ヨーイチ

14 件の小説

ヨーイチ

新水滸伝コメント

現在チャイナ史にドップリ。陳舜臣・小説十八史略と並行して吉川三国志を摘み食いして、次は新水滸伝に移行。面白くって、巻分けが無いので、長いけど一気通貫してしまった。 ついでに昔懐かしい(大昔ね)テレビドラマを見ている。 更に駒田信二の翻訳も準備中。 一応再読だけど(爺いには懐かしの赤茶、箱入り、枕にもなりそうな全集)殆ど覚えちゃいない。 翻訳と吉川水滸伝の違いって多分あるのだろうけれど、明代に執筆された白話の雰囲気は素人なりに感得できたと思う。彼の地の歴史、風俗、人情などなど。 予想以上に近代的?で心理もさることながら、娯楽を意識した構成とかで面白く読めた。横山版で読んだつもりになっている人は結構違うので読んでみた方が良い(コレは予想外だった)

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偉大なるボクサーの死

1974「キンシャサの奇跡」降臨 高校生だった頃を回想 「仲間と連れ立って生物の先生に頼み込んで見ていた。試合が始まるとアリを応援しているのだが相手が強すぎて、ドキドキの連続だった。残念なことに3ラウンドくらいで無念の昼休み終了で授業に戻ることに。次の授業は上の空で、結果だけは知りたくて休み時間にテレビ部屋に戻ると試合がまだ続いていて次の瞬間あのKOシーンが。 つまり試合終了後のビデオ再生を知らずに見ていたってわけで、コレはコレで儲け物の体験だった。 兎に角、血圧上がりまくり、吠えた、幸せを噛み締めた。」 数十年後ジョージ・フォアマン死去。 「ジョージ・フォアマン様、過日は貴方様の命日にも関わらず、ライバルのアリの思い出ばかりを吐露してしまいました。もっとも「キンシャサの奇跡」に敗者として参加してしまった貴方にとっては慣れっ子だったのかも知れませんね。そう思うことにします。 その後のニュースで貴方が引退後、見事なカムバックを果たし、45歳!でヘビー級王座に就いていたと知り、感慨と崇敬を新たに致しました。 思えば当時は衛星中継とやらでスポーツイベントがテレビ放送によって世界中で楽しまれるようになっていく先駆けでありました。サッカー、オリンピックが先陣を切っていたように思います。 ボクシングも例外ではなく、お陰で極東の男の子もその恩恵に預かり、歴史に残る試合を目にすることができた訳です。 奇しくも貴方の訃報が知らされた日本では大谷選手とドジャースが日本のスポーツファンの耳目を独占しておりました。🇺🇸のプロ野球団(それこそ地域と都市の象徴でありましょう)が不世出とも言うべきニッポンアスリートの活躍に便乗して、更なる版図拡大を目論んで大掛かりな興行を、遥か離れたニッポンで行うとは「思えば遠くに来たものだ」と驚きを禁じ得ません。 聞いたこともないコンゴ・キンシャサでボクシングの試合が行われて、入場料収入なんて、最初から期待せずに放映料とやらを当てにした興行で歴史に残る名勝負が行われたのはある意味、その後のスポーツ興行の行方を予見する出来事だったとも言えそうです。 所謂「飯が食える」アスリートの数は飛躍的に増え、世界大会も各競技毎に毎年行われている状況は素直に喜ぶべきでありましょう。スポーツ競技の隆盛はとどまるところを知らないようにも見えます。 しかしながらもう一つの側面を私たちは忘れてはならないと思います。 それは栄光の地・「キンシャサ」とコンゴ共和国が今や「失敗国家」として悪評が止むことがない、という現実ではないでしょうか。 ボクシングの素晴らしさを世界中に発信した聖地が数十年の年を経ても貧困と腐敗から脱却出来ていないという現実をどう考えれば良いのか。 勿論、彼の地の人々の自助努力に帰する話なのでしょうが、やるせなさの様な気持ちは否定出来ません。 取り敢えず、全ての人が世界中のスポーツを楽しめると云う状況が彼の地の人々にも「生きる糧、力」を与えていると信じるしか無さそうです、今のところは」

