K

24 件の小説

K

色々書いています。

風の届く場所

 周囲には大木と呼べる木々は一つもなく、大小構わずに考えても、一本の木さえなかった。ただ一つの大木だけが聳え立っていた。  大木の周りには季節の花が代わる代わるに咲き乱れた。ちょうどその頃大木の周りには菜の花が溢れんばかりに咲いていた。  菜の花が多く咲いているため黄色のカーペットが敷かれているようだった。その反面、黄色の中に真夏のような深緑の大木があることがとても不可思議に思えた。  一際存在感を放つ大木の近くに一つの村があった。その村は争いに追われ、逃げ込んできた人々の集落であった。  村人たちが逃げてきた時にはすでに大木が存在し、その大木を見た人々は希望の象徴として讃えた。村人たちは大木へ祈りを捧げるようになった。初めは手を合わせるだけだった祈りも、歌い、踊り、次第に祭へと変わっていった。  時がたち、祭は村人たちの年中行事として定着していった。祭は決まって菜の花の咲く時期に行われた。 「ママ、髪梳いてよ」  娘は祭に備えておめかしをしていた。 「はいはい、ちょっと待っててね。もうお姉ちゃんになるんだから自分で梳いてみたらどう」 「やだ、ママにやってもらうんだもん」  母親は身籠った身体を丁寧に持ち上げ、娘のために櫛を取った。 「女の子かなぁ、私女の子がいいな」 「そうねぇ、妹が生まれたらとっても可愛いだろうね」  母娘がたわいもない会話をしながら、祭の身支度をしていたその時であった。何か轟音が鳴った。その音には人の声も混じっており、喧騒の度合いが緊急事態であることを示していた。 「どうしたのかしらね。ちょっと待っててね」  外の景色を見て母は絶句した。それが夕焼けでないことは、空を埋め尽くさんばかりの煙を見てすぐにわかった。 「すぐに行くよ」 「まだ、お支度終わってないよ」 「いいから」  状況の分かっていない娘はボケっとした顔で母に手を引かれるばかりであった。  僅かな携帯食料を持って母と娘は外へ出た。どこへ向かうべきかは誰も教えてはくれなかった。ただ、馬のいななきと空を舞う火の矢と村人の悲鳴が、ここに居てはならないと告げていた。  しかし、妊婦と幼い子二人がすぐに遠くに行けるはずもなくどんどんと悲劇が迫っていた。 「村の外れにある大木へ行くんだよ」 「ママはどうするの」  娘の質問にも答えず、母は叫び声にも近いトーンで急ぐように言った。  母親は娘の行き先を悟られぬよう、敢えて敵襲を待ち、誘導するように大木とは反対の方へ逃げた。  子を宿した身体で逃げ切れるわけもなく、母はあっさりと捕まり、縄で縛られ、村の中央へと集められた。  早くも、敵襲は陣を組んでいた。陣には他の村人も集められていた。そのほとんど全てが女であった。  そのすぐ後、陣からは悲鳴が上がった。ゴミを積むかのように、人の首が陣の角に投げ捨てられた。その山に、母と娘、両方の父の首もあった。  その後、女どもも痛めつけられた。随分と痛めつけられたようであった。何人かの女は殺された。顔立ちの良い母は男の良いおもちゃであったため殺されなかった。母は殺されなかったが、母の尊厳と共に赤子は流産した。もっとも母も死にたいと思ったことは数知れない。  一方娘は大木の根元まで無事に辿り着いていた。小さな小屋ほどあるその幹に娘は腰を下ろした。そしてそこから真っ赤に燃える村を見た。菜の花の香りもこの時ばかりは煙と灰に邪魔をされた。  娘は燃えゆく村を見て呆然とするだけでなく、大木へ祈りを捧げた。大木へ祈ることで何かが変わるのではないかと考えて。なんの力も持たぬ娘は祈るばかりであった。  気がつけば日が落ち、より鮮明に村が燃えていた。娘は大木に寄りかかり何もできないまま寝てしまった。  明る日もその次の日も、陣を組んだ敵襲が大木へ攻めてくることはなかった。だから娘もずっと大木のそばにいた。大木がもたらす露や虫、周囲の菜の花のおかげで娘は餓死することはなかった。  大木周辺の立地にも詳しくなった。どこが一番露の取れる場所なのか、虫がよく集まるところはどこなのか、寝心地の良い場所までも知っていた。  美しい母は、侵略を指揮した権力者に奉仕することになった。初めのうちは抵抗していた母も、それが無駄であると分かってからは従順になった。  穏やかで優しくおしゃべりであった母は以前と比べて口数が減った。日毎に口数が減り、ついには一言も喋らなくなってしまった。  母が喋らなくなり数年が経った。何人かの女は歳をとり、殺されてしまった。もはや殺してくれた方が楽にも思えたが、母にとって娘のことが気がかりであった。着いたかも分からぬが、大木を見て娘のことを思い出していた。そして次第に、大木を見て手を合わせるようになった。道具のような辛く苦しい扱いと、どこかで生きているはずの娘。この二つが母の命を土俵際でせめぎ合っていた。  あの頃と比べて家屋や生活は大きく変わってしまった。それでもまるで変わることのない雄大なあの大木だけが、母の心のオアシスであった。  数年が経ち、母と同様娘も毎日大木へ祈りを捧げていた。最も、母と異なり物理的に大木に触れることのできる娘はより長く、より強く大木に祈りを捧げた。  初めのうちは訳も分からず祈っていた。次第に村の復興を考え祈った。数年経ち何も変わらないと分かっていても、祈ることをやめたらそれで終わりな気がして、娘は今日も祈りを続けていた。  だから、侵略者が大荷物を抱えてゾロゾロとどこかへ帰ったときにはとうとう祈りが届いたのかと、娘は歓喜した。  実際にはお国の中央が火の海であり、戦力の招集であった。権力者の都合により、平和を得たがそんな状況は知る由もなかった。  娘は歓喜して村へ降りた。僅かな生き残りの村人と生を喜び語り合った。これ以上ないほど抱きしめあった。何人もの村人と涙を流した。人生で間違いなく最高潮であった。だからこそ、母を見たときに娘はひどく衝撃を受けた。  母を見つけたときは生きていたことに心から喜びを感じた。虚空を眺める母をみて、それまでの全身が震えるほどの喜びが止まり、冷や汗をかいた。そこに以前の優しさは感じなかった。 「ママ、ママなの。ママ、ママ、ママ」  娘は太くなった身体で母の元へ駆け寄った。娘を見つけ、それまで銅像のように細く動かなかった母が涙した。母は声にならない声を呻き声のようにあげていた。  娘は母を抱きしめた。母もまた娘との再会を静かに喜んだ。祈りを続けた二人は、確かに、生きて抱きしめあった。  その日は風が強く、村まで菜の花の香りが届いた。

