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47 件の小説トナカイ牧場
一つ一つは牧草を微かに揺らす鼻息でも、一斉に百と鳴れば壮観である。両端を同時に観測することが難しいほど広大な柵の中で、無数のトナカイが気ままに過ごしている。薄暗く透き通った空は少し青みがかっており、遥か北方にオーロラが見える。 柵の横には二階建ての小屋がある。柵に対してあまりにも小さな小屋は、柵の反対側へ行けば見えなくなってしまうだろう。屋根上の風見鶏がそよ風で小さく揺れている。 小屋の一階には柵側に繋がる大きなシャッターがひとつだけある。反対側には見たことのない機械と人一人分のドアがある。 機械とシャッターのちょうど真ん中の地点には暖炉があり、火の弾ける音が心地よい。そのすぐ傍にロッキングチェアと机がある。机の上にはワインボトルとグラスが置かれており、空のグラスにはワインがほんの少しだけ残っていた。 椅子の上ではふくよかな男性がうたた寝しており、呼吸に合わせてカーブした椅子の足が揺れる。不快感のないいびきが室内に響く。 凄まじい衝撃音が外から聞こえた。強烈な風がシャッターを打ちつけ、揺れるような轟音が鳴っている。男は飛び起きるように目覚め、シャッターを見つめている。数秒の後、風は弱まり、シャッターの音も静まった。外からはトナカイの鳴き声が聞こえる。 男は一呼吸ついてシャッターの横にあるボタンを押す。微かな機械音とともにシャッターが開き外の様子が少しずつ見えてくる。薄氷や雪煙が舞い上がり、視界はやや靄がかっていた。 男は二階で寝ているはずの犬を起こしに階段を上る。犬たちは全て目覚めており、鳴くこともせず窓から外を眺めている。男に気がついた犬は尻尾を振り回す。 犬を連れて外へ行き、小屋の外に置いてあった木製のソリを見る。ソリには目立った外傷はなくすぐにでも使えそうであった。 犬を全てソリに繋ぎ、音の鳴った方へ向かう。柄の異なる複数の犬は一直線に同じ方向へ向かい、ソリは勢いよく加速していった。何匹ものトナカイを追い抜き、時にはぶつかりそうになりながらソリは進む。 近づくほどトナカイたちは慌ただしくなり、逃げ出すように走っていたり、とにかく鳴いていたりと様々な反応を見せていた。 さらに進むと何匹か倒れているトナカイもいた。音のした場所に着き、ソリを止めた。男はソリから降り、白い髭を触りながらそれを眺めている。 数十匹のトナカイが倒れており、うち一匹は完全に身体がなく、首から先だけになっていた。惨状の中心に男の顔より少し小さい岩が落ちていた。そこにはクレーターができており、男は空を眺める。 男は倒れているトナカイの近くで腰を下ろす。一匹ずつ目や脈を確認し、死んでいるトナカイだけをソリへ運んだ。軽々とトナカイを持ち上げ、ソリの後部に重ねた。三匹をピラミッド形に積む。その横に首だけのトナカイを置く。 残りのトナカイを一匹ずつ優しく撫でると、倒れていたトナカイはゆっくりと立ち上がりどこかへ走り去っていった。中には鼻息と共に男へ身体を寄せるトナカイもいた。残ったトナカイ全てが起き上がったのを確認してソリへ戻る。 三匹と首一つをロープで括り、ソリは再び走り出す。犬たちはトナカイの重さに行きよりも遅く、また、トナカイを落とさぬように男も慎重にソリを進めた。道中で倒れているトナカイを発見し、そのトナカイも起こした。 行きの倍ほどの時間をかけて小屋へ戻ると、シャッターを開け、ソリごと室内へ入れた。それほど大きくない室内はソリだけでほとんど大部分を占めている。ロープを解き、首だけのトナカイを部屋の隅に置く。三匹のトナカイを床に並べ、ソリを再び外へ出した。 男は瓶を手に取り、三匹のトナカイの横に屈んだ。一匹ずつ毛並みや角、口内などを確認する。しばらく確認し、瓶から錠剤を取り出した。中には二錠しか入っていない。 一つは真ん中のトナカイの口へ入れた。数秒するとトナカイは起き上がる。最後の錠剤を手に取り、残り二匹を見比べる。小さな方のトナカイへ与え、すぐに起き上がったトナカイ二匹を外へ追いやる。 瓶をゴミ箱に捨て、別の瓶を持ってきた。瓶から数滴手に垂らし、その手でトナカイを撫でた。その液体を全身に丁寧に塗っていく。数分かけて全身に塗り終え、そのトナカイを機械にセットする。トナカイは吸い込まれるように機械の中へ入り、小さなモーター音と共に見えなくなった。 機械が作動している間に首だけのトナカイを机の上に乗せる。男は静かにお辞儀をし、天に祈った。微かに聞こえる機械音が静寂を強調しており、息を吐くことすら憚られる中、男は祈り続けている。 祈り終わる頃には機械は作動し終えていた。ボタンを押すと、小さな錠剤が十個ほど出てきた。その錠剤を新たな瓶に入れた。 男はポケットから硬貨を三枚取り出す。金の硬貨には翼の生えた女神が刻まれていた。二枚は機械にセットして、首だけのトナカイを機械へ持ってきた。トナカイの口の中に残り一枚の硬貨を入れ、機械にはめ込む。 機械の脇についている配管口のような場所に白く大きな袋を置く。ボタンを押すと、再び機械は作動し始める。その様子を眺めながらロッキングチェアに腰掛け、暖炉に体を寄せる。グラスに新たな飲み物を注ぐ。白ワインだった。 しばらく眺めていてもまだまだ機械は終わりそうになく、男は犬を連れて外に出た。犬の散歩も兼ね、再び岩を訪れた。岩は依然としてそこにあり、トナカイたちは岩からは少し離れていた。 岩を持ち上げようとしたが、あまりに重く、数回挑戦して諦めた。ソリから大きなピッケルを持ってくると、岩に向かって振りかざした。岩とは思えぬ金属音が鳴った。それからリズムを刻むようにテンポよく金属音が響いた。 男の手は赤く冷え、握る力の弱まったピッケルはついに岩を割った。綺麗に割れた岩の中は空洞になっており、そこには無数の手紙が詰まっていた。白色の封筒や茶色の封筒、封のされていないもの全て一通残らず手紙を回収し、小屋へとソリを走らせた。 小屋へ帰った男は機械を確認する。首だけのトナカイが入った機械を一度止め、手紙を機械の元へ持ってくる。回収した手紙を丁寧に一通ずつ開封する。 くまのぬいぐるみがほしいです、弟をください、ゲーム、など内容は様々だった。 その手紙を一つ一つ機械へ入れていく。一つ入れるたび、配管口から何かが出てきて白い袋の中へ落ちる。機械の作動が終わり、袋を外す。 袋を持って、柵側でない方の出口から出る。そこにはソリに繋がれたトナカイがおり、そのソリに袋を乗せる。男がトナカイを撫でるとトナカイは顔を震わせ、首から垂れた硬貨が揺れる。刻まれた女神は微笑んでいる。撫でられ、鳴くトナカイを見て、男は照れ臭そうにソリの鈴を鳴らした。
先輩がいた頃
心中穏やかではなかったが、夕暮れ時の山際の鮮やかさを見て、つい立ち止まってしまった。手に咥えていた煙草を深く吸い、吹かすと大きく煙が広がった。その煙に息を吹きかけると、漂っていた煙が霧散し、新たに少し薄い煙が宙に残る。夕陽と煙草の先の赤色、どちらが明るいか見比べるが、答えが出るより先に夕陽が沈んでしまった。 近頃は乾燥していて、唇の皮もよく裂けるが、リップクリームを塗るおじさんはいかがなものかと思い、裂けたままにしてある。舌先で舐めると少し血の味がする。舐めると余計に乾燥すると聞いたことがあるが、元来の癖なのか中々やめることができない。 しかし、今の若い子は簡単に辞めていく。転職が盛んな時代なのは分かっているつもりだった。二十五年勤めたこの会社、もう転職をするような年でもないが、もし違う会社に入っていたらどうなっていただろうか。そんな妄想をすることも難しく、他社で働くイメージは脳内で散って消えてしまった。 夕陽が落ち暗くなった通りを歩き、街灯の少なさを思う。スマートフォンが照らしてくれなかった時代、照明は煙草だけで、無理に二本目を吸ったこともあった。 遠くでパトカーの音がして、慌てて煙草の火を消し、ベルトについた携帯灰皿へ煙草を捨てた。音はだんだん近づき、冷静になって聞くとそれは消防車の音だった。近づいたと思った音はまた遠くへ行った。頭の中でパトカーの音はどんなだったか想像するが、消防車の音に邪魔されてうまく思い出せなかった。 黒の使い古した携帯灰皿を触る。入社直後に教育係の先輩から貰った品だった。社会人になったら格好だけでもつけておけと言われ、喫煙者のイメージ改善に協力させられた。あれから煙草のイメージはさらに悪化し、先輩も結婚すると同時にやめてしまった。 二十五年分の月日を先輩も体験しているはずだが、数年して退社してしまった先輩の顔は昔のまま思い出される。退社後も何度か会っているはずなのに、昔のままだ。よく彼女を自慢していたから奥さんが美しいのは分かっていたが、二十年以上経てばもうおばさんだろう。 スマホを開くと、極端に明るい画面設定に目が眩んだ。メールには確かに葬式の案内があって、宛先が間違いでないことを、文章内の自分の名前が物語っていた。美しい奥さんが書いた文章だろうが、不必要に丁寧な文が先輩を思い起こさせた。葬式の案内など誰が書いても変わらないはずなのに。 家に帰り、玄関の自動照明がつく。リビングでテレビを見ていた妻が首だけで迎える。服を適当に脱ぎ、洗濯カゴに投げた。 シャワーを浴びながらメールのことを思い出す。