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29 件の小説風が止む
磯の匂いが漂う、断崖の岩場に腰を下ろして座る男が一人。波が岩にぶつかり、水飛沫が男の元まで飛んでくる。男は避けることもせずにただ膝を抱えて座っていた。むしろその波に飲まれることを望んでいるかのようであった。 日が落ち始めているが空はまだ青い。海は荒々しく唸り、音を轟かせる。波の強さはさまざまで、時には岩にも届かず、時には男を包み込む一歩手前まで。 強い日差しが、わずかに濡れた男の服を乾かす。濡れが乾くたびに、男の心も乾く。 海に向かって座る男の背には、崖が広がる。崖は少し反り返っており、小石がたまに落ちてくる。時々男の体にもぶつかり、そうすると男はゆっくりと上を眺め、目を細めて下を向く。 崖の上には鮮やかな緑の木々がある。樹木が放つ独特の香りが崖を支配しているが、果てしない海が邪魔をして、男まで届くことはない。 岩場を越え、波を越え、水平線の位置に大きな離れ鯨がいた。男は顔を上げ、鯨を見つめている。鯨はどこかに行くこともこちらによってくることもしない。海が陽の光を反射し男の眼を傷つけるが、男はそれを気にすることもなく鯨を見つめていた。 男は何度か立ち上がり、鯨のいる海へ向かおうとしたが、結局は足がすくみ、また座り込んでしまう。 少しして、風が強く吹き始めた。その風は強烈な海の匂いを含んでおり、うるさく崖にぶつかり、男の元へ不快な音と匂いを届けた。風のせいか、崖から再び小石が落ちてきた。男もはじめのうちは無視していたが、あんまりにも降ってくるものだから座る位置を少し変え、上を睨んだ。 男が上を睨んだ時、波の音も風の音も掻き消すほどの叫び声が聞こえた。それは人間のものとは違う、もっと野生的で、緊張感を孕んでいた。そして男は確かに崖の上から小石とは別に何か大きな物体が落ちてくるのを見た。 鹿だった。まだ生きている。おそらく子鹿であり、その瞳は潤んでいるようにも見える。男は立ち上がり、目を見開き、息を呑む。胸に手を当て、過呼吸気味であった。子鹿は先ほど男が座っていた位置へと落下しており、その身体は立ち上がることを拒否している。 子鹿の鳴き声はその場を支配し、男の心臓の鼓動は加速した。男は岩場を慎重に歩き、一歩ずつ子鹿へと近づいた。子鹿は動かぬ体を最大限震わせて、男を見つめている。 その時、今までとは異なる、男の背丈の数倍はある波が岩場を襲った。思わず飛び退けた男は、全身が濡れるだけで、事なきを得た。しかし、動くことのできぬ子鹿は波にさらわれていった。日差しも弱まり、岩場はどこまでも湿気を放っている。 波の向こうに子鹿が浮かんでいるのが見える。日は暮れ、空は赤くなりつつあった。濡れた岩場に、血の跡があるのを男が発見する。それは、間違いなく子鹿のものであった。男は静かにその場を後にする。波と風の音は止まないが、子鹿の鳴き声がいつまでも残響していた。 舗装された道の隅を男は歩いていた。磯の匂いは薄まり、徐々に木々の香りが強くなる。歩くには堪える坂道を男は走りながら登っていた。濡れた衣服と風が男の体温を奪い、男は無理にでも体を動かした。そうすることで思考を捨て去るかのように。 坂道を登り切り、膝に手を当て、乱れた呼吸を整える。男はここが崖の上であることに気がついた。いるはずのない子鹿が男の目に映る。男の足は無意識に進んでいた。 海の近くであるのに、木々に囲まれ、今では森の気配の方が強かった。日没前は薄暗く、不安定な地面に何度か躓きそうになる。 進んでいく男の前には、藪が伸び、岩で塞がれ、時には背丈の半分ほどしかない道が続いた。 最後の一本の木を抜ければひらけた場所に出る、というとき、日が落ちる直前、最後の煌めきが男の視界を奪う。男は顔を背け、目頭を押さえ、うずくまった。 男が目を開けた時、眼前にはどこまでも広がる海と茜色の太陽があった。そして、同時に崖端でもあり、一歩の余裕もないほどだった。男はゆっくりと立ち上がり、波の音に耳を傾ける。海が見えてから、その匂いと音が強まる。男はただ海を眺めていた。その視線の先には未だに離れ鯨が悠々と泳いでいる。 鯨はそのままどこか遠くへ泳いでいった。男は手を伸ばし、鯨を眺め続けるが、ついには見えなくなった。男はただ立っているだけであった。 男はとうとう座り込んでしまう。いよいよ、日は沈み、月明かりと星の輝きだけが男の頼りであった。 そのとき、可愛らしく、小さな鳴き声が聞こえた。男が振り返ると、木の奥に光る瞳が見えた。その瞳は獣の匂いを放っていたが、鳴き声が男の表情を柔らかくした。 その光る瞳は少しずつ男へ近づき、とうとうその正体が子鹿であることを明かした。男は声も出ず、顔を顰め、足は震え始める。 子鹿は小刻みに息を吐き、毛が揺れる。片足を地面に擦り始め、崖に向かって走り出そうとする。 男もそれに気がつき、冷や汗をかいた。風が吹き、木々がざわめき始め、月明かりが二人を照らす。男の膝は震えていたが、目は開いており、口はキツく閉じられ、大きく息を吸う。 そして男は、最大限口を開き、声をあげた。その声は言葉ではなく、単純な音であり、落下した子鹿の悲鳴に近かった。男は自らの声に震えながら目を閉じた。ただ叫ぶ男の耳には、風も波も聞こえない。 その叫びが途切れたとき、永遠にも思える静寂があまりに響く。叫び終わってもなお、男は目を開くことができなかった。呼吸を整え、下を向きながら目を開ける。 風が止む。 男が前を向いたとき、子鹿はもういなかった。男は仰向けで倒れ、口角を吊り上げた。そうして、小さく声をあげた。男はもう海を見ていなかった。 男はそのまま寝てしまい、月明かりが男の寝顔を照らす。海の匂いが優しく周囲を包む。そこに先ほどの子鹿がやってきて、音も立てずに男の横に立つ。子鹿はその温かな顔を男へ近づけ、男の顔を舐める。その温もりは夜に溶けていった。 木々の香りが漂う中で、月が歌っている。子鹿の姿はもうどこにも見えなかったが、海から子鹿の鳴き声がする。その鳴き声と共に鯨が再び泳いできた。尾鰭で波打つ音が海にこだまし、海面の月が揺れていた。
微熱
