じゃらねっこ

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じゃらねっこ

ねこじゃらしが好きなので、じゃらねっこです。

突然、一本の木が生えたんですよ。 大して大きくもない町ですから、お互いにそれなりに顔も知れていましてね。特にご近所さんなんかとはよく話します。ですから、小さな変化にもすぐに気が付いて、一日をそれで明かしたりするものなのですが、これからお話するのは、そんな町で生まれ育ってきた人生の中でも、一等忘れられないお話です。 その日私は珍しいことに朝早く起きましてね、折角なので散歩でもしようかと外へ出ました。やはり早朝の時間には人も少なく、捨てられた町の独り歩きなんてちょっとした想像に浸りながら歩いていると、どうやらあまり見かけない装いの方が道を歩いていましてね。それが、ローブ姿にフードを深く被っていて、一体どんな容貌なのかも何歳なのかも皆目検討がつかないのです。ですが、特に私は何をする訳でもなく、また向こうも私に見向きもせず、ただすれ違うだけでした。そういった奇妙な邂逅をきっかけに、その日は始まったのです。 先程のローブを脳の端に残したまま、私はふらふらと歩みを進めていました。するといつの間にか町を一周し、一番見慣れた風景がそこにあったのです。しかしどうでしょうか。何やら少しばかりの違和感があるのです。その突っかかりが何なのかを探すため、私は立ち止まってよくよく辺りを眺めました。するとあったのです。 一本の木が。 私はそこらの風景なら見紛うことはありません。ずっと暮らしていましたから。ですから気が付いたのです。私の家からすぐ近く、一組の夫婦が住まう一軒家、そこには塀が設けられ、それなりの広さの庭があります。そして、その庭に全く見覚えのない木が生えていたのです。昨日までは無かった木でした。つまるところ、 突然、一本の木が生えたんですよ。 私は呆気に取られました。木は一日二日では育ちませんから、そんなことはありえないのです。ですが、確かにそこには塀越しの木が、こちらを見下ろしていたのです。少なくともその塀は、人の背より幾分か高いものですから、やはりその木は苗ではなく木なのです。私は間もなく家へと戻りましたが、どうしてもその木が頭から離れません。一刻、二個刻と時が過ぎ、とうとう堪えられなくなった私は、日が丁度頭の位置へ昇る頃にその家を尋ねました。 戸を叩くと間もなく、夫婦のうち妻の方が出てきました。ですから、挨拶をかわそうと口を開いたものの、言葉に詰まります。決して私が人見知りだからではありません。驚いたのは、その相手の深く沈んだ顔でした。目元は赤く晴れ、顔は蒼白、そんな相手に誰が景気良く挨拶などできるでしょうか。私は完全に言葉を失い、少しの間、気まずい空間が訪れました。ですが、私には目的がありましたから、気を持ち直して挨拶を交わしました。しかし返ってくる声も虚ろで、気分よく話せる調子ではありませんから、かえって長引かせても悪いと考えた私は、手早く聞きたいことを聞いたのです。「あちらの木はいつ植えられたのですか」と。 聞いた途端、雰囲気が変わるのを肌で感じました。蒼白の顔をそれはもう凄まじい勢いで上げると、恐ろしい程に見開かれた瞳は、はっきりと何かを見据えているのにも関わらず、何にも焦点が合っていないように見えるのです。私は後ずさりました。この異様な調子が、私を後ろへと突き飛ばしたのでしょう。そんな私には目もくれず、彼女は口を開きます。 「旦那です。私の旦那なのです」 私には訳が分かりませんでした。しかし彼女が言うには、あの木は彼女の旦那なのだそうで、どうやら今日の朝方に旦那があの木に変わるのをその目で見たとのことなのです。私には全くもって理解し難い話でした。それだけでも受け入れ難いのにも関わらず、目の前の異様な空気にも耐えられそうになく、その日私はすぐに退散しました。そうして、家に戻り安寧の息をつくと、人とは不思議なものではたりとその嫌な記憶に蓋をして、数日後には全く普段通りに暮らしていたのです。 幾年が過ぎた頃でした。その日私は珍しいことに朝早く起きましてね、折角なので散歩でもしようかと外へ出ました。やはり早朝の時間には人も少なく、捨てられた町の独り歩きなんてちょっとした想像に浸りながら歩いていると、どうやら見覚えのある顔が姿を表したのです。それはいつしかの日、木になったと話を聞いたあの夫婦の旦那でした。私は驚いて駆け寄ると、話を聞きます。今まで何処へ消えていたのかと。するとなんと言ったか、さも何事もないかのように、少し散歩にと言ったのです。何度も年を跨ぐような散歩があるでしょうか、私の首筋には嫌な汗が走りました。あの日の空気を思い出してしまったのです。その場に立ち尽くした私は、旦那が当たり前のように自宅に戻って行く姿を見送ることしか出来ませんでした。 翌日の朝、やはり私は様子が気がかりになり、それを確かめるべくあの家を訪れました。しかしその日は戸を叩くまでもなく、庭先に目的が転がっていました。旦那と妻が木の傍で何やら揉めているのです。既に敷地へと入っている私にすら気が付かず、話を続けているようで、私はその話を聞くことにしました。話の内容はこうでした。 「この木が私の旦那です。もう何年も戻りません。私の旦那はこの木なのです」 「だから、俺はここに居るだろう。俺は散歩に出ていただけだ、なんてことはない。俺がお前の旦那だ」 訳が分かりませんでした。ですが確かにそこにあったのは、必死に旦那を守り続ける妻と、認められない旦那の姿でした。私はもう、会話をしに行く気にすらなりませんでした。ただ、家へと戻り考えたのです。 妻は、旦那が木に変わる姿をその目で見た。しかし、私は当たり前のように変わらない風貌で話し、家へと戻る旦那を見ました。あの妻以外、木が旦那であると見た人は居ません。近所中、妻がおかしくなったのだと持ち切りでしたから、確かでしょう。そして私は見ました、そこに存在する旦那を。 旦那はその日のうちに人目に入らぬまま、町を出ていきました。この町に残されたのは、永遠の謎と木を守る妻だけでした。 私には、何が正しいだとか、何が間違いだとかは分かりません。今後分かることも無いでしょう。ですが私は、この目で見たことしか信じられないのです。ですから私は到底、あの木が本当の旦那だとは思えません。あなたはどうですか。 あなたは、何も見ていないですから。

