ハヤト
8 件の小説日傘
梅雨が明けたのか明けてないのか、とにかく暑い日だった。湿度と気温にイライラしながら人混みを歩くのは想像を超えるストレスや負荷が襲いかかる。そう分かっているのに、この不愉快極まりない大通りのそれとは見合わない狭い歩道を歩かなければならない。ソフトケースに入ったベースと左手に持ったエフェクターが詰まったケースがさらに自分をストレスと負荷の境地に追い込む。唯一の救いと言えば、会話を交わさなければならない同行者がいないことだけだった。 目の前を日傘を刺した中年の女性が歩いている。背の低いその女性の傘の穂先がちょうど僕の目を攻撃するかのような位置で常に待機している。ストレスとイライラの要因を増やしてくれるこの中年女性に殺意までは行かないものの、蹴り飛ばしてしまいたい衝動に襲われる。そんな感情を堪えながら、いつも以上に重く感じる背中のベースと左手をベトつかせるエフェクターケースを疎ましく感じながら日傘の中年女性の後を歩く。いや、言うなれば歩かざるを得ない。何故なら僕が向かう駅と同じ方向に日傘が移動しているからだ。ほんの少しズレて歩けば解決できる問題を人混みという名のストレスが完膚なきまでに僕を阻む。 とにかくスタジオへ…いや、電車に乗ってこの日傘の中年女性と離れるまでは…そう自分を奮い立たせて必死に歩いている時だった。中年女性の日傘は凶器と化し、テロリスト然とした彼女の凶器の穂先が僕の右目に急に襲いかかってきた。咄嗟に避けるが穂先は僕の頬を掠めてヒリヒリとした感覚を置き去りにしていった。 地球に存在している生物として当然の怒りと言う感情が芽生えたのはいうまでもない。怒りにかまけて怒鳴り散らすのも良いかもしれないが、あまりにも通行人が多過ぎて恥ずかしいし、そもそもそんな度胸もない。無言でさりげない反撃がベストの選択である。そんなことを考えながら何も行動に移行できないまま駅は近づいている。 駅前の交差点で信号は赤になっていた。背中のベースを背負い直そうと少し屈んだ時、ベースのヘッドの部分がぼくの背中を越えて目の前に立っている中年女性の凶器として立派に存在している日傘の中に入り込み、彼女の前方の視界を遮ぎるように後ろから前に大きく押し上げた。人として当然の礼儀として「すみません」と謝罪したが、日傘の中年女性は振り返ってぼくを睨みつけただけだった。 心に火がついた。直後にそう感じた。 「すみません、すみません。」 心にもないこの5文字の単語を繰り返しながらベースのヘッドで日傘を真後ろから前に押し上げる。そうすると中年女性は前方の視界が遮られるらしく、あからさまにイラついた様子で振り返ろうとしているかのように思えた。しかし大量の歩行者達と信号のプレッシャーのせいか振り向けずにただひたすら前に進んでいる。が、前方が自らの凶器で視界を防がれているせいか、直進しては人にぶつかり、また直進しては…を繰り返した。 何度も人にぶつかりながらも中年女性は決して謝るという行為には及ばなかった。
向こう側の女
① 知らない人が僕の部屋で夕飯の支度をしている。昨日もここで寿司の出前を一緒に食った。一昨日は何か作っていたような気がする。 この「女」が僕の家に現れてから温かい飯が毎日欠かさず食卓に並ぶ。それにしてもこの「女」の記憶がまるでない。名前や年齢は当然、いつ僕と知り合ったのか、僕との関係はどういったものなのか、全く僕は知らない。 ② 「女」の存在を確認したのは、耳がもげてしまいそうな寒さが厳しい冬の日だった。ような気がする。酒に酔ったおぼつかない手つきでアパートの玄関を開けると「女」はリビングに座っていた。あたかもそれがありきたりな日常であるかのように。 「おかえり。遅かったね。お腹空いちゃったから先にご飯食べ始めちゃってる。」 そう切り出した見ず知らずの「女」は、あたかもここが我が家であるかのような自然な態度でコンビニのおでんと缶ビールを嗜んでいた。 ③ ひとしきり驚きや恐怖を体感して冷静になった時、警察や然るべきところに相談を持ちかけて、事の解決を図ろうとも考えたが、行動に出る勇気はなかった。