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33 件の小説

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色々書いています。

批評

 まず、本稿の投稿が遅くなったことを参加者の皆様にお詫び申し上げます。体調不良により投稿が遅れてしまいました。重ねてお詫び申し上げます。  本題に移りますが、今回は三名の方が企画へ応募してくださいました。ありがとうございます。企画へ応募された順に作品を批評していきます。なお、今回の批評ではあくまで個人の意見であるということを踏まえ、簡単に受け止めていただければ幸いです。なお、企画参加者の皆様は本投稿を確認でき次第コメントやいいねでお知らせください。全ての投稿者の確認が取れ次第本投稿は削除します。  それでは、批評文をご覧ください。 『矛盾は悪いことなのか』 黒猫様  この作品の主題は明快で「矛盾」です。矛盾という抽象的なテーマを誠実に捉えた随筆的短文、もしくは散文です。その内容は非常に整理されています。 一、日常生活における矛盾の提示 二、矛盾を悪ではないと定義 三、矛盾による成長について 四、矛盾が必要であるという結論  この流れはシンプルかつ教科書的で、矛盾という抽象的なテーマを説明する上で読者にとっても読みやすくなっています。  しかし、その読みやすさは欠点ともなります。教科書的な進行は読者にとっても予測可能なものでもあります。また、理論的に整いすぎているため、作者の感情の揺らぎは見えてきません。つまり、作者はその矛盾に実際どのように葛藤し、傷つき、成長したのか、といった内容が見えてきません。  語り手が理性的かつ揺らぎのない安定を持っているため、結論である「矛盾を受け入れる」が安易なものに見えてしまいます。  文学とは必ずしも答えを出すものではなく、その過程の葛藤や感情の摩擦、揺らぎがあるものだと思います。それはフィクションであってもノンフィクションであっても構いませんが、何かひとつ具体的な出来事が提示されれば、作品の密度は一気に高まるように思えます。  矛盾を主題に据えながら全く矛盾のない安定した構成、これが本作の弱みであると考えます。  しかし、本作は矛盾という抽象的なテーマから目を逸らさず、誠実に書き上げたという点で評価すべきでもあります。 『非常口』 雨雲サイダー様  本作は閉鎖的なホラーであると同時に自己崩壊的な心理描写を伴った作品です。  まず何よりも面白いのは「非常口」の扱い方です。タイトルにも登場する非常口は作中でも度々登場しますが、ほとんどその意味をなしません。通常非常口は救済を示す役割がありますが、本作では最後まで決して開くことはありません。語り手はどこまでも閉鎖された中でいます。これは語り手が越えてはいけない境界線への抑圧の表象としても読めます。  次に評価すべきは五感に訴えかける文体です。作中で不快感などの情報は五感で伝えられることがほとんどです。鉄の匂い、腐敗臭、鳥肌、筋肉痛、引っ掻き傷など様々です。この生々しさが読者へ不快感を強く植え付けます。そして、無臭であることを「焼肉の匂いを想像できる」という表現が面白い。日常的な表現で無臭を表したその直後に腐敗臭が登場し、その落差に読者は衝撃を受けざるを得ません。  構造の反転も巧みで、前半では語り手がものを見る側でした。非常口を観察し、周囲を探索する。しかし、終盤には見つめられる側になっています。この視点の反転は様々な可能性を考えさせます。被害・加害、見る・見られるなど構造的反転が作品に深みを与えています。一方で作品の弱みとなり得る点もあります。主に以下の三点が挙げられます。 ・視点のブレ ・恐怖のピークが分散している ・中盤がやや冗長  はじめの、視点のブレについてです。主人公はあくまで記憶がなく、それでいて読者にとっても信用できない語り手です。しかし、時折地の文と語りが入り混じり、心情の境界が曖昧になる箇所があります。これは、意図的に曖昧にしている可能性もありますが、既に読者の混乱は誘えているため過度な演出と取られるかもしれません。  次に恐怖のピークが分散している点です。猫の死体が登場する場面と最後の田中の場面、どちらも作品の見どころですが、感情の起伏が同程度です。読者にとって感情の整理が追いつかないまま終盤を迎えることとなります。どちらかにピークを合わせるか、どちらかを穏やかにするなどがあっても良いかもしれません。  最後に中盤の冗長な場面についてです。これは前述した二つの問題にも通ずる箇所です。主人公がやや冷静すぎるかつ説明的になる場面があります。これが、猫の場面からの緊張感を維持できず田中の場面に向かうためピークが二つとなります。これは地の文と語りの文をしっかり分けることで語り手の感情を冷やさずに物語を進行できます。また、やや説明的な箇所はもう少し読者を信頼して削っても良いかもしれません。ピークに分量を割くなどすればより密度の高いホラー作品となります。  しかし、本作は揺らぎや五感、構成の反転などを巧みに用いたホラー作品であり、優れています。 『四』 黒鼠シラ様  この作品は構造を用いた寓話的な短編です。まず著者が作品外で示しているように人称を変えながらその狂気を反転させ、読者へ思考を促していきます。  まず一の存在ですが、はじめの登場では非常に内省的で自己の内面とだけ向き合っていきます。しかし面白いのは二や三人称で語られるほど一が安定しているように見えることです。これにより狂気じみた行為を冷静に捉えることができます。異常な行為を淡々と描くその文体も、異常を常態化しており、一の存在を安定させています。  次に二の存在ですが、二は一に追従するものです。一だけを追いかけついには悲惨な最後を迎えます。一方で一は二に興味も示さない。また、三の場面ではあえて喜劇的に二を描くことで、一よりも狂気的に捉えさせています。この関係性は様々な事柄を象徴できます。  最後に三ですが、これは社会が狂気や異常を見せ物化している様子であり、群衆による物語化の狂気を語っているようにも見えます。この段階では狂気の評価ははじめの頃よりも増幅され、固定されます。  視点を変えることで狂気への捉え方を変化させる巧みな作品ですが、弱点もあります。 ・象徴が固定化されやすい ・「一」という存在 ・読者の揺らぎ  まず、象徴の固定についてです。作品についての簡単な解説がコメント欄に備え付けられていることに加え、本文の構成も非常に安定しています。これがかえって、象徴を固定化してしまい、余白や解釈を狭めています。  次に「一」の存在です。二章と三の章を読む限りでは一は非常に神秘的かつ謎めいたキャラクターですが、一章で一の内面を描いてしまっています。そのため、以降での一が単なるキャラクターとして存在してしまいます。もちろんこれは構成上やむを得ないともいえますが、二や三でどこか一の表情が伺えるシーンがあっても良かったと思います。  最後に読者の揺らぎです。これは象徴の固定化にも近いですが、読者の読みは大方一つしかありません。作者としては思った通りに読んでもらえるというのは良いかもしれませんが、作品として様々な解釈、余白、可能性がある方が良いでしょう。そのためコメント欄の解説などなくとも読者を信頼した文であれば、より良い作品になると思います。  この作品は一直線に様々な人物を配置していき、その狂気の変遷を追った構成で語る寓話です。タイトルの四はおそらく読者が立たされている位置であり、読む行為そのものを試す作品です。  今回の批評は以上になります。参加者の皆様に改めてお礼申し上げます。参加者の皆様あっての企画ですので大変感謝いたします。皆様は批評の程度として厳しめを希望しており、やや語気の強くなる箇所もございましたが、あくまで一意見として受け止めていただければと思います。今回の企画で皆様の創作の糧となれば幸いです。  また、批評する側としても勉強になる企画ですので今後ともよろしくお願いします。これからの皆様の新たな作品を楽しみにしております。  改めてありがとうございました。