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幸福死

何故、我々は地の底を想像するのだろうか。 希望のひとひらさえも宿らぬ様な世界を想像し、一体何を得ようとしているのだろうか。きっと、我々は信じたいのだ。我々が生きるこの世界が、決して底などでは無いと。どれだけ苦しくとも、まだ下があるのだと。 机上に丁寧に“飾られていた”花瓶を叩き落とし、無惨に砕け散った。溢れ出す透明の皿に花びらが添えられて、彩り豊かな悲鳴が僕の耳を啄んだ。 「きゃあ!」 「なになに?」 「ひっどーい」 「あはは!」 「うける」 「おいおい」 「何してんだ?」 どうやら、今日の掃除当番は僕になったらしい。色々会話をした記憶は朧気にあるが、どれ一つも鮮明には思い出せない。ただ一人残された教室は、やけに広く感じられた。それ故に、ただ一部屋の掃除程度がいつまでも終わらない。 窓を叩く雨音が音を上げる。 濡れた雑巾を絞ると、手伝いに滴る水滴が冷たく刺さって消えていく。 「もう、いいかな」 薄暗い校舎の中は湿気が酷く、注ぎ込んだ雨で濡れた廊下は、危険な罠と化している。一歩一歩と踏み出し、自分の荷物に手をかけると、普段より幾分も軽いので、少し驚いてしまう。無論、自ら荷物を減らしたのだが、それでもであった。中には一冊の本。角は擦れ、紙は茶色味を帯び、幾分か湿気でよれてしまっていたそれは、昔からのお気に入りの本である。そこそこ有名なハッピーエンドの物語で、僕は昔からそういうハッピーエンドが好きなのだ。そんなお気に入り一冊の入った荷物を持ち、教室を後にする。 整然と整えられた机達の中、一つの机だけがはみ出していた。だが、それを直す人はただ一人として存在しない。 足音が響き渡る階段を、ゆっくりと上って行く。身軽な身体は上り階段には最適で、何の苦痛も無く、ただ一瞬に感じられる時間の中、僕を屋上へと連れ出した。激しく降り注ぐ雨の中を、ただ一人歩き出す。大して意味もないフェンスを乗り越えて、大きく立った。普段よりもずっと広い視野で世界を眺めるが、しかし全くもって小さいと感じるこの世界に、心の中で挨拶をする。 僕はハッピーエンドが好きだ。でも、この世界には苦痛が満ち溢れている。多分、生に感謝出来る人達は大抵、生が上手くいっているんだろうけれど、僕はその範疇じゃない。だから、これから僕はハッピーエンドを掴むことにしたんだ。ありがとう、最後にハッピーエンドのチャンスをくれて、それじゃあさようなら。 大きく終業の鐘が鳴り響いた。 彼の幸福死は成就した。

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正方形

とある国のとある町の一角の、とある通りの路地裏に、一人のおじいさんが住んでいました。 そのおじいさんはとても名高い職人で、名前を知らない人はほとんど居ません。それはもう、国唯一の城よりも、おじいさんの名前の方が知られているくらいです。ですから、この国の住人達は迷わずに、おじいさんの作った四角を選びます。名高いおじいさんの四角は需要も高く、値を張るものばかりですが、それでも皆口を揃えて、「おじいさんの作ったものを」と言います。しかし、中にはおじいさんのつくる物を訝しむ人も居ます。ですが、ほんの少しの懐疑心よりも、大勢の期待と渇望がそれを埋め尽くすのです。 昔のおじいさんは今と同じで職人気質でしたが、今とは少し違ったように思います。昔のおじいさんなら空を見た時、穏やかな笑みを浮かべていましたし、顔に蝶が止まった時は、その場を少しも動かずに、蝶を休ませてあげました。今も昔も気難しい人ですが、今のおじいさんは少し、怖いように思います。それがどうしてなのか、私の頭では分かりません。分からないので、考えないようになりました。今日もお使いを頼まれた私は、おじいさんの正方形をいくつか買って、家に帰ります。帰り際、おじいさんの方に振り返りましたが、蛇のように長い列が私の視界を遮って、何も見えませんでした。それでも私は昔のように、小さくおじいさんに手を振ります。なんだか、手に触れる正方形は、昔より冷たいように感じました。 おじいさんが有名になったのは、私が出会ってしばらく後のことでした。昔から物を作るのが上手だったおじいさんですが、初めからそれが日の目を浴びていた訳では無かったのです。では、どうして有名になったのかというと、それは正方形のおかげでした。この国には正しい四角がありませんでした。どの人が作るものも、どの人が建てる家も、くにゃくにゃと岩の表面をなぞったように曲がっていて、それが当たり前でした。そこに、おじいさんが正方形の型を持って現れたのです。そのお話は人づてに広がって、気付けばその声は、王宮まで届いていたのです。そこからは寝て起きるよりも早い出来事でした。あっという間に王宮へと招待されたおじいさんは、国王が自分から大っぴらに喧伝し、勲章を与え、それを見ていた国民達も、おじいさんを称えました。そしてお城を中心に、私の知っている街並みは無くなっていきました。くにゃくにゃと曲がっていた国は、あっという間に真っ直ぐに変えられて、すぐに迷ってしまう歩きにくい道は、みるみるうちに向こうまでが見渡せるようになったのです。でも、何より私にとって変わったと思ったのは、おじいさんと話せなくなったことでした。おじいさんの家を覗くと、いつでも忙しそうにしているので、いつの間にか私は、おじいさんに話しかけることが出来なくなりました。私は悲しいと思いましたが、真剣なおじいさんの横顔を見るうちに、私の悲しさがどうしようもなく小さく思えて、眺めるのを辞めました。 ある日の事でした。とある博識そうな青年が、おじいさんのお家の前に立っていたのです。私はたまたま、おじいさんのお家の前を通りがかっていたので、その人のことをよく覚えています。始めは、お客さんかと思って通り過ぎようとしましたが、突然その人が大きな声をあげるので、驚いてそちらを向きました。すると、青年はおじいさんの正方形を掲げていたのです。呆気に取られた私は足を止め、気が付けば青年の言葉に耳を傾けていました。彼はこう言っていました。 「この正方形は正しくない!」 私は耳を疑いました。今まで誰も、そんな言葉を言ったことが無かったからです。心の中でそう思っていた人も居たのかもしれませんが、それでも言葉にする人は居ませんでした。ですが、その時私のすぐ近くに、そう言った人が居たのです。彼は続けて言いました。 「この正方形には僅かな歪みがあるんだ!」 声を聞きつけた民衆はあっという間に集まって、気が付けばちょっとした騒ぎになっていました。その騒ぎを聞きつけて、ついにおじいさんも窓から顔を出しました。そんな状態になっていても、青年は言葉を止めません。「この正方形には歪みがある」だとか、「この正方形を買うのはやめろ」という言葉を立て続けに叫び、聴衆をどよめかせているのです。ですが、職人気質のおじいさんは自分の作るものに誇りを持っています。ですから、自分が失敗をする筈が無いという自信に溢れていました。昔からその事を知っている私は、おじいさんがすぐに言い返して、この場を収めると思って見ています。ですが、一向におじいさんは何も言わず、いつの間にか顔を引っ込めて、聴衆と青年と私だけがそこに取り残されました。私はどうしてか不思議に思いましたが、きっと働いて疲れているのだと自分を納得させていました。 その騒動はそれ程長くかからず収まりましたが、小さな歪みを落として行きました。それ以来、とある噂話が流れ始めたのです。それがどんなお話なのか知ったのは、それから数日後のことでした。ですが、それを知って駆け出した頃には、もう手遅れだったのです。何もかもが、終わってしまった後だったのです。 私は、おじいさんの家へと行きました。初めはお店を見に行きましたが、クローズという掛札だけがそこに残されていたのです。私は息を切らして走りました。流れる雲が逆に進み始め、頬を撫でる風は強くなり、そうして私はおじいさんの家に着きました。息を整える暇もなく、私はドアを叩きました。中から返事は帰ってきません。でも、それは良くあることです。昔から、ものを作る時のおじいさんはとても集中していて、物音も聞こえなくなってしまうからです。私はきっと、今日も何かを作っているのだと考えようとしました。ですが、私の中に残った歪みが、それを許しません。何か、悪い予感がしたのです。私は返事のないドアの取手を、試しに引いてみました。長らく油のさされていないドアは、キィと嫌な音を立てて開きました。私は息を飲み、恐る恐る前に進みます。勝手に入ってはいけないことは分かっていました。ですが、あの予感が私を突き動かすのです。一歩、また一歩と進むうちに、沢山の考えが頭をよぎりました。でも、そんな訳ないと頭を振り、そしておじいさんの部屋の前へと来たのです。私は声をかけます。ですが、返事はありません。私はドアを叩きます。ですが、返事はありません。背筋に嫌な感覚がしました。手に残る汗を必死に拭って、取手に手をかけます。私の心の重さとは裏腹に、扉は簡単に開きました。おじいさんは横たわっています。きっと、寝ているのでしょう。そうに決まっています。ですから、私は必死に起こしました。いつの間にか、他の人も起こしに来て、私は家から出され、おじいさんは運び出され、皆が手に花を持っていました。私は空を見上げます。でも、笑顔になれません。私の花に蝶が止まります。でも、私は蝶を振り払います。私はおじいさんを思い出します。どうしてこうなったのでしょう。私には分かりません。私には何も分かりません。そうやって、布団の中に入りました。 日々も過ぎ去った後、ふとあの青年を思い出しました。あの青年が、王の隣で笑っていたからです。どうやら、彼は完璧な正方形を作ったそうです。それは、とても嬉しいことなんだと思います。ですが、私はちっとも嬉しくありません。私の中の消えない歪みは、どんどん大きくなっていました。どうしてでしょうか。分かりません。私には何も分かりません。私だけじゃありません。みんな何も分かりません。何も分からないから、正方形を欲しがるんです。 私は気が付きました。家の正方形を片っ端から壊してしまいました。でも、次の日には新しい正方形が使われました。私は気が付きました。私はまた、正方形を壊しに行きました。次はもう、戻されることの無いように。

