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31 件の小説本能の果てに
人は理性的な生き物だというが、それは嘘だと思う。こんなに本能に塗れて生きている私たちのどこに理性があるというのか。まだ痺れの残る指先に弾けた血潮と置物みたいな人間がいた。 ことは数時間前に起きた。喘息の薬を受け取るため、定期診断を兼ねて病院を訪れた。土曜ということもあり、密度の高い控室のソファで何となくテレビを眺めていた。何となく見ていたはずのその内容を私は忘れることができない。 自然界の厳しさをドキュメンタリーとしてまとめた番組だった。何となくテレビを眺めていた私には細かいことは分からないが、これから母になろうとする親鳥の物語であった。その鳥は白い身体に薄茶色の斑点を持っており、それが何とも言えぬ美しさであった。穏やかな性格を持つというその種の親鳥が産んだ卵は、親鳥に似て白に美しい薄茶の斑点を有していた。 途中から見ていた私に番組の構成は分からないが、親鳥になる前の大恋愛と、ようやく生まれた卵という場面から私は注意してみるようにした。私も数年前に母になったばかりの新米であり、何だか親鳥に共感してしまった。 緩やかな雰囲気のBGMと共に巣作りの様子などが映し出されていた。その雰囲気が、苦しくも楽しい私自身の子育てと似かよっていたことも、私を楽しませる要因だった。 ところが、和やかな雰囲気の音楽がパタリと止み、巣が見える定点カメラの映像が数秒間映し出された。常に何かしらの音楽の流れていた番組において、無音より騒がしい緊張はなかった。巧みな演出の番組に私は身を乗り出してのめり込んだ。 数秒の沈黙を経て、巣へ一羽の鳥がやってきた。それは親鳥ではなかった。親鳥と対極の色を持つ、黒に塗れたカラスであった。リズムを刻みながら小さく響く重低音が私の心臓を震わせた。 カラスは巣の上で吟味するかのように小刻みにステップを踏み始めた。すると、カラスはその鋭い嘴をどうすることもできぬ卵へと向けた。そして、そのまま殻を突き破り、中身を食べた。 おばさんたちの世間話しか聞こえぬ控室で、ひっ、と小さく怯えた声をあげてしまった。幸い誰にも気が付かれることはなかったが、私は完全に番組から目を逸らすことができなくなっていた。 カラスは三つある卵のうち一つを完食すると、次の卵へ目を光らせた。しかし、親鳥の気配を感じたのか、名残惜しそうに飛び立っていった。そこへ何も知らぬ親鳥が帰ってきた。破れた殻を嘴に咥え、孵化したと勘違いした親鳥は周囲を見回していた。しかし、それが孵化ではないことを悟ると、静かにそれでいて何よりも力強く、じっとしていた。 次のカットで、私は本当に悲鳴をあげてしまった。巣へ訪れたであろうカラスが無惨な姿と成り果てていた。羽が何本も抜け肌が見えている状態であり、その目から生気を感じなかった。そして、その無惨な死体の横に怒りと哀しみを混ぜた深い情念を感じさせる親鳥がいた。動かぬカラスを執拗に足の爪で締め付ける親鳥を静止画としたエンディングが流れた。 私は息を呑み、カラスにも親鳥にも恐怖を抱いた。生きるために殺しても裁かれず、復讐のために殺しても裁かれぬのが自然界であり、それこそが自然の厳しさである、と番組は締めくくられた。私は何とも言えぬ放心状態で診察を終えた。 薬を受け取り、ぼーっとしたまま家路についた。白くシミだらけの自分の腕を見て親鳥を想起してしまい、何だか不気味に思えた。 不快な感情を整理しきれないまま家につき、そこで玄関に鍵がかかっていないことに違和感を覚えた。子どもを家に残したまま鍵をしないわけがない。子どもがいたずらで開けたのだろうか。きっとそうに違いない。先ほどまでの感情も相まって、私は嫌な予感がして仕方がなかった。 恐る恐るドアを開き、異常なまで無音の家を進んだ。すぐに出迎えない子どものことを、寝ているだけだと、自分自身を説得した。そうして、とうとう現場へやってきて私は気が狂いそうになった。人生で最大限の感情を抱いた。命よりも大切な我が子の言葉にすることもできぬ無惨な姿をみて、音も響かぬ叫び声をあげた。心の奥底が掻き回された感覚であった。 そんな私の前に現れたのが、ナイフを持った男であった。男は私の姿を確認してすぐにナイフを構えた。そのナイフに血がついていたことが私をさらに狂わせた。お前もこうなりたくなければ黙って金目のものをよこせ、と叫んだ男は手を振るわせながらナイフをこちらへ向けた。 金が欲しいがために、我が子を殺したのか。金のために何の関係もない家庭を荒らしたのか。金如きのために、私はこんな仕打ちを受けたというのか。私はもはやこの感情に名前をつけることはできなかった。 「あんたが。あんたがぁ」 私は正しく発音できているかも分からぬまま、口を開いた。殺される恐怖など微塵もなかった。ただ胸の内を暴れるように燃えているこの感情が体を支配していた。 まるで当然の理屈であるかのように、明日を生きるための金を要求する男は私へ向かってきた。私は子どもの野球道具であるバットを迷いもなく手に持ち、力任せに振り下ろした。自分が絶対的優位であると信じて疑わなかった男は突然の衝撃にもがき苦しんだ。 私は倒れ込んだ男めがけて何度も執拗にバットを振り下ろした。確実に死んだと分かってからも数度振り下ろした。もはやそこに思考はなかった。 痺れた感覚の残る手で無惨な姿の我が子へ駆け寄った。そこで初めて我が子を失ったと気がつき、嘔吐した。 手先だけでなく、全身が震えていた。そのまま警察と救急車を呼んだ。最後の理性を振り絞った私は、愛しい我が子の頭を撫でるため、床へ寝転んだ。先ほどまで止むことのなかった心音が、パタリと止んだ。深い静寂に包まれ、私の頬を涙が伝った。私は現実を受け入れられぬまま、子守唄を歌った。もう、何年も歌っていない子守唄を。我が子のために、静かに歌った。
飛ぶ
幼いときに読んだライト兄弟の伝記が強く印象に残っている。漫画の中のライト兄弟は不可能に挑戦するスーパーヒーローだった。ライト兄弟に憧れ、いつの日か空を飛びたいと思うようになった。 暑い八月の昼頃、窓から見える飛行機雲を見て、改めて空を飛びたいと感じた。 「たかし、ごめんね。ちょっと仕事が長引いちゃって」 母さんが慌てて部屋に入ってくる。 「今日はね、りんごを貰ったのよ」 母さんは嬉しそうにそういいながらりんごを取り出し、皿に盛り付けてくれた。 生まれてから今日まで常に病弱で入退院を繰り返す僕を母さんは文句も言わずにサポートしてくれる。それが僕にとって苦痛でもあった。 「ありがとう。僕本の続きが気になっているから今日はお話の相手できないや」 母さんは「でも」と名残惜しそうにしていたが、無理矢理に帰ってもらった。 「そうなの。また来るからね」 そういって母さんは何度も振り返りながら病室を後にした。 僕はよれよれになったライト兄弟の伝記を読み始めた。何度目かも分からないが、知っているストーリを追いかける。 母さんに嘘をついてでも、病室で共に過ごしたくなかった。自分自身が母さんへの負担だと認めたくなかった。 「あら、たかし君またライト兄弟読んでいるの」 看護師さんが優しく話しかける。 「うん。この本が一番好きなんだ」 「ライト兄弟、かっこいいわよねぇ。不可能に挑戦して人類で初めて空を飛んだ人たち、って素敵よね。あのね、私も昔CAさんになりたかったのよ。でも残念ながら私には無理だった」 看護師さんは笑いながらも熱く語った。 