じゃらねっこ
122 件の小説子は川となって
川のせせらぎは空に満ち、いつしか天には雲を呼ぶ。 やがて地に雨が注ぎ、生命の伊吹をもたらす。 地を巡り清浄となった雫はまたも廻り、川もまた流れ行く。 向こうが変わらず見える程、清らかな水。 その流れは絶えず続き、明瞭であり、不明瞭であり、規則的であり、不規則であり、雄大であり、壮小である。 「川は美しい。人とは違う」 ぽつり。一つ世界に言葉が溶け出した。 河原は広く続き、心地の良い風が草花を揺らしながら、つぅと吹き抜ける。 風を受け、僅かに身を揺らす舟。 棒を突く度波紋が浮き、小さな花のように咲く。すると舟はまた前に進み、やがて人は口を開いた。 「そこの男子、あるいは女子か、大層沈んだ顔をしておる。しかしここには人も居らぬ。早く町へお帰りなさい」 また波は開き、前へと進む。 子は顔を上げ、ゆったりと立ち上がり、そして言う。 「貴方様は大層智慧ある方とお見受けします。智慧ある方よ、私は帰りません。私の顔が沈んでいたのなら、底へと踏みつけたのは人でありましょう。ですからやはり、私は帰ることはできません」 棒は変わらず底を捉え、また前へと舟を進める。 子は目をそれに追わせ、やがて顔がそれを追い、また身体がそれを追い、そして足が砂や石と擦らすと、釣られて着いていく。 「子よ、川は美しいか」 智慧ある者がそう尋ねると、間を置かずに言葉は返る。 「ええ、川は美しいです。人よりも何よりも、川は美しいです」 智慧ある者は腰を屈め、棒を頼りに身を傾ける。そして手を川へと近付けると、その手を濡らし清める。 子はそれを見ると、その手が消えているかのように写る。 子はそれに目を見開き、また言葉を発する。 「知恵ある方よ、私は今見ました。貴方様の手は溶け、消えたのをこの目で見ました。それは一体どういった仕掛けなのでしょうか。私は今までそのようなことを見たことがありません」 棒は花を咲かせ、船は進む。 「子よ、これは仕掛けなどでは無いのです。未だ小さな子よ、其方は川が人よりも美しいと言いましたね。しかし子よ、私は今その時川でありました。子よ、人には川が流れているのです。清浄な川は、誰しもに流れているのです。また子よ、川は人で無いものにも流れているのです。ですがその姿はこの世界の穢れに包まれ、その身を露にしていないのです。ですから子よ、人の穢れから逃げてはいけません。その穢れを払い、この世界を川で満たすのです」 やがて河原は小さく窄み、広々とした川だけが流れている。 変わらず進み行く舟の後ろに立ち止まり、その姿を子は目に宿す。そしてまた子は川の側へと歩み、そして手を清めるとその手は川の中に消え、子はそれを知った。 また世界に一つ、清浄な川が流れ出す。 「ああ、川は我が身の中に」
再奏【総集】
「我を再び奏でるというのか、小僧」 吸い込まれるように深く、底の見えない黒色の鍵盤は、艶やかに人を魅了する。まるでそれは、奏者の生を鮮やかに吸い取る悪魔であり、聴衆を惹き付ける女神を思わせた。 かつて人を狂気に貶めた悪魔が、影より私達を眺めている。 ─ああ、忌々しい。 我は死んでなどいない。 人は我を求めた。我の音色を、その美しさを。 我は与えた。美しい音楽の鼓動を、命を。 皆潰えた。我に狂った者共は皆潰えた。 我に狂い、我を求め、我を奏で、我の元に死んだのだ。 今はどうだ。この暗闇に我を求める光など無いではないか。 ─ああ、実に忌々しい。 これも全ては奴が、奴さえ居なければ……。 「楽器って言えばさ、やっぱりピアノだよね~」 「分かる。ピアノ弾ける人憧れるし」 「バイオリンとかピアノとか、育ち良さそうで良いよね」 ゆったりと流れる世界に刻まれる、一定のリズム。 合わせて揺れるスクールバックが、いくらか連なっていた。 「いや分かるわ。めっちゃカッケーよな」 「こいつ、確か弾けるだろ」 突如として俺が標的にされる。 反応する間もなく、「知らなかったー」「本当?」「かっこいい」「マジかよ」などと好き勝手に言っている姿を見て、半ば諦めるしかなかった。 人の情報を勝手に明かさないで欲しいものだが、仕方がない。 「じゃあやっぱり、あんたも楽器と言ったらピアノだよね」 その言葉に、体が揺れる。 「……いや」 咄嗟に独り言のような否定が顔を覗かせたが、我に返った俺は言葉を重ねる。 「そうだな、俺もそう思うよ」 やけ濁った旋律が、耳から離れなかった。 白鍵七に黒鍵五。現代に普及した鍵盤の定石だが、俺はそればかりが鍵盤だとは微塵も思っていなかった。 皆は知らなすぎるんだ、多種多様な音の美しさの上に音楽が成り立つんだということを。ピアノは素晴らしい楽器だが、そればかりを持て囃すことは納得出来ない。そもそもとして数が揃えられ普及したのはピアノだったが、それ以前を支えていたのは……。 数人と別れた後、一人になった俺は帰路を辿っていた─筈だったが、考えに耽っていた為かいつの間にやら見知らぬ土地まで来てしまっていた。 人気の少ない裏の通りだが、少し場所が外れるだけでこうも感覚がズレるとは驚いた。同じ様相のようで見慣れない物件もそうだが、何より好奇心が湧いてしまったのが痛手だ。時折ある、どうせ来てしまったのならちょっと散策してやろうという深夜テンションにも近い変な意識が湧いて出てしまった。 車両一台分の道路が続く道を少し進み、更に細い道に入り込む。最早左右は人工物では無く植物が殆どだが、それがかえって好奇心を刺激する。この先には何かあるという盲目で純粋な妄想に近い期待感が、全身を支配していた。 「……ハープシコード?」 −−バシッ−− 木々のざわめきの中、痛烈な音が吹き抜ける。 痛い。この痛みは嘘偽りじゃない。この空間に鏡なんて物は無いが、俺の右頬の腫れは想像にかたくない。 しかし、何故こんな代物がよりによってこんな場所に放置されているんだろうか。遠目でも分かる優美な装飾は、それでいて派手では無く、そつの無い美しさ、何より野ざらしの環境に置かれながら、丁重に保管されてきたかのような状態が見て取れる。