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28 件の小説益虫の眼差し
世の中おかしなことはいっぱいありますけど、一番おかしいのは人間でございます。それは私たちは人間の棲家を利用しているわけですから、無理に貶めようなんて思っていません。しかしですね、人間にとっても得になることを私たちはしているわけです。それなのになかなかな仕打ちだとは思いませんか。食料を与えろとは言いませんが、ただ放っておいてほしいのです。 「あの家は清潔だからろくな虫がいねぇ」 愚かな人間のことを考えながら徘徊していると、同族に出会いました。ここらは私たちにとって理想的な環境のエリアだと考えていましたが、どうやら最近人間の生活環境が変わってきているようです。 「こんにちは。ありがたい情報をどうも。お礼というわけではないですが、あちらの家食料の宝庫ともいえる家でしたがどうにも家主が荒くれ者でして」 同族は私の話を聞いて「あぁ」と漏らしながら察した様子で何処かへ行ってしまいました。 私は彼が教えてくれた方向へ向かわぬように新たなエリアを求めました。そうしてしばらくした頃に私はまた新たな人間の家へと辿り着きました。その家は一見すると綺麗で、とても虫が多いようには見えませんでした。 私は丁寧に方向を吟味していたつもりでしたが、気が付かぬ間に同族の忠告を無視していたのかと落胆しました。しかし、家主と思われる人間たちの話を聞いて撤退の意思を翻しました。 「最近は害虫が多くて敵わんな」 人間の想像する害虫なんざたかが知れてます。ほとんどの場合はゴキブリです。ごく稀にムカデなんかをいう人間もいますが、まぁ例外でしょう。その害虫が私たちにとっては明日を生きる食料なわけですから、人間が益虫と私たちのことを呼ぶわけも分かります。 しかし、この場合害虫というのは何なんでしょうか。私たちにとっては必要不可欠であっても人間にとっては不快そのものであるから害なのでしょうか。いや、不快でいえば私たちもそうです。 そう考えて私はまた沸々と怒りを覚えました。一つ前の家では私にとっての楽園でした。食べても食べてもご馳走の出てくる場所は人間にとっても嬉しいでしょう。ですから私は大喜びでしばらくの棲家にしようと考えました。ところが楽園に油断したのか、普段は用心なのですが、うっかり人に見つかってしまいました。 「うわぁ、クモだ。気持ち悪い、どっか行け」 何と失礼な、と私は思いましたが投げられる空き缶やら何やらに当たりたくないのですぐさま失礼。私たちのことを気持ち悪いといいますが、あなたたちの言う害虫を食べているのは誰だと思っているんでしょうか。そしてこの男何より納得がいかないのがゴキブリなんかも視野に入っているはずなのに我関せずなことです。人間とは実に分からないものです。 現在私のいる家に話を戻しましょう。害虫の多い家だということで、ウロウロと徘徊させていただきます。今度は人間の目に触れぬように行動します。人間のためでもあるのに人間から隠れるとはこれ如何に。 そうして家の階段を登って二階へつくと何やら見覚えのある景色でした。なんと、私に対して物を投げる野蛮な男のいる家であったのです。かなり長距離移動したつもりでしたが、元の場所へ戻ってしまうとは情けない。 この家には害虫がいるのでしょうが、あの男がいるのでは堪りません。そうして私が再びこの家を旅立とうとした時に何やら興味深い話を伺いました。 「あいつはまだ部屋にこもってるのか」 一階にいた家主と思われる人間の声でした。 「そうよ、もう何年経ったのかしら。可愛い我が子といえどあそこまで堂々と引きこもられるとねぇ」 どうやら野蛮な男は家主たちの子供であるようです。 「しかし、あいつは趣味には金をかけるんだな。稼ぎもないくせに負担ばかりかけやがって」 「もうあなたもそろそろ定年でしょ。だからさ、出ていってもらえないかそろそろ家族会議しようと思って」 「本当に穀潰しだなあいつは。害虫だよ」 いささか我が子に対して当たりが強すぎると思いましたが、私が興味を惹かれたのは最後の部分。「害虫だよ」と確かにおっしゃいました。なるほど、あの男は害虫でしたか。どうりで野蛮なわけだ。 そう思い私はすぐさま男の部屋へと向かいました。 「うわぁ、またクモだ。あっち行け、あっち行けよ」 二度も追い返すとは本当に失礼な男です。いや、失礼な害虫でしたね。 私はするするとと男の足元へ行きました。男は熱い地面を踏んでいるかのような動きで何とか私から遠ざかろうとします。しかし、足場の方が少ないのではないかと思える部屋では、人間のサイズでじたばたすることはできません。何かのゴミに躓いて転んだ男の体を登っていきます。男は気味悪がって身体を捻りますが、叫ぶ間もなく首元へ齧り付きます。すぐに男は声もないまま息絶えました。これでしばらくの食料には困りません。 私たち益虫は害虫を食べて暮らしています。しかし、人間たちに害を為すから害虫だと思っていましたが、人間も害虫になりうるんですね。やはりこの世で一番おかしいのは人間でございますね。
反復音
ざっくざっくと洞窟を掘り進める。洞窟と呼ぶにはまだ早すぎるぐらいで、壁を削っているという表現の方が適切だと思う。 「田中さん、これは何をしているんですか」 「山本くん、仕事中は私語厳禁だよ」 「すみません。でも何日も何をしているのか分からない仕事をさせられる僕の気持ちにもなってくださいよ。モチベーションが保てないですよ」 私語厳禁と何度注意されたか分からないが、田中さんは私が何を言っても毎度返事をくれる。多分私語厳禁と言わないといけないだけで、大したことはないのだろう。 「若い者はすぐ横文字を使うな。何を言っているのかさっぱり分からん」 田中さんはそう言いながらざっくざっくと壁を削っている。僕が一つ掘り進める頃には二つ掘り進めている。そんなペースだから、僕の掘る場所と田中さんの掘る場所を時々交代しながら掘らないとなかなか綺麗に掘れない。 「やる気のことですよ、やる気が持たないって言ってるんです」 丁寧に説明したつもりだったが、田中さんは「私語厳禁だよ」と言って取り合ってもらえたかった。 一分か二分ぐらいの沈黙が続いた。壁を削る音が規則的に鳴り響く。その音はかなりうるさいのだが、会話がないため静寂に思えた。 「山本くん、場所を交代しよう」 気がつけば人一人分ほどの差が開いていた。私の位置から田中さんを見ることができないほどに。 「何のために壁を掘っているのかという話だが」 場所を入れ替えるときには掘る音が止まる。先ほどの感覚的な静寂とは異なり、真の意味での静寂に包まれる。そしてその静寂を破ったのは意外なことにも田中さんであった。 「それは私にも分からないのだよ。山本くん」 私ではないどこか遠くへ話しかけているようにも思えた。だから私は力無く「はぁ」と呟くだけで、気の利いたことは何一つ言えなかった。 「私たちは一体何をしているのだろうな」 今度は真っ直ぐと私をみて、はっきりと私に田中さんは告げた。それなのに私は何も言えなかった。自分の持っていた疑問を投げ返されただけなのに。それから私たちは一言も言葉を交わさずに作業を進めた。掘削の音がとてもうるさかった。 「田中、山本。交代の時間だ、ご苦労」 あまりにも集中していたため声をかけられて初めて現実に戻った気がした。あれから一度も場所を交代していないため、随分と田中さんだけが前へと進んでしまった。 「また明日もよろしく頼む」 作業の交代を告げにきた名前も知らない上司に一瞥して私たちは帰路についた。事務所の更衣室でも、事務所から続く一本道でも、その先にある分かれ道でも、田中さんとは会話一つなかった。 次の日、田中さんは来なかった。代わりに佐藤という男がやってきた。今日初めてこの仕事に就いたらしく、汚れひとつない作業着をピシッと着ていた。 歳は私より少し下らしいがそれ以上に若く見えた。今までは田中さんに指導を受けていたが、これからは私が指導をしないといけない。 「下からじゃなくて上からやった方がいいよ。そうそう。いいね」 立場的に上に立ったが、田中さんの立場になったわけではないようだ。私語厳禁とは言われていない。なにより、田中さんのように仕事ができるわけではない。 「山本さん、これは何の意味があるんですか」 「私にも分からないんだよ」 そう答えると「そうですか」と興味なさそうに佐藤は呟いた。 