「本当にかっこいい」 「たかし君は将来パイロットになりたいの」 「うーん、それはどうだろ。だって僕はこんな身体だし」 僕が答えを出し渋っている間に「ごめんね。また会いにくるね」と言って看護師さんは忙しそうにどこかに行ってしまった。 僕はライト兄弟の伝記を読みながら一人外の飛行機雲を眺めた。なれるのなら僕だってパイロットになりたい。だけど全く健康な人だってなることが難しいのだから僕なら尚更だ。 生涯この病院という檻の中で過ごすのだろうか。そうして僕という足枷を死ぬまで母さんに与えるのだろうか。 そんなことを思いながら眠りについた。 その日はなんだか素敵な夢を見た。飛行機なんかなくても自由に空を飛べる夢だった。夜空に浮かぶ少し欠けたお月様が僕を誘ってくる。 「ほぉら、こっちへおいでよ。窓を開けて、飛び出してごらん。そうすれば自由になれるさ」 僕はお月様に誘われるままに窓の外へ飛び出した。身体が重力を失い、浮き上がった。まるで水中にいるかのように宙を掻いて自由に過ごせた。左右上下はもちろんのこと、ホバリングから急旋回まで難なくこなせた。ついには急降下に急上昇、急停止、回転なんかもできるようになった。 僕は夢中で空を飛んだ。心も身体も踊っていた。そうしてお月様の元を目指して急加速。しかし、どれだけ加速してもお月様に近づくことはなかった。しまいにはだんだんと減速していった。最後には止まってしまい地面に真っ逆さま。 ぶつかる。と思ったところで目が覚めた。ひどい寝汗をかいていた。体にまとわりつくベトベトとした感覚が不愉快だった。けれども、この寝汗は死に直面したことによるものではないと理解していた。本当に自由に空を飛べると感じていたのだ。この病院を飛び抜け、どこへだって、心の赴くままに行けると思っていたのだ。 何とも言えない虚無感に打ちひしがれている間に、汗が冷えると共に、僕は冷静になった。どうしたら人間が空を飛べるというのだろうか。ライト兄弟だってこの身一つで空を飛べるとは思わなかったろう。冷静になって僕はもう一度眠りについた。 「今日はお母さん来ていないのね」 看護師さんが僕に話しかけた。たかし君と話すのを毎日楽しみにしているんだ、と笑顔を見せながら。 「母さんは忙しいんだ」 「たかし君のお母さんシングルマザーだもんね。一人でも頑張ってて本当にかっこいいよね」 その言葉が胸に小さな針を刺した。力なく「うん」と返事した。 大した会話もせずに今日も看護師さんは忙しそうにどこかへ行ってしまった。 母さんも看護師さんも、その他の大人も皆んな忙しそうにしている。僕だけ。僕だけが、何もしていない。ベッドに寝て、身分不相応の夢を見て、ただそれだけだ。 今日も同じような夢を見た。お月様に誘われ、窓を飛び出し、空を泳いだ。そうして最後には空中浮遊の力を失って地面へ落ちてゆく。それから何度か似たような夢を見た。 ある日、今日も同じような夢を見た。しかし、今日は地面に叩きつけられることなく目が覚めた。そこは確かに病室で、間違いなく現実だった。 いつものお月様が見える。今日は一つも欠けていない、完全な満月だった。お月様は喋らない。それはそうだ、現実なのだから。 しかし、いつもと異なる終わり方の夢が、欠けた箇所のない満月が、何かを変えてくれると思わせた。 這うように身体を動かした。この檻から僕を救ってくれる気がした。窓の淵に上半身を引っ掛け、目一杯の力を振り絞って鍵を開けた。全身をスライドさせるように窓を開けた。そして全身を窓の外へ投じた。また、重力を失い、浮いた感覚を掴めるのではないかと、疑いながらも縋った。 身体は重力に従い、地面へ真っ逆さまに落ちていった。どこか解放的な感覚を覚えた。 次目が覚めたとき、そこは地獄でも天国でもなかった。母さんが涙を流していた。 「どうしてそんなことしたのよ。お願いだから死なないでちょうだい。生きているだけで、それだけでいいから」 最初は説教のような力強さを誇っていた母さんの言葉もみるみる窄んでゆき、最後には泣きながらベッドへ突っ伏した。あの看護師さんも涙を流していた。 違うんだ、自殺しようとしたんじゃない空を飛ぼうと思ったんだ、とは言えなかった。信じてもらえないからではない。本気で空を飛ぼうと思っていなかったからだ。 その後、周りの人たちはいなくなり母さんとあの看護師さんだけになった。 「ライト兄弟だって、飛ぶことを諦めなかったから空を飛べたのよ。たかし君も、生きることを諦めないで。お母さんをひとりにしないであげて」 そういって母さんと二人にしてくれた。 母さんはまだ何も言えそうになかった。生きているだけでいいから。母さんに言われた言葉が胸に残った。僕は足枷かもしれない。それでも僕がそれを認めたらダメな気がした。僕だけが母さんの助けになれるはずだから。 「僕、僕パイロットになるよ」 泣いている母さんにそう呟いた。パイロットになれるとは思わない。でも、これは嘘じゃない。
箱庭の愛
人のことはなかなか分からないというが、実の家族のことをここまで知らないとは思わなかった。いや、むしろ知っていたからこそ衝撃を受けたともいえる。とにかく、一刻も早くこの事態をなんとかしなければならない。 兄貴と二人暮らしをしている。しかし、俺はバイトで昼間はおらず、兄貴は夜勤のためほとんど顔を合わすことはない。だからその日も家に帰って一人だと考えていた。 「おお、びっくりした。今日仕事ないのか」 鍵がかかっていなかったことを、玄関に立ち尽くす兄貴を見て思い出した。兄貴はこちらに背中を向けて一言も喋らない。 再び兄貴に声をかけようとした時、兄貴の手から血が流れていることに気がついた。指先から床へ一滴ずつ垂れていた。 「おい、大丈夫か。どっか怪我でもしたのか」 慌てて兄貴の元へ寄って、そこで兄貴が無言の理由がわかった。 豚がいた。蔑称としての豚じゃない。あのピンク色の、家畜として飼われている、美味しい。とにかく生き物の豚が兄貴の目の前に血だらけで倒れていた。 誰がやったのかなんて聞かなかった。聞くまでもなく、兄貴の腕に付着した血と異様なまでに無言の兄貴が物語っていた。 「これ、なんで」 俺ではなく、兄貴の言葉だった。俺の脳内が疑問符で埋め尽くされる前に兄貴はもう一度「これ、なんで」といった。 「いや、俺に言われても。兄貴、じゃないの」 戸惑いながら、不安そのままに問い返した。兄貴は顔だけで返事をした。誰かがイタズラで豚の死体を人の家に置いていくとは考えにくい。 俺は兄貴の横へ行き、豚の顔をじっくりと見てみた。その淡麗な桃色の肌に、およそ健康ではない、泥沼のように薄暗い血が付着していた。気が滅入るほど醜悪な豚の死体は、目を逸らすことも凝視することもできなかった。美しい女性のつける匂いのきつい香水のそれに近い。 「何なんだよ。これ」 兄貴は信じられないほどの汗をかきながら狼狽えていた。あまりにも動揺している兄貴を見て、少し心が落ち着いた。 「兄貴が帰って来た時にはもうあったのか」 兄貴は唇を振るわせ、ああとかうんとか言うばかりで、具体的な内容は何一つ言わなかった。 兄貴の指先から滴る血液を見て、それが豚に付着した不快な血と異なることに気がついた。豚の血はとても流れを持っているものではなかった。そうしてようやく兄貴の腕に血がついているのではなく、腕から血が流れているのだと悟った。 「おい、これ。怪我してんじゃん。何があったのか教えてくれよ。いや、その前に治療か。ちょっと待ってて」 救急箱を取りに行こうとした俺を、血の流れる腕とは反対の腕で引き留めた。 