かきあげ

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かきあげ

バナナです

第5回NSS 二滴

 幼い頃から雨が嫌いだった。  服についた雨が、重力に従って落ちるときの「ポタポタ」という音を聞くたび、歯ぎしりをした。  今日は雨だった。  傘など普段から持ち歩いていない。玄関も靴も濡れた。着替えの際、水が床に落ちた。いつの間にか歯ぎしりをしていた。  濡れた服を洗濯機に入れてから床を拭いた。拭いたタオルもついでに入れた。動き出した洗濯機には二十分と書いてあった。  そのままシャワーを浴びることにした。  シャワーというのは簡易的な雨を降らす機械である。そんなことを思いついて、すぐに考えるのをやめた。  髪、腹、腕、足の順で洗った。水が滴るのが嫌で、シャワーをつけっぱなしにしていた。  洗い終えてから栓を閉めて、シャワーヘッドを壁にかけた。  乾いたバスタオルで体を拭いた。  洗濯機の音がまだ大きい。あと十二分と出ていた。濡れたバスタオルも洗おうとして、洗濯機に手をかけた。ふたを開いたところで手が止まった。  歯ぎしりをした。

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五十

 外れた木の上の男が叫んだ。枯れ葉の上に立っていて、ミミズを食べる口をしている。わたしは彼の手のひらに目をやって、こう言った。   「おーい、山はまだ秋だぞー」  男はギョッとした目でこちらをにらみ、ハートポイズンのアルバムをポケットから取り出す。それが見えたのが一瞬、わたしの左頬を通り過ぎたのが一瞬。プラスチックの長方形の箱は、コンクリートにぶつかってガタン、と品の悪い音を立てて壊れた。    左からまた別の男がやってきた。鼻が赤くてマントヒヒかと思った。木の枝をわたしに握らせてきて、頭の上から被った。木の枝を握りしめる音は、枯れ葉を踏み潰したあの男の鳴き声に似ていた。    コンクリートを踏み鳴らす。なぜかわたしのポケットにある有機野菜のにんじんが、生暖かいままであった。  ユーロビートをかき鳴らす男がひとり。街外れにある街灯の下、ただギターをかき鳴らすだけだった青年は、年を食うに連れて気味の悪い味を出していた。  わたしは見かねて、彼に小麦と枝をやる。六本ではないから心許ないが、少しの辛抱にはやはりマシだった。慰めのない彼のギターが再び鳴り出す。彼はわたしなんぞに目もくれない、と言った様子で、ギターの弦をひとつひとつ、丁寧にペンチで切っていった。わたしはわざとらしそうに耳を手で塞いで、彼の前から立ち去った。    家があった。ここはわたしの家ではない。だからわたしはその家に入る。中には人が座っていた。白い髪で、皺の増えた老婆だった。背丈はわたしの腰より低く、腕が足につきそうなほど伸びていた。老婆はわたしを見ると、   「やっと来たか」    なんて言うものだから、わたしは困った顔をして右の靴についた枯れ葉を振り払おうとした。  老婆はわたしに座れ、と言った。老婆が引いた椅子に座り、老婆が座るのを待つ。二つの湯呑みを持ってきて、緑茶と三個の角砂糖を入れた。老婆は一気に飲み干すと、わたしに話をした。   「むかし、むかしの話だ、あるところに男がいた」    わたしは舌でお茶を舐めた。意外にも酸っぱかった。角砂糖を六個入れた。   「男は蛇を飼っていた。蛇は毒蛇として名のある蛇だった。男は牙を抜いて、舌を引っこ抜き、毒を切って、目を抉り出した。そうして蛇をもてあそんだ。男は蛇が好きだった。ここまでしなければ蛇と暮らせなかった。毎日毎日、蛇を可愛がっていた。だが、村の人間はそれでも怖がった。男の家までやってきて、蛇を見つけて殺してしまった」    お茶を飲み干してしまった。喉は乾いていくばかり。仕方がないから爪でも飲んでることにした。   「蛇が死んでから、男は蛇の墓を建てた。村人たちは男を気味悪がって、村から男を遠ざけた。ある日、村にたまたま来ていた男は、村人たちから石を投げられた。酷い言葉を言われた。だが男は笑っていた。少し時間が経ってから、家屋の三倍ほどはある、巨大な蛇が村にやってきた。村人たちは蛇に怯え、皆くるまって助けを待った。男だけは蛇を見てとても嬉しそうな顔をした。男は言った。今こそお前の恨みを晴らすのだ、と。蛇はバクリ、と男を食べて、帰っていった」    二十四と三が流れて、話は終わり。  わたしは残ったお茶を床に捨てて蛇を捕まえて家に帰った。

