K
43 件の小説贈り物
新月の夜、風の音すら聞こえぬ墓地に男が一人。男の体は薄汚れており、髭に隠れた顔は闇夜でよく見えない。長袖のシャツは捲られ、腕には厚い毛が生えていた。 男の手には大きなスコップがあり、全身を使ってスコップを振っている。地面の土が掘り返され、土中の独特な匂いが広がった。男はその匂いを振り払うように地面を掘る。 男の手が止まり、スコップが何かにぶつかった音がした。男はスコップを投げ捨て、穴の中へ上半身を突っ込む。手で細かな土を穴の外へ飛ばす。 男が頭を穴に沈めてから少しの時が経ち、ようやく男は顔を上げた。男の手には輝かしい指輪があった。月のない夜、星の光を受け、指輪が小さく光る。男はスコップと指輪を手にどこかへ消えてしまった。 暖かな灯りが広がる室内で、十人前後の人々が談笑を重ねている。大人たちは皆笑みを浮かべ、老人を中心に盛り上がっている。食事を早々に終え、広々とした室内を歩き回り、皆が久々の再会に心を躍らせていた。 暖炉の脇で小さな木車の玩具を持った少年がしきりに窓の外を気にしていた。両親は親戚との交流を続け、少年には気がつかない。 椅子に足掛け、少年は外の景色を見ることになったが、外は暗くほとんど何も見えなかった。額を窓に当て、その冷たさを味わう。頬が潰れるほど押し付けたその視線の先に大地を掘る人影を少年は確かに見ていた。 翌日になって老人は薄い皮膚に血管を浮かべ、顔を赤くして叫ぶ。愛する妻の墓を荒らされ、永遠を誓った指輪を盗まれ、昨晩の祝宴の喜びを一瞬にして無くしてしまった。人々は老人を憐れみ、老人と同じように墓荒らしへの怒りを口にする。 少年は昨晩見た人影を思い出していたが、雰囲気の重い空間で、口を開くことはなかった。 老人一家はすぐに警察に届け出た。それでも老人の怒りは収まらず、周囲の人々に宥められている。落ち着きを欠いた老人は自分たちで犯人を見つけると宣言して、警察を困らせた。 一方で少年は昨晩の景色を思い返す。人影はスコップで地面を掘っていた。月明かりもなく、顔も見えない人物。そこまで考えて、少年は興味を失った。 指輪を持ち帰った男は足音も立てずに帰宅した。狭い木造の部屋で男は椅子に腰掛ける。蝶番の緩い工具箱を開け、指輪と手元を灯りで照らす。指輪に付いている宝石を丁寧に外し、土台を床へ投げ捨てる。 翌朝になって、取り外した宝石を質屋に入れ、男の全財産は何倍にも膨れ上がった。昼間から露店に足を運び、程よく酔った男はその足で女を買いに向かった。 影が差し、冷気漂う通り。少し欠けた石畳の道は湿気を存分に含んでいた。道の先の風俗街よりも先に男の目に入ったのは一人の少年であった。 少年は白の帽子に色の良い上着を着ている。頬は少し紅潮し、その幼さを強調していた。少年は俯いており、男の存在には気がつかない。 「おい、クソガキ。何してんだ」 口が開くたびに唾が飛ぶような、過剰に音を響かせる話し方だった。男に声をかけられ、少年は木車の玩具と共に顔を上げると、少しだけ小さくなった。 その様子を見た男は少し焦り、子が泣き声をあげぬうちに視線を合わせた。ポケットを漁り、都合の良いものはないか探す。 「ほら、これやるから。な」 少し潰れたミントガムを少年に差し出す。少年は強引にそれを受け取ることとなり、唇を噛む。騒がないと感じた男は片手だけ少年に向け、別れを告げた。 「おじさん」 男は首だけ振り返って少年を見た。少年は両手で木車の玩具を差し出す。 「なんだよ。くれんのか」 少年は無言で頷く。男はそれを受け取り、手の上を転がすように走らせ、少年に見せた。少年は笑顔で応え、男もまた笑顔で去っていった。 家に帰った男は木車を机の上で少し転がす。酒瓶を開け、その木車を眺めている。 少年もまたミントガムを袋の上から指で押して遊んでいた。 好みの女を買い切った男は暇を持て余し、表通りを歩いていた。通りの隅にある店へ入る。材木のサイズを確認していると、遠くに見覚えのある少年がいた。少年は同じ店の玩具コーナーにおり、木製の玩具を見比べていた。男は少年から木車を受け取ったことを思い出した。 「久しぶりだな、坊主」 男は手に材木を持ちながら少年に話しかけた。店員が少しだけ二人を見ている。 「おじさん、こんにちは」 少年はそう言ってポケットから潰れたミントガムを取り出し、男へ見せた。男は差し出されたと思い、それを受け取る。少年が顔を少し歪めたのを見て、男は渡されたのではないと気がつき、すぐに少年に返した。 「そうだそうだ、交換したもんな」 男は少し屈んで少年と視線を合わせる。男はもらった木車は家に置いてあると伝えると、少年は男の手を掴んだ。 少年は男を見上げ、男も少年を見る。手を優しく握り返した。 「来るかい」 男は掴まれた手を解かず、その手を引いて材木を購入した。右手に材木、左手に少年を持って家へ向かった。 埃が舞い、床はわずかに歪み、歩くたびに不快な音を上げる。寝具はなく、椅子と机だけがあった。 椅子は後付けされたであろう腕置きだけが綺麗で、他は今にも裂けてしまいそうであった。机の上には工具箱と木車の玩具が置かれている。 「ほら、ちゃんとあるだろ」 男は木車の玩具を机の上で走らせ、壊れていないことも証明した。男は木車を返そうと差し出すが、少年はそれを顔だけで拒否する。 「こっち」 潰れたミントガムを掲げ、誇らしげにしていた。それを見て男は木車を受け取ったままにしておいた。男は口を閉じ、神妙な顔で木車とミントガムを見比べた。 男は材木を手のひらほどの大きさに切り分け、簡単な印をつける。彫刻刀で、それを削っていく。 「ちょっと待っとけよ」 男はそう言って黙々と手元に向かった。沈み込むように集中している姿を見て、少年は何かを思い起こしている。 男に放置された少年は何をするでもなく床に座り込んでいた。ミントガムを照明にかざしたり、木車を転がしたりしたが、すぐに飽きてしまった。探索するにも狭い男の部屋には何もなかったが、床を四つ這いで歩いていると何もついていない指輪を見つけた。 少年は土台だけになった指輪をじっと見つめ、そのままポケットにしまった。男はまだ彫刻刀を操っている。男の座る椅子の真後ろにある棚のガラスが男の真剣な顔を反射していた。 男の木を削る音だけが室内に響く。少年は音を立てぬよう壁の隅に座り込んで待っている。 少年が見ている視界に棚があり、棚の横に立てかけられたスコップがあった。スコップを見た少年はガラスに映った男の顔を見る。ポケットから指輪を取り出し、もう一度男の顔を見る。 「ほれ、できたぞ」 男が立ち上がり、手に完成した作品を持っている。少年は指輪を急いでポケットにしまう。ミントガムと指輪が同じポケットの中でぶつかっている。 男が作ったのは木製のサーベルだった。持ち手は何度も研磨され柔らかく、剣先は光るように尖って見えた。 「これでな、悪いやつを倒してやれ」 笑いながら男は剣を少年に渡す。ポケットから少年は持っている紙幣を全て男に渡した。男は驚き、喜んで受け取った。 少年は木車を男の机に戻し、剣を受け取り、帰路についた。 少年が家に着くと、老人の泣き声が聞こえた。車椅子に座り、自分一人では生活することも困難な老人の泣き声には力がこもっていた。 側には母親もおり、老人の肩を抱きながら宥めている。母親の笑顔以外の表情をはじめて見た少年は、走って母の元へ向かった。 「チー坊。玩具は買えたのかしら」 母親は疲れた笑顔で息子を抱きしめた。少年は手に持つ剣を母に見せた。母は色付けもされていないただの木剣を買ってきた少年の頭を撫でる。 「節約上手ね」 そう言って少年のポケットからお釣りを取り出そうとする。しかし、少年のポケットに硬貨は入っていない。ミントガムには目もくれず、指輪を手に取る。 母の指輪を持つ手は震えており、笑みは消え、絶句している。指輪についているはずの宝石はないが、刻まれた老人の名前が確かにそこにあった。 絶句する母に初めに気が付いたのは使用人の一人だった。あっ、と大きな声を上げ、思わず口を塞ぐ。その声を皮切りに、老人もまた目を見開き、使用人たちは一斉に声を上げて驚きを隠そうともしない。どこで見つけたのか周囲の人々は少年に尋ねる。 「おちてた」 少年は正直に答え、それ以上は口を開かなかった。皆が指輪を見ている中、少年はミントガムと木剣を見ていた。 少年は周囲の声が激しく、ついには泣き出してしまった。焦った母親は少年を抱え、自室に連れていく。 老人と使用人は部屋に残り、思わぬ手がかりに震えていた。老人と使用人は宝石が買い取られたであろう質屋へ向かう。 使用人は車椅子を押し、外へ向かう手筈を整える。少年は母親の腕の中でまだ泣いていた。 母親の手の中でようやく落ち着いた少年は、母親に連れられ外へ出た。 「チー坊、さっきの指輪どこで見つけたのか教えてくれないかな。おじいちゃんにとって大切な物なの」 どこか抜けた笑顔をいつもしていた母親の真剣な表情が少年には不思議に思えた。少年は祖母に会ったことはなく、老人に妻がいることも知らない。 少年は俯くばかりで何も答えない。