華月雪兎-Yuto Hanatsuki-
48 件の小説華月雪兎-Yuto Hanatsuki-
皆様初めまして。華月雪兎です🐇 「雪」に「兎」と書いて「ゆと」と申します💡 現在は掌編、SS、短編から中編サイズの小説を書かせて頂いております。 恋愛系短編集 『恋愛模様』 ミステリ/ホラー系短編集 『怪奇蒐集録』 をエブリスタ、Noveleeにて不定期連載中📖🖊
寿楽荘、曰く憑きにつき〈8〉
————これは・・・・・・また夢、なのだろうか? それとも此処は————死後の世界か? まるで水の中に浸かって揺らめいているみたいだ。 何処か懐かしさを思わせる安心感に全身を包まれている感覚。 そう、例えばまだ言葉も上手く話せなかった幼い頃の事を思い出す。薄ぼんやりとした記憶を覗くと、あの頃はいつも傍らに母が居た。 慈愛に満ちた優しい笑顔と柔らかな声は、自然と安心感を与えてくれていた。 優しさに満ちた微笑みを湛え、その手で幼子の柔肌に触れたかと思えば、掬い上げられた身体は両の腕に抱かれて、すっぽりと大きな愛で包まれる。 幼いが故に言葉に表す事は出来ずとも、心の奥に感じる確かな温かさがそこにはあった。 柳田自身もそれを記憶として認識している訳ではない。 だが、確かに憶えている。この懐かしさは。安心感は。きっとその頃の記憶と結び付いているからだろう、と。 そんな事を思い出しながら、柳田はその身を預けると、自然と強張った表情を緩めた。 (もし此処があの世なら・・・俺は死んだって事、だよな? 短い人生だったな・・・。まあ、でも、不思議と気分は悪くない。こんな穏やかな気持ちになったのなんていつ以来かな。こんな風に思えるなら・・・・・・いっそ悪くないかも・・・なんてな) 柳田は微笑んだまま、そっと瞼を閉じた。 するとどうだろう。瞼の裏に突如として様々な映像が浮かび上がって来たではないか。 (・・・・・・これは?) これはそう。まるで走馬灯のようだ。 今まで体験した出来事が断片的な映像となって、次々と頭の中に浮かんでは消えていく。 走馬灯は死ぬ間際に見る物とばかり思っていたが・・・・・・いや、そんな事はこの際どうでも良いか———と、柳田は目を閉じたまま小さく笑った。 頭の中を映像が駆け巡る。母に抱かれ産声を上げた頃から始まり、保育園での記憶、小学校での記憶、中学校、高校、そして大学生時代と断片的な記憶が思い出のアルバムを捲るように順を追ってどんどん流れていく。 幼少期の淡い思い出も、思春期の頃の思い出したくもない苦い記憶も。それこそ本人も忘れていたような些細な出来事まで。 良い思い出も悪い思い出も関係なく、全てが内混ぜになって柳田の脳裏を駆け巡った。 時折、苦笑いしながらも最初は懐かしむ気持ちでそれを眺めていた柳田だったが、突然、ぴくりと眉を動かし不意に険しい表情を見せた。それは浮かび上がる記憶のページが寿楽荘に移り住んでからの物に変わったからだ。 加速度的に映像が進む。ページが捲られる度に眉間の皺はより深く刻まれて、噛み締められた奥歯はギリギリと音を鳴らした。 (・・・・・・何で死んでまで・・・またあんな物を・・・・・・見せられなきゃいけねえんだよ) 容赦なくページは捲られていく。振り返るように映像を見せられている所為だろうか。視野が拡がった事で、あの時は気付かなかった事にまで気付かせられる。 より鮮明に映る映像。見たくもない、忘れたい出来事だと言うのに————何とも皮肉な話しだ。 「・・・・・・止めろ」 心の中で呟いていた言葉が思わず口から漏れる。 心臓が跳ね、心の騒めきが大きくなった。 「・・・・・・止めてくれって」 辟易した声でそう呟いた。 握り込んだ拳が迫り上がる恐怖から小刻みに戦慄く。それでも映像は止まらない。 ナイフを持った榊原がジリジリと迫る。 そして————その背後で身体をゆっくりと揺らしながら細い腕を伸ばす・・・・・・女。 繰り返す惨劇。榊原が絶命するあの瞬間の映像だ。 そこで初めて柳田は気が付いた。あの時、あの女が見ていたものは榊原などではなかったと言う事に。 榊原を羽交い締めにしている最中も、その視線は柳田をずっと捉えていた。 改めて見てぞくりとした。榊原の首を捻り込んでいく間も、大きく開いた三白眼で見詰めているのは自分の方ではないか、と。 あの女の目的も、正体も、何もかも分からない。 しかし、これだけは分かった。始めからあの女は柳田の事しか見ていないと言う事に。 やっと手を伸ばせば届く距離に柳田が居る。 そう、あの手は榊原ではなく、本当は柳田に向けて伸ばされた手———だったのではないだろうか。 榊原が自身と柳田の間に障害物として存在していた。だから道端の小石を取り除くように排除しただけ・・・・・・そう思ったらまた纏わりつくような恐怖が足元から這い上がって来るのを感じた。 あの女は何故、こうも自分に固執しているのか? 自分の事を妻だと思い込んでいた。剰え二人の間には子供が居るとも。勿論、柳田にとっては身に覚えもなく、単なるイカれた女の妄言だ。だが、果たして本当にそれだけだったのだろうか? 恐怖と共に様々な感情が湧き起こり、心の中に大きな渦を作る。気付けばあんなに穏やかだったその空間は、柳田の心に呼応するように黒く染まり、穏やかな海を思わせる水面はどろりとした赤黒い何かで埋め尽くされていた。それが柳田の身体に否が応でも纏わりついてくる。 「———や、止めろ・・・止めろって・・・た、頼むから・・・・・・止めてくれって‼︎」 誰も居ない空間に柳田の悲痛な叫びが木霊する。 その瞬間、視界にノイズが走った。頭を雷で撃ち抜かれたような強い衝撃。 視界が真っ白にホワイトアウトしたかと思ったら、おどろおどろしい場面が瞬時にパッと別の場面へと切り替わった。 「————えっ?」 突然の事に思わず言葉が口を突いて出る。 柳田は戸惑った様子で辺りを見渡した。 「此処は・・・・・・」 そこは見覚えのある風景だった。 幼い頃、今は亡き母に良く連れて行ってもらった思い出の小さな公園。 もう何年も帰っていない実家の近くにそれはあった。 古くなった遊具が危ないからと、都市開発の煽りもあって数年前に取り壊されたと聞かされていた。 不思議と先程まで感じていた恐怖や憤りはない。 それらの感情は鳴りを潜め、柳田は自身でも驚くくらい落ち着いているのを感じていた。 「懐かしいな」 辺りを見渡しながらぼそりと小さく呟いた。 雨風に曝されて金属部分が少し錆びたジャングルジムに、風化して水色の塗装が剥がれたブランコ。誰が作っているのか、いつも泥団子が縁に並べてある砂場。 どれも思い出の中にあるあの頃の公園のままだ。 「———あっ」 柳田は何かを見付けてゆっくりと近付いていくと、その場にしゃがみ込んでまじまじとそれを見詰める。 そこには拙い字で「ゆうすけ」と「みさ」の名前が傘の中で並んでいた。 「・・・・・・うーわ、ハズッ」 それは柳田にとって初恋の思い出だ。それと同時に初めての失恋を思い出させる苦い思い出でもある。 「・・・・・・ご丁寧にマジックで書いてやがる。若さって怖えわ」 顔を顰めながら溜め息を一つ。頭を掻きながら立ち上がると、柳田は改めて周囲を見渡した。 「間違いない。この公園はあの頃の公園だ」 小学生だった柳田が毎日のように来ていた公園。あの頃はもう少し子供達で賑わっていた気もしたが、もう夕暮れ時だ。公園には誰も居なかった。 「何でこの公園なんだ?」 何故こんな場面を見せられているのか? その理由が柳田には分からなかった。 「何となく・・・あそこに似てるな」 夢で見た————幼い少年が泣いていたあの公園。 あの時は気付かなかったが、自身が足繁く通ったこの公園はあの公園に何処となく似ている気がした。 ————じゃりっ・・・ その時、不意に後ろから足音らしき物音が聴こえた。驚いて振り向いた柳田はぎょっとしてその目を大きく見開いた。 「・・・・・・ああ、あぁあ、ああ・・・」 ジリジリとノイズの掛かった唸るような声。白いワンピースから見える細い手足。 ————あの女ではないか。 その姿を視界に捉えた瞬間、柳田の身体は凍り付いたように固まってしまった。目の前の女は開いた瞳孔を髪の隙間から覗かせて柳田の顔をじっと凝視しているようだった。 「・・・・・・な、なな、何で・・・此処に————」 何故何故何故————無数の「何故」が頭の中を埋め尽くす。 こんな記憶、自分にはない。なのに何故、此処にあの女が? これが現実ではないと分かっているのに、理解が追い付かない。女の放つその物々しい視線に射竦められ、言葉が上手く出て来ない。 「・・・・・・ああ、あぁあ、ああ・・・」 また捻り出される呪言のような唸り声。 その仰々しい見た目に反して汚れ一つない純白のワンピースがとても異質な物に見えた。 そこから覗く足が、一歩、また一歩と柳田に向かってゆっくりと歩みを進め、その肢体を揺らめかせながら近付いて来る。 今直ぐにでも走って逃げ出したい。なのに、足が竦んでその場から一歩も動けずにいた。 女は微かに震える手を伸ばす。後僅か数センチで触れられる距離。 (もう駄目だっっっ‼︎) そう思った時。女の手はするりと柳田の身体をすり抜けた。 (・・・・・・・・・えっ?) そして、戸惑う柳田を余所に、女はそのまま当たり前のように柳田の身体を通り抜けて行く。 この公園があの頃の公園ならば、大人になった柳田がこの場所に存在する筈はないのだ。夢で見た少年の母親が自身を通り抜けて行ったあの時と同じ。身体の中を擦り抜けられる気持ちの悪いあの感覚。 「助かった・・・・・・のか?」 しかし、背後からはあの薄気味悪い呻き声とジャリジャリと擦るような足音が。 ————まだ・・・居る。 〝ドクンッ〟と大きく心臓が跳ねる。 足音が、声が聞こえる度にどんどんと鼓動は大きく、そして速くなっていく。自身の鼓動がやけに五月蝿い。 額から頬を伝い流れる汗の冷たさが厭にリアルで、この瞬間が現実なのではないかと錯覚に陥りそうになる。 ————じゃりっ・・・じゃりっ・・・・・・ 「・・・・・・ああ、あぁあ、ああ・・・」 遠ざっかているのか、それともまだ直ぐ背後で此方を見ているのか。とてもじゃないが振り返る勇気はなかった。 産まれたての仔鹿のようにガタガタと笑いそうになる膝を必死に抑え込む。 「お姉ちゃん、こんなとこで何してるの?」 不意に放たれた声。声変わり前の少し高い声。そして、誰よりも聴いてきた筈の良く知る声。 場違いに感じるその呑気な声に柳田は思わず振り返った。 そこには一人の少年が居た。何の疑いもなく、澄んだ眼差しを向けている。 見上げる少年。そして、それを見下ろす女。 異様な程に口角を上げた悍ましい笑顔を貼り付けて、その細長い腕を少年目掛けて—————— 「何やってんだ! 逃げろっ‼︎」
寿楽荘、曰く憑きにつき〈7〉
————あれから榊原は柳田の身体に手にしたナイフの切先を突き立て、その先端を何度も何度も走らせていった。その度に切り裂かれた皮膚からは血が滲み、時にその赤い雫が飛び散った。 失血死にならぬようギリギリのラインで薄く刃を入れては苦痛に歪む柳田の表情を見て舌舐めずりをしながら悦に浸る。 もうかれこれ十数回、同じ事を繰り返され、柳田の上半身は既に傷だらけになっていた。 ほんの五分、十分の出来事の筈なのに、柳田にはそれが何時間にも引き延ばされている感覚で気が遠くなりそうだった。 「も・・・ もう止めてくれ・・・」 弱々しく懇願する。傷口がズキズキと疼いた。 「綺麗な身体を傷物にされた気分はどうですか? 薄く切られると傷口が痛痒いでしょう? ふふ、今回はいつも以上に時間を掛けようと思ってるんですよ。あなたはね、まさにフランス料理で言うところのスペシャリテだ。普段より繊細に、丁寧に、たっぷりと時間を掛けて少しずつバラしていきますから。きっと柳田さんも驚かれますよ。〝ここまでバラされても人間は生きていられるのか〟・・・とね。そして————」 〝ドンッ!〟と言う音がした。一瞬何が起きたのか理解が出来なかった。次の瞬間————— 「———っがああぁぁぁぁぁぁぁあああああっ!!!」 耳を劈くような絶叫が室内に木霊した。 「ああ・・・その声が聞きたかった。やはりあなたは良い声で鳴いてくれる」 「う、ぐっ・・・ううっ・・・」 柳田の内腿に深く深くナイフが突き刺さっている。ナイフの刃はその下の畳をも貫いて更にその下の置き床にまで到達していた。 「これを引き抜いたら出血多量ですね。まあ、まだ死なせませんから安心して下さい」 榊原は止血の為、持っていたロープを柳田の脚の付け根に巻き付けると凄まじい力で締め上げた。血流が止められてあっと言う間に太腿は鬱血し、股関節がギリギリと悲鳴を上げる。それらの痛みから悲痛な声が漏れ、顔を歪ませ苦悶の表情を浮かべている。その顔は吹き出した汗や涙でぐしゃぐしゃになっていた。 「良し良し、これで大丈夫・・・っと」 そう言うと榊原は脚に突き刺さったナイフを勢い良く引き抜いた。ロープで堰き止められて行き場を失くした血液が傷口から溢れ出す。 「——————っ‼︎」 「ははは、あまりに痛いと声も出ないでしょう? このナイフはね、私のお気に入りなんですよ。切れ味もさる事ながら、このブレード上部に付いたセレーションがポイントでね。元々はロープなんかを切る為の鋸みたいな物なんですけどね。こうやって突き刺した後に引き抜くと、このギザギザが良い具合に中を削いでくれて相手を更に苦しめられるって寸法ですよ。ね? 最高だと思いませんか?」 榊原は嬉々として語る。そして、視線をまた脚へと移すと、今度は柳田の脹脛に躊躇いもなく全く同じ事をしてみせる。 強烈な痛みと共に貫かれた床がまた鈍い音を立てた。傷口から血が噴き出す。あまりの痛みに柳田は口から泡を吹き、身体は痙攣するように震えていた。 「柳田さん、今度はゆっくり引き抜きますから、ざりざりと肉が削がれていく感覚を是非堪能してみて下さいよ」 榊原は腕時計に視線を落とすと秒針の動きに合わせてゆっくりとナイフを動かしていった。時折、抜いたナイフを悪戯に挿し入れ直してはまた引き抜く動作を繰り返し、苦痛の時間を何倍にも長引かせている。柳田は何度も往来する痛みに悶え、食い縛った歯茎からは血が滲み、それが唇の端から滴り落ちる。 それは・・・・・・あまりにも惨い光景だった。 失血により意識が遠のいたかと思えば、痛みにより強制的に覚醒させられる。それを何度も、何度も繰り返された。 たっぷり時間を使ってやっとナイフを引き抜くと、また傷口から血液が溢れ出す。痙攣するように小刻みに脚が震えていた。 「えーと、何処にやったかな? ・・・・・・あっ、あったあった」 そう言って取り出したのは一本の缶のような物だった。 「・・・・・・そ・・・それ・・・って」 榊原はにやりと下卑た笑いを見せる。 榊原が手にしたそれは————トーチバーナーだった。 ガス缶にガストーチを取り付けただけの簡易的な物だが、それでも噴出する外炎の温度は一五〇〇度以上にもなる代物だ。 指先でトーチの調整ねじをゆっくりと回していく。缶内部のガスがシューッと音を立てて漏れ出した。その間も視線は柳田を凝視したまま。 そして、またにやりと口角を釣り上げたかと思った次の瞬間、トーチの先端から勢い良く青い炎が噴き上がった。 これで一体何を・・・・・・いや、聞かずとも分かる筈だ。この場においてバーナーを使う理由は————ひとつしかない。 榊原は何も言わず、魅入られたかのように噴出する炎をただじっと眺めていた。 「・・・お、おい・・・や、止めろ・・・よ?」 ゆっくりと下から舐め上げる視線。炎を噴き上げるトーチバーナーを柳田にゆっくり近付けていった。 「さ、榊原! 頼むから‼︎ こ、これ以上は———」 そう言い掛けた時、榊原の手が柳田の脚をガシッと掴んだ。 「———————っっっ‼︎」 大きく目を見開き、天井を仰ぎ見る。柳田は声にならない声を上げた。 轟々と噴き上がる炎が自身の皮膚を、肉を焼いていく。体感した事のない感覚。もはや痛いのか熱いのかも分からない。 高温の炎によって表面の水分は一瞬で沸騰し、患部からは白い煙が立ち昇る。ジュウジュウと厭な音が聞こえてくる。一瞬で白くなった皮膚は捲り上がり、そして段々と黒く焼け焦げていく様は信じられない光景だった。 狭い室内は焼け焦げた不快な臭いで充たされていく。 頭がおかしくなりそうだ。いや、もう既におかしくなっているのかも知れない。頭の中までもうぐちゃぐちゃだ。何が何だか分からない。声にならない声で発狂しながら柳田は大粒の涙を流していた。 「うーん、こんなものですかね」 榊原は手にしたトーチバーナーを柳田から離すと慣れた手つきで栓を閉めた。 焼いた患部に顔を近付けてまじまじと観察する。 「うんうん、血は止まりましたね。これなら大丈夫そうだ」 何が大丈夫だと言うのだろうか? 傷口は焼け爛れ、もう何が何だか分からない状態だった。 脚を貫く大きな傷口の所為で炎は表面だけでなく、脚の内部までも焼き上げている事だろう。 「ではまた、続きといきましょうか」 床に置いたナイフを手にするとその切先を柳田へと向ける。