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つぎ方

 父の茶碗は、食器棚のいちばん上にあった。大きくて、縁が一か所欠けていた。僕の茶碗を買い替えたときに捨てようとしたら、まだ使えるだろ、と怒られた。  その父が死んだので、僕は背を伸ばして、茶碗を下ろした。そこに溜まった埃で咳き込んだ。その日のうちは何もする気にならなかった。  母は、僕が物心つく前に亡くなった。  父は漁師だった。遠くの海へ出て、何週間も帰らなかった。運動会の弁当は小学校の途中から自分で作った。卵焼きだけは、隣で弁当を食べていた友達のお母さんに褒められた。  父が家にいると、食卓に缶ビールが並んだ。僕の作ったものを食べ、しょっぱいだの、薄いだのと言った。笑いながら文句を言っていた。おいしくないの、と言うと笑いながら背中を叩かれた。箸の先から煮物が落ちるくらい強かった。やめろと言うと、もう一度叩いた。  僕が自分の部屋へ引っ込むと、襖の向こうで鼻をすすることがあった。翌朝には何も言わず、僕も聞かなかった。  最後に会ったのは三か月前だった。船の上で、満足そうな顔で死んだらしい。末期がんだった。  葬式では、今まで会ったことのない父の従兄が喪主を務めた。僕は制服で座り、大人に肩を押されるたび、立ったり頭を下げたりした。  棺の中の父は頬がへこんでいた。手に触れると、爪の端が黄色かった。  焼香の煙で喉が痛くなり、何度か水を飲んだ。目は乾いたままだった。    遺骨は墓に埋めるまで家に置かれた。僕は骨壺を持ったまま、なんとなく港へ向かった。防波堤の端まで来ていた。つま先の下で海が揺れていた。波しぶきが靴の先まで飛んできた。潮の匂いが鼻に入って抜けなくなった。僕はこのまま、骨壺の中身を海にぶちまけてやりたかった。  近くの漁師に連れられて家に帰された。骨壺を握りしめたまま海を見ていた。  職業体験があった。友達にいろいろ誘われたが、すべて断って、なぜか漁師を選んでしまった。  当日の港は、まだ街灯がついていた。船と岸壁の間で、黒い水が上下していた。  受付の小屋で名前を言うと、長靴を履いた男が顔を上げた。 「修の息子か」  頷くと、外に向かって、 「修のとこの子が来たぞ」  と呼んだ。  氷の袋を運んでいた人まで手を止めた。知らない顔が、僕を見て父の名前を口にした。  船長の松井さんは、父と二十年以上、同じ船に乗っていたという。今はこの港で、小さな船を動かしていた。  救命胴衣の留め具を確かめてから、僕の足元を指した。 「縄は踏むな。ここから先へは、一人で行かない。落としたものは拾おうとするな」  僕は長靴を半歩ずらした。  船が岸を離れると、足の裏からエンジンの振動が上がってきた。松井さんの口が動いたが、何を言ったのか聞き取れなかった。顔を寄せる。   「そこ、つかまれ」    耳のすぐ横で声がした。  防波堤を抜けたところで船首が持ち上がった。  瞬間、床がなくなったようになって、膝が折れた。手すりを握り直す。風が上着の裾から入ってきた。潮の匂いに、油と、洗っても落ちない魚の匂いが混じっていた。  波にぶつかるたび、船の底がどん、と鳴った。僕は少し、笑ってしまった。  また船が上がった。今度は下がる前から笑っていた。喉に風が入ってむせた。それでも止まらなかった。 「酔ったか」  松井さんが振り向いた。  首を振ろうとして、しぶきが顔に当たった。しょっぱかった。袖で拭くと、松井さんは前を向き直した。  網を上げる場所に着くと、船の上は急に狭くなった。人が動き、箱が動き、巻き上げ機が唸った。濡れた甲板を魚が跳ねた。僕は言われた場所で箱を押さえ、渡された魚を分けた。軍手の中まで冷たくなった。 「そっちは違う」  隣の人に直される。次の一匹は合っていた。頷いてもらったときには、別の魚が足元で跳ねていた。  港へ戻って長靴を洗っていると、その人がホースを受け取った。   「親父さんには、俺もよく怒鳴られたよ。魚を見つけるのはうまかったけどな。人に教えるのは下手だった」 「そうなんですか」 「見りゃ分かる、って言うんだよ。分からないから聞いてんのに」    その人は笑って、僕の長靴の裏に水を当ててくれた。跳ねた水が袖にかかって冷たかった。  小屋の前では、別の人に呼び止められた。 「大きくなったな。写真じゃ、こんなだった」  腰のあたりに手を置かれた。歯が抜けたまま、とうもろこしを食べている僕の写真を見せられた。上の前歯がなくて食べにくいのを、父が面白がって撮った。消してと言ったのに、消さなかったらしい。 「酒が入ると、何遍も同じの見せるんだ」  僕は、自分の靴のつま先を見た。 「あの写真、嫌だったんです」 「そうか、そうか」  その人は手を下ろし、少し困った顔で笑った。  昼になって、松井さんと小屋で弁当を食べた。体験の記録用紙は、濡れた袖が当たったところだけ色が濃くなっていた。 「卵焼き、自分で作ったのか」 「はい」  松井さんは頷いた。僕は残りの卵焼きを口に入れた。砂糖が少し多くて、渋い顔をした。  窓の外で、空の箱を重ねる音がした。 「病気のこと、知ってたんですか」  松井さんの箸が止まった。 「……知ってた」 「僕は、何も知らなかったんです」 「死ぬんだったら、海で死ぬって言ってたな」 「そう、だったんですか」  松井さんは弁当の蓋を置いた。 「あいつが、子どもには言うなって。心配させたくないって、そればっかりでな」  僕は箸についた米粒を取った。 「僕、普通に買い物とかしてました」 「うん」 「電話も、すぐ切って」 「うん」  冷蔵庫が低い音を立て始めた。 「俺から言えばよかった」  松井さんはそう言った。僕は米粒を奥歯で噛んでいた。  弁当箱をしまうと、松井さんが、今日どうだった、と聞いた。 「まだ足が揺れてます」 「しばらく揺れるよ」 「また、乗れますか」  松井さんは僕の顔を見た。 「乗れるだろう。……でも、仕事にするなら、ほかを勧める」  机の上に置かれた手は、指の節が太く、一本だけまっすぐ伸びていなかった。 「怪我もする。眠れない日もある。沖へ出りゃ、帰りたくても帰れない。親父を見てたら分かるだろ」 「家では寝てました」 「ああ」 「参観日も」  松井さんは口を閉じた。  僕は弁当箱の袋を結び直した。 「あいつも言ってた。お前だけは漁師にしたくないって、何かあるたびにな」 「僕には言いませんでした」 「そうか」 「何になりたいのかも、聞かれませんでした」  松井さんは頷いて、窓の外へ目を向けた。まだ沖にいる船が二隻見えた。  進路希望調査の紙は、机の上に三日ほど置いていた。第一希望の隣に、理由を書く欄があった。どちらも空白だった。  夕飯に魚を焼くと、軍手の匂いを思い出した。風呂で目を閉じると、床が少し動いた。授業中、足を椅子の下へ引いたとき、船で箱を押さえていた姿勢になった。  帰り道に港へ寄ったこともあった。船の上では笑っていたのに、岸から見る海は高く、硬そうだった。  父の茶碗は、洗ってからも食器棚に戻せずにいた。大きすぎて僕には使いづらかった。  父がいたら、僕が話し終わる前に何か言いそうだった。そういうところが嫌いだった。  放課後、紙をカバンに入れたまま、港へ行った。松井さんの船は岸につながれていたが、誰もいなかった。甲板には洗った箱が伏せてあった。縄が張り、緩み、船と岸壁の間で水が鳴った。  防波堤の根元にあぐらをかいて座った。カバンを膝の横に置き、その上で紙を広げた。紙が風に震えだしたので、左手で押さえた。第一希望の欄に、小さく漁師とだけ書いた。理由は書かなかった。  ペンをカバンに戻そうとして紙から手を離した。風が僕を通り抜ける。慌てて手を伸ばしたが、届かなかった。白い紙が空で一回転して海に落ちていった。怒られた気がした。