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見ず

 彼氏が姿を消してからちょうど一年経った。あの輝く笑顔や嫌になるほど真面目な彼を見捨てたわけじゃない。それでも私は警察を訪ねたり度重なる連絡をしたりしない。そもそも普段から連絡頻度は少なく、一週間返信がないこともあった。しかし、一年も連絡がつかないのはこれが初めてだ。  同棲しよう、と言い出したのは私からだ。二つ離れた年齢は問題ではないが、婚期を逃せないと焦っていたのは年上の私だろう。彼はああとかうんとか、手元の液晶画面を見ながら適当に返事をした。  私は週の半分以上を彼の家で過ごしていたし、実家を出たいと昔から考えていた。彼もよく私のことを泊めてくれた。曖昧な返事でも同棲することに反対ではないと思っていた。本格的な同棲のプランを立てる頃、コンビニに出かけた彼はそのまま帰ってこなかった。  だから私は彼の部屋で一人暮らしをしている。とはいっても部屋に彼のものは未だに残っている。片付けてしまうと彼の痕跡が消えてしまう気がしたが、使ってしまうわけにもいかない。彼の歯ブラシやコップは出て行った時のままで、干してあるタオルでさえそのまま取り込んでもいない。最も手がつけられないのは彼の書斎だ。  彼はずっと読書家であった。読書家というよりも文学マニアやオタクに近く、物語を読むことに加えて書籍を収集する癖も持ち合わせていた。そんな彼のコレクションが詰まった部屋は彼の存在そのものに近かった。  トースターでパンが焼けた音とインターホンの音が同時に鳴る。どちらを先に対応すべきか少し悩んだが、トーストを二枚の皿に置き、バターを冷蔵庫から取り出すことを優先した。そうして準備を終えてから玄関を開ける。 「もうみーちゃん遅いよぉ」  扉の前に立ち、私をみーちゃんと呼ぶのは菜津だ。彼氏ですら私のことをみーちゃんとは呼ばないが、彼の妹である菜津はそう呼ぶ。 「ごめんごめん」  彼と菜津は年子なので私とは三歳差ということになる。それでも年齢の壁を感じることはほとんどなく、むしろ彼よりも仲が良いかもしれない。そして、彼が失踪しその関係はより強固なものとなった。 「わっ、良い匂い」  少し耳の焦げたパンの匂いに釣られつつも外靴を丁寧に揃えるのは兄妹だなと感じる。そそくさとパンに手を伸ばす菜津に鋭い視線を送ると、菜津は渋々洗面台に向かった。几帳面なのに衛生面を気にしないのも、地面に落ちたポテトチップスをそのまま食べる彼に似ている。 「菜津はピーナッツクリームのが良いかな」  私はパンには絶対にバターと決めているのだが、菜津は甘くないパンはパンじゃないと言い張る。ここは兄とは違う。彼は絶対に何もつけない。  私と菜津は朝食と呼ぶには少し遅く、それでいてどうあがいても昼食にはなれない食事を済ませる。私が皿を洗っている最中に菜津はボディラインが強調されるスポーツウェアに着替えていた。 「みーちゃん早く」  私も菜津を待たせぬようにすぐに着替える。私のウェアはややオーバーサイズで菜津と比べて色合いも地味だ。もっとも菜津と違って出るようなボディでもないのだが、サンバイザーをつければおばさんになってしまう色合いの服はどうかとも思う。  ダイエットのためのジョギングを提案したのは私からだが、どうにもやる気のない私のためにわざわざ家に来て連れ出してくれるのだ。公園や川沿い、ときには小規模の山登りまでコースはさまざまだが、今日は川沿いのコースだった。  川沿いのコースは私のお気に入りで彼ともよく散歩していた。彼は散歩が好きでよく私を連れ出すのだが、気まぐれに寄り道をしては私を困らせた。川沿いで綺麗な石を探し始めたときは流石に笑ってしまった。 「ちょっと、待って。速い」  菜津は運動部だった経験からくる体力で万年帰宅部の私とみるみる距離を開いていく。 「ごめんごめん。でもみーちゃんも体力ついてきたよね」 「いやぁ、どうだろ」 「でも、前はもっと早くバテたから私運動にならなかったもん」  笑いながら不満をこぼす菜津に私は言葉が出ない。あれだけ走っても疲れないとはもはや怪物の域である。よく考えれば彼も寄り道ばかりだったが、先に疲れて帰りたくなるのはいつも私だった。  翌朝、トースターの音が軽快に鳴る。菜津の来ない日であったが二枚の皿を出していた。一枚のトーストを食べ、二枚の皿を洗った。  空気清浄機だけが音を奏でる静かな部屋が奇妙で私はすぐに外出した。彼がいなくなってからは週の半分以上を菜津と遊んでいる。そうでない日は母親の介護がほとんどだった。  その日も老人ホームへ向かう。川沿いの道をずっと歩いていけば辿り着けるのだが、私の体力ではかなり辛い。今日こそは歩いてみようかと考えて、スクーターに腰を下ろす。  老人ホームの受付は顔馴染みとなり、ほとんど顔パスであった。杉田佳代子の名前の横にチェックを入れ、軽い会釈を済ませれば入場可能である。 「杉田さん、みこさん来ましたよ」  清潔であることをこれでもかと証明するマスクと手袋、白い服を着たスタッフが母に声をかける。どこか気の抜けた様子の母は私を見ても特に表情を変えようとはしない。 「あぁ、みーこかい」  やはり目の焦点の合わない母を見てどこか可笑しく思えたが、なんとなく罪悪感を感じ、表情を緩ませることはなかった。 「佳代子さん、元気してるの」  私は母を佳代子さんと呼ぶ。小さい時からそう呼んでいる。それは血縁関係では伯母に当たるからであるが、母は出会った時からみーこと可愛らしく呼ぶ。私は佳代子さんのままである。 「今日はデザートが美味しくてねぇ」 「良いねぇ、何食べたの」 「甘くてね、白くて、あの、なんだったかしら。あぁ、将史さんにも食べさせたい」 「杏仁豆腐ですよ、杉田さん」 「あぁ、そうだったわね。将史さんにも食べさせたい」  母は父の話をよくしている。それは私が来たからではなく、私がいないところでもということはスタッフからよく聞いている。父は、つまりは伯母の旦那ということになるのだが、若くして肺炎で亡くなっている。  私が彼と同棲する少し前からほとんど実家にはいなかった。母はその期間一人で過ごすことが多く、申し訳ないことをしたと思う。彼が失踪する少し前からホームに入居したのだが、笑顔が増えたらしく、私としては嬉しい限りである。  母は父の話題を私がいる最中ずっとしていた。私の記憶では父が生きているとき、母と親しげに会話していた覚えはない。父が亡くなってから、母にとって父親は忘れられない存在となっている。  スクーターでの帰り道、川辺に菜津が座り込んでいるのが見えた。私は道路脇にスクーターを止めて、菜津の元へと向かった。菜津は石をピラミッドのように積み上げていた。 「何してるの」  私が声をかけると、菜津は驚いて積み上げていたピラミッドを崩してしまった。 「びっくりした。みーちゃんか」 「ごめんごめん」 「これはねぇ、お墓を作ってるの」  私は想像もしない答えが返ってきて私は素っ頓狂な声を出してしまった。間抜けな私の声を聞いて菜津はけらけらと笑う。 「一ヶ月ぐらい前に川で溺れた子供のニュース覚えてるかな」  まるで記憶にないが、一応思い出す所作を取ってみる。菜津は普段は適当だが、意外にも時事には詳しい。自主的に新聞を購読する若者は珍しく、テレビも見ない私とは対照的だ。 「全然、この川じゃないんだけどさぁ。なんかこうして墓を作ってあげれば、一人でも君たちのことを覚えてるって伝えられる気がして」  決して重くならないように笑いながら菜津はそう言ったが、その言葉は軽くもなかった。自分にはなんの関係もない事故、それを忘れることをしない菜津は優しいと思う。私なら次の日には忘れてしまうだろう。ここまで覚えてくれるなら、菜津の旦那さんになる人は幸せだろう。まず間違えなく、先に死んだとしても忘れられないはずだ。 「優しいね」  私がつぶやいた言葉は風に流されてしまい、菜津には届かなかった。菜津はそのまま立ち上がり、ピラミッドの一番上の小石を思い切り川に投げつけ、水切りをする。数回だけ跳ねた小石は情けなく川へ沈み込む。 「よし、お兄ちゃんの家を掃除しに行こう」  突然の提案に私は言葉が出なかった。私よりも先にスクーターの元へ駆けつけた菜津を追いかける形でスクーターに跨る。 「バレないバレない」  私のスクーター二人乗りできないと注意する前に先手を打たれてしまった。仕方がなく、警察に見つからないことを祈りながら家へと帰った。  掃除を始めてみると思ったよりも汚れている箇所は少なかった。最近は掃除していないはずだが、なかなか綺麗になっていた。干したままのタオルは新品のような膨らみを持っていた。 「これ交換しちゃうよ」  菜津がそう言って持ってきたのは毛先の広がった二つの歯ブラシだった。彼の分まで交換されてしまうことに少し抵抗があったが、止めるほどのことでもなく、そのまま二つの歯ブラシは新品となった。 「いやぁ、意外と掃除するところないね。あとは書斎ぐらいか」  胸の鼓動が速くなる。言われることは分かっていたはずなのに、いざ言葉にされると異様な緊張感が私を包み込んだ。兄の本に触れると昔から怒られるからといい、菜津は私を書斎へと追いやった。 「失礼、します」  誰に告げるわけでもなく、独り言のようにつぶやいて、書斎の扉を開いた。 「どうぞ」  開いた書斎の先に、彼がいた。彼は新刊を机の上に積み上げ、じっくりと読んでおり、振り返ることもしない。あまりにも自然にいるものだから、彼に問うこともできなかった。 「久しぶり、に、声を聞いた気がする」  久しぶりで止めようとして、なんだか違う気がして無理やりに続けた。そこでようやく彼はこちらを振り返った。手に持つ本をそっと机に置き、記憶の中のままの表情で。 「僕こそ、久しぶりに声を聞いた気がする」  彼は自嘲気味に笑いながら机を指差した。そこにあったのは婚姻届だった。結婚しよう、と彼が言った気がした。いや、確かにそう言った。タオルは勝手に綺麗になったわけではないし、歯ブラシも勝手に毛先が広がったわけではない。 「きゃー、プロポーズぅ」  書斎を覗きにきた菜津が大袈裟に叫んだ。婚期を逃すまいと焦り、妹とも仲良くなった。老人ホームの母に孫を見せたいと感じている。それなのに、婚姻届にすぐ手を伸ばすことができなかった。耳の奥に水切り石が沈む音が残響している。  母が父を死後に思い出すように、菜津が報道された子供を弔うように、彼を死後に思い出す、そんな恐怖が身体を締め付ける。唇が震え、手先が冷え、気分が悪くなりトイレに籠った。彼も菜津も私をとても心配している。  それからは、なんてことない元の人生へと戻った。菜津はよく遊びにきて、母を度々訪ねる。そこに彼がいる。彼はあれ以来二度と結婚しようとは言わなかった。

