さやかオンザライス
4 件の小説星河灯台夜行譚 第三章【雲海に沈む学校】
第三章 雲海に沈む学校 しばらくして、列車の速度が落ちた。 透と彗は揺れに身を任せながら息を整える。 彗は不安そうに透の袖をぎゅっとつまんでいた。 その指先がかすかに震えている。 透はやさしく言った。 「大丈夫だ。もう変なところには行かないよ」 彗は首を横に振る。 「透が行くなら、どこだって平気さ。けれど、、、、、、この列車、行く場所を選ばせてくれないみたいだ」 窓の外に広がるのは、白い雲海。 空が地平線のようにどこまでも続いている。 やがて、雲の上に立つ奇妙な建物が見えてきた。 それはーーーーーー学校だった。 校舎全体が、雲の上にぽつりと浮かんでいる。 屋上は星明かりに濡れ、窓ガラスは薄く光を帯びている。 古い木造校舎のようでもあり、何十年も誰も使っていない廃校のようでもあった。 列車が静かに止まり、ふたりはホームに降りた。 雲の床はふかふかと柔らかく、踏むたびに淡い波紋が広がった。 「ここ、知ってる気がする」 彗がぽつりとつぶやいた。 透は眉をひそめる。 「来たことがあるのか、」 「わからない。でも、懐かしいみたいで、苦しい」 校舎に足を踏み入れると、白い光が廊下を満たしていた。 教室のひとつを覗くと、机と椅子が静かに並んでいる。 誰もいないはずなのに、新しいチョークの匂いがただよっていた。 黒板に、一行の文字。 ここで失ったものを、まだ覚えてる、 透の背筋に冷たいものが走った。 彗は黒板の前に立ち、じっと文字を眺める。 「透、、、、、、ぼくたち、三人だった」 その声は、震えていた。 「三人。誰と、」 視線が黒板に吸い寄せられる。 しばらくすると、黒板の端に白いチョークの文字がひとりでに浮かび上がった。 斑鳩(いかるが) 透の胸の奥がずきりと痛んだ。 ーーーーーー知らない名前なのに、懐かしい。 そのとき、校舎がぐらりと揺れた。 窓の外、雲の裂け目の向こう側に “誰かの影”が落ちかけているように見えた。 声も、顔も思い出せない。 けれど透には、確かにその影を知っているという確信があった。 「行っちゃ駄目だ、」 彗が透に飛びつき、強く抱き締める。 「ここで思い出したらいけない。雲が沈む前に戻らないと」 校舎は傾き始め、窓ガラスが砕け散る。 雲がゆっくりと渦を巻き、足元を吸い込もうとしていた。 列車の汽笛が鋭く鳴り響いた。 早く。 透と彗は全力で廊下を駆け、列車へ飛び乗った。 直後、雲の学校はずぶずぶと雲海へ沈んでいく。 最高まで黒板だけがゆっくりと沈み、文字が霧の中へ溶けた。 ーーーーーー斑鳩。 名残だけが透の胸に重く残った。
星河灯台夜行譚 第二章【蒼い街の停止場】
第二章 蒼い街の停止場(とまりば) 列車が静かに揺れ、いつの間にか霧はすっかり晴れていた。 窓の外には、蒼一色の街が広がっている。 建物という建物が、巨大な時計の形をしていた。 円柱、塔、家屋、どれも針が止まり、ゼンマイの音も聞こえない。 街全体が“時間を失った”ように沈黙していた。 列車が駅に滑り込むと、透は息を呑んだ。 彗も、冷たい青さに肩をすくめる。 「怖い、」 「大丈夫、すぐ戻る」 透はそう答えたものの、自分でも根拠はなかった。 ただ、この街を通らないと“何かに届かない”という予感があった。 駅に降り立つと、青い空気はひどく冷たかった。 時計の塔が何十本も、針の止まったまま無言で並んでいる。 そのうちのひとつーーー最も大きな時計の前に、ひとりの少年が立っていた。 透と同じくらいの齢。 白いシャツに黒い制服。