さきち

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さきち

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Joker boy(募集用)

モルカディアという退廃的な架空都市を舞台にしたダークな物語。 主人公のルカは、検死官として働きながら、裏で剥製作りや賭博に耽る享楽主義者。金と快楽だけを追い求め、死や道徳に無関心。 相棒のリィナは無感情な暗殺者で、ルカと奇妙な共鳴関係にある。 やがて二人は、死体を「芸術」として競う秘密結社「最後の晩餐クラブ」に足を踏み入れる。ルカは貴族からの依頼でクラブの壊滅を企む。 Joker boyという大好きなボカロを下敷きにした話で、文字数はめちゃくちゃ多くなってしまったのですが主人公の性格が可愛く書けたので是非! 書き込みが浅いので近々続編を書こうかと思っているところです。

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Joker boy

モルカディアの旧市街広場は、朝から湿り気を帯びた熱気に包まれていた。 石畳は夜露に濡れ光り、この街の長い歴史の中で幾度となく流された血の痕跡を物語っている。そして今、また新たな血がその表面に供給されようとしていた。 広場の中央に組まれた処刑台の上で、黒い頭巾を被った男が静かに斧を担ぐ。ざわめき立つ群衆の生々しい熱狂が肌を刺した。野次と歓声、罵声が入り混じる中、ひときわ高い子供の泣き声が響いたが、それもすぐに、広場の隅で煙を吐き出す屋台から漂う油の匂いと、朝から発酵し始めている汚物の悪臭に飲み込まれていく。生暖かい空気が重くのしかかる。 処刑はすでに数人済まされており、広場の一角には、布を被せられた血の滲む塊がいくつも転がっていた。ルカは広場の片隅に置かれた、粗末な木製の椅子に腰掛け、朝から煙草を燻らせていた。煤で汚れた指の先から立ち上る紫煙が、朝日に透けてゆらゆらと揺れる。この光景は、彼にとって日常の一部だった。広場での公開処刑は、モルカディアの秩序を保つための見せしめであり、同時に宮廷直属の検死官にとっては、新たな仕事の供給源でもあった。人の一人や二人死んだところで、どうということもない。 「今日の得物は上等じゃねえな」 横で同じく煙草を吸っていた同僚の検死官、ディオンがぼそりと呟いた。彼の太い指が煙草のフィルターを潰す。ディオンはルカよりも一回り年上で、酒と女と賭博に金を費やす典型的な男だ。 「金になるなら何だって上等だろ」 ルカは紫煙をゆっくり肺に満たし、静かに答えた。彼の視線は、処刑台から降ろされる新たな死体に向けられていた。ひどく痩せ細った男で、すでに事切れていたのか、抵抗することもなく地面に投げ出される。さっきまで首と繋がっていた胴体からは新鮮な赤い血がじわりと滲み出していた。群衆からは拍手と歓声が上がる。まるで祭りでも見ているかのように、彼らは手を叩き、指笛を鳴らした。ルカの心に感情はなかった。ただ、脳裏ではその死体がいくらの値打ちがあるのか、冷徹な計算が始まっている。 「お前は相変わらずだな」 ディオンが鼻で笑った。ルカはそれには答えず、再度火をつけた煙草を深く吸い込む。今日の遺体は…せいぜい銀貨三枚ほどだろうか。高値であればあるほどいいのは言うまでもない。 処刑が終わり、群衆が徐々に引いていくと、彼らの出番がやってくる。 検死官は、貴族どもの作る崇高な社会からは忌み嫌われる存在だ。死体を扱い、その内側を覗き、死因を記録する。それは穢れた仕事であり、同時に、秩序を維持するためには不可欠な仕事だった。だからこそ、高額な報酬が約束されていた。ルカにとって、その報酬こそが全てだ。倫理や道徳、生や死といった曖昧なものには一切の興味がない。ただ、指先で触れる硬貨の冷たさ、喉を焼く酒の熱さ、肺を満たす煙草の苦味。実在する確かな快楽を得るための手段として、この職を選んだ。 検死室へ戻ると、すでに数体の死体が運び込まれていた。鉛色の分厚いカーテンで仕切られた解剖台の上には、血糊と体液の独特な匂いがこびりついている。床は滑りやすく、壁は薄暗い。 その日の新人指導はルカが担当だった。青ざめた顔の若者が、震える手でメスを握っている。 「いいか、解剖っつーのはただ切り開くことじゃねえ。死体が何を語ってるか、耳を澄ますんだ」 ルカは冷静な声で言った。 「……何を、語るんですか?死体は…」 新人が怯えたように聞き返す。ルカはメスの柄を握り直し、死体の冷たい腹部にそっと触れた。その指先が、硬くなった死体の皮膚を這う。 「金額だよ。で、お前がその金を手に入れるための手段もな」 彼の瞳の奥には、どこか退屈そうな光が宿っていた。 新人は困惑した顔でルカを見つめていたが、ルカはそれに構わず、冷徹な手つきでメスを入れた。皮膚が裂ける鈍い音と、鉄錆臭い血の匂いが鼻の奥まで漂ってくる。 その日の午後、ルカは検死室の奥まった場所で、ある死体の司法解剖を行っていた。そこへ、滑るような足音で一人の女性が入ってきた。リィナ。検死官としての彼の同僚だが、彼女には別の顔があることをルカは知っていた。時折、彼女は暗殺の依頼も引き受けているのだ。 彼女の顔貌はなめらかで美しかったが、感情の機微は一切読み取れない。常に無口で、冷たい氷柱のような雰囲気を纏っている。彼女はルカの横に立ち、無言で解剖台の上の死体を一瞥した。血と体液で汚れた白衣の袖を、何の感情も見せずに捲っている。 「ご機嫌いかがですか、リィナ嬢。今夜、こいつで晩飯でもどう?」 ルカは冗談めかして言った。いつもの軽薄な誘い文句だ。彼は解剖用のメスを置き、死体の喉元を指先でそっと撫でた。その指先が、冷たい皮膚の上を滑る。リィナは微動だにせず、ただルカの顔を見つめた。 「いらない」 彼女の声は、朝の冷たい空気のように、何の感情も含まれていなかった。 「…残念だ。悲しいなぁ」 ルカは肩をすくめ、再び死体に向き合った。 彼女の無関心な態度に、彼はどこか面白みを感じていた。普通の人間なら、彼の異常な距離感に顔を顰めるか、あるいは罵倒するだろう。だが、リィナは違った。彼女の冷淡さは、彼の虚無的な気質と奇妙に共鳴する。まるで互いの感情の欠落を映し出す鏡のようだ。 彼女は作業台の端にある薬品瓶を手に取り、無言で死体の傷口に消毒液をかけた。業務的な関係に過ぎないが、この場所で、二人は確かに一つの作業を共有していた。 モルカディアの夜は、昼の顔を完全に脱ぎ捨てる。陽光が去り、都市の喧騒が嘘のように静まり返ると、路地裏からは別の音が這い上がってくる。酒場の喧騒、男女の嬌声、賭博場のサイコロの音。そして、時折聞こえる押し殺した慟哭。街灯の光が届かない場所では、闇が全てを覆い隠し、金と欲望が蠢いていた。 ルカのアトリエは、旧市街の裏通りにひっそりと佇む、崩れかけた倉庫の一角にあった。昼間は検死室で死体と向き合うルカが、夜になると足を踏み入れる秘密の領域だ。外壁は蔦に覆われ、窓は煤で汚れて光を遮断する。内部は、ホルマリンの鼻を刺す匂いと、燻製された革や毛皮の獣じみた臭いが混じり合い、まるで時間が止まったかのような重い空気が満ちていた。 作業台の上には、解体途中の鷲の死骸が横たわっている。鋭い鉤爪、漆黒の羽、獲物を捉えるための研ぎ澄まされた嘴。ルカは真鍮製の小さな彫刻刀を手に、鷲の眼窩にガラス製の義眼を嵌め込む。薄暗いオイルランプの明かりが、彼の横顔を照らし出す。その顔には、昼間は見せない、一種の愉悦が浮かんでいた。彼の興味は、血や薬物や金、賭博だけではない。まさにこの「死そのもの」への飽くなき探求心によって、ただの死体だったはずのものが、新たな形を与えられ、生者への皮肉な嘲笑を浮かべたかのように姿を変えていく。 壁には、完成した剥製が所狭しと並ぶ。精巧に作られた鹿の首、威嚇する狼、そして、小柄な女の剥製。その艶やかな皮膚は丹念に磨かれ、髪の一本一本までが丁寧に整えられている。 このアトリエの存在を知るのは、今やリィナだけだった。 アトリエの重い扉が軋む音を立てて開いた。ひやりとした夜風と共に、透き通る瞳を携えた女が姿を現す。彼女の纏う黒い革製の外套は相変わらず無表情で、夜の闇に溶け込んでいた。 「遅かったな。待ちくたびれたよ」 ルカは鷲の剥製から目を離さず、気だるげに言った。 「…依頼」 リィナの短い返事。彼女の任務は暗殺だった。効率的で無駄がない。ルカは彼女のその淡々としたプロフェッショナリズムを好いている。 「で、得物は?」 「運び込んだ」 リィナは淡々と告げた。彼女が持ち込んだのは、依頼主である貴族が処理を望んだ、とある子爵の邸宅から運び出された男の死体だった。裏社会ではよくある話だ。表面上は病死とされた人間が、実際には裏稼業の手に落ち、その痕跡を消すために処理される。あるいは、もっと別の目的のために利用されることもある。 「今日の素材は随分と骨太だな」 ルカは死体を一瞥し、愉快そうに口の端を吊り上げた。その死体は、広場で見るようなやせ細った者ではなく、筋肉質な体格をしていた。闇稼業の仲介人が、ルカの元へ運び込んできたのは、今回が初めてではない。彼の剥製技術は裏社会で噂になっており、違法な臓器の売買や死体オークションにも彼の名が連ねられるようになっていた。金になるなら何でもやる。それがルカの信条だった。 「今回は、全身の剥製」 リィナは淡々と依頼の内容を伝えた。ルカは口元を歪め、鼻で笑った。貴族の趣味は、いつだって平民の想像力を容易く超えてくる。 「へえ、趣味がいいね。全身というなら、それ相応の敬意を払ってやるか」  金を積まれりゃ逆らえない。 ルカはそう言うと、手袋を嵌めて死体の検分を始めた。熟練した手つきで、メスを入れる箇所を定めていく。リィナは彼の隣で、黙ってその様子を見つめていた。彼女はルカの剥製作業を黙認し、時には手伝うこともあった。彼女の死体への無感情な接し方は、ルカと奇妙な共通点を持っていた。 リィナは時折、ルカの指示で道具を渡したり、解体された部位を処理したりする。彼女の手つきは常に冷静で、どんなに血塗られた作業であっても、その美しい顔に嫌悪の表情が浮かぶことはない。 作業の合間、ルカは棚から取り出した酒瓶を傾けた。 「お前も一杯どうだ?こんな夜には、ちびちびやるのが最高だぜ」 ルカが差し出す瓶に、リィナはわずかに首を傾げる仕草を見せた。 「いらない」 「相変わらずだな。お堅いことだ」 ルカは肩をすくめたが、その口元には満足げな笑みが浮かんでいた。彼女の真面目さと、時折見せるわずかな皮肉が、彼の日常にモノクロの彩りを添える。 作業を終え、アトリエの鍵を閉めたルカは、夜のモルカディアの裏路地を闊歩した。冷たい石畳の感触が足裏に伝わる。向かう先は、旧市街のさらに奥、地下に潜む非合法の賭博場。 そこは、富裕層から裏稼業の人間まで、様々な身分の輩が入り混じる混沌とした空間。煙草の煙が充満し、酒と汗と女と、そして高揚した熱気が入り混じった独特の匂いが鼻腔を刺激する。 ルカは迷うことなく奥へと進み、サイコロの音と、札束が叩きつけられる音が響き渡る一角へとたどり着いた。テーブルには血走った目の男たちが集まり、大金を賭けていた。ルカは空いている席を見つけ座る。ポケットから、剥製作業の依頼で得た金貨の入った革袋を取り出し、その重みを確かめた。 「そこの兄ちゃん、今日は随分と景気がいいな」 胴元らしき男が、にやりと笑いかけた。ルカは無言で革袋から金貨を数枚取り出し、テーブルに叩きつけた。 「さあ、始めようぜ。早く俺を満足させてくれ」 彼の目には、獲物を前にした獣のような飢えが見え隠れする。だが、それは賭博そのものへの飢えではない。彼が求めているのは、金が怒涛のように動き、一瞬で全てが決まる、その刹那の熱狂だった。死体を「素材」として扱う感覚と、どこか似た、生と死の境界線で踊るようなスリル。 彼はサイコロの目を見極め、次々と金を賭けていく。勝ち続けるたびに、彼の周りにはさらに人が集まり、その様子を固唾を飲んで見守った。ルカの顔には一切の感情が浮かんでいない。まるで、最初から結果を知っているかのように。 勝てば、その金は彼の享楽をさらに深めるための燃料となる。負ければ?それもまた、一つの「終わり」の形として、彼にとっては等しく価値のあるものだった。 数時間が過ぎ、ルカの手元には、賭けで得た金貨が山となっていた。彼は満足げに立ち上がると、無造作に金貨を革袋に詰め込み、賭博場を後にした。夜の闇の中、ルカは微妙な口笛を吹きながら、アトリエへと戻る道を歩き始めた。 モルカディアには、常に冷たい埃と生臭い匂いが漂っていた。 検死室のくすんだ空気がルカを包み込み、彼は慣れた手つきで白衣の袖を通した。昨夜の賭博で得た金貨の重みが、内ポケットでわずかに揺れる。その重みが、彼に今日一日の、あるいはそれ以上の快楽を得るための価値を保証していた。 その日の検死は、昨日の処刑で運び込まれた死体と、身元不明の浮浪者の遺体だった。解剖台の上で、ルカは淡々とメスを滑らせる。皮膚が裂ける音、骨が軋む音。その全てが、彼にとっては何の感情も伴わない、ただの作業音だ。隣ではディオンが、死体の内臓を検分しながら、ぼやき混じりに話し始めた。 「昨日の酒はきいたぜ。おかげで頭がガンガンする」 ディオンは大きくあくびをし、血のついた手袋を外した。ルカはそれには答えず、解剖結果を記録する羊皮紙に、流れるような筆致で所見を書き込んでいく。 「お前は相変わらず元気だな。夜遊びでもしてたのか?」 別の検死官、マルコが通りがかりに声をかけてきた。マルコは真面目な男で、賭博や酒浸りのディオンとは対照的だ。 「まあな。金になることなら、何でもするさ」 ルカは肩をすくめた。彼にとって、夜の「仕事」は剥製作りだけではない。賭博も、違法な薬物の売買も、全ては金を得るための手段だった。 「しかし、お前もそろそろ身を固めるとか、そういうこと考えねえのかよ?」 ディオンが唐突に言った。相変わらずこいつの話には文脈がない。だが、ルカにとっては、また一つ退屈しのぎの種が見つかったようなものだ。ルカはペンを止め、ディオンをちらりと見た。彼の視線が、リィナの方へと向けられる。リィナは検死室の隅で、黙々と器具の手入れをしていた。彼女の白い横顔は、朝の希望の光の中でも感情を映さない。 「身を固めるだと?誰と?こいつとか?」 ルカはわざとらしく、リィナに向けて顎を動かす。 「まさか。冗談だろ?」 マルコが呆れたように笑った。 「冗談だ。あんな気難しい女、嫁になんて貰えるかよ。なぁ、リィナ?」 ルカはさらに挑発するように、リィナに声をかけた。リィナはゆっくりと顔を上げ、ルカを真っ直ぐに見つめた。その瞳の奥には、やはり何の感情も読み取れない。そして、一言も発することなく、再び手元の作業に戻った。 「ほら見ろ。全く愛想がねえ」 ルカは楽しそうに鼻を鳴らした。ディオンとマルコは呆れたように笑う。彼らから見れば、ルカのリィナへのちょっかいは、いつもの悪ふざけの一つに過ぎないのだろう。 「休みの日は何してんだ?また賭場通いか?」 ディオンが再びルカに尋ねた。ルカは答える代わりに、フッと皮肉げに笑った。 「さてな」 その日の昼食時、検死室の控え室で、数人の検死官たちが雑談をしていた。湯気を立てる質素なスープの匂いが、室内に充満している。マルコが、ふと口を開いた。 「そういやディオン、お前、最近休みの日はどこかに出かけてるって話だったが、どこかいい娼館でも見つけたのか?」 ディオンはスープを啜りながら、顔を上げる。その顔は、ほんの少し得意げに見えた。 「ああ、とあるクラブに通ってるんだ。いや、それがな、普段のストレスが吹っ飛ぶような、刺激的な場所でな」 「へえ、クラブか。SMか?お前がそんな洒落たところに」 別の検死官が興味津々に尋ねる。 「洒落てるなんてもんじゃない。それからSMではない。…なんていうか、今まで経験したことのないような、とんでもない体験ができる場所なんだよ。金はかかるが、それ以上の価値はある。マルコも誘った」 ディオンはそう言って鼻を鳴らした。彼はそれ以上、クラブのことには触れなかったが、その表情からは、彼がその場所で深い愉悦を得ていることが明らかだった。ルカは、黙ってディオンの話を聞いていた。彼の瞳の奥で、わずかに好奇の光が揺れる。金がかかる、刺激的、そして「経験したことのないような」。ディオンの言葉は、ルカの享楽主義的な心を微かに刺激した。冷めたスープを口に運ぶ。金がかかるのは当然だ。問題は、その「価値」が、果たして自分の欲求を満たすに足るものか、という一点にある。この都市には、好奇心を刺激する場所など、星の数ほど存在するのだ。 午後からは、貴族からの依頼案件の最終報告書を作成する作業に取りかかった。先日、リィナが処理したあの男の死体についてだ。報告書には、依頼主の望む「自然死」の痕跡を丁寧に書き込んでいく。 金が全ての価値基準であるルカにとって、真実などどうでもよかった。目の前の金こそが、彼が為すべき「成功」だった。彼は報酬の金貨を数え、その冷たい感触を指先で楽しむ。彼の日常は、そうした裏の取引と、確かな「価値」の流通によって成り立っていた。 モルカディアの夜の帳が降りる頃、ルカは薄暗いアトリエで、貴族から依頼されたあの全身の剥製に最後の仕上げを施していた。研磨された皮膚は蝋のようなぼんやりした光沢を放ち、埋め込まれた生気のないガラス玉が彼を見つめる。 その満足感に浸る間もなく、アトリエの重い扉が軋む音を立て、乱暴にノックされた。こんな夜に、わざわざ裏路地の奥深くまで訪ねてくるのは、リィナか、決まって裏稼業の人間か、あるいは──。 扉を開けた先にいたのは見慣れない男だった。上質な深緑のベルベットの外套をまとい、その顔には脂ぎった高慢な自信が貼り付いている。護衛らしき屈強な男が二名、闇に溶け込むように背後に控えていた。彼らの身なりからして、相当な身分の貴族であることは一目瞭然だ。 「貴様がルカか」 男の声は高飛車だ。忌み嫌われる穢れた職である検死官など、貴族にとっては塵芥にも等しい存在なのだろう。ルカは肘を壁につき、粉を包んで棒状に巻いた紙に火をつけた。紫煙が男の顔を覆い、互いの表情を曖昧にする。 「その通り。で、あんたは誰だ?おっさん」 ルカはわざと怠惰な声で返した。男の顔がわずかに歪む。 「無礼な!私は、王宮に仕えるドミニク卿の甥である。この私自らが、このような薄汚い場所まで足を運んでやったのだ。感謝その態度はないだろう!」 ドミニク卿、と聞いてルカは内心で嗤った。名の知れた、いけ好かない高位貴族だ。その甥が、わざわざこんな場所まで。 「それで?こんな夜中に、お偉く気高いお貴族様が、こんな塵芥の掃き溜めに一体何の御用で?」 ルカの挑発的な言葉に、ドミニク卿の甥は苛立ちを露わにした。しかし、すぐにそれを抑え込み、冷たい目でルカを射抜いた。 「単刀直入に申し上げよう。私は、『最後の晩餐クラブ』について、貴様と話がしたい」 その言葉に、ルカの眉が微かに動いた。なんだそれは。 「そのクラブとやらがどうした?俺には関係のない話だな」 ルカは葉巻を深く吸い込み、冷ややかな視線を返す。 「私の弟が、あのクラブに消えたのだ」 男の声が、怒りと悲しみ、そして深い恨みで震えた。その顔は赤く上気し、瞳にはルカには無縁の、薄っぺらな憎悪の炎が宿っている。 「弟は、そのクラブの会員であった。最初は、ただの富裕層の娯楽だと、そう嘯いていた。だが、違う。あれは、死を弄ぶ狂気の集団だ。弟は、課題に失敗し、消えた。そして、数日後、検死室に運び込まれてきた身元不明の死体が──私の、たった一人の弟だったのだ!」 聞けば、「最後の晩餐クラブ」は都市国家の裏社会に根を張る秘密組織であり、死体を題材とした剥製芸術の競技会を主宰している団体らしい。クラブは定期的に「課題」を提示し、会員に対して作品の制作を義務付ける。課題を達成できなかった者には「死」が与えられ、その死体は次の課題に用いられるため、常に“素材”は循環している、と。 男の言葉は、聞くに堪えない悲痛な叫びにも似ていた。彼の握りしめた拳は震え、青く太い血管が浮き上がっているが、ルカにとってはただの生理的な現象に過ぎない。 「その死体は、ひどく加工されており、別の生き物のようであった。だが、私には分かったのだ!あれは、間違いなく弟の肉体だった。そして、私はその身が、クラブの次の課題の『基』として利用されたことを知った。この忌まわしい冒涜、人間の尊厳を食い物にする狂気の沙汰を、貴様のような底辺の人間には理解できまい!」 男の言葉が、アトリエの薄暗い空間に響き渡る。ルカは、その言葉に何の感情も抱かなかった。理解できまい?とんだ見当違いだ。むしろ、その男の感情的な叫びが、滑稽にさえ思えた。 「貴様には、そのクラブを内部から壊滅させてほしいのだ」 男は懐から、ずっしりと重い革袋を取り出し、ルカの作業台に荒々しく置いた。硬貨がぶつかり合う、耳に心地よい音が響き、ルカの心を刺激する。 「成功報酬は、この三倍を支払おう。貴様のような者に与えるには破格の報酬だ。まずは、クラブへ加入しろ。