さやかオンザライス
9 件の小説星河灯台夜行譚 第八章【硝子の夜明けの住人】
第八章 硝子の夜明けの住人 扉が開くと、冷たい空気がふたりの頬を撫でた。 停留所は、夜でも昼でもない奇妙な光に満ちていた。 足元には透明な床が広がり、まるで巨大な硝子板の上に立っているようだった。 下のほうには、雲のような霧が薄く流れ、 その中にときおり、朧げな影が浮かんでは消える。 彗がそっと歩を進める。 靴の底が硝子をこすり、かすかな音を響かせた。 透も遅れてついていく。 上空には太陽のような光があるのに、影は落ちない。 それが、どこか不安だった。 駅舎らしき建物はない。 ただ静かな、広い硝子の広場だけがあった。 「、、、、、、誰もいない」 透か呟くと、彗は立ち止まって耳を澄ませた。 「いや。いる」 ふたりの先に、細い人影が座っていた。 透明な床の縁、霧のそば。 背を向け、膝を抱えて座っている。 透は息を呑む。 その姿は、どこかで見たような気がした。 記憶の端で、何かがかすかに動いた。 彗が近づこうとすると、足元の硝子がふっと震えた。 ぱきん。 透明な亀裂が、光を吸いながら広がる。 透が慌てて腕を掴む。 「落ちる、」 彗は床を見下ろし、苦笑した。 「落ちても、落ちた先があるだけだと思うけど」 そう言った声が、少しだけ寂しそうだった。 人影がゆっくりと振り返った。 それは、星図図書館で見た光の鳥の少年だった。 淡い色の髪に、光を吸ったような瞳。 服は古びた制服だがーーー透や彗のものと同じだ。 そしてどこか半透明に見える。 少年はふたりを見ると、ぽつりと言った。 「やあ、」 透と彗は同時に息を呑んだ。 図書館で聞いた声。 記憶の奥で何度も聞いた声。 透が一歩近づく。 「、、、、、、ぼくたちを呼んだ、」 少年は無表情のまま頷く、 「ああ。だって、ぼくは置いていかれたから」 その言葉に、硝子の床がきしむように響いた。 彗の胸が強く締めつけられた。 何かが、はっきりと形を取り始める。 「誰に、」 彗が問うと少年は透を見た。 「君に」 透の喉が乾いた。 何か言い返したいのに、言葉が出なかった。 少年はゆっくり立ち上がり、ふたりを導くように歩き出した。 硝子の広場の奥に、浅い湖があった。 水面は鏡のように静かで、夜とも昼ともつかない空を映している。 湖の中央には、小さな桟橋が伸びていた。 そこに、ひとつの古びた椅子が置かれていた。 少年は椅子の背に触れて言う。 「ここは、忘れたものが待つ場所だよ」 透が眉をひそめる。 「待つって、何を、」 少年は今度は彗を見た。 「きみの帰りを」 彗は言葉を失った。 湖面の下から、微かな光が漏れている。 それは、埋められた星のように輝く欠片だった。 少年は指先を湖に浸した。 水面が波紋を広げ、欠片がいくつもきらめく。 「これは、きみが捨てた朝。 きみが見なかった夜明けの全部」 彗は胸を押さえた。 記憶の奥で、痛みがひとつ、静かに跳ねた。 透がそっと肩を支える。 彗は震える声で訊いた。 「ぼくーーーどうして。捨てたの、」 少年はゆっくりと微笑んだ。 その笑みは、どこか透に似ていた。 「痛かったからさ。ひとりになるのが」 その瞬間、床の奥から大きな音が響いた。 広場全体にひびが走る。 少年は振り返ることなく言った。 「もう長くはもたない。 朝は、硝子を壊すから」 「ぼくら、何をしたらいいんだ」 透が振り絞るように言うと、少年は湖の中央を見つめた。 「思い出して。全部じゃなくていい。 ただ、ひとつだけーーーーーーそれが“終わりの針”だ」 硝子の床が揺れ、光が乱れる。 少年は透に手を伸ばした。 「君の“名前”を」 透は息を呑んだ。 思い出せない名前。 胸の奥に沈んでいるのに、決して口に出せないもの。 少年は穏やかに言った。 「君の名前が、ぼくたちを繋いでる。 それを思い出せば、彗は進める。 そして、ぼくは終わる」 透は叫んだ。 「いやだ、」 少年は微笑んだ。 「終わるって、なくなる事じゃないんだ。 ただ、形が変わるだけ」 その声は静かで、どこか懐かしい温度を帯びていた。 硝子の湖面が大きく波打った。 朝が、音もなく押し寄せていた。
星河灯台夜行譚 第七章【硝子の夜明け】
