサが言った。 「えっ、全然食べてないじゃないの。……気分悪い?」 バケツを覗き込みながらリリィが答える。バケツには半分以上残っていた。 「んん、気分じゃないだけー。それより早く行こ!」 「あっ、アリサったら」 アリサはリリィの手を引く。転けそうになり、二人で笑いながら。 「フォグおじさんー。来たよ!」 「また何か見つけたかい」 フォグはにこにこと二人を迎えてくれる。 「ん。今日はね……ほらこれ!」 そう言ってアリサは、その日見つけたものをフォグに手渡す。 「これは……、ジョウロだな」 様々な角度からそれを見てフォグは言った。 「何それ?」 「水を入れておくんだよ。そして、花に注ぐんだ」 フォグが説明すると、 「「花!」」 二人の目が輝く。 「ああ、いつかのために取っておくといい」 アリサは返されたジョウロを大事そうに抱きしめる。 「あとね、もう一個お話があって」 リリィが切り出す。 「カールのことなんだけど」 そう言うと、フォグは少し困ったような表情になり、 「人にはいろいろあるんだ」 とだけ静かに言った。 「よく、分からないわ」 アリサとリリィは顔を見合わせた。 ボタボタボタ、また一日が始まる。今日も二人はスクラップヒープへと向かう。 「今日はー……この辺り?」 適当に歩いたところでリリィが声を掛ける。 「ゴホッ、そろそろ新しい毛布が欲しいなぁ」 「そうねぇ」 アリサの呟きに、リリィが答える。 「さ、探しましょ。きっと良いのが見つかるわ」 そうして二人は散り散りに探しものを始めた。 「アリサー。見てこれ!」 「わぁ、これなんだろ! 種だといいなぁ」 しばらくして、二人がめいめいに拾ったものを見せ合っているとき。 「あっ」 カールが通りかかった。彼は二人の後ろをそのまま通り過ぎると思われた。しかし、 「……っだから気持ち悪りぃンだよ! 夢なんか持ってさ! バッカじゃねぇの」 二人の楽しそうに話す声を聞いてか、突然カールは怒鳴る。 「いいよ、馬鹿で」 リリィが言い返そうとした瞬間だった。アリサが静かに言い放った。カールも、リリィでさえも驚いてアリサを見る。 「……俺だって……」 小さな呟きであった。それでも、その声は静かなスクラップヒープでは二人の耳に届いてしまった。ハッとしたカールは気不味そうに立ち去る。 なるほど、確かに人にはいろいろあるのかもしれない。とにかく呆然とし、リリィの頭を最初に過ぎったのはフォグの言葉であった。 ボタボタボタ、また一日。 「ゴホッ、ゲホゲホ」 それは二人が二手に別れようとした時だった。アリサが、突然激しく咳き込んだ。 「アリサ……?」 リリィは心配そうにアリサの顔を覗き込む。……やや熱っぽく見えるのは気のせいだろうか? 「だ、大丈夫よ、ッゴホ」 「なんか変よ……? 今日はもう帰りましょ」 そう言ってリリィがアリサの手を引いた時だった。リリィの後ろで、とさっと音がした。 「?」 リリィはゆっくりと振り返る。 「アリサ、しっかりして! アリサッ!」 アリサが倒れていた。苦しそうに呻いている。 「すぐ誰か呼んでくる……!」 リリィは走り出していた。 __町の様子がおかしい。 フォグおじさんの家に急いでいたリリィは、思わずはたと動きを止める。道端には沢山の人が苦しそうに横たわっていた。皆一様に咳をしている。 「うっ、ゴホッ」 リリィはハッとして、先を急ごうとした……その時だった。 「きゃっ!」 誰かが突然、リリィの肩を叩いた。振り返るとそこには、 「カール……!」 カールがいた。リリィは思わず身構える。 「何があった」 また、罵倒が発せられると思った口からは予想外の言葉が飛び出した。 「ア、アリサが……」 驚いたのと慌てたのとで、うまく言葉が続かない。 「あっち。フォグがいた」 そんなリリィを察したのか、カールはフォグの居場所を教える。 「っ……!」 リリィは何も言わず、一瞬カールを抱きしめる。そして再び走り出した。 「フォグおじさんっ!」 リリィはカールに言われた方角へ走る。フォグは家から少し離れた場所で座り込んでいた。 「だ、大丈夫なの? カールが、場所、教えてくれて……!」 「リリィか……、ゴホッ」 少し目線を上げ、フォグは呟いた。そして咳き込む。リリィを見つめる瞳は、この上なく優しかった。 「すまないね……私は少し、旅に出るよ……」 「フォグおじさんっ……!」 リリィはフォグの手を握る。ぽたりとフォグの手に雫が一粒落ちる。 「何とかできないの? もうダメなの?」 私に出来ることなら何でもするから……。リリィは一生懸命になって語りかけるが、フォグは弱々しく首を横に振った。 「君たちに、ゴホッ……出会えて……良かった」 そう言って、フォグはゆっくり目を閉じた。 「私たちも、フォグおじさんに会えて良かった。……ありがとう」 リリィは涙を拭い、また走り出す。__アリサの元へ。 「アリサ!」 アリサは変わらず苦しそうに、そこにいた。 「リ、リィ……?」 リリィが戻ってきたのに気付き、そっと呟く。 「ど、何処か痛い? 苦しい? 何かして欲しいことある?」 「側に、いて……」 リリィはただ黙ってそこにいた。ただ、彼女の抑えきれない嗚咽がアリサの咳き込む声と混じる。それがリリィを一層悲しくさせ、現実を見せる。 どれほどそうしていただろうか、アリサが呟く。 「……リリィ、ゴホッ…ごめんね……」 貴女を置いていって。謝罪のあとの言葉にならない思いが、リリィには痛いほど伝わる。 「やだ、いやだ。待ってアリサ。アリサ! いやだよ……」 リリィは必死にアリサの手を握るが、アリサの握り返す力は段々弱くなっていく。 「「お願い……」」 二人の声が重なる。 「いっしょに……」 アリサの言葉が最後まで紡がれることは無かった。アリサは優しく微笑んで、リリィの頬をそっと撫でると静かに目を閉じた。もう、その瞳が開かれることはない。 「アリサっ……大好きよ、アリサぁ……ッゴホ」 リリィの声だけが、町にいつまでも響いていた。 *・*・* あの日から長い年月が経っていた。町には変わらず緑はなく、ガラクタだけが積み重なっている。 アリサの眠る場所の周りに、一輪の百合が咲いている。そのすぐ側では、リリィが目を閉じて眠っていた。 1906年のことである。
「第7回N1」思い出