…万が一、貴様がこの依頼をしくじれば、その身を持って弟の跡を追うことになるだろうな」 男の目は、ルカの返答を待つ。 当のルカは遠慮もせず革袋の中を覗き込み、金貨の山を指先で弄んだ。莫大な金。そして、「クラブ」という新たな遊び場。何より、この退屈な世界に、彼の破滅的な美学を試す新たな舞台が用意された。金のために引き受けたビジネスが、彼自身の美学を試す場となるとは。 「面白い。乗ってやるよ」 ルカはそう告げると、男は安堵の息を漏らした。 数日後の夜、モルカディアの裏路地を歩いていたルカは、ある光景を目撃した。路地の影で、何かが激しく争う音が聞こえたのだ。好奇心に駆られ、彼は足音を消して音のする方へと近づいた。薄暗い月明かりの下、石壁に押し付けられた男の体が、ぐったりと垂れ下がっている。その男の背後には、黒い革の外套を身につけた、細身の人物が立っていた。 その人物が、男の首筋からナイフを引き抜く。鮮血が夜の闇に飛び散る。息を飲むような手際の良さ。そして、振り返った美しい顔は──。 「リィナ」 ルカは、思わずその名を口にしていた。路地の影に隠れていたにもかかわらず、彼女はルカの存在に気づいたのか、無表情な瞳で彼をじっと見つめた。その手には、まだ血の滴るナイフが握られている。殺された男の顔を見て、ルカは眉をひそめた。 真面目で幸薄そうなひ弱な表情。マルコだ。 先日、検死室で一緒に飯を食っていた同僚が、今、リィナの手によって冷たい骸となっている。 「やるじゃん。随分と手際がいいじゃないか」 ルカは一歩前に出て、マルコの死に顔を蹴った。マルコの首が衝撃でぐにゃりと曲がる。 「ようやく検死室も静かになるな。ちょうどこいつらの耳障りな声にうんざりしていたところなんだ。助かるよ」 リィナは何も言わない。ただ、その凍り付いたような視線が、ルカを射抜いている。まるで、彼の中に存在する何かを測るかのように。 「で?この身体は、お持ち帰りか?それとも、俺に検死室まで運ばせたいのか?」 ルカはさらに言葉を重ねた。彼は、リィナの暗殺の腕を褒め称えながら、同時に彼女の冷酷さを嘲っている。リィナはナイフの血を布で拭うと、身体に一瞥もくれず、黙って路地の奥へと姿を消した。その背中は、何の感情も残していない、機械仕掛けのようだった。 「ご馳走様」 ルカは誰もいない路地に向かって呟くと、マルコの身体を抱え上げた。その身体からは、まだ温かい血が流れ出し、彼の白衣を汚していく。 彼がアトリエで剥製業を営んでいることをリィナ以外に誰も知らないように、彼女が秘密裏に暗殺の職についていることも、ルカ以外知らないのであった。 数日後、ルカはドミニク卿の甥に指定された場所へと足を運んだ。それは、モルカディアの富裕層が住む地区の、一見何の変哲もない邸宅だった。しかし、門をくぐり、複雑に入り組んだ通路を抜けると、地下へと続く隠された階段が現れる。冷たい石造りの階段を降りていくと、空気は湿気を帯び、微かに趣味の悪い香木の匂いが鼻につく。 地下の最深部には、重厚な木製の扉があった。扉が開かれると、目に飛び込んできたのは、煌びやかなシャンデリアの光に照らされた、広大な空間だった。高い天井にはフレスコ画が描かれ、壁には精緻な彫刻が施されている。宮廷の舞踏会会場さながらの荘厳さだ。一体いくら積めばこれほどのものを建てられるのか。 「ようこそ、『最後の晩餐クラブ』へ」 入り口でルカを出迎えたのは、黒いローブを纏った男だった。彼の顔は深いフードに隠され、表情は伺えない。その声は、深々と響き渡り、聖歌を唱える司祭の声に似ていた。 「会員の皆様は、皆、この世界の摂理と美の真髄を理解する選ばれし者。そして、我らは、この世界の秩序を管理する者たちでございます」 男はそう言って、広間の中を指し示した。そこには、ルカと同じようにローブを纏った人々が、グラスを傾け、談笑していた。彼らの顔は機械的な仮面で隠されている。彼らの身につけた高価そうな装飾品が、シャンデリアの光を受けて鈍く輝いていた。おおかた暇を持て余した貴族か豪商人たちだろう。 ルカは、広間をゆっくりと見渡した。その視線の先に、壁際に静かに佇む一人の人物を見つけた。その人物もまた、他の会員と同じく黒いローブと仮面を身につけていた。しかし、その立ち姿、醸し出す独特の冷たい雰囲気は、ルカにとってあまりにも見覚えがあった。 「リィナ……」 こんな場所で彼女に遭遇するとは。 彼女はルカの視線に気づいたのか、わずかにその顔を彼に向けた。仮面越しに、彼女の瞳がルカを射抜く。その目には、いつもの冷淡さの中に、わずかな好奇心、あるいは、この狂気の舞台に彼が足を踏み入れたことへの、不可解な表情が浮かんでいるように見えた。彼女もまた、このクラブの「会員」だったのだ。 「皆様には、定期的に『御題』が提示されます。その御題を果たせぬ者には、新たな転生が与えられ、その身は次なる御題を彩る供物として、美しき巡りの環へと還ります。これこそが、命の連綿たる摂理であり、我々が司る秩序そのもの」 ローブの男は、荘厳な声で説明を続けた。彼の声は、劇場で舞台役者が台詞を語るように、淀みなく空間に響き渡る。ルカは、その言葉に背筋がゾッとするような感覚を覚えた。しかしそれは恐怖ではなく、むしろ、異常なほどの興奮だった。彼の享楽主義的な本能が、この狂気のゲームに歓喜する。金のために引き受けたビジネスが思わぬ功を奏している。 広間の奥に、ひときわ大きく、精巧な剥製が飾られていた。それは、かつて生命を宿していたであろう巨大な鳥の姿を借りた作品だった。羽は輝く宝石で飾られ、瞳は深い朱のルビー。その存在感は、見る者に生と死の境界を忘れさせるほどの力を宿していた。 「あの作品は、導師が手がけたものだ」 ローブの男が囁いた。「導師」とは、クラブの最深部にいる責任者で、すべての作品の選定、評価、審査を行う人物だという。年齢性別不詳で、人前に出ることはほとんどないらしい。しかし、彼の作品から放たれる圧倒的な存在感は、見る者に畏怖と憧れを抱かせた。 その夜、最初の御題が提示された。 「次なる御題は、『再生』。古きものに新たな命を吹き込む、唯一無二の作品を期待する」 ローブの男の声が、広間に響き渡る。参加者たちは、ざわめきながらも、その言葉に集中していた。ルカは、その御題に、早くも高揚を覚えていた。彼の脳細胞が、狂ったように回転し始める。最高の供物は何か。どんな風に「再生」させるか。彼の創造性が、この「供物」を通して、破滅的な美学を追求しようとしていた。 マルコの死体は、検死室の冷たい解剖台の上で、鉛色の光を浴びていた。ディオンは顔色を悪くし、その場に立ち尽くしている。 「嘘だろ……マルコが、なんでこんな…誰が」 あんたの同僚だよ──。そう言って、この男の絶望に拍車をかけるのも悪くない。だが、ルカはそれをやめておいた。どうせ理解できるはずもない、無意味な問いかけだ。彼の声は震え、瞳には明らかな恐怖の色が浮かんでいる。昨日まで隣で共に働いていた仲間が、無残な姿で横たわっている。その事実が、彼の心臓を締め付けているようだった。ルカはそんなディオンの様子をちらりと見やると、鼻で笑った。 「なんで?ああ、なんでだろうな。まあ、こんな場所で働いてりゃ、いつかこうなるって、わかりきってたことだろうが。おめでたい奴らには理解できねえだろうがな」 ディオンはルカの言葉に何も言い返せず、ただ青白い顔でマルコの死体を見つめている。彼の顔からは、汗がにじみ出ていた。 「にしても、犯人は相当見事な腕をお持ちだ。寸分の狂いもない。これじゃあ、何の苦痛もなかっただろうな。なんて、美しい死に様だ。羨ましい限りだぜ」 ルカはマルコの心臓に達した傷口を眺めながら、うっとりと呟いた。ディオンはルカの言葉に、さらに顔をこわばらせた。彼の恐怖は、マルコの死体だけでなく、その死体を前にしたルカのあまりにも冷静で、どこか享楽的な態度にも向けられていた。 検死が終わり、マルコの死体はいつも通り処理された。だが、ルカにとって、それは終わりではなかった。 夜、アトリエに戻ったルカは、運び込まれてきたマルコの死体を前に、ニヤリと笑った。こいつはちょうどいい。ちょうど課題制作の素材調達に困っていたところだ。彼はマルコの死体に語りかけるように言った。 「なあ、マルコ。お前もまさか、自分が検死されるとは思わなかっただろうな。だが安心しろ。お前の新しい人生は、俺の最高の芸術品として、この世界に刻まれるんだからな。よかったな」 ルカは指でマルコの顔の輪郭をなぞる。彼の脳裏には、既に完成形が鮮明に描かれていた。マルコの、自分を殺す人物が同僚のリィナだと分かった時の、あの怯えた表情を、そのまま永遠に留めてやりたい。 昼間は検死官として淡々と仕事をこなし、夜はアトリエに籠もって剥製制作に勤しむ。ルカの生活は、その二重の顔を軸に回っていた。検死室では、新たな死体が日々運び込まれてくる。それは、広場での公開処刑の残骸であり、裏社会の抗争の証であり、そして… ある日、検死室に運び込まれてきたひどく損傷した死体を検分していると、ディオンが震える声で言った。 「これ、もしかして……クラブの奴ら…」 その死体には、一般的な拷問の痕とは異なる、奇妙な加工が施されていた。それは、ルカがアトリエで施す剥製の下準備に酷似していたのだ。ルカは死体の傷口を検分しながら、冷めた目でディオンを見つめた。 「どういうことだ?」 「いや、その、こいつ、昨日一緒に語り合ったやつ……」 ディオンの声は、恐怖に歪んでいた。彼の顔色は、数日前のマルコの時よりもさらに悪い。 「へえ」 ルカは笑った。ディオンは、ルカのその笑みに、ますます怯えるハムスターのような表情を見せた。 夜、ルカはクラブへと向かった。地下の広間には、相変わらずローブと仮面の会員たちが集まっている。彼らは互いの素性を知ることなく、ただ「死の芸術」という共通の退廃的な趣味に興じている。ルカは、そんな彼らとの交流を楽しんでいた。 「あなたの作品は、いつも素晴らしい。死者も浮かばれるだろう」 とある会員が、ルカの作品の前で囁いた。彼の仮面の下の表情は伺えないが、その声には、明らかに畏敬の念が込められていた。 「…そうかい?お前も、俺の『供物』になってみたらどうだ?最高の作品に仕上げてやるよ」 ルカは挑発的な笑みを浮かべた。相手の会員は、ルカの言葉にわずかに身を引いたようだったが、すぐに仮面の下で薄く笑ったように見えた。このクラブでは、そうした皮肉や、死を弄ぶような会話が、一種の挨拶代わりになっている。 ルカは、クラブの異常な雰囲気に、ますます魅了されていった。ここでは、彼の異常な美学が、誰にも咎められることなく、むしろ称賛されるのだ。課題の制作は、彼の内に秘められた狂気を解き放つ行為そのものだった。 制作中のマルコの剥製は、彼の技巧と審美眼の全てを注ぎ込んでいた。皮膚の質感を出すための特別な薬品、眼球の光沢、そして、永遠に留められた彼の最期の表情。それは、まさに「死体の芸術」と呼ぶに相応しいものだった。 ルカは自らの感情が薄れていくのを感じていた。喜び、悲しみ、怒り。それらの感情が、剥製制作に没頭するにつれて、次第にその形を失い、意味をなさなくなっていった。彼を突き動かすのは、ただひたすらに、より完璧な「死の芸術」を追求したいという、純粋な、そして破滅的な欲望だけだった。 そんなルカの変質に、リィナは気づいているようだった。検死室で、あるいはアトリエで、彼女はルカの様子をじっと見つめることが増えた。その視線には、いつもの無感情とは異なる、何かを探るような気配が混じっていた。彼女の外出の頻度も増していた。ルカはそれを、単純に暗殺の依頼が増えているためだろうと、深く考えることはなかった。 「おい、リィナ。最近、よく出かけてるな。男でもできたか?課題は終わったか?さもないとお前、次の講評会で俺の作品として展示されることになるぞ」 ルカが何気なく尋ねると、リィナはいつも通り無表情でルカを見つめるだけで、何も答えなかった。その沈黙は、ルカにとって飽きるどころか、彼女という存在の深淵を覗き込むような、奇妙な愉悦を伴っていた。 マルコの剥製は、『最後の晩餐クラブ』の特別展示室で、会員たちの目を釘付けにしていた。課題『再生』。ルカはマルコの苦悶に満ちた表情をそのままに、限りなく生に近い精巧さで仕上げた。その身体の表面には、極彩色の羽根が埋め込まれ、背中からは漆黒の翼が広がる。それは、見る者全てに、死の先の異様な美しさ、そして狂気すら感じさせる、まさに芸術だった。 「これは……傑作だ」 仮面をつけた会員の一人が、震える声で呟いた。別の会員は、その作品から目を離すことができず、ただ息をのんでいる。ルカは、そんな彼らの反応を、口元に薄い笑みを浮かべて眺めていた。彼の作品が、彼らの年功序列をわずかに揺るがしていることが、何よりも愉快だった。結局彼の作品はクラブで最も高い評価を受け、その名声は瞬く間に広まっていった。 その夜、ルカがアトリエに戻ると、ディオンが手前の路地でうずくまっているのを見つけた。彼の顔はひどく青ざめ、両手で頭を抱え、悪夢にうなされているようだった。 「おい、どうした?」 ルカが一応声をかけると、ディオンは飛び上がらんばかりに驚き、ルカを見上げた。その瞳には、恐怖と絶望の色が濃く浮かんでいる。 「ルカ……頼む、助けてくれ」 ディオンの声は、かすれてほとんど聞こえないほどだった。ルカは扉を開け、アトリエへと入る。冷たい薬品の匂いが、彼の鼻腔を刺激する。ディオンはここが、己の友人にとっての第二の職場であり、死と狂気が巣食う場所だとは知るまい。 「何があった?」 「最後の晩餐…あのクラブだ……あそこは、とんでもない場所だ。俺はもう耐えられない。あんなもの、芸術なんかじゃない!ただの、人殺しだ!」 ディオンは震える声で叫んだ。彼の脳裏には、クラブの闇が深く刻み込まれているようだった。彼はおそらく課題に失敗した会員が、どのような末路を辿るのか、間近で見てしまったのだろう。親しい友人のマルコの作品が(ルカによって)展示されたことも、ディオンにとっては追い打ちだったに違いない。死の淵を覗き込み、とうとう狂気に飲まれたか。ルカは、そんなディオンの醜態を、どこか冷めた目で見つめた。 「辞めたいんだ。クラブを辞めたい。だが、奴らは……辞めることを許さないだろう。頼む、ルカ。金はいくらでも払う。貯めていた金、全部やるから…手伝ってくれ」 ディオンはルカの足元に縋りつき、必死に懇願した。その手は、冷たく湿っていた。ルカは、そんなディオンの姿を冷めた目で見つめた。金。そう、金ならば。 「ほう?いくら出すつもりだ?」 ルカはわざとらしく鼻を鳴らした。ディオンは震える手で革袋を取り出し、ルカに差し出した。ずっしりとした重み。ディオンがこれまで検死官として稼いできた金、賭博で手に入れた金、その全てがそこにあった。 「これだ……全てだ。だから、頼む。安全に、クラブから逃してくれ」 ルカは革袋の中を覗き込み、満足げに頷いた。 「よし。分かった。俺も、お前みたいな凡庸な男が、ただの『供物』で終わるのを見るのは退屈だからな。」 ディオンの顔に、わずかな希望の色が浮かんだ。ルカは、彼の背後に控えていた闇稼業の仲間に連絡を取り、ディオンをモルカディアから安全に脱出させる手筈を整えさせた。報酬はもちろん、ディオンの金から捻出する。 真夜中、ルカはディオンを連れて、旧市街の裏道を歩いていた。街灯の光は届かず、闇が全てを覆い隠している。時折、風に乗って酒場の喧騒や、遠くで犬が吠える声が聞こえてくる。ディオンはルカの後ろを子犬のように付いてくる。その表情は、今にも泣き出しそうだった。 「もう少しだ。船着き場まで行けば、後はどうにでもなる」 ルカは気だるげに言った。彼の心には、何の感情もなかった。ただ、金のために依頼を遂行するという、機械的な思考だけがそこにあった。いつも通りだ。 その時、路地の奥から微かなな足音が聞こえた。追っ手だろうか。 ルカは足を止め、闇の中に目を凝らす。ディオンは、その足音に気づいたのか、彼の背中に隠れるように身を寄せた。彼の呼吸がよけいに荒くなるのが分かる。 闇の中から、黒い影が、ゆっくりと姿を現した。月明かりが、その顔の造形をわずかに照らし出す。そこに立っていたのは、リィナだった。 彼女の顔は相変わらず無表情で、その手には、月光を鈍く反射するナイフが握られている。 さらなる仲間の登場に一瞬希望を見出したディオンの顔が、絶望に染まった。そのあまりの変わり身の早さに、ルカは口元に薄い笑みを浮かべた。 「リィナ……なんだそれは…」 彼の声は、恐怖で喉に詰まったようだった。リィナは何も言わない。ただ、標的を捉えた捕食者のように、静かに、しかし確実にディオンへと近づいていく。 「おいおい、リィナ嬢。こんなところで何してるんだ?邪魔だってわかんねえか?退けよ」 ルカはわざとらしく、しかし含みのある声で言った。リィナはルカの言葉には何の反応も示さず、まっすぐにディオンを見つめている。 次の瞬間、リィナは電光石火の速さでルカの背後に控えるディオンに襲いかかった。ルカは咄嗟に避ける。ディオンは悲鳴を上げようとしたが、その声は喉に詰まったまま、ナイフが彼の胸を貫いた。赤い血が、夜の黒い闇に飛び散る。ディオンの体は、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。彼の瞳は、恐怖と驚きを映したまま動きを止めた。 ルカは、その光景をただ無関心に眺めていた。彼の表情に動揺はなかった。 「…手際がいいね。相変わらず無駄がなくて、感心するよ」 ルカは、血の海に倒れるディオンを見下ろしながら、リィナに言った。その声には、嘲りと、どこか満足げな響きが混じっていた。 リィナは、またしてもナイフの血を冷淡に拭うと、ルカに向き直った。 「なぜ殺した?」 ルカは尋ねた。彼の声には、詰問の意図はなく、純粋な好奇心だけがあった。 リィナは、ルカの目をじっと見つめた後、淡々とした口調で語り始めた。 「依頼。マルゴー伯爵夫人の夫から。ディオンを殺し、夫人に警告を与えること。そして、死体を二度と発見されないよう、痕跡を完全に消し去ること。だからここで始末した」 マルゴー伯爵夫人といえば、ディオンが以前から通い詰めていた、あの夜遊びの相手だ。寝取ったとかなんとか…。彼女はそう言うと、ディオンの死体を一瞥した。ルカは、その話を聞きながら、口元に笑みを浮かべた。女を寝取り、その報復に命を落とす。ディオンらしい、実に馬鹿げた最期だ。そして、それを淡々と、何の感情もなく遂行するリィナ。 「なるほどね。最高だよ、リィナ」 ルカはディオンの死体を見下ろした。金のために逃がしてやろうとした相手が、仲間の手で、誰かの依頼で殺される。実に馬鹿げた、そして完璧な結末だ。それもまた、この裏社会の摂理だ。 第五話:死相の命題 モルカディアの空は、今日も分厚い鉛色の雲に覆われ、地上の闇をさらに深くしていた。マルコ、そしてディオンの死は、陰気臭い検死室にさらに暗い影を落としていた。特にディオンの失踪は、表向きは「夜逃げ」とされたものの、彼のクラブへの言及を知る者にとっては、不吉な予感しか与えなかった。検死官の数は目に見えて減り、残された者たちの間には、言葉にならない緊張が張り詰めていた。死体と向き合う彼らの手は、以前にも増して重くなっていた。だが、ルカにとって、それは心地よい静寂だった。彼の表情には、何の動揺もない。むしろ、仲間が減ったことで手に入った静寂を愉快に思っていた。検死室の解剖台を挟んで、彼らは黙々と作業を続ける。腐敗臭が充満する中で、メスが肉を裂く音だけが響く。 「なあ、リィナ」 ルカが突然、静寂を破った。彼女は黙って、汚れたメスを洗っていた。 「最近、検死官の数が減って、随分と寂しくなったもんだな。俺たちの肩にかかる負担も、増える一方だ。給料は増えたが」 ルカはそう言いながら、死体の腹部を撫でた。その指先は、生きた人間の肌に触れているかのように、優しく、冒涜的だった。リィナは、ただ無言でルカの隣に立つ。彼女の冷たい視線が、ルカの横顔を捉えている。 「だからさ、俺たちももう少し、仲良くしないか?この薄汚い場所で、互いの腹の中を晒し合っても、吐き気を感じない相手なんて、よく考えりゃお前くらいしかいねえんだからさ」 ルカは顔を上げ、リィナの目を真っ直ぐに見つめた。彼の口元には、いつもの皮肉な笑みが浮かんでいる。だが、その瞳の奥には、遊び心のような光が宿っていた。彼は、リィナの無関心をどこまで揺さぶれるか、試しているようだった。 リィナは、一瞬だけ目を伏せたが、すぐに無表情な視線をルカに戻した。 「必要ない」 彼女の声は、氷のように冷たく、何の感情も含まれていなかった。 「おやおや、つれないねぇ。たまには、俺の愛を受け止めてくれてもいいんじゃないか?俺は意外と尽くすタイプなんだぜ?もったいない」 ルカはくるくると指で宙をなぞりながらわざとらしい口調で言った。リィナはそれには答えず、黙って解剖台から離れていく。彼女の薄い背中は、相変わらず感情の欠片も見せない。ルカは、そんな彼女の後ろ姿を見送りながら、フッと小さく笑った。彼女の拒絶すら、彼にとっては一種の刺激であるからだ。 その夜、『最後の晩餐クラブ』の広間は、いつも以上に静まり返っていた。