それはまるで、ここがかつての栄華の地であるかのように人を惑わし、そこに俺を拐かそうとしている。 「これが高鳴りの正体か? いいな、乗ってやる」 崩れ気味の襟を、思わず正そうなんて自分らしくもないことを考える。 目の前のソレに当てられて、自分までもが時代へと吸い込まれそうになっている。しかし、俺は俺だ。そして過去は今では無い。 「なあ、お前は何を望んでんだ?」 一歩、また一歩、まだ一歩、ただ前へ進む。 大胆に、そして慎重に。 呑まれないよう気を確かに保ちつつ−−なんて考えている時点で、既に時代の虜なのかもしれない。もし世界を俯瞰出来るのなら、今の俺はただ歩いているだけに映るだろうが、目の前のソレがそうではないと告げている。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 進みつつ俺は、今日の記憶を思い出していく。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 「楽器って言えばさ、やっぱりピアノだよね~」 「分かる。ピアノ弾ける人憧れるし」 「バイオリンとかピアノとか、育ち良さそうで良いよね」 「いや分かるわ。めっちゃカッケーよな」 「こいつ、確か弾けるだろ」 「じゃあやっぱり、あんたも楽器と言ったらピアノだよね」 「……いや」 「そうだな、俺もそう思うよ」 俺は基本的に無神論者だ。 神よりも信じたいものがあるし、超常的な存在は創作世界の産物だと一蹴していた。 少なくとも、今の今までは……。 強烈なサウンドの嵐が周囲に吹き荒れると、俺は咄嗟に耳を塞いだ。 腹の底を揺らされるような凶暴さ、そして脳を掻き回されるような憎悪の音。それらを目の前にして、両手ではあまりにも無力だった。 轟音に押されバランスを崩し、上半身が後ろへと仰け反る。そのまま倒れてしまう前に足を引き、何とか体を支える。しかしその時、気が付いた。 踏みしめる大地が、先程までのソレでは無いことに。 「これは、ヤバいな」 見渡す限りの建造物が、周囲にそびえ立っていた。 土や砂は見る影も無く、石材の敷き詰められた人工の大地へと変化している。そして立ち並ぶ家屋もまた石材だが、日本人にはあまり馴染みの無い雰囲気をしていて、所謂ところの異世界モノと言われる作品に使われるような、中世ヨーロッパあたりの街並みに近い。そういった街となっている。しかし、辛うじてこれが現実では無いと認識出来ているのは、この街が街として機能しているように見えないお陰だ。 どうして見えないかと言えば、至極単純な理由だが、広い一本道だと言う点だろう。 恐らくではあるが、あのハープシコードが創り出した空間なのであれば、アレの意思が形成に大きく関わっている筈だ。この一本道を作り出したと言うことは、この道を進めということだろう。 しかし、意外だと感じる。 来いと言うのなら、こんな事をする必要は無い。であれば一体何の意図が……。 思案に耽る若き背中に、迫る影があった。 カチャカチャと金具の打ち合う音が、突然背後から聞こえる。 半ば反射で振り向くと、その正体はフワフワと舞う甲冑の群であった。 「……冗談だろ」そう呟く。しかしそれは冗談などでは無く、個々のパーツは着々と在るべき位置へと装着され、一つの空甲冑を形成しつつある。 この空の甲冑は動き出す。 そう言わしめるだけの世界が、ここにはあった。 「あのクソ野郎!」 竦む足を暴言という鞭で叩き付ける。 不満で不安を上書きしなければならない程、十分にこの状況に畏怖している自分がいた。 必死に走り出しながら後ろの様子を伺うと、甲冑は既に完成している。だが動き出す様子は無い。まるで何か、最後のパーツを待っているかのように。 「動かないのか?」 足を止め、呼吸を整つつ笑う。 「なんだ、拍子抜けだな」 強がりなのは分かっている。でも強がるしか無いのだ。 空が青い。どこまでもどこまでも青い。 まるでご飯時のような眩い明るさをしている。 「今は夕方だっつーの」 見上げた顔を顰めつつ、平時に近しい心拍を確認する。 甲冑は未だ動かないが、なぜだか目を離せないでいた。 ふと前方に立ち直り考える。 別にあの甲冑なんてさっさと無視して、前に進めば良いじゃないか。そう思い直すと、また歩みを進めようと決めた。 「進むしか無いな。でも……」 あの甲冑は気がかりだが、先に進むのが先決だ。しかしこの世界はアレの意思で構成されている。であれば、あの甲冑は何なんだ? そんな思考の連鎖を断ち切ったのは、風の音だった。 「なんだ」 昔から良いと褒められた俺の耳が、微かな音の機微を伝えてくれる。 普通の風の音では無い。それは鋭く、固く、そして直線的で、速い。まるで鳥が獲物を刈り取るような、そんな威圧がある。 何か直感が訴えている。「避けろ」と。 それに従い身を屈めると、頭上から音と共に風が吹き抜けた。 全身から嫌な汗が流れ出す。 もしも屈んでいなかったら。そんな嫌な考えが頭をよぎり、急いで首を振った。 また立ち上がって目を開くが、周囲に変化は無い。しかし一つだけ引っかかる所がある。それはあの風の方向だ。あの風は俺の後ろに向けて吹き抜けた。そして俺の後ろにあったのは── 「あのクソ野郎が!」 二度目の鞭は、それ以上の思考を与えないよう打ち付けられた。 甲冑は完成していた。しかし足りないように見えるピース。簡単に予測出来ることだった。そんなものどう考えたって一つしか無いだろう。 ただひたすらに走る。 何度か足を滑らせたが、必死に踏ん張って前へ進む。 後ろは振り向かない。振り向くまでもなく、振り向いたとして勝ち目なんてない。 可動部の打ち合う音は離れるどころか、少しずつにじり寄って来ている。 幸か不幸かその両方か、この世界は一本道だ。だから迷うことは無い。だがそれは隠れる場所も無いということだ。今のところゴール地点は検討もつかないし、甲冑との追いかけっこを続ける以外に手が無い。 「足が棒になりそうだ」 万年帰宅部の俺には、平均以下の体力しか無いのだ。それなのにこの戦いはあまりにも不利すぎる。