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薄明の賽

なぁ、どっちだ」 水平線上は琥珀に染め上げられ、雄大な世界はこの瞬間、果てしない宝石のように輝いている。 「どっちがって、何がさ」 「この瞬間が、始まりなのか、終わりなのかだよ」 そっと袖を捲ると、その腕を水平に向けようとする。しかし、その腕は逆光の影法師に遮られた。 「それは反則だ」 どこまでも暖かな色彩と、どこまでも深い暗色の濾光板の中、僕達は向き合う。 「なぁ、賭けをしよう」彼はそう言うと、懐から賽を取り出す。そして、その小さな四面体は大きく宙を舞った。 「選んでくれ、この賽が向かう先を。

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薄明の賽

物覚え

「君ってさ、器用だよね」 何気ない、本当に何でもない一日の、何でもない昼下がり。これといった事柄も無く、平和な日常という名の幸せを謳歌する中で生まれた、ちょっとしたお話。これは、小さな小さな物語の幕開けを伝える言葉だった。 「私、結構忘れっぽいの」 スーパーの特売の日程だとか、お買い物での買い忘れだとか、学生時代は提出のプリントをよく忘れていた。そういう毎日の細々とした事柄を忘れてしまうから、結構怒られちゃったりもして、自分でもそれは自覚していた。だから、それを直そうと必死になって、沢山対策法を調べたりもした。そうしているうちに、調べるのが癖になって、色々なことを実践して、出来ることは自分でするのが当たり前になっていた。 「だからね」 林檎を切り分け、うさぎの耳を付け、お皿の上に綺麗に乗せて、食卓へ運ぶ。彼が着ているのは手編みのセーター。そういえば、誕生日には手編みのマフラーを送ったことをふと思い出した。二本の爪楊枝に互いが手を伸ばして、小さく触れる。そうしたら、彼の大きな手が私を求めるように包み込んで、気が付けばすっかり手を繋いでいた。まるで、愛猫を眺めるような愛しい彼の視線が少し恥ずかしくて、顔が熱くなるのを感じた。 「殆ど忘れちゃったの」 顔が火照って、今もどんどん何かを忘れている気がする。けれど、今この時間が幸せだから、それでいいような気もする。過去に調べたことの殆どはすっかり忘れてしまって、昔出来たことも、今は全然出来ないことの方が多い。ちょっとした道具も手作りしていた頃だってあったけれど、もう全然そういうこともしなくなって、今は作り方なんて覚えていない。昔の自分が保証する忘れっぽいこの頭が、そんな沢山のことを覚えている筈が無いのだ。 「だけれどね」 けれど、そんな頭の私が唯一忘れないことがある。別にそれは、誰かに叩き込まれただとか、特別出来なければならないだとか、そんなことは無くて、ただ一回おばあちゃんに習っただけ。けれど、どうしてかそれだけは忘れられなくて、ずっとずっとやり続けている。手間暇もかかるし、今どきそんなことをしなくても、お店に行けば良い物が買えるって分かっている。けれど、忘れられない。 「そっか、じゃあお祖母様に感謝しなきゃね」 「どうして?」 「だって、お祖母様のおかげで僕はこんなに暖かいんだから」 「うん、そうだね」 「ありがとう、おばあちゃん」 昼下がりの小さな物語は、和やかな二人の笑い声で幕を閉じる。この幸せな空間は、おばあちゃんのおかげで掴めた幸せだ。どうして忘れられなかったのかは分からないけれど、今はただ幸せを噛み締めたいと、そう思う。 あぁ、明日は何を忘れるだろうか。明後日は何を忘れるだろうか。きっと、これから沢山のことを忘れていく。けれど、忘れないことも沢山ある。忘れたり忘れなかったり、そういう些細な記憶の積み重なりが、幸せなんだ。 それが、物覚えってことなんだ。

