H.K
16 件の小説分からない
結局のところ、僕は君を愛していなかったんだ。好きでいたのは確かだ。 僕は君と同じ空間にいたいと思ったし、同じ時間の流れに乗りたかったのも確かだ。 その空間と時間の中で、セックスさえしたいとも思った。 僕は君に好きだということだけは伝えることができた。 でも、君は僕の全てを受け入れられないみたいだ。その理由は分からない。 僕のある一面だけしか見たくないんだ。 君がそういってくれたように、僕は感じた。 抗おうとしたけど、やめた、君に嫌な想いをさせたくないと思ったからだ。 いや、ただ嫌われたくなかっただけなんだ、自分の身を守っただけなんだ、きっと。 要するに、ただただ、保身に走っただけなんだ、僕は。 つまり、最初から、君のことを愛してはいなかったのだろう。 今になっては、もう、分からない。 僕は、今になって、異性を愛することがどういうことなのか、分からないんだ。 諦め、妥協、きっかけ、どんな手立てで心の中に落とし込めばいいのか、分からない。 分からないまま、朽ちていくのかもしれない。 もう少し、時間が経つと、分からないまま、朽ち果てることを受け入れそうだ。 そうなってくれないと苦し過ぎる。 君と会えて、得られたことは、僕自身が君を愛してはいなかったことだ。 愛するということの事象は最後まで謎なんだろうか。
短編小説 ウエディング、ヘル。【後編】
南の島の結婚披露宴の特徴は、開場とともに座席に着くと直ぐに酒を勧められる。新郎新婦が入場する前にできあがってしまう招待客も少なくはない。また、招待客が多く、余興も多いこと。よって、披露宴の開催時間が長くなるのだ。 例外なく、そんな慣習を当たり前に取り入れた披露宴は始まった。 ごく一般的はカップルの結婚披露宴は、式次第の半ばを過ぎようとしていた。 「爆竹は大丈夫だな、ロケット花火はどうかぁ?」 キャンドルサービスや、ケーキ入刀も終え、披露宴後半の新郎タクヤの同級生たちの余興が始まろうとしていて、それらのリーダー格であるアキヒトが爆竹とロケット花火を確認した。 「アキヒト、しわさんけー(心配するな)なんくるないさ(どうにかなるよ)」 カズマの次に上位カーストのマサキがアキヒトを宥めた。 「いやぁ、美男美女の新郎新婦ですね、ご来場の皆さまはお二人のお写真、上手く撮れましたでしょうか、羨ましい限りですね、それでは再び余興の時間です、今回の余興は新郎のタクヤさんの同級生のみなさんでアキヒトとハンサムな仲間たちです、演目は祝い花火です、では、舞台を注目してください」 司会進行の地元では有名はフリーの女子アナがカズマたちの余興の始まりを告げた。 「いちゅんどー(行くぞ)」 アキヒトは叫んだ。 この南の島の結婚式場はひな壇の正面奥に舞台があり、ひな壇と舞台が招待客のテーブルを挟む造りになっている。 緞帳がゆっくり上がり、おおよそ膝の高さまで奥の舞台が目に入ると二人の男が飛び出してきた。 「タクヤ君、アサミさん、結婚おめでとう」 二人はその勢いで舞台下に降りて叫ぶと、数えきれないくらいに長い束になった爆竹の導火線に蚊取り線香で火をつけた。会場内は一瞬、静まり返った。しかし、爆竹が轟音を響かせると、悲鳴をあげる女性、耳を塞ぐ者たち、怪訝な表情に変わる者がいて、これまでの穏やかな会場の雰囲気は消し去られた。 「よしっ、なまやさ(今だ)」 アキヒトは轟音に負けぬよう、仲間たちに叫んだ。 すると、一五センチくらいのビニールパイプを一〇本、針金とガムテープで束ねたものを会場に向けた。一本一本のパイプにはロケット花火が仕掛けられていた。酷いことに、その束は一〇人が脇に抱えていた。 爆竹が轟音を響かせたとき、驚いたリアクションをとったものはいうまでもない。新婦のアサミさえ驚き、椅子ごと後方へ倒れ込んでしまいそうで、タクヤが手を貸し、転倒はま逃れたものの、カズマとタケヒコがテーブルに置いていった華酒を倒してしまった。アサミのドレスは泡盛臭くなった。他のテーブルでも同じようなことが起こっていた。 アサミは勿論、華酒をかぶった者たちのその処理にドギマギしていた。 華酒で濡れたアサミのドレスや招待客が浴びた華酒を処理しようとした時、新たな不快音が会場を包んだ。ヒューヒューと鳴り響くロケット花火だ。 ロケット花火は無作為に高速に飛び散っていった。天井に当たり下方へ進路を変えるもの、壁に当たり進路を変えるもの、低空飛行でテーブルに直接当たるもの、直撃したもの、等等。 その結果、テーブルのキャンドルを倒し、テーブルクロスに火がつき、または、溢れた華酒に引火し、その近くの人たちのスーツやドレスに飛び火した。タクヤとアサミも火の餌食になった。 炎獄と化した会場は、悲鳴とともに逃げ惑う人たちで、まさに地獄絵図だ。 「ひんぎれぇー(逃げろー)」 アキヒトは独り逃げ出した。 熱と酸素の少なさに苦しむ会場内の人たちに、漸く、天井のスプリンクラーや式場職員の消火器による消火活動が始まった。遅れて救急車と消防車が到着し、正味一時間で炎と恐れを鎮めた。しかしながら、安心感を覚えた者は少なく、駐車場の一角に集められた負傷者は軽症者と重傷者に分けられていて、ドクターカーも出動してきて、応急措置が行われていて重症者から救急搬送されていた。 中には、仰向けにされ顔に白い布を被されていた者がいて、式場職員がテントを建てて柱にブルーシートを張り、外からは遺体安置所とは気づかれないようにしていた。 