あまもよい

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あまもよい

 真夜中の通知ごめんなさい。

春つぐもの

 その瞬間、色のない冬の景色の中に、名前も知らない小さな花を見つけた気がした。  さっきまでの教室の喧騒がどこか遠くなって、自分の周りだけがまるで静寂に包まれてしまったような感覚になる。  その半径一メートルにも満たない静寂の中で、彼女の声は静かな存在感を放っていた。 「おい、ヒョウ。聞いてんのか」  机を挟んで向かい合った光希(ミツキ)が、箸を持った手で氷(ヒョウ)の注意を引こうとする。  昼の放送が終わってしまうと、氷はいつの間にかまた教室の喧騒の中に戻っていた。 「聞いてるから、箸を振り回すな」  光希をたしなめ、再び冷たい弁当を食べる手を動かす。 「じゃあ話してくれるな」 「話すって何を」 「やっぱ何も聞いてなかったじゃんか」  じろりと睨まれていることを気にも留めず、氷は黙々と昼食を食べ進める。 「……なぁ、今朝また告られたんだろ? しかも今度はあの佐々木莉緒だって」  声をひそめた光希が、彼女がいる隣のクラスの教室を顎で指す。 「だから何だ」 「だから何だって何だよ。てか、やっぱ本当なんだな」  光希が大げさにため息をつく。 「お前なぁ、あの佐々木莉緒だぞ。俺達みんなの高嶺の花なんだぞ」 「〝俺達の〟じゃなくて、〝お前の〟高嶺の花だろ」 「そりゃお前はそうかもしれないけどさ。普通、彼女に振られる奴はいても、彼女を振る奴なんていない。しかもお前のように考えもせずに秒で振る奴なんてな。彼女、あの後泣いてたっていうじゃんか」 「お前、そこまで知ってて何を聞きたいんだ。それ以上に俺が話すことなんてないぞ」  空になった弁当箱の蓋を閉め、席を立とうとする所を光希に呼び止められた。 「ヒョウ、お前本当にこの先ずっと誰とも付き合わないつもりなのか」  光希がさっきまでとは違う鋭い眼差しを氷に向ける。  氷は自分の感情の欠けた部分を胸の内でなぞった。その断面は割れたガラスのように鋭利になっていて、そこに手を伸ばす度にまた小さな傷を作る。 「俺は死んでもあの人と同じにはならない」  そう言い残して、氷は教室を出た。  帰りのホームルームが終わると、ほとんどの生徒が部活に向かう。氷を含む帰宅部の生徒は、うちの中学では少数派だ。  グラウンドの横に建てられたコンテナは運動部の更衣室で、中から大きな笑い声が漏れ聞こえる。  その横を通り抜けた氷は、足早に裏門に向かった。  生徒の大半は表にある正門から出入りするのだが、氷は裏門を使うことにしていた。それは単に家が学校の裏手側にあるからというのもあったが、なるべく人に会わずに済むからでもあった。  今朝、いつもと同じように裏門に向かうと、そこに佐々木莉緒が立っていた。  彼女が自分を待っていたことはすぐに分かった。今までこのような場面を幾度となく経験してきたからだ。  そこに立つ彼女が目に入った瞬間、氷はため息をついた。相手が見て分かるくらいに、はっきりと。  正直、もう心底うんざりだった。  人は氷の顔しか見ていない。あの人にそっくりなこの整った顔だけを見て、人は氷に上辺だけの好意を抱く。当の氷自身が、あの人を憎み、この顔を憎悪していることになど全く興味がないのだ。  実際に、氷は覚えている限り佐々木莉緒と会話を交わした覚えがない。  相手のことを何も知らないのに好きになるというのが理解出来ない。それどころか、人がどうしてそんな恋愛などという意味のないことに時間を割き、時に人生を賭けるのか、氷は全く理解出来なかった。そして、したくもなかった。  氷が物心ついた時にはすでに、あの人は恋愛が全ての生活を送っていた。そこらの人より圧倒的に優れた容姿だったがために、その容姿に依存した生き方しか出来なかった。  音楽家である氷の父は仕事で家を空けることが多く、その寂しさを他の人と恋で埋めているのだ、と、あの人はまだ幼かった氷に悪びれもせずに説明した。  だから、あの人がある日突然息子を置いて家を出たことを、氷は理解は出来なくとも、不思議には思わなかった。  ただ、自分はあの人の寂しさを埋めるには足らない存在だったのだろうということだけは、身に染みて分かった。  自分は決してあの人のようにはならない。  それが、氷があの人から学んだたった一つのことだ。 「ただいま」  リビングの扉を開けると、夕飯の準備をしていた浪子(ナミコ)さんが顔を上げた。  浪子さんはあの人の母親で、氷の祖母。そして、今、氷とこの家に暮らす唯一の家族だ。 「ヒョウくん、おかえり」 「うん。はい、これ」  カバンから弁当箱を取り出し、流しに置く。 「はいはい、ありがとね」  その弁当箱を見て、ふと昼間の事を思い出した。  訳もなく、彼女の声がずっと心の淵に引っかかったままになっていた。  これと言って何かが特別だったわけではない。ただ、その声色や、言葉の紡ぎ方や、息遣いのようなものが、あの瞬間の氷の全てを飲み込んだ。  あの声の主は一体どんな人物なのだろう。  その日から、氷は無意識のうちにあの声を探すようになった。次の日も、その次の日も、学校中のスピーカーが音を乗せる度に彼女の声かと顔を上げたが、あれからは一度も聞けないままでいた。 「最近お前、心ここにあらず、って感じだな」  光希が「もらい!」と氷の弁当箱からおかずをかっぱらっていく。 「じゃあこれは頂く」  代わりに、光希が最後に残しておいたであろう卵焼きをさっと箸でつまみ上げる。 「お、おい!」 「これでおあいこだ」 「あーあ、今日のは明太入りのスペシャルだったのによお」  そう口を尖らせる光希に見せつけるように、氷は明太スペシャルを味わって食べた。 「ウマかったか」 「あぁ、うまかった」 「なら母さんにそう言っとく。たぶんめちゃくちゃ喜ぶし、何なら毎日でも作るとか言い出しかねない」  光希の母親は確かにそういう人だ。前にも同じような事があって、その時光希は約一ヶ月、ほぼ毎日海苔弁生活を送ることになった。 「さっきさ、放送あっただろ。毎日昼に流れてるやつ」 「あぁ、うん。それが?」 「あれ、誰がやるとかそういうの、決まってんの?」  さり気なく、そう尋ねた。 「誰って、放送部が交代でやってんじゃない? そういや、放送部は今人手不足らしいな。この前、隣のクラスの久保田が嘆いてた」 「──久保田?」 「久保田尚子。一緒の塾行ってる女子。あ、今日の放送、あれたぶんそう」  一瞬、それが例の声の持ち主かと思ったが、違ったようだ。 「で、放送部がどうかした?」 「いや、何でも」  光希は一瞬不思議そうに首を傾げたが、それ以上聞いてくることはなかった。 「んじゃ、ヒョウまたな」  放課後になると、部活のある光希は同じバスケ部の仲間と早々に教室を飛び出していく。なるべく早く部活を始めるように、と顧問から厳しく言われているらしい。  その背中を見送った後、氷は一人教室を出た。  玄関のある一階まで階段を下りる間、またあの事を考えていた。  光希が言っていたように、彼女もまた放送部なのだろうか。  放送室でマイクに向かう彼女の後ろ姿が頭に浮かぶ。  そういえば、と氷は思う。  氷は今まで一度も放送室に入った事はない。が、前を通り過ぎた事は何度もある。というよりも、玄関と教室を行き来する際に必ずその前を通るのだ。  普段はあっさり通り過ぎる扉の前で、氷は足を止めた。  ドアには「放送室」と書かれたプレートがあるだけで、中の様子はうかがい知れない。  この扉の向こうに、もし──  そんな風に見ていたドアが、突然ガラッと開いた。そして、驚いた氷の目の前に積み重なったダンボール箱が現れた。 「あっ……」  そう口に出すより先に、氷とダンボールは衝突していた。と同時に、「ぎゃっ」と小さな悲鳴が上がる。  ぶつかった弾みで氷は後ろに倒れ込み、ガッシャーンと大きな音が廊下に響いた。  ダンボールの箱は二つとも床に転がり、その周りに無数のCDが散乱した。 「す、すみません! 怪我はないですか⁉︎」  慌てて駆け寄って来た相手の声を聞いて、氷は咄嗟に顔を上げた。 「「あ……」」  二人の呟きが重なり、一瞬、時間が止まる。  そして、ハッとした表情を浮かべた彼女の方が先に、その視線を下に外した。 「あ、あの、ごめんなさい。すぐ片付けます……」  ようやく聞き取れるくらいの小さな声で彼女はそう言い、床に散らばったCDを慌ただしく片付け始めた。 「手伝う」  氷も腰を上げてCDに手を伸ばす。  黙々と箱に戻す。戻しながら、氷は時々横目で隣を見た。  探していた人がいた。今、すぐ隣にいる。隣にいるこのクラスメイトこそが、あの時聞いた、氷が忘れられない声の持ち主だったのた。さっき、彼女──牟田つぼみの声を初めてちゃんと耳にして、そう分かった。  今まで教室で見てきた彼女の姿を思い出す。だが、彼女が喋った姿はほとんど見たことがない。だから、スピーカーから聞こえた声と、彼女の存在が全く結びつかなかった。  全てのCDを箱にしまい終えた彼女が立ち上がる。そして、再びそのダンボール箱を二つに積み上げた。 「それ」  咄嗟に声をかける。その声に彼女の肩がビクリとする。 「それ、どこに持ってくの」 「……音楽、室」  ためらいがちに視線を上げ、そう答えた。  音楽室は三階にある。  氷は立ち上がった。重ねたダンボールを持ち上げようとしていた彼女を肩で制し、代わりに氷がそれを持ち上げる。 「え、いや、そんな──」  戸惑う彼女を背にして、氷は淡々とした足取りで三階へと向かった。 「あの、内田くん……やっぱり私、持つよ」 「もう着くし、平気」  氷を追うように、彼女が後ろから階段を登ってくる。 「でも……」  放課後の階段に、パタパタとした上履きの足音が二人分響く。 「このCD、何に使うの」  ふと気になって尋ねた。 「え……あの、お昼の放送とか、掃除の時間とか……」 「あぁ」  そういえば、確かにいつもその時間、音楽が流れる。 「牟田……さんってさ、放送部なんだ」 「あ、いや……違う。私、放送部じゃない……」  ちょうど階段を登り終えたタイミングで、氷は「え⁉︎」と振り返る。 「じゃあ、この前の放送って。あれ、牟田さんじゃなかったの?」 「それは……」  階段の途中、彼女は立ち止まったまま言い淀む。 「……あれ、聞いてたんだ」 「うん、聞いてた。でも、あれが牟田さんの声だったていうのは、今日知った。ごめん」 「ううん、そっか」  階段を登り切った彼女が、氷の横を足早に通り過ぎて先を行く。氷も置いていかれないように、後ろに続く。 「隣のクラスにナオちゃんって子がいて、放送部で、同じ放送部の先輩が怪我して学校休んでて、あの日はどうしても放送する人が足りないって……」  早口にそう言った言葉は、語尾に行くにつれてしぼんだ。 「……だから、私はただのピンチヒッター」  呟いた声が、廊下の静けさに飲まれる。 「でも、ならどうして今日も放送部の手伝いなんかしてんの。こんな大荷物、一人で運んで」  氷は少し声を張り上げた。 「だって……ナオちゃんは私にとって唯一の友達だから。私が役に立てる事はこれくらいしかないから……」 「放送は? もうやらないの?」  彼女の背中に問いかける。 「やらない……向いてない、から……」  彼女が足を止める。  音楽室の前に来た。防音扉のハンドルを彼女が下げる。 「──手伝ってくれて、ありがとう。あとは大丈夫……」 「いいよ、中まで運ぶ」  入り口で箱を受け取ろうとした彼女を避けて、氷は音楽室に入る。 「これ、どこ置く?」 「じゃあ……奥の部屋に」 「ここ?」 「うん……あ、今ドア開ける」  音楽室と繋がったその部屋は物置部屋のようになっていて、授業で使う楽器や楽譜の他に、壁の棚にはたくさんのCDが並んでいた。氷がここに入るのは初めてだった。 「この部屋、こんなふうになってんだ」  彼女は氷の言葉に小さく頷くと、開けたダンボール箱からCDを取り出し、棚の空いている所にしまい始めた。  箱の中のほとんどを占めるクラシックのCDは、棚の中でおそらく作曲家順に並んでいるようだ。 「あのさ」  ダンボールの中から一枚取って、隣に並ぶ。 「何で、向いてないって思うの」  氷は尋ねた。手に持ったCDのジャケットを確認して、棚に並べる。 「だって、その……私、話すの苦手だし。それに声も小さくて……昔から、みんなに聞こえないってからかわれてた……だから人前で話すのは、向いてない……」  そこまで言って、彼女の手が止まる。  それを聞いて、氷は思う。 「……もったいない」  氷がそう言うと、彼女が「え?」といった表情でこちらを見た。 「誰かのどうでもいい言葉で話すのやめるなんて、もったいないと思う。あの時、スピーカーから聞こえてきた牟田さんの声。人の注目を引くような声じゃなかったかもしれないけど、人の心を惹く声だった──少なくとも、俺にはそうだった」  そう言葉にして思った。それは氷にとって、初めての感情だった。誰かに興味を持ち、誰かの役に立ちたいと思う事が、氷にとっては初めての事だった。 「ありがとう……」  掠れた彼女の声に氷はハッとする。 「悪い、そんなつもりじゃなかった」 「ううん……ありがとう」  涙交じりに彼女が呟く。  氷はどうしていいか分からずに、ただ黙々と箱の中のCDを片付け続けた。 「内田くんって、本当は良い人なんだね」  さっきまで曇っていた顔はいつの間にかすっきりと晴れている。冗談っぽく笑みを浮かべながら彼女が続ける。 「今まで、内田くんは、顔は良いけど、冷たくて感情がない人だと思ってた。それに、山越くん以外といるとこ見たことないから、人が嫌いなんだと思ってた」  唯一仲のいい光希の名前を出され、否定が出来なくなる。 「悪かったな、あいつしか友達がいなくて。てか、牟田も俺と同じで友達一人だって言ってただろ。それに、さっきから全然褒められてる気がしない」 「ごめん、つい」  彼女が肩をすくめて笑う。氷もつられて笑った。 「でも、さっきのは本心」 「良い人って?」 「うん、良い人。少なくとも私には」  自分の外側じゃなくて、内側を見てくれる人がいる。その事だけで、氷の心は救われる気がした。 「──牟田つぼみ」  彼女の名前を呼ぶ。氷より少し低い所で目が合う。 「え、うん……」  戸惑う視線が氷を見上げる。 「俺達、友達になれないかな」 「友達って……え、私と内田くんが⁉︎」 「そう」 「友達って、一緒に喋ったり、遊んだり、笑ったりする、あの、友達……?」 「そう。だから、牟田は何も気にせず、もっと好きなだけ話せばいい。そしたら、俺がそれを聞く」  氷がそう言うと、彼女は首を横に振った。 「だったら、嫌……かな」 「え……」  予想外の答えに、氷は身構える。 「だって、私は内田くんの話も聞きたいから」  そう、くしゃっと笑う。それを見て、氷は初めてだなと思う。  彼女のこんな笑顔を見たのは、これが初めてだ。  あの日、色のない冬の景色の中に、名前も知らない小さな花を見つけた気がした。  雪の中で氷ついた心は、かたくて脆くて、簡単に削れてしまう。  でも、そんな長い長い冬に咲いたあの花は、氷に強く信じさせてくれた。  春はきっと、もうすぐだ。

