DORRY

18 件の小説
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DORRY

思いつきのストーリーを書いています。記録用でもあります。 恋愛、BL、家族、友情、テーマはいろいろです。

トルニタラナイ①

 白く清潔なその部屋は、天井が高く、蛍光灯の白い光が壁に反射して眩しかった。  中央付近に置かれた腰高の台に乗せられた棺。目の前の、この扉が開けば、もう母の姿は二度と見る事はない。 こんなにしっかり顔を見たのは、いつぶりだろうか。もしかしたら、初めてかもしれない。  _______母が死んだ。  破天荒で自由な人だった。 小柄だがスタイルが良く、歳より何倍も若く見える人で、驚くほど社交的だった。結婚をせず俺を産み、育て方は無鉄砲というのか、感情的で怒ると口と手が両方出るタイプで、まぁよく叩かれた。 我儘で突発的な行動が多く、待つ事が苦手で待たせる事は得意で、よく振り回された。誰彼構わず面倒見が良くて、料理が上手くて、心配性過ぎて放っておけないくせに、面倒臭いが口癖の、スマホが圏外並みに繋がらない母。  「マジで圏外になっちゃったじゃん。」 大好きな真っ白の百合に囲まれた母に、そう言って前髪を撫でた。一週間前に、母にねだられて工作バサミで俺が切った前髪。 あの時は良いと思ったけど、眼を瞑ったら見事に眉毛の上だった。  今朝、いつもの花屋で買った白百合の花束を、そっと母に添えながら、冷たい頬に触れた。  「金太、大丈夫か?」  誰もいない喫煙所。 今朝、コンビニでコーヒーと、しばらくやめていた煙草を買った。母が好きだった煙草。 火をつけようとしたところで、従兄弟の朔に声かけられた。 なんとなく、そのまま火つかずの煙草を灰皿に捨てた。  「別に吸えばいいじゃん。」  「いや……、やめてたから。」 朔は、溜息を一つ吐いて隣りに座ると、綺麗だったな。と言って胸ポケットから出した煙草に火をつけた。 立ち昇る朔の煙草の煙を目で追いながら、うん。と適当な返事を返す。  「おまえ、全然泣かないけど大丈夫?」 そう言いながら、朔は自分の吸っている煙草を俺の口に咥えさせた。俺は、それを一口吸って大きく吐きだしながら、笑顔で頷いてみせた。  母は、そういう人だった。 いい加減だけど準備は間違えない、そういう人。それは死ぬ時も同じだった。 俺に、ちゃんと自分がいなくなる準備をさせて逝った。   『支度さえ、ちゃんとしとけば、後はどうにでもなるから。』 母の口癖だった。 別に泣かなかった訳じゃない。もう十分過ぎる程、泣いた。気付けば勝手に涙が流れてる時も何度もあった。   『ねぇ、金太。   葬式でメソメソ泣かないでよ?   アタシはね、カッコいい息子に送り出してほしいんだからさ。   礼服ビシッと決めて、シャキッとしててよ?』  『あ?よく言うよ。   だいたい金太なんて名前付けやがって、   よく、そんな事言えんな。』  『なによ!金に太いなんて、   絶対、金に困らなそうな、良い名前でしょーが!』 母との会話を思い出して、思わずハハッと笑いが溢れた。そんな俺を、朔は優しい悲しそうな笑顔で見ると、俺の手から今にも灰が落ちそうな煙草を取り上げ、灰皿に押し付けると、俺の腕を強く引きながら喫煙所を出た。  「なに。どうしたの。」 そういう俺に朔は返事をしなかった。  連れて行かれたのは待合室の隣りにあるトイレだった。 一番奥のトイレに連れ込まれ、朔は鍵を閉める。  「耐えらんね。」 そういうと力強く俺を見ている朔の眼から、涙がボロボロと溢れ落ちた。  「なんで、朔が泣くかな……。」 ポケットからハンカチを出そうとする俺の手を朔は掴んで止めた。 俺は仕方なく、空いている左手で朔の涙を拭う。  「笑うなよ。おまえが笑うから悪いし。」  「なんだよ、それ。   きったねぇなぁ。早く鼻水拭け。」  腕を掴んでる朔の手を引き離し、ポケットから出したハンカチを朔の顔に押し付けた。 朔は、ハンカチで顔を覆ったまま、俺の肩に頭を落とす。  朔は、母の姉の子供で、俺より三つ年上。 電車で二駅のところに住んでいて、一人っ子同士の俺達は、本当の兄弟のように育った。 朔が高二の時、漁師だった父親が海で死んだ。朔が身離さず付けているロケットペンダントは父親の形見で、当初、朔と母親の写真が入ってたが、今は何も入れていない。 朔の父親は、良く笑う大柄な人で、俺も朔も無理矢理、船に乗せられては船酔いしていた。そのトラウマなのか、朔は漁師にだけはならないと、堅実に公務員の道へ進んだ。  泣き止まない朔の頭を左肩に乗せながら、腕時計を見る。母が骨になるまでには、まだ1時間以上あった。     『アタシが死んだらさ、姉ちゃんだけに知らせてくれる?派手な   葬式とかされたくないし、御斎とかそういうのしなくて良い。   でも火葬場に金太だけってのは、見栄えが良くないでしょ?   無駄にお金使わなくていいからね。   これだけ死ぬ準備したんだから、             お坊さんに頼らなくても多分迷わず逝けると思うし。』  まるで一人で旅行にでも行くみたいに、淡々と話す母に、怒る事も笑う事も出来ずに、『怖くないの?』と聞くと、『怖いに決まってる。』と迷う事なく言った。  『もっと生きたいに決まってる。   でも、しょうがない。どうしようもない。   だから今、ちゃんと準備してる。』 俺は、この夜、死ぬほど泣いた。    ようやく朔がもたれかけてた頭を起こし、ごめん。と咳払いを一つする。 そして俺を強く抱き締めて、背中を一発叩くとトイレから出て行った。 急に涙が溢れてきて咄嗟に上を向く。 『怖いに決まってる。』 そう言った母の顔を思い出した。 それは、私はまだ生きてると言っているかのような強い真剣な顔だった……。  母は、綺麗だった。 小柄でスタイルが良くて、面倒見が良くて、料理が上手くて、準備は得意だけど、ちゃんと死ぬのが怖かった俺の自慢の母だった。         〜おわり〜

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トルニタラナイ①

惰性以上、情熱以下 ⑮(完結)

