じゃらねっこ

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じゃらねっこ

ねこじゃらしが好きなので、じゃらねっこです。

雨戸り喫茶

─降りしきる雨の中 予報を大きく外れた雨雲が、青を覆い隠す。 雨粒が音を立て、やがてそれは数え切れない和音の層となり、この身を濡らした。 ─跳ね上がる水の中 跳ね上がる水には目もくれず、足の音数を引き上げる。 表から外れた裏道は、細く暗く寂しげで、弾く水の音はどこまでも響き渡った。 ─鳴り続ける音の中 湿った衣服の不快感が、雨の為か汗の為か分からないほどに息も上がり始めた頃、ようやく小さな屋根を見つけ、安堵する。 壁に手を付き、呼吸を整える。地を這っていた雨音は、今や頭上で踊るばかり。その事にまた安心し、一息ついた頃… それが店舗用のテントであると気が付いた。 ひんやりとした金属製の取っ手を握り、ゆっくりと力をかける。 思った以上の抵抗と、年季の感じられる軋音が、全身を通り抜けた。 小さく、それでいて確かな入店の証が鳴り響く。 中はとても落ち着いた印象で、綺麗で、だけれど新装のそれではなく、これまでの確かな歩みを滲ませる…そんな喫茶店。 ─しかし、それ以上にここは…。 「あら、お客さん?いらっしゃ~い」 先程感じた店のそれを、そのまま声にすればまさにそんな声だろう。 不思議と緊張感は無く、もう壁向かいのお隣さんとなった雫の声と、その静けさに身を委ねていた。 ─久しぶりの、出会い。 「お客さん、運がいいのね~」 「はは、ご冗談を。こんなに降られては、到底運が良いとは…」 カウンター席に腰をかけ、滑らかな流れで会話を始める。 注文すらした覚えはない。だが、目の前にはカップ一杯の芳醇な世界が広げられていて、どうやらもう既に、僕は一名の“お客”のようだ。 「ふふ、運がいいのは私の方だったかしら?」 ここ、滅多にお客様は来てくれないのよ。と愚痴のような言葉を零す彼女の顔には、確かな嬉しさが浮かんでいて、こちらも少し嬉しくなる。 「口元、緩んでるわよ~」 「ははは、お恥ずかしい」 「ふふ、本当に面白いお客さんだわ~」 他愛もない話に花を咲かせて、何気ない日常を語り合って…気が付けばこの空間の一員となっていた。 そうやって、何気ない日常から少しだけ離れた場所で、僕達は出会ったのだ。 「ここはね、雨の日にしか開かないのよ~」 肩からかかった三つ編みは、暖色混じりの照明が反射して、その鳶色の艶やかさを際立たせている。 一般的な喫茶店の制服を思わせる出で立ちだが、胸元にあるワンポイントの雨粒模様が、より彼女らしさを思わせていた。 「それはまた、どうしてだい」 客は私以外にはおらず、彼女はカウンターテーブルで、僕と隣り合わせに座っている。 「ここが、弾かれ者の場所だからよ~」 貴方も、私もね。一瞬、垣間見えた寂しそうな声色は、通り雨のように過ぎ去って、またいつもの彼女に戻っていた。 ─弾かれ者…僕にはピッタリな言葉だ。 昔から、僕は人の間に馴染めない人間だった。皆は晴れが良いと言うが、僕は雨が好きだった。それを変だと言われた時、言葉にならない悲しさが込み上げてきたことを、今も覚えている。 