かきあげ
13 件の小説砂を見る男
通り道の石が聞く、夢は確か、と。 ボロ布一つを身に纏い、風に煽られながら砂漠を歩く。私にはかつて夢があった。友と呼べたものと、共に果たすと強く誓った夢があった。今となっては果たせなかったことだけが心残りである。 夢に撃たれたあの日を愁う私に風だけが強く当たる。私は友との約束を繰り返し口にする。私は夢の亡霊になっていた。 行くあてもなくさまよう。右手に持った骨董品のような杖とくたびれた靴を履いた足が私の支えであり、私を動かす鞭であった。 砂漠というものは私という人間を受け入れない。太陽に見つめられて風さえ熱かった。夢に誘われてきた道はいつの間にか帰る場所さえ奪っていった。 足がもたつく。支えを一瞬失った私は簡単に前に倒れた。立ち上がる力はなかった。私もいずれ、手の中の砂と同化していくのだろう。助けを呼ぶ力も、杖をつかむ力も、それを考える気力も、なくなった。 どこで道を外したのか。あるいは道はすでに完成されていて、私がどのような選択をしていてもこの最後を迎えていたのか。つもる砂で息を吸う。咳き込むことはできなかった。 布に巻かれ落ちた男を、砂と風と太陽が見ていた。
第10回N 1決勝 『ぐるり』
指先が何かに触れた。硬い縁、布の感触、そして少しの反発。 それが「枕」だとわかるまで一拍あった。 頭の下にあったものが私の横にある。 目を開けると、天井の木目がゆっくりと流れていた。壁も、窓も、机に置いたコーヒーカップも、同じ方向に、同じ速さで。 私のベッドだけが、回っていた。 ベッドを押して、降りた。ベッドはさっきまでと逆方向に回り始めた。 顔を洗おうと蛇口をひねった。水が勢いよく流れ出した。まっすぐには落ちなかった。蛇口が回り出して、水が四方八方へ飛び散った。 私はずぶ濡れになりながら、服を着替えた。濡れたシャツとズボンはまとめて洗濯機に入れた。洗濯機が回り始めた。 鏡の前に立った。 夢のようだった。目の前に包丁を持った男がいる。私は肩がすくんだ。男は少し濡れていた。私が着替える前の服を着ていた。腕時計まで、私と同じだった。 男は包丁を振り上げ、襲いかかってきた。包丁は私が台所で使っていたものと同じだった。私は男の肩に触れた。包丁が私に突き刺さる前に。男の顔が、ぐるり、と回った。男の顔は上下逆さまになった。 逆さまの男は立ち尽くしたまま私を見つめていた。私には彼の表情がわからなかったが、逆さまの顔はどこか笑っているように見えた。彼の目を見つめる。私は目の前が見えなくなった。 目を開けた。枕は頭の下にあった。ベッドを押しても、ベッドは回らなかった。 蛇口をひねって水を出す。水はまっすぐに落ちた。 パンが焼けるのを待ちながらコーヒーを淹れる。二枚のトーストにバターを塗って食べ、コーヒーを飲んだ。台所の包丁は確かにそこにあった。 洗面所で歯を磨く。私の顔はいたって普通だ。鏡を見ながら髭を剃る。指先で剃り残しがないかを確認する。 寝巻きからスーツに着替えて、テレビをつけた。気になるものは特になかった。 革靴を履いて襟を整える。夢に出てきた男の顔を思い出した。正面から見た顔はあまり印象にないが、逆さまになった顔だけは頭の中から離れなかった。気分が悪くなる。私は電車に乗るため駅に向かった。 歩き慣れた道を歩く。通行人は私を気にも留めなかった。私を追い越した自転車の歯車は音を立てて回っていた。 歩行者用信号が赤になる。交差点の角にある時計を見る。一瞬、秒針が逆向きに動いた気がした。もう一度見ると何も変わっていなかった。夢のせい、だと思った。 駅はそれほど混んでいなかった。こちらが一方的に見知っている顔たちを見て安心する。改札を抜けて電車の空いている席へと向かう。いつも空いてる、私だけの特等席だ。電車が動き出す前に、私はカバンから本を取り出して読み出した。 