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25 件の小説

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色々書いています。

山道

 人生とは山道に似ている。登っても登っても得られるものはなく、山頂に着いたかと思えば下るばかりである。しかし、振り返ってみればあれほど良い思い出はない。  人より狸が多い裏山で少年は藪を踏み分けてゆく。鋭い葉で手先が切れることも厭わず、まるで何かが待っているとでもいうかのように、目を光らせて進んでゆく。  祖父の家を背に、帰路の目印もない道で何かを目指しながら歩いていた。少年の小さな足でその背丈ほどもある段差をよじ登り、湿った落ち葉と露を含んだ陰り木で強調された暗がりを進んだ。  少年はとうとう段差を登り切り、喜びを噛み締めながら藪の壁を打ち砕いた。しかし、そこには新たな山道が続いていた。少年にとっては大きな、山にとっては小さな丘は微かな木漏れ日を感じることができた。  登ることを諦め祖父の元へ帰ろうとしたその時、落ち葉に隠されたぬかるみが少年をあらぬ方向へ突いた。手首と腰の痺れるような痛みで少年は顔を顰めた。痛みを堪え立ち上がったところでより強く顔を顰めた。背丈の倍ほどはある段差へ落とされていた。  それからは少年にとっての地獄であった。風は心身を冷やし、泥が全身を見窄らしくし、泣き叫び喉は掠れていた。段差に手をかけ足をかけ脱出を図るが、それを嘲笑うかのように泥まみれの段差はよく滑る。やがて雨が降り出し、少年の涙までも飲み込んでしまった。  少年は立つことをやめて地面へ座り込んでしまった。泥まみれの手で涙を拭い、頬についた泥を雨が流した。少年は意を決したように段差から距離を取り、そのまま勢いよく助走を始めた。しかし、ぬかるみに足を取られ、段差へ到達することなくそのまま地面へ倒れ込んだ。寒さは極限に達し、震える身体を起こすことができなかった。  そのとき、微かに聞こえる祖父の声に少年の硬直した身体が反応した。掠れた声で助けを求めた。少年の声に呼応するように雨も強まった。雨にかき消されぬように少年はより声を強めた。溢れそうな涙を息と共に飲み込んだ。  ちょうどそのとき段差の上から祖父が顔を覗かせた。少年は雨よりも大粒の涙を流し、祖父は暗がりを照らすほどの笑顔であった。歳を感じさせぬ動きで段差から飛び降り少年を肩に担いだ。ようやく段差から脱した少年は祖父に抱きつき、家へ着くまで袖を離さなかった。  家へ着き、暖かなシャワーで少年は心身が温まるのを感じていた。ゴワゴワとしたタオルで全身の濡れを拭き、祖父にドライヤーをかけてもらっている。泥ひとつない服へ着替え、居間で大福を頬張った。  空腹ゆえに普段よりも素早く大福を掴む少年を見て祖父はニコニコとしてお茶を啜っている。少年は苦いと言いながらも祖父のお茶を頬を緩めながら啜っている。その日、少年と祖父は同じ布団で寝た。  もう随分と昔、それでいて忘れることのできない思い出を抱えて高速自動車道を走る。久しく訪れる祖父の顔は記憶の中のままで、まだ自分の頭を撫でてくれるような気がしていた。  道中で立ち寄ることもなく、心なしかいつもより速度を出して向かっていた。真っ白な外国車を、土と木々の香る祖父の庭に停めた。簡単な手土産を持ち、あの時と変わらない玄関を開けた。  米寿になった祖父は、皺が増え、髪は白く薄く、少し痩せ細っていた。それでも照らしてくれる笑顔は変わりなく、胸を撫で下ろした。  居間では何人かの親戚が忙しなく言葉を交わしていた。特に誰と話すでもなく、角の方で時間を潰していた。可能な限り静かに呼吸し、下を向いて目の合わぬようにする。  やがて夜になり、忙しない親戚一同は去り際も忙しなかった。台風一過ともいうべき親戚は静寂を残し、その静寂に祖父と自分だけが残っていた。この時ようやく祖父と面を向かって話すことができた。  与太話から真剣な相談まで、話したいことはいくらでもあった。しかし、むず痒く、小っ恥ずかしく、何も言えずに固まってしまった。 「久しぶりだもんなぁ」  雰囲気の重さを汲み取った祖父は優しく表情緩め、お茶を出してくれた。 「まぁ、うん」 「そうだな」  お茶を飲むことで時間を消費している自覚はあるが、まさか何も話す前に飲み切ってしまうとは思わなかった。 「なんだ、喉が渇いていたのか」 「いや、そういうわけじゃないけど、うん」 「もう苦い苦いって、ゆっくり飲むわけじゃないんだもんな」  そういって笑いながらも哀しそうな顔をした祖父をみて俯いてしまった。  それから二人の間にはほとんど何の会話もなかった。ときどき祖父に話しかけられて相槌を打つだけである。  祖父はその老体を感じさせぬ元気さがあるが、就寝時間は老人らしかった。何も言っていなかったが、祖父は無言で布団を二人分敷いてくれた。  部屋は暗くなり、とうとう沈黙のみになった。雨戸を打つ夜雨が適度に睡眠を誘ったのか、祖父はすぐに小さないびきを鳴らした。  どうにも眠れず、軒先でたばこに火をつけた。その頃には雨は上がっており、虫たちの演奏を聴くこともできた。たばこの火と液晶の灯りが周囲を静かに照らした。  部屋に戻ってもやはり眠気は来なかった。空虚な画面をぼんやりと眺めているうちに夜明け前になってしまった。もう一度たばこを吸いに外へ出ると、ふと裏山のことが気になった。  裏山への入り口は大量の落ち葉と藪が支配していた。何を思うでもなく、藪を掻き分けて山道を登り始めた。スマホのライトで片手を失い、濡れた葉で全身が湿り、ぬかるみの道を進んでゆく。  何も分からぬ道なき道を、微かな記憶を頼りに、木々の隙間を縫ってゆく。そうして、腰ほどまであり見覚えのある段差に出会った。水を存分に含んだ土の香りと鋭い葉の切り傷が少年時代を思い起こさせた。  全身に泥がつくことも厭わず、地面を這うように登った。藪の壁を越えて踊り場のような小さな丘へ出た。そこまできて、泥と寒さに包まれた体はようやく眠気を迎えた。  もう帰ろうと思って、ぬかるみに足を取られ、溝に落ちてしまった。腰に手を当てゆっくりと立ち上がる。小さな欠伸を噛み殺し、自分の背丈より少し小さな段差に触れる。段差の上部に見える、足跡をなぞる。泥の足跡は柔らかく、形を保つことが困難に思えた。スマホのライトを消し、両手でその足跡を撫でた。  風が山を静かに動かす。虫たちの歌は合唱となり、土の匂いが強まる。冷たさと暖かさの両方を含んだ風が頬についた泥を乾かす。  人生は山道に似ている。登りも下りも、歩いている時間でさえも無意味に思える。ただ自分の歩いてきた時間を認めることで、何かが解かれる気がしていた。  雨上がりの夜明け前は暗い。風に揺れる濡れた落ち葉がぬかるみの上で踊っていた。