「女」を変に刺激しては良くないと思い、精一杯の気を遣った優しい口調で 「ごめん…君の記憶がないんだよね。失礼だけど、誰?」 「ちょっと、それ全然おもしろくないから。最近ほんとに仕事ムリし過ぎだよ?あのさ、次の休みに行きたいところあるんだけど…」 このやりとりが現実なのか虚構なのか、そんなことがどうでもいいくらい急激に眠気に襲われていた。 ④ いつも目が覚めると「女」は既に朝食の支度をしていた。必ず納豆を食わされる。僕が納豆が苦手なことを知らないのか?と言うことはこの「女」はやっぱり僕とは全く関係のない他人なのか? 久々の休日も朝食にはいつも通り納豆がある。これには参ってしまうが、家事は全てこなしてくれるし、僕の性欲の捌け口なることも一回も拒んだ事がない。このままこの知らない「女」と生活していくのも悪くないかもしれない。そんなことをふと考えた。 ⑤ 7月の晴れた昼間には喪服は暑過ぎる。額から噴き出す汗を拭いながら黒い縁取りの写真に目をやる。式場の薄暗さが身を蝕むような感覚に襲われた。写真の「女」の家族と思しき人達にも見覚えは全くなかったが、先方は僕を「女」の「夫」になるはずだった人間として認識しているようだ。恭しく礼を言う人は父親だろうか?泣きじゃくっているのは姉か妹か、「女」の面影が少しあるような気がした。 お経が唱えられる中、特に何かを考える訳でもなく、ただ焼香をする人達を見ていた。 このまま「女」と一緒に消えてしまいたい。と思っている自分に驚いていた。 ⑥ 「女」の葬儀から一月が経った残暑の厳しい日だった。線路沿いの牛丼屋で簡単に飯を済ませるつもりで立ち寄ろうとした時、ふと踏切が視界に入った。向こう側に見慣れた、知らない「女」がこちらに手を振りながら何かを僕に伝えようと叫んでいる。咄嗟に「女」の側に駆け寄ろうとしたが、遮断機と通過する電車が、無力な僕を嘲笑うように容易く邪魔をする。遮断機が再び開いたときには既に「女」の姿はなかった。 「ちゃんと納豆食べてね」 さっき踏切の向こう側から「女」はそう言ったような気がした。 ⑦ 仕事を終えて駅からアパートへと向かう。毎年のことだが、冬は足の指先が千切れてしまうくらい冷たく、僕の歩行を困難なものにする。ようやく辿り着き、疲れ切った身体には些か重たい玄関のドアを開ける。 「おかえり。お腹空いたから先にご飯食べ始めちゃってる。」 見覚えのある懐かしい、知らない「女」がコンビニのおでんと缶ビールを嗜んでいた。
おなじ話
露出した皮膚にまるで蔦の蔓のように絡みつく心持ち悪い地下鉄の生温い空気を断ち切るように地上へと足を運ぶ。いつも長く感じる短い階段を疲れ切ってしまった身体を引きずりながら登ってゆく。登り切った階段の先にはコンビニが待ち構えている。迷わず店舗に入り今晩の2人分の晩酌に用いるビールを購める。 室内が明るく照らされていた頃より扉が重いような感覚を未だに拭えないまま鍵穴に鍵を差し込む。鍵を回してその重くもないはずの重い扉を開ける。 いつも玄関に出迎えに来てくれる君へ声をかけるが当然返答はない。靴を脱ぎ真っ直ぐに君がいるかもしれない寝室へ急ぐのだがそこに君の姿はない。写真の君とビールを酌み交わしながらその日を思い返すのが最近では日課になっている。 ある日、他愛もない出来事を話しているうちに君にどうしても会って話したくなり 「どこにいるの?」と思わず呟いていた。 「ここいるよ。」 いつかの誕生日に贈った水色のワンピースを纏った君は気に入っていた窓のそばで一人あやとりをしている。 「何してんの?」 「なんにもしてないけど?」 君は一人あやとりの手を止めることなく僕の変わり映えのしない日々の話を聞きながら呟いた。 「ずっとそばにいるよ」 地上から吹き付ける柔らかい風に向かって階段を登る。君のビールも買って歩き慣れた道を歩き自宅へと歩を進める。今日は君のためにチャーシューや枝豆や冷奴など、いつも二人で酒を飲む時に支度してくれたツマミもたくさん買った。固く閉ざされていた扉を軽々と開けて家に入り君の好きな窓の側に自分も座ってニ人分のビールとつまみを広げる。 君はとなりの部屋でテーブルに向かって何かを書いていた。 「何してんの?」 「手紙書いてる」 「こっち来なよ。」 こちらを向いた君は泣いているようにも見えたし、笑っているようにもみえた。 「でももう行かなくちゃ…」 いつものように君の写真に話しかけている。いつものコンビニで購めた二人分のビールを飲みながらいつもの話を君にしている。 また君に会いたいと思うことがいけないことのように思えた。それでも儚い期待をいつもしている。 「昨夜夢を見たよ」 仏壇の真ん中で泣きながら笑ったような顔をして君は無言で今日もおなじ話を聞いている。