結局、大人になった今でさえ、僕は変わっていない。弾かれ者の息苦しさなんて、きっとほとんどの人には分からないだろう。 このお店の心地良にも納得がいった。 弾かれ者同士、似た者同士の空間が、とても心地よかった。 息苦しい喧騒も、ここに来れば無くなって、時間を忘れられたから。 「ここは、静かでとても落ち着くよ」 彼女は少しだけ、子供っぽい笑顔を浮かべて、僕に言った。 「ねぇ、なんで静かなのか分かるかしら~?」 どうして、どうしてだろうか。幾分かの思考を重ねても、その答えには辿り着かない。 とうとう観念した僕は、彼女に聞き返した。 「分からないな、どうしてなんだい」 「それはね~」 そう言って、彼女は外を指さした。 「雨のおかげなのよ」 どういうことだろうか。 「どういうことだ。って顔をしてるわね~」 なんだか、全てを見透かされているようで、でもそれは悪くない感覚だった。 「敵わないな、意地悪をしないで教えてくれ」 「ふふ、仕方がないわね~」 彼女は窓際へと歩み、手招きをする。 僕は大人しく彼女に従い、近くへと歩み寄った。 「よく聞こえるでしょ~」 心地よい雨音。 とても、よく聞こえる。 「この雨音が、些細な音を全部、消してくれるのよ~」 「なるほど」 小さく頷き、また耳を澄ます。 心地の良い雨音と、静かな呼吸の音が混じり合い、時が止まったような静寂が、この場を支配している。 その静寂を破ったのは、彼女だった。 「ねぇ、何か悩みがあるでしょ」 やはり、見破られていたようで、珍しく見る真剣な表情の前には、嘘も喉から出てこられないようだ。 「はは、何でもお見通しだね」 「もう、こっちは真剣に聞いてるのよ~」 膨れっ面で僕を見上げる彼女もまた、綺麗だ。 「丁度、今日職を失ったばかりでね」 予想よりも大きな問題だったのか、目を見開く彼女。 「そう…」 こちらも、なんと続ければ良いのか分からず、またしばらくの間、沈黙が流れる。 今回は、さして時間もかからずに、また彼女が口を開いた。 何か、意を決したような表情に、少しだけ身構える。 「貴方が、良ければなんだけどね」 「もし、あなたが良ければ──。」 ─降りしきる雨の中 予報を大きく外れた雨雲が、青を覆い隠す。 雨粒が音を立て、やがてそれは数え切れない和音の層となり、この身を濡らした。 ─跳ね上がる水の中 跳ね上がる水には目もくれず、足の音数を引き上げる。 表から外れた裏道は、細く暗く寂しげで、弾く水の音はどこまでも響き渡った。 ─鳴り続ける音の中 湿った衣服の不快感が、雨の為か汗の為か分からないほどに息も上がり始めた頃、ようやく小さな屋根を見つけ、安堵する。 壁に手を付き、呼吸を整える。地を這っていた雨音は、今や頭上で踊るばかり。 ひんやりとして、でも暖かい金属製の取っ手を握り、ゆっくりと力をかける。 相変わらずの抵抗と、年季の感じられる軋音が、全身を通り抜けた。 小さく、それでいて確かな入店の証が鳴り響く。 「おかえりなさ~い」 微笑む彼女が出迎える。 「あぁ、ただいま」 あの日出会った喫茶店。 僕は濡れた服から素早く制服に着替え、見慣れたカウンターへと足を運ぶ。 ─雨戸り喫茶、本日も営業中。

