じゃらねっこ
93 件の小説同じ物語を書いたなら
多分、この場所がこの空間の中で立てる一番高い位置だ。座標上で言うZ軸で言えば違うだろうが、僕が言いたいのはそういうことでは無い。僕が真に言いたいのは、今この場でトップなのが間違いなく僕だと言うことだ。 僕は一位になった。もっと正しく言うならば、僕の物語が一位になったんだ。これ以上に喜ばしいことは無いだろう。数々のライバルを押し退けて、この僕が勝ったんだ。全ての注目は僕の作品に集まって、皆が僕を認め、数々の人の記憶には作品と名前が残って、多くの人が僕の作品を手に取って… 考えただけでも、それは夢見る光景だと思う。でも僕が一番感じているのは、喜びでも、達成感でも、優越感でも、どれでもない。 今僕が思っていることは、上手く言葉に出来ないけれど。ただ一つだけ言えること。それは、この瞬間、僕は涙を流していたってことだ。 僕は特別なんかじゃない。それは僕がずっと幼くて、多分砂場で砂まみれになっている様な歳の頃から分かっていたことだ。何をやったって平凡で、誰から見たって一般人を地で行く様な人間だったと思う。でも僕には、一つだけ他の人には無いものがあった。彼と友であったのは、多分世界で僕だけだろうから。 幼い頃、砂場で遊んでいた僕がたまたま彼を見つけた。彼は同い年だったけれど、他の子や僕のように駆けずり回って遊んではいなかった。その姿は印象的で、今でも鮮明に思い返せる。彼は木の上に座っていて、そして本を開いていた。風に木の葉が揺らぎ、舞い、そしてその中に静かに佇む彼。風でかかった前髪を静かに避ける姿は、到底僕と同じ子供だとは思えなくて、気が付いたら僕は彼に声をかけていた。それが、僕と彼の出会い。 彼は本が好きだった。土埃に塗れた手を見て彼は「本に触れないでくれ」なんて言ったけれど、決して僕を拒みはしなかった。いつの間にか僕達はずっと一緒に居て、いつも僕が話しかけて、それに彼が答えている。その繰り返しだったけれど、何よりもそれが嬉しくて、楽しい時間だった。彼はいつか本を書きたいと言って、その度にきっと僕達はずっと一緒で、いつか僕は君の本を読むんだと何度も彼に投げかけた。 その度に彼は、少し寂しそうな顔をしていたことに平凡な僕は気が付かなかったけれど、彼も僕に何も言わなかった。 いつの間にか僕達は成長していて、かつて土に塗れた手にはペンが握られ、彼の居場所は木の上から病院のベッドへと変わっていた。少しばかり成長した僕は、流石に彼の寂しい表情を分かっていた。多分、成長していなくても気が付いただろうけれど。 僕は毎日のように彼のもとへと通い続け、話をした。彼は頭が良かったから僕よりも勉強が出来て、学校に通っている僕の方が教えてもらう立場だった。そういえばいつしか彼は本を読まなくなって、僕によく勉強を教えるようになっていたっけ。きっと、気が付いていたんだろう。 それから数年が過ぎて僕が高校生になる頃、彼は息を引き取った。 僕は泣いた。それはもう、泣いても泣いても悲しみは癒えなくて、僕は彼を思い出しながら筆を走らせた。とにかく、彼との思い出を綴って、綴って、そうして全てを書き終えたとき、ひとつの物語が生まれていた。 多分、僕は特別なんかじゃなく平凡で、月を見たって月並みなことしか言えないけれど、彼のことならいくらでも書けたんだ。でもきっと他の人が、僕よりもっと特別な人達が〔同じ物語を書いたなら〕今よりずっと面白くなっただろう。 でもこれは僕にしか書けない物語で、僕の物語だ。だから… 〔同じ物語を書いたなら〕平凡な僕は、誰にも負けない。だって、約束したんだから。 ─ねぇ、僕と君の二人で物語を作ろう。そうして、いつかその物語で一番になるんだ。僕と君、二人で〔同じ物語を書いたなら〕絶対に一番になる。だから約束だ。─ 彼が〔同じ物語を書いたなら〕そして僕がそれを読めたなら、どんな物語だっただろう。 きっと、僕よりずーっと面白いんだろうな。
マイバッド【上】
時折、考える日がある。 近頃急激に気温を上げた空のもと、私は徒歩数分もコンビニへと向かっている。月をひとつがふたつ前に繰り下げれば優しい顔をしていたはずの太陽は、ぎらぎらと周囲へ強い睨みを効かせていた。 「あっつー」 思わず吐露してしまった小さな愚痴は、また誰に届くことも無く空を巻いた。 いつの間にか生活上へと台頭したハンディファンが必死に喉を唸らせているものの、届く風もまた温度を孕んでいて、あまり効果は無い。私はあまり濃いメイクはしないけど、それでも尚この暑さには白旗と心配を掲げざるを得ない。 「日焼け止め、もっとちゃんと塗るんだった…」 そうこうしている内にコンビニへと辿り着くと、私は少々急ぎ気味にドアの前に進んだ。自動ドアが軽快な音と共にスライドすると、この暑さも吹き飛ぶような涼しい風が私を出迎えた。 滲む汗も今や涼しさを助ける支えに過ぎず、天にも登るような快適さに感謝する。 私がコンビニにやって来た理由の一つが、まさに避暑だった。 暑いとは言ってもまだ季節は真夏では無く、家庭でのエアコン代も閑却出来ない程度には打撃を与えてくる。そうすると簡単かつ安い避暑方法は、自然とコンビニになった。 私はもうひとつの理由、お使いを行うべくお菓子の棚へと進み、目当ての商品を橋から順に流し見ていく。大した苦労をすることも無く目当ての商品は見つかり、今度は私の欲しい物のターンがやって来た。 