あいびぃ

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あいびぃ

初めまして、あいびぃです! 見つけてくれてありがとう♪ 私自身、生粋のアニオタ・漫画オタなのでファンタジーが多めになってます…多分。 詳しいことは「自己紹介」にて! まだまだ若輩者なので、応援よろしくお願いします!

私の涙、私の体

泣くなと言われて、嬉しかったことはない。 泣いていいと言われて、苦しかったことはない。 泣いた翌朝、心の痛みは頭痛に変わる。 頭痛はしつこく残って、いつしか頭が痛いと吐露する自分がいる。 その時、私は昨日の痛みなんて覚えているだろうか。 激しく泣いた日、俯いたせいで眼鏡のレンズが汚れた。 汚れは頑固で、眼鏡拭きでもなかなか難しい。 その時私は、「次泣く時こそ俯かない」と誓うだろう。 泣きたくないと思いながら、次泣くことを想像して 次泣くことを想像しながら、そんな日が来ないことを祈る。 きっとそこに、泣いちゃダメだとか思ってる私はいない。 泣いたら気持ちが楽になる。だから好きなだけ泣いていいのよ。 だって考えてもみて。 涙は自分の水分なのに、それを堰き止める権利が私以外の誰にあるっていうの? 私の水分を外に出そうが入れようが、ぜんぶ私の勝手でしょ。 泣くことが許されない人なんて居ないから、 涙の理由なんて分からないから、 「なんの涙なの?」に答えられない内は、きっと泣くのに理由なんていらないはず。 そして一生、私は自分の涙のワケを知らないんだろうなぁ。と、思うばかりだ。

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私の涙、私の体

ケイニー・レグリコ

「全く、カントリーミュージックというのは、どれも陽気な自然を思わせるからいけない。」 男はそう言うと、側にあるコーヒーカップに口付けて、ため息混じりにその熱い息を吐き出した。 「そうでしょうか。私は、こう、爽やかな感じが好きですが。」 女はリズムに乗るような、踊るような仕草を見せつつ言った。 「それだよ。自然とは雄大で美しく、いつでも己を宥めてくれるものだと、我々は果たしていつから錯覚していたのか。まあ、間違っているとまでは言わないがね。」 男は言葉の割には優しい顔で、肩をすくめた。女は少し考え込むようにして俯いた。男は暫く女を見つめてから、こう続ける。 「ああ、いや、カントリーというジャンルに関してはむしろ嫌ってすらいない。私は、こういう曲を聴いて、すぐに命に満ち溢れた自然と結びつける自分が嫌なのだよ。」 「はぁ…。」 「…分かってなさそうだね。」  男は、徐にスピーカーの上部、ボタンの並ぶところを撫でたが、決して曲を止めることはしなかった。カントリーミュージックの陽気な旋律が、緑溢れる温室ドームの中を依然として漂う。 「ええ、まあ……。こんなザ・自然って感じの温室に自分から入り浸っておいて、自然=美しいと思う自分が嫌いっていうのは…」 「意味が分からないかい?」女はコクリと頷いた。 「まあそうだろうね。だけど自分の中では乖離しているんだ。それはもう明瞭に。…私には忘れたくないことがあるのだよ。ここにいるのだって、その為さ。」  男はコーヒーカップを持ち上げると、一口。それから揺れるコーヒーの水面を眺めて、フッと笑みをこぼすと、アンティークのテーブルに置いた。 「…分からないならそれで良い。別に分かって欲しいわけじゃないからね。」 男は女の方をまっすぐに向き直ると、じっと彼女の瞳を見て話を続ける。 「ところでデイビスくん、君は私を取材しに来たとの事だが、今のところ良い記事は書けそうかね?」 「いいえ全く。ここに来て1時間、ただの雑談しかしてませんからね。こんなの初めてですよ。」 女もとい、カイラー・デイビスは笑いながら、実にあっけらかんとした態度でそう言った。カイラーは、それなりに大きな新聞社に勤める駆け出し記者だ。取材対象を前に、全くと言って良いほどへりくだる様子も無く、やる気に満ちたギラギラとした瞳を持つのも、そのためである。 「フッ…そうだろうね。君のそういうところは嫌いじゃないよ。裏表がなくて非常に分かりやすい。」 「褒め言葉として受け取っておきますね。」 「ああ、そうしてくれ。」 こんな風に軽口を叩き合うから、取材は一向に進まない。相性が良いというのも、ある意味では困りものだと男は知った。 「さて、そうだな…何が聞きたい?」 「そうですね……まず、貴方の人生を。私、まだ名前と功績くらいしか知らないので。」 「ふむ、いいだろう。名はケイニー・レグリコ。生まれは西の方。地名を覚えるのは苦手でね、悪いが、大陸西部とでも書いておいてくれたまえ。」 「…州くらいは分かりません?」 「ヨーロッパだったろうか。私は無宗教だし、無論深い意図はないが、イスラム圏ではなかったよ。」 「なるほど。だいぶ絞れますね。」 カイラーは、ようやく出番が来たメモ帳に、聞いたことを書き殴る。 「…家族構成は、母と私と馬が二頭に牛が十頭、犬一匹、猫二匹、羊が…」 「ちょっと待ってください。全部言う気ですか?」 「そうだが。駄目だったかね?」 「いやあ、物事には詳細にすべきところと、程々にしておくべきところがありますからね。」 「ふむ。では、母子家庭で一人っ子、加えて動物が多数だ。母が小さな牧場を経営していてね、世話は従業員もしていたから、あの数でも保てていたよ。」 また、コーヒーを一口。その間、カイラーは、聞いたことを丁寧に呟きながらメモを取る。カントリーミュージックはいつの間にやら陽気さを失い、哀愁を感じさせるものへと変化していた。 「…では、ケイニーさんも幼い頃から牧場の手伝いを?」 「いや、私は暇な時に小遣い稼ぎでやるくらいで頻繁には。私は興味のないことに対する自主性が酷く欠落していてね、当時の私は母に言われるまで牧場に顔すら出さなかった。」 「へぇ…じゃあ何をしてたんです?」 「何故こうも気温が高いのか、その理由を調べていたよ。その解決策として、人間が植物と同じ『呼吸』を出来ればいいのでは…なんて考えた時期もあった。」 「おぉ、子供の頃からもう環境問題に興味が!」 「まあ、私が子供の頃は、やれ地球温暖化だの、やれ環境破壊だの煩く騒がれていたからね。」 「確かに、今はケイニー・レグリコ名誉博士の功績で、そういった声はあまり聞かなくなりましたけど…私の子供の頃も、夕時にテレビをつければそんな話ばかりでした。」 「そういう環境下に居れば、自ずと関心が湧くものだよ。私はそれが人一倍強かっただけのこと。」 ケイニーは、なんとも幸の薄そうな、まつ毛に邪魔されて瞳が見えないほど細いその目を細めた。 「はぁ〜、カッコいいですねぇ。私も言ってみたいです。しっかし、それで生命力と繁殖力の双方がバケモノ並みの苗木を開発してしまうんだから、天才というのは…まったく、」 頭を抱えるようにして、ようやく手元のカップに手を付けたカイラーは、その味に顔色を明るくした。 「そのお茶、気に入ってくれたみたいだね。持って帰るかい?」 「いいんですか!」 「勿論。」  思わず顔を緩めていたカイラーは、ハッとしたように首を横に振って、もう一度ケイニーを見据える。 「あの、苗木はどのようにして作られているんでしょうか?」 妙な緊張感と共に、沈黙が流れる。ケイニーは持っていたカップをテーブルに置くと、一呼吸。 「悪いね。表には出せないんだ。混乱を招く恐れがある。それに、今は知っての通り生産をストップしている。人間に迷惑かける前に、余裕を持ってね。」 「では、記者のカイラーとしてではなく、ただのカイラーとしてなら、教えていただけますか?」 カイラーは一言一言を丁寧に慎重に発した。ケイニーはフッと笑って言った。 「覚悟があるなら。」 カイラーは強い眼差しで、ゆっくりと大きく頷いた。 「そうかい。なら着いてくればいい。」 ケイニーはそう言って席を立った。カイラーも後に続く。しかし百歩と歩かず、ケイニーは立ち止まった。目の前には無数の木々。温室ならば何もおかしくない光景。しかし、彼女は絶句した。 「これは…」 「ヒトのように見えるだろう?」 「…はい。」 木目がヒトの顔に見えるのは異常なことではない。だが、全ての木にヒトの顔があるのだ。そればかりか、髪のうねりや僅かな胸の凹凸、少なくともどのような体勢かは容易く想像できた。 「これが苗木の元だよ。」 明らかに、異常。その光景に、カイラーは息を呑んだ。場違いなほど陽気な旋律が、彼女の鼓膜を揺さぶった。

