あいびぃ

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あいびぃ

自己紹介カード 発動!!! 【レベル】15 【属性】ちゅー学生 【習性】投稿頻度不安定、定期的に更新不可になる、フォローもフォロバも気分次第、❤︎とコメントくれる人を好む、困ったら募集に参加 【特性】どんな作品にもファンタジーが香る 【メッセージ】 初めまして、あいびぃです! 見つけてくれてありがとう♪ 私自身、生粋のアニオタ・漫画オタなのでファンタジーが多めになってます…多分。 詳しいことは「自己紹介」にて! まだまだ若輩者なので、応援よろしくお願いします!

星の話はやめようか。

一章 星に願いを 顔の皮を剥がんとする北風に舌打ちをした。冬はやっぱり嫌いだ。人間、呼吸が無ければ生きられないというのに、息を吸う度に喉を突き刺すような冷気が体を駆け巡る。朝から零度を下回って、働く人々の末端を容赦なく突き刺す冷気。ここまで寒くしておいて雪も降らせない冬が、小学校の時のレースで手を抜いたアイツのように見えて俺は嫌いだ。 夜中、帰宅途中で自販機に寄り、コーンクリームを買った。普段は缶の底に溜まるコーンが嫌で買わないのだが、あまりの寒さと空腹に思わず指先が伸びた。なんとなくベンチに座って空を見上げると、缶の温かさが冷え切った指先からじんわりと広がった。ふいに溢れた息は白く濁り、そしてふっと消えた。満天の星空が街を照らす。冬だからかハッキリと、より輝いて見えた。コーンクリームを飲みながら、無駄に眩しいこの星にいつの間にか引き込まれていった。短い間隔で並ぶ星々をなぞる。俺はこの星の配列に見覚えがあった。オリオン座だ。幼い頃に神話も成り立ちも調べず、ただそれだけを何度も遅くまで探し、母を困らせていた事を覚えている。 コーンクリームのコーンが底に張り付いてきた頃、俺は一筋の流れ星を見た。流れ星に願い事をすると叶う、なんてジンクスがあったのを思い出し、馬鹿馬鹿しいと心の内で笑い飛ばした。しかし、次々と流れる星の輝きに魅入る内、心の奥底からの願いが口から溢れ出た。 「やり直したい…全部」 本当に後悔の連続だった。人生が選択の連続だと言うなら、俺は必ず間違ったほうを選んでいたに違いない。それくらい、今の俺は昔の理想や幸福から程遠い人生を送っている。星に願ったところで叶うわけがない。非現実的だ。そう、また笑い飛ばした時だった。車の唸りも北風の嘶きも、周りの音全てが消え去り、完全な静寂が俺を包んだ。そして、代わりに無機質な声が耳鳴りと共に降り注ぐ。 『願いを確認しました。』 思わず見上げると、上から人が降りてきていた。フリルが贅沢にあしらわれたレモンイエローのミニドレスが、傘と共にふわりふわりと舞う。その少女が、まるで風に吹かれた花びらのような華麗な着地を見せた瞬間、彼女の爪先から白い光が円状に広がり、俺を包んだ。 暫くして、光を遮ろうと眼前に並べた腕を下ろし、瞼を開けた。そこはさっきの場所とは全く違う、ただ圧倒的な“光”が、闇に延々と続く道を作っていただけだった。思わず足元を見る。俺は、そのすべての道が集まる分岐点に立っているようだ。 『コード“星に願いを”が発動されました。世界に“やり直し”を申請します。』 例の少女は、俺の前にいきなり現れてそう言った。瞬間移動でもしているのか、ヒュンヒュン音を立てて気づけばまた別の場所に立っている。彼女の大きな瞳に光はないが、しかしはっきりと俺を捉えていた。 『申請の受諾を確認。これより、対象者の願い“やり直し”を発動します。代償を検出…該当無し。対象者、足元を見なさい。』 少女は、くるくると巻かれた金髪を腕に乗せながら、ゆっくりと真っ直ぐ俺の足元を指差した。その瞳は俺を見据える。言われるがまま足元を見下ろすと、そこには文字が白く輝いていた。 「なんだこれっ」 『代償ルーレットを稼働します。ドゥルルルル…テンッ』 それも束の間に、少女の単調かつ軽快なドラムロールが響く。それと同時に白い文字が回転し、そして停止した。 『対象の代償を決定致しました。“やり直し”の成功が確認され次第“希望”をいただきます。』 「は?」 少女の言葉が聞こえた瞬間、視界が真っ白になった。眩しい光に目を眩ませ、それからそっと瞼を開く。 背中を焼くような激しい陽光と、揺らめく空気が俺の体中の水分を搾り取る。 「冬じゃ…ない」 渇いた喉がなり、湿った掌がゴム質のハンドルを包む。つるりと滑るリスクを背負いながら踏み切りの音を聞き、ただ茫然と立つだけ。だが、それだけで理解した。この景色、服装…間違いない。ここは二十七年前だ。 「ははっ、何当たり前のこと言ってんだよ。七月中旬だぞ? もう再来週からは八月だ。」 「逆にずっと冬だと思ってたのかよ」 「比嘉達徳…小倉優吾。」 ずっと彼女がほしいと言い続けていた、さっぱり坊主の帰宅部タッツー。当時は伸びた前髪を切るか切らないかで散々悩んでいたサッカー部の幼馴染、優ちゃん。彼らは、紛れもなく俺の高校時代のいつメンだ。 「おうおう、どうした急に。厨二病か、高二だけど。フルネームが言いたくなるお年頃ってやつ?」 「どういうお年頃だよ。」 「あーいや、ちょっとなんとなく。タッツーって冷静に考えると武将みたいな名前だなって思って。」 「俺の名前カッケーだろ?気に入ってんだ」 タッツーが得意げに言うと、優ちゃんが期待に胸を膨らませながら聞いてくる。 「俺は俺は?」 「うーん……ついで?」 「ついでかよっ」 優ちゃんのツッコミが炸裂し、踏切を渡る三人は笑いに包まれた。本当に幸せだ。これがずっと続けば良いのに。あの西洋人形みたいな少女への不満は、二人の顔を見てからか、気付けば消え去っていた。 ふと、タッツーが空を仰いで言った。 「あっちぃ…あーー海行きてぇ」 「いいな、今度行くか。」 優ちゃんも汗で張り付くワイシャツを摘み、パタパタと前後に仰ぎながら、タッツーの言葉に続く。 「…そう、だな。」 「どした? 」 「あ…いや別に」 「どうせ暑さでどうにかなってんだろ。さっきもおかしかったしな。行こうぜ、優ちゃん」 「あ、うん。また連絡するわ。じゃあな」 「あばよっ!」 二人と俺の家は、この道を分岐点にそれぞれ別方向にある。ここでお別れだ。 「おう、じゃあな二人とも」 二人と別れたあと、暫くは自転車を押しなから歩いた。それから、特に意味もなく適当なタイミングで漕いで帰った。 少し古い瓦屋根の一軒家。それが俺の実家だ。母も祖母も、みんなここで生まれ育った。過去の俺は毎日帰っている家だが、中身は未来の俺。十数年ぶりの実家は、ノスタルジーに浸れる独特の趣や懐かしさと共に、妙な緊張感があった。それぞれが自由に交差し合う複雑な心のまま、実家の磨りガラスの引き戸を開けた。 「ただいま」 「おかえりー。帰ってきたばっかのとこ悪いんだけどさ、お母さん今からスーパー行ってくるからお留守番お願い。あ、おにぎりあるから食べていいよ」 キッチンとダイニングが合わさった部屋で、なにやら慌ただしく外出の準備をする母の背中に、思わず見入る。最後に見た母の背中は、丸く曲がり、肩が盛り上がっていた。こんなに綺麗な形ではなかったはずだ。 「え、いいの。」 「もちろん。学校帰りでお腹空いてるだろうし、どうせ食べても晩御飯待ってる内にまたすぐ空くでしょ。」 「まあ、うん。」 「じゃ、てことで行ってきまーす!」 引き戸から飛び出して行った母の背中を見送って、家の中へ戻った。外に比べればいくらかマシなものだが、それにしたって暑い。エアコンがない我が家は、縁側の障子を開けっぱなしにする他に暑さ対策がないのだ。 暑くてたまらないので、机の上に置かれたおにぎりを持って縁側の部屋へ移動した。障子の仕切りが無い部屋を超えて歩いていく途中、ふとカレンダーが目に入った。母が棚の上に置いている積み木のカレンダー。毎日ひっくり返しているから、日にちが違う事はない。 「七月十九日…。」 ドキッとした。あの日がもうすぐ近づいている。俺が修正すべきは、きっとそれだ。その事実が、俺の胸に鉛のように重たく沈む。視線を落とし、その現実から逃げるように縁側へと速足で向かった。縁側に座って、おにぎりを頬張る。 「しょっぱ…」 それは食べ慣れた、懐かしい味だった。母が作るおにぎりは、何故か塩が多く入っていて塩辛く、当時は文句の一つでも言いたくなるのを抑えて食べていた。しかし、今は暖かく感じる。塩辛い口内をどうにかしようと、キンキンに冷えた麦茶を流し込む。ゴクゴクと音を鳴らして飲むのが良い。この裏技は「母さんのおにぎりはしょっぱいだろ。こうすれば調和が取れるんだ」と幼い頃に父が母には内緒で教えてくれた。 『今回の“やり直し”でやり直せる後悔、三件。内容の確認は不要ですね』 庭の柿の木の前に、場違いなミニドレスが立っていた。 「オマエ…あの時の」 見間違える訳がなかった。俺をここへ連れ戻した張本人。その縦に巻かれた金髪と、光を灯さない群青の瞳。フリルを纏ったレモンイエローのミニドレス、そして黒い傘。正に西洋人形そのものである彼女の姿が、そこにあった。 「はっ、今の時間帯…日陰なのにさすのかよ。」 『…アイデンティティなので。』 「そうかよ。で、オマエなんでここにいるんだ」 『オマエではなく“セラ”です。質問の解答、管理者権限。世界より、時空間での出入りの自由を許可されています。』 「…来た理由を聞いてんだよ。」 『経過観察と概要の説明です。貴方が役に立つか、成し遂げられそうかを見定めるために。』 淡々と告げるセラの瞳は俺を見据えた。さっきから、動揺を隠そうと俺の顔が乾いた笑みを浮かべやがる。なんでここに現れたのか、コイツが何者なのか、俺はどうしたらいいのか…。疑問は収まりきらないほどあった。 「オマエは何者だ。こんな事ができるなんて」 『私は…私利私欲の為に他人の願いを叶える愚者。役職は管理者です。』 そう言うと、セラの姿は徐々に透けて、そして消えた。 「私利私欲…愚者。」 セラの最後の言葉は、それからずっと俺の脳裏にこびりついて離れなかった。 二章 使命感 塩辛いおにぎりも二個目に差し掛かろうという時、突如としてクラシックが家中に響き渡った。くるみ割り人形の軽やかな旋律が鼓膜を揺らし、俺は立ち上がって受話器へと向かう。ウチは風呂も電話もこの曲だから紛らわしい。 「はい、園山です。」 「あ、俺俺。」 「優ちゃんか。どした?」 「海の話だよ、帰る時しそびれただろ?」 「あー。いつにする?」 「八月の…そうだな、十五日とかどう?」 優ちゃんの声に喜色が滲んでいた。俺も思わず、表情筋が緩む。しかし、俺は言わなければいけない。その日はダメだと。 「その日は…荒波になるかもしれん。そんな気がする。」 「えー、そんな曖昧な。」 「とにかくやめとけ。死ぬぞ。」 空気が少しだけ張り詰める。しかしなんとしてでも止めなければならない。あの日、海に行った俺たちは荒波で注意報があったのにも関わらず居座り続け、優ちゃんはタッツーに乗せられて二人ともども入水。海難事故に遭い、そして、二度と帰ってこなかった。 「やめろよ、父親海難で亡くしてる奴が言うと洒落になんねぇ。そうだな、やめよう。ちゃんと注意報とか確認して、徹底リサーチ済みのところにしよう。日付もな。」 「ありがとう。」 「気にすんな。タッツーには俺から言っとくよ。じゃあな」 「おう。じゃあまた」 電話の向こうでプツリと音がしたのを確認して、俺は受話器を置いた。これで、未来が変わったはずだ。戻った時、アイツは元気に笑っているはずだ。そんな期待を胸に。 しかし当日になるまで、無機質な声を聞くこともミニドレスを見ることもなかった。一つ目の“後悔”完遂いたしました、などと言いに来てもおかしくないのに、ほんとうに一度もである。 真夏の日差しが身を焦がす。まるで、紫外線のシャワーを浴びているようだ。 「海だーー!」 タッツーの頭に陽光が照り付け、反射する。優ちゃんも一緒に、波打つ海に向かって白浜を駆けて行った。俺は二人の背を追わなかった。理由は分からない。久々に、気兼ねなく楽しめるのだから、本当は今すぐにでも駆け出したかった筈だ。 「おーい!早くこいよーー!」 二人が大きく手を振り、俺を呼ぶ。その声が俺を現実へと引き戻し、一歩、また一歩と駆け出した。足が砂に埋もれる。その重みと、暖かさと、煩わしさが実感として俺を襲った。 「二人とも、なんか買って欲しいもんあるか?」 「え、なんか買ってくれんの?」 タッツーが嬉しそうに言うので、調子に乗るなと訂正する。 「アホか。金出せ金。代わりに払ってやるから。」 「えー…ケチ。じゃあ俺、かき氷で」 「俺コーラお願い。」 「オッケー、買ってくる。あんまはしゃぎすぎんなよ」 そう言いながら、俺は身を翻し売店に向かう。 「母ちゃんかよ」そんな言葉が、俺の背中に投げかけられた。 ビーチに整列する売店は、流石人気の海水浴場なだけあって多くの客ので賑わっている。夏の乾いた暑さは、陽光に熱されたビニールの屋根越しに伝わる熱波と、客の熱気とでまとわりつくような暑さへと様相を変えていた。中でも特に人気が高い出店が、タッツーご所望のかき氷店だ。親子連れの後ろに並ぶこと、体感数分。店に近づくにつれて、不思議と暑さが緩和されるような感覚に陥る。途中、味を聞きそびれたことについ頭を掻いたが、漂う冷気にその思いは溶け込んだ。結局、無難ないちご味をえらんだ。 かき氷を片手に、トイレの側の自動販売機へと向かった。もちろん出店にも瓶で売られていたが、並ぶ時間や余分にかかる代金を考えれば合理的な判断だったと言える。トイレから出てきた浮き足立つ海水浴客の賑わいを背に、俺は淡々とコーラを買う。一本買って海パンのポケットに突っ込む。自分の分もとボタンに指が触れた時、背中に気配を感じた。驚いて、ボタンを強く押し込み、振り返った。 「…またオマエかよ。」 『お気になさらず。経過観察です。』 数週間ぶりに目にする、白浜にはあまりにも浮いて映るミニドレス。前に会った時と、少し違った印象だ。大人しめのフリルが、繋ぎ止められた桃色の裾と共に潮風に靡く。 「経過観察って…。まあいい、持つの手伝ってくれ。」 『不可。私は誰にも認知されない、言わば“存在しない存在”であるため、物に触れることはできません。仮に持てたとしても、せっかくのオメカシが崩れる可能性を考慮し、必ず拒否権を行使いたします。』 変わらず淡々と織りなされるその言葉には、断固たる意志があった。とは言え、彼女に感情というものは無いようなので、ほんの気持ち程度ではあるが。 「そうかよ。その観察は役立ちそうか?」 『…貴方次第。そうあることを望みます、切実に。対象者、貴方にこんな言葉を授けましょう。“油断大敵”。期待…していますよ。』 心臓が鳴った。こんなことをしている暇があれば、アイツらをちゃんと見ていろと、そう言いたいのだろうか。俺には何か不吉なことが起こると言われている気がしてならなかった。疑問は声にならず、ただ唇だけが開閉した。そして言及する間もなく、セラは澄み渡る空に颯爽と消えたのだった。俺は暫く、彼女の消えた場所を見つめていた。 数秒して、ハッとした。早くアイツらの所へ行かなければ。そんな思いで、必死に走っていった。二人が泳いでいるであろう海へ。 暫く走ると、タッツーが手を振っていた。口元に手を当てて、何か訴えている。だが、その声は俺の耳には届かなかった。彼の後ろに、誰かが寝転がっている。嫌な予感がした。俺はスピードを上げて走った。コーラがどうなるかなんて、考える暇は無かった。手にシロップが付く度に、やっちまったと思いはするが、それ以上何かしようという考えには至らなかった。 「やっと来た〜。おせ〜よ、ソノッチ!」 「ごめん…タッツー、これ。」 俺はタッツーにかき氷を差し出した。 「さんきゅ。って、そうじゃなくて。色々あって優ちゃんがヤベーの!」 かき氷を受け取ったタッツーは一瞬笑顔を浮かべたが、すぐに表情が固くなった。普段より声量を大きくして、後ろを振り返った。俺もそこに視線を合わせる。 「え、これ…」 言葉が出なかった。砂場で固く瞼を閉じる優ちゃんの姿があった。絶句する俺の目をまっすぐに見つめて、タッツーは静かに頷いた。 「さっき、遠泳勝負してたらよ、浮き輪に乗ったガキンチョが流されてて、泣いてて。俺、動けなくて、レスキュー隊みたいなのに連絡しようって言ったんだけども、優ちゃん聞かなくて。それで…ガキンチョ連れてここまで戻ってきたら、疲労で。でも……安心しろよ、ただの気絶だから。疲労と酸欠が原因の。」 心配そうに優ちゃんを見つめるタッツーは、俺を元気づけるためか無理して笑っていた。優ちゃんの様子は、海水浴場なら割とよく目にする、“浜で寝ている人”にそっくりだったから特に騒ぎにはならなかったのだろう。ただ、俺は安堵に腰を抜かした。死んでいなかった。命がある。ああ、なんて素晴らしいことだろうか。視界が滲む。口角が上がる。慌てるタッツーの顔が、ボンヤリと見えた。 「バカ…優ちゃん。お前、心配かけさせんなよバカ。どんだけお人好しだよバカ…!」 俺は、そう言いながら手に持っていた缶を優ちゃんの頰に当てた。 「え…バカ言い過ぎじゃね?」 