お使いの代金は必要額より上乗せして渡すのが、我が家の暗黙の了解のようなものだった。所謂ところの役得というものであり、相手への感謝と労いを務めるその機能を存分に活かし、私は欲しいものを買うのだ。とは言っても、あくまでそれは主題では無いので精々必要額の三分の一が限度である。今回は五百円程度の買い物に際して、百七十円の上乗せ分が渡された。私はこの金額で何を買うか悩むかと今朝までは考えていた。しかし、今はもう心を決めている。 「アイスーアイスー冷たいアイスー」 外の熱気に一瞬で嫌気がさした私には、やはり冷気が必要なのだ。 冷凍システムの冷ややかな空気を存分に味わいつつ、私はアイスを吟味する。とはいえ、あまり高いアイスは買えない。なので、吟味とは言っても少し見回すだけであり、今回も買うのはいつも食べている氷菓子。ソーダ味が有名な青色の氷塊『ゴリゴリ君』にすることにした。
自己紹介
実は三週間程前に脳のストックが空になりまして… 既に一度書いたのですが、ほぼ情報量が無かったのもありもう一度書こうと思います。 (今回も何も思い付かない日だったとかでは無いです。多分) ではでは、始めていきます。 ①ノベリー始めてどれくらい? 大体一年程度です。 ②ノベリーを始めたキッカケは? 小説書きたいなぁ…って思ったので始めました。 ③読むジャンルは? 拘りは無いですね。本屋にただ立ち寄り、題名だけを眺めてピンと来たものを買って帰ります。 ④苦手なジャンルは? 無いです。 ⑤書くジャンルは? 短編を書きます。内容に関しては特に括りはありません。ただ書きたいものを書いています。 一つありました。中身はフィクションです。 ⑥名前の由来は? はい、猫じゃらしが好きだからです。 ねこじゃらし→ねこじゃら→じゃらねこ→じゃらねっこ こんな感じの連想から決まりました。 ⑦今後の活動方針は? 人様との交流を増やして行きたいと考えています。 鎖国していたらつまらないので… ⑧思い入れのある作品は? 特に無いです。その日考えその日に書きます。 ⑨アイコンは? 最近変え、今のものは手書きです。また時の経たないうちに変えるかもしれません。 ⑩自分のことどう思ってる? 雑魚です。 ああ、自分の作風についてですか… 雑魚い作風です。 ⑪なんか文量少なく無いですか? ああ、確かに…。 もっと書けたら良いのですが、本当にこの文量分しか答えられることが無かったので、こうなってしまいました。 ⑫最後に一言どうぞ えーっと、頑張っていくつもりではあるので、暖かく見守って頂ければ幸いです。
知るという喪失
「知るということは喪失である」 そう彼は題した。 彼が言うに、知ってしまった人間はそれ以上を追い求める機会を失うそうだ。対し私は「知っている者の方が何かを得ているのでは無いか」と説いたところ、「それは違う」と諭された。 「知らない人間はより多くを得る」 これが、彼の持論であった。 しかし私は疑問であった。何故なら、「知らない人間は知っている人間よりも持ち得るものが少ない」と考えたからだ。 彼はそれを激流が如く否定し、新たな言葉を提示した。 「知るとは知識の大小ではない」と。 私は頭を捻った。それはもう、彼の捻くれた根性も叶わぬ程に私は捻った。けれども理解及ばす、彼にその真意を問う。すると彼は答えた。 「知るということは、知っているという意識の芽生えである」と。 続けて彼が言うには、「知っている人間は、追求という感性を失う」ということらしい。 彼はピンと指を一つ立て、私に聞いた。 「君は一を知っているか」と。 私は当然ながら一を知っている。故に「当然だとも」と答えた。 続けて彼は問う。 「では君は、一をどれだけ知っているか」と。 「どれだけ」そう小さく聞き返した私は、今一度一について考えた。しかしながら、当たり前に溶け込む一という概念に対し、私は大した知恵と見解を持ち得ていなかったのだ。 大岩が如き私の長考を見かねた彼が、我が岩を叩き割った。 「君は一を知っていた。それが故に、一を知らなかったのだ」 その言葉に、初めて彼の思考を見る。そして気が付いた。 “私が今までどれだけの喪失を繰り返して来たのか”を。 呆然とする私を前に彼は、 「君は今も尚、知っている人間か」 そう聞いた。 私は当然答えた。 「いいや、私は知らない人間だ」と。
条件付き物件
─このアパートで暮らすにあたって、一つだけ条件があります。その条件が何かと言うと、「僕らを不快にさせないこと」です。ただそれだけ、簡単でしょう?─ 何の変哲もないアパートの一室に、私は入居した。挨拶も一通り済ませると、残っているのは中身の詰まったダンボールだけになり、無事に引越しを済ませられたのだと実感した。 気持ちのいい朝日がこの一室を照らしている。 しかし、窓から入る日光は、なんの遮りもなくそこにあり、金属製のフレームが何かを訴えるようにこちらを見ている。ぐっと両腕を上げて伸びをして、流石にそろそろ整理をしようと一つずつ箱を動かしていく。すると、視界の端に黒い何かが見切れたような気がした。そちらの方に恐る恐る近づき耳を立てると、何やらカサカサと嫌な音がする。思い切ってダンボールをどかすと、そこには何もいなかった。 嫌な汗が首筋を伝った。 そこからの私は早かった。手早くダンボール内の家具や私物を取り出し、室内のあるべき場所へと誘った。とうとう片付ける荷物も無くなり、注意深く部屋全体を見渡すが、奴は見当たらない。