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物覚え

第8回N1 英雄の遺書

『きっと、僕は死ぬだろう。国王から命を受けた。これから行くのは生きて帰れるような場所では無い。だから、ここに遺書を遺すことにした。』 「エールを一つ」 とある街の一角にさえ、その波は広がっていた。少々表から外れた土地に腰を据えたあまり目立たぬその酒場は、近場の街人からの根強い人気に支えられ、今日も今日とて活気溢れる様子である。しかし、今日の活気の渦の中心には、普段とは違った目が潜んでいるようだ。 出入口から見て最奥の一つ手前、窓際の座席に構えた私は早速酒を注文した。すると、酒を待つ間手を空かしていた私の耳に、ひとつまみの喧騒がまぶされた。 「聞いたか?英雄様の遺書の話」 近頃の話題と言えば、かの英雄の遺書が見つかったという話で持ち切りで、皆口を開けばそのことについて話している。この王国で英雄と言えば、ただ一人しか存在しない。この国の民であれば誰しもが必ず知る存在であり、皆が一度は憧れる存在。彼は勇敢で、強く、紳士的で、彼を賞賛する意見を並べれば、ひとつの書が編纂されると言われる程の人物だ。しかし、そんな英雄様の生きていた頃の話で残っているものは数少ない。だからこそ、皆の憧れである英雄の遺書ともなれば、言うまでもなく話題になるだろう。 「ああ、聞いたよ。それも指では数え切れない程にな」 「じゃあ、その内容については知ってるか」 「いや、遺書が見つかったという話は聞いたが、それ以外は全くだ」 「やっぱりか、どの情報筋に当たっても、全く同じ答えだったよ」 「そうか、俺も内容については気になるが、情報がないんじゃあな」 若い男が二人、最奥列の隣テーブルに向かい合っている。どうやらこの二人もこの喧騒の中にあるようだ。 盗み聞きは趣味では無いが…。しかし、何やら少しばかり違和感を感じる。だが、その違和感の正体が何なのか掴みあぐねている。この話の中に潜む違和感、それは一体なんなんだろうか。 若者に当てられた私の思考は、そんな疑問を弾き出した。 「はい、エールね」 礼を言い、エールを一口味わう。喉を潤す水分のお陰で、思考が晴れやかになる。やはり酒はいい。そんな小さな酔いの所為か、それとも好奇心の為か、すっかり敏感になった私の耳は、新たな盗み話を持ち込んだ。 「遺書だなんて、あれだけ勇敢な方でもそのような物を遺されるのですね」 「ええ、英雄様のお話は同じ人間とは思えない程に凄まじいものですから、なんだか人間らしさを感じますね」 所帯を持つに相応しそうな女性が二人、先程の二人の隣側、私から見て対角の位置に座っている。ちびちびと飲んでいた酒も半分程になり、興の乗った私の思考はそれらの言葉を得て更に前進した。 英雄という存在は勇気に溢れ、何者にも臆することの無い鋼の精神を持った存在だと言われている。だが、遺書という物を遺すということは、少なからず死を連想し、それに対して恐怖していると言っても良いだろう。そう考えれば、英雄という存在の影を乱さぬ為に闇の中へと隠すのも頷ける。確か、英雄譚では国王からの願いを自ら引き受け、死地へと足を運んだとされていた。そこで見事に勝利を収めたものの、この地へ戻ることは無かったと。しかし、国王からの命だ、良く考えれば拒否をする選択肢など初めから無かったのでは無いだろうか。死地へと進んで向かうなんて、確かに皆が言う“英雄”ならばそうしたかもしれない。だがもしも、その英雄様はそんな存在では無かったとしたら…。 ─まさか、な。 「肝心の内容が分からないんじゃなあ」 「確かに、遺書だ遺書だと言っても、一体何が書いてあったんだろうな」 「ああ、だが誰も知らないんだからどうしようもないな」 誰も知らない遺書。一体何が書いてあったんだろうか。少なくとも、今自分達が憧れてやまない英雄様の姿を成していない可能性は、十分にある。英雄とて一人の人間だ。だが、その功績と先入観に囚われ、忘れてしまっていた。“英雄とはそういうものなのだ”なんてそんな思考がいつの間にか日常になっていたのだろう。私であれば、その信頼。いや、重圧に耐えられただろうか。 「なあ、死ぬのは怖いか?」 「当たり前だろう。そんなこと、考えたくもない」 「英雄様も、そうだったのかもな」 「あの英雄様がか?そんな訳無いだろう」 「でも、あの人だって同じ人間だろう」 もしかすると、英雄はこれが狙いだったのかもしれない。英雄という民の象徴を担う者の最初で最後の抵抗…。いや、ただ自分を伝えたかったんだろう。 英雄ではなく、一人の人間として、自分という存在を。 隣の窓へと目を向ける。夜の世界を映すはずの窓硝子は内の光を反射して、鏡のように輝いている。目を凝らせば景色が映る。しかし、それを怠ればそこに見えるのはその輝きに魅せられた別の世界。果たして、そんな左右すらままならない何かを眺める私達は、一体どのように見えるのだろうか。 ─あれは、女性か。 窓の先の小道を一人歩く女性が一人。その出で立ちは見るからに村娘で、この時期に街へと赴くのは珍しい。だがそれ以上に、彼女の纏う雰囲気から目が離せなかった。それはもう、先程までなら盗んでいたはずの会話すら、置き忘れてしまう程に。 「英雄様の遺書は、一体どこで見つけられたのかしら」 「きっと、英雄様のお部屋の中や、近しい場所よ」 「最後の遠征は、七つもの村や町を経由したらしい」 「ああ、遠征中に英雄様が恋に落ちたなんて噂もあったな」 「お向かい、よろしいでしょうか」 「え、ええ…勿論」 「では。あの、この村娘のお話を、聞いては頂けませんか」 「ええ、構いませんよ」 「これは、とある一人のお方。私達と変わらない、ただ一人の“人間の遺書”についてのお話です」 『これからここに書くことは、きっと、皆にとっては信じられないだろう。けれど、これは僕の本心だ。だから、聞いて欲しい。皆は僕を英雄と呼ぶ。でも、僕は…』 「私は知って欲しいのです。彼という“人間”を」 ─他でもない、貴方に。

