洞田浮遊(うろたうゆ)
7 件の小説タイ•ボックス
朝七時、音のない声に呼ばれた気がして冴木は目が覚めた。夢は見ていなかったと思う。ベッドのすぐ横、掃き出し窓のカーテンの隙間から朝の光が漏れ出ていたので、今日は良い日になると確信した。そして「行きつけのマクドナルドでソーセージマフィンのセットを注文しよう」と決意した。その決意は出かける準備をしている間も無事に継続し、八時二十三分に家を出て、マクドナルドには八時三十分に着いた。全てが完璧だ。良い一日は良い朝食から始まる、みたいな使い古された一節を言いたくなった。 冴木はマクドナルドではモバイルオーダーで注文する。モバイルオーダーは素晴らしいサービスだ。「店内で、ソーセージマフィンのセット、ハッシュドポテトとホットコーヒーでお願いします」と言わなくても店員が席に食事を運んできてくれる。普通に注文しても機械的なやり取りをするのだから、より機械的でシステマチックで効率的なモバイルオーダーの方が好きだ。 いや、こんなものは方便で、人と話したくないのが本音だ。自分に嘘をつき、自分で図星をついてしまった。こんなに不毛な思考が巡るほど、今日の冴木は冴えていた。 「さて、席を探そう」と冴木は人の気配が少ない席を探した。しかしあいにくそんな席はこの大東京のマクドナルドにはなかった。東京都民はみな良い朝をマクドナルドで迎えたいのだ。 仕方がないので目に留まった席に座ることにした。右隣は誰かが雑にスーツジャケットを置いて席を占領していた。 右隣を占領している客はジャケットに皺が入ることを考えていないのだろうか。それとも皺など気にしない豪傑な人物なのだろうか。また不毛な思考を巡らせていると、店員が私のソーセージマフィンのセットを持ってきた。店員は持ってきた商品を確認してからそそくさと去っていった。やはりモバイルオーダーは素晴らしい。 焼きたてのハッシュドポテトを食べていると、右の隣人が姿を現した。初老の男性で、背は高かった。隣人を気にせずソーセージマフィンに手をつけようとした時、右隣の男性が声をかけてきた。 「ネクタイ……知ってますか?」 「すみません、なんですか?」 「ネクタイの結び方知ってますか?結び方忘れちゃって」 「ええ、まあ知ってますけど……」 「よければ結んでくれませんか?」 意味がわからなかった。 この人はなぜマクドナルドで赤の他人にネクタイを結ぶように頼んだのだろう。彼は髭を綺麗に整えてあったし、いつの間にか着ていたジャケットは皺がついていたが上等そうだった。「まあでも、困ってるなら助けるか」と冴木は思った。 「いいですよ、まずは襟を立ててネクタイを通しますね」 男性は何も言わなかったが、冴木は男性の方を向き、襟を立ててネクタイをねじれがないように丁寧に通した。 冴木自身ネクタイを結ぶのは久しぶりだったが、美しいディンプルを作り出し、小剣と大剣を適切な長さに揃えた。 「これでどうでしょう」 「ありがとう、完璧だ」男性は笑顔で言った。 冴木はにこやかに頷いて自分の席に向き直し、ソーセージマフィンを一口食べた。 そのソーセージマフィンは人助けした後の味ではなかった。 マフィンが口の中にまとわりつき、焦ってコーヒーを飲んだ。熱さで上顎の歯茎を火傷した。 冴木がソーセージマフィンを食べ終わる頃、男性が立ち上がった。 そして冴木の前に立ち、何かを渡した。 それは黒い箱だった。それはなぜか男性の皺がついたジャケットを想起させた。 光沢があって黒光りしているが、光の当たり方によってはくすんだグレーにも見える。 「これは何ですか?」冴木は言った。 「箱だよ。君が持つべき箱」 「なぜ僕に箱を渡すんですか?」 「君が僕のネクタイを締めたからだよ。そういう決まりになってるんだ」 冴木は混乱した。気持ちの良い完璧な朝になるはずだったのに、見知らぬ男性のネクタイを締め、怪しい黒い箱を渡されている。 「とにかく君が持っておいてくれ。君もそれを誰かに渡すときが来る。それまで捨てずに持っておいてくれ。」 そう言って男性は店から出て行った。 冴木は男性が退店するのをぼうっと見ながら、マクドナルドのゴミ箱にこの怪しい箱を捨ててしまおうと考えていた。しかし、どうしてもそれは捨てられなかった。大きさは冴木の握り拳より一回り大きいくらいの箱で、どの分別用ゴミ箱にも入る大きさだ。 冴木はしばらく悩んだ末、どう分別して捨てるのかわからなかったのでしばらく持っておくことにした。 もし俺がこのままこの箱を持ち続けたら、あの男性には何かいいことがあるのだろうか。それならそれでいい。もうネクタイは結べたのだから、彼が困ることはないだろう。 黒い箱は冴木の瞳と同じ色に輝き、朝から昼に変化していく人々を照らした。