金はない。人望もない。だが時間だけはある。孤独な大学生は何をすれば良いのだろう。場違いのカフェから逃げ出し、期間限定の暖かなコーヒーラテを片手にそんなことを考えていた。 悴んだ手にコーヒーは少し熱く、両方の手で熱を交互に逃しあっている。都会の隅にはどこにでも寂しげな公園がある。都市の思惑とは異なり、そこには陰鬱な顔の人々が集まる。 その日も子供の声などは聞こえず、こんな都会のどこにいるのかというほどの老人が集まっていた。ベンチに腰掛け、ようやく持ち替える必要のなくなったコーヒーを一口飲む。 「あち」 思わず声が出るほどで、舌がヒリヒリとしている。顔を上げると老人たちがこちらを睨んでいるように見えた。人生の佳境は過ぎたろうに、どうして若者を睨むのか。執拗にコーヒーを冷ましながら、頬をかいた。 老人たちは曲がった腰からは想像もつかぬバイタリティで、ゲートボールに夢中であった。老人のうちの一人が、公園の地面の段差で自由に跳ねる球に文句を言っている。その声を聞いて、足を閉じ、顔を俯けた。昼間に何もしていない自分が叱責されている気がした。 そのとき、大きな声が公園に響いた。その声は鋭かったり鈍かったりとさまざまである。犬を連れた主婦団体が甲高い声で会話している。薄暗い今日の天気など見えていないのかのように、自分たちの世界を作り上げている。 犬も主婦も、好き勝手に喋っていた。側から見るとどうして会話できているのか不思議でならなかった。誰一人犬に構うことなく、犬もまた人間には興味を示さない。一つの空間にいながら、二つの集団となっている。 ぼーっと集団を眺めている時、一匹の犬がこちらを睨んでいた。いや、睨んでいないかもしれない。とにかくこちらを見つめていた。目先を細め、歯を見せ、生ぬるい息を不規則に吐いている。思わず視線を逸らした。届くはずのない絶妙な獣臭を感じて、目を顰める。 その犬が突然駆け、老人たちの元へ突っ込んでいく。主婦はリードを握っていないどころか、犬を見てもいない。何人かは気がついていたようだが、焦りの顔は見えなかった。心臓の鼓動が速くなり、唾を飲んだ。ベンチに腰が張り付き、ただコーヒーのカップを強く握る。カップは想像よりも無機質で、熱を伝えようとはしない。 老人たちは未だに公園に文句を言っており、ゲートボールは停滞している。地面に生えている雑草を抜いていたり、踏み潰して整地していた。 土の上では足音ひとつ響かず、老人たちは犬に気が付かない。しゃがみ込み、雑草を黙々と抜く老人へと犬が飛びかかった。顔を逸らし、目を閉じて、衝撃に備えるかのように体を丸めた。 聞こえてきたのは笑い声だった。瞼を開けては閉じる。何度か繰り返したのちに顔を上げた。腰を地面について仰向けの老人のお腹に、犬がその全身を預けていた。 飼い主と思われる主婦は、ゆっくりと歩きながら老人に近づき、笑いながら頭を下げる。周囲の老人たちも頬を緩めている。 その時、ズボンがずぶ濡れになっていることに気がついた。先ほど溢したコーヒーが右足に染み込んでいた。そこまで経ってその熱さに気がつき、声を上げずにもがいた。 熱さを誤魔化すために、濡れたズボンをペチペチと叩いた。手が少しずつ濡れていくのがわかる。手が冷えるのとは対照的に顔が熱くなった。 ゲートボールを見ることも、主婦の会話を聞くことも、犬を見て微笑むこともできずに耳先を赤くする。 熱が取れ、ゆっくりと顔を上げた。ある老人は犬と戯れ、ある老人は雑草を抜き、ある老人は文句を言っている。主婦たちは間違いのない笑顔で過ごしている。ただ一人自分だけが、声を上げることもなく陰鬱な顔でベンチに座っている。 顔を上げて、空を見た。青と白。眩しかった。小さく微笑み、立ち上がり、カフェを目指した。 カフェで先ほどと同じコーヒーを一回り大きなサイズで注文した。店員は穏やかな口調であった。席につき、コーヒーを口にする。やっぱり熱い。けれど、飲めないことはなく、その方が美味しかった。 木製の机は柔らかく、照明は優しい。店内はタイピングの音と他愛もない世間話で満たされている。 ふと、カップを見ると隅の方に文字が書かれていた。 「本日二度目のご来店ありがとうございます」 角がなく丸み帯びたその文字列の先には可愛い表情のニコニコマークがあった。その文字に触れ、なぞった。まだ書かれたばかりの文字は、指先に合わせて、綺麗に滲んだ。 誰が書いたのか気になって店員に視線を向ける。オレンジが僅かに含まれた茶髪に、お団子ヘア。支給されたであろう緑色の制服。輝く瞳は大きく、過度ではない化粧が、素朴さを感じさせる。ちらちらと見ていると、目が合った。店員は少しだけ口角を上げてすぐに目線を移した。 この短時間に二度も同じコーヒーを頼む人間はおかしなものだ。誰にも聞こえないぐらいの声で、笑った。 近くの女子高生はもっと大きな声で笑っていた。端に座る会社員は堂々と電話をかけている。お婆さんは周囲など気にすることもなく文庫本を読み、レジに並ぶ男性は注文の仕方がよく分からずに戸惑う。口を開け、もう少し大きな声で笑った。 右隣の女性はイヤホンをしており、こちらを見ることもしない。左隣の男性は見たこともないキャラクターの動画を再生しながらスマホを凝視している。 コーヒーは熱が取れ、飲みやすい。先ほどの熱いコーヒーも好きだが、このコーヒーは喉を潤してくれる。何より、この時間が安堵であり落ち着きをもたらす。 口角は吊り上がり、目は煌めく。カップを優しく握り、滲んだ文字をいつまでも眺めていたかった。入店と退店、電話話に世間話。それと笑い声。カフェという一つの集団の音は柔らかく響く。 金もない。人望もない。それでも、暖かなコーヒーを飲み、落ち着く時間がある。
池の底で
男がワニと向かい合って座っていた。周囲には人の気配どころか生き物の気配ひとつない。微かな木漏れ日と清廉な池が神秘めいている。男は倒木に寄りかかり、池に片足だけを踏み込みワニと対峙している。冬の訪れを感じさせる風が山の木々を揺らし、池の水面に模様を作り出す。 ワニは硬質な深緑の皮膚のほとんどを水中に沈めており、その鼻先と鋭い目だけが浮かんでいるように見えた。ワニは音も立てず、波も立てず、静かに男へ近づいた。もはや手を伸ばせば届く距離になっていたが、男は逃げるどころか身じろぎひとつない。 屈強な男は分厚い顎髭をそっと撫でながらワニを見つめる。男は池に浸かっていた足を抜き、胡座でどっしりと構えた。腕を組み、ワニを見つめながら石像のように固まって動かなくなった。 足を抜いたときの波紋がワニの鼻先と目を濡らす。ワニも距離を詰めることを止め、男を見つめるばかりであった。二人の間に深い静寂が訪れた。 動くことのない男は、目尻に皺を寄せ、額に汗を浮かべる。ワニも僅かばかりの波を立て、小さく揺れ動いていた。 静寂を破ったのは不穏な金属音であった。男は分厚い手で短刀をきつく握りしめている。それを見ていたワニも静かに動いた。水面が揺れる。目と鼻先だけでなく、鋭利な歯を持つ口全体が水の外にあった。 男は立ち上がり、短刀を握る手には汗が滲んでいた。男が少しばかり後退りをすると踵が倒木にぶつかった。男は目を細めながらも口角を緩ませた。 その刹那、水飛沫が宙を舞った。水中にあった全身のほとんどが飛び出た。ワニの体は水を破り、真っ直ぐ男へと向かった。それに応えて、男も後ろへ飛び跳ねる。倒木を挟んで両者は緊張に包まれた。 「なるほど、噂通りの人喰いワニか」 おどけた口調であるが、表情は苦しそうであった。男の身体が震えており、それが恐怖なのか武者震いなのかは男にも分からなかった。 先ほどまでの静寂が嘘であるかのように、ワニはけたたましく咆哮した。そしてそれは声にとどまらず、倒木をも飛び越えてくる身体が森全体を轟かせているようであった。 「俺も人はよう殺してきたんじゃ」 男は目と口を可能な限り開き、そう叫ぶ。迫り来るワニのその鋭利な歯を左腕で受け止める。深緑の皮膚が血飛沫をより鮮明にさせる。男は顔を大きく歪め、絶叫した。理性とも本能とも取れぬ判断で右手に持つ短刀をワニへ突き立てた。深緑の皮膚にもう一つの血液が流れた。 ワニは飛び跳ねるように後方へ転がる。男は左腕の痛みを感じさせぬ勇猛な顔つきで、仰向けの腹に短刀を突き刺した。