2
0

歩くこと

 必死に、意味もなく、走っていた頃が私にもあったなと、すれ違った小学生を見て思い出していた。いつからだろうか、全力で走り回ることをしなくなったのは。中学生の頃はまだ走っていた気がする。高校生でもたまには。  そんなことを考えているうちに駅に着いた。まだ、週の半分も過ぎていないことに悲しみと虚しさを覚えた。  反対方面へ向かう電車を見て、もう会社のことなど忘れてこの電車に乗ってしまおうかと考えた。当然考えただけで行動には移さない。  定刻通りの電車、過密というほどではない車両に乗り、吊り革を掴んだ。窓から見えるビルを見て心が傷んだ。これも遥か昔であればバベルの塔として神の怒りを買ったに違いない。それが今では私の怒りを買っているという。神様から私にでは随分スケールダウンだなと可笑しく感じた。  私は神のようにバベルの塔に罪を与えることもできないし、仮に出来たとしてもしないだろう。仕事が本当になくなってしまっては困る。  くだらないことを考えているうちに憎き我らのバベルの塔に到着した。 「おはようございます」  私より早めに着いていた人たちに挨拶をした。少し遅くきている私ですら朝早いと感じるというのに、それより早い人々は実に素晴らしいことである。あの小学生たちも苦痛を感じていないのだろうか。 「おはよう。実はな、少し困ったことになってな。来て早々あれなんだが、ちょっといいか」  係長が困った顔をして私のことを呼んだ。その困り顔に悲しみが見えなかったため、私は大したトラブルではないだろうと感じていた。  実際にそれは大したトラブルではなかった。取引先の担当者が締め切りを勘違いしており、期日までに納品されないとのことだった。普通ならば大問題であるのだが、その件に関しては社内でも後回しで問題ないとされていたからだ。  後回しにはされたのだが、その担当者が私だったため、先方の謝罪の相手をしてくれとのことだった。 「いやぁ、参りましたけど、まだこの件で良かったですね。このぐらいの遅延ならほとんど問題もないですし」  係長もさほど焦っておらず、取引先の担当者が来るのを待った。昼食を終え、午後の仕事が始まって少ししたぐらいに担当者はやってきた。  メールで伝えられた通りの時間にやってきた。電車の時間もそうで、日本人は時間に正確だなと感じた。  担当者はこれでもかというほど頭を下げた。付き添いの上司も担当者に怒りを覚えつつ、平謝りであった。  必死に謝罪をする担当者に、この件の期日ならギリギリ大丈夫だからお気になさらず、と前提した上で今後気をつけるようにと牽制した。  こちらはほとんど気にしていなくとも、相手は必死に謝らなければならず、こちらもまた舐められては困るため軽く注意しなければならない。あの小学生たちならばごめんといいよのワンラリーで解決するのだろうか。  その日の夕方、喫煙所で係長に会った。 「お疲れ様です」 「おぉ、お疲れ。いやぁ、さっきはわざわざ悪いね」  係長はなんでもない風に軽くそう言った。 「こちらはほとんど迷惑を受けていないのに、あそこまで平謝りされると逆に気まずいですね」 「まぁ、納品期日間違えるって普通ならやべえからなぁ」 「そうなんですけど、こっちも一応注意しないといけないのしんどいですよ」  喫煙所では酒が入った時のような、フランクな会話ができる。 「それはお前、そうだろう。大人なんだからミスはミスで責任取らないと。こっちも今回は良かっただけで違う件でミスられたらたまんねぇよ」  係長はミスに対して責任の取れる立派な大人なのだろう。きっともう死ぬまで全力疾走することはないのではないだろうか。 「まぁそうですよね。上司の川野さんもすごい謝ってましたもんね。自分何にも悪くなくても謝らなきゃならないの大変ですね」 「それが大人だよ。まぁ面倒くさいけどな」  係長はそう言ってタバコの火を消して出て行ってしまった。  一人でタバコを深く吸って物思いに耽った。それは大人なのだからミスの責任は取るべきだし、再発しないように注意するべきなのだろう。でも本当は子供のようにごめんといいよで済ませたい。本当に大事なこと以外はどうでも良くなればいいのにと思った。  帰りの電車でまたバベルの塔を眺めていた。茜色に染まった空が炎のように見えて、とうとう神罰が降ったかと、くだらないことを考えいた。  もし、あの担当者が私ではなく神様に対してミスをしたとしたら、どんな罰を受けたのだろうか。大した問題ではないから許されるのか、それとも燃やされてしまうのか。  よく考えると、大きな塔を建てて神に近づき傲慢だとして言語をバラバラにしてしまうとは、神様の方がよほど傲慢に思える。神様は随分余裕がないのだろうな。余裕がないからお怒りになるんだ。  帰り道に遊び帰りか何かの小学生を見かけた。電柱の間を行ったり来たりしながら鬼ごっこをしていた。公園で遊べば良いのにとも思ったが、最近の公園は規制が多くて面倒らしい。  子供達が騒ぐぐらい良いではないかと思うが、余裕がないのだろう。遊具も怪我に繋がるため取り壊しになっているらしい。怪我の責任を取りたくないのだろう。遊具を設置する人々は子供なのだろうか。  なんとなく、少し遠回りをして公園に寄った。本当に遊具が少なかった。私が子供の頃にはいくつもあった気がする。隅のベンチに腰を下ろし、一息ついた。  ゾウの形をした小さな滑り台が目に入った。あまりに小さく、小学生ですら滑れないのではないかと思えた。園児限定の滑り台だとすれば、実に馬鹿馬鹿しい。  ふと、滑り台を逆に登って怪我をしたことを思い出した。足を滑らせ頭から落ちてしまったのだ。重症ではなかったがなかなかに痛かった。  そう考えると園児限定の滑り台も怪我の心配が少なくて良いのかもしれない。 「俺が使う」 「違う、俺が最初に使うの」 「なんで、なんで、俺が使う」  小学生になったかどうかぐらいの子供達がボールの取り合いをしていた。  一緒に使えば良いのにと思ったが、子供は随分余裕がないのだな。神様と同じだ。余裕がないから短絡的になる。  そういう意味では複雑で形式的な行動も余裕の証なのかもしれない。  小さなゾウに別れを告げ、家へと帰った。責任を取れないから遊具を撤去したのではなく、怪我をしないように遊具を撤去した。面倒なだけの形式ではなく、問題を少なくするために短絡的ではなくなった。  少し自分に余裕がなかったのかもしれないと思った。面倒でも、謙虚に余裕を持って過ごそうと思った。謙虚でないと私の勤めるバベルの塔がなくなってしまうかもしれない。

1
0

草花

 雑草という名の草はない、という言葉をどこかの誰かが残していたなと、ぼんやりと、それでいて力強く、脳内に浮かんだ。雑草という草がないのならば、今私が刈っているこの草花の名前は何なのだろうか。  桜も散り、日差しが強く、しかし夏と呼ぶには早すぎる季節だった。祝日の続く連休を活かして、久しぶりに帰省した。都会のビル群に慣れた人間にとっては、田舎の景色は新鮮なものである。斯くいう私も、この土地で生まれこの土地で育ったはずなのだが、どうにも感動を覚えずにはいられなかった。  私の実家はそれなりに広く、小さな公園ぐらいの庭があった。その庭にはリビングから連なるウッドデッキがあり、そこでよくバーベキューなどをしたものである。  実家は坂の上にあり、ウッドデッキから一望できる景色はなかなかのものであった。急坂の多い土地柄、海に面しているにもかかわらず、山ばかりであった。ウッドデッキからの景色も左には煌めく海が、右には聳え立つ山が、という具合だった。 「ちょっとあんた、ぐうたらしてないで、少しは運動したらどうなんだい」  リビングで横になり、動画を見るか、友人に返信をするか、ご飯を食べるか、という怠惰な生活を送っている私に、見かねた母がそう言った。 「勘弁してくれよ。ようやく仕事から解放されてゆっくりできるんだから」  一応上体だけ起こして、話を聞く素振りをした。 「そんなこと言ったら私は一年三百六十五日休みなしだよ。いいから働く働く。お父さんと二人で庭の草刈りをしておくれ」  今まで何も言われなかったのに、急に怠惰を指摘した訳は、草刈りの依頼であった。我が家の庭は前述した通り、広い。草刈りといってもそう簡単ではない。人の背丈ほどもある草刈機を担いで一時間や二時間かけて行うのである。  携帯電話に連絡が入っていないことを確認し、汚れても良い服に着替えた。俺は憂鬱な気持ちを押し込めて、外へ出た。草刈機にガソリンを入れながら昔のことを思い出した。実家暮らしだった頃は冬場以外の毎月していたことが、はるか昔のことのように思われた。  父が支度をしているうちにひと足先に庭へ出た。夏でも寒いオフィス勤の人間にとって、肌が焼けるほど熱い太陽はかなりきつかった。帽子をより深く被り、太陽光を遮った。  草刈機のエンジンをかけようと、片膝立ちし、地面に近づいた時、てんとう虫がいるのを見かけた。職場付近ではほとんど虫を見かけることはないため、何でもないてんとう虫を珍しく感じた。  私が草刈機のエンジンをかけると、草刈機の轟音に驚き、赤い羽を広げてどこかへ行ってしまった。それが私に都会でのことを思い起こさせた。私はてんとう虫に友人を重ねた。  入社してから最初にできた友人だった。彼は同期であったが、大学受験で浪人していたため、年は一つ上であった。同じ部署で最も気の許せる相手であり、上司の愚痴を共によくこぼしたものである。彼は私と違って虫が嫌いであった。このてんとう虫にも腰を抜かしたに違いない。  そんな彼が突然仕事を辞めた。理由はまだ聞けていないが、パワハラがあったのではないかというのがもっぱらの噂である。  てんとう虫のようにどこかへ飛んで行ってしまった。それ以来、彼とは連絡を取れていない。どうにも気まずく、連絡することができないのだ。  私は、憂鬱な気持ち引きずって、草刈機を担いだ。田舎に似つかわしくない機械音を轟かせながら、草を規則的に刈り始めた。  草を刈り始めると、どこにそんなにいたのかというほどの昆虫が飛び回り始めた。草刈機の刃から逃げるように、必死に動き回っている。虫は嫌いじゃないが、いちいち気を遣っていてはいつまでも草刈りが終わらない。  その時刃先から伝わる違和感と、何かが弾ける音がした。バッタが死んでいた。私は草刈機を止めて、罪悪感を抱いた。  自分たちの都合で、草を刈り、その過程で理不尽に命を奪われたバッタを見て、私はまた友人を思い出した。 「ちょっと休憩取らないと熱中症になるわよ。ここ、ここにお茶置いといたから」  母がウッドデッキの隅にお茶を持ってきた。 「ありがとう、ちょうど喉が渇いていたんだ」  私はお茶を飲みながら、草の刈られた箇所を眺めた。飛び回る虫たちを見ていた。そうだ、そうして私の手が止まっているうちにそこから逃げるんだ。  そんなことを思いながらお茶を飲んだ。お茶をゆっくりと飲み干して、コップを置いた時に、干からびて死んでいるミミズを見つけた。  前日は雨が降っていた。雨が降るとミミズは地中で苦しくなり、地表へ出てくるらしい。しかし、外へ出たは良いものの、今度は太陽光に焼かれて死んでしまうという。苦しみの果てに別の苦しみがあるとはなんて悲しいのだろうか。  草刈りを再開し、ここから父も合流し、気がつけば、あっという間に終わっていた。父はひと足先にシャワーを浴びに中へ戻った。私はなんとなくウッドデッキに座りながら庭を眺めていた。  刈る前と後では驚くほど違っていた。私は悲しみとも呼べない虚しさを抱えて空を仰いだ。空を見上げて、その鳥の数に驚いた。こんなにも空を飛んでいたのだろうか。  一羽の鳥が私の座っている場所とは対角のウッドデッキの隅に止まった。その鳥は虫を咥えていた。そうか、私たちが草を刈ったことで、絶好の餌場となったのか。  鳥からしてみれば、餌場を作ってくれた恩人であろう。虫からすれば、地獄を生み出した悪魔であろう。はたまた、そのどちらも間違っているかもしれない。私の視点で物事を語っても、虫や鳥の本当の気持ちは見えてこない。  私は何を思い上がっていたのだろうか。鳥も、虫も、干からびたミミズだって、本当の気持ちは分からないではないか。それなのに、彼をそこに当てはめて気が滅入るとは、勝手にも程がある。  私の刈ったあの草花の名前はなんだったのであろうか。そんなことを思いながら、私は急いで家の中に戻り、シャワーも浴びずに携帯電話を手に取った。 「今度飲みに行かないか。お前の空いている日ならいつでも構わないから」  短い文章を打った。話してみようと思った。彼は鳥でも虫でもないのだから。