「疑わないで、信じて、聞いてくれるか」 その真剣な眼差しが、事の深刻さを語っていた。 「俺、殺しちゃったんだ」 なぜ殺したのか、そもそもなぜ豚がこんなところにいるのか、何を思って殺したのか、など疑問の飛び交う脳内が静まることはなかったが、それら全てを飲み込んで「うん」と力強く続きを促した。 「豚を殺したんじゃない。あの、その、だな」 兄貴が豚を殺したわけではないと知り安堵した。ならばこの豚は、という疑問は必然的だが、歯切れの悪い兄貴の続きの言葉を待った。 「母さんを殺したんだ」 ほとんど泣いているのでは無いかというほどか細い声だった。 衝撃だった。もちろん衝撃だった。あの優しい兄貴が人を殺すなんて、と。しかし、母さんが殺された、という事実にある種の納得を抱えている自分がいた。 母さんは優しい人とよく周りから言われていた。資産家の愛人でありながら俺たち双子を身籠った。養育費はもらっていたらしいが、シングルマザーとしてのさまざまな困難が母を襲ったであろうが、何よりも愛してくれた。 ただ、シングルマザーゆえなのか、その愛が強すぎた。その重すぎる愛が異常なまでの過保護を生んだ。 愛した人に捨てられたという経験が、人間不信を生み、我が子には幸せになってもらおうと、何でも世話した。高校生になっても同じ浴室で身体を洗われた。友人関係は異常なほど審査された。学校への電話はほとんど毎日であった。大人の階段でさえ母で登った。 その不気味なまでの優しさに嫌気がさした俺たちは高校を卒業すると同時に家を出た。ほとんど家出だった。そうして、なんとかアルバイトで今のルームシェアを成り立たせている。 何度か警察と共に母が来たことがある。警察は俺たちに同情してくれた。もう未成年でないこともあって、母には内緒で引っ越した。 そんな母さんを殺したいほど兄貴が憎んでいたとは知らなかった。 「そうか。母さんを、兄貴が」 俺は怒りでも悲しみでもない、それでいて大きく胸の内を支配するネガティブな感情を持て余していた。 動機は聞かなかった。俺だって殺意を抱いたことはある。それから俺たちは数分の沈黙を過ごした。いまだに震えている兄貴を横に再び疑問が浮かんだ。 「豚は、この豚は何なんだ」 「これは、多分、母さんなんだ」 真に衝撃を受けた時人は呆然とするというが、それは間違いないと思う。脳で処理できない情報を締め出そうとするのだろう。俺が言葉を受け止める前に兄貴は続けた。 「引っ越した家ですら特定されて、つい突き飛ばしたんだ。俺たちはお前のものじゃない。もう構うなって」 まだ、理解のできない俺に兄貴は続けた。 「そうしたら、母さん。母さんが、私は誰にも愛されないって言って。自分で」 兄貴はそう言いながら泣き崩れた。母さんの自殺を止めようとした時に怪我をしたのだろう。俺はもはや感情の全てを投げ出したかった。そうすれば楽になれるのだろうか。 兄貴の気持ちが痛いほど分かった。どれだけ嫌いでも母親である。愛人に捨てられ、最後には自ら命を断つ。一人の人間として余りにも悲しい。怒りと哀しみの相反する二つの感情が俺たちを掴んで離さない。 なぜ自殺した母さんが豚になったかなんて知らない。科学的な理由なんか求めない。俺たちは母さんに支配されていたが、母さんもまた愛に支配されていた。 豚は食べられるために生まれてくる。この豚は母さんであり、俺たちだ。俺たちは皆愛に支配された家畜なんだ。 俺は泥水のような血を拭いた。愛に飢え、最後は豚になった、なんて誰も信じない。この豚も警察に引き取られ焼却されるのだろう。俺たちは母さんの愛になんと応えるべきだったのだろうか。泣き崩れる兄貴と悲しい顔をした豚が俺の心を締め付ける。
益虫の眼差し
世の中おかしなことはいっぱいありますけど、一番おかしいのは人間でございます。それは私たちは人間の棲家を利用しているわけですから、無理に貶めようなんて思っていません。しかしですね、人間にとっても得になることを私たちはしているわけです。それなのになかなかな仕打ちだとは思いませんか。食料を与えろとは言いませんが、ただ放っておいてほしいのです。 「あの家は清潔だからろくな虫がいねぇ」 愚かな人間のことを考えながら徘徊していると、同族に出会いました。ここらは私たちにとって理想的な環境のエリアだと考えていましたが、どうやら最近人間の生活環境が変わってきているようです。 「こんにちは。ありがたい情報をどうも。お礼というわけではないですが、あちらの家食料の宝庫ともいえる家でしたがどうにも家主が荒くれ者でして」 同族は私の話を聞いて「あぁ」と漏らしながら察した様子で何処かへ行ってしまいました。 私は彼が教えてくれた方向へ向かわぬように新たなエリアを求めました。そうしてしばらくした頃に私はまた新たな人間の家へと辿り着きました。その家は一見すると綺麗で、とても虫が多いようには見えませんでした。 私は丁寧に方向を吟味していたつもりでしたが、気が付かぬ間に同族の忠告を無視していたのかと落胆しました。しかし、家主と思われる人間たちの話を聞いて撤退の意思を翻しました。 「最近は害虫が多くて敵わんな」 人間の想像する害虫なんざたかが知れてます。ほとんどの場合はゴキブリです。ごく稀にムカデなんかをいう人間もいますが、まぁ例外でしょう。その害虫が私たちにとっては明日を生きる食料なわけですから、人間が益虫と私たちのことを呼ぶわけも分かります。 しかし、この場合害虫というのは何なんでしょうか。私たちにとっては必要不可欠であっても人間にとっては不快そのものであるから害なのでしょうか。いや、不快でいえば私たちもそうです。 そう考えて私はまた沸々と怒りを覚えました。一つ前の家では私にとっての楽園でした。食べても食べてもご馳走の出てくる場所は人間にとっても嬉しいでしょう。ですから私は大喜びでしばらくの棲家にしようと考えました。ところが楽園に油断したのか、普段は用心なのですが、うっかり人に見つかってしまいました。 「うわぁ、クモだ。気持ち悪い、どっか行け」 何と失礼な、と私は思いましたが投げられる空き缶やら何やらに当たりたくないのですぐさま失礼。私たちのことを気持ち悪いといいますが、あなたたちの言う害虫を食べているのは誰だと思っているんでしょうか。そしてこの男何より納得がいかないのがゴキブリなんかも視野に入っているはずなのに我関せずなことです。人間とは実に分からないものです。 現在私のいる家に話を戻しましょう。害虫の多い家だということで、ウロウロと徘徊させていただきます。今度は人間の目に触れぬように行動します。人間のためでもあるのに人間から隠れるとはこれ如何に。 そうして家の階段を登って二階へつくと何やら見覚えのある景色でした。なんと、私に対して物を投げる野蛮な男のいる家であったのです。かなり長距離移動したつもりでしたが、元の場所へ戻ってしまうとは情けない。 この家には害虫がいるのでしょうが、あの男がいるのでは堪りません。そうして私が再びこの家を旅立とうとした時に何やら興味深い話を伺いました。 「あいつはまだ部屋にこもってるのか」 一階にいた家主と思われる人間の声でした。 「そうよ、もう何年経ったのかしら。可愛い我が子といえどあそこまで堂々と引きこもられるとねぇ」 どうやら野蛮な男は家主たちの子供であるようです。 「しかし、あいつは趣味には金をかけるんだな。稼ぎもないくせに負担ばかりかけやがって」 「もうあなたもそろそろ定年でしょ。