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第8回N1 英雄の遺書

「ああどうしましょう、私は最低な人間です」 とある日の交番は、やけに騒がしい様子であった。冷ややかな悪寒を背に何事かと聞いてみれば、一人の男が騒いでいるという。ほうと胸を撫で下ろし、何やら好奇心が顔を出した私は家の前を横切る通りを抜け十字路へと身を乗り出すと、その右方に視線を向けた。すると、どうやら困った様子の警官と、黒髪の薄い男が揉めているようである。 「私は罪の無い命を潰してしまったのです。私は愚かな罪人です。どうか、お縄にかけてください。お願いします」 男は酷く真剣な様子で口を動かし続けている。しかし、それを窘める警官の頬には汗が滲み、時折手拭いでそれを拭き取りながら、困惑の表情を浮かべていた。どうやら、あの男は自首を申し出ているようだ。そのように眺めていると、薄い黒髪がはたと動き、視線と視線がぶつかった。 「あぁ、そこのお方。どうかあの方を説得して頂けませんか。お願いします。どうか」 詰め寄られた私は逃げ場を失い、とうとう話を聞くこととなってしまった。聞いた話の経緯は、どうやらこうらしい。 空も白み始めたばかりの時間、いつも通りに目を覚ました男は、日課である体操をしようと庭に赴いた。しかし、今の時代に見合わぬカセットテープを忘れた事に気が付き、取り出しに行こうと一歩を踏み出した時のこと。何やらおかしな感触が足裏をくすぐったのだ。何事かと視線を向けると、生き生きとした緑の芝の一端の、ちょうど踏みしめている辺りがおかしな色になっている。赤茄子でも踏み付けたのかと思ったが、そんなはずは無かった。その庭では何の家庭菜園もしていなければ、買い物袋を外に置き去りにすることも無かったからだ。答えの分からぬまま逡巡する思考をいつまでも続けていても仕方がないと考え、それに蓋をした男は、恐る恐る足を上げてみることにした。 日の出のようにゆっくりと足を上げる。少しずつ露になる姿に、嫌な感覚を覚え始めた。そしてとうとう薄ら眼でもそれが見えるようになった頃、そこに居たのは…いや、そこに“あった”のは、無情にも生命の輝きを失った一匹の鼠であった。灰と赤が混じり合い、初めの数秒は何かすら分からなかった。しかし、偶然にも原型を留めていた頭部が、それを辛うじて鼠であると認識させたのである。やけに黒い瞳が、男をジトリと見つめていたように思え、それを見た男は腰を抜かして尻餅をつき、そして、あわあわと言葉にならない声を発して後ずさった。しばらくの現実逃避の末に、とうとう堪えきれなくなった男は駆け出し、今に至るということである。 「私は罪のない命を奪った愚か者なのです。どうか、私を罰してください」 一通り話し終えた男は尚、そのような言葉を繰り返している。とうの警官はというと、疲弊した様子で返事を繰り返している。そんな埒が明かない様子を見ていた私の足は地を何遍も叩き、指先は落ち着かない様子を見せていた。日も高く登った頃、とうとう堪えきれなくなった私は、男に言葉を投げかけた。 「ひとつ、よろしいですか」 突然の開口に身を震わせた男は、しかし間もなく元に戻ると、次にはさも不思議であるという顔をしていた。 「ええ、ええ、なんでございましょうか」 落ち着いてこちらの様子を伺う男が、どこか迷える子羊かのように思え、私は隠さず率直に問うこととした。 「何故、それが罪なのでしょうか」 先程まで喧騒を訴えていた交番は、やけに静かな空間へと変わってしまった。黒髪の薄い男は目をぎょっと見開き、わなわなと口を震わせ、まるで打ち上げられた魚のようである。何分かの間を置き、言葉にならない声を幾度か聞き届けた後のこと。ついに男は口を開いた。 「何故−。何故ですか。無意味に命を奪うことは、罪でしょう。そんなことはごく当然のことでしょう」 私には、やはりこの男が迷える子羊のように思えてならない。大きな檻に囚われた、哀れな子羊なのだ。故に、私はこの男を導きたいと、そう考えた。 「では、何故私達は罪人では無いのですか。私達は沢山の家畜の命を奪って生きているではありませんか」 首筋には汗が筋を作り始め、その顔は丸めた紙のように変容し、ついに両手で頭を抱えた。数刻の時を経て、男は言う。 「それは…。それは、生きる為でしょう。生きる為であれば、致し方がないでしょう」 長考の末に導き出されたその灯火は、酷く淡くそして揺らいでいる。そのような世界でこの男を終わらせてしまうのは、酷く惜しいと考えた私は、更なる導きを示す。 「しかし、人でない者からすれば、目的があろうとなかろうと、同じことではないのですか」 男の目線は右往左往と行き場を失い、背は丸みを深めていく。 「いや、しかし…」 とうとう男はその瞳を地に落とし、まるで岸壁を目の前にしたかのように止まってしまった。しかし、私が導を灯したいのはそんな場所では無い。 「皆同じことをしていたとしても、皆が罪を持つ訳ではありません。この世界で生きとし生けるもの達皆、お互いに奪い合って過ごしているのです。ですから、あなたは罪人などではありません」 それを聞き届けた子羊は、ようやく灯火を目に映し、安らぎを得たかのように穏やかな顔を浮かべると、先程までの小さな姿は身を潜め、一人の“人間”が誕生した。 「ああ、ありがとうございます。ありがとうございます。お陰様で、私は救われました。なんとお礼を申したら良いのか…」 立ち尽くすも離れられぬ未だ哀れな警官は、何やら収まったであろう雰囲気を感じ取ったのか、そそくさと中に戻ってしまった。 「いえ、いえ、その言葉だけで十分です。さあ、もう日も落ち始めてしまいましたから、居所へと戻りませんと」 「ああ、もうこのような時間に…」 最後に深く一礼をし歩き去る男を、その夕日に霞むまで見送ると、私もその場を後にした。 「最近ももう寒さが厳しくなりましたね」 ガウンコートを脱ぎ去ると、薄暗い一室の電灯を灯す。その静けさとは裏腹に、心は騒がしく高鳴っていた。もう堪えきれない私は、居間を抜け、三部屋ある内の一室へと足を運ぶ。そして、一人の“人間”は小さな一室の暗闇に溶け込んだ。 「という事がありまして。いやはや、久方ぶりの数奇な出会いに、最後はしみじみとさえしてしまいました」 胸に手を当て、高らかに語る“人間”の前には、何やら小さく身を震わせる何かがあった。 「−。−−。−−−。」 「ああ、これはこれは申し訳ありません。興奮のあまり、取るのを忘れていましたね」 一室の中央に設けられた椅子から立ち、目の前のそれへと手を伸ばすと、口枷を外した。 「帰してください。お願いです。どうか、どうか」 設けられた窓には板が縫い付けられ、外の様子は分からない。だが、日を失った世界の中、確かな灯火がここに灯っている。 “人間”は、にこりと微笑むと呟くように言った。 とある日の交番に、一人の“人間”が居た。その“人間”はとある包みを懐から抜き出すと、目の前の警官に差し出した。 「ああ、またですか」 「ええまあ…。大丈夫、私達は誰も罪では無いのですから」