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尾籠な話し

尾籠な話し さっき大きな方の個室で「ヒリダサレタ作品」が細めの奴が数本だった。 流さずに見つめて「俺って尻の穴が小さい奴だなぁ」と自嘲と苦笑。 まぁ粗末な食生活に相応しい成果ではある。 安部譲二の小説でケンカの強いオカマが相手に向かって「この糸○んこ野郎」って啖呵を切っていた。 コレは秀逸だった。

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楽屋と薬屋

少し前からスマートフォンなどで「薬屋のひとりごと」って文字を眼にするようになった。ラノベ?ってのは得意な分野ではない。 今日は日テレマークの付いた電車広告を発見。いよいよアニメ化で楽しみにしている人達も多いのだろう。小生の目に触れるほどなのでヒットしているらしい。 問題はこの字面を目にする度に、おそらく100%の確率で小生の脳が「楽屋」って誤読をしている事で「楽屋のひとりごと」だと俳優、役者のエッセイとして如何にも有りそうで落ち着かない気分になる。 「目で見ていると思っている物は実は脳が認知している事である」ってな真理(だと思う)を立証している事になる。 演劇の方では「楽屋」という題名の作品が2本(思い出すまま、安直に)あり作者は清水邦夫と井上ひさしでどちらも名作、人気作と言っていい。書いている途中で思い出したのだが、もう一つの「ひとりごと」は大昔偏愛した市川染五郎(現松本白鸚)のエッセイの題名が正に「ひとりごと」であった。これによって薬屋から楽屋への置換作用が更に強化されたのかもしれない。 長々と書き連ねているけど、こういった錯誤は割と普通のことで、珍しくもない事なのかもしれないが、原因を探ると意外と自己発見に繋がるのではないか?って気もしている。

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イーストウッド監督の「陪審員2」を速攻で見たぞ。

ハリーキャラハンことクリント・イーストウッドが映画監督に転身して、いつしか「巨匠」になっていた、と言うと自身の「映画に関する興味の空白期間の長さ」を告白しているようで少しキマリが悪い。 配信で映画のおさらいが出来るようになったのが60過ぎからで、まぁ別にしなくても良いのだけど、想いを文章にすると達成感のような物ができて、丁寧な安否確認のようで具合がいい。知り合いに勧められて「陪審員2」の評判がいいようなので視聴してみた。イーストウッド監督の映画はチャンと見たのは初めてで、例えば名高い「硫黄島」二部作辺りは見ようと思っていたが未見。「手紙」の方はアメリカ人が日本側の視点で戦争映画を作ったって事実だけで監督のスタンスが推測出来て「えらい物だなぁ」と勝手な好印象を持ってはいた。 さて驚愕の92才監督の作った「陪審員2」はどうだったか? ネタバレはしたくないので全体の雰囲気と印象評を述べようと思う。 まず「面白かった、飽きずに一気見」だった。陪審員物って登場人物の表現と役割分担が見せ場になることが多いと思うが本作もそうで、キャスティングもよく、皆んな魅力的(まぁ当たり前だけど)。日本人にとっては色々と興味深い。 陪審員制度を支えている「普通の人達、中立の立場」が厳しい選別を受けていることが示されるシーンが随所にあって、コレは結構後で効いてくる隠し味になっていた。脚本が上手いのだろう。 アメリカの田舎町ってのがミソで、とにかく淡々と、感情的な目立った対立もなく、ありがちな口角泡を飛ばすようなシーンも無い。退屈かも知れないが、それでいて主要キャストの心の変化が自然に感得されて行く。誠にアメリカ映画らしく無い(コレは小生の主観だけど)。ここだけ読むと小津安二郎かぁって気もしてくる(あそこまで様式美に入り込んでいないけど) 昔、ドラマ「逃亡者」のナレに「正しかるべき正義も時として盲いる(めしいる)ことがある」って奴があったけど、纏めるとしたらこの物言いかと。検事のオバサン(この人が実にハマっていた)が職務を離れて事件の真相に近づこうとするが、それとても裁判が終わって、人々は日常の生活に戻って行く(罪の意識、冤罪の恐ろしさとかも含めて)。 それでも監督が執拗に司法の建物と象徴の天秤をシーンに組み込んでいるのは、イーストウッド監督の人間としての想いが込められていると言って良い。地味で小作品だけど、良心的で良作。噛み締める箇所が結構あった。