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潜った刃

 生暖かい規則的な風を肌に受ける。夏が過ぎても暑い異常な気温を団扇で扇ぎながら凌ぐ。夏場の弁当箱のような湿気と熱が支配した部屋だった。  そろそろエアコン工事をしようかと考えるが、まだ我慢できるだろうと欲を抑える。去年もそんなことを考えていたと思い出して笑った。  そう考え、エアコンをつけることを異常に嫌っていた母親を思い出した。設置しているのにも関わらず、ただの一度としてエアコンをつけることはなく、それでいて週に一度以上は必ずエアコン掃除をする粗雑な母のことを。消費期限の切れた食材を躊躇いもなく使用し、ほとんど食べることのできぬ弁当箱を懐かしむ。潔癖症でありながら杜撰な人であった。  小さなカバンにタバコとライター、それと財布に小刀だけを持って、冷気を求めてカフェに向かった。道端に占い師が座っているのを見かけた。占い師はいかにもな紫色の外套を着て、水晶玉を抱えていた。整理整頓された街中でその占い師は異質であり、それでいてどこか納得のいく不思議な存在であった。まるで元からそこにいたかのような。  この気温で外套を覆っていては暑くてたまらないだろうと思い眺めていたことをすぐに後悔した。言い訳の余地もなく、完全に目が合ってしまい、あ、と小さく声を漏らした。すぐに目を逸らしてどこかへ立ち去ってしまえばよかったが、無言の中に流れる気まずさから膝の関節が固定され、不自然に立ち止まった。そのとき、口元を黒いスカーフで覆い隠していた占い師の目元が笑っていたことに気がつき妙な寒気を覚えた。 「こっちにきてみぃ」  老爺とも老婆ともとれぬ、とにかく老いた声で占い師は手招きをした。  近づいてみると、座席と水晶置きを兼ねている台はなんとも見窄らしく、隅の方が擦れていた。加えて占い師の外套は、汚くはないもののとても清潔とは言い難かった。それに独特な香水の匂いがきつかった。 「お兄さん、昼間からどうしたんだい」  占い師は口元のスカーフを外し、黄色い歯を見せながらそう問いかけた。  目尻の皺や深爪、鼻先のイボなどがあまりにもイメージそのままであったことがかえって恐怖を増した。  手招きされていたにも関わらず、話しかけられたことで少し取り乱して動揺した。それを見て占い師はにちゃりと笑いながら頷いた。 「あの人に会いに行くのだろう。理不尽かつひとりよがりの理由で、どうするんだい」  この暑さだというのに汗ひとつかいていない占い師は喉を鳴らすみたいに笑っていた。反対に先ほどまで苦笑を浮かべていたはずの自分は顔が凍っているのではないかと思えた。背中を流れる汗が心までも冷やした。 「いや、その、失礼ですよ」  勇気を振り絞って、占い師へ反抗した。両の手を腰に添え、震える体をなんとか押さえつけた。 「いいや、お前は実行するだろう。カフェなんか行かずに母を尋ねるんだろ」  非対称に吊り上がった口角から、唾を飛ばしながら、つらつらと言葉が流れる。 「いや、そんなこと」  何かを喋らなければならないと思い、とにかく口を開ける。しかし、まるで脳の働いていない現状ではそれ以上のことはできなかった。 「怖いだろう。その鞄の中の小刀が警察にでも見つかれば、そうさ、お前は言い逃れすることはできない」  一縷の希望であった、占い師の適当な虚言の可能性を、たった今破られた。  外からは見えないはずだと鞄を見た。小刀の所在を確かめるように、やや硬めの生地で作られた鞄を優しく握った。小刀がそこにあることで一呼吸ついた。それと同時に小刀を持つ手が震えた。  小刀を持って、腐敗した食べ物の匂いを思い出した。異常なまでに綺麗な家具の部屋が脳裏に浮かんだ。占い師の黄色い歯が母によく似ているなと感じた。小汚く、それでいて極端に不潔でもない占い師は強く母を思い起こさせた。  占い師は優しく笑いながら蓋の壊れている弁当箱を取り出した。それは確かに学生時代に使っていた期限切れの食材が詰まった弁当箱であった。周囲まで臭うわけではないが、顔を近づけると確かに感じる酢酸臭もまた母を思い起こさせた。 「ほれ」  占い師は弁当箱の中の唐揚げを食べるように促してくる。それは母が使っていた長期間放置された冷凍食品の唐揚げに良く似ていた。  もちろん全てが食べられない食材ではないが、この唐揚げだけは食べることができず、必ずどこかへ捨てていた。  占い師は目を逸らすこともなく、食べるように促してくる。何か話すことも逃げることも許されないと感じ、暑さも忘れて震えた。指先は硬直し、歯は震え、不快な音が空間を支配した。  占い師は箸で唐揚げを掴んで口元まで寄せた。占い師は目尻の皺を寄せ、太く綺麗な涙を流していた。唐揚げの酢酸臭を感じて、体中の毛穴が広がる感覚を覚えた。止まる気配のない汗が混乱を加速させた。涙を見て、同情とも取れぬなんとも言えない感情が食べることへのためらいを打ち消した。涙、臭い、食感、記憶の母。おかしなものだけが自分を支配していた。そのまま地面へ倒れ込んだ。  目が覚め、自室にいた。寝起きそのままの格好であった。占い師などいなかった。しかし、口の中に残った不快な感情。異常なまでの汗。これらが恐怖を駆り立てた。  ふと机を見ると、そこには弁当箱が置いてあった。震えながらも好奇心を抱き、弁当箱を手に取った。弾けそうな血管を鎮めようと深呼吸をした。唾を飲み込み、弁当箱を開いた。  弁当箱の中には小刀と唐揚げが入っていた。小刀を手に持ちその刃先を見つめながら占い師の言葉をぼんやりと思い出していた。手を振るわせながらナイフを唐揚げに突き刺した。酢酸臭と鉄の臭いとが混ざり合い、鼻腔を刺激した。その臭いは唐揚げを捨て忘れた日のことを思い起こさせた。  汚れることも気にせず、手掴みで唐揚げを押し込まれた日のことを。母の手からする独特な香水の匂い。頬を伝う母の涙。目に焼きついて離れることのない景色が、目の前にある唐揚げを口へ運ばせた。健康的ではない見た目と香り、何より食感の柔らかさが不快感を強めた。  唐揚げの汚れだけがついた小刀を見つめていた。鉄と酸の臭いであの香水の匂いを消してくれるのではないかと思った。風邪をひいたばかりのような高揚感があった。小刀をぼんやりと見つめ、そのまま勢いにまかせた。  季節が過ぎてもまだ暑い日が続いている。部屋はいまだ蒸し暑く、きつい香水の匂いと血の匂いが漂っていた。