最期の小包
悲しいとか寂しいとか、感情がまるで無くなってしまったかのように何も感じない。 いつものように学校に行けば整った顔立ちをクチャクチャに崩した笑顔で友人達と会話している彼女がいる。そうとしか思えない。いや、そう思いたいから彼女の死を認めていないのかもしれない。 葬儀に参列しても、彼女の遺影を見ても、彼女の母に「ありがとう」と言われても何とも思わないし何も感じない。というより何かを思ったり感じてしまうと彼女がもうここにいないことを認めてしまうことになるような気がして必死に強がっていた。 人間の生涯なんてあっけなく終わってしまうものなのだと思い知らされた。格闘家のアンディ・フグと同じ病が彼女がこれまで紡いできた「人生」という物語をほんの一瞬で強引に完結させてしまった。 彼女の人生の最期を彼氏という立場で彼女の家族と一緒に見送らせてもらえた。「最期は自宅で」という彼女と彼女の両親の希望は叶えられず病室で彼女は息をひきとった。 黄色い包装紙で丁寧にラッピングされた箱が宅配便で届いたのは彼女が息を引きとる前日の夜だった。送り主は彼女だが、伝票の字は彼女のものではない。恐らく彼女の母が代筆したのであろう。もう文字を書く力すら残っていないのだろうかと思うとその時は流石に号泣した。彼女はもう文字すら書けないのに自分はこんなに号泣できてる。この現実すら憎たらしくて、そう思えば思うほど涙が出た。 彼女からの贈り物を開けたのはそれから2時間たっぷり泣いたあとだった。敷き詰められた緩衝材の上に薄い水色の封筒が入っていた。 「いっぱいありがとう。」 精一杯書いたのだろう。震えた文字が彼女の苦しさを物語っている。また泣きそうになったが堪えた。そして緩衝材に守られた彼女からの最後の贈り物を取り出してみた。 ビールの空き缶だった。それも田舎の葬式くらいでしか見たことのない、めっちゃ小さい100mlくらいのやつだ。 俺の涙を返して欲しいとふと思った後また泣いてしまった。
郷愁
高速を降りて海沿いをひたすら北に走る。忙しい兄夫婦の代わりに姪2人を連れて祖父母の家まで600kmの長旅を共にしている。日光は暑苦しい光を放ち地上の全てを溶かすような光を日本海に打ちつけている。 正直運転は得意な方ではない。幼少の頃から働くクルマが大好きで物流業界で仕事はしているがトラックを運転することはできない。せいぜい倉庫の中をフォークリフトで細々と走るのが精一杯くらい運転にセンスがないから仕方ない。そんな拙い技術とセンスで愛車を運転している。 その夜は祖母がごちそうを用意してくれていた。なかでも特に畑で採れたばかりのトマトが姪達は気に入ったようだった。 「ねえ?このトマトばあちゃん作ったの?」 「そうだよ。美味いでしょ?毎朝早起きして一生懸命作ったんだから美味しいに決まってるのよ。」 祖母は曾孫に嬉しそうに語っている。 「ねえ?ばあちゃんの畑手伝ってもいい?」 姪達はかなりトマトが気に入ったようで、このトマトを自らの手で作りたい旨を拙い日本語で祖母に訴えている。 「あら、嬉しいねえ。じゃあ、ばあちゃんが4時に起こしてあげるからね。畑仕事頑張ろうね。」 翌朝、祖母の声で目が覚めた。隣で寝ている姪達を起こしに来たようだ。 「あんたたち、4時だよ。4時になったけど雨降ってるのよ。だから畑は今日はやらないから。ゆっくり寝てな。」 祖母はそう言って姪達の睡眠を完璧に妨げて自分の寝室へと戻っていった。
たったひとつの贈り物
