傘と長靴
91 件の小説鳴らした音の行く先は 5-10
第五章十話 番外編 対等に 本を読んでいたら、颯が誰かの手を引っ張って来た。時雨もいる。 颯は興奮した様子で言った。 「こいつ時雨の友達で、今日から俺達の仲間!」 そっか。また颯は仲間を見つけたんだ。颯の行動力は底しれない。 「こんにちは。月島叶衣です。よろしくね」 彼はなんだか意外そうな顔をした。 「俺は暁山湊です。すみません。なんだか、時雨も颯も強引だから意外で」 そういうことか。私は頬を緩める。 「そうだよね。ふたりとも結構強引なとこがあるから。でも、だから良いよね」 「そうですね。確かにそうじゃないと俺は今もずっと一人だったと思う」 きっと湊は、二人の明るさに救われたのだ。 私たちの会話を颯と時雨はなんだか嬉しそうに聞いている。 やっぱり二人はいい人だ。 「そのなかに私も入りたいんだけどいいかな」 やっぱり手を伸ばしたい。二人と仲が良いならなおさら。 「もちろん。俺、ここに来て対等に会話したの叶衣が初めてだから」 そういった湊と一緒に笑う。ふたりともどんな強引な手を使ったのだろう。 「じゃあ、よろしくね。でも、時雨曰く、私も結構強引らしいよ」 そう、あの時から何度も言われた。結構強引だったと。 「えっ、それなら、俺も叶衣には強引に行こうかな」 嬉しいことを言ってくれる。 だが、その言葉に颯と時雨は黙っていなかった。 「なんで?俺には強引にこないの?叶衣ずるっ」 「僕にももっと強引に来ていいのに。なんで叶衣?」 湊は質問攻めにされ、私に助けを求めてくる。 ああ、きっと湊ともうまくやっていける。 私だけ仲間外れなんて悲しい。 もう、そう思ってしまうほどに誰かを愛する気持ちが生まれてきてるのだから仕方がない。
鳴らした音の行く先は 5-9
第五章九話 番外編 温かさと 颯に話してほしい人がいると言われて、あの部屋に向かった。私が颯と初めてオセロをした場所。中にはもう人がいた。 「こんにちは。えっと…月島叶衣です」 「天宮時雨です。今日はよろしく」 自己紹介だけでなんとなく感じた。ああ、少し私に似ている。 だから、颯は彼と話してほしかったのだろう。 「天宮さん。今日はありがとう。私と話す気になってくれて」 「時雨でいいよ。別に叶衣が僕と話したいと思ったわけじゃないでしょ」 ああ、時雨は優しい人だ。初対面の私を気にかけてくれる。 「でも、今少し話してみて、もっと話したいって思ったよ」 そう微笑む。 「じゃあ、聞くけど、もし僕が叶衣と話したくないって言ったら、どうするの?」 「それでも、私は話したい。もし嫌なら私は聞いてもらえなくても話しかけるよ」 そう、私は時雨と話したい。颯と一緒にいて、変わってきている。 私は手を伸ばしたい。 時雨は微笑んだようだった。 「叶衣は颯に少し似てるね」 そんなこと初めて言われた。嬉しいけど、颯に申し訳ない気持ちになる。 「颯は本当に暖かい日差しみたいだよね」 話をそらす。きっと時雨もそれに気づいている。 「僕からしたら暑苦しい太陽」 そう言って、苦い顔をした時雨に笑ってしまった。 「たまにそういうところもあるよね」 「たまにというかいつも」 きっと颯は人によって接し方を変えている。それが相手に一番いい接し方になるように。 時雨は距離を置きたがっているように感じる。だから、あえて暑苦しく接しているのだろう。 「時雨は私が話しかけても、聞いてくれる?」 やっぱりもっと話していたい。 手を伸ばしたい。 「きっと叶衣も、僕が聞いてなくても話し続けるんだろう」 よく分かってる。もうここまで来たなら戻れない。戻りたくない。 「もちろん!」 ちょっと素直じゃないところも、相手のことを想える優しいところも、全部…、全部に触れていたい。 「颯に感謝しなくちゃなあ。こんなに素敵な出会いをさせてくれたんだもん!一緒に感謝しに行こう!」 「えっ…ちょっ…わかったから引っ張るなって!」 それでも、この手は離さない。まだ、心を開いてもらえなくても、ずっと手を伸ばし続けよう。