何度も突き刺し、分厚い顎髭が赤に染まった。 男はワニを突き刺すたびに目を絞るように細め、歯軋りしながら苦しんだ。 動かなくなったワニを、男は片方の手で引きずり、倒木を乗り越え、元いた池へと戻した。池はワニの血で染まり、赤の模様を作り出した。男は、腹を上にして水中に沈むことなく浮かんでいるワニを見ていた。笑うでも悲しむでも、怒りでもなく、男は虚な目で呆然としていた。 日が沈み始め、空が赤く染まる頃に、男は村を目指して下山し始めた。血の滴る左腕を押さえ、今になって大きく顔を顰めている。 次第に雨が降り始めた。雨は男の血を洗い流したが、同時に体温も奪っていく。雨で地面はぬかるみ、男は何度か足を取られて転ぶ。気力も体力も限界に近かった。 とうとう倒れ込んだ男は瞳を閉じて、そのまま楽になってしまいたかった。起き上がるための腕は負傷し、体は冷えるばかり。夜が深まればさらに気温は下がっていく。 そのとき、雨音に混ざって泥を踏み分ける足音がした。足音は煙草の匂いを纏っており、山の匂いを異質にした。 「おい、どうした。大丈夫か」 二人の老人が男の元へとやってきた。老人は二人とも厚手の格好をしており、頭には笠、腰には長筒の猟銃を抱えていた。 老人は男が左腕に傷を抱えているのを見て、すぐに人喰いワニの仕業だと気がつき、猟銃を構えて周囲を警戒している。 雨音と泥の匂いが漂う山中で猟銃の音が異質に響く。老人は男を静かに抱き上げ、村へ連れて治療するために、背負った。 その時、男は目覚め、傷を庇うこともなく暴れ始めた。左腕からは血が滴り、目は充血し、掠れた声がこだました。 「おい、おい。こいつは」 周囲を警戒していたもう一人の老人が男の顔を見て、声を荒げた。老人の顔に先ほどまでの憐れみはなく、青ざめている。 男は残っている命の全てを削るかのように、老人には見えぬ何かと、怯えた顔つきで戦っていた。 あまりに暴れるものだから背負っていた老人は仕方なく男を下ろす。そして、その時もう一人の老人も男の存在に気がつき、声を詰まらせた。 「こいつは、あの、逃げ出した死刑囚か」 いよいよ本格的に夜が始まるという頃、雨と風が森のざわめきを演出し、大地の香りは泥臭く、雲が星々を隠す。 その時に、一つの大きな音が鳴り響いた。その音は雨音や風を置き去りにし、山全体を支配した。そして、その音の正体が、男の脇腹を貫いた。 老人の手に持つ銃口からは煙が上がり、山は驚くほどの沈黙に包まれた。その直後、男は痛みに悶絶しながらも、身体を揺らして老人達から逃げた。足取りは不安定で、何度か泥に足を取られて転んだ。 老人達も深く追うことはせず、老人の手にぶら下がる銃は小さく震えている。その煙だけが、揺らぐことなく真っ直ぐと空に登り、雨に消えていった。 男は考えも持たぬまま逃げ惑い、気がついた時には、池の前の倒木に倒れ込んだ。隙間風のような呼吸音と、隠すこともできない血まみれの身体は既に限界を超えている。 男の視線の先には、腹を浮かべて、動かぬワニ。美しい池も、血と泥が混ざり合い、不穏な色をしている。男は這うように倒木を進んだ。 右腕と、疲れ切った両足を最大限に動かして少しずつ進んでいく。そうして池に手が触れ、顔が触れ、とうとう全身が収まった。男は左腕でワニの腹を撫でながら、絶命した。 翌朝になると、雨は上がり、朝日が木漏れ日となって池を照らす。池には依然として二つの死体が浮かんでいた。その横の倒木には、小さな白いキノコが生えている。 まだ冬が本格的に始まる前の、穏やかで少し暖かい風が池の水面を揺らしていた。
批評
この批評文は確認の取れなかった作者様のもののみになります。既に批評済みの作品は省略させていただきます。 今回は募集企画へのご参加ありがとうございます。誠意を持って批評させていただきます。また、あくまで一読者の意見であることをご理解ください。 『煙草とあなた——煙草も、私も、あなたの大切。』 かつらな様 この作品は歪んだ愛と複雑な人間関係を、煙草という象徴を用いて表現しています。 以下にその長所を挙げていきます。 まず、作品の構成の素晴らしさが挙げられます。ヒロインは裕二の暴力を愛と感じますが、一度は異常を理解して裕二の元を離れます。しかし、最終的には裕二の元へ戻ります。これはDVなどの問題が身体的な束縛だけでなく、精神的なものであることを示唆しています。 これについて次の一文が示しています。 「夜、アパートを出た。 玄関のドアを閉める音が、 まるで自分の鼓動みたいに響いた。 カバンの中には財布とスマホと、 裕二の吸いかけの煙草が一本。 火をつけてみた。 苦かった。 でも、安心した。」 煙草は暴力や裕二そのものの象徴です。その煙草(暴力)を苦い(辛い)と認識しているにも関わらず、そこに安心感を抱いています。これが精神的に束縛していることを、直接ではなく間接的に示しており、文学的にも非常に優れています。 また、煙草の役割はこれにとどまりません。次の一文を見てみましょう。 「叩かれた夜も、抱きしめられた夜も、 どちらも同じぐらい、あたたかった。 部屋の中にはいつも煙草の匂いが漂っていて、 カーテンから入る外の光まで、 灰色に染まっていた。」 叩かれた夜と抱きしめられた夜を同列に語っており、その関係性の異常さが始めに提示されます。その後、煙草の煙がヒロインの世界から色彩を奪う描写があります。これはただの情景描写ではなく、どれだけ厳しく苦しい状態にあるのかを表現しています。 また、作中で裕二が「お前は俺のもんだ」と言うシーンがありますが、これは愛だったものが支配欲に変わる場面です。これにより被害者の一方的な視野にとどまることなく、加害者の視点も含まれます。 加えて、裕二に関してはヒロインが出ていった時の苦痛を感じる視点もあります。これにより単純な被害者と加害者の関係ではなく、歪んだ相互関係にあることが分かります。 裕二の視点を描くことで、物語に奥行きを与えています。 一方でこの作品には弱点もあります。例えば、作中で二人の関係性の問題を指摘する人物が現れますが、やや説明的で舞台装置の一環となっています。もう少し人物描写や関わりを持たせることで、二人の関係のさらなる葛藤を描くことができるのではないかと考えます。 また、感情表現がやや直裁的な箇所があります。例えば、次の一文です。 「ただ、煙草を咥えたまま私を見た。 その目は、優しくて、冷たかった。」 この時、裕二の目は優しく冷たいと述べられています。しかし、これは少し説明的であり読者の想像力を制限しているように思えます。具体的にどんな顔をしていたのか、煙草の匂いはどのように感じたのか、など具体描写で感情を描けば、より作品の主題が伝わるでしょう。 全体的にもう少し読者を信頼して、感情を書かずして感情を伝えても良かったのではないかと感じました。 しかし、この作品は歪んだ愛とその関係性を巧みな象徴で表現しており、優れた短編小説であるといえるでしょう。 また、再三になりますが、今回の批評はあくまで一読者のものであることをご理解ください。 今後も素晴らしい作品を楽しみにしています。 ※この投稿は作者様の確認が取れ次第削除しますので、確認ができたらコメントもしくはいいねをお願いします。
山道