今度は何処を切ってやろうか? そうやって品定めをするようにゆっくりとナイフを手の中で遊ばせながら狙いを定めていく。 「んん?」 榊原は唸るような声を上げると、怪訝な顔をして俯く柳田の顔を覗き込んだ。 「柳田さん? 起きてますか?」 ナイフの腹でペチペチと柳田の頬を軽く叩いた。 しかし、反応がない。 柳田は無表情のまま、ぴくりとも動かない。その目は焦点が合っておらず、まるで抜け殻のようだった。 榊原は舌打ちをすると、ナイフの先端を柳田の頬へと走らせる。頬からは血が流れるが、それでも反応がない。 そんな柳田を見て榊原はまた舌打ちをした。 「柳田さん、この程度の事でギブアップですか? 死ぬのも、壊れるのもまだ早いですよ。お楽しみはこれからじゃないですか」 その言葉に柳田は僅かに視線を動かした。 意識はまだ辛うじて残っているようだ。だが、まるで夢の中にいるようで頭は酷くぼんやりとしていた。これは人間に備わった防衛本能による感覚の遮断なのか、それとも単なる現実逃避か、それとも・・・・・・心が壊れ始めてしまったのだろうか。 視界が歪み、まるでフィルターが掛かったようだ。近くで喋り続けている榊原の声もまるで水中で聞いているみたいではっきりとは聞こえない。 「はあ・・・何ですかその体たらくは」 突然、左頬に強烈な張り手を見舞われる。 「柳田さんにはがっかりですよ」 今度は右頬を思い切り叩かれる。 「あなたならもっと私を愉しませてくれると思っていたのに」 今度は連続で左、右と叩かれる。そうやって一言言う度に力任せに叩かれ、熱くなった頬は赤く腫れ上がっていた。 そして、項垂れた様子で榊原は深い溜め息を吐いた。その目は失望の色を映している。 「・・・・・・これはね、私とあなたの共同作業で行う立派な芸術なんですよ? 私があなたをギリギリで生かしたまま徹底的にバラしていく。そこにあなたは恐怖に染まった苦悶の表情を華として添えるんですよ。そして、絶命するその瞬間まで恐怖に泣き喚き、私に許しを懇願する。勿論、私は拷問の手を緩めません。あなたは無様な姿を曝しながら絶望の中で悲鳴と言う音楽を奏でるんだ」 肩に置かれた指に力が込められて指が痛いくらいに食い込んでいる。暫くの沈黙の後、項垂れた榊原はその両の目を開いて柳田を見据えるように面を上げた。そして、まるでダムが決壊したかのように抑えていた感情を露わにし始めた。 「・・・それで、それで・・・それでやっと至高の芸術が完成する———はずだったのにっ!!! あなたには失望ですよっ‼︎」 その表情は鬼の形相へと変貌し、咆哮の如く声を荒げる。そして執拗に床を踏みしだき何度となく地団駄を踏んだ。激しい地団駄に地面が僅かに揺れ、畳には目で分かるくらいの足跡が付いていた。 「ああ! 許せない許せない許せないっ‼︎」 再び声を荒げる。それはまるで自分の思惑通りにならず激昂する子供そのもので。感情に任せ湧き起こる怒りを狂ったように暴れる事でギリギリ己を保っているようだった。 しかし、柳田は意識が半分微睡んでいる所為なのか、その状態の榊原を見ながらも、覇気のない表情を榊原へと向けるだけで、それがまた榊原の逆鱗に触れた。 「何だその顔は⁉︎ 俺を哀れでるのか⁉︎ お前なんかが芸術家を気取るなって心の中で笑ってるんだろう⁉︎ お前も・・・お前も母さんも俺を嘲笑ってるんだ! 誰も俺を理解しちゃくれないっ‼︎」 気が触れたみたいだった。言ってる事は支離滅裂で一人称も滅茶苦茶だ。その場に膝を突くと爪を立てて自身の頭を力一杯掻き毟った。伸びた爪が肌に食い込み頭皮からは血が滲む。 「あぁあ・・・あああ・・・ああぁぁぁああああ!!!」 その光景をただじっと見ていた柳田は薄れる意識の中であの夢の中の少年とその母親の事を思い出していた。 何故あんな夢を見たのか柳田自身にも分からない。けれど、不思議と確信があった。 あの少年は・・・・・・きっと榊原自身なのだと。 断片的な映像だった。だからあの夢の真意は定かではない。ただ、あの少年は幼い頃から何処か屈折していたように思う。 ウスバカゲロウを蹂躙し、愉悦を、ある種の快感を感じていた少年。 夢の最後に見たあのぬいぐるみ———ではなく縊り殺した動物の亡骸をまるで玩具を扱うように乱雑に弄んでいた。 あの頃から既に今の榊原は出来上がっていたのだ。 柳田の憶測でしかないが、もしかしたら・・・・・・榊原はあの夢の中に居た母親さえもその手に————のではないだろうか。 その時、柳田の目は有り得ないものを映し出した。それは榊原の背後に見えた黒い影。 「あっ・・・ああ・・・」 柳田の顔が見る見る内に青褪めていく。先程まで覇気のなかったその顔は恐怖の色に染まっていた。 「お・・・お前・・・な、何で・・・」 吐き出されたその言葉は————榊原の背後に居る何かに向かって投げられている。 その様子に気が付き、榊原はまるで後光が差したかのように歓喜の表情を浮かべると、思わず喜びの声を漏らした。 「あっは・・・何だ・・・まだそんな表情が出来るんじゃないですかっ。勿体ぶるなんて柳田さんも人が悪いなあ」 床に置いたナイフをまた手に取ると、喜びに打ち震えながら柳田の上にゆっくりと覆い被さった。天井を仰ぎ見る形となった柳田の目の前には卑しく笑う榊原の顔がある。戦慄する柳田の表情に益々自身を滾らせて今日一番の笑みを見せているが、柳田の視線は榊原を見てはいなかった。目の前に迫る殺人鬼の恐怖、拷問により痛め付けられた恐怖。それらを上回る得体の知れない恐怖が柳田の目を釘付けにして離さなかった。 「さあさあ、それじゃあまた続きを二人で愉しみま————」 そう言い掛けた時、背後の黒い影が突然榊原に覆い被さる。 「———な⁉︎ な、何だお前っ⁉︎」 羽交い締めするように腕をぎりぎりと上半身に絡ませ締め上げていく。それを受けて驚いた表情で振り返った榊原の顔をぎょろりとした気持ちの悪い眼でじっと凝視している。 「そ、そんな馬鹿な・・・。お、お前はさっき殺したはずだろ⁉︎」 そう、確かに死んだはずだ。だが、そこに居るのは紛れもなく殺したはずのあの女だ。 ナイフは首元から鎖骨を抜けて心臓に向かって奥深くまで、何度も何度も突き刺されていた。仮に心臓が無事だったとしても、あれだけズタズタにされたのだ。肺が無事であるはずがない。何より、あれだけ大量の出血で生きているとは到底思えなかった。 しかし、首から下を真っ赤な血で染め上げながらも、女は何事もなかったように悠然と立ち上がり、あの榊原を有り得ない程の力で締め付けている。 女はその細長い腕をゆっくりと動かすと、これまた細く長い指を榊原の顔へと伸ばし、そのまま力強く頬の辺りを掴んだ。 あの細腕の一体何処にあれだけの力があると言うのか? 女の指が榊原の顔にこれでもかと減り込み、榊原の顔はまるでムンクの叫びのように歪んでいる。 「———あっ、がっ・・・・・・はな、せっ」 何とか抵抗しようと試みるが、どれだけもがいてもびくともしない。背後から掴み掛かる女は自身の方に顔を向けさせようと凄まじい力で榊原の顔を捻っていく。ギリギリと榊原の首が悲鳴を上げていた。 「や、やめっ———たの——からっ」 懇願するように悲痛な声を絞り出したが、女の耳には届いていないのか、生気を感じさせないその顔は無表情を見せたまま、掴んだその手は躊躇う事なく更に榊原の首を捻り込んでいった。 どんどん捻れていく首は少しずつ有り得えない方向に向かって曲げられていく。それを見て柳田も恐怖からカチカチと奥歯を鳴らしていた。あれだけ狂気に溢れた男だったのに、今や得体の知れない存在によって逆に榊原が恐怖に飲まれていた。 「ずび、ばぜ———じだっ・・・ゆる・・・じで———」 柳田は思わず目を伏せた。しかし、その耳ははっきりと捉えていた。首の骨が捻り折られた鈍い音を。その音を聞いてびくりと身体を震わした。 一体どうなってしまったのか・・・・・・柳田は恐る恐る瞼を開いていくと、そこには頭だけが不自然に真後ろを向いている榊原の姿があった。 そして、突っ伏すようにどさりと倒れ込んだ榊原は恐怖に慄いた顔だけを天井に向けている。そこには既に命の火は灯っておらず、骸だけが床の上に横たわっていた。 柳田は呆然とした様子で榊原の顔をただじっと見詰めている。 自分を殺そうとした男はもう死んだのだ。助かったはずだ。 だが、柳田の恐怖はなくなるどころか増す一方だった。 視界の端に骨と皮ばかりの足が見える。「見てはいけない」と何処かで思いながらも視線を逸らす事が出来ない。 爪先から足の甲を辿り、足首を通って脹脛へ。そのまま視線は上へ上へと誘われるように流れていく。 (絶対見ちゃ駄目だ・・・・・・駄目だってのに・・・何でっ————) 下半身から上半身へ。血塗れのワンピースをその目に映し、更に視線は昇っていった。視線も逸らせない。ならばと瞼を閉じようとするがどう言う訳か目を瞑る事も出来なかった。 自身の身体にも関わらず、まるで自分の身体ではないみたいだ。己の意思に反して操り人形の如く視線は動き続ける。 視線は胸元を映し出し、鎖骨を視界に捉え、首筋を辿り、そして———ぐしゃぐしゃに潰れたその顔で、柳田をただただじっと見詰めていた女はそこで初めて・・・・・・笑った。 意識が途切れる直前、柳田の脳裏に言葉が浮かぶ。 ————アレハ・・・人ノ形ヲシタ何カダ・・・・・・
寿楽荘、曰く憑きにつき〈6〉
「——————⁉︎」 柳田は視界に飛び込んで来たそれを見て絶句した。 中から出て来たのは————男の生首だった。 苦悶の表情を浮かべたまま固まっている。死後、どれだけ時間が経過しているのか、腐敗が進み肌は黒く変色している。表面の皮膚は乾燥が進み痛々しく罅割れていた。切断された首元や顔面に存在する孔からは血液ではなく腐敗汁が溢れていて、そこに大量の蛆が蠢いているのが確認出来た。 今まで嗅いでいた臭いの正体はこれだったのだ。 「うぷっっ———おえぇっ‼︎」 更に強まる腐敗臭が呼吸の度に嗅覚を刺激し、柳田は遂に堪え切れず、逆流する胃液と共に胃の中身をその場にぶち撒けると、堰を切ったように何度も何度も胃の中が空になるまで吐き続けた。自身の吐いた吐瀉物が畳の上に広がる。 「ああ〜あ・・・・・・やっちゃいましたねえ。他人様の家で吐くなんて全く躾がなってませんねえ、柳田さんは」 「・・・な、なな何だよこれ⁉︎」 何度も吐き散らかし口許が自身の胃液で汚れる。喉が焼け付くように痛い。散々吐いた後、柳田はその恐怖から逃げ出したい一心でとにかく無我夢中になってのたうち回った。 紐がどんどん皮膚に食い込んで手首や足首の皮膚が擦れ血が滲む。後ろ手で縛られた肩がギシギシと軋んだ。 だがそんな事を気にしている余裕はなかった。必死の形相で振り解こうと力一杯身体をバタつかせ、ソレから少しでも離れようとひたすらもがき続けた。 「そんな逃げようとしないで下さいよ。顔を見て逃げるなんて失礼ですよ?」 榊原は転がる生首をひょいっと持ち上げると柳田の眼前に押し付けるように向かい合わせた。 ボタボタと腐敗汁と蛆が畳の上に零れ落ちる。 「ひ、ひぃぃいい‼︎」 怖気を走らせ悲鳴と共に柳田は嗚咽を漏らした。 「僕ノ顔ヲ見テ逃ゲルナンテ、オ兄サン酷イジャナイカァ〜」 そんな柳田とは対照的に榊原は手に持った生首を動かしながら、声色を変えて陽気に腹話術の真似事をしてみせる。 「ほら、この人もそう言ってますよ〜?」 まるで子供だ。子供ように寸劇を披露する。表情と手にした物があまりにちぐはぐで、無邪気に笑う榊原に戦慄を覚えた。強引に突き付けられた生首と目が合う。目が合ったと言ってもその両の眼球は抉り取られていて、窪んだ眼窩には真っ黒な闇がぽっかりと二つあるだけだ。 ・・・・・・これが精巧に作られたドールの頭だった———とかであればどんなに良かった事か。だが、こんな至近距離で見紛うはずもない。これは確かに人間の———ある時までは息をし、笑い、動いていたはずの・・・・・・生きていた人間だ。 「や、止めてくれ! 頼むからもう帰してくれよ‼︎」 柳田は見るに堪え兼ねて損壊した生首から目を逸らした。 「んー? はは、何を馬鹿な事を。帰れる訳がないでしょう? だって袋の中身、見たじゃないですか」 その言葉に柳田は目を丸くする。 「———な、何だよそれ⁉︎ アンタが勝手に見せて来たんだろ⁉︎」 「あれえ? そうでしたっけ? まあ、理由なんてどうでも良いんですよ。あなたが見ていようがいまいが、あなたはもう知ってしまったんですから」 「ふざけんなっ! そっちの勘違いで殺されてたまるかよ‼︎」 「まあまあ、そんなに怒らないで。遅かれ早かれあなたが死ぬ事は決まっていた事なんですから。それがほんの少し早まっただけですよ。寧ろ良かったじゃないですか。ダラダラと長い期間を掛けて精神が摩耗する前に潔く殺して差し上げるんですから。感謝して欲しいくらいですよ?」 榊原は宥めるように柳田の肩を軽く叩いた。その表情は微笑みを讃えていて、まるで子供を嗜めるみたいだ。この状況で何故こんな純粋な笑顔を浮かべられるのか。 きっと榊原はあの夢の中の少年と一緒なのだ。社会における善も悪も、世の中の常識も、倫理観も、人が当たり前に学んでいく事が榊原の中では大きく欠落している。 〝命〟に対する価値基準が全く違う。榊原にとって命とは重いとか軽いとかそう言う概念的な物ではなく、自分にとって有益かそうでないか・・・・・・ただそれだけなのだ。 夢の中の少年がウスバカゲロウを蹂躙したように。夢の最期に手にしていたあの動物————のように。 榊原にとっては人間の命も〝命〟と言う意味では等しく一緒で、自分にとって愉悦を、利を与えてくれるかどうか。それが全てなのだと柳田は悟った。 もう助からない。身動きが取れないこの状態で、武器を手にしたイカれた殺人鬼と密室の部屋に二人きり。誰も助けてはくれない。此処で自分の人生は終幕を迎えるんだ・・・と。 「さて。そろそろお喋りにも飽きましたし、もう良いですか? あなたはきっと良い声で鳴いてくれそうだ」 横たわる柳田を無理矢理起こすと、榊原は右手に握られたナイフの刃先を柳田へと向けた。 「・・・・・・簡単には死なないで下さいね? 私をたっぷり愉しませて下さい」 興奮した様子でその眼を血走らせ鼻息を荒くする。榊原が右手に力を込めナイフを大きく振りかぶったその瞬間———— 〝ガンガンガン‼︎〟 けたたましく大きな音を鳴らして、不意に玄関扉が叩かれた。 柳田の脚目掛けて振り下ろされたナイフはその先端が突き刺さる既の所でぴたりと止まる。・・・・・・間一髪だった。 「誰だ・・・? これからが良い所だってのに」 ドスを効かせた低い声が榊原の喉から発せられた。明らかに不愉快そうに顔を顰めている。口調も丁寧な言葉遣いからあの荒々しい物言いに変わっていた。 〝ガンガンガン‼︎〟 〝ガンガンガン‼︎〟 「うるせえなあ! 何処のどいつだっ‼︎」 執拗に鳴らされる音に榊原は益々苛立った様子で眉間に深い皺を刻むと、ドストスと床を踏みしだくように足音を立てながら玄関へと向かった。ドアスコープから外の様子を窺う。 「・・・何だよ、誰も居ねえじゃねえか」 首を傾げながら扉に背を向けて戻ろうとしたところで、また図ったように扉が叩かれた。 〝ガンガンガン‼︎〟 〝ガンガンガン‼︎〟 〝ガンガンガン‼︎〟 「おいおいおい! 誰だこらっ⁉︎ 悪戯も大概にしろよ‼︎」 扉越しに怒声を浴びせ掛け、内側から扉を強く蹴り上げる。 それを受けて音が一瞬ぴたりと止んだ。榊原は鼻を鳴らしてしてやったと言わんばかりの表情を見せるが、今度は・・・・・・ 〝ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンッ‼︎〟 更に勢いを付けて激しく叩き返して来た。凄まじいノックの応酬。扉を壊さんばかりの力で叩いている。その衝撃は凄まじく、一打毎に大きな音が室内に響き、まるで部屋全体が揺れているような錯覚を覚える程だった。 流石の榊原もこの異様な事態に|訝《いぶか》しげな眼差しを扉に向けていて、少し戸惑っている様子だった。 ・・・・・・一体誰が———と思ったが、柳田には覚えがあった。このイカれた叩き方は————一〇一号室のあの女ではないか? 昼間の出来事が頭を過ぎる。 昼間はあんなに恐ろしいと感じていたのに、困惑する榊原を見て、あの異常行動が今は救いの手にすら感じられた。 「何なんだよさっきから⁉︎ イライラするなぁ‼︎」 扉の向こうに居るであろう相手に向かって叫ぶように声を荒げる。しかし、答えは返って来ない。代わりに・・・ 〝ガンガンガン‼︎〟 ———ノックが返って来た。 榊原の顔は真っ赤である。顳顬に血管が浮かび上がる。そのまま血管が切れるんじゃないかと思うくらい頭に血が昇っているようだ。 「・・・ああ・・・駄目だ駄目だ駄目だ・・・もう駄目だ・・・僕の愉しみを邪魔する悪い奴は躾しないといけないじゃないか・・・」 声音が、口調が変わった。声帯を擦り合わせ絞り出されるノイジーな声。柔和な口調で丁寧に喋っていた時とも、怒りに任せドスを効かせ声を荒げていた時とも違う。 