母親もそれ以上は追求せず、少年の頭を撫でる。 少年に新たな玩具を買おうと考え、母親は玩具屋へきた。少年はあの時買うことができなかった玩具を見ている。 「あら、坊や。また来たの。今日はお父さんと一緒じゃないのかしら」 母親は訝しむ。少年はキョトンとした顔で首を傾げる。母親は木剣の玩具などどこにも売っていないことに気がつき、胸に手を当て、肩で呼吸する。少年に渡した紙幣は全てなくなっていた。 「すみません、店員さん。この子はどんな人と一緒にここに来ましたか」 濃い顔をして、厚い腕毛と薄汚い見た目。屈強な人間であり、粗野であったと店員は言った。 母親は木剣をどこで手に入れたのかと聞く。少年は貰ったと答え、男の家まで丁寧に案内をはじめた。 母親は胸に手を当て、少年を強く抱きしめる。唇をきつく閉じて、少年の案内先へ向かった。足は少し震えていた。 その頃、質屋の店主は宝石を売った男の家を教え、老人と使用人は男の家へ向かった。 男は部屋で椅子にもたれている。棚の中には何瓶か酒が置かれているが、そのどれもが栓をしてある。 男は端材を削り、その音が部屋に響いていた。椅子に深く座り込み直すと、軋んだ音が少しする。机には無数の端材と木屑が散らばっている。 手に持つ端材は段々と、騎士の持つ盾のような見た目へと変貌している。 彫刻刀の音を止めたのは、玄関を鳴らす音であった。男は手に持つ盾を机の上の木車の横に置き、戸へ向かった。 母親と少年が戸を叩いた。男は突然の来客に怯えるように体をすくめるが、少年に気がつき笑みをこぼす。 少年は男に貰った木剣を持ち、母親に抱えられている。母親は少年を見て笑う男に対し、最大限顔を顰めた。店員の言葉を思い出した母親はさらに顔が青白くなる。少年を抱きしめる力がわずかに増した。 男が母親を見る。男の笑みは消え、少年が無邪気に腕を振るたびに、剣先が男へ向けられる。男はほんの少しだけ後ろを振り返るが、少年の木剣から目を離さない。男の盾は机に置かれたままであった。 男の表情を見た少年は腕を振ることをやめる。剣を見て、男を見て、母親を見た。ポケットのミントガムを取り、男へ投げ返す。 地面に落ちたミントガムを男は拾わない。それを見て少年は剣を握りしめ、震える母に身を寄せる。遠くで老人の怒号がした。 男と少年の間に、もう笑みはなかった。
第9回N1決勝 『濁音』
泳ぐことはできないが、入ってみようとも思えないほどの大きさの川の河川敷を見た。河川敷には背丈ほどの雑草が繁茂しており、人の姿は見当たらない。風に撫でられる芒はお淑やかに揺れ、私を誘うことも突き放すこともなかった。 芒群に小さな隙間があることに気がつき、私はそこへ吸い込まれるように向かった。芒が踏み潰される形で道となっており、直線でない道のりは行く末を隠し、私をさらに奥へと進ませた。 直角に曲がった先へ進むと先細っており、蛇の道かもしれないと考えた。川沿いには大きな青大将が住むと聞いたこともある。足取りは重くなり、歩幅は小さくなった。風に揺れた芒の穂先が擦れて籠った音を立てる。私は足を止め、身を返した。 しかし、再び直角に曲がり、入って来た所が見えたとき、やや登りの道に苦戦した。潰された芒は水分を含み、河川敷の勾配と併せて難所と化していた。足を取られながらも、私は何度も振り返った。進むどころか後退しているように思えた。芒に囲まれ湿気の強い空間では、外の気温を介して蒸されている感覚になった。息は重くなり、足から滑り落ちる。 芒に揉まれ、川まで転がった。鈍い音を鳴らして不恰好に着地した。川の縁は大小の石があり、雑草もここまでは届かなかった。私は衣服についた枯草木を払い、川で手を洗う。川の水が透き通っているのを見て私は一口手で掬った。喉が渇いていたことにそこで気がつき、私はもう一口飲んだ。 川縁からは元いた歩道は見えない。もう一度芒に突っ込む気はなく、川沿いを進み橋か堤防を目指し、家に近い川上へ向かった。姿は見えないが、小鳥のさえずりが四方から聞こえ、雲の流れもよい。 軽やかだった足取りを止めたのは、歩き出してから数分経ってのことだった。まだ堤防は見えず、歩道への足がかりもない段階。蛇。大きな蛇が芒群の隙間から現れる。 蛇は私の方向へ体を動かす。その巨体をうねるように動かし、力強く進む。私がいないかのように振る舞う蛇を見て、私の足は震え、息を呑む。 大小の石と砂利からなる川縁の道は不安定で、私の震えた足ではしっかりと立つことも難しかった。蛇はその間にも寄ってくる。石に足を取られ、私は腰から着地する。 視線が下がり、蛇と目が合う。蛇の目は黒く、目尻から尾を引いたような線があった。肌の模様が揺れていた。裂けた舌先を動かす音はしなかったが、私には鮮明に聞こえた。それと同時に痺れるような痛みもあった。 腰が上手く動かない。両足を振る。蛇はその足の隙間をすり抜けるように道を進む。その道には私がいて、蛇の顔がそのまま私の顔に吸い込まれるかのように向かってくる。 鈍く濁った音が響いた。蛇は体を痙攣させ、尾のほうが激しく動いている。私の手も震えていた。もう何度か濁音が響くと、蛇は静まり、動かなくなった。小鳥は鳴かず、風に揺れる芒の音もせず、静かに濁音が反響した。 蛇の頭は潰され、その原型を留めてはいなかった。滑らかな鮮血が周囲に飛散し、私の腕にも付いていた。私の手は衝撃の余韻が未だ響いており、小刻みに震えてもいた。私は手に持った大きな石を川に投げ捨てる。石に付着していた血が水で流されているのが微かに見えた。 大きく息を吐き、視界がはっきりとした。私の目の前には、蛇の死体と右腕に付着した血液だけが残っていた。乾いた血液は粘度があり、独特の匂いを発している。私はその血を洗い流すことなく、石をかき集めた。 大きな石から小さな石へ、順に縦に積む。高さが出ると風に揺られてすぐに崩れてしまう。何度積み上げても崩れ、平たい石を探すが都合の良い石はなく、私はそれを諦めた。手を合わせることなく、立ち上がる。 頭の潰れた蛇を右腕で掴み、それを引き摺りながら歩き出した。川上に向かえば歩道への足がかりもあるだろう。蛇がいた場所には血の跡が残っていたが、私は振り返って見ることもしない。 しばらく歩いてようやく橋下まで辿り着いた。橋の下には一人の老人が極端に腰を折り曲げ、何やら呟いていた。 「くれ」 顔を上げた老人は掠れた声でそう言った。その視線は私と、右手に持つ蛇を見ていた。汗が溢れ、思うように口が動かなかった。 「くれや。その蛇」 痩せ、皺と髭だらけの老人は、真っ直ぐとこちらを見てそう言った。唾を飲みこむ。何度も瞬きをして、呼吸が浅くなる。 「ええもんやろ」 私は蛇を渡すことも逃げることもできなかった。ただ視線のぶつかっている老人の目を逸らしてはならないと、そう予感していた。 私は蛇を渡した。声を出すこともできず、ただ投げるように渡した。老人の前に落ちた蛇は、橋下の舗装された床を血で濡らす。 蛇が手元から離れ、石を叩きつけたときと同じ振動が私の手に響いた。目には見えない、けれども確かに震えている右手には、薄黒い血液が凝固している。 「ありがとな」 老人は短くそう言って、ようやく私から視線を外した。老人は蛇を手に取り、顔を寄せる。匂いを嗅いでいるようにも、噛み付いているようにも見えた。 私は老人に目もくれず、橋に繋がる細い階段を足早に登った。歩道を進み、家を目指す。走っている人や散歩をしている親子連れが何組かいたが、そのどれとも目を合わせない。右腕を服の中に仕舞い込み、顔を少し下げて走った。 足が地面に着くたびに全身が震える。一歩踏み出すたびに脳が響く。頭から全身をめぐり、体を揺らす。視界も酔い始め、自分と世界の両方が揺れていた。 家につき、土足のまま洗面所へ向かった。全身に不快な汗が纏わりついていた。私は洗面所の温度を可能な限り上げ、お湯で右腕を洗う。こびりついた血はなかなか取れず、私はたわしに洗剤を大量にかけて擦った。 右腕が痛み、擦り傷のように皮膚が剥がれていく感覚があった。たわしは皮膚を破り、私の右腕から血液が流れる。温かなお湯が流血を加速させる。 どれだけ血が取れても、どれだけ血が流れても、私の頭の中には濁音が鳴り続けている。私は洗面所を覗き込むように、沈み込む。二つの血液が混ざり合い、一つの血となる。たわしを擦るたびに濁音が鳴り、それを洗う。
第9回N1 『夜の警鐘』
