K
41 件の小説第9回N1 『夜の警鐘』
眼前に広がる黄金色の小麦畑は、赤色の夕日を受けて眩いほど輝いていた。風に靡かれ、所々がその輝きを一層増している。 街を丸く囲う壁の上部には数個の突起型の塔がある。石造の高い壁は幾度も補修を繰り返された跡が残り、苔むしている箇所もある。 塔の小さな空間に佇む男は足を組みながら小麦畑を眺めている。整えられていない髭に深爪、乾燥して固まっている髪の毛。服は、一度強風に晒されれば飛ばされてしまいそうな一枚の布切れだけだった。 塔の上部には鐘が付いており、男は鐘につながった紐を握っていた。首や指先の関節を鳴らしながらも、男の視線は小麦畑から離れない。 街を囲う石壁の外にある小麦畑のさらに外側、地平線と重なるほどの位置に黒い靄が薄らと見えた。まだ音も聞こえないほどの位置にある靄を捉えた男は力の限り紐を振った。男とほとんど同じ大きさの鐘はその見た目に負けない音を奏でた。 鐘の音は街中に響き渡り、人々はそれが訪れたことを察知して顔を顰める。一部の人々は厚手の防護服に着替え、背に大きな火炎放射器を積み、足早に壁の外へ向かう。男の鐘の音が響いてから僅か数分のうちに、防護服の人々は石壁の外で隊列を組んでいた。 男は防護服の隊列を壁の上部から捉える。鐘を鳴らし終えた男は風に揺れる小麦畑と靄がどう行動するかを見ていた。 靄は近づけば近づくほど不快な音を鳴らし、それが羽音だと気がつくのにはそう時間はかからなかった。幾千、幾万の虫たちが小麦畑を狙って向かってくる。 訓練された動きの隊員は火炎放射器を構える。何の防護服も着ていない虫はその熱に燃やされ、何匹もが力尽きた。 塔の上から見ると靄の動きと食べられていく黄金色がよく見えた。そしてそれらを包み込む火も。男は浅く息を吸い、虫と共に焦げる小麦畑の音を聞いていた。 ようやく目に見える範囲の虫を焼却し終えた隊員は壁の中へ戻っていく。防護服を脱いだ隊員からは僅かながらに湯気が上がっており、その蒸し暑さを感じさせた。 失った涼しさを取り返すかのように、隊員たちは露店居酒屋で麦酒を掲げた。街の人々もそれを歓迎し、街そのものの活気を見せた。その様子を男は壁の上からぼんやりと眺める。 居酒屋の一部の人は帰り、一部の人はより盛り上がる時間となり、男もようやく塔から降りる。突起部に繋がれた長い梯子を降りた先には、小さな部屋があった。石壁に小さな穴が空いており、それ以外は何もない部屋だった。部屋の出口は鉄格子が付いている。 男は鉄格子に背を向け、穴から壁の外を見る。穴は少しだけ高い位置にあり、小麦畑を見ることは叶わなかった。 鉄格子のさらに奥にある木の扉が開き、腰の曲がった老婆が入ってくる。老婆の手にはお盆があり、その上にはスープとパンが乗せられていた。男はそれを無言で受け取り、老婆もまた無言で出ていった。 パンはそのまま食べるには少し硬く、男はスープに浸して食べた。あの小麦畑から作られたであろうパンを半分ほど食べ、スープを飲み干した。 残った半分のパンを片手に男は再び梯子を登った。夕日の半分以上が沈んでおり、地平線は最後の輝きを見せている。街を見れば、街灯が点灯し始め、居酒屋にも灯っていた。 居酒屋には温かな料理と人々の笑い声、酔いどれの匂いが充満していた。男は硬いパンを齧りながら、鉄格子の中に入る前と同じ衝動に駆られた。 鐘に連なる紐が風で揺れている。これを無意味に鳴らせば、彼らが宴を解散せねばならないことを分かっていた。 齧ったパンから僅かな塩味が男の舌に届く。結局男は紐に触れることなく、温かな灯りから目を逸らした。もう完全に日も落ち、暗くなった地平線の先の星を数える。夜の小麦畑は独特の香りを放ち、微かに見える揺れた穂先が男の心を落ち着かせた。 ただ不幸にも男はもう一度鐘を鳴らさねばならなかった。日に二度虫が訪れたことは過去一度もなかったが、星を隠す黒靄がはっきりと男の目に映った。そしてそれが昼間のものよりもはるかに大きいことを、男は確かに目にした。 すぐに鐘を鳴らそうとした男の手が止まった。夜の寒さに悴んだ手をきつく握りしめた。男はもう一度街を振り返る。隊員は酒盛りを続けていた。口が裂けるほど大きく開いたその笑顔を見て、男はひどく顔を顰めた。 夜の風は男の体を冷やし、石壁もまた冷えた。男の拠り所は布一枚であり、風に飛ばされぬようしっかりと掴む。地平線には黒い靄が依然として浮かんでいる。 男は街の隊員に目を遣る。鐘は重く沈黙しており、男は唾を飲み込んだ。小さなパンとスープでは到底満たされぬ腹に触れ、居酒屋の料理を見つめる。男の元まで届くはずのない香りを想像し、喉を鳴らす。 男の塔には小さな蝋燭が置いてある。それは風を受ければすぐに消えてしまう小さな蝋燭だった。男はそれに火をつけ、塔に僅かな光を灯した。その光を見せつけるかのように、男は手元に置き、決して火の絶えぬように風を防いだ。 平地の視線よりも高みにあるその灯りに多くの人々は気が付かない。まだ素面に近かった何人かはその灯りに気がついたが、特段何をするでもなく、ほんの一瞬目を遣るだけに留まった。 男は今にも消えてしまいそうな蝋燭を抱え込んでいる。風を防ぐための両手の壁はその火を間近に受け、溶けるような痛みを感じていた。掌は熱く、吐く息は白く凍えていた。 一人の幼子だけが、蝋燭の光を見ていた。そこに人がいることさえ知らない幼子は蝋燭の光を見つめ、その奥にいる男の姿も捉えた。男と幼子の視線がぶつかった。それとほとんど同時に蝋燭の火は風に流され消えてしまった。 灯火がなくなっても男は幼子を見つめていた。幼子もまた、夜の闇に飲まれた男の姿を見続けていた。そして、その小さな腕二つを天に掲げ、大きく振った。 その挨拶は男の元へしっかり届いた。幼子の行動に気がついた母親はすぐにやめさせる。十秒にも満たない時間ではあったが、男には充分であった。 男は両の手で紐を掴み、大きく振り、鐘が割れんばかりの音を街へ轟かせた。その警鐘は素面の隊員を第一に、少し間があって酔った隊員にも届いた。 暗さを掻き消すほどの火が一晩中続いた。夜通し戦い続けた隊員の懸命な努力によって被害は最小限に収まり、数日もすれば人々は話題にすることも無くなった。 塔の上では男の布がそよ風に揺れていた。男は小麦畑に背を向け、街を向いていた。街を行き交う人々は暖かな陽気の中で過ごしている。 黄金色の輝きは塔の上からのみ見ることができる。男の背では小麦畑が悠然としており、その穂先が膨らみ、日を増すごとに垂れ始めていた。
息を止めても
将来の夢はなんですか。ないですか。それはなんとなんと。ではやりたいことは。それもないと。では趣味、マイブームで構いません。それも、ですか。それじゃあ何して生きてるんですかい。 昼下がりに目を覚まし、カーテンの隙間から差し込む光が揺れているのを冷めた目でぼんやりと眺めていた。夢の中で、何かを問われた気がした。それが何かと聞かれてもよく分からないのだが、従来夢とはそんなものだろう。 テレビをつければ、司会者の明るい声が部屋に響く。声が響けばこの部屋は狭いが、テレビを消すとたちまちこの部屋は広くなる。暗くなれば尚更のこと。だから、私はよくテレビをつける。 でもときどきテレビを消したくなる。手が動き、テレビが消える。怠惰な朝の寝起きの感覚によく似た意識の薄さで行動している。 その日のテレビではダムの特集をしていた。ダムへ観光に訪れる人間の顔がいくつも映し出される。顔に取ってつけたような髪型をした男性や顔の大半をマスクが占める女性、親に連れられ不機嫌な顔をする子供。そのどれもが光ってみえた。 ドローン映像で捉えたダムのその水をはっきりと見た。その水の中を泳いでみたいと、思う。どこまでも深く潜って、奥底まで行ってみたかった。光る顔した人間の届かぬ奥底で、見上げた水面はどれほど心地よい夢を見れるだろうか。 夢を見た。皆が消えていく夢を見た。私を問い詰める声も薄まる。その声の鳴る、裂けた唇に浮かぶ血がどんどんと黒くなっていく。とうとう真っ黒になった血はそのまま広がって、私の周囲も黒く染めていく。光も届かず、とうとう何も見えなくなった。 目が覚め、カーテンの隙間から光が差し込む。揺れながら私の顔を照らす。顔の左側が燃えた感覚を覚える。鏡のない部屋の中で、漠然とした熱を感じていた。広い部屋に憤りを感じ、テレビをつける。黒い画面に反射していた自分の顔が消える。司会者は今日も笑顔で手を叩いている。 マスクと黒眼鏡をかけ、屋外へ出る。日差しを遮る帽子を被り、猫背に歩く。誰も私を分からぬ格好で、歩く。左頬を触り、マスクを横に引く。一度も空を見上げないまま、コンビニに向かう。 道脇の用水路を見て、またダムを思う。ダムに飛び込んでみたら、と思う。用水路に一歩ずつ近づく。近づいて、水面が私の体を反射する。太陽と私を反射した水面は、私の影以外全てが煌めいていた。 水面が反射する太陽光は揺れ、私の影を飲み込んで溶かしてしまいそうだった。実際に溶けていたかもしれない。それほど暑かった。用水路から距離を置いても、アスファルトは日照りを強くし私を苦しめた。だから足早にコンビニへ向かう。 店内の冷風は私の体を冷やし、一息つく。溌剌とした声で客を出迎えるアルバイトの人生を想像し、嫌な嗚咽が出た。できるだけレジから離れ、雑誌コーナー付近で背表紙を眺める。