ヨーイチ
21 件の小説「いただきます」考
家族とかグループで会食をする場合、多くの日本人は「いただきます」と言って、箸を取るのでは無いだろうか。大人になるとこの縛りは大分緩やかになるにしても「食事に於ける礼法」としての重さは変わらない気がする。 勿論小生も箸を取る前に発語するとしたら「いただきます」と言う、他の言葉を考えてみても、ちょっと思いつかない。 随分昔に「いただきます」の挨拶?許可?の「相手」について考えたことがあった。つまり「誰」に対してこの言葉を発しているのだろう?てな疑問を感じたワケだ。昭和五年生まれの母親は「お米を作ってくれたお百姓さんよ」と教えてくれた。多分この論理は母親も教え込まれていたのだろう。理由付けは兎も角、昭和前期の子供も「いただきます」は言っていたと推測できる。 後年「いただきます」は「兵隊に対してだった」と言う証言を目にするようになった。所謂「軍国主義教育」って文脈でコレも「さもありなん」って気がする。 そもそも日本人の殆どが同じ言葉で食事を始めるって、とても奇妙な事ではないか、と思う。 さて、この「刷り込み」はいつ頃為されたのか。 分かりやすい推論は矢張り、江戸以降、明治から昭和にかけて醸成されたのではないか、と思われる。原動力は公教育の普及では無かったか。明治の公教育は近代軍隊の設置と関係があった筈で、気分としては「いただきます」の対象が明治天皇であったとしても違和感が無い。近代国家として、国家神道と天皇を中心に据えようとした新興国としてはあり得た話の様な気がする。もっとも、雰囲気と生活習慣の伝播の話なので確かな証拠があるわけでは無い。前出の母親は戦後の「民主主義」を無邪気に信じていたので、兵隊さんに「いただきます」と言わされていた記憶を隠蔽して我が子に教えたって想像も成り立つ。当時、よく聞いた「お百姓さんへ」って言い換え(推測だけど)も戦後の軍国主義忌避の風潮が影響していたのかも知れない。 こういう習俗の流行り廃り、礼儀の問題は深入りしてみると、一筋縄では行かないもので、筆者が大人になってから目に付くようになった「合掌付き いただきます」も中々厄介で出所が中々難しい。テレビ、ドラマの影響が大きいのは予想が付く。恐らく、テレビに登場する人々は例外なく全て合掌して食事をしているのではないか。つまりスタンダードで真っ当な市民は「合掌して食事をしなければならない」という、結構強めの強制力が働いているかのようだ。 ネットで調べると、合掌派が多数派のようで、理由付けとして「命をいただく、感謝」と言う理由が目立つ。コレとても、昭和の御代にこんな立派なことを庶民、素人が言っていたとはとても思えないし、60代後半の小生も聞いた記憶がない。ただし僧侶、仏教関係者辺りは口にしていたかも知れない。 例えば学校給食の現場で校長先生あたりが「食事の前の合掌と意味付け」を行って、その習慣がしばらく継承されたとする。結果かなりの合掌派の人々が生まれ、長じて家庭を形成して「合掌派」が拡大生産されるって図式が考えられる。 勿論、問題視する程には些細な習慣の変遷なので、どうでもいいことは百も承知なのだが。 社会構造の変化とやらで「墓じまい」とか位牌の簡素化とか法事の省略が珍しいことではなくなっているらしい。そう言う時代で「本来の合掌」の機会が減少している一方で「食事の時の合掌」の機会が増加しているって図式は興味深い現象ではある。やっぱり日本人は合掌に馴染んできたのだなぁと認識すると同時に一抹の「違和感」もある。
Nの逝去
気怠い休日。朝のテレビニュースで「米問題」「人口減少」とかの解説を見ていると「長嶋茂雄逝去」の報がテロップで流れた、当然番組は中断、キクマもタマガワもハトリも訃報についてのコメントを述べ始める。恐らく個人の訃報では最大限の中断時間だったのではないか。日テレだったらもっと凄かったかも知れないし、特別番組に動き出しているかも知れない。 いかんせん全盛期が昔すぎる。1956生まれの小生くらいが「ファン」だったと言える下限の様な気がする。 物心ついての「世の中にはプロ野球なる物があるらしい」と知った時には「ナガシマくん」と言うマンガがあって、3番は特別製だった。