有給をとることは難しくない。ただそれ以上に一人で葬式に行くという経験がなく、どうすれば良いのか分からなかった。奥さんになんと挨拶すべきかも分からなかった。 体を拭き、洗面台で歯を磨く。何も食べないの、と歯を磨いている私に妻が聞く。本当は少し小腹が空いていたが、もう一度磨くのも面倒で、雑に返事した。 二階へ続く階段を登る。床が少し軋み、音が鳴る。家を建てたばかりの頃はならなかったが、軋みが古さからくるものなのか、体重が増えたからなのかは分からない。 書斎に入り、ドアを閉める。窓からは月が見え、今夜はほとんど満月だ。メールをパソコンの画面で見直すが、やはりそこには自分の名前がある。案内が来ているのだから当然行く権利があるのだろうが、自分よりも深い悲しみを抱えているはずの人間がいるところへ行くことが、どこか果てしなく失礼なことのように思えた。 一階に降りると妻がまだテレビを見ていた。テレビの音量はほとんど聞こえないほど小さかったが、それでも妻はテレビを見ていた。私は日本酒を持ってきてリビングに腰掛ける。どうしたの急に、と尋ねられ笑って誤魔化した。月が綺麗だったから、と言えば今度は妻が笑い、いくつかの乾き物を持ってきた。 妻と二人で晩酌をしたのは数年ぶりかもしれないが、不思議と懐かしくは思わなかった。慣れた手つきでつまみをシェアする。先輩と最後に会ったのも数年前だったかもしれない。 退社してからも何度か会ってはいたが、そのどれもが何気ない食事だった。先輩との食事は楽しかったし、毎回先輩が支払ってくれるのは正直助かっていた。最後に会った時もただの食事会だと思っていたが、先輩の口からは転職の誘いがきた。今よりも良い条件で働かないか、と。想像もしていなかった私は返答を保留した。思い返せばあの食事会だけは割り勘だった気もする。 明後日お世話になった先輩の葬式に行ってくる、と妻に告げた。妻は深く聞くこともせず日本酒を飲んでいる。それに釣られて私も飲む。空いたお猪口代わりの湯呑みに妻が日本酒を注いでくれた。二人とも少し顔が赤い。 斎場に暗い雰囲気はなく、遺族と思われる人の顔も暗くはなかった。会場の照明のせいだろうか。受付を済ませ後ろの方の席に座る。少し早めにきたが、すでに大勢が待機していた。周囲を見渡すが知り合いは一人もおらず、いくつかの団体の中で浮いているようにも感じた。 あの団体は先輩の会社の同僚だろうか。少し背丈が高く、整えられた髭がよく似合う恰幅の良い男たちだった。あの会社に入っていた可能性を考えるが、自分の腹を見て思い直した。 親族の席を見ると、奥さんらしい人がいた。近くには息子と思われる大学生がスマートフォンをいじっていた。次第に席は埋まり、両脇に知らない人が座る。会話も減っていき、幼い子供の声が少しするばかりだった。先輩にはこんなにも知り合いがいたのかと今更驚いた。 お経の意味など一つも分からないが、眠くならないように丁寧に聞くことにした。一連の流れが終わり、お焼香のやり方が間違っていなかったか不安になる。先輩の遺影は最後に会った頃よりは若く、退社した頃よりは老けた顔をしていた。 親族が、様々な人々と話している。いつ帰れば良いか分からなかったが、立ち止まる私の元へ奥さんが来て、こそこそと帰る必要がなくなった。私は頭を下げる。奥さんも頭を下げる。奥さんは美しい人だった。 来てくれないと思っていたんですがありがとうございます、と奥さんは言う。感謝するのは私の方だったが、流れで頭を下げてしまった。 「主人は生前よくお話ししてくださって、本当にできた部下がいるんだと」 笑いながら奥さんはそう言ったが、笑顔は冷たく声は乾いていた。一分と少し話すと、奥さんは忙しそうに別の団体へ向かった。私は斎場の後方から遺影を見ていた。あまり印象に残っていない時代の顔だったが、よく覚えておくようにした。 近くの喫煙所には椅子が置かれており助かった。煙草に火をつけ、天井へ煙を吐く。先輩の吸っていた銘柄を思い出そうとするが、あまりにも昔すぎて思い出せそうにもない。あれから値段はどんどんと上がり、一本恵んでやる余裕もなくなった。 そんなに長いこと同じ仕事で飽きたことないんですか。新入社員に言われた言葉を思い出す。彼は転職の誘いがきたらどうするのだろうか。 喫煙所に灰皿はあったが、携帯灰皿を使うようにした。吸い終わり、満足していたが、なんとなく二本目に火をつけた。一口吸っていらないなと思った。じわじわと火が侵食していくのを眺める。 手に持った煙草の煙が目に入ったからか、目が潤んできた。瞬きすると溢れてしまいそうで、ポケットティッシュで拭った。煙草を吸うが、やはり不快だった。それでも深く吸い、携帯灰皿に捨てた。少し頭がくらくらする。 次に部下に問われたらどう答えようか。私は同じ仕事を続けた理由を知らないし、転職の誘いを受けなかった理由も分からない。だが、今も同じ会社で働いている。 先輩の誘いにはなんと言って断ったのか。もう思い出す必要もない。割り勘だったのだから、きっと失礼なことを言ったのだろう。そんなことを思いながら一人斎場を後にした。スーパーに寄り、リップクリームと妻の好きなウイスキーをカゴに入れる。
凪
猫は水が苦手だというが、マロンは泳ぐことが好きだと思う。私はマロンではないからその気持ちは分からないけれど、海に入ることすらあるのだからきっと好きなんだろう。 「マロン」 二人乗れば窮屈になる小さなボートは、波に合わせて心地よく揺れる。乗客は私一人。船長は猫のマロン。 丘のような岩場を散歩していたマロンは声に反応してこちらを見る。水飛沫をあげて海へ飛び込みこちらへやってくる。猫のくせに犬かきのうまい変なやつだ。 岩場から少し離れたボートまで泳いでくる。私はマロンを両手で抱えるように持ち上げると、真水で海水を丁寧に洗い流す。マロンはされるがままで、目を瞑り微動だにしない。 白の体にいくつか栗色の斑点がある。海で見つけた子猫に山の名前はどうかと思ったが、今では気に入っている。マロンもそう思っているはずだ。 タオルで軽く水気を拭き取ると、マロンは毛繕いを始める。小さな舌先で栗色の斑点を舐める様子をじっと見ていた。 「帰ろっか」 マロンは小さく鳴き、船頭に立った。水平線を眺める姿は凛々しく、帰路なのが残念に思えた。 港に着き、レンタルのおじさんに挨拶をする。ボートを返し、マロンはケージの中。港から家までは一本道で、道中には潮の匂いが漂う。 道を少し逸れると袋小路の奥にお地蔵さんがいる。ワンカップの日本酒と花瓶が置かれている。切り取られた花は新鮮で、黄色の花びらは鮮明だった。誰かが直前に寄ったのかもしれない。私は、港からこっそりとってきた白く小さな花を花瓶に添えた。 家に帰ると、マロンはケージから飛び出してキャットタワーへ向かった。それを横目に私はロフトへ向かった。 ロフトは少し薄暗く、マットレスとパソコンが置かれているだけでいっぱいいっぱいだった。ロフトから下を覗くと、マロンがキャットタワーで遊んでいる様子が見える。 パソコンを開くと、昨日つけたままの就活サイトが出てきた。そのサイトを閉じ、私は動画サイトを開く。しばらくして、パソコンの通知に父からの連絡が届いた。 「就職したらこっちに出てくるのか?」 両親が離婚した時、父が単身赴任で東京へ行った時、私はいつもこの島から出たいと言った。今更離れたくないとは言えない。 インターホンが鳴る。玄関へ向かう私をマロンは見ようとはしない。少しばかり鳴き声がするだけだ。 「ゆきー、あーそぼ」 よく焼けた褐色の肌に上下半袖半ズボン姿だった。今どき島でも珍しい格好だ。 「ちか、あんた連絡ぐらいしてよね」 悪びれる素振りもなく笑うちかを見て私も笑った。島で育った私たちは小学校から高校までずっと一緒だ。 「ちょっとさぁ、ボート乗ろうよボート」 さっき乗ったばかりだと言ってもちかは聞かず、根負けしてボートに乗ることにした。レンタルのおじさんは、またかい、と笑いながら言う。またです、と不貞腐れる私を見ておじさんとちかが笑っている。 先ほどより窮屈だが、二人で漕げば倍早く、みるみると陸から離れていく。おじさんが小さくなって、顔も分からないぐらいのところで私たちは止まった。 「なんか久しぶりだね」 ちかは何も言わずに水平線を見ていた。頬には少し汗が垂れていた。太陽を反射した海は眩しく、少し蒸す。 「ボート、久しぶりだね」 私はもう一度言う。ちかは水平線からゆっくりと視線を逸らして、こちらを見た。 「ゆき、私ね。大学に行こうと思うの」 ちかの唇は震え、その揺れはそのまま言葉に伝わった。鳥肌が立っていると思ったが、気のせいだった。実際には感じていない寒気が私の中にある。 「え。そうなんだ、凄いじゃん」 なんで、とは言えなかった。きっと私の声も震えている。少し風が強まり、波と共にボートの揺れも大きくなる。ちかの潤んだ瞳は太陽の光を反射する。 「ずっと、会えなくなっちゃうんだよ」 「そんなことない。それはないよ。どこに行っても友達じゃん。絶対会えるよ」 私が口調を強めるほど、ちかは萎んで見えた。責めている気もした。ちかは下を向く。啜り泣く声が聞こえ、私は黙ってしまった。海の上では逃げることもできない。 しばらく沈黙が続いた。風と波と鳥の鳴き声だけがする。私の好きな島の音だった。 「私だって、行ってほしくないよ」 呟く。