その中で一冊の本に目が止まる。 ダムの月刊誌だった。誰が買うのかも分からぬ本を手に取って、セルフレジへ向かう。小銭と札が溜まった財布からクレジットカードを取り出す。本を片手に店から出る。 コンビニの出口には傘立てがあり、誰かの折りたたみ日傘が置いてあった。店内に私しかいなかったことを思い出し、そのまま日傘を差して帰った。 用水路を見たくなかった。道の中央よりを歩き、慎重に避けてる車もあればクラクションを鳴らす車もあった。クラクションを鳴らしていた運転手の顔はぼやけずはっきり見えた。 部屋に戻り、冷房をつける。ついていたテレビを惰性で消した。静寂が空間を支配し、私の存在を際立たせた。ダムの本はベッド隅に置いた。たまらなく眠く、読む気にはならなかった。 そんな本を買って何をなさるんですかい。え、まだ読んでいないって。そうですかい、そんならずっと読まないままで良いでしょう。何のために生きているのか考えたくはないでしょう。 裂けた唇から溢れ出る言葉がまた私の元に届く。夢の中で、夢と分かっていながら私は逃げた。どこへ行っても声がするそいつから逃げ出した。逃げ惑っているときに、あの運転手を見た。あの運転手の顔を正確に覚えているわけではないが、そうだと思った。 その顔が私の方を向く。目と目が合うかどうかというタイミングで、声がまた大きくなってくる。離れても近づいてくるその声を聞いた顔から光が少しずつ溢れてくる。それがたまらなく嫌で私はその顔に近づく。 顔はまだ眩しくはないが、光っていないとは言えない段階にきていた。私はその顔がついている首を絞めた。きつく絞め、光の中でも顔が歪んでいるのを感じることが出来た。歪んで破裂音が鳴った。 その音で目が覚める。しっかりと閉められたカーテンは夕暮れの日差しを防ぎ、部屋は凍りついたように固まっていた。テレビの画面は暗く、反射した自分の顔を見る。顔の左側の大きな火傷跡がご丁寧に映し出されている。火傷跡をそっと撫でて、見なかったことにした。 光も音も消えた空間を手に入れた私はベッドに座り込む。声が聞こえた気がする。いや、声がしていないことは分かっている。それでも聞こえた気がする声に怯えて私は塞ぎ込む。この部屋にいるのは私だけで、声が私に向かってくる。 ベッドの隅の本が目につく。音もない、光もない。しかし、まだダムの奥底ではない。私は息を止める。光も、音も、息も止めた。それでも声がするのは私がいるからで、私は泡になって消えてしまいたかった。 息を止めて時間を数える。一、ニ、三。四つ数える頃には苦しくなったが、苦しくなるほど声のことを忘れられる気がした。心臓の音だけが体中に響く。数えることをやめれば、時間が止まるのではないかと思った。 でもそこは、やっぱりダムではなくてただの部屋だった。そう思って、時間がまた動き出す。声もまた囁く。 だから言ったじゃないですか。ダムへ行けないと理解しているから行きたいと思ったんでしょ。ダムの奥底は暗く悲しいですよ。それでも行ってしまうのですか。そうですか。あぁ、哀れだ。 あぁ。あぁ、私は。なぜ今日まで生きているのか。夢は何だろう。子どもの頃はあったのかな。覚えていないや。今の私はただ泡になってしまいたい。 叫んでいたのか、息を止めていたのか、はたまたその両方か。どちらであっても私は体を硬直させていた。 パアアアァ、と音が鳴った。危険回避のために鳴らされたクラクションが閑静な住宅街に鳴り響く。それは私の部屋にも届いた。驚きのあまり、息を吐いた。そしてその勢いのままに息を吸って、そこまできてようやくずっと目を閉じていたことに気がついた。 布団を剥ぎ、服を脱ぐ。私の全身を包み込む膜のような寝汗を拭く。カーテンを開け、テレビをつけ、本を投げ捨てる。投げ捨てた本の開かれたページと目が合う。胸の内からまた声が聞こえた気がしたのを必死に抑えていた。
管のない猫
AかBかという質問に、なんと答えるか。Aと答えても或いはBと答えても、Cであっても構わない。何を選ぶべきなのかはさほど重要ではない。あなたは心のうちから選択をしたことがありますかい。 動画サイトを放置し、自動再生の果てにたどり着いた動画の中でそんな話が聞こえた。その人は全身にフィットした上品なスーツ姿で、両手を広げ、ステージを右往左往しながら頭を左右に振っていた。決してカメラを見ることはなく、こちらと目が合うことはなかった。 パソコンを閉じて、朝食の支度を始める。既に時間は昼を過ぎていたが、目が覚めてからはさほど時間が経っていない。トースターでパンを焼き、バターを塗り、簡素な朝食の完成である。スープが欲しかったが、それ以上に動くことが面倒だった。 一人で暮らすには少し広いその家は静かで、パンを咀嚼する音ですら空間を支配するには十分だった。食事を終え、皿をシンクに放置して仏壇に向かう。線香は付けず、手を合わせて拝む。写真立ての中の母はやはり変わらない表情で笑っていた。 一人息子を育ててきた母は、切望していた孫の姿を見ることなく亡くなった。こちらの機嫌がどこまで悪くなっても気にせずに問い詰める母の堂々とした姿は、先ほどの動画の人物にどこか似ていた。自分が正しいと信じて疑っていなかった。 「じゃあ、親父に会ってくるよ」 親戚付き合いのほとんどない我が家の仏壇を訪れる人は息子以外一人たりともいなかった。仏壇に母の好きだった煎餅菓子を置き、寝巻きから着替える。 病院までの徒歩二十分間、物静かな路地で煙草に火をつける。煙草の煙を浴び、おぼつかない足取りで道を行く。住宅街を抜け、煙草の火を踏み潰したとき、一匹の猫が目の前に現れた。 狸によく似たその猫は、この地区に引っ越してきた頃からいた。夜道で見かけた時には完全に狸そのものであり、寧ろ狸の姿が正しいのではないかと思えてくる。 越してきた頃から老いているように思えたが、母よりも長く生きることになった。母が時折飯を与えていた記憶が曖昧に思い起こされる。野良猫に飯を与えない方が良いとどれだけ父が言っても母は聞かなかった。猫もそれを分かっているのか、父には全く懐かなかった。ただ見ていただけの息子にも懐くことはなかった。 踏んだ煙草からわずかな煙が上がっているのが見え、もう一度踏み潰した。猫はこちらを見つめ、歯を見せ、分かりやすく吠えた。掠れた鳴き声が母の声を思い出させる。 母も煙草を吸う息子を度々叱責していた。十代や二十代の頃は毎日のように、三十代になっても息子に煙草を止めるようによく言う母の声はとても掠れていた。 だから、猫の声が母のように思えた。母の代わりに怒っているのならば化け狸なのだが、それは見た目だけで本当は猫である。母によく懐いて、父と息子を嫌っていた老猫である。 病院に着き、消毒と受付を済ませる。病院独特の匂いが嫌いだ。薬品なのか分からないが、この空間は清廉潔白で常に正しいという極端な主張に感じ、いつも苦しくなる。白い壁や清潔なスタッフにも不快感を覚える。正しい場所が、死の近くにあることが理解できなかった。 病室に着き、ベッドに横たわる父を眺める。窓際の花瓶をなんとなく動かし、その脇に父の好きだった和菓子を置く。きんつばが好きとは実に年寄りらしいが、若い頃から好きだという。 「元気してるか、親父」 返事はない。聞こえるのは病室の外の誰かの雑談ぐらいである。父に結ばれたいくつもの医療器具に目をやる。父に繋がれた管を突然引きちぎれば、父は母の元へ行くのだろう。この管が、父をここに引き留めている。 きんつばの包装を取り、一口齧る。ほとんど餡子の味であり、異常に甘かった。父はこれをほとんど毎日食べ、酒も煙草も女遊びも、ギャンブルだってやっていた。いつも母と喧嘩していた。 母が交通事故で亡くなった日、父は何も喋らなかった。伴侶が亡くなれば悲しみを見せるのが普通だろうが、父はそうしなかった。冷たい人だと、父の背中を見ながらそう思っていたが、母の葬式では涙を流した。周囲の視線など気にすることもなく、これでもかというほど泣いていた。棺の中の母とそれに寄りかかる父を、少し離れたところからぼーっと眺めていた。父が泣き止むまで眺めていた。 病室を出て、先生と話す。医者が口を開く、言葉を耳に入れると、なんだか世界がスローモーションに見えた。言葉は普通の速さで耳に届くのだが、先生の口はやけにゆっくり動いて見えた。 父の状態を突きつけてきた。父の命をはっきりとこの身で受け止めろと、言われたように思えた。ただ眺めるだけと父ではないと知らされる。 病院を出ても、帰路についても、どうすべきか分からなかった。命について考えたことがないわけではないが、自らに選ぶことになるとは思わなかった。ただ煙草を吸って、静かな住宅街を歩く。 父の愛人が妊娠した日のことを思い出す。いつものように怒ると思っていた母は泣いていた。父はひたすらに謝っていた。結局愛人の子どもがどうなったかは知らないが、父はそれ以来ギャンブルをしなかった。 あの日母がなぜ泣いていたのかも理解していなかった。もし父の命を奪ったら、母は泣くのだろうか。それとも怒るのだろうか。母の泣き、怒る声を曖昧に思い出す。 「あ」 老猫が道の端で倒れていた。口に咥えた煙草を見ても吠えはしない。数時間前吠えていた老猫は無力に横たわっていた。煙草の火を消し、猫に近づく。これが狸寝入りで、起き上がって吠えるのではないか期待していた。 