後つけ知識だが「立教大学・ホームラン記録8本」「砂押監督」「佐倉市」とかが刷り込まれたのだから、大した物だったと言うしかない。 と言うわけで、長嶋ファンだったとはとても言えないわけだが、不思議に記憶に刻まれている事象がある。 90年代だと思う。長嶋が引退した後、出ていたコマーシャルがあった。確か日立のパソコン(コレ自体が微妙な製品ではある)で、あの明るさと自己肯定感丸出しで、締めのキャッチフレーズ 「カム ト ゲザー」で締め括る。当時は「またまた、おバカなことを」と思った。 ビートルズと中学英語のお陰で「together」が「一緒」にって意味くらい知っていた。考えようによってはビートルズファンを挑発しているとも思った。それくらい圧倒的な確信を持った「カム ト ゲザー」であった。 時は移る、今は故人の圧倒的な明るさと存在感が懐かしく思い出される。あの屈託のなさは今や真似手がいないとも思える。 話を変える。SNSの普及なのだろうか、作家の名前を「さん付け」する傾向が見え隠れする。その伝でプロスポーツ選手が引退すると「さん」「氏」が付けられるようになっている。夏目漱石、森鴎外とかに「さん」を付けられると、なんか落ち着かない。更に基準が甚だ曖昧で更に気持ちが悪い。相撲は「元」四股名で通せるのでまだ被害は少ない。氏名が固有名詞化するってことは「唯の人」じゃ無くなるってことなので、断然英雄のような人は呼び捨てたい、ってのが小生の立場。「長嶋さん」より断然「長嶋」で通したい。スポーツ新聞、テレビの都合、風潮に合わせる必要がない事もあるのだ。
貸本屋と水木しげるのこと
幼少期、秋田の田舎町、小学校の向かいに「貸本屋」があった。店舗とは言えないような荒屋(あばらや)、数人しか入れない広さで壁一面の書架に並んでいたのは黄ばんで、手垢にまみれた貸本時代の漫画群だった。当時は大手出版による月刊誌時代で、ボチボチ、週刊誌に移行し始めていた頃。 後に劇画家と呼ばれた「さいとうたかお」「佐藤まさあき」とかがあった。コレは記憶の後付けでその後長じてから思い出した物。小学校の低学年では興味が湧かなかった。 狂喜したのは吉田竜夫・梶原一騎による「チャンピオン太」(不思議なことにマガジン連載分の前ストーリーを見た記憶がある) 記憶に従い検証無しで書いているのだが、マガジンのチャンピオン太は当時連載されていた途中から読み出した物で、新連載開始の記憶がない。記憶を信じると この作品は前半は貸本、途中からマガジン連載と言うことになる。俄には信じられないが、そんなこともあったのかもしれない。 さて水木しげるである。画風、内容から言って子供向けのものでは決してない。貸本屋で見たのは「墓場(の)鬼太郎」。内容は鬼太郎の誕生噺。妖怪族(妖怪)の夫婦・が貧困と病いに犯されながら放浪の途中、一夜の宿を求めた民家で二人共死んでしまう。仕方なく主人は二人を墓地に埋める。その最中に孕んでいた母親の死体から片目の欠けた男の子が産まれる。コレが後の鬼太郎。主人は仕方なく赤ん坊を抱いて内に帰る。その後腐りかけてた父親の死体から目玉が飛び出して赤ん坊の後を追う。コレが目玉親父。 絵の「独特の雰囲気」からとても児童漫画とは思えないし、本人もそのつもりはなかった筈。 確認してないけど、今も読める筈。 その後少年マガジンに薄まった鬼太郎物が連載され、人気を得てアニメにもなった。「墓場」もいつの間にか「ゲゲゲ」になって現在も人気コンテンツの一角を占める。 同じ雰囲気で「悪魔くん」も貸本屋(つまり大手出版社以前)にあり、大天才のニヒリスト少年が悪魔を呼び出すまでって内容。コレも毒が抜けてマガジン連載、更に毒が抜けてテレビで実写放映された。 水木しげるの絵は全く独創的で真似手の無いのは当然として、出発点のテイストも凄まじい。ネズミ男のキャラクターに本来の持ち味の痕跡がある。それにしても「目玉親父」はアイディアとしても秀逸すぎる。
「開幕ベルは華やかに」のこと
