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20 件の小説

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色々書いています。

尻尾

 世の中色んな人がいるからね。品行方正で真面目が何よりも取り柄の母がよく言っていたセリフだ。私はこの「色んな人」には属さないと考えていた。私から尻尾が生える前まで。  その日、私の尾骶骨がするすると伸びて、立派な尻尾へと成長した。何が起きているのかはまるで分からなかったが、ただ一つ確かなことは、私のお尻の付け根から尻尾が生えているということ。それは爬虫類の尻尾によく似ており、イグアナのようであった。かといって私の身体は人間そのものであるからチープな仮装のようにも見えた。  初めのうちはただずるずると地面を引きずるばかりであったが、次第に感覚を掴むと左右上下へと自在に動かすことができた。小刻みに動かすコツも掴み、床に尻尾を規則的に打ち付けて遊んだりもした。  楽しかったのも束の間、これは夢ではないと明確に意識してから、私は異様な焦りと緊張を覚えた。一人暮らしであることを神に感謝しながら、どうすべきか悩んだ。ひとまず大学生であるから授業を少しサボったところで問題はない。それは、私が不良学生であるからではない。むしろその逆である。ほとんどの授業に真面目に出席しているからこそ二、三週間休んでも問題がないのだ。むしろ不良学生であれば尻尾自慢をするために大学を闊歩していたかも知れない。でも私は真面目だからそうはいかない。  どうすべきか悩みながら尻尾を適当に動かしながら遊んでいた。お尻から生えた尻尾を身体の前を通し、そのまま真っ直ぐ上まで持ち上げると、胸の少し下ほどまで届く。ここまで大きな尻尾となると隠すのは容易くない。ぐるぐると身体に巻き付けてみると思いの外フィットした。細いウエストが思わぬ形で役に立った。  春の訪れを感じる陽気であったが、私は尻尾を隠すため、オーバーサイズのアウターを羽織った。立て鏡で全身を確認してみるが、パッと見ただけでは分からなかった。  私はモノは試しと近くのコンビニをゴールとする冒険に出かけた。  再度全身を鏡で確認したのちに、お気に入りの靴ではなく、スニーカーを履いて玄関のドアを少しだけ開けた。ドアの隙間から顔を覗かせ、左右をチラチラと見た。人がいないことを確認すると思い切って「えいっ」と小さく呟きながら外へ出た。  誰かに見られているわけでも大犯罪を犯したわけでもないのに、見つかってはいけないと何かが強く思わせた。その何かから逃れるように慌てて階段を降りた。認めたくない何かが確かに私の中にいることがどうしても嫌だった。  マンションを出てすぐの横断歩道で信号が変わるのを待っていた。最寄りのコンビニは信号を進んで左に曲がりそのまま直進すれば三分ほどで着く。  ただちょうどその時、運が悪かった。信号が変わり、左へ進もうとしたタイミングで三人組の集団がこちらへ向かってきた。その内一人は私と同じマンションの住人である。咄嗟に私は右側へと走り出した。  とにかく見られまいと必死になって走って数分経っただろうか。後ろを振り向き誰もいないことに安堵した。よく考えれば、これからマンションで友人と集まって遊ぶに決まっているのだ。私に尻尾が生えていることを疑って後をつけるなんて馬鹿な話はない。  そこまで考えて、他人に見られても問題ないことを確かめるために外へ出たのに、見られることを恐れる小心者の自分を嘆いた。  身体に巻き付けている尻尾が少し緩んでずれていくのが不快だったため、陰に隠れてグッと尻尾を巻き付け直した。走った直後の熱った身体には尻尾が冷たく感じ、とても気持ちが良かった。  そうして、ここまで来たからにはコンビニというゴールを目指さねばならない。自宅から二番目に近いコンビニの方面に来ていたためそちらを目指すことにした。  ただ、できればそのコンビニには行きたくなかった。そのコンビニ、というかその周辺は少し治安が悪いのだ。  私は何もないようにと願いながらコンビニを目指した。道中何人かの人とすれ違ったが、特に何の問題もなかった。案外他人に注目などしていないのだと気がついてからは少し余裕を持って歩けるようになった。 「いらっしゃせい」  件のコンビニについた。コンビニの駐車場には柄の悪そうな集団が喫煙所に屯していた。 「何でこんなに高いんだ。おかしいだろ、おかしいだろう。私の時代はもう少し安かったがね、つくづく嫌な時代になったもんだよ」  ぶつぶつと悪態をつくおじさんが雑誌コーナーにいた。早速やばいやつと出会ってしまったと私は思ったが、金額に文句を言うおじさんと尻尾の生えた女子大生、普通ではないのは恐らく私のほうだろう、と思って悲しくなった。 「何だお前」  今度はレジの方から叫び声のような金切り声が聞こえた。おばさんが店員に対して何か文句を言っている。 「私に手で食べろっていうのか。普通に考えれば分かるだろう、普通に考えれば」 「すみませぇん。お客さんがいらないっておっしゃったんでぇ」 「何なのよその態度は。店長呼びなさいよ店長を」 「すみませぇん。今日僕だけなんですよぉ」 「全く、もう二度と来ないわよ」 「ありざしたぁ、またお待ちしてまぁす」  レジの店員は慣れているのだろうか雑に対応をしていた。  以前までの私であればすぐキレるおばさんも舐めた態度の店員もおかしな人と認定していただろう。しょうがない色んな人がいるのだからああいった人もいるだろう、と。  しかし、今の私にはとてもそんなことは言えない。箸がないだけでキレるおばさんだろうがクレーマーに適当な対応を取るワンオペ店員だろうが可愛いものではないか。金額に文句を言うおじさんなんか健全な人間といえる。  何せ私には尻尾が生えているのだ。色んな人たちはよく見てみれば何も悪者とかやばい人ばかりではないのだ。少し変わっているだけなのだ。尻尾が生えている人に比べれば全く普通だ。  そうか、あの時私の中にあった何かは普通ではない人間を迫害する気持ちであったのだろう。それが、私自身を締め付けていたのだろう。  そう思ってからお母さんに相談してみようと思った。コンビニを出て、喫煙所の可愛い集団を横目に携帯を取り出した。  尻尾が生えました。どうすれば良いですか。文章を打ってから少し笑ってしまった。いきなりこんなこと言われても母は受け入れられないかもしれない。真面目すぎて娘に尻尾が生えたと知ったら縁を切られるだろうか。  それも仕方ないか。世の中色んな人がいるのだから母のように真面目な人は尻尾を受け入れられないかもしれない。