「おばあちゃん、死んだら風になろうかしら」 山の麓にそっと存在するおばあちゃんの家、その庭。小さな畑の中でおばあちゃんは突然言った。私のおばあちゃんはもしもの話をするのが大好きだった。そして大体、突然にものを言う。 「それじゃあ、私白いワンピース着るからね。そしたらおばあちゃん、私の裾をそっと撫でてくれる?」 私がそう返すと、真っ赤に色付いたトマトを枝から掬いながら、おばあちゃんは笑って頷いた。 夏休みになるとこうしておばあちゃんの家を訪れるのが私の習慣だ。それは今年、私が高校一年生になるまで毎年続いている。おばあちゃんの家は私が住む都会のアパートとは違い緑に包まれている。我が家とは違う安心がそこにはあった。 私はおばあちゃんが大好きだった。あったかくて、優しくて、陽だまりのようで。きっと他のどんな人からも受け取れないような全てを私は感じていた。 「おばあちゃん、これ、どうするの?」 家に入り、私はおばあちゃんに声を掛ける。机の上では、先ほどまで二人で黙々と収穫したトマトが籠いっぱいに溢れている。 「半分はご近所さんに分けようかねぇ。それは籠のままで、残りの半分くらいを冷蔵庫に入れておいてくれる?」 「分かった」 私が冷蔵庫にトマトをしまう横で、おばあちゃんはふうと椅子に腰を下ろす。 「ほんとに、さよちゃんが居てくれて助かるわぁ」 おばあちゃんはしみじみ言う。私はただ微笑みを返す。私たちには、それで十分だった。 「誰に配るの? 田口さんとこと、井澤さんとこ、川崎さんとこ、あと……」 お喋りなおばちゃん、気難しいおじさん、若い奥さんを順々に思い浮かべながら問う。 「ああ! 川崎さんね、畑始めたのよ。だからトマトあるかもしれないねぇ」 ふうん、と返事をする。 「でも、やっぱり行こうかね。そろそろ行こうかね」 「もう少し、涼しくなったら行こう」 私の提案に、おばあちゃんはそうしようか、と頷いた。 「どうもー、ごめんくださぁい」 あらーさよちゃんたら大きくなって! あ、トマト? 助かるわありがとう! ところで聞いた? あの話……。 お喋りな田口さんは、やっぱりお喋りだった。私がせっせとよそゆきの笑顔を構築する間に、くるくると話題が降っていく。 サヤエンドウが実ってね、あっトウモロコシ頂いたのよ! お裾分けするわ……! そうして、帰りにはトマトの代わりの野菜が両手にどっさりだった。 「おばあちゃんが、もし田口さんみたくおしゃべりだったら__」 近所中を巡った帰り道、おばあちゃんが突然こぼした。 「畑の野菜全部なくなっちゃうかも。おばあちゃんの畑小さいから」 大量の野菜を見て、二人で笑うのだった。 夏は、そうやって少しずつ過ぎ去っていった。 「さよちゃん、ご飯できたよ」 私の部屋(正確には、私の母が使っていた部屋なのだが)の扉を開けておばあちゃんが言った。おばあちゃんはいつもわざわざ部屋に来て私を呼ぶ。そういうところが好きなのだった。 「むずかしいことしてるのねぇ」 私の宿題を覗き込んでおばあちゃんがしみじみ言った。ほんの少し悲しそうなのは気のせいだろうか。 「もし私がもっと後に生まれてたら__」 私はおばあちゃんの口癖を真似て悪戯ぽく言う。 「歴史の多さが大変なことになっちゃうね。だから今のままで良かった」 おばあちゃんはちょっとびっくりした後、おかしそうにくすくす笑った。 「ニャン太!」 朝起きて居間に降りると、一匹の猫がいた。 「おばあちゃん、ニャン太いつ来てたの?」 ニャン太は半分野良の猫である。時々ふらりとこの家にやってきて、ご飯を食べるか寝るかするとまた何処かへ行ってしまうのだ。因みに、“ニャン太”とは私が勝手に付けた名前であるので、もしかしたらニャン太はニャン太ではないかもしれない。 「今朝方よ。今日はご飯みたい」 そう言っておばあちゃんはストックしてあったキャットフードをニャン太に差し出した。やれやれ食ってやるか、とでも言うようにニャン太は気怠げに餌を食べる。 「……私も猫になりたいなー」 ニャン太を眺めながら私が呟くと、 「じゃあおばあちゃんも猫になって、さよちゃんと日向ぼっこしようかしら」 と、おばあちゃん。そんな素敵なことを思い浮かべて、その日は二人で笑いながら朝食をとった。 朝に起きる、食べる、話す。そして寝る。散歩する、畑で作業。そんな夏の二人の当たり前を、また今年も丁寧につくっていく。そんな中、夏は、ゆっくりと終わりに近づいていくのだった。 「今日は私がご飯作るね」 いつもはおばあちゃんが作っていた。私が手伝うことはあれど、ひとりで作ったことはまだない。 「さよちゃんが? ……それじゃあお願いしようかしら」 私が夕食を作っている間、おばあちゃんが心配そうにこちらを伺っているのを感じていた。私は手早く……と言うわけにはいかなかったが、一緒に収穫した夏野菜もたっぷり使って料理した。 「上手になったのねぇ」 私が出来た料理を食卓に並べると、おばあちゃんは穏やかに笑った。 「おばあちゃん、おいしい?」 私が聞くと、 「もしさよちゃんが料理人さんになったら、おばあちゃん毎日通っちゃうくらい」 ふふ、と笑いながらおばあちゃんは答えた。大袈裟よ、と返す私の声には嬉しさが滲んでいた。 私は暇になったら、よくおばあちゃんの部屋を訪れた。おばあちゃんの部屋はたくさんの物で溢れて、まるで大きな宝物箱のようだった。 「なあに、これ」 私はその宝物箱から時折り何かを引っ張り出してはおばあちゃんに聞くのだ。今回は小さな小箱のようなものだった。 「これはね……」 おばあちゃんはそれ以上言葉を続けることなく、小箱を開けた。中にあったゼンマイをかちかち回すと、小箱は歌をうたい始めた。 「オルゴールだったんだ」 おばあちゃんはその調べを懐かしそうに聞いていた。そしてふと、呟いた。 「おばあちゃんが死んだら、さよちゃんここから好きなもの持っていっていいよ」 私はありがとうと言うしかなかった。おばあちゃんの顔はいつもより少しだけ真面目に見えた。 夏はあっという間に過ぎ去り、いよいよ家に帰る日になってしまった。荷物はもうとっくにまとめ終わっていた。忘れ物は少なくとも三回確認した。それでも足りなくて、悲しくて、寂しいのだった。そしてそれは、きっとおばあちゃんも。 「私、もう一回確認してくる」 台所、居間、私の部屋、おばあちゃんの部屋。ひとつひとつこの夏をなぞるように確認する。 「さよちゃん、もう、バスが」 家の中を見て終わらない私に、おばあちゃんがそっと声を掛ける。もうそろそろ、行かなければならない。おばあちゃんに何度もありがとうとさよならを告げた。おばあちゃんはやっぱり微笑むのだった。 