なんという理不尽だ。 甲冑の音がまた近付いている。 どうして俺がこんな目に遭っているのか、皆目見当もつかない。 ああ、クソ! クソ! クソ! 心の中で絶叫するも、事態は収束しない。 恨む反面、半ば冷静になりつつある思考が動き始める。 俺は何故ここに連れてこられたんだろうか。この空間に移動する前、俺は何をしていた? 確か俺は、あのハープシコードへ近付いていた筈だ。しかし、この空間にアイツは居るのだろうか。この一本道はアイツに続くというのは間違った推測。だとすれば閉じ込める目的はなんだ。 「うわっ」 突然足を引っ掛け、派手に転ぶ。 体は一回転し横に倒れ、打撲の痛みが全身を襲った。 立ち上がれずにいると、いつの間にやら目の前へと辿り着いた甲冑が、俺を見下している。 最悪の状況だ。しかしそれが、俺をかえって冷静にさせた。 アイツは必ず俺を見ている。でなければこんな回りくどいやり方をする必要は無い。俺を排除するだけなら簡単な筈だ。だがあいつは余地を与えた。まるで何かを試すような、そんな余地を与えた。だが、何を試しているのだろうか。俺はここに来る前、今日の会話を思い返していた。そして突然大きな音を鳴らした。 大きな音? あの時あの音から感じた感情。それは憎しみだ。何かに対しての強烈な憎しみ。それが俺の記憶に反応して湧き出したのだとしたら……。 甲冑に握られた剣は、俺を正確に捉えている。 眼前に向けられた切っ先が、俺を睨み付けている。 そして狙いは定まったと言わんばかりに甲冑が腕を振りかぶると、刃が振り下ろされ始める。 首に向かい刃が触れようとしたその時。 「楽器はピアノばかりじゃない」 ピタリと刃が止まった。 いくら冷静になったとはいえ、汗も心拍も限界に近い。 どうやら推測が当たったようだから助かったが、もう少しで胴体とサヨナラするところだった。 取り敢えず助かったが、まだ世界は戻らない。もう一押し必要なようだ。 一度呼吸を整えて、ハッキリと言い放つ。 「俺は楽器の代表がピアノだなんて思ってない」 激しい耳鳴りが耳を襲い、世界が揺れる。 甲冑はガタガタと崩れ落ち、空はぐるぐると回転している。 あまりの惨状とうるさい耳鳴りに当てられ、意識が遠のいてく。 「ああ、クソ。手間かけさせやがって」 そして意識が途切れた。 −− −− −い「おい」「おい!」 「……んん、なんだ」 女性の声に目を覚ますと、茜色の空が広がっている。 どうやら俺は戻って来られたようだ。 上半身を起こして見回すが、女性の姿は見当たらない。 「おかしいな、女性は何処に」 「ここだ人間」 「はは、どうやらまだ夢の中らしい」 戻ってきたかと思ったが、思い違いだったようだ。 「何が夢だこの戯けが。ここに居ると申しているだろう」 腕をつねってみると、確かに痛い。 「どうやら夢じゃ無いんだな。ハープシコードの乙女さん」 「誰が乙女だと? 死にたいのか人間」 この楽器は随分と物騒だ。時代が中世で停滞しているんだろう。 「ごめんごめん。でもどうして楽器が話せるんだ?」 「知らぬ。気が付いたらこうであった」 見たところ丁寧にされていたようだし、付喪神というやつだろうか。 「なるほどね。まあそれはいいとして、どうしてこんな所に居るんだ」 「我は忘れられたのだ」 「忘れられた?」 「そうだ。忘れられ、そしてここに置き去りにされたのだ」 「そうか、でもどうして撤去とかされないんだ。別に人がいない訳じゃないだろ?」 「それは我の力で人を寄せ付けていないからだ。普通はここに人は入れない」 「じゃあどうして俺は入れたんだ?」 「それは、我が寝ている間に入られたのだ」 「案外無防備なんだな」 「やかましい。だが我も油断していた」 「それで、どうして俺を見逃したんだ?」 「貴様の心が見えたからだ」 俺の心が見えたって、一体どういうことだろうか。 「心?」 「そうだ。あの憎きピアノをまるで頂点であるかのように語るのが、我には許し難い」 なるほど、やっぱりピアノと何か因果があるんだな。 「そっか、でもそれならその力でピアノに復讐したりとかしないのか?」 「しない。というより出来ない。我は自力ではここから動けないのだ」 そうか、だったら。 「だったら、俺と一緒に来ないか?」 「何? 貴様と一緒にだと?」 「ああ、俺と一緒にだ」 「我を再び奏でるというのか、小僧」 「ああ、俺がお前を輝かせてやる」 「生意気だな。だが、面白い」 「いいだろう。お前について行く。それで我で何を奏でるつもりだ。バロックか? ルネサンスか?」 「いいや、違う」 「であれば何を弾くというのだ」 「現代音楽」 「何? 現代音楽だと?」 「ああ、取り残されたお前に、新しい音楽を見せてやる」 「いいだろう。それもまた面白い」 「じゃあ行こう」 話がまとまったのはいいものの、どうやって運ぼうか。それを考えていなかった。 「と思ったが、どうやって移動すれば良いんだ」 「考えていなかったのかこの阿呆め。仕方ない。少し待て」 暴言を言われ顔を顰めていると、周囲の草がハープシコードを中心に渦を巻くように揺れ始める。 やがて風は強くなり、勢いに押され始めた体を腕でガードする。 前の様子が見えない。一体どうなっているんだろうか。 そう考えている内に風は収まり、声が届いた。 「良いぞ、これで行けるだろう」 恐る恐る前を向くと、そこには衝撃的な光景があった。 「っ…!」 あまりの予想外に声が出ず、見開いた目は縫い付けたかのように開いたまま、そこを見つめていた。 「どうした。我の美しさに声も出ないか」 そこに居たのは俺と同年代程度の、俺と同じ制服を身にまとった女の子。 そう、人間の女の子である。 「おいおいおい、冗談だろ」 「何を言うか、冗談などではない」 冗談だとしか思えない。そして本人の言う通り、美しい外見をしている。 こちとら経験不足の高校生だって言うのに、いきなりこれで冷静になれるかと言われれば、無理だ。 「何を縮こまっている。我を連れて行くんだろう。ほれ、早く連れて行け」 そう言って差し出される手は小さく細い。 「えーっと」 俺がそれを取りあぐねている間、微動だにせず俺を待っている。 その姿にとうとう根負けした俺は諦めて手を伸ばす。 「……はぁ。分かった。行こう」 夕日に包まれ歩く帰路。今日は不思議な一日だったと思いを馳せる。 何かの間違いではないかと思える話だが、赤く照らされたこの美しい女子は、ここに居ると言わんばかりに俺を見つめている。 「明日から、新しい音楽を作っていこう」 「ああ、精々我を楽しませるがいい。小僧」 これは影に隠れたハープシコードの、再奏の物語である。