1
2

白湯

 ときどき、自分が怖くなる。それは、現実的な恐怖とは異なる、心霊的な、理解のできない恐怖であった。自分のことが他人のことのように、長年連れ添ったこの身体が知らない何かに支配されているかのような、そういった類の恐怖であった。  幼いときからずっと身体の弱かった私は、一番の理解者である幼馴染と結婚してはや二年が経った。私たちは子宝にも恵まれ、妻も安定期に入っていた。病弱な私を懸命に支えてくれる妻との間にできた初めての子供である。それはそれは喜んだものであった。私たちの結婚生活は驚くほど順調であり、マリッジブルーどころか喧嘩の一つもない。死ぬまで、この生活が続いてほしいと願った。そんな私の考えに反比例するかのように身体が意志を持ち始めた。  その恐怖ともいえる身体の欲望を私はうまく言語化することができなかった。ただこのままで過ごしたいという願いを強く否定するかのように、身体が変化を求めている気がした。変化を拒めば拒むほど、身体は強く変化したがった。  そんなこんなで得体の知れない恐怖に悩まされているうちに病弱さも相まって倒れてしまった。 「過労とストレスですね。何か悩みとかありますか。おすすめのカウンセラーをまとめて紹介しておきます」  淡々と業務的に医者からそう告げられた。  そうか、過労とストレスか、とあっさり受け入れられた。くだらない悩みを払拭するために仕事に打ち込みすぎたのかも知れない。  私は仕事を在宅に切り替え、できるだけ休息の時間を増やした。それから、医者に紹介されたカウンセラーにも顔を出してみようと思った。 「それじゃあ、行ってくるね」 「あんまり無理しすぎないでね。私も在宅で働けるから、仕事休んでも大丈夫だよ」 「なぁに、たいしたことじゃない」  不安そうな妻の顔をみて、見栄を切ってみせた。本当の事をいうと、この胸のうちの恐怖は、身体の変化を求める欲望は、とどまる事を知らなかった。  車を運転することに少し不安があったため、妻に、少し運動も兼ねて、と嘘をついて駅を目指した。  家を出てすぐの横断歩道を渡っていると、強烈な音が耳を突いた。何かと思えば車のクラクションであった。 「危ねぇだろ、何考えてやがる」  何のことを言っているのかまるで分からなかったが、どうやら赤信号を渡っていたらしい。  そんなに疲れているのだろうか。そう思ってから周囲を見るとどうもおかしい。どことなく世界が暗く見えた。少し前までの、明るく、今も未来も、何もかもが幸せだった頃と比べて一体どうしたというのだろう。  ボーッとしながら何となく道を歩いていた。気がつけばそこは桜並木の河川敷であった。こんなところ近場にあっただろうか、と思い位置情報をスマートフォンで確認すると、どうやら隣町まで来ていたらしい。二時間弱歩き続けなければ来ないはずだが、二時間弱歩き続けたようである。今頃電車に乗ってカウンセリングを受けているはずなのに一体何をしているというのか。  桜並木がまるで美しく見えないことが、まるで私の世界が終わりを告げているかのように思えてますます気分が沈んでいってしまった。そうしてとうとう河川敷でペタリと横になって寝てしまった。仕事を休んでいるのに、カウンセリングを受けずに寝転んで何をしているのだろう。  横になりながら流れゆく雲を見ていた。空はこんなにも地味な色をしていただろうか。  私は変化を恐れているのだろうか。現状の幸せが変化することで何か良くないことが起きると感じているのだろうか。その変化がネガティブなものかポジティブなものかも分からないが、その変化に対する不安が、変化そのものをネガティブなものであると錯覚させた。  そんなことを考えているうちに時は流れ、先ほどまで見ていた空模様も変わっていった。冷たい風が身体を蝕む。そうしてポツリポツリと雨が降り始めた。私は傘も持っておらず、近場の喫茶店に避難した。  喫茶店に入ってすぐ、吐き気を覚えトイレに駆け込んだ。実際に嘔吐することはなかったが、胸のうちに苦しみが残った。 「こちら白湯です」  机に突っ伏している私に店員がそういって声をかけた。お冷ではなく白湯であったため客を間違えているのではないかと思い怪訝な顔をしている私に、店員が優しく微笑んだ。 「お客様具合が悪そうに見えましたので、お冷よりは白湯のほうが良いかと思いまして。もしお冷のほうがよろしければお持ちしますがいかがなさいますか」 「あぁ、いや、お気遣いありがとうございます。お冷は結構です」  店員はそれを聞くと笑顔で裏へ戻っていった。  店員の顔がどことなく妻に似ているなと感じた。見知らぬ女性を見て妻を思い浮かべるのもどうかと思ったが、そんなことを気にするほどの余裕はなかった。  そういえば妻もつわりで良く吐き気を催していたなと思い出した。妻は、朝起きてすぐお湯を沸かし、家事やら何やらをしているうちに出来上がった白湯をよく飲んでいる。妊娠初期も飲んでいたかどうかはよく覚えていないが、妻似の店員と白湯が少し前の妻を思い起こさせた。 「おぉ」  白湯を一口飲み、喉元を通る温かな感覚が気持ちよく、小声で唸った。心が深く落ち着いていく感覚を覚えた。  妻が良く白湯を飲むのは、もしかしたら心を落ち着けるためなのかもしれない。身体が変化を求めているのはどう考えても妊娠している妻だ。妊娠初期はかなり情緒が揺れていた。変わりゆく自分に不安を覚えていたのかもしれない。母になるために変化してゆく不安と闘っていたのかもしれない。  ならば、私は父になることに不安があるのかもしれない。それがどうしたというのか。妻の身体的変化や不安に比べればなんということはない。不安を振り払い、これから訪れる幸せのために、私は立派な父になってみせよう。そう思い、ゆっくりと白湯をもう一口飲んだ。  雨に降られる桜並木をみて、桜が散ってしまうのが実に残念に思えた。来年、綺麗に咲いたら子供を連れて桜をみにこよう。私は散ってゆく桜に一人静かに誓った。