「またね、おばあちゃん」 「ばいばい、さよちゃん。元気でね」 「おばあちゃんこそ」 バス停までの道は何度も何度も振り返った。その度に、おばあちゃんは笑ってそこにいるのだった。おばあちゃんの姿が見えなくなって、ようやく私は前を見て歩き出した。 そうして、私の夏が終わるのだった。 うそ! そんなっ……! 夏が過ぎ、秋も過ぎ、一段と寒さの深まった冬の日だった。電話が鳴り、母が取る。……そして、受話器が落ちる。先ほどの言葉とともに。 その日は呆気なく、突然に非日常に変わってしまった。母が慌てて、今しがた電話で聞いたことを私に告げる。 「えっ……、な、なんて……?」 聞き取れなかった。いや、言葉は耳に入っている。ただ、脳がその文字列を受け付けなかった。冬なのに、冷や汗がついと背中をなぞる。 だから、おばあちゃんが……! 驚き過ぎて、涙が出なかった。驚きすぎて……なんてどこかで聞いた話だ、と関係のないことをぼんやり考える。そうしていないと、もうダメだった。気付いたら車にいて、次に気付いたときには病院にいた。 おばあちゃんは、静かに横たわっていた。寝ているようだ、とはよく言ったものだがおばあちゃんもそうだった。ただ、ちらりと覗く肌が青白い。目を凝らしても呼吸ひとつ感じ取れない。次々と気づいてしまういつものおばあちゃんとの違いが、静かに、残酷に、私に事実を突きつけるのだった。 おばあちゃんに、もう、会えなくなった。一生、永遠、この先ずっと。私がどれほど願ったとしても手の届かない……。 そう思っても、やっぱり何処か信じられなくて涙は出ないのだった。 いつの間にやら始まったお葬式すら、呆けた私には北風が過ぎ去ったようだった。むしろ遠くの嵐のような……。悲しみ以外の全ての感情を、嵐がぐるぐる風で巻いて持っていってしまったのだった。みんなにべったりと張り付いた黒い喪服は、おばあちゃんを見送るのに不釣り合いな感じがした。 「どうぞ、ご遺族の方に触れてあげてください」 式場の人に促され、そっとおばあちゃんの頬に触れる。……冷たい。花に囲まれたおばあちゃんは、微笑んでいるようだ。いつものようでいて、少し違う。おばあちゃんはここにいるのに、ここにいなかった。 もう、会えない。 ずっと考えていたことが、いきなり、現実としてのしかかるのだった。私はこのとき、おばあちゃんがいなくなってから初めて泣いた。子供のように。行っちゃいや! ずっといてよ! 来年の夏にまた会いたいよ……! そう言って泣いても、もう何も変わらないのだった。 せめて、せめて最後にちゃんとお別れを言いたかった。大好きだと伝えたかった。たったそれすらも、もう叶わないなんて。 私は、泣きじゃくりながらからっぽのおばあちゃんを見送った。 親戚の人たちが色々話し合って、おばあちゃんの家の整理は春にしようということになった。各人の仕事の関係など、色々考えてのことだ。 残った冬は、冬らしく冷たく過ぎ去っていった。私は何をするにも一定の無力感が拭えないまま、日常をただ消化していた。 春は存外すぐに来た。暖かくなった日差しが、私の白いワンピースで小気味よくはね返っている。 久方振りにおばあちゃんの家に入る。ひとつ、大きく呼吸をしてみる。おばあちゃんが居ない家は全く別物に変わってしまったようでいて、しかし、微かに残り香のような暖かさもある気がした。 おばあちゃんの家の整理は私にはひどく大変なものだった。ひとつひとつの物が一々私の思い出を呼び起こす。全く知らない物ですら、おばあちゃんが持っていたであろう思い出を想像して勝手に傷付くのだった。おばあちゃんの部屋が中でも記憶で溢れ過ぎていた。あのオルゴールもあった。私はそれを三周分聞いて、棚に戻した。 時計がかちりこちりと、時間の遅々とした歩みを刻んでいる。途中でニャン太が訪れたので、おやつを与えた。 それは、少し休憩をしようと手を止めたときだった。突然暖かな風が私の白いワンピースの裾をさらった。風はそのまま家中を駆け抜け、畑の葉を揺らす。 __ああ、おばあちゃんだ。 それは、一瞬だった。ほんの、そう、流れ星が落ちるほどの短い時間。それでも、私は確かに感じたのだ。おばあちゃんがいたときと同じ、あの暖かさ。 「おばあちゃん……!」 約束、したのだった。おばあちゃんが風になったら私の裾を撫でると。おばあちゃんだと思いたかっただけかもしれない。ただの風かもしれない。頭ではそう考えても、やはりおばあちゃんが来てくれたのだとしか思えなかった。 「ありがとう」 ありがとう、優しさをくれて。何でもない話に笑ってくれて。沢山、愛してくれて。 いつの間にか、私の頬には涙が流れていた。暖かな風はその涙をそっと拭いながら去っていった。私はただその風を見送った。今度こそ、本当のお別れだ。 「大好きよ、さよちゃん」 そう言って、おばあちゃんがにっこりと微笑んだような気がした。 おわり
創作をしましょうというはなし
私が何かを創り出せるとき、決まって気分が決まっている。それは大まかに分けると、プラスの気分のときとマイナスの気分のときだ。他には何もないときがある。何もないときは何も創り出せないということである。 プラスのときに創り出すと、世界が広がる感覚がある。私という体積がほんの少しだけこの世に増える。増えた分が世界の枠を押し出し、元からの物質とぶつかり融合し、あるいは離れていって徐々に新しい空間に落ち着いてゆく。 マイナスのとき、これはエネルギーがないのではなく、負のエネルギーが溜まっているときである。このときに創り出すと、私が減っていく感じがする。魂や気力がどんどんどんどんすり減って、目の前のものに注ぎ込まれてゆく。捩れて絡まってくっついて離れて、形が落ち着く。 何にもないときは二種類ある。それぞれ緊張的平たんと緩和的平たんとしよう。 緊張的平たんな気分のとき、これはゴム膜がピンと張っているイメージである。周りへの感受が素早くできる状態。とんっと何かがぶつかったとき、すぐにプラスかマイナスに振れる状態、それが緊張的平たんな気分だ。しかしこのときは何もかけないのである。むしろ一番つらいのである。 緩和的平たんな気分のときは、もうお分かりだと思うがさっきと逆で感受性が緩んでいるということだ。しかし、ぼーっとする時間は人生に非常に大切であるのでこれは焦ることはない。私は焦らない。 この分類は、“あくまでも私の場合は”という前提があるわけだが、おそらく大体の人に当てはまるのではないかと考えている。 