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春つぐもの

オルゴ

 電車を降りて駅を出ると、駅前の広場がいつも以上に賑わっていた。  色とりどりのオーナメントで飾り付けられた無数のテントと、それを照らす淡いオレンジ色の電飾。店に並ぶのはクリスマスの雑貨や本、それにクリスマスに食べる外国のお菓子やホットワインなど様々だ。  暖かい服装に身を包んだ人々はそれぞれに肩を寄せ合いながら歩いていて、誰もがこの上なく幸せそうに見えた。  この風景の中に自分がいるのは不似合いだろう。  ここ数年のクリスマスを思い出してため息がこぼれる。私はもうずっと、クリスマスとは無縁の人生なのだ。  そのまばゆいばかりの煌めきに満ちた空間を少しでも早く通り過ぎたくて、私は歩みを速めた。  ようやく広場の出口か見えてきた時、ふととある店が目に入った。  他の店のような立派なテントもなく、きらびやかな飾りも電飾もない。そこにあるのは煤けた木の机と、年季の入ったトランクケースだけ。  トランクの中には他の店同様にいくつか雑貨が置いてあるようだったが、ここからでは暗くてよく見えない。店主と思しき年配の男性は、その机の向こうで椅子に座ってコクリコクリと船を漕いでいる。店も店主もまるで商売っ気がない。  暗がりに紛れるかのようにひっそりと佇むその店の前を、ほとんどの人が素通りして行った。  だが、どうしてだろうか。私は自然とその店の前で足を止めていた。そして、吸い込まれるかのようにトランクケースを覗き込んだ。  隣の店の明かりを遮らないようにしながら顔を近づけると、ようやくそれが何か分かった。 「スノードーム……」  ガラスの球体の中には、まるで本物の世界が閉じ込められているのではと思えるほど、繊細で美しい景色が広がっていた。  私は思わず息を呑んだ。 「お気に召しましたか」 「え⁉︎」  驚いて顔を上げると、さっきまで寝ていたはずの店主がいつの間にかこちらを見上げていた。 「ですがお客様、それはただのスノードームではございません」  店主がゆっくりと立ち上がる。  居眠り姿はどこにでもいるお年寄りのように見えたが、今改めて見ると、髪は白いが綺麗に整えられていて、シワ一つないジャケットの襟元からはさり気なくループタイが覗いている。表情や仕草にも表れる品の良さからしても、まさに老紳士と表現するのがしっくりくる。 「どうぞ、手に取ってよくご覧ください」  胸元の内ポケットから取り出した小さなライトで、店主が手元を照らしてくれる。  見れば見るほどやはり、とても美しい。触れているだけで壊れてしまいそうな儚さすら感じて、指先に妙な力が入る。 「あれ、これって」  スノードームを一周させた時、裏側に小さなネジのような物が目に入った。 「これ、もしかしてオルゴールなんですか」  そう尋ねると、店主が小さく微笑んで頷いた。 「ここにありますのは、どれも〝特別な〟オルゴールでございます。良かったら巻いてみられますか」 「いいんですか」 「もちろんです。ネジを三周、ゆっくりと回してみてください」  そう言うと店主は小さな明かりを落とし、手元は再び薄暗くなった。  店主の言った〝特別な〟という表現に、期待と緊張感が高まる。  耳を澄ましながらネジを回すと、微かにジーッという機械音がした。  ゆっくり、ゆっくりとネジを巻く。  ちょうど一周目を巻き終えたその時、私は思わず「わっ」と声を上げた。どういう仕組みなのか、スノードームの中の街の景色がその瞬間にチカチカッと明かりを灯したのだ。  次に、二周目。巻き終えると今度は、その景色の中に雪が降り始めた。細かい雪がスノードームの中により一層幻想的な雰囲気を作り出す。  そして、三周目。店主の言った通りに三周巻くと、静かに音楽が流れ始めた。  いつか聴いたことのある懐かしいメロディ。あれはいつの事だっただろうか。 「これ、買ってきたんだ、お土産」 「え、そんな、いいのに」 「僕がそうしたかったんだ。ほら、開けてみて」  リボンを解いて包みを開けると、中から美しい装飾が施された陶器の箱が顔を出した。 「それ、オルゴールなんだよ」 「あ、ほんとだ。回してみてもいい?」 「あぁ、もちろん」  曲が終わるまでの間、顔を寄せ合いながら二人はオルゴールに耳を澄ました。 「少し早いけど、君にクリスマスプレゼント」  そう言って、まだあどけなさの残る父が母に微笑みかける。 「ありがとう」  そのくしゃっとした笑顔は母の笑顔だ。 「プレゼントはおるごがいいの!」 「おるご? そりゃなんだ?」 「あのオルゴールの事よ。この前片付け中に見つけたら、この子えらく気に入っちゃって……」 「そうかそうか、おるごにするかぁ。よぉし! そしたら、パパがちぃちゃんのために新しいおるご買ってくるぞぉ」 「やだっ! パパのおるごじゃなくて、ママのおるごがいいの!」  三歳くらいの小さな体で、力一杯に駄々をこねる。 「ちぃちゃん、あのおるごだって元はパパのなんだぞ」 「もお、そこじゃないでしょ」  母が呆れた声で言う。 「あのね、ちぃちゃん。あのオルゴールはママが昔パパからもらった大事なオルゴールなの。だからね、もしちぃちゃんが大人になって、その時もまだあのオルゴールが欲しいと思うんだったら、そしたらママがちぃちゃんにあれをプレゼントする。だから、それまであのオルゴールはママの物でもいい?」 「……わかった、ママのでいい」 「ありがと、ちぃちゃん」  母にぎゅっと抱きしめられる。 「よぉし! じゃあ優しいちぃちゃんには、パパが買ってきたと〜っても美味しいケーキをプレゼントします! ほら、ちぃちゃんこっちにおいで——」  こんな会話をしたことなんて、ずっと忘れていた。  耳の奥で鳴っていたオルゴールの音が止まった。  目元を拭い、そっとまぶたを開く。  とても不思議な感覚だった。懐かしくて温かくて、でも寂しくて。経験した事ないはずの出来事でさえ、本当の記憶のように感じる。  でも、そういう不思議な奇跡のようなものだって、この世界ではきっと起こり得るのだ、となぜか今はそう思えた。  両親が早くに亡くなってからというもの、私は家族団らんの象徴のようなクリスマスを自然と避けてきた。両親がもういないのだという事を、突きつけられるようで辛かった。  両親の死後、あのオルゴールがどうなったのか分からない。きっと、探す術ももうない。  でも何となく、きっと母は今もどこかであのオルゴールを大事にしているのだろうという気がした。  ついさっき本当にすぐ目の前で見たような母の笑顔を思い出す。  私もいつかは両親のような出会いができるだろうか。 「すみません、これいただけますか」  遠い異国の地で、母を想いながらあのオルゴールを選ぶ父の姿を思い浮かべる。  もしいつか、私も両親のような出会いができたとしたら。  もしいつか、そんな時がきたとしたら。  その時、私はクリスマスにこれを贈りたい。