それからしばらく沈黙が続いた。田中さんと二人の時は沈黙が嫌いだった。もとより静かな空間は苦手だから。しかし、今は沈黙が心地よい。佐藤が嫌いだとか苦手だとかではなく、初対面であり年下であることに対する気まずさがある。会話をせずにいることが楽だった。 そう考えて初めて田中さんも私と二人では居心地が悪かったのだろうかと思った。そう思ってからは作業が思うように進まなかった。 それでも、私の方が倍ほど早く時々交代しなければ壁に段差ができてしまった。交代する時に声はかけるものの、それ以外一切の会話はなくその日の業務は終了した。 更衣室でも会話はなく、佐藤は驚くほど早く、言葉もなしに帰ってしまった。私は一人事務所に残って名前も知らない上司を待った。 「お疲れ様です。田中さんのことについて少し伺いたくて」 数十分待って上司はやってきた。 「ああ、田中ね。彼辞めたよ。あれ、聞いてない」 その言葉を聞いて私は深く沈んだ。特別田中さんと仲が良いと思っていたわけではないが、一日の何時間も共にする仕事仲間としての絆はあった。そして、田中さんにとってそれが些細なものであったこと、それどころか苦痛であったかもしれないと考え、私は苦しくなった。 「なんかね、新しい仕事見つけたんだって。ああ、あとね、山本に急に辞めることになってすまないってよ。今までありがとうだとよ」 そう言って上司はどこかへ行ってしまった。事務所には私一人だけが残っていた。 ひとまず私が田中さんを追い詰めていたわけではないと知って安堵した。私は思った以上に田中さんを信頼していたのだと思い知らされた。 翌日になって佐藤は少し遅刻してきた。特に謝罪の言葉はなかったが気にしなかった。そのまま流れるように作業へと移行した。今日も沈黙が続いた。 掘削の音が耳障りだった。かつては静寂を産んでいた規則正しい騒音が、今ではただの騒音にしか思えない。 「この仕事、何をしているんですかね」 佐藤が再び同じ問いをした。騒音が紛れるため、話しかけてくれて助かった。 「この仕事は何をしているのだろう」 上を向いて呟いた。佐藤は返事もせずに黙々と作業を進めた。 「一体何の意味があるのだろう」 佐藤でも一人呟くのでもなく、田中さんに聞いてみた。ここにはいない、どこかで仕事をしている田中さんに。あぁ、私は田中さんがたまらなく羨ましい。
空白の選択
男が一冊、また一冊と本を手に取り、表紙と裏表紙をじっくりと眺めていた。棚の本全てを確認したかと思うと、今度は背表紙を凝視し始めた。 「店長、こいつやばくないですか」 コンビニのバックヤードで監視カメラを見ていた店員が店長へ尋ねた。書店で表紙をじっくり確認する人はいないこともないが、コンビニで本を長時間吟味する人はなかなか珍しい。 「いやぁ、でも万引きとしてるわけじゃないからねぇ」 「いや、こいつ昨日もおんなじことしてましたよ。連日平日の昼間からコンビニの本眺めてるやつやばいに決まってるじゃないですか」 店員がどれだけ強く言っても店長は「いやぁ」と煮え切らない態度であった。すると店員は痺れを切らして男の元へと注意に向かった。店長は慌てるふりは見せつつも店員を止めず、寧ろ感謝の表情を見せた。 「お兄さん、ちょっとお兄さん」 店員に呼びかけられた二十代かそこらの男は店員の声に耳を傾けることなく書籍コーナーを凝視している。男は若く凛々しい顔つきをしていた。しかし、無精髭と寝癖だらけの髪がその格好良さを打ち消していた。 「お兄さん」 男は何度目か分からない店員の声掛けにようやく顔を上げた。と言っても顔を向けただけであり、書籍コーナーに寄った前傾姿勢はそのままである。 「申し訳ないけど買わないんだったら帰ってもらっていいですか」 無言で見つめる男に屈することなく店員は力強く注意した。 「あぁ、冷やかしに来たんじゃありません。ただどれを買おうか迷ってしまって。すみませんすみません」 「迷うって、お兄さんもうここのところずっと見ているじゃないですか」 店員は苛立ちを忘れ、呆れながら男を見た。 「いや、違って。いや違わないんですが、その実はですね、友人に普通は本屋だけでなくコンビニなども利用するものだと言われたのですが、私の欲しい本がなく、それで迷ってしまいましたすみません」 店員は苛立ちを完全に忘れ、強く呆れた。そして声をかけたことを深く後悔しているように見えた。 「はぁ、よく分かりませんが。欲しい本が置いていないのにどの本を買うか悩んでいるのですか」 「その通りです。欲しい本がないのに本を買わなければいけないとは大変です」 訳のわからないことを言う男を店員は完全に諦めた。 「よく分かりませんが、他のお客様の迷惑にならないようにお願いします」 そう言って店員が戻ろうとした時、男が店員の袖をがっしりと掴んだ。 特に危険性を感じていなかった店員もいざ身体に触れられるとなると大きく焦った。跳ねるように身体が驚いた。すぐさま腕を振り解き、男の方を睨みつけた。 「いや、あの、違って。すみませんすみません」 男の顔を見て店員は「こちらこそ申し訳ございません」と睨みながら答えた。 依然警戒心の解けない店員を前に男は完全に怯え切ってしまい、何かを言いたそうに口をまごつかせるばかりである。数秒間の不思議な沈黙に耐えられなかったのは店員であった。 「何かお困りですか」 まるで今し方会話が始まったかのような仕切り直しを図った。いささか不器用ではあるが立派な営業スマイルを受け、男は怯えながらも口を開いた。 「コンビニでどの本を買うべきか手伝っていただけませんか」 その問いは店員が今年受けたお願いの中で最も奇妙なものであり、店員を困惑させた。全くの支離滅裂でないことも困惑を深める要因となっていた。 「いや、その、構いませんが具体的に何を」 それまで歯切れの良かった店員が初めて言葉を詰まらせた。店員が持つどこか強気な雰囲気が緩和され男の怯えは弱まった。 「ですから、本を買うのを手伝っていただきたく」 店員は同じセリフの繰り返しを受けて会話のできない人物であることを思い出した。どうすべきか、悩んでいる店員の元へ不安に感じたのか店長がやってきた。 「お客様何かお困りでしょうか」 店長は店員に小声で「大丈夫かい」と心配しながら男と店員の間に入った。 「コンビニで本を買うのを手伝ってほしくて」 「それでしたらこちらのものなどいかがでしょうか」 店長は一部始終を見ていたのか、特別男の問いに戸惑うこともなく売れ筋の漫画を勧めた。 「いやぁ、漫画は読まないんですよね」 穏やかかつ優しい雰囲気の店長を前に男は、店員と会話していたときよりも機嫌よく答えた。 「そうでしたか、失礼いたしました。それではこちらの雑誌などいかがでしょうか」 「いやぁ、雑誌も読まないんですよね」 「それは失礼しました。ではここらへんはいかがでしょうか」 店長は丁寧に文芸書のコーナーを紹介した。 「いやぁ、ここもちょっと」 それもそのはず、何日も眺めて一冊も興味がないのだから何を紹介しても無意味である。 「お客さん、いい加減にしてくださいよ。嫌がらせですか」 とうとう店員が苛立ちを爆発させた。店長が問題になることを焦りながら店員を制止した。しかし、店長が男に謝罪するより前に男が泣き出した。 突然泣き出した男を前に二人は動揺を隠せなかった。しかし、男の泣き方が子供のようにわんわんと喚く泣き方であったため、焦りと共に笑いも込み上げてきた。店内に男以外の客がいなかったことも影響したであろう。 「う、うう。だって、コンビニで本を買わないと。普通は、うっ、コンビニで買うんだから」 一通り泣き、啜るように男はそう呟いた。 「何も無理にコンビニで買わなくても、本屋で買えばいいじゃん。俺もコンビニで買ったことないよ」 店員の雑な返答を店長は止めはしなかった。 「え」 店員の返答を聞くと男はパタリと泣き止んだ。そればかりかニコニコと笑い出した。 「なんだ、コンビニで本を買わない人もいるんですね。良かった良かった。よく考えたら俺本なんか読まないし」 そういって男は嬉しそうに腕を振り、全身を使って退店した。 店員と店長は二人で見つめ合い困惑するばかりであった。 「なんだったんですかね」 「まぁ、可哀想な人だよきっと」 その日以降男は二度と来店することはなかった。
狼に見つめられ
