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35 件の小説斜め七時
片手で壊せるほどの、自分の顔ほどの大きさの天秤を眺めているとき、あなたは何を考えるだろう。誰かは何かを乗せて重さを測り、誰かは左右の均衡を保とうとし、誰かは興味も示さないだろう。私は何もせず、じっとあなたを眺めていた。 あなたは私の右手を見つめる。あなたが手に持ったピンセットは分銅を正確に取り分ける。いくつかを適当に動かしたあなたは、一つの分銅を私の右手に乗せた。私は右手が重くなり、大きく右へ傾く。 あなたは、私の右手から分銅を取り、両の手に薬包紙を乗せる。左手の薬包紙に私にはよく分からない粉を乗せ、右手には先ほどの分銅よりもさらに小さい分銅を乗せる。私は左右の重さに揺れ動き、最後には重力に従った地点で止まる。 あなたはノートと私を交互に見つめながら、忙しなくメモを取っている。私は固定された視線の隅にあなたを捉える。あなたがまた私の正面にやってきて、私を両腕に乗る重みから解放する。私はあなたの全身を視界で捉える。 あなたは周囲を手早く片付けている。私には目もくれず、急いで片付けるあなたは机の隅に置かれた携帯電話が揺れていることに気がつかない。電話の揺れと共に私も僅かに揺れる。決して新しくて美しいわけではない私は、小さくカタカタと音を立てる。その音があなたの視線を誘導し、あなたは携帯電話に気がつく。 電話に出たあなたは、片付けもそのままに部屋から出ていってしまった。私は追いかけることも声をかけることも叶わない。電気の消えた部屋には、微かな薬品の匂いだけが漂う。 眠ることのない私は、ひたすらに部屋で同じ景色を眺めている。暗闇に光が灯ったのはあなたが出ていってからすぐだった。部屋にやってきたのはあなたではなく、あなたの友人だった。そして、私の視界には映らないが、おそらく友人に加えて教授もいるのだろう。時計の短針が五を指す時間帯にはいつも教授が来る。 友人と教授と思われる人物は中断された机の片付けを済ませる。私も定位置の棚へと移動する。この棚からは部屋全体を見渡すことができる。やはり教授がおり、友人と片付けをしながら談笑をしている。 教授は部屋に鍵をかけ、机の配置を大きく変更する。あなたはまだやってこない。友人は上着を脱ぎ、その胸部のサイズを強調する。あなたはまだやってこない。教授は友人に少し近づき、肩に手を回す。あなたは、まだやってこない。 結局、あなたはいつまでもこないまま友人の甘い声だけが部屋を支配した。あなたは友人がしていることを知らない。私は動かない視界の中で動く教授と友人を収める。 時計の短針が六になってしばらくした頃に、二人は机を動かし、部屋から出ていった。あなたはまだやってこない。あなたがやってくるのはいつも短針が七を過ぎた頃だから。 短針が七を過ぎ、あなたがやってくる。あなたはいくつかの紙をまとめ、パソコンを大きな音で叩き、短針が八を指す前に部屋を出た。部屋は再び暗くなり、タイピングの音もしない。 あなたが再び部屋を訪れたのは翌日だった。棚から私を取り、私の視界が新たなものへと変化する。今度の視界からは時計が見えない。あなたは、私やその他の道具を扱うとき、いつも独り言を言っている。それは報告であったり、愚痴であったり、意味なんてないこともある。その日は友人の話をしていた。 あなたの友人は、あなたが言うには様々な人間関係を築き、非常に人気である。あなたが言うには、友人は美しく、大変魅力的である。友人の大きな胸部は、教授だけでなく、あなたまでもを狂わせる。あなたは微笑みながら友人を語る。私は重力に従って、両腕を動かすだけである。 両腕を動かすだけであるはずの私は、あなたに付き合っているうちに痛みを感じるようになった。あなたと出会って久しぶりに動かしたからか、歳をとったからかは分からないけれど、体が痛むのを確かに感じる。 あなたが部屋から出て少しすると、教授と友人がやってくる。視界には映らないが、この部屋にはほとんど同じ人しかやってこない。あなたが放置していった私を友人が棚へと戻す。その重力に従った胸部が私と同じように揺れ動き、私もまた棚に置かれた衝撃と共に揺れる。また少し体が痛む。 机を動かし、教授は揺れ動く友人へと触れる。教授が最後に私に触れたのはいつだろうか。艶やかな友人の声が私の元まで響く。あなたは友人のこの声が聞きたいのだろうか。友人の声は軋んだ音のようであった。 二人が消え、短針が七を指す頃にあなたがやってくる。あなたは私を棚から取り出して、私を左右に揺らす。左右に揺らすと、軋んだ音が小さく鳴る。あなたは顔を顰め、私を部屋の隅に置く。そこは初めて見る景色だった。 あなたはそれからの日々、私を含めすべての器具に触ることなく携帯電話に向かう。背中が折れ曲がるほどのめり込む画面の先に何があるのかを私は知らない。重力以外に何があなたを曲げるのかも分からない。測ることもできない。 あなたは何度か呟き、携帯電話を睨む。さらに数分して、あなたは立ち上がり、電話をかける。誰かが電話に出ると同時にあなたはどこかへ行ってしまった。とうとう時計の短針が五を指し、あなたより先に教授が入ってきた。 教授と友人はいつものように机を動かす。いつもの場所に机を移動し、無造作に置く。いつもの場所に、いつもは無いものが置いてあった。私だ。机は私に容赦なくぶつかり、私の左腕は折れてしまった。興奮した二人は、私が出せる最大限の悲鳴である破損音に気がつかない。 私の悲鳴は、私より大きな友人の悲鳴に消されてしまう。机で視界のほとんどが隠されてしまい、友人が喘ぐ声だけに集中することとなった。あなたは相変わらずやってこない。机の位置を元に戻す時さえ二人は私の存在にすら気がつかなかった。 時計の短針が七を指す頃にあなたはやってくる。やってきて、私の左腕が壊れ、もはや私が何も測れないことを悟る。動けず、叫べず、ついには測れなくなった私を、あなたは机の上にそっと置く。あなたは壊れた左腕を私の右腕に置く。私は左腕の重さに従って右に傾く。 あなたは、なぜ私が壊れたのかを考えるかもしれない。研究熱心で賢いあなたは机が動かされたことに気がつくかもしれない。それでもあなたは私が見てきたものを知ることはできない。 あなたは私を袋に詰め込む。ビニール袋越しのあなたは少しぼやけて見える。ぼやけたあなたは、また腰を折り曲げて携帯電話に向かう。時計の短針はいつの間にか八を指す。八を指すとほとんど同時に教授がやってきて、あなたは私を教授に紹介する。教授の所有物をあなたが紹介する。 教授はあなたを軽く叱責する。ぼやけた視界であなたが頭を下げる。あなたは何度か謝罪の言葉を述べる。二人は私の方をあまり見ない。ただ怒り、謝る。腕の折れた私は、常に右に傾く。斜めに傾いて、ぼやけた視界からあなたを見つめる。ずっと眺めている。 二人を視界に収める。二人の視界に私は映らない。古くなった私の右腕は少しだけ軋む。
飛沫と残滓
ホーム上で駅員が最終列車を知らせている。目が覚めた頃には男の目的地である駅を一つ過ぎていた。戻る電車もない男は駅を降り、窓を叩いて寝ているタクシー運転手を起こす。乗客が来たことを確認した運転手はため息をつき、気怠げに目的地を尋ねた。 「小学校の近くまで」 運転手は男を数秒見つめたのち、何も言わずに車を走らせた。駅から小学校までは十分ほどかかるが、その間、両者に会話はなかった。 小学校の近くで降りた男は適当に決済し、運転手もまたすぐに帰っていく。フェンスに囲まれた校庭は男の想像よりも小さく、ビルほどあるはずの校舎は三階建てのボロだった。 男は実家へ向かう前に、少し小学校の周りを歩いた。校庭の隅の方に生えている銀杏の木は暗がりでも目立っていた。視覚以上にその臭いが、校庭の香りを思い起こさせる。 一周した男は、校門の前に立ち関係者以外立ち入り禁止の看板をそっと撫でる。昇降口と下駄箱の前にある池を見る。看板を無視して、池の前に立つ。鯉がいない。 その池には、小石を投げて遊んだ鯉がいなかった。男は手のひらより少し小さな石を池に投げつける。石が沈む音は男の想定より大きく、男は周囲を見回す。 学校のすぐ脇を車が通り、そのライトに一瞬男が照らされる。車は止まる素振りもなくそのまま通り過ぎてしまう。男は実家へ向かって歩き出した。 「お邪魔します」 玄関を開けると、まだ家族は起きていた。 「おかえりおかえりぃ」 妹が玄関まで迎えにくる。缶ビールを片手に持つ背の低い妹は男を出迎える。居間では、父が録画番組を眺めている。母は台所に立ち、そこからテレビを眺めていた。 居間の隅で男は上着も脱がずに腰を下ろす。父はテレビから顔を動かさない。母が男にお茶を渡す。 