  諦める事には、慣れている。  昨日、病院からアパートまで私達は一言も話さなかった。ちょうど帰宅ラッシュの時間で、人通りの多い路地を手も繋がず自分の後ろを歩く私を彼は振り返りながら歩き、人だかりのできる横断歩道では、いつものように私の肩を抱き自分に引き寄せ、人の群れがなくなると、また私から手を離した。 アパートに着くと、鍵を開けた彼は私の背中に手を当てて中に入るように促し、自分は私が靴を脱ぎ終わるのを待って中に入った。  目に映るのは、開きっぱなしのクローゼットと干しっぱなしの洗濯物と干さず終いが入った洗濯カゴ。彼は、バスタブの蛇口を捻って布団を敷きにロフトに上がった。 暖房のスイッチを入れて上着を脱ごうとした時、私は無意識に冷蔵庫に視線が行った。そして、飲み物を出すフリをして冷蔵庫を開いた。   オムライスは、入っていなかった。 何を期待したのか……。 出しかけた麦茶のボトルを静かに戻した。    この日、彼は私に何もさせなかった。 干そうとした洗濯物を私から取り上げた彼は、何も言わず私の背中を押して、お風呂に入るように促した。私がお風呂から上がると、炊飯器の予約スイッチは既にオンになっていて、干されていた洗濯物はベランダにはなく、干しかけの洗濯物は、カーテンレールに吊るしたピンチハンガーに全て干し終わっていた。シンクの上にはカップ麺が置いてあってケトルには沸き終わったお湯が湯気を上げていた。 そして、部屋のどこにも彼の姿はなかった。 私はカップ麺ではなく、マグカップにティーパックの紅茶を入れ、静かな部屋に座った。 あんなに騒がしくて嫌いだった隣のパリピ騒音が妙に恋しくなってしまう。独りぼっちなんて全然寂しくなかったのに、世界に一人取り残されたような気分になって急に涙が溢れて、私はマグカップを持ったまま泣いた。  結局、しばらく泣いて、入れた紅茶も飲まずロフトに上がって布団に入った。彼が敷いてくれた布団は、冷んやり冷たくて私はまた泣いた。  _____________________  スマホのアラームが遠くに聞こえて、私は目を覚ました。 いつもの癖で、枕元を弄る。 (あ……そっか……。上着の中だ。) 私は起き上がりロフトを下りる。アラームを止めて、洗面所に向かう。 洗面所に向かう足が思わず止まった。 ゆっくりとキッチンのシンクに目をやる。 持っていたフェイスタオルが手から、ひらりと落ちた。 シンクの上には、いつものように水筒と、おにぎりが二つ。  私は、茫然としながらシンク上の棚に目をやる。彼の水筒は二日前、洗って片付けた時と同じ場所に置かれていた。  その状況に思考も感情も追いつかず、その後どうやって出勤したのか上手く思い出せない。とにかく彼の用意してくれた水筒とおにぎりだけは、しっかりカバンに入れて、アラームを止めた時に置いたスマホがテーブルの上だという事に気付いたのはサロンに着いた後だった。  そして、あの一人でコンビニ弁当を彼に食べさせてしまった時に溢れ出た、苦しくて切ない胸が締め付けられる感情が、再び胸の中に溢れ出して仕事中も消えなかった。  別れを切り出したのは私の方で、『やっぱり貴方は、そういう人だった』という言葉を否定しようとした彼の言葉を遮ったのも、また私だった。 彼が昨日の夜、何処にいたのか。アパートで寝てない事は、クローゼットの見慣れた畳まれた布団を見れば分かった。 正直、あのスマホの知らない女性からの着信もメッセージも、今となれば彼の言う通りなんだと思える。 でも、きっと……もう終わりだ。 私は結局、半年もの間、彼にちゃんと『好き』と言葉にして言っていなかった。 それなのに、彼の話も聞かずに一方的に感情に任せて彼だけを責め続けた。 本当に私は最低だ……。  「今日、早く帰るわ。雪降るって言うし。   電車止まったら嫌だし。」 営業が終わって、いつものように練習していると同期が窓の外を見ながら言った。  「雪かぁ……。   私、徒歩だから閉めて帰るよ。」 「うん。ありがと!」  手際良く道具を片付けて帰る同期を見送って、私は誰もいないサロンのセット椅子に腰を下ろした。 魂の抜けたような冴えない自分を眺める。 専門学校の時、夢に描いたスタイリストとは程遠い現実が鏡に映っていた。 見るに耐えない自分の姿に溜息を一つ吐いて、いろんな意味で重い腰を上げる。  外は雨で、傘を持ってきていなかった私は、サロン入り口に常備されているお客様用傘を手に取って鍵を閉める。セキュリティをチェックして傘を広げたら、まさかのサロン名がデカデカと印刷されていて、あまりのセンスの無さに唖然としたが、明日同期に話すネタにしようと少しニヤつきながら歩き出す。  そう。私は、諦めるのは得意だから。  帰り道、歩きながら彼を思い出す。 どこから見ても、どんな表情でもイケメンだったなぁ…とか、ヒールの靴を履いても絶対越せない身長とか、私みたいに荒れない爪まで綺麗な手とか。初めて食べた彼の作ってくれた今日のおにぎりとか……。 『一度も振り向かないのが気になって』 『生姜焼きの肉じゃなくてキャベツが好きなんて』 鼻の奥がツンとして涙が出たけど、きっと冷たい空気を吸ったせいだ。 アパートの入り口が見えた時、傘に当たる雨の音が消えてる事に気がついた。視界から傘を退かすと雨が雪に変わっていた。  「わぁ……」 私は傘を下ろし、空を見上げた。 真っ暗な空から、何処からともなく現れて降りる雪は、なんとも幻想的で綺麗だった。  「おかえり。」 声がした先を振り返って目に映る光景に一瞬で私は、さっきまでの自分を深く深く反省した。    「ただい……ま……」  そこには、ダウンコートを着て私の傘を持つ彼が立っていた。 (私を……迎えに行こうとしたんだ……)  「傘、あったんだ。良かった。」  「…………うん。」    私は彼の姿を見て、初めて気が付いた。  ➖もう大人なのに。 雨が降ろうが、雪が降ろうが、どうにかして一人で帰れるのに……。 私が傘を持って行かなかった事に気付いて迎えに行こうとした。 こんなに優しくて温かい愛があるだろうか……。  なんで……私は彼の愛を疑ってしまったんだろう➖  彼の与えてくれる『好き』に胡座をかいて、彼が昨日、スマホも持たずに身勝手に飛び出した私に、どうやって辿り着いたかも考えず、冷蔵庫にオムライスが無かった事にガッカリしていた自分が情けなくて無性に腹が立って涙が溢れた。  「アキ君、ありがとうね。」  「あ、うん。」 ダサい傘を持ち直して、私は涙を拭いた。  部屋に入ると、よく知る匂いとテーブルにはラップのされたオムライスが二つ。 それを見た私は、また泣きそうになり思わずツンとする鼻を強く摘んだ。  「ごめんなさ……い。」 オムライスのラップを外しながら、『ん?』と驚いた顔で彼が私を見た。  「私……。   アキ君の事、本当に好きなんだよ……。   アキ君が思っているより……ずっと。」 この日、初めて彼に『好き』と言った。 もう涙が止まらなくて、テーブルのティッシュを何枚も引き出して顔に当てた。  「……うん。」 オムライスのラップを剥がしながら彼が言う。 当てたティッシュを顔から取り彼を見ると、テーブルの上からスプーンを取り、『食べよ。』と言って私に差し出した。 私は、そのスプーンを受け取り泣きっ面でオムライスを頬張った。彼が、『あの傘、キョーレツだね。』と言って二人で大笑いした。  私は、きっと今日食べたオムライスも、初めて知ったサロンの強烈な傘も、私の傘を持つダウンコート姿の彼も、一生忘れないんだと思う。  ______________________  母が言った、 『凄く愛してくれる人か、仕事だけは一生懸命な人』。 正直、私に取って彼は、どちらにも当てはまらない。凄い愛がどんな物なのか私には分からないし、彼の仕事をしてる姿は見た事もなければ、そもそも一生懸命を積み重ねなければ真っ当なスタイリストなどなれないのは、同じ仕事をしている私には良く分かるからだ。 ただ、彼のいる日常は、たくさんの喧嘩も、くだらない事で笑う事も全部『大事な事』に変わっていく。 そういう毎日の積み重ねが私の幸せになっていくのが分かる。 それは、毎日来る当たり前の日常と言うには勿体なく、常に愛を伝え合うような熱を帯びた日常でも無い。 自然に大切な人を想い、心配したり行動したりする積み重ねが幸せを生んでいくのだと私は思う。 彼が私に教えてくれた。  『惰性以上、情熱以下』 これが、私の幸せの定義。 それは、彼と結婚した今も変わらない。                      (おわり)  __________________________  あとがき。  最後まで、お読み頂きありがとうございました。 サクサク書くつもりが、随分時間がかかってしまいました。他で書いた作品をリメイクしましたが、思ったより大苦戦……。 それでも、慣れない執筆で何とか完結出来ました。(睨めっこし過ぎて、目がしばしばする) 幸せの価値観は、もちろん人それぞれです。 決して強要をしている訳ではありません。 断じて! 決して!(強調) 物語を書くのは好きですが、文章は得意ではありませんので、お見苦しい箇所も多いと思いますが、どうかスルッとサラッと目を細めて画面を離して、お読み頂けたらと思います……。(泣) (なんか久しぶりに開いたら、文字が小さくなってる気がする。(致命的!)) ユキちゃんとアキ君を最後まで見守り、お付き合いくださった方々に心より感謝致します。ありがとうございました。               DORRY  

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惰性以上、情熱以下 ⑮(完結)