再奏【下】
俺は基本的に無神論者だ。 神よりも信じたいものがあるし、超常的な存在は創作世界の産物だと一蹴していた。 少なくとも、今の今までは……。 強烈なサウンドの嵐が周囲に吹き荒れると、俺は咄嗟に耳を塞いだ。 腹の底を揺らされるような凶暴さ、そして脳を掻き回されるような憎悪の音。それらを目の前にして、両手ではあまりにも無力だった。 轟音に押されバランスを崩し、上半身が後ろへと仰け反る。そのまま倒れてしまう前に足を引き、何とか体を支える。しかしその時、気が付いた。 踏みしめる大地が、先程までのソレでは無いことに。 「これは、ヤバいな」 見渡す限りの建造物が、周囲にそびえ立っていた。 土や砂は見る影も無く、石材の敷き詰められた人工の大地へと変化している。そして立ち並ぶ家屋もまた石材だが、日本人にはあまり馴染みの無い雰囲気をしていて、所謂ところの異世界モノと言われる作品に使われるような、中世ヨーロッパあたりの街並みに近い。そういった街となっている。しかし、辛うじてこれが現実では無いと認識出来ているのは、この街が街として機能しているように見えないお陰だ。 どうして見えないかと言えば、至極単純な理由だが、広い一本道だと言う点だろう。 恐らくではあるが、あのハープシコードが創り出した空間なのであれば、アレの意思が形成に大きく関わっている筈だ。この一本道を作り出したと言うことは、この道を進めということだろう。 しかし、意外だと感じる。 来いと言うのなら、こんな事をする必要は無い。であれば一体何の意図が……。 思案に耽る若き背中に、迫る影があった。 カチャカチャと金具の打ち合う音が、突然背後から聞こえる。 半ば反射で振り向くと、その正体はフワフワと舞う甲冑の群であった。 「……冗談だろ」そう呟く。しかしそれは冗談などでは無く、個々のパーツは着々と在るべき位置へと装着され、一つの空甲冑を形成しつつある。 この空の甲冑は動き出す。 そう言わしめるだけの世界が、ここにはあった。 「あのクソ野郎!」 竦む足を暴言という鞭で叩き付ける。 不満で不安を上書きしなければならない程、十分にこの状況に畏怖している自分がいた。 必死に走り出しながら後ろの様子を伺うと、甲冑は既に完成している。だが動き出す様子は無い。まるで何か、最後のパーツを待っているかのように。 「動かないのか?」 足を止め、呼吸を整つつ笑う。 「なんだ、拍子抜けだな」 強がりなのは分かっている。でも強がるしか無いのだ。 空が青い。どこまでもどこまでも青い。 まるでご飯時のような眩い明るさをしている。 「今は夕方だっつーの」 見上げた顔を顰めつつ、平時に近しい心拍を確認する。 甲冑は未だ動かないが、なぜだか目を離せないでいた。 ふと前方に立ち直り考える。 別にあの甲冑なんてさっさと無視して、前に進めば良いじゃないか。そう思い直すと、また歩みを進めようと決めた。 「進むしか無いな。でも……」 あの甲冑は気がかりだが、先に進むのが先決だ。しかしこの世界はアレの意思で構成されている。であれば、あの甲冑は何なんだ? そんな思考の連鎖を断ち切ったのは、風の音だった。 「なんだ」 昔から良いと褒められた俺の耳が、微かな音の機微を伝えてくれる。 普通の風の音では無い。それは鋭く、固く、そして直線的で、速い。まるで鳥が獲物を刈り取るような、そんな威圧がある。 何か直感が訴えている。「避けろ」と。 それに従い身を屈めると、頭上から音と共に風が吹き抜けた。 全身から嫌な汗が流れ出す。 もしも屈んでいなかったら。そんな嫌な考えが頭をよぎり、急いで首を振った。 また立ち上がって目を開くが、周囲に変化は無い。しかし一つだけ引っかかる所がある。それはあの風の方向だ。あの風は俺の後ろに向けて吹き抜けた。そして俺の後ろにあったのは── 「あのクソ野郎が!」 二度目の鞭は、それ以上の思考を与えないよう打ち付けられた。 甲冑は完成していた。しかし足りないように見えるピース。簡単に予測出来ることだった。そんなものどう考えたって一つしか無いだろう。 ただひたすらに走る。 何度か足を滑らせたが、必死に踏ん張って前へ進む。 後ろは振り向かない。振り向くまでもなく、振り向いたとして勝ち目なんてない。 可動部の打ち合う音は離れるどころか、少しずつにじり寄って来ている。 幸か不幸かその両方か、この世界は一本道だ。だから迷うことは無い。だがそれは隠れる場所も無いということだ。今のところゴール地点は検討もつかないし、甲冑との追いかけっこを続ける以外に手が無い。 「足が棒になりそうだ」 万年帰宅部の俺には、平均以下の体力しか無いのだ。それなのにこの戦いはあまりにも不利すぎる。なんという理不尽だ。 甲冑の音がまた近付いている。 どうして俺がこんな目に遭っているのか、皆目見当もつかない。 ああ、クソ! クソ! クソ! 心の中で絶叫するも、事態は収束しない。 恨む反面、半ば冷静になりつつある思考が動き始める。 俺は何故ここに連れてこられたんだろうか。この空間に移動する前、俺は何をしていた? 確か俺は、あのハープシコードへ近付いていた筈だ。しかし、この空間にアイツは居るのだろうか。この一本道はアイツに続くというのは間違った推測。だとすれば閉じ込める目的はなんだ。 「うわっ」 突然足を引っ掛け、派手に転ぶ。 体は一回転し横に倒れ、打撲の痛みが全身を襲った。 立ち上がれずにいると、いつの間にやら目の前へと辿り着いた甲冑が、俺を見下している。 