第七章 硝子の夜明け 列車は静かに加速し、闇に溶けた峡谷を後ろへと流し去っていった。 窓の外は月も星もなく、ただ均一な夜が広がっている。 その夜の中に、ひと筋の白い線が走った。 透ははっとして顔を上げる。 列車の前方に、淡く光る軌道が見えていた。 それはまるで、宙に浮かぶガラスの橋のようだった。 「見える、」 彗が小さな声で問う。 透は頷いた。 先ほどまでの闇とは違う、冷たい透明さがそこにあった。 線は揺らめきながら、どこか遠くの夜明けのような色を帯びている。 車内の灯りが広がり、ふたりの影は細長く伸びた。 窓側の座席に腰をおろすと、彗は深く息を吐いた。 谷で聞いた囁きはもう聞こえない。 しかし、沈黙は逆に、妙な緊張を含んでいた。 列車は光の軌道に乗り、ゆっくりと高度を上げていった。 車輪の音は不思議なほど静かで、 代わりに窓硝子が、ひんやりと震えるような音を立てていた。 彗が窓に指を触れる。 硝子の向こうに、淡く光る霧が流れていく。 「透。ぼく、ひとつ思い出した気がする」 透は黙って耳を傾けた。 「谷の声は、、、、、、たぶん、ぼく自身だった。 忘れたくて捨てた記憶が、ぼくを呼んでたんだ」 彗の横顔は薄明かりに照らされて、柔らかく、それでいてどこか影が深い。 「捨てた理由は、」 彗はしばらく考え、答えた。 「わからない。でも、きっと、、、、、、痛いから」 それは幼い告白のようで、透は言葉を返せなかった。 ただ、座席の布を握りしめ、列車の揺れに身を任せた。 やがて、霧の向こうに色が差してきた。 薄い青、灰色、そしてももいろが、硝子の底から滲むように広がる。 彗はその光景に目を奪われ、呟いた。 「夜明けって、こんな色だったっけ」 透は首を振った。 「覚えてない。ずっと夜だった気がする」 列車が高度を上げるにつれ、下方に広がる霧の中から、無数の欠片が見え始めた。 それらは窓硝子の向こうで、ゆっくりと回転している。 ーーーーーー人影。 ーーーーーー風景。 ーーーーーー何かの断片的な瞬き。 透はぞくりとした。 それらは、誰かの失われた夜明けだった。 列車が橋の頂点に達したとき、鋭い耳鳴りが車内を満たした。 彗が耳を押さえる、 「透、聞こえる、」 透も胸が痛んだ。 耳鳴りは音ではなく、感覚そのものだった。 ーーーーーー起きてはいけない何かが、眠っている。 彗の指先が震えている。 透はそっとその手を握った。 ふたりの指が重なった瞬間、耳鳴りがふっと消えた。 代わりに、遠くから低い車掌の声がする。 「次の停留所ーーー硝子の夜明け。下車のご準備を」 ふたりは顔を見合わせた。 列車はきしむような音を立て、ゆっくりと停まった。 硝子の夜明けが、扉の向こうに広がっていた。
星河灯台夜行譚 第六章【失われた記憶】
第六章 失われた記憶 夜の列車が停まり、扉が静かに開いた。 案内板に刻まれた停留所の名前は【記憶の峡谷】。 透は胸の奥に冷たい風が吹き込んだような感覚を覚えた。 崖の縁に沿って伸びる駅のプラットフォームは不自然なほど狭く、その向こうには底の見えない闇の谷が広がっていた。谷底からは、誰かの囁き声が泡のように浮かんでは消えていく。 彗はその囁きに気づいたのか、ぶらりと一歩、谷のほうへ歩みかけた。透が引き戻すように腕を掴む。 「、、、、、、うるさい、誰かがずっと話しかけてくる」 透には聞こえない。耳を澄ませても、もう風の音以外はない。 ただ、谷の闇が先刻(さっき)よりも重く、彗の影だけが頼りなく揺れていた。 ホームの端には、木製の狭い階段が闇に向かって伸びていた。 手すりには「記憶の欠損している者は谷底へ近づかぬこと」と彫られている。 読んだ瞬間、嫌な予感に喉が詰まった。 彗はその警告を一瞥し、ただぽつりと呟いた。 「欠損、か。やっぱり、なにか忘れてるんだ、ぼくも」 二人は階段を降り始めた。 降りるほどに、ふたたび囁き声がはっきりしてくる。 透には意味がわからないが、彗だけは言葉を拾い上げるように立ち止まっては耳を傾けた。 「、、、、、、聞き取れないけど、名前を呼んでる」 その声は過去から這い寄る影のようで、透の背筋まで寒くなる。 階段の下には、石畳の細い道が峡谷に沿って続いていた。 そこでは、光の粒が雨のようにゆっくりと降り注いでいる。 ひとつひとつが誰かの記憶の欠片らしい、なぜかそう思った。 一つの光が彗の肩に触れた。 瞬間、彼は息を呑み、胸を押さえた。 「たぶんーーーーーーぼく、誰かを失ったんだ」 透の胸が痛んだ。 彗の物言いから、その相手が、彗自身にとってとても大切だったとわかってしまう。 彗は続けた。 