消えてしまいそうな声だった。 「ごめん。私から言い出して。馬鹿みたいじゃん、私。ごめんなさい」 ちかは掠れた声でそう言った。日が暮れ始める。戻らなければならない。私たちは無言でボートを漕いだ。行きより遅いペースで港へ戻る。おじさんは心配そうな顔をしていたが、何も言わなかった。 いくつかの街灯や家は明るくなっており、島は静まっている。マロンと出会ったのもこんな時間帯だった。鳴き声がして、溺れているマロンを見つけた。どうしたら良いかも分からず、おじさんに助けを頼んだ。タオルで拭いて、とにかく暖めなければいけないと思い、抱きしめていた。 あんなに小さくて弱かったマロンは、今では部屋で放っておいても問題ない。最初の頃は視界からいなくなるだけでよく鳴いていた。マロンが一人でも鳴かなくなったのはいつからだろう。 帰り道がほとんど同じ私たちは無言で一本道を歩いた。ふと、立ち止まり、ちかも同じところで立ち止まった。それはお地蔵さんのいる袋小路へ続く曲がり角だった。 二人ともそこを曲がる。ちかの家も私の家も道は違うけれど、二人ともそこを進み、お地蔵さんの前で止まった。 ちかはお地蔵さんに手を合わせて願っている。大学受験のお祈りかもしれない。私は何を願えば良いか分からなかったが、とにかく手を合わせた。花はもう新鮮ではなかった。 「白くて小さくて、可愛い花だね」 ちかが言う。元々あった大きくて黄色い花ではなく、私の追加した花を可愛いと。 「綺麗な黄色で大きくて、凛々しい花だね」 私も返す。聞かなかったが、黄色い花を置いたのはちかなんじゃないかと思う。きっとそうだろう。間違えていたとしても、そう思うことにした。 袋小路から出て、元の道へ戻る。すぐに私の家についた。また二人とも止まった。ちかは私を見て、何か口を震わしている。 私は抱きしめた。その言葉を言わせてはいけないと思ったから。ちかも私を抱き返した。ちかの体は暖かく、私の体もまた暖かかった。 「ゆき、ありがとう」 そう言ってちかは家に向かい、私も家の中へ入った。お互いに振り返りはしなかった。 ドアを開けると、マロンがやってきた。私は慌ててドアを閉め、玄関を上る。靴を脱ぎ、マロンを撫でてやると、マロンは気持ちよさそうに喉を鳴らす。頭を何度も私の体へ擦り付ける。待ち侘びたかのようにずっとそうしている。 私はマロンをそっと離し、シャワーを浴びる。浜風を受け、汗をかいた塩まみれの体を洗い流す。 脱衣所で髪を乾かす私の足元でマロンは鳴いている。楽しそうな声だった。足だけでマロンの対応をして、私は化粧水を手に取る。ひんやりとした感覚で肌が包まれる。 服を着て、マロンが疲れるまで遊んだ。しばらくして満足したのか、マロンはキャットタワーの頂上で寝転んだ。伸びをして、すぐ眠りについてしまう。 私はロフトへ行き、横になってパソコンを開いた。動画サイトが開かれたままになっていた。それを閉じ、就活サイトをもう一度開く。よく分からないが、とりあえずスクロールしてみた。父には、まだ分かんないけど考えとく、と送った。 マロンはよく寝ている。上から見ると褐色の斑点がよく見える。本当に可愛い、そう思った。
薄灰色
遺灰。 遺族が箸で遺骨を摘み、骨壺に二人がかりで入れていく。皆、痛くないよう音も立てぬほど慎重に入れる。それはただの物質でもあり、顔が浮かぶようなものでもある。 一通りの流れを終え、そこに残ったのは遺灰だけになった。エアコンの微弱な風でさえ飛んでしまいそうな、人だったはずの灰である。 斎場の裏にある、小さな四角の灰皿と曇りガラスの壁だけでできた喫煙所へ向かう。 目暮さんがいた。 「目暮さん、いたんですね」 私は煙草を取り出す前に声をかける。目暮さんの顔はかなり疲れており、くまが目立った。化粧は厚く、表情は沈んでいた。 「あぁ、君か。お疲れ様」 サポートが主で、それすら完璧か怪しかったが、労いの言葉を素直に受け取り頭を下げる。目暮さんの思っていた以上に明るい表情を見て、煙草に火をつけた。 少し下を向き、息を吸うとともに煙草の先が赤くなる。口から煙が溢れ、視界を濁す。目暮さんの顔も見えなくなるが、緩やかな風に煙は流されてしまう。 「目暮さんこそ、お疲れ様です」 目暮さんがいつきたのかは分からないが、手に煙草は持っておらず、新しく取り出す様子もない。できるだけ目線が合わないように下を向いていた。 「なんで人って死ぬんだと思う」 そう言いながら目暮さんは煙草を取り出し火をつけた。見たことのない銘柄を吸っており、独特な香りが漂った。それが香水によるものか煙草によるものかは判然としなかった。 「私な、人って死なないと思ってたんだよ」 目暮さんが私を指導し始めたとき、死なない人間はいないと言っていた。 目暮さんの目は空に向かっており、曇天模様のどこと目が合っているのか分からない。しかし、どこか凛々しくもあった。 「おばあちゃんが死んだとき、涙が出なかった。理解が後から来るとかじゃなくて、悲しみがないわけでもなくて。涙が流れんかった」 目暮さんの手にある煙草は一口も吸われることなく燃えていく。私はいつも以上に頻繁に吸う。何か答えなくても良い理由を探すかのように。 それと同時に自分の祖母のことも思い出していた。お盆には必ずアイスをくれるが、勝手に冷凍庫を開けると癇癪のように怒る祖母のことを。 「お母さんはわんわん泣いてるのに、私は涙が出なかった。あんなに泣いてるお母さんも初めて見た」 一向に返事をしない私のことを目暮さんは気にしない。視線が交錯することはなく、私は次第に目暮さんの顔を見ていた。 「自分のお母さんがいなくなったら悲しいんだろなって、自分を納得させてたの」 ほとんど独り言になった目暮さんの顔を見る。乾いた表情とともに乾いた風が吹いた。乾燥した空気は煙草の火を強める。目暮さんの煙草は半分以上燃えていた。まだ一口も吸っていない。 目暮さんは煙草を口元へ持ってくる。長く伸びた煙草の灰が目暮さんの手に落ちる。まだ熱を持ち、遠目にも赤く見える灰が目暮さんの顔を歪ませた。 私は持っていた水をすぐさま差し出す。目暮さんは必要以上に手に水をかけた。 「っつ。ごめんね。ちょっと軟膏買ってくるついでに貰っちゃった水も買ってくるね」 目暮さんは手を振りながら喫煙所を後にした。 目暮さんの背中を見つめる。私は喫煙所に残って目暮さんを待った。 「あ」 顔を上げた先には今日の火葬担当をした遺族がいた。名前は覚えていないが、おそらく息子だったと思う。この人は父が亡くなって、涙を流したのだろうか。 「あぁ、お疲れ様です」 私が、この度は、と口を開く。全て言い切る前に手で拒否された。面倒だから大丈夫ですと声がした気がする。どこか明るい口調だった。 「いやぁ、思ったよりも葬式って大変ですね」 息子なりに明る過ぎないようトーンを下げてそう言った。息子の吸っている銘柄は私が吸っているものと同じで、少し顔を背ける。 私は明確な発言を避け、曖昧に返事をした。息子は私を一度見て、視線を逸らし、煙草とスマホに向かった。私が会話の相手に向かなかったのかどうかは分からないが、スマホを持つ息子を見てほっとした。 息子は忙しそうに煙草を吸い、半分以上残した状態で捨てた。そのまま会釈だけしてどこかへ行ってしまった。一人になった途端急激に広がった喫煙所で目暮さんの言葉を思い返す。 「自分のお母さんがいなくなったら悲しいんだろなって、自分を納得させてたの」 反芻する。祖母では距離がある。母にとっての祖母は母で、目暮さんよりも距離が近いはずだった。 癇癪のように怒る私の祖母によく似た私の母は、トイレが長いだとか、彼女を作るなだとか、よく怒る。 私もいずれはああなってしまうのだろうか。いつかは母も灰になる。胸がざわついた。 目暮さんはまだ帰ってこない。 喫煙所の壁と壁の隙間から息子の姿が見える。息子の横には奥さんがおり、その腕を子どもが握っている。子どもは奥さんに体を寄せ、震えているようにも見えた。 奥さんが深く頭を下げる。息子も合わせるように頭を下げる。子どもは頭を下げなかった。 気がつくと煙草はなくなっていた。近くのコンビニに買いに行こうか。目暮さんがその間に戻ってきたらどうしようか。逡巡していた。 目暮さんが戻ってきた。少し汗をかいており、顔はいつもより暗かった。煙草の空き箱を捨てたところを見られたかは分からない。 「ここにいたのか」 私はすみませんと言い、わざとらしくスマホを取り出す。そのままポケットに戻した。 目暮さんは誰の葬式が終わっても神妙な表情をする。その他の人と違い業務的でないその表情が好きだった。 「ほらこれ、どっちがいい」 目暮さんは水とコーヒーの二つを差し出し、私は水を受け取った。目暮さんは煙草も一本くれた。 見たことのない煙草は奇妙な味がした。口の中を抜けていくミント風味に爽快感はなく、じんわりと冷えていくのを感じた。歯茎が少し痛む。 その味は祖母の家によく置いてあったアイスに似ていた。実家の農作業を手伝う母親から逃げ、祖母に叱られながら食べた、私の好む古めかしいアイスの味に。 顔を上げると目暮さんは喫煙所を出ていた。曇り空が広まり、私も喫煙所を出た。 ロビーには先ほどの奥さんと子どもがいた。子どもは椅子に座り、地面につかない足を揺らしている。奥さんと目が合い、定型文とともに頭を下げる。なんだか気まずく、私はトイレへ逃げ込んだ。 