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ケイニー・レグリコ

見せ物小屋の天使

「レナト、これがオマエの担当になる見せ物だ。」 薄暗い地下牢、その檻の中にいたのは、片羽の天使だった。僕の背に立つ巨漢が汚い笑みを浮かべて言った。僕は小さく頷いた。僕がこの見せ物小屋で働くことになったのは、三年くらい前。奴隷商から旦那様が僕を買い取った日からだ。奴隷として買われたせいか、僕はまともな仕事をもらえなかった。ずっと雑用をし続けて来た。賃金もパン一つ分くらいのもので、それだって支払われない日のほうが多かった。そんな僕が、ようやく見せ物小屋の店員らしい仕事をもらったのだ。 「レナト、ここにいるのは片羽とはいえ歴とした天使だ。貴重で、非常に価値のある見せ物。体調が改善して着飾れるようになれば、いずれはウチの目玉になる。未来の稼ぎ頭なんだ。」 巨漢は、僕の耳元で淡々と告げた。重大な仕事だとは思っていた。だって数も少なく貴重な力と凄まじい美貌を誇る伝説の種族だ。けれど、巨漢の言葉はその認識を実感へと変えた。 「つまり何が言いたいかってぇと……分かるな?」 失敗は許されない。万が一にも逃げられるなどあってはならない、ということだろう。巨漢は不敵な笑みを浮かべ、肩をポンと叩くと地下牢を後にした。  改めて天使に視線を落とした。その瞳は光の差し方によって菫色から青空のような色まで変化する。絹のように真っ白なカーリーヘアは、汚れて燻んでしまってもなお、その透明感と美しさを残していた。骨と皮だけの体は白く、頰はこけていたが、何故か見せ物となった人々特有の廃人のような雰囲気は感じられなかった。片方しかない翼は右側に生えていて大きく、やはり汚れていたが美しい。 「ねえ、君、名前は?」 「……。」 「ハハ、そうだよね。いきなり連れて来られて警戒するなは無理な話だよね。…僕はレナト。これから君のお世話をする人間だ。」 そう笑って言えば、天使はようやくその重たい口を開いた。 「………ミハイル。」 「え。」 「私、ミハイル。」 「そっか、よろしくねミハイル。」 それきり、ミハイルは口を利かなかった。顔すら見せず、時々笑うだけだった。けれど僕は毎日話しかけた。 「ねえミハイル、天使の女の子ってどんな遊びをするの?」 「ねえミハイル、美味しい?」 「ねえ聞いてよ、今日は旦那様が─」 「それでね、ミハイル。」  気が付けば、ミハイルの体調は万全になり、一週間後には店に出ることに決まってしまった。見せ物小屋で見せ物として店に出た者が、どんな末路を辿るか。それは僕が一番知っている。客の好奇心を煽る無理な演出に巻き込まれ、精神を病んでいくのだ。片羽のミハイルであれば、美しい見た目を売りにするのはもちろんのこと、危険な飛行ショーやその生命力をアピールするためにワザと怪我をさせて回復する様を見せる、といったものだろうか。そんなの、毎日させるなんて苦しすぎる。ミハイルがああなるのは見たくない。 「ねえミハイル、君はこれから先、辛い思いをすることになると思う。だけど僕、それは嫌なんだ。だからといって何か策があるわけじゃないけど、君を助けたいと、思ってしまった。」 いつものように、檻の前でそう言った。すると、今まで背を向けていたミハイルがこちらを向いて言った。 「…なんで?」 菫色の瞳が松明に照らされて青く光る。その瞳に魅入ってしまった。 「私のこと、好きなの?」 気が付けば、その言葉に頷いていた。ミハイルは口角を吊り上げた。 「…馬鹿ね。私は見せ物なのに。」 「たしかに馬鹿かもしれない。だけど僕は君を愛してる。」 すんなりと出た言葉。言いながら自分で驚いた。顔を真っ赤にして口を覆った。けれど、その言葉は僕の胸にストンと落ちた。ああ、そうか。僕はミハイルを愛しているんだ。いつの間にか惚れ込んでいたんだ。そう思った瞬間、胸の辺りが暖かくなったように感じた。こんな感情、僕には一生、無縁だと思っていたのに。 彼女も僕の言葉に目を見開いた。それからまた微笑んで、言った。 「…そう。ねえ、開けて。」 僕は言われるがまま、ポケットの中の鍵を取り出し、こっそりと牢を開けた。牢を開けること自体は、物の出し入れなどに必要な動作だし、見せ物は鎖で繋がれていて逃げられないので、世話係として咎められるような行動ではない。 「それで、これからどうすればいい?」 「この腕と足の、力を抑える鎖さえ取れればどうとでもなるわ。」 僕は頷き、その鎖の鍵を使って解いた。ミハイルは笑んで、僕に抱きついた。 「ありがとう。」 僕は震える手でミハイルを抱きしめた。もしもバレたら…そんな恐怖が頭を埋め尽くす。 「ねえ、貴方は私を愛しているのよね。」 「…うん。」 「私もよ。」 ミハイルは僕の両頬を手で覆って言った。松明に、瞳が怪しく美しく照らされた。 「え…」 「だから、貴方も一緒に戦って。」 「分かった。」 僕は彼女の瞳を見つめて、きっぱりと言った。これでもう、戻れない。少なくとも元のような暮らしはできないだろう。  そして気付けば、僕はナイフを握っていた。 「レナト!オマエ、何をしたか分かっているのか!」 「ぇ…あ、」 目の前には苦痛に顔を歪ませた巨漢。腹を押さえるその手からは赤い液が漏れ出ていた。呼吸が…上手く息ができない。どうしてこうなった。なんで、どうして。どうしてどうしてどうして。どうして僕は…彼を刺したんだ。 冷たい手が、僕の肩に乗り、優しく甘い声が僕の耳をくすぐる。 「大丈夫。」 「ミハ、イル…。」 「レナト…じきに旦那様が来る!今のうちに謝れば…ハァハァ…そこの天使が刺したことに、してやるよ。」 「ぅ、オェェェ…」 血生臭い匂い。鉄の匂い。温い液体とベタつく感触。肉を突く感覚は、未だ手に残っている。気持ち悪い。気持ち悪い。 「ミハイル、僕…」 ミハイルは僕の背を摩りながら、言った。 「レナトは私を愛してるのよね。」 「それは…もちろん。」 「じゃあ、大丈夫よ。愛する私のためだものね。」 そうだ、ミハイルと逃げ延びるため。生き残るため。そのためには、多少の犠牲は仕方がないのかもしれない。 僕は徐に巨漢に近づいた。 「な、なんだ!…ハ、やる気かよ!」 余裕ぶってはいるが、巨漢の額には滝のように汗が滲んでいる。動けば発狂するほど痛いだろう。その時、ミハイルの魔法が巨漢を縛った。 「名前も知らない先輩さん…すみません。」 「ぇ…」 ナイフを思いっきり投げた。額に向かって。巨漢は倒れた。死んだかは知らない。けど、放っておけば死ぬだろう。僕はナイフを引き抜いた。そして泣き叫んだ。 「アアアアッ…」 巨漢の死が苦しいんじゃない。人を殺したことへの恐怖。罪の意識。ドス黒い感情が渦巻いて、溢れた。 「大丈夫。大丈夫。貴方は私を悪漢から守ってくれたの。ただ、それだけ。」 「そう…だよね。」 僕とミハイルは、旦那様がやってくる前にと、急いで店を後にした。  あれから五年が経ち、僕たちは夫婦として森の奥に住んでいる。ミハイルはもう、片羽じゃない。三年前、ここに越してくると決まった日、家に帰ると、ミハイルが羽根を捥いでいたのだ。失血死直前だった。僕が慌てて駆け寄ると、ミハイルは青白い顔で言った。 「羽があると…村に受け入れてもらえないでしょ。私は人間の妻として、普通に暮らすの。」 僕との暮らしが平穏であるために、彼女は唯一残されたアイデンティティをへし折ったのだ。それから暫くして、持ち前の生命力のおかげでまた羽が生えた。けれど、それは小さくて、背中のぱっくりと空いた服でも着なければ、誰にもバレない程だった。  ある時、ついに役人が僕らの家を突き止めた。少し前に街に出るまでは知らなかったが、僕らはあの巨漢を殺した罪で指名手配されていたのだ。そして、村の男が家の戸を激しく叩き、こう叫んだ。 「なんだか知らんが、役所の連中がオマエさんらを探しに来るらしい。逃げた方がいいんでねぇが?」 それを聞いた時、僕はハッとした。マズい。ミハイルが殺されてしまう。  その日、帰ってきたミハイルに、 「ここを出よう。どこかに逃げなくちゃ。捕まってしまう。」 「そう……ねえ、レナト。あの茶葉を淹れてくれない?」 彼女は淡々と優しい声で言った。僕は頷き、茶を淹れた。彼女はそんな僕の姿をにこやかに見つめていた。 「なあに?」 「いや、愛する人にお茶を淹れてもらえるなんて、幸せだなぁって。」 「なんだよ急に。いつも淹れてるでしょ。」 僕はそう言って笑った。手に持ったティーカップを、恐る恐るテーブルに置くと、それをミハイルが持ち上げて一口。 「ごめんね、レナト。愛してる。」 「え、うん。僕も…愛してる。」 それを聞いてニッコリと微笑むと、五秒と経たないうちに、ミハイルは震えだし、ティーカップは床に落とされ、椅子から崩れ落ちた。しかし彼女の笑顔は崩れなかった。 「ぇ…あ、ぇ、ミハイル?ミハイル!」 僕は慌てて駆け寄った。体を揺する。 「ミハイル!」 返事は無い。息も止まり、吐き出された赤色が、お茶に混じって床を濡らしていた。 「嘘…嘘だ!」 僕は夜通し泣いた。ミハイルの側で泣き叫んだ。僕が、彼女に毒を盛ったんだ。そう思った時には、一層涙が止まらなかった。  それから暫くして、僕は彼女の墓を建てた。その前に、彼女の長い髪を切って壺の中に大切に仕舞った。遺髪は彼女の座っていた椅子の前に置いている。毎日、庭の墓の手入れをし、花を摘んで供えた。いつしか僕は、早く死にたいと思うようになっていた。 「そうだ、あの茶葉。」 どうせなら同じ茶葉を淹れて飲もう。そう思って茶葉を覗き込むと、何か白い紙切れが見えた。引っ張り出すと、『生きて』の文字があった。間違いなく、ミハイルの筆跡だった。僕は、茶葉を飲むのをやめた。もう当分、近づきすらしないだろう。しかし、あの紙だけは肌身離さず持っていた。  ある日、家の戸が激しく叩かれた。恐る恐る開けてみると、やはり役人だった。 「この家に人殺しの青年と天使がいることは調べがついている。もしや…お前が青年か?」 「ここには僕一人です。妻が…つい先日心臓発作で亡くなったので。」 否定はしなかった。そんな気力は無かった。が、僕の言葉を聞いた役人は、バツが悪そうに帽子を深く被り直して言った。 「そうですか、それは大変な時に失礼しました。また、何か情報が入れば教えてください。」 それからすぐに役人は帰った。どうやら連行は免れたらしい。僕は君の死に生かされたようだ。  でもね、時々僕は思うんだ。もしかしたら君は、死ななくても良かったかもしれないって。日を重ねるごとに、朝目覚めて日を浴びる度に、君と過ごせる未来があったかもしれないと考えてしまう。だって君は片羽じゃなくなったし、髪も背もグンと伸びていた。いくらでも誤魔化せたろうし、逃げる選択もあった。…ううん。もう怒ってなんかないさ。僕には君の分も生きる義務がある。  あの日君と出逢うまでは、僕はこのまま奴隷として道具のように使い古されて死ぬんだと思ってた。こんな僕を愛し、新しい選択肢をくれた君。そんな君を僕は愛している。だからね、 「ミハイル、愛してる。」 そう言って花を供えるのは、ある種、贖罪なのかもしれない。  でも、もう、限界なんだ。許してほしい。いつの日か、夢見ていたはずの自由の日々を純粋に楽しめなくなっていた。ずっとどこかで、この日々が終わることを恐れていたんだと思う。毎日毎日、誰か偉い人がやって来て僕らを捕らえるかもしれない。そうなれば、優しかった村人もきっと失望して、やっと手に入れた全てをあっけなく失うのだろう。死ぬことも、君と離れることも、今の暮らしを手放すことも、その全てが嫌で、我儘な僕はただビクビクと過ごしていた。  愛してると言うたびに、胸が重く痛んだ。人を殺して幸福な未来を奪い取った僕が、普通に生きてて良いのか、人を愛する資格があるのか。僕はとっくに、実に人間らしく腐り切っていたんだと思う。それでも、君を愛する気持ちは何も変わらず、むしろ病的な迄に深くなってくばかりだった。  何度も心中を考えた。自分勝手だとわかっていても、早く楽になりたかった。いつミハイルが僕を嫌いになるか分からないから、愛してると言ってくれるうちに死んでしまいたい。愛してると言うたびにあの日の光景を思い出して気を取られる僕なんて、きっと君は嫌だから。でも、焦げたスクランブルエッグの皿を置きながら、申し訳なさそうに笑う君を見て、やめた。不慣れながらも頑張って作ってくれる君のスクランブルエッグは、必ず焦げが目立っていた。それで「ごめんね」と恥ずかしげに笑う君に「次があるよ」「おいしいよ」と言って頬張るのが僕の幸せだった。そしてその日も、「次があるよ」と言ったから、君が「そうね」と笑ったから、次があってほしいと思ってしまったのだった。  結局僕は、勇気が無くて、そのくせ欲張りだったんだ。大切なものを手放したくなくて、何かを犠牲にする勇気もなくて、ただ君からの愛に生かしてもらっていた。君がいない今は、君への愛で生きている。だけど、もう、耐えられないんだ。来るかどうかも分からない役人に怯えて、森から滅多に出られない。四六時中君の墓や遺髪に話しかけて、君の羽で作ったペンで君への思いと遺書を書いて、夜中はあの日を思い出して何度も起きる。朝はスクランブルエッグを作っても、君のと比較しては寂しくなるばかりだ。もう、充分だろう。 「ねえ、ミハイル。充分生きたと思うんだけど。」 震える手でそっと花を供えた。上手く笑えているだろうか。ゆっくりと瞼を閉じて、手を合わせて、墓の前のベンチに腰掛けた。 「…ミハイル。愛してるよ。」 すっかり荒れて老いた手で、小さなテーブルに置いたティーカップを空に掲げた。青い風が、頰を撫でた。

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見せ物小屋の天使

正気の沙汰じゃねえ作品群 

「正気の沙汰じゃねえ募集」に参加してくださった皆様、そして参加作品を読んでくださった読者の皆様、本当にありがとうございました。 どうも、主催のあいびぃです。 ここからは作品の紹介をいたします。 【人間が人間を殺してはならない理由】 著者:藤塚太陽 様 構成の斬新さや、主人公の渇いた不気味さが今回の募集にマッチした静かな狂気。これ以上はネタバレになりかねないから言わないが、読めば分かる。とだけ言おう。 【『四角い部屋を想像してほしい。』】 著者:Aurelian Morse 様 批評:観察日記を読むような独特の視点で展開され、何度も何度も繰り返される文章。この一行を読めば、一見、同じ文が並んでいるだけのように思えるかもしれない。しかし、それらは回数を重ねるごとに違和感と緊張感を増して、読者を巻き込み迫る。ジリジリと迫り来るのだ。気が付けば逃れられず、ページを捲る自分がいる。奇妙で不気味、それでいて淡々としてるからこその狂気と作者様の知性の激流に貴方もきっと追われることになりましょう。 これほどのものを作る根気と発想力に脱帽。 【悪友】 著者:羽生.様 批評:狂気は無い。ただ純粋な罪の意識とかつての誤ち。しかしただそれで片付けられるほど軽いものではない。幼少時代の闇に向き合う後悔や苦しみが臨場感を持って胸に沁みる。その重たい内容に反して、全体を通しても感じられる美しい構成やラストの落とし方は快いものだった。ただ暗く、ただ綺麗。構成力に感動した。 【甘い?】 著者:除草機1号 様 都合の良いように常識がすげ変わっていく様子に ゾッとするほどの狂気と人間味を感じた。主人公の葛藤や歪んだ思考が丁寧に分かりやすく描かれていた。醜い。しかし美しい。それが狂気。 今回の募集で、こんなにも素晴らしい作品を人々の目に触れさせることができた。それを私はとても誇らしく思います。批評もなんだか感想じみて申し訳なく思っておりますが、これほど美しい作品を読ませていただいたことへの感謝と喜びは確かです。 皆様、執筆お疲れ様でした。 本当にありがとうございました。

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正気の沙汰じゃねぇ募集について

皆さん、こんにちは あいびぃです! 募集に興味を持ってこちらを開いてくださった方々、本当にありがとうございます。 さておき、説明に入りますね。 私が今回募集するのは、以下のような作品です。 ・なんらかの理由により投稿を諦めた作品(アイデア) ・なんらかの理由により投稿を躊躇している作品(アイデア) 【なんらかの理由例】 ・ドン引きするほどグロい ・斬新だがそれ故に自信がない ・文字数無さすぎて勇気出ない ・正気の沙汰じゃねぇって感じ ・自分の作風に合わなすぎて自信ない ・アイデアが身の丈に合わなくて書ける気がしねぇ そして、文字数制限ですが、最大でも二万字。以上です。 さすがにゼロとかは困りますが、最低文字数はあまり縛りません。 出来上がった作品をコピーしてアンソロジーを、というのは私には出来ませんので、作品名と作者名を並べただけにはなりますが、アンソロジー風にして後日投稿します。 作品名にも指定はありません。自由です。 また、コメント欄で参加表明をお願いしたいです。 その際、もしも批評を希望するならば、アンソロジーの作品欄に評価を記させていただきますので、参加表明と一緒に教えてください。 参加者様の作品には出来る限りコメントを残す所存です。批評を希望せずとも、私如きのコメントで良ければ感想を得ることはできますのでご安心ください。 ぜひ、#正気の沙汰じゃねぇぜ… を付けてご投稿を!

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優しい君へ

 あれは、日差しが照って、喉が渇く夏だった。君が五歳くらいのときかな。 君は私の前で手を合わせてくれた。 お母さんの隣で、「お菓子いっぱい食べれますように」って、見当違いのお願い事して帰ったっけ。生憎、私には叶えられない種類だったけど、とても可愛らしい願い事で、思わず笑顔になったよ。 ありがとう。 君は私の前を通るたびにお辞儀をして「行ってきます」と「ただいま」を言う。 あっという間に、服も身長もどんどん変わって、人間の成長は早いね。 今にきっと、私のことなんか忘れるんだろうな。 それでもいいよ。 私の入る隙が無いくらい、君が一度きりの人生を楽しめているってことなら。 そうじゃないならまた来てよ。 私には聞くことしかできないけど、それでもいいよって言ってくれるなら。 最近君は俯きがちで、 笑顔よりも暗くて硬い顔が増えてきたね。 君は覚えていないだろうけど、実は呂律の回らない頃から、その小さな手を合わせて訳も分からず願うフリをしていたんだよ。 私は保育園へ向かう君の舌足らずな感謝が好きだった。 鼻を垂らした君の満面の笑みを見た時、やっとここにいる意味を思い出せたんだ。 私は、君たちを見守る為に生まれたんだ。 だから君が「行ってきます」と言わなくなっても、元気な姿さえ見せてくれれば、それで十分だよ。 ああ、君ももう、十六か。 新しい制服に身を包んで、最近持つ人が増えた楽しげなその薄い板を見ながら歩く。 横の少し凹んだところに座る私なんて、視界にすら入らないだろう。 寂しいなぁ。 「行ってきます。」 さっきまで見入っていたのに、板を持つその手を下ろして、あの日と変わらぬ笑顔で。 軽い会釈ではあるけど、確かにそう言った。 私の前を通る人間は、みんな通り過ぎてしまうから。 君は自分のこと卑下してるみたいだけど、君は素敵な子だよ。 君と同じように私に挨拶してくれる素敵な人が、君の周りに居るかい? こんな石に笑いかけてくれる子が、本当に君の言う無能の役立たずなのかい? きっと違うよ。 こんな古臭い地蔵に話しかけてくれる。 こんな古臭い地蔵に笑いかけてくれる。 こんな古臭い地蔵にお供え物をしてくれる。 通り道の全ての地蔵に同じことをしてくれる。 それを、毎日欠かさず…。 それでもまだ、君は自分が嫌われてると思うのかい?