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輝きののちに

 僕がこの街に残っている理由はよく分からないが、君がこの街を出ていった理由はよく分かる。もしも、今でも煉瓦造りの建物で溢れかえっていたのならば君はこの街にいただろうし、僕も君を離さなかっただろう。  冬が始まる前の冷たく乾いた風が心を冷やし、昔のことをぼんやりと思い起こさせた。だからかは分からないが、街を象徴する高層ビルを遠目に眺め、街の変化を噛み締めていた。  君が好きだった黒くて少しお辞儀しているように見える街灯は、白くてシンプルな未来を感じさせるデザインに変わっている。君の愛した街路樹は少し痩せ細ってピカピカと光るようになった。公園で遊ぶ子どもに手を振る君を見ることはとても叶わないし、尖ったベンチでは横になりながら星を見ることもできない。  それでも僕はこの街が好きだし、変わっていくことは悪いことばかりじゃない。不便をいつでも愛せるわけじゃないから、日に日に機能性を増していくこの街を否定することはできない。それに、変わっていくものばかりでもない。  僕はあまり好きではなかったが、君が何度も連れてきてくれたカフェに入った。コーヒーの種類なんか聞いてもよく分からなくて、僕はいつもおすすめのブレンドコーヒーを飲んでいた。君がいなくなってからもブレンドコーヒーを飲んでいた。だから、メニューに嬉々として貼られているリニューアルのシールが憎かった。  仕方がなく、リニューアルされたブレンドコーヒーを頼んだ。僕はいつもそれだけだったけれど、何かに縋るようにいつも君が食べていたシフォンケーキも頼んだ。  君を思い出すために、シフォンケーキを一口食べた。思ったよりも甘く、口の中が濃くなっていく感覚に溺れた。残った甘みを味わいながらコーヒーを飲んだ。 「美味しい」  思わず呟くほどだった。ほとんど毎日ブレンドコーヒーを飲んでいたのだから、その変化には誰よりも詳しい自信がある。そして、リニューアルされたブレンドコーヒーは良くシフォンケーキに合い、互いに心を喜ばせた。  ああ、君にもこのリニューアルされたコーヒーを飲ませたいなと考えていた。  そこまで考えて、僕がこの街にいる理由が少しだけわかった気がした。何を見ても、何を食べても、君に伝えたい。君を感じていたい。君を思い出すための理由を、僕はこの街に探しているのかもしれない。  君は新しいブレンドコーヒーを嫌がるかもしれないけど、君の好きだったシフォンケーキとの相性は抜群だと伝えたい。  帰りに、子供のいない公園に寄った。寝転ぶことのできない突起付きのベンチに座った。冷たい風がどこか心地よく、君の愛した昔のこの街の気配を思わせた。  辺りはもう暗く、冷たい空気をシンプルな街灯が煌々と照らしていた。 「あ」  なんとなく見上げた夜空に流れ星が見えた。願いを唱えるまもなく流れ星は消えていった。流れ星はその瞬間が最も美しいのだと君は言った。何を当たり前のことをと気にしていなかったが、その通りだなと思った。  刹那が美しいからこそ、余韻の切なさが尾を引く。僕はこの余韻も好きだった。君はかつての美しかった街の、その瞬間だけを愛した。だからこそ、余韻を味わうことはせずにどこかの街で輝きを感じているのだろう。  その時公園の隅に寝そべったカップルがいることに気がつき、少し気まずく感じて帰りたくなった。カップルは草の上で汚れることも気にせずに寝そべっていた。君も汚れることを気にしないタイプでよく僕を困らせていたことを思い出した。  もう一回流れないかな、と彼女が嬉しそうな声で彼氏に抱きついていた。もう一度流れれば君も見に戻ってくるだろうか。  彼氏は面倒くさそうにはぁとか呟いていた。彼女が不貞腐れている姿を見て、僕も君にとった態度を懐かしく感じていた。 「ばんばん流星きたら嬉しくないだろう。いつくるか分からないから楽しみなんだよ」  確かに、とかすごい、とか。彼女は踊るかのように喜びながら彼氏に寄り添った。僕も彼氏に感謝を述べたいぐらい感動を受けた。  確かに、いつまでも過去のままではつまらないかもしれない。輝きを放ったままの街に君が残る保証は何もないのに、僕は君がいた街の輝きだけが君だと感じていた。  突起付きのベンチには寝そべれないが、草のベッドの上ではできる。君といた時より少し低い位置から星空を眺めた。星はあまり見えなかったが、それでも見えないことはなかった。  君がこの街を出ていくのを止める方法は分からないが、僕がこの街にいる理由は十分に見つかった。それで良く、それが良かった。そんなことを思いながら顔を上げて家路についた。

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語りの終わりに

 彼が何をしたというのだろうか。品行方正で清廉潔白な彼がどうしてこのような悲劇に見舞われるのか。その一幕をお話ししましょう。  安い作りの木樽ジョッキに注がれた薄い葡萄酒を飲みながら旅人の話に耳を傾けた。各地を巡っては居酒屋で口伝の伝承を話す旅人、その大半は物乞いと変わらない。口から出まかせに物語を作り上げるその腕は見事なものだが、教訓めいたことを言い出すと一気に興が覚める。 「元より南方に出自を持つ貴族であったのですが、貧相な土地柄からついには我々のような庶民よりも苦しい生活を強いられることとなります」  席を立とうとした時にどうにも気になる話を旅人が話し出したため、葡萄酒のおかわりと名産だというニシンの酢漬けを注文した。 「しかしは没落貴族といっても貴族ですから、持ち得る限りの関係性を活かし、親戚の親戚の親戚といった具合になんとか面倒を見てくれる人を見つけるのです」  ニシンの酢漬けを食べ、やはり北の方が飯はうまいな、と感心しながら旅人の話の誇張ぶりを笑った。そこまでいったら最早親戚かも怪しいだろうが、その誇張ぶりが旅人の話の魅力でもあった。 「しかしこれまた貴族であったことが仇となり、まるで居候とは思えぬ立ち振る舞いを取るのです。いきなり奴隷のようになれとは難しいかもしれませんが、ここで召使いぐらいの振る舞いであれば、彼に悲劇が訪れることはなかったのかもしれません」  なるほど旅人の言う通りである。実のところ、南方の貴族でそこから没落していったと言う特徴が完全に当てはまっており、胸の内をくすぐられるような好奇心が働いていた。最も自分ではそこまで大袈裟な立ち振る舞いだとは思わないが、伝承者というのは往々にして誇張して話すものである。 「物語が動き出すのはここからで、居候先の王も決して裕福ではなかったのです。その土地の民のことを一番に考えていたものですから、彼らの血税で浮浪者ともいえる没落貴族を匿ってて良いものか随分と悩みました」  先ほどまで並々に注がれた葡萄酒を溢しながらも木樽ジョッキを掲げながら話していた旅人も、不幸が訪れる転換期には席につき、悲しそうな表情をしていた。しかし、その悲しそうな顔さえ大袈裟なものだからなんだか笑えてきた。 「そして」  静まったかと思えば、旅人はジョッキを机に置き、その机を両の手で、ばあん、と勢いよく叩きつけた。 「とうとう、放浪者となんら変わりのない没落貴族は居候先から追い出されることとなりました。しかし、良いことはしていないが悪いこともしていない彼は必死に反抗しました」  自分も同じような行いをしたことがあるな、と思い返し、どこにも似たような人間はいるのだと感じた。 「しかし、王はその態度に強い怒りを示しました。情けで渡していた金銭や食料などを全て奪還し、ほとんどその身一つの状態で門の外へ押し出してしまいました」  ノリに乗っている旅人は机に片足付き声高々と語り出していた。その物語の主人公はまるで他人とは思えぬほど似通った境遇で、誇張されていようがなんであろうが没落貴族へ感情移入してしまった。 「没落貴族は何一つ悪いことをしていないではないか、と怒りに狂い王の牙城へと侵入します。一方で王は少し落ち着きを取り戻して、やりすぎたのではないかと反省し始めるのです」  あの狐のように狡猾なジジイが反省などするわけがない、と完全に自分の視点で物語に共感し始めていた。 「しかし、そんな反省をよそに没落貴族は侵入先で金銀財宝に加えて、非常に価値のある歴史書などを盗み出したのです」  ここまできて、あまりにも自分の境遇と同じであることに気味の悪さを覚え始めた。  ちょうどその時隣の席の屈強な男が、最低な貴族だな、と呟いた。何が最低なんだ。締め出したジジイが悪いのではないか。と声を大にして言いたかったのだが、そんなことをしては自分もそうだとバラすようなものである。  そうして男のぼやきを口火に次々と没落貴族への文句が飛び出した。それを聞いた旅人がにやりと笑うのを見て背筋が冷えるのを確かに感じた。  次々と湧き起こる没落貴族への批判が自分に対する批判に思えてどんどんと孤立していった。だんだんと視線が自分に集まっているような気がしてならない。 「没落貴族、いや、罪人と呼ぶべき男はとうとう悪行に手を染めてしまったのです。人間とは醜いものです。一度悪に落ちると歯止めが効かないのですから」  最早居酒屋の客ほとんど全員が轟々と叫びながら旅人の話に夢中になっていた。その狂乱とも呼べる興奮に自分だけがついていけていないことは明白である。そればかりか、擬似的な敵対関係でさえあった。 「その罪人は金貨や銀貨、金目のものに価値のある書物などを持ち出しては逃亡生活を始めました。この男に訪れる悲劇をそろそろ皆さんもお気付きでしょう」  旅人は皆さんと言いながらも完全にこちらを見ていた。心中へ止めていた怯えは、肩を震わし顔を青ざめさせた。どう考えても自分の物語であるのだから。  誰かが、罪人は殺されるべきだ、と叫んだ。喧騒の中では誰の声かも分からぬが、確かに叫ばれたその声に皆が同調した。 「そうです、罪人は殺されるべきなのです。逃げ切ったと油断している罪人は居酒屋でニシンの酢漬けでも食べながら酒を飲んでいるのです。しかし、神が許しても私たちは罪人を許しはしない」  溢れそうな涙を堪えることに必死だった。今すぐにでも逃げ出したかったが、足が震えて仕方がなく、それは叶わなかった。 「最後には正義が、居酒屋で気ままに酒を飲む罪人の首を刎ね飛ばすのです」  旅人の締めの言葉に居酒屋が沸き起こった。隣人と会話するのも困難なほどであった。その喧騒が悲鳴を引き出した。 「ひいっ」  喧騒の中で私だけが悲鳴をあげた。その瞬間、あれほどの騒ぎがパタリと止み、全員が沈黙の中でこちらを見つめていた。  全身が震え、顔は青ざめ、肌も張り詰めた。呼吸は小刻みになり、周りが静まれば静まるほど心音は騒がしくなった。 「罪人は死に、物語はこれで終わりです」  旅人はそういって腰に携えた立派な剣を高く掲げた。居酒屋で剣を抜くなど到底許された行為ではないが、周囲の人々に咎める姿勢は見えない。それどころか、睨みつけこちらを咎めているようにも見える。  そこまできて初めて殺されるのだと感じた。椅子から転げ落ち、薄い葡萄酒を溢し、震えた身体で地面を這うように旅人から逃げた。  しかし、旅人は机から机へと飛び、華麗な剣技で物語を終えた。