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風太郎と曽利文彦の曲亭馬琴

前節 一応、曽利監督製作の「八犬伝」の評である。大変感銘を受けた作品なので、まとまった物を残して置きたいと思う。 喜んで観ている内にあっという間の二時間超え。脈絡のない、「個人的な思い入れ」って書いてる時は楽しいけど、他人様には余り益にならないこともあるので、ミーハー的感想と思索を重ねた論考(の様な物)を原作に倣って二部構成でまとめてみよう。 まずはミーハーの部。気に入って拍手しそうになった箇所をランダムにお送りします。 ミーハーの部 ⭐︎ 特撮とCGはこの監督の特徴と得意分野なので期待感が高まる。最初の大犬(八房)が出てきて、ある程度この映画の成果が予測できた。予算があったらもっとイキイキとした画像になったと思うのだが、方向性としてはコレで合格。 何せ、人語を解し、怪物的な強さで、伏姫に惚れちゃうトンデモない犬。 昭和時代の子供向け東映映画では普通の犬で張りぼての蛇相手でお茶を濁していた。昔の技術だと、まぁこんなもんって所だろう。薬師丸・真田版では見事にスルー。 この犬にウッカリと「敵将の首を取ってきたら、姫を遣る」って言っちゃって、犬がその約束を果たして、その挙句云々ってのが八犬伝の始まり(つまり馬琴のテーマ)なので、つまりそう言う設定に耐えられる画像になっていたと言う意味で小生は嬉しかった。 聖なる人は人間以外から生まれたって話は昔からあるわけで、陰陽師安倍晴明は狐の母親から生まれたって話もある。 通称「信田妻」。浄瑠璃、歌舞伎にもなる。 信田、狐、油揚、きつねうどんと今に続くのはご存知の通り。 こう言う話で所謂「獣○」って連想は昔の人にはなかったらしい。 ⭐︎ 例の信乃と現八の立ち回り・芳流閣・大屋根のシーンで瓦が崩れてきて二人が飲み込まれる場面はびっくりしたし、CGの面目躍如か。 八犬士のチャンバラ・擬闘シーンは立ち回りというよりゲーム寄りで興味深い。今は過度期なのだと思う。最後もラスボスっぽいし。風太郎版ではここまで書いていないと思う。小生は好き。 ⭐︎ 寺島しのぶのこと 本編で楽しかったのは、役所と内野が悪かった訳じゃないけど、馬琴の悪妻が出てきた所は「ウオー」となって、身を乗り出し、終わると次の登場が待ち遠しくなった。 ゴツゴツした生活感と「ブス」感が満載。更に元の容姿がすっかり消えていて(単なる演技以上に)少しビックリ。小生に、ここまで言わせちゃうのは当然理由がある。 遥か昔、70年代初頭。高校生だった小生が歌舞伎を知り、夢中で演劇界を読んでいた頃のこと。若手歌舞伎俳優だった尾上菊之助は大河ドラマの義経役で人気を得て(この時の弁慶で売り出したのが緒形拳)更に静役の藤純子との婚約を発表した。 更に名優の誉高い六代目の跡を継ぎ七代目菊五郎襲名が発表される。 襲名披露興行は歌舞伎座で十月と十一月と決まり、歌舞伎界が盛り上がっていた頃。 勉強机の前に助六のポスターを貼っていた、小生の元に演劇界増刊号・尾上菊五郎特集号が届く。チケットも手に入れてワクワクしながら読み耽る小生は「新婚家庭で娘と寛ぐ新菊五郎」風のスナップ写真に産まれたばかり「忍」ちゃんを発見した。何故かその写真は名前と共に長く小生の脳裏に刻まれることになる。 文章にするとあっけないが、色々な記憶の美化作用が働いたのだと思う。忍がしのぶになってからは(ファンと言えるほど追っかけてないけど)気になる存在で自伝エッセイを買ったりもした。 自伝エッセイは「体内時計+」といい読書メーターにコメントがあったので再録したい。 以下コメント 「いい女優なのだろう。実はマトモに彼女の芝居を見たことがないので、これ以上は言えない。著者には申し訳ないが、音羽屋と藤純子がどうしても先に来る。 若い頃の文章なので、結構言いにくい事も生で書いてあるのだが、幼い頃から内省を続けて来たであろう著者らしい的確な観察が伺える。 有り余る感情の多さは正に女優そのものではないか。 女優で学校時代の体育会体験を肯定的に語る人って初めて見た気がする。何せハンドボール関東選抜に選ばれたそうで文学座の面接で「倒れこみ」を披露したらしい。 小生もハンドボール部だったので、同じ言葉を使っていたのでビックリ。 少しでもゴールに近付き、マークを外す為に、シュートした後に転がる事をそういうのだが、まあ、コレは「やった者じやなきゃわからん」と親近感がグッと増した。 小生はコレを「マイナースポーツの連帯感」と名付けている。 あと、映画での彫物談議を母親とする件が堪らなく可笑しい。よく考えれば、この家族は全員「彫物」経験があるわけだ。 現菊五郎の「お竜さん」の感想を聞いてみたいものだ。」 (コメント終了) なおハンドボール経験者として他に知っているのは、そのまんま東、蓮舫とか。親近感は勿論ある。 寺島しのぶも結婚して男子を授かり最近はステージママ振りを発揮しているらしい。 弟の菊之助の活躍(贔屓目なしにいい修行を積んでいると思う。ファイナルファンタジーXもあった)をどう思っているのであろう。 「八犬伝」の悪妻役は家族の誰にも真似できない境地だと思う。 音羽屋傍系とはいえ息子がどんな芸名を名乗るかって予想も面白いが、残念ながらコチラの寿命的に無理らしい。