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優しい君へ

俺を殺して、マイラヴ。

 廃墟の中、風通しがいいなと場違いなことを考える。破片が強風に吹かれて舞う。これを人は現実逃避と呼ぶのだろう。血に濡れた顔面、霞んだ視界。足元に転がる敵味方の屍。 「あー…くそっ」 視線を落とす。コンクリートの床に額を擦り付けて、腹ン中全部吐き出して。顔面突っ込んでるそれは、血なのかゲロなのか。本当は今すぐにでも顔上げたいはずなのにな。おおよそ人とは思えない呼吸音。吸ってるのか、吐いてるのかすら分からない。隙間風のような音。 「…生きてるか?」 「カヒュ…クッ…ハァハァ……ブグォ」 辛いだろう。苦しいだろう。ただでさえ息ができないのに、穴という穴が吐瀉物で塞がれて。放っておけば、このまま死んでしまうのだろうか。きっと間違いないだろうな。 「また、生き残っちまった。」 お前と過ごした日々が、この世界に少しだけ色をくれたんだ。腹を抉られて、立つことすらままならず縮こまっている。血に濡れてベトベトになった奴の頭の前に、そっと腰を下ろした。俺と肩を並べて鬼神の如く戦った英雄にしては、随分とみっともない姿だ。 「でも…らしいっちゃらしいか。」 俺の声に呼応するように、硬く拳を握った。その拳には悔しさが滲んでいるように思えた。そうか、そうだよな。まだ、生きたいよな。大丈夫だ。 「今、治してやるよアレク。」 戦友に銃口を向ける。初めてだった。この方が効率が良いことは分かっていたが、そうしたいと思える相手もいなかった。だから今回も、ただの気まぐれにすぎない。  引き金を引いた。そうすればきっと…また… 「アレク……」 元々血に濡れていたオーロラのような髪から、血が吹き出た。顔にかかる。ああ、もう、元の髪色なんて分りゃしない。せっかく綺麗で珍しい色だったのに。そうだ、顔を上に向けてやろう。ふと、肩に手を伸ばし、横に転がした。ゲロまみれの顔を見ると、マーブルカラーの瞳も色褪せていた。こうなればもはや原型など無い。 「あぁ……そうか。ハハっ、ハハ……」 普通は、そうか。死ぬんだな。当たり前か、消耗してようがいまいが、鉛玉を頭蓋に撃たれて死なないやつなんていない。視界が滲む。一方で乾いた笑いが、しばらく止まらなかった。 「俺だけ…また、俺だけか。」 銃口を自分の顳顬に押し当てた。せめて、共に死んだ事実を、ここで。  引き金を引いた。水音がした。幸せだった。最後に見たアレクの顔は、苦痛に満ちていた。ああ、また失敗したのか俺は。 ──廃墟に光が差した。無数の屍を照らし、死体独特の香りに釣られたか、ハエが集る。血は乾き、コンクリートの模様と化した。  屍が一体。むくりと上体を起こす。目を、くり抜いた。いや、引きちぎった。 「アレク…ごめん。」 男は手の中の眼球を、旧友のそばに置いた。ぽっかりと空いた眼球のあった場所からは、血がダクダクと流れる。明らかに大量出血だ。涙と共に頰を伝い、鉄の味が口いっぱいに広がっても、何も感じなかった。 「俺の眼球、どうせ生えるけど……一年はこのままだ。」 立ち上がった。変わり果てた戦友を見遣る。 「一年だけ…罪滅ぼしをさせてくれ。」 分かってる。これがただの自己満足だってことは。だからアレク、一年だけだから俺の自己満に付き合ってくれ。  去り際に、落ちてた爪の長い人差し指で口を裂いた。なんとなく、裂いた。これもきっと一年か2年かすれば治るんだろう。ああ、もう…。 「──死にたい。」 ◇ 目には眼帯をした。素朴な黒。痛むわけでも、疼くわけでもない。でも、日に一度は、なんとなく手が伸びる。眼帯を、独り撫でる日々。 左目しか見えないせいか、射撃の精度やらなんやら下がって、支障は大きかった。 耳の手前まで裂けた口は、唇の端まで、自分で縫い合わせた。荒い縫合で、時に傷が開くこともあった。これも痛いとか疼くとかは無くて、ただこれから先、いつか治っても紐を解くことは考えなかった。 一年経とうが、何年経とうが、結局俺は贖罪をやめられなかった。 「─それで?」 男の視線の先には、青白い顔をした黒髪の少女が、宙に揺られている。血を吐き、地面に血溜まりを形成してもなお、震える声で懸命に話していた。 「…田中が…倒れてっ…ガフっ…グッ……ハァハァ」 「マジで?田中ダサすぎね?ウケる。」 「みんな…が、わらっ……で…も、それがっ」 「楽しかった?」 男は首を傾げて、自分が首を掴んで持ち上げた少女に笑いかける。少女は頷いた。 「そっか。ありがとうね。」 その言葉に、少女は笑顔を浮かべた。きっと期待したのだろう。その瞬間、心臓に突きつけられた銃口から、直接鉛玉が貫いた。 男は力無い少女の屍を、どしゃりと床に落とした。 「オマエさ、良い加減キモいんだけど。」 奥から別の男が、向かいざま、テキパキと生きている敵を射殺しながら颯爽と歩く。 「え、なんで。」 「なんで一々殺す前に思い出聴くわけ?フツーに時間の無駄。」 「なんちゃって走馬灯体験?俺、死なんし、三途の川もなんも見れんからさ。」 「……死なない殺し屋も難儀だな。」 男はそう言って紙タバコを加え、火をつけた。 「もう、もはや戦闘屋だけどな。」 「ハッ…違いねぇ。それで、天下の戦闘屋さんは、俺が死んだとき、何を供えてくれんだろうな。」 煙を吹かして、笑った。 「さあな…。腕か、足か。」 「重いな…愛が。腕と足は、ちと買い被りすぎだろ。」 「ハハっ…ならその時は、選ばせてやろうか。」 「いや、いい。趣味が悪ぃ。俺はロマンチストでね、ステキな花でも添えといてくれや。」 そんな話をしながら、二人はその場を去った。 ◇ 「…早かったな、ファグ。約束の花だ。」 墓石の前に、花束を置いて去った。黒赤色の薔薇と、スノードロップと、それからクワ。振り返ることはなかった。ただいつもより、砂利を踏み締めて歩いたのは覚えている。  足取りそのまま、研究所に身を売った。もう、何もしたくない。殺すのも疲れた。友が死ぬのも、本当は辟易していた。だから十年間の契約で、実験体にしないかと交渉した。契約金は既に口座の中だ。 ◇ ──あれから幾年。 朝起きて、目に入るのは気が狂いそうなほど白い部屋の壁。服ですら白い。ぼうっと辺りを見回して、今朝投げ入れられたであろう昨日の朝刊を読む。少し遅れた情報を提供することで、俺の精神の錯乱を防ぎつつ、あちらは保身を図っているらしい。  なるほど、墓が暴かれたことを一面にするくらいには、この世界は平和ボケしているらしい。 「ん…?」 不知火町の墓地…それにこの写真。名前のとこモザイクになってるけど間違いない。 「アレク…。」 誰だ。アレクの墓を漁ったのは。あの日、手に俺の眼球を握らせて、抱えて帰った。俺が建てた墓。  ぐるぐると考え込んでいると、けたたましい警報が鳴り響いた。研究者たちも忙しなく往来し、時に怒号が飛ぶ。当然、俺を気にかけている暇などあるはずもなく、放置されたまま。ただ、走り回る職員の姿をガラス越しに見つめるしかなかった。  暫くしても、警報は止まない。突如、目の前で職員が倒れた。何もないのに次々と倒れていく謎現象に、気づけば見入っていた。  ふと、コツコツと足音がするのに気がついた。その方向を見つめていると、暫くして誰かがこちらへ歩いてくる。神秘的な、女。目を疑った。オーロラの髪と、マーブルの瞳。肩には何か、球体。黒いローブを下ろし、禍々しくグロい大鎌を引き摺る姿は、宛ら死神であった。 目の前まで来て、女は不敵に笑んだ。 「迎えに来たよ、マイラヴ。コロしてあげる。」 「誰だよ…オマエ。」 「え〜、忘れちゃったの?寂し〜。」 女の手が、ガラスを突き破って俺の眼前へと伸びる。  眼球が、引きちぎられた。眼帯をしていた方の、眼球を。血が溢れ出す。体が固まって動かない。のに、頭はやけに冷静で、ただ自分の掌に溜まった血を見つめていた。 「痛がらないんだ…。」 女は楽しそうに言った。そして何故か、今度は自分の眼球を引きちぎった。流れ出す血など意に介さず、二つの眼球を天井に翳して見つめている。そして、俺の方を自分の眼球があった所に押し込んだ。 「ふふっ……。」 そして、血だらけの手でマーブルの瞳を俺に押し当てた。 「目が…治った」 いや、マーブルカラーのこの瞳が、俺の目になったんだ。ふと、瞼の上を撫でた。変な感じだ。コイツは何がしたいんだろうか。 「アレクシア・サージェリート。知ってる?」 「…知らん。」 「本当に?確か君は、この子のことをアレクって呼んでたよね。」 この子、そう言って、女は自分を指した。心臓が跳ねた。まさか、アレクがこの女なのか。でも俺の知るアレクは、 「アレクは男だ。」 「ノンノン…違うなぁ。あれは発育の遅いただの女だ。誰かさんの思い込みのせいで、墓の名前はかなり縮んでたけど。」 女はまた笑った。確かに特徴は一致しているし、確かに男にしては若干高い声をしていたと思うが、それでも俄かには信じ難い。 「本当に…アレクなのか?」 「アレクだよ。アレクシア。この体はね。」 「この体は?」 「中身は死神だよマイラヴ。見た通りね。」 あぁ、ならやっと死ねる。 「ふははっ…良い顔してんね。」 『マロ〜』 「そいつは…?」 肩に乗った球体、動く眼球を指差した。 「君のお供え物だよ。クワロっていうの。」 ニタリと笑った。まさか自分の目とは思わなかった。変な生き物作りやがって。これでビビらない俺も、十分変か。 「そうか…。アレク…俺を殺してくれ。」 「勿論だよマイラヴ。でも、君を殺すにはまだ色々と足りない。旅に出ようか、シエロ。」 俺は笑って、その手を取った。