最悪の状況だ。しかしそれが、俺をかえって冷静にさせた。 アイツは必ず俺を見ている。でなければこんな回りくどいやり方をする必要は無い。俺を排除するだけなら簡単な筈だ。だがあいつは余地を与えた。まるで何かを試すような、そんな余地を与えた。だが、何を試しているのだろうか。俺はここに来る前、今日の会話を思い返していた。そして突然大きな音を鳴らした。 大きな音? あの時あの音から感じた感情。それは憎しみだ。何かに対しての強烈な憎しみ。それが俺の記憶に反応して湧き出したのだとしたら……。 甲冑に握られた剣は、俺を正確に捉えている。 眼前に向けられた切っ先が、俺を睨み付けている。 そして狙いは定まったと言わんばかりに甲冑が腕を振りかぶると、刃が振り下ろされ始める。 首に向かい刃が触れようとしたその時。 「楽器はピアノばかりじゃない」 ピタリと刃が止まった。 いくら冷静になったとはいえ、汗も心拍も限界に近い。 どうやら推測が当たったようだから助かったが、もう少しで胴体とサヨナラするところだった。 取り敢えず助かったが、まだ世界は戻らない。もう一押し必要なようだ。 一度呼吸を整えて、ハッキリと言い放つ。 「俺は楽器の代表がピアノだなんて思ってない」 激しい耳鳴りが耳を襲い、世界が揺れる。 甲冑はガタガタと崩れ落ち、空はぐるぐると回転している。 あまりの惨状とうるさい耳鳴りに当てられ、意識が遠のいてく。 「ああ、クソ。手間かけさせやがって」 そして意識が途切れた。 −− −− −い「おい」「おい!」 「……んん、なんだ」 女性の声に目を覚ますと、茜色の空が広がっている。 どうやら俺は戻って来られたようだ。 上半身を起こして見回すが、女性の姿は見当たらない。 「おかしいな、女性は何処に」 「ここだ人間」 「はは、どうやらまだ夢の中らしい」 戻ってきたかと思ったが、思い違いだったようだ。 「何が夢だこの戯けが。ここに居ると申しているだろう」 腕をつねってみると、確かに痛い。 「どうやら夢じゃ無いんだな。ハープシコードの乙女さん」 「誰が乙女だと? 死にたいのか人間」 この楽器は随分と物騒だ。時代が中世で停滞しているんだろう。 「ごめんごめん。でもどうして楽器が話せるんだ?」 「知らぬ。気が付いたらこうであった」 見たところ丁寧にされていたようだし、付喪神というやつだろうか。 「なるほどね。まあそれはいいとして、どうしてこんな所に居るんだ」 「我は忘れられたのだ」 「忘れられた?」 「そうだ。忘れられ、そしてここに置き去りにされたのだ」 「そうか、でもどうして撤去とかされないんだ。別に人がいない訳じゃないだろ?」 「それは我の力で人を寄せ付けていないからだ。普通はここに人は入れない」 「じゃあどうして俺は入れたんだ?」 「それは、我が寝ている間に入られたのだ」 「案外無防備なんだな」 「やかましい。だが我も油断していた」 「それで、どうして俺を見逃したんだ?」 「貴様の心が見えたからだ」 俺の心が見えたって、一体どういうことだろうか。 「心?」 「そうだ。あの憎きピアノをまるで頂点であるかのように語るのが、我には許し難い」 なるほど、やっぱりピアノと何か因果があるんだな。 「そっか、でもそれならその力でピアノに復讐したりとかしないのか?」 「しない。というより出来ない。我は自力ではここから動けないのだ」 そうか、だったら。 「だったら、俺と一緒に来ないか?」 「何? 貴様と一緒にだと?」 「ああ、俺と一緒にだ」 「我を再び奏でるというのか、小僧」 「ああ、俺がお前を輝かせてやる」 「生意気だな。だが、面白い」 「いいだろう。お前について行く。それで我で何を奏でるつもりだ。バロックか? ルネサンスか?」 「いいや、違う」 「であれば何を弾くというのだ」 「現代音楽」 「何? 現代音楽だと?」 「ああ、取り残されたお前に、新しい音楽を見せてやる」 「いいだろう。それもまた面白い」 「じゃあ行こう」 話がまとまったのはいいものの、どうやって運ぼうか。それを考えていなかった。 「と思ったが、どうやって移動すれば良いんだ」 「考えていなかったのかこの阿呆め。仕方ない。少し待て」 暴言を言われ顔を顰めていると、周囲の草がハープシコードを中心に渦を巻くように揺れ始める。 やがて風は強くなり、勢いに押され始めた体を腕でガードする。 前の様子が見えない。一体どうなっているんだろうか。 そう考えている内に風は収まり、声が届いた。 「良いぞ、これで行けるだろう」 恐る恐る前を向くと、そこには衝撃的な光景があった。 「っ…!」 あまりの予想外に声が出ず、見開いた目は縫い付けたかのように開いたまま、そこを見つめていた。 「どうした。我の美しさに声も出ないか」 そこに居たのは俺と同年代程度の、俺と同じ制服を身にまとった女の子。 そう、人間の女の子である。 「おいおいおい、冗談だろ」 「何を言うか、冗談などではない」 冗談だとしか思えない。そして本人の言う通り、美しい外見をしている。 こちとら経験不足の高校生だって言うのに、いきなりこれで冷静になれるかと言われれば、無理だ。 「何を縮こまっている。我を連れて行くんだろう。ほれ、早く連れて行け」 そう言って差し出される手は小さく細い。 「えーっと」 俺がそれを取りあぐねている間、微動だにせず俺を待っている。 その姿にとうとう根負けした俺は諦めて手を伸ばす。 「……はぁ。分かった。行こう」 夕日に包まれ歩く帰路。今日は不思議な一日だったと思いを馳せる。 何かの間違いではないかと思える話だが、赤く照らされたこの美しい女子は、ここに居ると言わんばかりに俺を見つめている。 「明日から、新しい音楽を作っていこう」 「ああ、精々我を楽しませるがいい。小僧」 これは影に隠れたハープシコードの、再奏の物語である。
再奏【中】
