じゃらねっこ

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じゃらねっこ

ねこじゃらしが好きなので、じゃらねっこです。

「ああどうしましょう、私は最低な人間です」 とある日の交番は、やけに騒がしい様子であった。冷ややかな悪寒を背に何事かと聞いてみれば、一人の男が騒いでいるという。ほうと胸を撫で下ろし、何やら好奇心が顔を出した私は家の前を横切る通りを抜け十字路へと身を乗り出すと、その右方に視線を向けた。すると、どうやら困った様子の警官と、黒髪の薄い男が揉めているようである。 「私は罪の無い命を潰してしまったのです。私は愚かな罪人です。どうか、お縄にかけてください。お願いします」 男は酷く真剣な様子で口を動かし続けている。しかし、それを窘める警官の頬には汗が滲み、時折手拭いでそれを拭き取りながら、困惑の表情を浮かべていた。どうやら、あの男は自首を申し出ているようだ。そのように眺めていると、薄い黒髪がはたと動き、視線と視線がぶつかった。 「あぁ、そこのお方。どうかあの方を説得して頂けませんか。お願いします。どうか」 詰め寄られた私は逃げ場を失い、とうとう話を聞くこととなってしまった。聞いた話の経緯は、どうやらこうらしい。 空も白み始めたばかりの時間、いつも通りに目を覚ました男は、日課である体操をしようと庭に赴いた。しかし、今の時代に見合わぬカセットテープを忘れた事に気が付き、取り出しに行こうと一歩を踏み出した時のこと。何やらおかしな感触が足裏をくすぐったのだ。何事かと視線を向けると、生き生きとした緑の芝の一端の、ちょうど踏みしめている辺りがおかしな色になっている。赤茄子でも踏み付けたのかと思ったが、そんなはずは無かった。その庭では何の家庭菜園もしていなければ、買い物袋を外に置き去りにすることも無かったからだ。答えの分からぬまま逡巡する思考をいつまでも続けていても仕方がないと考え、それに蓋をした男は、恐る恐る足を上げてみることにした。 日の出のようにゆっくりと足を上げる。少しずつ露になる姿に、嫌な感覚を覚え始めた。そしてとうとう薄ら眼でもそれが見えるようになった頃、そこに居たのは…いや、そこに“あった”のは、無情にも生命の輝きを失った一匹の鼠であった。灰と赤が混じり合い、初めの数秒は何かすら分からなかった。しかし、偶然にも原型を留めていた頭部が、それを辛うじて鼠であると認識させたのである。やけに黒い瞳が、男をジトリと見つめていたように思え、それを見た男は腰を抜かして尻餅をつき、そして、あわあわと言葉にならない声を発して後ずさった。しばらくの現実逃避の末に、とうとう堪えきれなくなった男は駆け出し、今に至るということである。 「私は罪のない命を奪った愚か者なのです。どうか、私を罰してください」 一通り話し終えた男は尚、そのような言葉を繰り返している。とうの警官はというと、疲弊した様子で返事を繰り返している。そんな埒が明かない様子を見ていた私の足は地を何遍も叩き、指先は落ち着かない様子を見せていた。日も高く登った頃、とうとう堪えきれなくなった私は、男に言葉を投げかけた。 「ひとつ、よろしいですか」 突然の開口に身を震わせた男は、しかし間もなく元に戻ると、次にはさも不思議であるという顔をしていた。 「ええ、ええ、なんでございましょうか」 落ち着いてこちらの様子を伺う男が、どこか迷える子羊かのように思え、私は隠さず率直に問うこととした。 「何故、それが罪なのでしょうか」 先程まで喧騒を訴えていた交番は、やけに静かな空間へと変わってしまった。黒髪の薄い男は目をぎょっと見開き、わなわなと口を震わせ、まるで打ち上げられた魚のようである。何分かの間を置き、言葉にならない声を幾度か聞き届けた後のこと。ついに男は口を開いた。 「何故−。何故ですか。無意味に命を奪うことは、罪でしょう。そんなことはごく当然のことでしょう」 私には、やはりこの男が迷える子羊のように思えてならない。大きな檻に囚われた、哀れな子羊なのだ。故に、私はこの男を導きたいと、そう考えた。 「では、何故私達は罪人では無いのですか。私達は沢山の家畜の命を奪って生きているではありませんか」 首筋には汗が筋を作り始め、その顔は丸めた紙のように変容し、ついに両手で頭を抱えた。数刻の時を経て、男は言う。 「それは…。それは、生きる為でしょう。生きる為であれば、致し方がないでしょう」 長考の末に導き出されたその灯火は、酷く淡くそして揺らいでいる。そのような世界でこの男を終わらせてしまうのは、酷く惜しいと考えた私は、更なる導きを示す。 「しかし、人でない者からすれば、目的があろうとなかろうと、同じことではないのですか」 男の目線は右往左往と行き場を失い、背は丸みを深めていく。 「いや、しかし…」 とうとう男はその瞳を地に落とし、まるで岸壁を目の前にしたかのように止まってしまった。しかし、私が導を灯したいのはそんな場所では無い。 「皆同じことをしていたとしても、皆が罪を持つ訳ではありません。この世界で生きとし生けるもの達皆、お互いに奪い合って過ごしているのです。ですから、あなたは罪人などではありません」 それを聞き届けた子羊は、ようやく灯火を目に映し、安らぎを得たかのように穏やかな顔を浮かべると、先程までの小さな姿は身を潜め、一人の“人間”が誕生した。 「ああ、ありがとうございます。ありがとうございます。お陰様で、私は救われました。なんとお礼を申したら良いのか…」 立ち尽くすも離れられぬ未だ哀れな警官は、何やら収まったであろう雰囲気を感じ取ったのか、そそくさと中に戻ってしまった。 「いえ、いえ、その言葉だけで十分です。さあ、もう日も落ち始めてしまいましたから、居所へと戻りませんと」 「ああ、もうこのような時間に…」 最後に深く一礼をし歩き去る男を、その夕日に霞むまで見送ると、私もその場を後にした。 「最近ももう寒さが厳しくなりましたね」 ガウンコートを脱ぎ去ると、薄暗い一室の電灯を灯す。その静けさとは裏腹に、心は騒がしく高鳴っていた。もう堪えきれない私は、居間を抜け、三部屋ある内の一室へと足を運ぶ。そして、一人の“人間”は小さな一室の暗闇に溶け込んだ。 「という事がありまして。いやはや、久方ぶりの数奇な出会いに、最後はしみじみとさえしてしまいました」 胸に手を当て、高らかに語る“人間”の前には、何やら小さく身を震わせる何かがあった。 「−。−−。−−−。」 「ああ、これはこれは申し訳ありません。興奮のあまり、取るのを忘れていましたね」 一室の中央に設けられた椅子から立ち、目の前のそれへと手を伸ばすと、口枷を外した。 「帰してください。お願いです。どうか、どうか」 設けられた窓には板が縫い付けられ、外の様子は分からない。だが、日を失った世界の中、確かな灯火がここに灯っている。 “人間”は、にこりと微笑むと呟くように言った。 とある日の交番に、一人の“人間”が居た。その“人間”はとある包みを懐から抜き出すと、目の前の警官に差し出した。 「ああ、またですか」 「ええまあ…。大丈夫、私達は誰も罪では無いのですから」