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喋り屋を名乗る男について

この人フリーになって色々挑戦しているようで「喋り屋」って自称が面白い。 明らかに「芸の人」と認識すべきで、本文中でバナナの叩き売り(懐かしい)芸を引用しているが、コレは彼の姿勢を示す物だと思う。 語り芸を活字にするって講談社の発祥を思い出すが(厳密に言うと講談は語りとは言わない)あの独特の話法は「異能の人」と言うべきだろう。 こうなって来ると「アナウンサー」って出自が邪魔になって芸人になりきれないって問題も出てくるわけで、「新しいことを始めた人」は色々それなりの苦労、無理解に遭遇するわけで当然と言えば当然。 別な視点で言うと、恐らくラジオ以降に生まれた「アナウンサー」って職業もヌエの様で胡散臭い存在であることに気がつく。 新書風の題名を付けると「アナウンサーと芸能の間」とか。 この人、何でも「実況」できるみたいで抽象的な美術品とかで、その異能を発揮したら芸術家にもなっちゃうとか想像しちゃう。まぁこちらの妄想だけど根拠はある。ストリート芸(ダンスとかラップとか?)のラップって奴が近いことをやっている気がする。 向いている題材を考えてみよう。 不謹慎で実現不可能だけど、選挙番組を古舘節全開で(後のことは知ったこっちや無い!)やったら楽しいだろうなぁ、とか夢想する。 喋り屋の実況の抜粋 メキシコシティの夜空に、佐山が舞った! そして、この闘牛場、トレオ・デ・クワトロ・カミーノスの上空 漆黒の空にコンコルドが飛んでいる。 音速を越えた衝撃波に、会場が揺れている!  鑑賞 初代タイガーマスク・佐山聡がメキシコで行ったプロレス試合の実況の一部。作者は試合の光景に感動し、言葉を選び、リズムに乗って、詠じている。三行目のコンコルドはコンドルの掛け言葉とも読める。(コンドルは飛んでゆく・サイモンとガーファンクル) コレって、どう考えても「詩」だよなぁ。