「……ハープシコード?」 −−バシッ−− 木々のざわめきの中、痛烈な音が吹き抜ける。 痛い。この痛みは嘘偽りじゃない。この空間に鏡なんて物は無いが、俺の右頬の腫れは想像にかたくない。 しかし、何故こんな代物がよりによってこんな場所に放置されているんだろうか。遠目でも分かる優美な装飾は、それでいて派手では無く、そつの無い美しさ、何より野ざらしの環境に置かれながら、丁重に保管されてきたかのような状態が見て取れる。それはまるで、ここがかつての栄華の地であるかのように人を惑わし、そこに俺を拐かそうとしている。 「これが高鳴りの正体か? いいな、乗ってやる」 崩れ気味の襟を、思わず正そうなんて自分らしくもないことを考える。 目の前のソレに当てられて、自分までもが時代へと吸い込まれそうになっている。しかし、俺は俺だ。そして過去は今では無い。 「なあ、お前は何を望んでんだ?」 一歩、また一歩、まだ一歩、ただ前へ進む。 大胆に、そして慎重に。 呑まれないよう気を確かに保ちつつ−−なんて考えている時点で、既に時代の虜なのかもしれない。もし世界を俯瞰出来るのなら、今の俺はただ歩いているだけに映るだろうが、目の前のソレがそうではないと告げている。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 進みつつ俺は、今日の記憶を思い出していく。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 「楽器って言えばさ、やっぱりピアノだよね~」 「分かる。ピアノ弾ける人憧れるし」 「バイオリンとかピアノとか、育ち良さそうで良いよね」 「いや分かるわ。めっちゃカッケーよな」 「こいつ、確か弾けるだろ」 「じゃあやっぱり、あんたも楽器と言ったらピアノだよね」 「……いや」 「そうだな、俺もそう思うよ」
独筆文
『書く』という行為に対し、あまり身構えるのも良くないのかと思う今日この頃、小説という括りから抜け出し、エッセイというものに手を出そうと考え今に至りますが、それもまた簡単では無いようです。なんとも嘆かわしいとため息をついたとて、文章は綴られないのですが… エッセイとは自由である。という言葉を幾度とも目にしましたが、私からしてみればそれは、驚くべきハードルに他ならないと感じます。というのも、私にとっては小説を綴ろうという試み以上に、エッセイというものに対して難しさを覚える節があります。そしてそれは、過大な自由という縛りによって、何を書けば良いのかと途方に暮れてしまうからなのです。 ただ主観を綴れば良いのだ。と自由を突き付けられた際、それは銃口にも勝るとも劣らない引き金の境地に立たされたかのような、選択への硬直が絶えず現れます。 小説、詩、歌、あるいは俳句などの作品には、規律という柵の中での創作が主であり、無論創作者の自由は存在していますが、形式に則り書き連ねる環境が適度な制限によって想像能力を掻き立て、刺激となります。ですが、エッセイという分野においてはその柵は取り払われている。もしくは圧倒的に広い空間が保証されていると印象を受けます。そして、これがかえって何を書けば良いのか分からないという疑念を生んでしまうのです。 好き勝手に好きなものを書けば良いでは無いか。 それこそが、やはり中々どうして難しいものなのです。 何よりもこの飛び越えるべきハードルを補佐し、支柱を伸ばさんとする感情が存在しています。それは面白味という観点です。 要するところ、自分の主観を勝手に綴った文章なんて誰が読むのだろうか。という後ろ向きな疑念です。 先程挙げた柵の分野達には、明確な評価点を定めるのに苦労しないでしょう。例えば、表現の多彩さや物語そのものの面白さ、制限の下に表れる創意工夫であったり、キャラクターへの感情移入などの評価点がいくつも存在します。これらによって、読者は注目と関心を持ち、作品として認めていくでしょう。 対しエッセイでは主に、共感や感心、興味などの非常に曖昧な観念によって読者は感情の揺らぎを獲得するでしょう。ですから、結局のところ何を書けば良いのか、好きなことでそれらを与えられるのかなどの疑念が絶えないのです。 自由であるからこそ苦悩し、また好きにすれば良いからこそ好きの価値を思索してしまいます。 執筆力不足からの解放を求め、顔を覗かせたのは良いものの、自らの思考によって雁字搦めにされるとはなんとも皮肉なものですが、半ば分かっていることもあるのです。 エッセイという分野の性質上、それは好きなことを好きなように書くものなのだから、読者の受ける印象や価値判断など関係無く好き放題書けば良い。ただそれだけのことなのでしょう。頭を抱える真の原因は、自らの見られることに対する歪んだ感性こそが悪癖であるということです。 見られるのだから上手に。 見られるのだから面白く。 見られるのだからetc. そういった見られるという状況に対する過剰な反応が、自らを縛り付けているのです。 ですから私は− 『書く』という行為に対し、あまり身構えるのも良くないのかと思う今日この頃、小説という括りから抜け出し、エッセイというものに手を出そうと考え今に至ります。
命巡り
等間隔に並べられた、整然な石達。その間を、花束を抱えて歩いていた。踏みしめる度、大地がささやかに私に語りかける。囁きは空に帰り、風が吹き抜けた。やけに寂しい道筋だ。ある石の周りだけはその寂しさを忘れさせるように、花達が美しく咲いている。私は石の前で足を止めると、花束を添えた。 命とは、その答えを知るために。 「ねぇ、命ってなに?」 無垢な子供が私にそう聞いた時、私は頭を抱えた。命とは何か。その問いに対して、私は明確な答えを持ち合わせていなかったのだ。だから、私はこう言った。 「十年後、また聞いてくれ。その時答えよう」と。 そう答えた次の朝、私はすぐに家を出た。命とは何か、学ばねばならない。そう考えたからだ。まず向かった先は、教会だ。最も身近に思い当たる場所が、そこであったからだ。辿り着いた私はそこに居た神父に対して、すぐさま聞いた。 「神父様、命とは一体何なのでしょうか」 その不躾な質問に対して、神父はゆっくりと瞬きをし、数秒の沈黙の後に口を開いた。 