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始まり

「いやはや、向かい合って話せる人は久しぶりですな。まだ、こんな場所にも生き残りの方がいたとは」 暖かな陽光が窓から差し込んでいる。その先に置かれたささやかなテーブルには二つのマグカップが置かれ、向かい合うソファの座面は、深く重みを受け止めていた。 「ええ、ボクも驚きました。まだ他に人がいたなんて…」 マグカップに手をかけ口元に寄せると、飲みなれた珈琲の香りが強まる。しかし、今はその匂いもあまり分からない。 「不躾な願いで申し訳ありませんが、何かお話を聞かせて頂けませんか?」 一口啜り息をつくと、彼を真っ直ぐ見据える。 彼は静かに口角を上げ、同じように一口嗜むと口を開いた。 「もちろんです。泊めていただいた上に珈琲まで、その程度の事でよろしければ喜んでお話致しますよ」 そうして、短くも長い冒険譚が幕を開けた。 久しぶりの会話に花が咲き、初めは落ち着いていた声量も、次第に高まっていった。 これまでに出会い、会話を交わしたのは数人しかいないこと。肌の冷える夜のこと。身を焦がす太陽のこと。数日ぶりの水を飲んだ時のこと。壮大な景色のこと。最期の瞬間に手を握ったこと。色とりどりの花束のこと。 沢山の話のどれもがとても華々しく聞こえ、目を輝かせた。 「こちらは、本ですか?」 差し出された表紙は色褪せ、所々に残る汚れは年季を感じさせる。 「ええ、道中で拾いましてね。そちらは差し上げますよ」 突然の申し出に息を呑む。 「良いのですか?わざわざ持つほど…これは大切にされていたのでは」 「いえいえ、良いのですよ。私も気まぐれに持っていただけですから。それに、私より貴方の方が相応しい」 「それはどういう…」 カタリと彼は立ち上がり、背もたれにかかった上着を羽織り始める。 「長居してしまい申し訳ない。本当に助かりました」 着々と身支度を始めた彼を見て、言葉を忘れそうになる。 「あぁ、もう行かれるのですか。でしたら最後に一つだけ聞かせてください」 その言葉に手を止め、彼がボクを見据える。 「ええ、なんでしょうか」 自分でも何故か分からない期待感に昂る心を鎮め、浮つく声を必死に抑える。 「何故、旅をされているのですか?」 その質問を受け、ひと時の沈黙が流れる。 僅かな秒数の後、彼の口が開いた。 「どうしても朽ちてしまうのなら、せめて色々な景色を見てから終わりたい。それだけですよ」 ガチャリ。開く扉の先には光が満ちている。 「それでは、私は行きます。本当にありがとうございました。雨に降られた時はどうしようかと思いましたから」 にこりと笑顔を見せた彼は、光の先へと消えて行った。玄関に立ち尽くしたボクは、正直ちゃんと手を振れたのかさえ覚えていなかった。それ程までに、ボクの心は揺さぶられていた。 数日して、部屋を一通り片付けた僕は身支度を整え、最後にテーブルに置かれた一冊の本をバックに詰めると、深呼吸をする。 −すぅ…はぁ… 「よし」 世話になった空間に会釈をすると、扉に手をかける。 ガチャリ。あの時と同じ音をたてて開いた扉。 その先には、光が満ちている。 果てしない高揚感を胸に、一歩を踏み出した。 「行ってきます」