「やなわらんちゃーや(糞ガキどもめ)ふりとーっさぁ(気狂い染みてる)」 「やさ、ちぶるやかにはんでぃとーさ(そう、頭の螺子がくっるっている)、くるさってぃんわからんはじどー(殺されても分からないはずさ)、わじわじぃすっさー(怒りが止まらない)」 軽傷で救急搬送が必要ない新郎の姉、クミは涙ながら駐車場の片隅でアキヒトたちへ愚痴をこぼした。それを聞いたクミに寄り添う従姉妹のユウコは、怒りを隠せないでいた。 この事件はいつまでも言い伝えらる南の島の教訓となった。 死亡者四人、重症者五〇人、この中で日常生活や社会復帰ができたのは一〇人、軽症者は数一〇〇人にも及んだ。 アキヒト率いる余興メンバーは、彼を含め、一六人が殺人罪、四人が殺人補助罪で三年から一五年収監されることになった。 「本当にすみませんでした、こうなるとは思いもしませんでした、人を殺してしまうことになりました、反省しています、罪を償います」 アキヒトは逮捕されて意気消沈していた。 終
短編小説 ウエディング、ヘル。【前編】
南の島の結婚披露宴は本土とは違い、独特な慣習がある。 先ずは、招待客の人数が三〇〇人から五〇〇人が通例で、新郎新婦のひな壇の側には両家の両親をはじめ兄弟や親族のテーブルが並ぶ。 それと、兄弟と親族、友人たちの余興の数も多い。その分、宴は長時間にわたるのだ。 つまり、披露宴の始まりは、余興からが始まると言っても過言ではない。 実際に、新郎新婦が好むウエディングソングと共に光を浴びながら入場し、周辺の暗がりからシャッター音や輝かしい無数の刹那な光にも囲まれて練り歩く。ひな壇に着き、主役たちの紹介、来賓挨拶、乾杯の音頭が取られ、その二人が椅子に腰掛けると、三線の音色が会場を包み込む。舞台の両袖からは、かぎやで風を舞う踊り手が現れる。南の島での祝い事に欠かせない舞である。披露宴での最初の余興で、琉舞を身につけた親族、若しくは、師範免許を持つ舞踊家に依頼し、その神聖な舞から宴が始まるのだ。 「あい、主任まで練習にきてるんですか、お疲れ様です、これ、みんなで呑んでくださいねぇ」 新郎のタクヤは職場の同僚や上司が披露宴で披露する余興の練習現場に差し入れを持ってきた。 「おう、タクヤ、お疲れ、いよいよ明日だな、俺たちも大詰めだよ、これだけビールがあるといいなぁ」 タクヤの直上の上司で主任のキンジョウが出迎えた。 「おっ、タックー、ありがと、明日、楽しみにしとけよ」 同じ職場で幼馴染のヒロヤがロング缶の地元のクラフトビール、一ケースを受け取った。 一方、新婦のアサミは余興をしてくれる同級生たちの下を訪ねた。 「あい、アサミィ、そこでちょっと待っててよ、もう少しで休憩するから」 高校の同級生のサオリがアサミに気がつくと声をかけてきた。 「アサミィ、ごめんねぇ、見られたくないからさぁ、あと一回通したら明日は大丈夫はず、差し入れねぇ、ありがとうねぇ」 もう一人の同級生のミカがハンドタオルで額の汗を拭いアサミに近づいてきた。 「みんなありがとうねぇ、持ってきたきよぉ、食べて食べて」 両手で持つ大きなレジ袋を重たそうにウエストラインまで持ち上げた。 右手で持つ袋には、地元のファストフード店の一ガロンボトルのオレンジジュースと三人前の大豆粉で作られたポテトフライに似た形のスーパーフライが三人前入っていて、左手には二リットルペットボトルのさんぴん茶とスナック菓子、チョコレート、紙コップが入っていてパンパンだった。 これも、この島の披露宴前の慣習で、余興を依頼した友人や職場の人たちの練習の場へ訪れ、労うのだ。 披露宴の当日は、恒例のかぎやで風の舞から余興が始まり、半ばでの新郎新婦のお色直しへ進み、二人が再入場するとウエディングケーキが甘い空気を放ち、そのブースへ向かう途中途中で、招待客のテーブルのキャンドルへ幸せの灯火を点火して回る。 この時は、スポットライトに照らされた新婦のパーティードレスが大いに目立ち、その美しさが披露宴を再び盛り上げるのだ。 そんな中、招待客のテーブルに新郎新婦が立ち止まっていない暗がりでは、次の余興の準備に取り掛かる団体が、ひっそりと舞台の控え室へ移動する。 すなわち、お色直し後の再入場を機に披露宴は後半の式次第へと折り返すわけだ。 「えーえー、そろそろわったー(俺たち)も準備どぅ、いちゅんどー(行くぞ)」 後半の最初の余興は、総勢二〇人の新郎であるタクヤの同級生たちが取り計らう予定で、二つのテーブルが空となり、会場内の様々な音のボリュームは低まっていた。 「あれたち大丈夫かねぇ、うーまくぅー(やんちゃ坊主)だから何するか心配さぁ」 「仕方ないよぅ、結婚式だのに、うーまくぅたー(やんちゃ坊主たち)は、どうせ、いーしぇーちかん(言う事聞かない)から」 タクヤの姉、クミは隣に居る従姉妹のユウコへ、弟の友人たちが下劣な余興をするのではないかと心配でならなかった。 タクヤの出身地は海の側の街、要するに、漁師街で、この地の男性の気性の荒さは、古くから島内で知り渡っていた。だから、この地の男性たちの酒の場での評判は悪く、例外なく披露宴での余興もそうであった。 「カズマァ、タケヒコ、速攻、置いてこいよ」 タクヤの同級生たちの余興は、始まる五分くらい前に、リーダー格のアキヒトが二人に指示をした。 その二人は会場内の来客と親族たち、勿論、新郎新婦のテーブルに、三合瓶の華酒(アルコール六〇度の泡盛)をキャップを開けて置いていくのだ。 「キンジョウさん、これ呑んでいいよぉ」 カズマはタクヤの職場の面々が囲うテーブルに一本華酒を置くと、酔って気が大きくなっていて口を滑らせた。 「やな(おい)、さきじょうぐぅや(酒好きが)」 歳上からのそんな声も気に留めず、カズマは笑顔で隣のテーブルに向かった。 そう、南の島の披露宴では招待客が受付し、開場すると直ぐに酒が振舞われるのも慣習で、酒好きにとっては胸躍らせる場でもあるのだ。 ここまでは、この島の人々はごく当たり前に経験する披露宴の流れで、誰もが幸せな時を感じ、アルコールも相まって、お祭り騒ぎのように盛り上がるのだ。 しかし、この後、予想外の展開に歯車が回り出すことを誰もが気に留める術はなかった。 続く 後編へ