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オルゴ

猫と桜の終着駅

 あぁ、これで今日はもう完全に遅刻だ。  ベタベタとした湿気には似合わない淡い桜色の電車が、徐々にスピードを上げながら遠ざかっていく。その無機質な走行音はさながら最終通告のようだ。今まで通りの日常を送るための最終通告。  こうやってここで上り電車を見送るのは、今日三度目だった。  すくんだままだった足がようやく動くようになった。そのままふらふらと線路から遠ざかり、ホームの後ろの方に置かれたペンキの剥げた木製ベンチにずしりと腰を下ろす。  さっきまでいた人々はみな、四両編成の鉄の箱に乗り込んでしまったため、ホームは一気にがらりとした。鳥の鳴く声と、駅のすぐそばを走る自動車のエンジン音、そしてたまにベンチ横の自販機が立てるゴーっという音が不規則に混ざり合う。  田舎の小さな駅は通勤、通学時間帯以外は閑散とする。上りのホームと下りのホームが向かい合っただけのシンプルな駅。線路を挟んで反対側のホームにも人の姿はない。  見慣れた景色もこっちの気持ち次第ではこんなに違う印象に見えるものだな、と呑気なことが頭に浮かんだ。  そんなことを考えているうちに頭が冴えてきて、今度は現実的な問題で頭の中が埋め尽くされる。  とりあえず会社に連絡をしなくては──いや、何て言えばいいんだ。「電車が遅延してて」はすぐにバレる嘘だし、「途中で事故にあって……」は大事すぎる。普通ならここは「体調不良で」と言えばいいところなんだろうが、あの上司のことだ。無理にでも出社しろと怒鳴られるに違いない。  背中に背負ったリュックが一段と重たく感じる。そのリュックと触れ合うシャツは、汗でびったりと肌に貼り付いている。  気が重たいまま、リュックの中から取り出したスマートフォンと向き合った。会社の電話番号を表示した画面が暗くなる度に、ため息をつきながら液晶をタップする。  いっそのこと「辞めます」と言ってしまえたらどれだけいいだろうか。最近は仕事に行っても毎日そればかり考えていた。  ただ、自分でも嫌気が差すくらい、俺には度胸がなかった。苦労して入った会社をあっさり辞めてしまえるほど、培ったスキルや経験もなければ、それらを物ともしないほどの勢いすらないのだ。  鬱々としたまま画面と睨み合っていると、駅のスピーカーから電車到着のベルが聞こえてきた。それと同時にアナウンスが鳴る。どうやら下りの電車がもうすぐ来るようだ。  俺は反射的に顔を上げた。向こうのホームが視界に入る。やはり先程同様に人の姿はない。ここから街の方に向かう上り電車ならまだしも、この時間、反対側に向かう乗客は稀なのだろう。  そう思って再び視線を手元に戻そうとした時、視界の中を何か白いものが横切るのが分かった。その正体を確かめるようにその物体にピントを合わせる。  視力がいい方とは言えない俺だったが、その特徴ある長い尻尾を見ればすぐに分かった。 「猫だ」  思わずそう口に出していた。どこから来たのか、尻尾を真上にピンと上げた猫が、向こうのホームを優雅な歩調で歩いているのだ。  遠くで踏切の音がしている。間もなく電車が来る。  その時、猫がピタッと足を止めて線路の方を向いた。そして、それを見つめる俺と目が合う。  まさか──  とっさに俺は走り出していた。リュックを脇に抱え、向こうのホームに渡る階段を一段飛ばしに登る。  ちょうど今電車が来ようとしているというのに、まさかあの猫はあそこを渡ろうとしているのでは。最悪な瞬間が頭をよぎる。  自分でもこの状況をどうすればいいのか分かっていなかった。とりあえず捕まえればいいのか、果たしてそれは本当に捕まえられるのか、それとも刺激して驚かせてしまわないように距離を取っておくべきなのか。いずれにしても、向こう側にいなくてはいざという時に間に合わない。  走りながら渡り廊下の窓を覗くと、電車はもうすぐそこに迫っていた。白猫はというと、人間が電車を待っているのと同じように、ホームの端、点線の内側に立ったままじっと前を見つめている。  それを横目に通り過ぎた俺は、今さっき息を切らせながら登った階段を、今度は同じだけ下っていった。足がもつれそうになりながらも全速力で駆け下りる。  階段を下りきると、俺は祈るような気持ちで顔を上げた。ちょうどそのタイミングでスピードを落とした電車がホームに入ってきた。  猫は⁉︎ とそっちを見ると、猫はまださっきのままの場所に立っていて、何でもないような顔をしたその前をゆっくりと電車の先頭が通り過ぎ、やがて止まった。  それを見た俺はほっと胸をなで下ろした。  あの猫は一体どういうつもりなのだろうか。  だが、その考えを巡らせる間はなかった。  プシューと音がしてドアが開くと、白猫はさも当然かのような顔をして、たった今開いたばかりのドアから目の前の桜色の電車にひょいっと乗り込んだのだ。  俺は呆気に取られたままにその白い尻尾を目で追う。  電車に乗る猫も世の中にはいるんだったか。いや、聞いたことはないな。そもそも猫の場合の電車賃はどうなるんだ。子ども料金みたいに半額になったりするのだろうか。  そんなとんちんかんなことを考えていると、またスピーカーから音が鳴った。今度は発車ベルだ。  その電車に猫が乗ってますよ、と誰かに伝えるべきか迷ったが、伝えるにしても田舎の駅のホームに駅員はいない。いるとすれば改札横の窓口か、ワンマン電車の運転席くらいだ。  躊躇している間にも、発車を告げる音がホームに鳴り続ける。  覚悟を決めた俺は、閉まるドアの間をすり抜け電車に飛び乗った。体を反らせるように滑り込んだ俺の背中をドアが掠める。リュックを前に抱えていなければアウトだっただろう。  こうして桜色の電車は奇妙な猫を乗せ、いつもと真逆の進行方向へと走り出したのだった。  この地域の人々の生活の足である阿須賀線は、上り阿須賀行きと、下り西奥瀬行きの二本からなる。阿須賀は市街地で、都会ほどではないもののオフィスビルや商業ビルが狭い土地に建ち並んでいるため、平日休日問わず人の往来が盛んだ。一方西奥瀬には目立った施設はなく、山と海に囲まれた一帯は〝The田舎〟といった景色だ。  この辺の人が「西奥瀬」と聞いて真っ先に思い浮かべるのはやはり桜宮(さくらのみや)島だろう。桜宮島は人の住んでいない小さな島で、潮が引いた時だけ陸が一続きになる。その先にある樹齢百四十年ほどだという立派な桜の木と、それを祀る桜宮神社は結構有名で、地元のメディアやこの辺の観光雑誌なんかにはよく取り上げられる。ちなみに阿須賀線の電車の車体が桜色をしているのは、この桜がモチーフになったからだ。  電車に揺られて二十分もすれば、窓の外の景色は山と海とその間にぽつぽつと点在する小さな集落だけになった。  猫を追いかけるように乗ったのは二両編成のうち後方の車両で、客は俺だけ(正確にはもう一匹いたが)だった。連結部分のドア越しに前の車両を覗くと、わずかながら他にも客は乗っているようだ。  進行方向横向きに設置されたロングシートで、俺と猫は互いに向かい合うように座っている。迷いなく人のいないロングシートの中央に陣取った猫を見て、俺は迷った挙句、猫の横や真正面を避け、向かい側の正面から二席ほどずらした席に腰を下ろしたのだった。  斜め前の白猫は俺の訝しげな視線を気にする素振りもなく、海沿いに出てからはずっと海を眺めている。そんな様子は俺の持ち合わせた常識の範囲をはるかに超えていて、俺は自分が現実の中にいるのかどうかを確かめるべく、何度か頬をつねることになった。  今まで白猫、白猫と言っておいてはなんだが、近くで見ると猫は全身真っ白というわけではなかった。どういうわけか上手い具合に頭のてっぺんだけ黒い毛が混ざっているのだ。それはまさに〝猫殿〟と呼びたくなる風貌で、ちょんまげ部分と月代(さかやき)部分、そしてそのサイド部分がしっかりと塗り分けられたように異なる毛色をしていた。言われてみれば確かに、その堂々とした様子は威厳ある殿様の姿にどこか重なるようにも思える。  猫殿は一体どこまで行くつもりなんだろうか。  ここまでその行動を眺めてきた俺には、猫殿にはちゃんと目的地があるような気がしてならなかった。  各駅停車のこの電車のドアが開く度、俺はいつでも降りられるように身構えた。だが猫殿の方はというと動く気配は一度もなく、やはりまだ降りる駅ではないと分かっているように思えた。  自分は一体何をしているのだろう、とふと考える。発車ベルに急かされるように思わず後を追ってきたものの、当たり前のように電車に乗る変な猫を夢中で観察するうちに、その事を運転士に伝える機会を逃してしまっていた。今からでも行けばいいのだろうが、運転席のある前の車両に行く間、猫殿から目を離してしまうのは躊躇われる。  このまま猫殿に付いて行っていいものかどうかと考えているさなか、リュックの中のスマホが鳴った。しまった──と直感的に思うがもう遅い。着信はやはり会社からだった。  他に客はいないとはいえここは電車の中だ。電話に出るのはマナー違反ではないか。どうしようかとあたふたする間にも着信音が鳴り続ける。今すぐ耳を塞ぎたい。いっそ、スマホごと外に投げ捨ててしまいたい。嫌な汗が額に滲む。  その時、向かいから視線を感じた。引き攣ったままの顔を上げると猫殿がまじまじとこちらを見ていた。そうだ、この電車には猫殿も乗っている。猫は耳がいいはずだ。このうるさい音が気にならないわけがない。もし今走って逃げ出されると危険だ。  俺は腹を括り、そして鳴り止まないスマートフォンをマナーモードにして黙らせた。  これで終わりだ──  新卒で入社してから五年、初めての無断欠勤だった。  ガタンゴトンと繰り返す音の中、深いため息をついた。うつむいた視界の端で猫殿の様子をうかがうと、猫殿の目線は再び窓の外の海を捉えていた。 「終点、西奥瀬、西奥瀬です。本日はご乗車いただき誠にありがとうございました」  車内アナウンスが鳴ると、猫殿の耳がぴくりと動いた。ドアが開くと同時にイスから軽々と飛び降り、そのまま電車を降りていく。俺も慌ててリュックを背負い、猫殿の後を追った。  結局、終点まで来てしまった。もしかすると、猫殿はこのまま電車を降りずに涼しい車内に居続けるつもりなのかもしれないと思い始めていたが、そういうわけではなかったらしい。  猫と電車に乗って二人旅(一人と一匹旅)をすることなんてこの先ないだろうと思うと、あっという間に終点に着いてしまったことが少し残念な気もした。  改札を出る途中、真っ赤なワンピースにつばの広い麦わら帽子を合わせたマダムと目があった。彼女は途中の駅で二両目に乗り込んできた客だったが、堂々と電車に乗っている猫殿が目に入った途端ギョッとした顔になり、すぐさま前の車両に移っていった。まあ俺が逆の立場でもそうしたかもしれない。  マダムは俺を一瞥(いちべつ)したあと、少しだけ眉をひそめ、ふいっと顔を前に戻しながら駅前に一台だけ止まっていたタクシーの方に歩いていった。  その後ろ姿を苦々しく見送った俺は、再び猫殿の姿を探す。  だが──  一体猫殿はどこへ行ってしまったのだろうか。きょろきょろと首を振り辺り見回すが、どこにも見当たらない。ほんの一瞬目を離した隙に、どこかへ走り去ってしまったのだ。  改札の脇を通り抜けていくところまでは確認した。だから、もう電車に轢かれる心配はないだろう。  だがそうは言っても、せっかくこんなところまで追いかけてきたのにこんな形で終いだなんて。旅の相棒にいきなり置いていかれてしまったようで、俺は呆然とその場に立ち尽くす。  またここに戻ってくるかもしれない、と思い、諦め悪くその場でしばらく待ってみたものの、結局猫殿は姿を見せなかった。  西奥瀬の駅前には日差しを避けられるような建物がない。五分と経たないうちに汗が吹き出てきた。このままでは身が持たない。  コンビニがない代わりに置いてある自販機で、冷たいペットボトルの水を買った。一気に半分ほど飲み、残りで首元を冷やす。水滴でシャツの襟元が少し濡れてしまったが構ってはいられない。  どこか涼めるところはないだろうか。  いつもの癖でスマホを取り出そうとしたが、その手が止まる。電車の中で聴いた着信音がまだ耳の奥にこびりついている。  こんなことをしても何の解決にもならないと分かっていた。でも、スマホにどんな通知が来ているかと考えるだけで恐ろしくて、それを見る勇気が出なかった。あともう少しだけ現実から目を背ける時間が欲しい。例えそれが自分の首を絞めることだとしても。  とりあえずどこか涼める場所を探そう。  俺はなるべく日陰を選びながら、あてもなく歩き始めた。  西奥瀬に来るのは初めてだ。生まれてから一度も地元を離れたことのない俺だったが、実家から電車で一本で行ける距離のここまでは来たことがない。ここには桜宮島くらいしか目的にするような場所はないし、地元だからこそそういう観光で来るような場所にわざわざ足を運ぶ機会はなかった。  腕時計の針はちょうど十一時を回ったところだ。  この町をしばらく歩いてみたが、この息苦しいような湿った暑さのせいか、まだ人の姿を見ていない。ただ、野良猫の姿であれば先程から何度か見かけることがあった。白い猫を見つけた時はとっさに猫殿だと思ったが、頭の模様を見ればそれが違う猫であることはすぐに分かった。  未練がましく猫殿の姿を探しながら辺りを彷徨っていると、道路の反対側に色褪せた看板を見つけた。 『桜宮島入り口 500m』  そう書かれた文字の下に大きく左を指す矢印が描かれている。  そこの近くならどこか涼める場所かコンビニなんかの店も一つくらいはあるかもしれない。そう考えているとお腹も鳴った。  ペットボトルの水を飲み干し、空になった容器をリュックの横のポケットに押し込む。  進路を左に変え、言われた通り海沿いの道を五分ほど歩くと島が見えてきた。今は潮が満ちているからか、島に続くはずの砂地は確認できない。せっかくなら島に渡ってみたいと思っていたので少しがっかりだ。  想像以上に西奥瀬は田舎のようで、辺りにコンビニは一軒もなかった。だがその代わり、『さくらストア』という店を見つけた。見た目はコンビニのように見えないこともなかったが、中は小さなスーパーのような作りで、海に面した窓側にはイートインコーナーがあった。そこからは桜宮島がよく見えるようだ。  自動ドアが開くと、期待通りのよく冷えた風が蒸し暑い外気に混ざり込むように吹き出した。「いらっしゃいませ」とレジの方から声がかかる。声のした方に視線を向けると、〝さくらストア〟と書かれた鮮やかなピンク色のエプロンをつけた年配の女性がこっちに微笑んでいた。俺もぎこちなく会釈を返す。  時間はちょうど昼時だ。いつもは会社近くのコンビニで買ってから出社するため、今日は何も用意がない。  店内の惣菜ラインナップは思ったより充実していて、食べ飽きてしまったコンビニ弁当より、どれも断然美味しそうだった。  しばらく迷った挙句、王道かつ無難な唐揚げ弁当を手に取る。そして飲み物のコーナーでよく冷えたコーラを選んだ。 「お弁当温めましょうか」 「あ、はい。お願いします」  レジで会計を済ませ、弁当が温め終わるのを待っている時、ふとレジの奥のポスターが目に入った。 「お客さん、桜宮島にいらっしゃったんですか」  俺の視線に気づいたのか、そう尋ねられた。 「あ、えっと、いや……」  温め終わりを知らせる電子レンジの音が俺の声をかき消す。それを聞いてこちらに背を向けた店の女性が、レンジに手を伸ばしながら口を開く。 「その写真みたいな砂の道、今日はまだなかったでしょう。でも、あと一時間もすればだんだん潮も引いてくるだろうと思いますよ。もしそれを待たれるんだったら、外は暑いですし、ここで休んでいかれてくださいね」 「えっと、その……はい、ありがとうございます」  俺がそう言うと彼女は振り返って、「いいえ」とにこやかに笑った。  温めてもらったお弁当を手に、入り口横にあるイートインスペースに向かう。白いカウンターテーブルには五脚の椅子が並べられている。幸い席は選び放題だ。俺は入り口から一番遠い壁側の席を選んで腰を下ろした。  カラッと揚がった大きなからあげを頬張りながら、目の前に見える桜宮島を眺める。真っ青な空と深い海の色に島の緑がよく映えている。  その景色を見た途端に不安が押し寄せてきた。  自分はこれからどうすればいいのか──  後悔とも悔しさとも言えないやりきれない感情が、せき止めていたダムの扉から水を放流するように勢いをつけて溢れる。  一度開いた水門は簡単には閉じられなかった。自分の不甲斐なさを痛感すると同時に、上司の怒号を思い出すと、鉛の詰まった体が海の底に沈んでいく心地がした。  社会人になってからの五年間、決して短くはなかったその時間が思い返される。その中でも、三ヶ月前、あの上司と同じ部署になってからの時間は余計に長く感じた。  日々与えられる仕事が増え、それをこなすために睡眠時間を削った。上司が作るピリピリと張り詰めた空気が常にデスクの周りにまとわりつき、一人、また一人と、仕事のできる人から辞めていった。  俺だって能力があれば、金があれば、勇気があれば──その一つでもあれば同じように辞めていただろう。だがそんなもの、俺には何一つなかった。  次第に口の中に味がしなくなっていく。  味のない肉をコーラで流し込むと、甘ったるい砂糖の味だけが喉の奥に残った。  猫殿が再び目の前に現れた時、俺は幻を見たのかと目をこすった。朝方まで眠れなかったせいか、クーラーの効いた店の中、食後に血糖値が上がった俺には考え事をする気力もなくなるほどの眠気が襲ってきていた。  半分夢の中にいるような気持ちで窓の向こうに目を凝らす。  白い毛並み。細くて長い尻尾。優雅な歩き方。そして何より、頭の上の〝まげ〟模様はまさしく猫殿だった。  一気に眠気が吹き飛んでしまった俺は猫殿の姿を目で追う。  どこからかやってきたのか、猫殿は道路沿いを迷いのない様子で歩いていく。そして次の瞬間、その歩みをピタリと止めた。くるっと横を向いて海と向き合う。その視線の先には、先程までなかったはずの桜宮島へと続く砂の道ができていた。いつの間にか潮が引いていたらしい。  猫殿は上げたままの尻尾を空気をなでるようにしなやかに振ると、島へまっすぐに延びる白い道を悠々と渡り始めた。  俺はとっさに椅子を引いた。リュックを背負い、机の上の物を腕に抱える。  入り口のゴミ箱に急いで弁当の空を突っ込み、振り返ってカウンターの向こうに軽く頭を下げる。そして自動ドアにぶつかりそうになりながら、俺は外へと飛び出した。  まさか、もう一度猫殿に会えるとは思ってもみなかった。まだ旅は終わっていなかったのだ。  店を出て追いかけた猫殿はまだ視界で捉えることができたが、その姿は随分と遠ざかっていた。早足で後を追う。  桜宮島に限らず、こういう海の上にできた砂の道を渡るのは始めてだった。ここの海岸線はまっすぐに長いため、左右にはどこまでも広い海が続いていて、自分がその海の真ん中を歩いていることがどこか現実離れしているように思えた。  まだ乾ききっていない足元の砂を慎重に踏みしめつつ、再び猫殿を見失わなってしまわないように歩みを早める。  猫殿は一度も急ぐことはなかった。後ろからつけてくる人間のことに気づいてないとも思えないが、気にする素振りすらない。  ゆったりと歩く猫殿と急いで追いかける俺との距離は島に着く手前までに縮まり、俺はその間隔が縮まりすぎないように注意を払いながら後ろに続いた。  全体を緑に囲まれた島の入り口には石造りの鳥居があって、そこをくぐると奥に小さな神社が現れた。これが桜宮神社のようだ。古いようだが朽ち果てた様子は決してなく、よく手入れがされているように見える。  神社の屋根にかかるくらいに伸び伸びと葉を伸ばしている大木は、あの有名な桜の木だ。今は桜のシーズンではないため、葉は青々としている。  島の中は木陰のせいかひんやりとしていて、神聖な空気に満ちていた。時折風が吹くと、生い茂った緑がその風を伝えながら揺れた。  伝わってきた風を頬で受ける。  そうして物思いにふけながら桜を見上げていると、どこから「ニャー」と声がした。  声のした方を振り返ると、社の縁に座った猫殿がじっとこちらを見ていた。  そういえば、桜に気を取られて猫殿の存在をすっかり忘れていた。にしても、猫殿はこんな声で鳴くのか──  そんなことを考えながら目を見つめ返すと、猫殿は表情は変えないまま、再び声を上げた。  すると、その声を合図にしたようにぽたりと額に水滴が落ちてきた。見上げた空には、いつの間にか青い部分を覆い隠すように灰色の雲が流れ込んできている。  茶色い土の地面にぽつぽつと水玉模様が浮かび上がったかと思うと、瞬く間にザーッと音を立てて雨が地面を叩きつけた。俺は慌ててリュックを前に抱きかかえると、猫殿のいる神社の屋根の下に駆け込んだ。 「通り雨……だよな」  不安を紛らわせようと、隣に座った猫殿に話しかける。  もちろん猫殿がその問いに答えることはなく、ただ時折ぱたり、ぱたりと尻尾を倒すだけだった。  例え全身が雨に濡れてしまったとしても、帰る道がなくならないうちに戻るべきだろうか。万が一通り雨じゃなかった場合、ここに取り残されてしまいかねない。  天気予報を確認するか。いや、潮の満ち引きを見た方がいいのだろうか。  そう考えながらリュックのチャックを開き、無意識的にスマホを手に取った。そして、その画面を見て息を止めた。  着信が三十件以上、メールが数件。全部会社からだった。  恐る恐る最新のメールを開く。 『これを見たらすぐに連絡するように』  鼓動が胸を強く打つ。  息を吸えない代わりに意識して息を吐き出す。  このまま連絡をしないわけにはいかない。とりあえず平謝りするしかない。  胸の中に溜まった重たい空気を再び外に吐き出す。そして、覚悟を決めた俺はスマートフォンの通話ボタンを押した。  繋がった電話はすぐに上司に取り次がれた。 「今日は本当にすみませんでした」  電話の向こうの相手に頭を下げる。 「あのさ、謝って済む問題じゃないよね。大体お前社会人何年目? 連絡一つしないなんて、学生じゃあるまいし。社会人として給料もらってる自覚ある?」 「すみません」 「質問の答えになってないだろ。いつもそうやってのらりくらりと逃げて。仕事もまともにできない上に無断欠勤か。いいご身分だな」 「すみません」 「ていうか今どこ? まさか、仕事休んで遊んでたわけじゃないよな?」 「いえ、遊んでいたというわけでは……」 「じゃあ何してたんだ? 言えないだろ? まともな人間ならちゃんと言えるんだよ。お前なんかより、今年入ってきた奴らの方がよっぽどマシだよ。ほんと給料泥棒。社会人としての自覚がないなら今すぐ辞めてくれ。まぁ、辞めたとしてお前なんかを雇う会社なんて他にないだろうけどな」  畳み掛ける罵詈雑言の羅列に、俺は「すみません」と返す気力もなくなっていた。  そして気がついた時には口を開いていた。 「──じゃあ辞めます」  それは、自分の耳でもどうにか言葉として聞き取れるくらいの声だった。  相手の方には伝わらなかったようで聞き返してくる。 「だから、辞めます」  今度は語気を強めてそう口にした。  その瞬間、電話口でも相手の怒りが沸点に達したのが分かった。さっきより遥かにまくし立てる勢いで暴言が飛んでくる。  その勢いに圧倒され、俺は正気に戻った。自分の言ってしまったことに今更ながら気が焦ってくる。 「そんな勝手が許されると思ってんのか⁉︎ こっちは人手不足だっていうのに仕事放り出して、誰がお前の仕事するんだよ、え⁉︎」  興奮して抑えの効かなくなった声に、思わずスピーカーから耳を離す。尚も電話の向こうの勢いは止まらない。  もう一度謝るしかない。  そう思った時、側から何か白い物が伸びてきた。  そして次の瞬間、辺りに静寂が訪れた。ついさっきまで大きな音を立てていたはずのスマホの画面の上には、今、白くてもっちりとした小さな手が乗っている。  驚いて横を見ると、猫殿が何食わぬ顔でその手を自分の足元に戻した。俺の手元には通話履歴を表示する画面だけが残っている。  それを見て、途端に俺はバカバカしくなって笑えてきた。  今頃あの人はどういう顔をしているだろうか。突然電話を切られたことに、さぞ驚いているに違いない。  仕事を辞めることをあれほど恐れていたはずのに、今は自分でも驚くほどに心がスカッとしていた。早くこうしていれば良かった。ただ、猫殿の力を借りなければ、俺はまたあの人に謝っていただろうし、仕事も辞められないままだったに違いない。  猫殿に感謝の視線を向けると、猫殿は素知らぬ表情でまた尻尾をぱたりとさせた。  ふと雨音がしないことに気づく。顔を上げると、上にはまた清々しい青が広がっていた。やはり通り雨だったようで、ほっと胸をなで下ろす。 「旅にでも出ようかな」  何となく、猫殿がちゃんと聞いてくれているという気がして、そう話しかけた。 「今日みたいに電車に乗ってさ、知らない街に行ってみるのも悪くないなって」  返事は期待していなかった。ただ、自分の意思を言葉にしておきたかった。  鳥居から風が吹き込み、島の木々を揺らす。  来年は必ず桜を見に来よう。  そう心に決めて島を後にする。  猫殿が追いかけてくることはない。海の真ん中を歩きながら、心の中で「またね」と呟く。  遠ざかった島の方から返事をするような声がしたのは、俺の気のせいだったかもしれない。