だからさ、出ていってもらえないかそろそろ家族会議しようと思って」 「本当に穀潰しだなあいつは。害虫だよ」 いささか我が子に対して当たりが強すぎると思いましたが、私が興味を惹かれたのは最後の部分。「害虫だよ」と確かにおっしゃいました。なるほど、あの男は害虫でしたか。どうりで野蛮なわけだ。 そう思い私はすぐさま男の部屋へと向かいました。 「うわぁ、またクモだ。あっち行け、あっち行けよ」 二度も追い返すとは本当に失礼な男です。いや、失礼な害虫でしたね。 私はするするとと男の足元へ行きました。男は熱い地面を踏んでいるかのような動きで何とか私から遠ざかろうとします。しかし、足場の方が少ないのではないかと思える部屋では、人間のサイズでじたばたすることはできません。何かのゴミに躓いて転んだ男の体を登っていきます。男は気味悪がって身体を捻りますが、叫ぶ間もなく首元へ齧り付きます。すぐに男は声もないまま息絶えました。これでしばらくの食料には困りません。 私たち益虫は害虫を食べて暮らしています。しかし、人間たちに害を為すから害虫だと思っていましたが、人間も害虫になりうるんですね。やはりこの世で一番おかしいのは人間でございますね。
反復音
ざっくざっくと洞窟を掘り進める。洞窟と呼ぶにはまだ早すぎるぐらいで、壁を削っているという表現の方が適切だと思う。 「田中さん、これは何をしているんですか」 「山本くん、仕事中は私語厳禁だよ」 「すみません。でも何日も何をしているのか分からない仕事をさせられる僕の気持ちにもなってくださいよ。モチベーションが保てないですよ」 私語厳禁と何度注意されたか分からないが、田中さんは私が何を言っても毎度返事をくれる。多分私語厳禁と言わないといけないだけで、大したことはないのだろう。 「若い者はすぐ横文字を使うな。何を言っているのかさっぱり分からん」 田中さんはそう言いながらざっくざっくと壁を削っている。僕が一つ掘り進める頃には二つ掘り進めている。そんなペースだから、僕の掘る場所と田中さんの掘る場所を時々交代しながら掘らないとなかなか綺麗に掘れない。 「やる気のことですよ、やる気が持たないって言ってるんです」 丁寧に説明したつもりだったが、田中さんは「私語厳禁だよ」と言って取り合ってもらえたかった。 一分か二分ぐらいの沈黙が続いた。壁を削る音が規則的に鳴り響く。その音はかなりうるさいのだが、会話がないため静寂に思えた。 「山本くん、場所を交代しよう」 気がつけば人一人分ほどの差が開いていた。私の位置から田中さんを見ることができないほどに。 「何のために壁を掘っているのかという話だが」 場所を入れ替えるときには掘る音が止まる。先ほどの感覚的な静寂とは異なり、真の意味での静寂に包まれる。そしてその静寂を破ったのは意外なことにも田中さんであった。 「それは私にも分からないのだよ。山本くん」 私ではないどこか遠くへ話しかけているようにも思えた。だから私は力無く「はぁ」と呟くだけで、気の利いたことは何一つ言えなかった。 「私たちは一体何をしているのだろうな」 今度は真っ直ぐと私をみて、はっきりと私に田中さんは告げた。それなのに私は何も言えなかった。自分の持っていた疑問を投げ返されただけなのに。それから私たちは一言も言葉を交わさずに作業を進めた。掘削の音がとてもうるさかった。 「田中、山本。交代の時間だ、ご苦労」 あまりにも集中していたため声をかけられて初めて現実に戻った気がした。あれから一度も場所を交代していないため、随分と田中さんだけが前へと進んでしまった。 「また明日もよろしく頼む」 作業の交代を告げにきた名前も知らない上司に一瞥して私たちは帰路についた。事務所の更衣室でも、事務所から続く一本道でも、その先にある分かれ道でも、田中さんとは会話一つなかった。 次の日、田中さんは来なかった。代わりに佐藤という男がやってきた。今日初めてこの仕事に就いたらしく、汚れひとつない作業着をピシッと着ていた。 歳は私より少し下らしいがそれ以上に若く見えた。今までは田中さんに指導を受けていたが、これからは私が指導をしないといけない。 「下からじゃなくて上からやった方がいいよ。そうそう。いいね」 立場的に上に立ったが、田中さんの立場になったわけではないようだ。私語厳禁とは言われていない。なにより、田中さんのように仕事ができるわけではない。 「山本さん、これは何の意味があるんですか」 「私にも分からないんだよ」 そう答えると「そうですか」と興味なさそうに佐藤は呟いた。 それからしばらく沈黙が続いた。田中さんと二人の時は沈黙が嫌いだった。もとより静かな空間は苦手だから。しかし、今は沈黙が心地よい。佐藤が嫌いだとか苦手だとかではなく、初対面であり年下であることに対する気まずさがある。会話をせずにいることが楽だった。 そう考えて初めて田中さんも私と二人では居心地が悪かったのだろうかと思った。そう思ってからは作業が思うように進まなかった。 それでも、私の方が倍ほど早く時々交代しなければ壁に段差ができてしまった。交代する時に声はかけるものの、それ以外一切の会話はなくその日の業務は終了した。 更衣室でも会話はなく、佐藤は驚くほど早く、言葉もなしに帰ってしまった。私は一人事務所に残って名前も知らない上司を待った。 「お疲れ様です。田中さんのことについて少し伺いたくて」 数十分待って上司はやってきた。 「ああ、田中ね。彼辞めたよ。あれ、聞いてない」 その言葉を聞いて私は深く沈んだ。特別田中さんと仲が良いと思っていたわけではないが、一日の何時間も共にする仕事仲間としての絆はあった。そして、田中さんにとってそれが些細なものであったこと、それどころか苦痛であったかもしれないと考え、私は苦しくなった。 「なんかね、新しい仕事見つけたんだって。ああ、あとね、山本に急に辞めることになってすまないってよ。今までありがとうだとよ」 そう言って上司はどこかへ行ってしまった。事務所には私一人だけが残っていた。 ひとまず私が田中さんを追い詰めていたわけではないと知って安堵した。私は思った以上に田中さんを信頼していたのだと思い知らされた。 翌日になって佐藤は少し遅刻してきた。特に謝罪の言葉はなかったが気にしなかった。そのまま流れるように作業へと移行した。今日も沈黙が続いた。 掘削の音が耳障りだった。かつては静寂を産んでいた規則正しい騒音が、今ではただの騒音にしか思えない。 「この仕事、何をしているんですかね」 佐藤が再び同じ問いをした。騒音が紛れるため、話しかけてくれて助かった。 「この仕事は何をしているのだろう」 上を向いて呟いた。佐藤は返事もせずに黙々と作業を進めた。 「一体何の意味があるのだろう」 佐藤でも一人呟くのでもなく、田中さんに聞いてみた。ここにはいない、どこかで仕事をしている田中さんに。あぁ、私は田中さんがたまらなく羨ましい。
空白の選択