「そういえば、鯉がいなくなってた。なんか知ってるか」 一方的に父と会話を弾ませる妹に男は尋ねる。男はようやく上着を脱いで、お茶を一口飲む。思った以上に熱かったお茶に男は軽く舌を振る。 「何が、てか何の話なのそれ」 笑いながら妹は父から男は体の向きを変える。 「そりゃあ、小学校の。池にいたじゃん。池に鯉が」 男は軽く首を傾げ、当然のように答える。妹もまた首を傾げながら「いたかなぁ」と悩んでいる。男は鯉を覚えていない妹を目を細めながら見つめる。 「いた気もするけど覚えてないなぁ。てか、鯉がいないとなんなのよ」 妹は再び笑みをこぼし、適当に返事をしながら、徐々にスマホへ視線を移していった。男は依然として首を傾げている。 物置となった自室で寝ることはできず、男は居間のソファで横になる。池の鯉が瞼の裏に映り、息を吸う。なかなか寝つくことができず、男は明日の予定を振り返る。様々な考えが男の頭を巡っている間に、男は深い眠りについた。 翌朝、といっても昼過ぎに男は目覚める。妹はすでに家におらず、父と母は各々が自由に過ごしていた。男は夜まで予定がなく、もう一度小学校へ向かった。 昼間の小学校には小学生がいる。通りは車が通り、銀杏の木は匂いを放っていた。遠目に見た池に、鯉はいなかった。昼間に堂々と侵入するわけにもいかず、男は周りを無意味に歩いていた。 「田里か、田里だよな。久しぶり」 男が声をかける視線の先には、手入れされていない髪と髭を蓄え、猫背で眼鏡の男がいた。 「小学校以来だな、まだこっちいたのか」 返事のない眼鏡の男は、羽織っている半纏を少し揺らして男から距離を取る。両腕を胸の前に縮め、顔を下げ、視線だけで男を見つめる。 男も田里の様子に気がついて声を詰まらせる。両者の視線は交差するが、そのまま沈黙が流れた。田里は逃げはしないが、喋りもしなかった。男もまた沈黙に気圧されていた。 男が名乗ろうとして一歩前に詰める。田里も一歩下がる。小さく、男が「あのっ」と呟くとほとんど同時に、田里は走ってどこかへ逃げてしまった。男は田里を追いかけない。 男はそのまま何をするでもなく街を懐かしみ、駅に新しくできた喫煙所で煙草を吸った。無意識に二本目の煙草に火をつけており、ほとんど吸うことなく煙だけが宙に昇る。 気がつけば約束の時間が近づいており、男は目的地の居酒屋へ歩き出す。すでに気心の知れた友人が待機しており、軽く肩をぶつけ合う。少し遅れて到着した友人とも肩をぶつけ合い、地元の仲を確かめていた。 「ほんま久しぶりやんなぁ」 乾杯をする前から会話は盛り上がり、身の上話を共有し合う。男は酒もすすみ、身体を揺らして笑っている。友人もまた声を響かせる。男は煙草を吸いに一人の友人と席を外した。 「そういえばさ、田里って覚えてる」 喫煙所で昼間のことを話した。田里の名前を男が話すと友人は少し顔を歪め、空っぽの相槌を打つ。特段盛り上がることのない田里の話題はすぐに終わり、二人は再び席に戻る。 男と友人はぎこちない笑みで席に着く。二人の間に視線が交わされることはなく、男は酒を飲むばかりであった。全員が千鳥足で歩く。聞き取れぬ別れの言葉で解散し、男はシャワーも浴びずにソファへ倒れ込んだ。 眠れずに唸る男は夢を見ていた。髭もなく、髪も整った、ランドセル姿の田里がそこにいた。池の縁に座り込み、抱え込んだ銀杏を一つずつ丁寧に投げ込んでいる。 田里の投げた銀杏に鯉が飛びつき、池には次々と波紋が広がる。膝を折り曲げ、池を覗き込む田里を校門から離れて男は見ていた。次の瞬間、先ほどの波紋を全てかき消すほどの水飛沫が上がる。 鈍い音と共に男は目覚める。男はソファから落ちており、フローリングで横になっていた。すぐに立ち上がり、水を飲む。汗は止まらず、ひどい頭痛がした。無性に甘いジュースが飲みたくなり、男はコンビニへ出かけた。 虫の音しか聞こえぬ田舎のコンビニは物静かで、入店の音が鳴り響く。男は子供らしいジュースを買い、一口飲む。一口飲んで、その不味さに驚き、すぐに捨てた。眠れる気もしなかった男は、再び小学校へ向かった。向かわねばならぬ気がしていた。 夜風独特の匂いが男を揺らす。男の体は驚くほど冷えていたが、体は震えていなかった。白い息を吐き、目を見開いて校門へ向かう。男は膝を折り曲げ、池の縁に立つ。やはり鯉はいなかった。 鯉はいないが、男は銀杏を数個持ち、再び池の縁に座り込んだ。銀杏を一つ落とすと、小さな波紋が広がる。手のひらサイズの石を男が池に落とすと、もっと大きな波紋と水飛沫が生まれた。 男は立ち上がり、息を吐く。無精髭を撫でる。銀杏の香りが薄くなり、耳鳴りがした。耳鳴りが悲鳴のように聴こえた。男は虚な目で眉を下げる。 夜風が男の体を冷やし、乾燥した風が吹く。男は池の水を眺める。男は脱力し、冷えた体は震えていた。池は大きな飛沫と共に弾け、男の全身を包み込む。 男は水の中で呼吸を止め、筋肉は強張る。 男の耳には何の音も届かなかった。男は池の中でじっとしている。顔を上げ、一度息を吸う。風が濡れた体を凍らす。男はもう一度池に沈んだ。
眩暈
眼前の真っ赤な絵画をいつまでも眺めていたいと思ってしまった。それは、背丈の倍ほどある大きさに圧倒されたからでも、極められた技量に衝撃を受けたからでもない。その絵画は、高く叫び、どこまでも行こうとしていた。 自室の隅に座り「西洋美術の簡単な歴史」という題の本をペラペラとめくり、適当なページを開く。文字は読まず、絵画の写真だけを見つめる。時には三十分見つめ、時には数秒だけ見つめる。今日は五秒で本を閉じた。 振動が机に伝わり、着信音を切った携帯が電話を知らせる。 「はい、もしもし」 着信画面の美香子の文字に目線を送る。 「あ、もしもーし」 少し落ち着いたトーンで美香子が応える。 「どうしたの」 「どうしたも何も、由香子最近アトリエに来てないと思ってさ。なんかあったの」 いつか聞かれるとは思っていたが、いざ聞かれると用意していた言い訳が素直に出てこない。間抜けそうに悩んだふりをしながら呼吸を整える。 「いや、私たちフリーターでしょ。貯金ないなと思って」 美香子はあまり納得していないであろう声色で返事をした。私は詮索されぬうちに電話を切った。 やめますの一言が言えぬまま一ヶ月が経った。師匠や美香子に相談もしていない。突然いなくなるわけにも、ずっといるわけにもいかなかった。 最後に一度だけ行って終わろうと、何度目か分からぬ決意を胸に、冬服にはやや薄いアウターを羽織った。冷たく乾いた風は想像以上に強く、マフラーを持ってくれば良かったと後悔した。寒いのは嫌いだ。 アトリエに着くと師匠が整理整頓をしていた。 「こんにちは。手伝いますよ」 簡単に挨拶をして、還暦近い師匠の代わりに清掃を手伝った。アトリエに美香子はいなかった。 師匠と私は作品制作に取り掛かる。室内といえど見窄らしい作業着では少し冷える。軍手に飛び散る絵の具を服で何度か擦る。師匠との間に流れる沈黙が、また私をこのアトリエに留める。 息を吸うと、絵の具が生み出す独特の香りが際立つ。大きく分厚いキャンバスに筆を運ぶと、べちゃりと鈍い音を立てて色が動き出す。平らなキャンバスに立体感が生まれた。 私は暖色を好んで使う。柔らかい色合いが好きだった。反対に、美香子は寒色をよく使う。寒色が好きなのではなく、暖色、特に赤色が血のようで嫌だという。私はキャンバスに赤を塗りながら、そんなことを思い出していた。 「こんにちはー」 キャンバスに向かう視線と集中力を切ったのは美香子の声だった。 「おや、田山さん。今日は休みかと」 「いやぁ、彼氏と喧嘩しちゃって。むしゃくしゃして絵を描きにきました」 またか、と思った。このカップルはよく喧嘩をしている。それを分かっているため、師匠も興味なさそうに返事をする。そそくさと作業着に着替えた美香子は準備を進める。なんとなく居心地が悪く、コンビニまで出掛けた。 入り口のすぐ脇に寄りかかり、缶コーヒーを飲む。今日も辞めたいとはいえないだろうなと考えていた。 「もしかして、由香子さんですか」 全く聞き覚えのない声に戸惑う。私は寄りかかった体勢をやめ、まっすぐと立った。 「そうですけど」 コーヒーを啜りながら、知り合いでもナンパでも困らぬトーンで返事をした。 「いや、急にすみません。初対面ですよね」 すぐにでも無視してアトリエへ帰りたかったが、アトリエに戻りたくもなかった。 「実は美香子の彼氏の佐々木なんですけど」 コーヒーを少しだけ強く握り締める。恐らく驚きの表情は隠せていないだろう。唖然とする私に依然として彼氏は続ける。 「やっぱり、めっちゃ美香子にそっくりですね。一目見てすぐに分かりましたよ。名前も似ているし、本当に姉妹みたいだ」 私はまだ何も言っていないが、もう仲良くなったつもりの佐々木は距離を詰める。