羊原ユウ
14 件の小説屍ノ踊リEXTRA
EXTRA「屍ノ始マリ」 曇天の下。シャベルで土を掘る。先ががつん、と何かにあたる感覚があった。骸(がい)はある程度掘り返してから両手で土をかき分ける。まだ埋められたばかりらしい真新しい木製の棺が出てきたので固く閉じられた蓋を開き、合掌をしてから中を拝見する。 (……遺体がまだ新しい。比較的外傷もないようだ) 骸は頷き、喪服を着たままの遺体の口元に腕を持っていき手首を爪で傷つけて出血させる。血が滴り、遺体の顔にかかって染みのような黒い汚れをつくる。 (さて。このくらいで一旦様子を見ましょうかね) 骸はしばらく遺体の口元に血を流しこんでから立ち上がって棺から離れた。とんとん……と指でズボンの太もものあたりを叩いてゆっくり数をかぞえ10までカウントするかしないかのうちに棺の中で動きがあった。 「……おはようございます。尸和己(かばねかずみ)さんですね?」 「あ、あんたが……俺を、生き返らせたのか。どうして……そのまま静かに、眠らせてくれなかったんだ」 棺の中の和己は白濁した瞳と青白い顔で骸を見上げ、強く睨む。 「まあまあ、落ち着いてください。まだ屍人として覚醒したばかりですし体が非常に不安定ですから」 「屍、人……?」 「はい。あなたのように僕の血を飲んで生き返った人たちをそう呼んでます。ああそうだ和己さん。何かお好きな動物とか植物とかはありますか?」 骸が地面にしゃがみこみ、和己に問いかける。 「いや……黒い色は好き、だが他は特に」 「あら、そうですか。では……うん。あれにしましょうか」 骸は周囲をきょろきょろと見回し、近くの木に止まっている1匹の蝙蝠を見つける。 「今日から君は……屍蝙蝠です。僕と一緒に仲間を増やすお手伝いをお願いできますか」 骸はそう言って和己のほうに手を差し出す。和己が差し出された手を握ると体の奥のほうでざわりと何かが蠢く。背中のほうがむず痒い。喉が無性に渇く。 「あんた俺に……何をした」 「たった今、屍人に加えて蝙蝠の能力を与えました。そういえば奥さんと娘さんがいらっしゃるんですよね?久しぶりに会いに行かれたらいかがですか」 骸は苦しげに表情を歪める和己に一方的に言うと握っていた手を離し、和己の自宅のある方角を指で指し示す。和己の体が再びざわりと蠢く。骸の言葉に導かれるように和己の背中から黒く巨大な蝙蝠の翼が広がり、痩せた体を空へと持ち上げる。 「…………行ってくる」 「お気をつけて。何かあったら遠慮なく頼ってくださいね」 骸は飛び去った和己の後ろ姿を見送りながら呟き、にっこりと笑った。 * あの時僕が手を離さなければ、君は死ななかったのかもしれない。最期に屋上のフェンス越しに見た顔は笑っていたがとても悲しそうだった。 君が死んで数日の間。僕は朝、家を出て学校には向かわず近所の公園に行っては毎日暇をつぶしていた。親には運良くバレなかった。 そんなある日の夕方。僕がいつものように公園から帰って自分の部屋に入ると君がいた。黒くて大きな狼の姿で、屍人になって。 「君……もしかして、紘子なのかい」 僕は狼の太い筋肉質の首に通っている学校指定の紺色のスカーフが巻かれているのに気づく。狼が「そうだ」というように小さく頷いた。 「…………会いたかった。ずっと君を待ってたんだ」 僕が抱きしめると狼は少し迷惑そうな表情をして唸る。黒く柔らかな毛からは湿った土と雨の匂いがした。
屍ノ踊リ5話
5話「屍ノ提案」 その夜。和己は休める場所を探し求めて公園に来ていた。かなり遅い時間で彼らの他に人の姿はない。変身を解いてベンチに腰を下ろし、瑠花を解放して隣に座らせる。 「……どうやらお困りのようですね。もしかしてこれが要りますか?」 いつの間にやって来たのか和己と瑠花の隣に骸が座っていた。瑠花が警戒して和己のスーツにしがみつく。骸は微笑みをくずさず、和己に近づくと赤い水のような液体が入った小瓶を手渡してくる。 「骸さん、これは……?」 「屍人特有の体臭を消してくれるものです。少量体に塗りこむだけで嘘みたいに臭いが消えますよ。僕もよく使ってます」 骸は自分のスーツの袖をめくって中の液体を肌に塗りこんで実演してみせる。ほのかに甘い香りがした。彼の気配はともかく臭いがしないのはこれのおかげだったのかと和己は納得する。骸から小瓶を受け取ると瑠花に塗るように目で促す。 「お嬢さん……いえ瑠花ちゃんは元気になられましたか。この間はずいぶんと体力を消耗されていたようですし」 「ええ。この通りすっかり元気ですよ」 和己が瑠花を抱きよせる。骸はにこっと笑うと「それは良かった」と言ってベンチから立ち上がった。振り返り和己と瑠花に向かって一礼する。 「では僕はそろそろ行きます。ああそうだ。くれぐれも死なないでくださいね。困ったらいつでも頼ってください……見てますから」 「……骸さん。ずっと気になってたんですけど、どうして俺なんかにこんなに良くしてくれるんですか」 立ち去ろうとした骸に和己が今まで感じていた疑問を投げかける。 「それは……前にも言ったでしょう。僕は君に期待してるんですよ和己くん。それから仲間が減るのはとても悲しいことですからね」 骸は一瞬だけ悲しみを顔に出したがすぐにいつもの人懐っこい表情に戻って和己たちに手をふった。 * 紘子と麻倉は人の気配がなくなった瑠花の自宅を拠点に数日かかって町中を探しまわったが屍蝙蝠の行方はつかめなかった。 「急にいなくなるなんて考えられないですよね。あれだけ強い臭いなら私の鼻が反応しないなんてことまずないんですけど……」 「それは僕も思った。今までこんなことなかったからね」 リビングルームでテーブルをはさんで向かい合わせに座った紘子と麻倉はじっと考えこむ。 「もしかしてもう1人の屍人の仕業なんじゃないです?」 「君がこないだ言ってた奴か。でもそれだと……」 麻倉がそこまで言いかけた時、玄関でチャイムが鳴った。あまりにもタイミングがよくて2人は身構える。それから数回チャイムが鳴った後、諦めたのかドアが開き誰かが中に入ってくる。リビングルームのドアが開かれ、白髪に黒いスーツの男が入ってきた。 「ど、どなたですか」 「……いや、これは失礼。どうもお困りのご様子でしたので参上したのですが。屍蝙蝠の行方を追ってらっしゃるのでしょう?」 白髪の男は麻倉のほうを見て言った。紘子の鼻が男からわずかにする屍人の体臭をとらえる。紘子が小さな声で麻倉に囁く。 「麻倉さんこの人、屍人です!」 「え、それ本当か」 「……ああ。やっぱりいい鼻をお持ちだ。この距離だとさすがに隠しても無駄みたいですね」 白髪の男はくすりと笑い、何かを思い出したのか話を続ける。 「そういえばまだ名前を名乗っていませんでしたね。失敬。僕は骸(がい)と言います。もちろんそこのお嬢さんが言ったとおりの屍人です」 「彼らの居場所、どうしてもお知りになりたいとおっしゃるのならお教えしますよ。さあ、どうされます?」 * 骸が紘子と麻倉の前に現れてから1週間ほど経ったある夜。骸は瀕死の状態の和己に追いすがられていた。仮住まいとして使っている廃屋の和室は障子を閉めきっても外からの隙間風が強い。 「る、かを……。骸さん瑠花、だけは。助けて、ください」 「君も……随分としぶといんですね和己くん。瑠花ちゃんなら先に亡くなりましたよ。あの傷ではもう手遅れかと。さすがの僕でも手の施しようがありません」 骸は左翼と右腕を失い、黒く硬い毛が覆った屍蝙蝠の体に獣に引き裂かれたような爪痕だらけの和己の痛々しい姿を見下ろし、哀しげなため息をもらす。 「骸、さ」 「…………わかりました。そこまで言うのならやりましょう。ただし」 骸の言葉が和己が口から吐きだした多量の血が畳に落ちた湿った音にかき消される。骸はしゃがみこむと和己の背中を手が汚れるのも構わずに優しくさすってやった。 