読書メーターによると、この本最近も結構読まれて居るみたいで、久しぶりにナイスを貰ったりしてありがたい限り。 最近有吉佐和子のエッセイ集(コレ珍しい、盲点)を読んだりして有吉作品の再評価をしたばかり。当時芝居の側にいたこともあり、若い衆(笑)にお役に立てばって感じで少々(老害にならない様に)追加しようと思う。 発表当時80年代の有吉佐和子は演出家としても売れっ子で主に東宝系の劇場で活動していたと思う。 コレは彼女の活動の始まりが演劇界・演劇出版社のライター、編集だったことと大いに関係があった筈。「古老に可愛がられた」って記述もあったと記憶する。その縁から吾妻徳穂(舞踊家・五代中村富十郎の母)の海外公演に参加とかの記録もある。 つまり新人の作家でも「歌舞伎界」の人だったと言うこと。 作中の光子と勘十郎のモデルは当時の演劇ファンには常識で(あの人ねって奴)、「身内」だから書いても良いけど、大丈夫なの?って感じだったと思う。 出世作「華岡青洲の妻」が劇化・上演された時の配役が中村勘三郎・水谷八重子・杉村春子って豪華版で(面倒いので当時の芸名)、大物俳優達から可愛がられていたと窺われる。俳優陣からも話題作を提供してくれる、「芸事」も勉強している若い作家って関係だったようだ。つまり当時の有吉佐和子は演劇界の人でもあったわけで小生的には「芸道物」としての印象が強くて「推理物」は付け足し感があったと記憶している。 光子と勘十郎の存在感は、正にこの人でなければ書けない世界で大いに感銘を受けた。 作中の演出を引き受けた演劇ファンの作家が有吉佐和子の戯画化であることは明白で演劇製作に関わったことのない人には「描けない密度と面白さ」に満ちている。元夫が後始末に翻弄される様は「あるある感」満載で大変楽しかった。舞台上に馬を出すって、まぁ出来ないことはないけど、恐ろしい限り。(昔菊田一夫が出したらしい) もう一点関心したのは作中・架空の舞台で光子が川島芳子を演じたことで、ファンにとっては「コレ観たいなぁ」って期待が掻き立てられる構成で、流石としか言いようがない。 初代水谷八重子の没年との前後関係を確認しないで書いているが、伝説的な名優に対するオマージュとも読める。作者が長生きしたら劇化されたかも知れない。 幕切れの工夫と光子の執念はその観点で読むと感慨深い。 映画と違って舞台俳優の佇まいは記録に残り難いのは残念なことだ。 この八重垣光子の存在感は新派がわからないと中々難しい。 舞台俳優の存在が昔は遥かに大きかったと言うしかない。コレばかりは「昔はこうだった」と言うしかない。今は何が代替してるのであろうか。大昔に読んだ小説についてこんなに語れるのは予想外だった。再読してみようか知ら。多分泣いちゃうかも。
黄色い新聞
素晴らしき哉 NPB その狭き門に入るは地方と学校の英雄達 熱狂な信者達の期待と讃歌は止まるところを知らない 醜悪なるかなスポーツ新聞 そは信者達の福音にして有り難き糧なれど 俗臭漂う言の葉を低俗に弄び 敬虔な信者の群れを扇動し無知の闇に導こうとせん 嘗て 風を孕み 鮮やかだった「黄色い旗」は今や 薄汚れ 擦り切れ 歴史の使命を終えて朽ち果てんとす
最後の角川春樹、読後コメント
信用している読み友氏のコメントを読んで購入、面白くって一気加勢(年取って、仕事もあり速いとは行かないけど)で読了。刑務所生活の経験者、新興宗教?紛いの言動とか兎角、盛名と共に毀誉褒貶が激しい人物で「強いけど怖い」って「文化人」らしからぬイメージを持っていた。 中身は仕事、功績だけでは無く、人物像も現れて来る描写、構成は見事。随所に引用される俳句も効果的だし、「印象が鮮やかで、好き」(上手いと小生が言うわけにはいかないでしょ)全編聞き書きって形式を取っているのだが、合間に伊藤が入れる合いの手?が絶妙で読者に対する要約になっていて、角川に対する下調べの広さ、深さになっている。勉強の賜物とは言え、こんなに鮮やかな対談はちょっと類を見ない(小生の貧弱な読書体験にせよ)出来。角川春樹も嬉しかったのではないか。つまり信頼関係が窺えると言うこと。 角川春樹が角川書店・文庫を率いて流行の先端にいた頃の70年台(ざっくりした印象ね)は小生の学生時代はガッツリとリンクしていて、「俺たちは角川春樹の影響下で大人になった」と言っても良いくらい。多分この人に足を向けて寝られない人が山程いるのではないか。巷間言われるメディアミックスの実践が後のサブカルに及ぼした影響は計り知れない。まぁこの歳になって振り返って分かったことなのだが、刺激的な読書体験だった。若い人には簡単に勧められないが、「オジサン」には大威張りで勧められる。書きたいことは多いが、キリがない。読後コメントはこのくらいにしよう。
