積山 精々

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積山 精々

"セキヤマ セイゼイ" 未成年者はフォロー注意。 不愉快ならブロック推奨。

小豆磨

『小豆磨-あづきとぎ-の事』  すがたは見えづ 川縁にて小豆を洗う如き  しよきしよき と音が聞ゆる  此れ小豆洗いの仕業と云ふ    虫の聲が聞こえなくなった、晩秋の夜である。  月には叢雲が掛かり、何処と無く不安を感じる道を、提灯を提げた初老の男が歩いている。名を玄介と云った。  玄介は商人である。童子期、子が無かった問屋へ奉公に出た彼は、真面目が功を成して順当に店の後継となった。  そんな彼が数年振りに兄の家へとやって来たのは、武家の指南役を解任された上に不況の煽りを喰らってしまった兄に金を普請してやる為であった。  本来陳ば、もっと早に店に帰り着く筈だった。  今日は昼間から肌寒く、帰り間際に勧められた酒で変に酔ってしまい、一刻程居眠りをしている内に、釣瓶落としですっかり暗くなってしまった──と云う塩梅である。  町迄は、未だ後一里程ある。  何も無い夜道を吶吶と歩いていると、やおら空気が湿り気を帯び、玄介は眉間の皺を深くした。  辺りを見ると、葉の付いていない細い枝を空に広げているだけの見窄らしい木木しか無く、通り雨が来ても凌げそうな場所は見当たらぬ。  少し遠くに林……であろうか、背の高い黒い茂みが見えたので、玄介は仕方なく其処まで小走りで向かう事にした。  息も切れ切れ、茂みの近く迄寄ると、奥に光が視える。小さな火の様である。  誰か居るのかと思い、歩いて行くと、襤褸襤褸に朽ちた古寺の軒下で、若い男女が腰を下ろして焚火をしていた。  一人は太目の胴の割に手脚が細い男。もう一人は、この暗い中でも判る程泥撥ねの汚れが目立つ、小柄な女である。  男は雨が降り出す前に火を大きくしたいのだろう、枝を焚べる事に夢中な様子だったが、女は幽鬼の如く虚ろな貌で、その火を眺めていた。  如何にも、訳の有りそうな出立ちである。玄介は、野党の類でない事に胸を撫で下ろしたが、二人の風体を見て暫し迷った。  然し、このまま雨で身体を冷やす訳にもいかぬ。一つ息を吐いて、警戒させぬ様、提灯を少し高く掲げ、やや声の調子を明るくし乍ら、 「今晩は、一寸、失礼しますよ」  と云い、寄って行った。  男は少少驚いた様子で此方を見たが、女は微動だにせぬ。 「雨宿りをご一緒しても宜しいですか」  玄介は構わず続ける。 「ええ、どうぞ」  男は気さくに返す。女に伺わぬ処を見るに、夫か兄なのであろう。 「あいすみません」  玄介は和かに笑って、男の向かいに腰を下ろし、提灯の火を落とした。  焚火に当たると、冬の空気に身体が冷えていたのだと実感する。  ぶるりと身震いし、両手を擦り合わせ、揉み合わせ乍ら、ちらりと女の方を見やった。  幼さを残しているが、整った顔だ。然し、其の頬や額にも泥が撥ねている。気付いていないのかも知れないし、拭う気力も無いのかも知れぬ……  ──浮と、 「妹です」  男がそう云ったので、玄介は慌てた。 「あ、いや、これは失礼」 「いえ」  男の声は優しかったが、愛想笑いは無かった。  遣り取りの間も、女は人形の如く静止していた。 「すいませんね。妹は今……己を失くした様な具合で」 「それは……お可哀想に。……何処か、悪いので?」 「ええ。……いや──能く……判らんのです」  男は溜め息を吐いた。 「──手前は辰吉、妹は登代と云います」  彼──辰吉が頭を下げたので、玄介は名乗り返し、この先の町の問屋の店主だと告げた。 「お店をお持ちで」 「ええ、まあ。豆や乾物を少少──」  玄介が云った瞬間、 「まめ……──」  放心していた登代が、ぽつりと漏らした。  然し、其の侭黙り込んだので、辰吉は頭を撫でてやろうと手を伸ばしかけ、──止めた。  しとしとと、雨が降り出した。  風に揺れる稲穂の様な音が響く。闇の中で見えないが、針の様な雨なのだろう。  急に腹の虫が鳴いた。  そう云えば、四ツ頃に酒を呑んでから、何も食っていない。早く帰らねばと急いだ余り、夕飯を忘れていたのだ。 「……今宵は大層冷えますな。何か作りましょう」  玄介は持っていた風呂敷を広げ、小さな鍋と竹皮に入った握り飯を二つ出すと、水で煮込んで粥を作る事にした。勿論、二人にも振る舞うつもりである。  辰吉は遠慮したが、あの面体の妹を其の侭にしているのだから、どうせ飯も食わせていまい。  そして暫し考えたが、帛紗に包んだ鰹の枯節と小さな鉋を出した。  枯節は自分の店で扱っている物で、鉋はこうして持ち運びがし易いようにと知り合いに頼んだ特注の品である。出先で商人に定めさせる折、味や香りの良さを知って貰ってから商談に繋げるのが玄介の商いのやり方だったので、この二つは大抵持ち歩いているのだった。  大切な物ではあるが、兎に角登代が憐れに思えたのだ。  枯節を削って、鍋の中にはらはらと落とすと、芳しい香りが立ち上る。  椀は一つしか無い。恐縮する辰吉に押し付けた。 「すみません」 「能いです能いです。さあ、妹さんに」  其処で漸く、兄は妹の顔の汚れに気付いたのだろう。手拭いで優しく拭ってやり、それから匙で粥を口元まで運んでやっていた。  登代の鼻がぴくりと動き、小さく開いた唇に、辰吉は匙を当ててやる。  口の中に、すう、と消えてゆく粥に、兄は漸く安堵した様子だった。  ……労しい。圜で幼児の兄妹を見ているようだ。  玄介は又も憐憫の眼を向ける。  この二人には、貧しさとは別の不幸を感じるのだ。  鍋に残った粥を直に食う玄介に、辰吉は頭を深深と下げ、 「ありがとうございます」  実に申し訳無さそうな貌で礼を述べた。 「いいえ。それよりも、──」  玄介は小さく手を翳して、 「──能ければ、何があったのか聞かせて貰えませんか?」  横目で登代を見遣り乍ら、そう云った。 「……それは──」  辰吉は難しい顔をした。  粥を馳走になった手前、恩人の頼みを無下には出来ぬ。  とは云え、この渋り様である。相当に複雑な事情であろう事は間違いない。  余りに長く辰吉が迷っているので、玄介は諦め掛けた。  然し、 「──判りました……」  何やら覚悟を決めたのか、辰吉は徐ろに経緯を話し出したのである……。  彼らの故郷の篠岡村とは、信乃郷の南端にあるのだと云う。  肥沃な地とは言い難いが、其処で採れる小豆は、やや小粒であるものの、大変香り高く色艶も善い上に、大角豆の如く煮割れにも強いと評判であったそうだ。  何代もの昔、村の者は痩せた田を諦め、半分を潰して小豆を植え、特産品とする事で豊かさを得たらしく、それ故、篠岡小豆は、神仏よりも慥かな救済を齎したとして、永くに渡り大切にされているのだと云う。  小豆には邪気を祓い、善いものを呼び込む力が有る。  ……野良仕事で生涯を終える百姓ばかりの田舎の村が、斯様な云い伝えなどを識っているのも些か奇妙ではあるが、恐らく何処からか流れて来た何者かに拠る気紛れの説法あたりが由来なのでしょう──と、辰吉は云った。  今では諸藩の城に献上したり、神社にも奉納される程評判になったので、村を飢餓から救った逸話と相まって、独自の仕来りが出来上がってしまった程なのだそうだ。  眞、小豆に斯様な効能が有るかは、最早如何でも能い事だ。  大事なのは、小豆こそが篠岡村に繁栄を齎したという事実なのであり、故に村は小豆を敬い、丹念に作り、其の威信に肖り続ける事が、幸福の絶対条件だと信奉しているのである。  其処だけ聞けば、偶に聞き及ぶ其の土地の習わしの一つのようであるが、裏を返せば、〝小豆信奉を妨げれば、村は滅びる〟……と、斯様な理解をしていると云う事だ。  その思想の強さは、相当危うい物であったらしい。 〝小豆無下にする者、人に非ず〟──。  若し、この習わしを破る者在らば、村の命運には代えられぬ。村の為に殺す事も辞さない、と──其れ程の狂信振りなのだと云う──。  聞き乍ら、玄介は小さく身震いした。  篠岡小豆がどれ程の名物か識らないが、其処までの徹底振りは、些か行き過ぎであろう。  ……辰吉の話は続く。  小豆は勿論、村でも食べられているが、その小豆を炊くのは各各の家の姑女の役目である。若し居なければ、隣の家の姑女が炊く。  村の繁栄と掛けて、篠岡小豆は子孫繁栄の象徴でもある。  母である姑女が其れを子らに食べさせ、丈夫な赤子を迎えるのだ、という理屈であるらしい。  そのお陰で──と云う事になっているが、村で産まれる子供は皆病気を知らず、怪我の快復も早いと云う。……何処まで眞か定かではないが。  何に為よ、小豆が身体に能い物である事には違いないのであろうし、其れも問題は無い様に思える。  仕来りにしても、守るのに難い物で無し、守ってさえいれば、何も起こらないのだから、慣れれば気にする物でも無いのだろう。  そう──ここ迄は能いのだ。  問題は、ここからである。 「川で小豆を洗うのは下女や独り女の役割でした。何処の川でも能いと云う訳ではなく、霊水と云われる延利の川で無くてはならないのです。川は村から遠く、行って帰るも半日掛り、其の水は夏場でも一笊洗う内に指が切れる程冷たいのです」  そう話し乍ら、辰吉は、足元の枝を焚べた。 「……私は余り知りませんでしたが、以前から、其処に小豆を洗いに行っていた下女は独りだけだったそうで──」 「独り? では、他の者は……?」  誤魔化していた、のであろうか。  喩えば、件の霊水の川ではなく、村近くの川で小豆を洗っていた──と云った事であるとか……。  ──そう感じての、問いであった。  ……然し、 「それは──」  問われた辰吉は、予想外に、酷く狼狽した。  其の様子を見た玄介は疑問を感じ、その理由を考え──思わず言葉を失った。  ──真逆……、 「まさか、村の者達が食べる小豆を、たった一人で?」  玄介の責める様な口調で、辰吉は心疚しそうに俯いた。……否、頷いた、のだ。 「知らなかったのです。男は小豆を育てて刈り取るまでしか関われん事になっているのです」 「其れは……そうかも知れないが……それに、しても」  ……何と云うべきか、斯様な実態は異常である。 「月の障りが来ている女が小豆に触れる訳には参りません。子供を身籠った女が浄められていない小豆に触るのも、同様に善くない事とされています。……それ故、小豆洗いは、その何方でも無い女がする事になっているのです。ですが……実際にはその下女独りに、凡てやらせていたと云うのです」 「其れは……酷い、話だ」  辰吉の話には、筋が通っている部分と、そうでない部分が有るように感じる。  この心地の悪さの原因は、恐らく仕来りとは別であろうと玄介は思った。 「ほんとうならば──」  辰吉は、其処で言葉を切った。 「……妹も、村の為、小豆洗いの仕事をしている筈でした」  玄介は唸る。  其れは詰まり、彼の妹は義務を放棄したと云う事だ。  その咎がある故に、彼はこれ迄話渋っていたのであろうか。  厳しい仕来りであるなら、逃げたいと云う気持ちが湧くのも道理であろうが、然し、たった一人に村の大切な役目を押し付けると云うのは、矢張り誤魔化し方としては、酷く──歪んでいる。  ──虐め、か……。  玄介は不快そうに唇を結んだ。  兄としては、妹の咎の断罪は心苦しいであろう。  然し、玄介にしてみれば、つい先刻迄憐れみを持って接していた相手であるだけに、其の気持ちの落差は大きかった。  辰吉は、話す最中も時折登代の顔を覗っている。  妹が斯様な塞ぎ方をする事になった経緯を語っている所為であろうと思われた。  当の妹は、疲れからか目蓋が重くなってきたような様子である。  辰吉は一度立ち上がると、そんな登代の脇を支えてやり、介抱し乍ら朽ちた御堂の階段に移らせた。其処に妹を横たえ、端が破れて綿が飛び出している半纏を蒲団の様に上に掛けてやると、重い足取りで戻って来て、また一つ、枝を火に焚べた。 「……其の下女の名はづると云いました。──こう云っては何ですが、身体は丈夫でも、頭の方はかなり悪い女で……。十八九の娘なのですが、小さな目玉は魚の様、言葉も話せて十か二十ばかり。……そして何より……づるは何時迄経っても、初花が来なかったのです」  辰吉は途切れ途切れにそう云った。  玄介は口元に手をやった。  成程……。  酷い話であるが、その、づると云う娘は、小豆洗いの仕事を押し付けるのに、条件が揃い過ぎていた、と云う事なのだろう。 「小豆を炊く日、づるや他の女達は、朝早くに小豆の入った筺と笊を持ち、川に向かって発つのですが、その道中で──」  ──あら、いけない。〝お客〟だわ。  これでは小豆が洗えないわね。  づるちゃん、悪いけれど、お願い出来るかしら──。  玄介の頭に、厭な笑顔で筺を押し付ける、登代の姿が浮かんだ。  其れだけではない。  わたしも、わたしも──と、周りの女達が皆、月の障りが来たと云うのだ。 「……いや、然し、そんな都合能くは──」  玄介が独言の様に呟くと、 「小豆──です」  辰吉は、確乎した口調で答えた。 「あずき?」 「女達は、足の間から、小豆を溢して見せたと云うのです。月の障りが何かを知らぬづるは、毎回、それを月水だと──」  辰吉は苦い顔をする。  玄介は眉根を寄せて、息を呑んだ。  何と云う、悪質な嘘であろう。  ……呼び止められた魚の目をした女が、呆と立っている。  下品な女達が、くすくすと嗤い乍ら、小豆を足元に落としている。  ぱら、ぱら、ぱら──  赤黒い粒が、土の上を撥ねて転がる。  其れを魚の目で、凝と見つめ、  ──あい。判りました。づるが洗ってまいります。  沢山の筺を引き摺り、下女は独りで歩きだす。  それを見送る女達は、毛先程も後ろめたい気持ちなど持たずに、一日中を遊んで過ごすのだろう。  ……止め処無く滔々と霊水が流れ続ける川の辺りに、小波の如き音が鳴り響く。  しよき、しよき  しよき、しよき  しよき、しよき……  止まる事無く、日が傾くまで……  そうして、凡ての小豆を洗い終わった頃合いになると、再び声を掛けられるのだ。  ──ああ、づるちゃん、ありがとう。後は私達が運ぶわね──。  其の後は、何事も無かったかの様に振る舞う女達。  村では、女達が小豆を洗って来た事になっている。  どうせ、づるは何も判っていまい。  常から、その容姿と頭の具合で疎まれがちであったから、他人の分まで小豆を洗い、『ありがとう』と感謝までされれば、卑屈にも成ろう。  おかしいと感じている者が村の何処かに居たとして、づるが何をされているかなど、誰も気にも止めぬ。  縦しんば問われても、づるの頭では到底説明など出来ないのだから、気にするだけ無駄だ。  故に、其の侭、放っておかれていた。  障りの無い女が小豆を洗い、  家長たる姑女が小豆を炊く。  ……其の仕来りが守られているのなら、其れで能いのだ……。    ……そんな事を、幾度繰り返したのか。  辰吉から話を聞くだけの玄介には、圓で見当も付かぬ。  だが然し、  それなら今此処で、登代がこうして泥に塗れて忘我していたのは、一体何故か──?  ……否、何故も何も無いのだろう。  大方、村に一連の嘘と誤魔化しが露呈したに違い無い。 〝小豆無下にする者、人に非ず〟──。  ……先刻聞いた話では、小豆を蔑ろにすれば重罪になるのだから、詰り、罪が明らかになった為に、この兄に連れられ、村の仕来りによる死罪から、命辛辛此処まで逃げ仰せて来た──と云った処か。  其れ陳ば……こんな事を云いたくは無いが、登代の自業自得、と云う事なのであろう。  ふと、辰吉の顔を見やる。  彼は依然として──  ……否、今迄以上に重苦しい貌をしていた。 「その日も妹達は、づるに小豆洗いの仕事を押し付けました。そして、いつもと同じように、一頻り遊んでから、昼過ぎに様子を見に戻ってみると──」  其処には、  身体を丸めた姿勢で倒れている、づるが、いた──。  慌てた女達は、づるに駆け寄った。  そこで──、  彼女の着物の尻の辺り……  赤黒く湿っているのを、見つけたのだ。 「月の障り、が……」  玄介は小さな声で、嘆くように漏らす。  辰吉は頷いた。  づるは、憶えの無い重い痛みを圧して、独り……川辺に蹲み込み、他の女達の分まで小豆を洗い続けていた。  いつもよりも、変に時間が掛かっている。  如何にも手際が悪い。  小豆は、未だ山程残っている。  もっと、急がなければ、終わらない。  しよき、しよき  しよき、しよき  しよき、しよき……  そうして無理が祟り、遂には、洗い乍ら倒れてしまった。  斯様な……最悪の機で、づるは初花を迎えたのか。 「妹達は焦り、どうしたら能いか話し合いを……然し、話は纏まらず……そうこうしている内に、づるは目を覚し……着物に沁みた血を見た途端に、酷く取り乱したそうです」  まるで見ていたかのように、辰吉は云う。  男には判らないが、何も知らぬ内に、突然股から血が流れれば、迚も落ち着いてなど居られよう筈が無い。  幻の如く浮かぶのは、魚の如き目をした娘が吃り乍ら動転する姿である。 「づるが女に成って、今迄の嘘が、確乎してしまった」  其れも当然だ。  元より、騙し騙されていたのだから、真実が顔を出した処で、嘘を吐いていた者達が恨まれるのは当たり前の事である。  今迄、己が助けていたと思い込んでいた。  ……然し真相は、女達に裏切られ続けて来ていた、と云う事なのだ。  其れを知ったづるの胸中に浮かぶのは、劇しい怒りか、それとも、深い悲しみか── 「づるは、村の、仕来りを守ろうとしました」 「仕来りを……?」 「小豆を洗う者は、身籠っておらず、穢れの無い者でなくては──」  そうだ。 〝小豆無下にする者、人に非ず〟──。  依りにも依って、他の女達は小豆を月の障りに見立てて、づるを謀ったのである。  故に、づるは他の女達の事を咎められる立場にある。 「村の仕来りを守り──づるは、」  真実を知った、づるは、 「──川に身を投げたのです」 「……何、ですって?」  玄介は狼狽した。  違うのか。  辰吉の話を聞き、己が思っていたのは、づるの糾弾に依って登代が村に追われる立場になる、というものだった。  ……違うのか。  小豆を不遜に扱う者は、死ぬ。  村が、殺す。  手段は判らぬ。  然し、其れが約束事としてあったのなら、恐らく本当に、その通りにするのだろう。  づるも他の女達も、村で生きる以上、この仕来りからは逃げられぬ。  だが、そうなると、  何故──、づるは自ら命を絶ったのだ……? 「づるは障りが来ているのに、小豆を洗ってしまった」 「いや、然し……斯様な事は、珍しいかも知れんが、起こり得ましょう」  現に、他の女達は偽りの障りを言い訳に、毎度づるに小豆洗いを押し付けていたではないか。 「ですから、本来は他の者が代わるのです」 「そうでしょう。陳ば其処は、其のづるに代わり、障りの来ていない他の娘に回るのが道理では……」 「いいえ。づるにとっては、〝凡てが眞〟だったのです」  辰吉は云う。  凡て。  凡てとは──?  他の女と違い、づるの股から溢れたのは、赤黒い粒ではない。血だ。  さぞかし恐ろしかったに違いないが、躰の様子から、其れが病症の類では無く、月の障りに拠る月水であると理解したのだろう。  では、他の女達の障りに就ては如何だ?  血と、小豆である。  