自動ドアが閉まり、電車が動き出す。私は周囲を見ず、本の一行一行を追う。私を見ている人は誰もいない、そう思っていた。 「すみません」 急に知らない男が話しかけてきた。どこかで見たことがあるような顔をしていた。男は、私がおととい買った服と同じ服を着ていた。男の右手には包丁が握られていた。今朝見たものと同じだった。 「あなた、僕の夢に出てきましたよね」 男はそう言って私を見つめる。私は彼に何も言い返せなかった。乗客は誰も私たちを気に留めなかった。 「あなた、僕の肩に触りましたね。怖かったんですよ」 私は夢を思い返していた。私が肩に触れたのは、男が包丁を持って襲いかかってきたからだ。 「あなたが包丁で私に襲ってきたからです。私だって怖かった」 「おかしい、ですね。包丁を持っていたのはあなたでしょう」 私は何も言えなかった。気がつくと私の手の中に、柄の感触があった。彼は笑った。 男の顔が、ぐるり、と回った。 気がつくとベッドの上だった。枕は頭の下にあった。しばらく見ていたが、天井の木目が動くことはなかった。ベッドを押しても反応はなかった。 顔を洗おうと蛇口をひねった。蛇口が回り始めて水が飛び散った。私は蛇口から手を離した。シャツもズボンも乾いていた。天井が濡れていた。床は濡れていなかった。 台所の包丁がなかった。男は玄関にいた。包丁は持っていなかった。 「また、あなたですか」 どっちが言ったのか覚えていない。ただ、男の顔は最初から逆さまだった。 男はいつのまにか消えていた。私はそれを不思議だとは思わなかった。 服を着替えた。いつ選んだのか覚えていない。あの男と同じだった。 洗面所の鏡が目に止まった。鏡の中の右手に、柄があった。指が輪郭をなぞる。私の顔が、ぐるり、と回った。知っているはずの知らない感触だった。 指先が何かに触れた。硬い縁、布の感触、そして少しの反発。 それが何なのか、わかるまで一拍あった。
個人的な小説の書き方
はじめに、一文字分の空白を開けます。小説は、段落、というものがあります。空白が開けられた文から、次の空白が開けられた行の前までを段落と言います。 段落を分ける時は、だいたい場面が切り替わったことを示したり、描写を変えるなど、何かしらの意図を持って行います。 段落を作る際は、一行目の一番上に空白を一文字分入れます。ただし、会話文の「」などはその必要はありません。 感嘆符(!)と疑問符(?)は、使用した後、一文字分の空白を入れます! ただし、「」内の終わりに使用する際は必要ありません。 「また? このように、! と ? で終わる際は、も。必要ありません!」 基本的に全角の! ? を使いますが、‼︎ や⁉︎ を使う際は半角を使います。 ……、——の使い方です。ノベレーではキーボードの上にショートカットが作られています。そこから……、——、()、"“を使えます。ただ、……と——は必ず、偶数個ずつ使ってください。……と…では必ず……でなくては行けません。 「かぎかっこの中でかぎかっこを使う際は、『』という二重かぎかっこを使います。また、かぎかっこの中の一番最後の分は。が必要ありません」 数字を使う時は漢数字が望ましいです。また、大きい数字を使う際は、四千七百二などではなく、四七◯二と表記する方がいいです。 ルールは基本的に読んでくれる人がわかりやすいようにするものなので、作品内で統一するべきです。以上、ルールでした。 続いて、小説の書き方です。ここからはかなり個人差が激しいものとなります。個人の意見だと思って聞いてください。 小説は書きたいストーリーがあっても、この書き方でいいのか、この書き出しでいいのか悩んでしまうものです。そうなるとずっと考えてしまって全く進みません。 そこで、一旦ストーリーを整理すべきです。