「その人を置いてきた。ぼくは逃げたんだと思う」 光の粒が彗の手のひらにまとわりつき、かすれた映像をちらつかせた。 だが、それは完全には形にならない。霧のように不安定だった。 透は思わず彗の手を握った。 彗はかすかに笑ったが、その笑顔は儚い光のようだった。 道の先に、黒い裂け目のような洞窟が口を開けていた。 彗はそこから目を離さない。 透が手を離したら、そのまま吸い込まれてしまいそうだった。 洞窟の奥から、はっきりと聞き取れる低い声がした。 透の心臓が跳ねた。 その声は、たしかに彗の名を呼んだ。だが、それは彗が思い出そうとしていた人物のものというよりーーーーーー失われた記憶そのものが形を持ったような、不吉なものだった。 彗は一歩踏み出す。 「、、、、、、透。この先へ進んだらーーーーーー」 透は強く彗の腕を掴んだ。 彗は驚いたように透を見たが、しばらくして諦めたように息を吐く。 「ごめん、そうだね。もう、失うのは嫌だ」 二人がが引き返すと、谷の風景はゆっくりと色を変え、まるで二人が離れようとした瞬間に谷が沈黙したかのように、囁きも消えていった。 ホームに戻ると、列車はまだ彼らを待っていた。 扉の向こうは、いつもよりわずかに明るい灯りが洩れていた。 「、、、、、、透。ぼく、いずれちゃんと思い出すよ。でも、それがどんなものでも、君がそばにいてほしい」 列車の扉が閉まると、峡谷の景色はあっという間に闇へと遠ざかった。 彗の失われた記憶はまだ霧の中だ。 今は、それでも良かった。
星河灯台夜行譚 第五章【星図図書館と記録係】
第五章 星図図書館と記録係 夜行列車は、まるで雲をかきわけるようにして滑っていった。 窓の外は、星と霧が混ざった銀の海。 レールはときおり途切れ、途切れた先にふわりと新しい光の線が生まれる。 彗は落ち着かない様子で窓の向こうを見つめていた。 「、、、、、、斑鳩を見た、」 透は頷く。 懐中時計の震えはおさまったものの、秒針はまだ逆走し続けている。 「ここにいると、、、、、、何か、大事なものがどんどん遠くなる気がする」 彗が不安そうに唇をかんだが、言い返す言葉は浮かばないようだった。 やがて列車が減速し、音もなく停車した。 車窓に浮かび上がったのは、巨大な石造りの建物だった。 天井は星空のような黒いドームで、壁には無数の光の線が走っている。 どれも正座のようでいて、地図のようでもある。 建物の中央には、ゆっくりと回転する巨大な光の球体が浮かんでいた。建物の奥へ潜り込むように列車は停まっている。 彗が息を呑む。 「すごい、、、、、、これ、図書館、」 透は静かに頷いた。 見覚えのある気はしない。 だが、懐中時計が微かに反応している。 まるでこの場所を“覚えている”かのように。 ふたりは列車を降り、光に照らされた階段を上った。 扉を押すと、軽い風のような音とともに開く。 そこには、静寂の世界が広がっていた。 壁一面に積みあがるのは、本ーーーーーーではない。 薄いガラス板のようなものが無数に並び、 ひとつひとつに星の図や、誰かの名前、断片的な言葉が浮かんでいた。 「忘れられたものの、最後の居場所です」 透と彗は驚きのあまり振り返った。 声の主は、薄い青のローブをまとった人物だった。 性別すら曖昧なほど静かで透明な雰囲気をしている。 顔立ちは美しく、瞳は淡い水晶のように澄んでいた。 「ようこそ、星図図書館へ、 私はこの場所の記録係でございます」 記録係は、ふたりに軽く会釈をした。 彗がたずねる。 「ここには、、、、、、何が記録されているのですか、」 記録係は、棚から一枚のガラス板をそっと抜いた。 手の中で光が揺らぎ、板の中央に一筋の線が走る。 「記憶です。 誰かの脳裏に一瞬だけ浮かび、 しかし言葉にならなかった想い。 呼ばれることのなかった名前。 たどり着かなかった帰り道。 そうした“欠片”がここに集められます」 透は無意識にポケットを押さえた。 “忘れる順番”と書かれた石が、布越しに冷たい。 「あなたたちは、探しものがあるのでしょう」 「探しもの、」 記録係は、透の胸元に視線を落とす。 「懐中時計。それは、“案内器”ですね。 名前を失いかけた者がここに来るときにだけ反応します」 透は思わず時計を握りしめた。 秒針は、相変わらず逆方向へ進んでいる。 「あなたは、誰かの声を聞いたはずです」 透の身体が強く固まった。 彗が驚いたように透を見る。 