皮膚を突き刺して身体中の細胞の全てを破壊するような日差しから逃れるために職場の目立たない片隅に設置されたプレハブの喫煙室に入りタバコに火をつけ、窓の外の憎たらしいくらい暑くて青い空を見上げた。 ちょうど7〜8年の今頃だった。夏休みが明けて気怠い二日酔いの身体を引きずるように学校へ行ってみると、校門の前に古ぼけた軽自動車が現れた。その助手席から降りて来たのはaだった。俺がこっそり片思いしていたaは夏休み中に大学生と思しき彼氏ができたらしく、その彼氏の所有物なのか親の物なのか、どちらにしてもそこそこキレイな女子高生を乗せて送迎するには些か「ショボい」自家用車で登校してきた。 その光景を目の当たりにして自分の中で事実として処理・容認することが出来ず、校舎には入らず真っ直ぐ家に帰って迎え酒を引っ掛けた。 卒業を間近に控えた頃、aは彼氏の通う大学に合格したと人伝に聞いた。就職する俺とはまるで違う世界の人間になってしまう気がして悲しくなった。 「なぜaを好きになってしまったのだろう…」 そんな後悔ばかりがフィジカルとメンタルを支配する。未だにaが好きなことを改めて自分が自分に知らしめる。自分以外の男、それも車がショボい男を好きになったaを好きでい続けることは苦痛だった。なのに「aが好き」を止めることができなかった。そしてこの「好き」を伝えることすらできなかった。 aに対しての好意と後悔が積もり、思い切って告白を決意した。決行は卒業式終了後。人気のないところに連れ出して思いを伝える。しかし他の同級生(卒業生)の大群がaを俺の視界から遮断してこの計画を阻むことも想像に難くない… ごめんなさい トイレの前でaはオカダ・カズチカのレインメーカーくらい気持ちよく決めた。 笑うしかなかった。と言うよりは笑えた。という方が正しいかもしれない。これでaに対する気持ちが片付いた。ダサい彼氏がいるaにフラれて自尊心を踏み躙られた苛立ちや、成就することのない片思いの呪縛からの解放で笑ってしまったのかもしれない。 日差しは相変わらず俺の身体に細胞レベルで熱い攻撃を仕掛けている。タバコも既に根元まで吸い尽くしている。そろそろ休憩時間も終わりだ。働いて生活費を稼ぐとしよう。 aがくれた、たった一つのギフトのために。
台所
人生が終わる時、もしくは地球か人類が終わる時、最後に食うメシについて考えることがまるで癖のようになっている。特に友人や知人から薦められたり連れられて出向いたメシ屋で食い終わった後にこの「癖」は現れる。 これといって繊細な味覚を持ち合わせているわけではない。当然グルメ気取りで食ったメシの感想を偉そうに語る能力などない。ただ「うまい」と思ったメシを食い終わった後に「癖」を行うのが日常茶飯事になっている。 今日は寿司を食った。食ったなんて偉そうに言えたものではない。チェーン店の回転寿司を職場の同僚に奢ってもらった。 気がおける数少ない友人であるその同僚に「癖」のことを話してみた。 「まあ、それってよく思うってか、考えるよ。」 「へえ、やっぱお前も考えるんだ。んで?もう結論は出てんの?」 テーブルに並んだ値段ごとに色分けされた皿を整理しながら訊ねた。 「まあ…ちょっとズレてるかもだけど。」 「もったいぶらないで早く言ってみろよ。」 友人も同じように空いた皿を色ごとにわけながら 「母親のメシかな。学生の頃に部活やって腹減って帰って来た時の。どんぶり飯に生卵と醤油と海苔とシラスをぶっかけたやつ。」 翌日、土曜日で会社が休みだったこともあり久々に実家に帰った。親父と兄貴と兄貴の嫁と子供たちにそれなりの挨拶をして土産を渡した後、真っ直ぐに台所に向かった。 お袋が慌てて何かを拵えているようだった。 「あんた、もっと早くいってくれたらもっといいもの準備したのに」 「何作ってんの?」 「ポテトサラダ。あんた子供の頃から大好きだったもんね?」 小学校の給食でポテトサラダが出た日のことを思い出した。 「センセ〜!ハヤトくん思いきり吐いてます!」 「うわ、マジか…臭っ」 お袋にポテトサラダを必死に食って克服しようとした理由と未だに克服できていない現状を話した。 お袋は缶チューハイを飲みながら作業の手を止めることなく 「でもあたしのポテトサラダは美味しいから好きでしょ?」 と笑いながら言った。 「腹が立つ」って生優しい日本語では表現できない感情が自分の体内で沸騰し体温が上がって顔が火照るのが分かる。が、この感情をどうしていいのか分からず思いきり爆笑した。笑いすぎて呼吸ができない。ただただひたすらに笑うことしたできなかった。 その様子を察知して家中の連中が台所に集まってきた。兄貴がぼそっと 「ハヤトってポテトサラダ大嫌いじゃなかった?」 一番最後に台所に現れた兄貴の嫁のケツを思いっきり蹴っていた。