己の躰に来た障りとは、明らかに違う。  違うが……、果たして、づるに、其れが偽りであったと知る事が、考える事が出来ただろうか──?  女達の彼れも障りであり、己の此れも障りである。其処に矛盾は無い──と、考えてしまったのだろう。 「凡てが、眞……」  玄介は反復する。  そうか……。  そう云う事なのか。  づるにとっては、双方とも眞になってしまったのだ。   〝小豆無下にする者、人に非ず〟──。  そして、遂に──  其の場には、〝月の障りが来ている者しか居ない〟と云う事態になってしまった。  もう、逃れられる途は、何処を探しても無い。  小豆は、己の所為で全て穢されてしまった。  女達の中にも、洗い浄められる者は居ない。  仕来りを穢した自分は、もう村の中に戻る事が出来ぬ。  紛れも無い、窮地である。 「そして、づるは──」  追い詰められたづるは、錯乱し──、 「小豆の入った笊を抱えて──」  其の迄、 「川に飛び込み──」  生命を、断ったのだ……。  息もつけぬ程、痛ましい沈黙が訪れた。  辰吉が聴かせた悲惨な話には、何処にも救いが無く、玄介は聞いてしまった事への後悔の念を懐き乍ら、自身も沈痛な貌を浮かべた。 「……づるが死に、登代達は、村に釈明しなければならなくなりました」  辰吉の後ろめたさが、こちらにまで乗り移って来そうだった。  釈明。そんな事、出来よう筈が無い。  嘘で固めた状況と、悪意と誤解の上で起こった悲劇である。  見様に依って、づるは、女達に殺されたと云っても過言では無いのだ。 「其処で、又……嘘を、重ねたのです」 「嘘を」  玄介が返すと、辰吉は頷いた。  そして、 「皆が洗った小豆ごと、づるは川に落ちたのだ、と──」  怯えた口調でそう云い、深く息を吐き乍ら、彼は諸手で顔を覆った。  玄介は、絶句する。  女達は、保身の為に、づる独りを犠牲にしたのか。  正に、死人に口無しである。  女達皆が『見た』と云えば、村にとっては、其れが事実となるのだ。  女達へと廻るべき因果迄背負わされて、づるは川へ投棄てられてしまったと云うのか──。  玄介は、今一度、御堂の前で横たわる登代を見やる。  もう、先程の様な憐れむ気持ちを持つ事は出来なかった。  忘我したまま、他の貌を忘れてしまったあの頬でさえ、今は無性に叩き倒してやりたい気持ちが湧いてくる。  無論、無関係な自分に、左様な罰を与える義理も責任も道理も無いが……此れでは、その、づると云う娘が浮かばれぬ。  だが──、まだ辻褄が合わぬ。  そうなると、登代が村に居られなくなる事にはならない。  罪は、づるが到に精算しているのだ。  故に、村にとって、登代や他の女達に咎は無い。只、不幸な事故に居合わせた者達として映る筈だ。  で、あるなら──、  矢張り、登代と兄の辰吉が、この様な場所に行き着く流れには結び付かぬ……。  辰吉の話は、新しい事実が次次と出てくる反面、其れ等が一向に収束してゆかぬ。如何にも……据わりが悪い。 「然し、それなら……何故あなた達は出奔を?」  玄介は率直に聞いた。正直に云えば、ここで『良心の呵責』と云う答えは無いだろうと思った。 「……慥かに、村の者は納得し、妹達は不問となりました。事実、其れで一度は収まったのです。づるが死に、妹達は心を入れ替え、真面目に働くようになりました。……それが丁度、〝一年前の話〟です」 「……な、」  玄介は驚いた。 「……何ですって?」  彼はこれまで聞いた話を、ずっと、つい最近の出来事だと思い込んでいたのだ。  泥に塗れた登代の様相の所為であろう。 「この一年、村で奇妙な出来事が起こるようになりました。女達が、子を生せなくなったのです……」 「子を……」 「凡て……水子になって、流れて、しまうのです──」  ……その兆しは夜、村の皆が寝静まった頃合に、身籠った女達の夢の中で起こると云う。  女は川縁を歩いている。  其処は覚えのある風景……延利川の辺りである。  更更と小気味の良い音を立て、小豆を清める霊水が流れている。  迚も美しい景色だが、余り善い思い出は無い。  この川は村から遠く、水は恐ろしく冷たいのだ。  どの途、女は身籠っている。小豆は何処にも見当たらないが、若し有った処で、洗う事は許されておらぬ。  ……村へ帰ろうと思った。  川に背を向け、歩き出す。  すると──、  しよき、しよき  しよき、しよき  しよき、しよき──  何処からか、小豆を洗う音が聞こえてくる。  振り返って見渡すが、川縁には誰も居ない。  然し、音は鳴り止まぬ。  しよき、しよき  しよき、しよき  しよき、しよき──  執拗に響く其の音を聞いていると、苛立ちが募ってくる。  耳を塞ごうとも、その場を離れようとも、音は一向に鳴り止まぬ。  其れ処か、段段と、大きくなってゆく。  しよき、しよき、しよき、しよき  しよき、しよき、しよき、しよき  しよき、しよき、しよき、しよき──  大声で叫びたくなってきた。  煩くて堪らない。  心の均衡が崩れて、元に戻らぬ。  何も可にもが、酷く苛苛する。  嗟、煩い煩い煩い──ッ!  小豆を洗うのは誰だ?  この不快な音を立てているのは誰だ?  誰だか知らないが、もう我慢が出来ない!  殺して、やりたい──!  ──そう思った矢先、  音は、ぴたりと止まった。  そして──、  ざらあああああああああああああああああ。  女の股から、  大量の小豆が溢れ出す。 「ひぃやあああッ!」  己が上げた悲鳴で、女は目を覚ました。  汗で濡れた蒲団を蹴飛ばし、膨らんだ腹を抱え込む。  夢と現が曖昧でも、あの悍ましい光景が何を指しているのか、本能的に理解したのだ。  何度摩っても、何度語り掛けても……胎の中には気配が無い。  ──嗟、動かぬ……ややこが、動かぬ。  言葉では到底言い表す事の出来ぬ絶望に、女は哭いた。啼き叫んだ。  産まれてこられなくなった我が子の為に出来る事は、もうそれだけしか無かった……。  その一人を皮切りに、斯様な目に遭った女は後を経たなかった。  夢の中で迷い込む、延利川の辺りで、小豆を洗う音が聞こえる。  しよき、しよき  しよき、しよき  しよき、しよき──  づるの死の真相を知る者、そうで無い者関わらず、村の腹籠もりは、皆である。  小豆を洗う音に襲われ、心を乱され。  仕舞いには、躰の内から溢れ出し──、  胎に宿った嬰児(ややこ)は、みな流れてしまうのだ。  ………………。 「あれは、きっと──づるの祟りなのです」  其の様に話を締め括る辰吉に、玄介は唸る様に息を吐き出した。  何と云う事だ。  悲惨な因果に対しての、凄惨なる応報だと云うのか。 「づるは──物怪に成ってしまったのでしょう」 〝小豆無下にする者、人に非ず〟  ──悪いのは、小豆を狂信する村の仕来りか。 〝月の障りだわ。づるちゃん、お願い出来るかしら〟  ──それとも、狂った仕来りを利用した女達か。  両方であろう、と玄介は思う。  彼は商人である。仕来りも祟りも、半分しか信じておらぬ。  信心とは、説明が付かぬ現実の肩代わりなのだ。  祈って上手くゆけば神や仏のお陰であり、蔑ろにして痛い目を見れば不信心の罰なのであろう。何も起きぬのなら、神仏にとって些事なのだ──と、玄介は、其の様に考えていた。  故に、篠岡村の斯様な仕来りで人が死に、祟りと云う形で呪詛返しが有ったとしても、そう思い込んでいる者達の中だけで事実とされているだけで、小豆もづるも、現実には何も出来ぬ筈だ。  信じる者にのみ視える眞実──其れが、不思議の正体なのである。  此処まで聞き終えて、如何して辰吉が話を渋り、然し最後には語る事にしたのか、漸く頷けた。  罪の意識と、罰の実態と、不可思議な祟りに苛まれ、其れを外に吐き出したかったのだろう。  進んで話を引き出した玄介としては、些か薮を突いて蛇を出した様な形にはなったが、何処か溜飲が下がる思いもあった。  気が付くと、何時の間にやら雨は止んでいた。  通り雨で冷えた風が、寂し気な音を立てて、焚火を燻らせる。  其の風に乗って来たのか、きりきり、しゃわしゃわと、微かに虫の声が聞こえた。  それで、浮と思い出す。  玄介は以前、学のある者から聞いた事がある。  虫達は人や獣と違い、羽根や胴を震わせる事で、あの鳴き声を出しているのだそうだ。  その音を〝声〟と称んでいる事に違和感が無い訳でも無いが、考えが一巡りして、矢張り〝声〟なのだろうと納得したものである。  咽喉を通り、口から発しているから声なのでは無い。己が意志を伝えんと発するなら、仮令、其れが音で無くとも〝声〟なのであろう。  言葉を遣う、人にしてみても、口や咽喉が無ければ声は出せぬ。然し、他の手で伝える事は出来る。遠き処に届ける文も、祖先の冥福の為に鳴らす鈴も、其れ等は何れも彼の者の〝声〟に他ならぬ。  陳ば、風鈴の音や、稲穂や芒の騒めきも、捉え様に依っては風の声なのやも知れぬ……。  しよき── 「────っ?」  反射的に、玄介の背筋が伸びる。  心の臓が、強く脈を打つ。  今の音は、何だ?  あの音は、圓で、  しよき、しよき──  ──否、風だ。風の所為だ。  草か、虫か、枝か、小石か。  何れにしても、風が揺らしたか、擦らせたか。  そうだ、これは──これが〝風の声〟なのだ。 『小豆を洗う音』に聞こえるだけの、只の── 「と、よ────」  幽けき聲に、玄介は顔を上げる。  其処には、茫然として目と口を開いた侭の辰吉がおり、その視線は、玄介の頭の上に向けられていた。  ぞわりと奔る悪寒に、玄介は慌てて振り向く。  見上げると、其処には、幽鬼の如き冷たい貌で立ち竦む、登代が居た。  帯は解け、泥に塗れた着物は乱れ、首から股の茂みまで、真白い肌が縦一文字に通って浮かぶ。  玄介は小さな悲鳴を上げ、腰を抜かした。 「づる」  ぼそりと、登代の口から溢れた音は、其の様に聴こえた。  識らなければ、小さな溜め息としか思えないだろう。  辰吉から話を聞いてしまった事を、玄介は酷く後悔したが、今更手遅れだ。 「登代、落ち着け。づるは──もうおらん」  狼狽しながらも、辰吉は静かに諭そうと声を掛ける。  その言葉が、登代の逆鱗に触れた。 「兄さまの莫迦ッ‼︎」  ──其の豹変振りに、玄介は縮み上がった。 「未だそんな事を云ってるの⁉︎ 能い加減にしてよ! づるは居るわ! 未だ『小豆を洗っている』のよ‼︎」  少し前まで真白で生気の抜けていた顔が、今は般若面の様になってしまっている。  怒りが何処へ向いているのかは判然とせぬ。然し、この気配は紛れも無く、殺意であろう。  これでは、誰が物怪なのか、判らぬ。 「登代……」  辰吉は激昂する妹を見詰めた侭、言葉を失った。  づるの祟り。  仕来りを守る為、自ら命を絶ったづるは、登代達の咎を其の様にして濯ごうとしているのか。  小豆を、洗うが如く──。 「こわい──怖いっ!」  登代は叫び乍ら、腹を抱えて座り込んだ。 「づるが来たわ。登代の中の小豆を洗いに──」  錯乱しているのは間違いない。  然し、玄介の頭の中では、怖気立つ様な幻が浮かんだ侭、消えぬ──  登代の腹を裂き、  其処に手を挿れ掻き回す、  魚の目をした、物怪めいた女が── 「登代、只の夢だ。大丈夫だから……」  辰吉は、這い摺るように妹の傍に寄っていく。  今し方の話とは、圓で真逆の云い分である。  この男も、必死なのだ。 「怖い。怖いよう──……」  登代は幼児の如く弱弱しく泣きじゃくったかと思うと、 「──何でこんな目に遭うのよッ!」  再び一変して、辰吉の顔に噛み付かんばかりに食い寄り、 「如何して登代たちばかり! 兄さまも一緒に遊んでいたじゃない!」  吐き棄てるように、そう云い放った。  …………いま、  何と……云った? 「登代!」  辰吉が叫んだ。  玄介の眉間が、訝しむ様に深い皺を刻む。  振り向いた辰吉は……泣き出しそうな顔をしていた。  遊んでいた。  ──『あそんでいた』──?  其の言葉は、妙な含みを持っていた。 「まさか────」  玄介は青褪める。 「あんた、は……」  怒っているのか、呆れているのか、玄介の声は震えていた。  その顔が、畏ろしかったのだろう。 「──すみません……すみません……」  辰吉は、悪戯が見つかった気弱な悪童の様に、ぼそりぼそりと謝っている。  玄介は、愕然とした。  ……本当なのか。  辰吉は……この男は、づるに小豆洗いを押し付けている間、女達と──  交合(とぼ)していたのか──?  ──それじゃあ、頼んだよ。  俺たちは小豆を洗っちゃならんから、あっちで待っておく。  終わった頃に戻ってくるぞ。  帰りは運ぶのを手伝ってやるからな。  ──あい。わかりました……。  しよき、しよき  しよき、しよき  しよき、しよき──  ──づるは、どうしたの?  ──心配要らん。小豆に夢中だ。  ──あら。  ──……なあ、いいだろ? 俺のも、もうこんなに……。  ──うふふ……。きて……。  しよき、しよき   んっ、ああ……  しよき、しよき   はっ、はあ……  しよき、しよき   あっあっあっ……  しよき、しよき   うっうっふっ……  しよき、しよき   ああっ、ああぁー!……  ……………… 「ううっ……」  眩暈。  頭の中を巡るのは、  川原で忙忙と真面目に小豆を洗う、魚の目をした独りの女と、  其処から少しだけ離れた茂みの陰で情事に耽る、爛れた男女達。  ……玄介は、想像しただけで気が触れてしまいそうだった。  嗟、凡てが──狂っている! 「登代、逃げよう。大丈夫だ、俺が守るから」 「無理よ! 逃げられないわ! づるは何処迄だって憑いて来る!」  あはは、と大声で嗤い乍ら……登代は大粒の涙をぼろぼろと溢した。  到に、心の均衡は毀れているのだ。 「兄さまが、あの女を除け者にしたから! だからこんな事になったのよ!」 「登代!」 「何よ! づるが羨ましそうにしてたの、知っていたくせに! 魚女の穴(ぼぼ)が、そんなに畏いの⁉︎ 目瞑って背後どれば、どうせ背中と尻しか見えやしない! 皆同じじゃない!」 「登代ッ! 手前ェ、能い加減にしねェか!」  辰吉は大声で遮り乍ら、妹の頬を力任せにばしりと叩いた。  悲鳴を上げ、登代はその場に倒れ込んだ。 「あぁっ、あぁあっ………あは、──あはは。あはははははっ!」  痛みに噎び泣き乍ら、登代は矮小な兄を嘲嗤っている。  蚊帳の外へ追い遣られた玄介は、登代の面罵に圧倒され、すっかり竦み上がっていた。  否、理由は、其れだけでは無い。  しよき、しよき──  ──先刻から、幻聴が、鳴り止まぬ……。  づるの、小豆洗いの、聲──が。  辰吉が蹌踉めき乍ら、登代から離れて行く。  彼の眼には、愛しい妹の中に、魚の目をした女が取り憑いている様に映っているのやも知れぬ。 「あんたの所為で、づるは物怪になったのよ! 皆死ぬ迄、小豆の音は止まない」  可笑しそうに、登代は云う。  ずるりと立ち上がり、兄の方へ、柳の如く揺ら揺らと、歩み寄る。  辰吉の、所為──?  それでは、づるが身を投げた理由は、仕来りなどでは無く、  辰吉に袖にされたから、なのか──? 「ああっ、もう、莫迦みたい。こんなつまらない怨みを買うなら、あの侭村で死んじまえば能かったんだ!」 「と、とよ……お前」  見開いた目は、貌から飛び出して墜ちてしまいそうで、 「嗟、でも違う! 矢張り違う! 登代は嫌! 死にたく無い!」  ぐるぐるぐる、と其の目玉が動く。 「あんただ! あんたが死ねば能い! 地獄でづるに詫び乍ら、彼奴の穴をくじいて、帆柱二度と生(お)えなくなるまで交合し倒せば能いんだッ!」  其れは、圓で──  魚の貌の様だった──。 「づる────?」  放心し乍ら、  辰吉は、妹を、そう呼んだ。  刹那──、  ざらあああああああああああああああああ。  玄介の眼前で、大量の小豆が滝の如く流れ落ちる。 「ひっ」  登代の──魚の目が、ぎょろりと回って、下を向く。 「あっあっあっ────」  赤黒い粒は、登代の脚の間、茂みの奥から、止め処無く溢れて、土の上を跳ね回り乍ら四方に広がった。  血と、陰門(ほと)から流れた水を混ぜて腐らせたような臭いが立ち籠める。 「ひぎぃやああああ────ッ‼︎」  山の獣よりも畏ろしい聲が、耳に突き刺さった。  息の根が止まってしまうかと云う程の恐怖に、玄介は泡を吐きながら白目を剥き、其の侭、小豆の音の波へ堕ちていった……。  * * * * *    顔に朝露の雫が落ち、玄介は目を醒ました。  鈍い頭痛に呻き声を上げながら身体を起こすと、古寺の境内は薄らと霧に包まれていた。  胸の痛みを感じる。悪夢の余韻が、未だ残っているのだ。  慎重に、辺りを見回す。  誰も居ない。  小豆は、……一粒も見当たらぬ。  火の消えた焚火跡からは紫掛かった煙が細長く立ち昇っていた。傍には、乾いた粥がこびり付いた鍋と椀が転がっている。凡て夢だったのかと疑えば、そうでは無い、と事実が云う。  畏怖ろしい夜の、何処迄が現実で、何処からが妄想なのか、その境界が曖昧になっている。  玄介は溜め息を吐きながら、手拭いで顔を拭った。……目や耳だけでなく、鼻や肌までもが、あの不気味な湿りを憶えているのだ。  陽が昇った今でも夜を引き摺るのは、迚も厭な感じがした。  何かを思えば、仔細を憶い出してしまう。  辞めよう──と胸の中でごちて、玄介は、一つ一つ散らばった荷物を纏め出した。  祟りを反復しても、心を蝕まれるだけなのだ。    古寺を後にし、朝靄の林を抜ける。  早く常に戻りたいと云う気持ちが、玄介の歩みを速めていた。  柔らかな朝の日差しが、青褪めた玄介の頬を暖めて呉れたお陰で、徐徐に、頭の中が確乎としてくる。  漸く、安堵の息を漏らした。  嗚呼、己は未だ生きている──。  圓で死地から生還した様な実感に、途方も無く嬉しくなる。  兎に角、直ぐにでも帰り着き、家族や店の者の顔が見たい。  商いの事、女房の事、子供達の事──考えなければならぬ事は、山の様に有る。  今は、あの胃が軋むような忙しい日日でさえ、恋しくて堪らない。  其処に帰れば、己はすっかり元通りになれる筈だ──。    ……不意に──、  更更と、優しい小川の渓声が耳に入った。  刹那、玄介の背中一面に鳥肌が立つ。  川──。  思わず足を止めた。  厭な想像が、再び玄介の心の臓を触る。  頭を振って其の気配を追い出すと、音のする方の草むらを見やった。川と呼ぶにはか細い水の流れが一筋通っている。  途端に渇きを感じ、玄介の咽喉が鳴る。  そうして、吸い寄せられる様に、彼は川に近付いて行った。  幅凡そ三尺、深さは五寸程しかない川の底は、細かな砂利が敷き詰められていて、濁りも無く、迚も清らかに見えた。  しゃがみ込み、両手で掬って顔を洗う。  冷たくて、皮が引き締まる。肌の上に残った穢れた気配も落とす事が出来たような心地がした。  もう一度掬って一口飲むと、冷たい水が身体の隅隅まで沁み渡っていった。  傍でちょろちょろと水が跳ねる音が聞こえる。  拳大の丸石三つに水が打つかっている所為だろう。  然し、能く視ると──、 「──────」  その石の間に、何かが引っ掛かっていた。  ──玄介は、息を呑む。  死んだ鮒が一匹、  丸い目玉で、  こちらを、見つめていた。                        了