大まかなストーリーを紙かなんかに書き出して、そこから、ストーリーを細分化していきます。 ストーリーをどれだけ小さくすればいいのかは人によると思いますが、私は一話一話毎に区切れるくらいがいいと思います。大ストーリーを作ったら、章毎に分けて、その後に一話一話に分けてここでこういう展開を行うと決めれば書きやすいです。 続いて、小説の推敲の仕方です。 推敲というのは故事成語で、文章を練り直すことです。 小説にも、のめり込んで読み込んでしまうほど面白いものがあったり、逆にストーリーは面白いけれど、文章が読みにくすぎて読みたくなくなるものがあります。 最低限読みにくすぎて離れていく人が出ないように、私が行っていることを話します。 まず、小説が完成したら、寝ます。 一晩寝かせて、記憶がおぼろげな状態で自分が書いた小説を読みます。そうして、違和感がある場所を直したり、もっと面白い文章にしたり、リズム感を直したりします。 ですが、これだけだと自分が書いたものであるため、自己バイアスにかかりやすいため、友人に読んでもらったりするなど、他人に確認させています。 最近ではAIを使った文章推敲もできると思います。 面白い表現とは何か、を説明します。 文学的表現とは、単に難解な単語をいれて難しい文にして読み応えを深くするものではありません。むしろ真逆です。 過剰に着飾った見栄ばかりの虚妄な文よりも、最低限のオシャレをした文の方が楽しくて、文学的だと思います。 たとえば、太宰治の『道化の華』より、 「死のうと思っていた。今年の正月、衣料の反物を一枚もらった。着物の柄は麻の葉の模様であった。夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。」 という有名な文があります。反物や衣料は最近はあまり言いませんが、一般的な語彙です。つまり、難しい言葉は一切使っていないのです。 難解な言葉を使わずに、このように生への執着を表現する、それが引き込まれる文章だと思います。 上手な文にするために、私は余計な言葉を削ることにしています。 読み返している際、不必要な言葉ができているなら、そこを削った方がいいと思います。 最近失敗したので、拙作、「音人形」を例にしますと、 「至って普通のハエの音だった。 ハエを跳ね除けようとして目を開けた。ハエはどこにもいなかった。ハエの羽音だけが聞こえていたのが最初の違和感だった。」 という文章があります。「ハエ」という単語が何度も使われています。「ハエ」を強調したいならいいですが、そうでないならうっとおしいです。 「至って普通のハエの音だった。 跳ね除けようとして目を開けた。どこにもいなかった。羽音だけが聞こえていたのが最初の違和感だった。」 こうしたほうが見やすく、わかりやすいです。「ハエ」を少し入れたいのなら、「跳ね除けよう」の前に一つ入れるくらいがいいと思います。 あとは、意外な表現というものがあります。 たとえば、 「ある夜、私は月をポケットに入れて街へ出た。」(稲垣足穂『一千一秒物語』) これは、月をポケットに入れるという、物理的に不可能なことをしているのに、それが成り立っている、という文です。この文だけで、この小説の世界観や、人物に興味が湧いてしまいます。 また、 「私は片腕を外して、彼女に貸してあげることにした。」(川端康成『片腕』) 自分の片腕が着脱可能なのか、そうでないのかなど、いろんな考えが浮かんできます。 これらは、「普通の言葉」とそれに似合わない「意外な言葉」の組み合わせでできています。これは意外性で文章に引き込ませるために重要なものだと思います。私も結構意識しています。 以上、小説の書き方です。 個人的なメモ、自分の解釈を書き出したつもりです。 皆さんも執筆頑張ってください!