眼前に広がる黄金色の小麦畑は、赤色の夕日を受けて眩いほど輝いていた。風に靡かれ、所々がその輝きを一層増している。 街を丸く囲う壁の上部には数個の突起型の塔がある。石造の高い壁は幾度も補修を繰り返された跡が残り、苔むしている箇所もある。 塔の小さな空間に佇む男は足を組みながら小麦畑を眺めている。整えられていない髭に深爪、乾燥して固まっている髪の毛。服は、一度強風に晒されれば飛ばされてしまいそうな一枚の布切れだけだった。 塔の上部には鐘が付いており、男は鐘につながった紐を握っていた。首や指先の関節を鳴らしながらも、男の視線は小麦畑から離れない。 街を囲う石壁の外にある小麦畑のさらに外側、地平線と重なるほどの位置に黒い靄が薄らと見えた。まだ音も聞こえないほどの位置にある靄を捉えた男は力の限り紐を振った。男とほとんど同じ大きさの鐘はその見た目に負けない音を奏でた。 鐘の音は街中に響き渡り、人々はそれが訪れたことを察知して顔を顰める。一部の人々は厚手の防護服に着替え、背に大きな火炎放射器を積み、足早に壁の外へ向かう。男の鐘の音が響いてから僅か数分のうちに、防護服の人々は石壁の外で隊列を組んでいた。 男は防護服の隊列を壁の上部から捉える。鐘を鳴らし終えた男は風に揺れる小麦畑と靄がどう行動するかを見ていた。 靄は近づけば近づくほど不快な音を鳴らし、それが羽音だと気がつくのにはそう時間はかからなかった。幾千、幾万の虫たちが小麦畑を狙って向かってくる。 訓練された動きの隊員は火炎放射器を構える。何の防護服も着ていない虫はその熱に燃やされ、何匹もが力尽きた。 塔の上から見ると靄の動きと食べられていく黄金色がよく見えた。そしてそれらを包み込む火も。男は浅く息を吸い、虫と共に焦げる小麦畑の音を聞いていた。 ようやく目に見える範囲の虫を焼却し終えた隊員は壁の中へ戻っていく。防護服を脱いだ隊員からは僅かながらに湯気が上がっており、その蒸し暑さを感じさせた。 失った涼しさを取り返すかのように、隊員たちは露店居酒屋で麦酒を掲げた。街の人々もそれを歓迎し、街そのものの活気を見せた。その様子を男は壁の上からぼんやりと眺める。 居酒屋の一部の人は帰り、一部の人はより盛り上がる時間となり、男もようやく塔から降りる。突起部に繋がれた長い梯子を降りた先には、小さな部屋があった。石壁に小さな穴が空いており、それ以外は何もない部屋だった。部屋の出口は鉄格子が付いている。 男は鉄格子に背を向け、穴から壁の外を見る。穴は少しだけ高い位置にあり、小麦畑を見ることは叶わなかった。 鉄格子のさらに奥にある木の扉が開き、腰の曲がった老婆が入ってくる。老婆の手にはお盆があり、その上にはスープとパンが乗せられていた。男はそれを無言で受け取り、老婆もまた無言で出ていった。 パンはそのまま食べるには少し硬く、男はスープに浸して食べた。あの小麦畑から作られたであろうパンを半分ほど食べ、スープを飲み干した。 残った半分のパンを片手に男は再び梯子を登った。夕日の半分以上が沈んでおり、地平線は最後の輝きを見せている。街を見れば、街灯が点灯し始め、居酒屋にも灯っていた。 居酒屋には温かな料理と人々の笑い声、酔いどれの匂いが充満していた。男は硬いパンを齧りながら、鉄格子の中に入る前と同じ衝動に駆られた。 鐘に連なる紐が風で揺れている。これを無意味に鳴らせば、彼らが宴を解散せねばならないことを分かっていた。 齧ったパンから僅かな塩味が男の舌に届く。結局男は紐に触れることなく、温かな灯りから目を逸らした。もう完全に日も落ち、暗くなった地平線の先の星を数える。夜の小麦畑は独特の香りを放ち、微かに見える揺れた穂先が男の心を落ち着かせた。 ただ不幸にも男はもう一度鐘を鳴らさねばならなかった。日に二度虫が訪れたことは過去一度もなかったが、星を隠す黒靄がはっきりと男の目に映った。そしてそれが昼間のものよりもはるかに大きいことを、男は確かに目にした。 すぐに鐘を鳴らそうとした男の手が止まった。夜の寒さに悴んだ手をきつく握りしめた。男はもう一度街を振り返る。隊員は酒盛りを続けていた。口が裂けるほど大きく開いたその笑顔を見て、男はひどく顔を顰めた。 夜の風は男の体を冷やし、石壁もまた冷えた。男の拠り所は布一枚であり、風に飛ばされぬようしっかりと掴む。地平線には黒い靄が依然として浮かんでいる。 男は街の隊員に目を遣る。鐘は重く沈黙しており、男は唾を飲み込んだ。小さなパンとスープでは到底満たされぬ腹に触れ、居酒屋の料理を見つめる。男の元まで届くはずのない香りを想像し、喉を鳴らす。 男の塔には小さな蝋燭が置いてある。それは風を受ければすぐに消えてしまう小さな蝋燭だった。男はそれに火をつけ、塔に僅かな光を灯した。その光を見せつけるかのように、男は手元に置き、決して火の絶えぬように風を防いだ。 平地の視線よりも高みにあるその灯りに多くの人々は気が付かない。まだ素面に近かった何人かはその灯りに気がついたが、特段何をするでもなく、ほんの一瞬目を遣るだけに留まった。 男は今にも消えてしまいそうな蝋燭を抱え込んでいる。風を防ぐための両手の壁はその火を間近に受け、溶けるような痛みを感じていた。掌は熱く、吐く息は白く凍えていた。 一人の幼子だけが、蝋燭の光を見ていた。そこに人がいることさえ知らない幼子は蝋燭の光を見つめ、その奥にいる男の姿も捉えた。男と幼子の視線がぶつかった。それとほとんど同時に蝋燭の火は風に流され消えてしまった。 灯火がなくなっても男は幼子を見つめていた。幼子もまた、夜の闇に飲まれた男の姿を見続けていた。そして、その小さな腕二つを天に掲げ、大きく振った。 その挨拶は男の元へしっかり届いた。幼子の行動に気がついた母親はすぐにやめさせる。十秒にも満たない時間ではあったが、男には充分であった。 男は両の手で紐を掴み、大きく振り、鐘が割れんばかりの音を街へ轟かせた。その警鐘は素面の隊員を第一に、少し間があって酔った隊員にも届いた。 暗さを掻き消すほどの火が一晩中続いた。夜通し戦い続けた隊員の懸命な努力によって被害は最小限に収まり、数日もすれば人々は話題にすることも無くなった。 塔の上では男の布がそよ風に揺れていた。男は小麦畑に背を向け、街を向いていた。街を行き交う人々は暖かな陽気の中で過ごしている。 黄金色の輝きは塔の上からのみ見ることができる。男の背では小麦畑が悠然としており、その穂先が膨らみ、日を増すごとに垂れ始めていた。
息を止めても
将来の夢はなんですか。ないですか。それはなんとなんと。ではやりたいことは。それもないと。では趣味、マイブームで構いません。それも、ですか。それじゃあ何して生きてるんですかい。 昼下がりに目を覚まし、カーテンの隙間から差し込む光が揺れているのを冷めた目でぼんやりと眺めていた。夢の中で、何かを問われた気がした。それが何かと聞かれてもよく分からないのだが、従来夢とはそんなものだろう。 テレビをつければ、司会者の明るい声が部屋に響く。声が響けばこの部屋は狭いが、テレビを消すとたちまちこの部屋は広くなる。暗くなれば尚更のこと。だから、私はよくテレビをつける。 でもときどきテレビを消したくなる。手が動き、テレビが消える。怠惰な朝の寝起きの感覚によく似た意識の薄さで行動している。 その日のテレビではダムの特集をしていた。ダムへ観光に訪れる人間の顔がいくつも映し出される。顔に取ってつけたような髪型をした男性や顔の大半をマスクが占める女性、親に連れられ不機嫌な顔をする子供。そのどれもが光ってみえた。 ドローン映像で捉えたダムのその水をはっきりと見た。その水の中を泳いでみたいと、思う。どこまでも深く潜って、奥底まで行ってみたかった。光る顔した人間の届かぬ奥底で、見上げた水面はどれほど心地よい夢を見れるだろうか。 夢を見た。皆が消えていく夢を見た。私を問い詰める声も薄まる。その声の鳴る、裂けた唇に浮かぶ血がどんどんと黒くなっていく。とうとう真っ黒になった血はそのまま広がって、私の周囲も黒く染めていく。光も届かず、とうとう何も見えなくなった。 目が覚め、カーテンの隙間から光が差し込む。揺れながら私の顔を照らす。顔の左側が燃えた感覚を覚える。鏡のない部屋の中で、漠然とした熱を感じていた。広い部屋に憤りを感じ、テレビをつける。黒い画面に反射していた自分の顔が消える。司会者は今日も笑顔で手を叩いている。 マスクと黒眼鏡をかけ、屋外へ出る。日差しを遮る帽子を被り、猫背に歩く。誰も私を分からぬ格好で、歩く。左頬を触り、マスクを横に引く。一度も空を見上げないまま、コンビニに向かう。 道脇の用水路を見て、またダムを思う。ダムに飛び込んでみたら、と思う。用水路に一歩ずつ近づく。近づいて、水面が私の体を反射する。太陽と私を反射した水面は、私の影以外全てが煌めいていた。 水面が反射する太陽光は揺れ、私の影を飲み込んで溶かしてしまいそうだった。実際に溶けていたかもしれない。それほど暑かった。用水路から距離を置いても、アスファルトは日照りを強くし私を苦しめた。だから足早にコンビニへ向かう。 店内の冷風は私の体を冷やし、一息つく。溌剌とした声で客を出迎えるアルバイトの人生を想像し、嫌な嗚咽が出た。できるだけレジから離れ、雑誌コーナー付近で背表紙を眺める。その中で一冊の本に目が止まる。 ダムの月刊誌だった。誰が買うのかも分からぬ本を手に取って、セルフレジへ向かう。小銭と札が溜まった財布からクレジットカードを取り出す。本を片手に店から出る。 コンビニの出口には傘立てがあり、誰かの折りたたみ日傘が置いてあった。店内に私しかいなかったことを思い出し、そのまま日傘を差して帰った。 用水路を見たくなかった。道の中央よりを歩き、慎重に避けてる車もあればクラクションを鳴らす車もあった。