異様な獣臭と人間の勘がその場にとどまらせることを否定した。私が移動し、少しして恐ろしい獣の声がした。初めは野犬かと思ったが、その猛々しい遠吠えが狼であることを示していた。驚嘆したのはその遠吠えの正体が人間だということである。 釣りが唯一の趣味といえる私は、休日を利用して山間部にある川辺をよく訪れる。自慢ではないが、釣りの腕前には自信がある。自信があるのだが、その日はからっきしであった。 日が暮れ、空模様も悪化してきたため、今日は引き上げようと考えたちょうどそのとき、竿が強く引かれた。今日のこれまでが散々だったこともあり、私はより一層意気込んで臨んだ。ついに勝負が決するかというときに、背筋を撫でるような不快感と恐怖が全身を巡った。 その悪寒が気のせいではないことを、私は直観していた。獲物の繋がった糸をすぐに切り、雑に荷物を詰め込み、急いで対岸へと逃げた。 対岸へ移動し、少しした頃に恐怖が姿を現した。細かい種までは分からないが、紛れもなくそれは狼の耳と尾であった。 おそらく一生涯これ以上の衝撃はないだろう。そして二度とこの出来事を忘れることはないだろう。狼の耳と尾をした人間を。 まず、間違いなく人間の身体をしていたことを強調しておきたい。その上で獣のような耳と尻尾が生えていることを想像してもらいたい。私の受けた衝撃が少しは伝わったであろうか。 ただ、それ以上の衝撃を私は受けねばならなかった。これ以上どう衝撃を受けようと思われるかもしれないが、その人間が自分の娘と瓜二つだとしたらどうだろうか。数ヶ月前に妻と共に私の元を去った娘と。 可愛い娘だった。愛する娘を思い出す。 「パパー、むーちゃんの服どっちがいいと思う。ねぇねぇ、どっちがいいかな」 この世のどこを見渡しても間違いなく一番であると断言できる可愛さを持っていた。 「どっちも可愛いなぁ。どっちかというとパパはそっちの方が好きだな」 そう言ってフリフリとしたゴージャスな服を指差した。 「ちょっとあなた、そっちは洗濯大変なんだから余計なこと言わないでちょうだい」 妻はそういうと娘からゴージャスな服を奪い取った。 「むーちゃん、パパのいったほうがいい」 「はいはい、むーちゃんにはこっちの方が似合うからね。それにパパはおしゃれのセンスが全くだから」 茶化すように笑って、そそくさと娘を脱衣所へと連れて行った。 ぼんやりとそんなことを思い出していると、耳と尻尾のついた娘が対岸からこちらを見つめていることに気がついた。やはりどう見てもそれは娘そのものであった。 ゴージャスな服も、妻の勧めた服も着ていない。身一つの娘が耳と尾を生やして私を見つめていた。 娘が川を渡って私の元へ向かってくる。私は動くことができなかった。無論恐怖もあったろう。しかし、恐怖以外の何かが私のことを支配していた。娘の目を見て、瞬きすることすら叶わなかった。 とうとう手の届く範囲まで娘はやってきた。耳が聞こえなくなったのではないかと思えるほどの無音と飛び出してしまいそうな心音が孤独を極めた。 そこまで近づいて、娘の頬が痣になっていることに気がついた。それは間違いなく私が与えた痣である。今でも忘れることはない。 「酒をくれ。酒を」 その日は随分と苛立っていた。ただでさえきつい仕事のスケジュールが部下のミスでさらに圧迫されていた。 「あなた、もう今日は寝て明日にしたら。明日も仕事なんでしょう」 上司の威厳を見せるべく、見事に責任を被った。しかし、そんな男気を誰かが見ているわけでもない。見栄のために責任を背負ったわけではないが、どうにも不満であった。 「うるさい。いいから酒を出せばいいんだ。外で働いてきているか らお前たちが食えていけるんだろ。なぁ、そうだろう。お前まで怒らせないでくれ」 仕事での鬱憤を晴らすために妻を利用している自覚はあった。しかし、そこに罪悪の意識はなかった。 「喧嘩してるの」 寝ているはずだが、私の怒号に目を覚ましたのだろう。目をこすりながら私たちを見つめる娘は愛くるしいぬいぐるみを抱えていた。 「むーちゃん。大丈夫よ、パパはちょっと疲れているだけだから。むーちゃんももう一回寝ようか」 「そうだ、パパ疲れているからちょっとうるさくしちゃったな」 私たち夫婦を繋ぎ止めてくれる最後の砦だと思っていた。 「パパとママ喧嘩しちゃいや」 ストレスを誤魔化すために、すぐさま酒を飲みたかった。 「パパとママは喧嘩してないよ。ほら、むーちゃんも早く寝なさい」 持てる理性を最大限振り絞った。 「やだ、仲直りして」 子どもゆえの我儘であった。それを私も分かっていた。だから妻に当たった。声を荒げ「早くお前がなんとかしろよ」と理不尽に妻に拳を下ろした。 「やだ、ママぶっちゃいや」 泣きながら止めに入る娘をもはや邪魔だとしか思わなかった。 「うるさい」 私は自分の手で最後の砦を壊してしまった。 そこから先はよく覚えていない。妻は娘を連れて出て行ってしまった。当然離婚もしたはずだが、それも覚えていない。いまだに家に帰っても妻と娘がいると錯覚することもある。 ただでさえストレスが溜まっていた私は錯覚と自覚しながらも日常として受け入れた。 肋骨を打つ心音が、風も川の流れも感じさせない無音が、目の前の娘に感覚を戻させた。 妻も娘も嘘偽りなく愛している。しかし、それを私は自ら放棄したのだ。 気がつけば娘はいなかった。ただ一匹の狼が私の前に残っていた。あぁ、この狼は私の心だ。私そのものが私を見つめている。罪の意識が私をその場に留めたのだ。 狼が私に牙を向く。私の倍はある大きな身体が私に襲いかかる。初めからこうなることが分かっていたかのように、私はそれを受け入れた。 なんて愚かなんだろう。気がつくのはいつも過ちを犯してからだ。 風と川の音がよく聞こえる。狼が私を食べる様を風と川が見届ける。先ほどまでの無音が嘘かのようにざわめいている。心音はもう聞こえない。
風の届く場所
周囲には大木と呼べる木々は一つもなく、大小構わずに考えても、一本の木さえなかった。ただ一つの大木だけが聳え立っていた。 大木の周りには季節の花が代わる代わるに咲き乱れた。ちょうどその頃大木の周りには菜の花が溢れんばかりに咲いていた。 菜の花が多く咲いているため黄色のカーペットが敷かれているようだった。その反面、黄色の中に真夏のような深緑の大木があることがとても不可思議に思えた。 一際存在感を放つ大木の近くに一つの村があった。その村は争いに追われ、逃げ込んできた人々の集落であった。 村人たちが逃げてきた時にはすでに大木が存在し、その大木を見た人々は希望の象徴として讃えた。村人たちは大木へ祈りを捧げるようになった。初めは手を合わせるだけだった祈りも、歌い、踊り、次第に祭へと変わっていった。 時がたち、祭は村人たちの年中行事として定着していった。祭は決まって菜の花の咲く時期に行われた。 「ママ、髪梳いてよ」 娘は祭に備えておめかしをしていた。 「はいはい、ちょっと待っててね。もうお姉ちゃんになるんだから自分で梳いてみたらどう」 「やだ、ママにやってもらうんだもん」 母親は身籠った身体を丁寧に持ち上げ、娘のために櫛を取った。 「女の子かなぁ、私女の子がいいな」 「そうねぇ、妹が生まれたらとっても可愛いだろうね」 母娘がたわいもない会話をしながら、祭の身支度をしていたその時であった。何か轟音が鳴った。その音には人の声も混じっており、喧騒の度合いが緊急事態であることを示していた。 「どうしたのかしらね。ちょっと待っててね」 外の景色を見て母は絶句した。それが夕焼けでないことは、空を埋め尽くさんばかりの煙を見てすぐにわかった。 「すぐに行くよ」 「まだ、お支度終わってないよ」 「いいから」 状況の分かっていない娘はボケっとした顔で母に手を引かれるばかりであった。 僅かな携帯食料を持って母と娘は外へ出た。どこへ向かうべきかは誰も教えてはくれなかった。ただ、馬のいななきと空を舞う火の矢と村人の悲鳴が、ここに居てはならないと告げていた。 しかし、妊婦と幼い子二人がすぐに遠くに行けるはずもなくどんどんと悲劇が迫っていた。 「村の外れにある大木へ行くんだよ」 「ママはどうするの」 娘の質問にも答えず、母は叫び声にも近いトーンで急ぐように言った。 母親は娘の行き先を悟られぬよう、敢えて敵襲を待ち、誘導するように大木とは反対の方へ逃げた。 子を宿した身体で逃げ切れるわけもなく、母はあっさりと捕まり、縄で縛られ、村の中央へと集められた。 早くも、敵襲は陣を組んでいた。陣には他の村人も集められていた。そのほとんど全てが女であった。 