3
2

尻尾

 世の中色んな人がいるからね。品行方正で真面目が何よりも取り柄の母がよく言っていたセリフだ。私はこの「色んな人」には属さないと考えていた。私から尻尾が生える前まで。  その日、私の尾骶骨がするすると伸びて、立派な尻尾へと成長した。何が起きているのかはまるで分からなかったが、ただ一つ確かなことは、私のお尻の付け根から尻尾が生えているということ。それは爬虫類の尻尾によく似ており、イグアナのようであった。かといって私の身体は人間そのものであるからチープな仮装のようにも見えた。  初めのうちはただずるずると地面を引きずるばかりであったが、次第に感覚を掴むと左右上下へと自在に動かすことができた。小刻みに動かすコツも掴み、床に尻尾を規則的に打ち付けて遊んだりもした。  楽しかったのも束の間、これは夢ではないと明確に意識してから、私は異様な焦りと緊張を覚えた。一人暮らしであることを神に感謝しながら、どうすべきか悩んだ。ひとまず大学生であるから授業を少しサボったところで問題はない。それは、私が不良学生であるからではない。むしろその逆である。ほとんどの授業に真面目に出席しているからこそ二、三週間休んでも問題がないのだ。むしろ不良学生であれば尻尾自慢をするために大学を闊歩していたかも知れない。でも私は真面目だからそうはいかない。  どうすべきか悩みながら尻尾を適当に動かしながら遊んでいた。お尻から生えた尻尾を身体の前を通し、そのまま真っ直ぐ上まで持ち上げると、胸の少し下ほどまで届く。ここまで大きな尻尾となると隠すのは容易くない。ぐるぐると身体に巻き付けてみると思いの外フィットした。細いウエストが思わぬ形で役に立った。  春の訪れを感じる陽気であったが、私は尻尾を隠すため、オーバーサイズのアウターを羽織った。立て鏡で全身を確認してみるが、パッと見ただけでは分からなかった。  私はモノは試しと近くのコンビニをゴールとする冒険に出かけた。  再度全身を鏡で確認したのちに、お気に入りの靴ではなく、スニーカーを履いて玄関のドアを少しだけ開けた。ドアの隙間から顔を覗かせ、左右をチラチラと見た。人がいないことを確認すると思い切って「えいっ」と小さく呟きながら外へ出た。  誰かに見られているわけでも大犯罪を犯したわけでもないのに、見つかってはいけないと何かが強く思わせた。その何かから逃れるように慌てて階段を降りた。認めたくない何かが確かに私の中にいることがどうしても嫌だった。  マンションを出てすぐの横断歩道で信号が変わるのを待っていた。最寄りのコンビニは信号を進んで左に曲がりそのまま直進すれば三分ほどで着く。  ただちょうどその時、運が悪かった。信号が変わり、左へ進もうとしたタイミングで三人組の集団がこちらへ向かってきた。その内一人は私と同じマンションの住人である。咄嗟に私は右側へと走り出した。  とにかく見られまいと必死になって走って数分経っただろうか。後ろを振り向き誰もいないことに安堵した。よく考えれば、これからマンションで友人と集まって遊ぶに決まっているのだ。私に尻尾が生えていることを疑って後をつけるなんて馬鹿な話はない。  そこまで考えて、他人に見られても問題ないことを確かめるために外へ出たのに、見られることを恐れる小心者の自分を嘆いた。  身体に巻き付けている尻尾が少し緩んでずれていくのが不快だったため、陰に隠れてグッと尻尾を巻き付け直した。走った直後の熱った身体には尻尾が冷たく感じ、とても気持ちが良かった。  そうして、ここまで来たからにはコンビニというゴールを目指さねばならない。自宅から二番目に近いコンビニの方面に来ていたためそちらを目指すことにした。  ただ、できればそのコンビニには行きたくなかった。そのコンビニ、というかその周辺は少し治安が悪いのだ。  私は何もないようにと願いながらコンビニを目指した。道中何人かの人とすれ違ったが、特に何の問題もなかった。案外他人に注目などしていないのだと気がついてからは少し余裕を持って歩けるようになった。 「いらっしゃせい」  件のコンビニについた。コンビニの駐車場には柄の悪そうな集団が喫煙所に屯していた。 「何でこんなに高いんだ。おかしいだろ、おかしいだろう。私の時代はもう少し安かったがね、つくづく嫌な時代になったもんだよ」  ぶつぶつと悪態をつくおじさんが雑誌コーナーにいた。早速やばいやつと出会ってしまったと私は思ったが、金額に文句を言うおじさんと尻尾の生えた女子大生、普通ではないのは恐らく私のほうだろう、と思って悲しくなった。 「何だお前」  今度はレジの方から叫び声のような金切り声が聞こえた。おばさんが店員に対して何か文句を言っている。 「私に手で食べろっていうのか。普通に考えれば分かるだろう、普通に考えれば」 「すみませぇん。お客さんがいらないっておっしゃったんでぇ」 「何なのよその態度は。店長呼びなさいよ店長を」 「すみませぇん。今日僕だけなんですよぉ」 「全く、もう二度と来ないわよ」 「ありざしたぁ、またお待ちしてまぁす」  レジの店員は慣れているのだろうか雑に対応をしていた。  以前までの私であればすぐキレるおばさんも舐めた態度の店員もおかしな人と認定していただろう。しょうがない色んな人がいるのだからああいった人もいるだろう、と。  しかし、今の私にはとてもそんなことは言えない。箸がないだけでキレるおばさんだろうがクレーマーに適当な対応を取るワンオペ店員だろうが可愛いものではないか。金額に文句を言うおじさんなんか健全な人間といえる。  何せ私には尻尾が生えているのだ。色んな人たちはよく見てみれば何も悪者とかやばい人ばかりではないのだ。少し変わっているだけなのだ。尻尾が生えている人に比べれば全く普通だ。  そうか、あの時私の中にあった何かは普通ではない人間を迫害する気持ちであったのだろう。それが、私自身を締め付けていたのだろう。  そう思ってからお母さんに相談してみようと思った。コンビニを出て、喫煙所の可愛い集団を横目に携帯を取り出した。  尻尾が生えました。どうすれば良いですか。文章を打ってから少し笑ってしまった。いきなりこんなこと言われても母は受け入れられないかもしれない。真面目すぎて娘に尻尾が生えたと知ったら縁を切られるだろうか。  それも仕方ないか。世の中色んな人がいるのだから母のように真面目な人は尻尾を受け入れられないかもしれない。