父と息子を毛嫌いしていた猫を、母は愛していた。父が愛人の元に行っていた日も、息子が母と喧嘩した日も、母は猫に餌を与えていた。野良猫に餌を与えるのはきっと良くないのだろうが、それが母の喜びでもあった。 老猫に近づき、持っていた水を口元にやる。まるで動かない。あれほど騒がしかった猫はもうほとんど動かない。父も猫も、元の騒がしさに戻ることはない。横になった老猫の周囲に、微かな薬品の匂いが漂っている気がする。父と息子への嫌悪はもう見えなかった。 家に帰り、パソコンを開くと、まだあの動画の途中だった。上品なスーツの似合うこの人はまだ右往左往していた。少しだけ目が合った気がしたが、依然として画面の中で話している、ただそれだけだった。 母の仏壇の前で、また老猫を思い出す。生きている間に猫を撫でることは叶わなかった。撫でたいと思っていたとさえ知らなかった。線香に火をつけ、手を合わす。父の不倫を知った日に泣いた母のこと、母の葬式で泣いた父のこと。それをしっかりと頭に浮かべて拝んだ。 写真立ての母が優しくこちらを見つめていた。きっと管を取ることになっても、取らなくても、迷ったままでも母は許してくれる気がする。 老猫より早く母は死に、老猫より長く父は生きた。老猫が死んだ直後に父も死んだのでは縁起が悪い。そう思った。 その晩、仏壇に煎餅を供え、夕飯を食べる。コンビニの弁当だけでは味気なかった。味噌汁を作ってみた。具材はほとんどないが、味噌の匂いが部屋に充満した。
二人の食卓
子どもを拾った。家の前に落ちていたから。坊主頭で、口は開いたまま。目は小さく、鼻も小さく、体も小さい。手には汚らしい象のぬいぐるみを持っている。 何も喋らないから、何も分からない。口から言葉は出ずとも、腹から音が鳴った。俯いている子どもを部屋にあげた。 まず風呂に入れたかったが、仕方なくカップ麺を取り出した。この家にある唯一の食料だった。子どもの不慣れな手つきでは箸を扱えなかった。この家にはフォークもなかった。こちらが子どもの口に麺を運ぶときも、子どもは象のぬいぐるみを手にしていた。 風呂に入れるために服を脱がすが、なかなか難しい。子どもに両腕をあげるように言い、ようやく上着を一つ脱がせる。ズボンも脱がせる。裸になった子どもを風呂場へ押しやる。 「いっしょ」 右手に象のぬいぐるみを、左手でこちらのズボンを掴み子どもはこちらを見つめる。仕方がなく服を脱ぐ。風呂場で子どもの体と自分の体とぬいぐるみを洗う。 脱衣所で、子どもの服がないことに気がつく。ぬいぐるみの干し方を知らないことにも気がつく。子どもの体にタオルを巻きつけ、ドライヤーを当てる。少し暴れるが、片手で押さえ、髪が乾くまで風を当てる。ぬいぐるみはベランダに置く。 子どもは濡れたぬいぐるみをベランダから回収し、タオルをぬいぐるみに被せる。もう一つタオルを持ってくることになった。 「名前は」 タオルを投げるついでに質問も投げかける。 「なまえは」 投げ返される。 「俺は翔。田中翔。名前は」 再び尋ねる。 「みぃみぃだよ」 子どもはそう言ってぬいぐるみを前に突き出す。渡したタオルを器用に体に巻きつけ、そのままこちらを見つめている。象の名前に興味はなかったが、しつこく聞くほど子どもの名前にも興味はなかった。 「そうか。みぃみぃは乾かすから隅っこに置いておけ」 子どもは逆らうことなく、ぬいぐるみを部屋の隅に置く。みぃみぃはタオルで丁寧に包まれたままだ。 冷蔵庫から発泡酒を取り出し、テレビをつける。つまみを取りに棚を漁る。適当な乾き物を見繕い、テレビの前に戻る。発泡酒に触れようとする子どもの手を遠ざける。 「これはだめだ」 ジュースをあげようとして、この家にジュースがないことに気がつく。コンビニへ向かうため、子どもを連れていく。子どもは少し部屋を振り返りながらもこちらに着いてくる。 「みぃみぃは置いていけよ」 陽が落ちるのが早く、思っているより外は暗かった。子どもは少し怖がる。タオルにしか巻かれていない子を外に連れ出すことにも躊躇する。 子どもを抱きかかえ、上着の中に包む。子どもは首元から顔を出して、辺りを見回す。片手で子を抱えながら歩く。少しすると手が辛くなり、もう片方の手に切り替える。 そんなことをしている間にコンビニに着く。ジュースとお菓子をカゴに入れる。子どもが野菜コーナーの前で声を上げる。小さな声だった。野菜コーナーの前を通るたびに声を上げる。一つ一つ商品を指差し、子どもの欲しいものを探す。 キャベツを指さしたとき、子どもは少しだけ大きな声を上げる。ジュースとお菓子、キャベツをセルフレジで購入する。キャベツを買ったせいで袋も買うことになった。 部屋に戻り、子どもを上着から解放する。子どもはキャベツを手に取り、転がすようにぬいぐるみの前に持っていく。ぬいぐるみの前で用意したジュースを飲む。コップのサイズが大きく、少し溢している。 ぬいぐるみと戯れている間にベランダの灰皿を片付ける。ポケットのタバコはそのままベランダに置く。 子どもは机の上にジュースを置く。お菓子の包装を開けることができずに苦戦している子どもを眺める。一分経っても開かない包装を代わりに開ける。 「しょ」 子どもが呟く。 「しょ、しょ。しょ。」 こちらを見つめている。それが自分のことを指していると気がつくのに少し時間がかかった。理解して、子どもの近くに寄る。子どもはジュースをこちらに渡す。受け取り、飲み、洗い場にコップを置く。発泡酒の空き缶も一緒に置いた。 テレビを消し、部屋の隅にあった汚れたテニスボールを子どもへ渡す。子どもはそれを丁寧に投げ返す。自分の方向とは少しズレた方向に転がるボールを拾い、また子どもに向かって投げる。しばらくラリーを続けた。 疲れを感じ、眠たくなった頃に子どもも少し静かになる。布団を敷き、仰向けになる。子どもは象のぬいぐるみを抱えて腹の上に登ってくる。ぬいぐるみはまだ湿っていた。 子どもを抑えるように手を前で組む。呼吸に合わせて子どもの体が小さく揺れていた。その晩は寝返りを打つことができなかった。 次の朝、子どもの声で目覚めた。顔を洗う。タオルで顔を拭き、そのタオルを水に濡らす。濡れたタオルで子どもの顔を拭く。子どもは声をあげて笑う。もう一度タオルで子どもの顔を拭った。 放置されたキャベツの葉を何枚か剥く。少し小さくなったキャベツを半分にカットする。 「みぃみぃに全部は贅沢すぎる」 一回りと半分小さくなったキャベツに気がついた子どもはぬいぐるみを撫でながらこちらを見つめている。子どもと目が合う。目を逸らし、キャベツを適当なサイズにカットした。キャベツを炒め、味付けに塩胡椒を一振りする。味見したただのキャベツは薄味だった。 ただの薄味キャベツを机に運ぶ。子どもがキャベツを覗き込む。フライパンを洗い場に置く。皿にはキャベツだけ。 フォークはやっぱりない。子どもの口にキャベツを運ぶ。うまく口に入らず、口の周りがベタベタになっていた。口元をタオルで拭うと子どもは笑う。綺麗になった口元をもう一度タオルで拭う。 まだ湿っている子どもの服をドライヤーで乾かす。その服を着せ、出かける。子どもはこちらのズボンを握っている。ぬいぐるみは持っておらず、両方の手でズボンを握っている。 百円ショップでフォークを買う。小さなフォークを手に取ると、子どもが大きなフォークを指差す。仕方がなく大きなフォークも買った。 公園に寄り道をした。何人か子連れがいたが、そのどれとも目線を合わせないようにした。何人かはこちらを見ていた。何人かは距離を置いた。 「しょお」 子どもがテニスボールを投げる。狭い部屋と違い、何度もバウンドさせて子どもに投げ返す。子どもはときどき後ろにボールを逸らす。その度に眉を縮め、少しだけ強くボールをこちらに投げる。そのボールを後ろにそらして、取りに行く。 部屋に戻り、カップ麺を作る。カップ麺に刻んだキャベツを追加した。ぬいぐるみのキャベツはさらに半分になった。 一つのカップ麺を二人で分け合う。二つの大小のフォークで分け合う。 「しょ。おいし」 フォークを五本指全て使って握っている。 「ん、美味いな」 キャベツの入ったカップ麺はいつもより味がした。
滝壺