その差は無くなる-5
伍.茉莉花の嘆願 「サヤカさん、今日もお世話になりました、どう?俺、自然になってきたでしょ?」 「勿論、上手く股間を私の身体から避けるようなポジションになって違和感ないし、指の力加減が絶妙になりましたね、私、何度イったことやら、素敵な時間でしたよ」 アキラは所謂、女性との濡れ場に慣れてきて、悦ばせるテクニックをも身につけ、恋愛へ一歩踏み出せないというコンプレックスを克服しそうになっていた。 「そういってもらえると益々自信がつきますよ、ありがとうございます、この後も茉莉花さんと上手く喋れそうです」 アキラは男らしげに胸を張った。 「こんばんは、アキラさん」 沙弥とのプレイが終わり、ホテル正面の自動ドアを抜けると真っ白な国産の三ナンバーの高級車が停まった。 「あっ、こんばんは、茉莉花さんですか?」 「どうぞ、乗って下さい」 アキラは茉莉花が運転する白い三ナンバーの助手席に乗り込んだ。 「失礼します、今日は宜しくお願いします」 「こちらこそ、何だか度が過ぎるお節介みたいですみませんね」 アキラは自然体でいられたが、茉莉花は珍しくよそよしかった。 二人の車は程なくして、茉莉花の行きつけの割烹料理屋に着いた。 店に入ると畳間の個室に案内され、アキラは物珍しそうに目と顔を左右上下に散策させた。 「綺麗なお店だ、こんなとこくるの初めてだな」 「私も気に入ってて、ちょくちょく使わせてもらっているんですよ」 二人は程よい硬さの和風なクッションが座面と背凭れに施されている座椅子に腰掛け、お絞りで手を拭きながら喋っていると、帯が桜色でその周りが薄いベージュに袖に向かって薄紫のグラデーションがかかった、品のある和服姿で、化粧はナチュラルメイクの品のある美人な女中さんが入ってきた。 「いっらっしゃいませ、お給仕をやらせて頂きますタナカでございます、茉莉花さん、ご予約頂いた通りで、ご変更はございませんか」 「はい、タナカさん今日も宜しくお願いしますね」 「かしこまりました、アキラ様は今回初めてお越し頂いて、どうぞお寛ぎ下さいませ、では、失礼致します」 タナカは優しく、耳障り良い声色で無駄な色気がなく落ち着く雰囲気に一変させた。 「僕の名前も自然にいってくれるんだ、嬉しいですね」 「私はここを商談や接待とか、色々な目的で使ってるんですが、予約する時は私のお客さんの情報も取り入れてくれてくれるの、気持ちいいお店なんですよ」 タナカの所作、言葉、声で茉莉花はすっかり落ち着きを取り戻した。 食事が進み、アキラは高価な冷酒を薦められ、チビリチビリ始まるタイミングで茉莉花は口を開いた。 「アキラさん、ちょっと相談に乗ってもらいたいのですが」 「はい、構いませんが、茉莉花さんでも何かお悩み事が」 ほろ酔いのアキラは真剣な眼差しになった。 「実はですね、私、若い頃はソープで働いていたのですが、流石に年齢を重ねることで、自分の身体に自信をなくしていって、三〇歳を期にその仕事を辞めたのです、ですが、収入が無くなると死活問題なので、貯めたお金で自分で店を持とうって考えたのですが、沢山、妨害を受けて店を開くことができませんでした、そして、お金を騙し取られたりして、何とか今の店を開くことができて、サヤカや真面目なキャストの子たちにも恵まれて」 「茉莉花さん、ゼロからここまで来たんですね、凄い、だからサヤカさんの対応も素晴らしいんですね」 「ありがとうございます、そう仰って下さると嬉しいです、それでですね、今の店の業務改革をしたくてですね」 茉莉花は満を持して、思いの丈を喋った。 それは、客層を拡げていきたいと。アキラのような性に悩みを持つ人たちが、気軽に利用できる店にしていきたい。男性だけの需要を満たすだけではなく性別の垣根を取っ払い、性的マイノリティーな人たちも来てもらえる店にしたいとのことだった。 「じゃあ、俺は集客に協力して欲しいということですか」 アキラは身構えた。無茶なことはやるまいと。 「いや、そんなことは期待していないっていうと嘘になりますが、うちのキャストがマジョリティーやマイノリティーとか関係なく訪れるお客様へ接客できるようにしていきたいのです、なので、キャストにアドバイスして欲しいのです、アドバイザー役をお願いしたいのです」 茉莉花はアキラの誤解を解くように真剣に、丁寧に喋ろうとして吃りも混ざってしまった。 「えっ、どうやってそんな人たちを集客しようって考えてんですか、俺は将来、家族を築きたいって思ってて、女性との接し方を学びにサヤカさんのホンシになったんです、欲を満たしたいだけではないんです、でも、そんな考えは良いかもしれないですね」 「サヤカがいってたいたのですが、アキラさん、最近は表情も心も明るくなってきたって聞いていて、サヤカをとの体験が素晴らしいと思っていまして、これは社会貢献に繋がるのかもと、考える次第なんです」 茉莉花は背中や腋窩から汗が垂れ落ちるのに気づかずに話を進めていた。 