3
6

喪失の果てに

 私が小学生の頃に家族が亡くなった。共に暮らしていた祖父母が亡くなった。両親はそれよりさらに幼い頃に交通事故で亡くなった。また、生まれることはなかったが兄もいたらしい。  祖父母とはとても仲が良かったため私は涙を流して悲しんだ。しかも、亡くなった要因が殺人鬼によるものであったことも、私を深く悲しませた。正しくは殺人鬼ではないが。  その犯人は、いや、犯人たちは二十代にも満たない不良少年たちであった。なんでも数十万円を稼ぐために怪しいアルバイトを重ねていた青少年たちであったらしい。そんなことを重ねていくうちに、詳しいことは分からないが、自分達が脅される立場となり実行せざるを得なかったらしい。  そんなことで私の大好きなおじいちゃんとおばあちゃんは亡くなった。家に侵入したとき、飼っていた秋田犬のシバが懸命に吠えてくれたおかげで、少年たちが逃走する前に逮捕することができた。私は当時友人の家でお泊まり会をしており、祖父母の惨状を知る由もなかった。  それ以来私は親戚の家に預けられた。親戚のおばさんは一人暮らしをしており、私とシバを快く迎え入れてくれた。 「どうしてシバっていうのかしら」  おばさんに預けられることとなった初日にした会話である。 「私が小さい時に柴犬だと思ってたから。シバにしよってお母さんに言ったら秋田犬だよって。でもお父さんがそれを気に入ってシバになったの」  私はおばさんに嫌われちゃダメだと思い、まだ事件の名残が心中を支配しているのを無視して、明るく答えた。最もおばさんには哀しそうに見えただろうが。 「あらぁ。それは面白いわね。何よりシバって呼びやすいのがいいわ」  初めのうちはおばさんに心を開くことができなかった。だから、私はよくシバと会話していた。 「転校したばかりだから知らない子ばっかりなの。当たり前だけどね」  シバに話しかけても日本語で言葉が返ってくることはない。それでも、吠えたり飛びかかったり舐めたり、シバの感情表現は私の周囲の人間よりも遥かに分かりやすかった。 「わっ、危ないよ。こらシバ、シバったら」  私が哀しそうにしている時は舌を出して、飛びかかってくる。それが私にはたまらなく可笑しくて、どんな時でも笑顔にさせてくれる。シバは私にとっての家族であり親友でもあった。  中学生に上がり、少しばかりは友達ができた。その友達とたわいもない話をしながら帰路についた。家に帰ると、おばさんの姿が見当たらなかった。そういえば今朝スーパーに出かけると言っていた気がする。私に言ってくれれば買い物になどしてくるのに。  足腰の悪くなってきたおばさんを心配しながら、私は棚に置かれているお菓子をいくつか机に並べた。小さな一口サイズのお煎餅がいくつも入った袋を雑に開けた。手が汚れるのを嫌って、箸で一つ一つつまみながら食べた。  お菓子を食べながら中学校の友達に電話をかけた。友達とくだらない話の続きを電話で話した。 「分かる分かる。みほちゃんって悪い子じゃないんだけど、自分が一番じゃないと満足しない感じっていうか。ちょっと苦手なの分かるよ。え、何言ってんの。あかりは私の親友だよ、あかりは一番に決まってるじゃん。てかさ、今度の遠足めちゃくちゃ楽しみなんだけど、うん、そうそう」 「あら、もう帰ってるの」 「あ、おばさん。お帰りなさい。うん、そう、おばさん帰ってきたから一旦切るね。また夜、うん、バイバイ」 「転校してきたばかりはどうかと思ったけど、本当に友達ができて良かったよ」 「何言ってるのおばさん、そんな前のこと言い出して」 「夕飯は何がいいかな」 「なんでもいいよ。私ちょっと宿題やってくるね」  そう言って私はお菓子も片付けずに自室に篭った。宿題は広げたはいいものの結局半分ほどしか終わらず、ほとんどの時間をあかりとの電話が占めていた。  あかりは私の一番の親友で、あかりなしではもう生きていけないと言っても過言じゃない。  残りの五割の宿題を仕上げ、夕飯を食べに食卓へ向かう。ついでにシバの餌でもあげようと思って餌を取りに行った。中学生に上がってからシバの餌やりはほとんどおばさんの仕事だった。中学生は忙しいのだ。 「おばさーん。シバの餌ってどこに置いてあったっけ」 「そこの棚の下から二番目のところですよ」 「あ、あったあった。ありがとう」  私は餌を持ってシバの元へ行った。少し暗がりで一瞬どこにいるのか分からなかったが、シバはすぐに見つかった。なんだかぐったりしていた。シバは私を見つけたらすぐ飛びかかってくると思っていたが、少し疲れているのだろうか。 「おーい、シバー。餌だぞー、ほれほれ」  トレイに餌を入れ、シバの口元へ持っていくが、うんともすんとも言わない。  次の日、正式にシバが亡くなったことが確定した。心のどこかでシバは死なないものだと思っていた。お母さんとお父さんとおじいちゃんとおばあちゃんとそれから知らないお兄ちゃんと皆んないなくなっても、シバだけは私の元からいなくならないと思っていた。  こんな喪失感は初めてだった。ずっと一緒にいるものだと思っていたのに。いなくなるんだって知っていたらもっと一緒に遊んだのに。もう飛びかかってくることも舐めてくれることもない。  それから私は食事も喉を通らず、しばらく学校を休むことにした。しばらくといってもいいとこ一週間だけれども。おばさんは体調不良といって学校に連絡している。 「辛いだろうけれど、ご飯は食べんといかんよ」  おばさんが私にそういってハンバーグを作ってくれた。ハンバーグは私の大好物だった。しばらくほとんど絶食状態だった私は、ハンバーグをみてギュルギュルとお腹を鳴らした。 「こんなに悲しくてもお腹は空くんだね」 「そうねぇ」  おばさんは、かつてないほど打ちのめされている私になんと声をかけて良いのか分からないようで、形ばかりの相槌をするだけであった。 「シバ、私の出したご飯食べなかったな。最後にご飯あげたのがいつかも覚えてないよ。いなくなるなら、ちゃんとご飯も散歩も毎日やれば良かった」  私はおばさんに罪を吐露するかのよう咽びながら呟いた。  おばさんの作ってくれたハンバーグはとてもおいしかった。半分ほど食べて猛烈に体調が悪くなり自室に戻った。  自室で遠足のしおりを眺めていた。あれだけ楽しみにしていた遠足も今ではまるで心が踊らない。  あかりからくる電話にはまだ出れていない。今日もごめん、体調が悪くて。と簡潔な文章だけ送って横になった。 「遠足までに治るといいね、か」  あかりから送られてきた文字を機械的に読み上げた。遠足までどころか、これから一生私は治らないのではないだろうか。こんなにも悲しいことは今までの人生で一度もない。悲しいことならたくさん体験してきたつもりだった。それでもこの悲しみの先に笑顔があるとは思えなかった。  結局遠足に行くことはできた。しかし、遠足先での講演会のみである。おばさんが車で送ってくれた。皆んなと楽しく会話できる自信がなかったが、先生や皆んなをこれ以上心配させるわけにはいかない。そういうわけで講演会に顔を出すことにした。講演中であれば会話をしなくて済むという算段だ。 「皆さん、本日はこのような貴重な機会をいただきありがとうございます。本日講演をさせていただきます、田中千智です。十分間という短い時間ではありますが、よろしければ最後まで聴いていただければ幸いです」  短めのポニーテールと七三分けにされた黒髪がいかにも真面目であるという雰囲気を作り出していた。 「いきなりで申し訳ないんですけど、皆さんのご家族は元気ですか。中には亡くなっちゃったよって方や大人たちの問題で一緒に暮らしていないなんて人もいると思います。もし元気で共に暮らしているのなら、ほんの少しでもいいので会話でもしてあげてください。感謝を伝えるとか恥ずかしくてできないと思います。私もそうでした。だから、せめて会話ぐらいはしましょう。なぜ私がこんなことを言うのか、まずはスライドをみてください」  スライドに映されたのは瓦礫で覆い尽くされた街並みだった。 「皆さんの年齢だとどうですかね、産まれてすぐもしくは産まれてないって人もいるかも知れませんね。東日本大震災。とても大きな地震でした。ニュースとかで映像を見たことがある人もいるかも知れませんが、この地震の津波で大勢の人が亡くなりました。私の家族もこの津波で亡くなりました。その当時私だけ学校にいて、家にいたお父さんお母さんは残念ながら亡くなりました。ちょうど地震が発生する二日前ですね。お母さんと大喧嘩をしました。忘れもしないです。喧嘩の内容も細かく覚えています。当時流行っていた可愛い筆箱を、買ってほしいと私がいくらいっても買ってくれなかった母親に対して、強く反発しました。筆箱を買ってもらえなかった。たったそれだけのことで喧嘩をして、そのまま仲直りすることはできませんでした」  少し、ほんの少しだけ間を置いて、千智さんは手元のリモコンを操作した。スライドが一枚移り変わり、瓦礫の街並みから復興した街並みへ変わった。 「この画像は全く同じ場所を震災当時と現在で比較したものです」  一枚目と二枚目を行ったり来たりしながらそう解説した。 「残念ながら家族はいなくなってしまいましたが、残っているものもありました。町そのものですね。はっきりいって復興に携わったとかではないです。ただ悲しみに打ちひしがれていただけでした。強い悲しみと後悔が一年以上残りました。気がついた頃には見違えるほど復興が進んでいました。そうしてなんとなく悲しい過去を背負って生きているうちに周りの大人たちが復興を進めていました。でも全く復興の進まないものもあります。私の後悔です。なぜあのタイミングで喧嘩をしてしまったのか。悔やんでも悔やんでも、悔やんでも悔やみきれません。家や道路はいつか直ります。もちろん誰かの大切な想い出などは壊されてしまったかも知れませんが、私がただ生きている間にも立派な大人たちが直してくれます。私の後悔は私にしか治せません。はっきりいって今でも後悔しています。今、あの時に戻れるなら、同じ結末を辿るとしても、喧嘩するようなことだけはしなかったでしょう。皆さんには私のようにはなってほしくありません。辛気臭いことを言うなと思うかも知れませんが、今日生きている人が明日も生きているとは限りません。だからと言って、いつもありがとうだとか何かプレゼントを渡すだとか特別なことをするのは恥ずかしいと思います。会話だけで十分です。些細なことで結構です。学校で何があったとかテレビの話題でもSNSの話題でも構いません。その当たり前を存分に過ごしてください。亡くなってから後悔しても間に合いません。どうか今ある幸せを幸せと思わないぐらい、存分に楽しんでください」  そのまま千智さんは静かにお辞儀した。皆が静まり返っていたが、先生たちの拍手を皮切りにパラパラと生徒たちも拍手をし始めた。  私は、あまりにも今の自分とリンクしている状況が飲み込めず、体調不良を先生に訴え、皆と会話する間も無くおばさんの迎えを待った。  おばさんの車の後部座席で横になりながら、考えていた。亡くなってから後悔しても間に合いません。その通りだと思った。私はあの人と同じように後悔を一生抱えて生きていかなければならないのだろうか。一度悲しみを受けた人間は二度と幸せになれないのだろうか。  優しくおばさんが声をかけてくれるも、私は曖昧に返事をするばかりだった。  家に帰るとすぐ寝てしまった。疲れていたのだろうか。目が覚めた頃には翌日のお昼だった。あかりから電話の着信があった。今日は遠足の振り返り休日で学校がないのだ。私はなんとなくあかりに電話をかけた。 「もしもし、私だけど」  私からの電話なんだから私に決まっているのに。久しぶりの電話でおかしなことを言ってしまった。 「もしもし、うん。大丈夫なの。体調が悪いって、もう一週間ぐらいになるけど」 「うん、実はもうほとんど治っててサボり半分かな」  なんとなく心配させてはいけないと思い、乾いた笑い声でそう伝えた。 「実は遠足も行ってたんだよ、講演会だけだけどね」 「え、そうなの。言ってくれれば飛んで行ったのに」 「その時はすぐ体調悪くなってすぐ帰っちゃったんだ」 「そうなんだ。てか、あの講演会私に刺さりすぎてやばかった」  どきりとした。あかりが私の家庭環境を知っているわけないのに、見透かされている気分になった。 「あかりも、何かあったの」  そういって、も、とつけてしまったことに言ってから焦った。 「何言ってんのよ、あんたのことじゃない。ずっと体調不良で学校来れなくて。もしこのままいなくなっちゃったら私今後一生やっていけないよ」  私は自分でも気付かぬ間に涙が流れていた。一度泣いていると気がつくともう止まらなかった。 「え、何、どうしたの。大丈夫なの」 「ううん、ちがうの、ごめん。ありがとう。ちょっと切るね」  あかりにこれ以上自分の恥ずかしいところを見せたくなく、食い気味に電話を切った。  心のどこかでシバを失ってそれでもう終わりだと思っていた。でも誰かにとっての大切な人が私の場合もあって、私にとっての大切なものもシバだけじゃなかった。 「どうしたの、平気なの」  私の泣き声を聞いておばさんが部屋をノックする。 「うん、大丈夫」  泣きながらそう返事をする。 「開けるわよ」  おばさんが部屋に入ってきて私を抱きしめる。 「私じゃシバの代わりにはなれないかもだけど、今は辛いかもだけど、なんでも聞くからね」  転校してきたばかりはシバだけだった大切なものも今では一つではない。  後悔は一生残るかも知れないしいつか消えるかも知れない。それは私にはわからない。それでも私には大切なものが残っていて、それを大事に持って生きていこうと思えた。  私の泣き声と、つられたおばさんの啜り泣きと、スマホに来る通知音だけが部屋に鳴り響いた。