ここまでして姿ひとつ視界に入らないというのは、流石にありえないだろう。きっと、もう窓や玄関から外へと逃げたのだ。 なんだかんだで綺麗に整頓された室内を見て、一息つく。黄金色に染まった窓とフレームにはカーテンがかけられ、満足気にその存在を示している。今度こそ無事に引越しが終わったのだと実感した。そうしてほっとしたのも束の間で、思い立ったかのように立ち上がると、鍵と財布を手に取った。 「一応、あれを買っておこう」 玄関を出て、階段を下りる。その時、ふと駐輪場が目に入った。少し年季の入った支柱には錆が浮いていて、いずれもよく使われているであろう自転車達が整然と並んでいる。しかしよく見ると、一台だけそれを乱すように停められている自転車がある。マナーの悪い人も居るものだと横目でそれを流して、私は近場のスーパーへと歩みを進める。 あの自転車の下側で、猫がにゃあんと欠伸をしていた。 道中、ゴミを漁るカラスの群れを見かけた。破けた袋から少し悪臭が漂っている。どうやら、生ゴミが捨てられているようだった。しかし、こんな時間に生ゴミの袋がだあるなんておかしな話だ。ゴミ出しのマナーは守るべきだろう。 カラスの中の一匹が、塀の上で鳴き声を上げた。 スーパーからの帰り道にごみ捨て場を覗いてみたけれど、ゴミ袋どころかカラスの一匹さえ見当たらなかった。誰かが片付けてくれたのだろうか。 とぼとぼと階段まで歩き、駐輪場へと目をやると、あの自転車ももう無くなっていた。 どうやら誰かが直してくれたみたいだ。 少し良い気分になりつつ階段を登っていくと何やら違和感を覚えた。登りきると、その違和感は明確なものへと変わっていく。 何か音がするのだ。 もう日も暮れているというのにこんなにも音がするなんて、なんて迷惑なんだろうか。 全く、マナーがなっていない人も居るものだ。 その音の出処を探るべく、耳を立てる。そうすると、自分の隣の部屋から鳴っていることに気が付いた。注意をするためインターホンを鳴らすが、しばらく待っても反応が無い。ドアノブに手をかけ回すと、簡単にも扉は開いた。 なんて不用心なんだろうか。 扉の向こうを見渡すと、明かりのひとつさえついておらず、物音も聞こえない。まるで、そこには誰も住んでいないかのような、空白の空間となっていた。 どこからか、犬の吠える声が聞こえてきた。 越してきてから一年が経過した。あの出来事以来、このアパートでそのような場面に出くわしたことは無い。それに、皆とてもマナーが良く、トラブルになったことも無い。何度かそういったマナー違反を見かけたことはあるけれど、どれも一度きりで終わっている。とても住みやすい環境で、ここに越してきて良かった。そう思ったばかりだったけれど、このアパートを出なければならなくなってしまった。名残惜しいが、仕方がない。荷物をまとめると、玄関を開ける。そういえば、退去の挨拶をしていなかったと今更思い出した。 開け放たれた玄関と、何も無い一室だけがそこに残っている。 ぐるぐるとアパートの上をカラスが旋回し、カーカーと鳴く声はどこか寂しげに響いている。そんなことはどうでもいいと言わんばかりに猫が欠伸をしていて、どこからともなく聞こえてくる犬の声は、何を訴えているのだろうか。 人っ子一人見当たらないこのアパートは今やもぬけの殻で、素晴らしいことにトラブルは起こらず、マナーも良く、そして不快感が無い。誰も居なくなったアパートで、満足気な動物達はまた声を上げる。 ─このアパートで暮らすにあたって、一つだけ条件があります。その条件が何かと言うと、「僕らを不快にさせないこと」です。ただそれだけ、簡単でしょう?─
ついてる男
電灯に群がる火取り虫が、意味の無い飛翔を続けている。 どこか水気を含んだ空気が、取り巻くように皮膚を撫で下ろし、先の景色の危うさという妖しさは、明日の景色をぼやけさせる。 薄暗い夜を腹に抱えたトンネルは、それが終わりの無い道であるかのように錯覚させた。それは、夜の中の夜だった。 とある道筋を、走り抜ける一台の車があった。 消魂しい駆動音は、猛獣のような勇ましさを呼び覚ます。 影のような道筋の伸びるその先は、果てのない空洞であった。 「はっはっは!この世の誰も俺を止められはしないぜ!」 まさに爆速。直線コースを駆けるその速度はチーターをも超える。猛獣とはチーター。そう、チーターである。 止まる所を知らないその一台はトンネルへと差し掛かる。しかし速度は落とされるどころか、更なる特異点へと至ろうとしていた。 「ヒィィハァァァ!セイセイセイ!見なよ俺の速度を!」 高速。高速である。日本国の法など最早関係は無い。酒気を帯びたその男にとって、法などという鎖は不要。紅潮した頬は天狗が如く。現代に駆ける天狗は翼ならぬ自家用車で飛び抜けるのだ。 「お清めの塩をどうぞぉ!」 開放された窓から撒き散らされるそれは、一般的に流通する家庭の神器。食塩である。 かつてこれ程速く撒かれた塩はあったであろうか。もしかすればこの塩は、世界一位を飾るのかもしれない。無論、こんな様子が動画にでもされていれば、天狗どころの騒ぎではないだろう。 時に、男は錯視する。 「あぁん?なんだあいつ」 曖昧な記憶と激烈な頭痛の中に唯一残る、深い存在。 深紅のドレスを身にまとった女の姿であった。 「ははは!そんなんじゃ俺は止まらねぇぜこの◾︎◾︎アマ!俺の速度で地獄に落ちな!グッバイ◾︎◾︎◾︎!◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎」 この様子の為であろうか、意味を持たぬ筈の飛翔は明確な目的を持つ。それは、遥かなる闇夜への逃亡であった。 酷い朝が男を襲う。 酒瓶で叩かれたかのような鈍い頭痛。体は鉛のように重く、内臓器官の悲鳴の声が、食道を逆流して口から流れ出る。 何故、そうなった。 それは昨日の晩の席へと遡る。 「「「「「かんぱーい」」」」」 活気溢れる夜の宴に響くは開宴の合図。 各々が好きな盃を手に酌み交わす小さな祭りが幕を開けた。 男の記憶には、その宴までが正確に記録されている。 ─あん時は確か… 「じゃーこのくじで当たった人が心霊スポットばくそーね」 「「「「いぇーい」」」」 「それじゃあいくよー」 「「「「「せーの!」」」」」 一層、強い痛みが走る。 「…ってぇ」 身体を縛り付ける酷い倦怠感は、起き上がれない理由としては十分だった。一刻、二刻と時は過ぎ、等間隔を刻む針音が歪んだように錯覚し始めた頃合い。 十二等分の円形は、一時頃を指していた。 自身の身体に対し、懐疑的な心を覚え始める。二日酔いなら今まで何度もあった。だがここまで体が動かせないということは無い。これはただの二日酔いなのか、はたまた何か別の要因があるのか。不安が脳内を駆け巡ると、一つの記憶へと辿り着く。 ─赤いドレス 多重の薄い布に包まれたかのように見えない記憶の中、唯一掴み取れたもの。それがドレスであった。そこから少しばかり連なって現れたのは、そのドレスを纏っているのが女であること。 どうしてか開け放たれた窓からは、緩やかに風が吹き込む。その風に当てられ、また男は静かに目を閉じた。 次に目を覚ました頃、既に日は落ち始めていた。 しきりに鳴くカラス達の声が、長い酔いへのチェイサーのように差し出される。昼頃に比べれば幾分か楽になった倦怠感。しかし、依然として動きたいとは考えられない状態。男は潤沢に時間をかけて身体を起こすと、汗を拭う為シャワー室へと向かった。 粗雑に服を脱ぎ捨て、水を浴びる。 頭から順々に染み渡る新鮮な水分が、不快感という精神的疲労を洗い流していくと、昨日という一日が夢現にも想起され、汚水のように排水溝へと消えていった。 幾分か軽い足のまま、体を隅々まで拭き取る。ふと鏡に映る自分の姿を見て、また背中へ悪寒が走った。 バスタオルが、真っ赤な布へと変化している。 ただ一瞬その様に見えた。実際のところ、バスタオルはやはりバスタオルである。故にその様な事実はない筈であるが、拭っても拭いきれない滴りがそこにあった。 新たな服を身に纏うもそこに清涼感は無く、ただ漫然とした恐怖が心の底にとぐろを巻いている。 靡くカーテンの音が、大きく響き渡る。 刻一刻と流れ行く時が、淡々と不安を煽る。 首筋に汗が一筋。 俺は放られた携帯電話を手に取ると、通話アプリから電話番号を入力する。 一コール、二コールと時を経て、やがて通話が繋がった。 「まさか、こんなとこに来るとはな」 そこは、しみったれた路地の中に、小さく構えられた飾り気のない扉。とはいえ、そんな扉を無理やり飾っている関係上、無機質とは言えない。その扉とセンスのアンマッチに気持ち悪さを覚えつつ、ノブに手をかけた。 内に広がるのは、いかにもな雰囲気を醸し出した一室。その中央には長方形の机を隔て、二脚の椅子が向かい合わせに置かれている。その内奥側には既に人が鎮座していた。 「ちわーす」 「こんばんは、お久しぶりですね」 しわがれた声だが、実年齢は知らない。正直な所頼ることなんて無いと思っていた。過去に先輩から紹介を受けたが、まさか自分から連絡することになろうとは。 「して、このような時間から何のご要件でしょうか」 ゆっくりと、起伏の無い声が耳に張り付くようだ。 俺は、昨日あった出来事を出来る限り説明した。 経緯、自身の行動、今日の不調、見たモノについても…。 説明中、何度か質問を受けた。すると不思議なことに、思い出せなかった記憶が解かれていくのだ。特に大きく思い出したのは、トンネルの中で自身が何をしていたか。自分のことながら信じられない様子だと感じた。小心者の自分が罰ゲームをする為には酒を煽るしか無かったのだろうが、それにしても酷い有様だった。 「こんな感じで…」 一通りの説明を終えると、少しの間考えた様子を見せる。 なんでもない無音の時間が、恐ろしく思えた。 「まぁ、霊は下手に怖がる方が危ないですから」 次口を開いた時、そう言われた。 今までの不安が和らぐように思え、一気に心が軽くなる。 「へへ、そっすか。なら良かったってことっすか」 嬉しささえ覚える程の感覚に、自然と笑みが浮かび上がる。 見えない瞳がこちらをまじまじと見つめ、言った。 「…あなた、ついていますね」 その時には、もう不安は吹き飛んでいた。 「やっぱりっすか。自分昔っからそうなんすよ」 全身の緊張が解け、ぐっと背もたれに身を預ける。 本当に良かったと、心の底から感じた。 「ええ、ついていますよ…」
天の心のままに【総集】