男性用トイレは狭く、一つしかない個室は空いていなかった。私は洗面台で顔を洗った。顔に粘土のように付着した煙草の匂いが剥がれていく感覚があった。 流れる水が薄灰色に見えた。そんなわけがないのに。遺灰に水をかけたらこんな色になるだろうか。 中学生の時に癇癪な母とともに持ち上げた祖母の骨を、その骨からこぼれ落ちた遺灰を思い出す。あの日母は泣いていた。認知症気味で、電話越しに何度も喧嘩していた祖母が亡くなった日。 あの遺灰もどこかで舞っているのか、流されたのか。 個室から啜り泣き声が聞こえた。堪えているようにも、叫んでいるようにも感じる不思議な泣き声だった。泣いていた母の声を思い出す。 狭いトイレで声が反響する。息子の泣き声にも似ていると感じた。そう思ってすぐに頭を振った。 流れた涙はどこかに消えて、風に飛ばされてしまうのか。雨が降ってきた音が、トイレの窓から聞こえる。泣き声もそれに紛れて聞こえなくなった。 トイレから出てロビーに行くと奥さんも子どももいなかった。空調だけが鳴る静かなロビーには代わりに目暮さんがいた。 目暮さんは床に落ちているお菓子のゴミを拾っている。子どもが捨てたのか、奥さんは気が付かなかったのか。元々落ちていた可能性だってある。 「目暮さん、言ったじゃないですか」 私も目暮さんも、もう帰ってよかった。しかし、二人とも未だロビーにいた。 私の声かけに目暮さんが顔を上げる。 「なんで人は死ぬのかって。涙がなんで流れないのかって」 目暮さんは照れるように笑った。 「私考えたんです。その、目暮さんの話」 私は真剣に、真っ直ぐ、目暮さんの顔を見てそう言った。 次の瞬間目暮さんは笑い出した。先ほどの照れ笑いでもなく、嘲笑でもなかった。 「っはは。そんなに真剣に考えてたのか。いや、はははは。はぁはぁ」 突然に、ほとんど息切れするみたいに笑っていた。 「なっ、そんなに笑わなくても、いいじゃないですか」 自信がなくなり、尻すぼみにこたえる。 「そんな、いやはや」 目暮さんの笑いはまだ収まらなかった。私はめげずに、頬を赤くしてもう一度訴えた。 「だって、わざわざ言わ、な、くて」 最後まで言い切るのはやめた。あまりに目暮さんが笑うから。これ以上はやめてくれと、目暮さんが手を出す。 あまりに笑うから、私も笑えてきて、二人で笑っていた。目暮さんは笑いすぎて、目には涙が浮かんでいた。 斎場のロビーに大きな笑い声が二つ響き、エアコンの空調音を掻き消した。
贈り物
新月の夜、風の音すら聞こえぬ墓地に男が一人。男の体は薄汚れており、髭に隠れた顔は闇夜でよく見えない。長袖のシャツは捲られ、腕には厚い毛が生えていた。 男の手には大きなスコップがあり、全身を使ってスコップを振っている。地面の土が掘り返され、土中の独特な匂いが広がった。男はその匂いを振り払うように地面を掘る。 男の手が止まり、スコップが何かにぶつかった音がした。男はスコップを投げ捨て、穴の中へ上半身を突っ込む。手で細かな土を穴の外へ飛ばす。 男が頭を穴に沈めてから少しの時が経ち、ようやく男は顔を上げた。男の手には輝かしい指輪があった。月のない夜、星の光を受け、指輪が小さく光る。男はスコップと指輪を手にどこかへ消えてしまった。 暖かな灯りが広がる室内で、十人前後の人々が談笑を重ねている。大人たちは皆笑みを浮かべ、老人を中心に盛り上がっている。食事を早々に終え、広々とした室内を歩き回り、皆が久々の再会に心を躍らせていた。 暖炉の脇で小さな木車の玩具を持った少年がしきりに窓の外を気にしていた。両親は親戚との交流を続け、少年には気がつかない。 椅子に足掛け、少年は外の景色を見ることになったが、外は暗くほとんど何も見えなかった。額を窓に当て、その冷たさを味わう。頬が潰れるほど押し付けたその視線の先に大地を掘る人影を少年は確かに見ていた。 翌日になって老人は薄い皮膚に血管を浮かべ、顔を赤くして叫ぶ。愛する妻の墓を荒らされ、永遠を誓った指輪を盗まれ、昨晩の祝宴の喜びを一瞬にして無くしてしまった。人々は老人を憐れみ、老人と同じように墓荒らしへの怒りを口にする。 少年は昨晩見た人影を思い出していたが、雰囲気の重い空間で、口を開くことはなかった。 老人一家はすぐに警察に届け出た。それでも老人の怒りは収まらず、周囲の人々に宥められている。落ち着きを欠いた老人は自分たちで犯人を見つけると宣言して、警察を困らせた。 一方で少年は昨晩の景色を思い返す。人影はスコップで地面を掘っていた。月明かりもなく、顔も見えない人物。そこまで考えて、少年は興味を失った。 指輪を持ち帰った男は足音も立てずに帰宅した。狭い木造の部屋で男は椅子に腰掛ける。蝶番の緩い工具箱を開け、指輪と手元を灯りで照らす。指輪に付いている宝石を丁寧に外し、土台を床へ投げ捨てる。 翌朝になって、取り外した宝石を質屋に入れ、男の全財産は何倍にも膨れ上がった。昼間から露店に足を運び、程よく酔った男はその足で女を買いに向かった。 影が差し、冷気漂う通り。少し欠けた石畳の道は湿気を存分に含んでいた。道の先の風俗街よりも先に男の目に入ったのは一人の少年であった。 少年は白の帽子に色の良い上着を着ている。頬は少し紅潮し、その幼さを強調していた。少年は俯いており、男の存在には気がつかない。 「おい、クソガキ。何してんだ」 口が開くたびに唾が飛ぶような、過剰に音を響かせる話し方だった。男に声をかけられ、少年は木車の玩具と共に顔を上げると、少しだけ小さくなった。 その様子を見た男は少し焦り、子が泣き声をあげぬうちに視線を合わせた。ポケットを漁り、都合の良いものはないか探す。 「ほら、これやるから。な」 少し潰れたミントガムを少年に差し出す。少年は強引にそれを受け取ることとなり、唇を噛む。騒がないと感じた男は片手だけ少年に向け、別れを告げた。 「おじさん」 男は首だけ振り返って少年を見た。少年は両手で木車の玩具を差し出す。 「なんだよ。くれんのか」 少年は無言で頷く。男はそれを受け取り、手の上を転がすように走らせ、少年に見せた。少年は笑顔で応え、男もまた笑顔で去っていった。 家に帰った男は木車を机の上で少し転がす。酒瓶を開け、その木車を眺めている。 少年もまたミントガムを袋の上から指で押して遊んでいた。 好みの女を買い切った男は暇を持て余し、表通りを歩いていた。通りの隅にある店へ入る。材木のサイズを確認していると、遠くに見覚えのある少年がいた。少年は同じ店の玩具コーナーにおり、木製の玩具を見比べていた。男は少年から木車を受け取ったことを思い出した。 「久しぶりだな、坊主」 男は手に材木を持ちながら少年に話しかけた。店員が少しだけ二人を見ている。 「おじさん、こんにちは」 少年はそう言ってポケットから潰れたミントガムを取り出し、男へ見せた。男は差し出されたと思い、それを受け取る。少年が顔を少し歪めたのを見て、男は渡されたのではないと気がつき、すぐに少年に返した。 「そうだそうだ、交換したもんな」 男は少し屈んで少年と視線を合わせる。男はもらった木車は家に置いてあると伝えると、少年は男の手を掴んだ。 少年は男を見上げ、男も少年を見る。手を優しく握り返した。 「来るかい」 男は掴まれた手を解かず、その手を引いて材木を購入した。右手に材木、左手に少年を持って家へ向かった。 埃が舞い、床はわずかに歪み、歩くたびに不快な音を上げる。寝具はなく、椅子と机だけがあった。 椅子は後付けされたであろう腕置きだけが綺麗で、他は今にも裂けてしまいそうであった。机の上には工具箱と木車の玩具が置かれている。 「ほら、ちゃんとあるだろ」 男は木車の玩具を机の上で走らせ、壊れていないことも証明した。男は木車を返そうと差し出すが、少年はそれを顔だけで拒否する。 「こっち」 潰れたミントガムを掲げ、誇らしげにしていた。それを見て男は木車を受け取ったままにしておいた。男は口を閉じ、神妙な顔で木車とミントガムを見比べた。 男は材木を手のひらほどの大きさに切り分け、簡単な印をつける。彫刻刀で、それを削っていく。 「ちょっと待っとけよ」 男はそう言って黙々と手元に向かった。沈み込むように集中している姿を見て、少年は何かを思い起こしている。 男に放置された少年は何をするでもなく床に座り込んでいた。ミントガムを照明にかざしたり、木車を転がしたりしたが、すぐに飽きてしまった。探索するにも狭い男の部屋には何もなかったが、床を四つ這いで歩いていると何もついていない指輪を見つけた。 少年は土台だけになった指輪をじっと見つめ、そのままポケットにしまった。男はまだ彫刻刀を操っている。男の座る椅子の真後ろにある棚のガラスが男の真剣な顔を反射していた。 男の木を削る音だけが室内に響く。少年は音を立てぬよう壁の隅に座り込んで待っている。 少年が見ている視界に棚があり、棚の横に立てかけられたスコップがあった。スコップを見た少年はガラスに映った男の顔を見る。ポケットから指輪を取り出し、もう一度男の顔を見る。 「ほれ、できたぞ」 男が立ち上がり、手に完成した作品を持っている。少年は指輪を急いでポケットにしまう。ミントガムと指輪が同じポケットの中でぶつかっている。 男が作ったのは木製のサーベルだった。持ち手は何度も研磨され柔らかく、剣先は光るように尖って見えた。 