「ただし、それには条件があります。場合によっては瑠花ちゃんの体が不完全な状態で再生されるかもしれませんが……それでもやられますか?」 骸に背中をさすられながら和己は骸に向かって頷く。 「では手順をお伝えします。ですがまずは一旦落ち着きましょうか。血をだいぶ流されたようですし、傷も酷い。このままでは瑠花ちゃんを蘇らせるよりも和己くんが先に死んでしまいます」 骸は肌を通して手のひらにふれる和己の脈拍が時おり不規則になるのを感じていた。これだけの大怪我で血を流していればいつ死んでいてもおかしくはない。 「さあ。すぐに僕の血を飲んでください」 爪で指の腹を切り、和己の口元へもっていく。和己の長い舌だけが別の生き物のように蠢き、骸の指から溢れる血を舐めとっていく。 「どうですか。気分は」 「あり、がとうございます……」 小1時間ほど経ったころ。和己が骸の指先から唇を離した。片膝をついた体勢から立ち上がると軽くふらつく。空いているほうの手を和己の首にあてて脈を診るといくらか力強さが戻っていた。 「…………よかった。それじゃあ僕はこれから町へ出かけるので、もし体調が戻ったら蘇生に使う材料を集めておいてください」 「俺は何を集めればいいんですか」 「必要なのは……遺体を燃やした後の灰、蝙蝠の骨、それから僕ら屍人の血液です。何日かかっても構いません。多いほどいいのであるだけ集めてくれると助かります」 骸は和室の入口の障子を開き、言い忘れたことがあったのか和己のほうを振り返る。奥にある古い押し入れの戸を指して「中に布団があるのでよかったら休むのに使ってください。洗ってあります」と言って出て行った。障子が閉められると、1人残された和己は人間の姿に戻る。片腕だけでバランスを取りながら押し入れまで行き、布団を出して敷く。 (……瑠花) そのまま布団に潜りこんだ和己は生きていたころに幼い瑠花と一緒に寝ていた記憶を思い出す。無意識のうちに残ったほうの手がシャツの胸から腹の瑠花をいつも収めていたあたりに触れていた。 (お前だけは。父さんが……守る) 和己は「お休み」とだけ呟いて眠りに落ちていく。廃屋の中を冷たい隙間風が吹き抜けていった。 【了】
屍ノ踊リ4話
4話「紘子と麻倉」 紘子が鼻をすんすん、と訓練された犬のようにひくつかせながら「あそこです」と廃アパートの部屋の1つを麻倉に指さす。 「今回は僕も行く。君がまた怪我をしても困るしね」 「えー。今度はちゃんと上手くやりますから、いつもみたいに外で待っててくれていいんですよ?腕だってくっつきましたし」 紘子が麻倉の同行を断ろうと元気よく腕を振ってみせた時、廃アパートのベランダの柵に誰かが座っていたような気がした。紘子はあわてて目をこすって二度見するが誰もいない。 「今……誰かあそこにいませんでした?」 「君の気のせいじゃないのか」 首をかしげる紘子に麻倉は呆れ顔で返し、目的の部屋に行くため廃アパートの入り口へと歩き出した。 * 骸の血を吸ったことにより、戦いで傷ついた和己の体はいくらか体力が戻ってきていた。彼の忠告どおりさっさと逃げたほうが得策かもしれない。眠そうな瑠花を再び体の中に収め、屍蝙蝠の姿に変身する。骸が出ていったベランダの柵に乗り、下の様子をうかがってから音もなく夜空へ飛び立つ。 (どこか……奴らに見つからない場所へ。もっと遠くへ行かなければ) 和己は休める場所を探して町の中を飛ぶ。自分のために常に血を流してくれている瑠花を少しでもゆっくりと休ませてやりたかった。高層ビルの外壁や屋上を走り、人間を超えた跳躍力で住宅街の屋根から屋根へと飛び移る。 《父さん、父さん。どこに向かってるの》 《誰にも……。いや奴らに見つからない遠いところさ》 《そんなの無理だよ。だってあいつ、すごく鼻が利くからどこかに隠れても絶対に見つかっちゃうよ》 瑠花が不安を隠さない声で呟く。確かにあの能力は非常に厄介だ。前回の戦闘では振り切って逃げたが、そう何度も体が傷つくのはリスクが高い。和己は飛び続けながら体内にいる瑠花と声を使わない会話で一緒に対策を練る。 《瑠花、あいつを倒す何か良い方法はないか考えてくれないか。父さんも考える》 《うん、わかった。考えてみるから待ってて》 * 紘子と麻倉が部屋に到着した時には中はもうもぬけの殻だった。元から誰もいなかったと言われれば普通の人なら信じてしまうだろう。けれども屍人である紘子の鼻には同じ屍人が発する独特な臭いが届いていた。 「湿った土と獣臭、あと血の臭いも……間違いないですね。ここにいたのは屍蝙蝠さんです」 「それは分かった。奴はどこに行ったかはわかるか」 「うーん……そうですねえ。たぶんここから臭いは辿れるとは思うんですけど、かなり遠くに行ってると探すのに時間かかりますね」 麻倉が呆れ顔で返すと同じように胸の前で腕組みをした紘子は片手を顎にそえて思案する。 「麻倉さんもたまにはアイデアだしてくださいよ。ここ最近はいっつも私じゃないですか」 「僕はこういうの苦手なんだよ。紘子にそっちは任せる」 「……はーい、了解です。何とかしますね」 紘子は頷くと部屋に残る屍蝙蝠の臭いを辿ってみる。臭いは窓を挟んでベランダへと続き、そこからはぷっつりと途絶えていた。相手は翼を持っていたのでおそらく飛んで逃げたのだろう。 (ん。何だこれ。屍人の臭いがもう1つある……?) 「麻倉さん。あのちょっといいですか」 「何、どうかしたのか」 「屍人の臭いがなんか……もう1個あるんですけど」 紘子がそう言うと麻倉の眉が片方だけ疑うようにつり上がる。 「何だって?屍蝙蝠じゃないのか」 「違います。どうしますか」 「決まってるだろう、屍蝙蝠のほうを追う。アイツだけは……倒さないと被害者が増える一方だ」
屍ノ踊リ3話
3話「骸」 和己は日が暮れた空を1時間ほど飛び続けた後、町はずれにある廃墟になったアパートを見つけ鍵のかかっていなかった一室に入りこむ。月明かりしか差さない室内は薄暗く寒い。両翼をたたみ人間の姿に戻ると着ていた喪服の上下やネクタイとシャツは形状が記憶されているかのようにそっくりそのまま新品に戻っていた。 「……瑠花、出ておいで。ここなら安全だよ」 《うん》 和己はスーツとシャツを脱いで素肌を晒し、体内にいる瑠花に外へ出てくるように促す。和己の胸のあたりの青白い皮膚が縦に割れ、中から制服姿のままの瑠花が這い出てくる。服は和己の血でじっとりと黒く汚れていた。 「大丈夫だったかい、どこか怪我は?」 「……ううん。父さんが避けてくれたから平気。それよりも」 瑠花の手が紘子がつけた和己の胸の傷口に触れる。傷は時間の経過でふさがってきていたが出血はまだ止まっていなかった。 「父さん私の血……吸ってもいいよ。傷、ひどいんでしょ」 顔の前に差し出された瑠花の首筋から漂った血の香りに和己の喉がぐっ、と鳴る。しかし自宅にいた時に吸えるだけ吸ってしまったことを思い出し、今すぐ血を吸いたい衝動を自分の手のひらを噛んで必死に抑えこむ。 「父さん?」 「いや……今はいい。それより瑠花、自分の体が保てなくなる前に父さんの血を飲め」 和己は瑠花の顔を両手で包みこんで自分の血が流れ続けている胸の傷口のほうによせる。 「でも……。父さんが」 「構わない。瑠花が飲めるだけお飲み」 瑠花は和己の顔を不安げに見上げていたがやがておそるおそる舌を出して流れる黒い血を舐め始めた。瑠花の舌が裂けた傷口にあたるたびに鋭い痛みが走るが、和己は声を出さないよう歯を食いしばって耐える。 「ごめん父さん。痛かった?」 和己は娘を心配させまいと首を横にふる。瑠花の舌が丁寧に傷口を舐めていく。和己が自ら噛んで屍人化させたせいか黒く変色していた。頬の蝙蝠の形の痣はさらに広がり、瑠花の額や顎のあたりまで達していた。 「……もう、いいのかい」 「うん」 和己は瑠花が傷口から顔を離したのに気づいて声をかける。