美香子と似ていると思った。つい先程まで、喧嘩していたとは到底思えない明るさもどこか癪だった。 「よく言われるんですけど、性格は全然違うんですよ」 「そうなんですか。言われてみればちょっと雰囲気違う気もしますね」 その場では他愛もない会話をし、連絡先を交換した。美香子には黙っておくことにしたが、それは彼の意思だった。私としてもその方が面倒でないため助かった。 アトリエに戻ると美香子は体全体で描いているかのように、動きのあるダイナミックな絵を描いていた。勢いそのままの絵は感情剥き出しだった。しかし、何か所かが塗りつぶされていた。 その日の夜、美香子から電話がかかってきた。どうせ彼氏の愚痴に決まっている。喧嘩した直後は大抵私に電話をかけてくる。定型分のような悪口は聞き飽きた。毎回疲れるのだが、今日は彼氏の顔を想像しながら話を聞いた。 美香子の怒りが三周ほどした頃、佐々木からメッセージが来た。つい目に入った佐々木の文字列に気を取られ、美香子との電話を適当に終えた。 佐々木からも同じ内容の愚痴が来ていた。私は裏で暗躍している気分となり、佐々木の愚痴を聞くことにした。あまり喧嘩をされては厄介だ。 次の日の晩に私は佐々木の待つ居酒屋へと向かった。愚痴をこぼしながら、酒を飲む佐々木は、とうとう路上に座り込んでしまった。 水を無理やりに飲ませ、佐々木はようやく少し落ち着いた。タクシーで送るにも、私にそこまでの余裕はなく、看病ついでに私たちはホテルに向かった。 佐々木はすぐにベッドに倒れ込んでしまった。私はシャワーを浴びて体の汗を流した。シャワーを浴び終えたとき、佐々木はまだ起きていた。ベッドの上に座り込み、まっすぐとこちらを見つめていた。佐々木は私の目を見つめながら倒れ込んだ。そうしてすぐに大きないびき声が鳴り響く。私はもう一度シャワーを浴びた。もう洗うところなどないけれど、浴びずにはいられなかった。 次の日、私は師匠に電話をして二人きりで話したいと伝えた。美香子に会うことなく、ひっそりとこのアトリエから消えてしまいたかった。 師匠に会いに行く日は寒く、いつも以上にインナーを着込んで出掛けた。アトリエに着くと、師匠は椅子に座ってじっとしていた。私も椅子に座り、二人の間に沈黙が流れる。 「辞めるんですよね」 師匠は穏やかに私を見つめる。穏やかすぎる表情で師匠はそう言った。こういうことを察せる人だと知っているから、驚きはしなかった。 「はい」 あれほど言えなかった言葉がするりと溢れた。抵抗も躊躇いもなかった。師匠は小さく息を吐くだけで、何も言わなかった。 アトリエに置いたままの私物は後日取りに行くことにした。今なら寒色の絵を描ける気もする。絵を描きたい。本当ならまだ描いていたい。私はアトリエに背を向け、帰路についた。 家に帰って冷蔵庫を開ける。自炊するほどの余裕はなく、作品完成のご褒美に買ったプリンだけがある。プリンを取り出して一口食べる。冷たくて、甘い。私は佐々木の連絡先を消し、美香子に辞めることを告げた。 それからはアルバイトのシフト数を増やし、働くことに集中した。一週間ほどして、アトリエに荷物を取りに行った。美香子からはいまだ返信がない。だからいつもデートをしている金曜日の夜を選んでアトリエに向かった。 だが美香子はいた。背丈の倍ほどもある巨大なキャンバスに真っ直ぐと向かっていた。私がアトリエに入ると、美香子の筆の動きが止まり、またすぐに動き始めた。私は声をかけることができずに、静かに荷物をまとめる。アトリエの入り口で感謝の言葉を師匠に告げる。師匠は軽く会釈をしてすぐに扉を閉めてしまった。 美香子はまだ絵を描いていた。声をかけることはできず、私がアトリエを出るまで美香子がキャンバスから目を離すことはなかった。 コンビニで買ったコーヒーを帰り道で啜る。空き缶となったコーヒーを強く握るが、スチール缶は潰れない。 自室に着くと、体の震えが止まらなくなった。暖房をつけても、毛布を被っても、その震えは止まらなかった。視界の隅に西洋美術の本が見える。その本を無造作につかみ、部屋の角へと投げ捨てる。 一週間ほど経って、美香子から返信が来た。 「アトリエで私の作品を見て」 簡潔に一文だけが記されていた。 どうして良いのかは分からなかったが、私は身支度を始め、アトリエへと向かっていた。きっと、あの作品が完成したのだろう。それを見なければならない気がしていた。 アトリエは閑散としており、いつも以上に整頓されていた。師匠も美香子もいなかった。それだけに一枚の巨大なキャンバスが際立っている。作品の前に立ち、私は動けずにいる。体の芯から止まってしまっているのではと思えた。 真っ赤で、背丈の倍ほどのその絵画が私を縛り付ける。何を表しているかも分からない、弾けた絵の具はどこまでも抽象的だった。耳を塞ぎたくなるほどの叫びが聞こえてくる気がした。 体の震えは止まり、寒さも感じない。ただ暑く、暑すぎた。顔が熱くなり、体は火照る。痛いほどに。 太陽は直視できない。この絵も同じで、私はそれを直視してしまった。 少しだけ息を漏らし、呆然としていた。
見ず
彼氏が姿を消してからちょうど一年経った。あの輝く笑顔や嫌になるほど真面目な彼を見捨てたわけじゃない。それでも私は警察を訪ねたり度重なる連絡をしたりしない。そもそも普段から連絡頻度は少なく、一週間返信がないこともあった。しかし、一年も連絡がつかないのはこれが初めてだ。 同棲しよう、と言い出したのは私からだ。二つ離れた年齢は問題ではないが、婚期を逃せないと焦っていたのは年上の私だろう。彼はああとかうんとか、手元の液晶画面を見ながら適当に返事をした。 私は週の半分以上を彼の家で過ごしていたし、実家を出たいと昔から考えていた。彼もよく私のことを泊めてくれた。曖昧な返事でも同棲することに反対ではないと思っていた。本格的な同棲のプランを立てる頃、コンビニに出かけた彼はそのまま帰ってこなかった。 だから私は彼の部屋で一人暮らしをしている。とはいっても部屋に彼のものは未だに残っている。片付けてしまうと彼の痕跡が消えてしまう気がしたが、使ってしまうわけにもいかない。彼の歯ブラシやコップは出て行った時のままで、干してあるタオルでさえそのまま取り込んでもいない。最も手がつけられないのは彼の書斎だ。 彼はずっと読書家であった。読書家というよりも文学マニアやオタクに近く、物語を読むことに加えて書籍を収集する癖も持ち合わせていた。そんな彼のコレクションが詰まった部屋は彼の存在そのものに近かった。 トースターでパンが焼けた音とインターホンの音が同時に鳴る。どちらを先に対応すべきか少し悩んだが、トーストを二枚の皿に置き、バターを冷蔵庫から取り出すことを優先した。そうして準備を終えてから玄関を開ける。 「もうみーちゃん遅いよぉ」 扉の前に立ち、私をみーちゃんと呼ぶのは菜津だ。彼氏ですら私のことをみーちゃんとは呼ばないが、彼の妹である菜津はそう呼ぶ。 「ごめんごめん」 彼と菜津は年子なので私とは三歳差ということになる。それでも年齢の壁を感じることはほとんどなく、むしろ彼よりも仲が良いかもしれない。そして、彼が失踪しその関係はより強固なものとなった。 「わっ、良い匂い」 少し耳の焦げたパンの匂いに釣られつつも外靴を丁寧に揃えるのは兄妹だなと感じる。そそくさとパンに手を伸ばす菜津に鋭い視線を送ると、菜津は渋々洗面台に向かった。几帳面なのに衛生面を気にしないのも、地面に落ちたポテトチップスをそのまま食べる彼に似ている。 「菜津はピーナッツクリームのが良いかな」 私はパンには絶対にバターと決めているのだが、菜津は甘くないパンはパンじゃないと言い張る。ここは兄とは違う。彼は絶対に何もつけない。 私と菜津は朝食と呼ぶには少し遅く、それでいてどうあがいても昼食にはなれない食事を済ませる。私が皿を洗っている最中に菜津はボディラインが強調されるスポーツウェアに着替えていた。 「みーちゃん早く」 私も菜津を待たせぬようにすぐに着替える。私のウェアはややオーバーサイズで菜津と比べて色合いも地味だ。もっとも菜津と違って出るようなボディでもないのだが、サンバイザーをつければおばさんになってしまう色合いの服はどうかとも思う。 ダイエットのためのジョギングを提案したのは私からだが、どうにもやる気のない私のためにわざわざ家に来て連れ出してくれるのだ。公園や川沿い、ときには小規模の山登りまでコースはさまざまだが、今日は川沿いのコースだった。 川沿いのコースは私のお気に入りで彼ともよく散歩していた。彼は散歩が好きでよく私を連れ出すのだが、気まぐれに寄り道をしては私を困らせた。川沿いで綺麗な石を探し始めたときは流石に笑ってしまった。 「ちょっと、待って。