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垢嘗

『垢嘗─あかねぶり─の事』  風呂桶や風呂に溜まつた垢を嘗め喰う怪  垢とは人の煩悩を宿す滓にて 垢嘗は其を滋養とす  穢れ在る処に涌き 人を惑わす  風見家の屋敷に幾芽と云う若い使用人が勤め出した時、一人息子である晋太郎は胸をときめかせた。  十五になったばかりの内気な少年の眼には、肉付きの善い幾芽の肢体が輝いて視えたのだ。  幼い頃に母を亡くした事も幾らか関係していたのかも知れぬ。だが、彼自身の意識としては、幾芽とは魅惑の権化に他ならなかった。  其の日、晋太郎が学校から帰ると、屋敷の廊下に父親と召使服を着た十八九歳程の見知らぬ女が立っていた。  若い、と感じた。  晋太郎は私立の中等学校に通っている。そんな自分が、歳上の女性に使う表現としてはおかしいのだろう。只、他の使用人達には自分と同じ年頃の子供がある者もいるので、先ず頭に浮かんだのは、矢張り、『若い人だな』と云う感想だった。 「幾芽さんだ」  こちらに気がついた父の祐介は、新たに雇った召使に軽く手を向けながら、晋太郎に紹介した。  どうぞ宜しくお願い致します、と幾芽は深々と頭を下げた。  慌てた晋太郎は、どうも、と云ったつもりだった。しかし妙な心地から吃ってしまったので、彼は閥が悪そうに会釈を返して誤魔化す。  明晰云えば、彼はこの様な時間が苦手だった。  自分は何も偉く無い。偉いのは父だ。それなのに、付随しているだけの自分が恭しく傅かれるのは、如何も道理に合わないとさえ、晋太郎は思う。  顔を上げると、自分より少し背の高い幾芽の顎の先と、そのすぐ下で白い布を内側から押し上げている胸に目が留まってしまう。慌てて背けたものの、口許だけで微笑む彼女に、その時は心の中まで覗かれてしまったような心地がした。  照れた少年を冷やかす者は、この家にはいない。それは羞恥に弱い晋太郎にとっては救いでもあるが、同時に息苦しいものでもあるのだ。  兎にも角にも、性を確乎りと意識し始め、劣情に強い羞恥を覚える年齢でもあったから、晋太郎は平素より自分がそのような人物である事を周囲には識られぬ様、注意を払って生きていた。  然し乍ら、意識から逃げようとすればする程、表に出す表情と己の胸中との落差に、後悔や罪悪感ばかりが去来するのである。  日常的にその様な感情を持て余していたから、幾芽の目を初めて見た時、晋太郎は良からぬ期待に胸を膨らませつつも、顔を背けざるを得なかったのだ。  幾芽は能く働いた。  この家には彼女の他に住み込みの使用人が既に四人いたが、その中でも一番丁寧に掃除をするのが幾芽であった。  他の使用人達は慣れもあり、手早く仕事を済ませた後には庭師や薬を売りに来た商人や使用人同士で話をしている姿が目に付いていたのだが、幾芽に就てはその様な姿を見た事が無い。晋太郎は、その事を好ましく感じていた。  無論、晋太郎も幾らか世間を識っているつもりだったので、その違いは勤勉と怠慢の差でない事も理解はしている。  人を遣うという事に対して、彼の父は余り厳格さを求めなかった。  抑も、そこまで広い家ではないので、身の回りの世話だけならば二人も雇えば充分である。それでも庭師も含めて七人もの人間を雇っているのは、富める者の義務なのだと云うのが、家長である父祐介の考えであった。然し、それは決して豊かさをひけらかしたり、況してや胡座を掻いたりと云う態度では無い。その証拠に、使用人達が善い待遇に甘えたり手を抜いたりする事は無かったので、恐らく父の遣り方は正しいのだろうと思う。少なくとも、直近でその様子を見ている晋太郎は、その様に納得していた。  そこに、幾芽である。  晋太郎は初め、彼女の勤勉が和を乱すのでは無いかと生意気にも気を揉んでいたが、どうもそんな事態にはならなそうだと気が付いた時、独り安堵した。  だが──、そうなると今度は、幾芽の真面目な仕事振りが気になってしまう。やや不吊合いにも感じられる彼女の肉感的な肢体は、機微に動き回るには妙な色気を放ち過ぎていた。それが晋太郎に無用な罪悪感を抱かせるのだ。そして、その罪悪感が愈愈以って正体を現すと、彼は幾芽に劣情を抱く己を自覚し、受け容れるしか無くなってしまった。  己の生活痕を幾芽が片付けているのかと思うと、昏く沸き立つ色が胸に射すのだ。  部屋で洟をかんだ塵紙や、脱衣所で脱ぎ捨てた下着を、あの美しい手がひょいと拾い上げ、始末して呉れている……その姿を想像するだけで、今まで感じた事の無い興奮が躰の中を駆け巡った。  不健全で、内向的で、傾いだ欲情の仕方だろうと晋太郎は自覚している。然し、止めようとして辞められるものでも無いのだ。  人として正しく在ろうとする理性など、動物的本能から呼び起こされる衝動の前では圜で無力だ。肚を括ったと云うよりも、諦めに近い。  そう云った訳で、晋太郎は、己の身勝手極まる問題に自ら足を踏み入れ、独りでに悩み、大いに苦しんだ。  そして、暇さえあれば彼の眼は幾芽の躰を追い続けるようになった。忙しく動き回る彼女が伸ばした手や捻る腰に、邪な視線を浴びせ掛け続けるようになっていったのである。  ──其の中で、気付いた事があった。  幾芽は、主人達の生活の残滓を片付ける時、やや恍惚とした表情をしている──気がするのだ。    己の執心の理由を突き止められそうな気配を感じた彼は、より一層彼女の動向に目を向ける様になった。  この強い好奇心を恋慕と考えていた所為もあろう。真実それは否定出来ない。勘違いかも知れぬ。だが、有り体に云えば、幾芽に感じる〝陰〟の魅力と、其処に惹かれる己の〝隠〟の気質の相性の良さに、何やら運命めいた波長を覚えたのである。  ……然し、だ。  当然の事ではあるが、幾芽の職務とは基本的に彼等から見えない角度で行われる。彼女等からすれば、主たちが不快に思わぬよう、必要に応じて働く姿を見せまいとする事も仕事の内なのである。ところが皮肉なもので、その秘匿性こそが、晋太郎をより神秘的な気分にさせたのだった。  そして、到頭我慢出来ず、晋太郎はささやかな欲を満たす行動に出ることにした。  休日の午後、出掛けるつもりがある旨だけを幾芽に伝えた晋太郎は、一度玄関から外に出ると、誰にも見つからぬ角度で屋敷の外壁に擦り付き、窓から自室に侵入した。まるで盗人の真似事をしているような後ろめたい高鳴りを覚え乍ら衣装箪笥に忍び込み、観音開きの戸の隙間から、仕事中の幾芽の姿を盗み視ようと目論んだ。  暗闇の中で息を顰め、凝と待つ。長持の内側程の狭い空間に、己の荒い呼吸だけが響く。息が上がっているのは、空気が足りない所為だけでは無かった。  暫くして、晋太郎の部屋に幾芽が掃除道具を携えて這入って来た。  愈愈、心臓が大きく跳ねた。  幾芽は慣れた手付きで躊躇いも無く叩を振るい、布巾を掛け、寝台の敷布を直し、屑籠を攫っている。舞踏かと見紛う程の、美しく、流れるような動きである。  隅から隅まで丁寧に清掃する姿に、初めこそ、ほう、と溜息を漏らしていた晋太郎だったが、  いや、待て。  ──やがて、心臓がぐつぐつと痛み出した。  あの様子では、この衣装箪笥の中も開けられてしまうのではないか──?  考えてみれば、それは至極当然の事である。こんな場所に潜む前に、何故思い至らなかったのか。  欲と衝動で、思考がおざなりになっている。後悔しても手遅れだ。  動悸が激しくなる。最早観察どころでは無くなっていた。  若しも、幾芽に見つかったら、何と云い訳をすれば能いのだろう? ……既に、その事ばかりが頭を支配してしまっていた。  部屋を動き回る幾芽が僅かでも近付く度、晋太郎の臆病な心臓が大きく跳ねた。声に出せぬ悲鳴の代わりであろう。  処が〝不思議な事〟に、結局幾芽は晋太郎が潜む衣装箪笥には一切触れぬまま、彼の部屋をさっさと退室して行った。迚も不自然である。だが、助かったと素直に安堵する弛緩の前に、その疑問は些末であった。  その晩、寝台に潜り込んだ晋太郎は、遅れてやって来た興奮に悶え乍ら、独り慰めて果てた。  斯様な失敗を踏みながらも、この興奮に味を占めた晋太郎は、家のあちこちに潜みながら幾芽を観察する悪癖……否、淫癖と呼ぶべきか……兎も角、そう云った癖が付いてしまった。こうなっては、衝動に反目する倫理観など興奮を呼び起こす材料でしか無い。  晋太郎が大胆にも観察行動を続けるようになった根拠だが、寧ろ幾芽の方に在ると彼は考えた。平たく云えば責任転嫁であるが、嘘偽りかと云うと、そう断定する事も出来ない。  そう、根拠は有る。  衣装箪笥に潜み覗き観ていた光景は酷く鮮烈で、今でもあの時の様子を克明に思い出せるのだが、如何しても或る違和感が拭えなかった。  小忙しそうに動き回る幾芽を何時迄も観ていたいと云う欲求と、長引けば何時かは発見されてしまうだろうという背叛のただ中で、それは甚く小さな、ともすれば容易に見落としてしまいそうな事であった。  幾芽が身体の向きを変える度、貌に掛かる前髪が揺れる度に、晋太郎は眼を瞑りそうになった。  幾芽の目が怖かったのだ。  だが、次の瞬間には安堵の息をもらす。──見つからずに済んだからだ。  ──然し。  然し、だ。  其れは些か、奇妙過ぎる。  ……如何して、一度も、目線が重ならないのか。  避けているのか。それは詰り、幾芽は此方が観ている事を知り乍ら、気付かない振りをしていると云う事なのでは無いか?  ほんの僅かな隙間の開いた観音戸を隔てた先に、何者かが潜んでいるのだと識っているからこそ、其処に目線を合わせないのではないか──?  そんな疑問に、証拠など有ろう筈も無い。  だが果たして、そのような偶然が、本当に起こるものだろうか?  ……結論から云えば、これは的っていた。  隠れ乍ら使用人を視姦する晋太郎は、姿を晒していないだけで、気配は消えていない。幾芽は、それに勘付いていたのだ。  とは云え、彼女の真意は今以て判らぬ。  然し、識ってい乍ら此方の行為を黙認していたのだとなれば、それは都合の良い妄想に結び付く。  幾芽は、〝視られたい〟のかも知れない。  生活の残滓を始末する使用人の姿を観て興奮すると云うのは、誰にも明かせぬ淫癖であろうが、然し元を糺せば雇主の生活痕を片付ける事で悦に浸る使用人というのも、それはそれで倫理に欠くのではないか。そんな実態は、其れこそ当人が匿すべきであろう。処が幾芽はそうではない。凡てを踏まえた上で、晋太郎は考える。  此れが、幾芽の欲求の形なのではないか?  ──なんと都合の善い解釈であろう。だが、悪趣味も相手に容認されている行為であると思えばこそ、不用意な侭であっても肝が据わってしまうのだ。  このように、成る可くして、寝ても醒めても、晋太郎の頭の中には、隠れて覗いた時の、あの幾芽のしなやかな躰の事しか浮かばなくなってしまった。  堂々と視る事には、最早興味も湧かぬ。  その昂りは床に入る時間を過ぎても治らず、何度己を慰めても収まらず、身体が欲する最低限の睡眠まで阻害し出してしまった事が、目下の悩みになってしまった。  或る日の夜中。  眠れぬ晋太郎は、厠へと立った。  真直ぐに伸びた廊下の闇を、窓から差し込む月の光が削り取っている。  梅雨時のしっとりとした空気が、寝巻きの隙間から這入ってきて、麻の下で游ぐ晋太郎の細い身体を撫で回してくる。極めて不快な夜である。  じわりと濡れる肌が、汗なのか、露なのか判らぬ。  ああ──。  ──知らず、晋太郎の唇の端が、つつうと吊り上がる。  この頸を伝う滴を、幾芽が拭ってくれたなら──。  それは、とても心地が好さそうだ。  酷く淺ましい妄想が、晋太郎の胸を擽った。  彼の頭の中で、既に淫猥にしか視えなくなってしまった幾芽の白い手が躍る。妄想など、物理的に起こっていないと云うだけで、現実と然して変わりない。  彼はすっかり、幾芽の美貌の虜になってしまっていた。  其の時──、  ぴちゃり  ──小さく、水が跳ねる音がした。  雨か。そう思い、窓の外を見やると、満月が浮かぶ夜空には、霞雲一つ掛かっていない。  ──抑抑。  音は。この音は、何処から聴こえてきている?  晋太郎は思わず立ち止まり、ぶるりと身体を震わせた。  息すらも止めて、聞き耳を立てる。  ぴちゃ  ぴちゃり  水音は止まない。  若し。若しも、これが蛇口から溢れ落ちた雫が桶を叩く音であったならば……  音は、一定の間隔を刻む、規則的な填補であろう。  だが。  ぴちゃり  ぴちゃ  ちゃ──  然し、此れは、そうでは無い。  鳥肌が立つ。  丑刻、不規則に響く水音など、凶事でしか無い。  晋太郎は畏ろしくなって、淫らに酔っていた貌を一変青くさせ、膝から崩れ落ちそうになった。  すわ、幽霊か物怪か。  ……幼児でもあるまいに、と己を罵る己の声は──遠い。  ──觸れてはならぬ。  ……觸れれば──祟られてしまう。  息を殺した侭、足音や衣擦れも立てぬよう、じわりじわりと、足を這わせる。  奥歯が当たる音が、水音を滴らせるナニカに届いてしまわないかと、細い神経が縮み上がる。  ──逃げなければ。  この侭、何事も無かったと云うように。  足の裏に掻いた汗が、一層蛞蝓の如く床を舐めた。  ねとり、ねとりとした感触が、恐怖を更に肥大させる。  空気は温いが、脳が凍えてしまいそうだ。  すると、  ぁ──  ──は……ぁ……  水音に混じって、吐息が漏れるような聲が、晋太郎の鼓膜を揺すった。  ちゃ  ぴちゃり  ぁ──は……ぁ──  ……理解が追い付いた途端、晋太郎はぞぞりと戦慄した。  婦の、聲である。  生まれて初めて耳にする、色めく婦の声である。  其れは想像していたよりも甚だ禁忌的な響きを持っており、晋太郎の心にネトリとへばり付き、強い罪悪感と背徳を呼び起こさせた。  聴いてはいけない。そう直感する。  然し、其れはもう無理だ。  音は言葉──理解可能な言語と認識した時点で、声と識別してしまう。人の脳、或いは意識とは、一度でも受け容れてしまったものは、無視が困難になってしまうものだ。そしてそれは、言葉にも成り切らない、人の声らしき音であっても変わらぬ。  晋太郎は耳を塞ぎたかった。……容易では無いが、可能だった筈だ。それでも、そうしなかったのは、初めから聲の魔性に魅入られてしまっていたからに他ならない。  誘惑に屈服した晋太郎は、ふらりふらりと吸い寄せられるように、水音と聲のする方へと歩み、虚ろな目でその出処を探し始めた。  行き着いた先は、風呂場である。  水廻りは善く無いモノが溜まり易いというのは、古来依り伝わる迷信であろうと思っていたが、暗い場所に響く水の音は、確かに冥府より漏れ聴こえてくる死者の聲のようで、晋太郎は理屈よりも先に実感を得てしまった。  戦慄が、心身を硬く縛る。  硝子戸を隔て、くぐもった水音と聲が、晋太郎の心を脅かす。  砂の山が崩れるように、晋太郎の腰から下が、くしゃりと折れた。生まれて初めて、腰を抜かしたのである。  本能が、視てはならぬと拒否している。  が──晋太郎は、泪を浮かべ乍ら、冥府へと繋がる唯一の遮蔽物に手を掛けた。  彼には確信があったのだ。  聲の主は──幾芽か。  音を立てずに、戸を引いた。  ぴちゃり  ぴちゃ  ちゃ  は──ぁ  ぁ……はぁ──  あぁ。と心の中に安堵とも落胆とも……或いは歓喜とも畏怖ともつかぬ感情が滲み出た。  窯も、壁も、床も、細かな唐瓦がびッしりと敷き詰められた新洋式の浴室。見慣れた召使服が、四ツ這いの姿勢を取っている。  格子窓から挿し込む月明かりを浴びて、艶めかしく、曲捻曲捻と蠢く其れは、人の形をしてはいるが、──最早、人には視えなかった。  だが、然し。だからこそ、見間違いようが無いのだ。  ……幾芽──。  ぴちゃり  は──ぁ、はぁ……  幾芽は──まるで、物怪であった。  這い蹲る格好のまま、上気し、陶酔した顔は風呂場の床に寄せ、太く長く肥えた蚯蚓か蛞蝓が如き物体を、其の美しい唇から垂らし、其の尻尾が浸浸と唐瓦の目地を──  ──ああ、ちがう!  