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なつさめ

 夏というのに映画を見た。おとといの僕は夏に映画は風情がない、と言ったが、今日の僕はあの子のせいだろう。夏希の右隣に座って見ていた。男と女が付き合う映画なんてとてもじゃないが見てられなかった。ただ、左を横目で見ていた。    映画館を出ると雨だった。運良く折りたたみ傘があった。傘を開くと夏希が入ってきた。彼女はただ、「狭い」と言って僕を少しだけ押してきた。傘を差したまま二人で歩いた。僕の右肩だけ少し濡れていた。    雨降る街並みを歩いた。傘を差してから僕は何も言えなかった。夏希も何も言わなかった。   「あ、あの鳥」    夏希が指を差した。電柱に止まっている、白い鳥だった。羽が濡れて、飛べずにいるように見えた。   「寝てるのかな」  僕はわざとそんなことを言った。夏希は首をかしげた。鳥は一度だけ、細い足を踏み替えた。 「寒そう」 「……夏なのに」 「濡れたら寒いよ」  夏希の左の袖にも、小さな染みができていた。傘をそちらへ寄せた。右肩に、また雨が当たった。  電柱の下まで来ると、白い羽根が落ちていた。濡れた端が、歩道に貼りついている。僕はしゃがんで拾った。 「それ、あの鳥の?」 「……さあ」 「結構おっきいね」  夏希が顔を寄せた。指の先で羽根の端に触れ、それから上を見た。傘が邪魔で、鳥は見えなかった。 「傘、持ってて」  持ち手を渡すときに、夏希の指に触れた。僕はすぐに手を引いて、鞄から映画のチラシを出した。二つに折った間に羽根を挟んだ。夏希はそのあいだ、両手で傘を持っていた。 「持って帰るんだ」 「うん」 「どうするの」 「別に」  チラシを鞄に戻した。傘を受け取ると、夏希はさっきより少し近いところを歩いた。  次の信号が赤になった。車が水を踏むたびに、僕たちは少しずつ後ろへ下がった。 「私、引っ越すんだ」  夏希は向こう側の信号を見ていた。 「いつ」 「今月の三十一日」  持ち手を握り直した。親指を置く場所が決まらなかった。 「そう、なんだ」  夏希がこちらを向いたので、僕は信号を見た。 「もっと前から決まってたんだけど」 「うん」 「なかなか、言えなくて」  青になった。僕は歩き始めた。夏希が半歩遅れて、傘の中で僕の腕にぶつかった。 「遠いの」 「うん、……もう、会えないかもね」  夏希は鞄を前に持ち替えた。それまで、ときどき腕が触れていた。もう触れなかった。 「準備とか、大変でしょ」 「ほとんどお母さんがやってる」 「そっか」  何か聞かなければ、と思った。向こうに知っている人はいるのか。三十一日の何時に行くのか。今日、僕を誘ったのはその話をするためだったのか。 「映画、見られてよかったね」  夏希は少し黙った。 「うん。付き合ってくれてありがと」  チラシの端が鞄から出ていた。僕は空いている手で押し込んだ。  駅へ行く道と、夏希の家へ行く道が分かれていた。僕の家は駅の向こうだった。夏希が足を止めた。 「私、ここから走るよ」 「送る」 「反対じゃん」 「いいよ。どうせ濡れるし」  夏希は僕の肩を見た。 「もう濡れてる」 「大したことない」  僕は夏希の家の方へ歩いた。二、三歩進んでから、隣に夏希がいないことに気づいた。振り向くと、小走りで来た。 「悪いね」 「別に」  夏希は僕の目を見ていた。  家までの道は知っていた。この前も家まで送っていった。数回しか通っていないこの道が急に懐かしくなった。 「今日、あんまり面白くなかった?」  夏希が聞いた。 「何が」 「映画」 「ああ。まあ、普通」  とっさに出た言葉は、そんなものだった。 「そっか」 「夏希は」 「私は、よかったよ」  少し歩いてから、夏希が言った。 「ああいうの、嫌いだったよね」 「別にそんなんじゃ」 「前、言ってたから」  僕は靴の中で足の親指を曲げた。靴下が濡れていた。 「誘ってくれたら、行くよ」  声が小さくなった。夏希が顔を上げた。 「映画?」 「うん。暇なら」  夏希は前を向いた。 「そっか」  家の前に着くと、夏希は傘の下から出た。玄関の屋根までは三歩くらいだった。鞄から鍵を出して、それを持ったまま戻ってきた。 「タオル、いる?」 「いい」 「でも、肩」 「帰って着替えるし」  夏希は鍵の先で、もう片方の手のひらを押した。 「ちょっと待ってればいいのに」  僕は笑った。うまく笑えたか分からなかった。 「そこまでじゃないよ」  夏希も口元を動かした。 「今日はありがとう」 「うん」 「じゃあ、また」 「また」  鍵を差すところまで見ているのも変な気がして、僕は先に背を向けた。歩き出すと、後ろで扉が開いた。閉まるまでに少し間があった。  来た道を戻った。二人でよけた水たまりを、今度は真ん中から踏んだ。  電柱のところで立ち止まった。白い鳥はいなかった。隣の電柱にも、その向こうにもいなかった。  雨音はもうしなかった。