男が一冊、また一冊と本を手に取り、表紙と裏表紙をじっくりと眺めていた。棚の本全てを確認したかと思うと、今度は背表紙を凝視し始めた。 「店長、こいつやばくないですか」 コンビニのバックヤードで監視カメラを見ていた店員が店長へ尋ねた。書店で表紙をじっくり確認する人はいないこともないが、コンビニで本を長時間吟味する人はなかなか珍しい。 「いやぁ、でも万引きとしてるわけじゃないからねぇ」 「いや、こいつ昨日もおんなじことしてましたよ。連日平日の昼間からコンビニの本眺めてるやつやばいに決まってるじゃないですか」 店員がどれだけ強く言っても店長は「いやぁ」と煮え切らない態度であった。すると店員は痺れを切らして男の元へと注意に向かった。店長は慌てるふりは見せつつも店員を止めず、寧ろ感謝の表情を見せた。 「お兄さん、ちょっとお兄さん」 店員に呼びかけられた二十代かそこらの男は店員の声に耳を傾けることなく書籍コーナーを凝視している。男は若く凛々しい顔つきをしていた。しかし、無精髭と寝癖だらけの髪がその格好良さを打ち消していた。 「お兄さん」 男は何度目か分からない店員の声掛けにようやく顔を上げた。と言っても顔を向けただけであり、書籍コーナーに寄った前傾姿勢はそのままである。 「申し訳ないけど買わないんだったら帰ってもらっていいですか」 無言で見つめる男に屈することなく店員は力強く注意した。 「あぁ、冷やかしに来たんじゃありません。ただどれを買おうか迷ってしまって。すみませんすみません」 「迷うって、お兄さんもうここのところずっと見ているじゃないですか」 店員は苛立ちを忘れ、呆れながら男を見た。 「いや、違って。いや違わないんですが、その実はですね、友人に普通は本屋だけでなくコンビニなども利用するものだと言われたのですが、私の欲しい本がなく、それで迷ってしまいましたすみません」 店員は苛立ちを完全に忘れ、強く呆れた。そして声をかけたことを深く後悔しているように見えた。 「はぁ、よく分かりませんが。欲しい本が置いていないのにどの本を買うか悩んでいるのですか」 「その通りです。欲しい本がないのに本を買わなければいけないとは大変です」 訳のわからないことを言う男を店員は完全に諦めた。 「よく分かりませんが、他のお客様の迷惑にならないようにお願いします」 そう言って店員が戻ろうとした時、男が店員の袖をがっしりと掴んだ。 特に危険性を感じていなかった店員もいざ身体に触れられるとなると大きく焦った。跳ねるように身体が驚いた。すぐさま腕を振り解き、男の方を睨みつけた。 「いや、あの、違って。すみませんすみません」 男の顔を見て店員は「こちらこそ申し訳ございません」と睨みながら答えた。 依然警戒心の解けない店員を前に男は完全に怯え切ってしまい、何かを言いたそうに口をまごつかせるばかりである。数秒間の不思議な沈黙に耐えられなかったのは店員であった。 「何かお困りですか」 まるで今し方会話が始まったかのような仕切り直しを図った。いささか不器用ではあるが立派な営業スマイルを受け、男は怯えながらも口を開いた。 「コンビニでどの本を買うべきか手伝っていただけませんか」 その問いは店員が今年受けたお願いの中で最も奇妙なものであり、店員を困惑させた。全くの支離滅裂でないことも困惑を深める要因となっていた。 「いや、その、構いませんが具体的に何を」 それまで歯切れの良かった店員が初めて言葉を詰まらせた。店員が持つどこか強気な雰囲気が緩和され男の怯えは弱まった。 「ですから、本を買うのを手伝っていただきたく」 店員は同じセリフの繰り返しを受けて会話のできない人物であることを思い出した。どうすべきか、悩んでいる店員の元へ不安に感じたのか店長がやってきた。 「お客様何かお困りでしょうか」 店長は店員に小声で「大丈夫かい」と心配しながら男と店員の間に入った。 「コンビニで本を買うのを手伝ってほしくて」 「それでしたらこちらのものなどいかがでしょうか」 店長は一部始終を見ていたのか、特別男の問いに戸惑うこともなく売れ筋の漫画を勧めた。 「いやぁ、漫画は読まないんですよね」 穏やかかつ優しい雰囲気の店長を前に男は、店員と会話していたときよりも機嫌よく答えた。 「そうでしたか、失礼いたしました。それではこちらの雑誌などいかがでしょうか」 「いやぁ、雑誌も読まないんですよね」 「それは失礼しました。ではここらへんはいかがでしょうか」 店長は丁寧に文芸書のコーナーを紹介した。 「いやぁ、ここもちょっと」 それもそのはず、何日も眺めて一冊も興味がないのだから何を紹介しても無意味である。 「お客さん、いい加減にしてくださいよ。嫌がらせですか」 とうとう店員が苛立ちを爆発させた。店長が問題になることを焦りながら店員を制止した。しかし、店長が男に謝罪するより前に男が泣き出した。 突然泣き出した男を前に二人は動揺を隠せなかった。しかし、男の泣き方が子供のようにわんわんと喚く泣き方であったため、焦りと共に笑いも込み上げてきた。店内に男以外の客がいなかったことも影響したであろう。 「う、うう。だって、コンビニで本を買わないと。普通は、うっ、コンビニで買うんだから」 一通り泣き、啜るように男はそう呟いた。 「何も無理にコンビニで買わなくても、本屋で買えばいいじゃん。俺もコンビニで買ったことないよ」 店員の雑な返答を店長は止めはしなかった。 「え」 店員の返答を聞くと男はパタリと泣き止んだ。そればかりかニコニコと笑い出した。 「なんだ、コンビニで本を買わない人もいるんですね。良かった良かった。よく考えたら俺本なんか読まないし」 そういって男は嬉しそうに腕を振り、全身を使って退店した。 店員と店長は二人で見つめ合い困惑するばかりであった。 「なんだったんですかね」 「まぁ、可哀想な人だよきっと」 その日以降男は二度と来店することはなかった。
狼に見つめられ
異様な獣臭と人間の勘がその場にとどまらせることを否定した。私が移動し、少しして恐ろしい獣の声がした。初めは野犬かと思ったが、その猛々しい遠吠えが狼であることを示していた。驚嘆したのはその遠吠えの正体が人間だということである。 釣りが唯一の趣味といえる私は、休日を利用して山間部にある川辺をよく訪れる。自慢ではないが、釣りの腕前には自信がある。自信があるのだが、その日はからっきしであった。 日が暮れ、空模様も悪化してきたため、今日は引き上げようと考えたちょうどそのとき、竿が強く引かれた。今日のこれまでが散々だったこともあり、私はより一層意気込んで臨んだ。ついに勝負が決するかというときに、背筋を撫でるような不快感と恐怖が全身を巡った。 その悪寒が気のせいではないことを、私は直観していた。獲物の繋がった糸をすぐに切り、雑に荷物を詰め込み、急いで対岸へと逃げた。 対岸へ移動し、少しした頃に恐怖が姿を現した。細かい種までは分からないが、紛れもなくそれは狼の耳と尾であった。 おそらく一生涯これ以上の衝撃はないだろう。そして二度とこの出来事を忘れることはないだろう。狼の耳と尾をした人間を。 まず、間違いなく人間の身体をしていたことを強調しておきたい。その上で獣のような耳と尻尾が生えていることを想像してもらいたい。私の受けた衝撃が少しは伝わったであろうか。 ただ、それ以上の衝撃を私は受けねばならなかった。これ以上どう衝撃を受けようと思われるかもしれないが、その人間が自分の娘と瓜二つだとしたらどうだろうか。数ヶ月前に妻と共に私の元を去った娘と。 可愛い娘だった。愛する娘を思い出す。 「パパー、むーちゃんの服どっちがいいと思う。ねぇねぇ、どっちがいいかな」 この世のどこを見渡しても間違いなく一番であると断言できる可愛さを持っていた。 「どっちも可愛いなぁ。どっちかというとパパはそっちの方が好きだな」 そう言ってフリフリとしたゴージャスな服を指差した。 「ちょっとあなた、そっちは洗濯大変なんだから余計なこと言わないでちょうだい」 妻はそういうと娘からゴージャスな服を奪い取った。 「むーちゃん、パパのいったほうがいい」 「はいはい、むーちゃんにはこっちの方が似合うからね。