瑠花は口元の血を手の甲でごしごしと拭ってから名残惜しそうに指先を舐めていた。 「こんばんは。ごめんね、家族の大切な時間に割りこんじゃって」 和己と瑠花の背後から陽気な声がした。2人が振り向くと和己と同じような喪服姿に白髪の初老の男が1人、ベランダの柵の上に乗って見下ろしていた。 「父さん、この人誰。もしかしてさっきの奴らの仲間?」 「いや。この人は違うよ瑠花……骸(がい)さん、俺に何かご用ですか」 和己から骸と呼ばれた男は隣にいる瑠花を指さして「ありゃ、もしかして和己くんの娘さん?」と人懐っこそうな笑顔で見つめながら手を振って挨拶をする。瑠花は和己を盾にするように後ろに隠れた。 「……あらら。嫌われちゃったかな僕。まあいっか。用は特にないんだけどさ、早くここから逃げたほうがいいと思ってね。あの子たちもうすぐそこまで来てるし」 骸はそう言ってベランダの下を指さす。さっき交戦したばかりの紘子という少女と同じ制服を着た麻倉という青年が下の道を走っていく姿が見えた。 「わざわざご忠告ありがとうございます。では、また後ほど」 和己がそう返して翼を広げて飛び去ろうとすると骸に「ちょっと待った」と止められる。 「はいこれ。和己くん傷を治すための血が足りないんでしょ。僕のならいつでも好きなだけ吸ってもいいからどうぞ」 骸が自分の尖った爪で手首を切り、和己に差しだす。溢れ出した黒い血を見た途端に抑えていた衝動についに抗えなくなった。和己は骸の足元に跪(ひざまず)き、滴る血を夢中で舐めとる。 「あはは、やっぱり凄い食いつきようだね。君もしかして血液性愛(ヘマトフィリア)の気があるのかな。こっそり見てたんだけど初めて娘さんの血を吸った時も恍惚としてたし」 ずるる、と返事の代わりに和己が骸の血を啜る。胸の傷は異常な速さでふさがって薄らとした痕が残っただけだった。 「…………ごちそうさまでした」 「どういたしまして。じゃあ頑張って逃げてね」 骸は和己と瑠花に向かって笑顔で手を振ると、ベランダからくるりと宙返りしながら地面に飛び降りていった。
屍ノ踊リ2話
2話「屍人対屍人」 和己は胸部を貫いている紘子の腕を抜こうと体を人間の姿から屍蝙蝠の肉体に変化させる。スーツを破って肩甲骨のあたりから黒く艶やかな革製品のような質感の巨大な翼が広がる。後ろに下がった勢いで抜き取ろうとするがよほどの力なのかびくともしない。 (なんて力だこの女) 屍蝙蝠と化した和己は引き抜くのを諦め、屍人としての純粋な腕力を利用した手刀での切断を試みる。一瞬で紘子の腕の手首から先が切断され、黒い血が吹き出す。 「うわ、痛ったあ……!女の子の腕切り落とすとかどういう神経してるんですか。娘さんが泣きますよ‼︎」 『知るか。君だって同じ屍人だろう。人間の常識なぞ知ったことじゃないさ』 和己はふん、と鼻で笑い床に落ちた紘子の腕を拾って滴る血を舐めたが口に合わずすぐに投げ捨てた。ぐるりと警告するように和己の体内で瑠花が蠢く。 《父さん、逃げて。このままだとアイツに殺されちゃうよ》 《……そうだな。撤退して一度態勢を立て直すか》 和己は脳に直接響いた瑠花の声に頷き返す。和己が紘子に向き直ると片腕を失ったというのにまだにこにこと笑顔だった。 「あれ、もうお終いですか。最近運動不足なのでもっと戦いません?」 『断る。これ以上無駄な血を流したくないのでね。そんなに戦いたいなら他の屍人をあたれ』 和己はリビングルームを見回し入り口ドアからの逃走は不可能だと悟ると、天井を見上げる。紘子が口を開く前に鉤爪の生えた両足で腹に強烈な蹴りを食らわせ、そのまま天井を突き破って屋根へ着地する。土砂降りの雨が空いた穴から室内に流れこむ。 「あー、そんなあ。逃したら麻倉さんに怒られるんですよ私」 『……さらばだお嬢さん、二度と会いたくないがな』 和己は捨て台詞を吐くと屋根から曇天の空に飛び立った。下では紘子がその姿を見上げて途方にくれている。外で物音を聞きつけた麻倉がずぶ濡れのリビングルームにかけこんできた。 「紘子大丈夫か。まさか奴をとり逃したのか?」 「す、すみません麻倉さん。あっちが思ったよりすばしっこくて倒しきれませんでした。でも胸に大穴空けてあるんでそんなには体が保たないはずです」 えっへん、と胸を張る紘子に麻倉は「そういうことじゃないだろ……」と呟いて頭を抱える。床に落ちた片腕に気づいて拾うと、紘子に手渡す。 「ありがとうございます。くっつきますかね、これ」 紘子は和己に舐められた部分を気にしながら麻倉から受け取った腕をぎゅっと手首に押しつける。そんなことで普通くっつくわけがないのだが切れた部分がじわじわと残った部分に混ざり合っていく。しばらくすると継ぎ目すらなくなり、完全に元通りになった。 「後を追うぞ。匂いをたどれ」 麻倉は足早に玄関に向かう。紘子が鞄を拾って後を追い走り出した。
屍ノ踊リ1話
1話「屍蝙蝠」 世間では世紀末と言われた1999年は去り、人々は新しい2000年を無事に迎えた。平穏な生活がいつまでも続いてほしいと願うのは誰でもきっと同じだろう。だが……現実はそう上手くはいかない。 帰宅して「ただいま」と声をかけてまさか返事が返ってくるとは思わなかった。玄関に入った私は今閉めたばかりのドアを開けて外に飛び出そうとするが、手ががたがたと震えて上手く開けられない。廊下の奥に背の高い黒い服の男が1人、夕暮れに伸びた影のように立っていた。 「……お帰り瑠花(るか)。今日は早かったんだね」 「お父さん……なんで。だってあの時死んだはずじゃ」 瑠花が震える声のままそう言うと自らの父親であった男……尸和己(かばねかずみ)がにやりと笑みを浮かべると長い犬歯がむき出される。 「そうだよ。父さんは一度死んだ。でもねえ瑠花、こうして生き返ったんだ。久しぶりに会うんだから少しは喜んでくれたっていいだろう?」 「か、帰って。嬉しくなんてない……!ここには二度と来ないで‼︎」 瑠花がヒステリックな金切り声で叫ぶ。実の娘に拒絶された和己は「そうか。残念だな」と呟いて、玄関に立ちつくしている瑠花のほうへ滑るように向かってくる。横を通りすぎる時に土と雨に濡れた動物の毛のような臭いがした。 「じゃあ、また来るよ。おやすみ瑠花」 和己が瑠花の耳元ですれ違いざまに囁く。瑠花の背筋がぞわりと粟立つ。振り返ると玄関のドアは閉まっていて和己の姿はどこにもなかった。後から帰宅してきた母親の遼子に和己が訪ねてきたことを話したら「何言ってるの、一昨年にお葬式したばかりじゃない。瑠花が寝ぼけたんじゃないの」と相手にすらされなかった。 それから3日ほど経った雨が降る日。瑠花が学校から帰宅し、リビングルームのドアを開けて照明のスイッチを入れると食卓のテーブルの定位置の席に喪服姿の和己が何事もなかったかのように座っていた。 「……やあ、こんばんは。母さんならまだ帰ってきてないよ」 「二度と来ないでって、この前言ったよね。忘れたの?」 和己は瑠花の不快感をあらわにした声に「……いいや忘れてないさ。だから《3日》空けただろう。本当はすぐに会いに来たかったんだけどねえ」と返して湯呑みに注いだ水を一口啜(すす)った。 「ほら、まずはお座り。この間は……そう。急いでいたしゆっくり話せなかったからね。いろいろと話したいこともあるから」 和己は瑠花に自分の席に行くように促した。 「話したらさっさと帰って。母さんに会わせたくないから」 「もちろんだとも」 和己は短く笑う。瑠花は席に座ると父親と向かい合ったがすぐに顔を伏せる。和己は湯呑みの中の水を舌でべろりと丁寧に舐めとるようにして飲みきった。 「それで、私に話って何?」 「ああ。瑠花はさあ、屍人(しかばねびと)って知ってるかな。最近ここいらで変な死体が多いってテレビやラジオや新聞でニュースにもなってるだろう」 「……何それ。知らない。