消え入るような静かなトーンにも関わらず、今までで一番狂気を含んでいる気がして、それを間近で見ていた柳田は額から汗を流しごくりと唾を飲んだ。 ナイフを握る榊原の右手に力が込められているのが見て取れた。その視線は扉に向けられている。 柳田の存在を忘れたかのように、扉に向かって何かをブツブツと呟いていた。ギリギリと親指の爪を歯噛みしながら、それはまるで怨念めいた呪詛を吐き出しているようだった。 「柳田さん」 ———その時、不意に榊原は後ろを振り返り、鋭い視線を柳田に向けた。 (—————⁉︎) 柳田の心臓はどきりと跳ねる。突然の事に口から心臓が飛び出すかと思った。 「・・・・・・な、何だよ」 「少し待っていて下さい。先にあの不届き者の対処をしてからバラしてあげますから」 そう言うと、柳田の答えを聞く事なく、また玄関の方に向き直り、榊原は身体を揺らしながらゆっくりと歩き出した。 その右手に握り込まれたナイフの先端が自然と扉越しに向かい合っているであろう来訪者に向けられていて、否応なく想像される惨劇に柳田の心臓は押し潰されそうになっていた。 〝ガンガンガン‼︎〟 〝ガンガンガン‼︎〟 激しいノックは休む事なく続いていた。時折、ドアノブをガチャガチャと回し強引に扉を引く音も鳴らされた。 「・・・はいはいはい。今出ますからそんなに慌てないで下さいよ」 低くくぐもった声でそう呟いた。 榊原はドアノブに手を掛けると、ナイフを握る力を強める。 「・・・・・・焦らなくても直ぐに殺してあげますから」 サムターンを回し解錠したと同時に勢い良く扉を開け広げた。 次の瞬間、相手の顔を確認する暇もなくナイフの先端を素早く相手の首筋へと突き立てた。 鈍い感触、血飛沫と共に呻くような声が漏れる。 執念深い榊原はナイフを引き抜くとまたその首筋目掛けてナイフを振り下ろした。何度も、何度も、何度もナイフを深く突き刺す。榊原の顔が、玄関の扉や床が噴き出した返り血でどんどん赤く染まっていった。 喉から鳴らされていたヒューヒューと漏れる空気の音が聞こえなくなった頃、相手は動かなくなり、そのまま榊原に抱き着くように凭れ掛かった。そのまま力なく崩れ落ちようとする身体を無造作に掴むと、榊原は室内の床に放り投げた。床を打つ音が鳴る。うつ伏せに倒れ、その首筋からは血が噴水ように噴き出していた。 柳田はその光景を一部始終見届けると、また込み上げる吐き気に嗚咽を漏らす。 間違いない。あの青白く細い腕。見覚えがある。やはり一〇一号室のあの女だった。佐和から聞いていた通り———と言っても首から溢れ出した血で赤く染め上げられてはいるが、元は白だったと思われるワンピースを纏っていた。長い黒髪が乱れて、その顔を覆い隠している為、顔は確認出来ない。 ナイフの先端からポタポタと赤い雫が滴り落ちる。返り血で血塗れになりながら榊原は満足そうに笑みを浮かべ柳田に視線を送った。 「はあ・・・これでやっとスッキリしました。後はあなたをバラすだけですね」 横たわる死体が見えていないみたいに無遠慮にその背を踏み付けながら榊原が近付いて来る。 「———く、来るなっ! 来るなって‼︎」 恐怖に染まる柳田の顔を見て榊原は益々愉悦の感情が湧き起こり、口の端をこれでもかと吊り上げて卑しく笑った。 「良い・・・良いですよ、柳田さん。その表情が見たかったんです」 榊原はゾクゾクと悶えるように身を捩る。 手を伸ばし、襟元から柳田のシャツを引き千切ると露わになったその胸元にナイフの先端をそっと突き立て肌の上を滑らせる。 胸元から腹部まで、その皮膚は切り裂かれ、傷口からは血が滲んだ。 「———がっ! ・・・や、やや止めてくれっ‼︎」 悲痛な叫び声を上げるもそれは榊原を更に興奮させる材料となるだけだった。 先程の傷と交わるようにまた切先を胸元から腹部に掛けて入れていく。今度は先程よりも深く挿し入れられて柳田の脳裏は痛みと恐怖に支配されていった。 「ああ・・・肉を裂いていく感触・・・・・・堪りませんね」 その言葉が頭の中を何度も反芻する。繰り返される痛みはこれから始まる絶望の始まりを・・・・・・告げていた。
寿楽荘、曰く憑きにつき〈5〉
————これは・・・夢、だろうか? それともいつかの記憶だろうか? 記憶を辿ってみてもそれに纏わる記憶の欠片は拾えなかった。 フィルター越しに見る風景。薄らと靄の掛かった視界。それは段々と鮮明になっていく。 「此処は・・・」 夕暮れ時の公園だ。柳田は見知らぬ公園の前に立っていた。遠くの方からは時刻を告げるチャイムが鳴っている。 人気のないその公園に目を向けると、使われなくなった遊具達が何処か寂しそうで。何とはなしに辺りを見渡してみると、砂場の端に幼い少年が背中を丸めてしゃがみ込んでいるのが見えた。 不規則に肩を揺らし、鼻を啜る音が聞こえる。少年は独りぼっちで泣いているみたいだった。両親とは・・・・・・逸れてしまったのだろうか? 柳田は少年に近付こうと試みるが、見えない壁に阻まれて近付く事は出来そうもない。せめて声を掛けようか。しかし、何故だか声が出せない。 どうしたものかと、ただ遠目から少年を眺めていると、突然、視界が歪み場面が切り替わる。そこもまた、見覚えのない場所で、今度はアパートの一角だった。寿楽荘を思わせる古びたアパート。寿楽荘よりも少し小さいだろうか。そこの二階へと続く階段の所にあの少年が座っているのが見えた。先程よりも少し大きくなっている気がする。 少年は退屈なのか、立ったり座ったりを何度も繰り返していた。黙ってその様子を見ていると、突然少年は何かに気が付いたみたいで、ふと足元に視線を落とす。その何かを少年はじっと観察していた。 暫くすると少年は————無表情のまま力いっぱいにその何かを踏み付けた。何度も、何度も踏み付ける動作を繰り返す。そして、執拗に足をグリグリと地面に押し付けている。 少年がゆっくりと足を上げると・・・・・・そこには見るも無惨な姿となったウスバカゲロウが地面に貼り付いていた。 身体は潰れ、脚や胴体が千切れて中からは黄色い体液がどろりと流れ出る。その光景に柳田は思わず顔を引き攣らせる。少年を見遣ると、口の端を吊り上げて恍惚の表情を浮かべているのが分かり、背筋がぞわりとした。 次の瞬間、頭の中にノイズが走り視界が揺れて大きく暗転する。また唐突に場面が切り替わった。 今度は・・・・・・何処かの部屋のようだ。玄関から入って直ぐ目の前は和室になっていて襖が開け広げられていた。 ドタドタと足音を響かせて室内を子供が走る。またあの少年だ。柳田の存在は見えていないようで、その手にはぬいぐるみが握られている。 突然、柳田の背後で玄関扉が開いた。振り向くと見知らぬ女性がスーパーのビニール袋を片手に立っていた。それを見て柳田は目を丸くして驚いていた。 女性の顔は上からモザイクを掛けたみたいにマジックで塗り潰されていて、その表情は良く分からない。口許が何とか確認出来る程度だ。この人は・・・・・・あの少年の母親なのだろうか? 柳田の事はやはり見えていないようで、女性は柳田を飛び越えて奥に居る少年に視線を向けているみたいだった。 緩んだ口許がワナワナと震えたかと思ったら、唇をキツく噛み締め始めた。そして、その場に荷物をどさりと落とすと、勢い良く少年の元へと駆け寄った。 柳田からすると突進されたみたいで一瞬身を強張らせたが、女性は柳田の身体をするりと擦り抜けた。身体を通り抜けられる初めての感覚に夢とは言え変な気持ち悪さを感じていると、背後で大きい声が発せられた。 「〝———————っ!!!〟」 女性は少年の肩を掴んで大きく揺すりながら咎めるように何かを叫ぶ。不思議な事に声は聞こえているはずなのに何を言ってるのかは理解出来ない。 言葉が違う・・・と言う訳ではない。耳に入った瞬間、記憶に留まらずそのまま言葉が抜け落ちている感覚と言うべきか。何とも説明し難い感覚に柳田は戸惑いを見せたが、言葉は分からずとも何かを怒っていると言うのだけは理解出来た。 少年は真顔のまま女性の顔を見詰める。あの少年は一体何を叱られているのだろうか? 少年自身もいまいち分かっていない気がする。 女性が大声で何かを捲し立てながら、少年の右手に握られていたぬいぐるみを頻りに指差している。あのぬいぐるみに何かあるのか? 柳田は玄関先からじっと目を凝らしてぬいぐるみを眺めてみた。 (あれは・・・まさか・・・) ぬいぐるみだと思っていたそれは・・・・・・動物の————— * * * ————そこで柳田は目を覚ました。 「・・・・・・うっ・・・あぁ、あっ・・・」 まだ頭がぼうっとする。ゆっくりと首を左右に巡らせてみるが視界が暗い。と言うよりも真っ暗で何も見えない。 此処は一体何処なのか。動こうとしてみたが両手足を縛られていて身じろぎ一つ取れなかった。 その時、少し離れた所から場違いな調子で不意に声が掛かる。 「ああ、やっと目が覚めましたか?」 「————⁉︎ さ、榊原⁉︎」 「はいはい、榊原ですよ」 姿は見えないがあの満面の笑みを浮かべているだろう事は声の調子から想像出来た。 「・・・・・・うぐっ————」 思い出したかのように酷い悪臭が柳田の鼻腔をこれでもかと刺激した。鼻を覆いたくとも両手が縛られている所為でそれを防ぐ事が出来ない。強烈な臭いによる拷問に柳田は顔をこれでもかと歪めていた。 「此処は・・・お前の———部屋かよっ?」 今にも吐きそうになりながらもそれを堪えて柳田はそう問い掛けた。 「おや? 良く分かりましたね? ああ、そう言えば夜中に来てましたもんね」 「・・・・・・気付いて・・・たのか?」 榊原は柳田の反応を見て大きな声で笑い出した。 「ははははは! これは傑作だ! 玄関先であんな大きな声を出しておいて気付かないとでも?〝こ、恐くなんかねえからな‼︎〟でしたっけ?」 小馬鹿にするように榊原は柳田の真似をしてみせる。 「お前の目的は何なんだよ⁉︎ つうかこれ解きやがれ‼︎」 ジタバタと捥いてみるが、固い紐のような物でキツく縛られていて踠く度に紐が肌に食い込み擦れた箇所が痛んだ。 「暴れたところで外れないでしょ? 私、こう見えて若い頃にボーイスカウトをやってましてね。ロープワークには自信があるんです。自力で外すのは不可能ですよ。・・・ああ、でも———」 ガザガサと言う音と共に近付いて来る足音が聞こえた。 姿は見えなくとも圧で分かる。手を伸ばせば触れられる距離にあの男が居る。視界が塞がれた中でも感じる強い視線は粘っこく肌に纏わりついて来るようだった。 柳田の首筋から全身に怖気が広がっていく。直ぐ耳の横であの男の囁く声が聞こえたからだ。生温い息が柳田の耳に掛かり、ぞわりと鳥肌が立った。 「まあ、目隠しくらいは取ってあげますよ」 目元を覆っていた布が解かれ、柳田はゆっくり瞼を開いた。徐々に視界が開けていく。明かりは榊原が手にする蝋燭の火しかなく、暗い事に変わりはなかったが、目隠しによって暗闇に目を慣らされていたお陰か室内の様子は窺い知る事が出来た。 視線を右へ左へ泳がせてみると、玄関同様、室内のあちらこちらに中身の詰まったゴミ袋が散らばっていた。 「さてさて、柳田さん。少しお話しをしましょうか」 蝋燭の火に照らされて暗闇に浮かび上がる榊原の顔はやはり笑顔を貼り付けているみたいで。緊迫した状況に柳田の背中はじっとりと汗ばんでいた。 「・・・何で・・・俺の名前を・・・?」 「あなたの事なら何でも知ってますよ? ———柳田悠介、二十八歳、結婚歴なし。SLD生命保険株式会社の営業課に所属するやり手の営業マン。東京の本社から異動を命じられてこちらの仙台支社に来たのが一ヶ月くらい前の事。合ってますよね?」 柳田は言葉を失った。何故そんな事まで知っているのか? 「マジで何なんだよ⁉︎ ストーカーかよ⁉︎」 それを聞いて榊原はまた大きな声で笑い出した。 「な、何がおかしいんだ!」 「ははははは‼︎ ・・・・・・いやあ、柳田さんは面白い事を仰いますねえ。私は男ですよ? そっちの気はありませんので」 「なら、何で・・・?」 「まあ、それが私の仕事ですから」 (・・・・・・・・・?) 「私はあの部屋の住人を監視する役を担ってましてね。時期を見てブローカーへとバラして引き渡す解体屋なんですよ」 「何を・・・・・・言ってるんだ?」 「此処はそう言う場所と言う事です」 柳田を見据えるように腰掛ける榊原は懐から取り出したナイフをその手の中でクルクルと弄んでいる。 「バラすって言うのは————」 そう言い掛けた時、榊原は柳田の喉元にナイフの先端を突き付けて言葉を制止する。 「そのままの意味ですよ。耳を削ぎ落とし、鼻を潰して、目玉を抉り出す。爪を剥いで手足の指を一本ずつ砕いては切り落とし、全身の皮膚を少しずつ丁寧に剥いでいく———あっ、失血死しないよう傷口を焼くのを忘れてはいけません。最終的には身体中の臓器を引き摺り出してさようならって事で。まあ、必要なのは内臓だけなので拷問するのは個人的な趣味ですがね」 榊原は恍惚の表情を浮かべながら愉悦に浸り悶えている。 「生きたまま人間をバラすにはそれなりに高い技術が必要なんですよ? 限界ギリギリまで生かしながらも時間を掛けて苦しみを与えていく。痛みと恐怖に泣き叫び、苦痛に顔を歪ませる様を見るのはそれはもう甘美で至福のひと時です・・・あまりの興奮に滾ってしまう程ですよ」 ゾクゾクと身を震わせたかと思うと、突如、手にしたナイフの先端を柳田の頬に素早く走らせた。良く磨がれたそのナイフは凄まじい切れ味で、殆ど抵抗感なく柳田の皮膚を、その下の肉を切り裂いた。真横に切り裂かれた傷口から血液が溢れ出す。 「———っがぁぁぁぁぁああああああああ‼︎」 突然の事に切られるまで気付かなかった。数瞬で激痛が走る。傷口が熱い。縛られていなければ痛みで転げ回っていたかも知れない。 「大袈裟ですねえ。ほんの一、二センチ切っただけじゃないですか。昨日もそうでしたが、あなたは本当に臆病で、その上痛がり屋さんなんですね」 ナイフの先端に付着した血液を榊原はその舌で掬い取るように舐め上げる。 何故こんな目に遭わなければいけないのか。何故自分なのか。自分が一体何をしたと言うのか。 何故何故何故———頭の中でそれらの疑問が繰り返し繰り返し湧き起こる。 「何で俺なんだよ!」 柳田は感情を爆発させるように叫んでいた。 「何故か・・・ですか。別にあなたである必要はなかったんですけどね。ほら、此処って辺鄙な場所でしょ? 周りには山ばかりで大して人も住んでいない。それにね、この寿楽荘に住もうなんて輩は得てして訳有りの人物が多いんですよ。借金取りに追われて逃げるように越して来た人物とか、何かしら犯罪歴があるとか・・・ね。まあ、普通の人間はこんな怪しいボロアパートに住もうなんて思わないですから。だからですかね。孤立無縁な人とか病んでる人が多くて何かと都合が良いんですよ。居なくなっても誰も気付かない人ばかりでしたし、表向きは〝失踪〟と言う事にして上手い事処理しますからこちらとしては簡単で助かると言うものです」 それを聞いて、佐和の友人の事を思い出した。失踪した友人・・・それはつまりこの男に殺されてしまったと言う事ではないだろうか? あの騒音問題もこの男が仕掛けた嫌がらせの一環だったのかも知れない。色々な事情を抱えて此処から離れるに離れられない住人達を追い詰めて最後には————と言う事か。 そう上手く事が運ぶとも思えないが、この男の単独犯とは到底思えない。後ろ暗い連中が組織ぐるみで関わっているのは間違いない。 「いやあ、本当なら柳田さんをバラすのはもう少し先の予定だったんですがね。あなたが好奇心に任せてこの部屋を覗くから予定を早めるしかなくなってしまったんですよ。大人しく暮らしていればまだもう少し長生き出来たと言うのに。やれやれ———とはきっとこう言う時に言うんでしょうね」 「だ、だったら! だったらアンタの勘違いだ! 確かに昨日、ドアの隙間から覗いたが暗くて何も見えなかったんだ! 嘘じゃない! 信じてくれ‼︎」 「成る程。本当ですか? 本当に何も見てない?」 榊原は此処に来て真顔になった。あの無感情を思わせる表情だ。その表情をグイッと間近に寄せて柳田の顔をじっと覗き込む。カッと見開かれたその目は柳田の双眸を射抜かんばかりの圧があった。 「ほ、本当だ! 何も見てないんだって! 頼むから助けてくれ!」 必死に柳田は訴え掛けた。助かる可能性が少しでもあるなら、頭でも何でも下げられる物は下げるし、命乞いでも何でもするつもりでいた。 それでも懇願する柳田を無表情のまま見詰める榊原は手にしたナイフを横たわる柳田の眼前に突き立てた。〝ドスン!〟と言う鈍い音を立てて畳にナイフの先端がザクリと突き刺さる。柳田は思わず「ひぃい!」と恐怖から声を上げた。 「玄関先にあった袋も?」 〝ザリザリザリ・・・〟と畳をゆっくり引き裂きながらナイフの刃先を柳田の顔に向かって進めて行く。 「ふ、袋は確かに見た! でもそれだけだ! ただのゴミ袋だろ⁉︎」 「中身は?」 〝ザリザリザリ・・・〟ナイフの進行は止まらない。まるで死へのカウントダウンだ。 「み、みみ見てない! それは本当だ! 何が入ってたかなんて知らないっ‼︎」 「ほんとーに? 私、嘘は嫌いなんですよ」 〝ザリザリザリ・・・〟———五ミリ・・・四ミリ・・・三ミリ・・・二ミリ・・・後・・・一ミリ・・・・・・ 。 「本当だっ‼︎ 嘘なんて吐いてない‼︎」 もう駄目だ! そう思った瞬間、鼻先に触れるギリギリのところでナイフは止まった。 「そこまで言うなら信じましょう♫」 突き立てたナイフを引き抜くと、榊原は仮面を着けるようにまたあの笑顔に戻った。 「ああ・・・因みにですね———」 榊原は玄関の方へと歩き出すと、直ぐ様ゴミ袋を持って戻って来た。それを柳田の目の前に放り投げる。 無造作に放り投げられたゴミ袋は随分と重量を感じさせる音を立てた。生ゴミをパンパンに詰め込んでいるのか、ずっと放置されていたと思われるそれを乱暴に置いた事で袋の破れが広がり中から更にキツい臭いが吹き出した。鼻先に感じる悪臭に胃の内容物が迫り上がって来るのを感じて必死に堪えている。 その光景を楽しそうに眺めていた榊原は今度は袋に向かってナイフを振り下ろした。表面のビニールを突き破ると中で何か固い物に刺さったような鈍い音が柳田の耳に届く。 そして、榊原は柳田に見えるようにゆっくりと切れ目を広げていく。 次の瞬間————何かがゴトリと・・・転がり落ちた。