それにパパはおしゃれのセンスが全くだから」 茶化すように笑って、そそくさと娘を脱衣所へと連れて行った。 ぼんやりとそんなことを思い出していると、耳と尻尾のついた娘が対岸からこちらを見つめていることに気がついた。やはりどう見てもそれは娘そのものであった。 ゴージャスな服も、妻の勧めた服も着ていない。身一つの娘が耳と尾を生やして私を見つめていた。 娘が川を渡って私の元へ向かってくる。私は動くことができなかった。無論恐怖もあったろう。しかし、恐怖以外の何かが私のことを支配していた。娘の目を見て、瞬きすることすら叶わなかった。 とうとう手の届く範囲まで娘はやってきた。耳が聞こえなくなったのではないかと思えるほどの無音と飛び出してしまいそうな心音が孤独を極めた。 そこまで近づいて、娘の頬が痣になっていることに気がついた。それは間違いなく私が与えた痣である。今でも忘れることはない。 「酒をくれ。酒を」 その日は随分と苛立っていた。ただでさえきつい仕事のスケジュールが部下のミスでさらに圧迫されていた。 「あなた、もう今日は寝て明日にしたら。明日も仕事なんでしょう」 上司の威厳を見せるべく、見事に責任を被った。しかし、そんな男気を誰かが見ているわけでもない。見栄のために責任を背負ったわけではないが、どうにも不満であった。 「うるさい。いいから酒を出せばいいんだ。外で働いてきているか らお前たちが食えていけるんだろ。なぁ、そうだろう。お前まで怒らせないでくれ」 仕事での鬱憤を晴らすために妻を利用している自覚はあった。しかし、そこに罪悪の意識はなかった。 「喧嘩してるの」 寝ているはずだが、私の怒号に目を覚ましたのだろう。目をこすりながら私たちを見つめる娘は愛くるしいぬいぐるみを抱えていた。 「むーちゃん。大丈夫よ、パパはちょっと疲れているだけだから。むーちゃんももう一回寝ようか」 「そうだ、パパ疲れているからちょっとうるさくしちゃったな」 私たち夫婦を繋ぎ止めてくれる最後の砦だと思っていた。 「パパとママ喧嘩しちゃいや」 ストレスを誤魔化すために、すぐさま酒を飲みたかった。 「パパとママは喧嘩してないよ。ほら、むーちゃんも早く寝なさい」 持てる理性を最大限振り絞った。 「やだ、仲直りして」 子どもゆえの我儘であった。それを私も分かっていた。だから妻に当たった。声を荒げ「早くお前がなんとかしろよ」と理不尽に妻に拳を下ろした。 「やだ、ママぶっちゃいや」 泣きながら止めに入る娘をもはや邪魔だとしか思わなかった。 「うるさい」 私は自分の手で最後の砦を壊してしまった。 そこから先はよく覚えていない。妻は娘を連れて出て行ってしまった。当然離婚もしたはずだが、それも覚えていない。いまだに家に帰っても妻と娘がいると錯覚することもある。 ただでさえストレスが溜まっていた私は錯覚と自覚しながらも日常として受け入れた。 肋骨を打つ心音が、風も川の流れも感じさせない無音が、目の前の娘に感覚を戻させた。 妻も娘も嘘偽りなく愛している。しかし、それを私は自ら放棄したのだ。 気がつけば娘はいなかった。ただ一匹の狼が私の前に残っていた。あぁ、この狼は私の心だ。私そのものが私を見つめている。罪の意識が私をその場に留めたのだ。 狼が私に牙を向く。私の倍はある大きな身体が私に襲いかかる。初めからこうなることが分かっていたかのように、私はそれを受け入れた。 なんて愚かなんだろう。気がつくのはいつも過ちを犯してからだ。 風と川の音がよく聞こえる。狼が私を食べる様を風と川が見届ける。先ほどまでの無音が嘘かのようにざわめいている。心音はもう聞こえない。
風の届く場所
周囲には大木と呼べる木々は一つもなく、大小構わずに考えても、一本の木さえなかった。ただ一つの大木だけが聳え立っていた。 大木の周りには季節の花が代わる代わるに咲き乱れた。ちょうどその頃大木の周りには菜の花が溢れんばかりに咲いていた。 菜の花が多く咲いているため黄色のカーペットが敷かれているようだった。その反面、黄色の中に真夏のような深緑の大木があることがとても不可思議に思えた。 一際存在感を放つ大木の近くに一つの村があった。その村は争いに追われ、逃げ込んできた人々の集落であった。 村人たちが逃げてきた時にはすでに大木が存在し、その大木を見た人々は希望の象徴として讃えた。村人たちは大木へ祈りを捧げるようになった。初めは手を合わせるだけだった祈りも、歌い、踊り、次第に祭へと変わっていった。 時がたち、祭は村人たちの年中行事として定着していった。祭は決まって菜の花の咲く時期に行われた。 「ママ、髪梳いてよ」 娘は祭に備えておめかしをしていた。 「はいはい、ちょっと待っててね。もうお姉ちゃんになるんだから自分で梳いてみたらどう」 「やだ、ママにやってもらうんだもん」 母親は身籠った身体を丁寧に持ち上げ、娘のために櫛を取った。 「女の子かなぁ、私女の子がいいな」 「そうねぇ、妹が生まれたらとっても可愛いだろうね」 母娘がたわいもない会話をしながら、祭の身支度をしていたその時であった。何か轟音が鳴った。その音には人の声も混じっており、喧騒の度合いが緊急事態であることを示していた。 「どうしたのかしらね。ちょっと待っててね」 外の景色を見て母は絶句した。それが夕焼けでないことは、空を埋め尽くさんばかりの煙を見てすぐにわかった。 「すぐに行くよ」 「まだ、お支度終わってないよ」 「いいから」 状況の分かっていない娘はボケっとした顔で母に手を引かれるばかりであった。 僅かな携帯食料を持って母と娘は外へ出た。どこへ向かうべきかは誰も教えてはくれなかった。ただ、馬のいななきと空を舞う火の矢と村人の悲鳴が、ここに居てはならないと告げていた。 しかし、妊婦と幼い子二人がすぐに遠くに行けるはずもなくどんどんと悲劇が迫っていた。 「村の外れにある大木へ行くんだよ」 「ママはどうするの」 娘の質問にも答えず、母は叫び声にも近いトーンで急ぐように言った。 母親は娘の行き先を悟られぬよう、敢えて敵襲を待ち、誘導するように大木とは反対の方へ逃げた。 子を宿した身体で逃げ切れるわけもなく、母はあっさりと捕まり、縄で縛られ、村の中央へと集められた。 早くも、敵襲は陣を組んでいた。陣には他の村人も集められていた。そのほとんど全てが女であった。 そのすぐ後、陣からは悲鳴が上がった。ゴミを積むかのように、人の首が陣の角に投げ捨てられた。その山に、母と娘、両方の父の首もあった。 その後、女どもも痛めつけられた。随分と痛めつけられたようであった。何人かの女は殺された。顔立ちの良い母は男の良いおもちゃであったため殺されなかった。母は殺されなかったが、母の尊厳と共に赤子は流産した。もっとも母も死にたいと思ったことは数知れない。 一方娘は大木の根元まで無事に辿り着いていた。小さな小屋ほどあるその幹に娘は腰を下ろした。そしてそこから真っ赤に燃える村を見た。菜の花の香りもこの時ばかりは煙と灰に邪魔をされた。 娘は燃えゆく村を見て呆然とするだけでなく、大木へ祈りを捧げた。大木へ祈ることで何かが変わるのではないかと考えて。なんの力も持たぬ娘は祈るばかりであった。 気がつけば日が落ち、より鮮明に村が燃えていた。娘は大木に寄りかかり何もできないまま寝てしまった。 明る日もその次の日も、陣を組んだ敵襲が大木へ攻めてくることはなかった。だから娘もずっと大木のそばにいた。大木がもたらす露や虫、周囲の菜の花のおかげで娘は餓死することはなかった。 