それ、お父さんとなんか関係あるの」 怪訝な表情の瑠花に和己はあの日のように歯をむき出してにいっと笑う。椅子から立ち上がると音もなく歩いてくる。 「あるとも。だって父さんが…………そうだからねえ」 「え?」 瑠花の顔のすぐ近くに和己の伸び放題のツヤのない黒髪と無精髭に覆われた青い顔があった。湿った土と獣臭がひと際強く香る。鼻にはああ……という和己の吐いた冷たい息がかかる。異様に長く伸びた黄ばんだ犬歯が制服を着た瑠花の首筋にそっとあてられ、声すら出せないうちに皮膚に食いこんだ。 * 「ほんとにこんなところに屍人がいるんですか?」 紺色の長袖の制服に学生鞄を持った少女が前を歩く同じ制服を着た若い青年に尋ねる。 「間違いない。僕の情報が信じられないなら今すぐに帰らせてもらうけど。どうするんだい紘子(ひろこ)」 「う、ウソです。嘘に決まってるじゃないですか。そんなに拗(す)ねないでくださいよ麻倉さん」 紘子と呼ばれた少女があわてて訂正するが麻倉はそっぽを向いて黙ったままだった。 「そういえば……最近この辺りで屍人の仕業らしい死体が見つかったってニュースになってますよね。えっと……たしか首筋に吸血鬼みたいな噛み跡があるってやつ」 「だから僕らはそれを探しに来たんだろう。野放しにしておくと被害者が増えるからね」 呆れた表情で麻倉が紘子のほうに振り返る。朝から降り出した雨が強まり、紘子のさす透明なビニール傘の上で雨粒がはねている。 「目撃情報があったのはあの家だ。紘子、君は鼻が良いんだろう。何か感じないか」 「え、どれですか?うーん……あ、かすかに屍人の臭いがします」 麻倉が指さした青い屋根の日本家屋を前に紘子は鼻をくんくん、とさせて匂いをかいでいたがやがて何か感じたのか閉じた目を開いた。 「じゃあ、屍人の処理は頼んだよ。僕は家の外で待機してるから」 「はーい。じゃ、行ってきますね。何かあったら連絡します」 * 和己は瑠花の首筋から溢れ出した血を一滴たりともこぼすまいと屍人化した影響で黒く変色した長い舌で舐めとる。血の味が舌の上に広がり、喉へと流れ落ちるたびに全身が甘く痺れるような感覚にひそかに身悶えする。 「…………父さん、大丈夫?」 和己の様子を心配した瑠花が声をかけてくる。その瞳は和己と同じく白濁し、肌は血の気がなく青白い。頬には蝙蝠が翼を広げたような大きな黒い痣が広がっていた。 「……ああ。瑠花、もっと血を吸ってもいいかい」 和己がねだるように言うと瑠花は「うん」と頷いて首の噛み跡を差し出す。和己が牙を突き立てた。 「……ほら、触ってごらん」 血を吸いながら和己がそう言って瑠花の手を取る。黒いスーツの前を開き、白いシャツのボタンを上からいくつか外すと硬質化した黒い肋骨が覆った自分の左胸のあたりにあてる。 瑠花の手のひらにかなりゆっくりとした速度で打つ和己の鼓動が伝わる。そちらを見ると肉がそげ落ちた肋骨の隙間で分厚く黒い筋肉の塊がびくびくと動いている様子が見えた。 「瑠花のくれた血のおかげで、父さんしばらくは死なずに済みそうだよ。ありがとう」 「そう……よかった」 瑠花はどこか虚ろな表情で和己に返事を返す。和己は瑠花が体を維持できるぎりぎりまで血を吸うと、傷口から唇を離して手の甲で口元を拭う。吸血の反動で呼吸が荒い。 「……瑠花、誰か来た。こっちへおいで」 「大丈夫。瑠花は誰にも傷つけさせないよ。父さんが約束する」 玄関ドアが開いたかすかな音と人の気配を察した和己が穏やかに微笑む。抱きよせた瑠花の目の前で和己の首から下ががぱっと縦に割れ、瑠花を包みこむように体を構成する黒い骨や触手のようなものが瑠花の全身を覆っていく。数分と経たないうちに瑠花は和己の体内に取りこまれた。 「お邪魔しまーす、あれ?お1人ですか。おっかしいなあ」 和己が瑠花を体内に取りこんだ直後にリビングルームのドアが開いた。和己は屍人と悟られないように人間に擬態する。黒髪を短くカットした制服の少女があたりを見回しながら入ってくる。 「君は……誰かな。来客の予定はなかったはずだけど」 「ああえっと。私は……紘子って言います。瑠花ちゃんのお友だちです。今日の夕方遊びに来る約束をしてたんですけど。もしかしてお父さんですか」 紘子は和己の怪しむような表情に必死で弁解をし、ものすごく適当に嘘をつく。 「そうだけど。瑠花ならいないよ。帰宅してから部屋で寝てるからね」 「え、そうなんですかあ?でもなんか……お父さんから瑠花ちゃんの匂いがするんですけど」 紘子がそう言って和己の体を指さす。瑠花を隠していることを見抜かれた和己は驚き顔をしかめた。 「あれれ、もしかして図星でした?じゃああなたが最近……ここいらで人を殺しまくってる屍蝙蝠(しかばねこうもり)さんで間違いないですね。悪いですけど、退治させていただきます」 紘子はそう言うなり、何の予備動作すらなく和己に急接近してスーツの胸に振りかぶった拳をあてた。ぱんっ、という破裂音と共に紘子の腕が和己の体に深くめりこみ、背中まで一気に貫通する。部屋の中や家具にインクのような黒い血が飛び散った。 「あれえ?心臓は潰したはずなのになんでまだ生きてるんですか」 「貴様…………。人間じゃないのか」 紘子の一撃を受け止めた和己は口からごふっ、と床に真っ黒な血液を吐き出す。拳があたる瞬間に内臓の位置を入れ替えたので急所である心臓は潰されていない。代わりに他の臓器をダメにしてしまったが。 「え、そうですよ。私もあなたと同じ屍人です」 肩で息をする和己に紘子は不思議そうな顔をしたあとにっこりと笑った。
カプセル都市伝説
またこの夢だ、最近見る夢はこればっかりでうんざりする。原因はおそらく数週間前に近所のゲームセンターで引いたカプセルトイだ。都市伝説と不思議の国のアリスの組み合わせという自分の好みに見事にヒットしたその商品に、持っていた小銭を全部使い切ってしまった。 玄野亜里子(くろのありす)は目を閉じたまま耳をすませ、聞こえてくる電車の走行音と体に伝わるガタゴトという振動にため息をつく。 『次は活け造り〜……活け造り〜……デス。ご希望の方いらっしゃいませんカア』 ノイズまじりの車内アナウンスと共に奥の車両から亜里子のいる車両へ誰かがやって来る。ワイン色の帽子と制服と腕章を身につけた姿は車掌そのものだが、左右で長さの違うとがった猫のような耳とズボンから出た長い尻尾が彼が人間ではないことを証明していた。 『ん〜…やはりトランプ兵の首では物足りませんネエ。お仕事お疲れ様でシタ』 車掌のそばには蝶ネクタイをしたテーマパークか海外アニメのキャラクターのような2頭身の子猿が2匹、それぞれに自分の身長を超える大きさの穴あきスプーンや長い刃の包丁など物騒なものを持ってあとをついてくる。背の高い車掌は座席に座る亜里子の前まで来るとふいに立ち止まり、目線を合わせるようにしてしゃがみこんだ。 『……活け造り、貴女でもいいんですけどネエ。あ〜でも今夜はいないようでスシ、小生欠片ほども貴女に興味はないので……見逃してやりましょうかネエ』 『ご主人様……公爵夫人をここへ連れて来てくだサイ。頼みましタヨ、アリス』 車掌は一方的にそう言うと立ち上がり、両肩に子猿たちを乗せて去っていこうとする。手をふる子猿たちに向かって亜里子は質問しようとするが金縛りか何かにあったようにまったく声が出ない。 待って、公爵夫人って誰? 「…………どこにいるの、教えて」 やっと声が出た。その瞬間、ちりちりと痛いほどの無数の視線が亜里子の皮膚を通りこして突き刺さる。電車の中なのは夢と同じだ。ただ、あの異様なピンク色の市松模様だらけの空間ではなかった。 ああ、しまった、これは現実だ。 思わず声…出ちゃったじゃん。 他の乗客からの視線が少しずつ外れていくのを感じながら、亜里子は心の中で舌打ちした。 * その翌日は1日、亜里子はまったく授業についていけなかった。昨夜電車の中で見たあの夢のせいだ。