鳴らした音の行く先は 5-8
第五章七話 番外編 心地良さ 施設は気が楽だった。誰かと会話をすることはほとんどなく、自分の好きなように過ごせる。 彼とは施設で出会った。 その日は、本を読んでいた。名前は忘れたが、分厚くて、重たい本。 そんなとき、声をかけてきてくれたのが颯だ。 「それ面白い?」 「どうだろう。あまりわからない」 「だよなー。だったらあっちで俺とゲームしない?」 私に話しかけてきた人は彼が初めてだった。断る理由もなく、彼について行った。 今思えば、彼はつまらなかったのだと思う。代わり映えのない日常に。 彼とはオセロをした。やり方がわからない私に丁寧に説明してくれた。 「まじかー。君本当に初めて?悔しいーっ」 私はオセロで勝つことができた。とは言っても彼がところどころで「ここにおいたほうがいいよ」とアドバイスしてくれたからだ。 「今日はもうおしまいっ。また、明日ね」 私は頷いたが、期待はしていなかった。これは社交辞令というやつだろう。 だから、次の日にまた話しかけてきたのには驚いた。 「今日は俺の趣味に付き合ってもらおう!」 しかも、趣味と言ってギターを二本持ってきた。 「俺と一緒に弾こう!また教えるからさ」 不思議で仕方なかった。私といるのはきっと楽しくないのに。 「そういえば名前言ってなかったな。俺は一ノ瀬颯。颯ってよんで!君は?」 「なんで?」 つい、声に出してしまう。 「ん?」 「どうして、私に話しかけるの?」 「もしかして、嫌だった?」 「いや、そういうわけじゃなくて。私といても楽しいわけじゃないでしょ?」 止まらない。嫌じゃなかったことに気づいてしまった。早く引き返さないと、虚しくなるだけだ。 「勝手に決めつけないでほしいなー。楽しくないと話さないよ。正直昨日声かけたのは気まぐれだけど。こんなに俺と会話してくれる人いないから嬉しい!」 満面の笑みで返されると馬鹿らしくなってくる。 「だから、今日も明日も明後日も、毎日話しかけるよ!」 ああ、もう、得ることはないと思っていたのに。私も手を伸ばすのをやめられない。 「私は月島叶衣。趣味は特にないけど。でも、こうやって颯話すのは嫌じゃない」 嫌なんかじゃない。むしろ、楽しんでいる自分がいる。 「そっか。じゃっ、叶衣。これからよろしく」 ああ、誰かの笑顔はこんなにも嬉しいんだ。それが自分に向けられているのならなおさら。 「うん。よろしく。颯」 そう言い、微笑んだ。笑ったのなんていつぶりだろう。 私は、もう元には戻れない。
鳴らした音の行く先は 5-7
第五章七話 静かな涙のリズム あれから数日経った。 あの後、みんな黙ったまま自分の部屋に戻った。 あれからみんなとうまく話せない。 表面上はいつもと同じだが、どこかぎこちない。 私があの時間を壊してしまった。 これから、どうしよう。 私は今お母さんのお墓の前に来ている。 あの犬のぬいぐるみを持って。 ぬいぐるみをお墓に添える。 そのまま目を瞑る。 これから、私がすべきことは… その日の夜。 私は、家を出た。向かうべきところは決まっている。 今日はあまり人がいない。 目を瞑ってみんなを待つ。 きっと来てくれる。 それからどのくらいが経ったのだろうか。 あたりは暗く、肌寒い風が吹き付ける。 「「「叶衣!」」」 ああ、やっぱり来てくれた。 目を開ける。暗闇にいた私にとってこの夜は眩しかった。 しばらくみんなと向き合う。 ゆっくり深呼吸をする。 ずっと考えていたこと。 「好きって言ったら困るかな?」 私から急に飛び出した一言にみんな驚いたようだった。 私は誰にも愛されてこなかった。