大木周辺の立地にも詳しくなった。どこが一番露の取れる場所なのか、虫がよく集まるところはどこなのか、寝心地の良い場所までも知っていた。 美しい母は、侵略を指揮した権力者に奉仕することになった。初めのうちは抵抗していた母も、それが無駄であると分かってからは従順になった。 穏やかで優しくおしゃべりであった母は以前と比べて口数が減った。日毎に口数が減り、ついには一言も喋らなくなってしまった。 母が喋らなくなり数年が経った。何人かの女は歳をとり、殺されてしまった。もはや殺してくれた方が楽にも思えたが、母にとって娘のことが気がかりであった。着いたかも分からぬが、大木を見て娘のことを思い出していた。そして次第に、大木を見て手を合わせるようになった。道具のような辛く苦しい扱いと、どこかで生きているはずの娘。この二つが母の命を土俵際でせめぎ合っていた。 あの頃と比べて家屋や生活は大きく変わってしまった。それでもまるで変わることのない雄大なあの大木だけが、母の心のオアシスであった。 数年が経ち、母と同様娘も毎日大木へ祈りを捧げていた。最も、母と異なり物理的に大木に触れることのできる娘はより長く、より強く大木に祈りを捧げた。 初めのうちは訳も分からず祈っていた。次第に村の復興を考え祈った。数年経ち何も変わらないと分かっていても、祈ることをやめたらそれで終わりな気がして、娘は今日も祈りを続けていた。 だから、侵略者が大荷物を抱えてゾロゾロとどこかへ帰ったときにはとうとう祈りが届いたのかと、娘は歓喜した。 実際にはお国の中央が火の海であり、戦力の招集であった。権力者の都合により、平和を得たがそんな状況は知る由もなかった。 娘は歓喜して村へ降りた。僅かな生き残りの村人と生を喜び語り合った。これ以上ないほど抱きしめあった。何人もの村人と涙を流した。人生で間違いなく最高潮であった。だからこそ、母を見たときに娘はひどく衝撃を受けた。 母を見つけたときは生きていたことに心から喜びを感じた。虚空を眺める母をみて、それまでの全身が震えるほどの喜びが止まり、冷や汗をかいた。そこに以前の優しさは感じなかった。 「ママ、ママなの。ママ、ママ、ママ」 娘は太くなった身体で母の元へ駆け寄った。娘を見つけ、それまで銅像のように細く動かなかった母が涙した。母は声にならない声を呻き声のようにあげていた。 娘は母を抱きしめた。母もまた娘との再会を静かに喜んだ。祈りを続けた二人は、確かに、生きて抱きしめあった。 その日は風が強く、村まで菜の花の香りが届いた。
歩くこと
必死に、意味もなく、走っていた頃が私にもあったなと、すれ違った小学生を見て思い出していた。いつからだろうか、全力で走り回ることをしなくなったのは。中学生の頃はまだ走っていた気がする。高校生でもたまには。 そんなことを考えているうちに駅に着いた。まだ、週の半分も過ぎていないことに悲しみと虚しさを覚えた。 反対方面へ向かう電車を見て、もう会社のことなど忘れてこの電車に乗ってしまおうかと考えた。当然考えただけで行動には移さない。 定刻通りの電車、過密というほどではない車両に乗り、吊り革を掴んだ。窓から見えるビルを見て心が傷んだ。これも遥か昔であればバベルの塔として神の怒りを買ったに違いない。それが今では私の怒りを買っているという。神様から私にでは随分スケールダウンだなと可笑しく感じた。 私は神のようにバベルの塔に罪を与えることもできないし、仮に出来たとしてもしないだろう。仕事が本当になくなってしまっては困る。 くだらないことを考えているうちに憎き我らのバベルの塔に到着した。 「おはようございます」 私より早めに着いていた人たちに挨拶をした。少し遅くきている私ですら朝早いと感じるというのに、それより早い人々は実に素晴らしいことである。あの小学生たちも苦痛を感じていないのだろうか。 「おはよう。実はな、少し困ったことになってな。来て早々あれなんだが、ちょっといいか」 係長が困った顔をして私のことを呼んだ。その困り顔に悲しみが見えなかったため、私は大したトラブルではないだろうと感じていた。 実際にそれは大したトラブルではなかった。取引先の担当者が締め切りを勘違いしており、期日までに納品されないとのことだった。普通ならば大問題であるのだが、その件に関しては社内でも後回しで問題ないとされていたからだ。 後回しにはされたのだが、その担当者が私だったため、先方の謝罪の相手をしてくれとのことだった。 「いやぁ、参りましたけど、まだこの件で良かったですね。このぐらいの遅延ならほとんど問題もないですし」 係長もさほど焦っておらず、取引先の担当者が来るのを待った。昼食を終え、午後の仕事が始まって少ししたぐらいに担当者はやってきた。 メールで伝えられた通りの時間にやってきた。電車の時間もそうで、日本人は時間に正確だなと感じた。 担当者はこれでもかというほど頭を下げた。付き添いの上司も担当者に怒りを覚えつつ、平謝りであった。 必死に謝罪をする担当者に、この件の期日ならギリギリ大丈夫だからお気になさらず、と前提した上で今後気をつけるようにと牽制した。 こちらはほとんど気にしていなくとも、相手は必死に謝らなければならず、こちらもまた舐められては困るため軽く注意しなければならない。あの小学生たちならばごめんといいよのワンラリーで解決するのだろうか。 その日の夕方、喫煙所で係長に会った。 「お疲れ様です」 「おぉ、お疲れ。いやぁ、さっきはわざわざ悪いね」 係長はなんでもない風に軽くそう言った。 「こちらはほとんど迷惑を受けていないのに、あそこまで平謝りされると逆に気まずいですね」 「まぁ、納品期日間違えるって普通ならやべえからなぁ」 「そうなんですけど、こっちも一応注意しないといけないのしんどいですよ」 喫煙所では酒が入った時のような、フランクな会話ができる。 「それはお前、そうだろう。大人なんだからミスはミスで責任取らないと。こっちも今回は良かっただけで違う件でミスられたらたまんねぇよ」 係長はミスに対して責任の取れる立派な大人なのだろう。きっともう死ぬまで全力疾走することはないのではないだろうか。 「まぁそうですよね。上司の川野さんもすごい謝ってましたもんね。自分何にも悪くなくても謝らなきゃならないの大変ですね」 「それが大人だよ。まぁ面倒くさいけどな」 係長はそう言ってタバコの火を消して出て行ってしまった。 一人でタバコを深く吸って物思いに耽った。それは大人なのだからミスの責任は取るべきだし、再発しないように注意するべきなのだろう。でも本当は子供のようにごめんといいよで済ませたい。本当に大事なこと以外はどうでも良くなればいいのにと思った。 帰りの電車でまたバベルの塔を眺めていた。茜色に染まった空が炎のように見えて、とうとう神罰が降ったかと、くだらないことを考えいた。 もし、あの担当者が私ではなく神様に対してミスをしたとしたら、どんな罰を受けたのだろうか。大した問題ではないから許されるのか、それとも燃やされてしまうのか。 よく考えると、大きな塔を建てて神に近づき傲慢だとして言語をバラバラにしてしまうとは、神様の方がよほど傲慢に思える。神様は随分余裕がないのだろうな。余裕がないからお怒りになるんだ。 帰り道に遊び帰りか何かの小学生を見かけた。電柱の間を行ったり来たりしながら鬼ごっこをしていた。公園で遊べば良いのにとも思ったが、最近の公園は規制が多くて面倒らしい。 子供達が騒ぐぐらい良いではないかと思うが、余裕がないのだろう。