第10回N-1 音人形
風の終わりもわかる頃、直人と和也は騒いでいた。持ってきた懐中電灯の灯りが点滅する中、僕は二人の後ろについていた。 「あそこになんか、見えないか」 「やめろよ、和也」 二人の声が僕ら以外いない墓地に響く。僕はお化けなんかより、大人たちに見つかる方が怖かった。 和也の足先が何かにぶつかり、トンッという軽い音がした。二人が立ち止まる。墓の前に供えられていたものがどうやら落ちたようだ。 「なんだよ、コレ」 和也がつぶやく。慌てて追いついた僕は、直人の持っていた懐中電灯に照らされた和式人形を、じっと、見つめた。 正直僕は、こんな田舎で泥まみれになって過ごすより、暖かい暖炉を眺めながら、人形を、かわいらしい人形を作っていたかった。僕はこの和式人形の価値を知っている。おかっぱに丁寧に揃えられた髪、本物の着物の生地を使っているかのような召物、雑草や埃に塗れていても、僕にはわかった。 「おい」 和也が僕の手を乱暴につかむ。気付かないうちに僕の右手は人形を求めていた。 「大丈夫、すぐ行くから」 二人が前を向いてから、僕は人形から雑草をとり、埃をはらった。首が少し曲がっていたのも元に戻した。それから、墓前に人形を座らせて、その墓に手を合わせ、一礼した。 二人に追いつくと、「何してたんだよ」「早く帰ろう」と急かされた。僕は適当に誤魔化して、三人で足早に山を下りた。 足の泥を落として、草木のように眠る。少しだけ夜更かしをした、そんな日だった。 耳の奥深くに羽ばたきの音が当たって目が覚めた。至って普通のハエの音だった。 ハエを跳ね除けようとして目を開けた。ハエはどこにもいなかった。ハエの羽音だけが聞こえていたのが最初の違和感だった。 母が台所で僕の朝ごはんの準備をしていた。いつもなら気にならないはずの食器のぶつかる音、水道から勢いよく水が流れる音がやけに頭の中に入ってくる。いつも通り、母が僕にかけてくれた「おはよう」の四文字は庭の木にぶら下がっているセミの声にかき消された。 僕は大好きな母の卵焼きを箸で突き刺して頬張った。箸が皿にぶつかる音、僕が大きく口を開く音、僕の口の中で卵焼きが潰される音。そのすべてが僕の中で乱反射して逃げなかった。僕は即座に卵焼きを飲み込んだ。 「今日は、もういいや」 母は僕を心配していたようだったが、食べ物が胃の中に入った音とハエの羽音がうるさかった。ハエは天井にいた。 いつもなら、学校は退屈だった。全校生徒が二桁に届かないくらいだったから、真新しいものがなかった。 その日は、僕だけが違った。小学生たちが、廊下を走り回る。チョークが黒板に当たって引き伸ばされる。授業途中で黙っていられなくて、机を一定のリズムで叩いたり、椅子を引いてブランコのようにする。どれもが、僕の耳垢になった。 直人と和也が僕を心配して声をかけてくれたようだったが、彼らが口を動かすときにも音は出ているんだな、と感心してしまった。 学校から帰った。音のでる水で手を洗い、音のでる戸を開く。玄関で靴が鳴り、廊下で床が鳴った。母の口からも音が鳴った。僕は自分の部屋に閉じこもった。 その日は虫たちの大合唱のせいでずっと天井を見ていた。観客は僕一人だった。 次の日も音は消えなかった。 休みの日はあまり動きたくない性分の僕は、どこからか聞こえる、聞いたことのない女の子の泣き声で目を覚ました。 声は僕の部屋のタンスから鳴っていた。タンスに人間が隠れられるわけがない。それでも僕は、タンスを開けた。 一段目を開ける。僕が集めている缶バッジだ。牛乳を買うと付いてくるものだった。和也と僕とで見せ合いをしていた、大切な思い出だ。 二段目を開ける。何も入っていない。僕は缶バッジ以外は特に思い入れのあるものがない。一段目以外にはものを入れていない、はずだった。 三段目と四段目を同時に開ける。泣き声がひとつ、増えた。 五段目を開ける。そこには、おととい僕が確かに触った人形が落ちていた。 目が合う、体を拾う、指を掴む。服は僕が掃除した時よりもずっと綺麗で、布ずれの音が初めて聞こえなかった。笑い声も増えた。 人形を抱えたまま、足で開いたタンスを閉じる。僕はタンスが閉じた音さえわからなかった。女の子だけが笑っていた。 