誰のことも愛することができなかった。 でも、… 私はもう抗うことに疲れた。 どうしても泣くことができなかった。 悲しむことができなかった。 それはきっと、 「ずっと怖かったんだ…。みんなに必要ないって言われるかもって」 愛でも呪いでもどっちでも良かった。 壊してしまったのなら、私は… どうせなら、みんなに見守られて… 「もう忘れて」 そう言って、海の方へ向かう。 辛かった。みんなにあんな顔をさせてしまったことが。 それなら、もういっそのこと… 「何勝手に決めてんだよ!」 体を強く引き寄せられる。 「勝手にいなくなるなよ」 颯が怒っている。やっぱり、苦しい。 「なんで…なんで…っ…」 そう声に出したが、なぜだかうまく言葉にできない。 唇を強く噛む。 あと少しだったのに… 「ああ、ようやく泣いたな…」 そう言った颯の顔が微笑とともに歪んでいる。 私が…泣いてる…? そう思った瞬間、目から涙がこぼれ落ちる。 「な…なんで…?…止まらない…」 「もういいよ。我慢しなくて」 「気づいてあげられなくてごめん。」 時雨と湊がやさしく包みこんでくれる。 「…うっ…っ……」 もう声も出せなかった。 颯はなにも言わずにただ、ずっとそばにいてくれた。 ただ、言葉もかわさず、一緒にいる時間が紛れもなく温かかった。 もうあたりは明るくなってきていた。私たちは歩いて家に向かう。言葉をひとつもかわさずに。 ときどきどうしようもなく涙がこぼれてきて、そのたびに我慢しそうになる。 でも、もう止まらない。 手を伸ばしてしまったのだ。みんなと生きることを選んでしまったのだ。 そうやって、私はこれからも生きていく。 「「「おかえり」」」 みんながやさしく、言ってくれる。 「ただいま」 私も精一杯の気持ちを込めて答える。 きっと、みんなはこれからもただ私に泣け、と言うんだ。 私には涙の感情がなかった。 でも、もう出してしまったから、きっともう、ごまかせない。 感情を失ってから、こうやって取り戻すことができてきている。 いつか、みんなと共感できるように。 みんなと感情を隠さずぶつかりあえるように。 私はもう、みんなと離れられない。
鍵
大事なものは鍵をつけずに 価値あるものに鍵をつける ほしいものには鍵をつけずに いらないものには鍵をつける 鍵の中には価値があふれて 鍵の外には夢があふれる いつしか鍵の重さに耐えられなくて そのままうたれてしまうだろう
鳴らした音の行く先は 5-6
第五章六話 失った悲しみ 私は犬のぬいぐるみを持って、三人と向き合っている。 「私ね、両親と会ったんだ。両親は私と会いたくなかったと思うけど。それで、私のことは必要ないって言われた。でもね、全く悲しくなかったんだ。両親が失踪する前日の夜に感じた感情さえ、もう残っていなかった」 言っていて、悲しくなる。やっぱり私は… 「このぬいぐるみはね。私の本当のお母さんのなんだ。でも、怖くて仕方がない。気づいちゃったんだ。あの夜に。このぬいぐるみの中身はきっと」 そう言ってぬいぐるみの背中を割く。 ああ、やっぱり。 そこには白い綿は入っていない。黒い細い糸のようなもの。 「これは私の本当のお母さんの髪の毛だと思う」 そう言って、ぬいぐるみを置いた。 「私の本当のお母さんは私を産んで死んでしまった。でも、最期にこのぬいぐるみを作ったんだって。それで自分の髪の毛を詰めた。いつまでも自分がそばにいれるようにって」 これはお母さん、お父さんどちらも言っていた。 だからこのぬいぐるみはお母さんなのだ。お母さんは愚かだし、理解されない。 「これは愛されていたからなのかな。それとも呪いなのかな」 そう口にした声がどうしようもなく震えていた。 私は‥どっちだったら良かったのだろう。 どっちだとしてもきっと何も変わらない。 ただ、虚しいだけ。 気づくと颯に抱きしめられていた。 