記録係はガラス板を棚に戻し、ふたりにゆっくりと近づく。 その瞳は、星の奥を覗き込むように静かだ。 「その声の主は、まだあなたのことを覚えている。 けれど、時間がありません。 この世界は“忘却”に満ちていますから」 忘却。 その言葉は、石に書かれた“忘れる順番”と奇妙に響き合った。 記録係は手をひと振りした。 星のような光が床に散り、図書館の中央にひとつの通路が開ける。 「あなたの“失ったもの”があります」 彗は透の手を掴んだ。 「行こう」 記録係はかすかに微笑む。 「気をつけて。 “忘れたくなかったもの”ほど、 この世界では形を変えてしまうのです」 透と彗は、開かれた通路へと歩き出した。 光のない部屋へ足を踏み入れると、 空気がひんやりと震える。 そして、 暗闇の中央に、 白い鳥が一羽、うずくまっていた。 その鳥は透が近づくと かすかに声を漏らし、 ーーーーーー透の名を呼んだ。 透の心臓が、止まるほど強く跳ねた。 彗も言葉を失う。 白い鳥は、透の名を呼ぶ。 それは、たしかに知っている声。 けれど思い出せない声。 透は震える手を伸ばした。 鳥は、透の指先に触れーーーーーー 突然、少年の姿になった。 透と同じ年頃。 淡い翡翠色の瞳。 白い息を吐くような儚い表情。 少年は、透を見て微笑んだ。 「ようやく、見つけてくれたね」 少年は、しばらく静かに微笑んでいた。 その笑みは懐かしく、胸の痛むような温度を帯びている。 だが、透の記憶にはどうしても彼の姿はなかった。 「、、、、、、君は、」 少年は少しだけ首をかしげた。 「わからないの、透。ぼくーーーーーー」 言いかけた瞬間、暗闇の中で風がざわりと音を立てた。 記録係が通路の入口に立っていた。 淡い光の粒がローブから零れ落ちる。 「いけません」 記録係は静かに言った。 「形を保てなくなります」 少年は淡い光に包まれ、輪郭が波打つ。 透が手を伸ばすと、その細い体の端が霧のように崩れた。 「待って、」 少年は微笑んだまま首を振る。 「大丈夫。すぐに消えたりしない。 でも、透にはまだ早いんだ」 少年は揺らぎながら透の手に触れた。 その指先は少し冷たく、羽根のように軽い。 「ぼくは、君のーーーーーー」 そして次の瞬間、 少年の身体は光の鳥へと戻り、 羽音も立てずに暗闇へ散った。 透は崩れ落ちるように膝をついた。 彗が駆け寄り、肩に手を添える。 「彼を知ってるの、」 透は、弱々しく首を振るしかなかった。 頭の奥がずきずきと痛む。 忘れていた記憶が、何かと衝突するように軋んでいる。 記録係が静かに近づいてくる。 「あなたの名前が、彼を呼び起こしたのです。 でも、まだ思い出してはいけません。 順番があるのです」 透は顔を上げた。 「順番、」 記録係は頷いた。 「この世界では、忘れる順番と、思い出す順番が決まっているのです。 それを守らなければ、あなた自身が形を保てなくなる」 「じゃあーーーーーーぼくはこれから、何を忘れるんだ、」 記録係は少しだけ悲しそうに目を伏せた。 「まだ、何も。ただ、時計が逆に動いているあいだは危険です。 あなたは誰かに呼ばれている。 本来なら、この世界に来る前に思い出すべき名前、、、、、、」 彗が透の肩を抱えるようにして言った。 「形を保てなくなるって、どういうこと、」 記録係は静かに答える。 「斑鳩を見たでしょう、」 透は言葉を失った。 頭のどこかが冷たくしびれる。 記録係はふたりに背を向け、通路の奥を指し示した。 「次の場所へ。 “彼”と再会する前に、すべきことがあります」 透は震えながら立ち上がる。 少年ーーー鳥ーーーあの声。 何か大切なものが手のすぐ先にあるのに、掴めない。 彗が透の手を握った。 「行こう。 透。ぼくたち、一緒に帰ろう」 透は静かに頷いた。 記録係は深いドームの天井を仰ぎ、ひとこと告げた。 「次の停留所はーーーーーー【記憶の峡谷】」 その名を聞いた瞬間、 懐中時計が鋭い音を響かせた。 秒針が跳ね上がり、逆走がさらに加速する。 透は胸を押さえた。 記録係は言った。 「急ぎなさい。 “彼”が完全に形を失う前に」 扉が開く。 ふたりは再び夜行列車へと戻った。 星図図書館が遠ざかるなか、透はぽつりと呟いた。 「彗、、、、、、ぼく、何を忘れてるんだろう」 彗はゆっくりと透の手を握った。 列車は光を引き、 ふたりを次の停留所ーーーーーー記憶の峡谷へと運んでいく。