横からそんな戸惑う声が飛んできたが、どうでも良かった。タッツーも俺の隣に座り込むと、少しずつかき氷を食べ始めた。 「うるせぇバカ。お前もだよバーカ。あんな必死に叫びやがって、走り損だわバーカ。」 「ひでぇ。俺、優ちゃんとお前が親友だから早く教えてやった方がいいと思って。俺の善意だろ! 許せよ!」 「やだね。無駄にハラハラさせやがって。優ちゃんも優ちゃんだ。出来ねぇことすんじゃねぇよ…タッツーの方が体力あんだろーがバーカ。」 「ははっ……酷いなぁ。ケホッ、動けなかったタッツーよりマシだと思うけど。はっははっ…ケホケホッ、ふふっ。」 その時、聞き慣れた笑い声がした。いつもの調子で、されど弱々しい声。優ちゃんが目を覚ました。驚いて硬直した俺の腕を掴み、優ちゃんはゆっくりと起き上がった。 「優ちゃん…」 「ふふっ、ケホッ…命救ったのに、こんなに怒られるなんて思わなかったよ。それに…オマエが、俺にキレたの初めてじゃね?」 優ちゃんは俺の方を見てニッコリと微笑んだ。 「…別にキレてねぇよ。ただ、命は大事にしろよ。」 「そうだね、ありがと。あ、そうだ。コーラ買ってきてくれた?」 優ちゃんが手を差し出したので、その手のひらに持っていたコーラを押し当てた。すると優ちゃんの手のひらが缶を包む。プルタブを開けると泡が吹き出した。それを見て、俺は瞬時に目を逸らした。 「えっ、なんで? もしかしてソノッチ振った?」 「あー…いや。」 「あ…そういや走ってたよな、ソノッチ。」 「ふーん……それって俺のためかな?」 優ちゃんは、勢いよく俺の方に首を回すと、先ほどとは打って変わってニマニマと悪い笑みを浮かべていた。気恥ずかしくなって、俺は顔を背けたまま返事の代わりに頷いた。 第三章 宿命 海の件が終わり、帰宅するとセラが現れ、一つ目の後悔を達成したと告げた。その後も、俺は順調に残り二つの後悔を遂げた。高校時代、一年の時からずっと好きだった山川桜という女性に告白した。振られてしまったが、告れば良かったという後悔は打ち消され、寧ろ晴々とした気分だった。そしてその後、正に棚ぼただが彼女が出来た。聞けば、俺が山川さんに告白したことを聞いて危機感を持ったのだと言っていた。可愛らしくて優しい彼女に、俺はもう山川さんへの恋心を忘れつつある。もう一つの後悔は勉強をしなかったこと。正確には、本気で取り組まなかったことだ。結局、いい大学を出ないと良い就職先に就けない。生きていくために金は大事である。あと十数年すれば還暦だった未来の俺は、工事現場で作業をする作業員。それも小会社の雇われだった。運悪く経営の下手な社長に雇われてしまった俺は、運悪く同期達と良い関係を築いてしまって、辞めようにも辞められず、そのままグダグダ働いていたのだ。働くことに何の意義も見つけられず、歳を重ねるに連れ、もはや自分が何をしているのかさえ曖昧になってくる。そうなると、今度は年金のことなどを考えてしまい、虚しくなるばかりだった。そんな未来を変えるべく、俺は良い大学を卒業する為に勉強をしようと決めたのだ。 一年が過ぎ、試験の結果が出た。受験票を握る手は濡れて、冬なのに何故か暑くて仕方がなかった。喉が渇いて、鳴ってしまった。試験結果が発表される、会場に足を踏み入れ、覚束ない足取りで掲示板へと歩みを進める。人混みに入り、俯いていた顔をそっと上げる。 「22231………あった!」 喜びに声量が突き上げられた。周りがこちらに振り向いたので、気まずくなってすぐに視線を落とした。 かくして、受験も成功に終わり、晴々しい気持ちで門を通過すると、その時が来た。 『ドーパミンを検知。随分と嬉しそうですね、対象者。』 「まあな。これで俺の未来も明るいはずだろ。」 『対象者の三つの後悔が、すべて成し遂げられました。これをもって“やり直し”のプログラムを終了。世界に、未来への“帰還”を申請…受理されました。』 セラは淡々と言葉を紡ぐ。俺はそれを黙って聞いていた。ようやく、俺の望んだ未来が来る。ただ、その喜びに浸っていたのだ。 『対象者の願いが完遂されたので、代償“希望”をいただきます。それでは、輝かしい理想の未来へ帰りましょう。』 セラのその言葉を聞いた途端、すぐに光が俺を覆った。一年前も、あの月夜と暗い空間で浴びた光。身に馴染みがありすぎる光に、思わず目を眩ませる。 目を開いた。先ほど浴びた光のあまりの眩しさに、視界が安定しない。しかし、独特の抑揚を持つ言葉の羅列が俺の耳に入ってきた。一人から発せられる、低音の呪文のような声。それはゆっくりと形を帯び、そして数秒するとハッキリと聞こえてくる。 「…南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛…」 お経だ。周りは黒い服と重い空気を纏う。間違いない。これはきっと、葬式だ。しかし一体、誰の。和尚や他の人の背に隠れて遺影が見えない。 お経が唱え終えた和尚が立ち去ると、他の人々も続々と立ち上がって部屋を出ていく。俺も人の流れに押されて、部屋を出た。 「一体誰のだ…いきなり葬式なんてどうなってる…?」 俺は廊下のベンチに座って、俯きながら呟いた。 「あの…貴方って。」 話しかけられて、顔を上げると歳を召したふくよかな女性が立っていた。 「はい…?」 「貴方、園山さんとこの大地君よね?」 「はい。」 「やっぱり…来てくれたのね。良かった、無理かもしれないって覚悟してたから。来てくれてありがとうね」 「いえいえ。えーっと…」 女性は俺の手を握ってニッコリと笑った。その目の下には泣き腫らした跡があり、その手は水仕事に荒れて、冷たくボロボロだった。 「やっぱり分からないわよね。長らくあってないもの。じゃあ改めまして、私、優吾の母親です。」 「えっ…」 俺の困惑は、殆ど聞こえないほど小さな声となって現れた。地獄耳だった優ちゃんの母も、加齢と共に耳が遠くなったのか、反応せず言葉を並べた。 「びっくりしたでしょう。突然手紙が届いて。でも、貴方は優吾の一番の親友だったから、絶対に伝えないとと思って。ごめんなさいね。でもまさか、私も母親の私より先に逝っちゃうとは思ってもなかったから…」 言葉が出ない。優ちゃんの母の発言に全てを悟った。悟ってしまった。突然のことに、どう返せば良いのか分からず、俺はショックに黙り込むしかなかった。あの遺影に映っていたのは、優ちゃんだ。優ちゃんは、死んでしまった。どういうことだ。やり直したのに、どうして未来が変わっていない。絶望とセラへの怒りが同時に込み上げる。後悔は完遂されたと、彼女は言ったのだ。だから俺は安心してコッチに帰ってきた。そしたらなんだ、変わらないじゃないか。悔しいと思う気持ちは、涙となって溢れ、そして落ち続けた。 「……ごめんなさいね。私なにか言ってしまったかしら。」 「ああ、いえ。本当に優ちゃんが居ないんだと思うと、辛くて」 「ありがとう、大地君。息子のこと、そんなに思ってくれるなんて、あの子もきっと幸せだわ。それでね、渡したいものがあるの。いいかしら?」 優ちゃんの母親は、俺が落ち着くまで待って、優しく語りかけてくれた。肩にかけていた黒い革製の小さなバッグから封筒が取り出された。 「それは…?」 「息子から貴方への手紙よ。書いたのは随分と前のことだけど、今となっては遺書のようなものかしら。」 受け取る手が震えた。優ちゃんは俺に、何を遺したのだろう。それを知りたいと思う反面、中身を見てしまえば彼の死という現実が突き付けられるような気がして怖かった。 「ありがとうございます」 俺は恐る恐る開いた。そこに書かれていたのは、決して己の死を悟った者の言葉ではなく、遺書というには些か気の緩むものであった。これは、友人に宛てた何処にもでもあるような平凡な手紙なのだ。まさかこの後に亡くなるとは、本人も予想だにしなかったことだろう。コイツは、俺と会える“いつか”が来ることを、朝は太陽を浴びて動き夜は月に照らされる当たり前の“明日”が来ることを微塵も疑っていなかった。“オマエと会えたらこんなことがしたい”“これからこんなことがあるんだ”なんて予定の話をツラツラツラツラと。せっかく止まったのに、また溢れ出る。手紙に染み込み、手や頰は濡れる。俺は手で口元を覆い、必死に嗚咽を抑えた。 優ちゃんの母は、手紙を渡すと俺が落ち着くまで待ってから死因の話をした。ライフセーバーになった優ちゃんは、海で溺れる親子を助け、自分は代わりに亡くなったと。 帰り道、何か分かるかもしれないとスマホの連絡アプリで優ちゃんとのトークを見た。遡ること十七年前。 『俺、ライフセーバーになれた!』 『マジか! おめでとう。けど、なんでまた』 『高ニの夏、覚えてる?』 『うん』 『あの時に、助かった男の子やその親御さんの喜ぶ顔が印象的だったから』 『そうか頑張れ。俺は応援する』 『おう! さんきゅ』 何気ない会話だった。だが、読み終えた瞬間、ため息が漏れた。色んな考えが頭の中を回り、俺はスマホを持つ手を力無く下ろした。無力な俺にどうしようもなく腹が立つ。 「…くそっ」 小さくぼやいた。誰にも聞こえないくらい、小さく。でもアイツは現れた。 『カスタマーの不満を検出。対象者、状況は芳しくなさそうですね。』 「…他人行儀だな。オマエ、言ったよな、俺に。後悔は遂行されましたってよ。」 『ええ。事実、貴方の後悔の元は断ち切れました。この年齢になるまで、貴方は後悔なく過ごしましたよ。』 「それだよ。じゃあなんで、なんで優ちゃんは死んじまったんだよ。」 俺はセラを睨みつけた。まるで親の仇とでも言うくらいに、これでもかと。しかし、セラは微動だにせず、淡々と答えた。 『対象者、貴方の“後悔”は断ち切れました。“後悔”とは、感情であって事象ではありません。その先に起こる事象を取り消すサービスは、行なっておりません。』 「ふざけんなっ! 俺の後悔は、優ちゃんを救えなかったことだ。変わってねぇよ、これじゃあ…。お前もやっちまったと思ったから来たんだろ。」 『…否。過去の貴方は、小倉優吾を救っています。未来が不幸に傾いたのは、代償の相乗効果でしょうか。私が来たのは、カスタマーである貴方からのレビューを参考にして次なる対象者へのサービスを最適化するためです。管理者としての最重要任務ですから。』 「なら、その次なる対象者ってのに、俺を選んでくれよ。」 俺は顰めていた眉の力を抜いた。 「優ちゃんには、生きててほしいんだよ…。」 『…それは、願いとして認識しますが、宜しいですか。』 「ああ。」 セラの言葉に答えた瞬間、視界が真っ白になった。眩しい光に目を眩ませ、それからそっと瞼を開く。慣れたものだ。 背中を焼くような激しい陽光と、揺らめく空気が俺の身体を包み、大して涼しくもない風が吹き抜けた。 「おい、なあ、聞いてんの?」 やけに近い親友の声に意識を覚醒させる。握っているのが受話器だと気づくのに、そう時間はかからなかった。 「あ、ああ。ごめん、考え事してた」 「いいけどさ、で、どうすんの?」 「どうって?」 俺は、念の為に聞き返した。優ちゃんへの申し訳なさに、内心肩身が狭くなる。 「だから、海。行くの?」 「…なあ、俺やっぱプールが良いわ。」 それは未来を変えるため、俺が意を決して、絞り出した答えだった。緊張で、喉が渇く。縁側に置かれたままの麦茶に視線をやった。 「プール?なんで?」 「海って何かあったら怖いだろ。」 思わず、そこで言葉を切った。“海”と言う言葉を口にした瞬間、記憶が脳内を駆け巡り、かと思えば俺の足の裏は架空の砂浜を踏んでいたのだ。それは絡みつくように、俺の身体を蝕む。体が焼けるように熱くなった。 「…ホラ、波とか。その点、プールはクラゲも強い波も不安になる広さも水深もない。溺れる可能性はあっても、まだマシだと思って」 「そっか…。って、もっともらしいこと言ってるけど、それ単に海怖いってだけだろ。オマエ意外と可愛いとこあんのな」 優ちゃんの声は明るくて、イタズラっぽかった。受話器の向こうでニヤニヤとしている姿が目に浮かぶ。 「…るっせぇ。」 「ははっ、いいよ。別にプールでも。タッツーのことは気にすんな。泳げればなんでも良いだろ、アイツ。」 「いいのか?」 「うん。アイツには俺から言っとくよ。じゃ」 「ありがとう。」 受話器の向こうで、通話の切れる音がした。それを確認して、俺も受話器を置いた。 深く息を吐いて、周りを見渡した。縁側の方も見た。ひょっとしたら、セラが現れるかもしれない。そんな、僅かな希望を抱いて。 「…まあ、いないわな。」 そう言って、畳に身を投げ出した。大の字になって、ただ一点に天井の木目を見つめる。優ちゃんの生存確率を上げるために、他にできることはないか。必死に考えを巡らせ、脳を回転させるも思い付かない。結局、暫くして一旦考えるのをやめた。もう寝よう。そう思って瞼を閉じた。その時だった。 『対象者、起きてください。』 無機質な少女の声を聞いて、閉じたばかりの瞼をゆっくりと開く。目の前に、見覚えのある整った顔があった。まるで職人が緻密に作り上げた仮面のような“整いすぎる”顔。傍目から見れば、それこそ「人形のようだ」「傾国の美女だ」と言われて然るべき美貌なのだが、故に彼女はどうも人間らしくない。恐ろしく表情の変化が乏しいのだ。それゆえに、俺にとっては、どうしても気味が悪く感じる。 「…やっと成功か?」 『いえ、代償を伝えに参りました。生命力を、僅かに頂きます。』 セラの長い髪が、俺の顔撫でる。嫌になって、払うようにしながら起き上がった。“やり直し”に代償は付き物だ。このくらいで驚いてなどいられない。 「僅かにって、どのくらいだ?」 すると、セラは静かに人差し指を立てて見せた。 「…十年か。八十年生きるとしたら、ははっ、七十まで生かしてもらえんだな。悪くねぇ」 『理解不能。代償に対する反応が想定外です。』 セラは首を傾げた。俺が絶望に頭を抱えるとでも思っていたのか。なんにせよ、この機械のような少女の貴重な困惑が可笑しくて仕方がない。無論、表情には出ていないが。 「オマエには分からねぇだろうが、人間ってのは目的のためなら命だって惜しまねぇ。心を鬼にする。そういうもんなんだ」 『尚更、理解できません。愚の骨頂です。』 「そうだな。俺は愚かだ。そう言われても仕方がない。もっと命に執着して喘いでいる方が、よっぽど人間味がある。それもそうだ。だけど俺は、またあの時みたく死んだように生きるのはごめんなんだ。」 俺は、真っ直ぐにセラを見た。これは、俺にとっての決意表明だ。たとえ管理者の想定を外れて、貶されてたとしても、また優ちゃんのいない世界でダラダラと生き長らえるのは嫌だ。 『やはり理解できません。が、今回は引き下がります。』 「そーかよ。」 俺の返事を聞いた後、セラの顔付きが少し変わったような気がした。 『…警告。対象者が失ったものは戻って来ません。時と共に対象者を侵すことでしょう。ゆめゆめお忘れなきよう。』 そう言うと、セラの輪郭が夏の熱波にゆらりと溶けて消えた。なんとなく、後味の悪さに頭をかく。それでも、喉の奥につっかえる何かは、拭い去れなかった。 「失ったものって…代償のことか。」 膝に重心を置いて立ち上がる。イグサの香りが舞った。縁側に止まっていたトンボが、俺の足に気付いて逃げるように飛び去った。腰を落とし、あぐらを描く。 「まあ…戻って来たらそりゃ“代償”とは言わねぇわな。」 掴んだおにぎりを口一杯に頬張る。強い塩味が喉を焼いた。急いでコップを取ったが、空っぽだった。そういや、飲んだんだっけ。 四章 そういう星の下 あれから暫く経って、市民プールを訪れた。俺と優ちゃんと、それからタッツーもみんな一緒に。更衣室は、塩素の匂いというよりも、男性特有のむさ苦しい匂いが充満している。臭くはないが、妙に籠っていて少々不快ではあった。足元のプラスチック製のすのこは、濡れていないところがないくらいに水浸しになってしまっている。陽光で温くなった水溜りに、ワザと足を突っ込んで蹴った。足の甲だけでなく脛も濡れて、プールサイドに出るとそこだけが冷んやりとした。 プールサイドに出るや否や、一目散に流れるプールへと駆け出して行ったタッツーを見送って、俺たち二人は腰を下ろした。お尻に床の凹凸模様を感じながら、沈黙の中、口を動かす。 「プール…久しぶりだよな」 「あ、うん。そうだね。」 優ちゃんはそこで言葉を切ると、一瞬視線を落とした。しかし、直ぐにまた顔を上げ、続ける。 「…入らないの?」 「え?」 「プールだよ。」 「なんか、そんな気分になれない。提案しといてなんだけど。お前は?」 「俺も。」 また、沈黙。時の流れが、やけに遅い気がする。でも、不思議と気まずさは無い。 「なあ、覚えてるか? 俺らが幼稚園の時だったか、公園で悪ガキにスコップ取られて、半べそかいてる俺の隣でお前は一人立ち向かってた。」 「えー、そうだっけ?」 「ああ。ソノッチのスコップだよ、奪うんじゃなくて自分の持ってきなよってな。お前は昔からそうだった。」 俺は、丁度目の前を流れていったタッツーに、手を振り返しながら言った。 「マジか。ヒーローじゃん、俺。」 優ちゃんは、こちらを向いて快活な笑顔を浮かべた。 