晋太郎は震え上がり、指の背を、思わず咥えて噛んだ。歯を鳴らさぬ為である。痛みを感じる暇は無い。故に、彼の指の皮膚は微かに裂け、血を滲ませていた。  彼れは、──あれは、舌だ。  赤く、ぬらぬらとした物体が風呂場の床を這い回る度に、ぴちゃぴちゃりと湿った音を立てる。  幾芽の口はだらしなく開いた侭、糸を引く滴が唐瓦に落ちる、その傍らで、はぁ、と喘ぐように息を吐いている。  晋太郎を震え上がらせた物の正体、その凡てが、其処に在った。  一体、何が起こっているのか、全く判らない……。  然し、理解が追い付かぬとて、眼前で起こっている出来事は現実である。  この光景が丑三に視る夢幻の類であったのならば、どれだけ幸福か。こうしている今でさえ、万が一にも、と──そう願わずにはいられなかった。  そして、望み通りこの状況が夢であったとしても、目を醒ます迄は……陽が昇り、何もかもが詳らかになる光を目にする迄は、夢も幻も、認識の上では現実であろう。  晋太郎は淫猥な悪夢の中に閉じ籠められた心地の侭、目を逸らす事も忘れて、只只使用人が床や壁を嘗め回す面妖な景色を見詰めていた。  魂が抜けた晋太郎の前で、幾芽は躰をむくりと起こし、両の掌で辿々しく口廻りを拭うと、酒に酩酊した様なうっとりと蕩けた視線を流した。  あ──ぁ──。  何と、破戒的な色気であろう。  濡れた水晶のような瞳は、其の侭、浴槽の傍に置かれた檜の板を組んだ腰掛に留まる。  幾芽は赤子を抱く様な仕草で檜の腰掛を胸に抱えると、やにわに口唇を寄せ、愛おしそうに接吻をした。  ぞくり、と冷気が背筋を駆け抜ける。  そこは、毎日毎晩、晋太郎が裸の尻を置く場所である。  つい先程も晋太郎は、あの口撞けされた箇所に尻を載せ、せっせと身体を洗ったばかりだ。  少年にとって尻とは、人前では秘匿し、決して曝してはならぬ、恥ずべき不浄なる部位である──と、そう教え込まれている。故に、間接的とは云え、その尻が触れた場所に口を撞けるのは、淫らと云うよりも、禁忌を破る行為として写った。  それでも、その禁を侵す姿は何処迄も淫靡であったので、晋太郎は幾芽の奇行を通じて、それが欲情を掻き立て淫らな興奮を呼び覚ます行為なのだと知った。  ずろり、ずろりと檜の上を這う幾芽の舌を視ていると、尻の辺りがこそばゆくなる。  さも、この尻を直接嘗め廻されているかのような──そんな錯覚である。  幾芽は舌舐めずりをして、腰掛を裏返した。  比較的新しい腰掛であったが、晋太郎は裏面を見た事はない。ああいった物は、幾芽が常に清潔に磨いているのだと思っていた。  だが、あの様子を見るに、恐らくそうではないだろう。  晋太郎は、幾度となく幾芽の行動を見てきたから判るのだ。  あれは湯垢と黴の温床であり、滑子茸の如く滑る不潔であろう事は間違いないだろう。  美しい貌が、淫猥な面相に捩れていく。  獲物に牙を剥く獣のような恐ろしい様相でしかないのに、そこから滲み出る歓喜の色から目を逸らせない。  憧れ続けた緋色の口唇がぬらりと開いて、その奥から涎に塗れた蛇の如き肉竿が溢れ出す。  ああ、そんな……やめて……。  晋太郎は懇願するような目で何かに祈り続けるが、届く事は無い。  黒褄み光る檜の肌に、べたぁり、と幾芽の長い舌が触れた。  収縮する紅い筋肉が、丁寧に、丁寧に、檜の肌に付いた穢れを刮ぎ取っていく。  舌の上に穢れが累積していき、幾芽はそれをゆっくり口の中に戻すと、水飴を味わう子どものように頬の内で溶かし広げていた。  悪寒が走り、吐き気を催すような、冒涜的で、正視に耐えない情景である。  然し、その負債を捩じ伏せるだけの魅惑が有った。  生の歓喜を感じさせるエロチックな美しさではない。病と背徳に満ちた、タナトチックな鬱くしさである。  それ故、新雪が如き晋太郎の精神は、美しい泥垢にすっかり汚染されてしまった。  どれだけの時間をそうして過ごしていたか。  晋太郎は忘我の内で、風呂場の彼方此方を舐め擦る幾芽を、只只見守り続けていた。  他に出来る事など、在ろう筈も無い。  此処から立ち去る事すら、思い付かなかった。  幾芽の性癖を細かに知る事で、それ迄彼女に抱いていた幻想が壊れて去くような気がした。  それだけで済めば、まだ良かったのかも知れない。現実には、その頽れた幻想の残骸から、仄暗い場所に咲く黒百合の如き美醜入り混じった現実が咲いたのである。壊れたのは、晋太郎の方であろう。  幾芽の、動きが止まった。  晋太郎の、息が止まった。  幾芽の両眼が、晋太郎を捉える。  晋太郎の心臓が、恐怖で跳ねた。  彼女の濡れた瞳は、悪事を目にした晋太郎を責めも咎めもしない。それが逆に畏ろしかった。  つう、と猫の足運びのような慎重さで、幾芽の指先が唐瓦の上を歩いて来て、晋太郎は後ろに退がろうと手をつく。まったく力が入らず、肘がカクリと折れて、倒れた。  その様を視て、幾芽の眼が一瞬だけ大きくなったが、再び蕩りと半分に瞑られた。嗤ったのだろう。晋太郎は顔が熱くなった。  獣の様な姿勢の侭、冥府から現世へと這い出でようとする物怪が、にこりと笑みを作った口唇から、赤く艶めく舌を垂らした。  生命の恐怖を感じ乍ら、それでも物怪じみた幾芽への慕情を殺し切れぬ。感情の綱引きの結果を、晋太郎は受け入れるしか無かった。 「坊ちゃん──」  幾芽が、いつもの呼び方で、晋太郎を呼んだ。  耳が濡れた、と思った。  識っている者の声の筈なのに、圜で聴いた事の無い色めいた響きを含んでいる所為で、頭の中が掻き乱された。その混乱が生んだ幻覚である。 「いく、め」  酷く縮み上がった声が、晋太郎の喉から溢れた。  放り出した両足の間に、幾芽の躰が滑り込む。その侭、ゆらりと指先を伸ばすと、かたかたと震える彼の頬に、そっと触れた。  彼女とはそれなりの時間を共に過ごしていたが、こうして触れられたのは初めての事である。  幾芽の手は想像の通り柔らかく、そして、凍てつく程に冷たかった。  優しく、淫らに微笑む幾芽に、晋太郎は頬を引き攣らせるような笑みを返した。  欲情し、快楽を求める婦の貌をした彼女を、何時も想像するしか無かった。それ迄の蜃気楼の様な虚像を、現実が塗り替えていく。  数え切れない程、彼女の妄想で自分を慰めていた晋太郎は、条件反射で下腹部が疼くのを感じた。  幾芽の視線が落ち、晋太郎の脚の付け根に注がれた。彼の秘部が寝巻きを微かに持ち上げている。  婦から局部を凝視された経験が無い彼は、恥を感じるばかりで、興奮の遣り場が判らないでいた。 「ああ、ぼっちゃん。矢張り、ご覧になっていらしたのですね──」  幾芽の問い掛けに、身体の一部分だけが脈動して応える。 「なに、を」  ──知っている筈だ。  今まで僕が観ていた事も、今観ていた事も。  頬を撫でていた幾芽の手が、顎から首筋、寝巻きの胸元、腹の上を通り……股間で小さく隆起した山に行き着いた。痺れるような快感に、思わず腰が浮く。其の初心な反応の一つ一つを愉しむように、幾芽は愛おしげな目を向けた。  ──間違い無い。彼女は知っているのだ。  晋太郎はとうに、畏れよりも淫らな行為への期待に取り憑かれてしまっているのだと──。  湿った息遣い、焦らすように弄る細い指先、上擦った甘い声、咽せ返る程の背徳感。事態は緩やかに進行していたが、二人は自制と欲情が生み出す緊迫の只中にあった。  幾芽の手が晋太郎の寝巻きと下穿きをずらす。  籠っていた熱と共に、それは幾芽の顔の前に溢れ出た。……まだ、大人の形に成りきれていない自身の陰部に視線が注がれる。鼻腔を微かに刺した匂いに、晋太郎は再び顔を熱くした。  小便とはいえ、排泄物には違いない。憧れ続けた異性には知られたく無い痴態なのである。匿さねばと思うのは自然だ。  然し、幾芽にとっては──、 「はぁ……素敵ですよ、坊ちゃん」  ──そうでは、無かった。  晋太郎は幾芽を理解出来ていないと思い知った。  自らと幾芽との共通点として、陰、或いは隠に惹かれているのだろう、という気付きは、概ね間違いではない。然し、二人には思考の違い……否、この場合は嗜好の違いと云うべきであろうか……兎に角、そう云った差異が、確かに在ったのだ。  其れを晋太郎は、〝一度も目が合わない〟幾芽に、見つけてしまったのである。  彼女には、晋太郎が視えていない。  無論、視覚の話では無く、概念的な意味としてだ。  幾芽が欲しているのは、自分ではない。  自分の躰の中に潜む、〝幾芽を満足させ得るナニカ〟なのである。  そう考え至った時、晋太郎の精神は融解し、幾芽に対する憧情は瓦解した。  胸の中を冷たい風が吹き抜けて、美しく聳えていた慕情の塔が沙の如く崩れていく。……それは、晋太郎が初めて経験した、虚しいという感情であった。  幾芽の長い舌が、捕食器めいた妖しさを放ち乍ら、晋太郎の股間近くで畝る。  小便の匂いに、蝕欲を喚起させられたのかも知れぬ。  怖気に襲われている晋太郎を尻目に、幾芽は眼を輝かせ乍ら、舌の先を伸ばし──包皮から顔を覗かせている鈴口に、ひたりと当てた。  びくり、と晋太郎の背中が震える。  熱い様な、冷たい様な、温度の判らぬ快感である。  幾芽の舌は、針よりも細く絹よりも軟らかい毛をびっしりと揃えた処に油をたっぷり染み込ませた刷子のようであり、撫で付けられた箇所は痺れるような快楽だけを残して、それ以外の知覚が駄目にされてしまうのだった。  局部の小さな切れ目から匂いが消えると、幾芽は優しく手を添えて、繊細な箇所を覆う包皮を剥き下ろした。 「────っ!」  其処は、空気に触れるだけでも、強い刺激を感じる程に過敏な箇所である。故に、童児期は厚い皮膚で守られているのだ。  そうして剥き出しになった赤く充血した皮膚には、点点と──白い塊が付着ていた。 「ああ────」  幾芽は、性欲と蝕欲とが熔け合い、重複している。抗えぬ生存の為の欲求の連珠とは、つまりそれだけ強大な衝動の塊に他ならない。  幾芽の、ヒトとしての箍が──毀れる。  不浄なる箇所を凝視め、感嘆の息を漏らす幾芽の貌は、晋太郎からは見えない。  若し──見えてしまっていたのなら、彼はその悍ましき艶顔に、失神する事も出来たかも知れない。  駆け出した狗の様に、浅く速い息を吐き乍ら、幾芽は晋太郎の局部を貪った。  舌の表面に涎を纏わせて、塗り込む様に竿に這わせ、飴の如く粘ついた其れを、一息に嘗り上げる。  其れは、消化液で獲物を溶かし、舌を這わせて啜り上げる蠅の様な姿である。  実に醜く、下品な愛撫だった。 「〜〜〜〜〜〜っ‼︎」  脱衣場に、少年の、聲に成らぬ悲鳴が打ち寄せる。  恐怖を上回る快感は、生物としての自己を喪失した感覚を晋太郎に植え付ける。  悲嘆に暮れる以外の絶望は、理性という言葉を持つ人間にしか獲得し得ない。生命を喪う事以上の不幸は、斯様にして実在する。  幾芽への恋慕と己の淫癖、幾芽の嗜好と其の範囲に自分は不在であると云う諦念、凡てが噛み合わぬ中で何も可にもが如何でも能くなってしまう至上の享楽……晋太郎の思考の許容を遥かに超える情報と感情が、徐徐にその人格を変容させていく。  ぢゅぐ、ぴちゃ、ずずず……  咥え、舐り、啜る音。  未だ若い晋太郎は、何も識らない。  ──だが、これが夢想していた〝愛〟で無いと云う事は、間違いない。 「坊ちゃん──ぼっちゃん──」  性的な雑音の合間に、譫言が聞こえる。  呼ばれた晋太郎は、然し、自分自身が求められている訳ではない事を、已に知っていた。 「もっと、下さいまし。もっと、もっと慾しい──」  其の甘く絡み付く様な懇願は、只只、幾芽の餓えた肚を満たす為の…… 「う…………」  幾芽が、晋太郎の局部を呑み込む。  そうして、己の足の付け根の近くで上下している幾芽の後頭部を、晋太郎は虚しさに満ちた眼で見下ろしていた。  彼女の行為には、何処にも好意が無い。……そう実感した刹那、晋太郎は泣き出した。  何一つ噛み合わない淋しさに、為す術無く屈服したのである。  幾芽の向こう側に、月の光が差し込む浴室が見えた。  其処で穢らしい湯垢と黴を美味そうに嘗め取っていた幾芽の姿を思い出す。  そうか──、  自分は、彼処と同じなのだ。  恋などと、勘違いも甚だしい。  欲に沈み、澱み、生臭く湿った心を納めたこの肉躰は、幾芽の肚を幾らか埋める糧を生み出す器官としての価値しか無いのだ──。  突然、痛みの無い電流が走り、何処迄も墜落していくような感覚に襲われた。下半身が溶けて、それを凡て搾り盗られていく様な絶頂で、晋太郎は幾芽の口内に精を吐き出した。  残酷で、屈辱的な満足感である。  それでも、能く識る虚無の味では無いのは、女の体温の中で達したからなのだろう。それが殊更悔しく思えた。  絶望の上塗りは、虚脱した晋太郎の心根を元から手折る。  淫猥な悪夢が終わりを見せても、已に涙の一滴すら湧き起こらない。  そう云った凡てを、悉く幾芽に奪われてしまった心地であった。    ……ああ、矢張り──、  ──幾芽は、物怪だ──……。  * * * * *  半月が過ぎた。  優しい月光が窓から差し込む浴室の中央に、晋太郎は立っている。  その脇には、幾芽が跪いていた。  徐ろに腕を上げた晋太郎の腋の窪みを、幾芽は丁寧に嘗め始める。  小さな、聲が漏れた。  擽られている様な感触も、慣れれば石鹸を含ませた手拭いで洗うより気持ちが好いと感じるようになった。  ぴちゃ……ぴちゃ……  水音に加えて、荒い息が腋に掛かる。思わず退こうとした晋太郎の脇腹の上に浮いた肋を、幾芽のしなやかな指が押さえた。  暫くすると、今度は膝の裏へ、其処から足の指の間へと……幾芽の舌は次々と晋太郎の躰の奥まった部分を舐め回し、溜まった垢や滓を啜る。  この数日間、晋太郎は風呂の時、態と躰をぞんざいに洗っていた。洗い残しを作る為だ。  ……当然、理由がある。  幾芽は人の穢れを慾している。  それならば、自分が用意すれば能いのだ。  あの日。散残な目に遭った筈の晋太郎は、それでも幾芽を諦め切れなかった。  幾芽の蕩けた眼が、白く美しい指が、焔の様に赫い舌が……いつ迄も目蓋の裏を焦がすのだ。  淫らな悪夢の後、幾芽は淡淡と、何事も無かったかの様な振る舞いで、腰を抜かして放心している晋太郎に傅いた。  自室の寝台迄肩を支えて呉れたのは、優しさや愛情では無い。只の、業務なのである。  ……其の事を知っていても、密着する柔らかな躰に、晋太郎の気持ちは揺らいだ。  理屈で量れぬ出来事に遭遇した今、この感情の揺らぎだけが真実に思えた。──思いたかった。  仮令、間違いであっても、元より正解など無いのなら、幾芽が傍に居て呉れる間違いの方を撰びたい……其れが晋太郎の本心なのであった。  そうして、幾芽にこの話を持ち寄ると、彼女は呆気無く其れを受け入れた。  今更感動も驚きも無い。当然だと感じた。  幾芽自身にしても、何処かで斯様な運びになる事を望んで──否、判っていたに違い無いのだ。  幾芽とは何処までも交わらないが、それでも、こうして判ってしまう事も有る。  それは、縁側の下に出来た蟻地獄に、一匹の蟻を落とした時の気分に能く似ていた。  蟻地獄の心は理解出来なくても、摺鉢状の窪みに餌をやれば如何なる結果になるかは判る。……実に、皮肉が過ぎる。  父は、使用人に背中を流させる息子を疼痒い貌で見ていたが、畏らく都合の能い納得の仕方をしているのだろうから、何も云うまい、と思った。  晋太郎は、跪いた姿勢の侭、局部越しに此方を見上げる幾芽の顔を眺めた。  其の貌は、今後も事有る毎に彼を誤解させ、そして裏切り続けるのだろう。  只只、心を預け、身を委ねられる相手を、幾芽に求めていた晋太郎の願いは、永劫叶わぬ。  儚く淡い願いを奥歯で磨り潰し乍ら──、  晋太郎は、此の物怪を飼育い、  ……そして、飼育れる事を決めた。                       了