クラクションを鳴らしていた運転手の顔はぼやけずはっきり見えた。 部屋に戻り、冷房をつける。ついていたテレビを惰性で消した。静寂が空間を支配し、私の存在を際立たせた。ダムの本はベッド隅に置いた。たまらなく眠く、読む気にはならなかった。 そんな本を買って何をなさるんですかい。え、まだ読んでいないって。そうですかい、そんならずっと読まないままで良いでしょう。何のために生きているのか考えたくはないでしょう。 裂けた唇から溢れ出る言葉がまた私の元に届く。夢の中で、夢と分かっていながら私は逃げた。どこへ行っても声がするそいつから逃げ出した。逃げ惑っているときに、あの運転手を見た。あの運転手の顔を正確に覚えているわけではないが、そうだと思った。 その顔が私の方を向く。目と目が合うかどうかというタイミングで、声がまた大きくなってくる。離れても近づいてくるその声を聞いた顔から光が少しずつ溢れてくる。それがたまらなく嫌で私はその顔に近づく。 顔はまだ眩しくはないが、光っていないとは言えない段階にきていた。私はその顔がついている首を絞めた。きつく絞め、光の中でも顔が歪んでいるのを感じることが出来た。歪んで破裂音が鳴った。 その音で目が覚める。しっかりと閉められたカーテンは夕暮れの日差しを防ぎ、部屋は凍りついたように固まっていた。テレビの画面は暗く、反射した自分の顔を見る。顔の左側の大きな火傷跡がご丁寧に映し出されている。火傷跡をそっと撫でて、見なかったことにした。 光も音も消えた空間を手に入れた私はベッドに座り込む。声が聞こえた気がする。いや、声がしていないことは分かっている。それでも聞こえた気がする声に怯えて私は塞ぎ込む。この部屋にいるのは私だけで、声が私に向かってくる。 ベッドの隅の本が目につく。音もない、光もない。しかし、まだダムの奥底ではない。私は息を止める。光も、音も、息も止めた。それでも声がするのは私がいるからで、私は泡になって消えてしまいたかった。 息を止めて時間を数える。一、ニ、三。四つ数える頃には苦しくなったが、苦しくなるほど声のことを忘れられる気がした。心臓の音だけが体中に響く。数えることをやめれば、時間が止まるのではないかと思った。 でもそこは、やっぱりダムではなくてただの部屋だった。そう思って、時間がまた動き出す。声もまた囁く。 だから言ったじゃないですか。ダムへ行けないと理解しているから行きたいと思ったんでしょ。ダムの奥底は暗く悲しいですよ。それでも行ってしまうのですか。そうですか。あぁ、哀れだ。 あぁ。あぁ、私は。なぜ今日まで生きているのか。夢は何だろう。子どもの頃はあったのかな。覚えていないや。今の私はただ泡になってしまいたい。 叫んでいたのか、息を止めていたのか、はたまたその両方か。どちらであっても私は体を硬直させていた。 パアアアァ、と音が鳴った。危険回避のために鳴らされたクラクションが閑静な住宅街に鳴り響く。それは私の部屋にも届いた。驚きのあまり、息を吐いた。そしてその勢いのままに息を吸って、そこまできてようやくずっと目を閉じていたことに気がついた。 布団を剥ぎ、服を脱ぐ。私の全身を包み込む膜のような寝汗を拭く。カーテンを開け、テレビをつけ、本を投げ捨てる。投げ捨てた本の開かれたページと目が合う。胸の内からまた声が聞こえた気がしたのを必死に抑えていた。
管のない猫
AかBかという質問に、なんと答えるか。Aと答えても或いはBと答えても、Cであっても構わない。何を選ぶべきなのかはさほど重要ではない。あなたは心のうちから選択をしたことがありますかい。 動画サイトを放置し、自動再生の果てにたどり着いた動画の中でそんな話が聞こえた。その人は全身にフィットした上品なスーツ姿で、両手を広げ、ステージを右往左往しながら頭を左右に振っていた。決してカメラを見ることはなく、こちらと目が合うことはなかった。 パソコンを閉じて、朝食の支度を始める。既に時間は昼を過ぎていたが、目が覚めてからはさほど時間が経っていない。トースターでパンを焼き、バターを塗り、簡素な朝食の完成である。スープが欲しかったが、それ以上に動くことが面倒だった。 一人で暮らすには少し広いその家は静かで、パンを咀嚼する音ですら空間を支配するには十分だった。食事を終え、皿をシンクに放置して仏壇に向かう。線香は付けず、手を合わせて拝む。写真立ての中の母はやはり変わらない表情で笑っていた。 一人息子を育ててきた母は、切望していた孫の姿を見ることなく亡くなった。こちらの機嫌がどこまで悪くなっても気にせずに問い詰める母の堂々とした姿は、先ほどの動画の人物にどこか似ていた。自分が正しいと信じて疑っていなかった。 「じゃあ、親父に会ってくるよ」 親戚付き合いのほとんどない我が家の仏壇を訪れる人は息子以外一人たりともいなかった。仏壇に母の好きだった煎餅菓子を置き、寝巻きから着替える。 病院までの徒歩二十分間、物静かな路地で煙草に火をつける。煙草の煙を浴び、おぼつかない足取りで道を行く。住宅街を抜け、煙草の火を踏み潰したとき、一匹の猫が目の前に現れた。 狸によく似たその猫は、この地区に引っ越してきた頃からいた。夜道で見かけた時には完全に狸そのものであり、寧ろ狸の姿が正しいのではないかと思えてくる。 越してきた頃から老いているように思えたが、母よりも長く生きることになった。母が時折飯を与えていた記憶が曖昧に思い起こされる。野良猫に飯を与えない方が良いとどれだけ父が言っても母は聞かなかった。猫もそれを分かっているのか、父には全く懐かなかった。ただ見ていただけの息子にも懐くことはなかった。 踏んだ煙草からわずかな煙が上がっているのが見え、もう一度踏み潰した。猫はこちらを見つめ、歯を見せ、分かりやすく吠えた。掠れた鳴き声が母の声を思い出させる。 母も煙草を吸う息子を度々叱責していた。十代や二十代の頃は毎日のように、三十代になっても息子に煙草を止めるようによく言う母の声はとても掠れていた。 だから、猫の声が母のように思えた。母の代わりに怒っているのならば化け狸なのだが、それは見た目だけで本当は猫である。母によく懐いて、父と息子を嫌っていた老猫である。 病院に着き、消毒と受付を済ませる。病院独特の匂いが嫌いだ。薬品なのか分からないが、この空間は清廉潔白で常に正しいという極端な主張に感じ、いつも苦しくなる。白い壁や清潔なスタッフにも不快感を覚える。正しい場所が、死の近くにあることが理解できなかった。 病室に着き、ベッドに横たわる父を眺める。窓際の花瓶をなんとなく動かし、その脇に父の好きだった和菓子を置く。きんつばが好きとは実に年寄りらしいが、若い頃から好きだという。 「元気してるか、親父」 返事はない。聞こえるのは病室の外の誰かの雑談ぐらいである。父に結ばれたいくつもの医療器具に目をやる。父に繋がれた管を突然引きちぎれば、父は母の元へ行くのだろう。この管が、父をここに引き留めている。 きんつばの包装を取り、一口齧る。ほとんど餡子の味であり、異常に甘かった。父はこれをほとんど毎日食べ、酒も煙草も女遊びも、ギャンブルだってやっていた。いつも母と喧嘩していた。 母が交通事故で亡くなった日、父は何も喋らなかった。伴侶が亡くなれば悲しみを見せるのが普通だろうが、父はそうしなかった。冷たい人だと、父の背中を見ながらそう思っていたが、母の葬式では涙を流した。周囲の視線など気にすることもなく、これでもかというほど泣いていた。棺の中の母とそれに寄りかかる父を、少し離れたところからぼーっと眺めていた。父が泣き止むまで眺めていた。 病室を出て、先生と話す。医者が口を開く、言葉を耳に入れると、なんだか世界がスローモーションに見えた。言葉は普通の速さで耳に届くのだが、先生の口はやけにゆっくり動いて見えた。 父の状態を突きつけてきた。父の命をはっきりとこの身で受け止めろと、言われたように思えた。ただ眺めるだけと父ではないと知らされる。 病院を出ても、帰路についても、どうすべきか分からなかった。命について考えたことがないわけではないが、自らに選ぶことになるとは思わなかった。ただ煙草を吸って、静かな住宅街を歩く。 父の愛人が妊娠した日のことを思い出す。いつものように怒ると思っていた母は泣いていた。父はひたすらに謝っていた。結局愛人の子どもがどうなったかは知らないが、父はそれ以来ギャンブルをしなかった。 あの日母がなぜ泣いていたのかも理解していなかった。もし父の命を奪ったら、母は泣くのだろうか。それとも怒るのだろうか。母の泣き、怒る声を曖昧に思い出す。 「あ」 老猫が道の端で倒れていた。口に咥えた煙草を見ても吠えはしない。数時間前吠えていた老猫は無力に横たわっていた。煙草の火を消し、猫に近づく。これが狸寝入りで、起き上がって吠えるのではないか期待していた。 父と息子を毛嫌いしていた猫を、母は愛していた。父が愛人の元に行っていた日も、息子が母と喧嘩した日も、母は猫に餌を与えていた。野良猫に餌を与えるのはきっと良くないのだろうが、それが母の喜びでもあった。 老猫に近づき、持っていた水を口元にやる。まるで動かない。あれほど騒がしかった猫はもうほとんど動かない。父も猫も、元の騒がしさに戻ることはない。横になった老猫の周囲に、微かな薬品の匂いが漂っている気がする。父と息子への嫌悪はもう見えなかった。 家に帰り、パソコンを開くと、まだあの動画の途中だった。上品なスーツの似合うこの人はまだ右往左往していた。少しだけ目が合った気がしたが、依然として画面の中で話している、ただそれだけだった。 母の仏壇の前で、また老猫を思い出す。生きている間に猫を撫でることは叶わなかった。撫でたいと思っていたとさえ知らなかった。線香に火をつけ、手を合わす。父の不倫を知った日に泣いた母のこと、母の葬式で泣いた父のこと。それをしっかりと頭に浮かべて拝んだ。 写真立ての母が優しくこちらを見つめていた。きっと管を取ることになっても、取らなくても、迷ったままでも母は許してくれる気がする。 老猫より早く母は死に、老猫より長く父は生きた。老猫が死んだ直後に父も死んだのでは縁起が悪い。そう思った。 その晩、仏壇に煎餅を供え、夕飯を食べる。コンビニの弁当だけでは味気なかった。味噌汁を作ってみた。具材はほとんどないが、味噌の匂いが部屋に充満した。