惰性以上、情熱以下 ⑭

 あんなに感情的に泣く彼女を初めて見た。 いつも感情を剥き出しにするのは俺の方で、彼女はというと、そんな俺を見て溜息混じりに呆れたように笑い、大抵の事には感情を出す前に行動する人だからだ。  『別れて……。   もう充分、楽しんだでしょ。』 たったさっき言われた彼女からの言葉がずっと胸を締め付けている。  「楽しんだでしょって……。   …………なんだよ。」 女から言われたからじゃない。彼女から、ユキちゃんから言われたから、こんなに苦しいんだ。  俺は、カラオケとは反対側にあるバス停の椅子に腰を掛けて、カラオケの出入り口をただ眺めてた。こんなふうに終われる訳がない。でも、あの状態で俺が何を言っても彼女が納得する訳がない。正直、何を言われても、どんなに罵倒されても抱きしめて泣き喚く彼女が落ち着くのを待てば良かったのかもしれないと酷く後悔していた。  「ユキちゃん……。   俺、終われないって……。」 そう言って吐いた溜息は真っ白だったのに、俺は寒さすら感じる余裕がなかった。 暫くしてカラオケの出入り口に人影が見えて胸の辺りを押さえている水色のコートが見えた。彼女が今どういう状態か俺には一目で分かった。横断歩道の赤を無視して道を走って渡る。自動ドアから出た彼女は建物のすぐ隣りの電信柱に捕まり、立っていられずしゃがみ込んだ。地面に手が付きそうなタイミングで俺は彼女を抱き抱えた。 (やっぱり……。) 彼女から少しのアルコールの匂いがした。 体質的に受け付けないアルコールを摂取したせいで酷い喘息を起こし気を失いかけていて、彼女を抱き抱えながらハイネックのセーターを下げて首を見ると蕁麻疹が出ているのが見えた。スマホを取り出そうとしたが、上手く取り出せずポケットから落ちてしまった。彼女を横にしてしまうと更に呼吸が苦しくなる為、腕で支えて体を起こしてなければならない。どうにもスマホまで手が届かない俺は、咄嗟にカラオケの入り口に目をやった。そこには、さっきのカラオケ屋の店員が自動ドア越しに心配そうにコチラを見ていた。俺は片手で救急車を呼んでくれとジェスチャーで伝える。店員は両手でオッケーと大きく丸をしてカウンターへ消えて行った。 俺はか細い息の彼女を抱きしめる事も出来ず、ただ必死に体を摩った。  救急車は病院が近いのか思ったより早く来て、俺が事情を説明すると直ぐに処置してくれた。そのおかげで彼女の音を立てて苦しそうだった呼吸は、静かな寝息に変わっていった。 俺は一気に全身の力が抜け、手足に感覚が戻っていくのを感じた。  「なんで酒なんて飲んだんだよ。   バカか……。」 ベッドに移され、静かに眠る彼女の頭を撫でようと手を伸ばして、やめた。 (俺になんて触れられたくないか。) そう思ったからだ。 俺は、ベッド横の椅子に座り、ただひたすら彼女の寝顔を見つめていた。 考えてみれば、俺は彼女がアルコールが体質に合わないという事は聞かされていたが、体調不良を起こしたところを見るのは初めてだった。  彼女が目を覚ましたのは、それから二十分後くらいだろうか。  「なんで飲めないのに飲んだの?」 そう聞く俺に彼女は、『関係ないでしょ……もう』と俺を見ずに言った。  「飲んだら、どうなるか分かってるよね?」  「放っておけば良かったのに……。」 冷たい声だった。  「なんで私に説教するの?   人には厳しいのに自分は何?」 ようやく俺を見た彼女が表情一つ変えず冷めた声で言う。  「言い訳にしか聞こえないと思うけど……、   お客さんなんだよ。   何度もしくこく誘われてて……、   彼女がいるって言っても、   連絡するのやめてくれなくて……、   お客だから拒否するわけにもいかなくて……。   でも会ったりとかしてないから!   本当に嘘じゃないから。」  「会ってないなんて証明できないでしょ。」  「……うん。」 俺の返事を聞いて、彼女が小さく溜息をつく。  「隠すな、嘘つくなって散々うるさく言ってたのは誰?」  「……そうだね。」 彼女の静かに冷めた声は、怒りの収まりどころを失っているように感じた。  「なんで四年も付き合った彼女の事をフったの?」 彼女の言葉に俺は、態度には出さなかったものの正直驚いた。元カノの事は聞かれた事はなかったし、あえて言う必要もないと話題にした事はなかったからだ。よく考えれば、元カノを良く知るジュリちゃんが親友ならば知らないわけもないかと直ぐに納得がいった。 でも、彼女が別れた理由に言及してくるのは、元カノに対してのヤキモチとかではなく、俺が自分と、どういう気持ちで付き合っているかを確かめようとしてるんだというのが分かった。カラオケの部屋で『やっぱり貴方は、そういう人だった』と彼女は俺に言った。 『違う』と否定しようとした俺と言葉を遮って『何も違わないよ』と。  「好きになれなかったから……。」 俺が正直にそう言うと、彼女は呆気に取られたように目を見開いて、『四年だよ?』と理解できなさそうに言った。  「好きになろうと努力してたら、四年も経ってた。   でも一生一緒にいたい人にはならなかった。   彼女といるべきなのは俺じゃないって……。   ユキちゃんと初めて会った日、   何故か今日言おうと思ったんだよ……。   帰り際、一度も振り返らないユキちゃんが、   気になって仕方なくて。   これで終わりにしたくないって思ったんだよ。   だから別れて、ちゃんとケジメつけなきゃって……。」 嘘じゃなかった。 彼女が信じてくれてるかは分からないし、俺があの時なんでそう思ったか未だに自分でも分からないけど、あの日、彼女の後ろ姿を見送りながら本当にそう思ったんだ。  「私……。   もう大丈夫だから帰る。」 彼女は、そう言ってベッドから出た。 多分、俺の言った事に納得などしてはいないだろう。  「分かった。」 俺も、それ以上は何も言わなかった。 多分、彼女は俺の全部を信じてないかもしれない。でも、これ以上あれこれと話しても何も解決しないと思った。 (ごめん……ユキちゃん。  でも俺はユキちゃんだけだから。) 本当の事だけど、今言葉にしたら多分きっと、ちゃんと伝わらなそうで言えなかった。 ただ彼女が『帰る』と言ってくれた事に俺は何よりホッとしていた。           (⑮に続く……)

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惰性以上、情熱以下 ⑭

惰性以上、情熱以下 ⑬

 こんなに絶望した日はなかった。  自分名義で借りてる部屋なのに帰る事も出来ず、友達は皆んな仕事で不定休の私に付き合ってる程、暇じゃない。ただ悔しくて思いっきり泣きたくて、初めて一人でカラオケに入った。せっかく歌いたい放題なのに恋の歌しか知らない。気を紛らわそうとスマホを見ようとしたら、財布しか持って来てない事に気が付いた。何年間分の不幸が一気に来たような気分だった。  (外は雨なのかな……。   こんな事なければ今頃、家具見てたんだな。) ただ、私は流れる画面を茫然と眺めていた。  _____________________  今朝は時間を気にせず眠って、目が覚めたら午前九時半を過ぎていた。ベランダで洗濯機のスイッチを入れて、ケトルでお湯を沸かしてシャワーを浴びた。髪を乾かしてたら、ドライヤーの音で彼が起きて来て、後ろから『おはよ』と抱きついてきたから、『早くシャワーしてきて』とドライヤーの風を彼に向けて笑った。 長い髪を乾かし終わる頃、洗濯終了の音がして私は、いつものように洗濯物を干し始めた。ベランダから見る空は、白い雲に覆われていたけど休みだからいっかと部屋には干さなかった。洗濯かごからバスタオルを手に取った時、長めのスマホの通知音が聞こえた。 何だか気になって、彼のスマホの画面を覗いてしまった。  知らない女からの着信。 着信が切れたと思ったら、メッセージが表示された。 [今日彼女仕事でしょ?会えるかな?]  「へぇ……。   一人の休みの日はこうやって過ごしてるんだ。」 そう思わず口から出た。自分でもビックリするくらい冷めた低い声だった。 私は干しかけの洗濯物もそのままに、上着を着て財布を手にして玄関を出た。 (昔からそうだったなぁ……。  楽しみにし過ぎると悪い事が起きる。) 私は、首に当たる冷たい風にマフラーを忘れた事を後悔しながら駅に向かって歩いた。 歩きながら泣きたいのを我慢した。  「泣きたいと思って来たのに涙出ないじゃん。」  私は、せっかくのカラオケの防音個室も上手く使いこなせず、ソファに横になった。 考えてみれば、彼のくれる好きに安心しきってスマホを気にした事なんてなかった。 彼に限って……そう思ってたのかもしれない。 私は忘れかけてた彼の初めの印象を思い出した。 キラキラしていて、すれ違う時なんて必ず二度見されそうな顔とスタイル。初対面の相手でも物怖じしない振る舞い。 いろいろ考えていたら、そもそも私なんて釣り合う訳ない。今、現実に起きてるこの現実も、そりゃそうか……と思えてきて、怒りで熱くなっていた胸の奥が冷めて冷静になっていくのが分かった。 そして考えるのに疲れた私は、静かに目を閉じた。  「ユキちゃん!」  体が揺さぶられ、名前を呼ばれたのが分かって、目を開けた。  「触らないでっ!」 目の前に彼の顔があって、咄嗟にそう言って自分の肩に置かれた彼の手を払おうと突き飛ばしてしまった。  私は全然冷静なんかじゃなかった……。  「なんで来たの……。   嘘つき! もういい!」 彼の顔を見たら一気に怒りが込み上げてきて、そう言い放ってしまった。そして、『顔も見たくない……。帰って。』と震える声が出た途端、私は大声で泣いた。  「ごめん……。」  彼が俯きながら、そう言った。 (ごめんて何?) 謝る理由が分からなかった。 私は言い訳すらしない彼が憎かった。 (そっか……。やっぱり私は遊ばれてたんだ。  彼にとったらゲームみたいなもんだ。)  「別れて……。   もう充分、楽しんだでしょ。   やっぱり貴方は、そういう人だった。」  「違っ!」  「違うくないっ!   ……何も違わないよ。」 違うと言いかけた彼の言葉を遮って、私はそう言った。 (ここが防音で良かった。) 私は今度こそ、冷めた心でそう思った。     彼は、『分かった』と言って部屋を出て行った。言いたい事を言った私は暫くボーっとして、お腹が空いたのでポテトとビールを注文した。聞き慣れたスマホの着信音がして、彼が持って来たんだと分かった。でも、今の私にはスマホを確認する余裕など、あるはずもなかった。 『お待たせしました』と目の前に置かれたビールを一気に喉に流し込む。口に入れたポテトは大好きなのに味がしなかった。 あれ程、泣きたくても出てこなかった涙は、涙腺が壊れたのかと思うほどボロボロと自然に溢れて頬を伝って落ちる。 (納得してるのに何でだろ。) 私は味のしないポテトを頬張り、残ったビールで流し込んだ。             (⑭に続く……)