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触れる

 森の中に、沼があった。誤って踏み外し、沼に足を取られれば沈んでいくのを覚悟するのみである。毒性の底なし沼であった。  ある晴れた日、木漏れ日が心地よく揺れる森で男が狩りをしていた。数日にかけて獲物ひとつ見つけることができなかった男は、ようやく見かけた兎を逃すまいと懸命に追いかけた。しかし、獲物に夢中になるあまり足元を疎かにし、男は転げることとなった。転げた先が運悪く、死の沼であった。  男は沼に頭から突っ込み、足を忙しなく動かす。しかし、次第に両足ともに力なく動かなくなってしまった。動かぬ男の体はゆっくりと飲み込まれてゆき、陽が沈む頃には完全に見えなくなっていた。  再び森に光がさす頃、男の意識は沼のすぐそばで目覚めた。男にとって、明確に沼に落ちた記憶と今確かに見ている森の景色どちらもが現実のものであった。  木漏れ日の微かな日差しが酷く熱く感じた。肌が勢いよく乾いていく感覚が男を襲う。木陰に逃げようとして立ち上がった時、男は立ち止まりその場から動くことができなかった。  男の両の手から滴る真っ黒な泥をただ眺めていた。そうして泥に塗れた腕を見て、胸を見て、どことなく黒く霞んだ視界が、男の思考を奪った。男の上半身ほとんどすべてが泥に塗れていた。  必死に泥を振り払おうとして、泥の手を振り回した。泥は飛び散るが、素肌が見えることはない。それどころか、内側からうねるように泥の量は増していく。次第に泥に飲み込まれ、全身を構成する物質の全てが泥となった。  男は、影をそのまま立体的に起こしたかのような、人の形をした泥となった。顔の目と思われる箇所だけが白くなっており、それが異形の存在感を強く示している。  少しの沈黙が男の周囲に漂う。なす術もない男が顔を上げると、視界の隅に兎が倒れているのを見つけた。兎の体には男の体から飛んだと思われる泥が付着していた。焦げたような強く不愉快な匂いがする。男が撒き散らした泥が付着した全ての箇所が、異臭を放ち、生気を失っていた。  男が兎の元まで歩く。足跡が死の道となる。男が兎を抱き上げると、兎そのものが色を醜くし、泥のように崩れ、男の腕からすり抜けていった。  男はどうすることもできず膝をつき、その瞬間に大地が不気味に腐り始めた。慌てて男は立ち上がり、足元に転がる兎だったはずの泥を見つめる。その時、背後から藪を揺らす音が聞こえた。鹿が男を見つめていた。  鹿はそっと、男へと近づき、男は後退りをする。二人の距離は一定を保っていたが、男の背中が一本の木にぶつかった。後退りできない男へ鹿はもう手の届くところまで近づいている。何を思ったのか、鹿は舌を出しながら顔を近づける。もうあとほんの少しという時、男の背にある木が腐敗により倒壊した。木の倒れる音に驚いた鹿は飛び跳ねながらどこかへと行ってしまった。  男は一息つき、倒木となった木に寄りかかる。しかし、寄りかかった箇所も柔らかく崩れ、男は仰向けとなった。木がなくなり、屋根が崩れ落ちたかのように空が見える。そのまま動くことなく、男は眠りについた。  男を再び目覚めさせたのは、日差しによる潤いのなさである。乾燥痛に耐えかねた男はその場を後にした。男の寝床は一つの小さな沼となっていた。  乾きを癒すために水を求めて彷徨う。水を飲む口が男にはないのだが、何よりも肌に水を与えたかった。男がいくつかの道を腐らせたころ、透き通って美しい川を見つけた。その川は流れも穏やかで、何より大きかった。  川に指先でそっと触れる。川が濁流に成り果てなかったことに男は安堵し、両手を濡らす。意を決して全身で川に飛び込むが、寒さが増すだけであった。男は川で泥が溶け出さない体を厳しく見つめる。そして、人の形を保っている体を見て一息つく。  川辺で意味もなく座り込む男は対岸で焚き火をしている老人を見つけた。話しかけようにも、口のない男は声を出すことは叶わない。立ち上がり、懸命に両手を振った。気がついて欲しかった。  男の望みは叶い、老人は男の方を見る。しかし、老人が認識したのは泥の怪物であり、足早に逃げていく。男は老人を追いかけ、川を越えていく。それは老人の逃げ足を加速するだけであった。老人の悲鳴が残響する。  男は焚き火の横で呆然としていた。焚き木の燃える音が聞こえる。男は火を消さぬように慎重に近づき、そこに腰を落とした。それは何者にも触れることのできない男にとって、久しく感じることのできなかった温もりであった。焚き火はときどき弾け、炎がゆらめき、男の泥を少し乾かした。  男は日が落ち、焚き火の光が輝く時間帯になってもなおその場を離れなかった。ただ、日が沈むのと同時に雨が降り出した。小雨であったが、明確に焚き火は弱まっていく。  男は焚き火に覆い被さるように四つん這いになった。火が男の腹部を熱く痛めつける。男はその白い目を歪ませながらも、動こうとはしなかった。雨は強さを増し、とうとう焚き火を守り切ることはできなかった。  火は消え、冷えた炭へと成り果てた。男は木炭となった焚き火跡をしばし見つめたのちにまた森へ入っていく。そこで男は鹿に出会った。男は思わず逃げ出そうとしたが、鹿が男へ近づくことはなかった。鹿は狩猟罠に足を取られている。  雨に濡れた毛とつぶらな瞳が男の視線を掴んで離さない。鹿は苦しそうに鳴き声を上げる。男はその場から逃げ出せずにいた。  男は地面を腐らせながら一歩ずつ鹿に近づく。泥が跳ねぬように体の動きを最小限にし、鹿の真横につく。震えるその手で慎重に狩猟罠に触れる。金属はあっさりと崩れ、粘土のように簡単に変化した。  鹿の足に触れぬように罠を完全に腐らせることに成功した男は腰を落とし、肩を撫で下ろした。緊張から解放された男の頬を鹿が舐める。男は驚いて体を逸らすが、鹿は首を傾げて男を見つめている。腐ることのない鹿に男は目を見開く。  触れ合いたい。  ただ一つのもっとも原始的な衝動に男は従った。男は鹿を抱きしめる。鹿もまた顔を寄せている。木々の隙間から漏れる月明かりが二人を照らす。男の白い目から涙が流れる。少し暖かい涙は頬を濡らす。  男の体は少しずつ崩れ、やがて鹿よりも小さく、何の形も示さない泥の山となった。泥の山は乾き、土の山となる。時が流れ、土の山には緑が生い茂り、草花の土地となった。木漏れ日を受けた鮮やかな草花を兎がゆっくりと食べている。兎には泥色の斑点があった。