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喪失の果てに

 私が小学生の頃に家族が亡くなった。共に暮らしていた祖父母が亡くなった。両親はそれよりさらに幼い頃に交通事故で亡くなった。また、生まれることはなかったが兄もいたらしい。  祖父母とはとても仲が良かったため私は涙を流して悲しんだ。しかも、亡くなった要因が殺人鬼によるものであったことも、私を深く悲しませた。正しくは殺人鬼ではないが。  その犯人は、いや、犯人たちは二十代にも満たない不良少年たちであった。なんでも数十万円を稼ぐために怪しいアルバイトを重ねていた青少年たちであったらしい。そんなことを重ねていくうちに、詳しいことは分からないが、自分達が脅される立場となり実行せざるを得なかったらしい。  そんなことで私の大好きなおじいちゃんとおばあちゃんは亡くなった。家に侵入したとき、飼っていた秋田犬のシバが懸命に吠えてくれたおかげで、少年たちが逃走する前に逮捕することができた。私は当時友人の家でお泊まり会をしており、祖父母の惨状を知る由もなかった。  それ以来私は親戚の家に預けられた。親戚のおばさんは一人暮らしをしており、私とシバを快く迎え入れてくれた。 「どうしてシバっていうのかしら」  おばさんに預けられることとなった初日にした会話である。 「私が小さい時に柴犬だと思ってたから。シバにしよってお母さんに言ったら秋田犬だよって。でもお父さんがそれを気に入ってシバになったの」  私はおばさんに嫌われちゃダメだと思い、まだ事件の名残が心中を支配しているのを無視して、明るく答えた。最もおばさんには哀しそうに見えただろうが。 「あらぁ。それは面白いわね。何よりシバって呼びやすいのがいいわ」  初めのうちはおばさんに心を開くことができなかった。だから、私はよくシバと会話していた。 「転校したばかりだから知らない子ばっかりなの。当たり前だけどね」  シバに話しかけても日本語で言葉が返ってくることはない。それでも、吠えたり飛びかかったり舐めたり、シバの感情表現は私の周囲の人間よりも遥かに分かりやすかった。 「わっ、危ないよ。こらシバ、シバったら」  私が哀しそうにしている時は舌を出して、飛びかかってくる。それが私にはたまらなく可笑しくて、どんな時でも笑顔にさせてくれる。シバは私にとっての家族であり親友でもあった。  中学生に上がり、少しばかりは友達ができた。その友達とたわいもない話をしながら帰路についた。家に帰ると、おばさんの姿が見当たらなかった。そういえば今朝スーパーに出かけると言っていた気がする。私に言ってくれれば買い物になどしてくるのに。  足腰の悪くなってきたおばさんを心配しながら、私は棚に置かれているお菓子をいくつか机に並べた。小さな一口サイズのお煎餅がいくつも入った袋を雑に開けた。手が汚れるのを嫌って、箸で一つ一つつまみながら食べた。  お菓子を食べながら中学校の友達に電話をかけた。友達とくだらない話の続きを電話で話した。 「分かる分かる。みほちゃんって悪い子じゃないんだけど、自分が一番じゃないと満足しない感じっていうか。ちょっと苦手なの分かるよ。え、何言ってんの。あかりは私の親友だよ、あかりは一番に決まってるじゃん。てかさ、今度の遠足めちゃくちゃ楽しみなんだけど、うん、そうそう」 「あら、もう帰ってるの」 「あ、おばさん。お帰りなさい。うん、そう、おばさん帰ってきたから一旦切るね。また夜、うん、バイバイ」 「転校してきたばかりはどうかと思ったけど、本当に友達ができて良かったよ」 「何言ってるのおばさん、そんな前のこと言い出して」 「夕飯は何がいいかな」 「なんでもいいよ。私ちょっと宿題やってくるね」  そう言って私はお菓子も片付けずに自室に篭った。宿題は広げたはいいものの結局半分ほどしか終わらず、ほとんどの時間をあかりとの電話が占めていた。  あかりは私の一番の親友で、あかりなしではもう生きていけないと言っても過言じゃない。  残りの五割の宿題を仕上げ、夕飯を食べに食卓へ向かう。ついでにシバの餌でもあげようと思って餌を取りに行った。中学生に上がってからシバの餌やりはほとんどおばさんの仕事だった。中学生は忙しいのだ。 「おばさーん。シバの餌ってどこに置いてあったっけ」 「そこの棚の下から二番目のところですよ」 「あ、あったあった。ありがとう」  私は餌を持ってシバの元へ行った。少し暗がりで一瞬どこにいるのか分からなかったが、シバはすぐに見つかった。なんだかぐったりしていた。シバは私を見つけたらすぐ飛びかかってくると思っていたが、少し疲れているのだろうか。 「おーい、シバー。餌だぞー、ほれほれ」  トレイに餌を入れ、シバの口元へ持っていくが、うんともすんとも言わない。  次の日、正式にシバが亡くなったことが確定した。心のどこかでシバは死なないものだと思っていた。お母さんとお父さんとおじいちゃんとおばあちゃんとそれから知らないお兄ちゃんと皆んないなくなっても、シバだけは私の元からいなくならないと思っていた。  こんな喪失感は初めてだった。ずっと一緒にいるものだと思っていたのに。いなくなるんだって知っていたらもっと一緒に遊んだのに。もう飛びかかってくることも舐めてくれることもない。  それから私は食事も喉を通らず、しばらく学校を休むことにした。しばらくといってもいいとこ一週間だけれども。おばさんは体調不良といって学校に連絡している。 「辛いだろうけれど、ご飯は食べんといかんよ」  おばさんが私にそういってハンバーグを作ってくれた。ハンバーグは私の大好物だった。しばらくほとんど絶食状態だった私は、ハンバーグをみてギュルギュルとお腹を鳴らした。 「こんなに悲しくてもお腹は空くんだね」 「そうねぇ」  おばさんは、かつてないほど打ちのめされている私になんと声をかけて良いのか分からないようで、形ばかりの相槌をするだけであった。 「シバ、私の出したご飯食べなかったな。最後にご飯あげたのがいつかも覚えてないよ。いなくなるなら、ちゃんとご飯も散歩も毎日やれば良かった」  私はおばさんに罪を吐露するかのよう咽びながら呟いた。  おばさんの作ってくれたハンバーグはとてもおいしかった。半分ほど食べて猛烈に体調が悪くなり自室に戻った。  自室で遠足のしおりを眺めていた。あれだけ楽しみにしていた遠足も今ではまるで心が踊らない。  あかりからくる電話にはまだ出れていない。今日もごめん、体調が悪くて。と簡潔な文章だけ送って横になった。 「遠足までに治るといいね、か」  あかりから送られてきた文字を機械的に読み上げた。遠足までどころか、これから一生私は治らないのではないだろうか。こんなにも悲しいことは今までの人生で一度もない。悲しいことならたくさん体験してきたつもりだった。それでもこの悲しみの先に笑顔があるとは思えなかった。  結局遠足に行くことはできた。しかし、遠足先での講演会のみである。おばさんが車で送ってくれた。皆んなと楽しく会話できる自信がなかったが、先生や皆んなをこれ以上心配させるわけにはいかない。そういうわけで講演会に顔を出すことにした。講演中であれば会話をしなくて済むという算段だ。 「皆さん、本日はこのような貴重な機会をいただきありがとうございます。本日講演をさせていただきます、田中千智です。十分間という短い時間ではありますが、よろしければ最後まで聴いていただければ幸いです」  短めのポニーテールと七三分けにされた黒髪がいかにも真面目であるという雰囲気を作り出していた。 「いきなりで申し訳ないんですけど、皆さんのご家族は元気ですか。中には亡くなっちゃったよって方や大人たちの問題で一緒に暮らしていないなんて人もいると思います。もし元気で共に暮らしているのなら、ほんの少しでもいいので会話でもしてあげてください。感謝を伝えるとか恥ずかしくてできないと思います。私もそうでした。だから、せめて会話ぐらいはしましょう。なぜ私がこんなことを言うのか、まずはスライドをみてください」  スライドに映されたのは瓦礫で覆い尽くされた街並みだった。 「皆さんの年齢だとどうですかね、産まれてすぐもしくは産まれてないって人もいるかも知れませんね。東日本大震災。とても大きな地震でした。ニュースとかで映像を見たことがある人もいるかも知れませんが、この地震の津波で大勢の人が亡くなりました。私の家族もこの津波で亡くなりました。その当時私だけ学校にいて、家にいたお父さんお母さんは残念ながら亡くなりました。ちょうど地震が発生する二日前ですね。お母さんと大喧嘩をしました。忘れもしないです。喧嘩の内容も細かく覚えています。当時流行っていた可愛い筆箱を、買ってほしいと私がいくらいっても買ってくれなかった母親に対して、強く反発しました。筆箱を買ってもらえなかった。たったそれだけのことで喧嘩をして、そのまま仲直りすることはできませんでした」  少し、ほんの少しだけ間を置いて、千智さんは手元のリモコンを操作した。スライドが一枚移り変わり、瓦礫の街並みから復興した街並みへ変わった。 「この画像は全く同じ場所を震災当時と現在で比較したものです」  一枚目と二枚目を行ったり来たりしながらそう解説した。 「残念ながら家族はいなくなってしまいましたが、残っているものもありました。町そのものですね。はっきりいって復興に携わったとかではないです。ただ悲しみに打ちひしがれていただけでした。強い悲しみと後悔が一年以上残りました。気がついた頃には見違えるほど復興が進んでいました。そうしてなんとなく悲しい過去を背負って生きているうちに周りの大人たちが復興を進めていました。でも全く復興の進まないものもあります。私の後悔です。なぜあのタイミングで喧嘩をしてしまったのか。悔やんでも悔やんでも、悔やんでも悔やみきれません。家や道路はいつか直ります。もちろん誰かの大切な想い出などは壊されてしまったかも知れませんが、私がただ生きている間にも立派な大人たちが直してくれます。私の後悔は私にしか治せません。はっきりいって今でも後悔しています。今、あの時に戻れるなら、同じ結末を辿るとしても、喧嘩するようなことだけはしなかったでしょう。皆さんには私のようにはなってほしくありません。辛気臭いことを言うなと思うかも知れませんが、今日生きている人が明日も生きているとは限りません。だからと言って、いつもありがとうだとか何かプレゼントを渡すだとか特別なことをするのは恥ずかしいと思います。会話だけで十分です。些細なことで結構です。学校で何があったとかテレビの話題でもSNSの話題でも構いません。その当たり前を存分に過ごしてください。亡くなってから後悔しても間に合いません。どうか今ある幸せを幸せと思わないぐらい、存分に楽しんでください」  そのまま千智さんは静かにお辞儀した。皆が静まり返っていたが、先生たちの拍手を皮切りにパラパラと生徒たちも拍手をし始めた。  私は、あまりにも今の自分とリンクしている状況が飲み込めず、体調不良を先生に訴え、皆と会話する間も無くおばさんの迎えを待った。  おばさんの車の後部座席で横になりながら、考えていた。亡くなってから後悔しても間に合いません。その通りだと思った。私はあの人と同じように後悔を一生抱えて生きていかなければならないのだろうか。一度悲しみを受けた人間は二度と幸せになれないのだろうか。  優しくおばさんが声をかけてくれるも、私は曖昧に返事をするばかりだった。  家に帰るとすぐ寝てしまった。疲れていたのだろうか。目が覚めた頃には翌日のお昼だった。あかりから電話の着信があった。今日は遠足の振り返り休日で学校がないのだ。私はなんとなくあかりに電話をかけた。 「もしもし、私だけど」  私からの電話なんだから私に決まっているのに。久しぶりの電話でおかしなことを言ってしまった。 「もしもし、うん。大丈夫なの。体調が悪いって、もう一週間ぐらいになるけど」 「うん、実はもうほとんど治っててサボり半分かな」  なんとなく心配させてはいけないと思い、乾いた笑い声でそう伝えた。 「実は遠足も行ってたんだよ、講演会だけだけどね」 「え、そうなの。言ってくれれば飛んで行ったのに」 「その時はすぐ体調悪くなってすぐ帰っちゃったんだ」 「そうなんだ。てか、あの講演会私に刺さりすぎてやばかった」  どきりとした。あかりが私の家庭環境を知っているわけないのに、見透かされている気分になった。 「あかりも、何かあったの」  そういって、も、とつけてしまったことに言ってから焦った。 「何言ってんのよ、あんたのことじゃない。ずっと体調不良で学校来れなくて。もしこのままいなくなっちゃったら私今後一生やっていけないよ」  私は自分でも気付かぬ間に涙が流れていた。一度泣いていると気がつくともう止まらなかった。 「え、何、どうしたの。大丈夫なの」 「ううん、ちがうの、ごめん。ありがとう。ちょっと切るね」  あかりにこれ以上自分の恥ずかしいところを見せたくなく、食い気味に電話を切った。  心のどこかでシバを失ってそれでもう終わりだと思っていた。でも誰かにとっての大切な人が私の場合もあって、私にとっての大切なものもシバだけじゃなかった。 「どうしたの、平気なの」  私の泣き声を聞いておばさんが部屋をノックする。 「うん、大丈夫」  泣きながらそう返事をする。 「開けるわよ」  おばさんが部屋に入ってきて私を抱きしめる。 「私じゃシバの代わりにはなれないかもだけど、今は辛いかもだけど、なんでも聞くからね」  転校してきたばかりはシバだけだった大切なものも今では一つではない。  後悔は一生残るかも知れないしいつか消えるかも知れない。それは私にはわからない。それでも私には大切なものが残っていて、それを大事に持って生きていこうと思えた。  私の泣き声と、つられたおばさんの啜り泣きと、スマホに来る通知音だけが部屋に鳴り響いた。