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惰性以上、情熱以下 ⑬

惰性以上、情熱以下 ⑫

 頭が真っ白になるというのは、多分こういう事を言うんだな。  時刻は午前十一時半を回ったとこで、シャワーを終えた俺は呑気に髪を拭いていた。  「さぶっ。」 部屋戻ると開けっぱなしのベランダの窓に開けっぱなしのクローゼット。 彼女と付き合って半年、季節はあっという間に冬を迎えていた。 「ユキちゃん?」 呼んでも返事はなく、ロフトを覗いても彼女はいなかった。開けっぱなしのクローゼットが気になって、もう一度クローゼットに目をやると彼女の上着がなかった。 (コンビニでも行ったのかな。) なんとなく、そう思って玄関を見ると、思った通り彼女の靴はなく、玄関のドアの鍵は開いたままだった。 開けっぱなしのベランダの窓を閉めようとした、その時、初めて異変に気が付く。 (なんで?) 洗濯物が干しかけだったのだ。 今までこんな事はなかった。ゴミ出しに行く時ですら鍵を閉める慎重さで、やり出した事は、俺がいくらちょっかい出しても途中でやめたりはしなかった。そもそも黙って出かける事なんて今まで一度なかったじゃないか。  (もしかして……) 俺は、一応このスマホ時代に、ありもしないだろう置き手紙らしきメモがないか見渡したが何もない。 得体の知れない嫌な予感が心臓に走り、鼓動が早くなる。 俺は彼女に電話しようと思いスマホを手に取って画面を見た瞬間、熱(ほて)った体が一気に冷めるのが分かった。 [今日彼女仕事でしょ?会えるかな?] スマホの画面に表示される着信通知とメッセージ。  「マジかよっ…」 何が起きたのか、すぐに分かった。 俺は急いでクローゼットから目に付いた服を着て彼女に電話した。 コールが鳴るや否やシンクで鳴り出す置きっぱなしの彼女のスマホ。 俺は上着と自分と彼女のスマホを持って、玄関を出た。鍵を閉めてドアノブを握ったまま恐怖と緊張で震える息で大きく深呼吸した。 とにかく頭が真っ白で、何処へ向かえば良いか分からなかった。  __________________________  「明日はどうしよっか。」 昨日、夕飯を食べながら俺がそう言うと、彼女は『久しぶりに外でランチしたいな』と嬉しそうにスマホのクーポンを見せてきた。 ランチの後、天気が良かったら公園であったかいコーヒー飲んでゆっくりしたい。雨なら家具を見に行きたい。俺が両方すればいいじゃんと言うと一気に両方したら勿体無いじゃんと拗ねたように言った。  今日がいつもよりどれ程、大事な日だったか。滅多に休みが合わない俺達には……。 俺は昨日、彼女が言っていた公園に向かう。空は雨こそ降ってはいなかったが、白く雲で覆われていてお世辞にも晴れてるとは言えない空だった。  スマホの着信とメッセージの相手は客からだった。総勢二十人程いるサロンスタッフに、受付スタッフが逐一、顧客からのメッセージを伝える作業の負担を減らす為、担当したスタイリストと客が直接やりとり出来る仕組みがHPに設けられた。施術後、担当者が名刺を渡す決まりで、名刺のQRコードを読み取ると担当したスタイリストの画面が現れる仕組みになっている。その画面から自由にメッセージを送る事が出来るのだ。 便利なシステムではあるが、今回のようなメッセージに俺以外にも悩まされているスタッフも少なくはなかった。HPの注意書きにも、[スタッフへの施術以外の私的メッセージはご遠慮くだいますようお願い致します]と記載されてるにも関わらず、ちゃんと読んでないのか無視なのか、時折こういうメッセージが送られてくる。それが嫌で、それっぽい話になると俺は必ず彼女がいる事をアピールしていたはずなのに……。今回メッセージを送ってきた女性客は俺に恋人がいようが、お構いなしに執拗に誘いのメッセージを送ってきていて、そのうち、どこから仕入れたのか電話番号まで知られてしまっていた。客という事もありキツく言うわけにもいかず、俺は丁重に断り続けていた。  隠してるつもりはなかった。悪い事は一つもしていない。 ただそれは、今は言い訳でしかない。  彼女は、公園には居なかった。 その後、家具を見たいと言っていた店にも行ったが彼女の姿はなかった。近くのコーヒーショップも思いつく場所は全部見た。 俺は困り果てて、ジュリちゃんにメッセージを送り、歩道のガードレールに腰を下ろした。 (何してんだよ……俺。  全部話しておけば良かった。何で言わなかったんだ。) 後悔の渦で途方に暮れていた時、スマホのバイブが鳴る。時刻は、既に午後三時を回っていた。 [あらら。ケンカですか?  一人になりたいとかならカラオケとか?] (カラオケ! なるほど!) ジュリちゃんに[さんきゅ]と送り、駅近のカラオケに俺は走った。  「あのっ! 薄いブルーのコート着た女性なんですけど……っ  一人で来てませんかね?」  カラオケの受付で、やる気のなさそうなバイトらしき男に聞いてみる。  「えっとぉ……。」 やべぇ奴と思われてるらしく、そう言って目をキョロキョロとさせて店長を探してるのが分かった。 俺は咄嗟に上着に入ってた名刺と自分と彼女のスマホを2台取り出して見せ、『怪しい者じゃない』『彼女がスマホ忘れてしまって』と、焦る気持ちを必死に抑えて説明をした。 『ああ〜』と言い、その店員は部屋番号を教えてくれた。  真っ暗な部屋をドアのガラス越しに覗いて重いドアを開けると、歌声は聞こえずソファに横になっている彼女。 俺は少し安堵して大きく溜息を吐いた。  「ユキちゃん。」 呼んでも返事はなかった。 テーブルには口を付けてなさそうな氷が溶け切ったドリンク。マイクはスタンドに刺さったままで歌った様子もない。 俺はしゃがんで彼女の顔を覗き込み、『ユキちゃん』と何度か呼んだが、彼女は眠っていて目を開けなかった。起こしてしまうのを少し躊躇したが、 (このままで良いわけない。) そう思った俺は、『ユキちゃん!』そう言って彼女の肩を揺すった。             (⑬に続く……)