緑が生い茂り、深緑の苔や日も通さぬ森林で、不快極まる湿気の中。道といえる道はなく、藪が支配し、段差ばかりの大地であった。 風は吹き、草木は揺れ、未開の地特有の謎は高揚感を煽る。獣道すらないこの土地に何が潜んでいるのかを想像する、その知的好奇心だけが女博士の行動を支えていた。 ただ好奇心に頼ってきた女博士は、次第に呼吸が荒くなる。藪や不規則な地面はいつまでも続き、辺りは一層暗くなる。 先に気を病むことになったのは付き添いの研究員達である。現地のガイドは笑みを見せるだけで役に立たず、通訳から発せられる言葉の不自由さは研究員達を苛立たせた。女博士が消えたということに研究員達は、意味もなく動き回り、仲間内での口論にさえ発展した。 特別印象的だったのは女博士を探すべく、森へ向かおうとする者がただの一人もいなかったことである。 「だから言ったんだ。あのお嬢様を連れてくるべきじゃないって」 研究員の一人が叫ぶが、その心配はもはや必要なかった。女博士はまだ寝床から出るには早すぎる時間帯に、見た目と頑丈さを備えた日本車と共に姿を消した。問題なのは女博士には車の免許がないということ。そして、それを咎める司法機関もこの場所にはないということ。 「もういい。置いて帰国はできない。分かってるだろ」 一人の研究員がそう呟くと、皆重い雰囲気に潰されて黙り込んでしまった。使える車両は二台あり、そのうちの良い方を持ち出した女博士の車を見る目は確かだろう。研究員はそれらしく着ていた白衣を着替え、厚手のベストを羽織る覚悟を決めねばならなかった。 一方の女博士は、もはや引き返すことも困難になっていた。車を置き、さらに藪へ踏み込んだはいいが、車の場所すら分からなくなっていた。 方位磁石を頼りに帰路を探す女博士の耳元に微かな音が届いた。手元に一切の情報がなかった女博士は、藁にもすがる思いで音のする方向へ向かった。音は次第に大きくなり、その正体が滝壺であることを女博士は察する。 その滝壺には陽の光が届き、それを反射した水面が眩しくも美しく、透き通っていた。手持ちの水を早々に消費してしまった女博士にとって、命の水であり、その瞳には涙すら浮かんでいた。 「やめた方がええぞ」 女博士が水を手で掬い、口に含もうとしたそのとき、一人の老人が声をかけた。老人は都合の良い石に腰掛け、釣具を滝壺に投げていた。街中では重装備、山中では軽装備という何とも判断のつかない老人は、女博士を見ることなくそう言った。 「ええと、初めましておじいさん。ここら辺に詳しいのかしら。いえ、その前にここに住んでいるのかしら。その釣具とても持ってこられる量ではないけれど」 知的好奇心に負けた女博士は、立て続けに質問をする。それは好奇心はもちろんのこと、老人があまりに非力に見えたということも理由の一つである。 糸のほつれや布のちぎれた箇所もある白みがかった深緑のハットを被り、手先は皺が寄り、顔には所々泥がついていた。釣具は新しく、洗練されたシンプルなデザインをしている。リールは半自動式であり、老人の力でも簡単に大物を仕留められそうである。 「死にたいのかい」 老人は女博士の質問には答えず、俯いたままの顔をあげ、女博士の方を見てそう言った。 「ここに辿り着く連中っていやぁ、自殺志願者か途方もない間抜けだけやぞ」 女博士は口を閉じ、老人を見つめるばかりであった。 二台あるうちの魅力的ではない方の車に乗った研究員達は些細な言い合いが絶えず、未だ出発できずにいた。 「何だってこのオンボロ車に乗らなきゃ何ないんだ」 「仕方がないだろ。そもそもなんで車にGPSをつけてないんだよ」 見たことのないハンドルとボタンがいくつか付いているボロ車を誰が運転するのか決まらず、助手席に座ったガイドだけが欠伸をしていた。通訳は理不尽な文句に不満を言うこともなく、研究員一人一人に対応している。 話し合いでは決まらず、簡単なゲームで運転手を決めたが、決まった後も議論はしばらく続いていた。腹を決めた運転手は手当たり次第にレバーを動かし、乱暴に鍵を回した。景気の良い音を鳴らして車が揺れる。 勢いよく発進したはいいが、すぐに狭い道幅となり軽快に飛ばすことはできない。徒歩と変わらぬ速度で、研究員達は森を目指す。後部座席と荷台では何人かの研究員が寝ており、運転手はそれに対する苛立ちを隠そうとはしない。 「死にたくはないわね。私は自殺志願者じゃないし、精神疾患でもない」 女博士は毅然とした態度で老人へ向かい直す。明らかに森林深くの滝壺では準備不足である両者の間に沈黙が流れ、滝の轟音だけが響き渡る。老人は何度か呟くが、全ての声が滝に飲み込まれてしまう。大きく息を吸い、滝よりも大きな声で話し始めた。 「君は今いくつかな。見たところ三十にも満たないだろうね。親に感謝したことはあるかい。僕には親がいなかったから感謝することはなかった。ところでカップ麺を食べたことはあるかい」 充血した目を見開き、女博士を問い詰める。釣具のリールをボタン一つで巻き戻し、丁寧に石の横へ置く。女博士は問いの意味を理解できず、口を半開きにして沈黙している。 「カップ麺を食べたことはあるかな。お湯を注ぐだけで出来上がる簡易食。災害時に役に立つほか、料理をするのが面倒な人にも欠かせない。電気ポットは使ったことがあるかな」 女博士は、あのとか、そのとか呟くが、滝にかき消され老人には届かない。 「電気ポットを使ったことはあるかな。じゃあ火を起こしたことは、自然界で水を得たことは、偶然ではなく必然的に、あるかい。多くの人はないだろう。なぜならそんな必要はないからだ。蛇口を捻り、穴にプラグを挿入し、ボタンを押すだけ。こんなふうにね」 老人はそう言って、まだ立てかけたままだった釣具のリールをすぐさま片付ける。手に持った釣具を女博士に見せつけるように前に突き出し、数秒して地面に置く。 緩やかに進み続けるオンボロ車はとうとう車では進めぬ領域まで来た。そしてそこに女博士が乗っていたはずの車両を見つける。残念ながらそこに女博士の姿はなく、研究員達は頭を抱えた。 一人の研究員は無意味に叫び、一人の研究員は諦めて帰宅を望んだ。ガイドは相変わらず笑い、通訳は戸惑っていた。 「まさか、この藪道を進んでいったんじゃないだろうな」 「おい、ここは道じゃない。ただの藪だ。あのトンチキ女がここを進むわけないだろう」 「ここを進むからトンチキ女なんだろ」 「クソ。クソクソ。あのバカ女が。やっぱり連れてくるべきじゃなかった」 車を降りた一同は無言で進み始めたガイドについていく。誰もが文句を言っていたが、ガイドから離れるものはただの一人もいなかった。 研究員の一人が滝壺の音を聞いた。皆が耳を立てる。確かに聞こえるその音に皆が反応し、音の方向へ向かおうとした。ガイドは音の方へ向かうことを拒否し、音の聞こえぬ方向へ研究員を促した。 抗議を示しながらも研究員達はガイドにしっかりと付いて行った。通訳だけがずっと滝壺の方を気にしていたが、研究員達に忘れろと諭されてしまった。 「確かに私は山では無力かもだけど、あなたの言うようにそれは必要がないからよ。文明の発展を喜ぶべきで、非難するなんて愚かしいわ。そもそも誕生してしまったものを無かったことになんてできないわ」 老人よりも小さな声の女博士の発言は滝に一部消されてしまった。老人に届いた一部の言葉が老人を笑わせた。 「君の言うとおりだ。文明は素晴らしい。文明は最高だ。そうやって我々は進化してきた」 女博士は次第に眉を顰め、その場を去ろうと考えた。 「生まれてから自分だけで立ち上がった人間はいない。君も、私も、我々の母親だって。だから君にはこれをあげよう」 老人は火にかけた串刺しの魚を女博士に向けた。その魚は鮎に近い見た目をしており、この周辺に川があることを教えてくれた。 「先ほどは水を飲むのを止めて悪かったね。ここの水は普通に飲めますぜ」 女博士は水を掬って飲み、焼き魚を口に加える。女博士の顔がすぐさま笑みで溢れる。気持ちのいい食べっぷりで完食する。 いくつかの生魚を取り出し、老人は素早い手つきで火を起こした。その火に生の魚を当てる。魚の焼ける音と匂いが女博士の食欲をそそる。 ガイドは焼き魚の匂いを逃さなかった。突然方向転換するガイドに研究員達は騒ぐ。「この道はさっき通ったところだぞ」「帰り道を把握できているのかよ」「俺らまで迷ったら許さんぞ」。口々に騒ぐ研究員の言葉を通訳は伝えない。 ようやく滝壺に着いた研究員達はそこで焼き魚を頬張るお姫様を発見する。 「あ」 口元を抑え、空腹に絶えかねた女博士は恥ずかしそうに背中を丸める。そうして滝壺に負けぬ声でこう言った。 「美味しいご飯ありますよ」 女博士の紅潮した頬は陽の光に紛れてしまう。
無表情
叫び。それは、歓喜の雄叫びや苦しみの絶叫であり、威嚇の咆哮である。あるいは何の意味もないかもしれない。今私の耳に届いている叫びの意味は分からないが、とにかく私はその叫びの正体を突き止める必要がある。そして、その叫びを止めねばならない。 その叫びが私の耳を突くようになったのは、ちょうど鮫が消えた頃からだった。三日三晩もがき苦しむような高熱を出し、それが復調すると同時に鮫が目の前に現れた。 どこへ行っても、何をしていてもその鮫は私の視界で泳いでいる。そこが山であろうとオフィスであろうと、人混みの中であろうと鮫は泳いでいた。決して私の視界から離れずに。 鮫は時に暴君と化すことがあった。食べるのだ。それは光を食べ、人を食べる。自室の照明が鮫に食べられたときは、暗がりで過ごすこととなった。鮫が上司を食べたときは心臓が止まる思いだった。しかし、そのどれもが現実のものではなかった。照明を買い直す必要はなく、上司は次の日も出勤していた。 怖くなった私は休職し、何もせずに布団に寝転ぶ。そうするとまた、あの高熱が訪れ私を苦しめた。体中が熱くなり、内側から体を噛まれているような痛みだった。体を捩り、冷やし、水を飲む。そのどれもが根本的な解決にはつながらなかった。 しかし、高熱は鮫から私を解放した。熱が出ているときには鮫が消える。熱が引くと、再び鮫が顔を覗かせる。ただ、それは全身ではなく尾鰭や顔の一部が見え隠れするだけだった。 私は目を瞑り、布団を被り丸まった。少しも家から出ず、上司に連絡もせず、ほとんど食べない生活を続けた。そうして、ようやく鮫が私の視界から消えた。 その日から私は叫びに支配された。その叫びは泣き怯えているようにも、怒っているようにも聞こえた。