速い」 菜津は運動部だった経験からくる体力で万年帰宅部の私とみるみる距離を開いていく。 「ごめんごめん。でもみーちゃんも体力ついてきたよね」 「いやぁ、どうだろ」 「でも、前はもっと早くバテたから私運動にならなかったもん」 笑いながら不満をこぼす菜津に私は言葉が出ない。あれだけ走っても疲れないとはもはや怪物の域である。よく考えれば彼も寄り道ばかりだったが、先に疲れて帰りたくなるのはいつも私だった。 翌朝、トースターの音が軽快に鳴る。菜津の来ない日であったが二枚の皿を出していた。一枚のトーストを食べ、二枚の皿を洗った。 空気清浄機だけが音を奏でる静かな部屋が奇妙で私はすぐに外出した。彼がいなくなってからは週の半分以上を菜津と遊んでいる。そうでない日は母親の介護がほとんどだった。 その日も老人ホームへ向かう。川沿いの道をずっと歩いていけば辿り着けるのだが、私の体力ではかなり辛い。今日こそは歩いてみようかと考えて、スクーターに腰を下ろす。 老人ホームの受付は顔馴染みとなり、ほとんど顔パスであった。杉田佳代子の名前の横にチェックを入れ、軽い会釈を済ませれば入場可能である。 「杉田さん、みこさん来ましたよ」 清潔であることをこれでもかと証明するマスクと手袋、白い服を着たスタッフが母に声をかける。どこか気の抜けた様子の母は私を見ても特に表情を変えようとはしない。 「あぁ、みーこかい」 やはり目の焦点の合わない母を見てどこか可笑しく思えたが、なんとなく罪悪感を感じ、表情を緩ませることはなかった。 「佳代子さん、元気してるの」 私は母を佳代子さんと呼ぶ。小さい時からそう呼んでいる。それは血縁関係では伯母に当たるからであるが、母は出会った時からみーこと可愛らしく呼ぶ。私は佳代子さんのままである。 「今日はデザートが美味しくてねぇ」 「良いねぇ、何食べたの」 「甘くてね、白くて、あの、なんだったかしら。あぁ、将史さんにも食べさせたい」 「杏仁豆腐ですよ、杉田さん」 「あぁ、そうだったわね。将史さんにも食べさせたい」 母は父の話をよくしている。それは私が来たからではなく、私がいないところでもということはスタッフからよく聞いている。父は、つまりは伯母の旦那ということになるのだが、若くして肺炎で亡くなっている。 私が彼と同棲する少し前からほとんど実家にはいなかった。母はその期間一人で過ごすことが多く、申し訳ないことをしたと思う。彼が失踪する少し前からホームに入居したのだが、笑顔が増えたらしく、私としては嬉しい限りである。 母は父の話題を私がいる最中ずっとしていた。私の記憶では父が生きているとき、母と親しげに会話していた覚えはない。父が亡くなってから、母にとって父親は忘れられない存在となっている。 スクーターでの帰り道、川辺に菜津が座り込んでいるのが見えた。私は道路脇にスクーターを止めて、菜津の元へと向かった。菜津は石をピラミッドのように積み上げていた。 「何してるの」 私が声をかけると、菜津は驚いて積み上げていたピラミッドを崩してしまった。 「びっくりした。みーちゃんか」 「ごめんごめん」 「これはねぇ、お墓を作ってるの」 私は想像もしない答えが返ってきて私は素っ頓狂な声を出してしまった。間抜けな私の声を聞いて菜津はけらけらと笑う。 「一ヶ月ぐらい前に川で溺れた子供のニュース覚えてるかな」 まるで記憶にないが、一応思い出す所作を取ってみる。菜津は普段は適当だが、意外にも時事には詳しい。自主的に新聞を購読する若者は珍しく、テレビも見ない私とは対照的だ。 「全然、この川じゃないんだけどさぁ。なんかこうして墓を作ってあげれば、一人でも君たちのことを覚えてるって伝えられる気がして」 決して重くならないように笑いながら菜津はそう言ったが、その言葉は軽くもなかった。自分にはなんの関係もない事故、それを忘れることをしない菜津は優しいと思う。私なら次の日には忘れてしまうだろう。ここまで覚えてくれるなら、菜津の旦那さんになる人は幸せだろう。まず間違えなく、先に死んだとしても忘れられないはずだ。 「優しいね」 私がつぶやいた言葉は風に流されてしまい、菜津には届かなかった。菜津はそのまま立ち上がり、ピラミッドの一番上の小石を思い切り川に投げつけ、水切りをする。数回だけ跳ねた小石は情けなく川へ沈み込む。 「よし、お兄ちゃんの家を掃除しに行こう」 突然の提案に私は言葉が出なかった。私よりも先にスクーターの元へ駆けつけた菜津を追いかける形でスクーターに跨る。 「バレないバレない」 私のスクーター二人乗りできないと注意する前に先手を打たれてしまった。仕方がなく、警察に見つからないことを祈りながら家へと帰った。 掃除を始めてみると思ったよりも汚れている箇所は少なかった。最近は掃除していないはずだが、なかなか綺麗になっていた。干したままのタオルは新品のような膨らみを持っていた。 「これ交換しちゃうよ」 菜津がそう言って持ってきたのは毛先の広がった二つの歯ブラシだった。彼の分まで交換されてしまうことに少し抵抗があったが、止めるほどのことでもなく、そのまま二つの歯ブラシは新品となった。 「いやぁ、意外と掃除するところないね。あとは書斎ぐらいか」 胸の鼓動が速くなる。言われることは分かっていたはずなのに、いざ言葉にされると異様な緊張感が私を包み込んだ。兄の本に触れると昔から怒られるからといい、菜津は私を書斎へと追いやった。 「失礼、します」 誰に告げるわけでもなく、独り言のようにつぶやいて、書斎の扉を開いた。 「どうぞ」 開いた書斎の先に、彼がいた。彼は新刊を机の上に積み上げ、じっくりと読んでおり、振り返ることもしない。あまりにも自然にいるものだから、彼に問うこともできなかった。 「久しぶり、に、声を聞いた気がする」 久しぶりで止めようとして、なんだか違う気がして無理やりに続けた。そこでようやく彼はこちらを振り返った。手に持つ本をそっと机に置き、記憶の中のままの表情で。 「僕こそ、久しぶりに声を聞いた気がする」 彼は自嘲気味に笑いながら机を指差した。そこにあったのは婚姻届だった。結婚しよう、と彼が言った気がした。いや、確かにそう言った。タオルは勝手に綺麗になったわけではないし、歯ブラシも勝手に毛先が広がったわけではない。 「きゃー、プロポーズぅ」 書斎を覗きにきた菜津が大袈裟に叫んだ。婚期を逃すまいと焦り、妹とも仲良くなった。老人ホームの母に孫を見せたいと感じている。それなのに、婚姻届にすぐ手を伸ばすことができなかった。耳の奥に水切り石が沈む音が残響している。 母が父を死後に思い出すように、菜津が報道された子供を弔うように、彼を死後に思い出す、そんな恐怖が身体を締め付ける。唇が震え、手先が冷え、気分が悪くなりトイレに籠った。彼も菜津も私をとても心配している。 それからは、なんてことない元の人生へと戻った。菜津はよく遊びにきて、母を度々訪ねる。そこに彼がいる。彼はあれ以来二度と結婚しようとは言わなかった。
触れる
森の中に、沼があった。誤って踏み外し、沼に足を取られれば沈んでいくのを覚悟するのみである。毒性の底なし沼であった。 ある晴れた日、木漏れ日が心地よく揺れる森で男が狩りをしていた。数日にかけて獲物ひとつ見つけることができなかった男は、ようやく見かけた兎を逃すまいと懸命に追いかけた。しかし、獲物に夢中になるあまり足元を疎かにし、男は転げることとなった。転げた先が運悪く、死の沼であった。 男は沼に頭から突っ込み、足を忙しなく動かす。しかし、次第に両足ともに力なく動かなくなってしまった。動かぬ男の体はゆっくりと飲み込まれてゆき、陽が沈む頃には完全に見えなくなっていた。 再び森に光がさす頃、男の意識は沼のすぐそばで目覚めた。男にとって、明確に沼に落ちた記憶と今確かに見ている森の景色どちらもが現実のものであった。 木漏れ日の微かな日差しが酷く熱く感じた。肌が勢いよく乾いていく感覚が男を襲う。木陰に逃げようとして立ち上がった時、男は立ち止まりその場から動くことができなかった。 男の両の手から滴る真っ黒な泥をただ眺めていた。そうして泥に塗れた腕を見て、胸を見て、どことなく黒く霞んだ視界が、男の思考を奪った。男の上半身ほとんどすべてが泥に塗れていた。 必死に泥を振り払おうとして、泥の手を振り回した。泥は飛び散るが、素肌が見えることはない。それどころか、内側からうねるように泥の量は増していく。次第に泥に飲み込まれ、全身を構成する物質の全てが泥となった。 男は、影をそのまま立体的に起こしたかのような、人の形をした泥となった。顔の目と思われる箇所だけが白くなっており、それが異形の存在感を強く示している。 少しの沈黙が男の周囲に漂う。なす術もない男が顔を上げると、視界の隅に兎が倒れているのを見つけた。兎の体には男の体から飛んだと思われる泥が付着していた。