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惰性以上、情熱以下 ⑫

惰性以上、情熱以下 ⑪

 人懐こい性格だから誰とでも仲良くなれるのが特技だと言われて育った。それによって生まれる柵(しがらみ)が面倒臭いと思うような捻くれた性格だと気付いたのは中学生の時。そう気付きながら独りぼっちは耐えられないから、面白くなくても面白いと言って、興味がなくても興味があるフリをして周りに合わせてきた。世の中、そうやって生きていくもんだと悟った高校2年の夏、 無理をし過ぎた私の心が爆発して体調を崩しても、友達どころか親にすら理解してもらえなかった。それでも何とか迎えた高校の卒業式、写真を撮ろうと言う同級生達に『ちょっとトイレ行ってくる』と言って、そのまま帰った。 友達の事が嫌いだった訳じゃない。 自分でも訳が分からないほど限界だった。  美容師の道に進んだのも、両親が理容師だったからという安易な理由と、裏と表の顔の使い分けを仕事と私生活として割り切れる仕事なら、自分が楽だと思ったから。 そういう拗らせている私の性格に気付いてくれたのがジュリだった。ジュリは、『それ、いつか絶対バレるし、体壊すよ』とハッキリと私に言ってくれて、それ以来、私は自分を取り繕うのをやめた。だから、取り繕わない自分と友達になってくれた専学の友人達は、男女問わず私にとって凄く大切な友達だった。  「二週間も前に言ったじゃん!」  「それは聞いた!   でも男が居るなんて言ってなかった!」  暫く静かだった専学仲間のグループチャットが久しぶりに賑わい、飲みに行こうという話になった。確かに初めは女だけ六人くらいのメンバーだったのが、気付けば誰となく勢いに任せた招待の連鎖で結局クラスの半分くらい参加する程の大事になっていた。その中には男子も確かにいて、私は、それを彼に言えずにいた。  「言って…なかったっけ?」  「うん。」 腕を組み、私を睨みつける彼。  「はぁ……。 じゃあ、行かないよ。」  「……え?」  「仕事行ってくるね。」  「あ……まだ早__。」 私は、彼の言葉を最後まで聞かずに玄関を出た。 (しくじった……)  彼と付き合って二ヶ月。 彼と居るのは居心地が良かったし、何より帰って一人じゃないのは思っていた以上に私の心を癒してくれた。ただ、想像以上に束縛が強かった。彼氏がいなかった時は、束縛されたい願望はあったものの、実際こうなると束縛され慣れない人生だった私には、正直どうすれば良いのか分からなかった。それを職場の同期に相談すると、『贅沢言ってんなぁ』と真剣な悩みも惚気と取られてしまって罰が悪い。  「え? マジで専学の飲み会、行かないの?」  「……わかんない。」  「先が思いやられるな。」 そう言って、同期は不憫そうに私に微笑むとバックルームから出ていった。  その夜、仕事終わりに、いつものように<これから帰るね>とメッセージを送ったけど既読スルー。  (出た。 お得意のいじけ作戦。) 私には、それが拗ねてる子供にしか感じなくて、仕事の疲れと待ち受ける帰り道の徒歩三十分も相まって、 思わず『めんどくさ……』と心の声が口から出てしまった。  でも、そう言いながら、頭では、どうやって彼のご機嫌を取ろうか考えている。それは、どうしても飲み会に参加したいからとかではなく、彼を傷つけた事で自分が気負いしたくないからだった。 ジュリに言われて目が覚めたはずなのに、揉めそうになると自分が我慢すれば良いやと何でも諦めて事勿れ主義は、私の中から完全に消えた訳ではなく今も顕在していて、こういう時しっかりと顔を出す。ジュリの冷めた目で溜息を吐く顔が頭に浮かんで、 それを振り払うかのように私は頭を横に振った。    「ただい……。 あれ?」 アパートのドアを開けると、部屋の中は真っ暗で、急いで灯りのスイッチを入れると、部屋の真ん中に膝を抱えて座る彼が居て、心臓が止まるかと思う程、驚いた私は『わっ!』としゃがみ込む。  「アキ君……。」 驚いた動悸が治らず、胸を押さえながら、つい溜息混じりの呆れたような声が出てしまう。  「ユキちゃん……。   オムライス、レンジに入ってるから。」 彼が座ったまま微動だにせず言う。 (オムライス……。)  「私、怒ってないし。   飲み会にも行かないから機嫌直してよ。」  「……ユキちゃん。   俺、そういうの嫌だ。」  「……え?」 彼は、腰を起こし私の目の前に立つと、『行くな、なんて言ってないじゃん。』と真顔で言った。  「だって男が居たら嫌なんでしょ?」    「嫌だよ。 でも、俺がもっと嫌なのは、俺の機嫌を伺って、   本当の事言わなかった事だよ。   俺がユキちゃんに来たスマホのメッセージ見えなかったら   黙ってるつもりだった?   そういうの嘘つかないでって、ちゃんと言ったよね?」  「……ごめん。」 彼の言う通りだ。 知られなければ……と、確かに思っていた。  「そんな事で怒ったりしないから、嘘だけはつかないで。」  「……はい。」 私の返事を聞くと彼は咳払いをし、『はい! ケンカ終わり! ご飯食べよ。』と笑顔で言い、腹ペコだった私は、『食べる!』と元気よく答えた。    数日後の月曜日。 結局その飲み会に私は参加した。飲み会中、彼から<勧められても酒は飲むな>と何度もメッセージが届く。 心配しなくても、アルコールが飲めない事を良く知る友人達は勧めては来ないけど、そういう心配をしてくれるところも私は嫌じゃなかった。 楽しかったけど思ったより疲れて最寄駅の階段の手摺りを握りながら下りると、誰もいない駅の外で、両手を上着のポケットに突っ込み少し不機嫌そうに正面を見つめている彼がいた。空気は鼻がツンとするほど冷たいのに彼を見つけた私の胸はフワッと温かくなる。この状況が、なんだか嬉しくて、彼に駆け寄り『ありがとう』としがみついた。でも、私の頭をポンポンと触った彼の手は冷たくて、しがみついた体は服の上からでも分かるほど冷え切っていて、少し胸が痛んだ……。 だから私はそのまま、タクシー乗り場まで彼の手を引いた。今日だけは勿体無いとは一ミリも思わなかった。  この日、私は彼が風邪をひかないか心配で、なかなか寝付けなかった。 もし逆の立場だったら、私は同じ事が出来るだろうか。そう考えたら、また胸がキュッと痛くなって、眠っている彼の腕を摩り続ける。  どこまでも目に見える程の好きをくれる彼に、只々、申し訳なくて涙が溢れた。 彼の事が大事で、ちゃんと好きなのに、考えてみたら私は、彼に好きと、まだ一度も言葉にして言った事がない。自分の性格の悪さと急な罪悪感で胸が締め付けられる。  「ごめんね……」 涙で震える声で私は、眠っている彼に呟いた。           (⑫に続く……)