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豆腐小僧

『豆腐小僧の事』  童の姿にて 笠を被り 笑ひ 駆ける  抱へたる皿に 真白き豆腐を載せてゐる    うふふ  あはは  笑い、奔る。  皿の上の豆腐が、ふるふると震える。  その様が楽しくて仕方ないと云うように。奔る、震える、笑う。うふふ。  甘い、大豆の匂い。涎が垂れる。舌舐めずり。あはは。  その、繰り返し。  小僧の姿を見た町民は、気味悪がった。  気触れの童には、同情も憐憫も、掛ける義理は無い、と云わん許りに、顔を顰めたり、見ない振りをした。  あはは  うふふ  黄昏時、嬉しそうに駆け回る小僧は、忽ち噂になった。  如何にも様子がおかしい、と囁かれ出したのは、季節が変わり、巡り、梅の花が二度散ってからだ。  小僧は、いつ迄経っても小僧だった。  すわ、もののけか──。  誰かが、そう嘯いた。  妖怪、豆腐小僧。  豆腐一丁を載せた皿を手にした童子。  何処からとも無く現れ出でては、何処へなりと去って行く。それだけ。  しかし、それが、却って不気味である。  悪さの一つもしようものなら捕まえて折檻せんと構える者達を尻目に、小僧は豆腐を手に、笑って奔る。奔る。奔る……。  陽が傾き出すと現れ、通りを駆け抜けて──真実、只、それだけ。  もののけ奴(め)……何を企む。  駆けて行く背中を見て、伸びた月代をひと撫でし、飯田藤介は呟いた。  余所の国から流れてきた、日々を活計の傘作りに明け暮れ過ごす、やや朴訥とした元御家人である。  藤介は思う。人は、判らぬモノが畏ろしい。その、畏ろしいモノに対して、人が出来ることは二ツだけ。目を逸らすか、排するかだ。  豆腐小僧は、徹頭徹尾、何から何まで判らぬ。  理由も目的も、所作の意味もだ。  何故豆腐なぞを抱え、何故奔り廻り、何故笑うのか。皆目判らぬ。判らぬから、怖い。  只只笑って駆けるだけに見える小僧ではあるが、その肚で善からぬ何事かを企んでいるのかも知れぬ。  その疑いに、証拠は無い。  だが、疑わぬ根拠も無い。  つまり、正確に云えば、藤介は小僧が畏いのではない。  小僧に感じる不安が畏ろしいのだ。  そんな藤介の不安を余所に、妖怪は一向に馬脚を顕さなかった。  そこらの童子でも、蜻蛉の尻に藁を括って玩具にしたり、夕餉の支度をする母親の背中に蛙を入れたりするものだが、豆腐小僧は、そんな悪戯すらする気配がない。  何せ、手にしているのは豆腐だ。  それに、両手で大事そうに豆腐の皿を支えているものだから、あの様子では蜻蛉も蛙も捕えられぬであろう。  豆腐に鎹、とも云う。……豆腐なぞ、何にもならぬ。  そう──もしかしたら。  やはり、企みなど無いのやも知れぬ──。  顕す馬脚など、始めから無いのであろう。  豆腐を抱えて駆ける小僧の姿に見慣れた頃、藤介はそう思うようになった。  そうして、ひとたび鼻から息を漏らし、警戒を解いてしまえば何と云う事も無い。大根を狙う烏よりも、干物に近づく蠅よりも、豆腐小僧は無害なのだと実感し、胸中の霧は嘘のように晴れた。  訥々と、駆けてくる足音。  あはは  うふふ  害無しと識れば、珍しき虫や鳥獣と差して変わらぬ。やがて面白がる程の余裕も湧いた。  やがて、巷では。  白豆腐の拍子木。豆腐で歯を痛む。豆腐に釘。豆腐に腕押し……。  ……何でも勘でも、豆腐豆腐。  人々の口からは、小僧に肖る如く、豆腐の二文字が矢鱈と聞こえるようになった。認識を改める事で、異質なるモノとの距離を量る、ひとつの智慧であろう。  藤介自身も、もう何も感じなくなっていた。  柳の傍で花巻蕎麦を啜り、去っていく小僧の後ろ姿を眺めて、感慨の一つも浮かばない冷めた己を実感するばかりである。 「薄気味悪う御座んすね」  何者かの声に、藤介はびくりと震えて振り向いた。  見れば、脇腹のあたりで、ずずと音を立てて丼を煽っている行者姿の小男が居た。  藤介には、修験者と山伏と僧の区別もつかぬ。  いつから、そこにいたのだろうか……藤介は、全く気がつかなかった。 「そう、かのう」  茶を濁すような間抜けな言葉を返した己に、思わず唇を強く結んだ。 「ありゃあ……物の怪の類で御座いましょうな」  夕暮れの冷たい空気に、白い湯気の吐息を溶かしながら、行者は言う。  藤介は何故か、むっとした。 「そうであろうが……害が無ければ問題なかろう」 「害が無ければ」  くつくつと、可笑しそうに、行者は肩を振るわせる。  あまりの小柄に、藤介からは白頭巾の頂きしか見えぬ。 「ではもし、害があるなら」 「害があるなら……退けねばなるまい」  その問答はつまらない。藤介は十六文を握って蕎麦屋に突き出す。老いた蕎麦屋は恭しく両手で戴いた。 「斬る──んですかい」 「まさか」  似つかわしく無い言葉を発する行者に、藤介はギョッとしてから、顔を顰めた。 「フフ。まァ……餓鬼ですからね」 「歳の問題でもなかろう」  物の怪に、歳というものがあればの話だが。  ……あの小僧は、現に、いつまで経っても、小僧なのである。 「丹波に、──」  不意に声色を変えたので、藤介は去り損ねてしまった。 「居たと、聞きましたがね……」 「丹波、に?」 「豆腐を抱えた、小僧でさァ」  行者が言い、藤介は通りの向こうに目をやった。  そちらにはもう、何も居ない。 「あすこの豆ぁ旨いと聞きやす」 「……う、む……?」  惑い、答えに窮する藤介を尻目に、行者はのんびりと丼の中の汁を啜っていた。 「それだけに、豆作りが活計の百姓にぁ、大豆ってなァ死ぬの生きるのの大事になっちまうそうで……」  だいじな、だいず──ですよゥ。行者は言うが、何も笑えない。 「中にはね、そりゃァえげつねぇ企みで取り潰されたって家も、在ったそうでさァ……」  行者の語り口は、蕎麦を喰ったばかりの腹の具合を悪くさせる程、不気味であった。 「たかが豆でか。騙りであろう」 「だと、良いんですがねェ」  ふふふ、と小男が笑う。真か、法螺か。 「土が痩せちまって、水が澱んじまって──ああ、この豆が最後……だが、この豆が御殿様のお気に召して呉れるのならば、と……何某の家の小僧が豆を持って、御屋敷まで奔ったそうで御座いやすよ」  両手で籔を抱えるような仕草をする小男を、藤介は何も言わずに凝と見ていた。 「……ところが。小僧は屋敷に行ったきり、フッと何処かへ消えちまったらしい」 「……どういう、ことだ?」  藤介は眉間に皺を刻んだ。 「さァね」  行者は、嗤う。 「なァんにも、判りゃァしねェ。兎に角、小僧は消えちまった。同じ頃に、他の百姓も、何人か。……そいつらと引き換えに、その土地にゃァ豆腐抱えて笑い乍ら奔る小僧が現るようンなった」  藤介は、ぐっと感情を飲み込む。 「何も判らん」 「そりゃァそうです。まったくその通りでさァ」  藤介は苛苛としてきたが、小男は愉しげである。それが更に不快を煽る。 「小僧は少々〝足りなかった〟ってェ話だ。道に迷って死んだのかも知れねェ。他の家の者に殺されちまったのかも知れねェ。天狗に遭ったか河童に遭ったか……。いやいや、大事な大豆を駄目にしちまったってんで、蒸して潰して漉して拵えた豆腐を持ってったら、そいつが御殿様の怒りを買って、そのまま手打ちンなったンだ──とも、言われておりやす」 「して、どれが本当なのだ?」 「判りゃァしませんよゥ。もう、何ン年も昔の話でさァ」  行者は汁を飲み終わったのか、懐に手を入れて銭入れを鳴らす。 「何故……豆腐なのだ」  藤介の言葉に、 「さて。あのナリで油断を誘って、誰も構えなくなるのを待っているんだとか」 「油断だと」 「豆腐を持っていやすでしょう? 確かに、あんなモン抱えて奔ったって、何ンにも出来やしねェ。……でもね、そう思い込ませるのが、奴の狙いだッてンですよ」 「どう云うことだ?」 「怨んだ相手に出会した時だけ……あの豆腐は黒鉄よりも硬く、重くなるンだとか。……そして、そいつをね……」  小男は思わせぶりに、小銭入れを握った手を中空で振り下ろす。  その先で、何やら赤いモノが弾けたように見えた。  幻、であろう。 「あの、豆腐が……意趣返しの手段だと?」  莫迦な。  そんな話、聞いた事もない。  ──否、然し。  藤介の頭の中で、先程の話と併せた瞬間に結び付き、薄すらと理屈めいた考えが湧いた。 『豆腐小僧は、何も出来ぬ。』  然し、それは、単に誰も真実を知らないだけ、と云う事にならないか?  この小男の言う通り、あの小僧が何処かで誰かを手に掛けていたとしても、『何も出来ぬ』と思い込んでいる民衆の中で、事実が黙殺されていたのだとしても……それを明らかにする術はどこにも無い。  逆を云えば、斯様な凶行が有ったのだという証明も不可能なのだ。  凡ては、正体の判らぬ霞か霧の向こう側、という事になる。  その曖昧さが、判然とせぬ不気味さを、更に複雑な印象に変えてしまうのだ。 「……フフ……」  鼻息だけで嗤う行者に、藤介は青くなった。 「ふん。 ……つ、創りであろう。お主の」 「サァ、如何でしょうねえ」 「おのれ、俺を愚弄するか」 「いいえェ、滅相も無い」  声色が落ちる。だが、詫びる態度では無い。 「……然し、まァ……なんと云いましょうか……」 「何だ」 「いえね、実に妙な話じゃ御座いやせんか──」  小男の唇の端が吊り上がる、気配。 「──旦那は、こんな与太話の一体なにが──畏怖しいんでしょうなァ……」    刹那、藤介を襲う、蟲の如く背筋を這う、極めて不快な……羞恥と罪悪感。  それらが肌から這入ってきて、心を、侵してゆく。  小男の噺に呑まれ、藤介の咽喉はすっかり張り付いてしまっている。最早、『うう』とも、『ああ』とも漏らす事すら出来ぬ程の憔悴に曝されていた。 「あぁ、御気を悪くせんでくだせえ。実のところ、旦那の仰る通りなンでさァ」  怯え乍ら顔を上げる。小男は相変わらず、悪びれた様子は無かった。 「今の話は、まるっと凡て、真っ赤な嘘なンですよゥ」  小男は物怖じもせず、早々に謀った事を白状した。藤介の中には刀の柄に手を置く気力も残っていないと知っているのだろう。 「……そうであろうな」  藤介の肩が些か下がるが、勿論安堵した訳ではない。 「豆腐を持った小僧なんぞ、事実何ンにもできやしねェ」  ……そうだ。そうなのだ。  斯様な法螺話など、畏れるに足らぬ。  胸中に響くそれは、己に言い聞かせんと説く声である。  然し。  小僧は、──在るのだ。  その事実が覆らぬ限り、小男の声が、言葉が、所作が、赤い幻覚が、藤介の心を捕え続けるのである。  藤介の中で、半紙に垂らした薄墨の如く、ぼたり、じわりと──恐怖が広がってゆくのだ。 「つまらねェ話で御座いましたね。何卒、御容赦を……」 「…………いや」  ここで怒る訳にも、震える訳にもいかぬ。藤介は出来得る限り憮然と構え、低い声で返答した。  豆腐小僧は、何もしない。  ──だが、真実は誰も知らぬ。  あの小僧の姿が──そして。皿の上で滑稽なまでに震える豆腐が、もう再び以前のような心持ちで眺められぬ事態になってしまった事を、藤介は静かに実感していた。  物の怪を形創るのは、物の怪自身ではない。  豆腐を抱えた小僧の実態とは、『それを捉えた者』が生み出す、只の『像』に過ぎぬ。  邪なる心の持ち主は、金剛力士の顔に恐怖する……それと同様であろう。 「──物の怪とは〝そう云うモノ〟なんでさァ」  厭な嗤いを一つ残して、行者は踵を返した。  取り残された藤介は、やり場のない気持ちを腹の中に沈めたまま、両の腕を袂に忍ばせ、歩き出した。                       了

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【四季書房】絡新婦悲話

[成人以外の方の閲覧は禁止とさせていただきます] [グロテスクな表現を含みます]  弥助の母が死んだのは先の冬、二人でささやかな喜寿の祝いをした翌朝の事である。  嫁を取ることも諦めて久しい弥助がその時思ったのは、これから何をして暮らせば良いのか、という悩みひとつであった。  野良仕事も、飯炊きも、水汲みも、洗濯も一人でこなし、母の世話をせねば、という使命感だけが生きる糧であった。  つまり、老いた母を大事にしていたわけではなく、只々日課として面倒を見ていたというのが正しい。弥助とは、そのような男だ。  春になり、遠くの山でやおら桜が咲き始めると、それを見た弥助は、ふと漫遊に出ようと思い立った。  老いた母が生きている内は、当然その様な事ができなかったので、胸中は明るかった。  母と暮らした家から離れ、知らぬ景色の場所へ踏み入ると、彼は漸くそれまでの生が伽藍堂であったと考え至った。  その事で母を恨んだりはしないが、自らの人生が空虚だったと惜しむ様になったのである。  魅勒の滝とは、深く切り立った荒久根山の西側に在る、高さ二十間程の瀑布である。  遥か上方から止めどなく直下する水塊は、さながら永遠に切れる事のない絹糸の大束のようであり、谷間に響き渡る轟音は、それ以外の音をすっかり食い尽くし、最早静寂と変わらぬ。弥助は初めて観る圧巻の光景に、言葉を失い乍ら立ち尽くしていた。  この世のものとは思えぬ美しさは、底無しの恐怖に似ている。  弥助の中には褒められた理屈も道理もないが、魅勒の滝は、それら全てを押し潰し、洗い流してしまう暴力的なまでの美に満ちていた。  何刻その様にしていたか判らぬ。気がつくと、真上に在った筈の陽が何処へか消え失せていた。  もう行かねば、と心の中で固く呟き、弥助は惜しむ様に滝の全てを目に焼き付ける。  漠然と、母親の死から己の人生が始まったような心持ちがしていたが、この景色はそれを確信に変えてくれたと思った。  ふと、  弥助の横に、一人の女が立っていた。  宵闇よりも深い漆黒に金の霞雲が浮いた、艶やかな着物に緋色の帯を締めた、白磁のような肌の細面である。  簪から下がる銀の鈴が、音も無く揺れた。  滝の飛沫と音の所為か、何処からやって来て、いつからそこにいたのか皆目判らぬ。  女の、長い睫毛に彩られた虚ろな目が、つつうと動いて、弥助を捉えた。 「━━━━━━」  間近で女を見た事が無かった弥助は、堪らず息を呑んだ。  その女は、滝のように弥助の心を押し潰し、洗い流した。  …………否、それ以上かも知れぬ。  弥助の胸の内には、先刻あれ程焼き付けた筈の滝の姿が、もう微塵も残っていない。  それは滝のような広大な自然が作り出す壮観とは明らかに違う、浮世から離れた面妖な気配が漂う美しさである。  女が吐息を漏らす。その唇から、甘い蜜のような香りが漂い出した。  くらくら、と景色が揺れる。  世間を知ろうが無知であろうが関係ない。弥助の理性は、とうに灼かれている。  物言わぬ女のカタチをしたソレを、一刻も早く奪い尽さねばならないが、手段を知らぬ。ただ、頭の芯と、胸の内と、尻と逸物の間が苛々した。  苦悶する弥助を眺めて、女は妖しげに媚笑した。  女は、物の怪だった。  弥助は、欲と畏怖とに挟まれて、身じろぎも出来ず、考えも一向に纏まらぬ。  しなを作りながら近寄る女は、弥助の首筋に、そっと指を伸ばした。  ひたり、と冷たくて柔い感触に、臍の下が痺れた。  そこから、するりと、女の指先が下りて、胸の辺りをなぞっていくと、弥助は情けない声をあげながら、息を吐いた。  喰われる覚悟まで解けてしまいそうだ。  女は、もう一方の手を、自分の着物の衿元にやる。そして、固く閉じた合せに差し込み、下ろした。  ふるり、と。青白い乳房が溢れ出す。  その先端の茜色に、目が釘付けになった。  弥助の衝動は明白である。だが、まるで乳飲子のような行為に掻き立てられる道理が判らず、困惑する。それでも、滝の飛沫がしとしとと降り注いで濡らす、その柔らかそうな房の先に口を寄せずにはいられない。  己(おれ)は、一体、何をしている……?  口の中に、生臭く、甘い、腐りかけの桃のような味が広がっていく。  気持ち悪い。  喉の奥から腹の中身が込み上げて、吐き出しそうになるが、腐った乳汁ごと飲み下してしまう。  轟轟と響く滝の音。ぢゅうぢゅうと必死に乳に吸い着く自分が、まるで自分でなくなってしまったようで、懼ろしい。  虚を憑かれた弥助は着物を優しく剥ぎ取られ、女の細い指で逸物をなぞられていた。  この、小便を垂れるだけの粗末な器官を、かつて百日紅の木に押し当てた事があるが、乱暴にした所為で切傷だらけになった。物の怪は、それを見透かしているのか。  するり、するりと女の手が動く。何も知らぬ弥助は、躰中を支配される快感に、腰を抜かして尻をついた。  岩肌に落ちた腰骨がおかしな音を立てた。だが、痛みがない。  弥助の痛覚は、女の乳房を吸った所為で、壊されていた。  だらしなく足を開き、畏れ乍らも女の手を求めるように、腰が浮き上がる。  己の股座を見下ろして、黒ずんだ逸物の周りを蠢き回る白い指に、ぞくりとした。  ああ、蜘蛛が。蜘蛛が這っている━━━━。  腰の中で暴れ回る何かが、快感と共に搾り出されそうだ。この緊張が切れたら、もう己は己じゃなくなる。そう確信する。  弥助が堪らず呻き声を上げると、女は唆り立つ逸物を手放し、立ち上がって、徐ろに帯を解いた。  岩場に広がる、宵闇と金の霞雲。……その上に簪が、ちりん、と落ちた。  とっぷりと日の暮れた、滝壺の傍ら。弥助の目の前に現れたのは、夜の中に揺らり浮かび上がる、女の白い裸である。  艶く曲線が、弥助の腰を跨ぐ。  白い二匹の蜘蛛めいた両手が、その両脚の付け根、一筋の切れ間を、開いた。  ━━━━糜爛が、涎を垂らす。    ぶつりと、弥助の理性が千切れる音がした。  女が腰を下ろす。弥助の逸物は、熟れた傷口に呑み込まれた。  じゅくり、と不気味な音が背骨を伝う。  腰は既に泥のように蕩けてしまっていて、形が判らない。  膝と肘を外に張って、四ツ脚の白い蜘蛛が、荒く息を吐きながら、闇の底で男を貪っている。  弥助は悲鳴をあげた。……あげたつもりだった。  だが、鼓膜の奥に響くのは、己のモノとは思えない、ぎゃらぎゃらという下卑た嬌声だ。  痺れるような快感に溺れ、弥助だったものは怒涛の内に擦り潰されていく。  しかし、その渦中に於いても、弥助の心は壊れなかった。  今際の際に思い返した人生の中身が、あまりにも惨めであった為だろう。  男の本能に訴えかける物の怪の妖術は、空虚な男には通用しなかった。  …………そればかりか。  弥助の手が、女の頬に触れる。そして、慈しむように、その白い身体を抱き寄せた。  女の姿をした物の怪の意図は、痛みを壊し、快楽に溺れさせ、その精到の中で男を喰らう事であろう。  だが、弥助は、それで良いと思った。  この伽藍堂の人生の終わりに、美しい物の怪に抱かれ、その果てに糧となる終わりが在るのなら、そうした意味を残せるのなら、それで良いと思ったのだ。  それは、人として、生き物として、明らかに異常を来した心情である。  故に、弥助の最後の願いは一つ。この美しい物の怪を、もっと近くで、少しでも長く眺めていたい、という未練であった。  弥助が達してしまいそうになった刹那。 「━━━━━━」  女は動きを止め、昏い穴のような瞳で、弥助をじっと見つめた。  その顔。物の怪が、生来で初めて出逢う、傾慕という情が生み出した彼の面相が、不思議でならなかったのだ。  偶々と片付ける事も出来よう。  しかし、物の怪が気紛れを起こすには、それは充分な理由であった。  色欲に狂うこともなく、諦念に身を投げ出すでもない弥助に、女も又、未練を感じたのである。  深い場所で繋がり合ったままでいる所為もあろうか、言葉は無くとも、弥助にはそれが伝わった。  女の虚ろな目が云うのだ。  もっと、その目で妾を視てくれ、と。  もっと、その貌を妾に視せてくれ、と……。  弥助は、湧き上がる情動を表す言葉を知らぬ。  理解できるのは、今生に於いてこの一日が……否、この女に遭遇してからの半刻程が、己の人生の全てなのだと云う実感だけだ。  弥助は身体が崩れていく事も厭わずに、女の陰口を突いた。  悦びにくねる脇腹と、雫を滴らせる乳房を強く掴むと、女は甘い吐息を洩らして、弥助の首筋を噛んだ。  最後に強く深く腰を押し込んで、弥助は女の中で果てる。  同時に達した後、女は顎を震わせて、弥助の首を離した。  ……人の種で、物の怪は孕まぬ。  ……人を喰わねば、物の怪は生きられぬ。    例えそれが、人と物の怪の理(ことわり)を踏み躙る行為であろうとも構わぬと、胸の内に生じた誠に従うと、決めたのである。  * * * * *  女夫になった物の怪と弥助は、毎夜、人と物の怪の摂理に叛逆らいながら、大層幸せに暮らしていた。  だが、理から目を背け続けたとて、道理は覆らぬ。  若鮎が川を上る頃には、弥助は杖一つで歩ける程になったが、女房は、見る間に窶れていった。  それは、弥助には堪えられない光景であった。  日に日に細く弱々しくなっていく女房に、弥助は段々と心の平衡を無くしていった。  そして、床から起き上がれなくなった女房の、枯れ枝のような手に縋り付いて泣いた。  わしを喰え。喰ってくれ。後生だからそうしてくれ。わしを置いて逝かないでくれ。もう独りは厭じゃ。伽藍堂は御免じゃ。  女房は布団の中で、土気色の顔を笑みの形に歪めて首を振る。  その愛おしむ貌は弥助がもたらした。  だが、その貌こそが、弥助を追い詰めるのだ。  弥助は忘我の内に蔵へと走る。そして、奥から大鉈を掴んで、女房の傍に戻ると、一思いに左の肘に落とした。  赤い飛沫が、二人の顔を濡らす。  ……喰え。喰ってくれ……。  わしを独りに。独りにしないでくれ……。  赤く染まって悶えながら懇願する弥助に、女房は観念して起き上がった。  涙を流して、落ちた腕を拾い上げる。  ざむり、ぎじり。  がじ、ぐぎ、ばき。  ごり、ごり、ごり…………。  弥助には、もう何も見えなかったが、その音は、とても心地良く耳に響いた。  * * * * *  魅勒の山には、じょろうぐもがおるでよ。  近寄ったらいかんぞえ。  男は喰われ、おなごは仔蜘蛛の苗床じゃ。  近寄ったらいかんぞえ。  じょろうぐもがおるでよ。                             了