人生とは山道に似ている。登っても登っても得られるものはなく、山頂に着いたかと思えば下るばかりである。しかし、振り返ってみればあれほど良い思い出はない。 人より狸が多い裏山で少年は藪を踏み分けてゆく。鋭い葉で手先が切れることも厭わず、まるで何かが待っているとでもいうかのように、目を光らせて進んでゆく。 祖父の家を背に、帰路の目印もない道で何かを目指しながら歩いていた。少年の小さな足でその背丈ほどもある段差をよじ登り、湿った落ち葉と露を含んだ陰り木で強調された暗がりを進んだ。 少年はとうとう段差を登り切り、喜びを噛み締めながら藪の壁を打ち砕いた。しかし、そこには新たな山道が続いていた。少年にとっては大きな、山にとっては小さな丘は微かな木漏れ日を感じることができた。 登ることを諦め祖父の元へ帰ろうとしたその時、落ち葉に隠されたぬかるみが少年をあらぬ方向へ突いた。手首と腰の痺れるような痛みで少年は顔を顰めた。痛みを堪え立ち上がったところでより強く顔を顰めた。背丈の倍ほどはある段差へ落とされていた。 それからは少年にとっての地獄であった。風は心身を冷やし、泥が全身を見窄らしくし、泣き叫び喉は掠れていた。段差に手をかけ足をかけ脱出を図るが、それを嘲笑うかのように泥まみれの段差はよく滑る。やがて雨が降り出し、少年の涙までも飲み込んでしまった。 少年は立つことをやめて地面へ座り込んでしまった。泥まみれの手で涙を拭い、頬についた泥を雨が流した。少年は意を決したように段差から距離を取り、そのまま勢いよく助走を始めた。しかし、ぬかるみに足を取られ、段差へ到達することなくそのまま地面へ倒れ込んだ。寒さは極限に達し、震える身体を起こすことができなかった。 そのとき、微かに聞こえる祖父の声に少年の硬直した身体が反応した。掠れた声で助けを求めた。少年の声に呼応するように雨も強まった。雨にかき消されぬように少年はより声を強めた。溢れそうな涙を息と共に飲み込んだ。 ちょうどそのとき段差の上から祖父が顔を覗かせた。少年は雨よりも大粒の涙を流し、祖父は暗がりを照らすほどの笑顔であった。歳を感じさせぬ動きで段差から飛び降り少年を肩に担いだ。ようやく段差から脱した少年は祖父に抱きつき、家へ着くまで袖を離さなかった。 家へ着き、暖かなシャワーで少年は心身が温まるのを感じていた。ゴワゴワとしたタオルで全身の濡れを拭き、祖父にドライヤーをかけてもらっている。泥ひとつない服へ着替え、居間で大福を頬張った。 空腹ゆえに普段よりも素早く大福を掴む少年を見て祖父はニコニコとしてお茶を啜っている。少年は苦いと言いながらも祖父のお茶を頬を緩めながら啜っている。その日、少年と祖父は同じ布団で寝た。 もう随分と昔、それでいて忘れることのできない思い出を抱えて高速自動車道を走る。久しく訪れる祖父の顔は記憶の中のままで、まだ自分の頭を撫でてくれるような気がしていた。 道中で立ち寄ることもなく、心なしかいつもより速度を出して向かっていた。真っ白な外国車を、土と木々の香る祖父の庭に停めた。簡単な手土産を持ち、あの時と変わらない玄関を開けた。 米寿になった祖父は、皺が増え、髪は白く薄く、少し痩せ細っていた。それでも照らしてくれる笑顔は変わりなく、胸を撫で下ろした。 居間では何人かの親戚が忙しなく言葉を交わしていた。特に誰と話すでもなく、角の方で時間を潰していた。可能な限り静かに呼吸し、下を向いて目の合わぬようにする。 やがて夜になり、忙しない親戚一同は去り際も忙しなかった。台風一過ともいうべき親戚は静寂を残し、その静寂に祖父と自分だけが残っていた。この時ようやく祖父と面を向かって話すことができた。 与太話から真剣な相談まで、話したいことはいくらでもあった。しかし、むず痒く、小っ恥ずかしく、何も言えずに固まってしまった。 「久しぶりだもんなぁ」 雰囲気の重さを汲み取った祖父は優しく表情緩め、お茶を出してくれた。 「まぁ、うん」 「そうだな」 お茶を飲むことで時間を消費している自覚はあるが、まさか何も話す前に飲み切ってしまうとは思わなかった。 「なんだ、喉が渇いていたのか」 「いや、そういうわけじゃないけど、うん」 「もう苦い苦いって、ゆっくり飲むわけじゃないんだもんな」 そういって笑いながらも哀しそうな顔をした祖父をみて俯いてしまった。 それから二人の間にはほとんど何の会話もなかった。ときどき祖父に話しかけられて相槌を打つだけである。 祖父はその老体を感じさせぬ元気さがあるが、就寝時間は老人らしかった。何も言っていなかったが、祖父は無言で布団を二人分敷いてくれた。 部屋は暗くなり、とうとう沈黙のみになった。雨戸を打つ夜雨が適度に睡眠を誘ったのか、祖父はすぐに小さないびきを鳴らした。 どうにも眠れず、軒先でたばこに火をつけた。その頃には雨は上がっており、虫たちの演奏を聴くこともできた。たばこの火と液晶の灯りが周囲を静かに照らした。 部屋に戻ってもやはり眠気は来なかった。空虚な画面をぼんやりと眺めているうちに夜明け前になってしまった。もう一度たばこを吸いに外へ出ると、ふと裏山のことが気になった。 裏山への入り口は大量の落ち葉と藪が支配していた。何を思うでもなく、藪を掻き分けて山道を登り始めた。スマホのライトで片手を失い、濡れた葉で全身が湿り、ぬかるみの道を進んでゆく。 何も分からぬ道なき道を、微かな記憶を頼りに、木々の隙間を縫ってゆく。そうして、腰ほどまであり見覚えのある段差に出会った。水を存分に含んだ土の香りと鋭い葉の切り傷が少年時代を思い起こさせた。 全身に泥がつくことも厭わず、地面を這うように登った。藪の壁を越えて踊り場のような小さな丘へ出た。そこまできて、泥と寒さに包まれた体はようやく眠気を迎えた。 もう帰ろうと思って、ぬかるみに足を取られ、溝に落ちてしまった。腰に手を当てゆっくりと立ち上がる。小さな欠伸を噛み殺し、自分の背丈より少し小さな段差に触れる。段差の上部に見える、足跡をなぞる。泥の足跡は柔らかく、形を保つことが困難に思えた。スマホのライトを消し、両手でその足跡を撫でた。 風が山を静かに動かす。虫たちの歌は合唱となり、土の匂いが強まる。冷たさと暖かさの両方を含んだ風が頬についた泥を乾かす。 人生は山道に似ている。登りも下りも、歩いている時間でさえも無意味に思える。ただ自分の歩いてきた時間を認めることで、何かが解かれる気がしていた。 雨上がりの夜明け前は暗い。風に揺れる濡れた落ち葉がぬかるみの上で踊っていた。
潜った刃