タンスの上に人形を置いた。笑い声が止まった。 窓の外でセミが鳴いていた。風が縁側の風鈴を押した。台所で包丁が野菜を切っていた。 僕はあの笑い声が聞きたかった。 人形を持つ。声は聞こえない。タンスを開ける。声は聞こえない。布団を叩く。音がでなかった。 母に笑い声のことを聞いた。正確には聞いたつもりだった。僕がはっきり口にしたはずの音はどこか遠くに行ってしまった。 母はこう言っていた。 「女の子の笑い声なんて聞いてないよ」 一日ぶりの母の声はぼやけていて、どこか遠くにあった。 母が続けざまに何か言った。僕は聞き返した。冷蔵庫の音は思っていたよりも大きかった。 気づいたら人形を抱きしめていた。いまだにわからないが、人形を守らなければいけない、そんな気がした。 音に近づくたび、それが笑い声、泣き声、意思を持ったささやきになった。何を言おうとしてるのかはわからなかった。 一歩進むたびに僕は、自分の耳を削ぎ落としたかった。 セミが笑う。 うるさい。 ハエが泣く。 うるさい。 包丁がささやく。 うるさい。 冷蔵庫が笑う。 うるさい。 水が泣く。 うるさい。 人形がささやいた。 祖父の葬式で聞いた般若心経のようだった。意味はわからなかった。 うるさい。 僕は叫んだ。 僕の声が遅れて笑っていた。 うるさい。 「やかましい!」 僕の声だけが聞こえた。 僕はもう、何も持っていなかった。 ただ、最後に彼女はこう言っていた。 「ありがとう」 僕はたぶん、大の字に倒れた。倒れた音はしなかった。
夏の菩薩
夏と言うものに会ってきました。 世間では夏と言うものは爽やかな好青年であるとされています。 しかし、彼はそんなものではありませんでした。 夏は、変に粘っこく、どろどろとした、湿り気の強い老人でした。 私は彼にこう聞きました。 「四季というのはなぜ共存できないのですか?」 彼は私にこう返しました。 「四季というのは旧アスレアシズムが勝手に決めた用語である。四季にはそれぞれの力が振り分けられており、私たちはそれに従う。それぞれの四季が同時に出現する時、私たちの力関係が崩れることになる。すなわち、フィアーパペットの有機交流電源が直らないのに相違ない。」 私は彼の言動がよく分かりませんでした。 帰り際、私のことが気に入ったからなのか、彼は自分の力を閉じ込めた一枚の紙をくれました。 画鋲二つを使って胸の奥底にポスターがわりに貼り付けました。 今度は春を訪ねに行きます。
月鏡
その村では夜中に鏡を見ると魂が吸い取られてしまうという言い伝えがあった。日が沈むと同時に、村の家々ではすべての鏡に分厚い布が掛けられる。洗面所や姿見はもちろん、手鏡や、夜の窓ガラスの反射にいたるまで、自分の姿が映り込む可能性のあるものには異常なほどの警戒が払われていた。 祖母の葬儀で十年ぶりにこの村へ戻ってきた僕も、親戚たちからしつこいほどにその掟を叩き込まれた。 「夜中、絶対に布をめくってはいけないよ。うっかり落ちているのを見つけても、決して覗き込んではならない」 ただの迷信だと笑い飛ばすには、村人たちの目はあまりにも真剣で、どこか怯えを孕んでいた。 その夜、ひどい喉の渇きで目を覚ました僕は、水を飲もうと台所へ向かう途中の暗い廊下で足を止めた。 古びた鏡台に掛けられていたはずの黒い布が、床にずり落ちていたのが見えた。すきま風のせいだろうか。 静まり返った家の中、青白い月明かりだけが、むき出しになった鏡面を不気味に照らし出している。 見てはいけない。そうわかっているのに、僕は気付けば一歩、また一歩と近づいていた。 鏡は月明かりを反射して、子供の頃に見た時のように輝いていた。 恐る恐る覗き込む。 そこには、寝巻き姿の僕が立っていた。 ひどく疲れた顔をしている。魂が吸い取られる気配もない。やはりただの古い脅し文句だったのだ。 馬鹿馬鹿しい。 僕は胸の奥から、詰めていた息をゆっくりと吐いた。床の布を拾おうと視線を下げた、その時だった。 鏡の中の僕は、動かなかった。 僕がしゃがみ込んでいるのに、鏡の中の男は立ったまま、ただじっとこちらを底知れない暗い瞳で見下ろしている。 そして、ゆっくりと歪な形に口角を引き上げ、声なき声でこう呟いた。 『やっと』 頬の裏が切れてしまったような生温かい感覚とともに、視界がぐらりと反転した。 次に気がついたとき、僕は冷たいガラスの内側から、落ちていた布を拾い上げ、鼻歌交じりに鏡へ掛ける自分の後ろ姿を、ただ、見つめていた。