「これでな、悪いやつを倒してやれ」 笑いながら男は剣を少年に渡す。ポケットから少年は持っている紙幣を全て男に渡した。男は驚き、喜んで受け取った。 少年は木車を男の机に戻し、剣を受け取り、帰路についた。 少年が家に着くと、老人の泣き声が聞こえた。車椅子に座り、自分一人では生活することも困難な老人の泣き声には力がこもっていた。 側には母親もおり、老人の肩を抱きながら宥めている。母親の笑顔以外の表情をはじめて見た少年は、走って母の元へ向かった。 「チー坊。玩具は買えたのかしら」 母親は疲れた笑顔で息子を抱きしめた。少年は手に持つ剣を母に見せた。母は色付けもされていないただの木剣を買ってきた少年の頭を撫でる。 「節約上手ね」 そう言って少年のポケットからお釣りを取り出そうとする。しかし、少年のポケットに硬貨は入っていない。ミントガムには目もくれず、指輪を手に取る。 母の指輪を持つ手は震えており、笑みは消え、絶句している。指輪についているはずの宝石はないが、刻まれた老人の名前が確かにそこにあった。 絶句する母に初めに気が付いたのは使用人の一人だった。あっ、と大きな声を上げ、思わず口を塞ぐ。その声を皮切りに、老人もまた目を見開き、使用人たちは一斉に声を上げて驚きを隠そうともしない。どこで見つけたのか周囲の人々は少年に尋ねる。 「おちてた」 少年は正直に答え、それ以上は口を開かなかった。皆が指輪を見ている中、少年はミントガムと木剣を見ていた。 少年は周囲の声が激しく、ついには泣き出してしまった。焦った母親は少年を抱え、自室に連れていく。 老人と使用人は部屋に残り、思わぬ手がかりに震えていた。老人と使用人は宝石が買い取られたであろう質屋へ向かう。 使用人は車椅子を押し、外へ向かう手筈を整える。少年は母親の腕の中でまだ泣いていた。 母親の手の中でようやく落ち着いた少年は、母親に連れられ外へ出た。 「チー坊、さっきの指輪どこで見つけたのか教えてくれないかな。おじいちゃんにとって大切な物なの」 どこか抜けた笑顔をいつもしていた母親の真剣な表情が少年には不思議に思えた。少年は祖母に会ったことはなく、老人に妻がいることも知らない。 少年は俯くばかりで何も答えない。母親もそれ以上は追求せず、少年の頭を撫でる。 少年に新たな玩具を買おうと考え、母親は玩具屋へきた。少年はあの時買うことができなかった玩具を見ている。 「あら、坊や。また来たの。今日はお父さんと一緒じゃないのかしら」 母親は訝しむ。少年はキョトンとした顔で首を傾げる。母親は木剣の玩具などどこにも売っていないことに気がつき、胸に手を当て、肩で呼吸する。少年に渡した紙幣は全てなくなっていた。 「すみません、店員さん。この子はどんな人と一緒にここに来ましたか」 濃い顔をして、厚い腕毛と薄汚い見た目。屈強な人間であり、粗野であったと店員は言った。 母親は木剣をどこで手に入れたのかと聞く。少年は貰ったと答え、男の家まで丁寧に案内をはじめた。 母親は胸に手を当て、少年を強く抱きしめる。唇をきつく閉じて、少年の案内先へ向かった。足は少し震えていた。 その頃、質屋の店主は宝石を売った男の家を教え、老人と使用人は男の家へ向かった。 男は部屋で椅子にもたれている。棚の中には何瓶か酒が置かれているが、そのどれもが栓をしてある。 男は端材を削り、その音が部屋に響いていた。椅子に深く座り込み直すと、軋んだ音が少しする。机には無数の端材と木屑が散らばっている。 手に持つ端材は段々と、騎士の持つ盾のような見た目へと変貌している。 彫刻刀の音を止めたのは、玄関を鳴らす音であった。男は手に持つ盾を机の上の木車の横に置き、戸へ向かった。 母親と少年が戸を叩いた。男は突然の来客に怯えるように体をすくめるが、少年に気がつき笑みをこぼす。 少年は男に貰った木剣を持ち、母親に抱えられている。母親は少年を見て笑う男に対し、最大限顔を顰めた。店員の言葉を思い出した母親はさらに顔が青白くなる。少年を抱きしめる力がわずかに増した。 男が母親を見る。男の笑みは消え、少年が無邪気に腕を振るたびに、剣先が男へ向けられる。男はほんの少しだけ後ろを振り返るが、少年の木剣から目を離さない。男の盾は机に置かれたままであった。 男の表情を見た少年は腕を振ることをやめる。剣を見て、男を見て、母親を見た。ポケットのミントガムを取り、男へ投げ返す。 地面に落ちたミントガムを男は拾わない。それを見て少年は剣を握りしめ、震える母に身を寄せる。遠くで老人の怒号がした。 男と少年の間に、もう笑みはなかった。
第9回N1決勝 『濁音』
泳ぐことはできないが、入ってみようとも思えないほどの大きさの川の河川敷を見た。河川敷には背丈ほどの雑草が繁茂しており、人の姿は見当たらない。風に撫でられる芒はお淑やかに揺れ、私を誘うことも突き放すこともなかった。 芒群に小さな隙間があることに気がつき、私はそこへ吸い込まれるように向かった。芒が踏み潰される形で道となっており、直線でない道のりは行く末を隠し、私をさらに奥へと進ませた。 直角に曲がった先へ進むと先細っており、蛇の道かもしれないと考えた。川沿いには大きな青大将が住むと聞いたこともある。足取りは重くなり、歩幅は小さくなった。風に揺れた芒の穂先が擦れて籠った音を立てる。私は足を止め、身を返した。 しかし、再び直角に曲がり、入って来た所が見えたとき、やや登りの道に苦戦した。潰された芒は水分を含み、河川敷の勾配と併せて難所と化していた。足を取られながらも、私は何度も振り返った。進むどころか後退しているように思えた。芒に囲まれ湿気の強い空間では、外の気温を介して蒸されている感覚になった。息は重くなり、足から滑り落ちる。 芒に揉まれ、川まで転がった。鈍い音を鳴らして不恰好に着地した。川の縁は大小の石があり、雑草もここまでは届かなかった。私は衣服についた枯草木を払い、川で手を洗う。川の水が透き通っているのを見て私は一口手で掬った。喉が渇いていたことにそこで気がつき、私はもう一口飲んだ。 川縁からは元いた歩道は見えない。もう一度芒に突っ込む気はなく、川沿いを進み橋か堤防を目指し、家に近い川上へ向かった。姿は見えないが、小鳥のさえずりが四方から聞こえ、雲の流れもよい。 軽やかだった足取りを止めたのは、歩き出してから数分経ってのことだった。まだ堤防は見えず、歩道への足がかりもない段階。蛇。大きな蛇が芒群の隙間から現れる。 蛇は私の方向へ体を動かす。その巨体をうねるように動かし、力強く進む。私がいないかのように振る舞う蛇を見て、私の足は震え、息を呑む。 大小の石と砂利からなる川縁の道は不安定で、私の震えた足ではしっかりと立つことも難しかった。蛇はその間にも寄ってくる。石に足を取られ、私は腰から着地する。 視線が下がり、蛇と目が合う。蛇の目は黒く、目尻から尾を引いたような線があった。肌の模様が揺れていた。裂けた舌先を動かす音はしなかったが、私には鮮明に聞こえた。それと同時に痺れるような痛みもあった。 腰が上手く動かない。両足を振る。蛇はその足の隙間をすり抜けるように道を進む。その道には私がいて、蛇の顔がそのまま私の顔に吸い込まれるかのように向かってくる。 鈍く濁った音が響いた。蛇は体を痙攣させ、尾のほうが激しく動いている。私の手も震えていた。もう何度か濁音が響くと、蛇は静まり、動かなくなった。小鳥は鳴かず、風に揺れる芒の音もせず、静かに濁音が反響した。 蛇の頭は潰され、その原型を留めてはいなかった。滑らかな鮮血が周囲に飛散し、私の腕にも付いていた。私の手は衝撃の余韻が未だ響いており、小刻みに震えてもいた。私は手に持った大きな石を川に投げ捨てる。石に付着していた血が水で流されているのが微かに見えた。 大きく息を吐き、視界がはっきりとした。私の目の前には、蛇の死体と右腕に付着した血液だけが残っていた。乾いた血液は粘度があり、独特の匂いを発している。私はその血を洗い流すことなく、石をかき集めた。 大きな石から小さな石へ、順に縦に積む。高さが出ると風に揺られてすぐに崩れてしまう。何度積み上げても崩れ、平たい石を探すが都合の良い石はなく、私はそれを諦めた。手を合わせることなく、立ち上がる。 頭の潰れた蛇を右腕で掴み、それを引き摺りながら歩き出した。川上に向かえば歩道への足がかりもあるだろう。蛇がいた場所には血の跡が残っていたが、私は振り返って見ることもしない。 しばらく歩いてようやく橋下まで辿り着いた。橋の下には一人の老人が極端に腰を折り曲げ、何やら呟いていた。 「くれ」 顔を上げた老人は掠れた声でそう言った。その視線は私と、右手に持つ蛇を見ていた。汗が溢れ、思うように口が動かなかった。 「くれや。その蛇」 痩せ、皺と髭だらけの老人は、真っ直ぐとこちらを見てそう言った。唾を飲みこむ。何度も瞬きをして、呼吸が浅くなる。 「ええもんやろ」 私は蛇を渡すことも逃げることもできなかった。ただ視線のぶつかっている老人の目を逸らしてはならないと、そう予感していた。 私は蛇を渡した。声を出すこともできず、ただ投げるように渡した。老人の前に落ちた蛇は、橋下の舗装された床を血で濡らす。 蛇が手元から離れ、石を叩きつけたときと同じ振動が私の手に響いた。目には見えない、けれども確かに震えている右手には、薄黒い血液が凝固している。 「ありがとな」 老人は短くそう言って、ようやく私から視線を外した。老人は蛇を手に取り、顔を寄せる。匂いを嗅いでいるようにも、噛み付いているようにも見えた。 私は老人に目もくれず、橋に繋がる細い階段を足早に登った。歩道を進み、家を目指す。走っている人や散歩をしている親子連れが何組かいたが、そのどれとも目を合わせない。右腕を服の中に仕舞い込み、顔を少し下げて走った。 足が地面に着くたびに全身が震える。一歩踏み出すたびに脳が響く。頭から全身をめぐり、体を揺らす。視界も酔い始め、自分と世界の両方が揺れていた。 家につき、土足のまま洗面所へ向かった。全身に不快な汗が纏わりついていた。私は洗面所の温度を可能な限り上げ、お湯で右腕を洗う。こびりついた血はなかなか取れず、私はたわしに洗剤を大量にかけて擦った。 右腕が痛み、擦り傷のように皮膚が剥がれていく感覚があった。たわしは皮膚を破り、私の右腕から血液が流れる。温かなお湯が流血を加速させる。 どれだけ血が取れても、どれだけ血が流れても、私の頭の中には濁音が鳴り続けている。私は洗面所を覗き込むように、沈み込む。二つの血液が混ざり合い、一つの血となる。たわしを擦るたびに濁音が鳴り、それを洗う。