生暖かい規則的な風を肌に受ける。夏が過ぎても暑い異常な気温を団扇で扇ぎながら凌ぐ。夏場の弁当箱のような湿気と熱が支配した部屋だった。 そろそろエアコン工事をしようかと考えるが、まだ我慢できるだろうと欲を抑える。去年もそんなことを考えていたと思い出して笑った。 そう考え、エアコンをつけることを異常に嫌っていた母親を思い出した。設置しているのにも関わらず、ただの一度としてエアコンをつけることはなく、それでいて週に一度以上は必ずエアコン掃除をする粗雑な母のことを。消費期限の切れた食材を躊躇いもなく使用し、ほとんど食べることのできぬ弁当箱を懐かしむ。潔癖症でありながら杜撰な人であった。 小さなカバンにタバコとライター、それと財布に小刀だけを持って、冷気を求めてカフェに向かった。道端に占い師が座っているのを見かけた。占い師はいかにもな紫色の外套を着て、水晶玉を抱えていた。整理整頓された街中でその占い師は異質であり、それでいてどこか納得のいく不思議な存在であった。まるで元からそこにいたかのような。 この気温で外套を覆っていては暑くてたまらないだろうと思い眺めていたことをすぐに後悔した。言い訳の余地もなく、完全に目が合ってしまい、あ、と小さく声を漏らした。すぐに目を逸らしてどこかへ立ち去ってしまえばよかったが、無言の中に流れる気まずさから膝の関節が固定され、不自然に立ち止まった。そのとき、口元を黒いスカーフで覆い隠していた占い師の目元が笑っていたことに気がつき妙な寒気を覚えた。 「こっちにきてみぃ」 老爺とも老婆ともとれぬ、とにかく老いた声で占い師は手招きをした。 近づいてみると、座席と水晶置きを兼ねている台はなんとも見窄らしく、隅の方が擦れていた。加えて占い師の外套は、汚くはないもののとても清潔とは言い難かった。それに独特な香水の匂いがきつかった。 「お兄さん、昼間からどうしたんだい」 占い師は口元のスカーフを外し、黄色い歯を見せながらそう問いかけた。 目尻の皺や深爪、鼻先のイボなどがあまりにもイメージそのままであったことがかえって恐怖を増した。 手招きされていたにも関わらず、話しかけられたことで少し取り乱して動揺した。それを見て占い師はにちゃりと笑いながら頷いた。 「あの人に会いに行くのだろう。理不尽かつひとりよがりの理由で、どうするんだい」 この暑さだというのに汗ひとつかいていない占い師は喉を鳴らすみたいに笑っていた。反対に先ほどまで苦笑を浮かべていたはずの自分は顔が凍っているのではないかと思えた。背中を流れる汗が心までも冷やした。 「いや、その、失礼ですよ」 勇気を振り絞って、占い師へ反抗した。両の手を腰に添え、震える体をなんとか押さえつけた。 「いいや、お前は実行するだろう。カフェなんか行かずに母を尋ねるんだろ」 非対称に吊り上がった口角から、唾を飛ばしながら、つらつらと言葉が流れる。 「いや、そんなこと」 何かを喋らなければならないと思い、とにかく口を開ける。しかし、まるで脳の働いていない現状ではそれ以上のことはできなかった。 「怖いだろう。その鞄の中の小刀が警察にでも見つかれば、そうさ、お前は言い逃れすることはできない」 一縷の希望であった、占い師の適当な虚言の可能性を、たった今破られた。 外からは見えないはずだと鞄を見た。小刀の所在を確かめるように、やや硬めの生地で作られた鞄を優しく握った。小刀がそこにあることで一呼吸ついた。それと同時に小刀を持つ手が震えた。 小刀を持って、腐敗した食べ物の匂いを思い出した。異常なまでに綺麗な家具の部屋が脳裏に浮かんだ。占い師の黄色い歯が母によく似ているなと感じた。小汚く、それでいて極端に不潔でもない占い師は強く母を思い起こさせた。 占い師は優しく笑いながら蓋の壊れている弁当箱を取り出した。それは確かに学生時代に使っていた期限切れの食材が詰まった弁当箱であった。周囲まで臭うわけではないが、顔を近づけると確かに感じる酢酸臭もまた母を思い起こさせた。 「ほれ」 占い師は弁当箱の中の唐揚げを食べるように促してくる。それは母が使っていた長期間放置された冷凍食品の唐揚げに良く似ていた。 もちろん全てが食べられない食材ではないが、この唐揚げだけは食べることができず、必ずどこかへ捨てていた。 占い師は目を逸らすこともなく、食べるように促してくる。何か話すことも逃げることも許されないと感じ、暑さも忘れて震えた。指先は硬直し、歯は震え、不快な音が空間を支配した。 占い師は箸で唐揚げを掴んで口元まで寄せた。占い師は目尻の皺を寄せ、太く綺麗な涙を流していた。唐揚げの酢酸臭を感じて、体中の毛穴が広がる感覚を覚えた。止まる気配のない汗が混乱を加速させた。涙を見て、同情とも取れぬなんとも言えない感情が食べることへのためらいを打ち消した。涙、臭い、食感、記憶の母。おかしなものだけが自分を支配していた。そのまま地面へ倒れ込んだ。 目が覚め、自室にいた。寝起きそのままの格好であった。占い師などいなかった。しかし、口の中に残った不快な感情。異常なまでの汗。これらが恐怖を駆り立てた。 ふと机を見ると、そこには弁当箱が置いてあった。震えながらも好奇心を抱き、弁当箱を手に取った。弾けそうな血管を鎮めようと深呼吸をした。唾を飲み込み、弁当箱を開いた。 弁当箱の中には小刀と唐揚げが入っていた。小刀を手に持ちその刃先を見つめながら占い師の言葉をぼんやりと思い出していた。手を振るわせながらナイフを唐揚げに突き刺した。酢酸臭と鉄の臭いとが混ざり合い、鼻腔を刺激した。その臭いは唐揚げを捨て忘れた日のことを思い起こさせた。 汚れることも気にせず、手掴みで唐揚げを押し込まれた日のことを。母の手からする独特な香水の匂い。頬を伝う母の涙。目に焼きついて離れることのない景色が、目の前にある唐揚げを口へ運ばせた。健康的ではない見た目と香り、何より食感の柔らかさが不快感を強めた。 唐揚げの汚れだけがついた小刀を見つめていた。鉄と酸の臭いであの香水の匂いを消してくれるのではないかと思った。風邪をひいたばかりのような高揚感があった。小刀をぼんやりと見つめ、そのまま勢いにまかせた。 季節が過ぎてもまだ暑い日が続いている。部屋はいまだ蒸し暑く、きつい香水の匂いと血の匂いが漂っていた。
輝きののちに
僕がこの街に残っている理由はよく分からないが、君がこの街を出ていった理由はよく分かる。もしも、今でも煉瓦造りの建物で溢れかえっていたのならば君はこの街にいただろうし、僕も君を離さなかっただろう。 冬が始まる前の冷たく乾いた風が心を冷やし、昔のことをぼんやりと思い起こさせた。だからかは分からないが、街を象徴する高層ビルを遠目に眺め、街の変化を噛み締めていた。 君が好きだった黒くて少しお辞儀しているように見える街灯は、白くてシンプルな未来を感じさせるデザインに変わっている。君の愛した街路樹は少し痩せ細ってピカピカと光るようになった。公園で遊ぶ子どもに手を振る君を見ることはとても叶わないし、尖ったベンチでは横になりながら星を見ることもできない。 それでも僕はこの街が好きだし、変わっていくことは悪いことばかりじゃない。不便をいつでも愛せるわけじゃないから、日に日に機能性を増していくこの街を否定することはできない。それに、変わっていくものばかりでもない。 僕はあまり好きではなかったが、君が何度も連れてきてくれたカフェに入った。コーヒーの種類なんか聞いてもよく分からなくて、僕はいつもおすすめのブレンドコーヒーを飲んでいた。君がいなくなってからもブレンドコーヒーを飲んでいた。だから、メニューに嬉々として貼られているリニューアルのシールが憎かった。 仕方がなく、リニューアルされたブレンドコーヒーを頼んだ。僕はいつもそれだけだったけれど、何かに縋るようにいつも君が食べていたシフォンケーキも頼んだ。 君を思い出すために、シフォンケーキを一口食べた。思ったよりも甘く、口の中が濃くなっていく感覚に溺れた。