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若年性癌(後編)

私はこの薬を彼に…… 「ねぇ、ねぇってば!」 すっかり思考の領域へと踏み入れた私は、その声に現実へと引き戻される。 『あ、あぁ。どうしたんだい。』 「あの花、綺麗だね~。」 『……あぁ、そうだな。』 特効薬。この薬を思い付いたのは、丁度花を枯らした時だった。 私は、何かを育てるというのが苦手なようで、花を植えては枯らす。そんなサイクルを回り続けていた。 「先生?どうしたの?」 『……なぁ、君にとってその病は、なんだと思う?』 「変なこと聞くんだね。そうだなぁ……」 「……花、かな。えへへ。」 照れくさそうに笑うこの子が、どんな花よりも鮮やかで、ここで枯らしてはいけない。そう、強く思った。 あの日、枯れた花を見つめ、原因を必死に探っている私。 今回は、何が原因だ。欠かさず手入れをして、枯らさないように必死だった筈なのだが…… 結局原因は、肥料を過剰に与えていたことだった。 私は、肥料を与える…… この認可されたばかりの肥料(癌特効薬)を。 「花、かな。えへへ。」 『……そうか。』 『君を、治療する。』 「え?今、なんて……」 『何も聞かなくていい。』 『安心して、待っていてくれ。』 肥料も、与え過ぎれば毒となる。 投与を開始してから、数日が経過した。 今のところ、大きな副作用は確認されていない。 『君……本当にここでよかったのかい?』 「うん。……だって僕、助かるんでしょ!」 『……そうだね、助かる……いや、助けるよ。』 副作用が何も見られないのは、少し気がかりだが、それでも順調に治療は進んでいる。 「あ、あの花も枯れちゃった……」 この意思は、何があっても枯れはしない。 投与を開始してから、二週間が経過した。 ……どうして、こうなった。 一般的な副作用は、高熱。この子もそうだと思った。だが…… 『おはよう、少年。』 『……少年?』 『…っ!意識が!』 「少年!少年!』 植物状態。こんな副作用は、今まで確認されていなかった。だが、今ここにその事実は存在している。 『クソッ!病院…っ!』 『……ははっ、何が病院だ。』 『笑わせるな、ここが病院だろうが!』 ガシャン。振り抜いた腕と共に、地面へと落ちる食事達。食事式の新薬。これこそ、肥料。 これは、今まで枯らしてきた罰なのだろう。 私は、諦めない。 今回は…… 枯らさない。

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若年性癌(後編)

剣のない甲冑

細やかな傷跡と共に重くのしかかる光沢。その装いには、戦という血の舞台を駆け回った確かな歴史が刻まれている。全身を覆う銀の鎧がこちらを見据えていて、頭部の隙間から除くその中は、深く、そして暗かった。 そして、その兵士が他の何より異質だったのは… 「お、いい絵じゃねぇか」 足を止め、彼の目線を辿って行くと、その先にあったのはどうやら甲冑の絵のようだ。 「確かに、精巧で素晴らしい絵だね」 「でも、なんか違和感があんだよな」 「違和感?」 「なんつーか、足りないような感じがな」 その言葉を受け、よくその絵を観察する。やはり、精巧に描かれた甲冑だ。違和感なんてどこにも… 「あぁ、分かったぞ」 「何が違和感なんだい?」 「この絵、兵士なのに剣を持ってないな」 言われて、はっとした。傷だらけの鎧からは、確かな戦いの跡が感じられるのにも関わらず、剣を持っていない。確かにこれは、違和感を感じる。 「どうして、剣が無いんだろうか」 彼はまじまじとその絵を眺め、にたりと笑った。 「そりゃあ、戦いなんて飽きちまったんだろ」 「そんなに単純な理由なのかい?」 正直納得は行かない。そんなに単純な話なのだろうか。 「それによ、この兵士… 中身は本当に居るのかね?」 「中身?」 「なんかな、空っぽに見えんだよ、この甲冑」 もう一度絵に目をやる。こちらを見つめる甲冑は、ただ暗く、脈々とした生命の輝きは感じられなかった。 「やっぱ、戦いなんてもう飽きちまったんだよ」 「でも、これだけ傷を負って戦ったんだ、そんな簡単に飽きただなんて…」 「だからだよ、こんだけ傷を負って、残ったのは空っぽの甲冑」 「剣なんて、捨てたくもなるだろ」 生き抜いてきた戦場は、この兵士にとって、空っぽの戦争だったのだろうか。剣を捨て、鎧を脱ぎ、人間として生きたい。それは当たり前の望みだ。歴戦の甲冑に尊敬を抱き、賞賛し、英雄と呼ぶ。それは果たして、甲冑達が望んだことなんだろうか。分からなくなった思考は、見透かすような甲冑の闇へと落下した。 「剣を持たない兵士。空っぽの甲冑。一体、誰がこいつらを受け入れるんだろうな」 ため息混じりの彼の顔には、微かに同情の色が浮かんでいた。 「もう脱いだんだ。荷物のない分、軽い体で走って行けるさ」