焦げたような強く不愉快な匂いがする。男が撒き散らした泥が付着した全ての箇所が、異臭を放ち、生気を失っていた。 男が兎の元まで歩く。足跡が死の道となる。男が兎を抱き上げると、兎そのものが色を醜くし、泥のように崩れ、男の腕からすり抜けていった。 男はどうすることもできず膝をつき、その瞬間に大地が不気味に腐り始めた。慌てて男は立ち上がり、足元に転がる兎だったはずの泥を見つめる。その時、背後から藪を揺らす音が聞こえた。鹿が男を見つめていた。 鹿はそっと、男へと近づき、男は後退りをする。二人の距離は一定を保っていたが、男の背中が一本の木にぶつかった。後退りできない男へ鹿はもう手の届くところまで近づいている。何を思ったのか、鹿は舌を出しながら顔を近づける。もうあとほんの少しという時、男の背にある木が腐敗により倒壊した。木の倒れる音に驚いた鹿は飛び跳ねながらどこかへと行ってしまった。 男は一息つき、倒木となった木に寄りかかる。しかし、寄りかかった箇所も柔らかく崩れ、男は仰向けとなった。木がなくなり、屋根が崩れ落ちたかのように空が見える。そのまま動くことなく、男は眠りについた。 男を再び目覚めさせたのは、日差しによる潤いのなさである。乾燥痛に耐えかねた男はその場を後にした。男の寝床は一つの小さな沼となっていた。 乾きを癒すために水を求めて彷徨う。水を飲む口が男にはないのだが、何よりも肌に水を与えたかった。男がいくつかの道を腐らせたころ、透き通って美しい川を見つけた。その川は流れも穏やかで、何より大きかった。 川に指先でそっと触れる。川が濁流に成り果てなかったことに男は安堵し、両手を濡らす。意を決して全身で川に飛び込むが、寒さが増すだけであった。男は川で泥が溶け出さない体を厳しく見つめる。そして、人の形を保っている体を見て一息つく。 川辺で意味もなく座り込む男は対岸で焚き火をしている老人を見つけた。話しかけようにも、口のない男は声を出すことは叶わない。立ち上がり、懸命に両手を振った。気がついて欲しかった。 男の望みは叶い、老人は男の方を見る。しかし、老人が認識したのは泥の怪物であり、足早に逃げていく。男は老人を追いかけ、川を越えていく。それは老人の逃げ足を加速するだけであった。老人の悲鳴が残響する。 男は焚き火の横で呆然としていた。焚き木の燃える音が聞こえる。男は火を消さぬように慎重に近づき、そこに腰を落とした。それは何者にも触れることのできない男にとって、久しく感じることのできなかった温もりであった。焚き火はときどき弾け、炎がゆらめき、男の泥を少し乾かした。 男は日が落ち、焚き火の光が輝く時間帯になってもなおその場を離れなかった。ただ、日が沈むのと同時に雨が降り出した。小雨であったが、明確に焚き火は弱まっていく。 男は焚き火に覆い被さるように四つん這いになった。火が男の腹部を熱く痛めつける。男はその白い目を歪ませながらも、動こうとはしなかった。雨は強さを増し、とうとう焚き火を守り切ることはできなかった。 火は消え、冷えた炭へと成り果てた。男は木炭となった焚き火跡をしばし見つめたのちにまた森へ入っていく。そこで男は鹿に出会った。男は思わず逃げ出そうとしたが、鹿が男へ近づくことはなかった。鹿は狩猟罠に足を取られている。 雨に濡れた毛とつぶらな瞳が男の視線を掴んで離さない。鹿は苦しそうに鳴き声を上げる。男はその場から逃げ出せずにいた。 男は地面を腐らせながら一歩ずつ鹿に近づく。泥が跳ねぬように体の動きを最小限にし、鹿の真横につく。震えるその手で慎重に狩猟罠に触れる。金属はあっさりと崩れ、粘土のように簡単に変化した。 鹿の足に触れぬように罠を完全に腐らせることに成功した男は腰を落とし、肩を撫で下ろした。緊張から解放された男の頬を鹿が舐める。男は驚いて体を逸らすが、鹿は首を傾げて男を見つめている。腐ることのない鹿に男は目を見開く。 触れ合いたい。 ただ一つのもっとも原始的な衝動に男は従った。男は鹿を抱きしめる。鹿もまた顔を寄せている。木々の隙間から漏れる月明かりが二人を照らす。男の白い目から涙が流れる。少し暖かい涙は頬を濡らす。 男の体は少しずつ崩れ、やがて鹿よりも小さく、何の形も示さない泥の山となった。泥の山は乾き、土の山となる。時が流れ、土の山には緑が生い茂り、草花の土地となった。木漏れ日を受けた鮮やかな草花を兎がゆっくりと食べている。兎には泥色の斑点があった。
夕暮れに染まる頃
夕暮れ時と呼ぶにはまだ少し早い、それでいて空は茜色に染まり始める時間帯。砂埃舞う小学校の校庭で二人の児童が座りながら空を眺めている。少女は丁寧に足を折りたたみ体育座りを、少年は胡座を。 ちょうど人一人分を空けた二人の間に会話はなく、風が細やかな音を届ける。周囲に児童は誰もおらず、果てしない校庭が一つの世界に思える。 切ったばかりの短すぎる髪の毛を触りながら少年の頬は空色に染まる。それと同じ色をした髪留めを少女もまた触っている。右手を頭に、偶然にも似たような仕草の二人は目を綻ばせた。 そのまま少年が後ろに倒れ、仰向けになる。少女もまた仰向けに。両手を広げた二人の手先がぶつかり、その不規則に触れ合う手にくすぐられる。また、頬を緩ませる。 空がいよいよ赤に染まり切った頃、夕暮れ時を告げる鐘の音が二人を立ち上がらせる。何度か顔を合わせ、砂埃と共に二人は背を向ける。 互いに静かに歩き出す。その歩幅は小さく、距離が開くのには随分と時間がかかった。少女が長い三つ編みを揺らしながら振り向くと、少年の白の半袖服が砂まみれになっている。少年の手には少し空気の抜けたサッカーボールがあった。 少年がボールを少女の足元へ転がすと、少女は腰を屈めて両手で拾い上げる。少年は足を揺らし、ボールを蹴るフリをしている。少女は手に持ったボールを丁寧に地面に置き前へ蹴り出す。 蹴り出されたボールはめちゃくちゃな方向へ転がっていった。少年は少し表情を不敵に緩めながら、グラウンドを強く踏みしめ、そのボールを追いかける。ギリギリ追いついた少年は不恰好にボールを足下に収めた。 少年もまたボールを蹴り出そうとした時、車の音が二人の耳を突く。車の窓から右腕を大胆に乗り出した髭面の男が少女の名を呼んでいる。男は柔らかく少女を見つめている。少年は少し顔を歪めながら男を見つめたのちに深々と頭を下げた。 少女も少し眉を下げ、ゆっくりと歩きながら車へと向かう。校庭のすぐ脇に停められた車の後部座席のドアに手をかけ、少しだけ振り返る。小さく手を振る少女に対し、少年は高々と手を挙げ大きく振る。髭面の男は欠伸をしている。 車は少女を乗せ、すぐに勢いよく発進した。砂埃舞う風が少年の顔を掠めるが、少年は力強く目を見開いたまま見えなくなった車を目線で追いかける。 空の色は暗がりが優勢となり、星々は煌めき始める。風は冷気を帯び、街灯の存在感が増してくる。少年は力無い足取りで帰路につく。 帰路についてからほどない時間が経ち、マンションの一室の鍵を少年が開ける。帰宅を知らせる号令はないが、それを叱責する声もまたなかった。脱いだ靴を丁寧に棚にしまった少年は手を洗い、服を脱ぎ、少し冷たいシャワーを浴びる。 脱衣所で半端に身体を拭きあげた少年は服も着ぬままキッチンへと向かう。簡易ポッドでお湯を沸かし、少しばかりの種類の中からカップラーメンを選ぶ。表情も変えぬまま少年はカップラーメンを啜る。少年はきつく割り箸を握っていた。 夜。寝室で少年は胡座でいる。ベッドの上で胡座の少年は見えないハンドルを左右へ揺らしている。エンジン音も揺れも推進力もない車を静かに運転している。少年がエンジン音を口で奏でると、虚しく部屋に反響した。 そのまま後ろに倒れ、仰向けのまま一人のベッドで眠りについた。 翌日の放課後、小学校の校庭で少年が一人で立っていた。少し空気の抜けたボールに懸命に空気を入れ、これでもかというほど張り詰めたボールを校舎の壁に弱く打ち付ける。 少年は校舎の壁とパスを繰り返しながらも、そそっかしく周囲を気にしている。空が赤く染まる頃、荒々しいエンジン音と共に車が校庭の脇に停められた。 真っ白のワンピースを振り回した少女が車から飛び出てくる。その少女を微笑みと共に男は送り出す。男の横には少女とよく似た目尻をした小太りの女が悪戯な笑みを浮かべている。後部座席では少女よりもさらに小さい女の子が嬉々として叫んでいる。 真っ直ぐと少年の元へ訪れた少女の手には可愛いリボンのついた小袋があった。空模様のように染まった顔をした少女は少年の顔も見ずに小袋を渡した。訳もわからぬまま少年は小袋を受け取った。 空気の詰まったボールを少女に渡す間も無く、少女は車へと戻っていく。車内から男と女が軽く手を振っている。女の子も明るく大声を出す。少年はまた深々と頭を下げた。