何よりも恐ろしいのは、叫びは私にしか聞こえないということである。外出中や就寝中に関わらず、突然叫び出す。しかし、これほどの大音量を誰も気にしていない。次第に私は、私に向けた私だけの叫びだと気がついた。 それからの日々、叫びの正体は分からぬまま過ごしている。唐突に嘆く叫びに私は耳を塞ぐが音は消えない。そればかりか胸の内が締め付けられるような痛みがする。私はその痛みに小さく唸り声を上げる。 電話が鳴る。上司からの電話が鳴る。それとほとんど同時に叫びが黙り込んでしまった。わずかな音も立てず、うるさいほどの静寂が私に訪れる。そして静寂と共に、鮫もまたやってきた。 私は電話に出る。鮫が私の顔を覗き込んでいる。泳ぎもせずに、静止して、焦点のあわない魚眼でこちらを見ている。表情ひとつない鮫は、電話を切ると同時に消えてしまった。電話に吸い込まれるように、携帯の画面の中へ泳いでいった。 私にまた叫びが訪れる。しかし、その叫びは以前のものとは異なり、少し謙虚であった。確かに存在する、怯えを私は感じ取る。叫びが私の胸を締め付ける。今度は痛みを感じなかったが、悲痛な叫びであった。 鮫は消え、叫びは静かになった。私は休職を取り消し、出社する。上司の席に鮫がいた。正しくは鮫が上司であった。一席だけ区画分けされたその場所で、スーツを着て、パソコンを操る人型の鮫がいた。 私は驚き周囲を見渡す。鮫になったもの、普通の人間のままのもの。鮫と人間の違いが曖昧になり、私は天を見上げる。オフィスの天井に鮫がいた。 天井全体が鮫の顔をしている。オフィスにいる以上叫ぶこともできず、私はトイレへ逃げ込んだ。個室で嘔吐する。嘔吐した便座の先に鮫の姿が浮かび、また嘔吐する。 全身が震えた。寒気が身体を支配し、それでいて中から煮えたぎるほどの熱さを感じた。吐き気による不快感は消えず、顔が青ざめていくのがわかる。私はどうすることもできず、ビルの外へ駆け出した。 外は雨が降っており、その一粒一粒が私を見つめていた。傘もささず、吐瀉物のついたスーツを着て、私は叫んでいた。涙も流していた。その叫びに周囲の人々が振り向く。皆、鮫の顔をしていた。 同じビルから鮫の形をした上司が私に声をかける。私は両耳を塞ぎ、叫んだ。上司が何を言っているかも、私が何を言っているかもわからなかった。上司の口が開き、その口から鮫が泳いでやってくる。私を襲おうとしてやってくる。私は雨を気にもせずに走り出した。 気がつけば、周囲の人には皆鮫の顔をしている。子供も老人も、雨やビルでさえも鮫の形をしている。道路を勢いよく鮫が泳いでいる。相変わらず、表情のない鮫だった。 鮫から逃げ惑う私を、一人の鮫が抱きかかえる。私は周囲の音の一つも聞こえぬほど叫んでいる。抱えられた私の目の前の道路を鮫が排気ガスを吐きながら泳いでいる。悲鳴を上げる鮫や、穏やかな顔で近づく鮫もいる。 叫ぶ私にある鮫が携帯電話を向ける。一人の鮫が向けると、次第に何人もの鮫が私に携帯電話を向けてくる。それぞれの携帯電話から新たな鮫が出てきて、私に向かってくる。私はそれが何よりも恐ろしく、私を抑える鮫を振り解いて逃げ出した。 逃げる私をいくつかの鮫が追いかける。雨に足を取られ転ぶ。周囲の鮫たちが私を見つめる。鮫の目からまた新たな鮫が生まれる。血が滲む足の痛みを無視して私は走る。方向は考えず、とにかく走って、私は駅に追い詰められた。 駅には様々な鮫がいた。私を見つめる鮫。距離を置く鮫。そのどれもが無表情であった。私の後ろを轟音と共に鮫が走り抜ける。その鮫には何人もの鮫が乗っており、いくつかの電線に結ばれていた。 走り抜けた巨大な鮫はやはり無表情なのだが、どこか笑っているように思えた。その鮫が私をどうにかしてくれるのではないかと思わせた。また、胸の内に叫びが響く。その叫びは周囲の喧騒に紛れて消えてしまった。 そして、叫びもとうとう鮫となり私を突き動かす。鮫の到着を誰かがアナウンスしている。私はその鮫に飛び込む。驚きや悲鳴が上がったであろうが、もはや私の耳には届かない。それは私の叫びが誰にも届かないように。 無表情の鮫たちの横で、散らばった私の体の中の鮫だけが穏やかな表情をしていた。
斜め七時
片手で壊せるほどの、自分の顔ほどの大きさの天秤を眺めているとき、あなたは何を考えるだろう。誰かは何かを乗せて重さを測り、誰かは左右の均衡を保とうとし、誰かは興味も示さないだろう。私は何もせず、じっとあなたを眺めていた。 あなたは私の右手を見つめる。あなたが手に持ったピンセットは分銅を正確に取り分ける。いくつかを適当に動かしたあなたは、一つの分銅を私の右手に乗せた。私は右手が重くなり、大きく右へ傾く。 あなたは、私の右手から分銅を取り、両の手に薬包紙を乗せる。左手の薬包紙に私にはよく分からない粉を乗せ、右手には先ほどの分銅よりもさらに小さい分銅を乗せる。私は左右の重さに揺れ動き、最後には重力に従った地点で止まる。 あなたはノートと私を交互に見つめながら、忙しなくメモを取っている。私は固定された視線の隅にあなたを捉える。あなたがまた私の正面にやってきて、私を両腕に乗る重みから解放する。私はあなたの全身を視界で捉える。 あなたは周囲を手早く片付けている。私には目もくれず、急いで片付けるあなたは机の隅に置かれた携帯電話が揺れていることに気がつかない。電話の揺れと共に私も僅かに揺れる。決して新しくて美しいわけではない私は、小さくカタカタと音を立てる。その音があなたの視線を誘導し、あなたは携帯電話に気がつく。 電話に出たあなたは、片付けもそのままに部屋から出ていってしまった。私は追いかけることも声をかけることも叶わない。電気の消えた部屋には、微かな薬品の匂いだけが漂う。 眠ることのない私は、ひたすらに部屋で同じ景色を眺めている。暗闇に光が灯ったのはあなたが出ていってからすぐだった。部屋にやってきたのはあなたではなく、あなたの友人だった。そして、私の視界には映らないが、おそらく友人に加えて教授もいるのだろう。時計の短針が五を指す時間帯にはいつも教授が来る。 友人と教授と思われる人物は中断された机の片付けを済ませる。私も定位置の棚へと移動する。この棚からは部屋全体を見渡すことができる。やはり教授がおり、友人と片付けをしながら談笑をしている。 教授は部屋に鍵をかけ、机の配置を大きく変更する。あなたはまだやってこない。友人は上着を脱ぎ、その胸部のサイズを強調する。あなたはまだやってこない。教授は友人に少し近づき、肩に手を回す。あなたは、まだやってこない。 結局、あなたはいつまでもこないまま友人の甘い声だけが部屋を支配した。あなたは友人がしていることを知らない。私は動かない視界の中で動く教授と友人を収める。 時計の短針が六になってしばらくした頃に、二人は机を動かし、部屋から出ていった。あなたはまだやってこない。あなたがやってくるのはいつも短針が七を過ぎた頃だから。 短針が七を過ぎ、あなたがやってくる。あなたはいくつかの紙をまとめ、パソコンを大きな音で叩き、短針が八を指す前に部屋を出た。部屋は再び暗くなり、タイピングの音もしない。 あなたが再び部屋を訪れたのは翌日だった。棚から私を取り、私の視界が新たなものへと変化する。今度の視界からは時計が見えない。あなたは、私やその他の道具を扱うとき、いつも独り言を言っている。それは報告であったり、愚痴であったり、意味なんてないこともある。その日は友人の話をしていた。 あなたの友人は、あなたが言うには様々な人間関係を築き、非常に人気である。あなたが言うには、友人は美しく、大変魅力的である。友人の大きな胸部は、教授だけでなく、あなたまでもを狂わせる。あなたは微笑みながら友人を語る。私は重力に従って、両腕を動かすだけである。 両腕を動かすだけであるはずの私は、あなたに付き合っているうちに痛みを感じるようになった。あなたと出会って久しぶりに動かしたからか、歳をとったからかは分からないけれど、体が痛むのを確かに感じる。 あなたが部屋から出て少しすると、教授と友人がやってくる。視界には映らないが、この部屋にはほとんど同じ人しかやってこない。あなたが放置していった私を友人が棚へと戻す。その重力に従った胸部が私と同じように揺れ動き、私もまた棚に置かれた衝撃と共に揺れる。また少し体が痛む。 机を動かし、教授は揺れ動く友人へと触れる。教授が最後に私に触れたのはいつだろうか。艶やかな友人の声が私の元まで響く。あなたは友人のこの声が聞きたいのだろうか。友人の声は軋んだ音のようであった。 二人が消え、短針が七を指す頃にあなたがやってくる。あなたは私を棚から取り出して、私を左右に揺らす。左右に揺らすと、軋んだ音が小さく鳴る。あなたは顔を顰め、私を部屋の隅に置く。そこは初めて見る景色だった。 あなたはそれからの日々、私を含めすべての器具に触ることなく携帯電話に向かう。背中が折れ曲がるほどのめり込む画面の先に何があるのかを私は知らない。重力以外に何があなたを曲げるのかも分からない。測ることもできない。 あなたは何度か呟き、携帯電話を睨む。さらに数分して、あなたは立ち上がり、電話をかける。誰かが電話に出ると同時にあなたはどこかへ行ってしまった。とうとう時計の短針が五を指し、あなたより先に教授が入ってきた。 教授と友人はいつものように机を動かす。