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剣のない甲冑

滴る女

乾き切った瞳に、雨雫が滴り落ちた。ひと時目を潤したそれは、滑らかな瞳を滑り落ち、瞳の中から流れ出る。瞳を伝い頬を撫で落ちるその雫は、淡い涙腺の綻びを想起させた。 「なぁ、この女は泣いていると思うか?」 二人組の男達。その片割れが質問を投げかけた。もう一人は手を顎の下へと添わせ、じっとその絵を眺めている。兆候を察したのか口を開きかけた片割れは、その真剣な様子を受け、諦めた様子で軽いため息をつくと声を引っ込めた。 苦笑いに滲む汗も乾く程度の時間が経ち、ようやく男はその張り付いている手を引き剥がした。 「泣いていないと、僕は思うよ」 遂に与えられた回答に、堪えられない犬のような目をした男は、すぐさま質問を返した。 「どうしてそう思うんだ?」 十分な時間を経て練られた思考は、それ以上の秒針を必要としなかったようだ。 「似ているだけだからだよ」 「似ているだけ?」 「そう、実際には涙なんて流していない」 「まぁ、それはそうだが…」 「似ているから、泣いているというストーリーを見た側が付けるのさ」 「なるほど、そう来たか」 「あくまで、僕の考え方だけれどね」 滴る雫を目に映しつつ、その視点に感心していると、こちらも質問を投げられた。 「君は、泣いていると思うかい?」 眺め疲れた目を擦り、流し目に女を見つめてから、ポケットをまさぐる。 取り出した目薬を片目にさしつつ、片割れは答える。 「さぁ、どうだろうな。また今度教えてやるよ」

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滴る女

ポストアポカリプス

〈前半〉 共存と呼称するには、些か一方的で、暴力的だろう。どちらかと言えばこれは、蹂躙だ。 青々と茂る無限の生命の一角を、ガサガサと勢い良く掻き分け進む一人の人間が居た。全身は頑丈な布で覆われ、その素肌の僅かも見せぬ出で立ちは、迷い込んだという可能性を一切与えぬ程に磐石で、手馴れた手つきで切り進むその所作からは、熟練の兵士を彷彿とさせる。 進み行くその先は、何処まで行けども緑葉ばかり。ギラギラと輝く筈の陽光は、高密度の自然に阻まれ、薄暗い世界を形作っていた。それでもあまりある程に積み上げられた人工を阻む塔のような草花が、共存という交渉を許さんとしている。 「今日はここで野営としよう」 この広大な自然の中、小さな命は抗い続けている。それでも、一日のうち動ける時間はそう多くない。だから高頻度で野営をすることになる。酸の溜まった足を叩きながら、羽を休め始めた。 ひと時の休息と共に、過去の記憶を呼び覚ます。 これは、もう随分昔の話となる。 人類の文明は大きく発達し、シンギュラリティに到達し得る時代とまで言われていた。そう、人類は文明の進化という筋道の究極点に立たされていたと言えるだろう。しかし、その弊害も当然存在していた。 開発に続く開発にて大地は枯れ果て、砂漠化は非常に深刻な問題とされる時代。人類はドーム状の超大型人工都市「オアシス」にて生かされていた。これらのことから、その時代のことを「鳥籠の時代」などとと呼んでいた程である。 循環させられた濾過水。栄養チューブ。固形食料の衰退。農作、林業、水産業の廃退。並べられるは電子の山ばかり、自然の味を知らない人類で構成される世界。 そんな世界にも、自然は失われてはいなかった。 「オアシス」内部の一角には、世界最大の研究施設である「ライフ」がある為である。 この研究施設の最も大きな目的、それは生命の保存。あらゆる動植物の「種子」がそこに保管されている。故に、この世界にて生命が絶えることは無いとされていた。それを信じ、人々も生活を続けていたのだ。 一部の少数派を除いて。 セキュリティロックを手早く解除する。 薄暗闇の中鳴る小さな電子音が、この暗がりの中には妙に浸透して、その度に緊張感を走らせる。 開き始めるスライド式の扉。それが開き切るのも待たずに体を滑り込ませた。 目に入るは膨大な資料の数々。だが、その量に対し、全ての資料は美しく整理され、寸分の狂いも無く収納へと収められていた。この徹底された管理システムが、今は何より好都合だった。 種類分けされた収納達の中から、目的の資料を目先で探す。幸い、自分から比較的近い場所に保管されていて、早くに見つけることが出来た。その文書には、こう書かれている。 「第三世代種子 F3・アポカリプス」