壁に飾られた剥製たちは、シャンデリアの光を反射し、異様なほどに輝いている。クラブの会員たちの間にも、どこか重苦しい空気が漂っている。課題に失敗した者たちの末路が、彼らの心を蝕んでいるようだった。 そんな中、ローブを纏った導師の側近が、広間の中央に歩み出た。彼の声が、静寂を切り裂く。 「会員の皆様に、告げます。次なる講評会は一年に一度の『特別展示』。これまでの御題とは一線を画す、真の傑作を期待いたします」 ざわめきが起こった。特別展示。そして、その後に続く言葉に、ルカの心臓が不規則なリズムを刻み始めた。 「御題は、『死相』。最も美しい、生命の終焉の顔を表現せよ」 『死相』。その言葉が、ルカのシナプスを刺激した。彼の中に眠る、血塗られた芸術衝動が疼いた。彼の破滅的な美学が、この御題に共鳴する。そして、さらに続いた言葉は、彼の享楽主義的な欲望を最高潮にまで高めた。 「そして、その供物は、クラブの人間の中から、一人、自由に選ぶように指示する」 その瞬間、広間にはざわめきよりも、恐怖の囁きが広がった。会員たちの視線が、互いを疑うように交錯する。誰が、次の『供物』となるのか。誰もがその恐怖に顔をこわばらせている中、ルカの口元には、満足げな笑みが広がっていた。最高の舞台。最高の御題。そして、最高の『供物』を選ぶことができる権利。 彼は、静かに広間を見渡した。会員たちの怯える顔、冷や汗をかく姿。彼らの恐怖が、ルカにとっては最高の燃料だった。 彼は思案する。あの美しいリィナをドールにしてやろうか。あの冷たく整った顔と体とを、手元に置いて存分に愛でてやろうか。…しかし、それは味気ないような気もする。彼女の、感情の宿らない声が聞けなくなるのは惜しい。 そして、その視線は、広間の奥、仮面の下に顔を隠した威厳ある「導師」の姿で止まった。 「せっかくだから、最高のものを選んでやるよ」 ルカは独り言のように呟いた。報酬を約束したドミニク卿の甥との約束、クラブの壊滅。そして、自身の美学の追求。この退屈な世界に、一石を投じるには最高の機会だ。どうせなら度肝を抜いて大金を稼ぎたい。その全てを同時に満たす、最高の『供物』。それは、このクラブの最高指導者、「導師」以外にあり得なかった。彼は、このクラブの秩序そのものを揺るがす、究極の「死相」を作り出すことを決意した。 数日後、検死室で、ルカはリィナに声をかけた。いつものように、死体と向き合っている彼女の背中に。 「なあ、リィナ。今夜、ちょっと派手で面白いこと、しないか?」 ルカの声には、いつになく熱がこもっていた。リィナは、彼に背を向けたまま、何も反応しない。 「お前のその腕前、こんな場所で腐らせておくのはもったいない。もっとデカい仕事があるんだよ」 ルカは、彼女の隣に歩み寄り、その肩に手を置いて抱き寄せる。彼女の肩は、硬く、冷たい。だが、彼は構わず言葉を続ける。 「このモルカディアで、一番退屈で、一番面倒な奴らを、この手で潰してやるんだ。俺と、お前で。どうだ?」 彼の提案は、ただの誘いではなかった。それは、彼女の暗殺者としての本能と、ルカ自身の破滅的な美学が交錯する、甘美な共犯関係への招待だった。リィナは、ゆっくりとルカの方に顔を向けた。仮面をつけたクラブでの姿とは異なり、その顔は無表情のままだが、ルカの言葉に、わずかに瞳が揺れているように見えた。 「……何、する」 彼女の短い問いに、ルカの口角が吊り上がった。 「決まってるだろう。あの『最後の晩餐クラブ』を、内側から食い破ってやる。導師を殺して、『死相』を、俺の作品にしてやるんだ」 彼の声には、高揚感が満ち溢れていた。リィナは、ルカの言葉を聞きながら、黙って彼の目を見つめていた。彼女は喋らない。だが、ルカは構わない。彼は既に、リィナの参加を確信していた。彼女が持つ、死への無感情な執着。それが、自分と全く同じ種類のものであることを、ルカは知っていたからだ。そして、彼自身の計画の鍵となるものを、リィナに託すことを決意していた。 「最高に面白いことになるぞ。お前なら、俺のこの計画を、完璧にアシストしてくれるだろ?そのための重要な役目を、お前に託したい」 ルカは、リィナの目をじっと見つめながら、そう告げた。彼の瞳は、獲物を前にした獣のようにギラギラと輝いていた。この賭けに、彼は全てを賭けるつもりだった。 モルカディアの地下深くに潜む『最後の晩餐クラブ』は、その夜、異常なほどの熱気に包まれていた。導師が提示した『死相』という究極の御題、そして『供物』をクラブの人間の中から選ぶという条件は、会員たちの間に期待と同時に深い恐怖を植え付けていた。しかし、その張り詰めた空気の中、ルカの『特別展示』の準備は、着々と進められていた。 ルカのアトリエは、今や彼の狂気を凝縮した空間と化していた。作業台の上には、まだ形を成していない『供物』のパーツが規則的な不規則さで散乱している。導師を『死相』のテーマで表現する──それは、彼にとって至高の挑戦であり、同時に、この狂気のクラブを内部から破壊するという、ドミニク卿の甥との約束を果たす一石二鳥の機会であった。 「最高の舞台だ。そして、最高の観客が、俺を待っている」 ルカは独りごちた。彼の脳裏には、計画の全貌が既に鮮明に描かれている。クラブの『特別展示』は、導師を含む全ての会員が、剥製の出来栄えを評価するために一堂に会する。その厳粛な瞬間に、ルカは自らの『死相』を披露すると同時に、導師に直接その刃を向けるつもりだった。タイミングは、クラブの照明が最も暗くなる、展示品への『畏敬』を促す演出の瞬間。その一瞬の闇が、彼の計画を完璧なものにするための舞台となる。 彼が導師に使用する凶器は、検死室で愛用している解剖用のメスだった。彼の指の延長であるかのようにしっくり馴染む、鋭利な刃。これは、彼の美学を具現化するための道具だ。だが、それだけでは足りない。万が一、導師の護衛が彼の動きを察知した場合に備え、もう一つの武器が必要だった。その武器こそ、リィナに託す役割だった。ルカは、アトリエの奥にある隠し棚から、黒檀の柄を持つ短剣を取り出した。その刃は漆黒に研ぎ澄まされ、光を一切反射しない。これは、確実な殺意のためのものだ。その感触を確かめるように指先で撫でてから、彼は短剣を革製のケースに収めた。 その夜、いつものようにリィナがアトリエに現れた。彼女は黙って、ルカの剥製作業を見つめている。ルカは作業の手を止め、リィナに向き直った。 「これだ、リィナ」 ルカは、そう言って革製のケースを差し出した。リィナは無言でそれを受け取ると、中身を確かめるようにケースを開けた。漆黒の短剣が、薄暗いオイルランプの光を吸い込む。 「お前に頼みたいことがある。クラブの『特別展示』の夜、俺が導師に仕掛けた後、万が一俺がもたついた場合、お前はこいつで、導師の護衛を始末しろ。そして、導師が逃げようとしたら、お前も加勢しろ。俺の邪魔にはなるな。お前の腕前なら、この計画を確実に成功に導くだろう。」 リィナは、短剣の重みを確かめるように手のひらで転がし、ルカの目をじっと見つめた。その瞳の奥に、何の感情も読み取れない。ただ、微かな冷徹な光が宿っているようにも見えた。 「……分かった」 彼女の短い返事に、ルカは満足げに頷いた。彼はリィナの能力を完全に信頼していた。彼女の無駄のない動き、冷徹な判断力は、この計画を成功させる上で不可欠なものだった。彼にとって、リィナはあのメスと堂々かそれ以上の最愛の道具であり、同時に己の狂気を最も深く理解し、共有できる共犯者でもあった。 計画が順調に練り上げられた数日後、ルカは検死室で、いつも通りの退屈な仕事に就いていた。その日の午後に運び込まれてきた死体に、彼はしかし、いつもの冷静さを一瞬にして失った。 検死室の扉が開かれ、数体の死体が運び込まれてきたのだ。運搬人の顔は青ざめ、息を荒げている。血の匂いと胃液のような酸っぱい刺激臭が、いつもより濃厚に室内に充満する。 解剖台に並べられた死体は、どれも惨たらしい状態だった。臓器が裂かれ、身体には無数の傷が刻まれ、そのどれもが深く、正確な急所を狙っている。その傷口は、まるで完璧な芸術品のように鋭利で、同時にぞっとするほど美しかった。確実に熟練した殺し屋による仕事だ。 ルカが死体の顔を確認すると、その瞳に微かな動揺が走った。それは、彼に『最後の晩餐クラブ』の壊滅を依頼した、ドミニク卿の甥とその一族の者たちだった。彼らは、一家もろとも惨殺され、検死室に運び込まれてきたのだ。 「……ふざけてやがる。なんだ、これは…」 ルカの口から、低い呻き声が漏れた。彼の指先が、死体の顔を無意識に撫でる。その顔は、恐怖と苦痛に歪んだまま硬直していた。 金目のものは全て持ち去られており、目的は強盗か、あるいは見せしめか。あるいは、金銭以上の、何か別の意図が隠されているのか。 「チッ……クソッたれが」 ルカは舌打ちをした。彼の顔に、苛立ちが明確に浮かび上がる。ドミニク卿の甥に約束された莫大な報酬。クラブを壊滅させるための「ビジネス」が、まさかこんな形で潰えるとは。彼は、金が手に入らないことに純粋に腹を立てていた。 「おい、こいつらを検死するぞ!徹底的に、隅々まで調べ上げろ。一体誰が、こんな真似を……」 ルカの声は、普段の気だるげな響きを失い、冷たい怒りが滲み出ていた。彼は、剥製作業の熱狂とは異なる、純粋な苛立ちに突き動かされていた。 計画を中止するかどうかを審議するルカの頭の中で、利害計算が猛烈な速さで回転し始めた。だが、彼の脳裏に浮かんだのは、導師という最高の『素材』と、『死相』という究極の美学だった。それらは、金銭的な損失など、霞んでしまうほどの誘惑だった。彼の計算は、美への執着によって狂わされた。 モルカディアの空は、その夜も重く垂れ込めていた。ドミニク卿の甥一家の惨殺事件は、市中に不穏な噂をまき散らしていた。しかし、ルカの意識は、既にその先の計画、そして手に入らなかった莫大な報酬への煮え滾るような怒りで占められていた。だが、この怒りすらも、彼がここまで練り上げた計画を捨てる理由にはならない。導師の死体という最高の素材、そして自身の破滅的な美学を世に問う機会を失うなど、到底許容できなかった。金など、瑣末な問題だ。彼は、報酬を失った今こそ、計画を押し通すことに固く決意していた。 「このまま終わらせてたまるか」 アトリエの薄暗い光の中、ルカは解剖用のメスを手に、静かに研ぎ澄ましていた。彼の心を支配する執念が、研石の上を滑るメスに乗り移る。銀色の刃が、彼の狂気的な決意を映して鈍く光る。乾いた空気の中で静かに響き渡る金属音が、彼の鼓動と同期していく。研ぎ終えたメスの切れ味を、彼は自身の指の腹で慎重に確かめた。怜悧な鋭さ。これなら、確実に仕留められる。彼はメスを愛おしむように見つめ、その冷たい金属の感触を指先で楽しんだ。 その夜遅く、リィナがアトリエに現れた。 「いいか、リィナ。明日は最高の夜になる。そして、お前は、その夜の主役の一人だ」 ルカの声には微かな興奮が宿っていた。彼は懐から、護身用に常に携帯しているもう一本の短剣をリィナに差し出した。 「もう一度確認しておこうか。計画は、前に話した通りだ。クラブの『特別展示』。導師が俺の作品の前で説明を始め、照明が最も暗くなる、あの『畏敬』の演出の瞬間が合図だ。俺は、そこで導師に仕掛ける。お前は、この短剣で、導師の背後に控える護衛を始末しろ。その腕前なら、一瞬で片付けられるだろう。万が一、導師が逃げようとしたら、お前も加勢しろ。どこにも逃がすな。お前の無駄のない動きと、冷徹な判断力は、この計画を成功させる上で不可欠だ。邪魔だけはするなよ?」 リィナは黙って短剣を受け取ると、その重みを確かめた。 彼女はルカの目をじっと見つめた。その瞳の奥に、いつも通り何の感情も読み取れない。 「……分かった」 彼女の短い返事に、ルカは満足げに頷いた。彼はリィナの能力を完全に信頼していた。 「終わったら、街で一番高級な宿を取ってやろう。最高の酒を用意して、最高の宿で祝杯をあげるんだ。そのあとは、朝までたっぷり二人で…な?」 ルカは、悪戯っぽい笑みを浮かべて、彼女の可愛らしい耳のすぐ近くで囁いた。それは、彼なりの最大の冗談であり、一種の賭けだった。一方的な誘い。リィナは、耳をくすぐる彼の湿った吐息にも何の反応も示さない。その表情は、普段と寸分も変わらない無表情だった。ルカは、彼女のそんな態度を面白がりながら背を向けた。彼の意識は、既に明日の夜、最高の『死相』を世に問う瞬間に飛んでいた。 『最後の晩餐クラブ』の『特別展示』は、張り詰めた空気の中で始まった。シャンデリアの光が、展示された剥製たちを妖しく照らし出す。会員たちの間を、重苦しい期待と、微かな恐怖のざわめきが漂っている。その緊張感が、ルカの心臓を高鳴らせた。ドミニク卿の甥一家のことは、彼の意識の片隅に追いやられていた。今はただ、自身の美学を完遂することだけを考えていた。 広間の中央には、たくさんの剥製が並んでいる。その多数の作品の前には、ローブを纏った威厳ある導師が立っていた。その仮面の下の表情は伺えないが、その背中からは、圧倒的な威圧感が放たれている。 「――これこそが、『死相』の真髄。生命の終焉に宿る、究極の美である」 ローブの男が、荘厳な声で説明を始めた。その声が、広間に響き渡る。ルカは、導師の背中に意識を集中させた。研ぎ澄まされたメスを握る手に、じんわりと汗が滲む。そして、その瞬間が訪れた。説明役の男が手を挙げると、シャンデリアの光がゆっくりと弱まり始めた。展示品への『畏敬』を促す演出。広間は、徐々に深い闇に包まれていく。導師の姿が、影の中に溶け込んでいく。 「今だ……!」 ルカの脳内で、警鐘が鳴り響いた。彼の目は、導師の背中を捉えている。研ぎ澄まされたメスを握りしめ、ルカは導師に向かって踏み出した。彼の指先が、メスの柄に汗ばむ。あと、数歩。しかし、その足音が、ルカ自身のものだけではないことに気づいたのは、闇に溶け込むような低い声が聞こえた、寸秒後のことだった。闇の中から、無数の影がルカを取り囲む。ルカの背後、そして左右から、ローブを纏った男たちが彼を包囲する。回収官たちだ。 「何……!?」 ルカの顔に、焦りの色が浮かんだ。これは罠だ。手筈が違う。何かがおかしい。急速に冷え込む空気に、背筋が凍るような感覚が駆け抜ける。裏切りの予感が、じんわりと、そして確かな重みをもって彼の心を支配していく。彼の計画は、完全に筒抜けだったのだ。脳裏をよぎったのは、昨夜のリィナの無表情な顔だった。 ドミニク卿の甥一家の惨殺。あの死体の鋭利な傷口。 ディオンの死体。クラブの会員が、検死室に運び込まれているディオンは言った。誰が?誰か、課題失敗者を始末して検死に送る役目を担う誰ががいるはずだ。 そして、リィナの手際の良い暗殺。マルコの心臓を正確に貫いた一撃。ディオンはマルコもクラブに誘ったと言っていなかったか?ディオンもまた、クラブから逃げようとした途端に、リィナに殺された。 リィナの外出の頻度が増えた。彼女の無感情な瞳の奥に、何かを探るような気配。あのとき、ルカは深く考えなかった。単純に暗殺の依頼が増えているためだろうと。 「課題は終わったか?さもないとお前、次の講評会で俺の作品として展示されることになるぞ」 あの時のルカの言葉に、リィナは何も答えなかった。あの沈黙。あの無表情。それは、単なる無感情ではなかった。全てを理解した上での、感情の抑圧だったのだ。 全てのピースが、急速に埋まっていく。不規則な点と点が線で結ばれていく。冷たい汗が、ルカの背筋を伝う。彼は、今まで見過ごしてきた些細な違和感が、今、恐ろしいほど明確な像を結んでいることに気づく。 裏切り。 彼の脳裏に、リィナの無表情な顔が、はっきりと浮かび上がる。まさか、あのリィナが──?裏切りの確信が、冷たい氷となってルカの心臓を締め付けた。彼女の無感情な瞳が、今、自分に向けられていると、明確に理解した。彼の視線が、闇の中で一際冷たい光を放つ一点に吸い寄せられた。回収官たちの輪の中に、一人の細身の影が立っている。その影が、ゆっくりとルカに向かって歩み寄ってきた。月光が差し込み、その影の顔をわずかに照らし出す。そこに立っていたのは、やはりリィナだった。彼女は、ルカが託した漆黒の短剣を手に、無表情な顔で彼を見つめている。その瞳は、最早感情を宿さず、ただ獲物を見定める捕食者のように、冷たく澄み渡っていた。 「貴様ぁあああああッ!」 ルカの理性は、完全に吹き飛んだ。裏切り。それは、彼の享楽主義的な世界において、最も予測不能で、最も忌まわしい行為だった。裏切りへの、純粋で絶対的な怒りが、ルカの全身を焼いた。彼はメスを振り上げ、自分を取り囲む回収官たちに襲いかかった。彼の顔は、怒りと絶望と、そして純粋な狂気に歪んでいた。 「殺してやる……!全員、この手で、素材にしてやるッ!」 ルカは、狂ったように暴れ回った。彼のメスが、闇の中で閃光を放つ。回収官たちは、ルカの予想以上の激情に、一瞬たじろいだ。彼は、まるで飢えた獣のように、無秩序に、しかし的確に、彼らに襲いかかる。彼の身体能力は、検死官としては異例なほど鍛えられていた。 怒りが彼の全身を駆け巡り、痛みすら感じさせない。彼は、ただひたすらに、目の前の裏切り者たちを『素材』に変えることだけを考えていた。彼の白い白衣は、血と汗でみるみるうちに汚れていく。メスの刃が、肉を切り裂く鈍い音。回収官たちの呻き声が、薄闇にこだまする。しかし、多勢に無勢。彼がいくら暴れても、その勢いは次第に鈍っていく。 その時、ルカの背後に、影が忍び寄った。彼はその気配に気づき、振り返ろうとしたが、遅かった。 「……ッ!」 鋭い痛みが、ルカの胸部を貫いた。彼の動きが、ピタリと止まる。呼吸が、大きく乱れる。ゆっくりと視線を下ろすと、彼の胸元に、漆黒の短剣の切っ先が突き立てられていた。その柄を握っていたのは、リィナだった。彼女の顔は、相変わらず無表情で、その瞳の奥には、何の感情も宿っていない。だが、その一突きは、あまりにも的確で、躊躇いがなかった。 「……相変わらず、無駄がねえな」 ルカの口元に、いつもの皮肉な笑みが戻った。痛みで顔を歪ませながらも、彼の目は、リィナの冷徹な手つきを、完璧な芸術を鑑賞するかのように見つめていた。血が、彼の口からじわりと溢れ出す。 「まさか、俺がこんな形で『素材』になるなんてな。リィナ嬢」 彼は、血混じりの唾を吐き捨てた。彼の心は、奇妙なほどに冷静さを取り戻していた。まるで、自身の死さえも、一つの完璧な芸術品として受け入れているかのようだった。 ルカは、途切れ途切れの声で尋ねた。 「祝杯は?宿での酒は?まさか、このままなしだとでも言うつもりか?俺は、結構楽しみにしていたんだがな……」 リィナは答えた。 「なしだよ。だって、計画は失敗したもの。成功、してないから」 その瞳の奥で、わずかに光が揺れたように見えたのは、月明かりのせいか、それとも彼の最期の幻想か。しかし、彼女の口角が、かすかに上がったように見えたのは、紛れもない事実だった。それは、ルカの最期が、彼女の基準を満たす「芸術」となった証なのか。 「……そうか。まあ、いいさ」 ルカは、フッと小さく笑った。その笑みは、最早皮肉ではなく、全てを悟った者の諦念、あるいは満足の境地だった。 「おい、約束だ」 彼の身体から、急速に力が抜けていく。意識が、遠のいていくのが分かる。彼の視界を、闇が侵食していく。しかし、その闇の中に、彼自身の「死相」が、最高の芸術品として浮かび上がるのが見えた。 「後世で会おう。そんときゃ、宿を取ってやるよ…二人でな……」 その言葉を最後に、ルカの瞳から光が消えた。彼の身体は、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。静まり返ったクラブの広間に、彼の身体が倒れる鈍い音だけが響き渡った。リィナは、血に濡れた短剣を静かに引き抜き、無言でその場を後にした。残されたのは、血の匂いと、そして、完璧な『死相』を晒したルカの骸だけだった。 『最後の晩餐クラブ』の特別展示室は、いつも以上に静寂に包まれていた。シャンデリアの煌びやかな光が、広間の中央に据えられた、ひときわ目を引く展示品を照らし出している。それは、もはや死体とは呼べない、完璧な『死の芸術品』だった。 透明なガラスケースの中に横たわるのは、見慣れた男の姿。昼間は検死室で死体と向き合い、夜は裏社会の闇に紛れて死を弄んだ、あの男だ。ルカ。彼の身体は、最高の職人の手によって、一点の曇りもない美しさで加工されていた。皮膚は艶やかに磨き上げられ、血管の一つ一つまでが浮き出るほどに精巧に彩色されている。瞳には、彼の最期に宿っていたであろう、驚きと皮肉、そして諦念の入り混じった表情がそのままに留められていた。まるで、今にも息を吹き返して、口元にいつもの嘲りの笑みを浮かべそうなほどに。 彼の傍らには、真鍮製の銘板が立てられている。リィナによってそこに刻まれた文字は、彼の最期を、そしてこの作品の主題を静かに告げていた。 『Joker Boy』 道化師の少年。このクラブの秩序を乱し、導師の美学を揺るがそうとした異端者。皮肉にも、その異端者自身が、今や最高の『供物』として、この場に飾られている。