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始まり

「いやはや、向かい合って話せる人は久しぶりですな。まだ、こんな場所にも生き残りの方がいたとは」 暖かな陽光が窓から差し込んでいる。その先に置かれたささやかなテーブルには二つのマグカップが置かれ、向かい合うソファの座面は、深く重みを受け止めていた。 「ええ、ボクも驚きました。まだ他に人がいたなんて…」 マグカップに手をかけ口元に寄せると、飲みなれた珈琲の香りが強まる。しかし、今はその匂いもあまり分からない。 「不躾な願いで申し訳ありませんが、何かお話を聞かせて頂けませんか?」 一口啜り息をつくと、彼を真っ直ぐ見据える。 彼は静かに口角を上げ、同じように一口嗜むと口を開いた。 「もちろんです。泊めていただいた上に珈琲まで、その程度の事でよろしければ喜んでお話致しますよ」 そうして、短くも長い冒険譚が幕を開けた。 久しぶりの会話に花が咲き、初めは落ち着いていた声量も、次第に高まっていった。 これまでに出会い、会話を交わしたのは数人しかいないこと。肌の冷える夜のこと。身を焦がす太陽のこと。数日ぶりの水を飲んだ時のこと。壮大な景色のこと。最期の瞬間に手を握ったこと。色とりどりの花束のこと。 沢山の話のどれもがとても華々しく聞こえ、目を輝かせた。 「こちらは、本ですか?」 差し出された表紙は色褪せ、所々に残る汚れは年季を感じさせる。 「ええ、道中で拾いましてね。そちらは差し上げますよ」 突然の申し出に息を呑む。 「良いのですか?わざわざ持つほど…これは大切にされていたのでは」 「いえいえ、良いのですよ。私も気まぐれに持っていただけですから。それに、私より貴方の方が相応しい」 「それはどういう…」 カタリと彼は立ち上がり、背もたれにかかった上着を羽織り始める。 「長居してしまい申し訳ない。本当に助かりました」 着々と身支度を始めた彼を見て、言葉を忘れそうになる。 「あぁ、もう行かれるのですか。でしたら最後に一つだけ聞かせてください」 その言葉に手を止め、彼がボクを見据える。 「ええ、なんでしょうか」 自分でも何故か分からない期待感に昂る心を鎮め、浮つく声を必死に抑える。 「何故、旅をされているのですか?」 その質問を受け、ひと時の沈黙が流れる。 僅かな秒数の後、彼の口が開いた。 「どうしても朽ちてしまうのなら、せめて色々な景色を見てから終わりたい。それだけですよ」 ガチャリ。開く扉の先には光が満ちている。 「それでは、私は行きます。本当にありがとうございました。雨に降られた時はどうしようかと思いましたから」 にこりと笑顔を見せた彼は、光の先へと消えて行った。玄関に立ち尽くしたボクは、正直ちゃんと手を振れたのかさえ覚えていなかった。それ程までに、ボクの心は揺さぶられていた。 数日して、部屋を一通り片付けた僕は身支度を整え、最後にテーブルに置かれた一冊の本をバックに詰めると、深呼吸をする。 −すぅ…はぁ… 「よし」 世話になった空間に会釈をすると、扉に手をかける。 ガチャリ。あの時と同じ音をたてて開いた扉。 その先には、光が満ちている。 果てしない高揚感を胸に、一歩を踏み出した。 「行ってきます」