・アー…アー…本日ハ晴天ナリ・晴天ナリ─… 雲一つ見当たらない、遥かな空が広がっている。 邪魔者の無い大舞台の中、太陽は意気揚々と躍り出る。大地という観客が沸き立つと、たちまちその熱気が席を包んだ。 どうやら、今日は晴れらしい。 美しく煌めいた果ての海が、深層から連なる生命の輝きを揺らす。静かながら確かな波音が、毎朝の心を整えてくれる。 いくらか設けられた樹脂製の椅子に身を預け、海月のように時を待つ。すると、ガラス張りのホームが微かに揺れ始めた。波の音に、規律正しい音の羅列が乗り始める。それが徐々に近付いて来ると、聞き馴染んだメロディラインがホームを包んだ。 小さな風が、髪を靡かせている。 硬い椅子から腰を上げて、開かれた扉の中へと乗り込むと、無数の窓を携えた大きな鰻は、今日も一直線に進んで行く。 少し錆びた電子版は、いつも通りの文字を浮かべていた。 『本日も海中線をご利用頂き、ありがとうございます。当列車は現在、空町南駅へと到着予定でございます』 到着までの大体十分は、いつもあの大空へと溶けてしまう。 大抵の人は単語帳だとか、ゲームとか、そういうことをして時間を活用するのだろうけど、どうしてかあの空から目が離せない。 晴れの日も、雨の日も、雪の日も。 その日その日に移り変わる空の模様が、輝いて見えて仕方が無かった。だからこそ、僕は納得出来なかったんだ。 この景色が、人の思いのままなんて。 「あーあ、また晴れだよー」 こんなに輝かしい天気だというのに、どうして彼女はこうも浮かない様子なのだろうか。 「いいじゃないか、晴れの日というのは」 思いのまま言葉を放つと、彼女は静かに「分かってないなぁ」と零す。隠す気の見えないため息が、雲のように立ち込める。そんな様子が、確かに見えたように感じた。 「だって、何日も同じ天気じゃつまらないじゃん。折角毎日投票してるのにさ」 そう言うと、荒れ模様の彼女はそっぽを向いてしまった。 その時、耳元が少しばかり輝いたのを僕は見逃さなかった。 「君、また新しいイヤリングを買っただろう」 晴天が窓を覗くと、それはまるで額縁のような趣を見せる。 空色のキャンバスに描かれたイヤリングの少女は、かの有名な絵画をも彷彿とさせた。 「あ、バレた」 いたずらなその声色が、僕を現実へと引き戻す。 「全く、この前もアクセサリーを買っていただろう」 僕は呆れて溜息をつき、続けて言う。 「一体どこからそんな資金が沸いて出るんだい」 「まぁ、私運が良いから」 絶妙に芯を外したその回答に、僕は心の中で疑問符を打つ。思考を巡らせると共に彼女という存在を照らし合わせ、一つの可能性に辿り着いた。 まさか… 「まさかとは思うが、君は天気賭場にでも参加しているのかな」 イヤリングがまたも揺らぐと、悪気の無い笑顔を見せる。 「…バレたか」 本当に呆れてしまう。まさかこんな読みが的中してしまうとは思いもしていなかった。正直な所、僕は天気よりも彼女の方が余っ程読めないと常々思う。 「はぁ…何をしているんだか」 僕の様子に何かを思ったのか、彼女は弁明を始めた。 「だって私運がいいから結構当たるし、年齢に規制だって無いじゃん。それにもう三日連続的中だったんだよ」 計らずとも今日の不機嫌さの原因が分かった。恐らく彼女は別の天気を予想していのだろう。 「君は本当に呆れた奴だな。まぁ、それにとやかく言うつもりは無いが、程々にするんだね。泣きつかれても僕は金なんて貸さないぞ」 そう釘を刺す中で、ふと小さな疑念が生まれた。しかしそんな疑念は、この雲一つない大空の下に間もなく霧散する。 「もう分かったから。あんたに金なんか借りないよーだ。でも、本当に困ったら助けてくれるでしょ」 最後に残された耳打ちは、僕の思考を吹き飛ばすのには十分な出来事だった。 悶々と心に残る何かとの小さな格闘が、僕の時間を緩やかかつ大胆に奪う。大切な授業すらも朧気に過ぎ去ってしまった。残酷にも太陽は絶えず位置を変え続け、いつしか西へと傾きつつある。 「ああ、放課後か」 一人小さく呟くと、変わらず青いままそこにあり、それでいて少し淡い空を眺める。 今日も空は美しい。 「ちょっと、何黄昏てんのよ」 喧騒を失った教室に、まだ二人残っていた。 「ああ、いや…」 曖昧な回答は彼女の望むところには無く、それはより強く彼女の眉を歪ませる。 「ちょっと、今日は変だよ。あんたらしくない」 少女は「何かあった」と静かに問う。その言葉に僕は、どうしてか何も返せずにいた。 静寂の時の中、それを少女が打ち崩す。 「あんたが嫌ならさ、別に天気賭場も辞めるし」 僕は知っている。彼女はとても優しい人間だと。だからこそ、そんな風に気を遣わせてしまったことがどうしても情けない。憧れの大空を見ている僕は、どうしようも無く矮小だ。そんな現実を思い知った。 「いや、良いんだそれは」 一体僕は何に気を揉んでいるのか。 その答えは見つからず、その場を繕うことしか出来なかった。 「先に帰るよ」 『本日も海中線ご利用頂き、ありがとうございます。当列車は現在…』 僅かに、違和感を覚えた。 電車内の空間が一瞬、ズレたような感覚。 ほとばしる歪みの渦が、目に見えない変化をもたらしている。 『現在、進路を修正中。当列車は空町北駅へと緊急移動を開始致します。ご乗客の皆様におかれましては、危険が及ぶことはありません。ご安心してお過ごし下さい』 アナウンス終了と共に鳴り響くモスキート音のような耳鳴り。同時に電車は加速をし、流れゆく空は川のように目まぐるしく去っていく。 「海鳴か…珍しいな」 一時は目にも止まらぬ程であった空の流れも、乗り心地の改善を皮切りにまた平時へと戻る。やがて緩やかな速度は前進すらも辞め、停止した。 『この度は海中線のご利用、ありがとうございました。緊急航行は無事に完了致しました。