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モヒート

 耳障りの良いジャズ調のBGMが流れるバーで、無口なマスターの目の前にあるカウンター席の隅に女が机に突っ伏していた。そして、今しがた入店したばかりの男が、失恋中とでも考えたのか、突っ伏している女を誘っていた。 「お姉さんこんばんは。そんなに悲しい顔をしてどうしたんだい。せっかくバーに来たなら人生をより良い方向へ持っていかないと。俺でよければ話を聞こうか」  突っ伏している女の顔など見えようもないのだが、バーで隅のカウンターに座る女は悲しんでいるに決まっているとして、男は隣の席へ座った。  返事のない女に男は苛立つこともせずに一杯カクテルをご馳走した。無口なマスターが男の前にモヒートを一杯音も立てずに置いた。  そこで初めて女は顔を上げて男を見た。長く肩先まで伸びた茶の艶やかな髪をたくしあげながら、小さく微笑んだ。しかし、その微笑みは穏やかなものではなく、どこか蔑みの色を感じた。 「一体どんな男がナンパに来たのかと思えばなんとお粗末な。ましてやモヒートとは。勝手に人の心象を決めつけないでちょうだい」  モヒートのカクテル言葉が、心の渇きを癒して、であることなど全く知らなかった男は動揺して女の首元まで近づけていた顔を大きく引き離した。それどころか、無視されることはあれど笑われる経験などなかった男は完全に女の思う壺であった。 「いや、その。お粗末とは失礼じゃないか」  男は口籠るも、やられたままでは男が廃ると考え、なんとか一矢報いようと小さな声で呟いた。だが、男は言ってから完全に恥ずかしくなった。客が女と男の二人しかいなかったことに安堵しつつも赤面は消えなかった。 「おや、ごめんね。だけど、そんなに顔を赤くしなくたっていいじゃないの。いじめてるみたいだわ」  女はそう言いつつも全く悪びれる様子はなく、むしろ男の反応を楽しんでいるように見えた。今度は女が男へ顔を近づけ見つめた。先ほどまで指揮棒を振っていたはずの男はいつのまにか女の指揮棒に合わせて動いていた。  男は何か言い返そうとするものの、何も言えずに俯いてしまった。俯いた男の赤く染まった耳を女が舌先で舐めた。男は悲鳴にも近い小さな喘ぎ声をあげた。  マスターにうっすら視線を移すが、こちらへ見向きもしなかった。この横暴な女が見えないのかと男は苛立ちを覚えたが、自ら女を止めようとは考えなかった。 「ふぅん。よく見りゃ可愛い顔してるじゃないの」  女と目を合わせることになった男は心臓が弾けそうであった。それと同時に女の大きな瞳に飲み込まれそうな感覚を覚えていた。弾力を持った鮮やかな唇も上を向いたまつ毛も愛らしさと恐怖を放つ目尻も男を狂わせることとなった。  優位性を失ったことに対する恥が興奮で薄れ、プライドと欲求が天秤にかけられた。そうしてとうとう温もりのある呼吸をする男にもう恥はなかった。そしてその興奮が未だ男の血流を速めた。 「ふふふ、さっきまでの顔はどうしたんだい。そんなに欲しがりな顔をして」  その勢いのまま、柔らかくそれでいて尖っている女の唇を求めて、男は顔を近づけた。しかし、女は男の唇に人差し指を添えてそれを拒否した。 「急ぐんじゃないよ。マスター」  嘲笑うかのように人差し指でそのまま男の顔を押し除け、今度は女がモヒートを男へご馳走した。 「渇いているのは心じゃなく、身体のようにも見えるけどね。知らなかったでしょう、こんな感覚」  女はそう言ってモヒートを一気に飲んで席を立った。男も女に続こうと考え、急いでグラスに手をやったが女に止められた。 「カクテルはね、ゆっくり飲むものよ。まだその感覚を味わいたいならまたこのバーで会いましょう」  そう言って女はミステリアスな雰囲気を最後まで失うことはなくバーを後にした。  残された男はモヒートを飲み、その爽やかで冷たい感覚を味わった。今まで女を手玉に取り、常に男として優位に立ってきたが、今回は女に手玉に取られた。しかし、恥じるどころか、今までのどの女よりも確かな興奮を感じていた。男は女の心象どころか自身のことも分からずにいた。  次の日も、その次の日も男はバーへ訪れた。しかし女は一向に姿を見せなかった。痺れを切らした男はマスターへ女について尋ねた。マスターは女のことを知らなかった。それどころかマスターはそんな女見たことがないとまで言った。  何度尋ねても何一つ知らなかったマスターに呆れた男はとうとうカウンターの隅で突っ伏してしまった。 「お兄さん、何悲しそうにしてるの。それより私とお話ししてよ」  男に無邪気で若い女が話しかけた。あの時の女と思った男は、慌てて顔を上げたが、そんな都合の良いことは起きなかった。  今のこの感情は悲しみではなく、解消されない性的欲求に対する不満に近かった。そんなことも知らず呑気な女だと男は思った。あの時の女もそうだったのかもしれないと考え男は小さく笑った。  そう思ってから男は、あの時女に盗まれたはずの欲求を取り戻した。男がもとより描いていた男女の立場を再び構成すべく口を開けた。 「ありがとう。お姉さん可愛いね。よければ別の場所で飲み直さないかい」  そこからは慣れた手順を踏んで若い女と優雅に楽しんだ。圧倒的優位な立場を持っていた男と、それを受け入れることを楽しむ若い女は互いに溜まっていた身体的欲求を乱暴に解消した。  翌朝になって男が目覚めると女はちょうどシャワーを上がったところであった。若い女は相変わらず男に寄りかかり、その表情を見れば惚れていることは明白であった。あれほど雑な行為であったのにも関わらず男へ惹かれる若い女もまた歪んだ欲望の持ち主なのかもしれない。  一方、男は寝起きの頭でぼんやりとしていた。しかし、目が完全に覚めてタバコと朝食を済ませてそれが寝起きによるものではないと気がついた。  それから男はぼんやりとした感情を抱えて過ごした。若い女とどれだけ性的欲求を消費しようと、はたまた別の女で欲求を消費しようと、男の心が満たされることはなかった。どれだけ体を重ねても、かつての満たされる感覚がなかった。  そうして再び無口なマスターのいるバーを訪れた。外国の聞いたこともないフォークソングがよく聞こえるカウンター席で男はモヒートを頼んだ。飲めば何かわかるのではないかと考えた。しかし、男には不明な感情の名前も、あの女の行方も、自分自身のことでさえ結局は分からないままだった。モヒートの中にあるライムの爽やかさも分からぬ男にはただ苦いだけであった。  そうして、つくづく人の心とは分からないものである、と男は気がつき考えることをやめた。男はゆっくりとモヒートを飲み、落ち着いたフォークソングに心を預けた。  そのまま若い女に連絡をとった。満たされぬ欲求を抱えて生きていこう。そんなことをぼんやりと考えていた。