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惰性以上、情熱以下 ⑪

惰性以上、情熱以下 ⑩

 彼女が俺より早く起きるのは、いつもの事だ。だから目覚めて彼女が隣りに居なくても別に不思議な事じゃない。 「・・・・・・・・・」 いや、そういう事じゃない。 (何でだ……)  ロフトから下を覗くとクローゼットから出してないはずの布団が敷かれた状態で洗面所からは水の音。俺は急いでロフトから降りる。  「ユキちゃん!」 歯磨きをしながら彼女が俺に手で待ってと合図して口を濯いだ。  「俺、もしかして寝相悪い?」 彼女が俺の前を通り過ぎながら『違う』と首を振る。  「アキ君さ、我慢してない?」  「……は? 我慢って何を。」 彼女が布団を畳もうとする手を俺は掴んで止めた。  「急に何? 何が言いたいの?」  「・・・・・・・・・」 彼女は小さく溜息をついて、布団を畳んでクローゼットに入れた。  「ねぇ! ユキちゃん、言ってよ!」  「何で昨日キスで止めたの?」 そう言ってクソ真面目な顔を向ける彼女に俺は呆気に取られる。 (おい、待て待て待て待て。何言ってんだ。 あれだけガードが固かったのどっちだよ)  「出来ないでしょ?付き合ってないんだから!   あのままヤッてたら、やっぱり付き合ってないのに   出来る人なんだとか思うでしょーが!絶対!」  「・・・・・・・・・」 勢いで言ってしまったが、軽い男として俺を見ていたのは彼女の方だ。そうではない事を証明したくて俺は彼女を抱かなかった。俺は軽く呆れながら『下で寝た理由ってそれ?』と聞いた。  「うん……。   同じ布団に寝てるのにキスでやめられたから、   私の事なんて抱きたくないんだと思った。   本当は私の事もう、そうでもなくなったのに、   約束したから我慢してるのかなって……。   そう思ったら一緒に寝るのがなんか……。」  「想像力ハンパないね……。 何だそれ。」 (何だ……。その気だったのかよ。ヤれば良かった。)  そう思いながら俺は『そんな事あるわけないじゃん。』と言って彼女を抱き締めた。彼女も自然と俺の腰に手を回す。    俺の恐れていた事が静かに現実味を増す。彼女の中で俺に対する気持ちが変わってきているのは確かだ。何故なら少し前なら触れる事さえ許されなかったのに、今は簡単に彼女を抱き締める事だってキスだって出来る。同じ布団に入る事だって許された。凄い進歩だ。でも、それなのに俺達は付き合ってない。何故だ。俺は彼女に好きだと何度も伝えているけど、彼女は、まだ一度も言ってくれない。この慣れの果てのような曖昧なバランスの悪い関係性が俺にブレーキをかけさせてるのを彼女は分かってない。  「ユキちゃん。   俺がユキちゃんの事、好きなのは変わってないから。   でも、ちゃんと付き合うまでヤらない。」 なにを格好つけてんだ俺は。 本心は今すぐにでも好きな女を抱きたいくせに。このままクローゼットから布団を引っ張り出して、彼女を襲ってしまう事だって全然出来る。むしろ俺は布団なんてなくても全然オッケーだ!  でも現実、時刻は既に午前七時半。俺の支度は一瞬でも彼女はそうはいかない。 (考えるな。落ち着け。俺と俺のムスコ! 戻ってこい!俺の理性!)  「くだらない心配してないで、準備しな。」  「そうだね。」 俺は泣く泣く彼女から手を離した。  電車に揺られながら考える。 俺が単に[ヤリ友]目的で自分に近づいたと思っていたくせに、手を出されなかった事を気にするなんて、もう俺は既に信用されていて尚且つ俺に気があると解釈して良いのだろうか……。 そんな事を考えていると、ふと車両の扉付近でイチャつく高校生カップルが目に入った。人目を憚らず完全に2人だけの世界を作り出して、お互いの愛を確かめ合える彼らは間違いなくグズグズ悩んでる俺なんかより恋愛熟練者なんだと思う。 俺は目線を戻し小さく溜息を吐いた。  「マジっすか。ヤベっすね。ウケる。」  「顔……一ミリも笑ってないけど。」 出勤して来たジュリちゃんに昨日の夜から今朝の出来事を話す。もはや、俺にはユキちゃんの事を一番分かっているだろう彼女しか頼みの綱はない。  「一緒に寝てキスで終わりって……。   そんな人でしたっけ? 先輩って。」     「……あのな。」 確かにこんな事で悩んだ事はない。告白されて付き合えば相手が俺を好きなのが分かっているから拒むはずがないという自信があった。でも今回は惚れた弱みなのか彼女を目の前にすると恋愛ってこんなに難しかったっけと臆病になる。昨日も順序を気にして奥手になり過ぎ彼女を勘違いさせてしまった。俺があの後、自分のムスコを必死で落ち着かせたのも彼女は知る由もない。  「先輩、最初の勢いどこに置いてきたんですか?   ユキのアパート教えろってエラい剣幕で連絡してきたくせに。   好きだから抱きたいってそれだけで良くない?   自分の考えに振り回され過ぎ。」  「・・・・・・・・・」 ジュリちゃんは、『素直になればいいんですよ。』と俺の肩を叩いて、ふざけた作り笑顔で親指を突き立てた。  その夜、アパートに帰ると『おかえり』といつも俺より遅く帰る彼女がキッチンに立ちながら言った。  「え? 今日どうしたの?」  「あ、うん。練習サボった。」 この嬉し過ぎる光景に俺は玄関に靴を脱ぎ捨て、上着を放り投げ、手を洗い彼女に後ろから抱き付いた。  「ちょっとっ! 油跳ねるから危ないよ!」  「良いよ。油くら…アチッ!」  「ほら見ろ。もう出来るから座ってて。」 跳ねた油で我に返り水道の水で手を洗った後、俺は大人しく席に着いた。 直ぐに肉もアルコールも苦手な彼女が焼き立てのサイコロステーキと缶ビールを俺の目の前に置く。  「え? ユキちゃんのは?」 俺の心配をよそに彼女は『じゃじゃ〜ん!』と言って焼けた山盛りのシシャモとジンジャエールのペットボトルを嬉しそうにテーブルに置いた。  「ぶはっ!」  「笑わないでよ。私にはこれがご馳走なんだから。」 彼女はシシャモを指で摘み、頭から嬉しそうに食べた。  「あのさ、アキ君。」  「ん? あ、ウマ!コレ。」 『そっか。良かった。』と言って彼女が笑う。  「あ、ごめん。 何?」  『アキ君にちゃんと言わなきゃと思って。』と彼女は手を拭きながら俺の顔を見た。 全身に緊張が走る。俺は口に運びかけたサイコロステーキを皿に戻した。  「……ちゃんとって?」  「まだ二週間しか経ってないのに言うのも悩んだんだけど、   このまま、なんとなく彼女になってたとかは嫌だから。」    そう言って彼女は席を立ち、俺の横に座った。 (え? どういう事?) どちらとも取れる彼女の台詞に俺の頭の中は、この後の最悪パターンと最高パターンの両方が交互に連想されて焦る。先程からの緊張に更に不安が上乗せされ、箸を持ったまま俺は動けなかった。そんな俺の顔を両手で挟み、『こっち向いて』彼女は自分の方へ向かせた。  「ちゃんと付き合ってください私と。」  「……マジ?」 彼女がコクリと頷く。 息苦しさから解放されて一気に血流が良くなっていく気がした。俺は嬉しくて彼女を抱き寄せ『良かった』と『ありがとう』を繰り返した。そしてそのままキスをしようとしたら彼女に思いっきり顔を背けられ、『なんでよ。』と俺が言うと、『肉とアルコールの後はちょっと。』と俺から離れようとしたので咄嗟にシシャモを1匹、頭から彼女の口に咥えさせた。彼女がモグモグと口を動かし始めたのを確認してから俺は、そのシシャモの尻尾を咥えた。ビックリしたのか彼女の咀嚼は一時停止したが、俺はニヤリと笑って構わず彼女の口に向かってシシャモを食べ、そのまま彼女にキスした。  彼女が早く帰って来てくれたおかげで時間はたっぷりとあった。寝る支度が出来た俺達は、多分この先お役御免の布団をクローゼットから出して、その使い納めになる布団に2人で横になる。せっかく着たパジャマを脱がせながら何度も彼女にキスをして時間をかけて、ゆっくり彼女の体に触れながら擦っていく。  「あったけぇ……。」 思わず声が出た。 彼女の長い髪から香るシャンプーの匂いも体から香るボディソープの匂いも、いつもと変わらないのに俺を興奮させた。知らなかった体にあるホクロとか触れるとやけに敏感な場所とか、そういうのが全て愛おしかった。終わった後、直ぐに眠ってしまった彼女の横顔を眺めながら、幸福感と久しぶりに感じる心地良い脱力感で目を閉じる。 眠りに落ちながら思う。俺は、この先も今日という日を忘れる事だけは無いだろうと……。             (11に続く…)           