「…そうだな。けど、あの後お前は悪ガキに殴られて怪我したろ?」 「あー…ごめん。それも覚えてないわ。ってか、どうしたオマエ。今日なんか変だぞ」 そう言うと優ちゃんは、空気を誤魔化そうとこちらを向いていた顔を正面に戻し、渇いた笑顔を浮かべた。 「……本当に覚えてないんだな。数え切れないくらい人助けして来たオマエにとっちゃ、この出来事も、沢山あるうちの一つなんだろうけど。」 俺の言葉を聞いて、優ちゃんは、正面を向いたまま目を僅かに見開いていた。しまった。故意ではなかったとは言え、この言い方は不味いぞ、俺。これじゃあまるで、コイツに失望しているみたいじゃないか。 「…すまん。言い方が良くなかった。今のは忘れてくれ。」 「…分かってるって。オマエがそんな奴じゃないってことは。」 「そうか。良かった」 「で?多分だけどオマエ、俺に言いたい事あるんだろ?ホラ、言ってみろよ」 いざ構えられても、喉の奥で言葉が詰まる。これは言ってはいけない言葉だ。分かっている。 それでも俺は、言わなければならない。例え、親友に幻滅されたとしても。 「……人を、助けるな。自分を犠牲にしてまで、助ける必要がどこにある?」 「えっ…」 「お前の命は、そんなに軽いのか?」 話すたび、その言葉が重くのしかかる。口を開くのさえ億劫だ。 「このままだとお前、また無茶するだろ。」 喉が、感情を抑えようとすればするほど焼けるように痛い。声が震える。顔すらまともに見れない。 「俺は、お前に死んでほしくない…!もう、見たくないんだ!だからもう、人助けなんて…!」 最低だな、俺。こんなことを言えてしまう俺が、つくづく嫌になる。 整理の付かない感情の渦の中で、気付けば涙が止まらなくなっていた。 優ちゃんも、口を開けたまま固まっている。 「あ…その、すまん。ちょっとびっくりしたわ。」 優ちゃんは、そこで一度言葉を飲み込み、息を整えた。 「…うん、いいよ。分かった。」 「え?」 「なんだよ、オマエが言ったんだろ。俺はこれから、人助けに命は賭けない。ちゃんと自分を大事にする。」 笑っている。こっちを向いて。どうして笑えるんだ。俺は、オマエに人として間違った事を言ったはずなのに。それなのになんで、いつも通りの笑顔を向けられるんだ。 「だけど助けないってのは無理だな。俺は、困ってる人を放って置けないタチなんだ。分かるだろ?」 ここで何か言うのは違うと思った。俺はただ、頷くことしかできなかった。  涙でぐちゃぐちゃになった顔を、タッツーに見られたくなくて、あの後俺はトイレに向かった。手で作った器に水道水を溜めて、思いっきり顔にかけた。ふと顔を上げると、鏡に映った自分と目が合った。 「ブッサイクだなぁ…」 そう言いながら、また涙が出た。声を殺して泣いた。涙が止まるまで、何度も水を被った。鏡は、ひどく歪んだ俺の顔を写し続けた。  涙が止まるのに、かなり時間が掛かった。ここに来てから、もう十分くらい経っただろうか。顔の腫れも、だいぶ目立たなくなってきた。 「よし…行くか。」 顔を上げて鏡を見ると、俺の背後に、いるはずのないアイツが映っていた。俺は反射的に振り向いた。 「まさか…」 『心拍数の安定を確認。会話を開始しても良さそうですね。』 「セラ…」 『まるでバケモノを見たような顔ですが、私は貴方を驚かせる目的で来たわけではありません。』 ブロンドの巻き髪が、藤色のフリルドレスをなぞる。その冷たい瞳に、刺されたような気がした。 「…別にそうは思ってないが、何の目的でここにいる?」 『未来への帰還が可能。帰還するか否かを問いに参りました。それで、いかがしますか?』 未来への帰還…。ついにこの日が来た。しかし、本当に帰っても良いものなのか。 「それはつまり、優ちゃんが生きている未来が確定したってことか?」 『否。対象者は“ここ”で実行可能な回避行動をやり切りました。これ以上何をしたとしても、未来に変動はありません。しかし、それでも滞在を望むのならば、対象者の意思を尊重します。』 もう、何をしても変わらない。確定したわけじゃない。なら、どうすればいい。最悪の未来を想定して、もう少し優ちゃんとの思い出に浸るか。それとも…。 「……ここにいても、どうせ何も変わりやしない。帰ろう。帰って、年取った優ちゃんの顔を拝んでやろう。底なしに明るい、あの顔を。」 『…了解致しました。世界に、帰還の許可を申請。許可を確認。』 セラの胸が光る。遅れて、ドレスと髪がふわりと持ち上がった。見慣れた光景だ。 『…実行可能な回避行動の達成を確認。対象者から代償を徴収致しました。では、可能性の未来へと帰還しましょう。』 その瞬間、眩い光が俺を包んだ。  光が消えて、少しずつ視界がはっきりしてくる。小鳥の囀りと、穏やかな陽光が心地よい。ふと鼻に、何かが張り付く感覚がした。つまんで取ると、それは桜の花びらだった。そういえば、目の前に広がる地面には桜の花びらが無数に散っている。まだ絨毯と言うには隙間が目立つが、確かに春は来ていた。 「おーい!」 声がする方向を向くと、大きく手を振り駆ける男の姿があった。見覚えのある雰囲気と、忘れるはずのない声。俺も大きく手を振り返した。 「優ちゃーん!こっちこっち!」  隣に座る親友の姿が、未だ信じられない。生きて会うことができるなんて、驚きで胸がいっぱいだ。これを望んで頑張ってたのと言うのに、いざ叶うとうまく受け止めきれない。 「ソノッチ、最近どう?」 「あ、えーと…良い、と思う。たぶん」 俺は、いきなり投げかけられた質問に、しどろもどろに答えた。 「たぶんって。俺は、消防士になれたし、もう少しで家族も増えるし…順風満帆だよ。良すぎて逆に怖いくらいだ。」 優ちゃんはそう言って笑った。あぁ、これだ。これが見たかったんだ。 「って…え?家族が増える?」 「あ、言ってなかったっけ。俺、八月には父親になるんだよ。」 「は…?え、おめでとう。」 びっくりしすぎて腰が抜けるかと思った。思わず間抜けな声を出してしまった。そうか、優ちゃんが父親か。 「でも、そっかぁ…優ちゃんが父親って感慨深いな」 「何言ってんだよ、オマエも父親じゃん。俺からしたら、オマエに年中の娘がいる時点で意味わかんないんだから」 え…?俺、結婚どころか子持ちなのか。まさかの事実に、思考が一瞬止まる。いや、今はそんな場合ではない。ここで動揺を感じ取られると不自然すぎる。死ぬ気で隠せ、俺。 「ははっ、俺も自分が父親なんて未だに信じられねぇよ。」 「俺ら幸せすぎて、一周回って本当に自分の人生か疑わしいよな。」 「そうだな。本当に幸せだ。」 妻子の顔は分からないし、思い出もこの体が積み重ねただけだ。肝心の俺は実感がない。それでも幸せは感じる。優ちゃんが生きて、笑って、幸せだと言ったのだ。 「ははっ、噛み締めてんなぁ…幸せ。なあ、見ろよ。ちょうどあの子くらいじゃないか?オマエんとこの娘。」 優ちゃんはそう言って、サッカーボールを蹴って遊ぶ四歳くらいの少年を指差した。確か娘は年中らしいから、たぶん優ちゃんの言うことは正しい。 「ああ、そのくらいだと思う。帰りが遅くて幼稚園の送迎なんてしねぇもんで、娘の同級生も見ることないから分かんねえけど。」 「まあ、そんなもんか。」 納得したように一人頷くと、今度は晴れやかな笑顔でこちらを向き直って話し始めた。 「それで、俺んとこの子供、男なんだってさ。生まれてきて成長したらこうなるのかなって、公園来て遊んでる子供見ると、近頃はそればっか考えるんだ。まだ名前すら決まってないってのに、笑えるだろ?」 「…順調に親バカへ向かってるようで何よりだよ。本当、幸せそうだ。」 「ああ。」 俺たちは、暫く何も言わずに少年を見つめた。きっと優ちゃんは未来の息子を重ねて。俺はまだ見ぬ娘を想って。  視線を戻すことなく、また会話は始まる。 「なあ、優ちゃん。俺らが高校生の時に、プールで俺がお前に言ったこと、覚えてるか?」 「…うん。“人を助けるな”“命を大事にしろ”だろ?」 「ああ。消防士になったってことは、やっぱ人助けはするんだな。」 そう、優ちゃんの口から“消防士になれた”と言う言葉を聞いてから、少し引っかかっていたことだ。決して安全とは言い切れない仕事。それをするという親友を前に、過去の俺は一体何をしていたのか。 「当たり前だろ。てか、そんなこと言ってオマエも救急隊員じゃん。俺が消防士になるって言ったとき、“じゃあお前が死にかけたら俺が助けてやる”って言ってオマエも道を決めたろ?」 「…そう、だったっけ。」 勿論、そんな事を言った覚えはない。でも、優ちゃんの話から察するに、優ちゃんの死を回避する事を完全に諦めたわけではないのだろう。 「…それで、お前“命を大事に”は守れてるのか?」 「それはバッチリだ。死なないために、日々訓練は欠かさないようにしてる。」 そう言って笑う優ちゃんの顔を、俺はなぜか直視できなかった。  少年の蹴ったボールが、風で遠くへ転がり出す。少年はボールを追いかけて駆け出した。母親らしき人が、隣のベンチから立ち上がって様子を伺う。ボールは僅かな時間で公園の外へと飛ばされて行った。 「康太、止まりなさい!」 母親の必死の声も届かず、少年は公園の外へ足を踏み出した。と、同時に、母親と隣に座っていた優ちゃんが立ち上がり駆け出した。少年の元へ。俺も遅れて立ち上がった。二人の後を追いかける。 「康太!」 道の真ん中でボールに手を伸ばす少年。そこに軽トラが迫る。猛スピードで迫り来る軽トラに、これから起こる未来への恐怖で誰も動くことができなかった。ただ一人を除いて。  大きく鈍い音が響く。あまりの恐怖に目を瞑っていた俺と、絶望に顔を覆っていた少年の母親が、同時に恐る恐る目を開いた。母親は少年の元へと駆けた。俺は、その場にへたり込んだ。 「うそ…だろ。」 嘘だ。嘘だ嘘だ。なんで…なんでだよ。信じたくない。こんなことがあってたまるか。 「優ちゃーん…!ああああ…!」 硬く目を瞑った優ちゃんの元へ、急いで駆けつけた。血で滲んだジーパンとシャツ。死”の一文字が脳裏をチラつく。いくら考えても“なぜ”“ありえない”“嫌だ”という言葉だけが、グルグルと俺の中を駆け巡る。考えれば考えるほど、うまく息ができない。 ダメだ。そんな事を考えてパニックになっている場合ではない。少年の母親は、俺の後ろで救急車を呼んでくれていた。俺は、できる事をするしかないのだ。 「優ちゃん、頑張れ。」 人工呼吸と心臓マッサージを一定のタイミングで切り替えて繰り返す。学校で習ったほんの数回程度しかやった記憶はないはずなのに、妙に慣れた感覚だった。救急隊員であるこの体が覚えていたのだ。 通報を終えた母親に止血を頼み、胸を押す。また息を吹き込む。無理か…。また胸を圧迫する。何度も押して、また息を吹き込む。頼む…来い。 そのとき僅かに、指先が動いた。胸がかすかに上下する。 「…っ!」 その瞬間、優ちゃんは激しく咳き込んだ。視界が滲む。 「…ごめ…ソノ…」 呼吸が戻った優ちゃんは、咳き込みながら必死に声を絞り出す。喜びに、また視界が滲む。 「しゃべんな!話は後で聞くから」 それでも優ちゃんは、極めて小さな吐息混じりの弱々しい声で、言葉を紡ぐ。 「…あの…子…重ね…ど…しても……死な…せ…たく…な…」 「分かった、分かったから。俺は怒ってねえよ。だから死ぬな!生きて言い訳言いやがれ!」 何度も何度も呼吸を確認する。脈を見ながら何度も。  あれから数分経って、ようやく救急車が到着した。優ちゃんは運ばれて行き、それから間も無く、警察による事情聴取が始まった。聞かれたのは、轢き逃げしたあの軽トラについてだった。俺と母親は分かる限りのことを伝えた。運転手は金髪の若い男で、白い軽トラに乗っていたこと。来ていた服、車のナンバーや、母親に至っては推測にはなるが何処の会社の車かも話していた。 「それで、逃げた男はコイツですかね?あなた方の仰っていた特徴と合致していますし。どうでしょう?」 警察官は、そう言いながらパソコンをくるりとコチラに向ける。事情聴取が始まってから三十分以上が経ち、いよいよ周辺の防犯カメラの映像を確認するに至った。 「そう、ですね。コイツだと思います。」 「ええ。白いパーカー着てて、金髪…間違いないです。」 「分かりました。これで捜査を進めていきます。ご協力いただきありがとうございました。あともう少しここにいていただくことにはなりますが、ご容赦ください。」 警察官がそう言ったとき、誰かの着信音がけたたましく鳴り響いた。 「はい、もしもし也浜。はいっ…あ…そうですか。分かりました。あ…いえ結構です。皆さん揃ってますから…ええ。ええ、はい…私から伝えておきます。では」 着信音の原因はどうやら、今まで事情聴取を担当していた警察官の部下のスマホだったようだ。 「也浜ァ、音量考えろよ。」 「すいません。」 「で?何があった?」 「被害者の、小倉優吾さんが…たった今息を引き取られたと。病院の方から連絡がありました。」 その言葉に、目の前が真っ暗になった。なんのための“やり直し”だよ。 「は?」 目の前で確かに生きていた親友を、俺は生かしてやれなかった。なんで俺じゃねえんだよ。俺が、死ねよ。代わりに死ね。 「一体…なんのために。何のための、救急隊員だよ」 なあ、優ちゃん。お前の言う通り、もし本当に神様がいたんなら、ソイツは最低野郎だ。殴ってやりたいよ。こういうのを“運命の悪戯”とか言うんだろうか。 「…だとしたら、意地悪が過ぎるだろ。」 噛み締めた下唇に鉄の味が滲む。頬を伝う雫に、もはや理由など無かった。  重苦しい空気が流れ、刻一刻と時間が過ぎ、子供は寝る時間になった。優ちゃんに助けられた子供は今、目の前に止まるタクシーの中で幸せそうに眠っている。コイツはきっと、自分の目の前で起こったことの重大さを理解できていないのだろう。 「あの…本当に申し訳ありませんでした。本当に、謝っても謝っても謝りきれません。あの、その、大切な御友人なんですよね、あの方。」 子供の母親が、こっちにやって来て頭を下げた。あのとき、ボールを追って飛び出した息子を呼んだのと、同じ声色で。彼女は必死に謝った。 「私のせいです。私があの子にちゃんと教えてやれなかったから。あの子を止められなかったから。ご遺族の方々にも、後日謝ります。だから、責めるなら私を…!」 母親は顔を上げ、強い眼差しで俺を一点に見つめる。その言葉に、ハッとした。 「責める…?」 「あの方の訃報を聞いた時から、しばらく自分を責めてらしたから。見ていられなくて…」 あの時の考え事が漏れていたのか。でも俺は別に、謝って欲しかったわけじゃない。悪いのは子供の母親か?違うだろ。轢き逃げした犯人と、救急隊員のクセにアイツを救えなかった俺。それが分かってるからこそ、余計に苦しい。 「だから、本当にすみませんでした。」 感情の置き場がない。吐口がない。どこにも、行き場がない。誰かを責めたい。人のせいにして逃げたい。ヘドロみたいな感情が、俺の中で渦巻いてジワジワと俺を毒す。 「いや、謝らないでください。謝るより、感謝した方がアイツは喜びますよ。ひと段落したら、ぜひ康太くんを優ちゃんの墓に連れてって、元気な姿を見せてやってください。」 「はい。ありがとうございました。失礼します。」 手を振って、作り笑いでタクシーを見送る。ホンネ一割。嘘でも無い何かが九割。間違ったことは言ってないけど、心にも無いことは言ったような気がする。これで良かったんだ。正しい大人の対応をした。これ以上謝られても、きっと決まりが悪かったろう。 じゃあ、なんなんだ。この感情は。 「わっかんねぇ…」 ため息と共に溢れ出した。項垂れて、またベンチに腰掛けた。もう春だと言うのに、眼前の自販機には未だコーンクリームの姿が残っていた。 「わっかんねぇよ…もう。」 声が震える。俯くと、涙が太ももに染み込んだ。次々とシミが増えていく。 『…やり直しますか?』 「え…?」 聞き覚えのある声に、思わず顔を上げた。あまりに突然のことに腑抜けた声が出る。 『…やり直しますか? 救助対象の死亡が確認されました。まだ成功ではないでしょう。』 「…お前の言うとおりだよ。無念も無念。後悔しかない。」 俺は涙を拭って、セラからの問いかけに答えた。 『では…』 「ああ、頼む。」 そう言って頷き、言葉を切る。 「アイツは…きっとそういう星の下に生まれたんだ。人を助けなきゃ気がすまねぇ。それでも、アイツが助けなくて良いように、俺が…」 『対象者の意思を尊重し、“やり直し”を発動します。尚、発動に必要な代償は“記憶の一部”とします。』 眩い光が、言葉と共に放たれた。光の中で、腫れた瞼がヒリヒリ痛んだ。 五章 何度でも  目が覚めた。と言うのが正しいだろうか。気が付けば寝床の上だった。見渡せば知らない家具の数々。寝床もベッドだ。俺の知っている我が家じゃない。すぐに体を起こして、ドアを開いた。見た感じ、綺麗な一軒家という印象を受ける。 「フローリング…」 狭くて汚い畳のアパートとは、比べ物にならないな。ひょっとするとここは、新居なんじゃなかろうか。前に優ちゃんが俺が既婚者だと言っていたことを思い出し、そんなことを思った。  手すりの付いた階段を降りると、すぐにドアが現れた。