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序・日々

−何故、このような事をした。 「それが、私の選択だからです」 −何故、その選択に至った。 「それが、全ての幸せだからです」 目の前に、話したこともないおじさんが居る。いや、私はこの人の声をよく知っている。というか、毎朝聞いているのだから当たり前である。黒縁の枠に囚われた世界はとうに過去の産物となり、もはや現実という高画質スクリーンと何ら遜色無く見えてしまうからこそ、そんな馬鹿げた錯覚を起こした。空中に投影されたニュースキャスターを横目に、寝ぼけた私はそう考えた。 今日も変わらないトーンで話すニュースキャスター。その声に、なんとなく耳を傾ける。 『近年では、海面の上昇問題が大きな課題となっており、僅か数年の間にも約十五%から二十%の上昇率を…』 いくばくかの沈んだ島々が投影されると、住処を失った人々へのインタビューが開始される。未だローンを返済し終えていないこの家が、沈んでしまっては困るなぁとどこか他人事のように考えると、やっと少しずつ目が覚め始めた。 着々と針を進める壁掛け時計を横目に、手早く身支度を整える。クローゼットに手をかけると、その大きさに見合わない空白が顔を出す。僅かに綴られた衣服に目をやると、それらはコピー機にかけられたかのように同じ姿をした者達で、上下のセットが数着あるばかりだった。その内の一セットへと手を伸ばし着替えると、時計の針はいつもと同じ場所を指していた。 仕事部屋へと足を運び、机型タブレットを起動すると、専用のペンシルを内蔵された収納から引き抜く。すると、補佐の部屋型人工知能が起動する。 『おはようございます。マスター』 おはようと呟くと、勝手を知った補佐役は素早く進行中のデータを開く。そこに表示されたのは、モノクロの一ページをいくつにも分割し、様々なシーンを描いていく娯楽用品の一種。いわゆるところで言う“漫画”である。 補佐役とは言ったものの、実質的に補佐をしているのは私の方だ。発達した文明の上に成り立つ現代社会では、人間の行う仕事というのは限られている。つまるところ、今の知能達は非常に優秀なのだ。そんな優秀な知能達でもまだ行えない僅かな切れ端を、私達は必死に掴んでいる。 『このような展開はいかがでしょうか、マスター』 差し出された物語にサッと目を通す。その中にあったいくつかの違和感を見繕うと、少々の加筆と共にデータを送り返す。そして、また更新されたデータへと加筆していく。そういった繰り返しが私の仕事である。 初めの頃は多少のやり甲斐も感じていたが、遥かに早い学習能力や繰り返しの日常で私の心は摩耗し、そんな煌びやかな感情も廃れていった。今の生活に不自由は無いが、幸せかと問われれば、笑顔で頷くことは出来ないだろう。 『一度休憩をなされてはいかがでしょうか、マスター』 どうやら表情の変化を読み取ったらしい助手君がそう言うので、一度休憩をすることにした。人間の身体機能に最適化された量産品のブラックコーヒーと、依存性を中和し一時期人々の話題を独占したタバコを持ち出し、テラスへと場所を変えた。 立ち並ぶ住居群の小さな一角に、煙が立ち上っている。燻された草の匂いを感じつつ、空を見上げる。どれだけ人が進歩しようとも、この空は変わらず青い。そんな小さな安心感を感じられるから、私は空が好きだ。プルタブに指をかけ、慣れた手つきで開くと嗅ぎなれたいつもの香りがやって来る。一口飲むと、感じる感情は希薄で無に近しく、その虚しさが妙に心を引き締めた。 すぅと、息を吸う。そして、吐き出す。 「あぁ…きっと、何も知らない私が初めてこの二つを口にしたのなら、果てしない幸せを感じられたんだろうな」 そんな小さな呟きは、誰にも届かないまま淡く消え、意味の無い思考を終えた私はまた、仕事場へと身を移したのであった。 『マスター、このような展開はいかかでしょうか』