「分かりました引き受けます」 アキラは覚悟を決めて左右の眉毛を少しだけ近づけた。 「ありがとうございます、助かります、勿論、お手当も考えてます、どれだけお渡ししたらいいか、まだ決めてないのですけど」 茉莉花はアキラが了承してくれたことで、若干、肩の力がぬけて服の中で流れてる汗を漸く気づくことができた。 この二人の会食は月初めにしたこともあり、翌月からお願いすることになった。 そして、約四週間でアキラがキャスト対するアドバイスができる環境を準備することになった。 続
ピアノを聴く男
ピアノ演奏会の会場は三階までのエスカレーターが舞台から向かって右側にあり、それの反対側は階段になっていて、舞台の背面に屋上までのエレベーター二機に囲まれた待合わせ広場は、まだ誰も居なかった。一〇脚横並びになった大して座り心地が良さそうもない、ステンレス製の折り畳み椅子が四列あった。 影親《かげちか》は、四列目の右端から四番目の椅子に座り、演奏会まで後、二時間は待つ事を腕時計を見て確認すると、スマホを手に取り、Kindle を立ち上げた。日曜日に読み終えず寝落ちした重力に関する新書を読み始めた。 行動を伴う趣味は好まないものの、工業大学出であるのも相まって物理好きであった。長い空き時間が出来ると、こうやって物理学に関する読み物を読み耽るのであった。 そうしてると、開演三〇分前になっていた。 「もし、宜しければ前の席にお詰め頂けますか?」 係員が申し訳なさそうに声をかけて来た。腕時計を見て、周りを見渡し、三〇分前に気がつき、でも、このパイプ椅子には、影親を合わせて四人しかいなかった。係員の顔を覗き込むと、下手な作り笑いで、右手を舞台側に向けていた。 それを見て、これから演奏するピアニストは対して有名な人ではないのかと思い、だか、客が少人数だから、近くで聞いてあげた方がモチベーションも上がるかも知れないと考えながら立ち上がった。 「私、ピアノの演奏を生で見るなんて、高校の頃の音楽の授業以来なんですよ、どこから見たほうが楽しめる、というか、うん、楽しめますかね。」 その係員に居酒屋やレストランでおすすめメニューを聞くような感覚で尋ねた。 「あっ、そうですね。私も実はピアノは、いや、音楽は専門外で、普段はヒーローショーなんで、あっ、鍵盤を叩く指が見やすいところが良いじゃないでしょうか、ピアノが上手い人は指捌きが凄いと思いますよ」 困った表情を見せ、適当に見繕った事をいい、益々顔を歪めて係員は答えた。 「ほう、そうかも、指の動き、楽しめそうですね、分かりました。前へ移動します、ありがとうございます」 景親は大人な対応が出来たと自負した。 まだ演奏までは一五分くらいあった。スマホで時間を潰しても良かったが、ふと、ピアノそのものがどんな楽器だったのか考え始めていた。 鍵盤を叩くとそれがピアノ線に当たって音が出る仕組みで、こんなものを作り出した人は誰なんだと思い、目の前のグランドピアノを眺めてた。よく見ると、どこにでもありそうなピアノではあるが、光沢があり普段から綺麗に手入れされてるのだろうと想像した。すっかり病院帰りであったことを忘れていた。 「あのう、もう一つ前でいかがですか、私が演奏します」 唐突に女性から声をかけられた。景親は驚いたが、とても嬉しく感じた。爽やかな香りが鼻を通り抜け、無言で笑顔を見せながら先頭の席に移動した。 その女性は、他の人達にも声をかけて回ったが、先頭の席まで詰めて来る人は影親だけだった。残念ながら、ふたり程立ち去る人がいた。 景親は気がつかなかったようだが、後ろの遠目にポツンポツンと女性客が立っていた。椅子に着く人が少な過ぎて、恥ずかしくて、目立たない場所で演奏を聞きたいような雰囲気だった。 「お集まりの皆様こんにちは、それではお時間となりましたので、始めて行こうと思います、先月は夏休み期間でしたから、六年生の山田一郎君に演奏してもらいました。今日は私のピアノ教室へ五歳から高校を卒業するまで通ってくれてた、春野美音《はるのみおん》さんに演奏してもらいます、美音さんは、高校卒業後、 武佐師川《むさしかわ》音楽大学を出られて、ドイツへ留学しました。帰国したばかりです」 ふっくらしたオバちゃんの話が長く感じ、その横に立つ春野美音に見惚れてた。 髪の毛はダークブラウンに染めてるのか、ポニーテールは似合ってる、メガネも可愛らしい。オフホワイトのカットソーに黒でボタンを掛けてないカーデガン、黒の膝上三センチくらいのタイトスカート。飾らないシンプルな綺麗さが際立って見えた。 このオバちゃんの傍だから余計に細く見える。影親の脳はその声、オバちゃんの声である聴覚刺激を選択知覚しないでいた。久し振りに女性に見惚れていた。 演奏が始まった。椅子の座面を浅めに座り、綺麗に骨盤が立ち上がり、殿部の丸み、腰椎の前方への弯曲。美しい曲線だ。そしてピアノに向かう真っ白な太腿、程良く締まった脹ら脛。ここも美しい曲線。 鍵盤を叩く指は細長く、時にはゆったり、時には速く、でも、滑らかに、柔らかく動いている。ピアノが奏でる音を楽しんでるように見えた。 その動きに対して、肘、肩の位置は止まってる。