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波打ち際で待っている

蝉の声が耳障りに響いた。 都会の蒸し暑さにねっとり絡みつくような、あのうんざりする声じゃない。潮の匂いをほんのり含んだ、力強い蝉時雨。生命力に満ちている、と言えば聞こえはいいが、要するに田舎特有の騒がしさだ。 引越しのアルバイトが汗を拭きながら、「これで全部です!」と声をかけてきた。彼らの視線の先には、築何年かもわからない、薄汚れた木造アパートが建っている。二階建てのそれは、潮風に晒され続けたせいで塗装は剥げ落ち、壁は色あせていた。窓枠は歪み、ベランダの手すりには錆が浮いている。都会の洒落たマンションに住み慣れた俺からすれば、冗談抜きでボロ屋だ。だが、人の目を気にせずひっそりと隠遁するには、むしろ俺には好都合だった。 佐々原朔、29歳。過去を振り返れば、「新世代の旗手」などともてはやされた時期もあったらしい。文壇デビュー作が異例のヒットを飛ばし、「天才現る」と騒がれたのも束の間、続く二作、三作は鳴かず飛ばず。結局、どんなに初め騒がれたところで、蓋を開けてみればこんなものだ。俺がうまく行ったのも、ただのビギナーズラックだったんだろう。 乾いた笑いが喉から漏れた。心機一転? できるわけがない。場所を変えたところで、自分の中から湧き出てくるはずの言葉が見つからなければ、何も始まらないのだ。 荷物の整理もそこそこに、俺は段ボールの山に囲まれたリビングで、持参したノートパソコンを開いた。画面には、担当編集者からの催促メール。赤い丸の小さな通知バッジが、その数の多さをやかましく主張している。 「先生、そろそろ新作の構想は?」「締切が迫っていますよ」 ここ数年で、耳にタコができるほど聞いたセリフたち。新しい環境ならば、とわずかな期待を抱いたのも束の間、キーボードを打つ指は鉛のように重かった。かつては指先から溢れ出すように言葉が紡がれていったのに、今や空白にカーソルがただ虚しく点滅しているだけだ。アイデアは霧散し、登場人物のセリフは陳腐に響き、物語の展開はどれもこれもありきたりで二番煎じなものばかり。はっきり言って、才能の枯渇ってやつだ。 ふと、窓の外に目をやった。西日が部屋の奥まで差し込み、畳に長い影を落としている。 この町には、子供の頃、家族で避暑に来た記憶がある。だが、それは曖昧な断片でしかない。潮の匂い、白い砂浜、それから――微かに聞こえたような、誰かの笑い声。その記憶は、妙に懐かしく感じられるのに、頭痛がするような感覚に襲われ、それ以上思い出そうとすると、はっきりと捉えきれないまま消えていく。まあ、昨日の朝食の献立だって覚えてないんだ。そんな昔のことが思い出せるわけがない。 やがて日が沈み、空には星が瞬き始めた頃、ようやく重い腰を上げて風呂に入った。水道から出てくる水は、生ぬるい。都会のマンションのような快適な設備はどこにもない。それがかえって、自虐的な笑いを誘った。 風呂から上がると、ベランダに出てみた。 物音ひとつしない。隣の部屋にも、下の部屋にも、誰も住んでいないようだ。このアパート自体、半分以上が空室なのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えていると、ふいに視界の端に、何かが動いたような気がした。 子供か…? 俺は思わず視線を向けた。隣の部屋のベランダ。白いワンピースを風にはためかせた長い髪の人影があった。 こんな真夜中に、子供がベランダにいるはずがない。幻影だ。疲労と、この場所に慣れない心が生み出した、ただの幻覚。俺はそう結論付け、缶ビールを片手に部屋に戻った。 翌日も、俺は執筆に取り組んだ。しかし、やはり筆は進まない。午前中はなんとか数行をひねり出したが、午後には完全に手が止まった。結局、その日もまともに書けたのはたったの二行だ。 「この調子じゃ、来月も締切は守れねえな」 もはや文章を書く時間よりも、担当編集への言い訳を練っている時間のほうが長い。クソッたれ。 気分転換に、とアパートを飛び出して周囲を散策してみた。裏手には、古びた木々が鬱蒼と茂っている。その中に、不自然に踏み固められたような小径を見つけた。人が一人通れるほどの細い道だ。気になって、その小径を少しだけ進んでみる。足元には落ち葉や小石が散乱しているが、確かに誰かが通っているような痕跡がある。小径は木々の間を縫うように続き、やがて視界が開けた。 そこには、静かな海が広がっていた。小さな入り江になっていて、波は穏やかだ。誰もいない砂浜に、波の音が単調に響いている。小径が、そのまま海へと続いているように見えた。もうほとんど陽が落ちているにも関わらず、夕焼けを映した海は青く、どこか幻想的な輝きを放っていた。 その夜も、俺はベランダで缶ビールをあおり、煙草をふかして夜風に当たっていた。 すると、まただ。隣のベランダに、少女の影。今度は、昨夜よりもはっきりと見えた。やはり白いワンピースを着て、長い髪を潮風になびかせている。幻影ではない。そこに、確かに誰かがいる。 俺は目を凝らしたが、暗闇に紛れて顔はよく見えない。まさか、誰か住んでいたのか? だとすれば、なぜ今まで気づかなかった? 面倒だな。引っ越したての挨拶とか、そういうの、マジ勘弁してほしい。 俺は声をかけようとした。しかし、その口が開かれる前に、少女の影はスーッと闇の中に消えてしまった。まるで、最初からそこにいなかったかのように。 「……気のせいか」 そう自分に言い聞かせた。きっと、この田舎暮らしと、スランプによる精神的な疲労が、そうさせているのだろう。吹き付ける風がやけに肌寒い。 俺は再び部屋に戻り、パソコンの前に座った。だが、書くことは何もない。ただ、目の前の空白を眺めているだけだ。その夜も、彼は眠りにつくまで、何度も隣のベランダに目をやった。しかし、そこに少女の影が再び現れることはなかった。なぜか、微かな安堵と、それと同じくらいのわずかな戸惑いが胸に残った。 アパートに引っ越してきて数日が過ぎた。俺の筆は相変わらず動かない。今日も白紙の原稿を前に、唸ることしかできなかった。編集部からの催促メールは日々その頻度を増し、「先生、ご無沙汰しております。進捗はいかがでしょうか?」「締切まであとわずかです」といった類の文面で、迷惑メールフォルダはあっという間にパンクした。 タバコを一本取り出して火を点ける。苦々しく不味い煙が重く部屋の空気に沈んだ。才能は枯れ果て、かつての輝きは完全に失われた。いや、そもそも才能なんてものは最初から俺にはなかったのかもしれない。そう結論づけても、不思議と納得がいった。作家になったのだって、結局は就職がうまくいかなかったからだ。もうこのまま、誰も知らない場所でひっそりと消えていくのが、一番楽なのかもしれない。そんな自暴自棄な思考が、頭を支配し始めていた。 その日の夜も、俺はベランダで缶ビールを片手に夜空を見上げていた。都会の汚れた空気が蔓延する灰色の空では決して見ることのできない、満点の澄んだ星空が広がっている。潮風が肌を撫で、どこか遠くで波の音が聞こえた。 ふと、隣のベランダから微かな物音がした。俺は反射的にそちらを見た。暗闇の中に、うっすらと人影が浮かび上がっている。白いワンピースをまとい、長い髪が風になびく。昨夜、そして数日前に見たのと同じ少女だ。だが、幻影ではなかった。今回ははっきりとその姿を認識できた。月明かりに照らされた横顔は、まだ幼さが残るものの、確かな存在感を放っている。 俺は缶ビールを持つ手を止めた。まさか、本当に誰か住んでいたのか? だとすれば、なぜ今まで物音一つしなかったのだろう。あるいは、最近になって引っ越してきたのか。困惑と、ほんのわずかな好奇心がないまぜになり、俺は喉の奥で言葉を転がした。 「あの、君……」 声をかけようとした、その時だ。 「朔ちゃん」 透き通るような、芯のある少女の声が夜の静寂を破った。少女は俺の方を振り向き、にこりと微笑む。まるで、そこに俺がいることが当然であるかのように、自然な振る舞いだ。 俺は驚きで言葉を失った。なぜ、俺の名前を知っている? そして、なぜ、そんな親しげな呼び方をするのだろう。初対面の、それも夜中にベランダで出会った少女が発する言葉としては、あまりにも不気味で、常軌を逸していた。 「こんばんは」 少女はそう言うと、手すりにひょいと体を預け、何の躊躇もなくベランダを乗り越えようとした。俺は咄嗟に身構える。この古いアパートのベランダは決して頑丈とは言えない。それに、こんな時間に、見知らぬ少女が自分の部屋に侵入しようとするなど、正気の沙汰ではない。 「おい、何を……!」 俺が慌てて制止しようとしたが、少女の動きは素早かった。ひらりと、まるで羽でも生えているかのように、少女は俺のベランダに降り立つ。そして、何の躊躇もなく俺の部屋の窓を開け、するりと中に入っていった。俺は呆然とその光景を見ていたが、すぐに我に返り、少女の後を追って部屋に飛び込んだ。 「お前、誰だよ! 帰れ!」 俺の声は焦りと動揺に震える。だが、少女は俺の言葉など気にも留めない様子で、部屋の中をきょろきょろと見回している。段ボールの山、散らかった雑誌、そして開かれたままのノートパソコン。少女は興味深そうにそれらを眺め、やがて俺の方を向いた。 「朔ちゃん、やっぱり片付けがへたくそ」 まるで、以前から知っていたかのように、少女は楽しそうに言った。その無邪気な笑顔に、俺は完全に拍子抜けしてしまった。怒鳴りつける気力さえ失せていく。 「ここは君の部屋じゃない。今すぐ出ていってくれ」 俺はため息をついて、冷静を装って告げたが、少女は首を傾げるだけだ。 「んー」 「…冗談はやめてくれ。迷子か? すぐに親御さんと警察に連絡するから、名前を教えてくれ」 俺はそう言ってスマホを取り出した。しかし、少女は聞く耳を持たない。図々しくも俺の私物にぺたぺたと触り、畳を踏み締める。少女は俺の机に置かれていた、書きかけの原稿用紙に目を留めた。空白のページに、わずかばかりの文字が綴られている。少女の視線がその文字を追う。 俺が警察へと電話の番号を押した、その時だった。あまりに唐突な問いかけがなされた。 「朔ちゃん、好きな文豪は?」 「は…?」 少女は俺の周りをくるくる歩き回り、まるで昔からの居場所であるかのように、何の違和感もなくノートパソコンの画面を覗き込む。俺は条件反射で答えた。 「…安吾」 「ふむ」 少女はくつくつと喉の奥で笑い声を転がした。「なんとなく、そんな感じがする。朔ちゃん、性格悪いでしょ」 「この話、続き書かないの? わたし、続きが読みたいな」 その言葉に、俺は反射的に画面に目をやった。空白のカーソルが点滅する、意味のないページ。しかし、少女はそれをじっと見つめている。俺はため息をついた。まともに取り合っても仕方がない。きっと、どこかの子供が迷い込んできたか、あるいは奇妙な悪戯をしているのだろう。 俺は少女の腕を掴み、そのまま部屋の外へ押し出そうとした。だが、俺の指は、するりと何も掴めないまま、空を切った。まるで、そこに実体がないかのように。 「……は?」 俺の指先は彼女の腕をすり抜けていく。肌の温もりも、肉の感触も、何も感じられない。俺の背筋に冷たいものが走った。 俺はめまいのする頭を押さえて言った。 「…出ていってくれ。これ以上、君に付き合っている暇はないんだ」 俺はそう言って、少女を立たせようとした。しかし、少女は俺の視線から逃れるようにわずかに身を引くと、真っ直ぐに俺の瞳を見つめた。その瞳は、夜の海のように深く、しかし澄み切っていた。 「ねぇ、朔ちゃん。わたし、朔ちゃんの書くお話、大好きだよ。続き待ってる」 まともな賞賛を受けたのなんて、新人賞をもらった時以来だ。俺の頭の中に、微かな水音が響いたような気がした。遠い記憶の底から、泡がゆっくりと浮かび上がってくるような、そんな感覚。それは、決してはっきりとしない曖昧な響きだったが、俺の心を不思議と揺さぶった。 「馬鹿な……」 俺はそう呟き、ただ虚しく点滅するカーソルを眺めるばかりだった。その夜、少女は俺が何を言っても聞かず、結局部屋に居座ったままだった。俺は諦めて、ソファで仮眠を取るしかなかった。隣の部屋から聞こえてくる少女の寝息が、なぜかやけに不気味で落ち着かなかった。 翌朝、俺は寝慣れないソファから体を起こした。まだ少し頭が重い。隣に目をやると、少女は布団をかけずに畳の上で丸くなっている。本当に、子供なのか。だとしたら、一体どういう状況なのか。 「まったく、面倒なことになった」 そうぼやきながら、キッチンでコーヒーを淹れた。 普段と変わらない朝のはずだった。しかし、パソコンの電源を入れ、原稿ファイルを開いた途端、俺の目に信じられない光景が飛び込んできた。昨日まで一行も書けなかった空白のページが、まるで誰かに書き加えられたかのように、文字で埋め尽くされているのだ。 驚きと恐怖が同時に俺を襲った。誰が? いつ? 俺は確かに何も書かなかったはずだ。昨夜、少女がパソコンを覗き込んでいたのを思い出す。まさか、彼女が? いや、そんな馬鹿な。 「深い海の底から見上げる水面は、太陽の光をゆがめ、全てを歪んだ虚像に変える。それは、まるで真実を隠蔽するカーテンのようであり、同時に、救いを求める手を拒絶する壁でもあった。」 俺は書かれている文章を読み進めた。それは、確かに自分の文体であり、これまで自分が紡いできた物語の延長にあるものだった。しかし、同時に、これまでのスランプでは決して生み出せなかったような、底知れぬ深みと、冷たい透明感を帯びていた。 筆が、いや、言葉が、まるで堰を切ったかのように溢れ出した。俺は、自分が書いたものではないと理解しつつも、まるで何かに憑かれたかのようにキーボードを叩き始めた。指先は軽やかに舞い、頭の中には次々と情景が浮かび上がってくる。それは、確かに自分が書いている感覚なのに、どこか、別の誰かの手が導いているような、久しぶりの、不思議な感覚だった。 少女が俺の部屋に居座ってから、奇妙な時間が流れ始めた。俺は当初、彼女を追い出すことを諦めていなかった。こんな状況は犯罪になりかねない、とまで思った。何度か「出ていけ」と声を荒げ、腕を掴もうとしたが、そのたびに俺の指は空を切り、少女はまるで陽炎のようにするりと俺の手をすり抜けた。「何なんだ、お前は本当に……!」俺が苛立ちと恐怖で震える声で問い詰めても、少女はどこ吹く風とばかりに俺に懐いた。幽霊。そんな非現実的な存在が、今、自分の目の前にいる。頭では理解が追いつかないのに、少女の言葉は妙に説得力があった。あんなことがあっては、認めざるを得ない。 少女は朝食の時には勝手に食卓に座り、テレビを点ければ勝手にチャンネルを変えた。夕食の準備を始めれば、背後で「まだ?」とせがむような声を出して細い腕を俺の腰に巻きつけてくる。俺はそれでも、彼女の存在を無視しようと努めた。しかし、幽霊であるはずの彼女は、なぜか食事の匂いを嗅ぎ、テレビの音に反応し、そして俺の感情の機微を正確に読み取った。 ある日の午後、俺が部屋で書きかけの原稿を睨んでいると、少女が俺の手元を覗き込んだ。「ねぇ、朔ちゃん。この主人公、なんでこんなに苦しんでるの?」俺は返事をしなかった。自分の小説について、見知らぬ(しかも幽霊の)少女に意見される筋合いはない、と無視を決め込んだ。しかし少女は、俺の返事を待たずに独り言のように続けた。「もっと、こう、優しくしてあげたらいいのに。朔ちゃんも、昔はもっと優しいお話を書いたじゃない」その言葉に、俺はぎくりとした。昔書いた優しい話? そんなものがあっただろうか。少女の言葉は、俺の過去を知っているかのような響きがあった。しかし、彼女が一体何を知っているのか、俺には皆目見当もつかなかった。 数日が経ち、俺は少女の存在に慣れ始めていた。というよりも、諦めに近かった。どうせ追い出せないのなら、いるものとして振る舞うしかない。そう思うようになっていた。夜になると、二人はベランダに並んで座り、潮風に当たった。俺が缶ビールを飲む隣で、少女はただ静かに星空を眺めている。他愛のない会話が交わされることもあった。「朔ちゃん、この町の夏祭りは綺麗だよ。花火も上がるんだ」「ふうん」「一緒に行こうよ」「…冗談だろ」俺はそっけなく返しながらも、心臓の奥で微かな温かさを感じた。誰かに誘われることなど、ここ数年なかったからだ。少女は無理強いせず、ただ「そっか」と呟くと、夜空に浮かぶ月に指を向けた。その横顔は、やはりどこか寂しげに見えた。 そして、例の奇妙な現象は、ほぼ毎晩のように続いた。朝、目覚めると、俺のパソコンには、確かに俺の文体で書かれた、しかし俺自身には覚えのない文章が付け加えられている。最初は恐怖を覚えたが、次第に俺はその文章に引き込まれていった。それは、俺の脳裏には浮かばなかったはずの、深い洞察と、透明な悲しみを帯びていた。彼女が隣に座っていると、言葉がするすると指先から溢れ出す。それは、スランプに陥ってからの俺には、夢のような出来事だった。少女は、俺の書く物語が、まるで自分のことのように嬉しそうに読んでいた。 蝉の声が、命の終わりを告げるように、けたたましく鳴り響いていた。まるで、最期の悪あがきとでも言うかのように。俺は完成した原稿の最終確認を終え、深く息を吐いた。パソコンの画面には「完」の文字が輝く。それは、数ヶ月前には想像もできなかった、奇跡のような光景だった。 新しい小説のタイトルは『波打ち際で待っている』。 近松門左衛門の「曽根崎心中」にヒントを得て書き上げた、海辺の町で暮らす漁師の男と、研究のために町を訪れた女子大生の、悲しくも美しい物語だ。大学で海洋生物学を専攻する夏目葵は、珍しい深海魚の生態調査のため、とある海辺の町を訪れる。そこで彼女は、口数は少ないが実直な若き漁師、加賀美優弥と出会う。 当初、研究一筋の葵と、海の男である優弥は、互いの生活や価値観の違いに戸惑い、すれ違うばかりだった。しかし、優弥の持つ海の知識と、海の底を覗き込むような静かな瞳に、葵は次第に惹かれていく。優弥もまた、都会から来た知的な葵の、未知のものを探求する情熱に心を動かされ、二人は人目を忍ぶようにして愛を育む。 だが、排他的な漁師町のしきたりと、大学院進学を控える葵の将来が、二人の関係に暗い影を落とす。町の長老たちは、海を汚す「よそ者」である葵の研究を快く思わず、二人の関係に干渉し始めた。一方、葵もまた、研究者としての将来と、優弥との生活の間で激しく葛藤する。 ある日、優弥の船が嵐で遭難し、彼が行方不明となる。懸命な捜索も虚しく、結局優弥は見つからず、彼の遺体は海の藻屑となって戻ってきた。実はそれは町の者たちによって巧妙に仕組まれた事故であったのだ。 数年後、著名な海洋生物学者となった葵は、ある深海生物の論文を発表する。それは、かつて優弥が教えてくれた海の神秘と、彼との記憶が色濃く反映されたものだった。論文が世界中で評価される中、葵の心には常に、あの夏の日の潮騒と、海の底に沈んでいった愛しい人の面影が、深い悲しみとともに残り続けるのだった。 「できた……」 独りごちた俺の声は、意外なほど震えていた。 「朔ちゃん、できたの?」 いつの間にか背後に立っていた少女が、覗き込むように声をかけてきた。彼女は画面に映る「完」の文字を見て、目を輝かせる。 「ああ、一応はな」 俺がそう言うと、彼女はぱちぱちと拍手をした。 「お疲れ様」 純粋な労いの言葉に、俺の心がわずかに温かくなる。