二人の食卓
子どもを拾った。家の前に落ちていたから。坊主頭で、口は開いたまま。目は小さく、鼻も小さく、体も小さい。手には汚らしい象のぬいぐるみを持っている。 何も喋らないから、何も分からない。口から言葉は出ずとも、腹から音が鳴った。俯いている子どもを部屋にあげた。 まず風呂に入れたかったが、仕方なくカップ麺を取り出した。この家にある唯一の食料だった。子どもの不慣れな手つきでは箸を扱えなかった。この家にはフォークもなかった。こちらが子どもの口に麺を運ぶときも、子どもは象のぬいぐるみを手にしていた。 風呂に入れるために服を脱がすが、なかなか難しい。子どもに両腕をあげるように言い、ようやく上着を一つ脱がせる。ズボンも脱がせる。裸になった子どもを風呂場へ押しやる。 「いっしょ」 右手に象のぬいぐるみを、左手でこちらのズボンを掴み子どもはこちらを見つめる。仕方がなく服を脱ぐ。風呂場で子どもの体と自分の体とぬいぐるみを洗う。 脱衣所で、子どもの服がないことに気がつく。ぬいぐるみの干し方を知らないことにも気がつく。子どもの体にタオルを巻きつけ、ドライヤーを当てる。少し暴れるが、片手で押さえ、髪が乾くまで風を当てる。ぬいぐるみはベランダに置く。 子どもは濡れたぬいぐるみをベランダから回収し、タオルをぬいぐるみに被せる。もう一つタオルを持ってくることになった。 「名前は」 タオルを投げるついでに質問も投げかける。 「なまえは」 投げ返される。 「俺は翔。田中翔。名前は」 再び尋ねる。 「みぃみぃだよ」 子どもはそう言ってぬいぐるみを前に突き出す。渡したタオルを器用に体に巻きつけ、そのままこちらを見つめている。象の名前に興味はなかったが、しつこく聞くほど子どもの名前にも興味はなかった。 「そうか。みぃみぃは乾かすから隅っこに置いておけ」 子どもは逆らうことなく、ぬいぐるみを部屋の隅に置く。みぃみぃはタオルで丁寧に包まれたままだ。 冷蔵庫から発泡酒を取り出し、テレビをつける。つまみを取りに棚を漁る。適当な乾き物を見繕い、テレビの前に戻る。発泡酒に触れようとする子どもの手を遠ざける。 「これはだめだ」 ジュースをあげようとして、この家にジュースがないことに気がつく。コンビニへ向かうため、子どもを連れていく。子どもは少し部屋を振り返りながらもこちらに着いてくる。 「みぃみぃは置いていけよ」 陽が落ちるのが早く、思っているより外は暗かった。子どもは少し怖がる。タオルにしか巻かれていない子を外に連れ出すことにも躊躇する。 子どもを抱きかかえ、上着の中に包む。子どもは首元から顔を出して、辺りを見回す。片手で子を抱えながら歩く。少しすると手が辛くなり、もう片方の手に切り替える。 そんなことをしている間にコンビニに着く。ジュースとお菓子をカゴに入れる。子どもが野菜コーナーの前で声を上げる。小さな声だった。野菜コーナーの前を通るたびに声を上げる。一つ一つ商品を指差し、子どもの欲しいものを探す。 キャベツを指さしたとき、子どもは少しだけ大きな声を上げる。ジュースとお菓子、キャベツをセルフレジで購入する。キャベツを買ったせいで袋も買うことになった。 部屋に戻り、子どもを上着から解放する。子どもはキャベツを手に取り、転がすようにぬいぐるみの前に持っていく。ぬいぐるみの前で用意したジュースを飲む。コップのサイズが大きく、少し溢している。 ぬいぐるみと戯れている間にベランダの灰皿を片付ける。ポケットのタバコはそのままベランダに置く。 子どもは机の上にジュースを置く。お菓子の包装を開けることができずに苦戦している子どもを眺める。一分経っても開かない包装を代わりに開ける。 「しょ」 子どもが呟く。 「しょ、しょ。しょ」 こちらを見つめている。それが自分のことを指していると気がつくのに少し時間がかかった。理解して、子どもの近くに寄る。子どもはジュースをこちらに渡す。受け取り、飲み、洗い場にコップを置く。発泡酒の空き缶も一緒に置いた。 テレビを消し、部屋の隅にあった汚れたテニスボールを子どもへ渡す。子どもはそれを丁寧に投げ返す。自分の方向とは少しズレた方向に転がるボールを拾い、また子どもに向かって投げる。しばらくラリーを続けた。 疲れを感じ、眠たくなった頃に子どもも少し静かになる。布団を敷き、仰向けになる。子どもは象のぬいぐるみを抱えて腹の上に登ってくる。ぬいぐるみはまだ湿っていた。 子どもを抑えるように手を前で組む。呼吸に合わせて子どもの体が小さく揺れていた。その晩は寝返りを打つことができなかった。 次の朝、子どもの声で目覚めた。顔を洗う。タオルで顔を拭き、そのタオルを水に濡らす。濡れたタオルで子どもの顔を拭く。子どもは声をあげて笑う。もう一度タオルで子どもの顔を拭った。 放置されたキャベツの葉を何枚か剥く。少し小さくなったキャベツを半分にカットする。 「みぃみぃに全部は贅沢すぎる」 一回りと半分小さくなったキャベツに気がついた子どもはぬいぐるみを撫でながらこちらを見つめている。子どもと目が合う。目を逸らし、キャベツを適当なサイズにカットした。キャベツを炒め、味付けに塩胡椒を一振りする。味見したただのキャベツは薄味だった。 ただの薄味キャベツを机に運ぶ。子どもがキャベツを覗き込む。フライパンを洗い場に置く。皿にはキャベツだけ。 フォークはやっぱりない。子どもの口にキャベツを運ぶ。うまく口に入らず、口の周りがベタベタになっていた。口元をタオルで拭うと子どもは笑う。綺麗になった口元をもう一度タオルで拭う。 まだ湿っている子どもの服をドライヤーで乾かす。その服を着せ、出かける。子どもはこちらのズボンを握っている。ぬいぐるみは持っておらず、両方の手でズボンを握っている。 百円ショップでフォークを買う。小さなフォークを手に取ると、子どもが大きなフォークを指差す。仕方がなく大きなフォークも買った。 公園に寄り道をした。何人か子連れがいたが、そのどれとも目線を合わせないようにした。何人かはこちらを見ていた。何人かは距離を置いた。 「しょお」 子どもがテニスボールを投げる。狭い部屋と違い、何度もバウンドさせて子どもに投げ返す。子どもはときどき後ろにボールを逸らす。その度に眉を縮め、少しだけ強くボールをこちらに投げる。そのボールを後ろにそらして、取りに行く。 部屋に戻り、カップ麺を作る。カップ麺に刻んだキャベツを追加した。ぬいぐるみのキャベツはさらに半分になった。 一つのカップ麺を二人で分け合う。二つの大小のフォークで分け合う。 「しょ。おいし」 フォークを五本指全て使って握っている。 「ん、美味いな」 キャベツの入ったカップ麺はいつもより味がした。
滝壺