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異端児其三

 今日一人の人物を紹介したい。名を寛治、姓を柳原という。ここでいう柳原の読み方は「やなぎはら」ではなく「やなぎわら」である。  この男、紛れもなく天才である。何を隠そうこの私、人を見る目にはかなりの自信がある。そんな私が断言するが、今まで見てきた人間の中で文句なしの一番である。僅差で一番になったとか柳原と仲が良いからとかではない。  むしろ私はこの柳原という男のことが嫌いなぐらいである。柳原は天才であるが、人格面、こと人付き合いにおいては最悪である。天才であるが故になんでも一人でこなそうとしており、他者を利用することはあっても頼ることはなく、自分の考えを共有することもない。また、かなり口が悪く、目上の立場の人であろうと容赦なく罵倒する。だからであろうが、悪態をつき上の者には嫌われ下の者には理解されないという悲しき天才でもある。  一方で、後輩にはよく食事をご馳走したり、何か部下の不満があれば積極的に改善していく面もある。特に細かい部分によく気が遣える男で、そういった面では支持されているかもしれない。  しかし、柳原が天才すぎるがために彼の考えがまるで分からない。凡人であればあるほど分からない。加えて行動的であり、一人でなんでも実行してしまう。だが、実行したことの本質的意味は誰にも分からないのだからどうしようもない。  斯くいう私も彼のことを本当の意味で理解できているとは思わない。だが、紛れもなく天才である柳原寛治という男について今日は話したいと思う。  私が彼と出会ったのは四十歳を過ぎたばかりの頃である。私の古くからの友人である森田氏の紹介を受けて出会ったのである。初めて柳原にあった時の印象を話す前に森田氏について少し説明したい。  彼は、資産家の血筋に生まれ、裕福な家庭で成長したことが目に見えてわかるほど品の良い男である。また、彼の代で元々あった莫大な資産は数倍にも膨れ上がった。それは森田氏の商才や人懐っこい性格なども関与しているであろう。  そんな彼だが、誰にも言えない秘密がいくつかある。それは映像品の収集である。これだけならば人に言えないことは一切ないのだが、彼の集めている映像品に少し問題がある。  彼の集める映像品はいわゆる映画館で公開される作品であったりインターネット上に公開される作品ではない。誰かが個人的理由で作成したビデオが主である。しかも、そのビデオの内容というのが、表に出たら問題のあるものばかりである。例えば、誰かの犯罪の証拠になるものであったり、その情報が世に出ることで失脚する権力者であったりである。  なぜ彼がそんなものを持っているのかは前述した通りの資産家であるからだ。とにかくそんな彼のコレクションのうちの一つである「異端児其三」という映像を見させていただいた。  どういった経緯で彼と知り合ったのか、なぜ「異端児其三」を見させていただけるのかは保身のために省略させてもらう。  私が柳原を見たのは「異端児其三」のなかでのことである。つまり、私は柳原を現実世界で見たことは一度もないのである。会ったことがあると前述したが、これは語弊であり見たことがあるというのが正しいのだ。  しかし、映像上で見たということは客観的に物事を捉えることに適しており、人物評価をするという点においては良かったと言えるのかもしれない。  「異端児其三」と題しているが其二と其一はどこにあるのか不明である。森田氏も長らく求めているらしいがどこにあるのか見当すらついていないという。なぜ其三に柳原が選ばれたかについても不明であるが、天才柳原を「異端児」と表すこの映像は実に秀逸なものであり極端なタイトルの逆をいくかのような偏向のない内容である。つまり「異端児其三」を見ただけで柳原の人となりを理解することができるといえよう。実際に会ったことのない私が柳原を語るというのはこの映像の凄さを伝えることにもなろう。  さて、「異端児其三」の内容についてだが、実は柳原が登場するのは映像の中盤以降である。映像の始まりは永田という男がメインとして登場する。だから私は最初永田という男が「異端児」であると考えていた。  ところが、永田の私生活や仕事の姿をまるで自分がその場にいるかのような臨場感を持った映像で見ていると、永田という男が素晴らしい常識人に見えてくる。見えてくるというよりもまさしく永田という男は常識人なのであろう。私生活仕事共に人間関係良好でありさまざまなトラブルを率先して解決するリーダー気質でもあった。  そんな永田の部下として柳原は登場した。部下といっても直属の部下ではない。永田は柳原の才能に誰よりも期待しており関係を築こうとするが、柳原からは永田に一切の興味なく両者の関係は進展を持たない。  一応の上司である永田に呼び出されても柳原は適当にあしらう。永田が事故で死んだ後も、あれほど懇意にしてもらったにも関わらず、そうですかと一言で片付けてしまった。  永田が事故で亡くなった後に柳原中心の映像になる。善人であり常識的な永田を前半のメインに持ってきていたからこそ映像内での柳原の異常性が際立つ。ここから映像の後半部分にあたる柳原の起こした事件について述べていきたい。  端的にいうと柳原は殺人の指示を行っていた。そして映像の終盤で永田は事故死ではなく柳原の指示で殺されたということが分かる。  そんな柳原の殺人の記録が映像に映し出されている。後半部分は、永田が死にそれについてコメントを残す柳原という映像後に突然暗転し、始まる。その暗転がこれから始まる物語の不吉さを象徴しているようであった。  まず、寂れた公園の一角を隠し撮りするようなアングルで映像は始まる。そこには柳原と一人の男が話し込んでいる。後に分かることであるが、この男こそ永田を車で轢き殺した実行犯である。  二人の間にどのような会話があったのかは風の音にかき消されてしまいよく分からない。ただ金銭の受け渡しと不気味な柳原の笑みだけが印象に強く残るシーンとなっている。  場面は変わっていきなりの永田の事故現場へと移る。つまり前半部分で永田は死んでおり、それ以前の映像を後半部分に当てているという時系列の流れである。  この場面では先ほど金を受け取った男の車内からの映像である。男がぶつぶつと呟くワードの中に出てくる柳原の響きが耳によく残ること残ること大したものであった。  男の呟き方が常人ではないと思わせる迫力のある映像がノーカットで五分も続く。その間、男の声はほとんど聞き取れず、柳原という単語だけがなんとか耳に残る。したがって柳原という男が五分間一度も登場しないにも関わらず、強く印象に残る。  そして車内映像からでは少し見にくいが、明らかに永田と思われる男に車は勢いよく突っ込む。そして永田を轢き続けるようなかたちで建物へ衝突。そこで映像もカメラが途切れる形で終了する。  次の場面からダイジェストのような細かい編集になっている。まず、永田の葬式が数秒映し出され、事故のニュースを直に撮影した映像が数秒、次にどこか遠くを見つめる柳原の映像が流れる。  最後にノンフィクションという白文字が暗転した画面の左下に小さく映る。こうして「異端児其三」は終わる  いかんせんよく分からないものの、永田と対比して映される柳原の異端具合と節々に現れている天才性が表現されている映像であった。  森田氏にこの映像の真意を問うと、ノンフィクションとわざわざ銘打っているのだから柳原の罪を主張するための映像ではないか、とのことであった。  しかし、私は異なる意見を持つ。事件が起こるより前から映像が撮られていたことを踏まえると、この映像を撮影したのは柳原自身ではないかと思う。事故、いや、事件当時の車内の映像を撮ることができるのは犯人に限られるという安い予想ではあるが。  読者の方々はこの映像がなんのために撮られたものだと考えるだろうか。