僕はまだ傘を差していた。  家に帰ってチラシを開くと、羽根は紙に貼りついていた。ゆっくり剥がして、机の端に置いた。着替えて戻ってくると、羽根から落ちた水が小さく残っていた。ティッシュで拭いて、羽根はその上に置いた。  それから四日間、何も来なかった。僕は何も言おうとしなかった。  五日目に、借りていた本を返してもらうため、夏希の家に行った。なぜか断られて、明日、駅前の本屋で待ち合わせることになった。  晴れていた。待ち合わせた駅前の本屋に、夏希は先に来ていた。僕を見つけると、見ていた棚から一冊抜いた。それを戻してから、こちらへ歩いてきた。 「はい。ありがと」  本は紙袋に入っていた。 「読み終わった?」 「うん」 「どうだった」 「最後、ちょっと分かんなかった」 「ああ」  僕もよく分からなかった。ただ、貸したときには面白いと言ってしまった。  紙袋を鞄に入れた。夏希は自動ドアの外を見ていた。 「このあと、何かある?」 「ないよ」 「私も」  入口に人が来たので、僕たちは外へ出た。自転車のサドルに日が当たっていた。駅の時計は三時十分だった。 「何か飲む?」 「うん」  近くの店で冷たい飲み物を買った。中の席は空いていたけれど、二人とも持ち帰るつもりで注文していた。店の外で少し迷って、公園へ行った。  ベンチの端だけが日陰になっていた。夏希がそこに座り、僕は隣に座った。膝の上に置いた紙袋の底が、汗で湿った。 「準備、終わった?」 「まだ。片づけてると、いろいろ出てくる」 「捨てれば」 「簡単に言うね」  夏希は笑った。僕も笑った。 「貸してたものは返して欲しかったから」 「いじわる」 「……そう、だね」  夏希はストローの袋を細く折った。 「でも、嬉しかった」    夏希はそうつぶやいて、少しはにかんだ。僕は紙袋の口を開いて、本の背を見た。角の潰れ方も、貸す前と同じだった。 「わざわざありがとう」  夏希の指が止まった。 「ううん」  向こうで小さな子供が、滑り台を下から登っていた。途中まで登っては滑り落ちた。夏希はそれを見ていた。僕も見た。 「向こうにも映画館、あるよ」  夏希が言った。   「映画、ね」 「見ないの?」 「見るさ、気が向いたら」  夏希は飲み物を両手で持った。 「また、一緒に見ようね」  僕はストローをくわえた。氷が邪魔をして、少ししか飲めなかった。 「いつか、ね」  夏希は僕を見た。僕はもう一度飲もうとした。残った氷は、もう味が薄かった。  そのあと、学校の話をした。まだ終わっていない宿題の話もした。夏希の行く学校では、違う宿題が出ているらしかった。 「じゃあ、今のやつやらなくていいの」 「分かんない。いちおう、やってる」 「損じゃん」 「そうなんだよね」  話しているうちに、日陰が少しずれた。夏希が膝を寄せたので、僕は横へ動いた。間に、手のひら一つくらいの隙間ができた。  四時を過ぎて、夏希が携帯を見た。 「帰る?」 「どっちでも」 「私も、まだいいけど」  僕は空になったカップを持ち上げた。氷が鳴った。 「もう飲み終わったしね」 「……うん」  夏希は蓋を外して、残っていた分を飲んだ。僕はそのあいだ、鞄を肩に掛けて待っていた。  公園を出たところで、夏希が立ち止まった。 「今日も送ってくれるの?」  笑っているように見えた。僕は、何度も家までついてくるのが嫌なのかもしれないと思った。 「今日は雨降ってないじゃん」  夏希は空を見た。 「そうだね」  遠くまで青かった。 「じゃあ、ここで」 「うん」  夏希が手を上げた。僕も上げた。  駅へ向かう途中で、本の感想をもう少し聞けばよかったと思った。僕にも最後がよく分からなかったと言えば、まだ話せた。振り返ったけれど、公園の入口はもう見えなかった。  三十一日は、朝から暑かった。  何時に出るのか、聞いていなかった。昼前に夏希からメッセージが来た。 『今から行くね』  僕はベッドに座ったまま返した。 『気をつけて』 『ありがと』  しばらく画面を見ていた。外で車のドアが閉まった。夏希の家はここから歩いて二十分くらいだった。  夕方になって、宿題の続きをした。  九月になっても、何日かは暑かった。教室の窓は開いていて、廊下から別の組の声が入ってきた。夏希のことを聞かれれば、引っ越した、と答えた。それで会話は続いた。  一度、駅の路線図で夏希の住む駅を探した。僕の持っていた路線図には、最寄駅は載っていなかった。  携帯を出したが、時間を見ただけでしまった。  夜に窓を開けていると、涼しくなった。扇風機を止める日が増えた。映画館から帰った日に着ていたシャツも、ほかの夏服と一緒にしまった。  机の端の羽根は、風で何度か落ちた。拾うと、細い綿のようなものが指についた。先の方は少し割れていた。指で撫でても戻らなかった。  僕は引き出しを開けた。夏希から返された本が入っていた。その隣に羽根を置くと、紙袋の底に隠れた。  袋を少しずらした。白い端が見えた。そのまま引き出しを閉めた。