いつもの場所に机を移動し、無造作に置く。いつもの場所に、いつもは無いものが置いてあった。私だ。机は私に容赦なくぶつかり、私の左腕は折れてしまった。興奮した二人は、私が出せる最大限の悲鳴である破損音に気がつかない。 私の悲鳴は、私より大きな友人の悲鳴に消されてしまう。机で視界のほとんどが隠されてしまい、友人が喘ぐ声だけに集中することとなった。あなたは相変わらずやってこない。机の位置を元に戻す時さえ二人は私の存在にすら気がつかなかった。 時計の短針が七を指す頃にあなたはやってくる。やってきて、私の左腕が壊れ、もはや私が何も測れないことを悟る。動けず、叫べず、ついには測れなくなった私を、あなたは机の上にそっと置く。あなたは壊れた左腕を私の右腕に置く。私は左腕の重さに従って右に傾く。 あなたは、なぜ私が壊れたのかを考えるかもしれない。研究熱心で賢いあなたは机が動かされたことに気がつくかもしれない。それでもあなたは私が見てきたものを知ることはできない。 あなたは私を袋に詰め込む。ビニール袋越しのあなたは少しぼやけて見える。ぼやけたあなたは、また腰を折り曲げて携帯電話に向かう。時計の短針はいつの間にか八を指す。八を指すとほとんど同時に教授がやってきて、あなたは私を教授に紹介する。教授の所有物をあなたが紹介する。 教授はあなたを軽く叱責する。ぼやけた視界であなたが頭を下げる。あなたは何度か謝罪の言葉を述べる。二人は私の方をあまり見ない。ただ怒り、謝る。腕の折れた私は、常に右に傾く。斜めに傾いて、ぼやけた視界からあなたを見つめる。ずっと眺めている。 二人を視界に収める。二人の視界に私は映らない。古くなった私の右腕は少しだけ軋む。
飛沫と残滓
ホーム上で駅員が最終列車を知らせている。目が覚めた頃には男の目的地である駅を一つ過ぎていた。戻る電車もない男は駅を降り、窓を叩いて寝ているタクシー運転手を起こす。乗客が来たことを確認した運転手はため息をつき、気怠げに目的地を尋ねた。 「小学校の近くまで」 運転手は男を数秒見つめたのち、何も言わずに車を走らせた。駅から小学校までは十分ほどかかるが、その間、両者に会話はなかった。 小学校の近くで降りた男は適当に決済し、運転手もまたすぐに帰っていく。フェンスに囲まれた校庭は男の想像よりも小さく、ビルほどあるはずの校舎は三階建てのボロだった。 男は実家へ向かう前に、少し小学校の周りを歩いた。校庭の隅の方に生えている銀杏の木は暗がりでも目立っていた。視覚以上にその臭いが、校庭の香りを思い起こさせる。 一周した男は、校門の前に立ち関係者以外立ち入り禁止の看板をそっと撫でる。昇降口と下駄箱の前にある池を見る。看板を無視して、池の前に立つ。鯉がいない。 その池には、小石を投げて遊んだ鯉がいなかった。男は手のひらより少し小さな石を池に投げつける。石が沈む音は男の想定より大きく、男は周囲を見回す。 学校のすぐ脇を車が通り、そのライトに一瞬男が照らされる。車は止まる素振りもなくそのまま通り過ぎてしまう。男は実家へ向かって歩き出した。 「お邪魔します」 玄関を開けると、まだ家族は起きていた。 「おかえりおかえりぃ」 妹が玄関まで迎えにくる。缶ビールを片手に持つ背の低い妹は男を出迎える。居間では、父が録画番組を眺めている。母は台所に立ち、そこからテレビを眺めていた。 居間の隅で男は上着も脱がずに腰を下ろす。父はテレビから顔を動かさない。母が男にお茶を渡す。 「そういえば、鯉がいなくなってた。なんか知ってるか」 一方的に父と会話を弾ませる妹に男は尋ねる。男はようやく上着を脱いで、お茶を一口飲む。思った以上に熱かったお茶に男は軽く舌を振る。 「何が、てか何の話なのそれ」 笑いながら妹は父から男は体の向きを変える。 「そりゃあ、小学校の。池にいたじゃん。池に鯉が」 男は軽く首を傾げ、当然のように答える。妹もまた首を傾げながら「いたかなぁ」と悩んでいる。男は鯉を覚えていない妹を目を細めながら見つめる。 「いた気もするけど覚えてないなぁ。てか、鯉がいないとなんなのよ」 妹は再び笑みをこぼし、適当に返事をしながら、徐々にスマホへ視線を移していった。男は依然として首を傾げている。 物置となった自室で寝ることはできず、男は居間のソファで横になる。池の鯉が瞼の裏に映り、息を吸う。なかなか寝つくことができず、男は明日の予定を振り返る。様々な考えが男の頭を巡っている間に、男は深い眠りについた。 翌朝、といっても昼過ぎに男は目覚める。妹はすでに家におらず、父と母は各々が自由に過ごしていた。男は夜まで予定がなく、もう一度小学校へ向かった。 昼間の小学校には小学生がいる。通りは車が通り、銀杏の木は匂いを放っていた。遠目に見た池に、鯉はいなかった。昼間に堂々と侵入するわけにもいかず、男は周りを無意味に歩いていた。 「田里か、田里だよな。久しぶり」 男が声をかける視線の先には、手入れされていない髪と髭を蓄え、猫背で眼鏡の男がいた。 「小学校以来だな、まだこっちいたのか」 返事のない眼鏡の男は、羽織っている半纏を少し揺らして男から距離を取る。両腕を胸の前に縮め、顔を下げ、視線だけで男を見つめる。 男も田里の様子に気がついて声を詰まらせる。両者の視線は交差するが、そのまま沈黙が流れた。田里は逃げはしないが、喋りもしなかった。男もまた沈黙に気圧されていた。 男が名乗ろうとして一歩前に詰める。田里も一歩下がる。小さく、男が「あのっ」と呟くとほとんど同時に、田里は走ってどこかへ逃げてしまった。男は田里を追いかけない。 男はそのまま何をするでもなく街を懐かしみ、駅に新しくできた喫煙所で煙草を吸った。無意識に二本目の煙草に火をつけており、ほとんど吸うことなく煙だけが宙に昇る。 気がつけば約束の時間が近づいており、男は目的地の居酒屋へ歩き出す。すでに気心の知れた友人が待機しており、軽く肩をぶつけ合う。少し遅れて到着した友人とも肩をぶつけ合い、地元の仲を確かめていた。 「ほんま久しぶりやんなぁ」 乾杯をする前から会話は盛り上がり、身の上話を共有し合う。男は酒もすすみ、身体を揺らして笑っている。友人もまた声を響かせる。男は煙草を吸いに一人の友人と席を外した。 「そういえばさ、田里って覚えてる」 喫煙所で昼間のことを話した。田里の名前を男が話すと友人は少し顔を歪め、空っぽの相槌を打つ。特段盛り上がることのない田里の話題はすぐに終わり、二人は再び席に戻る。 男と友人はぎこちない笑みで席に着く。二人の間に視線が交わされることはなく、男は酒を飲むばかりであった。全員が千鳥足で歩く。聞き取れぬ別れの言葉で解散し、男はシャワーも浴びずにソファへ倒れ込んだ。 眠れずに唸る男は夢を見ていた。髭もなく、髪も整った、ランドセル姿の田里がそこにいた。池の縁に座り込み、抱え込んだ銀杏を一つずつ丁寧に投げ込んでいる。 田里の投げた銀杏に鯉が飛びつき、池には次々と波紋が広がる。膝を折り曲げ、池を覗き込む田里を校門から離れて男は見ていた。次の瞬間、先ほどの波紋を全てかき消すほどの水飛沫が上がる。 鈍い音と共に男は目覚める。男はソファから落ちており、フローリングで横になっていた。すぐに立ち上がり、水を飲む。汗は止まらず、ひどい頭痛がした。無性に甘いジュースが飲みたくなり、男はコンビニへ出かけた。 虫の音しか聞こえぬ田舎のコンビニは物静かで、入店の音が鳴り響く。男は子供らしいジュースを買い、一口飲む。一口飲んで、その不味さに驚き、すぐに捨てた。眠れる気もしなかった男は、再び小学校へ向かった。向かわねばならぬ気がしていた。 夜風独特の匂いが男を揺らす。男の体は驚くほど冷えていたが、体は震えていなかった。白い息を吐き、目を見開いて校門へ向かう。男は膝を折り曲げ、池の縁に立つ。やはり鯉はいなかった。 鯉はいないが、男は銀杏を数個持ち、再び池の縁に座り込んだ。銀杏を一つ落とすと、小さな波紋が広がる。手のひらサイズの石を男が池に落とすと、もっと大きな波紋と水飛沫が生まれた。 男は立ち上がり、息を吐く。無精髭を撫でる。銀杏の香りが薄くなり、耳鳴りがした。耳鳴りが悲鳴のように聴こえた。男は虚な目で眉を下げる。 夜風が男の体を冷やし、乾燥した風が吹く。男は池の水を眺める。男は脱力し、冷えた体は震えていた。池は大きな飛沫と共に弾け、男の全身を包み込む。 男は水の中で呼吸を止め、筋肉は強張る。 男の耳には何の音も届かなかった。男は池の中でじっとしている。顔を上げ、一度息を吸う。風が濡れた体を凍らす。男はもう一度池に沈んだ。
眩暈