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俺を殺して、マイラヴ。

星の話はやめようか。

一章 星に願いを 顔の皮を剥がんとする北風に舌打ちをした。冬はやっぱり嫌いだ。人間、呼吸が無ければ生きられないというのに、息を吸う度に喉を突き刺すような冷気が体を駆け巡る。朝から零度を下回って、働く人々の末端を容赦なく突き刺す冷気。ここまで寒くしておいて雪も降らせない冬が、小学校の時のレースで手を抜いたアイツのように見えて俺は嫌いだ。 夜中、帰宅途中で自販機に寄り、コーンクリームを買った。普段は缶の底に溜まるコーンが嫌で買わないのだが、あまりの寒さと空腹に思わず指先が伸びた。なんとなくベンチに座って空を見上げると、缶の温かさが冷え切った指先からじんわりと広がった。ふいに溢れた息は白く濁り、そしてふっと消えた。満天の星空が街を照らす。冬だからかハッキリと、より輝いて見えた。コーンクリームを飲みながら、無駄に眩しいこの星にいつの間にか引き込まれていった。短い間隔で並ぶ星々をなぞる。俺はこの星の配列に見覚えがあった。オリオン座だ。幼い頃に神話も成り立ちも調べず、ただそれだけを何度も遅くまで探し、母を困らせていた事を覚えている。 コーンクリームのコーンが底に張り付いてきた頃、俺は一筋の流れ星を見た。流れ星に願い事をすると叶う、なんてジンクスがあったのを思い出し、馬鹿馬鹿しいと心の内で笑い飛ばした。しかし、次々と流れる星の輝きに魅入る内、心の奥底からの願いが口から溢れ出た。 「やり直したい…全部」 本当に後悔の連続だった。人生が選択の連続だと言うなら、俺は必ず間違ったほうを選んでいたに違いない。それくらい、今の俺は昔の理想や幸福から程遠い人生を送っている。星に願ったところで叶うわけがない。非現実的だ。そう、また笑い飛ばした時だった。車の唸りも北風の嘶きも、周りの音全てが消え去り、完全な静寂が俺を包んだ。そして、代わりに無機質な声が耳鳴りと共に降り注ぐ。 『願いを確認しました。』 思わず見上げると、上から人が降りてきていた。フリルが贅沢にあしらわれたレモンイエローのミニドレスが、傘と共にふわりふわりと舞う。その少女が、まるで風に吹かれた花びらのような華麗な着地を見せた瞬間、彼女の爪先から白い光が円状に広がり、俺を包んだ。 暫くして、光を遮ろうと眼前に並べた腕を下ろし、瞼を開けた。そこはさっきの場所とは全く違う、ただ圧倒的な“光”が、闇に延々と続く道を作っていただけだった。思わず足元を見る。俺は、そのすべての道が集まる分岐点に立っているようだ。 『コード“星に願いを”が発動されました。世界に“やり直し”を申請します。』 例の少女は、俺の前にいきなり現れてそう言った。瞬間移動でもしているのか、ヒュンヒュン音を立てて気づけばまた別の場所に立っている。彼女の大きな瞳に光はないが、しかしはっきりと俺を捉えていた。 『申請の受諾を確認。これより、対象者の願い“やり直し”を発動します。代償を検出…該当無し。対象者、足元を見なさい。』 少女は、くるくると巻かれた金髪を腕に乗せながら、ゆっくりと真っ直ぐ俺の足元を指差した。その瞳は俺を見据える。言われるがまま足元を見下ろすと、そこには文字が白く輝いていた。 「なんだこれっ」 『代償ルーレットを稼働します。ドゥルルルル…テンッ』 それも束の間に、少女の単調かつ軽快なドラムロールが響く。それと同時に白い文字が回転し、そして停止した。 『対象の代償を決定致しました。“やり直し”の成功が確認され次第“希望”をいただきます。』 「は?」 少女の言葉が聞こえた瞬間、視界が真っ白になった。眩しい光に目を眩ませ、それからそっと瞼を開く。 背中を焼くような激しい陽光と、揺らめく空気が俺の体中の水分を搾り取る。 「冬じゃ…ない」 渇いた喉がなり、湿った掌がゴム質のハンドルを包む。つるりと滑るリスクを背負いながら踏み切りの音を聞き、ただ茫然と立つだけ。だが、それだけで理解した。この景色、服装…間違いない。ここは二十七年前だ。 「ははっ、何当たり前のこと言ってんだよ。七月中旬だぞ? もう再来週からは八月だ。」 「逆にずっと冬だと思ってたのかよ」 「比嘉達徳…小倉優吾。」 ずっと彼女がほしいと言い続けていた、さっぱり坊主の帰宅部タッツー。当時は伸びた前髪を切るか切らないかで散々悩んでいたサッカー部の幼馴染、優ちゃん。彼らは、紛れもなく俺の高校時代のいつメンだ。 「おうおう、どうした急に。厨二病か、高二だけど。フルネームが言いたくなるお年頃ってやつ?」 「どういうお年頃だよ。」 「あーいや、ちょっとなんとなく。タッツーって冷静に考えると武将みたいな名前だなって思って。」 「俺の名前カッケーだろ?気に入ってんだ」 タッツーが得意げに言うと、優ちゃんが期待に胸を膨らませながら聞いてくる。 「俺は俺は?」 「うーん……ついで?」 「ついでかよっ」 優ちゃんのツッコミが炸裂し、踏切を渡る三人は笑いに包まれた。本当に幸せだ。これがずっと続けば良いのに。あの西洋人形みたいな少女への不満は、二人の顔を見てからか、気付けば消え去っていた。 ふと、タッツーが空を仰いで言った。 「あっちぃ…あーー海行きてぇ」 「いいな、今度行くか。」 優ちゃんも汗で張り付くワイシャツを摘み、パタパタと前後に仰ぎながら、タッツーの言葉に続く。 「…そう、だな。」 「どした? 」 「あ…いや別に」 「どうせ暑さでどうにかなってんだろ。さっきもおかしかったしな。行こうぜ、優ちゃん」 「あ、うん。また連絡するわ。じゃあな」 「あばよっ!」 二人と俺の家は、この道を分岐点にそれぞれ別方向にある。ここでお別れだ。 「おう、じゃあな二人とも」 二人と別れたあと、暫くは自転車を押しなから歩いた。それから、特に意味もなく適当なタイミングで漕いで帰った。 少し古い瓦屋根の一軒家。それが俺の実家だ。母も祖母も、みんなここで生まれ育った。過去の俺は毎日帰っている家だが、中身は未来の俺。十数年ぶりの実家は、ノスタルジーに浸れる独特の趣や懐かしさと共に、妙な緊張感があった。それぞれが自由に交差し合う複雑な心のまま、実家の磨りガラスの引き戸を開けた。 「ただいま」 「おかえりー。帰ってきたばっかのとこ悪いんだけどさ、お母さん今からスーパー行ってくるからお留守番お願い。あ、おにぎりあるから食べていいよ」 キッチンとダイニングが合わさった部屋で、なにやら慌ただしく外出の準備をする母の背中に、思わず見入る。最後に見た母の背中は、丸く曲がり、肩が盛り上がっていた。こんなに綺麗な形ではなかったはずだ。 「え、いいの。」 「もちろん。学校帰りでお腹空いてるだろうし、どうせ食べても晩御飯待ってる内にまたすぐ空くでしょ。」 「まあ、うん。」 「じゃ、てことで行ってきまーす!」 引き戸から飛び出して行った母の背中を見送って、家の中へ戻った。外に比べればいくらかマシなものだが、それにしたって暑い。エアコンがない我が家は、縁側の障子を開けっぱなしにする他に暑さ対策がないのだ。 暑くてたまらないので、机の上に置かれたおにぎりを持って縁側の部屋へ移動した。障子の仕切りが無い部屋を超えて歩いていく途中、ふとカレンダーが目に入った。母が棚の上に置いている積み木のカレンダー。毎日ひっくり返しているから、日にちが違う事はない。 「七月十九日…。」 ドキッとした。あの日がもうすぐ近づいている。俺が修正すべきは、きっとそれだ。その事実が、俺の胸に鉛のように重たく沈む。視線を落とし、その現実から逃げるように縁側へと速足で向かった。縁側に座って、おにぎりを頬張る。 「しょっぱ…」 それは食べ慣れた、懐かしい味だった。母が作るおにぎりは、何故か塩が多く入っていて塩辛く、当時は文句の一つでも言いたくなるのを抑えて食べていた。しかし、今は暖かく感じる。塩辛い口内をどうにかしようと、キンキンに冷えた麦茶を流し込む。ゴクゴクと音を鳴らして飲むのが良い。この裏技は「母さんのおにぎりはしょっぱいだろ。こうすれば調和が取れるんだ」と幼い頃に父が母には内緒で教えてくれた。 『今回の“やり直し”でやり直せる後悔、三件。内容の確認は不要ですね』 庭の柿の木の前に、場違いなミニドレスが立っていた。 「オマエ…あの時の」 見間違える訳がなかった。俺をここへ連れ戻した張本人。その縦に巻かれた金髪と、光を灯さない群青の瞳。フリルを纏ったレモンイエローのミニドレス、そして黒い傘。正に西洋人形そのものである彼女の姿が、そこにあった。 「はっ、今の時間帯…日陰なのにさすのかよ。」 『…アイデンティティなので。』 「そうかよ。で、オマエなんでここにいるんだ」 『オマエではなく“セラ”です。質問の解答、管理者権限。世界より、時空間での出入りの自由を許可されています。』 「…来た理由を聞いてんだよ。」 『経過観察と概要の説明です。貴方が役に立つか、成し遂げられそうかを見定めるために。』 淡々と告げるセラの瞳は俺を見据えた。さっきから、動揺を隠そうと俺の顔が乾いた笑みを浮かべやがる。なんでここに現れたのか、コイツが何者なのか、俺はどうしたらいいのか…。疑問は収まりきらないほどあった。 「オマエは何者だ。こんな事ができるなんて」 『私は…私利私欲の為に他人の願いを叶える愚者。役職は管理者です。』 そう言うと、セラの姿は徐々に透けて、そして消えた。 「私利私欲…愚者。」 セラの最後の言葉は、それからずっと俺の脳裏にこびりついて離れなかった。 二章 使命感 塩辛いおにぎりも二個目に差し掛かろうという時、突如としてクラシックが家中に響き渡った。くるみ割り人形の軽やかな旋律が鼓膜を揺らし、俺は立ち上がって受話器へと向かう。ウチは風呂も電話もこの曲だから紛らわしい。 「はい、園山です。」 「あ、俺俺。」 「優ちゃんか。どした?」 「海の話だよ、帰る時しそびれただろ?」 「あー。いつにする?」 「八月の…そうだな、十五日とかどう?」 優ちゃんの声に喜色が滲んでいた。俺も思わず、表情筋が緩む。しかし、俺は言わなければいけない。その日はダメだと。 「その日は…荒波になるかもしれん。そんな気がする。」 「えー、そんな曖昧な。」 「とにかくやめとけ。死ぬぞ。」 空気が少しだけ張り詰める。しかしなんとしてでも止めなければならない。あの日、海に行った俺たちは荒波で注意報があったのにも関わらず居座り続け、優ちゃんはタッツーに乗せられて二人ともども入水。海難事故に遭い、そして、二度と帰ってこなかった。 「やめろよ、父親海難で亡くしてる奴が言うと洒落になんねぇ。そうだな、やめよう。ちゃんと注意報とか確認して、徹底リサーチ済みのところにしよう。日付もな。」 「ありがとう。」 「気にすんな。タッツーには俺から言っとくよ。じゃあな」 「おう。じゃあまた」 電話の向こうでプツリと音がしたのを確認して、俺は受話器を置いた。これで、未来が変わったはずだ。戻った時、アイツは元気に笑っているはずだ。そんな期待を胸に。 しかし当日になるまで、無機質な声を聞くこともミニドレスを見ることもなかった。一つ目の“後悔”完遂いたしました、などと言いに来てもおかしくないのに、ほんとうに一度もである。 真夏の日差しが身を焦がす。まるで、紫外線のシャワーを浴びているようだ。 「海だーー!」 タッツーの頭に陽光が照り付け、反射する。優ちゃんも一緒に、波打つ海に向かって白浜を駆けて行った。俺は二人の背を追わなかった。理由は分からない。久々に、気兼ねなく楽しめるのだから、本当は今すぐにでも駆け出したかった筈だ。 「おーい!早くこいよーー!」 二人が大きく手を振り、俺を呼ぶ。その声が俺を現実へと引き戻し、一歩、また一歩と駆け出した。足が砂に埋もれる。その重みと、暖かさと、煩わしさが実感として俺を襲った。 「二人とも、なんか買って欲しいもんあるか?」 「え、なんか買ってくれんの?」 タッツーが嬉しそうに言うので、調子に乗るなと訂正する。 「アホか。金出せ金。代わりに払ってやるから。」 「えー…ケチ。じゃあ俺、かき氷で」 「俺コーラお願い。」 「オッケー、買ってくる。あんまはしゃぎすぎんなよ」 そう言いながら、俺は身を翻し売店に向かう。 「母ちゃんかよ」そんな言葉が、俺の背中に投げかけられた。 ビーチに整列する売店は、流石人気の海水浴場なだけあって多くの客ので賑わっている。夏の乾いた暑さは、陽光に熱されたビニールの屋根越しに伝わる熱波と、客の熱気とでまとわりつくような暑さへと様相を変えていた。中でも特に人気が高い出店が、タッツーご所望のかき氷店だ。親子連れの後ろに並ぶこと、体感数分。店に近づくにつれて、不思議と暑さが緩和されるような感覚に陥る。途中、味を聞きそびれたことについ頭を掻いたが、漂う冷気にその思いは溶け込んだ。結局、無難ないちご味をえらんだ。 かき氷を片手に、トイレの側の自動販売機へと向かった。もちろん出店にも瓶で売られていたが、並ぶ時間や余分にかかる代金を考えれば合理的な判断だったと言える。トイレから出てきた浮き足立つ海水浴客の賑わいを背に、俺は淡々とコーラを買う。一本買って海パンのポケットに突っ込む。自分の分もとボタンに指が触れた時、背中に気配を感じた。驚いて、ボタンを強く押し込み、振り返った。 「…またオマエかよ。」 『お気になさらず。経過観察です。』 数週間ぶりに目にする、白浜にはあまりにも浮いて映るミニドレス。前に会った時と、少し違った印象だ。大人しめのフリルが、繋ぎ止められた桃色の裾と共に潮風に靡く。 「経過観察って…。まあいい、持つの手伝ってくれ。」 『不可。私は誰にも認知されない、言わば“存在しない存在”であるため、物に触れることはできません。仮に持てたとしても、せっかくのオメカシが崩れる可能性を考慮し、必ず拒否権を行使いたします。』 変わらず淡々と織りなされるその言葉には、断固たる意志があった。とは言え、彼女に感情というものは無いようなので、ほんの気持ち程度ではあるが。 「そうかよ。その観察は役立ちそうか?」 『…貴方次第。そうあることを望みます、切実に。対象者、貴方にこんな言葉を授けましょう。“油断大敵”。期待…していますよ。』 心臓が鳴った。こんなことをしている暇があれば、アイツらをちゃんと見ていろと、そう言いたいのだろうか。俺には何か不吉なことが起こると言われている気がしてならなかった。疑問は声にならず、ただ唇だけが開閉した。そして言及する間もなく、セラは澄み渡る空に颯爽と消えたのだった。俺は暫く、彼女の消えた場所を見つめていた。 数秒して、ハッとした。早くアイツらの所へ行かなければ。そんな思いで、必死に走っていった。二人が泳いでいるであろう海へ。 暫く走ると、タッツーが手を振っていた。口元に手を当てて、何か訴えている。だが、その声は俺の耳には届かなかった。彼の後ろに、誰かが寝転がっている。嫌な予感がした。俺はスピードを上げて走った。コーラがどうなるかなんて、考える暇は無かった。手にシロップが付く度に、やっちまったと思いはするが、それ以上何かしようという考えには至らなかった。 「やっと来た〜。おせ〜よ、ソノッチ!」 「ごめん…タッツー、これ。」 俺はタッツーにかき氷を差し出した。 「さんきゅ。って、そうじゃなくて。色々あって優ちゃんがヤベーの!」 かき氷を受け取ったタッツーは一瞬笑顔を浮かべたが、すぐに表情が固くなった。普段より声量を大きくして、後ろを振り返った。俺もそこに視線を合わせる。 「え、これ…」 言葉が出なかった。砂場で固く瞼を閉じる優ちゃんの姿があった。絶句する俺の目をまっすぐに見つめて、タッツーは静かに頷いた。 「さっき、遠泳勝負してたらよ、浮き輪に乗ったガキンチョが流されてて、泣いてて。俺、動けなくて、レスキュー隊みたいなのに連絡しようって言ったんだけども、優ちゃん聞かなくて。それで…ガキンチョ連れてここまで戻ってきたら、疲労で。でも……安心しろよ、ただの気絶だから。疲労と酸欠が原因の。」 心配そうに優ちゃんを見つめるタッツーは、俺を元気づけるためか無理して笑っていた。優ちゃんの様子は、海水浴場なら割とよく目にする、“浜で寝ている人”にそっくりだったから特に騒ぎにはならなかったのだろう。ただ、俺は安堵に腰を抜かした。死んでいなかった。命がある。ああ、なんて素晴らしいことだろうか。視界が滲む。口角が上がる。慌てるタッツーの顔が、ボンヤリと見えた。 「バカ…優ちゃん。お前、心配かけさせんなよバカ。どんだけお人好しだよバカ…!」 俺は、そう言いながら手に持っていた缶を優ちゃんの頰に当てた。 「え…バカ言い過ぎじゃね?」 横からそんな戸惑う声が飛んできたが、どうでも良かった。タッツーも俺の隣に座り込むと、少しずつかき氷を食べ始めた。 「うるせぇバカ。お前もだよバーカ。あんな必死に叫びやがって、走り損だわバーカ。」 「ひでぇ。俺、優ちゃんとお前が親友だから早く教えてやった方がいいと思って。俺の善意だろ! 許せよ!」 「やだね。無駄にハラハラさせやがって。