押し開くと、リビングダイニングが広がっていた。 「あら、起きたの?」 キッチンから女性の声がした。多分、妻だろう。 「…おはよう」 「おはよ、朝ご飯できてるよ。そこに置いてるから。」 妻が指差した先を見ると、定食のような朝ごはんが並んでいた。 「ありがとう。なんか豪華だね」 「何言ってんのよ、いつも通りじゃないの」 「そうだっけ…。じゃ、いただきます」 「はいどうぞ」 まず、味噌汁を口に運ぶ。優しい味が、ボロボロの心に深く沁みる。 「…うまい」 米の甘さも、だし巻き卵の温かみも、俺の萎んだ心を癒すのに十分だった。 「ご馳走様でした。」 「お粗末さまでしたー。」 そう笑顔で返すと、俺が運ぶより早く皿を持って行ってしまった。俺は礼を言って、すぐに家を出た。娘の顔も見てみたかったが、仕方がない。普段から休日はなかなか起きてこないらしいが、今日もそうだった。気持ちよく寝ているのに、わざわざ起こすわけにもいくまい。  優ちゃんと待ち合わせる公園に足を踏み込んだ。またあのベンチに座って、呆然と目の前の少年を見つめる。名前は、康太だったか。ボールを蹴りながら走り回る姿を見て、複雑な気持ちになった。 「あっ…おにいちゃん、それちょーだい!」 康太の声に、意識が覚醒した。その指先を辿ると、俺の足元にボールが転がっていた。 「あ、あぁ。ほらっ」 俺は足元のボールを軽く蹴った。ボールは思ったより進まなかった。 「…もう、おにいちゃんヘタクソー。ちゃんと蹴ってよぅ」 自分より少し手前で止まったボールを見て、康太は不満げに言った。俺は笑って答える。 「ははっ、すまん。おにいちゃんボール下手なんだ。」 「あははっ、やっぱりぃ〜!」 「うん…。なあ、康太くん。」 「なんで僕の名前知ってるの?」 康太はそう言うと、心底不思議そうに、俺の顔を覗き込んで来る。そうか、コイツからしたら俺は知らないおっさんだもんな。 「ああ…えーと、康太くんのママが康太って呼んでたのを聞いたから」 「ふぅん…そっかあ。それで、おにいちゃんどうしたの?」 「あのな、ここは公園の入り口から近いだろ?」 この純粋無垢な心を傷つけないよう、慎重に言葉を紡いでいく。 「うん…」 「ボールはどこまでも転がってくんだ。康太くんが一生懸命蹴飛ばしてたら、いつかボールが飛んでって、あそこから逃げ出してしまうかもしれない」 「えぇー…嫌だよぅ。」 康太は分かりやすく落ち込んでみせた。垂れた尻尾が見えそうなくらいに。 「だろ?だったら、さすがの康太くんでも届かないなって場所で蹴った方が良いと思うんだ。どうかな?」 「うん!そうする!」 すると、小さな手にボールを抱えて、楽しそうに母親の元へと駆けて行った。俺はその姿を見送り、数分ぶりにベンチに腰を下ろした。 「おーい!」 声がする方を見ると、大きく手を振りながら駆けてくる親友の姿があった。 「優ちゃーん!こっちこっち!」 俺も大きく手を振り返した。軽トラに轢かれて死んだ親友と、また話せる。生きている。その喜びに、またも瞳が潤んだ。 「ソノッチ、最近どう?」 「いい感じだよ。今朝も、美味い朝食作ってもらえたし。バッドニュースは…強いて言うなら、娘の顔を拝めなかったことくらいかな。」 そう言って、隣に座る親友に笑いかけた。 「ハハっ、思ってた通り子煩悩なんだな。」 「そうか?」 「そうだよ。どうせ帰れば会えるのに、朝会えないだけでバッドニュースになるんだから。」 「…寝てたんだよ、娘が。起こすわけにもいかないだろ?」 「それもそうだね。」 優ちゃんはそう言って、上に手を組み体を伸ばすと晴れやかな顔で言葉を続ける。 「まあ、もうそろそろ俺も、こんなこと言えなくなるわな。」 「え?」 知っている。八月に父親になるんだろう。だからわざとらしく反応した。 「へへっ、俺さ八月には父親になるんだ。男の子だって。」 「えっ、マジか。おめでとう。」 「ありがと。」 「じゃあさ、これからはパパ会とかできんじゃね?」 「おっ、いいね。子供自慢に花を咲かせて酒の肴に…最高じゃん。」 空を仰ぎ、眩しい日差しを遮り笑う。俺はそんな優ちゃんを見ながら、缶コーヒーを口に含んだ。 「なあ、ソノッチ。俺らが高校生の時に、プールでオマエに言ったこと、覚えてるか?」 優ちゃんも、さっきまでただ撫でるだけだったコーヒーを、ようやく飲んだ。 「…なんだっけ。」 何か大切なことを言った。それはわかる。でもなんだろう。そこだけがポッカリとくり抜かれたようだ。真っ白で、そこに何かがあったということしか分からない。 「おいおい、あんだけ泣いといて忘れたのかよ。ほら、アレだ。人を助けるなってやつ。」 「そんなこと言ったっけ、俺。」 思っていた記憶はあるし、今もそう思う。だけど、口に出していたとは。 「言った言った。目ぇ腫らして必死になって。で、俺は今も死なないように精進してる。」 「まあ、消防士だもんな。人助けどころか常に死と隣り合わせの職種。」 「でも、止めなかったろ。俺さ“オマエが死にかけたら俺が助けてやる。”って言ってくれたことも、俺のために職業決めてくれたことも、すっごく感謝してんだ。超嬉しかったし。」 優ちゃんはそう言って笑った。素直に感謝されると想像以上に照れ臭くて、慌てて残りのコーヒーを飲みほした。  その日は結局、思い出話に花を咲かせ笑い合って終わった。何事もなく、ようやく優ちゃんの生きる世界を生きることが叶った。  あの日以降、セラが姿を現すことは無くなった。俺はただ、娘と妻と三人で暮らし、優ちゃんとは程々に連絡を取り合うだけの生活を続けていた。俺は救急隊員として、色んな人の命を救ってきた。時に手からこぼれ落ちることもあった。その命を大事に思う人々の涙は、生涯忘れないだろう。ぶつけられた言葉、感情の全てを背負って、俺は先の長い人生を生きていくんだ。 六章 エマージェンシー・コール  誰だ、こんな時間に。布団の上、着信音を響かせ震えるスマホを手探りで探す。 「ねむ…」 やっと掴んだスマホを目の前に持ってきて耳に充てる。 「はい、園山です。あ、笹瀬さん。」 「すまんが人手が足りなくてな、ちょっと来てもらえるか?」 「はい…どこっすか?」 最悪だ。まだ眠いのに。 「四丁目の、ロンリープリンセスっていう高層マンション。」 「…分かりました。」 「すまんな、せっかく寝てたのに。申し訳ない。」 全くだ。もっと人材で潤ってくれ、この界隈。だが、そうも言ってられない。 「いえ……すぐ行きます。」 「ありがとう。頼む。」 「うっす…」 重い体を無理やり起こし、静かにベッドから降りる。電気を付けると眩しくて、逆に見えにくい。だが、暗くても見えないのに変わりないので付けた。 「くっそ…笹瀬。言いにくい名前しやがって…さん付けする後輩の身を考えろ。」 絶対に本人の前で言えない事を呟きながら、テキパキと準備を進める。  家を出て車を走らせる。飲んでなくて良かった。一応ナビを設定しようと、住所を入力する。 「微妙に遠いんだよなぁ、あの辺。」 『眠そうですね。』 「当たり前だろ。二時だぞ……ん?」 空耳かと思いつつも、後部座席を恐る恐るミラー越しに見遣る。見覚えのある少女が、静かに座っていた。空耳であって欲しかった。 「なんで…いる?」 『同行させていただきます。』 「だからなんで!」 『前、見なくて宜しいのですか?』 「…はぁ。」 ハンドルを両手で握った。 助けに行く側が、脇見運転で事故りでもすれば元も子もない。だからこそ、セラの半ば強引な言葉には黙るしかなかった。  ミラー越しに見える、後部座席に座った西洋人形が、敵なのか味方なのか、何がしたいのか、俺にはさっぱり分からない。一ミリも動かないし、動いたとすれば綺麗に巻かれた髪に指を通す時くらいだ。  人命救助に向かっているはずの車内は、イマイチ緊張感に欠けていた。突拍子もなく突然口を開いたと思えば、セラの口から出るのはたわいもない話ばかり。 『今日はドール感を意識いたしました。いかがでしょう?』 「…良いんじゃねーの。てか俺に聞くな。」 このくらいの会話量が二分のインターバルを挟んでやってくる。 『火事での死亡率は、一日あたり四・一人。カスタマーは……すぐ死にそうですね。』 「余計なお世話だっ…と。」 『急カーブでの速度維持は死亡率を高めます。』 「へーへー。」  家から十五分をかけて、ようやく現場に辿り着いた。サイレンの音と炎の光、黒煙が立ち込める建物の周りを救急車や消防車が囲み、さらにその周りに野次馬がワラワラと群がる。忙しない人の往来が切迫した状況を物語っていた。そんな喧騒の中、人を掻き分け一直線に進む。 「お待たせしました。笹瀬さん、状況は?」 「お、園山ありがとう。助かるわ。見ての通り、マンション一棟まるまる全焼だよ。軽傷から重症まで、老若男女問わず運ばれてくる。」 「後どのくらい残ってます?」 「後は…三人くらいだよな、田米。」 そう言って、笹瀬は背後の男を見遣る。俺の同僚、田米龍希。驚くほど頭が硬い男で、良く言えば真面目な奴だ。 「はい。住人のリストに基けば。」 「そっすか。」 「今回は、俺が現場指揮補助、田米はトリアージ担当だ。まあ、こっからは俺らも手伝うし、お前は救護所で待機して応急処置を頼む。搬送は他に任せよう。」 「搬送は他隊がします。人は足りませんが救急車は足りているので。園山は気にせず救護所に向かってください。」 「お、おう。じゃあ、俺はもう行きますんで。また何かあれば。」 頭を下げ、その場を去った。  救護所はマンションと地続きの住人専用駐車場にあるらしい。建物から少し離れたところに簡易的だが設置されている。 そこに向かうと、二台ほどの救急車の奥にブルーシートが敷かれていた。救助された二十人近くの住人は、その上で座っていたり、寝ていたり。彼らは共通して暗い顔をし、精神的にも肉体的にも辛そうだった。それもそうだ。ここにいる人々は家を失くし、帰るところもなく、怪我や体調不良があったり、もしかしたら家族が取り残されている人だっているかもしれないのだから。何度も見た光景なのに、やはり慣れない。 「よし。」 切り替えなければ。ここで突っ立ってちゃダメだ。俺は足を踏み出し、丁度女性を運んできた隊員を誘導する。 「ここが空いてるので、こちらに寝かせてください。」 「「はい。」」 「ありがとうございます。彼女の容体は?」 「意識あり。外傷は打撲と火傷。火元と思われる部屋の前にいました。煙を吸った可能性があります。」 「分かりました。引き継ぎます、ありがとうございます。」  隊員たちが次の救助へ向かうのを見送りながら、俺はすぐに女性の処置に取り掛かった。 「大丈夫ですよ。ゆっくり息をしてくださいね」 声をかけながら、意識レベルの確認とバイタルサインの測定、そして酸素投与の準備を進める。女性は恐怖と煙への苦しみから激しく咳き込んでいたが、俺の問いかけに小さく頷いた。トリアージタッグを書き込み、適切な処置を施していく。しばらくすると、女性の呼吸は安定し、少しずつだが声を発せるまでになった。  救護所はまさに戦場だった。泣き叫ぶ子供の声、怒号に近い大人のやり取り、サイレンの残響。そのすべてが耳の奥でぐちゃぐちゃに混ざり合う。 それでも、俺の身体は救急隊員としての最適解を淡々と叩き出し続けていた。何人もの容体を確認し、処置をし、搬送の優先順位を見極める。  次の住人の救助が完了したと報せを受け、救護所の入り口付近に向かって歩き始めた時、服の裾がクイっと引っ張られた。振り返ると、あの女性だった。泣きそうな顔、震えた声で、なんども裾を握り直しながら言う。 「世良……」 「セラ?」 心臓が跳ねた。アイツなわけがないのに。女性は俺の言葉に小さく頷いた。 「娘が…」 「娘さんが取り残されてるんですか?」 「は、い…部屋の、中に。助けて…ください。」 「…善処します。きっと大丈夫です。きっと…ここに来てくれますから。」 安易に引き受けることは出来なかった。救助に絶対は無い。俺はそれを痛いほど知っている。優ちゃんに限った話ではない。どれだけこちらが手を尽くしても助からないケースは少なくないのだ。  時が経ち、最後の救助者が来ると報せが入った。人々は忙しなく動き、未だ鎮火作業は続いていた。対して、ブルーシートの上は徐々に人が減って行き、残ったのは優先順位の低い人々がほとんどだった。あの女性は、少し低めに設定されていたのもあって、娘を待ちたいという気持ちを尊重し、ここに残る事を許可された。 「通してください!」 隊員の叫びに身が引き締まる。彼らが運んできたのは担架二つ。残り一人のはずだが…訪問者でもいたのだろうか。そう思い、運ばれてきた担架を覗き込むと、一つには煤だらけの人形を抱えた煤だらけの少女が、もう一つには消防隊員がいた。 「両者共に意識不明の重体です。煙を大量に吸い込んだと思われます。救急車が来次第、即搬送します。準備を。」 声を鼓膜が受け付けない。言葉が頭に入ってこない。嘘だろ。この顔、まさか。 「…小倉優吾、ですよね?」 「彼と…知り合いなんですね。」 それは静かな肯定だった。 「こちらの少女を運んできた小倉隊員が、出口一歩手前のところで意識を失い…それを運んできたのです。」 「そう…ですか。この子は…」 受け止めきれないまま、俺は他の隊員に運ばれて行く少女に、目線を落とした。 「外傷…特に火傷がひどく、発熱しています。幸い顔は軽いもので済みましたが。名前は逢坂世良。胸元に安全ピンで名札が付いていましたから、間違いないかと。」 「世良……あの方の娘さん。良かった…。」 思わず溢れた言葉は、我ながら気持ち悪かった。親友よりもあの子が救助されたことに、心から喜びを感じている自分が、あまりにも空っぽで。なのに涙が溢れ出た。ぐちゃぐちゃになった胸の内が、整理する間もなく頰を伝い、唇を這って口内に滑り落ちる。少し、しょっぱかった。  俺は急いで優ちゃんの元へ向かった。火傷を冷やし、傷の手当てをしつつ、酸素を投与し、呼吸の観察をする。 「優ちゃん…しっかりしろ。すぐ楽になるからな。」 煙を吸い込んだ苦しみから、優ちゃんは何度も咳き込んだ。打撲と所々に見られる火傷の他に、目立った外傷は確認されなかったにも関わらず、意識は回復の色が見えない。 「くそっ……死ぬなよ優吾。生きるんだ。」 バイタルサインを測定し、メモをする。定期的に患部を冷やし、体を押さえて呼吸がしやすいような体勢をキープさせる。しばらくして処置が終わり、あとは観察し祈ることしかできない状態となった。  なんとなく少女の方を見ると、見覚えのあるフリルドレスが側に座り込んでいた。 「セラ…?」 少女を優しく撫で、慈しむような眼差しで小さな手に、人形に触れていく。表情はいつもと変わらず硬いのに、その冷たいはずの瞳から、初めて人間らしさを感じた。  ふと、人形に目線が行った。青く大きな瞳、長いまつ毛、しっかりと巻かれた長い金髪。いかにも西洋人形らしい風貌だった。そのフリルドレスも、冷たい瞳も、全てがまるでセラのようだった。人形の手には、焼けて持ち手だけになった黒い傘。ドレスだって焦げて穴だらけだ。何度も何度も、セラと人形を見比べた。同じだ。全く同じ顔をしている。驚きに固まっていると、隊員たちが女性と世良ちゃんを引き合わせ、二人の手当てを進め始めた。彼らの背中で、人形と二人のセラは次第に隠れていった。  時が経ち、鋭いサイレンの音が響いた。停車した二台の救急車に、世良ちゃんと優ちゃんが運ばれていく。俺は優ちゃんの方に付き添い、セラはそのまま世良ちゃんに付いて行った。優ちゃんは多くの隊員に見守られながら、病院へと向かう。 「園山さん…大丈夫ですよ、きっと。彼の生命力を信じましょう。」 「…はい。」 このまま死んだとして、優ちゃんの死が栄誉の死だとか言って祭り上げられるのは耐えられない。それは遺族に、俺たちみたいな友人に、死を悲しむなと言っているようなものだから。それに、救われたあの子が生き延びて自責の念に駆られるのも、きっとコイツは望んでないだろう。 「生きろよ…優ちゃん。」 カサカサの硬い手を握って、そう呟いた。  十分後、救急病院に着いた。世良ちゃんの乗った方も、どうやらここらしい。二台がエントランス前に停車し、すぐに担架が運び出される。医者や看護師の忙しない往来。怒号にも似た声が飛び交う。優ちゃん達は奥の方へと運び込まれた。  救急車から降りると、前からセラが歩いてきた。隣に並び立つと、静かに口を開いた。冬なのに、セラの息は濁らなかった。 『彼女は生きたいと願いました。私はそれに応えたかった。』 「…」 『カスタマー、感謝いたします。』 「…なんにだよ。もう、ほっといてくれよ今は。」 『私は貴方を利用しました。』 「あぁ。」 『この瞬間のために』 「そうかよ。」 『…肯定。貴方には酷いことをしました。』 冬の凍てつく風が、顔を撫でる。ふと、空を見上げる。見慣れた星の配置。オリオン座。今夜もはっきりと輝いて、残酷なまでに美しい。 「…今日に限って、雪なんか降らせやがって。」 視界が滲んだ。揺らぐ視界の中、薄れていくセラの姿。少しずつ何も見えなくなっていく。鼻のてっぺんに雪が溶け込んだ。 「俺は…やっぱり冬が嫌いだ。」