だが色彩は少し褪せていて、存在がまるでこの街に溶け込もうとしているようだ。 少年は透と彗に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。 「秒針を持っているのは君たちだろう、」 声は冬の氷を指で弾いたように静かだった。 透は懐中時計を取り出し、ためらいながら頷いた。 「これのこと、」 少年は首を横に振った。 「違う。それは“始まりの針”。君たちの時間を動かすための針だ。この街が求めているのは、、、、、、“終わりの針”なんだ」 そう言った瞬間、風が止んだ。 青い空気がぴんと張り詰める。 少年の影がわずかに揺れる。 足元から、蒼い砂がぽろぽろとこぼれ始めた。 「君ーーー身体が、」 少年は淡く微笑んだ。 その笑みは哀しげで、どこか懐かしい光を帯びていた。 「“終わりの針”をなくしてから、僕たちはずっと止まったままなんだ。 同じ時刻を繰り返して、壊れていくばかりで、、、、、、痛いんだ」 蒼い砂は、そのまま彼の靴を透き通らせ、足首を削っていく。 彗が思わず透の手を握った。 「透、早く行こう」 そのときだった。 街全体に、低くくぐもった鐘の音が鳴り響いた。 ーーーコヲヲヲヲン。 ここに長くいちゃいけない。 透の胸の奥で、誰かの声のような直感が跳ねた。 列車のドアがひとりでに開く。 少年は、蒼い砂に身を変えながら、かすかに口を動かした。 「針を見つけて。 君たちの終わりと、僕たちの終わりはーーーきっとつながっているから、」 透は一歩踏み出しかけたがーーー 彗に腕を強く引かれた。 「駄目だ、」 蒼い砂嵐が吹き荒れ、街がガラスのようにひび割れ始めた。 透と彗は倒れるように列車へ飛び込む。 直後、蒼い街は ぱりん、 と音を立てて砕け散った。 列車は光の中を疾走し、次の世界へと進んでいく。
星河灯台夜行譚 序章【星河灯台の霧】
星河(せいが)灯台夜行譚 序章 星河灯台の霧 昼と夜の境目がどちらつかずに迷っているような、紫色の時刻だった。街の北外れ、崖の上にぽつりと建つ古い灯台は、今日も灯らない。海から吹き上げる風は生温かく、湿った霧があたり一面をぼんやりとかすめていく。灯台の石壁は長い風雨に磨かれ、ゆっくりと海へと削られている。 その灯台の腰のあたりにある古い鉄扉の前で、ひとりの少年が座っていた。 制服の靴を脇に置き、彼は膝の上で古びた懐中時計を磨いていた。金色だったはずの外側は、長年の雨に晒されもうほとんど鈍い真鍮色へと変わっている。表面についた無数の擦り傷が薄暗い空を映しては消え、映しては揺れていた。 懐中時計は、少年の亡くなった祖父の形見だ。 だが少年は、その時計を「祖父から受け取った日の記憶」を持っていない。 ーーー気がつくと、ポケットに入っていた。 そんな曖昧さが気味悪く、それでも捨てられないものにいつの間にか変わった。 「今日こそ、、、、、、動く気がする」 少年は、指先でガラス面をそっと撫でた。 止まった秒針は、まるで眠りこんだまま目覚めることをすっかり忘れたように沈黙している。肩をすくめ、曇ったガラスをもういちど息で曇らせているとーーー 「透(とおる)。こんなところにいたの」 背後から声がした。 振り向くと、霧の中にふわりと彗(けい)の姿があった。 彗は透と同じ学校へ通う幼なじみだ。 黒目がちの瞳はいつも少し伏せ気味で、風に吹かれると揺れる髪も体つきも細く、夜に溶けて消えてしまいそうな印象を与えた。だが透にとっては、昔から変わらない「隣にいてくれる親友」だった。 「またそれ、」 彗は透の手元を覗き込み、止まった懐中時計に眉を寄せた。 透は頷いた。 