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御天気騒動

─ガンジ・ガンジ・ガンガンジ 一点を核と据え、集積される無数の礫はやがて巨大な群をなす。 途方もない集積を終えたそれは鈍色に濁り、青を覆い隠す。 ぽつり。ぽつりと冷ややかな精が降り注ぎ、地を打った小粒は小さな声を上げる。 次第にそれらは肥大化し、やがて大きな大きな産声と成った。 人は呼ぶ、これは恵みの雨であると。 「ちっ、最近の人間はいかんのぉ」 若々しい容貌に似つかない口調を携えた男子が一人。 「貢ぎ物の一つも置かぬとは」 人類の技術が大きく発達した現代の社会において、水という環境は手の中に納められた鞠のようなもの。寧ろ、日々業務に追われるやつれた人間にとっては、煩わしい事象に過ぎない。 それは理解している。 しかし、往々にして天上の存在とは道理の通じぬものである。 「ちと仕置きをしてやろう」 到底恵みなどとは思えない悪人の笑みを浮かべたその存在は、ビルの屋上の上へとちょこんと座り、遥か先に見える宙へと手をかざした。 すると、どこからとも無く灰汁が染み出し空を染め上げ始め、それを感じ取った人々は上を見上げ、心底煩わしいと言わんばかりに顔を歪ませている。 ゆらゆらと足をばたつかせ、童のように笑う存在は、まるでその顔を待っていたかのようであった。 しかし、その喜びもぬかに終わり、次に顔を歪ませるのはその存在となる。 「何をされているのかしら」 純白、それ以外にどう言い表すのか分からない。頭から指の先に加えて纏う衣服さえ、それほどまでに美しい白である。 先程までの性の悪い笑みとは打って変わり、まるで天女を彷彿とさせるような微笑み。 しかし、その笑みの奥には妙な威圧感が漂い、恐ろしさすら感じる程であった。 心底嫌と言わんばかりであった顔は、苛立ちへと変容した。 「何をしに来たのじゃ“雪”」 落ち着きつつも、少々荒い声色で問う。 「止めに来たに決まっているでしょう?“雨”」 艶やかな声でそう返す。 二つの存在の間に、ピリピリとした空気が漂う。 窶れたサラリーマンの額を、一粒が濡らした。 思わず空を眺め、一言零す。 「結局降るのかよ…」 「丁度良い!そなたとは決着をつけておこうと思っていたのだ!」 両腕を側方へ開け、勢い良く掌を叩き合わせる。 宙に縫い付けられ静止した雨粒は、自我を持つように狙いを定め、高速で突き抜けていく。 しかし、冷涼なる壁の前にそれらの粒は飛沫と化した。 「その程度でしょうか?“雨”」 「お前はつくづく癇に障る奴じゃのう!“雪”」 互いを誹り合うと、“雨”は二本指を鼻先に突き立て、ふうと息を吹く。すると現れた霧状の雨は、たちまち“雪”を取り囲んだ。 「この程度の小細工で私を散らすおつもりですか?」 舞うように一周する“雪” その周囲を順に雨は凍り付き、僅かな間に牢獄は破られた。 だが、“雨”の姿は見当たらない。 −消えた…? 一瞬の迷いの中、頭上から声が降り注ぐ。 「お主はいつも一歩遅いんじゃよ!」 無数の礫を羽衣のように纏い、落下する“雨” そのかざされた手の先には、砲弾のような雨が育っている。 「くっ…!」 −ギーコ −ギーコ 陽の無い公園は、妙な物悲しさを訴えている。 「あ!おっきい雲!」 未だ純粋な少女の顔は陰りを知らないようだ。 「それと、白い人!」 “白い人”そう呼ばれた存在は少女へと近付くと、口元に指を立て優しく告げる。 「雨が降るわ。風邪をひくから、もうお帰りなさい」 「うん!でも、お姉さんは?」 「私は、少し用事がありますので…」 「ふん、もう終わりか。つまらぬ」 幼い背中がふいと姿を現す。 水も晴れ、影が露になる。 鈍い音と共に、鉄のような塊が背中を穿った。 「がっ…」 声にならない呻き声が耳をつく。 「知らないのですか?雪に水をかければ、かえって硬くなるのですよ」 「姑息な真似を!」 更なる攻撃を加えようと振り返る“雨” しかし、その眼前にはもう“雪”が降っていた。 掌に雪を集積させ、掌底を一撃打ち込む“雪” 突然の衝撃に、その幼い身体は簡単に宙を舞う。 「落ちるのはお得意でしょう?」 そして、“雪”も共に身を投げる。 「ここは少し狭いですから、場所を変えましょう」 高速で下に流れる世界の中、睨み合う二人。 雪が吹き荒れ、もう地に着くかというその時、天地は裏返った。 「ここであれば、十分でしょう」 先程まで落ちていたはずの二人は、確かな地面を踏みしめている。 「ここはお主の得意じゃろう」 眼前に広がるは白雪の大地。 まぁよい。そのように呟くと、再び戦闘態勢へと移行する。 「ふふふ、まだ勝つおつもりでしょうか?」 すると“雨”の背後から…いや、取り囲む全ての方向から、声が鳴り響いた。 「…っ!」 反射的に対応を始めた“雨”は手をかざす。 しかし、手の先から生まれた雨は即座に凍り付き、“雪”へと吸収されてしまった。 同じように手をかざす無数の“雪”は、無慈悲な連射を開始すると、対応の遅れた“雨”が埋もれ始める。 