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序・日々

−何故、このような事をした。 「それが、私の選択だからです」 −何故、その選択に至った。 「それが、全ての幸せだからです」 目の前に、話したこともないおじさんが居る。いや、私はこの人の声をよく知っている。というか、毎朝聞いているのだから当たり前である。黒縁の枠に囚われた世界はとうに過去の産物となり、もはや現実という高画質スクリーンと何ら遜色無く見えてしまうからこそ、そんな馬鹿げた錯覚を起こした。空中に投影されたニュースキャスターを横目に、寝ぼけた私はそう考えた。 今日も変わらないトーンで話すニュースキャスター。その声に、なんとなく耳を傾ける。 『近年では、海面の上昇問題が大きな課題となっており、僅か数年の間にも約十五%から二十%の上昇率を…』 いくばくかの沈んだ島々が投影されると、住処を失った人々へのインタビューが開始される。未だローンを返済し終えていないこの家が、沈んでしまっては困るなぁとどこか他人事のように考えると、やっと少しずつ目が覚め始めた。 着々と針を進める壁掛け時計を横目に、手早く身支度を整える。クローゼットに手をかけると、その大きさに見合わない空白が顔を出す。僅かに綴られた衣服に目をやると、それらはコピー機にかけられたかのように同じ姿をした者達で、上下のセットが数着あるばかりだった。その内の一セットへと手を伸ばし着替えると、時計の針はいつもと同じ場所を指していた。 仕事部屋へと足を運び、机型タブレットを起動すると、専用のペンシルを内蔵された収納から引き抜く。すると、補佐の部屋型人工知能が起動する。 『おはようございます。マスター』 おはようと呟くと、勝手を知った補佐役は素早く進行中のデータを開く。そこに表示されたのは、モノクロの一ページをいくつにも分割し、様々なシーンを描いていく娯楽用品の一種。いわゆるところで言う“漫画”である。 補佐役とは言ったものの、実質的に補佐をしているのは私の方だ。発達した文明の上に成り立つ現代社会では、人間の行う仕事というのは限られている。つまるところ、今の知能達は非常に優秀なのだ。そんな優秀な知能達でもまだ行えない僅かな切れ端を、私達は必死に掴んでいる。 『このような展開はいかがでしょうか、マスター』 差し出された物語にサッと目を通す。その中にあったいくつかの違和感を見繕うと、少々の加筆と共にデータを送り返す。そして、また更新されたデータへと加筆していく。そういった繰り返しが私の仕事である。 初めの頃は多少のやり甲斐も感じていたが、遥かに早い学習能力や繰り返しの日常で私の心は摩耗し、そんな煌びやかな感情も廃れていった。今の生活に不自由は無いが、幸せかと問われれば、笑顔で頷くことは出来ないだろう。 『一度休憩をなされてはいかがでしょうか、マスター』 どうやら表情の変化を読み取ったらしい助手君がそう言うので、一度休憩をすることにした。人間の身体機能に最適化された量産品のブラックコーヒーと、依存性を中和し一時期人々の話題を独占したタバコを持ち出し、テラスへと場所を変えた。 立ち並ぶ住居群の小さな一角に、煙が立ち上っている。燻された草の匂いを感じつつ、空を見上げる。どれだけ人が進歩しようとも、この空は変わらず青い。そんな小さな安心感を感じられるから、私は空が好きだ。プルタブに指をかけ、慣れた手つきで開くと嗅ぎなれたいつもの香りがやって来る。一口飲むと、感じる感情は希薄で無に近しく、その虚しさが妙に心を引き締めた。 すぅと、息を吸う。そして、吐き出す。 「あぁ…きっと、何も知らない私が初めてこの二つを口にしたのなら、果てしない幸せを感じられたんだろうな」 そんな小さな呟きは、誰にも届かないまま淡く消え、意味の無い思考を終えた私はまた、仕事場へと身を移したのであった。 『マスター、このような展開はいかかでしょうか』