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後悔と葛藤と

 いつであったかは定かではないが、洞窟の近くに一つの家族が住んでいた。家族は洞窟に取り憑かれた一家であった。祖父、祖母、父親、息子が立て続けに洞窟を求めたが、一人として帰ってくることはなかった。  唯一、母親だけが洞窟を嫌っていた。洞窟は家族を奪った相手であるから。しかし、母親も含めて周辺の人々からは酔狂な一家と思われていた。その思い込みは加速していき、おかしな一家であるから近づかないようにとされてきた。  そんな扱いから母親は精神に異常をきたし、ネグレクトになった。家に引きこもり、時々出てきたかと思えば娘を殴るばかりであった。  家族が取り憑かれていた洞窟には悪魔が住んでいるという。その悪魔は命と引き換えにどんな願いでも叶えてくれるらしい。なぜかこれもまた不明であるが、この一家だけがそのことを知っていた。母親以外の全員は夢を追い求めて命を失った。母親だけが、悪魔の存在を信じていなかった。存在しない悪魔に家族を奪われた母親は怒りをぶつける矛先に娘を選んだ。  そんな娘は悪魔のことを知らされず、ただ虐待されるばかりであった。娘はまだ一桁の歳であった。お腹が減っても食べるものはなかった。母親が部屋から出てきたと思えば殴られるだけであった。それでも暴力と共に最低限の食事が出されていたため、娘は母親を愛していた。  その日、娘に久しぶりのパンを与え、それを食べることなくただ持っている娘を見て母親は怒りながら殴った。 「わざわざくれてやったのによ」  とうとう気が触れた母親は娘を連れて洞窟へ向かった。願いを叶えるためではなく命を捨てるために。  洞窟の中はほんのり湿っていた。入り口は大人が入るには少し窮屈なサイズであった。なんとか体を捩りながら中へ入ると、それに娘も続いた。足元は岩の凹凸が激しく、女子供が歩くことはかなりの困難であった。  また、中はかなり暗く、もはや前後もわからないほどであった。洞窟内では反響が凄まじく、水の落ちる音と自分たちの足音が耳を突く。死を求める母親の足取りは重くも軽くもなかった。  本当に悪魔の出てきそうな雰囲気のある洞窟だった。だからこそ家族も信じて向かっていったのだろうと、母親は推察した。もはや悪魔が出てきてくれまいかと願いながら洞窟を進んだ。 「ママ、どこへいくの」  娘は痣だらけの足を必死動かして母親についていった。もっとも、母親も進むことに苦労しており二人の距離が離れることはなかったが。 「うるさい。静かにしてちょうだい」  母親は金切り声でそう叫んだ。 「そうかい、静かなつもりだったんだがね」  ほとんど明かりのない洞窟にもある程度目が慣れてきた頃、洞窟よりも暗い、真っ黒で巨大な塊がそこにいた。 「ようこそ」  その黒い塊は熊にも蝙蝠にも見えた。とにかく巨大な獣に翼が生えているという姿であり、粗悪な作りのおもちゃにも思えた。その不自然さが不気味な雰囲気を増していた。 「なんだ、悪魔、いるじゃない」  この世の全てに希望を抱けない母親は、悪魔が存在したかどうかに興味を抱いてはいなかった。もはやどうでも良かった。一刻も早くこの世から消えてしまいたかった。 「いかにも。私は悪魔である。命と引き換えにどんな願いでも叶えてしんぜよう」  仰々しく気味の悪い身体を折り曲げて会釈した。暗闇で悪魔の全体像は見えないが、僅かばかりの光を放つその薄緑の眼球が嘘をついていないことを証明しているように思えた。  大前提として言葉を話す化け物であるのだが、そんなことは気にもならないほど精神に異常をきたしている母親とそれを不思議にも思わない娘は悪魔から逃げようとしなかった。 「お願い、殺して。もうこの世から消して」  母親はあらゆる怒りの感情がなく、口元だけの笑顔で壊れたようにそう願った。 「残念だがそれはできない。命を代償に命は奪えない。次の願いを言え」  即座に否定された母親は怒りも喜びもなく膝をついた。母親はうずくまり静かに笑い出した。かと思えば次の瞬間に大声を上げて泣き喚いた。泣き喚いたというより、喚いたという表現が適切かもしれない。とにかく洞窟内は母親の声だけが飽和していた。  数十秒も喚いた母親は何をするでもな地面に倒れた。先ほどと比べて驚くほど静かであった。悪魔も喋ることはせず、うるさいほどの無音が洞窟内を支配した。 「ママと一緒に食べたい、朝のパン」  沈黙を破ったのは娘だった。 「いい願いじゃないか」  そういうと悪魔は一口に娘を口に入れて食べてしまった。 「肉が少なく不味いな」  少し飲み込んで、ぐちゃぐちゃに潰れた痣だらけの足を片方だけ吐き出した。 「願いを叶えてやろう」  その声を後に母が目覚めたのは自宅の食卓であった。自分が捨てたゴミが散乱している食卓に娘と二人向かい合って、焼いてもいない、少しカビの生えたパンが皿もなく置いてあった。 「ママ、おいしいね」  娘が大きな笑顔で笑いながらパンを口にした。次の瞬間、パンを食べていたはずの娘はいなくなり、代わりに痣だらけの足が置かれていた。  母親は娘の足を庭に埋葬した。小さな墓石も建てた。娘が亡くなってから数年が経ち、母親は周辺の人々から酔狂な家族に巻き込まれた哀れな未亡人という認識になっていた。あれから母親は二度と悪魔に出会うことはできなかった。  母親は娘が死んでから精神異常も少しずつ良くなっていた。 「ごめんね」  毎日欠かさず墓石に線香を置き、手を合わせ続けていた。 「結局ママは死ねなかった。ごめんね」  自責の念に苛まれながら、母親は手を合わせた。  母親は墓石に、こんがり焼かれ、バターの塗られたパンを供え、一口自分でも食べた。 「美味しいね」  消え入るような声で、泣きながら墓石に話しかけた。涙が溢れないように、昇り行く線香の煙を見上げていた。