やがて、完全な雪塊となった“雨” 「これで仕舞いですね。さぁ、大人しく帰りなさい」 数刻の沈黙は“雪”の勝利を確信へと導いた。 「まぁ、そう言われても動けないでしょうね」 安心してください。そう言って、運ぼうと近付いたその時… 轟音と共に、辺りが暗転した。 いや、周りが暗くなったのではない。 あまりの閃光に、そう錯覚させられたのだ。 衝撃と共に、雪が弾け飛ぶ。 同じく吹き飛ばされた“雪”は、舞う粉のような雪の中を目で捉え、先程の確信が慢心であったことを悟った。 「あぁもう!頭が痛い!」 テレビ画面を流れる天気予報は、今が低気圧だと伝える。 「まったく、迷惑な天気だな!」 ぶつぶつと文句を言いながら身支度を整える男は、心の底から不服そうだ。 「うっ、更に酷くなってきたな…」 きっとこの男にとって、この日は最悪の一日であったことは想像にかたくない。 厚い厚い雲を通して、晴れ空は男に手を合わせた。 バチバチと音を立て、逆立った髪は龍を彷彿とさせる。 足元は深く沈み、溶け出した雪はその熱量を示している。 この姿は… 「地上を無茶苦茶にするおつもりですか!“雷雨”」 「元よりそう考えていたのだ。今更何を言う」 問答無用と言わんばかりの“雷雨”に対し、警戒を強めていた。にもかかわらず、わずかにして姿を見失った。 無数の“雪”が一瞬にして崩れ去り、雷撃の足跡だけがそこに残されていた。 煽るようにゆっくりと旋回する“雷雨” −なりふりを構っている場合ではない…! 猛烈に雪が降り注ぎ、雷と共に荒れ狂う空は深く濁り、終焉を告げる破滅のようにうねっている。 柔らかな雪はそこにはなく、地に落ちるその音はまるで石のようであった。 「地上を気遣っていたのでは無かったのか?“雹”」 「貴方のせいでしょう!」 冷気を漂わせる扇子のようなそれを天高く掲げると、空中に無数の巨大な氷塊が結露し、襲いかかった。 バチリと閃光を走らせると、高速で合間を潜り抜ける“雷雨” それを黙って見過ごす筈もなく、猛攻は更に勢いを増してゆく。 全方位から迫り来る氷塊を避け、砕き、飛び越える。 「こんなものか!もう我は覚えたぞ!」 すると、氷塊に向かい跳ね上がり、捻った体で着地し、更に蹴る。そしてまた別の氷塊へと着地し、高速で突き抜けていく。 三次元の機動を経て、更なる速度へと昇華したそれは、走りつつ腰元へと手を当て、何かを掴むように手を握ると、輝きを放つ刃が引き抜かれた。 とうとう突破されんと、次第に間合いは近づいて行く。 −来る…っ! 炸裂音のような莫大な振動が耳を吹き抜け、強烈な発光に目が眩んだ。 白く飛んだ視界が戻り、世界に色が着色されていく。 「これでは埒が明かぬな」 実態の無い刃と、厚く練り上げられた氷の繭。 「ええ、そろそろ決着をつけましょう」 五丈程の間合いの中、お互いに見合う。 果てしない大気の渦が、二人を包んで行く。 「ようやく主を叩きのめせると思うと、気分が良いぞ!“吹雪”」 「本気で勝つおつもりなのですか?“暴風雨”」 天にまで登る一本の螺旋は完全に分離し、互いに吹き荒らす。 辺りの木々はたちどころに根を引き抜かれ、吸い込まれて行く。 いよいよ、決着の時。 「なんて寒いんだ」 季節に似合わない寒気に喘ぎ、追い打ちかのように吹く強風に、顔を強ばらせている。 「一体どうなってる」 ぶるぶると身体を震わせ、必死に地を踏みしめるものの、住処はまだ先である。 「あぁ、なんて最悪なんだ」 神でもなんでもいいから助けてくれ、そう願った時、妙な暖かさが身を包んだ。 二つの強大な渦がぶつかり合わんとする、 その刹那。 「双方、そこまでです」 嘘のように静まり返った周囲は、暖かい暖気に照らされている。 朗らかに輝く光輪は、何よりも圧倒的な存在感を有し、全てを照らす陽光は、何もかもを包み込むかのようであった。 「「は、“晴れ”様!」」 先程までが嘘のように縮こまり、膝を着く二つの存在。 「お二方とも」 何処までも慈悲深い笑み。しかし、放たれる圧は一際のものである。 「そこに正座しなさい。説教です」 びくりと震え上がる“雨”と“雪” 「「はっ、はい!」」 しばらくの間、地上は晴れが続いたそうだ。 〈エピローグ〉 長きに渡る説教の中、微かに聞こえ始める音があった。 −…ン ド…ン −…ン …ドン −ドン ドドン その波に、耳をピンと立てる存在が一つ。 「…!祭りじゃ!祭りじゃ!」 先程までの俯きはどこへやら、ひょいと立ち上がると駆け出して行ってしまう。 「あっ!待ちなさい“雨”!私を置いて行かないでください!」 「ふん!お主はいつも一歩遅いんじゃよ“雪”」 続いて“雪”までも駆け出してしまう。 取り残された“晴れ”は頭を抱え、嘆く。 「まったく…あの子達は…」 「今日は降らないみたいだな」 「あ!また会ったね!白いお姉さん!」 「頭痛が無いって最高!」 「今日は暖かい…」 今日も明日も、遠い未来の先までも、太陽は優しく見守り続けている。