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本能の果てに

 人は理性的な生き物だというが、それは嘘だと思う。こんなに本能に塗れて生きている私たちのどこに理性があるというのか。まだ痺れの残る指先に弾けた血潮と置物みたいな人間がいた。  ことは数時間前に起きた。喘息の薬を受け取るため、定期診断を兼ねて病院を訪れた。土曜ということもあり、密度の高い控室のソファで何となくテレビを眺めていた。何となく見ていたはずのその内容を私は忘れることができない。  自然界の厳しさをドキュメンタリーとしてまとめた番組だった。何となくテレビを眺めていた私には細かいことは分からないが、これから母になろうとする親鳥の物語であった。その鳥は白い身体に薄茶色の斑点を持っており、それが何とも言えぬ美しさであった。穏やかな性格を持つというその種の親鳥が産んだ卵は、親鳥に似て白に美しい薄茶の斑点を有していた。  途中から見ていた私に番組の構成は分からないが、親鳥になる前の大恋愛と、ようやく生まれた卵という場面から私は注意してみるようにした。私も数年前に母になったばかりの新米であり、何だか親鳥に共感してしまった。  緩やかな雰囲気のBGMと共に巣作りの様子などが映し出されていた。その雰囲気が、苦しくも楽しい私自身の子育てと似かよっていたことも、私を楽しませる要因だった。  ところが、和やかな雰囲気の音楽がパタリと止み、巣が見える定点カメラの映像が数秒間映し出された。常に何かしらの音楽の流れていた番組において、無音より騒がしい緊張はなかった。巧みな演出の番組に私は身を乗り出してのめり込んだ。  数秒の沈黙を経て、巣へ一羽の鳥がやってきた。それは親鳥ではなかった。親鳥と対極の色を持つ、黒に塗れたカラスであった。リズムを刻みながら小さく響く重低音が私の心臓を震わせた。  カラスは巣の上で吟味するかのように小刻みにステップを踏み始めた。すると、カラスはその鋭い嘴をどうすることもできぬ卵へと向けた。そして、そのまま殻を突き破り、中身を食べた。  おばさんたちの世間話しか聞こえぬ控室で、ひっ、と小さく怯えた声をあげてしまった。幸い誰にも気が付かれることはなかったが、私は完全に番組から目を逸らすことができなくなっていた。  カラスは三つある卵のうち一つを完食すると、次の卵へ目を光らせた。しかし、親鳥の気配を感じたのか、名残惜しそうに飛び立っていった。そこへ何も知らぬ親鳥が帰ってきた。破れた殻を嘴に咥え、孵化したと勘違いした親鳥は周囲を見回していた。しかし、それが孵化ではないことを悟ると、静かにそれでいて何よりも力強く、じっとしていた。  次のカットで、私は本当に悲鳴をあげてしまった。巣へ訪れたであろうカラスが無惨な姿と成り果てていた。羽が何本も抜け肌が見えている状態であり、その目から生気を感じなかった。そして、その無惨な死体の横に怒りと哀しみを混ぜた深い情念を感じさせる親鳥がいた。動かぬカラスを執拗に足の爪で締め付ける親鳥を静止画としたエンディングが流れた。  私は息を呑み、カラスにも親鳥にも恐怖を抱いた。生きるために殺しても裁かれず、復讐のために殺しても裁かれぬのが自然界であり、それこそが自然の厳しさである、と番組は締めくくられた。私は何とも言えぬ放心状態で診察を終えた。  薬を受け取り、ぼーっとしたまま家路についた。白くシミだらけの自分の腕を見て親鳥を想起してしまい、何だか不気味に思えた。  不快な感情を整理しきれないまま家につき、そこで玄関に鍵がかかっていないことに違和感を覚えた。子どもを家に残したまま鍵をしないわけがない。子どもがいたずらで開けたのだろうか。きっとそうに違いない。先ほどまでの感情も相まって、私は嫌な予感がして仕方がなかった。  恐る恐るドアを開き、異常なまで無音の家を進んだ。すぐに出迎えない子どものことを、寝ているだけだと、自分自身を説得した。そうして、とうとう現場へやってきて私は気が狂いそうになった。人生で最大限の感情を抱いた。命よりも大切な我が子の言葉にすることもできぬ無惨な姿をみて、音も響かぬ叫び声をあげた。心の奥底が掻き回された感覚であった。  そんな私の前に現れたのが、ナイフを持った男であった。男は私の姿を確認してすぐにナイフを構えた。そのナイフに血がついていたことが私をさらに狂わせた。お前もこうなりたくなければ黙って金目のものをよこせ、と叫んだ男は手を振るわせながらナイフをこちらへ向けた。  金が欲しいがために、我が子を殺したのか。金のために何の関係もない家庭を荒らしたのか。金如きのために、私はこんな仕打ちを受けたというのか。私はもはやこの感情に名前をつけることはできなかった。 「あんたが。あんたがぁ」  私は正しく発音できているかも分からぬまま、口を開いた。殺される恐怖など微塵もなかった。ただ胸の内を暴れるように燃えているこの感情が体を支配していた。  まるで当然の理屈であるかのように、明日を生きるための金を要求する男は私へ向かってきた。私は子どもの野球道具であるバットを迷いもなく手に持ち、力任せに振り下ろした。自分が絶対的優位であると信じて疑わなかった男は突然の衝撃にもがき苦しんだ。  私は倒れ込んだ男めがけて何度も執拗にバットを振り下ろした。確実に死んだと分かってからも数度振り下ろした。もはやそこに思考はなかった。  痺れた感覚の残る手で無惨な姿の我が子へ駆け寄った。そこで初めて我が子を失ったと気がつき、嘔吐した。  手先だけでなく、全身が震えていた。そのまま警察と救急車を呼んだ。最後の理性を振り絞った私は、愛しい我が子の頭を撫でるため、床へ寝転んだ。先ほどまで止むことのなかった心音が、パタリと止んだ。深い静寂に包まれ、私の頬を涙が伝った。私は現実を受け入れられぬまま、子守唄を歌った。もう、何年も歌っていない子守唄を。我が子のために、静かに歌った。