「なんで、…なんで、…」 そう言ってより一層強く抱きしめてくる。 「なんで、…こういうときに泣けよ、こういうときは泣いていいのに…」 なぜだか颯が泣いている。時雨と湊もこっちを見て眉を下げている。 「なんで?なんで、みんな泣いてるの?」 本当に理解できなかった。誰かのためにこうやって涙を流す気持ちを理解できない。 「なんでって…なんでだよ。こっちのセリフだよ!」 颯が怒っている姿を初めて見た。 「なんで、…なんで泣かないんだよ。こういうときこそ泣けよ…。我慢なんてすんなよ。なんのために俺らにこの話をしたんだよ。素直に感情を吐き出せよ。無意識かもしれないけど、背負い込み過ぎなんだよ。…忘れんなよ。俺たちがいるだろ」 なんのために…?本当になんで…この話をどうして話そうと思ったのだろう? 「ただ…私はみんなに心配かけちゃって、だから、それに答えないとって」 「そんなのどうでもいい!いいから…頼む…そんな顔で話すなよ」 今、私どんな顔してるんだろう?余程ひどい顔をしているのだろうか。 言葉の意味が理解できずにいると、 「頼むから…今は‥そんな顔で笑うなよ」 そう言われて気づく。あれ、なんだか、どうしても微笑が止まらない。 心からの笑顔ではない。でも、なんだか温かくてこそばゆい。 「みんな、ありがとね。でも、どうしても涙が出ないんだ。悲しくないの。辛くもないし、苦しくもない。だから、大丈夫だよ」 小さな聞こえないような声で謝った。 「…ごめんなさい」 颯が声を抑え込むようにして、泣いている。 時雨は顔を苦しそうに歪めて、俯いている。 湊はぬいぐるみを見つめ、唇を噛んでいる。 ああ、私は間違えてしまったんだな。そこで気づく。 だから、必要とされないんだ。 もう手を伸ばしてしまったのに。もう戻れないのに。 ここにいるのがなぜだか今は辛い。 そう思うくせにどうしても涙は出てこなかった。
鳴らした音の行く先は 5-5
第五章五話 フォルト 「ただいまー」 「おかえりー」 湊が応答してくれた。 「あれ?颯と時雨は?」 「二人は夕食の買い物」 「そっか。今日の夕飯何かな?」 そのとき、湊の顔がふっと変わった。 「叶衣。ちょっと話そう」 驚いた。湊がこんな顔をするなんて。それに、こんなに強引な感じは初めてだ。 「うん。いいよ」 微笑んで答えた。 湊は紅茶を入れてくれた。 「僕は、正直叶衣が話してくれるのを待とうと思ってた。でもさ、教えてくれたのは叶衣たちなんだよね。多少の強引さは必要だって。これはあまり踏み込むべきことはないと思う。でも、叶衣は最近なんだか体調が悪そうだから放っておけない」 その言葉にハッとする。 「そんなに体調が悪そうに見えるかな?」 「うん。きっと颯も時雨も気づいてるよ。なによりあの海に行って帰る時、叶衣の様子がおかしかったもん」 やっぱりおかしかったのだろうか。みんなに気を使わせてしまった。そのことに罪悪感を覚える。 「みんなに迷惑かけたよね」 「ううん、そんなことないよ。でも、心配はみんなしてた」 「そっか」 申し訳ない。それに、そのことにも気が付かなかった。いつもなら気づくはずなのに。思ったより、注意力が散漫になっていたようだ。 「ねえ、聞いてもいいかな?」 「うん。もちろん」 「あのさ、湊は…翔くんと話してどうだった?」 湊はこの家の中で唯一、家族とのつながりがある。だから、聞いておきたかった。 「僕は、話してよかったと思ってる。だって、また翔と話せるようになったし、何よりずっとそれを望んでたから。それにさ、こうやって今、素で話せるんだよ。『俺』という仮面を被らなくて良くなった。それが一番の変化かも」 「そうだよね」 湊は翔くんと話すことで救われたんだ。確実に一歩進んでいる。 それに比べて、私は? 「私ね、両親と会って話したんだ。話したんだけど、何も感じなかった。