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夕暮れに染まる頃

 夕暮れ時と呼ぶにはまだ少し早い、それでいて空は茜色に染まり始める時間帯。砂埃舞う小学校の校庭で二人の児童が座りながら空を眺めている。少女は丁寧に足を折りたたみ体育座りを、少年は胡座を。  ちょうど人一人分を空けた二人の間に会話はなく、風が細やかな音を届ける。周囲に児童は誰もおらず、果てしない校庭が一つの世界に思える。  切ったばかりの短すぎる髪の毛を触りながら少年の頬は空色に染まる。それと同じ色をした髪留めを少女もまた触っている。右手を頭に、偶然にも似たような仕草の二人は目を綻ばせた。  そのまま少年が後ろに倒れ、仰向けになる。少女もまた仰向けに。両手を広げた二人の手先がぶつかり、その不規則に触れ合う手にくすぐられる。また、頬を緩ませる。  空がいよいよ赤に染まり切った頃、夕暮れ時を告げる鐘の音が二人を立ち上がらせる。何度か顔を合わせ、砂埃と共に二人は背を向ける。  互いに静かに歩き出す。その歩幅は小さく、距離が開くのには随分と時間がかかった。少女が長い三つ編みを揺らしながら振り向くと、少年の白の半袖服が砂まみれになっている。少年の手には少し空気の抜けたサッカーボールがあった。  少年がボールを少女の足元へ転がすと、少女は腰を屈めて両手で拾い上げる。少年は足を揺らし、ボールを蹴るフリをしている。少女は手に持ったボールを丁寧に地面に置き前へ蹴り出す。  蹴り出されたボールはめちゃくちゃな方向へ転がっていった。少年は少し表情を不敵に緩めながら、グラウンドを強く踏みしめ、そのボールを追いかける。ギリギリ追いついた少年は不恰好にボールを足下に収めた。  少年もまたボールを蹴り出そうとした時、車の音が二人の耳を突く。車の窓から右腕を大胆に乗り出した髭面の男が少女の名を呼んでいる。男は柔らかく少女を見つめている。少年は少し顔を歪めながら男を見つめたのちに深々と頭を下げた。  少女も少し眉を下げ、ゆっくりと歩きながら車へと向かう。校庭のすぐ脇に停められた車の後部座席のドアに手をかけ、少しだけ振り返る。小さく手を振る少女に対し、少年は高々と手を挙げ大きく振る。髭面の男は欠伸をしている。  車は少女を乗せ、すぐに勢いよく発進した。砂埃舞う風が少年の顔を掠めるが、少年は力強く目を見開いたまま見えなくなった車を目線で追いかける。  空の色は暗がりが優勢となり、星々は煌めき始める。風は冷気を帯び、街灯の存在感が増してくる。少年は力無い足取りで帰路につく。  帰路についてからほどない時間が経ち、マンションの一室の鍵を少年が開ける。帰宅を知らせる号令はないが、それを叱責する声もまたなかった。脱いだ靴を丁寧に棚にしまった少年は手を洗い、服を脱ぎ、少し冷たいシャワーを浴びる。  脱衣所で半端に身体を拭きあげた少年は服も着ぬままキッチンへと向かう。簡易ポッドでお湯を沸かし、少しばかりの種類の中からカップラーメンを選ぶ。表情も変えぬまま少年はカップラーメンを啜る。少年はきつく割り箸を握っていた。  夜。寝室で少年は胡座でいる。ベッドの上で胡座の少年は見えないハンドルを左右へ揺らしている。エンジン音も揺れも推進力もない車を静かに運転している。少年がエンジン音を口で奏でると、虚しく部屋に反響した。  そのまま後ろに倒れ、仰向けのまま一人のベッドで眠りについた。  翌日の放課後、小学校の校庭で少年が一人で立っていた。少し空気の抜けたボールに懸命に空気を入れ、これでもかというほど張り詰めたボールを校舎の壁に弱く打ち付ける。  少年は校舎の壁とパスを繰り返しながらも、そそっかしく周囲を気にしている。空が赤く染まる頃、荒々しいエンジン音と共に車が校庭の脇に停められた。  真っ白のワンピースを振り回した少女が車から飛び出てくる。その少女を微笑みと共に男は送り出す。男の横には少女とよく似た目尻をした小太りの女が悪戯な笑みを浮かべている。後部座席では少女よりもさらに小さい女の子が嬉々として叫んでいる。  真っ直ぐと少年の元へ訪れた少女の手には可愛いリボンのついた小袋があった。空模様のように染まった顔をした少女は少年の顔も見ずに小袋を渡した。訳もわからぬまま少年は小袋を受け取った。  空気の詰まったボールを少女に渡す間も無く、少女は車へと戻っていく。車内から男と女が軽く手を振っている。女の子も明るく大声を出す。少年はまた深々と頭を下げた。顔を上げた時には車は見当たらず、少女の別れを告げる声が僅かに聞こえた。別れの声が校庭で残響する。  車が去った後も少年は校舎と遊んでいる。少し強く壁に打ち、跳ね返りのボールを獲れないこともあったが、少年は元気よくそれを追いかけた。右手には小袋を掴んだまま。  まだ、空が赤いうちに少年は帰路についた。少年は何度も立ち止まり、小袋を眺める。時には両手で天にかざし、透かしたりもした。  街灯がまだ姿を隠している時間帯に少年はマンションに着いた。不揃いに脱がれた靴を気にすることもせず、少年はリビングにそのままの格好で座った。  丁寧に小袋を机に置き、じっと眺めている。少しして、その可愛らしいリボンをゆっくりと解いてゆく。小袋の中には苺色のクッキーと小さな手紙が一つ。少年は震える手で慎重に二つ折りの手紙を開いた。 「遊んでる時間が大好きです。今日は急いでたけど明日は私にボールを渡してくれると嬉しいな」  少女の名前の上に大きく書かれた文字を少年はじっくりと見ている。指先に力が入り、手紙の隅に少し皺がよる。手紙を机に置き、窓から見える校舎を眺める。赤く染まった校舎の窓が煌めいている。  苺色のクッキーを頬張りながら、少年はキッチンに立つ。棚下からおもむろに両手でフライパンを取り出す。フライパンに火をかけ、冷蔵庫から板チョコを持ってきた。二回か三回、気持ちよく板チョコを割ってフライパンに放った。  チョコはすぐに焦げて、赤茶色になる。少年はヘラで焦げを削ぐように振り、片手でフライパンを揺らしている。火を弱めながら、少年は鼻歌を歌いながらヘラを動かす。  あんまり激しく動かすものだから、チョコが跳ね、少年の指先にかかる。熱さに思わず飛び退けた少年は急いで水を指先にかける。熱に包まれた指先を水が癒す。少年は真っ赤な指先を口に咥えて吸う。微かにチョコの甘い味がした。  日暮れ前の最後の輝きが窓から少年を照らす。指を吸う少年の照らされた横顔はとても明るかった。

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路地にて

 都心の路地裏で、汚らしい騒ぎ声がする。金属音や鈍い叫び、呻き声が混じっている。大通りまでは聞こえず、けれど確かに助けを求める声がその中にあった。  ネズミの出入りが盛んな通りに、閑散としたレストランが佇んでいる。その裏手にあるゴミ捨て場に一人の男が横たわっている。男は全身が見窄らしく、靴や服は破れ、その瞳は虚空を見つめていた。  カンカンカン、と金属音が路地裏に響く。レストランの裏口から、一人のシェフがフライ返しでフライパンを叩いている。シェフはわざとらしく音を立てながらガムを噛んでおり、ゴミ捨て場を一瞬眺めるが、すぐに逸らしてしまう。  シェフは足元に転がっているりんごの芯を、何度か垂直に蹴り上げる。シェフが蹴り損ねたりんごの芯はそのまま水平に飛び、男へと当たる。シェフは依然としてフライパンを鳴らす。 「俺の可愛子ちゃんたちよ。出ておいで」  シェフはガムを吐き捨て、どこか遠くを眺めながら大声でそう言った。シェフは銀の平皿に積まれたドッグフードを足で路地裏に配置する。  男はその見窄らしい身体を震わせながら懸命に起こすと、平皿の上のドッグフード目掛けて飛びついた。目には赤く血が走り、歯を剥き出し、よだれを垂らしている。まるでシェフが見えていないかのように、周囲を憚ることもなく、ドッグフードを食べている。  シェフは、皿の外まで飛び散らしながら食べている男を眉ひとつ動かさずに見つめている。そして、逸らすこともしない。  そこへ野生的な唸り声が路地裏を支配する。数匹の野犬たちが喉を震わせシェフと男を凝視する。シェフは野犬に気がつくと男から視線を外し、裏口の扉を閉めてレストランへと戻っていく。  皿と顔がくっつくほど近くまで寄っている男は野犬に気が付かない。四つ這いで皿へ向かう男へ、男と似たように充血した目の野犬が飛びかかる。  野犬が、ボロボロの男の衣服を襲う。男は噛みつかれてようやく野犬に気がついたのか、目を見開き驚嘆の声を上げた。  身体を揺らし、丸くして、叫び声を上げる。男は銀の皿を手に掴み振り回す。瞼を閉じ、目尻に皺を寄せる男の視界に犬はおらず、皿は空を切り、地面を叩きつけ、金属音が静かに響く。  それでも必死に男が振り回していると、一匹の犬の顔に勢いよくぶつかる。野犬は高く弱々しい声を上げながらどこかへと逃げていく。その一匹に付いていくように、すべての野犬が男の前から姿を消した。男は野犬がいなくなってもなお腕を左右上下に振っている。  男は何度か空を切り、ようやく動きを止め、ゆっくりと瞼を開けた。そこには犬もシェフもいない。静寂の路地裏で男は何度か周囲を見回す。どこかから野犬の遠吠えが聞こえる。男はその声に追われるように路地裏から逃げ出した。  裏口の扉は少しだけ開いており、その隙間からシェフが男の後ろ姿を見つめている。よろよろと歩く男が表の通りまで行くのを、ただじっと見ている。  表の通りにはいくつかの露店が建ち並び、煌々と降り注ぐ太陽の光を受けた人々が活気を感じさせる。八百屋の店主は子連れの主婦にりんごをおまけし、靴磨きの小遣い稼ぎは心地よい相槌を、曲芸師は笑みを崩さぬまま踊っている。 「おじさん、ありがとう」  りんごを貰った子は乳歯の抜けた口を目一杯開いて笑った。つられて店主と主婦も頬を緩ませる。次の店へと歩き出した時、りんごだけを両手で大切に抱える子が地面に躓き転ぶ。その拍子にりんごも転がり、靴磨きの元へ届いた。 「坊や、これは君のものかい。はい、どうぞ」  靴磨きは子に明るく言って、りんごを渡す。しかし、転んだ痛みからか子は目を濡らし今にも泣き出しそうであった。主婦は慌てて駆け寄り、靴磨きと客に頭を下げる。靴磨きもまた主婦に頭を下げた。  その頃、少し空模様が曇り、気が付かないほどの雨が降り始めた。それに気がついた人々は帰路につき、気にせぬ者たちは通りを行ったり来たりしている。  通りの活気とは裏腹に客入りの悪いレストランの前に、空気の抜けたような、何か倒れる音がした。見窄らしく、汚れた格好の男が横たわっていた。  りんごを大切に抱えた子は主婦の買い物に飽きたのか、露店の脇で座り込んでいる。主婦が店主と談笑をしている少し奥、レストランの前に倒れ込んでいる男が、子の視界に映る。  子は不思議そうに眺め、人差し指を口に咥えている。次第にそれを見ることにも飽きたのか、空を眺めて欠伸をしていた。 「ママ、雨降ってるよ」 「え、あら。ほんと」  言われて主婦はようやくわずかな雨に気がついた。そうして、小雨が少し強まり帰宅しようとする人々が増えた時、通りに大声が響く。 「大丈夫ですか」  立派なコック帽に、白の服。髭ひとつない清潔な顔が料理人の雰囲気を増していた。  シェフは横たわる男を揺すりながら声をかける。周囲の人々はようやく顔を二人へ向けた。シェフは店に戻り、すぐにまた出てきた。手には銀の平皿、そこにはオムレツが乗っていた。  僅か数秒の間に用意されたオムレツを、男は意思も曖昧なまま口へと入れる。皿の隅にはドッグフードの欠片がついていた。拍手喝采。シェフを讃える人々の声。  中には感動の涙を流す者もいた。偶然その場にいた新聞記者は料理を提供するシェフを写真に収め、急いでペンを走らせる。主婦や店主は必死に手を叩いていた。子はそんな母親を首を傾げ、指を咥えて見つめていた。 「皆さん、彼はもう大丈夫です。あとは私に任せてください。どうぞお気をつけてお帰りください」  シェフはそう言いながら男を担ぐように店内に運んだ。そしてドアに閉業中という札を立てる。  人々はまた笑いながら帰路につく。雨はまた強まり、いよいよ小雨ではなくなった。  しばらくして、男はまた路地裏のゴミ捨て場にいた。カンカンカンとフライパンを叩く音と共に裏口が開く。銀の皿にドッグフードとりんごの芯が置かれている。  男はまた飛びかかる。しかし、今度は皿ではなくシェフに。 「なんだよ、またタダ飯食わせろっていうのかよ。おいおい、そんな目するなよ」  シェフは面倒くさそうに男を足払いし、店内へ戻っていった。店は以前よりも活気があり、ほとんど満席であった。  路地裏に残された男は立ち尽くしている。風が舞い、捨てられた新聞紙が男の顔を覆った。突然のことに男は驚き、新聞紙一枚に取り乱す。 「奇跡のレストラン。愛が貧困を救った」  新聞の片隅にあるコラム。その冒頭のキャッチコピーにそう書かれていた。男は強風によって押し付けられた新聞紙をうまく剥がせずにいる。  ドッグフードを野犬が忙しそうに食べており、皿の上にはりんごの芯だけが残されていた。