そのすぐ後、陣からは悲鳴が上がった。ゴミを積むかのように、人の首が陣の角に投げ捨てられた。その山に、母と娘、両方の父の首もあった。 その後、女どもも痛めつけられた。随分と痛めつけられたようであった。何人かの女は殺された。顔立ちの良い母は男の良いおもちゃであったため殺されなかった。母は殺されなかったが、母の尊厳と共に赤子は流産した。もっとも母も死にたいと思ったことは数知れない。 一方娘は大木の根元まで無事に辿り着いていた。小さな小屋ほどあるその幹に娘は腰を下ろした。そしてそこから真っ赤に燃える村を見た。菜の花の香りもこの時ばかりは煙と灰に邪魔をされた。 娘は燃えゆく村を見て呆然とするだけでなく、大木へ祈りを捧げた。大木へ祈ることで何かが変わるのではないかと考えて。なんの力も持たぬ娘は祈るばかりであった。 気がつけば日が落ち、より鮮明に村が燃えていた。娘は大木に寄りかかり何もできないまま寝てしまった。 明る日もその次の日も、陣を組んだ敵襲が大木へ攻めてくることはなかった。だから娘もずっと大木のそばにいた。大木がもたらす露や虫、周囲の菜の花のおかげで娘は餓死することはなかった。 大木周辺の立地にも詳しくなった。どこが一番露の取れる場所なのか、虫がよく集まるところはどこなのか、寝心地の良い場所までも知っていた。 美しい母は、侵略を指揮した権力者に奉仕することになった。初めのうちは抵抗していた母も、それが無駄であると分かってからは従順になった。 穏やかで優しくおしゃべりであった母は以前と比べて口数が減った。日毎に口数が減り、ついには一言も喋らなくなってしまった。 母が喋らなくなり数年が経った。何人かの女は歳をとり、殺されてしまった。もはや殺してくれた方が楽にも思えたが、母にとって娘のことが気がかりであった。着いたかも分からぬが、大木を見て娘のことを思い出していた。そして次第に、大木を見て手を合わせるようになった。道具のような辛く苦しい扱いと、どこかで生きているはずの娘。この二つが母の命を土俵際でせめぎ合っていた。 あの頃と比べて家屋や生活は大きく変わってしまった。それでもまるで変わることのない雄大なあの大木だけが、母の心のオアシスであった。 数年が経ち、母と同様娘も毎日大木へ祈りを捧げていた。最も、母と異なり物理的に大木に触れることのできる娘はより長く、より強く大木に祈りを捧げた。 初めのうちは訳も分からず祈っていた。次第に村の復興を考え祈った。数年経ち何も変わらないと分かっていても、祈ることをやめたらそれで終わりな気がして、娘は今日も祈りを続けていた。 だから、侵略者が大荷物を抱えてゾロゾロとどこかへ帰ったときにはとうとう祈りが届いたのかと、娘は歓喜した。 実際にはお国の中央が火の海であり、戦力の招集であった。権力者の都合により、平和を得たがそんな状況は知る由もなかった。 娘は歓喜して村へ降りた。僅かな生き残りの村人と生を喜び語り合った。これ以上ないほど抱きしめあった。何人もの村人と涙を流した。人生で間違いなく最高潮であった。だからこそ、母を見たときに娘はひどく衝撃を受けた。 母を見つけたときは生きていたことに心から喜びを感じた。虚空を眺める母をみて、それまでの全身が震えるほどの喜びが止まり、冷や汗をかいた。そこに以前の優しさは感じなかった。 「ママ、ママなの。ママ、ママ、ママ」 娘は太くなった身体で母の元へ駆け寄った。娘を見つけ、それまで銅像のように細く動かなかった母が涙した。母は声にならない声を呻き声のようにあげていた。 娘は母を抱きしめた。母もまた娘との再会を静かに喜んだ。祈りを続けた二人は、確かに、生きて抱きしめあった。 その日は風が強く、村まで菜の花の香りが届いた。
歩くこと
必死に、意味もなく、走っていた頃が私にもあったなと、すれ違った小学生を見て思い出していた。いつからだろうか、全力で走り回ることをしなくなったのは。中学生の頃はまだ走っていた気がする。高校生でもたまには。 そんなことを考えているうちに駅に着いた。まだ、週の半分も過ぎていないことに悲しみと虚しさを覚えた。 反対方面へ向かう電車を見て、もう会社のことなど忘れてこの電車に乗ってしまおうかと考えた。当然考えただけで行動には移さない。 定刻通りの電車、過密というほどではない車両に乗り、吊り革を掴んだ。窓から見えるビルを見て心が傷んだ。これも遥か昔であればバベルの塔として神の怒りを買ったに違いない。それが今では私の怒りを買っているという。神様から私にでは随分スケールダウンだなと可笑しく感じた。 私は神のようにバベルの塔に罪を与えることもできないし、仮に出来たとしてもしないだろう。仕事が本当になくなってしまっては困る。 くだらないことを考えているうちに憎き我らのバベルの塔に到着した。 「おはようございます」 私より早めに着いていた人たちに挨拶をした。少し遅くきている私ですら朝早いと感じるというのに、それより早い人々は実に素晴らしいことである。あの小学生たちも苦痛を感じていないのだろうか。 「おはよう。実はな、少し困ったことになってな。来て早々あれなんだが、ちょっといいか」 係長が困った顔をして私のことを呼んだ。その困り顔に悲しみが見えなかったため、私は大したトラブルではないだろうと感じていた。 実際にそれは大したトラブルではなかった。取引先の担当者が締め切りを勘違いしており、期日までに納品されないとのことだった。普通ならば大問題であるのだが、その件に関しては社内でも後回しで問題ないとされていたからだ。 後回しにはされたのだが、その担当者が私だったため、先方の謝罪の相手をしてくれとのことだった。 「いやぁ、参りましたけど、まだこの件で良かったですね。このぐらいの遅延ならほとんど問題もないですし」 係長もさほど焦っておらず、取引先の担当者が来るのを待った。昼食を終え、午後の仕事が始まって少ししたぐらいに担当者はやってきた。 メールで伝えられた通りの時間にやってきた。電車の時間もそうで、日本人は時間に正確だなと感じた。 担当者はこれでもかというほど頭を下げた。付き添いの上司も担当者に怒りを覚えつつ、平謝りであった。 必死に謝罪をする担当者に、この件の期日ならギリギリ大丈夫だからお気になさらず、と前提した上で今後気をつけるようにと牽制した。 こちらはほとんど気にしていなくとも、相手は必死に謝らなければならず、こちらもまた舐められては困るため軽く注意しなければならない。あの小学生たちならばごめんといいよのワンラリーで解決するのだろうか。 その日の夕方、喫煙所で係長に会った。 「お疲れ様です」 「おぉ、お疲れ。いやぁ、さっきはわざわざ悪いね」 係長はなんでもない風に軽くそう言った。 「こちらはほとんど迷惑を受けていないのに、あそこまで平謝りされると逆に気まずいですね」 「まぁ、納品期日間違えるって普通ならやべえからなぁ」 「そうなんですけど、こっちも一応注意しないといけないのしんどいですよ」 喫煙所では酒が入った時のような、フランクな会話ができる。 「それはお前、そうだろう。大人なんだからミスはミスで責任取らないと。こっちも今回は良かっただけで違う件でミスられたらたまんねぇよ」 係長はミスに対して責任の取れる立派な大人なのだろう。きっともう死ぬまで全力疾走することはないのではないだろうか。 「まぁそうですよね。上司の川野さんもすごい謝ってましたもんね。自分何にも悪くなくても謝らなきゃならないの大変ですね」 「それが大人だよ。まぁ面倒くさいけどな」 係長はそう言ってタバコの火を消して出て行ってしまった。 一人でタバコを深く吸って物思いに耽った。それは大人なのだからミスの責任は取るべきだし、再発しないように注意するべきなのだろう。でも本当は子供のようにごめんといいよで済ませたい。本当に大事なこと以外はどうでも良くなればいいのにと思った。 帰りの電車でまたバベルの塔を眺めていた。茜色に染まった空が炎のように見えて、とうとう神罰が降ったかと、くだらないことを考えいた。 もし、あの担当者が私ではなく神様に対してミスをしたとしたら、どんな罰を受けたのだろうか。大した問題ではないから許されるのか、それとも燃やされてしまうのか。 よく考えると、大きな塔を建てて神に近づき傲慢だとして言語をバラバラにしてしまうとは、神様の方がよほど傲慢に思える。神様は随分余裕がないのだろうな。余裕がないからお怒りになるんだ。 