「命とは、神に与えられたものです。我々生きる者達は、それを大切にしなければなりません」 それを聞くとすぐに礼を言い、教会を飛び出した。家に戻ると、また命について思考を巡らせた。 次に家を飛び出したのは、三月も後のことであった。その間考え続けた私は、とうとう答えを出せなかった。まだ学びが足りない。そう考えた私は、ある羊飼いの所へと向かっていた。命と身近に触れ合う彼ならば、何か知っていると思ったからだ。挨拶もそこそこに、私は質問を投げかけた。 「命とは、一体何だと思う?」 彼はしばらく難しい顔をして、何も知らぬ羊の方に視線を送ると、口を開いた。 「命とは、多分変わり続けるということだと思う。僕や羊達も、変化している。場所も、姿も」 それを聞き、羊をひとつ撫でてから家へと戻ると、また命について思考を巡らせた。 次に家を飛び出したのは、一年も後のことであった。その間考え続けた私は、とうとう答えを出せなかった。何故答えが出ないのか思い悩んだ私は、ある傭兵の所へと向かっていた。剣を振るう彼ならば、命に近しいと思ったからだ。会ってからしばらく雑談を交え、私は質問をした。 「命とは、どのようなものだろうか」 傭兵は立て掛けた剣の鞘を撫で下ろすように触った後、私に立ち直って口を開いた。 「命とは、失い続けることだろう。私は今まで、沢山のものを失った。そして、皆平等に、その人生の時間を失い続けている」 聞いた後、またしばらく話してから、その場を後にした。少し花屋に寄り道をしてから家に戻り、一杯あおって、また思考を巡らせた。次に家を飛び出した頃には、もう十年経っていた。私はその間に三人から学び、そして自分自身も考え続けた。考え続け、そしてとうとう一つの答えを導き出した。後はこれを伝えるだけだ。 命とは、一体何なのか。それを知るために、私はとある老人の所へと向かっている。長年考えた彼ならば、きっとその答えを知っているだろう。やけに寂しい道筋が、私の期待を膨らませた。足を止めると、十年待った質問を十年ぶりに言葉にした。 「命とは、一体何なのでしょうか?」 その問いを発する先には、石があった。美しく咲いた花達が、風に煽られ僅かに揺れている。草花の擦れる心地の良い音の中で、その問いは拾い上げられた。 命とは、なんだろうか。 一枚の花弁が、青年の頬へと張り付く。 あぁ、そうか。そういうことだったのか。優しい笑顔を滲ませながら、青年はそれを丁寧に握ると、胸へと押し当てこう言った。 「命とは、巡るものなんだ」
研磨【プロローグ】
細工品を見るのは非常に好ましい。 特別な材料は必要としない。ただ、見渡す限りに転がっているような石ころだったり、どこにでも手に入る物品を用いて作られた品々は目の癒しとなる。私にとって特別性は、周りに回って価値を失ってしまう。それが少々疎ましく思うのは、私が拾われない石だからであろうか。 職人の手は美しい。それは世間一般で言う美麗とは異なる。ただ、一つを極め磨き抜かれた指先には、無上の価値がある。そう私は思う。しかし同時に、それ以外を疎む私の心は、誰の手にも渡らないことは明白であった。 巧妙な細工はその技術に価値があり、成果物は素材以上の価値を生む。切磋琢磨が生み出した価値は、金色の輝きをも上回る。私はそう信じている。ただ時折思うのだ。全力を注いだ作品は淘汰され、大して心血を注いだ訳でもない作品が評価されてしまう。そんな瞬間が心寂しい。そしてそれ以上に、恐ろしいのだと。
再奏【上】
「我を再び奏でるというのか、小僧」 吸い込まれるように深く、底の見えない黒色の鍵盤は、艶やかに人を魅了する。まるでそれは、奏者の生を鮮やかに吸い取る悪魔であり、聴衆を惹き付ける女神を思わせた。 かつて人を狂気に貶めた悪魔が、影より私達を眺めている。 ─ああ、忌々しい。 我は死んでなどいない。 人は我を求めた。我の音色を、その美しさを。 我は与えた。美しい音楽の鼓動を、命を。 皆潰えた。我に狂った者共は皆潰えた。 我に狂い、我を求め、我を奏で、我の元に死んだのだ。 今はどうだ。この暗闇に我を求める光など無いではないか。 ─ああ、実に忌々しい。 これも全ては奴が、奴さえ居なければ……。 「楽器って言えばさ、やっぱりピアノだよね~」 「分かる。ピアノ弾ける人憧れるし」 「バイオリンとかピアノとか、育ち良さそうで良いよね」 ゆったりと流れる世界に刻まれる、一定のリズム。 合わせて揺れるスクールバックが、いくらか連なっていた。 「いや分かるわ。めっちゃカッケーよな」 「こいつ、確か弾けるだろ」 突如として俺が標的にされる。 反応する間もなく、「知らなかったー」「本当?」「かっこいい」「マジかよ」などと好き勝手に言っている姿を見て、半ば諦めるしかなかった。 人の情報を勝手に明かさないで欲しいものだが、仕方がない。 「じゃあやっぱり、あんたも楽器と言ったらピアノだよね」 その言葉に、体が揺れる。 「……いや」 咄嗟に独り言のような否定が顔を覗かせたが、我に返った俺は言葉を重ねる。 「そうだな、俺もそう思うよ」 やけ濁った旋律が、耳から離れなかった。 白鍵七に黒鍵五。現代に普及した鍵盤の定石だが、俺はそればかりが鍵盤だとは微塵も思っていなかった。 皆は知らなすぎるんだ、多種多様な音の美しさの上に音楽が成り立つんだということを。ピアノは素晴らしい楽器だが、そればかりを持て囃すことは納得出来ない。そもそもとして数が揃えられ普及したのはピアノだったが、それ以前を支えていたのは……。 数人と別れた後、一人になった俺は帰路を辿っていた─筈だったが、考えに耽っていた為かいつの間にやら見知らぬ土地まで来てしまっていた。 人気の少ない裏の通りだが、少し場所が外れるだけでこうも感覚がズレるとは驚いた。同じ様相のようで見慣れない物件もそうだが、何より好奇心が湧いてしまったのが痛手だ。時折ある、どうせ来てしまったのならちょっと散策してやろうという深夜テンションにも近い変な意識が湧いて出てしまった。 車両一台分の道路が続く道を少し進み、更に細い道に入り込む。最早左右は人工物では無く植物が殆どだが、それがかえって好奇心を刺激する。この先には何かあるという盲目で純粋な妄想に近い期待感が、全身を支配していた。