「今日はーーー何だか間に合う気がするんだよ。時間に」 「時間にって、」 彗が不思議そうに言いかけたその瞬間、懐中時計の秒針が、 カチリ とわずかに動いた。 ふたりは息を呑んだ。 霧が灯台の周囲に濃く集まる。透明なはずの空気が光を帯びて揺らぎ、地面に細い銀色の筋が一本のびた。 それは最初、ただの光の線に見えた。 しかし透が見つめるうちに、それはまるで砂鉄が吸い寄せられるように集まり始めーーー 銀のレールになった。 レールは灯台の足元から霧の奥へ伸びていき、やがて空のどこからともなく、深い汽笛が響いた。 霧が散るように割れ、 星屑をまとう夜行列車が音もなく近づいてくる。 「、、、、、、乗る気なの、」 彗は小さな声で言った。 その声には、不安の色が混じっていた。 透は懐中時計を握りしめながら答えた。 「わからない。けど、呼ばれている。、、、、、、そんな気がするんだ。」 列車が止まると、誰もいない車掌口のドアが静かに開いた。 透は、レールの先の闇の向こうで、“何か”が待っているような予感を抱いた。 不思議と怖くはない。 「彗。来てくれる、」 「、、、、、、透が行くなら」 彗は少しだけ微笑むと、透の袖を掴んだ。 そうしてふたりは、光の列車へ足を踏み入れた。
硝子灯(がらすび)館の少年
夕暮れどき、坂道の上にぽつりと光る硝子灯館は、まるで煤けた空の裏側に浮いた星屑のようだった。 玄関脇のランプは白磁のように薄く、触れればたちまち罅が走ってしまいそうな気配を帯びている。そこへ、僕は招かれた。 館の主人は、“七曜博士”と名乗る、年齢の読めない男だった。 黒曜石のように光る瞳は、笑っているのか、僕をなめるように眺めているのか判然としない。 「君は、不思議が好きかい?」 博士のその問いは、夕闇よりも先に僕の心を覆った。 硝子灯館の内部は、外観以上に奇妙だった。 細く曲がりくねった廊下の壁一面に、少年のシルエットを象った紙片が貼られている。白い影のようなそれらは、どれも微妙に姿勢が異なり、まるで歩き出しそうに見えた。 「これらはね、昔ここに遊びに来た少年たちの“残響”なんだよ」 博士の声が、硝子に触れた羽のように微かに震えた。 僕は思わず問う。「残響って、、、、、、記録みたいなものですか?」 「いや。もっとーーー生々しいものさ」 そのとき、廊下の奥で、かすかに“ふっ”と呼吸の気配がした。 白い紙片が一枚、風もないのに震え、壁からゆっくりと剥がれ落ちる。 博士は唇を歪めて笑った。 「この館に長くいると、自分の形を置いていきたくなる。 君もいずれ、そうなるかもしれないね」 僕は背筋が冷えるのを感じながらも、奇妙な魅力に逆らえず、紙片を拾い上げた。 そこには、僕自身としか思えない横顔の影が刻まれている。 「、、、、、、これは、いつの僕ですか?」 「今夜の。まだ、君が知らない君だよ」 硝子灯の光が、影絵となった“未来の僕”を淡く照らす。 どこかで、小さく笑う声がした。 僕のものに似て、けれどほんの少しだけ幼い声。 振り向くと、廊下の向こうに少年がいた。 淡い硝子色の瞳を持つ、僕の“残響”だった。 彼は静かに言う。 「帰るなら、今のうちだよ。硝子が夜を吸い始めると、外へ出られなくなるから」 その声はどこか優しく、どこかで僕自身がささやいているようでもあった。 外の闇は深まり、硝子灯館は星座のようにきらめきながらひっそりと呼吸している。 僕は紙片を胸に抱き、ひとつ深呼吸した。 残響になるべきかーーー それとも、この夜の前で引き返すべきか。 館のランプが、ぱちりと微かな音を立てた。 それは、選択を急かす心臓の鼓動にも似ていた。