顔を上げた時には車は見当たらず、少女の別れを告げる声が僅かに聞こえた。別れの声が校庭で残響する。 車が去った後も少年は校舎と遊んでいる。少し強く壁に打ち、跳ね返りのボールを獲れないこともあったが、少年は元気よくそれを追いかけた。右手には小袋を掴んだまま。 まだ、空が赤いうちに少年は帰路についた。少年は何度も立ち止まり、小袋を眺める。時には両手で天にかざし、透かしたりもした。 街灯がまだ姿を隠している時間帯に少年はマンションに着いた。不揃いに脱がれた靴を気にすることもせず、少年はリビングにそのままの格好で座った。 丁寧に小袋を机に置き、じっと眺めている。少しして、その可愛らしいリボンをゆっくりと解いてゆく。小袋の中には苺色のクッキーと小さな手紙が一つ。少年は震える手で慎重に二つ折りの手紙を開いた。 「遊んでる時間が大好きです。今日は急いでたけど明日は私にボールを渡してくれると嬉しいな」 少女の名前の上に大きく書かれた文字を少年はじっくりと見ている。指先に力が入り、手紙の隅に少し皺がよる。手紙を机に置き、窓から見える校舎を眺める。赤く染まった校舎の窓が煌めいている。 苺色のクッキーを頬張りながら、少年はキッチンに立つ。棚下からおもむろに両手でフライパンを取り出す。フライパンに火をかけ、冷蔵庫から板チョコを持ってきた。二回か三回、気持ちよく板チョコを割ってフライパンに放った。 チョコはすぐに焦げて、赤茶色になる。少年はヘラで焦げを削ぐように振り、片手でフライパンを揺らしている。火を弱めながら、少年は鼻歌を歌いながらヘラを動かす。 あんまり激しく動かすものだから、チョコが跳ね、少年の指先にかかる。熱さに思わず飛び退けた少年は急いで水を指先にかける。熱に包まれた指先を水が癒す。少年は真っ赤な指先を口に咥えて吸う。微かにチョコの甘い味がした。 日暮れ前の最後の輝きが窓から少年を照らす。指を吸う少年の照らされた横顔はとても明るかった。
路地にて
都心の路地裏で、汚らしい騒ぎ声がする。金属音や鈍い叫び、呻き声が混じっている。大通りまでは聞こえず、けれど確かに助けを求める声がその中にあった。 ネズミの出入りが盛んな通りに、閑散としたレストランが佇んでいる。その裏手にあるゴミ捨て場に一人の男が横たわっている。男は全身が見窄らしく、靴や服は破れ、その瞳は虚空を見つめていた。 カンカンカン、と金属音が路地裏に響く。レストランの裏口から、一人のシェフがフライ返しでフライパンを叩いている。シェフはわざとらしく音を立てながらガムを噛んでおり、ゴミ捨て場を一瞬眺めるが、すぐに逸らしてしまう。 シェフは足元に転がっているりんごの芯を、何度か垂直に蹴り上げる。シェフが蹴り損ねたりんごの芯はそのまま水平に飛び、男へと当たる。シェフは依然としてフライパンを鳴らす。 「俺の可愛子ちゃんたちよ。出ておいで」 シェフはガムを吐き捨て、どこか遠くを眺めながら大声でそう言った。シェフは銀の平皿に積まれたドッグフードを足で路地裏に配置する。 男はその見窄らしい身体を震わせながら懸命に起こすと、平皿の上のドッグフード目掛けて飛びついた。目には赤く血が走り、歯を剥き出し、よだれを垂らしている。まるでシェフが見えていないかのように、周囲を憚ることもなく、ドッグフードを食べている。 シェフは、皿の外まで飛び散らしながら食べている男を眉ひとつ動かさずに見つめている。そして、逸らすこともしない。 そこへ野生的な唸り声が路地裏を支配する。数匹の野犬たちが喉を震わせシェフと男を凝視する。シェフは野犬に気がつくと男から視線を外し、裏口の扉を閉めてレストランへと戻っていく。 皿と顔がくっつくほど近くまで寄っている男は野犬に気が付かない。四つ這いで皿へ向かう男へ、男と似たように充血した目の野犬が飛びかかる。 野犬が、ボロボロの男の衣服を襲う。男は噛みつかれてようやく野犬に気がついたのか、目を見開き驚嘆の声を上げた。 身体を揺らし、丸くして、叫び声を上げる。男は銀の皿を手に掴み振り回す。瞼を閉じ、目尻に皺を寄せる男の視界に犬はおらず、皿は空を切り、地面を叩きつけ、金属音が静かに響く。 それでも必死に男が振り回していると、一匹の犬の顔に勢いよくぶつかる。野犬は高く弱々しい声を上げながらどこかへと逃げていく。その一匹に付いていくように、すべての野犬が男の前から姿を消した。男は野犬がいなくなってもなお腕を左右上下に振っている。 男は何度か空を切り、ようやく動きを止め、ゆっくりと瞼を開けた。そこには犬もシェフもいない。静寂の路地裏で男は何度か周囲を見回す。どこかから野犬の遠吠えが聞こえる。男はその声に追われるように路地裏から逃げ出した。 裏口の扉は少しだけ開いており、その隙間からシェフが男の後ろ姿を見つめている。よろよろと歩く男が表の通りまで行くのを、ただじっと見ている。 表の通りにはいくつかの露店が建ち並び、煌々と降り注ぐ太陽の光を受けた人々が活気を感じさせる。八百屋の店主は子連れの主婦にりんごをおまけし、靴磨きの小遣い稼ぎは心地よい相槌を、曲芸師は笑みを崩さぬまま踊っている。 「おじさん、ありがとう」 りんごを貰った子は乳歯の抜けた口を目一杯開いて笑った。つられて店主と主婦も頬を緩ませる。次の店へと歩き出した時、りんごだけを両手で大切に抱える子が地面に躓き転ぶ。その拍子にりんごも転がり、靴磨きの元へ届いた。 「坊や、これは君のものかい。はい、どうぞ」 靴磨きは子に明るく言って、りんごを渡す。しかし、転んだ痛みからか子は目を濡らし今にも泣き出しそうであった。主婦は慌てて駆け寄り、靴磨きと客に頭を下げる。靴磨きもまた主婦に頭を下げた。 その頃、少し空模様が曇り、気が付かないほどの雨が降り始めた。それに気がついた人々は帰路につき、気にせぬ者たちは通りを行ったり来たりしている。 通りの活気とは裏腹に客入りの悪いレストランの前に、空気の抜けたような、何か倒れる音がした。見窄らしく、汚れた格好の男が横たわっていた。 りんごを大切に抱えた子は主婦の買い物に飽きたのか、露店の脇で座り込んでいる。主婦が店主と談笑をしている少し奥、レストランの前に倒れ込んでいる男が、子の視界に映る。 子は不思議そうに眺め、人差し指を口に咥えている。次第にそれを見ることにも飽きたのか、空を眺めて欠伸をしていた。 「ママ、雨降ってるよ」 「え、あら。ほんと」 言われて主婦はようやくわずかな雨に気がついた。そうして、小雨が少し強まり帰宅しようとする人々が増えた時、通りに大声が響く。 「大丈夫ですか」 立派なコック帽に、白の服。髭ひとつない清潔な顔が料理人の雰囲気を増していた。 シェフは横たわる男を揺すりながら声をかける。周囲の人々はようやく顔を二人へ向けた。シェフは店に戻り、すぐにまた出てきた。手には銀の平皿、そこにはオムレツが乗っていた。 僅か数秒の間に用意されたオムレツを、男は意思も曖昧なまま口へと入れる。皿の隅にはドッグフードの欠片がついていた。拍手喝采。シェフを讃える人々の声。 中には感動の涙を流す者もいた。偶然その場にいた新聞記者は料理を提供するシェフを写真に収め、急いでペンを走らせる。主婦や店主は必死に手を叩いていた。子はそんな母親を首を傾げ、指を咥えて見つめていた。 「皆さん、彼はもう大丈夫です。あとは私に任せてください。どうぞお気をつけてお帰りください」 シェフはそう言いながら男を担ぐように店内に運んだ。そしてドアに閉業中という札を立てる。 人々はまた笑いながら帰路につく。雨はまた強まり、いよいよ小雨ではなくなった。 しばらくして、男はまた路地裏のゴミ捨て場にいた。カンカンカンとフライパンを叩く音と共に裏口が開く。銀の皿にドッグフードとりんごの芯が置かれている。 男はまた飛びかかる。しかし、今度は皿ではなくシェフに。 「なんだよ、またタダ飯食わせろっていうのかよ。おいおい、そんな目するなよ」 シェフは面倒くさそうに男を足払いし、店内へ戻っていった。店は以前よりも活気があり、ほとんど満席であった。 路地裏に残された男は立ち尽くしている。風が舞い、捨てられた新聞紙が男の顔を覆った。突然のことに男は驚き、新聞紙一枚に取り乱す。 「奇跡のレストラン。愛が貧困を救った」 新聞の片隅にあるコラム。その冒頭のキャッチコピーにそう書かれていた。男は強風によって押し付けられた新聞紙をうまく剥がせずにいる。 ドッグフードを野犬が忙しそうに食べており、皿の上にはりんごの芯だけが残されていた。
風が止む