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朔望之獣

漠然と佇む広大な闇の中、琥珀色に輝く大きな瞳が、薄ら眼に我々を見つめている。 これは、三日月。 妖艶なそれを指す指は、瞬く間に大きく反り返って弧を描き、欠けた月のように変容し、やがてそれは新月となった。 物静かな月明かりの中、遠き故郷に届く程の大きな声。 ─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。 一本、また一本と。 ─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。 絶叫はやがて狂乱を呼ぶ。 ─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。 月夜月夜に囲われて。 ─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。 泣いて喚く親も子も。 ─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。 まるでそれは宴のよう。 ─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。─ぐしゃ。 飢えた獣は踊り狂った。 「月を指さしてはいけませんよ」 「どうして?」 「月には怖い怖い獣が居るからよ」 「けもの?」 「そうよ、とっても怖い獣」 村中の人差し指は、一夜にして消え去ってしまった。夜明けを前にして、未だ終わりを知らない痛みに“指があった場所”を抑え、蹲る。地の底を彷彿とさせる狂乱の声は、まるで水を打ったかのように静まり返っていて、その静寂が濁流となり、底知れぬ後悔の念を押し上げた。 歪む視界は朝焼けの眩しさゆえか、腫れ上がった瞼のためか、それとも舌に乗った塩味のせいか…。深い絶望に下を向き、この惨状の現実に天を仰ぐ。 見上げた空に浮かぶ残月は、未だ満ちを知らぬようだ。 「あの獣は飢えているの」 「けものさんはおなかがすいてるの?」 「そうよ、だから指を差し出すと食べられてしまうのよ」 「もしけものさんが来ちゃったらどうするの?」 「その時は、その時はね…」 ひもすがら杭を打つ。門も戸も、窓も僅かな隙間でさえ逃がさぬように、村の全員で取り掛かり、夜を待った。 金槌を握る手は、疲労のためか震えを辞めず、また村の皆もそうであった。すっかり怯えてしまった小さな子は、母の手を離さぬよう握りしめ、潤んだ瞳で世界を映す。小さく私を見据えると、遂に緩んだ大きな波が溢れ出し、母もまた必死であった。 私は精一杯の笑顔を作り、指示に従うよう促していく。一通り家に避難させ、手書きの写しを配り終えた頃、大きな獣の全身が、空を蝕み始めていた。 私は用意した荷物を抱え、扉に手をかけた。 「その時はね…」 「供物を捧げるのよ」 「くもつ?」 「そう、沢山の供物よ」 「うん、わかった!」 手入れのなされていない自然の道を、必死に駆けて行く。冴えぬ視界の中、何度も枝葉のために傷を作り、幾度も根に足を掬われた。とうに笑い始めている膝も、涙を呑んで突き動かす。 大きく響く詩が、背中へと降り注ぐ。 −偉大なる朔望之獣よ −我ら神饌たる民なり −雄大たる朔望之獣よ −その渇きを潤し給え −暗澹たる朔望之獣よ −天の先へと導き給え…。 やがてその詩は鈍痛の叫びへと変容し、燦然たる瞳の下で、愚かなる一人は走り続けた。 一体、どれほど経ったのか。未だ明けを知らない暗夜の中、名も知らぬ丘へと腰を下ろす。 相も変わらず先の見えない暗黒は、少しだけ姿を変えている。 見上げた空に浮かぶ満月は、 まるで嘲笑うかのようにこちらを照らしていた。

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朔望之獣

三百世界はここで終わった。

その日、この世界は雨に包まれた。 偶然にも拾い上げたその日誌は、まるで誰かを待っていたかのようにそこにあった。 持った瞬間から何故か止まらない衝動に身を任せ紙を捲る。 すると、開かれる度昇りゆくそれらはまさに… 無形の大地を闊歩する 白むほどに失い行く 迫り来ればそこは誰 影過ぎて虚となろう 定めらレし文字ノ墓 空は蒼ク澄み渡リ煌々スルハ太陽か 否 其則ち私乃命 もウ随分進んだが境未ダ確認ナラず 陰惨ニモ時横ギっテ心身消耗ヲ覚え始メタ イつまで此処ガ続コぅカ不透明デ陰刻々ト己蝕厶 訪問せシ者よ忘却へ抗エ 言霊扱ひ打チ砕け 三百世界◎△$♪終%ッ? 世界の認識に無数の亀裂が連鎖し崩壊する。 それらはまさに、忘れ去られた文字であった。

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三百世界はここで終わった。

クリップショット

「クリップでいい」 そう言い放つと、剥き出しの銃身を目線へと持ち上げ、銃口を突き付ける。 その姿はまるで、飢えた肉食獣のように獰猛で、底の知れ無い不敵な笑みは、狐のような狡猾さを放っていた。 ─コツリ。コツリ。 怯まず、一歩一歩と間合いを縮める手合いがそこに一人。 「ははっ」 乾いた笑いが響き渡る。 ─コツ…。 白線を踏む足音と共に、緊張感が迸る。 「ほざけ…っ!」 ─コッコッコッコッコッコッ。 腰より引き抜かれた銀色の刃は、瞬く間に長く伸び上がり、首筋を捉える。 ─ガッ。 しかし、その鈍い手応えから理解した。 まだ、首は落ちていない。 右腕で突き付けた小銃を即座に投げ上げ、半周地点にて銃身を手に迎え入れる。 首を正確に穿つ刀身を、持ち手側で受け止めると、左手を素早く添えて弾き返す。 振りあがった右手は、小銃の重みが作用し大きく右側外周に逸れ、その隙を瞬発的な一突きが襲い掛かる。 それに反応し後方右足をスライドさせると、勢いのまま回転した全身は、滑るように突きの外側へと回り込み、小銃を振り抜いた。 ─カーン。 見事に刃の側面へと命中し、その腕ごと刃が大きく退いた。 今度はこちらがその隙を見逃さまいと、左足を大きく踏み出し、棒術のように持ち替えた小銃を素早く突き出す。 そうした最中、視界に垣間見えた僅かな笑みに、それが狙いであったと教えられた。 見事に弾かれたそれを握る手を、ふっと緩める。 −カラン。カラッ。 一本の重りは、完全に手元から消え去った。 しかし、それは何の問題も無い。 上体を捻り小銃をかわすとそれを奪い取り、鳩尾に後ろ蹴りをお見舞いすると、奴は完全に膝を付く。 冷静に構え、今度は私が突き付ける。 「チェックメイトだ」 −ゴッ。 クリーンヒットした蹴りは重く響き、思わず膝を付いてしまう。 顰めた顔で見つめた先には、無慈悲な銃口を突き付ける手合いが佇んでいた。 「チェックメイトだ」 それは完全な勝利宣言。 しかし、勝負はまだ付いていない。 「ははっ…」 心からの笑みを浮かべ、言い放つ。 「あぁ、お前の負けだ」 負け惜しみ、そう思った。 「最期の言葉はそれだけか?」 奴はその狡猾な笑みを貼り付けたまま、何も言わない。 「じゃあ、死んで」 −カチャッ。 そして、私の視界が八発の弾で埋められた。 −キーン。カラカラカラ。 「俺の勝ちだな」 呆気に取られる私を横目に、奴は駆け出した。 力の抜けた腕の中に抱えられた小銃を蹴り飛ばし、無防備になった手合いを突き倒す。 マウントポジションを確保した俺は、大きく拳を握り…。 小銃の中にある筈の、クリップを突き付けた。 「なっ、言っただろ?」 あぁ、なんて腹立たしいのだろう。 「クリップの力で倒したぜ?」 たかがクリップの前に、私は酷く無力だった。