緑が生い茂り、深緑の苔や日も通さぬ森林で、不快極まる湿気の中。道といえる道はなく、藪が支配し、段差ばかりの大地であった。 風は吹き、草木は揺れ、未開の地特有の謎は高揚感を煽る。獣道すらないこの土地に何が潜んでいるのかを想像する、その知的好奇心だけが女博士の行動を支えていた。 ただ好奇心に頼ってきた女博士は、次第に呼吸が荒くなる。藪や不規則な地面はいつまでも続き、辺りは一層暗くなる。 先に気を病むことになったのは付き添いの研究員達である。現地のガイドは笑みを見せるだけで役に立たず、通訳から発せられる言葉の不自由さは研究員達を苛立たせた。女博士が消えたということに研究員達は、意味もなく動き回り、仲間内での口論にさえ発展した。 特別印象的だったのは女博士を探すべく、森へ向かおうとする者がただの一人もいなかったことである。 「だから言ったんだ。あのお嬢様を連れてくるべきじゃないって」 研究員の一人が叫ぶが、その心配はもはや必要なかった。女博士はまだ寝床から出るには早すぎる時間帯に、見た目と頑丈さを備えた日本車と共に姿を消した。問題なのは女博士には車の免許がないということ。そして、それを咎める司法機関もこの場所にはないということ。 「もういい。置いて帰国はできない。分かってるだろ」 一人の研究員がそう呟くと、皆重い雰囲気に潰されて黙り込んでしまった。使える車両は二台あり、そのうちの良い方を持ち出した女博士の車を見る目は確かだろう。研究員はそれらしく着ていた白衣を着替え、厚手のベストを羽織る覚悟を決めねばならなかった。 一方の女博士は、もはや引き返すことも困難になっていた。車を置き、さらに藪へ踏み込んだはいいが、車の場所すら分からなくなっていた。 方位磁石を頼りに帰路を探す女博士の耳元に微かな音が届いた。手元に一切の情報がなかった女博士は、藁にもすがる思いで音のする方向へ向かった。音は次第に大きくなり、その正体が滝壺であることを女博士は察する。 その滝壺には陽の光が届き、それを反射した水面が眩しくも美しく、透き通っていた。手持ちの水を早々に消費してしまった女博士にとって、命の水であり、その瞳には涙すら浮かんでいた。 「やめた方がええぞ」 女博士が水を手で掬い、口に含もうとしたそのとき、一人の老人が声をかけた。老人は都合の良い石に腰掛け、釣具を滝壺に投げていた。街中では重装備、山中では軽装備という何とも判断のつかない老人は、女博士を見ることなくそう言った。 「ええと、初めましておじいさん。ここら辺に詳しいのかしら。いえ、その前にここに住んでいるのかしら。その釣具とても持ってこられる量ではないけれど」 知的好奇心に負けた女博士は、立て続けに質問をする。それは好奇心はもちろんのこと、老人があまりに非力に見えたということも理由の一つである。 糸のほつれや布のちぎれた箇所もある白みがかった深緑のハットを被り、手先は皺が寄り、顔には所々泥がついていた。釣具は新しく、洗練されたシンプルなデザインをしている。リールは半自動式であり、老人の力でも簡単に大物を仕留められそうである。 「死にたいのかい」 老人は女博士の質問には答えず、俯いたままの顔をあげ、女博士の方を見てそう言った。 「ここに辿り着く連中っていやぁ、自殺志願者か途方もない間抜けだけやぞ」 女博士は口を閉じ、老人を見つめるばかりであった。 二台あるうちの魅力的ではない方の車に乗った研究員達は些細な言い合いが絶えず、未だ出発できずにいた。 「何だってこのオンボロ車に乗らなきゃ何ないんだ」 「仕方がないだろ。そもそもなんで車にGPSをつけてないんだよ」 見たことのないハンドルとボタンがいくつか付いているボロ車を誰が運転するのか決まらず、助手席に座ったガイドだけが欠伸をしていた。通訳は理不尽な文句に不満を言うこともなく、研究員一人一人に対応している。 話し合いでは決まらず、簡単なゲームで運転手を決めたが、決まった後も議論はしばらく続いていた。腹を決めた運転手は手当たり次第にレバーを動かし、乱暴に鍵を回した。景気の良い音を鳴らして車が揺れる。 勢いよく発進したはいいが、すぐに狭い道幅となり軽快に飛ばすことはできない。徒歩と変わらぬ速度で、研究員達は森を目指す。後部座席と荷台では何人かの研究員が寝ており、運転手はそれに対する苛立ちを隠そうとはしない。 「死にたくはないわね。私は自殺志願者じゃないし、精神疾患でもない」 女博士は毅然とした態度で老人へ向かい直す。明らかに森林深くの滝壺では準備不足である両者の間に沈黙が流れ、滝の轟音だけが響き渡る。老人は何度か呟くが、全ての声が滝に飲み込まれてしまう。大きく息を吸い、滝よりも大きな声で話し始めた。 「君は今いくつかな。見たところ三十にも満たないだろうね。親に感謝したことはあるかい。僕には親がいなかったから感謝することはなかった。ところでカップ麺を食べたことはあるかい」 充血した目を見開き、女博士を問い詰める。釣具のリールをボタン一つで巻き戻し、丁寧に石の横へ置く。女博士は問いの意味を理解できず、口を半開きにして沈黙している。 「カップ麺を食べたことはあるかな。お湯を注ぐだけで出来上がる簡易食。災害時に役に立つほか、料理をするのが面倒な人にも欠かせない。電気ポットは使ったことがあるかな」 女博士は、あのとか、そのとか呟くが、滝にかき消され老人には届かない。 「電気ポットを使ったことはあるかな。じゃあ火を起こしたことは、自然界で水を得たことは、偶然ではなく必然的に、あるかい。多くの人はないだろう。なぜならそんな必要はないからだ。蛇口を捻り、穴にプラグを挿入し、ボタンを押すだけ。こんなふうにね」 老人はそう言って、まだ立てかけたままだった釣具のリールをすぐさま片付ける。手に持った釣具を女博士に見せつけるように前に突き出し、数秒して地面に置く。 緩やかに進み続けるオンボロ車はとうとう車では進めぬ領域まで来た。そしてそこに女博士が乗っていたはずの車両を見つける。残念ながらそこに女博士の姿はなく、研究員達は頭を抱えた。 一人の研究員は無意味に叫び、一人の研究員は諦めて帰宅を望んだ。ガイドは相変わらず笑い、通訳は戸惑っていた。 「まさか、この藪道を進んでいったんじゃないだろうな」 「おい、ここは道じゃない。ただの藪だ。あのトンチキ女がここを進むわけないだろう」 「ここを進むからトンチキ女なんだろ」 「クソ。クソクソ。あのバカ女が。やっぱり連れてくるべきじゃなかった」 車を降りた一同は無言で進み始めたガイドについていく。誰もが文句を言っていたが、ガイドから離れるものはただの一人もいなかった。 研究員の一人が滝壺の音を聞いた。皆が耳を立てる。確かに聞こえるその音に皆が反応し、音の方向へ向かおうとした。ガイドは音の方へ向かうことを拒否し、音の聞こえぬ方向へ研究員を促した。 抗議を示しながらも研究員達はガイドにしっかりと付いて行った。通訳だけがずっと滝壺の方を気にしていたが、研究員達に忘れろと諭されてしまった。 「確かに私は山では無力かもだけど、あなたの言うようにそれは必要がないからよ。文明の発展を喜ぶべきで、非難するなんて愚かしいわ。そもそも誕生してしまったものを無かったことになんてできないわ」 老人よりも小さな声の女博士の発言は滝に一部消されてしまった。老人に届いた一部の言葉が老人を笑わせた。 「君の言うとおりだ。文明は素晴らしい。文明は最高だ。そうやって我々は進化してきた」 女博士は次第に眉を顰め、その場を去ろうと考えた。 「生まれてから自分だけで立ち上がった人間はいない。君も、私も、我々の母親だって。だから君にはこれをあげよう」 老人は火にかけた串刺しの魚を女博士に向けた。その魚は鮎に近い見た目をしており、この周辺に川があることを教えてくれた。 「先ほどは水を飲むのを止めて悪かったね。ここの水は普通に飲めますぜ」 女博士は水を掬って飲み、焼き魚を口に加える。女博士の顔がすぐさま笑みで溢れる。気持ちのいい食べっぷりで完食する。 いくつかの生魚を取り出し、老人は素早い手つきで火を起こした。その火に生の魚を当てる。魚の焼ける音と匂いが女博士の食欲をそそる。 ガイドは焼き魚の匂いを逃さなかった。突然方向転換するガイドに研究員達は騒ぐ。「この道はさっき通ったところだぞ」「帰り道を把握できているのかよ」「俺らまで迷ったら許さんぞ」。口々に騒ぐ研究員の言葉を通訳は伝えない。 ようやく滝壺に着いた研究員達はそこで焼き魚を頬張るお姫様を発見する。 「あ」 口元を抑え、空腹に絶えかねた女博士は恥ずかしそうに背中を丸める。そうして滝壺に負けぬ声でこう言った。 「美味しいご飯ありますよ」 女博士の紅潮した頬は陽の光に紛れてしまう。
無表情
叫び。それは、歓喜の雄叫びや苦しみの絶叫であり、威嚇の咆哮である。あるいは何の意味もないかもしれない。今私の耳に届いている叫びの意味は分からないが、とにかく私はその叫びの正体を突き止める必要がある。そして、その叫びを止めねばならない。 その叫びが私の耳を突くようになったのは、ちょうど鮫が消えた頃からだった。三日三晩もがき苦しむような高熱を出し、それが復調すると同時に鮫が目の前に現れた。 どこへ行っても、何をしていてもその鮫は私の視界で泳いでいる。そこが山であろうとオフィスであろうと、人混みの中であろうと鮫は泳いでいた。決して私の視界から離れずに。 鮫は時に暴君と化すことがあった。食べるのだ。それは光を食べ、人を食べる。自室の照明が鮫に食べられたときは、暗がりで過ごすこととなった。鮫が上司を食べたときは心臓が止まる思いだった。しかし、そのどれもが現実のものではなかった。照明を買い直す必要はなく、上司は次の日も出勤していた。 怖くなった私は休職し、何もせずに布団に寝転ぶ。そうするとまた、あの高熱が訪れ私を苦しめた。体中が熱くなり、内側から体を噛まれているような痛みだった。体を捩り、冷やし、水を飲む。そのどれもが根本的な解決にはつながらなかった。 しかし、高熱は鮫から私を解放した。熱が出ているときには鮫が消える。熱が引くと、再び鮫が顔を覗かせる。ただ、それは全身ではなく尾鰭や顔の一部が見え隠れするだけだった。 