寿楽荘、曰く憑きにつき〈4〉
夕暮れ時、柳田は一度、荷物を取りに自宅に戻っていた。 あんな恐ろしい事があっては流石に一人で家には居られない。とは言え暫くホテル暮らしが出来る程の経済的余裕は柳田にはなかった。 そこで、柳田は溝口に暫く泊めてもらえないかと藁にも縋る思いで頭を下げたのだった。 気心の知れた仲とは言え、同僚にそんなお願いをするのは流石に気が引けたが、事情が事情だけに溝口も快くそれを受け入れてくれた。 「無事引っ越しが終わって問題がちゃんと解決したら、叙々苑の焼肉くらいは奢れよ〜?」 それも柳田が変に気を遣わないようにと言う溝口なりの配慮なのかも知れない。軽薄でいい加減な所もあるが、その実、情に熱く仲間想いな男なのである。出会ってからまだ一ヶ月程度の付き合いだと言うのに、それでもこうして手を差し伸べてフォローしてくれる溝口に柳田は感謝しても仕切れない思いで一杯だった。 取り敢えず一週間分の着替えを含め荷物を纏めていく。その時、ふと上階の事が気になり柳田は作業の手を止めて天井を仰ぎ見た。 あの後も佐和から色々な話しを聞かせてもらったが、二〇二号室の住人についてはこれと言った情報は得られなかった。まだ分からない事だらけではあるが、両隣りの住人については朧げながらも輪郭を掴めて来た気もする。けれど、二〇二号室の住人に関しては未だ多くの謎に包まれていた。 やたら小綺麗に清掃された玄関前。かと思えば生ゴミを溜め込んで悪臭に包まれた室内。そして毎週日曜日になると鳴らされる激しい地団駄。あの部屋に入る・・・とまでは言わないが、せめて中の様子を確認出来れば。或いはせめてあの部屋の住人に会う事が出来れば何か分かるのではないか? そこで柳田は思い直した。そんな事は自分がやるべき事ではない———と。避けられるはずの問題に自ら首を突っ込んで行くなど馬鹿のやる事だ。そう思いながらも心の奥底に何か引っ掛かるような感覚が頭から離れない。自分が思っている以上にお酒が回っているのかも知れない。 「・・・はあ、何を訳分かんねえ事考えてるんだか」 出張用のキャリーケースに最後の荷物を詰めると、 「良し、準備完了! これで暫く寿楽荘とはおさらばだ!」 気持ちを入れ替えて家を出ようと玄関の方を向いた時、それは鳴らされた。 〝コンコン〟 突然の事に心臓がドキリと音を立てる。 〝コンコンコンッ〟 また玄関扉が叩かれた。今度は先程よりも強く。まさかまた一〇一号室の・・・・・・? 「すみませーん。いらっしゃいますかー?」 どうやら違ったらしい。柳田は気が抜けたようにその場にへたり込んでしまった。 「突然お伺いしてすみません。あの・・・いらっしゃいますよね?」 玄関扉を挟んでまたそう問い掛ける声。若い男性を思わせる声だったが、その声に聞き覚えはなかった。 「あっ、はい。何でしょうか?」 「ああ、良かった。ちゃんといらっしゃったんですね。近隣の者なんですが、昼間の騒ぎが気になってしまって。先程お伺いした時はお留守のようでしたので出直して来たんですが。良ければお話しを聞かせて頂けませんか?」 隣の女が押し入ろうとしていた時の事を言っているのだろう。あの時は柳田も気が動転していて近隣に配慮をするような余裕がなかった。それを近隣住民の方に聞かれていたようだ。 それにしても、イカれた住人を見過ぎている所為か、今訪ねて来ている相手も知らない相手だと言う事に変わりはないのだが、その物腰柔らかな声の調子に柳田は少し安心感を覚えていた。 「ああ、分かりました。すみません、今開けますので」 柳田はそう言うと何の躊躇いもなく扉を開けた。扉の隙間から室内に西日が差し込んでいく。そこに立っていたのは・・・ 「いやあ、いきなり押し掛けて申し訳ないですね」 手を後ろ手で組みながら満面の笑みを浮かべて立つ中肉中背の男だった。声の感じから若い男性を想像していたが、実際に見てみると三十代半ばからもう少し上くらい。少なくとも男は柳田よりは歳上のように見えた。 「あっ、いえ。昼間の件ですよね? こちらこそお騒がせしたみたいで申し訳ありませんでした」 柳田はドアノブに手を掛けたまま、そう言って頭を下げた。 「いえいえ! そんなお気になさらずに! それより大丈夫だったんですか? 怒鳴り声を上げているようでしたので」 「ちょっとしたトラブルがありまして。ご迷惑をお掛けしてしまいましたよね。えーと・・・?」 「榊原です」 「榊原さんですね。以後気を付けますので。本当にすみませんでした」 「そんな何度も謝らなくて大丈夫ですよ。それよりもトラブルですか。それは災難でしたね」 そう言いながらも榊原と名乗る男は目尻に皺を寄せて口の端をめいいっぱい吊り上げるその表情を崩さない。 「一体何があったんでしょうか? 詳しくお伺いしても宜しいですか?」 丁寧な口調で紳士的な男だと思いきや、初対面にも関わらず随分とグイグイ来る男だなと柳田は思った。 「・・・まあ、近隣問題と言いますか」 「近隣問題! それは住人同士のトラブルでしょうか? いやあ、恐いですね。恐い恐い」 自身の身体を抱き締めて大袈裟に身体を左右に揺らす。勿論、表情は変わらず笑顔のまま。 「そ、そう・・・ですね。そんな感じです」 最初は人当たりの良さそうな人だと感じていた柳田も、段々と榊原の様子に違和感を覚え始めていた。 「何ですか? そんなぼかさなくても良いでしょう? 近隣問題なら私にとっても他人事ではありませんから。この辺に住む者同士、情報はしっかり共有しておかないと。ねえ?」 ツラツラとそれらしい言葉を並べ立てる榊原。物腰柔らかな口調はそのままなのに貼り付けたような笑顔も相まって、何だか背筋に薄ら寒いものを感じながら柳田は苦笑いを浮かべていた。 「ああ・・・確かにそうですね。———あっ、そうだ。急用を思い出しました。申し訳ないんですが、そろそろ出ないと間に合わないので、また今度ゆっくりお話しさせて下さい」 柳田は適当な理由を作ってその場を何とか切り上げようした。「それでは」と言って扉を閉めようとした瞬間、突然、ガッと扉に足を差し入れられた。 「いやいや、まだ話しの途中ですよ? ちょっとくらい大丈夫でしょう? ほんの数分で終わりますから」 榊原は扉の縁に手を掛けて強引に開けようと力任せに扉を引っ張る。 「———ちょ、ちょっと! いきなり何なんですか⁉︎ 急いでるって言ってるじゃないですか⁉︎ は、離して下さい!」 それでも榊原は緩める事なく指先に力を込めてグイグイと強引に扉を引いて来る。柳田もそれに負けじとドアノブを強く引っ張ったが榊原の力が予想以上に強く、グイッと引っ張られる度に扉の隙間が大きく開き、自分が引く事でまた扉の隙間が小さくなる。そんな押し問答が五分程続いただろうか? それなりに力には自信がある方だったが、全く相手にもなっていない。プルプルと腕が震えて段々とドアノブを握る力が抜けていく。そして次第に扉の隙間が広がって————埒が明かない、と柳田は一か八か、向こうが扉を引くタイミングに合わせて思い切って体当たりをぶちかました。 「——————⁉︎」 流石に相手も油断していたのか、急に押し開かれた扉に激突され榊原は数歩後ろに後退る。一瞬、蹌踉けながら顔を押さえている榊原の姿が見えた。今がチャンスとばかりに慌てながらも扉を閉めると直ぐにサムターンを回し施錠する。何とか間に合った。 〝ガンガンガン!〟 一〇一号室の住人が押し掛けて来た時と同様に力強く扉が叩かれた。 「おい! 開けろよ! 開けろって‼︎ おいっ‼︎」 榊原は先程までの柔和な口調から一転し、荒々しい口調になった。声もまるで別人ようにドスの効いた声に変わっている。 「開けろって言ってんのが聞こえねえのか⁉︎ なぁ、おいっ! そんな事しても無駄だ! 逃げられねえぞ!」 〝ガンガンガン‼︎〟 より強く、より激しく扉は打ち鳴らされた。今日は一体何て日なんだ。立て続けにこんな事が起こるなんて。 「そ、そうだ! 警察だ!」 柳田は急いでスマホを手を伸ばすと、震える手で一一〇番を押そうとするが焦りからか違うアプリを起動してしまう。 「ああもう! 違えよっ!」 もう一度通話のアプリを開き直し今度こそはと目的の番号をプッシュした。 〝トゥルルルルルル、トゥルルルルルル〟 コール音が鳴る。 (早く早く! 早く出てくれ!) 僅か数秒が途轍も無く長い時間に感じられた。背後に迫る恐怖。自身の家だと言うのに、まるで袋小路に追い詰められた鼠になった気分だ。生きた心地がしない。 「〝————はい、宮城県警察です。どうなさいましたか?〟」 繋がった! 柳田はこれで助かると安堵した———のも束の間だった。 〝カチャンッ。ガチャ・・・ギィィィイ・・・〟 背後で音が鳴る。そんな・・・馬鹿な・・・有り得ない。 柳田は頭が真っ白になり言葉を失っていた。 恐る恐るゆっくり振り返る。開いていく扉の隙間からあの笑顔が顔を覗かせる。 「〝もしもし? もしもし? イタズラですか?〟」 スマホのスピーカーから微かに声が漏れる。しかし、柳田は固まったままで反応出来ない。 通話口の向こうでまだ何かを言っていたようだが、ただの悪戯電話だと判断されたのか、そのまま通話は切られてしまった。 「言ったでしょう? 無駄だって」 土足のまま上がり込む榊原は膝から崩れ落ちている柳田の前まで来ると、大きく見開いた目で見下ろしていた。先程からずっとそうだった。不自然なくらいに満面の笑みを浮かべているのに、その目は全く笑っていなかった。 「・・・アンタ一体・・・誰なんだよ」 ガタガタと小刻みに身体を震わす柳田は弱々しくそう問い掛ける。 「私ですか? 先程名乗ったじゃないですか。榊原ですよ。二〇二号室のね」 その瞬間、脇腹に衝撃が走る。柳田は声ならぬ声を発して、痙攣するように身体を震わせるとその場に倒れ込んだ。 念には念を。追い討ちを掛けるように榊原はもう一度それを柳田の脇腹に押し当ててスイッチを入れる。 強烈な火花を散らし柳田の身体は打ち上げられた鯉のように身体を跳ねさせた。既に柳田の意識はない。 ずっと笑顔と言う名の仮面を着けていた榊原はここに来て初めて無表情になった。柳田の意識が失くなったからだろうか? その表情は温度を感じさせない全くの〝無〟である。瞬き一つする事なく、目の前の柳田をただただ観察するようなその眼差し。 榊原は倒れた柳田の足を掴むと無言のままズルズルと引き摺り柳田の部屋を後にした。 〝バタンッ!〟 扉の閉まる音が誰も居なくなった室内に反響していた。
寿楽荘、曰く憑きにつき〈3〉
「あったま痛えぇ・・・」 ガンガンする頭の痛みで柳田は目を覚ました。 あの後、コンビニでビールやら日本酒やらを大量に買い込むと、自宅から程近い公園のベンチで一人寂しく飲んでいた。 自棄酒の意味もあるのだが、それにしても飲み過ぎた。明け方、外が明るくなるまでの二時間足らずでビール缶を六本。日本酒を瓶で二本空けていた。酔うと独り言が多くなる柳田は、夜中誰も居ない公園で一人ブツブツ言いながら飲んだくれていた訳で、傍から見たら不審過ぎて通報案件である。 記憶があやふやで自宅までどうやって戻って来たのかは定かではないが自身の布団で寝ていたと言う事は無事何事もなく帰って来れたのだろう。柳田自身は酷い二日酔いでそんな事を考える余裕もなさそうだが。 柳田はガンガンと痛む頭を押さえながら、取り敢えずグラスに並々と水道水を注ぐと、それをグイッと一気に煽った。 ちらりと外に目をやると太陽は既に天辺を通り過ぎて少し西に傾き始めていた。 「せっかくの休みなのに寝過ぎたな・・・」 そう思ったその時、柳田のスマホが鳴り出した。 画面を見ると異動先の支店で仲良くなった同じ課の同僚、溝口からだった。休みの日に何の用事かと顔を顰めながらも柳田は直ぐに〝通話〟のボタンをタッチする。 「———はい、もしもし?」 「〝あっ、柳田? 俺おれ。今大丈夫?〟」 「何だ? オレオレ詐欺なら間に合ってるけど?」 「バレちまったか〜。これで大金ゲットだと———って違うわ!」 「冗談だよ。つか今起きたわ」 「〝何だよ、お前こんな時間まで寝てたの?〟」 ———もう十四時過ぎてるぞ、と溝口は笑った。 「例の騒音問題で色々あったんだよ。二日酔いで頭痛ぇ・・・」 「〝騒音問題と二日酔いに何の関係があんだよ(笑)〟」 と溝口に茶化すように突っ込まれ、柳田は面倒臭そうに「色々だよ」と答えた。 「んな事はどーでも良いけど、急に電話して来てどうしたんだ? 何か用事があったんじゃねえの?」 「〝そうそう、そうだった。今言ってた例の騒音問題だよ。それについて話しがあってさ。柳田、お前住んでるのってもしかして寿楽荘ってアパートの一〇二号室だったりする?〟」 「あ? 何で知ってんの? 教えたっけか?」 それを受けて溝口は「やっぱりそうか」と思わせ振りな言葉を口にする。 「〝いやな、実は今、経理部の佐和さんと一緒に居るんだよ。知ってるだろ? 佐和保奈美さん〟」 「そりゃ知ってるけど。何だ? 休みの日に我が社のマドンナとデートする関係なんですーって言う自慢か何かか?」 「〝そうそう、哀れな独身貴族の柳田くんに幸せのお裾分け♡ ———って、何度もツッコミ入れさすなっ! そう言うんじゃなくて。彼女なんだよ、寿楽荘の事教えてくれたの〟」 「・・・全然話しが見えねえーんだけど。うちのアパートがどうかしたのか?」 「〝いや、実はな————〟」 そこから溝口は順を追って説明してくれた。 柳田から自宅で起こる近隣問題の話しを聞いて、それをたまたま会社の同期達と飲んでる席で話した事。そして、その中に居た佐和が同じような話しを知っていると言い出して詳しく聞いてみたら彼女の友人の男性が昔この寿楽荘に住んでいて同じような被害を受けていたと言う事。 しかも、気になってネットの掲示板で情報を集めてみたところ、その問題は随分と前・・・・・・少なくとも十年以上前から起こっていた事で地元の人間にも聞いてみたら「あそこはヤバい」と有名なのだと言う。 「———それ、マジかよ? その此処に住んでたって言う佐和さんの友達はどうなったんだ?」 「〝うーん、もう何年も前の話しらしいけど、その人、ノイローゼになって病んじゃったらしいぜ? で、佐和さんが言うには・・・・・・〟」 そこまで言い掛けたところで溝口は言葉を切った。 「何だよ? 勿体ぶってないで言ってくれよ」 「———失踪しちまったらしい。行方は分からないけど急に音信不通になってその後どうなったのかは佐和さんも分からないって」 「・・・・・・・・・」 柳田は絶句した。自分が住んでいるこのアパートで失踪事件が起こっていたのだ。そんな事を聞かされれば気が気では無い。単に病んでしまった後に佐和と疎遠になっただけかも知れない。けれど、そうじゃないかも知れない。 原因となった例の騒音問題。近隣とのトラブルが原因で何らかの事件に巻き込まれたとしたら? 柳田にとって他人事ではなかった。 「〝おーい、柳田? 聞いてる?〟」 「あ、ああ・・・サンキューな、教えてくれて」 「礼なら俺じゃなくて佐和さんに言ってやれよ。この事を直ぐ伝えてあげてって言って来たの佐和さんなんだから」 「了解。そしたら今度ちゃんと伝えるわ。溝口の方からも宜しく伝えておいてくれ。———うん、うん、ああ、それじゃあまた連絡する」 通話を終える。スマホが握られたまま脱力するよう腕をだらりと下げ、柳田は暫く放心したようにその場で立ち尽くしていた。 昨日の出来事が思い出される。一〇一号室、一〇三号室、そして二〇二号室、どの住人も何かを抱えていて何を仕出かすか分からない危うさを持っていた。 「本格的に引っ越し先を探しておかないとヤバいかもな」 そう思ったその時。何処からか微かに声が聞こえた。それは耳を澄ませなければ聞き逃してしまう程の小さな小さな声だったが、確かに聞こえる。