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星の話はやめようか。

【あらすじ】星の話はやめようか。

「やり直したい…全部。」 ふいに口をついて出た希望は、吐息と共に闇に溶けたーー筈だった。 凍てつく真冬の星月夜。 フリルドレスは雪と共に舞い降りる。 『願いが確認されました。コード“星に願いを”が発動します。』 「は?」 その瞬間、世界は白に染まり、そして逆行した。 瞼を開くと、そこは可能性の“分岐点” 俺が、選ばなかった未来への“分岐点”が広がる異空間。 『代償を検出…失敗しました。ルーレットを開始します。』 西洋人形の、機械的で何処か小気味良いドラムロールが告げたのは、“希望”という余りにも重すぎる代償だった。 本来なら失われるはずだった日常。 あるいは、救えなかった未来。 知っている“結末”を変えるため、過去をなぞり直していく。 これは、 星に願った一人の人生と、 その裏側で叶えられなかった“もう一つの願い”の物語。 ——それでも人は、願わずにはいられないんだよ、きっと。 ※ 募集期限は過ぎてしまいましたが、この物語は最後まで必ず書き切ります。お待たせしますが、後悔はさせません。安心してお待ちください。

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【あらすじ】星の話はやめようか。

開く側

「ようこそ。」 意地が悪いと思った。この男は、人心掌握の術をよく理解している。ワザと幅の広い鉄格子を用意し、その先に鍵を置いたのだ。どうせ送り帰すどころか、逃すつもりなど微塵もないというのに。彼女の「なんとかなる」という心に漬け込んで、あれよあれよと引き摺り込む様子は、もはや賞賛に値する。 藍良さんは、唇を固く結び、返事の代わりにゆっくりと頷いた。藍はそれを確認すると、話し始める。 「古くから日本の秩序を裏から支えてきた三つの家がある。そのうちの二つが、倉木家と御影家だ。俺は遠い昔から、御影に仕えてきた存在。そして、オマエらはその倉木と御影の末裔なわけだが…それは、まあ良い。」 藍は、僕や藍良さんを指差した両腕を、太ももにポトっと落とした。 「オマエら以外の、残る一つの家は、裂け目を開く事で生計を立てている。」 「それが…“開ける側”なんですね。」 「ああ、そうだ。」 僕の急くような問いに、藍は大きく頷いた。大木のようにどっしりと構え、話はまだ続く。 「具体的に、御三家を分類するなら…御影家は“鎮”、倉木家は“護”、そんで“用”だ。」 「用…?」 藍良さんは、僅かに首を傾げた。 「用。利用するんだ、堕ち神をな。」 「堕ち神を利用するなんて、そんなことできるんですか?」 「できる。オマエらも“安倍”っていうと聞いたことくらいあるんじゃねえか?」 安倍晴明…静かにはっきりとした字体で、僕の脳裏に浮かび上がった。しかしそれが口から出るより先に、藍良さんが口を開いた。 「安倍…安倍晴明ってこと?」 「そう言うことだ。安倍家といえば、式神が有名だろう。あれ実は、特別な専用紙に堕ち神を封じ、屈服させて利用しているわけだ。そういう固有の力が安倍家にはある。」 藍は藍良さんの言葉に頷き、淡々と答える。僕は固唾を飲んで、聞き入った。安倍晴明が代表的な安倍家。界隈人でなくても、多くの人が一度は目にする名前だろう。なんせビッグネームだ。現代になった今も、そのブランド力が客を集める。 「その、堕ち神を封じる為に“開ける”んですね?」 「そういうことになるな。奴等の場合、定期的にそうしないとやっていけねぇ。」 「やっていけない?」 「ああ。だが、能力が有限ってわけでもねぇ。堕ち神側の問題なんだ。考えてもみろ。長時間居座ってる不純物を、浮世が放っておくと思うか?」 その言葉に、二人して考え込むと当然長い沈黙が広がる。やけに鮮明な鳥の声を聞き、藍は再び話し始めた。 「…こう考えることもできる。浮世に行って帰ってこない仲間を放置して情報を垂れ流すようなマネを、彼方さんのボスが許すと思うか?」 「消す…」 自分で言っていて、何かゾワっとするものが背中を走るのを感じた。 「そうだ。一度封じた堕ち神は、浮世か異界か、どちらのせいかは分からんが、多くの場合は長く浮世にいると自然消滅する。専門紙ごとな。だから定期的に開いて出てきたのを封じるって作業をしないと、仕事ができない。」 「そんなの、リスク高すぎでしょ。」 「確かに、藍良さんの言う通りです。そんな作業繰り返して、一つも被害を出さないなんて不可能ですよ。」 「それが、ここ千年ほど実害はないんだ。不思議なことにな。」 藍は人差し指を突き立てて、不敵に笑った。 「安倍晴明って知ってるだろ。さっきも出てたが。」 「もちろん。有名人だよね。」 「おおよそ、奴が残した術式が原因だろうな。アイツは、ああ見えて抜け目がなかった。持ち前の神気に加えて、人の心を一撃で掴むような話術にも長けてた。あんまりにも商売が上手くいきすぎるもんで、実は化け狐なんじゃないかってずっと疑ってんだ、俺は。」 これまでと打って変わって、冗談めかした口調だったが、僕にはそうは聞こえなかった。そう言えば、安倍晴明には化け狐の子であるという伝説があった。その狐は“葛の葉”と名乗って、ある男に近づき結ばれて、晴明を産んだ。最終的にその正体が露見し、去ったか、或いは消されたか。確かこんな感じだったろう。 「狐、か。可愛いよね〜。この前ユキチと動画で見たんだけど、コンって鳴かないんだよ。知ってた?」 藍良さんの的外れな言葉や声色が、張り詰めた空気の糸を切った。藍は嫌な顔をしながら反論する。 「知ってるわ、年配舐めんな。てかアレのどこが可愛いんだよ。アイツらすぐ噛むだろ。」 「えー、噛まないよ。だってあんなに可愛いんだもん」 「いいや、噛む。知ってたか? 狐は噛むぞ。基本は雑食だろうが、狩りだってする。俺だって噛まれた事あるんだからな。」 要は、狩りをしてきた歴史があるから狩猟本能で噛むのだ、と。そういうことだろうか。おそらく過去に噛まれたのであろう箇所をぷらぷらと振り、藍良さんに痛そうな顔して見せていた。しかし、さっきの話の後だからか深読みしてしまうのだ。そのため、その討論が終わるまで僕に首を突っ込む余地は無かった。 藍と藍良さんが和気藹々と話す中、突然ガラリと音がした。保健室の扉が開いたのだ。 「あら。まだ誰かいらっしゃったんですか。」 「あ、須崎先生。」 「御影さんじゃないの。さっき山本先生が言ってた生徒って貴方だったのね。大丈夫?」 入ってきたのは保健の先生である須崎薫子だった。藍良さんが運び込まれた時は居なかったので、後から生徒が保健室で休んでいると聞いたのだろう。担任である山本慎二から。彼の心配性ぶりとマメさは、本校随一と名高く、向かいの校舎に位置する我がクラスでも聞き及ぶところだ。今回も念の為にと伝えたのだろう。 「はい。ちょっとした立ち眩みです。ご心配をおかけしてすみません。」 「いいのよ、ここはそういう為の場所なんだから。あ、倉木くんと…保護者の方?」 「叔父です。近くに住んでいるんです。」 藍は軽く会釈をすると、そう言って誤魔化した。流石に、お世話になった教師に向かって堂々、ただの居候ですとは言えまい。僕も軽く頭を下げた。 「まあ。わざわざ来てくださるなんて素敵なご家族ね、御影さん。」 「ええ、ほんとうに。」 藍良さんは少し俯き、答えた。 「ですが、閉校時間が迫っておりますので、本日は帰っていただいて。気になるようでしたら、また明日、藍良さんの様子を連絡させていただきますので。」 「ああいえ、結構です。すみません、長居してしまって。」 「いえいえ。では、さようなら。倉木くんも。」 「はい。また明日。」 学校からの帰り道、藍良さんと僕と、もちろん藍も一緒に茜色の通学路を遡る。僕らは先程までの緊張を脱ぎ捨てて、和気藹々と話していた。途中、公園の前を通りかかる。そこに、見覚えのある顔があった。 上下するボールは、ダン、ダンと小気味よくリズムを刻む。サッカーの練習だろうか。慣れた足捌きで太腿の上にボールを弾ませている。 「お、ケイゴじゃん。」 「あー! 藍良と倉木ー!あと叔父さん」 大きくて快活な声が響く。ボールを手に持って走ってくる彼を見ながら、名前を呼ばれたので一応軽く頭を下げた。 「藍良、倒れたんだろ。大丈夫だったん?」 「うん。心配かけてごめんね。立ち眩み。」 「なんだー立ち眩みかぁ…。良かった良かった。あ、そうだ。」 頭を傾げる藍良さんを他所に、ケイゴ君は目を見開いて、興奮気味に話し出した。 「良かったと言えば、コレ。なんか急に小さくなりだしたんだよ!」 ケイゴ君は、一瞬下唇をめくって見せた。最初に見た時より、それは明らかに縮小していた。理由は言わずもがな明確である。 「ほんとだ! 不思議〜」 「いやオマエは知って−ゴフッ」 危なかった。話せばややこしくなる事が目に見えていたのに、藍がこちらの話を言おうとするものだから、焦ってつい鳩尾に肘を食い込ませてしまった。幸い、彼の声は二人には届いていないようだ。 「だよなっ!いやあ俺もついに、大将や母ちゃんのビタミン攻撃とお別れするのか…」 「なにしみじみしてんのよっ、もう…!」 そう言って感情に浸るケイゴ君を、藍良さんは軽く小突いた。一見戯れあっているように見えるが、その瞳には涙が浮かんでいた。 「あ、えっあれ? なんで泣いてんの?」 「泣いてないよ〜」 あたふたするケイゴ君に、また彼女の拳が突き出される。その何の殺傷力も持たない拳は、何度も何度も繰り出される。喜びに緩む彼女の表情と涙に揺れる声に、僕の心が何故かキュッと締まるのを感じた。 「いや泣いてるって。そんなに喜んでくれるの?口内炎ごときで」 「うぅ…もうー、ケイゴのバカァ…」 僕は、こんなにも美しい涙を、優しい笑顔を見た事がなかった。ケイゴ君は困惑の表情を浮かべ、自身の服を掴みながら崩れ落ちた藍良さんと僕らとを交互に見やる。 「いや、こっち見んなって。」 明らかに助けを求めるケイゴ君に、藍は小さくそう言い放った。 “守りたいこの笑顔”とはよく言ったものだ。もし僕に、守りたい笑顔があるとすれば、それは間違いなくこの光景だろう。僕はこの時、初めて本当の意味で己の使命を理解した。 【あとがき】 今話も“藍々傘”を読んでいただき、ありがとうございました。新作のため、読者が付くか不安でしたが、連載間も無くたくさんの方に読んでいただけたようで、嬉しい限りでございます。 さて、今現在受験生である私は受験に力を入れる為、投稿を少し控えているので、ご存知の通り、近ごろ投稿頻度は格段に落ちています。お待ち頂いた読者の皆様には、ご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありませんでした。ですので、これからは受験シーズンの終わりに掛けて少しずつ投稿頻度を上げていき、最終的に週刊にしたいなと考えております。なるべく早く、お待ちくださっている読者の方々にお届けできるように。また、より多くの方が(書店ではないのですが)手に取りやすいように、週刊という形を取らせていただく方針です。 きっかけは、週刊を推奨する企画を目にしたことでした。多くの読者が、迷う事なく最新話にありつけるというメリットにまんまと惹かれたわけですね。まあ、そういうわけですので、今後とも本連載と著者共々、暖かく見守っていただけると幸いです。 あいびぃ