一体いつから始まったのか覚えていないがここ数週間、いや数ヶ月くらいずっとあの夢が続いている。毎日夜になるとあの電車に乗っている。 夢は夜ごとに少しずつ鮮明になってきて、今ではほとんど現実と変わらないリアルさだ。それだけに朝起きると特に吐き気がひどい。鼻の奥にこびりついたように血の臭いが残っている。 『公爵夫人をここに連れて来てくだサイ。頼みましタヨ、アリス』 頭の中にあの子猿をつれた車掌の声が繰り返される。そういえばアタシはまだ名前を名乗ってもいなかったのに、どうして知ってたんだろう。放課後。帰宅のために電車に乗った亜里子は座席に座った途端、連日の睡眠不足のせいか眠りにおちた。 『……おや、これはこれは。まだそちらは夜じゃないですよネエ。来るのが早すぎやしませンカ。ああそれとも、ご主人様が見つかったんでスカ?』 眠った瞬間にあの電車にいた。見渡すかぎりのピンク色と市松模様がうずまく明らかな異空間。亜里子の目の前には車掌がすでにしゃがみこんでおり、期待をこめた眼差しで亜里子の顔を見上げていた。さらさらとした車掌の肩あたりまで伸ばされた真っ白な髪が風もないのにふわり、とゆれる。 『で、見つかったんでスカ』 「……ま、だ」 いつもは意識があっても声がまったく出せないのにこの日は違った。亜里子は喉から必死に声を絞りだすようにして車掌の質問に答える。 「見つ……かって、ない。それ、から、アンタ……誰?」 『なあんだ、それは残念。見つかってないんでスカ。うーん、どうしましょうかネエ、名前は教えてもいいんですケド』 「けど?」 亜里子が聞き返すと車掌が黒いマスクごしににんまりと口を三日月のようにつりあげて笑うのが見えた気がした。 『小生は……猿夢と申しマス。今後はどうぞお見知りおきをアリス。そういえばこの間は小生の気まぐれで見逃してあげましタガ、今回は……逃しませンヨ』 しゃがみこんだままの車掌……猿夢の声から一切の感情が抜け落ちた。猿夢の両肩に乗っていた子猿たちが亜里子の体に飛び移り、瞬く間に顔まで登ってくる。その小さな手には巨大な先割れスプーンがしっかりと握られていた。 * 悪い夢なら覚めてほしい。夢の中の電車で子猿たちに右目を抉られた亜里子は遅れてやってきた痛みに耐えかね、たまらずに絶叫する。猿夢は無言のままで亜里子が苦しむ様子を観察している。口元は黒のマスクで隠れているがきっとにんまりと笑っているに違いない。 ここは夢の中だというのにものすごく痛かった。右目を襲う激痛と血の臭いに声すらあげられない。もしかして目を醒ませば、この痛みから解放されるだろうか。 『いや〜……実に綺麗な色の瞳ですネエ。このサファイアかラピスラズリと見まがうほどの蒼(あお)、素晴らしいじゃあないでスカ』 戻ってきた子猿たちから抉った亜里子の眼球を手渡され、虹彩の色を見た猿夢がひゅう、と大げさに口笛を鳴らす。 『ああ。ちなみに夢から醒めれば解放されると思っているなら無駄でスヨ。貴女のその右目はもう使えまセン。なにせ小生の夢は現実すらも侵食しますからネエ。逃れられるすべはありませンヨ』 猿夢が亜里子の頭の中の考えを見透かしたかのように告げる。猿夢に同意するかのように肩にのった子猿たちがうきぃ、と一声鳴いた。 『ああいや……たったひとつだけありまシタ。貴女がご主人様をここへ連れてきてくれたらすぐに解放しましょう。どうです、今度こそ約束できまスカ?』 「じゃあさ……一緒に探すの手伝ってよ。アタシだけじゃとっても手が足りないし」 『は?え、アリスそれ……本気で言ってマス?小生はこちらの仕事がありますのでぜひお断りしたく―――』 亜里子ががっ、と猿夢が制服の襟に結んでいる短めのネクタイを手で掴んだ。そのまま強めに引いて自分のほうに寄せてから睨みつける。右目からまだ血が出ていて痛いのがさらに亜里子の気分を苛立たせた。 「うるさい。ごちゃごちゃ言ってねえで、アタシに協力しろ」 『あ…………ハイ』 凄んだ亜里子の気迫に負けた猿夢が観念したように頷く。両肩の子猿たちは自分たちのボスを心配そうに見上げ「頑張れ」と励ますように肩をたたいた。 * それから数日。亜里子は学校が終わって帰宅する前に猿夢たちと合流して例のカプセルトイを探し歩いた。どういうわけなのか彼らは夢の中以外でも実体化できるようなので二手に分かれて町のあちこちのコンビニやゲームセンター、スーパーマーケットなどをはしごする。 『ありましタヨ、今からこっちに来れまスカ』 「うん。どこにいるの」 亜里子のスマートフォンに猿夢から電話が来た。どうやらすぐ近くのゲームセンターにいるらしい。亜里子は「行くから待ってて」とだけ伝えると携帯を閉じた。 「おまたせ」 『今日は早かったですネエ。はいこれ、ちなみに全部はずれデス』 猿夢がそう言ってカラフルな丸いカプセルがぎっしり入った水玉模様の青色のエコバッグを亜里子に手渡してきた。服装はいつものワイン色の車掌の衣装ではなくうっすら市松模様の柄のはいった革のジャケットと同色のスラックスに短めのブーツでまとめていた。黒いマスクと真っ白な髪をのぞけばどこにでもいそうなただのおじさんにしか見えない。 「ええ、これが全部?公爵夫人ってそんなに出ないの?まさかシークレット枠とかじゃないよね」 『違いますよ、ほらここ。ちゃんとラインナップに入ってマス。よっぽど外に出てきたくないのか……もう小生に引かれたくないとしか思えまセン』 猿夢がカプセルトイの機械のカラー印刷されたカバー写真を指さして信じられないというように首をすくめる。亜里子が猿夢に代わって数回引いてみたが結果は同じだった。日が暮れてきたのでその日は切り上げ、自宅に戻ると両親との夕食を済ませてから「勉強するから入ってこないで」と言って自分の部屋に直行する。 部屋に入ってドアに鍵をかけると勉強机に向かう。そこにはここ数日の間で増えたあのカプセルトイ「都市伝説のアリス」のフィギュアたちが棚にずらりと並んでいる。中には重なったものも多く、なかなか全種類のコンプリートは難しそうだ。すでにいくつかはインターネットのフリーマーケットサイトで売ろうかと思っていた。 『今……小生のこと売っちゃおうかな~……とか思ってまシタ?』 「うわ⁉︎ちょっと、いきなり出てこないでよ猿夢。心臓に悪いんですけど」 亜里子はいつの間にか部屋に出現していた猿夢に背後から低い声で囁かれて驚く。おまけに頭の中の邪(よこしま)な考えを言い当てられて返す言葉が見つからない。ちなみに猿夢はダブりまくって4体になっていた。 「4個もあるんだから1つくらいいなくなってもいいでしょ。ダメなの?」 『……小生としては嫌ですが、アリスがもし邪魔だと思うならどうぞご自由ニ』 猿夢が亜里子の手にした自身のフィギュアを見て非常に悲しそうな表情をしたので思いとどまった。そういえば亜里子が最初に引き当てたのは彼だった。最初の数日間は業界でも有名な造形師が担当したという高クオリティの電車内や猿夢の造形を毎日眺めて過ごしていたが、やがて他の都市伝説のほうが気になり猿夢は棚の奥のほうに追いやられた。 「ごめん猿夢……。売らないよ。早く公爵夫人を探そう」 『分かっていただけて嬉しいでスヨ。明日からは週末ですし、少し遠くのほうまで足をのばしてみましょウカ』 「うん。どこに行く?」 * 週末。親には友だちと一緒に遊びに行く約束があると嘘をつき、亜里子は4体の猿夢のフィギュアをリュックに忍ばせて隣町にあるショッピングモールに向かった。施設のフロアマップを片手に実体化した猿夢とともにカプセルトイのコーナーを探す。 『う~ん……あ、ここ。5階の隅のほうにありそうでスネ』 猿夢が亜里子のマップを眺めて5階のゲームセンターの奥を手袋をはめた手で指さした。早速エスカレーターを乗りついで5階のゲームセンタ―に行くとカ奥のほうにカプセルトイのマシンが並んでいた。