星河灯台夜行譚 第四章【斑鳩の少年】
第四章 斑鳩の少年 列車が次の停留所へ滑り込むと同時に、車窓の外の色がゆっくりと変わっていった。 蒼い街とはちがう。もっと深く、もっと冷たく、夜の底に沈んだような色だ。 透と彗は、思わず息をひそめた。 停留場は、鳥の羽根のような白い模様が無数に重なり合った大きな駅だった。 だが、駅舎は半分ほど崩れていて、天井には巨大な穴が空いている。 そこから夜の星がまるで見下ろしてくるように輝いていた。 「、、、、、、ここ、なんだろう、」 彗が小声で言う。 透は首を振った。 ただ、胸の懐中時計がわずかに震えているのを感じた。 列車のドアが開いた。 ふたりがゆっくりと降りた瞬間、 どこからか紙を薄く裂くような音がした。 視線を向けると、崩れかけた駅舎の影から、白い羽根を散らしながら一人の少年が姿を現した。 年は透たちと同じ程だが雰囲気はまるで異なる。 銀色に近い淡い髪が肩まで流れ、瞳は黒曜石のように深い。 服はどこか古代の宗教儀式めいた白衣で、袖や裾に鳥の羽根のような模様が刺繍されていた。 「やっと来たね、」 少年は、透たちを見つめると微笑んだ。 その笑みは穏やかなのに、どこか胸にざわりと触れてくるような、不思議な不安を伴っていた。 「君は、」 透が問うと、少年は首をかしげた。 「斑鳩(いかるが)。 ここは“渡りの駅”。 行くあてを失った記憶が、いったん鳥になる場所だよ」 「記憶が鳥に、」 彗が呟くと斑鳩は頷いた。 「忘れられたものは、鳥の形で空を漂うんだ。 でもね、長く留まることはできない。 名前をもつ人のそばへ戻りたがるから」 透は息をのんだ。 その説明は、彼の胸の奥で眠っていた何かをひどく騒がせた。 彗が震える声で囁く。 「この場所なんだか、嫌な感じがする」 「わかってる」 目に映るものすべてが、美しくも不安で、“儚い世界の終わり”の匂いをしていた。 斑鳩は、壊れた駅の中央にある円形の床へふたりを案内した。 そこには黒い石板が埋め込まれ、銀色の文字が刻まれていた。 「ここには、これまで“帰れなかった”人たちの記録が残っているんだ」 「帰れなかったって。どこに、」 透が尋ねる。 斑鳩は、まっすぐ透の目を見た。 「元の時間に、だよ」 風が吹き、羽根のような白い粉が舞い散った。 「でもーーーーーー」 斑鳩はふきつける風の中で微笑んだ。 「君たちは、まだ間に合う。 だって名前を失っていないからね」 その言葉に透の胸が強く傷んだ。 「名前をーーーーーー失う、」 「この世界に長くいるとね、少しずつ忘れてしまうんだ。 自分の名前も、誰かの声も、帰りたい場所も」 彗が青ざめる。 「それでーーーーーーどうなるの、」 「鳥になるよ。 記憶の鳥。 そして、空へ溶けていく」 そのとき、“チチ、、、、、、”という細い鳴き声が頭上から聞こえた。 見上げると、夜空に無数の白い鳥が舞っていた。 どの鳥も透きとおるように淡く、翼の先が星明かりで青く光っている。 「これが全部、、、、、、記憶、」 「そう。誰かの、ね」 斑鳩はそっと手を伸ばし一羽の鳥を腕に留めた。 鳥はまるで薄い光の固まりみたいに震えている。 「この鳥は、きみの名前を識(し)ってるみたいだ」 透は息を止めた。 彗が、透の袖をきゅっと掴む。 「どうして、」 斑鳩は鳥を透へと差し出す。 「触れてみて。 何か思い出すかも」 透は躊躇った。 けれど、吸い寄せられるように手を伸ばす。 鳥の体は冷たく、透明で、かすかに震えていてーーーーーー その瞬間 懐中時計の秒針が暴れるように動いた。 KIRI、KIRIRI ーーーーーー! 「透、離して」 彗の叫びが響く。 しかし遅かった。 次の瞬間、透の視界は白い光で満たされた。 駅も、斑鳩も、彗ですらも遠く離れ、 ただひとつ、“忘れられたはずの声”だけが耳元で囁いた。 ーーーーーーまだ、来る時間じゃない。 透は目を見開いた。 その声は、 確かに知っている声だった。 だが、 その持ち主を思い出せない。 光はしばらく透の視界を白く焼きつづけた。 耳鳴りの奥で、砂の落ちる音のような、遠い波のような音が重なり合う。 誰の声だろうーーーーーー、 それを考えるより早く、意識が引き戻されるように揺れ、 透は黒い石板の前へと倒れ込んだ。 「透、」 彗が抱きかかえるようにして駆け寄った。 その顔色は驚きと不安で蒼白だ。 透は息を整えながら、ゆっくりと周囲を見回す。 