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開く側

暗がりの先、ユートピア

暗い暗い洞窟の中、ゆっくりと足を繰り出す。地面を踏み締めるたびに、砂粒の擦り合わされる音が木霊する。天井から降りる石の氷柱を這って雫が滴り落ちる。既に溜まった水の中に一滴一滴と落ちる音もまた、まるで風鈴のように凛と澄んでいて美しい。疲労困憊で実際には鉛のように重い足も、この先に待つと言う景色のためなら羽が生えたように軽かった。 ずっと遠くに見えていた光もいよいよ近づいて来て、洞窟の闇も明るく塗り替えられ始めていた。いつしか完全に闇が消え失せ、突然周囲が光に包まれる。その不慣れな明るさに目が眩んだ。次に開くまでには、少々の時間を要した。 眼球が押し込まれたかのように重たい。原因ははっきりしている。突如として浴びた光のせいだ。その瞼がやっと開く事を良しとした時、目にした光景は期待以上だった。言葉は出ない。なんと言えばいいか分からない、なんて次元では無く、ただ何度も何度も溜め息が往来するのみであった。抜けた腰のことなど、疲労でもはや使い物にならぬこの足のことなど、一瞬たりとも浮かばなかった。地面は太陽の温もりを感じる緑の草原。陽光が透け、風に柔らかくしなる様は、まるで生命の喜びをこれでもかと体現したような美しさだった。ズボンの繊維越しに“生命”の温かさを感じさせる。手のひらがその葉に触れ、柔らかさと生命の活力を知り、その雄大さに打ち震えている。その感覚に浸るや否や、鼻腔をくすぐるのは清々しい風である。それは今まで吸い込んだどんな空気より澄んでいて、どんな風より優しく柔らかい。この風を浴びた我が身が、全身の細胞が歓喜している。もっと、もっと吸わねばと欲している。これほど吸い続けても頭痛に襲われぬことがあろうか。私がどれほど大量の二酸化炭素を吐き出しても、嫌な顔ひとつせずただ悠々と運び、また緑に沈んでいく。風は、まるで母のような慈愛に満ちたハグをくれる。平穏とは、正にこの事である。彼らは、実に数ヶ月ぶりの安眠へと私を誘いつつある。まだ見足りないと言うのに、微睡む瞳に瞼が降りてゆくのだ。これほど安心して眠れる時が来るとは思わなかった。小鳥の囀り、蝶の羽ばたき。彼らの歌には、何故か実家にいるような安心感がある。他の場所の鳥や蝶には、どうしても落ち着きがないと感じてしまうが、彼らは日々の喧騒を忘れさせてくれるのだ。 寝転がって大の字になると、見えてくるのはやはり空である。吸い込まれそうなほど、深く壮大な青空。どこまでもどこまでも深く広がり続ける。圧巻。その言葉に尽きる。息をするのを忘れ、まるで海に飲み込まれたような錯覚さえ起きる圧倒的な存在感。そして、いつまでも私の目を惹いて離さない不思議な魅力。いつしか心に空洞が現れ、空っぽになった私に何が残るだろう。それは密度も意義もない“空虚”なんてものではなく、むしろその器を満たす透明の“満足感”だった。ただ見つめているだけで、これほど私を満たしてくれた物は無かった。手を伸ばしても届かない。それなのに一切腹も立たず、むしろ笑いが溢れ、三秒後にはその理由や手を伸ばした過去すら記憶にない。しかし何故か、とても満たされている自分がいるのだ。そんな空を隠すように通過する雲の雄大さたるや、言葉にならない。あの雲になりたい。自由に浮かび、優雅に漂いたい。切実にそう思った。空を隠しているのに、一切不快に思えない。寧ろ目で追ってしまうくらいだ。きっとあの雲から神が私を覗いている。このだらけきった姿を見ているのだと思うと、多少の羞恥心に駆られるが、この心地良さには歯向かえなかった。許しを乞おうとすら思い立たず、この考えもすぐに消え失せるのだった。 そこに花はない。華やかな香りがするでもない。だが、青々とした自然の活力がお香となって、私の鼻腔をくすぐり、睡眠を催促する。花に心奪われリラックスするよりも、深く青い空に浮かぶ雲や飛び交う蝶に想いを馳せていたい。花に寄りつく虫に趣を感じるより、多種多様な鳥の囀りを聞く方が言わずもがな趣深く、そして心の奥深くに染み込んでいく。風は花の香りをもたないが、優しく私を包み込んでくれる。まるで我が子を寝かしつける母のように、優しい手付きで。 私の瞼は、気づけば降りていた。眠った記憶はない。そんなつもりもない。また瞼を開いた時、景色は幾分か変化を遂げ、また違った趣を感じさせた。瞼が開くまでの間、きっと私はこの大地や自然と一体化していたのだと思う。自然に五感の全てを預け、人である事を忘れて。ただ、自然の中に私と言う不純物を僅かだけ溶かす許可を得たに過ぎないのだ。

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暗がりの先、ユートピア

ようこそ

「そこに誰かいるの?」 「ああ。オマエだよな…倉木」 「え…?」 その瞬間、扉がガラリと開いた。 入ってきたのは、ケイゴより少し低い背丈に、明らかにサイズの合っていないメガネをかけた男子生徒。紛れもなく、倉木君だった。 「やだなあ……何言ってるんですか。」 彼は肩をすくめ、どこか困ったように笑う。 「ろくに動けもしない僕に、あの化け物を倒せるわけがないでしょう。」 “僕なんて”と笑う彼の額には、うっすらと汗が滲んでいた。藍はそんな倉木君をじっと見据えたまま、まるで全てを分かっているかのような調子で言う。 「……ここに来たのも、藍良の様子を確認する為だろ。自分がかけた結界が、ちゃんと藍良を守れてたのかってな。」 「結界……?」 私が呟くと、倉木君は一瞬だけ目を伏せた。 「さあ、一体何のことでしょう。」 とぼけたように笑う彼に、藍はため息をつく。 「……そういうのはいらん。安心しろ。藍良も俺も、そう易々と人様の秘密をバラすほど薄情じゃねぇよ。」 その言葉を聞いて、観念したのか、あるいはこれ以上誤魔化すのが面倒になったのか。ともかく倉木君は大きく息を吐き、そして、ゆっくりと微笑んだ。 「流石は“御影のワンコ”ですね。鼻が利く。」 「……喧嘩売ってんのか。」 「まさか。」 倉木君は軽く首を振った。 「三年の先輩たちの後始末をしたのも、今回、藍良さんに結界を張ったのも…」 彼は、私をまっすぐに見て言った。 「仰る通り、全部僕です。」 保健室の空気が、一気に重くなった。 「……え?」 思わず声が漏れる。理解が追いつかない。 「え、え、ちょっと待って。倉木君何言って……」 「何って、言った通りですよ。倉木家は、憑神という脅威から民を守ることを生業としていますからね。」 「倉木…ああ、へっぽこ稲作の子孫か。」 「へっぽこ…?」 藍は、そういえばそんなのいたな、とでも言うような口ぶりで、手のひらに握り拳を打ち付けた。どうやら何か腑に落ちたようである。 「それ、ウチのご先祖様ですよね。倉木暁作ですよね。全然違いますよね。」 すると今度は、倉木君が藍の言葉に食い入るように責め立てた。圧がとんでもない。近いから離れろとか言って、手で防御するも藍が少し押されている。 「倉木暁作は、聖人君主で誠実で向上心の高い人だったと伝え聞いておりますし、実際に残された手記の内容からもそれは読み取れます。彼のどこがへっぽこなんです?」 「…まあ確かに性格は良かった。が、他に比べれば力は劣ってるし、不器用過ぎてそれを補うための工夫もできねぇ。」 藍の口から飛び出る言葉の羅列に、倉木君は僅かに眉を顰めた。 「だから“へっぽこ”だ。」 「それは…結果論でしょう。」 低く抑えた声で、倉木君は言った。さっきまでの柔らかな調子は消えている。 「確かに、倉木暁作は安倍家や御影家ほどの才はなかった。派手な功績も残していない。でも」 彼は一歩、藍に詰め寄る。 「…それでも裂け目を塞ぎ、堕ち神を祓い、民を守り続けた。その“積み重ね”がなければ、今の秩序はありません。力が弱いからこそ、誰よりも慎重で、誰よりも責任を負おうとした人です。」 「……」 藍は、しばし黙り込んだまま倉木君を見つめていたが、やがて小さく鼻で笑った。 「血筋ってのは侮れねぇな。アイツと同じで面倒くせぇ…。アイツも頭が硬いのなんのって」 「ふふっ、誉め言葉として受け取っておきます。」 即答だった。そのやり取りを、私はただ呆然と見ていた。“倉木家”という言葉が、急に現実味を帯びてくる。これからは、知らない世界じゃダメなんだ。 「……じゃあ、倉木君も」 恐る恐る口を開く。震えが止まらない。逃げたい。踏み込んでしまったら、もう戻れないような気がして、恐怖で声が掠れた。 「危ないものと、ずっと戦ってきた家の人ってこと?」 倉木君は、私の方を向いて少しだけ困ったように笑った。しかし、倉木君の言葉には誇りが滲んで見える。 「ええ。代々、裂け目の後始末を。結局、記録にさえ残りませんでしたがね。ですがこれでも…御影家や阿部家と並んで、御三家に数えられてきた家なんですよ」 その言葉に、藍がぼそりと付け足す。 「だから鼻だけは異様に利くんだ。昔っからな。」 「余計な一言です。」 「褒めてんだよ。」 そう言って藍は、背もたれに体重を預けた。椅子の前半分が浮く。 「……まあいい。へっぽこだろうが何だろうが、倉木は三年の裂け目を塞いで、今回も結界張った。それが事実だ。」 ゆらゆらと揺らしていたのをやめて、椅子が両足着地してから、藍は話し始めた。 「ただ…」 低い声だった。さっきまでの軽口は、どこにもない。 「今回の件は、今までと同じ“後始末”で済む話じゃねぇ。」 その一言で、保健室の空気が変わる。倉木君の表情から、僅かな余裕が消えた。 「裂け目が開いた時間、場所、引き金。全部、出来過ぎてる。」 藍は視線を私から外し、窓の外を見る。 「偶然じゃねぇ。誰かが、意図的に開いた。そうとしか考えられねぇ。」 「……“誰か”?」 私が聞き返すと、藍はちらりとこちらを見た。倉木君も真剣に耳を傾ける。喉が鳴る音が、したような気がした。 「それを今から話す。」 一拍置いて、藍は倉木君に目を向ける。 「倉木。オマエの家、昔から“塞ぐ側”だな。」 「ええ。」 「じゃあ逆に聞く。“開ける側”について、どこまで知ってる?」 倉木君は、答えなかった。否、答えられなかったのだと思う。その沈黙が、答えだった。 「……そうか。」 藍は小さく息を吐いた。 「藍良。」 突然名前を呼ばれて、肩が跳ねる。 「今から話すことは、聞いたら最後だ。知らなかった頃には、もう戻れねぇ。」 胸の奥が、きゅっと縮む。それでも、私は目を逸らさなかった。時計の秒針がカチカチと音を立てる。それが嫌にはっきりと響くので空気はより張り詰めたものに感じてしまう。 「……聞く。」 自分の声が、思ったよりもはっきりしていて、少し驚いた。言ってしまったという後悔より、聞き遂げようという覚悟が、私の中に確かに芽生えていた。藍はそれを確認すると、短く頷いた。 「じゃあ改めて、ようこそ。」 その言葉は、新たな同胞への歓迎ではなく、逃げ道はもう無いと忠告するように聞こえた。

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ようこそ

起きたか

目覚めると同時に、消毒液の匂いがツンと鼻を刺した。白い天井に、硬いベッドをぐるりと囲うカーテン。多分、保健室だろう。 「…起きたか。」 気怠げな低い声が降ってきた。 「藍…なんで」 ゆっくり顔を向けると、そこには見覚えのありすぎる男が椅子に座っていた。脚を組み、肘を膝に乗せ、頬杖をついたままこちらを見下ろしている。 「お前のせいだろうが。なんであんな事した」 「…やっぱり居たんだ、あの時。あれは友達に無理やり参加させられて…あっ、そうだ友達!ユキチ達は」 「心配すんな。俺が全員無事に送った。倒れたのはお前だけだ。他は軽傷で済んでる。」 良かった…。ほっと胸を撫で下ろす。 「ありがと。それと、ごめん」 「いや、許さん。いつも言ってるだろーが。五時以降に面倒ごとを起こすな、心霊系は良い事ないぞって。」 「何かあるの?」 「大アリだ。オマエも知ってんだろ? 毎日午後五時からは連続テレビ小説“あけぼの”の時間なんだよ。」 「は?」 「だーかーらっ! 見逃したんだよオマエのせいで。どうしてくれんだよマジで。前回お清が修羅場って終わったのに! 続き楽しみにしてたのに!」 人が倒れてるのに呑気な奴だ。戦隊モノを見逃した時の小学生よろしく地団駄踏んで拗ねている。今回の事件を引き起こした一人というところに引け目を感じて、なんなら初めてコイツに有難いという感情をもっていたのに、一瞬で吹き飛んだ。唖然として、物理的に空いた口が塞がらない。 「それだけじゃねぇ。“逢魔時”って知ってるか。丁度五時以降、夕暮れ時は昼と夜が入れ替わる。こういう瞬間は悪い物が現れやすい。そんな時間に儀式とか、俺に言わせれば死にたいのかって話だ。」 今度は真剣な眼差しでそう言った。彼の瞳が私を捉えて離さない。私も顔を背けられず、体に緊張が走った。 「でも、なんで私達が儀式したって分かるの?ていうか死ぬの?」 「ああ、死ぬ。オマエらがしたことは、治安がクソ悪い国に来て、わざわざ夜に出歩くみたいなもんだ。いつどこで掴まったり撃たれても、おかしくない。」 「…確かに死ぬかと思った」 「だろ。もうこの際だから全部ゲロっちまうが、なんでそんな事が分かるかっていうと、俺はそういう側の人間だ。オマエが見たアレ、黒いの。アレを倒すのが俺の仕事。だから、感知しちまって行かざるを得なかったんだよ。」 あの黒いのを倒すのが藍の仕事…いつもの私なら笑い飛ばすのだろうが、実際にアレを見たら何も言えない。あの影が幻ではなかったと、信じざるを得ないのだ。 「ねえ、あの黒いの。アレ何?妖怪?」 「…アレは妖怪なんて生易しいもんじゃねぇ。アイツらは、気まぐれに裂け目から這い出ては人の魂を弄ぶ。気に入ればマーキングしたり、飽きたら捨てたり、な。要はタチが悪りぃんだ。」 「そんな…」 「それで言うと、あの背が高い方の男。チャラそうな…」 「ケイゴ…?」 「確かそう呼ばれてたな。」 藍の肯定する言葉を聞いて、頭が真っ白になった。ケイゴに何かあったのかもしれない。そう思うと息が詰まる。居ても立っても居られず、まだ重いはずの体が瞬発的に起き上がった。 「ケイゴが! ケイゴがどうかしたの⁉︎」 「落ち着け、藍良。言っただろ。俺が全員“無事に”帰したって。」 「じゃ、じゃあ何があったの?」 「マーキングだよ。そのケイゴとか言う奴、身体中からアイツらの匂いをプンプンさせてた。で、俺が祓った。アレは随分と前からされてたんだろうな。濃度が一、二ヶ月のそれじゃねえ。」 藍は鼻を摘み、眉を顰めて大袈裟に手で仰いだ。すると私の僅かに寄った眉間の皺に気付いたのか、手を下ろしてすぐに目を逸らす。 「…まあ今回のは、ケイゴをマーキングした奴が出てきたんだろうよ。」 「何しに」 「そりゃあ、裂け目の中に引き摺り込もうって魂胆だろ。ペットにでもしようとか思ってたんじゃねーの。奴のお気に入りだからな。」 「お気に入り…」 それじゃあ、あの時藍が来るのが少しでも遅れていれば、ケイゴは引き摺り込まれ、私も無事ではなかったと言うことか。なんて悍ましい。思わず手が震えた。 「ああ、奴らは“堕ち神”っつー異界の化け物だ。裂け目を自在に開いては、人の魂を獲る。マーキングすんのは、その予約みたいなもんだ。他の奴らに盗られないように、な。オマエもなんか心当たりあんだろ。ケイゴの体で普通じゃないなって違和感、あったりしねーか。」 その全てを見透かすような瞳、言葉にハッとした。 「口内炎…。ケイゴは下唇にずっと治らない口内炎がっ、小学校の時から!」 「それだ。それがマーキング。しかしよく気づかなかったな。もしや阿呆の子か?」 藍が、少しふざけた調子で言った。確かにケイゴは非常に馬鹿だが、それを補って余りある程の良いやつだ。まだ返せていない借りはたくさんある。藍のようなダメ男に笑われて良い男ではない。私の顔が少しムッとしているのが、自分でなんとなく分かる。 「…アホではある。あと小学校の時、意地悪な奴に転かせられても自分で転けたと思い込むくらいには鈍感で、頑丈だった。」 懐かしい。膝から血を流していても気付かずに走ろうとするもんだから、恐怖で半泣きのユキチと指摘して無理やりに保健室へ連行した。なんてこともあった。 「それは…アホの領域を超えてると思うが。まあ、そのお陰で向こうも今まで手出しできなかったんだ。その上、マーキングしてきたのが低級の堕ち神だった事が不幸中の幸いだな。」 「良かった…ほんと良かった。」 安心して思わず涙が溢れ出る。布団に滲む雫を見て、藍が私の背中を撫でた。びっくりしたが、藍の方を見る元気などなかった。 「好きなだけ泣け。反省は後からでも出来る。」 藍は、今まで見せた事のないような優しい目で私を見つめて言う。しかし、廊下に響く小さな足跡に、一瞬で表情を変えた。 「…オマエに伝えておくべき事は山ほどあるんだが、今からいう事はそのうちの一つだ。“裂け目”ってのは開いたら開きっぱなしが通常運転。綾子が言っていた先輩の事件だが、そのとき俺は用事があって出勤できなかった。だが、先輩達には何の怪我もなく、裂け目も塞がっている。」 先ほどとは打って変わって、暗く重い口調。何か言いたげな様子だったが、私にはサッパリ分からない。 「…つまり何が言いたいの?」 「俺じゃない誰か、それも校内に塞いだ奴がいるって話だ。」 「そんなの誰が…」 すると藍は扉を一瞥し、鼻で笑うとこう言った。 「例えば、今扉の向こうにいる奴…とかな。」 「誰か…いるの?」 重く緊張が走る保健室に、秋の終わりを告げる北風が吹いたが、誰も寒さに震えることなど無かった。 「ああ。」