また、大変ご迷惑をお掛け致しますが、これより海中線は一時封鎖となります。解放の月日に関しましてはお答え致しかねます。ご帰宅の際は、陸上交通機関のご利用をお願い致します』 「参ったな…」 なんとも運の悪いことに、僕にとっての主要な交通機関が封鎖してしまった。その上ここから陸上交通機関を利用するともなれば相当な時間がかかってしまう。この文明が発達した社会の中で遭難をしてしまうとは、最悪である。 無論僕だけに留まらず、ホーム内には口々に今日という日を如何に終えれば良いのかと模索する人々が、魚群のように存在している。 その為に酸素が薄いのか、息苦しさを覚えた僕はひとまずホームを出ることとした。 浮上式昇降機を完備しているのは流石都市の駅であるといったところで、快適な上昇の時間は一瞬にして終わり、開かれた金属製のスライドドアから溢れ出るのは、慣れない都会の景色であった。 「北空町、こんな所に来てしまうとは…」 これからどうしたものか、特に行く宛ても無い哀れな稚魚にとってこの街は、息苦しく狭苦しい。 仕方が無いので駅の傍にあった小広場に向かうと、隅のベンチに腰を掛けた。 「どうしたものか」そう嘆きつつ空を見上げていると、腕時計端末が声を上げる。突然のことに少々驚きつつも、端末を確認する。そこに表示されていたのは、随分見慣れた名前だった。 『ちょっと、海鳴りがあったって聞いたんだけど、あんた無事よね』 慣れない場所に肩身の狭さを覚える僕にとって、この聞き馴染んだ声はまさに湧き出る水泡の如く救いであった。 「ああ、大丈夫だが」 『そう…それなら良かった。でも今あんた何処にいるのよ。家に電話しても帰ってないって…』 その通り、僕は家に帰れていない。本当に困ったものだ。 「緊急航行で飛ばされたんだ。今は北空町に居る」 『北空町って、丁度私の住んでる場所じゃない。ちょっと待って、今迎えに行くから』 聞き捨てならない言葉があった。 私の住んでいる場所だと。幼少期から付き合いのあった彼女だが、親の転勤で引っ越していた。引越し先は特に聞いていなかったから知らなかったが… 何とも奇怪な偶然はあるものだ。不幸中の幸いといった所だろうか。 『あんたの場所を教えて』 申し訳ないが、こればかりは甘んじるしかない。 「すまない、迷惑をかける」 『もう、そんなのいいから。早く場所を教えて』 「ああ…」 端末を操作し現在位置を特定する。現代の情報処理システムと地理院による区分分け情報の照合をもってすれば、わけのないことである。 「北空町第七区分Bブロックc二七七…」 『ストップストップ。あんたね、細かいってば。そんな情報いらないから、景色とか建物を教えて』 どうしてか電話越しにため息が聞こえたように思うが、言われた通りに修正する。 「空町北駅から徒歩数分の場所にある広場に居る。中央には生木が一本、周囲にも植物が多数植えられている」 今思えば、都会の中にも未だ現存する植物が植えられているのは珍しいことだ。そもそもとして希少性が高いのもあるが、それにしてもこんな場所では見られない。 『分かった。じゃあそこを動かないでね。すぐ行くから』 通話を終え静寂が訪れると、そよ風に揺れる草花の歌が鮮明に浮かび上がる。茜色に染まりつつある空を見上げ、考えた。 どうしてこうもままならないのだろうか。 心にずっと残っていた、小さな石。それは蹴り飛ばしてしまうには簡単な小石で、でもどうしてか、蹴り飛ばしてしまうのが嫌な自分が居る。 世界はままならない。決して、自分達の思うようには動かない。人間達が交通手段として活用している文明の英智ですら、それを覆すことは出来なかった。なのに、なのにどうして僕達は… 「おーい、迎えに来たよー」 元気の良い声が耳に届くと、僕はそっと顔を上げる。そこに居たのは、僕にとっての幸運の女神であった。 「ちょっと、また考え事してたでしょ。顔が怖いわよ」 「本当かい、それはすまない。それはそうと、助かったよ」 「良いって、私達の仲でしょ」 「それよりさ」と、彼女は続ける。しかし、その言葉は飲み込むように消え去ると、彼女は一言「行こっか」と言って歩き出した。 日も落ち際の空の下で、僕は一歩を踏みしめる。 「そういえば、あの広場は植生が豊富だったよ」 「ああ、あの広場ね。どうしてなのか、気になってるでしょ」 「珍しいもので、つい」 「あんたのことだから、どうせそうだと思った」 顔は見えないが、小さく笑う彼女の顔が見えたような気がした。 僕もまた、小さく微笑んだ。 「ねぇ、ちょっと寄り道しても良いかな」 他愛の無い会話をしながら進む道中、彼女はそう提案した。 「問題ないが、どうしたんだい」 特別断る理由も無かったが、どこに行くのかは疑問だった。 彼女は一体何を考えているのだろうか。 「ちょっとね」 言い終わると共に逸れた道筋は、僕には到底予測出来ない。けれど不思議なことに、彼女と共に居る今は、この都会も息苦しいとは思わなかった。 大通りを外れた内の路地には、都会と呼べる程の活気を感じない。錆びてむき出しにされた管の数々は、どちらかといえば深海開拓時代に作られた開拓地域のそれである。 ふと、視界の端々に普段は感じない何かを得た。それは、自然に生い茂る雑草の数々であった。 「着いたよ」 雑草に気を取られる内に目的地に辿り着いたようで、僕はまた前へと視線を戻す。 「ここは」 するとそこにあったのは、公園であった。