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感傷への決別

 そよ風で緩やかに靡くその美しい亜麻色の長い髪を美しいと思ってから、ただの一度もあなたのことを忘れたことはない。  幼い頃、親と衝突して家出をしたことがあった。近くの河川敷で何をするでもなくただ流れてゆく雲を眺めていた。そうすることで自分が大人であることを証明できるような気がしていた。  何となく雲を眺めていたら、涙が止まらなくなった。自分の幼稚さとか愚かさとか孤独な悲しみとか色々あったと思うけれど、明確な理由は分からなかった。それでも涙は止まらなかった。  その時声をかけてくれたのがあなただった。 「お隣いいかしら」  河川敷の相席を頼むなど不可解極まりないが、涙に触れないでいてくれることは助かった。涙が止まらず、答えることができずともあなたはじっと待っていてくれた。 「私も、泣きにきたんだ」  ようやく泣き止んだのを確かめたあなたは、横に座って呟いた。話しかけたのではなく呟いた。 「もう、本当に嫌なことばっかりで。ううん、違う。本当はおっきな嫌なことに支配されて全部が嫌になっちゃってるの。いや、それも違うかな。とにかく嫌なことのせいで私の人生が嫌になっちゃってるの。だから泣きにきたんだ」  決してこちらを向くことはなく、空を見上げながら頬を伝った涙の粒はどれほど美しかったことか。苦しい思いを捨て去るための、前向きな涙は太陽の光を浴び、眩いほど輝いていた。  きっとあなたは雲の流れに想いをやっているのだと感じた。私はもう雲を見ていなかった。あなたが雲を眺めるその姿を一秒でも長く見つめていたかった。あなたを見つめているうちに私の涙は止まっていたが、反対に、あなたの涙は増すばかりであった。 「大丈夫ですか」  今度は泣き止んだ私が呟いた。あなたは何も言わずにただ涙を流した。雲を見上げていても、溢れていることが分かるほどの大粒の涙を沢山流していた。  そんな時間がどれくらい続いたろう。ずっと続いてほしかった。でも、私の涙を代わりに引き受けたあなたはずっと泣いていた。どうすることもできずただあなたの美しさを感じていた私を、あなたは一目見ることもせず喘ぎながら呟いた。 「嫌なことが、あって。それを、それを。捨てたくて泣きにきたんだよ」  そう言いながら、止まることのない涙はあなたの顔を陰にして太陽から隠れた。 「なのに。それなのに。どれだけ泣いても嫌なこと、なくならないんだよ」  あなたは下を向いて、これまでの美しさを捨て去るかのように、大きな声で泣き叫んだ。その華奢な体のどこからそんな声が出るのか分からない。ただ一つ分かることは、そんなあなたは何よりも美しかった。  きっと最初は私を慰めるために来たのだろう。しかし、誰かのためでは無く、心の底から自分のための涙を流したあなたを私は忘れない。  そのあとはよく覚えていない。私の迎えと、あなたの迎えはほとんど同時にきた気がする。私を迎えにきたのは母親だった。あなたを迎えにきたのが誰かはよく覚えていない。男の人だった気もするし、女の人だった気もする。ただ、あなたが辛く、苦しい顔をしていたことは覚えている。  それからしばらく、私は母親と元の仲良しに戻り、あの時期に起きた事件を懐かしむ。  監禁拉致されていた女子大生が死んだ、というニュースだった。今となってはその女子大生があなたであったかは分からない。そもそも監禁されていたところを逃げ出したのに、泣いている私に構っているわけがない。  それでも報道で映し出された顔写真は、美しい亜麻色の髪をした華奢な体のあなたにしか見えなかった。  そうだとしたら、なぜあなたは逃げず、私に構ったのだろう。何か特別な事情があったのかもしれない。私があの日、些細な喧嘩で家出をしたためにあなたを殺したとは思いたくない。  泣いて、泣いて、どうしようもないほど泣き叫んで、それでも解決しない嫌なことを、私はどうすれば良かったのであろうか。  事件にあった女子大生はあの河川敷で遺体として見つかった。そのため河川敷には慰霊碑がある。今でもふと訪れると、綺麗に掃除されており、お供えも置かれている。  私はどこかにいるあなたを想って手を合わせる。線香の煙はもくもくと高く昇ってゆく。今日は風が弱く、一直線に空へと昇ってゆく。このまま、あの雲の元まで届くのではないかと思えるほど真っ直ぐと。  昇ってゆく煙と雲を静かに眺めていた。私はあの頃より大人になれただろうか。大人であることの証明方法はいまだに分からないが、あの時のあなたの年齢を超えてもあなたより大人になれた気がしない。  慰霊碑のすぐそばにいた鳩が大きく羽ばたいて空へ飛んでいき、その羽ばたきで真っ直ぐ伸びていた煙は宙で散ってしまった。私は鳩を静かに眺める。雨上がりの湿った河川敷から、果てしないこの大空のどこへ飛び立つというのだろう。一体何を見つめて、どこを目指しているのか。  少し風が吹いて、冷える体を摩りながら私は帰路に着く。太陽を横目に、帽子を外し、風に髪を預けて靡かせる。今日の雲の流れは緩やかで、一日経ってもまるで進みそうにない。

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愛のために

 どうにも腹が立って、殴ってやりたい気分であった。それは、俺が暴虐な性格をしているからとか、酔っていて理性がないからとか、安っぽいドラマのような復讐のためとか、そんなことでは一切ない。俺はこの胸のうちにいる俺自身を殴ってやりたいのだ。  なぜそんなことを思ったかというと、事は数時間前のことである。冷蔵庫に入っていたプリンを一つ食べたのである。それはそれは美味しいプリンであったが、不味い事が一つあった。そのプリンは俺の妹が大事に大事に取っていたものであるということ。  妹がプリンを楽しみに帰宅したタイミングと俺がプリンを楽しんでいるタイミングが重なったこともまずかった。怒り心頭の妹に俺はなす術がなく、コンビニで新たなプリンを買いに出かけるも同じ種類のものがないために似たようなものを買って誤魔化そうとしたことも問題で、妹は絶賛不機嫌である。 「なぁ、悪かったよ。知らなかったんだ、新しいプリンなら十個でも買ってやるから許してくれよ」  俺は愛する妹に何とか許してもらおうと必死の言い訳をするも響いてはいないようだ。 「もので釣ったってだめだもん。私はあのときあのプリンが食べたかったのに。お兄は自分の何が悪いのか何にも分かってない」  そういって部屋に立て篭もったっきり出てきてくれないのだ。  この家は兄である俺と妹の二人しか暮らしておらず、二人で過ごすのにもやや大きいのだが一人になるとより一層寂しさを際立てる。  最近は掃除もできておらず家全体がほんのわずかに臭う。妹のご機嫌取りのための甘いデザートついでに芳香剤にファブリーズ、その他の消臭グッズも買いに行こうと家を出た。  近くのスーパーで必要な品とその他何となく欲しかったものを手に取った。合わせてコンドームも購入した。妹と買い物する時は気まずくて購入できないが、最近頻度が少し増えた気がする。やはり人間関係のしがらみが減ると依存してしまうのかもしれない。  そんなことを考えているとしがらみだった人たちが脳裏をよぎって非常に不愉快であった。  美味しいプリンを山ほど買ってお姫様の待つ我が家に到着した。やはり臭いがキツイと思い、真っ先に消臭スプレーを散布し、消臭グッズを設置した。効果は薄いと思われるが、念のため臭いの元と思しきものに塩をかけておいた。 「おーいプリン買ってきたぞー」  妹の部屋に向かってそういった。 「いらないもん。お兄が悪いんだもん」  妹としても意地なってしまっており、引き際を見失ったようにも思えた。 「まぁ、そういうなよ。ただのプリンじゃない。プリンアラモードもあるんだ。お昼のことは本当に俺が悪かったよ。このどうしようもない兄貴をどうか許してくれ」  プリンアラモードで妹の気を引き、自分を卑下することで分かりやすい落とし所を作る作戦は非常に上手くいった。 「もぉ、本当にどうしようもないお兄ちゃん。プリンアラモード一緒に食べよ」  ちょこっとだけ扉を開けて顔を出した妹は、プリンアラモードの入った袋ごと俺を部屋に引き入れた。 「別に今なら部屋じゃなくてもいいのに」 「そうかもだけどリビングだと気味が悪いじゃん」 「そうかな。俺はあんまり気にしないけど」 「私が気にするの馬鹿。それにさこんなものまで買ってさ」  そういって、ビニール袋に入れたままのコンドームの箱を取り出してからかってきた。 「あ、しまい忘れてた」  妹は得意気になって箱からゴムを取り出して見せた。 「お兄もこんなの買って、もぉー。こんなの要らないのに」 「いや、お前のためを思ってだな」 「だから要らないって」  妹はそういうとコンドームを放り投げて、俺の局部を触ってきた。 「今まで使ってなかったんだからさ」  耳元で吐息のような声でそう囁いた。昨日もそのまた昨日も行為にいたったのに、まだまだやり足りなかった。若さゆえなのだろうか。  こちらも淫らな手つきで妹へ触れた。そこから先は止まることはなかった。妹をベッドに押し倒しながらキスをした。もうどっちの唾液なのかも分からないほど舌を絡めた。手慣れた手つきで妹の服を脱がしてお互い下着一枚という状態で絡み合った。  もう我慢できない様子の妹を焦らしながら前戯する。舌で首から胸へ、胸から乳首へと舐めながら局部を刺激した。妹が体を痙攣させながら絶頂したタイミングで妹の局部に擦り合わせるように自分のものを当てた。  もうコンドームをつけようなんて発想はひとつもない。腰をうねらしながら天を仰ぐ妹にゆっくりと、それでいて押し込むように挿入した。  それからのことはよく覚えていない。最終的には妹に求められるままに膣内に射精した。  妹が果ててしまったのを機に休憩した。 「リビングに水を取りに行ってくる」 「わ、私も」  息を切らせながらも常に俺についてこようとする。何て愛おしい妹なんだ。  スーパーで買った水は、リビングの机で長い間常温であり、もう冷たくはなかった。 「確かにリビングだと気味が悪いかもな」 「そうでしょ。やっと分かったかー」  温くなった水を飲みながら、数日前に殺した冷たい両親を横目に俺たちはそういった。  俺たちの関係を知って俺たちを遠ざけようとするから悪いのだ。冷えることのない俺たちの愛に勝る力はないのだと思えた。