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猫と桜の終着駅

メリーゴーランド・ペガサス

「––––またみんなでここくる?」 「うん」 「––––またみんなでこれのれる?」 「うん、そうだよ」 「やくそく……する?」 「分かった。ほら、約束––––」  久しぶりに見た光景は、想像していたものよりずっと色褪せて見えた。  昔は見るだけでワクワクした気持ちになるほど輝いていた遊具たちも、今ではあちこちで塗装が剥がれたり錆びついたりしている。  あの頃、休日はたくさんの家族連れで賑わっていて、どの遊具の前にも行列が出来ていた。今、園内を歩いている老人たちの目的は寂れてしまった遊具などではなく、健康維持のための散歩とカフェテリアでのおしゃべりのようだ。  入り口の職員から事務所に向かうようにと言われてここまで来たが、事務所は一体どこにあるのだろうか。  澪が立ち止まって辺りを見回していると、遠くからスタッフTシャツを着た男性が小走りにこちらへ向かってきた。 「えっと、あなたが真壁澪さん?」   額に大粒の汗を浮かべる体格のいい男性は、見た感じ澪の父と同じ歳くらいに見える。 「はい。真壁です」 「よかった。ゲートに迎えに行こうと思っていたのに遅くなってしまって。すまないね」 「いえ」 「じゃあ、事務所に案内するのでついてきてください」  夏休みは短期アルバイトをすると決めていた。夏休みに入る少し前、コンビニに置いてあった求人雑誌にここの募集を見つけた澪は、その場ですぐさま応募の電話をかけた。 「真壁澪さん。舘岡高校の……一年生か。そうかそうか。じゃあ森くんと同じ学校なんだ––––」  澪の履歴書を見ながら山田さんが頷く。山田さんは、ここの事務所で働く人の中では一番立場が上らしい。  事務所の中のエアコンは少し冷えすぎなくらいによく効いていて、外でかいた汗がたちまち冷たくなっていく。奥でパソコンに向かっている職員の中には、スタッフTシャツの上から上着を羽織っている人もいる。 「いくつか質問してもいいですか」  手元から顔を上げた山田さんが澪の目を見て尋ねた。 「はい」  澪もまっすぐに目を見て答える。 「ではまず、ここで働きたいと思った理由は何ですか」 「家から自転車で通勤できること。あと、昔この遊園地にお世話になったことがあるので」 「……というと?」 「小さい頃、家族で遊びに来たことがあります」 「なるほど。それは嬉しいね」  田中さんが目を細める。  澪は複雑な気持ちを表情に出してしまわないように、奥歯に力を入れる。  田中さんはそんなことには全く気づかない様子で次の質問を口にする。 「じゃあもう一つ質問なんだけど––––」  さっきと違って少し厳しい表情が浮かぶ。  澪はとっさに身構える。 「真壁さんは今高校一年生だよね。高一の夏休みっていうと普通、部活したり友達と遊んだりしたいはずじゃない。そんな大事な時期にここでアルバイトをしようと、しかも週五で働きたいっていうのはどうしてかな」 「それは––––私は部活に入っていないですし、一緒に遊ぶような友人もいないので」 「……そうか。それは立ち入ったことを聞いてしまったね。すまない。ただ、単純に疑問に思ってしまったもんでね」  申し訳ないと頭を下げる田中さんに澪は「いえ」と首を振る。 「真壁さんは、趣味とかあるの? ほら、お給料もらったらあれに使いたいとか、これに使いたいとか」 「いただいたお給料はすべて貯金します」  一瞬の迷いもなくはっきりとそう答えたのを見て、田中さんの小ぶりな目が大きく丸く見開かれた。そして吹き出したように笑い始めた。 「そうかいそうかい。若い割に随分と堅実なもんだ」  何がそんなにおかしいのだろうか、と疑問に思う澪をよそに、山田さんが向かいのソファから腰を上げる。 「では真壁さん––––ようこそペガサス遊園地へ」  前に差し出された手を見て、すぐに澪も立ち上がる。 「一ヶ月間よろしくね」 「––––はい、よろしくお願いします」  その日の晩。会話のない食卓の上で、澪はずっと機会をうかがっていた。 「ごちそうさまでした」と母が手を合わせ、席を立とうとする。 「あのさ」  澪の言葉に母の動きが止まった。二本目のビールを開けた父がテレビから視線を外すことはない。 「何なの、澪。話があるなら早くしてちょうだい」  そうは言うものの、黙って話を聞く気はないらしく、テーブルの上の食器を淡々と片付け始める。 「私、夏休みの間アルバイトすることにしたから」  母の手が再び止まる。父は一瞬だけこっちを見て、また視線を戻した。 「どういうこと?」  母が尋ねる。 「そのままの意味。別に迷惑はかけないから、書類にサインだけして」  山田さんから渡された書類をカバンから出して机の上に置く。  本当は両親には黙ってアルバイトをするつもりだったが、面接の最後、未成年は親の了承が必要だからサインをもらってくるようにと言われてしまったのだ。  親の振りをして自分でサインすることも考えたが、後々面倒なことになっては困る。 「––––ダメだ」  父の反応は想像通りだった。 「どうして?」 「ダメなものはダメだ。学生は勉強だけしてればいい」 「そうよ。まだ高校生なのにアルバイトなんてする必要ないわ」  ––––いつもこうだ。  澪は大きくため息をつく。  父も母も澪の話を聞こうとはしない。澪の話を否定するのに理由なんてないのだ。澪のことが気に食わない。ただそれだけだ。 「うちの高校はアルバイト禁止じゃないし、二人が何と言おうともう決めたことだから」  どうせ話なんて聞いてもらえない、と澪が書類を持って自分の部屋に戻ろうとすると、リビングのドアが開いた。 「別に好きにすればいいんじゃん」 「あら直斗。帰ったの」 「うん。サークルの解散時間が思ったより早まったから」  三つ歳の離れた兄は今年の春から大学に通っている。何のサークルに入っているかは知らないが、この兄のことだから大学でも上手くやっているのだろう。昔から澪と兄は真逆の性格なのだ。 「澪ももう高校生だし、学校の成績も悪くないんでしょ? 部活にも入ってないんだったら、アルバイトくらいした方が将来のためになるよ。な、澪」 「別に私はそういうつもりじゃないけど」 「そうね、直斗の言うことも一理あるわ」  母が顔色をうかがうように父の方を見る。 「––––夏休みだけだ。勉強をおろそかにするようだったら、すぐに辞めさせるからな」  それを聞いて満足したのか、兄が「腹減ったー」と大げさに言いながらテーブルにつく。母が「すぐ温めるからね」とキッチンに向かう。  いつもこうだ。父も母も、兄の言うことには耳を貸す。今に始まったことではない。  でも昔は––––いや、昔の家族はもういないのだ。 「これ、置いとくから」  そう言い残して、澪はリビングを後にした。  夏休みに入ったペガサス遊園地は、澪が面接に来た時より少しだけ賑わいを見せていた。子ども連れだけでなく、なぜか澪と同じくらいの歳に見える若い女子の姿もたくさん見かける。  アルバイト初日、山田さんにまずは園内を見てくるようにと言われた澪は、周りを見渡しながらふと疑問に思った。 「最近うちの高校の女子たちの間で流行ってる噂知らない?」 「いえ。私はそういう噂の類には疎いので」 「そうなんだ。確かに真壁さんは、あんま女子のそういうのに興味なさそうだもんね」 「森先輩は詳しそうですね」 「モリトでいいよ。〝森裕翔〟を短くしてモリト。俺のことは、ここでも学校でもみんなそう呼ぶから。あぁ、山田さん以外、だけどね」  森先輩––––モリト先輩がそう言って笑う。  モリト先輩は澪と同じ高校の三年生でここで働き始めてもう二年以上になるという。田中さんや他の職員たちにも気に入られて頼りにされているところが、誰からも好かれる兄に重なって見えて、澪はあまり良い印象を持てないでいた。 「ほら、あれ見て」  ペガサス遊園地の入場ゲートを入って一番奥。メリーゴーランド・ペガサスがそこにあった。この遊園地の名前の由来もここから来ている。  ちょうどタイミングよく発車ベルが鳴った。微かにギギギと音を立て、大きな糸巻きのような機械仕掛けの乗り物が回り始める。  流れ出した聞き覚えのあるオルゴールのメロディとともにお客さんを乗せるのは、馬ではなくペガサスだ。羽を広げているもの、羽を休めているもの、座り込んで眠っているもの。どれ一つとして同じものはない。  モリト先輩いわく、このメリーゴーランドは日本で三本の指に入るほどに古いらしい。 「ここだけ学生のお客さん多いでしょ。しかも女子やカップルばっかり」  モリト先輩の言葉に澪は素直に頷く。  メリーゴーランドの前にはずらりと若者の列が出来ている。そのほとんどが待ち時間にスマホを見るわけでもなく、上下に動きながら通り過ぎるペガサスに目を凝らしていた。 「これはあくまで単なる噂なんだけど」  そう言いながら耳元に顔を近づけてくる。 「このメリーゴーランドには幸運のペガサスがいるんだって」  突然耳元でささやかれてとっさに距離をとった澪を見て、モリト先輩がおかしそうに笑う。 「なんでもそれを見つけると幸せになれるらしいよ。まぁ何回探しても、そんなの見つかんなかったんだけどさ」 ––––幸運のペガサス…… 『見つかった?』 『いや、ぜーんぜん』  メリーゴーランドに乗っていた女子たちがそんな話をしながら降りてくる。  幸運のペガサスなんて……そんなもの、あるはずないじゃないか。 「まぁそういうわけなんで、今一番手が足りてないのはここ。真壁さんには俺と一緒にメリーゴーランドを担当してもらいます」 「あれ、真壁さんじゃん」 「あ、ほんとだ。え、真壁さんって遊園地で働いてんの」  そう冷やかすような声が聞こえてきたのは、澪がアルバイトを始めて一週間ほど経った頃だった。  澪と同じクラスの女子三人が、それぞれ肩や足をこれでもかというくらいに出したような格好をして、メリーゴーランドの列に並んでいた。  澪は気づかない振りをして目の前の業務に集中する。  メリーゴーランドが止まるとモリト先輩が一周してお客様を安全に降ろしていく。澪はそれが終わったのを確認して次のお客様を案内する。 「お足元危険になりますので、メリーゴーランド内で走ったり写真撮影をするのはご遠慮ください」  教わった通りに澪がそうアナウンスしていると、後ろから「すみませーん」と声がかかった。 「幸運のペガサスがどこにいるか教えてくださーい」  クラスメイトがクスクスと笑い合いながら澪に話しかける。 「––––それは私の仕事ではないので」 「え、何その態度。私たち〝お客様〟なんだけど。お客様にはちゃんとした態度で接客しましょうって教わらなかったわけ?」  澪はぐっと拳を握りしめて小さく深呼吸をした。そして覚悟を決めて謝罪の言葉を口にしようとしたその時、「お客様」と声がした。 「え、モリト先輩!」 「モリト先輩ってあの⁉︎」 「モリト先輩もここで働いてるんですか⁉︎」  今までより明らかに高いトーンで三人が声を上げる。 「お客様。当遊園地のメリーゴーランドは座席がすべてペガサスとなっています。これは世界でも大変珍しいものです。海外で作られた際、その大きな翼でお客様を幸せへと導くようにと願いを込めて特別にペガサスの姿で作られたと聞いております」  堂々とした態度で流れるように説明を続けるモリト先輩に、目の前の三人はぽかんとした表情のまま止まっている。 「ですので、幸運のペガサスがどれかということでしたら、『ここにいるすべて』とお答えします」  そう言い終えたモリト先輩がにっこりと営業スマイルを見せたことで、再び三人の時間が動き出した。 「そ、そうなんですね〜! ありがとうございます」  小さく頭を下げた彼女たちは顔を見合わせ、「行こっ」と逃げるようにメリーゴーランドに乗り込んで行った。  そんな三人の後ろ姿を見届けたモリト先輩が澪の方を見てニヤリと笑う。  それを見て、澪もどこからか笑いが込み上げてくる。 「ありがとうございました」  澪がそう言うと、「こんな時は先輩の腕の見せ所だからね」とモリト先輩が自慢気に笑った。  夏のピークを迎え、ここ数日、35℃を超えるいわゆる猛暑日が続いていた。 「あぢぃー」  ペガサス遊園地のロゴが入った青色のTシャツの首元を、モリト先輩がパタパタと動かす。 「どうっすか、直りそうっすか?」 「いやー参った。この暑さじゃ俺も機械も参ったわ」  この遊園地の遊具のメンテナンスをしてくれている修理会社の山瀬さんが、そう苦笑いしながら滝のように流れ落ちる汗を拭った。 「––––参りましたね」  事務所に戻ると田中さんも同じ言葉を口にした。 「ほんと、参りました」  モリト先輩も珍しく肩を落としている。 「メリーゴーランド、しばらく運転出来なくなるんですか」  澪が尋ねると、田中さんが「うーん」とさらに表情を曇らせた。 「〝しばらく〟くらいで済めばいいんだけど……なんせあのメリーゴーランドは古いからね。次壊れたらもうダメかもとは言われてたんだよ」 「最近、回転率上がってたっすからね。無理させすぎたのかも」 「まぁそのおかげで売上が伸びてたというのも事実なんだけどね……」  よくよく聞いてみると、メリーゴーランド・ペガサスは海外製で年式も古いため、部品自体がもうほとんど手に入らないということらしかった。  まだ予算さえあれば何とか出来るかもしれないのに、と田中さんが頭を抱えていた。 「とりあえず、メリーゴーランドの運転は当分出来ないから、二人はその旨を入場ゲートでお客様に伝えてくれるかな」 「分かりました」 「はい」  重たい足取りで事務所を出ると、アスファルトからジリジリとした暑さが容赦なく跳ね返ってきて、ゲートまで向かう澪たちの歩みを余計に重たくした。  ゲートの前に立った澪は、気合いを入れるために緩んでいたゴムをほどいて再び髪を結び直した。 「澪ちゃんのそのヘアゴム、四つ葉付いててかわいいね」 「下の名前で呼ばないでもらえますか」 「ごめんごめん。でもそれ、いつもしてたっけ」 「いえ。昨日いつも使ってるゴムが切れてしまったので、昔使ってたのを引っ張り出してきました」  物心ついた時にはもうこれを使っていた記憶がある。小学生くらいまでは使っていたはずだ。四つの葉の一枚だけがハートになっているところが気に入っていた。 「いいじゃん。似合ってる」 「そんなことはどうでもいいです。ほら、お客様ですよ」 「おっと––––」  すぐに接客用に切り替わった笑顔で「ペガサス遊園地へようこそ」と声をかけ始める。そういうあっけらかんとしたところが、みんなが彼を憎めない理由なのだろうと澪は最近思い始めた。 「申し訳ございません。当分の間、メリーゴーランドは運休となりました。お手数をおかけしますが、ホームページにて運転再開のお知らせをお待ちください」 『え〜せっかく来たのに』『じゃあ今日はやめようか』  幸運のペガサスを目当てに来た若いお客さんを中心に、澪たちのアナウンスを聞いたお客さんたちが来た道を戻っていく。  