第9回N1 『夜の警鐘』
眼前に広がる黄金色の小麦畑は、赤色の夕日を受けて眩いほど輝いていた。風に靡かれ、所々がその輝きを一層増している。 街を丸く囲う壁の上部には数個の突起型の塔がある。石造の高い壁は幾度も補修を繰り返された跡が残り、苔むしている箇所もある。 塔の小さな空間に佇む男は足を組みながら小麦畑を眺めている。整えられていない髭に深爪、乾燥して固まっている髪の毛。服は、一度強風に晒されれば飛ばされてしまいそうな一枚の布切れだけだった。 塔の上部には鐘が付いており、男は鐘につながった紐を握っていた。首や指先の関節を鳴らしながらも、男の視線は小麦畑から離れない。 街を囲う石壁の外にある小麦畑のさらに外側、地平線と重なるほどの位置に黒い靄が薄らと見えた。まだ音も聞こえないほどの位置にある靄を捉えた男は力の限り紐を振った。男とほとんど同じ大きさの鐘はその見た目に負けない音を奏でた。 鐘の音は街中に響き渡り、人々はそれが訪れたことを察知して顔を顰める。一部の人々は厚手の防護服に着替え、背に大きな火炎放射器を積み、足早に壁の外へ向かう。男の鐘の音が響いてから僅か数分のうちに、防護服の人々は石壁の外で隊列を組んでいた。 男は防護服の隊列を壁の上部から捉える。鐘を鳴らし終えた男は風に揺れる小麦畑と靄がどう行動するかを見ていた。 靄は近づけば近づくほど不快な音を鳴らし、それが羽音だと気がつくのにはそう時間はかからなかった。幾千、幾万の虫たちが小麦畑を狙って向かってくる。 訓練された動きの隊員は火炎放射器を構える。何の防護服も着ていない虫はその熱に燃やされ、何匹もが力尽きた。 塔の上から見ると靄の動きと食べられていく黄金色がよく見えた。そしてそれらを包み込む火も。男は浅く息を吸い、虫と共に焦げる小麦畑の音を聞いていた。 ようやく目に見える範囲の虫を焼却し終えた隊員は壁の中へ戻っていく。防護服を脱いだ隊員からは僅かながらに湯気が上がっており、その蒸し暑さを感じさせた。 失った涼しさを取り返すかのように、隊員たちは露店居酒屋で麦酒を掲げた。街の人々もそれを歓迎し、街そのものの活気を見せた。その様子を男は壁の上からぼんやりと眺める。 居酒屋の一部の人は帰り、一部の人はより盛り上がる時間となり、男もようやく塔から降りる。突起部に繋がれた長い梯子を降りた先には、小さな部屋があった。石壁に小さな穴が空いており、それ以外は何もない部屋だった。部屋の出口は鉄格子が付いている。 男は鉄格子に背を向け、穴から壁の外を見る。穴は少しだけ高い位置にあり、小麦畑を見ることは叶わなかった。 鉄格子のさらに奥にある木の扉が開き、腰の曲がった老婆が入ってくる。老婆の手にはお盆があり、その上にはスープとパンが乗せられていた。男はそれを無言で受け取り、老婆もまた無言で出ていった。 パンはそのまま食べるには少し硬く、男はスープに浸して食べた。あの小麦畑から作られたであろうパンを半分ほど食べ、スープを飲み干した。 残った半分のパンを片手に男は再び梯子を登った。夕日の半分以上が沈んでおり、地平線は最後の輝きを見せている。街を見れば、街灯が点灯し始め、居酒屋にも灯っていた。 居酒屋には温かな料理と人々の笑い声、酔いどれの匂いが充満していた。男は硬いパンを齧りながら、鉄格子の中に入る前と同じ衝動に駆られた。 鐘に連なる紐が風で揺れている。これを無意味に鳴らせば、彼らが宴を解散せねばならないことを分かっていた。 齧ったパンから僅かな塩味が男の舌に届く。結局男は紐に触れることなく、温かな灯りから目を逸らした。もう完全に日も落ち、暗くなった地平線の先の星を数える。夜の小麦畑は独特の香りを放ち、微かに見える揺れた穂先が男の心を落ち着かせた。 ただ不幸にも男はもう一度鐘を鳴らさねばならなかった。日に二度虫が訪れたことは過去一度もなかったが、星を隠す黒靄がはっきりと男の目に映った。そしてそれが昼間のものよりもはるかに大きいことを、男は確かに目にした。 すぐに鐘を鳴らそうとした男の手が止まった。夜の寒さに悴んだ手をきつく握りしめた。男はもう一度街を振り返る。隊員は酒盛りを続けていた。口が裂けるほど大きく開いたその笑顔を見て、男はひどく顔を顰めた。 夜の風は男の体を冷やし、石壁もまた冷えた。男の拠り所は布一枚であり、風に飛ばされぬようしっかりと掴む。地平線には黒い靄が依然として浮かんでいる。 男は街の隊員に目を遣る。鐘は重く沈黙しており、男は唾を飲み込んだ。小さなパンとスープでは到底満たされぬ腹に触れ、居酒屋の料理を見つめる。男の元まで届くはずのない香りを想像し、喉を鳴らす。 男の塔には小さな蝋燭が置いてある。それは風を受ければすぐに消えてしまう小さな蝋燭だった。男はそれに火をつけ、塔に僅かな光を灯した。その光を見せつけるかのように、男は手元に置き、決して火の絶えぬように風を防いだ。 平地の視線よりも高みにあるその灯りに多くの人々は気が付かない。まだ素面に近かった何人かはその灯りに気がついたが、特段何をするでもなく、ほんの一瞬目を遣るだけに留まった。 男は今にも消えてしまいそうな蝋燭を抱え込んでいる。風を防ぐための両手の壁はその火を間近に受け、溶けるような痛みを感じていた。掌は熱く、吐く息は白く凍えていた。 一人の幼子だけが、蝋燭の光を見ていた。そこに人がいることさえ知らない幼子は蝋燭の光を見つめ、その奥にいる男の姿も捉えた。男と幼子の視線がぶつかった。それとほとんど同時に蝋燭の火は風に流され消えてしまった。 灯火がなくなっても男は幼子を見つめていた。幼子もまた、夜の闇に飲まれた男の姿を見続けていた。そして、その小さな腕二つを天に掲げ、大きく振った。 その挨拶は男の元へしっかり届いた。幼子の行動に気がついた母親はすぐにやめさせる。十秒にも満たない時間ではあったが、男には充分であった。 男は両の手で紐を掴み、大きく振り、鐘が割れんばかりの音を街へ轟かせた。その警鐘は素面の隊員を第一に、少し間があって酔った隊員にも届いた。 暗さを掻き消すほどの火が一晩中続いた。夜通し戦い続けた隊員の懸命な努力によって被害は最小限に収まり、数日もすれば人々は話題にすることも無くなった。 塔の上では男の布がそよ風に揺れていた。男は小麦畑に背を向け、街を向いていた。街を行き交う人々は暖かな陽気の中で過ごしている。 黄金色の輝きは塔の上からのみ見ることができる。男の背では小麦畑が悠然としており、その穂先が膨らみ、日を増すごとに垂れ始めていた。
息を止めても
将来の夢はなんですか。ないですか。それはなんとなんと。ではやりたいことは。それもないと。では趣味、マイブームで構いません。それも、ですか。それじゃあ何して生きてるんですかい。 昼下がりに目を覚まし、カーテンの隙間から差し込む光が揺れているのを冷めた目でぼんやりと眺めていた。夢の中で、何かを問われた気がした。それが何かと聞かれてもよく分からないのだが、従来夢とはそんなものだろう。 テレビをつければ、司会者の明るい声が部屋に響く。声が響けばこの部屋は狭いが、テレビを消すとたちまちこの部屋は広くなる。暗くなれば尚更のこと。だから、私はよくテレビをつける。 でもときどきテレビを消したくなる。手が動き、テレビが消える。怠惰な朝の寝起きの感覚によく似た意識の薄さで行動している。 その日のテレビではダムの特集をしていた。ダムへ観光に訪れる人間の顔がいくつも映し出される。顔に取ってつけたような髪型をした男性や顔の大半をマスクが占める女性、親に連れられ不機嫌な顔をする子供。そのどれもが光ってみえた。 ドローン映像で捉えたダムのその水をはっきりと見た。その水の中を泳いでみたいと、思う。どこまでも深く潜って、奥底まで行ってみたかった。光る顔した人間の届かぬ奥底で、見上げた水面はどれほど心地よい夢を見れるだろうか。 夢を見た。皆が消えていく夢を見た。私を問い詰める声も薄まる。その声の鳴る、裂けた唇に浮かぶ血がどんどんと黒くなっていく。とうとう真っ黒になった血はそのまま広がって、私の周囲も黒く染めていく。光も届かず、とうとう何も見えなくなった。 