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起きたか

藍と藍

私の家にはヒモがいる。鬼咲藍(きざき あい)。男、年齢不詳。コイツがいつから我が家にいるのかは分からない。だが、父の話によれば父が子供の時既に曽祖父母の家にいたらしい。その頃の写真を見せてもらうと、今と一つも変わらない若々しい姿があった。なんでも、何百年と前からずっと我が家のヒモをしているそうで、その理由は我が家の先祖に大きな“貸し”があるから。我が家の人々はその大恩を返す為に、代々住まわせ、養っているのだ。馬鹿馬鹿しい話だ。うちの家族ときたら、その恩が何なのか分からずに彼に尽くしているのだから。だが、両親が言うには彼ら自身も恩があるのだそう。「お前が居るのは、藍さんが僕らの恋のキューピッドになってくれたからだよ。」そう言われた時、我が親ながらその愚かさに笑いを堪えるのが大変だった。二人をくっつけてくれたと言う功績にはとても見合わないほど、こちらは尽くしていると言うのに、その理由ときたら余りにも馬鹿馬鹿しい。 そう思うのも無理はない。我が家のヒモ 鬼咲藍は、ヒモと言う肩書きに恥じぬ駄目男である。 「どけよおっさん!」 私は足元に転がる男の背を蹴った。血縁でも何でもない男が、日常的に転がっているなんて、とても一般的な高二女子の家とは思えない。少し気の早い進路希望調査より、よほど頭の痛い問題である。 「…」 「おいおっさん、起きてんの?」 「…思春期って面倒くせーのな。」 背中を摩りながら発した藍の低い声が、私の脳内のゴングを激しく鳴らす。 「…別にわざわざ呼び方変えんでも、昔と同じように“藍にぃ”って呼べばいいんじゃねーか。つか、俺何も悪い事してねーし蹴るな。」 「誰が呼ぶかっ!そこ邪魔なんだよ!」 この顔だけ良い男の名前から、代々“藍”を取って名付けられる風習のせいで、私の名前にも当然のように“藍”が入っている。呼ばれるたびに襲う激しい嫌悪感と、私は日々戦っているのだ。ちなみに父は“藍之介”である。 「えー…俺の定位置なんだが。」 この男、テコでも動かぬ。私は、これでもかとわざとらしく大きな溜息を吐くと、足早に玄関へと向かった。 「お父さんお母さん、行ってきます!」 「いってらっしゃーい!」 家族に送り出され、今日もまた登校する。 玄関の扉を閉めた瞬間、背後から「いってらっしゃい」と藍の気怠げな声が飛んできた気がして、思わず足を止めた。だが、振り返った時にはもう何もない。多分気のせいだ。そういうことにしておく。 *** 「藍良ー! おはよー!」 昇降口で声を掛けてきたのは、クラスメイトの“ユキチ”こと羽山結城だった。朝からやたらテンションが高い。 「……おはよ。朝からうるさい。」 「ひど。てか聞いた? 昨日から流れてるやつ」 嫌な予感がする。こういう前置きをする時は大抵ロクな話じゃない事を、私は知っている。 「なに」 「理科室の都市伝説」 やっぱりそれか。 「放課後、理科準備室でさ。黒板に円を描くんだけど、完成させないの。途中で止めると…」 「はいはい、どうせ幽霊が出るとかでしょ」 「違うって! “円の隙間から、何かが覗く”んだって!」 ユキチは両手を広げて、わざとらしく身震いしてみせた。 「昨日、三年の先輩がやったらしいんだけどさ。なんか、床がひび割れたって噂」 「……理科室の床、元から古いだけでしょ」 そう言いながらも、胸の奥がざわついた。 理由は分からない。ただ、胸の奥が、いやに冷たい。 「ねえねえ、今日やろうよ。放課後」 「は?」 「どうせ暇でしょ。進路決まってないし」 「それは余計なお世話」 ユキチはケラケラ笑いながら、私の肩を何度も叩いた。コイツはこれで力が強いから、痛くて困る。 「決まりね。藍良も来るから人数足りるし!」 「勝手に決めんな!」 その時、廊下の奥からチャイムが鳴り響いた。 私は文句を言いかけて、言葉を飲み込む。走って自分の席に着いた。 放課後のチャイムが鳴り、カバンに課題などを詰め込んでいると元気な声が私を呼ぶ。 「藍良ー! 来たよー!」 「はぁ、来ちゃった」 「しょんぼりすんなし!喜べ」 いつものように軽口を叩きながらも、私はユキチの後ろをついて行く。理科室に近づくと、すでに誰か集まっているようだった。 「よーっす」 右手をポケットに突っ込みながら左手を軽く挙げる、そんな気の抜けた挨拶するのは“ケイゴ”こと山田圭吾だ。私とユキチとケイゴは、襁褓が取れる以前からの幼馴染で、腐れ縁。そのため、何かする時は必ず彼を巻き込むのが私達のいつもスタイルと化した。 「お、ケイゴじゃん。」 「ケイゴさっきぶり〜! 今日も元気に口内炎やってるかい?」 「おうよ、下唇の大将は今日も立派に生きてるぜ」 ケイゴは、ユキチのノリに合わせてそう言うと、下唇を軽くめくってみせた。直径二ミリくらいの立派な突起が、堂々と居座っている。 「えっ、それまだ残ってんの?」 「え、うん。いつものようにオレンジがめちゃくちゃ沁みたけど。」 「ケイゴママ、嫌がらせのように毎日弁当にフルーツ入れるかんね」 「ビタミンが足りてないのよ〜、だろ? マジ勘弁」 「可哀想だけど実際そうだからね。諦めたまえ、ケイゴ君」 そう言ったのは年中お団子ヘアに黒縁メガネのいつメン“綾ぽん”こと乙宮綾子。みんなのお姉様担当で、この中で最も変人でありながら、実は最もモテる女なのだ。 「イエスマム!」 「…盛り上がってるところ悪いんだけどさ、あの人誰?」 そう、ずっと気になっていた人。全く知らない奴が、ケイゴの背後にいるのだ。 「あー、数合わせで綾ぽんが呼んでくれた人。これ五人いるんよね、五芒星的な。」 「呼びましたー、いえいっ!」 綾ぽんは、ウィンクした目元にピースを翳す。そしてそのまま説明し始めた。 「この人はウチのクラスの男子でーす。名前は、えーっと…」 「倉木…です。」 「だそうです!」 「よろしくな倉木!」 「よろぴくー」 「よろしくね」 「えっと、はい。」 俯き気味の男子・倉木君は、居心地が悪そうにしていた。そりゃあそうだ。いきなり知らないグループの悪ノリに付き合わされるだなんて、一体何の罰ゲームだろう。彼が何か酷い事でもしたんですか? 綾ぽん。私には彼の武運を願うしかできないけど。 「じゃあ…そゆことで、これからこの五人で理科室の都市伝説を検証していきます!」 「れっつごー!」 「「おーー!!」」 「お、おぉー…!」 拳を上に掲げたと同時に、蛍光灯の光が一斉に瞬いた。 ケイゴが勢いよく開けた扉の中へ、恐る恐る足を踏み入れる。先頭はケイゴ。私は最後尾だ。例の先輩のせいなのかヒビ割れた床が、足の裏にザラザラとした感触を伝える。風に揺れるカーテンが恐怖心を煽り、なぜか誰も電気を付けようとしないので私がスイッチを押した。まばらに瞬き光出す蛍光灯が、今日は少し不気味に感じた。すると静寂が包み込む理科室に、鋭く風情ある音が木霊した。チリンッ。 「うわっ、びっくりした〜」 「風鈴かよぉ〜、もう秋終わんのになんであんだよ」 「原センだよ。夏休み前にウキウキで飾ってた。それで多分そのまま取り忘れてんだろうね。」 「雰囲気ありますな。心霊っぽい」 「もう、綾ぽんってば〜」 そんな軽口を叩きながら、どんどん儀式は進んでいく。黒板の前に立ったユキチが、白いチョークを手に取った。 「それじゃ、円、描きまーす」 ギィ、と嫌な音を立てながら、チョークが黒板を走る。円は歪で、少しずつ、でも確実に形になっていく。 「ねえ、たしか最後まで描かないんだよね?」 「そうそう。途中で止めるのがミソらしい」 「なんか気味悪いですね」 円は八割ほど描かれたところで、ユキチの手が止まった。 その瞬間だった。ピシッ。乾いた音が、床の奥から響いた。 「え、今の何?」 「気のせいじゃね?」 そう言いながらも、誰も笑わなかった。理科室の床に、細い亀裂が走っている。まるで、何かが内側から押し割ろうとしているみたいに。 「これ……昨日の噂のやつじゃん」 ケイゴの声が、少しだけ震えた。ピシ、ピシッ。 亀裂はゆっくりと広がり、中心に黒い“隙間”が生まれる。風が、吹いた。窓は閉まっているのに、冷たい空気が足元を撫でる。 「……ねえ、これヤバいんじゃ」 私の声は、思ったより小さかった。 「だ、大丈夫っしょ……」 そう言いながらも、ユキチは一歩下がった。 その時。床の裂け目から、“何か”が覗いた。 黒く、歪で、形が定まらない。目のようなものがギョロギョロと、いくつもこちらを見ている。 「……なに、あれ」 綾ぽんの声が、掠れた。倉木君は立ち尽くし、私とケイゴの喉が鳴る。空気が、重い。息を吸うだけで、胸が苦しい。 「おい、これマジでやばいやつじゃね?」 ケイゴが後ずさる。だが、遅かった。裂け目は一気に広がった。床が砕け、何より深い闇から黒い影が這い出してくる。触れた場所から、光が消えていくような感覚が指先から走る。 「逃げろッ!」 誰かがそう叫んだ。私は走ろうと脚に力を入れた。でも、動かなかった。身体が、鉛みたいに重い。視界の端で、倉木くんが私を見ているのが分かった。何か言おうとしている。声は聞こえない。口の動きを追ってみても、虚ろな視界は言葉を捉えない。影が、私の足元に迫る。 冷たい。指先からサーっと血の気が引いていく。 息が詰まる。怖い。 意識が、遠のいていく。 その時…裂け目の向こうに、見慣れた姿があった。気怠げな目。 だるそうな立ち姿。なのに、足元には角のような突起が付いた影が伸びる。ここにいるはずのない存在。 「……ったく」 低い声が、確かに聞こえた。 「だから言ったろ。五時以降に面倒ごとを起こすなって」 私の視界は、そこで真っ暗になった。

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藍と藍

恋バナ

「わぁ、ルイ君だぁ!」 今俺の目の前に居るのは…誰だ。本当に彼女なのか。それとも、彼女の皮を被った“化け物”なのか。それとも別の何かだとでも言うのか。これまで見て来た全てを一瞬で否定しようとする、これまでの何よりも強い“瞬間”が押し寄せる。これが彼女な訳がない。きっと“化け物”だ。 無機質なこの空間は、彼女の裸足の足跡以外の物音が一切遮断された静寂に包まれている。彼女の声が俺の鼓膜の中で木霊し、頭の中を引っ掻き回した。 初めて彼女に会ったのは、秋晴れの夕焼け空がどこか寂しく感じる日だった。放課後、席替えがハズれた事に機嫌を悪くし、下校中に見かけた公園でなんとなくブランコに座ってみたのを覚えている。そこで漕ぎながら、ボーッとしていると彼女が隣のブランコに座ったのだ。 「やあ、初めまして! ボクはルル!」 ルルと名乗る彼女の笑顔は、俺とは対照的でとても眩しかった。その笑顔で、席替えの不満も吹き飛んだ。 「…初めまして。」 「君はなんていうの?」 「俺は、ルイ。」 「じゃあ“ル”仲間だ!」 そう言って笑う姿に少しドキッとしたのも束の間、ルルから恋バナを持ちかけられた。 「ねえ、ルイ君。ボク、君のことがもっと知りたくなっちゃった。ルイ君は好きな人、いる?」 「…いる。」 「わぁ! ほんと? どんな人?」 「クラスメイトの…菊原楓さん。優しくて、頭が良くて、とっても綺麗な人だ。」 「そっか…。ねえ、ルイ君。」 「何?」 「ボクは、ルイ君の事大好き! 一目惚れしちゃったの。」 そう言って、頬を赤くしてニンマリ笑うルルの瞳は一切笑っていなかった。俺は怖くなって本気にしなかった。 「そうか。ありがと。」 「うんっ! ルイ君、菊原って子よりボクの方が絶対良いよ。絶対ボクの方が可愛いし、優しいし、家事だってできるし、君のためなら命だって賭けられる。」 ニンマリ笑って、どう?と聞かれると、俺は怖くて肯定しか出来なかった。 「そう…だね。」 だけどそれからも、何度かルルは俺の前に現れては、話しかけてきた。彼女には不思議な魅力があったのだ。だから俺も何となく会話を続け、仲良くなった。かけがえのない友人だと紹介できるくらいには。そんな彼女は、相変わらず恋バナばかりする人だった。 そんなある日、俺の家に一通の手紙が届いた。俺宛で、ルルからだった。『ここに来て』と住所が書かれていた。住所を教えた記憶はなかったが、当時の俺は何も考えず、休みの日、俺はそこに向かって自転車を走らせた。いつもの公園に着いて、ブランコまで歩く。その途中に聳える無駄に背が高い時計は、午後一時半を指していた。ブランコに座り、ボーッと桜の木を見ながら、ルルを待つ。暫くしてふと、右腕を見る。父親の安物のアナログ時計だ。とは言え、高校生には不相応な小洒落たデザインをしている。時刻は午後二時。三十分経った…そろそろか。俺は、ゆっくりと顔を上げた。 すると、目の前に何もない空間が広がっていた。桜の木は愚か、公園の面影すらも一切無い。まるで、研究所の様な無機質な場所だ。そんな俺の前には、消えた桜の代わりにルルが立っていた。 俺は自分の目を疑った。ルルの姿、この状況…その全てを。 「何…してるんだ。」 「わぁ、ルイ君だぁ! こんなところで会うなんて奇遇だねー! なんちゃって。」 笑ってる。振り返ってこちらに微笑むルルが、今はどうしようもなく恐ろしい。荒い呼吸、滴り落ちる汗に、緊張が滲む。手は震えが止まらず、それなのに僕の瞳は彼女を捉えて離さない。 「何してるって聞いてんだ!」 「ふふっ、怖〜い。 ねえ、見てわかんない?」 ルルは、笑いながら僕に近寄り、口元に人差し指をやると、コテンと首を傾げた。今の僕に“分かる”ことは、彼女の足元に倒れてるのが同じクラス菊原さんで、さっきからずっと動かないってことぐらいだ。 「…分かんねぇよ。なんで、菊原さんが倒れてるんだ。なんで…なんでお前は、そんな鎌を持ってるんだよ!黒い服も着て…まるで死神みたいじゃねえか!」 「んーっご名答!」 ルルは、口元にあった人差し指を顔の横に持っていって微笑むと、くるりと身を翻して菊原さんのところに向かって歩き出す。 「は…?」 「ボクの姿見て分かんないかな?」 そう言われて、ルルの姿を見回した。黒い服を着て大きな鎌を持っている。 「何言って…」 「だーかーらーっ! 殺したんだよ、ボクが。」 ちょっと待ってくれ。てことは、死んだのか。菊原さんは、死んだってことなのか。でも血なんかは出てない。いったいなぜ、どうやって…何のために。溢れんばかりの疑問が、頭の中をグルグルと回る。回り続ける。 「どうして…」 「この女がボクの邪魔をするからだよ!」 その言葉は、さっきまでと違って語気が強く、殺気を含んでいた。 「ルルは菊原さんに会った事ねぇだろ!」 「無いよ! でも見てた。この女ってば、ボクのルイ君を誑かしたんだ! ルイ君がボクを見ないって事はそう言う事でしょ。じゃないとおかしいもん。だって、だってルイ君はボクのこと好きでしょ? ボク達両想いだもんね?」 え? 何言ってんだコイツ。ルルの言葉を聞くたびに、俺の体が本能で逃げがっているのが分かる。でも、ルルからは逃げられない。それだけはハッキリと脳が理解してしまっている。 「君が菊原楓を好きな人だって言ってから、ずっと観察してたんだ。でも、君がこの女を見る目とボクを見る目って全然違う。ボク、その目が欲しいの。だから、この女さえいなくなれば、ルイ君はあの目でボクを見てくれるんでしょ?」 「あ…」 上手く酸素が吸えない。手が震える。心臓が煩い。なんだよ、俺のせいって言いたいのかよチクショウ。俺のせいかよ。あの時俺が安易に頷かなければ、菊原さんは…。 「あ…? ふふっ、お口が開いてるよルイ君。あの時、ボクが好きかって質問に君は否定しなかったんだよ。覚えてる? これってつまり、両想いでしょ。それなのに浮気したルイ君が悪いんだよ。」 ルルは、俺の真似をして言った。 「お、俺にどうして欲しいんだよお前は!」 「んーとね…あはっ、忘れちゃった! どうして欲しかったんだっけ」 頬を紅潮させ、狂ったように笑うルル。俺は未だ彼女から目が離れないでいる。緊張が身体中を湿らせ、込め髪から顎へと滴り落ちる。震える手を握り込めて、唾を飲んだ。 こんな状況なのに、何故か口角が上がって仕方がない。足の震えを抑えるかのように、一歩ずつ体重をかけながら、ゆっくりとルルの元へ歩く。 「 」 今、俺は何を言ったんだろう。完全に意識の外にある言葉。得体の知れない“何か”が、俺の口からふいに零れ落ちた。身体中の熱がサーっと引いていくのが分かる。だが、それでも俺の表情筋は固まったまま。もう、戻れない。俺の直感がそう叫んだ。事実、戻れていないのだから。 以上が、観察保護対象 被験体“笑う男”の手記と口述を纏めた報告書の内容である。

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恋バナ

バレッタ婆さんの薬(後編)