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風が止む

 磯の匂いが漂う、断崖の岩場に腰を下ろして座る男が一人。波が岩にぶつかり、水飛沫が男の元まで飛んでくる。男は避けることもせずにただ膝を抱えて座っていた。むしろその波に飲まれることを望んでいるかのようであった。  日が落ち始めているが空はまだ青い。海は荒々しく唸り、音を轟かせる。波の強さはさまざまで、時には岩にも届かず、時には男を包み込む一歩手前まで。  強い日差しが、わずかに濡れた男の服を乾かす。濡れが乾くたびに、男の心も乾く。  海に向かって座る男の背には、崖が広がる。崖は少し反り返っており、小石がたまに落ちてくる。時々男の体にもぶつかり、そうすると男はゆっくりと上を眺め、目を細めて下を向く。  崖の上には鮮やかな緑の木々がある。樹木が放つ独特の香りが崖を支配しているが、果てしない海が邪魔をして、男まで届くことはない。  岩場を越え、波を越え、水平線の位置に大きな離れ鯨がいた。男は顔を上げ、鯨を見つめている。鯨はどこかに行くこともこちらによってくることもしない。海が陽の光を反射し男の眼を傷つけるが、男はそれを気にすることもなく鯨を見つめていた。  男は何度か立ち上がり、鯨のいる海へ向かおうとしたが、結局は足がすくみ、また座り込んでしまう。  少しして、風が強く吹き始めた。その風は強烈な海の匂いを含んでおり、うるさく崖にぶつかり、男の元へ不快な音と匂いを届けた。風のせいか、崖から再び小石が落ちてきた。男もはじめのうちは無視していたが、あんまりにも降ってくるものだから座る位置を少し変え、上を睨んだ。  男が上を睨んだ時、波の音も風の音も掻き消すほどの叫び声が聞こえた。それは人間のものとは違う、もっと野生的で、緊張感を孕んでいた。そして男は確かに崖の上から小石とは別に何か大きな物体が落ちてくるのを見た。  鹿だった。まだ生きている。おそらく子鹿であり、その瞳は潤んでいるようにも見える。男は立ち上がり、目を見開き、息を呑む。胸に手を当て、過呼吸気味であった。子鹿は先ほど男が座っていた位置へと落下しており、その身体は立ち上がることを拒否している。  子鹿の鳴き声はその場を支配し、男の心臓の鼓動は加速した。男は岩場を慎重に歩き、一歩ずつ子鹿へと近づいた。子鹿は動かぬ体を最大限震わせて、男を見つめている。  その時、今までとは異なる、男の背丈の数倍はある波が岩場を襲った。思わず飛び退けた男は、全身が濡れるだけで、事なきを得た。しかし、動くことのできぬ子鹿は波にさらわれていった。日差しも弱まり、岩場はどこまでも湿気を放っている。  波の向こうに子鹿が浮かんでいるのが見える。日は暮れ、空は赤くなりつつあった。濡れた岩場に、血の跡があるのを男が発見する。それは、間違いなく子鹿のものであった。男は静かにその場を後にする。波と風の音は止まないが、子鹿の鳴き声がいつまでも残響していた。  舗装された道の隅を男は歩いていた。磯の匂いは薄まり、徐々に木々の香りが強くなる。歩くには堪える坂道を男は走りながら登っていた。濡れた衣服と風が男の体温を奪い、男は無理にでも体を動かした。そうすることで思考を捨て去るかのように。  坂道を登り切り、膝に手を当て、乱れた呼吸を整える。男はここが崖の上であることに気がついた。いるはずのない子鹿が男の目に映る。男の足は無意識に進んでいた。  海の近くであるのに、木々に囲まれ、今では森の気配の方が強かった。日没前は薄暗く、不安定な地面に何度か躓きそうになる。  進んでいく男の前には、藪が伸び、岩で塞がれ、時には背丈の半分ほどしかない道が続いた。  最後の一本の木を抜ければひらけた場所に出る、というとき、日が落ちる直前、最後の煌めきが男の視界を奪う。男は顔を背け、目頭を押さえ、うずくまった。  男が目を開けた時、眼前にはどこまでも広がる海と茜色の太陽があった。そして、同時に崖端でもあり、一歩の余裕もないほどだった。男はゆっくりと立ち上がり、波の音に耳を傾ける。海が見えてから、その匂いと音が強まる。男はただ海を眺めていた。その視線の先には未だに離れ鯨が悠々と泳いでいる。  鯨はそのままどこか遠くへ泳いでいった。男は手を伸ばし、鯨を眺め続けるが、ついには見えなくなった。男はただ立っているだけであった。  男はとうとう座り込んでしまう。いよいよ、日は沈み、月明かりと星の輝きだけが男の頼りであった。  そのとき、可愛らしく、小さな鳴き声が聞こえた。男が振り返ると、木の奥に光る瞳が見えた。その瞳は獣の匂いを放っていたが、鳴き声が男の表情を柔らかくした。  その光る瞳は少しずつ男へ近づき、とうとうその正体が子鹿であることを明かした。男は声も出ず、顔を顰め、足は震え始める。  子鹿は小刻みに息を吐き、毛が揺れる。片足を地面に擦り始め、崖に向かって走り出そうとする。  男もそれに気がつき、冷や汗をかいた。風が吹き、木々がざわめき始め、月明かりが二人を照らす。男の膝は震えていたが、目は開いており、口はキツく閉じられ、大きく息を吸う。  そして男は、最大限口を開き、声をあげた。その声は言葉ではなく、単純な音であり、落下した子鹿の悲鳴に近かった。男は自らの声に震えながら目を閉じた。ただ叫ぶ男の耳には、風も波も聞こえない。  その叫びが途切れたとき、永遠にも思える静寂があまりに響く。叫び終わってもなお、男は目を開くことができなかった。呼吸を整え、下を向きながら目を開ける。  風が止む。  男が前を向いたとき、子鹿はもういなかった。男は仰向けで倒れ、口角を吊り上げた。そうして、小さく声をあげた。男はもう海を見ていなかった。  男はそのまま寝てしまい、月明かりが男の寝顔を照らす。海の匂いが優しく周囲を包む。そこに先ほどの子鹿がやってきて、音も立てずに男の横に立つ。子鹿はその温かな顔を男へ近づけ、男の顔を舐める。その温もりは夜に溶けていった。  木々の香りが漂う中で、月が歌っている。子鹿の姿はもうどこにも見えなかったが、海から子鹿の鳴き声がする。その鳴き声と共に鯨が再び泳いできた。尾鰭で波打つ音が海にこだまし、海面の月が揺れていた。