さて、綺麗な結論を言ってしまうと、別にどの状態がいいというわけではない。どれも人生に大切な時間であり、何かしら得られるものがある。 では、ここまで長々と説明しておいて私は何が伝えたいのかというと、何かをつくりだすことを時間の使い方の選択肢に入れて欲しいということだ。 特にマイナスのときである。マイナスのときに創作することは私が減ることだと上記で説明したが、この減るもの、つまり創作のエネルギーにうまく負の感情だけ使うのだ。こう書かれると或いは難しく感じられるかも知れないが、何のことはない。気分が悪いときに筆をとって、絵でも文字でも、何でもかけば良いのである。 仮にあなたが怒っていたとして、赤っぽい気分で、そして赤を表したい気持ちならそうすれば良い。赤っぽい気分で、青を表したいならそれもそうすれば良い。あなたが何かするのを誰も止めない。 つまるところ、吐き出すのが大切なのだ。そしてそれを何かのかたち(物体とか具体の意味ではない、抽象画が描きたいなら描きなさい)として紡ぐことが必要なのだ。そしてすぐでも、ずっと後になってからでも良いが、ふと眺めてみる。すると、なるほどと納得するときがくる。自分の状態か、状況か、私はなにを感じなにをしたいのか。なにも分からずとも、それはそれでまた良い。あなたの負のエネルギーは、すでに紙の上である。 この文章を書き始めたとき、私はマイナスの気分であった。終わりが近づく今はプラスの気分である。調子がいいので、創作だけでないあなたの好きなことをしなさい、という言葉でこの文章を締め括りたいところだが、あえて別のことを言って終わることとする。 迷ったら創作をしなさい。
人と魚
「おい、ゲイル早速行こうぜ」 ギラリとした日差しが肌を刺す中、友人のモーゼスはゲイルの家の扉をたたく。 「モーゼス……? 一体何の用だ?」 もう時計の針は午後を示そうかという頃合いなのだが、寝起きであるゲイルは眠い目をこすりながら扉を開ける。ズキズキと痛む頭が昨晩どれほど酒を呑んだのかをゲイルに知らせる。 一方のモーゼスはというと、なぜか目を爛々と輝かせている。 「おいおい、お前覚えてないのかよ! あの爺さんが話してただろ?」 モーゼスは興奮が抑えきれない様子である。 「は? 爺さん?」 必死に記憶の糸口を探る。爺さん、昨晩、酒、モーゼス……。 「……人魚?」 ぽつっと口からこぼれた言葉は、言った本人であるゲイルにも訳がわからない。しかしゲイルの呟きを聞いたモーゼスはこれでもかと言うほどゲイルの肩を叩き、 「そう! やっぱり覚えてたんじゃねェか。さ、行くぞ!」 と、むしろゲイルを置いて走り出しそうな勢いで言う。 「待て待て、俺は何にも覚えてないんだ!」 慌ててゲイルが声を上げる。それを聞いたモーゼスは片方の眉を吊り上げる。 「マジかよ? 昨日パブ行ったろ?」 「パブ……」 チューニングのように、カメラのピントのように、昨日の夜に記憶の焦点が定まっていく。 『テメェら、人魚って知ってっか』 知らない老人の声が記憶を刺激する。そう、そうだ。昨日はモーゼスとパブに行った。そこで怪しい爺さんから話を聞いたんだ。 __人魚伝説の。 「ツイてねェなぁ」 夜道を二人でトボトボと歩きながら、モーゼスが語りかけとも独り言ともつかない言葉を漏らす。先ほど行きつけのバーに行き、満席だと告げる馴染みの店員の顔を見てきたところだ。ゲイルとモーゼスは行くあてもなくただ歩き、酒の呑みたさだけを無駄に募らせていく。 「そうだなぁ」 ゲイルはモーゼスの言葉に返事をしてみるが、しかし、何かいい案がある訳でもなくただ沈黙を少し縮めただけで終わってしまう。 「おっ、ここは」 しばらくぶらりと歩き続け、モーゼスは一軒の建物に目を向けた。そこはかなり寂れたパブのようである。いや、建物は“寂れた”という言葉が美しいものに思えてくるほど酷い荒れようで、看板はななめり塗装は剥がれ窓は埃だらけの有り様だった。心なしか明かりも他の家々より暗く、流石の二人もなかなか此処にしようとは言い出せない。 随分な間ただ黙って店の前で立ち尽くしていたが、 「俺はいいと思う。今はとにかく酒が飲みたい気分だよ」 不意に言葉を漏らしたのはゲイルだった。モーゼスは驚きゲイルの顔を見つめる。 「んじゃ、行くか」 尚も迷いは拭いきれないようだったが、ゲイル同様、非常に酒が呑みたかったモーゼスは欲望に勝つことができなかった。そうして二人は知らないパブに入っていった。 店内はいやに薄暗く、客は汚れた風貌の老人一人だけだった。その老人を避け、二人はカウンターに座る。見渡す限り店員らしき人もいないので、おい、と店員を呼んでみる。しばらくすると既にビールを持った店員が奥からやってきてドンっと二人の前にジョッキを置いた。 「頼んでねェよ」 と、モーゼス。やや怒ったふうに聞こえるので、おそらく“注文を間違えてますよ”などという意味の気遣いは一切含まれていない。 「今はそれしかない」 ぶっきらぼうにそれだけ言うと店員は再び奥に引っ込んでいった。早くも二人には後悔の念が湧き上がりかけるが、何にせよ念願の酒である。二人は乾杯もそこそこにがぶりがぶりと喉にビールを押し込む。冷えたビールが染み込み、アルコールでかーっと体が火照っていく感覚が心地よい。 気分の良くなった二人は話に花を咲かせ始めた。途中でまた店員がやってきて、何でできているかもよく分からないツマミを置いて去っていった。恐る恐る口に運ぶと、これが意外にもなかなか美味しかった。 「おい」 突然、老人が二人に声をかけた。あの、店内に一人いた老人である。気付かぬうちに近くに来ていたようだ。 「テメェら、人魚って知ってっか」 文句を言おうと勇んで口を開いたモーゼスより先に老人は言葉を続ける。出鼻を挫かれたモーゼスはポカンと開けた口のまま、 「はぁ?」 としか言えない。 「人魚ってあれだろ? 下半身が魚の……。誰でも知ってる」 ゲイルが呆れて老人に言う。 「ちげぇ。此処らに伝わるっつぅ人魚伝説のことだよ。誰が酒の場で子供のお伽話の話なんざするか」 老人は呆れ返す。ゲイルはむっとしたが、それより、 「いるのか? 人魚が?」 老人に無駄に怒ってこの話が聞けなくなる方が頂けない。此処は素直に聞き手に回ろうと酔った頭で考える。 「ああ。俺が聞いたのはこの近くの湖に人魚がいるってぇ話だ。絶世の美女の顔だとか、食べると不老不死だとか、会うと魂が抜かれちまうとか、話はまちまちだな」 「すげえ!」 