流木
それは夜の暗闇で讃えられたように燃える炎だった。海岸には私と彼女しかいない。彼女は瑠璃色のワンピースを着ていたはずなのだが、その炎のせいで今は正確な色がとらえきれない。 暗闇とは目にうつる世界の色が暗くなる現象のことだ。人々が重く苦い夢を見るほど、暗闇は濃くなっていく。 彼女は裸足になり、岸と海のちょうど境目を歩き出した。砂浜に刻んだ彼女の足跡が波によって半分だけ消える。足跡は彼女の重みを砂に刻み、波は半分だけその重みを飲み込んで帰っていく。 やがて彼女は炎から離れて行き、どこからか流れ着いた漂流物の前で立ち止まる。暗闇の中の漂流物はまるで本来の機能を失った汽車のように重くうなだれている。 彼女は漂流物を見て泣いていた。暗闇は涙の色だけを不平等に輝かせてみせる。私は彼女の足跡の一歩分だけ海の側を歩いた。波は私が彼女に向かって歩いた足跡を全て消す。 やがて朝の光がやってきて、彼女の涙はその光で蒸発した。彼女の瑠璃色のワンピースはその色を取り戻した。私はもう彼女のところにいた。 漂流物は血管のようにうねる枝を我々に向け、その美しい形を取り戻した。それは悲しみを含んだ流木だった。 私たちは流木に触れ、悲しみを吸い取るように撫でながら、その運命的な模様をひとつひとつ確認した。 流木は波の音を聞きながら、まるで眠った赤子のような無垢を見せ続けた。
若者問答
お前が簡略化された世界でしか生きていけない事実にうんざりしている。物事の原理は本来、お前が表面で捉えていることよりずっと複雑なはずだが、そこに辿り着く前にスコップで掘ったような一部分しか理解していないお前。大地はもっと根深い。マントルは知っているか?なぜそこまで辿り着こうとしない?お前は重力から解放された唯一の存在なのか? その問いに答えよう。簡略化ができない君。君は勘違いをしている。原理が複雑なのは当たり前のことだ。それを理解した上で、スコップを使い、思い思いの表面を掬い上げる。マントルに到達する必要はない。なぜならマントルに到達すると死ぬからだ。人は真理を求めて物事を深く掘り下げるが、真理を知った時、人はそれに耐えられなくなって死ぬ。だから深くまで掘り下げようとはしないのだ。 こういう構造が理解できない君。 私が重力から唯一解き放たれているのかとアイロニカルに聞いてきたね?逆だとは思わないのか?君だけが重力に囚われていて、君以外は重力を小さくしたり大きくしたりできるのだ。この世界を浮遊するように大地に根を張っているのだ。君だけが一定の重力で地球という真理に縛られているだけに過ぎないのに、それをまるで一般的なこととしているね? 君の見ている世界は狭いんだ。 体系的に物事を見る目を養いたまえ。世界は広く、そして浅いのだ。我々とは代替可能なホモ•サピエンスなのだ。若者よ、深く考えて浅い人間になりたまえ。君をすくうのは深く掘り下げるためのスコップではなく、君の世界を見る目なのだよ。若者よ、被害者ぶるな。君は全くもって恵まれていることに気づいていない。不幸を求めず、幸福になることを目指して常に歩き続けよ。
勇気と愚鈍