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気まぐれボーダー

 越境とは一体どんな気分なのだろうか。そもそもどこに境目があるのか私たちは目で見ることもできない。旦那に尋ねることもできない。  私の旦那はアメリカで生まれた孤児であった。イラン人と日本人の夫婦に育てられたが、夫婦の離婚を機に、日本人である母とともに日本へやってきた。その後すぐ、母は死んでしまい、祖父母にあたる人たちと私と出会うまで暮らしていたという。  それとなく、イラン人である父の話を聞いたことがあるが、家族だと思っているよ、などと含みのある言い方をする。ドラマのように血の繋がりはなくとも愛がある、といったものでもない。かといって冷め切った関係でもない。現実はこんなものなのかと理解していた。  私の旦那は一体何人に属するのか、と聞かれたら私は即答できないことが最近の悩みである。所謂ハーフである息子の友人に「お父さんは何人なの」と尋ねられたことがきっかけである。戸籍上は日本人であるはずだ。しかし、血を辿るならそれは確かにアメリカにあるはずである。育て親である父の話を持ち出せばイランの可能性もあるだろう。現に旦那は、達者ではないが、ペルシャ語を話すことができる。  この問いに答えを出せないということは、私たちの息子は日本人と形のない何者かのハーフということになる。近頃、ハーフではなくダブルであったりと、自己の属性に敏感な世の中であるからこその悩みでもある。 「ママー、お弁当まだー」  愛しい息子が私を急かす。息子はママと呼ぶ。特に深い意味はない。世の中にはお母さんと呼ぶ子もいればお袋と呼ぶ息子もいる。 「はい、もうできるからね」  くだらないことを考えて、お弁当を作るのに時間がかかってしまった。日本のお弁当は海外で絶賛されるらしい。学校のご飯でここまで手の込んだものはない。 「給食じゃないと大変だな」  旦那が揶揄うようにそういう。 「遠足に行く日だもの。つい頑張りすぎて時間がかかっちゃった」 「良い思い出になるといいな」  旦那の日本語はイントネーション含めて違和感など一つもない。幼い頃から母親の日本語に触れていたからという要素も強いだろう。  私は思い切って「あなたは自分自身を何人だと感じているの」と聞いてみた。旦那はこの手の質問には冷めた回答が来る。それは触れてほしくないから、というよりも興味がないそれに近い。 「何人かって、そりゃ日本人だよ。僕はアメリカ生まれでイラン人の父を持つけど、日本人だと思っているよ。不満かい」  最後に一言笑いながら冗談を言うのは照れ隠しなのか、隠れた怒りなのかは難しい。 「大満足よ。ただ、りゅうま君いるじゃない、ほら、しょうやの友達の」 「あぁ、りゅう君ね」  あだ名で呼んでしまうぐらいには、旦那は息子の友達と仲がいい。筋骨隆々とした体つきに、日本人離れした髪や目の色、鼻の形などは子供にウケるらしい。  りゅうま君あらためりゅう君に質問されたことを旦那に打ち明けた。 「はははは。確かに、こんな見た目で日本人って可笑しいよね。でも日本人なんだよ」  僕がそう思うから、と聞こえぬ声が聞こえた。  本人が思うならそれでいいんだろう。法的にもそうなんだから。それでいて即答できない自分を恥じた。  なんだか気まずくなって、私は話題を切り替え、わざわざ曇りの土曜日に遠足に行く息子の帰りを待った。  洗濯物を取り込み、明日の天気を確認するような頃になって息子は帰ってきた。 「ただいまー」  太陽とか花とか、この世の明るいことを表すものの何よりも明るい帰宅だった。 「おおー。おかえりー」  旦那がそれに答えて元気に出迎える。 「うわぁ。パパも家にいる。お仕事はサボっちゃったの」 「そう、サボっちゃったの」 「土曜日だから休みなのよ」  なんてことない日常を家族で過ごしていると、朝の悩みが嘘のようであった。  そんな悩みも忘れていた頃に旦那が話を掘り返した。 「今日朝にママから、パパは何人ー、て聞かれたんだけどしょうやはどう思う」  大人のセンシティブな会話を子供にするなよ、と少しイラつきながらも止めはしなかった。 「パパが何人かって、えー、パパって何人なんだろう、パパ人とか、なわけないか。どこで生まれたんだっけ。北海道より遠いところだっけ」 「んーん。パパは火星で生まれたんだ」 「ええー。じゃあ、パパは火星人なの。それとも今地球にいるから地球人か」 「難しいねー。でもパパ人って気に入ったから今日からパパ人になる」 「難しいねー。パパはパパだもんねー」  二人の会話を聞いて、私は難しく考えすぎていたのかもしれない。個人が納得している属性を他人に説明するために決定する必要はないのかもしれない。  越境の境目は私たちが決めるのだから、境目を越える人間がどこにいるかを決めるのも私たちなのかもしれない。  火星人も地球に来て地球人と信じていれば地球人になるのだろうか。事実火星人であっても。そんなことは火星人に聞かねば分からない。判断するのは地球人だけど、信じるのは火星人の自由だ。 「パパ好きー」 「私もー」  私は、馬鹿の新婚夫婦みたいに二人に抱きついた。

