.sei(セイ)
9 件の小説登竜門
「この門を通るものは正気のまま狂わねばならない」 黒いスーツを着た2人の男が交互に叫んでいる。 右の門柱の前には、大きな眼鏡をかけた痩せた男。カマキリを彷彿とさせる風貌だが、猫背だ。 左の門柱のの前には魚顔の小太りの男が胸を張って偉そうに立っている。 「この門を通るものは正気のまま狂わねばならない」 魚顔の男が叫び、続いてカマキリ似の男が叫ぶ。 —— 彼を追い越して、無数の鯉が門を通っていった。 彼も流れに身を任せて門を通った。周囲の鯉が瞳孔を広げピチピチと跳ねる中、彼は戸惑うことしかできず、他の鯉の尾鰭に弾かれ傷つくばかりだった。 今から思えば、彼がまだニンゲンであることに気がついたのは、ウサ耳のカチューシャをつけた垂れ目の男と、ガマガエルのお面をつけたピンクのスーツの女だった。 彼が龍になれないことを知るのはずっと後のこと。傷だらけの体で打ち上げられた場所は木漏れ日の差す森の中だった。傷が治るのを待つ間、鳥の声を聞き、花が咲くのを見た。頬を撫でる風が心地いいことを知った。彼は初めて、世界を愛おしいと思った。 川の中では変わらずたくさんの鯉が滝を目指して泳いでいる。彼は川面に映る自分の姿を見て、自分が鯉ではないことを知った。天を行くあの荘厳な龍にはなれない事実を突きつけられ、絶望した。あの青空の中を泳ぐことはできないのだと。 —— 彼は川に背を向け、森の奥を目指して歩き始めた。慣れない歩行に何度も転んだ。それでも歩みを止めることはなく、愛する世界の全てを感じようと一歩、また一歩と踏み出した。 彼は今日も歩き続けている。彼の愛する世界を。
3.青年の話
濁った深夜に降り積もる雪によく似た孤独と寂寥。彼や彼女との瑞々しい記憶の上にも降り積り、呼吸を奪って思い出に変えてしまう。 一説によればこの孤独と寂寥は、満月から新月にかけて少しずつ削られる月であるという。 ——— これはかつて月を削る仕事をしていたという青年から聞いた話だ。削った月の欠片をランタンに詰めていたそうだ。 後に彼は、恋をすることでその辛く悲しい仕事をやめることができたのだと、嬉しそうに語った。
2.少年の独り言
「ねえ月、お願いだから僕も連れて行ってよ」 僕はもうこんな所にはいたくないんだ。消えてしまいたい。溶けてしまいたい。真っ赤に燃える朝焼けに、夕焼けに、焼かれてしまいたいんだ。 いくら泣き叫んだって、ランタンの中の月はもう答えてはくれなかった。 ——— 少年の涙の最後の一滴が夜明けの空に消えていく。 悪夢は終わったのだ。月へ帰って行ったのだ。
1.少年の涙
「今晩もかい?」 「ええ、そうです」 僕の仕事は、満月から毎晩、少しずつ月を削ることだ。まだ光を放つ月の欠片をランタンに詰めていく。 「今晩は、このくらいでしょう」 「明日も来るのかい?」 「ええ、まあ」 「それは楽しみだ。独りよりはずっといい」 −−−−−− 「ねえ、月。今晩が最後だね」 空っぽのランタンの持ち手を握り締めながら、痩せ細った月に話しかける。 「そうだね。またしばらく会えなくなってしまうね」 月を削る手が震える。哀しい孤独な月の欠片がランタンを満たして行く。空に浮かぶ最期になった時、月が言った。 「また会えるさ、友達。それまでゆっくりお休み」 −−−−−− 淡く光るランタンを抱えて眠る少年の涙は紺色の空に今も輝いている。
遡上する嘘
月を源流とする川のほとりで男が釣りをしている。男はつばの広い帽子をかぶり、異様に長い竿の先を見つめていた。タバコを咥えているようで、細い煙が上がっている。辺りは夜明け前か夕暮れ時のように薄暗く、タバコの先が蛍のように明滅する。 川はぼんやりとした光を放っていた。タバコの煙が僅かに揺れた。男が引いた竿の先で小さな嘘が翻る。男はさらに竿を持ち上げ、嘘を掴んだ。針から外し、足元のバケツに放り込む。男の顔は、帽子のつばのせいでよく見えない。 ✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎ 夜になると嘘は月を源流とする川を遡って月へと還って行く。ビルを越え、電波塔を越え、山を越え、雲を越え。月に辿り着いた嘘は、何度か口を開け閉めして静かに瞼を下ろした。嘘は息絶え、その指先から石化していく。真っ白になったいくつもの嘘が月面に降り注いだ。まるで雪のように。羽根のように。 ✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎ 嘘を釣り上げた男は、嘘の腹を死んだ星でできたナイフで裂き、幾つかの感情を取り出した。丁寧に選り分けてひとつずつガラスの瓶に詰めていく。 感情のない男は今夜も嘘を裂き続け、感情を集め続けている。 心を思い出すために。
それは安いのか高いのか