人と話すのが怖い。 実際には何を恐れることもないのだが、「知らない人」、もっと厳密に言うと「これから関わることになる今はまだ知らない人」と話すことが怖い。頭の中では「知らない人もそのうち既知の同僚になる」と理解できているが、心は彼らを恐れている。未知の世界は探究心や好奇心よりも恐れの方が勝る。高いところから川に飛び込むには、勇気よりも愚鈍さが肝要だ。飛び込んだ先に大岩があって頭を打つかもしれない、たまたまスッポンがいて耳に噛み付かれるかもしれない、誤って背面から飛び込んでしまって水面に首を強打するかもしれない、なんてことをいちいち考えていたら飛び込むことなどできはしない。 飛び込むことで勇気を示し、周囲の人々からの侮蔑を僅かばかり上回る尊敬を得ることにのみ注目するべきなのである。道を開くのは進んで愚鈍になった者だけだ。保身と小賢しさを持つものは、かえって軽蔑されるし自らの居どころが一向に進まない。どこにも行くことができない。愚鈍になるとは本当の意味で愚かになることではない。暗澹たる航路を進むために灯台の光を探すことであり、暗がりからいつまでも抜け出せずに幽霊船になることではない。 愚鈍さとは光を探す意志である。人と話すことはお前の生命を前に進める行為である。
オートロックの罪悪感について
夜をはじめとする暗闇は世界の色が数種類に限られて見えるだけで、そこにあるものの本質は変わらない。それでも暗闇で円やかに光る外灯は律にとって頼りがいのある希望に見える。息を吐くタイミングで右足を地面に接地し、息を吸うタイミングで左足を接地する。律は心臓のリズムで歩いている。 百メートルほどの間隔で外灯が置かれているので、百メートルごとの歩数を数えてみる。百十六歩だった。 五二三歩歩いたところでアパートに着いた。 「ただいま」誰もいないアパートの一室に律はつぶやく。もちろん誰からの返事もないが、返事があったら困るので帰ってきた事実をこの部屋に教えるのだ。半年前に上京したとき山手線にしては破格の家賃で住めるこの部屋に決めたのだが、オートロックがないタイプのアパートだった。男だからオートロックはいらないだろうという理由で多少のセキュリティの甘さは妥協をしてこの部屋に決めた。しかし「男だから」とかいう時代錯誤的な理由でここに住んでいることには、多少の罪の意識があった。今どき性自認は男や女だけではない。 律は疲れた体をベッドに投げうった。目を閉じてオートロックの罪悪感について考えてみる。「男だから大丈夫」とは一般論的に言えば問題があるのかもしれないが、個別化して自分の問題にすることには何の問題もないのではないか。性的マイノリティの人々が自分の性別を自由に自認していいように、マジョリティ側にも性別を自認する権利がある。ここでマイノリティ・マジョリティと言ったのは統計的に生物学的な性別と性自認が一致している人の方が多いからであり、他意はないことをここで述べておく。律の頭の中を誰かが覗けるわけではないが…… 律の罪の意識は眠りと共に消えていった。
松田と電車
喫茶店を後にし、松田は帰路についた。御茶ノ水から秋葉原まで、中央線や総武線の電車を横目に歩く。電車は轟々と音を立て、松田の耳を刺激する。自分の乗らない電車ほどうるさい音はない。嫌いな騒音はたくさんあるが、その中でも電車の走行音ほど耳をつんざくものはない。電車が通る高架下などは耳を切り落としたくなるほど不快だ。しかし松田はゴッホでも暴力団員でもないので、備わった身体を自ら手放すようなことはしない(できない)。 見慣れた街並みを進み、外国人で溢れる秋葉原に着いた。彼らはしばしばクレープを食べていたり、ヨドバシカメラで質の良い電化製品を物色している。様々な外国人をひとまとめに「彼ら」とするのはいささか主語が大きくて不安であり不適切かもしれないが、おおむねの印象として彼らはクレープを食べている。たしかにクレープは美味しい。グローバリズムに煽られた人種入り混じる現代日本のように、多種多様な味がある。 松田はクレープを食べずに山手線の電車に乗った。 松田が乗るのは山手線の秋葉原駅から内回り。下車するのは駒込で、途中に七駅ある。数ページは読めると思い松田は読みかけの本を開いた。 午前十二時より少し前の時間帯だったから、乗客数は健全な人数だった。田舎育ちの松田としては幸運だ。 しばらく本を眺めたが、なんとなく集中できなかったので車内を見渡すと、サラリーマンや何の仕事をしているかわからない人々がみなそれぞれのスマホを見ていた。彼らのスマホではアルゴリズムによってつくられた別々の世界が広がっていて、電車という乗り物が彼らの目的地に連れて行ってくれるという現実はどうでもよさそうだった。彼らはどこに行きたいのだろう。 