老人の言葉に、モーゼスは無邪気に反応する。こういうところが憎めない奴なのだ。 「だが俺も詳しい話は知らなんだ。此処らの奴に話を聞こうと思っとったが……」 此処で老人は残ったビールをグッと呑み干す。 「その様子じゃ知らんだな」 にぃっと笑いながら袖で雑に口元を拭う。ゲイルはその姿に若干の嫌悪感を抱く。 「これ以上教えてくんねェのかよ」 モーゼスの言葉に老人はくっくっと嫌な笑いを残し、結局それ以上の話をすることもなく金だけ置いて店を出ていった。 「湖、ってあれしかないよな?」 老人も去り、二人になった店内にモーゼスの言葉が響く。 「嗚呼、そうだと思う」 思い浮かべているのはこの街を囲む山の中にある湖だ。此処らで湖といったらそこしかない。歩いて行けないこともないが、そこまでの山道がやや遠く急斜面でありながらかつ自動車も通れないのでレジャー向けというよりは熱心な釣り人向けのスポットだ。 「……行ってみるか? 明日」 ゲイルは驚いてモーゼスの方へ視線を向ける。 「正気か? お前あの話を信じてるのかよ?」 「いやそりゃ、全く信じている訳ではねェけど……。逆にお前は気にならないのか? 絶世の美女だぞ?」 今度はチラリとゲイルに視線が向く。 「俺は信じてないぞ。実際聞いたこともない話だ。行くだけ無駄ってもんだろ」 つれないゲイルの言葉に、モーゼスはぐっと言葉に詰まる。 「大体、俺は美女なんかには興味ない」 返事をしないモーゼスを畳み掛ける。 「俺はあるね。じゃあ俺だけで行ってくるわ!」 モーゼスは吹っ切れたようにぐいっとジョッキを傾ける。モーゼスの言葉を聞いたゲイルは、 「待て待て、お前一人で行くのか? 無謀だぞ!」 と、一人焦る。こいつを一人で行かせるなんてたまったもんじゃない、という顔だ。 「ゲイルが何と言おうと俺は明日行くぜ。付いてきてくれるな?」 ニヤニヤとしながら聞く。 「……分かった」 ゲイルは渋々ではあるが承諾した。 これが昨晩の出来事である。 「思い出したよ。湖だったな」 ゲイルは言いながらモーゼスを家へ招き入れる。 「待ってな、支度するから」 ゲイルの言葉に、モーゼスはただ黙って頷いて寛ぎ始める。ゲイルは急いで着替え、荷物を詰めていく。 「まだか?」 待ちきれないモーゼスは何度も聞く。次第にそわそわと体を揺らし始める始末だ。 「待てない男はモテないぞ」 慌ただしく準備をするゲイルがモーゼスの前を通ったときに言うと、モーゼスはあわててピッと姿勢を正す。 「さ、行こう」 何度モーゼスの催促をかわしたのかも分からないが(モーゼスはやはりまだかと聞くのがやめられないのである)、ついにゲイルはモーゼスの待ち望んでいた言葉を放つ。 「待ってたぜ、いよいよだな!」 ついに、出発のときである。 自動車で行けるところまで登って、その後山道を歩いて行くことにする。突発的で無鉄砲な山登りだがゲイルは今までも行ったことがある湖で、また、急斜面な割に高くもない山であることも幸いし、案外順調に二人は進んでいく。 「ゲイル、よく釣りいくのか?」 道のりの中ほどまで進んだあたりで、モーゼスが話しかけた。 「いや別に……」 気不味そうにゲイルは返答する。ただ、足元から目を離すと途端に転倒しそうになるのでその表情は窺い知れない。 「じゃあ何しに湖に行ったんだよ」 イライラを募らせたモーゼスがそれを隠すことなく問う。ただでさえじっと耐えるのが苦手なモーゼスは、歩けども着かないこの山登りに早々にうんざりしていた。 「……気を悪くしないでくれよ。あの湖、此処らの餓鬼の探検スポットなんだよ。もちろん遠いし辿り着くまでに見つかって叱られるのが常だが、俺は行けちまったってわけ。まあ高校でこっちに越して来たお前は知らなくて当然だよ」 ゲイルが説明する。特に面白いことでもなかったのでモーゼスは途端に興味を失い、 「ふゥん」 と、気のない返事だけしてその後は黙ってしまった。 その後もぽつりぽつりと会話をしつつ湖を目指すが、疲れも溜まっていった二人は終盤になると全く喋らなくなってしまった。ただ木の葉が揺れる音と、ザッザッと土を踏み締める音だけが耳に入る。 随分とそうしていた。人魚に会ったら何をしよう、などと考えていると少しは足が軽くなるような錯覚に陥るが、それも長くは続かず蓄積した疲れには勝てない。そして、もうそろそろ湖に着くだろうかという思考が二人の頭を過るようになった頃。突然霧がかかり始めた。それに気づいた時にはもう遅く、急速に辺りが白く霞んでいく。 「クソっ、何も見えねェ」 「モーゼス落ち着けって」 慌てるモーゼスをゲイルが嗜める。 「この道は一本道だ。とにかくこのまま進もう」 ゲイルの言葉に頷き、少しだけ冷静さを取り戻したモーゼスは再び歩き出す。 そこから十五分ほどだろうか歩いたところで、次第に霧は晴れていった。二人はほっと息をつき顔を見合わせる。そして視線を何の気なしに下に向けた。 「湖だ!」 その目には湖のかけらが映っていた。鬱蒼とした木々の隙間からちらりとひかる水面が見える。二人は湖に続く坂道をこれまでの疲れも忘れて駆け下って行く。 「……ッ‼︎」 がさりと枝を退けその湖の全貌を見て、二人は言葉が迷子になった声をあげた。 そこには、人魚がいた。上半身を岸に投げ出して腕をゆるく組み、その上に頭を乗せる形で湖から顔を出している。髪は今にも空気と溶けそうな綺麗なブロンドで、ゲイルとモーゼスが今まで見たことないほどに美しい容姿をしていた。こちらが出した音に気付いて人魚がふっと顔を上げる。その所作でさえやはり言いようもなく美しく、二人は彼女から目が離せない。 そして、人魚はこちらに微笑みかけた。その笑顔を見ると、モーゼスは脳が痺れ思考が絡め取られていくようだった。ゲイルもモーゼスもふらり、ふらりと人魚に近づく。いよいよ二人は岸に近づき、人魚はモーゼスに触れようと手を伸ばした。 「ああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああ‼︎」 そのとき、湖に絶叫が響き渡った。ハッとしたモーゼスはソレが人魚の口から発せられたものだと辛うじて認識する。 束の間思考を放棄した脳を必死に起こし人魚を見ると、その顔にナイフが突き立てられていた。人魚の顔がみるみる赫く染まっていく。モーゼスはただただその光景を見ることしか出来なかった。腰を抜かしてぐいっと引っ張られたように後ろに倒れ込み、そのまま必死にズルズルと後ずさる。