何の変哲もない公園。しかし、だからこそ特別な公園。塗装は大きく剥げ、残る色もとうに褪せた遊具達は、まるで待っているかのようにそこにあった。踏みしめる地面は水気の無い砂であり、見渡せばいくらかの木々と草花が生えている。 「こんな場所があったとは」 思わず漏れ出る言葉が、彼女の耳をなぞる。 「それだけ感動してくれるなら、連れてきた甲斐があったよ」 この失われたはずの空間が、どうしてか目の前にある。いや、全てが失われた訳では無かったのだろう。 「北空町って、今は都会なんて言われてるけど、実際大きくなったのは最近なの」 空に現れる星々が、僕達を暖かく照らす。 「だから結構こういう所も残ってる。開拓中に偶然発見された植物保存技術のお陰で大きくはなったけど、まだまだ粗ばかりだよ」 彼女は「名前も町だしね」と付け加えると、僕の方に振り返って、大きく手を広げた。 「最近何か悩んでるみたいだったから、リフレッシュして欲しかったの。どうかな、気に入って貰えたかな」 彼女の優しさが、痛い程に突き刺さる。 「もちろん気に入ったさ。ありがとう」 折角来たのだからと二人ベンチに腰をかけ、夜の星を眺めることになった。 「そういえばさ、どんなこと悩んでたの」 ふとそう聞かれ、僕は小石を改めて掴む。 「多分、疑問だったんだ。海も、大地も、人は思いのままのようで、実際はそんなことは無い。なのに、どうして当たり前に空が思いのままだと思うんだろうって」 「確かに、言われればそうかも」 相槌という共感に少し安心しつつ、続ける。 「だから、実際には天気投票だとか、天気操作技術なんて存在しないんじゃないかと思ったんだ」 彼女は静かに空を眺めて、言った。 「そうかもね」 風に、砂が舞った。 「驚いた。君なら完全に信じているとばかり…」 僕の言葉に彼女が笑って言う。 「私だって、気が付くよ。だって投票結果の内訳は教えられないし、何となく結果に規則性もあってさ。多分、投票なんて意味無いのかもなぁって思ってた」 「でも」そう続けると彼女は立ち上がり、空に手を翳す。 「やっぱり天気が思いのままって信じた方が、明日に希望が持てるから」 その言葉に、僕の小石は砕け散った。 今までの悩みが馬鹿らしくなるほど、清々しい答え。あまりの清々しさに僕は腹を抱え笑い出すと、彼女もまた笑う。 夜の公園に、二人の笑い声が響き渡った。 落ち着いた二人は、またベンチにて空を見る。 「明日の天気は当てられそうかい」 「あんたこそどうなのよ」 「そうだな…」 「明日は晴れる気がするよ」
天の心のままに【終】
大通りを外れた内の路地には、都会と呼べる程の活気を感じない。錆びてむき出しにされた管の数々は、どちらかといえば深海開拓時代に作られた開拓地域のそれである。 ふと、視界の端々に普段は感じない何かを得た。それは、自然に生い茂る雑草の数々であった。 「着いたよ」 雑草に気を取られる内に目的地に辿り着いたようで、僕はまた前へと視線を戻す。 「ここは」 するとそこにあったのは、公園であった。何の変哲もない公園。しかし、だからこそ特別な公園。塗装は大きく剥げ、残る色もとうに褪せた遊具達は、まるで待っているかのようにそこにあった。踏みしめる地面は水気の無い砂であり、見渡せばいくらかの木々と草花が生えている。 「こんな場所があったとは」 思わず漏れ出る言葉が、彼女の耳をなぞる。 「それだけ感動してくれるなら、連れてきた甲斐があったよ」 この失われたはずの空間が、どうしてか目の前にある。いや、全てが失われた訳では無かったのだろう。 「北空町って、今は都会なんて言われてるけど、実際大きくなったのは最近なの」 空に現れる星々が、僕達を暖かく照らす。 「だから結構こういう所も残ってる。開拓中に偶然発見された植物保存技術のお陰で大きくはなったけど、まだまだ粗ばかりだよ」 彼女は「名前も町だしね」と付け加えると、僕の方に振り返って、大きく手を広げた。 「最近何か悩んでるみたいだったから、リフレッシュして欲しかったの。どうかな、気に入って貰えたかな」 彼女の優しさが、痛い程に突き刺さる。 「もちろん気に入ったさ。ありがとう」 折角来たのだからと二人ベンチに腰をかけ、夜の星を眺めることになった。 「そういえばさ、どんなこと悩んでたの」 ふとそう聞かれ、僕は小石を改めて掴む。 「多分、疑問だったんだ。海も、大地も、人は思いのままのようで、実際はそんなことは無い。なのに、どうして当たり前に空が思いのままだと思うんだろうって」 「確かに、言われればそうかも」 相槌という共感に少し安心しつつ、続ける。 「だから、実際には天気投票だとか、天気操作技術なんて存在しないんじゃないかと思ったんだ」 彼女は静かに空を眺めて、言った。 「そうかもね」 風に、砂が舞った。 「驚いた。君なら完全に信じているとばかり…」 僕の言葉に彼女が笑って言う。 「私だって、気が付くよ。だって投票結果の内訳は教えられないし、何となく結果に規則性もあってさ。多分、投票なんて意味無いのかもなぁって思ってた」 「でも」そう続けると彼女は立ち上がり、空に手を翳す。 「やっぱり天気が思いのままって信じた方が、明日に希望が持てるから」 その言葉に、僕の小石は砕け散った。 今までの悩みが馬鹿らしくなるほど、清々しい答え。あまりの清々しさに僕は腹を抱え笑い出すと、彼女もまた笑う。 夜の公園に、二人の笑い声が響き渡った。 落ち着いた二人は、またベンチにて空を見る。 「明日の天気は当てられそうかい」 「あんたこそどうなのよ」 「そうだな…」 「明日は晴れる気がするよ」