眼前の真っ赤な絵画をいつまでも眺めていたいと思ってしまった。それは、背丈の倍ほどある大きさに圧倒されたからでも、極められた技量に衝撃を受けたからでもない。その絵画は、高く叫び、どこまでも行こうとしていた。 自室の隅に座り「西洋美術の簡単な歴史」という題の本をペラペラとめくり、適当なページを開く。文字は読まず、絵画の写真だけを見つめる。時には三十分見つめ、時には数秒だけ見つめる。今日は五秒で本を閉じた。 振動が机に伝わり、着信音を切った携帯が電話を知らせる。 「はい、もしもし」 着信画面の美香子の文字に目線を送る。 「あ、もしもーし」 少し落ち着いたトーンで美香子が応える。 「どうしたの」 「どうしたも何も、由香子最近アトリエに来てないと思ってさ。なんかあったの」 いつか聞かれるとは思っていたが、いざ聞かれると用意していた言い訳が素直に出てこない。間抜けそうに悩んだふりをしながら呼吸を整える。 「いや、私たちフリーターでしょ。貯金ないなと思って」 美香子はあまり納得していないであろう声色で返事をした。私は詮索されぬうちに電話を切った。 やめますの一言が言えぬまま一ヶ月が経った。師匠や美香子に相談もしていない。突然いなくなるわけにも、ずっといるわけにもいかなかった。 最後に一度だけ行って終わろうと、何度目か分からぬ決意を胸に、冬服にはやや薄いアウターを羽織った。冷たく乾いた風は想像以上に強く、マフラーを持ってくれば良かったと後悔した。寒いのは嫌いだ。 アトリエに着くと師匠が整理整頓をしていた。 「こんにちは。手伝いますよ」 簡単に挨拶をして、還暦近い師匠の代わりに清掃を手伝った。アトリエに美香子はいなかった。 師匠と私は作品制作に取り掛かる。室内といえど見窄らしい作業着では少し冷える。軍手に飛び散る絵の具を服で何度か擦る。師匠との間に流れる沈黙が、また私をこのアトリエに留める。 息を吸うと、絵の具が生み出す独特の香りが際立つ。大きく分厚いキャンバスに筆を運ぶと、べちゃりと鈍い音を立てて色が動き出す。平らなキャンバスに立体感が生まれた。 私は暖色を好んで使う。柔らかい色合いが好きだった。反対に、美香子は寒色をよく使う。寒色が好きなのではなく、暖色、特に赤色が血のようで嫌だという。私はキャンバスに赤を塗りながら、そんなことを思い出していた。 「こんにちはー」 キャンバスに向かう視線と集中力を切ったのは美香子の声だった。 「おや、田山さん。今日は休みかと」 「いやぁ、彼氏と喧嘩しちゃって。むしゃくしゃして絵を描きにきました」 またか、と思った。このカップルはよく喧嘩をしている。それを分かっているため、師匠も興味なさそうに返事をする。そそくさと作業着に着替えた美香子は準備を進める。なんとなく居心地が悪く、コンビニまで出掛けた。 入り口のすぐ脇に寄りかかり、缶コーヒーを飲む。今日も辞めたいとはいえないだろうなと考えていた。 「もしかして、由香子さんですか」 全く聞き覚えのない声に戸惑う。私は寄りかかった体勢をやめ、まっすぐと立った。 「そうですけど」 コーヒーを啜りながら、知り合いでもナンパでも困らぬトーンで返事をした。 「いや、急にすみません。初対面ですよね」 すぐにでも無視してアトリエへ帰りたかったが、アトリエに戻りたくもなかった。 「実は美香子の彼氏の佐々木なんですけど」 コーヒーを少しだけ強く握り締める。恐らく驚きの表情は隠せていないだろう。唖然とする私に依然として彼氏は続ける。 「やっぱり、めっちゃ美香子にそっくりですね。一目見てすぐに分かりましたよ。名前も似ているし、本当に姉妹みたいだ」 私はまだ何も言っていないが、もう仲良くなったつもりの佐々木は距離を詰める。美香子と似ていると思った。つい先程まで、喧嘩していたとは到底思えない明るさもどこか癪だった。 「よく言われるんですけど、性格は全然違うんですよ」 「そうなんですか。言われてみればちょっと雰囲気違う気もしますね」 その場では他愛もない会話をし、連絡先を交換した。美香子には黙っておくことにしたが、それは彼の意思だった。私としてもその方が面倒でないため助かった。 アトリエに戻ると美香子は体全体で描いているかのように、動きのあるダイナミックな絵を描いていた。勢いそのままの絵は感情剥き出しだった。しかし、何か所かが塗りつぶされていた。 その日の夜、美香子から電話がかかってきた。どうせ彼氏の愚痴に決まっている。喧嘩した直後は大抵私に電話をかけてくる。定型分のような悪口は聞き飽きた。毎回疲れるのだが、今日は彼氏の顔を想像しながら話を聞いた。 美香子の怒りが三周ほどした頃、佐々木からメッセージが来た。つい目に入った佐々木の文字列に気を取られ、美香子との電話を適当に終えた。 佐々木からも同じ内容の愚痴が来ていた。私は裏で暗躍している気分となり、佐々木の愚痴を聞くことにした。あまり喧嘩をされては厄介だ。 次の日の晩に私は佐々木の待つ居酒屋へと向かった。愚痴をこぼしながら、酒を飲む佐々木は、とうとう路上に座り込んでしまった。 水を無理やりに飲ませ、佐々木はようやく少し落ち着いた。タクシーで送るにも、私にそこまでの余裕はなく、看病ついでに私たちはホテルに向かった。 佐々木はすぐにベッドに倒れ込んでしまった。私はシャワーを浴びて体の汗を流した。シャワーを浴び終えたとき、佐々木はまだ起きていた。ベッドの上に座り込み、まっすぐとこちらを見つめていた。佐々木は私の目を見つめながら倒れ込んだ。そうしてすぐに大きないびき声が鳴り響く。私はもう一度シャワーを浴びた。もう洗うところなどないけれど、浴びずにはいられなかった。 次の日、私は師匠に電話をして二人きりで話したいと伝えた。美香子に会うことなく、ひっそりとこのアトリエから消えてしまいたかった。 師匠に会いに行く日は寒く、いつも以上にインナーを着込んで出掛けた。アトリエに着くと、師匠は椅子に座ってじっとしていた。私も椅子に座り、二人の間に沈黙が流れる。 「辞めるんですよね」 師匠は穏やかに私を見つめる。穏やかすぎる表情で師匠はそう言った。こういうことを察せる人だと知っているから、驚きはしなかった。 「はい」 あれほど言えなかった言葉がするりと溢れた。抵抗も躊躇いもなかった。師匠は小さく息を吐くだけで、何も言わなかった。 アトリエに置いたままの私物は後日取りに行くことにした。今なら寒色の絵を描ける気もする。絵を描きたい。本当ならまだ描いていたい。私はアトリエに背を向け、帰路についた。 家に帰って冷蔵庫を開ける。自炊するほどの余裕はなく、作品完成のご褒美に買ったプリンだけがある。プリンを取り出して一口食べる。冷たくて、甘い。私は佐々木の連絡先を消し、美香子に辞めることを告げた。 それからはアルバイトのシフト数を増やし、働くことに集中した。一週間ほどして、アトリエに荷物を取りに行った。美香子からはいまだ返信がない。だからいつもデートをしている金曜日の夜を選んでアトリエに向かった。 だが美香子はいた。背丈の倍ほどもある巨大なキャンバスに真っ直ぐと向かっていた。私がアトリエに入ると、美香子の筆の動きが止まり、またすぐに動き始めた。私は声をかけることができずに、静かに荷物をまとめる。アトリエの入り口で感謝の言葉を師匠に告げる。師匠は軽く会釈をしてすぐに扉を閉めてしまった。 美香子はまだ絵を描いていた。声をかけることはできず、私がアトリエを出るまで美香子がキャンバスから目を離すことはなかった。 コンビニで買ったコーヒーを帰り道で啜る。空き缶となったコーヒーを強く握るが、スチール缶は潰れない。 自室に着くと、体の震えが止まらなくなった。暖房をつけても、毛布を被っても、その震えは止まらなかった。視界の隅に西洋美術の本が見える。その本を無造作につかみ、部屋の角へと投げ捨てる。 一週間ほど経って、美香子から返信が来た。 「アトリエで私の作品を見て」 簡潔に一文だけが記されていた。 どうして良いのかは分からなかったが、私は身支度を始め、アトリエへと向かっていた。きっと、あの作品が完成したのだろう。それを見なければならない気がしていた。 アトリエは閑散としており、いつも以上に整頓されていた。師匠も美香子もいなかった。それだけに一枚の巨大なキャンバスが際立っている。作品の前に立ち、私は動けずにいる。体の芯から止まってしまっているのではと思えた。 真っ赤で、背丈の倍ほどのその絵画が私を縛り付ける。何を表しているかも分からない、弾けた絵の具はどこまでも抽象的だった。耳を塞ぎたくなるほどの叫びが聞こえてくる気がした。 体の震えは止まり、寒さも感じない。ただ暑く、暑すぎた。顔が熱くなり、体は火照る。痛いほどに。 太陽は直視できない。この絵も同じで、私はそれを直視してしまった。 少しだけ息を漏らし、呆然としていた。
見ず