ただでさえこの暑い中に遊園地に来ようという人は多くない。家族連れは尚更だ。  とはいえ夏休みの学生たちは暑いことには慣れているようで、この気温の中でもそれなりに足を運んでくれてはいたが、そんな彼らも目的のものがないと分かるとそのほとんどが入り口を前にして足を止めてしまった。  午後になり、外に立っているだけで汗が溢れ出る気温の中、園内はがらりとしていた。賑わっているのはクーラーの効いた屋内のカフェテリアくらいだ。  入場ゲートですることもなくなり、手が空いてしまった澪たちは再びメリーゴーランドに戻っていた。運転休止中とはいえ、手入れを欠かしてしまえばそれこそもう本当に動かなくなってしまう。  モリト先輩が機械の点検や手入れをする間、澪はペガサスの表面を磨く。  木製のペガサスは白を基調として、それぞれの特徴ごとにたてがみや尻尾は異なる色で塗られている。その塗装を剥がしてしまわないように、澪は専用のクロスで丁寧に拭き上げる。 「––––見つかった?」 「え⁉︎」  磨き終えたペガサスの表面をじっくり見回していたところに、モリト先輩がやってきた。 「別に探してたわけでは……」  噂を信じていたと思われたくなくて慌てて否定すると、「ふ〜ん」と何か言いたげな視線が向けられた。 「ただ、本当に他のと違うペガサスがいるのなら見てみたいなと」  それはとっさに口から出てきた言い訳だったが、嘘というわけでもなかった。 「確かに、俺もそう思う。それに、その幸運のペガサスだったら、このメリーゴーランドを復活させてくれって願いも聞いてくれそうだし––––」  そう言ってペガサスの背中を撫でる横顔は浮かない。 「このままだと、このメリーゴーランドはなくなってしまうかもしれないな……」  ひとり言のようにそうつぶやいたモリト先輩の言葉に、澪の心はざわついた。  あの日の約束を思い浮かべる。もう叶うことのないだろうあの約束。  数日後、モリト先輩の不安が予想通り現実となった。 「田中さん! ほんとにもうどうにもならないんですか!」  モリト先輩が前のめりになって田中さんに言い寄る。 「すまない……手は尽くしたんだが……」  力が抜けたモリト先輩がうなだれるように自分の席に座り込んだ。  今朝、とうとうメリーゴーランド・ペガサスがこの遊園地からなくなってしまうことが決まった。ペガサス遊園地よりもっと大きな遊園地が、この珍しいメリーゴーランドの買い取りを申し出たらしい。 「本当に申し訳ない……私だってあのメリーゴーランドをなくしてしまうことだけは、出来ることなら避けたかった。でも、こうやって動かなくなってしまった今、修理費用すら出せないうちにはもうどうすることもできない。だから今回あれを買い取りたいって話は、選べる中で最善の選択だというのが会議での最終結論なんだ」  昼休憩の時間になり、いつもなら事務所で他の職員とワイワイ食事をしているはずのモリト先輩の姿が、今日は見当たらないことに気づいた。 「ここにいたんですか」 「あ、澪ちゃん。よくここが分かったね」 「田中さんがここにいるかもと教えてくれました」 「さすがだね」  モリト先輩が力なく笑う。  三階建ての事務所の屋上は思ったより高くて、見晴らしがよかった。少し離れてはいるが、メリーゴーランドもしっかり見える。 「澪ちゃんお昼ご飯まだなんだったらここどう?」  腰を掛けていたベンチの横に、澪が座れるように場所を空けてくれる。  お昼ご飯にと買ったサンドイッチが入ったコンビニの袋を手に提げていた澪は、素直にそうさせてもらうことにした。 「俺、この景色結構気に入ってんだ」  モリト先輩は遠くの方を見ている。 「こうやって見てると、昔家族みんなで来てた時のことを思い出す。その思い出の中ではまだ父さんも元気なままなんだよね」 「え?」という言葉をサンドイッチとともに飲み込んだ澪は、隣をさりげなくうかがう。 「中二の時に病気でさ。あっという間だった。妹と弟はまだ小さかったし、少しでも早く家族の役に立てるようになりたくてね。高校入ったらアルバイトしようって決めてた。ちょうどここの募集見つけた時は、あ、父さんが応援してくれてるって思ったよ」  寂し気に笑う横顔を見ていられなくて、澪は目を逸らすように遠くのメリーゴーランドに視線を移した。 「あのメリーゴーランドがなくなるってことは、俺にとっては父さんとの思い出が一つなくなるのと同じみたいなことなんだ––––」  小さい頃のモリト先輩と、そんな先輩にそっくりなお父さんがメリーゴーランドに乗る様子を思い浮かべる。  同じようにまだ小さかった澪の姿も、もしかしたらそこにあったかもしれない。 「澪ちゃんは、どうしてここで働こうと思ったの?」  澪は口の中に残っていたサンドイッチを飲み込みながら、どう答えるべきか考えた。 「––––私、卒業したら家を出たいと思ってるんです」 「そりゃまたどうして。あ、でも言いたくなかったら」 「いえ、別に大丈夫です。ただ、家にいても息苦しくて。父や母、それに兄とも折が合わないんです。家族の中で私一人だけそうなんです」  食べ終わったサンドイッチの包装をいつもの癖で無意識に小さくまとめる。 「私もこの遊園地には昔、家族で来たことがあります。思い返してみても、家族での楽しい思い出というのはあれだけだと思います。だから私、あの時はどうしても帰りたくなくて。閉園時間が近づく中、家族の元を抜け出して、その日もう運転が終わっていたメリーゴーランドの中にこっそり隠れました」 「え⁉︎ それでどうなったの?」  モリト先輩が興味津々にこっちを見る。 「結局すぐに母に見つかりました。そして、父にはこっぴどく叱られました」  澪が苦笑いしているのを見て先輩が笑う。 「あの時。ペガサスの下に潜って出てこない私に、母は約束したんです。また一緒にここに来よう、またメリーゴーランドに乗ろうって。でもあれ以来一度も家族でここに来たことはありません。約束したことすら、母は覚えていないと思います」  持ってきていた水筒の蓋を開けて一気に麦茶を喉に流し込む。今日はここ最近では珍しく曇っていて気温も低いせいか、いつもより麦茶が冷たく感じる。 「よし!」  突然そう声を上げてモリト先輩が立ち上がった。 「何とかしないと」 「––––何とかって」  モリト先輩がいつもの調子でニヤリと笑う。 「このまま何もしないままじゃいられないでしょ。澪ちゃんのためにも、もちろん俺のためにも」 「何とかって、まさか––––いや、さすがに違いますよね」 「澪ちゃん、その〝まさか〟だよ」  勤務時間を終え、「事務所の前で待ってて」と言ったモリト先輩は、やっと来たかと思うと「行こう」とまっすぐにメリーゴーランドの方へ歩き始めた。 「ここまで来て考えた策が幸運のペガサスですか⁉︎」  戸惑いを隠せない澪の方を見て、モリト先輩が人差し指を立てる。 「もちろん、他の策も練ってるさ。でも最後はやっぱり神頼み––––いや、幸運のペガサス頼みだろ? とにかくやれることは全部やろう」  まだ納得のいかない澪をおいて、やる気に満ち溢れたモリト先輩はずんずんと前を進んだ。 「本当に幸運のペガサスなんているんですか」  モリト先輩がどこからか持ってきた懐中電灯で、静かなメリーゴーランドの上を照らす。 「俺が調べたところによると目撃情報の出処は複数存在しているから、ただの噂とは考えにくい。そしてそれによると、幸運のペガサスには幸運の印がついているらしいんだ」 「幸運の印って?」  澪が尋ねると、先輩は「それは分からない」と首をすくめた。  澪は半分呆れながらも、ペガサス探しを続ける。 「あ! これは⁉︎」  モリト先輩が少し離れた場所で声を上げた。 「どこですか?」  澪も急いで声のした方へ向かう。 「これ! このペガサスの顔! 他のより笑ってるように見えない⁉︎」  澪の目に映るそのペガサスの顔は確かに他のものより微笑んでいるように見えないこともなかったが、その違いは誤差の範囲に思えた。 「そうか、ダメか。お前じゃなかったか……」  そう残念そうにペガサスの頭をなでるモリト先輩はそのままにして、再びペガサス探しに戻る。  それからも度々澪はいろんなペガサスの元に呼び出されたが、はっきりと幸運のペガサスだと分かる印はどれにもなかった。  そんな中、澪が初めて「あ––––」と声を上げた。  翼を広げて、今にも飛び立とうと片足を上げているそのペガサスは、そこにいるたくさんのペガサスの中で澪が一番気に入っている一頭だ。  その足元に潜って探している時、ちょうどお腹の辺りが見覚えのある形にへこんでいることに気づいた。それと同時に忘れていた記憶が蘇る。 「どうした? 見つかった⁉︎」  モリト先輩にも見てもらう。 「あ、四つ葉のクローバー! ん、待った……この形どこかで––––」  澪は両手を頭の後ろに回し、束ねている髪をほどいた。 「これ、ですね」 「澪ちゃんの髪飾りと同じ⁉︎」  状況が飲み込めず、視線は澪の顔と手の上のゴムとを行ったり来たりしている。 「もしかしたら、幸運のペガサスを生み出したのは私かもしれません––––」  家族でここを訪れたあの日、隠れたのはこのペガサスの下だった。まだ帰りたくなくて、幸せな一日が終わってしまうのが惜しくて、ここに丸まって隠れていたのだ。  間もなく母に見つかってしまったが、それでもまだ帰らないと駄々をこねる澪に母はあの約束をした。それから約束の指切りをしてやっとペガサスの下から出ようとした時、頭を上げた拍子に後頭部を思いきりこのペガサスにぶつけた。そしてちょうどそこは、お気に入りの四つ葉のクローバーのゴムの結び目だった。  泣きわめく澪をなだめる母、危ないだろと心配そうに叱る父、もう泣くなと慰める兄。あの時の出来事が、まるでたった今目の前で再生されているかのように思い出される。  頭の中ですべてが繋がった。 「そうか、お前が幸運のペガサスだったか」  モリト先輩が優しくたてがみをなでる。 「もう少し……この場所であともうひと頑張りしてほしいんだ。ペガサス遊園地にも、俺にも、まだお前たちが必要なんだ……」  何を語りかけるわけでもなかったが、澪も幸運のペガサスの翼にそっと手を置く。そして、願いを込めながら目を閉じた。  ペガサス遊園地からメリーゴーランドがなくなるというニュースは地元で大きな話題となった。今まで澪のアルバイトには無関心のようだった母でさえ、「本当になくなるの」と気にする素振りを見せた。 「おはようございます」  いつものように事務所の扉を開けて挨拶をした澪の声は瞬く間に消え入ってしまった。何やらザワザワと落ち着かない雰囲気だ。  会議用の大きな机を囲むように集まる人混みの中に、モリト先輩を見つけた。 「あの、どうかしたんですか?」 「あ、澪ちゃんおはよ。ね、ちょっとこれ見て」  机の上にはダンボールが二箱乗っていて、その中には溢れ出そうなほどたくさんの手紙が入っていた。 「これって––––」  近くにいた田中さんが手紙の一つを取って澪に手渡す。 「メリーゴーランドがなくなることに対する反応だよ。どうにかして残してほしいって声がたくさん届いたんだ。他にもメールや電話もいっぱいきてる」 「この手紙、私も見ていいですか」  澪が尋ねると、田中さんが「もちろん」と頷く。  その手紙には、ペガサス遊園地のメリーゴーランドにはかけがえのない思い出があると書かれていた。それは家族にとっては数少ない大切な思い出で、まだそこで果たしたい約束もあるのだという。  その手紙を読んでいる途中、澪はあることに気づいた。幸せな思い出をなぞるように綴られた文字は、澪がよく知った字にそっくりだった。  封筒を裏返した澪は息を飲んだ。 ––––真壁ゆうこ  母の名前だ。この手紙に書かれた約束とは、澪と交わした約束のことだったのだ。母は澪との約束を覚えていたのだ。  手紙の最後にはこう書かれている。 『叶うことなら、もう一度家族四人でそちらを訪れたいのです。娘との約束を叶えたいのです。メリーゴーランド売却の件、どうか今一度見直してはいただけませんでしょうか』  胸の奥底から言葉にならない感情が込み上げそうになるのをぐっと堪える。 「皆さん、少しいいですか」  前に立った田中さんに注目が集まり、その場が静かになる。 「実は最後の悪あがきにと進めていたことがありまして––––」  田中さんがモリト先輩の方をちらりと見た。 「森くんの提案により、メリーゴーランドの修理費用を集めるためのクラウドファンディングを始めたところ、想像以上の寄付が集まり、本日目標額を達成しました。なので……メリーゴーランド・ペガサスの売却は白紙になりました!」  最後の一言を待って、事務所の中に大きな歓声と拍手が沸き起こった。  まだ信じられないという気持ちで隣のモリト先輩を見上げると、先輩がいつもの得意気な顔でニッと笑みを作る。  あの時、『何とかする』と言った先輩が〝幸運のペガサス探し〟の他に考えていた策とはこれだったのか。  そう気づいて、澪はモリト先輩のことを少しだけ見直す。 「そういえば澪ちゃん」 「何ですか」 「最近、俺が澪ちゃんって呼んでも怒らなくなったね」 「それは––––いちいち訂正するのが面倒なだけで」 「じゃあこれからも澪ちゃんでいいんだ」 「誰もいいとは言ってないです」  じっと睨む澪に、先輩が「ごめんごめん」と笑いながら謝る。 「メリーゴーランドがなくなるって話、あれ白紙に戻った」  夕飯を食べ終え、母がキッチンに立ったのを見て、澪は母にそう報告した。 「––––そう」  皿を洗う母の手が一瞬止まる。  澪はその隙を逃すまいと母の横に立った。そして、泡のついた食器を水で流していく。 「あの約束覚えてる?」  戸惑うような感情が横から伝わってくる。澪はできるだけ淡々とするように心がけながら次の皿を手に取る。 「昔、ペガサス遊園地に行った時の」 「––––忘れるわけないでしょ」  その声は蛇口から出る水の音の中でもはっきりとしていた。 「また行けるかな。お父さんは、無理かもしれないけど」 「そんなことないわ」 「え?」 「お父さんだってあの時した約束のことを知ってるのよ。あのメリーゴーランドへの寄付が始まったって聞いて、真っ先に寄付をしていたのはお父さんだもの。それにアルバイトも。心配だってお父さん、直接様子を見に行ったくらいなんだから」 「え⁉︎」  まったく知らなかった父の姿。知ろうとしなかった父の姿だ。 「あのメリーゴーランドが再開したら、お父さんとお兄ちゃんも誘って、きっとまたみんなで行けるでしょ」  時を経て、再び家族みんなでペガサス遊園地にいるところを想像してみる。 「でもやっぱり、この歳で家族とメリーゴーランドに乗るのはさすがに恥ずかしいかも」 「恥ずかしかったってことも、いつかはまた思い出になるんじゃない?」  そう言って母が静かに笑う。 「あ、そうだお母さん」  澪にはいつか話そうと思っていたことがあった。  最後の皿を流し終えた澪が尋ねる。 「ペガサス遊園地のメリーゴーランドには、幸運のペガサスがいるって知ってた?」