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ポストアポカリプス

発蛾

第一夜 鉛のような夜だった。 溶けた蝋を流し込まれたような閉塞感。逡巡する思考は終着点には帰着せず、永遠の道順を辿り続ける混乱に不快感を覚える。何故という微かな問いも、霧のような思考の渦に溶けて消えてしまった。それらとは裏腹に、妙な軽さが心身を巡っている。何より、今まで感じたことの無い浮遊感が取り巻いているこの感覚は、人間のそれでは無い。 まるで… まるでそれは… うっすらと声が聞こえる。 ─コポポ。コポポ。─ゴポポポポ。 蝋から水へ、閉塞感は窒息感へ、その移り変わりに覚醒する脳髄。だが、意識はぼんやりと沈んでいて、だらりと脱力した全身は波に揺られるまま、流れて行く。 ─声がする。 溺れた耳は、それを悟らせない程に滑らかで、霧のない音を感じさせた。 「なぁ、星は好きか?」 「あぁ… 好きだ」 「星のどこが好きなんだ?」 「光が、綺麗だ」 ─これは、記憶…? 波が大きく過ぎ、掻き消えた中から新たな音が鳴り始める。 「蛾ってどんな気分なんだろうな」 「蛾って… あの蛾のことか?」 「そうそう、あの蛾」 「なんでそんなの気にするんだ」 「いや、何となくだけど」 「まぁ、そんなの分かるわけないな」 「どうして」 「そりゃ、人間と蛾じゃ違いすぎるだろ」 ─コポポ。コポポ。─ゴポポポポ。 深い、深い意識の底から這い上がる。 嫌な汗が滝のように溢れ出し、まるで水にでも浸かっていたような感覚を覚える。 ぐちゃぐちゃに濡れたシーツと、へばりつくシャツが余計に不快感を煽っている。 「シャワー、浴びるか…」 明かりのない廊下は暗く、何処までも続くような錯覚を覚える。足早に通り抜け、シャワールームの電灯を点けると、その人工的な明るさに妙な安堵を覚えた。 第二夜 明かりの強い夜だった。 物静かな夜空の中に、目を奪う程の存在感を覗かせていた。全てを見透かすような夜明かりに、目が離せない。思わず目一杯に手を伸ばして、それでも届かない現実に、後ろ髪を引かれるような、そんな思いを残していた。 ─何故、こんなにも明かりに惹かれるんだろう。 答えのない問いは、宙を一通り巡って消え去った。 第三夜 疑うような夜だった。 今までの全てを疑うような、懐疑心に押しつぶされるような感覚を覚える。振り返れば振り返る度に、その先は後ろなのかさえ分からない。振り返る前に見ていたものは、本当に前だったのか。振り返った後の先は、本当に後ろなのか。後ろとはなんだ。前とはなんだ。もしかすれば上かもしれない。後ろは上で前が下か。右は前で左は後ろか。右は前で前は下で下から振り返ればその先は上で上は後ろで後ろは左か。 前後左右、全ての感覚が混乱の渦へと呑み込まれ、地と空の文理がままならない。そんな、奇怪な浮遊感に包まれていた。 そんな中でも、ただ一筋の光だけが前を指し示すように感じている。 一歩、また一歩と光の先へ進む。満ちる光に安堵を覚え、暖かさとともに意識が覚醒する。 浮遊感だけが、そこに残っていた。 発蛾 鉛のような夜だった。 溶けた蝋を流し込まれたような閉塞感。逡巡する思考は終着点には帰着せず、永遠の道順を辿り続ける混乱に不快感を覚える。何故という微かな問いも、霧のような思考の渦に溶けて消えてしまった。それらとは裏腹に、妙な軽さが心身を巡っている。何より、今まで感じたことの無い浮遊感が取り巻いているこの感覚は、人間のそれでは無い。 「蛾ってどんな気分なんだろうな」 「蛾って… あの蛾のことか?」 「そうそう、あの蛾」 「なんでそんなの気にするんだ」 「いや、何となくだけど」 「まぁ、そんなの分かるわけないな」 「どうして」 「そりゃ、人間と蛾じゃ違いすぎるだろ」 反芻する記憶の音。 「なぁ、星は好きか?」 「あぁ… 好きだ」 「星のどこが好きなんだ?」 「光が、綺麗だ」 常夜灯の人工的な明かりに群がる、数匹の蛾。 暗い、暗い夜の世界に光を求め、飛び上がる。 憐れだと思った。 その先に、求める安堵なんて存在しない。 それでも、光という安堵を求める。 「そりゃ、人間と蛾じゃ違いすぎるだろ」 「光が、綺麗だ」 シャワールームの電灯を点けると、その人工的な明るさに妙な安堵を覚えた。 ─何故、こんなにも明かりに惹かれるんだろう。 ─そうか…。何も、変わらないな。 まるで… まるでそれは… 蛾のようだった。 発蛾。