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惰性以上、情熱以下 ⑩

惰性以上、情熱以下 ⑨

 「・・・・・・・・・・」  また彼は出て行ってしまった。 部屋の時計を見ると深夜0時を回っていた。 駅まで彼の歩幅でも二十分は掛かる。だから終電には間に合わない。というか、今までの彼の行動を考えると律儀に実家に帰るような事はしないし、私も疲れ切った脚で彼を追いかけるような事はしたくない。  シンクの上には切り掛けた野菜と溶かれた卵、そして冷凍が解かれたご飯が二つあった。とりあえずコートとマフラーをハンガーに掛け、手を洗って彼が作ろうとしていたオムライスを作る。  少し反省した。彼の行動が目に浮かんだからだ。 きっと彼は聞きづらい事を聞いた後、気不味くならないように二人の好物のオムライスを作ろうとしたんだ。 <オムライスできたよ。一緒に食べよ> 彼にメッセージを送ってから出来上がったオムライスをテーブルに置いた。  十分もしないうちにアパートのドアは開いて、シュンとした彼が帰って来た。私は手招きして、『上着も着ないで外に出たら風邪引くじゃん。』とエアコンの温度を上げる。  「オムライス作ってくれようとしたんだね。   ありがとう。」 私がそう言うと彼は冗談ぽく私を睨んだ。  「あのさ、アキ君。私、ちゃんと考えてたよ。   ただ一週間、仕方なく一緒に住んでた訳じゃないから。」  「……うん。」 俯いてる彼の口に私はスプーンで掬ったオムライスを入れた。  「美味しい?」  「……うん。」 口をモグモグと動かしながら彼が頷く。  「これからさ、ごめんって言いづらい時は   オムライス作るってどう?」  「……え?」 彼が綺麗な目を丸くして私を見る。 私はその顔が可愛くて思わず笑ってしまった。  「これからも一緒に居てほしいって意味だよ。」  「え?え?   もっかい言って!」  「やだ。一回しか言わないよ。恥ずかしい。」    『恥ずかしいって何だよ。』と彼は拗ねた素振りを見せたけど、私には今言える彼への最大限の気持ちだった。一週間ちょっと彼と暮らしてみて、私の中で彼への見方は自分が思ってる以上に変わっていた。帰って来て『おかえり』と言ってくれる彼を見ると、迷子の子供が母親に会えた時のような安心感を感じる。幼い頃よく迷子になっていた私には、その感覚が良く分かる。それくらい私の中では一緒に生活する彼が大きな存在になっていた。  その日の夜、彼は一緒に住んでから初めて本気で駄々を捏ねた。私がクローゼットから布団を出すのを拒み、『いい加減にして。』と私が言う前に言った。時刻は既に午前二時を過ぎていて私はクローゼットから布団を出すのを断念し、枕だけ持って二人でロフトに上がった。二つ枕があるのに腕枕をすると彼は、また駄々を捏ねる。私が枕をどかして言う通りにすると直ぐに寝息が聞こえて驚いた。腕枕が少し高いのと、いつもと違う方向を向かされてしまった私は、なかなか寝付けず月明かりに照らされている彼の寝顔を見上げていた。良い大人の男女が同じ布団に寝ているというのに彼は私に手も出さずスヤスヤ眠っている。腕枕をすると駄々を捏ねた彼を思い出して私は少し笑ってしまった。 何で私なんかの事を好きなんだろうとか、元カノと別れた理由は何なのかとか、まだ思う事は多々あるけど彼が私に与えてくれる日常の温かさは失いたくないと思った。  次の日、いつも以上にベタベタしてくる彼を私は普段みたいに拒まなかった。そのせいか彼はご機嫌で出勤して行き、私は予定通り職場の人と飲みに行った。<十一時には解散>と彼にメッセージを送り、帰り際に雨に降られコンビニで傘を買おうと思ったら、タクシーで帰れと男の先輩からお金を握らされた。先輩は、そのまま歩き出してしまって悪いなと思った私は握らされたお金を返そうと追いかけて道のくぼみに躓き、勢いで先輩に抱きついてしまった。先輩は『大丈夫かよ。』と言って笑いお金を受け取らず歩いて行ってしまった。そして、それを傘を持って迎えに来てくれた彼にまんまと見られるという情けない失態を犯したのだ。彼は冷めた顔で『バカなの?』と言って私を自分の傘に引き入れて濡れないように肩を抱いた。歩きながら彼の傘を持つ腕に私の傘がぶら下がっているのを見て、一人ずつ歩いた方が楽なのになとか捻くれた事を思ったけど、傘を持たずに出た私を心配して迎えに来てくれた彼を思うと凄く嬉しかった。私は彼の腰に手を回し、『ありがとう。』と体を寄せて腰に回した手に力を込めた。  アパートに帰ると私はシンクの上にコンビニ弁当の殻が置いてあるのに気付く。  「あ、それ洗わなきゃ。」 彼が靴を脱ぎながら言う。私はその殻を見て急に切ない気持ちになった。彼が一人でコンビニ弁当を食べてる姿を想像したら何故か凄く胸が締め付けられて苦しくなった。  「私が洗っておくよ。」  「何で。良いよ。」 そう言った彼に思わず抱き付いた。  「ごめん……。   一人でご飯食べさせて。」  「は?子供じゃないんだから。」 そう言って彼はケラケラ笑ったけど、私は何だか妙に悲しくて涙が溢れた。自分でも何で泣いているのか良く分からなかったけど、とにかく胸がツンと痛んで仕方なかった。  「何これ……。   やめてよ。何で泣くんだよ。」 そう言って彼は私を抱き締める。  「分かんない。」 そう言う私に『お風呂入って、もう寝よ。』と頭を撫でた。  シャワーをして一緒に布団に入り、私達はこの日、初めてキスをした。流れ的に次の段階に行くんだろうと思ったら彼は『今日はここまで。』と言って寝てしまった。 (なんで?こんな事ってある?)  急に私に緊張が走る。同じ布団に居るのにキスだけして終わらされるなんて、私に女としての魅力がないのは認めるけど、もしかして彼の気持ちが冷めてきているんじゃないかと急に不安になった。こんな事、私の数少ない恋愛経験の中ではなかったからだ。 『やっぱり違ったからやめたとかナシですよ』 自分の言った言葉が頭を過ぎる。 私の言葉に彼は『約束する』と言った。だから、やっぱり違ったと思っていても言い出せなくて私を好きな演技をして我慢しているんじゃないだろうか。 そう思ったら、彼の腕枕の中にいるのが怖くなって、私はロフトを降り、音を立てないようにクローゼットから布団を引っ張り出し潜り込んだ。 胸が張り裂けそうで彼と住んでしまった事を酷く後悔した。私は自分が思っている以上に彼を必要としている事に気が付いてしまったのだ。 (これ以上、求めてしまう前に この同居生活を解消しよう。) 私は溢れた涙を拭いて目を閉じた。             (⑩に続く…)

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惰性以上、情熱以下 ⑨

惰性以上、情熱以下 ⑧

 カチャカチャと食器を洗う音と薄っすら柔軟剤の香りがする。 カーテンを開けられた窓からの光が眩しくて片目しか開けられない目でスマホを見ると、am6:28。 6時半にセットしたスマホのアラームを鳴る前に解除する。布団の中で一伸びして起きて、キッチンに立つ彼女の元に行き、後ろから抱きつこうとして拒否られる……。 俺の朝は、こんな感じで始まる。  彼女の家に転がり込んで一週間。 正直、丸一週間経った今でも何も進展なんてしてない。 徹底して同棲ではなく同居のスタンスは変わらない。 一つ変わった事と言えば、彼女が俺に対して敬語ではなくタメ口になった事くらいだ。 大して広い部屋でもないのに、俺は彼女の下着姿すら見た事がない。強いて言えば、ロフトが憎い。あのロフトさえなければ彼女に触れられるチャンスは、もっと俺にもあるはずだと思っている。  「おにぎりと水筒、ここね。」  「あ〜、いつもありがとうね。」 家賃、光熱費、食費を折半にしようと二人で決めてから、節約と言って毎日の昼食がコンビニでパン&コーヒーから彼女の作る水筒コーヒー&おにぎりになった。たまに一口サイズのゼリーとかチーズがオマケで入ってたりする。今まで腹に入れば何でも良かった昼休憩が仕事場での俺の楽しみになった。    彼女の職場はアパートから徒歩30分。 俺は、そこから電車で20分かけて職場へ通う。 実家に居た時は職場まで徒歩15分だったから、いつもギリギリ出勤だったのに今は彼女の通勤に合わせてる為、職場には40分も早く到着する。それを彼女に伝えると『もっとゆっくり出れば良いじゃん。別に合わせなくても良いのに。』とあっさり言われた。 俺は『一緒に寝てくれたら、そうするけど。』と言ってみたけど  冷めた顔で見られて終わった。 でもこんな関係のせいか、俺は好きな女といるのに全く気を遣わず気楽にいられる。でも、だからこそ不安だった。 この気楽さこそが俺達の関係の進展を妨げているような気がして……。  「そういえば明日、職場の人と飲み会になったんだった。   だから夕飯いらないや。」  「あ、そう。分かった。」  そう咄嗟に返事はしたものの、急な彼女からの報告に、 俺の不安スイッチは一気にONになる。 普段の彼女との会話によると、職場のスタッフは男三人の女四人。男は一人は既婚者、あと二人は独身。 ユキちゃんは同期の子だけは絶対に名前で言う。だから[職場]なんて言い方をするって事は同期以外もいるはず。 (メンバーは誰だ。三人の男のどれかも行くのか?) 俺は、彼女を凝視する。  「何?」  「いや……何も。」 付き合っていない関係だからこそ言えない片想いの悲しい性。 誰と行くの?男も行くの?なんて軽々しく聞いてウザがられでもしたら一発アウト。 もし、これが付き合っている関係なら、俺は迷わず聞いてる。 『男もいるの?』と。  彼女はアルコールは体質に合わないと酒は一切口にしない。でも面倒見が良いからベロベロに酔った奴、それが職場の先輩なんかだったら尚更、彼女は例え絡まれても邪気には扱わないだろう。それで無理矢理どっかに連れ込まれて、あの時の俺がしたみたいに力尽くで抑え込まれたりしたら………。  「・・・・・・・・・」  「早く準備しなよ。」  「……うん。」 なんて、まだ起きもしない事に酷い妄想で頭を悩ませるのも片想いの悲しい性。 せめて手を繋いで出勤でも出来たら少しは違うのにと悶々としながら俺は支度を始めた。  少し手の空く昼時、仕事道具の手入れをしながらジュリちゃんに今朝の話と俺の気持ちを話してみた。  「めっちゃ好きなんですね。スゲ。」 ジュリちゃんは彼女の友達というだけあって、見た目は派手だが性格は男だ。だから、『そんなの普通に聞けば良くないですか?男も来るの?って。』なんて悪びれずに言う。  「変に格好つけようとするからダメなんですよ。   じゃんじゃん好きを見せてアピールしてみたら?   ユキはガンガン攻められたら落ちると思う。」  「ええっ?……そうかな?」  「知らんけど。」  「・・・・・・・・・」 ジュリちゃんはケラケラ笑ってたけど、彼女の言う事は一理あるような気がした。 俺はユキちゃんに嫌われたくない一心で一緒に住み始めてから一週間の間、大人し過ぎたのかもしれない。このまま、ただの同居人と化す前に行動しなければ手遅れになる。    その夜、彼女が玄関に入った瞬間、俺は意を決して彼女を抱きしめた。  「………ちょっと。」 彼女の呆れた低い声が聞こえたが、俺は彼女を離さなかった。  「明日って……男も来るの?」  「何で。」  「……だって。」 彼女が、『脚が痛いから座らせて。』と言うので俺は仕方なく彼女から手を離した。 彼女が座って俺を手招きする。 俺はテーブルを挟んで彼女の前に座った。  「明日はね、職場の人の誕生日なの。   それで皆んなでお祝いするだけ。   アキ君は、私が飲まされると思ってるかもしれないけど、   皆んな私が飲めないの知ってるから大丈夫だよ。」 (なんて鈍感なんだ。この子は。)  「ユキちゃん……。   俺が心配してんの……そこじゃねぇし。」  「……ん?」 俺はムシャクシャした。 俺が好きなの知ってるのに?さっき抱きしめられたくせに? [男も来るの?]イコール[酒の心配]ってアホか! 意味が分かんねぇ! 俺の頭に今日のジュリちゃんの言葉が浮かんだ。『じゃんじゃん好きを見せろ』『ガンガン攻めろ』確かに、この鈍感娘を落とすにはそれしかないのかもしれない。  「ユキちゃん!   俺がユキちゃんの事が好きでココに居るの忘れてない?   俺が心配してるの酒じゃないから!男だから!   俺ただの同居人にで終わるつもりないからね?分かってる?」     「・・・・・・・・・・」 (何で……黙るの?)  「ユキちゃんは……何も変わらないの?   何で……普通にしてられるの?   俺の事どう思ってるの?……まだ信用出来ないの?   どうやったら好きになってくれんだよ……。」 多分、[自暴自棄]という言葉は今の俺の為にあるんだなと思った。確かに勇気は出した。でも彼女に何も届いていない気がした。    俺はまた彼女を置いてアパートから出てしまっていた。              (⑨に続く…)       