2
0

異端児其三

 今日一人の人物を紹介したい。名を寛治、姓を柳原という。ここでいう柳原の読み方は「やなぎはら」ではなく「やなぎわら」である。  この男、紛れもなく天才である。何を隠そうこの私、人を見る目にはかなりの自信がある。そんな私が断言するが、今まで見てきた人間の中で文句なしの一番である。僅差で一番になったとか柳原と仲が良いからとかではない。  むしろ私はこの柳原という男のことが嫌いなぐらいである。柳原は天才であるが、人格面、こと人付き合いにおいては最悪である。天才であるが故になんでも一人でこなそうとしており、他者を利用することはあっても頼ることはなく、自分の考えを共有することもない。また、かなり口が悪く、目上の立場の人であろうと容赦なく罵倒する。だからであろうが、悪態をつき上の者には嫌われ下の者には理解されないという悲しき天才でもある。  一方で、後輩にはよく食事をご馳走したり、何か部下の不満があれば積極的に改善していく面もある。特に細かい部分によく気が遣える男で、そういった面では支持されているかもしれない。  しかし、柳原が天才すぎるがために彼の考えがまるで分からない。凡人であればあるほど分からない。加えて行動的であり、一人でなんでも実行してしまう。だが、実行したことの本質的意味は誰にも分からないのだからどうしようもない。  斯くいう私も彼のことを本当の意味で理解できているとは思わない。だが、紛れもなく天才である柳原寛治という男について今日は話したいと思う。  私が彼と出会ったのは四十歳を過ぎたばかりの頃である。私の古くからの友人である森田氏の紹介を受けて出会ったのである。初めて柳原にあった時の印象を話す前に森田氏について少し説明したい。  彼は、資産家の血筋に生まれ、裕福な家庭で成長したことが目に見えてわかるほど品の良い男である。また、彼の代で元々あった莫大な資産は数倍にも膨れ上がった。それは森田氏の商才や人懐っこい性格なども関与しているであろう。  そんな彼だが、誰にも言えない秘密がいくつかある。それは映像品の収集である。これだけならば人に言えないことは一切ないのだが、彼の集めている映像品に少し問題がある。  彼の集める映像品はいわゆる映画館で公開される作品であったりインターネット上に公開される作品ではない。誰かが個人的理由で作成したビデオが主である。しかも、そのビデオの内容というのが、表に出たら問題のあるものばかりである。例えば、誰かの犯罪の証拠になるものであったり、その情報が世に出ることで失脚する権力者であったりである。  なぜ彼がそんなものを持っているのかは前述した通りの資産家であるからだ。とにかくそんな彼のコレクションのうちの一つである「異端児其三」という映像を見させていただいた。  どういった経緯で彼と知り合ったのか、なぜ「異端児其三」を見させていただけるのかは保身のために省略させてもらう。  私が柳原を見たのは「異端児其三」のなかでのことである。つまり、私は柳原を現実世界で見たことは一度もないのである。会ったことがあると前述したが、これは語弊であり見たことがあるというのが正しいのだ。  しかし、映像上で見たということは客観的に物事を捉えることに適しており、人物評価をするという点においては良かったと言えるのかもしれない。  「異端児其三」と題しているが其二と其一はどこにあるのか不明である。森田氏も長らく求めているらしいがどこにあるのか見当すらついていないという。なぜ其三に柳原が選ばれたかについても不明であるが、天才柳原を「異端児」と表すこの映像は実に秀逸なものであり極端なタイトルの逆をいくかのような偏向のない内容である。つまり「異端児其三」を見ただけで柳原の人となりを理解することができるといえよう。実際に会ったことのない私が柳原を語るというのはこの映像の凄さを伝えることにもなろう。  さて、「異端児其三」の内容についてだが、実は柳原が登場するのは映像の中盤以降である。映像の始まりは永田という男がメインとして登場する。だから私は最初永田という男が「異端児」であると考えていた。  ところが、永田の私生活や仕事の姿をまるで自分がその場にいるかのような臨場感を持った映像で見ていると、永田という男が素晴らしい常識人に見えてくる。見えてくるというよりもまさしく永田という男は常識人なのであろう。私生活仕事共に人間関係良好でありさまざまなトラブルを率先して解決するリーダー気質でもあった。  そんな永田の部下として柳原は登場した。部下といっても直属の部下ではない。永田は柳原の才能に誰よりも期待しており関係を築こうとするが、柳原からは永田に一切の興味なく両者の関係は進展を持たない。  一応の上司である永田に呼び出されても柳原は適当にあしらう。永田が事故で死んだ後も、あれほど懇意にしてもらったにも関わらず、そうですかと一言で片付けてしまった。  永田が事故で亡くなった後に柳原中心の映像になる。善人であり常識的な永田を前半のメインに持ってきていたからこそ映像内での柳原の異常性が際立つ。ここから映像の後半部分にあたる柳原の起こした事件について述べていきたい。  端的にいうと柳原は殺人の指示を行っていた。そして映像の終盤で永田は事故死ではなく柳原の指示で殺されたということが分かる。  そんな柳原の殺人の記録が映像に映し出されている。後半部分は、永田が死にそれについてコメントを残す柳原という映像後に突然暗転し、始まる。その暗転がこれから始まる物語の不吉さを象徴しているようであった。  まず、寂れた公園の一角を隠し撮りするようなアングルで映像は始まる。そこには柳原と一人の男が話し込んでいる。後に分かることであるが、この男こそ永田を車で轢き殺した実行犯である。  二人の間にどのような会話があったのかは風の音にかき消されてしまいよく分からない。ただ金銭の受け渡しと不気味な柳原の笑みだけが印象に強く残るシーンとなっている。  場面は変わっていきなりの永田の事故現場へと移る。つまり前半部分で永田は死んでおり、それ以前の映像を後半部分に当てているという時系列の流れである。  この場面では先ほど金を受け取った男の車内からの映像である。男がぶつぶつと呟くワードの中に出てくる柳原の響きが耳によく残ること残ること大したものであった。  男の呟き方が常人ではないと思わせる迫力のある映像がノーカットで五分も続く。その間、男の声はほとんど聞き取れず、柳原という単語だけがなんとか耳に残る。したがって柳原という男が五分間一度も登場しないにも関わらず、強く印象に残る。  そして車内映像からでは少し見にくいが、明らかに永田と思われる男に車は勢いよく突っ込む。そして永田を轢き続けるようなかたちで建物へ衝突。そこで映像もカメラが途切れる形で終了する。  次の場面からダイジェストのような細かい編集になっている。まず、永田の葬式が数秒映し出され、事故のニュースを直に撮影した映像が数秒、次にどこか遠くを見つめる柳原の映像が流れる。  最後にノンフィクションという白文字が暗転した画面の左下に小さく映る。こうして「異端児其三」は終わる  いかんせんよく分からないものの、永田と対比して映される柳原の異端具合と節々に現れている天才性が表現されている映像であった。  森田氏にこの映像の真意を問うと、ノンフィクションとわざわざ銘打っているのだから柳原の罪を主張するための映像ではないか、とのことであった。  しかし、私は異なる意見を持つ。事件が起こるより前から映像が撮られていたことを踏まえると、この映像を撮影したのは柳原自身ではないかと思う。事故、いや、事件当時の車内の映像を撮ることができるのは犯人に限られるという安い予想ではあるが。  読者の方々はこの映像がなんのために撮られたものだと考えるだろうか。