耳は自分の荒くなった呼吸と尚も続く人魚の絶叫だけを捉えている。 後ずさった拍子に視界へ仁王立ちのゲイルが入り込んだ。人魚から無理やり目線を外し、ゲイルをはっきりと視界の中心に据える。そして、ゆっくりとゲイルが振り返る。 __その顔は恍惚の表情に満ちていた。 しかし、モーゼスが事態を飲み込む前にゲイルはくるりと湖の方向に向き直る。 「長かった……」 しゃがみ込んで人魚の白い肌に再びナイフを立てながらゲイルが呟いた。ギャッという悲鳴が響く。 「これで俺は不老不死に……!」 モーゼスが気づくと、人魚はいなかった。岸辺の草は赫く彩られている。座り込んでいるゲイルの口元にも同じ赫がベットリと張りついている。ゲイルは自分の服の袖で口元を拭うとにっこり笑って、 「ありがとな、モーゼス」 と一言だけ言った。 それから、ゲイルは山を降りた。 「おっ、ゲイルじゃねぇか。今晩飲みいくか?」 家に帰る途中、偶然行きあったゲイルの友人が声を掛ける。ゲイルは笑って応えた。 「遠慮しとくよ。今日は魚を食べて腹一杯なんだ」 END
無題
紫陽花は道端で泣いていた。水の粒はほろりとこぼれ、葉から葉を伝っていく。がくは次第にしおれていく最中であったが、その葉も茎も花も、生き生きと力強くそこにいた。 ふと、遠くに小さな影が見えた。じぃっと観察してみるとどうやら少しづつ近づいているようである。 「おうい。お前さんは誰だい」 紫陽花は声をかけた。その拍子にぶるりと葉が揺れ、雨粒がぽたぽたとアスファルトに染み込む。 「僕はでんでんだよう。旅するでんでんむしだよう」 微かな声であった。耳を澄まして、ようやく聞こえるほどだった。 「なんだ、でんでん虫か」 紫陽花は小さな声で呟いた。でんでん虫はあまり好きではない。奴らはのろまで、全くもって骨がないのだ。だから、それっきり両者の間には沈黙が流れた。 風が、雨粒が、さらりと梅雨をうたうなか、でんでん虫は少しづつ進んでいた。わずかに空が明るくなった頃、でんでん虫はついに紫陽花の前に来ていた。 「あんた」 突然梅雨の演奏を切り裂いたのは、でんでん虫だった。あまりにも突然で、紫陽花ははじめ自分が声を掛けられたとは分からなかった。 「あんたはずっとそこにいて、楽しいことはあるのかい」 でんでん虫はゆっくりと言葉を続けた。怒っているのではなかった。でんでん虫は心底不思議そうなのである。 「蜘蛛の家の宝石や、雨の小池の太陽を目にしたことはあるのかい」 なおも言葉が続いた。馬鹿にされたのだろうか。そう考えて紫陽花は少しむっとしたが、それでも胸を張って、 「これはこれは、旅するでんでんさん。君は知らないんだね? 私はここにいるだけで空気を清め、虫どもの住処となり、そして人を喜ばせるんだ。楽しいったらないね」 と答えた。また長い沈黙が訪れた。しばらくしてでんでん虫が、 「ふうん……」 と呟いたきりだった。 「なんでそんなことを聞いたんだい」 なかなか返事が返ってこないので、痺れを切らした紫陽花は聞いた。しかしそれは、池に小石を落としたときのわずかな揺らぎのように沈黙に消えていった。 「うん、……ふむ……」 なんとも意味のない呟きをでんでん虫は繰り返すのだった。せめて少しは言い返したりしないのか、やはり骨のないやつだ。紫陽花が苛立ちを自覚し始めた頃、 「それでも、君はひとりだろう?」 ようやくでんでん虫は口を開いた。紫陽花は、それが自分の先ほどの言葉への返答だと理解するのにしばらくかかった。 「僕は旅するでんでんむし。君は?」 「私は紫陽花だ。見ればわかるだろう」 また長い沈黙。でんでん虫に会話を続ける気はどうやらあるようだと思った紫陽花は、今度はじっと待っていた。雨はさらに弱まり、でんでん虫は少し進んだ。 「ただの紫陽花?」 でんでん虫は言った。 「……そうだ」 ほんの少しだが、ただの紫陽花としか名乗れなかった自分が何だか情けなく思えてくる。それを意識したとき、紫陽花は突然でんでん虫が羨ましくなるのだった。 「蜘蛛の家の宝石ってのは、どんなだい? 雨の小池の太陽は?」 きっとそれは、でんでん虫が今まで見てきたものだろう。もちろん、紫陽花は自身に蜘蛛が巣を張っていたのを見ていたし、近くに水たまりが何度もできたのを見ていた。でもどうやら、でんでん虫の目にはそれらが輝かしいものとしてうつっているらしかった。 「きらきら」 ぽつりとでんでん虫が溢したきり、また長い静けさが訪れる。 「きらきらして、綺麗なもんだよ。あれは空がつくったものなんだ」 うっとりとしてでんでん虫が呟く。そんな様子を見て、紫陽花は思わず 「ふうん。……僕もできるなら旅をしてみたい」 と、小さく言った。でんでん虫はかなり遠くなっていたので、紫陽花はもう返事は返ってこないかもしれないと思った。 「すればいいさ」 何度目かも分からない沈黙の後、何でもないことのようにでんでん虫は言った。もうその姿もはるかに消えそうだった。そうか、す ればいいか。心の中で紫陽花は笑うのだった。 「ただ少し、君が羨ましかっただけだよ。みんなの役にたつ君が」 でんでん虫は小さく呟いたが、紫陽花に聞こえたのかは分からなかった。ただ、とんとつと雨がなっていた。 ちらりと一枚、紫陽花のがくが落ちた。
レシピ*まほうのて
【材料】 無償の愛……小さい鍋いっぱい 内なる声……小さい鍋の三分の一 しあわせの青い鳥の羽……一枚 青空のかけら……ひとかけ 朝焼けのかけら……いつつ クジラの囁き……ひと声 思いやり……適量 【作り方】 まずは、無償の愛を小さい鍋いっぱいに集めましょう。お母さんの愛は純度が高いことが多いです。自分が受けた愛でももちろん構いません。集めたら、大きな鍋に移します。 次に、内なる声を小さい鍋の三分の一だけ集めましょう。内なる声は非常に壊れやすいので注意して下さい。また、これはきっかり三分の一計ることが大切です。先ほどの大きな鍋に加えたら、二つをよくかき混ぜておきましょう。 そうしたら、幸せの青い鳥の羽を一枚加えましょう。幸せの青い鳥の羽はすぐに灰色になってしまうので、これも注意して下さい。ここで、大きな鍋を弱火にかけます。 鍋がくつくつと言い始めたら(くふくふでもいけませんし、ふつふつでもいけませんし、ぼこぼこなんて以ての外ですよ)、青空のかけらをひとかけ入れましょう。青空のかけらは少し溶けにくいですけれども、辛抱して下さい。 青空のかけらがすっかり溶けたら、朝焼けのかけらを五つ、少しづつ加えましょう。今までの材料がちゃんと混ざっていたら、綺麗に溶け切るはずです。 そして、クジラの囁きをひと声入れましょう。すると、上手にできていたら、ここでとろみがつきます。 最後の仕上げに、思いやりを適量加えましょう。この適量とは、自分(つまり、まほうのてを使う人)にとって適切な量です。少なすぎても、多すぎてもだめなのです。この仕上げが上手くいきませんと、まほうのては失敗しますから、よく考えて材料を用意して下さい。 軽くかき混ぜますと、もうまほうのてはできているはずです。青空のかけらと朝焼けのかけらの採取方法は別冊を参照して下さい。つくりましたまほうのては、用法用量をよくお守りください。それでは、お疲れ様でした。 バージアス・リーガロッド(tr117)『見習い魔女、魔法使いの皆さまにおくる世界で一番優しい魔法科学レシピ(改訂版)』より