たい焼き
数分前にも見たがもう一度財布の中身を確認してみた。さっきと同じ、計742円の小銭しかなかった。 「ちょうど7で割り切れる…」 なんとなく計算してみた。 タバコを買うと飯が食えない。飯を食うと酒が飲めない。酒を飲むとタバコが吸えない。この三つの欲求を同時に満たすためには金がどうしても必要なことくらいは理解できる。が、その金を得る術がない。アカの他人と共に時間を過ごす能力が著しく自分には欠けているのだ。 他人とのコミュニケーションが幼少の頃から酷く苦手で他人と共に過ごす時間が苦痛でしかない。当然そんなのだから友人もいない。いないというよりいらない。そんなものを作ると苦痛が付きまとうことは学校で教わった。 辛うじて住まわせてもらってる月18,000円のアパートに残っているのは滞納した家賃とほんの僅かの着替えくらいだ。 ここを通るのは何年ぶりだろうか。中学卒業と同時に家を飛び出して以来だから8年以上になるだろうか。 ジイに連れられて買い物に来たスーパーの一角にあった汚いプレハブのたい焼き屋は汚いままで今もたい焼きを焼いている。 ジイはたまにしかたい焼きを買ってくれなかった。今なら理解できるが、相当生活が苦しかったのだろう。1人でも苦しいのにこれから金がかかる子供の面倒まで見なければならないのだから、想像に難くない。 ジイは俺のたった1人の家族だ。が、血縁関係があるかどうかもはっきりしてない。年齢も知らない。幼い頃から爺さんだったから今でも爺さんなことくらいしか把握してない。が、ジイは唯一の家族で友達で会話することができる人間だった。 金を無心するためにジイの家へ行くのだから手土産くらいあったってバチは当たらないだろう。それに何より自分自身腹が減っている。昨日の日雇いの仕事で得た金は豪勢な晩酌と地元までの電車賃でほぼ使い果たしている。久々に会うジイと懐かしいたい焼きを仲良く食いながら快く金を出してくれ、2人でジイの酒を酌み交わし、ジイのタバコを吸いながら思い出話やこの家を出てからの話などをして一晩を過ごす想像が頭の中を支配する速度が加速していくのと並行してジイのいるはずの家に向かう足も速度を増していった。 久しぶりに実家と思われるボロ家屋の玄関と思しきベニヤ板で作られた扉を開けてみた。「ジイ!」と呼んでみた。 反応がない。 ジイは生きているのだろうか…まさか…? 思い返せば中学卒業以来、かれこれ8年も会ってない。小さい頃から爺さんだったし、年齢だってよく分かってないが軽く80は届いているだろう。 もう一度、さっきより強い語気で「ジイ!」と呼んでみた。 「あ〜…?」と弱々しい声が奥の台所の方から返って来た。 具合が悪く倒れているのか?まさか犯罪に巻き込まれて? 悪い予感だけがよぎり、靴も脱がずに声のする方向へ駆けていった。 「ジイ!」 どこかの高校だろうか中学だろうか、制服を着たガリガリの中年のおばさんが台所にいる。そのおばさんはジイと思しき老人に、まるで母が赤子に母乳を与えるように抱いて自分の乳をはだけさせて吸わせている。 「京」というコンピュータの話をニュースか何かで聞いたことがある。世界で一番のコンピュータだそうだ。おそらくあらゆる情報や計算などの処理が驚くほど早く正確なのであろう、それに比べてジイと知らないおばさんを目の当たりにした自分はどうだったろうか? ジイと2人で食べるつもりだった少し冷めたたい焼きを思いっきりジイと知らないおばさんに投げてぶつけていた。何度もぶつけては拾い、繰り返して投げつけて… もうすぐ俺にも子供が生まれる。どうやら男の子らしい。 名前は妻と妻の両親にも相談して、ジイの名前から一文字ももらわないよう配慮してもらうことにした。