優ちゃんも優ちゃんだ。出来ねぇことすんじゃねぇよ…タッツーの方が体力あんだろーがバーカ。」 「ははっ……酷いなぁ。ケホッ、動けなかったタッツーよりマシだと思うけど。はっははっ…ケホケホッ、ふふっ。」 その時、聞き慣れた笑い声がした。いつもの調子で、されど弱々しい声。優ちゃんが目を覚ました。驚いて硬直した俺の腕を掴み、優ちゃんはゆっくりと起き上がった。 「優ちゃん…」 「ふふっ、ケホッ…命救ったのに、こんなに怒られるなんて思わなかったよ。それに…オマエが、俺にキレたの初めてじゃね?」 優ちゃんは俺の方を見てニッコリと微笑んだ。 「…別にキレてねぇよ。ただ、命は大事にしろよ。」 「そうだね、ありがと。あ、そうだ。コーラ買ってきてくれた?」 優ちゃんが手を差し出したので、その手のひらに持っていたコーラを押し当てた。すると優ちゃんの手のひらが缶を包む。プルタブを開けると泡が吹き出した。それを見て、俺は瞬時に目を逸らした。 「えっ、なんで? もしかしてソノッチ振った?」 「あー…いや。」 「あ…そういや走ってたよな、ソノッチ。」 「ふーん……それって俺のためかな?」 優ちゃんは、勢いよく俺の方に首を回すと、先ほどとは打って変わってニマニマと悪い笑みを浮かべていた。気恥ずかしくなって、俺は顔を背けたまま返事の代わりに頷いた。 第三章 宿命 海の件が終わり、帰宅するとセラが現れ、一つ目の後悔を達成したと告げた。その後も、俺は順調に残り二つの後悔を遂げた。高校時代、一年の時からずっと好きだった山川桜という女性に告白した。振られてしまったが、告れば良かったという後悔は打ち消され、寧ろ晴々とした気分だった。そしてその後、正に棚ぼただが彼女が出来た。聞けば、俺が山川さんに告白したことを聞いて危機感を持ったのだと言っていた。可愛らしくて優しい彼女に、俺はもう山川さんへの恋心を忘れつつある。もう一つの後悔は勉強をしなかったこと。正確には、本気で取り組まなかったことだ。結局、いい大学を出ないと良い就職先に就けない。生きていくために金は大事である。あと十数年すれば還暦だった未来の俺は、工事現場で作業をする作業員。それも小会社の雇われだった。運悪く経営の下手な社長に雇われてしまった俺は、運悪く同期達と良い関係を築いてしまって、辞めようにも辞められず、そのままグダグダ働いていたのだ。働くことに何の意義も見つけられず、歳を重ねるに連れ、もはや自分が何をしているのかさえ曖昧になってくる。そうなると、今度は年金のことなどを考えてしまい、虚しくなるばかりだった。そんな未来を変えるべく、俺は良い大学を卒業する為に勉強をしようと決めたのだ。 一年が過ぎ、試験の結果が出た。受験票を握る手は濡れて、冬なのに何故か暑くて仕方がなかった。喉が渇いて、鳴ってしまった。試験結果が発表される、会場に足を踏み入れ、覚束ない足取りで掲示板へと歩みを進める。人混みに入り、俯いていた顔をそっと上げる。 「22231………あった!」 喜びに声量が突き上げられた。周りがこちらに振り向いたので、気まずくなってすぐに視線を落とした。 かくして、受験も成功に終わり、晴々しい気持ちで門を通過すると、その時が来た。 『ドーパミンを検知。随分と嬉しそうですね、対象者。』 「まあな。これで俺の未来も明るいはずだろ。」 『対象者の三つの後悔が、すべて成し遂げられました。これをもって“やり直し”のプログラムを終了。世界に、未来への“帰還”を申請…受理されました。』 セラは淡々と言葉を紡ぐ。俺はそれを黙って聞いていた。ようやく、俺の望んだ未来が来る。ただ、その喜びに浸っていたのだ。 『対象者の願いが完遂されたので、代償“希望”をいただきます。それでは、輝かしい理想の未来へ帰りましょう。』 セラのその言葉を聞いた途端、すぐに光が俺を覆った。一年前も、あの月夜と暗い空間で浴びた光。身に馴染みがありすぎる光に、思わず目を眩ませる。 目を開いた。先ほど浴びた光のあまりの眩しさに、視界が安定しない。しかし、独特の抑揚を持つ言葉の羅列が俺の耳に入ってきた。一人から発せられる、低音の呪文のような声。それはゆっくりと形を帯び、そして数秒するとハッキリと聞こえてくる。 「…南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛…」 お経だ。周りは黒い服と重い空気を纏う。間違いない。これはきっと、葬式だ。しかし一体、誰の。和尚や他の人の背に隠れて遺影が見えない。 お経が唱え終えた和尚が立ち去ると、他の人々も続々と立ち上がって部屋を出ていく。俺も人の流れに押されて、部屋を出た。 「一体誰のだ…いきなり葬式なんてどうなってる…?」 俺は廊下のベンチに座って、俯きながら呟いた。 「あの…貴方って。」 話しかけられて、顔を上げると歳を召したふくよかな女性が立っていた。 「はい…?」 「貴方、園山さんとこの大地君よね?」 「はい。」 「やっぱり…来てくれたのね。良かった、無理かもしれないって覚悟してたから。来てくれてありがとうね」 「いえいえ。えーっと…」 女性は俺の手を握ってニッコリと笑った。その目の下には泣き腫らした跡があり、その手は水仕事に荒れて、冷たくボロボロだった。 「やっぱり分からないわよね。長らくあってないもの。じゃあ改めまして、私、優吾の母親です。」 「えっ…」 俺の困惑は、殆ど聞こえないほど小さな声となって現れた。地獄耳だった優ちゃんの母も、加齢と共に耳が遠くなったのか、反応せず言葉を並べた。 「びっくりしたでしょう。突然手紙が届いて。でも、貴方は優吾の一番の親友だったから、絶対に伝えないとと思って。ごめんなさいね。でもまさか、私も母親の私より先に逝っちゃうとは思ってもなかったから…」 言葉が出ない。優ちゃんの母の発言に全てを悟った。悟ってしまった。突然のことに、どう返せば良いのか分からず、俺はショックに黙り込むしかなかった。あの遺影に映っていたのは、優ちゃんだ。優ちゃんは、死んでしまった。どういうことだ。やり直したのに、どうして未来が変わっていない。絶望とセラへの怒りが同時に込み上げる。後悔は完遂されたと、彼女は言ったのだ。だから俺は安心してコッチに帰ってきた。そしたらなんだ、変わらないじゃないか。悔しいと思う気持ちは、涙となって溢れ、そして落ち続けた。 「……ごめんなさいね。私なにか言ってしまったかしら。」 「ああ、いえ。本当に優ちゃんが居ないんだと思うと、辛くて」 「ありがとう、大地君。息子のこと、そんなに思ってくれるなんて、あの子もきっと幸せだわ。それでね、渡したいものがあるの。いいかしら?」 優ちゃんの母親は、俺が落ち着くまで待って、優しく語りかけてくれた。肩にかけていた黒い革製の小さなバッグから封筒が取り出された。 「それは…?」 「息子から貴方への手紙よ。書いたのは随分と前のことだけど、今となっては遺書のようなものかしら。」 受け取る手が震えた。優ちゃんは俺に、何を遺したのだろう。それを知りたいと思う反面、中身を見てしまえば彼の死という現実が突き付けられるような気がして怖かった。 「ありがとうございます」 俺は恐る恐る開いた。そこに書かれていたのは、決して己の死を悟った者の言葉ではなく、遺書というには些か気の緩むものであった。これは、友人に宛てた何処にもでもあるような平凡な手紙なのだ。まさかこの後に亡くなるとは、本人も予想だにしなかったことだろう。コイツは、俺と会える“いつか”が来ることを、朝は太陽を浴びて動き夜は月に照らされる当たり前の“明日”が来ることを微塵も疑っていなかった。“オマエと会えたらこんなことがしたい”“これからこんなことがあるんだ”なんて予定の話をツラツラツラツラと。せっかく止まったのに、また溢れ出る。手紙に染み込み、手や頰は濡れる。俺は手で口元を覆い、必死に嗚咽を抑えた。 優ちゃんの母は、手紙を渡すと俺が落ち着くまで待ってから死因の話をした。ライフセーバーになった優ちゃんは、海で溺れる親子を助け、自分は代わりに亡くなったと。 帰り道、何か分かるかもしれないとスマホの連絡アプリで優ちゃんとのトークを見た。遡ること十七年前。 『俺、ライフセーバーになれた!』 『マジか! おめでとう。けど、なんでまた』 『高ニの夏、覚えてる?』 『うん』 『あの時に、助かった男の子やその親御さんの喜ぶ顔が印象的だったから』 『そうか頑張れ。俺は応援する』 『おう! さんきゅ』 何気ない会話だった。だが、読み終えた瞬間、ため息が漏れた。色んな考えが頭の中を回り、俺はスマホを持つ手を力無く下ろした。無力な俺にどうしようもなく腹が立つ。 「…くそっ」 小さくぼやいた。誰にも聞こえないくらい、小さく。でもアイツは現れた。 『カスタマーの不満を検出。対象者、状況は芳しくなさそうですね。』 「…他人行儀だな。オマエ、言ったよな、俺に。後悔は遂行されましたってよ。」 『ええ。事実、貴方の後悔の元は断ち切れました。この年齢になるまで、貴方は後悔なく過ごしましたよ。』 「それだよ。じゃあなんで、なんで優ちゃんは死んじまったんだよ。」 俺はセラを睨みつけた。まるで親の仇とでも言うくらいに、これでもかと。しかし、セラは微動だにせず、淡々と答えた。 『対象者、貴方の“後悔”は断ち切れました。“後悔”とは、感情であって事象ではありません。その先に起こる事象を取り消すサービスは、行なっておりません。』 「ふざけんなっ! 俺の後悔は、優ちゃんを救えなかったことだ。変わってねぇよ、これじゃあ…。お前もやっちまったと思ったから来たんだろ。」 『…否。過去の貴方は、小倉優吾を救っています。未来が不幸に傾いたのは、代償の相乗効果でしょうか。私が来たのは、カスタマーである貴方からのレビューを参考にして次なる対象者へのサービスを最適化するためです。管理者としての最重要任務ですから。』 「なら、その次なる対象者ってのに、俺を選んでくれよ。」 俺は顰めていた眉の力を抜いた。 「優ちゃんには、生きててほしいんだよ…。」 『…それは、願いとして認識しますが、宜しいですか。』 「ああ。」 セラの言葉に答えた瞬間、視界が真っ白になった。眩しい光に目を眩ませ、それからそっと瞼を開く。慣れたものだ。 背中を焼くような激しい陽光と、揺らめく空気が俺の身体を包み、大して涼しくもない風が吹き抜けた。 「おい、なあ、聞いてんの?」 やけに近い親友の声に意識を覚醒させる。握っているのが受話器だと気づくのに、そう時間はかからなかった。 「あ、ああ。ごめん、考え事してた」 「いいけどさ、で、どうすんの?」 「どうって?」 俺は、念の為に聞き返した。優ちゃんへの申し訳なさに、内心肩身が狭くなる。 「だから、海。行くの?」 「…なあ、俺やっぱプールが良いわ。」 それは未来を変えるため、俺が意を決して、絞り出した答えだった。緊張で、喉が渇く。縁側に置かれたままの麦茶に視線をやった。 「プール?なんで?」 「海って何かあったら怖いだろ。」 思わず、そこで言葉を切った。“海”と言う言葉を口にした瞬間、記憶が脳内を駆け巡り、かと思えば俺の足の裏は架空の砂浜を踏んでいたのだ。それは絡みつくように、俺の身体を蝕む。体が焼けるように熱くなった。 「…ホラ、波とか。その点、プールはクラゲも強い波も不安になる広さも水深もない。溺れる可能性はあっても、まだマシだと思って」 「そっか…。って、もっともらしいこと言ってるけど、それ単に海怖いってだけだろ。オマエ意外と可愛いとこあんのな」 優ちゃんの声は明るくて、イタズラっぽかった。受話器の向こうでニヤニヤとしている姿が目に浮かぶ。 「…るっせぇ。」 「ははっ、いいよ。別にプールでも。タッツーのことは気にすんな。泳げればなんでも良いだろ、アイツ。」 「いいのか?」 「うん。アイツには俺から言っとくよ。じゃ」 「ありがとう。」 受話器の向こうで、通話の切れる音がした。それを確認して、俺も受話器を置いた。 深く息を吐いて、周りを見渡した。縁側の方も見た。ひょっとしたら、セラが現れるかもしれない。そんな、僅かな希望を抱いて。 「…まあ、いないわな。」 そう言って、畳に身を投げ出した。大の字になって、ただ一点に天井の木目を見つめる。優ちゃんの生存確率を上げるために、他にできることはないか。必死に考えを巡らせ、脳を回転させるも思い付かない。結局、暫くして一旦考えるのをやめた。もう寝よう。そう思って瞼を閉じた。その時だった。 『対象者、起きてください。』 無機質な少女の声を聞いて、閉じたばかりの瞼をゆっくりと開く。目の前に、見覚えのある整った顔があった。まるで職人が緻密に作り上げた仮面のような“整いすぎる”顔。傍目から見れば、それこそ「人形のようだ」「傾国の美女だ」と言われて然るべき美貌なのだが、故に彼女はどうも人間らしくない。恐ろしく表情の変化が乏しいのだ。それゆえに、俺にとっては、どうしても気味が悪く感じる。 「…やっと成功か?」 『いえ、代償を伝えに参りました。生命力を、僅かに頂きます。』 セラの長い髪が、俺の顔撫でる。嫌になって、払うようにしながら起き上がった。“やり直し”に代償は付き物だ。このくらいで驚いてなどいられない。 「僅かにって、どのくらいだ?」 すると、セラは静かに人差し指を立てて見せた。 「…十年か。八十年生きるとしたら、ははっ、七十まで生かしてもらえんだな。悪くねぇ」 『理解不能。代償に対する反応が想定外です。』 セラは首を傾げた。俺が絶望に頭を抱えるとでも思っていたのか。なんにせよ、この機械のような少女の貴重な困惑が可笑しくて仕方がない。無論、表情には出ていないが。 「オマエには分からねぇだろうが、人間ってのは目的のためなら命だって惜しまねぇ。心を鬼にする。そういうもんなんだ」 『尚更、理解できません。愚の骨頂です。』 「そうだな。俺は愚かだ。そう言われても仕方がない。もっと命に執着して喘いでいる方が、よっぽど人間味がある。それもそうだ。だけど俺は、またあの時みたく死んだように生きるのはごめんなんだ。」 俺は、真っ直ぐにセラを見た。これは、俺にとっての決意表明だ。たとえ管理者の想定を外れて、貶されてたとしても、また優ちゃんのいない世界でダラダラと生き長らえるのは嫌だ。 『やはり理解できません。が、今回は引き下がります。』 「そーかよ。」 俺の返事を聞いた後、セラの顔付きが少し変わったような気がした。 『…警告。対象者が失ったものは戻って来ません。時と共に対象者を侵すことでしょう。ゆめゆめお忘れなきよう。』 そう言うと、セラの輪郭が夏の熱波にゆらりと溶けて消えた。なんとなく、後味の悪さに頭をかく。それでも、喉の奥につっかえる何かは、拭い去れなかった。 「失ったものって…代償のことか。」 膝に重心を置いて立ち上がる。イグサの香りが舞った。縁側に止まっていたトンボが、俺の足に気付いて逃げるように飛び去った。腰を落とし、あぐらを描く。 「まあ…戻って来たらそりゃ“代償”とは言わねぇわな。」 掴んだおにぎりを口一杯に頬張る。強い塩味が喉を焼いた。急いでコップを取ったが、空っぽだった。そういや、飲んだんだっけ。 四章 そういう星の下 あれから暫く経って、市民プールを訪れた。俺と優ちゃんと、それからタッツーもみんな一緒に。更衣室は、塩素の匂いというよりも、男性特有のむさ苦しい匂いが充満している。臭くはないが、妙に籠っていて少々不快ではあった。足元のプラスチック製のすのこは、濡れていないところがないくらいに水浸しになってしまっている。陽光で温くなった水溜りに、ワザと足を突っ込んで蹴った。足の甲だけでなく脛も濡れて、プールサイドに出るとそこだけが冷んやりとした。 プールサイドに出るや否や、一目散に流れるプールへと駆け出して行ったタッツーを見送って、俺たち二人は腰を下ろした。お尻に床の凹凸模様を感じながら、沈黙の中、口を動かす。 「プール…久しぶりだよな」 「あ、うん。そうだね。」 優ちゃんはそこで言葉を切ると、一瞬視線を落とした。しかし、直ぐにまた顔を上げ、続ける。 「…入らないの?」 「え?」 「プールだよ。」 「なんか、そんな気分になれない。提案しといてなんだけど。お前は?」 「俺も。」 また、沈黙。時の流れが、やけに遅い気がする。でも、不思議と気まずさは無い。 「なあ、覚えてるか? 俺らが幼稚園の時だったか、公園で悪ガキにスコップ取られて、半べそかいてる俺の隣でお前は一人立ち向かってた。」 「えー、そうだっけ?」 「ああ。ソノッチのスコップだよ、奪うんじゃなくて自分の持ってきなよってな。お前は昔からそうだった。」 俺は、丁度目の前を流れていったタッツーに、手を振り返しながら言った。 「マジか。ヒーローじゃん、俺。」 優ちゃんは、こちらを向いて快活な笑顔を浮かべた。 「…そうだな。けど、あの後お前は悪ガキに殴られて怪我したろ?」 「あー…ごめん。それも覚えてないわ。ってか、どうしたオマエ。今日なんか変だぞ」 そう言うと優ちゃんは、空気を誤魔化そうとこちらを向いていた顔を正面に戻し、渇いた笑顔を浮かべた。 