私は目を瞑り、布団を被り丸まった。少しも家から出ず、上司に連絡もせず、ほとんど食べない生活を続けた。そうして、ようやく鮫が私の視界から消えた。 その日から私は叫びに支配された。その叫びは泣き怯えているようにも、怒っているようにも聞こえた。何よりも恐ろしいのは、叫びは私にしか聞こえないということである。外出中や就寝中に関わらず、突然叫び出す。しかし、これほどの大音量を誰も気にしていない。次第に私は、私に向けた私だけの叫びだと気がついた。 それからの日々、叫びの正体は分からぬまま過ごしている。唐突に嘆く叫びに私は耳を塞ぐが音は消えない。そればかりか胸の内が締め付けられるような痛みがする。私はその痛みに小さく唸り声を上げる。 電話が鳴る。上司からの電話が鳴る。それとほとんど同時に叫びが黙り込んでしまった。わずかな音も立てず、うるさいほどの静寂が私に訪れる。そして静寂と共に、鮫もまたやってきた。 私は電話に出る。鮫が私の顔を覗き込んでいる。泳ぎもせずに、静止して、焦点のあわない魚眼でこちらを見ている。表情ひとつない鮫は、電話を切ると同時に消えてしまった。電話に吸い込まれるように、携帯の画面の中へ泳いでいった。 私にまた叫びが訪れる。しかし、その叫びは以前のものとは異なり、少し謙虚であった。確かに存在する、怯えを私は感じ取る。叫びが私の胸を締め付ける。今度は痛みを感じなかったが、悲痛な叫びであった。 鮫は消え、叫びは静かになった。私は休職を取り消し、出社する。上司の席に鮫がいた。正しくは鮫が上司であった。一席だけ区画分けされたその場所で、スーツを着て、パソコンを操る人型の鮫がいた。 私は驚き周囲を見渡す。鮫になったもの、普通の人間のままのもの。鮫と人間の違いが曖昧になり、私は天を見上げる。オフィスの天井に鮫がいた。 天井全体が鮫の顔をしている。オフィスにいる以上叫ぶこともできず、私はトイレへ逃げ込んだ。個室で嘔吐する。嘔吐した便座の先に鮫の姿が浮かび、また嘔吐する。 全身が震えた。寒気が身体を支配し、それでいて中から煮えたぎるほどの熱さを感じた。吐き気による不快感は消えず、顔が青ざめていくのがわかる。私はどうすることもできず、ビルの外へ駆け出した。 外は雨が降っており、その一粒一粒が私を見つめていた。傘もささず、吐瀉物のついたスーツを着て、私は叫んでいた。涙も流していた。その叫びに周囲の人々が振り向く。皆、鮫の顔をしていた。 同じビルから鮫の形をした上司が私に声をかける。私は両耳を塞ぎ、叫んだ。上司が何を言っているかも、私が何を言っているかもわからなかった。上司の口が開き、その口から鮫が泳いでやってくる。私を襲おうとしてやってくる。私は雨を気にもせずに走り出した。 気がつけば、周囲の人には皆鮫の顔をしている。子供も老人も、雨やビルでさえも鮫の形をしている。道路を勢いよく鮫が泳いでいる。相変わらず、表情のない鮫だった。 鮫から逃げ惑う私を、一人の鮫が抱きかかえる。私は周囲の音の一つも聞こえぬほど叫んでいる。抱えられた私の目の前の道路を鮫が排気ガスを吐きながら泳いでいる。悲鳴を上げる鮫や、穏やかな顔で近づく鮫もいる。 叫ぶ私にある鮫が携帯電話を向ける。一人の鮫が向けると、次第に何人もの鮫が私に携帯電話を向けてくる。それぞれの携帯電話から新たな鮫が出てきて、私に向かってくる。私はそれが何よりも恐ろしく、私を抑える鮫を振り解いて逃げ出した。 逃げる私をいくつかの鮫が追いかける。雨に足を取られ転ぶ。周囲の鮫たちが私を見つめる。鮫の目からまた新たな鮫が生まれる。血が滲む足の痛みを無視して私は走る。方向は考えず、とにかく走って、私は駅に追い詰められた。 駅には様々な鮫がいた。私を見つめる鮫。距離を置く鮫。そのどれもが無表情であった。私の後ろを轟音と共に鮫が走り抜ける。その鮫には何人もの鮫が乗っており、いくつかの電線に結ばれていた。 走り抜けた巨大な鮫はやはり無表情なのだが、どこか笑っているように思えた。その鮫が私をどうにかしてくれるのではないかと思わせた。また、胸の内に叫びが響く。その叫びは周囲の喧騒に紛れて消えてしまった。 そして、叫びもとうとう鮫となり私を突き動かす。鮫の到着を誰かがアナウンスしている。私はその鮫に飛び込む。驚きや悲鳴が上がったであろうが、もはや私の耳には届かない。それは私の叫びが誰にも届かないように。 無表情の鮫たちの横で、散らばった私の体の中の鮫だけが穏やかな表情をしていた。
斜め七時
片手で壊せるほどの、自分の顔ほどの大きさの天秤を眺めているとき、あなたは何を考えるだろう。誰かは何かを乗せて重さを測り、誰かは左右の均衡を保とうとし、誰かは興味も示さないだろう。私は何もせず、じっとあなたを眺めていた。 あなたは私の右手を見つめる。あなたが手に持ったピンセットは分銅を正確に取り分ける。いくつかを適当に動かしたあなたは、一つの分銅を私の右手に乗せた。私は右手が重くなり、大きく右へ傾く。 あなたは、私の右手から分銅を取り、両の手に薬包紙を乗せる。左手の薬包紙に私にはよく分からない粉を乗せ、右手には先ほどの分銅よりもさらに小さい分銅を乗せる。私は左右の重さに揺れ動き、最後には重力に従った地点で止まる。 あなたはノートと私を交互に見つめながら、忙しなくメモを取っている。私は固定された視線の隅にあなたを捉える。あなたがまた私の正面にやってきて、私を両腕に乗る重みから解放する。私はあなたの全身を視界で捉える。 あなたは周囲を手早く片付けている。私には目もくれず、急いで片付けるあなたは机の隅に置かれた携帯電話が揺れていることに気がつかない。電話の揺れと共に私も僅かに揺れる。決して新しくて美しいわけではない私は、小さくカタカタと音を立てる。その音があなたの視線を誘導し、あなたは携帯電話に気がつく。 電話に出たあなたは、片付けもそのままに部屋から出ていってしまった。私は追いかけることも声をかけることも叶わない。電気の消えた部屋には、微かな薬品の匂いだけが漂う。 眠ることのない私は、ひたすらに部屋で同じ景色を眺めている。暗闇に光が灯ったのはあなたが出ていってからすぐだった。部屋にやってきたのはあなたではなく、あなたの友人だった。そして、私の視界には映らないが、おそらく友人に加えて教授もいるのだろう。時計の短針が五を指す時間帯にはいつも教授が来る。 友人と教授と思われる人物は中断された机の片付けを済ませる。私も定位置の棚へと移動する。この棚からは部屋全体を見渡すことができる。やはり教授がおり、友人と片付けをしながら談笑をしている。 教授は部屋に鍵をかけ、机の配置を大きく変更する。あなたはまだやってこない。友人は上着を脱ぎ、その胸部のサイズを強調する。あなたはまだやってこない。教授は友人に少し近づき、肩に手を回す。あなたは、まだやってこない。 結局、あなたはいつまでもこないまま友人の甘い声だけが部屋を支配した。あなたは友人がしていることを知らない。私は動かない視界の中で動く教授と友人を収める。 時計の短針が六になってしばらくした頃に、二人は机を動かし、部屋から出ていった。あなたはまだやってこない。あなたがやってくるのはいつも短針が七を過ぎた頃だから。 短針が七を過ぎ、あなたがやってくる。あなたはいくつかの紙をまとめ、パソコンを大きな音で叩き、短針が八を指す前に部屋を出た。部屋は再び暗くなり、タイピングの音もしない。 あなたが再び部屋を訪れたのは翌日だった。棚から私を取り、私の視界が新たなものへと変化する。今度の視界からは時計が見えない。あなたは、私やその他の道具を扱うとき、いつも独り言を言っている。それは報告であったり、愚痴であったり、意味なんてないこともある。その日は友人の話をしていた。 あなたの友人は、あなたが言うには様々な人間関係を築き、非常に人気である。あなたが言うには、友人は美しく、大変魅力的である。友人の大きな胸部は、教授だけでなく、あなたまでもを狂わせる。あなたは微笑みながら友人を語る。私は重力に従って、両腕を動かすだけである。 両腕を動かすだけであるはずの私は、あなたに付き合っているうちに痛みを感じるようになった。あなたと出会って久しぶりに動かしたからか、歳をとったからかは分からないけれど、体が痛むのを確かに感じる。 あなたが部屋から出て少しすると、教授と友人がやってくる。視界には映らないが、この部屋にはほとんど同じ人しかやってこない。あなたが放置していった私を友人が棚へと戻す。その重力に従った胸部が私と同じように揺れ動き、私もまた棚に置かれた衝撃と共に揺れる。また少し体が痛む。 机を動かし、教授は揺れ動く友人へと触れる。教授が最後に私に触れたのはいつだろうか。艶やかな友人の声が私の元まで響く。あなたは友人のこの声が聞きたいのだろうか。友人の声は軋んだ音のようであった。 二人が消え、短針が七を指す頃にあなたがやってくる。あなたは私を棚から取り出して、私を左右に揺らす。左右に揺らすと、軋んだ音が小さく鳴る。あなたは顔を顰め、私を部屋の隅に置く。そこは初めて見る景色だった。 