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十八

愛しているから傷つけたい 愛しているから傷つきたい あなたを思うわたしの心は そんな涙を浮かべてます 緑の岸辺に立っています 春風そよぐベンチの下で あなたの帰りを待っています あなたの身体を待っています 愛したあなたの背中に十 愛したあなたの胸は三 愛したあなたの頬は四 わたしはいっしょに待っています わたしはあなたの隣です

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身体の足場

『金星』 あの白き炎の天使たちよ   お前の背を飛ぶ翼が欲しい   肥溜めに落ちた天の番人の   煌めくひとつの星が欲しい   お前の赤き血と肉が わたしの命を焦がすのだ 近づけば燃えてしまうわたしでも 輝くひとつのいしが欲しい   血の花は命を知り 尾の花は愛を与えるのだ 無垢なる白よ 下げられれば遠からんことを 掃き溜めの中でお前を待つ   あの白き炎の天使よ お前の血を知る肉が欲しい ガラスを磨いた職人の 首を捧げてお前を待つ 命の果てでお前を待つ 『裸のツバメ』 きみは天への階段を ピラミッドより遠く飛べ まっすぐ向かう道先で 彼にあったら教えてくれ 長い旅の夜の向こう 羽を広げて先に行け 仲間のありかを探すため 命の重さを知ったとき 光の足場を失って 翼も右手じゃ飛べなくて 裸のツバメよ許してくれ 『女の老婆』 腹を満たした下劣な老婆   お前の背を裂き腹を割り   生き血をすする悪魔が出る   目玉の黒いうちに来る   悪魔の手を引く汚れた女   地上を燃やして降臨する   海を枯らして舞い戻る   罪の年で失った力に   同じ刃は立てられる   女の名前を知るときに   お前の血はすすられる   血をすするものに懺悔の年を   苦しみ嘆く下劣な老婆 『見た』 石がある 石がある   石を見た 石を見た   人がある 石がある   人を見た 石を見た   貧しいがある 富めるがある   嘆きを見た ぼやきを見た   命がある 草がある   死ぬを見た 潰れるを見た   名前がある 何もない   生きるを見た 消えるを見た   年がある 世界がある   はじまりを見た 終わりを見た   光がある 何もない   星を見た わたしを見た

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片羽の蝶

 白い蝶が、車の通り過ぎたあとに落ちてきた。  落ち葉のように一度ひっくり返り、道の端に着いた。すぐに飛び立とうとしたが、片方の羽が地面を擦った。もう片方だけが動いて、体は小さく横へ回った。  蝶は少し、浮いた。縁石ほどの高さにも届かなかった。着地するとき、細い脚がいっぺんに折れ曲がったように見えたが、しばらくすると体は起き上がった。白い羽の端に、アスファルトの色がついていた。  羽がちぎれているのかと思った。しゃがんで見ると、どちらもあった。ただ、片側の羽が重なって、うまく開かないらしかった。細い腹が曲がるたびに、下になった羽もわずかにずれた。    その時、右からブレーキ音が聞こえた。膝を伸ばして道を空けた。自転車の人は小さく会釈して通り過ぎた。後ろのかごに葱が差してあるのが見えた。  蝶はまだ同じところにいた。  道路の向こうには畑があった。低い葉が並び、その上を別の白い蝶が飛んでいた。畑とこちらの歩道とのあいだを、ときどき車が通った。  次に浮き上がったとき、蝶は畑のほうへ進んだ。すぐに落ちた。さっきよりも車道に近かった。飛ぼうとしなければいいのに、と思った。  近くに落ちていた木の枝を拾った。先が二つに分かれている。蝶の脚の下へ差し入れようとすると、羽が急に動いた。枝の先を叩き、体ごと倒れた。手を、引いた。  何もしなければ、もう一度飛ぼうとする。手を出せば、そのぶん動く。枝を持ったまま待っているうちに、蝶は起き直った。脚の先が、舗装の小さいくぼみに掛かっていた。  枝をもっと低くした。今度は腹の下へ入った。ゆっくり持ち上げると、一本の脚が枝の先をつかんだ。ほんの少し、重さがあった。  歩道の植え込みへ移そうと腰を上げたところで、蝶は羽を打った。枝から外れ、靴に触れ、道路へ出た。一歩、追いかけた。乾いたクラクションの音がした。  白いトラックだった。運転席は高く、顔は見えなかった。人工的な風が髪にかかった。トラックが過ぎても、しばらく髪が頬にかかっていた。  蝶は見えなくなっていた。    道路を見た。タイヤの通ったあたりにも、その先にも、白いものはなかった。飛ばされたのかもしれない。車の途切れるのを待って少し先まで見たが、落ちていたのは、平たく潰れた吸い殻と、小石だけだった。畑では、まだ蝶が飛んでいた。知らない、白い蝶だった。  木の枝を植え込みに置いた。少し先の信号が赤になった。歩道には、誰かが水をこぼした跡があった。ほとんど乾いていて、継ぎ目のところだけが黒かった。そこを避けて立った。  助けられたはずだ、と思うと、枝につかまった脚が浮かんだ。あのまま持ち上げず、もっと待てば違ったのかもしれない。最初から触らなければ、まだ道の端にいたのか。あるいは、見ていただけなら。    もし、あそこに——。  考えかけて、道路の向こうを見た。作業着の男が信号を待っていた。首に掛けたタオルで顔を拭いている。隣に日傘の女が来た。二人とも、こちらへ渡ってきた。    蝶が木の枝につかまったときの重さを、指先で探した。一円玉より軽くて、重かった気がした。信号が青になった。  腕についたハエを払った。