冬底を歩く
息を吐くと、白く濁った沈黙が空に浮かび、そのまま消えずに残る、寒い朝だった。 足元の霜を踏みしめる乾いた音は、まだ耳の奥でやけに大きく響いている。あの人が置いていったマグカップの中身は、もうすっかり冷え切って、表面に薄い膜を張っていた。部屋の空気は午後になっても重く沈み、微動だにしなかった。壁掛け時計の針が三時を回ったのを確かめた私は、ようやく重い腰を上げて厚手のコートを羽織った。何か口にするものを買わなければという切迫感よりはむしろ、このまま部屋の静寂に閉じ込められてしまえば、自分自身まで透明になって消えてしまう、そんな気がしていた。 重い鉄のドアを押し開けると、刃物のように凍てつく風が容赦なく頬を打った。見上げた空はどこまでも高く、ひび割れそうなほど澄み切った冬の青色をしていた。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。朝と同じように白い塊がふわりと空中に浮かび、今度は風に攫われてすぐに輪郭を散らしていった。 乾いたアスファルトを踏む自分の足音だけを耳に通し、駅前の小さなスーパーへ向かって歩く。すれ違う人々は皆、マフラーに顔を深く埋め、白い息を吐きながら足早に「帰る場所」へと向かっている。自転車の後ろに乗せられた小さな子どもが、無邪気な声で母親に何かを話しかけていた。温かな笑い声に私の冷えた足では追いつけなかった。 スーパーの自動ドアを抜けると、店内は不自然なほど明るく、そして暖かかった。入り口のヒーターから吹き出す温風が、かじかんだ指先を少しずつ解いていく。無機質なBGMと、レジの「ピッ、ピッ」という単調な電子音が店内に響く中、私はあてもなく通路を歩いた。 ミネラルウォーターをカゴに入れようとして、ふと視線が横の棚で止まった。 あなたがいつも好んで飲んでいた、海外製の少し苦みの強いビール。 「見つけたら買っておいて」と頼まれていたのに、私がいつも買い忘れて文句を言われていたあの緑色のラベル。 無意識のうちに、私の右手はその缶へ伸びていた。指先に触れた冷たい金属の感触が、私の意識を呼び戻した。一人では絶対に飲まないそれから、私の中にぽっかりと空いていたものの輪郭が、冷たい風を吹き込まれたように鋭く、はっきりと浮き彫りになった。 ——ああ、もうこれは、買う必要はないのだ。 私はそっと隠すように缶を棚に戻し、逃げるようにレジへと向かった。 「レジ袋はご利用になりますか」 若い店員が事務的な声で尋ねてくる。私は声を出そうとしたが、うまく喉が動かず、ただ小さく首を縦に振ることしかできなかった。口を開けば、朝からずっと喉の奥にへばりついている、硬くて冷たい塊まで一緒に吐き出してしまいそうで怖かった。 店を出ると、傾きかけた冬の太陽が、街を薄いオレンジ色に染め始めていた。手の中で、ビニール袋の持ち手がカサカサと乾いた音を立てる。ポケットに手をつっこみ、私はまた、あの静寂だけが待つ部屋へとゆっくり歩き出した。
遅鳴の夏
ぬるくなった缶コーヒーの底、沈んだ午後の日差しは戻らなかった。窓から降り注いだ風は、わたしの休みの邪魔をした。 開け放した窓枠の上で、カーテンが一度だけ大きく膨らみ、それから力なく垂れ下がった。スマートフォンの画面には、少し前に届いた「今、着いたよ」という通知が虚しく光っている。休日の予定を埋めるために、わざわざ昨日買ったばかりの綺麗なシャツを合わせ、鏡の前で何度も襟元を直した時間が急にバカらしくなった。改札の向こうから歩いてきたかつての友人二人は、ヨレたTシャツに履き古したサンダルという、拍子抜けするほどの格好だった。楽しみにして気負っていたのは、わたしだけだったのだ。 通された大衆居酒屋の店内は、昼間だというのに安っぽい脂とタバコの匂いが充満していた。 「でさ、こないだの女が——」 テーブルの向こうで繰り広げられるのは、どこの誰とも知らない女とやっただの、誰々がクラブで揉めただのという、見栄と世慣れた言葉で塗り固められた会話だった。