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黒蜥蜴考

表題の「黒蜥蜴」は作家江戸川乱歩が戦前に発表した長編小説で、その後三島由紀夫が劇化して大ヒットした作品で有る。乱歩の小説の一般的な評価としては初期の短編に優れた物が多いと言われている。傾向として異常な心理、嗜好の果ての異常な行動を描いている物が多い。「屋根裏の散歩者」「人間椅子」と並べて見ると一目瞭然である。今だに結構な数の派生作品が作られている筈で「気持ち悪い」と揶揄されながらも多くの人に認知されていると言えよう。勿論「エロ」が含まれているせいもあろう。推理作家よりも変態作家と呼びたい程である。 実は乱歩作品で推理、謎解き要素は意外なほど希薄で、「草分けとして」とか「日本版エドガー・アラン・ポー」らしく海外の推理小説とかトリックの紹介はしても「この謎を解いてみたまえ」風の構えは意外なほど少ない。小説「黒蜥蜴」は長編犯罪小説と呼んだ方がお似合いで女性の犯罪者が主役を務める。他の乱歩作品と同様トリック、犯行に無理筋な物が多く(まぁそれが無邪気というか独特の味わいとも言えるのだが)大仰な言い回しが独特の雰囲気を醸し出している。 もう一つの「黒蜥蜴」・三島由紀夫版は、最早、こちらの方が本家というか有名なのかも知れない。昭和の演劇プロデューサー吉田史子氏が仕掛け人だったらしいのだが、60年代、当時の大人気作家三島由紀夫が戯曲として雑誌連載の末、発表した大衆的な犯罪小説の劇化は反響と期待も大きかったようだ。60年代は「黒蜥蜴」の時代で三島版の初演と再演、映画も京マチ子版と丸山明宏版が作られている。 普通、小説の脚本化は小説家にとって不満足な結果になることが多いものだが(池波正太郎・仕掛け人、が好例)この場合は作者である乱歩は大喜びだったらしい。 松竹による三島版初演は水谷八重子と芥川比呂志で演出が松浦竹夫。水谷以外は文学座繋がりで、当時の女座頭とも言える八重子を起用した所に三島由紀夫の人気が窺える。 初演から数年後、渋谷・東横劇場で再演。黒蜥蜴を丸山明宏が務める。今となっては遠い過去で、色々な証言も残っていると思うが、「丸山明宏に惚れ込んだ三島由紀夫が黒蜥蜴を創り上げた」と理解して良いと思う。程なく丸山の映画版も作られ、数十年続く美輪明宏・黒蜥蜴のイメージが完成する。美輪明宏はその後主演の他に演出も務めるようになり、再演を重ね、世紀が改まっても上演回数を重ねることになる。 舞台版は他に坂東玉三郎と小川真由美が演じている。映像はテレビ朝日で小川真由美のを確認している。 三島由紀夫版が決定的と思えるのは、その後の映像版が殆ど三島由紀夫の場割を踏襲しているからで、三島劇の独特のセリフは流石にテレビでは無理でも香りくらいは漂わせているのが分かる。明智小五郎への恋愛感情(相互の)も三島由紀夫が掘り出し、強調した要素と言える。 逆に三島版を踏襲した結果、映像版に無理が生じている点もあって、小説、戯曲(三島版)で見せ場になっている「女賊と名探偵が無双の変装名人」であるといる設定だろう。妖麗な緑川夫人が早苗嬢な変身するって、映像では如何にも無理筋で演出も苦労しているのが分かる。黒蜥蜴はその後二回ほど変身して追っ手から逃れるのだが、映像はウソをウソとして楽しむに不向きな媒体なので、視聴者としては困ったり、苦笑することが多くなる。 更に同じ手を明智小五郎も使うので始末に困ることになる。 舞台の方だと三島由紀夫は明らかに歌舞伎の早替わりを狙った節があり、コレは舞台で俳優が客を喜ばすテクニックの一つでありこの場合は「俳優は映像的にソックリである必要は無い(というか無理である)」ので、観客はその芸を楽しめるということになる。 「黒蜥蜴」の久しぶりの新作ということで、色々と原作から舞台、映画と考えるのは感慨深く楽しかった。今は資料も確認出来るので楽だけど、怖くもある。最後の「変装」問題は映像と舞台の本質的な違いを含む結果になったと思う。