半世紀前の宿題と邂逅。
邂逅とは高校時代のサークル仲間(ハンドボールって球技)が久しぶりに新宿に集って呑み会をしたこと。当時は創部したばかりで(まぁ学校自体が創立したばかりだったのだが)下手くそで弱小チームだったクセに話が途切れることなく、爆笑とか消息とか真相とかシンミリとかで、楽しくも有意義な一時を過ごせた。時の隔たりが消え去ったかのような一時。 宿題に移ろう。ハンドボールを追いかけて、ロードワークに明け暮れていた頃、国語の先生の勧めで歌舞伎にも興味を抱き始めていた。観劇と共に、取り敢えず歌舞伎雑誌「演劇界」を定期購読して、いつの間にか「舐めるように」読み耽るようになっていた。それと共に演劇博物館の存在を知った。誌上の劇評、評論の執筆者は気のせいか早稲田の先生が多いし、なんといっても日本の演劇研究の中心であるらしい演劇博物館は、行きたい所、行くべき所から行かなくてはならない所にランクアップしていったのは自然な流れだった気がする。 時は移り二〇二五年四月某日、首都圏地方都市から東京に向かう車中、老人はスマートフォンと格闘していた。得物は地図アプリと乗換えアプリと早稲田のホームページ、目指すは早稲田大学・演劇博物館である。夜の会合場所が新宿であったので、コレを機会に宿願を果たそうと思い立ったのであった。 「少年老いやすく学なりがたし」を実体験してしまった愚かな老人だとしても、期待感が非日常感覚に誘ってくれているのがわかった。若干の興奮状態。 早稲田の街並みは大きなビルが少なく、学生街っぽくて親しみを覚えた。ここの探検部出身の高野秀行の著作を思い出した。 目指す演劇博物館を確認するとしばし黙考して喫煙所を探して、最高の一服を喫する(まさか、学内には有りませんとか馬鹿なことはあるまいとは思っていたが、若干の不安はあった、自分の出た大学で言われた時は悲しかった、喫煙所アプリは正確であった)。 坪内センセの銅像に心の中で挨拶しながら(本当にすると、如何にもで、変な人と思われるから)中に入る。 図書室に入ると、すぐに「キネマ旬報」のバックナンバー(全部だろう)、演芸画報、あと題名だけ知ってる辞書、名著の数々。写真は禁止なのでコインロッカーに預ける。一通り眺めて、記念品が欲しかったので、「初めて買った演劇界」の表紙だけでもコピーしようと探し出してコピーを取る。 別の部屋では映画を上映していて、「人間の条件」をしばらく眺める。 別の部屋では生まれる前の名優、名舞台写真、資料にため息をつきながら見入ること数刻。一番年下は多分緒形拳・シラノかな。沢田正二郎・新国劇絡みで早稲田だと納得。 越路吹雪・東宝・モルガンお雪(一応国産ミュージカルの祖と云うことになっている)の舞台写真を見て、スマートフォンに越路様の歌を常備している自分を褒めてあげた。 宝の山を散策した至福の一時。 演劇博物館はイギリス・シェイクスピア時代の劇場を模しており、改築、補修はあったとしてもおそらく木造。その所為か歩いていると、時折「ギィッ」と軋む箇所が有る。コレも新鮮であった。流石に演劇博物館で有る。 名残は尽きないが、キリがないのも事実。博物館を後にして、近くのカフェで記念品を買い求め(岩波文庫・大隈重信自伝もあったけど、流石に自重、結構厚いし)、正門からバスで高田馬場に向かう。東京に行ったら必ず立ち寄る紀伊國屋書店・本店で本を買う時間を逆算した早めの行動。何せ階段登ったり、早歩きとかすると息が切れる。情けないけど仕方ない。 山手線で新宿に向かう途中の大久保、百人町界隈は自分の劇団があったり、小劇場があったりでお馴染みというか「濃すぎる思い出の地」。 この後の「新宿の邂逅」と合わせると、この日は「半世紀前の世界」を心が浮遊しっ放しだった事になる。 電車に乗って、バスに乗って、トボトボ歩いて家に帰った。記念品の袋をブラブラさせて。 おしまい。