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蛇を飼っている

 聖書に登場する蛇は、イブをそそのかし、りんごを食べさせた。この蛇がおそらく世界最古の詐欺師であろう。その蛇が今私の目の前にいる。  それは三十分ほど前のこと。マンションの隣室で暮らしている若い夫婦からりんごをいただいたのだ。友人の農家から送ってもらったのだがあんまり量が多いから、とのことで分けて配っているらしい。  それで、りんごを貰ったまでは良かったのだが、この目の前の白蛇が問題なのである。白い蛇が突如部屋の中に現れたのである。心底驚いた。都内のマンションで蛇が現れるとは思ってもいなかったからである。しかも三階に、である。しかし、蛇は現れた。 「そのりんご、喰わない方が身のためだぜ」  恐らくではあるが、蛇が低いダミ声でそういった。蛇が話したのである。それはそれは驚いた。三階に蛇が出ただけでも悶絶ものなのに、その蛇が喋るというのだ。 「私は世界最古の詐欺師だからな。騙そうとしている人間のことはお見通しなのさ」  立て続けに喋る蛇を見て私は呆然とした。  人間は未知の何かと出会ったとき恐怖を感じるというが、私には分からなかった。それは私が人間ではないのか、その定説が嘘なのかは分からない。ただ一つ言えることは、その蛇は怖くなかったということだ。だから私は返事をしてしまった、会話ができると思って。 「あなたは誰なの」  私がそう質問すると蛇は嬉しそうにこちらを向いた。いや、初めからこちらを向いていたわけだが、改めて目が合ったように感じた。 「やははは、いやぁ、そこまで気になるなら教えてしんぜよう。我こそはイブを唆し知恵の果実を食べさせた世界最古の詐欺師なり。知と引き換えに大いなる苦難の道を与え、忌まわしき神に面食らわせてやった偉大な蛇である。私が一度誘いをかければ人は悪にも善にもなる。なぜならば人間には抗い難い好奇心があり、それを与えたのが私なのだから」  蛇とは思えぬトーンの高い声でゲラゲラと蛇は笑った。蛇の声のトーンが普通はどうなのかは知る由もないが。蛇の話が本当なら大した人物、いや、大した蛇なのだろう。イブに禁断の果実であるりんごを食べるようにそそのかした蛇の話は私でも知っている。  しかし、それでも恐怖なんかこれっぽっちも感じなかった。むしろどこか間抜けに感じて可笑しく思えた。よく見てみると、白蛇はクリクリとしたつぶらな瞳やぺろぺろと出し入れする小さな舌ベロ、大きさは人の腕ほどであるにもかかわらず負けん気な所、など可愛くも思えてきた。幼稚園児が大口を叩いている様子を想像してもらえれば伝わるだろうか。 「どれだけ私のことを愚弄しても構わないが、そのりんごだけは手をつけないほうが良いぜ」  そこまで顔に出ていたかと焦ってしまった。喋る奇怪な蛇に気を遣うというのもおかしな話ではあるが。 「あなたは詐欺師なんでしょう。だったらなぜ騙す側ではなく、騙される側に助言をするの」  初めから恐怖を感じていなかったとはいえ、なんの躊躇いもなく会話をしていることに少し戸惑った。これが、あの白蛇が与えたという好奇心のおかげなのだろうか。  網戸にしているため、白いカーテンが風に踊らされている。白く強い日差しが眩しく、つい、顔を逸らしてしまった。目線を元の位置に戻した時に、白蛇はそこにはいなかった。  やはり夢か幻でも見たのだろうかと思い、日々の連勤を恨んだ。体調不良は思考に強い影響を与えると、どこかの偉い学者さんの話が脳裏によぎった。 「残念ながら、夢じゃないぜ」  蛇の声はりんごが入っている段ボール箱の方から聞こえた。蛇はその小さな口でりんごを器用に咥え、私の前の机に並べ始めた。  私が何を言うでもなく、ただ蛇のことを眺めている間にりんごが四つほど丁寧に並べられた。 「この四つのりんごには毒が入っている」  うっすらと笑いながら蛇はそういった。 「毒、って。出鱈目でしょう。あの夫婦はすごく良い人たちで毒を入れるなんてとても想像がつかない。それに、私は殺されるほど憎まれることをした覚えはないわ」  たとえ相手が未知の相手であろうと、変なことを言う奴にはキッパリと言い返してやる。 「あの夫婦は、幼い自分たちの子供を亡くしてね。それで自暴自棄になって誰も彼も死んでしまえと思っているんだ。ちょっと規模のでかい心中みたいなもんだ」  確かに、ご夫婦の間のお子さんが亡くなったという話は、噂話ではあるが、耳にしていた。  いや、しかし、そんな馬鹿な話があるかと疑った。 「食べるのも食べないのもお前の自由だから、私は強制しない。しかし、一つ私に食べさせてもらおう」  勝手にりんごを丸呑みにした蛇は、気味悪く笑ったまま静かに横たわった。そのまま水が蒸発するみたいにどこかに消えてしまった。本当に消えたのだ。もはやどこにもみる影もないし、声も聞こえない。  風が強く、カーテンが大きく舞ったその瞬間。私は布団から飛び上がった。なんだ、夢であったかと一安心した。しかし、妙にリアルな夢であった。  私はそれから数日経ってもりんごを食べることはできなかった。なんとなく、毒味をさせるわけではなかったが、嫌いな職場の教育係の上司にりんごをあげてみた。媚を売ることで日々の叱責を減らすことが目的であったはずだった。その上司が死ぬまでは。死因は交通事故であったため、りんごは一切関係ないはずだった。それでも気味が悪くて仕方がなかった。夢を信じるなら、すべてのりんごを捨てればよかったのに。媚を売る目的ではなく、もしかしたら消えてくれないか、と願った心がなかったとは言い切れない。 「人は悪にも善にもなる」  脳内で白蛇の声が響く。私の好奇心は悪を選んだのであろうか。

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飯盛女その後

 まだ、日が昇ってからわずかという時間帯にある二人組が峠を越えようとしていた。男女の二人組は、長く苦しい峠越えの道中とは思えぬ、今しがた上がったばかりの朝日と同じぐらいの明るい顔つきで会話をしていた。  男は屈強な体つきをしていたが、その男が放つ雰囲気は強く、決して恐れを感じるものではなかった。むしろその逆、優しく包み込むような温かさ、それをその男からは感じることができた。  一方で女は、如何にもという艶めかしさを持ち合わせていた。しかし、それでいてどこか勝気な様子も伺えた。弱々しく、男にただ靡くばかりというわけではないようである。  知らぬ人がみれば、旅の道中で遊女に惚れ込んだ男が銭を積んだ、と捉えられることだろう。この男女、男の気まぐれという点は遊女を買う男と相違ないが、愛ゆえの旅道中であった。  都を目指すも心中に感じる黒い何かによって滅入ってしまった男と飯盛として男に奉仕するも立て続けに無碍にされてきた女という組み合わせの男女であると誰が見抜けるのか。  出会ってわずかの期間ではあるが、愛を育みながら、宿から宿へと、都に向かって旅をしちょうど十日となる頃であろうか。 「やれ、おまえさん。その黒い何かってのは病気で、体調が悪いんでないですの」  女と出会ってから、男の体調は悪くなる一方であった。男はその屈強さゆえに気がついていないのか、はたまた気がついていないふりをしているのかは不明であった。 「俺は生まれてただの一度も医者にかかったことがないんだ。病ももちろんない」  同じ主張を重ねる男ももはや苦しい言い訳にしかみえない。 「お前さんに会って、これから生涯を捧げようというのに。お前さんがいなくなったら残りの生涯はどうしたらいいんだい」 「死にやしないよ」  言葉とは裏腹に苦しそうな顔をする男を女はただ心配するばかりである。 「私は医者を呼んできますから、ここで安静にしといてくださいな」  女は、大丈夫だ、と反抗しようとした男に「意地を張るんじゃないですよ」とピシャリと言って聞かせた。男もそう強く言われては弱いもので横になった。  女が医者を呼ぶために町へ出ると宿の女将に伝えた。 「ははぁ、いやね、ここから一番近い町には医者がいないんです。医者を呼ぶとなると峠を一つ越えねばなりませぬ。翌日お連れ様と出かけるのがよろしいかと」  女将の話を聞いて女は慌てて支度を始めた。 「これ以上あの人を歩かせることはできませぬ。私が一刻も早く呼びに行くしかないのです」  女将が止めるのも聞かずに、女はささっと身支度をして出かけるばかりとなった。いよいよ出るばかりという時に女将が小さな木の板を女に渡した。  女が女将に尋ねるとどうやら旅のお守りだという。 「ある旅の僧侶が置いていったものです。なんでもあらゆる厄災を跳ね除けるとか」 「ありがとうございます。では別れの挨拶をしてから行かせていただきます」  女は寝ている男に別れを告げ、峠に向かった。  まだ日も昇り切る前に出たにも関わらず、峠はかなり暗かった。木々に囲まれており、獣がいつ現れてもおかしくない。風も強く木々がざわめいているのを肌で感じることができる。獣の声ひとつしないことが逆に獣の気配を感じさせて恐ろしいものであった。傾斜もかなりのもので、女は裾を持ち上げて歩かなければ、躓いてしまいそうなほどであった。  しかし、存外女は強く思うよりも簡単に峠のてっぺんに辿り着いてしまった。街を一望しながら少し休みを取った。腰をかけるのにちょうど良い岩に体を預けながら男を想った。 「いただいたお守り、あの人のためにと枕元に置いてきてしまったけれど持ってくれば良かったかしら」  女の心配は結果的には気にする必要なく、日が落ち切る前に町へと辿り着いた。 「よくきてくれました。すぐに向かいたいところですが、夜を迎えては峠を越せない。あの峠には恐ろしい大蛇がいるからね」  若々しい医者は女にそういった。 「今夜はうちに泊まりなさい。本来ならお代は先払いだが、今回はそれで結構」  医者は舐めるような目で女を見つめながらそういって唾を飲み込んだ。 「私はもうあの人に身も心も捧げると誓ったのです。ですからお医者様もそんなこと言わないでくださいな」  女の勝気な部分が出たがいかんせん相手が悪かった。 「それなら大切なあの人とやらは苦しむより他にない。自分で言うのもなんだが腕前には自信がある。ここらで私より優秀な医者はいないよ。なんなら他の医者に診療に行かぬようにと手紙を出したって構わないんだ」  女は医者を睨むばかりであったが状況は変わらずであった。  次の日が昇る頃になって医者と女は男の元へと向かった。  医者がしつこく話しかけるのも無視して女はスタスタと歩いて行く。 「何も無視しなくたって良いではないか。代金支払いのためとはいえ一度は許し合った仲なのだから」 「その不愉快な言動を慎みなさい。私は一度も許してなどいないよ」 「ははは。まいっちゃうな。でも元は遊女かなんかだろ。伴侶ができた途端に相手が一人ってんじゃお前も飽きてくるだろ」 「お辞めなさい。気持ち悪い」  どれだけ強く女が拒絶しようと医者は気持ち悪くにたにたと笑うばかりであった。  そんなやりとりを何度か繰り返しているうち峠のてっぺんに辿り着いた。女が「ここからは降るばかりだから急ぎましょう」といったところで医者が目の色を変えた。  少し息を荒くしながら医者言った。 「歩いて少しばかり疲れた。外というのは少し吝かだが相手をしないか」 「何を。お代の分は相手したではないですか。医者としての矜持はないのですか」 「矜持ならあるさ。治療はしっかりしてやる。だがそれとこれは別だろう」  そういって医者が女の体に触れるその瞬間、大きな蛇が一口に医者を飲み込んでしまった。 「医者は嫌いなんだ」  蛇が喋ったことに驚く間も無く女は駆け出した。獣の声がしなかったのは本当に獣がいなかったからで、それはあの蛇が原因なんだと女は悟った。こんなことならお守りを持っておけば良かったと後悔しながら無我夢中で走った。  気がつけば女は宿についていた。 「おう、帰ったか」  溢れんばかりの元気さを感じる声で男は女を迎えた。 「お前さん、病はどうしたんです」  女は泣き崩れそうになりながらそういった。 「だから病などではないといったろう。お前のくれたお守りのお陰かも知れぬがな」  男は大口を開けて笑いながら蛇の紋章が彫られたお守りを女に見せた。