しかし隅から隅まで探しても「都市伝説のアリス」は見あたらなかった。 『そんなに落ちこまないでくださいよアリス。ほら、うちの子猿たちも頑張ってって言ってまスヨ』 「だって……せっかくここまで来たのに。手ぶらで帰りたくないし」 人のまばらな休憩スペースで丸いテーブルを挟んで向かい合わせに座った猿夢の膝に子猿たちがちょこんと乗っかって亜里子を気遣うように見上げていた。一体いつ出てきたのだろうか。片方が亜里子のほうに寄ってきたのでまた何か痛いことをされるのかと反射的に眼帯をしていない目を閉じると小さな手で優しく頭をなでられただけだった。 「……ありがとう。ごめんね、見つからなくて」 『そろそろ帰りましょうか。ああ、帰り際に近所のゲームセンターだけ寄りまショウ』 * 亜里子は猿夢と帰宅前に彼らと一番最初に出会ったゲームセンターに立ち寄った。お目当てのマシンを見つけると早速硬貨を入れて数度回してみる。 「…………あ、これ」 亜里子は振り返り、猿夢にたった今引いたばかりのカプセルを手渡す。カプセルの中身を見た猿夢の表情が変わった。何も言わずに蓋を開けて個包装された中身を乗せる手がわずかに震えている。 『お会いしたかったです……ご主人様』 猿夢はつぶやくとジャケットの裾ポケットにカプセルをそっとしまった。亜里子は帰宅して先に家族との夕食を済ませた。その足で自室に入ると車掌の姿に戻った猿夢が赤いコートを着た幼い少女を両腕に抱いて勉強机の前に立っていた。おかっぱ頭の茶髪に気だるげな顔の少女は猿夢と同じく黒いマスクをしていたがコートと一緒でサイズが大きくて合っていない。 「はじめまして。えっと……公爵夫人、ですよね?」 亜里子が挨拶すると、少女がため息をついた後に口を開いてこう言った。 「どうしてアタシを引いちまったんだい。今コイツに聞いたらアンタとずっと探しまわってたって言うじゃないか。ったく何やってんだいアンタは」 少女――公爵夫人は猿夢の腹に思いっきり肘鉄を食らわせた。猿夢は何か言いたそうだったがその都度遮られていた。亜里子が止めようとすると、猿夢は「大丈夫」というふうに首を横にふる。 「そういえば……お2人って何の都市伝説なんですか。猿夢は分かるんですけど」 「アタシは口裂け女×公爵夫人、コイツは猿夢×チェシャ猫だよ。分かりづらいったらありゃしないけどね」 ふん、と公爵夫人は鼻を鳴らすと猿夢の腕の中で腕を組み足を投げ出してふんぞり返る。猿夢は主人のなすがままにされている。亜里子には抵抗したいけれど、あえてじっとこらえているようにも見えた。 「じゃあアリス、今夜からお世話になるよ」 「え」 「何言ってるんだい。全種類コンプリート目指すんだろう?」 亜里子が一瞬かたまると公爵夫人は「だったら探す人手が多いほうがいいじゃないか」と胸をはる。猿夢が呆れた顔ではあ、と深いため息をついた。 『ご主人様が勝手を言って申し訳ありません……。どうかこちらに置いていただけませンカ。ご両親には絶対に見つからないようにしますカラ』 猿夢が片手で公爵夫人を支え、空いたほうの手を顔の前に持っていき謝罪のジェスチャーをする。亜里子はしばし考えたのち頷くとぱっと猿夢の顔が明るくなった。 「……いいよ。それじゃ明日からよろしくね」 『はい、よろしくお願いしマス。ほら、ご主人様も』 猿夢が促すと公爵夫人は腕から床に飛び降りて、着地すると亜里子を見上げる。その両目がいたずらっぽくにっ、と笑うと体が急激に成長し始め猿夢より頭1つ分あたり下で止まった。ぶかぶかだったコートやマスクがぴったりと体によくフィットしている。 「じゃ、よろしくアリス」 「は……はい。よろしくお願いします」 亜里子は元の姿になった公爵夫人を二度見しながら握手をし「とんでもないものを引いてしまったな」と思った。
夜光町四丁目夜間警備求ム。EXTRA②
EXTRA「プレイタイム・アフター後編」 仁礼野がパーティールームのステージの上に上がっても、もうマスコットたちは襲ってはこなかった。先ほどの反省会の後だ、彼らもさすがにやりすぎたと逆に反省しているかもしれない。仁礼野は馬宮をステージの奥にある例の部屋に連れていく。 『さあ、開けてみてください』 「え、でも。あれは秘密なんじゃ……」 『確かに秘密でしたが、烏丸さんがあなたにもうっかり話してしまいましたからね。それから馬宮さんも今夜からはここの一員なんですから、実際に……見てもらったほうがいいと思いまして』 仁礼野がドアを開け、馬宮に先に中に入るよう促した。開いたドアからは工場の中と同じ埃っぽい臭いがしてきた。後ろから仁礼野がスマートフォンのライトを点灯させて入ってくる。束になった木材や板、使われなくなったモニターや機材。ライトが部屋の中にあるものを順番に照らしていく。 「……あ」 『ええ、そう。あれが…………私です。長年の劣化でもう形すら残ってないですけどね』 馬宮はライトの光が照らした部屋の奥にあったものを見て声が出せなくなった。おそらく黄色だったであろうキツネの着ぐるみはすっかり汚れて灰色になっていた。生地はぼろぼろで腹のあたりが裂け、中にあるものが丸見えだ。キツネの腹に収まっていたのは白骨化した死体だった。状態からしてどのくらい放置されているのか見当もつかない。 「仁礼野さん……。ひとつ聞いてもいいですか」 「どうして……こんなになってまでこの仕事続けてるんですか」 『それはですね……。彼らと《ずっと遊ぶ》ためですよ。私がいなくなったら誰が一緒に遊んでやるんです?』 仁礼野は当然のことのように即答する。その答えに馬宮は驚き目を見開いた。 「遊ぶって……反省会のことですか。あんなの、一方的な暴力じゃないですか……!ねえ正気なんですか⁉︎」 『はい。私は正気ですよ。まあ……あなたの常識からすると、狂気の域かもしれませんがね』 仁礼野はそう言うと紺色の作業着のボタンを外しシャツの上、組み上げ直したばかりの殻の左胸から下あたりに片手を差し入れる。殻はまだ脆(もろ)いのか簡単に砕けた。中身をちょっとひっかき回して仁礼野が再び手を出すと、片手に収まるくらいの黄色い石が握られていた。石は内側からぼんやりと脈を打つように光っている。仁礼野は馬宮の手にそれをのせる。冷たくも熱くもなく、不思議な感触だった。 『これが……魂が砕けないかぎり、私が消えることはありません。安心してください』 『分かって……くれますか』 馬宮はうつむき、ただ泣いていた。こんなのはあんまりだ。哀しすぎる。仁礼野が彼らに何をしたというのだ。 「仁礼野さん……一体何したんですか」 「そうじゃなきゃ、こんなことにならなかったんでしょう?」 『……おや、意外と鋭いんですね。丁度いい機会ですし、話しましょうか。長くなりますが聞いてくれますか』 仁礼野が馬宮の手を引いて自分のほうを向かせた。そうしてゆっくりと自分が犯してしまったある出来事について語り始めた。馬宮は初めてあの着ぐるみたちの中にいるのが仁礼野と同じ魂だけになった、工場がまだ稼働していた頃にこのステージで起きた不慮の事故から救えなかった子どもたちだと知った。 『FOXと私は……仲がとっても良かったんですよ。今回も私の壊された殻の中から魂を拾って持っていてくれましたから。でなければ体の再生にはもっと時間がかかったかもしれません』 『私はずっと、彼らと遊んであげなければいけないんです……永遠に、寂しくないように』 これはきっと私に与えられた罰なのだと言って、自分の魂を片手に仁礼野は悲しげに笑った。馬宮は何もかけられる言葉が見つからなくて立ちつくしていた。 * 馬宮はそれから仁礼野との約束どおり4日間勤めた。2日目の翌朝は前夜にパーティールームで打ち明けられた話がいつまでも頭の中の奥のほうで引っかかり、工場の外には出ずに小部屋に引きこもっていた。 「馬宮さん、24時まで暇でしょう。