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来年

 僕の番がやってきた。遺影を見ないようにしていた。高校のときに撮った写真らしい。笑っていた。さっき初めて見たけど。    焼香のやり方は今朝、母に教わった。親指と人差し指と薬指で掴んで、おでこ付近に掲げる。そして落とす。聞いた限りじゃよくわからなくて、母のやり方の真似をした。   「颯太くん、今日はありがとうね」    太平の母さんが言った。中学まで同じ学校だった。二十をすぎた今でも家に泊まるくらい仲がよかった、先週まで。    僕は太平の家族と座った。息をついてお茶を飲む。木魚と鐘を叩く音はまだ聞こえる。   「先週も……会ったんだよね、太平と」   「はい、そう、ですね」   「どう、だった? 太平、なにか、言ってなかった?」    先週の記憶を辿る。太陽の沈むころ、僕は太平といた。夏のピークが過ぎて、砂をよく見渡せる海岸。たった二人で、そこにいた。   「なんかさ、秋って感じしないよな、暑すぎて」    僕はそんなことを言っていたと思う。毎年見る海と、毎年いる太平とで、少し飽きていた。どうせ来年も来るんだろうと思ってた。波は弱かった。太平は座ったままの僕を振り返りながら、海に入っていった。   「あのさ、颯太」    ズボンを膝まで濡らして、太平は僕を見る。   「もしもさ、明日が今日と違ったらさ、明日が今日の続きじゃなかったらさ、どう、思う」    太平はそんなことを言ってきた。   「なんだよ、それ」   「ただ、気になってさ」   「明日は明日だろ、今日は今日で」   「そう、だよな」    それから太平は僕に水をかけてきた。僕も海に入って水をかけてやった。あんなことをしたのは小学生ぶりだった。濡れた服がお揃いになって笑い合った、肩を組んで。   「じゃあな」   「じゃ」    手を軽く振って別れた。また会えると思ってた。その日は年甲斐もなく服を濡らして、母さんに怒られた。太平が死んだ日は、服が乾いてなかったらしい。   「何か、言ってた?」    太平の母さんは僕に聞いた。   「特に……来年もまた、海に行こうって」    そう思っていたのは僕だ。言ってから気づいた。太平の母さんは少し考えて、こう言った。   「そう、あの子が……。ありがとうね。太平は、来年のこと、考えてたんだね」    明日がなかった太平に、来年ができた。僕は何も言わなかった。    太平の母さんは、みんなに、僕が言ったことを伝えていた。太平は生きたがってた、なんて。涙が出るのを待った。最後まで出なかった。      葬式が終わるころには、外が暗くなっていた。車で来ていた僕は、早めに帰った。  母さんが寝た後、一人で酒を注いだ。机の上に写真を立てた。結局、飲めなかった。酒の代わりに水を飲んだ。温い水が頬に触れた。      翌日、太平の部屋に来ていた。片付けを頼まれた。一週間前の空気がした。僕は逃げ出したくなった。    机の上に貯金箱があった。豚のかたちをしていた。中学のころに流行った、五百円貯金だった。まだやってたのか、と口が漏らした。思っていたよりも、重い。「十万円貯める!」と書かれた貼り紙は僕が書いたものだった。机の端に置いた。    他に本が置いてあった。資格をとると聞いていたが、本当だった。しおりが百二十ページに挟んであった。小学校の授業で作った、押し花のしおり。僕のはどこにしまったか、覚えてなかった。本は、もらっていくことにした。    引き出しを開く。映画館のチケットがあった。二枚。来週まで上映していた。僕は机の上に置いた。    タンスの上に、来年のカレンダーと手帳があった。今年のは、壁にかけてあった。来月の休みが書いてあった。来年のカレンダーにはなにも書いてなかった。  手帳は、思ってたより簡素な、仕事のメモだった。最後のページまで書き終わっていた。悩みとか、哲学的なことは一つもなかった。手帳をポケットに入れた。カレンダーはそのままにした。    それ以上、目につくものはなかった。思ったよりも綺麗で、静かだった。独り言を言ったときに茶化してくる声はもう、僕に届かなかった。    窓を開けた。チケットが部屋で飛んだ。外に見える電柱と家は、ずっと前から変わっていなかった。   「おばさん、これ」    太平の母さんに豚の貯金箱を張り紙付きのまま、渡す。二人で貯金箱を開けることになった。僕は中身を見るつもりはなかったが、結局、一緒に数えることになった。   「二十三、二十四、二十五、終わり」    僕のが二十五枚、太平の母さんは二十八枚。合計で五十三枚あった。予想よりも少なくて、僕は拍子抜けした。   「何に使うつもりだったんだろうね」   「さあ、わかんないです」   「海、とかかな」    僕は何も言い返せなかった。その日は、五百円玉を二十枚ほど押し付けられて帰った。部屋の窓を閉めるのを忘れた。      花屋に行った。中学の同級生がやっている花屋だった。   「太平、死んだって聞いたよ」   「ああ、そうだね」   「事故って聞いたけど」   「まあ、大体」    僕はあんまり太平の話をしたくなかった。花は適当に見繕ってもらった。   「太平もさ、死にたくなかったんだよね」   「たぶん」    僕はそれだけ言って、逃げた。花は、透明なラップに包んでもらった。名前は知らないけど、赤い花だった。      波の音がする。花束をもってここに立ってると、僕を笑う声が聞こえる。潮目に花を置いた。波が、花を奪った。僕は波を浴びた。膝まで濡れた。波はあの日より強かった。  来年も、来れると思った。