首の真下へ優しく降りた上腕、鍵盤へ迷う事なく向かう前腕。〝Love〟のLの字を連想していた。そこまで想像した自分が恥ずかしくてならなかった。 そして、クーパー靭帯がしっかり釣り上げ、お椀のように前に膨らんだ乳房は揺れる事がない。官能的にも感じるし、母性的にも感じた。 〝なんて綺麗なんだ。〟この言葉しか浮かんでこない。誰もがそう思うだろう。恥ずかしがらないで良いんだ。影親は自分にいい聞かせた。 その美しい佇まいは、癒しを与えてくれた。語弊があるが、今までにも目にして来た女性の曲線だが、ピアノの音色が影親の感覚を素直にしてくれたのだろうか。更には、目を閉じて音を見る事にした。これまでにそうしてみようと発想したことがなかったため、流石に見えやしない。また、自分を恥じた。だか、音をこんなに楽しめてる事は初めてで、嬉し涙が溢れ出ていた。 「宜しければ、これ、使って下さい。最後まで聞いて下さってありがとうございました。」 演奏を終えた美音は微動だにしない影親に驚き、薄ピンクのハンカチを差し出した。 「えっ、すみません、持ってます、持ってます、感動しました、実は、北山病院の診察の帰りに寄りました。両親を数年前に癌で亡くしてて、主治医だった先生に体調が悪い時は早めに診察に来るよういわれてたのですが、半年ばかり腹痛を我慢してて、まだ癌なのかどうかは分からなくて、二週間後に検査入院が決まって、覚悟を決めたのですが、病院の玄関先でピアノ演奏会のポスターを見たら無意識にここに来てしまってて、あ、え、何言ってんだろう。すみません、でも、ピアノを弾くのを楽しんでるように見えて、とても心地良い音で、あ、ありがとうございました」 影親は、目元を自分のハンカチで拭きながら、額から滲み出る汗も拭きながら、多弁になってしまった。 「そうだったのですか、大丈夫ですか、お疲れのようですね、私が弾くピアノを心地良く聞いて下さってありがとうございます、週に一回、火曜日のこの時間に一ヶ月間は弾くことになってますので宜しければ、また、いらして下さい、では、お大事に」 美音は、影親の話しの内容、喋り方に衝撃を受けたが、懸命に冷静さを保ち、また来てくれなんて社交辞令でしかないのに、言ってしまった事を後悔し、当たり障りなく平静を装い離れていった。 影親は後悔に駆られていた。何であんな事まで言ってしまったのか、顔から火が出る思いになった。なるべく周囲の人達が自分の目に入らないようにし、また、慌てないように、ショッピングモールを後にした。
甘くて美味しいから…
滑り台の裏で、しゃがんで泣いてる子がいた。 「どうしたの?」 「独りになったの…」 声を震わせていた。 僕は、「大丈夫、君の友達かお母さんが来るまで傍にいてあげるから」としかいえなかった。 それしかできなかったから。 僕には何もないから 冠動脈の全てが一斉に破けて血が噴出すように心が壊れた時、何もできなくなった。 好きなことも、得意なことも。 だから、その子にも何もしてあげられなかった。 ただ、ポケットに入っていたキャンディーをその子にあげた。 「これ、甘くて美味しいよ、食べな、きっと元気になるよ」 その子は、素直に袋を破って口にした。 「うん、甘くて美味しい」 震えが小さくなった声でそういった…
目がまわる
「お前、買ってもらえなかったのか」 ヒロミツは縁日で、一人だけ渦巻きキャンディーを買いそびれた。 それで、数人の近所の悪戯っ子たちに囲まれていた。 悪戯っ子たちが手にしてる渦巻きキャンディーはそれぞれの手より一回りも大きいものだった。刺さった棒の端っこを持つと直ぐに落としてしまいそうだ。 「イエーイ、仲間外れ、ヒロミツ仲間外れ」 悪戯っ子たちはしゃがみ込んだヒロミツの周りを時計回りに走り始めた。ヒロミツは驚き半べそで、悪戯っ子たちを見回した。 「ヒロミツ、羨ましいだろう、うっずまっきキャンディーはもうないぞ、ヒロミツだけが持っていなーーい」 悪戯っ子たちは調子にのった。足の回転を早めていった。 すると、西の海に沈んだ太陽は光を消し去っていた。悪戯っ子が走り回って、三分も立たない時で、悪戯っ子の渦にはマダラに、光が当たった。夜店から漏れ出す光と、街灯の光で。 「おう、綺麗だ、花火みたい」 ヒロミツは、光が当たっている部分だけの一箇所に目線を置いた。笑顔が戻った。 それに気がついた悪戯っ子は足の回転を緩めた。 「ヒロミツ、何だよ、楽しそうになりやがって、目が回ったよ、あぁフラフラする、気持ち悪い、あぁーあ、つまんねーの、お前にやるよ」 悪戯っ子たちの一人が渦巻きキャンディーをヒロミツに渡した。他の子たちも続々とヒロミツに手渡していった。 「えぇ、いいの僕一人だけ、こんなにタダでキャンディーもらって」 ヒロミツがやっと両手で持てる、数本の渦巻きキャンディーを苦笑いしながら見ていると、渦巻きキャンディーと同じ大きさの顔をしている幼子がヒロミツを取り囲んだ。 「あっ、君たちにあげるよ、こんなに大きなキャンディー、初めて何だよね」 幼子一人一人に渦巻きキャンディーを手渡した。そして、一本だけ残り、ぺろっとした。 「お兄さん、ありがとう」 幼子たちの声はシンクロした。 「いいんだよ、僕一人だけでは食べきらないからさ、落っことさないでね」 ヒロミツは悪戯されたけど、幼子たちが喜んだことで気持ちが落ち着いた。 「バイバイ、僕は帰るね」 ヒロミツは家路に向かった。 幼子たちは、渦巻きキャンディーを舐めながら、ヒロミツが見えなくなるまで、笑顔で視線を向け続けた。 見えなくなると、草の茂みへ向かった。草叢に入る寸前で、たぬきに身を代えた。 この日以来、ヒロミツへの悪戯は無くなった。 完