1
0

後悔と葛藤と

 いつであったかは定かではないが、洞窟の近くに一つの家族が住んでいた。家族は洞窟に取り憑かれた一家であった。祖父、祖母、父親、息子が立て続けに洞窟を求めたが、一人として帰ってくることはなかった。  唯一、母親だけが洞窟を嫌っていた。洞窟は家族を奪った相手であるから。しかし、母親も含めて周辺の人々からは酔狂な一家と思われていた。その思い込みは加速していき、おかしな一家であるから近づかないようにとされてきた。  そんな扱いから母親は精神に異常をきたし、ネグレクトになった。家に引きこもり、時々出てきたかと思えば娘を殴るばかりであった。  家族が取り憑かれていた洞窟には悪魔が住んでいるという。その悪魔は命と引き換えにどんな願いでも叶えてくれるらしい。なぜかこれもまた不明であるが、この一家だけがそのことを知っていた。母親以外の全員は夢を追い求めて命を失った。母親だけが、悪魔の存在を信じていなかった。存在しない悪魔に家族を奪われた母親は怒りをぶつける矛先に娘を選んだ。  そんな娘は悪魔のことを知らされず、ただ虐待されるばかりであった。娘はまだ一桁の歳であった。お腹が減っても食べるものはなかった。母親が部屋から出てきたと思えば殴られるだけであった。それでも暴力と共に最低限の食事が出されていたため、娘は母親を愛していた。  その日、娘に久しぶりのパンを与え、それを食べることなくただ持っている娘を見て母親は怒りながら殴った。 「わざわざくれてやったのによ」  とうとう気が触れた母親は娘を連れて洞窟へ向かった。願いを叶えるためではなく命を捨てるために。  洞窟の中はほんのり湿っていた。入り口は大人が入るには少し窮屈なサイズであった。なんとか体を捩りながら中へ入ると、それに娘も続いた。足元は岩の凹凸が激しく、女子供が歩くことはかなりの困難であった。  また、中はかなり暗く、もはや前後もわからないほどであった。洞窟内では反響が凄まじく、水の落ちる音と自分たちの足音が耳を突く。死を求める母親の足取りは重くも軽くもなかった。  本当に悪魔の出てきそうな雰囲気のある洞窟だった。だからこそ家族も信じて向かっていったのだろうと、母親は推察した。もはや悪魔が出てきてくれまいかと願いながら洞窟を進んだ。 「ママ、どこへいくの」  娘は痣だらけの足を必死動かして母親についていった。もっとも、母親も進むことに苦労しており二人の距離が離れることはなかったが。 「うるさい。静かにしてちょうだい」  母親は金切り声でそう叫んだ。 「そうかい、静かなつもりだったんだがね」  ほとんど明かりのない洞窟にもある程度目が慣れてきた頃、洞窟よりも暗い、真っ黒で巨大な塊がそこにいた。 「ようこそ」  その黒い塊は熊にも蝙蝠にも見えた。とにかく巨大な獣に翼が生えているという姿であり、粗悪な作りのおもちゃにも思えた。その不自然さが不気味な雰囲気を増していた。 「なんだ、悪魔、いるじゃない」  この世の全てに希望を抱けない母親は、悪魔が存在したかどうかに興味を抱いてはいなかった。もはやどうでも良かった。一刻も早くこの世から消えてしまいたかった。 「いかにも。私は悪魔である。命と引き換えにどんな願いでも叶えてしんぜよう」  仰々しく気味の悪い身体を折り曲げて会釈した。暗闇で悪魔の全体像は見えないが、僅かばかりの光を放つその薄緑の眼球が嘘をついていないことを証明しているように思えた。  大前提として言葉を話す化け物であるのだが、そんなことは気にもならないほど精神に異常をきたしている母親とそれを不思議にも思わない娘は悪魔から逃げようとしなかった。 「お願い、殺して。もうこの世から消して」  母親はあらゆる怒りの感情がなく、口元だけの笑顔で壊れたようにそう願った。 「残念だがそれはできない。命を代償に命は奪えない。次の願いを言え」  即座に否定された母親は怒りも喜びもなく膝をついた。母親はうずくまり静かに笑い出した。かと思えば次の瞬間に大声を上げて泣き喚いた。泣き喚いたというより、喚いたという表現が適切かもしれない。とにかく洞窟内は母親の声だけが飽和していた。  数十秒も喚いた母親は何をするでもな地面に倒れた。先ほどと比べて驚くほど静かであった。悪魔も喋ることはせず、うるさいほどの無音が洞窟内を支配した。 「ママと一緒に食べたい、朝のパン」  沈黙を破ったのは娘だった。 「いい願いじゃないか」  そういうと悪魔は一口に娘を口に入れて食べてしまった。 「肉が少なく不味いな」  少し飲み込んで、ぐちゃぐちゃに潰れた痣だらけの足を片方だけ吐き出した。 「願いを叶えてやろう」  その声を後に母が目覚めたのは自宅の食卓であった。自分が捨てたゴミが散乱している食卓に娘と二人向かい合って、焼いてもいない、少しカビの生えたパンが皿もなく置いてあった。 「ママ、おいしいね」  娘が大きな笑顔で笑いながらパンを口にした。次の瞬間、パンを食べていたはずの娘はいなくなり、代わりに痣だらけの足が置かれていた。  母親は娘の足を庭に埋葬した。小さな墓石も建てた。娘が亡くなってから数年が経ち、母親は周辺の人々から酔狂な家族に巻き込まれた哀れな未亡人という認識になっていた。あれから母親は二度と悪魔に出会うことはできなかった。  母親は娘が死んでから精神異常も少しずつ良くなっていた。 「ごめんね」  毎日欠かさず墓石に線香を置き、手を合わせ続けていた。 「結局ママは死ねなかった。ごめんね」  自責の念に苛まれながら、母親は手を合わせた。  母親は墓石に、こんがり焼かれ、バターの塗られたパンを供え、一口自分でも食べた。 「美味しいね」  消え入るような声で、泣きながら墓石に話しかけた。涙が溢れないように、昇り行く線香の煙を見上げていた。