駅舎の瓦礫、夜空の穴、漂う記憶の鳥、、、、、、 すべてが元の位置にあったが、ひとつだけ違っていた。 ーーーーーー斑鳩の姿が、どこにもない。 「突然消えたんだ。光が広がった瞬間、まるで風にさらわれたみたいに」 透は胸を押さえた。 懐中時計はまだ微かに震えている。 秒針は、まったく見覚えのない時刻を指していた。 「彗。さっきの声を聞いたか、」 「声、」 彗は首を横に振った。 「光に呑まれたとき、透が一瞬なにか言ってたけれど、はっきりとは聞こえなかった」 透は唇をかんだ。 ーーーーーー知っている。 ーーーーーーでも、どうしても思い出せない。 そのもどかしさは、胸の奥で針となって刺さりつづけた。 ふたりは崩れた駅舎を進み、暗いホームの奥へと歩いた。 レールは途中で途切れ、夜空へと溶けるように消えている。 その消失点の手前に、古びた案内板が立っていた。 白い羽根のような文字で、次の停留所の名が書かれている。 《星図図書館》 「図書館、、、、、、」 彗が小さく呟く。 透は案内板に触れようとして、ふと手を止めた。 案内板の下に、小さな白い石が置かれていた。 石の表面には、黒いインクで数字が書かれている。 “3” 透は眉をひそめた。 「これ、さっきは無かったよな」 彗も首を傾げる。 「なんの数字だろう、」 透は気味の悪さを覚えながら石を拾い上げた。 裏返すと、薄れかけた文字が浮かび上がった。 “忘れる順番” それだけ。 意味がわからない。 だが、その言葉に触れた瞬間、胸のどこかが強くひきつれた。 「これ、置いていこうよ」 彗が不安そうに言う。 透はしばらく迷ったのち、そっと石をポケットにしまった。 彗は心配そうにしつつも、それ以上は言わなかった。 ふたりが案内板の前に戻ると、さっきまで無かったはずの光が足元に流れはじめた。 銀色のレールが、ふたたび霧のように現れ、星空へ向かって伸びていく。 夜行列車が来る。 薄い汽笛が、夜の湖面のように震えながら響く。 透と彗は頷き合い、再び列車へと乗り込む。 扉が閉まる直前、 背後で風がざわりと揺れる。 そこには、 崩れた駅舎の影の奥に、 ほんの一瞬だけ、斑鳩が立っていた。 白い羽根が舞い、その姿は夜に溶けるように静かに消えた。 列車が動き出す。 白い鳥たちが舞い散る中、停留所はゆっくりと遠ざかっていった。 そして透の懐中時計は、 病院を逆に刻み始めていた。
星河灯台夜行譚 第三章【雲海に沈む学校】
第三章 雲海に沈む学校 しばらくして、列車の速度が落ちた。 透と彗は揺れに身を任せながら息を整える。 彗は不安そうに透の袖をぎゅっとつまんでいた。 その指先がかすかに震えている。 透はやさしく言った。 「大丈夫だ。もう変なところには行かないよ」 彗は首を横に振る。 「透が行くなら、どこだって平気さ。けれど、、、、、、この列車、行く場所を選ばせてくれないみたいだ」 窓の外に広がるのは、白い雲海。 空が地平線のようにどこまでも続いている。 やがて、雲の上に立つ奇妙な建物が見えてきた。 それはーーーーーー学校だった。 校舎全体が、雲の上にぽつりと浮かんでいる。 屋上は星明かりに濡れ、窓ガラスは薄く光を帯びている。 古い木造校舎のようでもあり、何十年も誰も使っていない廃校のようでもあった。 列車が静かに止まり、ふたりはホームに降りた。 雲の床はふかふかと柔らかく、踏むたびに淡い波紋が広がった。 「ここ、知ってる気がする」 彗がぽつりとつぶやいた。 透は眉をひそめる。 「来たことがあるのか、」 「わからない。でも、懐かしいみたいで、苦しい」 校舎に足を踏み入れると、白い光が廊下を満たしていた。 教室のひとつを覗くと、机と椅子が静かに並んでいる。 誰もいないはずなのに、新しいチョークの匂いがただよっていた。 黒板に、一行の文字。 ここで失ったものを、まだ覚えてる、 透の背筋に冷たいものが走った。 彗は黒板の前に立ち、じっと文字を眺める。 「透、、、、、、ぼくたち、三人だった」 その声は、震えていた。 「三人。誰と、」 視線が黒板に吸い寄せられる。 しばらくすると、黒板の端に白いチョークの文字がひとりでに浮かび上がった。 斑鳩(いかるが) 透の胸の奥がずきりと痛んだ。 ーーーーーー知らない名前なのに、懐かしい。 そのとき、校舎がぐらりと揺れた。 窓の外、雲の裂け目の向こう側に “誰かの影”が落ちかけているように見えた。 声も、顔も思い出せない。 けれど透には、確かにその影を知っているという確信があった。 「行っちゃ駄目だ、」 彗が透に飛びつき、強く抱き締める。 「ここで思い出したらいけない。雲が沈む前に戻らないと」 校舎は傾き始め、窓ガラスが砕け散る。 雲がゆっくりと渦を巻き、足元を吸い込もうとしていた。 列車の汽笛が鋭く鳴り響いた。 早く。 透と彗は全力で廊下を駆け、列車へ飛び乗った。 直後、雲の学校はずぶずぶと雲海へ沈んでいく。 最高まで黒板だけがゆっくりと沈み、文字が霧の中へ溶けた。 ーーーーーー斑鳩。 名残だけが透の胸に重く残った。