その差は無くなる-肆
肆.育む 沙弥が中学生になり、同級生の女子たちの会話で深い恋愛話が、男子たちよりも遥かに性に対する知識が多く、また、誤解している知識をも混在する内容が日常の景趣になった頃だった。 「沙弥ちゃん、うちらのママたち、何かヤバいみたいよ」 「えっ、何が?」 「男女同士が普通みたいよ、セックス」 「はっ、ママたちって、セックスしてるの?」 ある日の放課後、沙弥と明日香が二人っきりで、下校している時の、積極的に明日香が誰にも聞かせないように注意を払って始めた会話だった。 「うん、最近は沙弥ちゃんのパパが出張しないから、沙弥ちゃんちに泊まるのが減ったから、それも減ったんじゃないかって思うけど」 「あぁ、眠る前のことね、マッサージしあってたんじゃないの、私、セックスだなんて想像もしてないんだけど」 「じゃあ、確かめてみようか」 その後二人は明日香の家に向かった。 沙弥は男女がセックスしている光景を見たことがなく、明日香の母親と自分の母親との、あの夜の光景がセックスしているか否か判断できずにいた。 一方、明日香は、沙弥という幼馴染の母親同士がセックスを愉しむことを許していいのかどうか迷いがあり、沙弥と判断したいという思いが頭の中で駆け巡るばかりだった。 「明日香、私、男女のセックス、見たことないんだけど」 「えっ、そなの、流石天然」 沙弥は明日香に話しかける時から眉間に皺を寄せ、ほんの少しおちょぼ口になっていて、明日香な言葉は全くもって響いていなかった。 「じゃあさあ、凪《なぎさ》んちに行こうか、エロいのあるはずだから」 明日香は、一つ後輩の凪に連絡を取り、沙弥を連れて行った。 凪は母子家庭で、母親がスナックを経営していて、夕方から深夜まで凪は母親から解放されるのだ。 しかしながら、凪は内向的な性格で独りで好きなこと、例えば、イラストを描くとか、ビーズでアクセサリーを作る等、所謂、インドア派だったのだ。 だから、自ずと自慰行為を覚えていき、アダルトグッツやAV動画、写真集、官能小説等も自由に集められる環境にあった。 また、母親はそういった側面を暗黙の了解で、コンドームを与えていて、「感染症は避けるのよ」といって、女生器の感染症予防の重要性を幼い頃から教えていたのだ。 「明日香先輩いらっしゃい、初めまして、沙弥さん、凪です、宜しくお願いします」 孤独になりがちな反面、信頼を持てる人へは、明るく振る舞うといった個性を持っていた。 しかしながら、幾ら明日香の幼馴染である沙弥でさえ、明るく挨拶したが、明日香との会話が殆どで、それをニコニコ笑顔で沙弥は眺めてた。 「凪、ちょっと電話で話したんだけど、沙弥にDVD見せてあげない、まだねえ見たことがないらしいの」 「取っておきのものをお見せしましょうか」 凪は、押入れのを戸を開け、DVDプレイヤーと共に取り出してきた。 「沙弥、気色悪いとか思ったらいってよ」 「そうですね、無理に見るものではないから」 沙弥は興味深い表情を見せたが、二人の言葉へ不思議だ思いを抱いた。 その動画の内容は、モザイク処理がなく、全裸になった男女がキスから始めて、男性は乳房と女生器。女性は勃起した男性を愛撫し始めた。 男女な喘ぎ声は勿論、二人の性器から溢れ出す体液がでの動きに合わせて、〝ペチョ、ペチョ〟というような、愛撫している手の隙間から性器からの体液が擦れ合い、弾ける音が響く、男女がお互いの性器を愛撫する場面が交互にに続いた。 「あぁ、気持ち良さそう」 凪はスカートの中に右手を忍ばせた。明日香は、冷静な表情で沙弥に気づかれないように、そっとスカートへ忍ばせた。 その動画の男女は、益々、愛撫が進み、シックスナインのポジョンをとり、交互にオーラルセックスの場面が流れてきた。 「先輩、私、もう我慢できないから、独りでしますね」 凪のスカートの中の右手の動きは激しくなった。 「沙弥さん、もう少しで挿入する場面が見えると思いますので、しっかり見てくださいね、これがセックスです」 沙弥は凪の方へ一瞬顔を向けると、直ぐにプレイヤーの画面に向け直した。 その間、明日香はゆっくり自分の性器を慰めてるいた。 「こんなに大きくなるの、こんなのが入っていくの、不思議、私、自分の指、二本までしか入れたことがないのに」 沙弥は驚いている言葉を発しながらも、壁にもたれて両脚を広げ、二人と違い、ショーツが丸見えになろうがお構いなく、右手の人差し指で撫でていった。 それを目にした凪は、更に、性的興奮が高まり、スカートを捲り上げ、ショーツを脱ぎ、ディルドを手にした。 明日香は、言葉なく凪に寄っていき、ディルドを二、三回出し入れされた後、クンニングスを始めた。 「私、それ使ってみたい」 沙弥は、凪が使ったディルドを手に取り、挿入した。 凪の部屋は、三人の喘ぎごえでカオスと化した。 ある日、三人が凪の部屋で愉しんでいると、凪の母親が帰宅した。 母親の珠世《たまよ》は、そんな三人の行為を部屋に入り込んでやめされることはしなかった。 「あらら、三人で楽しんでたのね、手洗いだとか、大事なところも洗ったりとかして始めた。」 珠世は三人に訊ねた。 