天の心のままに【下】
通話を終え静寂が訪れると、そよ風に揺れる草花の歌が鮮明に浮かび上がる。茜色に染まりつつある空を見上げ、考えた。 どうしてこうもままならないのだろうか。 心にずっと残っていた、小さな石。それは蹴り飛ばしてしまうには簡単な小石で、でもどうしてか、蹴り飛ばしてしまうのが嫌な自分が居る。 世界はままならない。決して、自分達の思うようには動かない。人間達が交通手段として活用している文明の英智ですら、それを覆すことは出来なかった。なのに、なのにどうして僕達は… 「おーい、迎えに来たよー」 元気の良い声が耳に届くと、僕はそっと顔を上げる。そこに居たのは、僕にとっての幸運の女神であった。 「ちょっと、また考え事してたでしょ。顔が怖いわよ」 「本当かい、それはすまない。それはそうと、助かったよ」 「良いって、私達の仲でしょ」 「それよりさ」と、彼女は続ける。しかし、その言葉は飲み込むように消え去ると、彼女は一言「行こっか」と言って歩き出した。 日も落ち際の空の下で、僕は一歩を踏みしめる。 「そういえば、あの広場は植生が豊富だったよ」 「ああ、あの広場ね。どうしてなのか、気になってるでしょ」 「珍しいもので、つい」 「あんたのことだから、どうせそうだと思った」 顔は見えないが、小さく笑う彼女の顔が見えたような気がした。 僕もまた、小さく微笑んだ。 「ねぇ、ちょっと寄り道しても良いかな」 他愛の無い会話をしながら進む道中、彼女はそう提案した。 「問題ないが、どうしたんだい」 特別断る理由も無かったが、どこに行くのかは疑問だった。 彼女は一体何を考えているのだろうか。 「ちょっとね」 言い終わると共に逸れた道筋は、僕には到底予測出来ない。けれど不思議なことに、彼女と共に居る今は、この都会も息苦しいとは思わなかった。
天の心のままに【下中】
一時は目にも止まらぬ程であった空の流れも、乗り心地の改善を皮切りにまた平時へと戻る。やがて緩やかな速度は前進すらも辞め、停止した。 『この度は海中線のご利用、ありがとうございました。緊急航行は無事に完了致しました。また、大変ご迷惑をお掛け致しますが、これより海中線は一時封鎖となります。解放の月日に関しましてはお答え致しかねます。ご帰宅の際は、陸上交通機関のご利用をお願い致します』 「参ったな…」 なんとも運の悪いことに、僕にとっての主要な交通機関が封鎖してしまった。その上ここから陸上交通機関を利用するともなれば相当な時間がかかってしまう。この文明が発達した社会の中で遭難をしてしまうとは、最悪である。 無論僕だけに留まらず、ホーム内には口々に今日という日を如何に終えれば良いのかと模索する人々が、魚群のように存在している。 その為に酸素が薄いのか、息苦しさを覚えた僕はひとまずホームを出ることとした。 浮上式昇降機を完備しているのは流石都市の駅であるといったところで、快適な上昇の時間は一瞬にして終わり、開かれた金属製のスライドドアから溢れ出るのは、慣れない都会の景色であった。 「北空町、こんな所に来てしまうとは…」 これからどうしたものか、特に行く宛ても無い哀れな稚魚にとってこの街は、息苦しく狭苦しい。 仕方が無いので駅の傍にあった小広場に向かうと、隅のベンチに腰を掛けた。 「どうしたものか」そう嘆きつつ空を見上げていると、腕時計端末が声を上げる。突然のことに少々驚きつつも、端末を確認する。そこに表示されていたのは、随分見慣れた名前だった。 『ちょっと、海鳴りがあったって聞いたんだけど、あんた無事よね』 慣れない場所に肩身の狭さを覚える僕にとって、この聞き馴染んだ声はまさに湧き出る水泡の如く救いであった。 「ああ、大丈夫だが」 『そう…それなら良かった。でも今あんた何処にいるのよ。家に電話しても帰ってないって…』 その通り、僕は家に帰れていない。本当に困ったものだ。 「緊急航行で飛ばされたんだ。今は北空町に居る」 『北空町って、丁度私の住んでる場所じゃない。ちょっと待って、今迎えに行くから』 聞き捨てならない言葉があった。 私の住んでいる場所だと。幼少期から付き合いのあった彼女だが、親の転勤で引っ越していた。引越し先は特に聞いていなかったから知らなかったが… 何とも奇怪な偶然はあるものだ。不幸中の幸いといった所だろうか。 『あんたの場所を教えて』 申し訳ないが、こればかりは甘んじるしかない。 「すまない、迷惑をかける」 『もう、そんなのいいから。早く場所を教えて』 「ああ…」 端末を操作し現在位置を特定する。現代の情報処理システムと地理院による区分分け情報の照合をもってすれば、わけのないことである。 「北空町第七区分Bブロックc二七七…」 『ストップストップ。あんたね、細かいってば。そんな情報いらないから、景色とか建物を教えて』 どうしてか電話越しにため息が聞こえたように思うが、言われた通りに修正する。 「空町北駅から徒歩数分の場所にある広場に居る。中央には生木が一本、周囲にも植物が多数植えられている」 今思えば、都会の中にも未だ現存する植物が植えられているのは珍しいことだ。そもそもとして希少性が高いのもあるが、それにしてもこんな場所では見られない。 『分かった。じゃあそこを動かないでね。すぐ行くから』