わたしが必死についていこうとしても、言葉の表面をすべり落ちていくだけで何ひとつ心に届かない。冷えた刺身の脂のように、粘り気のある疎外感が胃の底へゆっくりと溜まっていった。 わたしはトイレに向かうふりをして、店の裏手にある喫煙所兼勝手口のドアを押した。むっとするアスファルトの熱気とともに、頭上の街路樹からツクツクボウシの乾いた大合唱が降り注いでくる。周りの蝉たちがそろそろ訪れる秋の気配を察して鳴き方を変えているというのに、その中でただ一匹だけ、聞き覚えのあるアブラゼミの濁った声が混じっていた。ジリジリと、場違いな真夏の音をたった一匹で必死に張り上げている。 取り残されているのは、わたしとそいつだけだった。 ふと目をつぶると、連日猛暑日が続いていた中学の夏が脳裏に浮かぶ。泥だらけの体操服、校庭に舞う砂埃、プールサイドで飲んだぬるいスポーツドリンク。あの頃の夏は、思っていたよりもずっと、息が止まるほどに青かった。そして、いま部屋の奥で下品な冗談に声をあげて笑っているあの二人も、確かにその真ん中にいたはずなのだ。もう一度だけ胸の奥で缶コーヒーの残りを飲み干すような心地がした。 今年の夏は思っていたより青かった。
女と花
その女は花というには少し綺麗だった。風をカラスよりも深い黒髪にまとわせ、ファッションスターもみとれるほどの足をすべらせるように歩く。わたしのこころは女のすべてをこの胸に記したかった。 桜がしぼみ、うぐいすの鳴き声がやんだ頃だった。日差しが日に日に鋭さを増していく中、彼女の肌だけは太陽を知らないようだった。何日も雨が降らなかったが、彼女が踏んだアスファルトはいつも少し濡れていた。 気づいたのはここ数日のことだった。彼女の影があった道で一輪のたんぽぽが咲いていたのだ。 古くなったコンクリートには亀裂が走る。彼女が歩いた亀裂には埋めるかのように苔が生えて、彼女が止まった自販機には小学校の教科書で見たことがある名も知らない花があった。 太陽を嘲笑う白い肌、夢にまで出る黒い髪、いのちを生み出す素足。わたしは彼女を追った。息はとうに枯れていた。アスファルトの地面が彼岸花で埋め尽くされていたのにも気付かなかった。 追いつきそうになった時、わたしは彼女に手を伸ばした。その時になってようやく気づいた。わたしの手は干からびていた。甲はシワが集まり、骨にただ皮が付いているに過ぎない。短くまとまった爪も、赤黒くシワがこびりついている指先も、老人が動かしているようで現実味がなかった。わたしの声は驚くほどにしゃがれていた。 指先が背中につく頃女は振り返りわたしにただ、こう言った。 「ありがとう」 遠くで、うぐいすの声がした、ずっと聞いていない声だった。
深夜、幹線
『続いてのニュースです。き……の……』 ラジオの音が乱れる。深夜一時のタクシーには雨の音だけが響いていた。 窓ガラスの水滴が流れ落ちていく。街灯のオレンジがぼんやりと滲むのを見つめていた。見慣れた景色の中、わたしはちいさなあくびをしていた。 直進するはずの交差点でウィンカーを出す。無言のまま右折したタクシーは街灯すらない一本道へ入り込んで行った。 「運転手さん、この道、ちゃんとあそこに着くのかい?」 運転手は答えない。タクシーというものは運転手から無理にでも会話を試みてくるものではなかったか。そう思っていると運転手の口が開いた。 「……お客さん、知っていますか」 わたしに尋ねたその声はひとりごとのようだった。あっけにとられているうちに運転手が続けた。 「人ってのは簡単に死ぬんです。私は知っています。昨日だったんですがね。−−私には妻がいました。彼女は、いや、あいつは、私を裏切ったんです。当然ですよね。私は何も間違っちゃいない」 「どういうことですか?」 「あいつは浮気していたんですよ、私の知り合いと。私がどれだけ働いているか知らないんでしょう。どれだけ尽くしていたか恩すら忘れて裏切りやがった。天罰ですよ、私からの」 彼は乱暴に言い放った。不幸なことではあるが、それはそれとして仕事に私情を挟むべきではない。話半分に聞いていたわたしがそんな考えに至る前に彼は続けざまに語った。 