柳田は首を右へ左へと動かし音の出所を探った。 音を頼りに台所からリビング代わりに使っている和室へと向かう。手を耳に当て、もう一度、意識を耳に集中させる。やはりこっちから聞こえて来る。徐々に漏れ聞こえる声の輪郭が明瞭になっていった。柳田は壁の前に立って壁を見詰めている。 「・・・あのイカれた女の方か」 柳田はそっと壁に耳を当ててみる。すると、薄い壁を突き抜けてはっきりとした声が聞こえた。 「あらあら、タカシちゃん。そんな泣いてどうしたんでちゅかー? パパが恋しいんでちゅか?」 誰かに話し掛けているようだった。内容からして赤ん坊に話し掛けている感じだ。 「ああ、ああ、タカシちゃん! そんな泣いたらママ困っちゃいまちゅよー? タカシちゃんは甘えん坊さんでちゅねえ」 「あいつ、誰に話し掛けてんだ?」 柳田は訝しげな表情をする。これだけはっきりと女の声は聞こえて来ると言うのに、赤ん坊の泣き声は全く聞こえないのだ。薄気味悪さを感じて一歩退いた時、迂闊にも足元に転がっていた置き物を盛大に踏み付け思わず声が出てしまった。 「イッテェ—————ッ‼︎」 その瞬間、ずっと聞こえていた女の声がぴたりと止んだ。そして〝ダンッ!〟と壁を思い切り叩く音が鳴らされた。 「あなた、そこに居るのね⁉︎ そんな所で何をしてしてしてしてしてしてしてしてしてしてしてしてして————」 壊れたラジカセのように同じ言葉を繰り返す。 また〝ダンダンッ!〟と壁を叩く音。 「ほら、タカシちゃん? 良かったわねえ。パパが逢いに来てくれたわよ〜。うんうん、タカシちゃんもパパに逢えるから嬉しいのね!」 また甘ったるい喋り方で女は赤ん坊に話し掛けた。やはり赤ん坊の声は聞こえない。 「ねえ、あなた? ねえねえねえ? 聞こえてるんでしょ? 私達のタカシちゃんがこんな寂しい想いをしてるのにあなたは何をしているの? 早く逢いに来なさいよ、早く! 早く早く早く早く早く早く早く早く早くっ‼︎」 また壊れたラジカセだ。ヤバい奴だとは思っていたが想像以上だった。タカシちゃん? 私達の? あの女は何を言っているのか。柳田は一方的にぶつけられる言葉に戦慄し、言葉が出ない。 「あなたったら。本当に仕方のない人だわ。愛する妻と息子を蔑ろにするなんて」 壁越しに放たれるその言葉は柳田にとってはまるで呪詛そのもので、金縛りに遭ったように動けないでいた。もはやあの女が何を言っているのかすら理解出来なかった。 「あなたはどうしようもない人なのは昔からですから。大丈夫、安心して下さい。どんなにあなたが屑だとしても私は見捨てませんから」 女は姿の見えない柳田に言葉を投げ続ける。 「あなたが逢いに来ないなら・・・私から行きますね」 〝ガタガタッ〟と物が崩れ落ちたような物音があちらの部屋から聞こえて来た。柳田は飛び跳ねるようにして玄関に走った。〝ガチャッ〟っと扉を開く音が廊下の向こうから柳田の耳に届く。慌てて間一髪で鍵を掛けた次の瞬間、〝ガチャガチャガチャ!〟とドアノブを回して強引に扉を開けようとする音が鳴り出した。 〝ガンガンガン!〟 「あなた‼︎ 何で鍵掛けてるのよ⁉︎ 私よ! 私とタカシが逢いに来たのよ‼︎ ねえ⁉︎ 開けて! 開けなさいよ‼︎」 ヒステリーを起こしたように金切声で女は叫び続けた。 「お、お前なんか知らねえよ! だ、誰なんだよ⁉︎」 そこで初めて柳田は女に対し言葉を返した。 「頭おかしいんじゃねえのか⁉︎ 妻だ息子だって意味分かんねえーんだよ‼︎ 大体な————」 今まで溜め込んでいた不満がそこで一気に爆発し、柳田は言葉を機関銃の如く捲し立てた。思い付く限りの罵声を玄関の向こうにいる女に浴びせ掛ける。すると、 「・・・・・・酷い、酷いわ。私はこんなにもあなたを愛しているのに」 今度は咽び泣くようにして悲痛な声が。嗚咽しながら絞り出される弱々しい声に柳田も言葉が詰まる。 (何だよ、これじゃあ俺が悪者みたいじゃねえかよ!) 「良いの、良いのよ・・・あなたは心を病んでるの。可哀想な人なの。だから愛される事が怖いのよね? 怖がらないで? あなたには一生私が付いてるから」 駄目だ。まるで話しが通じない。一体この女は誰と間違えているのか? とても正気とは思えなかった。 「ね? だから此処を開けて?」 女は静かな口調でそう問い掛ける。当然、開ける訳もない。 すると、数秒の沈黙の後———— 〝ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンッ〟 扉を壊さんとする勢いで猛烈に叩く叩く叩く。 薄い木製の玄関扉がミシミシと悲鳴を上げている。 「何で分かってくれないの⁉︎ 開けて開けて開けてあけてあけてあけてあけてアケテアケテアケテアケテアケテェェェェ‼︎」 この世の物とは思えない声。扉を叩く音は次第に強くなり、まるで建物全体が揺れているような錯覚を起こさせた。 あまりの恐怖にカチカチと奥歯を鳴らしながら震えている。 「や、止めろ! 止めてくれ! 俺はアンタなんか知らない‼︎ 頼むから消えてくれえぇぇ‼︎」 その場に蹲りながら柳田は精一杯叫んだ。すると音は突然ぴたりと鳴り止んだ。 「・・・・・・・・・えっ?」 柳田は顔を上げて玄関に視線を向ける。扉越しに感じていた悍ましい気配が消え、辺りはまた静けさを取り戻していた。 恐る恐る玄関扉に近付き、覗き窓から外の様子を伺った。そこに人の影は映っていない。柳田は意を決し、思い切って扉を開いてみたが、そこには誰も居なかった。確かに玄関の前にあの女は居たはず。それにも関わらず、足音も隣の家の扉を開け閉めした音も一切なく、忽然とその場から消えていた。 「取り敢えず、助かったって事か・・・」 柳田は玄関の前で力なく崩れ落ちた。その表情には安堵の色が見える。それでもこびり付いた恐怖は拭えず、その手は未だに震えていた。 この家に越してからと言うもの、現実とは思えないような体験ばかりで、こんなドラマみたいな事が自分の身に降り掛かるとは思ってもみなかった。昨日から立て続けに起こる出来事に柳田の精神は確実に消耗していた。 〝———トゥルルルル、トゥルルルル・・・〟 びくりと身体が揺れる。神経が過敏になっているのか、何でもない事にさえ過剰反応を起こす。 着信の相手はまたしても溝口だった。二回、三回とコールが鳴る。指先が震えて上手く通話ボタンが押せない。その間もコール音は鳴り続ける。 〝ピッ〟 「〝あっ、もしもし? 何回も悪いな。さっき伝え忘れてた事あってさ。佐和さんが例の件でお前に話しがあるみたいで。今、駅前の〝うっすら八兵衛〟に居るんだけど、これから来れない?〟」 柳田はスマホを耳に当て黙って話しを聞いていた。 「〝おーい? 柳田ー? 聞いてる?〟 「・・・・・・ああ。俺も二人に聞いて欲しい事が出来た————」 * * * 柳田は最寄り駅の裏手にタクシーで乗り付けた。ビル群が建ち並ぶ表側とは違い、そこは昭和レトロの雰囲気を色濃く残す飲み屋街で、祝日と言う事もありちらほらと昼の営業をしている居酒屋が何軒か目に付いた。 精算を済ませると柳田はタクシーを降り、足早にそこから裏路地へと入って行く。狭い路地には空のビール瓶を入れたボトルクレートが積み上がり、煤汚れた排気ダクトからは灰色の煙が立ち昇る。そんな裏路地の一番奥に目的の店はあった。 営業する気があるのかと問いたくなるくらい立地的には最悪で、人があまり寄り付かなさそうなこの場所で、昼間から常連客を相手に細々と営業しているのが溝口達が待つ〝吞み処 うっすら八兵衛〟である。 店名は店主が大好きな某時代劇ドラマに出て来るとあるキャラクターがモチーフとなっている。若い頃に「何処となくうっすら似てる?」と言われた事が由来になっているとかいないとか。 〝ガラガラッ〟と年季の入ったガラス格子の引き戸を開けると柳田は店内を見渡した。 「おっ、柳田! こっちこっち!」 こちらに振り返った溝口がビールジョッキを片手に手招きをするのが見えた。 「悪い、遅くなった。佐和さんもどうも」 柳田は佐和と目が合い軽く会釈をして溝口の隣に腰掛けた。 テーブルの上には食べ掛けのおつまみが並び、空になったジョッキやグラスがテーブルの端にいくつも固められている。 「二人で結構飲んでたんだな」 「いや、まだまだよ? 俺はまだビール四、五杯飲んだだけだし」 「私もー。私もまだ日本酒しか飲んでない」 そう言って佐和は一升瓶を傾けると最後の一滴までお猪口に注いでいた。 「・・・佐和さんって結構お酒強いんだね」 清楚で可憐と社内で評判の美人で通っていた佐和は外で逢って実際に話してみると案外サバサバしていてノリの良い女性だった。「ノリ命!」と豪語する溝口と気が合うのが何となく分かった気がする。 取り敢えず柳田はビールを注文すると、何も食べていなかった事を思い出し、目の前の枝豆に手を伸ばした。 「そんな事より柳田くん! カズくんから聞いたけど大丈夫なの?」 〝溝口和也〟、溝口の本名である。下の名前で呼ぶ程の仲なのか———と柳田は一瞬チラッと溝口の顔を見るが、溝口は呑気にジョッキを傾けて目の前のおつまみを頬張っていた。 「寿楽荘ってヤバい噂しか聞かないから。騒音問題の事は聞いたけど、他に何か事件とかに巻き込まれたりしてない?」 「いや、実はその事で話したい事があってさ———」 柳田は先程起こった出来事についてゆっくりと話し始めた。あまりに現実感がなく、本当に起こった出来事なのかと自分でも疑いたくなる程で、柳田は頭の中を整理しながら出来る限り正確に、丁寧に説明していった。 時折、相槌を打ちながらも黙って聞いていた二人は一通り話しを聞き終えたところでまずは溝口が口を開く。 「・・・・・・それ、ヤバくね? 向こうはお前との子供がどうこうって言ってるんだろ? 一応確認なんだけど身に覚えはない・・・よな?」 「ある訳ねえだろ! ここ五年彼女もいねえわ!」 「そしたら柳田が父親の線は薄いかあ。あっ、それか酔った勢いで行き摺りの相手を———とか?」 「いや、ねえから!」 ———だろうな、と口の端を上げながら溝口は言う。 「楽しそうなところ水を差して申し訳ないけど、柳田くんがその人と・・・って事はないと思う」 二人の会話に割って入って来た佐和の顔は真剣そのもので、茶化すように戯けていた溝口もその雰囲気に口を閉ざした。 「私の友達が寿楽荘に住んでいたって話したでしょ? もう五年も前の話しなんだけど、その時からその女の人の話しは聞いていたの」 「例の音信不通になったって言う友達だよね? あいつ、その友達にも同じ事してたのか」 「しかも全く同じ話しを聞かされてた」 「・・・・・・て事は、その時はその佐和さんのお友達相手に子供がどうのって言うのをやってたって事?」 「うん。幼馴染みだったから良く相談受けてて。実は何度か寿楽荘にも行った事あるんだ」 「「マジで⁉︎」」 二人の声が重なった。 「その・・・柳田くんが言う女の人の事も、一度だけだけど実際に見た事があって」 柳田は例の女とは二度、挨拶回りの時と先程の騒動の時に言葉を交わしてはいるが、どちらも玄関扉を挟んでいた為に直接顔は見ていなかった。 「顔、見たって事? ・・・・・・どんな奴だった?」 佐和は当時の事を思い浮かべているのか表情が曇っているのが柳田の目からでも見て取れた。 「あくまで、あくまで五年前の話しだよ? 顔はハッキリ見えなかったんだけど、凄い不気味な人だった・・・。長い黒髪で、確か真っ白いワンピースを着てたと思う。手足がすっごい細くて、青白いって言うか。こう言ったら失礼なんだけど病的な感じの細さで。その人、ベビーカーを押しながら歩いてたんだけど・・・・・・その・・・」 そこで佐和は急に押し黙ってしまった。 「え? 〝その〟何?」 「私のね、見間違いかも知れないの。少し離れたとこからこっそり見てただけだから。今もそうだとは限らないし———」 柳田は眉間に皺を寄せて小首を傾げた。歯に物が挟まったような言い方でどうにも要領を得ない。 「えーと、何の話し?」 「———形・・・った」 俯きながらボソボソと言う佐和に「えっ?」と柳田は聞き返した。 「だから人形だったの。赤ちゃんの人形に服を着せてベビーカー押しながら歩いてた・・・」 それを聞いてあの女とのやり取りが頭の中にフラッシュバックする。 あの時、話し掛けていた赤ん坊が人形だったと言う事だろうか? 赤ん坊の泣き声が聞こえない事に違和感を感じていたが、そこに居たのが本物の赤ん坊ではなく赤ん坊を模した人形だったとしたら合点がいく。 それと同時に女の狂気性がより増して、柳田の中では危険を告げる警鐘が鳴り響いていた。 「現実と妄想の区別が付かなくなった頭のイカれたストーカー女って感じの奴だな。うわあ・・・マジでホラーじゃん」 「佐和さん、他には? あそこのヤバい住人は他にも居るけど、その友達から相談受けてたなら他の住人の話しとかも聞いてない?」 「友達から聞いてた話しは、柳田くんが知ってるようなものばかりだけど・・・・・・あっ、そう言えば一つだけ。彼から話し聞いた中で気になった事があって」 「気になった事?」 「うん、えーとね、お隣さんもう一人居るよね? 彼がね、一度だけ会った事があるらしくて」 一〇三号室の住人の事だろう。キチガイのように部屋で暴れているあの男。顔は見てないが柳田の中ではヤクザ崩れのチンピラみたいな男を想像していた。闇金からお金を借りてそれで女遊びやギャンブルに興じているような男。あくまで柳田の勝手な想像ではあるが当たらずとも遠からずと言うところではないだろうか。 「どんな奴って言ってた?」 「彼が言うにはね、見た目は二十歳くらいの男の子で、物腰の柔らかい感じの良い子だったって言ってたんだよね」 佐和の語る特徴と自分がイメージしている人物像が大きく違っていた事に柳田は困惑した。 「えっ、それ間違いない? 全然そう言う感じの奴じゃないんだけど。別人・・・とか?」 佐和の友人があの部屋に住んでいたのは五年前だ。その間に引っ越しをして新しい住人に替わっていたとしても不思議ではない。 「溝口くんから聞いたけど、扉のとこに貼り紙してあるんだよね? それで部屋の中で叫んだりして大暴れしてるんでしょ? 違う?」 柳田はこくりと頷いた。 「そしたら同一人物だと思う。そのエピソードは彼から聞いてた内容と一緒だし。だから彼も驚いてたの。そんな暴れたり罵声浴びせたりするような子には見えないって」 柳田の頭の中は〝?〟で一杯だった。同じ被害に遭っていたと言うなら同じ人物で間違いはないのだろう。けれど、それでもイメージがあまりにも合致しない。 二重人格? それともヤバいドラッグにでも手を出して———そう考えてみたら普段は大人しく見えてもそう言うヤバい一面が顔を出すと言う事も十分有り得るのかも知れない。 「でもね、その後も自分なりに色々と調べてたんだけど、どうにもおかしいんだよね」 「おかしいって何が?」 「だって、寿楽荘の問題が起き始めたのってもう随分前なんだよ?」 「十年以上前から、とか言ってたっけ」 「ううん、それは調べた当時の話し。彼から相談受けてネットの掲示板とかで情報集めしてたんだけど、その時に〝十年以上前から起きてる〟って言うのを知って。だから少なくとも今から見たら十五年以上前に起き始めた問題って事。おかしくない?」 佐和は語気を強めるが、柳田も溝口もいまいち解っていないようで鳩が豆鉄砲を食ったような顔になっていた。 「ん? 何がそんな引っ掛かってるの⁇」 「えっ、二人はおかしいと思わないの? だって、彼が話してた事が本当ならその住人は当時二十歳くらいな訳で。と言う事はこの問題が騒がれ始めた頃、その人は十歳くらいの小学生だったって事になるでしょ? 十歳の男の子が今のような騒ぎを起こすってちょっと考えられなくない?」 柳田はそれを聞いてハッとした。確かにそうだ。十歳の男の子があれをやってると考えたら確かに不自然だ。 「・・・まあ、確かに変な話しではあるけど。でもさ、その友達が二十歳くらいに見えたってだけで、本当はもっと歳食ってたって事もあるだろうし。後は・・・ほら、例えば親子で住んでて親父の方も同じようなろくでなしでそれで昔からそう言う問題が起きてた、とかそう言う可能性もあるんじゃないかって思うんだけど」 「それは私も思ったよ? 普通に考えて子供がそんな事をするって考え難いし。でもね、やっぱりおかしいの」 「・・・まだ続きがあるの?」 「地元の人にも話しを聞いたって言ったじゃない? うちの会社で以前働いてた人なんだけど、その人、この問題が起き始めた頃、寿楽荘の近くに住んでたんだって。でね、その人が言うのよ・・・・・・ 「〝当時、あそこに住んでる大学生くらいの男の子、いつも一人で狂ったみたいに暴れてて大変だったのよ〝」 ———って。今から十五年以上前の話しなんだよ?」 柳田は返す言葉もなく青褪めていた。思考が追い付かない。柳田はどう言う事かと視線を左右に泳がせ、意味もなく瞬きを繰り返す。 だが、そこに柳田が期待するような答えが転がっている訳もなく、取り敢えず手付かずのままでまだ飲んでいなかったビールを口にするが、時間が経ったビールは少し温くなっていた。 「・・・・・・マズっ」