帰り道に遊び帰りか何かの小学生を見かけた。電柱の間を行ったり来たりしながら鬼ごっこをしていた。公園で遊べば良いのにとも思ったが、最近の公園は規制が多くて面倒らしい。 子供達が騒ぐぐらい良いではないかと思うが、余裕がないのだろう。遊具も怪我に繋がるため取り壊しになっているらしい。怪我の責任を取りたくないのだろう。遊具を設置する人々は子供なのだろうか。 なんとなく、少し遠回りをして公園に寄った。本当に遊具が少なかった。私が子供の頃にはいくつもあった気がする。隅のベンチに腰を下ろし、一息ついた。 ゾウの形をした小さな滑り台が目に入った。あまりに小さく、小学生ですら滑れないのではないかと思えた。園児限定の滑り台だとすれば、実に馬鹿馬鹿しい。 ふと、滑り台を逆に登って怪我をしたことを思い出した。足を滑らせ頭から落ちてしまったのだ。重症ではなかったがなかなかに痛かった。 そう考えると園児限定の滑り台も怪我の心配が少なくて良いのかもしれない。 「俺が使う」 「違う、俺が最初に使うの」 「なんで、なんで、俺が使う」 小学生になったかどうかぐらいの子供達がボールの取り合いをしていた。 一緒に使えば良いのにと思ったが、子供は随分余裕がないのだな。神様と同じだ。余裕がないから短絡的になる。 そういう意味では複雑で形式的な行動も余裕の証なのかもしれない。 小さなゾウに別れを告げ、家へと帰った。責任を取れないから遊具を撤去したのではなく、怪我をしないように遊具を撤去した。面倒なだけの形式ではなく、問題を少なくするために短絡的ではなくなった。 少し自分に余裕がなかったのかもしれないと思った。面倒でも、謙虚に余裕を持って過ごそうと思った。謙虚でないと私の勤めるバベルの塔がなくなってしまうかもしれない。
草花
雑草という名の草はない、という言葉をどこかの誰かが残していたなと、ぼんやりと、それでいて力強く、脳内に浮かんだ。雑草という草がないのならば、今私が刈っているこの草花の名前は何なのだろうか。 桜も散り、日差しが強く、しかし夏と呼ぶには早すぎる季節だった。祝日の続く連休を活かして、久しぶりに帰省した。都会のビル群に慣れた人間にとっては、田舎の景色は新鮮なものである。斯くいう私も、この土地で生まれこの土地で育ったはずなのだが、どうにも感動を覚えずにはいられなかった。 私の実家はそれなりに広く、小さな公園ぐらいの庭があった。その庭にはリビングから連なるウッドデッキがあり、そこでよくバーベキューなどをしたものである。 実家は坂の上にあり、ウッドデッキから一望できる景色はなかなかのものであった。急坂の多い土地柄、海に面しているにもかかわらず、山ばかりであった。ウッドデッキからの景色も左には煌めく海が、右には聳え立つ山が、という具合だった。 「ちょっとあんた、ぐうたらしてないで、少しは運動したらどうなんだい」 リビングで横になり、動画を見るか、友人に返信をするか、ご飯を食べるか、という怠惰な生活を送っている私に、見かねた母がそう言った。 「勘弁してくれよ。ようやく仕事から解放されてゆっくりできるんだから」 一応上体だけ起こして、話を聞く素振りをした。 「そんなこと言ったら私は一年三百六十五日休みなしだよ。いいから働く働く。お父さんと二人で庭の草刈りをしておくれ」 今まで何も言われなかったのに、急に怠惰を指摘した訳は、草刈りの依頼であった。我が家の庭は前述した通り、広い。草刈りといってもそう簡単ではない。人の背丈ほどもある草刈機を担いで一時間や二時間かけて行うのである。 携帯電話に連絡が入っていないことを確認し、汚れても良い服に着替えた。俺は憂鬱な気持ちを押し込めて、外へ出た。草刈機にガソリンを入れながら昔のことを思い出した。実家暮らしだった頃は冬場以外の毎月していたことが、はるか昔のことのように思われた。 父が支度をしているうちにひと足先に庭へ出た。夏でも寒いオフィス勤の人間にとって、肌が焼けるほど熱い太陽はかなりきつかった。帽子をより深く被り、太陽光を遮った。 草刈機のエンジンをかけようと、片膝立ちし、地面に近づいた時、てんとう虫がいるのを見かけた。職場付近ではほとんど虫を見かけることはないため、何でもないてんとう虫を珍しく感じた。 私が草刈機のエンジンをかけると、草刈機の轟音に驚き、赤い羽を広げてどこかへ行ってしまった。それが私に都会でのことを思い起こさせた。私はてんとう虫に友人を重ねた。 入社してから最初にできた友人だった。彼は同期であったが、大学受験で浪人していたため、年は一つ上であった。同じ部署で最も気の許せる相手であり、上司の愚痴を共によくこぼしたものである。彼は私と違って虫が嫌いであった。このてんとう虫にも腰を抜かしたに違いない。 そんな彼が突然仕事を辞めた。理由はまだ聞けていないが、パワハラがあったのではないかというのがもっぱらの噂である。 てんとう虫のようにどこかへ飛んで行ってしまった。それ以来、彼とは連絡を取れていない。どうにも気まずく、連絡することができないのだ。 私は、憂鬱な気持ち引きずって、草刈機を担いだ。田舎に似つかわしくない機械音を轟かせながら、草を規則的に刈り始めた。 草を刈り始めると、どこにそんなにいたのかというほどの昆虫が飛び回り始めた。草刈機の刃から逃げるように、必死に動き回っている。虫は嫌いじゃないが、いちいち気を遣っていてはいつまでも草刈りが終わらない。 その時刃先から伝わる違和感と、何かが弾ける音がした。バッタが死んでいた。私は草刈機を止めて、罪悪感を抱いた。 自分たちの都合で、草を刈り、その過程で理不尽に命を奪われたバッタを見て、私はまた友人を思い出した。 「ちょっと休憩取らないと熱中症になるわよ。ここ、ここにお茶置いといたから」 母がウッドデッキの隅にお茶を持ってきた。 「ありがとう、ちょうど喉が渇いていたんだ」 私はお茶を飲みながら、草の刈られた箇所を眺めた。飛び回る虫たちを見ていた。そうだ、そうして私の手が止まっているうちにそこから逃げるんだ。 そんなことを思いながらお茶を飲んだ。お茶をゆっくりと飲み干して、コップを置いた時に、干からびて死んでいるミミズを見つけた。 前日は雨が降っていた。雨が降るとミミズは地中で苦しくなり、地表へ出てくるらしい。しかし、外へ出たは良いものの、今度は太陽光に焼かれて死んでしまうという。苦しみの果てに別の苦しみがあるとはなんて悲しいのだろうか。 草刈りを再開し、ここから父も合流し、気がつけば、あっという間に終わっていた。父はひと足先にシャワーを浴びに中へ戻った。私はなんとなくウッドデッキに座りながら庭を眺めていた。 刈る前と後では驚くほど違っていた。私は悲しみとも呼べない虚しさを抱えて空を仰いだ。空を見上げて、その鳥の数に驚いた。こんなにも空を飛んでいたのだろうか。 一羽の鳥が私の座っている場所とは対角のウッドデッキの隅に止まった。その鳥は虫を咥えていた。そうか、私たちが草を刈ったことで、絶好の餌場となったのか。 鳥からしてみれば、餌場を作ってくれた恩人であろう。虫からすれば、地獄を生み出した悪魔であろう。はたまた、そのどちらも間違っているかもしれない。私の視点で物事を語っても、虫や鳥の本当の気持ちは見えてこない。 私は何を思い上がっていたのだろうか。鳥も、虫も、干からびたミミズだって、本当の気持ちは分からないではないか。それなのに、彼をそこに当てはめて気が滅入るとは、勝手にも程がある。 私の刈ったあの草花の名前はなんだったのであろうか。そんなことを思いながら、私は急いで家の中に戻り、シャワーも浴びずに携帯電話を手に取った。 「今度飲みに行かないか。お前の空いている日ならいつでも構わないから」 短い文章を打った。話してみようと思った。彼は鳥でも虫でもないのだから。
白湯