よかったら工場内の掃除、手伝ってもらえませんか」 そんな馬宮の様子を心配した仁礼野が何度か声をかけてきたが行く気になれず、工場内の掃除以外は全てパスしてしまった。 3日目、4日目、5日目。何日か過ぎても馬宮の心は晴れなかった。ついには閉じこもった小部屋に鍵をかけそうになり、一体自分は何をしてるんだろうと悩んだ。 5日目の朝。馬宮は仁礼野から残りの報酬金50万をもらったが、まったく嬉しくない。目的は達成した。これでやっと実家に帰れるはずなのに……。 「馬宮さん、どうしました?」 「仁礼野さん。俺……どうしたらいいかわかんないんです。あの時ステージ奥で話してくれたあの話がずっと……頭の中から離れてくれなくて」 「ああ……そうでしたか。それでここ数日なんだか様子がおかしかったんですね。すみません。気づかずに重たすぎる話をしてしまって。馬宮さんの心を病ませてしまったのなら……謝ります」 仁礼野は被っているキャップを脱いで馬宮に深く頭を下げた。馬宮は頷く。 「今夜はどうされます?明日は土曜日ですし……一旦仕事から離れてご実家でのんびりと休日を過ごされてはいかがですか。少しは気分転換になるかもしれませんよ?」 「でも……」 「心配しなくても大丈夫ですから。私と烏丸さんに遠慮せずどうぞ行って来てください」 仁礼野が穏やかに微笑む。馬宮は仁礼野に何度も礼を言ってから小部屋を出た。肩の重いトートバッグには5日分の報酬である100万円と仁礼野手作りの連絡用キーホルダーが入っている。現金を持っているのはとにかく不安な上に大金なので、帰宅する前にどこかの銀行によって自分の口座に振りこもうと思った。 「……行ってきます!」 馬宮は工場の奥に向かって大きな声で告げる。シャッターの向こう側には夜が明けていく青い空にやっと日が昇ろうとしていた。 【EXTRA 了】
夜光町四丁目夜間警備ム。EXTRA
EXTRA「プレイタイム・アフター前編」 1夜明けて2日目の夜。馬宮と烏丸は24時前に「夜光町プレイタイム・ファクトリー」に出勤してきた。入り口のシャッターをくぐると中には誰もいないはずなのに、馬宮と烏丸が入るとシャッターが勝手に閉じていく。 「こんばんは〜馬宮。あれからちょっとは眠れた?」 「……ええ一応は。お金も泊まるところもないですし、ベッドは近所の公園のベンチの上でしたけど」 馬宮がそう言うと烏丸は意外そうに片方の眉をはね上げる。 「ええ〜何それ。だったら帰らずにここにいるか、アタシのアパートに来ればよかったじゃん」 「さすがにそれは。だってアルバイト先ですし……。部屋のほうは邪魔でしょう俺がいたら」 「大丈夫だって。明るいうちでもあの小部屋にいるか工場内の掃除さえきちんとしてれば追い出されないから。ほら……ここって何があっても会社が全然責任取る気ないし」 烏丸は今までにやったことがあるのか、後から付け足すように馬宮にそう囁いてきた。そういえば夜間警備のマニュアルには「夜間警備中の不慮の事故や怪我については運営会社はいっさい責任を負わないものとする」というのがあった気がする。 「あ、そうだ。烏丸さんこれ。昨日の夜甘いの飲みたがってたでしょう。公園の近くの自販機で売ってました」 「お〜、サンキュー!ってこれ甘いけどストレートじゃん。ミルクも入ってないし」 烏丸は馬宮が差し出した紅茶飲料のペットボトルに巻かれた赤色のラベルを見てがっかりする。 「紅茶にミルク……入ってないとダメなんですか?」 「うん、ダメ。甘くても飲めない」 烏丸は手にしたペットボトルを見てこの世の終わりだと言わんばかりの顔をしている。 「そうですか。ここの廊下にある自販機には売ってないんですかミルクティーって」 「ある時もあるけど、昨日見たらなかったし……ムリかも」 烏丸はペットボトルを両手で持って見つめ、さらに表情を曇らせていく。馬宮は念のため廊下に出て、小部屋から離れた自販機を確認しにいく。ミルクティーはおろか、ラインナップはジュースやお茶系で紅茶の類たぐいは1本も置いていなかった。 「ね、なかったでしょ?いいよ別に。飲まなきゃ死ぬってわけじゃないし、明日朝帰る時にコンビニ寄るから。さ、仕事始めよ〜」 「はい。あれ……?烏丸さんキーホルダーってここに置いてました?」 馬宮は自分のトートバッグの上に昨日仁礼野からもらった馬と烏の頭をかたどった手作り感のあるキーホルダーが烏丸の分と2つ並んで置かれているのを見つけ、烏丸に尋ねる。 「え?アタシもさっき来たばかりだし、それはないよ」 「じゃあ、一体誰が……」 馬宮はつぶやいてからたった1人、置くことができる人物がいることに気がついた。でも一晩であれは……組み直せるものなのだろうか。 「きっと仁礼野さんなら……できますよね。だって……人間じゃないんでしょう」 「うん。だけど……あれだけ壊されたらさすがに時間かかると思うし、ないかも」 烏丸がそう言って自分の前の監視カメラのモニターをつけると、4番カメラのステージが映った。馬宮のモニターにも同じものが映る。2人が見ているのは4番以外のカメラであのステージが映ることはまずありえない。 「ねえ。馬宮……これってもしかして心霊現象って……やつ?」 「かも……ですね。他のモニターも全部、4番のステージが映ってます」 烏丸が馬宮の指摘に上下と左右のモニターを見るとどれもがステージの上を映し出していた。ステージの中央にあった仁礼野の残骸はきれいに片付いており、いつものようにクマ、オオカミ、ヒツジ、キツネの4体のマスコットキャラクターたちが並んで目を閉じて眠っていた。 「え……なにこれ」 モニターを見ていた烏丸が突然ひきつった声を出す。馬宮がそちらを見ると烏丸の見ている画面が乱れてグリッチノイズが入りだし「今からそちらにいきます」という文章が表示された後に他のモニターも一斉に電源が落ちてブラックアウトした。 「い、今のは……もしかして」 「馬宮……小部屋のドアの鍵、開けてきて」 「仁礼野さんが……帰ってくる。出迎えるよ」 烏丸の有無を言わせない雰囲気に馬宮は頷いて小部屋の入口ドアまで走っていき、ロックを外す。廊下に首だけ出して様子をうかがっていると、しばらくして奥のほうからなにかをゆっくりと引きずるような重たい音がしてきたので小部屋に引っこむ。 「仁礼野さん来てる?」 「来てます来てます、もうすぐこの部屋に……」 馬宮が言いかけた時、小部屋のドアが外から開けられた。部屋の照明が一瞬だけ瞬いて元通りになる。電力削減のために薄暗い室内にやって来た何者かはぎしぎし、ぎいぎいと機械が軋むような音をさせて馬宮と烏丸のほうに近づいてくる。 「……お疲れ様です、仁礼野さん」 「反省会、ご苦労様でした」 烏丸が勢いよく被っていたキャップを取って、深く頭を下げる。馬宮もそれにならった。何者かは近くの椅子に腰を下ろすとふう……と長い息を吐いた。陰になっていて姿ははっきりとは見えないが、体のあちこちから廃材の部品やリボンや綿やらが飛び出して着ている作業着を内側から貫いてしまっているようだった。 『初日から……大変にお見苦しいものをお見せしてしまって……申し訳ありませんでした馬宮さん。どうです、この仕事……続けられそうですか』 「いえ、そんなことないです。大丈夫ですよ」 『そうですか?もしどうしても嫌なら……今夜かぎりで辞めてもらっても構いませんよ』 反省会という名の拷問から戻ってきたばかりの仁礼野は作業着のポケットからぶ厚い茶封筒を取り出すと、馬宮の目の前のデスクにそれを置く。手袋をはめた手で馬宮のほうに封筒を押し出した。 『中に……50万入ってます。ウチに応募した時、お金がなくて困ってらっしゃってたでしょう。それを持ってご実家に帰ってください。パーティールームの彼らのことは烏丸さんと私でこの先も何とかしますから』 「こ、こんなに要りません……!俺まだ1夜しか仕事してないんですよ。