寿楽荘、曰く憑きにつき〈2〉
昨日は一睡も出来ないまま気付けば朝を迎えていた。 洗面台の鏡で顔色を確認してみると、目の下にくっきりと隈が浮かび上がっているのが窺える。 「はあ、これで初出勤とか・・・有り得ねえ」 例のドンチャン騒ぎは結局、明け方の五時過ぎまでたっぷり三時間以上も続いていた。 外は今日も快晴で晴れ晴れとしていると言うのに心の中は仄暗い曇天模様。雨が降る直前の雨雲のようにどんよりと重く、気分は沈んでいく一方だ。 他の住人はあれが気にならないのだろうか? 他の住人どころか、あれなら近隣の住民から苦情が殺到しそうなものだが———と言うよりもいっそ警察を呼ばれてもおかしくないレベルのはず・・・・・・と、そこで柳田ははたと気が付いた。 「警察に通報って手があったじゃん」 失念していた。何たる凡ミス。警察に通報していればそれで万事解決だったのではないか? そう思うと、そんな簡単な事にも気付かずに何時間もただ騒音に怯えていた自分の馬鹿さ加減に苛立ちが募った。 いやいや———自身の考えを否定するように頭を振ると、蛇口から勢い良く捻り出した水を二度、三度と打ち付けるようにして顔を濡らした。 顔を上げてまた鏡に映る自身の顔を見遣る。額から頬へ、頬から顎へと水滴が伝い落ちる。 ・・・・・・冷静になって考えてみれば警察を呼ばなくて正解だったかも知れない。柳田は思った。 警察を呼べば対処はしてくれただろう。ただ、そうなると事情聴取やら何やらでそれこそ時間を取られていた事が容易に想像出来るし、パトカーがアパートの前に来れば近隣含め間違いなくこの辺りは大騒ぎになっていたはずだ。 しかも、これで厳重注意だけで終わろうものなら、その後に連中からどのような報復が待っていた事か・・・。 そう考えたらやはり警察を呼ばなかった選択は正しい判断と言える。まあ、あの時はそもそも警察に通報すると言う発想自体が欠落していた訳で、判断も何もあったものではないのだが。 とにかく、今はそんな事を言っている場合ではない。 新しい支店での初出勤。こんな事で仕事中に下らないミスをしていたらそれこそ目も当てられない。気持ちを切り替えなくては。柳田は力任せに両の頬を弾いた。〝パチンッ〟と言う乾いた音が室内の薄い壁に反響する。 昨日はたまたまあんな事になっただけかも知れないじゃないか———柳田はそう自身に言い聞かせると、この日の為に新調したスーツに身を包んだ。ネクタイを喉元までキュッと締めると、不思議なもので気持ちも一緒に引き締まる気がする。柳田は自然と外行きの顔になっていた。カチリと自分の中で仕事用のスイッチが入ったのが分かる。 「今までだって徹夜なんて日常茶飯事だったんだ。泣き言言ってないで気合い入れて行きますかっ!」 もう一度、気合いを入れ直す為、柳田はさっきよりも強い力で自身の頬を〝バチン‼︎〟と打ち鳴らした。 * * * ————あれから一ヶ月が経った。 最初はどうなるかと思ったが、仕事に関して言えば特に問題らしい問題もなく、人間関係も含め順調であると言える。 問題は近隣問題だ。初出勤を迎えたあの日、仕事終わりに大家である丸山栄次郎に電話をした柳田は例の住人達の起こした騒音問題について苦情を入れたのだ。 大家から注意をしてもらえれば、いくらか改善されるかも知れないと期待していたのだが・・・・・・返って来た言葉は意外なものだった。 ・・・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・・・ 「〝ああ、やっぱりそうなりましたか〟」 どうやらあの住人達の問題行動は既に大家も周知済みの事らしい。 「丸山さん、ご存知だったんですか? それなら何で大家さんとして対処して頂けないんですか? あれはちょっと五月蝿いとかそう言うレベルではなく————」 「〝まあまあ、柳田さん。お気持ちは分かりますがね? それを踏まえた上でのあのお家賃ですから〟」 柳田が何を言ってもその一点張りで、最終的には「今忙しいので」と一言言って電話を切られてしまった。 「———ちょ、ちょっと⁉︎ ・・・・・・マジかよ。とんだ悪徳大家じゃねえか」 柳田は通話が切れたスマホを握り締めながら画面に向かって舌打ちをする。 改めて考えてみれば、あんな簡単な申し込みで住める家なんて普通はある訳がない。「上手い話しには裏がある」とは良く言ったものだが、まさにそれだった。 異常に安い家賃、管理会社も通さずの契約、保証人も保証会社も不要と言う改めて考えてみれば怪しさしかない好条件も、申し込み後に直ぐに即時入居出来るよう計らわれたのも、申し込み者である柳田の気が変わる前に賃借契約を締結し逃がさない為のものだったのだ。 「鴨が葱を背負って来る」自分がその鴨になるとは思ってもみなかった。 「こんなん詐欺と一緒じゃねえかよ・・・」 沸々と怒りが込み上げて来る。いっそ直ぐにでも出て行きたかったが、今回の引っ越しで掛かった費用、新しい支店への異動に伴って新調したスーツの代金と、その他にも色々と出費が重なった事により再度引っ越しが出来る程の金銭的な余裕が今の柳田にはなく、どう見積もっても向こう三ヶ月くらいはあの安アパートでの生活を余儀なくされる事が決まっていた。 ・・・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・・・ それからと言うもの、あの騒音もとい嫌がらせはあの日を皮切りに起こり続けていた。 〝ドンドンドン、ドンドンドン〟 〝ドンドンドン、ドンドンドン〟 夜中の二時を過ぎた頃、またそれは鳴らされた。 柳田は時刻を確認する。時間は二時十五分。 この一ヶ月を通して気付いた事がある。例の騒音は必ず二時十五分きっかりに始まると言う事。 まずは二〇二号室が鳴らす地団駄ような足音。次いで、 「アハハハハハハハハハッ‼︎」 例の奇声のような笑い声。一〇一号室だ。 そして最後は・・・ 「誰だコラァッ⁉︎ ぶっ殺すぞっ‼︎ オラァ‼︎」 〝ガシャン! バリン! ガンガン‼︎〟 あの一〇三号室から聞こえる罵詈雑言。そして物が飛び交い、叩き付けられ、壊されたような音。 それは決まって明け方の五時過ぎまで続き、その後は示し合わせたかのように騒音はぴたりと止まる。 せめてもの救いは毎日ではなく週末のみに起こると言う事くらいか。毎日鳴らされていたら本当にノイローゼになっていたところだった。 一ヶ月経って騒音被害に遭うのは今日で四回目。予め起こる事が分かっているお陰か、初めて体験した時よりも気持ち的には多少の余裕が残っていた。 〝ドンドンドン、ドンドンドン〟 〝ドンドンドン、ドンドンドン〟 「今日こそは文句の一つでも言ってやる!」 柳田は怒りに任せて立ち上がった。 明日は祝日で会社は公休日だ。仕事の事を気にしなくて良いと言うのも理由としては大きかったように思う。 二〇二号室の住人とは結局まだ会っておらず(一〇一号室、一〇三号室の住人ともちゃんと顔は合わせていないが)、どんな奴かも分からない。何があっても良いよう入念な準備をしておかなくては。 柳田は厚手のレザージャケットを防護服代わりに羽織ると、ポケットの中に護身用として折りたたみ式のポケットナイフを忍ばせた。 勿論、使う気はないし、相手が仮に包丁でも持ち出してくれば何の役にも立たないが、それでも一〇三号室の住人のような荒くれ者であればシチュエーションによってはちょっとした牽制くらいにはなるかも知れない。何より、平気な素振りを見せてはいるが内心は弱腰になっていて、気持ちを落ち着かせる為の御守り代わりと言うのが一番の理由かも知れない。その証拠にポケットの中に手を入れて柳田はそれをこれでもかと強く握り締めていた。 取り敢えず準備は万端だ。もう一度スマホで時刻を確認する。画面に表示されたデジタル時計は夜中の三時丁度を示していた。 柳田は靴を履き玄関の前に立った。その間も騒音は途切れる事なく鳴らされている。意を決してドアノブに手を掛けると、柳田は覚悟を決め玄関扉を押し開いた。 夜中、この時間に初めて家を出てみたが想像以上に暗かった。 まず、辺りには街灯がない。その上、廊下の蛍光灯が切れているようで建物自体が暗闇に包まれていた。今夜は雲が少ないお陰で雲間から多少の月明かりが差し込んでいて「辛うじて目を凝らせば見える」と言うくらいである。その心許ない月明かりだけが唯一の頼りだった。 柳田はなるべく音を立てないようにゆっくりと、手摺りに手を掛けながら一段、二段、三段・・・・・・二階へと繋がる鉄階段を上って行く。 昼間と比べて気温は下がっているとは言え、まだ暑さを感じさせる気温だった。それにも関わらず雰囲気の所為なのか、状況がそうさせるのか、柳田は僅かばかりの寒気を覚えて、ブルッと身を震わせた。 七段、八段、九段・・・・・・後少し。 十段、十一段、十二段・・・・・・後一段で二階へ辿り着く。視界には二〇二号室の玄関扉が映っていた。 玄関を見ればその人の人となりが分かると言うが、玄関前は至って普通で、一〇三号室の時のような異常さは感じられなかった。 寧ろ、日頃から徹底して掃除されているのか、扉の前や窓のサッシも綺麗な状態で埃一つ見当たらない。それが逆に不気味だった。 表は綺麗に見せておいて、でも内側では悍ましい物を抱えている。そんな二面性が感じられて、両隣の住人とはまた違った狂気を感じさせた。 扉の前に立った柳田は今更ながらにノックするのを躊躇っていた。迷惑行為を行っているのは向こうで、こっちは被害者である。タイムリーに被害を受けているのだからそれについて注意をしに来ただけ。だから何の問題も無いはず・・・そう思いつつも、こんな真夜中に押し掛けて大丈夫だろうか? と要らぬ心配が頭を過ぎる。 「いやいや、それで文句言われたらそれはもう逆切れだろって話しだしな。俺は悪くない、悪いのは俺じゃない」 自分に言い聞かせるように小さく呟いた。そして、 〝コンコンッ〟 遂に柳田はノックした。反応はない。 〝コンコンッ〟 思い切って続け様にまたノックする。 それでもやはり反応は返って来ない。 辺りは静寂に包まれていた。そこで柳田はある事に気付く。 そう、あまりに静かなのだ。いや、普通に考えればこんな夜中の時分だ。静かなのは当たり前である。しかし、先程までの騒音の嵐を考えればこんな静かなのは有り得ない。そう言えば二階へ上がる事に気を取られていたが、家を出た時から音は鳴り止んでいた気がする。 あれだけの騒音が外に漏れない訳もないのに。柳田はどう言う事かと頭を悩ませていた。 「まさか・・・監視されてる?」 背筋がぞわりとした。自分で自分の考えに悪寒が走る。 頭のおかしな連中がただただ家の中で騒いで暴れているだけだと思っていた。運悪く部屋の位置的に間に挟まれる形になっていた為に三部屋からの迷惑行為をダイレクトに受けていた・・・と。 だが、これがもし、もしも意図して柳田を狙って行われていたものだとしたら? いやいや、そんな馬鹿な。人に恨まれるような覚えもないし、こんな事をする連中と実は知り合いでしたなんてオチもある訳がない。 そう自分に言い聞かせるようにしていたが、どうしても胸騒ぎが止まらない。胸の奥が何だかザワザワして落ち着かない。 「出て来ないなら、仕方ないよな?」 そうやって自分に対する免罪符を打つと、柳田は家に戻ろうと扉に背を向けた————その時だった。 〝ギィィィイッ・・・〟 背後から不快な音が鳴らされた。錆びた金属が軋む音。 「ひぃっ!」 上擦った変な声が意図せず漏れる。心臓が口から飛び出すかと思った。凄いスピードで心臓が拍動する。 振り返って、もしそこに人が立っていたら? そう思うと恐怖心から足が竦んで動けなかった。 「だ、誰か・・・・・・居る、のか?」 絞り出すように言葉を紡ぐ。返事はない。 ひんやりとした空気が柳田の首筋をなぞり、全身に鳥肌が広がった。 (柳田悠介! 腹括って振り返れ、振り返るんだ!) 心の中で呪文のように何度もそれを唱える。 「こ、恐くなんかねえからな‼︎」 自身を奮い立たせる為、虚勢を張る柳田は、叫ぶように大きい声を出した。そして、覚悟を決めたように振り返ってみると———そこには誰も居なかった。良くない妄想が強迫観念的に誰か居るように感じさせていたのだろうか。 ホッと胸を撫で下ろしたところで改めて見てみると、先程まで閉まっていた扉が僅かに開いている事に気付いた。 それに柳田はギョッとした表情を見せたが、中の様子を伺うチャンスだと思った。恐怖心と鬩ぎ合う好奇心。 風に揺られて蝶番が〝ギ、ギィ・・・ギギィ・・・〟と音を立てる。それはまるで咽び泣いているような音で、それがまた何とも不気味な雰囲気を醸し出していた。しかし、耳を攲ててみても人が起きているような気配は感じない。 (隙間から少し覗くだけ、覗くだけだ) 隙間からそっと中を覗いてみる。部屋は窓もカーテンも締め切っているのか真っ暗で何も見えない。ただただ漆黒の闇が広がっているだけだった。その時、部屋に漂う強烈な異臭が鼻を突く。 「な、何だよこれ⁉︎ 生ゴミか⁉︎」 部屋の主にバレないよう声を殺して呟いた。何かが腐ったような腐敗臭が部屋一杯に充満していて柳田は咄嗟に口と鼻をその手で覆って息を止める。暗過ぎて部屋の中は窺い知れないが、扉の隙間から差し込む月明かりで玄関の様子だけは辛うじて確認出来た。 ボロボロのスニーカーが何足も無造作に散らばっている。そして、玄関の框には確認しただけでもパンパンに詰まったゴミ袋が五、六袋程見える。いつから放置されていたのか、ゴミ袋の表面には埃が堆積しているみたいだ。床面に目をやると袋の下側が破れていて、中からはドロリとした黒っぽい液体が漏れ出していた。 「・・・これが臭いの原因っぽいな」 強烈な悪臭に柳田は顔を歪め、最小限の呼吸に努めるが、それでも僅かに空気を吸うだけで吐き気を催し堪え切れずに何度も嘔吐いてしまう。こんな所に本当に人が住んでいるのかと疑いたくなる程だ。 「駄目だっ! これ以上は無理っ————」 柳田は階段を急いで駆け降りた。勢い良く踏み鳴らされた金属音が建物全体に反響する。下まで降りたところで肺に溜めた空気を盛大に吐き出して、柳田は息を切らしながら新鮮な空気を吸おうと大きく肩で何度も呼吸をした。 「はあ、はあ・・・あんなとこに・・・本当に・・・人が住んでんのかよっ」 息巻いて突撃したと言うのに、結局上の住人に注意をする事は叶わなかった。万全の準備までして意気込んでいただけに柳田の背中には落胆の色が見える。 「肝心なとこで俺はいつもこれだもんな・・・」 頭を掻きながら柳田は逡巡した。 ————あれは小学六年生の時。当時密かに好きだった美沙ちゃんの気を引きたくてアンカーを担ったクラス対抗リレー。独走状態でバトンを受け取ったと言うのにゴール直前でまさかの大転倒。ぶっち切りの一位から大転落のドン底最下位で、美沙ちゃんからはラブコールではなく軽蔑と嘲笑の眼差しを送られた。 ————中学二年生。少しワルがモテると思っていた柳田は髪を金髪に染め上げ、ビビリながらも左耳にピアスを開け、制服を着崩した。 喧嘩なんて碌にした事もないと言うのに周りには喧嘩自慢を吹聴し、学校はサボるのが格好良いと思い込んでいるイタい少年だった。そんな厨二病全開の自分のイタさに気付いている訳もなく、何の根拠もない〝無敵感・万能感〟を迸らせる柳田は案の定、上級生に目を付けられてその頃好きだった由実ちゃんの前でシバかれた思い出は忘れたくても忘れられないあの頃の黒歴史である。 数え出したらキリがないが、高校でも大学でも同じような事が何度もあった。器用貧乏と言うのか、ある程度の事は何となくは熟せるが肝心な所でいつも醜態を晒してしまうのが柳田と言う男なのだ。 今回の事もそうだ。ビシッと言うつもりが結局ビビって逃げ出してしまった。そして、そんな自分を慰めるようにそれらしい理由を付けて自己暗示を掛けている。 「はあ、もう寝よ・・・って言いたいとこだけど、飲まずにはいらんねえな」 きっと帰っても寝れそうにない。と言うより多分家に入ったらあの騒音がまた鳴り出す気がしていた。それならばこのまま外で酒でも飲んで過ごす方が良い。 柳田はスマホを取り出すと、ナビアプリを起動する。検索窓に「コンビニ」と入力し、GPSで割り出した一番近いコンビニを選択するとそこまでの経路を表示させる。画面には「徒歩十五分」と表示されていて、それに対して「・・・遠っ」と思わずぼやきつつ、柳田は暗い夜の闇へとその姿を紛らせた。
新年のご挨拶