「……本当に覚えてないんだな。数え切れないくらい人助けして来たオマエにとっちゃ、この出来事も、沢山あるうちの一つなんだろうけど。」 俺の言葉を聞いて、優ちゃんは、正面を向いたまま目を僅かに見開いていた。しまった。故意ではなかったとは言え、この言い方は不味いぞ、俺。これじゃあまるで、コイツに失望しているみたいじゃないか。 「…すまん。言い方が良くなかった。今のは忘れてくれ。」 「…分かってるって。オマエがそんな奴じゃないってことは。」 「そうか。良かった」 「で?多分だけどオマエ、俺に言いたい事あるんだろ?ホラ、言ってみろよ」 いざ構えられても、喉の奥で言葉が詰まる。これは言ってはいけない言葉だ。分かっている。 それでも俺は、言わなければならない。例え、親友に幻滅されたとしても。 「……人を、助けるな。自分を犠牲にしてまで、助ける必要がどこにある?」 「えっ…」 「お前の命は、そんなに軽いのか?」 話すたび、その言葉が重くのしかかる。口を開くのさえ億劫だ。 「このままだとお前、また無茶するだろ。」 喉が、感情を抑えようとすればするほど焼けるように痛い。声が震える。顔すらまともに見れない。 「俺は、お前に死んでほしくない…!もう、見たくないんだ!だからもう、人助けなんて…!」 最低だな、俺。こんなことを言えてしまう俺が、つくづく嫌になる。 整理の付かない感情の渦の中で、気付けば涙が止まらなくなっていた。 優ちゃんも、口を開けたまま固まっている。 「あ…その、すまん。ちょっとびっくりしたわ。」 優ちゃんは、そこで一度言葉を飲み込み、息を整えた。 「…うん、いいよ。分かった。」 「え?」 「なんだよ、オマエが言ったんだろ。俺はこれから、人助けに命は賭けない。ちゃんと自分を大事にする。」 笑っている。こっちを向いて。どうして笑えるんだ。俺は、オマエに人として間違った事を言ったはずなのに。それなのになんで、いつも通りの笑顔を向けられるんだ。 「だけど助けないってのは無理だな。俺は、困ってる人を放って置けないタチなんだ。分かるだろ?」 ここで何か言うのは違うと思った。俺はただ、頷くことしかできなかった。  涙でぐちゃぐちゃになった顔を、タッツーに見られたくなくて、あの後俺はトイレに向かった。手で作った器に水道水を溜めて、思いっきり顔にかけた。ふと顔を上げると、鏡に映った自分と目が合った。 「ブッサイクだなぁ…」 そう言いながら、また涙が出た。声を殺して泣いた。涙が止まるまで、何度も水を被った。鏡は、ひどく歪んだ俺の顔を写し続けた。  涙が止まるのに、かなり時間が掛かった。ここに来てから、もう十分くらい経っただろうか。顔の腫れも、だいぶ目立たなくなってきた。 「よし…行くか。」 顔を上げて鏡を見ると、俺の背後に、いるはずのないアイツが映っていた。俺は反射的に振り向いた。 「まさか…」 『心拍数の安定を確認。会話を開始しても良さそうですね。』 「セラ…」 『まるでバケモノを見たような顔ですが、私は貴方を驚かせる目的で来たわけではありません。』 ブロンドの巻き髪が、藤色のフリルドレスをなぞる。その冷たい瞳に、刺されたような気がした。 「…別にそうは思ってないが、何の目的でここにいる?」 『未来への帰還が可能。帰還するか否かを問いに参りました。それで、いかがしますか?』 未来への帰還…。ついにこの日が来た。しかし、本当に帰っても良いものなのか。 「それはつまり、優ちゃんが生きている未来が確定したってことか?」 『否。対象者は“ここ”で実行可能な回避行動をやり切りました。これ以上何をしたとしても、未来に変動はありません。しかし、それでも滞在を望むのならば、対象者の意思を尊重します。』 もう、何をしても変わらない。確定したわけじゃない。なら、どうすればいい。最悪の未来を想定して、もう少し優ちゃんとの思い出に浸るか。それとも…。 「……ここにいても、どうせ何も変わりやしない。帰ろう。帰って、年取った優ちゃんの顔を拝んでやろう。底なしに明るい、あの顔を。」 『…了解致しました。世界に、帰還の許可を申請。許可を確認。』 セラの胸が光る。遅れて、ドレスと髪がふわりと持ち上がった。見慣れた光景だ。 『…実行可能な回避行動の達成を確認。対象者から代償を徴収致しました。では、可能性の未来へと帰還しましょう。』 その瞬間、眩い光が俺を包んだ。  光が消えて、少しずつ視界がはっきりしてくる。小鳥の囀りと、穏やかな陽光が心地よい。ふと鼻に、何かが張り付く感覚がした。つまんで取ると、それは桜の花びらだった。そういえば、目の前に広がる地面には桜の花びらが無数に散っている。まだ絨毯と言うには隙間が目立つが、確かに春は来ていた。 「おーい!」 声がする方向を向くと、大きく手を振り駆ける男の姿があった。見覚えのある雰囲気と、忘れるはずのない声。俺も大きく手を振り返した。 「優ちゃーん!こっちこっち!」  隣に座る親友の姿が、未だ信じられない。生きて会うことができるなんて、驚きで胸がいっぱいだ。これを望んで頑張ってたのと言うのに、いざ叶うとうまく受け止めきれない。 「ソノッチ、最近どう?」 「あ、えーと…良い、と思う。たぶん」 俺は、いきなり投げかけられた質問に、しどろもどろに答えた。 「たぶんって。俺は、消防士になれたし、もう少しで家族も増えるし…順風満帆だよ。良すぎて逆に怖いくらいだ。」 優ちゃんはそう言って笑った。あぁ、これだ。これが見たかったんだ。 「って…え?家族が増える?」 「あ、言ってなかったっけ。俺、八月には父親になるんだよ。」 「は…?え、おめでとう。」 びっくりしすぎて腰が抜けるかと思った。思わず間抜けな声を出してしまった。そうか、優ちゃんが父親か。 「でも、そっかぁ…優ちゃんが父親って感慨深いな」 「何言ってんだよ、オマエも父親じゃん。俺からしたら、オマエに年中の娘がいる時点で意味わかんないんだから」 え…?俺、結婚どころか子持ちなのか。まさかの事実に、思考が一瞬止まる。いや、今はそんな場合ではない。ここで動揺を感じ取られると不自然すぎる。死ぬ気で隠せ、俺。 「ははっ、俺も自分が父親なんて未だに信じられねぇよ。」 「俺ら幸せすぎて、一周回って本当に自分の人生か疑わしいよな。」 「そうだな。本当に幸せだ。」 妻子の顔は分からないし、思い出もこの体が積み重ねただけだ。肝心の俺は実感がない。それでも幸せは感じる。優ちゃんが生きて、笑って、幸せだと言ったのだ。 「ははっ、噛み締めてんなぁ…幸せ。なあ、見ろよ。ちょうどあの子くらいじゃないか?オマエんとこの娘。」 優ちゃんはそう言って、サッカーボールを蹴って遊ぶ四歳くらいの少年を指差した。確か娘は年中らしいから、たぶん優ちゃんの言うことは正しい。 「ああ、そのくらいだと思う。帰りが遅くて幼稚園の送迎なんてしねぇもんで、娘の同級生も見ることないから分かんねえけど。」 「まあ、そんなもんか。」 納得したように一人頷くと、今度は晴れやかな笑顔でこちらを向き直って話し始めた。 「それで、俺んとこの子供、男なんだってさ。生まれてきて成長したらこうなるのかなって、公園来て遊んでる子供見ると、近頃はそればっか考えるんだ。まだ名前すら決まってないってのに、笑えるだろ?」 「…順調に親バカへ向かってるようで何よりだよ。本当、幸せそうだ。」 「ああ。」 俺たちは、暫く何も言わずに少年を見つめた。きっと優ちゃんは未来の息子を重ねて。俺はまだ見ぬ娘を想って。  視線を戻すことなく、また会話は始まる。 「なあ、優ちゃん。俺らが高校生の時に、プールで俺がお前に言ったこと、覚えてるか?」 「…うん。“人を助けるな”“命を大事にしろ”だろ?」 「ああ。消防士になったってことは、やっぱ人助けはするんだな。」 そう、優ちゃんの口から“消防士になれた”と言う言葉を聞いてから、少し引っかかっていたことだ。決して安全とは言い切れない仕事。それをするという親友を前に、過去の俺は一体何をしていたのか。 「当たり前だろ。てか、そんなこと言ってオマエも救急隊員じゃん。俺が消防士になるって言ったとき、“じゃあお前が死にかけたら俺が助けてやる”って言ってオマエも道を決めたろ?」 「…そう、だったっけ。」 勿論、そんな事を言った覚えはない。でも、優ちゃんの話から察するに、優ちゃんの死を回避する事を完全に諦めたわけではないのだろう。 「…それで、お前“命を大事に”は守れてるのか?」 「それはバッチリだ。死なないために、日々訓練は欠かさないようにしてる。」 そう言って笑う優ちゃんの顔を、俺はなぜか直視できなかった。  少年の蹴ったボールが、風で遠くへ転がり出す。少年はボールを追いかけて駆け出した。母親らしき人が、隣のベンチから立ち上がって様子を伺う。ボールは僅かな時間で公園の外へと飛ばされて行った。 「康太、止まりなさい!」 母親の必死の声も届かず、少年は公園の外へ足を踏み出した。と、同時に、母親と隣に座っていた優ちゃんが立ち上がり駆け出した。少年の元へ。俺も遅れて立ち上がった。二人の後を追いかける。 「康太!」 道の真ん中でボールに手を伸ばす少年。そこに軽トラが迫る。猛スピードで迫り来る軽トラに、これから起こる未来への恐怖で誰も動くことができなかった。ただ一人を除いて。  大きく鈍い音が響く。あまりの恐怖に目を瞑っていた俺と、絶望に顔を覆っていた少年の母親が、同時に恐る恐る目を開いた。母親は少年の元へと駆けた。俺は、その場にへたり込んだ。 「うそ…だろ。」 嘘だ。嘘だ嘘だ。なんで…なんでだよ。信じたくない。こんなことがあってたまるか。 「優ちゃーん…!ああああ…!」 硬く目を瞑った優ちゃんの元へ、急いで駆けつけた。血で滲んだジーパンとシャツ。死”の一文字が脳裏をチラつく。いくら考えても“なぜ”“ありえない”“嫌だ”という言葉だけが、グルグルと俺の中を駆け巡る。考えれば考えるほど、うまく息ができない。 ダメだ。そんな事を考えてパニックになっている場合ではない。少年の母親は、俺の後ろで救急車を呼んでくれていた。俺は、できる事をするしかないのだ。 「優ちゃん、頑張れ。」 人工呼吸と心臓マッサージを一定のタイミングで切り替えて繰り返す。学校で習ったほんの数回程度しかやった記憶はないはずなのに、妙に慣れた感覚だった。救急隊員であるこの体が覚えていたのだ。 通報を終えた母親に止血を頼み、胸を押す。また息を吹き込む。無理か…。また胸を圧迫する。何度も押して、また息を吹き込む。頼む…来い。 そのとき僅かに、指先が動いた。胸がかすかに上下する。 「…っ!」 その瞬間、優ちゃんは激しく咳き込んだ。視界が滲む。 「…ごめ…ソノ…」 呼吸が戻った優ちゃんは、咳き込みながら必死に声を絞り出す。喜びに、また視界が滲む。 「しゃべんな!話は後で聞くから」 それでも優ちゃんは、極めて小さな吐息混じりの弱々しい声で、言葉を紡ぐ。 「…あの…子…重ね…ど…しても……死な…せ…たく…な…」 「分かった、分かったから。俺は怒ってねえよ。だから死ぬな!生きて言い訳言いやがれ!」 何度も何度も呼吸を確認する。脈を見ながら何度も。  あれから数分経って、ようやく救急車が到着した。優ちゃんは運ばれて行き、それから間も無く、警察による事情聴取が始まった。聞かれたのは、轢き逃げしたあの軽トラについてだった。俺と母親は分かる限りのことを伝えた。運転手は金髪の若い男で、白い軽トラに乗っていたこと。来ていた服、車のナンバーや、母親に至っては推測にはなるが何処の会社の車かも話していた。 「それで、逃げた男はコイツですかね?あなた方の仰っていた特徴と合致していますし。どうでしょう?」 警察官は、そう言いながらパソコンをくるりとコチラに向ける。事情聴取が始まってから三十分以上が経ち、いよいよ周辺の防犯カメラの映像を確認するに至った。 「そう、ですね。コイツだと思います。」 「ええ。白いパーカー着てて、金髪…間違いないです。」 「分かりました。これで捜査を進めていきます。ご協力いただきありがとうございました。あともう少しここにいていただくことにはなりますが、ご容赦ください。」 警察官がそう言ったとき、誰かの着信音がけたたましく鳴り響いた。 「はい、もしもし也浜。はいっ…あ…そうですか。分かりました。あ…いえ結構です。皆さん揃ってますから…ええ。ええ、はい…私から伝えておきます。では」 着信音の原因はどうやら、今まで事情聴取を担当していた警察官の部下のスマホだったようだ。 「也浜ァ、音量考えろよ。」 「すいません。」 「で?何があった?」 「被害者の、小倉優吾さんが…たった今息を引き取られたと。病院の方から連絡がありました。」 その言葉に、目の前が真っ暗になった。なんのための“やり直し”だよ。 「は?」 目の前で確かに生きていた親友を、俺は生かしてやれなかった。なんで俺じゃねえんだよ。俺が、死ねよ。代わりに死ね。 「一体…なんのために。何のための、救急隊員だよ」 なあ、優ちゃん。お前の言う通り、もし本当に神様がいたんなら、ソイツは最低野郎だ。殴ってやりたいよ。こういうのを“運命の悪戯”とか言うんだろうか。 「…だとしたら、意地悪が過ぎるだろ。」 噛み締めた下唇に鉄の味が滲む。頬を伝う雫に、もはや理由など無かった。  重苦しい空気が流れ、刻一刻と時間が過ぎ、子供は寝る時間になった。優ちゃんに助けられた子供は今、目の前に止まるタクシーの中で幸せそうに眠っている。コイツはきっと、自分の目の前で起こったことの重大さを理解できていないのだろう。 「あの…本当に申し訳ありませんでした。本当に、謝っても謝っても謝りきれません。あの、その、大切な御友人なんですよね、あの方。」 子供の母親が、こっちにやって来て頭を下げた。あのとき、ボールを追って飛び出した息子を呼んだのと、同じ声色で。彼女は必死に謝った。 「私のせいです。私があの子にちゃんと教えてやれなかったから。あの子を止められなかったから。ご遺族の方々にも、後日謝ります。だから、責めるなら私を…!」 母親は顔を上げ、強い眼差しで俺を一点に見つめる。その言葉に、ハッとした。 「責める…?」 「あの方の訃報を聞いた時から、しばらく自分を責めてらしたから。見ていられなくて…」 あの時の考え事が漏れていたのか。でも俺は別に、謝って欲しかったわけじゃない。悪いのは子供の母親か?違うだろ。轢き逃げした犯人と、救急隊員のクセにアイツを救えなかった俺。それが分かってるからこそ、余計に苦しい。 「だから、本当にすみませんでした。」 感情の置き場がない。吐口がない。どこにも、行き場がない。誰かを責めたい。人のせいにして逃げたい。ヘドロみたいな感情が、俺の中で渦巻いてジワジワと俺を毒す。 「いや、謝らないでください。謝るより、感謝した方がアイツは喜びますよ。ひと段落したら、ぜひ康太くんを優ちゃんの墓に連れてって、元気な姿を見せてやってください。」 「はい。ありがとうございました。失礼します。」 手を振って、作り笑いでタクシーを見送る。ホンネ一割。嘘でも無い何かが九割。間違ったことは言ってないけど、心にも無いことは言ったような気がする。これで良かったんだ。正しい大人の対応をした。これ以上謝られても、きっと決まりが悪かったろう。 じゃあ、なんなんだ。この感情は。 「わっかんねぇ…」 ため息と共に溢れ出した。項垂れて、またベンチに腰掛けた。もう春だと言うのに、眼前の自販機には未だコーンクリームの姿が残っていた。 「わっかんねぇよ…もう。」 声が震える。俯くと、涙が太ももに染み込んだ。次々とシミが増えていく。 『…やり直しますか?』 「え…?」 聞き覚えのある声に、思わず顔を上げた。あまりに突然のことに腑抜けた声が出る。 『…やり直しますか? 救助対象の死亡が確認されました。まだ成功ではないでしょう。』 「…お前の言うとおりだよ。無念も無念。後悔しかない。」 俺は涙を拭って、セラからの問いかけに答えた。 『では…』 「ああ、頼む。」 そう言って頷き、言葉を切る。 「アイツは…きっとそういう星の下に生まれたんだ。人を助けなきゃ気がすまねぇ。それでも、アイツが助けなくて良いように、俺が…」 『対象者の意思を尊重し、“やり直し”を発動します。尚、発動に必要な代償は“記憶の一部”とします。』 眩い光が、言葉と共に放たれた。光の中で、腫れた瞼がヒリヒリ痛んだ。 五章 何度でも  目が覚めた。と言うのが正しいだろうか。気が付けば寝床の上だった。見渡せば知らない家具の数々。寝床もベッドだ。俺の知っている我が家じゃない。すぐに体を起こして、ドアを開いた。見た感じ、綺麗な一軒家という印象を受ける。 「フローリング…」 狭くて汚い畳のアパートとは、比べ物にならないな。ひょっとするとここは、新居なんじゃなかろうか。前に優ちゃんが俺が既婚者だと言っていたことを思い出し、そんなことを思った。  手すりの付いた階段を降りると、すぐにドアが現れた。押し開くと、リビングダイニングが広がっていた。 「あら、起きたの?」 キッチンから女性の声がした。