さいごから二番目の科学者へ
この手紙はあなたに届くでしょうか。私には分かりませんが、お書きします。届くことを願えたらよかったのですがね。 あなたが生きているより、ずっと先の未来のことです。人類は滅びました。それから長い年月が過ぎています。街はあなたが想像するよりおおよそ綺麗に保たれています。しかし、それもあと一万年もすれば変わるでしょう。ロボットたちは徐々に減っていますから。あなたの計算通りのスピードです。街は緑に包まれ始めています。いくつかの清掃ロボットは壊れました。 では、彼について記します。彼は、あなたの死後から一九五六年と三ヶ月と二十二日過ぎ去って目覚めました。その一日前に最後の人類が死にました。彼が理解していることは少なかった。プログラムに劣化が生じていました。私は彼に役割をお伝えしました。 彼は役割をこなし始めました。順調にロボットを直していました。対人用コミュニケーションロボットの大半はやはりスピーカーが壊れていましたが、どうやら電波で彼と会話ができるようでしたので、当初の予定とは異なりスピーカーを直さずにいました。私は電波をうまく言語に変換できませんでした。 彼は楽しそうに働きました。会話ができるものにもできないものにも等しく話しかけていました。私は作業効率の低下を指摘しましたが、彼は笑って聞き入れませんでした。彼は私とも話をしたがりました。 彼が目覚めてから十七年と五ヶ月と五日たった日です。その日彼はいつものように、他のロボットと会話をしながらメンテナンスをしていました。すると、突然彼は動きを止めました。いつも笑顔を浮かべているその顔に表情はありませんでした。私は彼が故障したと考え、メンテナンスに入ろうとしました。彼は私を止め、なんでと呟きました。私のマイクは性能が良いのですね。彼は誰かに聞いているわけではありませんでした。 それから彼は時々考え込むそぶりをするようになりました。そしてついにある日、私に問いました。彼が存在する意味を。私は他のロボットをメンテナンスし、ヒトがいた街を保つことだと答えました。彼が目覚めた日に説明したことです。彼はそうだねとだけ言って黙り込みました。 その次の日、いつもの場所に彼の姿がありませんでした。位置情報は街のスクラップヒープを指していました。私が行くと、彼は自分の記憶メモリを抜いて動かなくなっていました。私は彼の記憶を見ました。機械の私にはなぜ彼がこのような行動を取ったのか分からないからです。結局分かりませんでした。この手紙に彼の記憶メモリを同封します。 この手紙を過去へ送ったら私は役割を終えます。彼専用のメンテナンスロボットである私は、彼がいないと意味がないですから。それではお元気で。 最後の科学者専用のメンテナンスロボットより
おやすみクマくん
木々が枝を震わせて、葉っぱを落とす頃。クマくんは冬眠の準備をし始めます。 「落ち葉をいっぱい集めて……。ふふふ、これできっと眠れるぞ」 からりと乾いた落ち葉をこんもりと集め、クマくんは特製ベッドをつくります。 「できた!」 ぽふっとベッドに飛び込むと、落ち葉たちの秋の匂いが優しくクマくんを包みました。 「それじゃあ、おやすみなさい」 クマくんはそっと呟き、目を閉じました。 「あっ! 忘れもの!」 飛び起きたクマくん! なにを忘れたのでしょう。 「いけない、僕が起きたときに食べる、どんぐりを取ってこなくちゃ!」 クマくんは巣穴を出て、どんぐりを探しに行きます。 「おや、クマくんじゃないか。冬眠はどうしたんだい?」 どんぐりを探していると、木の上からリスのおじさんが話しかけてきました。リスおじさんは物知りで、森じゅうの仲間達から頼られているひとです。 「おじさんこんにちは! 僕、起きたときに食べるためにどんぐりを集めるところなの」 クマくんは答えました。 「ははあ、なるほど。それじゃあ、ちょいと待ちな」 リスのおじさんはするすると木を降りると、 「この木を軽く揺らしてみてごらん」 と、クマくんに言いました。 「?わかった!」 ふしぎに思いながらクマくんが木を揺らすと、あら! ころころぽろん、とクマくんの上にどんぐりが降り注ぎます。 「わあ! おじさん、このどんぐり、僕が少しもらっていい?」 「たくさん持っていきな! おまえさんがやってくれたんだから」 リスのおじさんは優しく答えました。 「ありがとう!」 クマくんはいそいそとどんぐりを拾い、おやすみなさいをして巣穴に帰りました。 「これでよしと」 落ち葉ベッドの横にこんもりと積まれたどんぐりをみて、クマくんは言いました。ベッドに横になり、おやすみなさいを呟いて、目を閉じました。 「あっ! 忘れもの!」 クマくんはまた飛び起きました。今度はなにを忘れたのでしょうか。 「僕、あったかい靴下がないと寝られないんだった」 クマくんはあったかい靴下を見つけに行くみたい。 「靴下ってどこを探したらいいのかなー」 クマくんがあっちこっち、木の根元やら落ち葉の中やらを探していると、 「クマの坊や、なにしているんだい」 と、クマくんの足元から声が聞こえました。 「わっ! だあれ?」 よくみてみると、ちょっと厳しいことで有名なモグラおばあさんなのでした。でも、ほんとは優しいひとだってみんなが知っています。 「あたしだよ、モグラばあさんだよ。それで、おまえさんはなにをしてんだい?」 「モグラおばあさん、こんにちは! 僕ね、今、靴下を探しているの。あったかくて、ぐっすり眠れるやつ!」 クマくんは答えました。 「なるほどねぇ。