皆様! お久し振りで御座います。 華月雪兎です🐇ペコリ ここ数ヶ月、更新がぴたりと止んで忘れられていないか心配ですが・・・ 何はともあれ。まずは新年のご挨拶と言う事で🙇♂️ 謹賀新年明けましておめでとう御座います!!✨🎊✨ 昨年からWeb作家として小説を書き始めましたが、皆さまの優しさのお陰で大変ながらも小説を書く事が出来ました。 ここ数ヶ月、更新が止まっていたのは新作の執筆をずーーーっとしていたからでして🤭 今回の新作、既に挨拶に先んじてアップさせて頂きましたが、四万字を超える過去最長の物語で、SS作家として始めたのに、短編通り越して中編サイズになっちゃいました🙄笑 分割予定はなかったのですが、流石にまとめてこの文章量を一気に更新するのは読者様も大変だよね・・・と言う事で、分割しての更新と相成りました🙆♂️ 最初は純粋なホラーを書いてはずが、物語が展開するに従って自分でも予想していなかった展開を迎えて作者なのに「そうなったか!!」となっております(笑) 皆様に楽しんでもらえる作品になっているか心配ではありますが、良ければまたゆとの小説を読んで頂ければ嬉しゅう御座います😌✨ それでは二〇二二年もどうぞ宜しくお願い致します🙇♂️ 二〇二二年 一月一日 華月雪兎
寿楽荘、曰く憑きにつき〈1〉
昨日、柳田悠介は新しい家に引っ越した。 会社の辞令で半ば強制されるように転勤が決まったのが丁度二週間前の事。あまりに急な事で当然なかなか新しい家は見付からず、リミットまでは残り数日。 どうしたものかと途方に暮れていたところで、ふと壁の貼り紙が目に留まった。 〝寿楽荘 一〇二号室 〜入居者大募集中〜 家賃 一・五万円! 管理費なし! 保証人不要! 簡単な審査のみ! 申し込み後即日入居可‼︎ 詳しくは大家まで♫ 大家・丸山栄次郎 (連絡先)〇九〇-※☆△□-◎◇◎△〟 それを見て「マジか!」と思わず声が出た。 今時、管理会社も通さずにこんな好条件で住める家なんてそうそうお目に掛かれるものではない。 半信半疑ではあったが、藁にも縋る思いで柳田は即座に記載されている携帯番号へと電話を掛けてみた。 (神様仏様大家様! どうかこの哀れな迷い人に慈悲の心を‼︎) 「・・・・・・〝はい、もしもし———〟」 ———そして、現在に至ると言う訳だ。まさか本当に入居が決まるとは思ってもいなかった。 保証人どころか保証会社さえ不要との事で、簡単な契約書に署名・捺印だけで契約も無事成立。その他に必要な書類は後日送ってくれれば良いとの事で、現状引き渡しになるが、急ぎであれば明日からの入居で構わないと言う。 数日後に迫る引っ越しで焦っていた柳田は内見も程々に、その場で申し込みを決めてしまった訳だが、改めて見てみると何とも古びたアパートだ。 二階建ての木造建築で、外壁に目をやると、あちこち罅割れており、塗装も所々剥がれている。屋上からは長い蔦が建物全体に伸びていて、何とも重々しい雰囲気を醸し出していた。 「・・・・・・まあ、転勤の間だけの仮住まいだと思って我慢・・・だな」 昨日は引っ越しで何かとバタバタしていたが今日は日曜日だ。明日から新しい支店で働く事を考えて、今日くらいは一日ゆっくり過ごそうと思っていたところで、柳田はふと思い出した。 「あっ・・・そう言えば。引っ越しの挨拶まだだったわ」 こんなご時世だ。どうせ此処には長く住むつもりもない。菓子折りでも渡して軽く挨拶だけしておけばそれで十分だろう。 そう思いながら柳田は財布の中身をちらりと確認する。中には千円札が数枚と小銭があるのみ。そのあまりの心許なさにいくらか悲しい気持ちになったが、社会人たる者、建前は必要だ。流石に菓子折りくらいは用意せねばなるまい。 そう思いつつも、今年の夏は随分と尾を引いていて、真夏の時期は当に過ぎたにも関わらず、外は猛暑日と言って差し支えのない気温だった。 子供の頃に良く聞かされた「オゾン層が壊れると地球温暖化になって———」と言う文言が思い出される。 取り敢えずこの暑さの中で出掛けるのはかなり億劫である。ちらりと窓から外に目を向けてみると、外は雲一つない真っ青な空が広がっていて、それはそれは素晴らしい程の快晴だった。 当然、働き者の太陽によって外はカンカン照りで、それが余計に出掛けようと言う気持ちをこれでもかと削ぎ落としてくれる。 だからと言って今日を逃せば仕事に追われて挨拶に取れる時間が無いかも知れない。良くて来週の週末と言ったところだろうか。 日が経てば挨拶にも行き難くなる。近隣トラブルは出来るだけ避けたいし、上っ面だけでも取り繕っておかなくてはこう言う小さな安アパートでは人間関係で角が立ち易い。 「まあ、この辺りに何があるのか把握しておかなきゃだしな」 柳田は適当な理由を付けると、何とかその重い腰を上げて大きな溜め息と共に照り付ける陽射しに舌打ちをくれてやった。 * * * 帰って直ぐに柳田は冷蔵庫でキンキンに冷やしておいた麦茶を喉に流し込んだ。 「ぷはあ! 美味いっ!」 汗で失われた水分が麦茶によって身体全体に満たされていく。 流石、激安オンボロアパート。立地的にあまりにも不便過ぎる。最寄りの駅まで徒歩でたっぷり四十分。それなのに近くにはバス停もないときた。 「こりゃ安い訳だな・・・」 ———はは、と柳田は苦笑いを浮かべた。 そんな事はさて置いて、気を取り直してとにかく挨拶回りだ。 駅前のデパートで買って来た洋菓子・・・メーカーは忘れたが、贈答品らしく綺麗に包装されたそれを紙袋に入れると、まずは建物正面から見て左隣の一○一号室へと向かった。 扉の前に立ち、インターホンを押そうとして気が付いた。インターホンが見当たらない。「そう言えば」と自身の部屋にもインターホンが付いていなかった事を思い出した。 「いやいや、築何年なんだよ・・・」と零しながら、仕方なく目の前の玄関扉を柳田は軽くノックする。 しかし、少し待ってみても反応が無い。留守だろうか? それならそれでまた夕方にでも———と思ったところで〝ガチャン〟と言うサムターンを回す音と古い建造物特有の蝶番が軋む音を伴って玄関扉がゆっくりと開かれていった。 「・・・・・・はい、どちら様でしょう?」 か細い女の声だった。ドアにチェーンロックをしたままで、腕が通るかどうかと言う隙間しか空いていない為、顔は確認出来ない。 「えーと、昨日から隣の一○二号室に越して来ました柳田と申します。引っ越しの挨拶をと思いましてお伺いさせて頂いたんですけれども。良かったらこちら詰まらない物ですが・・・」 「はあ、そうですか。それはそれは。わざわざご丁寧に」 そう言うと隙間からヌルッと手が伸びて来た。やたらと青白く、こう言っては失礼だが骨と皮しかないと|揶揄《やゆ》する程に細い細い腕だった。 伸ばした腕が自身の重さに耐え兼ねて小刻みに震えている。 外から見るとまるで扉から腕が生えているようで、それに何とも言えない気持ち悪さを感じながらも柳田は恐る恐る紙袋をその手に引っ掛けた。すると次の瞬間、女は素早く腕を中に引っ込め、無言のまま勢い良く扉が閉じられる。 〝バタン!〟と言う大きな音が建物に反響する。そしてまたサムターンを回す音が少し遅れて鳴らされた。 「・・・・・・何だアイツ。気持ち悪っ」 住人に聞こえないよう小さくぼやく。柳田は何とも言えない後味の悪さを感じつつ、どうせ関わる事もないだろうと気を取り直しさっさと踵を返すと次の部屋へ歩みを進めた。 「次は一○三号室か」 また紙袋を手に今度は右隣へ。 そこで目にした物は玄関扉に貼られた大量の貼り紙だった。 どれも「金返せ!」だの「居留守使うな!」と言った文言が踊り、荒々しい文字がマジックで殴り書きされている。中には「殺すぞ!」とか「死ね!」と言った穏やかじゃない文面まであって、明らかに闇金による借金の取り立てだと容易に想像が出来た。 「うわぁ、何だこれ。・・・これ、行かなきゃ駄目?」 顔を引き攣らせながら自らに問い掛ける。 「渡すだけ。渡すだけだ。渡したらさっさと帰ろう」 〝コンコンッ〟と意を決してノックした。すると、 「んだコラァ⁉︎ テメェらに渡すもんはビタ一文ねえぞ‼︎」 数秒の間を空けて室内からは耳を突くような怒声が玄関扉を突き抜けて飛んで来た。 借金取りだとでも思ったのか、ひたすらに喚き散らしている。暫く黙って聞いていると、今度は部屋の中であちらこちらを叩いたり蹴ったりする音が。物を投げ付けるような音まで聞こえ始めた。 ・・・これはヤバ過ぎる。完全に頭がイッているとしか思えない。 「君子危うきに近寄らず」である。顔を合わせれば何をされるか分かったものではない。 柳田は紙袋をドアノブにそっと掛けると、音を立てないよう抜き足でそそくさとその場から立ち去った。 「・・・おいおい。両サイドともヤバいってどう言う事だよ?」 自宅の玄関内で扉を背に柳田は立ち尽くしていた。 パニック映画を観た時のような感覚。ああ言う類いの映画が柳田は苦手だった。いきなり驚かされて喜ぶ奴の気が知れない。心臓がバクバクと自己主張しているようだ。 視線を落とすと目線の先にもう一つの紙袋が見える。二○二号室の住人に渡す用の菓子折りである。 「いや・・・うん。今日はもう遅いしな?」 まだ夕暮れ前の時分。しかし、流石に先程までの出来事を鑑みると挨拶に行く気力も削がれていた。 「菓子折りはちゃんと買った訳だし、これなら最悪、仕事終わりに挨拶に行けば良いよな? うん、そうしよう」 行かない為の適当な理由を付けて自らを納得させると、柳田は紙袋をテーブルの上に放り投げたのだった。 * * * 〝ドンドン、ドンドン〟 夜中、何かを叩く音で柳田は目を覚ました。 「———んだよっ。うっせえなっ」 眠い目を擦りながら時刻を確認するとまだ夜中の二時を回ったところだった。 「はあ? こんな時間に誰だよ⁉︎」 昼間の出来事が頭を過り、一〇三号室の住人の事を思い出す。 「・・・あいつ、まさかこんな時間に騒いでんのか?」 〝ドンドン、ドンドン〟 またあの音が鳴った。しかし、音は隣からでは無い。 音のする方向に視線を向ける。それはまさかの上階から鳴らされていた音だった。 〝ドンドン、ドンドンドン〟 〝ドンドン、ドンドンドン〟 先程より短い間隔で音が鳴る。 〝ドンドンドン、ドンドンドン〟 〝ドンドンドン、ドンドンドン〟 音は更に激しさを増していった。 床の上で大きく地団駄を踏んでいるような音が執拗に鳴らされる。 すると今度は壁の向こうから女の笑い声が・・・。 「アハハハハハハハハハッ‼︎」 一〇一号室の方からだ。昼間はあんなにか細く小さな声だったのに、今は信じられないくらい大きな声で高笑いをしている。 「おいおい、何なんだよ⁉︎」 狂気を感じる笑い声に血の気が引いて全身の総毛が立った。 かと思えば今度は反対の壁から追い討ちを掛けるように、 「んだコラぁ‼︎ 殺すぞおおお‼︎」 またあの怒声が飛んで来る。一〇三号室、例の住人だ。 そしてまた〝ガシャン!〟〝バリバリ!〟と言った物を投げ付けたような激しい音が盛大に鳴り出した。 ・・・・・・これは只事ではない。 左隣からは常軌を逸したような笑い声が。 右隣からは怒声と物が飛び交う音が。 上階からは床を踏み抜かんばかりの激しい地団駄が。 完全に頭がイカれているとしか思えなかった。 「此処はオカシイ奴しか居ねえのかよ⁉︎」 文句の一つでも言いに行ってやりたかったが、このレベルの奴等は何を仕出かすか分かったものでは無い。 それこそ注意した瞬間、包丁でさっくり・・・なんて事もあるかも知れない。自分の想像に思わず身震いする。 最初にあった怒りはすっかり鳴りを潜め、今や恐怖が全身を支配していた。 これは管理会社に言って何とかしてもらうしか・・・ああ、そうだ。この物件は直接オーナーから借りたんだった。柳田は肩を落とし落胆した。こう言う事態に陥った時、一個人であるオーナーしか居ないのは何とも心許ない。 しかし、腐ってもオーナー。この物件の所有者な訳で何かあればオーナーが何とかしてくれる・・・と思いたい。とにかく今日は何とかやり過ごして明日にでも時間を見て連絡してみるしかない。 そうしている間も三方からの騒音は続いていた。いや、いっそさっきよりも激しくなっている気がする。 柳田は眉根に皺を寄せて歯噛みしたが、自分に出来る事は何もない。とにかく少しでも音を遮ろうと掛け布団を頭から被り、全身をすっぽり包むと、その日は朝までガタガタと震える夜を過ごす羽目になるのだった。
一輪の花を想い出に添えて〜サボテンの花〜〈前編〉(4)
————窓から差し込む柔らかな陽射しが私の瞼をそっと撫でる。外から届けられた鳥達の囀りが優しく鼓膜を揺らし、それらが暗い暗い水底から私の意識をゆっくりと光が差す水面へ引き上げていく。 うっすらと瞼を開ける。視線の先には暖かみのある白木の天井が、そして吊り下げられた和風のペンダントライトがぼんやりと映った。 まだ何処か意識は微睡んでいて、頭の中は半分夢心地のまま。 「・・・んっ、あ・・・さ?」 朝の空気はやっぱり少し肌寒い。私は思わずブルッと身体を震わすと、いつの間にか下がっていた羽毛布団をたくし上げ、首元まですっぽり包まった。 ああ、布団の中は暖かくて、何て幸せな気分なんだろうか・・・・・・って、あれ? 変な違和感がある。何故だか身体が重い気が———何とは無しに動かした手に温かい何かが触れる。 「———————っ⁉︎」 一気に覚醒する頭。目をパッと見開いて隣に目を向けると、部屋の端に使用人不在となった敷布団が見える。羽毛布団は蹴りたくられたのか、足下まで追いやられ畳の上でくしゃりと丸まっていた。 「・・・な、なな、なななな・・・」 私はそれを見て一瞬頭が真っ白になり言葉に詰まった。 直ぐ真横で蒼空は呑気に寝息を立てている。腕や足を私に絡めるように身体をぴたりと密着させながら。 「なっ、何してんのよっ‼︎」 室内に絶叫にも似た怒号が反響する。 ・・・まさか朝一番にこんな大きな声を出す羽目になろうとは。 「ふあ〜・・・おふぁよお〜」 呂律の回っていない吞気な口調で私にそう言葉を投げる。大きな欠伸をすると、蒼空は眠い目を擦りながらのそのそと緩慢な動きで起き上がった。 「何で蒼空が私の布団に入ってんの⁉︎」 「・・・・・・・・・?」 蒼空は私と自分が寝ていた筈の布団を二度、三度と交互に見遣る。まだ寝惚けていたみたいだけど、一瞬固まったかと思ったら、ハッとした表情をして私の顔を見るなり満面の笑みを浮かべながら「てへ♡」と戯けてみせた。 ・・・・・・それを見て私が雷を落としたのは言うまでもあるまい。 ・・・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・・・ 「・・・あんたねえ、どんな寝相してんのよ」 「いやあ、昔から寝相がすこぶる悪くて」 ばつの悪そうな顔をして頭を掻くと、蒼空は申し訳無さそうに頭をぺこりと下げた。 「お互い部屋の端っこまで布団離してたでしょ? それなのにこっちの布団に入って来るような寝相の悪さって何なの・・・」 私はムスッとした表情のままトーストに齧り付く。マーガリンと苺のジャムを塗ったトーストは想像以上に美味しくて、頬張った瞬間「うまっ」と思わず声が漏れた。 「ところで七海さん。今日はどうするの? やっぱり観光?」 「・・・うん(こいつ、話し逸らしやがった⁉︎)————せっかくの旅行だしね。こっちには滅多に来れないし、今日の内に色々観て回る予定。蒼空はこの辺の観光名所とか詳しいの?」 「んー、そんな言う程は詳しくないかも」 やっぱり地元で当たり前に行けてしまうところって逆にあんまり行かなかったりするものだよね、と何となく勝手に納得する。 「そしたら蒼空もそれなりに楽しめるかもね」 そう言いながら私は目の前に置かれたコーンスープを一口啜ると、本日二回目となる「うまっ!」が口から飛び出した。 多少作ってから時間も経っているだろうに、ビュッフェ形式で提供されるモーニングでこれだけ美味しいとは。流石、老舗の高級旅館。侮り難し。 * * * 「それでは久瀬様。お気を付けて行ってらっしゃいませ」 女将さんを筆頭に旅館のスタッフさん達が深々とお辞儀をする。それを背中越しに感じながら私は玄関で靴を履いていた。昨日もそうだったけど、丁寧な対応は好感が持てるが、幾人もの人に頭を下げられながら見送られるのは何ともくすぐったい。 鍵をフロントに預ける際、玄関ロビーで応対してくれた女将さんの表情は昨夜私に見せた表情をしていた。 まるで娘が歳下彼氏を連れて来た時に見せる母親のよう表情と言えば分かり易いだろうか。昨日みたいに「あらあら」と言う言葉や「おほほ」と言う笑い声が聞こえて来そうだったが、どんな反応をすれば良いのか分からなかったので、私は取り敢えずそれについては気付かない振りをしておいた。 旅館を出て暫くした頃。二人きりになったところで、さっきまで猫被りで大人しくしていた蒼空のいつもの調子が顔を出した。 「いやあ、遂に七海さんとデートかあ〜」 ———楽しみだなあ、なんて言いながらニコニコ顔で私の顔を覗いて来る。少し前を歩くその足取りは心做しか軽やかで、まるで小気味良いステップを踏んでいるみたいだった。 「デ、デートって————」 「違うの?」 私の言葉を遮るようにして、蒼空は間髪入れずにそう返して来た。 「違・・・わないけどさ」 小さな声でボソボソと呟くように答えると、「七海さんって本当にツンデレだよね」なんて言って来たから「デレて無い!」と慌てて釈明すると「その返し、やっぱりツンデレじゃん」と蒼空は笑う。 