残った甘みを味わいながらコーヒーを飲んだ。 「美味しい」 思わず呟くほどだった。ほとんど毎日ブレンドコーヒーを飲んでいたのだから、その変化には誰よりも詳しい自信がある。そして、リニューアルされたブレンドコーヒーは良くシフォンケーキに合い、互いに心を喜ばせた。 ああ、君にもこのリニューアルされたコーヒーを飲ませたいなと考えていた。 そこまで考えて、僕がこの街にいる理由が少しだけわかった気がした。何を見ても、何を食べても、君に伝えたい。君を感じていたい。君を思い出すための理由を、僕はこの街に探しているのかもしれない。 君は新しいブレンドコーヒーを嫌がるかもしれないけど、君の好きだったシフォンケーキとの相性は抜群だと伝えたい。 帰りに、子供のいない公園に寄った。寝転ぶことのできない突起付きのベンチに座った。冷たい風がどこか心地よく、君の愛した昔のこの街の気配を思わせた。 辺りはもう暗く、冷たい空気をシンプルな街灯が煌々と照らしていた。 「あ」 なんとなく見上げた夜空に流れ星が見えた。願いを唱えるまもなく流れ星は消えていった。流れ星はその瞬間が最も美しいのだと君は言った。何を当たり前のことをと気にしていなかったが、その通りだなと思った。 刹那が美しいからこそ、余韻の切なさが尾を引く。僕はこの余韻も好きだった。君はかつての美しかった街の、その瞬間だけを愛した。だからこそ、余韻を味わうことはせずにどこかの街で輝きを感じているのだろう。 その時公園の隅に寝そべったカップルがいることに気がつき、少し気まずく感じて帰りたくなった。カップルは草の上で汚れることも気にせずに寝そべっていた。君も汚れることを気にしないタイプでよく僕を困らせていたことを思い出した。 もう一回流れないかな、と彼女が嬉しそうな声で彼氏に抱きついていた。もう一度流れれば君も見に戻ってくるだろうか。 彼氏は面倒くさそうにはぁとか呟いていた。彼女が不貞腐れている姿を見て、僕も君にとった態度を懐かしく感じていた。 「ばんばん流星きたら嬉しくないだろう。いつくるか分からないから楽しみなんだよ」 確かに、とかすごい、とか。彼女は踊るかのように喜びながら彼氏に寄り添った。僕も彼氏に感謝を述べたいぐらい感動を受けた。 確かに、いつまでも過去のままではつまらないかもしれない。輝きを放ったままの街に君が残る保証は何もないのに、僕は君がいた街の輝きだけが君だと感じていた。 突起付きのベンチには寝そべれないが、草のベッドの上ではできる。君といた時より少し低い位置から星空を眺めた。星はあまり見えなかったが、それでも見えないことはなかった。 君がこの街を出ていくのを止める方法は分からないが、僕がこの街にいる理由は十分に見つかった。それで良く、それが良かった。そんなことを思いながら顔を上げて家路についた。
語りの終わりに
彼が何をしたというのだろうか。品行方正で清廉潔白な彼がどうしてこのような悲劇に見舞われるのか。その一幕をお話ししましょう。 安い作りの木樽ジョッキに注がれた薄い葡萄酒を飲みながら旅人の話に耳を傾けた。各地を巡っては居酒屋で口伝の伝承を話す旅人、その大半は物乞いと変わらない。口から出まかせに物語を作り上げるその腕は見事なものだが、教訓めいたことを言い出すと一気に興が覚める。 「元より南方に出自を持つ貴族であったのですが、貧相な土地柄からついには我々のような庶民よりも苦しい生活を強いられることとなります」 席を立とうとした時にどうにも気になる話を旅人が話し出したため、葡萄酒のおかわりと名産だというニシンの酢漬けを注文した。 「しかしは没落貴族といっても貴族ですから、持ち得る限りの関係性を活かし、親戚の親戚の親戚といった具合になんとか面倒を見てくれる人を見つけるのです」 ニシンの酢漬けを食べ、やはり北の方が飯はうまいな、と感心しながら旅人の話の誇張ぶりを笑った。そこまでいったら最早親戚かも怪しいだろうが、その誇張ぶりが旅人の話の魅力でもあった。 「しかしこれまた貴族であったことが仇となり、まるで居候とは思えぬ立ち振る舞いを取るのです。いきなり奴隷のようになれとは難しいかもしれませんが、ここで召使いぐらいの振る舞いであれば、彼に悲劇が訪れることはなかったのかもしれません」 なるほど旅人の言う通りである。実のところ、南方の貴族でそこから没落していったと言う特徴が完全に当てはまっており、胸の内をくすぐられるような好奇心が働いていた。最も自分ではそこまで大袈裟な立ち振る舞いだとは思わないが、伝承者というのは往々にして誇張して話すものである。 「物語が動き出すのはここからで、居候先の王も決して裕福ではなかったのです。その土地の民のことを一番に考えていたものですから、彼らの血税で浮浪者ともいえる没落貴族を匿ってて良いものか随分と悩みました」 先ほどまで並々に注がれた葡萄酒を溢しながらも木樽ジョッキを掲げながら話していた旅人も、不幸が訪れる転換期には席につき、悲しそうな表情をしていた。しかし、その悲しそうな顔さえ大袈裟なものだからなんだか笑えてきた。 「そして」 静まったかと思えば、旅人はジョッキを机に置き、その机を両の手で、ばあん、と勢いよく叩きつけた。 「とうとう、放浪者となんら変わりのない没落貴族は居候先から追い出されることとなりました。しかし、良いことはしていないが悪いこともしていない彼は必死に反抗しました」 自分も同じような行いをしたことがあるな、と思い返し、どこにも似たような人間はいるのだと感じた。 「しかし、王はその態度に強い怒りを示しました。情けで渡していた金銭や食料などを全て奪還し、ほとんどその身一つの状態で門の外へ押し出してしまいました」 ノリに乗っている旅人は机に片足付き声高々と語り出していた。その物語の主人公はまるで他人とは思えぬほど似通った境遇で、誇張されていようがなんであろうが没落貴族へ感情移入してしまった。 「没落貴族は何一つ悪いことをしていないではないか、と怒りに狂い王の牙城へと侵入します。一方で王は少し落ち着きを取り戻して、やりすぎたのではないかと反省し始めるのです」 あの狐のように狡猾なジジイが反省などするわけがない、と完全に自分の視点で物語に共感し始めていた。 「しかし、そんな反省をよそに没落貴族は侵入先で金銀財宝に加えて、非常に価値のある歴史書などを盗み出したのです」 ここまできて、あまりにも自分の境遇と同じであることに気味の悪さを覚え始めた。 ちょうどその時隣の席の屈強な男が、最低な貴族だな、と呟いた。何が最低なんだ。締め出したジジイが悪いのではないか。と声を大にして言いたかったのだが、そんなことをしては自分もそうだとバラすようなものである。 そうして男のぼやきを口火に次々と没落貴族への文句が飛び出した。それを聞いた旅人がにやりと笑うのを見て背筋が冷えるのを確かに感じた。 次々と湧き起こる没落貴族への批判が自分に対する批判に思えてどんどんと孤立していった。だんだんと視線が自分に集まっているような気がしてならない。 「没落貴族、いや、罪人と呼ぶべき男はとうとう悪行に手を染めてしまったのです。人間とは醜いものです。一度悪に落ちると歯止めが効かないのですから」 最早居酒屋の客ほとんど全員が轟々と叫びながら旅人の話に夢中になっていた。