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秋栞

トッ。カタッ。スー。 飾り気のない、白色の本棚。その一角に、ぽつりと隙間が出来上がる。 随分久しぶりに顔を出したそれは、少々埃っぽく、軽く払えば、小窓の差し日の中を舞う、いくばくかの妖精が現れた。 パラパラと紙を捲り、目先を走らせる度に過去の記憶が思い出され、その懐かしさに胸が暖まる。 そんな折、一枚の枯葉が、はらはらと本の隙間から舞い落ちた。 拾い上げてみれば、それはカエデの葉であった。 そのことに気が付くと共に、あの頃の風景が鮮明に映し出される。 それは、何気ない秋の一日だった。 夏の暑さは鳴りを潜め、すっかり冬支度をし始めた。 庭先はよく掃除がいるようになり、時折親の手伝いでほうきをはく。 吹き抜ける風に身が震え、薄手の服では力不足であることを実感した。 青々とした景色は移り変わり、暖色がよく目立つようになっている。 空はすぐに暮れ始め、木々の頭は染め上げられ、そうやって少しずつ変化していった。 今思えば、可愛げの無い子供だったかもしれない。 木蘭の長ズボンに、カーキのインナー。その上に、少し色が落ちてえんじ色のようになったチェックシャツを身に付けている。 その艶やかな顔には皺のひとつも無く、背筋はピンと伸び、軽やかな身のこなしであった。思い返す今、もう少しその体を楽しんでおけばよかったと、そう思う。 そんな昔の私は秋空の元、いつも通りに足を運ぶ。何処へ行くかと思えば、毎日毎日飽きもせず、同じ公園へと向かっている。 特に、その公園が特別な訳では無い。ただ、脇に抱えた本一冊と、眺めの良いベンチがあれば良かったのだ。 そのベンチは、本当にどこにでもある、ごく普通のベンチである。 強いて言えば、その公園は木々の並びが良く、秋の季節を真っ直ぐに伝えてくれる。そんな木々が大変よく見える特等席であるということ。そして真横に一本、健やかに伸び上がった樹木がある程度。 最もそんなことは、その年頃の同年代の子供には全くもってつまらないことである。しかし、そのような事実は瑣末なことなのだ。むしろ、私にしか分からないからこそ、そうやって毎日楽しむことが出来ていることに、感謝すらしていた。 そんな、私にか分からない特等席へと優雅に腰を下ろし、同年代のその他とはかけ離れた天国…もとい文字の大海へと身を投じるのであった。 いつの間にやら、そんな大海も潮時となり、冷えた手先を擦り始めた頃。もう一通り読み終わった本は、二週目半ばへと物語の姿を変えていた。 帰り支度を始めようと、本に栞を挟もうとして、気が付いた。 栞を忘れたということに。 生憎、記憶力が良い方ではない。故に、自分にとって栞は切っても切り離せないものである。だが、ここには栞がない。 こんな一風変わった子供でも、予想外には冷や汗をかくもので、まだ小さな思考を巡らせる。しかし、中々良い結果は出ないもので、大したことでもないのにも関わらず、どうしようも無い孤独感に胸が締め付けられる思いであった。 そこに、一枚の救世主が舞い降りる。 それが、このカエデの葉であった…。 なんとも懐かしい感覚だ。こんなに満たされた秋を感じるのは、随分久しぶりのように思う。あの頃の輝きを失ったのは、一体いつからだろうか。このカエデは私にとって、変え難いものだ。全く、こんなことも忘れてしまうとは、なんと役に立たない頭であろうか…。 大切に、大切にカエデの葉を運び、余っていた小瓶を取り出した。そこに、一枚の彩を加えると、小さな秋の世界が姿を現す。 とっくに枯れてしまったように見えた一枚は、過去の世界を切り取って、未だ思い出の中を生き続けていた。 トッ。カタッ。スー。 飾り気のない、白色の本棚。その一角に、思い出の栞が残っている。 随分久しぶりに顔を出したそれは、確かな秋の匂いを孕んでいて、繋がる香りを辿って行くその先には、一枚のカエデが優しい日差しを反射して、煌びやかに彩られている。 優しい陽の差す窓辺にて、いつまでも秋はそこにあった。 お題:読書の秋