遊具も怪我に繋がるため取り壊しになっているらしい。怪我の責任を取りたくないのだろう。遊具を設置する人々は子供なのだろうか。 なんとなく、少し遠回りをして公園に寄った。本当に遊具が少なかった。私が子供の頃にはいくつもあった気がする。隅のベンチに腰を下ろし、一息ついた。 ゾウの形をした小さな滑り台が目に入った。あまりに小さく、小学生ですら滑れないのではないかと思えた。園児限定の滑り台だとすれば、実に馬鹿馬鹿しい。 ふと、滑り台を逆に登って怪我をしたことを思い出した。足を滑らせ頭から落ちてしまったのだ。重症ではなかったがなかなかに痛かった。 そう考えると園児限定の滑り台も怪我の心配が少なくて良いのかもしれない。 「俺が使う」 「違う、俺が最初に使うの」 「なんで、なんで、俺が使う」 小学生になったかどうかぐらいの子供達がボールの取り合いをしていた。 一緒に使えば良いのにと思ったが、子供は随分余裕がないのだな。神様と同じだ。余裕がないから短絡的になる。 そういう意味では複雑で形式的な行動も余裕の証なのかもしれない。 小さなゾウに別れを告げ、家へと帰った。責任を取れないから遊具を撤去したのではなく、怪我をしないように遊具を撤去した。面倒なだけの形式ではなく、問題を少なくするために短絡的ではなくなった。 少し自分に余裕がなかったのかもしれないと思った。面倒でも、謙虚に余裕を持って過ごそうと思った。謙虚でないと私の勤めるバベルの塔がなくなってしまうかもしれない。
草花
雑草という名の草はない、という言葉をどこかの誰かが残していたなと、ぼんやりと、それでいて力強く、脳内に浮かんだ。雑草という草がないのならば、今私が刈っているこの草花の名前は何なのだろうか。 桜も散り、日差しが強く、しかし夏と呼ぶには早すぎる季節だった。祝日の続く連休を活かして、久しぶりに帰省した。都会のビル群に慣れた人間にとっては、田舎の景色は新鮮なものである。斯くいう私も、この土地で生まれこの土地で育ったはずなのだが、どうにも感動を覚えずにはいられなかった。 私の実家はそれなりに広く、小さな公園ぐらいの庭があった。その庭にはリビングから連なるウッドデッキがあり、そこでよくバーベキューなどをしたものである。 実家は坂の上にあり、ウッドデッキから一望できる景色はなかなかのものであった。急坂の多い土地柄、海に面しているにもかかわらず、山ばかりであった。ウッドデッキからの景色も左には煌めく海が、右には聳え立つ山が、という具合だった。 「ちょっとあんた、ぐうたらしてないで、少しは運動したらどうなんだい」 リビングで横になり、動画を見るか、友人に返信をするか、ご飯を食べるか、という怠惰な生活を送っている私に、見かねた母がそう言った。 「勘弁してくれよ。ようやく仕事から解放されてゆっくりできるんだから」 一応上体だけ起こして、話を聞く素振りをした。 「そんなこと言ったら私は一年三百六十五日休みなしだよ。いいから働く働く。お父さんと二人で庭の草刈りをしておくれ」 今まで何も言われなかったのに、急に怠惰を指摘した訳は、草刈りの依頼であった。我が家の庭は前述した通り、広い。草刈りといってもそう簡単ではない。人の背丈ほどもある草刈機を担いで一時間や二時間かけて行うのである。 携帯電話に連絡が入っていないことを確認し、汚れても良い服に着替えた。俺は憂鬱な気持ちを押し込めて、外へ出た。草刈機にガソリンを入れながら昔のことを思い出した。実家暮らしだった頃は冬場以外の毎月していたことが、はるか昔のことのように思われた。 父が支度をしているうちにひと足先に庭へ出た。夏でも寒いオフィス勤の人間にとって、肌が焼けるほど熱い太陽はかなりきつかった。帽子をより深く被り、太陽光を遮った。 草刈機のエンジンをかけようと、片膝立ちし、地面に近づいた時、てんとう虫がいるのを見かけた。職場付近ではほとんど虫を見かけることはないため、何でもないてんとう虫を珍しく感じた。 私が草刈機のエンジンをかけると、草刈機の轟音に驚き、赤い羽を広げてどこかへ行ってしまった。それが私に都会でのことを思い起こさせた。私はてんとう虫に友人を重ねた。 入社してから最初にできた友人だった。彼は同期であったが、大学受験で浪人していたため、年は一つ上であった。同じ部署で最も気の許せる相手であり、上司の愚痴を共によくこぼしたものである。彼は私と違って虫が嫌いであった。このてんとう虫にも腰を抜かしたに違いない。 そんな彼が突然仕事を辞めた。理由はまだ聞けていないが、パワハラがあったのではないかというのがもっぱらの噂である。 てんとう虫のようにどこかへ飛んで行ってしまった。それ以来、彼とは連絡を取れていない。どうにも気まずく、連絡することができないのだ。 私は、憂鬱な気持ち引きずって、草刈機を担いだ。田舎に似つかわしくない機械音を轟かせながら、草を規則的に刈り始めた。 草を刈り始めると、どこにそんなにいたのかというほどの昆虫が飛び回り始めた。草刈機の刃から逃げるように、必死に動き回っている。虫は嫌いじゃないが、いちいち気を遣っていてはいつまでも草刈りが終わらない。 その時刃先から伝わる違和感と、何かが弾ける音がした。バッタが死んでいた。私は草刈機を止めて、罪悪感を抱いた。 自分たちの都合で、草を刈り、その過程で理不尽に命を奪われたバッタを見て、私はまた友人を思い出した。 「ちょっと休憩取らないと熱中症になるわよ。ここ、ここにお茶置いといたから」 母がウッドデッキの隅にお茶を持ってきた。 「ありがとう、ちょうど喉が渇いていたんだ」 私はお茶を飲みながら、草の刈られた箇所を眺めた。飛び回る虫たちを見ていた。そうだ、そうして私の手が止まっているうちにそこから逃げるんだ。 そんなことを思いながらお茶を飲んだ。お茶をゆっくりと飲み干して、コップを置いた時に、干からびて死んでいるミミズを見つけた。 前日は雨が降っていた。雨が降るとミミズは地中で苦しくなり、地表へ出てくるらしい。しかし、外へ出たは良いものの、今度は太陽光に焼かれて死んでしまうという。苦しみの果てに別の苦しみがあるとはなんて悲しいのだろうか。 草刈りを再開し、ここから父も合流し、気がつけば、あっという間に終わっていた。父はひと足先にシャワーを浴びに中へ戻った。私はなんとなくウッドデッキに座りながら庭を眺めていた。 刈る前と後では驚くほど違っていた。私は悲しみとも呼べない虚しさを抱えて空を仰いだ。空を見上げて、その鳥の数に驚いた。こんなにも空を飛んでいたのだろうか。 一羽の鳥が私の座っている場所とは対角のウッドデッキの隅に止まった。その鳥は虫を咥えていた。そうか、私たちが草を刈ったことで、絶好の餌場となったのか。 鳥からしてみれば、餌場を作ってくれた恩人であろう。虫からすれば、地獄を生み出した悪魔であろう。はたまた、そのどちらも間違っているかもしれない。私の視点で物事を語っても、虫や鳥の本当の気持ちは見えてこない。 私は何を思い上がっていたのだろうか。鳥も、虫も、干からびたミミズだって、本当の気持ちは分からないではないか。それなのに、彼をそこに当てはめて気が滅入るとは、勝手にも程がある。 私の刈ったあの草花の名前はなんだったのであろうか。そんなことを思いながら、私は急いで家の中に戻り、シャワーも浴びずに携帯電話を手に取った。 「今度飲みに行かないか。お前の空いている日ならいつでも構わないから」 短い文章を打った。話してみようと思った。彼は鳥でも虫でもないのだから。