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ある朝の光景

仕事でヘロヘロになって、おまけに長電話で心がササクレ立って、一夜明けると、いい天気で少し気持ちを持ち直して、いつものバス停への道をテクテク歩いている。休日なのか若い母親と雄のガキンチョが道端の花壇の側に屈んでいる。ガキンチョの興味はどうやら小さな黄色い花らしく、短いふっくらした手を花に伸ばそうと足掻いている。 母親は上半身を低くして写真を撮ろうとしている。最近では珍しくもない光景だけど、二人がとても「幸せ」(この場合、親と子供はどっちが「より幸せ」なのだろう?)に見えたので、通り過ぎた小生は振り返ってしばらく両人を観察?回想?していた。母親も満ち足りた慈愛を振りまいている。 オットォ、、、! ガキンチョが振り向いた。 (おいおい、ガキンチョ、なんでこっち向くの?マズイだろそれ、コレでは小生が撮影を邪魔しているみたいではないか) 被写体の異変に気がついた母親が顔を上げると初老の薄汚い爺いが数メートル越しで観察していたことに気がついた様だ。 ガキンチョも黄色い花よりも「知らない爺い」が面白いらしく目を逸らさない。 小生は仕方がないと、手を振ったり、帽子を取ったりしてガキンチョのご機嫌を取り、母親に敵ではないメッセージを送る。 やっとガキンチョが興味を失って元の方を向いてくれて (良かった!) 母親はそれを合図に笑顔で会釈をしてくれた。 こちらも笑顔と会釈を返して、心の中で「ありがとう」と言ってバス停の方角に足を向けた。 今日のパチスロは勝てそうな気がする。

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俳句と短歌

柄にも無く、正岡子規・「歌よみに与ふる書」なんぞ読んでしまったせいか、中秋の名月の前日、詩作に耽ってしまった。素人芸もいいところなのだが、言葉を選んだり、遊んだりできた。季語とかは念頭に置いてないので、俳句というより言葉遊びだと思っている。コレが上級者に習ったりすると違ってくるのだろうが。 満月が グングン登る ビルの間に 都会(まち)の夜空(そら) 月見の人は 無かりけり 冴えわたる 月光の下(もと) 涼風(すずかぜ)が 夜の雲 満月かくして 面白し 満月に 見目良き雲を 乞い願う 満月が ほど良きところに 御坐す(おわします) 乱視かな? ぼやけた月が 嘲笑(わらい)おり 光光と ビルの谷間に 月見ゆる     廃墟の月も 見たきものなり ビルジングの 威容を照らすか 夜の月     地下に潜みし 廃墟を思う 回胴老人 調子に乗って雅号も考えてみた。学生時代に狂綺堂とか署名していた時期もあったが、半生を振り返ると「自分の事すら把握できてなかった」と言わざるを得ない。 依って無難な所で「回胴老人」としておこう。ガチすぎるけど字面が面白いと思っている。

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