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発蛾

紅葉と高揚と

乾いた木の葉を踏みしめる。その独特な感触が、少し厚いラバーの靴底を通して、足裏へと伝わっている。脆く、生命を全うしたその骸は、カサリと心地の良い後味を残して、原型を手放した。 秋風は心地よく、踏みしめた骸は彼方へと遠ざかる。その姿は、少しばかりの寂寥と、生命の変わり目を讃えるような、そんな暖かさを備えていた。そう、だから心地が良い。 「私も、乾ききってしまったな」 「いつぶりだろうか、この甘く香ばしい香りに釣られるのは」 日も落ち始めた空色に紛れて、薄い白粉のような僅かな煙を追っていく。 「石焼き芋 おいも~」 段々と近づく、聞き覚えのあるメロディ。 それと共に、何故か高まっていく期待感に自然と足取りも軽くなる。 「一つ、頂けますか」 気が付けば、私の手にはホクホクのさつまいもが握られていた。 最後の記憶より、ややお高くなった値段に少々目を見張ったが、それでも買った。そんな世知辛さには目を瞑り、割った石焼き芋を一口頬張る。 わっと広がる優しい甘みと、全身に伝わる程の暖かさ。柔らかく、噛む度に味覚を刺激するそれに舌鼓を打つ私が、既にそこに居た。しかし、それよりずっと私を驚かせのは、頬を伝う雨粒だった。 慌てて空を確認するが、雨雲なんてどこにも無い。焼き芋のように暮れた空が、包み込むようにそこにあっただけ。 ─ああ、私泣いてるんだな。 手元から滲む優しさは、一人ぼっちを忘れさせた。 ちょこんとベンチに腰を下ろし、静かに涙を流す私。傍から見れば変人だ。誰も居なくて助かったと、ホッと胸を撫で下ろす。 日の傾きも厳しくなり、秋の涼しさが肌を撫でる。もうすっかり冷めてしまった石焼き芋を、ちまちまとかじりながら景色を眺める。紅に黄色に、美しく彩られた木々の姿は、夏とはまた違った雰囲気を醸し出していて、それは少し姿を変えたけれど、確かな生命としてそこに燃えているのを感じられた。 ─変わっても、良いんだな。 いつの間にか涙も止み、完全な静寂がそこを支配しつつあった。もう帰れと言わんばかりの暗がりに、私も帰り支度を整える。 なんとなく、ベンチに軽い会釈をして立ち上がると、軽くお尻を払って前を向く。 靡く髪が少し邪魔くさかった。 乾いた木の葉を踏みしめる。その独特な感触が、少し厚いラバーの靴底を通して、足裏へと伝わっている。脆く、生命を全うしたその骸は、カサリと心地の良い後味を残して、原型を手放した。 秋風は心地よく、踏みしめた骸は彼方へと遠ざかる。その姿は、少しばかりの寂寥と、生命の変わり目を讃えるような、そんな暖かさを備えていた。そう、だから心地が良い。 「私はまだ枯れ葉じゃないな」 幾分か高揚する心は、誰に貰ったものだろうか。 「紅葉と高揚と…か」 すっかり気に入ったショートヘアの彼女は、思い返して笑っていた。