目が覚め、カーテンの隙間から光が差し込む。揺れながら私の顔を照らす。顔の左側が燃えた感覚を覚える。鏡のない部屋の中で、漠然とした熱を感じていた。広い部屋に憤りを感じ、テレビをつける。黒い画面に反射していた自分の顔が消える。司会者は今日も笑顔で手を叩いている。 マスクと黒眼鏡をかけ、屋外へ出る。日差しを遮る帽子を被り、猫背に歩く。誰も私を分からぬ格好で、歩く。左頬を触り、マスクを横に引く。一度も空を見上げないまま、コンビニに向かう。 道脇の用水路を見て、またダムを思う。ダムに飛び込んでみたら、と思う。用水路に一歩ずつ近づく。近づいて、水面が私の体を反射する。太陽と私を反射した水面は、私の影以外全てが煌めいていた。 水面が反射する太陽光は揺れ、私の影を飲み込んで溶かしてしまいそうだった。実際に溶けていたかもしれない。それほど暑かった。用水路から距離を置いても、アスファルトは日照りを強くし私を苦しめた。だから足早にコンビニへ向かう。 店内の冷風は私の体を冷やし、一息つく。溌剌とした声で客を出迎えるアルバイトの人生を想像し、嫌な嗚咽が出た。できるだけレジから離れ、雑誌コーナー付近で背表紙を眺める。その中で一冊の本に目が止まる。 ダムの月刊誌だった。誰が買うのかも分からぬ本を手に取って、セルフレジへ向かう。小銭と札が溜まった財布からクレジットカードを取り出す。本を片手に店から出る。 コンビニの出口には傘立てがあり、誰かの折りたたみ日傘が置いてあった。店内に私しかいなかったことを思い出し、そのまま日傘を差して帰った。 用水路を見たくなかった。道の中央よりを歩き、慎重に避けてる車もあればクラクションを鳴らす車もあった。クラクションを鳴らしていた運転手の顔はぼやけずはっきり見えた。 部屋に戻り、冷房をつける。ついていたテレビを惰性で消した。静寂が空間を支配し、私の存在を際立たせた。ダムの本はベッド隅に置いた。たまらなく眠く、読む気にはならなかった。 そんな本を買って何をなさるんですかい。え、まだ読んでいないって。そうですかい、そんならずっと読まないままで良いでしょう。何のために生きているのか考えたくはないでしょう。 裂けた唇から溢れ出る言葉がまた私の元に届く。夢の中で、夢と分かっていながら私は逃げた。どこへ行っても声がするそいつから逃げ出した。逃げ惑っているときに、あの運転手を見た。あの運転手の顔を正確に覚えているわけではないが、そうだと思った。 その顔が私の方を向く。目と目が合うかどうかというタイミングで、声がまた大きくなってくる。離れても近づいてくるその声を聞いた顔から光が少しずつ溢れてくる。それがたまらなく嫌で私はその顔に近づく。 顔はまだ眩しくはないが、光っていないとは言えない段階にきていた。私はその顔がついている首を絞めた。きつく絞め、光の中でも顔が歪んでいるのを感じることが出来た。歪んで破裂音が鳴った。 その音で目が覚める。しっかりと閉められたカーテンは夕暮れの日差しを防ぎ、部屋は凍りついたように固まっていた。テレビの画面は暗く、反射した自分の顔を見る。顔の左側の大きな火傷跡がご丁寧に映し出されている。火傷跡をそっと撫でて、見なかったことにした。 光も音も消えた空間を手に入れた私はベッドに座り込む。声が聞こえた気がする。いや、声がしていないことは分かっている。それでも聞こえた気がする声に怯えて私は塞ぎ込む。この部屋にいるのは私だけで、声が私に向かってくる。 ベッドの隅の本が目につく。音もない、光もない。しかし、まだダムの奥底ではない。私は息を止める。光も、音も、息も止めた。それでも声がするのは私がいるからで、私は泡になって消えてしまいたかった。 息を止めて時間を数える。一、ニ、三。四つ数える頃には苦しくなったが、苦しくなるほど声のことを忘れられる気がした。心臓の音だけが体中に響く。数えることをやめれば、時間が止まるのではないかと思った。 でもそこは、やっぱりダムではなくてただの部屋だった。そう思って、時間がまた動き出す。声もまた囁く。 だから言ったじゃないですか。ダムへ行けないと理解しているから行きたいと思ったんでしょ。ダムの奥底は暗く悲しいですよ。それでも行ってしまうのですか。そうですか。あぁ、哀れだ。 あぁ。あぁ、私は。なぜ今日まで生きているのか。夢は何だろう。子どもの頃はあったのかな。覚えていないや。今の私はただ泡になってしまいたい。 叫んでいたのか、息を止めていたのか、はたまたその両方か。どちらであっても私は体を硬直させていた。 パアアアァ、と音が鳴った。危険回避のために鳴らされたクラクションが閑静な住宅街に鳴り響く。それは私の部屋にも届いた。驚きのあまり、息を吐いた。そしてその勢いのままに息を吸って、そこまできてようやくずっと目を閉じていたことに気がついた。 布団を剥ぎ、服を脱ぐ。私の全身を包み込む膜のような寝汗を拭く。カーテンを開け、テレビをつけ、本を投げ捨てる。投げ捨てた本の開かれたページと目が合う。胸の内からまた声が聞こえた気がしたのを必死に抑えていた。
管のない猫
AかBかという質問に、なんと答えるか。Aと答えても或いはBと答えても、Cであっても構わない。何を選ぶべきなのかはさほど重要ではない。あなたは心のうちから選択をしたことがありますかい。 動画サイトを放置し、自動再生の果てにたどり着いた動画の中でそんな話が聞こえた。その人は全身にフィットした上品なスーツ姿で、両手を広げ、ステージを右往左往しながら頭を左右に振っていた。決してカメラを見ることはなく、こちらと目が合うことはなかった。 パソコンを閉じて、朝食の支度を始める。既に時間は昼を過ぎていたが、目が覚めてからはさほど時間が経っていない。トースターでパンを焼き、バターを塗り、簡素な朝食の完成である。スープが欲しかったが、それ以上に動くことが面倒だった。 一人で暮らすには少し広いその家は静かで、パンを咀嚼する音ですら空間を支配するには十分だった。食事を終え、皿をシンクに放置して仏壇に向かう。線香は付けず、手を合わせて拝む。写真立ての中の母はやはり変わらない表情で笑っていた。 一人息子を育ててきた母は、切望していた孫の姿を見ることなく亡くなった。こちらの機嫌がどこまで悪くなっても気にせずに問い詰める母の堂々とした姿は、先ほどの動画の人物にどこか似ていた。自分が正しいと信じて疑っていなかった。 「じゃあ、親父に会ってくるよ」 親戚付き合いのほとんどない我が家の仏壇を訪れる人は息子以外一人たりともいなかった。仏壇に母の好きだった煎餅菓子を置き、寝巻きから着替える。 病院までの徒歩二十分間、物静かな路地で煙草に火をつける。煙草の煙を浴び、おぼつかない足取りで道を行く。住宅街を抜け、煙草の火を踏み潰したとき、一匹の猫が目の前に現れた。 狸によく似たその猫は、この地区に引っ越してきた頃からいた。夜道で見かけた時には完全に狸そのものであり、寧ろ狸の姿が正しいのではないかと思えてくる。 越してきた頃から老いているように思えたが、母よりも長く生きることになった。母が時折飯を与えていた記憶が曖昧に思い起こされる。野良猫に飯を与えない方が良いとどれだけ父が言っても母は聞かなかった。猫もそれを分かっているのか、父には全く懐かなかった。ただ見ていただけの息子にも懐くことはなかった。 踏んだ煙草からわずかな煙が上がっているのが見え、もう一度踏み潰した。猫はこちらを見つめ、歯を見せ、分かりやすく吠えた。掠れた鳴き声が母の声を思い出させる。 母も煙草を吸う息子を度々叱責していた。十代や二十代の頃は毎日のように、三十代になっても息子に煙草を止めるようによく言う母の声はとても掠れていた。 だから、猫の声が母のように思えた。母の代わりに怒っているのならば化け狸なのだが、それは見た目だけで本当は猫である。母によく懐いて、父と息子を嫌っていた老猫である。 病院に着き、消毒と受付を済ませる。病院独特の匂いが嫌いだ。薬品なのか分からないが、この空間は清廉潔白で常に正しいという極端な主張に感じ、いつも苦しくなる。白い壁や清潔なスタッフにも不快感を覚える。正しい場所が、死の近くにあることが理解できなかった。 病室に着き、ベッドに横たわる父を眺める。窓際の花瓶をなんとなく動かし、その脇に父の好きだった和菓子を置く。きんつばが好きとは実に年寄りらしいが、若い頃から好きだという。 「元気してるか、親父」 返事はない。聞こえるのは病室の外の誰かの雑談ぐらいである。父に結ばれたいくつもの医療器具に目をやる。父に繋がれた管を突然引きちぎれば、父は母の元へ行くのだろう。この管が、父をここに引き留めている。 きんつばの包装を取り、一口齧る。ほとんど餡子の味であり、異常に甘かった。父はこれをほとんど毎日食べ、酒も煙草も女遊びも、ギャンブルだってやっていた。いつも母と喧嘩していた。 母が交通事故で亡くなった日、父は何も喋らなかった。伴侶が亡くなれば悲しみを見せるのが普通だろうが、父はそうしなかった。冷たい人だと、父の背中を見ながらそう思っていたが、母の葬式では涙を流した。周囲の視線など気にすることもなく、これでもかというほど泣いていた。棺の中の母とそれに寄りかかる父を、少し離れたところからぼーっと眺めていた。父が泣き止むまで眺めていた。 病室を出て、先生と話す。