「うん、今終わったから、これからシャワーしようって思ってるよ」 「そうしなさい、明日香ちゃんも沙弥ちゃんもシャワー入りなさい、それで、傷がついてないか確かめるのよ、お腹空いたでしょ、カレーライス作ってるからね。」 「ありがとう母さん」 「ありがとうございます」 「お手数おかけします」 凪は普段通りの返事で、沙弥は素直な返事。明日香だけは罰が悪いような雰囲気を醸し出した。 「性欲は誰にもあるのよ、あなたたちの、んん、遊びかな、遊びよね、私は、凪の部屋で愉しむなら止めなさいなんていわないわ」 みんながカレーライスを食べ終わった後に珠世は話し始めた。 「これからね、男の子と恋愛して、そういう場面に遭遇すると思うの、予行演習になるわ、それと、もう一つ気をつけてもらいたいのは、道具を使う時は、コンドームをつけること、そして、使い回すのであれば、コンドームを新しいものに付け替えること」 三人はディルドをコンドームを変えずに使い回していたため、表情が曇った。 「それはね、性感染症を予防するためなのよ、今の時点でそんな感染することがなくても、予防する習慣を身に着けるようにした方がいいわ、将来のためにね」 三人は納得した。特に、沙弥は目を輝かせて珠世を見つめていた。 珠世は、性教育という意識はなかった。女性の先輩としてのアドバイスといった意識だった。 続
その差は無くなるー参
参.前へ前へ 「アキラさん、どうですか、男性として、私を相手することできました」 「はい、勿論、やっぱ、女性の身体の柔らかさと曲線は興奮できました。でも、サヤカさんだったからじゃないかな、俺の緊張を和らげるのがとても上手かった。」 「うん、どうしても仕事なので、演じる、ってことは多少なりともあったと思いますが、アキラさんのフェザータッチ良かったですよ、このタッチは武器になるんじゃないでしょうか」 「そうですか、それは良かった」 沙弥とアキラのプレイがひと段落ついて、二人は意見交換した。 「あっ、そうか、色々、今みたいにお互い意見を言い合えばいいのか」 アキラは閃いた。 「そうそう、お話し合うこと大切だと思います、うん、少し違和感を感じたことが二回程ありましたけど、男性、アキラ、さんに、攻められるのに夢中になってると、〝当たらない〟なんて感じちゃいました」 「やっぱりそうか、陰茎を作るのが金かかるんですよ、尿道を長くする手術もしないといけないから」 「お金かかるんですね、まぁ、先ずは話し合いです、お互い理解し合えるように」 アキラはその後、沙弥のホンシになった。そして、沙弥は茉莉花オーナーにこのことを告げ、ジェンダーレスのお客さんの受け入れやキャストの対応法を検討した結果、そのような人たちを集客することが増えた。 一方、特別ボーナスを沙弥がもらった後は、沙弥にリスペクトするキャストと僻むキャストとに二分した。 「ねぇ、オーナーとサヤカって二人でよく話ししてるよね」 「ほんと、何なのあの女、良い子ちゃんぶって」 「あとねぇ、オナベさんとかレズビアンも客にしてるみたい、ううう、気持ち悪い」 沙弥を僻むキャストたちはこんな陰口をいうことが多くなった。 そんな裏を、キャストを送迎する運転手から茉莉花オーナーへ筒抜けだった。その運転手、実は茉莉花の兄、安孝《やすたか》だった。 「茉莉花、サヤカさんのホンシになってくれたFTM(female to male)のアキラさんだけど、電話口でサヤカさんにはそうだけど、俺にまでお礼を言って下さるんだ、びっくりしたよ」 「サヤカからも聞いたけど、アキラさんって方、良い感じね」 茉莉花は確信した。サヤカの働きの素晴らしさと、性的マイノリティーの人たちの中には、自覚していた本来の性別へ、心身共に替えることができたとしても、その後の人生に対しての不安や悩みを持つことがあることを。 「サヤカ、ホンシのアキラさん、どう?」 「どうと仰るのは?」 「二週に一回くらいのペースでいらしてくれてるみたいだけど、落ち着いてきたの、心の状態とか、生活とか」 茉莉花は、それとなく聞いてみた。 「はい、だいぶ明るくなりましたよ、でも、陰茎を作る手術を受けたい気持ちが強くなってきたって、最近は仰ってますよ、そろそろ、仕事一本に専念しようかって、勿論、私はその方向を勧めてます」 「陰茎形成術は一番お金かかるって聞くからね、大変だね」 沙弥は素直にアキラの向かいたい道を後押ししているようだ。 それを聞いて茉莉花は、これまでにない行動を起こすこととなった。アキラが予約の電話をしてくる頃合いに合わせて、店にいる時間を増やし、電話対応を試みたのだった。 「お電話ありがとうございます、〝秘密の花ビラ〟でございます、大変申し訳ございませんが、本日出勤しておりますキャストの枠は全て埋まっておりまして、明日以降ですと空きがあるのですが」 「はい、明日の予約を取りたいのですが、サヤカさんの枠は空きがありますでしょうか」 「少々お待ち下さい」 茉莉花は電話口がアキラであることを期待し、沙弥のスケジュールの確認をした。少々、緊張が高まり、慌てずに電話対応しようと心がけた。 「お待たせ致しました、明日でしたら、一四時からの枠と、二三時からの枠に空きがありますが」 アキラは一四時からの枠を選び、いつも通り、一二〇分コースを選び、茉莉花は予約名と連絡用の電話番号を確認した。案の定、アキラだった。 