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【四季書房】絡新婦悲話

 午前七時、霜ノ平駅の三番ホーム。  北側の階段の、やや手前に立つ。  この時間になると、蝉たちも一斉に目を覚ますのか、線路の向こう、フェンスのすぐ外側の木々から喧しい鳴き声が響き出すようになる。  首に掛けたタオルの端を掴んで、眼鏡をよけながら頬と額の汗を拭うと、自分が益々年寄りに近づいているのだと実感して、情けなくなった。  世間はすっかり行楽シーズンに入ったようだが、しがない会社員の自分には関係ない。  まるで追い討ちをかけるみたいに、見たくもない家族連れの楽しそうな笑顔が、卑屈の火を灯した心に油を注いでくる。  腐ってはいけないと思いつつも、毎日の循環に光明など見えなかった。  ふと。  檸檬の香りがした。  少し不自然なその香りに、目だけで辺りを探ると、一人の少女が視界に入る。  白いシャツに紺のチェックスカートは、西胡高校の制服だったか。  やや乱暴にポニーテールにまとめた髪は、後頭部のあたりで少しもつれていて、毛先の方は日に灼け、やや茶色がかっている。  合皮のスクールバッグを脇に挟んで、文庫本に目を落とす姿勢は人形のようであったが、少し汗ばんだ肌の照りが、彼女を微かに人間たらしめていた。  補講か何かで学校に向かうのだろう。  …………いけない。  こんな時代でなくても、自分のようなものが眺め続けていい相手ではなかった。  焦るようにスマホを出して、用も無いのにメールを確認する。カード会社からのメールなど普段なら見もせずに削除するところだが、今はそんなものでも無沙汰になるよりはマシだ。  しかし。  それでも頭の中は少女の汗ばんだ肌と檸檬の香りで掻き乱されている。  電車の到着を告げるアナウンスが、やや遠い。  私は、どうしてしまったのだ。  焼けたゴムのような匂いに包まれながらホームに滑り込んできた電車が止まり、足を引き摺るようにして乗り込む。  顔は上げずにいた。  思いの外混雑している車内で、これから三十分を過ごす場所を探していると、背後から檸檬の香りが追いかけて来る気配がした。  びくりと、背が震える。  檸檬の香りの少女は、颯爽と隣を通り過ぎて、躊躇いなく吊り革を持つ。  水平以上に上がった二の腕が、白い袖口から覗いていた。  ……こんなものは、目の毒だ。  そう思う事も出来た。  だが、その時頭を過ったのは、『美しく在るべき少女』に邪な感情を抱いた自分への嫌悪だった。  彼女が人生の季節の中で輝いてしまう時期である事が悪なのではないし、そんな事であってはいけない。  悪とは、そのような季節に、未だ憧れなどを持ってしまう自分だ。  それだけ、十代という季節は力強い光を放ってしまうのだということを、当の少年少女は自覚など出来まい。  否、恐らくは、それ故に輝かしいのだ。  彼らは知恵の実を齧る前のアダムとイヴのようなものだ。  美しい彼らは、在るべきまま、無自覚に美しさを振り撒く権利がある。  美とは一元的なものだ。そこに、善悪など持ち込むから、人は愚かになるのだろう。  ……背を向けて立てば済む。  それだけのことだ。  ただ、それだけの。  だのに、  ……それだけのことが、なぜできないのか。  既に、両の目はスマホの事など忘れて、白いシャツを追っていた。  まるで灯りに引き寄せられる羽虫だ。  一体どうしたというのだろう。暑さや疲れで、おかしくなってしまったのだろうか?  誓って言うが、情欲の対象として見てはいない。  若さだけに許された美に惹かれているだけだ。  だが、そんな話に客観的な説得力など皆無だし、他人からすればどちらも変わらない。  このまま彼女を見続けて、そして気付かれたとして、ひどく不快な思いをさせることになったとしたら、その時点でどんな言い訳もたたない。  なにしろ、こうして自分自身が認めてしまっているのだから、取り繕う言葉は全て嘘になる。  それだけの危険を感知しながら、しかしそれでも顧みることはできず、彼女の姿から目を離せなかった。  細長い四肢はまだ途上で、きめ細やかな肌の下は肉も脂肪も薄い。  あのような若く美しい身体でも、女性の躰として熟れていくと、純粋な美しさとは別の色味を帯びてしまうのだろう。  それはやはり、魅を得るというより、美を失うという感覚の方が強い。そう感じるのは、自分が老けたからかも知れないが。  一瞬、さわりと鳥肌を立てたのは、車内の冷房の所為か。その様子は、まるで熟す前の桃のようだ、と思った。  そこに、青春と呼ぶには見窄らしい学生時代、どうしても手を伸ばせず、ただこの角度から眺める事しか出来なかった憧れを想起した。  ……檸檬。  ああ、そうか、と胸中でごちる。  背格好が似つかない彼女に、何故こうも執着してしまったのか、漸く合点がいった。  香りだ。  この、檸檬のような、香りの所為だ。  強く躊躇いながらも、周囲に気付かれぬように深く息を吸い込んだ。  胸を満たすのは、思い出の残り香だった。  そして、その行為の無意味さと情けなさに、目頭が熱くなるのを感じた。  純粋さを失うのは歳をとる所為だろうが、憧れを捨てきれないのは、あの時代に悔いを残したからだ。  こうして、若い頃に作った後悔を引き摺りながら、これから先も生きていくしかないのだろう。  落ち着き始めた心を胸の上から押さえて、少し離れた吊り革に移る。  人生は、まだ長い。                             了

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妄

愛を支払って、去れ

 門倉マナには誠意が無かった。  それは語弊であろう。  しかし、真偽はともかく、周囲の人間が期待するような人格では無かった事は確かだ。  彼女はいつも笑っている。それがよくない。  彼女に関わった誰しもが、いつも、その裏表のない笑顔を信用してしまう。  事実彼女に裏表はない。  ここで言う裏表とは嘘と真だが、彼女には人を信じるという誠と、人を欺くという疑は無い。あるのは、条件反射な利己思想だ。  マナという少女が初めて自分の爪と牙に気がついたのは、5才の時だった。  母の手を取り、路線バスを待っていた。ニコニコしていたのは、母の手が温かかったからだ。  それを停留所のベンチに座って見ていた老婆が、膝に乗せた小さなバッグから飴を取り出して、 「お嬢ちゃん、偉いわねぇ」  そう言いながら、渡したのである。  マナは少しだけ驚いて、母の顔を見上げた。 「ありがとうございます」  母はこちらを見ずに、娘に飴をくれた老婆に頭を下げていた。  マナにはよく分からなかった。  自分は何か良い事をしているつもりはなかったから、褒められる謂れはない。だから、見ず知らずの人物から物を貰うのはおかしいとさえ思ったのだ。  しかし、母は握った手を微かに揺らし、マナに老婆から飴を受け取るよう促した。  母親の指示は、幼児にとって絶対である。だから、マナはすぐに考える事をやめて、飴を受け取った。  白い油紙に包まれたそれは、マナが知っているような赤や緑に透き通った飴玉ではなく、まるでそこらに転がってる石ころの様な見た目をしていた。 「よかったわね」  母の言葉が、うす甘いさつまいもの風味と一緒に、マナを困らせた。  それは、人ひとりの性格を決定づける様な出来事にはならないはずだった。  ただ、そのたった一つのピースが、大袈裟ではなく、その後の人生観を貫く、無視できない経験になってしまう事はある。  マナの場合、老婆から貰った一粒のからいも飴が、その後の彼女の思考の方向を決める要石になってしまったのだ。  笑顔は人を喜ばせる。それは道理だ。  しかし、どんな思惑があるかまでは、簡単には見透せない。  そしてその特性は、実際に驚く程多くの人に通用するのだ。  マナは、飴の一件以来、それを利用する事を覚えた。  笑顔は便利だ。  上等な笑顔と態度は、敵を作らず、味方を増やせる。  万が一、その後の彼女の失態で『裏切られた』と怒りだす者があっても、残った仲間に笑顔と柔らかい態度を向けていれば、誰かがマナを庇ってくれる。 『彼女に悪意は無い。ただ、不器用なのだ』……と。  事実かどうかは問題では無かった。  ただ、彼女にとっては、周囲が矛を納めてくれれば、則ち解決となるのである。  それは、己の武器を自覚した彼女が常套手段として用いる処世術だった。  14才の夏。  マナが笑い掛けるだけで、昼食や飲み物を奢ってくれる、一人の男の子が現れた。  それが嬉しかったマナは、彼に笑顔と、喜ばれるような態度をもって応えた。 『コレは対価だ』……言葉にすれば、そんなところだろう。現実はともかく、漠然としたニュアンスとして、彼女はそう考えていた。  そうしたら、次は食べ物では無く、欲しいと思っていた本や、ワイヤレスイヤホンが貰えた。  その為に費やした対価とは、彼女の休日である。  しかし、人として拙い頃合い故に、そんな金銭の使い方をすれば人目につくとは知らなかった。  娘の持ち物の中に、自分達が買い与えていない物が増えた事を不審に思った母が、その状況を学校に相談し、事態が動いた。  何人かのクラスメートと、担任と、親たちが、何やら複雑そうに状況を整理しようとしていた。  しかし、マナにしてみれば、ただ『笑っていたら、それらを貰えた』という事実しかない。  当然、悪い事をしている自覚などない。対価なら、既に支払っている。  その心境を正直に話した時、最初に泣いて怒り出したのは、彼女にそれらを寄越した張本人の男の子だった。  何人かは沈んだ表情で納得していたが、マナにはよく分からない。周囲からすれば筋の通った顛末だったが、マナの目には、それは意外な事と映った。  故に、反省を促されても、真相が理解出来ないマナに、それは不可能だった。  不可能だったので、彼女はいつも通り、周囲が納得する表情と態度を見せた。 「ごめんなさい」  それは、声色も頭の角度も完璧で、自分でも会心の出来だと思える『謝罪』だった。  演技でも虚偽でもない。この行動が、彼女の考える最適解だっただけだ。 『悪気は無かったのだろう』 『反省したようだし』 『これから気を付けさせよう』  マナを取り巻く人間たちは、マナの改心を信じるというよりも、己を納得させる為に、そう決着づける事とした。  恐らく、中には本質的に改善など出来ないだろうと理解する者もいたのだろうが、そこに本気になれる程、自分の人生に暇をしている者ばかりではないのだ。  それ故に、良からぬ根が残ると分かっていても、みすみす見逃して手打ちとしてしまう他無かったのである。  マナは安堵したが、彼女の母はそうでは無かった。  この一件以来、マナの母は彼女と心の距離を置くようになった。やはり何か、決定的なズレのようなものを感じたのだろう。  母の態度や雰囲気が変わってしまった事は、マナをほんの少しだけ不安にさせた。  自分は、何かを間違ったのだ……そう思った。  だが、周囲から受ける説得の内容も、道徳の概念も、マナには今一つ理解が出来ない。 「マナ、人の心を大事にしてちょうだい」  それは、心からの願いであったろう。  その言葉が通じてくれると、信じていたに違いない。  だが、彼女にしてみれば母の懇願は、簡単に言えば『賽を振り、一を出すな』という指示に聞こえるのだ。  彼女は単に、喜んでもらおうとしていただけで、そこから先は、あの男の子が勝手にした事だ。  それが、彼女の本心であったが、しかし、母に異を唱える事は出来なかった。  彼女は笑顔の効能を信じている。人を味方に付ける事で利益を得られると確信しているし、その為に相手が喜ぶ行動や態度を見せるのは必須だったのだ。  彼女は了解した。嘘はついていない。  ただ、自分の気持ちとは別に、母の望む通りにはならないだろう、と、なんとなく思った。  数え切れない程の人間を巻き込んできた。  それは勿論、マナの本意ではない。  しかし、どうやら自分の所為らしいという事は徐々に分かってきた。  ……否、それは嫌でも納得するしか無かった。  賽を振って、一が出ることが増えてしまったと実感し始めたからだ。  そうなれば、疑わしくなるのは、賽そのもの。つまり、彼女自身の処世術だ。  母の予言通りになった事を、少し疎ましく感じていた。  だが、指標としてきたルールを疑うには、マナは成長し過ぎてしまっていた。  これまでの時間と、経験とが、本能的に彼女の生き方が間違いであると認める事を拒んだ。  確かに、失敗は多い。  それでも、差し引きで言えば、成功している回数の方が遥かに上回っていたのだ。  年齢を重ねていくと、異性から気に入られる利点が明瞭に見えてくるようになった。  その為に支払った対価とは、彼女自身である。  優しさを欲する男たちの心は、彼らの股間でいきり立っている。目に見える分、手や粘膜で触れられる分、この上なく扱い易いと知った。  男たちは彼女の意のままになり、短い半生を振り返っても、彼女自身、今が一番楽に生きられていると実感していた。  世間では違う呼び名になるのかも知れないが、マナにとってほんの少しの期間でも安心を得られるのであれば、彼女はそれを愛と呼んだ。  その言葉を使えば、他人は自分に優しくするからだ。  人の間を渡り歩き、持ち前の笑顔で仲間を作り、上手くいかなければ仲間に頼り、危険が迫ればその場を離れる。その繰り返しは、彼女が少しずつ更新させていった方針の成れの果てであった。  そしてそれが、自身を抜き差しならない事態へ追い込むとは、夢にも思っていなかった。  彼女は、彼女自身に対して正直であり、真摯であった。  それだけに、この方針が己の首を絞めるだろうという疑いを持っていなかったのだ。  破滅は、ある日唐突に訪れた。  熱と痛みを伴って、血が溢れ出す腹を押さえながら、彼女は笑顔を浮かべた。  向けた先は、血で濡れた包丁を握りしめ、唇を噛んでこちらを見下ろしている、10歳ほど歳下の青年だった。  ホテルの一室。床に転がり、息を止めて、ジッとしているのは、この事態がいつものように勝手に収束していくのを待っているからだ。  マナには自分で解決するという発想がない。  彼女の人生の教訓の中には、問題が起きた時、仲間にそれを肩代わりしてもらう、という手段しか無かったのだ。  ……そんなことよりも。  マナには不思議だった。  何故、彼は、私を刺しておきながら、泣きそうな顔で震えているのだろう?  疑問に思いながら、マナは自分に出来る事を、精一杯続けた。  笑顔である。  それがこの状況で通用しない事を、彼女は理解していない。  だが、それ以外の方法を持ち得ていないのだ。  だから、対価として足るまで、続けるだけだった。  腹を深く抉られて、やがて失血すると分かっていても、相手を不快にさせる声や表情を消し、ただ、自分は味方であると主張する事が、今の自分に出来る唯一の事だと信じている。  マナの腹を刺しても、青年が求める対価は得られない。  恐らく、彼が泣いて震えている理由はそれなのだろう。  若い彼はただ、マナの全てが欲しかった。  言い換えるなら、それは愛と呼ばれる、形を持たない何かであったのだろう。  しかし、それはマナの中には無かった。  それだけの事だ。                             了

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愛を支払って、去れ

"EAT ME."