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紅葉と高揚と

他人事探し

別に、墓参りに来た訳では無い。けれど、ここには多くの花が並べられていて、時折すすり泣く声さえ鼓膜を揺する。その声の先には、整列された花々。しかし、それら一つ一つの意志の先は違っている。故に、整えられることはきっと、この先無いのだろう。その雰囲気に感化されたのか、 「もう少し…強引にでも、引き止めるべきだったのだろうか」ぽつり、そう呟いた。 少々の自責の念と共に、沸き上がる感情がそこに立っていた。 「お前の問題じゃないだろう。お前は止めたんだ。でも、行ってしまった。好奇心は猫をも殺す。そういうことだ」 不意に、口元が緩んでしまう。何故だろうか。私の前に立つこの感情は、一体誰なんだろうか。 ニュースタブを手早くスクロールする。様々な記事が上へ上へと流れ、代わる代わる新たな記事が現れる。そのうち画面処理が間に合わなくなり、スクロールが塞き止められる。丁度、そこにあった記事ページを開き、軽く目を通す。 「二十人死んだってさ」 それが当たり前であるかのように、軽い口調でそれを話す。実際、本人にとっては何気も無いようなことだった。偶然開いた事故の記事。ただ、少し話題を求めていた過ぎない。 「えっ、マジかそれ」 二十という数字は、話題にするには丁度良い塩梅だったらしい。 携帯電話を片手で触りつつ、会話を交わす二人組。 「あぁ、大マジだよ」 もう一度、記事を読み進めながら話を続ける。 「二十人も被害者が出るなんて、酷いもんだな」 少しだけ気になっていたらしい。故に、そこに目を止めていた。 「まぁ、一応そうだな」 未だ目は記事に囚われたまま、しかし、視線の先を捉えている訳でもない。 「なんだよ、その含みのある言い方」 その言葉に少しはっとした様子を見せ、答える。 「なんていうか、実際、直接被害に遭ったのはさ…」 「空が黒い…いや、煙が上がっているのか」 遠目と言うには、些か近しい。少なくとも空が黒いと錯覚する程度には近しく、それでいて手の届く所には無い。 「本当っすか?あっ、本当じゃないっすか。火事か何かっすかね」 軽い口調でそう返す彼女。どうも、危なっかしい所はあるけれど、決して悪い子じゃない。 「そうかもしれないね」 相変わらず、素っ気ない返答。いつも、無愛想で口下手な私。 「ちょっと見に行きましょうよ先輩」 この時だけでも、もっと話せれば良かったのに。 「いや、危ないだろうし、行かない方がいい」 そんな制止、彼女には通用しないって分かっていた筈なのに。 「えー、慎重すぎっすよ先輩。分かりましたよ。私一人で見に行ってきますよ」 どこか他人事だった。きっと、何も起こらないだろうと不抜けていた。 「仕方ないな。じゃあ、また後で合流しよう」 最後の会話だった。 「うわぁ、これは酷いっすね」 悲惨だった。十五階建てのマンションが、見事に燃え上がっている。消防はまだ来ていないようで、遠くからサイレンの音が木霊していた。私のような考えをした人は他にも多く居たようで、既に十数人の人集りが出来ている。皆、同じ格好でスマートフォンを掲げて、カメラを回している。残してどうするのか、そんな思考は頭には無く、私もまたそれを真似ていた。そこに立ち上る黒煙が、私達を嘲笑っているように思えた。 サイレンの音が近付いている。 「道を開けてください」 どこか他人事だった。みんな、この見世物が終わる。そんな風に思っていた。 また一つ、迫るサイレンの音。けれど、次の音はそれだけじゃ無かった。 ガタガタガタガタ。気付いた時には、もう遅かったんだと思う。 「崩れてるぞ!」 誰かがそう声を上げた。 「キャー!」 誰かがそう悲鳴を上げた。 「助けて!」 誰かがそう絶叫した。 けれど、その声は全てかき消され、迫り来る構造体に、私達は為す術も無く押し潰された。 「う…あぁ」 声さえ、まともに出せなかった。よく良く考えれば、事故現場に行くなんて、馬鹿な事をした。初めから、先輩の言うことを聞いていれば良かった。 「せん…ぱい…」 最後の記憶は、先輩を呼ぶ私だった。 「二人程度だったみたいなんだよな」 それを聞いて、顔を顰める。 「どういうことだ?」 ふっと軽い溜息をし、目線を移動させる。 「住人の避難自体は、殆ど終わっていたみたいなんだ。だから、住人の被害は、二人だけなんだよ」 顰めた顔が、より深まる。更に首を傾げて、質問する。 「じゃあ、誰が被害に遭ったんだよ」 突然、目の前に画面が突き出される。 「これ、遠巻きに撮ってた人がアップロードしたみたいだ」 ガラガラ。ガシャン。あの音は、未だ覚えている。止めた私も、結局見物人だった。 「煙なんて、もう見たくないはずだったんだけどな」 一筋の煙が、そこに上っていた。