ときどき、自分が怖くなる。それは、現実的な恐怖とは異なる、心霊的な、理解のできない恐怖であった。自分のことが他人のことのように、長年連れ添ったこの身体が知らない何かに支配されているかのような、そういった類の恐怖であった。 幼いときからずっと身体の弱かった私は、一番の理解者である幼馴染と結婚してはや二年が経った。私たちは子宝にも恵まれ、妻も安定期に入っていた。病弱な私を懸命に支えてくれる妻との間にできた初めての子供である。それはそれは喜んだものであった。私たちの結婚生活は驚くほど順調であり、マリッジブルーどころか喧嘩の一つもない。死ぬまで、この生活が続いてほしいと願った。そんな私の考えに反比例するかのように身体が意志を持ち始めた。 その恐怖ともいえる身体の欲望を私はうまく言語化することができなかった。ただこのままで過ごしたいという願いを強く否定するかのように、身体が変化を求めている気がした。変化を拒めば拒むほど、身体は強く変化したがった。 そんなこんなで得体の知れない恐怖に悩まされているうちに病弱さも相まって倒れてしまった。 「過労とストレスですね。何か悩みとかありますか。おすすめのカウンセラーをまとめて紹介しておきます」 淡々と業務的に医者からそう告げられた。 そうか、過労とストレスか、とあっさり受け入れられた。くだらない悩みを払拭するために仕事に打ち込みすぎたのかも知れない。 私は仕事を在宅に切り替え、できるだけ休息の時間を増やした。それから、医者に紹介されたカウンセラーにも顔を出してみようと思った。 「それじゃあ、行ってくるね」 「あんまり無理しすぎないでね。私も在宅で働けるから、仕事休んでも大丈夫だよ」 「なぁに、たいしたことじゃない」 不安そうな妻の顔をみて、見栄を切ってみせた。本当の事をいうと、この胸のうちの恐怖は、身体の変化を求める欲望は、とどまる事を知らなかった。 車を運転することに少し不安があったため、妻に、少し運動も兼ねて、と嘘をついて駅を目指した。 家を出てすぐの横断歩道を渡っていると、強烈な音が耳を突いた。何かと思えば車のクラクションであった。 「危ねぇだろ、何考えてやがる」 何のことを言っているのかまるで分からなかったが、どうやら赤信号を渡っていたらしい。 そんなに疲れているのだろうか。そう思ってから周囲を見るとどうもおかしい。どことなく世界が暗く見えた。少し前までの、明るく、今も未来も、何もかもが幸せだった頃と比べて一体どうしたというのだろう。 ボーッとしながら何となく道を歩いていた。気がつけばそこは桜並木の河川敷であった。こんなところ近場にあっただろうか、と思い位置情報をスマートフォンで確認すると、どうやら隣町まで来ていたらしい。二時間弱歩き続けなければ来ないはずだが、二時間弱歩き続けたようである。今頃電車に乗ってカウンセリングを受けているはずなのに一体何をしているというのか。 桜並木がまるで美しく見えないことが、まるで私の世界が終わりを告げているかのように思えてますます気分が沈んでいってしまった。そうしてとうとう河川敷でペタリと横になって寝てしまった。仕事を休んでいるのに、カウンセリングを受けずに寝転んで何をしているのだろう。 横になりながら流れゆく雲を見ていた。空はこんなにも地味な色をしていただろうか。 私は変化を恐れているのだろうか。現状の幸せが変化することで何か良くないことが起きると感じているのだろうか。その変化がネガティブなものかポジティブなものかも分からないが、その変化に対する不安が、変化そのものをネガティブなものであると錯覚させた。 そんなことを考えているうちに時は流れ、先ほどまで見ていた空模様も変わっていった。冷たい風が身体を蝕む。そうしてポツリポツリと雨が降り始めた。私は傘も持っておらず、近場の喫茶店に避難した。 喫茶店に入ってすぐ、吐き気を覚えトイレに駆け込んだ。実際に嘔吐することはなかったが、胸のうちに苦しみが残った。 「こちら白湯です」 机に突っ伏している私に店員がそういって声をかけた。お冷ではなく白湯であったため客を間違えているのではないかと思い怪訝な顔をしている私に、店員が優しく微笑んだ。 「お客様具合が悪そうに見えましたので、お冷よりは白湯のほうが良いかと思いまして。もしお冷のほうがよろしければお持ちしますがいかがなさいますか」 「あぁ、いや、お気遣いありがとうございます。お冷は結構です」 店員はそれを聞くと笑顔で裏へ戻っていった。 店員の顔がどことなく妻に似ているなと感じた。見知らぬ女性を見て妻を思い浮かべるのもどうかと思ったが、そんなことを気にするほどの余裕はなかった。 そういえば妻もつわりで良く吐き気を催していたなと思い出した。妻は、朝起きてすぐお湯を沸かし、家事やら何やらをしているうちに出来上がった白湯をよく飲んでいる。妊娠初期も飲んでいたかどうかはよく覚えていないが、妻似の店員と白湯が少し前の妻を思い起こさせた。 「おぉ」 白湯を一口飲み、喉元を通る温かな感覚が気持ちよく、小声で唸った。心が深く落ち着いていく感覚を覚えた。 妻が良く白湯を飲むのは、もしかしたら心を落ち着けるためなのかもしれない。身体が変化を求めているのはどう考えても妊娠している妻だ。妊娠初期はかなり情緒が揺れていた。変わりゆく自分に不安を覚えていたのかもしれない。母になるために変化してゆく不安と闘っていたのかもしれない。 ならば、私は父になることに不安があるのかもしれない。それがどうしたというのか。妻の身体的変化や不安に比べればなんということはない。不安を振り払い、これから訪れる幸せのために、私は立派な父になってみせよう。そう思い、ゆっくりと白湯をもう一口飲んだ。 雨に降られる桜並木をみて、桜が散ってしまうのが実に残念に思えた。来年、綺麗に咲いたら子供を連れて桜をみにこよう。私は散ってゆく桜に一人静かに誓った。
尻尾
世の中色んな人がいるからね。品行方正で真面目が何よりも取り柄の母がよく言っていたセリフだ。私はこの「色んな人」には属さないと考えていた。私から尻尾が生える前まで。 その日、私の尾骶骨がするすると伸びて、立派な尻尾へと成長した。何が起きているのかはまるで分からなかったが、ただ一つ確かなことは、私のお尻の付け根から尻尾が生えているということ。それは爬虫類の尻尾によく似ており、イグアナのようであった。かといって私の身体は人間そのものであるからチープな仮装のようにも見えた。 初めのうちはただずるずると地面を引きずるばかりであったが、次第に感覚を掴むと左右上下へと自在に動かすことができた。小刻みに動かすコツも掴み、床に尻尾を規則的に打ち付けて遊んだりもした。 楽しかったのも束の間、これは夢ではないと明確に意識してから、私は異様な焦りと緊張を覚えた。一人暮らしであることを神に感謝しながら、どうすべきか悩んだ。ひとまず大学生であるから授業を少しサボったところで問題はない。それは、私が不良学生であるからではない。むしろその逆である。ほとんどの授業に真面目に出席しているからこそ二、三週間休んでも問題がないのだ。むしろ不良学生であれば尻尾自慢をするために大学を闊歩していたかも知れない。でも私は真面目だからそうはいかない。 どうすべきか悩みながら尻尾を適当に動かしながら遊んでいた。お尻から生えた尻尾を身体の前を通し、そのまま真っ直ぐ上まで持ち上げると、胸の少し下ほどまで届く。ここまで大きな尻尾となると隠すのは容易くない。ぐるぐると身体に巻き付けてみると思いの外フィットした。細いウエストが思わぬ形で役に立った。 春の訪れを感じる陽気であったが、私は尻尾を隠すため、オーバーサイズのアウターを羽織った。立て鏡で全身を確認してみるが、パッと見ただけでは分からなかった。 私はモノは試しと近くのコンビニをゴールとする冒険に出かけた。 再度全身を鏡で確認したのちに、お気に入りの靴ではなく、スニーカーを履いて玄関のドアを少しだけ開けた。ドアの隙間から顔を覗かせ、左右をチラチラと見た。人がいないことを確認すると思い切って「えいっ」と小さく呟きながら外へ出た。 誰かに見られているわけでも大犯罪を犯したわけでもないのに、見つかってはいけないと何かが強く思わせた。その何かから逃れるように慌てて階段を降りた。認めたくない何かが確かに私の中にいることがどうしても嫌だった。 マンションを出てすぐの横断歩道で信号が変わるのを待っていた。最寄りのコンビニは信号を進んで左に曲がりそのまま直進すれば三分ほどで着く。 ただちょうどその時、運が悪かった。信号が変わり、左へ進もうとしたタイミングで三人組の集団がこちらへ向かってきた。その内一人は私と同じマンションの住人である。咄嗟に私は右側へと走り出した。 とにかく見られまいと必死になって走って数分経っただろうか。後ろを振り向き誰もいないことに安堵した。よく考えれば、これからマンションで友人と集まって遊ぶに決まっているのだ。私に尻尾が生えていることを疑って後をつけるなんて馬鹿な話はない。 