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微熱

 金はない。人望もない。だが時間だけはある。孤独な大学生は何をすれば良いのだろう。場違いのカフェから逃げ出し、期間限定の暖かなコーヒーラテを片手にそんなことを考えていた。  悴んだ手にコーヒーは少し熱く、両方の手で熱を交互に逃しあっている。都会の隅にはどこにでも寂しげな公園がある。都市の思惑とは異なり、そこには陰鬱な顔の人々が集まる。  その日も子供の声などは聞こえず、こんな都会のどこにいるのかというほどの老人が集まっていた。ベンチに腰掛け、ようやく持ち替える必要のなくなったコーヒーを一口飲む。 「あち」  思わず声が出るほどで、舌がヒリヒリとしている。顔を上げると老人たちがこちらを睨んでいるように見えた。人生の佳境は過ぎたろうに、どうして若者を睨むのか。執拗にコーヒーを冷ましながら、頬をかいた。  老人たちは曲がった腰からは想像もつかぬバイタリティで、ゲートボールに夢中であった。老人のうちの一人が、公園の地面の段差で自由に跳ねる球に文句を言っている。その声を聞いて、足を閉じ、顔を俯けた。昼間に何もしていない自分が叱責されている気がした。  そのとき、大きな声が公園に響いた。その声は鋭かったり鈍かったりとさまざまである。犬を連れた主婦団体が甲高い声で会話している。薄暗い今日の天気など見えていないのかのように、自分たちの世界を作り上げている。  犬も主婦も、好き勝手に喋っていた。側から見るとどうして会話できているのか不思議でならなかった。誰一人犬に構うことなく、犬もまた人間には興味を示さない。一つの空間にいながら、二つの集団となっている。  ぼーっと集団を眺めている時、一匹の犬がこちらを睨んでいた。いや、睨んでいないかもしれない。とにかくこちらを見つめていた。目先を細め、歯を見せ、生ぬるい息を不規則に吐いている。思わず視線を逸らした。届くはずのない絶妙な獣臭を感じて、目を顰める。  その犬が突然駆け、老人たちの元へ突っ込んでいく。主婦はリードを握っていないどころか、犬を見てもいない。何人かは気がついていたようだが、焦りの顔は見えなかった。心臓の鼓動が速くなり、唾を飲んだ。ベンチに腰が張り付き、ただコーヒーのカップを強く握る。カップは想像よりも無機質で、熱を伝えようとはしない。  老人たちは未だに公園に文句を言っており、ゲートボールは停滞している。地面に生えている雑草を抜いていたり、踏み潰して整地していた。  土の上では足音ひとつ響かず、老人たちは犬に気が付かない。しゃがみ込み、雑草を黙々と抜く老人へと犬が飛びかかった。顔を逸らし、目を閉じて、衝撃に備えるかのように体を丸めた。  聞こえてきたのは笑い声だった。瞼を開けては閉じる。何度か繰り返したのちに顔を上げた。腰を地面について仰向けの老人のお腹に、犬がその全身を預けていた。  飼い主と思われる主婦は、ゆっくりと歩きながら老人に近づき、笑いながら頭を下げる。周囲の老人たちも頬を緩めている。  その時、ズボンがずぶ濡れになっていることに気がついた。先ほど溢したコーヒーが右足に染み込んでいた。そこまで経ってその熱さに気がつき、声を上げずにもがいた。  熱さを誤魔化すために、濡れたズボンをペチペチと叩いた。手が少しずつ濡れていくのがわかる。手が冷えるのとは対照的に顔が熱くなった。  ゲートボールを見ることも、主婦の会話を聞くことも、犬を見て微笑むこともできずに耳先を赤くする。  熱が取れ、ゆっくりと顔を上げた。ある老人は犬と戯れ、ある老人は雑草を抜き、ある老人は文句を言っている。主婦たちは間違いのない笑顔で過ごしている。ただ一人自分だけが、声を上げることもなく陰鬱な顔でベンチに座っている。  顔を上げて、空を見た。青と白。眩しかった。小さく微笑み、立ち上がり、カフェを目指した。  カフェで先ほどと同じコーヒーを一回り大きなサイズで注文した。店員は穏やかな口調であった。席につき、コーヒーを口にする。やっぱり熱い。けれど、飲めないことはなく、その方が美味しかった。  木製の机は柔らかく、照明は優しい。店内はタイピングの音と他愛もない世間話で満たされている。  ふと、カップを見ると隅の方に文字が書かれていた。 「本日二度目のご来店ありがとうございます」  角がなく丸み帯びたその文字列の先には可愛い表情のニコニコマークがあった。その文字に触れ、なぞった。まだ書かれたばかりの文字は、指先に合わせて、綺麗に滲んだ。  誰が書いたのか気になって店員に視線を向ける。オレンジが僅かに含まれた茶髪に、お団子ヘア。支給されたであろう緑色の制服。輝く瞳は大きく、過度ではない化粧が、素朴さを感じさせる。ちらちらと見ていると、目が合った。店員は少しだけ口角を上げてすぐに目線を移した。  この短時間に二度も同じコーヒーを頼む人間はおかしなものだ。誰にも聞こえないぐらいの声で、笑った。  近くの女子高生はもっと大きな声で笑っていた。端に座る会社員は堂々と電話をかけている。お婆さんは周囲など気にすることもなく文庫本を読み、レジに並ぶ男性は注文の仕方がよく分からずに戸惑う。口を開け、もう少し大きな声で笑った。  右隣の女性はイヤホンをしており、こちらを見ることもしない。左隣の男性は見たこともないキャラクターの動画を再生しながらスマホを凝視している。  コーヒーは熱が取れ、飲みやすい。先ほどの熱いコーヒーも好きだが、このコーヒーは喉を潤してくれる。何より、この時間が安堵であり落ち着きをもたらす。  口角は吊り上がり、目は煌めく。カップを優しく握り、滲んだ文字をいつまでも眺めていたかった。入店と退店、電話話に世間話。それと笑い声。カフェという一つの集団の音は柔らかく響く。  金もない。人望もない。それでも、暖かなコーヒーを飲み、落ち着く時間がある。

