桃に見る彼方

桃に見る彼方
 ざわり。手に乗せた桃のウブ毛が肌に觸《フ》れる。小振りだが良く熟れたらしいその桃は、頻《シキ》りに幼き私の手の形に合わせやうとしてくる。桃を握つたまゝ、親指にぐつと力を込める。僅かな弾力が返つてくるが、ほとんど桃に吸收されてしまう。はうら、見なさひ。桃がへつこんでゐる。  ざぶり。水で濡らしてみる。私の親指の形を覚えたまゝの桃は、必死に水を頽《シリゾ》ける。まだ頽ける。少し表面を擦つてやると、漸《ヤツ》と水と一体になつた。  とん。板の上に置いてみる。じわりと水が板に染み込む。桃は依然としてそこにある。 「かあさん。」  しばらく桃をじつと見たあと、私は母に呟く。私の聲に、眠たげな様子の母は僅かな頷きだけ返しのそりと台所に立つ。とん。刃が入る。とん。種が行くてを阻む。ああさうだ、種だ。桃には種があるンだ。母は(而して恐らく人類に当て嵌まる事であるが)種と戦うなどしない。其のまゝ刃を囘《マワ》して果肉をぐるりと切る。兩手で桃を掴んで捻るやうに力を込める。ぼたぼたぼた、と汁が溢れた。種付きの半分と、種無しの半分に桃が分たれる。種が丁寧に取り外され、皮も包丁でこそがれてゆく。  やつと、やつとだ。嘗て薄く色付いた不完全な球體であったそれは、櫛形へと変貌し皿に横たわってゐる。ひと口。またひと口。奴が私を通り拔ける度に此の上無い甘美さの電氣信號が脳に到達する。髙々、植物の癖に。電氣信號の癖に。中ゝやりをる。  終わつた、呆気なく。皿の上の桃は既に観測可能領域になく、強いてかこつけて云えば「何も無い」のみが皿の上に存在するのだつた。  さうなると物足りないのだ。全く、全く。もつともつとと喉が叫ぶ。すると、あの刺激的な甘つたるさが私にひとつの思ひ付きを與《アタ》える。  私は外に飛び出してゐた。手には桃の種を握つてゐる。而して庭の片隅の土を不器用に掘り返し、種を横たわらせ、土を被せてやつて、水も掛けてやつたのだつた。
ひるがお
ひるがお
見つけてくれてありがとうございます。