 [成人以外の方の閲覧は禁止とさせて頂きます]  シャンパンゴールドのリボンがついた、白い小さなペーパーバッグ。  特別なチョコレートを貰うのも、これで何度目か。  一箱でステーキと同じ金額のチョコレートを初めて彼女から貰った時は、念願叶った事もあって、心が舞い上がっていたものだが、慣れというのは恐ろしい。  一月の終わり頃、彼女を車に乗せてデパートへ行き、人がごった返す催事場を二人で歩いた。  だから、この包みの下に入っているのは、指先の熱でもバターのように溶けるプラリネ風味の生チョコだという事も、既に知っている。  俺の部屋。二人掛けのソファに、横並び。 「……開けないの?」 「ン?」  俺の喜ぶ顔を期待していたんだろう。彼女の表情が、微かに曇る。 「食べるよ」  俺はニッコリ笑って、封を開ける。  買う時に、彼女と一緒に試食までした。味は知ってる。  何も驚きもないプレゼントに冷めてる俺は、心が狭いのかも知れない。  箱を開けると、茶色い石畳のようなチョコレートが整然と並んでいて、俺はもう溜め息を吐きたくなった。  付属のピックでひとつ刺して、口に運ぶ。  甘くて、芳ばしい、まるでクリームのようなチョコレートが、口内の熱でさらっと溶けて広がった。 「あ、私も食べていい?」  俺は顔をしかめそうになるのを我慢して、チョコをひとつとって彼女の口に入れてやる。 「ん〜、美味しい♡」  幸せなヤツだ。……そう思ったが、決して褒め言葉じゃない。  俺はもう一粒にピックを刺して、はたと止まる。 「なぁ」 「うん? なに?」 「……脱いで」 「…………え?」  短いやり取り。  黙って見つめ合う、ほんの少しの、膠着時間。  俺と彼女の視線が、しっかりと交わる。  その緊張に耐えかねた彼女は、俺から視線を逸らし、徐ろに、グレーのニットを脱いだ。  黒いカットソーがズレて、赤い肩紐がちらりと見える。  このプレゼントで僅かにも動かなかった心が、人間らしい衝動に揺れるのを感じた。  下着姿になって、微かに紅潮した頬に触れると、彼女は目蓋を閉じて、おとがいを反らした。  俺は仕方なく、その唇にキスをする。  そのまま背中に手を回し、ホックを外して下着を剥ぎ取った。  普段と何も変わらない。  感動も無ければ、さして興奮もしない。  だから、きっと、俺はそんなムードをぶち壊したかったんだろう。  唇を離して、とろりとした顔をしている彼女の裸の胸元に手を置いて、そのままソファに横たわらせた。  外側に向け、柔らかく流れていく乳房。 「…………?」  俺の意図が読めず、少しだけ困惑した様子の彼女の双丘の間に、俺はピックごと一粒のチョコレートを置いた。 「ん…………」  彼女の体温で、ゆるゆると溶けていくチョコレートを見つめていると、胸の奥が熱くなってくるようだ。  俺は、茶色に汚れていく彼女の肌に顔を寄せて、そのしずくを優しく舐めとった。 「んんっ!」  びくん、と跳ねたせいで、鼻の頭にチョコが付いた。  不快だけれど、今は許そう。  甘い乳房をぺろぺろと舐めながら、ピックで次のチョコを突く。  そしてそれを彼女の乳首に押し当てて、溶かしながら塗りたくる。 「は……ぁ…………」  今までに感じた事のない感触と、食べ物でいけない遊びをしている背徳感とで、どちらも息が荒くなっていった。  彼女の白い乳房は、まるで泥塗れになったように汚くなってしまって、そのコントラストに、眩暈を起こしてしまいそうだった。  ピックの先で、乳首を弄る。  その度に、チョコレートの香りの吐息が顔に掛かった。  甘い匂いに、思わずその唇に吸い付く。  まるでブランデーをくらったみたいに酔っ払った気分のまま、チョコに塗れた乳首を口に含んだ。 「んぁっ!」  いつもより刺激に敏感になっているのだろう。  こんな声を聞いたのは、久しぶりな気がする。 「ねぇ、美味し……?」 「……うまいよ」 「もっと、食べて」 「もちろん」  溶かして、塗り広げては、綺麗に舐めとっていく。  お腹も、背中も、指も、脚の付け根も。  彼女の細い指が俺の下着を下ろして、天井を向いている性器を、まるで初めて見たような顔で、うっとりと見つめる。  そして、手のひらで溶かしたチョコレートを、丁寧に……丁寧に表面に塗り込んで、 「ぁ…………」  喉の奥まで見えるくらい、大きな口を開けると、茶色くなった男根に、長い舌を這わせた。  痺れるような快感。  じっくりと、隅から隅まで、味わうように。  あらかた舐め終えると、聳り立つそれを、口の中に含んだ。  じゅる、じゅぷ、といやらしく食事する音が響いた。 「……ごちそう、さま」  ぷぁ……と開いた口から立ち上る、甘くて、酔いそうな程エロティックな香り。 「このまま、最後まで、食べるでしょ?」  俺が訊ねる。  まるで、優位に立っているのを誇示するみたいな言い方。  でも、我慢出来ないのは、俺の方だ。  彼女は自分の手に付いたチョコレートを扇情的な顔でぺろりと舐めて、唾液まみれになった指を秘所に伸ばすと、ピタリと閉じていた切れ目を、自ら開いて見せた。 「…………うん」  充血したそこから、透明な雫が溢れ落ちる。 「━━たべさせて……」                         了

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"EAT ME."

【黑山羊文學】正体

 [成人以外の方の閲覧は禁止とさせて頂きます]  水蜜桃のような女だった。  艶のある長い髪はとてもしなやかで、涙で潤んだ大きな瞳には恥じらいと悦びが渦を巻いて、厚みのある柔らかな唇からは熱く色めいた吐息が漏れていた。  均整のとれた筋肉と脂肪が作り出す美しいラインが、紫と緑のビビッドな色の薄明かりに照らされて、なまめかしく隆起し、沈降する。  薄っすらと浮いた汗からは、甘い匂いがした。口に含めば、他の全てがどうでも良くなるような、魔性の味だ。  闇の中で躍る、そのきめ細やかで滑らかな肌に飛び込んで、一心不乱に腰を突き動かす。  動き続けなければ、溺れてしまうんだ。  突き挿して、引き抜いて……その度に、頭の中はぬたぬたとした桃色の虹が掛かる。  夢と現実の間を、行ったり来たりするように泳ぎ続けていると、その内おぼろげに見えてくるモノがあった。  永遠に終わりたく無い快感を上書きする、この世でただ一つの絶対的な愉悦。  腰で繋がった相手の生涯を自分のモノにできる錯覚と誤解。  俺たちは皆、繁殖の本能に楯突かず、シンプルでわかりやすい理屈の上にエロティックなソースを掛けてセックスを楽しんでいる。  それでいいんだ。  難しく考える必要はない。  こどもなんか欲しくなくても、気持ちいいから、それをする。  ただ、それだけだ。 「…………っ」  脳をめちゃくちゃに掻き回していた欲望が、自然と腰に集まって、勝手にべしゃりと飛び出していった。  この……代え難い解放感だ。  どうせ、男の正体なんて、この瞬間の為に生きてるだけの獣なんだ。否定したって始まらない。  それでいい。  後は、知らない。  このまま、快楽の中で死んだって構わない。  …………だが、それでも。  頭の中から、水蜜桃が消えない。  弾んで震える、丸い乳房が。  美しく締まった、細い腰が。  大きく柔らかな、白い尻が。  萎れて枯れたはずの欲望を刺激して、もっと求めろと囁き掛けてくる。  それでも、全身を襲う気怠さには勝てない。  仕方なく、女の横、二人分の汗を吸ったシーツの上に、ゴロリと仰向けに横たわった。  ……息が苦しい。  まるで全力疾走した後のように荒く息をついて、事後の社交辞令も出てこない。  視界がぱしぱしと瞬いて、それが酸欠によるモノだと気付いた。  散々色んな女を抱いてきても、こんなに消耗するほど夢中になったのは、この女が初めてかもしれない。  …………いや、違う。  この、意識を失う程の行為には、覚えがある。  でも、その正体が掴めない。  気をやったせいか、疲労のせいか判らないが、この感覚には、何か、憶えがある。  その時、緑と紫の気取った照明に照らされた乳房が、俺の顔のすぐ上で、ふるんと揺れた。  皮膚が張って艶々と光る乳首から目線をズラすと、女は妖しい笑顔で俺を見下ろしていた。  彼女はそのまま猫科の動物のような動きで、俺の上で四つん這いになる。  白い手足の檻に閉じ込められて、俺は思わず下品な笑顔を浮かべた。  彼女の視線が、絡み付く。誘うように、何かを促すように。  その命令は嫌いじゃ無い。  だから俺は震える果実にそっと唇を寄せて、赤くなった先端を含んだ。 「んっ…………」  女の啼き声が、美しい。  とろりと蜜が滴って落ちる様な、甘い喘ぎ声。  その声をもっと聞いていたくて、俺は彼女の先端を唾液まみれの舌で転がした。  果実の表面を伝い落ちる汗の雫が、舌の上でとろける。俺は股間に熱い疼きを感じた。  ああ……  もう、何もかもが俺の理想の極致だ。  * * * * *  獣の様な息遣いが聞こえる。  仰向けで横たわる俺の上に、女が跨がっている。  だるんと揺れる胸は不恰好で、服に収まっていた時とはまるで印象が違っていた。  垂れた腹は、腰が容赦なく打ち付けられる度に、俺の腹に当たって、情け無い音を立てている。  その下半身はとうに痺れていて、微かに感じるのは熱だけ。……たぶん皮膚の下で出血しているせいだろう。  耳を侵すリズミカルな呻きが、猿(ましら)めいていて、気持ち悪い。  逃げ出したい。  ここから逃れられるなら、何を差し出したって構わない。  女の叫ぶ様な喘ぎ声が、徐々に高くなっていく。  その様がとても不気味で、不快で……。  とにかく俺は、ここで果ててしまいたかった。  快感なんて要らない。  この不幸の塊みたいなバケモノから開放されるには、全て吐き出して、一時的にでも不能になるしかないのだ。  情けない。  肉の感触欲しさに、少々好みからズレた女を選んだが、こんなバケモノだと知っていたら、あの時胸を掴んで首筋に甘く噛み付いたりしなかったのに。  表情に乏しい顔と仕草の裏側に、こんなにも悍ましい正体を隠していたのだと知っていたら、あの時心にも無い好意を耳元で囁いたりしなかったのに……。 「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎━━ッ‼︎」  それは、もはや人間性のカケラも残っていないような、酷い絶頂だった。  女は咆哮を上げながら俺の腰の上でビクビクと身体を震わせ、その度に肉と脂肪が波打つように揺れる。  その酷い有り様から思わず目を背け、唇を噛みながら、俺は果てた。  血の味がして、悔しさが込み上げてくる。  ……もう、これで三回目だ。  この女を肉布団の様にして好きに抱いたのが、少し前の事。  俺は果ててそのまま寝ようとしていた。でも、女はそれで満足しなかったのか、突然鼻息荒く組み伏せてきて、俺のモノを乱暴に扱きあげると、有無を言わさず自分の穴に押し込んだ。  血走った目をギョロリと剥いたまま、唇の端を吊り上げて、にやぁと笑う。  その顔はまるで鬼の様で、女相手に心の底からゾッとしたのは、生まれて初めてだった。  そのまま俺は、一晩中弄ばれ続けた。  三回目までは、己の軽率さが呼び込んだ罰だと受け入れる気持ちでいた。  ……だが、その後は、ただひたすら全てを恨んで、憎んだ。  男に生まれた事も。  俺の意思を裏切り続ける、この身体も。  そして、『スキ』だとか『アイシテル』だとか、何故か人間の言葉を繰り返し叫びながら俺を襲う、このバケモノのような女も……。  やめろ。  見るな。  俺を滅茶苦茶に壊しながら、  愛おしむ目を、俺に向けるな……! 「ぅゲ……っ」  潰された蛙のような悲鳴と共に、俺は口から胃液を吐いて、そのまま気を失った。  * * * * *  大きく息を吸いながら、目を開く。  マシュマロみたいな枕に沈み込んでいた頭を少しだけ動かして、手で口元を確認する。……胃液は出ていないが、妙に気分が悪い。  俺の無様な様子を見下ろして、ヘッドボードと枕を背もたれに座りながらスマホを弄っていた女がクスリと上品に笑う。 「どうしたの? コワい夢でも見た?」  頭の中を見透かされたような言葉に、 「ん……あぁ。そう……だな。酷い、夢だった」  俺は思わず吃る。  ……思い、出した。  あれは夢じゃない。  唾を呑んで、額を押さえる。  本当にあった、必死に忘れようとしていた俺の過去。俺の心の傷だ。  全身に絡みついてくるベタついた肉と、一方的に愛情を押し付けてくる、あの歪んだ笑顔……。  溺れる程夢中になって女を抱いた事で、あの時を思い出すなんて……。  くそ、と胸中で唾棄する。  思い出すんじゃ無かったと後悔しても、今更手遅れだった。  泥の様な溜め息を吐いて身体を起こす。  眠気が飛んでしまったのに、身体は変わらず重い。  衝動のままに横にいる女を抱いて、汚れた感情を全て洗い流してしまいたかったが、今はそれだけの気力も体力もない。  ………………。 「……何、見てんの?」  何の気なしに訊ねると、 「ん? ホラ」  彼女はスマホの画面を見せてきた。SNSだ。  眩しい画面に目を細めると、ここに来る前の飲み会で撮った写真が見えた。  抑えめな補正、申し訳程度のスタンプ、笑顔、酒、笑顔、料理……。  ……ありきたりな写真で、正直何の感想も湧いて来ない。 「ふぅん……いいね」  俺は面の皮だけで笑顔を作る。  それなのに、彼女は気を良くしたのか、 「あ、この前代官山に遊びに行ったの!」  画面をスライドさせ、「コレ!」と言って次々に写真を見せてきた。  視界がぐらりとする。  勘弁してくれ……。  付き合ってもいない、勢いで身体を預けただけの相手に、そんな承認欲求ぶつけてくるなんて、どうかしてる。 「フフ……」  俺の顔を見て、女が笑う。  その目に、ギクリとした。  もしかして、この女は俺の反応から何かを探っているのか……?  視線を動かさないまま、女の半身を確認する。  こんな男好きする身体の女、この先の人生でもう一度巡り会える保証は無い。  だったら、少しくらい媚びたって━━。 「見る? いいよ?」  そう言って、女はポンと俺の手にスマホを乗せる。  何だ? これは……何かのアピールか? 「………………」  困惑する俺の顔を見て、女は愉しんでいるようだった。  そして、徐ろにシーツを捲ると、俺の股間に手を伸ばし、萎れたモノにそっと触れた。 「こういうの、好きじゃない?」 「……こういうの、って?」  鸚鵡返しする俺に、 「興奮しない? そこに写ってるコが、今あなたのモノを触ってる……」  彼女は、妖艶な顔で諭した。  俺は促されるまま、彼女のスマホに目を落とす。  そこには、流行りの食べ物や友だちと笑顔で写る、彼女の〝昼の顔〟があって…… 「…………っ」  突然の快感に視線を移すと、そちらには俺のモノを口に含んだり、舐め上げたりしている、彼女の〝夜の顔〟があった。  あぁ、これは、確かに。  まるで、頭の芯が揺さぶられているみたいだ━━。  俺はそのまま彼女のスマホの画面をスワイプする。  明るい笑顔。驚いたような笑顔。美味しそうに頬張る笑顔。  ……顔を上げる。  モノに吸い付く唇。這いずる舌。妖しく俺を睨める眼。  どちらがホントウで、どちらがウソか?  そんな青臭い疑問をもつのは馬鹿だけだ。  どちらも本当が正解で、俺はそういう事実があると知ってる。  この女は、俺に普段の自分を見せながら、俺のモノを美味そうにしゃぶる事で興奮してる。  それが、この女の正体なんだ。  写真。手。写真。舌。写真。唇。写真。音。写真。  女に咽喉の奥までモノを咥えられて、思わず呻く。  写真。「んっ」。写真。「……くぽ」。写し…………ん。  ━━その時、  俺の指が止まる。  包帯。  包帯の写真。  ……怪我?  違う。  胸、腕、足、顔。  楽しげに写る何枚かに一枚、紛れてくる、包帯が巻かれた写真。  そして、その度に。  過去へ遡る度に。  それは、何か、  なにか、  違う、女に━━━━? 「うっ…………‼︎」  股間に痺れるような快感が走って、俺は射精した。  それを、一滴も溢さず、女は吸い上げて。 『おもいだした?』  目が、愛おしむような目が。  大きく、大きく開かれて。  俺を、捉える。 「ひ……ゅ……」  口から凍えるような息が漏れる。  手にしたスマホの画面に写るのは、  俺を、壊した……あの、  けだものが、嗤う、貌。  べちゃり━━。  女は俺の腹の上に精液と唾液が混じったベトベトを吐き溢して、長い舌で舌舐めずりする。 「な、なん……で」  恐怖と混乱で舌が回らない俺を、彼女は可笑しそうに眺め、 「だって、前の私は、あなたのお気に召さなかったみたいだから」  いじらしそうにそう言って、俺の臍の周りに溜まった汚い粘液を指先で掻き混ぜる。 「好きでしょう? こういう顔とか、こういうカラダとか、こういうキャラ。……ちゃんと調べたの」 「…………っ‼︎」 「だって、愛してるんだもん」 「やめろ……」 「私が一番、あなたが好き。ね、わかるでしょ?」 「やめろよ!」 「どうしてよ⁉︎ 今の私が一番好みでしょ⁉︎ 夢中で腰振ってたクセに‼︎」  突然首を掴まれ、俺は硬直した。  跳ね除けられる相手のはずなのに、この声と、女に組み敷かれてる状態が、俺の身体を鎖のように締め付けてきて、何も出来ない。 「ほら、近くで見て。あなたが普段よく見る女優に似てるでしょ? 目も、鼻も、お尻も、胸も……」  赤く染まる視界の中で、笑ってるんだか困ってるんだかワカラナイ表情を浮かべ、女は言う。 「何年も掛かったし、何百万も掛かったけど、あなたの為だから、全然辛くなかったよ」  そこまで言って、女は俺の首から両手を離し、今度は全身を使って絡みついてきた。 「やっと、やっと! あなたの好きな私になれた! 今度こそ、もう離さない! 好き、好き‼︎ 愛してるっ‼︎」  弾む様な動きで全身をなすり付けられ、鼻に掛かった甘い声で鼓膜を犯され、俺のモノに血が通う。  ダメだ。  やめろ。  いやだ。  俺はなにも認めていないのに。  このままじゃ、この女の言った事が正しくなるじゃないか……! 「んっ……♡」  ぬるん、と女の中に吸い込まれる感覚。  何処まで思考で乗り切ろうとしても、無駄だ。  ……そう、俺がさっき、自分でそうだと断言した通りじゃないか。  快感には、抗えない。 「はっ、はっ……はっ。 アハッ♡」  間近で俺の泣き顔を見ながら、女が嗤う。  目を剥いて、眉を歪めて、舌の先から涎を落として。  闇の中に、罪も快楽も、  何もかもを融かしてしまう様な、冒涜的な笑顔で━━。 「愛してるよ……♡」  * * * * * 「今日の晩ご飯はシチューにしようかな」 「……うん」 「シチュー、好きだもんねぇ」 「……うん」 「ご飯よりパンかな。バゲット買ってこようか」 「……うん」 「デザートはアイス! ラムレーズンね」 「……うん」  ………………。  ……俺は、この女に飼われている。  苦痛なんてない。  反発しようなんて、今はもう思わない。  鏡のように、こいつの笑顔を、望みを、そのまま反射させるだけの毎日。  望む通りの顔と反応さえすれば、とても快適だし、毎晩キモチイイんだから。  この女のアイを受け入れてる間は、シアワセなんだから。 「あ、そうだ」  仕事に出かける彼女は、パリッとした服装のまま、バッグの中から小さな包みを取り出し、こちらへ手渡した。  手の平サイズの、箱状に膨らんだ紙袋には、ドラッグストアの印字……。 「ご飯の前に、お尻使いたいから、準備しておいてね」  女は、今更恥ずかしそうに、俺の耳元でそう囁いた。  ぞわりとしたこの感覚が、快なのか、不快なのか、今の俺にはもう、ワカラナイ。 「……うん。……行ってらっしゃい」  俺は、鏡の顔で、そう言った。                              了

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【黑山羊文學】正体

Greeting card

Let me express the greetings of the season.