あなたはそれからの日々、私を含めすべての器具に触ることなく携帯電話に向かう。背中が折れ曲がるほどのめり込む画面の先に何があるのかを私は知らない。重力以外に何があなたを曲げるのかも分からない。測ることもできない。 あなたは何度か呟き、携帯電話を睨む。さらに数分して、あなたは立ち上がり、電話をかける。誰かが電話に出ると同時にあなたはどこかへ行ってしまった。とうとう時計の短針が五を指し、あなたより先に教授が入ってきた。 教授と友人はいつものように机を動かす。いつもの場所に机を移動し、無造作に置く。いつもの場所に、いつもは無いものが置いてあった。私だ。机は私に容赦なくぶつかり、私の左腕は折れてしまった。興奮した二人は、私が出せる最大限の悲鳴である破損音に気がつかない。 私の悲鳴は、私より大きな友人の悲鳴に消されてしまう。机で視界のほとんどが隠されてしまい、友人が喘ぐ声だけに集中することとなった。あなたは相変わらずやってこない。机の位置を元に戻す時さえ二人は私の存在にすら気がつかなかった。 時計の短針が七を指す頃にあなたはやってくる。やってきて、私の左腕が壊れ、もはや私が何も測れないことを悟る。動けず、叫べず、ついには測れなくなった私を、あなたは机の上にそっと置く。あなたは壊れた左腕を私の右腕に置く。私は左腕の重さに従って右に傾く。 あなたは、なぜ私が壊れたのかを考えるかもしれない。研究熱心で賢いあなたは机が動かされたことに気がつくかもしれない。それでもあなたは私が見てきたものを知ることはできない。 あなたは私を袋に詰め込む。ビニール袋越しのあなたは少しぼやけて見える。ぼやけたあなたは、また腰を折り曲げて携帯電話に向かう。時計の短針はいつの間にか八を指す。八を指すとほとんど同時に教授がやってきて、あなたは私を教授に紹介する。教授の所有物をあなたが紹介する。 教授はあなたを軽く叱責する。ぼやけた視界であなたが頭を下げる。あなたは何度か謝罪の言葉を述べる。二人は私の方をあまり見ない。ただ怒り、謝る。腕の折れた私は、常に右に傾く。斜めに傾いて、ぼやけた視界からあなたを見つめる。ずっと眺めている。 二人を視界に収める。二人の視界に私は映らない。古くなった私の右腕は少しだけ軋む。
飛沫と残滓
ホーム上で駅員が最終列車を知らせている。目が覚めた頃には男の目的地である駅を一つ過ぎていた。戻る電車もない男は駅を降り、窓を叩いて寝ているタクシー運転手を起こす。乗客が来たことを確認した運転手はため息をつき、気怠げに目的地を尋ねた。 「小学校の近くまで」 運転手は男を数秒見つめたのち、何も言わずに車を走らせた。駅から小学校までは十分ほどかかるが、その間、両者に会話はなかった。 小学校の近くで降りた男は適当に決済し、運転手もまたすぐに帰っていく。フェンスに囲まれた校庭は男の想像よりも小さく、ビルほどあるはずの校舎は三階建てのボロだった。 男は実家へ向かう前に、少し小学校の周りを歩いた。校庭の隅の方に生えている銀杏の木は暗がりでも目立っていた。視覚以上にその臭いが、校庭の香りを思い起こさせる。 一周した男は、校門の前に立ち関係者以外立ち入り禁止の看板をそっと撫でる。昇降口と下駄箱の前にある池を見る。看板を無視して、池の前に立つ。鯉がいない。 その池には、小石を投げて遊んだ鯉がいなかった。男は手のひらより少し小さな石を池に投げつける。石が沈む音は男の想定より大きく、男は周囲を見回す。 学校のすぐ脇を車が通り、そのライトに一瞬男が照らされる。車は止まる素振りもなくそのまま通り過ぎてしまう。男は実家へ向かって歩き出した。 「お邪魔します」 玄関を開けると、まだ家族は起きていた。 「おかえりおかえりぃ」 妹が玄関まで迎えにくる。缶ビールを片手に持つ背の低い妹は男を出迎える。居間では、父が録画番組を眺めている。母は台所に立ち、そこからテレビを眺めていた。 居間の隅で男は上着も脱がずに腰を下ろす。父はテレビから顔を動かさない。母が男にお茶を渡す。 「そういえば、鯉がいなくなってた。なんか知ってるか」 一方的に父と会話を弾ませる妹に男は尋ねる。男はようやく上着を脱いで、お茶を一口飲む。思った以上に熱かったお茶に男は軽く舌を振る。 「何が、てか何の話なのそれ」 笑いながら妹は父から男は体の向きを変える。 「そりゃあ、小学校の。池にいたじゃん。池に鯉が」 男は軽く首を傾げ、当然のように答える。妹もまた首を傾げながら「いたかなぁ」と悩んでいる。男は鯉を覚えていない妹を目を細めながら見つめる。 「いた気もするけど覚えてないなぁ。てか、鯉がいないとなんなのよ」 妹は再び笑みをこぼし、適当に返事をしながら、徐々にスマホへ視線を移していった。男は依然として首を傾げている。 物置となった自室で寝ることはできず、男は居間のソファで横になる。池の鯉が瞼の裏に映り、息を吸う。なかなか寝つくことができず、男は明日の予定を振り返る。様々な考えが男の頭を巡っている間に、男は深い眠りについた。 翌朝、といっても昼過ぎに男は目覚める。妹はすでに家におらず、父と母は各々が自由に過ごしていた。男は夜まで予定がなく、もう一度小学校へ向かった。 昼間の小学校には小学生がいる。通りは車が通り、銀杏の木は匂いを放っていた。遠目に見た池に、鯉はいなかった。昼間に堂々と侵入するわけにもいかず、男は周りを無意味に歩いていた。 「田里か、田里だよな。久しぶり」 男が声をかける視線の先には、手入れされていない髪と髭を蓄え、猫背で眼鏡の男がいた。 「小学校以来だな、まだこっちいたのか」 返事のない眼鏡の男は、羽織っている半纏を少し揺らして男から距離を取る。両腕を胸の前に縮め、顔を下げ、視線だけで男を見つめる。 男も田里の様子に気がついて声を詰まらせる。両者の視線は交差するが、そのまま沈黙が流れた。田里は逃げはしないが、喋りもしなかった。男もまた沈黙に気圧されていた。 男が名乗ろうとして一歩前に詰める。田里も一歩下がる。小さく、男が「あのっ」と呟くとほとんど同時に、田里は走ってどこかへ逃げてしまった。男は田里を追いかけない。 男はそのまま何をするでもなく街を懐かしみ、駅に新しくできた喫煙所で煙草を吸った。無意識に二本目の煙草に火をつけており、ほとんど吸うことなく煙だけが宙に昇る。 気がつけば約束の時間が近づいており、男は目的地の居酒屋へ歩き出す。すでに気心の知れた友人が待機しており、軽く肩をぶつけ合う。少し遅れて到着した友人とも肩をぶつけ合い、地元の仲を確かめていた。 「ほんま久しぶりやんなぁ」 乾杯をする前から会話は盛り上がり、身の上話を共有し合う。男は酒もすすみ、身体を揺らして笑っている。友人もまた声を響かせる。男は煙草を吸いに一人の友人と席を外した。 「そういえばさ、田里って覚えてる」 喫煙所で昼間のことを話した。田里の名前を男が話すと友人は少し顔を歪め、空っぽの相槌を打つ。特段盛り上がることのない田里の話題はすぐに終わり、二人は再び席に戻る。 男と友人はぎこちない笑みで席に着く。二人の間に視線が交わされることはなく、男は酒を飲むばかりであった。全員が千鳥足で歩く。聞き取れぬ別れの言葉で解散し、男はシャワーも浴びずにソファへ倒れ込んだ。 眠れずに唸る男は夢を見ていた。髭もなく、髪も整った、ランドセル姿の田里がそこにいた。池の縁に座り込み、抱え込んだ銀杏を一つずつ丁寧に投げ込んでいる。 田里の投げた銀杏に鯉が飛びつき、池には次々と波紋が広がる。膝を折り曲げ、池を覗き込む田里を校門から離れて男は見ていた。次の瞬間、先ほどの波紋を全てかき消すほどの水飛沫が上がる。 鈍い音と共に男は目覚める。男はソファから落ちており、フローリングで横になっていた。すぐに立ち上がり、水を飲む。汗は止まらず、ひどい頭痛がした。無性に甘いジュースが飲みたくなり、男はコンビニへ出かけた。 虫の音しか聞こえぬ田舎のコンビニは物静かで、入店の音が鳴り響く。男は子供らしいジュースを買い、一口飲む。一口飲んで、その不味さに驚き、すぐに捨てた。眠れる気もしなかった男は、再び小学校へ向かった。向かわねばならぬ気がしていた。 夜風独特の匂いが男を揺らす。男の体は驚くほど冷えていたが、体は震えていなかった。白い息を吐き、目を見開いて校門へ向かう。男は膝を折り曲げ、池の縁に立つ。やはり鯉はいなかった。 鯉はいないが、男は銀杏を数個持ち、再び池の縁に座り込んだ。銀杏を一つ落とすと、小さな波紋が広がる。手のひらサイズの石を男が池に落とすと、もっと大きな波紋と水飛沫が生まれた。 男は立ち上がり、息を吐く。無精髭を撫でる。銀杏の香りが薄くなり、耳鳴りがした。耳鳴りが悲鳴のように聴こえた。男は虚な目で眉を下げる。 夜風が男の体を冷やし、乾燥した風が吹く。男は池の水を眺める。男は脱力し、冷えた体は震えていた。池は大きな飛沫と共に弾け、男の全身を包み込む。 男は水の中で呼吸を止め、筋肉は強張る。 男の耳には何の音も届かなかった。男は池の中でじっとしている。顔を上げ、一度息を吸う。風が濡れた体を凍らす。男はもう一度池に沈んだ。