立ち止まって
偶然にも、目の前にて信号が色を変える。 「近頃変化した」と言っても、いつ頃始まったのか曖昧な中で置き換わり、いつしか日常に息を潜めたLED電灯は、現在赤を指し示している。 赤とは停止の意である。などという常識は誰もに刻み込まれているだろうが、要するに足止めを食ったということであった。 目の前で信号が赤になった。 私は日常の中でこれを不幸に語る人々を知っているが、少なくとも今の私はそのように感じてはいない。無論、だからといってその数多人々が間違っているという話ではない。 ただ、少しばかり考え方が違っていたのだ。 陽光も厳しい時期になり、その暑さに外出する気分にはならない。しかし、だからといってやらねばならないことが跡形も残らず消え失せるということもない。残念なことに外出はやむを得ず、結果として汗を滲ませているのである。例え手拭いでそれを拭き取ろうが、こびり付く不快感は拭えないのが目に見えていた。 これでもかと地上を照らす眩しさに目を細める。目で見る世界が狭まった為だろうか、段々と鮮明になる蝉達の鳴き声を感じた。元より目で見ていようがそうで無かろうが、やはり蝉の声は常に聞こえている。だがそういうことでは無い。 耳に入る音と、音を聞くこととでは似て非なるものである。そして改めて蝉達の声を聞き、そこに思い馳せるというのは忘れて久しい行動であった。 それだけに留まらず、普段当たり前に生活するその街並みを改めて見回すと、分かっているようで少しぼやけた記憶が、どんどん刷り直されていく。 あの建物は料理屋だったのかだとか。あそこには木が何本だとか。以前あった建物が改装されているだとか。世界が鮮明になる時間は、確かに存在している。そしてそれは、この偶然が無ければいつの機会になっただろうか。そう思うのだ。 いつしか赤は青へと姿を変え、我々歩行者はまた歩みを進める。 赤は停滞である。そう考えれば不幸なのかもしれないが、私からすれば赤であったお陰で出会えた世界があった。 これを幸せと呼ぶには、些か阿呆らしいだろうか。 私が思うに、幸せとはこの世界に判然と存在する訳ではない。実際のところ、ただどこかで起こった出来事を自らが認識した時、それに応じて幸せを生み出すものなのだ。 確かに足止めをされたと思えば、それはそういう不幸かもしれない。しかし、足を止めたからこそ得られたものがあったのなら、それに幸せを感じるだろう。 笑う門には福来たるということわざがあるが、同じ状況であってもそこに幸せを見い出せる人間程、笑顔で過ごすことが出来る。それは正に人生の福であり、笑う門には福が来るのである。 熱風はやはり耐え難い。出来れば冷房の効いた屋内に素早く避難したいところである。しかし中々どうして、徒歩というのは遅く不便だ。しかしこうして活用しなければ身体は衰えるばかり、であればこの機会を活かす他無いだろう。 ─そういえば、いつ頃から白熱電球は現役を退いたのだろうか。 そんな小さな疑問を胸に、前へと進むのであった。
復活
「よっ、体調治った?」 かつて一部の世を震撼させた概念。しかし未だこの世界では実現していない筈の夢…所謂フルダイブを彷彿とさせるような世界。 何故そう思ったかと言えば、目の前の存在が無からこちらを覗いているからだ。より詳しく説明をすると、まず顔の上半分のみが露出していて、それより下は見切れた写真のように存在していない。空中から顔の上半分だけが、ひょこりとこちらを覗いているのだ。私は間もなく気が付いた。 −あ、夢だわこれ。 左右に目をやりここが何処かを確認すると、見覚えのある様子ばかりが目に映った。どうやらここは自室のようであり、私は布団の上だった。 「体調は治ったけど…君誰?」 質問に返答をすると、まるでアバターが生成されるかのように全身が露になる。先程の感覚に則って語彙を並べるのなら、ログインしたといった感じだ。 「ボクはボクだよ」 「あー、回答になってないけど」 謎の人間、もといアバターと呼ぶことにする。そのアバター君は少し考える素振りを見せると、もう一度口を開いた。 「誰って言われても、キミが一番よく知ってるじゃない」 私はアバター君のことなんて知らないが、夢だからなぁ…。 「あ、うん。それで何か用かな」 「用っていうか、背中を押しに来たんだ」 「背中を押しに…」私が呟くと、「そう、背中を押しにね」とアバターは言った。 「サボりは駄目だと思うんだよね、ボクは」 アバターは忠告をするように私に言うと、肩に触れられる程度の距離まで近付いた。 忠告の言葉を受けた私は、少し胸が締められるような感覚に陥り、夢に必要の無い汗が流れるのを感じていた。 「何となく分かった。まぁ私の夢だし、君も私なんだね」 「気付くのが遅い。減点」 「耳の痛い言葉だなぁ。でも実際気が付きたく無かったというか、なんというか」 窓に目をやると、小鳥がガラスをつついていた。 「とにかく分かってるなら余計ダメだよね。サボりは」 躊躇の無い指摘に、我ながら手厳しいと思う。でも、それだけ私自身がそう思っている証拠なんだ。 「そうだね、でも体調を凄く崩したのは事実だし、情状酌量の余地も…」 じっとこちらを見るアバター君の瞳に、私の言い訳は声を失った。 「はい、すみませんでした。ちゃんとやります」 「うん。自分の為にやってるんだから、サボったら困るのは自分なんだよ。気を付けてね」 そう言い残し、アバター君は姿を消した。ログアウトしたといったところだろうか。 私は立ち上がり、窓へと向かう。 未だに嘴でガラスを突く音が鳴り止まないので、思い切って窓を開け放った。 鳥は羽を撒きながら部屋を一周し、大空へと羽ばたいていった。 空は青いなどと立ち尽くしていると、足元に何か転がっていることに気が付いた。 −これは、原稿用紙か。 私はぐんと伸びをして、なんだか清々しい気分で前を見る。 「さて、やりますかぁ」