日暮里に停まるとたくさんの人が降りた。自分が一度降りて降車する人々が出やすいようにしたかったのだが、自分の背中側からもその反対からも降車客が通り抜けようとしたので身動きがとれず、本を持ったまま両手を上げるしかなかった。松田はブックカバーをしない主義なので、「私はこの本を読んでいます!」と大っぴらに本のタイトルと「私は読書家である」というような主張をしているみたいになってしまった。しかし誰も松田のことは見ていなかった。 日暮里で降りた人々と同じくらいの人が乗車してきた。電車は先ほどよりも健全性を失った人数になったが、それでも進み、時に大きく揺れ、吊り革がないところに追いやられた人々がバランスを崩した。それは資本主義的な光景だった。無意味なほど多い人々の社会に、掴まったり頼ったりするものがない時、人はバランスを崩してしまう。座れなくとも、掴める吊り革があることは電車内での権威だ。吊り革さえ掴めない哀れな者たちは、電車内では弱者になり得る。しかし電車はそんなことはお構いなしに、定刻通りに全ての乗客を運ぶ。 田端に着いた。あと一駅でこの運命共同体的な乗り物から降車する。電車は乗客を目的地まで運ぶが、乗り合わせた全ての他人は仮初の時間だけでも電車の中で運命を共にする。この電車が事故を起こせば皆死ぬかもしれない。しかし松田が見たところ、そんな面持ちをした乗客はいない。皆一律にファストで無駄な情報を次から次へとスワイプしている。松田は彼らに抵抗するように、|命《・》|懸《・》|け《・》|で《・》分厚い単行本をゆっくりとめくる。 目的地の駒込に着いた。東口から降り、無事に電車を降りられたことに安堵する。 しかし東口の真上にある高架下は電車の走行音を轟かせ、安堵は苛立ちに変わった。 「そういえば駒込にも新しいクレープ屋さんができたんだったな」松田はクレープ屋さんめがけて歩き出した。
松田とサラリーマン
生温かいコーヒーはただでさえ熱いコーヒーに比べて魅力的ではない。そして若さを失った肉体のように、時間がたつにつれて一段とその魅力を失っていく。 松田は今年の4月に26歳になった。これから先の生き方を考えながら、去来する不安とともにコーヒーを一口飲んだ。さっきよりもぬるくなっている。 老いていくのは怖くない。肉体と精神と、私だけの時間がどこかへいくのがたまらなく怖い。それらはどこへいくのだろう。私に還ってくるのか、それとも他の誰かのところへ行くのか。 松田は初めて入った喫茶店では必ずこういったきわめて無意味な考えごとをする。その間だけは自らの存在について確信が持てるからだ。 喫茶店にはニ人席が四つと、テーブル席が2つあった。ニ人席はテーブルを挟んでソファー席とこだわりのなさそうな安っぽい椅子が置いてあり、四人がけのテーブルには硬そうな椅子が居心地悪そうに置かれていた。松田はニ人席のソファーに座っている。松田の隣の2人席ではサラリーマン風の男が何やらパソコン作業をしている。彼はイヤホンをしていて、パソコンに向かってきわめてビジネス的な話し方をしていた。まるでこの喫茶店の人々に見せつけているような、純然たるビジネスマンの話し方をしていた。彼はコーヒーにほとんど口をつけていないようで、松田の側からもカップの中身はまだたくさんあることがはっきり見えた。彼の目的はコーヒーを味わうことではないのだ。 松田はしばらく男の様子を見ていた。男は「アジェンダ通りにいきませんでしたね。次回の会議でまた残りのミッションについて議論しましょう。それでは、失礼します」と言った。男はイヤホンを外すと、松田が自分を見ていることに気づき、こちらを一瞥した。松田は目を逸らし、もうほとんど残っていないコーヒーを啜った。そして目線だけ男の方をふたたび見た。男はもう松田を気にしておらず、パソコンに向かって作ったようなしかめ面をしていた。松田にはそれが不愉快だった。彼はしばらくキーボードを叩き、何か決心したようにパソコンの向こう側に目を向け、パソコンを閉じた。そして会計を済ませ、次の目的に向けて店を出て行った。男のいた席にあるコーヒーは、松田から見えるほどカップに残っていた。 松田はコーヒーを飲み干した。