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有名な絵画

きっと、著名な人物が描いたに違いないであろう。 ドミニク・アングル、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ、アルブレヒト・デューラー、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・ラ・サンディシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ、ヨハネス・フェルメール、ピーテル・ブリューゲル、エドヴァルド・ムンク、クロード・モネ、アンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソー、レオナルド・ダ・ヴィンチ、フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ…。数々の名画と共に、様々な名前が想起される。脳を探れば、何処かで見たことがあると、そんな声が聞こえてくる。間違い無い。これは… 「有名な絵画だな」 「あぁ、これは有名な絵画だね」 「有名、だと思うんだが…」 「そうだね、有名だとは思う」 二人組の頭には、疑問符が浮かび上がっている。 「でも、どうしてそう思うんだ?」 「どこかで、見たような…」 今ひとつ噛み合わない会話。それもそうだ、もう既に言葉は届いていない。相も変わらず、この深層に潜るような集中力には目を見張るものがあるが、少しはこちらを気遣って欲しいものだ。 「おい、いつまで考え込むつもりだ」 いい加減にしろと言わんばかりに、苛立ちと呆れを顕にさせた男が声をかける。 「…あぁ、すまない」 「そろそろ行くか」 「君には、この絵は何に見えている?」 「あぁ?そりゃあ…」 「答えなくてもいい」 「はぁ?」 「これは有名な絵画だ」 「それ以上でも、それ以下でもない」

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有名な絵画

船旅

こっくり…。こっくり…。 微睡みの湖沼を流れ行く、若き男がそこに一人。ささやかな揺れも、その小舟を揺らすには十分なようで、右に左に揺られる姿が可愛らしい。一体、彼は今何を見ているのだろうか。 揺れに目覚めを促され、霧がかった世界に目を擦る。薄霧に白んでいる辺りもそうであるが、何よりこの頭が霧がかったようにぼんやりとしている。 −ここは、どこだろう…。 しばらくの間揺られていたようだが、今まで何をしていたのかが、全くもって分からない。訝しむ時間もそこそこに、小舟が浅瀬に乗り上げたようだ。 「おっと…」 久方ぶりの大地に、踏み出す足が驚いてしまったようで、ふらふらと二三歩よろけて進み、やっと意志を持って踏み出した。思いのほか身体は軽い。むしろ、あまりの軽さに違和感を覚える程だ。 「さて…」 木々がある。そう、あるのだと思う。しかし、あることが分かっているはずなのだが、視界の中には三本程を捉えるのが限界で、認識が出来ない。上手く言い表すのは難しい感覚だ。 −これも、霧の影響なのだろうか…。 そんな感覚に嫌気が差し、湖の方へと目を向ける。しかし、そこには湖は存在せず、ただ無形の大地が連なるばかりであった。 非常に奇妙な出来事の数々に頭を抱えそうにはなるものの、取り残された小舟がそれを引き止めた。 「おーい、おーい」 どこからともなく、声が聞こえる。誰の呼び声だろうか。方向すらままならないが、とりあえず進むことにした。 森の中を、船に乗って漕ぎ進む。歩んだはずの足跡は霧がかって消えてしまい、進む先もまた、霧の中に紛れている。一体、どこへ向かっているのだろうか。 −そうだ…。 霧の先を見つけようとしていたのだ。 突拍子も無く現れた思考。だが、ままならない頭では、それに従うのが精一杯であった。 「よし…」 高らかに櫓を掲げ、突き進む。二足歩行の兎や、魚を食らう栗鼠を横目に流れ行く。 −そういえば…。 随分開けた視界に首を傾げる。先程までは木々の中に居たはずだが。そう考えた途端、宙に舞う木々。その一つ一つがこちらを見つめているようで、背筋に悪寒が走り出す。思わず漕ぎを早めようとするものの、上手く体は動かない。 −こうなったら…。 そうして、立ち上がろうとしたとき… ガタンッ。 静寂の室内に、大きな音が鳴り響いた。 晴れゆく霧、覚醒する意識。急激な眩しさに、顔を歪めた。 −視線を感じる。 これはどのような状況なのだろうか。先程までは、小舟が…。記憶を探るものの、あまり思い出すことは出来ない。 「やっと起きた」 隣から発せられる声に、ようやく状況を理解した。途端、顔に熱がこもり、また下を向く。 「授業中は寝ないように」 最奥から聞こえる言葉に、耳の先まで熱くなる。 止んでいた黒板の音は、再び一定の波を立て始め、こちらを向く木々の視線もまた、前へと戻って行く。 「船旅、楽しかった?」 悪戯っぽく笑みを浮かべて、質問を投げかける隣人。その囁き声は、他のどの音よりも僕の中で大きく響き渡る。 「もう、勘弁して…」 二度と船は漕がないと、そう心の中で静かに誓う僕であった。

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船旅