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池の底で

 男がワニと向かい合って座っていた。周囲には人の気配どころか生き物の気配ひとつない。微かな木漏れ日と清廉な池が神秘めいている。男は倒木に寄りかかり、池に片足だけを踏み込みワニと対峙している。冬の訪れを感じさせる風が山の木々を揺らし、池の水面に模様を作り出す。  ワニは硬質な深緑の皮膚のほとんどを水中に沈めており、その鼻先と鋭い目だけが浮かんでいるように見えた。ワニは音も立てず、波も立てず、静かに男へ近づいた。もはや手を伸ばせば届く距離になっていたが、男は逃げるどころか身じろぎひとつない。  屈強な男は分厚い顎髭をそっと撫でながらワニを見つめる。男は池に浸かっていた足を抜き、胡座でどっしりと構えた。腕を組み、ワニを見つめながら石像のように固まって動かなくなった。  足を抜いたときの波紋がワニの鼻先と目を濡らす。ワニも距離を詰めることを止め、男を見つめるばかりであった。二人の間に深い静寂が訪れた。  動くことのない男は、目尻に皺を寄せ、額に汗を浮かべる。ワニも僅かばかりの波を立て、小さく揺れ動いていた。  静寂を破ったのは不穏な金属音であった。男は分厚い手で短刀をきつく握りしめている。それを見ていたワニも静かに動いた。水面が揺れる。目と鼻先だけでなく、鋭利な歯を持つ口全体が水の外にあった。  男は立ち上がり、短刀を握る手には汗が滲んでいた。男が少しばかり後退りをすると踵が倒木にぶつかった。男は目を細めながらも口角を緩ませた。  その刹那、水飛沫が宙を舞った。水中にあった全身のほとんどが飛び出た。ワニの体は水を破り、真っ直ぐ男へと向かった。それに応えて、男も後ろへ飛び跳ねる。倒木を挟んで両者は緊張に包まれた。 「なるほど、噂通りの人喰いワニか」  おどけた口調であるが、表情は苦しそうであった。男の身体が震えており、それが恐怖なのか武者震いなのかは男にも分からなかった。  先ほどまでの静寂が嘘であるかのように、ワニはけたたましく咆哮した。そしてそれは声にとどまらず、倒木をも飛び越えてくる身体が森全体を轟かせているようであった。 「俺も人はよう殺してきたんじゃ」  男は目と口を可能な限り開き、そう叫ぶ。迫り来るワニのその鋭利な歯を左腕で受け止める。深緑の皮膚が血飛沫をより鮮明にさせる。男は顔を大きく歪め、絶叫した。理性とも本能とも取れぬ判断で右手に持つ短刀をワニへ突き立てた。深緑の皮膚にもう一つの血液が流れた。  ワニは飛び跳ねるように後方へ転がる。男は左腕の痛みを感じさせぬ勇猛な顔つきで、仰向けの腹に短刀を突き刺した。何度も突き刺し、分厚い顎髭が赤に染まった。  男はワニを突き刺すたびに目を絞るように細め、歯軋りしながら苦しんだ。  動かなくなったワニを、男は片方の手で引きずり、倒木を乗り越え、元いた池へと戻した。池はワニの血で染まり、赤の模様を作り出した。男は、腹を上にして水中に沈むことなく浮かんでいるワニを見ていた。笑うでも悲しむでも、怒りでもなく、男は虚な目で呆然としていた。  日が沈み始め、空が赤く染まる頃に、男は村を目指して下山し始めた。血の滴る左腕を押さえ、今になって大きく顔を顰めている。  次第に雨が降り始めた。雨は男の血を洗い流したが、同時に体温も奪っていく。雨で地面はぬかるみ、男は何度か足を取られて転ぶ。気力も体力も限界に近かった。  とうとう倒れ込んだ男は瞳を閉じて、そのまま楽になってしまいたかった。起き上がるための腕は負傷し、体は冷えるばかり。夜が深まればさらに気温は下がっていく。  そのとき、雨音に混ざって泥を踏み分ける足音がした。足音は煙草の匂いを纏っており、山の匂いを異質にした。 「おい、どうした。大丈夫か」  二人の老人が男の元へとやってきた。老人は二人とも厚手の格好をしており、頭には笠、腰には長筒の猟銃を抱えていた。  老人は男が左腕に傷を抱えているのを見て、すぐに人喰いワニの仕業だと気がつき、猟銃を構えて周囲を警戒している。  雨音と泥の匂いが漂う山中で猟銃の音が異質に響く。老人は男を静かに抱き上げ、村へ連れて治療するために、背負った。  その時、男は目覚め、傷を庇うこともなく暴れ始めた。左腕からは血が滴り、目は充血し、掠れた声がこだました。 「おい、おい。こいつは」  周囲を警戒していたもう一人の老人が男の顔を見て、声を荒げた。老人の顔に先ほどまでの憐れみはなく、青ざめている。  男は残っている命の全てを削るかのように、老人には見えぬ何かと、怯えた顔つきで戦っていた。  あまりに暴れるものだから背負っていた老人は仕方なく男を下ろす。そして、その時もう一人の老人も男の存在に気がつき、声を詰まらせた。 「こいつは、あの、逃げ出した死刑囚か」  いよいよ本格的に夜が始まるという頃、雨と風が森のざわめきを演出し、大地の香りは泥臭く、雲が星々を隠す。  その時に、一つの大きな音が鳴り響いた。その音は雨音や風を置き去りにし、山全体を支配した。そして、その音の正体が、男の脇腹を貫いた。  老人の手に持つ銃口からは煙が上がり、山は驚くほどの沈黙に包まれた。その直後、男は痛みに悶絶しながらも、身体を揺らして老人達から逃げた。足取りは不安定で、何度か泥に足を取られて転んだ。  老人達も深く追うことはせず、老人の手にぶら下がる銃は小さく震えている。その煙だけが、揺らぐことなく真っ直ぐと空に登り、雨に消えていった。  男は考えも持たぬまま逃げ惑い、気がついた時には、池の前の倒木に倒れ込んだ。隙間風のような呼吸音と、隠すこともできない血まみれの身体は既に限界を超えている。  男の視線の先には、腹を浮かべて、動かぬワニ。美しい池も、血と泥が混ざり合い、不穏な色をしている。男は這うように倒木を進んだ。  右腕と、疲れ切った両足を最大限に動かして少しずつ進んでいく。そうして池に手が触れ、顔が触れ、とうとう全身が収まった。男は左腕でワニの腹を撫でながら、絶命した。  翌朝になると、雨は上がり、朝日が木漏れ日となって池を照らす。池には依然として二つの死体が浮かんでいた。その横の倒木には、小さな白いキノコが生えている。  まだ冬が本格的に始まる前の、穏やかで少し暖かい風が池の水面を揺らしていた。

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山道

 人生とは山道に似ている。登っても登っても得られるものはなく、山頂に着いたかと思えば下るばかりである。しかし、振り返ってみればあれほど良い思い出はない。  人より狸が多い裏山で少年は藪を踏み分けてゆく。鋭い葉で手先が切れることも厭わず、まるで何かが待っているとでもいうかのように、目を光らせて進んでゆく。  祖父の家を背に、帰路の目印もない道で何かを目指しながら歩いていた。少年の小さな足でその背丈ほどもある段差をよじ登り、湿った落ち葉と露を含んだ陰り木で強調された暗がりを進んだ。  少年はとうとう段差を登り切り、喜びを噛み締めながら藪の壁を打ち砕いた。しかし、そこには新たな山道が続いていた。少年にとっては大きな、山にとっては小さな丘は微かな木漏れ日を感じることができた。  登ることを諦め祖父の元へ帰ろうとしたその時、落ち葉に隠されたぬかるみが少年をあらぬ方向へ突いた。手首と腰の痺れるような痛みで少年は顔を顰めた。痛みを堪え立ち上がったところでより強く顔を顰めた。背丈の倍ほどはある段差へ落とされていた。  それからは少年にとっての地獄であった。風は心身を冷やし、泥が全身を見窄らしくし、泣き叫び喉は掠れていた。段差に手をかけ足をかけ脱出を図るが、それを嘲笑うかのように泥まみれの段差はよく滑る。やがて雨が降り出し、少年の涙までも飲み込んでしまった。  少年は立つことをやめて地面へ座り込んでしまった。泥まみれの手で涙を拭い、頬についた泥を雨が流した。少年は意を決したように段差から距離を取り、そのまま勢いよく助走を始めた。しかし、ぬかるみに足を取られ、段差へ到達することなくそのまま地面へ倒れ込んだ。寒さは極限に達し、震える身体を起こすことができなかった。  そのとき、微かに聞こえる祖父の声に少年の硬直した身体が反応した。掠れた声で助けを求めた。少年の声に呼応するように雨も強まった。雨にかき消されぬように少年はより声を強めた。溢れそうな涙を息と共に飲み込んだ。  ちょうどそのとき段差の上から祖父が顔を覗かせた。少年は雨よりも大粒の涙を流し、祖父は暗がりを照らすほどの笑顔であった。歳を感じさせぬ動きで段差から飛び降り少年を肩に担いだ。ようやく段差から脱した少年は祖父に抱きつき、家へ着くまで袖を離さなかった。  家へ着き、暖かなシャワーで少年は心身が温まるのを感じていた。ゴワゴワとしたタオルで全身の濡れを拭き、祖父にドライヤーをかけてもらっている。泥ひとつない服へ着替え、居間で大福を頬張った。  空腹ゆえに普段よりも素早く大福を掴む少年を見て祖父はニコニコとしてお茶を啜っている。少年は苦いと言いながらも祖父のお茶を頬を緩めながら啜っている。その日、少年と祖父は同じ布団で寝た。  もう随分と昔、それでいて忘れることのできない思い出を抱えて高速自動車道を走る。久しく訪れる祖父の顔は記憶の中のままで、まだ自分の頭を撫でてくれるような気がしていた。  道中で立ち寄ることもなく、心なしかいつもより速度を出して向かっていた。真っ白な外国車を、土と木々の香る祖父の庭に停めた。簡単な手土産を持ち、あの時と変わらない玄関を開けた。  米寿になった祖父は、皺が増え、髪は白く薄く、少し痩せ細っていた。それでも照らしてくれる笑顔は変わりなく、胸を撫で下ろした。  居間では何人かの親戚が忙しなく言葉を交わしていた。特に誰と話すでもなく、角の方で時間を潰していた。可能な限り静かに呼吸し、下を向いて目の合わぬようにする。  やがて夜になり、忙しない親戚一同は去り際も忙しなかった。台風一過ともいうべき親戚は静寂を残し、その静寂に祖父と自分だけが残っていた。この時ようやく祖父と面を向かって話すことができた。  与太話から真剣な相談まで、話したいことはいくらでもあった。しかし、むず痒く、小っ恥ずかしく、何も言えずに固まってしまった。 「久しぶりだもんなぁ」  雰囲気の重さを汲み取った祖父は優しく表情緩め、お茶を出してくれた。 「まぁ、うん」 「そうだな」  お茶を飲むことで時間を消費している自覚はあるが、まさか何も話す前に飲み切ってしまうとは思わなかった。 「なんだ、喉が渇いていたのか」 「いや、そういうわけじゃないけど、うん」 「もう苦い苦いって、ゆっくり飲むわけじゃないんだもんな」  そういって笑いながらも哀しそうな顔をした祖父をみて俯いてしまった。  それから二人の間にはほとんど何の会話もなかった。ときどき祖父に話しかけられて相槌を打つだけである。  祖父はその老体を感じさせぬ元気さがあるが、就寝時間は老人らしかった。何も言っていなかったが、祖父は無言で布団を二人分敷いてくれた。  部屋は暗くなり、とうとう沈黙のみになった。雨戸を打つ夜雨が適度に睡眠を誘ったのか、祖父はすぐに小さないびきを鳴らした。  どうにも眠れず、軒先でたばこに火をつけた。その頃には雨は上がっており、虫たちの演奏を聴くこともできた。たばこの火と液晶の灯りが周囲を静かに照らした。  部屋に戻ってもやはり眠気は来なかった。空虚な画面をぼんやりと眺めているうちに夜明け前になってしまった。もう一度たばこを吸いに外へ出ると、ふと裏山のことが気になった。  裏山への入り口は大量の落ち葉と藪が支配していた。何を思うでもなく、藪を掻き分けて山道を登り始めた。スマホのライトで片手を失い、濡れた葉で全身が湿り、ぬかるみの道を進んでゆく。  何も分からぬ道なき道を、微かな記憶を頼りに、木々の隙間を縫ってゆく。そうして、腰ほどまであり見覚えのある段差に出会った。水を存分に含んだ土の香りと鋭い葉の切り傷が少年時代を思い起こさせた。  全身に泥がつくことも厭わず、地面を這うように登った。藪の壁を越えて踊り場のような小さな丘へ出た。そこまできて、泥と寒さに包まれた体はようやく眠気を迎えた。  もう帰ろうと思って、ぬかるみに足を取られ、溝に落ちてしまった。腰に手を当てゆっくりと立ち上がる。小さな欠伸を噛み殺し、自分の背丈より少し小さな段差に触れる。段差の上部に見える、足跡をなぞる。泥の足跡は柔らかく、形を保つことが困難に思えた。スマホのライトを消し、両手でその足跡を撫でた。  風が山を静かに動かす。虫たちの歌は合唱となり、土の匂いが強まる。冷たさと暖かさの両方を含んだ風が頬についた泥を乾かす。  人生は山道に似ている。登りも下りも、歩いている時間でさえも無意味に思える。ただ自分の歩いてきた時間を認めることで、何かが解かれる気がしていた。  雨上がりの夜明け前は暗い。風に揺れる濡れた落ち葉がぬかるみの上で踊っていた。