必要なことだと思ってた。でも、何も変わらないし、必要があったと感じない。私ってこんなに欠陥人間なのかな?」 そうだ。私はあの日、お母さんと話しても何も感じなかった。薄々感じていた。私はこんなに感情に欠陥があっただろうか。 「僕は叶衣の感じたことを理解はできない。でも、寄り添うことができる。話したいことがあるなら全部話していいよ。叶衣はこうやって悩んでいる時点で欠陥人間なんかじゃないから」 その言葉に心が温かくなる。そうだよ。私にはちゃんと仲間がいる。 「うん。ありがとう」 あれから少しして、颯と時雨が買い物から帰ってきた。 夕食の準備を手伝い、一緒に夕食を食べる。今日はシチューだった。 「あのさ、話したいことがあるんだけど、ご飯食べ終わったら時間空いてる?」 言葉を振り絞る。こんなに言葉にするのは大変だっただろうか。 「もちろんいいよ」 颯が優しく答えてくれた。湊と時雨も頷いてくれる。 そうだ。みんな待っててくれたんだ。心配もしてくれた。 今度は私が話す番だ。
ショッピングモール
今日は久しぶりに同級生とのショッピングだ。ショッピングと言えば聞こえはいいが、実際はただの買い物だ。それでも、ずっと楽しみにしてきた。こんな機会めったにないから。 待ち合わせ場所の時計の下にスマホをいじっている同級生がいる。いや、同級生なんてものではない。もっと深い関係。そう。親友だ。僕のたった一人の親友。近くに歩みを進めると、彼は顔を上げた。そして、顔に笑顔を浮かべる。 「おはよ!」 僕が元気よく言うと彼も同じように返してくれた。これが、僕の親友。キナリ君だ。 「じゃあ、行く?」 そう言い、一緒に歩き出した。 お決まりの「待った?」「待ってない」のキャッチボールを交わしながら、ただただ歩いた。 大きなショッピングモールにつくと、僕は興奮が止まらなかった。それは、彼も同じようで、目をきらきらと輝かせている。 きっと、この年代は、カラオケとかゲームセンターによく行くのだろう。もちろん、ショッピングセンターにも行くのだろうが、そこまでメジャーではない気がする。もし行っている人がいるなら申し訳ないけど。 ただ買い物をするだけでも、親友と一緒なのだ。すべてが新鮮で、すべてが楽しい。 待ち合わせして、移動。これだけでもう、時間も時間なので、フードコートで昼食をとることにした。 僕は餃子丼を、キナリ君はチーズバーガーを食べた。 「マサヤ君の食べるものって変わってるよね」 その言葉に、僕の頭上に、はてなマークが浮かぶ。 「そうかな?」 「うん、だって餃子丼とか食べたことないもん。この間なんか、学校でクリームパンにハンバーグ挟んで食べてたし」 「えー。ハンバークリームパンおいしいよ。餃子丼もおいしいし。食べる?」 「いや、やめとく」 僕は、人との食の好みが絶対的に合わない。それでも、なんだかんだやってけるのだから問題はない。まあ、面白いほど周りの人に引かれるが。 「おれ、ちょっと飲み物買ってくるね」 そう言い、キナリ君は席を立った。そろそろ買い物に向かってもいい時間帯だろう。僕は、自分の荷物をまとめ始めた。 キナリ君が飲み物を買いに行ってからもうずいぶん経ったように思う。僕は、荷物を持って席を立った。 席を立って少し歩くと、キナリ君がいた。なんだか様子がおかしい気がする。僕は声をかけた。 「キナリ君、どうしたの?」 「あっ、マサヤ君。人にぶつかって、こぼしちゃって」 確かに、キナリ君の服は濡れている気がする。僕はキナリ君の手を取り、洋服売り場へと向かった。 僕のファッションセンスもキナリ君のファッションセンスも抜群とは言い難い。それでも、一緒に洋服を買うのは、楽しかった。 無事にキナリ君の服も確保でき、そのあともいろんなお店を回って、久しぶりのお出かけを本当に楽しむことができた。 別れ際に「楽しかったね」とか「また行こうね」とかいうありふれた会話を交わし、背を向けた。 果たしてまた一緒に出かける機会があるのかどうかわからないが、それでも良いと感じられるこの安心感にずっと浸っていたかった。