多分、妻だろう。 「…おはよう」 「おはよ、朝ご飯できてるよ。そこに置いてるから。」 妻が指差した先を見ると、定食のような朝ごはんが並んでいた。 「ありがとう。なんか豪華だね」 「何言ってんのよ、いつも通りじゃないの」 「そうだっけ…。じゃ、いただきます」 「はいどうぞ」 まず、味噌汁を口に運ぶ。優しい味が、ボロボロの心に深く沁みる。 「…うまい」 米の甘さも、だし巻き卵の温かみも、俺の萎んだ心を癒すのに十分だった。 「ご馳走様でした。」 「お粗末さまでしたー。」 そう笑顔で返すと、俺が運ぶより早く皿を持って行ってしまった。俺は礼を言って、すぐに家を出た。娘の顔も見てみたかったが、仕方がない。普段から休日はなかなか起きてこないらしいが、今日もそうだった。気持ちよく寝ているのに、わざわざ起こすわけにもいくまい。  優ちゃんと待ち合わせる公園に足を踏み込んだ。またあのベンチに座って、呆然と目の前の少年を見つめる。名前は、康太だったか。ボールを蹴りながら走り回る姿を見て、複雑な気持ちになった。 「あっ…おにいちゃん、それちょーだい!」 康太の声に、意識が覚醒した。その指先を辿ると、俺の足元にボールが転がっていた。 「あ、あぁ。ほらっ」 俺は足元のボールを軽く蹴った。ボールは思ったより進まなかった。 「…もう、おにいちゃんヘタクソー。ちゃんと蹴ってよぅ」 自分より少し手前で止まったボールを見て、康太は不満げに言った。俺は笑って答える。 「ははっ、すまん。おにいちゃんボール下手なんだ。」 「あははっ、やっぱりぃ〜!」 「うん…。なあ、康太くん。」 「なんで僕の名前知ってるの?」 康太はそう言うと、心底不思議そうに、俺の顔を覗き込んで来る。そうか、コイツからしたら俺は知らないおっさんだもんな。 「ああ…えーと、康太くんのママが康太って呼んでたのを聞いたから」 「ふぅん…そっかあ。それで、おにいちゃんどうしたの?」 「あのな、ここは公園の入り口から近いだろ?」 この純粋無垢な心を傷つけないよう、慎重に言葉を紡いでいく。 「うん…」 「ボールはどこまでも転がってくんだ。康太くんが一生懸命蹴飛ばしてたら、いつかボールが飛んでって、あそこから逃げ出してしまうかもしれない」 「えぇー…嫌だよぅ。」 康太は分かりやすく落ち込んでみせた。垂れた尻尾が見えそうなくらいに。 「だろ?だったら、さすがの康太くんでも届かないなって場所で蹴った方が良いと思うんだ。どうかな?」 「うん!そうする!」 すると、小さな手にボールを抱えて、楽しそうに母親の元へと駆けて行った。俺はその姿を見送り、数分ぶりにベンチに腰を下ろした。 「おーい!」 声がする方を見ると、大きく手を振りながら駆けてくる親友の姿があった。 「優ちゃーん!こっちこっち!」 俺も大きく手を振り返した。軽トラに轢かれて死んだ親友と、また話せる。生きている。その喜びに、またも瞳が潤んだ。 「ソノッチ、最近どう?」 「いい感じだよ。今朝も、美味い朝食作ってもらえたし。バッドニュースは…強いて言うなら、娘の顔を拝めなかったことくらいかな。」 そう言って、隣に座る親友に笑いかけた。 「ハハっ、思ってた通り子煩悩なんだな。」 「そうか?」 「そうだよ。どうせ帰れば会えるのに、朝会えないだけでバッドニュースになるんだから。」 「…寝てたんだよ、娘が。起こすわけにもいかないだろ?」 「それもそうだね。」 優ちゃんはそう言って、上に手を組み体を伸ばすと晴れやかな顔で言葉を続ける。 「まあ、もうそろそろ俺も、こんなこと言えなくなるわな。」 「え?」 知っている。八月に父親になるんだろう。だからわざとらしく反応した。 「へへっ、俺さ八月には父親になるんだ。男の子だって。」 「えっ、マジか。おめでとう。」 「ありがと。」 「じゃあさ、これからはパパ会とかできんじゃね?」 「おっ、いいね。子供自慢に花を咲かせて酒の肴に…最高じゃん。」 空を仰ぎ、眩しい日差しを遮り笑う。俺はそんな優ちゃんを見ながら、缶コーヒーを口に含んだ。 「なあ、ソノッチ。俺らが高校生の時に、プールでオマエに言ったこと、覚えてるか?」 優ちゃんも、さっきまでただ撫でるだけだったコーヒーを、ようやく飲んだ。 「…なんだっけ。」 何か大切なことを言った。それはわかる。でもなんだろう。そこだけがポッカリとくり抜かれたようだ。真っ白で、そこに何かがあったということしか分からない。 「おいおい、あんだけ泣いといて忘れたのかよ。ほら、アレだ。人を助けるなってやつ。」 「そんなこと言ったっけ、俺。」 思っていた記憶はあるし、今もそう思う。だけど、口に出していたとは。 「言った言った。目ぇ腫らして必死になって。で、俺は今も死なないように精進してる。」 「まあ、消防士だもんな。人助けどころか常に死と隣り合わせの職種。」 「でも、止めなかったろ。俺さ“オマエが死にかけたら俺が助けてやる。”って言ってくれたことも、俺のために職業決めてくれたことも、すっごく感謝してんだ。超嬉しかったし。」 優ちゃんはそう言って笑った。素直に感謝されると想像以上に照れ臭くて、慌てて残りのコーヒーを飲みほした。  その日は結局、思い出話に花を咲かせ笑い合って終わった。何事もなく、ようやく優ちゃんの生きる世界を生きることが叶った。  あの日以降、セラが姿を現すことは無くなった。俺はただ、娘と妻と三人で暮らし、優ちゃんとは程々に連絡を取り合うだけの生活を続けていた。俺は救急隊員として、色んな人の命を救ってきた。時に手からこぼれ落ちることもあった。その命を大事に思う人々の涙は、生涯忘れないだろう。ぶつけられた言葉、感情の全てを背負って、俺は先の長い人生を生きていくんだ。 六章 エマージェンシー・コール  誰だ、こんな時間に。布団の上、着信音を響かせ震えるスマホを手探りで探す。 「ねむ…」 やっと掴んだスマホを目の前に持ってきて耳に充てる。 「はい、園山です。あ、笹瀬さん。」 「すまんが人手が足りなくてな、ちょっと来てもらえるか?」 「はい…どこっすか?」 最悪だ。まだ眠いのに。 「四丁目の、ロンリープリンセスっていう高層マンション。」 「…分かりました。」 「すまんな、せっかく寝てたのに。申し訳ない。」 全くだ。もっと人材で潤ってくれ、この界隈。だが、そうも言ってられない。 「いえ……すぐ行きます。」 「ありがとう。頼む。」 「うっす…」 重い体を無理やり起こし、静かにベッドから降りる。電気を付けると眩しくて、逆に見えにくい。だが、暗くても見えないのに変わりないので付けた。 「くっそ…笹瀬。言いにくい名前しやがって…さん付けする後輩の身を考えろ。」 絶対に本人の前で言えない事を呟きながら、テキパキと準備を進める。  家を出て車を走らせる。飲んでなくて良かった。一応ナビを設定しようと、住所を入力する。 「微妙に遠いんだよなぁ、あの辺。」 『眠そうですね。』 「当たり前だろ。二時だぞ……ん?」 空耳かと思いつつも、後部座席を恐る恐るミラー越しに見遣る。見覚えのある少女が、静かに座っていた。空耳であって欲しかった。 「なんで…いる?」 『同行させていただきます。』 「だからなんで!」 『前、見なくて宜しいのですか?』 「…はぁ。」 ハンドルを両手で握った。 助けに行く側が、脇見運転で事故りでもすれば元も子もない。だからこそ、セラの半ば強引な言葉には黙るしかなかった。  ミラー越しに見える、後部座席に座った西洋人形が、敵なのか味方なのか、何がしたいのか、俺にはさっぱり分からない。一ミリも動かないし、動いたとすれば綺麗に巻かれた髪に指を通す時くらいだ。  人命救助に向かっているはずの車内は、イマイチ緊張感に欠けていた。突拍子もなく突然口を開いたと思えば、セラの口から出るのはたわいもない話ばかり。 『今日はドール感を意識いたしました。いかがでしょう?』 「…良いんじゃねーの。てか俺に聞くな。」 このくらいの会話量が二分のインターバルを挟んでやってくる。 『火事での死亡率は、一日あたり四・一人。カスタマーは……すぐ死にそうですね。』 「余計なお世話だっ…と。」 『急カーブでの速度維持は死亡率を高めます。』 「へーへー。」  家から十五分をかけて、ようやく現場に辿り着いた。サイレンの音と炎の光、黒煙が立ち込める建物の周りを救急車や消防車が囲み、さらにその周りに野次馬がワラワラと群がる。忙しない人の往来が切迫した状況を物語っていた。そんな喧騒の中、人を掻き分け一直線に進む。 「お待たせしました。笹瀬さん、状況は?」 「お、園山ありがとう。助かるわ。見ての通り、マンション一棟まるまる全焼だよ。軽傷から重症まで、老若男女問わず運ばれてくる。」 「後どのくらい残ってます?」 「後は…三人くらいだよな、田米。」 そう言って、笹瀬は背後の男を見遣る。俺の同僚、田米龍希。驚くほど頭が硬い男で、良く言えば真面目な奴だ。 「はい。住人のリストに基けば。」 「そっすか。」 「今回は、俺が現場指揮補助、田米はトリアージ担当だ。まあ、こっからは俺らも手伝うし、お前は救護所で待機して応急処置を頼む。搬送は他に任せよう。」 「搬送は他隊がします。人は足りませんが救急車は足りているので。園山は気にせず救護所に向かってください。」 「お、おう。じゃあ、俺はもう行きますんで。また何かあれば。」 頭を下げ、その場を去った。  救護所はマンションと地続きの住人専用駐車場にあるらしい。建物から少し離れたところに簡易的だが設置されている。 そこに向かうと、二台ほどの救急車の奥にブルーシートが敷かれていた。救助された二十人近くの住人は、その上で座っていたり、寝ていたり。彼らは共通して暗い顔をし、精神的にも肉体的にも辛そうだった。それもそうだ。ここにいる人々は家を失くし、帰るところもなく、怪我や体調不良があったり、もしかしたら家族が取り残されている人だっているかもしれないのだから。何度も見た光景なのに、やはり慣れない。 「よし。」 切り替えなければ。ここで突っ立ってちゃダメだ。俺は足を踏み出し、丁度女性を運んできた隊員を誘導する。 「ここが空いてるので、こちらに寝かせてください。」 「「はい。」」 「ありがとうございます。彼女の容体は?」 「意識あり。外傷は打撲と火傷。火元と思われる部屋の前にいました。煙を吸った可能性があります。」 「分かりました。引き継ぎます、ありがとうございます。」  隊員たちが次の救助へ向かうのを見送りながら、俺はすぐに女性の処置に取り掛かった。 「大丈夫ですよ。ゆっくり息をしてくださいね」 声をかけながら、意識レベルの確認とバイタルサインの測定、そして酸素投与の準備を進める。女性は恐怖と煙への苦しみから激しく咳き込んでいたが、俺の問いかけに小さく頷いた。トリアージタッグを書き込み、適切な処置を施していく。しばらくすると、女性の呼吸は安定し、少しずつだが声を発せるまでになった。  救護所はまさに戦場だった。泣き叫ぶ子供の声、怒号に近い大人のやり取り、サイレンの残響。そのすべてが耳の奥でぐちゃぐちゃに混ざり合う。 それでも、俺の身体は救急隊員としての最適解を淡々と叩き出し続けていた。何人もの容体を確認し、処置をし、搬送の優先順位を見極める。  次の住人の救助が完了したと報せを受け、救護所の入り口付近に向かって歩き始めた時、服の裾がクイっと引っ張られた。振り返ると、あの女性だった。泣きそうな顔、震えた声で、なんども裾を握り直しながら言う。 「世良……」 「セラ?」 心臓が跳ねた。アイツなわけがないのに。女性は俺の言葉に小さく頷いた。 「娘が…」 「娘さんが取り残されてるんですか?」 「は、い…部屋の、中に。助けて…ください。」 「…善処します。きっと大丈夫です。きっと…ここに来てくれますから。」 安易に引き受けることは出来なかった。救助に絶対は無い。俺はそれを痛いほど知っている。優ちゃんに限った話ではない。どれだけこちらが手を尽くしても助からないケースは少なくないのだ。  時が経ち、最後の救助者が来ると報せが入った。人々は忙しなく動き、未だ鎮火作業は続いていた。対して、ブルーシートの上は徐々に人が減って行き、残ったのは優先順位の低い人々がほとんどだった。あの女性は、少し低めに設定されていたのもあって、娘を待ちたいという気持ちを尊重し、ここに残る事を許可された。 「通してください!」 隊員の叫びに身が引き締まる。彼らが運んできたのは担架二つ。残り一人のはずだが…訪問者でもいたのだろうか。そう思い、運ばれてきた担架を覗き込むと、一つには煤だらけの人形を抱えた煤だらけの少女が、もう一つには消防隊員がいた。 「両者共に意識不明の重体です。煙を大量に吸い込んだと思われます。救急車が来次第、即搬送します。準備を。」 声を鼓膜が受け付けない。言葉が頭に入ってこない。嘘だろ。この顔、まさか。 「…小倉優吾、ですよね?」 「彼と…知り合いなんですね。」 それは静かな肯定だった。 「こちらの少女を運んできた小倉隊員が、出口一歩手前のところで意識を失い…それを運んできたのです。」 「そう…ですか。この子は…」 受け止めきれないまま、俺は他の隊員に運ばれて行く少女に、目線を落とした。 「外傷…特に火傷がひどく、発熱しています。幸い顔は軽いもので済みましたが。名前は逢坂世良。胸元に安全ピンで名札が付いていましたから、間違いないかと。」 「世良……あの方の娘さん。良かった…。」 思わず溢れた言葉は、我ながら気持ち悪かった。親友よりもあの子が救助されたことに、心から喜びを感じている自分が、あまりにも空っぽで。なのに涙が溢れ出た。ぐちゃぐちゃになった胸の内が、整理する間もなく頰を伝い、唇を這って口内に滑り落ちる。少し、しょっぱかった。  俺は急いで優ちゃんの元へ向かった。火傷を冷やし、傷の手当てをしつつ、酸素を投与し、呼吸の観察をする。 「優ちゃん…しっかりしろ。すぐ楽になるからな。」 煙を吸い込んだ苦しみから、優ちゃんは何度も咳き込んだ。打撲と所々に見られる火傷の他に、目立った外傷は確認されなかったにも関わらず、意識は回復の色が見えない。 「くそっ……死ぬなよ優吾。生きるんだ。」 バイタルサインを測定し、メモをする。定期的に患部を冷やし、体を押さえて呼吸がしやすいような体勢をキープさせる。しばらくして処置が終わり、あとは観察し祈ることしかできない状態となった。  なんとなく少女の方を見ると、見覚えのあるフリルドレスが側に座り込んでいた。 「セラ…?」 少女を優しく撫で、慈しむような眼差しで小さな手に、人形に触れていく。表情はいつもと変わらず硬いのに、その冷たいはずの瞳から、初めて人間らしさを感じた。  ふと、人形に目線が行った。青く大きな瞳、長いまつ毛、しっかりと巻かれた長い金髪。いかにも西洋人形らしい風貌だった。そのフリルドレスも、冷たい瞳も、全てがまるでセラのようだった。人形の手には、焼けて持ち手だけになった黒い傘。ドレスだって焦げて穴だらけだ。何度も何度も、セラと人形を見比べた。同じだ。全く同じ顔をしている。驚きに固まっていると、隊員たちが女性と世良ちゃんを引き合わせ、二人の手当てを進め始めた。彼らの背中で、人形と二人のセラは次第に隠れていった。  時が経ち、鋭いサイレンの音が響いた。停車した二台の救急車に、世良ちゃんと優ちゃんが運ばれていく。俺は優ちゃんの方に付き添い、セラはそのまま世良ちゃんに付いて行った。優ちゃんは多くの隊員に見守られながら、病院へと向かう。 「園山さん…大丈夫ですよ、きっと。彼の生命力を信じましょう。」 「…はい。」 このまま死んだとして、優ちゃんの死が栄誉の死だとか言って祭り上げられるのは耐えられない。それは遺族に、俺たちみたいな友人に、死を悲しむなと言っているようなものだから。それに、救われたあの子が生き延びて自責の念に駆られるのも、きっとコイツは望んでないだろう。 「生きろよ…優ちゃん。」 カサカサの硬い手を握って、そう呟いた。  十分後、救急病院に着いた。世良ちゃんの乗った方も、どうやらここらしい。二台がエントランス前に停車し、すぐに担架が運び出される。医者や看護師の忙しない往来。怒号にも似た声が飛び交う。優ちゃん達は奥の方へと運び込まれた。  救急車から降りると、前からセラが歩いてきた。隣に並び立つと、静かに口を開いた。冬なのに、セラの息は濁らなかった。 『彼女は生きたいと願いました。私はそれに応えたかった。』 「…」 『カスタマー、感謝いたします。』 「…なんにだよ。もう、ほっといてくれよ今は。」 『私は貴方を利用しました。』 「あぁ。」 『この瞬間のために』 「そうかよ。」 『…肯定。貴方には酷いことをしました。』 冬の凍てつく風が、顔を撫でる。ふと、空を見上げる。見慣れた星の配置。オリオン座。今夜もはっきりと輝いて、残酷なまでに美しい。 「…今日に限って、雪なんか降らせやがって。」 視界が滲んだ。揺らぐ視界の中、薄れていくセラの姿。少しずつ何も見えなくなっていく。鼻のてっぺんに雪が溶け込んだ。 「俺は…やっぱり冬が嫌いだ。」