彼氏が姿を消してからちょうど一年経った。あの輝く笑顔や嫌になるほど真面目な彼を見捨てたわけじゃない。それでも私は警察を訪ねたり度重なる連絡をしたりしない。そもそも普段から連絡頻度は少なく、一週間返信がないこともあった。しかし、一年も連絡がつかないのはこれが初めてだ。 同棲しよう、と言い出したのは私からだ。二つ離れた年齢は問題ではないが、婚期を逃せないと焦っていたのは年上の私だろう。彼はああとかうんとか、手元の液晶画面を見ながら適当に返事をした。 私は週の半分以上を彼の家で過ごしていたし、実家を出たいと昔から考えていた。彼もよく私のことを泊めてくれた。曖昧な返事でも同棲することに反対ではないと思っていた。本格的な同棲のプランを立てる頃、コンビニに出かけた彼はそのまま帰ってこなかった。 だから私は彼の部屋で一人暮らしをしている。とはいっても部屋に彼のものは未だに残っている。片付けてしまうと彼の痕跡が消えてしまう気がしたが、使ってしまうわけにもいかない。彼の歯ブラシやコップは出て行った時のままで、干してあるタオルでさえそのまま取り込んでもいない。最も手がつけられないのは彼の書斎だ。 彼はずっと読書家であった。読書家というよりも文学マニアやオタクに近く、物語を読むことに加えて書籍を収集する癖も持ち合わせていた。そんな彼のコレクションが詰まった部屋は彼の存在そのものに近かった。 トースターでパンが焼けた音とインターホンの音が同時に鳴る。どちらを先に対応すべきか少し悩んだが、トーストを二枚の皿に置き、バターを冷蔵庫から取り出すことを優先した。そうして準備を終えてから玄関を開ける。 「もうみーちゃん遅いよぉ」 扉の前に立ち、私をみーちゃんと呼ぶのは菜津だ。彼氏ですら私のことをみーちゃんとは呼ばないが、彼の妹である菜津はそう呼ぶ。 「ごめんごめん」 彼と菜津は年子なので私とは三歳差ということになる。それでも年齢の壁を感じることはほとんどなく、むしろ彼よりも仲が良いかもしれない。そして、彼が失踪しその関係はより強固なものとなった。 「わっ、良い匂い」 少し耳の焦げたパンの匂いに釣られつつも外靴を丁寧に揃えるのは兄妹だなと感じる。そそくさとパンに手を伸ばす菜津に鋭い視線を送ると、菜津は渋々洗面台に向かった。几帳面なのに衛生面を気にしないのも、地面に落ちたポテトチップスをそのまま食べる彼に似ている。 「菜津はピーナッツクリームのが良いかな」 私はパンには絶対にバターと決めているのだが、菜津は甘くないパンはパンじゃないと言い張る。ここは兄とは違う。彼は絶対に何もつけない。 私と菜津は朝食と呼ぶには少し遅く、それでいてどうあがいても昼食にはなれない食事を済ませる。私が皿を洗っている最中に菜津はボディラインが強調されるスポーツウェアに着替えていた。 「みーちゃん早く」 私も菜津を待たせぬようにすぐに着替える。私のウェアはややオーバーサイズで菜津と比べて色合いも地味だ。もっとも菜津と違って出るようなボディでもないのだが、サンバイザーをつければおばさんになってしまう色合いの服はどうかとも思う。 ダイエットのためのジョギングを提案したのは私からだが、どうにもやる気のない私のためにわざわざ家に来て連れ出してくれるのだ。公園や川沿い、ときには小規模の山登りまでコースはさまざまだが、今日は川沿いのコースだった。 川沿いのコースは私のお気に入りで彼ともよく散歩していた。彼は散歩が好きでよく私を連れ出すのだが、気まぐれに寄り道をしては私を困らせた。川沿いで綺麗な石を探し始めたときは流石に笑ってしまった。 「ちょっと、待って。速い」 菜津は運動部だった経験からくる体力で万年帰宅部の私とみるみる距離を開いていく。 「ごめんごめん。でもみーちゃんも体力ついてきたよね」 「いやぁ、どうだろ」 「でも、前はもっと早くバテたから私運動にならなかったもん」 笑いながら不満をこぼす菜津に私は言葉が出ない。あれだけ走っても疲れないとはもはや怪物の域である。よく考えれば彼も寄り道ばかりだったが、先に疲れて帰りたくなるのはいつも私だった。 翌朝、トースターの音が軽快に鳴る。菜津の来ない日であったが二枚の皿を出していた。一枚のトーストを食べ、二枚の皿を洗った。 空気清浄機だけが音を奏でる静かな部屋が奇妙で私はすぐに外出した。彼がいなくなってからは週の半分以上を菜津と遊んでいる。そうでない日は母親の介護がほとんどだった。 その日も老人ホームへ向かう。川沿いの道をずっと歩いていけば辿り着けるのだが、私の体力ではかなり辛い。今日こそは歩いてみようかと考えて、スクーターに腰を下ろす。 老人ホームの受付は顔馴染みとなり、ほとんど顔パスであった。杉田佳代子の名前の横にチェックを入れ、軽い会釈を済ませれば入場可能である。 「杉田さん、みこさん来ましたよ」 清潔であることをこれでもかと証明するマスクと手袋、白い服を着たスタッフが母に声をかける。どこか気の抜けた様子の母は私を見ても特に表情を変えようとはしない。 「あぁ、みーこかい」 やはり目の焦点の合わない母を見てどこか可笑しく思えたが、なんとなく罪悪感を感じ、表情を緩ませることはなかった。 「佳代子さん、元気してるの」 私は母を佳代子さんと呼ぶ。小さい時からそう呼んでいる。それは血縁関係では伯母に当たるからであるが、母は出会った時からみーこと可愛らしく呼ぶ。私は佳代子さんのままである。 「今日はデザートが美味しくてねぇ」 「良いねぇ、何食べたの」 「甘くてね、白くて、あの、なんだったかしら。あぁ、将史さんにも食べさせたい」 「杏仁豆腐ですよ、杉田さん」 「あぁ、そうだったわね。将史さんにも食べさせたい」 母は父の話をよくしている。それは私が来たからではなく、私がいないところでもということはスタッフからよく聞いている。父は、つまりは伯母の旦那ということになるのだが、若くして肺炎で亡くなっている。 私が彼と同棲する少し前からほとんど実家にはいなかった。母はその期間一人で過ごすことが多く、申し訳ないことをしたと思う。彼が失踪する少し前からホームに入居したのだが、笑顔が増えたらしく、私としては嬉しい限りである。 母は父の話題を私がいる最中ずっとしていた。私の記憶では父が生きているとき、母と親しげに会話していた覚えはない。父が亡くなってから、母にとって父親は忘れられない存在となっている。 スクーターでの帰り道、川辺に菜津が座り込んでいるのが見えた。私は道路脇にスクーターを止めて、菜津の元へと向かった。菜津は石をピラミッドのように積み上げていた。 「何してるの」 私が声をかけると、菜津は驚いて積み上げていたピラミッドを崩してしまった。 「びっくりした。みーちゃんか」 「ごめんごめん」 「これはねぇ、お墓を作ってるの」 私は想像もしない答えが返ってきて私は素っ頓狂な声を出してしまった。間抜けな私の声を聞いて菜津はけらけらと笑う。 「一ヶ月ぐらい前に川で溺れた子供のニュース覚えてるかな」 まるで記憶にないが、一応思い出す所作を取ってみる。菜津は普段は適当だが、意外にも時事には詳しい。自主的に新聞を購読する若者は珍しく、テレビも見ない私とは対照的だ。 「全然、この川じゃないんだけどさぁ。なんかこうして墓を作ってあげれば、一人でも君たちのことを覚えてるって伝えられる気がして」 決して重くならないように笑いながら菜津はそう言ったが、その言葉は軽くもなかった。自分にはなんの関係もない事故、それを忘れることをしない菜津は優しいと思う。私なら次の日には忘れてしまうだろう。ここまで覚えてくれるなら、菜津の旦那さんになる人は幸せだろう。まず間違えなく、先に死んだとしても忘れられないはずだ。 「優しいね」 私がつぶやいた言葉は風に流されてしまい、菜津には届かなかった。菜津はそのまま立ち上がり、ピラミッドの一番上の小石を思い切り川に投げつけ、水切りをする。数回だけ跳ねた小石は情けなく川へ沈み込む。 「よし、お兄ちゃんの家を掃除しに行こう」 突然の提案に私は言葉が出なかった。私よりも先にスクーターの元へ駆けつけた菜津を追いかける形でスクーターに跨る。 「バレないバレない」 私のスクーター二人乗りできないと注意する前に先手を打たれてしまった。仕方がなく、警察に見つからないことを祈りながら家へと帰った。 掃除を始めてみると思ったよりも汚れている箇所は少なかった。最近は掃除していないはずだが、なかなか綺麗になっていた。干したままのタオルは新品のような膨らみを持っていた。 「これ交換しちゃうよ」 菜津がそう言って持ってきたのは毛先の広がった二つの歯ブラシだった。彼の分まで交換されてしまうことに少し抵抗があったが、止めるほどのことでもなく、そのまま二つの歯ブラシは新品となった。 「いやぁ、意外と掃除するところないね。あとは書斎ぐらいか」 胸の鼓動が速くなる。言われることは分かっていたはずなのに、いざ言葉にされると異様な緊張感が私を包み込んだ。兄の本に触れると昔から怒られるからといい、菜津は私を書斎へと追いやった。 「失礼、します」 誰に告げるわけでもなく、独り言のようにつぶやいて、書斎の扉を開いた。 「どうぞ」 開いた書斎の先に、彼がいた。彼は新刊を机の上に積み上げ、じっくりと読んでおり、振り返ることもしない。あまりにも自然にいるものだから、彼に問うこともできなかった。 「久しぶり、に、声を聞いた気がする」 久しぶりで止めようとして、なんだか違う気がして無理やりに続けた。そこでようやく彼はこちらを振り返った。手に持つ本をそっと机に置き、記憶の中のままの表情で。 「僕こそ、久しぶりに声を聞いた気がする」 彼は自嘲気味に笑いながら机を指差した。そこにあったのは婚姻届だった。結婚しよう、と彼が言った気がした。いや、確かにそう言った。タオルは勝手に綺麗になったわけではないし、歯ブラシも勝手に毛先が広がったわけではない。 「きゃー、プロポーズぅ」 書斎を覗きにきた菜津が大袈裟に叫んだ。婚期を逃すまいと焦り、妹とも仲良くなった。老人ホームの母に孫を見せたいと感じている。それなのに、婚姻届にすぐ手を伸ばすことができなかった。耳の奥に水切り石が沈む音が残響している。 母が父を死後に思い出すように、菜津が報道された子供を弔うように、彼を死後に思い出す、そんな恐怖が身体を締め付ける。唇が震え、手先が冷え、気分が悪くなりトイレに籠った。彼も菜津も私をとても心配している。 それからは、なんてことない元の人生へと戻った。菜津はよく遊びにきて、母を度々訪ねる。そこに彼がいる。彼はあれ以来二度と結婚しようとは言わなかった。