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飛ぶ

 幼いときに読んだライト兄弟の伝記が強く印象に残っている。漫画の中のライト兄弟は不可能に挑戦するスーパーヒーローだった。ライト兄弟に憧れ、いつの日か空を飛びたいと思うようになった。  暑い八月の昼頃、窓から見える飛行機雲を見て、改めて空を飛びたいと感じた。 「たかし、ごめんね。ちょっと仕事が長引いちゃって」  母さんが慌てて部屋に入ってくる。 「今日はね、りんごを貰ったのよ」  母さんは嬉しそうにそういいながらりんごを取り出し、皿に盛り付けてくれた。  生まれてから今日まで常に病弱で入退院を繰り返す僕を母さんは文句も言わずにサポートしてくれる。それが僕にとって苦痛でもあった。 「ありがとう。僕本の続きが気になっているから今日はお話の相手できないや」  母さんは「でも」と名残惜しそうにしていたが、無理矢理に帰ってもらった。 「そうなの。また来るからね」  そういって母さんは何度も振り返りながら病室を後にした。  僕はよれよれになったライト兄弟の伝記を読み始めた。何度目かも分からないが、知っているストーリを追いかける。  母さんに嘘をついてでも、病室で共に過ごしたくなかった。自分自身が母さんへの負担だと認めたくなかった。 「あら、たかし君またライト兄弟読んでいるの」  看護師さんが優しく話しかける。 「うん。この本が一番好きなんだ」 「ライト兄弟、かっこいいわよねぇ。不可能に挑戦して人類で初めて空を飛んだ人たち、って素敵よね。あのね、私も昔CAさんになりたかったのよ。でも残念ながら私には無理だった」  看護師さんは笑いながらも熱く語った。 「本当にかっこいい」 「たかし君は将来パイロットになりたいの」 「うーん、それはどうだろ。だって僕はこんな身体だし」  僕が答えを出し渋っている間に「ごめんね。また会いにくるね」と言って看護師さんは忙しそうにどこかに行ってしまった。  僕はライト兄弟の伝記を読みながら一人外の飛行機雲を眺めた。なれるのなら僕だってパイロットになりたい。だけど全く健康な人だってなることが難しいのだから僕なら尚更だ。  生涯この病院という檻の中で過ごすのだろうか。そうして僕という足枷を死ぬまで母さんに与えるのだろうか。  そんなことを思いながら眠りについた。  その日はなんだか素敵な夢を見た。飛行機なんかなくても自由に空を飛べる夢だった。夜空に浮かぶ少し欠けたお月様が僕を誘ってくる。 「ほぉら、こっちへおいでよ。窓を開けて、飛び出してごらん。そうすれば自由になれるさ」  僕はお月様に誘われるままに窓の外へ飛び出した。身体が重力を失い、浮き上がった。まるで水中にいるかのように宙を掻いて自由に過ごせた。左右上下はもちろんのこと、ホバリングから急旋回まで難なくこなせた。ついには急降下に急上昇、急停止、回転なんかもできるようになった。  僕は夢中で空を飛んだ。心も身体も踊っていた。そうしてお月様の元を目指して急加速。しかし、どれだけ加速してもお月様に近づくことはなかった。しまいにはだんだんと減速していった。最後には止まってしまい地面に真っ逆さま。  ぶつかる。と思ったところで目が覚めた。ひどい寝汗をかいていた。体にまとわりつくベトベトとした感覚が不愉快だった。けれども、この寝汗は死に直面したことによるものではないと理解していた。本当に自由に空を飛べると感じていたのだ。この病院を飛び抜け、どこへだって、心の赴くままに行けると思っていたのだ。  何とも言えない虚無感に打ちひしがれている間に、汗が冷えると共に、僕は冷静になった。どうしたら人間が空を飛べるというのだろうか。ライト兄弟だってこの身一つで空を飛べるとは思わなかったろう。冷静になって僕はもう一度眠りについた。 「今日はお母さん来ていないのね」  看護師さんが僕に話しかけた。たかし君と話すのを毎日楽しみにしているんだ、と笑顔を見せながら。 「母さんは忙しいんだ」 「たかし君のお母さんシングルマザーだもんね。一人でも頑張ってて本当にかっこいいよね」  その言葉が胸に小さな針を刺した。力なく「うん」と返事した。  大した会話もせずに今日も看護師さんは忙しそうにどこかへ行ってしまった。  母さんも看護師さんも、その他の大人も皆んな忙しそうにしている。僕だけ。僕だけが、何もしていない。ベッドに寝て、身分不相応の夢を見て、ただそれだけだ。  今日も同じような夢を見た。お月様に誘われ、窓を飛び出し、空を泳いだ。そうして最後には空中浮遊の力を失って地面へ落ちてゆく。それから何度か似たような夢を見た。  ある日、今日も同じような夢を見た。しかし、今日は地面に叩きつけられることなく目が覚めた。そこは確かに病室で、間違いなく現実だった。  いつものお月様が見える。今日は一つも欠けていない、完全な満月だった。お月様は喋らない。それはそうだ、現実なのだから。  しかし、いつもと異なる終わり方の夢が、欠けた箇所のない満月が、何かを変えてくれると思わせた。  這うように身体を動かした。この檻から僕を救ってくれる気がした。窓の淵に上半身を引っ掛け、目一杯の力を振り絞って鍵を開けた。全身をスライドさせるように窓を開けた。そして全身を窓の外へ投じた。また、重力を失い、浮いた感覚を掴めるのではないかと、疑いながらも縋った。  身体は重力に従い、地面へ真っ逆さまに落ちていった。どこか解放的な感覚を覚えた。  次目が覚めたとき、そこは地獄でも天国でもなかった。母さんが涙を流していた。 「どうしてそんなことしたのよ。お願いだから死なないでちょうだい。生きているだけで、それだけでいいから」  最初は説教のような力強さを誇っていた母さんの言葉もみるみる窄んでゆき、最後には泣きながらベッドへ突っ伏した。あの看護師さんも涙を流していた。  違うんだ、自殺しようとしたんじゃない空を飛ぼうと思ったんだ、とは言えなかった。信じてもらえないからではない。本気で空を飛ぼうと思っていなかったからだ。  その後、周りの人たちはいなくなり母さんとあの看護師さんだけになった。 「ライト兄弟だって、飛ぶことを諦めなかったから空を飛べたのよ。たかし君も、生きることを諦めないで。お母さんをひとりにしないであげて」  そういって母さんと二人にしてくれた。  母さんはまだ何も言えそうになかった。生きているだけでいいから。母さんに言われた言葉が胸に残った。僕は足枷かもしれない。それでも僕がそれを認めたらダメな気がした。僕だけが母さんの助けになれるはずだから。 「僕、僕パイロットになるよ」  泣いている母さんにそう呟いた。パイロットになれるとは思わない。でも、これは嘘じゃない。