その狂乱とも呼べる興奮に自分だけがついていけていないことは明白である。そればかりか、擬似的な敵対関係でさえあった。 「その罪人は金貨や銀貨、金目のものに価値のある書物などを持ち出しては逃亡生活を始めました。この男に訪れる悲劇をそろそろ皆さんもお気付きでしょう」 旅人は皆さんと言いながらも完全にこちらを見ていた。心中へ止めていた怯えは、肩を震わし顔を青ざめさせた。どう考えても自分の物語であるのだから。 誰かが、罪人は殺されるべきだ、と叫んだ。喧騒の中では誰の声かも分からぬが、確かに叫ばれたその声に皆が同調した。 「そうです、罪人は殺されるべきなのです。逃げ切ったと油断している罪人は居酒屋でニシンの酢漬けでも食べながら酒を飲んでいるのです。しかし、神が許しても私たちは罪人を許しはしない」 溢れそうな涙を堪えることに必死だった。今すぐにでも逃げ出したかったが、足が震えて仕方がなく、それは叶わなかった。 「最後には正義が、居酒屋で気ままに酒を飲む罪人の首を刎ね飛ばすのです」 旅人の締めの言葉に居酒屋が沸き起こった。隣人と会話するのも困難なほどであった。その喧騒が悲鳴を引き出した。 「ひいっ」 喧騒の中で私だけが悲鳴をあげた。その瞬間、あれほどの騒ぎがパタリと止み、全員が沈黙の中でこちらを見つめていた。 全身が震え、顔は青ざめ、肌も張り詰めた。呼吸は小刻みになり、周りが静まれば静まるほど心音は騒がしくなった。 「罪人は死に、物語はこれで終わりです」 旅人はそういって腰に携えた立派な剣を高く掲げた。居酒屋で剣を抜くなど到底許された行為ではないが、周囲の人々に咎める姿勢は見えない。それどころか、睨みつけこちらを咎めているようにも見える。 そこまできて初めて殺されるのだと感じた。椅子から転げ落ち、薄い葡萄酒を溢し、震えた身体で地面を這うように旅人から逃げた。 しかし、旅人は机から机へと飛び、華麗な剣技で物語を終えた。
モヒート
耳障りの良いジャズ調のBGMが流れるバーで、無口なマスターの目の前にあるカウンター席の隅に女が机に突っ伏していた。そして、今しがた入店したばかりの男が、失恋中とでも考えたのか、突っ伏している女を誘っていた。 「お姉さんこんばんは。そんなに悲しい顔をしてどうしたんだい。せっかくバーに来たなら人生をより良い方向へ持っていかないと。俺でよければ話を聞こうか」 突っ伏している女の顔など見えようもないのだが、バーで隅のカウンターに座る女は悲しんでいるに決まっているとして、男は隣の席へ座った。 返事のない女に男は苛立つこともせずに一杯カクテルをご馳走した。無口なマスターが男の前にモヒートを一杯音も立てずに置いた。 そこで初めて女は顔を上げて男を見た。長く肩先まで伸びた茶の艶やかな髪をたくしあげながら、小さく微笑んだ。しかし、その微笑みは穏やかなものではなく、どこか蔑みの色を感じた。 「一体どんな男がナンパに来たのかと思えばなんとお粗末な。ましてやモヒートとは。勝手に人の心象を決めつけないでちょうだい」 モヒートのカクテル言葉が、心の渇きを癒して、であることなど全く知らなかった男は動揺して女の首元まで近づけていた顔を大きく引き離した。それどころか、無視されることはあれど笑われる経験などなかった男は完全に女の思う壺であった。 「いや、その。お粗末とは失礼じゃないか」 男は口籠るも、やられたままでは男が廃ると考え、なんとか一矢報いようと小さな声で呟いた。だが、男は言ってから完全に恥ずかしくなった。客が女と男の二人しかいなかったことに安堵しつつも赤面は消えなかった。 「おや、ごめんね。だけど、そんなに顔を赤くしなくたっていいじゃないの。いじめてるみたいだわ」 女はそう言いつつも全く悪びれる様子はなく、むしろ男の反応を楽しんでいるように見えた。今度は女が男へ顔を近づけ見つめた。先ほどまで指揮棒を振っていたはずの男はいつのまにか女の指揮棒に合わせて動いていた。 男は何か言い返そうとするものの、何も言えずに俯いてしまった。俯いた男の赤く染まった耳を女が舌先で舐めた。男は悲鳴にも近い小さな喘ぎ声をあげた。 マスターにうっすら視線を移すが、こちらへ見向きもしなかった。この横暴な女が見えないのかと男は苛立ちを覚えたが、自ら女を止めようとは考えなかった。 「ふぅん。よく見りゃ可愛い顔してるじゃないの」 女と目を合わせることになった男は心臓が弾けそうであった。それと同時に女の大きな瞳に飲み込まれそうな感覚を覚えていた。弾力を持った鮮やかな唇も上を向いたまつ毛も愛らしさと恐怖を放つ目尻も男を狂わせることとなった。 優位性を失ったことに対する恥が興奮で薄れ、プライドと欲求が天秤にかけられた。そうしてとうとう温もりのある呼吸をする男にもう恥はなかった。そしてその興奮が未だ男の血流を速めた。 「ふふふ、さっきまでの顔はどうしたんだい。そんなに欲しがりな顔をして」 その勢いのまま、柔らかくそれでいて尖っている女の唇を求めて、男は顔を近づけた。しかし、女は男の唇に人差し指を添えてそれを拒否した。 「急ぐんじゃないよ。マスター」 嘲笑うかのように人差し指でそのまま男の顔を押し除け、今度は女がモヒートを男へご馳走した。 「渇いているのは心じゃなく、身体のようにも見えるけどね。知らなかったでしょう、こんな感覚」 女はそう言ってモヒートを一気に飲んで席を立った。男も女に続こうと考え、急いでグラスに手をやったが女に止められた。 「カクテルはね、ゆっくり飲むものよ。まだその感覚を味わいたいならまたこのバーで会いましょう」 そう言って女はミステリアスな雰囲気を最後まで失うことはなくバーを後にした。 残された男はモヒートを飲み、その爽やかで冷たい感覚を味わった。今まで女を手玉に取り、常に男として優位に立ってきたが、今回は女に手玉に取られた。しかし、恥じるどころか、今までのどの女よりも確かな興奮を感じていた。男は女の心象どころか自身のことも分からずにいた。 次の日も、その次の日も男はバーへ訪れた。しかし女は一向に姿を見せなかった。痺れを切らした男はマスターへ女について尋ねた。マスターは女のことを知らなかった。それどころかマスターはそんな女見たことがないとまで言った。 何度尋ねても何一つ知らなかったマスターに呆れた男はとうとうカウンターの隅で突っ伏してしまった。 「お兄さん、何悲しそうにしてるの。それより私とお話ししてよ」 男に無邪気で若い女が話しかけた。あの時の女と思った男は、慌てて顔を上げたが、そんな都合の良いことは起きなかった。 今のこの感情は悲しみではなく、解消されない性的欲求に対する不満に近かった。そんなことも知らず呑気な女だと男は思った。あの時の女もそうだったのかもしれないと考え男は小さく笑った。 そう思ってから男は、あの時女に盗まれたはずの欲求を取り戻した。男がもとより描いていた男女の立場を再び構成すべく口を開けた。 「ありがとう。お姉さん可愛いね。よければ別の場所で飲み直さないかい」 そこからは慣れた手順を踏んで若い女と優雅に楽しんだ。圧倒的優位な立場を持っていた男と、それを受け入れることを楽しむ若い女は互いに溜まっていた身体的欲求を乱暴に解消した。 