医者が口を開く、言葉を耳に入れると、なんだか世界がスローモーションに見えた。言葉は普通の速さで耳に届くのだが、先生の口はやけにゆっくり動いて見えた。 父の状態を突きつけてきた。父の命をはっきりとこの身で受け止めろと、言われたように思えた。ただ眺めるだけと父ではないと知らされる。 病院を出ても、帰路についても、どうすべきか分からなかった。命について考えたことがないわけではないが、自らに選ぶことになるとは思わなかった。ただ煙草を吸って、静かな住宅街を歩く。 父の愛人が妊娠した日のことを思い出す。いつものように怒ると思っていた母は泣いていた。父はひたすらに謝っていた。結局愛人の子どもがどうなったかは知らないが、父はそれ以来ギャンブルをしなかった。 あの日母がなぜ泣いていたのかも理解していなかった。もし父の命を奪ったら、母は泣くのだろうか。それとも怒るのだろうか。母の泣き、怒る声を曖昧に思い出す。 「あ」 老猫が道の端で倒れていた。口に咥えた煙草を見ても吠えはしない。数時間前吠えていた老猫は無力に横たわっていた。煙草の火を消し、猫に近づく。これが狸寝入りで、起き上がって吠えるのではないか期待していた。 父と息子を毛嫌いしていた猫を、母は愛していた。父が愛人の元に行っていた日も、息子が母と喧嘩した日も、母は猫に餌を与えていた。野良猫に餌を与えるのはきっと良くないのだろうが、それが母の喜びでもあった。 老猫に近づき、持っていた水を口元にやる。まるで動かない。あれほど騒がしかった猫はもうほとんど動かない。父も猫も、元の騒がしさに戻ることはない。横になった老猫の周囲に、微かな薬品の匂いが漂っている気がする。父と息子への嫌悪はもう見えなかった。 家に帰り、パソコンを開くと、まだあの動画の途中だった。上品なスーツの似合うこの人はまだ右往左往していた。少しだけ目が合った気がしたが、依然として画面の中で話している、ただそれだけだった。 母の仏壇の前で、また老猫を思い出す。生きている間に猫を撫でることは叶わなかった。撫でたいと思っていたとさえ知らなかった。線香に火をつけ、手を合わす。父の不倫を知った日に泣いた母のこと、母の葬式で泣いた父のこと。それをしっかりと頭に浮かべて拝んだ。 写真立ての母が優しくこちらを見つめていた。きっと管を取ることになっても、取らなくても、迷ったままでも母は許してくれる気がする。 老猫より早く母は死に、老猫より長く父は生きた。老猫が死んだ直後に父も死んだのでは縁起が悪い。そう思った。 その晩、仏壇に煎餅を供え、夕飯を食べる。コンビニの弁当だけでは味気なかった。味噌汁を作ってみた。具材はほとんどないが、味噌の匂いが部屋に充満した。
二人の食卓
子どもを拾った。家の前に落ちていたから。坊主頭で、口は開いたまま。目は小さく、鼻も小さく、体も小さい。手には汚らしい象のぬいぐるみを持っている。 何も喋らないから、何も分からない。口から言葉は出ずとも、腹から音が鳴った。俯いている子どもを部屋にあげた。 まず風呂に入れたかったが、仕方なくカップ麺を取り出した。この家にある唯一の食料だった。子どもの不慣れな手つきでは箸を扱えなかった。この家にはフォークもなかった。こちらが子どもの口に麺を運ぶときも、子どもは象のぬいぐるみを手にしていた。 風呂に入れるために服を脱がすが、なかなか難しい。子どもに両腕をあげるように言い、ようやく上着を一つ脱がせる。ズボンも脱がせる。裸になった子どもを風呂場へ押しやる。 「いっしょ」 右手に象のぬいぐるみを、左手でこちらのズボンを掴み子どもはこちらを見つめる。仕方がなく服を脱ぐ。風呂場で子どもの体と自分の体とぬいぐるみを洗う。 脱衣所で、子どもの服がないことに気がつく。ぬいぐるみの干し方を知らないことにも気がつく。子どもの体にタオルを巻きつけ、ドライヤーを当てる。少し暴れるが、片手で押さえ、髪が乾くまで風を当てる。ぬいぐるみはベランダに置く。 子どもは濡れたぬいぐるみをベランダから回収し、タオルをぬいぐるみに被せる。もう一つタオルを持ってくることになった。 「名前は」 タオルを投げるついでに質問も投げかける。 「なまえは」 投げ返される。 「俺は翔。田中翔。名前は」 再び尋ねる。 「みぃみぃだよ」 子どもはそう言ってぬいぐるみを前に突き出す。渡したタオルを器用に体に巻きつけ、そのままこちらを見つめている。象の名前に興味はなかったが、しつこく聞くほど子どもの名前にも興味はなかった。 「そうか。みぃみぃは乾かすから隅っこに置いておけ」 子どもは逆らうことなく、ぬいぐるみを部屋の隅に置く。みぃみぃはタオルで丁寧に包まれたままだ。 冷蔵庫から発泡酒を取り出し、テレビをつける。つまみを取りに棚を漁る。適当な乾き物を見繕い、テレビの前に戻る。発泡酒に触れようとする子どもの手を遠ざける。 「これはだめだ」 ジュースをあげようとして、この家にジュースがないことに気がつく。コンビニへ向かうため、子どもを連れていく。子どもは少し部屋を振り返りながらもこちらに着いてくる。 「みぃみぃは置いていけよ」 陽が落ちるのが早く、思っているより外は暗かった。子どもは少し怖がる。タオルにしか巻かれていない子を外に連れ出すことにも躊躇する。 子どもを抱きかかえ、上着の中に包む。子どもは首元から顔を出して、辺りを見回す。片手で子を抱えながら歩く。少しすると手が辛くなり、もう片方の手に切り替える。 そんなことをしている間にコンビニに着く。ジュースとお菓子をカゴに入れる。子どもが野菜コーナーの前で声を上げる。小さな声だった。野菜コーナーの前を通るたびに声を上げる。一つ一つ商品を指差し、子どもの欲しいものを探す。 キャベツを指さしたとき、子どもは少しだけ大きな声を上げる。ジュースとお菓子、キャベツをセルフレジで購入する。キャベツを買ったせいで袋も買うことになった。 部屋に戻り、子どもを上着から解放する。子どもはキャベツを手に取り、転がすようにぬいぐるみの前に持っていく。ぬいぐるみの前で用意したジュースを飲む。コップのサイズが大きく、少し溢している。 ぬいぐるみと戯れている間にベランダの灰皿を片付ける。ポケットのタバコはそのままベランダに置く。 子どもは机の上にジュースを置く。お菓子の包装を開けることができずに苦戦している子どもを眺める。一分経っても開かない包装を代わりに開ける。 「しょ」 子どもが呟く。 「しょ、しょ。しょ」 こちらを見つめている。それが自分のことを指していると気がつくのに少し時間がかかった。理解して、子どもの近くに寄る。子どもはジュースをこちらに渡す。受け取り、飲み、洗い場にコップを置く。発泡酒の空き缶も一緒に置いた。 テレビを消し、部屋の隅にあった汚れたテニスボールを子どもへ渡す。子どもはそれを丁寧に投げ返す。自分の方向とは少しズレた方向に転がるボールを拾い、また子どもに向かって投げる。しばらくラリーを続けた。 疲れを感じ、眠たくなった頃に子どもも少し静かになる。布団を敷き、仰向けになる。子どもは象のぬいぐるみを抱えて腹の上に登ってくる。ぬいぐるみはまだ湿っていた。 子どもを抑えるように手を前で組む。呼吸に合わせて子どもの体が小さく揺れていた。その晩は寝返りを打つことができなかった。 次の朝、子どもの声で目覚めた。顔を洗う。タオルで顔を拭き、そのタオルを水に濡らす。濡れたタオルで子どもの顔を拭く。子どもは声をあげて笑う。もう一度タオルで子どもの顔を拭った。 放置されたキャベツの葉を何枚か剥く。少し小さくなったキャベツを半分にカットする。 「みぃみぃに全部は贅沢すぎる」 一回りと半分小さくなったキャベツに気がついた子どもはぬいぐるみを撫でながらこちらを見つめている。子どもと目が合う。目を逸らし、キャベツを適当なサイズにカットした。キャベツを炒め、味付けに塩胡椒を一振りする。味見したただのキャベツは薄味だった。 ただの薄味キャベツを机に運ぶ。子どもがキャベツを覗き込む。フライパンを洗い場に置く。皿にはキャベツだけ。 フォークはやっぱりない。子どもの口にキャベツを運ぶ。うまく口に入らず、口の周りがベタベタになっていた。口元をタオルで拭うと子どもは笑う。綺麗になった口元をもう一度タオルで拭う。 まだ湿っている子どもの服をドライヤーで乾かす。その服を着せ、出かける。子どもはこちらのズボンを握っている。ぬいぐるみは持っておらず、両方の手でズボンを握っている。 百円ショップでフォークを買う。小さなフォークを手に取ると、子どもが大きなフォークを指差す。仕方がなく大きなフォークも買った。 公園に寄り道をした。何人か子連れがいたが、そのどれとも目線を合わせないようにした。何人かはこちらを見ていた。何人かは距離を置いた。 「しょお」 子どもがテニスボールを投げる。狭い部屋と違い、何度もバウンドさせて子どもに投げ返す。子どもはときどき後ろにボールを逸らす。その度に眉を縮め、少しだけ強くボールをこちらに投げる。そのボールを後ろにそらして、取りに行く。 部屋に戻り、カップ麺を作る。カップ麺に刻んだキャベツを追加した。ぬいぐるみのキャベツはさらに半分になった。 一つのカップ麺を二人で分け合う。二つの大小のフォークで分け合う。 「しょ。おいし」 フォークを五本指全て使って握っている。 「ん、美味いな」 キャベツの入ったカップ麺はいつもより味がした。