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箱庭の愛

 人のことはなかなか分からないというが、実の家族のことをここまで知らないとは思わなかった。いや、むしろ知っていたからこそ衝撃を受けたともいえる。とにかく、一刻も早くこの事態をなんとかしなければならない。  兄貴と二人暮らしをしている。しかし、俺はバイトで昼間はおらず、兄貴は夜勤のためほとんど顔を合わすことはない。だからその日も家に帰って一人だと考えていた。 「おお、びっくりした。今日仕事ないのか」  鍵がかかっていなかったことを、玄関に立ち尽くす兄貴を見て思い出した。兄貴はこちらに背中を向けて一言も喋らない。  再び兄貴に声をかけようとした時、兄貴の手から血が流れていることに気がついた。指先から床へ一滴ずつ垂れていた。 「おい、大丈夫か。どっか怪我でもしたのか」  慌てて兄貴の元へ寄って、そこで兄貴が無言の理由がわかった。  豚がいた。蔑称としての豚じゃない。あのピンク色の、家畜として飼われている、美味しい。とにかく生き物の豚が兄貴の目の前に血だらけで倒れていた。  誰がやったのかなんて聞かなかった。聞くまでもなく、兄貴の腕に付着した血と異様なまでに無言の兄貴が物語っていた。 「これ、なんで」  俺ではなく、兄貴の言葉だった。俺の脳内が疑問符で埋め尽くされる前に兄貴はもう一度「これ、なんで」といった。 「いや、俺に言われても。兄貴、じゃないの」  戸惑いながら、不安そのままに問い返した。兄貴は顔だけで返事をした。誰かがイタズラで豚の死体を人の家に置いていくとは考えにくい。  俺は兄貴の横へ行き、豚の顔をじっくりと見てみた。その淡麗な桃色の肌に、およそ健康ではない、泥沼のように薄暗い血が付着していた。気が滅入るほど醜悪な豚の死体は、目を逸らすことも凝視することもできなかった。美しい女性のつける匂いのきつい香水のそれに近い。 「何なんだよ。これ」  兄貴は信じられないほどの汗をかきながら狼狽えていた。あまりにも動揺している兄貴を見て、少し心が落ち着いた。 「兄貴が帰って来た時にはもうあったのか」  兄貴は唇を振るわせ、ああとかうんとか言うばかりで、具体的な内容は何一つ言わなかった。  兄貴の指先から滴る血液を見て、それが豚に付着した不快な血と異なることに気がついた。豚の血はとても流れを持っているものではなかった。そうしてようやく兄貴の腕に血がついているのではなく、腕から血が流れているのだと悟った。 「おい、これ。怪我してんじゃん。何があったのか教えてくれよ。いや、その前に治療か。ちょっと待ってて」  救急箱を取りに行こうとした俺を、血の流れる腕とは反対の腕で引き留めた。 「疑わないで、信じて、聞いてくれるか」  その真剣な眼差しが、事の深刻さを語っていた。 「俺、殺しちゃったんだ」  なぜ殺したのか、そもそもなぜ豚がこんなところにいるのか、何を思って殺したのか、など疑問の飛び交う脳内が静まることはなかったが、それら全てを飲み込んで「うん」と力強く続きを促した。 「豚を殺したんじゃない。あの、その、だな」  兄貴が豚を殺したわけではないと知り安堵した。ならばこの豚は、という疑問は必然的だが、歯切れの悪い兄貴の続きの言葉を待った。 「母さんを殺したんだ」  ほとんど泣いているのでは無いかというほどか細い声だった。  衝撃だった。もちろん衝撃だった。あの優しい兄貴が人を殺すなんて、と。しかし、母さんが殺された、という事実にある種の納得を抱えている自分がいた。  母さんは優しい人とよく周りから言われていた。資産家の愛人でありながら俺たち双子を身籠った。養育費はもらっていたらしいが、シングルマザーとしてのさまざまな困難が母を襲ったであろうが、何よりも愛してくれた。  ただ、シングルマザーゆえなのか、その愛が強すぎた。その重すぎる愛が異常なまでの過保護を生んだ。  愛した人に捨てられたという経験が、人間不信を生み、我が子には幸せになってもらおうと、何でも世話した。高校生になっても同じ浴室で身体を洗われた。友人関係は異常なほど審査された。学校への電話はほとんど毎日であった。大人の階段でさえ母で登った。  その不気味なまでの優しさに嫌気がさした俺たちは高校を卒業すると同時に家を出た。ほとんど家出だった。そうして、なんとかアルバイトで今のルームシェアを成り立たせている。  何度か警察と共に母が来たことがある。警察は俺たちに同情してくれた。もう未成年でないこともあって、母には内緒で引っ越した。  そんな母さんを殺したいほど兄貴が憎んでいたとは知らなかった。 「そうか。母さんを、兄貴が」  俺は怒りでも悲しみでもない、それでいて大きく胸の内を支配するネガティブな感情を持て余していた。  動機は聞かなかった。俺だって殺意を抱いたことはある。それから俺たちは数分の沈黙を過ごした。いまだに震えている兄貴を横に再び疑問が浮かんだ。 「豚は、この豚は何なんだ」 「これは、多分、母さんなんだ」  真に衝撃を受けた時人は呆然とするというが、それは間違いないと思う。脳で処理できない情報を締め出そうとするのだろう。俺が言葉を受け止める前に兄貴は続けた。 「引っ越した家ですら特定されて、つい突き飛ばしたんだ。俺たちはお前のものじゃない。もう構うなって」  まだ、理解のできない俺に兄貴は続けた。 「そうしたら、母さん。母さんが、私は誰にも愛されないって言って。自分で」  兄貴はそう言いながら泣き崩れた。母さんの自殺を止めようとした時に怪我をしたのだろう。俺はもはや感情の全てを投げ出したかった。そうすれば楽になれるのだろうか。  兄貴の気持ちが痛いほど分かった。どれだけ嫌いでも母親である。愛人に捨てられ、最後には自ら命を断つ。一人の人間として余りにも悲しい。怒りと哀しみの相反する二つの感情が俺たちを掴んで離さない。  なぜ自殺した母さんが豚になったかなんて知らない。科学的な理由なんか求めない。俺たちは母さんに支配されていたが、母さんもまた愛に支配されていた。  豚は食べられるために生まれてくる。この豚は母さんであり、俺たちだ。俺たちは皆愛に支配された家畜なんだ。  俺は泥水のような血を拭いた。愛に飢え、最後は豚になった、なんて誰も信じない。この豚も警察に引き取られ焼却されるのだろう。俺たちは母さんの愛になんと応えるべきだったのだろうか。泣き崩れる兄貴と悲しい顔をした豚が俺の心を締め付ける。

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益虫の眼差し

 世の中おかしなことはいっぱいありますけど、一番おかしいのは人間でございます。それは私たちは人間の棲家を利用しているわけですから、無理に貶めようなんて思っていません。しかしですね、人間にとっても得になることを私たちはしているわけです。それなのになかなかな仕打ちだとは思いませんか。食料を与えろとは言いませんが、ただ放っておいてほしいのです。 「あの家は清潔だからろくな虫がいねぇ」  愚かな人間のことを考えながら徘徊していると、同族に出会いました。ここらは私たちにとって理想的な環境のエリアだと考えていましたが、どうやら最近人間の生活環境が変わってきているようです。 「こんにちは。ありがたい情報をどうも。お礼というわけではないですが、あちらの家食料の宝庫ともいえる家でしたがどうにも家主が荒くれ者でして」  同族は私の話を聞いて「あぁ」と漏らしながら察した様子で何処かへ行ってしまいました。  私は彼が教えてくれた方向へ向かわぬように新たなエリアを求めました。そうしてしばらくした頃に私はまた新たな人間の家へと辿り着きました。その家は一見すると綺麗で、とても虫が多いようには見えませんでした。  私は丁寧に方向を吟味していたつもりでしたが、気が付かぬ間に同族の忠告を無視していたのかと落胆しました。しかし、家主と思われる人間たちの話を聞いて撤退の意思を翻しました。 「最近は害虫が多くて敵わんな」  人間の想像する害虫なんざたかが知れてます。ほとんどの場合はゴキブリです。ごく稀にムカデなんかをいう人間もいますが、まぁ例外でしょう。その害虫が私たちにとっては明日を生きる食料なわけですから、人間が益虫と私たちのことを呼ぶわけも分かります。  しかし、この場合害虫というのは何なんでしょうか。私たちにとっては必要不可欠であっても人間にとっては不快そのものであるから害なのでしょうか。いや、不快でいえば私たちもそうです。  そう考えて私はまた沸々と怒りを覚えました。一つ前の家では私にとっての楽園でした。食べても食べてもご馳走の出てくる場所は人間にとっても嬉しいでしょう。ですから私は大喜びでしばらくの棲家にしようと考えました。ところが楽園に油断したのか、普段は用心なのですが、うっかり人に見つかってしまいました。 「うわぁ、クモだ。気持ち悪い、どっか行け」  何と失礼な、と私は思いましたが投げられる空き缶やら何やらに当たりたくないのですぐさま失礼。私たちのことを気持ち悪いといいますが、あなたたちの言う害虫を食べているのは誰だと思っているんでしょうか。そしてこの男何より納得がいかないのがゴキブリなんかも視野に入っているはずなのに我関せずなことです。人間とは実に分からないものです。  現在私のいる家に話を戻しましょう。害虫の多い家だということで、ウロウロと徘徊させていただきます。今度は人間の目に触れぬように行動します。人間のためでもあるのに人間から隠れるとはこれ如何に。  そうして家の階段を登って二階へつくと何やら見覚えのある景色でした。なんと、私に対して物を投げる野蛮な男のいる家であったのです。かなり長距離移動したつもりでしたが、元の場所へ戻ってしまうとは情けない。  この家には害虫がいるのでしょうが、あの男がいるのでは堪りません。そうして私が再びこの家を旅立とうとした時に何やら興味深い話を伺いました。 「あいつはまだ部屋にこもってるのか」  一階にいた家主と思われる人間の声でした。 「そうよ、もう何年経ったのかしら。可愛い我が子といえどあそこまで堂々と引きこもられるとねぇ」  どうやら野蛮な男は家主たちの子供であるようです。 「しかし、あいつは趣味には金をかけるんだな。稼ぎもないくせに負担ばかりかけやがって」 「もうあなたもそろそろ定年でしょ。だからさ、出ていってもらえないかそろそろ家族会議しようと思って」 「本当に穀潰しだなあいつは。害虫だよ」  いささか我が子に対して当たりが強すぎると思いましたが、私が興味を惹かれたのは最後の部分。「害虫だよ」と確かにおっしゃいました。なるほど、あの男は害虫でしたか。どうりで野蛮なわけだ。  そう思い私はすぐさま男の部屋へと向かいました。 「うわぁ、またクモだ。あっち行け、あっち行けよ」  二度も追い返すとは本当に失礼な男です。いや、失礼な害虫でしたね。  私はするするとと男の足元へ行きました。男は熱い地面を踏んでいるかのような動きで何とか私から遠ざかろうとします。しかし、足場の方が少ないのではないかと思える部屋では、人間のサイズでじたばたすることはできません。何かのゴミに躓いて転んだ男の体を登っていきます。男は気味悪がって身体を捻りますが、叫ぶ間もなく首元へ齧り付きます。すぐに男は声もないまま息絶えました。これでしばらくの食料には困りません。  私たち益虫は害虫を食べて暮らしています。しかし、人間たちに害を為すから害虫だと思っていましたが、人間も害虫になりうるんですね。やはりこの世で一番おかしいのは人間でございますね。