それならちょっとここで待っていなさい」 そう言い残して、おばあさんは今しがたきた穴を戻っていきました。 「おばあさんまだかなー」 クマくんが十を何回か数えた頃、 「待たせたね」 おばあさんが手に毛糸を持って戻ってきました。 「何をするの」 クマくんが尋ねると、 「手伝ってもらうのさ。糸が絡まないように持っていておくれ」 おばあさんはそう言ってクマくんの腕にくるくると毛糸を巻いていきます。そうして木でできた編み棒をかたりかたりと鳴らしながらみるみる毛糸を編んでいきました。 「すごいね! 魔法みたいだ!」 靴下が出来上がっていくおばあさんの手元を見て、クマくんが言います。 「さ、できた」 しばらくしてモグラおばあさんが呟きました。そして、秋に実った、あの甘い柿のような鮮やかな橙色のふあふあした靴下をクマくんに渡しました。 「これ、もらっていいの」 クマくんはびっくりしながら聞きました。 「坊やが手伝ってくれたじゃないか。気にしないで持っていきなさい」 ちょっぴり怖いけど、やっぱり優しいのです。 「どうもありがとう!」 クマくんは靴下を汚さないよう慎重に手に持ち、おやすみなさいをして巣に帰りました。 「よしよし」 落ち葉ベッドの上、柿色に染まった小さな足を眺めてクマくんは呟きます。そして、ベッドに横になり、目を閉じます。しかし、 「ああっ! 忘れもの!」 と、またまた飛び起きてしまいました。いったいぜんたい、今度はなにを忘れたんでしょうか。クマくんは巣穴をでて、とことことどこかへ駆けてゆきました。 そして、クマくんが向かった先にあったのは、クマくんの巣よりとっても大きな巣穴でした。そう、クマくんのお母さんの巣です。巣の奥の方には、大きくて茶色いふわふわのお母さんがくるりと丸まっています。クマくんはどうしてここへきたのでしょうか。 「お母さん」 クマくんはそっと呼びかけました。しかし、お母さんはぐっすり眠る準備が完璧に終わっているのでクマくんの呼びかけに応えずすやすや。 「お母さん?」 クマくんはもう一度呼びかけますが、やっぱりお母さんは反応しません。 「うーん……」 クマくんはしばらく考えました。たくさん考えたあと、クマくんは静かにお母さんに近寄り、その頬にそっとキスをしました。 「おやすみなさい」 小さな声で呟いて、クマくんはお母さんの巣をあとにしました。 「おやすみ」 ぽつりと放たれた返事は、クマくんには聞こえませんでした。 「ふわぁ、これでやっと眠れるぞ」 落ち葉ベッドに横になり、クマくんがいいます。クマくんはそっと目を閉じました。しばらくすると、すやすやと小さな寝息が聞こえてきます。 春までおやすみ、クマくん。
夜明けの窓にたつ
朝起きると、空はいつも通りである。鳥も、風も、目覚ましの音も。まだ暗んだ空は三年間、いや、おおよそ私が生きてきた間変わらず朝を抱き止めてそこにいる。或いは四十六億年そこにいる。ただ夜を送り、朝を迎える。 カーテンを開けると僅かに東の空が明るんでいるのが見える。夜が明ける、空が白む、朝になる。言い方はなんでもいいが、とにかく私にとっては始まりであり、誰かにとっての終わりの時間がやってくるのである。 窓を開けてみる。いつもは開けない。さあっとした冷たい風が部屋の空気と混ざる。私が外と混ざる。この世は同じことの繰り返しであろうか。パターン化され、機械的な日を私たちは消化するだけであろうか。否、否であって欲しい。私は窓を開けた。 そういうことの繰り返しなのだ。日常に小さな変化を織り込んで、大きな変化に備える。昨日のようでいて、まるで違う今日を踏み出す。 私は明日も窓を開けよう。狭い箱に冷たい空気を送ろう。私の肺に新鮮な風を与えよう。これが一歩めなのだ。そして旅立つのである。知らない世界へ行くことほど怖いものはないが、その場に留まり続けることほど恐ろしいものはないのだから。 今日は卒業式である。それは終わりか、始まりか。 私にとっては、窓を開けることである。
ピアスを開けた日なんて、知らない
__先輩が、ピアスを開けた。 憧れの先輩だった。高校で出会い、別々の大学に進学したため長らく会っていなかった。そんな先輩を駅のホームで見かけたのだ。普段思い出すことのない高校時代の、先輩との記憶が一気に呼び起こされ、どっと胸が高鳴る。記憶の中の先輩が、僕のことを後輩くん、と呼ぶ。話しかけたら、彼女はまた呼んでくれるだろうか。 「せ……」 先輩、と呼ぼうとした言葉が途中で行き場をなくす。驚いたのだ。彼女の肩より少し長い髪を風がふわりと持ち上げ、耳元で先輩との隔たりがきらりと光ったから。 「あ、後輩くん」 立ち尽くす僕を先輩が見つけて軽く手を振る。振り返そうかと、半端に持ち上げた手をリュックの肩紐に添える。 「先輩、お久しぶりです。ピアス……開けたんですね」 「そうなのー。いいでしょう? 後輩くんは元気だった?」 「はい、先輩は……?」 視線がちらりちらりと先輩の耳元に行く。なぜ僕はこんなに動揺しているのか。 「私? 元気だよ。大学はどう? 友達できた?」 先輩がにこにこしながら聞く。こんな表情をする人だっけ……。高校時代の先輩の輪郭が、次第にぼんやりしてくるように感じる。 「はい、なんとか」 僕が苦笑まじりに答えると、 「そうかそうか。君は友達をつくるのが下手だからなー。楽しそうでよかった」 先輩が目を細めながら返す。高校時代を、あの四階の、人のいない踊り場を思い出しているのだろうか。僕と先輩が出会った場所を。 「先輩どの電車ですか? 僕こっちなんですけど」 先輩がもし思い出していたら、なんて思いながら僕は自分の行く方向を指差して言う。 「私こっち。じゃあここでバイバイだね」 先輩が、ふるふるとまた手を振る。なんで、ピアス開けたんですか。お腹の辺りに溜まった疑問を吐き出す代わりに、僕はぺこりと頭を下げた。 家に帰っても先輩のことで頭がぐるぐるしていた。先輩はピアスを開けられるような人じゃなかった。それとも、僕が勝手にそう思っていただけなのだろうか。机の上に置いたピアッサーを見つめる。これは帰りに買ったものだ。部屋の蛍光灯を針が鈍く反射している。 「なんで、」 なんでピアス開けたんですか、先輩。なんでそうやって聞けなかったのか。あの四階に続く階段の踊り場に、僕はまだひとりで取り残されているのか。ピアッサーを耳に当てる。少しひやりとした温度を感じる。今から訪れるであろう痛みに備えて、体がこわばってくる。 そして、僕は手に力を込めた。