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惰性以上、情熱以下 ⑧

惰性以上、情熱以下 ⑦

   pm11:30  「じゃあお先に〜。ユキちゃん   セキュリティだけ忘れないでねぇ。」  「分かったぁ、お疲れ。」    終わった。今日も何とか終わった……。 昨日の参事のせいで、今日は一段と身体が重く感じた。 (あ〜、タクシーで帰りたい。) 私は立ちっぱなしでパンパンな脚を叩きながら、サロンの灯りを消した。 (……なんでやねん。)  サロンの鍵を閉めて振り向くと、そう盛大に突っ込みたくなる光景が目に飛び込んできた。  「何してんですか?」  「うん、そろそろかなと思って。迎えに来た。」 スマホをポケットに入れながら彼が平然と言う。  「・・・・・・・・・・・・・」 (何でだ。何でこうなった。迎えって何? いったい何を何処で、どう間違えたんだ私は。) 昨日の会話を必死に思い出そうとした。 何か隙を見せてしまったのか、勘違いさせるような事をしでかしてしまったのか、とにかく必死で考えた。  そんな私が今どんな顔してるのか、彼の落ち込む様子を見て何となく自分でも分かった。  「……迷惑だった?」  「別に…、迷惑とかじゃないですけど……。   明日って仕事ですよね?」  「それなら大丈夫!   一回、帰って泊まる準備して来たから!   ここから行ける!」  「泊まるっ?」 (なんで?なんで?何でよ!なんで、そうなるの?)  「だって、ユキちゃんと居たいし…。」  「・・・・・・・・・・」   (何だそれ……。あり得ない。絶対に裏がある。 騙されちゃいけない。) そう思ってしまうのは彼のせいじゃ無い。 私に経験がないからだ。  心の中では、いつも憧れた。こんなふうに自分を好きだと言って綺麗な男子に付き纏われる事を。でも、それは現実味がないから憧れられたんであって、夢でしかなかった事が現実に起これば誰だって戸惑い、まずは疑ってしまうのが当然だと思う。  「あの……、付き合ってないですよ。   私、付き合いませんて言いましたよね?」 何となくの流れで都合の良い女にされるのだけは絶対に嫌だと思った。  「まだ信用ないの?俺。」  「それは昨日、話したじゃん……。」 私は、たった一度だけ一緒に食事しただけで好きだと言われても何も信用出来ないと彼にちゃんと伝えたはずだ。  「だから信用してもらおうと思って来たんじゃん。」 もう良く分からなかった。 何故こんなに、しつこく私に付き纏わなきゃいけないのか。絶対に何か理由があるとしか思えなかった。  「もしかして……。   賭けでもしてるとか?ジュリと。」  「は?」 彼の顔が怪訝そうな表情に変わったのが分かったが、私は続けた。  「だって絶対おかしいよ。   アキ君みたいな人が私を必死に落とそうとしてくるとか。   どう考えても有り得ない。   あ〜、時間制限とかあるんですね!   いつまでに私を落とすとか、   だから必死なんだ。そういうの迷惑です。」 私の言葉を聞いた彼の顔は一気に不機嫌そのものになって、  「酷いね。   じゃあ自分でジュリちゃんに聞いてみれば?   賭けてるんなら俺が負けた方が、   あの子には得になるんだから……。   ジュリちゃんは本当の事、言うでしょ。   迷惑そうだから帰るよ。」 そう言って駅に向かって歩いて行ってしまった。  言い過ぎたかもと自覚があった私は、帰り道でジュリに電話をして、今さっき起きた彼との出来事を話した。 私の話を聞いてジュリは『マジかぁ。』と呆れるように言った。  「本当に賭けとかしてないの?」  「あのさ……、そんな人じゃないから。   生姜焼き定食を頼んだのに肉だけ全部、    俺にくれたんだよって、凄い嬉しそうだったよ。   何で肉嫌いなのに肉の定食なんか頼んでんだよ。」  「生姜焼きのタレの付いたキャベツが好きだから。」  「どーでもいいわ!」 ジュリが嘘をついてるとは思えなかった。  「前の彼女って…どんな人?」  「ああ…、同期の人だよ。   四年くらい付き合ってたみたい。」  「四年っ!?」 (四年も付き合った人と、いったい何があって 別れる事になったんだろ……。)  「何で別れたのかは知らないけど、先輩は変な人じゃないよ。   誤解されたままとか可哀想なんだけど……。」 確かにジュリの言う通りだと思った。4年も付き合っていた彼女がいたなんて。ただの女垂らしの遊び人だと勝手に決めつけていた部分は少し反省した。反省が少しなのは、別れる事になった理由がまだ分からないからだ。別れた理由は彼の浮気かもしれない。充分に有り得る。 でも賭けだと疑った事は、きちんと謝ろうと私はジュリに彼の連絡先を送ってもらった。  アパートに帰り、直ぐに彼にメッセージを送った。 <ユキです。連絡先ジュリから聞きました。  失礼な事言ってごめんなさい。> <今から行く> (早っ!ってゆうか、まだ居たんだ)  二十分程してドアチャイムがなり、私は彼を部屋に入れた。 彼は、ずっと俯いたまま何も言わずに私の前に座っている。  「あの…、賭けとかじゃないのは分かりました。   疑ってごめんなさい。   あっ、ご飯って……食べましたか?」 彼は黙って首を横に振る。  「焼きそばでも作りますね。」 私が立ちあがろうとした、その時、  「ユキちゃん。   俺、ここに引っ越して来ちゃダメかな?」  「・・・・・・・・・・・」   一瞬、思考が停止した。 『どうかしている』……そう思った。  「何言ってるんですか!」と言った私に、真面目に話すから真面目に聞いて欲しいと彼は私の目を見て真剣な顔で言った。 休みも帰る時間も違う私に、自分を知ってもらうには、この方法しかないと、そう訴えてきたのだ。 メチャクチャだ。確かに頭の中では、そう思っていた。そのメチャクチャな発想に溜息すら出た。 でも、ふと別の考えが私の脳裏を過ぎる。 (帰って来て「おかえり」を言ってくれる人がいるって事?) そう想像したら悪くないと思った。  「良いんですか?   そこまで期待させて。   後で、やっぱり違ったからヤメタとかナシですよ。」  「うん。約束する。」  腑に落ちない所は山程ある。 でも、この時なんか逃しちゃいけないと思った。 こんな私を好きだと言ってくれる人は、もう現れないかもしれない。こんなに面白い事も、この先もう二度とないかもしれない。 彼の事を良く知らなくても、まだよく知らない人とルームシェアしてると思えば良い。いつの間にか不思議と、そういう割り切った考えに変わっていた。  「分かりました。」  「マジ?本当?良かったぁ!」    この後、二人で焼きそばを作った。  私が野菜を切って彼が炒めた。食べ終わった食器を彼が洗って私が拭いた。 冷蔵庫にあったシュークリームを2人で半分にして食べて深夜1時半近く、きちんと脱衣場の鍵を閉めシャワーをして、『今日も一緒に寝よう』と言った彼に丁重にお断りして、私はロフトで彼は下でちゃんと寝た。 なんか悪くないかも知れない。そう思った。 (⑧に続く…)     

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