新水滸伝コメント
現在チャイナ史にドップリ。陳舜臣・小説十八史略と並行して吉川三国志を摘み食いして、次は新水滸伝に移行。面白くって、巻分けが無いので、長いけど一気通貫してしまった。 ついでに昔懐かしい(大昔ね)テレビドラマを見ている。 更に駒田信二の翻訳も準備中。 一応再読だけど(爺いには懐かしの赤茶、箱入り、枕にもなりそうな全集)殆ど覚えちゃいない。 翻訳と吉川水滸伝の違いって多分あるのだろうけれど、明代に執筆された白話の雰囲気は素人なりに感得できたと思う。彼の地の歴史、風俗、人情などなど。 予想以上に近代的?で心理もさることながら、娯楽を意識した構成とかで面白く読めた。横山版で読んだつもりになっている人は結構違うので読んでみた方が良い(コレは予想外だった)
偉大なるボクサーの死
1974「キンシャサの奇跡」降臨 高校生だった頃を回想 「仲間と連れ立って生物の先生に頼み込んで見ていた。試合が始まるとアリを応援しているのだが相手が強すぎて、ドキドキの連続だった。残念なことに3ラウンドくらいで無念の昼休み終了で授業に戻ることに。次の授業は上の空で、結果だけは知りたくて休み時間にテレビ部屋に戻ると試合がまだ続いていて次の瞬間あのKOシーンが。 つまり試合終了後のビデオ再生を知らずに見ていたってわけで、コレはコレで儲け物の体験だった。 兎に角、血圧上がりまくり、吠えた、幸せを噛み締めた。」 数十年後ジョージ・フォアマン死去。 「ジョージ・フォアマン様、過日は貴方様の命日にも関わらず、ライバルのアリの思い出ばかりを吐露してしまいました。もっとも「キンシャサの奇跡」に敗者として参加してしまった貴方にとっては慣れっ子だったのかも知れませんね。そう思うことにします。 その後のニュースで貴方が引退後、見事なカムバックを果たし、45歳!でヘビー級王座に就いていたと知り、感慨と崇敬を新たに致しました。 思えば当時は衛星中継とやらでスポーツイベントがテレビ放送によって世界中で楽しまれるようになっていく先駆けでありました。サッカー、オリンピックが先陣を切っていたように思います。 ボクシングも例外ではなく、お陰で極東の男の子もその恩恵に預かり、歴史に残る試合を目にすることができた訳です。 奇しくも貴方の訃報が知らされた日本では大谷選手とドジャースが日本のスポーツファンの耳目を独占しておりました。🇺🇸のプロ野球団(それこそ地域と都市の象徴でありましょう)が不世出とも言うべきニッポンアスリートの活躍に便乗して、更なる版図拡大を目論んで大掛かりな興行を、遥か離れたニッポンで行うとは「思えば遠くに来たものだ」と驚きを禁じ得ません。 聞いたこともないコンゴ・キンシャサでボクシングの試合が行われて、入場料収入なんて、最初から期待せずに放映料とやらを当てにした興行で歴史に残る名勝負が行われたのはある意味、その後のスポーツ興行の行方を予見する出来事だったとも言えそうです。 所謂「飯が食える」アスリートの数は飛躍的に増え、世界大会も各競技毎に毎年行われている状況は素直に喜ぶべきでありましょう。スポーツ競技の隆盛はとどまるところを知らないようにも見えます。 しかしながらもう一つの側面を私たちは忘れてはならないと思います。 それは栄光の地・「キンシャサ」とコンゴ共和国が今や「失敗国家」として悪評が止むことがない、という現実ではないでしょうか。 ボクシングの素晴らしさを世界中に発信した聖地が数十年の年を経ても貧困と腐敗から脱却出来ていないという現実をどう考えれば良いのか。 勿論、彼の地の人々の自助努力に帰する話なのでしょうが、やるせなさの様な気持ちは否定出来ません。 取り敢えず、全ての人が世界中のスポーツを楽しめると云う状況が彼の地の人々にも「生きる糧、力」を与えていると信じるしか無さそうです、今のところは」
尾籠な話し
尾籠な話し さっき大きな方の個室で「ヒリダサレタ作品」が細めの奴が数本だった。 流さずに見つめて「俺って尻の穴が小さい奴だなぁ」と自嘲と苦笑。 まぁ粗末な食生活に相応しい成果ではある。 安部譲二の小説でケンカの強いオカマが相手に向かって「この糸○んこ野郎」って啖呵を切っていた。 コレは秀逸だった。