はい、チーズ
「はい、チーズ」 その声に、顔をくしゃっと歪める。 何日も何日も鏡の前で笑顔を練習した。本当に楽しんでいるとわかるように。 私の父は、実際に写真撮影のあと、チーズをくれる。父いわく、「はい、チーズ」というのだから、あげないと気がすまない、だそうだ。 何それ、と思うが口にはしない。だって、本当に嬉しそうな顔で笑うから。 それに写真を撮るたびにチーズをくれるというのは面白い。 父は変わっていると呼ばれる人なのだろう。でも、それはきっと写真とチーズに関するときだけだ。それ以外は、いたって普通。笑うと目尻にしわのできるただの会社員だ。 一度、父に撮っている写真を見せてもらった。父の撮る写真はうまいのかもしれないが、私にはよくわからなかった。 父は、そのとき言ったのだ。チーズを渡すと、相手は笑顔になるから。その写真を撮るのが好きなんだ。 「はい、チーズ」 それは、ただの前座なのだ。私の作り出した笑顔じゃなくて、自然とこぼれた笑顔の思い出を父はためてくれていたのだ。 私の作り笑顔の写真も父はとっておいてくれた。 すべてが思い出だ。父と、写真と、チーズと、そして、私の成長の。
鳴らした音の行く先は 5-4
第五章四話 抜け出したくて ホテルのラウンジでお父さんと向き合っている。 今日は出張で近くまで来ていたから、話すならそこだと言われた。 「今日はお時間を取っていただき、ありがとうございます」 コーヒーをすすって、こちらを見てくる。 「私の本当のお母さんについて教えてください」 私がそう言うと、お父さんは怪訝そうな顔をした。 「それを聞いてどうするのかね。知ったところで得るものはないだろうに」 釘を刺される。聞くなということだろう。でも、そんなわけにもいかない。 「得るものはないかも知れません。でも、知らないままよりはずっと良いと思います」 何のために知りたいかどうかはわからない。別に知らなくたって生きていける。 でも、あの夜を抜け出したかった。 お父さんは溜め息一つつくと、ポツポツと話し始めた。 「まず、お前の母さんはもう死んでいる。お前を出産した後、体調を崩してな」 もう、死んでいる。それはなんとなく感じてた。 「お前はあの夜の出来事を知っているのだろうが、俺はその後、再婚してな。で、その相手がお前の母さんだ。あいつはお前を望んでいなかった。それに、俺もお前を望んでいなかった。だから、俺もあいつもお前を捨てて、家を出た。…そんなやつとよく会おうと思ったな」 「私はずっと疑問だったんです。どうして必要としていない子の面倒なんか見ているのか。あの夜私は好かれていないのだと実感しました。なのになんでそこまでして育てていたのか。あのときはまだ信じていました。両親が私のことを必要としているからこそ、育てようとしているのだと。でも、それも違うことが分かって。それなら、なんで、無理してまで育ててたのか知りたいと思ってしまいました。無駄なことかもしれない。でも、必要なことなんです」 そう。知りたかった。みんなの温かさに触れて、知りたいと思ってしまった。 「…本当は男を望んでいたんだ。将来、俺の会社を継いでもらうために。全く理解できなかった。お前の母さんは喜んだんだ。でも、すぐに死んでしまったからな。再婚したお前の母さんはお前の存在が邪魔で仕方がなかったんだろう。もう、お前は必要ないんだ」 その言葉で頭が重くなる。でも、今更気遣ってもらうよりは全然良かった。 「はい。知ってます。今日は私のわがままを通していただきありがとうございました」 「ああ」 「では、失礼します」 そう言い、ホテルを後にした。