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メリーゴーランド・ペガサス

ファインダー越しの逆光

 夕暮れ時の小さな公園。水平線に沈む夕日にレンズを向ける君。真っ赤な空と対象的に、影の落ちた君の背中。  一瞬吹いた風が君の髪をなびかせた瞬間、それを逃すまいとファインダー越しにシャッターを切った。 「今日も暇だね〜」 「事件がないのは実にいいことではないか、ワトソンくん」 「それはそうだね。ところで、松田くん。いい加減、その呼び方はやめてくれない?」 「桜高のホームズと呼ばれるこの名探偵にその座を任されたというのに、君は何の不満があるというのかね」  自称桜高のホームズを名乗る僕のクラスメイト、松田くんが変人……いや、こう風変わりであるのはいつものことだ。 「この座を任されたも何も、他に候補がいなかっただけのことじゃないか」  僕はそう言って周りに視線をやる。行事の飾り付け用の花飾りや、脚のガタつく椅子、未開封のチョークの箱の山に、いつの時代のものか分からない古いカメラなどが、視界のほとんどを埋め尽くしているこの部屋には僕と松田くんの二人しかいない。  人より備品の方が圧倒的に場所を取る四畳ほどのここ、備品倉庫は、三階建て校舎の最上階の廊下を進んだ一番奥の角部屋に位置する。角部屋ゆえに日当たりがいいことだけをメリットに持った、現在の僕らの活動拠点だ。  ドアに取り付けられた備品倉庫と書かれてあるネームプレートの上には、この春“推理研究会”と手書きされたA4の紙が貼られた。もちろんこの推理研究会、通称“推研”の言い出しっぺであり発足者である松田くんの手によってだ。  僕達が通う桜木高校は、県下一の進学校であると同時に文武両道を掲げており、様々な部活動においても輝かしい結果を残していることで有名な歴史ある高校だ。  そんな格式高い桜高で新しく正式に部活動として認めてもらうにはいくつかの条件がある。  部員が五人以上であること。そして、顧問を引き受けてくれる先生を見つけること。これが部活動を名乗る最低条件だ。その上、部員が三人未満だと同好会としてすら認めてもらえない。  部活動であればそれ相応の部室と潤沢な予算をもらえ、同好会であれば許可を得て空いた部屋を部室代わりに使わせてもらうことができる。  僕ら推理研究会は、推理研究同好会というのが正式名称だ。推理研究同好会、略して推理研究会なのだからこれで問題はないというのが松田くんの主張だ。  僕らが同好会として活動するからには、僕らの他にもう一人の部員が存在する。ただ、僕はまだその人の名前を知らない。  松田くんが推研を立ち上げる際にその存在について聞いてみたが、そのうち分かるとはぐらかされてしまった。  推理研究会と言っても探偵の出番があるような事件などこの学校で起きるはずもなく、未だ知名度もない推研は開店休業状態だ。  そんな時にやることといえば、名の知れた推理小説を読み返したり、世界の未解決事件の記事にああだこうだと持論を展開することぐらいだった。  この日も例に漏れず、同じように過ごしていた僕らの元に、推研の発足以来、初めての依頼が舞い込んできた。 「この写真に写る彼女を探して欲しいんだ」  松田くんがどこからか拾ってきた少し傾いた学校机の上に、一枚の写真が置かれた。 「君はえっと……あぁ、隣のクラスの野島くん」 「佐々木だよ。同じクラスの」  そう言った佐々木くんは、堂々と失礼な事を言う松田くんに対して少し眉をひそめた。  入学して半年も経ったというのに、まだ自分の顔も名前も覚えていないクラスメイトがいたとしたら、誰だってこういう顔になるだろう。 「松田くんが事件にしか興味ないことは分かってたけど、さすがにクラスメイトにまで無関心だなんてあんまりだよ」 「申し訳ないんだけど彼に悪気はないんだ、ごめんね」と僕が言うと「別にいいよ」と佐々木くんが愛想笑いをした。  僕が代わりに謝っているというのに松田くんはそれを気にも留めず、ただ顎に手を置いて机の上の写真に見入っている。 「ところで野島くん」 「佐々木くん!」 「では、佐々木くん。この写真の場所は緑が丘公園かい?」 「あぁ。一週間くらい前にそこで撮ったんだ」  彼が撮ったその写真は、夕日が沈む水平線の写真を撮っている人を、そのさらに後ろから撮るという構図で、そこに写った人がちょうど夕日によって逆光で影になっているのがとても幻想的な一枚だった。 「佐々木くんって写真撮るの上手なんだね」 「え……ありがと」  佐々木くんは褒められていないのか、長い腕を自分の首の後ろにまわした。  丘の上にあるこの緑が丘公園からは、街と海が一望できる。僕は知らなかったが、そこは知る人ぞ知る夕日の絶景スポットなんだそうだ。  佐々木くんはフィルムカメラが趣味で、休日はいろんなところを訪れては、景色や人物など様々な被写体をカメラに収めているらしい。その日は夕日を撮ろうと緑が丘公園に行ったところ、そこで同じように夕日を写真に撮る彼女に出会い、思わずシャッターを切ったという。 「で、この女性を探して欲しいと?」 「あぁ。あの後何度かその公園を探したんだが見つからなくてさ、結局彼女がどこの誰かも分からないんだよ……」  そう視線を落とした佐々木くんには見向きもせず、松田くんは何か考え込んでいるような様子だ。 「どうしてその時彼女に声を掛けなかったの?」 「それはその、思わず勝手に写真を撮っちゃったから、なんか後ろめたくなっちゃって……」 「なるほど……じゃあ一応なんだけど、もし彼女が誰か分かったとして、佐々木くんはその後どうしたいのか聞いてもいいかな」  少し言い淀んだあと、彼はこう答えた。 「もう一度俺の写真の被写体になってくれないか頼もうと思ってる。今度はちゃんと許可を取って、そしたらその写真で次のコンテストに応募するつもりなんだ」 「え! それすごくいいね!」  佐々木くんの答えに僕が密かに胸を打たれていると、今まで黙っていた松田くんが突然口を開いた。 「正直なところ、人探しの依頼は我が推理研究会の出る幕ではない」 「え!? せっかく初めての依頼が来たのに、そんなあっさり断っちゃうの? 推研の名をみんなに知ってもらうチャンスじゃん!」  呆気に取られた僕がそう前のめりに言うと、松田くんは演技がかったような余裕のある表情を作って笑った。 「まぁまぁ落ち着きたまえ、ワトソンくん。誰も断るとは言っていない」  誰かに説明を求めるように佐々木くんの方を見たが、彼の言っていることの意味が分からないのはどうも僕だけではなかったようだ。 「それはつまり、この依頼を受けるってこと?」  僕がそう聞くと、松田くんは何故か佐々木くんに近寄り、何やら僕に聞こえないように耳打ちした。  一瞬驚いた表情を浮かべた佐々木くんだったが、松田くんが何か企みのありそうな笑みを浮かべると、彼は静かに頷いた。 「さぁ、我らが推研の初仕事といこうか」  桜高のある山の裏手を流れる田上川は辺りを田んぼに囲まれていて、山からの湧き水が流れるその川の水は濁りがほとんどなく、都会では見られないような様々な魚が生息している。 「この辺りのはずなんだけど……」  一面田んぼばかりのこの辺りに紺色の制服が混ざれば、一目で分かりそうなものだが。  桜高からの坂を下る紺のセーラーや学ランのほとんどが、坂を降りてすぐ街の方へと続く道に進むというのに、僕はというと学校から見て街と反対側にあるこの田んぼ道に足を向けた。  多くの生徒が部活動を終え帰宅する時間にも関わらず、そこに学生の姿は一つもない。  そう思い、諦めて帰ろうとしたその時、草むらの中で何かが動くのが分かった。 「ヒャッ」と情けない声を上げた僕の前に、大きな紺色の影が現れる。 「もしかしてワトソンくん? 鈴之助から聞いてるよ」  そう僕をワトソン呼びした人は、僕と同じく桜高の学ランを着ており、肩には立派なカメラを掛けている。名札に引かれた濃紺のラインからするに、一学年上の先輩だ。  鈴之助と言われてすぐにはピンとこなかったが、それが松田くんの下の名前であったことを思い出す。 「あ、はい。いや、ワトソンじゃないですけど」 「あぁ、ごめんごめん。鈴之助がいつも君をワトソンって呼ぶから、つい」 「あ、いえ」 「じゃあ君を何て呼べばいい?」  好奇心に溢れた表情でそう聞かれる。 「えーと……名字で……あ、いやでも、やっぱりワトソンでいいです」 「そう。じゃあワトソンくん。見せたい写真があるって聞いてるけど」 「あ、はい!」  リュックの中からクリアファイルを取り出し、そこに挟んでおいた写真を取り出す。データは別に持ってるからと、昨日佐々木くんが写真を借してくれたのだ。 「これなんですが……」 「あぁ確かに。にしても随分と古いモデルだね」 「こんな影だけの写真でも分かるんですか!?」  カメラのことに関して僕は全くの素人だから、何が何だかさっぱりだ。 「まぁ、これはフィルムカメラの中でも特徴のあるモデルだから。で、これの持ち主を探しているのかい?」 「はい……分かりそうですか」  ここで写真を撮ってる人に聞けば何か手がかりを得られるかもしれないと言われて来たものの、写真一枚で、しかも逆光でそこに写るカメラも人も姿が分からないというのに、持ち主を探すだなんて向こう見ず過ぎはしないか。  そう僕は思っていたが、先輩の反応は意外なものだった。 「正直僕にはちょっと難しいんだけど、他に当てがないこともないよ」 「え、本当ですか!?」  明らかに音の高くなった僕の言葉に対して、心強く頷いてくれたその人の顔に、僕はどこか見覚えを感じた。 「すみませーん! 誰かいらっしゃいますかー」  店の扉が開いていたため営業中だろうと入って来たが、中には客はおろか店の人の姿もなかった。  カウンターの奥の扉は覗き窓にカーテンが引かれていて、中の様子は伺えない。 「すみませーん!!」  もう一度そう呼びかけると、扉の向こうでカーテンが開き、中から店主らしき年配の男性が出てきた。 「あぁ、お待たせして申し訳ないね。ベルが鳴らなかったから、てっきり空耳かと思ったよ」  店主の視線を追うと、カウンターの上に『ご用の際はこのボタンを押してください』と丁寧に添え書きされた呼び出しボタンが置かれていた。 「あ、すみません。気づかなかったです」 「いいの、いいの。それでご用は何でしょう」 「あ、えっと……」  先程と同様にリュックから出した写真を店主に見せる。 「突然で申し訳ないんですが、このカメラの持ち主を知りたいんです……」  恐る恐るそう尋ねた僕の言葉と間も開けずに店主が答えた。 「あぁ、これは瑠璃ちゃんのカメラだね」 「え、彼女をご存知なんですか!?」 「もちろん。ここの常連さんだからねぇ。こんな古くて珍しいカメラを使ってるのはここらじゃ彼女だけだと思うよ」  正直、僕はこんなにあっさりと見つかるとは思っていなかったため、驚き入ってしまった。 「あの、彼女と連絡を取りたいんですが……」 「あぁ、少し待ってね。このノートに連絡先が乗ってるから……」  こんなに簡単に個人情報を話していいのかと思ったが、今はありがたいので黙っておく。 「瑠璃ちゃんの名字は確か……あぁ、夏川、夏川……」  店主がそう呟いたとき、僕はハッとした。 「あのう、その瑠璃さんの名字は夏川なんですか?」 「あぁ、そうだよ」  店主が頷き終わるのを待たず僕は店を飛び出していく。 「あの、ありがとうございました!」 「もういいのかい!?」と後ろからかかる声に僕は「はい!」と大きな声で答えた。 「さて、皆さん本日はお集まりいただきありがとうございます」  僕と松田くんを入れて五人もの人数は、さすがにあの窮屈な備品倉庫には入り切らないので、僕達は学校の中庭にあるベンチに集合した。 「あの……この方達は……」  心当たりのない顔が二人も増えたことに佐々木くんは困惑しているようだ。 「まぁ、待ちたまえ。せっかくこの桜高のホームズと呼ばれる私が、我が推研初の謎解きを始めようというのだから、楽しみは後に取っておいた方がいい」  みんなが松田くんの発言に納得したのかは分からないが、佐々木くんをはじめ、その場の全員がそれぞれベンチに腰を下ろした。 「まず、私は先日、ここにいる佐藤くん」 「佐々木くん!」 「佐々木くんにこの写真に写る人物を探すように依頼された。本来、人探しは私の専門ではないのだが、今回はやむを得ず……」  話が横道に逸れそうになり、僕はまたツッコミを入れた。 「あぁ、そうだな。それで、私はこの写真を見てある二点に注目した」  全員の視線が松田くんが持つ写真に集まる。 「まず、私は彼女の服装に注目した。これはおそらく、うちの高校の制服だろう」 「え!?」  写真の女性の格好は影になっていて、一見、彼女がうちの制服を着ているのかどうかの判断は難しいように思える。 「松田、どうしてそう言えるのか説明してくれ」 「簡単だ、ここを見ればな」  そう言って松田くんは写真の女性の襟元を指差した。  僕が首を捻っていると「これ、セーラー服!?」と佐々木くんが答えを口にした。  言われてみると確かに、真っ暗な影の中に僅かに風に揺れたセーラー服特有の襟が見受けられる。 「あ、そうか。この辺りの高校でセーラー服なのは、桜高だけだ!」 「そういうことだワトソンくん」 「でもこの町の中学校は、ほとんどがうちと似たセーラー服だよね」  そう指摘を入れたのは、この謎解きに呼ばれたうちの一人、昨日田上川でこの写真について尋ねた先輩だ。  いたずらを仕掛けた少年のように片方の口角を上げた先輩に、松田くんが満足気な笑みで答える。 「確かにこの町の中学校にはうちと同じようにセーラー服の学校がある。ただ……」 「ただ……?」  肝心なところを焦らす松田くんに痺れを切らして思わず催促する。 「この辺りの中学生はローファーを履かない」 「「あ!」」  僕と佐々木くんの声が重なった。  この町の中学校はすべて、白いスニーカーを指定靴にしている。僕も中学生の頃はそれを履いていた。  この写真の彼女の足元は暗くてはっきりしないが、それがスニーカーでないことはその形から明らかだ。 「なるほどね。だからこの写真の彼女がうちの学校の生徒だと分かったわけだ。やるな鈴之助」 「まぁね」  探偵役に成り切っていた松田くんに一瞬幼い表情が浮かんだような気がした。 「さて。どこか遠くの町から来た可能性を除けば、これで彼女は桜高の生徒であると推理できた」  こんなにちゃんと推理をする松田くんは初めて見た。桜高のホームズという名はあながち間違ってはいないのかもしれない。 「最初に、この写真で注目したところは二つって言ってたけど、もう一つの点は何なの?」 「さすがワトソンくん。スムーズな進行だ」 「え、あ、ありがとう」  不意に褒められて、急に自分がワトソン役であることを実感してきた。 「ここでまず私の話なんだが。私はある人物のおかげでカメラにはそれなりに精通している。もちろん探偵たるもの何事にも精通していなければならないので、カメラはその一つに過ぎないのだが」  少なからずその場の人間は、さっきの推理で松田くんを見直していたところだっただろうに、彼自身のその自慢話とも取れる発言により、彼を称える空気は一気に冷え切ってしまった。 「そこで私は、その写真に写るカメラに注目した」  ようやく本題だ。 「そのカメラが珍しいものだと気づいた私は、さらにカメラに詳しい者の元に私の助手を向かわせた」  松田くんが先輩の方を見た。 「それでワトソンくんが僕の元に来たわけだ。で、僕はこの古いフィルムカメラに不可欠な定期メンテナンスを、この町でただ一つ可能な店を紹介したんだ」 「あぁ。そして、最後の大事なピースをワトソンくん、君が持って帰ってくれた」  みんなの視線が一気に僕に集まる。 「えっと、はい。先輩から教えてもらったお店でその写真を見せると、やはりそのカメラは珍しいようで、すぐに持ち主が分かりました。下の名前だけ聞いた時には分からなかったんですが、その人の名字を聞いて驚きました。だって……」  僕が言葉を続けようと息を吸い込んだとき、今までただ黙って僕達の話に耳を傾けていた彼女が口を開いた。 「あの……話は何となく分かりました。そして最初は気づかなかったんですけど、その写真に写ったのが私だというのも分かりました」 「え!」  佐々木くんが文字通り目を丸くしている。 「あの時あそこにいたのは夏川……だったのか……?」  彼女がコクンと頷いたのを見て、佐々木くんの目がより一層見開いた。 「僕も驚いたんだ。佐々木くんの探していた人が、まさか同じクラスにいるなんてね」 「夏川もカメラ、好きなのか?」 「うん、特にフィルムカメラが。去年の誕生日に、おじいちゃんからそのカメラをもらってさ……」 「……あの、ごめん!」  佐々木くんが彼女に向かって勢い良く頭を下げた。 「え、どうしたの!?」 「だって俺許可も取らずに、ただすごく綺麗だなと思って、夏川の写真勝手に撮っちゃったから」 「ううん、謝る必要なんてないよ。むしろありがとう。こんなにいい写真を撮ってくれて」  彼女がそう微笑むと、佐々木くんはホッと胸を撫で下ろしたように笑った。 「さて、では約束通り、佐々木くんは我が推理研究会に入部してくれるということでいいかな?」 「え!?」  突然の展開に言葉を失った僕を横目に佐々木くんが頷いた。 「ワトソンくんには言いそびれていたが、写真の彼女を見つけた暁には、うちの部に入ると彼と約束を交わしていたのだよ」  佐々木くんがうちに写真を持ってきた時、二人で何やら話していたのはこの事だったのか。 「でも、佐々木くんは推研より写真部とかがいいんじゃ……」 「うちには写真部がないんだよね〜、それが。だから僕も従兄弟の鈴之助が作った推研に間借りさせてもらっているわけで。まぁ僕はカメラオタクの野鳥好きで、趣味の野鳥撮影がメインだから学校での活動実績はほとんどないんだけどね〜」  ……先輩が松田くんの従兄弟……? そうか。どうりで、どこかで見覚えのある顔立ちだと思ったわけだ。 「ついでにどうかな、そこの君も」  松田くんがそう言って夏川さんの方を見た。 「どうって私が推研にですか!?」  思いも寄らない提案に驚いている彼女に向かって、松田くんはさも当然かのような顔で頷く。  彼女は言葉を詰まらせたものの、佐々木くんの方に視線をやると覚悟が決まったのか、松田くんに大きく頷き返した。 「私も……推研に入部します! いつか私もこんな写真が撮れるようにもっと上達したいので!」 「では決まりだ。これで五人揃った。晴れて、我らが推理研究会が部活動として認められることになる」 「え? 待って。じゃあ、松田くんは最初からこれが目的で今回の件を引き受けたの?」  あまりに完璧な事の運びに、僕の理解はまだ追いつかない。 「あぁいかにも。なぜなら私は、桜高のホームズとまで呼ばれる名探偵だからね」  名探偵の“めい”を強調して言った松田くんの顔は、今日一番の満足気な顔だった。 「ときにワトソンくん」 「あ、うん」  この呼ばれ方もすっかり馴染んでしまった。 「君に頼みたいことがあるんだ。この名探偵の良き友人にして名助手、ワトソンくんにしか頼めないことだ」  名助手はもちろん、良き友人と呼ばれたのも初めてだった。 「うん、どうしたの?」 「我が推理研究会の顧問を引き受けてくれる先生を、急ぎ探してくれないか」