翌朝になって男が目覚めると女はちょうどシャワーを上がったところであった。若い女は相変わらず男に寄りかかり、その表情を見れば惚れていることは明白であった。あれほど雑な行為であったのにも関わらず男へ惹かれる若い女もまた歪んだ欲望の持ち主なのかもしれない。 一方、男は寝起きの頭でぼんやりとしていた。しかし、目が完全に覚めてタバコと朝食を済ませてそれが寝起きによるものではないと気がついた。 それから男はぼんやりとした感情を抱えて過ごした。若い女とどれだけ性的欲求を消費しようと、はたまた別の女で欲求を消費しようと、男の心が満たされることはなかった。どれだけ体を重ねても、かつての満たされる感覚がなかった。 そうして再び無口なマスターのいるバーを訪れた。外国の聞いたこともないフォークソングがよく聞こえるカウンター席で男はモヒートを頼んだ。飲めば何かわかるのではないかと考えた。しかし、男には不明な感情の名前も、あの女の行方も、自分自身のことでさえ結局は分からないままだった。モヒートの中にあるライムの爽やかさも分からぬ男にはただ苦いだけであった。 そうして、つくづく人の心とは分からないものである、と男は気がつき考えることをやめた。男はゆっくりとモヒートを飲み、落ち着いたフォークソングに心を預けた。 そのまま若い女に連絡をとった。満たされぬ欲求を抱えて生きていこう。そんなことをぼんやりと考えていた。
本能の果てに
人は理性的な生き物だというが、それは嘘だと思う。こんなに本能に塗れて生きている私たちのどこに理性があるというのか。まだ痺れの残る指先に弾けた血潮と置物みたいな人間がいた。 ことは数時間前に起きた。喘息の薬を受け取るため、定期診断を兼ねて病院を訪れた。土曜ということもあり、密度の高い控室のソファで何となくテレビを眺めていた。何となく見ていたはずのその内容を私は忘れることができない。 自然界の厳しさをドキュメンタリーとしてまとめた番組だった。何となくテレビを眺めていた私には細かいことは分からないが、これから母になろうとする親鳥の物語であった。その鳥は白い身体に薄茶色の斑点を持っており、それが何とも言えぬ美しさであった。穏やかな性格を持つというその種の親鳥が産んだ卵は、親鳥に似て白に美しい薄茶の斑点を有していた。 途中から見ていた私に番組の構成は分からないが、親鳥になる前の大恋愛と、ようやく生まれた卵という場面から私は注意してみるようにした。私も数年前に母になったばかりの新米であり、何だか親鳥に共感してしまった。 緩やかな雰囲気のBGMと共に巣作りの様子などが映し出されていた。その雰囲気が、苦しくも楽しい私自身の子育てと似かよっていたことも、私を楽しませる要因だった。 ところが、和やかな雰囲気の音楽がパタリと止み、巣が見える定点カメラの映像が数秒間映し出された。常に何かしらの音楽の流れていた番組において、無音より騒がしい緊張はなかった。巧みな演出の番組に私は身を乗り出してのめり込んだ。 数秒の沈黙を経て、巣へ一羽の鳥がやってきた。それは親鳥ではなかった。親鳥と対極の色を持つ、黒に塗れたカラスであった。リズムを刻みながら小さく響く重低音が私の心臓を震わせた。 カラスは巣の上で吟味するかのように小刻みにステップを踏み始めた。すると、カラスはその鋭い嘴をどうすることもできぬ卵へと向けた。そして、そのまま殻を突き破り、中身を食べた。 おばさんたちの世間話しか聞こえぬ控室で、ひっ、と小さく怯えた声をあげてしまった。幸い誰にも気が付かれることはなかったが、私は完全に番組から目を逸らすことができなくなっていた。 カラスは三つある卵のうち一つを完食すると、次の卵へ目を光らせた。しかし、親鳥の気配を感じたのか、名残惜しそうに飛び立っていった。そこへ何も知らぬ親鳥が帰ってきた。破れた殻を嘴に咥え、孵化したと勘違いした親鳥は周囲を見回していた。しかし、それが孵化ではないことを悟ると、静かにそれでいて何よりも力強く、じっとしていた。 次のカットで、私は本当に悲鳴をあげてしまった。巣へ訪れたであろうカラスが無惨な姿と成り果てていた。羽が何本も抜け肌が見えている状態であり、その目から生気を感じなかった。そして、その無惨な死体の横に怒りと哀しみを混ぜた深い情念を感じさせる親鳥がいた。動かぬカラスを執拗に足の爪で締め付ける親鳥を静止画としたエンディングが流れた。 私は息を呑み、カラスにも親鳥にも恐怖を抱いた。生きるために殺しても裁かれず、復讐のために殺しても裁かれぬのが自然界であり、それこそが自然の厳しさである、と番組は締めくくられた。私は何とも言えぬ放心状態で診察を終えた。 薬を受け取り、ぼーっとしたまま家路についた。白くシミだらけの自分の腕を見て親鳥を想起してしまい、何だか不気味に思えた。 不快な感情を整理しきれないまま家につき、そこで玄関に鍵がかかっていないことに違和感を覚えた。子どもを家に残したまま鍵をしないわけがない。子どもがいたずらで開けたのだろうか。きっとそうに違いない。先ほどまでの感情も相まって、私は嫌な予感がして仕方がなかった。 恐る恐るドアを開き、異常なまで無音の家を進んだ。すぐに出迎えない子どものことを、寝ているだけだと、自分自身を説得した。そうして、とうとう現場へやってきて私は気が狂いそうになった。人生で最大限の感情を抱いた。命よりも大切な我が子の言葉にすることもできぬ無惨な姿をみて、音も響かぬ叫び声をあげた。心の奥底が掻き回された感覚であった。 そんな私の前に現れたのが、ナイフを持った男であった。男は私の姿を確認してすぐにナイフを構えた。そのナイフに血がついていたことが私をさらに狂わせた。お前もこうなりたくなければ黙って金目のものをよこせ、と叫んだ男は手を振るわせながらナイフをこちらへ向けた。 金が欲しいがために、我が子を殺したのか。金のために何の関係もない家庭を荒らしたのか。金如きのために、私はこんな仕打ちを受けたというのか。私はもはやこの感情に名前をつけることはできなかった。 「あんたが。あんたがぁ」 私は正しく発音できているかも分からぬまま、口を開いた。殺される恐怖など微塵もなかった。ただ胸の内を暴れるように燃えているこの感情が体を支配していた。 まるで当然の理屈であるかのように、明日を生きるための金を要求する男は私へ向かってきた。私は子どもの野球道具であるバットを迷いもなく手に持ち、力任せに振り下ろした。自分が絶対的優位であると信じて疑わなかった男は突然の衝撃にもがき苦しんだ。 私は倒れ込んだ男めがけて何度も執拗にバットを振り下ろした。確実に死んだと分かってからも数度振り下ろした。もはやそこに思考はなかった。 痺れた感覚の残る手で無惨な姿の我が子へ駆け寄った。そこで初めて我が子を失ったと気がつき、嘔吐した。 手先だけでなく、全身が震えていた。そのまま警察と救急車を呼んだ。最後の理性を振り絞った私は、愛しい我が子の頭を撫でるため、床へ寝転んだ。先ほどまで止むことのなかった心音が、パタリと止んだ。深い静寂に包まれ、私の頬を涙が伝った。私は現実を受け入れられぬまま、子守唄を歌った。もう、何年も歌っていない子守唄を。我が子のために、静かに歌った。