風が止む
磯の匂いが漂う、断崖の岩場に腰を下ろして座る男が一人。波が岩にぶつかり、水飛沫が男の元まで飛んでくる。男は避けることもせずにただ膝を抱えて座っていた。むしろその波に飲まれることを望んでいるかのようであった。
日が落ち始めているが空はまだ青い。海は荒々しく唸り、音を轟かせる。波の強さはさまざまで、時には岩にも届かず、時には男を包み込む一歩手前まで。
強い日差しが、わずかに濡れた男の服を乾かす。濡れが乾くたびに、男の心も乾く。
海に向かって座る男の背には、崖が広がる。崖は少し反り返っており、小石がたまに落ちてくる。時々男の体にもぶつかり、そうすると男はゆっくりと上を眺め、目を細めて下を向く。
崖の上には鮮やかな緑の木々がある。樹木が放つ独特の香りが崖を支配しているが、果てしない海が邪魔をして、男まで届くことはない。
岩場を越え、波を越え、水平線の位置に大きな離れ鯨がいた。男は顔を上げ、鯨を見つめている。鯨はどこかに行くこともこちらによってくることもしない。海が陽の光を反射し男の眼を傷つけるが、男はそれを気にすることもなく鯨を見つめていた。
男は何度か立ち上がり、鯨のいる海へ向かおうとしたが、結局は足がすくみ、また座り込んでしまう。
少しして、風が強く吹き始めた。その風は強烈な海の匂いを含んでおり、うるさく崖にぶつかり、男の元へ不快な音と匂いを届けた。風のせいか、崖から再び小石が落ちてきた。男もはじめのうちは無視していたが、あんまりにも降ってくるものだから座る位置を少し変え、上を睨んだ。
男が上を睨んだ時、波の音も風の音も掻き消すほどの叫び声が聞こえた。それは人間のものとは違う、もっと野生的で、緊張感を孕んでいた。そして男は確かに崖の上から小石とは別に何か大きな物体が落ちてくるのを見た。
鹿だった。まだ生きている。おそらく子鹿であり、その瞳は潤んでいるようにも見える。男は立ち上がり、目を見開き、息を呑む。胸に手を当て、過呼吸気味であった。子鹿は先ほど男が座っていた位置へと落下しており、その身体は立ち上がることを拒否している。
0
閲覧数: 67
文字数: 2549
カテゴリー: その他
投稿日時: 2025/11/9 6:57
最終編集日時: 2025/11/9 7:04
K
色々書いています。