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反復音

 ざっくざっくと洞窟を掘り進める。洞窟と呼ぶにはまだ早すぎるぐらいで、壁を削っているという表現の方が適切だと思う。 「田中さん、これは何をしているんですか」 「山本くん、仕事中は私語厳禁だよ」 「すみません。でも何日も何をしているのか分からない仕事をさせられる僕の気持ちにもなってくださいよ。モチベーションが保てないですよ」  私語厳禁と何度注意されたか分からないが、田中さんは私が何を言っても毎度返事をくれる。多分私語厳禁と言わないといけないだけで、大したことはないのだろう。 「若い者はすぐ横文字を使うな。何を言っているのかさっぱり分からん」  田中さんはそう言いながらざっくざっくと壁を削っている。僕が一つ掘り進める頃には二つ掘り進めている。そんなペースだから、僕の掘る場所と田中さんの掘る場所を時々交代しながら掘らないとなかなか綺麗に掘れない。 「やる気のことですよ、やる気が持たないって言ってるんです」  丁寧に説明したつもりだったが、田中さんは「私語厳禁だよ」と言って取り合ってもらえたかった。  一分か二分ぐらいの沈黙が続いた。壁を削る音が規則的に鳴り響く。その音はかなりうるさいのだが、会話がないため静寂に思えた。 「山本くん、場所を交代しよう」  気がつけば人一人分ほどの差が開いていた。私の位置から田中さんを見ることができないほどに。 「何のために壁を掘っているのかという話だが」  場所を入れ替えるときには掘る音が止まる。先ほどの感覚的な静寂とは異なり、真の意味での静寂に包まれる。そしてその静寂を破ったのは意外なことにも田中さんであった。 「それは私にも分からないのだよ。山本くん」  私ではないどこか遠くへ話しかけているようにも思えた。だから私は力無く「はぁ」と呟くだけで、気の利いたことは何一つ言えなかった。 「私たちは一体何をしているのだろうな」  今度は真っ直ぐと私をみて、はっきりと私に田中さんは告げた。それなのに私は何も言えなかった。自分の持っていた疑問を投げ返されただけなのに。それから私たちは一言も言葉を交わさずに作業を進めた。掘削の音がとてもうるさかった。 「田中、山本。交代の時間だ、ご苦労」  あまりにも集中していたため声をかけられて初めて現実に戻った気がした。あれから一度も場所を交代していないため、随分と田中さんだけが前へと進んでしまった。 「また明日もよろしく頼む」  作業の交代を告げにきた名前も知らない上司に一瞥して私たちは帰路についた。事務所の更衣室でも、事務所から続く一本道でも、その先にある分かれ道でも、田中さんとは会話一つなかった。  次の日、田中さんは来なかった。代わりに佐藤という男がやってきた。今日初めてこの仕事に就いたらしく、汚れひとつない作業着をピシッと着ていた。  歳は私より少し下らしいがそれ以上に若く見えた。今までは田中さんに指導を受けていたが、これからは私が指導をしないといけない。 「下からじゃなくて上からやった方がいいよ。そうそう。いいね」  立場的に上に立ったが、田中さんの立場になったわけではないようだ。私語厳禁とは言われていない。なにより、田中さんのように仕事ができるわけではない。 「山本さん、これは何の意味があるんですか」 「私にも分からないんだよ」  そう答えると「そうですか」と興味なさそうに佐藤は呟いた。  それからしばらく沈黙が続いた。田中さんと二人の時は沈黙が嫌いだった。もとより静かな空間は苦手だから。しかし、今は沈黙が心地よい。佐藤が嫌いだとか苦手だとかではなく、初対面であり年下であることに対する気まずさがある。会話をせずにいることが楽だった。  そう考えて初めて田中さんも私と二人では居心地が悪かったのだろうかと思った。そう思ってからは作業が思うように進まなかった。  それでも、私の方が倍ほど早く時々交代しなければ壁に段差ができてしまった。交代する時に声はかけるものの、それ以外一切の会話はなくその日の業務は終了した。  更衣室でも会話はなく、佐藤は驚くほど早く、言葉もなしに帰ってしまった。私は一人事務所に残って名前も知らない上司を待った。 「お疲れ様です。田中さんのことについて少し伺いたくて」  数十分待って上司はやってきた。 「ああ、田中ね。彼辞めたよ。あれ、聞いてない」  その言葉を聞いて私は深く沈んだ。特別田中さんと仲が良いと思っていたわけではないが、一日の何時間も共にする仕事仲間としての絆はあった。そして、田中さんにとってそれが些細なものであったこと、それどころか苦痛であったかもしれないと考え、私は苦しくなった。 「なんかね、新しい仕事見つけたんだって。ああ、あとね、山本に急に辞めることになってすまないってよ。今までありがとうだとよ」  そう言って上司はどこかへ行ってしまった。事務所には私一人だけが残っていた。  ひとまず私が田中さんを追い詰めていたわけではないと知って安堵した。私は思った以上に田中さんを信頼していたのだと思い知らされた。  翌日になって佐藤は少し遅刻してきた。特に謝罪の言葉はなかったが気にしなかった。そのまま流れるように作業へと移行した。今日も沈黙が続いた。  掘削の音が耳障りだった。かつては静寂を産んでいた規則正しい騒音が、今ではただの騒音にしか思えない。 「この仕事、何をしているんですかね」  佐藤が再び同じ問いをした。騒音が紛れるため、話しかけてくれて助かった。 「この仕事は何をしているのだろう」  上を向いて呟いた。佐藤は返事もせずに黙々と作業を進めた。 「一体何の意味があるのだろう」  佐藤でも一人呟くのでもなく、田中さんに聞いてみた。ここにはいない、どこかで仕事をしている田中さんに。あぁ、私は田中さんがたまらなく羨ましい。

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