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潜った刃

 生暖かい規則的な風を肌に受ける。夏が過ぎても暑い異常な気温を団扇で扇ぎながら凌ぐ。夏場の弁当箱のような湿気と熱が支配した部屋だった。  そろそろエアコン工事をしようかと考えるが、まだ我慢できるだろうと欲を抑える。去年もそんなことを考えていたと思い出して笑った。  そう考え、エアコンをつけることを異常に嫌っていた母親を思い出した。設置しているのにも関わらず、ただの一度としてエアコンをつけることはなく、それでいて週に一度以上は必ずエアコン掃除をする粗雑な母のことを。消費期限の切れた食材を躊躇いもなく使用し、ほとんど食べることのできぬ弁当箱を懐かしむ。潔癖症でありながら杜撰な人であった。  小さなカバンにタバコとライター、それと財布に小刀だけを持って、冷気を求めてカフェに向かった。道端に占い師が座っているのを見かけた。占い師はいかにもな紫色の外套を着て、水晶玉を抱えていた。整理整頓された街中でその占い師は異質であり、それでいてどこか納得のいく不思議な存在であった。まるで元からそこにいたかのような。  この気温で外套を覆っていては暑くてたまらないだろうと思い眺めていたことをすぐに後悔した。言い訳の余地もなく、完全に目が合ってしまい、あ、と小さく声を漏らした。すぐに目を逸らしてどこかへ立ち去ってしまえばよかったが、無言の中に流れる気まずさから膝の関節が固定され、不自然に立ち止まった。そのとき、口元を黒いスカーフで覆い隠していた占い師の目元が笑っていたことに気がつき妙な寒気を覚えた。 「こっちにきてみぃ」  老爺とも老婆ともとれぬ、とにかく老いた声で占い師は手招きをした。  近づいてみると、座席と水晶置きを兼ねている台はなんとも見窄らしく、隅の方が擦れていた。加えて占い師の外套は、汚くはないもののとても清潔とは言い難かった。それに独特な香水の匂いがきつかった。 「お兄さん、昼間からどうしたんだい」  占い師は口元のスカーフを外し、黄色い歯を見せながらそう問いかけた。  目尻の皺や深爪、鼻先のイボなどがあまりにもイメージそのままであったことがかえって恐怖を増した。  手招きされていたにも関わらず、話しかけられたことで少し取り乱して動揺した。それを見て占い師はにちゃりと笑いながら頷いた。 「あの人に会いに行くのだろう。理不尽かつひとりよがりの理由で、どうするんだい」  この暑さだというのに汗ひとつかいていない占い師は喉を鳴らすみたいに笑っていた。反対に先ほどまで苦笑を浮かべていたはずの自分は顔が凍っているのではないかと思えた。背中を流れる汗が心までも冷やした。 「いや、その、失礼ですよ」  勇気を振り絞って、占い師へ反抗した。両の手を腰に添え、震える体をなんとか押さえつけた。 「いいや、お前は実行するだろう。カフェなんか行かずに母を尋ねるんだろ」  非対称に吊り上がった口角から、唾を飛ばしながら、つらつらと言葉が流れる。 「いや、そんなこと」  何かを喋らなければならないと思い、とにかく口を開ける。しかし、まるで脳の働いていない現状ではそれ以上のことはできなかった。 「怖いだろう。その鞄の中の小刀が警察にでも見つかれば、そうさ、お前は言い逃れすることはできない」  一縷の希望であった、占い師の適当な虚言の可能性を、たった今破られた。  外からは見えないはずだと鞄を見た。小刀の所在を確かめるように、やや硬めの生地で作られた鞄を優しく握った。小刀がそこにあることで一呼吸ついた。それと同時に小刀を持つ手が震えた。  小刀を持って、腐敗した食べ物の匂いを思い出した。異常なまでに綺麗な家具の部屋が脳裏に浮かんだ。占い師の黄色い歯が母によく似ているなと感じた。小汚く、それでいて極端に不潔でもない占い師は強く母を思い起こさせた。  占い師は優しく笑いながら蓋の壊れている弁当箱を取り出した。それは確かに学生時代に使っていた期限切れの食材が詰まった弁当箱であった。周囲まで臭うわけではないが、顔を近づけると確かに感じる酢酸臭もまた母を思い起こさせた。 「ほれ」  占い師は弁当箱の中の唐揚げを食べるように促してくる。それは母が使っていた長期間放置された冷凍食品の唐揚げに良く似ていた。  もちろん全てが食べられない食材ではないが、この唐揚げだけは食べることができず、必ずどこかへ捨てていた。  占い師は目を逸らすこともなく、食べるように促してくる。何か話すことも逃げることも許されないと感じ、暑さも忘れて震えた。指先は硬直し、歯は震え、不快な音が空間を支配した。  占い師は箸で唐揚げを掴んで口元まで寄せた。占い師は目尻の皺を寄せ、太く綺麗な涙を流していた。唐揚げの酢酸臭を感じて、体中の毛穴が広がる感覚を覚えた。止まる気配のない汗が混乱を加速させた。涙を見て、同情とも取れぬなんとも言えない感情が食べることへのためらいを打ち消した。涙、臭い、食感、記憶の母。おかしなものだけが自分を支配していた。そのまま地面へ倒れ込んだ。  目が覚め、自室にいた。寝起きそのままの格好であった。占い師などいなかった。しかし、口の中に残った不快な感情。異常なまでの汗。これらが恐怖を駆り立てた。  ふと机を見ると、そこには弁当箱が置いてあった。震えながらも好奇心を抱き、弁当箱を手に取った。弾けそうな血管を鎮めようと深呼吸をした。唾を飲み込み、弁当箱を開いた。  弁当箱の中には小刀と唐揚げが入っていた。小刀を手に持ちその刃先を見つめながら占い師の言葉をぼんやりと思い出していた。手を振るわせながらナイフを唐揚げに突き刺した。酢酸臭と鉄の臭いとが混ざり合い、鼻腔を刺激した。その臭いは唐揚げを捨て忘れた日のことを思い起こさせた。  汚れることも気にせず、手掴みで唐揚げを押し込まれた日のことを。母の手からする独特な香水の匂い。頬を伝う母の涙。目に焼きついて離れることのない景色が、目の前にある唐揚げを口へ運ばせた。健康的ではない見た目と香り、何より食感の柔らかさが不快感を強めた。  唐揚げの汚れだけがついた小刀を見つめていた。鉄と酸の臭いであの香水の匂いを消してくれるのではないかと思った。風邪をひいたばかりのような高揚感があった。小刀をぼんやりと見つめ、そのまま勢いにまかせた。  季節が過ぎてもまだ暑い日が続いている。部屋はいまだ蒸し暑く、きつい香水の匂いと血の匂いが漂っていた。

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