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ファインダー越しの逆光

チューインガムにご注意

 年の初めの挨拶は、氏神様にと決めている。  地元ではそれなりに大きなこの神社は三賀日の間、多くの初詣客で賑わう。  手水舎の冷たい水で清めてかじかんだ手で、本殿に参拝した私は、年始恒例の運試しをしようとおみくじを引く列に並んだ。  この神社のおみくじは六角形の筒から棒を引くタイプのおみくじで、その内容は吉凶の運勢とありがたいお言葉の二つだけというシンプルなものだ。  百円玉を箱に入れ、竹筒をガラガラと振る。棒に書かれた番号を確認した私は、その番号に割り振られた棚から、裏返したままの紙を一枚取った。  去年は確か吉だったから今年は大吉だといいな、なんて呑気に油断していたからか、紙を表に返した私は衝撃を受けた。 「凶……」  こんなものはただの占いに過ぎないとすぐに自分を慰めてはみたものの、その一文字から溢れるそこはかとない負のエネルギーに、新年早々私の心は打ちのめされた。  考えてみれば凶なんてものを引いたのは、人生二十数年生きてきた中で初めてのことだった。それこそ小さい頃は無垢な心のおかげかよく大吉を引き当てたものだが、ここ数年の運勢はどれもパッとしなかった。だがそうは言っても、あくまで一貫して普通のラインを行き来していたはずだった。  それがここに来てのこの運勢だ。  良く言えばこれ以上下がりようがないのだから、これから上がるだけとも言えるが、いつ上がるかもはっきりしないのにそんな気には到底なれない。いやそれ以前に、私が知らないだけでこの棚のどこかには大凶も潜んでいるかもしれないのだから、これから下がる可能性すら残っているのだ。  そうだ、さっさと結んでしまおう。  そう思いすぐ側のおみくじ掛けに駆け寄った私は、それを折りたたむ寸前、まだ読んでいない箇所があることに気がついた。 “悪しき運勢は足下から。常に足下注意すべし”  凶というあまりのインパクトにすっかり気を取られ、せっかくの助言を見逃すところだった。  足下というからには、転倒して足を怪我したり、道端に落ちた何かに乗って足首を捻ったりしてしまうということだろうか。いずれにせよ、凶の文字に負けず劣らずのインパクトがある文面だ。  丁寧におみくじを結び心の中で手を合わせた私は、努めて足下に注意しながらその神社を後にした。  おみくじと一緒に悪しき運勢とやらを神社に置いてきたつもりではいたものの、冬の澄んだ晴れ空とは裏腹に私の気持ちはどんよりとしたままだった。  神社から自宅までは車で十分かそこらという距離だったが、途中からだんだんとおみくじの結果に納得のいかない気持ちが湧いてきた私は、こうなったらもう一度おみくじを引き直してやろうと、ちょっと遠回りをして他の神社に寄ってみることにした。  初めて行くその神社には駐車スペースがないようで、少し離れたコインパーキングに車を停めて歩く。  先ほどの神社とは打って変わってこぢんまりとした社殿には、ちらほらと参拝客の姿が見て取れた。  手水舎で再び手を清め、湿ったハンカチで手を拭き終えると、おみくじの内容を帳消しにするべく誠心誠意手を合わせた。  まずは何事も無病息災。それで十分だ。  参拝し終わると、初詣に来たと思しきカップルが目に入った。  そのカップルが手にしていたハート型の絵馬を見て、ようやく気がついた。  ここはどうやら恋愛成就の神様を祀っているらしい。  恋愛の神様に無病息災などと、随分お門違いな頼みごとをしてしまった。神様の苦笑いが目に浮かぶようだ。  所詮、凶の人間は凶。どうあがいても無駄であることをようやく私は悟った。  おみくじを引き直そうと意気込み訪れたこの神社だったが、そんな私の内なる闘志のようなものは冷たい一月の風と共にどこかへ飛ばされていったようだった。  もうこのまま家に帰ってしまおう。  そう思いながら遠目でおみくじの並ぶ社務所の方に視線を送った。  近頃は一口におみくじといっても多種多様なバリエーションがあるが、ここの神社はやはり恋みくじが人気であることが遠くからでも分かった。  前に付き合っていた人と別れてからどれくらいが経ったのだろうか。先ほど参拝したいつもの神社にも恋みくじのようなものはあったのかもしれないが、ここ数年は恋愛より仕事の方にやりがいを感じていたため、そんなおみくじの存在は目に入ってすらいなかった。  そんなことを考えていた私は、気がつくと無意識におみくじの方へと引き寄せられていた。 『とんぼ玉恋みくじ』  今どきはこんなものもあるのか。  普通のおみくじより少し高いが、おみくじと一緒に入っているらしいとんぼ玉の見本の写真は、どれを引いてもハズレがない可愛さだ。  おみくじを引くんじゃなくて、とんぼ玉を引くんだ。だからどんな運勢でも私には関係ない。  そんな言い訳じみた理由を思いつき、結局私は二度目のおみくじを引くことにした。  今度は丸くくり抜かれた穴に手を入れて引くタイプのおみくじで、私は自分の頼りない直感を当てに一つを選んで掴み上げた。  ビニールの袋を開けて取り出したとんぼ玉は綺麗な翡翠色で、所々に流れる透明な線がより一層ガラスの美しさを際立てていた。  すっかりそのとんぼ玉を気に入った私は、肩にかけたバッグの紐にそのままそれをぶら下げた。  あとに残ったのは一枚の紙。  どんな内容でも気にしないと心に決めると、とんぼ玉の丸みに沿って少しクシャッとなったそのおみくじをそっと開いた。  知らぬ間に張り詰めていた空気が一瞬にして解ける。  大吉だった。  恋みくじであるからには恋愛に限った事だろうが、一日に凶と大吉を両方引くなんて、占いとはなんと当てにならないものだろうか。まあ、自分で引いておいて何なんだが。  こういう時は最新の運勢を信じればいいのだろうか。  そもそも占いの結果は気にしないと決めていたのに、そんな疑問が浮かんできた。  運勢に添えられたラッキーアドバイスとやらには「空を見上げて」とある。  ん……? いや、まってくれ。  さっき引いたおみくじには足下に注意しろと書いてあり、このおみくじには空を見上げろ、すなわち下を見てばかりいるなと書いてある。  これは大いに矛盾した話ではないだろうか。空を見上げながら足下に気をつけるには、一体どうしたらいいというのだ。  恋みくじは恋愛専門だから、他のことは知ったこっちゃないということなのか。まるで、神様に恋愛かそれ以外かの二択を迫られているようだ。  当然ながら、私の場合は一つ目のおみくじに従うことを選べばいいはずだ。恋愛より、仕事。恋愛より、健康だ。  神社を出る前に振り返って一礼し、苔むした鳥居をくぐったあと、私は細い道路に出て停めてきた車を目指した。  すぐ上を通る飛行機の音が聞こえたので空を見上げると、そこには綺麗な空が広がっていた。雲一つない空は清々しく、まさに快晴だった。  その時の私が足下への注意を怠っていたことは言うまでもないだろう。  少し前を歩いていた男性が振り返り「あっ!」と声を出したのと同時に、右の靴の裏にグニュっとした不快な違和感が生じた。  その違和感の正体を確認しようと恐る恐る右足を持ち上げると、アスファルトと地面の間にミントグリーンの粘り気のある糸が伸びた。  誰かが吐き捨ててまだ間もないであろうチューインガムが、今日下ろしたばかりの新品のブーツの裏にべったりと付いていたのだ。 「大丈夫ですか!?」  先ほど声をかけてくれた男性が近づいてくる。 「は、はい。ガムを踏んでしまっただけなので……」  地面に膝を付いた私はそう答える。 「あちゃー。全然大丈夫じゃないじゃないですか。俺が危機一髪避けたのを見事に踏んじゃってますよ」 「あ、えぇまぁ……そうですね。やってしまいました」  どうにかブーツを地面と切り離してみたものの、靴底にはまだたっぷりとガムがくっついたままだ。 「そこのコンビニまで歩けますか? 俺、水買って来るんでちょっと待っててください!」 「あ、いや、車まですぐなので……」  そう言い終えるより先に、彼はコンビニに走り出していた。  確かに水があれば、手持ちのティッシュを濡らして拭き取り、いくらかマシになるかもしれない。  一気に憂鬱な気分になった私は、すぐそこに見えるコンビニまでぎこちなく歩いた。 「お待たせしました」  コンビニ前の縁石に腰を下ろしていた私の元に、ペットボトルとウエットティッシュを手にした彼が戻ってきた。 「これで落ちますかね……」 「ありがとうございます。やってみます」  水とウエットティッシュを使い、頑固なガムのベタつきを落としに取り掛かった。  ガムの塊を大方取り除いたあと、残った水分を拭き取ろうとバッグからポケットティッシュを取り出す。 「あ、それ!」  バッグに手を伸ばした私を見て何かを思い出したのか、彼はそう言うと、着ていた紺色のダウンコートのポケットから群青色のとんぼ玉を出した。 「もしかしてそれ、そこの神社の恋みくじですか?」  私がそう尋ねると、彼は少し照れたようにはにかみ頷いた。そんな彼を見て私は続ける。 「でも、おみくじなんてやっぱり当たらないですね」 「え?」 「あ、いや、私に限った事かもしれませんが……」  私は自分の恋みくじを彼に見せた。 「大吉です。しかもラッキーアドバイスは“空を見上げて”ですよ。それなのに空を見てたらこんなことに」  からっぽの笑みが空に消えた。 「まぁでも、ここに来る前に引いたもう一つのおみくじは当たっているかもしれません」  靴底を拭きながら思い出す。 「もう一つ?」 「はい。そっちは凶だったので結んできちゃいましたけどね」 「凶ですか……」 「はい、凶です。足下に気をつけろと書いてありました」 「それは何というか……」  彼は続ける言葉を探しているような曖昧な表情を浮かべた。 「私、こういうおみくじとか占いとかそんなに信じないタイプなんですけど、さすがに凶を引くとヘコんじゃいますね」  そう愚痴をこぼしている間に、靴底が元通りとはいかないまでも、歩けるくらいになった。 「でも俺は、この神社のおみくじも当たってると思うけどな」  彼がボソッと呟いた。 「え?」 「これ……」  彼の方を見ると、彼は再びダウンのポケットに手を突っ込んだ。 「俺がさっき引いたおみくじ。大吉です」  そう言ってニッと笑う。 「しかもここ見てください」  彼の指差したところを見ると、そこには“足下に注意”と書かれていた。 「え、私の凶のおみくじと同じ」 「はい、俺のは大吉のはずなんですけどね」  そう言って笑う彼に釣られて、思わず私も笑みをこぼした。 「でも、おかげでガムを踏まずに済みました」 「なるほど、それは何よりです」 「ありがとうございます」  素直に嬉しそうな彼の顔に私の頬も緩んだ。 「とはいえ、恋みくじの大吉にしてはあんまり……」  そう言ってから水を差してしまったかもしれないと気づき、さりげなく彼の目を覗いてみたが、すぐにパッと視線を逸らされてしまった。やはり気分を害してしまっただろうか。 「えっと、そんなことないです。俺にとっては……」 「なんかすみません。せっかくよくしていただいたのに余計なこと言ってしまって……あ、そうだ。コンビニで支払ったお金……いくらでしたか?」 「え、それくらい大丈夫ですよ」 「いえ、そういうわけにはいかないです」  二つで五百円ほどだろうと財布を確認してみると、小銭の持ち合わせがなかった。 「お賽銭とおみくじ代で小銭を使ってしまったみたいで、千円札しかありません」  私が千円札を手渡そうとすると「本当に大丈夫なのに」と彼は困った顔をした。 「お釣りを返そうにも俺ももう小銭持ってないし……」 「じゃあ私何かコンビニで買って、お札くずしてきます」  そう立ち上がろうとした私を彼が引き止めた。 「じゃあこうしましょう! お釣りの分、俺に奢ってくれませんか?」 「えっと、それはどういう……?」 「丁度近くに美味しいぜんざいの店があるんです」  思いがけない提案にどう答えたものかと迷っていると、彼が眉を下げて「ぜんさいは嫌いですか」と顔を覗き込んできた。私はとっさに体を仰け反らせてブンブンと首を横に振る。 「良かったです! あ、でも靴が……」  なぜか火照ってきた顔を隠すように、私は勢い良く立ち上がって歩き出す。 「さっ、なんだか体も冷えてきたし、早くあったかいもの食べに行きましょ」  私が早口にそう言うと、すぐに「はい!」という返事と明るい足音が後ろからついてきた。  私の足音はというとまだどこか少しベタついているようで、それに気づかれまいと少し歩みを早める。  神様の考えることは計り知れず、私はその手のひらの上で転がされているような感も否めない。  だが、私の視線は自然と、空にのびた飛行機雲を捉えていた。

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チューインガムにご注意

ラブストーリーは順番待ち

 師も走る師走というものの、この時期一番忙しいのは他でもなくこの私だ。  人々はクリスマスという言葉に浮かれ、街に溢れたイルミネーションの下の幻想にうつつを抜かした多くの男女(実際は男女に限らないのだが)は、ノリと勢いだけの“にわかカップル”を形作る。  だがそれは決して自然発生したものではない。私の存在なくして彼らはクリスマスに手すら繋げないのである。  私は疲れて霞んだ目で手に持った書類を眺める。  そこには二人のプロフィールと、恋が始まる前までの彼らの話、まぁ例えるならラブストーリーのプロローグが書かれている。  恋の始まりの決定が下ると、それが例え“にわか”だったとしても、始まりから終わりまでの一連のストーリー、いわゆる“ラブストーリー”を私は紡がなければならない。それが私の仕事だ。  ラブストーリーには書き甲斐のあるものあれば、そうでないものも当然ある。この時期に生まれるのは大抵後者だ。  そしてそのほとんどが、数年後には当事者たちの手により黒歴史として存在を消されてしまう。私が彼らのために割いた時間もすべて無駄になるのだ。  恋の始め方や展開、結末は私に委ねられるが、恋を始めるかどうか決めるのは私の仕事の範疇でない。始まりも私が決められようものなら、この世のほとんどの恋は始まりさえしないだろう。  肝心の物語の結末をいつどのように迎えるかは、その恋に対する私の興味の大きさ次第だが、“にわかカップル”の恋路に対する私の興味は、その辺の石ころに対するものとたいして変わりはない。  心から書きたいと思えない話は筆が乗らない性分なのだから、この時期の仕事はいかんせん捗らない。  新たなラブストーリーを待った人々の書類が、順番待ちをするように私の机の上に次から次に積み重なっていく。  まったくもって悩ましい。昔の恋愛はもっと奥ゆかしくて起伏に富み、時間が経つのも忘れて夢中で筆が進んだというのに。  だが仕事は仕事だ。割り切るしかない。  ここを乗り切れば年末と正月が来る。それまでに大掃除をしなくては。新年早々、この机の上に紙の一枚も必要ないのだ。  私とて正月は休みたい。その邪魔をしようものなら……  結末を期待しておくことだ。