磯の匂いが漂う、断崖の岩場に腰を下ろして座る男が一人。波が岩にぶつかり、水飛沫が男の元まで飛んでくる。男は避けることもせずにただ膝を抱えて座っていた。むしろその波に飲まれることを望んでいるかのようであった。 日が落ち始めているが空はまだ青い。海は荒々しく唸り、音を轟かせる。波の強さはさまざまで、時には岩にも届かず、時には男を包み込む一歩手前まで。 強い日差しが、わずかに濡れた男の服を乾かす。濡れが乾くたびに、男の心も乾く。 海に向かって座る男の背には、崖が広がる。崖は少し反り返っており、小石がたまに落ちてくる。時々男の体にもぶつかり、そうすると男はゆっくりと上を眺め、目を細めて下を向く。 崖の上には鮮やかな緑の木々がある。樹木が放つ独特の香りが崖を支配しているが、果てしない海が邪魔をして、男まで届くことはない。 岩場を越え、波を越え、水平線の位置に大きな離れ鯨がいた。男は顔を上げ、鯨を見つめている。鯨はどこかに行くこともこちらによってくることもしない。海が陽の光を反射し男の眼を傷つけるが、男はそれを気にすることもなく鯨を見つめていた。 男は何度か立ち上がり、鯨のいる海へ向かおうとしたが、結局は足がすくみ、また座り込んでしまう。 少しして、風が強く吹き始めた。その風は強烈な海の匂いを含んでおり、うるさく崖にぶつかり、男の元へ不快な音と匂いを届けた。風のせいか、崖から再び小石が落ちてきた。男もはじめのうちは無視していたが、あんまりにも降ってくるものだから座る位置を少し変え、上を睨んだ。 男が上を睨んだ時、波の音も風の音も掻き消すほどの叫び声が聞こえた。それは人間のものとは違う、もっと野生的で、緊張感を孕んでいた。そして男は確かに崖の上から小石とは別に何か大きな物体が落ちてくるのを見た。 鹿だった。まだ生きている。おそらく子鹿であり、その瞳は潤んでいるようにも見える。男は立ち上がり、目を見開き、息を呑む。胸に手を当て、過呼吸気味であった。子鹿は先ほど男が座っていた位置へと落下しており、その身体は立ち上がることを拒否している。 子鹿の鳴き声はその場を支配し、男の心臓の鼓動は加速した。男は岩場を慎重に歩き、一歩ずつ子鹿へと近づいた。子鹿は動かぬ体を最大限震わせて、男を見つめている。 その時、今までとは異なる、男の背丈の数倍はある波が岩場を襲った。思わず飛び退けた男は、全身が濡れるだけで、事なきを得た。しかし、動くことのできぬ子鹿は波にさらわれていった。日差しも弱まり、岩場はどこまでも湿気を放っている。 波の向こうに子鹿が浮かんでいるのが見える。日は暮れ、空は赤くなりつつあった。濡れた岩場に、血の跡があるのを男が発見する。それは、間違いなく子鹿のものであった。男は静かにその場を後にする。波と風の音は止まないが、子鹿の鳴き声がいつまでも残響していた。 舗装された道の隅を男は歩いていた。磯の匂いは薄まり、徐々に木々の香りが強くなる。歩くには堪える坂道を男は走りながら登っていた。濡れた衣服と風が男の体温を奪い、男は無理にでも体を動かした。そうすることで思考を捨て去るかのように。 坂道を登り切り、膝に手を当て、乱れた呼吸を整える。男はここが崖の上であることに気がついた。いるはずのない子鹿が男の目に映る。男の足は無意識に進んでいた。 海の近くであるのに、木々に囲まれ、今では森の気配の方が強かった。日没前は薄暗く、不安定な地面に何度か躓きそうになる。 進んでいく男の前には、藪が伸び、岩で塞がれ、時には背丈の半分ほどしかない道が続いた。 最後の一本の木を抜ければひらけた場所に出る、というとき、日が落ちる直前、最後の煌めきが男の視界を奪う。男は顔を背け、目頭を押さえ、うずくまった。 男が目を開けた時、眼前にはどこまでも広がる海と茜色の太陽があった。そして、同時に崖端でもあり、一歩の余裕もないほどだった。男はゆっくりと立ち上がり、波の音に耳を傾ける。海が見えてから、その匂いと音が強まる。男はただ海を眺めていた。その視線の先には未だに離れ鯨が悠々と泳いでいる。 鯨はそのままどこか遠くへ泳いでいった。男は手を伸ばし、鯨を眺め続けるが、ついには見えなくなった。男はただ立っているだけであった。 男はとうとう座り込んでしまう。いよいよ、日は沈み、月明かりと星の輝きだけが男の頼りであった。 そのとき、可愛らしく、小さな鳴き声が聞こえた。男が振り返ると、木の奥に光る瞳が見えた。その瞳は獣の匂いを放っていたが、鳴き声が男の表情を柔らかくした。 その光る瞳は少しずつ男へ近づき、とうとうその正体が子鹿であることを明かした。男は声も出ず、顔を顰め、足は震え始める。 子鹿は小刻みに息を吐き、毛が揺れる。片足を地面に擦り始め、崖に向かって走り出そうとする。 男もそれに気がつき、冷や汗をかいた。風が吹き、木々がざわめき始め、月明かりが二人を照らす。男の膝は震えていたが、目は開いており、口はキツく閉じられ、大きく息を吸う。 そして男は、最大限口を開き、声をあげた。その声は言葉ではなく、単純な音であり、落下した子鹿の悲鳴に近かった。男は自らの声に震えながら目を閉じた。ただ叫ぶ男の耳には、風も波も聞こえない。 その叫びが途切れたとき、永遠にも思える静寂があまりに響く。叫び終わってもなお、男は目を開くことができなかった。呼吸を整え、下を向きながら目を開ける。 風が止む。 男が前を向いたとき、子鹿はもういなかった。男は仰向けで倒れ、口角を吊り上げた。そうして、小さく声をあげた。男はもう海を見ていなかった。 男はそのまま寝てしまい、月明かりが男の寝顔を照らす。海の匂いが優しく周囲を包む。そこに先ほどの子鹿がやってきて、音も立てずに男の横に立つ。子鹿はその温かな顔を男へ近づけ、男の顔を舐める。その温もりは夜に溶けていった。 木々の香りが漂う中で、月が歌っている。子鹿の姿はもうどこにも見えなかったが、海から子鹿の鳴き声がする。その鳴き声と共に鯨が再び泳いできた。尾鰭で波打つ音が海にこだまし、海面の月が揺れていた。
微熱
金はない。人望もない。だが時間だけはある。孤独な大学生は何をすれば良いのだろう。場違いのカフェから逃げ出し、期間限定の暖かなコーヒーラテを片手にそんなことを考えていた。 悴んだ手にコーヒーは少し熱く、両方の手で熱を交互に逃しあっている。都会の隅にはどこにでも寂しげな公園がある。都市の思惑とは異なり、そこには陰鬱な顔の人々が集まる。 その日も子供の声などは聞こえず、こんな都会のどこにいるのかというほどの老人が集まっていた。ベンチに腰掛け、ようやく持ち替える必要のなくなったコーヒーを一口飲む。 「あち」 思わず声が出るほどで、舌がヒリヒリとしている。顔を上げると老人たちがこちらを睨んでいるように見えた。人生の佳境は過ぎたろうに、どうして若者を睨むのか。執拗にコーヒーを冷ましながら、頬をかいた。 老人たちは曲がった腰からは想像もつかぬバイタリティで、ゲートボールに夢中であった。老人のうちの一人が、公園の地面の段差で自由に跳ねる球に文句を言っている。その声を聞いて、足を閉じ、顔を俯けた。昼間に何もしていない自分が叱責されている気がした。 そのとき、大きな声が公園に響いた。その声は鋭かったり鈍かったりとさまざまである。犬を連れた主婦団体が甲高い声で会話している。薄暗い今日の天気など見えていないのかのように、自分たちの世界を作り上げている。 犬も主婦も、好き勝手に喋っていた。側から見るとどうして会話できているのか不思議でならなかった。誰一人犬に構うことなく、犬もまた人間には興味を示さない。一つの空間にいながら、二つの集団となっている。 ぼーっと集団を眺めている時、一匹の犬がこちらを睨んでいた。いや、睨んでいないかもしれない。とにかくこちらを見つめていた。目先を細め、歯を見せ、生ぬるい息を不規則に吐いている。思わず視線を逸らした。届くはずのない絶妙な獣臭を感じて、目を顰める。 その犬が突然駆け、老人たちの元へ突っ込んでいく。主婦はリードを握っていないどころか、犬を見てもいない。何人かは気がついていたようだが、焦りの顔は見えなかった。心臓の鼓動が速くなり、唾を飲んだ。ベンチに腰が張り付き、ただコーヒーのカップを強く握る。カップは想像よりも無機質で、熱を伝えようとはしない。 老人たちは未だに公園に文句を言っており、ゲートボールは停滞している。地面に生えている雑草を抜いていたり、踏み潰して整地していた。 土の上では足音ひとつ響かず、老人たちは犬に気が付かない。しゃがみ込み、雑草を黙々と抜く老人へと犬が飛びかかった。顔を逸らし、目を閉じて、衝撃に備えるかのように体を丸めた。 聞こえてきたのは笑い声だった。瞼を開けては閉じる。何度か繰り返したのちに顔を上げた。腰を地面について仰向けの老人のお腹に、犬がその全身を預けていた。 飼い主と思われる主婦は、ゆっくりと歩きながら老人に近づき、笑いながら頭を下げる。周囲の老人たちも頬を緩めている。 その時、ズボンがずぶ濡れになっていることに気がついた。先ほど溢したコーヒーが右足に染み込んでいた。