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ゆき

 歯車の音が夜を刻む。目を開けると椅子に座っていた。赤く、古めかしい、それでも重厚な椅子だった。椅子に座ったまま、窓の景色は動く。わたしはあくびをしながら、汽笛を聴いていた。  二人分の椅子に、わたしと新聞が座っている。わたしは新聞を手にとってみる。右上に、ちょっと小さく、千九百九十二年、七月五十五日。目をこする、目をこする。  わたしは新聞を開く。今度は左上。千九百九十二年、五月七百五日。右の手の人差し指と親指をまつ毛の付け根に押し当て、目をつむる。 ……おかしいぞ……。  ヘンな話は今までいくらでも聞いたことはあるが、まさか新聞までヘンになるとは知らなかった。下に目をすべらせ、一番大きな見出しを見る。   『完全な赤ん坊、この世に生つ』    赤ん坊の写真はなかった。代わりに小さな靴が二つ、置いてあった。靴の下には、『赤ん坊の生きを喜ぶ父親』と書いてある。赤ん坊が靴なのか、片方が父親で、もう片方が赤ん坊なのか、わからなかった。とりあえず、記事を読んだ。   『明日、完全な赤ん坊が生つことでしょう。七日前まで投票を済ませるように。赤ん坊の生きには、母よりも父が喜んでいました。二十日までです。赤ん坊は三千五百二十二グラム。母親は三万五千二百二十五グラム。母子ともに健康』    それだけだった。わたしは記事の続きを探した。赤ん坊は何なのか、完全な赤ん坊とは何なのか、投票とは、二十日はいつなのか、気になってしまった。他の記事を読もうとした、そのときだった。   「切符を拝見いたします」    黒い制服の腹があった。車掌だ。年は十八から二十三くらい、まだ青臭さが残っている。腹には六つの金色のボタンが止めてあり、帽子を深く、被っていた。彼は固い顔でわたしに言う。   「切符を」 「ああ、はい」    新聞を隣に座らせ、上着を探った。右のポケットには何もない。左のポケットには、右のポケットの裏地が入っていた。引っぱると右の脇腹が縮んだので、すぐにやめた。 「少々、お待ちください」 「ええ。少々でしたら」  ズボンからはハンカチが出てきた。見覚えはないが、鼻をかんだ跡には見覚えがあった。わたしはそれをしまって、もう一度上着を探った。ない。胸のポケットにもない。  切符どころか、お金も、時計も、自分の名前の書いてあるようなものは何一つ持っていなかった。 「なくしたようです」 「まだ、お調べでないところが」 「どこでしょう」 「いま、お座りになっているところです」  わたしは腰を浮かせた。  黄色い切符が一枚あった。わたしの尻に押されて、椅子の織り目がついていた。車掌に切符を渡す。   「ありました」 「よろしゅうございました」    車掌はちっともうれしそうではなかった。切符を受け取って、表を見て、裏を見て、もう一度表を見た。 「どちらまで」 「書いてありませんか」 「書いてございます」 「では、そこまで」 「しかし、お客さまがどちらまでいらっしゃるかは、お客さまに伺いませんと」    わたしは切符を返してもらった。  ゆき、とだけ書かれていた。    窓を見た。黒いガラスにわたしと車掌が映っている。その向こうには、何本も白い棒が流れていた。電柱らしかった。電線は、夜に溶けて見えない。 「これは、雪の降るところへ行くんですか」 「降ることもございます」 「どこから乗ったんでしょう」 「そちらは、裏面に」  裏には、から、と書いてあった。  わたしは車掌を見た。車掌もわたしを見た。互いに、相手のほうが何か知っていそうだった。 「ずいぶん簡単な切符ですね」 「小さいものですから」  そう言われると仕方がなかった。車掌は切符の端にハサミを入れた。ぱちん、と音がして、黄色い欠片が床に落ちた。欠片は、しばらく車掌の靴のそばで震えていた。   「もうすぐ停まります。お忘れ物のございませんように」 「降りるんですか、わたしは」 「お降りになる方には、そのように申し上げております」  車掌は帽子のつばに手をやって、隣の車両へ歩いていった。背中の裾から、黒い糸が長く垂れていた。  わたしは切符を胸のポケットに入れた。今度は忘れない。新聞も持っていくことにした。わたしのものではないかもしれないが、隣に座っていたよしみがある。新聞は何度折ってもかさばらなかった。七回ほど折ってから、ズボンのポケットに入れた。    汽笛が二回、鳴った。道の真ん中で、汽車が止まった。近くには駅らしきものはなかった。まさか、ここで降りるのか、なんて考えていると、車掌からのアナウンスが入った。   『前方に三匹ほどのイノシシと、一頭の成熟したクマがおります。しばし停車いたします。ご迷惑をおかけいたします』    わたしは汽車が動くのを待つ。その間、新聞を読もうとした。新聞はなぜか、わたしの力ではどうやっても開かなかった。   「すいません」    わたしは後ろから来た彼女に気がつかなかった。呼び止められて、新聞を開くのをやめる。すみれ色のワンピースに、レジ袋を右手に持っている。   「少しの間、持っててくれませんか」    女はわたしにレジ袋を渡す。わたしは手渡しされたまま掴む。中には赤ん坊が入っていた。わたしはレジ袋を抱きかかえるように持ち方を変える。そんなわたしを、女が笑う。   「赤ちゃんを、そんなふうに持つ人、初めて見ました」    なんて女だ、赤ん坊を持ってもらっておいて、そんなことを言うのか、とは思わなかった。むしろ、ここでは赤ん坊を袋に入れて片手でぶら下げるのが正しいのか、と思った。ただ、赤ん坊を片手で持つのは慣れていなかったので、そのまま抱きかかえた。    女は、その場で携帯電話を取り出した。わたしの記憶では、とうの昔に廃れている、折りたたみの電話だった。女は携帯電話で話し始めた。   「すいません、汽車が止まってしまって、再開まで目処が立ってないんです」    女はわたしの前で立ったまま話していた。相手の声は聞こえなかった。赤ん坊はわたしの腹を強く蹴った。小さいのに、なかなか痛かった。   「まだわからないんです、すいません、もう切りますね、もしもし」    女はそう言って電話を切った。腹に、さっきより強い蹴りが入った。赤ん坊は袋の中で、口で指を舐めながら、足を動かしている。   「あ」    電話をポケットに入れた女が、こちらを見た。   「首」    女はわたしがかかえている袋を指差して、それだけを言った。わたしにはその意味がわからなかった。   「すみません」 「外国の、方ですか」  女はわたしに向けて言った。常識のないやつと思われたのは少々癪だが、わたしはそれに従った。   「そうです、あまりわからなくて」  女はなぜか納得したような顔をする。   「そうなんですね。赤ちゃんって、首を持ってると、暴れるんですよ。なので、ぶら下げてるんです」    なるほど、だからなのか、と思ってしまった。   「赤ちゃん、持っててくれてありがとうございました」 「いえ、大丈夫ですよ」    わたしは赤ん坊をかかえたまま、女に返す。女はさきほどと同じように、袋をつかんで持った。   「赤ちゃん、なんて名前ですか?」    わたしは女に聞いた。女は少しだけ、驚いたような顔をして、こう返した。   「ありません」    わたしはそれ以上聞かなかった。女は後ろの席から来たはずだった。それなのに、前に向かって歩いて行った。わたしは女の背中を見ていた。     「まもなく、発車いたします。遅れましたので、線路が延長されました。到着予定時刻が三時間七十分ほど遅れます。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」    車内アナウンスがあった。なるほど、三時間七十分遅れるのか、では一時間は何分なのだろう、六十分でも、七十分でもないだろう。窓の横に座った新聞はまだ開かない。    空中に肘をついて、目の前の椅子を眺めた。汽笛が鳴った。歯車が夜を噛んだ。ひらきそうな夜だった。