6
0

感傷への決別

 そよ風で緩やかに靡くその美しい亜麻色の長い髪を美しいと思ってから、ただの一度もあなたのことを忘れたことはない。  幼い頃、親と衝突して家出をしたことがあった。近くの河川敷で何をするでもなくただ流れてゆく雲を眺めていた。そうすることで自分が大人であることを証明できるような気がしていた。  何となく雲を眺めていたら、涙が止まらなくなった。自分の幼稚さとか愚かさとか孤独な悲しみとか色々あったと思うけれど、明確な理由は分からなかった。それでも涙は止まらなかった。  その時声をかけてくれたのがあなただった。 「お隣いいかしら」  河川敷の相席を頼むなど不可解極まりないが、涙に触れないでいてくれることは助かった。涙が止まらず、答えることができずともあなたはじっと待っていてくれた。 「私も、泣きにきたんだ」  ようやく泣き止んだのを確かめたあなたは、横に座って呟いた。話しかけたのではなく呟いた。 「もう、本当に嫌なことばっかりで。ううん、違う。本当はおっきな嫌なことに支配されて全部が嫌になっちゃってるの。いや、それも違うかな。とにかく嫌なことのせいで私の人生が嫌になっちゃってるの。だから泣きにきたんだ」  決してこちらを向くことはなく、空を見上げながら頬を伝った涙の粒はどれほど美しかったことか。苦しい思いを捨て去るための、前向きな涙は太陽の光を浴び、眩いほど輝いていた。  きっとあなたは雲の流れに想いをやっているのだと感じた。私はもう雲を見ていなかった。あなたが雲を眺めるその姿を一秒でも長く見つめていたかった。あなたを見つめているうちに私の涙は止まっていたが、反対に、あなたの涙は増すばかりであった。 「大丈夫ですか」  今度は泣き止んだ私が呟いた。あなたは何も言わずにただ涙を流した。雲を見上げていても、溢れていることが分かるほどの大粒の涙を沢山流していた。  そんな時間がどれくらい続いたろう。ずっと続いてほしかった。でも、私の涙を代わりに引き受けたあなたはずっと泣いていた。どうすることもできずただあなたの美しさを感じていた私を、あなたは一目見ることもせず喘ぎながら呟いた。 「嫌なことが、あって。それを、それを。捨てたくて泣きにきたんだよ」  そう言いながら、止まることのない涙はあなたの顔を陰にして太陽から隠れた。 「なのに。それなのに。どれだけ泣いても嫌なこと、なくならないんだよ」  あなたは下を向いて、これまでの美しさを捨て去るかのように、大きな声で泣き叫んだ。その華奢な体のどこからそんな声が出るのか分からない。ただ一つ分かることは、そんなあなたは何よりも美しかった。  きっと最初は私を慰めるために来たのだろう。しかし、誰かのためでは無く、心の底から自分のための涙を流したあなたを私は忘れない。  そのあとはよく覚えていない。私の迎えと、あなたの迎えはほとんど同時にきた気がする。私を迎えにきたのは母親だった。あなたを迎えにきたのが誰かはよく覚えていない。男の人だった気もするし、女の人だった気もする。ただ、あなたが辛く、苦しい顔をしていたことは覚えている。  それからしばらく、私は母親と元の仲良しに戻り、あの時期に起きた事件を懐かしむ。  監禁拉致されていた女子大生が死んだ、というニュースだった。今となってはその女子大生があなたであったかは分からない。そもそも監禁されていたところを逃げ出したのに、泣いている私に構っているわけがない。  それでも報道で映し出された顔写真は、美しい亜麻色の髪をした華奢な体のあなたにしか見えなかった。  そうだとしたら、なぜあなたは逃げず、私に構ったのだろう。何か特別な事情があったのかもしれない。私があの日、些細な喧嘩で家出をしたためにあなたを殺したとは思いたくない。  泣いて、泣いて、どうしようもないほど泣き叫んで、それでも解決しない嫌なことを、私はどうすれば良かったのであろうか。  事件にあった女子大生はあの河川敷で遺体として見つかった。そのため河川敷には慰霊碑がある。今でもふと訪れると、綺麗に掃除されており、お供えも置かれている。  私はどこかにいるあなたを想って手を合わせる。線香の煙はもくもくと高く昇ってゆく。今日は風が弱く、一直線に空へと昇ってゆく。このまま、あの雲の元まで届くのではないかと思えるほど真っ直ぐと。  昇ってゆく煙と雲を静かに眺めていた。私はあの頃より大人になれただろうか。大人であることの証明方法はいまだに分からないが、あの時のあなたの年齢を超えてもあなたより大人になれた気がしない。  慰霊碑のすぐそばにいた鳩が大きく羽ばたいて空へ飛んでいき、その羽ばたきで真っ直ぐ伸びていた煙は宙で散ってしまった。私は鳩を静かに眺める。雨上がりの湿った河川敷から、果てしないこの大空のどこへ飛び立つというのだろう。一体何を見つめて、どこを目指しているのか。  少し風が吹いて、冷える体を摩りながら私は帰路に着く。太陽を横目に、帽子を外し、風に髪を預けて靡かせる。今日の雲の流れは緩やかで、一日経ってもまるで進みそうにない。

3
0

愛のために

 どうにも腹が立って、殴ってやりたい気分であった。それは、俺が暴虐な性格をしているからとか、酔っていて理性がないからとか、安っぽいドラマのような復讐のためとか、そんなことでは一切ない。俺はこの胸のうちにいる俺自身を殴ってやりたいのだ。  なぜそんなことを思ったかというと、事は数時間前のことである。冷蔵庫に入っていたプリンを一つ食べたのである。それはそれは美味しいプリンであったが、不味い事が一つあった。そのプリンは俺の妹が大事に大事に取っていたものであるということ。  妹がプリンを楽しみに帰宅したタイミングと俺がプリンを楽しんでいるタイミングが重なったこともまずかった。怒り心頭の妹に俺はなす術がなく、コンビニで新たなプリンを買いに出かけるも同じ種類のものがないために似たようなものを買って誤魔化そうとしたことも問題で、妹は絶賛不機嫌である。 「なぁ、悪かったよ。知らなかったんだ、新しいプリンなら十個でも買ってやるから許してくれよ」  俺は愛する妹に何とか許してもらおうと必死の言い訳をするも響いてはいないようだ。 「もので釣ったってだめだもん。私はあのときあのプリンが食べたかったのに。お兄は自分の何が悪いのか何にも分かってない」  そういって部屋に立て篭もったっきり出てきてくれないのだ。  この家は兄である俺と妹の二人しか暮らしておらず、二人で過ごすのにもやや大きいのだが一人になるとより一層寂しさを際立てる。  最近は掃除もできておらず家全体がほんのわずかに臭う。妹のご機嫌取りのための甘いデザートついでに芳香剤にファブリーズ、その他の消臭グッズも買いに行こうと家を出た。  近くのスーパーで必要な品とその他何となく欲しかったものを手に取った。合わせてコンドームも購入した。妹と買い物する時は気まずくて購入できないが、最近頻度が少し増えた気がする。やはり人間関係のしがらみが減ると依存してしまうのかもしれない。  そんなことを考えているとしがらみだった人たちが脳裏をよぎって非常に不愉快であった。  美味しいプリンを山ほど買ってお姫様の待つ我が家に到着した。やはり臭いがキツイと思い、真っ先に消臭スプレーを散布し、消臭グッズを設置した。効果は薄いと思われるが、念のため臭いの元と思しきものに塩をかけておいた。 「おーいプリン買ってきたぞー」  妹の部屋に向かってそういった。 「いらないもん。お兄が悪いんだもん」  妹としても意地なってしまっており、引き際を見失ったようにも思えた。 「まぁ、そういうなよ。ただのプリンじゃない。プリンアラモードもあるんだ。お昼のことは本当に俺が悪かったよ。このどうしようもない兄貴をどうか許してくれ」  プリンアラモードで妹の気を引き、自分を卑下することで分かりやすい落とし所を作る作戦は非常に上手くいった。 「もぉ、本当にどうしようもないお兄ちゃん。プリンアラモード一緒に食べよ」  ちょこっとだけ扉を開けて顔を出した妹は、プリンアラモードの入った袋ごと俺を部屋に引き入れた。 「別に今なら部屋じゃなくてもいいのに」 「そうかもだけどリビングだと気味が悪いじゃん」 「そうかな。俺はあんまり気にしないけど」 「私が気にするの馬鹿。それにさこんなものまで買ってさ」  そういって、ビニール袋に入れたままのコンドームの箱を取り出してからかってきた。 「あ、しまい忘れてた」  妹は得意気になって箱からゴムを取り出して見せた。 「お兄もこんなの買って、もぉー。こんなの要らないのに」 「いや、お前のためを思ってだな」 「だから要らないって」  妹はそういうとコンドームを放り投げて、俺の局部を触ってきた。 「今まで使ってなかったんだからさ」  耳元で吐息のような声でそう囁いた。昨日もそのまた昨日も行為にいたったのに、まだまだやり足りなかった。若さゆえなのだろうか。  こちらも淫らな手つきで妹へ触れた。そこから先は止まることはなかった。妹をベッドに押し倒しながらキスをした。もうどっちの唾液なのかも分からないほど舌を絡めた。手慣れた手つきで妹の服を脱がしてお互い下着一枚という状態で絡み合った。  もう我慢できない様子の妹を焦らしながら前戯する。舌で首から胸へ、胸から乳首へと舐めながら局部を刺激した。妹が体を痙攣させながら絶頂したタイミングで妹の局部に擦り合わせるように自分のものを当てた。  もうコンドームをつけようなんて発想はひとつもない。腰をうねらしながら天を仰ぐ妹にゆっくりと、それでいて押し込むように挿入した。  それからのことはよく覚えていない。最終的には妹に求められるままに膣内に射精した。  妹が果ててしまったのを機に休憩した。 「リビングに水を取りに行ってくる」 「わ、私も」  息を切らせながらも常に俺についてこようとする。何て愛おしい妹なんだ。  スーパーで買った水は、リビングの机で長い間常温であり、もう冷たくはなかった。 「確かにリビングだと気味が悪いかもな」 「そうでしょ。やっと分かったかー」  温くなった水を飲みながら、数日前に殺した冷たい両親を横目に俺たちはそういった。  俺たちの関係を知って俺たちを遠ざけようとするから悪いのだ。冷えることのない俺たちの愛に勝る力はないのだと思えた。

9
0