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飯盛女

 ここの峠を越えるにはかなり時間がかかるというので、まだ早い時間だが宿に泊まることにした。早めに宿についてもやることはないもので、何をするでもなく都での飯に思いを馳せてみたが、どうにも盛り上がらない。  故郷の田舎から都までの長旅を始めたのは一週間も前のことである。最初のうちは見慣れぬ土地と旅の興奮、都への憧れで心を躍らせたものであるが、次第に興が冷めてきた。決して都への憧れがなくなったわけではない。旅の興奮は少し慣れたかもしれないが、見慣れぬ土地はどこへ行っても味わえる。しかし、胸の奥のどこかに、旅のさまざまな興奮を冷ましてしまう、深く濃い黒色の何かがある気がしてならないのである。  そんな憂鬱なことを考えていると、宿で働いている女がやってきた。 「旅人さん、ご飯はいかがしますか」  女将にしては若すぎる、ちょうど良い年頃の女が正座したまま襖を開けた。 「いや、どうにも腹が減っていないんだ。宿は泊めてもらえるだけで十分」  そういって断った。 「では、こっちの方はどうです」  そういうと若い女は立ち上がり、艶かしい足を披露した。ほとんど下半身の全てが見えている状態といっても過言ではなかった。 「すまないが、どうにもそういう気分になれないんだ。なんだか、嫌な感じがあってね」  畳にごろんと横になったまま返事した。 「旅人さん、そういわれては困ります」  おかしなことをいう女だな、と思いながら上半身だけ起こして続きを促した。 「ここの宿で働いている女は三人おります」  ここでいう女は身体を売ることを主としている人のことを指しているだろう。 「順繰りにお客さんの相手をするわけなんですが、旅人さんみたいに疲れているからいらないと断る人が時々いるのです。それが、どういうわけか、近頃私の番だけが相手されないんですよ。もし今日旅人さんに相手してもらえなければ、三度続けて断られた女になってしまいます。そうなったら私恥ずかしくてこの宿で働けないわ」  随分と個人的な事情で誘ってくるものだな、とやや面倒に感じた。別に全くそういう欲が無いわけではない。家内もいないので不義理ということもない。むしろ、旅に出かけたばかりの頃は、旅先で盛大に楽しもうとまで考えていた。それがどういうわけか、昨晩ぐらいからどうも調子が悪い。決して体が悪いわけではない。この世に生を受けて二十と数年経つが、大きな病を患ったことはただの一度もない。胸の奥の黒い何かが悪いのだ。どうにも精神的に参ってしまう。  しかし、このまま女を返しては他の女に何をいわれるか。考えただけでも可哀想である。もしそうなれば、ただでさえ不明な調子の悪さを抱えているのに、これからの旅が憂鬱で仕方なくなってしまう。 「分かった。だが、本当に一切そういう気にはなれないのだ。しかし、このまま返すのも心苦しい。そこでだ、少しばかり晩酌の相手をしてくれまいか」  酒を体に入れれば、黒くて不愉快な何かもいなくなるかも知れぬ。そう考えて少しきつめの酒を頼んだ。  女は言われるがままに日本酒を用意した。程よく温めてもらい、一口に飲んだ。普段はゆっくりと語り合いながら飲むことを好むのだが、今日はすぐにでも酔いたかった。 「旅人さんや、少し脱いでも構わないかい。相手してくれなくても良いけれど、少しでも誘惑する機会があればね。それに、私たちこの仕事長いものですから、したかどうかはすぐに分かるのよ」  女は旅人の返事をもらう前にもう脱ぎだしていた。そして、あれよあれよという間に、はだけて、ほとんど丸裸になった。 「なかなかなもんだな」  旅人は熱燗を勢いよく飲んだため、かなり酔っていた。 「やぁね、下品で。私はいつでも歓迎ですけどね」  しかし、女の体つきは確かに大したものであった。酔いも相待って旅人は興奮状態になるかと思われた。  はっきりいって脳では今か今かと飛びかかる準備をしている。しかし、この心のうちにある黒い何かがどうにも邪魔をするのだ。今だけは黒い何かの存在を忘れ、楽しませてくれまいかと願った。  だが、ついには旅人は行動に移ることはなかった。その後も女はあの手この手で旅人を巧みに誘った。最終的に、女は諦めて元の通りに服を着た。 「いや、なかなか申し訳ない。しかし、本当に美しい体をしている。俺の気が滅入ってなければ今すぐにでも飛びかかっていたさ」  行動を抑圧する黒い何かがいるために手が出せなかったが、女を美しく思っていたことは本当であった。 「慰めはよしておくれ。私は三度続けて相手されない哀れな女なのさ。せめて、後の二人を騙すため、もう少しここにいさせてくださいな」  女はため息をついて、下を向き、わずかに笑いながらそう言った。  その後、二人はたわいもない話をした。盛った夜にはならなかったが、二人の会話は本当に盛り上がった。それこそ、旅人の心にある黒い何かを薄めるぐらいには。だが、一度行動に移そうとすると、心の内の黒い何かが突然に勢力を増すのである。普段はある程度聞き分けがあるのに、いざとなると猛烈に反抗してくるようであった。  結局、話すだけ喋って、陽が登るほどであった。陽が完全に昇り切る前に、ようやく女は戻った。 「随分と長かったじゃないか」 「まさか、一夜の出来事で惚れたんじゃないだろうね」  戻った際に女は他の女に揶揄われたが、頬を赤らめるばかりであった。  次の朝、といっても女が戻ってから数時間のことだが、旅人が部屋から出てきた。 「どうにも、胸の嫌な感じは取れぬが、お前と話している時は楽だった。どうだ、俺と来ないか」  旅人はぶっきらぼうにいった。 「来ないかって、お前さん何を」 「お前さん、なんて呼ぶには気が早いな。なぁに、金なら心配するな。余ってるぐらいだ」  女は先ほど揶揄われた時の何倍も顔を赤くした。 「ははは。柿みたいだな」  そういわれた女はさらに一層顔を赤らめた。

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