少女は俺の隣に座り、完成したばかりの原稿を読み始めた。彼女がページをめくるたび、俺の心臓が不規則に脈打つ。自分の書いたものが、これほどまでに誰かに真剣に読まれるのは、久しぶりの感覚だった。やがて、物語の終盤に差し掛かると、少女の表情が翳った。 「ねぇ、朔ちゃん……」 彼女が顔を上げた。その澄んだ瞳が、俺を真っ直ぐに見つめる。 「この人は死んじゃうの? 可哀想に」 その問いかけに、俺は言葉に詰まった。自分でも意識していなかったが、いつの間にか、その結末が俺の心の中で必然となっていた。それは、俺の内奥に潜む、ある種の絶望を反映しているかのようだ。 「これは、そういう物語なんだ。彼らは、世間から逃れるために、そうするしかなかったんだ」 俺はそう答えたが、少女は納得しない。 「でも、生きていれば、きっともっと素敵なことがあったのに。せっかく出会えたのにねえ」 彼女の言葉は、まるで俺の心に直接語りかけるかのようだった。その言葉が、俺の心をざわつかせる。 「…これはフィクションだ。物語の中の人物に、お前がそこまで感情移入する必要はない」 俺はぶっきらぼうに言った。しかし、少女は不満げな顔をする。 「馬鹿なこと言うな。これは物語だ。物語に、そんな救いはいらない。リアリティというものがある。人は、常に幸せになれるわけじゃない」 俺はやや声を荒げる。 「それに、俺が書いた物語なんだ。俺が、主人公をどうしようと勝手だ。死なせたければ死なせるし、生かしたければ生かす。この主人公は、この結末が一番ふさわしいんだ」 「それはそうだけどさあ」 少女は、俺の目を見つめながらぷくっと頬を膨らませた。意外にも可愛らしい。 結局、俺はその議論を切り上げ、編集部に原稿を送った。返信は驚くほど早く届く。 「佐々原先生、素晴らしいです! まさに傑作! 新世代の旗手、完全復活ですね!」 熱のこもったメッセージの数々。担当編集者からの絶賛の電話。そして、話題になり始めた『波打ち際で待っている』は、世間の注目を一身に集めた。 「奇跡の復活」「スランプからの完全脱却」「文壇に現れた真の天才」。 そんな賛辞が、手のひらを返したように飛び交った。かつて俺を「一発屋」「終わった作家」と陰口を叩いた評論家や文学賞の関係者までが、手のひらを返すように絶賛の声を上げる。ワイドショーでは文化人枠のコメンテーターが「佐々原朔は、やはり我々が期待した作家だった!」と興奮気味に語り、週刊誌の見出しには「文壇の寵児、劇的凱旋!」といった煽り文句が踊る。SNSでは「#海辺マジ泣ける」「#佐々原朔天才かよ」といったハッシュタグがトレンド入りし、書店には発売前から予約が殺到しているという。 「見て見て朔ちゃん、すごいね!」 ある日、少女が俺の腕を引っ張って、駅前の大きな書店へと誘った。入口のベストセラーコーナーには、俺の顔写真と『波打ち際で待っている』の書名が大きく印刷された平積みの山ができていた。中央には、煌びやかなポップが立てられ、「涙なくして読めない純愛小説」「文学界に再びの衝撃」といった煽り文句が躍る。 俺はそれを前にして、一瞬、我に返ったように虚ろな目をしたが、すぐに小さく笑みを浮かべた。その笑みは、喜びに満ちたものではなく、醒めた、あるいは諦めに似た感情が滲んでいた。 「ふん、世間なんてこんなもんだ」 俺はそう呟いた。かつては「天才」と持ち上げられ、次の瞬間には手のひらを返され「落ち目の作家」と蔑まれた。そして今、またこうして熱狂的に歓迎されている。彼らが本当に作品を理解しているのか、それとも単に「スランプからの復活劇」というドラマを消費したいだけなのか。俺には、そのどちらもが同じように薄っぺらく見えた。 「一度はゴミのように扱ったくせに、都合がいいもんだ」 ショーウィンドウに反射する自分の顔は、そんな皮肉な感情をそのまま映し出している。それでも、少女は無邪気に俺の小説を指さし、「これ、朔ちゃんが書いたんだよ!」と誇らしげだ。その姿だけが、俺の心に微かな温かさを与えた。彼女の存在だけが、この浮ついた熱狂の中で、唯一の真実のように感じられた。 しかし、その熱狂の裏で、俺は奇妙な夢を見るようになった。海、水音、白い制服、冷たい手。断片的なイメージが、繰り返し俺の脳裏をよぎる。それは、妙にリアルな感覚を伴っていて、夢から覚めてもなお、その冷たい感触が手に残っているような気がした。 「君を一人にはしない。僕も一緒だ」 どこからか、そんな声が聞こえたような気がした。俺は、夢の残滓が残る頭で、ぼんやりと天井を見つめていた。 『泡沫の底』が発売されてから、さらに世間の風当たりは強くなっていった。SNSでは、俺の過去のスキャンダルが再び掘り起こされ始める。「佐々原朔、実は過去に心中未遂あり」「未成年との不適切な関係を匂わす描写は、実体験に基づくものか」。そんな根も葉もない噂が、真偽不明のまま拡散されていく。週刊誌の記者たちが、アパートの周りを嗅ぎ回るようになった。俺は、その異様な視線を感じながらも、ただただ目の前の原稿と向き合い続けていた。俺の隣には、いつもと変わらず、少女が座っていた。 そんなある夜、彼女はゆっくりと、しかし淀みなく話し始めた。 「私ね、あの頃、家族からひどいことされてたの。毎日毎日、怒られて、叩かれて……。どこにも逃げ場所なんてなかった。夏休みに入ってすぐ、もう限界だって思って、逃げてきたんだ。ここには、遠い親戚の叔母さんが住んでるって聞いてたから」 知らなかった。俺の胸に、ちくりと痛みが走る。 「私、この町に来てしばらくして偶然朔ちゃんを見つけたの。海辺で一人で本を読んでた。目が合った時、朔ちゃんも、すごく辛そうな顔してたんだ。私と同じだって、すぐに分かった」 俺の脳裏に、曖昧なイメージが浮かび上がる。どこかで見たような、悲しい目をした少女の姿。 「朔ちゃん、あの頃、親御さんの期待に応えられなくて、ずっと悩んでたんだよね。勉強も、何もかも、完璧じゃなきゃいけないって追い詰められてた。だから、誰もいない別荘にきて、一人で泣いてたんだ」 彼女の言葉が、俺の記憶の蓋をこじ開ける。そうだ。あの頃の俺は、常に「秀才」であることを求められ、その重圧に押しつぶされそうになっていた。成績が少しでも下がれば、親からの厳しい叱責。周囲からの過度な期待。都会の喧騒から逃れるように、この海辺の別荘に避暑に来ていたが、そこでさえ、俺の心は休まらなかった。 「お前は、もっとできるはずだ」 父親の冷たい声が、脳裏に響く。俺は、その重圧から逃れるように、別荘の庭で一人、俯いて本を読んでいた。 そんな時だった。 別荘の生垣の向こうから、小さな影がのぞいているのに気づいた。一人の少女が、じっと俺を見つめている。彼女の目は、まるで深い海の底を映し出すかのように黒々と艶めいていた。しかし、その中に、自分と同じような、孤独な光を俺は感じ取った。 彼女は、しばらくの間、何も言わずに俺のことを見ていた。やがて、おずおずと隙間から現れ、俺の目の前に立つ。 「あの……大丈夫?」 彼女の優しい声が、俺の耳に届いた。その声は、乾いた俺の心に、一滴の水を落とすように響く。俺は、何も言わずに首を横に振った。すると、彼女は、持っていた大きなスイカを差し出した。 「これ、よかったら一緒に食べない? 誰もいないんだ。叔母さんの家も」 そのスイカは、彼女がどこかで拾ってきたのか、泥だらけだった。けれど、その泥の中から、かすかに甘い香りがした。 孤独だった二人は、まるで磁石に引き寄せられるかのように、すぐに打ち解けた。誰にも言えなかった悩みを語り合い、互いの傷を癒し合う。二人は、毎日この入り江で過ごした。 夏の強い日差しの中、二人で大きなスイカを割った。目隠しをして、彼女の声だけを頼りにスイカを叩く。バコン、と鈍い音がして、スイカが真っ二つに割れると、二人は顔を見合わせて笑い合った。あの甘くて瑞々しいスイカの味が、今も舌の奥に残っている。 海水浴もした。二人で波打ち際を駆け回り、冷たい水に身を委ねた。彼女は、泳ぎが苦手な俺の手を引いて、沖の方まで連れて行ってくれた。海の中に沈んでいく太陽が、水面をオレンジ色に染めていた。 「朔ちゃん、大好き」 彼女の声が、波音に重なって聞こえた。俺は、彼女の手を強く握り返した。この幸せな時間が、永遠に続けばいいと、心から願った。 しかし、永遠など、どこにもなかった。 ある夜、二人は、夜の入り江で向かい合って座っていた。俺は、もうどうにもならないと、心の中で決めていた。彼女もまた、同じような思いを抱いていたのだろう。 「朔ちゃん、私、もう辛い。死んでしまいたい」 彼女の声が、震えていた。俺は、あざの残る彼女の小さな手を握った。冷たい潮風が、二人の体を通り抜けていく。 「じゃあ……一緒に死のう」 俺は、震える声でそう言った。彼女は、静かに頷いた。その瞳は、暗闇の中で一点の光を宿し、強く輝いていた。 手を取り合って、透き通る夜の海へと入る。 漆黒の水が、二人の足元を洗い、ゆっくり確実に、体を包み込んでいく。波が、二人の体を押し流そうとするが、彼らは互いの手を離さなかった。水が腰まで、胸まで、そして首元まで達する。冷たい、冷たい水が、俺の全身を覆い、心臓を締め付ける。息苦しい。喉の奥が焼け付くように痛む。それでも、彼女の手を離すことはなかった。彼女の隣にいる限り、何も怖くなかった。 俺は、力を振り絞り、彼女の手を強く握りしめた。 「君を一人にはしない。僕も一緒だ」 俺は、泡混じりの声でそう呟いた。彼女は、俺を見上げて微かな笑みを浮かべた。 冷たい波が、額をくっつけ、身を寄せ合う二人の頭上を覆った。気管支の隅々まで塩っぽい透明な水が浸透していく。俺の意識は、そこで途切れた。 次に意識が浮上したのは、数日後のことだった。 重く、だるい体を起こすと、見慣れない天井が視界に入った。消毒液の匂いが鼻をつく。病院のベッドだった。隣には、憔悴しきった両親が座っている。 「朔! お前、一体何を考えているんだ!」 父親の怒声が、頭に響いた。母親は、ただ黙って涙を流している。 「なんで……」 俺は、かすれた声で呟いた。 俺を助けたのは、入り江で漁をしていた老漁師だった。 「あんたの体が網にかかってたんだよ。夜明け前に網を上げたんだが、まさか人間が引っかかるとは思わなかった。顔は真っ青で、もう息もしてないかと思ったが、かすかに脈があったんでな。急いで病院に運んだんだ」 漁師の声が、遠くで聞こえる。俺は、自分が生きていたことに絶望を感じた。 「あの娘は……」 俺の頭の中には、白いワンピースを着た彼女の姿が、ぼんやりと浮かんでいた。 「もういい! あんな娘のことなど、忘れろ! お前は、これからやり直すんだ!」 父親の声が、俺の耳にこびりつく。母親もまた、「そうよ、あの子のことは忘れなさい」と、すすり泣きながら言った。 俺は、何も思い出せなかった。彼女の顔も、名前も、声も。ただ、胸の奥に、得体の知れない喪失感と、深い悲しみが澱のように残っていた。家族は、俺の口から彼女のことが語られるたびに、厳しく叱責した。まるで、その記憶自体を俺の中から消し去ろうとするかのように。俺は、その圧力に抗うことができなかった。 俺は、彼女のことを忘れ去った。あるいは、心の奥底に封じ込めた。あの夏の日の記憶は、俺の脳裏から、泡のように消えていった。 だが、今、目の前で語られる彼女の言葉が、その封印をゆっくりと、しかし確実に解き放っていく。 「わたしを、忘れたの?」 彼女の問いかけが、再び脳裏に響く。 俺は、ゆっくりと目を閉じた。潮の匂い。白い砂浜。冷たい海水。そして……彼女の笑顔。全てが、鮮明な色彩を帯びて、俺の心の中に蘇ってくる。 俺が忘れていたのは、ただの「夏休み」ではなかった。俺の心の奥底に沈んでいたのは、あの夏に、俺と共に命を絶とうとした、愛しい彼女の記憶だったのだ。 俺の頭の中で、洪水のように記憶が押し寄せる。曖昧な断片ではなく、鮮やかな色彩と音、匂いを伴った、生々しい記憶の奔流。 「朔ちゃん! 早く来て!」 真夏の太陽が照りつける砂浜。白いワンピースをはためかせ、満面の笑みでこちらに手を振る彼女の姿が、鮮明に蘇る。彼女の屈託のない笑顔。汗ばんだ小さな手。スイカの甘い香り。波の音。 毎日、アパートの裏の小径を抜け、二人だけの入り江へ向かった。波打ち際で貝殻を拾い、小さなカニを追いかけた。熱くなった砂浜を裸足で駆け回り、冷たい海に飛び込んだ。水しぶきを上げながら、互いに水をかけ合い、笑い転げた。 「朔ちゃん、見て! あの雲、クジラみたい!」 彼女は、いつも空を見上げ、夢見るような瞳で語った。彼女の言葉は、俺の閉ざされた心を少しずつ解き放っていった。彼女の存在そのものが、乾ききった心を潤す、唯一の光だった。 夕焼けに染まる海辺で、二人並んで座り、語り合った未来。 「私、いつか、遠くへ行きたいな。朔ちゃんと一緒に」 彼女の声が、波音に溶けていく。彼女の手を握りしめ、二人の未来を誓った。 「僕も。君と一緒なら、どこへだって行ける」 全ての希望が打ち砕かれ、絶望の淵に立たされた二人が、手を取り合って海へ向かった夜。 冷たい波が、二人の体を容赦なく打ち付ける。夜の海は、どこまでも深く、そして暗かった。それでも、二人は決して手を離さなかった。互いの存在だけが、唯一の支えだった。 「好きだよ、朔ちゃん」 水の中でくぐもった、彼女の最後の声。そして、冷たい感触。俺の指をすり抜けていく、白いワンピースの袖。沈みゆく彼女の瞳に映った、絶望と悲しみの色。 父親の怒鳴り声。「あんな娘のことは忘れろ」。母親のすすり泣き。「あの子のことは忘れなさい」。退院後、家族は俺に彼女のことを一切話させなかった。俺の中で、彼女の存在は都合よく消し去られた。それは俺を守るためのものだったのかもしれないが、同時に、最も大切な記憶を俺から奪い去った。 俺は、震える声で、その名を呼んだ。 「澪……」 俺の呟きは濁流を裂き、確かな音を立てて響き渡った。深い青色の海のように澄んだ瞳を持つ、俺の、大切な彼女。 俺は、すぐさま隣に座る彼女の方へ向き直った。恐る恐る、震える指を伸ばし、その白い頬にそっと触れる。温かい。今はもう生きていないはずなのに確かな体温が、俺の指先に伝わってくる。 彼女は、俺の指先が触れた場所に、まるで吸い寄せられるかのように、そっと自分の手を重ねた。 俺の目から、大粒の涙が溢れ出した。これまで抱えてきた重荷が、堰を切ったように流れ出す。 「ごめん……俺が……僕が、君を……」 言葉にならない謝罪の言葉を繰り返しながら、俺は震える腕で澪を強く抱きしめた。彼女の体が、俺の腕の中にすっぽりと収まる。その温かさ、柔らかさ、そして確かな存在感が、俺の心を安堵させた。 澪は、俺の背中にそっと腕を回し、俺の肩に顔をうずめた。彼女の小さな体が、震えているのが分かった。 「朔ちゃんが生きててよかった」 嗚咽に震えながらも安堵に満ちていた。二人の間に流れる時間は、かつて失われた空白を埋めるかのように、ゆっくりと、しかし確実に満たされていく。潮の匂いがする夜風が、二人の髪を優しく揺らしていた。 明け方の涼しさが嘘のように、昼には焼け付くような日差しが照りつけた。意外にしぶとい蝉は、未だくたばらず、その声を鳴り響かせている。一週間で死ぬんじゃなかったっけか?俺の疑問は夏の空気の中に溶けて消えた。 「朔ちゃん、早く早く!急いでー!」 澪が玄関先で叫んでいる。上着の下には、白いフリルがあしらわれた、少しくすんだ水色のワンピースタイプの水着。昨日の夜、ネットで注文したものが、今朝届いたのだ。 「そんなに急かさなくたって、海は逃げないさ」 俺は呆れたように笑いながら、同じく新調したトランクス型の水着にTシャツを羽織った。 「だって、せっかくのお天気なんだよ? こんな日に家にいるなんてもったいない!」 澪は子供のように跳ね回りながら、俺の周囲をくるくると回る。彼女の瑞々しい笑顔を見ていると、俺の心にも自然と明るい光が差し込むようだった。俺の捻くれた心が、彼女の前ではどこか素直になれる。 「その水着、布が多いな。もうちょっと少なくても…」 俺が冗談めかして言うと、澪は頬を膨らませた。 「変態!」 軽口を叩き合う二人の声が、部屋の中に響く。そのやり取りが、どこか懐かしい。 「そういえばさ、次の小説のなんだけど」 俺は、ビーチサンダルを履きながら切り出した。 「海の家でカフェを営む老夫婦の話を書いててさ」 澪は目を丸くして俺を見上げた。 「朔ちゃんがそんな穏やかな小説をねえ…明日は雪でも降るのかな」 「お前なあ…」 俺は彼女の頭を軽く小突いた。彼女は「ごめんごめん」と言いながら、「出来上がったら読ませて」と笑った。 アパートの扉を開ける。開けた瞬間流れ出す熱気と真夏の日差しが、容赦なく二人の肌を焼く。アパートの裏の小径へと向かう足取りは軽かった。 小径は、草木が生い茂り、若々しい生命と湿気を帯びた土の匂いがする。頭上から降り注ぐ蝉の音を聞きながら小径を抜けると、いつもの入り江が見えてきた。波は穏やかで、太陽の光を浴びて、水面がキラキラと青緑色に輝いている。 「こっちこっち!」 澪は海を目にすると一目散に砂浜を駆け出した。白いワンピースの水着が、風にふわりと揺れる。 「おい、澪! そんなに走ると転ぶぞ!」 俺が声をかけるが、澪は振り返りもせずに、一直線に海へと向かっていく。彼女の足元から、白い砂が勢いよく舞い上がった。俺は、呆れつつも、その小さな背中を追いかけた。砂浜に沈む足が、やけに重く感じられる。澪の笑い声が、風に乗って俺の耳に届く。その声が、俺を海へと誘うように響いた。 「朔ちゃん、早くおいでよ!」 澪は、膝まで水に浸かりながら、俺に手招きをしている。その笑顔は、あまりにも無邪気で、美しかった。 俺は、先を行く澪に引っ張られるようにして、ゆっくりと海へと入っていった。足元からじんわりと冷たい水が、俺の体を包み込む。波打ち際で、二人は戯れ合うように水をかけ合った。冷たい水が肌を滑り落ち、夏の暑さを忘れさせる。 澪が、俺の手を握った。彼女の指は、驚くほどひんやりとしていた。しかし、その手から伝わる温かさは、確かに俺の心を温めた。 「朔ちゃん、気持ちいいね」 俺もまた指を絡ませて応える。 二人は沖の透明な流れに沈んでいく。周囲には、誰もいない。ただ、広い海と、二人の存在だけがあった。 肺の中に染み渡る塩水の感覚が心地良い。空気を吐けばたちまち水中で細かい泡に変わる。俺は水の向こうにゆらめく彼女をそっと抱き寄せた。歪んだへんてこな顔に思わず笑い声が溢れ、小さな泡沫へと変わっていく。 俺は彼女の唇にそっと自分の唇を重ねた。塩の味が喉に流れ込んでくる。誰だ、ファーストキスはレモン味とか言ったやつ。塩味じゃねーか。だがまあ、悪くない。悪くないどころか、妙に心が満たされていく。 彼女の手を繋いだまま一層深く潜り込む。 僕は、自由だ。 とある海辺にある、古いアパートの一室。年々深刻化する過疎化のせいだろうか、その部屋には誰もいなかった。窓は開け放たれたままで、白いカーテンが潮風にふわりと揺れている。ちゃぶ台には、無造作に広げられた原稿用紙と、開かれたままのノートパソコンが置かれていた。画面には、新作のタイトルらしき「すみか」という文字と、その下に続く数行の文章が残されている。誰が書いたのだろうか。 静寂の中、壁にかけられた古時計の秒針だけが狂わず、カチ、カチと規則的な音を刻んでいる。 つけっぱなしのテレビから、淡々としたアナウンサーの声が聞こえる。 「……本日未明、〇〇町の海岸にて、男性の遺体が発見されました。身元は、現在調査中です…………」