「アキラ様でございましたか、日頃より私共のサヤカをご指名して頂きましてありがとうございます、私、オーナーの茉莉花と申します、一度は私が直接お電話に出てお礼を申し上げたいと思っておりました、お電話、もう少しお時間宜しいでしょうか」 「はい、大丈夫です、わざわざお礼なんて、サヤカさんとはいつも楽しい時間を過ごさせてもらってて、こちらこそ、ありがとうございます」 「いえいえ、とんでもございません、毎度ありがとうございます、大変申し訳ございませんが、オーナーとしての仕事で、定期的にキャストとは面談をしておりまして、サヤカからはアキラ様がいつもご丁寧になさっていて、ありがたいと申しております、当店はアキラ様のようなお客様へお食事に招待するということをしておりまして、私とですが、いかがでしょうか」 「えっ、そんなことを、えっ」 アキラは戸惑ってしまった。 「そう申しましても、高級な飲食店ではないのですが、完全個室でですね、キャストの評価をお聞きしたいのでございます、そして、今後のサービスへ活かせたらと考えております、まぁ、ご無理は申し上げませんが、お礼を兼ねて、私共のサービスの質を向上にご協力頂ければと考えております」 茉莉花は恩つけがましく思われないように話した。 「あぁ、いいんですか、ご馳走になるなんて」 「はい、私共は店舗を簡単に広げる方針ではなくて、質を重視しておりますもので」 「なるほど、分かりました、だからサヤカさんのような女性が、何だかオーナーさんのお顔も見たくなってきました、じゃあ、お言葉に甘えて」 アキラは納得し、更には、沙弥以外の女性と性行為への考えを聞いてみたいことに興味が沸いてきたことも相まって、茉莉花の誘いを受けることにした。 この会食は、沙弥との時間を終えて、ホテルから車で一〇分くらい離れた所にある割烹ですることになった。 「サヤカさん、この後、オーナーさん、茉莉花さんだよね、ご飯ご馳走してくれるみたいなんだ、聞いてる?」 アキラは沙弥とホテルのエレベーターに乗ると、ほんの少し、笑みを浮かべた。 「あら、そうなの、茉莉花オーナー、素晴らしいお客様には、何か還元したい、なんていうことがあるの、これまでも何人かと食事してるみたい、私たち茉莉花オーナーと面談以外に会うことないから、具体的に誰って聞くことはないけどね」 「あっ、不味かった、黙ってた方がよかったかな」 アキラは罰が悪そうにした。 「大丈夫よ、茉莉花オーナーは信頼できるし、尊敬してるし、美味しいのご馳走になったらいいよ、アキラさんが楽しい時間になると思うわ」 それを聞いてアキラの表情は緩んだ。 「へぇ、オーナーさんが女ってのもびっくりしたけど、女の人じゃなかったら断ってたかも、今日はラッキー、なのかな」 「アキラさん、エッチ」 こうして、アキラは沙弥の言葉で安心し、茉莉花との会食が益々、素直に楽しみになった。 一方、茉莉花は当日となり、アキラに会えることで、アキラへの興味を無意識に掻き立てていた。しかしながら、この機会を無駄にしたくないと我に返り、冷静であるように振る舞うことが精一杯だった。 続
八呼神氏村(やこがしむら)
「ヤバイヤバイ、ヤバイじゃん、今日、今日は、八月八日だよ、あぁ、あぁ、雨雲が流れてきたよ!月子さん」 「うん、リスク高いけど、君にしか頼めないの、大丈夫、大丈夫だから」 月子が八神光光呼《やがみみつひこ》出会った、というか、探し当てたのは八ヶ月前だった。月子が探し始めて一六年経とうした時だった。 八呼神村は東経一三五度に位置しており、現在はその村の名前は地図上からはなくなっている。それは、その村の真ん中にある八面神之池《はちめんがみのいけ》があり、人が近づかない方がいいと考えられていて、江戸時代後期に、過疎化が進み、居住地にそぐわないと認定できなくなったということだ。 表向きはそんな理由だか、知る人ぞ知る村の言い伝えがあった。 八呼神氏村に憑いた八面神が八日毎に災いを齎すということがあり、それは、無作為に ここの村人に稲妻を落とすということだ。その結果は言わずもがな、あの世行きなのだ。 「光光呼、あなたは八面神の上位にあたる八方神《はっぽうしん》の生まれ代わりなの、だから、稲妻に撃たれると覚醒するはずよ」 古えの時代、八方神は東西南北と北東、北西、南東、南西の八つの方向の磁場を安定させていた。言うなれば、磁場の神である。 一方、八面神は、八つの方向を監視する役割を担う八方神の手下だったのだ。 ところが八面神は反乱を起こした。しかしながら、即座に八方神に囚われ、八呼神氏村に閉じ込められたのだ。八面神の怒りは止まらず、あのような村人を殺めることをしだしたのだった。それを収めようと八方神は磁場を安定させる力を使いながら、八面神の力をも制御しようとした結果、力尽きた。 八方神の功績は、八面神が八年に一度だけ八呼神氏村の村民人一人だけに稲妻を落とすという制限までだった。 「わ、わ、分かった、月子さんを信じるよ、自分自身を信じるよ」 光光呼は右手をあげ、肩幅より広く足を広げ、左手は握り拳にし、心臓の位置に当てた。 すると、雨が落ちてきた。雲の中で光が壊れたネオンのようにチカチカした。月子はしゃがんで合掌した。 「八神光光呼よ、ありがとう、君の勇気と私の残してた最後の力を合わせて、八面神を完全に封印できたよ、これで安心だ、月子、君の働きももう終わりだ、光光呼と好きなように生きていけばいい」 光光呼の頭上に雨雲が集まり、ドーナツ型に広がると、その声は聞こえてきた。 それ以降、八呼神氏村が存在していたことを知っているのは、月子と光光呼の二人だけになった。 終