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他人事探し

百花繚乱

僕はここに囚われている。 鼻腔をくすぐる甘く優しい香りの数々。 風に揺れるは色とりどりの色彩達。 宙を舞うその一つ一つが、青い空を彩っている。 青い、青い空。 それをだらりと見つめているのが、何を隠そう僕なのだ。 大の字に開かれた全身は、この心地よい空間に身を預けた証拠でもあり、何より、それ以上の諦めが、僕をそうさせるに至っている。 とはいえ、一歩足を踏み出せば、どの子も皆道を開くだろう。 だからこそ、僕はその一歩を踏み出せない。 茎をへにゃりと折り畳み、その生命を代償に、僕を先へと導くのだ。 色とりどりの美しさを汚し、その大地から生命を奪って行く。 それが、僕が歩むということ。 果たして、僕の歩むその道にそれだけの価値はあるのだろうか。 風が鳴る。 ひらりと舞い散る命の色彩。 その一枚が、僕の頬に触れて留まった。 それをそっと手に乗せ包み込む。 ─ああ、綺麗だな。 気が付けば、光合成でも出来そうな程に、僕の顔は暖かい。 やっぱり、しばらく… もうしばらくは、踏み出さなくてもいいと思う。 だから僕はまだ眠る。

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百花繚乱

分かつ旅先を求めて

「恋愛って、もっと夢があるって思ってた?」 にししっ。そんな言葉がぴったりと当てはまる。素敵な笑顔をする彼女。 この暗がりさえ関係無いように、目を惹かれてしまう。 「そうだね、そうだと思ってたよ」 手摺りの鋭い冷たさが、僕の手の熱さを溶かしてゆく。 なびく風は、伝う汗を忘れさせる。 「うん、私もそう思ってた」 手を残し、沿うように歩き進める。 すーっと、金属と手の境界線が擦れて音を立てる。 「つまらなかったかな」 向かいからも、地を踏みしめる等間隔が近付いている。 「ううん、そんなことないよ」 いつしか、冷たい手摺りは音を止め、暖かな感覚が手に伝わる。 「本当は、夢のようだと思ってたよ」 横顔に受ける視線を避けて、未だ景色を眺めている。 「私も、夢じゃないかって思ってた」 ゆっくり、ゆっくりと顔を動かす。 泳ぐ目線を必死に捕まえ、彼女を見つめる。 「もう、夏も終わるね」 靡く袖に揺れる視界。真っ直ぐな帯が、何故か歪んで映った。 「そうだね」 暖色の光は、彼女の笑顔を一層引き立てる。 「ね、笑おうよ」 ヒュー バン。バン。バン。 美しい花火も、眼中に無かった。 僕達は、お互いの笑顔を確認し合う。 そして、彼女が軽やかなステップで一歩を下がった。 後ろ手の彼女を見据えて、僕もふぅっと息をする。 ヒュー 「僕達さ」 「私達さ」 「「別れよっか」」 バン。 一際、大きな花火が咲いた。

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分かつ旅先を求めて