星河灯台夜行譚 第二章【蒼い街の停止場】
第二章 蒼い街の停止場(とまりば) 列車が静かに揺れ、いつの間にか霧はすっかり晴れていた。 窓の外には、蒼一色の街が広がっている。 建物という建物が、巨大な時計の形をしていた。 円柱、塔、家屋、どれも針が止まり、ゼンマイの音も聞こえない。 街全体が“時間を失った”ように沈黙していた。 列車が駅に滑り込むと、透は息を呑んだ。 彗も、冷たい青さに肩をすくめる。 「怖い、」 「大丈夫、すぐ戻る」 透はそう答えたものの、自分でも根拠はなかった。 ただ、この街を通らないと“何かに届かない”という予感があった。 駅に降り立つと、青い空気はひどく冷たかった。 時計の塔が何十本も、針の止まったまま無言で並んでいる。 そのうちのひとつーーー最も大きな時計の前に、ひとりの少年が立っていた。 透と同じくらいの齢。 白いシャツに黒い制服。だが色彩は少し褪せていて、存在がまるでこの街に溶け込もうとしているようだ。 少年は透と彗に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。 「秒針を持っているのは君たちだろう、」 声は冬の氷を指で弾いたように静かだった。 透は懐中時計を取り出し、ためらいながら頷いた。 「これのこと、」 少年は首を横に振った。 「違う。それは“始まりの針”。君たちの時間を動かすための針だ。この街が求めているのは、、、、、、“終わりの針”なんだ」 そう言った瞬間、風が止んだ。 青い空気がぴんと張り詰める。 少年の影がわずかに揺れる。 足元から、蒼い砂がぽろぽろとこぼれ始めた。 「君ーーー身体が、」 少年は淡く微笑んだ。 その笑みは哀しげで、どこか懐かしい光を帯びていた。 「“終わりの針”をなくしてから、僕たちはずっと止まったままなんだ。 同じ時刻を繰り返して、壊れていくばかりで、、、、、、痛いんだ」 蒼い砂は、そのまま彼の靴を透き通らせ、足首を削っていく。 彗が思わず透の手を握った。 「透、早く行こう」 そのときだった。 街全体に、低くくぐもった鐘の音が鳴り響いた。 ーーーコヲヲヲヲン。 ここに長くいちゃいけない。 透の胸の奥で、誰かの声のような直感が跳ねた。 列車のドアがひとりでに開く。 少年は、蒼い砂に身を変えながら、かすかに口を動かした。 「針を見つけて。 君たちの終わりと、僕たちの終わりはーーーきっとつながっているから、」 透は一歩踏み出しかけたがーーー 彗に腕を強く引かれた。 「駄目だ、」 蒼い砂嵐が吹き荒れ、街がガラスのようにひび割れ始めた。 透と彗は倒れるように列車へ飛び込む。 直後、蒼い街は ぱりん、 と音を立てて砕け散った。 列車は光の中を疾走し、次の世界へと進んでいく。
星河灯台夜行譚 序章【星河灯台の霧】
星河(せいが)灯台夜行譚 序章 星河灯台の霧 昼と夜の境目がどちらつかずに迷っているような、紫色の時刻だった。街の北外れ、崖の上にぽつりと建つ古い灯台は、今日も灯らない。海から吹き上げる風は生温かく、湿った霧があたり一面をぼんやりとかすめていく。灯台の石壁は長い風雨に磨かれ、ゆっくりと海へと削られている。 その灯台の腰のあたりにある古い鉄扉の前で、ひとりの少年が座っていた。 制服の靴を脇に置き、彼は膝の上で古びた懐中時計を磨いていた。金色だったはずの外側は、長年の雨に晒されもうほとんど鈍い真鍮色へと変わっている。表面についた無数の擦り傷が薄暗い空を映しては消え、映しては揺れていた。 懐中時計は、少年の亡くなった祖父の形見だ。 だが少年は、その時計を「祖父から受け取った日の記憶」を持っていない。 ーーー気がつくと、ポケットに入っていた。 そんな曖昧さが気味悪く、それでも捨てられないものにいつの間にか変わった。 