そこまで考えて、他人に見られても問題ないことを確かめるために外へ出たのに、見られることを恐れる小心者の自分を嘆いた。 身体に巻き付けている尻尾が少し緩んでずれていくのが不快だったため、陰に隠れてグッと尻尾を巻き付け直した。走った直後の熱った身体には尻尾が冷たく感じ、とても気持ちが良かった。 そうして、ここまで来たからにはコンビニというゴールを目指さねばならない。自宅から二番目に近いコンビニの方面に来ていたためそちらを目指すことにした。 ただ、できればそのコンビニには行きたくなかった。そのコンビニ、というかその周辺は少し治安が悪いのだ。 私は何もないようにと願いながらコンビニを目指した。道中何人かの人とすれ違ったが、特に何の問題もなかった。案外他人に注目などしていないのだと気がついてからは少し余裕を持って歩けるようになった。 「いらっしゃせい」 件のコンビニについた。コンビニの駐車場には柄の悪そうな集団が喫煙所に屯していた。 「何でこんなに高いんだ。おかしいだろ、おかしいだろう。私の時代はもう少し安かったがね、つくづく嫌な時代になったもんだよ」 ぶつぶつと悪態をつくおじさんが雑誌コーナーにいた。早速やばいやつと出会ってしまったと私は思ったが、金額に文句を言うおじさんと尻尾の生えた女子大生、普通ではないのは恐らく私のほうだろう、と思って悲しくなった。 「何だお前」 今度はレジの方から叫び声のような金切り声が聞こえた。おばさんが店員に対して何か文句を言っている。 「私に手で食べろっていうのか。普通に考えれば分かるだろう、普通に考えれば」 「すみませぇん。お客さんがいらないっておっしゃったんでぇ」 「何なのよその態度は。店長呼びなさいよ店長を」 「すみませぇん。今日僕だけなんですよぉ」 「全く、もう二度と来ないわよ」 「ありざしたぁ、またお待ちしてまぁす」 レジの店員は慣れているのだろうか雑に対応をしていた。 以前までの私であればすぐキレるおばさんも舐めた態度の店員もおかしな人と認定していただろう。しょうがない色んな人がいるのだからああいった人もいるだろう、と。 しかし、今の私にはとてもそんなことは言えない。箸がないだけでキレるおばさんだろうがクレーマーに適当な対応を取るワンオペ店員だろうが可愛いものではないか。金額に文句を言うおじさんなんか健全な人間といえる。 何せ私には尻尾が生えているのだ。色んな人たちはよく見てみれば何も悪者とかやばい人ばかりではないのだ。少し変わっているだけなのだ。尻尾が生えている人に比べれば全く普通だ。 そうか、あの時私の中にあった何かは普通ではない人間を迫害する気持ちであったのだろう。それが、私自身を締め付けていたのだろう。 そう思ってからお母さんに相談してみようと思った。コンビニを出て、喫煙所の可愛い集団を横目に携帯を取り出した。 尻尾が生えました。どうすれば良いですか。文章を打ってから少し笑ってしまった。いきなりこんなこと言われても母は受け入れられないかもしれない。真面目すぎて娘に尻尾が生えたと知ったら縁を切られるだろうか。 それも仕方ないか。世の中色んな人がいるのだから母のように真面目な人は尻尾を受け入れられないかもしれない。
喪失の果てに
私が小学生の頃に家族が亡くなった。共に暮らしていた祖父母が亡くなった。両親はそれよりさらに幼い頃に交通事故で亡くなった。また、生まれることはなかったが兄もいたらしい。 祖父母とはとても仲が良かったため私は涙を流して悲しんだ。しかも、亡くなった要因が殺人鬼によるものであったことも、私を深く悲しませた。正しくは殺人鬼ではないが。 その犯人は、いや、犯人たちは二十代にも満たない不良少年たちであった。なんでも数十万円を稼ぐために怪しいアルバイトを重ねていた青少年たちであったらしい。そんなことを重ねていくうちに、詳しいことは分からないが、自分達が脅される立場となり実行せざるを得なかったらしい。 そんなことで私の大好きなおじいちゃんとおばあちゃんは亡くなった。家に侵入したとき、飼っていた秋田犬のシバが懸命に吠えてくれたおかげで、少年たちが逃走する前に逮捕することができた。私は当時友人の家でお泊まり会をしており、祖父母の惨状を知る由もなかった。 それ以来私は親戚の家に預けられた。親戚のおばさんは一人暮らしをしており、私とシバを快く迎え入れてくれた。 「どうしてシバっていうのかしら」 おばさんに預けられることとなった初日にした会話である。 「私が小さい時に柴犬だと思ってたから。シバにしよってお母さんに言ったら秋田犬だよって。でもお父さんがそれを気に入ってシバになったの」 私はおばさんに嫌われちゃダメだと思い、まだ事件の名残が心中を支配しているのを無視して、明るく答えた。最もおばさんには哀しそうに見えただろうが。 「あらぁ。それは面白いわね。何よりシバって呼びやすいのがいいわ」 初めのうちはおばさんに心を開くことができなかった。だから、私はよくシバと会話していた。 「転校したばかりだから知らない子ばっかりなの。当たり前だけどね」 シバに話しかけても日本語で言葉が返ってくることはない。それでも、吠えたり飛びかかったり舐めたり、シバの感情表現は私の周囲の人間よりも遥かに分かりやすかった。 「わっ、危ないよ。こらシバ、シバったら」 私が哀しそうにしている時は舌を出して、飛びかかってくる。それが私にはたまらなく可笑しくて、どんな時でも笑顔にさせてくれる。シバは私にとっての家族であり親友でもあった。 中学生に上がり、少しばかりは友達ができた。その友達とたわいもない話をしながら帰路についた。家に帰ると、おばさんの姿が見当たらなかった。そういえば今朝スーパーに出かけると言っていた気がする。私に言ってくれれば買い物になどしてくるのに。 足腰の悪くなってきたおばさんを心配しながら、私は棚に置かれているお菓子をいくつか机に並べた。小さな一口サイズのお煎餅がいくつも入った袋を雑に開けた。手が汚れるのを嫌って、箸で一つ一つつまみながら食べた。 お菓子を食べながら中学校の友達に電話をかけた。友達とくだらない話の続きを電話で話した。 「分かる分かる。みほちゃんって悪い子じゃないんだけど、自分が一番じゃないと満足しない感じっていうか。ちょっと苦手なの分かるよ。え、何言ってんの。あかりは私の親友だよ、あかりは一番に決まってるじゃん。てかさ、今度の遠足めちゃくちゃ楽しみなんだけど、うん、そうそう」 「あら、もう帰ってるの」 「あ、おばさん。お帰りなさい。うん、そう、おばさん帰ってきたから一旦切るね。また夜、うん、バイバイ」 「転校してきたばかりはどうかと思ったけど、本当に友達ができて良かったよ」 「何言ってるのおばさん、そんな前のこと言い出して」 「夕飯は何がいいかな」 「なんでもいいよ。私ちょっと宿題やってくるね」 そう言って私はお菓子も片付けずに自室に篭った。宿題は広げたはいいものの結局半分ほどしか終わらず、ほとんどの時間をあかりとの電話が占めていた。 あかりは私の一番の親友で、あかりなしではもう生きていけないと言っても過言じゃない。 残りの五割の宿題を仕上げ、夕飯を食べに食卓へ向かう。ついでにシバの餌でもあげようと思って餌を取りに行った。中学生に上がってからシバの餌やりはほとんどおばさんの仕事だった。中学生は忙しいのだ。 「おばさーん。シバの餌ってどこに置いてあったっけ」 「そこの棚の下から二番目のところですよ」 「あ、あったあった。ありがとう」 私は餌を持ってシバの元へ行った。少し暗がりで一瞬どこにいるのか分からなかったが、シバはすぐに見つかった。なんだかぐったりしていた。シバは私を見つけたらすぐ飛びかかってくると思っていたが、少し疲れているのだろうか。 「おーい、シバー。餌だぞー、ほれほれ」 トレイに餌を入れ、シバの口元へ持っていくが、うんともすんとも言わない。 次の日、正式にシバが亡くなったことが確定した。心のどこかでシバは死なないものだと思っていた。お母さんとお父さんとおじいちゃんとおばあちゃんとそれから知らないお兄ちゃんと皆んないなくなっても、シバだけは私の元からいなくならないと思っていた。 こんな喪失感は初めてだった。ずっと一緒にいるものだと思っていたのに。いなくなるんだって知っていたらもっと一緒に遊んだのに。もう飛びかかってくることも舐めてくれることもない。 それから私は食事も喉を通らず、しばらく学校を休むことにした。しばらくといってもいいとこ一週間だけれども。