〝小悪魔〟———って表現を男に使うのはアレだけど、蒼空程ぴったりな奴も居ない気がする・・・そんな事が頭を過ぎったが、それは言わないでおこうと思う。 きっと、「それじゃあ七海さんは小悪魔系男子に振り回されちゃう恋する乙女って事だね♡」とかまた訳の分からない事を言い出すに決まってる。うん、きっとそうだ。 自分の勝手な想像に「ははは・・・」と私は思わず苦笑いしてしまった。 肩から掛けたミニショルダーのバッグからスマホを取り出し時刻を確認する。まだ十時半を少し過ぎた頃だ。 安城岬から程近い温泉旅館・宝松永。此処から山を下って町に出たらそこからバスで五分くらい。バスの時刻を調べたら「仁科車庫」と言うバス停から十時四十四分発のバスがあるようで、徒歩の時間を考慮しても、十分に間に合いそうだ。 「ねえねえ、七海さん。これって何処に向かってるの?」 「ああ、そう言えば言ってなかったっけ。えーとね、〝堂ヶ島天窓洞〟って知ってる?」 「んー、聞いた事はあるかもだけど、行った事は無いかなあ。そこにこれから行く感じ?」 「うん、船で中に入っていける洞窟なんだけど、西伊豆だと有名な観光スポットなんじゃないかなあ。写真で見ただけだけど、凄い幻想的って言うか、めちゃくちゃ綺麗なの。ずっとそこに行ってみたいと思ってて、前にも一度旅行で来たからその時に行くつもりだったんだけど。運悪く急な嵐が来て遊覧船が欠航しちゃったんだよね・・・」 何年か前の事ではあるけど、私はその時の事を思い出して溜め息を吐いた。 あの時は天候の所為で急遽予定を変更する羽目になって行けなかったし、今回は一緒に見たかった肝心の相手が————って、いやいや、忘れよう。何を考えてるんだろう。思い出すだけ悲しい気持ちになるだけだ。 それに仮でも振りでも一応今は蒼空が私の彼氏なんだし、こんな事を考えるなんて蒼空に対して失礼じゃん。私は頭に浮かんだ顔を振り払おうと左右に頭を振った。 「・・・それってさ、彼氏さんとの旅行で来た時の話し?」 「えっ? そう、だけど?」 「ふーん、そうなんだ」 ん? 何だろう? この含みのある言い方は。まるで拗ねた子供みたいな反応。って、実際私から見て蒼空はまだまだ子供なんだけど。 「・・・・・・もしかして、妬いてんの?」 すると蒼空は珍しく慌てた素振りで「そんなんじゃないし!」と必死に否定してみせる。 「成る程ねえ。蒼空も案外可愛いとこあるじゃんね」 「ああ! その言い方! ・・・・・・何かムカつく!」 いつものお返しとばかりに、むくれる蒼空を宥めるように頭をポンポンしてみると、子供扱いされたのがよっぽど悔しかったのか、更に頬を膨らませてああだこうだと言い訳をして来る。それが何とも可笑しくて私は声に出して笑ってしまった。 「ははは、ごめんごめん。行こうとしたのは確かだけど、実際には行けなかったから。初めて行くのは蒼空とだよ? それに・・・彼氏じゃなくて、〝元カレ〟だしね」 それを聞いて蒼空は「へえ、そう」とだけ短く返して直ぐに私に背を向けたけど、一見すると素っ気ないように見えて何だかちょっと・・・嬉しそう。 何だかんだ私も蒼空に毒されて来たのか、そんな些細な事が嬉しいと思えて来て、自分でも気付かない内に顔が緩んでいた。 自然と笑いが込み上げて来る。だけど、これでまた拗ねられても困るから、私は蒼空にバレないように口許から溢れる笑みをこっそり掌でそっと覆い隠した。 「てかそんな事言ってる場合じゃなかった! 蒼空! バス来ちゃうから急がないと!」 時刻は十時四十一分。バス出発まで後三分を切った。これを逃すと次のバスまで三十分以上待ち惚けになってしまう。 いきなり急かされて若干戸惑う蒼空の手を半ば強引に取ると、私達は足早に坂道を駆けて行った。 * * * 目の前を通り過ぎる街路樹。走るバスの車窓によって町の風景は刹那に切り取られ、視界に入った次の瞬間には消え去り、何度となくそれを繰り返しながら景色は彼方後方へと流れて行った。 「あっ、七海さん! 見えて来たよ! あれじゃない?」 窓際の座席に座る蒼空が少し興奮気味に声を上げる。 私の肩を揺さぶって、窓の外を指差した。 言われるがまま身を乗り出し、窓越しに外を覗いてみると、視線の先に停泊する遊覧船が見えた。そして、ポツポツと何人か船着場の周りに人の姿が確認出来る。 「(あれだ! ヤバい、めっちゃアガるんだけどっ‼︎)うん、あれっぽいね。てか他の人も居るんだからあんまり騒がないようにね?」 大人の余裕を見せようとテンションの上がった蒼空を優しく嗜めたが、内心本当は蒼空に負けず劣らずでテンション上がりまくりだった。 ふと空を見上げてみると雲一つ無い晴れ模様で、太陽の陽射しが海面を照らしてキラキラと輝いていた。幸いにも今日は風も少ないし、波はとても穏やかに凪いでいて、まさに絶好の船出日和だ。 これなら前回のリベンジは果たせそう! 私は期待に胸を躍らせていた。 「次は〝堂ヶ島〟に停まります。堂ヶ島マリン、堂ヶ島天窓洞に御用の方はこちらでお降り下さい」 車内アナウンスが流れる。 「お降りの方はお忘れ物なさいませんようお気を付け下さい。ステップがありますので足元にご注意下さい」 扉が閉まる。そしてエンジンを吹かす音がそれに続いて、バスは私達をその場に残し走り出した。その姿は山の陰に隠れあっと言う間に見えなくなってしまった。 どうやら此処で降りたのは私達だけらしい。さっき車内から見た時は船着場にチラホラと人が居たみたいだけど、そんなにたくさんの人は居なかった。これなら混雑による待ちも無さそうだ。 そう考えたら隠し切れない程、私の胸は高鳴っていた。楽しみ過ぎる。ヤバい! これはもうフライング気味に語彙力が失くなるやつだ。 それはどうやら蒼空も同じだったみたいで、 「海っ! 着いたああああ‼︎」 近くに人が居ないのを良い事に蒼空は叫ぶように声を上げた。 「———びっくりしたっ。えっ、何それ? 何かそのテンション、海水浴に来た人みたいじゃん」 「ん? 思い切って泳いじゃう? 水着無いけど」 「あのー、蒼空さん? 来週の今頃には十月になってるんですけど?」 「あれ? そうでしたっけ? まあ、冬じゃなければ気合いで入れるんじゃないでしょうか七海さん」 「いやいや、気合いで入る海水浴って何ですの」 私と蒼空は互いに顔を見合わせると、プッと吹き出して思わず大笑いしてしまった。 「ははは、もう、やだ。何この漫才みたいなやり取り」 「七海さんこそ、こんなノリ良かったっけ?」 蒼空はケタケタと腹を抱えて楽しそうに笑っている。その顔は年相応・・・と言うより何なら童心に帰ったようだった。 初めて蒼空に逢った時。最初こそ「何だこいつは」って正直思ってたけど、一晩経ってこんなに打ち解けているなんて自分でも驚きだった。 「ほら! そんな下らない事言ってないで、早くチケット買いに行くよ!」 そう言って歩き出そうとした時、ジャケットの袖をクイッと引っ張られた。 「あっ、七海さん、ちょっと待って。ごめんなんだけど、先にトイレ行って来ても良いかな?」 「お手洗い? んー、良いよ。船乗っちゃったら暫く行けないしね。そしたら先にチケット買っとく。さっさと戻って来てよー?」 ———りょうかーい! そう言って両手を合わせると、慌てた様子で「ごめんね」のポーズを取りながらそそくさとお手洗いに駆けて行った。 随分急いでたみたいだけど、よっぽど我慢してたのかしら? * * * 〝バタン!〟 木製の扉が威勢良く大きな音を立てた。 ・・・良かった。誰も居ない。扉を背にしたまま俺は後ろ手で〝カチリ〟と鍵を掛ける。 「はあ、はあ、はあ・・・」 息が苦しい。肺が酸素を取り込もうとして胸が大きく上下する。 無理・・・し過ぎたのかも知れない。 「うぐっ———」 声ならぬ声。咄嗟に俺は胸を押さえる。心臓を鷲掴みにされたような痛みで今度は息が出来ない。 くそっ・・・どうにかなりそうだ。 息を止めて頭に酸素が巡らない所為か、それともこの胸の痛みの所為か。 とにかく脚が震えて寄り掛かっている事さえしんどくなって来た。何か掴める物を・・・そう思って何とか一歩、また一歩と足を前に出すと、俺は洗面台の前まで来たところで膝から崩れ落ちてしまった。崩れ落ちた瞬間、洗面台に両手を掛けていた事でどうにか床に倒れ込むのだけは避けられた。 冷や汗が止まらない。汗腺から吹き出した汗がシャツをじっとりと湿らせ、ほんの少し息を吸い込んだだけでまた胸に激痛が走る。その度に顔を歪めて唸るような声が漏れた。 「く、くす・・・りを———」 俺は声を絞り出すと、持っていたバッグの中から震える手でピルケースを取り出した。薄ピンク色のピルケースには花柄のシールが。妹が、紗月(さつき)が大事にしていた宝物のシールだ。それに小分けして入れていた数種類の錠剤を口の中に放り込む。口内に薬特有の苦味が広がっていく。それらを蛇口から捻り出した水で無理やり喉の奥へと流し込んだ。 ・・・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・・・ ————どれくらいそうしていただろうか? 段々と薬が効いて来たのか、痛みが引いて呼吸も落ち着いて来た。 「はあ・・・こんな姿、七海さんには見せらんないよな・・・」 俺はその場に座り込んだまま頭を掻いた。 俺はまだ七海さんに言っていない事がある。と言うより〝言えない事〟と言った方が正しいが。 俺の我儘をあの人は受け入れてくれた。自分勝手なのは分かってる。 それでも後一日。あの人が帰るその時までは———— 「・・・そろそろ行かないと七海さんに怒られちゃうな」 良し、もう動ける。俺は立ち上がると洗面台の鏡で自分の顔を確認する。顔色は・・・悪くない、と思う。そして、気合いを入れるように自らの手で両の頬をパチンと叩いた。叩いた頬がほんのり赤くなる。 「大丈夫、大丈夫だ」 鏡に映る自分を見詰めて何度もそう唱えた。それは・・・そう、自分自身の身体に言い聞かせるように。 * * * ・・・・・・遅い。遅過ぎる。あれから三十分くらい経っているのにまだ戻って来ない。私は買ったチケットを左手に持ちながら、腕組みをして券売所の横で仁王立ち。落ち着き無くチラチラとスマホで何度も時刻を確認する。スマホを握る手の指が、私の感情を表すように自然と一定のリズムを刻んでいた。 あまりにも戻って来ないもんだからもういっそ突撃してやろうか⁉︎ そう思ったところで、背後から開口一番に「ごめん‼︎」と言いながら蒼空が戻って来た。走って戻って来たのか息を切らしていて、その額にはうっすらと玉になった汗が浮かんでいる。 「蒼空! もう! 待たせ過ぎ! 全然戻って来ないから倒れてんのかと思って心配したじゃんっ」 「いや、本っ当に待たせてごめん! その、何て言うか・・・お腹がめっっっっちゃ痛くてヤバかったんだよ・・・」 苦笑いしながら蒼空はお腹を摩り何度も何度も平謝り。さっきまで文句の一つでも言ってやろうかと思ってたけど、必死に謝るその姿を見ていたら何だか毒気を抜かれてしまったみたいで、苛立ちよりも安心感が先に立った。 「・・・まあ、倒れたんじゃないって分かったから良かったけど。・・・・・・お腹、もう大丈夫なの?」 「うん、もう平気。今朝寒かったし、冷たい物飲んでお腹冷えたのかも。てか七海さん、俺の事心配してくれたんだ? 何か嬉しいなあ」 「嬉しいなあ———じゃないっ! 散々待たせた挙句、心配まで掛けておいて反省の色無しか」 「いえいえ、もう海底まで沈む勢いで深〜〜〜〜く反省しております故、どうか機嫌の方を直して下さいませ七海様」 ほうほう、そう来たか。甘い顔をしたらこうして直ぐ調子に乗る。 「・・・・・・本当に沈めてやろうかしら」 ワントーン下げた暗めの声で溜めに溜めてから放ったその言葉。目を細めて敢えて真顔で見遣る。そんな私の冷ややかな態度に「誠に申し訳ありませんでした!」と態度を一八〇度変えると、頭を深々と下げ、宝松永のスタッフ顔負けの一礼を決めてみせた。 思わずプッと吹き出して、私はそのまま腹を抱えて大笑いしてしまった。 「はははは、何それ? 蒼空って本当に面白いね、もうお腹痛いっ」 笑い過ぎて涙が出て来る。私はそれを拭って蒼空に視線を向けた。こんな笑われると思ってなかったのか、目をパチパチと瞬かせながら口を開けてポカーンとした顔をしている。それがまた何だか可笑しくて。 蒼空ってこう言う奴だよな、と目尻に皺を寄せて微笑むように笑い掛けた。 「冗談だよ。別に怒ってないから。待たせておいて、あんまり調子良い事言うもんだから少し意地悪してやろうと思っただけ。言っとくけど、今日は色々行きたい所あるんだから彼氏としてちゃんと付き合ってよね!」 蒼空がバッと顔を上げる。 「・・・・・・七海さん、今〝彼氏〟って言った?」 自分が言った言葉に私はハッとしたように赤面する。 「え? えーと、その、あの・・・・・・彼氏(仮)ってやつよ!(仮)! てか・・・あんたが言い出したんでしょ? あんたは彼氏で、私は彼女・・・・・・なんでしょ?」 蒼空の顔は途端にぱあっと明るくなった。喜色をその表情に浮かべたまま、私の手を掴んだと思ったら勢い良く自分の方へと引き寄せ、そのまま思いっ切り抱き締められた。 「ちょっ、蒼空⁉︎」 「うん! 七海さんは彼女!」 蒼空の声が弾む。 昨日までの私なら、きっと驚いてそのまま振り払っていたと思う。 けれど、今の私は———自然と蒼空の背中に手を回して私より大きなその背中をギュッと抱き締め返していた。 そうしたら、私を抱き締めるその力がさっきよりも強くなった気がして。 「七海さん、ありがとう。今日は思い出に残る最っ高の一日にしようね!」 失恋した心の傷を癒す傷心旅行だったけど、もしかしたら、蒼空とだったら良い思い出として上書き出来るかも知れない。そんな気がしてた。 「うん、そうだね。せっかくなら良い思い出にしなきゃね」 抱き締めた蒼空の身体は暖かくて、何だか安心する。触れた掌に伝わる蒼空の鼓動。小刻みにトントンとノックするようで、ドキドキしてるのが伝わって来た。 いつも余裕のある感じで振る舞ってる蒼空だけど、本当はドキドキしてくれてるのかって思ったら、何だか凄く嬉しくなった。でも、そうしたら今度は私のドキドキも聴かれてるんじゃないかって事が凄く気になり出して。 それはやっぱり恥ずかしくて、そんな事を考えてたら益々鼓動が速くなった気がする。 「蒼空! そ、そろそろ行かないと! 船、出ちゃうよ!」 蒼空の顔が直視出来ない。と言うかどんな顔をすれば良いのか分からなくて、私は俯くように顔を背けた。 これはもう認めるしか・・・ないよね。私は蒼空を異性として意識し始めてるって事を。 「間も無く出港しまーす! 乗船される方が居ましたらお急ぎ下さーい!」 出港を知らせるアナウンスだ。船着場に居るスタッフが声を張り上げてもう一度アナウンスを繰り返す。 「乗船される方、もう居ませんかー? 間も無く出港になりまーす! 『洞くつめぐり』で遊覧船コースのチケットをお持ちの方はお急ぎ下さーい!」 「ヤバっ! 急がないと乗りそびれちゃう! 蒼空! 行こう!」 私は蒼空の手を取って走り出そうとしたその時————ガクンッと後ろから手を引かれバランスを崩しそうになった。 「ちょ、ちょっと蒼空⁉︎ ————って・・・・・・えっ?」 振り返ると、蒼空は地面にうずくまっていた。 「えっ、えっ———ちょ、ちょっと、蒼空⁉︎ どうしたの⁉︎」 私は蒼空に勢い良く駆け寄った。触れると尋常じゃなく汗を掻いていて、胸を押さえながら苦悶の表情を浮かべていた。 「ねえ! 蒼空! 私の声聞こえる⁉︎」 返事は無い。眉根を寄せて、どんどん蒼空の表情は険しくなっていく。 呼吸が辛いのか、何秒かに一回、一瞬だけ息を吸い込む音がする。 「誰か! 誰か救急車‼︎」 どうして良いのか分からず戸惑う私に、蒼空が小さく、本当に小さく、絞り出すように言葉を紡いだ。 「七、海・・・さん。・・・・・・ご・・・め・・・・・・・・・んっ」 そう言いながら、蒼空は私に向かって手を伸ばす。その手は頼りなく震えていて、私は両の手でその手を受け止めると、ギュッと握り締めた。 「ごめんって何が! 良く分かんないけど、謝らないでよ!」 ちゃんと聞こえてるのかは分からない。だから私は大きい声で叫ぶように言葉を投げた。次の瞬間、 「ゴホッ、ゴボッッ‼︎」 蒼空は喉の奥から塊を吐き出すように大きく咳き込んだ。胸を反らせて咳き込む度に身体をくの字に曲げるような激しい咳。私はとにかく必死になって呼び掛け続けた。 そして何度めかの咳と共に—————赤い飛沫が中空を舞った。 その瞬間、世界がスローモーションになったみたいで、放たれた飛沫の一滴一滴、その全てが私の視界でゆっくりと弧を描く。私自身も時が止まったみたいで、視線だけがその飛沫を目で追っていた。 そして、世界の時間が、また動き出したその時————— ・・・・・・視線を落とす。赤く染められた自分。蒼空はぴくりとも動かなくなっていた。 「・・・・・・そ、蒼空・・・? 蒼空ああああああああああああ‼︎」 雲一つ無い青空。何処までも広がる青空に、私の悲痛な声とサイレンの音が鳴り響いていた。