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返し方

 砂時計がある。テープを貼った。中身が見えないように、丁寧に貼った。黒いテープは砂時計を隠して、中身の有無も判別できない、ただ砂が積もる音だけが聞こえていた。    わたしは朝起きて、必ず砂時計をひっくり返す。砂時計の砂が落ちる音が聞こえていても、返す。それから、カーテンと窓を開けて、朝ごはんを食べる。トースターは一分ほどで焼き上がり、軽い音を立てて熱いパンを上に吐き出す。バターとジャムをナイフで薄く伸ばしてから、コーヒーを三十秒蒸らす。まだ砂の音はする。三分間歯を磨いて、スーツを着ると、いつもと同じ、七時四十二分。  わたしは駅に来た電車に乗る。二十分後、会社の最寄り駅で降りる。会社まで十分ほど歩く。仕事は九時に始まる。十二時になれば昼休み。昼休みは一時間。十二時三分、時計を見る。砂はまだ落ちているだろうか。わたしは弁当の蓋を開けた。弁当は十二分で食べ終わった。三分半の歯磨き。十二時五十五分に席に戻る。十七時三十分に退勤する。電車で帰ると十八時十三分。玄関を開ける。砂の音がしない。靴を脱がずに床を踏む。さら、さら、と鳴る。わたしは床も拭かずに部屋に入って、砂時計をひっくり返す。スーツを脱ぎ、風呂に入り、十九時二十分に夕飯を食べる。三分間歯を磨いて、電気を消す。わたしは寝るまでの間、砂時計を見つめる。テープで巻かれた砂時計、中身も見れないものを、わたしはじっと見る。ただそこにあるだけで、今はただ、音の鳴る道具だ。砂時計がいつまで測れるのか、測ったことはない。二十二時三十分、わたしは眠る。    六時三十分、目が覚める。砂の音がしない。砂時計を振る。さら、さら、と音がする。わたしは息を吐きながら、砂時計をひっくり返す。  カーテンを開ける。トースターを一分、コーヒー三十秒、歯磨き三分。スーツを着て、七時四十三分。口が開いた。わたしは一瞬、時計に置いていかれた。仕方なく駅に向かう。一つ遅れて電車に乗る。三分遅れて会社に着く。仕事は九時に始まった。わたしは五分遅れてパソコンを開いた。十二時三分、弁当の蓋を開ける。副菜に入れた二つの卵焼きは、となりのほうれん草と混ざっていた。弁当は十八分で食べ終わった。二分の歯磨き。十二時五十分に席に着く。気がつくと十七時四十分だった。電車をまたひとつ逃す。玄関のドアを開ける。砂時計を返す。風呂に入って夕飯も食べずに、砂の音を聞きながら寝た。      六時半、時計を返す。カーテンを開けて、トースター、コーヒー、歯磨き、スーツ。七時四十二分。電車、二十分とちょっと。歩く十分、会社着く。九時にならない。時計を見る。時計を見る。時計を見る。九時を見る。九時になる。弁当を開ける。卵焼きを食べる。ご飯粒が頬につく。とる。ほうれん草を食べる。鶏肉。弁当を閉じる。歯を磨く、三分半。席に着く。十三時。十七時。電車に乗る。玄関、ドア。返す。返す。返す。歯を磨く。風呂に入る。ご飯を食べる。歯を磨く。時計を見る。時計を見る。時計を見る。砂を聞く。砂を聞く。砂を聞く。        六時、六時。七時。九時、九時、九時、九時。十二時。十三時。十四時。十五時。十六時。十七時。十八時。十九時、十九時。二十時、二十時、二十一時、二十一時、二十一時、二十二時。二十二時、二十二時、二十二時、二十二時。    返す、そっと。  

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