こんな大金……いただけません‼︎」 馬宮が憤慨すると仁礼野は顎に手をあてて少しだけ思案し、別の条件を提示してきた。 『……では今夜を含めてあと4日、最後まで逃げ出さなかったらもう50万追加で差し上げましょう……いかかです?』 「え」 「ほら馬宮、めったにないチャンスだよ。ちゃんと答えないと。アンタはどうしたいの?」 隣にいた烏丸が小さな声で囁く。馬宮は正直なところ悩んでいた。口ではああ言ったが、本当は今すぐに50万だけもらって実家に逃げ帰りたかった。 『……いいんですよ、遠慮しなくても。馬宮さんの本当のお気持ち……いっそのことこの場で吐き出してしまいませんか?』 「お、おれ、俺は……」 「ここで、烏丸さんや仁礼野さんと一緒に……働きたいです……!いや、ここで……働かせてください。お願いします!」 馬宮は今朝がた工場を出る時に自分が口にした言葉を、仁礼野がどこかから聴いていたのではないかと思った。それに生まれて初めて仕事を、実家を出て自分1人だけで頑張っているという達成感があった。 『そのお言葉は……馬宮さんの本心ですか?』 「……はい。間違いありません」 『わかりました。では今夜は……監視カメラは烏丸さんに任せましょう。馬宮さん、私と今からパーティールームまでお付き合いいただけますか』 馬宮は首を縦に振った。仁礼野は小部屋を出て廊下を歩きだす。馬宮は昨夜のように後を追った。
夜光町四丁目夜間警備求ム。5話
5話「夜が明けて」 烏丸は馬宮に片手を顔の前に一瞬持っていき「ごめん」とジェスチャーすると小部屋から出て近くのトイレに駆けこんだ。個室に飛びこんで我慢していた口の中のものを思いきり吐き出す。何度か吐いても目からあふれる涙が止まらない。 「……仁礼野さん。どうしよう、アタシ……知ってた秘密全部アイツに話しちゃった。怒ってるよね……?」 烏丸は泣きながら、仁礼野に謝る。吐いたものを水に流しても、吐き気がおさまってきても個室からなかなか出られなかった。トイレに設もうけられた小窓から長く感じられた夜が明けていく気配がする。 ーーーーかたり。 烏丸がいる個室の外から小さな物音がして、烏丸はびくりと身を震わせる。こんな時間に誰が来たのだろうか。 (まさか、あの子たちがアタシたちを探しに……?) 烏丸は嫌な予感がして音をたてないようにそっと個室のドアを開けて様子をうかがってみる。手洗い場の鏡の前にキツネのマスコットキャラクターの着ぐるみがぼうっと立っていた。烏丸がFOXだと思って出ていくとこちらを振り向いたのは……《黄色いキツネ》だった。 FOXと同じようなデザインだが胸の毛とお腹についた黄緑色の縞模様のはいった紫色のリボンが解けている。胸から下のあたりは着ぐるみの生地が縦に裂けて、そこから中身が覗けそうだ。 (……嘘。これ、これって) 「に、にれ、仁礼野…………さん、ですか?」 恐怖と焦りでしゃがれたような声しか出ない。問いかけに気づいた黄色いキツネがゆっくりと烏丸のほうに近よってくる。烏丸は後退りする。今閉めたばかりの個室のドアに背中があたる。もう、逃げられない。 『……烏丸サん私……あノ話はしなイでって……前に言いマしたよねエ……』 烏丸が今までに聞いたことがないくらいの低さの仁礼野の声に耳をふさぎたくなるような歪んだ電子音が重なる。烏丸はその場にしゃがみこんだ。両手で耳をふさぐ。そんなことをしても無駄だとわかっているのに。 『烏丸さン……今ここデ、モう一度……約束してクださい』 『他の人ニ、あのコとは絶対に……話さなイと』 「ごっ……ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!!」 烏丸は耳をふさいだまま、目の前にいる黄色いキツネの着ぐるみに向かって謝罪をし続ける。黄色いキツネは何も言わず、烏丸を上からじっと見つめている。それが不意にすっ、と足元へしゃがみこむ。 『本当に』 『約束……でキますカ……?』 烏丸の頬がひやりとしたもので包まれた。同時に肉が腐ったような耐え難い臭いがする。収まりかけていた吐き気が襲ってくる。烏丸が顔を上げると……着ぐるみの破れた腹から仁礼野の上半身が這い出ていた。土気色を通りこして腐敗しきった体のあちこちから半分だけ黄ばんだ骨が覗いている。 「や……約束、します……!」 「もう二度と言いません‼︎」 『……わかリました』 仁礼野が嗤う。残った瞼のない左目が満足げに細められた気がした。烏丸の頬から仁礼野の手が離される。烏丸は咳きこんでその場に腰をぬかして倒れこんだ。 『でハ……そろソろ、行きマすね』 『まタ明日の夜……会イましょう』 仁礼野はそれだけ言い残すと着ぐるみの腹にするすると戻っていく。黄色いキツネの着ぐるみは烏丸に深々と頭を下げると、トイレから出て行った。烏丸はなんとか立ち上がり、着ぐるみを追って廊下に出たが、姿はどこにもなかった。烏丸は思わず目をこすった。さっきのは夢だったのだろうか。 「烏丸さん……?どうかしましたか」 「え?ああ……なんでもないよ」 烏丸は小部屋のドアから顔をのぞかせた馬宮に首を横に振って答えた。どうしてもさっきの仁礼野は夢だとは思えなかった。頬に触れられた感触が、あの歪んだ声がまだ耳の奥にはっきりと残っている。 「それより……アタシがいない間、異常なかった?」 「はい。特に何も」 「そう、よかった」 烏丸が小部屋に入るとモニターの前の椅子に座りなおす。画面右端に表示された時間を見ると午前6時になったばかりだった。夜間警備が終わる時間だ。この小部屋には窓がないのでわからないが、外はもう朝日が昇ってきているだろう。 「あの……」 「何?」 「仕事が終わったら、あとはどうすれば……いいんですか」 「翌日の24時まで好きに過ごしてていいよ。一旦家に帰って寝るとか、近所のコンビニに買い物に行くとか。アタシは……とりあえず帰るわ。じゃ、また今日の夜」 烏丸は困り顔の馬宮に手を振って、持ってきた小型のバッグを肩からかけ直すと、さっさと先に小部屋から出ていった。馬宮は閉まったドアに向かって「お疲れ様です」と言って頭を下げる。自分も部屋の隅に置いていた黒のトートバッグを取ると、小部屋から出た。 工場の入口に向かうとシャッターは開いていた。間からは早朝の涼しい風と爽やかな朝日が入ってくる。馬宮が昨夜中感じていた重くのしかかる奇妙な閉塞感がゆっくりと消えていく。馬宮は後ろを振り返る。出迎えてくれた仁礼野はもういない。それでも秘密を知ってしまった。逃げ出すのは簡単だ。だが馬宮は……逃げないと決めた。 「また今夜……烏丸さんと一緒に来ますね……待っててください」 馬宮は工場の奥に向かって頭を下げ、開いたシャッターの向こう側へと歩きだした。 【了】 参考ほか 【ゲーム】 Five nights at Freddy's(2014) Five nights at Freddy's 2(2014) Five nights at Freddy's 3(2015) ScottGames Steel Wool Studios Illumix Bendy and the Ink Machine(2017) The Meatly POPPY PLAYTIME(2021) Mob Entertainment 【映画】 ファイブ・ナイツ・アットフレディーズ(2023) エマ・タミ ユニバーサル・ピクチャーズ 東宝東和 ウィリーズ・ワンダーランド(2020) ケヴィン・ルイス スクリーン・メディア・フィルムズ カルチュア・パブリッシャーズ 【Webページ】 映画ファイブ・ナイツ・アットフレディーズ公式サイト https://www.universalpictures.jp/micro/fnaf-movie Five Nights at Freddy's非公式Wiki https://fnaf.swiki.jp