おばさんは体調不良といって学校に連絡している。 「辛いだろうけれど、ご飯は食べんといかんよ」 おばさんが私にそういってハンバーグを作ってくれた。ハンバーグは私の大好物だった。しばらくほとんど絶食状態だった私は、ハンバーグをみてギュルギュルとお腹を鳴らした。 「こんなに悲しくてもお腹は空くんだね」 「そうねぇ」 おばさんは、かつてないほど打ちのめされている私になんと声をかけて良いのか分からないようで、形ばかりの相槌をするだけであった。 「シバ、私の出したご飯食べなかったな。最後にご飯あげたのがいつかも覚えてないよ。いなくなるなら、ちゃんとご飯も散歩も毎日やれば良かった」 私はおばさんに罪を吐露するかのよう咽びながら呟いた。 おばさんの作ってくれたハンバーグはとてもおいしかった。半分ほど食べて猛烈に体調が悪くなり自室に戻った。 自室で遠足のしおりを眺めていた。あれだけ楽しみにしていた遠足も今ではまるで心が踊らない。 あかりからくる電話にはまだ出れていない。今日もごめん、体調が悪くて。と簡潔な文章だけ送って横になった。 「遠足までに治るといいね、か」 あかりから送られてきた文字を機械的に読み上げた。遠足までどころか、これから一生私は治らないのではないだろうか。こんなにも悲しいことは今までの人生で一度もない。悲しいことならたくさん体験してきたつもりだった。それでもこの悲しみの先に笑顔があるとは思えなかった。 結局遠足に行くことはできた。しかし、遠足先での講演会のみである。おばさんが車で送ってくれた。皆んなと楽しく会話できる自信がなかったが、先生や皆んなをこれ以上心配させるわけにはいかない。そういうわけで講演会に顔を出すことにした。講演中であれば会話をしなくて済むという算段だ。 「皆さん、本日はこのような貴重な機会をいただきありがとうございます。本日講演をさせていただきます、田中千智です。十分間という短い時間ではありますが、よろしければ最後まで聴いていただければ幸いです」 短めのポニーテールと七三分けにされた黒髪がいかにも真面目であるという雰囲気を作り出していた。 「いきなりで申し訳ないんですけど、皆さんのご家族は元気ですか。中には亡くなっちゃったよって方や大人たちの問題で一緒に暮らしていないなんて人もいると思います。もし元気で共に暮らしているのなら、ほんの少しでもいいので会話でもしてあげてください。感謝を伝えるとか恥ずかしくてできないと思います。私もそうでした。だから、せめて会話ぐらいはしましょう。なぜ私がこんなことを言うのか、まずはスライドをみてください」 スライドに映されたのは瓦礫で覆い尽くされた街並みだった。 「皆さんの年齢だとどうですかね、産まれてすぐもしくは産まれてないって人もいるかも知れませんね。東日本大震災。とても大きな地震でした。ニュースとかで映像を見たことがある人もいるかも知れませんが、この地震の津波で大勢の人が亡くなりました。私の家族もこの津波で亡くなりました。その当時私だけ学校にいて、家にいたお父さんお母さんは残念ながら亡くなりました。ちょうど地震が発生する二日前ですね。お母さんと大喧嘩をしました。忘れもしないです。喧嘩の内容も細かく覚えています。当時流行っていた可愛い筆箱を、買ってほしいと私がいくらいっても買ってくれなかった母親に対して、強く反発しました。筆箱を買ってもらえなかった。たったそれだけのことで喧嘩をして、そのまま仲直りすることはできませんでした」 少し、ほんの少しだけ間を置いて、千智さんは手元のリモコンを操作した。スライドが一枚移り変わり、瓦礫の街並みから復興した街並みへ変わった。 「この画像は全く同じ場所を震災当時と現在で比較したものです」 一枚目と二枚目を行ったり来たりしながらそう解説した。 「残念ながら家族はいなくなってしまいましたが、残っているものもありました。町そのものですね。はっきりいって復興に携わったとかではないです。ただ悲しみに打ちひしがれていただけでした。強い悲しみと後悔が一年以上残りました。気がついた頃には見違えるほど復興が進んでいました。そうしてなんとなく悲しい過去を背負って生きているうちに周りの大人たちが復興を進めていました。でも全く復興の進まないものもあります。私の後悔です。なぜあのタイミングで喧嘩をしてしまったのか。悔やんでも悔やんでも、悔やんでも悔やみきれません。家や道路はいつか直ります。もちろん誰かの大切な想い出などは壊されてしまったかも知れませんが、私がただ生きている間にも立派な大人たちが直してくれます。私の後悔は私にしか治せません。はっきりいって今でも後悔しています。今、あの時に戻れるなら、同じ結末を辿るとしても、喧嘩するようなことだけはしなかったでしょう。皆さんには私のようにはなってほしくありません。辛気臭いことを言うなと思うかも知れませんが、今日生きている人が明日も生きているとは限りません。だからと言って、いつもありがとうだとか何かプレゼントを渡すだとか特別なことをするのは恥ずかしいと思います。会話だけで十分です。些細なことで結構です。学校で何があったとかテレビの話題でもSNSの話題でも構いません。その当たり前を存分に過ごしてください。亡くなってから後悔しても間に合いません。どうか今ある幸せを幸せと思わないぐらい、存分に楽しんでください」 そのまま千智さんは静かにお辞儀した。皆が静まり返っていたが、先生たちの拍手を皮切りにパラパラと生徒たちも拍手をし始めた。 私は、あまりにも今の自分とリンクしている状況が飲み込めず、体調不良を先生に訴え、皆と会話する間も無くおばさんの迎えを待った。 おばさんの車の後部座席で横になりながら、考えていた。亡くなってから後悔しても間に合いません。その通りだと思った。私はあの人と同じように後悔を一生抱えて生きていかなければならないのだろうか。一度悲しみを受けた人間は二度と幸せになれないのだろうか。 優しくおばさんが声をかけてくれるも、私は曖昧に返事をするばかりだった。 家に帰るとすぐ寝てしまった。疲れていたのだろうか。目が覚めた頃には翌日のお昼だった。あかりから電話の着信があった。今日は遠足の振り返り休日で学校がないのだ。私はなんとなくあかりに電話をかけた。 「もしもし、私だけど」 私からの電話なんだから私に決まっているのに。久しぶりの電話でおかしなことを言ってしまった。 「もしもし、うん。大丈夫なの。体調が悪いって、もう一週間ぐらいになるけど」 「うん、実はもうほとんど治っててサボり半分かな」 なんとなく心配させてはいけないと思い、乾いた笑い声でそう伝えた。 「実は遠足も行ってたんだよ、講演会だけだけどね」 「え、そうなの。言ってくれれば飛んで行ったのに」 「その時はすぐ体調悪くなってすぐ帰っちゃったんだ」 「そうなんだ。てか、あの講演会私に刺さりすぎてやばかった」 どきりとした。あかりが私の家庭環境を知っているわけないのに、見透かされている気分になった。 「あかりも、何かあったの」 そういって、も、とつけてしまったことに言ってから焦った。 「何言ってんのよ、あんたのことじゃない。ずっと体調不良で学校来れなくて。もしこのままいなくなっちゃったら私今後一生やっていけないよ」 私は自分でも気付かぬ間に涙が流れていた。一度泣いていると気がつくともう止まらなかった。 「え、何、どうしたの。大丈夫なの」 「ううん、ちがうの、ごめん。ありがとう。ちょっと切るね」 あかりにこれ以上自分の恥ずかしいところを見せたくなく、食い気味に電話を切った。 心のどこかでシバを失ってそれでもう終わりだと思っていた。でも誰かにとっての大切な人が私の場合もあって、私にとっての大切なものもシバだけじゃなかった。 「どうしたの、平気なの」 私の泣き声を聞いておばさんが部屋をノックする。 「うん、大丈夫」 泣きながらそう返事をする。 「開けるわよ」 おばさんが部屋に入ってきて私を抱きしめる。 「私じゃシバの代わりにはなれないかもだけど、今は辛いかもだけど、なんでも聞くからね」 転校してきたばかりはシバだけだった大切なものも今では一つではない。 後悔は一生残るかも知れないしいつか消えるかも知れない。それは私にはわからない。それでも私には大切なものが残っていて、それを大事に持って生きていこうと思えた。 私の泣き声と、つられたおばさんの啜り泣きと、スマホに来る通知音だけが部屋に鳴り響いた。