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平等

※初めにことわっておきます。この話は心理ホラーであり、ファンタジー系のホラーではありません。 私の家は、いつも温かい光に満ちていた。 玄関を開ければ、炊き立てのご飯の香りがふわりと漂い、リビングからは兄の朗らかな声と姉の優しい笑い声、そして末っ子の弟がおもちゃで遊ぶ無邪気な音が聞こえてくる。両親はいつだって笑顔で、私が帰るたびに両腕を広げ、その温かい胸に優しく抱きしめてくれた。 私たちは四人兄弟だ。一番上の頼れる兄、陽太。いつも穏やかで、聞き上手な姉の春香。私、里奈。末っ子の甘えん坊な弟、海斗。 私たちは互いに寄り添い、支え合いながら生きていた。 私たちの家には、古くからの家訓があった。 「困っている者は助け、皆平等であれ」 それは、曾祖父の代から脈々と受け継がれてきたものだ。 曾祖父は、明治の終わりから大正にかけて、度重なる飢饉と疫病が村を襲った時も、決して私財を惜しまなかったと聞かされた。自分が病気になっても人の心を忘れず、わずかな食料を分け与え、自ら病人の汚物を処理し、夜を徹して看病に当たった。その献身的な姿は人々の心を打ち、やがて村人からの深い信頼を集めるようになったという。曾祖父の指導のもと、村人たちは力を合わせ、荒れ果てた土地を耕し、互いに助け合うことで、村に再び豊かな実りをもたらしたのだ。 「困っている人を助けること、みんなが平等であること」。 小学校の道徳教育で習うようなものだが、私たちにとって、それは特別なことではなく、呼吸をするのと同じくらい当たり前のことだった。 幼い頃、私はよく熱を出した。  熱でうなされる私の枕元には、いつも必ず誰かがいてくれた。兄は冷たいタオルを額に乗せてくれ、姉は水差しを傍らに置いてくれた。そして幼い弟は、小さな手で私の手をぎゅっと握り、不安そうな顔で見つめていた。 兄とけんかをしても、姉と意見が食い違っても、最後は必ず「みんな平等」という母の言葉に諭され、仲直りをする。それが、私たちの家では当然のことだった。 食卓はいつも賑やかだった。父が冗談を言っては母が楽しそうに笑い、兄が弟の小さな悪戯を暴露すれば、姉は私にそっと悩みを打ち明ける。 私たちは互いの話に耳を傾けてきた。 ・ 「みんなで力を合わせれば、どんな困難も乗り越えられる」 それは、両親の口癖だった。そして、私たちは実際にそうして生きてきた。その揺るぎない絆は、私たちが成長した今でも変わらなかった。 数年前、兄が手掛けていた事業が失敗し、莫大な借金を抱えてしまったことがあった。家族全員が途方に暮れる中、弟はまだ学生だったが、これまで貯めてきたアルバイト代の全てを差し出し、兄の窮地を救った。姉も私も、それぞれの貯金をかき集め、両親もまた、家を担保に入れる覚悟で兄を支えた。家族全員が文字通り一つになり、何とか生活を立て直したものだ。 また、姉が重い病で入院した時は、陽太と海斗、そして私が交代で病院に泊まり込み、献身的に看病した。家族の誰かが困っていれば、他の全員が全力で支える。それが、私たちの家族のあり方だった。そんな温かい日々が、永遠に続くものだと、私は何の疑いもなく信じていた。 しかし、その確信はあっけなく、残酷に終わりを告げた。 ・ 父が突然、病に倒れたのだ。 病の進行はあまりにも早く、診断からわずか一ヶ月足らずで、私たちの前から永遠に姿を消した。 葬儀の日、私たちはただ茫然と立ち尽くしていた。しとしとと降り続く雨の音だけが、私たちの涙を代弁するように響いていた。白い菊の花に囲まれた棺の中に横たわる父は、深い眠りつく。その顔は蝋のように白く、触れると冷たくて、生きていた頃の温かさは微塵も感じられない。いくら手を握り返しても、もう父がその力を込めて握り返してくれることはない。父の肌の乾燥した感触が、別れを告げていた。 生気が消え失せたその姿は、私たちに「死」という現実をこれでもかと突きつけてくる。 胸が抉られるようだった。 半年後、母も父の後を追うように逝った。日に日にやつれていく母は、私たちの必死の看病にも、弱々しい微笑みを浮かべるだけで、静かに息を引き取った。 「みんな平等に、困っている人のことを優先して助けなさい」 母はそう言い残した。 二人の親を失った家は、氷のように冷たくなった。かつて響き渡った笑い声も、私たちを優しく見守る眼差しも、時には厳しく叱る声も今はもうない。兄はいっそう寡黙になり、姉は一日中、一人で窓の外をぼんやりと見つめ、弟は私の後ろに隠れるようにして過ごすようになった。私もまた、夜になると人目を忍んで、声を殺して泣き明かした。 家族の温かさはいつしか重苦しい沈黙へと変わっていた。 ・ 両親の四十九日が過ぎ、少し落ち着いた頃、年長の兄が重い口を開いた。 「……遺産、どうする?」 父と母が残したものは少なくなかった。 都心から少し離れた場所にある大きな実家、いくつかの不動産、そしてまとまった預貯金。 その話し合いは、かつては家族の笑い声で満ち溢れていたはずのリビングで行われたが、今は肌を刺すような冷たい空気が支配している。誰もが互いの顔色を伺い、この時間が一刻も早く終わってほしいと願っていた。兄弟でこんな話をするもんじゃない。 最初に口火を切ったのは、また兄だった。沈んだ声で、会社が傾き、また莫大な借金を抱えていることを打ち明けた。 「俺がこのままじゃ、父さんが一生をかけて築き上げてきたものまで、全部失うんだ……頼む」 次に姉が、絞り出すような声で口を開いた。もともと重い病気を患っており、最近になってその症状が悪化し、治療には莫大なお金が必要だという。 「このままじゃ私は死ぬかもしれないの……私には、もう時間がないのよ」 そして、末っ子の弟もまた、声を震わせながら訴えた。定職に就けず、将来が見えないと。何度か就職活動に失敗し、自信を失くしているようだった。 「今度こそ、ちゃんと自立したいから……だから」 だから? 皆その先がない。 薄々気づいてはいたが、みんな「自分が一番困っている」と訴えるばかりだった。知っている、そんなこと。みんなが困っているのは分かっている。だけど、私だって…… 私の心の中で、鉛のような重たさがじわじわと広がり始めた。これまで、家族のために自分を犠牲にすることに何の抵抗もなかったはずなのに、今はなぜか、この状況を素直に受け入れられない自分がいた。これまで当然だと思っていた「家族の助け合い」という大義名分が、彼らが自分たちの欲望を正当化するための言い訳に聞こえた。 矛先は静かに苛立つ私へと向けられた。 「お前はまだ若いし、元気だろ。俺よりはるかに稼ぎもあるじゃないか。ここは譲ってくれよ。」 「あなたはまだ稼げるでしょう?私にはもう時間がないのよ。」 「お姉ちゃんは、俺のこと助けてくれるよね? 今までもそうしてくれたように……」 「でも、遺言には皆に平等って……」 幼い頃から当たり前だったはずの「困っている人を助ける」という家族のルールが、いつの間にか醜い武器に変わっていた。 話し合いは毎晩、執拗に続いた。食事中も、テレビを見ているときも、遺産が頭から離れなかった。彼らの言葉を聞くたびに、疲労感が体に染みついていく。 ・ 「平等に分けよ、困っている者を優先せよ」 両親の遺言の言葉が、脳内に反響する。それは、私たちを支え、家族を一つにしてきた言葉だったはずだ。しかし今、その言葉は私たちを分断し、互いを疑心暗鬼に陥れる呪いのように響いていた。 ・ 奇妙な出来事が増え始めた。 ある朝、財布の中身が少し減っていることに気づいた。最初は気のせいかと思ったが、それが何度も続いた。そうなると、疑わざるを得ない。 「兄か、姉か、それとも弟か……」 部屋の引き出しも荒らされ、私物の位置が微妙にずれている。信じたくない、信じてはいけない。私の大切な家族が、そんなことをするはずがない。そう自分に言い聞かせても、一度芽生えた疑念は、心の奥底で静かに、だが確実に根を張っていった。 「みんな平等に、この困難を乗り越えなきゃね」姉の声は優しげだったが、その目は冷たく私を見据えていた。 「困っている人がいるんだから、助けるのが当然だろ」兄の言葉には、どこか私を責めるような響きがあった。 言葉の裏にある本心は、隠そうとしても見え透いていた。 ある日の午後、珍しく陽太が私を呼び止めた。リビングのソファに座るよう促され、私はただ無言でそれに従った。彼はテーブルに置かれたコーヒーカップをじっと見つめながら、低い声で話し始めた。 「里奈、お前は冷静に物事を考えられる人間だ。俺は、もう本当に後がないんだ。会社の状況は、お前が思っているよりずっと深刻なんだ。このままじゃ、俺だけじゃなく、家族全員が路頭に迷うことになる。お前だって、分かっているだろう?」 陽太の視線は、決して私に助けを請うようなものではなかった。ただ、事実を突きつけ、私に決断を迫る重圧を伴っている。彼の言葉の端々からは、私が彼の現状を「解決する」責任を負っているかのような響きがした。 その日の夜、私が自室で読書をしていると、ノックもなしに春香が部屋に入ってきた。彼女は私のベッドの端に腰を下ろし、静かに私の手を取った。その手は、冷たく、僅かに震えていた。 「里奈、あなたにはまだ未来があるわ。私には、もう本当に残された時間が少ないのよ。病気の進行は速い。このまま治療を受けられなかったら、私は……」 春香の声はか細く、今にも消え入りそうだった。彼女の瞳は潤んでいたが、その奥には、私への切迫した期待が宿っていた。助けてほしい、とは直接言わない。しかし、その瞳が、触れる手が、全身から発せられる空気が、私に「そうするべきだ」と語りかけてくる。 私はその視線に耐えきれず、目を伏せた。私に一体何ができるというのか。 ・ ある夜、姉の部屋の前を通りかかった時、開いたドアの隙間から、ベッドサイドに無造作に置かれたファイルが目に入った。 吸い寄せられるように、私はそっと部屋に入り、それを開いた。 「生命保険契約者名簿」 そこには私たち兄弟四人の名前と、それぞれに紐付けられた、莫大な金額が並んでいた。そして、その横には、背筋が凍るような文言が添えられていた。 「被保険者が死亡した場合、遺族の取り分が増加する」 瞬間、私が感じていた漠然とした不穏さの正体が、はっきりと形になった。 兄も、姉も、弟も、私を家族としてではなく、遺産を争う競争相手として見ている。これまで「助け合い」という大義名分のもとで隠されていた、彼らの醜い本性が、むき出しになっていく。誰かを消し、自分が取り分を増やす。その最も簡単で、そして最も忌まわしい方法を、私たち全員が知ってしまっている。 名簿を見て以来、私の心は常に疑念と、拭い去れない恐怖に苛まれた。彼らの笑顔さえも、私には仮面に見え、誰の視線にも毒が混じっているように感じられた。 不穏な出来事は、さらに増していった。ある朝、階段の手すりがグラついているのに気づいた。よく見ると、手すりを固定しているはずのねじが、いくつか抜かれていた。もし体重をかけていたら、私は確実に転げ落ちていただろう。 数日後には、私の常用薬がすり替えられていた。飲む直前で気づいた。色も形も微妙に違う。それが何の薬だったのか、考えたくもなかった。 そして、決定的だったのは、兄の車のブレーキが切られていたときだ。 駐車場で車を出そうとした兄は、突然悲鳴を上げ、寸前で必死にサイドブレーキを引いて車を止めた。整備士が調べると、ブレーキホースが切断されていたことが判明した。 兄は震えながら、誰がやったのかと、恐怖と怒りの入り混じった目で私たちを咎めた。誰もが顔をそむけ、言い訳もせず、重い沈黙がリビングに垂れ込めた。 夜、リビングで、兄が私にだけ聞こえるように、小さく、そして呪うように呟いた。 「……平等なんだから」 その言葉は、鋭い刃のように私の胸に突き刺さった。 私の胃がひどく冷たくなり、背筋を伝う悪寒が止まらなかった。心臓が不規則に脈打ち、全身の血が凍り付くような感覚に襲われる。 私の中で、何かが音を立てて崩れ去った。 ・ ある朝、信じたくない現実が訪れた。 末っ子の弟が、自室で冷たくなっていたのだ。 警察は「事故死」と片付けた。浴室で転倒して頭を打ったらしい。私は反射的に感じ取った。それが「事故」などではないことを。 誰もが、口には出さないが、それぞれの心の中で犯人を推測していた。だが、それを公にすることは、誰もできなかった。 兄も姉も私も、表面上は悲しみに沈む顔を装っていたが、その奥では、それぞれが抱く安堵や、冷徹な計算が隠し切れなかった。 弟がいなくなったことで、遺産の取り分は増えた。しかし、争いは終わらない。弟の取り分を、残された私たち3人でどう分けるか、それが新たな火種として燃え上がったのだ。 「海斗の分は、俺が事業立て直すのに必要だ」 「何を言うの。私の治療費に充てるのが当然でしょう!海斗もそう望んでいたはずよ。あなたたちに、私の命を犠牲にしろっていうの?」 リビングに戻った重苦しい空気は、以前よりも一層濃くなっていた。時計の針の音だけが虚しく響く食卓で、兄も姉も私も、互いを見ようとしなかった。見れば、その表情の奥に潜む醜い本音が見えてしまうから。 私の心は静かに壊れていった。二人の仲を取り持とうとすればするほど、裏切られ、睨まれ、罵られる。彼らの中にまだ人間らしい情が残っていると信じたかった。けれど、兄と姉の視線の中にあるのは、もはや恐怖と軽蔑、そして隠しきれない殺意だけだった。 そして私の中にも、気付かぬうちに同じものが芽生えていた。 家訓が、家族の理性を侵食していく。 ・ 眠れぬまま食卓に座っていた私の目の前で、兄と姉が激しい言い争いを始めた。どちらがより困っているか、どちらが先に助けられるべきか。同じことを何度も、何度も、互いを罵倒し、時に手を出し合いながら繰り返していた。彼らの声は、地獄の底から響いてくる亡者の叫びのように聞こえた。 私はふと、口の中で呟いた。 「……平等に、でしょ」 困っているのは皆んな同じなんだから。 休日の昼間、私は二人を家族会議に呼び出した。二人は食卓を囲んで無言で座っていたが、その顔には疲れが浮かんでいた。 壁の真ん中には、両親が遺した家訓の額縁が、今も飾られている。 「困っている者を助け、皆平等であれ」 私は額縁に指先をそっと触れ、それをゆっくりと撫でながら、笑った。最初は自分でも気味が悪いほど静かな笑いだったが、どうにも止められず、次第に声を上げて笑い出した。カラカラと、乾いた笑いが、広すぎるリビングに空しく響き渡る。 兄と姉は、その音にぎょっとして私を見つめた。けれど私はもう、彼らの視線なんかどうでもよかった。この家訓を、最後まで、完璧に守り抜くのが私の使命だと、心の底から確信していたのだ。 私は席について、にこやかに言った。 「困っているのは、私も一緒」 兄と姉は黙ったまま、ただ私を見ていた。 「こんな不毛な争い、今日で終わりにしない?」 私はその顔を見て、笑みを深めた。二人の中にある恐怖を、甘美に感じる自分がいた。兄の手が、テーブルの下でわずかに震えていた。姉は私の視線から目を逸らし、唇をかすかに噛んでいた。 私はキッチンから一つの包丁を取り出した。刃先は窓から差し込む真昼の光を受け、銀色に煌めく。 兄が震える声で言った。 「……やめろ。そんなことしても、何も解決しない」 けれど私は、笑いながら答えた。 「やめる? なんで? だって、仲良い家族でずーっと争うの、いい気分しないでしょ」 兄の声は途中で詰まり、姉が小さく後ずさった。 つい最近まで、私に「譲れ」と迫っていた二人が、今は怯えている。その様子がたまらなく可笑しく、愛おしいようにさえ思えた。 私は、テーブルの真ん中に包丁を置いた。カツン、と乾いた音が響く。そして、にこりと笑って言った。「だからさ」 「遺産、どうする?」

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第十三幕:追跡

その日、彼は昨夜の出来事から口数が少なくなっていた。口内に残る鉄錆びの味と脳質の感触が、未だ拭いきれない罪悪感となって彼を苛む。群衆のざわめきが耳障りで、リリスの隣でただ黙って立ち尽くすことしかできなかった。 一方、リリスは違った。彼女はまるで水を得た魚のように、活発に動き回っていた。司書の邸宅前は相変わらずすでに野次馬でごった返しており、人々は顔を青ざめさせながら恐怖の噂を囁き合っている。彼女はそんな人々の輪の中へ臆することなく踏み込み、彼がその場を離れようとすると、さっと彼の腕を掴んで引き留めた。 「ねえ、そうよね、アレクセイさん。みんな『獣の仕業だ』って言ってるけれど、おかしいと思わない? 記憶喰いは記憶を喰らうだけって、そんな単純な話じゃないわ」 彼女はそう言い放ち、「相手の思考を喰らいたいと思った上で脳を喰らいたいと思うのは何らおかしいことではない」と、今日彼が彼女と顔を合わせてから五回目の持論を展開した。 彼はうんざりした。 彼は相槌を打つ気力もなく、ただ目を伏せる。リリスは彼の答えを待たず、人々に向かって矢継ぎ早に質問を浴びせていく。 「司書様は何か変わった様子はありませんでしたか? 最近、誰かと揉め事でも?」 彼女は特に、顔色の悪い中年のパン屋の女に食い下がった。 「昨日、何か見慣れない者はいましたか? 外套を着た怪しい男とか、霧の中を彷徨う女とか!」 若い農夫が顔をしかめて答えた。 「いや…昨日はいつもより霧が深くて、まともに人影も見えませんでしたぜ。まさか、あんなことになるとは…」 彼女の質問は核心を突いており、人々は言葉に詰まり、互いに顔を見合わせるばかりだった。彼はそんなリリスの様子を横目で見て、胃の底が冷たくなるのを感じた。彼女は、まるで本を読むかのように、人々の記憶の断片を読み解き、事件の真相へと近づいていく。彼女の知性は、彼がこれまで出会った誰よりも鋭く、そして恐ろしいほど純粋だった。いや、分かっていたことではあったが。 人々の証言を集め終えると、リリスはアレクセイの腕を掴み、迷うことなく図書館へと向かった。石畳の道には、まだ夜明けの霧が薄く残っていた。 「図書館に行きましょう。古い書物には、きっと何か手がかりが残されているはずよ」 館内に入ると、昨日と同じく、彼女は二階の奥の書架へと一直線に向かった。そして、次々と古びた書物を引き抜き、テーブルに積み上げていく。歴史書、新聞の縮刷版、民俗学の論文、古い日誌…彼女の知識への渇望は飽くことを知らず、その細い指先は滑らかに頁を繰っていく。書物が擦れる音が、彼の脳内にも、静かな館内に響き渡った。 彼は、彼女の隣に座り、ただその様子を眺めていた。彼の頭の中は、昨夜の悪夢と、口内に残る消えない感触でいっぱいで、思考がまとまらない。時折、リリスが彼に問いかけるが、彼は曖昧な返事しかできなかった。 リリスは、「ヴェリフラド地方の民話と伝説」という分厚い書物を手に取った。頁の端は黄ばみ、インクは薄れ、年代物であると見て取れる。彼女は人差し指で、ある一節をなぞった。 「…それは、霧深き夜に現れし、闇を纏いし旅人の影。足跡を残さず、音もなく人の家に忍び入り、その者が最も大切にする記憶を喰らう。その者は、街の最古の鐘楼の近くにて、度々目撃されたという。彼の目的は知れず、ただ、獲物の魂の深淵を覗き込み、悦楽に浸ると伝わる…」 次に彼女がめくったのは、「ヴェリフラド日報」の古い号だった。年代の異なる記事が彼女の指先に止まる。 「1257年3月12日:鐘楼の守人アントン・コヴァーチ、早朝に失踪。翌朝発見されるも、記憶を失い、自らの名前さえ認識せず。街中を彷徨い、『ここは何処か』と問い続ける。」 「1403年9月5日:商人の娘アンナ・ホルヴァートヴァー、霧の深い夜に自宅前で倒れる。意識不明の重体。回復後、見慣れない言葉を口にし、異国の歌を歌うようになる。」 「1789年1月20日:知識人ぺテル・シムコ、広場近くの自宅で狂乱状態に陥る。古書を破り、奇妙な文字を書き連ねる。友人の証言によれば、彼は数日前から『何かに見られているようだ』と怯えていたという。」 リリスはさらに、「異常気象と人間の心理への影響に関する研究論文」というタイトルがつけられた、より近代の書物を手に取った。その中の記述を、彼女は目で追っていく。 「…この地方特有の濃霧は、視覚情報を遮断し、空間認識能力を低下させる。これにより、人々の方向感覚や時間感覚が鈍化し、不安感や孤立感を増幅させる傾向にある。特に夜間の濃霧は、人の潜在意識下の恐怖を刺激し、知覚の歪みを誘発する。この現象は、古くから伝わる『記憶喰い』の目撃談が、なぜ霧深い夜に集中しているのかを説明する一因となりうる。」 彼女はこれらの情報を頭の中でつなぎ合わせ、彼に視線を向けた。 「ねえ、アレクセイさん。記憶喰いは、霧の深い夜に現れることが多いって。この街で一番霧が深い場所はどこだと思う?」 彼は、喉の奥から這い出すような声でかろうじて絞り出す。 「……広場の、鐘楼の前……でしょうか。ですが私は旅のもので、この辺りのことはなんとも…」 彼の言葉は尻すぼみとなり頁の中に吸収されていく。 リリスはそんな彼の言葉を話半分に聞くと、満足げに頷きながら手元の書物に素早くメモを取った。彼女は膨大な情報を瞬時に処理し、散らばった点と点をつなぎ合わせていく。その思考の速度と正確さに、彼は舌を巻いた。彼女の脳内では、巨大なパズルのピースが次々と埋まっていくかのように、事件の全体像が形作られていく。それは、喰らうことでしか他者の思考を理解できなかった彼には、想像を絶する領域だった。 数時間後、リリスは満足げに顔を上げた。積み上げられた書物の山から、確信に満ちた瞳で彼を見つめる。 「やっぱりね」 彼女は彼に向かって微笑んだ。その笑みには、無垢な喜びと、獲物を見つけたかのような確信が宿っていた。 「彼はね、やっぱりいつも広場の鐘楼の前に現れるわ。特に霧の深い夜に。…彼の目的は分からないけれど、必ずそこに来るはずよ」 彼女は、彼の正体を知らずに、まるで獲物を追う猟犬のように、彼自身の行動パターンを突き止めていたのだ。彼女の大嫌いな蜂蜜色の目は、彼をまっすぐに射抜いている。全体像を知らないくせに、彼の内なる闇を全て見透かしているかのようだった。 「今夜、そこへ行ってみるわ。きっと彼に会える」 彼女の声は、どこまでも澄み切っていて、迷いも躊躇もなかった。その言葉は、彼の心臓に鉛の塊を落とし込んだ。

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基本設定

名前:とくにない 年齢: 十代後半 立場:孤立した辺境の国の王女 性格: 冷静沈着、理知的、達観していて人との距離を取りがち その他: 王の愛妾の子で、王家に受け入れられたものの正統性を問われ続けている。 頭が切れるためよく戦に出かけ前線で策を練り、敵将と心理戦を繰り広げるのが得意だが、宮廷では「王女は優雅にしていろ」と疎まれる。 戦場の血や鉄や煙の匂いに強い執着と嫌悪を同時に抱いている。 泥臭い寄りのかっこよさ。