「今日こそ、、、、、、動く気がする」 少年は、指先でガラス面をそっと撫でた。 止まった秒針は、まるで眠りこんだまま目覚めることをすっかり忘れたように沈黙している。肩をすくめ、曇ったガラスをもういちど息で曇らせているとーーー 「透(とおる)。こんなところにいたの」 背後から声がした。 振り向くと、霧の中にふわりと彗(けい)の姿があった。 彗は透と同じ学校へ通う幼なじみだ。 黒目がちの瞳はいつも少し伏せ気味で、風に吹かれると揺れる髪も体つきも細く、夜に溶けて消えてしまいそうな印象を与えた。だが透にとっては、昔から変わらない「隣にいてくれる親友」だった。 「またそれ、」 彗は透の手元を覗き込み、止まった懐中時計に眉を寄せた。 透は頷いた。 「今日はーーー何だか間に合う気がするんだよ。時間に」 「時間にって、」 彗が不思議そうに言いかけたその瞬間、懐中時計の秒針が、 カチリ とわずかに動いた。 ふたりは息を呑んだ。 霧が灯台の周囲に濃く集まる。透明なはずの空気が光を帯びて揺らぎ、地面に細い銀色の筋が一本のびた。 それは最初、ただの光の線に見えた。 しかし透が見つめるうちに、それはまるで砂鉄が吸い寄せられるように集まり始めーーー 銀のレールになった。 レールは灯台の足元から霧の奥へ伸びていき、やがて空のどこからともなく、深い汽笛が響いた。 霧が散るように割れ、 星屑をまとう夜行列車が音もなく近づいてくる。 「、、、、、、乗る気なの、」 彗は小さな声で言った。 その声には、不安の色が混じっていた。 透は懐中時計を握りしめながら答えた。 「わからない。けど、呼ばれている。、、、、、、そんな気がするんだ。」 列車が止まると、誰もいない車掌口のドアが静かに開いた。 透は、レールの先の闇の向こうで、“何か”が待っているような予感を抱いた。 不思議と怖くはない。 「彗。来てくれる、」 「、、、、、、透が行くなら」 彗は少しだけ微笑むと、透の袖を掴んだ。 そうしてふたりは、光の列車へ足を踏み入れた。
硝子灯(がらすび)館の少年
夕暮れどき、坂道の上にぽつりと光る硝子灯館は、まるで煤けた空の裏側に浮いた星屑のようだった。 玄関脇のランプは白磁のように薄く、触れればたちまち罅が走ってしまいそうな気配を帯びている。そこへ、僕は招かれた。 館の主人は、“七曜博士”と名乗る、年齢の読めない男だった。 黒曜石のように光る瞳は、笑っているのか、僕をなめるように眺めているのか判然としない。 「君は、不思議が好きかい?」 博士のその問いは、夕闇よりも先に僕の心を覆った。 硝子灯館の内部は、外観以上に奇妙だった。 細く曲がりくねった廊下の壁一面に、少年のシルエットを象った紙片が貼られている。白い影のようなそれらは、どれも微妙に姿勢が異なり、まるで歩き出しそうに見えた。 「これらはね、昔ここに遊びに来た少年たちの“残響”なんだよ」 博士の声が、硝子に触れた羽のように微かに震えた。 僕は思わず問う。「残響って、、、、、、記録みたいなものですか?」 「いや。もっとーーー生々しいものさ」 そのとき、廊下の奥で、かすかに“ふっ”と呼吸の気配がした。 白い紙片が一枚、風もないのに震え、壁からゆっくりと剥がれ落ちる。 博士は唇を歪めて笑った。 「この館に長くいると、自分の形を置いていきたくなる。 君もいずれ、そうなるかもしれないね」 僕は背筋が冷えるのを感じながらも、奇妙な魅力に逆らえず、紙片を拾い上げた。 そこには、僕自身としか思えない横顔の影が刻まれている。 「、、、、、、これは、いつの僕ですか?」 「今夜の。まだ、君が知らない君だよ」 硝子灯の光が、影絵となった“未来の僕”を淡く照らす。 どこかで、小さく笑う声がした。 僕のものに似て、けれどほんの少しだけ幼い声。 振り向くと、廊下の向こうに少年がいた。 淡い硝子色の瞳を持つ、僕の“残響”だった。 彼は静かに言う。 「帰るなら、今のうちだよ。硝子が夜を吸い始めると、外へ出られなくなるから」 その声はどこか優しく、どこかで僕自身がささやいているようでもあった。 外の闇は深まり、硝子灯館は星座のようにきらめきながらひっそりと呼吸している。 僕は紙片を胸に抱き、ひとつ深呼吸した。 残響になるべきかーーー それとも、この夜の前で引き返すべきか。 館のランプが、ぱちりと微かな音を立てた。 それは、選択を急かす心臓の鼓動にも似ていた。