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Greeting card

【黑山羊文學】Amazing grace

[成人以外の閲覧は禁止とさせていただきます]  智成はキャベツの芯を、銀の器の底に溜まった胡麻油に潜らせて、口に運ぶ。  それをふた噛みして苦さに顔を顰め、ハイボールで流しこんだ。  暗い通路、簾を潜った先のボックス席、背中を丸めて座る智成の両隣には男が2人、正面にも2人。  少し前から両隣が非課税投資の話で盛り上がり、自分は障害物となってしまっていたので、一度トイレに立ちつつ、席を変わろうかと迷う。  時折、7年前から変わらぬ面子で、山手の沿線で集まっては、気分だけでも学生の頃に立ち戻り、ダラリと弛緩した時間を過ごしていた。  年齢的に、中には家庭を持つ者も、地方への出向を断り、その勢いで独立した者もいる。  しかし、こうして集まれば、お互いを懐かしいあだ名で呼び合い、受け入れ合うのだ。まるで傷を舐め合うように。  それぞれの私生活に温度差が生まれても、皆気兼ねなく話せる友が要ると理解していたし、誰から教わるわけでも無く、野暮という言葉の意味を知っていたから、自分達はいつまでも仲良くやっていけるのだと信じていた。 「Mなんだよ」  向かいの辰紀が半笑いで言い、智成は顔を上げた。  そろそろ肌寒い季節だというのに、辰紀は鍛え上げた筋肉を魅せる為なのか、いつもピタリとしたTシャツを着ている。 「M? 誰が」  智成の右に座る草介が、それまでの話題を切り上げて食いつく。彼は昔からそうだ。 「今の彼女」  辰紀は、参るよ、という態度を見せようとするが、彼とてニヤけが消えない。 「前のもだろ」  話し相手を取り上げられた左隣の哲也は、相変わらず独りなのか。  やれやれという口調だったが、本当は嫉ましいのだろう。 「どんなカンジなん?」  欲しがるように訊ねる草介に、辰紀はおもむろにスマホをいじって、草介の方に画面を向けた。  それを智成も上目遣いで確認する。  そこには、オープンテラスで巨大なかき氷を前にニッコリと笑う、幼顔メイクの娘が写っていた。 「え、めっちゃかわいいじゃん!」  辰紀の横で、亮太が心底羨ましそうに大声をあげる。  早くに所帯を持った事を後悔してるのかも知れない。 「……からの?」  期待を込めながら、草介が下卑た笑みを浮かべた。  その言葉を待っていた辰紀は、スマホを一度引っ込めると、皆に見えない角度を作りながら、画面を忙しなくスワイプする。  そして、一枚の画像を自慢げに見せた。  苦悶の表情。  口元にはボールギャグ。  赤いエナメルの拘束ベルトから、はみ出る乳房。  ……酷い姿だ。 「うーわっ! マジかよ‼︎」  草介は嬉しそうに笑い、亮太は食い入るように見つめ、哲也は興味なさそうに顔を逸らした後、目線だけスマホに戻した。  智成は、そんな三者三様の反応と、勝ち誇った顔の辰紀とを見比べて、静かにグラスを舐める。 「つか辰紀、こんなん、どこで買うの?」 「えー、まぁ、フツーに通販とか。安いぜ、ワンタッチだし」 「あ、マジの革とかじゃないんだ?」 「ホンモノは高ぇし、付け外し面倒だし、手入れ大変だぜ。……持ってるけどさ」 「うははっ! 持ってるんかーい!」 「あと、麻縄とかな。動画で手入れとか縛り方調べて」 「へぇ〜‼︎」  草介は、身を乗り出しながら、辰紀の自慢話に目を輝かせた。  褒めていい気分にさせておけば、もっと画像を見せてもらえるかも知れない、と思っているのだろう。 「でも、縛んのくらい普通っしょ?」 「ははっ、んなワケねぇだろ! なぁ、亮太」  草介に話を振られて、亮太はドキリとしながら顔を上げた。 「ウチのカミさん、そういうのあんまり……」 「なんだっけ、露出が好きなんだっけ?」 「バッ! おま、それ……言うなよ‼︎」  草介は盛大に笑い、亮太は「独身の時の話だから!」と強く弁明している。 「へぇ、そうだったのか? そんな風に見えねぇけどな」  辰紀はグラスの底に残ったビールを飲み干す。 「コイツ、デキ婚じゃん? なんでも、いつも外だったっつって」  草介はケケケ、と笑った。 「はン。外に出しても関係ねぇよ。だろ?」 「違う違う。その〝外〟じゃねぇ。アオカン。外でヤんの!」  そこで一斉に下品な笑いが起こる。  智成の目に、通路を通りかかった誰かの足が一瞬止まった様に見えたが、別に構わないと思った。  ここなら、この面子なら、他所では出来ない話も出来る。  抑圧された心を解放する場所を、キチンと確保しておくのが、社会に出て最も優先すべき事項なのだろう。  智成は、少々感傷的な気分に浸りながらグラスを煽った。  しかし、その話の所為か、酒の肴にするには胃がもたれるような話題が続いた。  辰紀のサディスティックな趣味が、ここぞとばかりに男達の耳を集める。  どの様な状況においても、その空間の中心になるということは、少なからず支配欲や嗜虐欲を刺激して、満たそうとさせるものだ。  一度勢いがついてしまえば、己が焚き付けた、己が燃やした、己が油を注いだ、だのと、つまらないプライドを掛けた不毛な自慢合戦になる。  口々に性癖を晒す、悍ましい暴露会だ。  その場の優位に立とうとは思わないが、智成は段々と苛立ちを覚え始めた。  胸にヒリつく駆け引きが無いSMにも、  安全な場所でリスクも無い露出にも、  金を支払った対価として、笑顔で尻を責めてもらう嗜好にも、  ……云ってみれば、偽りしかない。  そこには、本物が、無い。  それが、智成には許せないのだ。 「トモナリ」  彼はハッとして顔を上げる。  他の4人が、一斉にこちらを見ていた。 「お前は、なんか無いの」  草介がニヤニヤしながら訊ねる。  この男は、自身の話はさして持ち合わせていない。ほぼ全て、他人から拝借した話を自慢げにひけらかすのが、彼の趣味なのだ。  亮太と哲也は、すっかりネタ切れという顔で、すがる様な目つきである。  辰紀などは、すでにこの場の支配を確信したのか、憮然とした態度を振り翳し、『何でも言ってみろ。聞いてやる』と言わんばかりに腕を組んでいた。  ……それが、非常に、面白くない。 「そうだな……」  智成は、フツフツと湧き起こる気持ちにしっかりと手綱を掛けながら、スマホを操作した。 「お、何か持ってんの?」  土産の包みを前にした子供のような反応の草介を無視して、彼は音楽ストリーミングアプリを開き、ある曲を流すと、それを全員が見つめる中、テーブルの中央に置いた。 「……EDM?」  哲也が訊ねると、智成は頷く。  それは、クラブなどで流れてくる、重低音と高音が128bpmに乗せてうねり続けるインダストリアルだ。  どことなく耳に覚えのあるメロディが、丁寧に分解され、再構築されている。  4人の男達は、戸惑った顔を並べていた。 「人間の心拍数は毎分60〜100。クラブミュージックっていうのは、軽く運動した程度の心臓のテンポだから自然とノリやすいんだ。逆に言うと、そのテンポに全身を包まれると、自然と動き出したくなるんだよ」  智成は、インジケーターの秒数を確認しながら説明する。 「俺はセックスの時、必ず後ろでクラブミュージックをかける」 「あー! 女のノリが良くなるのか! 重低音は子宮に響くって言うしな!」  草介は聞き齧った話を披露するが、 「違うよ。そんなんじゃない」  智成が半笑いで答えると、少しムッとした顔になった。 「感覚をね、少し奪うんだ。音楽に意識を向けさせるのさ」  その説明に、皆が疑問符を浮かべる。 「相手の気分が乗ってきたら」  智成は、上着から黒いアイマスクを取り出した。  新幹線や飛行機の中でも使える、丈夫で遮光性の高い物だ。 「コレで視界を奪い取る。遮断された感覚の分、他が鋭敏になるから、音楽で聴覚を誤魔化すんだ」  ほう、と感心する様な吐息を漏らしたのは亮太だ。彼は、このような理屈が好きなのだろう。 「ここまでで、10分……早くて5分かな。慣れによる。……とにかく、この曲の間は前戯しかしない」 〝この曲〟という部分に強くアクセントを置きながら、智成は言うが、4人にはよく分からない話だった。  そんな様子は目に入らないという様子で、智成は次の曲に飛ばす。  今度の曲も、一定のリズムで低音が響き、思い出せそうで思い出せないメロディーが、繰り返し繰り返し、彼らの中にむず痒さを残していった。 「……うん。この曲からが本番。16小節目で挿れる」  その、妙に厳密な内容に、彼らは更に呆けた顔になった。 「え、っと。この曲じゃ無いとダメなのか?」  亮太が訊ねると、智成は少しだけ唸った。 「そんな事はないけど、都合がいいんだ」 「都合……」  哲也はただ鸚鵡返しをして、何か考えるフリをする。分かるワケが無いのに、だ。 「見えない、って事実がハッキリ分かる体位がいい。正常位か、対面座位かな」  そんな彼の事は無視して、智成は話し続ける。  そして、先程まで殆ど押し黙っていた智成の変貌ぶりに、辰紀は少しずつ焦りを感じていた。 「そろそろかな……この8小節後」  その言葉を合図に、全員が沈黙する。  5人の男が、居酒屋のテーブルの上から流れてくる音楽に、一斉に集中し出した。  ・♪・♪・♪♫ ・♪・♪・♪♩ ……  ……〝Amazing grace……     How sweet the sound〟……  それは、下世話で下品な話で大いに盛り上がるような彼らでも耳にした事がある讃美歌だった。  EDMに作り変えられても尚、その雄大で美しいメロディーは、何ら崇めるモノもないような彼らでも、どこか尊大な何者かの存在を想起させた。  智成の真意が何ひとつ理解出来なくても、彼が何故この曲を選んだのか、辰紀には少しだけ分かるような気がした。 「ここで、合図を出して、隠れてる男を呼ぶんだ」  それは、これ以上無いほど無感動な声だった。 「音楽を大きめに流しておけば、クローゼットが開く音も、足音も聞こえない。彼女から上半身を離して……特に手は後ろに回して、絶対に触られない位置に置かないとダメだね」  男達は、智成の話す内容に、まだ頭が追い付いていない。 「ここまでおあずけさせた分、ゲストには胸とか弄らせてやる。手の角度とか、口の角度とかには注意させてね」  話を聞くだけの彼らの頭に、異様な情景が浮かぶ。  目隠しをされて快楽に没頭する裸の女。  そこに、股間だけで繋がった智成と、女の胸や唇を横から貪る第三者……。  辰紀の背中に、ぞわりと悪寒が走った。 「まぁ、初回はそうやって隙間から胸とか股とか触ってもらうだけ。2回目から、かけてもいいよ、って事にしてる。その時は、俺もイッたフリしなきゃいけないから、ちょっとした連携が必要かな」  相変わらず淡々と喋る智成に、マゾヒストの気がある哲也は呼吸をするのも忘れていた。 「上手く連携取れるヤツだったら、3回目くらいから、バックで挿れさせる。入った感じが違っても、相手からはよく分からないみたいだしね。好き勝手突いてもいいけど、とにかく、声は出すなって念だけ押してる。……ここでバレちゃ、勿体無いから」 「え、もったいない、って……?」  亮太の鸚鵡返し。 「当たり前じゃん。バレたら、その娘にはもう同じ手を使えないでしょ?」  ケロリとした顔で、智成は答えた。  男達は絶句する。 「……まぁとにかく、ホテルに入る度に、そうやって同じ事を何回も繰り返すワケ。女が、『あぁ、コイツはこんなセックスが好きなんだ』って……パターンで覚えるまでね」  それは、確実に悪い終焉を予感させる言い方だった。  ネタの収集が趣味である草介が、ちらりと対面に目をやると、辰紀は既にさっきまでの自信を完全に失っていて、紙の様な顔になっている。  その余りの憐れさに、草介は思わず目を伏せた。 「女がそろそろ飽き始めるかなって頃合いになる直前が仕掛けどころ。……ここからが面白いよ」  智成の顔に、初めて血が通ってきたように見えた。 「少しずつ、目隠ししてる娘が違和感持つように演出する。手の向きとか、キスで軽く舌を絡めたりね。不安になり始めたところを、とにかく『大丈夫だよ』って言って聞かせるけど、向こうは段々俺の言葉を信じられなくなってくるわけ」  言葉が早くなっていく智成と対照的に、他の4人はすっかり勢いが失せて、まるで通夜の様になっている。 「いつものタイミングで『後ろからさせて』って言って抜くと、怖がるんだよ。でもね、言う事を聞くしか出来ないわけ。四つん這いで、お尻を上げながらフルフルするの。そこを男に乱暴に突かせるとね、狂ったような声を上げるんだよ。頭を支配する恐怖と、躰を支配する快感でさ」  智成が堪え切れない笑いに肩を跳ねさせている横で、哲也が青ざめた顔で口元を押さえた。 「そこで『え、なに⁉︎』しか言えなくなった彼女の頭を、こう両手で、そっと包んでね、その唇に当てるの」  智成はテーブルの上で、球体を取る様な仕草をして、それをゆっくり自分の股間に寄せる。 「怖いけど、もう咥えるしかない。しゃぶるしかない。震える舌で舐め上げて、喉の奥まで呑み込むしかない」  4人の男達の目には、股間の前で前後する智成の両手の中に、見も知らぬ女の頭が視えている。  それは黒い目隠しをされ、その隙間から涙を溢れさせ、苦しそうに嘔吐きながら、智成の一物を口に含んでいるのだ。 「泣き出したあたりで、目隠しを取ってやると、パッと見えるのは俺。『……じゃあ、後ろに居るのは?』って、その娘が振り向こうとするのを、グッと押さえて……後は抵抗出来なくなるまで……」  無言で腰を振る動作をする。 「……でね、一通り終わって、フッとした瞬間にその娘は思うんだよ。いつも同じ曲、同じ目隠し、同じタイミング、同じプレイ。『……まさか』……」  口元を押さえていた哲也が、蚊の鳴くような声で「ちょっとトイレ……」と呟き、席を立つ。  それを見上げながら、 「……『今まで、〝全部〟こうだったのか?』……ってね」  智成は、薄気味の悪い笑顔を浮かべて、そう言った。  立ち上がった哲也は、凍り付いて動けない。  草介も亮太も、気分の悪さを唾を呑みながら耐えていた。  辰紀などは、とっくに意気消沈し、両足の付け根に手を置いて、見窄らしく肩を落としている。  その様子を満足げに見渡して、 「…………あ」  智成はテーブルに置いたスマホを取った。 「ワリ。俺そろそろ終電だわ」  男達が一言も発せない中、彼は財布から一万円札を出してテーブルの上に放ると、彼はその視線に気づいて、 「……あー、全部冗談だからな? マジにとんなよ?」  やれやれ、と言わんばかりに首を振って席を立ち、硬直している哲也を避けて、 「じゃ、お疲れー」  軽く手を振って、その場を後にしたのだった。  残された男達は、少しずつ金縛りが解けていき、哲也は漸くトイレへ立ち、残った3人は、目の前の残飯と酒から目を逸らしながら、会計の準備を始めた。 「冗談だってよ」  ぽつり、と辰紀が言うと、草介は乾いた笑いで応えた。 「だ、よなぁ。さすがにアレだろ。もう、そこまでやっちゃ……犯罪だしな」 「AVかなんかの話だろ。アイツが持ってたの、そんなのばっかりだったじゃん」  口々に言うのは、自分達が安心したい一心だったからだろうが、それは確かに効果があった。  哲也が戻ってくる頃には、彼らはすっかり元の勢いを取り戻し、その様子を見た哲也も、ホッと胸を撫で下ろした。 「まぁでも……」  端末の会計ボタンをタップしながら、辰紀は言う。 「アイツも、そんな冗談言うんだな」  * * * * *  スマホであちこちにメッセージを送りながら、電車に乗る。  行く先は、家とは反対方向だ。  ドア横の手すりに寄りかかって、流れていく夜景を眺めた。  ポケットからワイヤレスイヤホンを出して、耳に付け、音楽ストリーミングアプリのマイリストを再生する。 「〜〜〜〜〜〜♪」  アルコールの所為か、鼻歌が漏れてしまう。  向かいに立つスーツの中年と目が合ったので、笑顔を向けた。  スマホが震え、画面に返信されたメッセージが表示されると、彼はフフ、と小さく笑う。 〝Amazing grace……♪〟                             了

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