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第十二幕:渇望

夜の闇がヴェリフラドの街を深く覆い、凍てつく風が石畳を這う。 彼は、屋根の上を跳び移りながら、その日最後の獲物を物色していた。 市庁舎の長官の記憶を貪り尽くし、旧貴族の老当主の深遠な思考を啜り、大学教授の知識を根こそぎ奪い、修道院の神父の敬虔な信仰を嘲るように喰らい、名のある詩人の紡いだ言葉の全てを飲み込んだ。 だが、それでも満たされない。舌の奥に残るあの少女の甘く狂った痺れが、彼の内側で脈打つ。 足りない。 もう、記憶だけでは駄目だ。彼は本能的に感じていた。 思考の表面を舐めるだけでは、この底なしの渇きは癒せない。 彼は、ふと立ち止まった。目の前には、街で最も古い時計塔の頂が見える。その影に潜む、一軒の瀟洒な邸宅。中から漏れる灯りは、まだ中に人がいることを示唆していた。 彼は今更ながら礼儀正しく、扉の前の小さい鈴を鳴らした。 重々しく扉が開く。 中には、街の記録を編纂している老いた司書が、分厚い書物を手に持って立っていた。 「……こんな夜更けに、何用ですかな?」 司書が顔を上げる。その目は、夜の静寂に慣れた学者のそれだった。彼は答えない。ただ、ゆっくりと司書に近づいていく。 「ひとつ、いらない記憶をちょうだい。かわりに、きみの知らない物語をあげよう。」 彼はリリスの見ていた伝承の一節を口の中で転がした。 司書の顔に恐怖の色が浮かぶ。 「記憶喰い……」 司書は震える声で呟いた。その言葉は、まるで彼の心臓を抉る刃のようだった。 彼は我に返る。 記憶喰い。そうだ、俺は記憶喰い。だが、記憶だけでは、もう足りない。 彼は司書の頭に手を伸ばし、その思考を直に掴む。彼の記憶は甘い。しかし、一瞬にして消えてしまう儚い甘さだ。彼の飢えは、もうそんなものでは満たされない。衝動が、彼の理性を塗り潰していく。 「もっと……もっとだ……」 自分の手で、自分のせいで恐怖に歪む人間の顔が大好きだった。 だがそれも数日前までの話だ。 彼はもはや、人の表情なんかに構っていられない。 彼の指先が、司書の頭蓋に食い込む。 ぱきん。 人の頭蓋骨が割れる感触が、直接指に伝わった。白い脳漿と、赤い血が、じわりと溢れ出す。 「ぐっ……ぁ……」 司書の喉から、絶命の呻きが漏れる。 彼は、大きく口を開け司書の脳に直接、貪欲に食らいついた。 温かい生の塊。人の脳を食らうのは、これが初めてだった。思考の、知識の、記憶の、そして生命の源。それが、彼の舌の上で、とろけるように広がっていく。 味はなんだかわからなかった。というか、なかった。だがねっとりと粘度があり濃いこの個体は、胃に直接張り付いて彼の飢えを満たしていく。 彼は狂ったように司書の脳を貪り続ける。熱い。痺れる。そして、どこか冷たい。血と脳漿で口の周りを汚しながら、彼は無我夢中で食べ続けた。 しかし、その満たされる感覚は、長くは続かなかった。ふと顔をあげると、目の前に広がったのは、首がひしゃげ頭の割れた、変わり果てた司書の亡骸。その目は彼の方を向いているが、彼を見てはいない。もう何も語らない。 殺した。 俺が、殺した。 食べていた時には気づかなかった事実が突きつけられる。 彼の意識は一気に現実に引き戻された。彼の手は震えてだした。人を喰い殺したのは初めてだ。記憶を奪うだけだったはずが、生きた人間を、その肉体を、喰い殺してしまった。 「ぅ…ぁ、おぇ…」 彼はよろめき、吐こうと口に指を突っ込み、必死に掻き出そうとした。しかし、ねっとりとした脳が簡単に掻き出せるはずがなかった。ましてや、吐き出したとて、司書の命が戻ることもなかった。 彼の中にある数多の記憶のうち、誰かが言った。 『…俺が、殺したのか』 瞳の黒い、ロシア人の男が、亡骸を前に血濡れた両手を見つめていた。 翌朝。 朝陽がまだ昇りきらないうちに、街はいつも以上のざわめきに包まれていた。司書の家の前にはすでに多くの人々が集まり、不安げに囁き合っている。 「今度は司書様が……」 「頭蓋を割られていたらしいぞ。記憶喰いとは違う。あれは獣の仕業だ」 「記憶喰いは記憶を喰らうだけだ。こんな残酷な真似はしない」 人々は口々に、今回の事件が記憶喰いの仕業ではないと主張する。記憶喰いの伝承はあくまで「記憶を奪う」ものであり、肉体を損なうことはなかったからだ。 人々は、正体不明の「獣」の出現に怯え、恐怖に顔を歪ませていた。 男は、そんな群衆の中に紛れ込んでいた。口の中にはまだ、あの生の肉塊の味が残っているようで、何度唾を飲み込んでも消えなかった。背中には、人を喰い殺したという罪悪感が、氷のように張り付いていた。 その時、背後から声がかかった。 「……アレクセイさん?」 振り返ると、そこにリリスが立っていた。朝の灰色の光の中、彼女の蜂蜜色の瞳は相変わらず鋭く、しかし期待の色を帯びているようにも見えた。彼女は、集まった人々の様子をちらりと一瞥すると、彼に向き直った。 「ずいぶんと顔色が悪いわね。昨夜はよく眠れなかったの?」 昨夜…自分は何をしていただろうか。 昨夜の悪夢が再び蘇る。彼は平静を装い、かすかに笑みを浮かべた。 「ええ、少し」 リリスは彼の顔をじっと見つめた後、ため息をついた。人混みの隙間から司書の死体のかけらが覗く。 「今度は司書が喰われたそうよ。頭を割られて、脳を喰われてて……。歯形があるから獣の仕業だってみんな言ってるけど」 彼女の声は、どこか諦めにも似た響きがあった。 「そりゃそうよね。記憶喰いは、記憶を喰らうだけだもの。肉体には手を出さない。そう、伝承にはあるわ」 彼女はがっかりと小さく息を吐いた。 彼は寒気がした。 目の前で人が無惨に喰い殺されているというのに、平然としているどころか記憶喰いの犯行ではないと人づてに聞いて肩を落としている。この娘は… 「でも、私は信じないわ。記憶喰いの仕業だと思うの。彼は記憶を喰らうのだから、その延長で脳を食べてしまってもおかしくはない。彼はただのおとぎ話じゃなくてきっと実在する」 彼女はそこで言葉を区切り、彼の瞳をまっすぐに見つめた。彼の胃の奥が、きりきりと痛み出す。 「ねえ、アレクセイさん。あなたも私に付き合ってくれないかしら?この事件の真相を、突き止める手伝いを」 彼女の瞳は澄み切っていた。美しい色だ。茶味がかった金色はこっくりと濃く艶めいている。彼はこの瞳に見つめられるといつも逃げ出したくなった。 しかし彼女の言葉は、まるで彼の心を縛り付ける鎖のように、彼をその場に縫い止めていた。 「……ええ、喜んで」 彼は、精一杯の笑顔を作った。その笑顔の裏で、彼の心臓は激しく波打ち、全身の血が逆流しているかのようだった。

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第十一幕:狂宴

図書館を出たあとも、彼女はまるで熱に浮かされたかのように、記憶喰いの話を続けていた。 夕日を通り越し、宵闇が迫る街の裏通りを歩きながら、白い息が夜の冷たい空気に溶けていく。時折、彼女はうっとりとした夢見心地の声で呟いた。 「もし、本当にいるなら、どうやって呼べばいいのかしら。夢の中で呼んだら来てくれるかしら。ねえ、あなたはどう思う?」 彼は彼女の横を歩きながら、口元だけはいつものように柔和な笑みを湛えていた。しかし、その内面では、抑えきれない焦燥と苛立ちが渦巻いていた。彼女の言葉の一つ一つが、彼の脳をざらつかせ、神経を逆撫でする。 思考は隣から香る甘く濃厚な芳香に毒され、時空が歪み、足元から少しずつ地面が崩れていくような感覚に囚われていた。彼女は、さらに言葉を紡ぐ。 「もし、記憶喰いが私の前に現れてくれるなら……私は、全部差し出すわ。記憶も、理性も、名前も。全部、喜んで喰べてもらう。だから——」 彼女の瞳が、濃い蜂蜜色に輝いた。甘ったるく胃を犯し、理性を阻害する毒の粘液の色。純粋無垢な輝きの中に、狂気と愉悦が溶け合っていた。まるで、彼の正体を見抜きながら、彼自身を呼び起こしているかのようだった。 彼女は祈るように言った。 「だから、来て」 その一言が、彼の心の奥底に冷たい汗をかかせた。同時に、ぞくりと背筋を這い上がる恐怖と、抗いがたい衝動が腹の底を駆け上がった。 呼ぶな。俺を呼ぶな。 だが、もう遅いのかもしれない。彼女の深遠なる夢想は、現実の彼の喉元にまで、その甘い毒を届かせていた。長らく彼女の甘美な毒気に慣れすぎてしまったせいで、彼の舌の感覚は、すでに正常ではなかったのだ。 それに気づいたのは、その夜、街にある別の宿の客を軽く喰ったときだった。 味がしない。 それは、熱を失った白湯を啜るような、空虚な感覚だった。 今まではそんなことなかった。どんなに薄いとはいえ、完全に無味になるほどまではならなかった。 何人か続けて喰ってみても、結果は同じだった。彼らの思考は薄っぺらくすぐに崩れ、喉を通しても決して満たされることはなかった。彼の中の何かが、キリキリと音を立てて軋んだ。 足りない。 彼女のあの濃厚な「味」を知ってしまった舌は、もはや普通の人間の薄味では、決して満足できなくなっていたのだ。 それから彼は、霧深い谷の底にある街の上層へと足を運び始めた。 市庁舎の長官。 旧貴族の老当主。 大学の教授。 修道院の神父。 そして、名のある詩人。 地位の高い者、博識の者、深遠な思想を抱く者、信仰に身を捧げた者。知識と思考に色濃く染まった脳を、彼は片っ端から貪り喰い散らかした。最初は慎重に、夜ごと一人ずつ、闇に紛れて。 気づけば彼は、理性も秩序もかなぐり捨て、狂ったように次から次へと高貴な人間たちの記憶喰い尽くしていた。自分の保持する記憶を与えるという、代価もろくに渡さずに。 屋敷の食堂で、議場の廊下で、講義室の片隅で。音もなく現れ、手を伸ばし、彼らの頭の中にある宝石を容赦なく毯り取る。しかし喰っても喰っても、彼の渇きは癒やされない。彼の脳裏に鮮やかに浮かび上がるのは、やはりあの可憐な娘の顔だった。 あの毒。 あの甘さ。 あの芳香。 どれだけ他の濃厚な記憶を喰い集めても、彼女ひとりの味には遠く及ばなかった。 彼女はというと、その間も変わらず、夢見るように記憶喰いの伝承を読み漁っていた。街のあちこちに出向き、広場の鐘楼の下で夜空を見上げながら白い息を吐いて祈った。記憶喰いが自分の元に現れますように、と。 彼は、また冷たい汗をかきながら、夜の街の屋根の上で息を潜め、爪先を立てる。 俺が喰うのか、あれに喰われるのか。 そんな彼の葛藤も知らず、彼女は相変わらず無垢な顔で鐘の下に立ち、霧の中でうっすらと微笑むのだった。

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第十幕:伝承

午後になると、図書館の窓の外には細い雨が混じり始め、薄暗い灰色の光が書架の合間を漂った。 彼女は相変わらず二階の奥に陣取り、何冊もの古びた本を積み上げて頁をめくっていた。 彼はその隣で、何食わぬ顔をして椅子にもたれかかり、時折、眠たげに指先で書架を叩いていたが、その実、彼女の思考をかすかに舐めながら様子をうかがっていた。 「……あったわ。記憶喰いの伝承」 不意に、彼女が小さな声を上げた。 指先で古びた頁の一角をなぞり、わずかに身を乗り出した。 彼はちらりと目を向ける。 そこには、手書きの挿絵と共に、古い東欧の言葉でこう記されていた。 Požierač pamäti 記憶を喰らうもの。 思考を、記憶を、夢さえも呑みこみ、代わりに己の記憶を植え付ける。 かつてこの地に現れ、人々の過去と未来を奪い、脳の奥底から溶かしていったという。その眼差しに囚われれば、すべては己のものではなくなる、と。 「『ひとつ、いらない記憶をちょうだい。かわりに、きみの知らない物語をあげよう。』…」 ページを読み上げる彼女の声は、小さく震えているようにも聞こえた。 怯えたのか?と彼は思った。 だが。 彼女は、頬にうっすらと赤みを差し、瞳を細めた。 「……素敵ね」 その呟きに、彼は書架の陰でわずかに指先を強張らせた。 彼女は頁に手を置いたまま、じっとそこに記された化け物の伝承を見つめている。 そして、ごく小さな声で言った。 「まるで、脳を直接、蕩かされるみたい……理屈も、記憶も、すべてこねくり回されて、彼の形に作り変えられていく。こんな風に誰かに壊されるの、悪くないかもしれないわ」 彼女は夢見るような目で頁をめくり、さらに続けた。 「……私のところにも来てくれたらいいのに。私の脳も、まっさらにされて、全部彼のものになれば、きっとすごく、気持ちがいいでしょうね」 口元に微かな笑みさえ浮かべ、彼女はうっとりと息を吐いた。 その横顔を見ながら、彼は胸の奥で冷たい汗がじわりと滲むのを感じていた。 異常だ。 普通の人間ならば、この「記憶喰い」の伝承を読めば、恐怖するか、せいぜい怪談の一つと笑う程度だろう。 誰が、自ら進んで喰われたがるというのか。 誰が、脳を蕩かされる快感を夢見るというのか。 ましてや、昨夜この街で起こった「宿の事件」は、まさに彼の仕業だというのに。この娘は、それと気づかずに、願っている。 喰われたいと、脳の奥から壊されたいと。 彼は笑みを崩さず、しかし、内心では焦りが渦巻いていた。 おかしい。こんなやつ、喰えるはずがない。 舌にまだ残る、先ほどこっそり舐めた彼女の思考の甘く狂った痺れが、再び疼き出す。 彼女の瞳に宿る光は、まるで深い奈落の底からこちらを覗く獣のようだった。 彼女はやがて、ゆっくりと彼の方に視線を向けた。 「ねえ、あなたはどう? もし、昨日の事件が本当に彼によるもので、本当にこんな怪物がいたら」 彼は、いつも通り柔らかな声で答えた。 「……恐ろしいですね。ですが、きっと魅力的でもあるでしょう」 「でしょう?」 彼女は満足そうに頷き、再び頁に視線を戻した。 雨のしずくが窓を伝い、図書館の中は静寂に包まれていた。 彼は背筋を僅かに伸ばし、深く息を吐いた。彼女の中に渦巻くものが、ますます得体の知れないものに思えてならなかった。 こいつは……やはり危険すぎる けれど、その異常さが、ますます彼の目を離せなくさせるのだった。 図書館の二階の隅。 窓の外の雨は細く長く降り続き、書架の間を冷たい光が漂う。 彼女は頁から顔を上げ、彼の方を見ずに語り出した。 「……記憶喰いという怪物。考えれば考えるほど、どうして皆、怖がるのか理解できないわ」 彼は、無言のまま頷いてみせる。 その声の調子、瞳の奥に宿る熱に、何か危険なものが潜んでいるのを感じながら。 彼女は書物を閉じ、両手を頁の上に重ね、一つ息をついた。 そして、静かな口調で滔々と語り始めた。 「人の思考や記憶を喰らうなんて、恐ろしいどころか、どれほど愛に溢れた行為かしら。記憶も、夢も、痛みも快楽も、その人のすべてを舐め尽くして、自分のものにするのよ。それって、誰かを本当に欲しいと思ったら、自然なことではないかしら?」 彼は僅かに眉を寄せた。 胸の奥に、ほのかに熱いものが灯るのを感じる。 甘く、しかしねっとりとした重さのある、それは──。 「脳が蕩けて、自分が自分じゃなくなるまで愛されるのなら、それ以上の幸福がある? 考えるたび、ぞくぞくするわ。記憶ごと塗り潰されて、その人の形にされる。それこそ愛そのものではないかしら」 彼女の思考が、言葉が、彼に触れるたびに、空気の密度が変わった。脳裏で彼女の言葉が反響し、甘い香りが嗅覚ではなく思考を直撃する。 彼の指先が、かすかに震えた。 こんな感覚は初めてだった。 彼女の中から溢れ出す甘ったるい毒のような思考が、彼の中に滲み込み、胃の奥をかき回す。 芳香が、まるで蜜のように張りつき、舌を痺れさせ、理性を融かしていく。 おかしい。 彼は何度もそう呟く。 まるでこちらが怪物であることなど初めから知っていて、その上で喰わせるのではなく、喰ってやろうとすらしているようだった。 喰う側である自分が、喰われそうになる? そんなことがあっていいはずがない。 だがいま、彼の理性はざらりと崩れ、彼女の思考に絡め取られかけている。彼女の視線は遠く、しかし確かにこちらを射抜いている。 彼の喉が、微かに鳴った。 胃の中でぐらりと熱が渦巻き、痺れる。思考を食い荒らされるのは初めての感覚だった。 彼女が発するのは、もはや芳香というよりも、毒そのもの。しかも、甘美で、どうしようもなく惹かれる毒だ。 彼は無意識に椅子の背に指を食い込ませ、息を潜める。 危ない。これ以上は…… 彼女は尚も言葉を紡ぐ。 言葉の一つひとつが網のように絡みつき、彼の理性を締め付ける。 「記憶喰いに喰われるのは、きっと幸せなこと。あの伝承が本当なら、私は……彼に選ばれたい」 その一言が決定的だった。 彼の胃の底がきりきりと痛み、頭の中で鈍い音がした。 無理に口の中の唾を飲み込む。 汗が背を伝い、指先が白くなるまで椅子の縁を握る。 彼女の視線が、こちらに流れた。 わずかに首を傾げ、薄く笑む。 「……どうしたの?」 その一言に、彼はようやく呼吸を取り戻し、唇の端を引き上げた。 「……素敵な話ですね。聞き入っていました」 辛うじて、そう答えた。 しかし、彼の胸の中ではまだ、彼女の甘い毒がくすぶり続けている。胃の奥がまだ熱い。理性がまだ脆くなっている。喰うつもりで近づいたはずの相手に、喰われかける。 そんな経験は、彼にとって初めてだった。 彼は、胸の奥で深く舌打ちした。 ……化け物め。 彼女は無垢に微笑み、再び文献に視線を戻す。その背中から、彼を蝕む甘い毒がなおも漂い続けていた。 彼は、決して悟られぬように、指先を机の下で握りしめた。