取り付けられたルーペを使って水槽を覗くと、濁りは無数の小さな点の集まりだった。ルーペを追加してさらに拡大すると、ひとつひとつが小さく動いているのが分かった。ふたつが並んでくるくると回っていたり、ひとつを中心にたくさんの点が回っていたり。眺めていると点の大きさはまばらで、赤や白、黄色、青など色の違いがあるもわかる。これは確かにいつまでも眺めていたい、と思った。 「良いだろ、それ」 勝ち誇ったように友人が言った。 ••••••• こいつは変なものを集めるのが趣味の変なやつだ。壊れた傘や道端の小石に始まり、この間は粗大ゴミとして捨てられていた電子レンジをも持ち帰っていた。そんな奴に「面白いものがある」と誘われてのこのこやってきた俺だ。机の横のゴミの山が動かされて真新しいスチール製の棚が置かれ、横幅100cmほどの水槽が鎮座していた。液体が入っていることだけはわかるが、生き物が入っているようには見えない。友人はニヤニヤ笑いながら「まあ、見てみろよ」と取り付けたルーペを覗くように俺に勧めてきた。 •••••• 「こんなもん、どこで拾ったんだよ」 ルーペから顔を離して俺が尋ねると、友人は勝ち誇った顔から一変して口をへの字に曲げた。 「拾えるわけないだろ、こんな貴重なもん。これはちゃんと買ったんだ」 珍しい事もあるもんだと思った。ゴミばっかり拾うもんだから金がかない奴なんだとばかり思っていた。 「それで、これはなんなんだ?プランクトンか何かか?」 への字に曲がった口角が再び持ち上がり、気持ち悪い顔で詰め寄ってきた。 「聞きたい?聞きたいよね!綺麗だよねぇ!そうだよねぇ!見惚れちゃってたもんねぇ!」 ウザさの極みである。 「ああ、聞きたいよ。これはなんだ」 友人は姿勢を正し「えー、コホン」などと勿体ぶっている。早く言え、と催促すると、またニヤリと笑った。 「銀河だよ。それね、70万」
染め物屋『涙』店主の実験手帖
悲しい涙に生成りの布の切れ端を浸すと、それは美しい夜の闇の色に染まった。後は乾くのを待つだけだが、悲しい涙はすぐには乾かない。少しでも早く乾かそうと、太陽の下で風に当てようものなら瞬く間に散り散りになって霧散してしまった。日陰でも同じ。夜風に当てても夜の中に溶けて消えてしまった。 布を上手く乾かすには、ジャムの空き瓶を使うのが良い。しっかりと蓋をして布を入れて月の光がしっかりと当たるように瓶を逆さまにしておく。すると、たった一晩で、すっかり乾いてしまっている。
好きな子には笑っててほしい
雲の上のベンチに腰掛けた少女が足元の雲を蹴り上げる。ちぎれた雲が少女の裸足の爪先にまとわりつく。それが足元の厚い雲に戻っていくのを恨めしげに睨みつけている。そしてまた、同じように雲を蹴り上げる。 「あーあ、つまんない。曇りの日って、つまんない!」 ばふん、と両足を下ろすと、雲が少し舞い上がり、また足元の雲に戻っていく。 ••••••• 雲の上の「ここ」では明るい月が常に頭上に浮かぶ。時折、流星雨が降ることもあるけれど、水や氷が落ちてくることはない。ただし足元の雲が厚くなったり、薄くなったりする。少女は雲の隙間から地上を眺めるのが好きだが、こう雲が厚いときは地上が見えないので唇を突き出しながらぷりぷり怒って、雲を爪先で蹴り上げている。この日も何千回目かの「つまんない」を呟きながら爪先で雲を弄んでいた。すると、ひゅ、と音がしたかと思うと、ぽこん、と少女の頭に何か当たった。 「いだっ!」 思わず両手で頭を押さえて辺りを見回す。当然、人影はない。見事命中したそれは、ベンチから少し離れたところで転がるのをやめた。追いかけて拾い上げると、キラキラと輝く、灰色の、星のかけらだった。飛んできた方を見上げる。はっと少女は気がついた。 「今日は流星雨の日だ!」 少女はまたベンチに座って、宇宙を眺めた。さっきまでのむくれた顔はどこへやら。にこにこ笑って、流星が尾を引くたびに指を差して声を上げている。 少女は気がつかない。月に腰掛けて、つまらなさそうに頬杖を突く少年の口角が、少女の方を見て上がるのを。
井戸の底の透明な朝について
夜の帳を洗うために、井戸の底から朝を汲み上げる。清々しく透明な朝が釣瓶の中でちゃぽんちゃぽんと揺れながら、滑車の向こう側を上ってくる。盥にあけると辺りの地面にも飛び散って、朝もやが立ち昇る。 帳を盥に浸けて昨日を洗い流していく。はじめのうちの朝はすぐに濁ってしまうけど、何度も新しい朝に取り換えるうちに朝が透明なままになってくる。帳を浸けても朝が透明なままになったら、夜の帳の洗濯はお終いだ。あとは絞って干すだけである。 帳を洗ったことで昨日で汚れた朝は、世界の果ての川に流れ着く。混じった昨日を川底に棲む魚たちが食べて、消化され、思い出となって川底へと降り積もる。 そうして透明になった朝は、再び井戸の底に戻ってくるという話だ。