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ラブストーリーは順番待ち

サンタクロースの星探し

 どこまでも続く白い雪の中をずっと北の方に進むと、遠くにモミの木が見えてきます。  それを目指してもっと進むと、そのモミの木はだんだん大きくなって、やがてそれを見上げる頃には、雪の中にひっそりと建つ真っ赤な屋根の家も見えてくるでしょう。  家の前の郵便受けとそのすぐ側に置かれた木のソリ。よく見ると、雪の上に丸まった三頭のトナカイの鼻までも真っ赤に色づいています。  大きな四角い窓を覗くと、すぐ側には子どもが五人横に並んでも十分なほど大きいベッド。パチパチと音を鳴らす暖炉が作り出しているのは、温かいオレンジ色の光と揺らめく影。  部屋の真ん中にある木のテーブルには子ども達が一生懸命書いた、何十、いや何百枚もの手紙。その一枚一枚を優しい笑みで眺めるのは……そう、サンタクロースです。  え? 本当に彼がサンタクロースなのかって? まあ確かに。少し色あせたストライプのパジャマを着て、鼻の上に小さなメガネを乗せた彼は、傍から見たらどこにでもいる白ひげのおじいちゃんのように見えるかもしれません。  でも、そこにある大きな木のクローゼットを開けてみてください。一見普通のクローゼットのようですが、よく見ればきっと見慣れたあの赤い服が一着ハンガーに……  ほら、あったでしょう? それは彼が特別な日だけに着る、特別な服なのです。  これは正真正銘、本物のサンタクロースのクリスマスまでの物語です。  朝日が昇るのと同時にサンタクロースは仕事を始めます。  ミルクたっぷりのカフェオレとバターを塗ったパンで朝食を済ませた彼は、赤いスウェットの上下に着替え、茶色のコートを羽織ると、まず大切な仕事仲間のトナカイ達の世話をするために外に向かいます。  トナカイ達にそれぞれご飯をあげる間、サンタクロースは彼らの毛並みをなでながら世間話を始めます。内容は大抵子ども達の話です。トナカイが子ども達の話を楽しみにしていることは、その嬉しそうな顔を見ていれば分かります。  みんなが朝食を終えると、サンタクロースは家の裏手にあるモミの木の様子を見に行きます。  体の大きなサンタクロースでも大きく見上げるほどに立派なその木の一番高いところにはお星様があります。  今は空が明るいのでよく分からないかもしれませんが、夜になるとこのお星様は夜空で一番の輝きを放ちます。そして、この光がこのモミの木を特別なモミの木にするのです。  サンタクロースはこの木を“プレゼントツリー”と呼んでいます。  彼がこう呼ぶ理由はそう、このモミの木にプレゼントの実が成るからです。  え? プレゼントって木に成るのって?  確かに、プレゼントを作るための工場で働くサンタや、はたまた街で一つ一つプレゼントを探しているサンタを今まで想像していた人もいるでしょう。  ですが、サンタクロースが子ども達に届けるプレゼントはすべてこの特別なモミの木、プレゼントツリーから生まれているのです。  ツリーには実際、すでに色とりどりの小さなプレゼントの実ができています。  ちょうど最近実に色がついて、目を凝らすとそれがプレゼントだと分かるくらいの大きさになってきたところなので、サンタクロースはその成長を毎日楽しみにしているのです。 「子ども達がよろこぶ顔が楽しみじゃな。大きく元気に育つんじゃぞ」 そう言って微笑みながら、サンタはプレゼントツリーに成った小さな実を眺めます。   クリスマスの前夜。その日までサンタクロースは大切にプレゼントツリーを育てるのです。  部屋に戻る前に郵便受けを覗いたサンタは、新しく届いた子ども達からの手紙を両手いっぱいに抱えて部屋に戻ります。  それを一日かけて丁寧に読んでいくのが彼の毎日の仕事です。  そうしてサンタが受け取った願いは、ツリーの星に託されます。そしてその願いを受け取った星が、ツリーにプレゼントの実をつけるのです。  それからしばらく経ったある日。その日の分の手紙をすべて読み終え、外が暗くなった頃、家の窓ガラスがガタガタと風に揺れていることにサンタクロースは気づきました。  窓から外を覗くと空は灰色の雲に覆われていて、斜めに強く打ち付けるような雪が、唯一辺りに輝きを放つツリーの星の光に照らされています。  どうやら今夜は吹雪になりそうです。  サンタクロースは慌てて部屋の真ん中に置いてあった机を壁に寄せて広い場所を作ると、家のドアを開け、外で寄り添うように暖をとっていたトナカイ達を家に入れました。  頭に乗った雪をブルッと落として中に入ったトナカイ達は、すぐに暖炉の前で丸まり、静かに寝息を立て始めました。  それを見てホッと一息ついたサンタは、ベッドに入って窓の外を眺めます。  だんだんと強くなる雪の向こうで、窓の外のツリーの光が一瞬チカッとした気がして、サンタクロースは心配な表情を浮かべます。 「ツリーは大丈夫じゃろうか……」  このまま心配していてもどうすることもできない。きっと、寝て起きたら吹雪は通り過ぎとるじゃろう。  そう自分に言い聞かせながら、サンタは眠りにつきました。  翌朝目を覚ましたサンタクロースが窓を覗くと、外はすっかり吹雪がおさまっていました。  同じく目覚めたトナカイ達と朝食をとったサンタは、いつものように外に出てプレゼントツリーの様子を見に行きます。  まだ新しい雪をサンタが早足で進むと、その異変がすぐに目の前に現れました。 「な、なんということじゃ……」  すでに随分と大きくなっていたはずのプレゼントの実は、ほとんどが地面に落ちて昨晩の雪をかぶり、ツリーについたままのプレゼントも本来の輝きを失っていました。 「これはまずいぞ」  サンタは急いで道具小屋から長いはしごを持ってきて、それをさらにずっと長く伸ばし、プレゼントツリーに立てかけました。  そしてツリーのてっぺんまで登ったサンタは、頂上に飾られたお星様に手を伸ばしました。  ですが、どういうことでしょう。サンタクロースがそれに手を触れる前に、大きな星が粉々になって雪の上に散ってしまいました。 「あぁ、あぁ……なんてことなんだ」  星を拾い集めようとはしごを降りたサンタは雪をかき集めますが、もう星のかけら一つもそこにはありません。  呆然と雪の上に座り込んだサンタは、ツリーを見上げます。  たった今までそこにあったはずの星がなくなってしまったことを、まだ信じることすらできません。 「クリスマスまであとわずかだというのに、一体どうしたらいいんじゃ……」  プレゼントを楽しみに待つ子ども達の顔がサンタクロースの頭に浮かびます。そこに悲しい顔は一つもあってはなりません。  サンタクロースは立ち上がりました。  子ども達の笑顔を守るために、サンタクロースは何がなんでもクリスマスの日にプレゼントを届けなくてはいけないのです。 「新しい星を探さなくては……」  サンタクロースは庭のソリをトナカイ達につなぎ、着の身着のままで空に飛び立ちました。  まずサンタクロースは西に向かいました。  途中で出会った商人に大きな星がどこかにないか尋ねてみると、商人は首をかしげたあとこう言いました。 「うーん。星ねぇ……そういや隣町の雑貨屋でそんなのを売ってると聞いたな」  すぐに隣町に向かったサンタは商人に聞いた雑貨屋に入りました。  事情を話すと、店主は売り物の星を持ってきてくれました。 「どうだい? これは使い物になりそうかい?」  ブリキで出来たその星は大きいものの輝きはなく、サンタクロースの探していた星ではないようでした。 「すまんが、これは違う星のようじゃ」 「そうかい……あ、ならあれはどうかな。ここからずっと東に進んだ街に、一際輝く星があると聞いたことがある」 サンタクロースは店主にお礼を言うとすぐに店を出て、ソリで東の街へ向かいました。 「これのことかしら?」 サンタクロースが訪ねた大きなお屋敷に住む夫婦の一人娘は、首元に美しく輝く星の形の宝石を身に着けていました。 「これはわたくしがお母様から頂いたもので、お母様はお祖母様から、お祖母様はひいお祖母様から代々頂いたものですの」 確かにそれは一際輝く星でしたが、指先に乗せてしまえるほどの大きさで、やはりサンタクロースの探していた星ではなさそうでした。 「それはとても素敵なものじゃ。これからも大事にしておくれ」 「えぇ、ありがとう。そういえば……ここから遥かずっと南の方に、輝かしくて立派な星があると聞いたことがありますわ」  娘にお礼を言ったサンタクロースはまたソリに乗り、今度は南を目指して空に飛び立ちました。  大きな海を一つ越え、険しい山を二つ越えた時、やっとサンタクロースは目的の街につきました。 「この辺りじゃろうか……」 そこは今まで訪れた中で一番小さな街で、商店もなければ大きなお屋敷もありませんでした。 「何かお探しですか?」 サンタクロースが星を探して辺りを見渡していると、一人の少年がそう声をかけました。 「この辺に輝かしくて立派な星があると聞いたのじゃが」 「星……僕はこの目で星の輝きを見ることができません」 そう言った少年は手に杖を持ち、その目は開いていましたがどこか遠くを見ているようでした。 「この街にそんな星があると僕は聞いたことがありませんが、もしかしたら街の誰かなら知っているかもしれません。ちょっと行って聞いてきます。さあ長旅お疲れでしょう。その間にうちで休んでいってください」  少年はサンタクロースを家に案内すると、井戸で汲んできてコップに入れた水と、小麦を練って作ったというお菓子をサンタに出し、すぐにまた外に出ていきました。 「シリウス、いるかい?」 サンタクロースが少年を待っていると、少年を訪ねてきた女性が家のドアを開けました。  中にいる見知らぬ老人に驚いた彼女に、サンタクロースは今までの経緯を話しました。 「なるほど、あたしもそんな話は聞いたことがないね……実はあの子、事故で両親を亡くしているんだよ。視力もその時に一緒に……でもね、あの子は希望を捨てたりしなかった。それどころかこんなに優しい子に育ったんだ。この街で一番輝いていて立派な星は他の何でもなく、あの子じゃないかとあたしは思うけどね」 確かに少年の心の優しさは、サンタクロースの探している星に負けないほどの輝きを放っていました。  ですが、その輝きはツリーに乗せるためのものではありません。それは、これからもこの街やこの街の人々を明るく照らしていくためのものだとサンタクロースは思いました。  そこに少年が肩を落として帰ってきました。 「お帰りシリウス。探し物は見つかったかい?」 女性がそう尋ねると少年は静かに首を横に振りました。 「せっかく手伝ってもらったのにすまないね」 「お役に立てずすみません……」 「いや、君の気持ちがとても嬉しかった。ありがとう」 サンタがそう言うと、少年は小さく笑みを浮かべました。 「僕の名前は父がつけてくれました。母は僕に言いました。空で一番輝くこの星のように、周りを照らす人になるんだと。僕にとって一番輝く星は、やはりあの空の星です。僕には見ることができないけど、それが僕の行く道をいつも照らしてくれます」 サンタクロースは少年の言葉を聞いてただ静かにうなずきました。 「帰る前に、君の願いを聞いてもいいだろうか」 ソリに乗ったサンタクロースは少年にそう尋ねました。 「僕の願い……両親にもう一度会いたい……でもそれはきっと叶わないから、せめてもう一度だけでいいからこの目で星を見たい……」 「君の願い、確かに受け取ったよ」 サンタはそう少年に微笑むと、北に向かって飛び立ちました。  星の光が消えてからもう何日も過ぎ、明日はとうとうクリスマスです。  星探しの旅を終えて家に戻ったサンタクロースは雪の上に寝そべり、夜空を眺めていました。  地上の星はどれも探していた星ではありませんでした。そして今、空にはあれだけの星があるのに、その一つも手に入れることができません。星の力がなければサンタクロースはプレゼントを用意することさえできないのです。 「あぁ、一体どうすれば……」 サンタクロースがそう呟いた時、彼の視界を眩しい光の線が横切りました。  まばたきもできないほどの間の出来事に、慌ててそれを目で追うと、その光は雪山の向こうの方に落ちていきました。  飛び上がったサンタクロースはウトウトしていたトナカイ達を起こし、再びソリに飛び乗ります。  山の向こうではあの光が今もなお夜空を照らしていて、サンタはそれを頼りにその場所へ向かいます。  そしてすぐにその光はだんだんと近づいてきました。 「これは……」 そこには確かに目を細めるほどの眩しい光を放つ大きな星が落ちていました。ツリーの上に飾るには十分すぎる、立派な星です。 「あぁ。これはずっと探していた星だ。さっそくツリーまで持って帰ろう」 大きな星を何とかソリに乗せて家に戻ったサンタクロースは、プレゼントツリーにはしごをかけ、てっぺんに星を置きました。  その時、一瞬星の光が消えて雪景色が暗闇に包まれました。  その光景にサンタクロースは目をギュッと閉じました。そしてサンタが再び祈るように目を開けると、星は辺りにまばゆい輝きを放っていました。  その光がツリーを光の波で包むとツリーはすぐに小さな実をつけ、それはやがて立派なプレゼントの実へ成長しました。 「これで子ども達にプレゼントを届けられる」  サンタクロースはホッと胸をなでおろすと、すぐにプレゼント袋を持ってきてプレゼントをつめ、一度家に戻りました。  クローゼットを開いて、サンタクロースはあの服に袖を通します。今日の日のための特別な服です。 「よし、これでいい」  外に出るとトナカイ達も準備を終えたようでした。 「さあ、もう一仕事頼めるかな」 サンタクロースがそう言うとトナカイ達は一声あげて夜空に飛び立ちました。  クリスマスを迎える夜中。子ども達が寝静まった頃。サンタクロースは一年で一番忙しい、でもまちに待った時を迎えます。  サンタクロースは子ども達ひとり一人の笑顔を思い浮かべながらプレゼントを届け、そして子ども達の健やかな成長と幸せな未来を願います。  南の街をあとにするとき、ふとソリの上でサンタクロースは空を見上げました。  そこには一際輝く星があります。  その星を見上げているのは、彼一人ではありません。  夜空を見上げた少年は、確かにその星と同じ輝きを目に宿していました。

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サンタクロースの星探し

少年と老人

「なぁ、少年」  学校からの帰り道、ランドセルのまま土手に寝転んだ僕は、視界の外から突然聞こえたしわがれ声に驚き体を起こした。  声の主を探すように振り返ると、荷車を手にした一人の老人が僕の後ろに立っていた。肩くらいまである髪は縮れ、髭は伸びきり、服の襟や袖も伸びてしまっていて、老人はお世辞にも綺麗とは言えないような身なりだった。髪や髭の所々に白が混ざった様子からしておそらく老人で間違いないだろうが、本当のところの年齢はよく分からなかった。  老人は戸惑う僕には目もくれず、ただ上を見上げてこう言った。 「少年はこの空が何色に見えるかい」 何色と言われても、上に広がる初夏の空には雲一つない。  他に何色に見えるのだろうか。わざわざ僕に聞いたからには違う答えがあるのかもしれない。  そう思って考えてみたものの他の答えが一つも思い浮かばなかった僕は、恐る恐る最初に考えた色を答えた。 「えっと……青…………」 僕の答えを聞いた老人は言葉を発することも表情を変えることもなく、たださっきよりもっと上を見上げ静かに息を吐いた。  きっと僕は間違った答えを言ってしまった。今のは多分僕に呆れて出たため息だ……  またやってしまった。今朝の授業でも僕はみんなの前で答えを間違った。僕のクラスでは授業のとき、ほとんどみんなが手を挙げる。僕だけ手を挙げないのはおかしいし、かと言って答えに自信がない僕は、いつも出来るだけ影を潜めるように手を挙げていた。  でも今日はツイていなかった。いつもは先生と目が合わないようにうつむいているのに、今日はふと顔を上げたときに偶然先生と目があってしまった。僕はすぐに目を逸らしたが時すでに遅く、僕はみんなの前で自信のない答えを発表しないといけなくなった。  そして、その答えは間違っていた。  言葉のない時間に耐えられなくなってきた頃、自分から老人に正解を尋ねてみるべきか迷っていると、またしわがれた声が僕の鼓膜に響いた。 「私には灰色に見える」 僕はもう一度空を見上げてみる。だがやはりそこには青空が広がっていて、僕には少しも灰色には見えなかった。  そして老人は言った。 「もう何年も、私は青空を見ていない」 吸い込まれるような青空の下で、僕は老人の言った言葉の意味を考えた。

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少年と老人

トリック・オア・トリート

「今すぐあれを出せ。さもないとお前を……」  俺に向けられているのは、俺の人生の幕を降ろしかねない絶体絶命のあれだ。  夕食を買いにコンビニに行った帰り、コンビニの角を曲がって細い抜け道を通ろうとしたところで俺は後ろから声かけられた。  振り返ると黒ずくめのそいつの手には月明かりに照らされる金属の塊。向けられた者は誰しも両手を上げ無抵抗になるだろう。もちろん俺もその一人だ。 「えっと……今なんて……?」 「だから、今すぐあれを出せよ。さもないと……」  奴はそう言って手の中のものをちらつかせ笑った。  それが本物かどうか、奴が本気かどうか俺には判断できない。それを確認するにはやられてみる他なさそうだ。まぁ、人生を終える覚悟があればの話だが。 「あの……一つお伺いしてもいいですか?」 ここは慎重に腰を低くして交渉しなくては。 「なんだよ……」 いきなり俺の態度が変わったことに奴が少し動揺する。 「あなたが言う“あれ”とは、一体何のことでしょう」 「は? お前ふざけてるだろ。それともお前はそんなことも分からない“バカ”なのか?」 あからさまに“バカ”を強調されて少しカチンと来たが、ここでキレては詰んでしまう。 「あ、そうですよね。“あれ”のことですよね。すみません。でも生憎、私の手元にはこれしかありません」 俺はそう言って、手に持ったコンビニの袋を差し出す。 「チッ、本当に一つも持ってないのか。てか、お前ろくなもん食ってないな」 コンビニ袋からカップラーメン(店で一番安かったやつ)をとりだし、奴が呆れた顔で俺を見た。 「すみません。今、少々金に困っておりまして。どうかこんな残念な私を見逃してはいただけませんでしょうか」 申し訳なさそうに俺が言うと、奴は少し考え込んだのちニヤリと笑った。 「確かにお前は残念なやつだ。だが、こっちも遊びでやってるわけじゃない。向こうで仲間が俺の帰りを待ってるんだ。手ぶらで帰るわけにはいかない。それにお前も知ってるだろ?」 そう言って奴はあの言葉を口にした。  俺は心の中でため息を零す。今日はこんな奴が他にもうじゃうじゃいるのだろうと思うと、いい加減うんざりしてくる。 「だったら俺にどうしろと?」 「そうだな。残念なオトナは公開処刑だ」  はぁ……俺は一体何をしてるのだろう。目の前で勝ち誇ったように笑う、小学校もまだ低学年くらいの少年を俺は見下ろす。何故“お菓子”くらいのことで俺は世界に晒されようとしているのだろうか。 『お菓子をくれなきゃいたずらするぞ』なんて言葉を作ったのはどこのどいつだ。いまどきのクソガキどもにしてみれば、そんなの格好の言い訳じゃないか。  まだ俺の腰ほどの身長しかないくせに、いっちょ前にスマホなんか持って、堂々とこっちに向けてくる。  俺が一歩でも間違った行動を取れば、世間の目には間違いなく俺が悪者に映るのだろう。何でもかんでも撮ったもん勝ち、晒したもん勝ち。ったく、なんて恐ろしい世界なんだ。 「あのなぁ、黙って聞いてれば何だ? スマホ持ったくらいで偉そうに」 さっきより低く凄ませた声で俺がそう言うと、少年の顔が一気に引き攣った。 「は? 偉そうになんかしてないし。てか、晒されてもいいわけ?」 そう言って少年は精一杯余裕のある表情をしてみせる。 「お前、人にしたことを自分もされるかもって考えたことないのか? 何もスマホを持ってるのはお前だけじゃない。こっちは子供だと思って手加減してやってんのに、あんまり調子乗ると……」 俺はポケットの中からスマホを取り出す。 「これ、今までの会話全部録音してあるから。晒すならどうぞ晒しなよ。SNSにでも何でも好きにすればいい。ただし、やったことをやり返されて文句は言えないよな。俺もこれをSNSに載せる」 俺は少年にスマホを向けてフラッシュをきる。 「もちろん、顔写真付きでな」 俺が軽く口角を上げると、少年は今にも泣きそうな顔で腰を抜かしたようにその場に座り込んだ。  少し大人気なかったかなとも思ったが、やはり目には目を歯に歯をだ。  近づいてよく見ると、どうやら悪魔の仮装をしていたようだ。確かにたちの悪さは俺にしてみりゃ悪魔とそう変わらない。  俺はジーパンのポケットに手を突っ込んで食べかけのミントタブレットを取り出す。 「これで勘弁してくれよ、悪魔さん。これも一応菓子だろう?」 俺がタブレットを差し出すと、少年は涙を零しながらそれを受け取った。 「いいか。お前がなりたい未来はお前のたった一つの行動で叶わないものになるんだ。取り返しがつかなくなる前に、SNSの怖さに懲りとけ。もちろん友達にも同じように言っとくんだ。俺がお前にあげられるのはこれくらいだ」  ちゃんと理解できただろうか。アイツはどんな大人になるんだろうか。あんなふうに育ったのは必ずしもアイツだけのせいではないだろう。  あぁ、もうやめだ。ったくハロウィンなんてろくな祭りじゃないな。どうせ今もどこかで、子供となんら変わらないようなオトナたちがバカ騒ぎをしているんだろう。 「あ……」 俺は大事なことを思い出した。  やってしまった。さっきのとこにカップラーメンを置いてきてしまった。夕飯どうしようか。戻るのもカッコつかないし…… 「はぁ、腹減った」  給料日前日の今日、ミントタブレットもなくなったポケットには三十円だけ。いまどきお菓子ですらろくに買えない金額だ。  俺だってさ…… 「トリックオアトリート……」 虚しい呟きは、俺の苦笑いとともに街の喧騒の中に消えていった。

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トリック・オア・トリート