そこまで経ってその熱さに気がつき、声を上げずにもがいた。 熱さを誤魔化すために、濡れたズボンをペチペチと叩いた。手が少しずつ濡れていくのがわかる。手が冷えるのとは対照的に顔が熱くなった。 ゲートボールを見ることも、主婦の会話を聞くことも、犬を見て微笑むこともできずに耳先を赤くする。 熱が取れ、ゆっくりと顔を上げた。ある老人は犬と戯れ、ある老人は雑草を抜き、ある老人は文句を言っている。主婦たちは間違いのない笑顔で過ごしている。ただ一人自分だけが、声を上げることもなく陰鬱な顔でベンチに座っている。 顔を上げて、空を見た。青と白。眩しかった。小さく微笑み、立ち上がり、カフェを目指した。 カフェで先ほどと同じコーヒーを一回り大きなサイズで注文した。店員は穏やかな口調であった。席につき、コーヒーを口にする。やっぱり熱い。けれど、飲めないことはなく、その方が美味しかった。 木製の机は柔らかく、照明は優しい。店内はタイピングの音と他愛もない世間話で満たされている。 ふと、カップを見ると隅の方に文字が書かれていた。 「本日二度目のご来店ありがとうございます」 角がなく丸み帯びたその文字列の先には可愛い表情のニコニコマークがあった。その文字に触れ、なぞった。まだ書かれたばかりの文字は、指先に合わせて、綺麗に滲んだ。 誰が書いたのか気になって店員に視線を向ける。オレンジが僅かに含まれた茶髪に、お団子ヘア。支給されたであろう緑色の制服。輝く瞳は大きく、過度ではない化粧が、素朴さを感じさせる。ちらちらと見ていると、目が合った。店員は少しだけ口角を上げてすぐに目線を移した。 この短時間に二度も同じコーヒーを頼む人間はおかしなものだ。誰にも聞こえないぐらいの声で、笑った。 近くの女子高生はもっと大きな声で笑っていた。端に座る会社員は堂々と電話をかけている。お婆さんは周囲など気にすることもなく文庫本を読み、レジに並ぶ男性は注文の仕方がよく分からずに戸惑う。口を開け、もう少し大きな声で笑った。 右隣の女性はイヤホンをしており、こちらを見ることもしない。左隣の男性は見たこともないキャラクターの動画を再生しながらスマホを凝視している。 コーヒーは熱が取れ、飲みやすい。先ほどの熱いコーヒーも好きだが、このコーヒーは喉を潤してくれる。何より、この時間が安堵であり落ち着きをもたらす。 口角は吊り上がり、目は煌めく。カップを優しく握り、滲んだ文字をいつまでも眺めていたかった。入店と退店、電話話に世間話。それと笑い声。カフェという一つの集団の音は柔らかく響く。 金もない。人望もない。それでも、暖かなコーヒーを飲み、落ち着く時間がある。
池の底で
男がワニと向かい合って座っていた。周囲には人の気配どころか生き物の気配ひとつない。微かな木漏れ日と清廉な池が神秘めいている。男は倒木に寄りかかり、池に片足だけを踏み込みワニと対峙している。冬の訪れを感じさせる風が山の木々を揺らし、池の水面に模様を作り出す。 ワニは硬質な深緑の皮膚のほとんどを水中に沈めており、その鼻先と鋭い目だけが浮かんでいるように見えた。ワニは音も立てず、波も立てず、静かに男へ近づいた。もはや手を伸ばせば届く距離になっていたが、男は逃げるどころか身じろぎひとつない。 屈強な男は分厚い顎髭をそっと撫でながらワニを見つめる。男は池に浸かっていた足を抜き、胡座でどっしりと構えた。腕を組み、ワニを見つめながら石像のように固まって動かなくなった。 足を抜いたときの波紋がワニの鼻先と目を濡らす。ワニも距離を詰めることを止め、男を見つめるばかりであった。二人の間に深い静寂が訪れた。 動くことのない男は、目尻に皺を寄せ、額に汗を浮かべる。ワニも僅かばかりの波を立て、小さく揺れ動いていた。 静寂を破ったのは不穏な金属音であった。男は分厚い手で短刀をきつく握りしめている。それを見ていたワニも静かに動いた。水面が揺れる。目と鼻先だけでなく、鋭利な歯を持つ口全体が水の外にあった。 男は立ち上がり、短刀を握る手には汗が滲んでいた。男が少しばかり後退りをすると踵が倒木にぶつかった。男は目を細めながらも口角を緩ませた。 その刹那、水飛沫が宙を舞った。水中にあった全身のほとんどが飛び出た。ワニの体は水を破り、真っ直ぐ男へと向かった。それに応えて、男も後ろへ飛び跳ねる。倒木を挟んで両者は緊張に包まれた。 「なるほど、噂通りの人喰いワニか」 おどけた口調であるが、表情は苦しそうであった。男の身体が震えており、それが恐怖なのか武者震いなのかは男にも分からなかった。 先ほどまでの静寂が嘘であるかのように、ワニはけたたましく咆哮した。そしてそれは声にとどまらず、倒木をも飛び越えてくる身体が森全体を轟かせているようであった。 「俺も人はよう殺してきたんじゃ」 男は目と口を可能な限り開き、そう叫ぶ。迫り来るワニのその鋭利な歯を左腕で受け止める。深緑の皮膚が血飛沫をより鮮明にさせる。男は顔を大きく歪め、絶叫した。理性とも本能とも取れぬ判断で右手に持つ短刀をワニへ突き立てた。深緑の皮膚にもう一つの血液が流れた。 ワニは飛び跳ねるように後方へ転がる。男は左腕の痛みを感じさせぬ勇猛な顔つきで、仰向けの腹に短刀を突き刺した。何度も突き刺し、分厚い顎髭が赤に染まった。 男はワニを突き刺すたびに目を絞るように細め、歯軋りしながら苦しんだ。 動かなくなったワニを、男は片方の手で引きずり、倒木を乗り越え、元いた池へと戻した。池はワニの血で染まり、赤の模様を作り出した。男は、腹を上にして水中に沈むことなく浮かんでいるワニを見ていた。笑うでも悲しむでも、怒りでもなく、男は虚な目で呆然としていた。 日が沈み始め、空が赤く染まる頃に、男は村を目指して下山し始めた。血の滴る左腕を押さえ、今になって大きく顔を顰めている。 次第に雨が降り始めた。雨は男の血を洗い流したが、同時に体温も奪っていく。雨で地面はぬかるみ、男は何度か足を取られて転ぶ。気力も体力も限界に近かった。 とうとう倒れ込んだ男は瞳を閉じて、そのまま楽になってしまいたかった。起き上がるための腕は負傷し、体は冷えるばかり。夜が深まればさらに気温は下がっていく。 そのとき、雨音に混ざって泥を踏み分ける足音がした。足音は煙草の匂いを纏っており、山の匂いを異質にした。 「おい、どうした。大丈夫か」 二人の老人が男の元へとやってきた。老人は二人とも厚手の格好をしており、頭には笠、腰には長筒の猟銃を抱えていた。 老人は男が左腕に傷を抱えているのを見て、すぐに人喰いワニの仕業だと気がつき、猟銃を構えて周囲を警戒している。 雨音と泥の匂いが漂う山中で猟銃の音が異質に響く。老人は男を静かに抱き上げ、村へ連れて治療するために、背負った。 その時、男は目覚め、傷を庇うこともなく暴れ始めた。左腕からは血が滴り、目は充血し、掠れた声がこだました。 「おい、おい。こいつは」 周囲を警戒していたもう一人の老人が男の顔を見て、声を荒げた。老人の顔に先ほどまでの憐れみはなく、青ざめている。 男は残っている命の全てを削るかのように、老人には見えぬ何かと、怯えた顔つきで戦っていた。 あまりに暴れるものだから背負っていた老人は仕方なく男を下ろす。そして、その時もう一人の老人も男の存在に気がつき、声を詰まらせた。 「こいつは、あの、逃げ出した死刑囚か」 いよいよ本格的に夜が始まるという頃、雨と風が森のざわめきを演出し、大地の香りは泥臭く、雲が星々を隠す。 その時に、一つの大きな音が鳴り響いた。その音は雨音や風を置き去りにし、山全体を支配した。そして、その音の正体が、男の脇腹を貫いた。 老人の手に持つ銃口からは煙が上がり、山は驚くほどの沈黙に包まれた。その直後、男は痛みに悶絶しながらも、身体を揺らして老人達から逃げた。足取りは不安定で、何度か泥に足を取られて転んだ。 老人達も深く追うことはせず、老人の手にぶら下がる銃は小さく震えている。その煙だけが、揺らぐことなく真っ直ぐと空に登り、雨に消えていった。 男は考えも持たぬまま逃げ惑い、気がついた時には、池の前の倒木に倒れ込んだ。隙間風のような呼吸音と、隠すこともできない血まみれの身体は既に限界を超えている。 男の視線の先には、腹を浮かべて、動かぬワニ。美しい池も、血と泥が混ざり合い、不穏な色をしている。男は這うように倒木を進んだ。 右腕と、疲れ切った両足を最大限に動かして少しずつ進んでいく。そうして池に手が触れ、顔が触れ、とうとう全身が収まった。男は左腕でワニの腹を撫でながら、絶命した。 翌朝になると、雨は上がり、朝日が木漏れ日となって池を照らす。池には依然として二つの死体が浮かんでいた。その横の倒木には、小さな白いキノコが生えている。 まだ冬が本格的に始まる前の、穏やかで少し暖かい風が池の水面を揺らしていた。