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御天気騒動

─ガンジ・ガンジ・ガンガンジ 一点を核と据え、集積される無数の礫はやがて巨大な群をなす。 途方もない集積を終えたそれは鈍色に濁り、青を覆い隠す。 ぽつり。ぽつりと冷ややかな精が降り注ぎ、地を打った小粒は小さな声を上げる。 次第にそれらは肥大化し、やがて大きな大きな産声と成った。 人は呼ぶ、これは恵みの雨であると。 「ちっ、最近の人間はいかんのぉ」 若々しい容貌に似つかない口調を携えた男子が一人。 「貢ぎ物の一つも置かぬとは」 人類の技術が大きく発達した現代の社会において、水という環境は手の中に納められた鞠のようなもの。寧ろ、日々業務に追われるやつれた人間にとっては、煩わしい事象に過ぎない。 それは理解している。 しかし、往々にして天上の存在とは道理の通じぬものである。 「ちと仕置きをしてやろう」 到底恵みなどとは思えない悪人の笑みを浮かべたその存在は、ビルの屋上の上へとちょこんと座り、遥か先に見える宙へと手をかざした。 すると、どこからとも無く灰汁が染み出し空を染め上げ始め、それを感じ取った人々は上を見上げ、心底煩わしいと言わんばかりに顔を歪ませている。 ゆらゆらと足をばたつかせ、童のように笑う存在は、まるでその顔を待っていたかのようであった。 しかし、その喜びもぬかに終わり、次に顔を歪ませるのはその存在となる。 「何をされているのかしら」 純白、それ以外にどう言い表すのか分からない。頭から指の先に加えて纏う衣服さえ、それほどまでに美しい白である。 先程までの性の悪い笑みとは打って変わり、まるで天女を彷彿とさせるような微笑み。 しかし、その笑みの奥には妙な威圧感が漂い、恐ろしさすら感じる程であった。 心底嫌と言わんばかりであった顔は、苛立ちへと変容した。 「何をしに来たのじゃ“雪”」 落ち着きつつも、少々荒い声色で問う。 「止めに来たに決まっているでしょう?“雨”」 艶やかな声でそう返す。 二つの存在の間に、ピリピリとした空気が漂う。 窶れたサラリーマンの額を、一粒が濡らした。 思わず空を眺め、一言零す。 「結局降るのかよ…」 「丁度良い!そなたとは決着をつけておこうと思っていたのだ!」 両腕を側方へ開け、勢い良く掌を叩き合わせる。 宙に縫い付けられ静止した雨粒は、自我を持つように狙いを定め、高速で突き抜けていく。 しかし、冷涼なる壁の前にそれらの粒は飛沫と化した。 「その程度でしょうか?“雨”」 「お前はつくづく癇に障る奴じゃのう!“雪”」 互いを誹り合うと、“雨”は二本指を鼻先に突き立て、ふうと息を吹く。すると現れた霧状の雨は、たちまち“雪”を取り囲んだ。 「この程度の小細工で私を散らすおつもりですか?」 舞うように一周する“雪” その周囲を順に雨は凍り付き、僅かな間に牢獄は破られた。 だが、“雨”の姿は見当たらない。 −消えた…? 一瞬の迷いの中、頭上から声が降り注ぐ。 「お主はいつも一歩遅いんじゃよ!」 無数の礫を羽衣のように纏い、落下する“雨” そのかざされた手の先には、砲弾のような雨が育っている。 「くっ…!」 −ギーコ −ギーコ 陽の無い公園は、妙な物悲しさを訴えている。 「あ!おっきい雲!」 未だ純粋な少女の顔は陰りを知らないようだ。 「それと、白い人!」 “白い人”そう呼ばれた存在は少女へと近付くと、口元に指を立て優しく告げる。 「雨が降るわ。風邪をひくから、もうお帰りなさい」 「うん!でも、お姉さんは?」 「私は、少し用事がありますので…」 「ふん、もう終わりか。つまらぬ」 幼い背中がふいと姿を現す。 水も晴れ、影が露になる。 鈍い音と共に、鉄のような塊が背中を穿った。 「がっ…」 声にならない呻き声が耳をつく。 「知らないのですか?雪に水をかければ、かえって硬くなるのですよ」 「姑息な真似を!」 更なる攻撃を加えようと振り返る“雨” しかし、その眼前にはもう“雪”が降っていた。 掌に雪を集積させ、掌底を一撃打ち込む“雪” 突然の衝撃に、その幼い身体は簡単に宙を舞う。 「落ちるのはお得意でしょう?」 そして、“雪”も共に身を投げる。 「ここは少し狭いですから、場所を変えましょう」 高速で下に流れる世界の中、睨み合う二人。 雪が吹き荒れ、もう地に着くかというその時、天地は裏返った。 「ここであれば、十分でしょう」 先程まで落ちていたはずの二人は、確かな地面を踏みしめている。 「ここはお主の得意じゃろう」 眼前に広がるは白雪の大地。 まぁよい。そのように呟くと、再び戦闘態勢へと移行する。 「ふふふ、まだ勝つおつもりでしょうか?」 すると“雨”の背後から…いや、取り囲む全ての方向から、声が鳴り響いた。 「…っ!」 反射的に対応を始めた“雨”は手をかざす。 しかし、手の先から生まれた雨は即座に凍り付き、“雪”へと吸収されてしまった。 同じように手をかざす無数の“雪”は、無慈悲な連射を開始すると、対応の遅れた“雨”が埋もれ始める。 やがて、完全な雪塊となった“雨” 「これで仕舞いですね。さぁ、大人しく帰りなさい」 数刻の沈黙は“雪”の勝利を確信へと導いた。 「まぁ、そう言われても動けないでしょうね」 安心してください。そう言って、運ぼうと近付いたその時… 轟音と共に、辺りが暗転した。 いや、周りが暗くなったのではない。 あまりの閃光に、そう錯覚させられたのだ。 衝撃と共に、雪が弾け飛ぶ。 同じく吹き飛ばされた“雪”は、舞う粉のような雪の中を目で捉え、先程の確信が慢心であったことを悟った。 「あぁもう!頭が痛い!」 テレビ画面を流れる天気予報は、今が低気圧だと伝える。 「まったく、迷惑な天気だな!」 ぶつぶつと文句を言いながら身支度を整える男は、心の底から不服そうだ。 「うっ、更に酷くなってきたな…」 きっとこの男にとって、この日は最悪の一日であったことは想像にかたくない。 厚い厚い雲を通して、晴れ空は男に手を合わせた。 バチバチと音を立て、逆立った髪は龍を彷彿とさせる。 足元は深く沈み、溶け出した雪はその熱量を示している。 この姿は… 「地上を無茶苦茶にするおつもりですか!“雷雨”」 「元よりそう考えていたのだ。今更何を言う」 問答無用と言わんばかりの“雷雨”に対し、警戒を強めていた。にもかかわらず、わずかにして姿を見失った。 無数の“雪”が一瞬にして崩れ去り、雷撃の足跡だけがそこに残されていた。 煽るようにゆっくりと旋回する“雷雨” −なりふりを構っている場合ではない…! 猛烈に雪が降り注ぎ、雷と共に荒れ狂う空は深く濁り、終焉を告げる破滅のようにうねっている。 柔らかな雪はそこにはなく、地に落ちるその音はまるで石のようであった。 「地上を気遣っていたのでは無かったのか?“雹”」 「貴方のせいでしょう!」 冷気を漂わせる扇子のようなそれを天高く掲げると、空中に無数の巨大な氷塊が結露し、襲いかかった。 バチリと閃光を走らせると、高速で合間を潜り抜ける“雷雨” それを黙って見過ごす筈もなく、猛攻は更に勢いを増してゆく。 全方位から迫り来る氷塊を避け、砕き、飛び越える。 「こんなものか!もう我は覚えたぞ!」 すると、氷塊に向かい跳ね上がり、捻った体で着地し、更に蹴る。そしてまた別の氷塊へと着地し、高速で突き抜けていく。 三次元の機動を経て、更なる速度へと昇華したそれは、走りつつ腰元へと手を当て、何かを掴むように手を握ると、輝きを放つ刃が引き抜かれた。 とうとう突破されんと、次第に間合いは近づいて行く。 −来る…っ! 炸裂音のような莫大な振動が耳を吹き抜け、強烈な発光に目が眩んだ。 白く飛んだ視界が戻り、世界に色が着色されていく。 「これでは埒が明かぬな」 実態の無い刃と、厚く練り上げられた氷の繭。 「ええ、そろそろ決着をつけましょう」 五丈程の間合いの中、お互いに見合う。 果てしない大気の渦が、二人を包んで行く。 「ようやく主を叩きのめせると思うと、気分が良いぞ!“吹雪”」 「本気で勝つおつもりなのですか?“暴風雨”」 天にまで登る一本の螺旋は完全に分離し、互いに吹き荒らす。 辺りの木々はたちどころに根を引き抜かれ、吸い込まれて行く。 いよいよ、決着の時。 「なんて寒いんだ」 季節に似合わない寒気に喘ぎ、追い打ちかのように吹く強風に、顔を強ばらせている。 「一体どうなってる」 ぶるぶると身体を震わせ、必死に地を踏みしめるものの、住処はまだ先である。 「あぁ、なんて最悪なんだ」 神でもなんでもいいから助けてくれ、そう願った時、妙な暖かさが身を包んだ。 二つの強大な渦がぶつかり合わんとする、 その刹那。 「双方、そこまでです」 嘘のように静まり返った周囲は、暖かい暖気に照らされている。 朗らかに輝く光輪は、何よりも圧倒的な存在感を有し、全てを照らす陽光は、何もかもを包み込むかのようであった。 「「は、“晴れ”様!」」 先程までが嘘のように縮こまり、膝を着く二つの存在。 「お二方とも」 何処までも慈悲深い笑み。しかし、放たれる圧は一際のものである。 「そこに正座しなさい。説教です」 びくりと震え上がる“雨”と“雪” 「「はっ、はい!」」 しばらくの間、地上は晴れが続いたそうだ。 〈エピローグ〉 長きに渡る説教の中、微かに聞こえ始める音があった。 −…ン ド…ン −…ン …ドン −ドン ドドン その波に、耳をピンと立てる存在が一つ。 「…!祭りじゃ!祭りじゃ!」 先程までの俯きはどこへやら、ひょいと立ち上がると駆け出して行ってしまう。 「あっ!待ちなさい“雨”!私を置いて行かないでください!」 「ふん!お主はいつも一歩遅いんじゃよ“雪”」 続いて“雪”までも駆け出してしまう。 取り残された“晴れ”は頭を抱え、嘆く。 「まったく…あの子達は…」 「今日は降らないみたいだな」 「あ!また会ったね!白いお姉さん!」 「頭痛が無いって最高!」 「今日は暖かい…」 今日も明日も、遠い未来の先までも、太陽は優しく見守り続けている。

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