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星の話はやめようか。

【あらすじ】星の話はやめようか。

「やり直したい…全部。」 ふいに口をついて出た希望は、吐息と共に闇に溶けたーー筈だった。 凍てつく真冬の星月夜。 フリルドレスは雪と共に舞い降りる。 『願いが確認されました。コード“星に願いを”が発動します。』 「は?」 その瞬間、世界は白に染まり、そして逆行した。 瞼を開くと、そこは可能性の“分岐点” 俺が、選ばなかった未来への“分岐点”が広がる異空間。 『代償を検出…失敗しました。ルーレットを開始します。』 西洋人形の、機械的で何処か小気味良いドラムロールが告げたのは、“希望”という余りにも重すぎる代償だった。 本来なら失われるはずだった日常。 あるいは、救えなかった未来。 知っている“結末”を変えるため、過去をなぞり直していく。 これは、 星に願った一人の人生と、 その裏側で叶えられなかった“もう一つの願い”の物語。 ——それでも人は、願わずにはいられないんだよ、きっと。 ※ 募集期限は過ぎてしまいましたが、この物語は最後まで必ず書き切ります。お待たせしますが、後悔はさせません。安心してお待ちください。

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【あらすじ】星の話はやめようか。

開く側

「ようこそ。」 意地が悪いと思った。この男は、人心掌握の術をよく理解している。ワザと幅の広い鉄格子を用意し、その先に鍵を置いたのだ。どうせ送り帰すどころか、逃すつもりなど微塵もないというのに。彼女の「なんとかなる」という心に漬け込んで、あれよあれよと引き摺り込む様子は、もはや賞賛に値する。 藍良さんは、唇を固く結び、返事の代わりにゆっくりと頷いた。藍はそれを確認すると、話し始める。 「古くから日本の秩序を裏から支えてきた三つの家がある。そのうちの二つが、倉木家と御影家だ。俺は遠い昔から、御影に仕えてきた存在。そして、オマエらはその倉木と御影の末裔なわけだが…それは、まあ良い。」 藍は、僕や藍良さんを指差した両腕を、太ももにポトっと落とした。 「オマエら以外の、残る一つの家は、裂け目を開く事で生計を立てている。」 「それが…“開ける側”なんですね。」 「ああ、そうだ。」 僕の急くような問いに、藍は大きく頷いた。大木のようにどっしりと構え、話はまだ続く。 「具体的に、御三家を分類するなら…御影家は“鎮”、倉木家は“護”、そんで“用”だ。」 「用…?」 藍良さんは、僅かに首を傾げた。 「用。利用するんだ、堕ち神をな。」 「堕ち神を利用するなんて、そんなことできるんですか?」 「できる。オマエらも“安倍”っていうと聞いたことくらいあるんじゃねえか?」 安倍晴明…静かにはっきりとした字体で、僕の脳裏に浮かび上がった。しかしそれが口から出るより先に、藍良さんが口を開いた。 「安倍…安倍晴明ってこと?」 「そう言うことだ。安倍家といえば、式神が有名だろう。あれ実は、特別な専用紙に堕ち神を封じ、屈服させて利用しているわけだ。そういう固有の力が安倍家にはある。」 藍は藍良さんの言葉に頷き、淡々と答える。僕は固唾を飲んで、聞き入った。安倍晴明が代表的な安倍家。界隈人でなくても、多くの人が一度は目にする名前だろう。なんせビッグネームだ。現代になった今も、そのブランド力が客を集める。 「その、堕ち神を封じる為に“開ける”んですね?」 「そういうことになるな。奴等の場合、定期的にそうしないとやっていけねぇ。」 「やっていけない?」 「ああ。だが、能力が有限ってわけでもねぇ。堕ち神側の問題なんだ。考えてもみろ。長時間居座ってる不純物を、浮世が放っておくと思うか?」 その言葉に、二人して考え込むと当然長い沈黙が広がる。やけに鮮明な鳥の声を聞き、藍は再び話し始めた。 「…こう考えることもできる。浮世に行って帰ってこない仲間を放置して情報を垂れ流すようなマネを、彼方さんのボスが許すと思うか?」 「消す…」 自分で言っていて、何かゾワっとするものが背中を走るのを感じた。 「そうだ。一度封じた堕ち神は、浮世か異界か、どちらのせいかは分からんが、多くの場合は長く浮世にいると自然消滅する。専門紙ごとな。だから定期的に開いて出てきたのを封じるって作業をしないと、仕事ができない。」 「そんなの、リスク高すぎでしょ。」 「確かに、藍良さんの言う通りです。そんな作業繰り返して、一つも被害を出さないなんて不可能ですよ。」 「それが、ここ千年ほど実害はないんだ。不思議なことにな。」 藍は人差し指を突き立てて、不敵に笑った。 「安倍晴明って知ってるだろ。さっきも出てたが。」 「もちろん。有名人だよね。」 「おおよそ、奴が残した術式が原因だろうな。アイツは、ああ見えて抜け目がなかった。持ち前の神気に加えて、人の心を一撃で掴むような話術にも長けてた。あんまりにも商売が上手くいきすぎるもんで、実は化け狐なんじゃないかってずっと疑ってんだ、俺は。」 これまでと打って変わって、冗談めかした口調だったが、僕にはそうは聞こえなかった。そう言えば、安倍晴明には化け狐の子であるという伝説があった。その狐は“葛の葉”と名乗って、ある男に近づき結ばれて、晴明を産んだ。最終的にその正体が露見し、去ったか、或いは消されたか。確かこんな感じだったろう。 「狐、か。可愛いよね〜。この前ユキチと動画で見たんだけど、コンって鳴かないんだよ。知ってた?」 藍良さんの的外れな言葉や声色が、張り詰めた空気の糸を切った。藍は嫌な顔をしながら反論する。 「知ってるわ、年配舐めんな。てかアレのどこが可愛いんだよ。アイツらすぐ噛むだろ。」 「えー、噛まないよ。だってあんなに可愛いんだもん」 「いいや、噛む。知ってたか? 狐は噛むぞ。基本は雑食だろうが、狩りだってする。俺だって噛まれた事あるんだからな。」 要は、狩りをしてきた歴史があるから狩猟本能で噛むのだ、と。そういうことだろうか。おそらく過去に噛まれたのであろう箇所をぷらぷらと振り、藍良さんに痛そうな顔して見せていた。しかし、さっきの話の後だからか深読みしてしまうのだ。そのため、その討論が終わるまで僕に首を突っ込む余地は無かった。 藍と藍良さんが和気藹々と話す中、突然ガラリと音がした。保健室の扉が開いたのだ。 「あら。まだ誰かいらっしゃったんですか。」 「あ、須崎先生。」 「御影さんじゃないの。さっき山本先生が言ってた生徒って貴方だったのね。大丈夫?」 入ってきたのは保健の先生である須崎薫子だった。藍良さんが運び込まれた時は居なかったので、後から生徒が保健室で休んでいると聞いたのだろう。担任である山本慎二から。彼の心配性ぶりとマメさは、本校随一と名高く、向かいの校舎に位置する我がクラスでも聞き及ぶところだ。今回も念の為にと伝えたのだろう。 「はい。ちょっとした立ち眩みです。ご心配をおかけしてすみません。」 「いいのよ、ここはそういう為の場所なんだから。あ、倉木くんと…保護者の方?」 「叔父です。近くに住んでいるんです。」 藍は軽く会釈をすると、そう言って誤魔化した。流石に、お世話になった教師に向かって堂々、ただの居候ですとは言えまい。僕も軽く頭を下げた。 「まあ。わざわざ来てくださるなんて素敵なご家族ね、御影さん。」 「ええ、ほんとうに。」 藍良さんは少し俯き、答えた。 「ですが、閉校時間が迫っておりますので、本日は帰っていただいて。気になるようでしたら、また明日、藍良さんの様子を連絡させていただきますので。」 「ああいえ、結構です。すみません、長居してしまって。」 「いえいえ。では、さようなら。倉木くんも。」 「はい。また明日。」 学校からの帰り道、藍良さんと僕と、もちろん藍も一緒に茜色の通学路を遡る。僕らは先程までの緊張を脱ぎ捨てて、和気藹々と話していた。途中、公園の前を通りかかる。そこに、見覚えのある顔があった。 上下するボールは、ダン、ダンと小気味よくリズムを刻む。サッカーの練習だろうか。慣れた足捌きで太腿の上にボールを弾ませている。 「お、ケイゴじゃん。」 「あー! 藍良と倉木ー!あと叔父さん」 大きくて快活な声が響く。ボールを手に持って走ってくる彼を見ながら、名前を呼ばれたので一応軽く頭を下げた。 「藍良、倒れたんだろ。大丈夫だったん?」 「うん。心配かけてごめんね。立ち眩み。」 「なんだー立ち眩みかぁ…。良かった良かった。あ、そうだ。」 頭を傾げる藍良さんを他所に、ケイゴ君は目を見開いて、興奮気味に話し出した。 「良かったと言えば、コレ。なんか急に小さくなりだしたんだよ!」 ケイゴ君は、一瞬下唇をめくって見せた。最初に見た時より、それは明らかに縮小していた。理由は言わずもがな明確である。 「ほんとだ! 不思議〜」 「いやオマエは知って−ゴフッ」 危なかった。話せばややこしくなる事が目に見えていたのに、藍がこちらの話を言おうとするものだから、焦ってつい鳩尾に肘を食い込ませてしまった。幸い、彼の声は二人には届いていないようだ。 「だよなっ!いやあ俺もついに、大将や母ちゃんのビタミン攻撃とお別れするのか…」 「なにしみじみしてんのよっ、もう…!」 そう言って感情に浸るケイゴ君を、藍良さんは軽く小突いた。一見戯れあっているように見えるが、その瞳には涙が浮かんでいた。 「あ、えっあれ? なんで泣いてんの?」 「泣いてないよ〜」 あたふたするケイゴ君に、また彼女の拳が突き出される。その何の殺傷力も持たない拳は、何度も何度も繰り出される。喜びに緩む彼女の表情と涙に揺れる声に、僕の心が何故かキュッと締まるのを感じた。 「いや泣いてるって。そんなに喜んでくれるの?口内炎ごときで」 「うぅ…もうー、ケイゴのバカァ…」 僕は、こんなにも美しい涙を、優しい笑顔を見た事がなかった。ケイゴ君は困惑の表情を浮かべ、自身の服を掴みながら崩れ落ちた藍良さんと僕らとを交互に見やる。 「いや、こっち見んなって。」 明らかに助けを求めるケイゴ君に、藍は小さくそう言い放った。 “守りたいこの笑顔”とはよく言ったものだ。もし僕に、守りたい笑顔があるとすれば、それは間違いなくこの光景だろう。僕はこの時、初めて本当の意味で己の使命を理解した。 【あとがき】 今話も“藍々傘”を読んでいただき、ありがとうございました。新作のため、読者が付くか不安でしたが、連載間も無くたくさんの方に読んでいただけたようで、嬉しい限りでございます。 さて、今現在受験生である私は受験に力を入れる為、投稿を少し控えているので、ご存知の通り、近ごろ投稿頻度は格段に落ちています。お待ち頂いた読者の皆様には、ご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありませんでした。ですので、これからは受験シーズンの終わりに掛けて少しずつ投稿頻度を上げていき、最終的に週刊にしたいなと考えております。なるべく早く、お待ちくださっている読者の方々にお届けできるように。また、より多くの方が(書店ではないのですが)手に取りやすいように、週刊という形を取らせていただく方針です。 きっかけは、週刊を推奨する企画を目にしたことでした。多くの読者が、迷う事なく最新話にありつけるというメリットにまんまと惹かれたわけですね。まあ、そういうわけですので、今後とも本連載と著者共々、暖かく見守っていただけると幸いです。 あいびぃ

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