「昨日、私がたまたま早く帰ったんです。告げてたのより二時間も早かった。そしたらですね、違和感があるんですよ、やっぱり。私のより小さいサイズの男物の靴、私のハンガーにかけてある初めて見るコート。おかしいな、と思ったんです。寝室で妻がそいつと裸でした。私は怒りに震えながらもどこか冷静でした。キッチンの包丁が一番近く、確実な物でした。知っていますか? 包丁ってね、そんなに鋭く切れないんです。私は魚捌きとおんなじだと思ってたんですがね、フェンシングの方がよっぽど近かった」 殺人鬼がこの車を運転しているのかと思うとわたしの指先は冷たくなった。タクシーは運転手だけがドアを開閉できるものもあるようで、これはそのタイプだった。 「下ろしてくれないか」 「ここからが面白いんです」 運転手は車のスピードを少しずつ上げながら、無邪気な小学生が虫を押しつぶすような笑い方で語る。 「本当に切られたらね、命乞いをするんです。さっきまで強気だったやつがひざまずくのを見るのは最高でした。頭を床につけてこう言うんです。『許してくれ』ってね。笑っちゃいますよね。ここまで嫌なやつだったなんて。私はその首に包丁を突き刺してやりました。血はね、噴き出ないんですよ。あれは下にどろっと流れて広がるんです」 「…………」 「妻は逃げ出そうとしてました。死にそうになると恥も知らなくなるんですね。裸で玄関を開けようとしてました。私は後ろから押し倒して動けなくしました。顔を見たかったんです。何度も見た顔の初めて見た好きな顔でした。胸を何度か刺すと動かなくなりました。ぐったりした彼女を見て、自分がやっぱり好きなのを思い出させてくれました」 何度叩いてもドアは開かない。わたしはこの車内から一刻も早く逃げ出したかった。 「それにしても、今日はついてますね、お客さん。私は妻との久々のデートの予定でしたが、あなたとなら歓迎ですよ」 「…………奥さんはどこですか」 本来ならあり得ない返事をしてしまったと思った。わたしは彼の言葉にいつのまにか惹かれていた。狂気と恐怖が入り混じったままタクシーは加速する。 「お客さんの後ろですよ」 彼の言葉で後ろを向く。ここからではトランク内は見えない。 わたしの確認ののち、タクシーは加速する。来たことのない知らない林を車の照明だけを頼りに通る。 誰も言葉を発さないまま時間だけが過ぎていく。 重苦しい空気の中、わたしは体どころか口さえ動かせなかった。 「……冗談ですよ。一度話してみたかったんです」 彼はそう言って笑った。 彼の話を真に受けたわたしは、音の出ていないラジオが聞こえてくるまで動けなかった。 『本日未明、都内の一軒家で男性が殺害されているのが発見されました。死因は首元を刺されたことによる即死、近隣住民によると、この家に住んでいた人ではないそうです。また…』 「……」 「……」 空いていた口が塞がらない。彼の言っていたことはフィクションではなかった。彼は殺人鬼だ。わたしはラジオの後の無言の彼を刺激しないよう会話を試みた。 「偶然もあるんですね」 「……」 無言のまま急加速する車。あまりのスピードにシートベルトをつけていなかったわたしは世界に一瞬置いて行かれた。 「お客さん、あなたは知っているでしょう! 私はこのまま捕まるんです! それなら、もっと、遠くへ、ずっと遠くに行きたいんです! 今なら妻と一緒なんです! お客さんも連れて行ってあげますよ!」 上がりきったスピードは下がらない。直進する車を止める手段はもう無かった。わたしは必死の思いで運転手の首を後ろからしめた。運転席の鏡から見えた彼の顔は笑顔だった。 崖を飛ぶ車。今までのスピードと一瞬の浮遊感とで無限の時間を感じ、落ちていくのに気づかなかった。 目覚ましの音で目を覚ます。知っている音、知っている天井、そのすべてがわたしが無事に家に帰っていることを実感した。 酷い夢だった。目覚めの悪さを取り戻すためテレビをつける。ちょうど、昨日のニュースをやっていた。 『−−にて、落下した車が発見されました。車内にいたのはタクシー運転手の篠山さんとその妻の恵子さんです。恵子さんは胸元に傷があり、裸の状態で発見されました。続いて−−』