あれから、殆ど毎日、喫茶店で待ち合わせては、読み書きを教えている。ハナムラさんはいつも一足先にやって来て、初めて相席したのと同じ席に座り、慌てん坊ブレンドを飲みながら待ってくれていた。どうやら、一度気に入ったらずっと頼み続けるタイプらしい。それなのに、今日は一向に姿を現さない。いくら待っても中々来ないのだ。 俺は、ふとあの時貰った名刺を見る。 「…行ってみるか。」 コーヒーを飲み終えた俺は、席を立って店を出た。それから十分ほどで、到着する。ハナムラさんの工房は、意外と近いのだ。 ハナムラさんの工房は、古いコンクリートのレンガを岩のような粗い質感にした外壁に囲われていた。その中には、丁寧に整備された雑草ひとつない庭が広がる。しかし、そんなところに感動している暇など、俺にはなかった。ここに来た時、この“花村”と書かれた表札の前に立った瞬間、俺は目を疑った。工房の外壁には、はっきりとした色のスプレーで書かれた文字や、無数の貼り紙がされていた。「消えろ」「死ね」「ガラクタ屋」「ここの商品は買わない方がいい」「ガラクタ作ってる」「ブス」「休業中でーす♪」などなど。とても信じられないような暴言の数々が、彼女の家の壁を埋め尽くしていた。誰が一体こんな事を…。ハナムラさんはこの壁を見てどう思ったのだろうか。俺なら気が狂いそうになる。そりゃあ、来れないよ。そう思った。空いた口から零れ落ちそうな、表現しようのない言葉は、行き場をなくして泡のように消えた。 「こんにちはー。ハナムラさーん?いますか?」 俺は工房内を見回した。奥の方で、影が動いた。机に突っ伏していたようだった。 「…ミネタさん。」 泣いていた。顔を上げた彼女の目は赤く腫れ、声は小さく嗄れていた。震えた手が、強く袖を握り締めた。 「…えっと、ハナムラさん今日は来なかったので、気になって来ちゃいました。」 「…そ、外の。見ましたか?」 「ええ…。ほんと酷いですね、あれは。」 「…せっかく、せっかく読めるようになったのに、こんなのあんまりです!」 ハナムラさんの大きな瞳から、涙が溢れ出した。 「…ずっと、読みたかったのに。私、楽しみにしてたんです…なんて書いてるのかなって。でも…ぜんぶ酷いことだった!」 その悲痛な声に俺は押し黙った。肩を抱こうとした手は、行き場を失い、ポトリと落ちた。 「なんでですか…なんで、せっかく字を書けるのにこんな酷い言葉を…!」 俺は、どんな言葉を掛けるべきかわからなかった。ただ、持っていたハンカチでその涙を拭ってやることしかできなかった。今俺が言って良い言葉は、どこにもないと思った。何も言えなかった。 「…一生懸命勉強して身に付けた文字。ミネタさんに教えてもらった文字を、傷つけるために使うなんて…。大切な言葉なのに文字なのに。私もう、怒りと悔しさと悲しさと、いろいろぐちゃぐちゃになっちゃって。それで、涙が溢れて……こんな顔、ミネタさんに見せられないって思って、行かなかったんです。ごめんなさい。」 ハナムラさんは息を荒くし、再度ぐちゃぐちゃになった顔を、子供のように手で拭ってから言った。相変わらず声は小さく嗄れ、震えていた。 「…すみません、気が利かなくて。でも…俺は好きですよ。ハナムラさんの作った陶器。だって、この前くれたマグカップ、凄くオシャレで保温性高くて俺のお気に入りなんです。それで…あの、名刺に電話番号がありますから、また勉強やる気になったら連絡してください。好きなだけいっぱい泣いて、それでもやっぱり辛かったら、その時は頼ってくださいね。」 「…ありがとうございます。」 その言葉を聞いてから、俺は彼女の肩を摩るのをやめて立ち去った。 日が沈みかける十八時。銀杏の絨毯が広がる夕暮れ時の公園で、俺はベンチに座っている。ハナムラさんと会い始めてからは、暫く訪れもしなかった公園のベンチに。あの時の彼女の顔が忘れられず、帰る気になれなかったのだ。 そして、ふと思う。考えたくないと拒絶する自分がどこかにいるが、考え始めると自責の念が絶えない。もし、俺がもう少し教えるのが遅かったら。あの日、ハナムラさんがカタカナを覚えた事が嬉しくて、調子に乗って漢字まで教えたんだよな。俺が、漢字を教えなければ、少なくとも漢字が使われたのは読めなかったんじゃなかろうか。そしたら、あんなふうに泣いてしまうこともなかったのかもしれない。俺のせいだ。俺が教えたから。タラレバが溢れ出る。考えても仕方がないのに。 そんなことを考え、俯いていると、いきなり脛に衝撃が走った。 「正義、薬の瓶適当に捨てただろっ!契約書も読まず適当して…って、一言文句言ってやろうと思って来たら、なんだいその顔は!」 「…なんでここに。」 そこにいたのはバレッタ婆さんだった。 「だから文句言いに来たって言ってんだろ?」 「…すみません。契約書の内容忘れてました。」 「ふんっ、まあいいだろう。しっかし、今日のアンタは嫌に萎らしくて気持ち悪いねぇ…辛気臭くて敵わないよ。」 つくづく失礼なお婆さんだ。人が落ち込んで、悩んでいるというのに、老婆の見た目に不相応な言葉の切れ味である。 「なんだい…何かお困りかい? 目の色が変わっているね。前は“無”今は“迷い”だ。あまり良い変化じゃない。」 バレッタ婆さんは、先程とは打って変わって優しく、しかし真っ直ぐとした口調で語り掛けてきた。 「…俺、読み書きが出来ない女性に出逢って、読み書きを教えてたんです。でも、今日はいつもの場所に来なくて…。見に行ったら、彼女の家の壁に悪口が書かれてて、彼女はそれを読んで泣いていました。せっかく読み書きができるのに、なんで悪口に使うのかって。」 「それで、自分を責めてたのかい?」 「だって!……俺が教えたから…。」 「そうさね…でも、教えなければ良かったなんて事はないよ。だってね、その子がアンタに教えを乞うたんだから。」 その言葉を聞いて、俺の中で何かが音を立てて切れた。いくら先人の言葉で正しいとしても、まるで彼女の責任だとでも言うような今の発言は、許せなかった。彼女は純粋に文字を楽しんでいたのに、それを汚したのは“俺たち”なんだ。それを、彼女の責任と言うのは間違っている。 「違うっ!彼女は悪くない。純粋に文字を楽しんでいただけなんだよ!俺は、それを台無しにした…。」 「いいや、台無しにしたのは悪口を書いた奴らだ。その子の家は奥の方にあって、パトロールでは見逃しがちだから対応されてこなかった。でも、あたしが今お巡りさんをそっちに行くように誘導したから、安心しな。」 「…誘導?」 「ああ、あたしの魔法でね。」 バレッタ婆さんは、ニヤリとイタズラっぽい笑みを浮かべた。 「魔法使いなんですか?」 「ああ。おかしいとは思わなかったのかい?異空間からいきなり現れる婆さんなんて。」 そういえばそうだ。薬の効果もファンタジーだし。前回も今回も、自分のことにいっぱいいっぱいで考える暇がなかった。 「あたしゃ、別世界でそれとなーく地球を監視しては助け舟を出すって言う、所謂お助けサービスってのをやってるのさ。」 「お助けサービス…。」 「そう、お助けサービス。ああ、そうだ忘れてたよ。アンタが気にしてるあの子…唯花ちゃんだったかね。その子から手紙を預かったんだ。」 バレッタ婆さんは、そういやこっちが本題だったと、笑いながら上着の中を漁った。 「なんでそんな大事なことをっ!」 「まあまあ、落ち着きな。今出すから…おっ、あったあった… ホレ、これだよ。」 俺は、バレッタ婆さんの手の中にある小さく折られた紙を受け取った。血管の浮き出たしわくちゃな手の温かさが、紙に染み込んでいた。一方で俺の手は震えていた。不安だった。ハナムラさんの優しさを、俺は知っている。だからこそあり得ないと分かっているが、それでももしかしたら…。この手紙を開いた時、俺の目の前に現れるのはきっと、自分の世界を壊した俺への罵倒と決別の宣言に違いない。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇◆◇ ミネタさんえ さっきは泣いてしまってすみませんでした。 せっかく来てくださったのに、きをつかわせてしまってもうしわけないです。 この手がみをかいたのわ、伝えたいことがあるからです。 私わ、ミネタさんに教えてもらってから、まえよりもっと学ぶのがたのしくなりました。 だからまいにちたのしみで、いつも早くきっさてんにいってまっていました。これが、ミネタさんに早く来すぎだとちゅういされても、こりずに早く来ていたりゆうです。 そのくらい、わたしはあなたのおかげでたのしくすごせていたんです。こんなながい文章も、まだぎこちなくてつたないものだけど、あなたのおかげでここまでせいちょうできたんだよって伝えたくて、手がみをえらびました。 わたしわ、学んだことお、ミネタさんにおそわったことおくやんでなんかいません。わたしが泣いてしまったのは、りそうとちがったからです。 でも、考えてみれば、人の家にかきこむことはわるいことなのに、そのないようがいいことなわけがないんです。だから、わたしがわるいんです。 かってにおもいえがいて、きたいしたわたしがばかだったという、ほんとうにそれだけのはなしなんです。 だから、いまもし、ご自しんをせめていたならやめてください。あなたはわるくないです。 わたしはあなたからたくさんのものおもらいました。自分がどれほどずうずうしいか、それはしょうちの上で、おねがいさせてください。 どうかまた、わたしにもじをおしえていただけませんか? 花むら ゆい花 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ その手紙に書かれた文字は、漢字だけが便箋の列からはみ出ている。漢字は苦手だったから、練習の時も大きくなっていた。濃くはっきりと書かれていても、そのぎこちない文字の下には、何度も書き直したような跡が残っている。 どれもこれも、練習のときに難しいと嘆いていた字だった。 「もちろんっ…もちろんだよ、ハナムラさん」 自然と言葉が溢れ出た。零れ落ちた雫が文字に染み込んだ。こんなんじゃダメだと無理に口角を上げても、またすぐに下がってしまう。 きっと、何も知らない奴にこの手紙を見せても、小学生が書いたと思われるのだろう。そればかりか、読むことすら出来ないかもしれない。ハナムラさんの字は、そのくらい拙い。でも、俺には読める。だってずっと見てきた字だ。ずっとずっと、見続けて来た字。俺が教えて来た、見守って来た字なんだ。ハナムラの“村”って漢字も、形がややこしいって文句言いながら苦戦してたっけ。それなのにいつも、書けないって分かっていても何故かトライして、それで最終的に諦めて平仮名にするのがいつものお約束だった。漢字を書く時、平仮名を書く時、カタカナを書くとき。それぞれの大きさも、必ず突き出る“タ”の三画目も、何故か跳ね上がる“ん”の先端も、消しゴムが下手くそなところも、全部。俺の知るハナムラさんそのものだった。この手紙は側から見れば、きっとただの汚い字の配列にすぎないのだろう。だけど、俺ははっきりと読み取れる。文面から、ハナムラさんの不器用な優しさが伝わってくる。 「あぁ…ふふっ、“は”と“へ”と“を”…また間違えてる」 「おや、何か吹っ切れたようだね。瞳から“迷い”が消えたよ。寧ろ、輝いているくらいだ。」 「…婆さん、手紙ありがとう。」 「なんだい嫌に素直だね。気色悪い。それにあたしゃ何もしてないよ。単に、薬の効果が早かっただけさね。」 バレッタ婆さんは、相変わらず悪態を吐きながらそう言った。 「薬の効果…」 「ああ…多分、唯花ちゃんとの出逢いがアンタに必要な経験だったってことだろうねぇ。気づいてるかい正義。アンタの瞳は、もう既に“生きる意義”に満ちている。あの子との出逢いを通じて見つけたんじゃないかい? アンタだけの“生きる意義”って奴をさ。」 生きる意義と聞いて、俺はその言葉にハッとした。そして顔を上げると、意外な光景が広がっていた。俺を見つめるバレッタ婆さんの顔に、穏やかな笑みが浮かんでいたのだ。まるで孫を見るような優しくて愛おしそうな瞳に、俺は困惑した。どうしてそんな目で俺を見つめるのだろう。そう思った。それと同時に、俺の生きる意義を感じた。全ては、この手紙に現れている。この手紙こそが、俺の生きる意義と言っても過言ではない。 「…そう、ですね。バレッタ婆さん、いろいろとありがとうございました。」 俺は勢い良く頭を下げる。今までこんなにも不快感を感じないお辞儀があったろうか。これまで俺は、自分が少しでもマイナスの印象を抱いた者には、何が何でも頭を下げようとは思わなかった。しかしそれでも必要な時がやってくる。その時はプライド故の不快感が必ず俺にストレスを与えていたものだ。 「カカッ、アンタにしては気持ちの良いお辞儀だね。こういう瞬間があるから、この仕事は中々辞められないのさ。ある意味、それがアタシの“生きる意義”って奴なのかもしれないね。」 そう言うと、バレッタ婆さんは異空間に消えた。その曲がった背中を見送ると、俺はベンチから立ち上がって帰路についた。 鍵穴に鍵を差し込んで回す。カチャリと、虚しく音が響いた。 「ただいま。」 妻と娘が交通事故で亡くなってから、久しく言ってこなかったこの言葉も、近頃は言うようになった。俺の中の小さな変化である。帰っても誰もいない一人には広すぎる一軒家。まだ妻や娘の私物は片付いていないが、年末の大掃除で空っぽになったままだった本棚は、ハナムラさんに文字を教えるために買った本で埋め尽くされていた。俺はソファに一直線に向かって、どかっと座り、テレビをつける。特に見たいものもないので、そのままドキュメントを見る。学者が、識字率の歴史について話していた。思わず見入り、時間が流れ、ようやく気が付いて帰りにセブンで買った袋に手をかける。冷凍餃子とパック米の調理方法を確認して、パック米をレンジに入れ、そのままの足でコンロに火を付けた。ソファに戻るのも怠いから、キッチンからテレビの続きを見る。ふと、字を教わっている時のハナムラさんの笑顔を思い出した。 ビールのプルタブ開けて、グビッと飲んだ。流石、一部の物好きにしか買われないと有名なビールだ。このホップの苦味が悉く俺に合わない。己を戒める意味で買ってみたが、背伸びするんじゃなかった。 「うえっ…マズっ」 顔を顰めながら、缶を置いた。確か明日が、カン・ビンのゴミ捨ての日だった筈だ。俺はその袋を忘れないように玄関に置いた。ご飯食べて、風呂入って、そのまま布団に入るとすぐに眠った。俺は昔から寝付きだけは良かった。 翌朝は、特に夢も見ず、それでいて特段スッキリもしない寝起きだった。いつものことだ。歯を磨きながら、なんとなく歯磨き粉の裏の説明を読む。この文字をハナムラさんは読めるのだろうか。読めればきっと、毎日わくわくしながら、新鮮な気持ちで読んでいるのだろう。ハナムラさんの興奮した様子が目に浮かぶ。 「ふふっ…読めるって幸せなんだな。」 それから顔を洗って、髪をセットして、スーツを着てパンを食べる。ほったらかしてた昨夜のビール缶は、玄関の袋に入れて、手に持って出勤がてらゴミ出しをした。 昼休み、行きつけの喫茶店に入った。ハナムラさんと最初に相席した手前の席には、彼女の姿があった。慌てん坊ブレンドを美味しそうに飲み、俺に気づくと手を振って笑った。この時間が、俺の生き甲斐だ。“生きる意義”だと、改めて実感する。 「ミネタさんっ! おはようございます!」 「はい、おはようございます」 彼女の瞳には、初めから“迷い”など無かった。俺は、彼女の勤勉さと前向きさを少々見くびっていたのかもしれない。 「私、今日こそは“村”を克服しますよ!」 彼女の無邪気な笑顔に、俺の中で何かが崩れた音がした。

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バレッタ婆さんの薬(後編)

キャッチコピーからつくれ!

【注意点】 題名はお好きにどうぞ! キャッチコピーを思わせるような内容を心がけてください。 詩ではなく、物語をお願いします。 長さは千五百字を超えてくだされば結構です。あとは問いません。 参加者の方には、遅くなっても必ずコメントさせていただきます。 このアプリの良さを活かし、参加者同士の交流も大切にしたいので、是非コメントし合ってください! 仮題が存在しますが、そのまま使って頂いても構いません。 思う存分楽しんでくださいね! 【お題】 ①仮題 【僕が愛した殺人犯】 『僕が恋をしたのは、殺人犯でした。』 『これは、最も純粋な僕の初恋(ハツコイ)の物語…』 (ハツコイ)←これ好きにしてね ②仮題【届かぬ星】 『手を伸ばす。その先に、キミがいる。』 『君は、近くて遠い一等星』 ③仮題【見えない僕ら】 『これは、目に見えない君と、目が見えない僕の話。』 『見えない。だからこそ、見えるものがある。』 ④仮題【踊るピエロ】 『このピエロ、史上最狂。』 『踊らされているのは一体誰なのか。今、世界を巻き込む最恐で最狂の舞踏会が、ここに開幕!』 ⑤仮題【鏡のムコウ】 『朝、目覚めたら…そこは鏡の中の世界。』 『「鏡よ鏡、“私”をコロシテ…」「了解致しました。」』 ⑥仮題【この湖で会いましょう。】 『湖のほとり、人ならざる貴方と秘密の約束。』 『私の涙を舐めた貴方。その無邪気な笑顔に恋をした。』

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