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ヘンゼルとグレーテル

大きな森のそばに、木こりの夫婦が住んでいた。二人の子どもがいて、兄はヘンゼル、妹はグレーテルと言った。夫婦とはいえ二人の本当の母はすでに死に、継母が代わりにいるだけだった。 夜。かまどの火はすっかり細くなり、部屋は闇に沈んでいた。外の風が板壁の隙間から吹き込み、赤子のような声で鳴いている。 木こりは椅子に座り、手を組みながら黙り込んでいた。足元の床板には、昼に拾ってきたわずかな薪の破片が散っている。 その向かい側で、その妻が夫を見つめていた。 「あなた、聞いているの?」 低く、切り出した声に、木こりはびくりと肩を揺らした。 「……聞いている。」 「それなら、答えて。」 彼女はかまどの火に手をかざしながら言った。 「このままでは、私たちは全員、飢えて死ぬのよ。明日のパンもほとんど残っていないでしょう?」 木こりは答えなかった。答えられなかった。火の中でパチパチと薪がはぜる音が、耳を刺した。彼女は何を言いたいのかはわかっている。 「この家には、四つの口がある。二つ減らせば、二人は生き残れるのよ。わかるでしょう?」 彼女の声は静かだったが、言葉のひとつひとつが冷たく重く、木こりの胸に沈んでいった。 「……あの子たちは、まだ小さい。森で何もできやしない。」 「だからこそ、今のうちよ。」 妻の目がぎらりと光った。 「私だって好きでこんなことを言うんじゃない。でもね、あなた。私たちが死んで、あの子たちだけ残して、あの子たちがどう生きるの? 誰も助けてはくれない。あの森の中で、せめて……苦しまないうちに……」 木こりはぎゅっと拳を握り、口を閉ざした。 それでも、木こりは、妻の視線から目を逸らし続けることができなかった。 「今夜決めて。明日の夜明け、森へ行くのよ。もう、ためらっている暇はないの。」 妻の言葉は、灰色の夜の空気に溶け、かまどの火はふっと消えた。 翌朝。 空は、どこまでも鈍い鉛色だった。 寒風に吹きさらされた農村は、朽ちた骸骨のように痩せ衰え、畑には干からびた茎が点々と突き刺さるばかり。数年前の豊かな麦の匂いも、甘い果樹の香りも、もう村の誰の記憶からも消えかかっていた。村人たちは無言で行き交い、犬さえも鳴かず、ただ雪混じりの埃が空を舞っていた。 ヘンゼルとグレーテルの家も、その中のひとつだった。 古い板壁の小屋は、強い風が吹くたびに軋み、薄い屋根の隙間からは白い息が漏れる。かまどの火は小さく、パンは薄く、家族の沈黙だけが夜を満たしていた。 継母の指先がパンのかけらをむしる音が聞こえていた。父は椅子に座ったまま背を丸め、目を伏せる。ヘンゼルは、かじかむ手を膝の上で握りしめ、思い切って口を開いた。 「僕がもっと薪を割る。森で木の実も拾うし、川で魚も捕るよ。だから、お願いだから……」 彼は貧困状態にある家の子供が、この村でどのような最期を迎えるのかを知っていた。 言い終える前に、継母の冷たい視線が彼を射抜いた。 「お前に何ができる? 幼い子どもが、二人も口を開けば、それだけで私たちのパンは消えるのだよ。」 静かな声だったが、その刃は深く、鋭かった。 父は小さく身を震わせ、ヘンゼルとグレーテルから目を逸らした。少年の胸の奥が焼けつくように熱くなった。愛されたい。ただ、それだけを願っているのに、その願いがこの家をますます重苦しくしているような気がしてならなかった。 まだ夜の帳が森を覆っているうちに、継母が無表情のまま二人の寝床を揺らした。 「森へ行くよ。薪を拾うんだ。いいね?」 二人が返事をするより早く、父が古い斧を背負い、重い足取りで戸口に立っていた。 森の入り口に着く頃には、靄が晴れ、青白い光が射し込んでいた。けれど、森の奥に進むほどに光は消え、空気は湿り、足元の落ち葉は粘ついていた。 木の幹はねじれ、枝はどれも腕のように伸び、梟の目がどこからか光っている。けれど、グレーテルが不安げにヘンゼルの袖をつかむと、少年は必死に笑顔を作った。 「大丈夫さ。父さんも母さんも、すぐ戻ってくるよ。…それに、僕に考えがある。」 兄は意味ありげに妹に笑いかけた。そして、道すがら、ヘンゼルはポケットに忍ばせてきた白い小石を、人知れず地面に一つ、また一つと落としていった。その小石は、夜になれば月の光を反射し、きっと二人を家へと導いてくれるはずだった。 森の奥深くに着くと、父はぽつりと立ち止まり、斧を地面に立てかけた。背を向けたまま、振り返らずに言った。 「ここで待っていなさい。薪を切ったら、すぐ戻るからな。」 その言葉の最後に、ほんの僅かに震えが混じっていた。 案の定、両親は帰ってこなかった。 翌朝、夜の闇がまだ残る頃、二人は家路を急いだ。ヘンゼルが道に落とした白い小石は、月の光を浴びてキラキラと輝き、迷うことなく彼らを家へと導いた。 父は、二人の帰還に驚き、安堵の表情を浮かべた。しかし、その隣の継母の顔には、苛立ちと冷たい失望の色が浮かんでいた。 数日後、再び食料が底をついた。夜のかまどの火は、相変わらず弱々しく、家族の間に重苦しい沈黙が漂った。継母の声が、再び響く。 「明日は、この間よりもっと奥まで行くからね。」 その日の朝食のパンは、いつもより少しだけ厚く切られていた。ヘンゼルはそれを一口かじり、残りを服の中に隠した。 彼はこの前と同じく、道にパン屑を落としていく。 森へ向かう道は、前回よりもさらに深い場所へと続いていた。 「ここには美味しいベリーの木があるんだ。父さんと母さんで、たくさん摘んでくるから、ここで遊んで待っていなさい。」 ある程度歩いたところで、父は、普段と変わらない穏やかな声でそう言うと、継母と共に、ベリーを探す振りをして森の奥へと消えていった。 静寂が訪れた。やはり両親は帰ってこない。一度経験し、わかっていたことであっても、いざ現実になると酷く悲しい。 兄妹は肩を寄せ合い、かじかむ手を握りしめた。空気はしんと張り詰め、どこからか木が軋む音や、遠くの獣の鳴き声が低く響いた。 大丈夫だ。行きに撒いてきたパンくずがある。二人はパンくずを辿って帰れると思っていた。その時までは。 二人は元きた道を戻ろうとした。 しかし地面には、標となる小石もパンくずも、何もなかった。 ヘンゼルの顔から、希望の光が消え去った。 「パンくずが……ない……」 おおかた鳥が食ってしまったのだろう。 ヘンゼルは、胸の奥に黒い穴が空いたように感じた。それでも、父が本当に自分たちを置いていくはずがない、と信じようとした。焦る気持ちを抑え、もしかしたらと考えを巡らせる。 だが戻ってくるはずもなかった。 兄はそれを知っていた。 絶望に打ちひしがれる兄に、グレーテルは不安げに寄り添った。 グレーテルの頬に冷たい涙が伝うのを、彼はそっと指でぬぐった。 ヘンゼルは妹の手を握って立ち上がらせ、声をひそめて言った。 「どこか、家を探そう。こんな森の中だけれど、暮らせるところがきっとある」 二人は森の奥へ歩き出した。 その先がどんな運命に繋がっているかも知らずに。 ・ 森をさまよい続けて、どれほどの時間が経ったのか。 朝であるのに冷たい風が頬を刺し、靴の底は裂け、ヘンゼルもグレーテルも、もはや足を動かすのがやっとだった。枝が髪に絡みつき、指先は感覚を失い、希望のかけらすら砕けてしまったかに思えた、そのとき——。 ふいに、光がまた現れた。 それは闇の向こうで揺れ、こちらを呼ぶように輝いていた。近づくにつれ、ただの灯りではないことがわかった。 森の奥深く、開けた小さな空き地に、ひときわ美しい家がぽつんと建っていた。 壁は飴細工のように艶やかで、屋根には色とりどりの菓子が積まれ、窓からは甘い香りが溢れていた。家の前には花が咲き乱れ、庭先には金色のパンや果実が山のように盛られている。二人はその光景を見つめ、息を呑んだ。  「…家だ。家だよグレーテル!!」 兄の言葉にグレーテルが思わずつぶやく。  「……夢、みたい……」 ヘンゼルは妹の手を強く握りしめ、無言のまま家に駆け寄った。ずっと胸の奥で重く沈んでいたものが、いっきに溶け出していくようだった。ついに、ついに自分たちの努力が報われる場所を見つけたのだ、と。ここがあれば、当分餓死せずに生きられる。まずは中に人がいるか確かめなくては。 二人は扉の前に立った。 家の扉が音もなく開くと、中からひとりの老婆が現れた。銀の髪に深紅のドレス、しわだらけの口元には不思議な微笑みが浮かんでいた。  「まあ、まあ……かわいそうに。森の中でこんなにやせ細って……」 彼女の声はやさしく、あたたかく、二人の心をすっかりほどいてしまった。「口減らしにあったのね」  「大丈夫、もう安心していいのよ。私の家でよければ、滞在を歓迎するわ。ここでは好きなだけ食べて、寝て、笑っていればいいの。あなたたちがいてくれたら、私の家はもっと素敵になるわ。」 その言葉に、ヘンゼルは胸が熱くなるのを感じた。名前も知らない誰かが、自分たちをここにいていいと受け入れてくれた。それだけで涙があふれそうだった。 家の中は、外から見える以上に豊かだった。机の上には肉や果物が並び、柔らかなベッドがふたつ、窓辺には宝石や金貨の詰まった壺が積まれている。 老婆は二人の事情を真剣な面持ちで聞くと、二人に腹いっぱい食べさせ、ふわふわの布団を用意し、何度も何度も頭を撫でながら言った。  「こんなに働き者の子どもは見たことがないよ。もっともっと、みんなに認めてもらうべきよ。ねえ、ヘンゼル、グレーテル。あなたならできるわ。」 その日から、ヘンゼルは老婆の家で働き始めた。 薪を割り、水を汲み、庭を耕し、家の掃除をし、パンを焼く。やるべき仕事はいくらでもあった。けれど、魔女はそのたびに言うのだ。  「素晴らしいわ。あなたが立派に働けば、きっとお父さんも、お母さんも喜ぶわよ。家にもう一度、迎えてくれるかもしれない」 ヘンゼルは、その言葉を胸に刻み込み、朝から夜まで働き続けた。指先はひび割れ、肩は悲鳴を上げ、足元がふらついても、老婆の褒め言葉が彼を立たせた。老婆の家が、父に認められる「価値ある人間」になるための唯一の場所に思えた。 だが、グレーテルの胸の中には、次第に小さな違和感が積もっていった。 兄の目は次第にぎらつき、笑顔は引きつり、布団に倒れ込むと、荒い息を吐いてはすぐにまた起き上がるようになった。老婆の口元の笑みも、何かを観察するように冷たく、長くとがった爪がいつもヘンゼルの背に触れていた。 時折、グレーテルが兄の袖をつかみ、「少し休んで」と懇願しても、彼は首を振った。  「だめだ、グレーテル。休んだら……だめだ。もっと……もっとやらないと……認めてもらえない……」 その声には、希望よりも焦燥と恐怖が滲んでいた。 彼は急に彼女を振り返ると、その肩に手を置いて言った。 「なあグレーテル。お前も働けよ。おばあ様はいい人だ。働いたらよく褒めてくれる。それに、もっと働けば、立派になって帰ってくれば、父さんも母さんもきっともう一度受け入れてくれる」 夜、その老婆の部屋からは、くぐもった笑い声が聞こえた。 その笑いが、甘い菓子の香りに混じって漂うたびに、グレーテルは寒気を覚え、眠れずに兄の寝顔を見つめ続けた。 彼の指先は荒れ果て、唇は色を失い、夢の中でも小さくうなされている。 その寝顔の向こうで、彼女が窓辺に立ち、にやりと笑っているような気がした。 ある日ついに過労でヘンゼルが倒れると、老婆が言った。 「ああ、一人で仕事をするのは骨が折れるねぇ」 グレーテルは弾かれたように言った。 「私が…私がやりますから…」 老婆は満足げに微笑んだ。 ・ グレーテルは黙って兄の代わりに働き始めた。 薪を割り、水を汲み、パンをこね、雑草を抜き、指先が割れて血が滲んでも手を止めなかった。兄がどれほど苦しい思いで耐えてきたかを、その仕事の重さが教えてくれた。 しかし、数日後に回復したヘンゼルは、彼女の手伝いを見て怒りを見せた。  「やめろ、グレーテル。それは俺の仕事だ。俺がやる。俺が認められるために必要なんだ……!」 目は赤く充血し、声は震え、爪の先まで張り詰めたその姿は、もう以前の兄ではなかった。 老婆の囁きは、彼の耳に染みついていた。  「もっともっと働けば、もっと愛される。妹なんかに負けるな。あの子はあなたを邪魔しているだけよ。家族の誇りになるのは、あなたなんだから」 回復したその日から、ヘンゼルは常軌を逸したように働き始めた。夜中に庭を掘り返し、屋根に登って修理を繰り返し、血だらけの指で果実をもぎ、目に見えぬ何かに追われるように動き続けた。 食事も睡眠も忘れ、グレーテルが差し出す水さえ払いのける。 彼の目は鋭く、恐ろしく、もはや妹さえ認識していないように見えた。 グレーテルは恐怖の中で確信した。 この家は、兄の心を喰っている。 老婆は、兄を支配するために、働かせ、褒め、縛りつけているのだ、と。 彼女は魔女だ。優しいおばあ様ではない。 老婆はさらに彼女を追い詰める。  「グレーテル、あなたはもう必要ないわ。あなたがいると、彼の成長の邪魔になるの。森に帰りなさい。ここは彼の家なんだから」 その声は氷のように冷たく、そこにこれまでの優しさは一欠片もなかった。 足手纏いだ。そう言われたグレーテルの胸の奥に、鋭い棘のようなものが突き刺さった。 何がいけなかったのだろうか。 もっともっと、働かなければならないのだろうか。兄よりも。 そうだ。兄に仕事を奪われるわけにはいかない。兄弟とはいえ、血が繋がっているとはいえ、他人だ。 兄は出来る人間だ。責任感も強く、いつもいつも私の先を行く。私の居場所を奪う。 兄さえいなければ。 そこまで考えたところで、彼女は震えた。 今自分は何を考えていた? 吐き気がした。唯一の肉親である兄でさえ、憎み、存在を消そうと考えていた。悍ましい。 ここにいてはいけないと、彼女は思い直した。一刻も早く、ここから出なければ。 ある夜、前触れもなくヘンゼルが突然彼女の腕を強く掴んだ。  「グレーテル……」 震える声で彼は言った。  「もう誰もいらない。おばあ様も、父さんも、母さんも……俺には……お前だけいればいい……」 その目は、理性の残滓すらないほどに濁っていた。 血と土にまみれたその手で、彼は妹を抱きしめる。 それは保護でも、純粋な愛情でもなく、共に地獄に堕ちようとする者の、歪んだ執着に満ちていた。 グレーテルの胸に、恐怖とともに甘い絶望が広がっていく。  「何、言って…」  「俺の価値は……お前だけが知ってくれてる……お前だけが……」 兄の指が、まるで壊れた玩具のように彼女の髪をなぞり、頬を掠め、かすれた声で繰り返した。 その夜、グレーテルは、兄の腕の中でひそかに決意した。 兄は狂ってしまった。 たとえこの家を燃やしてでも、この人を取り戻す。 たとえ兄に憎まれても、私が兄をこの地獄から引きずり出す。 窓の外で、老婆の笑い声が風に混じって響くようだった。 その笑いに負けまいと、グレーテルは強く、目を閉じた。 ・ 老婆の家のかまどは、夜通し赤く燃え続けていた。空気は重く、熱く、煙は天井に張りつき、釜の中からは薪の焦げる匂いが漂っている。それは、まるで老婆の悪意が空気中に溶け出し、呼吸するたびに胸を締め付けるかのようだった。 グレーテルの手は、震えていた。彼女は、かまどの前で魔女が火加減を気にしているふりをしながら、心の中で完璧なタイミングを計っていた。 これから、兄を救う。この家を出る。今日で全てを終わらせる。 「おばあさん、この火は少し強すぎるんじゃない?パンが焦げ付いちゃうわ。」 彼女はわざとらしく心配そうな顔を作り、老婆の気を引いた。 「おや、そうかい?どれどれ、ちょっと見せておくれ」 魔女が身を乗り出してかまどの内部を覗き込んだその瞬間、グレーテルは全身の力を振り絞り、魔女の背中を両手で強く突き飛ばした。 その瞬間、魔女の金切り声が耳をつんざき、かまどの扉を力いっぱい閉めると、内側から魔女の爪が扉を引っかく音が聞こえた。だが、すぐにその音は止み、部屋の中に静寂が落ちた。焼ける肉の匂いが、甘いお菓子の匂いと混じり合い、吐き気を催す。 殺した。 彼女は口元を押さえてよろめいた。荒い息をつきながら、背後にいる兄を見る。ヘンゼルは、燃えるかまどをじっと見つめたまま動かない。頬はこけ、目は虚ろで、汗で濡れた髪が額に張り付いている。 やっと……終わった。 グレーテルは心の中でそう呟いたが、その言葉は空虚に響いた。 解放されたはずのヘンゼルは、微笑むどころか、今にも崩れ落ちそうなほど力なく立ち尽くしていた。 「終わった……」 低くかすれた声で、彼は呟いた。 「僕は、まだ……認められていないのに……」 彼の目は、かまどの赤い炎に映り、暗い底のない渦のように濁っていた。 「おばあ様の期待にも答えられない。父さんの期待に応えられない。母さんの見放した目に怯える。僕は…」 魔女が彼に刷り込んだ「もっと、もっと」という呪いの言葉が、彼の精神に深く根を張っているようだった。痩せ細った体にもかかわらず、彼の瞳には常に飢餓と、決して満たされることのない思いが渦巻いていた。 魔女のいない家の中には、確かに宝石や金貨が残されていた。だが、ヘンゼルはそれを見向きもしなかった。両の手のひらを見つめ、力なく笑いながら、壁に頭を打ち付けていた。 「全部終わったのに……僕は……僕の価値は」 グレーテルはその手を掴み、必死に呼びかけた。 「お兄ちゃん、もういいの。帰ろう。魔女はいないの、もう自由なの」 だが、兄は首を振り、ただ炎の中を見つめ続けた。 それでもグレーテルは荷物をまとめ、兄の手を引っ張って引きずり、森を抜け、故郷へ帰るしかなかった。帰り道の空は低く、風は冷たく、行きに感じた暖かい光は、もうどこにもなかった。森の木々は影を落とし、二人の心に巣食う闇を映し出しているかのようだった。 やっとのことで家の前に立つと、扉の向こうから父の苛立った声が聞こえた。それは、かつて優しかった父の声とは似ても似つかない、病に蝕まれた声だった。二人は怯えながら中に入った。 彼はここ数日間で結核が悪化し、危篤に陥っていたのだ。 彼の顔はやつれ、唇は乾き、目は怒りで血走っていた。彼の言葉は、まるで鋭い刃物のようにヘンゼルの心を切り裂いた。 「やっと帰ってきたか……病気で寝込んでる間に、どれだけ俺が苦しんだと思ってるんだ!病でこの身も心もボロボロだ!なぜもっと早く帰ってこなかったんだ!親不孝者め!役立たずの子供たちめ!」 その瞬間、ヘンゼルの顔が引きつり、何かが決壊したように見えた。彼は口元に苦い笑みを浮かべ、低い声で呟いた。 「……僕は、お前たちに捨てられたんだ。自分で捨てておいて、今更面倒を見ろだと?ふざけるな!」 この父は、放っておいてもいずれ結核で死ぬ。ならば、なぜ今躊躇うことがあろうか。死期が少し早まるだけだ。彼の望む通り親孝行をしてやろう。 ヘンゼルは父の胸元に向かって手にしていた薪割り斧を振り下ろしていた。その銀の刃が父の怯えた顔を映した。 「ヘンゼル!やめっ…」 父の胸が裂けた。 乾いた悲鳴が部屋に響き渡った。 「いやあああ!あなた!」 継母だ。 継母は恐怖に顔を歪め、悲鳴を上げながら部屋の隅へと逃げ惑った。だが、ヘンゼルは躊躇せずその背中を追い、その首筋に力一杯斧を叩き込んだ。 床はすぐに暗い血飛沫に染まり、かつて家族と呼ばれた人間の温もりは絶えていった。 グレーテルは、その光景をただ見つめていた。兄の瞳は、もはや何の光も宿しておらず、深い闇が支配していた。彼の顔には、微かな狂気が浮かび上がり、かつての優しい面影は完全に消え失せていた。 そして、彼はその血まみれの手で彼女の頬に触れ、壊れたように微笑んだ。 「僕はもう……お前だけがいればいい……」 その声は、かつての兄の声ではなかった。それでも、グレーテルはその手を振り払うことも、家を飛び出すこともできなかった。彼女の心は恐怖と絶望で凍りつき、まるで糸の切れた人形のように立ち尽くしていた。 兄の腕が、妹の背中に回される。 「なあグレーテル、愛してるよ」 絶望の中、互いを支えにするしか残されていなかったからだ。それは、もはや「家族」と呼べるものではなく、ただ生き残るための、哀しい共依存でしかなかった。 彼は妹の顎に手をかけ、わずかに上を向かせ、自分の血の滲む唇をそっと押し当てた。 ・ 血の匂いが充満する家の中で、グレーテルは兄の腕に抱かれてただ立ち尽くしていた。目の前では、兄が狂気に染まった目で微笑んでいる。その笑顔は、かつて彼女が知っていた優しい兄の面影を完全に消し去っていた。 彼女は凍りついた。 「やめて……」 喉の奥から懸命に言葉を絞り出す。 「こんなのは間違ってる…どんな人であれ、殺しちゃいけない。人殺しは…」 そう諭すと、ヘンゼルはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、一瞬の戸惑いと、理解できないものを見るような感情が浮かんだ。「なぜだ、グレーテル」 「僕は、お前を守ったんだ。飢えから、あの魔女から、そしてこの無価値な俺自身から、お前を守るために、どれだけ働いたかわかるか?お前のためだったんだ、全部!」 ヘンゼルの声は、自分に都合のいい愛を語りながらも、どこか責めるような響きを含んでいた。彼の目に映るグレーテルは、もはや守るべき妹ではなく、自分の飢えを満たすための道具に過ぎないかのようだった。彼の言葉は、自分たちが森に捨てられた原因、そして魔女の家で味わった屈辱と飢え、その全ての責任をグレーテルになすりつけるようだった。 彼の顔には、疲労と狂気が混じり合い、肉体的にも精神的にも限界を超えていることが見て取れた。 グレーテルの心に、それまで押し殺してきた憎悪が沸々と湧き上がってきた。 「守った?ふざけないで!」 彼女もまた声をあげる。 「魔女を殺したのは私よ!自分の都合のいいように変えないで!あんたがやったのは両親を殺したことだけ。あんたは私を守るどころか、人生をめちゃくちゃにした!明日からどう生きていくの!?お父さんも、お母さんもみんな殺して!」 グレーテルの声もまた、憎しみと絶望に満ちていた。 彼女の脳裏には、兄が父に褒められるたびに感じた劣等感、兄が倒れたおかげで魔女の家で一人、不潔な仕事に耐え抜いた日々が蘇る。彼女の目には、兄の狂気が、自分を抑圧し続けた社会の象徴のように映った。 「お前まで僕を責めるのか!お前は僕の苦しみを何も分かっちゃいない!僕は、お前がいなければ、僕はもっと……!」 ヘンゼルの言葉が途切れた。彼の論理はもはや筋が通っていない。その時、彼の目に映ったのは、もはや愛しい妹ではなく、自分の存在を否定する悪意の塊だった。彼の手が、震えながら再び斧の柄を握る。 殺される。 そう思ったグレーテルは、父の猟銃が壁に立てかけられているのを見つけた。獲物を獲るために使われていた重みが手のひらに乗る。 憎しみが、恐怖を上回った。 「お前なんかいらない!お前さえいなければ!」 ヘンゼルが、怒りに顔を歪ませ、薪割り斧を大きく振り上げた。その瞬間、グレーテルは冷静な目で彼を捉え、猟銃の引き金に指をかけた。 ズドンッ! 鈍い銃声が、狭い家中に響き渡る。弾丸はヘンゼルの左肩を正確に貫き、彼は激しくよろめいた。血飛沫が壁に飛び散り、斧を振り下ろす力が一瞬、緩む。しかし、彼の瞳に宿る狂気は消えなかった。痛みで歪んだ顔に、憎悪と最後の執念が宿る。 「グレーテル…!」 彼は、肩から血を噴き出しながらも、残された右腕に全身の力を込め、斧を振り下ろした。その刃が、唸りを上げてグレーテルの首元に吸い込まれていく。 ドスッ! 乾いた音と共に、グレーテルの視界は反転し、暗闇に包まれた。彼女の首は糸が切れたように崩れ落ちる。しかし、彼女の手はまだ猟銃の引き金にかかっていた。その身体が床に倒れ伏す衝撃で、引き金が何かに引っかかったかのように、再び深く引かれた。 ズドンッ! 二発目の銃声が、最初の銃声の余韻をかき消すように響いた。その弾丸は、首から大量の血を流し、息絶えようとしていたヘンゼルの胸の真ん中を打ち抜き、彼の動きを完全に止めた。 静寂が、再び家を包んだ。 床には、二つの体が横たわっていた。ヘンゼルは、その胸元に銃弾を受け、口元から血の泡を吐きながら、虚ろな目で天井を見上げていた。その目には、最期の瞬間に何を見たのか、あるいは何も見えなかったのか、もはや知る由もない。 グレーテルは、兄の斧が首元を深く抉り、その身体は血の海に沈んでいた。彼女の開かれた瞳は、まるで問いかけるかのように空を見つめ、その口元には、僅かな苦痛と、そして解放されたような表情が浮かんでいた。 かつて、森に置き去りにされ、飢えと恐怖に怯えた仲のいい幼い兄妹は、もうどこにもいなかった。

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